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サムエル記第一のデボーション

希望の灯台

そして、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。約四百人の者が彼とともにいるようになった。(サムエル記第一22:2)

今日、なぜ人々がダビデのもとに集まっていたのかを思い巡らしました。

実際、ダビデは彼ら以上に大きな問題を抱えていました。彼らにとって、ダビデと共にいることは、自分たちで暮らすよりも危険だったでしょう。

しかし、なぜかダビデは彼らに希望を湧かせました。

ダビデは確かに完全な指導者ではありませんでした。彼の嘘によって、85人の祭司とその家族がサウルに殺されました。

それでも、人々は自分たちにない希望と信仰をダビデに見ました。それによって、自分たちの内にも希望と信仰が湧いてきました。

私はそのような人になりたいと願っています。私の妻、娘、同僚、友人、そして周囲の人々すべてに希望と信仰を湧かせたいと願っています。

正直に言うと、今週、それほどよくできなかったと思います。 それでも、それが私の願いです。

天のお父さん、私が希望の灯台となるように。私を通して周囲の人々があなたに引き寄せられるように。

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サムエル記第一のデボーション

信仰を周囲の人に注射する

すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。

ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、【主】が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは【主】の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」(サムエル記第一17:46~47)

ダビデの言葉は私の心を打ちました。

彼の願いは、すべての国々が、ダビデが仕えた神を知ることでした。つまり、神様がダビデを通して行われるみわざを見るとき、彼らが神様のすばらしさを見ることができるようにと願っていたのです。

同時に、ダビデはイスラエルの民にも信仰を注射したいと願っていました。ゴリアテとペリシテ人の軍勢に直面したとき、彼らは勇気を失っていました。だからこそ、ダビデはその信仰を回復させたいと願ったのです。

私も、同じことをしたいと願います。つまり、神様を知らない周囲の人々が、私の中にある神のみわざを見て、神様が存在しておられることを知るようになることです。

彼らが神様のすばらしさと力強さ、そして良さを知り、神様を知りたいと願うようになることを祈ります。

それだけではなく、私は周囲のクリスチャンたちにも信仰を注射したいと願っています。彼らが絶望するとき、私の中にある神の働きを見て、「確かに、神様はここにおられる。希望がある。」と実感するように祈ります。

天のお父さん、私が周囲の人々に信仰と希望を注射するように導いてください。

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詩篇のデボーション

私たちが悲しむとき

私たちの人生は、いつも楽というわけではありません。ダビデはそれをよく知っていたので、哀歌を多く書きました。

でも、私たちがこの壊れた世界で悲しむとき、このことを心に留めておきましょう。

1.神様は私たちの神であり、私たちの王です。(詩篇5:2)。ですから、私たちは神様を敬い、神様に従うべきです。

多くのクリスチャンは、神様をお父さんとして、また友だちとして考えたいと思います。もちろん、神様は私たちのお父さんであり、友だちです。

でも、文句を言うとき、神様が私たちの神であり王であることを忘れてはなりません。神様は、私たちの敬いと従順にふさわしい方です。

2.神様は良い方です。

時々、私たちは周りの悪を見ると、神様のご性質を疑い始めます。神様が本当に良い方であるかどうか、疑い始めるのです。

でも、私たちはこの真理を心に留めておかなくてはなりません。神様が悪に取り組むのが遅く感じられるかもしれませんが、最終的に正義をもたらしてくださるのです。(第二ペテロ3:8〜10)

その日、すべての人々はダビデの言葉が正しいと知るようになります。

あなたは悪を喜ぶ神ではなく、わざわいは、あなたとともに住まないからです。(詩篇5:4)

だから、どんな悪を見ても、神様の良いご性質を疑わないようにしましょう。

3.私たちも、ただ恵みによって神様に近づくことができます。

私たちは周囲の悪人を見て怒るかもしれませんが、謙遜な態度を持って、神様の恵みがなければ、私たちも裁かれていたことを覚えておきましょう。

4.私たちが試練に直面するときこそ、神様の導きと助けが必要です。

だから、ダビデと一緒に祈りましょう。

主よ。私を待ち伏せている者がおりますから、(または、私には大変な問題があるので)あなたの義によって私を導いてください。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。(8節)

最後に、主にあって喜び、主のことを誇りましょう。(11節)

私たちにトラブルがあるとき、文句を言うのは簡単なことです。そうせずに、神様に身を避けて、主を喜びましょう。

そうすれば、あなたの視点は完全に変わります。そして、神様の偉大さと比べると、あなたの問題は小さく見えるでしょう。

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詩篇のデボーション

神様の答えが遅く感じられるとき

私は声をあげて主を呼び求める。 すると 主はその聖なる山から私に答えてくださる。(詩篇3:4)

日曜日に、教会で「やもめと不正な裁判官のたとえ話」についてのメッセージを聞きました。

そのたとえ話の中で、やもめは裁判官が願いを聞き届けてくれるという確信を、どれほど持っていたでしょうか。彼が彼女のことをまったく気にかけていないことを、よく知っていたはずです。

それでも、彼女の願いを聞いてくれるのはその裁判官しかいなかったので、彼に願い続けるしかありませんでした。

一方、ダビデは、神様が自分を愛しておられるという確信を持っていました。だからこそ、神様に祈るとき、聞き届けてくださるという確信も持っていたのです。

今、私はこう思います。「神様の答えが遅く感じられるとき、私は神様が聞いてくださるという確信を、どれほど持っているだろうか。」

私は、ダビデのような信仰が欲しいです。

私は声をあげて主を呼び求める。 すると 主はその聖なる山から私に答えてくださる。(詩篇3:4)

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

信仰、望み、愛

私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。(テサロニケ人への手紙第一1:3)

信仰、望み、愛。

天のお父さん、私がするすべてのことが、それらから生まれるようにしてください。

義務からではなく、「我慢しなければ」という感情からでもなく。

むしろ、私の働きが信仰から出るようにしてください。それは、あなたが良い方であることを信じる信仰です。あなたが私を愛してくださることを信じる信仰です。私の最善をご存知であり、それを願っておられると信じる信仰です。

私の苦労が愛から生まれるようにしてください。あなたへの愛。周りの人々への愛。

私の忍耐が望みに支えられるようにしてください。永遠を考慮に入れると、この世の問題、私の問題ははかないものです。イエス様、あなたを知っているゆえに、その望みをもっています。

あなたのゆえに、私の罪は赦されました。私の問題を通して、神様が私を罰しておられるというわけではありません。

むしろ、私は大胆に神様の御前に進み出ることができます。あなたのように、私は天の父に選ばれ、愛されているのです。

私が毎日毎日、一瞬一瞬、その視点を保つことができるようにしてください。

イエス様、あなたを待ち望んでいます。私は待ち望んでいます。

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士師記のデボーション

主があなたに先立って出て行かれるではありませんか

デボラはバラクに言った。「立ち上がりなさい。今日、主があなたの手にシセラを渡される。主があなたに先立って出て行かれるではありませんか。」(士師記4:14)

今日、この言葉を思い巡らしていました。「主があなたに先立って出て行かれるではありませんか。」

神様が先に導いてくださらない所に、私が行くように命じられることはありません。私が生きれば生きるほど、その真理を実感してきます。

時には、信仰のステップを進み出るのは怖いです。バラクにも怖かったし、私にも怖いのです。

でも、デボラの言葉を思い巡らして、私はこのように祈ります。

天のお父さん、あなたが良い神であることを私に何度も証明してくださいました。あなたがいつも私の先に行かれ、導いてくださることを証明してくださいました。

だから、私が前を向いて、信仰によって進み続け、あなたに従うことができるように助けてください。どうか私を導いてください。

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マルコの福音書のデボーション

どんな形でも、あなたとかかわっていたいです!

ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。(マルコの福音書1:24)

今日、イエス様に対する悪霊の言葉を思い巡らしていました。悪霊は基本的に、「あなたとは関わりたくないです。あなたを信頼できないし、まったく愛していないのです」と言いました。

イエス様はユダヤ人にも私たちにもそのような態度こそを悔い改めるように促しておられました。

「天のお父さんはあなたを愛しておられる。あなたの最善を望んでおられ、ご自身の愛する子として御国に招いてくださるのです。だから、神様に向けなさい。天のお父さんを信頼しなさい。」

私はイエス様を信じているのです。

だから私は、心から叫びます。

「どんな形でも、あなたとかかわっていたいです!」

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使徒の働きのデボーション

私の神は小さすぎる?

神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいこととお考えになるのでしょうか。(使徒の働き26:8)

今日、私の心はその言葉に打たれました。

もちろん、私は復活を信じています。しかし、別の意味で、私の心の中で神様を小さく捉えてしまっているのではないでしょうか。

今日、私の同僚のために祈っていました。けれども、その祈りの途中でふと考えました。

「私は祈っているけど、神様がこの願いを聞き届けてくださると、本当に信じているだろうか。もしかすると、ただ希望的観測を口にしているだけなのではないか。」

私はそのような祈り方をしたくありません。私の神は偉大なお方です。そのことを心に留めて、信仰をもって祈りたいのです。

I have made you too small in my eyes.
私は私の目の中であなたを小さくしてしまいました。
O Lord, forgive me.
主よ、赦してください。
And I have believed in a lie
そして、私は嘘を信じてしまいました。
that you were unable to help me.
あなたは私を助けることができないと。

But now O Lord, I see my wrong.
しかし今、主よ、私は自分の過ちを悟ります。
Heal my heart and show yourself strong.
私の心を癒し、ご自身の力を現してください。

And in my eyes and with my song,
そして、私の目においても、私の歌においても、
Be magnified, O Lord.
主よ、あなたが大いなるお方として現れますように。
Be magnified, O Lord
主よ、あなたが褒め称えられますように。

ーードン・モーエン

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使徒の働きのデボーション

神に出会える場所となる(3)

使徒の働き6章を読むたびに、ステパノについての記述が私の心に響きます。

「御霊に満ちた。」

「知恵に満ちた。」

「信仰に満ちた。」

「恵みに満ちた。」

「力に満ちた。」

今日、この言葉を読んで、私はこう考えました。

「もし私が、周囲の人々にとって神に出会える場所となりたいのなら、そのような人にならなければならない。」

しかし、ステパノはどのようにして、このような人物となったのでしょうか。

おそらく、その理由の一つは、彼が他のクリスチャンたちと同じように、御言葉と祈りに専念したからです。(使徒の働き2:42)

この二つの事柄は、12人の使徒たちのミニストリーの中心でした。(使徒の働き6:4)

ステパノは聖書に精通するにつれて、その知恵を深めていきました。

祈りによって、御霊と強く結ばれ、恵み、力、そして信仰に満ちるようになったのです。

だから、私は御言葉と祈りのために、もう少し時間を取る必要があると思います。もしかしたら、もっと多くの時間を取るべきなのかもしれません。

もちろん、私は仕事の責任、家族の義務、そして他にも果たすべき事柄があります。

しかし、もしかすると、神様が今、私に静かに語りかけておられるのではないかと思います。

「もう少し時間をちょうだい。もう少し時間を与えてくれないか。コンピューターの時間、YouTubeの時間、ポッドキャストの時間をもう少し減らして、私と過ごす時間を増やしてほしい。」

もしかしたら、神様はあなたにも同じようなことを語っておられるかもしれません。

あなたはどう思いますか。

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ルカの福音書のデボーション

祈り続ける信仰を持っている?

いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。。。

彼は大声で、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と言った。

先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめたが、その人はますます激しく「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫んだ。(ルカの福音書18:1、38ー39)

私はその三つの節を繋げたことがないと思います。

この章の始まりでは、イエス様は弟子たちに、いつでも祈り、失望してはいけないことを教えられました。そして、この章の最後の話では、ある盲人がその教えを示しています。

イエス様が彼の声を聞こえていないように見え、周囲の人々が彼に黙るよう叫んだにもかかわらず、彼は憐れみを願い続けました。そして、最終的に憐れみを受けることができました。

しかし、例え話に出てくる裁判官と異なり、イエス様はその叫び声にうんざりしたからではなく、憐れみ深い救い主であるがゆえに、盲人を憐れまれたのです。

私はどうだろう?神様が私の叫びに答えられるのが遅いように感じるとき、私はすぐに諦めるだろうか。

私は神様の愛と慈しみを疑い始めるだろうか。それとも、神様が本当に良い方であり、私を愛してくださっていることを信じ続けるだろうか。

イエス様が再びこの世に来られるとき、私の中に信仰を見ることができるだろうか。(8節)

イエス様はあなたの中にも信仰を見られるでしょうか。

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申命記のデボーション

神様はあなたのために戦われる

彼らを恐れてはならない。あなたがたのために戦われるのは、あなたがたの神、主であるからだ。(申命記3:22)

「主は、あなたのために戦われる。」

その言葉を読んだとき、私の心にそれが響きました。

私たちの敵と対峙するとき、神様はただ遠くからご覧になるわけではありません。神様は私たちのために戦ってくださいます。

私たちが試練や苦しみに直面するとき、神様は気づいておられないわけではありません。神様は私たちのために戦ってくださいます。

しかし、神様は私たちも兄弟姉妹のために戦うように呼ばれます。

ルベン人、ガド人、マナセ人のように、私たちは安息しているかもしれませんが、兄弟姉妹が苦しんでいるとき、「私には関係ない」とは言えません。

神様のように、私たちは彼らの隣に立ち、戦わなければなりません。

私たちが受けてくださった神の愛を彼らに与えるべきです。

それが信仰の盾を共に持って立つという意味です。

だから、苦しむときは一緒に立ち戦いましょう。

また、神様も私たちのために戦ってくださるという確信を持ちましょう。

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申命記のデボーション

神様のことをどう考えているか

主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出して、アモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられるのだ。(申命記1:27)

イスラエル人たちの言葉を読んだとき、私が気づいたのは、私たちが神様のことをどう考えているのかが、神様との関係に関わるということです。

イスラエル人たちは、神様が彼らを憎んでおられると思いました。なぜなら、神様が彼らのために戦ってくださったことを忘れてしまったからです。

イスラエル人たちが砂漠を渡るとき、神様が彼らを抱いてくださったことを忘れてしまいました。

また、神様が昼も夜も彼らを守ってくださったことを忘れてしまいました。(30ー33節)

そういうわけで、彼らは、神様が与えてくださった良い地に入ることを拒みました。かえって、彼らはエジプトの奴隷生活に戻ろうと思いました。(民数記14:3ー4)

「神様は良い方です」と「神様は私を愛しておられる」と言うのは簡単なことです。

でも、私たちはその真理を本当に信じているでしょうか。

すべてにおいて神様に従うほどに、その真理を信じているでしょうか。

私を初めとして、私たち皆は訊かなければなりません。

「神様、ほんとうのところ、私はあなたのことをどう考えているのでしょうか。」

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ヨハネの福音書のデボーション

 あなたを信じているの?

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネの福音書14:1)

イエス様の言葉を考えるとき、私は自問しました。「私の心が騒いでいるとき、どれだけその理由は、私が神様を信じていないからでしょうか。」

神様が私の見方であると信じるでしょうか。

神様が私と共におられると信じるでしょうか。

私の状況、この世の中が狂っているとき、神様がまだすべてを支配しておられると信じるでしょうか。

神様が私を孤児のように決して捨てないと信じるでしょうか。むしろ、私が叫ぶと、神様がいつも来てくださると信じるでしょうか。

何も、死さえも神の愛から私を引き離すことはできないと信じるでしょうか。むしろ、この世を去るとき、イエス様がおられるところに私を迎えてくださると信じるでしょうか。

私たちが平安を失いそうなとき、この質問を訊くべきでしょう。「主よ、私はあなたを本当に信じているのですか?」

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ヨハネの福音書のデボーション

生ける水の川

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。(ヨハネ7:37-39)

なぜかこの箇所を読むたびに私が最初に考えることは、私がイエス様のみもとに行くと、御霊が私の霊的な渇きを満たしてくださるということです。

でも今日、神様が私に思い出させたのは、単に私の渇きを満たすためだけに御霊を与えてくださるのではないということです。

むしろ神様は、私の周囲の霊的な渇きで死にそうになっている人たちが命を知ることができるように、神の生ける水の川が私の心の奥底から流れ出ることを望んでおられるのです。

だから、私はこのように祈りました。

聖霊様、私はあなたを受け、あなたは私の渇きを満たしてくださいました。でも、周囲の渇いている人たちも飲んで命を知ることができるように、あなたが川のように私から流れ出るように祈ります。

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ヨハネの福音書のデボーション

三つの質問

イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」

イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。(ヨハネ6:5ー6)

今朝、私は、イエス様がピリポをどのように試されたのだろうかと考えていました。

イエス様はピリポに実際に何を尋ねられたのでしたか。

私はちょっと分かりませんけど、もしかしたらイエス様はこう訊かれていたかもしれません。

「私が誰であるのかすでに知っている?私が何ができるのか知っている?あなたは私をどれほど信じているのか?」

もしそれらがイエス様の質問であったなら、ピリポはそのテストに完全に落ちてしまいました。

ピリポが考えたのは、「この群衆の必要をどのように満たすことができるだろうか。私たちには無理だろう」ということです。

でもイエス様は、すでにご自分が何をしようとしているのかを、知っておられました。

そして、イエス様はピリポと他の弟子たちが持っていたわずかなもので群衆の空腹を満たしてくださいました。

時々、私はピリポのようです。イエス様は私の回りの人々を見て、その人に触れたいと思っておられます。ご自分が何をしようとしているのかを知っておられるけど、私に向かって、尋ねられます。

「私が誰であるのかすでに知っている?私が何ができるのか知っている?あなたは私をどれほど信じているのか?」

しかし、イエスが誰であり、何ができるかを見る代わりに、私は自分の弱さと力不足を見てしまいます。

でも真実は、私の弱さと力不足は関係ないのです。大切なのは、イエス様が誰であり、何ができるかということです。

だから、私が自問自答しなければならないのは、イエス様を信じるかどうかということです。

なぜなら、イエス様は愛を持って、私が持っているわずかなもので人々に触れることができるからです。

だから私はイエス様の三つの質問についてもっと考えなければならないでしょう。

「私が誰であるのかすでに知っている?」

「私が何ができるのか知っている?」

「私を信じてくれる?」

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民数記のデボーション

信仰の目、恐怖に満ちた目

モーセは、カナンの地の偵察のために彼らを遣わして言った。。。

「勇気を出して。。。」 (民数記13:17、20)

上の言葉で、私の心に打たれました。

モーセは12人の斥候を遣わす前に、「勇気を出しなさい」と言いました。

でも、彼らが戻って来た時に、まだ勇気を失っていなかったのはカレブとヨシュアだけでした。

なぜでしょうか。なぜなら、彼らは信仰の目を持っていたからです。彼らは神様の偉大さを見たのです。

でも、残りの10人の斥候は、恐怖に満ちた目をしていました。

なぜでしょうか。彼らはカナン人の大きさしか見ることができなかったからです。

どれだけ、私たちは神様の偉大さを忘れ、未来や神様が私たちをどこに導いてくださるのかを恐れるでしょうか。

また、神様がどれほど良い方であるのかを、私たちはどれほど忘れているでしょうか。

今日、私はたまたま詩篇16篇を祈っていました。5~8節は、特に今日の話に適していたと思いました。

主は私への割り当て分、また杯。あなたは、私の受ける分を堅く保たれます。

割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい、私へのゆずりの地です。

私はほめたたえます。助言を下さる主を。実に、夜ごとに内なる思いが私を教えます。

私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。(詩篇16:5ー8)詩篇16:5ー8)

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コロサイ人への手紙のデボーション

あなたが第一の者となるように

御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。

なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。

万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。

また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。(コロサイ人への手紙1:15-18)

イエス様、私はあなたにあって造られました。私はあなたによって造られました。私はあなたのために造られました。だから、私の人生において、第一の者となってください。あなたは私の人生において第一の者となるにふさわしい方なのです。

どうか私があらゆる霊的な知恵と理解力によって、あなたの御心についての知識に満たされますように。

その知識に満たされることで、私はあなたにふさわしく歩み、あらゆる点であなたに喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、あなたを知ることにおいて成長することができます。

私がどんなことにも喜びと感謝を持ち、忍耐し、寛容でいられるため、あらゆる力で私を強くしてください。

私へのあなたの恵みは素晴らしいです。あなたは私に聖徒の相続分を与えてくださいました。あなたは私を暗闇の力から救い出して、あなたのご支配の中に移してくださいました。

あなたの十字架上の死によって、私を天の父の御前に聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として立たせてくださいます。

あなたの恵みによって、私が信仰に土台を据え、堅く立ち、あなたの福音の望みから外れることなく、信仰にとどまるように助けてください。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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出エジプト記のデボーション

神様に叫ぶ?それとも責める?

それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。

それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。(出エジプト記17:7)

イスラエル人たちは、どのようにその言葉を言っていたでしょうか。どんな態度を持っていたでしょうか。

彼らは苦しみの中で謙遜な態度をもって、こう言っていたでしょうか。

「神様、私たちはどうしてこんなに苦しんでいるのか理解できません。あなたは本当に私たちと共におられるのですか。私たちには水がありません。助けてくださらなければ、私たちは死んでしまいます。どうか助けてください。」

それとも、彼らは反抗的な態度をもって、こう言っていたでしょうか。

「神様、本当に私たちと共におられるのですか。おられないのですか。私たちを死なせるのですか。あなたはどのような神なのですか。あなたは本当に良い方なのですか。」

モーセの反応から察すると、イスラエル人たちは反抗的な態度をもって話していたようです。さらに、モーセは後にイスラエル人たちにそのような態度を取らないように警告しました。(申命記6:16)

試練にあうとき、自分の感情にもまれるのは簡単なことです。

もちろん、苦しみの時には、自分の疑い、痛み、恐れを表現してもいいです。詩篇では、ダビデはしばしばそうしました。

でも、私たちは反抗的な態度に注意するべきです。私たちは神様を裁く立場を取ってはいけません。神様は私たちよりもはるかに多くのことを知っておられるからです。

だから、苦しむ時、理解できない時、神様に対してへりくだる態度を持つべきです。

サタンは私たちに、神様が良い方であることを疑わせようとします。試練を通して、サタンは私たちの神様への信頼を壊そうとします。

その誘惑に負けてはいけません。むしろ、神様が良い方であり、私たちに忠実であり、私たちを愛してくださるという真理にしがみつきましょう。

そして、ぺテロの言葉を心に留めておきましょう。

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。

堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。(第一ぺテロ5:6~10)

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出エジプト記のデボーション

安息を拒むことなく

七日目になって、民の中のある者たちが集めに出て行った。しかし、何も見つからなかった。

主はモーセに言われた。

「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを拒み、守らないのか。心せよ。主があなたがたに安息を与えたのだ。(出エジプト記16:27~29)

「主があなたがたに安息を与えたのだ。」

その言葉に、私は心を打たれました。

神様はイスラエル人たちに安息を与えようとされました。その安息は、彼らへの賜物でした。でも、神様を信頼し、従うことを拒む限り、彼らはその安息を知ることができませんでした。

彼らが神様の愛といつくしみを、どれほど早く忘れてしまったか驚くばかりです。

彼らはこう歌ったばかりでした。

「主よ、神々のうちに、だれかあなたのような方がいるでしょうか。だれかあなたのように、聖であって輝き、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行う方がいるでしょうか……

あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われた」(出エジプト記15:11、13)

それなのに、彼らはすぐに「エジプトでの奴隷生活の方がましだった」と文句を言い始めました。

私はそのような人間になりたくありません。

日曜日に「偉大なる主を誉めよ」と歌いながら、その後の6日間、神様を信頼し、従うことを拒むような人間になりたくありません。

そうすれば、私は天の父を悲しませ、神様の安息と平安の賜物を逃してしまうからです。

天のお父さん、あなたの安息と平安を知りたいです。さらに、あなたは、私がその安息と平安を経験することを望んでおられます。

だから、私があなたを信頼し、従うことができるように助けてください。

あなたは良い方で、信頼でき、私を深く愛してくださいます。

私がその3つのことを決して忘れないようにしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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出エジプト記のデボーション

 天のお父さん、私はあなたを本当に信じるでしょうか?

