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ヨハネの福音書のデボーション

まず神様に愛された

神は、このようにして世を愛された。そのひとり子をお与えになったのです。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16、英訳)

私はその英訳が好きです。多くの翻訳は、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」と訳されるけど、通常、そのギリシャ語は「ほどに」ではなく、「このように」と訳されます。

ヨハネの手紙では、ヨハネは違う言葉を使うけど、同じ概念を伝えます。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって、私たちにいのちを得させてくださいました。それによって、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(第一ヨハネ4:9ー10)

パウロは似たようなことを言います。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ書5:8)

驚くべきことは、神様が私たちの悔い改めを待たずに、まずご自身の愛を示してくださったことです。神は裁きではなく、憐れみをもって私たちに目を向けられます。

イエス様が「御子を遣わすことによって神様がこの世に愛を示された」と言ったとき、ニコデモはどう思ったでしょうか。

もしニコデモが、神が御子を遣わされたという概念を持っていたとしたら、それは反逆の世を裁くためだったでしょう(詩篇2篇)。

ニコデモは、詩篇2:12にある幸いな人たちがかつて反逆的な人たちであったことを考えたことがあったでしょうか。ニコデモは、御子を通して示された神の愛のゆえに、彼らが悔い改めたと考えたことがあったでしょうか。その詩篇を書いた詩人はそんなことを考えたことがあったでしょうか。

私にはわかりません。でも、ヨハネ3:16のもっとも驚くべきことを覚えていましょう。それは、神様が悔い改めることのない反逆の世(私たちを含む)をまず愛し、その世を救うために、御子を遣わしてくださったということです。

だから、今日、その言葉に思いを巡らしましょう。ヨハネ3:16、第一ヨハネ4:9−10、ローマ5:8に思いを巡らしましょう。

その真理を浴びましょう。「神様はまず私を愛しててくださいました。」

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出エジプト記のデボーション

この世が知るように

あなたはわたしの命じることを、ことごとく告げなければならない。あなたの兄アロンはファラオに、イスラエルの子らをその地から去らせるようにと告げなければならない。。。

わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエルの子らを彼らのただ中から導き出すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。(出エジプト記7:2,5)

モーセとアロンは、ファラオとエジプト人全員が神様が主であることを知るように、神様の言葉を告げなければなりませんでした。

同じように、私たちの周りの人々が神様が主であることを知るために、私たちも神様の言葉を告げなければなりません。

しかし、モーセとアロンの言葉がほとんど裁きの言葉であったのに対し、私たちの言葉は和解の言葉なのです。

パウロはこう言いました。

これらのことはすべて、神から出ています。

神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。

すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。

こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。

私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。

神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。(第二コリント5:18ー21)

だからこそ、周りの人々が神様が主であることを知り、神様と和解することができるように、神様の言葉を告げましょう。

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ヨハネの手紙第一のデボーション

人を愛しているのか?それとも、つまずいているのか?

光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。

自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。(ヨハネの手紙第一2:9ー10)

たぶん、私たちの多くは、上のことばをよく読み流します。なぜなら、私たちは「私は大丈夫だ。私は誰も憎んでいない」と思うからです。

それはそうかもしれないけれど、私たちがよく裁く人がいるでしょうか。

私たちが許していない人がいるでしょうか。

今日、私は4人の人たちのことを考えていました。私は彼らを憎んでいるわけではないけれど、彼らを思い出すたびに、私はよくつまずいてしまいます。

私は、「私は彼らを本当に愛していないのだろう」と思いました。

だから、彼らに対する私の態度を直せるように祈っています。そのために、私は本当に神様の助けが必要です。

あなたはどうですか。神様は、あなたに誰かについて語りかけておられるでしょうか。

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創世記のデボーション

 自分の目にある梁を取り除く

朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。

「あなたは私に何ということをしたのですか。私はラケルのために、あなたに仕えたのではありませんか。なぜ、私をだましたのですか。」(創世記29:25)

今朝、上のことばを読んだとき、私は考えました。

「エサウはヤコブのことばを聞いていたら、どれほど笑っただろうか。ヤコブは、自分のことばがどれほど皮肉なものであったかを理解していただろうか。」

そして、私は自分のことを考えました。

先週、私をイライラさせる人について考えていました。

でも、私も同じようなことをしたことがあるでしょうか。たとえ同じことをしていないとしても、私が気づいていない自分の過ちは何でしょうか。

それを考えるとき、イエス様のことばを思い出しました。

あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。

兄弟に向かって、「あなたの目からちりを取り除かせてください」と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。

偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。(マタイ7:3~5)

だから、私はもう一度祈りました。「天のお父さん、私を探り、私の心を知ってください。私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇139:23~24)

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使徒の働きのデボーション

神に望みを抱いて

また私は、正しい者も正しくない者も復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神に対して抱いています。

そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。(使徒の働き24:15ー16)

天のお父さん、私は望みを抱いています。

つまり、死が終わりではないという望みを抱いています。復活が必ずあるという望みを抱いています。

天のお父さん、私は望みを抱いています。

裁きの日があるという望みを抱いています。あなたがすべての不義を裁いてくださるという望みを抱いています。

天のお父さん、私は望みを抱いています。

裁きの日に、私は恐れる必要がないという望みを抱いています。イエス様の血によって、私は罪に定められることが決してないという望みを抱いています。

その望みを、私は確かに抱いています。

だからこそ、恐れのためではなく、むしろ、あなたへの感謝と愛のゆえに、私はあなたの前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。

今日、私の人生があなたに喜ばれる、聖なる生きたささげものとなりますように。私の人生があなたにとって、芳しい香りとなりますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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列王記第二のデボーション

神様の忍耐、神様の裁き

アハブがナボテを殺したとき、神様はアハブとその家族を裁かれました。

しかし、アハブが神様の御前にへりくだったとき、神様はその裁きを先延ばしにされました。(列王記第一21:21〜29)

それでも、アハブはやがて再び神様に反抗し、殺されました。(列王記第一22章)

けれども、私が驚いたのは、アハブの息子ヨラムに対する神様の恵みです。12年間にわたって、神様は何度もヨラムを助けてくださいました。(列王記第二3章、5〜7章)

さらに、神様がご自身の驚くべきタイミングをヨラムに示されたことで、ヨラムはシュネムの女の人を助けてくれました。(8:1〜6)

おそらく、神様はヨラムほど他の不敬虔なイスラエルの王に、そのような恵みを与えられなかったでしょう。

それでも、私たちはヨラムが最終的に悔い改めて神様に従ったという示唆をまったく見ていません。むしろ、彼は自分の罪に執着し、それから離れることがありませんでした。(列王記第二3:3)

その結果、神の裁きが彼に下されたのです。

では、私は何を言いたいのでしょうか。

旧約聖書を読むとき、神様の裁きが厳しすぎると感じるのは容易です。

けれども、私たちが忘れてはならないのは、最も反抗的な人々に対してさえ、神様が忍耐強く、恵み深くおられたということなのです。

神様は正義の方であり、永遠に裁きを先延ばしにすることはできません。それでも、神様は人を裁くことを喜ばれる方ではありません。むしろ、神様は人を憐れむことを喜ばれるのです。

だからこそ、神様は預言者エゼキエルにこう語られたのです。

わたしは生きている──神である主のことば──。

わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。

悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。(エゼキエル33:11)

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列王記第二のデボーション

神の呪い、神の恵み

1章と2章では、エリヤとエリシャを通して、神様の呪いが人々に下される場面を見ることができます。

多くの人々はそれを読んで、エリヤとエリシャの行為が酷いと感じるかもしれません。

しかし、私たちは一つのことを覚えておくべきです。それは、聖書において神の呪いとは、敵に対する魔法の言葉ではなく、反抗的な人々に対する神の裁きであるということです。

エリヤの場合、イスラエルの王や、最初の二人の隊長は、神様とその預言者に対して反抗的で傲慢でした。

エリシャの場合も、神様とその預言者に対して同じような態度が見られます。

けれども、多くの人々にとって受け入れがたいのは、神様が「小さい子どもたち」を裁かれたと記されている点です。

ところが、ヘブル語における「子ども」という言葉の定義は幅広く、「小さな子ども」を意味する場合もあれば、「青年」を指す場合もあるのです。

列王記第一3:7では、ソロモンが自分を「小さな子ども」と呼んでいます。おそらく、ソロモンは自分を卑下して、「私は無知で、青臭い者です」と言っていたのでしょう。

このように、列王記の著者は、あの青年たちの無知を批判していたのです。

しかし、ソロモンとその青年たちの違いは、ソロモンが神様の御前にへりくだったことです。そのゆえに、ソロモンは神様の恵みを受けました。

その一方で、あの青年たちは神様とエリシャに対して傲慢で敵対的な態度を取りました。だからこそ、彼らは裁かれたのです。

ですから、ヤコブの言葉を心に留めましょう。

「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」

ですから、神に従い。。。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。

罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。

主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。(ヤコブ4:6-10)

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使徒の働きのデボーション

神の裁きのことを考えるとき

数日後、フェリクスは。。。パウロを呼び出し、キリスト・イエスに対する信仰について話を聞いた。

しかし、パウロが正義と節制と来たるべきさばきについて論じたので、フェリクスは恐ろしくなり(ました)。(使徒の働き24:24-25)

私にとって興味深いのは、神様の裁きに関して、パウロとフェリクスは正反対の反応をしていたということです。

パウロは希望をパウロは、持って、その裁きを考えました。(15節)

その反面、フェリクスは裁きを恐れていました。なぜなら、心の中で、フェリクスは自分の罪をよく知っていたからです。また、自分が神の裁きを受けるにふさわしい人物であることも、知っていたからです。

では、どうしてパウロは神の裁きを考えたとき、希望を持つことができたのでしょうか。それは、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してないからです。(ローマ8:1)

イエス様は十字架で、私たちの罪の罰を受けてくださいました。

だから、パウロは神様からの罰を恐れていませんでした。むしろ、パウロは天の父の愛に安心していました。自分が神の子どもであるという確信をもって、安心していたのです。

ヨハネは何年か後に、この言葉を書きました。

こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。

恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。(第一ヨハネ4:17-18)

天のお父様、私があなたに裁かれることを恐れる必要がないことを感謝します。むしろ、あなたの愛と恵みによって、私はあなたの子どもとして受け入れられているという確信をもって、あなたの御前に立つことができます。

だから、私はあなたに近づきます。私はあなたを敬います。私はあなたを愛します。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第一のデボーション

神様を拒む者への裁き

サムエル記第一16〜19章では、私たちは三回このような言葉を読みます。「主からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた」(16:14、23;18:10;19:9)。

正直に言うと、これらは難しい言葉です。神様は災いの霊を、災いをもたらすために送ることがあるのでしょうか。どうして、良い神、また愛の神がそのようなことをなさることができるのでしょうか。

厳しい答えですが、それは神様の正当な裁きです。サウルは神様をあえて拒んだからです。

けれども、聖書はこの裁きが、悔い改めの最後のチャンスを与えるものであることを示唆しています。

第一列王記22章では、神様はアハブ王に破滅をもたらすために偽りの霊を送りました。それでも、それと同時に、神様はアハブに警告するために預言者を遣わし、悔い改めのチャンスを与えました。

けれども、以前の話と違って(列王記第一21:27〜29)、アハブは悔い改めようとしませんでした(列王記第一22:17〜28)。

新約聖書でも、同じようなことが見られます。パウロは、悔い改めようとしない罪人に関して、こう語っています。

そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(第一コリント5:5)

黙示録では、神様はいろいろな災害を送られます。悪霊によってもたらされる災害もあるようです。

多くの人々が死にますが、それ以上に多くの人々が生き残っていて、悔い改めのチャンスがあります。しかし、彼らは悔い改めようとしません(黙示録9:20〜21)。

そして、第二テサロニケでは、パウロは終わりの日について語っています。人々が騙されて滅びるために、神様は反キリストをこの世に放たれます。

なぜでしょうか。その理由は明確です。

彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。

それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。

それは、真理を信じないで、不義を喜んでいたすべての者が、さばかれるようになるためです。(第二テサロニケ2:10ー12)

つまり、反キリストとその惑わす力は、人々が真理を愛することを拒否したことに対する神の罰なのです。

神様がサウルやアハブを裁かれたように、終わりの日には、神様は悔い改めることを拒む人々を裁かれるのです。

あなたはどうでしょうか。神様を愛しているでしょうか。真理を愛しているでしょうか。正義を喜んでいるでしょうか。

あなたは、神様にどのように反応するでしょうか。

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サムエル記第一のデボーション

見ておられる神、裁かれる神

神様のことを考えると、私たちがあまり考えたくないことの一つは、神様がいつか全世界を裁くということです。つまり、神様が私たちを裁くということです。

でも、神様は私たちの裁判官であり、ある日、私たちを裁かれます。

ハンナはこう歌いました。

主はすべてを知る神であって、もろもろのおこないは主によって量られる。(サムエル記第一2:3,口語訳)

また、

主は地の果ての果てまで裁かれます。主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を高く上げてくださいますように。(10節)

イエス様が神に油注がれた王として、つまり、メシアとしてこの世に来られると、ハンナの言葉は成就します。

そして、裁きの日に、神様はご自分を重んじる者を重んじ、ご自分を蔑む者を軽んじられます。(30節)

エリとその息子たちの人生において、また、サムエルとその母の人生において、それを見ることができます。神様はエリとその息子たちを裁かれましたが、サムエルとその母を重んじられました。

実のところ、私たち皆は裁かれるのが当然なのです。なぜなら、私たち皆が神様に対して罪を犯したからです。

エリはこう言いました。

人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪をおかすなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。(25節)

でも、良い知らせは、この世に来られた時、イエス様が神であるだけでなく、人間でもあったということです。そして、神であり人間として、イエス様は天のお父さんの前で、私たちのためにとりなしてくださいます。

私たちの、いつも生きておられる忠実な大祭司として、イエス様は私たちのためにとりなしをしておられます。

そういうわけで、イエス様は、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことができます。(へブル7:24〜25)

だから、恐れ、喜びましょう。

神様を恐れ、聖なる方としましょう。なぜなら、神様は私たちの行いを量り、裁かれるからです。

でも、それと同時に、喜びましょう。なぜなら、イエス様は、神様を愛してあがめる人々のためにとりなしてくださっているからです。

だから、私たちは喜びと確信をもって、こう言えます。「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)

 

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出エジプト記のデボーション

神様の印を受けた者

その血は、あなたがたがいる家の上で、あなた方のためにしるしとなる。

わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。

わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。(出エジプト記12:13)

聖書には、神様が人々を裁かれるが、ご自身の民をその裁きから守られるというテーマがあります。

エゼキエル書9:4にも、黙示録7:3と9:4にも、そのテーマが見られます。

しかし、今日の箇所では、神様の裁きから私たちを守る印の描写が見られます。それは、傷もなく汚れのない子羊の血潮です。

私たちにとって、イエス様は私たちの過越の子羊です。(第一コリント5:7)

十字架で流されたイエス様の血潮によって、私たちは印を押されているのです。

そのゆえに、この世界が裁かれるとき、神様は私たちをあわれみ、過ぎ越してくださるのです

だから毎日、罰を恐れずに、私たちに対する神様の愛と恵みの確信をもって、神様に近づきましょう。(第一ヨハネ4:17–18、へブル10:19–22)

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コリント人への手紙第一のデボーション

裁きと懲らしめの違い

コリント人たちの一つの問題は、聖餐式において主とその十字架の御わざを祝いながら、キリストのからだを軽んじてしまったことです。つまり、彼らは貧しいクリスチャンたちに恥ずかしい思いをさせていたのです。

そのため、あるコリント人たちは主によって裁かれ、病気になったり、亡くなったりしました(コリント人への手紙第一11:22、30)。

それは本当に厳しい裁きであったため、パウロはコリント人たちに警告します。「そのような裁きを避けるために、聖餐式を受ける前に、自分の心を吟味しなさい」(28、31)。

神様の懲らしめが厳しいときもあります。しかし、覚えておきましょう。私たちが主から受ける懲らしめは、この世が受ける裁きとは異なります。

パウロはこう言いました。

私たちがさばかれるとすれば、それは、この世とともにさばきを下されることがないように、主によって懲らしめられる、ということなのです。(コリント人への手紙第一11:32)

主から私たちが受ける懲らしめがどんなに厳しくても、それは永遠の死に至るものではありません。その意味で、私たちは主の怒りを恐れる必要はありません。

しかし、覚えておきましょう。神様は私たちの罪を軽んじられません。だから、私たちも自分の罪を軽んじてはなりません。そうでなければ、神様の懲らしめが非常に苦しいものとなることがあります。その意味で、私たちは主を恐れるべきです。

もちろん、神様は私たちを愛しておられます。しかし、それは私たちが主の懲らしめを免れるという意味ではありません。だから、ヘブル人への手紙の著者の言葉を覚えておきましょう。

わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。 主に叱られて気落ちしてはならない。

主はその愛する者を訓練し、 受け入れるすべての子に、 むちを加えられるのだから。(へブル12:5ー6)

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詩篇のデボーション

恐れはない

詩篇91篇を読むとき、私は「この詩篇は約束しすぎるんじゃないかなぁ」とよく考えます。

「私たちが神様に信頼を寄せれば、私たちの問題のすべてはなくなるのだろうか。」

実は、イエス様を誘惑したとき、サタンはこの詩篇を曲げました。「神殿の屋上から下に身を投げなさい。この詩篇によれば、御使いたちはあなたを守るでしょう?」

そして、あるクリスチャンによれば、私たちは決して病気にならないはずだし、問題のない人生を送るはずです。

でも、今日この箇所を読んだとき、私はイスラエル人たちのエジプトの経験を考えました。

エジプト人たちは神様の裁きを受けました。つまり、彼らは疫病や荒らす滅びに苦しんだということです。また、夜襲の恐怖を経験して、彼らの長男たちは亡くなりました。

でも、神様がイスラエル人たちを守ってくださったので、彼らはその恐ろしい裁きから逃れました。

聖書では、そんなパターンを何回も見ることができます。神様に反抗する人たちは裁かれるけど、神様の民はその裁きから逃れます。(エゼキエル書9章、第2ペテロ2:4ー10;黙示録7:1ー3、9:1ー21)

そのように、ある日、神様はこの世を裁かれます。でも、私たちが神様に属し、私たちが神様に自分の隠れ家として信頼を寄せれば、私たちは神様の裁きを恐れなくていいのです。だから、ヨハネはこう言いました。

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。

神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。

こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。

この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。

恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。(第一ヨハネ4:16ー18)

だから、もし神様があなたを罰しておられるかどうか疑問に思っているなら、大切な真理を覚えていましょう。それは、イエス様が十字架で私たちの罰をすでに受けてくださったということです。神様はあなたを罰しておられるわけではありません。

でも、私たちは神様の裁きだけではなく、サタンの攻撃をも恐れる必要がありません。聖書では、サタンは蛇やライオンに見立てています。(創世記3章、第一ペテロ5:8)

興味深いことですが、サタンはイエス様を誘惑するとき、この詩篇の11ー12節を引用したけど、13節を飛ばしました。

あなたは 獅子とコブラを踏みつけ、若獅子と蛇を踏みにじる。(詩篇91:13)

もしかしたら、サタンはその聖句を考えると、違和感を持っていたでしょう。なぜなら、神様は将来の救い主について蛇にこう言われたからです。

彼はおまえの頭を打ち、 おまえは彼のかかとを打つ。(創世記3:15)

サタンが私たちを打つときもあります。でも、イエス様の傷のように、私たちの傷は致命傷ではありません。

サタンは私たちの体を殺すことができるけど、私たちの魂を滅ぼすことができません。そういうわけで、ある日、私たちは天国で喜び、神様を賛美します。(黙示録7:9ー17)

だから、神様の裁きやサタンの攻撃を恐れずに、神様の約束を心に留めておきましょう。

彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出す。

彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げる。彼がわたしを呼び求めれば、わたしは彼に答える。

わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い、彼に誉れを与える。

わたしは、彼をとこしえのいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せる。(詩篇91:14ー16)

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詩篇のデボーション

神に逆らう世界のために祈る

私たちは神様に対して敵対的な世界に生きています。つまり、人々は、自分が神様の支配下にあり、神様に対して説明責任を持っていることを認めたくないのです。

アサフはそのことをよく理解していました。だからこそ、アサフは、イスラエルに対する周辺の国々の憎しみを見たとき、その憎しみの根本的な理由が分かりました。つまり、彼らは先に神様を憎んでいたからです。

イエス様もその真理をよく理解し、それをご自身と弟子たちに当てはめられました(ヨハネ15:18ー25)。

しかし、ある日すべての人々が膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白します(ピリピ2:10ー11)。

ある人々は、愛と感謝をもって告白します。けれども、他の人々は神様に対する憎しみをもって、渋々それを告白します。

今日の詩篇には、その真理が示されています。

ある日、すべての人々は神様の主権を認めるようになります。彼らは、すべての人々が(自分を含めて)神様の支配下にあることを認めるようになります(詩篇83:18節)。

ある人々は、自分の罪のゆえに恥を負い、正当に裁かれて滅びます。ですから、悔い改めようとしない人々に関して、私たちは神様が正義を実行されるように祈ります。なぜなら、正義を決して実行しない神は、良い神ではないからです。

しかし、それ以上に、私たちは人々が自分の恥の中で悔い改め、神様の御顔を求めるように祈ります(16節)。

なぜでしょうか。それは、神様がご自身の恵みによって、私たちを憐れんでくださったからです。神様は、人々が滅びることなく、救われることを望まれます(エゼキエル書33:11;第一テモテ2:3ー4)。

ですから、神様に敵対するこの世界のために祈りましょう。世の人々が神様の御顔を求め、神様の恵みによって神様を見出すように祈りましょう。

こうして彼らが知りますように。その名が主であるあなただけが全地の上におられる、いと高き方であることを。(詩篇83:18)

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ヨハネの黙示録

裁きが振りかかっても悔い改めない心

14章では、神様を拒絶し、獣の刻印を受けた人々が永遠の裁きを受けることを読みました。以前にも述べたように、永遠の裁きという概念に抵抗を感じる人々は少なくありません。

9章では、その永遠の裁きの理由を見ました。ある人々は長らく神様に逆らい、悔い改める心を持とうとしません。どれほど厳しい裁きが下されても、彼らはどうしても悔い改めたくないのです。むしろ、神様をますます呪うのです。

今日の箇所では、再びそのような人々が登場します。

16章で、神様は抑えることなく裁きを地上に注がれます。封印の裁きやラッパの裁きがなされたときには、神様は裁きに制限を設けられました。(封印の裁きでは被造物の4分の1が、ラッパの裁きでは3分の1が打たれました。)

今回は、全世界が打たれます。

獣の刻印を受けたすべての人々には、ひどく悪性な腫れものが生じます。(黙示録16:2)

海は死者の血のようになり、海の中のすべての生き物が死に絶えます。(3節)

神の民を殺していた彼らに対し、川と水の源の水は血へと変わります。(4-7節)

そして、

第四の御使いが鉢の中身を太陽に注いだ。すると、太陽は人々を火で焼くことを許された。(黙示録16:8)

私の意見ですが、おそらくこの描写が意味するのは、私たちを太陽の紫外線から守るオゾン層が著しく薄くなり、その結果、人々が焼かれるということではないでしょうか。

さて、人々はそのような状況にどのように反応するのでしょうか。

こうして人々は激しい炎熱で焼かれ、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名を冒瀆した。彼らが悔い改めて神に栄光を帰することはなかった。(9)

あなたはこう言うかもしれません。「でも、その裁きがもう少し続けば、最終的に人々は悔い改めるのでは?」

けれども、次に、モーセの時代のエジプトのように、全世界が闇に包まれます。また、人々は自分の腫れもののために激しい苦しみにさいなまれます。(10-11a)

それでも、彼らは、

天の神を冒瀆し、自分の行いを悔い改めようとしなかった。(11b)

「でも、彼らはきっと自分の頑固さを捨てて、悔い改めるだろう?決して悔い改めないほどの頑固な人はいないのでは?」

しかし、大河ユーフラテスの水が涸れ、東から来る王たちが集まり、神様に戦いを挑もうとします。(12)

悪霊たちが現れ、奇跡的なしるしを行って、王たちに神様に勝てるという希望を抱かせようとします。彼らはハルマゲドンに集結し、神の激しい怒りが込められた最後の鉢が空中に注がれます。

その時、稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、世界の歴史の中で最も大きな地震が起こります。

すべての国々の都市が崩れ去り、神様の激しい憤りは、御前に逆らう帝国に注がれます。島々は沈み、山々は崩れ、巨大な雹が天から人々の上に降り注ぎます。(20-21)

