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テモテへの手紙第ー

女性たちと教会のリーダーシップ(2)

前回の記事では、教会における女性たちのリーダーシップに関するパウロの教えについて取り上げました。その中で、パウロはこう語っています。

私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。(テモテへの手紙第一2:12)

前回の記事でお伝えしたように、ある解釈者たちは、パウロの指示がエペソにいた女性たちに限定されていると考えています。

しかし一方で、他の解釈者たちは、パウロの指示はすべての教会に適用されるべきだと主張しています。

では、その立場の根拠は何でしょうか。

まず1つ目の根拠は、第3章の記述です。パウロが教会の監督(現代における主任牧師や長老)について語る際、その任務を男性に限定しているように見える、という点です。

そこには、女性がその働きに加わる可能性についての示唆は見られません。実際、パウロは「監督の妻たち」については言及しますが、「監督の夫たち」には一切触れていません(比較対象としては、5章9節を参照してください)。

さらに、この立場の解釈者たちは、第13〜14節にも注目します。

アダムが初めに造られ、それからエバが造られたからです。そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。(13-14)

この議論の中心は、神様がアダムとエバを同時に造られなかった、という点にあります。神様はまずアダムを造り、次にエバを造られました。つまり、アダムが家庭におけるリーダーとして召されていたことを示しているのです。

そして、神様はアダムが使命を果たすことができるように、彼にエバを「助け手」として与えてくださったのです(創世記2:18)。

第一コリント11章3節、および7〜10節では、パウロがそのような創造の秩序について教えています。

また、パウロは夫婦関係について語る際、夫にリーダーシップを委ねられていることを明確にしています(エペソ5章参照)。

もちろん、ある意味で夫婦は互いに従い合うべきですが、パウロによれば、妻は主に従うように、夫にも従うべきだと語られています。なお、彼はそのような従順の命令を夫側には与えていません。

そのため、この立場の解釈者たちは、家庭における男性のリーダーシップの原則を、教会におけるリーダーシップにも当てはめます。彼らによれば、夫が自分の家族を導くように、男性は神の家族である教会を導くべきだというのです。

また、彼らは13〜14節におけるパウロの要点として、アダムがエバを正しく導かなかったことにより、エバが惑わされて罪を犯し、その影響でアダム自身も罪に陥った、という理解を提示します。

この立場についてさらに詳しく論じることもできますが、ここではこれが彼らの中心的な議論であると押さえておきましょう。

では、なぜクリスチャンたちはこのパッセージの意味についてこれほど議論するのでしょうか。

それは、パウロがアダムとエバの物語を引用するときに、彼の意図をテモテが当然理解しているものとして語っているからです。

パウロは次のようなことは語っていません。

「エバはアダムから十分に教えられていませんでした。だから彼女は罪を犯してしまったのです。同じように、エペソの女性たちもまだ十分に教えられていないので、しばらくの間、彼女たちが教えたり、男性を導いたりすることは許可しません。」

一方で、パウロはこうも語っていません。「アダムにはリーダーシップの務めがありました。したがって、彼は教会のリーダーシップの模範です。ゆえに、男性たちは教会を導くべきなのです。」

このように、もしこの問題についての議論が教会の一致を脅かすと判断したならば、私はその議論を続けることを避けます。この問題においては、私は教会の方針に従います。

明日、このテーマについての結論をまとめる予定です。

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テモテへの手紙第ー

女性たちと教会のリーダーシップ

この箇所は、聖書を信じるクリスチャンのあいだでも、最も議論を呼ぶ部分のひとつです。議論の焦点は、教会において女性が男性をリードしてもよいのか、特に、女性が主任牧師として仕えてもよいのか、という点です。

私の教会では、女性が主任牧師として仕えることを認めています。しかし一方で、今日の箇所に基づいて、女性は主任牧師として仕えてはならないと教えている教会もあります。

では、パウロが「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません」と語ったとき、彼が意図していたのは、どのようなことだったのでしょうか。

もちろん、パウロが女性は絶対に教えてはならないと言っているのではないことは明らかです。なぜなら、彼はテモテの祖母ロイスと母ユニケが、テモテに聖書を教えたことを称賛しているからです(第二テモテ1:5、3:14〜15)。

さらにパウロは、年配の女性たちが若い女性たちに教えることを望んでいました(テトス2:3〜4)。

さらに、パウロの言葉が「女性は男性に対して絶対に教えてはならない」という意味ではないこともわかります。なぜなら、使徒の働き18章26節では、ある夫婦がアポロという人物に対して、より正確な神の道を教えたと記されているからです。

このことから、パウロが“何を意味していないか”は明確です。

では、“何を意味していたのか”についてはどうでしょうか。ここが、非常に議論を呼ぶ点です。

そこで、今回と次回の記事では、2つの主要な解釈を見ていきます。それぞれの立場の良い点も、課題となる点も公平に見ていきたいと思います。ですから、私は皆さんに挑戦します。この問いをよく調べて、ご自身の結論を導き出してください。

まず1つ目の立場は、パウロの指示がテモテの教会、すなわちエペソの状況に限定されているという考え方です。

この立場によれば、当時エペソの教会では女性たちが偽教師に騙されており、その結果、彼女たちは公の場で教えたり、男性たちを導いたりすべきではなかったというのです。

では、この立場の根拠は何でしょうか。

第一に、エペソには偽教師が確かに存在していたことが、はっきりと記されています(1:3〜7)。

第二に、この立場は新約聖書の記述に基づいています。パウロ自身が女性たちと共に頻繁に奉仕していたことが示されており、ローマ書16章をはじめ、他の複数の箇所にその様子が記されています。

そして最後に、この立場を支持する人々による14節の解釈を見てみましょう。

パウロはこう語っています。

そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。(テモテへの手紙第一2:14)

ある解釈によれば、パウロが語った意図はこうです。エバがアダムから十分に教えられていなかったために、サタンに騙され、罪を犯してしまった。それと同じように、エペソの女性たちもまだ十分に教えられていなかったため、まずは静かに学ぶべきだった、というのです。

しかし、正しい教えを受けたあとは、彼女たちも教えることができたのだ、というのがこの立場の理解です。

もちろん、他にもさまざまな議論がありますが、これがこの見解における中心的な論点です。

明日、もうひとつの立場を取り上げて、この箇所についてさらに考えていきましょう。

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テモテへの手紙第ー

本当の美

ある有名な英語のことわざに、こうあります。“Beauty is only skin-deep.”

つまり、美しさとは、表面的なものにすぎない、という意味です。

私たちはこのことばを本当に信じているでしょうか。また、そのことばは、私たちのふるまいに影響を与えているでしょうか。

少なくとも、当時のエペソの女性たちにとっては、信じがたいことばだったようです。彼女たちは、教会において不適切な服装をしていたようです。また、裕福な一部の女性たちは、派手な服や宝石を身に着けていたようです。

そこで、パウロはこのように語りました。

同じように女たちも、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪型や、金や真珠や高価な衣服ではなく、神を敬うと言っている女たちにふさわしく、良い行いで自分を飾りなさい。(テモテへの手紙第一2:9-10)

つまり、女性を定義するのは外見ではなく、内面です。もし外見の美しさよりも、心の美しさに目を向けるなら、神様の御計画に従って、彼女たちは本当の美しさを持つ人となるでしょう。

ですから、本当の美しさは、神様との関係から始まります。私たちは何よりもまず、神様の愛を求め、知るべきです。

私たちのアイデンティティは、他人によってではなく、神様によって定義されるべきです。私たちの価値もまた、自分自身や周囲の評価ではなく、造り主である神様によって定められるのです。

そして、神様はあなたをご覧になると、こう言われます。「この人は非常に良かった」(創世記1:31)

女性の皆さん、あなたは自分自身をどう見ているでしょうか。 自信が持てず、周囲の人々の賞賛を追い求めてはいないでしょうか。

それとも、神様がありのままのあなたを受け入れてくださると知り、神様に従うことでこそ、本当の美しさを得られることを理解しているでしょうか。

あなたの美しさは、何に基づいていますか。

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男らしくふるまう?

今日の箇所は、「男らしくふるまうこと」について語られています。神様は、男性たちにどのように振る舞うよう勧めておられるのでしょうか。

第1〜4節では、パウロはテモテを通して、エペソの人々に祈るように勧めました。前回の記事でも述べましたが、この霊的な戦いに参加し、人々をイエス様に導きたいと願うなら、私たちの最初のステップは「祈り」です。

そして、パウロは第8節でこう言いました。

そういうわけで、私はこう願っています。男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。(テモテへの手紙第一2:8)

この箇所で、パウロが語っているのは女性たちではなく、男性たちに対してです。言い換えれば、パウロはこう語っているのです。「男らしく、神様から与えられた責任を果たしなさい。」

では、その責任とは何でしょうか。それは、教会で主導権を持つことです。特に、祈りにおいてリードすることです。

もちろん、女性たちも祈るべきです。けれども、パウロは男性たちにこう語ります。「教会の皆が祈るとき、しっかりとリードしなさい。祈りの働きを女性たちに任せきりにしてはいけません。あなたたち自身が祈りなさい。そして、祈る人の模範となりなさい。」

残念ながら、当時のエペソの男性たちは、そのようにしていなかったようです。むしろ彼らは、無駄な作り話や系図について論じ合っていました。

そのような議論は、プライドや間違った教えへとつながっていったのです。終わりのない議論によって、彼らは教会の中で多くの「熱」は生みましたが、「光」はあまり生み出しませんでした。

しかも、彼らは祈りを共にすることさえ忘れてしまっていたのです。

サタンはそれを見て、ほくそ笑んだことでしょう。

しかし、私たち男性は、どれほどそのようにしているでしょうか。もちろん、私たちは系図や作り話について議論するわけではありません。けれども、どれほど私たちはミニストリーのやり方や、あらゆるくだらない事柄について議論しているでしょうか。

それだけではありません。私たちは互いを傷つけ合い、争うことで、一致を失ってしまいます。さらには、祈りを共にし、使命を果たすことすら忘れてしまうほどに、私たちは争ってしまうのです。

では、私たちの使命とは何でしょうか。それは、迷っている世界に福音を宣べ伝えることです。だからこそ、サタンは私たちを見て、あざ笑うのです。

家庭においても、多くの夫たちは男らしくふるまっていません。私たちは霊的なリーダーシップを妻たちに任せてしまいます。家庭の中で、聖書を読み、祈ることにおいてリードせず、 その責任を妻に委ねてしまっているのです。

また、私たちは妻たちのために祈らず、妻たちと共に祈らず、 その代わりに、重要なことについても、些細なことについても争ってしまいます。

私たちは、謙遜と愛と赦しの模範とはなっていません。むしろ、プライドや苦々しい思い、怒りにしがみついてしまうのです。だからこそ、サタンは私たちを見て、嘲笑うのです。

あなたはどうでしょうか。男性であるなら、神様はあなたに「男らしくふるまいなさい」と召しておられます。あなたはその召しに応えているでしょうか。

もしそう願うのなら、最初のステップは、膝をついて祈ることです。それは日々行うべきことです。あなたは、今日もそうしているでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

私たちが戦う前に

第1章では、パウロは無益な議論を引き起こす者たちを厳しく責めました。それらの議論は誤った教えに基づいており、エペソの人々を本来の使命から引き離してしまっていたのです。

もちろん、その使命とは、福音を宣べ伝えることです(テモテへの手紙第一1:3–6)。

そして第1章の結びで、パウロはテモテに対して、「神様の御国のために立派に戦い抜きなさい」と命じました。

この戦いの一部には、偽教師への対応も含まれます。しかしテモテは、改めて神様の働きに心を集中させる必要がありました。 というのも、テモテと彼の教会は、むなしい議論によってあまりにも多くの混乱に巻き込まれていたからです。

続く第2章の冒頭で、パウロはこの霊的な働きと戦いが、どこから始まるべきなのかを教えています。彼はこう語りました。

そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。

それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。

そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。(テモテへの手紙第一2:1-4)

私たちの使命は何でしょうか。それは、すべての人が救われ、真理を知るようになることです。これこそが、神様の御心なのです。

もちろん、すべての人が救われるわけではありません。けれども、それが神様の御心である以上、私たちもまた、そのことを願うべきです。

しかし、覚えておきましょう。この使命は、まず祈りから始まらなくてはなりません。私たちは、キリストを必要としている人々を見て、彼らのためにとりなさなくてはなりません。

私たちは、人々の物理的な必要のためにはよく祈ります。もちろん、それは大切なことです。けれども、私たちはどれほど、彼らの救いのために祈っているでしょうか。

私たちが愛する人々のために真剣に祈らない理由のひとつは、もしかすると、私たち自身が本当に地獄を信じていないからかもしれません。あるいは、地獄の存在は信じていても、その罰が永遠に続くものだとは信じていないのかもしれません。

しかし、もし私たちがそれを本当に信じているならば、大切な人たちの行き先について考えるときに、無関心な態度など取れるはずがありません。

神様は、決して無関心ではおられませんでした。だからこそ、神様は救いの計画を立てられたのです。そして、パウロはこう語っています。

神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。

その証しのために、私は宣教者、使徒、そして、信仰と真理を異邦人に教える教師に任命されました。私は真実を言っていて、偽ってはいません。(5-7)

私たちは皆、かつて罪の奴隷であり、永遠の死へと向かう道を歩んでいました。

けれども神様は、私たちを憐れんで、イエス様を送ってくださいました。イエス様は十字架にかかり、私たちの罪の負債を身代わりに支払い、私たちを贖い出してくださったのです。

「贖いの代価」とは、奴隷を買い取るために支払われる代価のことを意味します。イエス様はその代価を払って、私たちを罪の奴隷状態から解放してくださいました。

この救いの働きは、すでに完成しています。私たちに求められているのは、その賜物を信仰によって受け入れることだけです。 けれども、人々がこの救いの賜物を受け入れるには、まずその知らせを聞く必要があります。

そのために、神様はパウロを遣わされました。パウロは、神様の救いのメッセージを大胆に宣べ伝えました。

そして今、神様はパウロだけでなく、あなたをもまた、この使命のために遣わしておられるのです。

けれども私は、もう一度はっきりと言います。私たちの働きは、祈りから始めなければなりません。

愛する人々のために祈るとき、私たちはこう願うべきです。神様が、彼らの霊的な目と耳を開いてくださいますように。

また、私たちの政治家たちのためにも祈りましょう。神様が、彼らの霊的な目と耳をも開いてくださるように願うべきです。これは、私たちが福音をよりスムーズに宣べ伝えるために必要な祈りなのです。

しかし、私たちがしなければならないことは、もう一つあります。パウロはこう命じています。「すべての人のために感謝しなさい。」

私たちの愛する人々のために感謝するのは、比較的やさしいことです。けれども、好意を抱いていない人々のために感謝するのは、非常に難しいものです。

それでも、なぜ私たちは彼らのために感謝すべきなのでしょうか。

その理由は、感謝することによって、私たちが彼らを神様の目に尊い存在として見ることを思い出させられるからです。

私たちの目には彼らの嫌な態度や外見が映るかもしれません。けれども、イエス様がそのような人々のためにも死んでくださったことを、決して忘れてはなりません。

彼らのために感謝することによって、私たちは彼らをイエス様の目で見始めるようになるのです。

神様は、私たちをこの霊的な戦いへと召しておられます。ですから、祈りをもって、戦場へと進んでいきましょう。

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テモテへの手紙第ー

良心に逆らうとき

私たちの良心は、神様からの賜物です。

神様はクリスチャンにも、ノンクリスチャンにもこの賜物を与えてくださいました。

良心を通して、私たちは道徳的な判断を持つことができます。もし良心が与えられていなかったなら、この世界は今よりもはるかに混乱した場所になっていたことでしょう。

けれども、問題なのは、私たちの良心が完全ではないという点です。むしろ、私たちの良心は罪によって汚されてしまっています。

けれども、私たちがクリスチャンになると、聖霊が心に語りかけ、私たちの内面を形づくり始めてくださいます。

そして、その御声に従えば従うほど、私たちはますますイエス様に似た者とされていくのです。私たちは、そのようであるべきです。

残念ながら、テモテの時代には、聖霊が偽教師たちの良心を刺されたとき、彼らはその御声と自らの良心を無視しました。むしろ、彼らは自分の良心に逆らい、自らの信仰を破ってしまいました。

彼らは福音の真理を守らず、お金や威信に執着し、その結果、信仰も教えもねじ曲げてしまったのです。

そのような状況の中で、パウロはテモテにこう語りました。

私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言にしたがって、私はあなたにこの命令を委ねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と健全な良心を保ち、立派に戦い抜くためです。

ある人たちは健全な良心を捨てて、信仰の破船にあいました。その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。

私は、神を冒瀆してはならないことを学ばせるため、彼らをサタンに引き渡しました。(テモテへの手紙第一1:18-20)

パウロはテモテにこう語りました。

「偽教師たちの模範に倣ってはならない。福音のために戦い抜きなさい。この偽教師たちに対して、福音のために立ち向かいなさい。そして、あなたが教えられてきた福音の真理を保ちなさい。健全な良心もまた守り続けなさい。」

実はその前にも、パウロはこれと似たことを語っていました。

この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。(5)

つまり、「きよい心」「健全な良心」「偽りのない信仰」から生まれる愛こそが、私たちの目指すべきゴールです。ですから、これらを保ち続ける必要があります。

しかし、パウロによれば、ある人々は健全な良心を捨ててしまいました。ヒメナイとアレクサンドロという人物は、良心に逆らったために信仰の破船にあってしまいました。

そして今でも、多くの人々が同じような過ちを犯しています。

中にはこう言う人もいます。「私は恵みによって救われたから、好きなように生きても大丈夫。あとで赦しを祈ればいいんだ」と。こうした人々は、自分の良心に背いて生きているのです。

けれども、彼らは非常に重要な真理を見落としています。それは、神様は私たちを単に救っただけでなく、清い人生を歩むように呼んでおられるということです(第一テサロニケ4:1ー8)。

ある人々は、聖書が悪と呼ぶ行為を善だとみなします。

そのため、自らをクリスチャンと称しながら、同性愛的な生活を選ぶ人もいます。彼らは聖書が同性愛について何を教えているかを知っていながら、その罪とこれ以上戦いたくないと思っているのです。

その結果、彼らはこの点において、聖書の教えを曲げてしまいます。

福音と同性愛に関する聖書の教えは、昔から一度も変わったことがありません。それでも、良心に反して生きる人々が増えており、結果として信仰の破船に至るのです。

ヒメナイとアレクサンドロも、「私たちはキリストを否定する」と言ったわけではありません。むしろ、「私たちはキリストの教えを受け入れている」と言いながら、実際には福音そのものを曲げてしまいました。

そのように、今日でも、多くの人が自分をクリスチャンと名乗りながら、良心に逆らって福音を変えてしまっているのです。

自らの良心に背くことは、非常に危険なことです。そうするならば、やがて福音と聖書の教えを曲げてしまうことになるからです。

私たちはそのような歩みを避けましょう。むしろ、パウロが命じたように、信仰と健全な良心を保ち、何よりも、主を喜ばせることを第一に心がけて歩んでいきましょう。

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テモテへの手紙第ー

神の恵みに感嘆している?

私たちは、どれほど神の恵みに心から感嘆しているでしょうか。 そして、もしそれを毎日行っているなら、私たちの人生はどれほど変えられていくでしょうか。

この点において、パウロと偽教師たちはまったく異なっていました。

偽教師たちは神の恵みを少しも理解していませんでした。 彼らにとって、福音を宣べ伝えることは金銭を得る手段であり、また、威信や名誉を手に入れるための道でした。

しかし、パウロにとって福音とは、自分の人生を根底から変えた不思議な知らせでした。だからこそ、彼はできる限り多くの人々にこの福音を伝えたいと心から願ったのです。

その思いを、パウロはこう語っています。

私は、私を強くしてくださる、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださったからです。

私は以前には、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。

私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。(テモテへの手紙第一1:12-14)

パウロは、本当に神の恵みに心から感嘆していました。彼はかつてイエス様の御名を冒涜し、教会を迫害し、数多くの信者たちの命を奪った者でした。

それにもかかわらず、神は彼を憐れみ、その罪深さにも勝るほどの恵みを注いでくださいました。パウロのひどい罪は完全にきよめられたのです。

その結果、パウロはイエス様を信じ、それまで知らなかった愛に満たされました。

だからこそ、彼は確信をもって、こう宣言することができたのです。

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」(テモテへの手紙第一1:15-16)

パウロが気づいたのは、「イエス様は私のために死んでくださった」ということでした。

クリスチャンになる前、パウロは自分の罪に気づいていませんでした。むしろ、自分はかなり正しい者だと思い込んでいたのです。

けれども、イエス様がまばゆい光のうちにご自身をパウロに現されたとき、彼は自分がどれほど神の恵みと憐れみを必要としているかを悟り始めました。

残念なことに、多くの人々は、その真理がわかっていません。

クリスチャンであっても、自分がどれほど神の恵みと憐れみによって生かされているかを認識していないことがあります。彼らはこう思うのです。「私はもう大丈夫。神の恵みも憐れみも、もう必要ない」と。

あるいは、「イエス様が私のために死んでくださったことは確かだけれど、私の罪はそこまでひどくなかった」と考えている人もいます。

けれども、私たちがキリストの光の中に歩み、イエス様に近づいていくにつれて、自分の本当の姿が見えてくるのです。つまり、自分が罪によって汚れており、救いを必要としている者なのだと気づかされます。

この真理を悟らない限り、私たちは決して神の恵みに深く感嘆することはできないでしょう。

パウロはこの真理を把握したとき、思わず賛美の声をあげました。

どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン。(17)

あなた自身はどうでしょうか。神の恵みに心から感嘆しているでしょうか。

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教師としての失敗

ヤコブはこう記しています。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。(ヤコブ3:1)

あるクリスチャンは、教師としての地位を求めることがあります。けれども問題なのは、聖書を教えたいと願っていながら、自分では聖書をよく知っていると思っているものの、実際には十分に理解していないということです。

さらに、その動機が不純であれば、その問題はさらに深刻になります。

こうした背景の中で、パウロはテモテに対し、偽教師をどのように扱うべきかを語っています。

この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。ある人たちはこれらのものを見失い、むなしい議論に迷い込み、(テモテへの手紙第一1:5-6)

パウロの意図は、少し解釈が分かれるところです。彼が求めていたのは、偽教師たちが「清い心、健全な良心、偽りのない信仰から出る愛」を生み出すことだったのでしょうか。

あるいは、パウロが本当に望んでいたのは、エペソのクリスチャンたちがそのような愛に満ちた歩みをすることだったのかもしれません。

いずれにせよ、はっきりしているのは、偽教師たちはもはや愛に満ちた心から教えてはいなかったということです。さらに、彼らは清い心と健全な良心、偽りのない信仰を見失ってしまっていました。

むしろ、この世を愛し、富を得ることを望んでいたようです(6:3-10)。

皮肉なことに、その一方で彼らは禁欲的な生活を人々に教えていました(4:2-3)。

また、愛と教会の一致を教えるのではなく、むしろ争いや論争を引き起こしていました。

しかし、以前にも述べたように、彼らの最大の問題は、聖書を教えようとしていながら、実際には聖書を正しく理解していなかったという点です。そのような者たちについて、パウロはこう語っています。

律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、確信をもって主張している事柄についても理解していません。(7)

これらの偽教師たちは、モーセの律法を教えようとしていましたが、律法の目的を正しく理解していませんでした。

パウロによれば、律法は正しい人のために与えられたものではありません。つまり、律法は神によって義と認められているクリスチャンのためのものではないのです。

むしろ、律法はクリスチャンではない人々のためにあり、彼らが律法を通して自らの罪を知り、神に立ち返り、救いへと導かれるためのものです(8-11)。

しかし、偽教師たちはこの真理を理解していなかったために、クリスチャンたちを誤った道へと導いてしまったのです。

残念ながら、今日でも多くの人がこうした偽教師のように、確信をもって聖書を教えてはいるものの、自分の語っている内容や主張している事柄について、正しく理解していません。その結果、多くの人々が惑わされてしまうのです。

では、あなた自身はどうでしょうか。あなたは牧師ですか。それとも教会の教師でしょうか。バイブルスタディーを導いているでしょうか。日曜学校で教えているでしょうか。あなたはどのような教師だと言えるでしょうか。

あなたの動機は何でしょうか。プライドでしょうか。それとも、人々からの尊敬を求めているのでしょうか。あるいは、あなたの動機は愛でしょうか。

あなたは、バイブルのメッセージを語るためにきちんと準備しているでしょうか。また、日々聖書を読み、神のことばに親しんでいるでしょうか。あなたは本当に聖書をよく知っているでしょうか。

もしかすると、確信をもって聖書を教えていながら、自分が語っていることや主張している事柄を実は理解していないということはないでしょうか。

多くの人は教師になるべきではありません。なぜなら、その教えに対して、より厳しいさばきを受けるからです。

さばきの日に、イエス様はあなたに何と語られるでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

無駄な議論に惑わされないために

聖書に関して、さまざまな奇妙な理論が存在します。

たとえば、ある聖書学者たちは、パウロがテモテへの手紙やテトスへの手紙を書いていないと主張します。むしろ、誰かがパウロの名を無断で使い、それらの手紙を書いたと考えるのです。けれども、彼らの「証拠」は疑わしいものです。

また、ある学者たちは、私たちは新約聖書の原本の内容を知ることができないと主張します。なぜなら、現存するのは原本ではなく、その写本だけだからです。

確かに、私たちは原本そのものを持っていません。けれども、何千にも及ぶ写本を比較することで、私たちは原本の内容を99%以上把握しています。さらに、不明確な箇所があったとしても、それが聖書の根本的な教えに影響を及ぼすことはありません。

他の人々は、聖書には特別な「コード」が隠されていると信じています。そして、彼らによれば、そのコードを解読しなければならないというのです。

私たちは、人と延々と議論することができます。けれども多くの場合、聖書を信じたくない人は聖書を信じませんし、キリスト教を受け入れたくない人はキリスト教を受け入れません。ですから、そういった人々と話すことで、無駄に多くの時間を費やしてしまうことがあります。

もし時間を賢く使いたいのなら、福音に関心のある人と話す方がよいでしょう。

テモテがエペソの教会を導いていたとき、彼も同じような問題に直面しました。もちろん、エペソの人々が私たちとまったく同じ事柄について議論していたわけではありません。けれども、ある者たちは作り話を広め、系図について議論し、さまざまな奇妙なことを教えていました。

彼らが正確に何を教えていたのか、私たちには分かりませんが、現代の教会と同様に、福音を語ることをせず、無益な論争に時間を費やしていたのです。

そのような状況に対して、パウロはテモテにこう命じました。

私がマケドニアに行くときに言ったように、あなたはエペソにとどまり、ある人たちが違った教えを説いたり、果てしない作り話と系図に心を寄せたりしないように命じなさい。

そのようなものは、論議を引き起こすだけで、神に委ねられた信仰の務めを実現させることにはなりません。

この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。ある人たちはこれらのものを見失い、むなしい議論に迷い込み。。。(テモテ人への手紙第一1:3-6)

簡単に言えば、テモテは異なる教えや無益な議論を広める者たちを警告しなければなりませんでした。そして彼らが悔い改めなければ、教会から除く責任が彼にありました。

パウロはすでにヒメナイとアレクサンドロという人物を除名していましたが(1:20)、他の偽教師たちはまだ残っていたのです。

テモテがそのような者たちを教会から排除すべき理由は、そうした議論が妨げとなり、彼が神様の務めを全うできなくなるからです。つまり、そのような議論に意識を奪われると、福音を広めることも、信仰による救いを宣べ伝える時間も失われてしまいます。

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

第一に、私たちもまた、無益な議論に熱中する者たちや、奇妙な教えを広める者たちに対処しなければならないということです。

私たちは、そういった人々をただ無視すればよいというわけではありません。彼らに対しては、適切に応答すべきです。しかし、もし彼らがそのような議論を手放そうとしないのであれば、私たちは彼らを教会から除く必要があります。

もし自分の牧師が奇妙な教えを語っているならば、あなたは別の教会に行くべきです。

第二に、そのような事柄について議論する人と、深入りして議論しない方がよいということです。なぜなら、自分の時間を無駄にしてしまうからです。

最終的には、それは信仰の問題です。もちろん、私たちの信仰は根拠のないものではありません。むしろ、私たちの信仰は十分な証拠に基づいています。

しかし、ある人々はその証拠に満足せず、どれほど証拠を示されても、決して信じようとはしません。どれだけ議論しても、彼らは信じることを拒み続けるのです。だからこそ、自分の時間を無駄にしない方がよいのです。

むしろ、福音を宣べ伝えることに心を注ぐべきです。福音を聞こうとする人々に焦点を当てるべきです。

私たちの時間は非常に貴いものです。その時間を無駄にしてはなりません。

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テサロニケ人への手紙第二

平和を見出すために

テサロニケ人への手紙第一5:23〜24で、パウロはこう語りました。

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(テサロニケ人への手紙第一5:23〜24)

そして、この手紙では、パウロは似たことを言いました。そして、パウロは第二の手紙の中でも、似たことばを語っています。

どうか、平和の主ご自身が、どんな時にも、どんな場合にも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。

どうか、主があなたがたすべてとともにいてくださいますように。(テサロニケ人への手紙第二3:16)

テサロニケの人々は、さまざまな問題に直面していました。迫害を受け、愛する者たちが殺され、その人々が死後どうなったのかと疑問に思ったのです。

さらに、偽教師たちが教会に入り、「イエス様はすでにこの世に戻られた」と教えたことで、彼らは主の再臨を見逃したと思い、混乱に陥りました。

加えて、怠け者たちも教会に入り込み、さまざまな問題を引き起こしました。

パウロはそうしたすべての問題に応答したあと、テサロニケの人々が神の平和を知るようにと祈りました。

試練のただ中での平和のために祈り、愛する者を亡くしたときにも、平安があるように祈り、そして最後には、イエス様が必ずもう一度来られると彼らが確信をもって知り、平和を持つことができるように祈ったのです。

どんな状況に直面していても、神様が望んでおられるのは、私たちが平和を持つことです。では、私たちはどのようにして平和を知ることができるのでしょうか。それは、神様との関係を通してです。

神様が私たちを御自分の子どもとして受け入れておられることを知っているからこそ、私たちは平安を持つことができます。また、神様が始められたことを必ず完成してくださるという確信も与えられています。

それだけではなく、私たちは、神様が私たちを完全に聖なる者としてくださることを知っています。つまり、いつの日か、私たちが完全にイエス様の姿を映し出すようになると信じているのです。

さらに、たとえ大きな試練の中にあっても、神様は私たちを見捨てておられないと知っています。そしてその試練は永遠には続かず、主は再び来られ、神の正義をもたらされます。この真理によって、私たちは平安を得ているのです。

最後に、私たちは自分の罪を言い表し、神様の力によってその罪を捨てるとき、平和を知ることができます。

あなたは平和を知りたいと願っていますか。平和は、最初から最後まで、神様から与えられるものです。言い換えれば、平和は神様ご自身のうちにこそあるのです。

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テサロニケ人への手紙第二

兄弟姉妹を戒めるとき

クリスチャンの兄弟姉妹を戒めることは、決して楽しいことではありません。それを楽しんでいるような人は、そもそも相手を戒めるべきではありません。

それでも、ときには兄弟姉妹を戒めなければならない時があります。

今日の箇所では、パウロがどのようにそれを行うべきかを教えています。前回の記事で私たちが見たのは、あるテサロニケの人々が怠け者で、健康であるにもかかわらず、働くことを拒んでいたということでした。

パウロはテサロニケにいたとき、彼らを戒めましたし、最初の手紙の中でも再び彼らを戒めました。それでもなお、彼らは働くことを拒み続けたのです。だからこそ、パウロはテサロニケの人々にこう語りました。

兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な歩みをして、私たちから受け継いだ教えに従わない兄弟は、みな避けなさい。(テサロニケ人への手紙第二3:6)

それは、かなり厳しいことばでした。パウロが意図していたひとつは、もしその怠け者たちが食べ物やお金を求めてきても、テサロニケの人々は助けるべきではないということです。しかし、それだけではなく、パウロはさらに踏み込んだ、より厳しい指示を語ったのです。

もし、この手紙に書いた私たちのことばに従わない者がいれば、そのような人には注意を払い、交際しないようにしなさい。その人が恥じ入るようになるためです。(14)

さらに、パウロは二つの重要な注意点を挙げています。第一に、テサロニケの人々は、怠けている兄弟たちの影響を受けないように気をつけるべきでした。そのため、パウロは彼らにこう語ったのです。

兄弟たち、あなたがたは、たゆまず良い働きをしなさい。(13)

第二の注意点は、兄弟姉妹を戒めるときにこそ、私たち自身の態度に細心の注意を払うべきだということです。つまり、

敵とは見なさないで、兄弟として諭しなさい。(15)

敵対的な態度ではなく、神の愛をもって、そうした人々に接するべきです。私たちの目的は、相手を滅ぼすことではなく、むしろ引き戻すことだからです。

あなたのまわりに、神から離れている兄弟姉妹はいませんか。 そのとき、あなたはどう応じるでしょうか。

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テサロニケ人への手紙第二

偽善か模範か

多くのクリスチャンたちは偽善者と呼ばれます。残念なことですが、実際に偽善的な行動をとってしまうクリスチャンも多くいます。

しかし、パウロは偽善者ではありませんでした。

彼がテサロニケに行ったとき、教会の中に怠け者がいました。その状況があまりにも深刻だったため、パウロはこのようなルールを定めたほどです。「働きたくない者は食べてはならない。」(10節)

しかもパウロは、そのルールを定めただけでなく、自身の日常でもその姿勢を貫いていました。彼は福音を伝えるために報酬を受ける正当な権利を持っていましたが、その権利をほとんど行使しませんでした。むしろ、パウロはこう語ったのです。

どのように私たちを見習うべきか、あなたがた自身が知っているのです。

あなたがたの間で、私たちは怠惰に暮らすことはなく、人からただでもらったパンを食べることもしませんでした。むしろ、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜昼、労し苦しみながら働きました。(テサロニケ人への手紙第二3:7-8)

では、なぜパウロはそのような生き方を選んだのでしょうか。

私たちに権利がなかったからではなく、あなたがたが私たちを見習うように、身をもって模範を示すためでした。(9)

パウロが自らそのように生きていたからこそ、怠け者たちを厳しく戒めることができたのです。彼はこう語りました。

ところが、あなたがたの中には、怠惰な歩みをしている人たち、何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たちがいると聞いています。

そのような人たちに、主イエス・キリストによって命じ、勧めます。落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。(11-12)

また、

もし、この手紙に書いた私たちのことばに従わない者がいれば、そのような人には注意を払い、交際しないようにしなさい。その人が恥じ入るようになるためです。(14)

多くの人は、イエス様のこのことばを引用します。「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」

けれどもイエス様が語られたのは、正しい裁きではなく、偽善的な裁きについてでした。なぜなら、自分の欠点を見ようともせずに、すぐに他人を批判する人がいるからです。

それに対して、パウロは単に相手を裁く人ではなく、良いクリスチャンの模範でもありました。

さらにパウロが明確に教えているのは、私たちクリスチャンが裁くべき相手は、教会の外にいる人ではなく、教会の内にいる人たちであるということです(第一コリント5:9〜13)。

しかし、たとえ教会の内にいる人たちを正しくさばくとしても、私たち自身が偽善者ではなく、むしろ良い模範であることに注意しなければなりません。周りの人々は、単に正しいことを語る人々ではなく、そのことばに従って生きる姿を見ているからです。

「完全でないから人をさばいてはならない」というわけではありません。けれども、私たちは神のみ前でいつも謙遜な心を持ち、他人の欠点を見る前に、自分自身の欠けに目を向けるべきです。

私たちがイエス様とその光に近づくほど、自分の罪や弱さはさらに明らかになります。

もし自分の欠けや罪に気づけないのだとすれば、それはイエス様にまだ近づいていないということかもしれません。

また、そのような状態では、パリサイ人のように偽善に陥る危険すらあるのです。

あなたはどうでしょうか。あなたは偽善者でしょうか。それとも、良い模範でしょうか。

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テサロニケ人への手紙第二

試練に直面するとき

このブログで私は何度も語ってきましたが、神様は私たちに安楽な人生を約束されているわけではありません。パウロはまさに、そのような人生とはほど遠い歩みをしました。

パウロは福音のために鞭打たれ、迫害を受けました。海で遭難も経験し、耐えがたいほどの重圧にさらされました。そして最終的には、キリストのために命を落としたのです。

それでもパウロは、歩みを止めませんでした。どうして彼は、そこまでして耐え抜くことができたのでしょうか。

パウロは、テサロニケの人々にこう願い出ました。

最後に兄弟たち、私たちのために祈ってください。

主のことばが、あなたがたのところと同じように速やかに広まり、尊ばれるように。

また、私たちが、ひねくれた悪人どもから救い出されるように祈ってください。すべての人に信仰があるわけではないからです。(テサロニケ人への手紙第二3:1-2)

おそらく、いくつかの理由があったからこそ、パウロは歩みを止めずに進み続けることができたのでしょう。

一つ目は、自らの苦しみの実を、目に見える形で見ることができたことです。すなわち、テサロニケの人々やピリピの人々を通して、神様が確かに働いておられることを見たのです。

そのことによって、パウロは自分の苦労と苦難が決して無駄ではないと確信し、励まされました。

二つ目は、パウロが人々の祈りに支えられていたことです。彼は決して「私は大丈夫、自分の力でこの試練を乗り越えられます」とは言いませんでした。

むしろ彼は、繰り返し願い求めました。「私のために祈ってください。私の周りには災いがあり、悪意ある者たちがいるのですから。」

三つ目は、敵対する者たちがいたとしても、主が真実であり、良い方であるとパウロが深く理解していたことです。パウロはこう語っています。

すべての人に信仰があるわけではないからです。しかし、主は真実な方です。あなたがたを強くし悪い者から守ってくださいます。(2-3)

そしてパウロは、テサロニケの人々を励まして、こう語りました。

私たちが命じることを、あなたがたは実行していますし、これからも実行してくれると、私たちは主にあって確信しています。(4)

最後に、パウロは、彼らが試練の中でもしっかりと立ち続けることができるように、その鍵を示しました。彼はこう祈ったのです。

主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。(5)

多くの場合、私たちは試練の中で怒りや苦々しさに陥り、「神様に見捨てられたのではないか」と感じてしまいます。そして、自分がかわいそうでならず、周りの人たちにも理解されていないと思ってしまうのです。

しかしパウロは、こう語ります。試練のゆえに神様から離れないでください。むしろ、その試練の中でこそ、神様に近づいていきましょう。神様のもとへ駆け寄りましょう。

さらに、パウロは私たちにこう勧めます。

「キリストを覚えなさい。イエス様があなたのために何を耐えられたのかを思い起こしなさい。

イエス様は、愛しておられた人々に裏切られ、見捨てられ、侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられました。それでもイエス様は、すべてを耐え抜かれました。

なぜでしょうか。それは、イエス様があなたを愛しておられるからです。」

だから、「もう耐えられない」と思うときには、イエス様を仰ぎ見ましょう。イエス様はあなたの痛みをご存じです。あなたを愛しておられるのです。あなたは決して、見捨てられていません。

そして、へブル書の著者はこう語りました。

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。(へブル12:2-3)

また、

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:15-16)

だから、もしあなたが見捨てられ、「もう終わった」と感じているなら、私もパウロのように、あなたのために祈りたいと願います。

主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。(第二テサロニケ3:5)

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テサロニケ人への手紙第二

苦難のただ中にある希望

私は前にも述べましたが、クリスチャンたちは反キリストを見ることになり、迫害を受けると信じています。

そして私は、イエス様が反キリストを滅ぼすために来られるまでは、ご自身の民を集められないと信じています。

どうして私がそう信じているのでしょうか。この箇所の言葉が、その理由の一つです。

一部のクリスチャンたちは、反キリストが現れる前に、イエス様がご自身の民を集めて天に連れて行かれると考えています。

彼らの主張によれば、もしキリストの再臨に先立って、ある「しるし」が成就しなければならないのだとすれば、「イエス様がいつでも来られる」とは言えなくなってしまう、というのです。

だから彼らの理解では、その「しるし」を見るまでは、私たちは特に準備をしなくてもよい、ということになります。

私は、その考えに対して二つの答えを持っています。

一つ目は、イエス様がご自身の民を集められる前に、いくつもの出来事が起こらなくてはなりませんが、それでもイエス様は、いつでもあなたを天に連れて行かれるかもしれません。

イエス様は、あなたに明日のいのちを約束しておられません。あなたは交通事故で死ぬかもしれません。また、犯罪者によって命を奪われるかもしれません。

そうしたことが起こったとき、あなたは何らかの備えをしているでしょうか。もしかしたら、イエス様のたとえ話に出てくるように、神様が突然あなたを裁くために呼ばれるとき、あなたは何の備えもしていないかもしれません。(ルカ12:13〜21)

二つ目は、その議論がパウロの言葉と矛盾しているということです。パウロ自身がこう言いました。「イエス様はまだ来られていません。その前にあるしるしが成就されなくてはなりません。」

パウロの時代から今日に至るまで、何かが変わったでしょうか。何も変わっていません。イエス様はまだ来られていません。そして、私たちはイエス様がいつ来られるのかを知りません。

ですから、もしパウロが今も生きていたら、私たちに同じように語るはずです。「イエス様はまだ来られていません。まだ、あるしるしが成就されなくてはなりません。」

もちろん、クリスチャンが反キリストを見ることは、不穏なことです。特にこれまで、私たちクリスチャンが反キリストを見ることは決してないと信じていた人々にとっては、そのような話は聞きたくないと思うかもしれません。

しかし、私たちには希望があります。

パウロによれば、酷い苦難の時、つまり反キリストの時代には、この世の人々が神様の御怒りを受けますが、私たちはその御怒りを受けることはありません(第一テサロニケ5:9)。

また、ペテロはこう語っています。

主はこのようにされたのですから、敬虔な者たちを試練から救い出し、正しくない者たちを処罰し、裁きの日まで閉じ込めておくことを、心得ておられるのです。(第二ペテロ2:9も別訳、脚注を調べてください)。

さらに、パウロはテサロニケの人々にこう語りました。

しかし、主に愛されている兄弟たち。私たちはあなたがたのことについて、いつも神に感謝しなければなりません。

神が、御霊による聖別と、真理に対する信仰によって、あなたがたを初穂として救いに選ばれたからです。

そのために神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせてくださいました。(テサロニケ人への手紙第二2:13-14)

要するに、あなたは試練に遭うかもしれませんが、神様がすでにあなたを選んでおられるので、必ず救ってくださいます。そして、あなたはイエス様の栄光にあずかるのです。

そういうわけで、パウロはこう言います。

ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。

どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。(15-17)

私たちがどのようなことを経験しても、たとえ反キリストに直面するとしても、パウロは私たちにこう語っています。

「あなたが受けた真理にしっかりとしがみつきなさい。何よりも、イエス様にしがみつきなさい。なぜなら、最も暗いときにこそ、イエス様は私たちに励ましと希望と力を与えてくださるからです。」

実のところ、もし私の考えが間違っていて、私たちが反キリストに会う必要がないのだとすれば、それは私にとって本当に喜ばしいことです。

しかし、もし私たちが反キリストを見ることになるのなら、イエス様にしがみつきましょう。イエス様は、私たちがその試練を乗り越えることができるように助けてくださいます。

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テサロニケ人への手紙第二

なぜ多くの人々は滅びてしまうのでしょうか

第1章において、パウロは、かなり不穏なことを語ります。彼はテサロニケの人々にこう言いました。

神にとって正しいこととは、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え。。。

主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に罰を与えられます。

そのような者たちは、永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることになります。(テサロニケ人への手紙第二1:6,8-9)

地獄とは何かを知りたいなら、第9節がその核心を要約しています。それは――人々が永遠に、主の御前から退けられることです。

「永遠の滅び」と聞くと、「それは意識のない状態なのでは」と考える人もいるでしょう。けれども、聖書は明確に語ります。滅びた人にも意識はあります。

そして、神様が命と喜びと愛の源であるならば、その神様から切り離された状態こそが、まさに地獄なのです。

では、なぜ人々は神様から退けられるのでしょうか。

それについて、今日の箇所が答えを示しています。

第2章では、パウロはテサロニケの人々が抱いていた誤解を正します。パウロの以前の手紙を読んで、一部の人々は「すでにイエス様が帰って来られた」と思い、「自分たちはその再臨を見逃してしまったのでは」と不安になっていました。

しかし、パウロは彼らを励まします。「あなたがたはイエス様を見逃してはいません。イエス様が来られるとき、すべての人が必ずその姿を見ます。イエス様が来られるとき、あなたは必ず知るのです。」

そして、パウロは将来に何が起こるのかを説明します。

イエス様が来られる前に、反キリストが現れます。彼は神様に逆らって自らを高く上げ、ついには「自分こそ神だ」と宣言するのです。

実際、パウロの時代から――もっと前から――私たちはこの世界に働く不法の力を見てきました。その力の背後にいるのは、私たちを滅ぼしたいと願う偽りの父です。しかし今のところ、聖霊様がサタンを引き止めておられます。

けれども、やがてそのときが来て、聖霊様が退かれると、サタンはこの世を自由に支配するようになります。

反キリストが現れると、偽りのしるしや不思議なわざを行い、 多くの人々を欺きます。人々は彼を本当のキリストだと信じてしまうのです。

その結果、彼らは滅びに至ります。(3〜10節)

では、なぜ彼らは滅びなくてはならないのでしょうか。

彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。

それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。(テサロニケ人への手紙第二2:10-11)

これこそが、人が地獄で滅びる主な理由です。神様は彼らに福音の真理を伝えてくださいました。たとえ福音を直接聞いたことがなくても、彼らには創造物のあかしもあり、自分の良心のあかしもあるのです。(ローマ書1章)

それでも彼らは、救いへと導くその真理を愛することを拒みました。むしろ、自分の罪を喜んだのです。

多くの人々は、福音を信じられないわけではありません。むしろ、福音の真理を信じたくないのです。なぜなら、それを受け入れるならば、悔い改めなくてはならないからです。自分の罪を捨てなくてはならないのです。しかし、彼らはそれを望まないのです。

それゆえに神様は彼らに言われます。「あなたは真理を受け入れたくないのですか。では、この惑わす力の偽りを飲み込みなさい。」

彼らはそのとおりにし、永遠に自分の罪を抱き締め、神様を呪い、決して悔い改めることはありません。だからこそ、彼らは地獄で滅びるのです。

では、あなたはどうでしょうか。あなたは真理を持っています。では、どう応答しますか。その真理を受け入れて、救われるでしょうか。それとも、自分の罪にしがみつき、滅びへと進むのでしょうか。

主のみことばを、しっかり心に刻みましょう。

わたしは生きている。。。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。

立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。(エゼキエル書33:11)

あなたには、いのちを選ぶことができます。では、なぜ死を選ぼうとするのですか。あなたはどう応答するでしょうか。

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テサロニケ人への手紙第二

イエスの御名があがめられ、私たちも栄光を受けるために

苦しみが好きな人は、誰もいないでしょう。どうして神様が私たちの苦しみを許すか、疑問に思うのは簡単なことです。でも、この手紙では、私たちはいくつかの答えを見つけることが出来ます。

私は以前にも言ったけど、テサロニケの教会は迫害の中で生まれました。パウロはテサロニケから追い出されて、その都市にもう一度入ることが出来ませんでした。

そういうわけで、テサロニケ人たちを励ますため、パウロは自分の代わりに、テモテを送ったし、手紙を二枚送りました。これは二番目の手紙です。

テサロニケ人たちの苦しみの結果は何だったでしょうか。パウロはこう言いました。

兄弟たち。あなたがたについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。それは当然のことです。

あなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがたすべての間で、一人ひとりの互いに対する愛が増し加わっているからです。(テサロニケ人への手紙第二1:3)

彼らが苦しみに直面していたにもかかわらず、パウロが祈っていたとおりに、彼らの信仰と愛は成長していきました。(第一テサロニケ3:11−12)

それゆえに、パウロはこう語ります。

ですから私たち自身、神の諸教会の間であなたがたを誇りに思っています。あなたがたはあらゆる迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保っています。

それは、あなたがたを神の国にふさわしいものと認める、神の正しいさばきがあることの証拠です。あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。(4-5)

「それは。。。神の正しいさばきがあることの証拠です。」

では、パウロが意味したのは何だったのでしょうか。

それは、神様が決して誤ることのない方であり、常に正しくさばかれるということです。

ですから、神様が私たちの人生に苦しみや試練を許されるとき、 その出来事は私たちを滅ぼすためではありません。むしろ、私たちは火で精錬された金のように、清められ、鍛えられて出て来るのです。(ヨブ記23:10)

この真理は、テサロニケの人々の歩みにおいても現れました。 彼らは苦しみによって打ち砕かれたのではなく、かえって、その愛と信仰はますます強められていったのです。

だからこそ、パウロはこう語りました。「あなたがたは苦しみにあったが、神の国にふさわしい者として認められているのです。」

さらにパウロは、彼らをこう励まします。「たとえこの世で正義が実現しなくても、最後には神様ご自身が、あなたの迫害者をさばき、あなたに安らぎを与えてくださいます。」

黙示録6:9〜11において、神様は殉教者たちにも同じように語られました。

こうして、パウロはその日について、次のように語ります。

その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。そうです、あなたがたに対する私たちの証しを、あなたがたは信じたのです。(10)

私は、この言葉が本当に大好きです。

イエス様が来られると、神様は、試練の中でもあきらめずに神のために生き続けた聖徒たちの間で、あがめられるのです。

同時に神様は、私たちの間で感嘆の的となられます。なぜなら、私たちはふさわしくない者であったのに、神様はその恵みによって、私たちを救ってくださったからです。

またその日、私たちははっきりと悟るでしょう。「神様が常に私たちとともにおられ、私たちを強めてくださったからこそ、私たちはこの試練を通り抜けることができたのだ」と。

だからパウロは、このように祈ったのです。

こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。

それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。(11-12)

どうして私たちは、苦しみを経験するのでしょうか。その目的は、イエスの御名が私たちの間であがめられ、私たち自身も、主にあって栄光を受けることにあります。

そして、何に直面してもイエス様に従い続けるなら、神様は、私たちの善を求めるあらゆる願いと、信仰に基づく働きを実現し、祝福してくださるのです。

そのうえで、イエス様が来られるその日、私たちをご覧になって、こう言ってくださるのです。

よくやった。良い忠実なしもべだ。。。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21)

アーメン。主イエスよ、来てください。

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テサロニケ人への手紙第一

イエス様が帰って来られるから(2)

この手紙の締めくくりにおいて、 パウロは、イエス様の再臨を心に留めながら、 テサロニケの人々がどのように生きるべきかを教えています。

パウロはこう語ります。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。

これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(テサロニケ人への手紙第一5:16-18)

テサロニケの人々は、迫害を受けていました。 それでも、その苦しみのただ中で、パウロは彼らにこう語りました。

「神様が望んでおられるのは、あなたがたがいつも喜び、 絶えず祈り、どんなときにも感謝することです。」

その言葉を書いたとき、パウロは自分のピリピでの経験を思い出していたかもしれません。

テサロニケに行く前、パウロとシラスはピリピで鞭打たれ、牢に投げ込まれたのです。 では、彼らはそのとき、どう反応したでしょうか。 彼らは主にあって喜び、賛美歌を歌い、神様に感謝をささげました。

その結果、どうなったでしょうか? 神様は文字どおりその場所を揺り動かし、 パウロとシラスを解き放ち、 看守とその家族を救ってくださいました。

このような経験があったからこそ、 パウロはテサロニケの人々に対して、 同じように歩むことを勧めることができたのです。

そして彼は、さらに彼らに訓戒を与えました。

御霊を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。(19-22)

私たちは、どのようにして御霊とその働きを消してしまうのでしょうか。 最も大きな原因は、御霊の語りかけを聞かず、信頼しないことです。

イスラエルの民が約束の地を目前にしながら、 その御声に従おうとしなかった時、まさにそれが起こりました。 (ヘブル3:17−19)

ですからパウロは、こう語るのです。 「預言を軽んじてはいけません。」

今もなお、神様は人を通して語ることができます。 けれども私たちは、その人の語る言葉を吟味しなければなりません。 特に、その言葉が神様のみことばと一致しているかどうかを、 みことばに照らして確かめるべきです。

もし一致していれば、信じて受け取りましょう。 一致していなければ、拒むべきです。

しかし何よりも大切なのは、 神様が聖書を通して、あるいは人を通して語られるときに、 その声を無視してはならないということです。

その語りかけを退けてしまえば、 私たちは御霊を消すことになるのです。そして主の日に、神様はその責任をお問いになります。

最後に、パウロはこのように祈りました。

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。

あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。(23)

そして、パウロは私たちに思い起こさせます。

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(24)

主が再び来られるのですから、 私たちは責められるところのない者として歩むべきです。

しかし、そのような人生を、自分の力だけで生きることはできません。 だからこそ、私たちは御霊の力に頼らなくてはならないのです。

ですから、聖霊様にすがりつきましょう。 御霊を消してはなりません。 むしろ、御霊に満たされて歩みましょう。

そうすれば、聖霊様は私たち自身をきよめるだけでなく、 私たちのまわりの人々にも、触れてくださるのです。

私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。(28)

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テサロニケ人への手紙第一

イエス様が帰って来られるから

イエス様の再臨について語った後、 パウロは、私たちが教会全体として、また一人ひとりのクリスチャンとして、 どのように生きるべきかを教えています。

まず彼は、私たちの人間関係について語ります。

そして最初に、教会のリーダーたちに関してこう述べます。

兄弟たち、あなたがたにお願いします。

あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人たちを重んじ、その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。また、お互いに平和を保ちなさい。(テサロニケ人への手紙第一5:12ー13)

私たちは、自分の教会のリーダーたちを、 どれほど当たり前の存在として受け止めているでしょうか。 彼らが失敗したとき、私たちはどれほど彼らを批判し、 見下すような態度を取ってしまうでしょうか。

けれども実際には、私たちすべてに失敗はあります。 もし、誰もが私たちの生き方にスポットライトを当てていたとしたら、 私たちもまた、たびたび批判の的になっていたことでしょう。

もちろん、リーダーたちはより厳しい基準で量られるべきです。 それでも、パウロはこう語ります。

「リーダーたちを尊敬しなさい。 彼らは、あなたのために労苦しているのです。 あなたが知る以上に、彼らは労しているでしょう。

だから、彼らを尊敬するだけでなく、愛をもって、 この上ない尊敬を払いなさい。 彼らは神様とその御国のために、 そしてあなたのために、苦労しているのだから。」

では、なぜ私たちはそのようにするべきなのでしょうか。 それは、イエス様が間もなく戻って来られるからです。 今は、牧師の小さな失敗を一つひとつ取り上げて批判すべき時ではありません。

神様ご自身が、リーダーたちの責任を問われます。 裁くのはあなたではなく、神様です。だからこそ、リーダーたちの人生を苦しめるのではなく、 「互いに平和を保ちなさい。」(13b)

忘れないでください。 リーダーたちは、主にあってあなたを導く人たちです。 けれども同時に、彼らはあなたの兄弟であり、姉妹でもあるのです。

だからこそ、神様があなたやリーダーたちを導いておられるその中で、 彼らに逆らって戦うのではなく、共に働いていきましょう。

パウロは、さらにこう語ります。

兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。(14節)

批判の対象となるのは、牧師やリーダーたちだけではありません。 教会のメンバーたちもまた、ときに批判されることがあります。 もちろん、彼らが罪を犯しているのであれば、 私たちは正しく彼らを訓戒するべきです。

しかし、そのほかの人々は、 小心で、霊的な敵に脅かされていることもあります。 だからこそ、私たちは彼らを励まし、 彼らのそばに立って、ともに戦いましょう。 その困難な状況の中で、彼らを強めるのです。

また、体力的に、精神的に、感情的に、あるいは霊的に弱っている人もいます。 彼らは、私たちの兄弟であり姉妹なのです。 ですから、私たちは彼らを助けるべきです。

そして、イエス様が私たちに寛容でいてくださったように、 私たちも、互いに寛容であるべきです。 神様が私たちを見捨てずにいてくださるのなら、 私たちもまた、兄弟姉妹を見捨ててはなりません。

最後に、パウロはこう語ります。

だれも、悪に対して悪を返さないように気をつけ、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。(15)

教会の中においても、 人々が私たちを傷つけることはあります。 どうしても、相手を許せないと感じるときもあるでしょう。

しかし、私はもう一度、はっきりと言います。 主は再び来られます。 だからこそ、恨みや苦々しい思いを抱いてはなりません。彼らの裁きを、神様に委ねましょう。 そして、彼らに優しく接するのです。

それは教会の中に限ったことではありません。 教会の外でも、同じように生きましょう。 そうすれば、人々はイエス様の愛を目にして、 その愛に心を奪われるかもしれません。

主は、まもなく来られます。 あなたは、牧師やリーダーたちをどのように扱っているでしょうか。 兄弟姉妹をどのように扱っているでしょうか。 あなたの周囲の人々を、どのように扱っているでしょうか。

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テサロニケ人への手紙第一

主が来られる日に備えて

多くの人々は、イエス様がいつ帰って来られるのか疑問に思っています。

パウロの時代、テサロニケの人々も同じようにそのことを尋ねました。 そして今でも、たくさんのクリスチャンたちがその時を気にかけています。

パウロは、基本的にイエス様ご自身のことばを繰り返しています。 つまり、イエス様がいつ帰られるかは、誰にも分からないのです。

だからこそ、私たちはいつでも備えているべきなのです。 そのようにしていれば、突然の出来事に驚かされることはありません。

パウロはこう語っています。

兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。

人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。

しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。

ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。

眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのです。

しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。

神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。(テサロニケ人への手紙第一5:1-9)

イエス様が帰って来られる日について、私たちがよく知っているのは、 この世の人々が自己満足し、安心しているということです。 彼らは神様から離れていながらも、自分の人生は順調だと思っているのです。

イエス様によれば、その日、人々は食べたり、結婚したり、商売したり、 植えたり、建てたりしているでしょう。

ノアの時代、洪水が来る前も、人々はそのように過ごしていました。 また、ソドムとゴモラが滅ぼされる前にも、人々はそうしていたのです。

もちろん、それらの行動自体が悪いわけではありません。 けれども、その人々は神様に背を向け、 悪を「善」と呼び、善を「悪」と呼んでいたのです。

あなたのまわりにも、そのような光景が見えるでしょうか。 私は、はっきりと見えます。

神様が彼らを裁かれたように、 イエス様が帰って来られると、神様は全世界を裁かれます。 ノアやロトのような人々だけが救われるのです。

どうして彼らは救われたのでしょうか。 それは、彼らが裁きの日に備えていたからです。

ですから、パウロが語ったように、 罪の暗闇の中で生きるのではなく、 光の子どもとして歩みましょう。たとえ私たちの行いが明るみに出されたとしても、 恥じることのない人生を送りましょう。

信仰という武具を身に着けましょう。 神様が私たちを愛しておられること、 そして私たちの最善を願っておられることを、信じましょう。

愛をも身に着けましょう。 神様への愛、そして周囲の人々への愛を身に着けるのです。 その愛が、私たちの態度と行動を形づくっていくでしょう。

救いの希望をかぶりましょう。 そうすれば、試練に直面しても、私たちは絶望せずに済むのです。 神様があなたを御怒りに定めたのではなく、 救いを受けるように召してくださったことを、喜びましょう。

私たちはいつか、イエス様とともに御国にいることになります。 けれども、その関係を今この時から喜びましょう。 私たちが地上にいる間も、イエス様が望んでおられるのは、 私たちがイエス様との交わりを喜び楽しむことなのです。(10)

そして、もう一つ覚えていてください。 「主の日」――それは将来、イエス様がこの世に戻られる日です。

しかしあなたにとっての「主の日」とは、 イエス様があなたを迎えに来られる、その日なのです。 それは、いつ訪れるか分かりません。

明日、交通事故で命を落とすかもしれません。 心臓発作が起きるかもしれません。 地震に巻き込まれるかもしれません。

神様は、あなたに明日を約束しておられません。 だからこそ、備えていましょう。

あなたはどうでしょうか。 あなたは、今、備えができているでしょうか。

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テサロニケ人への手紙第一

私たちの希望

「希望は、生きている者のためです。死者は希望を持っていません。」

古代ギリシャの詩人がそう語りました。 パウロの時代、多くの人々はそのように死を受けとめていたのです。

実際、私が多くの日本人と話すとき、彼らもほとんど同じようなことを言います。 死後について、希望を持っていないのです。 彼らにとって、この人生こそがすべてなのです。

周囲の影響を受けて、テサロニケの人々もまた、死後の希望を十分に持っていなかったようです。 そして、信仰のゆえに殺されるクリスチャンたちの姿を見て、彼らは問いを抱いたのです。

「イエス様がこの世に帰ってこられるとき、 すでに死んだクリスチャンたちはどうなるのか。 彼らはその日の喜びと希望を取り損ねてしまうのだろうか。」

しかし、パウロは彼らにこう語ったのです。

眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。

イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。

私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。

そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。

こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。(テサロニケ人への手紙第一4:13-18)

どうして、私たちは死後の希望を持つことができるのでしょうか。 それは、イエス様ご自身が死んで、よみがえられたからです。 イエス様は私たちにこう語られました。

わたしが生きるので、あなたがたも生きる。(ヨハネ14:19)

また、パウロによれば、イエス様がこの世に戻られるとき、 すでに死んだ人々は復活し、空中でイエス様と会うのです。

さらにこの手紙の中で、パウロは、私たちが死ぬとすぐに主のみもとに行くと教えています。(第一テサロニケ1:23)

また、ルカの福音書では、イエス様が悔い改めた犯罪人にこう約束されました。 「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

ですから、イエス様が再び来られるとき、 死んだクリスチャンたちの遺灰や骨はよみがえり、 新しいからだに変えられて、天にいる霊とひとつにされます。

そのあと、生きているクリスチャンたちも引き上げられ、 そのからだも変えられて、空中で主と出会うのです。

その新しいからだは、朽ちることのない、死を超えたからだなのです。(第一コリント15:51ー53)

ところで、私は、反キリストが現れるとき、 クリスチャンたちはまだこの世に存在していると考えています。 この考えが間違っているなら、むしろ嬉しいのですが、 聖書を読むかぎり、それが私の結論です。

私がそう考える理由の一つは、「主と会う」という表現に、 大切な方を迎えに出て、その方を町にお連れするという意味が含まれているからです。

つまり、パウロの描写はこうです: クリスチャンたちは空中で主を迎え、 地上でイエス様をお守りしながらお連れするというものです。

そのとき、イエス様はこの世界を千年間統治されます。 そしてその後、最後の戦いにおいてサタンを打ち倒し、 私たちは永遠に主とともに生きることになるのです。

これこそが、私たちの希望です。 この希望を、希望を持たない人々にこそ分かち合うべきなのです。

兄弟姉妹が苦しみ、もう限界だと感じるとき、 この希望のことばで励ましましょう。

私たちの苦しみは永遠に続くものではありません。 イエス様は再びこの世に来られ、正義をもたらしてくださいます。

だから、この希望を胸に抱き、安心して歩みましょう。

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テサロニケ人への手紙第一

クリスチャンとして、目立つ理由は?

