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サムエル記第一のデボーション

私たちの忠実な祭司

人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。(サムエル記第一2:25)

今朝、私はその言葉に思いを巡らせていました。

神様に対して罪を犯すとき、私たちのために仲裁に立ってくださる方がおられます。

神様はイエス様を、私たちの忠実な祭司として起こしてくださいました。さらに、イエス様はとこしえに私たちの祭司です。(サムエル記第一2:35;ヘブル書2:17~18;7:23~25)

私の罪によって神様をどれほど悲しませたかを振り返ると、その真理は本当に不思議なことだと思います。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(ローマ人への手紙8:34)

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士師記のデボーション

不信の心

イスラエルは大変な苦境に立たされた。そのとき、イスラエルの子らは主に叫んだ。

「私たちはあなたに罪を犯しました。私たちの神を捨ててバアルの神々に仕えたのです。。。あなたが良いと思われるように何でも私たちにしてください。ただ、どうか今日、私たちを救い出してください。」

彼らが自分たちのうちから異国の神々を取り去って主に仕えたので、主はイスラエルの苦痛を見るに忍びなくなられた。(士師記10:9ー10、15ー16)

イスラエルの民は、どれほど心から悔い改めていたでしょうか。おそらく、その悔い改めはとても表面的だったのでしょう。

神様はそれをよくご存じでした。

それでも、神様は最終的に彼らをあわれんでくださいました。

驚くべきことは、神様がすでにイスラエルの民を滅ぼしていなかったことです。しかし、預言者マラキの言葉を通して、私たちは神様の性格を見ることができます。

主であるわたしは変わることがない。そのため、ヤコブの子らよ、 あなたがたは絶え果てることはない。(マラキ書3:6)

それが心強い言葉です。私の不信の心を知っておられても、神様はいつも真実な方です。

それでも、イスラエル人の模範に倣いたくはありません。むしろ、神様が私に真実であるように、私も神様に真実でありたいのです。

天のお父さん、私の不信の心を癒してください。

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マルコの福音書のデボーション

天のお父さん、私は脆い存在なのでしょうか

まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。

新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。(マルコの福音書2:22ー23)

天のお父さん、もしかして私は、古い皮袋のように脆い存在なのでしょうか。私があまりにも脆くて、もしあなたが人々に触れるために、御霊というぶどう酒を注がれると、私は裂けてしまうのでしょうか。

つまり、苦しんでいる人々への、あなたのあわれみと思いやりを欠いていることで、私は脆いのでしょうか。(5、17節)

また、周囲の人々をいつもさばいてしまうことで、私は脆いのでしょうか。(15ー16節)

あるいは、私の霊的な成熟度を他の人と比べることで、私は脆いのでしょうか。(18節)

天のお父さん、どうか、あなたが自由にぶどう酒を注ぐことのできる、新しい皮袋へと私を変えてください。あなたの注がれるぶどう酒が、無駄になることのないように。

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

あなたのいつくしみ深い霊が私を導いてくださいますように

御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。。。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。。。

私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。(ガラテヤ人への手紙5:18、22ー23、25)

今日の箇所を読んだとき、私はこう思いました。「単なるルールの一覧ではなく、生きておられる神の御霊に従っていて、よかった。」

なぜなら、ルールの一覧は、私の弱さを見たときに、あわれみも思いやりもまったく示してくれないからです。私の存在に心を留めてくれることもありません。

しかし、御霊は冷たく無関心なお方ではありません。むしろ、私の弱さに対して、あわれみと心遣いをもって応えてくださいます。

正直に言えば、私は御霊との関係を親しく感じるのが少し難しいです。なぜか、天のお父さんやイエス様ほどには、御霊が人格を持つお方として心に届いてこないことがあります。

けれども、御霊の実が「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」であるなら、まさに御霊ご自身がそのようなお方なのでしょう。私を見つめるとき、きっとそのような御顔を向けてくださっているのではないでしょうか。

今日、私はそのようなことを思い巡らしています。そして、私の悲しみと苦しみの中で、天のお父さんに祈っています。

あなたのいつくしみ深い霊が平らな地に私を導いてくださいますように。(詩篇143:10)