その結果は何でしょうか。人々は悔い改めたのでしょうか。

いいえ、悔い改めませんでした。

この雹の災害のために、人々は神を冒瀆した。その災害が非常に激しかったからである。(21)

私のポイントは何でしょうか。悔い改めなければ、人々は地獄から出られません。

しかし、私たちが今日の箇所から学んだのは、自分の心を固くし続けると、どれほど苦しみを味わっても、決して悔い改めることはないという現実です。

地獄にいる人々は、まさにそのような者たちです。

ですから、もしあなたが今なお神様に背を向けているなら、どうか今のうちに悔い改めてください。神様は、あなたが地獄に入ることを望んではおられません。

あなたがその罰を受けることがないように、神様はご自身のひとり子であるイエス様をこの世に送られました。そして十字架の上で、イエス様はあなたの罰を身代わりとして受けてくださいました。

あなたがすべきことはただ一つ。イエス様を、自分の主、そして救い主として受け入れることです。

神様は、あなたにこう語りかけておられます。

わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか。。。

彼らがその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。。。

だから立ち返って、生きよ。(エゼキエル書18:23、32)

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ヨハネの黙示録

裁きと救いに現れる神様の栄光

私は何度も言いましたが、私たちは反キリストと向き合うと信じています。

私がわからないのは、七つの鉢から神の憤りが地に注がれるとき、私たちがまだこの地にいるかどうかということです。イエス様がもう一度この世に来られるとき、その七つの鉢は、この世の人々に対する神様の最後の裁きです(黙示録16:1)。

私の意見ですが、その時には、たぶん私たちはもうこの地にいないと思います。

以前は、イエス様が再臨されると、私たちが空中でイエス様に会って、すぐにこの地に戻ると考えていました。でも黙示録14〜15章を読んでから、私の意見は変わりました。

もしかすると、神の憤りが地に注がれるまで、私たちは待ち、その後にイエス様がとうとうオリーブ山に着かれるのかもしれません(ゼカリヤ書14:4)。

14章では、御使いが雲の上に座っておられる人の子のような方に呼びかけます。その方の頭には金の冠、手には鋭い鎌があります。

その方は誰でしょうか。おそらく、それはイエス様です。

そして、御使いが大声で叫びます。

あなたの鎌を送って、刈り取ってください。刈り入れの時が来ましたから。(黙示録14:15)

イエス様はそうされますが、イエス様は何を刈り取られるのでしょうか。

おそらく、イエス様はご自身に属する人々を刈り取られるのだと思います。最後の警告はすでに宣言され、ある人々はその警告に耳を傾けましたが、他の人々はそれを無視しました。

しかし今、時が満ちたので、イエス様はご自身の民を、ご自身とともにおられるために集められるのです。だから、この地に残されたのは、イエス様を拒絶した人々だけです。

その後、もう一人の御使いが天の神殿から出てきて、彼も鋭い鎌を持っています。そして、火をつかさどる権威を持つ別の御使いが祭壇から出てきて、鋭い鎌を持つ御使いに、その鎌を地に送るよう命じます。

その「祭壇」とはどの祭壇でしょうか。おそらく、それは8章に登場する祭壇のことです。そこでは、聖徒たちによる正義のための祈りが、神様の御前に立ち上りました(8:3–4)。

どうして私はそう思うのでしょうか。なぜなら、御使いが鎌を投げて地のぶどうを刈り集め、神の憤りの大きな踏み場に投げ入れたからです。

その時代、ぶどうは踏まれ、その汁が踏み場から流れ出ました。同じように、神様を拒絶した人々は踏みつけられ、その血が約三百キロメートルにわたって流れ、その深さは一〜二メートルに達するほどでした。それは非常に恐ろしい描写です。

15章では、私たちは14章の出来事をさらに詳しく知ることができます。

ヨハネは、火が混じったガラスの海のようなものを見ます。そのそばに、イエス様に刈り入れられたクリスチャンたちが立っています。その人々は獣に打ち勝った者たちです。

聖書の時代、海は悪や混沌の象徴と見なされていました。けれども、聖徒たちはすでに試練の火を通過しています。だから、彼らはモーセと子羊の歌を歌うのです。

主よ、全能者なる神よ。あなたのみわざは偉大で、驚くべきものです。諸国の民の王よ。あなたの道は正しく真実です。

主よ、あなたを恐れず、御名をあがめない者がいるでしょうか。

あなただけが聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが明らかにされたからです。(黙示録15:3-4)

その後、神殿が開かれ、七人の御使いが七つの災害を携えて神殿から出てきます。そして、七人の御使いたちは神の憤りが満ちている七つの金の鉢を手渡されます。そして、

神殿は、神の栄光とその御力から立ち上る煙で満たされ、七人の御使いたちの七つの災害が終わるまでは、だれもその神殿に入ることができなかった。(8)

その聖句は、私の心に深く響きました。

神様の栄光が救いによって現れることは、言うまでもありません。救われた人々の賛美を通して、その栄光を仰ぐことができます。

しかし、救いだけでなく、神様の裁きを通しても、神様の栄光は現れます。なぜでしょうか。その裁きには、神様が愛だけではなく、正義の神であることが示されています。

もし神様が愛の神であるだけで、正義の神でないとしたら、果たして神様を「善い方」と言えるでしょうか。悪を決して罰しないなら、神様の善性を問われることになるでしょう。

神様は忍耐強いお方です。けれども、やがて必ず正義を実行されます。そのとき、神様の栄光と善良さがあらわになります。

ですから、神様のご性質を考えるとき、愛だけでなく正義もまた、神様のご性質であることを心に留めておきましょう。

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ヨハネの黙示録

神の裁きの重大さ

神様や天にいる者たちは、不義を見るとどう感じるのでしょうか。そして裁きが実行されるとき、彼らはどう感じるのでしょうか。

今日の箇所では、私たちはその答えを知ります。

天国では、普段、御使いたちや長老たちや聖徒たちの賛美が響いています。けれども、子羊(つまり、イエス様)が第7の封印を解くと、天国は完全に静かになりました。どうしてでしょうか。彼らは、裁きが迫っていることを知っていたからです。

もちろん、その前の封印が解かれたときも、裁きはこの世界の人々に降りかかりました。とはいえ、第7の封印が解かれてからは、裁きがだんだん激しくなっていきます。

そして、最初に、ある御使いが金の香炉を祭壇まで持ってきました。そして、御使いは、すべての聖徒たちの祈りに添えて、その香を捧げました。

聖徒たちは何のために祈っていたのでしょうか。たぶん、それは6章に記された祈りです。つまり、殉教者たちの正義のための祈りだったのでしょう。

そのとき、神様は彼らに、「もうしばらくの間、休んでいなさい」と言われました。

けれども、第7の封印が解かれると、正義の時が来ました。

7人の御使いたちが7つのラッパを与えられ、次々にそのラッパを吹き鳴らします。

ヨハネが用いた言葉はとても不思議で、比喩的なものなので、その意味を理解するのはなかなか難しいところです。

しかし、第1のラッパの後に現れた雹と火は、エジプトに降りかかった災いに似ています(出エジプト記9:23-25)。だから、たぶん、それらは文字通りの雹と火なのでしょう。ヨハネによれば、三分の一が焼かれ、木々の三分の一も焼かれ、すべての青草も焼き尽くされました。

三分の一という割合が、文字通りかどうかはわかりません。けれども、黙示録にはこの割合が何度も出てくるので、ヨハネが伝えたかったのは、そのダメージが非常に大きかったということかもしれません。

第2のラッパが吹かれた後、火で燃える大きな山のようなものが、海に投げ込まれました。もしかすると、それは火山だったのかもしれません。(西暦79年、イタリアのベスビオ山が噴火し、多くの船が壊れ、多くの魚が死にました。)

第3のラッパが吹かれた後、天から、たいまつのように燃えている大きな星が落ちて来て、川の三分の一とその水源の上に落ちました。その結果、水の三分の一が苦よもぎのようになり、多くの人が死にました。

それが文字通りの隕石なのか、別の原因で水が汚れたのかは、分かりません。でも、この災いも、エジプトに下った災いに似ています。あの時、ナイルの水は血に変わりました(出エジプト記7:20-24)。

御使いが第4のラッパを吹いた後、太陽の三分の一と、月の三分の一、また星の三分の一が打たれ、それらの三分の一は暗くなりました。昼の三分の一は光を失い、夜も同じようになりました。

以前も言ったように、たぶんこの割合は比喩的なものですが、その結果として、この世はさらに暗くなるのです。エジプトのように、昼間でも不思議に日が暮れてしまいます。

その後、物事はさらに悪くなっていきます。

鷲の言葉を借りるなら、三つの災いが来ようとしています(黙示録8:13)。

第5のラッパが吹かれると、地獄からいなごの群れが現れて、この世を荒らし始めます。この災いも、エジプトに下った災いに似ています(出エジプト記10:12-15)。

けれども、おそらくそのいなごは文字通りのいなごではなく、実際には悪霊のようです。

なぜ、私はそう考えるのでしょうか。

一つ目の理由は、そのいなごの王の名前がアバドン、またはアポリュオンであることです。どちらも、「破壊者」という意味を持っています。

二つ目の理由は、そのいなごが植物を荒らすことなく、人を襲って苦しめるという点です。

三つ目の理由は、そのいなごが神様に封印されていない人だけを襲うということです(黙示録7章)。

その後、第6のラッパが吹かれると、7章に登場した四人の御使いたちが、この世を荒らす許しを受けます。7章では、神様が彼らに、「待ちなさい。まず、私の民の額に印を押さなくてはなりません」と言われました。

しかし、8章では、聖徒たちの額にはすでに印が押されているので、天使たちはこの世を荒らし始めます。

おそらく、この第6のラッパは戦争を描写しているのでしょう。6章では、世界の人口の4分の一が殺されましたが、8章では、その数は人口の三分の一に増えます。

それでも不思議なのは、この深刻な六つの災いが起きても、人々が悔い改めることを拒み、むしろ罪を続けることです。

時々、ある人は疑問に思います。「どうして地獄は永遠なのか。地獄でも、悔い改めたいと思う人がいるのではないか」と。

けれども、今日の箇所と16章の証言は、はっきりと「それは誤った考え方です」と教えています。

地獄にいる人々がどれほど苦しんでも、悔い改めず、神様を呪い、自分の罪深い態度を持ち続けます。

だからこそ、七つの封印が解かれたとき、天にいる者たちは沈黙しました。

神様は人を裁くことを喜ばれるわけではありません。それでも、神様は正義の神です。ですから、神様は聖徒たちの叫びに応えられることを永遠に延ばすことはなさいません。神様は彼らの祈りを聞いて、裁きをもたらされます。

ですから、心に留めておきましょう。あなたがクリスチャンとして「正義はいつ来るのか」と疑問に思うなら、神様はあなたの叫びを聞いておられます。そして、正義は必ず来ます。

しかし、もう一つ覚えておくべきことがあります。神様の裁きを軽んじてはいけません。天にいる者たちは決して軽んじません。ですから、私たちも神様の裁きを軽んじてはいけません。

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ヨハネの黙示録

終わりの始まり

今日の記事から、私たちは聖書の深みに入っていきます。

この箇所に関する解説は数多く存在し、聖書学者たちは様々な見解を持って、しばしば議論を重ねています。ですので、まずは私の考えを述べますが、将来的にはその見解が変わる可能性もあります。

黙示録には、三種類の裁きが登場します。それらは、七つの封印、七つのラッパ、そして七つの金の鉢です。

ある学者によれば、これら三つの裁きは同時に起こるとされています。一方で、他の学者によれば、裁きは順番に展開するというのです。

どの説を信じるかに関わらず、明らかなのは、イエス様が来られるまで、この世の状態が徐々に悪化していくということです。

私の見解としては、これらの裁きは基本的には順番に進行しますが、ある部分では重なって起こることもあるかもしれません。

だから、七つの封印という裁きは、多分最後の裁きではないと思います。イエス様の言葉を借りれば、その七つの封印は、「産みの苦しみの始まり」だけです。(マタイ24:8)

実は、私たちはすでに、これらの裁きの始まりを目撃しているのではないかと思います。

イエス様は第一の封印を解かれ、白い馬が出てきます。その乗り手は、自らの敵に打ち勝とうとします(黙示録6:2)。

この白い馬とその乗り手は、おそらく十二弟子に語られたイエス様の言葉に関係があると思われます。すなわち──

「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり。。。」(マタイ24章7節)

こういった報道を、私たちは日々のニュースで頻繁に耳にします。

続いて、イエス様は第二の封印を解かれます。すると、火のように赤い馬が現れます。ヨハネによれば、その乗り手には地上から平和を奪うことが許され、人々が互いに殺し合うようになるのです(黙示録6:4)。

要するに、戦争の影響だけでなく、殺人も増えていきます。もちろん、歴史の中には多くの殺人事件が存在してきましたが、赤い馬が現れると、殺人は横行するようになるのです。

最近のニュースでも、そうした事例を頻繁に耳にすることでしょう。テロもあれば、集団殺人の報道も後を絶ちません。

さて、イエス様が第三の封印を解かれると、黒い馬が出てきます。その乗り手は量りを手に持っていました。そして、こう語りました。

小麦一コイニクスが一デナリ。大麦三コイニクスが一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。(黙示録6:6)

それは飢饉の状態であり、わずかな食料にも多額の金が必要となります。とはいえ、飢饉があっても、オリーブ油やぶどう酒はなお豊かに残されています。つまり、状況は厳しいものの、まだ最悪の事態には至っていないということです。

イエス様の言葉によれば、飢饉は確かに起こりますが、それは「産みの苦しみの始まり」にすぎません(マタイ24章7~8節)。

そして、イエス様が第四の封印を解かれると、青ざめた馬が出てきます。その乗り手の名は「死」です。それには戦争、殺人、飢饉が含まれますが、さらに二つの要素も加わります。それは疫病と、野の獣による人への暴力です。

次回の記事では第五の封印について触れますが、ここでは第六の封印に先に進みましょう。ヨハネはこのように記しています。

子羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。

太陽は毛織りの粗布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。

それは、いちじくが大風に揺さぶられて、青い実を落とすようであった。

天は、巻物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山と島は、かつてあった場所から移された。(黙示録6:12-14)

それは文字通りに起こるのでしょうか。私には分かりません。

大きな地震はおそらく文字通りに起こるでしょう。一方、その他の描写は比喩的である可能性があります。それらの言葉は、地震の後に人々が抱く恐れを象徴しているのかもしれません。地震によって、この世全体が混乱に陥るからです。

日本では、1995年と2011年に、私たちは大震災を経験しました。それゆえ、これらの地震を経験した人が13~14節を読むと、「はい、まさにそのように感じました」と言うかもしれません。

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

神学者のD・A・カーソンは次のように述べています。

私たちには、この世にある様々な問題が見えます。戦争、殺人、飢饉、地震、疫病。それらの原因を尋ねられると、私たちは科学的な説明や社会学的な分析を挙げることができます。

あるいは、「神様がそのような事態が起こることを許されたのです」と答えることも可能です。

どちらの答えもある種の真理を含んでいますが、より根本的なのはどちらでしょうか。

私たちが心に留めるべき真理は、この世の罪のゆえに、神の裁きが近づいているということです。私たちの目に映る世の問題――戦争、飢饉、疫病、地震、殺人――は、最終的な裁きの前触れに過ぎません。神様はそれらすべてを許しておられます。

なぜでしょうか。神様は、ただ人々を裁くことを喜んでおられるのでしょうか。

そうではありません。神様は、こうした問題を通して、人々がご自身のもとに逃げ込むことを望んでおられるのです。

もしこの世に何の問題もなければ、イエス様に向かう人はきっと少ないでしょう。なぜなら、自分にはイエス様が必要だと気づかないからです。けれども、神様の裁きによって、ある人々は自らの罪を見つめ、自分に救いが必要だと悟り、悔い改めるのです。

だからこそ、私たち自身に問うべき問いはこうです。「裁きを目にしたとき、私はどのように反応するのか。」

私たちは、その裁きに対する恐怖によって、ただ震えるだけでしょうか(黙示録6:15~16)。

もしかすると、私たちは神様を呪うことになるのでしょうか(黙示録16:9)。

それとも、悔い改めへと導かれるのでしょうか。

裁きはすでに迫っています。あなたは、準備ができているでしょうか。

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ヨハネの黙示録

私たちの責任を問われる方

裁きの日。

その日は、私たちすべてに迫っています。けれども、信者たちが最初に裁きを受けるのです。3章の終わりで、私たちはこの真理を学びます。

この幻の中で、ヨハネは自分を呼ぶ声を聞きました。その声の主に向いたとき、ヨハネはイエス様を見ました。イエス様は七つの金の燭台の間を歩き、七つの星を持っておられました。

ところが、イエス様のお姿は以前とはまったく違って見えました。なぜなら、ヨハネはイエス様のすべての栄光を目にしたからです。

この幻において、イエス様の容姿がどこまで文字通りに描かれているのか、それとも比喩的な表現なのか、私には断言できません。

それでも、ヨハネが伝えようとしている要点は明確です。私たちは裁かれ、イエス様は私たちの責任を問われるのです。なぜなら、私たちは神様の教会、神の民だからです。

黙示録には、数多くの象徴が登場します。ヨハネはある象徴については明確に説明しますが、他のものについては一切解釈を加えていません。けれども、この箇所では、七つの金の燭台と七つの星の意味がはっきりと解き明かされています。

七つの金の燭台は、ヨハネがメッセージを伝えるべき七つの教会を表しています。そして、七つの星は、それぞれの教会に関係する「み使いたち」を指しています。

聖書学者たちは「み使い」の意味を巡って議論を続けています。というのも、この語にはさまざまなニュアンスがあるからです。一つは、「使者」という意味。そしてもう一つは、霊的な存在としての「天使」という意味です。

私自身の考えですが、おそらくこの「み使いたち」は天使たちだと思います。天使たちは、教会に対して何らかの役割を担っているように見えますし、もしかするとそれぞれの教会に対して、特定の天使が責任を持っているのかもしれません(第一コリント11章10節)。

ともあれ、この幻の中で、イエス様は七つの教会の間を歩まれています。そして2章・3章によると、イエス様はその教会をよく見て、調べておられます。それぞれの教会には担当する天使がいますが、その天使たちもまた、イエス様の御手の中にあるのです。

イエス様の様子に関するヨハネの描写から、私たちは自分の裁き主について多くのことを学ぶことができます。

第一の象徴は、イエス様が賢明な方であるということです。イエス様の白い髪は、その賢明さを象徴しています。イエス様は弱々しいお祖父さんではなく、むしろ、真に賢明な方なのです。そして、その賢明さによって、人々を裁かれます。

第二の象徴は、イエス様の燃える炎のような目です。それは、イエス様がすべてを見抜かれることを意味します(2章23節)。

その御目によって、真理を隠すものは焼かれ、隠されたものは現れてきます。

第三の象徴は、イエス様の真鍮のような御足です。その御足はすべてを踏みしめます。つまり、イエス様は人を裁かれるのです。そして、悔い改めを拒む者にとって、その裁きは非常に厳しいものとなります(2:21〜23)。

そして、イエス様の御声は、大水の轟きのようです。つまり、イエス様は全能の主の力と権威によって語られるのです(エゼキエル記1:24)。

また、イエス様の御口からは、鋭い両刃の剣が出ています。なぜその剣には両刃があるのでしょうか。なぜなら、イエス様の裁きの言葉は、ただ人々を裁くだけではなく、私たちを癒してくださるからです。その言葉は罪人を断ち切りますが、傷ついた者を癒します。

2~3章で、私たちはその両刃の剣を目にします。

最後に、イエス様の御顔において、私たちは神様の栄光と聖さを見るのです。

ヨハネはイエス様を見たとき、恐れて、御足もとに倒れ込みました。すべての知恵と知識を持つ全能の神を目にしたなら、私たちも同じように倒れ込むことでしょう。

しかし、イエス様はヨハネを励まされました。そして、私たちのことも励ましてくださるのです。

恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。(ヨハネの黙示録1:17-18)

どうしてヨハネには恐れる必要がなかったのでしょうか。 なぜなら、十字架において、イエス様は私たちの罪の代価を支払われたからです。 そして、イエス様の復活によって、天の父はイエス様の贖いを受け入れられたことを証明されたのです。 それゆえ、私たちは死から解放され、イエス様にあって永遠の命を持つのです。

ゆえに、裁きの日に、何が私たちを神様の愛から引き離すことができるでしょうか。 何もありません。

それでも、私たちは裁かれるのです。 イエス様は七つの金の燭台の間を歩かれておられます。 そして、イエス様はその教会の中にある一人一人を調べておられます。

これから数日にわたって、七つの教会への手紙を噛み締めましょう。 イエス様の言葉があなたを切り、癒すことを許しましょう。 悔い改めなくてはならないなら、すぐにそうするのが良いでしょう。 しかし、今あなたが傷ついているなら、その言葉の癒しを受けましょう。 そして、ヨハネの言葉を心に留めましょう。

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。

神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。こうして、愛が私たちにあって全うされました。

ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:16-19)

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ペテロの手紙第二

神様の忍耐

以前の記事で、私は、神様がこの世の悪や不正義に対して何もしないという人々の文句について話しました。

しかし、私が指摘したのは、最終的に正義が行われ、その真理が確かなものであるということです。イエス様を信じる人にとって、それは希望です。けれども、イエス様を拒絶する人にとって、それは恐れです。

とはいえ、ある人々は裁きの日について考えるとき、希望も持たず、同時に恐れも感じていません。ペテロはそのような人々について次のように言います。

まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」(ペテロの手紙第二3:3-4)

今なお、そのような人々がいます。実際、イエス様が2000年以上も来ていないため、不信者たちのあざ笑いはさらに増えていることでしょう。しかし、ペテロは次のように言います。

こう主張する彼らは、次のことを見落としています。天は大昔からあり、地は神のことばによって、水から出て、水を通して成ったのであり、そのみことばのゆえに、当時の世界は水におおわれて滅びました。

しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。(5-7) 

その人々によれば、神様はこの世のことに決して介入しないので、この世には何も変わらないと言います。けれども、その考え方は間違っています。

この世を造られたとき、神様の力によって、大陸は海から現れ、生き物を支える大気が造られました。

そして、悪がこの世に横行した時、神様は再び介入され、大洪水によってノアとその家族以外のこの世の人々を滅ぼされました。

だから、ペテロは私たちに警告します。「神様はもう一度、介入されます。けれども、今度の裁きは火による裁きです。」

ペテロは次のように言います。

しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。(10)

また、

そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。(12)

私たちがペテロの言葉を文字通りに解釈した方が良いかどうかは分かりません。けえども、明らかなのは、私たちが知っているこの世は終わりを迎えるということです。

もしかすると、神様はこの世を完全に新しくされるのかもしれません。または、神様がすべてを滅ぼし、全く新しいものを造られるのかもしれません。

いずれにしても、ペテロは次のように言います。

しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。(13) 

では、どうしてクリスチャンたちはこれほど長く待たなければならないのでしょうか。なぜ神様は、今この世を滅ぼし、すべてを新しくされないのでしょうか。

ペテロはその答えを示しています。

しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。

主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(8-9)

また、

私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。(15)

基本的に、ペテロが言っているのは、神様の忍耐によって、人々に悔い改める時間が与えられているということです。けれども、その忍耐はまるで両刃の剣のようなものです。

もちろん、その忍耐によって、人々は神様を信じるための時間を与えられています。そのため、裁きの日が来る前に、多くの人々が救われます。

けれども、その一方で、人々の責任は増していきます。そのため、不信者たちは裁かれる時、言い訳をすることはできません。

だからこそ、私たち全員が自分自身に問いかけなければなりません。「神様がこの悔い改めの時間を与えてくださっている中で、私はどうするのだろうか?」

あなたはどうするのでしょうか。

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ペテロの手紙第二

必ず来る滅び

時々私たちは、どうして神様がこの世にこれほど多くの悪を許されるのか疑問に思うことがあります。また、どうして神様が今、悪人たちを裁かれないのか疑問に思うこともあります。

ペテロは偽教師の運命について話す中で、その疑問に答えます。彼は次のように言いました。

彼らは貪欲で、うまくこしらえた話であなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは昔から怠りなく行われていて、彼らの滅びが遅くなることはありません。(ペテロの手紙第二2:3)

簡単に言うと、神様が悪に対して何もしないように見えたり、私たちが正義が決して行われないと感じたりしても、裁きは必ず来るのです。彼らの裁きが迫っており、彼らの滅びは確実です。

そして、ペテロは三つの例を挙げます。

最初の例は、ある天使たちが罪を犯したときに、神様が彼らを地獄に投げ入れられたことです。

それは案外めずらしい裁きです。多くの人々が考えることとは違い、地獄にいる悪霊はごく少数なのです。

実は、彼ら自身も地獄に行きたくはありません。そこで神様は、とりあえず彼らがこの世にとどまることを許されました。 そのため、今もなお彼らはこの世に多くの問題をもたらしているのです。