モーセは最初から、イスラエル人たちに神様の言葉のすべてを伝えたでしょうか。つまり、ファラオの心が頑なになることまで伝えたでしょうか。

それとも、モーセはただ「神様はあなたを救い出すと約束された」とだけ伝えたのでしょうか。

モーセ自身は、神様の警告を真剣に受け止めていたでしょうか。

ファラオが神様の言葉を拒絶し、イスラエル人たちがモーセに怒ったとき、モーセの心はその現実に備えられていなかったように見えます。

では、私たちはどうでしょうか。神様を信じるでしょうか。

イエス様が「世にあっては苦難があります」と警告されたとき、私たちはその言葉を信じるでしょうか。(ヨハネ16:33)

パウロが「終わりの日には困難な時代が来る」と警告したとき、その言葉を本当に信じるでしょうか。(第二テモテ3:1~5)

ペテロが同じことを語ったとき、私たちはその言葉を信じるでしょうか。(第一ペテロ4:12)

そして、私たちが実際に試練に直面したとき、神様が良い方であること、イエス様がすでに世に勝利されたこと、神様がご自分の約束を守られること、そして最終的に私たちを救ってくださることを、信じ続けることができるでしょうか。

私が自問しているのは、そして私たち皆が自ら問うべき問いは、「神様、私はあなたを本当に信じているのでしょうか」ということです。

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創世記のデボーション

辛いときに信仰を保つ

ヨセフが自分の心の中で何を考えていたのか、私は時々知りたいと思います。

創世記40章では、私たちはヨセフの心を垣間見ることができ、42〜45章では、ヨセフの思いはもっと明らかになります。

でも、39章では、私たちはヨセフの思いをよく知ることができません。

そういうわけで、私たちはよく考えます。「ヨセフは本当に敬虔な人でした。どんな試練に直面しても、ヨセフは忠実に神様に仕えたのです。彼の心は決して揺らぐことはなかったのです。」

でも今日、私が考えたのは、「ヨセフにとって、その態度を保つのは、そんなに簡単だっただろうか」ということです。

奴隷として売られたとき、その最初の数日間、ヨセフは兄弟たちに対して苦々しい思いを抱いていたでしょうか。ヨセフは神様に、「どうしてそんなひどいことを許されたのか」と尋ねたでしょうか。

ポティファルの妻がヨセフに言いがかりをつけ、ヨセフが牢に座っていたとき、神様に対して苦々しい思いを抱くように誘惑されたでしょうか。

「私は神様の道に従ったのに、どうしてこんなことになったのだろうか。神様に従うのは無駄なのだ。」

たぶん、ヨセフはそのような思いと戦いました。彼はただの人間だったのです。彼は不完全な人だったのです。

それでも、彼は結局、自分の信仰を保ち、神様に忠実に仕え続けました。

その意味では、ヨセフはダビデのようでした。ダビデもヨセフも回りの人々に不当に扱われました。(詩篇62:3〜4)

彼らは、人に対して、また神様に対して苦々しい思いを抱く理由がありました。

それでも、彼らは神様を信じ続けることを選びました。そして、結局、神様はその信頼に値する方であることを証明されました。

今日、たまたま詩篇62編も読んでいました。そして、牢でヨセフがダビデの言葉と似たようなことを歌っているのを想像することができました。

私のたましいよ、黙って、ただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ。神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐら。私は揺るがされることがない。

私の救いと栄光は、ただ神にある。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。

民よ、どんなときにも神に信頼せよ。

あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。

神はわれらの避け所である。(詩篇62:5ー8)

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創世記のデボーション

神様が備えてくださる

御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった」 。。。

アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエ(つまり、「主が備えてくださる」、または、「主が見てくださる」という意味)と呼んだ。

今日も、「主の山には備えがある」と言われている。(創世記22:12、14)

この話を読むたびに、私はいつも感動します。でも今日、初めて気づいたことがあります。

もしかすると、パウロはこの話を思いながら、こう書いたのかもしれません。

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(ローマ8:31ー32)

2000年前、カルバリという丘の上で、神様はご自分の御子を惜しむことなく、私たちの救いのために備えてくださいました。

神様がそうしてくださったのなら、どうして私は神様が私のすべての必要に備えてくださることを疑うことができるでしょうか。

天のお父さん、あなたはアドナイ・イルエです。あなたは私を見てくださる主です。あなたは私の必要に備えてくださる主です。

カルバリで、あなたがそのような神であることを証明してくださいました。

どうか私がその真理を忘れないように。あなたがどのような神であるか、私が決して忘れないように。

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ルカの福音書のデボーション

信仰があれば

恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。(ルカの福音書8:50)

今日、私は上のことばを反芻しました。

信仰が弱くて、弟子たちは嵐を恐れました。

信仰がなくて、ゲラサの人々はイエス様を恐れ、イエス様に自分たちのところから出て行ってほしいと願いました。

その一方で、長血を患って苦しんでいた女の人は、イエス様の反応を恐れましたが、信仰によって、イエス様に受け入れられ、癒されました。

また、ヤイロは恐れに負けず、イエス様を信じたゆえに、娘は復活しました。

信仰があれば、恐れる必要はありません。

嵐も、悪霊も、健康問題も、死も、そしてもちろんイエス様をも、恐れる必要はありません。

むしろ、私たちは赦し(7:50)、救い、神の受け入れ、平安、そして命を知るのです。

それは本当に素晴らしい真理ですね。

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ヨハネの福音書のデボーション

私は信じる

イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」

その人は答えた。「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」

イエスは彼に言われた。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」

彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。」(ヨハネの福音書9:35ー38)

天のお父さん、私が、かつて目の見えなかった人のような心を持つことができますように。あなたに開かれた心を持つことができますように。周りの人々が何を言おうとも、あなたをすぐに信じ、信頼し、礼拝し、従う心を持つことができますように。

パリサイ人たちの態度は、まったく違っていました。彼らはわざと目を閉じ、明らかなことを信じることを拒み、あなたを信じることを拒みました。

私は、パリサイ人たちのようにはなりたくありません。

だから今日、あの、かつて目の見えなかった人とともに、私はあなたのもとに来て、礼拝し、子どものような心を持ち、「主よ、信じます」と言います。

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イザヤ書のデボーション

恐れではなく信仰を選ぶ

アラムは、エフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企てて、「われわれはユダに上ってこれを脅かし、これに攻め入ってわがものとし、タベアルの子をその王にしよう」と言っているが、神である主はこう言われる。

それは起こらない。それはあり得ない。(イザヤ書7:5-7)

上の言葉を読んだとき、私はこう考えました。「私はどれだけ、実際には起こらないことを心配しているのだろうか。」

心配で眠れない夜もありました。でも、多くの場合、私が心配していたことは実際には起こりませんでした。

神様を信じるほうが、はるかに良いのです。神様が私とともにおられることを思い出すほうが、はるかに良いのです。

2千年前、神様は「私と共におられる」というしるしを与えてくださいました。そのしるしとは、飼葉おけに寝ておられた赤ちゃんでした。

それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。

見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ書7:14)

マタイによれば、「インマヌエル」とは、「神が私たちと共におられる」という意味です。(マタイ1:22〜23)

アハズが神様に信頼することを拒んだことを批判するのは、簡単なことです。でも、私はどれほど神様が与えてくださったしるしを無視して、神様を信頼していないでしょうか。

イエス様、あなたはいつも私と共におられます。あなたこそ、まことのインマヌエルです。ですから、私が心配に引き込まれそうになるとき、あなたに心を向け、信頼することができるように助けてください。

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マタイの福音書のデボーション

忘れっぽい信仰

信仰の薄い人たち。。。まだ分からないのですか。。。覚えていないのですか。(マタイの福音書16:8-9)

私たちが忘れっぽいゆえに、どれほど私たちの信仰が薄く、神様が教えようとしておられることを理解できていないのでしょうか。

私たちは聖書を読んだり、教会でメッセージを聞いたりして、励まされ、鼓舞されますが、そのことばをすぐに忘れてしまいます。

また、神様が私たちの人生にどのように働いてくださったかを見て、驚き、喜びますが、それもすぐに忘れてしまいます。

ただ覚えているだけで、私たちの信仰はどれほど成長するでしょうか。

天のお父さん、私の信仰を増し加えてください。あなたが私に教えてくださったこと、してくださったことを覚えていることができるよう助けてください。

そして、そのことを覚えていることによって、良い時も悪い時も、私があなたを喜び、信頼する者となるように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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列王記第二のデボーション

根本的な問題

こうなったのは、イスラエルの子らが。。。主に対して罪を犯し(ました。)(列王記第二17:7)

数年前、私はメッセージを聞いたとき、牧師は興味深い質問を訊きました。

「私たちの問題には、いろんな理由があるかもしれません。でも、根本的な理由は何でしょうか。」

7節を読んだとき、その牧師の言葉を思い出しました。

イスラエルが倒れた理由はたくさんありました。

そのころ、アッシリアは大国でしたが、イスラエルは小さな国でした。

ホセア王はアッシリアの王と条約を結びましたが、その条約を破りました。

この二つの理由によって、イスラエルが倒れたことを説明することはできます。

でも、それらは根本的な理由でしょうか。

18章と19章では、ヒゼキヤもアッシリアとの条約を破り、エルサレムはアッシリアの軍隊に囲まれました。

アッシリアはユダ王国よりも強かったのですが、ヒゼキヤが神様の御前にへりくだったとき、神様はエルサレムを救ってくださいました。

その時だけではなく、イスラエルが何度もより強い敵に直面したとき、イスラエルの民が神様を信頼したので、神様は彼らを救ってくださいました。

イスラエルがアッシリアに倒された根本的な理由は、イスラエルの民が神様に背を向け、ほかの神々を礼拝していたからです。

神様とその道に従わず、イスラエルの民は周囲の国々の道を歩みました。

今日の話を読んで、自分の問題について考えました。

私の問題にはさまざまな理由があるかもしれません。でも、最も根本的な理由は何でしょうか。

私の心は神様の目にかなっているでしょうか。私は神様とその道に従っているでしょうか。

それとも、私は自分の道を歩んでいるのでしょうか。

神様が私の罪を指摘されるとき、私は悔い改めているでしょうか。

それとも、ただ言い訳をしているのでしょうか。

天のお父さん、私の心を探り、知ってください。

あなたは私の問題をすべてご存じです。その問題の根本的な理由を現してください。

私がしなければならないことがあれば、悔い改めるべきことがあれば、明らかにしてください。

私があなたを信頼し、従うことができるように助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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列王記第二のデボーション

私たちが誰ものであるかを思い出す

「アハズは使者たちをアッシリアの王ティグラト・ピレセルに遣わして言った。「私はあなたのしもべであり、あなたの子です。。。」(列王記第二16:7)

この話の背景をもっと知りたいなら、イザヤ書7章を読んでみてください。

アハズがアラムやイスラエルと対立している最中に、イザヤは有名なインマヌエルの預言を語りました。

イザヤ書7章では、神様はアハズにこう語られました。

「私を信じなさい。あなたの敵は成功しない。信じるためのしるしを与える。しるしを求めなさい。」

しかし、アハズは神様を信じることを拒み、しるしを求めませんでした。

むしろ、彼はアッシリアの助けを求めました。その助けを受けたものの、「贈り物」を送らねばならず、結局、アハズの「主」と「父」はイスラエルに敵対することになったのです。

もしアハズがへりくだって神様に向かい、「私はあなたのしもべであり、あなたの子です」と告白していたなら、その結果はどれほど異なっていたことでしょうか。

私は今、自分の問題に直面しながら、神様が私にこう語っておられると感じました。

「あなたが誰のものであるかを覚えていなさい。あなたは私のしもべです。しかし、それだけではなく、あなたは私の愛する子です。私を求めなさい。私を信じなさい。」

そして、神様は私にこの詩篇を思い起こさせてくださいました。

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある強き助け。それゆえ、われらは恐れない。

たとえ地が変わり、山々が揺れ 海のただ中に移るとも。

たとえその水が立ち騒ぎ、泡立っても、その水かさが増し、山々が揺れ動いても。。。

「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる万軍の主はわれらとともにおられる(インマンヌエル)。

ヤコブの神はわれらの砦である。(詩篇46:1ー3、10ー11)

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列王記第二のデボーション

信仰の目

見よ、これは主からのわざわいだ。これ以上、私は何を主に期待しなければならないのか。(列王記第二6:33)

抜き打ちテストをしましょう!6章に登場するイスラエルの王の名前は何でしょうか。

もしその名前がすぐに思い浮かばないとしても、正当な理由があります。

3章ではその王の名前が一度だけ登場しますが、その後、著者は彼を常に「イスラエルの王」と呼び続けます。

エリシャの名前やヨシャファテ王の名前、さらにはナアマンの名前でさえ、イスラエルの王の名前よりも頻繁に登場します。(ちなみに、その王の名前はヨラムです。)

8章から9章でヨラムが死ぬまで、私たちは彼の名前を再び目にすることはありません。

深読みかもしれませんが、もしかすると列王記の著者はヨラムを軽視していたのかもしれません。なぜなら、ヨラムには神様への信仰がほとんど見られなかったからです。

5章では、信仰のない民の中で(例:6章28〜29節)、敬虔な両親が敬虔な娘を育てました。それでも、その娘は捕らえられ、敵国で奴隷として仕えることになりました。

しかし、その困難な状況の中でも、彼女は主に仕え続けました。

私たちは彼女の両親の反応を詳しく知ることはできませんが、娘の信仰を考慮すれば、彼らも苦しみの中で神様への信仰を保っていたと推測できます。

エリシャもまた敵に囲まれていましたが、信仰の目でその状況を見ていました。

この不敬虔な王は、神様に何度も助けられていたにもかかわらず(3章、5〜6章)、困難が訪れると、すぐに神様を責め始めます。

では、私たちはどうでしょうか。

困難が訪れるとき、私たちはどのように反応するでしょうか。

ヨラムのように、神様が本当に良い方なのかをすぐに疑ってしまうでしょうか。

それとも、エリシャやあの少女のように、信仰の目をもって神様に仕え続けるでしょうか。

天のお父さん、困難が訪れるとき、信仰の目を私に与えてください。あなたを信頼し、従い続けることができるように、恵みを注いでください。

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列王記第二のデボーション

信仰のある子供を育てる

ナアマンの物語を読んだとき、私は捕らえられた若い娘のことに思いを巡らせました。彼女はナアマンのツァラアトを見て、エリシャの助けを求めるように勧めたのです。

そのことを考えていた時、神様は二つのことを私の心に示してくださいました。

一つ目は、その女の子がイスラエルで育った時、神様に背を向ける人々の中で生活していたということです。

それでも、その子どもはイスラエルの王よりも深い信仰を神様に対して持っていました。

そして、神様は私の心にこの問いを置かれました。

「信仰のない国で、どうしてその子どもは信仰を持っていたのでしょうか。」

その答えは明らかだと思います。彼女の両親が、神様信頼することを教えていたのでしょう。

だから今日、私はこのように祈りました。

天のお父さん、どうか私の言葉と模範を通して、娘が信仰のある人となることを学びますように。

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ヨハネの福音書のデボーション

私たちに神のわざが現れるため

さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」

イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。(ヨハネの福音書9:1-3)

時に、悪いことが起こると、神様が私たちを罰しておられるのではないかと思うことがあります。しかし、私たちは二つの真理を覚えていなければなりません。

一つ目は、もちろん、自分の罪のために苦しむこともあるということです。けれども、私たちは壊れた世界に生きており、壊れた人々と共に生活しているために、苦しみがあるということも覚えていなければなりません。

その苦しみを通して、私たちは大切なことを思い出します。それは、この世界が私たちの故郷ではないということです。私たちはただ通過している者です。私たちは「もっと良い故郷、すなわち天の故郷」を憧れながら歩んでいるのです(ヘブル11:16)。

二つ目は、神様が私たちの苦しみを許されることがあるのは、ご自身の御業が私たちに現れるためだということです。そして、その御業を見るためには、私たちは盲人の模範に従わなければなりません。つまり、イエス様を信じ、イエス様に従うということです(ヨハネ7:37-38)。

あなたは今、どんな試練や苦しみに直面しているでしょうか。イエス様が良い方であり、あなたを愛し、あなたの最善を望んでおられると信じて、イエス様の前にひれ伏し、礼拝するでしょうか。

それだけではなく、イエス様に従うでしょうか。

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ヨハネの手紙第一のデボーション

誰を信じるでしょうか

神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。(ヨハネの手紙第一5:3ー4)

この世はいろいろなものを私たちに投げつけます。パウロによれば、苦難、苦悩、迫害、飢え、裸、危険、剣などがこの世から私たちに投げつけられるのです(ローマ8:35)。

それでも、パウロはこう言います。「これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です」(ローマ8:37)。

ヨハネもほぼ同じことを語ります。この世とその攻撃に直面するとき、私たちが勝利するのは何によってでしょうか。それは、私たちの信仰です。

つまり、神様が良い方であることを信じる信仰です。神様が私たちを愛しておられることを信じる信仰です。神様が何が最善かをご存知であることを信じる信仰です。そして、神様が私たちの最善を望んでおられることを信じる信仰です。

この世は不信によって特徴づけられています。基本的に、この世は神様を嘘つきと呼びます。そして、さまざまな試練を私たちに投げつけることで、私たちがこの世の不信に陥るのは容易なことです。その不信に押し潰されるのも、また容易なことです。

さらに、その不信によって押し潰されたとき、神様の命令は重荷となり、神様のために生きることも重荷となってしまいます。

しかし、信仰を持つなら、どんな状況の中にあっても、私たちは勝利と喜びを得るのです。

私たちは誰の証しを信じるでしょうか。この世の証しでしょうか。それとも神様の証しでしょうか。

この世の証しは死に至ります。

神様の証しはいのちに至ります。

その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。

御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(11ー12節)

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ルカの福音書のデボーション

神様が約束されたことを信じる

主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。(ルカの福音書1:45)

神様が約束されたことを信じることには、祝福があります。

その約束を信じるとき、苦しい時にも、私たちは希望を与えられます。 なぜなら、神様が私たちの味方であることを知っており、神様が私たちのための計画を実現してくださることも知っているからです。(ローマ8:18-32)

さらに、

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。

神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル11:6)

だから、私たちが自分に問いかけなくてはならないのは、「神様が約束されたことを信じているだろうか」ということです。

私たちは、マリアと一緒にこの歌を歌えるでしょうか。

私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために、目を留めてくださったからです。

ご覧ください。今から後、どの時代の人々も、私を幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。

その御名は聖なるもの、主のあわれみは、代々にわたって、主を恐れる者に及びます。(46-50節)

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マタイの福音書のデボーション

一言で

ただ、おことばを下さい。(直訳:一言をおっしゃってください。)そうすれば私のしもべは癒やされます。(マタイの福音書8:8)

その百人隊長は、権威と力をよく理解していました。彼は目上の人の権威と力の下に暮らし、自らも権威と力を振るっていました。

目上の人の一言で、彼はすぐにその言葉に従って行動しました。同じように、一言で、百人隊長の僕たちも彼の言葉に従って行動しました。

だから、その百人隊長はイエス様に言いました。「あなたがそのような権威と力を持っておられることを信じます。ですから、一言おっしゃってください。そうすれば、私のしもべは癒やされます。」

百人隊長の反応と比べて、弟子たちの嵐の中での反応を考えてみましょう。イエス様が一言で風と波を静めたとき、彼らは本当に驚いていました。

イエス様が一言で百人隊長の僕を癒し、悪霊を追い出されたのを見たばかりだったのに(13〜16)、弟子たちは本当に仰天しました。

主よ、私の薄い信仰のゆえに、私の目には、あなたが小さく見えることが多くあります。けれども、あなたは小さい方ではありません。

あなたは一言で、病の人を癒し、悪霊を追い出し、嵐を静められます。

一言で、すべてのものを造られ、そしてある日、一言で、すべてを終わらせて、新しい天と地を造ってくださいます(第二ペテロ3:5-13)。

ですから、私が百人隊長のような信仰を持つことができるようにしてください。どんな問題や嵐の中にあっても、あなたに信頼することができるように助けてください。

あなたが大いなる、素晴らしい神であることを感謝します。アーメン。

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ローマ人への手紙のデボーション

神の律法の弱点

肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。

神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。

それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。(ローマ人への手紙8:3ー4)

今週、ヤイロの娘と長血をわずらっている女の人の話を考えていました。(マルコ5章)

私が気づいたのは、神様の律法は、死体や長血をわずらっている女の人を汚れているものと呼ばれるということです。(レビ記15:25ー32;民数記19:11ー13)

また、律法によれば、汚れているものに触れる人自身も、汚れているものになりました。

でも、律法ができなかったのは、汚れているものを清めることです。

律法はその女の人を癒すことができなかったし、ヤイロの娘を復活させることもできませんでした。

でも、律法ができなかったことを、イエス様はしてくださいました。イエス様はその女の人を癒し、ヤイロの娘を復活させてくださいました。そうすることで、イエス様はその女の人とヤイロの娘を清めてくださいました。

そのように、神様の律法は罪を汚れているものと呼び、罪に触れる人を汚れているものと呼ぶことができました。でも、律法は私たちを清めることができないし、私たちに命を与えることもできません。

それは、律法の弱点です。

でも、律法ができないことを、イエス様はしてくださいました。イエス様は十字架で死んでくださって、私たちの罪を清め、私たちに命を与えてくださいました。

私たちがしなくてはならないのは、一つのことだけです。ヤイロとその女の人のように、イエス様を信じることです。

彼らの信仰によって、その女の人とヤイロの娘は救われました。そのように、私たちの信仰によって、私たちも救われました。

だから、パウロと一緒に喜びましょう。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(1節)

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ローマ人への手紙のデボーション

互いに励まし合う

私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。

というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。(ローマ人への手紙1:11ー12)

今朝、パウロの言葉に私の心は打たれました。私はパウロの心がよくわかります。

毎週の日曜日、教会に行くとき、私は、神様が私を用いて、誰かに触れてくださるように祈ります。

でも神様は、私も他のクリスチャンから強められ、励まされることが必要だと、よくご存知です。

クリスチャンたちが信仰をもって神様を賛美し、喜んで神様に仕える姿を見ると、私は励まされます。

また、彼らが自分の人生に神様がどのように働いておられるかを分かち合うとき、そして彼らを祝福した聖書の箇所を分かち合うとき、私は励まされます。

もちろん、彼らが私のために祈ってくれるときも、私は励まされます。

あなたはどうですか。あなたもそのように感じているでしょうか。

もしそうなら、毎週の日曜日、パウロの態度を取りましょう。互いの信仰によって、毎週励まし合いましょう。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

私の動機は何だろうか

私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。

神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。(テサロニケ人への手紙1: 3ー4)

パウロの言葉を読んだとき、私はこう思いました。「私の動機は何だろうか。それは、私に対する神様の愛だろうか。つまり、神様が愛によって私を選び、養子にしてくださったことですか。」

どうして、私はクリスチャンの生活を送るのでしょうか。神様が良い方であると確信しているからでしょうか。

どうして、主に仕えているのでしょうか。神様に対する愛、また、周りの人々に対する愛のゆえに仕えているのでしょうか。

大変なとき、どうして私は我慢するのでしょうか。イエス様にある私の希望のゆえに、我慢できるのですか。

信仰。希望。愛。それらによって、クリスチャンの生活は重荷ではなく、喜びです。

主よ。私の信仰が毎日成長するように。私をあなたの愛に根差してください。そして、苦しむときに、あなたにある私の希望を思い出させてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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出エジプト記のデボーション

神様に叫ぶとき、信仰で進むとき

主はモーセに言われた。「なぜ、あなたはわたしに向かって叫ぶのか。

イスラエルの子らに、前進するように言え。(出エジプト記14:15)

私たちにとって大きすぎる問題に遭遇するときもあります。そのとき、私たちの自然な反応は、神様に「助けて!」と叫ぶことです。

もちろん、神様に叫ぶべき時もあります。

でも、私たちがただ神様とその約束を信じて、前進すべき時もあります。つまり、私たちは最終的に神様の救いを見ることを信じて、神様の指示に従うのです。

私たちがこの世でその救いを見るとは限りません。

イエス様は、私たちの問題のすべてを取り去ると約束されたわけではありません。あるクリスチャンはこの世でイエス様のために苦しみ、命を落としました。

しかし、イエス様は十字架において最終的な勝利を得られたのです。だから、この世で私たちがどのような苦しみを経験しても、やがて神様の救いを見るという確信を持つことができるのです。

だからこそ、信仰によって前進し、神様が私たちに与えてくださった役割を果たしましょう。

そして、パウロの言葉を心に留めておきましょう。

しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。

あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。(コリント人への手紙第一15:57ー58)

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マルコの福音書のデボーション

どうして怖がるのですか

どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。(マルコの福音書4:40)

今日、イエス様の言葉は私の心を打ちました。

どれだけ、私たちは恐れや心配を持って、自分の問題を見てしまうでしょうか。

どれだけ、イエス様が私たちにこう訊かれるでしょうか。「どうして怖がるのですか。どうして心配するのですか。まだ私に信頼していないのですか。私があなたを愛し、あなたの益のためにすべてのことを働かせていることを、あなたはまだ信じていないのですか?」

私たちが自分の問題に集中せずに、イエス様を見て、「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。もしイエス様がそんなに力強い方で、私をそんなに愛しておられるなら、どうして私はこんなに心配しているのだろうか」と言ったら、どれだけ、私たちのストレスは解消されるでしょうか。

主よ、私の信仰を増やしてください。あなたに信頼することを教えてください。

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創世記のデボーション

あなたを信じることを選びます

これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。 わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」。。。

アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。(15:1、6)

たぶん、へブル人への手紙の著者は、以上の話を考えながら、この言葉を書いたのかもしれません。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。

神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル11:6)

アブラハムは疑いを持っていた時もありました。アブラハムは自己憐憫に浸る時もありました。(創世記15:2–3)

アブラハムの信仰が揺らいだ時もありました。(創世記16–17章、20章)

しかし、最終的な彼の心の態度は、「主よ。私はあなたを信じることを選びます。」というものでした。

神様はそのような人を受け入れてくださいます。神様はそのような人を求めておられます。そのような人は神様を喜ばせるからです。

主よ。あなたが良い方であることを信じます。あなたが私を愛し、私の最善を望んでおられることを信じます。

だからこそ、アブラハムとともに私は宣言します。「あなたを信じることを選びます。」

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ヨハネの黙示録

忍耐と信仰の必要性

今日の箇所では、さまざまな出来事があり、聖書学者たちは例によってその意味を議論しています。

竜(つまりサタン)と共に、二頭の獣が現れます。今回の記事では、最初の獣について取り上げ、次回のブログで二頭目の獣について扱います。

第一の獣は海から現れます。それは不思議な存在で、ダニエル書第7章に出てくる四頭の獣の特徴を併せ持っています。

竜の力を授けられたこの獣の七つの頭のうち一つは致命的な傷を負って死にましたが、その傷が癒え、世界の人々は驚きました。その結果として、世界の人々はこの獣と、それに力を与える竜を拝むようになります。

では、この幻の意味は何でしょうか。

ダニエル書では、四頭の獣がバビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマの各帝国を象徴しています。

