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ローマ人への手紙のデボーション

神の残りの者

それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません。。。

神は、前から知っていたご自分の民を退けられたのではありません。

それとも、聖書がエリヤの箇所で言っていることを、あなたがたは知らないのですか。エリヤはイスラエルを神に訴えています。

「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを狙っています。」

しかし、神が彼に告げられたことは何だったでしょうか。

「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」

ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。(ローマ人への手紙11:1ー5)

ローマ書9章から11章にかけて、パウロは福音に対するユダヤ人の頑なな心について語っています。そして、彼はこう問いかけます。「神様はユダヤ人たちを退けられたのでしょうか。」

パウロの答えは明快です。「違います。これまでも、そしてこれからも、恵みの選びによって神様に属する残りのユダヤ人がいます。」

私は日本のことを思います。日本にはクリスチャンが少なく、「神様は日本を退けられたのだろうか」と考えてしまうのは、簡単なことかもしれません。

でも、パウロなら、明快に「違います」と答えるでしょう。

もちろん、パウロが語ったユダヤ人に関するすべてのことばを、日本人にそのまま当てはめることはできません。

それでも、私は信じています。日本の各都市には、神様が永遠の昔から知っておられ、選ばれた残りの人々がいると。私たちが福音を伝えるなら、彼らは必ず救われるでしょう。(ローマ書10章13〜15節)

だから、日本にいる神様をまだ知らない人々の数を考えるとき、失望しないでください。

祈りましょう。そして、神様から与えられた人々に福音を伝えましょう。そうすれば、神様の恵みによって、その残りの人々を必ず見つけることができます。

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イザヤ書のデボーション

暗い世界にあっての希望

イザヤのことばを読んだとき、「この世界はあまり変わらないなぁ」と思いました。

今週のニュースを見たとき、私は、暴力や銃殺事件、そしてさまざまな不義を目にしました。

この世では、真理が広場でつまずき、人々は神の真理を拒み、自分の真理を作ろうとしています。

でも、それらは新しい問題ではありません。数千年前、イザヤもそのような問題について語っていました。だから、イザヤの感情がよく理解できます。

私たちは光を待ち望んでいたが、見よ、闇。 輝きを待ち望んでいたが、歩くのは暗闇の中。(イザヤ書59:9)

でも、15ー16節にあるイザヤのことばが大好きです。

主はこれを見て、 公正がないことに心を痛められた。主は人がいないのを見て、 とりなす者がいないことに啞然とされた。

それで、ご自分の御腕で救いをもたらし、 ご自分の義を支えとされた。(15ー16節)

もちろん、イザヤはイエス様について語っています。

私たちの罪は、私たちと神様との仕切りとなりましたが、十字架でイエス様は私たちの罪の代価を支払い、救いをもたらしてくださいました。

しかし、それだけではなく、ある日、イエス様はこの世に戻られ、正義をもたらし、この世を癒してくださいます。(17ー20節)

それが、私たちの希望です。だから、この暗い世界に直面するとき、神のすべての武具を取りましょう。

私たちの思いと心を、失望やサタンの他の攻撃から守るために、救いのかぶとをかぶり、正義の胸当てを着けましょう。

また、平和の福音の備えをはき、希望のない人々に、私たちの救いの希望を伝えましょう。

イザヤのことばを借りれば、

良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。

平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」と シオンに言う人の足は。(イザヤ52:7)

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イザヤ書のデボーション

石を巧みに投げる

最近、教会でダビデとゴリアテについてのメッセージを聞きました。

牧師の一つのポイントは、すべての国が、イスラエルが従っている神を知るように、ダビデは石を投げたということです。(第一サムエル17:40、46)

そして、巧みに投げられた石は、神様が望まれた目的を成し遂げました。その石によって、ゴリアテは倒されただけではなく、イスラエル人たちも、周りの国の人々も、主が神であることを知るようになりました。

今日の箇所を読んだとき、そのメッセージを思い出しました。私が巧みに投げたい石は、神の御ことばです。特に、福音です。

私は、周りの人々に、満足を与えられないものではなく、心の穴を満たすことのできる神を求めるように促したいのです。

彼らに、自分の人生を滅ぼしている罪から悔い改めるように促したいのです。

また、彼らには遅すぎるわけではないという良い知らせを伝えたいのです。なぜなら、神様は、悔い改める者を豊かに赦してくださるからです。

そして、神様が約束しておられるのは、ダビデの石のように、神のことばがご自分のもとに空しく帰ることはなく、神様が望まれることを成し遂げるということです。

天のお父さん、私の周りの人々があなたを知り、また、永遠のいのちを知るために、私があなたのことばをよく知り、巧みに用いることができるようにしてください。

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使徒の働きのデボーション

イエス様の名前だけによって

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。(使徒の働き4:12)

クリスチャンとして、私たちはこのような言葉を何度も聞いてきたので、もはや深く考えることも少ないかもしれません。

しかし今日、私の心にこの問いが浮かびました。「そのユダヤ人の指導者たちは、それを聞いて何を思っただろうか。」

「イエス以外には、誰によっても救いはないって?でも、ヤハウェだけが私たちの救い主です。」(ヤハウェとは、ユダヤ人やクリスチャンが信じる神の御名です。)

また、「天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないって?でも、ヤハウェだけが私たちの救い主です。」

実は、その考え方は間違っていませんでした。預言者イザヤを通して、神様はこう語られました。

わたし、主(直訳、「ヤハウェ」)ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、わたしをおいて、ほかにはいない。

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。

わたしは自分にかけて誓う。ことばは、義のうちにわたしの口から出て、決して戻ることはない。すべての膝はわたしに向かってかがめられ、すべての舌は誓い…(イザヤ書45:21-23)

でも、ユダヤ人の指導者たちが知らなかったのは、神様が人間となられたということです。つまり、イエス様こそがヤハウェなのです。

だからこそ、神様はマリアに「その子をイエスと名付けなさい」と言われました。「イエス」とは、「ヤハウェが救い」を意味します。

また、使徒パウロも後に、上記のイザヤ書の言葉をイエス様に当てはめました。(ピリピ2:6-11)

イエス様を知らない、私たちの愛する人々のことを考えると、きっと多くの人がこう思いたくなるでしょう。「その人はイエス様を知らないけれど、神様はきっと受け入れてくださるだろう。」

しかし、イエス様のみ名のほかに、私たちが救われるべき名は与えられていないのです。なぜなら、イエス様だけが人となられた神であり、私たちの罪のための代価を払ってくださった方だからです。

さらに、イエス様が神であったからこそ、私たちの罪の代価を完全に払うことができたのです。

だから、今日祈るときに、イエス様を知らないあなたの愛する人々のことを思い起こしましょう。そして、彼らに救いの良い知らせを伝えるための機会と大胆さを求めて祈りましょう。

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マタイの福音書のデボーション

福音の物語における私たちの役割

まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」

すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。(マタイの福音書26:13-15)

その言葉を読んだとき、私が気付いたのは、人々がラザロとマルタの妹マリアとその行為だけではなく(ヨハネ12:1-8)、ユダとその行為をもよく覚えているということです。

マリアはイエス様への愛のために覚えられています。ユダは、イエス様を裏切ることのために覚えられています。

そして、私はこう考えました。神様はエデンの時代から今まで、福音の物語を書き続けておられます。その物語の中で、私はどんな役を演じているのでしょうか。人々は私のことについて何を思い出すでしょうか。彼らは、どんな物語を語るでしょうか。

そして、ペテロのことを考えました。人々は彼のことも覚えています。彼らはペテロの大きな失敗をよく覚えています。ペテロは三度、「イエスを知らない」と言い張りました。けれども、ペテロは神の恵みを受けた者としても覚えられています。

それが福音の中心です。福音は神の恵みについての物語です。福音は、私たちの罪の赦しのために十字架で砕かれたキリストのからだと、流された血潮についての物語です。

自分の罪や壊れた人生を見るとき、私たちはよく落ち込んでしまいます。しかし、マリアとペテロのように、私たちは神の素晴らしい愛と恵みを受けた者です。それが、神様が書き続けておられる福音の物語における、私たちの役割です。

それを喜びましょう。

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ヨハネの手紙第一のデボーション

神を偽り者としている?

神を信じない者は,神を偽り者としています。(ヨハネの手紙第一5:10)

その言葉は私の心を打ちました。

神を信じないと、私たちは神を偽り者と呼んでいます。

エデンで、サタンは神を偽り者と呼び、アダムとエバに神様を偽り者と呼ぶことを教えました。(創世記3:3-6)

神の言葉が時代遅れか間違っていると主張すると、私たちは神を偽り者と呼んでいます。

たぶん、多くの人にとって、最も受け入れがたい神の教えは、イエス様だけによって、私たちが神様との関係や永遠の命を得ることができるということです。(ヨハネ14:6)

特に、私たちは神様を知らない愛している人たちを考える時、その真理を信じたくないのです。

私たちは「ほかの道があるはずだ」と考えます。

でもそのようなことを言うと、私たちは神を偽り者と呼んでいます。

ヨハネによれば、水や血や御霊によって、神様は自分の神子が救いの道であると証しをしています。

イエス様がバプテスマを受けた時、神はイエス様のこととその使命に関して証しをしました。(ヨハネ1:29-34)

十字架で、イエス様の血はアベルの血よりもすぐれたことを語りました。(ヘブル12:24)

アベルの血は復讐を叫んでいました。(創世記4:10-11)

イエス様の血は「父よ、彼らをお赦しください」と叫びました。(ルカ23:34、ヨハネ19:34-35)

天の父はその願いを聞き、神殿の幕を裂いて、神様への道を開いてくださいました。(マタイ27:50-51)

そして、五旬節の日、御霊はイエス様の働きに関して証しをし、今なお証しをしています。(使徒の働き2:16-21、ヨハネ15:26、16:7-10、ローマ8:14-17)

だから、その証しを拒絶し、「ほかの道があるはずだ」と言うと、私たちは神様を偽り者と呼んでいます。

私たちは神様とその言葉を疑うことがありますか。

神のみ言葉を曲げないように。特に救いに関する神の言葉を曲げないように。

むしろ、その証しをしっかり握りましょう。そして、私たちの愛している人たちがイエス様を知り、救われるために、その証しを伝えましょう。

その救いを見て、私たちの喜びは本当に満ちあふれます。(第一ヨハネ1:1-4)

その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。

御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(ヨハネの手紙第一5:10-11)

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コリント人への手紙第二のデボーション

福音の務めを汚さないように

私たちは、この務めがそしられないように、どんなことにおいても決してつまずきを与えず、  むしろ、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しています。(コリント人への手紙第二6:3ー4)

今朝、その言葉は私の心を打ちました。

福音は多くの人につまずきを与えるものです。人々に彼らの罪や神様の聖さについて語るとき、また、イエス様だけが救いの道であると主張するとき、私たちは相手を怒らせる可能性があります。

しかし、彼らが怒ったとしても、私たちを見ると、私たちの中に疑う余地のない誠実さを見るはずです。また、私たちの中に御霊の実、愛や親切や忍耐などを見るはずです。

では、なぜパウロの言葉が私の心を打ったのでしょうか。

時に、私は自分の行為や言葉によって、人々に福音をそしる機会を与えてしまっているのではないかと疑問に思います。

正直に言うと、私はそうしたことがあります。そのとき、私は悔い改めなくてはなりませんでした。

けれども、私だけではなく、私たち皆が、キリストの使節として召されています。

神様の恵みと力によって、その召しにふさわしく歩み、私たちの務めを果たしましょう。私たちが自分の言葉や行為によって、人々に福音をそしる機会を与えないように。

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使徒の働きのデボーション

信仰の道を走り抜き、イエス様から託された使命を果たす

けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。(使徒の働き20:24)

パウロの言葉を読むと、その言葉がクリスチャンのエリートだけに向けられたものだと考えてしまうのは、簡単なことです。

でも実際には、私たち一人ひとりに、主から与えられた道のりと任務があります。

特に、私たちは皆、周りの人々に福音を証しするという任務を受けています。私たちは、神に対する悔い改めと、イエスに対する信仰について証しするべきです。(21)

もちろん、私たちの道のりや任務はまったく同じではありません。神様は、私たちにパウロのように多くの国々に行って福音を伝える任務を与えておられないかもしれません。

それでも、私たちは皆、自分が受けた恵みの福音を周りの人々に伝える任務を受けています。

私たちは、イエス様が私たちのためにしてくださったことを彼らに伝えるべきです。そうすれば、彼らは私たちの喜びを知るようになるかもしれません。(第一ヨハネ1:3〜4)

あなたの人生に、神様が用意された人は誰でしょうか。

私たちが人生の終わりに、パウロのようにこう言えるように。

私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。

私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。(第二テモテ4:7~8)

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使徒の働きのデボーション

この世に喜びを届ける

サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた。

散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。。。

その町には、大きな喜びがあった。(使徒の働き8:3-4,8)

この世には、喜びがあまりありません。毎日、私たちはコロナのニュース、戦争のニュース、災害のニュースを目にします。それらは私たちクリスチャンにも影響を与えました。

でも、使徒の働きの時代のクリスチャンたちの模範に従いましょう。

この世で本当の喜びを与えることができるものは、ただ一つしかありません。それは、イエス様の福音です。

だから、その福音を周りの人々に伝えて、喜びを広げる者になりましょう。

その良い知らせは、私たちに命を与えてくれました。だから、その命を他の人々にも分かち合いましょう。

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ヨハネの黙示録

黙示録の土台である福音

ヨハネの黙示録について考えるとき、福音のことを連想する人はあまりいないでしょう。

しかし、黙示録の土台には福音があるのです。今日の箇所で、ヨハネはその福音を美しく描き出しています。

ヨハネから、アジアにある七つの教会へ。今おられ、昔おられ、やがて来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。

私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、ご自分の父である神のために、私たちを王国とし、祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくあるように。アーメン。

見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。(黙示録1:4-7)

福音の関するいくつか大切なポイントがあります。

最初のポイントは、福音は三位一体である神から来るものだということです。

福音は天の父から来ます。天の父は今おられ、昔おられ、やがて来られる方です。

その肩書は出エジプト記3:14から来ています。その箇所でモーセに語られたとき、神様はご自身を「私はある」と呼ばれました。つまり、「私は永遠の者」ということです。

また、福音は御座の前におられる七つの御霊からも来ます。それはおそらく、聖霊様に触れていると考えられます。

多くの聖書学者たちは、この肩書がイザヤ書11:2に基づいていると見ています。その箇所では聖霊様は「主の霊」、「知恵と悟りの霊」、「はかりごとと能力の霊」、「主を知る知識」と「主を恐れる霊」として描かれています。

さらに、聖書において「7」は「完全さ」を象徴する数字です。したがって、この数字は聖霊様が完全に神であることを示しているのです。

英語の「Martyr」、つまり「殉教者」という言葉は、ギリシャ語に由来しています。しかし元々は、「信仰のために殺された人」という意味ではなく、単に「証人」という意味でした。この箇所で、ヨハネはその言葉をイエス様に関して用いています。

とはいえ、ヨハネの時代には、すでにその言葉の意味が変化し始めていました。それは「自分の証のために死ぬ覚悟をもつ人」という意味になりつつあったのです。(例えば、黙示録2:13)

ですから、ある意味でイエス様は、証人であるだけでなく、殉教者でもありました。

さらに、イエス様は「死者の中から最初に生まれた方」です。当時の文化では「最初に生まれた方」とは「卓越した者」を意味します。言い換えるなら、イエス様は復活者の中で卓越したお方です。

では、なぜイエス様はそう呼ばれているのでしょうか。

その答えは、18節に記されています。

(わたしは」生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。(18)

ラザロや他の人たちは復活したあと、二度目の肉体の死を味わわなくてはなりませんでしたが、イエス様は二度と死ぬことはありません。

さらに、イエス様は、以前復活した人たちだけでなく、将来に復活する人たちよりも優れているお方です。なぜなら、イエス様こそ、死とよみの鍵を持っておられるからです。そしてイエス様はご自身の御心に応じて、人々に永遠の命を与えてくださいます。