しかしどうやら、神様がある悪霊たちを地獄に投げ入れられるほどに、彼らの罪が深刻だったようです。そこで、彼らは最終的な裁きを待っています。(私はユダの手紙について話すとき、この話をもっと詳しく説明します。)

二つ目の例はノアの話です。ノアの時代には、「地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾いていました。」(創世記6:5)

箱舟を作っている間に、ノアは、人々に悔い改めるように促しました。けれども、彼らは悔い改めませんでした。

ノアがその箱舟を作っている間、神様は彼らを裁かれませんでした。 ところが、ある日、大洪水が降りかかり、彼らは滅びました。 一方で、ノアとその家族は救われました。

三つ目の例はソドムとゴモラの話です。彼らは本当に罪深い人々で、自分たちの罪に耽っていました。そのため、ロトは二人の見知らぬ人々を見て、彼らの安否を心配しました。つまり、ロトは、彼らが暴行されることを心配していたのです。

残念ながら、ロトの隣人たちはそうしようとしました。それゆえ、神様はソドムとゴモラを裁き、滅ぼされました。けれども、神様はロトを救われました。

ペテロはこれら三つの話をまとめて、次のように言いました。

主はこのようにされたのですから、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、正しくない者たちを処罰し、さばきの日まで閉じ込めておくことを、心得ておられるのです。(9)

以前の記事で私は言いましたが、ギリシャ語では「誘惑」と「試練」は同じ言葉です。そのため、ある英訳では、「敬虔な者たちを試練から救い出し」と書かれています。

とにかく、神様は私たちを試練から救い出されると書かれていますが、私たちが決して試練に直面しないというわけではありません。私たちも苦しい時に直面します。

それでも、神様は私たちと共におられ、私たちを救い出されます。そして最終的に、私たちは神様と共に天国にいるのです。

一方で、神様は悪人たちを裁かれます。その悪い天使たちのように、その者たちは暗闇の縄目につながれ、裁きの日まで閉じ込められています。今なお、彼らは罰を受けています。

地獄と永遠の罰という概念を好む人は誰もいないと思います。私も好きではありません。それでも、それは現実です。

最終的な裁きは、キリストがこの世を千年間統治した後まで起こりません。けれども、その裁きまで、神様から離れて死んだ人たちは罰を受けています。

そして、裁きの日に彼らは火の池に投げ込まれます。(黙示録20:15)

悲しいことですが、サタンのように、彼らは昼も夜も、永遠に苦しみを受けます。(黙示録20:10)

それは切ない話ですが、それは真実です。また、それは正義です。

正義は必ず行われます。それは裁きの希望であり、同時に裁きの恐れでもあります。

イエス様を拒絶する者に対して、裁きは恐ろしいことです。

しかし、イエス様はご自身を信じる者たちに、こう言われます。

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。(ヨハネ5:24)

あなたは裁きの日について考えると、恐れるのでしょうか。それとも、希望を持っているのでしょうか。

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ヤコブの手紙

真の信仰がどのように表現されるか(7)

ヤコブは、人々の心がこの世への愛によって汚される様子を語った後、「舌」の話に戻ります。特に、心がどのように舌を汚すかについて述べています。

ヤコブによれば、この手紙の読み手は、人を殺したり、争ったり、戦ったりしていました。おそらく、彼らは実際に人を殺したわけではないでしょう。けれども、心の中では相手を殺していたのです。(マタイ5:21-22)

では、人々はなぜ殺人を犯すのでしょうか。それは、彼らが自分の心の中で相手を侮っているからです。彼らは相手を神様の似姿として造られた存在として見ていません。

このため、イエス様はこう言われました。

昔の人々に対して、「殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。

兄弟に「ばか者」と言う者は最高法院でさばかれます。「愚か者」と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5:21-22)

イエス様によれば、心の中で怒りを抱き、人を侮ることは、殺人と似たものです。

ヤコブも同じ考えを持っていたようです。ある人々は、自分より多くのものを持つ者をねたみ、侮るほどまでにこの世を愛していました。その結果、彼らは相手をそしり、裁くようになってしまったのです。

だから、ヤコブはこう言います。

兄弟たち、互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟について悪口を言ったり、さばいたりする者は、律法について悪口を言い、律法をさばいているのです。

もしあなたが律法をさばくなら、律法を行う者ではなく、さばく者です。(11)

「人を裁いてはいけない」と聞くと、私たちはよく「人をその罪のゆえに裁いてはいけない」と考えます。

しかし、ヤコブは単にそのような裁きのことを語っているのではないかもしれません。むしろ、「あなたはばか者だ」「あなたはろくでなしだ」といった判断について話している可能性があります。

例えば、2章でヤコブは、ある人々が金持ちを敬う一方で、貧しい人々を侮っていたことを指摘しました。

だから、ヤコブは彼らにこう言いました。「そのような態度で人を裁いてはいけません。相手が神様の似姿として造られた存在であることを認めなさい。

神様の律法によれば、あなたは自分自身を愛するように、隣人を愛さなくてはなりません。神様の律法は、相手をそしったり、侮ったりすることを禁じています。

そのようなことをすれば、あなたは実際に神様の律法を裁いていることになります。つまり、律法に従うのではなく、それを軽視し、その価値を否定しているのです。」

そして、ヤコブは私たちに警告します。

律法を定め、さばきを行う方はただひとりで、救うことも滅ぼすこともできる方です。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。(12)

つまり、「裁きを行うのはあなたではなく、イエス様です。だからこそ、高ぶる態度を捨て、主の前でへりくだらなければなりません。偉そうな態度を取ってはいけません。なぜなら、あなたは本当に偉いわけではないからです。」ということです。

あなたはどうでしょうか。人を扱うとき、あなたの信仰はどのように表現されているでしょうか。あなたは相手を裁き、「ろくでなし」や「ばか者」と呼ぶでしょうか。それとも、彼らを呪うでしょうか。

あるいは、あなたの信仰は、神様があなたに与えてくださった愛や憐れみ、そして恵みを通して表現されているでしょうか。

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ヘブル人への手紙

神様に背を向けるとき

すべてのコインには二つの面があります。神様の救いの賜物も同じです。

神様の永遠の命の賜物を受けるなら、私たちは神の子とされ、神の相続人となり、永遠の遺産をいただくことになります。

その一方で、その賜物を拒むなら、私たちは裁かれます。

その遺産は実に素晴らしいものです。そして、イエス様が私たちを愛し、十字架でその代価を払ってくださったことを覚えるなら、どうして人々はその賜物を拒むのでしょうか。

けれども、多くの人々はそうしてしまいます。彼らは永遠のものを、一時的なものと取り替えるのです。彼らは神様のために生きるのではなく、自分自身のために生きます。

しかし、その結果、彼らは神様だけではなく、周りの人々を、そして自分自身までも傷つけてしまいます。そのため、彼らが死ぬとき、裁きに直面することになるのです。

私たちは生きている間に、悔い改める時間が与えられています。けれども、死ぬならば、もう悔い改める時間はなくなり、永遠の遺産を受ける可能性も消えてしまいます。

エサウのように、多くの人々は涙ながらにその遺産を求めますが、その時にはもう遅いのです。

この手紙は、9章27節でこう語っています。

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが決まっている。。。(へブル人への手紙9:27)

だから、この箇所において、手紙の著者は私たちに警告を与えています。

あなたがたは、語っておられる方を拒まないように気をつけなさい。

地上において、警告を与える方を拒んだ彼らが処罰を免れなかったとすれば、まして、天から警告を与える方に私たちが背を向けるなら、なおのこと処罰を免れられません。。。

私たちの神は焼き尽くす火なのです。(25-29)

神様が「焼き尽くす火」と例えられるのはなぜでしょうか。それは、焼き尽くす火が神様の聖さと裁きを描写しているからです。

神様がシナイでモーセに律法を与えたとき、私たちはその描写を目にします。また、神様がアロンの息子たちを裁かれたとき、あるいはイスラエルの敵に対して怒りを示されたときにも、同様の描写が現れます。

そして、この箇所にも、神様の聖なる火の描写を見ることができます。

もし神様を拒み、その命の賜物を退けるなら、残るのは裁きしかありません。

それは誰も聞きたくないことです。多くの人は神様の愛だけを聞きたいと思うのです。

しかし、神様は反逆と罪を裁かなくてはなりません。イエス様にあなたの罪の代価を払っていただかない限り、あなた自身がその代価を払わなければなりません。ほかに選びはありません。

あなたはどうするでしょうか。

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ヘブル人への手紙

キリストを拒むなら

「あなたはキリストに関してどうするでしょうか。」

これは、誰もが最終的に向き合わなければならない問いです。

イエス様に信頼することを選ぶ人は、この世において真のいのちを見出し、永遠のいのちを受け取ります。

しかし、イエス様のことばを聞いて拒む人にとっては、将来に希望が全くありません。

それこそが、この手紙の著者が語っている厳粛な警告です。彼はこう言います。

もし私たちが、真理の知識を受けた後、進んで罪にとどまり続けるなら、もはや罪のきよめのためにはいけにえは残されておらず、ただ、さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を、恐れながら待つしかありません。

モーセの律法を拒否する者は、二人または三人の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死ぬことになります。

まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものと見なし、恵みの御霊を侮る者は、いかに重い処罰に値するかが分かるでしょう。(へブル人への手紙10:26-29)

著者の要点は何でしょうか。

もし、私たちがイエス様の十字架のいけにえをあえて拒むなら、もはや救いの望みは残されていません。なぜなら、ほかに救いの道はないからです。神様は、ほかの生贄や捧げ物を受け入れず、私たちの献金や良い行いも受け入れられません。

この手紙の著者によれば、天使を通して与えられたモーセの律法を拒んだ者は、二人または三人の証人の証言によって死刑にされました。

それならなおさら、イエス様がご自身の血によって私たちの救いを買い取り、それを差し出してくださったにもかかわらず、私たちがその救いを拒むなら、どれほど重い罰に値するでしょうか。

そのような者は、尊い血をくだらないもののように扱い、イエス様を踏みつけ、聖霊様を侮辱するのです。

その結果は?

私たちは、「復讐はわたしのもの、わたしが報復する。」

また、「主は御民をさばかれる」と言われる方を知っています。

生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。(30-31)

言い換えれば、私たちは裁きを受けます。イエス様が私たちの罪の代価を支払ってくださることを拒むなら、その代価を自分で支払わなければならず、私たちは永遠に地獄にとどまることになります。

あなたはどうするでしょうか。イエス様を受け入れますか。イエスの血によって支払われた恵みの賜物を受け取りますか。

それとも、その賜物に唾を吐き、反抗的な道を歩み続けますか。

あなたは、神様の怒りを受けることも、神様の恵みを受けることもできます。あなたはどちらを選びますか。

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ヘブル人への手紙

なぜ福音を無視してはならないのか

へブル人への手紙の主なテーマの一つは、イエス様の偉大さです。

第1〜2章では、イエス様が預言者たちや天使たちよりも優れたお方であることが示されています。第3章では、モーセよりも、そして第4章では、ヨシュアよりも優れておられることが語られています。

けれども、イエス様の偉大さを考えるとき、私たちは、非常に大切な真理を覚えておく必要があります。

それは、かつて天使たちや預言者たちが神様の言葉を語ったとき、人々がそのことばに対して責任を問われた、ということです。

もしイエス様が、天使たちや預言者たちよりも優れたお方であるなら、私たちはなおさら、イエス様のことばに従うべきなのです。

だから、この手紙の著者は、こう語っています。

こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。

御使いたちを通して語られたみことばに効力があり、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのなら、こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。

この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。

そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。(ヘブル人への手紙2:1-4)

この手紙の著者は、「語られたみことば」として、モーセを通して与えられた律法に言及しているようです(申命記33章2節、使徒の働き7章53節、ガラテヤ人への手紙3章19節)。

その律法に従わなければ、人々は裁かれました。けれども、その律法を語ったのはイエス様ではなく、天使たちでした。

ところが今や、イエス様ご自身が、ご自分の口から福音を語られました。それだけでなく、イエス様は使徒たちを通してその福音を宣べ伝えられました。

そして神様は、しるしと不思議、さまざまな力あるわざによって、そのメッセージが真実であることをあかしされました。

さらに聖霊様も、御心にしたがってクリスチャンに賜物を与え、その福音が神からのものであることをあかしされました。

天使ではなく、父なる神、御子なる神、聖霊なる神ご自身が福音をあかししておられるとするならば、私たちがその福音に対して責任を問われることは、なおさらのことです。

もし三位一体の神ご自身がこの福音をあかしされたのなら、私たちがそれを無視するならば、必ず裁きを免れることはできません。

そして、この手紙の著者は、イエス様をモーセと比較します。モーセは偉大な指導者であり、神様は彼を通してイスラエルの民をエジプトから救い出し、律法を与えられました。

それにもかかわらず、著者はこう語っています。

家よりも、家を建てる人が大いなる栄誉を持つのと同じように、イエスはモーセよりも大いなる栄光を受けるにふさわしいとされました。

家はそれぞれだれかが建てるのですが、すべてのものを造られたのは神です。モーセは、後に語られることを証しするために、神の家全体の中でしもべとして忠実でした。

しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなのです。(3:3-6)

著者によれば、モーセは忠実なしもべでしたが、あくまでもしもべに過ぎませんでした。それでも、イスラエルの民はモーセを通して与えられた律法に従わなくてはなりませんでした。

ましてや、イエス様が神の御子であり、神の家を建てられたお方であるならば、私たちがイエス様に従うべきことは、なおさら明らかです。

ですから、私たちはイエス様が告げられた救いの福音を無視してはなりません。私たちは別の裁判所に訴えることなどできないのです。イエス様こそ、最終的な裁きを下される裁判官です。

だから、著者はこう語っているのです。

ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。(3:1)

あなたはどうでしょうか。あなたは福音を軽く扱おうとしているのではありませんか。そのメッセージを無視しようとしてはいませんか。

そのメッセージがあなたに気に入るかどうかにかかわらず、あなたは福音によって裁かれるのです。

だから、まだ時が与えられている今、福音を信じ、受け入れてください。そうすれば、あなたはいのちを知ることになります。

しかし、福音を拒むなら、あなたは裁かれ、永遠の死に至るのです。

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コリント人への手紙第二

イエス様がこの世に戻られるとき

この箇所で、パウロはコリントの人々に警告するだけでなく、私たちすべてにも警告を与えています。

パウロはこう言いました。

私があなたがたのところに行くのは、これで三度目です。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことは立証されなければなりません。

以前に罪を犯した人たちとほかの人たち全員に、私は二度目の滞在のとき、前もって言っておきましたが、こうして離れている今も、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦しません。

こう言うのは、キリストが私によって語っておられるという証拠を、あなたがたが求めているからです。

キリストはあなたがたに対して弱い方ではなく、あなたがたの間にあって力ある方です。キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。

私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。(コリント人への手紙第二13:1-4)

以前、コリントに行ったとき、パウロは自らの権威を振るうことなく、コリントの人々の罪深い態度を悲しみました。しかし、彼が彼らのために自らの人生を犠牲にしたにもかかわらず、コリントの人々はパウロを拒絶しました。

それでも、パウロは彼らに警告しました。「私は弱い者として来るのではありません。むしろ、私は神様の力を持ち、神様から受けた権威をもって、あなたたちを裁きます。」

そして、パウロはこう言いました。

以前に罪を犯した人たちとほかの人たち全員に、私は二度目の滞在のとき、前もって言っておきましたが、こうして離れている今も、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦しません。(2)

イエス様は、同じようなことを私たちに語られます。

イエス様は、以前この世に来られたとき、ある意味で弱い方として来られました。貧しい大工として、また巡回説教者として歩まれました。イエス様は、勝利する王としてではなく、十字架につけられた救い主として来られました。

しかし、神様の力によって、イエス様はよみがえられました。

そして、ある日、イエス様は再びこの世に戻られます。そのとき、イエス様は弱い方としてではなく、力を持つ方として戻られます。さらに、イエス様を拒絶する人を、もはや赦されません。むしろ、イエス様は彼らを裁かれます。

多くの人々は、イエス様を私たちを愛しておられる神の御子と見なします。そして、その愛を示すために、イエス様がすべてを犠牲にされたことに思いを巡らせます。もちろん、それは真実です。

しかし、多くの人々は、大切なことを忘れがちです。それは、イエス様がこの世に戻られるとき、すべての人々を裁かれるということです。イエス様は、ご自身を拒む者に対して、もはや憐れみを示されません。

その日、イエス様はすべての人々に明らかにされます。ただ神の羊としてだけでなく、ユダの獅子として、そして永遠にこの世を治める王として認められます。そして、イエス様の正当な統治に逆らう者は、イエス様の怒りを知ることになるのです。(ルカ19:11-27)

だからこそ、私たちは自らに問いかけるべきです。私たちはイエス様の権威に従うでしょうか。それとも、イエス様に逆らい続けるでしょうか。 神様は忍耐深いお方です。しかし、その忍耐は永遠に続くものではありません。

だから、決して神様の忍耐を試してはなりません。むしろ、今のうちに、私たちができる限り神様の恵みと憐れみを受け入れましょう。

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ローマ人への手紙

兄弟たちと姉妹たちを裁く?

教会における大きな問題の一つは、兄弟姉妹が互いに裁き合うことです。

ただし、誤解しないでください。私は明確に善悪が分かれる問題について話しているのではありません。

クリスチャンが意図的に罪を犯すとき、パウロはためらわずにその行為を裁きました。コリント人への手紙 第一 5章では、その具体的な例が示されています。

けれども、ある問題については、聖書の著者たちが何も言及していない場合があります。また、彼らが判断を個々のクリスチャンに委ねることもあります。

今日の箇所では、パウロはそうした個々のクリスチャンに委ねられる問題の一つについて語っています。

パウロの時代、クリスチャンたちは肉を食べることについて議論していました。なぜなら、ローマ帝国において、多くの肉が市場で売られる前に、偶像に捧げられていたからです。

他のクリスチャンたちは宗教的な祝日について議論しました。特に、ユダヤ人ではないクリスチャンたちがユダヤ教の祝日を祝うべきかどうかを議論しました。また、異邦人のクリスチャンたちが安息日を祝うべきかどうかについても議論がありました。

パウロにとって、その議論は白黒をつけるものではありませんでした。そのため、パウロは彼らに対し、そのようなことについて裁いてはならないと語りました。(1)

パウロによれば、彼らはそのことについて自分の良心に従うべきでした。

したがって、ユダヤ人たちがユダヤ教の祝日や安息日を祝うべきだと考えるならば、そうすべきです。なぜなら、彼らにとって急にその祝日や安息日を祝うのをやめることは、神様を侮る行為に等しいからです。

一方で、異邦人たちはユダヤ教の祝日は自分たちとは関係がないと考えました。

この議論について、パウロはユダヤ人のクリスチャンたちも異邦人のクリスチャンたちも責めることはありませんでした。むしろ、パウロはこう語りました。

ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。

特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。

食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(ローマ人への手紙14:5-6)

つまり、あなたの信仰によってユダヤ教の祝日が大切だと思うなら、それを祝うべきです。神様はあなたの心を見て、喜ばれるでしょう。けれども、もしあなたがすべての日を同じように考えるなら、それでも問題ありません。

偶像に捧げられた肉について心配する人々に、パウロはこう語りました。

私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。(14)

つまり、「私の考えでは、偶像に捧げられた肉を食べても問題ありません。けれども、もしあなたがそのことを本当に気にするなら、食べないほうがよいでしょう。」

さらに、パウロは次のようにも語っています。

食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。

他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。(3-4)

また、

自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。次のように書かれています。

「わたしは生きている──主のことば──。

すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、すべての舌は、神に告白する。」

ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。

こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。

いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。(10-13)

私は、パウロの言葉に何かを付け加える必要はないと思います。彼の言葉だけで十分に明確だからです。

パウロの要点は、神様こそが私たちの主であるということです。そして、私たちすべてが神様の裁きの座の前に立つことになります。

だから、白黒はっきりしない問題について、私たちは互いに裁き合うべきではありません。その裁きを神様に委ねることが求められています。

私は十代の頃、ほかのクリスチャンの高校生たちとともに働き、バイブル・クラブで子供たちに教えました。その前には合宿があり、どのようにクラブを運営するかについて学びました。

休憩時間、ある人はトランプをしていました。当然ながら、彼らはギャンブルをしていたわけではありません。

けれども、一人の人はそのことをとても気にしました。なぜなら、彼女のご両親は「トランプをすることは良くない」と教えていたからです。

ほかのクリスチャンたちはそれを聞くと、「そんなの馬鹿げている。律法主義的な考え方だ」と言いました。

しかし、もう一人のクリスチャンはこう答えました。 「いや、私たちは彼女の良心を重んじるべきです。」

そのため、私たちは合宿の間、トランプをやめることにしました。

私たちは彼女を裁くことなく、彼女もまた自分の意見を述べましたが、私たちを裁くことはありませんでした。こうして、私たちは平和を保ち、神様のために素晴らしい伝道の働きをすることができました。

これこそが、パウロのポイントです。私たちは常に完全に同意できるわけではありません。だから、白黒はっきりしない問題については、互いに受け入れ合うべきです。

そうすれば、キリストのために、この世に大きな影響を与えることができるのです。

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ローマ人への手紙

私たちよりも優れた神

神様と議論する機会があれば、神様を言い負かすことができると思う人がいます。けれども、それは非常に愚かな考えです。

それでも、多くの無神論者はこう言います。

「もし神様が実在するなら、私は神様に対して、自分が神様の存在を信じなかった理由を説明できる。だから、神様を言い負かすことができるはずだ。」

けれども、この箇所でパウロは、そのような考えの虚しさを示しています。

ローマ書10~11章では、パウロは、神様がどのようにユダヤ人の不従順を用いて異邦人を救われたかを説明します。そして、異邦人の救いがどのようにユダヤ人の救いへとつながるのかを解説します。

パウロは、神様の計画を次のようにまとめます。

あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。

それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。

神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。(ローマ人への手紙11:30-32)

この話を通して、私たちは神様の予知と予定説の関係を見ることができます。

神様は、ユダヤ人がイエス様をどのように扱うかをあらかじめ知っておられ、異邦人を救う計画を立てられました。とはいえ、神様は異邦人の救いによってユダヤ人が神様との関係を切望することも知っておられました。

そのため、神様は異邦人を救う計画を通して、あるユダヤ人がイエス様を受け入れ、救われることをも確かに知っておられました。

簡単に言うと、この宇宙のチェスボードにおいて、神様はどのようにご自身の目的を達成されるかを完全に理解されています。

神様はすでに私たちの選択を知っておられ、その選択にどのように応じるかもご存知です。

だから、私たちが何をしようとも、神様の御心は必ず成就します。そのように、人々は自由意志を持ちますが、神様もご自身の自由意志を持っておられます。

このことを考えたとき、パウロは圧倒されました。

ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。だれが主の心を知っているのですか。だれが主の助言者になったのですか。(ローマ人への手紙11:33-34)

要するに、神様の知識と知恵に匹敵する者は誰もいません。なぜなら、神様はすべての知識と知恵を持っておられるからです。その一方で、私たちはただの人間であり、私たちの知恵と知識には限界があります。

だからこそ、もし神様がご自身の計画を明かされなければ、私たちはその計画を理解することができません。そして、たとえ神様がご自身の計画を示されたとしても、その計画の深さを完全に把握することはできないのです。

例えば、多くの人はこう言います。

「もし神様が本当に良い方なら、どうしてこの世には悪が存在するのですか。」

けれども、彼らの議論は自身の無知から来ています。彼らは神様が知っておられることを知らないのです。そのため、彼らの議論は無意味となってしまいます。

それにしても、彼らはまるですべてを知っているかのように議論します。まるで神様が彼らの議論を論破できないかのように、自信満々に語るのです。

しかし、彼らが神様の御前に立つとき、神様は彼らの動機を明らかにされます。神様は彼らが知っていたことも、知っていたはずのこともすべて示されます。そして、神様は彼らの誤った考え方や仮定を暴き、真実を明らかにされます。

そのとき、すべての口は閉ざされ、全世界が神のさばきに服するのです。(ローマ書3:19)

神様を驚かせて、「私は知らなかった」と言わせるような言葉は、私たちには何一つありません。

また、私たちは神様にこう言うことはできません。

「私の行いを見てください。私は天国に入る資格があります。」

パウロの言葉は、まさに正しいのです。

だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか。すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。(35-36a)