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出エジプト記のデボーション

天の父のみ心を持つ

こうして日がたち、モーセは大人になった。彼は同胞たちのところへ出て行き、その苦役を見た。

そして、自分の同胞であるヘブル人の一人を、一人のエジプト人が打っているのを見た。。。

それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。

重い労働による彼らの叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。」(出エジプト記2:11、23ー25)

モーセは不完全な人でした。それでも、神様はモーセをご覧になったとき、ご自分と同じような心を持った人をご覧になりました。

モーセは、周りの人々のうめきや苦しみをただ見ていたのではなく、その人を助けたいと思いました。

だから、自分の民の苦しみを見たとき、モーセはただ黙って見ていることができませんでした。

もちろん、モーセのやり方は間違っていましたが、自分の兄弟たちを助けたいと思ったその心は、間違っていませんでした。

そのあと、いじめられていた女性の羊飼いたちを見たとき、先の失敗にも関わらず、モーセはただ黙って見ていることができませんでした。

そのように、神様もご自分の民の苦しみを見たとき、ただ黙って見ておられることはできませんでした。神様は彼らをあわれみ、助けたいと思われました。

だから、神様はご自分と同じような心を持った人を選び、遣わされました。

今なお、神様はそのような人を選び、遣わされます。

私はそのような人になりたいです。あなたはどうですか。

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マタイの福音書のデボーション

どんな弟子を育てているのか

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。

おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。

そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ。(マタイの福音書23:15)

弟子作りに関して言えば、パリサイ人と律法学者が悪い手本であることは言うまでもないと思います。

でも、イエス様の言葉を読んだとき、私は考えました。

「神様は娘と他の人々を私に委ねてくださったけど、私はどんな弟子を作っているのだろうか。」

私は、重くて負いきれない荷を束ねて彼らの肩に載せて、ただ「頑張れ」と言ったことがあるでしょうか。

それとも、彼らは正義と誠実だけではなく、あわれみも知っているでしょうか。(マタイの福音書23:23)

彼らは、私の中にそのあわれみを見ているでしょうか。また、彼らへの神のあわれみを知っているでしょうか。

彼らは、そのあわれみを知って、安心しているでしょうか。そのあわれみを喜んでいるでしょうか。

そして、彼らは回りの人々にあわれみを与えているでしょうか。

それとも、彼らは常に自分に厳しすぎ、回りの人々に厳しすぎるのでしょうか。

天のお父さん、私の娘や妻、そして私の回りの人々が私を見るとき、私は彼らに正義の人、誠実な人を見てもらいたいです。

でも、それ以上に、あわれみ深い人を見てもらいたいです。彼らには、あなたのあわれみの中を歩み、回りの人々をあわれむ人を見てもらいたいです。

私が、あなたのあわれみの中を歩む弟子、回りの人々をあわれむ弟子を育てる者となるように、私を助けてください。

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マタイの福音書のデボーション

許せないのか?許したくないのか?

彼の仲間はひれ伏して、「もう少し待ってください。そうすればお返しします」と嘆願した。

しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。(マタイの福音書18:29ー30)

「しかし、承知しませんでした。」

直訳すると、「彼はそうしたくなかった。」

彼は何をしたくなかったのでしょうか。

彼は、借金の返済を待ちたくなかったのです。

もちろん、彼は、絶対にその借金を許したくなかったのです。

原語では、しもべの仲間は何度もあわれみを願いましたが、しもべは何度も「嫌だ」と言いました。

「私は待ちたくない。我慢したくない。許したくない。」

あなたは、そのような態度を取っているでしょうか。

多くの人々は「許せない」と言います。

でも、「許せない」とは、「許すことができない」という意味でしょうか。それとも、「相手を赦したくない」という意味でしょうか。

神の子どもたちは、そのような態度を取ってはいけません。なぜなら、神様は私たちをたくさん赦してくださったからです。

「許せない、許したくない」という態度は、罪です。

もちろん、許すのが難しいときもあります。許すのが非常に難しいときもあります。神様はそれを理解しておられます。

しかし、頑なに「私は許したくない」と主張する態度と、へりくだってイエス様のもとに来て、「私は許したいけれど、私の傷は深いです。どうやって許すことができるのか、よく分かりません。助けてください」と願う態度は、まったく異なります。