ある程度、黙示録に登場する第一の獣は、それら四つの帝国に似た性質を持っています。これらの帝国は次々に現れては滅び、別の帝国に取って代わられました。

けれども、その結果はいつも同じでした。すなわち、竜を礼拝する新たな帝国が登場し、神の民を迫害するのです。

このように、黙示録において獣に従う者たちは竜を礼拝し、神の民に敵対します。

興味深いことに、黙示録第17章では、その獣が「昔はいて今はいないが、やがて底知れぬ所から上って来るもの」と描写されています(17:8,11)。

もしかすると、ヨハネはかつて獣を見たが、この書を書いた時点ではその獣がすでに滅びていたことを示しているのかもしれません。つまり、ヨハネは過去の皇帝、ネロについて言及している可能性があります。

いずれにせよ、ヨハネによれば、その皇帝は致命的な傷を受けたものの、いつか別の皇帝が現れ、ネロのように神を冒涜し、神の民を迫害するのです。

ヨハネがそのような意図を持っていたとすれば、獣は単一の人物ではなく、歴史の中に登場した多くの人々を象徴していることになります。ヨハネ自身、「キリスト教が始まってから、多くの反キリストがすでに現れている」と述べています(第一ヨハネ2:18)。

これらの反キリストたちは現れ、死に、そして新たな反キリストが再び登場します。そのパターンは何度も繰り返されてきました。

しかし、ヨハネによれば、最終的な反キリストが現れます。そして、かつての反キリストたちと同様に、人々を竜を礼拝するように導きます。

おそらく、その反キリストは「サタンを礼拝せよ」と直接は言わないでしょう。けれども、かつてのローマ皇帝のように、彼は救い主として人々に礼拝されるのです。なぜなら、一時的な平和と繁栄をこの世にもたらすからです。

ところが、人々は、自分が実際にはサタンの代理者に従っていることに気づいていません。

おまけに、反キリストは神様を冒涜し、多くのクリスチャンが迫害されます(7)。

第7〜8節によれば、クリスチャンでない者たちは喜んで獣に従います。言い換えれば、クリスチャンを迫害し殺害することが、政治的に正しいとみなされる時代になるのです。

それでは、今日の箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちが第一の獣に直面する時、彼は私たちを激しく虐げるでしょう。だからこそ、ヨハネは私たちに警告を与えているのです。

捕らわれの身になるべき者は捕らわれ、剣で殺されるべき者は剣で殺される。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰が必要である。(黙示録13:10)

その言葉は、スミルナにある教会の人々に対するイエス様の言葉に似ています。だからこそ、おそらく彼らがこれらの言葉を読んだ時、それは心に深く響いたことでしょう。

しかし、10では、ヨハネは私たちすべてに語りかけておられます。

「心構えをしなさい。迫害は来ます。でも、忍耐と信仰を保ちなさい。そうすれば、あなたたちはいのちの冠を与えられます。また、あなたたちは決して第二の死によって害を受けることはありません。」

このメッセージを私は何度も繰り返してきたので、あなたの耳にはタコができているかもしれません。でも、私たちが反キリストに直接直面しなくても、他者による迫害を受ける可能性はあります。家族や友人、隣人、同僚、そして政府ですら、私たちを迫害するかもしれません。

アメリカでは、クリスチャンたちはこうしたことを経験し始めています。日本の歴史においても、クリスチャンたちは迫害を受けました。今は想像できないかもしれませんが、その時は再び訪れる可能性があるのです。

だから、気持ちを引き締めましょう。信仰を保ちましょう。そして、忍耐を保ちましょう。もしかすると、神様は私たちが迫害を経験するように召しておられるのかもしれません。

それでも、もし迫害を受けるなら、忘れないでください——イエス様はすでに私たちのために迫害を受けておられます。

だからこそ、『へブル人への手紙』の著者は次のように語っています。

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。

この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。(へブル12:2-3)

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ペテロの手紙第二

私たちの信仰の基礎

私たちの信仰の基礎は何でしょうか。なぜ私たちは、クリスチャンたちが信じていることを信じるのでしょうか。

基本的に、私たちの信仰は神様とその性質に基づいています。また、私たちの信仰はある程度、私たちの経験にも基づいています。すなわち、私たちは神様が慈しみ深い方であることを味わい、悟るようになったからです。

しかし難しいのは、神様は目に見えないということです。私たちは神様に触れることも、御声を耳で聞くこともできません。

では、どうして私たちが神様との関係を実際に持っていると確信できるのでしょうか。それがただの錯覚ではないと、どうして確信できるのでしょうか。

世界中には多くの人々が霊的な経験を主張しながらも、クリスチャンの教えを否定しています。

では、どうして私たちは自分たちの経験が彼らの経験よりも優れていると確信できるのでしょうか。また、彼らの経験とは異なり、私たちの経験が単なる感情や神話に基づくものではなく、真理に基づいていると確信できるのでしょうか。

ペテロはこれらの質問に答えています。彼はこう言いました。

私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。(ペテロの手紙第二1:16)

多くの人々は、イエス様が実在していたことを否定します。別の人々は、イエス様の存在を認めても、私たちがイエス様が実際に何を行い、何を語ったのかを知ることはできないと主張します。むしろ、彼らはイエス様に関する話が周囲の国々の神話に基づいていると主張し、それを証明しようと懸命に努めます。

けれども、ペテロはそのような主張を否定します。

「私たちは自分の想像によってイエス様の話を作りませんでした。私たちは実際にイエス様と共にいました。私たちはイエス様を見ました。山で、イエス様の姿が変えられたとき、私たちは自分の目でその栄光を見、自分の耳で神様の御声を聞きました。」(16ー18)

さらに、ペテロは次のように語ります。

また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。(19)

もしかすると、ペテロは単に預言者たちの言葉について話しているのかもしれませんが、神様の言葉全体について話している可能性もあります。

いずれにせよ、ペテロのポイントはこうです――私たちは自分の経験だけでなく、神様のみ言葉によって、私たちの経験の背後に真実があると知ることができます。そのため、私たちの信仰は、単なる経験ではなく、神様のみ言葉にしっかりと基づいているのです。

神様のみ言葉を通して、私たちは神様が他の人々の人生にどのように働かれたのかを知ることができます。そのため、私たちは彼らの経験を自分自身の経験と比べ、その類似点を見つけることができます。

さらに、私たちは預言者たちの言葉がどのように成就されたのかを見ることができます。特に、イエス様に関する預言がどのように実現したのかを理解することができます。

しかし、私たちはどのように聖書の言葉が真実であることを確信できるのでしょうか。

考古学の発見により、聖書に記されている歴史的事実が証明されることもあります。

とはいえ、神様に関する聖書の言葉が正しいことを、どのように知ることができるのでしょうか。また、神様の言葉が正しく伝えられていることを、どのようにして確信できるのでしょうか。

ペテロは、この質問にも答えています。

ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。

預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。(20-21)

つまり、人々が聖書を書いたとき、自分の思いや意見だけを書いたのではありません。むしろ、聖霊様が彼らの思いと言葉を導いてくださったのです。

ただ、誤解しないでください。多くの場合、神様は自分の言葉を直接口頭で伝えたわけではありません。

確かにそのような場合もありましたが、多くの場合、神様はそれぞれの人々の人格や教育、話し方を用いて、彼らが自分の言葉でメッセージを私たちに伝えることを許されたのです。

そのため、神様は羊飼い、漁師、王、祭司、取税人、そして医者など、さまざまな背景を持つ人々を用いました。聖書には約40人の著者が関わりました。彼らは三つの大陸から来ており、三つの異なる言語を使用しました。

さらに、聖書が完成するまでに約1500年もの年月がかかりました。それにもかかわらず、彼らの証しは一貫しており、神様とその御業に関するメッセージは統一されています。

だからこそ、私たちは確信を持っています。

そういうわけで、ペテロはこう言いました。

夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。(19b)

「夜が明ける」とは、イエス様がこの世に戻られることを指しています。「明けの明星」とは、イエス様ご自身を指します。

したがって、ペテロが伝えたかったのは、この世の本当の光であるイエス様が戻られるその日まで、イエス様が残してくださった光に注意を払うべきだということです。

この暗い世において、神様の言葉は私たちの足元を照らす灯火です。その言葉を通して、私たちは神様がどのような方であるのか、そしてどのようにして神様を喜ばせることができるのかを知ることができます。この言葉こそが私たちの信仰の基盤なのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの信仰はただ自分の経験に基づいているのでしょうか。それとも、あなたの信仰は神様のみ言葉に基づいているのでしょうか。

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ペテロの手紙第二

同じ価値の信仰

今日の聖句はただの挨拶にすぎませんが、それを読んだとき、私は心に深く響きました。

ペテロはこう書いています。

イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって、私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。(ペテロの手紙第二1:1)

ある英訳では、次のように書かれています。

私たちの信仰と同じ価値の信仰を受けた方々へ

その言葉について少し考えてみてください。ペテロはイエス様の最初の十二人の弟子の一人でした。さらに、その弟子たちの中でも、ペテロはイエス様の三人の親しい友人の一人でした。

それにもかかわらず、ペテロはイエス様を直接見たことのないクリスチャンたちに向けて、「あなたの信仰は私たちの信仰と同じ価値があります」と伝えました。

もしかすると、ペテロがその言葉を書いたとき、彼はトマスに対するイエス様の言葉を思い出していたのかもしれません。

あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。(ヨハネ20:29)

ペテロはこう言っています。「私はイエス様を見ました。山の上で、私の目の前でイエス様の姿が変わり、私はイエス様の栄光を見、神様の御声を聞きました。さらに、私はイエス様の復活も目撃しました。

けれども、神様の目には、あなたの信仰は私の信仰と同じように尊く、等しいものです。なぜなら、あなたはイエス様を見たことがないのに信じるからです。」

私たちは自分の信仰について考えるとき、しばしば自分を二流市民だと見なしてしまいます。牧師や宣教師、あるいは友人を一流市民と見なす一方で、自分を二流市民として考えることがあるかもしれません。

けれども、神様の目には私たちの信仰はペテロの信仰と等しいのです。ですから、私たちは実際には一流の市民なのです。

成熟したクリスチャンにとって、この真理は謙遜を促すものです。彼らは、他のクリスチャンの未成熟さや聖書の知識の不足を見て、その人たちを見下す誘惑に駆られることがあるでしょう。

もちろん、神様は私たちに成長を求められます。それはこの手紙のテーマの一つでもあります。私たちはイエス様の恵みと知識において成長すべきです。毎日、少しずつイエス様のようになることが求められます。

しかし、覚えておいてください。あなたは他のクリスチャンよりも優れているわけではありません。また、他のクリスチャンに劣っているわけでもありません。

私たち皆、神様の恵みだけによって救われました。私たちが他の人よりも良い人間だから救われたのではありません。むしろ、私たちはイエス様の完全な義によって救われたのです。

イエス様はこの世におられたとき、一切罪を犯されませんでした。そして、十字架で私たちの罪のために命を捧げてくださいました。だからこそ、イエス様を信じるなら、私たちはイエス様のおかげで神様に義と認められるのです。

あなたはどのように自分を見なしているでしょうか。他のクリスチャンよりも優れた者だと考えていますか。それとも、他のクリスチャンに劣る者だと考えていますか。

神様があなたをどのように見ておられるかを思い起こしてください。神様はあなたに他のクリスチャンと等しい信仰を与えられました。そしてその信仰は、神様の目には尊いものです。

ですから、周囲の人々と自分を比較することをやめましょう。むしろ、毎日、神様の恵みと愛の中で安らぎましょう。

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ヤコブの手紙

祈っている信仰

以前にも言いましたが、ヤコブの手紙は、一見すると時に少し支離滅裂に見えるかもしれません。けれども、読み進めるうちに、その流れが明確になっていきます。

そして、今日の箇所では、ヤコブは第一章で取り上げたテーマの一つに戻ります。それは、試練の中での祈りです。

第一章では、ヤコブはこう語りました。試練の時に、私たちが神様の知恵を願うならば、信仰をもって祈らなければなりません。つまり、神様が良い方であることを信じることが求められます。また、神様の道こそが最善であることを信じなければなりません。

そして、今日の箇所で、ヤコブは再びこのテーマに立ち返ります。

あなたがたの中に苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい。(ヤコブの手紙5:13)

何のために祈るべきでしょうか。それは、神様の知恵と助けを求めるためです。けれども、祈るときには、神様が良い方であることを信じなければなりません。そうでなければ、あなたの祈りはむなしいものとなってしまいます。(1:5-6)

とはいえ、祈りは試練の時だけに限られるものではありません。ヤコブは続けてこう言います。

喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい。(13b)

苦しみの中で神様を思い出すことは、ある意味では自然なことかもしれません。けれども、順境のときはどうでしょうか。豊かさの中で、神様の慈しみに感謝しているでしょうか。それこそが信仰の姿です。

すべての良い贈り物、そして完全な贈り物は神様から来ることを忘れてはなりません。(ヤコブ 1:17)

そしてここで、ヤコブは再び試練の中での祈りについて語ります。

あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。

信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。(14-15)

ヤコブは癒やしを約束していません。たとえば、パウロが祈っても、人が癒やされなかったことがあります。(第二テモテ4:20)

しかし、病気のときには、私たちは祈るべきであり、教会のリーダーたちの祈りを求めることも大切です。

オリーブ油は、おそらく聖霊様の癒やしの働きを象徴していたのでしょう。また、癒やしの塗り薬として用いられていた可能性もあります。

いずれにしても、祈りを通して私たちは神様への信仰を表します。神様の道こそが最善であることを信じ、私たちの癒やしを神様の御手に委ねるのです。

とはいえ、時として病気は罪から生じることがあります。だから、ヤコブはこう語ります。

もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。(15b-16)

この言葉を読んで、私はイエス様のある出来事を思い出します。マルコ2章では、イエス様が一人の人を癒やす前に、その人の罪に触れられました。

もちろん、すべての病気が罪から生じるわけではありません。けれども、例えば、ある人々は心の中に苦々しい思いを抱き、相手を許せないために、さまざまな健康問題を抱えてしまいます。しかし、彼らがその罪を正しく対処したとき、病が癒やされることがありました。

そのため、ヤコブは、私たちが病気になったときや困難に直面したとき、祈るべきだと語ります。祈りを通して、私たちの霊的な問題が明らかになり、癒やされるのです。

そして、ヤコブはこの教えを次のようにまとめます。

正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。

エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。(16-17)

簡単に言えば、祈りをむなしいものと考えてはなりません。普通の人であっても、神様を信じる信仰をもって祈るならば、素晴らしいことが起こるでしょう。

それは、祈りが魔法の言葉だからではありません。むしろ、私たちの神様が偉大な方であるからです。だからこそ、私たちが神様に信頼すると、神様は私たちの内に、そして私たちを通して素晴らしいことを行われます。

あなたはどうでしょうか。祈りがむなしいものだと感じることはありますか。それとも、良いときも悪いときも、祈り続ける信仰を持っていますか。

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ヤコブの手紙

真の信仰がどのように表現されるか(8)

今日の箇所で、ヤコブはついに真の信仰についての話を締めくくります。この手紙の中で、ヤコブは何度も、愛や言葉、そして清さのテーマを強調してきました。

そして、今日の聖句では、ヤコブは再び聖さと、私たちがこの世の汚れを避けることの重要性に焦点を当てます。

その「汚れ」とは、この世のものへの執着です。しかし、それだけでなく、この世の富や成功に伴う高慢も汚れの一部です。

ここでヤコブは、成功した人々—特に業者や商人たち—に向けて語ります。彼らは成功を収めましたが、その結果、自分が神様を必要とすることを忘れ、さらにその成功が神様から与えられたものであることも忘れてしまいました。

だから、ヤコブは彼らにこう言いました。

「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。

あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。

あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。

あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。

ところが実際には、あなたがたは大言壮語して誇っています。そのような誇りはすべて悪いことです。(ヤコブへの手紙4:13-16)

ある意味において、この聖句は10-12節と関連しています。

その箇所で、ヤコブは問いかけます。「あなたは、自分が何者だと思っているのか。どうして自分の隣人を裁くのか。どうして自分の隣人をそしり、軽蔑するのか。」

そして、13-16節でヤコブはもう一度問いかけます。

「あなたは、自分が何者だと思っているのか。どうして自慢するのか。あなたは無に等しいものだ。あなたはただの霧にすぎない。今日生きていても、明日はどうなるか分からない。あなたは自分がどれほど生きるかをコントロールできないのだ。」

では、私たちは何を学ぶべきでしょうか。私たちは高慢を捨て、神様に近づき、へりくだらなければなりません。

それだけではなく、隣人を軽蔑してはなりません。むしろ、イエス様の命令に従い、自分を愛するように隣人を愛さなければなりません。

ヤコブはこの話を次のようにまとめています。

こういうわけで、なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です。(17)

この言葉を通して、私たちは再びヤコブの2章の教えに立ち返ります。つまり、「行いのない信仰は死んだものである」ということです。(2:17)

もし、高慢な心を持ち、口で相手を裁き、周りの人々のニーズを無視し、この世に執着しているなら、あなたは本当に信仰を持っているのでしょうか。あなたの信仰は単なる言葉だけのものではないでしょうか。あなたの信仰は空っぽではないでしょうか。

あなたの信仰はどのようなものですか。

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ヘブル人への手紙

信仰の生活に関する誤解

ある人はこう考えます。「もし信仰を十分持っているなら、私の人生はスムーズに進む。健康や経済の問題などはまったくないはず。むしろ、とても楽な人生を送るだろう。」

どうやら、そのような人々はこの箇所を読んだことがないようです。もちろん、信仰のある人々が勝利を経験することもあります。しかし、ある人々はこうした経験をしました。

嘲られ、むちで打たれ、さらに鎖につながれて牢に入れられる経験をし、また、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、困窮し、圧迫され、虐待されました。

この世は彼らにふさわしくありませんでした。

彼らは荒野、山、洞穴、地の穴をさまよいました。(へブル人への手紙11:36-39)

そして、この著者によれば、彼らの中で、この世において神様が約束されたものを手に入れた人は誰もいませんでした(39)。

では、この著者は彼らを責めて、「この人たちの信仰は足りなかった」と言ったでしょうか。

「どうして彼らは貧しかったのでしょうか。どうして彼らは荒野で暮らしていたのでしょうか。神様の計画は彼らが豊かな人生を送ることだったのに。彼らの信仰が足りなかったのでしょうか。」と言ったでしょうか。

「どうして彼らは牢に入れられ、信仰のゆえに殺されたのでしょうか。もし、彼らがきちんとした信仰を持っていたなら、神様は彼らを救い出してくださったはずでしょうか。」と言ったでしょうか。

「どうして彼らは神様の約束を受け取れなかったのでしょうか。もし、十分な信仰を持っていたなら、神様は報いを与えなければならなかったのでしょうか。」と言ったでしょうか。

違います。この手紙の著者は、そのようなことはまったく言っていません。

むしろ、彼はこう言いました。

これらの人たちはみな、その信仰によって称賛されました。(39)

彼は、「彼らの信仰が足りなかったから、この世の良いものに値しなかった」とは言いませんでした。むしろ、こう言いました。

この世は彼らにふさわしくありませんでした。(38)

簡単に言えば、神様は「信仰を十分持っていれば、人生はスムーズに進む」とは決して約束されません。むしろ、12章で著者はその逆を語ります。

私たちは誰でも、苦しい時を経験します。信仰を持っていても、苦しみに遭うことはあるのです。

しかし、信仰生活では、私たちは苦しみに目を向けるのではなく、将来に約束された報いに目を留め、希望を持って待ち望みます。だから、この手紙の著者はこう言います。

神は私たちのために、もっとすぐれたものを用意しておられたので、私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることはなかったのです。(40)

イエス様のゆえに、その聖徒たちは私たちと共に罪から解放され、完全な者とされます。そして、すべてが新しくされたとき、私たちの苦しみや悲しみは取り去られます。

信仰を持つ者はその時を待ち望みます。この世の喜びに心を向けるのではありません。(もちろん、この世においても、神様は私たちに喜びを与えてくださいますが。)

むしろ、永遠の喜びを待ち望むのです。それは、私たちが神様と共にいる時だからです。

あなたはどうでしょうか。信仰を十分に持っていれば、楽な人生が約束されていると思いますか。

神様はそのような約束をされていません。神様が約束されたのは、永遠のいのちに心を向けるなら、やがてその報いを受けるということです。

あなたは何を待ち望んでいるでしょうか。

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ヘブル人への手紙

信仰と恵み

私にはちょっと告白したいことがあります。私は、どうしてこの手紙の著者が、ギデオンやサムソンのような人々を信仰の模範として指したかよく分かりません。

さらに、私は、どうしてこの著者が彼らの失敗について全然話していなかったか分かりません。

でも、もしかしたらその著者には大切な理由があったかもしれません。それは、このリストを通して、私たちが神様の恵みを見ることが出来ることです。

私たちがよく失敗し、躓くのに、イエス様のゆえに、神様は私たちの欠点を見逃すことを選びます。むしろ、神様の目には、私たちはイエス様の義に着せられます。

それを考えると、私たちは慰められるでしょう。

多くの場合、私たちは自分の失敗を見ると、自分を責めるでしょう。私たちは神様に信頼しない時、自分の人生をめちゃくちゃにするときを振り返ると、自分に怒ります。

もちろん、その時、私たちは悔い改めなくてはなりません。でも、その失敗によって、失望してはいけません。神様の目には、自分が価値がないと思ってはいけません。

むしろ、神様があなたを見ると、あなたのために死んだ御子を見ることを覚えていましょう。

あなたが何回も失敗しても、神様はその記録を保ちません。むしろ、あなたの罪の記録は消されました。

裁きの日、神様はあなたを責めません。むしろ、神様はあなたを喜んで歓迎します。

どうしてでしょうか。あなたが完全な人だからというわけではありません。むしろ、あなたは完全な方に信頼を寄せました。その方は私たちの罪のために死んで、よみがえられました。

だから、あなたが何度も失敗するかもしれないのに、あなたもいつかその信仰のヒーローのリストに入るかもしれません。

神様はバラクやエフタやギデオンやサムソンを考えたように、あなたを考えるから。つまり、神様はあなたの失敗ではなく、あなたの成功を指すということです。

だからパウロの言葉を覚えていましょう。

ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。(ピリピ3:13-14)

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ヘブル人への手紙

誰を恐れるべきかを知る信仰

「私たちが神様を恐れると、私たちが恐れるべき人間は誰もいない」という格言があります。

イエス様ご自身も、こう言われました。

からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。

むしろ、たましいもからだもゲヘナ(つまり、地獄)で滅ぼすことができる方を恐れなさい。(マタイ10:28)

今日の箇所では、その言葉に従って生きた人々の姿が描かれています。彼らは、誰を恐れるべきかを知っていました。それは、王や支配者ではなく、むしろ神様でした。

さらに彼らが理解していたのは、神様に信頼しなければ、神様の怒りから守ってくれる者は誰もいないということです。

モーセの両親は、神様を恐れていたので、ファラオがユダヤ人の赤ちゃん全員の殺害を命じたとき、モーセを隠しました。それが限界になったとき、彼らはモーセを神様に委ねました。神様は彼らの祈りに応えて、モーセを守ってくださいました。

モーセは、エジプトの王子として、楽な人生を送ることができました。それでも、神様を恐れていたので、すべてを捨て、キリストのゆえに受ける辱めを受け入れ、他のイスラエル人と共に苦しみました。

モーセが確信していたのは、神様との良い関係を持っていなければ、この世の快楽は空しいものであるということです。さらに彼は、神様に従えば、永遠の報いを受けると信じていました。

だからモーセは、ファラオの憤りを恐れず、神様の民と共にエジプトを離れました。

神様に対する恐れによって、モーセは過ぎ越しの食事をし、羊の血を家々の二本の門柱と、かもいにつけました。その結果、イスラエル人の長男は、天使に殺されることはありませんでした。

その反面、エジプト人たちは他の神々を恐れていたため、自分たちの長男は命を落としました。ファラオ自身も神と見なされていましたが、彼の長男も命を落としました。

イスラエル人たちは神様を恐れていたので、その後、紅海を無事に渡ることができました。一方、エジプト人たちはファラオを恐れていたため、紅海を渡ろうとしたとき、水に吞み込まれてしまいました。

イスラエル人たちは神様を恐れていたので、神様の不思議な作戦に従いました。彼らが7日間エリコの周囲を回ると、その城壁は崩れ落ちました。

ほとんどのエリコの住民は、その城壁に信頼していましたが、ラハブはそうしませんでした。むしろ、彼女は神様を恐れ、偵察に来たイスラエル人たちをかくまいました。そのため、エリコが倒れたとき、彼女とその家族は救われました。

私のポイントは何でしょうか。

あなたは誰を恐れているでしょうか。誰に信頼を寄せているでしょうか。

もし神様ではなく、政府やお金や才能に信頼を置くなら、裁きの日に私たちは滅びてしまいます。そういったものは、私たちを救うことができないからです。

また、私たちが人を恐れると、自分のいのちは守れるかもしれませんが、私たちの魂は永遠に滅びます。

しかし、神様を恐れて神様に信頼すると、神様から誉れと報いを受けることができます。

あなたは誰に信頼を寄せているでしょうか。誰を恐れていますか。

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ヘブル人への手紙

神様の良さを信じる信仰

「神様は良い方です。」

「いつもです。」

「いつもです。」

「神様は良い方です。」

ある教会では、それが合言葉のように繰り返されています。

でも、私たちはその言葉を本当に信じているでしょうか。もちろん、物事が順調なときには、それを信じて熱心に語るのは簡単です。

でも、苦しいときはどうでしょうか。神様が何をなさっているのか、私たちに理解できないときはどうでしょうか。また、将来に不安を感じるときはどうでしょうか。

そのような時、私たちはなお、神様が良い方であることを信じることができるでしょうか。

私たちが自分の信仰を見つめ直すと、これは最も根本的な問いの一つと言えるかもしれません。

だからこそ、この手紙の著者は、こう語っています。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル人への手紙11:6)