私たちの持ち物のすべては神様から来ました。すべてのものは神様から発し、すべてのものは神様に帰されます。やがて、私たちも神様の御前に立ち、裁かれるのです。

だから、私たちには二つの選択があります。パウロのように、私たちはこう言うことができます。

この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(36b)

それとも、私たちは裁きの日まで神様に反抗し続けることができます。

ところが、その日が来ると、私たちの口は閉ざされ、神様の前で裁きを受けることになります。

あなたはどうしますか。あなたはどの道を選びますか。

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ローマ人への手紙

私たちを責める言葉が一つもない

映画の中で、私が最も好きな作品のひとつは「ア・フュー・グッドメン」です。

特に印象的なシーンは、軍事裁判所で二人の被告が判決を聞く場面です。その直前、海兵隊の大佐は、自らが海兵隊員たちに別の隊員を「しつける」よう命じたことを認めました。

けれども、その命令によって、彼らはその隊員を誤って死に至らしめてしまいました。

当然、その大佐は逮捕されましたが、その後も陪審員たちは二人の海兵隊員についての判断を下さなければなりませんでした。

陪審員が評決を決めた後、裁判官がその結果を読み上げます。

「殺害の容疑に関して、陪審は被告人たちに無罪の判決を下します。」

「殺害を謀った容疑に関して、陪審は被告人たちに無罪の判決を下します。」

その言葉を聞いて、多くの人は二人がまったく罰を受けないと思ったかもしれません。

ところが、裁判官は続けました。

「米国海兵隊員としてふさわしくない行為の容疑に関して、陪審は被告人たちに有罪の判決を下します。」

そして、裁判官はその刑を宣告しました。

けれども、その裁判官とは違い、パウロは私たちについてまったく異なることを語ります。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ人への手紙8:1)

ある聖書学者は、この箇所を次のように言い換えました。「神様は私たちを責める言葉を一つも言われません。」

映画の裁判官とは違い、神様は「この容疑について、あなたに無罪の判決を与える。この容疑についても、あなたに無罪の判決を与える。けれども、この容疑については、有罪の判決を下す」とは言われません。

むしろ、神様は私たちに「すべての容疑について、あなたに無罪の判決を与える。」と言われます。

どうしてでしょうか。

なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを開放したからです。(2)(「原理」は別訳です。聖書の脚注を見てください。)

罪と死の原理とは何でしょうか。それは、「罪を犯すと、あなたは死ぬ」という原理です。

もし神様の律法に違反すれば、あなたは裁かれることになります。そして、私たちは皆、罪を犯したので、すでに裁きを受けています。

けれども、御霊の原理は私たちを罪と死の原理から解放します。

では、御霊の原理とは何でしょうか。それは、神様の恵みによって、私たちが義と認められることです。御霊が私たちのうちに住んでおられるので、私たちは新しい命を受けました。

そして、パウロは続けてこう言います。

肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。

神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪の清めのために遣わし、肉において罪を処罰されました。

それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに律法の要求が満たされるためなのです。(3-4)

律法には、何ができないのでしょうか。律法は私たちを義とすることができませんでした。なぜでしょうか。

それは、律法が何が善で何が悪かを示すことしかできなかったからです。けれども、私たちは罪深い心を持ち、神様に逆らっていたため、その律法に従おうとはしませんでした。

神様はそれをご覧になり、何をされたでしょうか。神様は私たちの罪に対処するために、イエス様を遣わしてくださいました。

イエス様は罪を犯すことなく、完全に律法に従われました。そして、十字架において、天の父はイエス様に私たちの罪を置かれました。私たちの代わりに、イエス様は私たちの罰を受けてくださいました。

律法によれば、すべての罪は罰せられなくてはなりません。イエス様が十字架で死なれたとき、私たちのすべての罪は罰されました。だからこそ、イエス様を通して、律法の要求が満たされたのです。

ところが、それだけではありません。私たちがクリスチャンになるとき、神様は聖霊様を遣わされ、聖霊様は私たちのうちに住まわれます。そして、聖霊様の導きによって、私たちは義人として歩み始めます。

私たちは、かつての罪深い心の影響を感じることがあるかもしれません。しかし、聖霊様が罪に対する勝利を与えてくださり、私たちは神様の御計画のとおりに生き始めるのです。

そして、私たちが裁かれているかのように感じるとき、また、神様の愛と恵みにふさわしくないと感じるとき、聖霊様は私たちの心にささやかれます。

「あなたは神様の子供です。あなたは神様に属する者です。あなたはもう裁かれていません。」

あなたはどうでしょうか。「神様は、私が安心したころを見計らって、突然私を罰する」と思っているでしょうか。

神様は決してそのようなことをされません。あなたが神様に属するなら、神様はあなたを責めることはありません。

だからこそ、パウロはこう言うのです。

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。

この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。(ローマ人への手紙8:15)

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ローマ人への手紙

福音を聞いたことない人は、どうなるの?

多くの人々は、キリスト教のメッセージを聞いたときに、こう尋ねます。「もし、ある人々が聖書のことを聞いたことがないなら、どうして神様は彼らを裁かれるのでしょうか。それは不公平ではないでしょうか。」

この箇所で、パウロはその疑問に答えます。パウロはこう言います。

「悪を行うすべての人が裁かれます。ユダヤ人たちは先に裁かれますが、その後、異邦人(つまりユダヤ人ではない人々)も裁かれます。

その反面、善を行うすべての人は報いを受けます。ユダヤ人たちは先に報いを受けますが、その後、異邦人たちも報いを受けます。」

では、なぜその順番が決まっているのでしょうか。それは、ユダヤ人たちが神様から直接律法を授かったからです。したがって、彼らの責任はより重いのです。

イエス様はこのことを次のように説明されました。

主人の思いを知りながら用意もせず、その思いどおりに働きもしなかったしもべは、むちでひどく打たれます。

しかし、主人の思いを知らずにいて、むち打たれるに値することをしたしもべは、少ししか打たれません。

多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます。(ルカ12:47-48)

パウロは、その概念をより具体的に説明しています。

律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。(ローマ2:12)

簡単に言えば、人々は自分が持っている知識に基づいて裁かれます。しかし、持っていない知識によって裁かれることはありません。

もし、ユダヤ人が神様から与えられた律法を知っているなら、その律法によって裁かれます。けれども、その律法を知らない人々は、異なる基準で裁かれることになります。

では、彼らはどのような基準で裁かれるのでしょうか。

自分の律法が神様の律法に適合する限り、彼らはその律法によって裁かれます。パウロはこのことを説明しています。

律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。

彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。(ローマ人への手紙2:14-15)

つまり、どの国でも、どんな文化でも、すべての国民の律法には、神様の律法と一致する部分があります。

もちろん、それらの律法が神様の律法に完全に一致するわけではありません。しかし、律法が神様の律法と一致する限り、人々はその律法によって裁かれます。

例えば、文化によって盗難の定義は異なるかもしれません。けれども、もしある人がその国の盗難に関する律法を破れば、その人は神様に裁かれます。

さらに、神様はもう一つの基準で人々を裁かれます。それは良心です。

例えば、自分の文化では、結婚前に恋人と肉体的な関係を持つことは許されているかもしれません。それでも、もし誰かが自分の良心に反してその行為をするなら、その人は神様に裁かれます。

なぜでしょうか。それは、罪悪感が心の中で「その行為は悪い」と認識させているからです。

もちろん、私たちの良心は神様の律法を完全に反映するわけではありません。とはいえ、良心が神様の律法と一致する限り、人々は裁かれます。

そして、パウロはさらにこう語ります。

なぜなら、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が義と認められるからです。(13)

パウロのポイントは、律法を完全に守れる人がいるわけではない、ということです。また、パウロは、律法によって義と認められる人が存在すると言っているわけではありません。

パウロのポイントは、律法を知っているだけでは十分ではない、ということです。もし律法によって義と認められたいなら、あなたは完全にその律法に従わなければなりません。

けれども、問題があります。律法を完全に守れる人は、一人もいません。この厳しい現実については、別の記事で詳しく話します。

それでも、今日の要点は、神様は公平な方だということです。神様は、あなたが持っていない知識によって、あなたを裁くことはありません。むしろ、あなたが持っている知識によって、神様はあなたを裁かれます。

だから、自分自身に問いかけてください。「自分が持っている知識のもとで、私はどのように生きているだろうか。」

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ルカの福音書 ルカ17章

急な裁き、確実な裁き

パリサイ人たちに神の国について語られた後、イエス様は弟子たちに警告されました。それは、非常に困難な時が訪れるということです。

その時、彼らはイエス様の再臨を切に願い、イエス様が帰られたという噂を聞けば、それを信じてしまうかもしれません。けれども、イエス様はご自身の再臨について、いくつかの重要なことをはっきりと教えられました。

第一に、イエス様が帰って来られるとき、それを誰も見逃すことはできないということです。イエス様はこう言われました。

いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。(ルカの福音書17:324)

第二に、イエス様は突然現れます。

その日は、普段と変わらない一日として始まります。人々はいつものように、食べたり、飲んだり、結婚したり、買ったり、売ったり、植えたり、建てたりするでしょう。ところが、突如としてイエス様が来られ、裁きが始まるのです。

第三に、義人は死に至る裁きを経験することはありません。イエス様はこう言われました。

ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。(29-30)

注目してください。ロトがソドムを出て行ったとき、裁きが訪れました。同じように、イエス様が来られるとき、義人が悪者から分けられたあとで、裁きが下ります。

第四のポイントは、イエス様が来られるとき、もしあなたが神様との関係を持っていなければ、あなたは裁かれるということです。あなたの友人や、妻、夫、親族が素晴らしいクリスチャンであったとしても、その関係があなたを救うことはできません。

だから、イエス様はこう言われました。

あなたがたに言うが、その夜、同じ寝台でふたりの人が寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。

女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。(34-35)

最後のポイントは、裁きが確実であるということです。イエス様はこの教えを次の言葉で締めくくられました。

死体のある所、そこに、はげたかも集まります。(37)

死体があれば、はげたかが集まるのは確かです。同じように、霊的に死んだ者がいれば、裁きが下るのは確実です。

だから、あなたは自分自身に問いかけなければなりません。あなたは準備ができていますか。あなたの心は整っていますか。あなたはこの世のものに執着していますか。それとも、神様を愛しているでしょうか。

裁きの日には、あなたの心の隠されたものが明らかになります。

イエス様が来られると、イエス様を愛している人々は喜んで迎えます。

しかし、この世のものに執着する人々は、持ち物を失うことを恐れるでしょう。

だからこそ、イエス様は弟子たちに警告されました。

ロトの妻を思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。(32-33)

神様がソドムを裁かれたとき、ロトの妻はソドムでの生活に執着し、後ろを振り返りました。結果として、彼女も裁かれることになりました。

もしあなたがこの世のものに執着するなら、イエス様が来られるとき、あなたも裁かれることになるでしょう。

あなたの心のあり方はどうでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ13章

実のならないいちじくの木のたとえ話:自分の心を見抜くこと

イエス様が皆に、裁きの日が来る前に神様との和解を求めるよう警告された直後のことです。おそらく群衆の一人は、少し前に起こった事件を思い出したのでしょう。

どうやら、ガリラヤ人たちがいけにえをささげていたとき、ローマの総督ピラトが彼らを殺すよう命じたようです。そして、その兵士たちはガリラヤ人たちの血を、ささげられた動物の血と混ぜました。

その話をイエス様に伝えた人は、こう考えたのかもしれません。

「イエス様、あなたが話しているのはこういう人々のことですか?彼らは非常に罪深かったに違いありません。なぜなら、神様が彼らをこのように裁かれたからです。」

けれども、イエス様はこう答えられました。

そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。

わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(ルカの福音書13:2-3)

そして、イエス様は別の災難について語られました。

また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。

わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(4-5)

イエス様は何を伝えようとされたのでしょうか。

災害が発生したとき、なぜ神様はそのようなことが起こることを許されたのか、と議論されることがよくあります。

しかし結局、私たちは自分自身にこう問いかけるべきです。

「私たちは皆、いつか必ず死ぬ。私は事故で亡くなるかもしれない。誰かに殺されるかもしれない。高齢になり、自然に亡くなるかもしれない。

いつ亡くなるかは誰にもわからない。時間がまだたくさんあると思うかもしれないが、明日突然亡くなるかもしれない。そのとき、私は死ぬ準備ができていると言えるだろうか。」

ルカ12章のイエス様のたとえ話では、金持ちは準備ができていませんでした。

ピラトに殺された人々も、準備していなかったかもしれません。

シロアムの塔の事故で亡くなった人々も、準備していなかったかもしれません。彼らにとっては、すでに手遅れでした。

あなたはどうでしょうか。自分の死の準備をしているでしょうか。

イエス様はさらに別のたとえ話を語られました。その話の中で、ある人がいちじくの木を植えました。けれども、3年が経っても、その木は実を結びませんでした。そこで彼は、その木を切り倒そうと思いました。

しかし、番人はこう言いました。

ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。

木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。(8-9)

この話から、私たちは二つのことを学ぶことができます。それは、神様の裁きと憐れみです。

神様は私たちに実を結ぶことを求められます。つまり、救いの実を求められます。なぜなら、イエス様は御自身の血によって、その救いを買い取られたからです。

神様は、実を結ばない木をすぐに切り倒すこともできます。けれども、忍耐強く、その人の心の中で救いのために働かれます。

それでも、最終的には裁きの日が訪れます。もしあなたが準備していないなら、つまり、救いの実を結ばないなら、あなたは永遠に滅びの道へと進むことになります。

だから、「どうしてこの残虐な犯罪が起こったのか」「どうしてこの災害が発生したのか」と心配するよりも、いつ自分が亡くなるかわからないという現実を覚えていてください。

そして、自分自身にこう問いかけましょう。「私は裁きの日のために準備ができているだろうか。」

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ルカの福音書 ルカ12章

神様との和解

福音書に記されたイエス様の教えは、とても興味深いものです。なぜなら、以前述べたように、イエス様は同じたとえや教えを繰り返されることがあるものの、異なる適用を示されるからです。

山上の垂訓において、イエス様は私たちに、できるだけ早く相手と和解しなければならないと教えられました。そうしなければ、彼らがあなたを裁判官のもとへ連れて行き、あなたは裁かれることになります。そして、裁判官があなたを裁いた後では、もはや手遅れです。(マタイ5:26-27)

この個所では、イエス様は同じたとえを用いられますが、人々との和解について語っているのではありません。むしろ、神様との和解について語られています。

まず、イエス様は群衆を責められました。なぜなら、彼らは空の現象を通じて天気を予測できたにもかかわらず、神様からの明らかなしるしを見極めることができなかったからです。そのしるしとは、イエス様御自身です。

イエス様はすでに来られていたにもかかわらず、彼らはメシアとして認めようとしませんでした。それに加えて、彼らはイエス様の教えに反対し、結果として神様に反抗していたため、裁かれる危険がありました。

だから、イエス様は彼らに警告を与えられたのです。

あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。

裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。

あなたに言います。最後の一レプタを支払うまでは、そこから決して出られないのです。(ルカの福音書12:58-59)

要するに、神様との和解を求めなさい。そうしなければ、あなたは必ず裁かれることになります、ということです。

あなたはどうでしょうか。神様との平和を持っていますか。その答えは一つしかありません。それは、イエス様との関係です。

イエス様は十字架上で、私たちの罪の罰を身代わりとして受けてくださいました。もし、イエス様とその御業を信じるなら、私たちは神様と和解できるのです。

だからこそ、パウロはこう言いましました。

私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(第二コリント5:20-21)

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マタイの福音書 マタイ13章

網のたとえ話:迫っている裁き

福音書の中で、イエス様は天国について語られましたが、実際には天国よりも地獄について多く教えられました。この箇所では、イエス様は迫り来る裁きについて語られています。

以前にも述べたように、この世の悪を見るとき、私たちはしばしばフラストレーションを感じ、「なぜ神様が何もしないのか」と疑問に思うことがあります。

けれども、この箇所では、イエス様はその日が必ず来ると語られます。すべての人々は、たとえ死者の魂であっても、あるいはまだ生きている者であっても、神様の前に立ち、裁きを受けます。

その日、神様は悪者と正しい者を分けられます。正しい者は報いを受け、永遠に神様とともにいることができます。

その一方、悪者について、イエス様は次のように語られます。

この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイの福音書13:49ー50)

なぜイエス様はこのことを教えられたのでしょうか。その一つの理由は、私たちに希望を与えるためです。つまり、この世の悪は永遠に続かないということです。この邪悪な世界の中で、私たちにはそのような希望が必要だと思います。

二つ目の理由は、私たちに警告を与えるためです。つまり、神様の忍耐は永遠に続かないということです。

神様は誰も滅びることを望まれません。しかし、人々があえて神様とその福音を拒絶した場合、神様は彼らの意志を尊重されます。つまり、彼らは永遠に神様から離れて生きることになります。

けれども、その日が来ると、彼らは神様から離れていることが、どれほど惨めな状態かを悟るでしょう。だからこそ、彼らは永遠に絶望して苦しむことになります。

多くの人々は、神様が彼らの喜びを奪おうとしていると思い込み、神様から逃げます。しかし、実際には、神様から離れると、本当の喜びは全く存在しません。

ですから、この邪悪な世界を見るとき、心に留めておきましょう。裁きの日は迫っています。あなたは準備ができていますか。つまり、信仰によって神様の救いを受け入れましたか。

もしあなた自身が準備できているなら、自分にこう問いかけましょう。「私が愛する人々は準備ができているだろうか。」

もし彼らが準備できていないなら、どうしても彼らに福音を伝えましょう。

地獄は現実です。イエス様はそう教えられました。あなたは信じていますか。そして、信じているならば、福音をあなたが愛する人々に伝えているでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ6章

あなたの心にあるもの

聖書を読むと、イエス様がしばしば同じたとえを用いながらも、異なる応用を教えておられることに気づきます。

例えば、マタイの福音書では、イエス様が良い実を結ぶ木と悪い実を結ぶ木について語る際、そのたとえを偽預言者に当てはめています。つまり、私たちは預言者(あるいは牧師やクリスチャンの著者)の「実」(彼らの教えや行動)を見極める必要があるのです。

一方で、ルカの福音書では、イエス様はそのたとえを用いて、私たち自身の心を探るように挑戦しておられます。

この箇所では、たとえを語る前に、イエス様は裁き、人を責めること、そして人を許すことについて教えておられます。

そのことについて語られた後、イエス様はこう言われました。

悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。

いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。

良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。(ルカの福音書6:43-45)

イエス様は何を教えておられるのでしょうか。

それは、私たちがどのような木であるかを自問するよう促しておられるのです。私たちの心の中には何が満ちていますか。相手を裁くことでしょうか。それとも、相手を責めることでしょうか。もしくは、相手を許すことでしょうか。

私たちの心にあるものを見分ける方法は何でしょうか。それは、自分の口から出る言葉を見ることです。なぜなら、私たちの口は心に満ちているものを語るからです。

もし心の中で、私たちが相手を裁き、責めているなら、そのような言葉が私たちの口から出るでしょう。逆に、私たちの心に恵みと許しが満ちているなら、それに応じた言葉が私たちの口から出るでしょう。

イエス様の言葉に注目してください。悪い木は、相手を裁き、責める心を象徴しています。しかし、恵み深く、相手を許す心は良い木を表しています。

だから、私たちは自分自身にこう尋ねるべきです。「私たちの口からどんな言葉が出ているだろうか。」

私たちはいつも相手を批判し、責めていますか。それとも、私たちの言葉は恵みに満ちていますか。私たちの言葉は、私たち自身がどのような木であるかを映し出すのです。

あなたはどのような木でしょうか。

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マタイの福音書 マタイ7章 ルカの福音書 ルカ6章

山上の説教:偽善的な裁き

子供の頃、私は「Isaac Air Freight」というクリスチャンのコメディーグループが大好きでした。彼らはたくさんのパロディーを制作しており、その中には「60 Minutes」というアメリカの有名なニュース番組のパロディーもありました。

その時、リポーターは「木こりさん」という夫婦をインタビューしました。彼らはクリスチャンでしたが、非常に珍しい「特徴」がありました。なんと、彼らの目から丸太が出ていたのです。

そのため、彼らはいつも周りのものを倒してしまい、他の人々について文句を言ったり、裁いたりしていました。

インタビュー中、丸太が何度もリポーターに当たりそうになる場面がありました。ところが、リポーターがその丸太について尋ねた時、彼らはこう答えました。「へ?丸太って?」

それでもリポーターは言い張りました。「あなたの目にでかい丸太がありますよ。あなたはいつも周りのものを倒してしまっているんですよ。」

すると、彼らは答えました。「そうなの?全然気づかなかったけど。」

多くのクリスチャンがその木こりさんたちのようです。自分の欠点には気づかず、他人を批判してしまうのです。

しかし、イエス様は私たちにこう言われます。「あなたは批判によって相手を助けていると思っているけれど、あなた自身の欠点にはまったく気づいていません。

相手の問題はただのちりですが、あなたの問題は梁です。あなたは盲人であり、そのことを知りません。もし盲人のあなたが他の盲人を導こうとするなら、あなたたちは穴に落ち込むでしょう。

あなたは、愚かな人々を賢くするための教師だと思っています。けれども、生徒たちはあなたの欠点を学び、結果的にあなたのような者になってしまうのです。それでもなお、あなたは自分の欠点にまったく気づいていないのです。

イエス様はこの話をこのように締めくくられました。

偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。(ルカ6:42)

イエス様の要点は何でしょうか。それは、謙遜だと思います。

多くの人々は、自分の目にプライドという梁を持っています。

誤解しないでください。時には、私たちは兄弟や姉妹に彼らの罪について話す必要があります。それはイエス様の命令です(マタイ18:15)。また、使徒たちもその命令を繰り返しました(ガラテヤ6:1)。

とはいえ、そのようなとき、私たちはどのような態度を取るべきでしょうか。プライドに満ちた態度を取るべきでしょうか。「私はあなたより優れたクリスチャンだ」という態度でしょうか。

そうではありません。

へりくだった態度を取るべきです。自分自身にも神様の恵みと憐れみが必要だという謙虚さを持つべきです。

だから、相手を責める前に、まず神様にこう尋ねるべきです。

「神様、私の罪は何でしょうか。私の目にどんな梁が入っていますか。私はプライドを持っているでしょうか。私は相手を許せていないでしょうか。私は相手を責めていますが、同じ欠点を持っているのでしょうか。」

もし、神様があなたの欠点を示されたなら、すぐに悔い改めてください。

自分の弱さを知らないうちに、また、自分がどれだけ神様の憐れみを必要としているかを理解できていないうちに、相手と話すのを急がない方がよいかもしれません。

そうしないと、相手が自分の罪を悔い改めたとしても、あなたからさらに悪いこと、特にプライドや偽善を学んでしまうかもしれません。

イエス様はこう言われました。

弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。(ルカ6:40)

あなたの目には、どのような梁が入っていますか。

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マタイの福音書 マタイ7章 ルカの福音書 ルカ6章

山上の説教:相手を裁くと

相手の欠点を見て裁くのは簡単なことです。つまり、相手の性格や行動を裁くのは容易いことです。特に、私が傷ついた時、相手を裁くことはさらに簡単になります。

ルカの箇所では、イエス様はこの教えを敵を愛し、憐れむことについて語られた後に言われました。そのため、私たちを侮辱する人、そして私たちを呪う人に関して、イエス様はこう言われました。

あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。(ルカ6:36)

その直後、イエス様は相手を裁くことについて語られます。

さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。

赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。(ルカ7:37)

つまり、相手があなたを傷つけても、その人を裁いてはいけません。なぜなら、それはあなたの責任ではなく、神様の責任だからです。むしろ、イエス様は「相手を許しなさい」と言われます。

実は、相手を許すことは、相手のためというよりも、あなた自身のためなのです。なぜなら、私が以前言ったように、相手を許さないことで、あなたは過去の傷に縛られ続けてしまうからです。そして、神様が望んでおられる未来に進むことができなくなります。

だから、神様は「その傷を手放し、許しなさい」と言われます。そうすれば、相手が変わることもあるかもしれませんが、それは神様の約束ではありません。

(イエス様が十字架の上でパリサイ人とサドカイ人の赦しのために祈られましたが、彼らの多くは決して悔い改めませんでした。)

さらに、私たちは主の祈りを思い出すべきです。すなわち、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」

もしそうしないなら、もし私たちが受けた傷のために相手に裁きを注ぐのであれば、イエス様はこう警告されます。

与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。

あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。(ルカ6:38)

多くの人々は、この箇所を読むとき、イエス様が献金について話していると考えます。けれども、イエス様は献金について全く話していません。この箇所の前後は裁きと憐れみについて語られているのです。

イエス様のたとえは、農家が袋に穀物を入れる様子を描写しています。私たちはその光景をすぐに想像するのが難しいかもしれません。そこで、別の例えを考えてみましょう。

ごみ袋を思い浮かべてみてください。ごみの日に、どのようにごみを袋に入れるでしょうか。

まず、ごみを袋に入れます。けれども、袋が少し一杯になったらどうするでしょうか?袋を軽く揺らすと、ごみが下に詰まり、さらにごみを入れられるようになります。

しかし、袋がいっぱいになった後は、揺すってもごみが下に詰まりません。そこで、袋の上から手で押して、もう少しごみを入れます。けれども、袋の限界に達すると、ごみが袋から溢れます。

イエス様が言われたのはこのようなことです。

「もしあなたが相手に裁きを注ぐなら、神様は裁きをあなたに注がれるでしょう。そして、あなたにさらに裁きを注ぐために、神様はすでに注いだ裁きを揺すり、押されます。そして、裁きが溢れるまで、神様はあなたの人生に裁きを注がれます。

しかしその反対に、もしあなたが相手に憐れみと許しを注ぐなら、神様は憐れみと赦しをあなたの人生に溢れるほど注がれるのです。」

あなたはご自身に何を注がれることを望みますか?