ペテロはこう言います。

みな互いに謙遜を身に着けなさい。

「神は高ぶる者には敵対し、 へりくだった者には恵みを与えられる」 のです。

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(第一ぺテロ5:5~7)

プライドは、自分の傷を手放すことを拒みます。「私は傷ついた。私はもっと優しく扱われるべきだ。あいつは罰せられるべきだ。」

けれども、謙遜な人は、自分が人を傷つけることがあると認めます。

謙遜な人は、自分が神様に対して罪を犯したことがあると認めます。

謙遜な人は、周囲の人々のあわれみ、そして神様のあわれみをどれほど必要としているかを認めます。

だから、謙遜な人は自分の傷を手放し、相手を許すことを選びます。

とはいえ、以前にも言ったように、人を許すのが難しいときもあります。傷が深ければ深いほど、相手を許すのは難しくなります。

しかし、ペテロは、神様が私たちのことを心配してくださることを思い出させてくれます。神様は、私たちの傷を癒したいと願っておられます。

そして神様は、私たちの傷が癒されるためには、まず私たちが相手を許さなくてはならないことをご存じです。

もしあなたがへりくだって、「どうやって相手を許すことができるのか分かりません。でも、許そうとします。助けてください」と祈るなら、神様は喜んで助けてくださいます。

あなたはどうでしょうか。神様は、今あなたに誰かについて語っておられるでしょうか。

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マタイの福音書のデボーション

私たちが汚れているとき

すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。

イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。(マタイの福音書8:2ー3)

ツァラアトは、とてもひどい病気でした。ツァラアトにかかった人たちは、のけ者とされ、神の神殿に入ることも許されませんでした。(レビ記13:45〜46;民数記5:2〜3)

その意味では、ツァラアトは罪を描写するものです。罪によって、私たちは霊的に汚れ、神様との関係、また周囲の人々との関係が壊れてしまいます。

しかし、今日の箇所では、ツァラアトに冒された人がイエス様のみもとに来て、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言いました。

すると、イエス様は恵みとあわれみをもって、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われました。

私たちは、罪を犯したとき、神様が赦してくださるのか、受け入れてくださるのかと疑ってしまうことがあります。

だから、私たちはおどおどしながら神様のみもとに来て、「お心一つで私をきよくすることがおできになります」と祈ります。

イエス様は、ツァラアトに冒された人に答えてくださったように、私たちにも答えてくださいます。

「わたしの心だ。きよくなれ。」

ですから、神の子どもたちよ、神の御座に大胆に近づきましょう。なぜなら、私たちはあわれみを受け、恵みをいただくという確信をもっているからです。(ヘブル4:16)

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使徒の働きのデボーション

神に望みを抱いて

また私は、正しい者も正しくない者も復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神に対して抱いています。

そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。(使徒の働き24:15ー16)

天のお父さん、私は望みを抱いています。

つまり、死が終わりではないという望みを抱いています。復活が必ずあるという望みを抱いています。

天のお父さん、私は望みを抱いています。

裁きの日があるという望みを抱いています。あなたがすべての不義を裁いてくださるという望みを抱いています。

天のお父さん、私は望みを抱いています。

裁きの日に、私は恐れる必要がないという望みを抱いています。イエス様の血によって、私は罪に定められることが決してないという望みを抱いています。

その望みを、私は確かに抱いています。

だからこそ、恐れのためではなく、むしろ、あなたへの感謝と愛のゆえに、私はあなたの前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。

今日、私の人生があなたに喜ばれる、聖なる生きたささげものとなりますように。私の人生があなたにとって、芳しい香りとなりますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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イザヤ書のデボーション

私たちをあわれんでくださる神

日曜日はイースターでしたが、この季節に、なぜイエス様が死ななければならなかったのかを思い起こすことは、とても大切だと思います。

今日の箇所は本当に興味深いです。イザヤは、神様が天を裂いて降りて来られ、ご自身をこの世の国民に現してくださるように祈ります。

その一方で、イザヤが悟ったのは、神様が来られるなら、イスラエルの敵だけでなく、イスラエル自身も裁かれるということです。なぜなら、イスラエルの民も神様に背を向けてしまったからです。

