詩篇100篇は礼拝のための歌です。
だから、この詩篇の始めに、詩人は私たちを神様を礼拝するように招きます。
全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。
喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。(詩篇100:1-2)
そして、詩人は私たちの礼拝の理由を教えます。つまり、詩人は神様がだれであるか、私たちがだれであるか、また私たちの神様との関係は何であるかを反省します。
神様は誰でしょうか。神様は「主」です。
この話を進める前に、少し説明した方が良いと思います。
新改訳では、時々「主」は太字で書かれます。時々、「主」は普通のフォントで書かれます。どうしてでしょうか。
「主」が太字で書かれたとき、それは「ヤハウェ」という言葉です。「ヤハウェ」は神様の名前です。
実は、私たちはその名前の子音しか知りません。なぜなら、ユダヤ人は神様の名前を尊重したので、聖書を読むとき、決して「ヤハウェ」と言わなかったからです。その代わりに「主」と言いました。
そして、ヤハウェの名前を書くとき、子音しか書きませんでした。だから、今では誰もヤハウェの本当の発音をよく知りません。誰もヤハウェの母音を知らないからです。
そういうわけで、日本語の聖書と英語の聖書のほとんどは神様の名前のために「主」を使います。
とにかく、太字の「主」を見るなら、その代わりに「ヤハウェ」と入れ替えてみてください。
多分「ヤハウェ」という名前は、出エジプト記3章14節から来ます。そのとき、モーセは神様に尋ねました。「あなたの名前は何ですか。」
神様は「わたしは、『わたしはある』という者です。」と答えられました。
ヘブライ語では、「ヤハウェ」という名前は「ある」という動詞から来ています。
その名前によって、神様が私たちに言われるのは、「私は永遠の方です。私は永遠から存在し、永遠まで存在します。私は決して変わりません。」ということです。
そして、神様は私たちの創造主です。
それでは、私たちは誰でしょうか。そして、私たちの神様との関係は何でしょうか。私たちは神様のものです。私たちは神様に属するものです。なぜでしょうか。
それは神様が私たちを造られたからです。私たちは自分自身を造りませんでした。神様は私たちの創造主ですから、私たちは正当に神様に属します。だから詩人は言います。
私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。(3)
神様の羊として私たちはどうすればいいでしょうか。
感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。(4)
以前のブログでは、私はジム・エリオットという人について話しました。「Shadow of the Almighty」という本の一節は本当に私の心を打ちました。エリオットは詩篇100篇4節についてこう書きました。
どうして、羊はその門に入っているのでしょうか。どうして、主の大庭に入っているのでしょうか。歌を歌って、羊の交わりを楽しむためでしょうか。それだけでしょうか。違います。
彼らは祭壇に行っていました。彼らが牧場で食べた目的は、彼らを試し、いけにえの準備をさせられるためです。
だから、神様に感謝しましょう。なぜなら、あなたはその祭壇に値するものとして認められたからです。
賛美しながら、神様の仕事をしなさい。。。
天のお父様、あなたの御心でしたら、私の命、私の血を取って、あなたの火で焼き尽くしてください。
私の人生を救おうとは思いません。なぜなら、この人生は私の物ではないからです。
私の人生のすべてを取って、用いてください。
この世のために私の血を供え物として注いでください。なぜなら、私の血は、あなたの祭壇の前に流れる時だけに価値があるからです。
あなたはその言葉が極端だと思うかもしれませんが、多分エリオットはパウロの言葉をよく理解していました。
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。
あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1)
実は、エリオットはアウカ族の救いのために自分の血を注ぎました。
だから、覚えておきましょう。礼拝はただ賛美の歌を歌うことではありません。
礼拝は生きた供え物になることです。
礼拝は、自分の目的のためでなく、神様の目的のために生きることです。
礼拝は主を喜ばせることです。
それらが本当の礼拝です。
時々、礼拝の代価は高いです。しかし、主にすべてを捧げると、あなたは喜びを知ります。どうして私はそう思うでしょうか。
主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。(5)
その言葉を信じないなら、主に人生を捧げるのは難しくなります。
けれども、神様が良い方であることを信じたら、また、神様が忠実で、私たちを愛して、私たちの最善を望んでおられることを信じたら、神様にすべてを捧げることは当然なことになります。
あなたはどうですか。そのことを信じるでしょうか。神様を本当に礼拝しているでしょうか。