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ヨハネの福音書 ヨハネ5章

私たちを裁く方。私たちに命を与える方。

この箇所では、私たちは、天の父と神の子の関係を垣間見ます。天の父とイエス様が同じ方だと言うカルトもありますが、クリスチャンはそう言いません。

天の父とイエス様(と聖霊様)は一つの神であるけれども、天の父はイエス様ではなく、イエス様は聖霊様ではなく、聖霊様は天の父ではありません。彼らは互いに愛し、話し合い、一緒に協力しています。

そして、イエス様がこの世に住んでおられた時、イエス様は天の父に頼られました。イエス様は天の父が何をなさっているかをご覧になり、その働きに参加されました。(ヨハネの福音書5:19)

それに、イエス様は、いつもご自身を喜ばせようとは思われず、天の父を喜ばせようと思われました。そして、イエス様の言葉と御業は天の父の力と知恵に基づいていました。(30節)

その反面、天の父はイエス様に驚くべき力と権威を授けられました。どうしてでしょうか。すべての人々が天の父を敬うように、イエス様を敬うためです。だから、彼らがイエス様を敬わなければ、天の父も敬われませんでした。(23節)

そういう意味で、イエス様は天の父と対等である。(18)

イエス様はどのような権威と力を持っておられるのでしょうか。

1.イエス様は命を与える力を持っておられます。イエス様は死人に命を与えられます。

イエス様はこう言われました。

父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。(ヨハネの福音書5:21)

イエス様は、何度もその力を使われました。特に、イエス様はラザロを復活させられました。さらに、イエス様はこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。

それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。。。

このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。(25-26、28-29)

私たちは、もう一つのことを心に留めておかなくてはなりません。イエス様は、クリスチャンたちだけを復活させられるのではありません。イエス様は、すべての人々を復活させられます。

どうしてでしょうか。それは裁きのためです。それが、二つ目のポイントです。

2.イエス様は、すべての人々を裁く権威を持っておられます。

イエス様は、こう言われました。

また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。(22)

イエス様は、人々を裁かれるとき、どのような宣告を宣言されるのでしょうか。

善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。(29)

つまり、イエス様の裁きには、永遠の結果があります。その日、誰が天国に行くか、誰が地獄に行くかが決まります。

どうしてイエス様はその裁く権威を持っておられるのでしょうか。それは、イエス様が人間となられたのに、決して罪を犯されなかったからです。

どのような目安でイエス様は、誰が天国に行くか、誰が地獄に行くかを決められるのでしょうか。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(24)

要するに、私たちは、イエス様の言葉を聞き、信じ、イエス様を送られた天の父を信頼しなくてはなりません。

そうすれば、あなたは永遠の命を受けることができます。そうしなければ、あなたは地獄で永遠に裁かれることになります。

あなたはどうでしょうか。命を与える力やあなたを裁く権威を持っておられるイエス様を信頼しているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ3章

光に入る?

昨日の記事で、私は「人々が神様を拒絶した場合、将来裁かれるのではなく、すでに裁かれている」とお伝えしました。この箇所では、私たちは神様の宣告を見ることになります。

そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。(ヨハネの福音書3:19)

キリストによって、光がこの世に来ました。イエス様は神様がどのようなお方であるかを教え、神様の私たちへの計画を明らかにされました。

けれども、世の人々は悪を愛していました。彼らは自分たちの行動が悪く、恥ずかしいものであると知っていたにもかかわらず、その悪を愛し続けたのです。

また、彼らは光を受け入れず、暗闇に留まりました。要するに、彼らはイエス様を拒絶したために裁かれることとなりました。

では、あなたはどうでしょうか。キリストの光の中に入りますか。自分の悪く、恥ずかしい行動を捨て、イエス様と共に光の中を歩みますか。イエス様が教えられた真理に従いますか。

そうすれば、あなたはもう神様を恐れる必要はありません。むしろ、神様の前に大胆に立つことができるのです。

ヨハネはこう言っています。

しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。(21節)

私は神様とそのような関係を持ちたいと願っています。恥じることのない関係。罪悪感に囚われない関係。そして、神様の愛と恵みを受けて、大胆に神様と共に歩む関係です。

神様の光の中に入ることを恐れる人もいます。その理由は、彼らが自分の罪が明らかにされることを恐れているからです。また、彼らが愛しているものを失うことへの恐れがあるからです。

そのため、彼らは教会を避け、聖書を遠ざけます。一部の人は聖書を読むものの、自分の罪を指摘する箇所を避けます。

それでも、神様はあなたを愛しておられます。そして、神様はあなたの最善を望んでおられます。たとえ、神様に従うことで、あなたが愛しているものを失うと感じることがあったとしても、神様はあなたにそれ以上の素晴らしいものを与えてくださいます。

ですから、最も重要な質問はこれです。神様を信頼しますか。神様があなたの最善を望んでおられることを信じますか。もしそれを信じないなら、あなたは決して光の中に入ることはできません。

しかし、神様はイエス様を通してあなたに対する愛を示してくださっています。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(3:16)

神様はあなたのためにそのようにしてくださいました。ですから、あなたの人生のすべてにおいて、神様を信頼することができませんか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ3章

福音のもう一つの側面

多分あなたはもうご存じかもしれませんが、「福音」という言葉は「良い知らせ」という意味です。

しかし、私たちが「悪い知らせ」を知らなければ、その「良い知らせ」を本当に理解することはできません。その悪い知らせとは何でしょうか。

[イエス様を]信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:18b)

最初の人間アダムの時代から、すべての人々は神様のみ前で裁きを受けることとなりました。なぜでしょうか。それは、私たちが皆、神様を信頼せずに神様に背を向け、自分の道を選んだからです。

では、なぜそれがそれほど重大な問題なのでしょうか。

使徒パウロがその答えを教えています。

罪から来る報酬は死です。(ローマ6:23)

私たちは「死刑囚となるかもしれない」という状態ではありません。実際には、私たちはすでに死刑囚なのです。なぜなら、私たちは皆罪を犯し、すでに裁きを受けたからです。

そのため、17節にはこう書かれています。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではな[い]。

なぜヨハネは、「イエス様はこの世に私たちを裁くために来られたのではない」と言うことができたのでしょうか。それは、イエス様がこの世に来られる以前に、私たちはすでに裁かれていたからです。

これが福音のもう一つの側面です。とはいえ、多くのクリスチャンはこの側面についてあまり語りたがりません。

もしあなたがイエス様を信じないのなら、将来神様に裁かれるというわけではありません。あなたはすでに裁かれているのです。

私たちはこのことをどのくらい深く考えているでしょうか。今、あなたの家族や友人、そして同僚がイエス様を知らないのであれば、彼らはすでに裁かれています。もし、あなたがイエス様を信じないのであれば、あなたもまた神様に裁かれているのです。

これは本当に恐ろしい事実です。けれども、幸いにも、素晴らしい良い知らせがあります。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(3:16-17)

私たちが神様に背を向けたにもかかわらず、神様は私たちを変わらず愛しておられました。だからこそ、神様はイエス様をこの世に送り、イエス様は十字架の上で私たちの罪の罰を引き受けてくださいました。

そのため、今、神様はあなたに問いかけておられます。「私を信じ始めますか。私の子イエスと、その十字架での働きを信じますか。」

あなた自身と、あなたが愛している人々は死刑囚であるかもしれません。そして、解放される方法はただ一つしかありません。赦される道もただ一つです。それはイエス様を信じることです。

ヨハネはこう記しています。

御子を信じる者はさばかれない。(18a)

イエス様とその十字架での働きを信じるなら、神様はあなたを赦してくださいます。その赦しは私たちの良い行動によるものではありません。むしろ、それはイエス様の十字架での働きによるのです。

神様はそれを見て、私たちにこう語られます。「私の子イエスがあなたの罪の罰を支払いました。だから、私はあなたを裁きません。」

実際のところ、神様がこれを語られる時、それは将来のことだけを指しているのではありません。今この瞬間においても、神様の前であなたは裁かれていないのです。

使徒パウロはこう述べています。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

しかし、もしあなたがイエス様を拒絶するなら、あなたはすでに死刑囚なのです。そして、裁きの日が次第に迫っているため、ヨハネはあなたにこう語っています。

[イエス様を]信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:18b)

あなたはどうしますか。

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箴言

将来を考える

この箇所の繰り返すテーマは将来を考えることです。特に、私たちは自分の行動の結果を考えるべきです。

多くの人々はそうしません。数年前、私は「すっからかん」というアメリカのスポーツ・ドキュメンタリーを見ました。

その番組で、多くの有名なプロ選手は自分の愚かな決断について話していました。彼らは何百万円を稼いだけど、すべてを失ってしまいました。

一人の選手はヨットと二台の車と大豪邸のために7億円を払いました。もう一人の選手は、9人の女性と関係を持ち、11人の子供がいるので、その女性たちとその子供たちを養うために何百万円も支払わなくてはなりませんでした。

彼らは自分の行動の結果について全く考えなかったので、多額のお金を支払わなくてはならず、さまざまな苦しみを経験しました。

この箇所の例は違いますが、教訓は同じです。もし将来を考えないと、結局あなたは苦しみます。

プライドが私たちの人生を治めたら、私たちは没落してしまいます。自分の地位を自慢する人もいます。自分の持ち物を自慢する人もいます。また、自分の才能を自慢する人もいます。

けれども、そんなプライドは没落に導きます(2節)。その選手たちは破産して、その教訓を学びました。

ある人は経済的に賢いですが、彼らは自分の情欲に治められます。

彼らについてソロモンはこう言いました。

財産は激しい怒りの日には役に立たない。しかし正義は人を死から救い出す。(箴言11:4)

裁きの日に、彼らはソロモンの言葉が真理であることが分かります。

私たちはお金によって天国に入ることはできません。なぜなら、神様は私たちのお金を必要とされないからです。

キリストを信じる信仰に基づいて、神様から与えられる義だけが私たちを救うことができます。もしその義を拒絶したら、神様の怒りを受けることになります。

この世には力がある人もいます。けれども、もし彼らが神様の前にへりくだらないと、裁きの日にその力は彼らを救うことができません。ソロモンはこう言いました。

悪者が死ぬとき、その期待は消えうせ、邪悪な者たちの望みもまた消えうせる。(7)

新改訳では「邪悪な者」と書いてありますが、他の翻訳では「力のある人」とされています。

とにかく、邪悪な人でも、彼らが悔い改めて、へりくだったら、神様の憐みを知ります。けれども、彼らがそうしないなら、彼らの希望は無くなります。彼らの力は救うことができません。

ある人は、罪にふけっているので、本当の自由を発見したと思います。彼らは神様の道を行く人が束縛されていると思います。しかし、ソロモンはこう言いました。

潔白な人の道は、その正しさによって平らにされ、悪者は、その悪事によって倒れる。

直ぐな人は、その正しさによって救い出され、裏切り者は、自分の欲によって捕らえられる。(5-6)

つまり、私たちが神様の道を行くなら、私たちの人生はうまくいきます。しかし、自分の道を行くと、私たちは最終的に滅びてしまいます。私たちの結婚や他の人間関係を壊してしまいます。私たちが頑張って築いたものも壊れてしまいます。

それに、私たちが自由だと思っていたのに、自分の情欲に束縛されていることに気づくでしょう。その情欲によって私たちの人生が壊れているのに、変わることができないと分かるようになります。

どれくらいの人々がギャンブルや、お酒や、麻薬や、不倫によって、自分の人生を壊しているのに、自分自身を止められないでしょうか。

この箇所の後半では、ソロモンは他の人々について話します。彼らも自分の行動の結果を予想できません。

ある人が誰に話すかに気をつけないので、彼らの秘密がばれてしまいます。(13節)

ある人がほかの人々の知恵を求めずに、自分の知恵だけに頼るので、彼らの人生はダメになってしまいます。(14節)

ある人は、お金を儲けることに集中して、人間関係を無視するので、彼らは誉れと愛をつかめず、ずっと独りぼっちです。(16節)

ある美人はどう生きるか、誰に自分の心を与えるべきなのか気をつけないので、傷つけられてしまいます。(22節)

ある人の人生がうまくいくとき、誰にも助けてあげないので、彼らの人生が苦しくなる時、誰も彼を助けてあげません。(24節)

ある人が自分の行動が家族にどんな影響を与えるか気にしないので、その関係は壊れてしまいます。(29節)

私たちは将来を考えないと、苦しむことになります。この世で苦しむかもしれないし、裁きの日に苦しむかもしれません。

あなたはどうですか。どのように生きているのでしょうか。あなたの将来を考えているでしょうか。

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詩篇 歴代誌第一

神様の名前を国々に宣言する

ダビデは神様の契約の箱をエルサレムに持ってきたとき、感謝の詩篇を書きました。

もしかしたら、その詩篇は詩篇96篇、105篇、106篇からのメドレーかもしれません。

もしくは、元々ダビデは一つの詩篇を書いたけど、後でその詩篇を三つの詩篇に分けて、歌詞を少し加えたかもしれません。

とにかく、私はそれぞれの詩篇について書こうと思いました。歴代誌に出た詩篇はその三つの詩篇と少し違うけど、96篇、105篇、106篇だけについて解説します。

今日は96篇について話します。

この詩篇では、私たちが学ぶのは、神様には私たちのための目的があるということです。その目的は何でしょうか。

ダビデはこう歌いました。

新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。

主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。

主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。

まことに主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。

まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。

尊厳と威光は御前にあり、力と光栄は主の聖所にある。(詩篇96:1-6)

私たちの目的は何でしょう。それは、国々に神様の名前を宣言することです。私たちは持っている喜びを周りの人々とシェアするべきです。

ダビデは、「主に歌え」と言います。どうしてでしょうか。神様をほめたたえるためでしょうか。もちろんそうですが、それだけではありません。

ダビデは歌い続けます。

日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。

主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。(2-3)

どうしてそうしなくてはならないのでしょうか。それは、多くの人々がそのことを知らないからです。

まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。(5)

多くの人々は神様を知っていると思っていますが、実は、その神々はただの虚しい偶像です。

だから、私たちは神様の偉大さを宣言するべきだし、裁きの日が来ることも宣言するべきです。だから、ダビデはこう書きました。

国々の民の諸族よ。主にささげよ。栄光と力を主にささげよ。

御名の栄光を主にささげよ。(7-8)

ある日、神様は自分の王座に座り、この世の民は神様を王として認めます。その日について、ダビデはこう言いました。

確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさばき、その真実をもって国々の民をさばかれる。(13)

多くの人々は不正義について文句を言います。けれども、彼らが知らないのは、正義が来ると、彼らも裁かれるということです。

もし彼らの罪がイエス様の血によってまだ赦されていないなら、彼らは自分の罪のために裁かれます。

だから、神様はその人々に警告するように私たちを招いておられます。

あなたはどうですか。あなたは周りの人々に神様について話しますか。

彼らは神様の偉大さを知っていますか。また彼らは神様の愛について知っていますか。また、将来の裁きについて知っていますか。

彼らにそのことを宣言するのが私たちの目的です。だから、ただあなたのもらった救いに安心しきってはいけません。むしろ、周りの人々に神様の名前を宣言しましょう。

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詩篇

人々を裁く神、私たちを懲らしめてくださる神

裁きか懲らしめか。私たちの人生に悪いことが起きる時、神様がそのどちらかをしているのではないかと、私たちは混乱することがあります。

だから、私たちが「神様が私を裁いて、罰している」と考えるのは簡単なことです。

けれども、神様はそのように考えておられるでしょうか。

詩篇94篇では、裁きと懲らしめの違いを見ることができます。裁きは神様を拒絶する人のためですが、懲らしめは神様の民のためです。

この詩篇の最初の部分では、詩人は神様が悪者を裁くように祈ります。

地をさばく方よ。立ち上がってください。高ぶる者に報復してください。

主よ。悪者どもはいつまで、いつまで、悪者どもは、勝ち誇るのでしょう。(詩篇94:2-3)

そして、詩人は悪者の行動について話します。その人は「神様は私の罪を見ない」と思っています。

だから、詩人は彼らを責めます。

気づけ。民のうちのまぬけ者ども。愚か者ども。おまえらは、いつになったら、わかるのか。

耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。

国々を戒める方が、お責めにならないだろうか。人に知識を教えるその方が。

主は、人の思い計ることがいかにむなしいかを、知っておられる。(8-11)

そして、彼らについて詩人はこう言います。

主は彼らの不義をその身に返し、彼らの悪のゆえに、彼らを滅ぼされます。われらの神、主が、彼らを滅ぼされます。(23)

けれども、神様の子供が罪を犯したら、神様はどうされるでしょうか。神様はどのようにその罪を扱われるでしょうか。

主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。

わざわいの日に、あなたがその人に平安を賜わるからです。その間に、悪者のためには穴が掘られます。

まことに、主は、ご自分の民を見放さず、ご自分のものである民を、お見捨てになりません。(12-14)

この詩篇によって、私たちは神様の懲らしめについて二つのことを学びます。

一つ目は、神様は私たちの益のために懲らしめてくださるということです。神様は私たちを苦しませるために懲らしめるのではなく、私たちを苦しみから守るために懲らしめてくださいます。

二つ目は、私たちがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して見捨てないことです。

それに、神様は私たちを擁護してくださいます。詩人はこう歌いました。

だれが、私のために、悪を行なう者に向かって立ち上がるのでしょうか。だれが、私のために、不法を行なう者に向かって堅く立つのでしょうか。

もしも主が私の助けでなかったなら、私のたましいはただちに沈黙のうちに住んだことでしょう。

もしも私が、「私の足はよろけています」と言ったとすれば、主よ、あなたの恵みが私をささえてくださいますように。

私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。(16-19)

つまり、悪者が私たちを攻める時、神様は私たちを擁護してくださいます。サタンが私たちを責める時、神様は私たちを擁護してくださいます。

だから、詩人はこう書きます。

彼らは、正しい者のいのちを求めて共に集まり、罪に定めて、罪を犯さない人の血を流します。

しかし主は、わがとりでとなり、わが神は、わが避け所の岩となられました。(21-22)

だから、神様の子供として、神様の裁きと神様の懲らしめを取り違えないようにしましょう。

私たちが罪を犯すと、神様は私たちを懲らしめてくださいます。しかし、それは私たちに損害を与えるためではなく、私たちの益のためです。

神様は私たちを滅ぼそうとは思っておられません。私たちを救いたいと望んでおられます。だから、覚えておきましょう。あなたがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して見捨てません。

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マラキ書

正義はどこだろうか

多くの人々は、「もし神様が良いお方なら、どうしてこの世に悪があふれているのだろう。もし神様が正義の神なら、この世の正義はどこにあるのだろう」と問いかけます。

その疑問は決して新しいものではありません。マラキの時代にも、イスラエルの民は同じ質問を神様に投げかけました。そして、神様はこう言われました。

あなたがたは、あなたがたのことばで主を煩わした。しかし、あなたがたは言う。「どのようにして、私たちは煩わしたのか。」

「悪を行なう者もみな主の心にかなっている。主は彼らを喜ばれる。さばきの神はどこにいるのか」とあなたがたは言っているのだ。(マラキ書2:17)

神様は彼らの文句に、どのように答えられたのでしょうか。

「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。

あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と万軍の主は仰せられる。(3:1)

つまり、「あなたたちは、私がどこにいるのかを訊いています。あなたたちは、なぜ私がこの世の不正義を扱わないのかを問うています。けれども、私はすぐに来ます。あなたの宮に、私は現れます。」

イエス様がこの世に来られたとき、その預言が成就しました。また、イエス様の道を整えた使者はバプテスマのヨハネでした。

しかし、神様は心に刺さるような質問をされます。

だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現われるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。(3:2)

つまり、「あなたは私が来て正義を行うことを待っています。あなたは私が遅いと文句を言っています。けれども、私が来る準備ができているでしょうか。

私が来るとき、銀と金を清める火のように来ます。また、私はすべての罪を清める灰汁のように現れます。

私が来る時、あなたはその前に立つことができるでしょうか。」

そして、神様はご自身に属する祭司たちにこう言われました。(クリスチャンとして、あなたが神様の祭司であることを思い出してください。)

「私はあなたを清め、製錬します。」

けれども、神様はこう言われました。

「わたしは、さばきのため、あなたがたのところに近づく。

わたしは、ためらうことなく証人となり、呪術者、姦淫を行なう者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人をしいたげ、やもめやみなしごを苦しめる者、在留異国人を押しのけて、わたしを恐れない者たちに、向かう。――万軍の主は仰せられる――」(3:5)

つまり、「裁きの日が来ます。罪を犯す者はすべて裁かれます。だから、もう一度私は尋ねます。あなたはその日のために準備ができているでしょうか。」

だから、人が神様の正義を疑う時、こう伝えてください。

「まず、あなたが何を言っているかをよく考えてみてください。あなたは神様がすべての悪を取り除くことを望んでいますか。

もし、あなたの中に小さな悪があったとしても、それも取り除かれるべきです。

あなたは完全な人間ですか。過去に悪いことをしたことがありませんか。あなたは自分自身が裁かれることを本当に望むのでしょうか。」

では、なぜ神様はまだこの世を裁いていないのでしょうか。それは、神様が可能な限り多くの人々が悔い改めることを待っておられるからです。

だから、神様はこう言われます。

主であるわたしは変わることがない。ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない。

あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。(3:6-7)

つまり、「あなたたちは、長い間ずっと私の命令を破り続けてきました。そのため、本来ならあなたたちはすでに裁かれ、滅びていたはずです。

しかし、私は忍耐強く、憐れみ深い神であるがゆえに、あなたたちはまだ滅びていないのです。

ただし、私の忍耐を不正義と混同してはなりません。裁きの日は必ずやって来るのです。」

あなたはその日のための準備ができていますか。

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ゼカリヤ書

救い主を拒絶すると

神様は比喩を好まれます。だから、イエス様はたとえ話をよく使われました。預言者たちも比喩やたとえ話をよく用いました。この箇所では、その一つの例があります。

神様はイスラエルの没落を森の木が倒れることに比べられます。

レバノンの森は主の宮を表します。なぜなら、その宮はレバノンの木材で造られたからです。(ゼカリヤ書11:1)

バシャンの樫の木もヨルダンの茂みも荒らされました。つまり、イスラエルのすべてが倒れます。ヨルダン川の東の所も(バシャン)、ヨルダン川の西の所も倒れます。

どうしてでしょうか。それは、イスラエル人がそのメシア、つまり救い主を拒絶したからです。

そのことを表すために、ゼカリヤは羊飼いの役割を取りました。

神様はゼカリヤにこう言われました。

ほふるための羊の群れを養え。(ゼカリヤ書11:4)

その羊はイスラエルを表します。彼らは神様を拒絶したので、すぐにほふられます。おそらく、その裁きは預言者マラキの時代の後から、ローマ帝国の時代まで起こりました。

そして、そのローマ帝国の時代、突然メシアが来ます。(ゼカリヤはそのメシアを表しました)。

彼は2本の杖を持ちました。「慈愛」という杖は神様のイスラエル人に対する慈愛を表しました。「結合」という杖はイスラエルの一致を表しました。

羊飼いは羊を傷つけた羊飼い(つまり、悪い王と偽の預言者と悪い祭司)を取り除いて、羊を世話しました。

ところが、羊(または、悪い羊飼い)は羊飼いを憎んだので、彼は羊を手放しました。そして彼は自分の慈愛の杖を取り上げて、折りました。

その結果、将来のローマ敵国の天皇ティトゥスは西暦70年にエルサレムを滅ぼしました。その時から1948年まで、イスラエルは国として存在しませんでした。

彼の仕事のために、羊飼いは銀三十シェケルをもらいました。それは奴隷の値段で、羊飼いは侮辱されました。(13節に、「尊い価」と書いてありますが、それは皮肉です。)

