彼の仲間はひれ伏して、「もう少し待ってください。そうすればお返しします」と嘆願した。
しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。(マタイの福音書18:29ー30)
「しかし、承知しませんでした。」
直訳すると、「彼はそうしたくなかった。」
彼は何をしたくなかったのでしょうか。
彼は、借金の返済を待ちたくなかったのです。
もちろん、彼は、絶対にその借金を許したくなかったのです。
原語では、しもべの仲間は何度もあわれみを願いましたが、しもべは何度も「嫌だ」と言いました。
「私は待ちたくない。我慢したくない。許したくない。」
あなたは、そのような態度を取っているでしょうか。
多くの人々は「許せない」と言います。
でも、「許せない」とは、「許すことができない」という意味でしょうか。それとも、「相手を赦したくない」という意味でしょうか。
神の子どもたちは、そのような態度を取ってはいけません。なぜなら、神様は私たちをたくさん赦してくださったからです。
「許せない、許したくない」という態度は、罪です。
もちろん、許すのが難しいときもあります。許すのが非常に難しいときもあります。神様はそれを理解しておられます。
しかし、頑なに「私は許したくない」と主張する態度と、へりくだってイエス様のもとに来て、「私は許したいけれど、私の傷は深いです。どうやって許すことができるのか、よく分かりません。助けてください」と願う態度は、まったく異なります。
ペテロはこう言います。
みな互いに謙遜を身に着けなさい。
「神は高ぶる者には敵対し、 へりくだった者には恵みを与えられる」 のです。
ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(第一ぺテロ5:5~7)
プライドは、自分の傷を手放すことを拒みます。「私は傷ついた。私はもっと優しく扱われるべきだ。あいつは罰せられるべきだ。」
けれども、謙遜な人は、自分が人を傷つけることがあると認めます。
謙遜な人は、自分が神様に対して罪を犯したことがあると認めます。
謙遜な人は、周囲の人々のあわれみ、そして神様のあわれみをどれほど必要としているかを認めます。
だから、謙遜な人は自分の傷を手放し、相手を許すことを選びます。
とはいえ、以前にも言ったように、人を許すのが難しいときもあります。傷が深ければ深いほど、相手を許すのは難しくなります。
しかし、ペテロは、神様が私たちのことを心配してくださることを思い出させてくれます。神様は、私たちの傷を癒したいと願っておられます。
そして神様は、私たちの傷が癒されるためには、まず私たちが相手を許さなくてはならないことをご存じです。
もしあなたがへりくだって、「どうやって相手を許すことができるのか分かりません。でも、許そうとします。助けてください」と祈るなら、神様は喜んで助けてくださいます。
あなたはどうでしょうか。神様は、今あなたに誰かについて語っておられるでしょうか。