今日の記事から、私たちは聖書の深みに入っていきます。
この箇所に関する解説は数多く存在し、聖書学者たちは様々な見解を持って、しばしば議論を重ねています。ですので、まずは私の考えを述べますが、将来的にはその見解が変わる可能性もあります。
黙示録には、三種類の裁きが登場します。それらは、七つの封印、七つのラッパ、そして七つの金の鉢です。
ある学者によれば、これら三つの裁きは同時に起こるとされています。一方で、他の学者によれば、裁きは順番に展開するというのです。
どの説を信じるかに関わらず、明らかなのは、イエス様が来られるまで、この世の状態が徐々に悪化していくということです。
私の見解としては、これらの裁きは基本的には順番に進行しますが、ある部分では重なって起こることもあるかもしれません。
だから、七つの封印という裁きは、多分最後の裁きではないと思います。イエス様の言葉を借りれば、その七つの封印は、「産みの苦しみの始まり」だけです。(マタイ24:8)
実は、私たちはすでに、これらの裁きの始まりを目撃しているのではないかと思います。
イエス様は第一の封印を解かれ、白い馬が出てきます。その乗り手は、自らの敵に打ち勝とうとします(黙示録6:2)。
この白い馬とその乗り手は、おそらく十二弟子に語られたイエス様の言葉に関係があると思われます。すなわち──
「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり。。。」(マタイ24章7節)
こういった報道を、私たちは日々のニュースで頻繁に耳にします。
続いて、イエス様は第二の封印を解かれます。すると、火のように赤い馬が現れます。ヨハネによれば、その乗り手には地上から平和を奪うことが許され、人々が互いに殺し合うようになるのです(黙示録6:4)。
要するに、戦争の影響だけでなく、殺人も増えていきます。もちろん、歴史の中には多くの殺人事件が存在してきましたが、赤い馬が現れると、殺人は横行するようになるのです。
最近のニュースでも、そうした事例を頻繁に耳にすることでしょう。テロもあれば、集団殺人の報道も後を絶ちません。
さて、イエス様が第三の封印を解かれると、黒い馬が出てきます。その乗り手は量りを手に持っていました。そして、こう語りました。
小麦一コイニクスが一デナリ。大麦三コイニクスが一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。(黙示録6:6)
それは飢饉の状態であり、わずかな食料にも多額の金が必要となります。とはいえ、飢饉があっても、オリーブ油やぶどう酒はなお豊かに残されています。つまり、状況は厳しいものの、まだ最悪の事態には至っていないということです。
イエス様の言葉によれば、飢饉は確かに起こりますが、それは「産みの苦しみの始まり」にすぎません(マタイ24章7~8節)。
そして、イエス様が第四の封印を解かれると、青ざめた馬が出てきます。その乗り手の名は「死」です。それには戦争、殺人、飢饉が含まれますが、さらに二つの要素も加わります。それは疫病と、野の獣による人への暴力です。
次回の記事では第五の封印について触れますが、ここでは第六の封印に先に進みましょう。ヨハネはこのように記しています。
子羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。
太陽は毛織りの粗布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。
それは、いちじくが大風に揺さぶられて、青い実を落とすようであった。
天は、巻物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山と島は、かつてあった場所から移された。(黙示録6:12-14)
それは文字通りに起こるのでしょうか。私には分かりません。
大きな地震はおそらく文字通りに起こるでしょう。一方、その他の描写は比喩的である可能性があります。それらの言葉は、地震の後に人々が抱く恐れを象徴しているのかもしれません。地震によって、この世全体が混乱に陥るからです。
日本では、1995年と2011年に、私たちは大震災を経験しました。それゆえ、これらの地震を経験した人が13~14節を読むと、「はい、まさにそのように感じました」と言うかもしれません。
では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
神学者のD・A・カーソンは次のように述べています。
私たちには、この世にある様々な問題が見えます。戦争、殺人、飢饉、地震、疫病。それらの原因を尋ねられると、私たちは科学的な説明や社会学的な分析を挙げることができます。
あるいは、「神様がそのような事態が起こることを許されたのです」と答えることも可能です。
どちらの答えもある種の真理を含んでいますが、より根本的なのはどちらでしょうか。
私たちが心に留めるべき真理は、この世の罪のゆえに、神の裁きが近づいているということです。私たちの目に映る世の問題――戦争、飢饉、疫病、地震、殺人――は、最終的な裁きの前触れに過ぎません。神様はそれらすべてを許しておられます。
なぜでしょうか。神様は、ただ人々を裁くことを喜んでおられるのでしょうか。
そうではありません。神様は、こうした問題を通して、人々がご自身のもとに逃げ込むことを望んでおられるのです。
もしこの世に何の問題もなければ、イエス様に向かう人はきっと少ないでしょう。なぜなら、自分にはイエス様が必要だと気づかないからです。けれども、神様の裁きによって、ある人々は自らの罪を見つめ、自分に救いが必要だと悟り、悔い改めるのです。
だからこそ、私たち自身に問うべき問いはこうです。「裁きを目にしたとき、私はどのように反応するのか。」
私たちは、その裁きに対する恐怖によって、ただ震えるだけでしょうか(黙示録6:15~16)。
もしかすると、私たちは神様を呪うことになるのでしょうか(黙示録16:9)。
それとも、悔い改めへと導かれるのでしょうか。
裁きはすでに迫っています。あなたは、準備ができているでしょうか。