そして、羊飼いはそのお金を主の宮の陶器師に投げ与えました。

それはイエス様のことを示しています。イエス様は銀三十シェケルのために裏切られました。そして、祭司たちはそのお金を陶器師の畑を買うために使いました。

将来、もう一人の羊飼いが来ます。しかし、その羊飼いは羊を全然愛しません。おそらく、その人は反キリストです。結局、神様は彼を倒します。(15-17)

この箇所は、イスラエルがメシアを拒絶する結果を示していますが、私たちがメシアを拒絶する結果も示しています。

神様は私たちをサタンからの抑圧から解放するためにメシア、イエス様を送りました。

しかし、私たちがイエス様を拒絶すると、私たちは罪の結果を受け、結局裁かれます。私たちは神様の慈愛を知ることも、神様の家族の一致を知ることもありません。むしろ、私たちは死と破壊を知ります。

ヘブル書の著者はこう書きました。

もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。

ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。

だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。

まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。

私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。

生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。(へブル10:26-31)

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ダニエル書

数えられ、量られた

2章、3章、8章では、ダニエルはバビロンの没落を預言していました。この箇所では、その預言が成就します。

メディヤ・ペルシャの軍隊によってバビロンは包囲されていましたが、ベルシャツァル王は盛大な宴会を開いていました。それはなぜでしょうか。彼らの防御が強固であり、敵軍が絶対に侵入できないと信じていたからです。

ところが、メディヤ・ペルシャの軍隊は、バビロンを流れるユーフラテス川の流れを変え、その川の門を通って侵入することができました。

その間、ベルシャツァルはその事実を全く知らずに、食べたり、飲んだり、自分の神々を賛美したりしていました。さらに、彼は自分のプライドから、自分の神々を賛美する際に、主の宮から持ち出された金の器を使用しました。

すると、突然、ベルシャツァルは驚くべき光景を目の当たりにしました。

すると突然、人間の手の指が現われ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側の所に物を書いた。(ダニエル書5:5)

それを見たベルシャツァルは恐怖に駆られ、呪文師やカルデヤ人、星占いたちを召し出しました。けれども、彼らはその言葉の意味を理解することができませんでした。そのとき、ベルシャツァルの母が騒ぎを聞きつけ、彼にこう言いました。

おびえてはいけません。顔色を変えてはなりません。あなたの王国には、聖なる神の霊の宿るひとりの人がいます。

あなたの父上の時代、彼のうちに、光と理解力と神々の知恵のような知恵のあることがわかりました。ネブカデネザル王、あなたの父上、王は、彼を呪法師、呪文師、カルデヤ人、星占いたちの長とされました。

王がベルテシャツァルと名づけたダニエルのうちに、すぐれた霊と、知識と、夢を解き明かし、なぞを解き、難問を解く理解力のあることがわかりましたから、今、ダニエルを召してください。そうすれば、彼がその解き明かしをいたしましょう。(10-12)

ダニエルが来ると、ベルシャツァルは彼に言いました。

今、もしあなたが、その文字を読み、その解き明かしを私に知らせることができたなら、あなたに紫の衣を着せ、首に金の鎖をかけさせ、国の第三の権力を持たせよう。(16)

ダニエルはその提案を断りましたが、その文字の意味を説明しました。まず、ダニエルはネブカデネザルの話を語りました。神様がネブカデネザルを立てましたが、ネブカデネザルが神様の主権を認めるまで、神様は彼を低くされたのです。

そして、ダニエルはこう言いました。

その子であるベルシャツァル。あなたはこれらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。

それどころか、天の主に向かって高ぶり、主の宮の器をあなたの前に持って来させて、あなたも貴人たちもあなたの妻もそばめたちも、それを使ってぶどう酒を飲みました。

あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。(22-23)

そして、ダニエルはその文字を説明しました。

『メネ』(つまり、数えられたという意味です)とは、神があなたの治世を数え、それを終わらせられたということです。

『テケル』(つまり、量られたという意味です)とは、あなたがはかりで量られ、目方の足りないことが判明したということです。

『パルシン』(つまり、分割されたという意味です)とは、あなたの国が分割され、メディヤとペルシャに与えられるということです。

その晩、ベルシャツァルの治世は終わりを迎えました。彼は自分の約束を守りましたが、ダニエルの新しい立場はわずか数時間しか続きませんでした。

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

ベルシャツァルの日と同様に、私たちの日も数えられています。私たちはほんの短い間、この世に住みます。

しかしその後、私たちの人生は量られるのです。私たちの行いに基づいて、神様が私たちを裁かれます。もし、私たちの目方が足りないなら、私たちはすべてを失います。

つまり、もしベルシャツァルのように、自分の心を神様の前に低くせず、神様に栄誉を帰さず、イエス様とその十字架の働きを拒絶した場合、あなたは永遠に裁きを受けることになります。

ヨハネはこう書きました。

神を信じない者は、神を偽り者とするのです。

神が御子についてあかしされたことを信じないからですそのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。

御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(第一ヨハネ5:10-12)

あなたは、もうクリスチャンになったでしょうか。神様は私たちの行動に基づいて裁かれます。ですから、私たちは自分自身のためにではなく、神様の御国のために生きるべきです。

ですから、パウロはこう言いました。

そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。

というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。

というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。

もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。(第一コリント3:10-15)

ですから、モーセのように祈りましょう。

私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。。。

それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(詩編90:10,12)

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エレミヤ書

無駄な希望

ゼデキヤは私が理解しがたい人物です。彼はユダの最後の良い王、ヨシヤの息子でした。だから、ゼデキヤには良いロールモデルがありました。

さらに、彼は兄弟エホアハズ、エホヤキム、そして甥エホヤキンの失敗を目の当たりにしました。

それでも、ゼデキヤはヨシヤの道を歩まず、兄弟たちと甥の道を選び、神様に背きました。

とはいえ、ある程度、彼はエレミヤを尊敬していました。そのため、何度もエレミヤに相談しました。けれども、首長たちはエルサレムに対する裁きの預言に飽き、彼らはエレミヤに言いました。

「あなたはカルデヤ人のところへ落ちのびるのか。」(エレミヤ書37:13)

エレミヤはそのことを否定しましたが、彼らはエレミヤを捕らえ、打ちたたいて牢に入れました。ゼデキヤはそのことを聞いても、何もしませんでした。

それでも、彼はエレミヤに相談し続けました。その後、首長たちはエレミヤについて文句を言い続けたので、ゼデキヤは彼らに言いました。

今、彼はあなたがたの手の中にある。王は、あなたがたに逆らっては何もできない。(エレミヤ書38:5)

だから、彼らはエレミヤを穴に投げ込み、エレミヤは泥の中に沈みました。

幸いなことに、勇気のある人がゼデキヤに面と向かって訴えたため、ゼデキヤはエレミヤを監視の庭に連れて行きました。

ゼデキヤは本当に弱い人でした。

私が知りたいのは、どうしてゼデキヤが何度もエレミヤに相談したのかということです。彼は決してエレミヤの言葉に従いませんでした。エレミヤ37:2には、こう書いてあります。

彼も(つまり、ゼデキヤ)、その家来たちも、一般の民衆も、預言者エレミヤによって語られた主のことばに聞き従わなかった。

私には分かりませんが、ゼデキヤは神様のご意志が変わることを望んでいたのかもしれません。

彼は自分の道を歩み続けたいと思っていたので、彼の願いは、神様が彼を救い、なおその道を歩み続けることを許してくださる、というものでした。

けれども、それは無駄な希望でした。

もちろん、時には、裁きに関して神様のご意志が変わることがあります。

しかし、エレミヤ18章に書かれているように、一つの条件があります。それは悔い改めです。

ゼデキヤは決して悔い改めませんでした。むしろ、彼は言い訳をしました。

エレミヤは彼に言いました。「バビロン人に降伏しなさい。そうすれば、あなたは生きる。」

けれども、ゼデキヤは答えました。

私は、カルデヤ人(バビロン人)に投降したユダヤ人たちを恐れる。カルデヤ人が私を彼らの手に渡し、彼らが私をなぶりものにするかもしれない。(エレミヤ書38:19)

エレミヤは説得しようとしましたが、ゼデキヤはその言葉を受け入れられませんでした。

あなたはどうでしょうか。罪にしがみついたまま、「全てがなんとなく良くなる」と希望していませんか。

神様があなたを裁かず、憐れみを示してくださることを願いながら、自分の道を行き続けていませんか。

それは無駄な希望です。罪にしがみつき、自分の道を行き続けるなら、裁きが来ます。悔い改めなければ、裁きは必ず訪れます。

しかし、もし悔い改めるなら、神様はあなたを赦し、癒してくださいます。

それでも、この世では罪の結果を受けることがあるかもしれません。けれども、神様はあなたを確かに赦してくださり、癒しの働きを始めてくださいます。

あなたはどう選びますか。

無駄な希望を持ち続けますか。

それとも、悔い改めから生まれる希望を求めますか。

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エレミヤ書

一時的な悔い改め

いつ34章の事件が起こったか分かりませんが、32-33章の前に起こったと思います。なぜなら、32-33章では、エレミヤは牢にいたからです。

最初に、エレミヤはゼデキヤ王に警告しました。「ネブカデネザルはエルサレムを倒すけれど、ゼデキヤは剣で死なない」と言いました。

おそらく、その言葉によって、ゼデキヤとユダ人たちはある程度まで悔い改めました。その時まで、彼らはずっと自分の兄弟を奴隷にしていました。

神様の律法によると、7年ごとに、彼らはその奴隷を解放するべきでした。(その時代、負債の問題によって、多くの人々は自分自身を奴隷として売りました。)けれども、彼らはその律法をずっと破り続けました。

そのため、バビロン人が来て、またユダ人がエレミヤの警告を聞いたので、ゼデキヤとユダ人は神様との契約を結びました。つまり、彼らはすべての奴隷を解放することを約束しました。そして、彼らはその約束を守りました。

しかし、その悔い改めは一時的なものでした。

事件のタイミングははっきり分かりませんが、恐らく彼らがその奴隷を解放した直後に、ネブカデネザルとその軍隊はエジプト人と戦うためにエルサレムの包囲を解きました。(エレミヤ書34:21)

ネブカデネザルが行ってしまったので、ユダ人は自分たちの約束を破り、解放された奴隷を勝手に連れ戻し、もう一度奴隷にしました。そのため、神様は裁きを宣言されました。

わたしはまた、ユダの王ゼデキヤとそのつかさたちを敵の手、いのちをねらう者たちの手、あなたがたのところから退却したバビロンの王の軍勢の手に渡す。見よ。わたしは命じ、――主の御告げ――

彼らをこの町に引き返させる。彼らはこの町を攻め、これを取り、火で焼く。わたしはユダの町々を、住む者もいない荒れ果てた地とする。』」(エレミヤ書34:21ー22)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。時々、人々は困って神様に向かい、悔い改めます。神様は彼らを赦し、彼らの人生に働きかけて癒されます。

けれども、全てが上手くいくと、彼らは神様の恵みを忘れ、自分の道に戻ります。その結果、彼らは再びトラブルに巻き込まれて苦しみます。

彼らは自分の救いを失うことはありませんが、この世でその罪の結果を経験します。

あなたはどうでしょうか。悔い改めて癒されたのに、また古い道に戻ってしまっているでしょうか。

その道に戻らないでください。むしろ、罪から避け、神様に従いましょう。そうすれば、あなたは神様の祝福を受けることができます。

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エレミヤ書

ジーニーじゃない

エゼキエルがいるバビロンからエルサレムに戻りましょう。ネブカデネザルはエルサレムの包囲を始めていました。

その時、ゼデキヤ王がパニックになり、それまでずっとエレミヤの裁きについての警告を無視していたにもかかわらず、エレミヤにメッセージを送りました。「私たちのために祈ってください。」

ゼデキヤはこう言いました。

どうか、私たちのために主に尋ねてください。バビロンの王ネブカデレザルが私たちを攻めています。

主がかつて、あらゆる奇しいみわざを行なわれたように、私たちにも行ない、彼を私たちから離れ去らせてくださるかもしれませんから。(エレミヤ書21:2)

これを読んだ時、私はアラジンのジーニーの話について考えていました。ゼデキヤ王は神様をジーニーとして考えていたからです。

ジーニーをランプに入れて物置に置いておき、普段はそのジーニーについて考えないけれど、トラブルが起こるとそのジーニーを呼んで助けを頼む、という話です。

でも、神様はジーニーではありません。神様はゼデキヤにこう言われました。

「私は助けてあげません。私はあなたに反対しているからです。私はあなたをネブカデネザルの手に渡します。彼はあなたを『惜しまず、容赦せず、あわれまない。』」(3-7)

それでも、神様はゼデキヤに一つの希望を与えてくださいました。

彼は裁きを避けることはできませんでしたが、死を避ける可能性はありました。そのためには、ゼデキヤは一つのことをしなくてはなりませんでした。つまり、神様に信頼することです。また、神様の言葉に従うことです。

神様はゼデキヤにこう言われました。

「あなたは、この民に言え。主はこう仰せられる。「見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。

この町にとどまる者は、剣とききんと疫病によって死ぬが、出て、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者は、生きて、そのいのちは彼の分捕り物となる。

なぜならわたしは、幸いのためにではなく、わざわいのためにこの町から顔をそむけるからである。――主の御告げ――

この町は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼くであろう。」」(8-10)

つまり、「あなたが今まで私に信頼していないけれど、今私を信じてください。あなたは裁きから逃げられません。バビロン人(つまり、カルデヤ人)にくだるのは怖いかもしれませんが、そうすれば、あなたは生きるのです。」

そして、神様はゼデキヤにこう言われました。「あなたの民に正義を与えなさい。あなたのプライドを捨てなさい。今まであなたがそのことをしていないので、裁きが来ました。」

しかし、ゼデキヤは神様の言葉に従いませんでした。神様がゼデキヤのジーニーのように答えられなかったので、ゼデキヤは神様にもう一度背を向けたのです。だから結局、彼の世界は倒れました。

あなたはどうですか。どのように神様を見なすでしょうか。神様をあなたのジーニーと見なすでしょうか。もしくは、あなたの神として認めるでしょうか。

あなたは神様に信頼しているでしょうか。また、神様に従っているでしょうか。

たくさんの人は、自分の道を行くことを幸せだと思います。また、神様が彼らの願いを叶えるなら、彼らは幸せになると思います。しかし、本当の幸せは、神様を認め、神様に信頼し、従うことです。

神様に信頼し、従おう。
イエス様にあって幸せになるため、
他の方法はないから。

ーージョン・H・サミス

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エゼキエル書

裁きの神、憐みの神

私は以前にも言いましたが、預言書を読むのは時々少し辛いものです。なぜなら、預言者のメッセージの大部分が裁きのメッセージだからです。

この箇所もそうです。イスラエルの長老たちは主に助言を求めるためにエゼキエルのもとを訪れました。しかし、彼らは心から主を求めてはいませんでした。

そこで、神様はエゼキエルにこう言われました。「彼らのために私からのメッセージはありません。

ただし、もしあなたが良ければ、彼らに自分たちの歴史を思い出させ、彼らの罪について気付かせてください。そして、どうして私が彼らに直接語らないのかを教えてください。」(エゼキエル書20:4-32)

それにもかかわらず、この箇所にはある重要な真理が繰り返し現れています。つまり、神様は憐れみ深い神です。神様がイスラエルの歴史について語られる際には、その真理が幾度となく現れます。

イスラエルの人々は何度も神様に反抗しましたが、神様は彼らを完全に滅ぼすことはされませんでした。むしろ、神様は彼らに憐れみを与えてくださったのです。

それは彼らの行動のゆえではなく、神様ご自身が憐れみ深いお方だからです。

何度も神様はこう言われました。「私の名のためにあなたを滅ぼさなかった。周りの国々が、たとえあなたが忠実でなくても、私が忠実であることを知るために、私はあなたを諦めなかった。

周りの国々が私が憐れみ深い神であることを知るために、私はあなたの罪を赦した。」

そして、イスラエルの人々が悔い改めるその日に、

わたしが、あなたがたの悪い行ないや、腐敗したわざによってでなく、ただわたしの名のために、あなたがたをあしらうとき、イスラエルの家よ、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。――神である主の御告げ――」(エゼキエル書20:44)

ダビデはこう書きました。

私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。(詩編103:10)

私はこの素晴らしい真理に喜びます。私は神様の裁きを受けるに値する者です。それでも、神様がイスラエルに憐れみを与えられたように、神様は私にも憐れみを与えてくださいます。

神様は私を暗闇の王国から救い出し、光の王国へと導いてくださいました。そのことを心から神様に感謝します。

神様、あなたが私の罪に従って私を扱われないことに感謝します。あなたは私を赦し、毎日私を新しく変え続けてくださっています。

どうか私が自分の罪を憎む者となれますように。そして、私があなたのように変えられますように。

さらに、あなたが私に憐れみを与えてくださったように、私も周りの人々に憐れみを示すことができますように。アーメン。

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エゼキエル書

神の御前に申し開きするとき

この箇所では、私たちは重要な真理を学ぶことができます。すなわち、私たち全員がいつか神の御前で申し開きをしなければならないということです。

エゼキエルの時代、イスラエルの人々はこのことわざを引用して、文句を言いました。

父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。(エゼキエル18:2)

つまり、「私たちは先祖の罪のために苦しんでいます。どうして私たちは、彼らの罪のために罰されているのでしょうか。」

けれども、神様は彼らにこう答えられました。

わたしは誓って言う。――神である主の御告げ――あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。

見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。(3-4)

時々、私たちは両親の罪や他の人の罪によって被害を受けることがあるかもしれません。それでも、私たちすべての人間は、自分の行動に対して責任を持たなければならないのです。

例えば、両親に虐待された人がいるかもしれません。その両親の行動によって、彼らは肉体的にも精神的にも苦しむことになります。

とはいえ、それに対する反応は自分自身の責任です。彼らは自分の子供に対して両親の罪を犯し続けるでしょうか。それとも、その罪を止めるでしょうか。

神様はイスラエルの人々に対して多くの仮定の質問をされました。

「もし、正しい人に悪い息子がいたら、私はその息子を正しい人として認めるでしょうか。違います。私はその息子を父の行動のために祝福せず、彼を罰します。」(5-13)

「しかし、悪い人に息子がいる場合、その息子が父の罪を見ても、彼はその罪を拒絶して正しい人生を歩むなら、私はその息子をその父の罪のために罰するでしょうか。

違います。その父は自分の罪のために死にますが、その息子は生きます。」(14-18)

また、「もし悪い人が悔い改めて正しいことをし始めたなら、その人は以前の罪のために死ぬでしょうか。違います。私はその人を赦し、哀れみます。」(21-22)

けれども、「正しい人が義の道から離れてしまったら、その人は生き続けるでしょうか。違います。その人は死にます。」(24)

ユダの王たちの歴史を見ると、このパターンをよく目にします。

例えば、アサ王は義の道から離れ、罪を犯し始めたため、苦しみの中で死にました。

しかし、彼の息子ヨシャパテは父の罪から離れ、良いことを行ったので、神様に祝福されました。

けれども、ヨシャパテの息子ヨラムは父の義の道から離れたため、苦しみの中で死を迎えました。

また、別の王であるマナセは、良い父を持っていましたが、罪を犯したために罰を受けました。しかし、彼は悔い改めたので、神様に赦されたのです。

神様のポイントは何でしょうか。

――神である主の御告げ――

悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。

あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。

イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ――

だから、悔い改めて、生きよ。(30-32)

つまり、神様はこう語られているのです。

「自分の行動に責任を持ちなさい。自分の罪を認めなさい。他の人をあなたの罪の責任者として責めるのはやめなさい。

彼らもそれぞれ、自分の罪について申し開きをしなければなりません。けれども、あなた自身もまた、自分の罪について申し開きをしなければならないのです。

ですから、彼らをあなたのトラブルの原因として責めるのではなく、悔い改めなさい。そして、私に新しい心と新しい霊を求めなさい。

なぜなら、私は誰かが死ぬことを喜ぶ神ではないからです。」

その前に神様はこう言われました。

わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ――

彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。(23)

あなたはどうでしょうか。あなたのトラブルを他の人のせいにして責めていませんか。あなたの罪の結果について相手を責めていませんか。

確かに、彼らにはある程度の責任があるかもしれません。とはいえ、神様の御前で彼らを責めることは、あなた自身を助けることにはなりません。

ですから、自分の心を見つめ、自分の罪に目を向けましょう。そして、悔い改めましょう。そうすれば、神様はあなたを赦し、癒してくださいます。

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エゼキエル書

隠れたものを見ておられる方

時々私たちは「神様は私たちが何をしているかご存じだろうか」と考えます。また、「神様は私のすることを気にされるだろうか」と思うことがあります。

けれども、この箇所で神様はこう言われます。「もちろん、私はあなたの行動に気づき、それを気にしています。」

この幻で、エゼキエルはエルサレムに連れて行かれ、そこで多くの罪を目撃しました。

彼は、主の宮の内庭で偶像を見ました。また、70人の長老たちが偶像を礼拝しているのを見ました。

エゼキエルが宮の門に戻ると、彼は地力と雨の神タンムズの前で泣いている女性たちを見ました。そして、太陽を礼拝している男性たちも目撃しました。

どうして彼らはそのような罪を犯したのでしょうか。それは、彼らがこう言ったからです。

主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた。(エゼキエル書8:12)

だから、神様は彼らを裁かれました。

しかし、神様は隠れた悪だけを見ておられるのではありません。神様はご自身を愛する者たちのことも見ておられます。それゆえ、神様はある男(おそらく天使)にこう言われました。

町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。(エゼキエル書9:4)

そして神様はエルサレムの人々を裁かれましたが、しるしが付けられた人々を救い出されました。

私たちはここから何を学ぶことができるでしょうか。他の人々が気づいていなくても、神様は私たちのすべての行動をご存じです。

私たちの罪は神様から隠れることがありません。そのため、いつか神様はすべての罪人を裁かれるのです。

とはいえ、もしあなたが神様に従い、この世の悪を見て心を痛めたとしても、失望しないでください。

この世では一時的に悪が支配しているように見えるかもしれませんが、最終的には神様が正義によってこの世を裁かれるのです。

その時、神様は私たちを覚えてくださり、救い出してくださいます。

さらに、神様は私たちに報いを与えてくださるのです。

主よ。あなたがすべてを見てくださることを感謝します。あなたの目から隠れるものは何一つありません。

私が人と一緒にいる時も、一人でいる時も、私の人生が清いものとなりますように。私がどこにいても、だれと一緒にいても、私の人生があなたを喜ばせるものとなりますように。アーメン。

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エゼキエル書

終わり

私が子供の頃、キカイダーというスーパーヒーロー番組を見ていました。最近キカイダーの映画が上映されて、私は驚きました。(私はその映画を見る興味はありませんが。)

さて、キカイダーはいつも怪獣と戦い、最後に「電磁エンド!」と叫びながらその怪獣を倒していました。

その時、英語の字幕はいつも「The end」とだけ表示されていました。(どうして「電磁」を翻訳しなかったのでしょうね。)

では、なぜ私はこのちょっと可笑しい話について話しているのでしょうか。それは、この箇所で神様がイスラエル人に同じようなメッセージを語られたからです。

「電磁エンド」とは言われませんでしたが、「終わりが来る」と語られました。

神様はこう言われました。

終わりが来る。その終わりが来る。あなたを起こしに、今、やって来る。この地に住む者よ。あなたの上に終局が来る。その時が来る。その日は近い。

しかし、山々での歓声の日ではなく、恐慌の日だ。今、わたしはただちに、憤りをあなたに注ぎ、あなたへのわたしの怒りを全うする。

わたしはあなたの行ないにしたがって、あなたをさばき、あなたのすべての忌みきらうべきわざに報いをする。(エゼキエル書7:6-8)

つまり、「あなたの終わりが来る。あなたは何度も私に逆らった。けれども、裁きの日が来て、バビロン人が来て、あなたを滅ぼすだろう。」

この箇所を読むと、神様からの裁きについていくつかのことを学ぶことができます。

1つ目は、私たちが自分の罪によって裁かれるということです。

これまで、神様があなたを罰していないからといって、あなたは裁きが決して来ないと思うかもしれません。しかし、裁きの日には、神様は私たちの罪をすべて思い出し、私たちを罰されます。

2つ目は、神様の愛は裁きを止めるものではないということです。

神様はイスラエル人にこう言われました。

わたしはあなたを惜しまず、あわれまない。わたしがあなたの行ないに仕返しをし、あなたのうちの忌みきらうべきわざをあらわにするとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。(4)