「神は、ご自分を求める者には報いてくださる方である。」

言い換えるならば、神様は、ご自身の良さを信じる者に報いてくださいます。その人は、神様がご自身の約束を守ると信じます。その人は、自分の苦労が無駄ではないと信じます。その人は、自分の苦しみが意味あるものだと信じます。

神様は、そのような信仰者に報いてくださるのです。

どんなに私たちの境遇が厳しくても、神様を求めるほどに、その真理を信じ続けることができるでしょうか。そう信じない限り、私たちは神様を喜ばせることができません。

アブラハムは、そう信じました。

神様は、アブラハムの子孫がイサクの系統によって多くなると約束されました。しかし、ある日、神様はアブラハムに命じられました。「あなたの息子イサクを、生贄として捧げなさい。」

それは、イサクを神様の奉仕のために捧げるという意味ではありませんでした。アブラハムは、文字通り、イサクを殺し、生贄として捧げなくてはなりませんでした。

アブラハムは、本当に混乱していたことでしょう。その生贄を捧げる山に到着するまでには、三日間かかりました。その間、アブラハムは何を考えていたのでしょうか。

「どうして神様は、そんな命令をされたのだろうか。イサクの系統を通して、神様は私に多くの子孫を与えると約束された。でも、もしイサクが死んでしまったら、その約束はどのように成就するのだろうか。」

それでも、最終的にアブラハムはこう考えるに至りました。

「神様は良い方だ。神様は、ご自身の約束を守られる。だからこそ、もし私にイサクを殺すよう命じるなら、神様は必ずイサクを復活させてくださるだろう。神様は、いのちと死を支配される神だ。そして、やはり神様は良い方だ。」

そして、アブラハムがイサクを殺すために刀を振りかざしたとき、天使は彼に告げました。「あなたの手を、その子に下してはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れていることを、よく理解した。」(創世記22:10–12)

神様は、確かに良い方でした。

イサクは、そのような経験をしたので、将来がまだ不明だったにもかかわらず、息子たちヤコブとエサウを祝福することができました。

彼は、神様が約束された地をまだ受け取ってはいませんでした。所有していたのは、父アブラハムが買った小さな土地だけでした。それでも、イサクは神様が良い方であることを信じ、息子たちを祝福しました。

ヤコブは、さまざまな試練に直面しました。ある試練はヤコブ自身のせいでしたが、ある試練は彼の責任ではありませんでした。それでもヤコブは、自分に対する神様のいつくしみと忠実さを見たのです。

だから、死ぬ直前に、その確信を持って、息子たちを祝福しました。

あなたはどうでしょうか。どんなことを経験しているのでしょうか。心から「神様は良い方だ」と言えるでしょうか。神様が忠実な方だと信じられるでしょうか。神様があなたへの約束を守られると信じているでしょうか。

それらを信じなければ、あなたは神様を喜ばせることができません。

あなたは、どんな信仰を持っているのでしょうか。

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ヘブル人への手紙

見えないものを見える信仰(2)

「それは無理です。私はできません。」

自分の状況に目を向けると、私たちはどれほどこの言葉を口にしているでしょうか。また、どれほど心の中でこの言葉が浮かんでいるでしょうか。

アブラハムとサラも、そう感じたことがあったに違いありません。

アブラハムが75歳、サラが65歳のとき、神様は彼らに「息子を与える」と約束されました。けれども、24年が過ぎても赤ちゃんは生まれませんでした。

その間、二人は自分たちなりの計画を立てました。相続人を得るために、サラは自分の奴隷ハガルをアブラハムに与え、ハガルはアブラハムの子を産みました。

しかし、神様は言われました。「それが私の意図ではありません。サラを通して、私はあなたたちに息子を与えるのです。」

その言葉を聞いて、アブラハムは笑いました。彼は99歳、サラは89歳。それでも神様は、もう一度約束されたのです。「サラは赤ちゃんを産みます。」

アブラハムは、その言葉を聞いて、到底無理だと思ったことでしょう。

それでも最終的に、アブラハムとサラは自分たちの弱さを認めながらも、現実にとらわれることなく、神様にはすべてのことができると信じる道を選びました。だからこそ、彼らは子どもをもうけようとし続けたのです。

この手紙の著者は、彼らについてこう記しています。

アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。

こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれたのです。(へブル人への手紙11:11-12)

あなたはどうでしょうか。自分の問題を乗り越えることは、到底無理だと感じていませんか。

私たちの弱さに目を向けると、希望を失うのは、あまりにも簡単です。でも、神様は弱さを持っていません。

あなたは、自分の弱さを脇に置いて、弱さのない神を信じる信仰を持っていますか。

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ヘブル人への手紙

見えないものを見える信仰

この地球は、私たちの最終的な家ではありません。

多くのクリスチャンはそのことを知っています。 けれども、その知識に基づいて日々を生きているクリスチャンは、どれほどいるでしょうか。

アブラハムは、まさにそのように生きました。 だから、この手紙の著者はアブラハムについてこう記しています。

信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。

信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。

堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。(へブル人への手紙11:8-10)

信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に向かって召しを受けたとき、その召しに従い、行き先を知らずに出て行きました。

信仰によって、彼は約束された地に他国人として住み、同じ約束を受け継ぐイサクとヤコブとともに、天幕生活を送りました。

彼が待ち望んでいたのは、堅固な土台の上に建てられた都でした。 その都の設計者、また建設者は神です。(へブル人への手紙 11:8-10)

アブラハムにとって、約束の地はカナンでした。 しかし、私たちクリスチャンにとっての約束の地は、新しい天と地です。

アブラハムはカナンを所有することはありませんでしたが、その土地に暮らしました。

何百年後にその地はイスラエルとなりましたが、アブラハムは生涯、他国人としてその土地に住みました。 偶像礼拝と罪に満ちたその地で、彼は神様に喜ばれる人生を送りました。

この世はいつか新しくされ、私たちは神の子として新しい天と地を相続することになります。 けれども、その日が来るまでは、この世には偶像と罪が満ちています。

だからこそ、私たちは現代社会の真の市民ではなく、他国人のようにこの世に住む者なのです。 そして、来るべき新しい天と地を、心から待ち望んでいます。

その日まで、私たちはどのように生きるべきでしょうか。 たとえ生前にその結果を見ることがなくても、私たちは神様の命令に従って生きるのです。

神様は、アブラハムの子孫が増え、カナンを相続し、偉大な国となることを約束されました。 だから、アブラハムは父の家を離れ、神様に従ってカナンへ向かいました。

けれども、アブラハムが亡くなったとき、彼とサラには一人の息子しかいませんでした。 さらに、サラを葬るために小さな土地を購入しましたが、彼が生涯所有したのはその土地だけでした。

イサクには二人の息子がいましたが、彼もまたその小さな土地しか所有していませんでした。

ヤコブには十二人の息子がいました。 けれども、飢饉のために彼はエジプトへ移住しました。 神様の恵みによって、彼らの命は守られ、ヤコブはエジプトで亡くなりました。 そして彼も、カナンのその小さな土地に葬られました。

この三人は神様に従いましたが、神様の約束の完全な成就を見ることはありませんでした。

この手紙の著者は、彼らについてこう記しています。

これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。

そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。

もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。

ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。(13-16)

神様は、いつもご自身の約束を守られます。 神様はアブラハムを、大いなる強い国民とされました。 イスラエルが誕生してから、さまざまな国々が興亡を繰り返しましたが、イスラエルは今も存在しています。

そして、ある日、クリスチャンであるユダヤ人と異邦人が、一つの大いなる国民として立ち、アブラハムを「私たちの父」として認める日が来ます。

しかし、その日が来るまで、神様があなたに命じられたことに従いましょう。

アブラハムのように、あなたは生前に神様の約束の完全な成就を見ないかもしれません。 けれども、最終的にはその成就を目にします。 また、地上においても、あなたの子どもや孫たちは、あなたの忠実さの実を刈り取るでしょう。

さらに、この地球があなたの真の住まいではないことを覚えていましょう。

もし、過去の人生ばかりに心を向けるなら、その生き方に戻ってしまう危険があります。 そうすると、神様があなたのために用意されたものを、失ってしまうかもしれません。 だからこそ、永遠の住まいを待ち望みつつ、神様に忠実でありましょう。

神様は、あなたのために新しい都を備えておられます。 そして、ある日、イエス様はあなたのためにこの世に再び来られ、すべてのものを新しくされます。

だから、イエス様のことばを覚えていましょう。

わたしの父の家には住むところがたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。

わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためにです。(ヨハネ14:2-3)

アーメン。主イエスよ、どうか来てください。

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ヘブル人への手紙

なぜ信仰が大切なのか

どうして信仰はそれほどまでに大切なのでしょうか。それは、他のどんなものよりも、神様が私たちに求めておられるのが信仰だからです。

この手紙の著者によれば、神様は昔の人々を、彼らの信仰のゆえに賞賛されました(へブル人への手紙11:2)。

そして今も、神様からの賞賛は、ただ私たちの信仰によって与えられるのです。なぜなら、信仰によってこそ、神様への愛、礼拝、従順、そして忠実さが生み出されるからです。

少し考えてみてください。もし私たちが、神様の存在、神様の愛、神様が私たちの最善を望んでおられることを信じなければ、神様を愛することができるでしょうか。神様を礼拝するでしょうか。神様に忠実に従うでしょうか。

もちろん、恐れによって礼拝し、従うことはあるかもしれません。けれども、神様が望まれるのは、恐れによってではなく、愛によってなされる礼拝と忠実な従順なのです。

そのような理由から、この著者はこう語るのです。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。

神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル人への手紙11:6)

カインの話を思い返してみてください。

なぜ神様は、彼のいけにえを受け入れられなかったのでしょうか。細かい事情はわかりませんが、基本的な理由は、カインが信仰によってそのいけにえを捧げなかったからだと考えられます(4節)。

もしかすると、彼は「なぜ私のものを神様に捧げなければならないのか」と不満を抱きながら、そのいけにえを差し出したのかもしれません。

あるいは、神様が羊のいけにえを求めておられたにもかかわらず、カインはこう思ったのかもしれません。「なぜ、私たちの収穫が十分ではないのだろう。私は、神様に捧げたいと思うものを捧げればいい。」

いずれにせよ、根本的な問題は、カインが神様に対する信仰を欠いていたことです。そのため、神様は彼のいけにえを退けられたのです。

その反面、アベルは信仰によっていけにえを捧げました。その信仰のゆえに、アベルは神様を愛し、忠実に従いました。だから、神様はアベルのいけにえをご覧になると、喜んで受け入れられました。

エノクのことも思い返してみてください。彼は決して死を経験しませんでした。むしろ、神様がエノクを直接天に引き上げられたのです。

なぜでしょうか。それは、エノクが神様と共に歩んだからです。旧約聖書がギリシャ語に訳されたとき、翻訳者たちは「エノクは神様と歩んだ」という表現を「エノクは神様を喜ばせた」と訳しました。

言い換えれば、あなたが神様を喜ばせたいと願うなら、神様と共に歩まなければなりません。

しかし、神様が存在しておられ、あなたを愛し、あなたの最善を望んでおられることを信じなければ、あなたは神様と歩もうとはしないでしょう。神様との親しい関係を築くこともできないでしょう。

あなたはどうでしょうか。神様を本当に喜ばせたいと願っていますか。神様からの称賛を得たいと望んでいますか。

私たちはこう問いかける必要があります。「神様の存在を信じているだろうか。神様が私を愛しておられることを信じているだろうか。神様が私の最善を望んでおられることを信じているだろうか。」

もし「はい」と答えることができなければ、神様を喜ばせることはできません。

では、あなたの答えは何でしょうか。

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ヘブル人への手紙

信仰の土台

さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。(へブル人への手紙11:1-2)

この箇所を見ると、多くの人々はこの言葉こそが信仰の定義だと考えます。

確かにそうかもしれません。けれども、私たちは「何を信じるか」について、どれだけ深く考えているでしょうか。もし私たちが信頼するものが実際には頼りにならないものであれば、私たちはどうして望んでいることを確信できるのでしょうか。

もし約束する方に、その約束を守る力がないとしたら、目に見えないものをどうして信頼できるでしょうか。

だからこそ、私たちの信仰は初めから終わりまで、神様に基づいているのです。

神様はどのような方でしょうか。神様は本当に存在しているのでしょうか。

仮に存在しているとしても、私たちを本当に愛しておられるのでしょうか。私たちは、そんな神様に信頼してもいいのでしょうか。神様はご自身の約束を本当に守ってくださるのでしょうか。神様には、その約束を守る力があるのでしょうか。

今日の箇所では、手紙の著者がまさにこのことに触れています。彼はこう語ります。

神に近づく者は、神がおられること。。。を、信じなければならないのです。(6)

この根本的な真理こそが、私たちの信仰の土台です。つまり、神様が実在されるということです。

けれども、それを信じていたとしても、神様は私たちのことを本当に愛しておられるのでしょうか。もしかすると、衝動的な思いつきで私たちを造り、その後、私たちのことを忘れてしまわれたのでしょうか。

この問いに対しても、手紙の著者は明確に答えています。

神に近づく者は。。。神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(6)

言い換えれば、神様は私たち一人ひとりに心を留めておられるということです。神様は私たちの行いに目を留めてくださいます。そして、私たちが神様を求めるなら、神様は私たちに報いてくださるのです。

しかし、神様が報いてくださりたいと思われても、果たしてその力があるのでしょうか。

そこで、私たちは3節にその答えを見出します。

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。(3)

もし神様が、御自身の命令によって、すべてのものを目に見えないものから造られたのなら、神様には何でもおできになるはずです。

だから、この箇所において、私たちは信仰の土台を見ることになります。神様は確かに存在しておられます。神様は私たちを愛しておられます。神様は、ご自身が約束されたことを実現する力を持っておられます。

それゆえ、残る問いはただ一つです。私たちは心からその真理を信じるでしょうか。神様に信頼を置くでしょうか。

腕の良い職人が、もっとも頑丈な木を使って椅子を作ったとしても、その椅子に信頼を置かなければ、人は決してそこに座ろうとしません。

それと同じように、神様は確かに存在し、私たちを愛しておられ、約束を果たす力を持っておられます。私たちがそれを信じようとしまいと、それは変わらない現実なのです。

しかし、それを信じなければ、私たちは神様に信頼を置こうとはしないでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたはその真理を信じるでしょうか。あなたがこの問いにどう応えるかによって、あなたの神様との関係、そしてあなたの人生が形づくられていくのです。

次回の記事で、このテーマをさらに深めていきます。

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ヘブル人への手紙

信仰の必要

多くの人々は、神様の祝福を受けたいと願い、真のいのちと喜びを得たいと求めています。けれども、その多くは、神様に信頼を寄せようとはしません。

へブル人への手紙の著者は、この箇所でまさにその問題を取り上げています。

彼は、「神の安息」について語っています。この「安息」は三つの意味を内包しています。

第一の意味は、私たちが自分の努力によって救いを得ようとするのではなく、ただイエス様に信頼を寄せることによって救いにあずかる、ということです。

著者はこう語っています。

したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残されています。

神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです。(ヘブル人への手紙4:9-10)

旧約聖書の時代における安息日は、「神の安息」の本当の意味を描き出しています。

安息日を通して、神様はユダヤ人に、御自身に信頼することによって与えられる祝福と喜びを指し示されたのです。

週に一度、彼らは仕事を休みました。安息日には、神様が彼らの必要を備えてくださると信じたのです。その信仰によって、彼らは安心して休むことができました。

同じように、私たちも神様とキリストの十字架の御業を信じるなら、自分の救いのために努力する必要はありません。むしろ、私たちは休み、すでに神様との平和をいただいています。

第二の意味は、日常生活においても私たちが神様に信頼することによって、安心して過ごすことができるということです。

困難や試練があっても、パニックに陥ったり、思い煩ったりしません。むしろ、理解を超えた神の平安をもって、心に安らぎを得ることができるのです(ピリピ人への手紙4:7)。

第三の意味は、私たちがやがて真の休みにあずかる日が来るということです。その日には、人生の苦しみや試練が終わり、私たちはついにイエス様のみ顔を見ることになるのです。

旧約聖書の時代、もう一人の「イエス」(すなわちヨシュア)は、イスラエルの民に真の安息を与えることはできませんでした。

ご存じない方もおられるかもしれませんが、ギリシャ語では「ヨシュア」と「イエス」という名前は同じです。

そのため、へブル人への手紙4:8を翻訳する際、翻訳者はこの名前を「ヨシュア」と訳しました。しかし、実際には「イエス」と訳すことも可能なのです。

とはいえ、その箇所では旧約聖書のヨシュアを指しているため、「ヨシュア」と訳されているのです。

では、ヨシュアはイスラエルの民のために何をしたのでしょうか。彼は彼らを神様の約束の地に導き入れ、その意味で安息を与えました。しかし、その安息は決して完全なものではありませんでした。

なぜでしょうか。それは、彼らが神様を信頼しなかったからです。その地で敵との戦いが困難になると、彼らは諦めてしまいました。すでに得ていた地に甘んじ、それ以上を求めようとはしなかったのです。

ユダヤ人にとっても、私たちにとっても、真の安息はまだ実現していません。私たちが神様を真に信頼するそのときこそ、その日が来るのです。

けれども、以前にも述べたように、神様に信頼する人は少ないのです。

エジプトにいた頃、イスラエルの民は奴隷として苦しみ、安息を慕い求めました。救いを求めました。真のいのちと喜びを切に願っていたのです。

モーセはイスラエルの民に安息と救いを約束したので、彼らは彼について行きました。しかし、最初から彼らには信仰が欠けていました。

パロがモーセに対抗した後、イスラエルの民への圧迫が増したため、彼らは信仰を失い、不平を言いました。

その後、紅海の前でパロの軍勢が迫ってきたとき、逃げ場を失った彼らは信仰を持てず、「私たちは死ぬ!」と叫びました。

さらに、荒野で食べ物や水が尽きたときにも、彼らは神様を信頼せず、再び不平を口にしました。

また、神様が約束された地の住民を見たとき、彼らは恐れてその地に入ることを拒みました。

彼らは命と喜びを望むと言い、神様の安息と祝福を慕うと言いました。けれども最終的には、彼らは神様に信頼することを拒みました。

そのため、彼らは決して神様が約束された地に入ることができませんでした。むしろ皆、荒野で死んだのです。

そして代わりに、彼らの息子たちと娘たちがその地に入りました。しかし、その子どもたちもまた、自分たちの不信仰ゆえに、神様の真の安息を得ることはありませんでした。

だからこそ、この手紙の著者は、読み手に不信仰の危険について警告したのです。

その読者の中には、福音を聞いてその救いのメッセージに魅了されたユダヤ人たちがいました。しかし、エジプトから逃れたイスラエルの民のように、彼らも神様を真に信じることなく、最終的には神様から離れてしまったのです(4:2)。

そのため、著者は繰り返し警告を発しています──「イスラエルの民のようになってはなりません。そうでなければ、あなたは決して神様の安息に入ることはできず、真のいのちを知ることもできないのです」(4:11)。

あなたはどうでしょうか。真のいのちと喜びを知りたいと願っていますか。神様の祝福を受けたいと望んでいますか。それならば、あなたは神様とそのみことばを信じるべきです。

神様のことばを読むとき、あなたが本当に神様を信じているかどうかが明らかになります。そして、そのみことばによって、あなたは神様に裁かれるのです(4:12ー13)。

裁きの日に、神様はあなたについて何を語られるのでしょうか。

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ピレモンへの手紙

私たちの信仰が本物なら

第二コリント5:16ー17では、パウロはこう書きました。

ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。

かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5:16-17)

パウロの言葉から、私たちは本物の信仰の実を見ることができます。それは、私たちがどのようにキリストや周りの人々を見なすかが変わることを指しています。

ピレモンへの手紙は、その真理を明確に描いています。

ピレモンはコロサイの教会のリーダーであり、その教会はピレモンの家で集まっていたようです。けれども、その時代には奴隷制が広く存在していました。ローマ帝国では、おそらく人口の3分の1が奴隷でした。

時々、どうしてパウロや他のクリスチャンのリーダーたちが奴隷制を直接批判しなかったのか疑問に思う人もいます。

もしかすると、パウロたちは奴隷制を政治的手段で終わらせることができないと理解していたのかもしれません。むしろ、神様が福音によって一人ひとりの心を変えることで、最終的に奴隷制が廃止されると信じていたのではないでしょうか。

もし私たちクリスチャンが自分の国を変えたいと願うなら、その真理を心に留めるべきです。

もちろん、政治参加は重要ですが、政治や新しい法律だけでは人々の心を変えることはできません。福音こそが人々の心を変え、この社会をも変える力を持っています。

さて、パウロがローマで軟禁されていたとき、オネシモという人物と出会いました。どのように彼らが出会ったのかは定かではありませんが、オネシモはパウロを通してクリスチャンになったようです。(10)

そして、オネシモの信仰が成長するにつれて、彼はパウロと共に仕え、パウロの親しい友人となりました。

しかし、オネシモには大きな問題がありました。つまり、彼は奴隷であり、主人から逃げていたのです。オネシモがクリスチャンになったことで罪悪感を抱くようになり、自分の主人のもとへ戻らなければならないと感じるようになりました。

けれども、ローマの法律では主人に逃亡した奴隷を殺す権利がありました。したがって、主人のもとへ戻ることでオネシモが殺される可能性がありました。

それを理解していたオネシモは、パウロと相談しました。

そして、パウロはオネシモの主人の名前を聞いて驚きました。その主人は、パウロの親友であるピレモンでした。ピレモン自身もパウロによって福音を受け入れ、クリスチャンになったようです。(10)

そこで、パウロはオネシモのためにピレモンに手紙を書きました。

使徒として、パウロはピレモンにオネシモについて命じることもできましたが、彼はその方法を取らず、愛する親友としてピレモンに願いました。

では、パウロはピレモンに何を言ったのでしょうか。

彼はピレモンに、神様がその状況をもたらしたのだと語りました。(15-16)

もちろん、神様はオネシモに「逃げなさい」と命じられたわけではありません。オネシモは自分の意思で逃げ出し、ピレモンと神様に罪を犯しました。

けれども、神様はオネシモに触れ、彼をパウロのもとへ導いてくださいました。その結果、オネシモはもはや役に立たない者ではなく、役に立つ者となりました。特に、パウロの奉仕において、オネシモは重要な働き手となりました。(11-13)

(ちなみに、「オネシモ」という名前には「役に立つ者」という意味があります。)

そのようなわけで、パウロはピレモンに言いました。「今のオネシモは、以前あなたから逃げたオネシモとは違います。彼はただの奴隷ではなく、イエス様にあって新しく造られた者です。それに、彼はあなたの兄弟となりました。」(16)

そして、パウロは続けてこう言いました。

もし彼があなたに何か損害を与えたか、負債を負っているなら、その請求は私にしてください。

私パウロが自分の手で、「私が償います」と書いています。

あなたが、あなた自身のことで私にもっと負債があることは、言わないことにします。(18-19)

この言葉で、パウロは二つのことをしました。

一つ目は、パウロがオネシモがピレモンから盗んだものを償うために払うと申し出たことです。けれども、その申し出を通して、パウロはピレモンに間接的に思い出させました。「イエス様もあなたの罪の負債を十字架で支払ってくださいました。」

もちろんピレモンはパウロの働きによってクリスチャンになりました。けれども、イエス様がピレモンの罪の代価を支払われたのです。だからこそ、ピレモンはイエス様から恵みを受け、赦されているように、オネシモに恵みを与え、彼を赦さなくてはなりませんでした。

ピレモンはどのように反応したでしょうか。それについての記録はありません。けれども、パウロはピレモンが正しいことをするという確信を持っていました。(21)

なぜでしょうか。なぜなら、ピレモンも新しく造られた者だったからです。パウロは、自分がオネシモを見なしたように、ピレモンもオネシモを見なすという確信を持っていました。

あなたはどうでしょうか。あなたの信仰は本物のものでしょうか。もしあなたの信仰が本物なら、キリストと周りの人々への見方が変わるはずです。

赦された者として、あなたも周りの人々を赦すはずです。

また、イエス様に愛され、受け入れられた者として、周りの人々を愛し、受け入れるはずです。

あなたはどのような信仰を持っているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙

無益な宗教に逆戻り

多くの人々は救いについて、なぜクリスチャンがそれほど排他的なのか疑問に思います。つまり、なぜクリスチャンは、イエス様以外には神様への道がないと主張するのでしょうか。

私は、ほかの宗教にも良い点があることを認めます。多くの宗教は悪に反対し、善行を促します。何が良いことであり、何が悪いことであるかについて、それぞれの宗教の教えは完全に一致するわけではありませんが、共通点は多くあります。

しかし、問題は宗教とその儀式が神様を描くという点にあります。ユダヤ教の場合、その描写は比較的正確です。なぜなら、神様ご自身がユダヤ人に対して、律法と儀式を通してご自身に関する描写や、キリストに関する描写を与えてくださったからです。

けれども、その他の宗教における神様の描写は、神様がどのような方であるかをほとんど分からなくするほどに、歪められています。そのため、その宗教の律法や儀式は、人々を神様へと近づけることができません。

ユダヤ教は他の宗教よりも優れていますが、それでもユダヤ教の律法と儀式は、イエス様と救いの現実そのものではなく、ただの描写にすぎません。

ユダヤ教の儀式、祭り、犠牲は、イエス様とその十字架の犠牲を描写していますが、それらは単なる象徴であり、現実ではありません。イエス様とその十字架の犠牲こそが現実なのです。