さらに、イエス様は永遠の王です。イエス様はこの世のすべての支配者たちの王なのです。

だからこそ、三位一体である神から私たちは恵みと平和の福音を受けるのです。

その福音とは、いったいどのようなものでしょうか。

神様は私たちを愛しておられます。イエス様は私たちの罪のために死なれ、私たちをその罪から解き放ってくださいました。私たちはもはや罪の奴隷ではなく、その罪のゆえに裁かれることもありません。

さらに、私たちは神様の国の民となり、祭司として神様に仕える者とされました。私たちは神様に直接アクセスできる存在となり、この世の人々に神様のために奉仕するのです。

そしてある日、イエス様はこの世にもう一度来られ、この世の人々を裁かれます。

なぜ私たちは、これらすべてのことを確信できるのでしょうか。 それは、神様がこう言われたからです。

神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」(8)

簡単に言えば、神様はすべてのことを支配しておられます。神様はすべてを始められ、すべてを終えられる方です。すべてのことは神様の御手の中にあります。

だからこそ、私たちは希望を持つことができるのです。

それが福音のメッセージです。それが黙示録のメッセージです。

神様に栄光と力が世々限りなくあるように。アーメン。(6)

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ヨハネの手紙第一

命である方を宣言する

これは聖書に記されている最後の長い手紙です。

そして、この手紙の初めから、私たちは使徒ヨハネの情緒を感じ取ることができます。イエス様に愛された弟子と呼ばれた使徒はこう言われます。

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。

このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。(ヨハネの手紙第一1-2)

「いのちのことば」とはイエス様です。イエス様ご自身は、いのちの表現です。イエス様にあって、私たちはいのちがどのようなものであるべきかを分かります。イエス様にあって、私たちは完全で不備のないいのちを見ることができます。

いのちの創造者である神様は、いのちの言葉であるイエス様を通してご自身を表されます。

また、イエス様ご自身がいのちです。

だから、ヨハネは、「このいのちが現れました」と言うと、イエス様の受肉について話しています。つまり、イエス様が人間としてこの世に来られたことです。

だからヨハネやほかの使徒たちは自分の耳でイエス様の声を聞き、自分の目でイエス様を見、復活の後、自分の手でイエス様の手の傷跡に触れることができました。

そして、ヨハネは、イエス様を「永遠のいのち」と呼びます。イエス様は永遠の方で、時間が始まる前から天の父と共におられました。

また、イエス様は死んだ者にいのちを与えてくださいます。もちろん、神様はご自身から遠く離れている霊的に死んでいる人たちにいのちを与えてくださいます。

しかし、ある日、イエス様は肉体的に死んだ者たちにいのちを与えてくださいます。つまり、イエス様がご自身のような体を彼らに与えてくださるのです。

それを考慮に入れると、ヨハネはこう言います。

私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。

私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。(3-4)

ヨハネと他の使徒たちは神様との関係をただ楽しみたいとは思いませんでした。むしろ、ほかの人々も神様との交わりを得るまで、使徒たちは自分の喜びが完成されたものではないと考えました。

そういうわけで、彼らは大胆に自分が見たことと聞いたことを宣言しました。

私たちは彼らの模範に従うべきです。

多くのクリスチャンたちは救われて、とても嬉しいです。彼らが神様の愛と赦しを受け、とても幸せです。また、神様が彼らの傷を癒してくださり、彼らは喜びます。

しかし、それだけで私たちは満足してはいけません。それは自己中心的な態度です。

たくさんの人々が神様から遠く離れて、毎日死んでいます。彼らは神様の愛を知らず、神様の赦しを知りません。また、彼らは神様からの癒しを知りません。私たちは彼らを哀れむべきです。

だから、ヨハネと他の使徒たちのように、私たちは与えられたいのちを宣言するべきです。そうすれば、周りの人々も神様との関係を得るでしょう。

あなたはどうでしょうか。救いが必要な周りの人々に気づかないほどに、あなたは自分の救いを喜びますか。

この世の人々の所に行きましょう。私たちの愛している人々にイエス様のことを宣言しましょう。私たちの近所や職場や学校にも行って、イエス様を宣言しましょう。そうすれば、人々が神様の御国に入って、私たちの喜びは満ち溢れるでしょう。

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ペテロの手紙第一

他の人々が生きるために、イエス様のために生きる

この手紙の中で、ペテロは、その読み手たちが苦しむとき、キリストの模範に従うよう促しています。私たちは人々を恐れるのではなく、むしろ、心の中でキリストを主とすべきです。

なぜ、私たちはそうすべきなのでしょうか。それは、私たちの周りの人々が生きるためです。つまり、彼らもまた、私たちが見出したイエス様にある命を見つけることができるようにするためです。

そのために、私たちのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をするべきです。

周りの人々が、私たちが喜んでキリストのために苦しむ姿を見ると、なぜ私たちがそのようにするのか尋ねるでしょう。そのとき、神様は彼らの人生に働きかける機会を与えてくださるのです。

だからペテロは私たちにこう促します。「神のみこころであるなら、善を行って苦しみを受けましょう。そうすれば、周りの人々はそれを見て、魅了され、神の国に入るかもしれません。」

イエス様は、私たちにとって最終的な模範でした。

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。(ペテロの手紙第一3:18)

言い換えると、「分からないのでしょうか。イエス様の苦しみによって、天国の門はあなたに開かれたのです。だから、周りの人々のために同じように行いましょう。」

そして、苦しみの後に待っている私たちの最終的な勝利について話した後、ペテロはこう言います。

キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。(4:1)

簡単に言えば、イエス様が私たちの救いのために喜んで苦しみを受けられたように、私たちも同じ態度を取るべきです。私たちの罪を捨て、自分のために生きることをやめなくてはなりません。むしろ、神様のために生きましょう。(4:2)

ペテロは続けます。

「今まで、あなたがたは一生を棒に振るようにして、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけってきました。

そして、あなたの友人たちは、あなたの優先順位が変わり、もはや彼らと一緒にその罪にふけらないことに驚いています。さらに、彼らはあなたを馬鹿にしたり、迫害したりするかもしれません。」(4:3-4)

しかし、ペテロは私たちにこう思い出させます。

彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります。(5)

裁きの日は必ず来ます。イエス様を拒絶したがゆえに、人々は裁かれるのです。だからこそ、ペテロは再び私たちにクリスチャンとしてのミッションを思い出させます。

このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。彼らが肉においては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生きるためでした。(4:6)

どうして私たちは福音を人々に宣べ伝えるのでしょうか。それは、自分の体が死んでも、彼らが神様との永遠のいのちを得るためです。

その真理を忘れてはなりません。裁きの日は迫っています。私たちは救われているかもしれませんが、まだ多くの人々が救いを受けていません。

私たちはその人々のために何をしているのでしょうか。キリストの愛で彼らに触れ、イエス様の愛を示しているでしょうか。彼らは私たちの人生を見ることで、イエス様に魅了され、私たちの信仰の理由について尋ねるでしょうか。

それとも、もしかしたら、私たちはただ自分勝手に生き、他の人々が地獄に行くかどうかを気にしていないでしょうか。

神様は彼らを愛しておられました。イエス様をこの世に送るほどに、神様は彼らを愛しておられたのです。

私たちは、同じように彼らを愛しているでしょうか。

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ヘブル人への手紙

なぜ福音を無視してはならないのか

へブル人への手紙の主なテーマの一つは、イエス様の偉大さです。

第1〜2章では、イエス様が預言者たちや天使たちよりも優れたお方であることが示されています。第3章では、モーセよりも、そして第4章では、ヨシュアよりも優れておられることが語られています。

けれども、イエス様の偉大さを考えるとき、私たちは、非常に大切な真理を覚えておく必要があります。

それは、かつて天使たちや預言者たちが神様の言葉を語ったとき、人々がそのことばに対して責任を問われた、ということです。

もしイエス様が、天使たちや預言者たちよりも優れたお方であるなら、私たちはなおさら、イエス様のことばに従うべきなのです。

だから、この手紙の著者は、こう語っています。

こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。

御使いたちを通して語られたみことばに効力があり、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのなら、こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。

この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。

そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。(ヘブル人への手紙2:1-4)

この手紙の著者は、「語られたみことば」として、モーセを通して与えられた律法に言及しているようです(申命記33章2節、使徒の働き7章53節、ガラテヤ人への手紙3章19節)。

その律法に従わなければ、人々は裁かれました。けれども、その律法を語ったのはイエス様ではなく、天使たちでした。

ところが今や、イエス様ご自身が、ご自分の口から福音を語られました。それだけでなく、イエス様は使徒たちを通してその福音を宣べ伝えられました。

そして神様は、しるしと不思議、さまざまな力あるわざによって、そのメッセージが真実であることをあかしされました。

さらに聖霊様も、御心にしたがってクリスチャンに賜物を与え、その福音が神からのものであることをあかしされました。

天使ではなく、父なる神、御子なる神、聖霊なる神ご自身が福音をあかししておられるとするならば、私たちがその福音に対して責任を問われることは、なおさらのことです。

もし三位一体の神ご自身がこの福音をあかしされたのなら、私たちがそれを無視するならば、必ず裁きを免れることはできません。

そして、この手紙の著者は、イエス様をモーセと比較します。モーセは偉大な指導者であり、神様は彼を通してイスラエルの民をエジプトから救い出し、律法を与えられました。

それにもかかわらず、著者はこう語っています。

家よりも、家を建てる人が大いなる栄誉を持つのと同じように、イエスはモーセよりも大いなる栄光を受けるにふさわしいとされました。

家はそれぞれだれかが建てるのですが、すべてのものを造られたのは神です。モーセは、後に語られることを証しするために、神の家全体の中でしもべとして忠実でした。

しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなのです。(3:3-6)

著者によれば、モーセは忠実なしもべでしたが、あくまでもしもべに過ぎませんでした。それでも、イスラエルの民はモーセを通して与えられた律法に従わなくてはなりませんでした。

ましてや、イエス様が神の御子であり、神の家を建てられたお方であるならば、私たちがイエス様に従うべきことは、なおさら明らかです。

ですから、私たちはイエス様が告げられた救いの福音を無視してはなりません。私たちは別の裁判所に訴えることなどできないのです。イエス様こそ、最終的な裁きを下される裁判官です。

だから、著者はこう語っているのです。

ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。(3:1)

あなたはどうでしょうか。あなたは福音を軽く扱おうとしているのではありませんか。そのメッセージを無視しようとしてはいませんか。

そのメッセージがあなたに気に入るかどうかにかかわらず、あなたは福音によって裁かれるのです。

だから、まだ時が与えられている今、福音を信じ、受け入れてください。そうすれば、あなたはいのちを知ることになります。

しかし、福音を拒むなら、あなたは裁かれ、永遠の死に至るのです。

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テモテへの手紙第ー

福音の不思議さ

私はクリスマスが大好きです。それは、一年のうちで最も好きな季節です。イエス様がこの世に来られたという出来事は、まさに驚くべきことです。

けれども、私たちはその出来事を、当たり前のこととして受け止めてしまってはいないでしょうか。その出来事の不思議さについて、どれほど深く思い巡らしているでしょうか。

パウロは、その不思議さをよく理解していました。彼はこう語っています。

だれもが認めるように、この敬虔の奥義は偉大です。(テモテへの手紙第一3:16a)

敬虔の奥義。

パウロの時代、多くの人々は、敬虔の鍵は自分自身の努力にあると考えていました。彼らは、律法の実行や禁欲的な生活を通して敬虔になれると信じていたのです。また他の人々は、敬虔の奥義は、系図や想像の物語の中に見出されると考えていました(1:4)。

しかし、本当の敬虔は、宗教的な規則や自己修練によって生まれるものではありません。むしろ、それはイエス様とその十字架の働きによってのみ生じるのです。

パウロは、次のように記しています。

「キリストは肉において現れ、霊において義とされ、御使いたちに見られ、諸国の民の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」(16b)

神様は赤ちゃんとしてこの世に来られました。この世界を創造された神、自らの言葉によってすべてを保っておられる神、この宇宙の王であり源である方が、赤ちゃんとして来られたのです。

イエス様は、大工の子として育てられました。養父ヨセフが亡くなると、イエス様はその家族を支える責任を担われました。

その後、イエス様は家を離れ、ご自身の公の働きを始められました。福音を宣べ伝え、神様がどのような方であるかを人々に教えられ、また、御国の力を現されました。悪霊を追い出し、人々を癒し、死者たちをも復活させました。

群衆は、イエス様を王として迎えようとしました。けれどもそのわずか一週間後、彼らはイエス様を十字架につけてしまいました。

しかし、御霊によってイエス様は復活され、イエス様が力ある神の御子であることが証しされました。天使たちは復活の知らせを弟子たちに伝え、イエス様ご自身も彼らに現れ、その後、天に上げられたのです。

その後、弟子たちがその良い知らせをこの世界に伝えたことによって、今もなお、イエス様の御名は全地に宣べ伝えられ、多くの人々がイエス様を信じるようになっています。

この福音を通して、人々は神様に義と認められます。イエス様を復活させた神様の力によって、彼らの人生は変えられていくのです。

これこそが、福音の不思議さです。そしてまた、それがクリスマスの不思議さでもあります。

私たちが神様の教会として、真理の柱と土台となりますように。 その真理を、この死につつある希望のない世界に向かって、はっきりと伝えていきましょう。

私たちの心が鈍くならないように。この福音を、決して当たり前のものとして受け止めてしまわないように。

あなたはどうでしょうか。あなたは今もなお、福音を不思議に思っていますか。

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テサロニケ人への手紙第二

なぜ多くの人々は滅びてしまうのでしょうか

第1章において、パウロは、かなり不穏なことを語ります。彼はテサロニケの人々にこう言いました。

神にとって正しいこととは、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え。。。

主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に罰を与えられます。

そのような者たちは、永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることになります。(テサロニケ人への手紙第二1:6,8-9)

地獄とは何かを知りたいなら、第9節がその核心を要約しています。それは――人々が永遠に、主の御前から退けられることです。

「永遠の滅び」と聞くと、「それは意識のない状態なのでは」と考える人もいるでしょう。けれども、聖書は明確に語ります。滅びた人にも意識はあります。

そして、神様が命と喜びと愛の源であるならば、その神様から切り離された状態こそが、まさに地獄なのです。

では、なぜ人々は神様から退けられるのでしょうか。

それについて、今日の箇所が答えを示しています。

第2章では、パウロはテサロニケの人々が抱いていた誤解を正します。パウロの以前の手紙を読んで、一部の人々は「すでにイエス様が帰って来られた」と思い、「自分たちはその再臨を見逃してしまったのでは」と不安になっていました。

しかし、パウロは彼らを励まします。「あなたがたはイエス様を見逃してはいません。イエス様が来られるとき、すべての人が必ずその姿を見ます。イエス様が来られるとき、あなたは必ず知るのです。」

そして、パウロは将来に何が起こるのかを説明します。

イエス様が来られる前に、反キリストが現れます。彼は神様に逆らって自らを高く上げ、ついには「自分こそ神だ」と宣言するのです。

実際、パウロの時代から――もっと前から――私たちはこの世界に働く不法の力を見てきました。その力の背後にいるのは、私たちを滅ぼしたいと願う偽りの父です。しかし今のところ、聖霊様がサタンを引き止めておられます。

けれども、やがてそのときが来て、聖霊様が退かれると、サタンはこの世を自由に支配するようになります。

反キリストが現れると、偽りのしるしや不思議なわざを行い、 多くの人々を欺きます。人々は彼を本当のキリストだと信じてしまうのです。

その結果、彼らは滅びに至ります。(3〜10節)

では、なぜ彼らは滅びなくてはならないのでしょうか。

彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。

それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。(テサロニケ人への手紙第二2:10-11)