「偽善者」。

日本ではどうか分かりませんが、欧米の多くの国々では、 クリスチャンはしばしば「偽善者」と呼ばれます。

残念なことですが、多くのクリスチャンたちは、その評判に値してしまっています。

パウロの時代にも、偽善的なクリスチャンたちがいました。 彼らの生活によって、イエス様の御名が汚されてしまったのです。 そのため、パウロはテサロニケの人々に、そのことについて書き送りました。

第4章でパウロは、私たちが神様を喜ばせるように、どのように生きるべきかを教えています。 前回の記事では、私たちが神様のための聖なる宮となることについて取り上げました。

現代と同じように、その時代にも性的な罪が多くありました。 だから、パウロは、彼らのからだが神様の宮であることを思い起こさせ、 その宮を汚さないようにと、性的な清さを守るように促したのです。

清さを失った生き方を選べば、私たちはこの社会に自然と溶け込んでしまいます。 けれども神様は、私たちがこの世に同化するのではなく、 その中で目立つ者として生きるように呼んでおられます。

そして、パウロはこの世の中で目立つためのもう一つの方法を示しています。 彼はこう語っています。

兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちで、マケドニア全土のすべての兄弟たちに対して、それを実行しているからです。

兄弟たち、あなたがたに勧めます。ますます豊かにそれを行いなさい。(テサロニケ人への手紙第一4:9-10)

この世界の人々は、情欲についてはよく理解しています。 けれども、愛についてはあまり分かっていないため、 彼らはその一生を通して、愛を追い求め続けるのです。

だからこそ、イエス様はクリスチャンたちにこう語られました。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:35)

私たちがキリストの教会として、互いに愛し合うとき、 ノンクリスチャンたちは心を奪われます。

何年経っても、クリスチャンの夫婦がなお愛し合っていると、 ノンクリスチャンたちは心を奪われます。

性格も背景も異なる人々が、教会で互いに愛し合っていると、 ノンクリスチャンたちは心を奪われます。

クリスチャンたちが、苦しんでいる人々に愛をもって触れるとき、 ノンクリスチャンたちは心を奪われます。

なぜでしょうか。 それは、クリスチャンたちが、ノンクリスチャンたちの持たないものを持っているからです。

そういうわけで、パウロはテサロニケの人々にこう語っています。

「あなたがたが互いに愛し合っていることは、素晴らしいことです。 けれども、さらに豊かに愛し合いなさい。 あなたがたの愛を通して、あなたがたの光を輝かせなさい。」

それでも、テサロニケの教会には、ある問題がありました。

主がすぐに戻られると信じていた一部の人々は、 「なぜ働く必要があるのか」と考え、 働かずに、他のクリスチャンたちから食べ物やお金を受け取るようになっていたのです。

まるでヒルのように振る舞いながら、 彼らはその生き方によって、イエス様の御名を汚してしまっていました。

だから、パウロは彼らにこう語ったのです。

また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。

外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです。(11-12)

ヒルのような生き方では、私たちはイエス様の光を輝かせることはできません。 ヒルを好む人など、誰もいないのです。

それだけではなく、第2テサロニケによれば、あるクリスチャンたちは、 おせっかいばかりしていました。 その姿を見て、周りの人々は「本当にあれがクリスチャンなのか」と思ったのです。

だから、パウロはテサロニケの人々にこう語りました。 「働きなさい。ヒルのようになってはいけません。 きちんと働けば、周りのノンクリスチャンたちはあなたを尊敬するようになるでしょう。」

あなたはどうでしょうか。 人々があなたを見たとき、そこにどんな人を見出すでしょうか。

キリストの愛に満ちた人でしょうか。 誠実に働く、勤勉な人でしょうか。

あなたは今、良い理由で目立っているでしょうか。

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テサロニケ人への手紙第一

性的な清さを守る

新約聖書の著者たちの時代と同じように、 私たちもまた、性的な罪に満ちた世界に生きています。

テレビ番組や映画、インターネットなど、 どこを見ても、そのような罪に満ちた描写があふれています。

しかし、セックスに関するこの世の考え方を受け入れてしまうなら、 私たちは、神様が与えてくださる本物の祝福の代わりに、安っぽい偽物を買ってしまうことになります。

神様が私たちのために備えておられる計画は、 夫婦が一つとなり、永遠に続く関係の中で結ばれることです。

けれども、多くの人々は、一時的な快楽で満足してしまいます。 その結果、やがて人生は壊れ、心は空しさに満たされていくのです。

性的な罪によって壊された人々の数は、数えきれません。 離婚、父親不在の家庭、母親不在の家庭、望まれない妊娠、中絶、性病、 そして深く傷ついた魂――そういった現実が、私たちのまわりに溢れています。

要するに、神様のご計画に反して、私たちは壊れた存在なのです。

だからこそ、パウロはテサロニケの人々、そして私たちにこう語りかけます。

 最後に兄弟たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから、ますますそうしてください。

私たちが主イエスによって、どのような命令をあなたがたに与えたか、あなたがたは知っています。神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。

あなたがたが淫らな行いを避け、 一人ひとりがわきまえて、自分のからだを聖なる尊いものとして保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、そのようなことで、兄弟を踏みつけたり欺いたりしないことです。

私たちが前もってあなたがたに話し、厳しく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて罰を与える方だからです。(テサロニケ人への手紙第一4:4-6)

「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。」

それは、どういう意味でしょうか。

それは、私たちが神様のご目的のために選ばれたということです。 私たちは神様の宮とされたのです。 神様は、私たちのうちに住んでおられます。 パウロによれば、私たちのからだそのものが、神様の宮なのです。(第一コリント6:19)

しかし、聖なる者となるためには、私たちは性的にも清くなければなりません。

なぜなら、私たちが性的な罪を犯すとき、 私たちは自分自身のからだに対して罪を犯しているからです。(第一コリント6:18)

言い換えれば、私たちが性的な罪を犯すとき、 私たちは神様の宮を汚してしまうのです。

だからこそ、「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです」と語ったあと、 パウロはこう命じています。 「淫らな行いを避けなさい。」

要するに、結婚していない者は、性的な関係を持ってはいけないということです。

私たちは、自分の本能のままに生きるだけの存在ではありません。 また、神様とその御心を知らない者でもありません。

神様は、ご自身とその御心を、私たちに明らかにしてくださいました。 そして、私たちには選択する力を与えてくださったのです。

だから神様は、その選択について、私たちに責任を問われます。

私たちが性的な罪を犯すとき、 それは共に罪を犯す相手に対しての罪でもあります。

また、その人が他の誰かと結婚しているなら、 その人の配偶者に対する罪となります。

そして、もし自分自身が結婚しているなら、 不倫によって自分の配偶者に罪を犯すことになります。

パウロは、そうしたことのゆえに、私たちは裁きを受けるのだと語っています。

神が私たちを召されたのは、汚れたことを行わせるためではなく、聖さにあずからせるためです。(7)

神様がご自身の聖なる民とするためにイスラエルの民を選ばれたように、 神様は、私たちもまた、ご自身の聖なる民となるように召してくださいました。

あなたは、聖なる人でしょうか。

パウロは、性的な聖さに関して非常に厳格でした。 彼はこのように語っています。

ですから、この警告を拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたにご自分の聖霊を与えてくださる神を拒むのです。(8)

要するに、パウロは自分の意見を述べているのではありません。 彼は、神様のことばを伝えているのです。

ですから、もしそのことばを拒むなら、 私たちはパウロをではなく、神様ご自身を拒んでいることになるのです。

あなたは、結婚している人々への神様の賜物を乱用してはいないでしょうか。

あなたの生活の中で、神様を拒んでしまってはいませんか。

パウロのことばを心に留めておきましょう。

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(第一コリント6:19-20)

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テサロニケ人への手紙第一

迫害と向き合う覚悟をする

迫害を受けるのが好きな人など、誰もいないでしょう。 また、憎まれて喜ぶ人もいないはずです。

それでも、クリスチャンとして、そうなる可能性を覚悟しておかなければなりません。 私たちが信仰に生きるなら、ある人々は私たちを憎むことがあるのです。

このようなわけで、パウロはテサロニケの人々に警告しました。

私たちの兄弟であり、キリストの福音を伝える神の同労者であるテモテを遣わしたのです。

あなたがたを信仰において強め励まし、このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするためでした。

あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。

あなたがたのところにいたとき、私たちは前もって、苦難にあうようになると言っておいたのですが、あなたがたが知っているとおり、それは事実となりました。(テサロニケ人への手紙第一3:2-4)

「苦難にあうように定められている。迫害にあうように定められている。」

クリスチャンは、そんな言葉を聞きたくはないでしょう。 けれどもパウロは、その可能性についてテサロニケの人々に警告しました。

その結果、実際に迫害がやって来たとき、彼らの心はすでに備えられていたのです。 彼らの信仰は揺らぐことなく、むしろ堅く立ち続けていました。(3:6〜8)

私たちもまた、そのように歩むべきです。

でも、覚えておいてください。 神様は、私たちに「自分の力」で立つように命じておられるのではありません。 むしろ、私たちは神様の力に拠り頼まなければならないのです。

では、どのようにすれば、神様の力に頼ることができるでしょうか。 一つの方法は、みことばを読むことです。 そうすれば、自分の信仰は養われ、成長し続けるのです。

パウロは、テサロニケの人々にこう語りました。

私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています。(10)

イエス様についての知識を完全に持っている人は、誰一人いません。 だからこそ、私たちの人生においては、その知識と信仰が成長し続けるべきなのです。

それは、私たちが教会に行く理由の一つでもあります。 なぜなら、霊的な栄養を受けることによって、試練に直面するときにも、堅く立つ力が与えられるからです。

もちろん、説教を通して霊的な栄養を受けることができます。 しかし、それだけではありません。 兄弟姉妹との関係を通しても、私たちは豊かな霊的な養いを受けるのです。

神様が私たちの心に愛を注いでくださるとき、 私たちは互いに愛し合うことを学び、 教会の外にいる人々をも愛することを学んでいきます。(12)

けれども、霊的な栄養の源は、神様ご自身です。 私たちのうちに住んでおられる聖霊を通して、 神様は私たちの心を日々強めてくださいます。

だからこそ、パウロはこのように祈ったのです。

そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。(13)

私たちがイエス様のために生きるなら、 サタンは必ず、私たちに反対してきます。 それは、クリスチャンにとって当然のことなのです。

実際、パウロも、テサロニケの人々も、 そして初代教会から現代に至るまでの数えきれないクリスチャンたちも、 迫害を受けてきました。

あなたは、そのような迫害に直面する覚悟ができているでしょうか。

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テサロニケ人への手紙第一

神のみ言葉?人間の言葉?

私たちはふだん、聖書を「神様のみことば」と呼んでいます。 けれども本当に、私たちは聖書をそのように扱っているでしょうか。

そのことばが、確かに神様から来たものだと信じて、 従おうとしているでしょうか。

それとも、聖書のことばをただの人間の言葉として扱っていないでしょうか。 自分の好みに合わない箇所に出会ったとき、 私たちはそれを無視する自由があると思っていないでしょうか。

第13節には、テサロニケの人々が取った選択が記されています。 そこでパウロは、こう語っています。

こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。

あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。

この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。(テサロニケ人への手紙2:13)

私たちがみことばを聞き、それを受け入れるとき、 神様は私たちの心のうちに働かれます。 けれども本当に、私たちはそのことばを受け入れているでしょうか。

私たちにとって、受け入れやすいことばもあります。 神様の愛や恵みについて聞くとき、私たちはそれを喜んで受け入れるでしょう。

しかし、受け入れにくいことばもあります。 たとえば、聖なる人生を生きるようにという命令や、 イエス様に応える責任があるという教えなどです。

もちろん、最も大切なことばは福音です。 つまり、イエス様とその十字架のわざだけを通して、私たちが救われるということです。

私たちは、自分自身を救うことはできません。 私たちの救いのためには、イエス様を信じなければならないのです。

テサロニケのクリスチャンたちは、そのことをすぐに信じました。 けれども、他の人々は信じようとしませんでした。

ユダヤ人の指導者たちは、かつて預言者たちを、そしてイエス様ご自身をも殺しました。 また、パウロが福音を宣べ伝えようとしたとき、 彼もそのような指導者たちによって追い出されたのです。

パウロは、彼らについてこう語っています。

ユダヤ人たちは、主であるイエスと預言者たちを殺し、私たちを迫害し、神に喜ばれることをせず、すべての人と対立しています。

彼らは、異邦人たちが救われるように私たちが語るのを妨げ、こうしていつも、自分たちの罪が満ちるようにしているのです。

しかし、御怒りは彼らの上に臨んで極みに達しています。(15-16)

そのユダヤ人たちや、一部のテサロニケの人々は、神様のみことばを、 単なる人間の言葉として扱ってしまいました。 その結果、彼らは罪を重ね、神様の御怒りに触れることとなったのです。

では、あなたはどうでしょうか。 あなたは、聖書をどのように扱っているでしょうか。

聖書を、神様のみことばとして受け止めているでしょうか。 そのことばに従うべきものとして、耳を傾けているでしょうか。

それとも、聖書を、ただの参考程度に過ぎない人間の意見として、 無視しても構わないものだと思っているでしょうか。

あなたが神様のみことばを聞くとき、 神様はあなたの応答に責任を問われます。

だからこそ、みことばを大切にし、従いましょう。 そうするなら、私たちは神様の祝福にあずかり、 日ごとに、神様のかたちに似た者へと造り変えられていきます。

今、神様はあなたに何を語っておられるでしょうか。

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テサロニケ人への手紙第一

本物の仕える者

『ピリピ人への手紙』では、パウロは福音が広められているのを見て、神様をほめたたえました。 けれども不思議なのは、福音を宣べ伝えている人々の中に、悪い動機を持つ者たちもいたということです。(ピリピ1:15-18)

この箇所から私たちが学ぶのは、たとえ人々の動機が不純であっても、 神様はそのような人々をも通して福音を語られるということです。 しかし結局、そうした人々は神様からの報いを受けることはありません。

それに対して、パウロは自らのミニストリー全体を通して、 本物の神様に仕える者として歩んでいました。 今日の箇所にも、その姿がよく表れています。

パウロは迫害にあっても、大胆に福音を宣べ伝えました。(第一テサロニケ2:2、また、使徒の働き16〜17章)

そして、彼は神様のみことばを語るときに、 正確に語り、テサロニケの人々を操ろうとしたことも、 欺こうとしたこともなく、ただ清い動機に基づいて語っていたのです。(第一テサロニケ2:3,5)

さらにパウロは、まわりの人々ではなく、神様に認められることを望み、 神様から福音をゆだねられた者として語り続けました。(第一テサロニケ2:4〜6)

時に、人々は神様のみことばをオブラートに包むことがあります。 相手が真理を聞いて不快に思うかもしれないからです。

実際、イエス様のことばによって、多くの人々が心を騒がせました。 とくに、パリサイ人や他の宗教的な指導者たちは、激しく反発しました。

イエス様は、神様の愛だけでなく、神様の裁きについても語られたのです。 ご自身を拒む者は裁かれると、はっきりと教えておられました。(マタイ7:21〜23;25:31〜46 など)

パウロは、イエス様の模範に従いました。 彼はエペソの人々に、こう語ったのです。

ですから、今日この日、あなたがたに宣言します。私は、だれの血に対しても責任がありません。

私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。(使徒の働き20:26-27)

パウロは、エゼキエル書33章に言及しています。 その箇所で、神様はエゼキエルに対し、こう警告されました。 「わたしの民に裁きについて警告しなさい。もしそれをしなければ、彼らの血の責任をあなたに問う。」

このような背景を踏まえ、パウロが福音を宣べ伝えるときの目的は、 人々に受け入れられることではなく、主に喜ばれることでした。

それでもなお、パウロはまわりの人々を深く愛していました。 彼は使徒としての権威を決して乱用せず、 むしろこう語ったのです。

キリストの使徒として権威を主張することもできましたが、あなたがたの間では幼子になりました。

私たちは、自分の子どもたちを養い育てる母親のように、あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。(第一テサロニケ2:7-8)

母のように、パウロは彼らの信仰を養いました。

父のように、パウロは彼らから金銭を求めることなく、霊的に支えるために、自ら働き続けました。 そして父として、彼らを慰め、励まし、 神様にふさわしく歩むようにと、勧めたのです。(第一テサロニケ2:6〜12)

彼らの霊的な父として、パウロは模範そのものでした。 彼は敬虔に、正しく、また責められるところのないようにふるまっていたのです。(第一テサロニケ2:10)

それこそが、本物の仕える者の姿です。

このことを考えるとき、 つい自分の牧師を批判したくなるかもしれません。 けれども、どうかそうしないでください。 むしろ、自分自身を省みてください。 なぜなら、神様はあなたをご自身に仕える者として呼ばれたからです。

あなたは、家族や友人、そしてまわりの人々に仕えるように召されています。 彼らに対して、あなたは神様の使節なのです。(第二コリント5:20)

神様は、あなたに福音をゆだねておられます。 あなたは本物の仕える者でしょうか。

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テサロニケ人への手紙第一

本物の信仰

もしかすると、これがパウロの最初の手紙の一通かもしれません。 おそらく、第2番目の宣教旅行の最中に、彼はこの手紙を書いたのでしょう。

パウロがこの手紙の中で言及している出来事は、『使徒の働き』第16章と第17章に記されています。 そこには、ピリピで彼が経験した困難や、テサロニケで何が起こったかが描かれています。

『使徒の働き』第17章によれば、テサロニケにいたユダヤ人たちは福音を嫌い、町の役人たちにパウロのことで様々な嘘を言いました。 そのため、パウロはテサロニケから逃げなければなりませんでした。

そうした状況の中で、テサロニケの信者たちもまた、迫害を受けていたようです。 パウロは、彼らの信仰が揺らいでいるのではないかと案じました。 そこで、彼はテモテを送り、彼らの信仰の様子を確かめさせたのです。

幸いなことに、彼らは迫害の中にあっても、信仰をまっすぐに保ち続けていました。

そのようなわけで、手紙の冒頭でパウロはこう言います。 「あなたがたのことを思って、私たちは神様に感謝しています。」

この言葉には、本物の信仰のしるしが表れています。 それはいったい何でしょうか。

パウロは、こう語りました。

私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。(テサロニケ人への手紙第一1:3)

1.本物の信仰は、ただ座って何もしないようなものではありません。 本物の信仰は、やがて実を結びます。つまり、良い行いが現れるのです。

イエス様は、こう語られました。

あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。。。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。(マタイ7:16-17)

2.本物の信仰による行いは、神様や他の人々への愛から生まれます。

そのような信仰は、神様や人々に仕えることを強いられているのではありません。 また、ただの義務感から仕えるのでもありません。 むしろ、その信仰は喜びをもって仕えるのです。

3.本物の信仰は、将来に対する希望を抱いています。 その信仰は、イエス様がやがて再び来られ、正義をもってこの世を新しくされることを信じています。 だからこそ、その信仰は試練や迫害に直面しても、耐え抜くことができるのです。

パウロは、テサロニケの人々の中に、そのような信仰を見出しました。

けれども、本物の信仰には、ほかにも特徴があります。

4.本物の信仰が生まれるのは、人が福音を聞いたときに、聖霊様がその人の罪を示され、悔い改めへと導かれるときです。 言い換えれば、もし自分の罪を悔い改めずに、罪を犯し続けているなら、その人が本物の信仰を持っているとは言えません。

本物の信仰とは、自分の罪の重さを認め、 イエス様が十字架の上で支払われた代価の大きさを知り、 神様への深い感謝にあふれる心を持っている信仰なのです。(5)

5.本物の信仰は、聖霊によって、人を変える力を持っています。 聖霊様は、私たちの罪を指摘されるだけでなく、 新しい人生を歩むために、私たちの心そのものを新しくしてくださいます。(5)

聖霊様は私たちのうちに住んでおられ、日々、私たちを新しく造り続けておられます。

6.本物の信仰は、試練に直面しても、聖霊によって、喜びに満ちています。

7.本物の信仰は、自分の証しをまわりの人々に伝えていきます。 そして、周囲の人々は、そのような人の姿の中に、確かな光を見出すのです。(8)

その光とは、いったい何でしょうか。

それは、私たちがもはやこの世の神々には仕えないという証しです。 私たちは、もはやお金や財産、性やその他の一時的なものを追い求めては生きていません。

もちろん、それら自体がすべて悪いわけではありませんが、 私たちにとって、それらは人生の最終的な目標ではないのです。むしろ、私たちは、どんなものにもまさって、生けるまことの神に仕えているのです。

だからこそ、私たちはこの世にあるものではなく、天にあるものに心を向けます。 そして、天にあるものに目を留めるとき、 私たちは、愛と希望と、言葉では言い尽くせないほどの喜びを知るのです。

あなたは、どのような信仰を持っているでしょうか。

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コロサイ人への手紙

忠実

この箇所を一言でまとめるとすれば、それは「忠実さ」です。

テキコは「主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、そして同労のしもべ」と呼ばれています。

オネシモはかつて不忠実なしもべでした(ピレモンへの手紙参照)が、今では「忠実な、愛する兄弟」となりました(コロサイ人への手紙4:9)。

アリスタルコは忠実な人だったので、主のためにパウロと共に牢に入っていました。

マルコはバルナバのいとこであり、かつてのオネシモのように不忠実な人でした。パウロとバルナバの宣教旅行に同行しましたが、その途中で彼は引き返してしまいました(使徒の働き13:13)。

けれども今、彼は忠実な人となり、ユストと共に、獄中のパウロを励ましています(コロサイ人への手紙4:10ー11)。

エパフラスは忠実にコロサイの人々のために祈りに励んでいました。さらに、彼は彼らのために多くの苦労を重ねていました(12ー13)。

残念ながら、デマスは最終的に不忠実な人となってしまいました。彼はこの世を愛して、パウロを見捨てたのです(第二テモテ4:10)。

そしてこの手紙を締めくくる前に、パウロはアルキポという人にひとこと訓戒を与えました。

主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように。(コロサイ人への手紙4:17)

簡単に言えば、それは「忠実に生きなさい」ということです。

あなたはどうですか。あなたは忠実な人でしょうか。

もしあなたが、今の自分は忠実だと思うなら、どうかデマスの例を思い出してください。この世への愛ゆえに、忠実さを失ってしまってはなりません。

反対に、自分はまだ忠実とは言えないと思うなら、マルコやオネシモのことを思い出してください。彼らもかつては不忠実な者でしたが、神は彼らにもう一度チャンスを与えてくださいました。

同じように、神は今もあなたに、もう一つのチャンスを与えてくださるのです。

ですから、忠実に生きましょう。そうすれば、やがて裁きの日に、私たちは神に誉められるのです。

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コロサイ人への手紙

知恵を持って、歩む

外部の人たちに対しては、機会を十分に活かし、知恵をもって行動しなさい。

あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。(コロサイ人への手紙4:5-6)

「知恵をもって行動しなさい。」――直訳すると、「知恵をもって、歩みなさい」という意味です。

「機会を十分に活かしなさい。」

私たちは、どれほど多くの福音の機会を逃してしまっているでしょうか。

なぜ、その機会を取り損ねるのでしょうか。それは多くの場合、そもそもその機会を探していないからです。私たちは、与えられるすべての機会を活かしているでしょうか。

私が娘と過ごしていたあるとき、ひとつのユニークな機会が与えられていました。

娘が6歳のとき、毎晩寝る前に、私と妻は娘に聖書の話を読んで聞かせ、一緒に祈りました。また、娘はずっと日曜学校にも通っていました。

それでも、私が福音を伝えるたびに、娘には信じたいという気持ちはあまり見られませんでした。

けれどもある日、娘が日曜学校の先生の話を振り返って語ってくれました。その話とは、「イエス様は人の心に住まわれる」というものでした。

それを聞いた娘は、とても嬉しそうでした。そこで私は娘に尋ねました。「イエス様を、あなたの心に住んでくださるようにお招きしたことがあるかな?」

それを聞いた娘は、少し静かになって、こう答えました。「いいえ。」

そこで私は、娘にこう伝えました。「人がイエス様を心に住んでいただくようにお招きしてこそ、イエス様はその人の心に住み始めてくださるんだよ。」

そして私はもう一度、娘に福音を説明しました。そのとき娘は、初めて、始めから終わりまで真剣にその話を聞いてくれました。そしてそのあと、娘は祈り、イエス様を受け入れました。

私はずっと娘のために祈ってきたので、その機会が与えられたとき、備えることができました。

けれども私は、どれほど多くの機会を、準備ができていないために逃してきたでしょうか。

私は、外の人々に対して知恵をもって歩まないことで、どれほど機会を逃しているでしょうか。私の言葉が親切ではなく、むしろ不平や批判に満ちていることで、どれほど機会を取り損ねているでしょうか。

私のことばが塩気のあるものでないことで、どれほど福音の機会を失っているでしょうか。私のことばが塩のように人の心にしみこむことがあるとしても、その言葉はいつも神の愛に満ちていなければならないのです。

私は、その与えられた機会を逃したくありません。

あなたはどうですか。私たちの人生はとても短いものです。あなたは、与えられた機会を活かしているでしょうか。

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コロサイ人への手紙

最前線に立っている人のために祈るとき

私たちは霊的な戦線の最前線にいるわけではないかもしれません。それでも、私たちの祈りがどれほど大切であるか、私たちは本当に理解しているでしょうか。

牧師や宣教師をはじめ、多くの人々が霊的戦いの最前線に立っています。にもかかわらず、私たちはしばしば、あたかも彼らには私たちの祈りが必要ないかのように振る舞ってしまいます。なぜなら、彼らが霊的に強い人々だと思い込んでいるからです。

しかし実際には、こうした人々こそ、特に私たちの祈りを必要としているのです。パウロはその必要性をよく理解していました。だから、彼はコロサイの人々にこう語ったのです。

たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。(コロサイ人への手紙4:2)

「たゆむことなく祈りなさい」とは、しつこく、神様の手を放さず、しがみつくように祈ることです。

つまり、ただ軽く祈ってから自分のことに集中するのではなく、心を込めて神様への祈りに専念するべきなのです。

さらに、パウロは「目を覚ましなさい」と言います。神様があなたの周りで何をなさっているのかに注意を向け、どのように祈るべきかを神様に尋ねるべきです。

また、感謝の心を常に持つことを忘れてはなりません。

祈りを「お願いリスト」にしてはなりません。むしろ、神様がどのようにあなたを祝福してくださったかを思い起こし、感謝しましょう。

そしてこのあと、パウロは、私たちがどのように最前線に立つ人々のために祈るべきかを教えてくれます。

同時に、私たちのためにも祈ってください。

神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように祈ってください。この奥義のために、私は牢につながれています。

また、私がこの奥義を、語るべき語り方で明らかに示すことができるように、祈ってください。(3-4)

「福音を語ることは、そんなに難しいことでしょうか?そのメッセージはとてもシンプルなのに。」──そう思う方もいるかもしれません。

確かに、福音のメッセージはシンプルで、変わることのない真理です。しかし、サタンは不信者の心と思いを暗くし、真理を受け取れないようにしています。そのため、福音を担う人々には、みことばをどのように語るべきかという知恵が必要なのです。

ですから、あなたが知っている牧師や宣教師たちのことを思い出すとき、どうかそのように祈ってください。彼らには、あなたの支えが必要なのです。

それに加えて、ぜひこう伝えてください。「私は、あなたのために祈っています。」

その言葉を聞くだけで、彼らは大きな励ましを受けるでしょう。自分が一人で戦っているのではなく、あなたに支えられていることを知るからです。

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コロサイ人への手紙

キリストの代表者として生きる

私は、ある英語の聖書翻訳者がコロサイ3:17をどのように訳しているかを、とても気に入っています。

ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの代表者として行いなさい。(コロサイ人への手紙3:17、NLTの翻訳)

「誰かの名前において行う」とは、「その人の代表者として行う」という意味です。その翻訳を読んだとき、私はこの言葉の重みを改めて認識しました。そして、続くパウロの教えも、あらためて深く心に留まりました。

妻たちよ。夫に対して、イエス様の代表者として、夫を敬い、従いなさい(3:18)。

夫たちよ。妻に対して、イエス様の代表者として、妻を愛しなさい。決して辛く当たってはいけません(3:19)。

子どもたちよ。両親に対して、イエス様の代表者として、従いなさい(3:20)。

父たちよ。子どもに対して、イエス様の代表者として、子どもを苛立たせてはいけません。それは、子どもたちが意欲を失わないためです(3:21)。

奴隷たちよ。イエス様の代表者として、あらゆることについて地上の主人に従いなさい。人のご機嫌を取るようなうわべだけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から仕えなさい(3:22〜25)。 (もちろん、日本には奴隷制度はありませんが、従業員たちはそのように仕えるべきでしょう。)

主人たちよ(現代で言えば、上司たちよ)。イエス様の代表者として、奴隷(現代で言えば、従業員)に対して、正義と公平を示しなさい(4:1)。

要するに、私たちはどのような人間関係においても、誰を代表しているのかを常に覚えていなければなりません。私たちはイエス様の代表者なのです。私たちの夫、妻、子ども、両親、従業員、上司に対して――私たちはイエス様の代表者として接しているのです。

夫を敬わないなら、あなたはどのような代表者でしょうか。

妻に辛く当たるなら、あなたはどのような代表者でしょうか。

両親に従わないなら、あなたはどのような代表者でしょうか。

子どもたちを苛立たせるなら、あなたはどのような代表者でしょうか。

いい加減に働くなら、あなたはどのような代表者でしょうか。

従業員たちに対して正義と公平を示すなら、あなたはどのような代表者でしょうか。

友人、隣人、同僚、そして教会の兄弟姉妹に対して、あなたはどのような代表者でしょうか。

周りの人々は、あなたのうちにイエス様を見ることができるでしょうか。それとも、ただあなた自身しか見ることができないのでしょうか。

あなたは、イエス様の代表者です。あなたは、良い代表者でしょうか。

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コロサイ人への手紙

キリストこそ私たちの命

「イエス様は私の命です。」

クリスチャンとして、あなたはこの言葉を心から告白できるでしょうか。たとえ私たちがその真理を認めても、あるいは認めなくても――イエス様は実際に、私たちの命なのです。

パウロはこう語っています。

「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。」(コロサイ人への手紙3:3)

この世の人々にも、そして私たち自身にも、私たちがキリストにあって何を持っているのかは、今は完全には見えないかもしれません。けれども実際には、私たちはキリストから数えきれないほどの祝福を受けているのです。

私たちは罪から救われ、神様と和解させていただきました。今もなお、私たちは聖霊様の力によって、日々イエス様のかたちへと変えられつつあります。

そしていつの日か、イエス様が私たちのからだを贖い、完全に罪から解き放たれる時が来ます。その日、私たちは天の御国の相続を受け、栄光の冠を戴くのです。

とはいえ、今はそのすべてが隠されています。私たちは今、その栄光をわずかに垣間見るにすぎません。しかし、イエス様が再びこの世に現れられる時、私たちに与えられているすべては明らかになります。

パウロはこの真理を、次のように表現しました

あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。(4)

それなら、なぜ私たちの多くは、イエス様とそのうちにある宝に目を留めずに、この一時的な世界のものをひたすら追い求めてしまうのでしょうか。

パウロは、そんな私たちに対して、力強く訓戒します

こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。

上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。(1-2)

「上にあるものを求めなさい。」

言い換えるなら、永遠に価値あるものに目を向けなさい、ということです。では、永遠に価値あるものとは何でしょうか。

それは、神様との関係です。そして、御国に属する民との関係もまた、永遠に続くものです。だからこそ、その関係を妨げるものを取り除かなければなりません。では、その妨げとなるものとは何でしょうか。

パウロは、このことについて私たちに教えています。

ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。

貪欲は偶像礼拝です。これらのために、神の怒りが不従順の子らの上に下ります。

あなたがたも以前は、そのようなものの中に生き、そのような歩みをしていました。(5-7)

こうしたものは、私たちの関係を妨げます。これらの罪を抱くとき、私たちは神様よりも自分自身を大切にしてしまいます。神様の御心を求めず、自分の欲望を求めてしまいます。

お金や性、またはその他のものを、私たちは偶像にしてしまいます。そして私たちは、神様を退けて、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」という命令に背いてしまうのです。

また、私たちは兄弟たちや姉妹たちとの関係を妨げるものも捨てなくてはなりません。だからパウロはこう言います。

しかし今は、これらすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい。互いに偽りを言ってはいけません。(8-9)

なぜでしょうか。それは、キリストにあって私たちは一つだからです。私たちの間には、人種による隔たりも、性別による壁も存在しません。私たちは一つの家族です。

だからこそ、私たちは互いを家族として尊重し合い、愛をもって扱うべきなのです(8ー11)。

だからパウロはこう語ります

ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。

互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。

主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。(12-15)

そしてパウロはこう言います。

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。(16)

その「ことば」とは何でしょうか。それは、福音です。

私たちは、十字架で成し遂げられた御業と、自分が受けた恵みを思い巡らしているでしょうか。私たちの人生は、イエス様の愛と恵みに根ざしているでしょうか。イエス様の教えは、私たちの考え方や生き方を変えているでしょうか。

さらに、私たちはそのことを思い起こすとき、神様に対する感謝の思いが湧き上がり、兄弟姉妹たちとその祝福を互いに思い出させ合っているでしょうか(3:16)。

そして最後に、私たちが何をするにも、すべてを主イエスの御名において行っているでしょうか(17)。

私たちは、イエス様の代表者としてふるまっているでしょうか。

イエス様は、まさに私たちの命そのものです。けれども私たちは、本当にそのように生きているでしょうか。

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コロサイ人への手紙

キリストにあって満たされる

「満ち満ちる。」

どうやら、それはコロサイの教会に入り込んできた偽教師たちの合言葉だったようです。そこでパウロは、この手紙の中であえてその言葉を取り上げ、偽教師たちにこう言い放ったのです。

「あなたがたは“満ち満ちる”ということの本当の意味を知らないのではないか。」

そしてパウロは、コロサイの人々にこう語ります。

「あなたがたはキリストにあって成熟した者とされるのです。これこそが、私の務めの目的なのです。」

パウロはさらに続けて言います

私が苦闘しているのは、この人たちが愛のうちに結び合わされて心に励ましを受け、さらに、理解することで豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを知るようになるためです。このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。(コロサイ人への手紙2:2〜3)

つまり、「知恵と知識の宝はこの偽教師たちからではなく、キリストこそから来る。だから、彼らのもっともらしい議論に騙されないように」と、パウロは語ったのです(2:3〜4)。

そしてパウロは、コロサイの人々にこう語ります。 「知恵と知識の宝は、イエス様のうちに見出すことができるのだから、キリストに根ざし、キリストにあって建て上げられなさい。

あなたがたは、どのように救われたかを思い出しなさい。あなたがたの救いは、イエス様を信じる信仰によって始まりました。あなたがたはイエス様との関係に入れられたのです。

だから、これからの日々も、その信仰によって、イエス様と共に歩み続けなさい。そして毎日、イエス様を信じながら、イエス様があなたのためにしてくださったことを思い起こしつつ、喜びをもって感謝しなさい」(2:6〜7)。

さらにパウロは警告します。 「キリストからあなたがたを引き離そうとする哲学に注意しなさい。そのような哲学は空しく、人間の言い伝えや、この世のもろもろの霊に由来するものなのです」(2:8)。

「もろもろの霊」とは、おそらく悪霊のことです。つまり、その哲学の背後にある霊的な源は、悪霊なのです。

そして最後に、パウロはコロサイの人々に二つのことをはっきりと語ります。 「神様の満ち満ちたご性質を知りたいのですか。イエス様を見なさい。

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。(2:9)

パウロは続けてこう言います。

あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。(2:10)

つまり、こういうことです。「本当に満たされたいなら、この偽教師たちではなく、ただイエス様だけを求めなさい」(2:9〜10)。

なぜでしょうか。それは、キリストにあってのみ、私たちの罪深い心が取り扱われるからです。

人間の努力ではどうにもできません。ただキリストだけが、私たちの罪深い心に割礼を施すことができるのです。

言い換えると、イエス様だけが、私たちの罪を根本から取り除くことができるのです。

キリストの力によって、私たちは古い生き方に死に、イエス様にあって新しい人としてよみがえらされます。だから、もはや私たちは自分の力によって生きるのではなく、神様の力によって生きるのです(2:11〜12)。

私たちは以前、霊的に死んでいました。自分自身を救うことなど到底できませんでした。

けれども神様は、私たちにいのちを与えてくださり、すべての罪を赦してくださいました。

私たちは、自分の罪のゆえに神様に対して負債を負っていました。しかし神様は、その債務証書を取り除き、十字架に釘付けにされたのです。

そして、イエス様は十字架で死に、よみがえられました。その御業によって、キリストは私たちに敵対するサタンと悪霊たちを打ち破られたのです(2:13〜15)。

だから、パウロはこう語ります。 「イエス様の十字架の御業に、自分の努力を加えようとしてはなりません。あなたがたはイエス様にあって、すでに満たされているのです。

ユダヤ人たちの伝統的な修行に戻ってはなりません。イエス様こそが実体であり、彼らの霊的な儀式や犠牲は、すべてその影に過ぎません。

祭りも、儀式も、すべてはイエス様を指し示していたのです。イエス様はすでに来られたのですから、その影ではなく、イエス様ご自身に目を向けなさい」(2:16〜17)。

そしてパウロは続けて語ります。

「偽りの宗教的体験に巻き込まれてはなりません。天使たちや他の被造物を拝んではならないのです。そんなことをすれば、キリストから離れてしまいます。キリストにあってこそ、あなたは成熟し、完全とされるのです。」

キリストにあって、あなたはすでに古い宗教的な経験に対して死んだのです。だから、それらに戻ってはいけません。

見た目には良さそうな宗教的ルールであっても、あなたの罪深い心を本質的に変えることはできないのです(2:20〜22)。

要するに――イエス様こそがすべてです。 満たされた人生を望むなら、イエス様を求めなさい。

でも、あなたは今、どうしているでしょうか。 あなたの根はどこに根ざしているのですか。イエス様ですか? それとも、他のものですか? あなたの人生の中心に、誰がいますか?

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コロサイ人への手紙

イエス様ただお一人

ある偽教師たちとその教えが、コロサイの教会に入り込んできたようです。

彼らが具体的に何を教えていたのかは、私たちには完全には分かりません。しかし、はっきりしているのは、彼らが「イエス様だけでは不十分である」と教えていたことです。

要するに、「神様のもとに近づくためには、さまざまな天使の助けが必要であり、その天使たちをも礼拝すべきだ」と語っていたのです。

さらに彼らによれば、コロサイの信徒たちはまだいくつもの奥義を学ぶ必要があり、それを教えることができるのは偽教師たちだけだという主張でした。

つまり、「神様に義と認められるためには、さまざまな儀式を行い、修業に励まなければならない」と教えていたのです。

だから、この箇所でパウロが強調しているのは、「私たちに必要なのは、ただイエス様だけである」ということです。

では、なぜ私たちには、イエス様だけが必要なのでしょうか。

なぜなら、イエス様は、すべての創造物にまさって偉大なお方だからです(コロサイ人への手紙1:15)。

パウロが「イエス様はすべての造られたものより先に生まれた方」と語ったのは、イエス様が創造物の上におられる方だという意味です。

エホバの証人は、神様がすべての創造物に先立ってイエス様を創造したと教えます。しかし、それはパウロが意図したことではありません。パウロの意味するところは、イエス様の立場が創造物よりもはるかに高く、すべてを支配するお方であるということです。

では、なぜイエス様はそのような高い立場を持っておられるのでしょうか。

それは、イエス様がすべてのものの創造主だからです。万物はイエス様にあって造られ、イエス様のために造られたのです。天使たちも、あらゆる霊的な力も、そして私たち人間も、すべてイエス様によって造られました(16)。

さらに、イエス様はすべてのものに先立って存在し、イエス様にあって万物は保たれ、秩序づけられています。もしイエス様がほんの一瞬でもこの世界から御手を離されたら、この世界は崩れ去ってしまうでしょう(17)。

また、神様はイエス様を教会のかしらとしてお立てになりました。天使や人間ではなく、イエス様ただお一人を、教会のかしらとして任命されたのです。

そして、イエス様は十字架で死に、よみがえられたことによって、私たちにとって模範となられました(18)。

それだけではなく、神様はご自身の満ち満ちたものをすべて、イエス様のうちに宿らせてくださいました。だから、イエス様は見えない神のかたちなのです。

ですから、もし神様を知りたいと願うなら、イエス様を見ればいいのです(15、19)。

そして、イエス様の十字架の死によって、私たちは神様と和解させていただきました。私たちには、もはや他の仲介者は必要ありません。

イエス様を通して、神様は私たちを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として、ご自身の御前に立たせてくださいました(20〜22)。

偽教師たちは神様の奥義について語っていましたが、イエス様にあって、最も大切な奥義はすでに現されたのです。

その奥義は、世々にわたり多くの世代に隠されていましたが、今や私たちに明らかにされました。

その奥義とは何でしょうか。それは、イエス様を信じる信仰によって、イエス様ご自身が私たちのうちに住んでおられるということです。

ユダヤ人であれ、アメリカ人であれ、日本人であれ、イエス様が私たちのうちにおられるので、私たちはイエス様にあって一つのからだ、一つの教会とされたのです。そして、私たちはこの世において、神様の栄光を映し出す者とされました。

では、なぜ私たちは「ほかのものが必要だ」と思ってしまうのでしょうか。

本当は、私たちには他の何も要りません。だからこそ、パウロはこう言うのです。 「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています」――イエス様にあって、私たちは成熟した者とされるのです(28)。

それなのに、どれほど私たちは「イエス様以上の何かが必要だ」と思って生きていることでしょうか。私たちは他の宗教を追い求めたり、特別な霊的経験を渇望したり、あるいはこの世のものをひたすら追いかけたりします。

けれども、そうしたものは私たちを本当に満たすことはできません。イエス様だけが、私たちの心を満たすことができるのです。

あなたはどうですか。自分の人生を満たすために、何を求めているでしょうか。

イエス様だけが、あなたを満たすことができます。 あなたにとって必要なのは――イエス様ただお一人なのです。

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コロサイ人への手紙

すべての信者のための祈り

クリスチャンの友人のために祈りたいと思っても、「○○さんを祝福してください」という祈りにとどまらず、もっと深く祈りたいと願うなら、パウロの祈りに目を向けてみると良いでしょう。

パウロの模範から、私たちは神様の御心に従って人々のためにどのように祈るべきかを学ぶことができます。

その一つの模範は、コロサイ人への手紙第1章に見られます。パウロはコロサイの人々に会ったことはありませんでしたが、エパフラスという人から、彼らの信仰について報告を受けていました。

彼らの信仰を聞いたとき、パウロは心から喜びました。そして彼は、コロサイの人々のために、非常に具体的な内容をもって祈りました。彼は何を願って祈ったのでしょうか。

どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。(コロサイ人への手紙1:9)

クリスチャンとして、私たちは皆、そのような知恵と理解を必要としています。なぜでしょうか。

また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。(10)

神様を喜ばせたいと願うなら、また、実を結ぶ者となりたいなら、私たちは神様の御心を知らなければなりません。

そして、神様がその知恵と理解をもって私たちを満たしてくださるにつれて、私たちは神様のことをより深く知るようになります。神様の考え方を理解し、神様にとって何が大切かを知るようになるのです。

私たちは、神様のことについて知るだけでなく、神様ご自身を知るようになります。特に、神様がその力をもって私たちを強めてくださるとき、私たちは神様をさらに深く知るようになるのです。

だからこそ、パウロはコロサイの人々のために、こう祈ったのです。

神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。

また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。(11-12)

神様は、私たちが自分の力でクリスチャン生活を送ることを望んでおられません。

多くのクリスチャンは、確かに試練に耐え、寛容を示してはいますが、そこに喜びが伴っていないのが現実です。なぜでしょうか。それは、彼らが神様の力ではなく、自分の力に頼っているからです。

パウロの祈りは、コロサイの人々が自分の力によって試練に耐えるようにというものではありませんでした。むしろ、神様の力に満たされ、喜びをもって忍耐し、歩むことができるようにと祈ったのです。

またパウロは、彼らが自分自身に焦点を当てるのではなく、神様に目を向けるようにと祈りました。パウロの祈りの根底には、コロサイの人々が自分の努力ではなく、神様の恵みによって多くの祝福を受けたことを思い起こすように、という願いがありました。

私たちが神様の相続にあずかることができるのは、神様が私たちにその資格を与えてくださったからです。

それだけではなく

御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。(13-14)

もう一度、はっきりと言います。それらすべては、神様の働きです。

神様は、私たちを暗闇の力から救い出してくださいました。そして、私たちを御子のご支配の中へと移してくださいました。私たち自身によってではなく、イエス様にあって、私たちは贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。

ところが、多くのクリスチャンはこの真理を忘れてしまいます。そのため、自分の力や知恵によって生きようとして、やがて喜びを失ってしまうのです。

しかし、私たちが神様の知恵と知識、そして力に満たされ、自分の努力ではなくキリストの働きから祝福がもたらされていることを思い起こすとき、私たちは喜びを知るようになります。

ですから、クリスチャンの兄弟姉妹のために祈るとき、ただ「神様、この人を祝福してください」と祈るだけで終わらないでください。パウロのように祈りましょう。

そして、自分自身のためにも、そのように祈りましょう。

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ピリピ人への手紙

私たちが捧げると

前回の記事では、多くのクリスチャンが抱えている問題について取り上げました。それは、彼らがなお自己中心であるということです。多くの場合、彼らは自分の必要や欲望にばかり焦点を当てています。

けれども、それは神様の御心ではありません。ピリピの人々は、そのような生き方をしていなかったのです。パウロは彼らについて、このように語りました。

あなたがたも知っているとおり、福音を伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。

テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。(ピリピ人への手紙4:15-16)

どうやら、多くの教会はパウロから多くの祝福を受けていながらも、まだ主に捧げることも、周囲の人々に対して捧げることもしていなかったようです。

たしかに、信仰を始めたばかりのクリスチャンにとっては、それも自然なことかもしれません。霊的な赤ちゃんとして、まずはしっかりと養われる必要があります。

しかし、成長するにつれて、受けるだけでなく、与えることも学んでいかなければならないのです。ピリピの人々は、信仰の初めからすでにそのことを学んでいたようです。

パウロ自身は、ピリピの人々や他の教会からお金を受け取ることに執着していたわけではありません。多くの場合、彼は自らの必要に自分の手で備えていました。それでも、ピリピの人々の気前の良い心を見たとき、彼は神様の前で、彼らの霊的成熟を感謝したのです。

そして、パウロは彼らにこう語りました。

私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。(17)

パウロは、気前の良い態度という「実」について考えていたのでしょうか。つまり、その気前の良さが、霊的な報いへと導くものだと考えていたのでしょう。

あるいは、彼の心はさらに先を見ていたのかもしれません。実を言えば、パウロは将来救われる人々のことを思い描いていたのではないでしょうか。

つまり、ピリピの人々が惜しみなく彼の宣教活動を経済的に支えたことによって、より多くの人が福音を聞いて救われる――その「実」を見据えていたのかもしれません。

彼の関心は、報いというよりも、救われる魂だったでしょう。しかしもちろん、神様は、ピリピの人々の気前の良さに対して、必ず報いを与えてくださったでしょう。

さらに、パウロは彼らからの贈り物についてこう語りました。

それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。(18)

そしてパウロはこう言いました。

また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(19)

私たちは、捧げることに迷いを感じることがあります。これで本当に意味があるのだろうか。与えすぎてしまってはいないだろうか──そんな疑問が心をよぎることもあるでしょう。

しかし、パウロは私たちを励ましてくれます。惜しみなく与えるとき、神様はご自身の豊かさの中から、私たちの必要を満たしてくださるのです。

正直に言えば、私自身も今、気前の良い態度を学び続けている途中です。ときには、お金を手放すのが難しく感じることもあります。

けれども、私たちが捧げるとき、それは単に神様を祝福する行為にとどまりません。私たちを通して他の人々も祝福され、その過程で神様の栄光が表されるのです。

だからこそ、パウロはこう語りました。

私たちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。(20)

あなたはどうでしょうか。あなたは与える人でしょうか。それとも、ただ受けるだけの人でしょうか。

神様が私たちに惜しみなく与えてくださったものを、私たちもまた、周りの人々と分かち合っていくように。

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ピリピ人への手紙

満足さの秘訣

私たちは電子レンジのような社会に生きています。今すぐに欲しいものを受け取りたいと願い、それがかなわないと、不平を言い始めてしまいます。

けれども、私たちはそのような態度を取るべきでしょうか。

パウロは決してそのような態度を取りませんでした。ピリピ人たちの気前のよさに感謝を表すとき、彼はこう語りました。

乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。

満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。(ピリピ人への手紙4:11-13)

「ありとあらゆる境遇に秘訣を心得ています。」

では、パウロはどのような秘訣を学んだのでしょうか。実のところ、彼はその中身を具体的には述べていません。2017年版の新改訳では、「ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」と記されています。

一方、第3版では、こう訳されています。「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」

実際、多くの英語訳聖書でも、パウロの言葉はそのように訳されています。

「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」

私たちも、そう言えるでしょうか。

パウロは乏しいときにも、満ち足りていました。富んでいるときにも、満ち足りていました。

乏しいときに満ち足りることを学ぶべきだということは、比較的理解しやすいかもしれません。でも、なぜ富んでいるときにも、満ち足りることを学ばなければならないのでしょうか。

もしかすると、あなたは必要なもの以上にすでに持っているかもしれません。それでも、まだ欲しいものがあって、不平を口にすることはないでしょうか。

なぜ私たちはそのようにしてしまうのでしょうか。たとえ多くのものを持っていても、なぜ満ち足りることはそんなにも難しいのでしょうか。

おそらく、それは私たちが非常に自己中心だからです。多くのクリスチャンもまた、なお自己中心にとらわれています。

彼らは自分の必要や欲望についてよく考えます。しかし、そうしたものにばかり心を向けるあまり、本当に満ち足りることができるお方のことを忘れてしまうのです──それは、イエス様です。

イエス様との関係こそが、真の満ち足りる秘訣です。すなわち、私たちはイエス様を知り、また、イエス様の復活の力を知ることなのです。

たとえさまざまな試練や苦しみを経験していても、私たちは日ごとに鏡をのぞく中で、自分のうちにイエス様の姿がだんだん映されているのを見ることができます。そしてまた日々、神様がなぜ私たちを選んでくださったのか、その理由が少しずつ分かるようになるのです。

パウロはそのすべてを完全に経験したわけではありませんが、おそらく多くの人々よりも深くそれをつかんでいたのでしょう。

だからこそ、試練の中にあっても、彼の喜びは奪われませんでした。物が乏しいときにも、イエス様にあって喜び、豊かなときにも、イエス様にあって喜んでいたのです。

日本では、「我慢」という言葉がよく語られます。苦しいときに耐え忍ぶことを、美徳として誇る傾向があります。しかし、私たちはしばしば自分の力に頼ってしまうために、結局のところ、もう耐えられないという限界に達してしまうのです。

けれども、パウロはただ「我慢」していたのではありません。彼はイエス様との関係を喜んでいました。だからこそ、どのような試練にあっても、パウロはそれを乗り越える力を持っていたのです。

あなたは、どうでしょうか。あなたの心には、満ち足りる思いがあるでしょうか。イエス様は、あなたの人生の中心におられるでしょうか。あるいは、満足を求めて、世のものばかりを追いかけてはいないでしょうか。

世のものは、あなたを本当には満たすことができません。イエス様との関係だけが、あなたの心に真の満足を与えるのです。

あなたの人生の中心は、いったい何でしょうか。

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ピリピ人への手紙

神の平安に生き、人との関係に平和をもたらす

前回の記事でも触れましたが、この箇所においては、パウロの議論の流れを読み取るのが少し難しく感じられます。

特に、第5〜6節は、理解が難しい部分です。

「主は近いのです。」という言葉は、「あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。」という勧めに繋がっているのでしょうか。

それとも、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」という命令に繋がっているのでしょうか。

あるいは、この三つの言葉はすべて互いに繋がっているのかもしれません。「主が近い」という真理は、私たちの心のうちにも、私たちの関係にも、平和をもたらします。

いずれにしても、パウロはこう語りました

主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ人への手紙4:5b-7)

多くの場合、私たちは心配に負けてしまいます。たとえば、ユウオディアとシンティケのように、人間関係に問題があるとき、心配に陥りやすくなります。でも、それだけではなく、仕事や子ども、将来のことなど、私たちの心配はさまざまです。

そのような不安に圧倒されてしまうのは、決して珍しいことではありません。

では、どうすればよいのでしょうか。

「主が近い」という真理を覚えていましょう。私たちが問題や心配のただ中にあるときにも、主がともにおられることを、心に留めていましょう。イエス様があなたを深く愛しておられることを、忘れないでください。

さらにもう一つの意味で、主は「近い」のです。つまり、主はまもなく再び来られます。

その日、イエス様はあなたの涙をすべてぬぐい取ってくださいます。悲しみも、苦しみも、悩みも、すべて消え去り、私たちは永遠の平安のうちに歩むようになるのです。言い換えれば、私たちのすべての苦しみは一時的なものに過ぎません。

だから、パウロが語ったように、「何も思い煩わないでください」。むしろ、問題や心配に直面するときこそ、あなたを愛しておられる神様に祈りましょう。そうすれば、神様の平和があなたの心と思いを守ってくださいます。」

原語で「守る」と訳されている言葉は、軍事的な用語です。私たちの思いの中は、まさに戦場です。しかし、神様はどんな敵よりも強い方です。

私はエリシャの出来事を思い出します。彼が敵の軍隊に包囲されたとき、エリシャのしもべは恐れていました。それを見て、エリシャは、「神様、彼の目を開いてください」と祈ります。すると、しもべが再び目を上げたとき、彼は天の万軍に満ちた山を見るのです(列王記第二6章)。

エリシャは、その現実を見ていたからこそ、心に平安を保っていました。

けれども、私たちが心配に心をとらわれ続けるなら、その平安を味わうことはできません。

また、苦々しさや恨みを抱くなら、心は平和に満たされません。

だから、パウロはこう勧めています

最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。(8)

そうすれば、私たちの心は平安に満たされ、神様は私たちの関係の中に平和をもたらしてくださいます。 人間関係に問題があるとき、私たちはしばしば相手の欠点に目を向け、彼らの過ちを思い巡らします。

しかし、パウロは「そのようなことに心を奪われてはならない」と語ります。

むしろ、パウロはこう勧めます── 「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いこと、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。」

何よりも、イエス様に心を向けてください。なぜなら、これらのすべての徳はイエス様にこそ当てはまるからです。

苦しみの時こそ、イエス様とパウロの模範に従いましょう。

そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。(9)

あなたの心には、神様の平安がありますか。もしかすると、あなたの心は、心配にとらわれ続けていませんか。あるいは、苦々しさや恨みを手放すことができずにいませんか。

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ピリピ人への手紙

教会の一致を保つ(2)

パウロの議論の流れを読み取るのは、時に簡単ではありません。たとえば、第3節と第4節は、まったく異なる話題なのでしょうか?