したがって、ユダヤ教の儀式、祭り、犠牲には、人を救う力がありません。そして、もし神様が定められた儀式や祭り、犠牲が人々を救うことができないのであれば、ましてや他の宗教のものが人を救うことはできないでしょう。

だから、パウロはこう言いました。

あなたがたは、かつて神を知らなかったとき、本来神ではない神々の奴隷でした。しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。

あなたがたは、いろいろな日、月、季節、年を守っています。私は、あなたがたのために労したことが無駄になったのではないかと、あなたがたのことを心配しています。(ガラテや人への手紙4:9-11)

パウロは、かつての神々や修行について、ガラテヤ人たちに語ります。パウロは言いました。

「あなたたちが救われる前、本来神ではない神々の奴隷でした。救いをもたらすことのできない儀式や祭りを祝うように強制されていました。

けれども今や、あなたたちは知っているでしょう。あなたたちは神様を知っており、神様にも知られています。神様の子供として、神様と親しい関係を持っているのです。

それなら、どうして弱くて力のないものに戻ろうとしているのですか。あなたたちは、かつての神々や修行に戻っているわけではないかもしれません。けれども、今や自分の救いを得るために、ユダヤ教の儀式や修行に従い始めています。

ところが、かつての儀式や修行と同じく、ユダヤ教の儀式や修行にも力はまったくありません。

その儀式や修行は、神様を知るための初歩でした。その目的は、あなたが自分の罪と救い主の必要を理解することです。けれども、それ自体はあなたたちを救うことはできません。

むしろ、それを通してあなたたちが理解するのは、自分が律法を完全に守ることができないために、裁きに値するということです。それは惨めなことでしょう。そのことを知っているはずなのに、どうしてそのものに戻りたいのですか。」

そして、パウロは言いました。

「考えてみてください。私はあなたのようになったでしょう。私はあなたたちと共に食事をし、あなたたちの食べ物を食べて、ユダヤ教の習慣を破りました。

だから、あなたたちも私のようになってください。宗教のルールではなく、むしろキリストへの信仰によって生きてください。」

パウロは私たちにも同じことを言います。

私たちはキリストの象徴に従うのではなく、つまりユダヤ教の律法と儀式に従うのではなく、イエス様ご自身に従いましょう。なぜなら、それらには私たちを救う力がないからです。

むしろ、イエス様の十字架の働きを覚え、神様の子供として、神様との関係を喜びましょう。

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ガラテヤ人への手紙

律法とは何か、その役割とは(3)

前回の記事で私たちが確認したのは、律法が神様の作られたもう一つの救いの道ではないということです。むしろ、律法の目的は、私たちをキリストへ導くことです。パウロはこの真理をさらに具体的に説明します。

しかし、聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。

信仰が現れる前、私たちは律法の下で、監視され、来るべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。(ガラテヤ人への手紙3:22-23)

パウロはローマ人への手紙第7章から第8章で、似たことを書きました。

その箇所でパウロが述べたのは、律法が現れる前、人々は罪が何であるかを理解していなかったということです。彼らは、自分の行いが神様を悲しませていることを知らず、幸せな人生を送っていました。

そして、神様は律法を示され、「あなたはこのように生きるべきです」と言われました。

けれども、人々はその律法を見たとき、「ああ、そうか。知らなかった。ごめんなさい。これから、あなたの道を歩みます」とは言いませんでした。むしろ、彼らの神様への態度はさらに反抗的になったのです。

悔い改める人もいましたが、神様を喜ばせたいと思っても、律法を完全に守ることはできませんでした。彼らはまだ罪深い心を持っていたため、律法を完全に守ることは不可能でした。言い換えると、彼らはまだ罪の奴隷だったのです。

それでも、キリストが来られるまで、律法はある程度、人の罪を抑制していました。だから、パウロは言いました。

信仰が現れる前、私たちは律法の下で、監視され、来るべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。(23)

要するに、律法は旧約聖書の信者たちの罪を完全に止めることはできませんでしたが、その罪をある程度抑制しました。だから、パウロはこう言いました。

こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認めらえるためです。(24)

パウロの時代、養育係は少年の人生、特にその道徳を監視しました。その少年がどこへ行っても、養育係も同行し、少年がトラブルに巻き込まれないように見張っていました。登校するとき、養育係はその少年を連れて行き、先生に預けました。

律法も旧約聖書の信者たちに対して同じ役割を果たしました。律法は彼らが罪に巻き込まれないように監視しました。(もっとも、彼らが罪に陥ることもありました。)

そして、律法は彼らを本当の先生、すなわちイエス様へと導きました。、律法はどのようにして彼らを導いたのでしょうか。

律法を通して、神様は救い主についての多くの描写を与えられました。例えば、全焼のいけにえ、過ぎ越しの祭り、贖罪の日などは、イエス様を指し示すものでした。

もちろん、それ自体は信者たちを救うことはできませんでした。けれども、その描写を通して、イエス様の時代に至るまで、モーセやほかのイスラエルの民は神様に従い続けました。

そして、イエス様が現れたとき、神様を愛する人々は、その描写を覚えていて、イエス様とその十字架の働きの意義を理解し(ヨハネ5:39、46)、イエス様を信じました。

もう一度言います。律法自体は彼らを救うことはできませんでした。しかし、律法によって、彼らはイエス様を信じるようになりました。

もちろん、旧約聖書の信者たちはイエス様を知りませんでした。そのため、神様のご計画を具体的に知ることはできませんでした。

それでも、彼らは、そのイエス様の描写を信じたので救われました。彼らは律法の従順によって救われたのではなく、その信仰によって救われたのです。

パウロはこの真理を次のようにまとめます。

しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。(25)

イエス様がすでに来られたので、その描写が明らかになり、私たちの信仰はもはや微かなものではありません。

モーセやほかの旧約聖書の信者たちとは異なり、私たちには、もはや微かな描写は必要ありません。キリストにあって、私たちは真実のものを持っているので、律法という養育係は不要です。

むしろ、私たちは救いのためにイエス様だけを信頼します。そして、イエス様が私たちに与えてくださった聖霊様を通して、私たちは自然に神様を喜ばせ始めます。

だから、さまざまな規則に従うことに焦点を当てるのではなく、感謝を持って十字架を仰ぎ、聖霊様の導きによって歩みましょう。それが真のクリスチャンの生活です。

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ガラテヤ人への手紙

アブラハムの真の子孫

パウロがこの箇所を書いたとき、ヨハネの福音書第8章におけるイエス様とユダヤ人たちの議論を思い浮かべていたでしょうか。私には分かりませんが、パウロは同じテーマについて語っています。つまり、アブラハムの真の子孫とは誰かということです。

ユダヤ人たちは自分たちこそアブラハムの真の子孫であると考えていました。なぜなら、アブラハムは実際に彼らの先祖であり、彼らは神様がモーセに与えてくださった律法を持ち、それに従おうとしていたからです。

そこでイエス様は彼らにこう言われました。「もしあなたが私の教えを信じ、それに従うなら、あなたは真理を知り、真理はあなたを自由にする。」すると、彼らは驚いて答えました。

彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、「あなたがたは自由になる」と言われるのですか。」(ヨハネの福音書8:33)

そして、イエス様とユダヤ人たちは、アブラハムの真の子孫について長い間議論しました。

イエス様は彼らに言われました。「あなたがたはまだ罪を犯しています。アブラハムの子供であるからすでに自由だと主張していますが、実際にはまだ罪の奴隷です。

私は、あなたがたを罪から解放する者です。私があなたがたを自由にしたなら、あなたがたは本当に神様の子どもとなるのです。」(ヨハネ8:34-36)

ところが、ユダヤ人たちはそれを聞いてもなお、自分たちこそアブラハムの子孫であると主張し続けました。そこでイエス様は彼らにこう言われました。

あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです。

ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語った者であるわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことをしませんでした。(ヨハネ8:39-40)

要するに、アブラハムは神様の言葉を聞いたとき、すぐにその言葉を信じました。信仰によってその言葉を受け入れたため、彼は救われました。その結果、彼は神様の子供と呼ばれるようになりました。

その一方、ユダヤ人たちはイエス様を拒絶し、その言葉を信じなかったため、自分たちこそアブラハムの真の子孫ではないことを証明してしまいました。

今日の箇所で、パウロはこのことを教えています。彼はこう言いました。

「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。

聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。

ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。(ガラテヤ人への手紙3:6-9)

パウロによれば、アブラハムが神様に義と認められたのは、律法に従ったからではありません。なぜなら、その当時、律法はまだ存在していなかったからです。それに、アブラハム自身も罪を犯したことがありました。

それでも、最終的にアブラハムは神様とその約束を信じたため、神様に義と認められました。

アブラハムの真の子孫は、彼と同じように生きます。私たちは失敗するときもありますし、罪を犯すこともあります。

私たちは、神様の律法を完全に守ることで義と認められるのではありません。むしろ、イエス様を信じることによって、神様に義と認められるのです。

実際のところ、もし私たちが自分の正しい行いによって義と認められようと努めるなら、パウロによれば、私たちはかえって呪われてしまいます。

律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。

「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。(10)

しかし、良い知らせは、イエス様が私たちの代わりに呪われたということです。パウロはこのことを説明します。

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。

「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。(13)

十字架で死なれたとき、イエス様は律法の呪いをすべて受け、私たちに対する神様の怒りを担われました。そして、パウロによれば、イエス様は私たちを贖い出してくださいました。言い換えると、イエス様は罪の奴隷である私たちをサタンの国から買い取って、解放してくださいました。

だから、私たちもアブラハムが受けた救いの祝福を受けることができます。私たちがしなければならないのは、ただ神様の約束を信じることです。

パウロは自らの議論をこのようにまとめています。

律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。(11)

あなたはどうでしょうか。あなたはアブラハムの真の子孫でしょうか。イエス様を信じていますか。それとも、自分の良い行いによって神様に義と認められようと努力しているでしょうか。

神様を信じず、自分の資格によって義と認められようとする者は、誰も救われません。

あなたの救いは何に基づいているでしょうか。自分の努力に頼っていますか。それとも、神様に頼っていますか。

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ガラテヤ人への手紙

信仰によって歩み続ける

クリスチャンになった後、「良いクリスチャン」になるためにキリスト教のルールに従わなければならないと思う人は少なくありません。

なぜなら、私たちの社会では、学校のクラブ、会社、家族など、どこでも従うべきルールや果たすべき義務があるからです。

そのため、クリスチャンになると、多くの人はこう考えます。

「ルールは何だろうか。クリスチャンとして、私は何をしなければならないのか。毎日、聖書を読まなければいけないのか。毎日、何分(何時間?)ぐらい祈らなければならないのか。教会で、どのように仕えるべきなのか。」

そして、そのルールに従わないと、罪悪感を抱き始めます。自分が「悪いクリスチャン」だと思うからです。

さらに、周囲のクリスチャンたちは、新しく信仰を持った人にさまざまなルールを教え始めます。

「本当のクリスチャンはお酒を飲みません。本当のクリスチャンは決して教会を休みません。本当のクリスチャンは什一献金をささげなければなりません。」

ガラテヤの教会では、このような問題が発生しました。ユダヤ人クリスチャンたちは、ガラテヤのクリスチャンたちにこう言いました。

「もちろん、クリスチャンになるための最初のステップはイエス様を信じることです。しかし、その後、割礼を受けなければなりません。また、豚肉やその他の『汚れた食べ物』を食べてはいけません。安息日を正しく守ることも忘れてはいけません。」

彼らがまるで権威を持っているかのように話したため、ガラテヤ人たちは彼らを信じました。その結果、パウロは困惑し、叫びました。

ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。(ガラテヤ人への手紙3:1)

そして、パウロは彼らに尋ねました。

これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。(2)

また、

あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか。(5)

その明らかな答えは、ガラテヤ人たちが聖霊様の賜物や神様からのその他の祝福を、神様の律法への従順によってではなく、むしろ彼らが聞いた福音を信じることによって受けたということです。

だから、パウロは彼らに尋ねました。

あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。(3)

要するに、私たちのクリスチャン生活は信仰によって始まり、それが単なるルールの遵守に変わるわけではありません。むしろ、私たちは毎日、信仰によって生き続けます。また、私たちのクリスチャン生活は恵みによって始まり、恵みによって続くものです。

私たちのクリスチャン生活は、単に神様のルールに従うことではありません。私たちの焦点は神様のルールの遵守ではないのです。

むしろ、私たちは毎日イエス様に目を向けなければなりません。私たちは毎日イエス様と共に歩み、その声を聞き、イエス様を信じ、イエス様が語られることに従います。

そして、私たちがイエス様を信じ、信仰によって踏み出すと、イエス様はご自身の言葉に従う力を私たちに与えてくださいます。それがクリスチャンの生活です。もう一度、私は言います。クリスチャンの生活は単なるルールの遵守ではありません。

あなたはどのようにクリスチャンの生活を送っているでしょうか。あなたの焦点は、努力してさまざまなルールを守ることですか。

そのような生活を送ろうとするなら、結局罪悪感に陥ることになります。なぜなら、それらのルールを完全に守ることができないからです。

だからこそ、イエス様に焦点を向けましょう。イエス様に近づくこと、イエス様の声を聞くこと、イエス様の導きに従うことを学びましょう。それが信仰によって生きる人生です。それこそがクリスチャンの生活です。

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コリント人への手紙第二

私たちが神様に信頼できる理由

試練のとき、神様に対する信仰を失うのは容易なことがあります。

パウロもそのような経験をしたでしょうか。特に、彼が耐えがたいほどの激しい圧迫を受け、生きる望みさえ失いかけたとき、信仰を失う危機に直面したでしょうか。(コリント人への手紙第二1:8)

最終的に、信仰を失うのではなく、その試練を通して、パウロたちは神様に頼ることを学びました。(9節)

では、彼らはどのようにして信仰を保つことができたのでしょうか。また、私たちはどのようにして自分の信仰を守ることができるでしょうか。

パウロはこう記しました。

神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「はい」であると同時に「いいえ」である、というようなものではありません。(コリント人の手紙第二1:18)

その言葉の中で、私の心を打つことの一つは、神様が真実な方であるということです。

試練の中で振り返ると、私たちはその真理を実感するはずです。

しかし、自分の人生だけでなく、過去のクリスチャンや現代のクリスチャンの歩みを見ても、神様の真実さがよく分かります。

さらに、神様は私たちの罪のためにイエス様を送られたとき、ご自身の約束を守ることで、その真実さを証明されました。

パウロはこう言いました。「私たちのことばは、『はい』であると同時に『いいえ』である、というようなものではありません。」

要するに、福音は私たちが頼ることのできるものです。そのメッセージは決して変わりません。

神様は私たちに、「イエスを信じれば、あなたは救われる」と約束されたので、天国の門で突然「やっぱりだめです。私の気が変わりました。入ってはいけません」と言われることは決してありません。

人は約束を破ることがあるかもしれませんが、神様の約束は決して変わりません。神様は真実な方だからです。

だから、パウロはこう語りました。

たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。(ローマ書3:4)

パウロは続けてこう言います。

私たち、すなわち、私とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「はい」と同時に「いいえ」であるような方ではありません。

この方においては「はい」だけがあるのです。神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。

それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。(コリント人の手紙第二1:19-20)

要するに、この絶えず変わり続ける世界にあっても、イエス様は決して変わりません。言い換えると、「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」(ヘブル 13:8)

イエス様にあって、神様の約束はすべて確認されています。

イエス様は良い知らせを宣べ伝え、病を癒し、私たちの罪のために死なれたとき、メシアについての預言を成就されました。そして、やがて来る日には、永遠の国を開始し、残された預言をも成就されるでしょう。

だからこそ、私たちは神様の約束をなおさら信じることができます。

すなわち、試練のとき、神様が私たちと共におられるという約束です。また、この試練がただ一時的なものであるという約束です。そして、私たちは勝利を得て、この試練から精錬された金のようになって出てくるという約束です。

だから、イエス様にあって、私たちは「アーメン。あなたがそれらのことを約束されたので、必ずその約束を守られると信じます。」と言うことができます。

しかし、パウロはさらにこう語ります。

私たちをあなたがたと一緒にキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。

神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました。(コリント人の手紙第二1:21-22)

神様は私たちに聖霊という油を注がれました。神様はご自身の目的のために私たちを聖別されました。そして、神様の保証の証印を私たちに押されました。

その証印を通して、神様は宣言されます。「この人は私のものです。私のひとり子の血によって、この人を贖いました。」

聖霊様は、神様がすべての約束を守られることの確かな保証です。

だから、どんな試練に直面しても、神様に信頼しましょう。

人は私たちを失望させることがあるかもしれませんが、神様は真実な方です。

あなたはどうでしょうか。神様に信頼しますか。

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コリント人への手紙第一

何が残るか

13章におけるパウロの最後の言葉は興味深いものです。パウロは、私たちがイエス様のみ顔を仰ぐとき、どの賜物がなくなるのかについて語ったばかりでした。

しかし、13節では、天国に残るものについて語ります。

彼はこう言いました。

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。(コリント人への手紙第一13:13)

天国でも信仰が残るというのは、興味深いことだと思います。なぜなら、私たちは神様のみ顔を直接仰ぐからです。

では、天においても信仰が必要なのはなぜでしょうか。もしかすると、天にある信仰は、この世にある信仰とは異なるのかもしれません。

私たちが地上にいる間、罪深い心のゆえに神様を信じることに苦労します。私たちの心の一部は神様を信じていますが、一部は信じきれていません。

マルコ9章では、ある父が自分の心の中でそのような葛藤を抱えていました。私たちは神様を見ることもできず、御声を直接聞くこともできないため、信じることは難しいのです。

けれども、私たちが天の父のもとへ行くと、神様を信じることがはるかに容易になります。神様のみ顔と愛を直接見ることで、私たちが神様を信じるのは当然のこととなるでしょう。私は今、そのような確信に満ちた信仰を持ちたいと願います。

また、天国に希望があるというのも少し不思議に思えます。何を望むことができるのでしょうか。私たちはすでに救われ、天国にいるのです。

とはいえ、天国にある希望は、この世の希望とは異なると思います。私たちが天国で苦しみ、救いを求めるわけではありません。

むしろ、私たちはすでに喜びを持っており、さらに将来においても深い喜びを抱く希望を持っています。なぜなら、私たちは神様が良い方であると信じているからです。

それでも、パウロによれば、その中で最も優れているのは愛です。なぜでしょうか。はっきりとは分かりませんが、もしかすると、その理由の一つは、希望と信仰は残るものの、形が少し変わるからかもしれません。

今の信仰の大きな要素は、目に見えないものを信じることです(へブル11:1)。しかし、天国では私たちは神様のみ顔を直接仰ぎます。

同様に、希望の大きな要素は、目に見えないものを待ち望むことです(ローマ8:24)。

けれども、キリストを見ると、私たちの最も大きな希望は完全に満たされます。キリストにあってすでに与えられたものと比べると、私たちがまだ望むものは取るに足りないものとなるでしょう。

その一方、天国では私たちの愛の形が変わるのではなく、むしろ、完全なものとなるのです。私たちの嫉妬やプライド、自己中心的な態度はすべて取り除かれ、愛はこれまで経験したどの愛よりも、さらに満ち溢れ、純粋なものとなるでしょう。

私はその日が待ち遠しいです。

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ローマ人への手紙

信じることを拒否すると

以前の記事で、私は救いの逆説について述べました。つまり、救いの道は簡単でありながら、同時に難しいのです。

私たちがただ神様を信じ、イエス様の十字架の働きを信じるなら、救われます。それでも、多くの人々はそうしません。ユダヤ人はその代表的な例です。

そこで、パウロはこう語りました。

しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか」とイザヤは言っています。(ローマ人への手紙10:16)

それはユダヤ人だけの問題ではありません。この世の多くの人々も同じ問題を抱えています。今なお、パウロの言葉は世の人々に当てはめることができます。

「主よ、私たちが聞いたことを、誰が信じたでしょうか。」

そして、パウロは重要な真理を語ります。

ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。(ローマ人への手紙10:17)

要するに、人々が救われるためには、二つのことが必要です。人々は福音を聞かなければならず、また、そのメッセージを信じなければなりません。

では、なぜユダヤ人や他の人々は信じないのでしょうか。イエス様は彼らに語られなかったのでしょうか。それとも、彼らは聞かなかったのでしょうか。そうではありません。

パウロはこう書きました。

では、私は尋ねます。彼らは聞かなかったのでしょうか。いいえ、

むしろ、「その響きは全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた」のです。(18)

パウロは詩篇19:4を引用しました。その詩篇では、詩人が「天は神の栄光を語り告げる」と歌っています。

パウロはこの詩篇を福音に当てはめ、福音が世界の果てまで届いたことを示します。

そして、パウロは問いかけます。

では、私は尋ねます。イスラエルは知らなかったのでしょうか。(19)

彼らは知っているはずでしたが、結局、神様の言葉を理解できなかったようです。

そして、パウロは救いの皮肉について語ります。神様はまずユダヤ人にご自身を現されましたが、彼らは神様に背を向けました。そこで、神様は異邦人のもとへ行かれ、異邦人は信じたのです。

だから、パウロはイザヤの言葉を引用します。

わたしを探さなかった者たちにわたしは見出され、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した。(20)

この箇所では、神様は異邦人について語られました。異邦人はそれぞれ自分の道を歩み、神様を全く求めていませんでした。

それにもかかわらず、神様はご自身を彼らに現されました。その結果、異邦人は神様を信じるようになったのです。

とはいえ、ある意味では、この箇所をユダヤ人にも当てはめることができます。彼らも神様を求めてはいませんでした。彼らはエジプトで奴隷であった時、偶像を礼拝していました(ヨシュア24:14)。

それでもなお、神様はご自身を彼らに現されました。では、彼らの反応はどうだったでしょうか。

神様は彼らについて、こう言われました。

わたしは終日、手を差し伸べ た。不従順で反抗する民に対して。(21)

では、なぜ彼らは信じなかったのでしょうか。

彼らはいくつもの奇跡を目の当たりにしました。神様はエジプトに数々の災害を送り、紅海を分け、砂漠でマナを与えられました。ユダヤ人には信じる理由が十分にあったのです。

そして、イエス様が来られました。イエス様も多くの奇跡を行い、悪霊を追い出し、卓越した知恵を教えられました。けれども、彼らはイエス様を拒絶しました。

なぜでしょうか。

ほかの者たち(つまり、神様を信じないユダヤ人たち)は頑なにされたのです。

「神は今日に至るまで、彼らに鈍い心と見ない目と聞かない耳を与えられた」と書いてあるとおりです。(11:7-8)

パウロはイザヤ書29章を引用しました。私はこの箇所についてさらに説明しますが、その要点は、ユダヤ人が先に自分の目を閉じたことにあります。そこで、神様は彼らにこう言われました。

「あなたは見たくないのですか。では、あなたは霊的な盲人になれ。」

ユダヤ人は何百年もの間、神様の御業を目の当たりにし、み言葉を聞いてきました。ところが、どうしても信じることができませんでした。そのため、神様は彼らを自らの不信へと引き渡されました。

福音を聞く者は、この危険に直面します。もし私たちがずっと心を頑なにし続けるなら、神様は私たちにこう言われるかもしれません。

「信じたくないなら、信じるな。」

そして、私たちは不信の結果を受けることになります。それは、死です。

だから、救いのメッセージに対して心を閉ざさないでください。そうしなければ、霊的な目が見えなくなり、やがて永遠の死へと向かうことになるでしょう。

むしろ、心を開きましょう。イエス様とその福音だけが、あなたを救うのです。

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ローマ人への手紙

神様の選びの神秘(5)

予定説に関するもう一つの疑問についてお話ししたいと思います。

以前にも述べたように、もし神様が人の心の中で働かれなければ、誰も救われることはありません。それなら、なぜ神様はすべての人々の心の中で働かれ、すべての人々を救われないのでしょうか。

正直に言うと、私にはわかりません。おそらく、私が理解できない要素があるのでしょう。さらに、聖書には神様がその理由を説明されていません。

しかし、私たちは二つのことを心に留めるべきです。

第一に、神様は人の信仰を非常に大切にされます。そして、信仰とは、目には見えなくても神様に信頼することです。

けれども、ある人々にとって、神様を信じる前に自分の目で神様を見たいと願うことがあります。彼らは基本的にこう言います。

「神様の存在を証明する証拠があることは認める。それでも、自分の目で見ない限り、私は神様を信じない。」

でも、それは信仰の姿勢ではありません。さらに、多くの場合、その言葉は反抗的な心から生じています。そのため、神様はその願いを叶えられないことが多いのです。

では、もう一つのことを考えてみましょう。

神様が人々の人生の中で働かれるとき、多くの場合、クリスチャンを通して働かれます。

そして、神様は私たちにこの世の人々に福音を述べ伝える責任を与えられました。神様は天の御国の鍵を私たちに与えてくださいました。それを使わずに福音を伝えないなら、私たちは神様に問われることになります。(エゼキエル書33:7~9)

それでも、神様は私たちにその鍵を使うことを強制されません。

だから、神様が人々の人生の中で働かれるとき、二つの方法を用いることができます。

第一に、神様は直接働かれることができます。つまり、神様はご自身を直接現されることができるのです。とはいえ、神様は信仰を望まれるため、その方法をほとんど用いられません。

もう一つの方法は、神様が人々を通して他の人々に触れられることです。ただし、神様はクリスチャンたちに福音を伝えることを強制されません。

そのため、多くの人々が救われないままとなります。

では、神様の考え方は正しいのでしょうか。神様は私たちの創造主であり、すべてのことを知っておられます。

一方、私たちはただの人間であり、限られたことしか理解できません。そのため、神様の判断を批判することはできないでしょう。

だから、予定説について考えるとき、最終的にアブラハムのように私たちはこう言うべきなのです。

全地をさばくお方は、公正を行うべきではありませんか。(創世記18:25)

結局、私はそう思います。そして、神様が公正を行われることを信じます。

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ローマ人への手紙

救い:賜物?当然支払われるべきもの?