これこそが、人が地獄で滅びる主な理由です。神様は彼らに福音の真理を伝えてくださいました。たとえ福音を直接聞いたことがなくても、彼らには創造物のあかしもあり、自分の良心のあかしもあるのです。(ローマ書1章)

それでも彼らは、救いへと導くその真理を愛することを拒みました。むしろ、自分の罪を喜んだのです。

多くの人々は、福音を信じられないわけではありません。むしろ、福音の真理を信じたくないのです。なぜなら、それを受け入れるならば、悔い改めなくてはならないからです。自分の罪を捨てなくてはならないのです。しかし、彼らはそれを望まないのです。

それゆえに神様は彼らに言われます。「あなたは真理を受け入れたくないのですか。では、この惑わす力の偽りを飲み込みなさい。」

彼らはそのとおりにし、永遠に自分の罪を抱き締め、神様を呪い、決して悔い改めることはありません。だからこそ、彼らは地獄で滅びるのです。

では、あなたはどうでしょうか。あなたは真理を持っています。では、どう応答しますか。その真理を受け入れて、救われるでしょうか。それとも、自分の罪にしがみつき、滅びへと進むのでしょうか。

主のみことばを、しっかり心に刻みましょう。

わたしは生きている。。。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。

立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。(エゼキエル書33:11)

あなたには、いのちを選ぶことができます。では、なぜ死を選ぼうとするのですか。あなたはどう応答するでしょうか。

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ピリピ人への手紙

福音のメッセージ

前回の記事では、私たちが「福音にふさわしく生活するべき」だということを学びました。でも、そもそも「福音」とは何でしょうか。

パウロは2章で、その福音をはっきりと語ります。福音は、イエス様ご自身についてのメッセージです。つまり、

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。(6-8)

少し想像してみてください。イエス様は、神のあり方そのものを持っておられました。けれども、こうは言いませんでした。 「私は天の父と御霊と等しくあられる存在なのに、なぜ私が地上へ行き、この反抗的でみじめな民のために死ななければならないのか。」

むしろ、イエス様はご自身を空しくされました。神として栄光にふさわしいお方であり、その栄光を実際に持っておられたにもかかわらず、その栄光を手放し、人となられたのです。

さらに、イエス様はこの世に来るとき、人間の王としてではなく、貧しい家庭にお生まれになり、大工として歩まれました。

それだけでなく、神としてイエス様にはご自身の思い通りに生きる権威がありましたが、そうはされませんでした。むしろ、畏れをもってしもべの姿を取り、天の父の御心に従われました。

そして、天の父が「この世のためにあなたが死ぬ時が来た」とおっしゃったとき、イエス様はこう応えられました。「わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」

なぜ、イエス様は天の父の御心に従われたのでしょうか。それは、イエス様が天の父を深く愛しておられたからです。

その愛ゆえに、イエス様はご自身がふさわしいとされるものを捨て、十字架の上で辱めを受け、命を捧げられました。

けれども——福音の物語は、そこでは終わらないのです。

パウロは、さらに続けてこう語ります。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。(ピリピ人への手紙2:9-11)

天の父は、イエス様をただ復活させられただけではなく、かしらとして、また支配者として、すべてのものの上に置かれました。

そしてある日、救われたすべての人々が、ひざまずいて礼拝し、 「イエス・キリストは主です」と喜びをもって告白する時が来ます。

その日、私たちは、しみやしわ、またそのようなものが何一つない、聖く、傷のない存在として完成された、栄光に満ちたひとつの教会となり、父なる神に栄光を帰すのです。

パウロは語ります——私たちはこの福音にふさわしく生活すべきなのです。イエス様が私たちのためにこれほどまでにしてくださったのなら、私たちがその模範に従って生きることは、まことにふさわしい応答ではないでしょうか。

だからこそ、パウロはこう語ったのです。

キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。(5)

私たちはイエス様と一つにされました。ですから、イエス様の模範に従って生きるべきではないでしょうか。たとえ周囲の人々が私たちを拒んだとしても、私たちはその人たちに対して、キリストの愛とあわれみをもって応えるべきです。

もし私たちが、やがて共にイエス様を主として礼拝する日が来るのだとすれば、今この時にも、互いに愛し合い、御国のために共に働くべきではないでしょうか。

さらに、私たちは自己中心的な思いを捨て、兄弟姉妹を自分よりもすぐれた者として敬い、イエス様が私たちのためにご自身の命を捨てられたように、兄弟姉妹のために自分の命をも差し出す者とされるべきです。

あなたはどうですか。あなたは、この福音を信じておられるでしょうか。そして、その福音によって、生かされているでしょうか。

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ピリピ人への手紙

神様が私たちのうちで行っておられること

パウロはいろんな試練を経験していましたが、この手紙の中には、彼の喜びがあふれています。おそらく、パウロはこの手紙をローマの牢獄から書いたのでしょう。それにもかかわらず、私たちは何度も「喜び」や「喜ぶ」という言葉を目にします。

パウロが喜んでいたことの一つは、ピリピのクリスチャンたちの中に見られる神様の働きでした。ピリピの教会は、ヨーロッパで最初に生まれた教会です。

パウロがピリピを訪れたとき、リディアという裕福な女性に出会いました。彼女は神様を敬っていましたが、イエス様のことはまだ知りませんでした。しかし、パウロがリディアとその家族に福音を語ったとき、彼らは信じて救われました(使徒の働き16:11-15)。

けれども、ピリピでの宣教は平穏ではありませんでした。パウロはさまざまな困難に直面し、逮捕され、牢に入れられます。それでも、神様はその中で確かに働いておられました。看守とその家族までもが、パウロを通して救われたのです(使徒の働き16:16-40)。

それは、ピリピの教会にとっての原点でした。そして彼らは、パウロの宣教活動を経済的に支える教会のひとつとなったのです。

彼らが福音の働きに共に携わる中で、パウロは彼らの間にある神様の良い働きを見ることができました。だからこそ、パウロはこう書いたのです。

あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。(ピリピ人の手紙1:4-6)

キリストの福音の驚くべきことのひとつは、救いが最初から最後まで恵みによるものであるということです。

私たちがまだ神様のことを考えてもいなかったときに、神様は私たちを救うために手を伸ばしてくださいました。そして恵みによって、神様は私たちを罪という不潔な穴から引き上げ、十字架で流されたイエス様の血によって清めてくださったのです。

しかし、救いはそれだけでは終わりません。神様は「あなたを清めましたよ。あとは自分の力で頑張ってね」と告げて私たちを放っておかれることはありません。

むしろ、今もなお、神様は私たちのうちで働いておられます。 そして、イエス様がこの世に戻られるその日まで、神様は私たちのうちで働き続けてくださるのです。その日、イエス様は私たちを完成へと導いてくださいます。

では、神様はどのように私たちのうちで働かれるのでしょうか。 パウロが私たちにそのことを教えてくれています。

私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。

こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。(9-11)

パウロが祈っているのは、愛の実、つまり、神様に対する愛と人々に対する愛が、私たちの人生に豊かに実ることです。

では、その実はどのように成長するのでしょうか。それは、私たちが神様とその愛の素晴らしさを深く知れば知るほど、愛もまた大きく咲き広がるからです。神様への愛も、隣人への愛も、共に成長していきます。

このようにして愛の実を結び始めるとき、私たちは神様のご計画を少しずつ知るようになります。そのとき、私たちは「良い」だけでなく、「最も良いもの」を選び取るようになります。そして私たちの人生には、神様の義の実が次々と結ばれていくのです。

けれども、ここでパウロの言葉に目を向けましょう。その義の実は、私たち自身の努力によって結ばれるわけではありません。 私たちはイエス様に繋がっていなければならないのです。だからこそ、イエス様はこう言われました。

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(ヨハネ15:5)

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

第一に、自分の罪を見ても、落胆しないでください。神様はあなたのうちに良い働きを始めてくださいました。その働きは十字架において始まりました。そして神様があなたを呼ばれたとき、あなたはその御声に応えて神様のもとに来ました。

それだけではありません。あなたが完成へと導かれるその日まで、神様は絶えず働き続けてくださいます。

第二に、私たちはイエス様に繋がるべきだということです。それこそが、あなたの人生が変わる鍵です。その鍵とは、あなたの努力や自制だけではありません。その鍵とは、イエス様があなたのうちに住んでおられるという事実なのです。

そして、イエス様の働きによって、神様の栄光はあなたの人生に現れ、あなたは真の喜びを知るのです。

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ガラテヤ人への手紙

福音のために戦う

今日の箇所では、私たちは福音のために戦ったパウロの姿を見ます。

最初に、パウロはエルサレムへ行きました。それは、他の使徒たちと同じ福音を伝えているかどうかを確認したいと思ったからです。つまり、人は律法の従順によってではなく、恵みによって救われるのです。

そのとき、一部のユダヤ人クリスチャンが、「もしパウロの弟子であるテトスが本当にクリスチャンであるなら、割礼を受けなければならない」と主張しました。

けれども、パウロはこのことについてこう語りました。

私たちは、一時も彼らに譲歩したり屈服することはありませんでした。(ガラテヤ人への手紙2:5)

他の使徒たちはパウロを支持し、彼が異邦人に恵みの福音を伝えるよう促しました。(ガラテヤ 2:7-9)

しかしその後、パウロはこの問題についてペテロに対して立ち上がらなければなりませんでした。

以前、ペテロはコルネリウスとの経験を通じて、異邦人をクリスチャンとして受け入れていました。(使徒の働き10-11章)

さらに、ユダヤ人の律法に反してでも、ペテロは異邦人と共に食事をし、彼らの食べ物を口にするようになっていました。

ところが、エルサレムの教会から来たユダヤ人クリスチャンたちがペテロの行動を疑いの目で見たとき、ペテロは異邦人から少し距離を置き、ユダヤ人だけと食事をするようになりました。そして、他のユダヤ人クリスチャンたちもペテロの行動に倣ったため、偽りの福音によって、その教会は分裂の危機に陥りました。

こうして、パウロは福音のためにもう一度戦いました。

「ペテロ、いったい何をしているのか。あなたはユダヤ人なのに、これまで異邦人と会話し、彼らのように食事をしてきたではないか。それは、律法の従順ではなく、キリストへの信仰によって人が救われることを知ったからだろう。

あなたも、それを理解しているはずだ。律法を完全に守ることができる者は誰もおらず、律法によって救われる者もいない。それを知っていながら、なぜこのような行動をとるのか。」(ガラテヤ 2:14-16)

パウロがこれほどまでに熱心に福音のために戦いましたのは、その福音によって彼が救われたからです。この福音は、パウロやほかの誰かによるものではなく、神によって与えられたものでありました。彼が死へと向かう道を進んでいたとき、福音が彼を引き止め、命の道へと導きましたのです。

けれども、パウロは福音を受けるに値する者ではありませんでした。彼が律法を完全に守り、救いに値したから神が彼に福音を示したのではありません。それどころか、彼は教会を迫害し、多くのクリスチャンを殺しましたのです。

しかし実際には、パウロが生まれる前に、神様は恵みによって彼を召されました。その恵みによって、神様は喜んでパウロにイエス・キリストのことを示されました。さらに、神様はパウロを召し、彼がその恵みの福音を異邦人に伝えるようにされました。(ガラテヤ 1:11-16)

このように、人々がパウロを救った福音を攻撃したとき、パウロは戦いました。

私たちも同じようにすべきです。

福音によって、私たちは命を受けました。私たちが生まれる前に、神様はご自身の目的のために私たちを選び、召されました。神様は私たちの善さゆえに召されたのではありません。神様は私たちの資格ゆえに召されたのでもありません。むしろ、恵みによって、神様は私たちを召されました。

だからこそ、神様は私たちが周りの人々にその福音を伝えるように召されています。そして、福音が攻撃されるとき、私たちはその福音を擁護しなければなりません。

あなたは福音に対して、どれほどの情熱を持っているでしょうか。

あなたはどれほど素晴らしい賜物を与えられたかを理解しているでしょうか。あなたに注がれた恵みを理解しているでしょうか。

その恵みを理解するなら、福音のために戦いましょう。その福音を擁護しましょう。

とはいえ、福音を攻撃する人々は私たちの敵ではないことを忘れないでください。むしろ、彼らもまた、私たちを救った福音を知る必要があることを覚えておきましょう。

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ガラテヤ人への手紙

人を喜ばせる福音?

クリスチャンが認めるべきことの一つは、福音が多くの人にとって簡単に受け入れるものではないということです。残念なことに、そのため、人々が福音を受け入れやすくするために、クリスチャンはときどき福音のメッセージを薄めたり、遠回しに伝えたりすることがあります。

「イエス様は、ご自身が神様への唯一の道であると宣言されました。でも、少し誇張した表現だったのかもしれません。もしかすると、イエス様を信じていなくても、神様に受け入れられる敬虔な人々がいるのかもしれません。」

「神様の御心は、私たちがこの世で決して苦しまず、繁栄し、健康的な生活を送ることです。」

「聖書には、その行為は罪であると記されていますが、それは昔の律法によるものです。今の私たちはその律法の下にあるわけではありません。大切なのは、人をそのままの姿で受け入れることです。」

もちろん、私たちは恵みによって救われています。とはいえ、だからといって、悔い改めずに罪を犯し続けながらクリスチャンであると主張することはできません。

ガラテヤの人々の場合、恵みは薄められていました。一部のユダヤ人クリスチャンの考えでは、ガラテヤの人々は恵みだけによって救われるわけではありませんでした。むしろ、彼らは割礼を受ける必要があり、特定の食べ物を避けなければならず、その他の儀式的な律法にも従わなければなりませんでした。

では、なぜ彼らは福音を薄めたのでしょうか。おそらく、彼らはノンクリスチャンのユダヤ人がクリスチャンについてどう思うかを気にしていたからでしょう。

つまり、もしクリスチャンが恵みだけによる救いを宣べ伝えれば、ユダヤ人クリスチャンは「良いユダヤ人」とは見なされなくなるかもしれません。その結果、ユダヤ人の家族や友人に拒絶される可能性がありました。

こうした理由から、彼らはユダヤ人にとって受け入れやすい福音を採用したのです。

今もなお、同じようなことをするクリスチャンがいます。周囲の人々に福音をより受け入れやすくするために、福音のメッセージを薄めてしまうのです。

けれども、パウロはこう言いました。

今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。(ガラテヤ人への手紙1:10)

要するに、「福音を宣べ伝えるとき、私は周囲の人々が福音に同意するかどうかを気にしません。彼らを喜ばせたいとは思いません。むしろ、私は神様を喜ばせたいのです。」

だからこそ、パウロは戦い、福音の単純さと純粋さを守ろうとしました。そのため、ペテロが福音を曖昧にしたとき、パウロは彼に対して異議を唱えました。(ガラテヤ書2:11-14)

あなたはどうでしょうか。福音を薄めてはいないでしょうか。それとも、福音を正直に伝えているでしょうか。

私たちが周囲の人々の意見を気にし続ける限り、神様を喜ばせることはできません。そして、薄められた福音を伝えるならば、私たちは神様を喜ばせることができないのです。

あなたはどんな福音を宣べ伝えているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

私たちは誰を宣べ伝えるのか

周りの人々は私たちを見て、どのような人物だと思うでしょうか。

多くの場合、私たちは自分の立場や実績によって人々を感動させたいと願います。正直に言うと、私自身もその誘惑と日々戦っています。

誰もが周りの人々に認められたいと願います。しかし、もし人からの栄誉を求めて生きるならば、私たちは神様が与えられた目的を見失ってしまうのです。

パウロはこう書きました。

私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。(コリント人への手紙第二4:5)

パウロは自分自身を売り込もうとはしませんでした。彼は自分の立場や実績によって人々を感動させようとはしませんでした。むしろ、パウロはイエス様のことを宣べ伝え、周りの人々をイエス様のもとへ導きました。

自分自身について、パウロはイエス様が命じられた態度を持っていました。

同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と言いなさい。(ルカ17:10)