あるいは、第3〜5節はひとつの流れの中にあるのでしょうか?

もしかすると、第3〜9節全体が繋がっているのかもしれません。

私にははっきりとはわかりませんが、おそらくパウロは、第4〜5節を書いたときも、まだユウオディアとシンティケのことを心に留めていたのではないかと思います。

そしてパウロは、こう語りました

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。(ピリピ人への手紙4:4-5)

要するに、こういうことです──

「神様に焦点を当てなさい。これまであなたがたは自分自身に焦点を当ててきたために、プライドを捨てられず、この争いを解決することができなかったのです。だから、今こそ改めて神様に焦点を当てなさい。

イエス様があなたのために何をしてくださったかを思い起こしなさい。イエス様の十字架の御業を、もう一度、喜びなさい。

そして、イエス様の御業のゆえに、相手に対するあなたの態度を変えなさい。あなたがたの関係の中で、あなたがたの寛容が教会のすべての人に知られるようにしなさい。」

そしてパウロは、こう語ります。「主は近いのです。」

私たちは兄弟姉妹と争っているときこそ、この真理を思い起こすべきです──「主は近いのです。」

では、それはどういう意味なのでしょうか。

1.イエス様は、教会のただ中におられます。だから、私たちが争っている姿をご覧になると、イエス様は悲しまれます。神様との平和をもたらすために、そして兄弟姉妹との平和をもたらすために、イエス様はご自身のいのちを十字架に捧げられたのです。

であれば、どうして私たちは、イエス様の御前で争い続けるのでしょうか。

2.イエス様は、やがて再び来られます。イエス様はこの世に戻られ、私たちを新しい天と新しい地へと導かれます。けれども、もしイエス様が今日来られたとしたら、あなたに何を語られるでしょうか。「よくやった。良い忠実なしもべだ」とおっしゃるでしょうか。

あるいは、こう語られるかもしれません。

「なぜ、兄弟と争い、時間を無駄にしていたのですか。なぜ、姉妹と争い、心を苦くしていたのですか。私はあなたに多くの働きを任せましたが、あなたの怒りと苦々しさは、あなたの人間関係をふさぎ、この世に仕える妨げとなってしまいました。」

私たちが主の御前に立つとき、プライドと争いによって、どれほど恥じることがあるでしょうか。

主は近いのです。だから、私たちの関係において、平和を保ち、一致のために励みましょう。

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ピリピ人への手紙

教会の一致を保つ

パウロはこの手紙を書いていたとき、ユウオディアとシンティケの対立について、どれほど心を痛めていたことでしょうか。

彼女たちはかつて、パウロと共に福音のために働いた者たちであり、彼にとって愛する、かけがえのない姉妹でした。

しかし、この手紙を書いたとき、その二人の女性たちは争っていました。なぜ彼女たちが争っていたのか、私たちは知りません。

けれども、パウロは「ユウオディア、あなたが悪い。謝りなさい」とは言わず、「シンティケ、あなたが悪い。謝りなさい」とも言いませんでした。

むしろ、パウロはこう語りました。

ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。(ピリピ人への手紙4:2)

この手紙を通して一貫して語られている主題の一つは、教会の一致です。だからこそ、パウロはピリピの人々にこう語りました。

「あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにして、ともに戦っていなさい。」(1:27)

そしてパウロは、さらにこう語ります。

あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。。。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。(2:2、5)

また、

すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。(2:14-16)

そして、第3章では、パウロは彼らにこう語りました。「自分の立場や実績に対するプライドを捨てて、イエス様に心を向けなさい。イエス様を知ることを、あなたの目当てとしなさい。あなたがたは御国の市民なのだから、そのように生きなさい。」

このように多くのことを語った上で、パウロはユウオディアとシンティケにこう勧めました。

「あなたがたのプライドを捨てなさい。争いを手放しなさい。互いに受け入れ合いなさい。そして、もう一度、福音のために力を合わせて仕えなさい。」

もしパウロが今日のクリスチャンたちを見たとしたら、私たちにもきっと同じ言葉を語ったのではないでしょうか。

今もなお、多くのクリスチャンたちは主を愛し、イエス様に仕えたいと願っていながら、自分のプライドのゆえに、他のクリスチャンたちと争っています。

私もパウロの痛みに共感します。なぜなら、私自身も教会の中で、そうした分裂を目の当たりにしてきたからです。

このような問題を見たとき、私たちはただ黙って見過ごし、状況が悪化するのを許すことはできません。パウロはこう語りました

そうです、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。この人たちは、いのちの書に名が記されているクレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、福音のために私と一緒に戦ったのです。(4:3)

その「真の協力者」がだれだったか分かりませんけど、パウロはその人に言いました。「この二人の姉妹たちが和解するように助けてください。どうか、何とかしてください。」

でも、和解をもたらさずに、多くのクリスチャンたちは、二つに分かれてしまいます。または、あるクリスチャンたちはそのことについて噂を広めます。でも、教会の一致を保ちたいと思うなら、そんなことをしてはいけません。

むしろ、パウロは私たちにこう言います。

平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。(エペソ4:3)

あなたは、そのように歩んでいるでしょうか。

それとも、自分のプライドのせいで、相手と和解することを拒んでいるでしょうか。たとえ相手があなたを傷つけたとしても、あるいはあなたが相手を傷つけたとしても、できる限り和解を目指すべきです。

兄弟姉妹が争っているとき、あなたは平和をもたらそうとしているでしょうか。それとも、片方の味方についてしまっているでしょうか。

あいにく、多くの人は争いを解決しようとしません。むしろ、争いを放置した結果、やがてそれが爆発し、当事者の一人、あるいは両者ともが教会を離れてしまうのです。しかし、そのような結果が、イエス様に栄誉を帰すものでしょうか。

教会はイエス様に栄光を現し、この世にイエス様がどのようなお方であるかを示すべき存在です。けれども、教会の中に亀裂があれば、私たちはその使命を果たすことができません。

あなたは、教会に生じたその亀裂の一つとなっているでしょうか。それとも、もしかしたら、その亀裂を修復する者なのでしょうか。

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ピリピ人への手紙

御国の市民として歩む

私が以前述べたように、ピリピ人たちはローマ市民であることを、大きな誇りとしていました。

現代においても、多くの人々は自分の国籍に誇りを持っています。

しかし、今日の箇所において、パウロは私たちに私たちの本当の国籍を思い出させてくれます。

しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。(ピリピ人への手紙3:20)

そしてパウロは、私たちに、キリストにあって与えられている私たちの運命を思い出させてくれます。

キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。(3:21)

簡単に言えば、この世は私たちの本当の家ではありません。そして、私たちの運命は、死んで朽ち果てることでもありません。むしろ、私たちには、はるかに素晴らしい運命が与えられています。

だから、パウロはこう言いました。

兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。(3:17)

パウロは、自分の模範だけでなく、テモテやエパフロデトの模範についても語っていました。そして彼は、ピリピ人たちにこう言いました。「私たちの模範に従いなさい。私たちは自己中心ではなく、キリスト中心です。あなたがたも、そのような態度を取るべきです。」

そのような態度は、ピリピのクリスチャンたちの周囲の人々とは、まったく異なるものでした。

そして今日、私たちの周囲の人々も、決してそのような態度を取ってはいません。むしろ、

多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいる。。。その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。(3:18-19)

そのような人々は自己中心であり、この世のものを求めています。けれども、彼らの結末は滅びです。

イエス様が私たちを救ってくださったのは、そのような生き方をするためではありません。むしろ、イエス様を知り、イエス様のように変えられていくためなのです。そして、イエス様が私たちのうちに住み、導いてくださるにつれて、私たちは本当の命を知るようになります。

また、私たち皆、すなわちキリストの教会は、御国の市民として歩むにつれて、この世にイエス様の光を放つようになります。

だから、パウロはこの教えをこのように締めくくります。

ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。(4:1)

あなたは、そのような生き方をしているでしょうか。自分自身やこの世のものに心を奪われず、キリストを中心とした生き方をしているでしょうか。

あなたの最も深い願いは、イエス様を知ることですか。周囲の人々があなたの人生を見るとき、イエス様をあがめるようになることを、あなたは願っていますか。

そのような生き方こそが、真の喜びと真の命へと導きます。けれども、もし自己中心の態度を持ち続けるならば、真の喜びと命を見出すことはできません。

あなたがクリスチャンであるならば、あなたは御国の市民です。あなたは御国の市民として、ふさわしく歩んでいますか。

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ピリピ人への手紙

目標を目指して走ろう

私の人生を振り返ると、キリストに似る者となるために、私はどれほど変わらなければならないかを痛感します。

結婚すると、特にクリスチャンの男性たちは、その現実に気づかされるのではないでしょうか。教会に対するキリストの愛に比べると、妻に対する自分の愛の未熟さに気づかされるのです。

ですから、パウロが「私はまだ神の目的を成し遂げていない」と言うとき、私は深く共感します。

実際、自分の歩みを見つめると、落胆するのは簡単です。

けれども、私はパウロの言葉にしがみついています。

私は、(つまり、キリストの義や、キリストの復活の力などを)すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。(ピリピ人への手紙3:12)

パウロの次の言葉も、私は好きです。

そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。(12b)

ある英語の翻訳が、私は好きです。「キリストは、私を捕らえ、自分のものにしました。」

そのことを聞いて、私は慰められます。なぜなら、私はキリストに受け入れられるために努力する必要がないからです。イエス様はすでに私を御自分のものとされました。私はイエス様に属しています。だから、たとえ私が失敗しても、イエス様が私を拒絶する恐れはありません。

だからこそ、私は前に進もうと励みます。神様に受け入れられるためではなく、すでに私がキリストにあって持っているものを、実際に経験するためです。すなわち、イエス様の義、イエス様の苦しみ、イエス様の死、そしてイエス様の復活です。

その中でも、とりわけ私はイエス様との関係を経験したいのです。イエス様が私を知っておられるほどに、私もイエス様を知りたいのです。

だから私は、たとえ失敗しても、つまずいても、パウロのように言うことができます。

兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。

ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。(13-14)

私は、自分の失敗をくよくよしたくありません。そうすると、絶望してしまうからです。

かといって、自分の勝利を祝いすぎたくもありません。そうすると、自己満足に陥ってしまうからです。

むしろ私は、毎日「賞」に照準を合わせて、走りたいのです。毎日、神様が備えてくださったことを正しく理解し、私のための神様の計画に従って生きたいのです。

パウロによれば、私たち皆がそのように考えるべきなのです。

ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。

もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。(15-16)

あなたは、自分が大人だと思っているかもしれません。しかし、あなたはまだ成長の途中にあります。だから、走り続けましょう。

あなたは、自分が失敗者だと思っているかもしれません。しかし、神様はすでにあなたをご自分のものとして受け入れてくださいました。だから、走り続けましょう。

今、あなたがどこにいたとしても、決して後戻りしてはいけません。

むしろ、すでに到達したところを基準として、さらに前へ進むべきです。そして、自分の力ではなく、あなたのうちに住んでおられる聖霊様の力によって、走り続けましょう。

あなたは、そのように歩んでいますか。

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ピリピ人への手紙

キリストの模範に従う(2)

数日前、私は「イエス様の模範に従うこと」についてお話ししました。

ピリピ人への手紙3章では、パウロは自分自身について語っていますが、2章の内容を踏まえて読むとき、彼の言葉をまったく別の視点から見ることができるように思います。

そこで、パウロの言葉に耳を傾けてみましょう。

「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。」(ピリピ人への手紙3:7)

クリスチャンになる前、パウロは自分がユダヤ人であること、 そしてパリサイ人であることを誇っていました。

また、彼は律法を忠実に守ろうとする努力そのものを誇りとしていたのです。

しかし、クリスチャンとなったとき、パウロはキリストのゆえに、そのような誇りをすべて捨てました。

それだけではなく、イエス様との関係と比べて、パウロはこの世のすべてのものを、価値のないものと見なしたのです。

イエス様を得、イエス様の義に包まれたいという願いのために、 彼はそれらを「ちりあくた」と見なしました(3:8〜9)。

そして、パウロの主な願いは、イエス様とその復活の力を知り、 イエス様の苦しみにあずかり、キリストの死と同じ状態にまで達することでした。

最終的には、イエス様と共に復活させられることを熱く望んでいたのです(3:10)。

それと同じように、イエス様もまた、私たちのために、ご自身にとって益であったすべてのものを、損と見なされました。

私たちとの関係と比べると、イエス様は、天にあるご自身の栄光さえも、価値のないものとされたのです。

私たちを得て、ご自身の義によって私たちを包むために、イエス様は、天のすべてのものを“ちりあくた”と見なされたのです。

イエス様の望みは、私たちがイエス様とその復活の力を知り、 イエス様の苦しみにあずかり、イエス様の死と同じ姿にあずかって、ついには栄光のうちに復活することです。

そのゆえに、イエス様は十字架へと進み、苦しみを受けられました。

それならば、私たちもイエス様のために、同じ道を歩むべきではないでしょうか。イエス様が私たちのためにすべてを捨てられたのだから、私たちもまた、イエス様のためにすべてをささげるべきではないでしょうか。

さあ、日々、イエス様の模範に従って歩みましょう。

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ピリピ人への手紙

私たちの目当て

クリスチャンとして、私たちは間違ったものに心を奪われやすいものです。

たとえば、多くのクリスチャンが、仕事やお金、持ち物や結婚のことに心を向けています。これらはそれ自体として悪いものではありませんが、それらばかりに気を取られてしまうのは、実に簡単なことです。

また、ある人たちは「クリスチャンとしてのルール」や、「どうすれば「良い」クリスチャンになれるか」といったことにばかり集中してしまいます。そのようになれば、私たちはクリスチャン生活の本質を見失ってしまうかもしれません。

今日の箇所で、パウロはこの問題について、はっきりと私たちに警告しています。彼はピリピの人々にこう語ったのです。

犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。(ピリピ人への手紙3:2)

では、パウロは何について語っているのでしょうか。おそらく、彼はモーセの律法に従うことをピリピの信者たちに求めた、ユダヤ人のクリスチャンたちについて語っているのです。

彼らの主張によれば、クリスチャンとなるためには、ピリピの人々も割礼を受け、その他の律法の命令に従う必要があるというのです。

しかしパウロは、そうした人々を「犬ども」と呼びました。ユダヤ人社会において「犬」とは、異邦人をさげすむ言葉でした。 実際、当時ユダヤ人たちは異邦人を「犬」と呼んでいたのです。

けれどもパウロは、こう言い切ります。「異邦人たちではなく、あなたがたこそ犬どもです。」

そして彼は、さらに続けてこう語ります。

神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。(3)

旧約聖書では、神様は何回もイスラエルの民に語られました。 「肉体的な割礼よりも、あなたの心が割礼されるように望みます。」(申命記10:16、30:6;エレミヤ4:4)

実は、私たちがクリスチャンになるとき、私たちの心が割礼されます。聖霊の働きによって、私たちの心は神様のものになります。

エゼキエルはその真理をこのように説明しました。

あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。(エゼキエル書36:26)

ところが、あるユダヤ人のクリスチャンたちは、すべてのクリスチャンが割礼を受け、モーセの律法を完全に守らなければならないと主張していました。そのため彼らは、自らのユダヤ人としての身分に強くこだわり、律法によっていかに義とされるかに焦点を当てていたのです。

しかし、パウロはピリピの人々にこう語ります。「彼らの目指しているものは、根本的に間違っています。」

実を言えば、パウロ自身は彼ら以上に、ユダヤ人としての身分や、自分の行いによる義について誇ることができたのです(3:4〜6)。

けれども彼は、それを誇ることなく、次のように語ります。

しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。

私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。

私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。

私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。(9-11)

簡単に言えば、パウロはこう語っています。

「私は、もはや自分自身に集中していません。律法によってどうすれば義とされるかにも目を向けていません。宗教的なルールにこだわっているのでもありません。

それらすべてを、私は「ちりあくた」と考えています。(原語の表現では、「それらはフンにすぎない」という意味です。)

むしろ、私はただ一つのことに心を向けています——それは、イエス・キリストご自身です。」

イエス様をもっと深く知りたいのです。イエス様と一つに結ばれたいのです。

自分の義ではなく、イエス様から与えられる義を求めています。 なぜなら、私自身の義は、神様の目には到底ふさわしくないからです。

自分の力ではなく、イエス様の力を知りたいのです。イエス様の苦しみにあずかるほどに、主との交わりを深めたいのです。

私は、イエス様と共に死にたいのです。つまり、聖霊様の力によって、自分の罪深い心を十字架にかけたいのです。

私は、聖霊様の力によって、イエス様と共に復活し、新しいいのちを知りたいのです。

イエス様…イエス様…イエス様…イエス様。私のただひとつの目当ては、イエス様を知ることなのです。

多くのクリスチャンの問題は、イエス様にではなく、自分自身に集中してしまうところにあります。

その結果、彼らは疲れてしまいます。信仰が重荷になり、神様を喜ばせようとする努力がむなしく終わってしまう中で、イエス様への愛はだんだんと冷めていきます。

イエス様ではなく、ほかのものに心を奪われていたとしたら—— どうしてイエス様との愛の関係を築くことができるでしょうか。

あなたはどうでしょうか。今、あなたの心は何に向かっているでしょうか。

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ピリピ人への手紙

キリストの模範に従う

パウロは、ピリピの人々にイエス様の模範に従うべきことを語ったあと、その模範を具体的に生きている二人の人物を、例として挙げました。

まず、テモテについてパウロはこう語ります。

テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。

しかし、テモテが適任であることは、あなたがたが知っています。子が父に仕える仕えるように、テモテは私とともに福音のために奉仕してきました。(ピリピ人への手紙2:20-22)

その前に、パウロはピリピの人々にこう勧めていました。

それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。(4)

そして、パウロはピリピの人々にこう語ります。「テモテこそ、そのような人物です。多くの人々は自分自身のことに関心を向けて生きていますが、テモテは違います。

彼はイエス様の模範に従い、あなたがたのことを心から案じているのです。さらに、彼は福音のために、私と共に忠実に仕えてきました。」

その後、パウロはエパフロディトという人物を称えます。どうやらピリピの教会は、パウロの働きを助けるために、彼を遣わしたようです。

けれども、彼がパウロと共に仕えている間、重い病にかかり、死にかけるほどでした。

そこでパウロは、エパフロディトをピリピに帰らせる決断をします。

しかし、ピリピの人々が彼を「失敗者」として見ないようにと願い、パウロは彼を「私の兄弟、共に働く者、そして戦友」と呼びました。

さらに、パウロはこう語るのです。

ですから大きな喜びをもって、主にあって彼を迎えてください。また、彼のような人たちを尊敬しなさい。

彼はキリストの働きのために、死ぬばかりになりました。あなたがたが私に仕えることができなかった分を果たすため、いのちの危険を冒したのです。(29-30)

イエス様が、天の父のみこころに従ってご自身の命を喜んでささげられたように、エパフロディトもまた、そのように歩みました。

だからこそ、パウロはこう語ります。「エパフロディトのような人々を尊びなさい。あなたがたは、彼の模範に従うべきなのです。」

私たちもまた、彼のように歩むべきです。

では、あなたはどうでしょうか。あなたは、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みているでしょうか。それとも、気づかないうちに、自分の最善だけを求めて生きてしまってはいないでしょうか。

あなたは、自分自身のために生きているでしょうか。それとも、神のみこころに喜んで従い、自分のいのちさえ差し出す覚悟をもって歩んでいるでしょうか。

もちろん、神はあなたに、福音のために命をささげるように召しておられないかもしれません。けれども、もしかしたら、あなたに会社を辞めるように導かれることがあるかもしれません。あるいは、あなたを他国へ宣教師として遣わされることがあるかもしれません。

そのとき、あなたはどう応えるでしょうか。

テモテとエパフロディトの模範に従おうとするでしょうか。けれども、それ以上に、イエス様ご自身の模範に従おうとするでしょうか。

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ピリピ人への手紙

光として輝く

聖書に章と節があることは、ある意味では大きな助けです。そのおかげで、特定の聖書箇所をすばやく見つけることができます。

しかし一方で、章と節の番号が、著者の議論の流れを妨げてしまうこともあります。その番号のせいで、私たちは著者が新しい話題に移ったと勘違いしてしまうことがあるのです。

今日の箇所でも、そのような誤解が起こりうるかもしれません。

この記事を書き始めたとき、私は当初、2:12〜18の内容だけを取り上げようと考えていました。けれども、途中で気づいたのです。それだけを取り出して扱ってはいけない、と。

なぜなら、パウロはここでも前のテーマを続けて語っているからです。 つまり、私たちが「福音にふさわしく生活する」ということです。

そのときパウロが強調しているのは、私たちが「一致を保つこと」を通して、福音にふさわしく生きるということです。そして、その一致を保つために、私たちはイエス様の模範に従うべきなのです。

イエス様は、私たちを救うために、この世においてご自身の願いや必要を脇に置き、十字架の上でご自身の命をささげてくださいました。

そしてその真理を語ったあと、パウロはこう語ります。

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。

神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。(ピリピ人への手紙2:12-13)

多くの場合、私たちはこの言葉を読むとき、自分自身に当てはめて考えます。「私はそうするべきだ」と受け取るわけです。

けれども、パウロが語っているのは、教会という家族に対してです。

「あなたがたは、恐れおののきつつ、自分の救いを達成するよう努めなさい。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに志を立たせ、事を行わせてくださる方です。」

要するに、イエス様のいけにえによって、天の父は「あなたがた」に救いを与えてくださいました。だから、その救いを生かしましょう。神様は、今もあなたがたのうちに働いておられます。 神様は、御心にかなう志をあなたがたに与えてくださったのです。

それゆえに、教会として、あなたがたは神様の目的を果たすように歩むべきなのです。

けれども、もし私たちが絶えず争っているとすれば、その目的を全うすることはできません。

だからこそ、パウロは私たちにこう語るのです。

すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。

そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよすべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。

そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。(2:14-16)

教会の人々が互いに争っている姿を見れば、世の人々はこう思うかもしれません。「結局、クリスチャンも私たちと何も変わらない。」

けれども、もし彼らが、互いに愛し合い、仕え合う教会の姿を目にしたとき、また、不平を言わず、疑わずに喜んで歩んでいる人々を見たとき——そこに、輝く光があるのです。

すると、その人は心の中でこう思い始めます。「なぜ、クリスチャンは私とあんなにも違っているのだろう。私もあのような人になりたい。」

だからこそ、パウロはピリピの人々にこう語りました。「私の願いは、あなたがたが光として輝くことです。あなたがたがそのように歩むなら、私はキリストの御前に立つとき、喜びと誇りをもって、あなたがたが何者となったかを指し示すことができるのです。」

そしてパウロは、この箇所の締めくくりとして、彼らへの深い愛を語ります。

たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。(17)

要するに、パウロはこう語っているのです。

「あなたがたに仕えることは、私にとって重荷ではありません。 むしろ、あなたがたと同じように、私も自分の救いを達成するように努めているのです。そして、神があなたがたのうちに働いておられる姿を見るとき、私は心から喜びます。

ですから、福音のために私が牢に入っていることを悲しまないでください。むしろ、私と共に喜んでください。私たちが共に働き、喜び合うとき、この世界は私たちのうちにある光を見ることになるのです。」

あなたはどうでしょうか。これが、あなたの態度になっているでしょうか。神様があなたの中だけでなく、周りの兄弟姉妹の中でも確かに働いておられることを、あなたは見ているでしょうか。

あなたがたが協力し、一致をもって歩んでいる中で、神様がご自身の目的を果たしておられるのを見ているでしょうか。

あなたがたが共に光を輝かせているゆえに、人々はその良い行ないを目にし、天の父をあがめているでしょうか。

それとも、彼らがあなたがたを見るとき、常に争っている人々の姿を見ているのでしょうか。

私たち皆が、教会として、恐れおののきながら自分の救いを達成するよう努める者となりますように。そして、私たちを通して、周囲の人々が――彼らを愛し、彼らのためにご自身の命をささげられた主を知ることができますように。

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ピリピ人への手紙

福音のメッセージ

前回の記事では、私たちが「福音にふさわしく生活するべき」だということを学びました。でも、そもそも「福音」とは何でしょうか。

パウロは2章で、その福音をはっきりと語ります。福音は、イエス様ご自身についてのメッセージです。つまり、

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。(6-8)

少し想像してみてください。イエス様は、神のあり方そのものを持っておられました。けれども、こうは言いませんでした。 「私は天の父と御霊と等しくあられる存在なのに、なぜ私が地上へ行き、この反抗的でみじめな民のために死ななければならないのか。」

むしろ、イエス様はご自身を空しくされました。神として栄光にふさわしいお方であり、その栄光を実際に持っておられたにもかかわらず、その栄光を手放し、人となられたのです。

さらに、イエス様はこの世に来るとき、人間の王としてではなく、貧しい家庭にお生まれになり、大工として歩まれました。

それだけでなく、神としてイエス様にはご自身の思い通りに生きる権威がありましたが、そうはされませんでした。むしろ、畏れをもってしもべの姿を取り、天の父の御心に従われました。

そして、天の父が「この世のためにあなたが死ぬ時が来た」とおっしゃったとき、イエス様はこう応えられました。「わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」

なぜ、イエス様は天の父の御心に従われたのでしょうか。それは、イエス様が天の父を深く愛しておられたからです。

その愛ゆえに、イエス様はご自身がふさわしいとされるものを捨て、十字架の上で辱めを受け、命を捧げられました。

けれども——福音の物語は、そこでは終わらないのです。

パウロは、さらに続けてこう語ります。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。(ピリピ人への手紙2:9-11)

天の父は、イエス様をただ復活させられただけではなく、かしらとして、また支配者として、すべてのものの上に置かれました。

そしてある日、救われたすべての人々が、ひざまずいて礼拝し、 「イエス・キリストは主です」と喜びをもって告白する時が来ます。

その日、私たちは、しみやしわ、またそのようなものが何一つない、聖く、傷のない存在として完成された、栄光に満ちたひとつの教会となり、父なる神に栄光を帰すのです。

パウロは語ります——私たちはこの福音にふさわしく生活すべきなのです。イエス様が私たちのためにこれほどまでにしてくださったのなら、私たちがその模範に従って生きることは、まことにふさわしい応答ではないでしょうか。

だからこそ、パウロはこう語ったのです。

キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。(5)

私たちはイエス様と一つにされました。ですから、イエス様の模範に従って生きるべきではないでしょうか。たとえ周囲の人々が私たちを拒んだとしても、私たちはその人たちに対して、キリストの愛とあわれみをもって応えるべきです。

もし私たちが、やがて共にイエス様を主として礼拝する日が来るのだとすれば、今この時にも、互いに愛し合い、御国のために共に働くべきではないでしょうか。

さらに、私たちは自己中心的な思いを捨て、兄弟姉妹を自分よりもすぐれた者として敬い、イエス様が私たちのためにご自身の命を捨てられたように、兄弟姉妹のために自分の命をも差し出す者とされるべきです。

あなたはどうですか。あなたは、この福音を信じておられるでしょうか。そして、その福音によって、生かされているでしょうか。

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ピリピ人への手紙

福音にふさわしく生活する

今日のタイトル「福音にふさわしく生活する」と聞くと、どんなことを思い浮かべるでしょうか。自分の信仰を周囲の人に伝えることでしょうか。あるいは、清く正しい生活を送ることでしょうか。もちろん、私たちはそのように生きるべきです。

しかし、おそらくパウロがこの言葉を書いたとき、彼の心にあったのは別の視点だったのではないでしょうか。

彼はこう記しています。

ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。(ピリピ人への手紙1:27a)

おそらく、パウロが最も強調していたのは、他のどのことよりも「教会の一致」だったのではないでしょうか。

原語を見ると、「ふさわしく生活する」という表現には、「市民としてふさわしく生きる」という意味合いが含まれています。

ローマ帝国の中で、ピリピ人たちは高い市民権を持っている者たちでした。彼らには土地を所有する特権があり、特定の税金を免除される立場にもありました。そのため、ローマ市民としての地位に誇りを持っていたのです。

けれども、パウロは彼らにこう語りました。

「あなたがたはローマ帝国の市民であることに誇りを持っているかもしれない。しかしそれ以上に、神の御国の市民として誇りを持ちなさい。そして、御国の市民にふさわしく歩みなさい。その中で、他の市民たちと心を一つにして歩みを続けなさい。」

なぜ、そう生きるべきなのでしょうか。

そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。

あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。(27b-28a)

パウロはピリピの信徒たちにこう警告しました。「あなたがたに反対してくる者たちが、確かに現れます。」

だから、パウロは彼らにこう語ったのです。

あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。

かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、あなたがたは経験しているのです。(29-30)

その言葉は、どこか不思議に聞こえるかもしれません。「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。」

けれども、使徒たちはまさにそのように苦しみを受け止めていました。彼らは苦しみを、主のために喜ぶ機会と見なしていたのです。

たとえば、使徒の働き5章では、彼らは福音を語ったことのゆえに鞭で打たれましたが、それにもかかわらず喜びにあふれました。パウロもまた、苦しみの中にありながら、この手紙の中で喜びを語っています。

なぜ、パウロはそんな状況でも喜ぶことができたのでしょうか。

使徒たちは、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜び(ました)。(使徒5:41)

ですから、「福音にふさわしく生活する」ということの一つの意味は、イエス様のために苦しむことだと言えるでしょう。

ただ注目すべきなのは、私たちが個人として苦しむということ以上に、パウロはクリスチャンたちが共にその苦しみを経験するという点を語っていることです。

パウロによれば、信徒たちが霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにして共に戦い、そしてどんなことがあっても反対者たちに脅かされないとすれば、それは反対者にとっての「裁きのしるし」であり、ピリピの信徒たちにとっての「救いのしるし」なのです。

言い換えると、反対者たちはピリピの人々のイエス様に対する愛、そして彼らが互いに示している愛を目にし、そこに彼らが受けた命の実在を見いだします。そしてその命の現実に触れたとき、自分たちの心が死によって支配されていることに気づかされるのです。

では、反対者たちは具体的に何を見たのでしょうか。

キリストにあって励ましを受けている人たち。試練の中で愛の慰めを受けている人たち。御霊の導きと力によって歩んでいる人たち。敵に対しても愛とあわれみを示し、また、他のクリスチャンたちに対しても愛とあわれみに満ちている人たち。

同じ思いを持ち、同じ愛の心を抱いている人たち。心を合わせ、思いを一つにしている人たち。

利己的な思いや虚栄からではなく、謙遜をもって歩んでいる人たち。互いを自分より優れた者と思い、自分のことだけでなく、他の人のことも顧みている人たち。(ピリピ人への手紙2:1ー4)

これこそ、「福音にふさわしく生活する」ということなのです。

私たちは、そのように生きているでしょうか。個々のクリスチャンとしてだけでなく、教会として、共にその姿を現しているでしょうか。

もし、教会の人たちが単なる個々のクリスチャンとして、それぞれ自分のために仕えるなら、教会はこの世に大きな影響を与えることはできないでしょう。

だからこそ、自分を「単なる個人の信者」としてではなく、 「御国の市民」として生き始めましょう。互いに愛し合い、仕え合っていきましょう。

十字架で死なれる前、イエス様はこう祈られました。

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。

父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。。。

わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。(ヨハネ17:20-21、23)

その祈りを、いつも心に刻んで歩んでいきましょう。

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ピリピ人への手紙

イエス様があがめられるように

私にとって、死はまだ遠い将来のことのように思えます。

一方で、パウロがこの手紙を書いたとき、彼は自分がすぐに殺されるかもしれないと感じていました。裁判でネロが彼を釈放するだろうという確信は持っていたものの、それは決して確実ではありませんでした。

だから、パウロはこう言ったのです。

私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。(ピリピ人への手紙1:20)

生き続けようと、処刑されようと、パウロは平然としていました。パウロにとって何よりも大切だったのは、自分が生きていても、死んでも、キリストがあがめられることでした。

そのために、彼は生きている間、自らの人生を通してキリストに栄光を帰すよう努めていました。また、たとえ自分が死ぬとしても、その死によって神様に栄光をおささげしたいと願っていたのです。

私たちもまた、そのような姿勢を持つべきです。日々、私たちはキリストの栄光のために生きるよう招かれています。

それでも、その考えがまったく思い浮かばない日も少なくありません。むしろ、私たちは仕事や日常のこと、悩みばかりに心を奪われがちです。この世のことにばかり焦点を当てると、イエス様に関する思いは自然と遠のいてしまいます。

けれども、私たちはそのように生きるべきではありません。むしろ、私たちはパウロのような姿勢を取るべきなのです。

私にとって生きることはキリスト(です)。(21a)

あなたは、それを自分の口で言えるでしょうか。あるいは、あなたは他の何かのために生きているのではないでしょうか。

もしかすると、あなたは自らの死に直面しているかもしれません。その時、あなたはどんな姿勢を持つでしょうか。パウロのように、あなたはこう言えるでしょうか。

死ぬことは益です。(21b)

この世に生かされていることは神様の賜物であり、日々は私たちが神様に栄光を帰すための機会です。

それでも、パウロのように、あなたは天がはるかに良いところであると確信しているでしょうか。

そして、あなたもまた板挟みの思いを抱いているでしょうか。つまり、この世でイエス様に仕え、人々に触れたいと願う一方で、天においてイエス様と共にいたいという思いも持っているでしょうか。

もしかすると、あなたはこの人生にしがみつき、自分のために生きているのかもしれません。それゆえに、死を恐れているということはないでしょうか。

ところが、死を恐れる必要はありません。

自分のために生きることをやめ、イエス様を信じてください。

あなたの罪の赦しのために、イエス様は十字架で死んでくださいました。しかし、それだけではなく、イエス様は死に打ち勝ち、力強く復活されました。

そしてイエス様は、こう約束しておられます——「わたしが生き、あなたがたも生きることになる。」(ヨハネ14:19)

あなたの人生をイエス様にささげるなら、あなたは本当のいのちを知ることができます。

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ピリピ人への手紙

喜ぶことを選ぶ

パウロは福音のためにさまざまな困難を経験したので、もし彼が愚痴をこぼしていたとしても、驚くには値しないでしょう。

もしかすると、弱さの中で、彼はぼやいたこともあったかもしれません。しかし、パウロに関する記録や彼自身の手紙の中で、彼が不平を言ったという描写は見当たりません。むしろ、彼は喜んでいました。

主から与えられる喜びは、本当に不思議なものです。その喜びは状況に左右されるものではなく、神様との関係から生まれる実なのです。だからこそ、どのような状況にあっても、その喜びは私たちの心の奥から湧きあがってきます。

使徒の働き16章には、その一例が描かれています。パウロとシラスは逮捕され、牢に投げ込まれました。彼らが鞭で打たれ、足かせにつながれたとき、彼らはどのように反応したでしょうか。 彼らは賛美歌を歌い、祈りをささげていたのです。

そして、ローマの牢でも、パウロは同じことをしていました。

親衛隊たちは、パウロを見るときっと驚いたことでしょう。多くの囚人たちは、うめいたり、文句を言ったり、絶望して静かに泣いたりしていました。

しかし、親衛隊の交代の時間になって、彼らがパウロを見ると、彼は彼らに明るく挨拶し、賛美歌を歌い、福音を語っていたのです。そのため、親衛隊の誰もが、パウロがただの囚人ではないことをすぐに悟りました(13)。

もしかすると、ある親衛隊たちはクリスチャンになったかもしれません。

さらに、牢の中でパウロが大胆に福音を語ったその模範によって、他のクリスチャンたちもまた、大胆に福音を語り始めました。

中には、「パウロが牢にいるのだから、私が頑張って、代わりに福音を伝えなくては」と思った人たちもいたことでしょう。

残念なことに、他の人々の動機はあまり純粋ではありませんでした。もしかすると、彼らはパウロの群れを奪おうとしていたのかもしれません。

しかし、人々の動機がどうであれ、パウロは喜んでいました。 なぜなら、サタンは福音の広がりを止めようとしましたが、それにもかかわらず福音は進み続けたからです。

少し考えてみてください。もしパウロが常に愚痴をこぼしていたとしたら、どうなっていたでしょうか。もし彼が「自分はかわいそうだ」と思っていたなら、どうなっていたでしょうか。

おそらく、彼は徐々に絶望に陥り、他のクリスチャンたちも落胆していたことでしょう。

けれども、パウロは喜びを選んだので、彼は試練を乗り越え、神様は栄光を受けられました。

あなたはどうでしょうか。どのような苦しみを通過しているでしょうか。どんな状況であっても、あなたはパウロのように「喜ぶこと」を選ぶでしょうか。それとも、「私かわいそうパーティー」を開いてしまうでしょうか。

もし私たちが喜ぶことを選ぶなら、その苦しみを乗り越え、神様は栄光をお受けになります。

しかし、文句ばかり言っていると、あなたは重たい足どりで絶望のぬかるみをさまようことになるでしょう。

あなたは、どちらを選びますか。

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ピリピ人への手紙

神様が私たちのうちで行っておられること

パウロはいろんな試練を経験していましたが、この手紙の中には、彼の喜びがあふれています。おそらく、パウロはこの手紙をローマの牢獄から書いたのでしょう。それにもかかわらず、私たちは何度も「喜び」や「喜ぶ」という言葉を目にします。

パウロが喜んでいたことの一つは、ピリピのクリスチャンたちの中に見られる神様の働きでした。ピリピの教会は、ヨーロッパで最初に生まれた教会です。

パウロがピリピを訪れたとき、リディアという裕福な女性に出会いました。彼女は神様を敬っていましたが、イエス様のことはまだ知りませんでした。しかし、パウロがリディアとその家族に福音を語ったとき、彼らは信じて救われました(使徒の働き16:11-15)。

けれども、ピリピでの宣教は平穏ではありませんでした。パウロはさまざまな困難に直面し、逮捕され、牢に入れられます。それでも、神様はその中で確かに働いておられました。看守とその家族までもが、パウロを通して救われたのです(使徒の働き16:16-40)。

それは、ピリピの教会にとっての原点でした。そして彼らは、パウロの宣教活動を経済的に支える教会のひとつとなったのです。

彼らが福音の働きに共に携わる中で、パウロは彼らの間にある神様の良い働きを見ることができました。だからこそ、パウロはこう書いたのです。

あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。(ピリピ人の手紙1:4-6)

キリストの福音の驚くべきことのひとつは、救いが最初から最後まで恵みによるものであるということです。

私たちがまだ神様のことを考えてもいなかったときに、神様は私たちを救うために手を伸ばしてくださいました。そして恵みによって、神様は私たちを罪という不潔な穴から引き上げ、十字架で流されたイエス様の血によって清めてくださったのです。

しかし、救いはそれだけでは終わりません。神様は「あなたを清めましたよ。あとは自分の力で頑張ってね」と告げて私たちを放っておかれることはありません。

むしろ、今もなお、神様は私たちのうちで働いておられます。 そして、イエス様がこの世に戻られるその日まで、神様は私たちのうちで働き続けてくださるのです。その日、イエス様は私たちを完成へと導いてくださいます。

では、神様はどのように私たちのうちで働かれるのでしょうか。 パウロが私たちにそのことを教えてくれています。

私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。

こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。(9-11)

パウロが祈っているのは、愛の実、つまり、神様に対する愛と人々に対する愛が、私たちの人生に豊かに実ることです。

では、その実はどのように成長するのでしょうか。それは、私たちが神様とその愛の素晴らしさを深く知れば知るほど、愛もまた大きく咲き広がるからです。神様への愛も、隣人への愛も、共に成長していきます。

このようにして愛の実を結び始めるとき、私たちは神様のご計画を少しずつ知るようになります。そのとき、私たちは「良い」だけでなく、「最も良いもの」を選び取るようになります。そして私たちの人生には、神様の義の実が次々と結ばれていくのです。

けれども、ここでパウロの言葉に目を向けましょう。その義の実は、私たち自身の努力によって結ばれるわけではありません。 私たちはイエス様に繋がっていなければならないのです。だからこそ、イエス様はこう言われました。

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(ヨハネ15:5)

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

第一に、自分の罪を見ても、落胆しないでください。神様はあなたのうちに良い働きを始めてくださいました。その働きは十字架において始まりました。そして神様があなたを呼ばれたとき、あなたはその御声に応えて神様のもとに来ました。

それだけではありません。あなたが完成へと導かれるその日まで、神様は絶えず働き続けてくださいます。

第二に、私たちはイエス様に繋がるべきだということです。それこそが、あなたの人生が変わる鍵です。その鍵とは、あなたの努力や自制だけではありません。その鍵とは、イエス様があなたのうちに住んでおられるという事実なのです。

そして、イエス様の働きによって、神様の栄光はあなたの人生に現れ、あなたは真の喜びを知るのです。

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エペソ人への手紙

一致して祈り合う

エペソ人への手紙についての最後の記事を書くにあたって、 あらためて、この手紙の中心的なテーマを皆さんに思い起こしていただきたいと思います。

――そうです、もう覚えておられるでしょう。 そのテーマは、「一致」です。

パウロは、霊的な戦いについて語り、 私たちがどんな武具を身につけるべきかを教えました。

そしてその直後、パウロはこう語っています

あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。

また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。

宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。(エペソ人への手紙6:18-20)

もちろん、私たちは神様の武具を身につけるべきですが、 その力がどこから来るのかを忘れてはなりません。 その力は、私たち自身からではなく、神様から来るのです。

ですから、私たちはあらゆる祈りと願いをもって、 どんなときにも御霊によって祈るべきです。

では、「御霊によって祈る」とはどういう意味でしょうか。 それは、御霊の導きに従って祈るということです。 祈りの初めに、 「今日、どう祈ればよいでしょうか」と御霊に尋ねるのが良いでしょう。

しかし、多くの場合、私たちは自分の思いだけで祈ってしまいます。 そのため、神様がどのように祈ってほしいかを知らずに終えてしまうのです。

ですから、祈るときには、 聖霊様の導きに心を向けましょう。 聖霊様の祈りを、あなた自身の祈りとしましょう。

良い時にも、悪い時にも、祈りましょう。

あらゆる祈りをもって祈りましょう。 感謝の祈り。賛美の祈り。罪の告白の祈り。 そして、自分自身の必要のためにも祈りましょう。

また、共に立って祈りましょう。 もう一度言います。私たちは一人で この霊的な戦いを戦ってはならないのです。 この戦いのただ中で、私たちは「一致」を守らなければなりません。 だからこそ、互いのために祈り合いましょう。 そして、ともに祈りましょう。

特に、この霊的な戦いの最前線に立つ人々のために祈るべきです。 すなわち、福音を宣べ伝える者たちのために祈りましょう。

神様が彼らにふさわしい言葉を与えてくださるように祈りましょう。 御霊によって、彼らに力が与えられるように祈りましょう。 そして、その語られる言葉を通して、多くの人々の心が変えられるように祈りましょう。

もしあなたが今、最前線で戦っているのなら、 あなたは決して一人ではないことを忘れないでください。 パウロのように、ほかのクリスチャンたちの祈りを求めてください。

自分の経験や思いを分かち合ってください。 自分だけで頑張る必要はありません。 私たちは互いになくてはならない存在なのです。

ですから、あなたがどこにいても―― 共に立ちましょう。 そのとき、私たちは勝利を得るのです。

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エペソ人への手紙

私たちの武具

前回の記事で私は言いましたが、 私たちは霊的な戦いを人間的な武器で戦うのではありません。 つまり、銃や政治、議論などに頼るのではないということです。

誤解しないでください。 私は、政治や議論を用いること自体が悪いとか、 それらの武器を絶対に使ってはならないと言っているのではありません。 実際、パウロ自身も政治家や哲学者と対話する中で、 そうした道具を用いたのです。

けれども、それらの武器“だけ”では、霊的な戦いに勝つことはできません。

攻撃を受けるとき、私たちが堅く立つためには、 神様の武具が必要です。

その武具は、何から成り立っているのでしょうか。

1つ目は、真理の帯です(14a)。 私たちは常に真理を語る者であるべきです。 私たちは正直な人として知られるべきなのです。 私たちの周囲で、人の嘘やサタンの偽りが語られるとき、 私たちは神様の真理を口にすべきです。

偽善者や信仰を軽んじる人々を見ることがあるかもしれません。 けれども、私たちは自らの誠実さによって知られるべきです。 預言者ダニエルとその友人たちはまさにそのような人々でした。 (ダニエル書1章〜6章)

そして、私たちの心を守るために、正義の胸当てを着けるべきです(14b)。 罪を犯すと、私たちの心は汚れ、弱くなってしまいます。 ですから、たとえ責められても、私たちは誘惑に屈してはならないのです。

ダニエルとその友人たちは、幾度となく責められました。 けれども彼らは、自らの信仰を決して汚すことなく、正しい行いを貫きました。

また、私たちは攻撃されても、仕返しを求めてはなりません。 むしろ、私たちはペテロの言葉に従うべきです。

ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。(第一ペテロ4:19)

そして、足には、平和の福音の備えを履くべきです(15)。

どこに行くときでも、私たちは神様の平和によって安心すべきです。 なぜなら、たとえどのような試練に直面し、たとえ死に至るとしても、 私たちは救いの確信を持っているからです。

また、私たちは周りの人々にも神様の平和を知ってもらうために、 その福音を彼らに伝えるべきです。

さらに、信仰の盾を取るべきです(16)。 そうすれば、サタンが疑いの火矢を放つときに、 私たちはその火矢を消し去ることができます。

困難のとき、あるいは迫害のとき、 私たちが神様を疑いたくなるのは自然なことです。 「神様、あなたは本当にここにおられるのですか? なぜ、こんな問題をお許しになるのですか?」

けれども、私たちは、神様が今なおこの世界を支配しておられ、 最終的に私たちに報いを与えてくださることを信じることで、安心すべきなのです。

そして、私たちは救いのかぶとをかぶるべきです(17a)。 私たちの内に住んでおられる御霊によって、 私たちの思いは日々新しくされるべきです。 御霊とともに歩む中で、私たちの心と生活は、 少しずつ変えられていくはずです。

最後に、私たちは御霊の剣、すなわち神様のみ言葉を手に取るべきです(17b)。 それは、私たちに与えられたただ一つの攻撃的な武器です。

サタンが荒野でイエス様を試みたとき、 イエス様はいつもサタンの偽りに対して、 神様のみ言葉を用いて応戦されました。

神様のみ言葉によって、私たちは真理を知ることができます。 そのみ言葉と、聖霊の力によって、 神様は私たちの思いや生活を造り変えてくださいます。

また、人々が福音の光を見るために、 神様のみ言葉は彼らの心を深く貫きます。

ですから、私たちが神様のみ言葉をよく知っていることは非常に大切なのです。 あなたは、そのみ言葉をどれほど深く知っているでしょうか。

そして、あなたは日々、神様の武具を身につけているでしょうか。 もしかすると、サタンの攻撃を受けると、すぐに倒れてしまうかもしれません。

この暗闇の世界にあって、 あなたは堅く立つ備えができているでしょうか。

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エペソ人への手紙

共に立ち、サタンに対抗する

私たちは敵国に住んでいます。 あなたがそれを知っているかどうかは分かりません。 でも、それは真実です。

パウロはこう言います。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ人の手紙6:12)

「この暗闇の世界。」 言い換えれば、「敵が支配しているこの世界。」

けれども、その敵は人間ではありません。 それらは霊的な存在、すなわちサタンや悪霊たちです。 彼らはこの世界を支配しています。 だからこそ、この世界は“暗闇の世界”なのです。

その現実は、私たちにもはっきりと見えてきます。 人々の道徳は次第に崩れてきています。 かつて善とされたことが、今では悪と見なされ、 逆に、かつて悪とされたことが、今では善と見なされています。

このような状況について、預言者イザヤは語りました

わざわいだ。悪を善、善を悪と言う者たち。彼らは闇を光、光を闇とし、苦みを甘み、甘みを苦みとする。(イザヤ書5:20)

パウロもまた、同様のことを語りました。

というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め(ます)。(第2テモテ4:3)

そのときは、すでに来ています。 それこそが、今私たちが生きている世界です。 だからこそ、パウロは私たちに訓戒を与えるのです。

ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。(エペソ人への手紙6:13)

「邪悪な日」とは、どういう意味でしょうか。 おそらく、パウロは迫害について語っているのでしょう。

ある時、人々はもはやキリスト教を受け入れなくなります。 アメリカでは、実際に迫害を受けているクリスチャンたちがいます。 カナダでは、「憎悪犯罪法」によって、ラジオ番組やYouTubeなどで クリスチャンたちの声が検閲されることもあるのです。

では、クリスチャンたちはどのように戦うべきでしょうか。

私たちは、自分の力で戦うのではありません。 パウロはこう語っています。

主にあって、その大能の力によって強められなさい。(10)

私たちは、銃や政治、議論、その他の人間的な武器に頼ってはなりません。 むしろ、パウロはこう語ります。

悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。(11)

私はもう一度言います。 私たちは人間と戦っているのではありません。 私たちは、この暗闇の世界の霊的な力と戦っているのです。

そして、もう一つのことを改めて強調したいと思います。 パウロは個々のクリスチャンに対して語っているのではなく、 教会全体に語りかけています。

もちろん、個々のクリスチャンも神の武具を身につけ、 悪魔の策略に立ち向かうべきです。 しかし、それは教会の一人ひとりが協力して行うべきことなのです。

パウロの言葉を言い換えると、こうなります―― 「皆さん。あなたがた全員が、悪魔の策略に立ち向かうことができるように、 神のすべての武具を身につけなさい。」

イエス様はこう言われました。

どんな国でも内輪もめしたら荒れすたれ、家も内輪で争えば倒れます。(ルカ11:17)

もし教会が内輪で争っているなら、 サタンに対して堅く立つことはできません。 だからこそ、「一致」というテーマはこの箇所でも極めて重要なのです。

神様は、私たちをキリストのもとに一つとされました。 けれども、サタンは私たちを分裂させようとします。 内輪で争っている教会は、団結している教会よりも、 はるかに壊れやすいのです。

同じように、一人で立っているクリスチャンは、 支え合い、守り合っているクリスチャンたちよりも、 攻撃されやすく、滅ぼされやすい存在です。

ですから、この暗闇の世界と向き合うとき、私たちはどのように戦うのでしょうか。 分裂した教会としてでしょうか。 弱体化した教会としてでしょうか。 自分の力で、人間的な武器を用いて戦うのでしょうか。

それとも、私たちは一致して、主の力によって、 霊的な武具を身につけて戦うのでしょうか。

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エペソ人への手紙

どのように仕えるか

今日の箇所で、パウロは家族関係についての教えを締めくくり、 私たちとキリストとの関係を描写する、もう一つのたとえを与えています。

これまで学んできたのは、親子関係が私たちと天の父との関係を描写し、 また、夫婦関係が私たちとイエス様との関係を映し出しているということでした。

けれども、パウロによれば、主人と奴隷の関係もまた、 私たちとイエス様との関係を映すものとして描かれているのです。

現代の私たちの文化では、奴隷制度と家族関係はまったく異なるものですが、 ローマ時代の文化においては、奴隷たちはその家庭の一員と見なされていました。

パウロや他の使徒たちが、なぜ奴隷制度そのものを直接批判しなかったのか―― それは、私たちにとって少し理解しにくいことかもしれません。

しかし、それでも彼らの語った言葉は、 人々が奴隷をどのように見なすかを大きく変えました。

それ以前、人々は奴隷を人間としてではなく、 自分の所有物として扱っていたのです。

それでも、パウロや使徒たちの教えを通して、 人々は奴隷を神のかたちに創られた人格として認め始めました。 そしてその結果、奴隷制度そのものも、やがて終わりへと向かっていったのです。

それでは、ここでパウロの言葉に耳を傾けてみましょう。

奴隷たちよ。キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。

ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。

奴隷であっても自由人であっても、良いことを行えば、それぞれ主からその報いを受けることを、あなたがたは知っています。(エペソ人への手紙6:5-8)

先ほども述べたように、パウロは主人と奴隷の関係を、 私たちとイエス様との関係にたとえています。

けれども、夫婦関係や親子関係とは異なり、 主人と奴隷の関係は、神様が定められた秩序ではありません。 それは人間によって作り出された制度でした。

だからこそ、パウロはコリントにいたクリスチャンの奴隷たちに、次のように語りました

もし、自分の身になれるなら、その機会を用いたらよいでしょう。主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません。(第一コリント7:21-23)

それでも、この手紙でもあの手紙でも、パウロは私たちをキリストの奴隷にたとえています。 だから、パウロは奴隷たちにこう言います。

「イエス様に従うように、自分の主人に従いなさい。 それだけでなく、恐れおののいて、真心から彼らに従いなさい。 主人があなたを見ていなくても、心から従いなさい。」

どうして奴隷たちはそうするべきだったのでしょうか。 なぜなら、最終的に私たちはキリストの奴隷であり、 イエス様は私たちに報いを与えてくださるからです。

もちろん、現代では私たちは奴隷として働いているわけではありません。

それでも、多くの人は職場で働いたり、教会でボランティア活動をしたりしています。 そして、私たちは同じ態度を取るべきです。 私たちはキリストに仕えていることを覚え、良い態度を保つべきです。 でも、私たちはそうしているでしょうか。

正直に言うと、私はそうしない時もあります。 そんなとき、私は自分の悪い態度を悔い改める必要があります。

私たちはキリストを敬って従うように、上司たちをも敬って従うべきです。

その反面、パウロは主人たち(または、上司たち)にこう言います。

主人たちよ。あなたがたも奴隷に対して同じようにしなさい。脅すことはやめなさい。あなたがたは、彼らの主、またあなたがたの主が天におられ、主は人を差別なさらないことを知っているのです。(エペソ人への手紙6:9)

言い換えれば、あなたは目下の人を公平に扱わなければなりません。 もし彼らが給料やボーナスに値するなら、正当に与えるべきです。 イエス様が忠実な者に報いを与えられるように、 あなたも忠実な従業員に報いを与えなければなりません。

また、彼らを脅かしてはなりません。 なぜなら、あなた自身も天におられる主に仕えているからです。 結局のところ、あなたにも従業員にも、同じ主に対する説明責任があるのです。

イエス様は、あなたに目下の人々を委ねられました。 ですから、彼らを扱うときには、 あなた自身もイエス様に対して忠実であるべきなのです。

あなたはどうでしょうか。

従業員の皆さん――神様が任命された上司に対して、 どのように仕えているでしょうか。

上司の皆さん――従業員を扱うとき、 あなたは忠実にイエス様に仕えているでしょうか。

私たちがどんな状況に置かれていても、 常にイエス様に忠実に仕える者でありますように。

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エペソ人への手紙

私たちの天の父の模範に従う

今日の箇所では、私たちの人間関係が、どのように天の父との関係を映し出しているかが分かります。

エペソ人への手紙5章では、パウロは私たちと神様との関係を結婚に例えています。 教会がキリストに従うように、妻も夫に従うべきです。

そして、キリストが教会を愛し、ご自身のからだの一部として大切にされたように、 夫たちも妻を愛し、自分のからだの一部として扱うべきなのです。 なぜなら、神様の目には、夫婦はすでに一つとされているからです。

6章では、パウロは神様との関係を親子関係に例えています。 パウロはこう語っています

子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。(エペソ人への手紙6:1)