この個所では、パウロはとても大切な疑問について話します。

救いや永遠の命は神様からの賜物でしょうか。もしかしたら、それらは、当然支払われるべきものでしょうか。

パウロははっきりと答えます。

働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。

しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。(ローマ人への手紙4:4-5)

従業員が働くと、給料日に上司は「あなたの給料を振り込みました。私はとても気前がいいですね。」とは決して言わないでしょう。

もし上司がそんなことを言えば、従業員は心の中でこう思うはずです。

「どういうことなんだ?気前がいいだって?私たちには契約があるはずだ。私はきちんと働いたのだから、会社は当然給料を払うべきだろう。」

しかし、私たちは神様に対してこのようなことを言うことはできません。

私たちが赦され、永遠の命を得る理由は、私たちが完全に律法を守ったからではありません。律法を守ることによって神様の子供になったわけでもありません。

むしろ、パウロはこう言います。

実際、律法は御怒りを招くものです。(15)

要するに、どんなに頑張っても、私たちは失敗してしまいます。

私はこう思うかもしれません。「前回は失敗したけれど、これからは努力して律法を完全に守ります。」

しかし、結局私たちは律法に違反し、神様の怒りを招いてしまいます。

旧約聖書の時代、ユダヤ人たちはその真理を深く学びました。そこで、神様は彼らにこう言われました。

「この律法に基づいた契約はうまくいっていない。

もちろん、律法は良いものだが、あなたがたは罪人であり、その律法を完全に守ることはできない。

だから私は新しい契約を与える。その契約はあなたがたの行為によるものではなく、私の行為によるものだ。」

エレミヤ書31:31ー34には、その新しい契約が記されています。

見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。

その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。

これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。

わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、「主を知れ」と言って教えることはない。

彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。

わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

要するに、「あなたがたはもはや自分自身を変える必要はありません。私があなたがたの心を変えるので、あなたがたは善を行うことができるようになります。

また、私とあなたがたの間に、もはや仲介者としての祭司は必要ありません。あなたがたは私と直接関係を持ち、私はあなたがたの罪をすべて赦します。」ということです。

この新しい契約は何に基づいているのでしょうか。最後の晩餐の時、イエス様は弟子たちにこう言われました。

また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」

また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。

「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの(新しい)契約の血です。」(マタイ26:26-28;ルカ22:19-20)

だから、私たちの救いと神様との関係は、私たちの行為に基づいているのではありません。むしろ、私たちの行為によって、神様の怒りを受けるに値します。しかし、救いは、イエス様の十字架の働きに基づいた賜物です。

律法が与えられる前に、神様はアブラハムにその賜物を与えてくださいました。そして、神様は同じ賜物を私たちにも与えてくださいます。

アブラハムは信仰によって受け入れられ、その賜物を受けました。同じように、私たちも信仰によって受け入れられ、その賜物を受けるのです。

だから、パウロはこう言われました。

そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。

こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。(ローマ人への手紙4:16)

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使徒の働き

ただの人間

この箇所を読むと、罪に陥った多くの有名な牧師の名前が思い浮かびます。かつて多くの人々が彼らを尊敬していましたが、やがてその尊敬を失ってしまいました。

そのとき、クリスチャンたちは、彼らがただの人間であることを改めて思い知らされたのです。

それでも、私たちが牧師を特別な存在として見なすのは容易なことです。おそらく、神様の姿を直接見ることができないため、牧師を模範とし、彼らに目を向け、従おうとしてしまうのでしょう。

けれども、最終的に彼らもただの人間なのです。

あなたがリーダーであっても、ただの教会のメンバーであっても、私たち皆はこのことを常に心に留めておかなければなりません。

パウロはそのことを深く認識していました。

パウロとバルナバがリステラを訪れたとき、彼らはイエス様のみ名によってある人を癒しました。リステラの群衆はその奇跡を目にすると、パウロとバルナバを神々として礼拝しようとしました。

なぜでしょうか。

それは、彼らの神話によれば、かつてゼウスとヘルメスが人間の姿で人々の間に現れたものの、多くの者が彼らを歓迎せず、その結果、神々の怒りによって罰せられたからです。しかし、一組の夫婦が彼らを受け入れ、その善意によって祝福されたという伝承がありました。

リステラの人々はこの話を覚えており、パウロとバルナバにいけにえを捧げたいと思いました。けれども、それを見たパウロとバルナバは、叫びました。

皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ人間です。

そして、あなたがたがこのような空しいことから離れて、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えているのです。(使徒の働き14:15)

それでも、パウロとバルナバは、群衆が自分たちにいけにえを献げるのを、かろうじてやめさせました。

パウロはコリントの教会でも、似た問題に直面しました。そこでは、コリントのクリスチャンたちが、どのリーダーが最も偉大なのかを議論していました。しかし、パウロは彼らにこう問いかけました。

パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。(第一コリント1:13)

また、

アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。(第一コリント3:5-7)

たとえ最も敬虔な人であっても、祭り上げることは危険です。なぜなら、彼らもまた、ただの人間だからです。

人間は失敗することがあります。

人間は私たちを落胆させることがあります。

もし私たちの信仰の基盤が神様ではなく、一人の人間に置かれているなら、その人が私たちを失望させたとき、私たちの信仰はどうなるでしょうか。

パウロはその危険を私たちに警告しています。

しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。(第一コリント3:10-11)

あなたの信仰の基盤は何でしょうか。あなたの牧師でしょうか。有名な著者や牧師でしょうか。それとも、イエス様でしょうか。

イエス様だけが、私たちが真に信頼できる揺るぎない基盤です。イエス様に信頼するなら、あなたは決して失望することがありません。(イザヤ書28:16;第一ペテロ1:6)

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使徒の働き

神様の応答、私たちの信仰

この話は多くの意味で非常に面白い場面です。

特に面白いのは、天使がペテロを牢から救い出し、ペテロがマリアの家に行ってノックをしたとき、召使いのロデがあまりにも興奮しすぎて、ペテロを外に立たせたまま、他のクリスチャンたちに良い知らせを伝えた場面です。

けれども、この話を読んで、私はこう思いました。

「どうして神様はペテロを助けたのに、ヤコブを救ってくださらなかったのだろうか。」

その答えを私たちは知りません。

クリスチャンたちはヤコブのためにも祈っていたはずです。そして、ペテロのために祈ったとき、彼らの信仰がより強かったから神様が答えてくださったわけではありません。

なぜなら、ロデがペテロが外にいると伝えたとき、彼らはロデの言葉を信じませんでした。もし彼らに強い信仰があったなら、すぐに扉を開けていたでしょう。それでも彼らはそうせず、ロデが正気かどうかを疑い続けました。

私たちはクリスチャンたちの不信仰を批判できないと思います。なぜなら、彼らはヤコブのために祈ったのに、ヤコブは殺されてしまったからです。

彼らがヤコブのために祈ったとき、おそらく彼らの信仰は非常に強かったはずです。なぜなら、それ以前に神様は使徒たちを敵から救い出してくださったからです。(使徒の働き5章)

それでも、神様はヤコブを救い出さずに、ペテロを救い出してくださいました。

この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

1.私たちがどれほど強い信仰を持っていたとしても、神様は私たちの祈りに応えてくださらないことがあります。

時に、私たちの願いは神様の御心と一致していないため、神様は私たちの願いを退け、ご自身の計画を成し遂げられます。

その時、私たちはどう反応するでしょうか。

失望しても、なお神様に信頼し続けるでしょうか。

神様の方法が最善であることを信じ続けるでしょうか。

また、失望の中でも祈り続けるでしょうか。

この話のクリスチャンたちはそうしました。彼らは失望しても、信仰をあきらめませんでした。神様に対して苦々しい思いを抱くこともありませんでした。

むしろ、次の試練が訪れたとき、彼らはすぐに祈り始めました。そして、彼らの信仰が弱かったにもかかわらず、神様の恵みによってペテロは救われました。

これが私の次のポイントです。

2.私たちの信仰や不信仰は神様を制限しません。

もちろん、神様は私たちの信仰を望まれます。けれども、私たちの信仰が弱いときでも、神様はその不信仰によって制限されることはありません。神様は恵みに満ちた方であり、私たちに値しないものさえも与えてくださいます。

だから、私たちは神様のもとへ行き続け、神様が良い方であることを信じ続け、また、神様が最善を知り、それを行われることを信じ続けなければなりません。

神様はいつも私たちの願いを叶えられるわけではありません。しかし、神様はそのような信仰をいつも祝福されます。なぜなら、その信仰こそが神様を喜ばせるからです。

へブル人への手紙の著者はこう書きました。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル11:6)

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使徒の働き

聖霊と信仰に満ちている人

バルナバはとても素晴らしい人でした。使徒の働き4章では、彼は自分の土地を売り、その代金を教会に捧げて貧しい人々を助けました。

そして、9章では、使徒たちや他のクリスチャンたちがサウロを疑い、恐れていたとき、バルナバは彼を支持しました。

さらに、この箇所では、バルナバは異邦人たちに働きかけ始めました。クリスチャンたちが異邦人の間で実を結び始めると、使徒たちはバルナバを彼らのもとへ遣わしました。

そして、23節にはこう書かれています。

バルナバはそこに到着し、神の恵みを見て喜んだ。そして、心を堅く保っていつも主にとどまっているようにと、皆を励ました。(使徒の働き11:23)

その後、バルナバはサウロを呼び、アンティオキアの信者たちに仕えました。(その場所で、信者たちは初めて「クリスチャン」と呼ばれました。)

そして、大飢饉が起こるという預言を聞くと、バルナバとサウロはアンティオキアで救援物資を募り、それをエルサレムへ持ち帰り、そこで苦しんでいるクリスチャンたちを助けました。

しかし、24節の言葉は私の心に深く響きます。

(バルナバ)は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。(24)

私もそんな人になりたいと思います。立派な人になりたいです。

前にも言いましたが、「バルナバ」とは彼のニックネームでした。本名はヨセフでした。けれども、彼は皆に愛され、「バルナバ」、つまり「慰めの子」と呼ばれるようになりました。

なぜバルナバはそのような生き方をしたのでしょうか。それは、彼が聖霊と信仰に満ちていた人だったからです。

彼は聖霊に満たされ、豊かな実を結びました。彼の心から愛が溢れました。

他の人々がある人を信じなくても、バルナバはその人を信じました。彼は惜しみなく自分の財産や時間を人々に与えました。さらに、彼の言葉によって、多くの人々が励まされました。

バルナバの信仰は、ただイエス様を信じるだけではありませんでした。その信仰は彼の人生のすべてに浸透し、周りの人々にも影響を与えました。

その結果は?

こうして、大勢の人たちが主に導かれた。(24b)

私はそのことを強く望みます。人々が私の人生を見て、イエス様に魅了されるほどに、私は聖霊と信仰に満ちた人になりたいと思います。

「私の信仰は個人的なものだから、あまり話さない」と言う人もいます。

ある人は、聖霊に満ちることをただ自分の益のためだと考えています。彼らは祝福を受けたいと思っているのです。

しかし、もし私たちが本当に聖霊と信仰に満ちているなら、私たちの人生は完全に変わります。

私たちの考え方が変わります。

私たちの生き方が変わります。

神様の愛が私たちを通して流れ、人々に触れることで、彼らは神様に魅了されます。

あなたはどうでしょうか。あなたは聖霊と信仰に満ちているでしょうか。

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使徒の働き

祝福を受けることができる前

多くの人々は、神様からの祝福を願います。

実際、神様は、自分の子どもに贈り物を与える愛に満ちた父です。神様の子どもとして、私たちは祝福を期待することができます。

けれども、その祝福を受ける前に、私たちがすべきことがあります。ペテロはユダヤ人たちにこう言いました。

ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。

そうして、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。。。

モーセはこう言いました。

「あなたがたの神、主は、あなたがたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる。

彼があなたがたに告げることすべてに聞き従わなければならない。その預言者に聞き従わない者は誰でも、自分の民から断ち切られる」。。。

神はまず、そのしもべを立てて、あなたがたに遣わされました。その方が、あなた方一人ひとりを悪から立ち返らせて、祝福にあずからせてくださるのです。(使徒の働き3:19-20、22-23、26)

つまり、ペテロはこう語っていたのです。

「モーセ自身が、『モーセのような一人の預言者が来る』と言いました。そして、モーセは『あなたがたはその預言者に聞き従わなければならない。そうしなければ、あなたがたは自分の民から断ち切られる』とも語りました。

その預言者はすでに来られました。イエス様こそ、その預言者です。だから、イエス様の言葉を聞いて悔い改めなさい。

あなたを祝福するために、神様はイエス様を遣わしてくださいました。しかし、まずあなたがたが悔い改めなければなりません。そうすれば、イエス様があなたがたの罪をぬぐい去り、回復の時、そして祝福の時が訪れます。」

ペテロはこの言葉をユダヤ人たちに語りましたが、この言葉は私たちにも当てはまります。

神様はまずイエス様をユダヤ人たちのために遣わしましたが、同時に、神様は私たちのためにもイエス様を遣わしてくださいました。そして、イエス様がユダヤ人たちを祝福されたように、私たちも祝福してくださいます。

けれども、その前に、私たちは悔い改めなければなりません。自分の道を歩み続けることはできません。私たちはイエス様に聞き従わなければならないのです。

そうしなければ、決して神様からの祝福を知ることはできません。それどころか、神様の民から断ち切られ、神様の国に入ることもできません。

多くの人々は神様からの祝福を望みますが、自分の道を歩み続けたいと思います。自分勝手な条件でその祝福を望みます。しかし、本当に祝福を望むなら、自分勝手な条件ではなく、神様の条件に従う必要があります。

もちろん、救いも同じです。自分勝手な条件では、救いを得ることはできません。つまり、良い行いによって救いを得ることはできないのです。むしろ、イエス様とその十字架の働きを信じることが必要です。

ただイエス様への信仰によって、あなたは神様に義と認められます。

そして、救いを得た後も、私たちは同じ原則に従って生き続けます。もし、自分の道を歩むなら、神様からの祝福を期待することはできません。私たちは神様の道を歩まなければならないのです。

では、私たちは何とかしてその祝福を得るために努力しなければならないのでしょうか。違います。私たちは決してそんなことはできません。

とはいえ、神様は私たちの信仰を求めておられます。私たちは神様に従うほどに、神様を信じるでしょうか。それなら、私たちはその祝福を知ることができます。

ノアが箱舟を作ったとき、その教訓を学びました。

アブラハムがカナンに行ったとき、その教訓を学びました。

ダニエルが王の食べ物を拒絶したとき、その教訓を学びました。

聖書の時代でも、現代でも、多くの人々がその教訓を学びました。

あなたは神様からの祝福を求めていますか。

あなたはどれほど神様を信じていますか。自分の道をやめて、神様の道を歩むほどに、神様を信じていますか。

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ルカの福音書 ルカ24章

鈍い心

いつイエス様がペテロにご自身を現されたのかによりますが、この話では、私たちはイエス様の復活後の三度目か四度目の現れを見ることになります。

この話では、二人の弟子たち(十二人の弟子には含まれていない)が、エマオという村へ向かっていました。もしかすると、エマオは彼らの故郷だったのかもしれません。

彼らは歩きながら、女性たちの証言や、ペテロとヨハネの報告について語り合っていました。けれども、彼らはまだイエス様の復活を信じていなかったようです。

すると、イエス様が突然現れました。しかし、彼らはイエス様を認識することができませんでした。聖書によれば、彼らの目は遮られていたのです(16節)。

つまり、彼らはイエス様を見ることができたものの、イエス様は彼らがご自身を認識することを許されませんでした。

もしかすると、イエス様は墓の外でマリアに現れた際も、同じことをされたのかもしれません。

その後、イエス様は彼らに尋ねられました。

歩きながら語り合っているその話は何のことですか。(ルカの福音書24:17)

おそらく、その二人はとても驚いたでしょう。「知らないのですか?あなたはエルサレムにいたのではないのですか?何が起こったか、ご存じでしょう?」

けれども、イエス様は何も知らないふりをして答えられました。

「どんなことですか?」(19節)

すると、その二人は自分たちの混乱と悲しみを打ち明けました。つまり、彼らはイエス様がメシアであり、ユダヤ人をローマ帝国から解放してくださると信じていました。

しかし、イエス様は十字架で死なれました。それに、彼らはイエス様がよみがえられたという話を聞いたものの、それが本当に信じられるかどうかわかりませんでした。

それを聞いて、イエス様は彼らを叱責されました。

ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。

キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。(25-26)

そして、イエス様は、苦しむメシアが私たちの罪のために死なれ、よみがえられたという、最初の説教を語られました。

彼らがエマオに着くと、イエス様はさらに先へ行かれる様子でした。けれども、彼らの心は揺さぶられ、イエス様に熱心にお願いしました。

一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています。(29)

そして、イエス様が彼らと食卓に着かれると、パンを取り、神様をほめたたえ、それを裂いて渡されました。(30)

もしかすると、その光景を見たとき、彼らはイエス様が5000人にパンと魚を与えられた出来事を思い出したのかもしれません。そして、彼らの目が開かれ、イエス様を認識しました。

ところが、その瞬間、イエス様の姿は見えなくなりました。

すると、彼らは話し合いました。

道々お話しくださる間、私たちに聖書を解き明かしてくださる間、私たちの心はうちで燃えていたではないか。(32)

そして、彼らは11人の弟子たちのもとへ行き、イエス様が復活されたことを伝え、女性たちとペテロの証言を確かめました。

では、この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちはどれほど神様の言葉に対して鈍い心を持っているでしょうか。

私たちは、イエス様が私たちの罪のために死なれ、よみがえられたことを信じているかもしれません。しかし、イエス様のほかの言葉を本当に信じているでしょうか。

なぜ私たちの心は鈍くなってしまうのでしょうか。

もしかすると、あの二人の弟子のように、過去の経験を振り返ることで失望するのかもしれません。あるいは、私たちの人生が思い描いた通りに進んでいないのかもしれません。

そうすると、私たちは神様に問いかけます。 「あなたの言葉は真実なのでしょうか。あなたは本当に私とともにおられるのでしょうか。私の必要を本当に満たしてくださるのでしょうか。あなたは私を本当に愛しているのでしょうか。」

私もそうした疑いを抱いたことがあります。

もしかすると、私たちは神様の道を疑い、自分の道を選びたいと思うのかもしれません。神様の道は意味がないと思ってしまうからです。

私はノンクリスチャンと結婚するクリスチャンを何人も知っています。彼らの理由は、良いクリスチャンの伴侶を見つけられなかったことでした。けれども、多くの場合、後になってその決断を後悔しました。

私たちがイエス様の言葉を信じないなら、あの二人の弟子たちのように、失望と悲しみに満ちた人生を歩むことになります。

しかし、良い知らせがあります。イエス様は決して私たちを見捨てません。イエス様は今も私たちとともに歩んでおられます。

もし、私たちが心を開き、すべてを打ち明けるなら、イエス様はご自身の言葉を私たちの心に注ぎ、私たちを癒し、新しい希望を与えてくださいます。

だから、鈍くなった心を捨てましょう。心を開き、イエス様を信じましょう。

聖書はこう言っています。「この方(イエス様)に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」(ローマ10:11)

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マタイの福音書 マタイ21章 マルコの福音書 マルコ11章

私の信仰の強さは?

信仰。

実は、私は自分の信仰があまり強くないと感じています。特に、祈るときに自分の信仰が弱いと感じることがあります。私は祈るとき、本当に信仰をもって祈っているのでしょうか。「信仰をもって祈る」とは、どういう意味なのでしょうか。

イエス様が呪われた木が枯れたとき、弟子たちは非常に驚きました。そして、彼らはイエス様にこう尋ねました。

どうして、すぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。(マタイ21:20)

イエス様はこのように答えられました。

神を信じなさい。(マルコ11:22)

「神様を信じなさい」とは何を意味するのでしょうか。私たちは何を信じるべきでしょうか。

1.神様が良い神であるということ。 神様は私たちを愛する天の父であり、私たちに良い賜物だけをくださいます。

だから、私たちがパンを願えば、神様は石を与えるようなことはされません。また、私たちが魚を願えば、神様は蛇を与えるようなこともされません。

2.神様が私たちの祈りを聞いてくださるということ。 どんなに小さな願いであっても、神様はそれを聞いてくださいます。私たちの問題がどれほど大きくても、またはどれほど小さくても、神様は祈りを聞いてくださいます。

3.神様が私たちの祈りをかなえる力を持っておられるということ。 神様にとって、私たちの願いは決して難しいものではありません。

4.神様が私たちを祝福したいと望んでおられるということ。 正当な理由がない限り、神様は私たちに良いものを与えることを控えることはなさらないのです。

5.神様が私たちのために良い計画を持っておられるということ。 神様の計画は私たちにとって良いものであり、その計画は私たちの益のために働きます。

これらの五つのポイントを覚えながら、イエス様の次の言葉を読みましょう。

まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、「立ち上がって、海に入れ」と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。

ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求める者は何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、その通りになります。(マルコ11:23-24)

この箇所を読んで、神様に何を頼んでも、神様がその祈りを必ずかなえなければならないと考える人がいます。

けれども、時には、私たちが魚やパンに見えるものを願っても、実際にはそれらが石や蛇であることがあります。例えば、ある男性や女性と結婚することを祈ったとしても、十年後には神様がその祈りをかなえなかったことに感謝するようになる場合があります。

また、私たちは良いことのために祈ることがありますが、神様はさらに良いものを用意してくださることがあります。例えば、新しい仕事を願って祈ったとしても、神様はそれよりも良い仕事を与えてくださいます。

ですから、信仰をもって祈ったとしても、神様がその祈りをかなえてくださるとは限らないのです。

けれども、通常、私の問題は間違ったことのために祈るのではありません。多くの場合、私の問題は、神様が私の祈りをかなえてくださることを信じきれていないところにあるのです。

例えば、私の現在の職場は非常に素晴らしい場所です。以前の職場よりもはるかに良い職場です。

しかし、その学校に応募した際には、多くの疑いを抱いていました。実は、数年前、その同じ場所で不採用になった経験がありました。それに、何度も良い仕事を願って祈ったものの、その祈りがかなえられることはありませんでした。

それでも、私が十分な信仰を持っていなかったにもかかわらず、神様の恵みによって採用されることができました。

また、私はがんを患った友人のために祈ったことがあります。医師たちはその状態を見て「もう手の施しようがない」と言いましたが、多くの人が祈り、私も祈りました。ただ、私はあまり希望を持つことができませんでした。

もちろん、神様が友人を癒す力を持っておられることは信じていましたが、本当に癒してくださるかどうかは分かりませんでした。結局、2人とも亡くなりました。それでも、神様は1人の命を約5年延ばしてくださいました。

さて、ここで私が言おうとしているのは何でしょうか。

神様は信仰を見ると喜び、祈りに応えてくださいますが、祈りが叶うかどうかは私たちの信仰の強さにはあまり関係がありません。たとえ信仰が小さくても、神様が祈りに応えてくださることは多々あります。

それでも、私はもっと希望を持って祈るべきだと感じています。なぜなら、神様は私を助けてくださるだけでなく、実際に私を助けてくださった経験があるからです。

そのため、私はよく次のように祈ります。

「あなたを信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:24)

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ルカの福音書 ルカ18章

やもめと裁判官のたとえ話:試練に直面するとき、信仰を貫く

一節だけ読むと、イエス様のポイントは「神様がすぐに祈りに応えないときでも、祈り続けるべきである」ということだと思うかもしれません。

もちろん、それも正しいのですが、実際には、イエス様は特定の種類の祈りについて話されています。

この箇所では、イエス様はまだこの世の最後の日について話しています。その日は、悩みの日であり、試練に満ちた日です。

イエス様は私たちが自分の罪のために裁かれないことを約束されましたが、試練や苦しみを経験しないとは約束されませんでした。

時には、私たちは不正義を経験します。特に、反キリストが現れてこの世を支配する時には、クリスチャンたちは大いに苦しむことでしょう。

この箇所でイエス様は、そうしたクリスチャンたちについて語られています。聖書によれば、すべてのクリスチャンが迫害を受けるとされています。

そのような時には、「神様はどこにおられるのだろうか。神様は私を見捨てたのだろうか。まだ私を愛しておられるだろうか。正義はいつ実現するのだろうか」と疑問に思うかもしれません。

だからこそ、イエス様はこのたとえ話をされたのです。この話では、ある女性が不正義を経験したため、裁判官のもとへ行き、正義を求めました。

けれども、その裁判官は彼女の願いを何度も断りました。それでも彼女はあきらめず、何度も裁判官のもとへ行き、お願いを続けました。最終的に、裁判官はこう言いました。

私は神を恐れ ず、人を人と思わ ない が、このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよ う。

そうでないと、ひっきりなしに やって来 て、私は疲れ果ててしまう。(ルカの福音書18:4-5)

イエス様の意味されたことは何でしょうか。神様がその裁判官のように、私たちに正義を与えたくないために、毎日祈りで神様を困らせないと応えてくださらないということでしょうか。それは違います。

実際には、イエス様はその正反対のことを言われています。この不正な裁判官でさえ、その女性のしつこい願いに応じて正義を与えたのです。まして、あなたを愛する公正な神様が、喜んであなたに正義を与えてくださらないことがあるでしょうか。

黙示録6:9-11には、似たような場面が描かれています。その箇所では、聖徒たちはイエス様のために迫害を受けましたが、この世では正義を受けることはありませんでした。