だから、パウロは自分自身について語る際、基本的にこう言いました。「私は取るに足りない者です。大切なのはイエス様なのです。」

彼はコリントの人々にこう語りました。

私たちは、この宝(つまり、神の栄光を知る知識)を土の器の中に入れています。

それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。(コリント人への手紙第二4:7)

つまり、「私たちはただの器にすぎません。しかし、それは宝を宿す器です。さらに、私たちは弱く、壊れやすい存在です。」ということです。

パウロはこう勧めました。

私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。

途方に暮れますが、行き詰まることはありません。

迫害されますが、見捨てられることはありません。

倒されますが、滅びません。

私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。

私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。

それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。また、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。(8-11)

要するに、「私たちは弱く、すでに打ち砕かれたはずです。外には戦いがあり、内には恐れがありました(7:5)

私たちは途方に暮れ、迫害され、倒されました。私たちは常に死の危機に瀕しています。

しかし、私たちが今も生きている理由は、私たち自身の偉大さではなく、むしろ、私たちのうちにおられるイエス様の偉大さです。そして、私たちの試練の中で、イエス様のいのちは私たちの弱いからだを通して輝きます。」

これこそが、私たちのための神様の目的です。神様が望まれるのは、イエス様が私たちの人生を通して輝くことです。そして、その光が私たちの周りの人々の心を照らし、彼らが救われることです(6)。

だから、パウロはこう語りました。

こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。(12)

私たちは自分自身に問いかけるべきです。「私は誰のために、また何のために生きているのか。私の動機は何なのか。」

パウロにとって、その答えは明確でした。

「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。

主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。(13-14)

パウロは、イエス様が私たちのために死んで、よみがえられたことを確信していました。また、パウロは、神様がパウロだけでなく、そのミニストリーを通して触れた人々も復活させることを確信していました。だからこそ、パウロは福音を宣べ伝えました。

あなたはどうでしょうか。イエス様があなたのために死んで、よみがえられたことを信じますか。あなたは、自分だけでなく、イエス様を信じる家族や友人、知人も復活することを信じますか。

あなたの人生は、あなたが何を信じるかを示します。

私たちは自分自身を売り込もうとしているでしょうか。それとも、人々をイエス様へと導いているでしょうか。私たちは自分の栄光を求めているでしょうか。それとも、神様に栄光を帰そうとしているでしょうか。

日々、パウロの態度を持ちましょう。

すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。(15)

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コリント人への手紙第二

私たちの役割、神様の御業

福音を宣べ伝えるとき、多くの人々は相手の反応を気にします。

それは当然のことです。なぜなら、私たちは彼らの救いを心から願っているからです。さらに、私たちは自分が好かれることも望んでいます。

もちろん、一つ目の願いは非常に大切ですが、二つ目の願いは二次的なものです。だから、その思いが福音の宣言を妨げることがあってはなりません。

パウロはこう書きました。

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。(コリント人への手紙第二4:1)

「落胆することがありません」と言うとき、パウロが意味したのは、「人々が福音を拒絶しても、私は落胆しない」ということだと思われます。

もちろん、人々が福音を拒絶するのは悲しいことです。さらに、人々が福音のために私たちを退けると、落胆するのは容易なことです。

しかし、パウロはこう語ります。

かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。(2)

つまり、「福音を宣べ伝えるとき、私たちは誠実にふるまいます。私たちは人を欺こうとするのではありません。」ということです。

さらに、パウロは「私たちは神のことばを曲げない」と語りました。

「曲げる」という言葉は興味深いものです。本来、この言葉はワインを売る商人が自分の商品を水で薄めることを指していました。

言い換えると、パウロはこう言いました。

「私たちは神様のことばを薄めません。人が福音をもっと簡単に受け入れられるように、福音を変えることは決してしません。むしろ、私たちはその真理を誠実に語ります。」

時に、相手が福音を受け入れやすくするため、また、私たち自身を受け入れてもらうために、福音のメッセージを変えたいという誘惑に駆られることがあります。

しかし、パウロにとって、それは決して許されることではありませんでした。彼は福音をはっきりと伝え、相手にこう語りました。

「これが福音です。あなたはどうしますか。」

神様は、私たちにもそのように語るように召しておられるのです。

人々に信じさせることは私たちの責任ではありません。私たちの責任は真理を正しく語ることなのです。

パウロはこう語ります。

それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。

彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。(3-4)

パウロが意味したのは、もし私たちが誠実に福音を伝えたとしても、相手が真理を理解できない場合、私たちは自分自身を責める必要はないということです。なぜなら、サタン自身が彼らの思いを暗くしているからです。

では、私たちはどうすればよいのでしょうか。私たちはその人を神様の御手に委ねるべきです。それが私たちにできる唯一のことなのです。

パウロはこう書きました。

「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。(6)

世界が造られたとき、神様こそが暗闇の中に光を放ち、すべてを照らされました。同じように、神様は暗闇の中にある人の心を照らすことができます。

だから、ある人が福音を拒絶するとき、その人のために祈ってください。それこそが、私たちの役割です。その結果は、神様の御業です。

そのため、相手が福音をもっと簡単に受け入れられるようにするために、決して福音のメッセージを曲げてはいけません。

むしろ、その真理を正しく語り、その人のために祈りましょう。そして、神様が彼らの心の中で働かれることを待ちましょう。

そうすれば、もし神様の御心なら、神様の最善のタイミングで、私たちは実を見ることができるでしょう。

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コリント人への手紙第一

最も大切なこと

この箇所は、この手紙の中で最も重要だと思います。なぜなら、この言葉こそが私たちの信仰の土台だからです。

パウロはこう書きました。

兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。

私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。

キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。。。

とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。(コリント人への手紙第一15:1-5,11)

福音とは何でしょうか。

1. イエス様が私たちの罪のために死なれたこと

2. イエス様が葬られたこと

3. イエス様が三日目に復活されたこと

そして、これらの出来事は、神様の預言者たちの言葉に従って成就しました。特に、イザヤ書53章にはその預言が詳しく記されていますが、他にもさまざまな箇所でイエス様についての預言を見ることができます。

パウロにとって、このメッセージは最も重要なものでした。なぜでしょうか。

あなたが。。。この福音によって救われます。(2)

もし人が、自分の罪から救われ、永遠の命を持ちたいと願うなら、この三つのことを信じなければなりません。他に救いの道は一切ないのです。

もし、私たちが良い行いによって救われるのであれば、パウロにとって最も重要なことは神様の律法だったでしょう。

また、もし永遠の命が存在しないのであれば、パウロにとって最も重要なのは、私たちがどのようにこの人生を生きるかということだったでしょう。

しかし、永遠の命は存在します。そして、その永遠への道はイエス様の十字架です。天の父は、イエス様の十字架の贖いを受け入れられました。その証拠に、神様はイエス様を復活させられました。

だからこそ、パウロはこの真理こそが最も重要なものだと考えました。彼はどこへ行っても、誰と話しても、このメッセージを伝えました。

あなたはどうでしょうか。あなたにとって福音は最も重要なものですか。周りの人々に福音を伝えるほどに、あなたは福音を大切にしていますか。

福音を本当に信じるなら、私たちは周りの人々にそのメッセージを伝えるはずです。

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コリント人への手紙第一

分かりやすい言葉で伝える?

この異言と預言に関するパウロの話の中には、牧師に対しても、教会に集う人々に対しても、大切な真理があります。

パウロはこう語りました。

笛や竪琴など、いのちのない楽器でも、変化のある音を出さなければ、何を吹いているのか、何を弾いているのか、どうして分るでしょうか。また、ラッパがはっきりしない音を出したら、だれが戦いの準備をするでしょう。

同じようにあなたがたも、舌で明瞭なことばを語らなければ、話していることをどうして分かってもらえるでしょうか。空気に向かって話していることになります。

世界には、おそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばは一つもありません。

それで、もし私がそのことばの意味を知らなければ、私はそれを話す人にとって外国人であり、それを話す人も私には外国人となるでしょう。(コリント人への手紙第一14:7-11)

パウロの要点は、教会の礼拝において、訳されていない異言には価値がないということです。

ところが、時に牧師たちは、神様の真理を教会の人々に伝えようとするよりも、自分の聖書的な知識を披露しようとしているように見えることがあります。

彼らは難解な神学的な言葉を用いますが、その言葉を理解できる人はほとんどいません。そのため、メッセージの後、人々は次のように反応します。

「そのメッセージは素晴らしく、霊的に深いものに聞こえました。けれども、牧師が一体何を言いたかったのか、さっぱり分かりません。」

私もそのような神学書を読んだことがあります。もちろん、それは学問的な書籍であり、著者は読者が一般の人々よりも深い知識を持っていることを前提としています。それでも、私にはその本が難解すぎて、途中で読むのを諦めました。

さらに、時に私たちは福音を伝える際、「クリスチャン語」を使ってしまいます。たとえば、「贖い」や「イエス様の血によって救われる」、「聖化」、「義と認められる」といった言葉を用います。

しかし、相手がこれらの言葉を聞いても、その意味を理解できないでしょう。

「罪」という言葉も明確に説明する必要があります。「すべての人は罪を犯す」と言うと、相手は「え?私は一度も犯罪を犯したことがない」と思うかもしれません。

だからこそ、福音を伝えるときは、言葉の使い方に注意するべきです。

私たちが理解しやすい言葉を使わなければ、相手はそれを理解できず、私たちの努力は無駄になってしまいます。彼らにとって、私たちはまるで外国語を話しているように聞こえるのです。

そうではなく、むしろ、福音をシンプルかつ明確に伝えましょう。

また、もし聖書を教える立場にあるなら、人々を自分の知識で感動させようとするのではなく、彼らが理解できる言葉を用いましょう。そうすれば、神様は彼らの心に働かれることができます。

パウロの模範に従いましょう。

兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。

なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。

あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。

それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。(第一コリント2:1-5)

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ローマ人への手紙

私たちを堅く立たせることができる方

これは、ローマ人への手紙に関する私の最後の記事です。この手紙について書くことは、本当に喜びでした。

そして、パウロはこの手紙の始めと同じように、その締めくくりを迎えます。彼は、救いが最終的に神様の働きであることを私たちに思い出させてくれます。

パウロは次のように記しています。

私の福音、すなわち、イエス・キリストを伝える宣教によって、また、世々にわたって、隠されていた億着の啓示によってーー永遠の神の命令に従い、預言者たちの書を通して今や明らかにされ、すべての異邦人に信仰の従順をもたらすために知らされた億着の啓示によって、あなたがたを強くすることが出来る方(別訳:あなたがたを堅く立たせることができる方)、知恵に富む唯一の神にイエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように。アーメン。(ローマ人への手紙16:25-27)

この箇所を通して、私たちは福音の神秘を見ることができます。

イエス様がこの世に来られる何百年も前に、神様は預言者たちを通して将来に起こることの片鱗を示されました。

預言者たちの言葉は長い間、完全には理解されていませんでしたが、イエス様にあって、その意味が明らかになりました。こうして、今やすべての国の人々がイエス様を信じ、従うことができるのです。

しかし、この福音は私たちの行いによるものではありません。むしろ、この福音は神様の恵みによるものです。神様は私たちを信仰と救いの上に立たせてくださいました。

時の始まる前から、神様は私たちを選び、御子のかたちに似た者としてあらかじめ定めてくださいました。

イエス様を通して、神様は私たちの罪の代価を支払ってくださいました。そして、私たちが天国でイエス様を見る日まで、神様は日々、聖霊によって私たちを清めてくださいます。

それは救いの不思議さです。

私たちは救いに値しないのです。私たちは救いのために働かなかったのです。

でも、恵みによって、神様が私たちの上に愛を注いだので、私たちはイエス様を信じました。そしてある日、私たちはイエス様のようになります。

だから、パウロはこの手紙をこのようにまとめました。

知恵に富む唯一の神にイエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように。アーメン。(27)

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ローマ人への手紙

信じることを拒否すると

以前の記事で、私は救いの逆説について述べました。つまり、救いの道は簡単でありながら、同時に難しいのです。

私たちがただ神様を信じ、イエス様の十字架の働きを信じるなら、救われます。それでも、多くの人々はそうしません。ユダヤ人はその代表的な例です。

そこで、パウロはこう語りました。

しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか」とイザヤは言っています。(ローマ人への手紙10:16)

それはユダヤ人だけの問題ではありません。この世の多くの人々も同じ問題を抱えています。今なお、パウロの言葉は世の人々に当てはめることができます。

「主よ、私たちが聞いたことを、誰が信じたでしょうか。」

そして、パウロは重要な真理を語ります。

ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。(ローマ人への手紙10:17)

要するに、人々が救われるためには、二つのことが必要です。人々は福音を聞かなければならず、また、そのメッセージを信じなければなりません。

では、なぜユダヤ人や他の人々は信じないのでしょうか。イエス様は彼らに語られなかったのでしょうか。それとも、彼らは聞かなかったのでしょうか。そうではありません。

パウロはこう書きました。

では、私は尋ねます。彼らは聞かなかったのでしょうか。いいえ、

むしろ、「その響きは全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた」のです。(18)

パウロは詩篇19:4を引用しました。その詩篇では、詩人が「天は神の栄光を語り告げる」と歌っています。

パウロはこの詩篇を福音に当てはめ、福音が世界の果てまで届いたことを示します。

そして、パウロは問いかけます。

では、私は尋ねます。イスラエルは知らなかったのでしょうか。(19)

彼らは知っているはずでしたが、結局、神様の言葉を理解できなかったようです。

そして、パウロは救いの皮肉について語ります。神様はまずユダヤ人にご自身を現されましたが、彼らは神様に背を向けました。そこで、神様は異邦人のもとへ行かれ、異邦人は信じたのです。

だから、パウロはイザヤの言葉を引用します。

わたしを探さなかった者たちにわたしは見出され、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した。(20)

この箇所では、神様は異邦人について語られました。異邦人はそれぞれ自分の道を歩み、神様を全く求めていませんでした。

それにもかかわらず、神様はご自身を彼らに現されました。その結果、異邦人は神様を信じるようになったのです。

とはいえ、ある意味では、この箇所をユダヤ人にも当てはめることができます。彼らも神様を求めてはいませんでした。彼らはエジプトで奴隷であった時、偶像を礼拝していました(ヨシュア24:14)。

それでもなお、神様はご自身を彼らに現されました。では、彼らの反応はどうだったでしょうか。

神様は彼らについて、こう言われました。

わたしは終日、手を差し伸べ た。不従順で反抗する民に対して。(21)

では、なぜ彼らは信じなかったのでしょうか。

彼らはいくつもの奇跡を目の当たりにしました。神様はエジプトに数々の災害を送り、紅海を分け、砂漠でマナを与えられました。ユダヤ人には信じる理由が十分にあったのです。

そして、イエス様が来られました。イエス様も多くの奇跡を行い、悪霊を追い出し、卓越した知恵を教えられました。けれども、彼らはイエス様を拒絶しました。

なぜでしょうか。

ほかの者たち(つまり、神様を信じないユダヤ人たち)は頑なにされたのです。

「神は今日に至るまで、彼らに鈍い心と見ない目と聞かない耳を与えられた」と書いてあるとおりです。(11:7-8)

パウロはイザヤ書29章を引用しました。私はこの箇所についてさらに説明しますが、その要点は、ユダヤ人が先に自分の目を閉じたことにあります。そこで、神様は彼らにこう言われました。

「あなたは見たくないのですか。では、あなたは霊的な盲人になれ。」

ユダヤ人は何百年もの間、神様の御業を目の当たりにし、み言葉を聞いてきました。ところが、どうしても信じることができませんでした。そのため、神様は彼らを自らの不信へと引き渡されました。