だから、イザヤは祈ります。

主よ、どうか激しく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えていないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに、目を留めてください。(イザヤ書64:9)

その祈りは、イエス様が死ななければならなかった理由を明らかにしています。十字架において、イエス様は私たちの代わりに神様の怒りを負ってくださいました。イエス様とその十字架の働きによって、私たちの罪は赦されます。

初代教会が旧約聖書を読む際には、ギリシャ語訳を用いていました。イザヤ書64:4のギリシャ語訳は少し意訳されていて、非常に興味深いものです。

「あわれみを待ち望む者のためにみわざを行われるあなたのほかに、私たちはとこしえから神を耳にしたこともなく、目で見たこともありません。」

神様の最終的な憐れみのみわざは、十字架において成し遂げられました。

パウロもそのように理解していたようです。十字架について語るとき、彼はイザヤ書64:4を意訳して引用しています。

目が見たことのないもの、 耳が聞いたことのないもの、 人の心に思い浮かんだことがないものを、 神は、神を愛する者たちに備えてくださった。(第一コリント2:9)

十字架は、ただの悲劇的な事件ではありませんでした。十字架は、私たちを憐れみ、私たちを救うための、永遠からの神のご計画でした。

それは、なんと素晴らしいことでしょう!

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マタイの福音書のデボーション

ただ人々を責めているだけなのか?

また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。(マタイの福音書23:4)

パリサイ人たちと律法学者たちは、周囲の人々の罪をよく指摘しました。

しかし、彼らは罪の重荷に苦しんでいる人々に手を差し伸べ、あわれむことはありませんでした。

イエス様のことばを読んで、私はこう考えました。「私はただ人々の罪を指摘するだけなのだろうか。それとも、罪によって苦しんでいる人々をすぐに助けてあげる者なのだろうか。」

おそらく、パウロは上のイエス様のことばを思い巡らしながら、このことばを書いたのでしょう。

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。

また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。(ガラテヤ人への手紙6:1ー2)

天のお父さん、パリサイ人たちや律法学者たちのようにはなりたくありません。ただ人々の罪を指摘する者ではなく、罪によって苦しんでいる人々に対するイエス様の心を持つ者となれますように。

あわれみの心を私に与えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヤコブの手紙のデボーション

自由をもたらす律法に従う歩み

自由をもたらす律法によってさばかれることになる者として、ふさわしく語り、ふさわしく行いなさい。

あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。

あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。(ヤコブの手紙2:12-13)

主よ、あなたは、自由をもたらす律法、つまり、愛とあわれみの律法に従って生活するように私を召されました。

だから、私が周りの人々に愛とあわれみを与える人になるように。そして、私がその愛とあわれみを与えるにつれて、彼らが解放されるように。

彼らが劣等感から解放されるように。彼らが自分がほかの人々よりも価値がないという考えから解放されるように。(1-4、6節)

でも、それよりも、彼らが罪の鎖から解放されるように。彼らが罪の恥から解放されるように。また、彼らがあなたの裁きの恐れから解放されるように。(ローマ6:5-7、第一ヨハネ4:17-18)

私が周りの人々にあなたの愛とあわれみを与えるにつれて、彼らが神の子供たちの栄光の自由を知るように。(ローマ8:21)

私は完全な信仰を持っていると主張するかもしれないけど、愛がなければ、特に、私の言葉や行いによって表れる愛がなければ、その「信仰」は無益です。私は無に等しいのです。(14-26節、第一コリント13:2)

だから今日、また、毎日、私の人生が、あなたが私に与えてくださった愛とあわれみで特徴づけられますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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詩篇のデボーション

ただのしもべではない

まことに、しもべたちの目が主人の手に向けられ、仕える女の目が女主人の手に向けられるように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。(詩篇123:2a)