多くの人は尋ねます。「もし神様が愛の方であるなら、どうして神様は人を地獄に行かせるのでしょうか。」

確かに神様は愛の神ですが、同時に正義の神でもあります。神様は清いお方であるため、罪を罰さなければなりません。

さらに、神様は罪を全く耐えることができません。そのため、罪によって汚された人は神様と交わることができません。そしてその罪のゆえに、人は神様から離れなければなりません。

それが地獄です。地獄とは神様から離れた存在のことです。

神様から離れると、私たちには絶望しか残りません。神様は私たちがそのような状態になることを望んでおられませんが、それでも私たちが神様に背を向ければ、そのような人生以外に道はありません。

3つ目は、私たちがこの世でどれほど多くの物を集めても、裁きが来るということです。

私たちはお金や持ち物で自分の救いを買うことはできません。神様はイスラエル人についてこう言われました。

 彼らは銀を道ばたに投げ捨て、彼らの金は汚物のようになる。

銀も金も、主の激しい怒りの日に彼らを救い出すことはできない。(19)

あなたが物を集めても、土地を買っても、お金を儲けても、裁きの日にはそれらすべてが無駄になります。

そして最後に、私たちは知っていることによって裁かれます。私たちが知らないことによっては裁かれません。神様はイスラエル人にこう言われました。

わたしが彼らの行いにしたがって彼らに報い、彼らのやり方にしたがって彼らをさばくとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」(27)

彼らの行い、つまり、彼ら自身の基準によって、神様はイスラエル人を裁かれました。

どの国にも、その国独自の基準があります。すべての国には、自国の法律があり、またそれぞれの道徳法則があります。

時には、それらの法律や道徳法則が神様の律法と異なることもあります。とはいえ、私たちの道徳感覚が曇っていても、私たちの心は善悪をおおよそ理解しています。

それにもかかわらず、私たちはその曇った基準に従わないことがあります。だから、人々は自分自身の基準によって裁かれるのです。

裁きの日には、神様は私たちにこう言われます。「あなたにはまったく言い訳がありません。なぜなら、あなた自身の基準によってあなたは裁かれるからです。」

では、私たちにはもう何の希望もないのでしょうか。私たち全員が裁きを受ける運命にあるのでしょうか。

決してそんなことはありません。イエス様はこの世に来て、十字架で私たちの罰を引き受けてくださいました。

だから、もしあなたがイエス様とその働きに信頼を置くなら、あなたの罪は清められます。(第一ヨハネ1:7)

ですから、私たちの罪を捨て、イエス様に心を向けましょう。イエス様にあって私たちには希望があります。

しかし、イエス様との関係がなければ、希望はまったくありません。

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エゼキエル書

真理を学ぶことが遅すぎると

私は子供の頃、レゴでいろんなモデルを作るのが大好きでした。

エゼキエルもモデルを作りましたが、それは決して楽しいものではありませんでした。

彼はエルサレムのモデルを作りましたが、神様はこう命じられました。「それを包囲し、それに向かって塁を築き、塹壕を掘り、陣営を設け、その回りに城壁くずしを配置しなさい」(エゼキエル書4:2)。

さらに、エゼキエルはそのモデルの隣で390日間左わきを下にして横たわるように命じられました。なぜなら、北イスラエル王国が自分の罪のために390年間罰を受けることを象徴していたからです。

その後、エゼキエルは右わきを下にして40日間横たわるように命じられました。それは、ユダ王国が40年間罰を受けることを象徴していました。

それだけではなく、エゼキエルは料理をするために牛の糞でパンを焼き、それを食べました。このため、1年2か月以上、エゼキエルはつらい生活を送りました。(4章)

けれども、エゼキエルを通して、イスラエル人は自分たちがバビロンに追放された理由を知ることができました。また、エルサレムが滅びる理由も理解しました。

さらに、神様はエゼキエルに頭と髭を剃るよう命じられました。430日間の(エルサレムのモデルの)包囲の後、エゼキエルはその髪の3分の1を町の中で焼き、3分の1を町の回りで剣で打ち、3分の1を風に吹き散らしました。

その意味は、生き残るイスラエル人もいれば、死ぬイスラエル人もいることを表していました。(5章)

6章では、神様がイスラエル人を引き続き警告されました。その警告の中で何度も繰り返される表現があります。それは「あなたがたは、わたしが主であることを知ろう」というものです。

つまり、この預言の目的はイスラエル人に真の神が誰であるかを学ばせることでした。彼らが礼拝していた偶像は神ではありませんでした。彼らが拒絶した方が神様だったのです。

けれども、多くのイスラエル人にとって、それを学ぶのは遅すぎました。彼らの心が堅くなっていたため、裁きの日が来るまで真の神を知ることはありませんでした。

現代においても、多くの人々は神様に背を向け、自分の道を歩んでいます。

しかし、いつか彼らは神様の御座の前に立ち、真の神が誰であるかを知ることになるでしょう。けれども、それを知るのが遅すぎたために、彼らは裁きを受けることになるのです。

あなたはどうですか。神様を認めていますか。神様はあなたの王でしょうか。

今神様を認めていないなら、やがて神様の前に立つ時には必ず神様を認めることになります。けれども、その時まで待っていたら遅すぎます。

しかし、今神様を認めるなら、あなたは神様の赦しを知り、真の命を知ることができます。それは天国の命だけでなく、この世での豊かな人生をも知ることです。

パウロはこう書いています。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。。。

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。(ローマ10:9-10,13)

あなたが神様に向かい、イエス様を主と認めることができるように祈ります。

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エゼキエル書

相手が聞こうが聞くまいが

ああ、良かったですね!これは年代順に書かれている本なのですね。😊

エレミヤ書は本当に大変です。いつもあっちこっちに飛ばなくてはならないですから。

さて、エホヤキン王(最後から二番目のユダの王)が捕囚として連れ去られてから5年目に、エゼキエルは預言し始めました。

エゼキエルは、エホヤキンと他のユダ人たちと共にバビロンに追放されました。エゼキエルは祭司の息子で、30歳になり祭司として仕えるはずでしたが、神様は彼を預言者として召されました。

エゼキエルは最初に「ケルビム」という天使を見たようです。

ケルビムは4つの顔を持っていました。それらは人間の顔、獅子の顔、牛の顔、そして鷲の顔です。多くの聖書学者たちは、それらの顔がイエス様を象徴すると考えています。

  • マタイの福音書では、イエス様はユダの獅子として表されました。つまり、イエス様は王です。
  • マルコの福音書では、イエス様は牛として表されました。つまり、イエス様はしもべです。
  • ルカの福音書では、イエス様は人間として表されました。つまり、イエス様は人の子です。
  • ヨハネの福音書では、イエス様は鷲として表されました。つまり、イエス様は神の子です。

ケルビムは神様の全知を象徴しています。(4つの顔が別々の方向を向いていたため、何でも見ることができたのです。)

またケルビムは神様の偏在をも象徴していました。(1つの輪が他の輪の中にあり、どこにでも行くことができました。)

そして、神様が現れ、エゼキエルに語られました。

まず、神様はこう言われました。

人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。

彼らも、その先祖たちも、わたしにそむいた。今日もそうである。彼らはあつかましくて、かたくなである。わたしはあなたを彼らに遣わす。

あなたは彼らに『神である主はこう仰せられる』と言え。彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、彼らは、彼らのうちに預言者がいることを知らなければならない。

人の子よ。彼らや、彼らのことばを恐れるな。

たとい、あざみといばらがあなたといっしょにあっても、またあなたがさそりの中に住んでも、恐れるな。

彼らは反逆の家だから、そのことばを恐れるな。彼らの顔にひるむな。

彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。(エゼキエル書2:3ー7)

神様はエゼキエルに二つのことを言われました。

1つ目は、神様がエゼキエルをイスラエル人に遣わされるということです。

2つ目は、イスラエル人がエゼキエルのメッセージを聞こうが聞くまいが、エゼキエルはそのメッセージを伝えなければならないということです。

神様は私たちにも同じことを言われます。

神様は私たちを周りの人々に遣わしておられます。私たちが神様のメッセージを伝える時、聞く人もいれば、聞かない人もいます。

けれども、彼らが聞こうが聞くまいが、私たちはそのメッセージを伝えなければなりません。

そして、神様はエゼキエルにこう言われました。

あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。(エゼキエル書2:8)

神様はエゼキエルに巻物を与えられました。しかし、その巻物に幸いな言葉は書かれていませんでした。むしろ、「哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった」(2:10)のです。

つまり、それらの言葉は裁きの言葉でした。なぜなら、イスラエル人たちが罪を犯していたからです。

エゼキエルがその巻物を食べると、その言葉は蜜のように甘かったのです。

私たちも神様の言葉を受け入れるべきです。そして、その言葉を味わうべきです。けれども、その言葉を自分のためだけに保つのではなく、周りの人々にシェアしなければなりません。

もちろん良い言葉もシェアすべきですが、警告の言葉もシェアすべきです。なぜでしょうか。

神様はエゼキエルにこう言われました。

人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。

わたしが悪者に、「あなたは必ず死ぬ」と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。

もし、正しい人がその正しい行ないをやめて、不正を行なうなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。

それはあなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のために死に、彼が行なった正しい行ないも覚えられないのである。わたしは、彼の血の責任をあなたに問う。

しかし、もしあなたが正しい人に罪を犯さないように警告を与えて、彼が罪を犯さないようになれば、彼は警告を受けたのであるから、彼は生きながらえ、あなたも自分のいのちを救うことになる。(エゼキエル書3:17ー21)

神様は何を言われているのでしょうか。

私たちは神様の見張り人です。だから、人々に「罪を悔い改めなさい」と伝える責任があります。

彼らが聞いて悔い改めれば、救われます。もし聞かなければ、滅びます。いずれにせよ、その場合、神様は彼らの血の責任を私たちに問われません。

しかし、もし私たちが彼らに警告しないなら、神様は彼らの血の責任を私たちに問われます。

私たちは周りの人々が神様のメッセージにどのように反応するかをコントロールすることはできません。

とはいえ、彼らが聞こうが聞くまいが、神様は私たちにそのメッセージを伝えるように命じておられます。

私たちは友達、同僚、そして家族にこのメッセージを伝えるべきです。そのメッセージを聞いて救われる人もいれば、そのメッセージを聞かずに滅びる人もいます。

しかし、自分自身にこの質問をしてみてください。「私は神様が命じられたことを行っているでしょうか。私は周りの人々に神様の裁きと救いについて伝えているでしょうか。」

あなたはどうですか。

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エレミヤ書

逃げろ

前の箇所では、神様はたくさんの国々を裁いておられました。

この箇所では、神様はその国々を征服したバビロンを裁かれます。つまり、神様は北からの国々であるメディヤとペルシアがバビロンを攻撃し、バビロンが倒れると言われました。

しかし、その裁きの宣言の中で、神様はイスラエル人にこう言われました。「逃げろ。」

何度も、神様はこのようなことを言われました。

バビロンの中から逃げ、カルデヤ人の国から出よ。(エレミヤ書50:8)

また、

バビロンの中から逃げ、それぞれ自分のいのちを救え。(エレミヤ書51:6)

また、

わたしの民よ。その中から出よ。主の燃える怒りを免れて、おのおの自分のいのちを救え。(エレミヤ書51:45)

その命令は、29章の命令とは全然違います。29章で、神様はイスラエル人にこう言われました。

[バビロンで]家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み。。。

その町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。」(エレミヤ29:5ー7)

どうして神様はその命令を変えられたのでしょうか。それは、メディヤとペルシアが来たとき、バビロンの裁きが近づいていたからです。だから、神様はイスラエル人たちに「逃げろ」と命じられたのです。

そのように、私たちはこの世に楽すぎて生きないほうがいいのです。むしろ、私たちは神様に対して柔らかい心を保つべきです。神様がこの世において私たちの希望であることを思い出すべきです。(50:7)

また、神様が私たちの創造者であることを覚えているべきです。神様がすべてをご自身の力と知恵によって造られたことを思い出すべきです。(51:15-16)

さらに、この世に生きる人々のために、裁きの日が近づいていることを覚えているべきです。(51:6、56)

だから、罪の人生を捨てましょう。悪に留まらないでください。むしろ、

遠くから主を思い出せ。エルサレムを心に思い浮かべよ。(エレミヤ書51:50)

将来、私たちは新しいエルサレムに住みます。(黙示録21章1-2)

だから、パウロが言ったように、

こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。

あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。(コロサイ3:1ー4)

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エレミヤ書 オバデヤ書

裁きの理由

なぜ私はエレミヤ書とオバデヤ書の箇所を混ぜているのでしょうか。それは、オバデヤ書を読むと、このエレミヤ書の箇所に似ているからです。

例えば、エレミヤとオバデヤは同じ表現とイメージを使っています。だから、多分オバデヤはエレミヤの言葉を知っていたかもしれません。また、エレミヤはオバデヤの言葉を知っていたかもしれません。

一人の聖書の著者が別の聖書の著者を引用することは珍しいことではありませんでした。

あるいは、神様はオバデヤにこう言われたのかもしれません。「エレミヤの言葉を覚えていますか。彼が言ったことをもう一度書きなさい。」(逆の可能性もあります。)

または、彼らがお互いの預言を知らなかったけれど、神様は彼らに同じメッセージを伝えられたのかもしれません。それも珍しいことではありません。

とにかく、神様はユダの周りの国々を裁いておられます。おそらく、エレミヤ書27ー29章の出来事が起こったとき、この預言が書かれたのでしょう。27ー29章では、エレミヤはその同じ国々に対してネブカデネザルに降伏するよう警告しました。

どうして神様はその国々を裁かれたのでしょうか。神様は3つの理由を示されました。

1.偽物の神を礼拝すること。例えば、モアブ人の神はケモシュでした。またアモン人の神はモレクでした。すべての国々は真の神に背を向けて、自分の神々を礼拝しました。

2.プライドのこと。神様はモアブについてこう言われました。

おまえは自分の作った物や財宝に拠り頼んだので、おまえまで捕らえられ[る]。。。

私たちはモアブの高ぶりを聞いた。実に高慢だ。その高慢、その高ぶり、その誇り、その心の高ぶりを。「わたしは、彼の高ぶりを知っている。――主の御告げ――

その自慢話は正しくない。その行ないも正しくない。」(エレミヤ書48:7、29ー30)

アモンについて神様はこう言われました。

裏切り娘よ。あなたの谷には水が流れているからといって、なぜ、その多くの谷を誇るのか。あなたは自分の財宝に拠り頼んで、言う。「だれが、私のところに来よう。」(エレミヤ書49:4)

神様はエドムにこう言われました。

あなたの心は高慢だ。あなたが鷲のように巣を高くしても、わたしは、そこから引き降ろす。(エレミヤ書49:16)

そして、神様がケダルとハツォルという国について話されたとき、神様はネブカデネザルに命じられました。

さあ、安心して住んでいるのんきな国に攻め上れ。――主の御告げ。。。(エレミヤ書49:30-31)

3.その国々は、憐れみと情けを全然知らなかったこと。イスラエルが倒れたとき、モアブ人はイスラエル人をからかいました(エレミヤ書48:27)。

また、アモン人は追放されたイスラエル人の土地を奪いました(エレミヤ書49:1)。

そして、エドム人はイスラエル人の「兄弟」なのに、イスラエルが攻撃されたとき、エドムは全然助けませんでした。むしろ、イスラエルが倒れたとき、エドム人たちは喜んでいました。(オバデヤ12-13)

(エドムはエサウの子孫でした。イスラエル人はエサウの弟ヤコブの子孫でした。)

偶像礼拝。プライド。情けと憐れみのない心。あなたはそのような罪を犯すでしょうか。

仏壇を拝むでしょうか。もしくは、すべてのことよりもお金を大事にするでしょうか。あなたが一番大事にするものは、あなたの神です。

プライドはどうでしょうか。あなたは何に信頼するでしょうか。自分自身を信頼するでしょうか。それとも神様を信頼するでしょうか。

ナルニア国物語の著者C・S・ルイスはこう言いました。

「プライドは一番悪い罪です。ほかの罪よりも、プライドは私たちを神様から遠ざけるからです。なぜなら、プライドによって、私たちは神様がいらないと思うからです。そのプライドによって、私たちは神様に背を向けます。」

あなたには情け深くて、憐れみ深い心があるでしょうか。パリサイ人と律法学者にはそのような心がありませんでしたので、イエス様は彼らを厳しく批判されました。イエス様はこう言われました。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」

パリサイ人と律法学者は神様を愛していると言いましたが、周りの人々を愛していませんでした。

あなたはどうでしょうか。あなたの周りの人々を愛しているでしょうか。それとも自分自身のことだけを考えるでしょうか。

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エレミヤ書

裁きと懲らしめ

エレミヤはこの箇所を書いた時、ネブカデネザルは周りの国々を脅していました。彼はユダを脅しましたし、エジプトも脅しました。

この箇所では、神様はエジプト人とペリシテ人への裁きについて話しておられます。神様は、エジプトを通してペリシテは倒れるが、バビロンを通してエジプトは倒れると言われました。

神様は国々を裁くために、そのようなパターンをよく用いられます。

けれども、その裁きのメッセージの間に、神様はユダにこう言われました。

わたしのしもべヤコブよ。恐れるな。イスラエルよ。おののくな。見よ。わたしが、あなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から、救うからだ。

ヤコブは帰って来て、平穏に安らかに生き、おびえさせる者はだれもいない。わたしのしもべヤコブよ。恐れるな。――主の御告げ――

わたしがあなたとともにいるからだ。わた しは、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。わたしはあなたを滅ぼし尽くさない。

公義によって、あなたを懲らしめ、あなたを罰せずに おくことは決してないが。(エレミヤ書46:27ー28)

この箇所では、私は、神様がご自身の者と他の人々を区別されることに気づきます。

神様の者でなければ、裁きが来ます。そして、その裁きは確かなものです。

しかし、神様はご自身の者を決して捨てられません。神様は私たちを懲らしめられるかもしれませんが、時にはその懲らしめが非常に厳しいこともあります。

それでも、神様はいつも私たちの悔い改めのために働いておられます。そして、私たちがどんなに失敗しても、神様は私たちと共におられることを約束されます。

あなたの罪のため、神様があなたを罰していると思うかもしれません。また、神様があなたをもう諦めたと思うかもしれません。

しかし、イエス様があなたの主であるならば、あなたは神様の子です。そして、神様はあなたにこう言われます。

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。(へブル13:5)

だから、

主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。

主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。。。

なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(へブル12:5ー6,10ー11)

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エレミヤ書

激しい言葉に反応する

誰も自分が懲らしめられるのを好みません。厳しい言葉を好む人もいません。けれども、その言葉に対する私たちの反応が、私たちの人生を形作ります。

エレミヤはユダの人々に、数多くの厳しい言葉、つまり裁きの言葉を語りました。そのメッセージには常に二つの要素が含まれていました。

「裁きが来る。けれども、もしあなたたちが悔い改めるなら、その裁きを避けることができる。」

エレミヤ書25章で、エレミヤはユダの人々に警告しました。

「あなたたちが悔い改めないなら、バビロンに70年間追放される。」

しかし、エレミヤはユダの人々だけでなく、周囲の国々にも警告しました。

では、彼らの反応はどうだったのでしょうか。それは、決して良いものではありませんでした。

ユダの人々や、その祭司たちや、「預言者たち」がそれを聞いた時、こう答えました。

「あなたは必ず死ななければならない。なぜあなたはそんなことを言うのか。」

彼らはエレミヤの言葉を反逆だと思いました。

幸い、ある長老たちはエレミヤを守りました。彼らはこう言いました。

「ヒゼキヤ王の時代、預言者ミカは裁きの言葉を語ったが、ヒゼキヤ王が悔い改めて神様を恐れたので、神様はユダに憐れみを与えられた。」

ユダの人々はそれを聞いて、エレミヤを解放しましたが、悔い改めなかったようです。

彼らの王エホヤキムの反応も悪かったです。別の預言者ウリヤがエレミヤのように裁きを預言した時、エホヤキムはウリヤをエジプトまで追いかけて捕らえ、ウリヤを殺しました。(エレミヤ書26:20-23)

ある時、エレミヤは書記バルクを神様の宮に送ります。バルクはそこで神様がエレミヤに与えた言葉を伝えました。その後、宮殿の首長たちはバルクの巻き物を持ってエホヤキムのもとへ行き、その巻き物を読みました。

エホヤキムの反応はどうだったのでしょうか。彼はその巻き物を切り裂いて燃やしました。そして、彼はエレミヤを殺そうとしました。

あなたはどうでしょうか。辛い言葉を聞いた時、どのように反応しますか。誰かがあなたに面と向かって罪について指摘した時、無視するでしょうか。それとも怒って、その人を責めるでしょうか。

それとも、その言葉を聞き入れて、悔い改めるでしょうか。

神様は人々を裁くことを望んでおられるのではなく、むしろ私たちが悔い改めることを望んでおられます。そのため、神様は私たちのもとに人々を遣わされます。

私たちが彼らの言葉を拒まず受け入れ、その言葉によって私たちの人生が形作られるならば、その人生はどれほど素晴らしいものになるでしょうか。

あなたなら、どうしますか。

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ゼパニヤ書

主の日

少しエレミヤ書から離れ、ゼパニヤ書に目を向けましょう。ゼパニヤはエレミヤと同時代に生きた預言者です。

ナホム書と同様に、ゼパニヤ書について詳しく説明する時間はそれほど取らないつもりです。理由は、ゼパニヤのメッセージがイザヤやエレミヤのメッセージとほぼ一致しているからです。具体的には、それは裁きのメッセージです。

ゼパニヤ書1章からそのメッセージを知ることができます。

わたしは必ず地の面から、すべてのものを取り除く。――主の御告げ――

わたしは人と獣を取り除き、空の鳥と海の魚を取り除く。わたしは、悪者どもをつまずかせ、人を地の面から断ち滅ぼす。――主の御告げ――(ゼパニヤ書1:2-3)

他の預言者たちと同様に、ゼパニヤはユダの民の偶像礼拝(1:4-6)、澱んだ態度(1:12)、服従の欠如(3:1)、そしてリーダーたちと民の不正義(3:3-4)を厳しく責めました。

そのため、ゼパニヤは来るべき裁きについて警告しました。

主の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る。聞け。主の日を。勇士も激しく叫ぶ。

その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、やみと暗黒の日、雲と暗やみの日、角笛とときの声の日、城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日だ。

わたしは人を苦しめ、人々は盲人のように歩く。彼らは主に罪を犯したからだ。彼らの血はちりのように振りまかれ、彼らのはらわたは糞のようにまき散らされる。(ゼパニヤ書1:14-17)

しかし、ゼパニヤはユダだけを警告したのではありません。その周辺の国々にも警告を与えました(2:14-15)。その理由は、彼らも偶像を礼拝していたからです。それに加えて、彼らは神様が選ばれた国、つまりユダ王国を侮辱し、脅かしました。

この箇所を読むと、パウロの言葉が思い起こされます。

ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。

忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。

患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。(ローマ2:5-11)

パウロはゼパニヤの時代の後に生きていましたが、その言葉はゼパニヤの時代においてもふさわしいものでした。

ゼパニヤのメッセージは、パウロが示した裁きのパターンに一致していました。ユダの民はまず裁かれ、その後、異邦人も裁かれました。

なぜでしょうか。それは、ユダの民が神様の言葉を知っていたからです。他の国々はモーセの律法や預言者の言葉を知らなかったのです。

そして、いつの日か神様は私たちをも裁かれるでしょう。ゼパニヤのメッセージは私たちの時代においてもなお、ふさわしいものと言えます。

恥知らずの国民よ。こぞって集まれ、集まれ。昼間、吹き散らされるもみがらのように、あなたがたがならないうちに。主の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに。主の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに。

主の定めを行なうこの国のすべてのへりくだる者よ。主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。(ゼパニヤ書2:1ー3)

つまり、悔い改めなさい。神様の前にへりくだり、近づきなさい。神様の道を求めなさい。そうすれば、主の日に私たちは救われ、サタンは裁かれるでしょう。そして、イエス様が王としてこの世を治め、災いや悪は完全になくなるのです。(3:15)

その日、私たちは救いを目の当たりにして喜ぶでしょう。しかし、主ご自身が私たちを見て喜ばれるのです。ゼパニヤはこう語りました。

あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。(ゼパニヤ書3:17)

また、

その時、わたしはあなたがたを連れ帰り、その時、わたしはあなたがたを集める。

わたしがあなたがたの目の前で、あなたがたの繁栄を元どおりにするとき、地のすべての民の間であなたがたに、名誉と栄誉を与えよう、と主は仰せられる。(ゼパニヤ書3:20)