福音を聞く者は、この危険に直面します。もし私たちがずっと心を頑なにし続けるなら、神様は私たちにこう言われるかもしれません。

「信じたくないなら、信じるな。」

そして、私たちは不信の結果を受けることになります。それは、死です。

だから、救いのメッセージに対して心を閉ざさないでください。そうしなければ、霊的な目が見えなくなり、やがて永遠の死へと向かうことになるでしょう。

むしろ、心を開きましょう。イエス様とその福音だけが、あなたを救うのです。

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ローマ人への手紙

私たちが福音を宣べ伝える必要

私が前に述べたのは、この世が造られる前に、神様がご自分の子供として私たちを選ばれたということです。

あるクリスチャンたちはこの考えを信じますが、こう言うことがあります。「もし神様が誰を救うかをすでに選んでいるのなら、私たちには福音を伝える必要がないのではないか。」

それは極端な考えです。そのように言う人々は重要なことを見逃しています。神様は私たちに福音を伝えるよう命じておられるのです。

もちろん、神様には私たちの助けは必要ありません。それでも、神様は福音を伝えるために、私たちを用いることを選ばれます。

神様は私たちに御国の鍵を与えてくださいました。けれども、私たちがその鍵を用いなければ、救われる人は誰もいないでしょう。

だから、パウロはこう言います。

しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。

聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。

宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。(ローマ人への手紙10:14)

そのすべての答えは同じであり、明確です。つまり、その答えは「それは不可能だ」ということです。

信じたことのない人は主を呼び求めません。聞いたことのない方は、信じることができません。福音を宣べ伝える人がいなければ、それを聞く人は誰もいないのです。

だからこそ、パウロはこう言います。

遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。(15)

答えはもう一度、「それは不可能だ」です。

しかし、ここで重要な点があります。神様は私たち信者全員を、行って福音を伝えるように召されました。

イエス様は弟子たちに語られましたが、それは私たちにも向けられた言葉です。

父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。(ヨハネの福音書20:21)

また、

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け(ます)。(マタイの福音書28:19)

私たちはイエス様からの召しを待つ必要はありません。イエス様はすでに私たちを呼ばれました。

だから、パウロは福音を宣べ伝える人についてこう言います。

「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と書いてあるようにです。(ローマ人への手紙10:15)

あなたはどうでしょうか。神様から御国の鍵を授けられています。あなたはそれをどのように用いるでしょうか。

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ローマ人への手紙

福音

この箇所で、パウロは、これまで福音を述べ伝えてきたように、ローマでも同じように宣べ伝えたいという願いを表しています。

もちろん、ローマのクリスチャンたちはすでに福音を知っていました。しかし、私たちは皆、何度も福音を思い起こさせられる必要があります。

さらに、私たちは福音により深く根ざし、その意味が心に深く刻まれる必要があります。

それこそが、この手紙の目的です。私たちが福音により深く根ざすようになることです。

ローマ1:14-15節の言葉は、私の心を打ちました。パウロはこう言いました。

私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のあるものです。ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。(ローマ人への手紙1:14-15)

もちろん、キリストに呼ばれた使徒として、パウロは福音を述べ伝える義務を持っていました。とはいえ、パウロにとって、その召しは単なる義務ではありませんでした。彼は惜しみなく福音を宣べ伝えました。

私たちも同じ姿勢を持つべきです。私たちは喜びをもって福音を伝えるべきです。なぜでしょうか。私たちはどのような態度を持つべきでしょうか。

私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。(ローマ人への手紙1:16)

「福音は、信じるすべての人に救いをもたらす神様の力です。」

私たちは、その言葉の意味を本当に理解しているでしょうか。福音は人を救う神様の力です。

しかし、神様の望みは、ただ人々が天国へ行くことだけではありません。

救いとは、神様がこの世で人々を癒すことです。罪によって彼らの人生は壊れてしまいましたが、神様の力によって彼らは完全な者となることができます。

壊れた心が癒されます。壊れた結婚や人間関係も癒されます。しかし、最も重要なのは、壊れた神様との関係が癒されることです。

それこそが救いです。福音はその救いをもたらす神様の力です。

そして、この素晴らしい知らせはすべての人のためのものです。

神様はユダヤ人たちを特別な民として選ばれたため、福音はまず彼らに伝えられました。とはいえ、イエス様が十字架で死に、復活された後、すべての人が神様に近づくことができるようになりました。

イエス様を信じるすべての人は、神様の子供として受け入れられるのです。

なぜ、神様は私たちを受け入れてくださるのでしょうか。

福音には、神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてある通りです。(17)

「義」という言葉は、聖書の中でさまざまなニュアンスを持っています。しかし、この箇所での「義」とは、神様との和解を意味します。

私たちの罪によって、神様との関係は壊れていましたが、信仰によって、私たちは神様と和解しました。

少し考えてみると、この概念は理解しやすいものです。

どのようにして私たちの神様との関係が壊れたのでしょうか。私たちは神様に信頼しませんでした。神様が私たちの最善を願っておられることを信じませんでした。神様の意図を疑いました。

そのため、私たちは神様に背を向け、自分の道を歩み始めました。

では、その関係はどのようにして回復されるのでしょうか。私たちは神様に向かい、「これから、私はあなたに信頼します」と言うのです。

まず、私たちはイエス様の十字架での働きを信じなくてはなりません。それを信じなければ、私たちは神様に受け入れられません。そのため、私たちは次のように祈ります。

「イエス様、あなたが十字架で死なれたとき、私の罪のための罰を受けてくださったことを信じます。これから、私の主になってください。」

そうすると、神様は私たちを赦し、新しい心を与えてくださいます。その新しい心によって、私たちは救いのことだけではなく、人生のすべてのことについて、神様を信じるようになります。

そして、私たちが神様を信じれば信じるほど、神様の声に従うようになります。さらに、神様はご自身の声に従う力を私たちに与えてくださいます。そのため、私たちの行動は変わり始め、ますますイエス様のようになっていきます。

その結果は?私たちは変えられ、完全な者となります。それこそが救いです。

あなたはその救いを本当に知っているでしょうか。また、周りの人々にその救いを伝えたいと思うほど、その救いを深く感じているでしょうか。

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使徒の働き

続いていく物語

今日、私たちは「使徒の働き」の最後の話を読みます。それだけでなく、これは聖書の最後の歴史書でもあります。残っているのは、使徒たちからの手紙と黙示録です。

この書には少し不思議な終わり方があります。実は、この書には明確なエンディングがありません。

今日の箇所では、パウロはついにローマに到着し、そこにいるユダヤ人たちに福音を述べ伝え始めました。いつものように、福音を信じる人もいれば、信じない人もいました。

そして、あるユダヤ人たちがパウロのメッセージを拒絶すると、パウロは異邦人のもとへ行き、彼らに福音を述べ伝え始めました。

ルカは、この話をまとめると、こう言いました。

パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねてくる人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を述べ伝え、

主イエス・キリストのことを教えた。(使徒の働き28:30-31)

あなたは、パウロがカエサルの前に立ったとき、何を言ったのか知りたいと思わないでしょうか。また、パウロの最後の日について聞きたいと思わないでしょうか。

私は聞きたいです。

けれども、ルカはそれらのことについて何も語りません。

むしろ、最後の場面では、パウロは人々に福音を述べ伝えています。

おしまい。

なぜ、ルカはこの書をそのように終えたのでしょうか。私には分かりません。

もしかすると、ルカはこう言いたかったのかもしれません。

「この話はまだ終わっていません。今なお、福音はこの世に広がり続けているのです。」

ある人々は、パウロの時代のユダヤ人たちのように、自らの目を閉じ、耳を塞ぎ、福音を拒絶します。

しかし、迫害があっても、外からの教会への攻撃があっても、内側からの教会への攻撃があっても、神様は教会を守り、福音は今なおこの世に広がり続けています。

そして、今、私たちはその物語の一部となっています。私たちは福音を聞き、信じるようになりました。

それだけでなく、パウロのように、私たちも自らの教会から遣わされ、聖霊様に満たされて、すべての国民に福音を述べ伝えるように呼ばれています。

あなたはどうでしょうか。

あなたは聖霊様に満たされているでしょうか。

聖霊様に満たされなければ、私たちは神様が命じたように福音を述べ伝える力を持つことはできません。

日本語では、この書は「使徒の働き」と呼ばれています。

けれども、この書の最初から最後まで、実際には聖霊様の働きについて描かれています。聖霊様はご自身の民を通して働いておられました。

だから、もう一度イエス様の言葉を読みましょう。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。

そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全地、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:8)

私たちは聖霊様に満たされ、この世へ出て、2000年前に始まった物語を受け継ぎましょう。

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使徒の働き

捉えられた?

この箇所では、3つの福音に対する反応を見ることができます。

1つ目は、迫害です。ユダヤ人たちは福音のゆえにパウロを迫害しました。

2つ目は、人々が私たちを狂気じみていると思うことです。フェストゥスはパウロの話を聞いたとき、そう考えました。

3つ目は、人々が私たちや福音を軽んじることです。アグリッパはパウロの話を聞いたとき、パウロを素朴な人間だと思ったようです。

それでも、パウロは福音を宣言し続けました。なぜでしょうか。

第二コリント5章で、パウロはその理由を説明しました。

私たちが正気でないとすれば(フェストゥスはそう思った)、それは神のためであり、正気であるとすれば(パウロはそう主張した)、それはあなたがたのためです。

というのは、キリストの愛が私たちを捕えているからです。

私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。(第二コリント5:13-14)

どうしてパウロは福音を述べ伝え続けたのでしょうか。なぜなら、パウロは、キリストが私たちを愛し、私たちの罪のために十字架で死んでくださったことを固く信じていたからです。

キリストの愛は彼の心を捉え、人々が彼を狂気じみていると思っても、パウロは福音を伝えなければならないと確信していました。

私たちも同じ態度を持つべきです。イエス様が私たちのために死んでくださったことを信じ、本当にキリストの愛に触れられるなら、私たちは福音を周囲の人々に伝えるべきです。

私たちを迫害する人もいます。私たちを狂気じみていると思う人もいます。私たちを素朴な者だと思う人もいます。しかし、イエス様を信じ、救われる人もいます。

あなたはどうでしょうか。イエス様の愛に捉えられているなら、福音を周囲の人々に伝えるでしょうか。

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使徒の働き

神様からの召しに従う

この箇所では、パウロはフェストゥスとアグリッパ王の前に立ちました。このアグリッパ王は、ヤコブを殺し、ペテロを殺そうとしたヘロデの息子でした。

ユダヤ人たちは再び、フェストゥスに対してパウロをエルサレムへ送るよう願いました。フェストゥスはそこでパウロに裁判を受けさせようと考えましたが、実はユダヤ人たちはパウロがエルサレムへ向かう途中で彼を暗殺しようと企んでいました。

パウロはその陰謀を十分に理解していたため、フェストゥスがエルサレム行きを説得しようとしたとき、パウロは「カエサルに上訴します」と宣言しました。

フェストゥスはその願いを受け入れましたが、ここで問題が生じました。パウロの「罪」とされていたものはユダヤ教の法律に関する問題でした。したがって、フェストゥスはどのようにこの「罪」をカエサルへ説明すべきか分かりませんでした。

つまり、フェストゥスはユダヤ教の問題を十分に理解しておらず、おそらくカエサルもユダヤ教について詳しく知らなかったということです。

そのため、アグリッパ王が到着すると、フェストゥスは彼と相談しました。するとアグリッパ王は、「パウロの弁明を聞こう」と述べました。

こうして、パウロはもう一度自らの証しを語りました。パウロはこれまで何度も証しを語っており、そのたびに私たちは新しい詳細を知ることができます。

アグリッパと話した際、パウロはイエスから与えられた使命について説明しました。

イエス様は、パウロにこう語られました

わたしは、あなたを。。。[ユダヤ人たちや異邦人たち]のところに遣わす。

それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なる者とされた人々と共に相続にあずかるためである。(使徒の働き26:17-18)

イエス様は私たちに同じ使命を与えてくださいます。

私たちは周囲の人々に福音を伝えるべきです。その目的は何でしょうか。それは、彼らが自分の罪の鎖や心の暗闇に気づくことです。

そして、彼らがサタンの支配から解放され、神様の国に入ること、さらに罪が赦されること、そしてイエス様を信じる信仰によって神様の子供となることです。

その召しについて、パウロはアグリッパ王とフェストゥスにこう語りました。

私は天からの幻に背か(なかった。)(19)

あなたはどうでしょうか。あなたはその使命を果たしているでしょうか。あなたは周囲の人々に福音を伝えているでしょうか。

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使徒の働き

いつ人を神様に委ねるべきか

愛する人々が福音を拒絶するのを見るのは、非常につらいことです。けれども、私たちが諦め、その人を神様に委ねるべき日が来るかもしれません。では、いつそうすべきなのでしょうか。

今日の箇所では、その答えを見つけることができます。

エペソにいたとき、パウロはいつも通りユダヤ人の会堂に行き、イエス様について教えました。パウロは約三か月間そうしましたが、最終的にユダヤ人たちは心を頑なにし、聞き入れず、「道のこと」(つまり福音)を悪く言いました。(使徒の働き19:9)

パウロの反応はどうだったでしょうか。

パウロは彼らから離れ、別の場所へ行き、福音を受け入れる人々に伝えました。

福音を伝えるとき、相手がもっと聞きたいという気持ちを持っていると感じることがあります。そのような心を持っている人には、福音を伝え続けるべきです。

しかし、相手が心を固くし、敵対的な態度を取るならば、私たちは彼らを神様の手に委ね、別の人々に福音を伝え始めるべきです。

頑なな心を持つ人に福音を伝え続けることは無駄であり、むしろ相手の心をさらに固くしてしまうかもしれません。

私たちは誰かを信じさせることはできません。人の心を変えられるのは聖霊様だけです。

パウロが言ったように、私たちは福音の種を植え、水を注ぐことができます。しかし、成長させるのは神様だけです。(第一コリント3:6-7)

だからこそ、もし相手が私たちの言葉を拒絶するならば、私たちは身を引き、彼らの心を変えられる方に委ねましょう。

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使徒の働き

対立

この箇所を読むと、「対立」という言葉が思い浮かびます。

パウロとバルナバが福音を述べ伝えたとき、エリマという人物やユダヤ人たちは彼らに反対しました。

エリマは霊的な理由から彼らに対立しました。

ユダヤ人たちが反発した理由は、嫉妬と罪から生じました。(とはいえ、結局のところ、福音に反対する人々すべてには霊的な理由があります。)

では、パウロとバルナバはどのように反応したのでしょうか。

サタンがエリマを通して直接攻撃したとき、彼らは御霊の力によって戦いました。霊的な戦いにおいて、私たちは自分の力だけでは戦えません。なぜなら、サタンと悪霊は私たちよりも強力だからです。

しかし、ヨハネはこう書きました。

あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。(第一ヨハネ4:4)

だから、聖霊様の力によって、パウロとバルナバはエリマに勝利し、セルギウス・パウルスとその家族が救われました。

プライドを持つ嫉妬深い人々と対立したとき、パウロとバルナバは大胆に福音を述べ伝え続けました。

そして、ユダヤ人たちの心が固くなると、パウロとバルナバはその都市の異邦人たちに福音を伝え始めました。その後、彼らは別の場所へ行き、そこでの人々にも福音を述べ伝え続けました。

このように、自分勝手な理由で私たちと対立する人もいます。

また、私たちが何を言っても、イエス様をどうしても信じようとしない人もいます。そのため、最終的に私たちは彼らを神様にゆだねるしかありません。神様が彼らを裁かれるのです。

私たちは強制的に相手にイエス様を信じさせることはできません。ただ福音を伝えることしかできません。その結果は、相手と神様の責任です。

だから、人々が福音を拒絶しても、落胆しないでください。大胆に福音を伝え続けましょう。

私たちは皆、対立と向き合うことになります。しかし、そのときこそ、パウロの言葉を覚えていましょう。

失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。(ガラテヤ人への手紙6:9)

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使徒の働き

福音を伝えるように選ばれました

昨日、私は「使徒の働き」の三つの話を通して、神様の選び、人間の選択、そして私たちが行って福音を伝える責任が、どのようにともに働くのかを説明しました。

この話は、その二つ目の例です。

あるパリサイ人、サウロは、キリストに対して頑なな心を持ち、キリスト教を根絶しようとしていました。

もし神様がサウロをそのまま放置されていたなら、彼は滅びに至っていたでしょう。しかし、神様はサウロの人生に介入されました。

なぜでしょうか?それは、神様がサウロを救うことを選ばれたからです。神様がアナニアに語られたとき、私たちは神様の選びをはっきりと見ることができます。

神様がアナニアに「サウロのもとへ行き、助けなさい」と命じられたとき、アナニアは驚いて答えました。

「え?本当に?あの男はクリスチャンたちを迫害しようとしているのに。」

神様の答えは?