それでも神様は彼らを励まし、「正義は必ず来る」と約束されました。

しかし、苦しんでいるときに正義を待つことは非常に辛いものです。だからこそ、イエス様は私たちにこう問いかけておられるのです。

だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。(8)

もしかすると、あなたはこう考えるかもしれません。

「大丈夫です。私はひどい苦難(マタイ24:21-22)に直面しない。イエス様はその前にクリスチャンたちのすべてを天国に連れて行ってくださるから、心配しなくていい。反キリストを見ることは決してないだろう。」

正直に言えば、私はその確信は持てません。もしかすると、私たちはそのひどい苦難を経験し、反キリストに直面するかもしれません。

とはいえ、仮にそれを避けられるとしても、あなたの信仰はどれほど強いでしょうか。

辛い時、あなたは神様とその正義を疑い始めるでしょうか。「神様、どこにおられるのですか。私を愛しておられるでしょうか。どうして私はこんなに苦しむのでしょうか。」と問いかけるでしょうか。

それとも、信仰を貫いて、こう言うでしょうか。

「神様、私はまだあなたを信じます。たとえ苦しんでいても、あなたを捨てません。私は、最終的にあなたが私に正義を与えてくださると信じます。この世ではその正義を見ないかもしれませんが、後に必ずあなたの正義を知ることになると信じます。」

イエス様があなたをご覧になるとき、揺らぐ信仰をご覧になるでしょうか。それとも、動じない信仰をご覧になるでしょうか。

へブル人への手紙の著者の言葉を心に留めましょう。

ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。(へブル12:12)

そして、私たちの忠実な神様への信仰を貫き続けましょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ11章

私たちが信じるために

これはイエス様の最も有名な奇跡の一つです。私は何度もこの話を読んだことがありますが、今回は特にこの言葉が私の心に深く響きました。

あなたがたが信じるために。。。(ヨハネの福音書11:15)

この箇所では、私たちは何度もこのテーマを目にします。そして、その言葉を通して、私たちはイエス様の動機を知ることができます。時には、人々はイエス様の行動を理解できませんでしたが、イエス様の動機は、彼らの信仰を成長させることでした。

だから、イエス様はマルタの信仰に挑戦されたのです。

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。(40)

そして、イエス様がラザロの墓で祈られたとき、次のように祈られました。

わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。

しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。(42)

そして、ラザロの復活の後、ヨハネは私たちに次のように語りました。

そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。(45)

イエス様が私たちに学んでほしいことの一つは、私たちがイエス様を信頼することです。私たちのあらゆる経験、苦しみや試練の中にあってもイエス様を信頼すること。それこそがイエス様の意図されていることです。

時には、私たちは神様にこう問いかけます。「神様、あなたを愛しています。でも、なぜ私はこの試練に直面しているのでしょうか。あなたは本当に私を愛してくださっているのでしょうか。」

この話では、マリヤがそのように問いかけました。彼女はイエス様のことを心から愛していました。

また、別の話では、彼女はとても高価な香油をイエス様の足に塗り、彼女の髪の毛でその足をぬぐいました。

マリヤはイエス様を愛していました。そして、イエス様がマリヤたちを愛しておられることを知っていたので、ラザロが病気になったとき、彼女はイエス様を呼びました。イエス様は必ず来てくださると確信していました。

実際、イエス様はその家族を心から愛しておられました。(5)

だから、イエス様は彼らの家に行かず、二日間待っておられたのです。(6)

ちょっと待ってください。イエス様は彼らを愛しておられたから、行かなかったのでしょうか。

それはどういう意味でしょうか。

どうしてイエス様は二日間も待っておられたのでしょうか。それは、イエス様が彼らに、イエス様を信頼することを学ぶよう望んでおられたからです。

イエス様が二日間も来られなかったことで、ラザロは死にました。けれども、イエス様がラザロを復活させたとき、彼らの信仰のレベルは大きく成長しました。

時には、私たちは「どうして神様は何も言わないのだろうか。どうして私の祈りに応えてくださらないのだろうか」と疑問に思います。

マリヤとマルタも、きっとそう考えたでしょう。「どうしてイエス様は来てくださらないのだろうか。」

もちろん、彼女たちはイエス様を信頼していました。しかし、イエス様は彼女たちがさらに深く信頼するよう望んでおられました。

マルタの言葉を少し見てみましょう。

主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。 (21)

それは苦々しい気持ちを込めた言葉だったのでしょうか。私はそう思いましたが、今はわかりません。もしかしたら、それは信仰の言葉だったのかもしれません。

「イエス様、あなたがもっと早く来ていたら、私の兄を癒すことができたことをよく知っています。でも、私はあなたをまだ信じています。今でも、神様はイエス様と共におられ、イエス様の願いを聞いてくださることを知っています。」(21-22)

マルタは、イエス様がラザロを復活させることを信じたでしょうか。おそらく、そうは信じなかったでしょう。(39節を読んでください。)

もしかしたら、彼女はこう言いたかったのかもしれません。

「あなたは私の願いを叶えてくださらなかったけれど、私はあなたをまだ信じています。だからこれからも、困ったときにはあなたのもとへ行きます。」

それでもなお、イエス様はもう一度マルタの信仰に挑戦されました。

「今の問題をもうあきらめたでしょうか。そうしてはなりません。あなたのお兄さんは復活します。私は命の主です。

私は誰にでも命を与えることができます。私を信じる者は、たとえ死んでも生きるのです。そして、私を信じる者は決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(23-26)

マルタは「はい」と答えましたが、おそらく、イエス様の本当の意味を理解していなかったでしょう。それでも、彼女は言いました。「あなたを信じます。あなたが神の子だと信じます。」(27)

この信仰とは何でしょうか。それは子供のような純粋な信仰です。

私たちも、イエス様の言葉が理解できないことがあります。神様の決断や行動が分からないこともあります。

しかし、混乱していても、失望していても、「私はまだあなたを信じます」と言えるでしょうか。

マルタは、ラザロの墓の前で、その疑問に向き合わなければなりませんでした。「この厳しい状況の中でも、私はイエス様の言葉に従うほどに、イエス様を信じることができるでしょうか。」

けれども、彼女がイエス様の言葉に従ったとき、神様の栄光を目の当たりにしました。

私たちも同じです。マルタに問いかけたように、イエス様は私たちにもこう問いかけます。

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。(40)

あなたはどのように反応しますか。

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ルカの福音書 ルカ17章

赦し

この箇所で、イエス様は赦しについて語られています。けれども、その言葉は非常に厳しいものです。イエス様はこう言われました。

もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。(ルカの福音書17:3)

相手があなたを傷つけたとしても、いつまでも怒りを抱いていてはいけません。イエス様は私たちに「その人と直接話し合いなさい」と命じられました。

もちろん、感情を整理するために、少し時間を置くことは必要かもしれません。それでも、怒りを長く溜め込むのはよくありません。そしてイエス様は、「相手が悔い改めれば、赦しなさい」と教えられました。

しかし、イエス様はさらに語られます。

かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、「悔い改めます」と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。(4)

これは単なる助言ではありません。イエス様は、「もし相手が謝るなら、赦すことを少し考えた方がいいかもしれない」と言われたのではありません。

イエス様は私たちに命じられました。「赦しなさい。」

弟子たちはどのように反応したでしょうか。

私たちの信仰を増してください。(5)

私たちの多くは、そのように考えるでしょう。

「主よ。私の傷はとても深いのです。私が赦せるかどうかわかりません。私たちが相手を赦せるように、私の信仰を増してください。」

イエス様は弟子たちに、また私たちにこう答えられました。

もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、「根こそぎ海の中に植われ」と言えば、言いつけどおりになるのです。(6)

つまり、どれほど深い傷を抱えていても、その根は引き抜くことができるのです。そして、たくさんの信仰を持つ必要はありません。

あなたがどれくらいの信仰を持っているかは、それほど重要ではありません。

本当に大切なのは、あなたが誰を信じるかということです。イエス様は偉大な癒し主です。どんな傷を負っていたとしても、イエス様はあなたを癒すことができます。

だから、自分を変えようとする強い意志があるかどうかは問題ではありません。

実は、神様の戒め自体に、私たちを変える力はありません。私たちは自分の心を変える力を持っていないのです。自分の力だけで、完全な人間になることはできません。

しかし、イエス様は私たちを変えることができます。

だから、自分の力に頼って、「頑張ろう。相手を許そう。」と思うのではなく、むしろ、イエス様に向かって、イエス様の癒しと助けを求めましょう。

そして、イエス様を信じるなら、あなたは奇跡を目にするでしょう。

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ルカの福音書 ルカ13章

どうしても恐れに負けない?

相手に「恐れるな」と言うのは簡単ですが、自分自身が恐れに打ち勝つことは時に難しいものです。

とはいえ、イエス様は決して恐れに屈されることはありませんでした。

ある日、パリサイ人たちがイエス様のもとに来て、こう言いました。

ここから出てほかの所へ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています。(ルカの福音書13:31)

このパリサイ人たちは本当にイエス様のことを心配していたのでしょうか。そうかもしれません。

パリサイ人の一人、ニコデモはイエス様を信じたようです。イエス様を信じたほかのパリサイ人たちもいたかもしれません。

それでも、私はこのパリサイ人たちの動機を疑います。

その時点では、ヘロデはイエス様を殺そうという意図を公にしていませんでした。

ヘロデが初めてイエス様について聞いたとき、バプテスマのヨハネがよみがえったのだと思ったようです。そのため、ヘロデはイエス様に会ってみたいと思いましたが、イエス様を殺そうとは考えていませんでした。(ルカ9:7-9)

そして、ついにイエス様と対面したとき、ヘロデはイエス様が奇跡を行うのを見せてほしいと願いました。(ルカ23:8)

もちろん、ヘロデがまったく危険ではないというわけではありません。

とはいえ、おそらくパリサイ人たちは彼の危険性を誇張したのではないでしょうか。なぜなら、彼らはイエス様に恐れを抱かせたかったからです。

そこで、イエス様はこう答えられました。

行って、あの狐にこう言いなさい。「よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三日目に全うされます。

だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。」(32-33)

簡単に言えば、「出ていけ。私は逃げない。」

なぜイエス様はヘロデを狐と呼ばれたのでしょうか。狐は狡猾であり、危険な動物だからです。また、ユダヤ人にとって、狐は価値のない者を象徴していました。

イエス様は御自身の教えに従われました。イエス様は蛇のように賢明な方でした。(マタイ10:16)

もちろん、イエス様は世の危険を軽視されたわけではありません。イエス様はその危険を十分に理解し、注意を払われました。

しかし同時に、人々を恐れることはありませんでした。彼らはイエス様の体を殺すことはできても、魂を滅ぼすことはできなかったからです。

それに、イエス様が死なれる時はまだ来ていませんでした。だからこそ、イエス様は天の父の御心に従うことを決断されたのです。

私たちもそのようにすべきです。神様に仕えようとするとき、私たちに敵対する者がいるかもしれません。その人は狡猾であり、危険な存在かもしれません。

そのような人には警戒しなければなりません。そうしなければ、私たちは傷つけられる可能性があります。

それでも、私たちは彼らを恐れるべきではありません。彼らに拒絶されることを恐れるべきではありません。彼らが私たちに何をするかを心配してはいけません。

むしろ、私たちは神様が命じられたことを忠実に行い続けましょう。

へブル人への手紙の著者はこう記しました。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(へブル12:2-3)

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ヨハネの福音書 ヨハネ10章

見ても信じない?

ある人々はこう言います。「神様自身が私の前に現れて、私と話すなら、私は神様のことを信じるだろう。」

けれども、その考え方には大きな問題があります。

神様自身はこの世に現れました。神様は私たちと話され、私たちの間を歩いておられました。神様はいろいろな奇跡を行われました。神様が敵対者たちと議論されたとき、相手は答えられなくなりました。それでも、彼らは神様を信じませんでした。

私の要点は何でしょうか。

もし、あなたが信じないと決めてしまっているなら、たとえ神様があなたの前に現れても、あなたは信じないでしょう。むしろ、それを夢や幻覚だと自分を説得しようとするでしょう。

人々が神様を拒絶する理由は、彼らが神様のことを信じられないからではなく、信じたくないからなのです。

この箇所では、私たちはそのような例を見ます。ユダヤ人たちはイエス様のところに来て、こう言いました。

あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。(ヨハネの福音書10:24)

イエス様はこう答えられました。

わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。(25)

その前に、イエス様は病気の人々を癒され、足が不自由な人々を癒され、目が見えない人々を癒され、皮膚病にかかった人々を癒され、死んだ人々を復活させられました。それにもかかわらず、周りの人々はそれを見ても、イエス様を信じませんでした。

さらに、彼らが学んだ預言者たちは、その奇跡について語っていました(イザヤ書53:4、61:1-2など)。それでもユダヤ人たちは、なぜかイエス様を信じることを拒みました。

その後、イエス様はさらに明確に語られました。

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。(27-30)

誰が永遠の命を与えることができるでしょうか。それは神様だけです。しかし、イエス様はご自身の民に永遠の命を約束されました。

さらに、イエス様は「わたしと父とは一つです。」と言われました。

イエス様が意味されたものは何だったのでしょうか。ユダヤ人たちは理解しました。イエス様はご自身が神であることを主張されたのです。彼らはすぐに反応し、イエス様を殺そうとしました。

彼らはこう言いました。

良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。(33)

彼らはイエス様の言葉を誤解しませんでした。

そのためイエス様は続けて、旧約聖書を引用されました。その詩篇では、神様は不正な裁判官たちを「神」と呼ばれました。なぜなら、彼らが人々を裁くとき、神様の立場に立っていたからです。

だから、イエス様はこう言われました。「もし、裁判官の立場のために神様が彼らを『神』と呼ばれたのなら、神の独り子として、私は『神』と呼ばれるのにふさわしいでしょう。」

動物でも人間でも、親子はいつも同じ本質を持っています。だから、もしイエス様が神の子であるなら、イエス様は誰でしょうか。

そして、イエス様はご自身の人生について語られました。イエス様は常に神様の働きに参加し、いろいろな奇跡を行われました。ユダヤ人たちはそれを知っていました。それを見ました。それでもなお、彼らはイエス様を拒絶しました。なぜでしょうか。

私にはわかりません。

もしかしたら、イエス様の教えと行動が彼らの期待と違っていたからかもしれません。それでも、彼らは自分たちの考え方を変えることなく、イエス様に背を向けました。

現代でも、多くの人々は同じことをします。彼らはイエス様に出会うのに、イエス様は彼らの期待するものと違います。

もしかしたら、イエス様が彼らの罪を示したため、彼らは気分を害するのかもしれません。そして、彼らは自分の罪にしがみつきたいという理由でイエス様を拒絶するのです。

あなたはどうでしょうか。「神様を見るなら、私は信じる」と言いますか。おそらく、見ても信じないでしょう。もし信じる意志がないのなら、何を見ても信じることはないでしょう。

そのことを認め、自分自身を欺くのをやめましょう。

しかし、それよりも大切なことは、心をイエス様の前に柔らかくすることです。そうすれば、あなたは本当の命を見つけることができるのです。

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マタイの福音書 マタイ17章 マルコの福音書 マルコ9章 ルカの福音書 ルカ9章

私たちの信仰はどこでしょうか

私の信仰はどこにあるのだろうか。

時々、私は自分自身にそう問いかけます。「どうして私は神様をもっと信頼できないのだろうか。」

けれども、時には少し違う質問をします。「私は何を信頼しているのだろうか。」

この箇所では、その二つの問いが浮かび上がります。

イエス様、ヨハネ、ヤコブ、そしてペテロが山から戻ったとき、他の弟子たちは律法学者と論じ合っていました。彼らが何について議論していたのかは定かではありませんが、おそらく律法学者はこう言ったのかもしれません。

「あなたの先生は神様から来たのではありません。ほら、あなたたちはこの男の子から悪霊を追い出せなかったではありませんか。」

いずれにせよ、イエス様が彼らに「何について話していたのか」と尋ねられると、その男の子の父親はこう言いました。

先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。

それでお弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした。(マルコ9:17-18)

そして、そのお父さんは必死に願いました。

もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。(マルコ9:22)

イエス様はこう答えました。

できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。(マルコ9:23)

私はその父親に共感できます。彼はこう言いました。

信じます。不信仰な私をお助けください。(9:24)

どのように、その父親はその言葉を口にしたのでしょうか。もしかすると、彼の希望はほとんど失われていて、信じることが難しかったのかもしれません。しかし、彼はイエス様が救えないなら、誰も救えないということを理解していました。

そこで、イエス様の目を見つめながら、その父親は涙を流し、自らの不信仰を認めました。

「イエス様、私は信じたいのですが、この問題は長い間続いてきました。あなたを信じることは、とても難しいのです。けれども、あなたが助けてくださらないなら、私は希望を失います。どうか、私が不信仰を克服できるよう助けてください。」

イエス様は、その父親の願いを聞かれると、悪霊を追い出されました。

私はこの話から希望を受け取ります。私もよく不信仰と戦います。私の信仰の小さな滴は、不信仰の大波に圧倒されることがあります。

その父親も同じように感じたことでしょう。しかし、彼が不信仰であったにもかかわらず、イエス様は憐れみと恵みを示し、その息子を癒してくださいました。

時々、私も神様の良さを疑うことがあります。けれども、私が叫ぶとき、イエス様は答えてくださいます。神様は私に憐れみと恵みを与えてくださり、私はもう一度神様の恵みと憐れみを思い出します。

いずれにせよ、この話の中で、弟子たちはイエス様に尋ねました。

なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。(マタイ17:19)

そして、イエス様は彼らに信仰について教えられます。

あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。

もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、「ここからあそこに移れ」と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。(マタイ17:20)

でも、イエス様はもう一つのことを言われました。

この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。(9:29)

覚えていてください。その出来事の前に、弟子たちはイスラエルの中で多くの人々から悪霊を追い出しました。けれども、時が経つにつれ、彼らはその力の源を忘れてしまったかもしれません。

そのため、彼らは神様を信頼せず、自分の力と方法に頼り始めたのかもしれません。そして、祈ることを忘れてしまい、悪霊を追い出すことができませんでした。

私はこの話を読むたびに、自分自身に問いかけます。「私は何を信じているのだろうか。自分の能力や賜物に頼っているのか。自分の知恵に頼っているのか。それとも、神様に頼っているのか。」

神様を信頼するなら、たとえからし種ほどの信仰しかなくても、何でも可能になります。しかし、自分自身に頼るなら、私は何もできません。

毎日、このことについて考えなければなりません。私はよく失敗します。もしあなたも不信仰との戦いをしているなら、一緒に祈りませんか。

イエス様、私の信仰はどこにあるのでしょうか。私の状況を見るとき、私はしばしばパニックになり、あなたが私を助けてくださるかどうかを疑ってしまいます。

私の不信仰をお赦しください。すべてのことにおいて、あなたを信じることができるよう助けてください。私の心と状況の中で働いて、私に平和と喜びを与えてください。

私は何を信頼しているのでしょうか。私はしばしば自分自身に頼り、それによって失敗します。どうかお赦しください。あなたの声を聞き取れるように助けてください。そして、私が毎日あなたを信頼できるよう導いてください。アーメン。

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マタイの福音書 マタイ15章 マルコの福音書 マルコ7章

根気、謙虚、信仰

イエス様はこの女性と話された時、何を考えておられたのでしょうか。また、どのようなトーンで話されたのでしょうか。

ユダヤ人と向き合われた後、イエス様はイスラエルを離れて、ツロとシドンへ行かれました。その場所はイスラエルの北にあり、海岸の近くに位置しています。

イエス様はひっそりとそこに行かれましたが、すぐに人々はイエス様がおられることを聞きつけました。その中に一人の女性もいました。彼女はギリシャ人で、その地域で生まれ育った人でした。

(マルコの福音書によれば、彼女はカナン人とも呼ばれていました。)

彼女の娘が悪霊に取りつかれていたため、イエス様に助けを求めに来ました。

主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。(マタイ15:22)

通常、イエス様は人々に思いやりをもって話されましたが、この場合はそうされませんでした。イエス様は彼女の願いを聞かれましたが、彼女を無視されました。

それでも、彼女はあきらめず、必死に叫び続けました。「主よ、私の娘を助けてください。」

だから、主の弟子たちはイエス様にこう言いました。

あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。(マタイ15:23)

それを聞いて、イエス様はその女性に向かって、こう言われました。

わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません。(マタイ15:24)

イエス様はどのようなトーンでその言葉をおっしゃったのでしょうか。少し苛立たれた声だったのでしょうか。それとも、少し謝罪するような優しい声だったのでしょうか。

「ごめんね。助けたいけれど、私はユダヤ人たちのために遣わされているのです」と。

イエス様がその言葉をどのように言われたのかは分かりませんが、彼女はまだあきらめませんでした。それどころか、彼女はイエス様のもとに近づき、ひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と懇願しました。

それでもイエス様は、もう一度、少し厳しい言葉で彼女を拒まれます。

子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです(マタイ15:26)

イスラエルでは、誰かを犬と呼ぶことは侮辱とされていました。しかし、イエス様は「子犬」と言われました。彼らの言語では、「小」を付けることで、相手を少し可愛がるニュアンスが生まれます。

それでも、多くの人がその言葉を聞いたならば、感情を害されたかもしれません。

ところが、彼女は怒ることなく、イエス様の言葉を用いてこう言いました。

主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。(マタイ15:27)

つまり、彼女はこう言いました。「あなたがユダヤ人のために遣わされていることは分かっています。でも、彼らが食卓から落とすパンくずを、私たちがいただいてもよいのではないでしょうか。」

それを聞いて、イエス様は意外な言葉で彼女を褒められました。

ああ、あなたの信仰はりっぱです。(マタイ15:28)

イエス様が相手の信仰を褒められることは本当に珍しいことでした。それはたった二回だけ記録されています。そして、その二人目も異邦人でした。(マタイ8:5-13)

とにかく、イエス様はその女性の信仰を見て感動され、その娘を癒されました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか?

時には、私たちが祈るとき、神様が沈黙されているように感じることがあります。無視されているように思うかもしれません。けれども、この女性のように、私たちは根気強く祈り続けるべきです。

もちろん、私たちはイエス様に命令することはできません。(時々、ある牧師たちはそのように教えることがありますが、それは誤りです。)

しかし、謙虚な態度をもって、イエス様が私たちを助けることができると信じるならば、多くの場合、イエス様はその願いを叶えてくださいます。

ですから、私たちは自分自身にこう問いかけるべきです。

1.神様が良い方であり、私たちを愛しておられることを信じますか?

2.神様がその願いを叶えられても、断られても、その答えが私たちの益のためだと信じますか?

3.神様が答えられるまで(「はい」でも「だめ」でも)、私たちは祈り続けるでしょうか?

では、あなたはどうでしょうか?根気をもって祈り続けますか?神様を信頼しますか?神様があなたの願いを断られたとしても、謙遜にその答えを受け入れるでしょうか?