どうして、子どもが自分の両親に従うことが正しいのでしょうか。 それは、神様が子どもたちを両親に委ねられたからです。 子どもが成長する間、神様は子育ての責任を両親に託しておられます。

ですから、たとえ両親の指示や戒めの理由が理解できなくても、子どもたちは両親に従うべきなのです。

もう一つの理由は、親子関係が、私たちと神様との関係を映し出すものだからです。

神様は、私たちの天の父です。 そして、私たちの地上の両親とは違って、神様は常に何が最善であるかをご存じです。 ですから、たとえ神様の指示や戒めの理由が理解できなくても、私たちは御言葉に従うべきです。 そうしてこそ、私たちは神様の祝福を受けることができるのです。

このような理由から、パウロは語っています

「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。(エペソ人への手紙6:2-3)

両親に対する子どもたちの従順によって生まれる祝福は、 私たちの神様への従順によってもたらされる祝福を映し出しているはずです。

ところが、すべての親子関係がその祝福を映しているわけではありません。 どうしてでしょうか。 それは、両親の行いが、必ずしも神様のご性質や行いを正確に表しているとは限らないからです。

ある両親は、子どもたちをきちんと懲らしめません。 または、彼らの懲らしめはあまりにも厳しすぎることがあります。

ある両親は、子どもを褒めることなく、常に批判を繰り返します。 そのようなやり方が、子どものやる気を引き出すと思っているからです。

また、子どもたちが困難に直面しているとき、 彼らに共感を示さない親もいます。

こうした行いによって、親子の関係は壊れてしまい、 子どもたちの神様に対するイメージも歪められてしまうのです。

だからこそ、パウロは両親に命じているのです

父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。(4)

天の父が私たちを愛し、育ててくださるように、 私たちも自分の子どもを愛し、育てなければなりません。

では、次の二つのことを考えてみてください。

1.ご両親があなたを育てたとき、その育て方はどれほど神様のご性質を映していたでしょうか。 もし彼らの模範が良くなかったとしても、彼らから目を離して、神様に目を向けてください。 あなたの両親がどれほど失敗したとしても、神様は決して失敗されません。

2.あなたは、自分の子どもに神様のことを正しく映し出しているでしょうか。 彼らは、あなたのうちに神様を見ることができるでしょうか。

私もまた、失敗するときが多くあります。 ですから、神様が私を変えてくださるようにと祈っています。 すなわち、娘が私のうちに神様を見出せるようにと願っているのです。

あなたは、良い親でしょうか。

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マタイの福音書のデボーション

自分の目的を果たす神

この大変な時期、牧師たちはよく言います。「神様はまだこの世を治めておられます。神様はコントロールを失なっておられません。」

でも、私たちはそう信じるでしょうか。

今日の個所で私たちが学ぶのは、そう見えなくても、神様はまだすべてのことをコントロールしておられることです。

神様は初めから、自分の計画を現わしまた。神様はアブラハムに約束しました。「あなたを通して、私はすべての国々を祝福します。」

そのあと、神様はダビデに約束しました。「あなたの子孫は永遠に王座に座ります。」

でも、神様はどのようにその約束を守ったでしょうか。神様はずっとアブラハムとダビデの子孫を祝福したのでしょうか。

いや、実は、メシアの系図を見ると、罪によって堕落する人々、また、罪によって壊れた人々が多いとわかります。

ユダとその兄弟たちは弟ヨセフを殺そうと思ったけど、神様が彼らを制止したので、結局、彼らはヨセフを奴隷として売りました。

ヨセフは13年ぐらいエジプトの奴隷でしたけど、神様はコントロールを失ったというわけではありません。むしろ、神様はヨセフを用いて、ヨセフの家族だけではなく、エジプト人たちと周りの国々の人たちを飢饉から救ってくださいました。

また、イスラエル人たちの罪のため、神様は彼らを裁いて、飢饉を送りました。皆は自分の目に正しいと見えることを行なっていたけど、結局、完全に堕落する人たちになりました。

その時、その壊れた社会では、ナオミと他の人たちは苦しみました。ナオミの夫と息子たちが亡くなったとき、ナオミは、「神様はコントロールを失ったのかしら」と思ったかもしれません。

でも、その苦しみを通して、神様はルツという外国人をメシアの系図に入らせてくださいました。

その大変な時期に、神様はもうアブラハムに対する約束を守り始めました。つまり、アブラハムを通して、神様はイスラエルだけではなく、すべての国々を祝福し始めたことです。

イスラエルの歴史で、良い王たちもいたし、悪い王もいました。ダビデは良い王だったけど、夫として、また、父としてよく失敗したので、その家族は引き裂かれそうでした。

そして、その孫レハブアム王のバカな決断によって、イスラエル王国は二つの王国に分かれました。

その結果は、内戦や、偶像礼拝、子供の犠牲、ほかのひどい罪でした。だから、最終的にイスラエル人たちはバビロンに追放されました。そのとき、神様はコントロールを失っていたでしょうか。

いや、その時でも、神様はコントロールを失っていませんでした。70年後、神様は自分の民をイスラエルに引き戻してくださいました。

ある国々はイスラエル人たちに反対して、抑圧して、完全に殺そうとしました。それでも、神様はメシアの系図を守りました。

そしてイエス様が生まれました。イエス様の名前は、神様の計画と目的を表現します。「ヤハウェは救いです。ヤハウェは私たちを救ってくださいます。」(「ヤハウェ」とは、神様の名前です。)

私たちの周りのカオスの中で、その真理は私たちの希望です。

神様は、約束したことを必ず果たしてくださいます。神様の約束と計画を阻むものは、全くありません。

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エペソ人への手紙

一致する結婚(2)

この箇所で興味深いのは、パウロによれば、結婚が私たちとキリストとの関係を描くものであるという点です。 パウロはこう語りました。

夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。

いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。私たちはキリストのからだの部分だからです。

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」

この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。(エペソ人への手紙5:25-32)

イエス様は教会のために何をしてくださったのでしょうか。 イエス様は天を離れ、この世に来られました。 そして、十字架の上でご自身のいのちを捧げられました。

今もなお、イエス様は私たちの世話をしてくださり、 私たちの物理的な必要や霊的な必要に応え、 神様の愛をもって私たちを養い、育ててくださっています。

なぜイエス様はこのようにしてくださるのでしょうか。 それは、イエス様がご自身を愛するように、私たちを愛しておられるからです。 実際、イエス様は私たちを、ご自身のからだの一部として見なしておられます。

夫も同じようにするべきです。 彼は親を離れ、自分の妻と一つになります。 妻のために自分のいのちを捧げ、妻の世話をし、 妻の物理的な必要や霊的な必要に応え、 愛によって妻を養い、育てるべきです。

なぜ夫はそのようにすべきなのでしょうか。 それは、彼が自分自身を愛するように、妻を愛するべきだからです。 実際、神様の目には、妻は夫のからだの一部と見なされているのです。

いろいろな意味で、夫は妻にとってイエス様の姿を映す存在であるべきです。 同じように、妻はイエス様を敬い、その導きに従うのと同じように、 自分の夫を敬い、夫の導きに従うべきです。

では、夫たち。あなたは、どれほどイエス様を妻に反映しているでしょうか。 あなたは、妻をあなた自身の一部として扱っているでしょうか。

もしかすると、妻をそこまで敬っていないかもしれません。 しかし、キリストは教会をそのように深く愛しておられます。 だからこそ、私たちもそのように愛すべきなのです。

妻たち。あなたはどれほどイエス様に従っているでしょうか。 もしイエス様に従うことが難しいと感じるなら、 自分の夫に従うことは、なおさら難しいかもしれません。

このようにして、パウロはこの教えを次のようにまとめています

それはそれとして、あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。(33)

あなたの結婚はどうでしょうか。 あなたの結婚は、イエス様と教会との関係を映し出しているでしょうか。

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エペソ人への手紙

一致する結婚

今日の箇所でパウロは結婚について語っていますが、実のところ、彼は以前に語った真理を別の形で応用しているのです。

では、パウロは以前に何を語ったのでしょうか。 それは、イエス様にあって、教会の人々が一つとされたということです。 私たちの間に立っていた「隔ての壁」は、打ち壊されたのです。

しかし、多くの結婚関係において、夫婦の間にはいまだに敵意が存在し、 彼らの間には隔ての壁が残ったままです。

(もちろん、私はエペソ2:14で語られているようなモーセの律法そのものではなく、 異なる壁について話しています。)

私たちはその壁の起源を、創世記3章に見ることができます。 アダムとエバが罪を犯した後、神様はエバに次のように言われました

また、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。(創世記3:16)

その言葉は、ヘブル語でも日本語でも、カインに対する神様の言葉に似ています。

罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。(創世記4:7)

神様の言葉を言い換えるなら、こう言えるでしょう。 「罪はあなたを支配したいと願っている。それでも、あなたはそれを支配しなければならない。」

同じように、アダムとエバの時代から、 多くの妻たちは神様のご計画に逆らって、夫を支配しようとしてきました。 けれども、夫の肉体的な力によって、多くの妻たちは束縛されてしまいます。 彼女たちは、愛によってではなく、恐れによって夫に従うようになってしまうのです。

残念なことですが、妻を支配するために、自分の妻を虐待する夫たちも存在します。 そしてそのような関係の中で、妻たちは虐待から逃れようとします。

その結果として、結婚は壊れてしまいます。 夫婦は本来、キリストにあって一つとされるべき存在ですが、 敵意によって、夫婦の間に隔ての壁が築かれてしまうのです。

では、その解決とは何でしょうか。

パウロはこう語りました

妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。

教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。(エペソ人への手紙5:22-24)

エペソ1:22では、私たちは、神様が教会の益のためにキリストを教会のかしらとして任命されたことを学びました。 だからこそ、私たちはイエス様に従うことによって、祝福を受けるのです。

同じように、神様は妻たちの益のために、夫を妻のかしらとして任命されました。 ですから、教会がキリストに従うように、妻もまた夫に従うべきなのです。

言い換えれば、妻はイエス様に従うのと同じように、自分の夫にも従うべきです。 そうすることで、妻は祝福を受けるのです。

しかし、祝福を受けていない妻たちもいます。 そのため、彼女たちは自分のかしらと戦おうとします。 なぜ、そのようなことが起こるのでしょうか。

それは、多くの夫たちが非常に大切なことを忘れてしまっているからです。 神様は、夫たち自身の益のために、彼らを妻のかしらとして任命されたのではありません。 むしろ、妻の益のために、夫をかしらとして任命されたのです。

私たち夫は、自分の妻を祝福する者であるべきなのです。

パウロは、エペソ5:25〜26で、そのことをはっきりと教えています。

夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり。。。(25-26)

その言葉には、深い皮肉が込められています。 イエス様が教会を祝福されたことによって、教会はキリストにとっての祝福となりました。 こうして、イエス様と教会は一つとされたのです。

同じように、夫たちが自分の妻を祝福すればするほど、 妻もまた夫にとっての祝福となり、 その夫婦は神様のご計画どおりに一つとなるのです。

このことについては、次の記事でさらに詳しく取り上げていきます。

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ペテロの手紙第二のデボーション

不確かな時代に対応すること(2)

先週、私は不確かな時代に対応することについて話しました。今日の箇所では、ペテロは、その話をまとめます。

私たちはどうすればよいでしょうか。

1.神の力強い御手の下にへりくだりましょう。(ペテロの手紙第二5:6)

不確かな時代には、それはどういう意味でしょうか。ペテロは私たちに教えます。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。」(ペテロの手紙第二5:7)

プライドのゆえに、自分の思い煩いを神様から隠してはいけません。むしろ、神様にその思い煩いを委ねましょう。神様があなたを心配してくださるのを信じることを選びましょう。

2.私たちはサタンの攻撃に注意するべきです。サタンは、あなたを落胆させようとします。サタンは、あなたに、神様が良い方であることを疑わせようとします。

または、、サタンは、私たちに言います。「ストレスを解消しなくてはならない。じゃあ今日だけ、罪にふけって良いだろう。」

もしかしたら、サタンはあなたのストレスを用いて、夫婦の喧嘩や、子供との喧嘩や、周りの人々との喧嘩をもたらそうとするかもしれません。

サタンの手口に注意して、サタンに対抗しましょう。

3.神様の恵みの中にしっかりと立っていましょう。

恵みによって、神様はあなたの壊れた人生を直してくださいます。

恵みによって、神様はあなたがしっかり立てるように力を与えてくださいます。

恵みによって、あなたが倒れそうの時、神様はあなたを安定させてくださいます。

恵みによって、神様はあなたを強い基礎に置いてくださいます。(ペテロの手紙第二5:10)

私たちは恵みによって救われました。その同じ恵みによって、毎日、歩みましょう。

4.神様がどんな方であるかを覚えていて、礼拝しましょう。

ペテロは歌いました。「どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。」(ペテロの手紙第二5:11)

神様はこの世の王です。私たちが苦しんでいても、神様がこの世をコントロールする力を失ったというわけでもありません。今なお、神様はこの世を治めています。

だからニュースを見た後、テレビを消し、SNSを消し、ネットを消し、神様を礼拝しましょう。

この不確かな時代に、キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。(ペテロの手紙第二5:14)

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エペソ人への手紙

私たちがどのように歩んでいる?

私は、この箇所でパウロが「歩む」という言葉をどのように用いているかが好きです。

「愛のうちに歩みまさい。」(エペソ人への手紙5:2)

「光の子どもとして歩みなさい。」(8)

「ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。」(15)

要するに、この人生において、私たちは一歩一歩進むごとに、神様の愛をより深く知るはずです。 そして、その愛は私たちを通して流れ出すはずです。

また、周囲の人々が私たちの人生を見るとき、そこに神様の光を見出すはずです。

だから、私たちは次の一歩を踏み出すたびに、 その選択が私たちをどこへ導くのかに注意を払うべきなのです。

パウロはこの教えを、次のようにまとめています。

ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、機会を十分に活かしなさい。

悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。(15-17)

言い換えれば、私たちは愚かに生きてはならないのです。 かつて私たちは、死に至る道を歩んでいました。 だから、再びその道に戻ってはなりません。 また、いまもその道を歩んでいる人たちと、共に歩んではならないのです。

もちろん、私たちは彼らを完全に避けて生きることはできません。 けれども、彼らが私たちに影響を与えることを許してはなりません。 むしろ、私たちこそが彼らに影響を与えるべきなのです。

そしてパウロは、ほとんど同じことを二度にわたって語っています。

何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。(10)

また、

主のみこころが何であるかを悟りなさい。(17)

私は改めて強調したいのですが、パウロは個々のクリスチャンたちに語っているのではありません。 彼は、キリストにあって一つとされた「からだ」としての教会に語っているのです。 パウロは彼らにこう言いました。

「あなたがた皆は、キリストのからだとして、知恵をもって歩みなさい。 教会として、あなたがたは時を賢く用いていますか。 神様の教会として、与えられた機会を十分に生かしなさい。」

けれども、現実には多くの場合、神様の民はそのように歩んでいません。 教会は、暗闇の中に輝く光ではなく、 むしろ、暗闇の業に加わってしまうことすらあるのです。

また、私たちは互いに噛み合い、食い合い、 心に苦々しさを抱き、他のクリスチャンを許さずに恨んでしまうこともあります。

だから、パウロは言います。 「そのような態度を捨てなさい。 それは神様の御心ではありません。 そのように生きることは、愚か者の道です。 あなたがたは、自分たちに与えられた時間と機会を無駄にしているのです。

そうではなく、キリストのからだのために、神様のみこころを正しく知りなさい。」

では、神様のみこころとは何でしょうか。

また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。

詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。

キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。(エペソ人への手紙5:18-21)

「御霊に満たされなさい」という言葉を見るとき、私たちはしばしば個々のクリスチャンのことを思い浮かべます。 つまり、一人ひとりのクリスチャンが御霊に満たされるべきだと考えるのです。

しかし、パウロが語っているのは、 「あなたがたはキリストのからだとして、御霊に満たされるべきである」ということです。

教会にとって最も必要なのは、御霊に満たされることです。 けれども、多くの場合、教会は貪りや恨み、分裂的な思いに満ちてしまっています。

もし神様の教会が御霊に満たされ、御霊に導かれ、 御霊の力によって歩んでいるならば、 この世界にどれほど大きな影響を与えることができるでしょうか。

もし神様の教会の人々が互いに引き裂き合わず、 御霊による喜びに満たされ、賛美をもって互いに励まし合っているならば、 この世にどれほど大きな影響を与えることができるでしょうか。

また、もし教会の人々が恨みや分裂的な思いに満たされず、 互いに敬意を払い合い、キリストを畏れつつ互いに従い合っているならば、 どれほどこの世は変えられることでしょうか。

私たちは、そのように生きているでしょうか。 教会として、私たちはそのように歩んでいるでしょうか。 また、個々のクリスチャンとして、そのように歩んでいるでしょうか。

あなたは、今、どのように歩んでいるでしょうか。

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エペソ人への手紙

罪を軽く見る

この世の問題の一つは、多くの人々が罪を軽く見ることです。 罪について冗談を言ったり、それを誇ったりする人さえいます。 けれども、罪は決して軽く見てよいものではありません。 特に、クリスチャンは罪を軽視してはならないのです。

だからこそ、パウロはこう言います。

 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪りも、口にすることさえしてはいけません。

また、わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。これらは、ふさわしくありません。むしろ、口にすべきは感謝のことばです。(エペソ人への手紙5:3-4)

要するに、周囲の人々が私たちの行いや言葉を責める余地もないほどに、私たちは清い生活を送るべきです。 もう一度言います。私たちは決して罪を軽く考えてはなりません。

けれども、テレビ番組や映画のことを語るとき、 「このドラマでは主人公が罪を犯していた」と私たちはどれほど言うでしょうか。

あるいは、歌を聴くとき、 「この歌の歌詞は罪を売り込んでいる。この歌詞に従えば、やがて人は神様に裁かれる」と考えることは、どれほどあるでしょうか。

私たちは、ふつうそのようには考えないのです。

あなたはこう言うかもしれません。 「そんな考え方は真面目すぎます。それがこの世の文化というものでしょう。」

ところが、まさにその態度こそが問題なのです。 多くのクリスチャンは、ノンクリスチャンのように、罪についてあまりに軽く考えすぎています。 けれど、パウロは私たちに思い出させてくれます。

に軽く考えています。でも、パウロは私たちに思い出させます。

このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。

だれにも空しいことばでだまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順の子らに下るのです。(5-6)

要するに、罪は極めて深刻な問題です。 人は自らの罪のゆえに、神様の怒りを受けるに値します。 さらに、地獄にさえ値するのです。 そのような現実を思うとき、どうして罪を軽く見ることができるでしょうか。

だから、パウロはこう言うのです。

ですから、彼らの仲間になってはいけません。

あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです。

何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇のわざに加わらず、むしろ、それを明るみに出しなさい。

彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます。明らかにされるものはみな光だからです。(7-14a)

神様は、私たちをこの世の民とは異なる者として召しておられます。 この世の人々は、罪の暗闇の中に生きています。

かつて、私たちもその暗闇の中を歩んでいました。 けれども、パウロによれば、今や私たちは主にあって光となりました。 それゆえ、私たちは光の子どもらしく歩むべきなのです。

私たちは、罪の実を結んではなりません。 むしろ、あらゆる善意と正義と真実の実を結ぶべきです。

ですから、私たちは罪を祝ってはならず、 むしろキリストの光によって、その罪を明るみに出さなければなりません。 罪が人を滅ぼすものであることを、はっきりと示さなければなりません。

そして、私たちは周囲の人々にこう語るべきです。

眠っている人よ、起きよ。 死者の中から起き上がれ。 そうすれば、キリストがあなたを照らされる。(14b)

あなたはどうでしょうか。罪を軽く見てはいないでしょうか。 罪の深刻さを忘れてしまってはいないでしょうか。

イエス様が、私たちの罪のために死ななければならなかったことを心に留めておきましょう。 イエス様は、私たちと私たちの周囲の人々を、罪の暗闇から出て、新しい命へと入るように招いておられます。

あなたは、その新しい命の光の中を歩んでいるでしょうか。 そして、周囲の人々を、あなたとともにその道を歩むように招いているでしょうか。

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エペソ人への手紙

私たちが一つになるように(2)

言葉は力あるものです。 言葉によって、人は建て上げられ、言葉によって、人は取り壊されます。

だからこそ、パウロはこう言いました。

悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。(エペソ人への手紙4:29)

「悪い言葉」とは、「腐った言葉」と訳すこともできます。 私たちは、そのような腐った言葉を一切口にしてはいけません。

では、「腐った言葉」とは何でしょうか。 31節を見ると、いくつかの例が挙げられています。 無慈悲な言葉、怒りの言葉、ののしりの言葉、悪意に満ちた言葉などです。

このような言葉によって、聖霊が悲しまれるのです。 なぜなら、それらの言葉はキリストのからだを分裂させるものだからです。

忘れないでください。この箇所の中心テーマは、キリストのからだの一致を保つことです。 けれども、もし、私たちの言葉によって、互いにかみつき合い、食い合っているなら、 その一致を保つことはできません。(ガラテヤ5章15節)

では、私たちはどのような言葉を語るべきでしょうか。 それは、成長に役立つ言葉や、聞く人に恵みを与える言葉です。 人々にそのような言葉が必要なとき、私たちはそれを語るべきです。

注目すべき点が二つあります。

一つ目は、話す前に、何を言うべきかを考える必要があるということです。 私たちは周囲の人々を見るとき、彼らのニーズを考えるべきです。

しかし多くの場合、深く考えずに言葉を発し、相手を傷つけてしまいます。 もし私たちが相手のニーズに心を留めるなら、不用意に傷つけることはないでしょう。

二つ目は、私たちの言葉が恵みに満ちたものであるべきだということです。 言い換えれば、私たちの言葉は人々に恵みを与えるものであるべきなのです。

私たちの口からどんな言葉が出ているでしょうか。 裁きの言葉でしょうか。責める言葉でしょうか。 それとも、恵みの言葉でしょうか。

けれど、私たちの言葉だけでなく、行いもまた恵みを表すべきです。 だからこそ、パウロはこう言います。

互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。(32)

場合によっては、それは難しいこともあるでしょう。 相手を親切に扱うのが難しい時もあります。 相手に憐れみを持てない時もあります。 相手を許すのが辛い時もあります。

しかし、私たちは神の親切や憐れみや赦しに値しませんでした。 むしろ、私たちは神の怒りと裁きを受けるにふさわしい者でした。

それでもなお、神様はご自身の憐れみと恵みを私たちに注ぎ、 私たちの罪を赦してくださいました。

だからこそ、パウロはこう言います。

ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。

キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。(エペソ人への手紙5:1-2)

私たちのために十字架でご自身のいのちをささげたとき、イエス様は天の父にとって芳ばしい香りとなりました。

同じように、私たちが神様の子どもとして歩み、周囲の人々に神様の愛と恵みを表すとき、 私たちも天の父にとって芳ばしい香りとなります。

そして、私たちが人を愛する時、特に愛しにくい人を愛する時、 私たちは本当に神様の子どもであることを証しするのです。 そのようにして、私たちクリスチャンはイエス様にあって一つとされていきます。

あなたはどうですか。 あなたは自分が神様の子どもであることを証ししていますか。 あなたは日々、周囲の人々を愛し、建て上げていますか。

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ペテロの手紙第一のデボーション

不確かな時代に対応すること

コロナウイルスで、健康的な問題や、経済的な問題と向き合って、私たちは本当に不確かな時代に生きています。

では、私たちはどのように対応するべきでしょうか。

ペテロの読み手は、違う問題に直面しました。それは迫害です。それでも、私たちがペテロの言葉を私たちの状況に当てはめることができると思います。

ペテロはこう言いました。

最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。

悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。(ペテロの手紙第一3:8-9)

以前言ったように、ペテロは迫害と、迫害に対する私たちの反応について話しています。

でも、この大変な時期、人間関係がちょっとぎすぎすしたものになるのは簡単なことです。

また、ある人々は政府の対応に不満で、文句を言ってばかりです。

でも私たちはそうするべきではありません。むしろ、神様は私たちをほかの人々を祝福するように呼びます。

私たちの人生が大変になっても、謙虚な態度を持って、心の優しい人となるべきです。また、私たちは周りの人々に同情し、彼らを愛するべきです。

また、私たちは悪口や、呪いや、文句などを控えて、人々を私たちの言葉と行動で祝福するべきです。(10)

そしてペテロはこう言います。

人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。

あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。(14-15)

ペテロは迫害について話しているので、翻訳者はペテロの言葉を「人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません」と訳しました。

それはペテロが意味したものかもしれないけど、もう一つの訳し方があります。

実は、ペテロはイザヤ書8:12ー14を引用していました。

イザヤが書いた時、イスラエル人たちは、アッシリヤの軍隊を怖がりました。でも、神様はイザヤにこう言いました。

この民が恐れるものを恐れてはならない。おびえてはならない。万軍の主、主を聖なる者とせよ。

主こそ、あなたがたの恐れ。主こそ、あなたがたのおののき。そうすれば、主が聖所となる。(12-14)

主を聖なる者とすることは、どういう意味でしょうか。それは、主だけを恐れるという意味です。私たちは、ほかのものよりも、万軍の主に畏敬の念を抱くべきです。

ペテロはその言葉をイエス様に当てはめます。私たちはキリストを万軍の主として認めるべきです。私たちは、すべてのものよりも、キリストを畏れるべきです。

そうすれば、私たちが人に襲われても、コロナウイルスに襲われても、イエス様は私たちの聖所となります。

私たちは、ほかの人たちが恐れるものを恐れてはいけません。私たちはコロナウイルスを恐れてはいけません。経済的な問題を恐れてはいけません。

むしろ、私たちは神様に畏敬の念を抱いて、神様を礼拝するべきです。そして、嵐の中でも、神様は私たちの聖所になります。

では、私たちは病気にならないのでしょうか。私たちは経済的な問題を経験しないのでしょうか。

実は、コロナウイルスのせいで、倒産するクリスチャンもいるかもしれません。亡くなる人もいるかもしれません。

でももしかしたら、このウイルスを通して、神様は私たちに思い出させようとしています。

「この世はあなたの家ではありません。あなたはただ寄留している人です(第一ペテロ1:1)。私はあなたのために永遠の住まいを準備している中です。また、あなたのために、永遠の遺産を準備している中です。」

それは私たちの希望です。

その希望を周りの人々にシェアしましょう。もし怒りや恐れに負けないで、むしろ、私たちが周りの苦しんでいる人たちを祝福すれば、彼らは「どうして私を祝福してくれるの?」と訊くかもしれません。

その時、ペテロの言葉を覚えていてください。

あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。(15)

そして、あなたが希望を失いそうだったら、あなたの希望の基礎を覚えていてください。

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。

それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。(18)

だから、この不確かな時代に、この歌を覚えていて歌いましょう。

Because he lives I can face tomorrow.
イエス様が生きておられるので、私は明日に向かうことができます。
Because he lives, all fear is gone.
イエス様が生きておられるので、すべての恐れは消えてしまった。
Because I know he holds the future,
イエス様が将来を自分の手に持っていることを知っている。
And life is worth the living just because he lives.
イエス様が生きておられるので、私には生きがいがあります。

ーービル・グイザー

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エペソ人への手紙

私たちが一つになるように

5年前にこの箇所を読んだとき、私は改めてパウロの言葉を認識しました。 それ以前は、パウロの言葉をどのように自分の人生に当てはめられるかを考えていましたが、実際には、彼が語っていたのは個々のクリスチャンではなく、教会全体についてであると気づきました。

ユダヤ人と異邦人の間にあった隔ての壁は取り壊され、私たち皆がクリスチャンとして一つにされました。

この文脈の中で、パウロは今日の箇所を書きました。 彼のポイントは、私たちがどのようにキリストのからだの一致を保つことができるかということです。

25節から、パウロはそのことを強調しています。

ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。(エペソ人への手紙4:25)

真実を語らなければ、一致を保つことはできないでしょう。 友人関係でも、結婚関係でも、教会の関係でも、それは同じです。

時々、私たちは真実を軽く考えすぎます。例えば、私たちは簡単に罪のない嘘を語ります。(それは本当に罪のないものでしょうか。)

また、兄弟や姉妹が罪を犯したとき、その人の反応を恐れて何も言わないことがあります。

しかし、15節によれば、私たちは愛を持って真理を語るべきです。 その目的は、相手が成長することです。

ところで、真理を語るとき、「愛を持って」ということは非常に大切です。 ある人は自分の正直さを自慢しますが、彼らの目的は相手を建て上げることではなく、むしろ相手を取り壊そうとすることです。

もしそのような態度であるならば、黙っていた方がよいでしょう。 けれども、神様の前で「私はこの人を愛し、建て上げたい」と言えるなら、どうぞ真実を語ってください。

そして、パウロはこう言います。

怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。(26-27)

私たちは怒ってもよいのです。 けれども、その怒りをどのように処理するでしょうか。

あなたはただ相手に怒鳴るでしょうか。 あるいは、その怒りを静かに心に留め、苦々しい根を張るでしょうか。

もしそうすれば、あなたは悪魔に自分を操る機会を与えることになります。

しかし、もう一度言います。 パウロは主に教会に向けて語っています。

もし教会のメンバーが心の中で怒りを持ち続けるなら、サタンはその機会を利用して教会を分裂させ、壊そうとするのです。

そして、パウロは続けて言います。

盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。(28)

その言葉から、重要な原則を見ることができます。 単に相手を傷つけることをやめるだけでは不十分なのです。 私たちは相手を建て上げなくてはなりません。

なぜなら、私たちの目的は、キリストのからだを建て上げることだからです。

次の記事でこの話を続けますが、その前に少し考えてみてください。

私たちの行動によって、キリストのからだの一致を保っているでしょうか。 あるいは、私たちの行動によって、キリストのからだを分裂させてしまっているでしょうか。

私たちはキリストのからだを建て上げているでしょうか。 それとも、キリストのからだを取り壊しているでしょうか。

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エペソ人への手紙

私たちの目的を果たすには

ディズニー映画『アナと雪の女王』では、エルサ女王が自分の力を現してしまい、人々の恐れによって王国を離れざるを得なくなります。

それまでエルサは、自分の力を周囲の人々から隠していました。けれども、追放された後、彼女は「ありのままの姿を見せるのよ。ありのままの自分になるの」と決意します。

そして、彼女は歌います。

もう自由よ。
何でもできる。
どこまでやれるか、自分を試してみたい。

英語では、彼女はこう歌います。

正しいも悪いもない。
私にとって、もうそんなルールは存在しないのよ。
私は自由だから。

しかし、その「自由」は長くは続きませんでした。 妹のアナがエルサのもとを訪れ、彼女が「自由」を活用した結果、王国がどれほど混乱してしまったかを伝えます。

だから、エルサは英語の歌でこう歌います。

なんて愚かだったの….自由なんて無理。
内なる嵐から逃れる術はないのよ。
コントロールできない…この呪いを!
なんて恐ろしい。

そして、アナがエルサに「すべてを治せる」と説得しようとしたとき、エルサは答えました。

「私にはできない。」

多くの人々は「ありのままで」という歌を好みますが、エルサが最終的に何を悟ったのかを理解している人はどれほどいるでしょうか。

つまり、本当の自由はただ自分自身を理解することからは生まれないのです。

なぜなら、私たちの内にあるものは、結局私たちを滅ぼしてしまうからです。そして、私たちは自分自身を恐れるようになり、また、自分の問題を解決することができないと気づきます。

けれども、多くの人々はこのことに気づいていません。むしろ、パウロによれば、彼らはむなしい心で歩んでいるのです。

パウロはこう言います。

彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。

無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪るようになっています。(エペソ人への手紙4:18-19)

もちろん、このすべての言葉をエルサに当てはめることはできません。なぜなら、その映画はクリスチャンの寓話ではないからです。

とはいえ、エルサの知性が暗かったため、彼女は自分がどうあるべきかわかりませんでした。彼女を拒絶した人々の影響で心が頑なになり、彼女は自分の道を進むことで自由を得たと思いました。

同じように、多くの人々の知性が暗く、彼らは自分が何者であるべきかを理解できません。神様は愛を持って彼らを御自身の似姿に造られましたが、彼らは無知のゆえに神様に対して頑なな心を持っています。

そのため、彼らは善悪という「鎖」を捨て、自分の道を歩んでしまいます。そして、「自分の道を行けば自由を見つけられる」と思っています。

ところが、結局彼らは自由を得ることはありません。むしろ、人生は混乱し、何をすればよいのかわからなくなってしまいます。

クリスチャンとして、私たちはそのように生きるべきではありません。

むしろ、私たちは古い人生を捨てるべきです。私たちは古い態度や習慣も捨てなくてはなりません。 なぜなら、それらは腐敗したものであり、それに従い続ければ、私たちは滅びてしまうからです。(22)

特に、私たちは一つの考え方を捨てなくてはなりません。それは、神様からの独立を求める態度です。 自分の道を行くことで自由を得ることはできません。むしろ、その道は呪いとなり、私たちを縛ってしまいます。

だから、パウロは言います。

あなたがたが霊と心において新しくされ続け(なさい)。(23)

神様が私たちの心を変えてくださるように祈るべきです。 そして、私たちは「真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着るべきです。」(23ー24)

私たちはそのような人になるべきです。私たちは神様のように歩むべきです。

もちろん、クリスチャンにはそれぞれ違いがあります。私たちは多様な賜物を与えられており、それぞれの性格を持っています。 クリスチャンになったからといって、それらを失うわけではありません。

むしろ、エルサのように、私たちの賜物は神様の計画のもとで美しく輝くものとなります。 また、神様の御心に従うことで、私たち自身も神様が意図された通りに美しい創造物となります。

しかし、その美しさを持つためには、自給自足の態度を捨てなくてはなりません。神様からの独立を求める思いを捨てなくてはなりません>。 そして、私たちは自分が何者であるべきかを忘れずに歩まなくてはなりません。

それは、神様の似姿に造られた者であるということです。

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エペソ人への手紙

キリストの満ち満ちた身丈にまで達する

この世を見れば見るほど、私たちはその混乱の深さに気づかされます。そして、自分自身の人生を振り返ると、それもまた壊れ、乱れていることを認めざるをえません。

この世も、私たちの人生も、壊れた、不完全なものなのです。その壊れた世界と人生を癒すことができるのは、ただお一人――イエス様だけです。

そのために、イエス様はこの世に来られました。第9〜10節によれば、イエス様は人間としてこの地に来られ、私たちの罪のために命をささげてくださいました。そして、死を打ち破って復活され、天へと昇られました。

その目的とは何でしょうか。それは、「キリストがすべてのものを満たすため」であると書かれています。

つまり、イエス様は人を内側から満たし、壊れた人生を癒し、渇いた心に命を注いでくださるお方です。そして最終的には、罪によって傷ついたこの被造世界全体をも、完全に回復してくださいます。

パウロはこう言いました。

(イエス様)はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。(エペソ人への手紙4:8)

「捕虜」とは誰のことでしょうか。もしかすると、イエス様に敗れた悪霊たちかもしれません。けれども、より可能性が高いのは、彼らがイエス様によって自由にされた罪の奴隷たちであった、ということです。イエス様は彼らを解放し、神の御国へと導き、さらに贈り物を与えてくださいました。

その贈り物とは何でしょうか。

第一に、永遠のいのちです。

第二に、御霊です。御霊は私たちのうちに住み、新しく生まれ変わらせ、私たちをますますイエス様のかたちに変えていってくださいます。

第三に、使徒、預言者、伝道者、牧師および教師といった、キリストのからだに仕える人々です。

たとえば、パウロやペテロのような使徒たちは、初めて福音を宣べ伝えました。

預言者たちは神様のことばを語り、私たちを教え、励まします。

伝道者たちは人々をイエス様のもとへ導いてくれます。

牧師と教師たちは、私たちの霊的な必要を養い、イエス様について教え、正しい道へと導いてくれます。

しかし、これらの人々がすべての奉仕を担うわけではありません。先ほども述べたように、彼らは教会への神様の贈り物なのです。では、なぜ神様はそのような人々を教会に与えてくださったのでしょうか。

それは、聖徒たち(つまり、すべてのクリスチャンたち)を整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。(12-13)

要するに、私たちは互いに建て上げ合い、互いの信仰を強め合い、イエス様について教え合う存在であるべきです。その結果として、私たちは成熟へと導かれていきます。

もちろん、一人ひとりのクリスチャンが成熟することも大切ですが、同時に教会全体がキリストにおいて成熟していくのです。

教会があらゆる点においてイエスのかたちに近づくとき、私たちがこの世に触れるにつれて、イエス様はすべてのものを満たされます。

ここで注目すべきは、パウロが「私たちは一人の成熟した大人となる」と語っていることです。

「多くの成熟した大人たちになる」とは言っていません。むしろ、「一人の成熟した大人となる」と強調しています。私たちは一つのからだとして結び合わされていきます。すなわち、完全に成熟したキリストのからだへと成長していくのです。

では、私たちはどのような者になってはいけないのでしょうか。私たちは、あらゆる教えの風に吹き回され、もてあそばれる子どものようになってはなりません(14節)。

むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。

キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。(15-16)

そうすれば、私たちは個々のクリスチャンとしても、教会としても、イエス様にあって完全なものへと成長していくのです。そして、私たちを通して、イエス様はすべてのものを満たし、癒してくださいます。

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エペソ人への手紙

教会の一致を守る

1〜3章で、パウロは「キリストにあって私たちは一つとされた」という真理を語っています。

モーセが受けたシナイ契約によって、ユダヤ人たちは異邦人たちと隔てられていましたが、イエス様の十字架によってその隔ての壁は打ち壊されました。こうして今、ユダヤ人も異邦人も、ただ一人のかしらであるキリストのもとに結び合わされているのです。

そしてその驚くべき一致の真理を語り終えたあと、パウロはこう言いました

さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。(エペソ人への手紙4:1)

言い換えるなら、「神様に召された教会として、その召しにふさわしく歩みなさい」ということです。

では、その召しとは何でしょうか。それは、キリストにあって一つの体となることです。そして、その体を通して、神様はご自身の知恵と栄光をこの世に現したいと願っておられます。

この手紙の残りの部分で、パウロは、私たちがどのように「キリストのからだ」として生きるべきかを教えています。つまり、キリストのからだとして、どのようにして神様の栄光と知恵を現していけるのでしょうか。

パウロは、こう語ります。

謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。(2-3)

「謙遜の限りを尽くしなさい。」

私にとって、これは決して簡単なことではありません。子どもの頃からクリスチャンとして育ち、さまざまなことを学んできた私にとって、プライドを抱くのは容易なことです。

でも実のところ、私はいまなお学びの途上にあり、失敗もすれば、罪を犯すこともある者です。だからこそ、周りの人々に接するとき、私は自分の弱さを心に留めていなければなりません。

他の人の失敗や罪を目にするとき、私は謙遜をもって、柔和な心をもって接するべきです。

さらに、神様が私に寛容を示してくださったように、私も他の人々に寛容を示すべきです。だからこそ、私は人々を軽蔑せず、彼らの失敗や弱さ、罪に対しても、憐れみの心で応じる者でありたいのです。

そしてパウロはこう語ります。「御霊による一致を、平和のきずなで熱心に保ちなさい。」

私たちは一つです。神様は私たちを一つの教会とされました。しかし、この一致を守るには、意識的な努力が求められます。私たちの罪深い性質のゆえに、この一致は簡単に壊れてしまうおそれがあるからです。

だからこそ、私たちは平和のきずなを大切にし、積極的にその一致を守り続けていかなければなりません。

私たちは、御霊による一致を熱心に保っているでしょうか。あるいは、兄弟姉妹の罪や過ちを見て、すぐに心の中で彼らを引き離してしまってはいないでしょうか。

このような問いかけの中で、パウロは私たちにもう一度思い起こさせてくれます。

あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。

主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。(4-6)

簡単に言えば、私たちは一つのからだです。同じ御霊が私たちのうちに住んでおられます。

イエス様にあって、私たちは同じ希望を持っています。私たちは同じ救い主に属し、同じ信仰を持ち、皆がイエス様の御名によってバプテスマを受けました。

私たちは同じ父に属しています。その父なる神は、すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父です。

それが真実なら、なぜ私たちは互いに引き裂き合おうとしているのでしょうか。

サタンは分裂した教会を見ると喜びます。分裂した教会には、神様の知恵と栄光をこの世に現す力がありません。

だからこそ、その分裂的な霊を捨て去りましょう。

神様は私たちを一つとされました。その一致を、熱心に保ち続けましょう。

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エペソ人への手紙

私たちが神様の栄光で満たされるように

歴代誌第一には、ソロモンが神殿を完成させた後のこの出来事が、このように記されています。

祭司たちが聖所から出てきたとき、雲が主の宮に満ちた。祭司たちは、その雲のために、立って仕えることが出来なかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。(列王記第一8:10-11)

ソロモンの神殿が主の栄光で満たされたように、神様の望みは、ご自身の教会がその栄光で満ちることです。だから、パウロはそのために祈ったのです。

どうか御父が、その栄光の豊かさに従って、内なる人に働く御霊により、力を持ってあなたがたを強めてくださいますように。

信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。

そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。

そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ人への手紙3:16-19)

パウロは、ただ一人のエペソのクリスチャンに宛てて書いたのではありません。むしろ、すべてのエペソのクリスチャンたちを対象として書いていました。彼は「あなた」ではなく、「あなたがた」と記していたのです。

もちろん、パウロは個々のクリスチャン一人ひとりのためにそれを願っていました。

しかし、この祈りを記したとき、彼はエペソの教会のクリスチャンたちを「一つのもの」として捉えていました。なぜなら、キリストにあって、すべてのクリスチャンは一つだからです。

第2章では、パウロはそのことを繰り返し強調しており、第3章と第4章でも同じテーマが続けて語られています。

パウロの祈りを言い換えると、次のようにまとめることができます。

神様、あなたの御霊を通して、一人ひとりのクリスチャンの内に働いてくださる中で、あなたの教会全体に力を与えてください。

イエス様、あなたに対する彼らの信仰によって、どうか彼らの心のうちに住んでください。

天のお父様、彼らがあなたの愛にしっかりと根を下ろすことができますように。その愛が彼らの人生の土台となりますように。

そして、その愛に深く根差すにつれて、彼らが互いの兄弟姉妹への愛にも生きることができますように。

そのように愛に生きる中で、彼らがあなたの知恵と愛の広さ、長さ、高さ、深さを共に理解し、知る者となりますように。

そして、かつてソロモンの神殿があなたの栄光で満たされたように、あなたの教会があなたの満ちあふれる豊かさにまで満たされますように。

それこそが、教会に対する神様の望みです。神様のご計画は、私たちが神様の神殿となり、神様の栄光に満たされて、その栄光をこの世に映し出すことです。

しかし、それは私たち自身の努力によって成し遂げられるのではありません。むしろ、神様が教会に力を与え、教会のうちに働いてくださるときに、そのことは実現するのです。

ですから、自分自身や教会を見て落胆しそうになるときには、思い出してください。神様は、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うこと、思い描くことのすべてを、はるかに超えて成し遂げることのできるお方です(エペソ3:20)。

神様は今も奇跡を行われます。壊れた人生や教会を、栄光に満ちたものへと変えてくださるのです。私たちがすべきことは、ただ神様と協力することです。

そして、いつの日か、神様は私たちのうちにおいて、また、十字架で流された血によって私たちを贖われた御子において、栄光を受けられるのです。

ですから、絶望しないでください。むしろ、パウロの賛歌を私たちの祈りとして歌いましょう。

どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。(20-21)

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エペソ人への手紙

自由と確信

私たちは、キリストにあって与えられている恵みや特権を、どれほど当たり前のこととして受け止めてしまっているでしょうか。

パウロによれば、旧約の預言者たちや祭司たちは、神様のご計画の奥義を完全に理解していたわけではありません。おそらく、彼らはその一部すらも十分に把握していなかったでしょう。

もしモーセ、エリヤ、イザヤ、エレミヤ、ダニエルといった人々が、現代の教会の姿を見ることができたなら、どう思うでしょうか。彼らが、クリスチャンたちが大胆に神様に近づいている様子を目にするなら、きっと驚きに満たされることでしょう。

しかし、パウロはこう語っています。私たちは、今やそのような大胆さをもって、神様に近づく権利を与えられているのです。

私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。(エペソ人への手紙3:12)

その預言者たちは、神様に大胆に近づく確信を持っていたでしょうか。彼らには、「アバ、父」と神様を呼ぶ自由があったでしょうか。

おそらく、そうではなかったでしょう。

彼らが神様に近づくときには、恐れを感じていたと思われます。たとえ神様の御前にいないときでも、自分の失敗や罪を意識していたはずです。

また、祭司たちは幕屋や神殿に赴き、聖所や至聖所に入る際には、細心の注意を払わなければなりませんでした。そうでなければ、命を落とすことさえありうると、彼らは理解していたのです。

そんな祭司たちが、クリスチャンたちが神様に自由に近づく姿を見たなら、何を思ったでしょうか。

しかし、イエス様とその十字架の御業のゆえに、私たちは罪から清められ、イエス様の義を着せられています。そして、イエス様を通して、私たちは確信を持って、大胆に神様に近づくことができるのです。

私たちの姿を見て、天使たちも悪霊たちも、きっと驚いていることでしょう。(エペソ3:10)

なぜなら、私たちは神様の民とされたからです。私たちは自分の義を身にまとうのではなく、イエス様の義を着せられているのです。

さらに、神様が私たちを喜んで受け入れてくださっているので、私たちは喜びをもって、大胆に神様の御前に進み出ることができるのです。

もし旧約時代の預言者たちや祭司たちがこれを目にしたとしたら、どれほど驚いたことでしょうか。

そして、あなたはどうでしょう。この恵みに、驚いているでしょうか。

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エペソ人への手紙

神様の恵みの務めを与えられた人(2)

私たちは神様の恵みの務めを与えられた者ですが、多くのクリスチャンはこう言うかもしれません。「でも、私はパウロではありません。パウロがしたことを私にはできません。私はただの普通のクリスチャンですから。」

けれども、神様はあなたをパウロのように召しているのではありません。あなたもパウロも神様の恵みの務めを与えられた者ですが、それぞれ異なるかたちでその務めを果たすのです。

それでも、神様があなたを導いてくださる中で、あなたは福音を語り、周りの人々に触れるはずです。

あなたは、こう言うかもしれません。「でも、私は資格がありません。その働きにふさわしくありません。」

実は、パウロ自身もそう感じていました。彼はこう語っています。

私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました。

すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり。。。(エペソ人への手紙3:7-8)

パウロは、自分が神様の恵みの務めを受けるにふさわしくない者だと感じていました。彼は「私はすべての聖徒たちのうちで最も小さい者です」と語りました。

なぜパウロはそう感じたのでしょうか。それは、彼がかつて教会を迫害し、多くのクリスチャンを逮捕したり、殺したりしていたからです。

それにもかかわらず、彼はこう言いました。「キリストの測り知れない富を福音として異邦人に伝えるために、私は神様の恵みを与えられたのです。」

パウロは自分の資格を誇りませんでした。自分の賜物や才能を誇りませんでした。むしろ、こう語りました。「神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、私は福音に仕える者となったのです。」

神様はあなたもまた、福音に仕える者となるよう召しておられます。あなたも神様の恵みの務めを与えられたのです。なぜでしょうか。それは、神様がその恵みをあなたに豊かに注いでくださったからです。

良いしもべとなるために、特別な資格や賜物は必要ありません。自分の知恵や力に頼る必要もないのです。

むしろ、この恵みの務めを果たすためには、あなたは神様から与えられた恵みと力に頼るべきです。その恵みと力によって、あなたはこの務めを忠実に果たすことができるはずです。

さらに、パウロによれば、神様のご計画は、教会を通してご自身の多面的な知恵をこの世に示すことです。

しかし、「教会」とは建物を指しているのではありません。教会とは、あなたと他の信じる者たちのことなのです。あなたを通して、神様はご自身の知恵を現したいと願っておられます。

「でも、私は弱いです。私はただの一般人です。神様がどうやって私を用いられるのでしょうか。」

あなたが弱く、平凡な存在であるからこそ、神様はあなたを用いることができるのです。なぜなら、弱くて平凡な人々は、神様の力にすがる以外に道がないからです。

パウロはこう言っています。「私たちが弱いときにこそ、私たちは強いのです。」(第二コリント12:9-10)

さらに、パウロはこう語りました。

兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。(コリント人への手紙第一1:26-27)

神様はご自身の知恵を現すために、強い者たちを募集しておられるのではありません。むしろ、神様は弱い者を求めておられるのです。

なぜでしょうか。それは、人々があなたの人生において神様がなされたこと、また神様があなたを通して周囲にどのように触れておられるかを見るとき、驚かされるからです。

そのため、ユダヤ人の宗教的指導者たちは、ペテロとヨハネのことに驚いたのです。

彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。(使徒の働き4:13)

そのように、私たちを見た人々は、驚かされることでしょう。

彼らが私たちを見るとき、私たちがイエス様と共に歩んできた者であることが、彼らにも分かるように。

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エペソ人への手紙

神様の恵みの務めを与えられた人

2節で、パウロはこう言いました。

あなたがたのために私に与えられた神の恵みの務めについては、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。(エペソ人への手紙3:2)

パウロのように、私たちは神様の恵みの務めを与えられました。神様が私たちに恵みを与えてくださった理由は、私たちがただその恵みを浴びるからではありません。周りの人々に触れるとき、私たちはその恵みの務めを果たさなくてはなりません。

もちろん、パウロの恵みの務めは、私たちの務めと違うところがあります。パウロはいろんな教会を始めたり、神様の恵みに関する聖句、また、福音の奥儀に関する聖句を書いたりしました。

今なお、教会を始める賜物を持っている人がいるけど、すべての人々がその賜物を持っているというわけでもありません。そして、ある人は聖書を教える賜物を持っているけど、新しい聖句を書く賜物を持っている人は誰もいません。

でも、私たち皆は自分の賜物を用いて、恵みの務めを果たさなくてはなりません。

もちろん、私たちは周りの人々に福音を宣べ伝えるべきです。さらに、私たちは神様の愛で周りの人々に触れるべきです。周りの人々は私たちを見ると、神様の恵みの務めを与えられた人々を見るはずです。

でもまず、我々クリスチャンたちは、互いにその恵を与え合うはずです。パウロはこう言いました。

それ(つまり、キリストの奥儀)は、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。(エペソ人への手紙3:6)

神様は初めてアブラハムを呼んだとき、「すべての部族は、あなたによって祝福される」と約束しました。(創世記12:3)

でも、どのように神様がその約束を守るか何年も不明でした。しかし、パウロは「その答えは啓示されました」と言います。

つまり、イエス様とその十字架の御業によって、私たち皆は、ユダヤ人でも、異邦人でも、アジア人でも、白人でも、黒人でも、男性でも、女性でも、神様の相続人になったということです。私たち皆はイエス様を通して神様の約束を受けます。

そして、神様の意図は、イエス様において成し遂げられた、永遠のご計画によって、教会を通して、神様の極めて豊かな知恵が天上にある支配と権威に知らされることです。(10-11)

教会を見ると、天使たちと悪霊たちは神様の極めて豊かな知恵を見ます。

特に、彼らは神様の計画の不思議さを見ます。それは、いろんな国からの人たちは、男性でも、女性でも、神様から豊かに与えられた愛で、互いに愛し合うということです。

その互いの愛によって、クリスチャンたちは、神様が彼らを造った目的を果たして、神様に栄光を反映します。

天使たちと悪霊たちだけではなく、この世界の人々はそれを見るはずです。そう見ると、彼らも神様の恵みに驚いて、魅せられます。

でも、それは実際に起こっているでしょうか。多くの場合、私たちはこの世界に対して、またほかのクリスチャンたちに対して、忠実に神様の恵みの務めを果たさないので、ノンクリスチャンはそれを見ないでしょう。

あなたはどうですか。その務めを忠実に果たすでしょうか。あなたの教会は?