行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。(使徒の働き9:15)

神様の答えは、すでに救いのために人々を選ばれているなら、私たちは福音を伝えなくてもよいという考えを否定するものです。(昨日の記事でも、同じ点に言及しました)。

アナニアがそのようなことを神様に言うところを、想像できますか。

「では、あなたがすでにサウロを選ばれたのなら、私は彼のもとへ行く必要はないでしょう?」

もしアナニアがそんな愚かなことを言っていたら、神様はどのように答えられたでしょうか。きっと、神様はアナニアに対して非常に厳しく怒られたでしょう。なぜでしょうか。神様はアナニアに「行きなさい」と命じられたからです。

同じように、神様は私たちに「行きなさい」と命じられます。

もちろん、神様は私たちの助けを必要とされません。それでも、多くの場合、神様は私たちを通して人々を救うことを選ばれます。

神様は私たちに御国の鍵を渡されました。もし私たちが行かず、福音を伝えないなら、天国の門は人々に対して閉ざされたままとなるでしょう。

この話ともう一つの話を読む際に、一つ注意してください。イエス様はサウロに直接語られ、天使は百人隊長コルネリウスに直接現れました。それでも、神様はご自身の民を遣わし、その二人に語らせました。

そのように、神様は私たちが行き、福音を伝えることを求めておられます。

ピリポは、神様によってエチオピア人のもとへ遣わされました。

アナニアは、神様によってサウロのもとへ遣わされました。

そしてサウロは、ユダヤ人や異邦人のもとへ行き、福音を伝えるように選ばれました。

あなたも、この世の民のもとへ行き、福音を伝えるように選ばれています。

ある人がかつてこう問いかけました。

「God」という言葉の最初の二文字は何でしょうか。「Go」。

「Satan」という名前の最初の三文字は何でしょうか。「Sat」。

私たちはただ座っているのではなく、この世の民のもとへ行き、福音を伝えましょう。

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使徒の働き

私たちが行かないと

使徒の働きの三つの話では、神様が人を救うことを選ばれること、その人自身の選択、そして私たちが神様の証人として福音を伝える責任が、互いに働き合う様子を見ます。

多くの人々は、神様の選びと人間の選択がどのように関係しているのか疑問に思います。つまり、もし人々が神様の選びによってのみ救われるのであれば、神様が選ばれなかった人が裁かれるのはなぜでしょうか。

また、もし神様がすでにある人を選ばれているのなら、なぜ私たちはその人に福音を伝える必要があるのでしょうか。

私はすべての疑問に答えることはできません。しかし、この三つのことが真実であることは確かです。

この話の登場人物のひとりに、エチオピアの高官がいました。彼はイスラエルの神について聞き及び、神様を礼拝するためにエルサレムを訪れていました。

注意すべき点があります。ルカによれば、その人物は神様を信じて礼拝していました。けれども、神様は「彼はイエスのことを知らないが、それでも問題ない。私のことを知り、一生懸命に礼拝しているのだから、それで十分だ」とは言われませんでした。

むしろ、神様はピリポに天使を遣わされました。その天使はピリポに行くべき場所を示しました。そして、ピリポがそのエチオピア人を見たとき、聖霊様は「彼のもとへ行きなさい」と命じられました。

すると、ピリポはそのエチオピア人がイザヤ書53章を読んでいるのを耳にしました。特に、彼はイエス様についての預言を読んでいました。そこで、ピリポは彼に尋ねました。

「あなたは、読んでいることを理解していますか。」(使徒の働き8:30)

そのエチオピア人の答えは、私の心を深く打ちました。

導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか。(使徒の働き8:31)

それを読んだとき、私はパウロの言葉を思い起こしました。

しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。

聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。

宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。(ローマ書10:14)

その答えはどうでしょうか?人々は聞くことも、信じることも、呼び求めることもできないのです。もちろん、そのエチオピア人にもできませんでした。そこで、彼はピリポを馬車に招きました。そして、旅の途中でピリポは福音を説明しました。

福音を聞いたそのエチオピア人は、イエス様を信じて洗礼を受けました。そして、彼は福音のメッセージをエチオピアへ持ち帰りました。

実際、現代のエチオピアのクリスチャンたちの起源は、このひとりのエチオピアの高官にまで遡ります。

ここで、三つの重要なポイントがあります。

1.救われるためには、人々は福音を聞き、信じる必要があります。もし神様を畏れる人が福音を聞く必要がないのであれば、神様はわざわざピリポをそのエチオピア人に遣わさなかったでしょう。

パウロも、この問いを投げかけました。

遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。(ローマ10:15)

答えは前と同じです。彼らは宣べ伝えることができません。しかし、神様がピリポを遣わされたように、神様は私たちをも周りの人々のもとへ遣わしてくださいます。

2.神様は確かにそのエチオピア人を救うことを選ばれました。

ピリポが来るまで、彼は福音を聞く機会がなかったため、滅びの道を歩んでいました。けれども、神様は働かれ、福音を聞く機会を与えてくださいました。

もし神様がそうされなかったなら、彼は滅びていたでしょう。

3.その人は福音を信じることを選ばなくてはなりませんでした。彼が信じたからこそ、救われたのです。

では、この三つのことはどのようにともに働くのでしょうか。どのようにしてこの三つのことのバランスを取るのでしょうか。私には分かりません。しかし、神様はすべてをよくご存じです。だから私は、それを神様に委ねます。

では、私の要点は何でしょうか。

行きなさい。

そのエチオピア人と同じように、多くの人々は滅びの道を歩んでいます。そのエチオピア人と同じように、多くの人々はイエス様について聞く必要があります。そして、神様がピリポを遣わされたように、神様は私たちも遣わされます。

だから、イエス様の言葉を心に留めましょう。

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:19-20)

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使徒の働き

福音のメッセージ

この箇所では、私たちは最初の本格的な福音の説教を読むことになります。

それ以前、すべての説教はイエス様の死と復活の前に伝えられました。したがって、それらの説教はまだ不完全でした。

しかし、ペテロがこの説教をしたとき、イエス様はすでに旧約聖書にある救いに関する預言をすべて成就されていました。だから、ペテロは群衆に宣言しました。

神が今や主ともキリストともされたこのイエスをあなたがたは十字架につけたのです。(使徒の働き2:36)

それを聞いて、心を刺され、群衆は答えました。

「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか。」(37)

ペテロは彼らに言いました。

それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして、遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。(38-39)

簡単に言えば、それは福音のメッセージです。

まず、私たちは罪を悔い改めなければなりません。もう自分の道を歩むのではなく、神様の道を歩み始めなければなりません。

私たちは自分の道を歩んできたために、神様や周りの人々、そして自分自身をも傷つけてしまいました。そのことを認めなければなりません。

「主よ、私は自分の道を歩むことにもう飽きました。その道の中で、私は本当に苦しみました。けれども、あなたは私を愛してくださり、十字架で私の罰を受けてくださいました。だから、これから私はあなたに従いたいと思います。私はあなたを信頼し、従います。」

バプテスマは、その決断のしるしです。バプテスマを通して、あなたはこう言います。

「私の古い生活に対して死にます。「私の道」に対して死にます。そして、私は新しい人としてよみがえります。イエス様の血によって、私の罪は清められ、聖霊の力によって、私はこの新しい人生を歩みます。」

御霊という約束は、最も素晴らしい賜物です。なぜなら、聖霊様は神であり、私たちのうちに住んでおられるからです。私たちはもはや神様から離れていません。今や、神様と親しい関係の中に生きています。

そして、私たちが神様と共に歩めば歩むほど、聖霊様は私たちの傷を癒し、私たちを新しくしてくださいます。神様は、私たちのために計画された人生を示してくださいます。実は、神様は私たちを造られる前から、そのプランをすでに考えておられました。

永遠の命は、天国では始まりません。永遠の命は今から始まります。

それは福音のメッセージです。そのメッセージを信じ、受け入れましたか。もし、上記の祈りを初めて祈ったなら、ぜひコメント欄で教えてください。

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ルカの福音書 ルカ12章

福音の炎

炎は時に恐ろしいものです。特に森林火災は危険であり、一瞬にして広がり、大規模な被害を引き起こします。それでも、その一方で、炎は森林にとって良い影響をもたらすこともあります。

炎は地面に積もった落ち葉や折れた枝を燃やし、その結果、土壌が日光を受けて活性化し、栄養が供給されます。

また、下生えが焼かれることで、周囲の木々は土壌の栄養をより多く吸収できるようになり、さらに強く成長します。

それに加え、炎は木々に害を及ぼす虫を駆除する働きもあります。

要するに、炎は森林を清め、新たな命をもたらすことができるのです。

そして、イエス様は弟子たちにこう言われました。

わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。(ルカの福音書12:49)

その火とは何でしょうか。聖書学者たちの間にはさまざまな意見がありますが、私はその火が福音であると考えます。

では、イエス様はどのようにしてその火をともされたのでしょうか。

そして、イエス様はこう言われました。

しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。(50)

この話において、「バプテスマ」という言葉は、イエス様の死を指しています。別の場面で、イエス様はヤコブとヨハネにこの「バプテスマ」について語られました。(マルコ10:38)

イエス様が十字架で死なれ、よみがえられた後、福音の火がともされました。そして森林火災のように、その火は広がり、人々の魂を清め、永遠の命をもたらしました。彼らの罪は赦され、神様との関係は回復されたのです。

とはいえ、火は時に痛みの原因ともなります。だから、イエス様は弟子たちにもう一度警告を与えられました。

あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。

今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。(51-53)

魂を清める炎に触れることは痛みを伴います。そのため、多くの人はその痛みを経験したくないと考えます。

福音を聞いたとき、彼らの良心はその火によって軽いやけどを負い、ためらいを覚えます。その火による清めを望まないがゆえに、彼らはその火から逃げてしまうのです。

または、その火をもたらす人と争い、時には自分の家族とさえ対立することもあります。

この個所では、イエス様はこのことについて語られています。

けれども、私たちが福音のために家族や友人から拒絶され、苦しむとき、イエス様が十字架の上でさらに大きな苦しみを経験されたことを思い起こしてください。

だから、へブル人への手紙の著者はこう記しています。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(へブル12:3)

だからこそ、福音の炎を携えましょう。そうすれば、その火が周りの人々に触れ、彼らを清め、新しい命をもたらします。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

私たちは誰に仕えているでしょうか

この箇所を読んだとき、この言葉は私の心を打ちました。なぜなら、私は神様のみ言葉を教えているからです。

わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。

自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。(ヨハネの福音書7:16-18)

この箇所を読むと、私は自分自身にこう問いかけます。「私の教えはどこから来るのだろうか。私自身から来るのだろうか。それとも、神様から来るのだろうか。

私が日曜日にメッセージを伝えるとき、それは私の栄光のためだろうか。私は教会の人々を感動させたいと思っているのだろうか。それとも、人々が神様に栄光を帰すよう願っているのだろうか。」

私たちクリスチャンは真理を伝える者であるべきです。そして、私たちには偽りがあってはなりません。牧師や聖書を教える者だけでなく、すべてのクリスチャンが真理を伝える者であるべきです。

しかし、真理を語る者になりたいなら、私たちは誰に仕えるのか決める必要があります。また、誰の栄光を求めるのか決める必要があります。

私たちは自分自身の栄光を求めているのでしょうか。それとも、神様の栄光を求めているのでしょうか。私たちは本当に神様に仕えているのでしょうか。それとも、口先で神様の名前を讃えているだけで、実際には自分自身に仕えているのでしょうか。

もし私たちが自分自身の栄光を求めているなら、または周囲の人々からの誉れを求めているなら、神様の福音を薄めてしまう誘惑に直面することになります。そして、もしかすると福音をまったく伝えない選択をしてしまうかもしれません。

あるいは、私たちはパリサイ人のようになってしまうかもしれません。表面上は神様に仕えているふりをしながら、実際には人々からの栄光を求めているのです。

あなたは誰に仕えていますか。あなたは誰の栄光を求めていますか。

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マタイの福音書 マタイ4章 マルコの福音書 マルコ1章 ルカの福音書 ルカ4章

暗闇の中の光

前回の記事で、私はこう問いかけました。「どうして神様はバプテスマのヨハネが牢に閉じ込められることを許されたのでしょうか。」

私には分かりませんが、ひょっとすると一つの理由は、イスラエル人がヨハネではなく、イエス様に焦点を当てるためだったのかもしれません。

ヨハネが牢に閉じ込められた後、イエス様はガリラヤに戻り、そのミニストリーを始められました。マタイによれば、イエス様はこのイザヤの予言を成就されました。

ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。

暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。(マタイ4:15-16)

パリサイ人がこの箇所を忘れ、イエス様の背景を侮るとは、私には信じられません。(ヨハネ7:52)

この箇所では、私たちはイエス様の目的の一つを知ることができます。私たちは暗闇の中にいました。つまり、私たちは自分の罪のために神様から離れ、死刑囚だったのです。

しかし、イエス様によって光が上がりました。イエス様は天の父への道を示してくださったので、希望が現れました。イエス様はこう宣言されました。

時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)

それは私たちへのメッセージです。王が来ました。神の王国は近づいています。今、イエス様は信者の心の中で働いておられます。そして、将来、イエス様はご自身の物理的な王国をこの世に設立されます。

だから、私たちは悔い改める必要があります。というのは、私たちは神様の道に戻らなくてはなりません。私たちの考え方を変えなくてはなりません。自分のために生きるのではなく、神様のために生きなくてはなりません。

また、私たちの神様に対する不信を捨てて、心から神様を信頼する必要があります。

もちろん、一番大切なのは、イエス様に関する良い知らせを信じる必要があるということです。つまり、神様は私たちのように人間になられました。そして、イエス様は十字架で私たちのために死なれ、三日目によみがえられました。

そして、私たちがイエス様を私たちの救い主と主として信じるなら、私たちは地獄から救われます。

それがイエス様が伝えられたメッセージです。

だから、この二つの質問について考えてみてましょう。

1.あなたはイエス様を信じるようになりましたか。

2.あなたがクリスチャンなら、そのメッセージを周りの人々に伝えていますか。

あなたはどう答えますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ3章

福音のもう一つの側面

多分あなたはもうご存じかもしれませんが、「福音」という言葉は「良い知らせ」という意味です。

しかし、私たちが「悪い知らせ」を知らなければ、その「良い知らせ」を本当に理解することはできません。その悪い知らせとは何でしょうか。

[イエス様を]信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:18b)

最初の人間アダムの時代から、すべての人々は神様のみ前で裁きを受けることとなりました。なぜでしょうか。それは、私たちが皆、神様を信頼せずに神様に背を向け、自分の道を選んだからです。

では、なぜそれがそれほど重大な問題なのでしょうか。

使徒パウロがその答えを教えています。

罪から来る報酬は死です。(ローマ6:23)

私たちは「死刑囚となるかもしれない」という状態ではありません。実際には、私たちはすでに死刑囚なのです。なぜなら、私たちは皆罪を犯し、すでに裁きを受けたからです。

そのため、17節にはこう書かれています。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではな[い]。

なぜヨハネは、「イエス様はこの世に私たちを裁くために来られたのではない」と言うことができたのでしょうか。それは、イエス様がこの世に来られる以前に、私たちはすでに裁かれていたからです。