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マタイの福音書 マタイ9章

イエス様ができること。イエス様がしないこと。

この箇所を見ると、私たちはイエス様が何をすることができるのか、また何をしないのかを知ることができます。

イエス様は盲人や口のきけない人を癒すことができます。

けれども、イエス様はご自身を無理やり人々に信じさせることはされません。

わたしにそんなことができると信じるのか。(マタイの福音書9:28)

彼らが「そうです。主よ。」と答えた時、イエス様は「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われました。(29)

つまり、彼らが本当に信じなかったなら、彼らは癒されなかったのです。

実際には、私たちが信仰を持っていなくても、イエス様は私たちを癒すことができます。ある日、相手がイエス様のことをよく知らず、まったく信仰を持っていなかった状況でも、イエス様はその人を癒されました。(ヨハネ5:1-15)

とはいえ、多くの場合、イエス様は人々の信仰を求められました。

この話では、二人の盲人が信じたために癒されました。

ところが、次の話では、イエス様が口のきけない人を癒された時、多くの人々は驚きましたが、パリサイ人たちはイエス様を信じず、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」と言いました。(34)

イエス様がどんな奇跡やしるしを行っても、パリサイ人たちは信じることを拒み続けました。

イエス様は彼らの信仰を求められましたが、彼らに無理やり信じさせることはありませんでした。

同じように、イエス様は私たちにも無理やり信じさせることはされません。

イエス様は私たちに聖書を与えてくださり、神様が私たちの人生にどのように働いているかを示し、神様に従う時の祝福を思い起こさせてくださいます。

それでも、私たちは毎日自分自身に問いかけるべきです。「私は神様を信じるだろうか。私は神様を信じるので、神様の道を行くだろうか。」

そうすれば、神様からの祝福と癒しを見いだすことができます。

そうしない場合、パリサイ人のように、神様の祝福と癒しを決して知ることはできません。

さて、あなたはどうしますか。

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私たちの信仰

イエス様の言葉、「信仰の薄い者たちだ」を読むとき、私はこう思います。「もし、イエス様が私を見ると、イエス様に同じ言葉を言われるかなあ。「ブルース、どうしてあなたの信仰はそんなに薄いか。」」

イエス様の弟子たちの状況についてちょっと考えてみてください。

イエス様が言った通りに、彼らは湖を渡ろうとしました。最初は、湖は静かだったけど、急に大暴風が起こりました。その船は大波にぶつかったし、どう漕いでも、進めることができませんでした。

そして、彼らは思い出しました。「イエス様はここにおられる。どうして、イエス様は何もしてくださらないだろうか。」

彼らはイエス様を見たけど、イエス様は寝ていました。「私たちはすぐに死んでしまうのに、イエス様は寝ているのか。」

だから、彼らはイエス様を起こして、叫びました。「先生。私たちはおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。助けてください。」

その時点で、弟子たちはイエス様から何を期待したのでしょうか。この話の最後で、彼らはイエス様の力に本当に驚きました。だから、何を期待していたでしょうか。

多分、彼らは全然何も期待していませんでした。彼らはイエス様に頼んだけど、「多分イエス様には何もできない」、と思ったでしょう。

でも、彼らが分かったのは、彼らを助ける力を持つ人は、イエス様しかいないということです。だから、彼らの反応には、信仰と不信が入っていました。

どのぐらい、私たちもそのように反応するでしょうか。私たちは自分の問題におぼれているし、私たちはずっと頑張ったけど、最終的に希望がなくなりました。

だから、やっと私たちはイエス様に叫ぶけど、実は、私たちはイエス様が私たちを助けられないと思っているけれど、もうほかの解決が見えないのだと思います。

私たちは信仰をもつ心から叫べずに、恐れから叫びます。

私たちは「イエス様は寝ているの?私たちのことを本当に愛しているだろうか」、と思います。

でも、恵みによって、イエス様は私たちを助けて、優しく叱責します。「どうして、そんなに怖がっているのでしょうか。まだ信仰がないのですか。」

だから、この記事の元の質問に戻ります。どのぐらいイエス様はそのことを私に言うでしょうか。どうして、私はイエス様の愛を疑うでしょうか。イエス様が何回も自分の力を現したのに、どうして私はその力を疑うでしょうか。でも、私はそうします。

私がイエス様を心から信頼できたら、なんと素晴らしいことでしょう。

自分の状況をコントロールできないとき(そもそも私たちにコントロールできることが本当にあるのでしょうか)、私はパニックにならずに、イエス様に信頼して歩むことを願っています。

さらに、信仰をもって、イエス様が私を愛し、私の必要を備えてくださることを信じて生きることを願っています。

あなたはどうですか。それがあなたの願いなのですか。

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恵みと信仰

この二つの箇所をまとめると、私たちはこの話全体を見渡すことができます。

ルカの福音書によると、百人隊長がイエス様の助けを求めた際、実際には百人隊長の代わりにユダヤの長老たちがイエス様に願い出てくれました。彼らはこう言いました

この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。(ルカ7:4-5)

長老たちは、百人隊長について「この人はイエス様の助けをいただく資格があります」と言いました。

けれども、百人隊長自身はこう言いました。

あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。(ルカ7:6-7)

時々、私たちは救いをいただくために、あるいは神様から何かをいただくために、自分には「資格」が必要だと思い込むことがあります。

しかし、恵みはそうした条件とは無縁のものです。恵みとは、「あなたに資格がないにもかかわらず、私はあなたに永遠の命や、その他の必要なものを与えます。あなたがしなくてはならないのは、ただ私に頼むことだけです。」ということです。

だからこそ、私たちは自分自身にこう問いかけるべきです。「私は神様に祈り、信頼する信仰を持っているだろうか。」

時に、私たちは信仰を失い、皮肉っぽくなることがあります。私自身もそう感じることがあります。なぜなら、祈りが必ずしも神様の期待通りに答えられるとは限らないからです。

そんな時、私たちは疑問を抱きます。「祈りには本当に意味があるのだろうか。神様は本当に私の祈りに答えてくださるだろうか。神様には私を助ける力があるのだろうか。神様は私を本当に愛してくださるだろうか。」

けれども、信仰はこう答えます。「神様の良さを信じ続けます。神様は私の最善をよくご存じです。それに、神様には私を助ける力があります。だから、私は祈り続けます。」

百人隊長はそのような信仰を持っていました。彼はこう考えました。

「私はローマ人であり、ユダヤ人は普通ローマ人を嫌っています。だから、私はイエス様の助けをいただく資格がないと思う。

とはいえ、きっとイエス様には私を助ける力があり、さらにイエス様が喜んで私を助けてくださると思う。だからこそ、頼んでみよう。」

その結果、彼のしもべは癒やされました。

イエス様が驚かれることは非常に珍しい出来事です。聖書の中でその記述は二回だけあります。一つは、イエス様の地元の人々がイエス様を信じなかった時(マルコ6:6)です。

そしてこの話では、イエス様はこのローマ人の信仰を見て驚かれました。イエス様は、彼についてこう言われました。

まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。

あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。

しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイ8:10-12)

この箇所から、もう一つの重要なポイントを学ぶことができると思います。

この百人隊長のように、恵みが必要であると認め、イエス様を信じる人は神の国に入ることができます。私たちは家系の資格によって神の国に入ることはできません。また、私たちの良い行いによって入ることもできません。

むしろ、私たちはこう認めなくてはならないのです。

「私には、あなたから何かをいただく資格はありません。でも、私はあなたを信じます。私はあなたの十字架の働きを信じます。そして、私はあなたが三日目によみがえられたことを信じます。だから、どうか私を救ってください。」

パウロはこう言いました。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8-9)

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ヨハネの福音書 ヨハネ4章

イエスが言われたことばを信じる?

この箇所では、私たちは初めてイエス様が人を癒やす奇跡を見ることになります。(ただし、その前にイエス様が他の人を癒やされた可能性もあります。ヨハネ2:23)

けれども、この話で私の心を打ったのは、王室の役人のイエス様への反応です。彼の息子は死にかけていました。

おそらく、彼は息子をあらゆる医者に連れて行ったものの、誰も息子を助けることができませんでした。そのため、イエス様が彼の最後の希望でした。

その役人がイエス様に助けを求めたとき、イエス様はこう言われました。

あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。(ヨハネの福音書4:48)

それは、少し不思議な答えでした。しかし、その意味はおそらくこうだったのではないでしょうか。

「あなたは私のことを本当に信じているからここに来たのですか。それとも、まだ信じていないけれど、私があなたの息子を癒やしたら信じるのですか。」

これは今も、私たちにとって本当に重要な問いです。私たちが自分の必要について祈るとき、イエス様を信じているから祈るのでしょうか。それとも、イエス様が私たちの祈りに応えてくださったとき初めて信じるのでしょうか。

その王室の役人がイエス様の言葉を聞いたとき、何を思ったのでしょうか。彼はどの程度本当に信じていたのでしょうか。

いずれにせよ、彼は必死に叫びました。

主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。(49)

それを聞いて、イエス様は彼の信仰を試されました。

帰って行きなさい。あなたの息子は治っています。(50a)

少し想像してみてください。おそらく、その役人はイエス様が自分と一緒に帰ることを望んでいたでしょう。ところが、イエス様はこう言われました。

「帰って行きなさい。私は行かなくていい。あなたの息子は確かに回復します。私の言葉を信じなさい。」

その役人がどれほどイエス様の言葉を深く考えていたのか、私には分かりません。その言葉を聞いた瞬間にすぐ帰ったのかもしれません。

または、彼はしばらくイエス様の目を見つめて、「本当にイエス様を信じられるだろうか」と考えたのかもしれません。けれども、最終的に、

その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。(50b)

そして、彼が下って行く途中、そのしもべが彼に出会い、「あなたの息子は治りましたよ」と伝えました。

私たちはどうでしょうか。イエス様が言われた言葉を信じることができるでしょうか。

多くの場合、私たちが祈るとき、イエス様が私たちに何か伝えようとされていますが、その言葉を信じないことがあります。むしろ、疑いの心が生じ、「イエス様は本当に助けてくださるだろうか」と問いかけてしまいます。

例えば、私たちが新しい仕事のために祈り、求職活動をしているとします。その仕事を選べば日曜日に働かなければならない状況になる場合、イエス様は「別の仕事のために待ちなさい」と言われるかもしれません。

私たちはこのように考えるかもしれません。「イエス様を信頼できるだろうか。この機会を逃してしまったら、イエス様は別の機会を備えてくださるのだろうか。」

または、私たちが精神的な癒しを求めて祈ることがあります。そのとき、イエス様は「この人を許しなさい。苦々しい心を手放しなさい。そうすれば、あなたは癒されるでしょう」と語られるかもしれません。

けれども、私たちはイエス様に問いかけます。「どうして許さなければならないのでしょうか。私は本当に傷ついたのに。」

私たちはイエス様の言葉にどのように応答するでしょうか。その言葉を信じ、従うのでしょうか。

この問いに答えることができるまで、人生に癒し、平和、喜びを見つけることは難しいでしょう。

「私はイエス様を本当に信じることができるでしょうか。イエス様が言われたことを信じることができるでしょうか。」

あなたはどうでしょうか。イエス様が言われた言葉を信じることができるでしょうか。

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箴言

邪な世界に住んでいるのに

以前は、アメリカはクリスチャンの国と呼ぶことができました。今でも、多くのアメリカ人は「私はクリスチャンだ」とか、「神様を信じる」とか言います。

けれども、アメリカがクリスチャンの国だとはもう言えないと思います。実は、アメリカの歴史の中では、多分今は一番暗い時期でしょう。

ソロモンの時代はましだったけど、彼が周りの国々を見ると、いろんな悪を見ました。

彼は無政府状態を見たし(箴言28:2)、自分の民を気にしない独裁者や、正義を気にしない支配者や、酷い罪を犯す王を見ました。(箴言28:3、12、15-16;29:2、4、12)

アメリカや日本はまだそこまで悪くないと思いますが、私たちは、人に仕えるよりも、自分の立場を守りたがる政治家をよく見ます。

特に、アメリカでは、与党議員や裁判官は私たちの社会の道徳的価値観を変えて、罪を良いことだと呼びます。

ソロモンは社会の中の邪についても話します。多くの人々は神様の律法を拒絶し、その律法を拒絶する人を誉めます。(28:5)

彼らはその律法を拒絶するので、道徳的に堕落してしまいます。(28:5)

それに、彼らは正しい人を迫害し始めます。(箴言29:10)

それでは、どうやって、私たちはそんな社会に住むべきでしょうか。ソロモンはこう言います。「神様の道を行き続けなさい。その道を捨てるな。」

彼はこう書きました。

幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。

しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。(28:14)

私たちの周りの悪を見ると、自分の心が堅くなるのは簡単なことです。私たちの愛が冷たくなるのは簡単なことです。(マタイ24:12)

つまり、私たちの神様に対する愛、周りの人々に対する愛が冷たくなってしまいます。

そのような態度に注意しましょう。神様に対する柔らかい心を保ち、主を恐れ続けましょう。

ソロモンは私たちに警告します。

耳をそむけておしえを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる。(28:9)

また、

潔白な生活をする者は救われ、曲がった生活をする者は墓穴に陥る。(28:18)

だから、悪と戦い続け(28:4)、頑張って働き(28:19)、忠実に生き(28:20)、周りの人々に対して気前がいい態度を持ってください。(28:27)

あなたが罪を犯してしまうなら、すぐに悔い改めてください(28:13)。そして、自分の子供にそのように生きるように訓練するべきです(29:15,17)。

周りの人々は神様の律法を捨てるかもしれませんが、神様の道に従い続けるべきです(29:18)。

一番大事なポイントは、神様を信頼し続けるべきだということです。

ソロモンはこう書きました。

自分の心にたよる者は愚かな者、知恵をもって歩む者は救われる。(28:26)

また、

人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(29:25)

神様がエレミヤに命じられたように、私たちにもこう命じられます。

彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。

わたしはあなたを、この民に対し、堅固な青銅の城壁とする。

彼らは、あなたと戦っても、勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。――主の御告げ(エレミヤ15:19-20)

あなたはどうですか。周りの人々のようになっているでしょうか。それとも、この暗闇の中で、光となっているでしょうか。

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詩篇

揺るぐことはない

詩篇125篇も私のお気に入りです。実は、私が高校生の時、私の教会はこの詩篇をもとにした歌を歌っていました。

主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。

山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。(詩篇125:1-2)

詩人は二つの生き生きとした描写を使います。一つ目は、揺るがない山です。

詩人は神様に信頼する人がシオンの山のようだと言います。

どうして、シオンは揺るがなかったのでしょうか。大きな山だからでしょうか。それは違います。

シオンの高さは約730メートルしかありません。富士山の方が断然大きいです(3776メートル)。富士山と比べると、シオンはただの丘です。

しかし、神様がシオンを見守ってくださったので、シオンは揺るがなかったのです。そのように、神様が私たちを見守ってくださるので、私たちは揺るがないのです。

それに、山々がエルサレムを取り囲むように、神様は私たちを囲んでくださいます。主は私たちの砦であり、私たちを滅ぼそうとする悪魔から守ってくださいます。

そして、詩人は神様の正義に関して、確信を言い表します。つまり、悪者は義人を治めないということです。なぜなら、悪者が義人を治めれば、最終的に義人は罪に落ちるかもしれないからです。

残念なことですが、詩人の言葉は神様の約束ではありません。とはいえ、神様は支配者の行動に限界を置いてくださいます。神様はどれくらいその支配者の治世が続くかの限界を置くし、信者に対する迫害の限界も置いてくださいます。

だから、いつか世界の酷い苦難のため、神様は最後の日数を少なくしてくださいます。イエス様はその時についてこう言いました。

もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。(マタイ24:22)

とにかく、詩人は神様が自分の民に慈しみを施してくださるように祈りました。また、悪者がいつか裁かれることを覚えています。(詩篇125:4ー5)

そして、彼は祈ります。

イスラエルの上に平和があるように。(5b)

私たちの人生はいつもスムーズに行きません。けれども、神様に信頼しましょう。神様が私たちを見守り、私たちと共におられることを覚えておきましょう。そうすれば、私たちは決して揺るぐことがありません。

また、私たちの苦難の中で、詩人のように、神様の祝福と恵みのために祈りましょう。そうすれば、イスラエルを見守った神様が、私たちをも守ってくださることを実感するでしょう。

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詩篇

捨てられた?

私は詩篇を読み通した時、同じテーマがよく繰り返されることに気づきました。つまり、時々詩人には、目に見えない神様との関係が本当に難しいものであったのです。私にもそう考える時があるので、少し慰められます。

詩篇77篇はそのような詩篇です。詩人は叫びます。

私は神に向かい声をあげて、叫ぶ。私が神に向かって声をあげると、神は聞かれる。

苦難の日に、私は主を尋ね求め、夜には、たゆむことなく手を差し伸ばしたが、私のたましいは慰めを拒んだ。(詩篇77:1-2)

どれぐらい私たちにはそんな経験があるでしょうか。私たちは神様に叫びますが、何も聞こえません。そして、悩んでいる心のせいで、私たちは眠れません。

だから、詩人のように、私たちは問い始めます。

「主は、いつまでも拒まれるのだろうか。もう決して愛してくださらないのだろうか。

主の恵みは、永久に絶たれたのだろうか。約束は、代々に至るまで、果たされないのだろうか。

神は、いつくしみを忘れたのだろうか。もしや、怒ってあわれみを閉じてしまわれたのだろうか。」セラ (7-9)

言い替えれば、「あなたは私を捨ててしまったのでしょうか。私を諦めたのでしょうか。私がもうだめだと思われるのでしょうか。」

しかし、失望の中で、彼は叫びます。

「私の弱いのはいと高き方の右の手が変わったことによる。」

私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。

私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。

神よ。あなたの道は聖です。神のように大いなる神が、ほかにありましょうか。

あなたは奇しいわざを行なわれる神、国々の民の中に御力を現わされる方です。

あなたは御腕をもって、ご自分の民、ヤコブとヨセフの子らを贖われました。セラ

。。。あなたは、ご自分の民を、モーセとアロンの手によって、羊の群れのように導かれました。(10-15、20)

急に詩人は神様が彼を捨ててしまった考えを捨てます。彼は言います。

「あなたが私を捨てるのが信じられません。なぜなら、あなたは私のために多くのことをしてくださったからです。

あなたは私を愛してくださったので、私とあなたの民を贖ってくださり、羊のように私たちをこの良い土地に導いてくださいました。

その愛によって、私はあなたが私を捨てたという考え方を拒絶します。」

それが信仰です。私たちは神様が見えなくても、信じ続けます。その瞬間に私たちは神様の臨在を感じなくても、神様が私たちを捨てずに、私たちと共におられることを信じ続けます。

とはいえ、それは盲信ではありません。なぜなら、振り返る時、私たちの人生に神様の力と愛の事例が見えるからです。

だから、捨てられたと思う時、詩人のように、神様の慈しみを思い出し、以前、私たちと共におられた神様が、まだ私たちと共におられることを思い出しましょう。

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詩篇

神様、あなたはどこ?

時々、私たちは、「神様、あなたはどこ?」と思うことがあります。

詩篇13篇で、ダビデはそのように祈りました。

主よ。いつまでですか。

あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。

私の心には、一日中、悲しみがあります。

いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう。(詩篇13:1-2)

時々、私たちは聖書の登場人物をスーパーヒーローのように考えます。私たちはダビデについて読む時、彼がいつも神様と親しい関係があったと思います。また、彼に問題があっても、神様の臨在を良く感じて、すぐに慰められたと思います。

けれども、私たち皆には霊的な砂漠の経験があります。その時、私たちは「神様はどこだろうか」と思います。また、私たちの祈りが天井に当たってすぐに落ちると感じることがあります。そして、どこを見ても、神様を見つけることができません。

だから、ダビデのように私たちは叫びます。

「神様、あなたはどこ?どうしてあなたは隠れているのですか?私の状態を見ていないのですか?私をもう愛していないのですか?

毎日、私の恐れと戦い、絶望と戦います。どれぐらいこれは続くのですか?助けてください。あなたがいらっしゃらないと、耐えられません。」

神様が遠いと感じる時、私たちはどうしたら良いでしょうか。

あなたの信仰にしがみつき続けてください。何も感じなくても、神様がまだあなたを愛していることを信じ続けてください。また、その気持ちがなくても、神様にあって喜んでください。

あなたは、「その気持ちがなくても、どのように喜ぶことができるでしょうか」と訊くかもしれません。

それは簡単なことではありません。けれども、ダビデの言葉を見ると、ヒントを見つけることができると思います。彼は歌いました。

私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。(5-6)

ダビデは、神様が過去に何をしてくださったかを思い出し、神様の慈しみに感謝しました。そうすると、彼は「過去に私を救い出した同じ神様は、きっと今も私を救い出します。」と分かりました。

そのように、私たちは神様が遠いと感じる時、神様が過去に何をしてくださったかを思い出すべきです。

特に、イエス様が十字架で何をしてくださったかを思い出すべきです。つまり、イエス様が私たちを愛して、この世に来て、私たちの罪のために死んでくださったことを思い出すのです。

イエス様がそのように私たちを愛されたなら、どうして私たちはその愛を疑うでしょうか。きっと今も私たちを助けてくださいます。

もう一つ覚えておいてください。私たちに気持ちがなくても神様を賛美することを選択することを、神様が近いと感じるから賛美することよりも、神様は喜ばれます。

また、神様の慈しみが見えなくても、その慈しみを信じ続けることを選べば、私たちの信仰は本当に成長します。

そして、結局神様は、もう一度自分自身を私たちに表してくださいます。

あるスティーブン・カーティス・チャップマンの歌も、そのことを教えています。

この場所で、私は神様を見いだせると思いました。
聖書を読み、跪いて祈りました。
私は待ち望み、天を仰ぎました。
けれども、太陽は全く照らしてはくれませんでした。

しかし、時にはイエス様は曇っている時に来られます。
時には、私たちはイエス様の御顔が見えません。
時には、空が暗いのです。

けれども、私たちが見えない時こそ、
神様から学ぶことがあります。
また、私たちが見えない時こそ、
私たちの信仰が成長する時でもあります。

だから、時には神様は雨の時にも来られます。
その時、私たちは苦しみ、「どうして?」と問いかけます。
「どうして神様はこんなに遠いのだろうか」と思います。

しかし、後で私たちが分かるのは、
「その時でも、神様は私と共におられた」ということです。

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エレミヤ書

あなたは私に信頼するから

このブログでは、私は可能な限り、聖書の出来事を年代順に読んでいます。私にとって、そのような読み方は非常に興味深いです。なぜなら、それまで気づいていなかったことに気づくことができたからです。

例えば、この箇所では、ネブカデネザルはエレミヤに関して次のように命じました。

彼を連れ出し、目をかけてやれ。何も悪いことをするな。ただ、彼があなたに語るとおりに、彼にせよ。(エレミヤ書39:12)

どうしてネブカデネザルはエレミヤに親切にしたのでしょうか。

40章によれば、ネブカデネザルはエレミヤの預言を知っていたからです。つまり、ユダの罪のゆえに、神様がユダをネブカデネザルの手に渡すと預言していたからです。

けれども、どうしてネブカデネザルはその預言を知っていたのでしょうか。

おそらく、エホヤキン王と他のユダ人たちが追放された際に、ネブカデネザルは彼らからその預言を知ったのかもしれません。

しかし、誰がネブカデネザルにその預言について話したのでしょうか。また、なぜネブカデネザルはその預言を信じたのでしょうか。

私は分かりませんが、多分ダニエルがネブカデネザルにその預言について話したのではないかと思います。なぜなら、ネブカデネザルはダニエルを尊敬していたからです。ダニエルは「呪法師の長」でした。(ダニエル4:9)

彼はネブカデネザルに仕えました。また、ダニエルはエレミヤの預言をよく知っていました。(ダニエル9章)

それゆえ、ダニエルはエルサレムが滅びそうだと聞いたとき、おそらく彼はネブカデネザルにこう言ったのかもしれません。

「王様、エルサレムにはエレミヤという預言者がいます。私たちは同じ神に仕えています。また、彼はユダの没落を預言しました。ですから、彼を守ってください。」

もちろん、これは私の想像に過ぎませんが、正しいかもしれないと思います。

いずれにせよ、ネブカデネザルはエレミヤを守りました。

ヨシヤ王が亡くなった後、エレミヤはずっと苦しんでいました。それでも、彼が神様に信頼したため、ユダが滅び、そのリーダーたちが追放され、あるいは殺された時も、エレミヤは救われました。

エベデ・メレクという人も救われました。以前、エレミヤが穴に投げ込まれた時、エベデ・メレクはゼデキヤ王のもとに行き、エレミヤの解放を頼みました。

そのため、神様はエベデ・メレクにこう言われました。

イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。見よ。わたしはこの町にわたしのことばを実現する。幸いのためではなく、わざわいのためだ。それらは、その日、あなたの前で起こる。

しかしその日、わたしはあなたを救い出す。――主の御告げ――

あなたはあなたが恐れている者たちの手に渡されることはない。わたしは必ずあなたを助け出す。

あなたは剣に倒れず、あなたのいのちはあなたの分捕り物としてあなたのものになる。それは、あなたがわたしに信頼したからだ。――主の御告げ――(39:16-18)

神様はその約束を守られました。エルサレムが滅びた時、神様は彼を守られました。

「あなたが私に信頼したからだ。」

その言葉は私の心に響いています。私たちが神様に信頼すると、周りの人々が裁かれても、私たちは救われます。私たちは神様の恵みとあわれみを受けます。

ただ、神様に信頼するからといって、私たちが決して苦しまないというわけではありません。エレミヤは多くの苦しみを経験しましたし、多くの人々も自分の信仰のために苦しみました。

しかし、彼らが死んだ後、最終的に休息と報いを受けました。

この世では私たちが救いを受けられないかもしれません。イエス様に従うことによって、私たちは苦しむことがあるかもしれません。けれども信仰はこう言います。

「私の救いは今は見えないけれど、最終的にその救いが来ると信じます。」

エレミヤはそのような信仰を持っていました。エベデ・メレクもそのような信仰を持っていました。私たちにもそのような信仰が必要です。

へブル人への手紙の著者はこう書いています。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(へブル書11:6)

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イザヤ書

神様に信頼すると

時々、神様に信頼することは難しいです。

多くの場合、私たちが祈る時、私たちは神様の御心を求めずに、神様を私たちの意志に従わせようとします。

「あなたに信頼します。あなたの御心が行われるように」と祈らずに、神様に何かをさせようとします。

だから、私たちが望んだように、神様がその祈りに答えてくださらないと、私たちは怒ります。

また、「神様は私を本当に愛してくださっているだろうか」と訊きます。

でもイザヤはこう言いました。

志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。

いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。(イザヤ書26:3-4)

「志の堅固な者。」

それはどういう意味でしょうか。

と言うのは、変化の風が吹くと、また試練が行ったり来たりすると、私たちの信仰は決して揺れません。私たちは神様に信頼し続けます。私たちは神様に頼り続けます。神様は私たちが自分の人生を立てる岩です。

そうすると、私たちは全き平安のうちに守られます。

ヘブル語では、「平安」、「平安」のうちに守られます、と書いてあります。

なぜ「平安」という言葉を繰り返すでしょうか。その平安は浅くないからです。弱くないからです。試練が来ても、その平安はすぐに吹き飛ばされないからです。

むしろ、その平安は私たちの心に根強くあるものです。何が起こっても、その平安は私たちの心を満たします。

イザヤは続きます

義人の道は平らです。あなたは義人の道筋をならして平らにされます。(7)

つまり、私たちが神様に信頼すると、神様は私たちを導いて守ってくださいます。

箴言3:6でこう書いてあります。

あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

でもプライドによって、自分の道を行く人に対して、イザヤはこう言います。

主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、これを下して地に倒し、これを投げつけて、ちりにされる。(5)

イスラエルはずっとそのように生きました。

神様は彼らに恵みを与えられたのに、彼らは罪の道を生き続けました。そして、神様は彼らを苦しめられたので、彼らは神様に叫びました。彼らが悔い改めたら、神様は彼らを赦されました。

でも、もし私たちが最初から神様に信頼して従うと、どれくらい私たちの人生がうまくいくでしょうか。

だから、今神様に従いましょう。全てよりも神様を求めましょう。イザヤが言ったように、私たちも言いましょう。

主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。

私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。(8-9)