あなたを見ると、周りの人々は神様の愛と恵みがあなたから彼らに、またほかのクリスチャンたちに流れることを見るでしょうか。

あなたは忠実に務めを果たしているでしょうか。

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エペソ人への手紙

神に受け入れられた

キリスト教が始まった当初、異邦人に対するクリスチャンのユダヤ人たちの考え方がどれほど変わったかは、驚くべきことです。

それ以前、ユダヤ人は神様との関係が自分たちだけに属するものだと考えていました。もし異邦人が神様との関係を望むならば、ユダヤ教の規律に従わなければなりませんでした。

そのため、神殿の中庭には「隔ての壁」が設けられていました。異邦人は異邦人の庭まで入って礼拝することはできましたが、その壁には次のような警告が記されていたのです。

「これより中に入る異邦人は、死刑に処す。」

パウロは、エペソの信徒たちにこの問題を思い起こさせました。

そのころ(異邦人たちがクリスチャン人なる前)は、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。(エペソ人への手紙2:12)

神様はアブラハムとの契約やモーセとの契約を通して、ユダヤ人と特別な関係を結ばれました。そして、神様はユダヤ人に対し、「メシアが来て、あなたを救う」と約束してくださったのです。

その一方、異邦人は部外者でした。彼らは神様との関係を持っておらず、その約束も彼らには当てはまりませんでした。そのため、彼らは神様から遠く離れ、救いの希望を持つことができませんでした。

言い換えれば、神の国の門は異邦人に対して閉ざされ、鍵がかけられていました。さらに、そこには「部外者立ち入り禁止」と記された看板が掲げられていたのです。実のところ、私たちもかつては同じ状態にありました。

ところが、パウロはここで続けて語ります。

しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。実に、キリストこそ私たちの平和です。

キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。

こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。

また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。(13-17)

パウロによれば、十字架の御業によって、イエス様は隔ての壁である敵意を打ち壊されました。

けれども、パウロが「隔ての壁」と言うとき、それは物理的な壁のことではありません。むしろ、パウロはモーセの律法について語っていました。

イエス様が十字架で死なれる前、その律法はユダヤ人と異邦人の間にそびえる大きな壁でした。ユダヤ人は律法を守る者でしたが、異邦人は律法の外にある者でした。

ところが、実際には、ユダヤ人も律法を完全に守ることができませんでした。そのため、律法はユダヤ人に対しても、異邦人に対しても、大きな壁となり、誰一人として神様に近づくことができなかったのです。

しかし、キリストが来られたとき、彼は律法を完全に成就し、私たちの罪の罰を十字架において支払ってくださいました。それゆえ、神様と私たちの間の壁だけでなく、ユダヤ人と異邦人の間の壁も取り除かれたのです。

クリスチャンにとって、「内」と「外」という区別はもはや存在しません。むしろ、イエス様を信じるユダヤ人も異邦人も、皆が一つとなったのです。

イエス様を信じるユダヤ人も異邦人も、すべての人には天の父に近づく道が開かれています。

私たちは別々の方法で天の父に近づくのではなく、同じ御霊を受け、その御霊を通して天の父に近づくのです。

神の国には、市民と外国人の区別はありません。むしろ、イエス様を信じるすべての人が神の国の市民となります。そして、私たちは皆、神様の相続人としての権利をすべて持っているのです。

だから今、私たちは皆、神様が住んでおられる一つの宮となります。私たちを通して、神様はご自身をこの世に現してくださいます。イエス様は私たちの要の石であり、使徒と預言者の言葉は私たちの土台です。

それなら、教会の兄弟姉妹を見るとき、私たちは彼らをどのように見ているでしょうか。もしかすると、彼らの人種や性別のゆえに、私たちは彼らを二流市民と見なしてしまうでしょうか。また、別の理由で彼らを見下してしまうことがあるでしょうか。

私たちは皆、イエス様への信仰によって、神様に受け入れられた者です。だから、敵意と隔ての壁を捨て去りましょう。

むしろ、パウロの言葉に従いましょう。

ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。(ローマ15:7)

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エペソ人への手紙

神様の作品

私は、今日の御言葉が本当に大好きです。

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ人への手紙2:10)

ある英語の聖書では、「作品」という語を「傑作」と訳しています。

神様は退屈しのぎに私たちを造られたのではありません。いい加減な思いつきでもありません。

神様は、愛と喜びを込めて、私たちを造ってくださいました。ご自身のご計画に従って、私たちを形づくられたのです。そして神様は、私たちをご覧になると、心から誇っておられるのです。

さて、私はもう一つの語句に目を留めました。それは、「キリスト・イエスにあって造られた」という表現です。

この語句を以前に読んだとき、私はパウロが、母の胎内で私たちが形づくられることを指しているのだと思っていました。

しかし今回、「キリストにあって」という言葉をあらためて読むと、パウロがまったく別の創造について語っているのではないかと気づかされました。

もちろん、神様は私たちが母の胎にいるときから造っておられます。でも、私たちがキリストにある者となるとき、神様は私たちを「新しい創造」として、もう一度お造りになるのです。

それゆえ、パウロは次のように語っています。

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5:17)

神様が私たちを新しく造られたときの目的は、私たちが再び罪に戻り、自分自身のために生き続けることではありません。むしろ、神様のご計画は、私たちがご自身があらかじめ備えてくださった良い行いのうちを歩むことなのです。

言い換えれば、神様は私たちを新しく造る前から、すでに私たちのためにご計画を持っておられました。私たちが歩むべき働きも、出会うべき人々も、神様はすでに整えてくださったのです。

ですから、私たちは日々こう祈るべきです。「神様、今日、あなたのご計画は何でしょうか。私は何をするべきでしょうか。今日、私は誰に触れるべきでしょうか。」

けれども、現実にはそのように祈ることを忘れてしまいがちです。そのために、神様が整えてくださったチャンスを見逃してしまうことがあるのです。私自身も、神様が備えてくださった機会を見過ごしてしまったことがあったと感じます。

私たちは、そのように生きないようにしましょう。今日という日は、ただの「普通の日」ではありません。むしろ、神様があなたのために特別なご計画を持っておられる一日なのです。

だからこそ、神様が今日整えてくださったことを、心を開いて探し求めましょう。

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エペソ人への手紙

神様の恵みの不思議さ

1章では、パウロは、エペソの信徒たちがキリストにあって自分たちが何を受けているのかを正しく理解できるようにと祈りました。

そして2章では、パウロはその真理を、彼らに対して明確に語り始めます。

私たちも神様のことばを伝えるとき、同じようにすべきです。まず、神様が語る相手の霊的な目を開いてくださるように祈り、そして神様のことばを、相手が理解できるように明確に語る責任があります。

さて、今日の箇所では、私たちは神様の恵みの深く不思議な性質を見ていきます。

私たちはかつて、自分の罪の中で死んでいました。霊的な命をまったく持っていませんでした。私たちはサタンの支配のもとを歩み、神様に背を向けていました。神様を喜ばせようという思いなど一切なく、むしろ自分自身の欲を満たすことのために生きていました。

私たちは、生まれながらにそのような心を持っていたのです。

だから、パウロはこう言いました。

私たちもみな。。。ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ人への手紙2:3)

私たちは、生まれた日から神様に背く心を持っていたため、神様の御怒りを受けるべき存在でした。

パウロの時代のユダヤ人たちのように、ある人は、神様を信じる家庭で育ち、御言葉に親しんできたことから、自分は神様に受け入れられていると思っているかもしれません。

しかし、パウロはユダヤ人について次のように語りました。「神様に背く私たちの心のゆえに、私たちもまた、神様の御怒りを受けるべきでした。私たちは律法を与えられていましたが、その律法を全うすることができなかったのです。」

今日も同じように、多くの人が教会に通い、聖書を読み、道徳的には他の人よりも良い人であるかもしれません。けれども、彼らもまた神様の律法を完全に守ることができないため、神様の御怒りを受けるべき存在なのです。

だから、ローマ書の中で、パウロはこう述べています。

そこに差別はありません。すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることが出来ず。。。(ローマ書3:22-23)

神様はその私たちの姿をご覧になって、私たちを見捨ててしまわれたのでしょうか。「彼らはもうだめだ」と呆れ果てて宣言されたのでしょうか。

いいえ、決してそうではありません。むしろ、パウロはこう語ります。

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。(エペソ2:4-7)

私たちは、かつて罪の中で死んだ者でした。死んだ者に何ができるでしょうか。何もできません。

けれども、神様は私たちをよみがえらせ、ご自身に応答できる心を与えてくださいました。そして、私たちが信仰をもって神様に立ち返ると、神様は私たちに新しい命を与えてくださいました。

神様は、罪という泥沼から私たちを引き上げ、清めてくださいました。そのため、私たちは神様の目において完全な者とされたのです。

もし神様がそれだけしてくださったのだとしても、私たちはその恵みの驚くべき豊かさにただただ圧倒されたことでしょう。

ところが、神様はそれ以上のことをなしてくださいました。神様は私たちを、イエス様とともに天に座らせてくださいました。さらに、私たちを御子として養子にしてくださったのです。そしてある日、神様の相続人として、私たちはイエス様とともに治めることになるのです。

なぜ、神様はそこまでしてくださるのでしょうか。それは、ご自身の恵みの豊かさをあらわすためです。神様は、私たちがその恵みの素晴らしさをたたえるようにと望んでおられたのです。

そして、パウロはこの恵みの物語を、次のように締めくくります。

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(8-9)

神様の恵みの不思議さとは、こういうことです。私たちは救いを求めようともせず、その救いにふさわしくもなかったのに、神様はなおも私たちを救ってくださいました。

私たちの救いは、ただ神様から来たものです。そして、私たちの信仰さえも神様から与えられたものです。「私は救いに値する」と誇ることができる人は、だれひとりいません。救いは初めから終わりまで、完全に神様の賜物なのです。

さらに神様の恵みの不思議さは、私たちを単に救ってくださったということだけではありません。神様は私たちを養子として迎えてくださいました。そして私たちを、ご自身の相続人としてくださったのです。

だからこそ、私たちは日々その恵みに驚き、心からたたえましょう。

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エペソ人への手紙

本当に分かることができたなら

私たちは、キリストにあってどれほど祝福されているかを理解しているでしょうか。おそらく、私たちはその真理を十分に把握してはいないかもしれません。

もちろん、私たちは神様の愛と恵みについて聞き、それを信じています。けれども、その愛と恵みの深さを本当に理解しているでしょうか。

私は三十年以上クリスチャンとして歩んでいますが、今なお、その愛と恵みという真理の「浅瀬」を歩いているにすぎないと感じています。

もしかすると、だからこそ、パウロはエペソの信徒たちのために、次のように祈ったのではないでしょうか。

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。(エペソ人への手紙1:17-19)

パウロは、エペソのクリスチャンたちが神様を深く知るために、聖霊様を与えられたと語っています。

もちろん、彼らはすでにある程度神様を知っていましたが、聖霊様はさらに神様を知ることができるように、知恵と啓示を与えてくださいました。聖霊様がおられなければ、私たちは神様を知ることにおいて、すぐに限界にぶつかってしまいます。

けれども、パウロは別の手紙で、このようにも記しています。

それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。

人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。(第一コリント2:10-11)

要するに、聖霊様を通して、私たちは本当に神様を知ることができます。私たちは神様についての事実を知るだけでなく、神様ご自身を知ることができるのです。

もちろん、私たちは完全に神様を知り尽くすことはできません。その深さを探るには、永遠の時を要するでしょう。たとえ天国に到達しても、私たちは毎日、神様について新たなことを知ることになるに違いありません。

しかし、聖霊様が私たちのうちに住んでおられ、天の父を私たちに現してくださることによって、私たちは少しずつ神様を知るようになっていくのです。

とはいえ、聖霊様は神様についてだけを教えてくださるわけではありません。パウロはこのように語りました。

しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。(第一コリント2:12)

神様は私たちに何を与えてくださったのでしょうか。上記のパウロの祈りの中に、その答えが記されています。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。(エペソ1:18-19)

私たちは、神様が与えてくださった希望を本当に知っているでしょうか。たとえこの世界が暗く感じられるとしても、「この世界を越えた何かがある」という確かな希望を抱いているでしょうか。

また、イエス様がすべてを治められるという希望を持っているでしょうか。もちろん霊的な領域において、イエス様はすでにすべてを統治しておられます。なぜなら、イエス様は十字架においてサタンに勝利されたからです。

けれども、私たちはある日、すべての人がひざまずき、「イエス様は主である」と告白する時が来ることを望み見ているでしょうか。私たちは、イエス様が最後の敵である死を打ち破ってくださるという希望を持っているでしょうか。

さらに、私たちは神様が豊かに注いでくださるその愛を、どれほど知っているでしょうか。

神様が私たちを「ご自身の栄光に富んだ資産」と呼んでくださっていることを、私たちは知っているでしょうか(※新改訳聖書の18節脚注を参照)。

そして、私たちが罪や病や死から解放され、復活の体を受ける日を神様ご自身が待ち望んでいてくださることを、私たちはどれほど心に留めているでしょうか。

私たちは、神様の力にアクセスできることを本当に知っているでしょうか。

その力こそが、イエス様を死から復活させたのです。その力は、私たちを日々きよめてくださいます。その力によって、私たちは新しい、栄光に満ちた体を受けるのです。その力によって、私たちは目の前の問題や試練を乗り越えることができます。

最後に、私たちは、自分がキリストにあって何者であるかを知っているでしょうか。私たちは、キリストのからだの一部なのです。私たちはこの世に遣わされ、イエス様の臨在を広げるように召されています。私たちは、すべての場所を神様の恵みと愛で満たすように呼ばれているのです。

このすべてのことを、私たちはどれほど理解しているでしょうか。もし本当に理解したならば、私たちの人生はどれほど大きく変えられることでしょうか。

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エペソ人への手紙

神様の愛によって選ばれて、祝福された

エペソ人への手紙1~2章を読むと、神様がイエス様を信じる私たちに何を与えてくださったのか、その驚くべき恵みにあらためて心を打たれます。

パウロは、この手紙を賛美の言葉で始めています。

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ人への手紙1:3)

私たちは、どのような祝福を受けたのでしょうか。

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ。。。(4-8)

それは、なんと素晴らしいことでしょう。パウロによれば、神様はこの世を造られる前から、すでに計画を持っておられました。神様は、私たちがご自分の御前で聖く、傷のない者となるように、私たちを選ばれたのです。

私たちが罪深く、反抗的な者になることをよくご存じであったのに、それでもなお神様は私たちを選ばれました。

そのため、神様は私たちを救い、ご自分の子として養子にする計画を立ててくださいました。

私たちの罪が赦されるようにと、イエス様をお遣わしになりました。イエス様は十字架で死なれ、私たちの罪の罰を身代わりに受けてくださいました。

イエス様の血によって、神様は罪の奴隷であった私たちを自由にし、ご自分に愛されている息子や娘として、私たちを養子にしてくださいました。

さらに、「聖霊様は、私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」(14節)

聖霊様は私たちを守り、サタンが私たちの神様との関係を壊そうとする試みを阻んでくださいます。また、聖霊様の臨在と、私たちの人生におけるその働きは、天国の片鱗です。なぜなら、天国に行けば、私たちは神様の御業を見、神様のみ顔を仰ぐことができるからです。

なぜ神様はそのように私たちを祝福してくださるのでしょうか。それは、私たちの良い行いへの報いなのでしょうか。いいえ、そうではありません。神様のみこころの良しとされるところに従って、そうしてくださったのです。

神様が選ばれたとき、誰を救い、誰を救わないかを無作為に決められたのではありません。むしろ、パウロによれば、神様は愛をもって私たちを選ばれました。私たちはその愛にふさわしくなかったのに、それでも神様は愛をもって、私たちに豊かな恵みを注いでくださいました。

神様がなぜ私たちを選ばれたのか、私たちには決して分からないでしょう。しかし、神様はご自身のご計画に基づいて、私たちを愛してくださったのです。

そういうわけで、救いの栄光は私たちに属するものではありません。むしろ、この個所で、パウロは三度こう語っています。「このすべては、神様の栄光のためです。」(6、12、14)

簡潔に言えば、私たちは神様の驚くべきご計画の一部です。その計画とは、この反抗的で罪深く、混乱した世界を、イエス様の支配のもとに一つにまとめ上げることです。

率直に言うと、私はこの真理の素晴らしさを十分に伝えることはできないと感じています。

神様とその恵みの素晴らしさを語り尽くせる言葉は、私にはないと思います。

だからこそ、私はしばらく黙って、その恵みを静かに噛み締めたいと思います。

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ガラテヤ人への手紙

大事なのは。。。

今日の箇所で、パウロはこの手紙の中で以前に述べたことをまとめています。特に、何が重要であり、何が重要ではないかについて語っています。パウロによれば、

  • 周りの人々が私たちについてどう考えるかは重要ではありません。特に、彼らに認められる必要はありません。(ガラテヤ人への手紙6:12)
  • 律法に従うための私たちの努力も重要ではありません。なぜなら、律法によって義と認められたいと思うなら、律法を完全に守らなければなりません。ところが、完全に律法を守れる人は誰もいないからです。(ガラテヤ人への手紙6:13a)
  • 神様のために私たちが成し遂げることへの誇りも重要ではありません。特に、神様の御心を誤解しているなら、その誇りは無意味なものになります。(ガラテヤ人への手紙6:13b)
  • 割礼を受けているかどうかも重要ではありません。心に変化をもたらさない儀式や宗教的な習慣は、何の意味も持ちません。(ガラテヤ人への手紙6:15a)

私たちは、これらすべてのものに対して死んだはずです。また、これらのものも私たちに対して死んだはずです。(14)

その一方で、重要なのはただ一つ。それは、イエス様の十字架の御業によって、私たちが新しい創造物とされたということです。(14-15)

私たち自身の努力によって変わるのではありません。むしろ、聖霊様の力によって、私たちは完全に変えられるのです。重要なのは、この真理です。

そして、パウロはこう語りました。

この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。(16)

ユダヤ人のクリスチャンたちは、ガラテヤのクリスチャンたちにこう言いました。「割礼を受け、モーセの律法に従えば、神のイスラエルに属することができます。」

しかし、パウロはこう答えました。「その考え方は誤っています。イエス様への信仰と聖霊様の力によって、あなたたちは変えられ、神様の民とされるのです。」

この真理を理解すると、どうなるでしょうか。あなたは平安を得ます。自分の力で神様の律法に従おうとすることの重圧から解放されます。そして、神様の憐れみをより深く知るにつれ、裁かれることへの恐れも消えていきます。

あなたはどうでしょうか。自分の力でクリスチャン生活を歩もうとしていませんか。聖書の規則を守ることで、良いクリスチャンになろうと考えていませんか。

あるいは、あなたは受けた恵みによって安心し、毎日、聖霊様と共に歩み、その導きに従っているでしょうか。

パウロがそうしたように、私もあなたのために祈ります。

兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。(18)

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ガラテヤ人への手紙

私たちが蒔く種

私は、良い農家にはなれなかっただろうと思います。子どものころ、みかんの種かリンゴの種を蒔きましたが、すぐに成長してほしいと思っていました。1~2日経っても何も変化がなかったので、すぐに諦めてしまいました。

農業には忍耐が必要ですが、当時の私には全く忍耐がありませんでした。

とはいえ、ある意味で私たちは皆、種を蒔く者です。そして、私がかつて蒔いた種とは違い、最終的に私たちは自分の蒔いたものを刈り取ることになります。

そして、パウロはこう書きました。

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。

自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。(ガラテヤ人への手紙6:7-8)

ガラテヤの教会や他の教会でも、ある人々はパウロの教えを曲げました。パウロは恵みによる救いを教えましたが、彼らはこう言いました。

「パウロの言うことは、私たちが好き勝手に生きてもよいという意味です。あえて罪を犯しても、どうせ赦されるのだから。」

しかし、パウロは答えました。「神様は愚かではありません。あなたたちは神様を侮ることはできません。神様はあなたたちの心と行いをすべてご存じです。あなたたちがイエス様を信じると主張しながら、自分勝手に生きるなら、神様はその本質を見抜かれるでしょう。

だから、この世では罪の結果を何とか避けることができても、裁きの日に神様の前に立つとき、あなたは滅びます。」

その一方で、もしあなたが本当に神様を愛し、聖霊様を喜ばせようとするなら、永遠の命を刈り取ることになるのです。

そして、パウロは私たちを励まします。

失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。(9)

神様の働きの成果をすぐに見られないと、私たちは簡単に落胆してしまいます。私たちはファストフードの文化に生きており、すぐに結果を見たいと思ってしまいます。けれども、種が成長するには時間がかかります。一朝一夕で育つものではありません。

同じように、御霊を喜ばせるために蒔く種も、すぐに成長しないことがあります。時には、一生をかけてもその実を見ることができない場合もあるでしょう。

それでも、パウロは私たちを励ましているのです。

「その種は必ず成長します。あきらめてはいけません。失望してはいけません。蒔いたものから成果を刈り取ることができます。さらに、永遠の命を刈り取るのです。」

では、私たちはどうすればよいのでしょうか。パウロはこう語ります。

ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。(10)

御霊を愛し、喜ばせる方法の一つは、周りの人々を祝福することです。神様は私たちを、家族、友人、同僚、そしてクリスチャンの兄弟姉妹に対する祝福となるように召されました。

そのように歩むとき、神様は私たちが蒔いた種の実を刈り取ることを約束しておられます。

あなたはどのような種を蒔いているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙

私たちを支えてくれる人を支える

牧師の働きは非常に大変です。もし神様からの召しがなければ、私も牧師になろうとは思わないでしょう。

牧師は、日曜日のメッセージを準備するだけでなく、教会のメンバーの問題にも対応しなければなりません。その責任を担うとき、彼らはメンバーの不平にも耳を傾けなければなりません。

すべてのメンバーが教会や牧師に満足する教会は、おそらくどこにもないでしょう。

私たちの牧師たちも、自分自身の負担を抱えています。もちろん、イエス様は彼らに教会を導く使命を与えられました。

けれども、それだけではなく、彼らには家族を支える責任もあります。そのため、人の不平や批判を聞くと、その負担が急に重くなり、時には耐えきれなくなることもあるでしょう。

パウロは、この現実をよく理解していたと思います。だから、彼は「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。」と言った後、こう語りました。

みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。(ガラテヤ人への手紙6:6)

要するに、牧師は私たちに霊的な栄養を与え、霊的に支えてくれます。けれども、彼ら自身も支えられる必要があります。だからこそ、私たちはできる限り彼らを支えるべきです。

もちろん、彼らが家族を十分に支えることができるように、私たちは牧師を経済的に支える必要があります。そうすれば、彼らは神様から委ねられた働きに専念できるでしょう。しかし、それだけではなく、彼らには私たちの祈りと励ましの言葉が必要です。

私たちは牧師を「超クリスチャン」と見なしてしまいがちです。そのため、彼らもただの人間であり、私たちの支えを必要としていることを忘れてしまいます。私も時に忘れてしまうことがあります。

だから、意図的に彼らを支えましょう。彼らのために祈っていることを伝えましょう。メールや電話で励ましの言葉を届けましょう。言い換えると、牧師にとっての祝福となりましょう。

あなたはどうでしょうか。あなたは牧師にとって祝福となっていますか。

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ガラテヤ人への手紙

神様から委ねられた仕事に集中する

信じられないことですが、約25年前に私は日本へ引っ越しました。この25年間、神様が私を通して人々に触れられるのを見てきました。

しかし同時に、私はどれだけのことを成し遂げたのかを自問することもあります。神様は私にもっと期待されていたのでしょうか。正直なところ、私には分かりません。

自分自身を他の人とその働きと比べてしまい、落胆することは簡単です。なぜなら、彼らは私よりも神様のために多くのことを成し遂げているように見えるからです。

このことを考えると、私は謙遜な態度を持つべきだと思います。

だから、今日の箇所を読み、じっくりと味わううちに、さまざまなことを思い巡らせました。

そして、パウロはこう語りました。

だれかが、何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです。(ガラテヤ人への手紙6:3)

それを読むと、私たちは謙遜にならざるを得ません。なぜなら、私たち皆、何者でもないからです。何か特別な存在でありたいと願いますが、実際には取るに足りないしもべであり、ただなすべきことをするだけなのです。(ルカ 17:10)

もし私たちが何者かであると思うなら、自分自身を欺いているのです。だからこそ、私たちは自分自身にこう問いかけるべきです。「私は果たすべき役割を忠実に果たしているだろうか。」

そして、パウロはこう語ります。

それぞれ自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分にだけは誇ることができても、ほかの人には誇ることができなくなるでしょう。

人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。(ガラテや人への手紙6:4-5)

私たち皆、神様のしもべであり、神様は私たち一人ひとりにそれぞれの役割を与えてくださいました。だから、私たちは自分自身を他の人と比べるのではなく、神様から委ねられた仕事に集中すべきです。

また、もし私たちが神様のために何かを成すことができるなら、それを誇るべきではありません。自分が偉いと思ったり、他の人よりも優れた者だと思ったりしてはなりません。

むしろ、私たちはイエス様に「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言っていただけることを望むべきです。

だから、自分自身を他のクリスチャンと比べてしまいそうになるとき、ペテロに対するイエス様の言葉を思い出しましょう。

あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。(ヨハネ21:22)

あなたは何に心を向けていますか。

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ガラテヤ人への手紙

御霊の実が形作る人間関係

神様との関係について考えるとき、私たちは次のような質問をよくします。「私は毎日、聖書を読んでいるだろうか。毎日祈っているだろうか。毎週の日曜日に教会へ行っているだろうか。」

けれども、神様との関係や自分の霊的な健康を考えるとき、本当に重要な尺度は私たちの人間関係です。

今日の箇所では、その真理を見ることができます。割礼やモーセの律法の従順についての議論のせいで、ガラテヤの教会では多くの人間関係の問題が次々と起こったようです。つまり、嫉みや争い、憤り、党派心、分裂などが生じたのでした(ガラテヤ人への手紙5:20-21)。

そのため、パウロは彼らに警告しました。

気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。(ガラテヤ人への手紙5:15)

そして、パウロは、人間関係の中で私たちが御霊の実を結ぶべきであると語ります。例えば、愛、寛容、親切、善意、誠実などです。(22-23)

前回の記事で、私たちはガラテヤ人へのパウロの訓戒を見ました。

「あなたたちは、古い生き方を十字架につけたのではないでしょうか。その生き方に戻ってはなりません。自分の罪深い心に従ってはいけません。むしろ、御霊によって歩みなさい。

もしあなたたちがうぬぼれて、互いに挑み合ったり、妬み合ったりすると、聖霊様の導きに従うことができません。」(24-26)

では、私たちは互いにどのように接するべきでしょうか。6章では、パウロは実用的な勧告を与えています。

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。(6:1)

律法主義的なクリスチャンには、二つの問題がありがちです。それはプライドと他者を責めることです。プライドによって、私たちは「私は良い人だ」と主張します。そして、人を責めるとき、私たちは「おまえはだめだ」と言ってしまいます。

もしかすると、ガラテヤの教会で、罪に陥った人がいたとき、ほかのクリスチャンたちは狼の群れのようにその人を攻撃したかもしれません。

けれども、パウロは彼らに問いかけました。「あなたたちは本当に御霊の人でしょうか。御霊はあなたたちを本当に導いているでしょうか。あなたたちは御霊の実を結んでいるでしょうか。

御霊の実は、柔和、親切、寛容、愛です。そのような態度をもって、その人を扱うべきです。その人を滅ぼそうとしてはいけません。その人を正してあげなさい。」

その際には謙遜な態度を持ちなさい。あなたたちも弱い者であることを認めなさい。あなたが罪に陥る可能性もあることを認めなさい。だから、相手の罪だけに集中するのではなく、自分自身も罪に落ちないように気をつけなさい。

そして、パウロはこう語りました。

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。(6:2)

パウロが意味したことは、あるクリスチャンが罪悪感の重荷を担っているときや、罪と戦っているときに、私たちがその人を支え、励ますべきだということです。

パウロの言葉を言い換えると、「あなたはキリストの律法を守りたいと思うでしょうか。罪と戦っている人を攻撃してはなりません。その人を励ましなさい。その人のために祈りなさい。」

もちろん、罪だけではなく、クリスチャンが他の問題を抱えているときにも、私たちはその人を支え、励ますべきです。

それこそが御霊に導かれる人です。その人は、ただ聖書を読み、祈るだけではありません。むしろ、その人の人間関係には、御霊の実が豊かに結ばれます。

私は自分がそのような人かどうか分かりません。それでも、そのような人になりたいと願っています。あなたはどうでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙

全く新しい生き方

前回の記事では、罪の豚小屋から自由にされた私たちが、再びその豚小屋に戻らないことについて話しました。

しかし、パウロはもう一度繰り返します。私たちは、自分の力で律法を守ろうとする態度によって、その豚小屋を避けることはできません。

むしろ、パウロはこう言います。

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。

肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。(ガラテヤ人への手紙5:16-17)

パウロはこうは言いませんでした。「自分の力で律法を守れば、肉の欲望を満たさないだろう。」

むしろ、パウロは「御霊によって歩みなさい」と言います。要するに、私たちは毎日、聖霊様の力と導きによって歩まなければなりません。

だから、私たちは毎日、聖書を読み祈った後、神様に「じゃあ、行ってきます。またね。」とは言いません。

むしろ、私たちはこう祈るべきです。「聖霊様、私とともに歩んでください。一日中、私があなたの御声を聞こえるように。私があなたの導きに従うように助けてください。」

そうすれば、私たちは罪深い心の欲望を満たしません。

なぜでしょうか。私たちの罪深い心が望むことは、聖霊様が望まれることと正反対だからです。私たちの古い態度や習慣は、聖霊様が私たちの人生に望まれることとは、まったく異なっています。だから今なお、私たちは罪と戦い続けます。

パウロはローマ人への手紙 7:14-25 で、その戦いについて語っています。

しかし、毎日毎日、一瞬一瞬、私たちは聖霊様の声を聞き、従うことを学ぶにつれて、もはや古い道を歩むことはなく、むしろ、聖霊様は私たちを全く異なる道へと導いてくださいます。

だから心に留めておきましょう。律法の下にある人生は、聖霊様によって生きる人生とはまったく異なるものです。パウロはこの真理をはっきりと伝えています。

御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。(18)

その二つの道は、どのように違うのでしょうか。

律法の下にある場合、私たちは自分の力で生きなければなりません。つまり、自分の力で律法に従わなければならないということです。

けれども、聖霊様によって生きる場合、私たちは聖霊様の力によって生きます。

また、律法の下にある場合、私たちは常に裁かれているように感じます。

一方で、聖霊様によって生きる場合、私たちは「アバ、父」と叫びます。

さらに、聖霊様によって生きる人生は、罪の支配下にある人生とはまったく異なります。

パウロは、さまざまな罪を列挙しましたが、その内容は恐ろしいものです。(19-21)

パウロによれば、そのような罪を犯し続ける者は神の国を相続できません。

その一方で、聖霊様が住んでおられる人は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を持つ人です。(22-23)

ここで二つのことに注意してください。

一つ目は、その実があなたの人生において未成熟かもしれませんが、成長しているはずだということです。今のあなたの人生は、以前の人生と比べると、少なくとも少しは変化しているはずです。

二つ目は、パウロが「あなたの努力の実は、愛、喜び、平安などです。」とは言わないことです。むしろ、「御霊の実は、愛、喜び、平安などです。」と言います。

あなたが、まことのぶどうの木—つまりイエス様にとどまるなら、その実を結び始めるのです。(ヨハネ15章)

けれども、その関係を持っていなければ、その実を結ぶことはできないのです。

だからこそ、私たちは律法を守ることに集中すべきではありません。むしろ、イエス様と聖霊様とともに歩むことに集中すべきです。

そして、パウロはこう語ります。

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。(24)

真のクリスチャンたちは、神様に対する頑なで反抗的な心を十字架につけました。彼らは罪深い心に屈服しません。罪との戦いはあるかもしれませんが、その罪を抱くことはありません。

だからこそ、パウロは私たちに訓戒します。

私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。(25)

あなたは、神様が与えてくださった聖霊様によって永遠の命を受けました。

それでも今、あなたは自分の力でクリスチャン生活を送ろうとしていないでしょうか。

あるいは、あなたは毎日、神様について行き、御声を聞き、神様の力によってその導きに従っているでしょうか。

あなたは、どのように生きていますか。

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ガラテヤ人への手紙

豚小屋に戻る?

この手紙の中で、パウロは、救いを得るためには神様の律法にも従わなければならないと考える人々に語っています。

もちろん、パウロは彼らの考えに同意できませんでしたが、彼らの懸念の一つには共感できました。それは、もし私たちがもはや律法の下にないのなら、好き勝手に生きても構わないのではないかという誤った考え方です。

あるガラテヤ人たちは、「もし私たちが律法の下にないのなら、自分のために生きてもいいだろう。恋人と寝てもいいし、娼婦と寝てもいいだろう。どんな罪を犯しても構わないだろう」と考えました。

そのため、パウロはこの考え方について語ります。

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。(ガラテヤ人への手紙5:13)

パウロは言いました。「あなたがたは自由を与えられるために召されました。」

では、神様は私たちを何から自由にされたのでしょうか。

まず、神様は私たちを律法から自由にしてくださいました。神様の子として受け入れられるために、私たちは律法に完全に従う義務を負う必要はありません。また、神様の子供として、私たちが失敗しても、神様の裁きから解放されています。

けれども、神様は私たちをもう一つのものからも自由にされました。それは、私たちを滅ぼす罪深い生活です。クリスチャンになる前、私たちは罪の豚小屋に暮らしていました。そして、自分の罪深い心に従って生きていました。

では、罪深い心とは何でしょうか。その心は神様に反抗し、自分のために生きようとします。けれども、その罪深い心に従った結果、私たちの人生はめちゃくちゃになりました。結婚や人間関係、健康など、すべてが崩れてしまいました。

それでも、私たちを自由にするために、キリストは死なれました。イエス様は私たちの心に手術を施してくださいました。イエス様は、私たちの石の心を取り除き、肉の心を与えてくださいました。(エゼキエル書 36:26)

要するに、イエス様は私たちの反抗的な心を取り除き、神様に従いたい心を与えてくださいました。そして、私たちがイエス様に従うにつれて、イエス様は私たちを滅ぼす罪から自由にしてくださいます。

それでも、私たちの中には罪の名残がまだ残っています。つまり、罪深い態度や習慣が消えずに残っているのです。私たちは生きる限り、それらと戦い続けなければなりません。

だからこそ、パウロはこの言うのです。「その古い態度や習慣に屈服してはいけません。あなたは豚小屋に暮らしていた時、惨めな人生を送ったでしょう。なぜまたその豚小屋に戻りたいと思うのですか。むしろ、愛をもって互いに仕え合いなさい。」

律法と罪からの自由の喜びを本当に知りたいと思いますか。愛をもって人に仕えましょう。神様の愛を楽しむにつれて、その愛を周りの人々に分かち合いましょう。私たちは神様から受けた祝福を周りの人々に分け与えるためにデザインされました。

そうすれば、真の喜びを知るでしょう。豚小屋に戻ることは、喜びにつながりません。

そして、パウロはこう言います。

律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。(14)

言い換えると、もしあなたが本当に律法に従っているかどうかを心配しているなら、愛をもって人々に仕えなさい。自分の自由をそのように用いるなら、自然と律法に従うことになります。

一方で、もし私たちが豚小屋に戻るなら、その結果はどうなるでしょうか。

気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。(15)

あなたはどうですか。イエス様からの自由の喜びを知っているでしょうか。もしかすると、豚小屋に戻ってしまったのかもしれません。では、あなたはこれからどうするでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙

十字架の躓きを取り除こうとしている?

この前、私は言いましたが、多くの人々はクリスチャンのことを偏狭だと思っています。なぜなら、私たちはキリストの十字架の御業だけによって人が救われると信じているからです。パウロは、その真理を「十字架の躓き」と呼びました。

ユダヤ人のクリスチャンたちは、その十字架の躓きを捨てようとしていました。けれども、彼らの動機は、現代の人々の動機とは異なっていました。

ユダヤ人のクリスチャンたちは、ノンクリスチャンのユダヤ人たちの意見を気にしていました。

ノンクリスチャンのユダヤ人たちは、十字架のメッセージに反発しました。なぜなら、福音は信仰によってイエス様に来るすべての人々を歓迎するからです。クリスチャンたちは、割礼を受ける必要もなく、律法の細かい規定に従う必要もありませんでした。

ノンクリスチャンのユダヤ人たちは、二つの理由で反発しました。

一つ目は、彼らがモーセの律法を真剣に考えていたことです。その律法によって、彼らは神様の民と認められていました。

ところが、パウロによれば、神様の民になる方法は律法に従うことではなく、イエス様に対する信仰です。

だから、パウロはこう言いました。

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。(ガラテヤ人への手紙3:28)

簡単に言うと、ユダヤ人たちが誇る神様の律法によって、人は神様の民にはなりません。むしろ、イエス様を通して神様に来る人は皆、神様の民と認められます。

けれども、ユダヤ人たちは自分のプライドを捨てたくなかったため、その真理を受け入れることができませんでした。

それが、彼らがイエス様の十字架に反発する二つ目の理由でした。彼らは、神様に選ばれた民であることを誇っていました。神様が彼らだけに律法を与えたので、彼らは自分たちがほかの国民よりも正しいと思っていました。

もちろん、その律法を完全に守ることはできませんでしたが、それでも彼らは誇りを持っていました。

このように、プライドは人とキリストを隔てる大きな壁です。彼らは自分の宗教を誇り、自分の義を誇ります。

そのため、クリスチャンたちが「あなたの宗教は足りません。あなたの義は足りません」と言うと、ノンクリスチャンは怒ります。

けれども、自分の宗教や義にしがみついている限り、彼らは神様に近づくことができません。むしろ、神様から離れてしまっています。

パウロは、「割礼が必要だ」と教えた人について、こう言いました。

しかし、あなたがたを動揺させる者は、だれであろうと、裁きを受けます。。。

あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと切除(つまり、去勢)してしまえばよいのです。(ガラテヤ人への手紙5:10,12)

以前、パウロは偽りの福音を宣べ伝える者は神様に呪われると語りました。(ガラテヤ人への手紙 1:8-9)

この箇所では、パウロは皮肉を用いて、同じことを繰り返しています。「もし、割礼を受けたいと思うなら、いっそ去勢された方がいいでしょう。」

ユダヤ人たちはパウロの言葉を聞いて驚いたことでしょう。なぜなら、モーセの律法によれば、去勢された者は主の集会に加わることが許されていなかったからです。(申命記 23:1)

しかし、それこそがパウロの意図でした。「あなたが割礼を受けるなら、主の集会に加わる資格を失います。あなたは真の神様の民ではありません。」

このように、イエス様の十字架を拒み、自分の宗教と義によって救いを得ようとする者は、神様とその民から離れています。

もしあなたが、クリスチャンのユダヤ人たちのように、他の人を喜ばせるために福音を薄めるなら、あなたも神様とその民から離れるかもしれません。

十字架は、多くの人々にとって躓きです。それでも、私たちは彼らを喜ばせようとしてはなりません。たとえ相手が怒ったとしても、私たちは福音を正しく伝えなければなりません。

だからこそ、自分自身に問いかけるべきです。「私は誰を喜ばせようとしているのか。神様か、それとも周りの人々か。」

パウロの言葉を心に留めておきましょう。

今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。

もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。(ガラテヤ人への手紙1:10)

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ガラテヤ人への手紙

割り込まれた

私が大嫌いなことの一つは、運転中に突然私の車線に割り込む人がいることです。そのせいで、私は急ブレーキをかけざるを得なくなります。最悪の場合、すぐに別の車線へ移らなければなりません。

今日の箇所で、パウロはこのような例えを用いて語ります。

ガラテヤ人たちはクリスチャンのレースの中で、ゴールを目指し、恵みによって走っていました。

ところが、突然、ユダヤ人のクリスチャンたちが割り込み、ガラテヤ人たちがそのゴールに到達することを妨げました。さらに、ガラテヤ人たちは恵みの道から逸れ、律法の道を走り始めてしまったのです。

だから、パウロはガラテヤ人たちにこう語りました。

あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたの邪魔をして、真理に従わないようにさせたのですか。

そのような説得は、あなたがたを召された方から出たものではありません。(ガラテヤ人への手紙5:7-8)

要するに、「あなたたちはよく走っていたのに、なぜ恵みの道を逸れ、律法の道を走り始めたのですか?それはイエス様の導きではありません。イエス様は、あなたたちがイエス様への信仰によって恵みの道を走るように招かれたのです。」

そして、パウロはこう語りました。

わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませるのです。(9)

この箇所の伝統的な解説では、ガラテヤ人たちが注意しなければ、ユダヤ人クリスチャンたちの教えがすぐに教会に浸透してしまう危険性があるとされています。

けれども、もう一つの応用が考えられます。

もし私たちが「神様に受け入れていただくためには律法を守らなければならない」という教えの種を受け入れるならば、結局その考え方は私たちの思考や生き方を支配してしまいます。

その結果、私たちは「神様の愛に値しないにもかかわらず、神様に受け入れていただいている」という喜びを失ってしまうのです。

むしろ、私たちは律法を完全に守ることができないと気づき、落胆してしまいます。または、律法を守れていると思うことで、プライドを持ち始めてしまいます。

ガラテヤ人の問題は、『スター・ウォーズ』のヨーダの言葉を連想させます。 「もし暗い道を歩き始めると、その道はあなたの運命を支配します。その道はあなたを食い尽くしてしまいます。」

結局、ヨーダの言葉は完全に正しかったわけではありません。アナキン・スカイウォーカーは最終的にその道から脱出しました。しかし、その前に、彼は自らの人生をめちゃくちゃにしてしまいました。

だから、パウロはガラテヤ人たちに警告しました。 「割礼を受けるな。それを受ければ、律法に従う義務はそれだけでは終わりません。むしろ、あなたはすべての律法を守らなければならなくなるのです。

毎日毎日、一瞬一瞬、その律法を完全に守っているかどうかを気にしなければならなくなります。そして、その恐れがあなたの思いを支配し、神様があなたのために望まれた自由と喜びを失ってしまうのです。」

あなたは最終的にその道を抜け出せるかもしれません。しかし、その日が来るまで、あなたのクリスチャン生活は混乱してしまうでしょう。

さらに、律法主義の生き方によって、あなたは周りの人々を裁き始め、彼らの人生も混乱させてしまうかもしれません。

あなたはどうでしょうか。毎日、神様の恵みによって歩んでいるでしょうか。もしかすると、プライドによって歩んでいるかもしれません。または、神様の裁きを感じ、常に罪悪感を抱いているでしょうか。

ほかの人があなたの歩みを妨げることを許さないでください。

神様があなたをご自身の子供として受け入れてくださったことを覚えていてください。そのことを忘れずにいるならば、神様の計画のもとで、あなたは神様の子供として自由と喜びを知ることができるのです。

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ガラテヤ人への手紙

恵みから落ちてしまう危険性

多くの人々はこの記事のタイトルを読んで、こう考えるかもしれません。「キリストから離れる?恵みから落ちてしまう?それは何と酷いことだろう。」

アメリカでは、ノン・クリスチャンであっても「恵みから落ちてしまう」という表現を使うことがあります。この言葉の意味は、ある尊敬されていた人が酷いことをしたために、その評判が失墜するということです。

しかし、この箇所でパウロが話しているのは、殺害や強姦、賄賂、その他の重大な犯罪についてではありません。

むしろ、パウロは律法主義について語っています。つまり、もし私たちが律法によって神様に義と認められようとするならば、私たちはキリストから離れ、恵みから落ちてしまうのです。

パウロは彼らに警告しました。

よく聞いてください。私パウロがあなたがたに言います。もしあなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに、何の益ももたらさないことになります。

割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。(ガラテヤ人への手紙5:2-3)

要するに、「律法主義の考え方を受け入れるならば、すべての律法を完全に守らなければ、あなたは神様に義と認められません。

割礼を受けるだけでは十分ではありません。旧約聖書に書かれているすべての律法に従わなければなりません。さらに、もしあなたが律法によって神様に義と認められようとするならば、キリストの死はあなたに何の益もないのです。」

ユダヤ人のクリスチャンたちが教えていたのは、「キリストの死を信じ、さらに努力して律法に従うならば、ガラテヤ人たちは義と認められる」という考え方でした。ところが、その考え方は間違っていました。

救いの道は二つしかありません。一つは、人が完全に律法を守ることです。もう一つは、イエス様を信じて、イエス様の義を受けることです。それ以外の方法は存在しません。

だから、パウロはガラテヤ人たちにこう語りました。

律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。(4)

律法によって神様に義と認められようとするならば、あなたは実際にイエス様に背を向けているのです。あなたは基本的にイエス様にこう言っているのです。「あなたの十字架の働きは私には十分ではありません。」

その態度を取ることによって、あなたはイエス様の働きを否定することになってしまうでしょう。

モルモン教の教えによれば、あなたが努力して善を行えば、神様はあなたに恵みを与えてくださり、あなたは救われるとされています。

ところが、自分の行いによって救いを得ようとするならば、パウロの教えによれば、あなたは恵みを受けることができず、むしろ、恵みから落ちてしまうのです。

パウロは続けてこう言います。

私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。(5)

私たちは今もなお罪を犯しています。それでもイエス様の十字架の働きによって義と認められています。

さらに、それだけではなく、私たちはより素晴らしい希望を持っています。それは、イエス様が再び来られる日、私たちは変えられ、真に義なる者となり、二度と罪を犯さなくなることです。

ローマ8:23で、パウロは「私たちは新しい体を受ける日を待ち望み、うめく」と語っています。なぜ、私たちはその日を待ち望むのでしょうか。

その理由の一つは、もう病気や死に向き合う必要がなくなるからです。

しかし、もう一つの理由は、罪との戦いを経験しなくなることです。その日、私たちは真に罪から自由にされます。

それこそが、私たちの義の希望です。そして、その希望を持っている人は罪に耽ることはありません。むしろ、自分を救ってくださった方を喜ばせたいと願うのです。それは、自らの救いを得るためではなく、すでに与えられた救いを喜ぶためです。

だから、パウロはこう語ります。

キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。(6)

あなたはどうでしょうか。まだ神様の好意を得ようとしているでしょうか。それが、神様を喜ばせるためのあなたの動機でしょうか。

あるいは、すでに神様に義と認められたことを知り、罪から完全に解放される日を楽しみにしているでしょうか。その希望があるゆえに、神様を愛し、喜ばせたいと願っているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙

約束の子供

この箇所で、パウロはアレゴリーを用いて、非常に重要なポイントを教えています。それは、律法への従順ではなく、神様の約束によって私たちが神様の子供となるということです。

この真理を説明するために、パウロはハガルとサラの物語に言及します。(この話は創世記16~21章に記されています。)

神様はアブラハムに息子を与えると約束されました。けれども、何年経っても子供が生まれなかったため、アブラハムとサラはその約束に疑念を抱くようになりました。そこで、サラはアブラハムに対し、自分の奴隷ハガルと寝て、その息子を相続人とするように勧めました。

現代の視点では衝撃的な提案ですが、当時の社会ではそれが一般的な習慣でした。

こうして、アブラハムはハガルと関係を持ち、イシュマエルが生まれました。しかし、イシュマエルは神様の約束と力によって生まれたのではなく、人間的な努力の結果として生まれたのです。

そのあと、サラも赤ちゃんを産みました。それがイサクでした。その時、サラはすでに90歳になっていたため、その出産はまさに奇跡でした。それは神様の御業でした。そして、神様はアブラハムに言われました。「イサクを通して、私はあなたを大いなる国民とします。」

そして、パウロは、ハガルとイシュマエルを、律法によって義と認められようとする人々の例として挙げました。彼らは、神様の約束と御業によって神様の祝福を受けようとは思いません。むしろ、自分の努力によって神様の祝福を得ようとします。

ところが、その考え方には大きな問題があります。奴隷の子供も奴隷です。

つまり、ハガルの子供、すなわち自分の努力によって義と認められようとする人は、結局、罪と死の律法の奴隷になってしまうのです。律法は人々を救うことはできません。律法ができるのは、ただ人の罪を指摘することだけです。(ガラテヤ人への手紙4:24~25)

その反面、恵みによって義と認められる人はイサクのようです。彼らは、神様の約束と御業によって、神様の子供と相続人になります。

そういうわけで、私たちは、もはや罪と死の奴隷ではありません。私たちは自由にされて、いと高きの神の子供になりました。(4:26-28)

それでも、人間の努力によって生まれたイシュマエルが、神様の約束によって生まれたイサクを迫害したように、一部のユダヤ人のクリスチャンたちはガラテヤ人のクリスチャンたちを迫害しました。

彼らはガラテヤ人たちを律法の奴隷としようとし、「そうしないと、あなたは本当のクリスチャンではない」と主張しました。(4:29)

そのため、パウロは厳しく語ります。

しかし、聖書は何と言っていますか。「女奴隷とその子どもを追い出してください。女奴隷の子どもは、決して自由の女の子どもとともに相続すべきではないのです。」(ガラテヤ人への手紙4:30)

つまり、「その偽教師たちを追い出しなさい。彼らは奴隷の子供であり、決して遺産を受け継ぐことはありません。彼らはあなたたちと何の関係もありません。彼らはあなたたちを退けようとしますが、実際には彼ら自身が退けられているのです。」ということです。

そして、パウロは改めて強調します。

こういうわけで、兄弟たち、私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです。(4:31)

そして、パウロは彼らを戒めます。

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。(ガラテヤ人への手紙5:1)

その真理を忘れないようにしましょう。イエス様は私たちを律法から解放してくださいました。その目的は、再び私たちを律法の束縛のもとに置くことではありません。むしろ、イエス様の目的は、私たちが永遠に律法から自由にされることです。

だから、神様の子供として、私たちは神様の愛に値するかどうかを心配する必要はなく、神様が私たちを受け入れてくださっているという確信を持つことができます。

あなたはどうでしょうか。神様の子供として、平和と喜びをもって生きているでしょうか。それとも、宗教のルールの重荷を担いながら、奴隷のように生きているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙

何に対して熱意を持っているのか?

今日の個所では、二種類の熱意を見ることができます。一つは良い結果をもたらし、もう一つは悪い結果をもたらします。

以前、ガラテヤ人たちはパウロに対して熱意を持っていました。パウロが宣べ伝えた福音によって彼らの心は喜びに満たされ、できる限りパウロを助けたいと願いました。(ガラテヤ人への手紙4:14-15)

また、パウロもガラテヤ人たちに対して深い熱意を持っていました。その熱心さは彼のすべての言葉に表れています。

特に、ガラテヤ人たちがユダヤ人のクリスチャンたちに惑わされたとき、パウロの悲しみが明確に現れています。彼はこう言いました。

私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

私は今、あなたがたと一緒にいて、口調を変えて話せたらと思います。あなたがたのことで私は途方に暮れているのです。(ガラテヤ人への手紙4:19-20)

パウロはガラテヤ人に対して強い熱意を持っていたため、彼らが彼を敵と見なしたとしても、率直に真理を語り続けました。

それは良い熱意です。

一方で、ユダヤ人のクリスチャンたちにも熱意がありました。パウロは彼らについてこう言いました。

あの人たちはあなたがたに対して熱心ですが、それは善意からではありません。彼らはあなたがたを私から引き離して、自分たちに熱心にならせようとしているのです。(17)

「彼らはあなたがたを私から引き離して」という翻訳では、「私から」という言葉が加えられています。けれども、ユダヤ人たちがガラテヤ人たちを何から引き離そうとしていたのかは、やや曖昧です。

私の意見では、新改訳2017の脚注にある別訳のほうがより正確であると思います。それは、

「彼らはあなたがたを福音の恵みから締め出そうとしています。」

ユダヤ人のクリスチャンたちは、ガラテヤ人たちにこう言いました。

「あなたたちは本当に私たちのグループに属していません。本当のクリスチャンではありません。もしキリストに受け入れられたいのなら、私たちの教えに従わなければなりません。」

そして、その教えによって、彼らはガラテヤ人たちを律法の束縛のもとに置き、彼らの喜びと祝福を奪ってしまいました。

要するに、彼らはガラテヤ人たちに対して熱意を持っていましたが、彼らの最善を求めていたわけではなかったのです。

そこで、パウロはガラテヤ人たちにこう語りました。

善意から熱心に慕われるのは、いつでも良いことです。それは、私があなたがたと一緒にいる時だけではありません。(18)

要するに、「熱意を持ちなさい。それは良いことです。あなたたちが私に対して熱意を持ち、喜びによって私を愛し、私の面倒を見てくれた時、その熱意は良いものでした。

私もあなたたちに対して熱意を持っています。私は、あなたたちのうちにキリストが形作られることを願います。あなたたちがますますキリストのようになることを望みます。

その一方、この人たちはあなたたちの最善を望んでいません。そして、彼らに対するあなたたちの熱意によって、あなたたちは自分の喜びと祝福を失ってしまいました。」

だから、私たちは自分自身に二つの問いを投げかけるべきだと思います。

私たちの周りには、熱意を持っているカリスマ的なリーダーたちがいるかもしれません。けれども、彼らは私たちをどこへ導いているのでしょうか。彼らの導きによって、私たちは神様に近づいているでしょうか。もしかしたら、彼らの教えによって、私たちの喜びと祝福が奪われてはいないでしょうか。

真理が痛みを伴うものであったとしても、彼らは私たちにその真理を教えているでしょうか。あるいは、彼らは私たちを誤った道へ導いているのでしょうか。

二つ目の問いは、「あなたは何に対して熱意を持っているでしょうか」ということです。

イエス様に対する熱心を持ち、イエス様をもっと知りたいと思うでしょうか。

キリストが周りの人々のうちに形作られるように祈っているでしょうか。あなたは、彼らが神様の喜びを知るように願っているでしょうか。

それとも、その熱意が知らず知らずのうちに、自分自身を誤った道へ導いているでしょうか。

かつて、熱心によってパウロは教会を迫害したことがありました。また、熱意によってガラテヤ人たちは律法の束縛のもとへ戻ってしまいました。

あなたの熱意は、あなたをどこへ導いているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙

私たちはどのように喜びと祝福を失うのか

この手紙から、私たちはパウロがガラテヤ人たちに対してどれほど困惑していたかを知ることができます。

パウロが初めてガラテヤに来たとき、彼は何かしらの肉体的な問題を抱えていました。そのため、彼はガラテヤ人たちに負担をかけましたが、それにもかかわらず、彼らは喜んでパウロを歓迎しました。

どうしてでしょうか。それは、パウロが宣べ伝えた福音が彼らを罪から解放し、新しい命を与えたからです。福音を聞いたとき、彼らは神様の喜びと祝福に満たされました。

こうした理由から、ガラテヤ人たちはパウロを心から気遣い、その愛が彼に溢れ出しました。彼らは、できる限りパウロを助けたいと願いました。パウロは彼らについてこう言いました。

私はあなたがたのために証ししますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出して私に与えようとさえしたのです。(ガラテヤ人への手紙4:15)

しかし、ユダヤ人のクリスチャンたちの影響によって、すべてが変わってしまいました。

彼らの喜びは失われ、パウロのことを疑い始めました。彼らは、パウロが福音を正しく教えたかどうかを疑いました。また、パウロが福音から重要な真理を削除したのではないかと考え、自分の救いさえも疑うようになりました。

そこで、パウロは彼らに問いかけました。

あなたがたの幸いは、今どこにあるのですか。。。私はあなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。(15-16)

「幸い」という言葉は、「祝福」という意味もあります。つまり、ガラテヤ人たちは信仰によって受けた神様の尊い賜物を失ったのです。

どのようにしてその賜物を失ったのでしょうか。

彼らは古い宗教的な修行や儀式に戻りました。

救いを得るために、彼らは自分の行いと努力に頼ったため、彼らにとってイエス様の十字架の御業の価値は失われてしまいました。

気をつけなければ、私たちもガラテヤ人たちのようになってしまうかもしれません。もし私たちのクリスチャン生活がルールに基づくものになってしまえば、私たちは自分の喜びと祝福を失うでしょう。そして、神様の好意を得ようと努め始めるでしょう。

そして、最終的に二つの結果が生じます。

一つ目は、自分が成功していると思い、プライドを持つことです。

二つ目は、そのルールを完全に守れないと気付き、落ち込むことです。

しかし、成功したと思っても、失敗したと思っても、私たちは神様の喜びと祝福を失ってしまいます。

けれども、私たちの救いが恵みによるものであることを悟ると、私たちは謙遜と感謝の態度を持つようになります。

私たちは神様の恵みに値しないことを理解するので、謙遜になります。また、私たちは神様の裁きを受けるに値するはずなのに、神様が恵みと憐れみを私たちに注いでくださったことを知ります。

さらに、その恵みと憐れみによって、私たちは喜びと感謝に満たされます。したがって、私たちは神様の祝福を受けるだけでなく、その祝福は私たちを通して周りの人々へと流れていきます。

あなたはどうでしょうか。プライドに満ちたクリスチャン生活を送っているでしょうか。それとも、失敗と失望に満ちたクリスチャン生活を送っているでしょうか。もしかしたら、喜びと祝福に満ちたクリスチャン生活を送っているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙

無益な宗教に逆戻り

多くの人々は救いについて、なぜクリスチャンがそれほど排他的なのか疑問に思います。つまり、なぜクリスチャンは、イエス様以外には神様への道がないと主張するのでしょうか。

私は、ほかの宗教にも良い点があることを認めます。多くの宗教は悪に反対し、善行を促します。何が良いことであり、何が悪いことであるかについて、それぞれの宗教の教えは完全に一致するわけではありませんが、共通点は多くあります。

しかし、問題は宗教とその儀式が神様を描くという点にあります。ユダヤ教の場合、その描写は比較的正確です。なぜなら、神様ご自身がユダヤ人に対して、律法と儀式を通してご自身に関する描写や、キリストに関する描写を与えてくださったからです。

けれども、その他の宗教における神様の描写は、神様がどのような方であるかをほとんど分からなくするほどに、歪められています。そのため、その宗教の律法や儀式は、人々を神様へと近づけることができません。

ユダヤ教は他の宗教よりも優れていますが、それでもユダヤ教の律法と儀式は、イエス様と救いの現実そのものではなく、ただの描写にすぎません。

ユダヤ教の儀式、祭り、犠牲は、イエス様とその十字架の犠牲を描写していますが、それらは単なる象徴であり、現実ではありません。イエス様とその十字架の犠牲こそが現実なのです。

したがって、ユダヤ教の儀式、祭り、犠牲には、人を救う力がありません。そして、もし神様が定められた儀式や祭り、犠牲が人々を救うことができないのであれば、ましてや他の宗教のものが人を救うことはできないでしょう。

だから、パウロはこう言いました。

あなたがたは、かつて神を知らなかったとき、本来神ではない神々の奴隷でした。しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。

あなたがたは、いろいろな日、月、季節、年を守っています。私は、あなたがたのために労したことが無駄になったのではないかと、あなたがたのことを心配しています。(ガラテや人への手紙4:9-11)

パウロは、かつての神々や修行について、ガラテヤ人たちに語ります。パウロは言いました。

「あなたたちが救われる前、本来神ではない神々の奴隷でした。救いをもたらすことのできない儀式や祭りを祝うように強制されていました。

けれども今や、あなたたちは知っているでしょう。あなたたちは神様を知っており、神様にも知られています。神様の子供として、神様と親しい関係を持っているのです。

それなら、どうして弱くて力のないものに戻ろうとしているのですか。あなたたちは、かつての神々や修行に戻っているわけではないかもしれません。けれども、今や自分の救いを得るために、ユダヤ教の儀式や修行に従い始めています。

ところが、かつての儀式や修行と同じく、ユダヤ教の儀式や修行にも力はまったくありません。

その儀式や修行は、神様を知るための初歩でした。その目的は、あなたが自分の罪と救い主の必要を理解することです。けれども、それ自体はあなたたちを救うことはできません。

むしろ、それを通してあなたたちが理解するのは、自分が律法を完全に守ることができないために、裁きに値するということです。それは惨めなことでしょう。そのことを知っているはずなのに、どうしてそのものに戻りたいのですか。」

そして、パウロは言いました。

「考えてみてください。私はあなたのようになったでしょう。私はあなたたちと共に食事をし、あなたたちの食べ物を食べて、ユダヤ教の習慣を破りました。

だから、あなたたちも私のようになってください。宗教のルールではなく、むしろキリストへの信仰によって生きてください。」

パウロは私たちにも同じことを言います。

私たちはキリストの象徴に従うのではなく、つまりユダヤ教の律法と儀式に従うのではなく、イエス様ご自身に従いましょう。なぜなら、それらには私たちを救う力がないからです。

むしろ、イエス様の十字架の働きを覚え、神様の子供として、神様との関係を喜びましょう。

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ガラテヤ人への手紙

養子の縁組の不思議さ

神様が私たちを養子とされることは、驚くべきことです。

神様は、私たちをペットとして受け入れることもできたでしょう。

神様は、私たちを人間として認め、単なる知り合いの関係を築くこともできたでしょう。

神様は、私たちをただのしもべや奴隷として受け入れることもできたでしょう。

神様は、私たちを友人としてさえ受け入れることもできたでしょう。

ところが、神様はそれ以上のことをしてくださいました。神様は私たちを養子とされたのです。その結果、私たちは神様の子供となりました。

パウロはこう言いました。

あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。(ガラテヤ人への手紙3:26-27)

パウロによれば、私たちは信仰によって神様の子供となりました。文字通りパウロが言ったのは、私たちが神様の息子たちになったということです。

もちろん、パウロは女性のクリスチャンたちが男性になったと言っているわけではありません。むしろ、パウロは非常に驚くべきことを伝えたいと考えていました。そして、ガラテヤ人たちはそれを聞いて、おそらく衝撃を受けたでしょう。

なぜでしょうか。

その時代、息子たちだけが遺産を受ける権利を持っていました。しかし、パウロによれば、今やすべてのクリスチャン—男性であれ女性であれ—が、その遺産を受ける権利を持っているのです。

さらに、パウロはこう言いました。

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。(ガラテヤ人への手紙3:28)

それ以前、ユダヤ人たちは異邦人を部外者として扱っていました。さらに、彼らは女性を見下しました。もちろん、奴隷の立場は決して良いものではありませんでした。

ところが、パウロによれば、神様の目には、イエス様に属する者は皆、天の父にも属し、神様の子供とされたのです。私たちは皆、イエス様の義の衣を着せられ、私たちの身分はイエス様にあります。

ガラテヤ人たち(そして、私たちも?)がそのことを十分に理解できなかったかもしれません。そこで、パウロは私たちを当時の子供になぞらえました。

その時代、子供はある意味、奴隷のような立場でした。要するに、子供は相続人でありながら、まだその遺産を受け取っていませんでした。むしろ、父がその子供を公式に自分の相続人として認めるまで、その子供は後見人や管理人のもとに置かれていたのです。(ガラテヤ人への手紙4:1-2)

そのように、神様に養子とされる前、私たちは奴隷のようでした。私たちは天の遺産を受ける権利を持っておらず、律法が私たちの管理人でした。律法は私たちに、「こうしなさい。ああしなさい」と命じました。

その戒めによって、私たちは大体正しい道を歩んでいましたが、律法を完全に守ることができなかったため、神様の相続人として認められず、その権利をまったく持っていませんでした。(ガラテヤ人への手紙4:3)

しかし、神様が私たちを正式に養子とし、ご自身の相続人とされたとき、すべてが変わりました。

まず、神様はイエス様の十字架の働きを通して、私たちを贖われました。つまり、神様は私たちをご自身のものとして買い取られたのです。そして、私たちが神様を信じた瞬間、神様は私たちを正式に養子とされました。(ガラテヤ人への手紙4:4-5)

それだけではなく、神様は御子の御霊を私たちの心に遣わされました。その御霊は叫びます。「アバ、父よ。」

要するに、三位一体の神様は私たちとの新しい関係を祝われます。

私たちは愛されているペットではありません。私たちはただの知り合いではありません。私たちは単なるしもべや奴隷ではありません。私たちはただの友人ではありません。

むしろ、私たちは王の息子たち、娘たちです。

だから、パウロはこう言いました。

ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。(ガラテヤ人への手紙4:7)

あなたは、自分のことをどのように見なすでしょうか。どのように神様を見なすでしょうか。神様があなたの父であり、自分が神様の子供であることを理解できるでしょうか。神様はそのように私たちを認めておられます。だから、私たちもそのように考えるべきです。

自分を取るに足らない者として考えないでください。あなたには価値があります。あなたは王の子供です。

だから、そのように生きましょう。

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ガラテヤ人への手紙

律法とは何か、その役割とは(3)

前回の記事で私たちが確認したのは、律法が神様の作られたもう一つの救いの道ではないということです。むしろ、律法の目的は、私たちをキリストへ導くことです。パウロはこの真理をさらに具体的に説明します。

しかし、聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。

信仰が現れる前、私たちは律法の下で、監視され、来るべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。(ガラテヤ人への手紙3:22-23)

パウロはローマ人への手紙第7章から第8章で、似たことを書きました。

その箇所でパウロが述べたのは、律法が現れる前、人々は罪が何であるかを理解していなかったということです。彼らは、自分の行いが神様を悲しませていることを知らず、幸せな人生を送っていました。

そして、神様は律法を示され、「あなたはこのように生きるべきです」と言われました。

けれども、人々はその律法を見たとき、「ああ、そうか。知らなかった。ごめんなさい。これから、あなたの道を歩みます」とは言いませんでした。むしろ、彼らの神様への態度はさらに反抗的になったのです。

悔い改める人もいましたが、神様を喜ばせたいと思っても、律法を完全に守ることはできませんでした。彼らはまだ罪深い心を持っていたため、律法を完全に守ることは不可能でした。言い換えると、彼らはまだ罪の奴隷だったのです。

それでも、キリストが来られるまで、律法はある程度、人の罪を抑制していました。だから、パウロは言いました。

信仰が現れる前、私たちは律法の下で、監視され、来るべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。(23)

要するに、律法は旧約聖書の信者たちの罪を完全に止めることはできませんでしたが、その罪をある程度抑制しました。だから、パウロはこう言いました。

こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認めらえるためです。(24)

パウロの時代、養育係は少年の人生、特にその道徳を監視しました。その少年がどこへ行っても、養育係も同行し、少年がトラブルに巻き込まれないように見張っていました。登校するとき、養育係はその少年を連れて行き、先生に預けました。

律法も旧約聖書の信者たちに対して同じ役割を果たしました。律法は彼らが罪に巻き込まれないように監視しました。(もっとも、彼らが罪に陥ることもありました。)

そして、律法は彼らを本当の先生、すなわちイエス様へと導きました。、律法はどのようにして彼らを導いたのでしょうか。

律法を通して、神様は救い主についての多くの描写を与えられました。例えば、全焼のいけにえ、過ぎ越しの祭り、贖罪の日などは、イエス様を指し示すものでした。

もちろん、それ自体は信者たちを救うことはできませんでした。けれども、その描写を通して、イエス様の時代に至るまで、モーセやほかのイスラエルの民は神様に従い続けました。

そして、イエス様が現れたとき、神様を愛する人々は、その描写を覚えていて、イエス様とその十字架の働きの意義を理解し(ヨハネ5:39、46)、イエス様を信じました。

もう一度言います。律法自体は彼らを救うことはできませんでした。しかし、律法によって、彼らはイエス様を信じるようになりました。

もちろん、旧約聖書の信者たちはイエス様を知りませんでした。そのため、神様のご計画を具体的に知ることはできませんでした。

それでも、彼らは、そのイエス様の描写を信じたので救われました。彼らは律法の従順によって救われたのではなく、その信仰によって救われたのです。

パウロはこの真理を次のようにまとめます。

しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。(25)

イエス様がすでに来られたので、その描写が明らかになり、私たちの信仰はもはや微かなものではありません。

モーセやほかの旧約聖書の信者たちとは異なり、私たちには、もはや微かな描写は必要ありません。キリストにあって、私たちは真実のものを持っているので、律法という養育係は不要です。

むしろ、私たちは救いのためにイエス様だけを信頼します。そして、イエス様が私たちに与えてくださった聖霊様を通して、私たちは自然に神様を喜ばせ始めます。

だから、さまざまな規則に従うことに焦点を当てるのではなく、感謝を持って十字架を仰ぎ、聖霊様の導きによって歩みましょう。それが真のクリスチャンの生活です。

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ガラテヤ人への手紙

律法とは何か、その役割とは(2)

前回の記事では、律法が何をしないのかについてお話ししました。つまり、律法は神様の約束に取って代わるものではないということです。

神様とアブラハムの契約は、神様の約束による一方的なものでした。その契約は、アブラハムやその子孫の行いに基づくものではありませんでした。したがって、律法がその契約に取って代わることはありません。

パウロはこの真理をさらに説明します。

(律法は)御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。仲介者は、当事者が一人であれば、いりません。しかし約束を与えになった神は唯一の方です。(ガラテヤ人への手紙3:19-20)

モーセが十戒を受けるためにシナイ山を登ったとき、イスラエルの民は神様の偉大さに圧倒され、恐れおののきました。そして、彼らはモーセにこう言いました。

あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。(出エジプト記20:19)

だから、モーセは神様に近づきましたが、イスラエルの民は神様から遠く離れて立っていました。(出エジプト記20:21)

イスラエルの民への神様の言葉は、モーセを通して語られました。神様はモーセに言われました。「イスラエルの民は、これとこれとこれをしなければならない。そうすれば彼らは生きる。けれども、そうしなければ、彼らは死ぬ。」

そして、モーセはその指示をイスラエルの民に伝えました。

でも、少し考えてみてください。なぜ神様は仲介者(つまりモーセ)を必要とされたのでしょうか。

それは、律法が双方向の契約だったからです。

神様には果たさなければならない義務があり、イスラエルの民にも果たさなければならない義務がありました。そして、イスラエルの民が自分の義務を果たさなければ、神様が約束された祝福は無効になってしまいました。

最終的に、それが起こりました。イスラエルの民が何度もその契約を破ったため、神様はその契約を無効にされました。その契約は非常に壊れやすいものでした。

ところが、パウロはこう言いました。「約束を与えになった神は唯一の方です。」

要するに、神様がアブラハムとその子孫と契約を結ばれたとき、義務を果たさなければならないのは神様だけでした。祝福を得るために、アブラハムは何もする必要がありませんでした。

だからこそ、アブラハムとの契約はイスラエルの民との契約とは全く異なっていました。アブラハムとの契約は無効にすることのできないものでした。なぜなら、その契約は私たちの行動ではなく、神様の行動によるものだったからです。

簡単に言えば、壊れやすい契約が、無効にすることのできない契約に取って代わることはできないのです。

それでは、律法とは何でしょうか。(19)

それは論理的な質問ですね。

パウロは答えます。

それは、約束を受けたこの子孫が来られるときまで、違反を示すために付け加えられたもので(す)。。。(19b)

要するに、キリストが来られるまで、律法は一時的に罪を対処する方法でした。モーセの時代からイエス様が来られるまで、何百年もの歳月が流れました。その間、神様は罪を正しく扱わなければなりませんでした。そこで、神様は律法を用いられました。

とはいえ、パウロは重要な質問を投げかけます。

それでは、律法は神の約束に反するのでしょうか。(21)

言い換えると、律法はもう一つの救いの道でしょうか。

答えは?