その言葉を読むとき、「私たちは神様のしもべです。私たちはいつも神様に向かい、神様が私たちに何をしてほしいか考えるべきです。」と考えるのは自然な反応だと思います。

もちろん、神様のしもべとして、私たちはそうするべきです。

だから、私はその次の言葉を読んだとき、ちょっとびっくりしました。

主が私たちをあわれんでくださるまで。 (2b)

そして、詩人は叫びます。

あわれんでください、主よ、あわれんでください。私たちは蔑みでいっぱいです。(3)

私たちの神様との関係で驚くべきことは、神様が私たちをただのしもべと見なしておられないことです。

むしろ神様の目には、私たちは尊い存在です。神様は私たちを心から愛しておられます。

だから、私たちが神様に叫ぶと、神様は私たちの声を聞き、祈りに答え、私たちをあわれんでくださるという確信を持つことができます。

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詩篇のデボーション

神の恵みを求めて

詩篇119篇を読むとき、私はいつも神様とそのみ言葉に対するダビデの熱意に感動します。彼は本当に神様を愛し、神様を喜ばせたいと思いました。

それでも、ダビデは、自分が神様の恵みを必要とするのが分かりました。

彼はこう叫びました。

どうか、私の道が堅くされますように。あなたのおきてを守るために。(詩篇119:5)

でも、彼は自分の弱さを認めました。

私は、滅びる羊のようにさまよっています。(176)

だから、彼は何度も神様の恵みを願いました。

神様が彼に教えてくださるようにと、何度も祈ったのです。(12、29、33、66、68、108、124)

神様が彼の霊的な目を開くように願いました。(18)

神様が彼に悟らせるように願いました。(27、34、73、125、144、169)

神様の御言葉に従うために、彼は神様の導きを願いました。(35)

彼は、神様とそのみ言葉に傾いている心を願いました。(36)

彼がむなしいものを見ないように、神様が彼の目をそらせるように願いました。(37)

そして、神様があわれみと恵みによって、彼を取り扱ってくださるように願いました。(58、124)

完全な人は誰もいません。私たち皆は、神様の恵みを必要とします。だから毎日、この詩篇にあるダビデの祈りを祈りましょう。

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詩篇のデボーション

キリストの性格に生きる

1節では、詩人はこのように語っています。

幸いなことよ、主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。(詩篇112:1)

でも、主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は、どのような人でしょうか。

パリサイ人たちは、主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶと主張しました。ある意味で、彼らは義によって特徴づけられていました。それでも、彼らは情け深く、あわれみ深い人ではありませんでした。

主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は、情けやあわれみ、そして神様の義によって特徴づけられています。

イエス様は、そのような方でした。

多くのクリスチャンたちは、神様の戒めを抱きながら、情けやあわれみを忘れてしまいます。

その一方で、あるクリスチャンたちは、情けやあわれみを大切にしながら、神様の義を手放してしまうことがあります。

そのため、彼らはこう言います。「その戒めは私たちのためではありません。神様は、私たちがそのように生きることを望んでおられません。」

でも、私たちクリスチャンは、情けやあわれみ、そして神様の義によって特徴づけられるはずです。

私たち皆が、キリストの性格によって特徴づけられるように。

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使徒の働きのデボーション

あるがままを見る信仰

しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見(ました)。(使徒の働き7:55)

天のお父さん。このめちゃくちゃな世界の中で、私が本当に必要としているのは、あなたの聖霊に満たされることです。

この世界を見るとき、すべてが混乱していると感じるのは簡単なことです。あなたがもうこの世界の問題をコントロールできなくなったと考えるのも、簡単なことです。

でも、ステパノは、物事を実際にあるがままに見ました。彼はあなたの栄光を見て、あなたが今も御座に座っておられ、イエス様があなたの右に立っておられるのを見たのです。

だからこそ、彼自身が苦しい状況にあり、周囲の人々に憎まれ、迫害されていたにもかかわらず、ステパノは喜び、あわれみと恵みに満ちていました。

聖霊様、どうか私のうちに住んでください。私を満たしてください。私を導いてください。物事を実際にあるがままに見ることができるよう、私を助けてください。

そして、この世が切実に必要としている喜びとあわれみと恵みで、私を満たしてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。