これが福音のもう一つの側面です。とはいえ、多くのクリスチャンはこの側面についてあまり語りたがりません。

もしあなたがイエス様を信じないのなら、将来神様に裁かれるというわけではありません。あなたはすでに裁かれているのです。

私たちはこのことをどのくらい深く考えているでしょうか。今、あなたの家族や友人、そして同僚がイエス様を知らないのであれば、彼らはすでに裁かれています。もし、あなたがイエス様を信じないのであれば、あなたもまた神様に裁かれているのです。

これは本当に恐ろしい事実です。けれども、幸いにも、素晴らしい良い知らせがあります。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(3:16-17)

私たちが神様に背を向けたにもかかわらず、神様は私たちを変わらず愛しておられました。だからこそ、神様はイエス様をこの世に送り、イエス様は十字架の上で私たちの罪の罰を引き受けてくださいました。

そのため、今、神様はあなたに問いかけておられます。「私を信じ始めますか。私の子イエスと、その十字架での働きを信じますか。」

あなた自身と、あなたが愛している人々は死刑囚であるかもしれません。そして、解放される方法はただ一つしかありません。赦される道もただ一つです。それはイエス様を信じることです。

ヨハネはこう記しています。

御子を信じる者はさばかれない。(18a)

イエス様とその十字架での働きを信じるなら、神様はあなたを赦してくださいます。その赦しは私たちの良い行動によるものではありません。むしろ、それはイエス様の十字架での働きによるのです。

神様はそれを見て、私たちにこう語られます。「私の子イエスがあなたの罪の罰を支払いました。だから、私はあなたを裁きません。」

実際のところ、神様がこれを語られる時、それは将来のことだけを指しているのではありません。今この瞬間においても、神様の前であなたは裁かれていないのです。

使徒パウロはこう述べています。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

しかし、もしあなたがイエス様を拒絶するなら、あなたはすでに死刑囚なのです。そして、裁きの日が次第に迫っているため、ヨハネはあなたにこう語っています。

[イエス様を]信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:18b)

あなたはどうしますか。

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ルカの福音書 ルカ2章

人々が倒れるために定められるしるし

この箇所は本当に私の心に響きます。なぜなら、現代でもその言葉の真実を目の当たりにできるからです。

シメオンは敬虔な人であったため、神様は彼に、イスラエルだけではなくこの世を救うメシアを見ることを約束されました。そして、彼がイエス様を見たとき、彼はこう語りました。

主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。

御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。(ルカのの福音書28:29-32)

ヨセフとマリヤはそれを聞いて驚きましたが、シメオンは彼らに警告を与えました。

ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。

剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。(34-35)

シメオンの言葉は成就しました。確かに、多くの人々がイエス様を救い主として受け入れましたが、それ以上に多くの人々がイエス様を拒絶しました。イエス様の名を喜ぶ人々がいる一方で、その名を呪う人々もいました。

そして、ユダヤ人の指導者たちがイエス様を拒絶したため、イエス様が十字架で死なれるのをマリヤが目の前で見たとき、彼女の心は刺し貫かれるような痛みを感じました。

もちろん、シメオンの言葉はその時代に成就しましたが、現代でもその言葉は成就し続けています。

今でも、多くの人々がイエス様の名をたたえ、イエス様を礼拝していますが、多くの人々がイエス様を拒絶し、その名を呪います。彼らはその行為によって、自分の心の状態を明らかにしています。

多くの人々は見た目には善良に見えますが、自分たちの罪のために死なれた方を拒絶します。イエス様を拒絶するということは、神様とその道を拒絶することにほかなりません。むしろ、彼らは自分の道を生き続けることを主張します。

そのような態度は、イエス様の心を刺し貫くだけでなく、イエス様を愛する人々の心も刺し貫きます。特に、私たちが愛する人々がイエス様を拒絶するとき、私たちの心も深く傷つけられます。

また、クリスマスの時期に、人々がイエス様を拒絶しているのを見ると、とても胸が痛みます。私たちはイエス様の誕生を喜び祝いますが、同時に多くの人々がイエス様を拒絶している現実があるからです。

イエス様はこう言われました。

わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。(マタイ10:34)

あなたはこう問いかけるかもしれません。「でも、イエス様がお生まれになった時、天使たちは『地の上に、平和がありますように』と歌いましたよ?」

確かに、キリストは神様との平和をもたらすために来られました。しかし、イエス様は人々を分ける方でもあります。

イエス様の名によって、人々の間に分かれが生じます。家族も分かれることがありますし、友人同士も分かれることがあります。なぜなら、イエス様を拒む人々がいるからです。

私が伝えたいのは、イエス様に従い、福音を延べ伝えたいと思うなら、すべての人々を喜ばせることはできないということです。

イエス様のために、あなたのことを好きではない人々もいるかもしれません。彼らがイエス様を憎むなら、あなたをも憎むことがあるでしょう。

イエス様はこう言われました。

もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。

しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。(ヨハネ15:18-19)

だから、すべての人に好かれようと望まないでください。むしろ、イエス様を愛し、その福音を延べ伝えましょう。

イエス様のために倒れる人もいれば、イエス様のために立ち上がる人もいます。もし、あなたが愛する人々が立ち上がるなら、その喜びは、これまでの苦しみと比べものにならないでしょう。

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ルカの福音書 ルカ2章

喜びを広める

羊飼いたちは救い主の誕生を聞くと、すぐにベツレヘムへ走りました。そして、イエス様を見つけたとき、彼らは大喜びしました。帰り道では、「神をあがめ、賛美しました。」(20)

しかし、その言葉だけでは、彼らが感じた喜びを十分に表せていないように思います。彼らの喜びは溢れんばかりのものでした。

その喜びを誰かに伝えずにはいられなかった彼らは、できるだけ多くの人々にその良い知らせを伝えました。

その話を聞いた人々は、羊飼いの言葉に驚きました。けれども、その後彼らはどうしたでしょうか。羊飼いの話を信じて、イエス様を捜し求めようとした人もいたかもしれませんが、ルカはそのことについて何も書いていません。

それでも、羊飼いたちにとって、相手の反応は問題ではありませんでした。彼らの喜びはあふれすぎて、何かを言わずにはいられない状態だったのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの喜びが溢れすぎて、周囲の人々に福音を伝えずにはいられないほどでしょうか。

私たちは人々の反応をコントロールすることはできません。また、彼らの反応は私たちの責任ではありません。

とはいえ、もし私たちが本当にイエス様を愛していて、イエス様の喜びが私たちの心に溢れているなら、その良い知らせを周囲の人々に伝えずにはいられないでしょう。

そうすれば、彼らも私たちが知っているその喜びを見つけることができるようになるでしょう。

あなたはその喜びを広めていますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ1章

神は人間となられた時

それでは、新約聖書を始めましょう。

福音書について書くとき、旧約聖書について書いた時と同じように、年代順に書きます。ですから、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書の順番ではなく、それぞれの福音書に記載されている話を年代順に書いていきます。

したがって、最初にマタイの福音書から始めるわけではありません。むしろ、ヨハネの福音書から始めます。なぜなら、ヨハネ1章に記されている話は、イエス様がこの世に来られる前の話だからです。

ヨハネはこう記しました。

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネの福音書1:1)

ヨハネが「言葉」と言う時、それはイエス様のことを指しています。つまり、時間と空間が創造される前から、イエス様はすでに存在しておられたのです。なぜなら、イエス様は永遠の存在であられるからです。

では、なぜヨハネはイエス様を「言葉」と呼んだのでしょうか。

ユダヤ人の考えでは、「言葉」とは「神の知恵」を意味します。

一方、ギリシャ人の考えでは、「言葉」は「神の思い」または「神の理」を意味します。

彼らに「どうしてこの世界がこれほど整然と造られているのでしょうか」と訊けば、その答えは「神様の理によるから」となるでしょう。

したがって、ヨハネがイエス様を「言葉」と呼ぶ時、それはイエス様が神の知恵であり、また神の理であるということを意味しています。

さらに、「言葉」という名前について考えてみましょう。

私たちは、どのようにして人を知ることができるのでしょうか。言葉を通して、その人を知ることができます。その人が全く話さず、何も書かなければ、ある程度まで知ることはできますが、限界があります。

けれども、その人が話し始めると、私たちはその人の考え方を知ることができます。そして、その人の知恵から学ぶこともできます。しかし、最も重要なのは、言葉を通じてその人の性格や心を知ることができるという点です。

同じように、イエス様は私たちに対する神様の「言葉」です。イエス様を通して、私たちは真に神様を知ることができます。どうしてでしょうか。

二つの理由があります。

一つ目は、始めからイエス様が「初めに神とともにおられた」ということです(1:2)。その意味は、イエス様と神には親しい関係があったということを示しています。

それだけではなく、イエス様ご自身が神であるということです。それが二つ目の理由です。14節によれば、イエス様は人となり、私たちの間に住まわれました。つまり、神が人間となられたのです。

キリスト教には難しい教えがあります。それは「三位一体」という概念です。それはどういう意味でしょうか。

父なる神がおられます。そして御子(イエス様)なる神がおられます。さらに聖霊なる神がおられます。

父は御子ではありません。御子は聖霊ではありません。聖霊は父ではありません。けれども、神が3つおられるわけではありません。神は唯一の存在です。

それは人間の理解を超えた偉大な真理です。人間の観点では、三人は三人です。しかし神様の場合、父と御子と聖霊は一つの神として存在されています。それが聖書の教えです。

実のところ、もし私たちが神様を完全に理解できたなら、それは少し奇妙なことだと思います。もし偉大なる神をすべて説明できたなら、おそらく私たちは自分の想像から神様を作り出したのではないかという疑いが出てくるでしょう。

けれども、私たちはこの三位一体の神を完全に理解することも、説明することもできません。ある程度までは理解できますが、そのすべてを把握することはできません。

しかし、イエス様のおかげで、私たちは神様についてさらに理解することができるのです。2000年前にイエス様が生まれた時、私たちは初めて、自分の目で神を見ることができました。

ヨハネはこう記しました。

私たちはこの方(つまり、イエス様)の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(14)

地上を歩かれ、また語られた時、イエス様は神様を表されました。なぜなら、イエス様は人となられた神だからです。イエス様を通して、私たちは神様がどのような方であるかを知ることができます。

だから、ヨハネはこう記しました。

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(1:18)

ギリシャ語の文字通りに、イエス様は神様を説明し、また神様を解釈されました。イエス様は父である神の通訳のような存在です。

この記事を書いている現在、もうクリスマスが近づいています。まだ11月ですが、街にはいろいろなクリスマスの飾りが見られます。

けれども、クリスマスの本当の意味を心に留めておきましょう。私たちは神様が人となられたことを祝うのです。それがなぜ重要なのでしょうか。それは、その奇跡によって、神様がご自身を明らかにされたからです。

目に見えない神様を知りたいと思いますか。その飼葉おけをご覧ください。イエス様において、神様の知恵、力、栄光のすべてを見ることができるのです。

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ハガイ書

全てが揺り動かされるのに

この箇所では、ハガイはユダの総督ゼルバベルを励まします。

おそらく、ゼルバベルはエルサレムとその宮の再建に反対する人々を目にして、深く失望していたかもしれません。けれども、神様は彼にこう言われました。

ユダの総督ゼルバベルに次のように言え。

わたしは天と地とを揺り動かし、もろもろの王国の王座をくつがえし、異邦の民の王国の力を滅ぼし、戦車と、それに乗る者をくつがえす。馬と騎兵は彼ら仲間同士の剣によって倒れる。(ハガイ書2:21-22)

つまり、「ゼルバベル、今あなたは自分の状況が辛いと感じているかもしれません。しかし、私は天と地を揺り動かします。そして、私は王国とその力を滅ぼします。」

そして、神様はこう言われました。

その日、――万軍の主の御告げ――シェアルティエルの子、わたしのしもべゼルバベルよ、わたしはあなたを選び取る。――主の御告げ――

わたしはあなたを印形のようにする。わたしがあなたを選んだからだ。――万軍の主の御告げ――」(23)

その時代、王たちは認印付きの指輪を持っていました。その指輪は王の権威を象徴するシンボルでした。そのため、大切な書類に署名するとき、その指輪を使用していました。

神様がゼルバベルに言われたのは、「王国の王座を覆し、王の力を滅ぼす。しかし、私は私の民のために、私の権威のシンボルとしてあなたを選んだ」ということです。

短期的には、ゼルバベルを通して神様はご自身の民を導き、主の宮を再建し、彼らの人生も復活させました。

長期的には、ゼルバベルの家系を通してメシヤであるイエス様がこの世に来られました。

イエス様の復活の後、弟子たちにこう言われました。

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。(マタイ28:18)

どうしてそれが大切なのでしょうか。それは、神様がゼルバベルをご自身のしもべとして呼ばれたように、私たちも選ばれ、呼ばれたからです。では、私たちは何のために選ばれ、呼ばれたのでしょうか。

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。(マタイ28:19-20)

この世は戦争や混乱、闘争によって揺り動かされています。そして、私たちの状況はさらに悪化する可能性があります。けれども、すべてが揺り動かされたとしても、将来を恐れないようにしましょう。

すべての権威がイエス様に与えられていることを覚え、イエス様が私たちに命じられたように従いましょう。イエス様の再臨まで、福音を伝え、弟子を作り続けましょう。

イエス様はこう約束されました。

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20b)

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エゼキエル書

私たちの責任、相手の責任

私が若い頃、クリスチャンの本でこの言葉を読みました。「あなたがクリスチャンになると、神様はあなたの家族を救うと約束されます。」

そして、その著者は使徒の働き16:31から引用していました。

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。

だから、その著者は私たちに「あなたの家族の救いのために祈ってください」と励ましました。

もちろん、私たちは家族の救いのために祈るべきです。とはいえ、私はその著者の聖書の解釈に同意することはできません。

パウロが言いたかったことは、「あなたがイエス様を信じるなら、あなたは救われます。そして、あなたの家族がイエス様を信じるなら、彼らも救われます」という意味です。

聖書の箇所の意味を理解するためには、その箇所だけを読むのではなく、その箇所に関係する他の箇所もすべて読むべきです。

例えば、コリント人への手紙第一でパウロはこう語りました。

もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。

そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです。(第一コリント7:15)

なぜパウロはこのように語ったのでしょうか。

なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。

また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。(第一コリント7:16)

つまり、私たちは、自分の夫や妻がいつか救われるかどうか分かりません。だから、その人が離れたいのであれば、離れて行かせるべきです。

もし使徒の働きで、パウロが「あなたが救われるなら、きっとあなたの家族も救われる」と言おうとしていたのであれば、なぜパウロは第一コリントで「あなたの妻や夫がいつか救われるかどうか分からない」と語ったのでしょうか。

さらに、このエゼキエルの箇所では、神様はイスラエルを裁き、エゼキエルにこう言われました。

人の子よ。国が、不信に不信を重ねてわたしに罪を犯し、そのためわたしがその国に手を伸ばし、そこのパンのたくわえをなくし、その国にききんを送り、人間や獣をそこから断ち滅ぼすなら、たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。――神である主の御告げ―― (エゼキエル書14:13-14)

また、神様はこう言われました。

たとい、その地にこれら三人の者がいても、――わたしは生きている。神である主の御告げ――彼らは決して自分の息子も娘も救い出すことができない。

ただ彼ら自身だけが救い出される。(18)

この箇所では、神様はこのようなことを4回繰り返されました。「あなたは自分の義によって自分の命を救い出すだけです。」

そして、新約聖書によれば、私たちの義は、イエス・キリストを信じる信仰によるものです。

パウロはこう書きました。

義人は信仰によって生きる。(ローマ1:17)

旧約聖書の時代でも、新約聖書の時代でも、そして現代でも、同じことが言えます。そして、私たち全員が、自分自身の決断をしなければなりません。

とはいえ、私たちには神様から与えられた責任があります。つまり、私たちは周りの人々のために祈るべきです。また、彼らに福音を伝えるべきです。

ただし、その後は彼らの救いを神様に委ねましょう。

私たちは自分の家族や友人が地獄に行くことについて考えたくはありません。しかし、それは私たちが決めることではなく、彼ら自身が決めなければならないことなのです。

それでも、次の質問を自分自身に問いかけてください。「私はできる限り、彼らのために祈り、彼らに福音を伝えているだろうか。」

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エゼキエル書

真理を白く塗る?