決してそんなことはありません。もし、いのちを与えることが出来る律法が与えられたのであれば、義は確かに律法によるものだったでしょう。(21b)

要するに、もし律法がもう一つの救いの道だとしたら、イエス様が来られる必要はなかったでしょう。なぜなら、私たちが律法に従えば、救われるからです。

しかし、律法を完全に守ることができる人はいないので、律法にはいのちを与える力がありません。むしろ、律法は私たちを罪から救うことができる方へ導くのです。

次の記事で、そのことをさらに説明します。

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ガラテヤ人への手紙

律法とは何か、その役割とは

多くの人々は十戒や旧約聖書の律法を見ると、こう考えます。「律法によって私は義と認められるだろう。永遠の命を望むなら、その律法に従うべきだろう。」

ところが、この考え方は、律法が何であるか、そして何ではないかについての誤解です。また、律法が何をするのか、何をしないのかについての誤解でもあります。

そこで、パウロは律法について具体的に説明します。

人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。

約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。

私の言おうとしていることは、こうです。先に神によって結ばれた契約を、その後四百三十年たってできた律法が無効にし、その約束を破棄することはありません。(ガラテヤ人への手紙3:15-17)

パウロによれば、契約がいったん結ばれると、それを簡単に無効にすることはできません。この箇所で、パウロが言う「契約」とは、おそらく遺言について語っているのでしょう。

人が遺言を書き、亡くなった後、その遺言を簡単に無効にすることはできません。なぜでしょうか。それは一方的な契約だからです。つまり、一人の人だけが契約の条件を定め、その人の約束に従って契約の条件が実行されるのです。

神様はアブラハムとそのような契約を結ばれました。この契約はアブラハムの行いに基づいているのではなく、むしろ神様の約束のみに基づいていました。

創世記第15章では、神様はアブラハムの子孫についてさまざまな約束をされました。そして、煙の立つかまどと燃えているたいまつとして現れ、アブラハムへの約束の証として、切り裂かれた動物の間を通り過ぎられました。

現代の私たちの文化では、それは非常に不思議なことのように思えますが、当時の文化では、人々はそのように契約を結んでいました。(その時代には印鑑などが存在していませんでした。)

通常、契約を結んだ二者が、切り裂かれた動物の間を通り過ぎました。その意味は、「もし私がこの契約を守らなければ、この動物のように殺されることになる」というものでした。

ところが、神様とアブラハムの契約では、アブラハムはその切り裂かれた動物の間を通り過ぎませんでした。神様だけが通り過ぎられました。それは一方的な契約でした。

そして、パウロによれば、その契約はアブラハムだけのためではありませんでした。その契約はアブラハムの子孫、つまりイエス様のためだったのです。

創世記第12章7節、第13章6節、第15章18節におけるアブラハムへの神様の約束に関するパウロの解釈は、とても興味深いものです。

「子孫」という言葉は、一人の子孫を指す場合もあれば、多くの子孫を指す場合もあります。創世記では、神様は主にアブラハムの多くの子孫について語られました。

ところが、パウロによれば、もちろんその契約の祝福はアブラハムの真の子孫すべてのためでしたが、特にイエス様のためのものでした。そして、イエス様を通して、アブラハムのほかの子孫は祝福を受けるのです。

また、パウロは一つの重要なことをはっきりと教えています。律法は神様の約束の条件を変えるものではありません。その約束はアブラハムの行いに基づくものではありませんでした。だからこそ、神様の約束は私たちの律法を守る能力に基づくものでもないのです。

なぜでしょうか。パウロはこれについて説明します。

相続がもし律法によるなら、もはやそれは約束によるのではありません。しかし、神は約束を通して、アブラハムに相続の恵みを下さったのです。(18)

要するに、もし神様の祝福が律法の遵守によるものであるなら、その祝福はもはや神様の約束による一方的な契約に基づくものではなくなります。むしろ、その祝福は律法の遵守に依存することになります。

ところが、神様が祝福の約束を与えた時、その約束には条件がありませんでした。神様の契約は、恵みによる一方的なものです。

その契約が一方的なものであるため、神様はそれを簡単に無効にすることはできません。神様はご自身の約束を必ず守られます。なぜなら、それが神様の御性質だからです。神様はご自身が約束されたことを必ず成し遂げられます。

だから、覚えておきましょう。律法は神様の約束に取って代わるものではありません。アブラハムとその子孫に神様が約束された祝福は、神様の律法の遵守に基づいているのではありません。

では、律法の目的とは何でしょうか。次の記事で、そのことについてお話しします。

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ガラテヤ人への手紙

アブラハムの真の子孫

パウロがこの箇所を書いたとき、ヨハネの福音書第8章におけるイエス様とユダヤ人たちの議論を思い浮かべていたでしょうか。私には分かりませんが、パウロは同じテーマについて語っています。つまり、アブラハムの真の子孫とは誰かということです。

ユダヤ人たちは自分たちこそアブラハムの真の子孫であると考えていました。なぜなら、アブラハムは実際に彼らの先祖であり、彼らは神様がモーセに与えてくださった律法を持ち、それに従おうとしていたからです。

そこでイエス様は彼らにこう言われました。「もしあなたが私の教えを信じ、それに従うなら、あなたは真理を知り、真理はあなたを自由にする。」すると、彼らは驚いて答えました。

彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、「あなたがたは自由になる」と言われるのですか。」(ヨハネの福音書8:33)

そして、イエス様とユダヤ人たちは、アブラハムの真の子孫について長い間議論しました。

イエス様は彼らに言われました。「あなたがたはまだ罪を犯しています。アブラハムの子供であるからすでに自由だと主張していますが、実際にはまだ罪の奴隷です。

私は、あなたがたを罪から解放する者です。私があなたがたを自由にしたなら、あなたがたは本当に神様の子どもとなるのです。」(ヨハネ8:34-36)

ところが、ユダヤ人たちはそれを聞いてもなお、自分たちこそアブラハムの子孫であると主張し続けました。そこでイエス様は彼らにこう言われました。

あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです。

ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語った者であるわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことをしませんでした。(ヨハネ8:39-40)

要するに、アブラハムは神様の言葉を聞いたとき、すぐにその言葉を信じました。信仰によってその言葉を受け入れたため、彼は救われました。その結果、彼は神様の子供と呼ばれるようになりました。

その一方、ユダヤ人たちはイエス様を拒絶し、その言葉を信じなかったため、自分たちこそアブラハムの真の子孫ではないことを証明してしまいました。

今日の箇所で、パウロはこのことを教えています。彼はこう言いました。

「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。

聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。

ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。(ガラテヤ人への手紙3:6-9)

パウロによれば、アブラハムが神様に義と認められたのは、律法に従ったからではありません。なぜなら、その当時、律法はまだ存在していなかったからです。それに、アブラハム自身も罪を犯したことがありました。

それでも、最終的にアブラハムは神様とその約束を信じたため、神様に義と認められました。

アブラハムの真の子孫は、彼と同じように生きます。私たちは失敗するときもありますし、罪を犯すこともあります。

私たちは、神様の律法を完全に守ることで義と認められるのではありません。むしろ、イエス様を信じることによって、神様に義と認められるのです。

実際のところ、もし私たちが自分の正しい行いによって義と認められようと努めるなら、パウロによれば、私たちはかえって呪われてしまいます。

律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。

「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。(10)

しかし、良い知らせは、イエス様が私たちの代わりに呪われたということです。パウロはこのことを説明します。

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。

「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。(13)

十字架で死なれたとき、イエス様は律法の呪いをすべて受け、私たちに対する神様の怒りを担われました。そして、パウロによれば、イエス様は私たちを贖い出してくださいました。言い換えると、イエス様は罪の奴隷である私たちをサタンの国から買い取って、解放してくださいました。

だから、私たちもアブラハムが受けた救いの祝福を受けることができます。私たちがしなければならないのは、ただ神様の約束を信じることです。

パウロは自らの議論をこのようにまとめています。

律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。(11)

あなたはどうでしょうか。あなたはアブラハムの真の子孫でしょうか。イエス様を信じていますか。それとも、自分の良い行いによって神様に義と認められようと努力しているでしょうか。

神様を信じず、自分の資格によって義と認められようとする者は、誰も救われません。

あなたの救いは何に基づいているでしょうか。自分の努力に頼っていますか。それとも、神様に頼っていますか。

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ガラテヤ人への手紙

信仰によって歩み続ける

クリスチャンになった後、「良いクリスチャン」になるためにキリスト教のルールに従わなければならないと思う人は少なくありません。

なぜなら、私たちの社会では、学校のクラブ、会社、家族など、どこでも従うべきルールや果たすべき義務があるからです。

そのため、クリスチャンになると、多くの人はこう考えます。

「ルールは何だろうか。クリスチャンとして、私は何をしなければならないのか。毎日、聖書を読まなければいけないのか。毎日、何分(何時間?)ぐらい祈らなければならないのか。教会で、どのように仕えるべきなのか。」

そして、そのルールに従わないと、罪悪感を抱き始めます。自分が「悪いクリスチャン」だと思うからです。

さらに、周囲のクリスチャンたちは、新しく信仰を持った人にさまざまなルールを教え始めます。

「本当のクリスチャンはお酒を飲みません。本当のクリスチャンは決して教会を休みません。本当のクリスチャンは什一献金をささげなければなりません。」

ガラテヤの教会では、このような問題が発生しました。ユダヤ人クリスチャンたちは、ガラテヤのクリスチャンたちにこう言いました。

「もちろん、クリスチャンになるための最初のステップはイエス様を信じることです。しかし、その後、割礼を受けなければなりません。また、豚肉やその他の『汚れた食べ物』を食べてはいけません。安息日を正しく守ることも忘れてはいけません。」

彼らがまるで権威を持っているかのように話したため、ガラテヤ人たちは彼らを信じました。その結果、パウロは困惑し、叫びました。

ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。(ガラテヤ人への手紙3:1)

そして、パウロは彼らに尋ねました。

これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。(2)

また、

あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか。(5)

その明らかな答えは、ガラテヤ人たちが聖霊様の賜物や神様からのその他の祝福を、神様の律法への従順によってではなく、むしろ彼らが聞いた福音を信じることによって受けたということです。

だから、パウロは彼らに尋ねました。

あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。(3)

要するに、私たちのクリスチャン生活は信仰によって始まり、それが単なるルールの遵守に変わるわけではありません。むしろ、私たちは毎日、信仰によって生き続けます。また、私たちのクリスチャン生活は恵みによって始まり、恵みによって続くものです。

私たちのクリスチャン生活は、単に神様のルールに従うことではありません。私たちの焦点は神様のルールの遵守ではないのです。

むしろ、私たちは毎日イエス様に目を向けなければなりません。私たちは毎日イエス様と共に歩み、その声を聞き、イエス様を信じ、イエス様が語られることに従います。

そして、私たちがイエス様を信じ、信仰によって踏み出すと、イエス様はご自身の言葉に従う力を私たちに与えてくださいます。それがクリスチャンの生活です。もう一度、私は言います。クリスチャンの生活は単なるルールの遵守ではありません。

あなたはどのようにクリスチャンの生活を送っているでしょうか。あなたの焦点は、努力してさまざまなルールを守ることですか。

そのような生活を送ろうとするなら、結局罪悪感に陥ることになります。なぜなら、それらのルールを完全に守ることができないからです。

だからこそ、イエス様に焦点を向けましょう。イエス様に近づくこと、イエス様の声を聞くこと、イエス様の導きに従うことを学びましょう。それが信仰によって生きる人生です。それこそがクリスチャンの生活です。

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ガラテヤ人への手紙

自力による救いを説く福音の問題点

この箇所では、パウロは福音をユダヤ人クリスチャンたちの攻撃から守ろうとしていました。彼らが主張するのは、パウロが宣べ伝える恵みの福音は罪に導くものだということです。

しかし、パウロは自分が伝えた福音を擁護するだけでなく、相手の福音の問題点を指摘しました。彼はこう言いました。

私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。(ガラテヤ人への手紙2:21)

簡単に言えば、もし私たちが神様に義と認められるために律法を守らなければならないとしたら、イエス様はなぜ死なれなければならなかったのでしょうか。神様は古い体制を続けて、イエス様が死ぬ必要はなかったはずです。

けれども、その必要がなかったとしたら、なぜ神様はイエス様が殴られ、鞭で打たれ、十字架につけられることを許されたのでしょうか。イエス様がその苦しみを受けられたにもかかわらず、なぜ神様はもう一度私たちを律法の下に置かれるのでしょうか。それは理にかなわない話です。

それでも、今もなお多くの人々がそのように考えています。特に、カルトの人々はこう言います。「もちろん、イエス様はあなたの罪のために死なれたが、彼はあなたの罪の代価を完全に支払うことができませんでした。だから、あなたは自分の救いのためにまだ働かなければなりません。」

しかし、パウロはその考え方に反論します。「その考え方は愚かです。自分の努力によって救いを得ることはできません。もしあなたがそうできるのなら、神様はイエス様を十字架に送られることはなかったでしょう。」

この議論を通して、パウロは「イエス様が神様への多くの道の一つである」という考え方に反論します。

もし仏教やヒンズー教、その他の宗教によって人が神様に義と認められるのなら、神様はその道を用いられたはずなのです。

もし他の道があったのなら、なぜ神様はイエス様が十字架で苦しまれることを許されたのでしょうか。それは意味をなさないのです。

だから、天国への別の道があるという考え方を捨てましょう。また、私たちが自分の努力によって救いを得られるという考え方も捨てましょう。

他に道がなかったからこそ、イエス様は十字架で死なれました。他の道があると主張し、イエス様の十字架を軽んじることがないようにしましょう。

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ガラテヤ人への手紙

神様に義と認められるために

前回の記事で、私たちは、あるユダヤ人のクリスチャンたちが、パウロの福音によってキリストが罪に仕える者になってしまうと主張したことを見ました。

そのため、パウロやほかのクリスチャンが罪に陥るのを見たとき、彼らはすぐに言いました。「ほら、それが恵みの福音の結果です。あなたは世の罪人のようになりました。」

しかし、パウロが語ったのは、たとえ律法を再び立て、人々が救われるために律法に従うべきだと宣べ伝えたとしても、人々はなお罪に陥るということです。

言い換えれば、律法は罪のない人を生み出したことが一度もないのです。律法ができることは、ただ人々の罪を指摘し、私たちが救い主を必要としていることを示すことだけなのです。

では、私たちが律法によって義と認められないのなら、どのようにして義と認められるのでしょうか。パウロは私たちにその答えを教えます。

しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。(ガラテヤ人への手紙2:19-20)

パウロが意味したことは何でしょうか。「律法によって律法に死にました」とは、どういう意味でしょうか。さらに、その概念はなぜそれほど重要なのでしょうか。

ローマ書7章では、パウロは、人が生きている限り律法の管轄下にあることを教えています。(ローマ書7:1)

例えば、私が生きている限り、税金を払わなければなりません。私は税法の管轄下にあります。けれども、私が死んだ瞬間、その管轄下から外れます。

もちろん、政府は私の妻に対して、私が支払わなければならなかった税金を求めるかもしれません。けれども、政府が私の死体から税金を徴収することはできません。私は税法に対して死んだのです。その法律は、もはや私に対して何の力も持っていません。

そして、ローマ書7:4では、パウロは、私たちがキリストのからだを通して律法に対して死んでいることを教えています。これはガラテヤ書2:20に対応します。すなわち、「私はキリストとともに十字架につけられました。」ということです。

とはいえ、それはどういう意味なのでしょうか。

私たち皆が罪を犯したため、律法は私たちの死を要求しました。

けれども、イエス様がこの世に来られたとき、律法の管轄下にある人として来られました。そして、イエス様はその律法を完全に守られました。

それにもかかわらず、イエス様は十字架で死に、私たちの罰を受けられました。イエス様が死なれたとき、神様は私たちの罪をすべてイエス様に置かれました。(イザヤ53:5-6;第二コリント5:21)

神様はイエス様をご覧になるとき、イエス様だけではなく、私たち皆をご覧になりました。

例えば、イエス様が死なれたとき、神様はイエス様をご覧になり、こう言われました。「それはブルースです。彼は今や死にました。律法は彼を自分の罪のために処刑しました。」

また、イエス様をご覧になるとき、神様は言われました。「それは聡子です。彼女は今や死にました。律法は彼女を自分の罪のために処刑しました。」

「私はキリストとともに十字架につけられました。」とは、このことを意味しています。

では、キリストとともに死んだとき、何が起こったのでしょうか。律法の私たちに対する力はなくなりました。私たちはその律法に対して死んだのです。

だから、「律法を守らなければ、神様は私を罰する」と心配する必要はありません。私たちは自分の力で必死に律法を守ろうと努める必要がないのです。何度失敗しても、裁かれることを心配する必要はありません。

むしろ、私たちはキリストがご自身の人生を私たちを通して生きてくださることを見始めます。毎日、イエス様が私たちを導いてくださることを体験します。聖霊様を通して、イエス様はどの道を歩むべきかを教え、その道を歩む力を与えてくださいます。

だから、クリスチャンの生活は、自分自身を変えようとすることではありません。

むしろ、クリスチャンの生活は、毎日イエス様の声を聞き、信頼することを学ぶことなのです。そうすればするほど、私たちは神様を喜ばせる人生を歩むようになります。そして、自然に律法に従い始めるのです。

あなたはどうでしょうか。たくさんのルールを守り、神様に義と認められるように努力しているでしょうか。自分の失敗に落胆しているでしょうか。

もしかしたら、あなたのために命をささげられたイエス様の愛を知っているでしょうか。神様の御前でリラックスし、その関係を楽しみながら、毎日どのように神様と歩むかを学んでいるでしょうか。神様との愛の関係、また信頼関係を持っているでしょうか。

それこそがクリスチャンの生活です。

それは、あなたの生活でしょうか。

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ガラテヤ人への手紙

罪に仕える者なのか

ある人たち、特にカルトに属する人々がしばしば主張するのは、クリスチャンが律法の従順による福音ではなく、恵みによる福音を伝えるため、結果的にクリスチャンがあえて罪を犯すように促されるということです。

彼らの議論は次のようなものです。「律法の従順ではなく、恵みだけによって救われるとしたら、なぜ律法に従う必要があるのか。嘘をついたり、姦淫したり、ポルノを見たりしても、まだ救われるのではないか。もし恵みだけによって救われるのなら、罪を避ける理由は何なのか。」

実際に、この点について疑問を持つクリスチャンもいます。

もし、律法やルールによって救われるのではないのなら、どのように生きても構わないのではないか。むしろ、クリスチャンとしての生活を送りたいのであれば、ルールに従うべきではないか。もしルールに従わなければ、この世の人々と同じようになってしまうのではないか。

あるユダヤ人のクリスチャンたちは、パウロやガラテヤのクリスチャンたちにこう言いました。「もし律法を捨てるなら、あなたたちは不信者のようになってしまうでしょう。」

そして、彼らはパウロやガラテヤのクリスチャンたちがモーセの律法に違反したり、罪を犯したりする様子を見ると、こう言いました。

「ほら、私たちが言った通りでしょう。あなたたちは不信者のように振る舞っている。あなたたちが教えている恵みの福音によって、あなたたちはキリストを罪に仕える者にしてしまっている。」

けれども、パウロはペテロと他のユダヤ人のクリスチャンたちにこう言いました。

私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、「異邦人のような罪人」ではありません。

しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。

律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。(ガラテヤ人への手紙2:15-16)

要するに、「ペテロ、私たちは異邦人ではなく、ユダヤ人です。それでも、モーセの律法によって、人々が神様に義と認められることはできないことを認めるでしょう。律法に従うことによって、義と認められる人は誰もいません。」

どうしてでしょうか。それは、律法に完全に従う人が誰もいないからです。もし律法によって義と認められたいなら、律法に完全に従わなければならないのです。

そこで、パウロはペテロに言いました。「異邦人だけではなく、私たちも義と認められたいと思うなら、イエス様とその十字架の働きを信じなくてはならないのです。」(16)

そして、パウロはユダヤ人のクリスチャンたちの異議について話しました。

しかし、もし、私たちがキリストにあって義と認められようとすることで、私たち自身も「罪人」であることになるのなら、キリストは罪に仕える者なのですか。(17a)

要するに、ある人々はクリスチャンたちを指して、こう言いました。「あなたたちはイエス様に属していると主張しているが、まだ罪を犯しているではないか。あなたの福音は罪を促すものであり、あなたのキリストは罪に仕える者なのではないか。」

ところが、パウロは答えました。

決してそんなことはありません。(17b)

そしてパウロは説明します。

もし自分が打ち壊したものを再び建てるなら、私は自分が違反者であると証明することになるのです。(18)

パウロが意味したことは何でしょうか。おそらく、パウロは次のように意味しているのです。

「仮に、あなたの望み通りに私が律法を再び建て、異邦人たちに『あなたたちはクリスチャンになるためにモーセの律法に従わなくてはならない』と言ったとしたら、彼らは罪を犯さなくなるでしょうか。律法に従おうとしているあなたたちは、もう罪を犯さなくなるのでしょうか。

いいえ、あなたたちは律法に従おうとしても、なお罪を犯すでしょう。

では、律法を再び建てると、その結果はどうなるでしょうか。私たちは罪を犯さなくなるわけではありません。むしろ、私たちはもう一度悟るのです。『私たちは罪人なので、救い主が必要です。』」

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。神様の律法の従順によって義と認められるという概念を捨てなければなりません。なぜなら、律法によって私たちは義と認められないからです。律法ができることは、ただ私たちの罪を指摘することだけなのです。

だから、神様に義と認められたいなら、唯一の方法しかありません。それは、イエス様を信じることです。次のブログで、そのことについてさらに詳しく話します。

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ガラテヤ人への手紙

福音のために戦う

今日の箇所では、私たちは福音のために戦ったパウロの姿を見ます。

最初に、パウロはエルサレムへ行きました。それは、他の使徒たちと同じ福音を伝えているかどうかを確認したいと思ったからです。つまり、人は律法の従順によってではなく、恵みによって救われるのです。

そのとき、一部のユダヤ人クリスチャンが、「もしパウロの弟子であるテトスが本当にクリスチャンであるなら、割礼を受けなければならない」と主張しました。

けれども、パウロはこのことについてこう語りました。

私たちは、一時も彼らに譲歩したり屈服することはありませんでした。(ガラテヤ人への手紙2:5)

他の使徒たちはパウロを支持し、彼が異邦人に恵みの福音を伝えるよう促しました。(ガラテヤ 2:7-9)

しかしその後、パウロはこの問題についてペテロに対して立ち上がらなければなりませんでした。

以前、ペテロはコルネリウスとの経験を通じて、異邦人をクリスチャンとして受け入れていました。(使徒の働き10-11章)

さらに、ユダヤ人の律法に反してでも、ペテロは異邦人と共に食事をし、彼らの食べ物を口にするようになっていました。

ところが、エルサレムの教会から来たユダヤ人クリスチャンたちがペテロの行動を疑いの目で見たとき、ペテロは異邦人から少し距離を置き、ユダヤ人だけと食事をするようになりました。そして、他のユダヤ人クリスチャンたちもペテロの行動に倣ったため、偽りの福音によって、その教会は分裂の危機に陥りました。

こうして、パウロは福音のためにもう一度戦いました。

「ペテロ、いったい何をしているのか。あなたはユダヤ人なのに、これまで異邦人と会話し、彼らのように食事をしてきたではないか。それは、律法の従順ではなく、キリストへの信仰によって人が救われることを知ったからだろう。

あなたも、それを理解しているはずだ。律法を完全に守ることができる者は誰もおらず、律法によって救われる者もいない。それを知っていながら、なぜこのような行動をとるのか。」(ガラテヤ 2:14-16)

パウロがこれほどまでに熱心に福音のために戦いましたのは、その福音によって彼が救われたからです。この福音は、パウロやほかの誰かによるものではなく、神によって与えられたものでありました。彼が死へと向かう道を進んでいたとき、福音が彼を引き止め、命の道へと導きましたのです。

けれども、パウロは福音を受けるに値する者ではありませんでした。彼が律法を完全に守り、救いに値したから神が彼に福音を示したのではありません。それどころか、彼は教会を迫害し、多くのクリスチャンを殺しましたのです。

しかし実際には、パウロが生まれる前に、神様は恵みによって彼を召されました。その恵みによって、神様は喜んでパウロにイエス・キリストのことを示されました。さらに、神様はパウロを召し、彼がその恵みの福音を異邦人に伝えるようにされました。(ガラテヤ 1:11-16)

このように、人々がパウロを救った福音を攻撃したとき、パウロは戦いました。

私たちも同じようにすべきです。

福音によって、私たちは命を受けました。私たちが生まれる前に、神様はご自身の目的のために私たちを選び、召されました。神様は私たちの善さゆえに召されたのではありません。神様は私たちの資格ゆえに召されたのでもありません。むしろ、恵みによって、神様は私たちを召されました。

だからこそ、神様は私たちが周りの人々にその福音を伝えるように召されています。そして、福音が攻撃されるとき、私たちはその福音を擁護しなければなりません。

あなたは福音に対して、どれほどの情熱を持っているでしょうか。

あなたはどれほど素晴らしい賜物を与えられたかを理解しているでしょうか。あなたに注がれた恵みを理解しているでしょうか。

その恵みを理解するなら、福音のために戦いましょう。その福音を擁護しましょう。

とはいえ、福音を攻撃する人々は私たちの敵ではないことを忘れないでください。むしろ、彼らもまた、私たちを救った福音を知る必要があることを覚えておきましょう。

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ガラテヤ人への手紙

人を喜ばせる福音?

クリスチャンが認めるべきことの一つは、福音が多くの人にとって簡単に受け入れるものではないということです。残念なことに、そのため、人々が福音を受け入れやすくするために、クリスチャンはときどき福音のメッセージを薄めたり、遠回しに伝えたりすることがあります。

「イエス様は、ご自身が神様への唯一の道であると宣言されました。でも、少し誇張した表現だったのかもしれません。もしかすると、イエス様を信じていなくても、神様に受け入れられる敬虔な人々がいるのかもしれません。」

「神様の御心は、私たちがこの世で決して苦しまず、繁栄し、健康的な生活を送ることです。」

「聖書には、その行為は罪であると記されていますが、それは昔の律法によるものです。今の私たちはその律法の下にあるわけではありません。大切なのは、人をそのままの姿で受け入れることです。」

もちろん、私たちは恵みによって救われています。とはいえ、だからといって、悔い改めずに罪を犯し続けながらクリスチャンであると主張することはできません。

ガラテヤの人々の場合、恵みは薄められていました。一部のユダヤ人クリスチャンの考えでは、ガラテヤの人々は恵みだけによって救われるわけではありませんでした。むしろ、彼らは割礼を受ける必要があり、特定の食べ物を避けなければならず、その他の儀式的な律法にも従わなければなりませんでした。

では、なぜ彼らは福音を薄めたのでしょうか。おそらく、彼らはノンクリスチャンのユダヤ人がクリスチャンについてどう思うかを気にしていたからでしょう。

つまり、もしクリスチャンが恵みだけによる救いを宣べ伝えれば、ユダヤ人クリスチャンは「良いユダヤ人」とは見なされなくなるかもしれません。その結果、ユダヤ人の家族や友人に拒絶される可能性がありました。

こうした理由から、彼らはユダヤ人にとって受け入れやすい福音を採用したのです。

今もなお、同じようなことをするクリスチャンがいます。周囲の人々に福音をより受け入れやすくするために、福音のメッセージを薄めてしまうのです。

けれども、パウロはこう言いました。

今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。(ガラテヤ人への手紙1:10)

要するに、「福音を宣べ伝えるとき、私は周囲の人々が福音に同意するかどうかを気にしません。彼らを喜ばせたいとは思いません。むしろ、私は神様を喜ばせたいのです。」

だからこそ、パウロは戦い、福音の単純さと純粋さを守ろうとしました。そのため、ペテロが福音を曖昧にしたとき、パウロは彼に対して異議を唱えました。(ガラテヤ書2:11-14)

あなたはどうでしょうか。福音を薄めてはいないでしょうか。それとも、福音を正直に伝えているでしょうか。

私たちが周囲の人々の意見を気にし続ける限り、神様を喜ばせることはできません。そして、薄められた福音を伝えるならば、私たちは神様を喜ばせることができないのです。

あなたはどんな福音を宣べ伝えているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙

神様から離れる?

多くの人々は、キリスト教を厳しい規則の多い宗教と見なしています。そのため、彼らは神様に受け入れられるためには、その規則を守らなければならないと考えています。

実際、多くのクリスチャンもそのように考えがちです。しかし、聖書は本当にそのようなことを教えているのでしょうか。

この手紙の中で、パウロは困難に直面している教会に向けて書きました。その教会は、ガラテヤという都市にありました。(現代のトルコに位置しています。)

パウロは最初の宣教旅行の際に、その地域で多くの教会を設立しました。当初、それらの教会は栄えていました。

けれども、間もなくパウロは悪い知らせを聞きました。それは、ガラテヤの教会で、一部のユダヤ人クリスチャンが異邦人のクリスチャンに対し、「本当のクリスチャンになりたいなら、モーセの律法に従わなければならない。ただイエス様を信じるだけでは十分ではない」と教えていたことです。

特に、そのユダヤ人たちは、異邦人が割礼を受けなければならないと主張しました。

彼らの影響によって、ガラテヤの教会の人々は混乱し、偽りの福音を信じ始めました。そこで、パウロはこの手紙を書いたのです。

この手紙の冒頭から、パウロは、自分が彼らに伝えた福音を思い出させました。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。

キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。

この神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。(ガラテヤ人への手紙1:3-5)

その言葉によって、パウロはガラテヤの人々に、どのように恵みと神様との平和を受けたのかを思い出させました。では、彼らはそれをどのように受けたのでしょうか。律法によってでしょうか。割礼によってでしょうか。違います。

むしろ、神様は救いの道を計画され、イエス様は十字架の上で私たちの罪の罰を受けられました。救いのすべては神様の働きによるものであり、私たちは自分の救いを誇ることはできません。むしろ、私たちの救いの栄光はすべて神様のものです。

これこそが、パウロがガラテヤの人々に伝えた福音でした。

しかし今、パウロは彼らにこう言いました。

私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。

あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです。(6-7)

パウロの言葉は私の心を打ちました。

律法による福音を受け入れたことで、ガラテヤの人々は神様から離れてしまいました。彼らは神様を喜ばせていると思い、その規則を守ることによって神様に近づけると考えていました。けれども、実際には彼らは神様に背を向けてしまったのです。

彼らは、神様にこう言ったも同然です。「イエス様の十字架によって支払われたあなたの恵みによる救いの計画を拒みます。私たちは、この教師の教えに従い、あなたの救いの計画に別の条件を追加します。」

言い換えれば、ガラテヤの人々はもはや自分の救いを神様とその恵みに基づいていませんでした。むしろ、彼らは偽教師を信じ、律法に従う自分の努力に頼り始めたのです。

だからこそ、パウロは彼らに厳しく警告しました。

しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。

私たちが以前にも言ったように、今もう一度、私は言います。もしだれかが、あなたがたが受けた福音に反する福音をあなたがたに宣べ伝えているなら、そのような者はのろわれるべきです。(8-9)

つまり、「あなたが受け入れた福音は、実際には福音ではありません。たとえ天使であろうと、私たちであろうと、もし私たちが最初に伝えた福音とは異なるものを教えるなら、その者は神の裁きを受けるのです。」ということです。

なぜでしょうか。なぜなら、彼らは神様から離れているからです。そして、規則による福音に従う者も、神様から離れているのです。

あなたはどんな福音に従っているでしょうか。あなたが従っている福音では、イエス様を信じることだけでは十分ではないのでしょうか。その福音では、救われるために、あなたは多くの規則に従わなければならないのでしょうか。

あるいは、あなたは十字架を仰ぎ、あなたの救いのためにただイエス様を信じるでしょうか。

私たちが偽りの福音に従い、神様から離れることのないようにしましょう。むしろ、神様を信じ、イエス様の十字架の働きを信じ続けましょう。

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コリント人への手紙第二

人々のために神様の最善を願う

この手紙の締めくくりにおいて、私たちはコリントの人々に対するパウロの希望を見ることができます。それは、神様の御心が彼らの人生に成し遂げられることです。

まず、パウロは彼らに挑戦しました。

あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。(コリント人への手紙第二13:5)

私たちが本当にクリスチャンかどうか、どのように分かるでしょうか。使徒ヨハネは、三つの確認方法を示しています。

1.本物のクリスチャンは、イエス様についての真理を信じます。(第一ヨハネ2:22-23)

2.本物のクリスチャンは、イエス様の言葉に従順です。(第一ヨハネ2:3-4)

3.本物のクリスチャンは、神様を愛し、クリスチャンの兄弟姉妹を愛します。(第一ヨハネ4:7-8)

もちろん、私たちの愛とイエス様への従順は決して完全ではありません。しかし、それらは私たちの人生の中で次第に成長するはずです。そして、クリスチャンが失敗したときには、すぐに悔い改めるべきです。

パウロは、コリントの人々がこの三つのテストに合格するように祈りました。特に、パウロは、彼らの悔い改めによって、自分の信仰が本物であることを証明するように願いました。

パウロは彼らにこう言いました。

私たちは、あなたがたがどんな悪も行うことのないように、神に祈っています。(7a)

なぜ、パウロはそのように祈ったのでしょうか。

それは、私たちが適格であることを明らかにしたいからではなく(7b)

つまり、パウロの希望は、周囲の人々が「パウロは偉大なリーダーだ。彼の弟子たちを見てごらん」と言うことではありませんでした。

むしろ、

私たちが不適格な者のように見えたとしても、あなたがたに善を行ってもらいたいからです。(7c)

パウロの意図は何だったのでしょうか。

コリントの人々が悔い改めなければ、パウロは彼らを厳しく指導する覚悟がありました。

もちろん、もし彼らが悔い改めるなら、その必要はなかったでしょう。しかし、パウロが厳しく指導しなければ、彼の批判者はこう主張するでしょう。「パウロは甘すぎる。本当のリーダーではない。」

けれども、パウロは批判者の言葉を気にしませんでした。彼が願ったのは、コリントの人々が悔い改めて、善を行うことです。

だから、彼はこう言いました。

私たちは、自分は弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になること、このことも私たちは祈っています。(9)

パウロがコリントの人々を厳しく指導しなかったため、彼の批判者たちは、彼が弱いと考えたかもしれません。けれども、パウロはそのことを気にしませんでした。彼の願いは、コリントの人々が強くなることだったからです。

そこで、パウロは彼らが完全な者となるように祈りました。別の解釈では、パウロは、彼らと神様との関係、そして彼らと自分との関係が修復されるように祈りました。

そして、パウロは彼らにこう言いました。

そういうわけで、離れていてこれらのことを書いているのは、私が行ったときに、主が私に授けてくださった権威を用いて、厳しい処置をとらなくてもすむようになるためです。

この権威が私に与えられたのは、建てるためであって、倒すためではありません。(10)

言い換えれば、「私は、あなたのために神様の最善を願っています。あなたたちが成長できるように、神様は私を遣わされました。」ということです。

そこで、パウロは彼らにもう一度挑戦しました。

最後に兄弟たち、喜びなさい。完全になりなさい。慰めを受けなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。(11a)

なぜでしょうか。

そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。(11b)

そして、パウロはこの手紙を、この言葉で締めくくりました。

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともに。(13)

それは、コリントの人々に対するパウロの希望と祈りでした。そして、それは私たちが周囲の人々に対して抱くべき希望と祈りでもあります。

人々が罪を犯し、特に反抗的な態度を取るとき、私たちは彼らを厳しく指導しなければなりません。それでも、私たちの目的は、彼らの神様との関係を修復することです。なぜなら、私たちは彼らのために神様の最善を願うからです。

あなたはどうでしょうか。あなたは、ほかの人のために神様の最善を願っていますか。

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コリント人への手紙第二

イエス様がこの世に戻られるとき

この箇所で、パウロはコリントの人々に警告するだけでなく、私たちすべてにも警告を与えています。

パウロはこう言いました。

私があなたがたのところに行くのは、これで三度目です。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことは立証されなければなりません。

以前に罪を犯した人たちとほかの人たち全員に、私は二度目の滞在のとき、前もって言っておきましたが、こうして離れている今も、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦しません。

こう言うのは、キリストが私によって語っておられるという証拠を、あなたがたが求めているからです。

キリストはあなたがたに対して弱い方ではなく、あなたがたの間にあって力ある方です。キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。

私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。(コリント人への手紙第二13:1-4)

以前、コリントに行ったとき、パウロは自らの権威を振るうことなく、コリントの人々の罪深い態度を悲しみました。しかし、彼が彼らのために自らの人生を犠牲にしたにもかかわらず、コリントの人々はパウロを拒絶しました。

それでも、パウロは彼らに警告しました。「私は弱い者として来るのではありません。むしろ、私は神様の力を持ち、神様から受けた権威をもって、あなたたちを裁きます。」

そして、パウロはこう言いました。

以前に罪を犯した人たちとほかの人たち全員に、私は二度目の滞在のとき、前もって言っておきましたが、こうして離れている今も、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦しません。(2)

イエス様は、同じようなことを私たちに語られます。

イエス様は、以前この世に来られたとき、ある意味で弱い方として来られました。貧しい大工として、また巡回説教者として歩まれました。イエス様は、勝利する王としてではなく、十字架につけられた救い主として来られました。

しかし、神様の力によって、イエス様はよみがえられました。

そして、ある日、イエス様は再びこの世に戻られます。そのとき、イエス様は弱い方としてではなく、力を持つ方として戻られます。さらに、イエス様を拒絶する人を、もはや赦されません。むしろ、イエス様は彼らを裁かれます。

多くの人々は、イエス様を私たちを愛しておられる神の御子と見なします。そして、その愛を示すために、イエス様がすべてを犠牲にされたことに思いを巡らせます。もちろん、それは真実です。

しかし、多くの人々は、大切なことを忘れがちです。それは、イエス様がこの世に戻られるとき、すべての人々を裁かれるということです。イエス様は、ご自身を拒む者に対して、もはや憐れみを示されません。

その日、イエス様はすべての人々に明らかにされます。ただ神の羊としてだけでなく、ユダの獅子として、そして永遠にこの世を治める王として認められます。そして、イエス様の正当な統治に逆らう者は、イエス様の怒りを知ることになるのです。(ルカ19:11-27)

だからこそ、私たちは自らに問いかけるべきです。私たちはイエス様の権威に従うでしょうか。それとも、イエス様に逆らい続けるでしょうか。 神様は忍耐深いお方です。しかし、その忍耐は永遠に続くものではありません。

だから、決して神様の忍耐を試してはなりません。むしろ、今のうちに、私たちができる限り神様の恵みと憐れみを受け入れましょう。

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コリント人への手紙第二

真のリーダー(2)

この前、私はリーダーの特徴について話しました。この箇所では、さらにいくつかのリーダーの特徴を見ることができます。

1.真のリーダーは思うべき限度を超えて思い上がらず、自分自身を慎み深く考えるべきです。(ローマ12:3)

言い換えると、リーダーは、自分自身をキリストのしもべとして正しく判断し、謙遜を持って、自分の得手不得手を理解することが大切です。

パウロを批判したリーダーたちについて、パウロはこう言いました。

私は、たとえ取るに足りない者であっても、あの大使徒たちに少しも劣るところはなかったのですから。(コリント人への手紙第二12:11)

パウロは、自分自身をよく理解していました。彼はキリストによって召された使徒でした。彼は、しるしと不思議と力あるわざによって、自身の使徒としての資格を証明しました。

それに、彼は多くの教会を設立しました。そして、印象的な説教者ではなかったにもかかわらず、彼の言葉には神様の力が伴っていました。

それでも、パウロは自分自身を使徒の中で最も小さい者と呼びました。なぜなら、彼はかつて教会を迫害したからです。(第一コリント15:9)

また、彼は自らの弱さを認め、自分の力では何も成し遂げることができないことをも受け入れました。(第二コリント12:7-10)

真のリーダーは、自分自身をそのように捉えるべきです。彼らはキリストにあって、自身が何者であるかを正しく認識しなければなりません。また、人生やミニストリーにおいて、神様の恵みを必要としていることを謙虚に認めるべきです。

2.真のリーダーは、人々を心から愛します。決して人々を利用することはありません。

パウロはこう書きました。

私は、あなたがたのところに三度目の訪問をする準備ができていますが、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなたがたが持っている物ではなく、あなたがた自身なのです。

子が親のために蓄える必要はなく、親が子のために蓄えるべきです。私は、あなたがたのたましいのために、大いに喜んで財を費やし、自分自身を使い尽くしましょう。

私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はますます愛されなくなるのでしょうか。(14-15)

パウロは、コリントの人々の最善を願いました。そして、霊的な親のように、大きな代価を払わなければならなくても、彼らが霊的に成長することを望みました。真のリーダーとは、そのように考えるものです。

3.真のリーダーは、常に誠実に行動します。

しかし、一部のコリントの人々は、パウロが彼らを欺き、搾取していると非難しました。皮肉なことに、その理由は、パウロが自分のミニストリーを支えるために彼らの金銭を受け取らなかったことでした。

なぜ彼らがそのように言ったのかは分かりません。もしかすると、彼らはこう考えたのかもしれません。

「パウロは、自分のミニストリーのために金銭を必要としないと言っていたのに、今はエルサレムの人々のために献金を募っている。それは矛盾しているのではないか。」

けれども、パウロは自身の人生、そしてコリントの人々に送った代表者たちの生き方を示すことで、その誠実さを証明することができました。(17-18)

すべてのリーダーが、そのようにできたら素晴らしいのに。

4.真のリーダーは、教会の人々の罪を悲しみ、その問題に向き合います。

パウロの懸念は、コリントの人々の罪を厳しく扱わなければならないことでした。彼はそれを望んではいませんでしたし、心を痛めましたが、しかし、その責任を果たす覚悟を決めました。(20-21)

真のリーダーは、そうすべきです。彼らは罪を目にすると、それを無視することはできません。

パウロはそのようなリーダーでした。あなたはどうでしょうか。

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コリント人への手紙第二

自立の問題

私の両親は、私が自立できるように育てました。私は親元を離れて数年後、父はこう言いました。「私がうれしいのは、おまえと兄姉が決して私たちにお金をねだらないことだよ。」

親子関係において、自立は良いことだと思います。私たちは皆、成長し、やがて両親から独立しなければなりません。

しかし、神様との関係において、自立は決して良いことではありません。私たちが神様から独立できる瞬間はありません。なぜなら、私たちは常に神様を必要としているからです。

この人生を歩むために、私たちは常に神様の力を必要とします。仕事、人間関係、ミニストリーにおいて、私たちは必ず神様を必要とします。

自立の問題は、私たちの人生の中で神様の力を本当に経験できなくなることです。神様からの独立を求めると、神様の力にアクセスできなくなります。

パウロはこの真理を学び、それをコリントの人々に教えようとしました。

パウロには素晴らしい霊的な経験がありました。彼は天国を見ました。

だから、パウロにとって「私はクリスチャンとしてたどり着いた。もう神様の助けは必要ないでしょう。私は霊的に成熟しているので、自分の力でこの人生を歩むことができるでしょう」と考えるのは容易だったでしょう。

そういうわけで、パウロが高慢にならないように、神様は彼の肉体に「とげ」を与えられました。そのとげが何であったのかについて、パウロは具体的に説明しませんでした。

もちろん、それは文字どおりのとげではありませんでしたが、それは健康上の問題だったかもしれません。(多くの人は、パウロが目の疾患を抱えていたと考えています。)あるいは、それは霊的な試練だったのかもしれません。

いずれにせよ、パウロは三度、主に願いました。「このとげを私から取り去ってください。」

しかし、神様はこう答えられました。

わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。(コリント人への手紙第二12:9)

要するに、「この問題を取り去らなくてもよい。なぜなら、あなたは私の恵みを持っているからである。そして、あなたの弱さのうちに、私の力は完全に働く。」

神様が意味されたものは何でしょうか。

私たちは弱いとき、自分の力に頼らず、神様の力に依り頼まなければなりません。私たちが自分の力に頼り続ける限り、神様の力は私たちの人生において完全に働くことができません。

だから、パウロはこう言いました。

ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。

というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(9b-10)

なぜ、パウロは自分の弱さを誇ったのでしょうか。それは、弱さゆえにパウロがさらに神様に依り頼まなければならなかったからです。

その結果、彼は以前にもまして、神様の力を知るようになりました。それだけではなく、パウロと神様との関係はさらに深まったことでしょう。

あなたはどうでしょうか。自分の力だけで人生を歩もうとしていませんか。もしそうであれば、神様の力を経験することも、神様との親しい関係を築くこともできません。

私自身、神様の力と、神様との親しい関係の両方を持ちたいと願っています。

だからこそ、自分の自立を誇るのではなく、毎日、神様の力に依り頼むことを学びましょう。

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コリント人への手紙第二

霊的な経験より重要なもの

おそらく、コリントの偽教師たちが自分の啓示や幻を誇っていたため、パウロは自らの優れた霊的な経験を語り始めました。

彼は天国に行き、神様の御前に立ちました。(それが実際に起こったのか、それとも幻だったのか、パウロ自身は知りませんでした。)

それでも、その経験について話した後、パウロはこう言いました。

しかし、その啓示があまりにもすばらしいために、私について見ること、私から聞くこと以上に、だれかが私を過大に評価するといけないので、私は誇ることを控えましょう。(コリント人への手紙第二12:6)

パウロの言葉の意味は何でしょうか。

私たちには皆、それぞれ霊的な経験があります。もちろん、その経験の大切さを疑うことはありません。しかし、その経験によって、自分の霊的な偉大さを誇るべきではありません。

私たちの霊的な成熟は、毎日の言葉や行動によって証明されます。周りの人々は、そのことに気づくはずです。

彼らは私たちの霊的な経験そのものではなく、むしろ神様が私たちを通して話し、働き、人に触れておられることに気づくのです。そしてそれは、私たちの栄光のためではなく、神様の栄光のためなのです。

あなたには、素晴らしい霊的な経験があるでしょうか。それは祝福です。

しかし、本当の霊的な経験は、ただ心を躍らせるためのものではありません。むしろ、その霊的な経験を通して、私たちの日々の言葉や行動が変えられていくはずです。

あなたの霊的な経験は、どのように日々の言葉や行動を変えてきたでしょうか。

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コリント人への手紙第二

真のリーダー

このパウロと偽使徒の話から、私たちは真のリーダーの特徴を学ぶことができます。つまり、真のリーダーは何をすべきか、何を避けるべきかということです。

1. 真のリーダーは、自分自身を誇る必要がありません。

パウロが自らを誇ったのは、コリントの人々の弱さのためでした。彼らは偽使徒の資格に過剰に感動していたのです。

パウロは何度も、自分を誇りたくないと語っていました。それでも、コリントの人々の尊敬を得るために、彼は偽使徒と同じように、自身の資格について語らざるを得ませんでした。

しかし、通常の状況では、真のリーダーはそのような行動をとるべきではありません。

真のリーダーは、自分の才能や賜物、そしてミニストリーのすべてがイエス様から与えられたものであることを認めます。だからこそ、彼らは誇ることなく、謙遜な態度をもって人々を導くのです。

2. 羊が罪を犯したとき、真のリーダーはその羊を厳しく戒めなければならないかもしれません。けれども、そのリーダーは暴力を振るわず、羊の弱さにつけ込むことはありません。

その一方で、偽使徒たちはコリントの人々を「奴隷にして、食い尽くし、強奪し、その頭をたたきました。」(コリント人への手紙第二11:20)

残念ながら、今もなお、あるリーダーたちは自分の立場を乱用しています。しかし、パウロによれば、真のリーダーは自分に反対する人々を柔和に教え導きます。(第二テモテ2:25)

3. 真のリーダーは羊を心から愛しています。(28-29)

だから、リーダーは信仰の弱い人を励まします。私たちの大祭司イエス様のように、リーダーたちは羊の弱さに共感します。(へブル書4:15)

そして、誰かが羊をつまずかせたら、リーダーはイエス様のように憤ります。(マルコ9:42)

4. 真のリーダーはいろいろな苦しみを自ら望んで耐えます。

パウロは豪華な人生や快適な生活を求めませんでした。むしろ、パウロは迫害や様々な困難、眠れぬ夜や飢え渇きを経験しました。(23-27)

これらは真のリーダーの特徴です。

あなたは教会のリーダーでしょうか。牧師でしょうか。日曜学校の先生でしょうか。バイブルスタディーのリーダーでしょうか。

あなたはパウロのようなリーダーでしょうか。

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コリント人への手紙第二

別のイエス、異なる霊、異なる福音

この箇所では、私たちは重要な真理を学びます。それは何でしょうか。

人々が自分をイエス様の代表者だと主張するとき、御霊を持っていると主張するとき、また福音を伝えると主張するとき、私たちはその主張をただ受け入れるべきではありません。

なぜでしょうか。その理由は、パウロがコリントの人々に語った言葉の中に見いだせます。

蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。

実際、だれかが来て、私たちが宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたが受けたことのない異なる霊や、受け入れたことのない異なる福音を受けたりしても、あなたがたはよく我慢しています。(コリント人への手紙第二11:3-4)

パウロの懸念は、コリントの人々がエバのように欺かれ、キリストから離れてしまうことです。どうしてそのようなことが起こり得るのでしょうか。

それは、彼らが別のイエス、異なる霊、異なる福音に惑わされるからです。

あなたはこう思うかもしれません。「ちょっと待って。ただ一つのイエス、ただ一つの聖霊、ただ一つの福音だけだと思っていたけど。」

その通りです。しかし、同時に、偽のイエス、偽の御霊、偽の福音が数多く存在します。人々を欺く働き人、そしてキリストの使徒になりすました偽使徒たちが、その偽の福音を教えているのです。(13)

パウロによれば、私たちはそのことに驚くべきではありません。なぜでしょうか。

サタンでさえ光の御使いに変装します。ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。

彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。(14-15)

パウロはすでに自身の時代にその現象を目の当たりにしていました。コリントの教会では、一部の人々がパウロの教えに反対し、さらにはパウロ自身にも反対したため、信徒たちは混乱してしまいました。

また、新約聖書の中には、偽教師が誤った教えを広めた例が数多く記されています。

ある者たちは、別のイエスについて教えました。彼らによれば、そのイエスは人間としてこの世に来ていないというのです。(第二ヨハネ1:7)