「私は本当におばあさんに福音を伝えなくてはならないでしょうか。彼女はクリスチャンではありませんが、本当にいい人です。神様はきっと彼女を受け入れるのではないでしょうか?」

どれほど多くのクリスチャンがそのようなことを言うでしょうか。あるいは、彼らは言葉にしなくてもそのように考えているかもしれません。

その結果、愛する人に福音を伝えることを決してしないのです。

「皆は結局救われる」と語る牧師もいます。彼らはこう言います。

「皆はいつか天国に行きます。だから、地獄について教える必要はありません。神様の愛だけを伝えた方が良いのです。」

しかし、もし私たちがそのようなことを言うなら、真理を白く塗りつぶすことになります。神様は、真理が塗りつぶされることを非常に嫌われます。

この箇所では、その罪のために神様は偽の預言者たちを責められました。そして、神様はこう言われました。

あなたがたは、主の日に、戦いに耐えるために、破れ口を修理もせず、イスラエルの家の石垣も築かなかった。(エゼキエル書13:5)

また、

実に、彼らは、平安がないのに『平安』と言って、わたしの民を惑わし、壁を建てると、すぐ、それをしっくいで上塗りしてしまう。

しっくいで上塗りする者どもに言え。『それは、すぐはげ落ちる。』大雨が降り注ぎ、わたしが雹を降らせ、激しい風を吹きつける。すると、壁が倒れ落ちる。

人々はあなたがたに向かって、『上塗りしたしっくいはどこにあるのか』と言わないだろうか。(10-12)

これらの預言者たちは何をしていたのでしょうか。彼らはイスラエル人にこう言いました。

「あなたの神様との関係は大丈夫です。裁きについて心配する必要はありません。」

イスラエル人は、自分たちの罪によって倒れそうな壁のような状態でした。それにもかかわらず、その偽の預言者たちは悔い改めのメッセージを伝えませんでした。

もし彼らがイスラエル人を警告していれば、その「壁」を強めることができたかもしれません。

しかし、むしろ彼らはイスラエル人の罪を平和の言葉で白く塗ったのです。

(「白く塗る」というのは英語からの翻訳です。日本語の翻訳では、彼らはイスラエルの罪の罅をしっくいで上塗りしました。その「しっくい」は偽の預言者たちの慰めの言葉でした。)

その結果はどうなったでしょうか?それは、裁き、追放、そして死でした。

もし私たちが愛する人々の罪を白く塗るなら、彼らも同じ裁きを受けることになります。

もし彼らが神様との平和を持っていないのに、私たちが「平和だ」と伝えたなら、最終的に彼らは裁かれるのです。

ですから、真理を白く塗ってはいけません。神様から離れている人々に、真理をはっきりと伝えましょう。悔い改めのメッセージを語りましょう。

そうすれば、彼らは神様に向かうかもしれません。そして、彼らは本当の命を見いだすことができるでしょう。

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エレミヤ書

クロスロード(四つ辻)

私はクロスロードという教会のメンバーです。いろいろな意味で、その名前は本当にふさわしいです。

教会の一番近い駅は乗換場所です。それに、私たちは国際的な教会です。いろいろな国から、人々が私たちの教会に来てくださいます。

また、教会として、私たちは周りの人々に霊的な四つ辻となっています。つまり、人々が私たちの教会に来ると、彼らはイエス・キリストに従うかどうか選択しなくてはならないからです。

もちろん、彼らが初めて来た日には、そのような決断をする必要はありません。けれども、毎週来るようになると、最終的に彼らはご自身でイエス様に従って生きるかどうかを決断するようになります。

エレミヤはユダヤ人たちにそのような決断をするよう促しました。

「神様に従われますか。従われないですか。どうぞ決断してください。」

エレミヤはこう言いました。

主はこう仰せられる。「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。」(エレミヤ書6:16a)

神様は何を言われているでしょうか。

「あなたは選択しなくてはなりません。こちらの方に行くのか、そちらの方に行くのかを決めなさい。

アブラハム、イサク、ヤコブ、そして他の信仰のある人々が歩いた道を求めなさい。それは幸いの道です。その道を行くと、平和を見つけることができます。」

しかし、ユダヤ人たちはこう答えました。

そこを歩まない。(16b)

頑固な心。堅い心。ユダヤ人たちはそのような心を持っていました。

神様はエレミヤや他の預言者たちをユダヤ人たちに警告するために送りましたが、彼らはこう言いました。

「私たちは」注意しない。(17b)

だから、エレミヤはユダヤ人たちについてこう言いました。

私はだれに語りかけ、だれをさとして、聞かせようか。

見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。

見よ。主のことばは、彼らにとって、そしりとなる。彼らはそれを喜ばない。(10)

その結果は?裁きです。

私が昨日のブログを英語で書いた時、Facebookで、そのブログからこの部分を書きました。

「皆は神様の愛とあわれみについて聞くのが好きです。しかし、だれも裁きについて聞きたくありません。」

ある人々は「いいね」とクリックしました。けれども、それを見た時、彼らが私の意味を理解しただろうかと思いました。

私が言いたかったのは、「神様の愛とあわれみは福音の一方だけです。しかし、もう一方があります。つまり、裁きです。」

けれども、ある人々は私の意味を誤解したかもしれません。彼らはこのように思ったかもしれません。

「私たちは神様の愛とあわれみだけを伝えた方が良いです。神様の裁きについて話さない方が良いです。」

偽物の預言者たちや祭司たちはそうしました。神様は彼らについてこう言われました。

彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。(14)

宣教師であるジム・エリオットは、こう祈りました。

私が一つの道の里程標にならないように。むしろ、私が分岐点になるように。人々が私に会うと、彼らがイエス・キリストを見て、イエス様に従うか従わないかを決めるように。

あなたはどうですか。あなたは里程標であるだけでしょうか。それとも、あなたは分岐点でしょうか。

もう一度言います。人々が私たちに初めて会った時、私たちが「今、決めなさい」と言う必要はありません。

しかし、もし私たちと長く知り合っているなら、彼らはその決断のポイントに来るはずです。

彼らがそのポイントに決して来ないのであれば、多分私たちは神様から与えられた仕事を忠実に行っていないのかもしれません。あなたはその仕事をしているでしょうか。

ある人々は福音のメッセージを拒絶するかもしれません。けれども、ある人々はそれを聞いて救われます。だからこそ、神様の福音を伝え続けましょう。

私たちがただイエス様への道を指さすだけで終わらないように。むしろ、私たちが人々をその分岐点に導くように。

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イザヤ書

なぜイエス様は来たのか

不思議なことに、イエス様が生まれる何世紀も前に、この預言は書かれていました。この箇所では、イエス様の命と死についての重要な真理を学ぶことができます。

彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。

彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。(イザヤ書53:2)

もし私が神様だったら、イエス様を王族の家に生まれさせたかもしれません。また、イエス様をとてもハンサムな姿にしたかもしれません。

けれども、イエス様は貧しい大工の息子としてこの世に来られました。

さらに、イザヤによると、イエス様の外見はごく普通であり、特にハンサムというわけではありませんでした。イエス様の容姿で、女性たちを惹きつけることはなかったようです。

それに加えて、イエス様は人々から拒絶されることもありました。

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。

人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ書53:3)

時々、私たちはこう考えることがあります。「イエス様は本当に私のことを理解してくださるのだろうか。」

なぜなら、私たちは特別にハンサムでも美しくもないし、時には拒絶されることもあるからです。しかし、イエス様には私たちのことがよく理解できます。

それだけではありません。イエス様は私たちを本当に深く愛しておられます。たとえ私たちがイエス様を拒絶したとしても、それでもなお、イエス様の愛は変わりません。それでも、

彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ書53:5)

私たちがイエス様を求めていなかったにもかかわらず、イエス様は私たちのために命を捨てられました。私たちがイエス様から逃げ続けていたにもかかわらず、イエス様は私たちを深く愛しておられました。

イザヤ53:6には、次のように書かれています。

私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。

しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(6)

それは本当に不思議なことです。私たちはイエス様を拒絶し、イエス様から背を向けて逃げました。それにもかかわらず、イエス様は私たちの罪のために、言葉で表現しきれないほどの苦しみに耐えられたのです。

彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。。。

多くの者があなたを見て驚いたように、――その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。(イザヤ書53:7-8、52:14)

そして、十字架で、

彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。。。

彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。(イザヤ書53:8、12)

そのあとで、

彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。(イザヤ書53:9)

しかし、それで話が終わりではありません。

もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。

わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。(イザヤ書53:10-11)

つまり、死はイエス様の終わりではありませんでした。むしろ、イエス様は苦しみの後に「見ました。」つまり、イエス様はよみがえられ、末永く生き、子孫を見られたのです。

その子孫とは誰でしょうか。それは私たちクリスチャンです。私たちがイエス様を受け入れるならば、神様の子供となります。(ヨハネ1:12)

イエス様はその目的のためにこの世に来られました。私たちはイエス様を拒絶し、イエス様から逃げました。それでも、イエス様は私たちを愛し、救うために来られたのです。

ですから、十字架の御業を通して、私たちは永遠の死から救われ、神様の子供として新しい命をいただきます。

私たちがするべきことはただ一つです。イエス様とその御業を信じることです。それによって、私たちは本当の命を知ることができます。

このことをどうか忘れないでください。イエス様は私たちを理解されており、何よりも私たちを愛し、あがなうために来られたのです。

だからこそ、その素晴らしい知らせを周りの人々に伝えましょう。

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ミカ書

船を揺さぶるな

英語には、「Don’t rock the boat」という興味深い表現があります。

その直訳は、「船を揺さぶるな。」

つまり、「余計なもめ事を起こすな。」

また、「人を怒らせることを言うな。」

普通は、それは良いアドバイスです。

とはいえ、クリスチャンとして、いつもその言葉に従うことはできません。時には、相手が聞きたくないことを言わなくてはならないのです。

けれども、多くのクリスチャンはそうしたくありません。残念なことに、多くの教会もそうしたくありません。

その結果はどうなるでしょうか?神様の言葉、特に福音を正しく伝えないことです。つまり、神様の愛と恵みについてはよく話されますが、罪と裁きについてはほとんど話されません。

しかし、ミカは船を揺さぶることを恐れませんでした。ユダのリーダーたちはその民に正義を与えなかったため、ミカは彼らを責めました。

さらに、ユダの「預言者」たちは人々が聞きたいことだけを語っていたため、ミカは彼らにこう言いました。

預言者たちについて、主はこう仰せられる。彼らはわたしの民を惑わせ、歯でかむ物があれば、「平和があるように」と叫ぶが、彼らの口に何も与えない者には、聖戦を宣言する。

それゆえ、夜になっても、あなたがたには幻がなく、暗やみになっても、あなたがたには占いがない。

太陽も預言者たちの上に沈み、昼も彼らの上で暗くなる。先見者たちは恥を見、占い師たちははずかしめを受ける。彼らはみな、口ひげをおおう。神の答えがないからだ。(ミカ書3:5-7)

そしてミカはこう言いました。

しかし、私は、力と、主の霊と、公義と、勇気とに満ち、ヤコブにはそのそむきの罪を、イスラエルにはその罪を告げよう。(8)

私たちはそのようなクリスチャンにならなければなりません。愛する人々が罪の道を歩んでいるなら、私たちは彼らに警告しなければなりません。

たとえ彼らが怒っても、それは仕方がありません。クリスチャンとしての私たちの責任は、彼らに警告することなのです。

もちろん、「あなたは地獄に行くよ!」と叫ぶ必要はありません。

私が以前述べたように、ある人たちはそのようなメッセージを伝えることが大好きなように見えます。彼らは、まるで人々が地獄で苦しむことを喜んでいるかのようです。

しかし、神様はそのようなことを喜ばれません。神様は涙を流されます。私たちも泣くべきです。

けれども、泣くだけでは足りません。人々に警告しなければなりません。しかしそうすることで、時には船を揺さぶることになるでしょう。

ミカは船を揺さぶりました。幸いなことに、ヒゼキヤ王はこの警告を聞いて悔い改めました(エレミヤ書26:17ー19)。

イザヤもまた、真実を語ることをためらいませんでした。だからこそ、ミカとイザヤ、そして他の預言者たちの働きによって、その社会に影響を与えることができたのです。

あなたはどうでしょうか?船を揺さぶることを恐れていますか?他の人々の反応を恐れて、神様の言葉のすべてを伝えないままでいるのでしょうか?

その言葉とは何でしょうか。それは、イエス・キリストにあって、罪の赦しがあるということです。しかし、その賜物を拒むなら、裁きしかありません。

イエス様のみ名によって船を揺さぶることを恐れないでください。

もちろん、ただ人を怒らせるために船を揺さぶるのではありません。

そうではなく、イエス様の愛をもって、人々が悔い改めて救われるために船を揺さぶりましょう。

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ヨエル書

聖霊が来ると

旧約聖書の時代と新約聖書の時代の一つの大きな違いは、御霊の働きです。

旧約聖書の時代においては、時々御霊が特別な働きのために人を満たされました。多くの場合、それは一時的なものでした。その働きが終わると、御霊はすぐにその人から去ってしまわれたのです。

二つの例は、サムソン(士師記14:1;16:20)とサウル王(第一サムエル11:6;16:14)です。

ダビデはバテ・シェバと罪を犯したとき、こう祈りました。

あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。(詩編51:11)

でも、このヨエルの箇所で、神様は約束されました。ある日、御霊は少数の人々に注がれるのではなく、神様のすべての民に注がれるということです。

つまり、神様は男性にも、女性にも、若者にも、年を取った人にも、御霊を注がれます。それは、終わりの日のしるしです。

使徒の働き2章によれば、御霊が来て、この予言を成就しました。

その日に、エルサレムで御霊はすべての信者たちを満たされました。周りの人々が驚いたので、ペテロはこのヨエルの箇所を引用して、何が起こったかを説明しました。

「終わりの日」は、その日から始まりました。私たちも、この終わりの日に生きています。ですから、この終わりの日は2000年以上続いています。

では、どうして神様は私たちに御霊を注がれるのでしょうか。それは、神様の働きをするためです。

その働きとは何でしょうか。裁きの日まで、福音を述べ伝えることです。

何度も何度も、旧約聖書の預言者たちは主の日について警告しました。

実際には、たくさんの「主の日」があります。

神様がある国を裁く時、それが「主の日」です。しかし最終的には、主の大いなる恐るべき日が来ます。(ヨエル書2:31)

その日に、すべての人々は神様の王座の前に来て、裁かれます。けれども、主が呼ばれた者だけが救われます。(32)

だから、御霊の働きは本当に大切です。

イエス様が言われたのは、私たちに力を与えるために御霊を送られたということです。何のための力でしょうか。

それは、イエス様の証人になる力です。つまり、イエス様の福音をこの世に述べ伝える力です。(使徒の働き1:8)

神様は、私たちが自分の霊的な賜物について自慢するために御霊を送ったわけではありません。周りの人々があなたにない賜物を持っていないからといって、彼らを見下すために御霊を送ったわけでもありません。

むしろ、裁きの日が来るまで、死にかけている世界に福音を述べ伝えるために御霊を送られました。なぜなら、その日が来たら、もう悔い改める時間がないからです。すべての人々は裁かれます。

神様は、あなたがこの世に影響を与えるために御霊を注がれました。あなたは周りの人々に影響を与えていますか。

それとも、自分自身や、神様から何をもらえるかに焦点を当てているでしょうか。

私たちが神様の御霊に満たされ、周りの人々に触れることができるように。彼らが裁きの日の前に神様を知ることができるように。