彼らは異なる霊の力によって教えていたため、ヨハネは教会に警告を発しました。

愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。(第一ヨハネ4:1)

彼らは異なる福音を宣べ伝えました。彼らによれば、本当のクリスチャンはユダヤ人の律法に従わなければなりません。(ガラテヤ人への手紙を読んでください。)

今もなお、偽のイエスがいます。モルモン教によれば、イエスはサタンの兄弟です。また、モルモン教によれば、イエスは数百万の神々の一人です。

エホバの証人によれば、イエスは実際には御使いのかしらミカエルです。

偽の聖霊も存在します。エホバの証人によれば、聖霊は人格を持たない力です。モルモン教によれば、聖霊はイエスと同じく数百万の神々の一人です。

偽の福音もあります。エホバの証人とモルモン教によれば、救いは信仰と恵みだけではなく、私たちの良い行動に基づくものです。

もちろん、エホバの証人やモルモン教の人々は優しく誠実です。私たちよりも敬虔に見えるかもしれません。

しかし、彼らは別のイエス、異なる霊、異なる福音を伝えているため、自身が偽教師や偽のクリスチャンであることを証明してしまっています。

それでも、彼らの言葉は魅力的に聞こえるため、多くの人々が惑わされてしまいます。

誤解しないでください。彼らは意図的に人々を欺こうとしているわけではありません。むしろ、彼ら自身が欺かれてしまったのです。

けれども、私たちは惑わされないように、「私はイエス様を信じる。福音を信じる」と主張する人の言葉を吟味せずに受け入れてはいけません。

むしろ、私たちは聖書によって彼らの教えを吟味すべきです。なぜなら、聖書こそが真理の基盤だからです。

子供のように考えず、軽々しく騙されないようにしましょう。むしろ、パウロの言葉に従いましょう。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。テサロニケ第一5:21

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コリント人への手紙第二

自分自身と周りの人々をどのように判断するか

この箇所では、パウロは依然として自分を軽蔑するコリントの人々に向き合っています。

彼らはパウロを見て、その外見から判断しました。どうやら、パウロはそれほど容姿端麗ではなく、話し方も特に印象的ではなかったようです。

そのため、あるコリントの人々はパウロについてこう言いました。

「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない。」(コリント人への手紙第二10:10)

しかし、パウロは彼らに言いました。「あなたたちはうわべのことだけを見ています。」(7)

パウロは、クリスチャンとして、またキリストのしもべとして、立派な人物でした。 それでも、彼らはパウロの外見や話し方にばかり注目しすぎて、その本質を悟ることができなかったのです。 その結果、彼らはパウロとその弱さを軽蔑したのです。

こうして、パウロは彼らに警告を与えました。

そのような人は承知していなさい。私たちは、離れて書く手紙のことばどおりの者として、そちらに行ってもふるまいます。(11)

要するに、「私たちはただ言葉を並べる者ではありません。私たちは自分の言葉に従って行動します。私たちがコリントに行けば、あなたたちがまだ悔い改めていないことを知るでしょう。」

私たちは人を見るとき、外見で判断してはなりません。なぜなら、彼らはその見た目以上に優れた人であるかもしれないからです。そして、神様の力によって、私たちの予想を超えて彼らはさまざまな奉仕をすることができるでしょう。

しかし、もし私たちが彼らの外見にのみ注目し、彼らの弱さを軽蔑するなら、その人の本質を見損なうことになります。

さらに、私たちは神様の似姿として造られた人を軽んじてしまうことになります。そして、神様の目的のために造られた人を軽蔑してしまうことにもなります。神様はそのような態度を軽くは見られません。

また、私たちは自分自身をどのように評価すべきかを考える必要があります。

パウロは自分を批判する者についてこう言いました。

彼らは自分たちの間で自分自身を量ったり、互いを比較し合ったりしていますが、愚かなことです。(12)

要するに、自分自身を周りの人々と比べたり、評価したりするのは愚かなことです。なぜでしょうか。それは、私たちが人間的な基準ではなく、神様の基準によって測られるからです。

もし私たちが人間的な基準で自分自身を測るなら、神様が定めた的を大きく外してしまうでしょう。

さらに、当然のことですが、他人の業績を自分の手柄にしてはいけません。自分が成し遂げたことを誇りすぎるのはよくないですが、他人の業績を自分の手柄にするのはなおさら悪いことです。

パウロはそのようなことを一度も行いませんでした。(13−16)

そして、パウロは私たちが誇るべきことについて語ります。

誇る者は主を誇れ。(17)

パウロが意味したものとは何でしょうか。主は預言者エレミヤを通して、次のように語られました。

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり(ます)。(エレミヤ書9:24)

要するに、私たちは自分自身や自分の業績に焦点を当ててはいけません。むしろ、神様に目を向け、神様をもっと深く知ることに努めるべきです。

神様を本当に知っている人には誇るべきことがあります。なぜなら、彼らは真に価値あるものに焦点を当てているからです。彼らは周りの人々を喜ばせることを目的とするのではなく、神様を喜ばせることを最優先にしています。

そのような考え方こそが真の知恵です。

だからこそ、パウロはこう言いました。

自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です。(18)

あなたはどうでしょうか。周りの人々をどのように判断していますか。彼らの外見だけで判断しているでしょうか。

また、自分自身をどのように評価していますか。周りの人々と比べているでしょうか。それとも、人間的な基準ではなく、神様の基準で測っているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

要塞を打ち倒す力

私たちはこの世を見れば見るほど、サタンが自らの要塞を私たちの文化の中に築いていることに気づきます。

アメリカでは過去10〜20年の間に道徳観が悪化しつつあります。また、日本では、サタンの強い霊的な要塞の影響により、多くの人々が霊的な暗闇の中で生きています。

あるクリスチャンは、それを見て失望し、あきらめたいと思います。

また、別のクリスチャンは、サタンが私たちの文化の中で行ったことに怒りを感じます。そして、この世の人々のように、彼らは怒りと憎しみを抱き、暴力的な態度で撃退しようとします。

しかし、私たちはそのような戦い方をしてはいけません。それは、サタンの要塞を正しく打ち倒す方法ではありません。

パウロはコリントの教会で、さまざまな要塞に直面しました。偽教師によって築かれた要塞、分裂の要塞、そして神様とパウロに対する反抗的な態度という要塞がありました。

では、パウロはどのように反応したでしょうか。

パウロは柔和さと優しさをもって対応しました。彼に反対する人々を打ち負かそうとはせず、むしろ、柔和な心を持ち続けました。

もちろん、パウロが強気になることもありました。だからこそ、彼はコリントの人々にこう言いました。「あなたがたが悔い改めないなら、私は強く振る舞い、大胆に行動します。」

しかし、それが彼の望みではありませんでした。

大胆に振る舞わなければならない時でさえ、パウロは人々を打ち倒そうとは思いませんでした。むしろ、彼らを建て上げたいと願っていたのです。

そして、パウロはサタンの要塞を攻撃する方法について語りました。彼は言いました。

私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。(コリント人への手紙第二10:3)

あるクリスチャンは「毒をもって毒を制す」という態度を取ることがあります。

また、社会の悪化を食い止めるために政治の手段を用いるべきだと考える人もいます。

誤解しないでください。クリスチャンとして、私たちは政治に関与すべきです。政治から手を引くべきではありません。しかし、政治を通じて人の心を変えられると考えるなら、それは誤りです。

クリスチャンの価値観が社会に根付けば、状況は改善されるかもしれません。けれども、政治には人の心を変える力はありません。

もし長期的な変化を望むなら、個々のクリスチャンが周囲の人々と関わるべきです。また、神様が与えてくださった霊的な武器を用いなければなりません。

パウロはこう言いました。

私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。(4)

その武器は何でしょうか。基本的に、それは神の御言葉と祈りです。私たちは人々に神の御言葉を伝え、彼らのために祈るべきです。

御霊が私たちの内で、また私たちを通して働かれるとき、私たちは御言葉と祈りの持つ力によって人が変えられるのを目の当たりにします。

御霊を通して、

私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。(5)

最終的に、政治や議論によって人の心を変えることはできません。むしろ、神様こそが人の心を変えることのできる方です。

だから、私は二つの質問を投げかけます。

1.私たちは、サタンの要塞を打ち倒す戦いに参加しているでしょうか。

2.もしそうなら、どんな武器を持って戦っているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

人々が神様に栄光を帰すために

前回の記事でこのことに触れましたが、もう少し詳しく話したいと思います。つまり、神様の民の寛大さによって、彼らは神様に栄光を帰すのです。

パウロはこう書きました。

あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。

なぜなら、この奉仕の務めは、聖徒たちの欠乏を満たすだけではなく、神に対する多くの感謝を通してますます豊かになるからです。

この務めが証拠となって、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、自分たちや、すべての人に惜しみなく与えていることを理解して、神をあがめるでしょう。

そして彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた、神のこの上なく豊かな恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになります。(コリント人への手紙第二9:11-14)

この箇所の重要なテーマの一つは、私たちの寛大さによって、周りの人々が神様に感謝することです。

彼らは、自分の必要が満たされたからだけでなく、神様が私たちを通して働いておられるのを見るゆえに、神様に感謝します。彼らは、私たちの人生に溢れるこの上なく豊かな恵みを目の当たりにし、その恵みが彼らの人生にも広がっていくのを見ます。

残念なことに、多くの人々はクリスチャンを見ると、偽善者のように感じることがあります。また、愛に欠ける人や冷淡な人として映ることもあります。

しかし、イエス様の恵みに触れた寛大なクリスチャンを見ると、彼らは天の父を垣間見るのです。その天の父は、「ご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださいます。」(マタイ5:45)

だからこそ、私たちの姿を見ると、彼らは神様に栄光を帰し、神様に近づくのです。

イエス様はこう言いました。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。(マタイ5:16)

光を輝かせる最も良い方法の一つは、人々に惜しみなく与えることです。

私たちがそうすると、ノンクリスチャンだけでなく、クリスチャンも励まされます。

彼らは、神様が決して自分たちを見捨てず、変わらぬ愛を注いでくださることを知るのです。そして、他のクリスチャンが自分の信仰によって生きる姿を見ることで、彼らもまた、自分の信仰によって生きるように励まされます。

そして、パウロのように、彼らは言葉に尽くせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(15)

その賜物によって、人々の心は変えられ、神様から与えられた愛を周りの人々に惜しみなく分かち合い始めます。

あなたはどうでしょうか。あなたの寛大さによって、人々は神様に栄光を帰しているでしょうか。彼らはあなたの人生を通して神様を見て、感謝しているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

恵みが溢れている人生

「恵みが溢れている人生」という記事のタイトルを読んだとき、あなたは何を思い浮かべたでしょうか。

神様から与えられた恵みを考えたでしょうか。もちろん、この記事ではそのことについても書きます。しかし、それだけではありません。

パウロはこう書きました。

神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。

あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。(コリント人への手紙第二9:8)

私はこの箇所が大好きです。パウロによれば、神様は私たちに溢れるほどの恵みを与え、私たちの必要を満たすことができます。

しかし、その恵みを豊かに与える目的は何でしょうか。それは、私たちがすべての良いわざに満ち溢れるためです。つまり、私たちは受けた恵みによって、周りの人々にも豊かに恵みを与えることができるのです。

そして、パウロは詩篇112篇を引用します。

「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠にとどまる」と書かれているようにです。(9)

どういうわけか分かりませんが、以前にこの言葉を読んだとき、パウロがイエス様について語っているのだと思いました。もしかすると、その箇所でエペソ書4:8を連想したのかもしれません。

けれども、実際には、その詩人は義人の寛大さについて語っています。義人は主に信頼しているので、未来を恐れません。そのため、惜しみなく貧しい人を助け、良いわざに満ち溢れています。

そして、パウロは続けてこう言います。

種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。

あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。(10-11)

要するに、私たちは神様が私たちの必要を満たしてくださることを確信できます。そして、私たちが周りの人々に惜しみなく与えるようになるほど、神様は私たちの財源をさらに増し加えてくださるのです。

しかし、私たちは自分の経済について本当に神様に信頼しているでしょうか。私はそのことをまだ学んでいる途中です。

私は詩篇112篇に描かれる義人のようになりたいです。私の人生に神様の恵みが溢れるように祈ります。けれども、その恵みを自分のためだけに持ちたいわけではありません。

むしろ、その恵みに溢れ、周りの人々に触れて祝福したいのです。そして、私の人生を通して、彼らが神様に栄光を帰すことを願います。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生は恵みに溢れているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

献金の原則

この箇所では、私たちは二つの献金の法則を見ることができます。

パウロはこう言いました。

私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。(コリント人への手紙第二9:6)

もちろん、これは人生のあらゆる事柄に関わる大切な原則です。

例えば、結婚にわずかしか蒔かなければ、刈り入れるものもわずかになります。

つまり、結婚に時間や努力を惜しめば、その結婚から得られるものはほんのわずかであり、やがて枯れ果ててしまうかもしれません。けれども、結婚に豊かに蒔けば、大きな祝福を刈り入れることができます。

子育てにおいても、この原則は非常に重要です。もし、子供に対してわずかしか種を蒔かなければ、彼らが成長しても、あなたとの親しい関係をあまり求めないかもしれません。けれども、子供に豊かに蒔けば、成長した後も親しい関係を築くことができるでしょう。

とはいえ、この箇所でパウロが語っているのは献金についてです。多くのクリスチャンは、「十一献金は新約聖書の教えではないのだから、どうして献げるべきなのだろうか」と考えます。

しかし、教会にわずかしか蒔かなければ、その結果はどうなるでしょうか。

牧師は自分の家族を支えるために、アルバイトをしなければならなくなるかもしれません。そのため、教会の人々に仕える時間は大幅に減ってしまうでしょう。

また、教会は地域の人々に働きかけるための十分な財源を持てないかもしれません。さらに、あなたの家族に仕えるための資源も不足するでしょう。

けれども、あなたが豊かに教会に蒔けば、教会はあなたや家族、そして地域の人々にとって大きな祝福となるでしょう。

もしあなたが「自分の牧師や教会は十分に機能していない」と嘆いているなら、自分自身に問いかけてみてください。「私は豊かに教会に蒔いているだろうか。」

そして、パウロは続けてこう言います。

一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。(7)

献金するとき、「献金しなくてはならない」という義務感を持つべきではありません。また、強いられるような気持ちで献金するのも正しくありません。

むしろ、喜びに満ちた心を持ち、惜しみなく献金するべきです。

「神様、あなたが多くの恵みを与えてくださり、ありがとうございます。あなたはイエス様を送ってくださいました。それは本当に素晴らしい賜物です。ですから、この献金を通して、私の感謝を表したいのです。」

このような心を持って献金することが大切です。

そのような心を持てば、献金の額が多くても少なくても、神様は喜んで受け入れてくださいます。

ルカの福音書21:1-3では、やもめの献金はほんのわずかな額でした。しかし、彼女は心から献げたため、イエス様はその献金を金持ちの多額の献金よりも喜ばれました。

あなたはどうでしょうか。どのような心で献金を捧げていますか。

あなたはわずかに蒔いているでしょうか。それとも、豊かに蒔いているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

私たちが周りの人々に与える影響

私たちは皆、家庭でも教会でも職場でも、周りの人々に影響を与えています。

もしかすると、自分がロールモデルになろうとは思わなかったかもしれません。しかし、実際にはそうした立場を持っていることもあります。もしそうなら、私たちはその役割を果たす責任を、周りの人々に対して、そして神様に対して負っています。

コリントの人々は、エルサレムの人々の苦しみについて聞いたとき、助けたいと願い、その思いをパウロに伝えました。パウロはその知らせを聞いて喜び、さらにマケドニアの人々にそのニュースを伝えました。

そして、マケドニアの人々がそれを聞くと、彼らも助けたいと願いました。こうして、あるマケドニアの人々がパウロとともに、コリントを経由してエルサレムへ行くことになりました。

しかし、パウロの心にはある懸念が浮かびました。「コリントの人々は、もうその献金を整えているだろうか。まさか、まだしていないのだろうか。」

そこで、パウロはこの手紙を書き、彼らが約束通りに献金を整えるよう促しました。そして、彼は彼らにこう書きました。

そうでないと、もしマケドニアの人々が私と一緒に行って、準備ができていないのを見たら、あなたがたはもちろんですが、私たちも、このことを確信していただけに、恥をかくことになるでしょう。(コリント人への手紙第二9:4)

コリントの人々は予想もしませんでしたが、彼らの熱心によって、マケドニアの人々も献金するように鼓舞されました。もし霊的な先輩であるコリントの人々が献金を準備していなかったとしたら、マケドニアの人々は非常に落胆したことでしょう。

もちろん、私たちは完全な存在ではありません。誰もが失敗することがあります。クリスチャンは、何よりもイエス様ご自身を見習うべきです。

それでも、そうしないクリスチャンもいます。イエス様ご自身も、そのことを認めました。だから、彼はこう言いました。

私を信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められる方が良いのです。

つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。(マタイ18:6-7)

だからこそ、注意を払いましょう。私たちの行動は、私たちを見上げる人々に影響を与えることを心に留めましょう。

神様の恵みによって、私たちの模範を通して、人々が失望し、神様から離れることがないように。むしろ、私たちの模範によって、彼らが神様に従うように励まされますように。

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コリント人への手紙第二

イエス様の御名を輝かせている?

この箇所で、パウロはエルサレムの貧しい人々のための献金を集める手順について語ります。なぜなら、彼はコリントの人々に、その過程が公正であることを安心してもらいたかったからです。

そこで、パウロは献金を預かる担当者たちについて説明します。

一人はテトスでした。もう一人は、福音を宣べ伝える働きによって知られていました。そして、もう一人は、主への奉仕に熱心なことで知られていました。

彼らについて、パウロはこう語りました。

テトスについて言えば、彼は私の仲間であり、あなたがたのために働く同労者です。

私たちの兄弟たちについて言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光です。(コリント人への手紙第二8:23)

それは素晴らしい誉め言葉です。その三人はキリストの栄光です。

それはどういう意味でしょうか。彼らは、自分の人生を通してイエス様の御名に栄光をもたらしました。

イエス様への熱心さによって、彼らはイエス様の御名を栄光で満たしました。また、福音を宣べ伝える働きを通して、彼らはイエス様の御名に栄光をもたらしました。さらに、周りの人々への愛と憐れみによって、彼らはイエス様の御名を輝かせました。

この言葉を読むと、私は自分自身に問いかけます。私はキリストの栄光となっているだろうか。

私の言葉と行動を通して、イエス様に栄光をもたらしているだろうか。イエス様への熱心さを持っているだろうか。周りの人々にイエス様の言葉を伝えているだろうか。彼らに対する神様の愛と憐れみは私の心に溢れているだろうか。

私はそう願います。もちろん、私は完全な人間ではありません。しかし、イエス様の御名を汚したくありません。

あなたはどうでしょうか。あなたはイエス様の栄光となっているでしょうか。あなたの言葉と行動を通して、イエス様の御名を輝かせているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

恵みの模範

私たちは本当に神様の恵みを理解できているでしょうか。その恵みを深く理解するなら、私たちの態度はどれほど変わるでしょうか。

自分のお金をささげること、自分の時間をささげること、自分の人生をささげることについて、私たちの考え方はどのように変わるでしょうか。

パウロはコリントの人々にこう語りました。

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。

すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(コリント人への手紙第二8:9)

恵みとは何でしょうか。それは、神様の祝福に値しない者に祝福を与えることです。イエス様は恵み深い方であり、その恵みに値しない私たちを祝福してくださいました。

イエス様が何をしてくださったのか、考えてみてください。

イエス様は天国において富んでおられました。しかし、「富んでおられる」とは、お金や金銀をたくさん持っていたという意味ではありません。天国では、そうしたものに価値はありません。けれども、イエス様は天の父の栄光を持ち、天使たちから礼拝されていました。

イエス様は天の父の王座の右に座しており、何一つ欠けることがありませんでした。さらに、イエス様はすべてを治め、イエス様にあって万物は成り立っていました。(コロサイ書1:15-18)

それでもなお、イエス様はご自身の栄光を捨て、天国を離れ、人間としてこの世に来られました。

イエス様は王としてではなく、金持ちとしてでもなく、むしろ貧しい大工として来られました。そして、ご自身の奉仕を始められた時、イエス様には枕する所すらありませんでした。(ルカ9:58)

そして、ご自身の人生の終わりには、イエス様は礼拝されるのではなく、むしろ侮辱されました。王座には座らず、十字架につけられました。栄光をもって治めるのではなく、恥を受けて十字架につけられました。

なぜでしょうか。

それは、私たちが豊かにされるためです。イエス様の十字架の御業によって、私たちの罪の負債は支払われました。そのため、私たちはいつか御国でイエス様と共に治めることになります。(ローマ書8:17)

イエス様は惜しみなく恵みを与えてくださいました。

だから、私はもう一度尋ねます。

あなたは本当にその恵みを理解しているでしょうか。

その真理を実感しているでしょうか。もしそうなら、私たちの人生に大きな影響を与えるはずです。

イエス様が惜しみなく私たちを恵まれたように、私たちも周りの人々に惜しみなく恵みを与え始めるでしょう。

正直に言うと、私もこの真理をもっと深く実感する必要があります。

あなたはどうでしょうか。イエス様の恵みを理解しているでしょうか。その恵みは、あなたから周りの人々へと溢れ出しているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

恵みのわざに満ち溢れる

この箇所で、パウロはコリントの人々にこう語ります。

あなたがたはすべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちからあなたがたが受けた愛にもあふれています。

そのように、この恵みのわざにもあふれるようになってください。(コリント人への手紙第二8:7)

コリントの人々は、霊的な賜物や熱心さ、愛の豊かさで知られていました。

けれども、パウロはこう言います。「信仰や言葉、知識、熱心さだけではなく、恵みのわざに溢れなさい。つまり、人々の必要に応じて惜しみなく与える恵みのわざに満ちなさい。」

多くのクリスチャンは、信仰に溢れたい、キリストのために福音を伝えたい、イエス様についての知識を深めたい、熱心と愛に満ちたいと願います。

しかし、私たちは人々の必要に備える恵みのわざに溢れたいと本当に思っているでしょうか。それを願う人は少ないかもしれません。

神様は私たちにそれを望まれます。神様は、私たちが人々に与え、彼らに寄り添うことを求められます。

それこそがパウロの主な意図です。「この恵みのわざ」とは、エルサレムで苦しんでいるクリスチャンたちに与えることを意味していました。

しかし、神様は私たちがすべての恵みのわざに満ち溢れることを望まれます。

私たちが周りの人々に恵みの言葉を伝えることを望まれます。私たちが親切なわざを行うことを望まれます。私たちが人を許すことを望まれます。また、私たちが苦しんでいる人を憐れむことを望まれます。

私たちは恵みに満ちた人であるべきです。なぜなら、神様は恵みに満ちた方だからです。神様の子供として、私たちは天の父にならうべきです。

あなたはどうでしょうか。あなたは恵みに満ちた人でしょうか。あなたは恵みのわざに溢れているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

始めたことを最後まで成し遂げる

コリント人への手紙第二8:6-12は真理に富んでおり、私はこの箇所についてさらにいくつかの記事を書こうと思います。

パウロはこの箇所を、始めたように終えます。彼は基本的にこう言っています。

「あなたがたが始めたことを、しっかりと成し遂げなさい。」

コリントの人々は、エルサレムにいる貧しいクリスチャンたちのことを聞いた途端、「私たちは彼らを助けたい」と言いました。その模範を見たマケドニアのクリスチャンたちも、助けたいと思うようになりました。

そこで、パウロはコリントの人々に言いました。

「あなたがたが助けたいと思うのは素晴らしいことです。しかし、あなたがたは始めたことを成し遂げなさい。あなたの熱意を忘れず、良い計画を無駄にしないようにしなさい。

自分の約束を守り、献金を集めなさい。そうすれば、私たちが着いた頃には、その献金はすでに整っているはずです。

もしあなたが良い心を持っていれば、献金の金額はそれほど重要ではありません。なぜなら、神様が望まれるのは、あなたの心だからです。」

では、あなたはどうでしょうか。あなたは自分が始めたことを最後まで成し遂げるでしょうか。人々を祝福する計画を完成させるでしょうか。

あるいは、あなたの熱意が冷めてしまい、その計画を忘れてしまうでしょうか。

私たちはそうならないように、むしろ、自分の約束を守り、神様が与えてくださった良い計画を成し遂げましょう。

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コリント人への手紙第二

喜んで与える心

気前のいい心。人に何かを与えること。

正直に言うと、私はまだそのような心を持てるよう努めているところです。もしかしたら、私が末っ子だからかもしれません。あるいは、私の罪深い心のせいかもしれません。どうしてか分かりませんが、人に与えることは私にとって苦手なのです。

それでも、私はそのような心を持つべきだと思います。なぜなら、すべてのクリスチャンがそのような心を持つべきだからです。

マケドニアの人々は、そのような気質を持っていました。パウロによれば、彼らは激しい試練の中にあっても、また貧しい状況にあっても、エルサレムで苦しんでいるクリスチャンたちのために献金させてもらうことを願いました。

おそらく、パウロは彼らにこう言ったでしょう。「大丈夫です。あなたたちの経済も厳しい状況ですし、他の教会の人々も献金しています。それで十分だと思います。」

それでも、マケドニアの人々は「聖徒たちを支える奉仕の恵み」に参加させてもらうことを願いました。彼らはその奉仕を恵みと考えました。

私たちが苦しんでいるとき、自分自身のことに焦点を当てるのは簡単です。試練の中で、ただ自分のことだけを考え、どうすれば困難を乗り越えられるかと思い悩むものです。けれども、マケドニアの人々はそのように考えませんでした。

むしろ、彼らについて、パウロはこう言いました。

そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。(コリント人への手紙第二8:5)

それが、ささげることの本質です。まず、私たちは自分自身を神様に献げ、そして他の人々のためにも心を委ねることです。

イエス様はこの原則を次のように教えました。

あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(マタイ22:37)

また、

あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。(マタイ22:39)

だから、もしあなたがケチな態度を持っているなら、自分自身にこう問いかけるべきです。

「私は、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、主を愛しているだろうか。私は隣人を自分自身のように愛しているだろうか。もしかしたら、神様よりも、また隣人よりも、お金を愛しているのではないだろうか。」

もう一つの大切な問いかけは次のようなものです。

「私は、自分のことしか見ることができないほど、自分の問題に焦点を当てているのだろうか。それとも、マケドニアの人々のように、自分の問題だけでなく、他の人々の必要も見ることができるだろうか。」

あなたの心を見つめたとき、何が見えるでしょうか。

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コリント人への手紙第二

二種類の悲しみ

サタンの名前は「責める方」という意味です。その名の通り、サタンはいつも人を責めます。彼は私たちの罪を指摘し、私たちを惨めな者と呼びます。

実際、サタンの咎めの中には真実が含まれていることもあります。彼は私たちにこう言います。

「お前はだめだ。自分の罪を見てみろ。お前は神様の前では何の価値もない。神様がどうしてお前のような者を愛せるだろうか。」

そして、サタンは罪悪感の重荷で私たちを押し潰そうとします。

しかし、もしあなたが神様の子供なら、その声が神様の声ではないことを理解してください。

もちろん、私たちが罪を犯したとき、神様は私たちが悲しむことを望まれます。けれども、神のみこころに添った悲しみは、世の悲しみとはまったく異なるものです。パウロはこう書きました。

あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔していません。

あの手紙が一時的にでも、あなたがたを悲しませたことを知っています。それで後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。

あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。(コリント人への手紙第二7:8-9)

パウロの言葉によって、コリント人たちは罪悪感を抱きました。その言葉により、彼らは悲しみました。しかし、その悲しみは一時的なものでした。

パウロの意図は、彼らを滅ぼすことではありませんでした。彼はその訓戒によって、彼らが長期的な害を受けることを望んだのではなく、むしろ悔い改めを通じて、彼らと神様との関係、また彼自身との関係が修復されることを願っていました。

だからこそ、パウロは神のみこころに添った悲しみと世の悲しみの違いを明確に区別します。

神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(10)

世の悲しみを持つ人々は、一生後悔し続け、罪の赦しへの希望を失い、さらには将来への希望もなくしてしまいます。そのため、彼らの悲しみと罪悪感は彼らを押し潰します。

しかし、その反面、神のみこころに添った悲しみは悔い改めへと導きます。その人々が知っているのは、どれほど大きな罪を犯していても、神様によって赦されているということです。

だから、彼らは悲しみと後悔を手放し、イエス様の手を取り、神様が整えた未来へと歩み出します。

それはどのような未来でしょうか。それは希望と命に満ち溢れた未来です。

あなたはどうでしょうか。罪を犯したとき、あなたの悲しみは世の悲しみでしょうか。その悲しみによって、罪悪感に押し潰されてはいませんか。

それとも、その悲しみは、あなたをイエス様のみもとへと導いているでしょうか。悔い改めと命へと導いているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

真の愛

私たちは6ー7章を読むと、コリント人たちに対するパウロの愛をもちろん見ることができます。しかし、その愛は、私たちに対する神様の愛をも反映しています。

パウロはコリント人たちに心から願いました。

私たちに対して心を開いてください。(コリント人への手紙第二:7:2)

あるコリント人たちは自分の心をパウロに閉ざしていました。だから、パウロは彼らに「心を開いてください。」と願いました。

同じように、神様も私たちがご自身に心を開くことを望んでおられます。私たちが不信者たちと不釣り合いなくびきをともにせず、神様との親しい関係を持ち、一緒に歩むことを望んでおられます。

なぜ神様はそれを望まれるのでしょうか。それは、私たちが神様の息子と娘だからです。

パウロはコリント人たちに対して、深い愛を持っていました。彼は自分自身を彼らの霊的な父と呼びました。(第一コリント4:15)

だから、霊的な父として、パウロは天の父が私たちに示されるような愛をコリント人たちに与えました。言い換えると、彼は彼らに真の愛を示しました。

では、真の愛とはどのようなものでしょうか。

パウロはこう説明します。

私たちはだれにも不正をしたことがなく、だれも滅ぼしたことがなく、だれからもだまし取ったことがありません。(コリント人への手紙第二8:2b)

すべてのクリスチャンのリーダーたちが、そのように言えるならどんなに良いことでしょう。

つまり、リーダーたちが故意に人を傷つけることがなく、彼らの教えが人々を聖い人生へと導くことです。また、彼らが人々の弱さにつけ込むこともなく、金銭をだまし取ることもないことです。

パウロは、それを自信を持って主張することができました。

そして、パウロは続けてこう言いました。

前にも言ったように、あなたがたは、私たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです。(3b)

真の愛は、どんな状況でも相手とともに立ちます。たとえ死に直面するときも、真の愛は揺るぐことなく忠実です。

そしてパウロはこう言いました。

私には、あなたがたに対する大きな確信があり、あなたがたについて大きな誇りがあります。(4)

愛は、人々を信じます。コリント人たちとの関係に問題があっても、パウロは彼らのことをテトスに誇りました。彼はテトスにこう言ったようです。

「私はコリント人たちを信じます。彼らが本当に神様の民であることを信じます。だから、たとえ私たちの言葉が厳しく、聞きにくいものであっても、最終的に彼らはその言葉を受け入れ、悔い改めることを信じます。」(14)

だからこそ、パウロは彼らに愛を示し、彼らを訓戒しました。真の愛は必要があれば人を訓戒するものだからです。

けれども、人を訓戒することを避ける人もいます。なぜなら、それが愛のない行為に見えるのではないかと心配するからです。

また、愛を持たずに真理を伝える人もいます。正直さよりも、ただ残酷な言葉を投げかけることに興味があるのです。

しかし、それはパウロの意図ではありませんでした。彼の望みは、コリント人たちが悔い改めることでした。決して彼らを傷つけることを望んでいたわけではなく、むしろ彼らが霊的に成長することを願っていたのです。(9-10)

結局、パウロの願いは叶いました。

時に、私たちが人を訓戒する理由は、相手の心を見抜くことにあります。パウロはこう言いました。

「あなたを訓戒した時、それは単に不正を行った人のためでも、被害者である私のためでもなかったのです。むしろ、あなたの心を見抜きたいと思いました。そして、あなたの悔い改めによって、あなたの心にあるものが明らかになりました。」(11-12)

けれども、それはパウロが彼らを信じていなかったために、試そうとしたということではありません。むしろ、彼は彼らを信じていたので、必ず悔い改めることを信じていました。

それが愛です。パウロのコリント人に対する愛とは、そのようなものでした。そして、神様の私たちに対する愛も、同じようなものです。

だからこそ、私たちもそのような愛を持つべきです。

あなたは、そのような愛を持っているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

くびきを外すこと

この箇所について、最後に二つのことを言いたいと思います。

一つ目は、あなたがノン・クリスチャンと結婚しているなら、私は彼らと離婚しなくてはいけないとは言っていないことです。それでも、あなたが神様の言葉に反してその人と結婚したなら、その反抗的な態度のために神様の赦しを願うべきです。

でも、悔い改めた後、神様はその結婚であなたを用いることが出来ます。コリント人への手紙第一でパウロは言いましたが、もし、配偶者がまだあなたと一緒に住み続けたいと思うなら、そうするべきです。その理由は?

なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。

そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。(第一コリント7:14)

その言葉を誤解しないでください。神様は彼らの救いを約束しているわけではありません。でも、その結婚が継続している間、聖霊様はあなたを通して働いて、配偶者と子供たちに触れることができます。もちろん、その場合、彼らが救われる可能性はより高いものです。

簡単に言うと、あなたは彼らに影響を与えることができます。でも、最初に、自分の神様との関係に注意するべきです。

もし神様との関係があなたの罪によって壊れたら、神様はあなたを用いることが出来ません。もしあなたが悔い改めていない罪を持っていると、神様はあなたを通してあまり働くことができません。

でも、あなたはノン・クリスチャンと結婚したことを後悔し始まめも、あきらめないでください。神様はあなたを通して、その状態を変えることが出来ます。

以前の記事で私は言いましたが、不信者とつり合わないくびきをともにするとは、結婚関係に限りません。

もしかしたら、ノン・クリスチャンの友達はあまりにもあなたに影響を与えているかもしれません。

あなたが大人なのに、あなたのご両親たちはあなたにあまりにも影響を与えているかもしれません。

また、あなたの彼氏や、彼女はあなたにあまりにも影響を与えているかもしれません。

そして、その影響によって、あなたの神様との関係はうまくいっていないかもしれません。

どうすれば良いでしょうか。控え目に言っても、それはかなり難しい状態です。でも、柔和な態度をもって行動するべきです。

最初に、彼らに対するあなたの愛をもう一度言い表すべきです。でも、彼らが行っている道があなたのと違って、あなたは神様の道を行かなくてはならないと伝えてください。

そして、その関係によって、あなたは彼らと絶交するか、彼らがあなたに影響を与えられないほどに、距離を保つべきです。

その距離は物質的な距離かもしれない。例えば、あなたは実家を去って、自分のアパートを借りたりしないといけないかもしれません。

または、あなたはただその人とあまり時間を過ごさないことです。

あなたの決断を理解する人もいます。ある人は理解してくれません。でも、彼らがあなたに影響を与えている限り、あなたはちゃんと神様に従うことが出来ません。だから、そのくびきを外してください。イエス様に従い始めてください。

そうすれば、神様が約束した祝福を知ります。

わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。

──主は言われる──汚れたものに触れてはならない。

そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。(16-18)

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コリント人への手紙第二

不信者との不釣り合いなくびき(3)

次の箇所に進む前に、この箇所に関して多くの人々が教えている応用について触れておきたいと思います。それは、ノン・クリスチャンとの交際や結婚についてです。

ノン・クリスチャンとデートしてはいけないと教える人もいます。

私はそこまで言い切りませんが、多くの場合、ノン・クリスチャンと交際することは良い選択ではなく、罪へと導かれる可能性が高いのです。

クリスチャンがノン・クリスチャンと交際し、良い結果を得たケースもあります。しかし、大多数の場合、その結果は望ましくないものでした。

ノン・クリスチャンと交際するとき、最も大切な問いかけは、「誰が誰に影響を与えているのか」ということです。

あなたの影響によって、その人は神様に近づいているでしょうか。あるいは、相手の影響によって、あなたは徐々にイエス様から離れてしまっているでしょうか。

あなたの影響によって、相手は神様をもっと知りたいと願っているでしょうか。もしかすると、相手の影響によって、あなたは自分の純潔を失ってしまっているのではないでしょうか。

相手とデートするために、礼拝を欠席することがあるでしょうか。

相手と過ごす時間が多すぎて、ほとんど聖書を読まず、祈ることも少なくなっているでしょうか。

あなたは相手との肉体的な誘惑に負けてしまっているでしょうか。

もし「はい」と答えるなら、その人との関係を断つことが最善かもしれません。

それは厳しい勧告でしょう。しかし、なぜクリスチャンにとって、その忠告を受け入れることが難しいのでしょうか。

それは、その関係の問題が、単なる知識の問題ではなく、深い感情的な要素を含んでいるからです。

結婚についてですが、私たちは異性と肉体的に一つとなるように造られただけでなく、感情的にも深く結びつくように造られています。

相手と付き合うことで、その感情的な結びつきが始まります。

「その人が好き!その人も私を好き!」

恋人がいる人は皆、その幸せを知っています。そして、その関係が続くにつれて、その感情はますます強くなります。相手への強い感情を持ちながらも、自分の価値観と信仰を守ることはできるでしょうか。それは非常に難しいことです。

恋人からのプレッシャーに直面したとき、自分の価値観と信仰を貫くことができるクリスチャンは多くありません。

そして、たとえ信仰を強く持っていたとしても、相手との関係を断たなければならないとき、必ず失恋の痛みを経験することになるでしょう。

パウロは本来別の状況について語っていましたが、その言葉をノン・クリスチャンとの交際に適用して考えてみたいと思います。

「ノン・クリスチャンと交際する人々、また、ノン・クリスチャンと結婚する人々は、苦難を身に招くでしょう。私はあなたがたを、そのような目にあわせたくないのです。」(第一コリント7:28)

相手がクリスチャンになる可能性はあるでしょうか。もちろん、その可能性はあります。

けれども、あなたのために命を捧げられたイエス様に対して不忠実になる危険性は非常に高いのです。残念なことですが、私はそうした事例を何度も見てきました。

クリスチャンの女性にとって、ノン・クリスチャンとの交際はさらに難しいものです。聖書によれば、結婚においては男性が導くべき存在とされています。そのため、交際中のカップルも、そのような関係性を育むことが望ましいでしょう。

しかし、クリスチャンの女性がノン・クリスチャンの男性の導きに従うこと、とりわけ霊的な導きに従うことは、不信者とつり合わないくびきをともにすることにつながります。

その一方で、もし女性が彼の導きに従わなければ、その関係が不自然に感じられるかもしれません。なぜなら、神様の御計画において、男性が導く役割を担うからです。

それでもなお、クリスチャンの女性はノン・クリスチャンとの交際において、相手の霊的な導きには決して従うべきではありません。

そして、クリスチャンがノン・クリスチャンと結婚することは、神様の命令に反する行為です。不信者とつり合わないくびきをともにすることになるからです。

そのため、ノン・クリスチャンとの交際を考える際には、慎重である必要があります。その関係が深まるにつれ、相手への感情が強くなり、罪に陥る危険性が高くなるからです。

あなたはどうでしょうか。あなたは不信者とつり合わないくびきをともにしているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

不信者との不釣り合いなくびき(2)

前回の記事では、不信者とつり合

わないくびきをともにしないことの重要性について考えました。つまり、ノン・クリスチャンの影響によって清い人生を送ることができず、神様に忠実に仕えることが難しくなるなら、その人との関係において少し距離を取ることが必要かもしれません。

では、なぜそれが重要なのでしょうか。パウロはこう述べています。

不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。

正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。

信者と不信者が何を共有しているでしょう。

神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。(コリント人への手紙第二6:14-16a)

簡単に言えば、不信者と私たちの考え方や価値観には大きな隔たりがあり、その溝を橋で埋めることはできません。その理由は、私たちが異なる存在として属しているからです。

要するに、私たちは生ける神の宮であり、神様が私たちのうちに住んでおられます。

一方で、彼らは偶像の宮です。彼らは仏壇で拝まないかもしれません。それでも、心の王座から神様を追い出し、代わりに別のものをその王座に据えています。例えば、個人の幸せ、お金、持ち物などです。

そして、神様の考え方がその偶像の邪魔になると、彼らは神様を拒み、自分勝手に生きていきます。

もし彼らがそのように生きているのなら、どうして私たちが彼らの影響を受けるべきでしょうか。彼らはサタンの偽りを受け入れました。 「あなたがたが神のようになります。」(創世記3:5)

エバに言ったように、サタンは彼らにもこう語りかけます。

「あなたには神様の勧告など必要ありません。あなたは十分に賢いのです。幸せを得るために、神様のもとへ行く必要はありません。ほかのものによって、あなたは幸せになれるでしょう。神様のためではなく、自分のために生きたほうがよいのです。」

そして、サタンの偽りを信じると、彼らは実際にはサタンのために生きることになり、周囲の人々にもサタンに従うよう促してしまいます。

しかし、神様は私たちを自分の子供となるように呼ばれました。神様は、私たちがこの世の人々とは異なる存在となるように招いておられます。神様は、私たちが聖なる者となるように導いておられます。

だからこそ、パウロはこう語ります。

神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。──主は言われる──汚れたものに触れてはならない。

そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。」(6:16b-18)

そして、パウロはその話を次のようにまとめています。

愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか。(コリント人への手紙第二7:1)

私たちは神様との素晴らしい関係を持つように招かれています。しかし、その関係を望むなら、私たちは罪から自分自身を清めるべきです。そのために、時には、私たちに悪い影響を与える人々から距離を保つ必要があるかもしれません。

あなたはどうでしょうか。神様への愛と敬意をもって、清い人生を歩んでいるでしょうか。あなたの人生は神様に仕えるものとなっているでしょうか。

もしかすると、この世に溶け込むあまり、知らず知らずのうちに周囲の人々の影響を受けてしまっているかもしれません。

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コリント人への手紙第二

不信者との不釣り合いなくびき(1)

聖さ。

多くの人々は、「聖い人」と聞くと、神様の栄光に輝いている人物を思い描きます。

しかし、「聖さ」には二つの側面があります。それは、清い人生を送ることと、神様の奉仕のためにこの世の人々から分けられることです。

クリスチャンとして、私たちはそのような生き方をするべきです。私たちは、周囲の人々にとって、私たちがクリスチャンであることが分からないほどに、この世に溶け込んではなりません。

彼らが私たちを見るとき、私たちの態度や行動が彼らと異なっていることが分かるはずなのです。

ところが、多くのクリスチャンがこの世に溶け込んでしまうのです。

その理由の一つは、「神様のためにほかの人々から分けられた者である」というマインドセットを持っていないからです。むしろ、彼らはこの世の人々から影響を受けてしまっています。

だからこそ、パウロはこう言いました。

不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。(コリント人への手紙第二6:14)

それはどういう意味でしょうか。その描写は申命記から来ています。神様はこう言われました。

牛とろばとを組にして耕してはならない。(申命記22:10)

その律法の前後では、神様は2種類のものを混ぜることを禁じておられます。だから、2種類の種を同じぶどう畑に蒔いてはいけませんでしたし、衣服を作るときも、羊毛と亜麻糸を混ぜてはいけませんでした。

なぜ神様はそのような律法を制定されたのでしょうか。それは、イスラエル人に清さについて教えようとされたからです。この律法を通して、ユダヤ人は、自分が清い者として生きるべきことを学びました。

では、なぜパウロは服や種の描写を用いなかったのでしょうか。おそらく、パウロは清さ以上の応用を見出したのでしょう。

牛とろばが組にされたとき、ろばは牛に大きな影響を与えることができました。牛は前に進もうとしていたかもしれません。しかし、もしろばが頑固で進みたくないと思ったとすれば、牛が進むのは非常に困難になってしまいます。

また、ろばが別の方向へ行きたいと思ったとき、牛には選択肢がありました。牛はろばの導きに従うこともできましたし、あるいは、ろばを強制的に正しい方向へ進ませようとすることもできました。

おそらく、パウロのポイントは、クリスチャンではない人に強く影響を受けるほどに、彼らと深く結びついてはいけないということです。

例えば、クリスチャンの起業家が悪徳商法を行う人物と提携すれば、大変な状況に巻き込まれるかもしれません。

また、私たちがアドバイスを求める際、ノン・クリスチャンの友人から影響を受けることもあります。

もちろん、ノン・クリスチャンの助言が有益な場合もあります。けれども、時にはそのアドバイスが一見良いように聞こえても、聖書の教えに反することがあります。

「彼女と一緒に住めばいいじゃない。彼女を愛しているんでしょう?」

「時には、成功するためにルールを曲げなくてはならないこともある。」

彼らはあなたの最善を願っているかもしれません。それでも、彼らが神様のみ言葉を知らないために、結果としてあなたを罪へと導いてしまう可能性があるのです。

それは避けるべきことです。私たちはノン・クリスチャンに影響を与える存在であるべきであり、彼らから影響を受けるべきではありません。

では、その関係を断つべきでしょうか。もちろん、そうではありません。

しかし、自分の人間関係を振り返るとき、私たちは自分自身にこう問いかける必要があります。

「彼らは私に過度な影響を与えていないだろうか。彼らの影響によって、私は自分の純潔を失いつつあるのではないか。神様のために聖別されているはずなのに、彼らの影響によって、そのように生きていないのではないか。」

もし「はい」と答えるなら、その人との関係において、少し距離を取ることが必要かもしれません。

次の記事で、この話をさらに掘り下げていきます。

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コリント人への手紙第二

何にしがみついているでしょうか

ある聖書学者たちは、この手紙がもともと2通の手紙だったと考えています。この手紙を読むと、彼らの主張の理由が理解できますが、それでも私は、この手紙は常に1通のものだったのではないかと思います。

では、なぜ一部の学者たちは、この手紙を複数の手紙をまとめたものだと考えるのでしょうか。

その理由のひとつは、手紙の前半部分では、パウロとコリントのクリスチャンたちがすでに和解したかのように見えることです。しかし、その後のパウロの言葉を見ると、彼らの関係にはまだ問題が残っているようにも感じられます。

もしかすると、パウロはその教会の多くの人々と和解したものの、一部のコリント人たちはなお彼の使徒としての資格を疑っていたのかもしれません。

彼らはなぜパウロの資格に疑念を抱いたのでしょうか。パウロはこう述べています。

コリントの人たち、私たちはあなたがたに対して率直に話しました。私たちの心は広く開かれています。あなたがたに対する私たちの愛の心は、狭くなってはいません。

むしろ、あなたがたの思いの中で狭くなっているのです。私は子どもたちに語るように言います。私たちと同じように、あなたがたも心を広くしてください。(コリント人への手紙第二6:11-12)

要するに、「私たちは正直であり、あなたたちを愛していました。けれども、あなたたちの愛は抑えられてしまいました。私たちがあなたたちをどのように扱ったかのゆえに、あなたたちは自分の心を閉ざしました。

私たちがあなたたちの中の罪人や偽使徒たちを懲らしめたことで、私たちが厳しすぎると思うかもしれません。私たちがあなたたちに対して心を閉じたと思うかもしれません。

しかし実際には、あなたたちがしがみついているもののせいで、あなたたち自身が心を閉ざしてしまっているのです。

あなたたちは今もなお、自分の罪を持ち続けています。偽使徒との関係を持ち続けています。心の中に偶像を抱え続けています。そして、私たちがそのことのためにあなたたちを懲らしめた時、あなたたちは心を閉ざしました。

あなたたちはそれを手放そうとしないため、自分の心を開くことができないのです。」

あなたはどうでしょうか。何にしがみついているでしょうか。

時に、人々は教会やクリスチャンの交わりから離れることがあります。または、親しい兄弟姉妹との関係が壊れてしまうこともあります。

その理由の一つは、ある人が罪を犯した際に、兄弟や姉妹がその人を訓戒しようとするからです。けれども、その訓戒のゆえに、その人は拒絶されたように感じてしまうのです。

クリスチャンの仲間から訓戒を受けることは、時に難しいものです。残念ながら、訓戒するときに柔和を欠き、厳しすぎる態度を取ってしまうこともあります。(ガラテヤ6:1)

もしかすると、コリントの人々を訓戒した時、パウロも厳しすぎたかもしれません。パウロ自身も罪人であり、ある時、マルコに対して厳しすぎる態度を取ったことがありました。(使徒の働き15:36-39)

彼が厳しすぎたかどうかは定かではありませんが、パウロは確かにコリントの人々を深く愛していました。それでも、彼の訓戒やコリントの人々が執着していた悪いもののために、彼らはパウロの愛を正しく理解することができなかったのです。

その結果、彼らは自らの心をパウロに対して閉ざしてしまったのです。

あなたはどうでしょうか。兄弟姉妹からの訓戒が厳しく感じられても、あなたは自分の罪を認め、それを手放すことができるでしょうか。

それとも、罪への執着があまりに強く、あなたを愛している兄弟姉妹との関係を断ち切ってしまうでしょうか。

要するに、あなたは訓戒を受けた時、どのように反応するでしょうか。

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コリント人への手紙第二

私たちのミニストリーが誹謗されることのないように

私たちは牧師や宣教師ではないかもしれませんが、キリストの奉仕に参加するよう、誰もが呼ばれています。

5章でパウロは、私たち全員がキリストの使節とされていることを語っています。だからこそ、私たちは和解のメッセージを周囲の人々に伝えるべきなのです。

しかし、私たちのミニストリーが誹謗されることは容易に起こり得ます。私たちの行動や言葉によって、私たちの証しを拒絶する人もいます。

そのため、パウロはこう書きました。

私たちは、この務めがそしられないように、どんなことにおいても決してつまずきを与えず、むしろ、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しています。(コリント人への手紙第二6:3-4)

周囲の人々に対して、私たちはどのようにつまずきを与えることがあるでしょうか。それは、私たちの生き方によってであり、態度や行動によっても起こり得ます。

だから、どのような状況に直面しても、パウロは忠実にイエス様に仕えました。どんな苦難を経験しても、パウロは、「大いなる忍耐を働かせて、また、純潔と知識、寛容と親切、聖霊と偽りのない愛によって」行動しました。(4-6)

パウロの言葉について考えてみてください。苦難の時、私たちはどれほど不平を言い、忍耐を失い、自己中心になり、周囲の人々を愛さなくなるでしょうか。その結果、私たちの証しが誹謗されてしまうことがあるのです。

しかし、パウロは、周囲の人々に称賛されても、誹謗されても、喜びの時も苦しみの時も、常に忠実にイエス様に仕えました。

彼は聖霊の力によって歩み、両手に義の武器を持っていました。片手には神様のみ言葉を、もう片手には信仰の大盾を携えていました。

私たちは同じことを主張することができるでしょうか。

私たちの行動や態度が、私たちのミニストリーを決して傷つけることのないように。むしろ、毎日、真実と愛、純潔と忍耐を持って歩みましょう。そして、聖霊の力と慰めによって歩みましょう。

そうすれば、私たちはこの世に確かな影響を与えることができるでしょう。

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コリント人への手紙第二

和解のメッセージ

さまざまな試練や苦しみに直面するとき、クリスチャンは神様ができるだけ早く天国へと導いてくださるよう願うことがあります。神様はなぜすぐにそうされないときがあるのでしょうか。

いくつかの理由がありますが、最も大きな理由は、私たちがこの世でまだ果たすべき役割があるからです。

16節でパウロは、もはや人間的な基準で人々を見るのではなく、神様の基準で見るべきだと語っています。

では、神様はこの世の人々をどのように見ておられるでしょうか。彼らは神様の似姿として造られているため、神様の目には尊い存在です。

もちろん、私たちも神様の目には尊い存在ですが、それだけではなく、神様は私たちをキリストの使節として見ておられます。

ローマ帝国には2種類の属州がありました。一つはローマ帝国の支配を喜んで受け入れた属州で、これらは元老院の支配下に置かれていました。

一方で、ある属州はローマ帝国の支配に対して敵対的な態度を持っていました。これらの属州は直接カエサルの支配下にありました。そして、平和を保つために、カエサルはその属州に使節を送りました。

それがパウロの例えです。この世のすべての人々は神様の似姿として造られました。しかし、多くの人々は神様に対して敵対的な態度を持ち、反抗します。

では、神様の使節として、私たちはどのようなメッセージを伝えるべきでしょうか。それは敵対的なメッセージでしょうか。いいえ、そうではありません。むしろ、私たちは和解のメッセージを伝えます。

私たちはキリストに代わって願います。

神と和解させていただきなさい。神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。(コリント人への手紙第二5:20-21)

それが福音のメッセージの中心です。

神の御子イエス様はこの世に来られ、完全な人生を歩まれました。決して悪を行わず、悪しき思いを抱かず、神様の命令に逆らうこともありませんでした。天の父が「その良いことをしなさい」と言われると、イエス様はいつも従われました。

それでも、罪をまったく犯されなかったにもかかわらず、イエス様は十字架につけられました。その時、神様は私たちのすべての罪をイエス様に負わせ、イエス様は私たちの罰を身代わりとして受けられました。

イエス様の十字架の御業によって、私たちがイエス様を信じるならば、神様はもはや私たちを罪人と見なされません。むしろ、イエス様の義が私たちを完全に覆い、神様が私たちをご覧になるとき、その義だけを見られます。

パウロの言葉を借りるなら、私たちは義と認められます。神様は私たちに対して、「無罪の者である」と宣言されます。

さらに、神様はイエス様の義の御業を、私たちの義のわざとして認めてくださいます。

では、その和解の賜物を受けるために、私たちはどうすればよいでしょうか。ただ、そのメッセージを信じ、受け入れることです。

これこそが和解のメッセージです。しかし、もう一つ重要な要素があります。それは、そのメッセージの緊急性を理解することです。

パウロによれば、私たちは彼らに懇願するべきです。「今、機会を見逃さないでください。待たないでください。」(コリント人への手紙第二6:1)

神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(6:2)

人々は、自分がいつ亡くなるのかを知ることはできません。悲しいことですが、心を頑なにし、待てば待つほど、そのメッセージを受け入れることが難しくなります。

ある歌は、私たちの願いをこのように伝えています。

Tomorrow.
明日ですか。
Forget about tomorrow.
この決断を明日まで先延ばしにしないで。
Won’t you choose the Lord today.
今日こそ、主を受け入れませんか。
For your tomorrow could very well begin today.
そうすれば、あなたの明日、つまり、あなたの将来は、今日始まるかもしれません。

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コリント人への手紙第二

新しく造られた者

聖書の中で、これは私が最も好きな箇所の一つです。

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(コリント人への手紙第二5:17)

ある英語のスタディー・バイブルの解説をとても気に入っています。そこには、こう書かれています。

「私たちは改心させられたのではない。更生させられたのではない。そして、再教育されたのでもない。むしろ、私たちはキリストと一つになり、新しく造られたのだ。」

残念ながら、多くの人々はその真理を理解していないのです。彼らは、神様が私たちを救われた目的が、単に良い人になることだと思っているのです。

けれども、それは神の目的ではありません。神の目的は、私たちがまったく新しく造られた者となることです。

この世の考え方では、人は自分自身を改心し、更生し、再教育することができるとされています。確かに、ある程度まではそれが可能でしょう。

しかし、人生に本当の変化を望むならば、その変化は人間の努力や知恵によるものではありません。むしろ、神様だけが私たちの心と生き方を根本から変えることができるのです。

聖書を見ると、ユダヤの民は何度も自分自身を正そうとしました。けれども、彼らはいつも罪へと逆戻りしてしまいました。士師記を見ると、そのパターンが繰り返されていることが分かります。

神様は彼らを再教育するために、祭司たち、預言者たち、士師たちを送りました。さらに、世の中で最も賢い人であるソロモンが彼らを治めました。

しかし、ソロモンは自分の知恵によって彼らの心を変えることができなかっただけでなく、彼自身も堕落し、罪に陥ってしまいました。

ユダヤ人たちはエジプトから救い出された後、40年かけて荒野で更生させられました。何百年も後、彼らの罪のゆえに、バビロンで70年ほど再び更生させられなくてはなりませんでした。

結局、物事はほとんど変わりませんでした。もちろん、ある程度までは彼らも変わりました。バビロンの後、彼らは偶像礼拝を捨てました。

それでも、彼らのメシアであるイエス様が来られた時、彼らはイエス様を拒絶し、十字架につけました。今なお、多くのユダヤ人たちはイエス様をメシアとして認めていません。

だから、人々に必要なのは、ただの改心ではありません。ただの再教育ではありません。ただの更生でもありません。むしろ、彼らはまったく新しく造られた者にならなければなりません。

その変化はキリストによってのみもたらされます。キリストによってのみ、人々は神様がもともと計画された通りの人間になります。つまり、神様の似姿を回復するのです。

私は、C・S・ルイスの「朝びらき丸 東の海へ」に登場するユースチスという少年の話がとても好きです。

彼は、自分勝手な態度と貪欲によって竜になってしまいました。竜になった後、ある程度は心を入れ替え、更生しました。しかし、それでも彼は竜の姿のままでした。

そしてある日、彼はアスランというライオンに出会いました。(ナルニアの物語において、アスランはキリストの象徴です。)

アスランは彼に言いました。「その湖へ行き、泳ぎなさい。しかし、その前に裸になりなさい。」

もちろん、ユースチスは竜であり、服を持っていませんでした。しかし、彼は自分の竜の皮膚を剥がそうとしました。その皮膚を剥がしてから湖に入ろうとしましたが、まだ竜の皮膚の層が残っていることに気づきました。

ユースチスはさらに2回、その皮膚を剥がそうとしましたが、それでも皮膚の層が残りました。結局、アスランは彼に言いました。「私がその皮膚を剥がさなくてはなりません。」

アスランがその皮膚を剥がした時、ユースチスはアスランの爪が心臓にまで届いたと思うほどの痛みを感じました。そして、アスランがユースチスを湖に投げ入れ、その直後、ユースチスは自分が再び少年の姿に戻ったことに気づきました。

ユースチスのように、私たちは自分自身を改心し、再教育し、更生しようとすることができます。けれども、所詮、私たちに必要なのは、新しく造られた者となることです。

しかし、ユースチスのように、新しく造られた者となった後、私たちは変わり始めます。

あなたはどうでしょうか。自分の努力で自分自身を変えようとしているでしょうか。

あなたの努力によって、ただの竜よりは少しましな竜にはなれるかもしれません。

しかし、もし神様がもともと計画された通りの人間になりたいのなら、あなたは新しく造られた者にならなければなりません。

何を望むでしょうか

イエス様、私の罪によって、私の人生は乱れてしまいました。鏡をのぞくと、映る自分を好きになれません。私は自分自身を更生しようとしましたが、すべて無駄でした。

だからこそ、私はあなたに向かいます。あなたが私の罪のために死なれたことを信じます。どうか私の罪を赦してください。私を新しく造られた者としてください。私をあなたの似姿へと変えてください。アーメン。

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コリント人への手紙第二

真新しい視点

パウロはクリスチャンになった時、まったく新しい視点を与えられました。

救われる前、彼はクリスチャンたちを迫害していました。その時、彼は自分が神様の御心に従っていると信じていました。しかし、救われた後、彼はすべてを新しく認識しました。

パウロはイエス様の真の姿を目の当たりにし、さらにキリストが彼のために十字架で何をされたのかを理解し始めた時、彼の生きがいが根本的に変わりました。

イエス様を愛するようになったことで、イエス様についての彼の考え方も、周りの人々についての考え方も変化しました。

そのため、彼はこう記しました。

ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。

かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。(コリント人への手紙第二5:16)

クリスチャンになる前、パウロはイエス様を単なる人間と見なしていました。さらに、彼はキリストを神樣を冒涜する者と考え、神樣から呪われた存在だと思っていました。

そして、クリスチャンたちを異端視し、異邦人を部外者と見なしていました。

しかし、クリスチャンになった後、パウロは彼らを新しく認識しました。彼らが神樣に愛される民であることを悟ったのです。

同様に、私たちがクリスチャンになる時、キリストについての考え方だけでなく、周りの人々への見方も変わるはずです。私たちは世の基準で人々を判断してはいけません。

この世は、人を美しさ、知性、富、魅力によって評価します。そして、それらを持たない者を切り捨てます。

けれでも、もし私たちがそのような価値観で人を見てしまうなら、極めて重要なことを見失うことになります。人は皆、神の似姿として造られているからです。

もちろん、彼らを見る時、その似姿が大きく歪んでいるように思えることもあるでしょう。それでも、彼らは神の似姿に造られました。

だからこそ、神樣は彼らを大切にされます。そのため、神樣はあなたのためだけでなく、彼らのためにもイエス様を十字架に送られたのです。

それならば、どうして私たちは彼らを軽蔑することができるでしょうか。

正直に言うと、私にとって、そのような考え方を持つのは難しい時もあります。ある人々は、愛することが容易ではありません。それでも、神樣は彼らを愛しておられます。

もし私が彼らを愛せないなら、それは私の心の問題です。彼らを見る時に、神の似姿を認識できないならば、それは私の霊的な目が曇っているのです。

あなたはどうでしょうか。愛するのが難しいと感じる人を知っていますか。

主よ、あなたにあって私は新しく造られた者です。あなたが誰であるかを知るようになりました。どうか、私が周りの人々が誰であるかを理解できるように、私の目を開いてください。

つまり、彼らをあなたの似姿として造られた者として見ることができるように助けてください。彼らを私の愛に値する者として見ることができるように助けてください。

私の傲慢な態度を赦してください。私の心を変えてください。私に新しい目を与えてください。あなたの目を与えてください。私があなたのように愛することができるように助けてください。アーメン。

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コリント人への手紙第二

キリストの愛に捕らえられた

あなたは何のために生きていますか。そして、なぜそれのために生きているのでしょうか。

パウロにとって、その答えは明白でした。それは、裁きの日が訪れることです。その日、彼だけでなく、すべての人々が裁かれます。(コリント人への手紙第二5:10)

だからこそ、彼はこう書きました。

そのため、主を恐れることを知っている私たちは、人々を説得しようとしています。(コリント人への手紙第二5:11a)

神様の前に立つことは、本当に恐ろしいことです。私たちはクリスチャンとして、自分の罪のために裁かれることはないと分かっていますが、それでも裁きの日は畏敬の念を抱かせるものです。

しかし、イエス様を信じない人々にとっては、何百万倍も恐ろしいことです。

だからこそ、パウロはこう言います。「人々がまだ悔い改めることができる間、私たちは彼らを説得しようとしています。」

彼は以前にもこのことを語りましたが、ここでも再び強調します。

「私たちは神様の前に誠心誠意をもって、福音を宣べ伝えます。なぜなら、神様は私たちの行動だけではなく、私たちの動機も裁くからです。」(11b-12)

では、パウロの動機は何だったのでしょうか。迫害されながらも、なぜ彼は福音を伝え続けようとしたのでしょうか。

私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。

というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。(13-15)

パウロによれば、キリストの愛が彼をとらえました。

実は、この「キリストの愛」という表現には、2つの解釈があります。

一つ目は、パウロとこの世の人々に対するキリストの愛です。おそらく、それがパウロの主な意味でしょう。

しかし、もう一つの解釈は、キリストに対するパウロの愛です。この箇所では、両方の概念を見ることができます。

14節では、パウロは「キリストはすべての人のために死なれた」と語っています。

では、なぜイエス様はそのようにされたのでしょうか。なぜ天を離れ、十字架へと向かわれたのでしょうか。それは、私たちに対するイエス様の偉大な愛ゆえです。

そして、その愛に応答するならば、私たちはもはや自分自身のために生きることはありません。むしろ、自分の古い生き方を葬り、イエス様のために生き始めます。

そのために、ヨハネはこう記しました。

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:19)

あなたはどうでしょうか。自分のために生きていますか。それとも、神様のために生きていますか。

もし、神様のために生きているのなら、その理由は何でしょうか。裁きへの恐れからでしょうか。それとも、イエス様があなたを愛してくださるゆえに、あなたもイエス様を愛しているからでしょうか。

あなたの心には、イエス様の愛が満ち溢れ、どうしても周りの人々にその愛を伝えたいと願うほどになっていますか。

あなたは何のために生きていますか。そして、その理由は何でしょうか。

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コリント人への手紙第二

私たちがうめいていても

この箇所で、パウロは、なぜ試練の中でも希望を持ち続けることができたのかをさらに説明します。彼はこう語りました。

たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。(コリント人への手紙第二5:1)

4章で、パウロは私たちの体を土の器に例えました。そして、5章では私たちの体を幕屋に例えています。

パウロのポイントは、私たちの体が幕屋のように一時的であり、壊れやすいものであるということです。しかし、たとえ私たちの体が滅びても、私たちは希望を持っています。なぜなら、神様がより丈夫な永遠の住まいを備えてくださるからです。

ここでパウロは第一コリント15章に触れています。つまり、私たちが復活すると、その新しい体は決して病気にならず、死ぬこともないのです。

それでも、パウロはこう語りました。

私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。

確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって吞み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。(2-4)

要するに、私たちは死んだ後、ただ霊として存在するのではなく、新しい体を与えられる希望を持っています。

しかし、その日が来るまで、私たちはうめきます。この地上の体を持っている間、私たちは苦しみながら、新しい体を切望します。なぜなら、その新しい体を受けると、私たちの弱さと苦しみが完全になくなるからです。

では、苦しみの中でどのようにして希望を持ち続けることができるでしょうか。それは、神様がその新しい体を約束してくださったからです。

パウロはこう語りました。

そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。(5)

簡単に言えば、神様は最初から、私たちにキリストにある新しい命を与えることを計画されていました。そして、その約束を保証するために、神様は私たちに御霊を与えてくださいました。

毎日、御霊は私たちに語りかけます。「あなたは神の子供です。」

また、御霊は日々、私たちをイエス様の姿へと変えてくださいます。私たちは、御霊の働きを見て、その声を聞くことで希望を持ち続けるのです。

それゆえ、パウロはこう語りました。

ですから、私たちはいつも心強いのです。ただし肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。

私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。(6-7)

私たちは今、イエス様から離れているように感じますが、それはほんの短い間です。やがて、私たちはイエス様の御顔を仰ぎ見ることになります。

だから、その希望を心に留めながら、毎日信仰によって歩みましょう。

信仰によって歩むならば、私たちの日常生活は根本から変わります。

そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。(9-10)

やがて私たちはイエス様の御顔を仰ぎ見て、その時、裁きを受けることになります。そして、その日が来ることを知っているからこそ、私たちはどのようにイエス様を喜ばせるかを思い巡らします。

私たちの目的は、自分自身を喜ばせることではなく、イエス様を喜ばせることです。

だから、たとえ試練と苦しみの中でうめいていても、希望を忘れずにいましょう。

やがて、私たちは主とともに歩み、すべてのものが新しくされます。だからこそ、毎日イエス様をどのように喜ばせるかを考えましょう。そうすれば、裁きの日に恥じ入ることはないでしょう。

あなたはどのように生きていますか。目の前の一時的なことだけに焦点を当てていますか。それとも、永遠のことを思い巡らしていますか。

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コリント人への手紙第二

希望を持ち続けるために

パウロは第4章を希望のメッセージで締めくくります。それは希望のメッセージです。

パウロは様々な困難に直面しました。希望を失うことは簡単だったでしょう。彼はあらゆる苦しみの中にあり、外には戦いがあり、内には恐れがありました。(コリント人への手紙第二7:5)

私たちも同じような経験をすることがあるでしょう。ただ試練に直面するだけでなく、自分の感情とも戦わなければなりません。恐れやフラストレーション、悲しみ、そして苦しみと向き合いながら生きているのです。

自分の厳しい状況の中で、パウロは途方に暮れることもありました。

信仰のゆえに、彼は迫害され、石打ちにされることもありました。

さらに、コリントの教会には様々な問題があり、時には、自分の努力が無駄なのではないかと疑問に思うこともありました。

それでも、パウロは希望を持ち続けました。彼は途方に暮れても、神様を求めるならば、脱出の道が備えられていることを知っていました。(第一コリント10:13)

彼は迫害されても、神様に見捨てられないことを確信していました。

また、倒れても、滅びることはないと知っていました。

なぜ、このような厳しい状況の中でも、パウロは希望を持ち続けることができたのでしょうか。

それは、神様が確かな計画を持っておられることを、パウロが確信していたからです。彼は1節にこう言いました。

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。(コリント人への手紙第二4:1)

パウロは、神様が彼にミニストリーを委ねられたことを知っていました。そして、そのミニストリーが無駄ではなく、神様がご自身の目的を果たされると信じていました。

さらに、パウロは、そのミニストリーを託されるに値しないことを自覚していました。なぜなら、以前の彼はイエス様とその教会を憎んでいたからです。

しかし、憐れみによって、神様はパウロに真理を示してくださいました。実際、神様はパウロにこう言われました。「あなたは私の名のために苦しみます。」(使徒の働き9:16)

だからこそ、パウロは、自分の苦しみが神様を驚かせるものではないことを知っていました。神様は決して、「え?そんな大変なことは全然予想していなかった。ごめんね。」とは言われませんでした。

むしろ、神様はパウロが経験するすべての試練をあらかじめ知っておられました。

だからこそ、パウロは確信していました。罪の暗闇の中から彼を救い出し、命の光へと導いた神様の憐れみは、試練の暗闇からも救い出し、栄光の光へと導いてくださるのだと。

それゆえ、パウロはこう語りました。

ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。

私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。(16-18)

要するに、私たちが苦しんでいても、肉体的にも精神的にも崩れるように感じていても、神様は毎日私たちの人生に働いておられます。

その試練を通して、神様は私たちをイエス様の姿へと変え、私たちは神様の栄光を映し出します。(3:18)

では、試練の中で、どのように希望を保つことができるでしょうか。私たちは自分の困難に焦点を当てるのではなく、目に見えない方に目を向けるべきです。

神様の目的が分からないこともあるかもしれませんが、神様が良い計画を持っておられることを信じるべきです。

また、私たちの試練は永遠に続くものではないことを忘れてはなりません。神様がその試練を乗り越えるよう導いてくださることを信じるべきです。

そして、私たちが諦めずに歩むならば、最終的に神様のうちにも、私たちのうちにも、私たちの状況のうちにも、神様の栄光を見ることができるのです。

パウロはこう語りました。

私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べ物にならないほど、重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。(17)

それを覚えておきましょう。神様はあなたの試練に驚いておられません。神様は確かな計画を持っておられます。

だからこそ、神様に信頼してください。神様がご自身の目的を成し遂げられることを信じてください。そうすれば、希望を持ち続けることができます。

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コリント人への手紙第二

私たちは誰を宣べ伝えるのか

周りの人々は私たちを見て、どのような人物だと思うでしょうか。

多くの場合、私たちは自分の立場や実績によって人々を感動させたいと願います。正直に言うと、私自身もその誘惑と日々戦っています。

誰もが周りの人々に認められたいと願います。しかし、もし人からの栄誉を求めて生きるならば、私たちは神様が与えられた目的を見失ってしまうのです。

パウロはこう書きました。

私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。(コリント人への手紙第二4:5)

パウロは自分自身を売り込もうとはしませんでした。彼は自分の立場や実績によって人々を感動させようとはしませんでした。むしろ、パウロはイエス様のことを宣べ伝え、周りの人々をイエス様のもとへ導きました。

自分自身について、パウロはイエス様が命じられた態度を持っていました。

同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と言いなさい。(ルカ17:10)

だから、パウロは自分自身について語る際、基本的にこう言いました。「私は取るに足りない者です。大切なのはイエス様なのです。」

彼はコリントの人々にこう語りました。

私たちは、この宝(つまり、神の栄光を知る知識)を土の器の中に入れています。

それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。(コリント人への手紙第二4:7)

つまり、「私たちはただの器にすぎません。しかし、それは宝を宿す器です。さらに、私たちは弱く、壊れやすい存在です。」ということです。

パウロはこう勧めました。

私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。

途方に暮れますが、行き詰まることはありません。

迫害されますが、見捨てられることはありません。

倒されますが、滅びません。

私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。

私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。

それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。また、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。(8-11)

要するに、「私たちは弱く、すでに打ち砕かれたはずです。外には戦いがあり、内には恐れがありました(7:5)

私たちは途方に暮れ、迫害され、倒されました。私たちは常に死の危機に瀕しています。

しかし、私たちが今も生きている理由は、私たち自身の偉大さではなく、むしろ、私たちのうちにおられるイエス様の偉大さです。そして、私たちの試練の中で、イエス様のいのちは私たちの弱いからだを通して輝きます。」

これこそが、私たちのための神様の目的です。神様が望まれるのは、イエス様が私たちの人生を通して輝くことです。そして、その光が私たちの周りの人々の心を照らし、彼らが救われることです(6)。

だから、パウロはこう語りました。

こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。(12)

私たちは自分自身に問いかけるべきです。「私は誰のために、また何のために生きているのか。私の動機は何なのか。」

パウロにとって、その答えは明確でした。

「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。

主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。(13-14)

パウロは、イエス様が私たちのために死んで、よみがえられたことを確信していました。また、パウロは、神様がパウロだけでなく、そのミニストリーを通して触れた人々も復活させることを確信していました。だからこそ、パウロは福音を宣べ伝えました。

あなたはどうでしょうか。イエス様があなたのために死んで、よみがえられたことを信じますか。あなたは、自分だけでなく、イエス様を信じる家族や友人、知人も復活することを信じますか。

あなたの人生は、あなたが何を信じるかを示します。

私たちは自分自身を売り込もうとしているでしょうか。それとも、人々をイエス様へと導いているでしょうか。私たちは自分の栄光を求めているでしょうか。それとも、神様に栄光を帰そうとしているでしょうか。

日々、パウロの態度を持ちましょう。

すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。(15)

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コリント人への手紙第二

私たちの役割、神様の御業

福音を宣べ伝えるとき、多くの人々は相手の反応を気にします。

それは当然のことです。なぜなら、私たちは彼らの救いを心から願っているからです。さらに、私たちは自分が好かれることも望んでいます。

もちろん、一つ目の願いは非常に大切ですが、二つ目の願いは二次的なものです。だから、その思いが福音の宣言を妨げることがあってはなりません。

パウロはこう書きました。

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。(コリント人への手紙第二4:1)

「落胆することがありません」と言うとき、パウロが意味したのは、「人々が福音を拒絶しても、私は落胆しない」ということだと思われます。

もちろん、人々が福音を拒絶するのは悲しいことです。さらに、人々が福音のために私たちを退けると、落胆するのは容易なことです。

しかし、パウロはこう語ります。

かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。(2)

つまり、「福音を宣べ伝えるとき、私たちは誠実にふるまいます。私たちは人を欺こうとするのではありません。」ということです。

さらに、パウロは「私たちは神のことばを曲げない」と語りました。

「曲げる」という言葉は興味深いものです。本来、この言葉はワインを売る商人が自分の商品を水で薄めることを指していました。

言い換えると、パウロはこう言いました。

「私たちは神様のことばを薄めません。人が福音をもっと簡単に受け入れられるように、福音を変えることは決してしません。むしろ、私たちはその真理を誠実に語ります。」

時に、相手が福音を受け入れやすくするため、また、私たち自身を受け入れてもらうために、福音のメッセージを変えたいという誘惑に駆られることがあります。

しかし、パウロにとって、それは決して許されることではありませんでした。彼は福音をはっきりと伝え、相手にこう語りました。

「これが福音です。あなたはどうしますか。」

神様は、私たちにもそのように語るように召しておられるのです。

人々に信じさせることは私たちの責任ではありません。私たちの責任は真理を正しく語ることなのです。

パウロはこう語ります。

それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。

彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。(3-4)

パウロが意味したのは、もし私たちが誠実に福音を伝えたとしても、相手が真理を理解できない場合、私たちは自分自身を責める必要はないということです。なぜなら、サタン自身が彼らの思いを暗くしているからです。

では、私たちはどうすればよいのでしょうか。私たちはその人を神様の御手に委ねるべきです。それが私たちにできる唯一のことなのです。

パウロはこう書きました。

「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。(6)

世界が造られたとき、神様こそが暗闇の中に光を放ち、すべてを照らされました。同じように、神様は暗闇の中にある人の心を照らすことができます。

だから、ある人が福音を拒絶するとき、その人のために祈ってください。それこそが、私たちの役割です。その結果は、神様の御業です。

そのため、相手が福音をもっと簡単に受け入れられるようにするために、決して福音のメッセージを曲げてはいけません。

むしろ、その真理を正しく語り、その人のために祈りましょう。そして、神様が彼らの心の中で働かれることを待ちましょう。

そうすれば、もし神様の御心なら、神様の最善のタイミングで、私たちは実を見ることができるでしょう。

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コリント人への手紙第二

なぜ私たちは決して恥じる必要がないのか

前回の記事でこのトピックに少し触れましたが、今日はもう少し深く考えたいと思います。

モーセがシナイ山から降りて十戒を持ってきたとき、彼の顔は主の栄光に輝いていました。

最初は、イスラエルの民が恐れたため、モーセは自分の顔に覆いをかけました。けれども、その栄光が消え去りつつあっても、モーセは覆いを外しませんでした。

もしかすると、栄光が消え去ることを恥ずかしく感じていたのかもしれません。つまり、その時、自分の罪によって栄光が失われつつあることに気付いたのです。

この出来事を通して、私たちは律法の問題を理解できます。

律法は、神様がどのような方であるか、また私たちに対する神様の御心を示します。けれども、律法には私たちを変える力がありません。私たちはなお罪深く、律法によって裁かれるのです。

しかし、パウロによれば、私たちの状態は変わりました。私たちがイエス様を信じると、モーセの栄光よりもはるかに優れた栄光を見いだします。

どうしてでしょうか。それは、律法が石の板や紙に書き記されているものではないからです。

むしろ、私たちがクリスチャンになると、聖霊様がその律法を私たちの心に書き記し、毎日、私たちをイエス様と同じかたちに変えてくださいます。

私たちは日々、栄光から栄光へと変えられています。私たちの栄光は消え去るものではなく、むしろ、次第に増していくのです。

だから、パウロは私たちにこう語ります。

このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。

モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。(コリント人への手紙第二3:12-13)

神様が私たちに賜った栄光が消え去ることを心配する必要はありません。むしろ、私たちがイエス様の姿へと変えられるまで、神様が私たちの内で働かれることを確信することができます。その時、私たちは神様の栄光に輝くのです。

だから、パウロは私たちが自由を持っていると言います。(17)

神様は私たちを罪悪感から解放してくださいました。 神様は私たちを罰への恐れから自由にしてくださいました。 神様は私たちを律法の力から自由にしてくださいました。私たちにはもはや、自分の力で律法を守る必要はありません。

モーセはそのような自由を知りませんでした。彼は律法の支配下にありました。だから、全焼のいけにえを何度もささげても、罪悪感と恥を感じ続けていたのです。(へブル10:2-4)

彼は裁きの苦しみも経験しました。自分の罪のゆえに、神様がイスラエルの民に約束された土地に入ることができませんでした。だからこそ、モーセの顔に律法の栄光が消え去りつつあるとき、彼は覆いを外しませんでした。

しかし、私たちにはその必要はありません。私たちの覆いを取り去り、周りの人々に私たちの顔を見せましょう。私たちがどのような者であるかを明らかにしましょう。私たちは恵みによって救われた者です。

完全ではありませんが、私たちは日々、イエス様の姿へと変えられています。

だから、ペテロの言葉を心に留めて、生きていきましょう。

「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」(第一ペテロ2:6)

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コリント人への手紙第二

律法の目的を正しく理解する

多くのクリスチャンは、クリスチャン生活をさまざまなルールを守ることだと考えています。多くのノンクリスチャンも同じように捉えているでしょう。

しかし、クリスチャンとして、私たちの栄光はルールにあるのではありません。なぜでしょうか。

パウロは、律法についてこう書きました。

石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。

そうであれば、御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。

罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。実にこの点において、かつては栄光を受けたものが、それよりさらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているのです。

消え去るべきものが栄光の中にあったのなら、永続するものは、なおのこと栄光に包まれているはずです。(コリント人への手紙第二3:7-11)

律法が与えられたことは、本当に栄光に満ちた出来事でした。なぜなら、律法を通して、私たちは神様がどのような方であるか、そして私たちに対する神様の御心を知ることができるからです。

律法が与えられる前、人々はそのことを知りませんでしたが、律法によって、その真理が明らかにされました。

けれども、律法には問題がありました。律法を完全に守ることができる人は誰もいません。そのため、律法は私たちを死に至らせました。だからこそ、その栄光はすぐに消え去りました。モーセの顔に輝いていた栄光も、すぐに消え去りました。

モーセがシナイ山から降り、十戒を持ってきたとき、彼の顔は神様の栄光に輝いていました。イスラエルの民はその輝きを見て恐れたため、モーセは顔に覆いをかけました。

ところが、パウロによれば、その栄光が消え去りつつあっても、モーセはその覆いを外しませんでした。

もしかすると、モーセは恥ずかしさを感じていたのかもしれません。または、こう思っていたかもしれません。

「もし私がもっと聖い人であれば、この栄光は消え去らなかったのではないか。」

もしかしたら、そうだったのかもしれません。

私はもう一度言います。律法の問題は、律法を完全に守ることができる人が誰もいないことです。そのため、律法は誰にもいのちを与えることができません。律法には、私たちをキリストと同じかたちに変える力がありません。

それにもかかわらず、多くの人々は律法を守ることで、神様が彼らを受け入れると考えています。パウロによれば、彼らが律法を読むと、覆いが彼らの心にかけられます。(14-15)

そのため、彼らは律法に関する真理を見ることができません。

つまり、律法の栄光はすでに消え去ったのです。けれども彼らは、まだ律法が栄光に満ちていると思い込み、その律法を通して神様に受け入れられると考えています。だから、彼らは必死に律法を守ろうとします。

しかし実際のところ、律法は彼らの罪を明らかにし、裁きをもたらすのです。

けれども、覆いが取り除けられると、私たちは気づきます。それは、律法の栄光がすでに過ぎ去ったということです。そして、私たちは本当に栄光に満ちたものを探し始めるのです。

それは何でしょうか。それは、御霊の働きです。イエス様の御業によって、聖霊様の務めが始まりました。十字架において、イエス様は私たちの罪の代価を支払われました。

だから、私たちが信仰をもって、自分の罪を悔い改め、イエス様を自分の主とすると、聖霊様は私たちの心を変え始めます。そして、私たちは日々、栄光から栄光へと主と同じかたちに変えられていきます。

「栄光から栄光へと。」

律法の栄光とは異なり、御霊の務めの栄光は決して消え去ることがありません。なぜなら、御霊の務めの栄光は、律法の栄光よりもはるかに優れているからです。

だからこそ、私たちは律法の目的を正しく理解する必要があります。律法によって、私たちは神様がどのような方であるかを知り、神様の御心を理解しました。

しかし、その栄光はすでに過ぎ去りました。もし新しい心を持ちたいと願うなら、律法や自分の努力に頼るのではなく、御霊の導きに委ねて歩みましょう。

むしろ、毎日、聖霊様とともに歩むことを学びましょう。そうすれば、私たちは周りの人々に天の父の栄光を映し出すことができるのです。

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コリント人への手紙第二

キリストの手紙

私は年寄りなのかもしれません。まだ手紙を書くことや受け取ることを覚えているからです。

私は大学生の時にメールを送ったり受け取ったりしていましたが、当時はまだメールがあまり普及していませんでした。そのため、日本に来る際には家族に航空書簡を送りました。

(航空書簡を知っている人はまだいるでしょうか。)

今なお友達からの手紙を持っていますが、最近はまったく手紙をもらっていません。

さて、パウロは私たちを「キリストの手紙」と呼びます。彼はコリント人たちにこう言いました。「私のミニストリーの妥当性を証明するために、あなたたちからの推薦状は必要ありません。」

むしろ、

私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に書き記されていて、すべての人に知られ、また読まれています。

あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。

それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。(コリント人への手紙第二3:2-3)

私たちがすべての人に知られ、また読まれているキリストの手紙であるとは、どういう意味でしょうか。

それは、人々が私たちの人生を見ると、イエス様が生きておられ、この世で働いていることが分かるということです。

なぜなら、私たちの歩みを通して、イエス様が私たちの人生の中で働き、私たちを変えていることを人々は見ることができるからです。

モーセの時代、神様は律法を通して、ご自身がどのような方であるかをユダヤ人たちに示されました。特に十戒を通して、神様はご自身の性質を明らかにし、私たちがどのように生きるべきかを示されました。

しかし、その石の板ができることは、それだけでした。つまり、その石の板はユダヤ人たちに(また、私たちにも)心を変える力までは与えることができませんでした。

でも、私たちがクリスチャンになると、神様はご自身の律法を私たちの心に書き記されます。

その律法は、私たちにどのように生きるべきかを教えるだけのものではありません。むしろ、御霊が私たちの心を変えてくださるのです。

毎日、御霊は私たちにささやかれます。「これが道だ。これに歩め。」(イザヤ書30:21)

そして、御霊に従うにつれて、私たちは主の栄光を映し始め、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきます。(18)

要するに、私たちが少しずつ踏み出すことで、ますますキリストのようになりつつあるのです。次の栄光の段階に到達すると、周りの人々はこう気づきます。

「イエス様は本当に生きておられる。このクリスチャンを通してそれが見える。このクリスチャンを通して、イエス様がどのような方なのか分かる。」

このように、私たちは彼らへのイエス様の招待状となるのです。イエス様は彼らに言われます。「私のもとへ来なさい。そうすれば、このクリスチャンのように、あなたも本当のいのちを知ることができる。」

毎日、イエス様の手紙となりましょう。神様がご自身の言葉を私たちの心に書き記し、周りの人々がその栄光を見て、神様を知るように。

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コリント人への手紙第二

私のような人でも、人々に影響を与えられるだろうか?

時々、私たちは前回の記事のような聖書の箇所を読んで、「私たちはキリストの香り」や「私たちは神様の祭司」といった言葉に出会います。

それを読むと、私たちはこう疑問に思うかもしれません。

「私はどのようにして神様の祭司になれるのだろうか。どうすればキリストの香りを放つことができるのだろうか。私は特別な資格を持っていないし、神学校に通ったこともない。牧師でも宣教師でもない。ただの普通のクリスチャンなのに。」

実際のところ、キリストのために人々に影響を与える資格を持っている人は誰もいません。

たとえ神学校で学び、ミニストリーの豊富な経験を持っていたとしても、その教育や経験が人の心を変える力を与えるわけではありません。

人の心を変えることができるのは、ただ神様だけです。パウロ自身も、そのことを理解していました。

パウロは、私たちが周りの人々にとってキリストの香りであると語った後、こう問いかけました。

このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。(コリント人への手紙第二2:2:16b)

その答えは明白です。その務めにふさわしい人は誰もいません。なぜなら、自分の知恵と力だけでは、人々の心を変えることはできないからです。私たちにできることは、ただパウロの模範に従うことだけです。

誠実な者として、また神から遣わされた者として、神の御前でキリストにあって語るのです。(2:17b)

私たちにできることは、それしかありません。神様から与えられた大宣教命令を果たさなくてはなりません。誠実をもって周りの人々に語るべきです。なぜなら、私たちは神様の前で責任を問われるからです。

そして、私たちはその結果を神様の御手に委ねます。私たちが自分の役割を果たせば、神様もご自身の役割を果たされます。

だから、パウロはこう書きました。

私たちはキリストによって、神の御前でこのような確信を抱いています。

何かを、自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません。私たちの資格は神から与えられるものです。

神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。

文字は殺し、御霊は生かすからです。(4-6)

パウロは、はっきりと語ります。私たち自身には、人々に影響を与える資格はありません。むしろ、その資格は神様から与えられるものです。

私たちが神様に仕えるとき、神様は私たちに必要な資格を与えてくださいます。

だからこそ、私たちは確信を持つことができるのです。私たちは自分の賜物や能力に頼るのではなく、それらを与えてくださった神にこそ頼るのです。神様だけが、最も頑なな心を変えることができます。

この真理を心に留めましょう。私たちは人の心を変えることはできません。しかし、神様はそれをなされます。

そして、私たちが神様の命じられたことを忠実に行うならば、私たちは人々に影響を与えることができるのです。

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コリント人への手紙第二

死に至らせる香り、いのちに至らせる香り

私たちはクリスチャンであるがゆえに、すべての人々から愛されるということにはならないものです。

イエス様は完全な人だったけど、彼を嫌う人もいました。どうしてでしょうか。

イエス様から出た香りのためです。

この個所では、パウロは興味深いことを言います。

しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。

私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。

滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。

このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。(コリント人への手紙第二2:14-16)

パウロが描いたのは、ローマの将軍が勝利のパレードで自軍を率いる光景です。その後ろには祭司たちが香り高い香を道路に撒きました。

勝利を祝う人々にとって、その香りは命と勝利の象徴でした。けれども、捕虜たちにとって、それは自分の死を予告する香りでした。

同じように、私たちは祭司として、私たちの将軍であるキリストに従い、その十字架の勝利を祝います。

そして、私たちがキリストを知る知識の香りを放つとき、救われる人々—すなわち、私たちのメッセージを聞いて信じる人々にとって—それは最終的な勝利と命の香りとなります。

ところが、他の人々が私たちのメッセージを聞くと、それは死の香りとなります。なぜでしょうか。それは、私たちが彼らの罪を指摘し、その罪がどこへ導くのかを示すからです。つまり、その罪は地獄へと導くのです。

彼らはそのメッセージを嫌います。なぜなら、自分の罪の悪さを認めたくないからです。また、自分の罪によって裁かれることを聞きたくないのです。

だから、彼らにとって、イエス様は死に至る香りです。そして、イエス様が私たちのうちにおられるので、私たちからも同じ香りが放たれます。

私は、有名な宣教師ジム・エリオットの言葉が大好きです。

天のお父様、私が危機をもたらす人間となるように。つまり、人々が私に出会ったとき、彼らがあなたに関して決断しなくてはならないように。

私がただの一本の道に立つ標識ではなく、選択を迫る分かれ道となるように。

人々が私のうちにキリストと出会うとき、彼らはあなたに近づくか、またはあなたから離れるかの決断をしなくてはならないように。

あなたはどうでしょうか。人々があなたに出会ったとき、キリストの香りを放っているでしょうか。

また、彼らがあなたのうちにおられるイエス様と出会うとき、イエス様に従うか、イエス様を拒むかの選択を迫られるでしょうか。

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コリント人への手紙第二

相手が悔い改めるとき

人々に傷つけられると、恨みを抱くのは容易です。相手が謝罪しても、許したくないと感じることがあります。

または、口では許すと言いながらも、心の中でその恨みを手放すことを拒んでしまうこともあります。その結果、相手は私たちの恨みを感じ続け、私たちと話すときに不安を覚えます。

教会のリーダーたちが罪を犯したメンバーを訓戒するときも、同じようなことが起こるかもしれません。

その人が悔い改めても、リーダーたちや他のメンバーたちは、その人を疑い、距離を置いてしまうことがあります。

もしかすると、彼らはこう考えるかもしれません。「すぐに相手を受け入れてはいけない。もう少し悲しませた方がいい。そして、その人が十分悲しんだと思ったら、受け入れよう。」

しかし、パウロはそのような訓戒の仕方を教えませんでした。むしろ、パウロはこう語りました。

その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、あなたがたは、むしろその人を赦し、慰めてあげなさい。

そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。

そこで私はあなたがたに、その人へのあなたがたの愛を確認することを勧めます。(コリント人への手紙第二2:6-8)

「あの処罰で十分」とは、どういう意味でしょうか。

おそらく、パウロが言いたかったのは、その処罰が目的を果たしたということです。つまり、その人が悔い改めたということです。そして、人が悔い改めたならば、処罰を続ける必要はありません。

むしろ、私たちはその人を許し、慰めるべきです。神様がその人を赦されたことを伝え、私たちも許したことを示すべきです。そして、その人に対して私たちの愛を確認することが大切です。

もちろん、私たちが罪を犯すとき、神様は私たちがその罪を悲しむことを望まれます。

しかし、悲しみには二つの種類があります。悔い改めへと導く悲しみもあれば、死へと導く悲しみもあります。

この「死へと導く悲しみ」とは、パウロが語ったように、絶望や神から離れることを意味します。

その一方、悔い改めへと導く悲しみは良いものです。けれども、もし私たちがその人を赦さないならば、相手は深く悲しみすぎて、霊的な死へと導かれてしまうかもしれません。それは神様の望まれることではなく、むしろサタンの望むことです。

サタンの目的は、盗み、殺し、滅ぼすことです。だから、私たちが相手を許さず、その人が深い悲しみに沈んでしまうならば、私たちは神様と協力するのではなく、むしろサタンの働きを助けていることになります。

あなたはどうでしょうか。誰かがあなたを傷つけたことがありますか。または、教会の中で、誰かが深刻な罪を犯したことがありますか。その人は悔い改めたでしょうか。

もしそうならば、神様と協力して、その人を許し、受け入れましょう。

イエス様の言葉を心に留めましょう。

あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。(ルカ6:36)

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コリント人への手紙第二

兄弟や姉妹と向き合うべきとき

兄弟や姉妹が罪を犯したとき、その人に向き合うことは決して容易ではありません。もしそれを『楽しい』と感じる人がいるなら、その人は向き合わない方が良いでしょう。

しかし、時にはその必要が生じることもあります。そのような状況において、パウロの生き方や言葉から、私たちは大切な原則を学ぶことができます。

パウロはこう記しました。

私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために協力して働く者です。あなたがたは信仰に堅く立っているのですから。(コリント人への手紙第二1:24)

人と向き合うとき、その態度はとても重要です。相手と話す際、「あなたは私の言葉に従わなくてはならない」という姿勢を持つべきではありません。

むしろ、私たちはこのような姿勢を持つべきです。「あなたを愛しています。あなたがこの罪を乗り越えられるように助けたいのです。あなたが本当の喜びを知り、信仰に固く立つことを願っています。」

しかし、多くの場合、私たちは相手を責める態度をとってしまい、彼らは私たちの中にイエス様の愛を見ることができません。

けれども、パウロの姿勢は違いました。彼はこう語りました。

私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。

それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした。(コリント人への手紙第二2:2-4)

この言葉には、プライドや傲慢は微塵もありません。むしろ、パウロはコリントの人々に対する深い愛を示しました。

さらに、彼らと向き合うとき、パウロは彼らが悔い改めることへの強い希望を持っていました。

しかし、私たちは時として、人々と向き合う際にその希望を持たず、ただ怒りをぶつけて相手を責めてしまいがちです。

けれども、パウロの姿勢は違いました。彼はこう語りました。

あの手紙を書いたのは、私が訪れるときに、私に喜びをもたらすはずの人たちから、悲しみを受けることがないようにするためでした。

私の喜びがあなたがたすべての喜びであると、私はあなたがたすべてについて確信しています。(3)

つまり、「前回の手紙の目的は、次に会うときに辛い訪問にならないようにすることでした。私はあなたたちを信じているので、そのように書きました。あなたたちが悔い改め、もう一度共に主の喜びを知ることを信じていました。」ということです。

私たちは人と向き合うとき、「あなたらしい」と言うのではなく、「あなたらしくないよ。正しい道に戻りましょう。」という姿勢を持つべきです。

最後に、相手と向き合うべきときもありますが、神様が相手の心の中で働かれるべきときもあります。

パウロが最初にコリントの人々と向き合ったとき、彼らはただ怒っただけでした。パウロはすぐにもう一度向き合おうと思いましたが、最終的に後回しにしました。なぜでしょうか。

私は自分のいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたへの思いやりからです。。。

そこで私は、あなたがたを悲しませる訪問は二度としない、と決心しました。

もし私があなたがたを悲しませるなら、私が悲しませているその人以外に、だれが私を喜ばせてくれるでしょう。(コリント人への手紙第二1:23、2:1-2)

だから、彼はコリントに行かず、代わりに手紙を送り、彼らが悔い改めるように願いました。(2:3)

時として、それが最良の方法です。愛を伝えながら、彼らを神様の御手に委ねることです。

だから、人と向き合うとき、そのような姿勢を持ちましょう。そして、神様の恵みによって、彼らの人生に良い実が結ばれるでしょう。

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コリント人への手紙第二

私たちが神様に信頼できる理由

試練のとき、神様に対する信仰を失うのは容易なことがあります。

パウロもそのような経験をしたでしょうか。特に、彼が耐えがたいほどの激しい圧迫を受け、生きる望みさえ失いかけたとき、信仰を失う危機に直面したでしょうか。(コリント人への手紙第二1:8)

最終的に、信仰を失うのではなく、その試練を通して、パウロたちは神様に頼ることを学びました。(9節)

では、彼らはどのようにして信仰を保つことができたのでしょうか。また、私たちはどのようにして自分の信仰を守ることができるでしょうか。

パウロはこう記しました。

神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「はい」であると同時に「いいえ」である、というようなものではありません。(コリント人の手紙第二1:18)

その言葉の中で、私の心を打つことの一つは、神様が真実な方であるということです。

試練の中で振り返ると、私たちはその真理を実感するはずです。

しかし、自分の人生だけでなく、過去のクリスチャンや現代のクリスチャンの歩みを見ても、神様の真実さがよく分かります。

さらに、神様は私たちの罪のためにイエス様を送られたとき、ご自身の約束を守ることで、その真実さを証明されました。

パウロはこう言いました。「私たちのことばは、『はい』であると同時に『いいえ』である、というようなものではありません。」

要するに、福音は私たちが頼ることのできるものです。そのメッセージは決して変わりません。

神様は私たちに、「イエスを信じれば、あなたは救われる」と約束されたので、天国の門で突然「やっぱりだめです。私の気が変わりました。入ってはいけません」と言われることは決してありません。

人は約束を破ることがあるかもしれませんが、神様の約束は決して変わりません。神様は真実な方だからです。

だから、パウロはこう語りました。

たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。(ローマ書3:4)

パウロは続けてこう言います。

私たち、すなわち、私とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「はい」と同時に「いいえ」であるような方ではありません。

この方においては「はい」だけがあるのです。神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。

それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。(コリント人の手紙第二1:19-20)

要するに、この絶えず変わり続ける世界にあっても、イエス様は決して変わりません。言い換えると、「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」(ヘブル 13:8)

イエス様にあって、神様の約束はすべて確認されています。

イエス様は良い知らせを宣べ伝え、病を癒し、私たちの罪のために死なれたとき、メシアについての預言を成就されました。そして、やがて来る日には、永遠の国を開始し、残された預言をも成就されるでしょう。

だからこそ、私たちは神様の約束をなおさら信じることができます。

すなわち、試練のとき、神様が私たちと共におられるという約束です。また、この試練がただ一時的なものであるという約束です。そして、私たちは勝利を得て、この試練から精錬された金のようになって出てくるという約束です。

だから、イエス様にあって、私たちは「アーメン。あなたがそれらのことを約束されたので、必ずその約束を守られると信じます。」と言うことができます。

しかし、パウロはさらにこう語ります。

私たちをあなたがたと一緒にキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。

神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました。(コリント人の手紙第二1:21-22)

神様は私たちに聖霊という油を注がれました。神様はご自身の目的のために私たちを聖別されました。そして、神様の保証の証印を私たちに押されました。

その証印を通して、神様は宣言されます。「この人は私のものです。私のひとり子の血によって、この人を贖いました。」

聖霊様は、神様がすべての約束を守られることの確かな保証です。

だから、どんな試練に直面しても、神様に信頼しましょう。

人は私たちを失望させることがあるかもしれませんが、神様は真実な方です。

あなたはどうでしょうか。神様に信頼しますか。

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コリント人への手紙第二

人々が私たちのことを誤解し、責めるとき

この手紙を読むにつれて、パウロとコリントの人々との関係がいかに困難であったかが、はっきりと分かるようになります。

コリントの人々は、パウロが以前に送った手紙を読んだとき、その言葉に気を悪くしたようです。彼らの中には、パウロを頼りない人物だと考えた者もいました。

さらに、ある人々はパウロが二枚舌を使い、彼らを操ろうとしていると非難しました。その理由の一つは、パウロが以前、彼らを訪れると約束していたにもかかわらず、土壇場でその計画をキャンセルしたことです。

そのため、パウロはなぜその計画を変更したのかを説明する必要がありました。主な理由は、一部のコリントの人々がパウロのリーダーシップに反対していたことです。

多くの聖書学者は、パウロが『コリント人への手紙第一』を書いた後、コリントの教会を訪れたものの、その際にパウロが強い反発を受け、困難な状況に直面したと考えています。

つまり、パウロは自分に反対したコリントの人々と向き合い、彼らの罪を指摘しなければなりませんでした。その結果、パウロとコリントの人々の関係は大きく損なわれてしまったようです。

もしパウロがすぐにコリントの教会に戻っていたら、再び大きな衝突が起こることは明らかでした。なぜなら、以前の問題がまだ解決されていなかったからです。

そのため、パウロは彼らにもう一つの手紙を書き、悔い改めるように勧めました。そして最終的に、多くのコリントの人々は悔い改めました。(コリント人への手紙第二7:6-13)

ところが、一部のコリントの人々は、パウロを頼りない人物とみなし、二枚舌を使う人だと非難し続けました。(1:7;7:2)

私たちは、そのような人々にどのように対応すべきでしょうか。私たちを誤解し、不当な非難を投げかける人々に対して、どのように振る舞うべきでしょうか。

パウロの姿勢を見ると、良い対応の仕方を学ぶことができると思います。パウロはこう語りました。

私たちが誇りとすること、私たちの良心が証ししていることは、私たちがこの世において、特にあなたがたに対して、神から来る純真さと誠実さをもって、肉的な知恵によらず、神の恵みによって行動してきたということです。(コリント人への手紙第二7:1:12)

一番大切なのは、神様の前に潔白な心を保つことです。自分に反対する人に接するとき、私たちは純真さと誠実さを持っていなくてはなりません。

相手が私たちを責めたり、不当に扱ったりしても、私たちは純真さと誠実さをもって対応するべきです。

私たちがしてはいけないのは、この世の知恵によって反応することです。ヤコブはそのような知恵について説明しています。

しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりするのはやめなさい。

そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。(ヤコブの手紙3:14-15)

むしろ、私たちは神様の恵みから流れる知恵によって彼らに対応すべきです。

では、神様の知恵とはどのようなものでしょうか。ヤコブはそれについても定義しました。

しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。(ヤコブの手紙3:17)

パウロはそのような知恵を実践しました。その結果、多くのコリントの人々はパウロのことを理解しました。

まだパウロを信頼していなかった人々に対して、パウロは自分の言葉に隠された意図や裏の意味はないと主張しました。また、いつか彼らがパウロのことを完全に理解するようになることを願っていると伝えました。(コリント人への手紙第二1:13-14)

しかし、その日が来るまで、パウロは純真さと誠実さ、そして恵みをもって生き続けると言いました。

あなたはどうでしょうか。人々があなたを誤解し、責めるとき、どのように対応しますか。

パウロのように対応しましょう。純真さと誠実さ、そして恵みをもって応答しましょう。

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コリント人への手紙第二

私たちの祈りの大切さ

私たちの祈りは、本当に効果的なものでしょうか。それとも、私たちが祈ろうが祈るまいが、神様はご自身の御心を行われるのでしょうか。

この疑問について、パウロは明確な意見を持っていました。彼はこう語りました。

神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。

私たちはこの神に希望を置いています。あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。(コリント人への手紙第二1:10-11)

パウロは、コリントの人々の祈りの効果を信じていたので、彼らに祈るように願いました。彼は彼らを励まし、「あなたの祈りには本当に効果があります」と語りました。

なぜ神様は私たちの祈りを求められるのでしょうか。なぜ、多くの場合、神様は行動される前に私たちの祈りを待っておられるのでしょうか。

おそらく、一番大切な理由は、神様が私たちとの関係を望んでおられるからです。さらに、神様は私たちが神とともに働く者となることを望んでおられます。

私たちが祈り始めると、特に他の人々のために祈り始めると、何が起こるでしょうか。

1.私たちは自分自身だけに焦点を当てず、周囲の人々の必要に目を向け始めます。

それを神様は喜ばれます。なぜなら、私たちは神様のようになりつつあるからです。

では、私たちの祈りによって、神様が人々の人生に働かれる可能性は高くなるでしょうか。聖書は、そのように教えているようです。

例えば、ヤコブはこう書きました。

あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。

熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。

自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。(ヤコブの手紙4:2)

イエス様自身はこう言われました。

今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。

求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。(ヨハネ16:24)

2.神様が私たちに何を望んでおられるのかが分かるようになります。

私たちが祈るにつれて、神様は私たちの心にどのように周囲の人々に触れることができるかをささやかれます。

大変な一日が終わるころ、イエス様の弟子たちはこう言いました。「群衆を帰らせてください。もう遅いですし、彼らはお腹が空いているでしょう。」

おそらく、彼らは群衆の必要を深く考えていなかったでしょう。彼らは一日中、群衆に仕えていたため、ただ休みたいと思っていたのかもしれません。

しかし、イエス様は彼らにこう言われました。「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」(マタイ14:16)

彼らはパンと魚を持っている少年を見つけ、その食べ物をイエス様のもとへ持って行きました。そして、イエス様は驚くべき奇跡を行われました。

同じように、私たちが人々の必要を見て祈り始めると、イエス様は私たちにどのようにイエス様の働きに参加できるかを教えてくださいます。

3.神様はその祈りに応えられるとき、私たちは神様の良さをより深く知るようになります。

その結果、私たちはさらに祈るように励まされます。

4.あなただけでなく、他の人も神様の良さを見て励まされます。

パウロはこう語りました。

そのようにして、多くの人たちの助けを通して私たちに与えられた恵みについて、多くの人たちが感謝をささげるようになるのです。(コリント人への手紙第二1:11b)

だからこそ、祈りの大切さを信じてください。そして、神様の働きに加わり、周囲の人々のために祈りましょう。

神様は、あなたに誰のために祈ることを望んでおられるでしょうか。

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コリント人への手紙第二

自分のことに焦点を当てないこと

この箇所を読むと、私はパウロがキリストの模範に従っていたことに気づきました。

もし、イエス様がただ快適な生活を送ることに関心があったなら、この世には来られなかったでしょう。

飼葉おけに寝ることもなかったでしょう。貧しい大工の家で成長することもなかったでしょう。枕する所のない日々を経験することもなかったでしょう。そして、十字架へと向かうこともなかったでしょう。

しかし、イエス様はそれらすべてを経験されました。なぜでしょうか。

それは、私たちの慰めと救いのためです。

私たちは罪のゆえに、また、この世の悪のために、惨めな存在でした。さらに、破滅へと向かう道を歩んでいました。イエス様はその状況をご覧になり、天国の安楽な生活を捨てて、私たちのために苦しみを選ばれました。

パウロはイエス様の模範を見て、従いました。

コリントの人々や他の人々のために、彼は遭難や投獄、飢えや迫害を経験しました。なぜでしょうか。それは、彼が自分の楽な人生に焦点を当てず、むしろ周囲の人々の苦しみと必要に目を向けていたからです。

また、パウロが慰めを受けたときも、彼はただ自分自身に焦点を当てることはありませんでした。

彼の願いは、コリントの人々が彼の経験を見ることで励まされることでした。

つまり、彼らがこの世の試練はつらくても、一時的なものであることを理解することです。なぜなら、彼らは、パウロ自身も試練の中で神様の平安と喜びを知ったことを見たからです。

だからこそ、コリントの人々は、自分たちの試練の中で、最終的に慰めを受けるという希望を持つことができたでしょう。そして、その希望が彼らに耐える勇気を与えたのです。

自己中心になることは簡単です。神様の愛をスポンジのように吸収し、ただ楽な人生を望むことは簡単です。

しかし、神様は私たちがそのような態度を取ることを望んでおられません。むしろ、神様は私たちがイエス様の模範に従い、たとえ苦しみが伴うとしても、自分の快適な生活を手放し、周囲の人々の救いのために働くことを望んでおられます。

とはいえ、イエス様の視点を持たなければ、私たちは決してそのように生きることはできないでしょう。

イエス様は周囲の人々の苦しみをご覧になりました。だからこそ、十字架へと進んで行かれたのです。

あなたはイエス様の視点を持っているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

祝福のパイプラインになるように召される

クリスチャンになると、得られる祝福のひとつは、試練の中における神様の慰めです。

けれども、スポンジのようになってしまうのは容易なことです。つまり、私たちは神様からの愛と慰めを吸収してしまうのです。

もちろん、私たちには神様の愛と慰めが必要なときがあります。それでも、神様は私たちがただ受け取るだけの存在になることを望んでおられません。

むしろ、神様は私たちが周囲の人々に対して祝福のパイプラインとなることを望んでおられます。

パウロはこう書きました。

私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。

神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。

それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。(コリント人への手紙第二1:3-4)

神様が私たちを慰める目的のひとつは、私たちが受けた慰めを周囲の苦しんでいる人々に分かち合うことです。

だから、パウロはこう語りました。

私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。(5)

ある意味、イエス様の苦しみは私たちの人生に注がれています。

もちろん、私たちは自分の罪の代価を支払っているわけではありません。イエス様がすでにその代価を支払われたからです。

それでも、私たちがイエス様のために苦しむこともあります。迫害を受けることもあります。試練に直面することもあります。

けれども、その苦しみや試練を通して、神様は御国を広げ、私たちの性格を形作ってくださいます。

だから、ペテロはこう語りました。

試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。(第一ペテロ1:7)

だから、イエス様の苦しみが私たちの人生に注がれるかもしれませんが、同時にイエス様の慰めも私たちの人生に注がれます。そして、その慰めは私たちの人生から周囲の人々へと溢れ出していきます。

神様は、私たちを慰めで満たすだけではなく、その慰めが私たちを通して苦しんでいる人々へと流れることを望んでおられます。

残念ながら、多くの人は神様からの愛と慰めを受け取るだけで、周囲の人々の必要には目を向けようとしません。

しかし、よく見渡してみると、私たちと同じような苦しみを経験している人がいることに気づきます。そして、神様は私たちが自身の経験を彼らと分かち合い、希望を与えることを望んでおられます。私たちは彼らにこう言えるでしょう。

「私には分かります。私も同じ経験をしました。神様はきっとあなたを助けてくださいます。」

こうして、私たちは神様の愛と慰めを彼らの人生に注ぎます。

あなたはどうでしょうか。ただ神様の愛を受け取るだけの存在ですか。それとも、神様の祝福を周囲の人々へと流すパイプラインとなっているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

試練の中の慰め

これは、聖書の中で私が最も好きな箇所のひとつです。パウロはこう書きました。

私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。

神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。

私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。(コリント人への手紙第二1:3-5)

私たちが試練や苦しみに直面するとき、神様が本当に私たちを愛しているのか疑問に思うことがあります。しかし、パウロによれば、神様は「あわれみ深い父」です。

つまり、神様は私たちの苦しみを見ても無関心ではありません。むしろ、憐れみに満ちた心をもって、深く私たちを思っておられます。

イエス様も、苦しむイスラエルの人々を見たとき、同じ心を持っておられました。福音書の著者たちは何度も「イエスは深くあわれみ…」と記しています。

この点において、イエス様は天の父の性格を完全に映し出しておられます。

さらに、パウロはもう一つのことを語っています。彼によれば、神様は「あらゆる慰めに満ちた神」です。

神様は私たちに対して憐れみを感じるだけでなく、御手を伸ばして私たちに触れてくださいます。

ある日、ツァラアトを患う人がイエス様のもとにやって来ました。(マタイ8章)

イエス様は深く憐れみ、手を伸ばしてその人に触れました。おそらく、その人は何年もの間、誰にも触れられていなかったでしょう。なぜなら、周囲の人々はその病気にかかることを恐れていたからです。

しかし、イエス様が触れたことで、その人は慰められ、癒されました。

そして、パウロによれば、私たちが苦難に満ちているように、キリストによって私たちの慰めも豊かに与えられています(5)。

パウロは自身の経験をもとに語りました。彼は、自分の力では耐えられないほどの深い苦しみを経験しました。

私たちはよく耳にします。「神様は私たちに耐えられない試練を許しません。」

ある程度まではその言葉は正しいですが、実は完全ではありません。

神様は私たちが自分の力では耐えられない試練を許されます。私たちは「耐えられないほどの圧迫を受ける」ときがあるかもしれません。

さらに、「生きる望みさえ失うほどの圧迫を受ける」こともあるかもしれません。(8)

なぜ、神様はそのような試練を許されるのでしょうか。

パウロはその理由を説明しています。

それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。(9)

要するに、神様は私たちが自分の力だけではこの人生を歩むことができないことを学ぶために、こうした試練を許されるのです。

しかし、私たちが神様に頼るなら、神様が死者をよみがえらせるほどに力強い方であることを知るようになります。

そして、神様はその恵みによって、私たちを絶望の深い穴から引き上げ、新しい希望と命を与えてくださいます。

神様はパウロにこう言われました。

わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。(第二コリント12:9)

だから、私たちは試練を通過した後、振り返ると、神様が常に私たちと共におられたことに気づきます。だから、未来の試練に直面するとき、私たちはその同じ神がもう一度私たちを救ってくださるという希望を持つことができます。

パウロはこのことを学び、確信を持ってこう語りました。

神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。(10)

あなたはどうでしょうか。果てしない試練に直面しているのでしょうか。もう耐えられないと感じているかもしれません。

しかし、神様はあなたを愛しておられ、決して見捨てることはありません。そのことを心に留めておきましょう。だからこそ、自分の力に頼るのではなく、神様の力に頼りましょう。

そうすれば、神様の恵みによって、あなたはその試練を乗り越えることができます。

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コリント人への手紙第一

主よ、来てください

この世の現実や悪を目の当たりにすると、失望するのは容易なことです。しかし、クリスチャンとして、私たちは希望を持っています。なぜでしょうか。

パウロはこう記しました。

主を愛さない者はみな、のろわれよ。

主よ、来てください。主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。(コリント人への手紙16:22-23)

その最初の言葉は厳しく感じるかもしれませんが、これは紛れもない現実です。主を愛さない者は呪われています。

彼らは神様の律法を破り、救いの唯一の方法――つまり、イエス様を拒絶しました。中には、イエス様を呪うことさえする者もいます。(第一コリント12:3)

けれども、イエス様を愛する私たちのために、イエス様ご自身が呪われたのです。パウロはこう記しました。

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。

「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)

イエス様は十字架において、私たちの罪の代価を支払い、律法の要求を満たされました。しかし、それだけではなく、イエス様は復活し、死に打ち勝たれました。

イエス様は生きておられるので、私たちは永遠に生き続けるという確信を持つことができます。(ヨハネ14:12)

イエス様が再びこの世に来られる日、私たちは瞬く間にキリストに似た者とされます。そのとき、すべての涙は私たちの目からぬぐい取られ、すべての悲しみは消え去ります。

だからこそ、パウロのように私たち皆が「マラナタ」、つまり「イエス様、来てください」と叫ぶのです。

けれども、私たちにはもう一つの希望があります。それは、イエス様が来られるその日まで、イエス様が私たちに恵みを与え続けてくださることです。

私たちが罪を犯しても、失敗しても、イエス様は毎日私たちのためにとりなしをしてくださいます。試練に直面するとき、イエス様は私たちに力を与えてくださいます。そして、イエス様は私たちの内に始められた良い働きを完成へと導いてくださいます。(ピリピ1:6)

だから、どんな状況にあっても希望を失わないようにしましょう。むしろ毎日、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さず歩み続けましょう。イエス様にある私たちは、希望と命を持っているのです。