ゼパニヤは特にイスラエルの民について語りますが、その日、私たちすべてが神様と共にいるようになります。また、この世は再びエデンの園のような姿を取り戻すでしょう。

その日が待ち遠しいですね。

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エレミヤ書

迷っている人々のために泣くこと

エレミヤは「泣いている預言者」と呼ばれます。この箇所で、私たちはその理由を見ることができます。

時々、私たちは預言者たちの裁きのメッセージを見て、彼らがそのメッセージを伝えるのを楽しんでいると思うことがあります。

しかし、多分エレミヤのように、多くの預言者たちがそのイスラエル人のために泣いたのだと思います。なぜなら、イスラエル人たちは預言者たちの警告に耳を傾けず、裁きの道を歩んでいたからです。

だから、エレミヤはこのように言いました。

私の悲しみはいやされず、私の心は弱り果てている。聞け。遠くの地からの私の民の娘の叫び声を。

「主はシオンにおられないのか。シオンの王は、その中におられないのか」。。。

「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない。」

私の民の娘の傷のために、私も傷つき、私は憂え、恐怖が、私を捕らえた。

乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか。それなのに、なぜ、私の民の娘の傷はいやされなかったのか。。。

ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを。

ああ、私が荒野に旅人の宿を持っていたなら、私の民を見捨てて、彼らから離れることができようものを。彼らはみな姦通者、裏切り者の集会だから。(8:18ー22;9:1ー2)

以前、私は言いましたが、旧約聖書の預言書を読み通すのは少し辛いです。なぜなら、何度も同じメッセージを伝えるからです。つまり、神様の裁きです。

なぜ預言者たちはいつもその裁きのメッセージを伝えたのでしょうか。それは、イスラエル人たちが罪を犯し続けたからです。

そして、彼らは新しい罪を犯していたわけではありません。むしろ、同じ罪を繰り返していました。彼らは自分たちの歴史から全く学びませんでした。

もし、最近あなたが私のブログを読んでいるなら、「ブルースは裁きについて書くのが大好き」だと思うかもしれません。

しかし、実際はあまり好きではありません。神様の愛と恵みについて話す方が、もっと楽しいです。

それでも、聖書の教師として、真実を語らなければなりません。そして、預言者たちのように、私の希望は人々が救われることです。

正直に言えば、私は罪に迷っている人々のためにもっとあわれみ深い心を持つ必要があります。

エレミヤのように、私は迷っている人々のためにさらに涙を流すべきです。彼らの必要を見て、彼らに手を差し伸べるべきです。

もし私たち皆がそのような心を持つなら、どれほどこの世の人々に大きな影響を与えることができるでしょうか。

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エレミヤ書

クロスロード(四つ辻)

私はクロスロードという教会のメンバーです。いろいろな意味で、その名前は本当にふさわしいです。

教会の一番近い駅は乗換場所です。それに、私たちは国際的な教会です。いろいろな国から、人々が私たちの教会に来てくださいます。

また、教会として、私たちは周りの人々に霊的な四つ辻となっています。つまり、人々が私たちの教会に来ると、彼らはイエス・キリストに従うかどうか選択しなくてはならないからです。

もちろん、彼らが初めて来た日には、そのような決断をする必要はありません。けれども、毎週来るようになると、最終的に彼らはご自身でイエス様に従って生きるかどうかを決断するようになります。

エレミヤはユダヤ人たちにそのような決断をするよう促しました。

「神様に従われますか。従われないですか。どうぞ決断してください。」

エレミヤはこう言いました。

主はこう仰せられる。「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。」(エレミヤ書6:16a)

神様は何を言われているでしょうか。

「あなたは選択しなくてはなりません。こちらの方に行くのか、そちらの方に行くのかを決めなさい。

アブラハム、イサク、ヤコブ、そして他の信仰のある人々が歩いた道を求めなさい。それは幸いの道です。その道を行くと、平和を見つけることができます。」

しかし、ユダヤ人たちはこう答えました。

そこを歩まない。(16b)

頑固な心。堅い心。ユダヤ人たちはそのような心を持っていました。

神様はエレミヤや他の預言者たちをユダヤ人たちに警告するために送りましたが、彼らはこう言いました。

「私たちは」注意しない。(17b)

だから、エレミヤはユダヤ人たちについてこう言いました。

私はだれに語りかけ、だれをさとして、聞かせようか。

見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。

見よ。主のことばは、彼らにとって、そしりとなる。彼らはそれを喜ばない。(10)

その結果は?裁きです。

私が昨日のブログを英語で書いた時、Facebookで、そのブログからこの部分を書きました。

「皆は神様の愛とあわれみについて聞くのが好きです。しかし、だれも裁きについて聞きたくありません。」

ある人々は「いいね」とクリックしました。けれども、それを見た時、彼らが私の意味を理解しただろうかと思いました。

私が言いたかったのは、「神様の愛とあわれみは福音の一方だけです。しかし、もう一方があります。つまり、裁きです。」

けれども、ある人々は私の意味を誤解したかもしれません。彼らはこのように思ったかもしれません。

「私たちは神様の愛とあわれみだけを伝えた方が良いです。神様の裁きについて話さない方が良いです。」

偽物の預言者たちや祭司たちはそうしました。神様は彼らについてこう言われました。

彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。(14)

宣教師であるジム・エリオットは、こう祈りました。

私が一つの道の里程標にならないように。むしろ、私が分岐点になるように。人々が私に会うと、彼らがイエス・キリストを見て、イエス様に従うか従わないかを決めるように。

あなたはどうですか。あなたは里程標であるだけでしょうか。それとも、あなたは分岐点でしょうか。

もう一度言います。人々が私たちに初めて会った時、私たちが「今、決めなさい」と言う必要はありません。

しかし、もし私たちと長く知り合っているなら、彼らはその決断のポイントに来るはずです。

彼らがそのポイントに決して来ないのであれば、多分私たちは神様から与えられた仕事を忠実に行っていないのかもしれません。あなたはその仕事をしているでしょうか。

ある人々は福音のメッセージを拒絶するかもしれません。けれども、ある人々はそれを聞いて救われます。だからこそ、神様の福音を伝え続けましょう。

私たちがただイエス様への道を指さすだけで終わらないように。むしろ、私たちが人々をその分岐点に導くように。

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エレミヤ書

自分自身を騙す

この箇所では、エレミヤはユダの民を批判し続けます。最初に、エレミヤはソドムとゴモラをほのめかしています(創世記18章)。

その時、アブラハムはその都市のために祈りました。つまり、もし10人の正しい者がいたら、神様がその都市の罪を赦すように祈ったのです。

神様はその祈りを聞き入れましたが、結局10人さえもいなかったため、神様はその都市を滅ぼしました。

この箇所で、神様はこう言われました。「もし真実を求める者が一人でもいたら、エルサレムを赦します。」

ところが、そのような人は誰一人いませんでした。

その言葉が大げさかどうか分かりません。もちろん、エレミヤは神様を求めました。また、ナホムやゼパニヤなど他の預言者たちも神様を求めました。けれども、彼らはエルサレムに住んでいなかったのかもしれません。

ヨシヤ王も神様を求めましたが、エレミヤがこの箇所を書いた時、ヨシヤはまだ主を求め始めていなかったのかもしれません。

とにかく、この言葉の意味は、神様を求める人々がほとんどいなかったということです。

どうしてでしょうか。なぜなら、誰も神様を恐れなかったからです。神様についてあまり考えず、自分の好きなようにしました。

エレミヤは彼らについてこう言いました。

彼らは主を否んでこう言った。

「主が何だ。わざわいは私たちを襲わない。剣もききんも、私たちは、見はしない。預言者たちは風になり、みことばは彼らのうちにない。彼らはこのようになる。」(エレミヤ書5:12ー13)

今でも、多くの人々はそのように考えます。彼らはまったく裁きを恐れないので、好きなように生きています。

「神様は愛でしょう?神様は決して私たちを裁かないでしょう?神様の裁きについて話す人々は私たちを怖がらせますが、その言葉を気にしない方が良い。」

そのため、彼らはその言葉を無視して、自分を励ます人々の声だけを聞きます。

だからこそ、エレミヤはこう言いました。

預言者は偽りの預言をし、祭司は自分かってに治め、わたしの民はそれを愛している。その末には、あなたがたは、どうするつもりだ。(31)

皆は神様の愛と憐れみについて聞くのが好きです。だれも裁きについて聞きたくはありません。

しかし、その警告を無視するなら、あなた自身を欺いていることになります。なぜなら、裁きは必ず来るからです。

神様はバビロン人を通してユダの民を裁きました。そして、ある日、イエス様はこの世に戻り、生きている人と死んだ人とを裁かれます。皆はイエス様の前で申し開きをすることになります。

あなたはどうでしょうか。自分の道を行き、自分自身を欺き、「裁きは来ない」と思うのでしょうか。

神様は忍耐強い方ですが、最終的には裁きが来ます。もし裁きの警告を無視して悔い改めないなら、その日が来た時、あなたはどうするのでしょうか。

裁きの日のために準備したいなら、悔い改めて、イエス様をあなたの主として受け入れてください。パウロはこう書きました。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ書10:9ー10)

自分自身を欺いてはいけません。裁きは必ず訪れます。手遅れになる前に悔い改めましょう。

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ナホム書

確かな裁き

このブログの英語版を書いているとき、私はこう思いました。

「いつになれば列王記第二と歴代誌第二を読み終えることができるのだろうか。少ししか残っていないけれど、この預言書が邪魔に感じるなぁ。」

おそらく、イスラエル人もそのように感じていたでしょう。

彼らは罪深い生活を続けたいと思っていましたが、預言者たちはその生活を妨げました。だから、イスラエル人は預言者たちが黙ることを望んでいたのです。

けれども、イスラエル人がナホム書を読んだとき、多分慰めを感じたことでしょう。実は、ナホムという名前は「慰め」を意味しています。

ナホム書では、ナホムはイスラエルの敵であるアッシリヤの崩壊を預言しています。具体的には、アッシリヤの首都ニネベの滅亡を預言しているのです。

ヨナ書では、神様がニネベ人たちを彼らの罪のために裁こうとされましたが、彼らはへりくだり、悔い改めました。だから、神様は彼らに憐れみを与えられたのです。

しかし、その後すぐに彼らは再び罪に戻ってしまい、神様は再び彼らを裁こうとされました。今回は、彼らが悔い改めなかったため、裁きが実行されたのです。

この預言書がいつ書かれたのかは誰も知りません。おそらくマナセ王の時代(列王記第二21章)とヨシヤ王の時代(列王記第二22章)の間に書かれたのでしょう。

とにかく、ナホム書の冒頭では、私たちは「怒りの神」を目にします。(もしあなたがそれに違和感を覚えるなら、ここをご覧ください)。

ナホムはこう書きました。

主はねたみ、復讐する神。主は復讐し、憤る方。主はその仇に復讐する方。敵に怒りを保つ方。(ナホム書1:2)

怒りの神ですよね。けれども、第3節にはこうあります:「主は怒るのに遅い神です。」

そのため、ニネベの人々が悔い改めたとき、神様は彼らに憐れみを与えられました。そして、彼らが再び罪を犯し始めたとき、神様は彼らに悔い改める時間を与えられました。

もしナホムがマナセ王の時代にこの書を書いたとしたら、神様はおよそ50年間待たれたことでしょう。

もしヨシヤ王の時代に書いたのだとしたら、神様は約30年間待たれたのではないかと思われます。

けれども、彼らは悔い改めませんでした。だから、神様は彼らに警告を発せられたのです。

主は決して罰せずにおくことはしない方。(1:3)

ナホム書1:2-3を読めば、大体ナホム書のメッセージが分かります。

神様に信頼して従う人にとっては、

主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる。(1:7)

でも、ニネベに関して、ナホムはこう言いました。

しかし、主は、あふれみなぎる洪水で、その場所を滅ぼし尽くし、その敵をやみに追いやられる。(1:8)

また、

王妃は捕らえられて連れ去られ、そのはしためは鳩のような声で嘆き、胸を打って悲しむ。ニネベは水の流れ出る池のようだ。

みな逃げ出して、「止まれ、立ち止まれ」と言っても、だれも振り返りもしない。

銀を奪え。金も奪え。その財宝は限りない。あらゆる尊い品々が豊富だ。

破壊、滅亡、荒廃。心はしなえ、ひざは震え、すべての腰はわななき、だれの顔も青ざめる。(2:7-10)

なぜでしょうか。3章では、ナホムは説明します。

ああ。流血の町。虚偽に満ち、略奪を事とし、強奪をやめない。

むちの音。車輪の響き。駆ける馬。飛び走る戦車。突進する騎兵。剣のきらめき。槍のひらめき。

おびただしい戦死者。山なすしかばね。数えきれない死体。死体に人はつまずく。

これは、すぐれて麗しい遊女、呪術を行なう女の多くの淫行によるものだ。彼女はその淫行によって国々を、その魅力によって諸部族を売った。(3:1-4)

ニネベの人々は何年も周囲の国々を攻撃し、人々を殺し、その財産を奪いました。

なぜでしょうか。それは、彼らが力と富を愛していたからです。また、彼らは偽りの神々を礼拝し、その偶像崇拝を他の国々に広めました。

だからこそ、神様はこう宣言されました。

見よ。わたしはあなたに立ち向かう。。。わたしはあなたに汚物をかけ、あなたをはずかしめ、あなたを見せものとする。

あなたを見る者はみな、あなたから逃げて言う。「ニネベは滅びた」と。

だれが彼女を慰めよう。あなたのために悔やむ者を、どこにわたしは捜そうか。(3:5-7)

彼らの残虐行為があまりにも多かったため、誰一人としてニネベを悼む者はいませんでした。

最後に、ナホムはこう書きました。

あなたの傷は、いやされない。あなたの打ち傷は、いやしがたい。

あなたのうわさを聞く者はみな、あなたに向かって手をたたく。だれもかれも、あなたに絶えずいじめられていたからだ。(3:19)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

それは、裁きが確実に訪れるということです。神様は忍耐強く、憐れみ深いお方です。神様は、おそらく私たちよりも長く人々の悔い改めを待っておられることでしょう。それは、神様が人々の滅びを喜ばれないからです。

しかし、いずれの日か、神様の忍耐にも終わりが来て、裁きが訪れるのです。

ニネベの人々の上に裁きが下されたように、私たちの上にも裁きが訪れます。

ヘブル人への手紙の著者はこう書きました。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。。。(へブル9:27)

あなたは準備ができているでしょうか。

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イザヤ書

神様の前にへりくだっている?神様の前に低くさせられる?

今日、やっとイザヤ書を読み通すのを完成しました。

この箇所では、神様は正しい者と悪者の区別を説明しておられます。

正しい者とはどのような人でしょうか。

神様はこう言われます。

わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。(イザヤ書66:2)

正しい者はへりくだっています。

その人はすべてのことを知らないことを認めます。その人は自分の罪と弱さをよく知っています。そして、罪を犯すと、すぐに悔い改めます。

さらに、その人は神様の言葉を軽く考えず、その言葉におののきます。なぜなら、その言葉は命の言葉だからです。

悪者とはどのような人でしょうか。神様はこう言われます。

実に彼らは自分かってな道を選び、その心は忌むべき物を喜ぶ。。。

わたしが呼んでもだれも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの喜ばない事を彼らが選んだからだ。」(3-4)

悪者は神様の言葉を侮ります。彼らはその言葉がもう時代遅れだと思います。そのため、神様の言葉を無視し、罪を犯します。

それだけではなく、彼らは神様に従う者をからかいます。けれども、結局彼らは恥ずかしい思いをし、その罪の結果を受けます。(5、6)

その一方、正しい者は喜びます。彼らは神様からの平和と慰めと満足と祝福を知っています。(10-14)

そして、神様は追放から戻ったイスラエル人についてこう言われました。

[彼らを]諸国に遣わす。。。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。

彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として。。。わたしの聖なる山、エルサレムに連れて来る。。。

わたしは彼らの中からある者を選んで祭司とし「ます」。(19~21)

そのように、私たちクリスチャンは神様の栄光を国々に伝えるべきです。私たちは人々を神様に導くべきです。そうすれば、私たちが触れた人々も神様の祭司としもべになります。

しかし、もう一つのことを覚えていなくてはなりません。裁きの日に、天と地が新しくなり、皆は神様の前に平伏します。(23)

その日、あなたは、へりくだって神様の前に来るでしょうか。それとも、神様の前に低くさせられるのでしょうか。へりくだって、悔い改めた心のある人々に、神様は赦しといつまでも続く名前を与えてくださいます。

けれども、神様に背いた人々は低くされます。イザヤは彼らについてこう言われました。

そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる。(24)

だから、その日が来る前に神様の前にへりくだりましょう。そうすれば、あわれみを知ることができます。そうすれば、永遠の命を知ることができます。

他の方法はないのです。

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イザヤ書

救いの神、裁きの神

福音は両刃の剣です。福音は始めからそのようなものでした。

イエス様を受け入れるなら、福音は救いの方法となります。しかし、イエス様を拒絶するなら、それは裁きに導きます。この箇所では、救いと裁きの両方を見ることができます。

まず最初に、キリストが国々を裁く姿が描かれています。イエス様の着物は、神様に背く人々の血で赤く染められています。彼はこう言われます。

わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。

わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。(イザヤ書63:3-4)

また、

わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。(6)

私たちがイエス様について考える時、だれもその絵を想像したくありません。けれども、パウロはこう言いました。

罪から来る報酬は死です。(ローマ6:23)

とはいえ、この同じ神は、救いの神でもあります。

イザヤは問いかけます。

エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。(イザヤ書63:1)

神様は答えられます。

正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。。。

わたしの贖いの年が来たからだ。わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。

そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。(イザヤ書63:1,4-5)

その言葉は、パウロの言葉に似ています。

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ書5:6-8)

誰も私たちを救えない時、また私たちが自分自身を救えない時、神様は人間としてこの世に来て、私たちの罪のために死なれました。

神様は私たちが良い人になるまで待っておられませんでした。なぜなら、私たちは自分自身を変えることができなかったからです。

だからこそ、私たちがまだ弱く罪人であった時、イエス様は私たちのために死んでくださいました。

今、私たちがするべきことはただ一つしかありません。それは、神様からの救いの賜物を受け取ることです。それこそが福音です。

しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ書6:23)

救いか裁き。私たち皆は選ばなければなりません。

あなたはどちらを選びますか?

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イザヤ書

裁きと贖い

裁きと贖い。聖書では、この二つのコンセプトを頻繁に目にします。この箇所でも、その二つのコンセプトを見ることができます。

34章では、神様がイスラエルを攻撃した国々を裁き、滅ぼします。

35章では、イスラエルの贖いが描かれています。その贖いはどのように来るのでしょうか。

それは、イエス・キリストを通してやって来ます。

イザヤはイスラエル人を励まします。

弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。

「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」(イザヤ書35:3-4)

「あなたの神は来られる。」

短期的には、神様はアッシリヤ人やバビロン人を裁きに来られました。しかし、神様は救いのためにも来られました。

5-6節で、イザヤはこう言っています。

そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。

そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。(35:5-6a)

バプテスマのヨハネは牢にいた時、自分の弟子たちをイエス様のもとに送り、こう質問しました。「あなたは本当にメシアでしょうか。」

それに対して、イエス様は答えられました。

あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。

目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。(マタイ11:4-5)

多分、イエス様はこのイザヤの箇所を考えておられたのでしょう。イエス様はこう言われました。

「イザヤの言葉を覚えていますか。つまり、神様が来ると、目の見えない者の目が開かれ、耳の聞こえない者の耳が開き、足の不自由な者は鹿のように跳びはねるということです。覚えていますか。

今、それは起こっています。

だから、ヨハネに伝えてください。「あなたの弱い手を強め、あなたのよろめく膝をしっかりせよ。強くあれ。恐れるな。私は来たから。あなたの希望を捨てないでください。」」

ヨハネのように、私たちは時々神様を疑うことがあるかもしれません。私たちの信仰が枯れて、神様が本当に存在するのかを疑い、神様の愛を疑い、神様からの救いが本当に来るのかどうかを迷うことがあります。

しかし、イエス様がヨハネに言われたように、疑いに負けないでください。イエス様にすがってください。イエス様は来られたのです。

そして、イエス様はあなたのところに来てくださいます。イエス様が来られると、

荒野に水がわき出し、荒地に川が流れる。。。

焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり[ます]。。。(イザヤ書35:6b-7a)

そして、ある日、あなたは、

喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。

楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。(イザヤ書35:10)

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ミカ書

神様の怒りと憐れみ

ある人々は「旧約聖書の神」を批判します。(「旧約聖書の神」と「新約聖書の神」は実際には同じ方であるにもかかわらず。)

彼らはこう言います。「旧約聖書の神は憐れみの神ではなく、怒りの神です。」

けれども、そのような主張をする人々は旧約聖書を慎重に読んでいないように感じます。彼らは神様の怒りの例を頻繁に見る一方で、なぜか神様の憐れみの例には目を向けようとしないのです。

(皮肉なことに、その人々が新約聖書を読む際には、神様の憐れみの例をよく見るものの、神様の怒りの例はほとんど見ていないようです。)

このミカ書の箇所では、神様の怒りの例と憐れみの例の両方を見ることができます。9節にはこのように記されています。

私(つまり、イスラエル)は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。(ミカ書7:9)

ある人々はこの箇所を読み、こう言います。「ほら、これが神様の怒りだよ。私が罪を犯すと、神様はすぐに私を罰すると書いてあるじゃないか。」

とはいえ、その箇所の最後の部分にも目を向けてください。

しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。

この箇所を読むとき、私はパウロの言葉を思い起こします。

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ書8:33-34)

このミカ書の箇所とローマ書の箇所に基づくと、神様は私たちの裁判官であるだけでなく、私たちの弁護士でもあるのです。もし私たちがイエス様に属しているなら、イエス様は私たちの隣に立ち、とりなしをしてくださいます。

その時、イエス様はこのように言われることでしょう。

「父よ、私はこの人の罪のためにすでに支払いました。私の血によって、彼の債務は完全に支払われました。」

そして、神様はこう言われます。

「そうだ。それは真実だ。正義は成し遂げられた。あなたの罪は赦され、あなたは自由だ。」

このミカ書の最後の部分は本当に素晴らしいと思います。

あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。

もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。(18-19)

この箇所で描かれる神様の姿が本当に素晴らしいと思います。

神様は私たちの罪のゆえに私たちを踏みつけることはされません。むしろ、神様は私たちの罪そのものを踏みつけてくださるのです。

神様は私たちを鎖で縛り、船から海の深みに投げ入れることはされません。むしろ、神様は私たちの罪を包み、海の深みに投げ入れてくださるのです。

この方こそ私たちの神です。怒りの神であるだけでなく、憐れみの神でもあるのです。

ミカはこう言いました。

昔、私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコブに、いつくしみをアブラハムに与えてください。(20)

神様がヤコブとアブラハムに真実と憐れみを与えられたように、神様は私たちにも真実と慈しみを与えてくださいます。神様はそのように誓われました。(ヘブル6:13-20)

だから、ヨハネはこう書きました。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

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ミカ書

船を揺さぶるな

英語には、「Don’t rock the boat」という興味深い表現があります。

その直訳は、「船を揺さぶるな。」

つまり、「余計なもめ事を起こすな。」

また、「人を怒らせることを言うな。」

普通は、それは良いアドバイスです。

とはいえ、クリスチャンとして、いつもその言葉に従うことはできません。時には、相手が聞きたくないことを言わなくてはならないのです。

けれども、多くのクリスチャンはそうしたくありません。残念なことに、多くの教会もそうしたくありません。

その結果はどうなるでしょうか?神様の言葉、特に福音を正しく伝えないことです。つまり、神様の愛と恵みについてはよく話されますが、罪と裁きについてはほとんど話されません。

しかし、ミカは船を揺さぶることを恐れませんでした。ユダのリーダーたちはその民に正義を与えなかったため、ミカは彼らを責めました。

さらに、ユダの「預言者」たちは人々が聞きたいことだけを語っていたため、ミカは彼らにこう言いました。

預言者たちについて、主はこう仰せられる。彼らはわたしの民を惑わせ、歯でかむ物があれば、「平和があるように」と叫ぶが、彼らの口に何も与えない者には、聖戦を宣言する。

それゆえ、夜になっても、あなたがたには幻がなく、暗やみになっても、あなたがたには占いがない。

太陽も預言者たちの上に沈み、昼も彼らの上で暗くなる。先見者たちは恥を見、占い師たちははずかしめを受ける。彼らはみな、口ひげをおおう。神の答えがないからだ。(ミカ書3:5-7)

そしてミカはこう言いました。

しかし、私は、力と、主の霊と、公義と、勇気とに満ち、ヤコブにはそのそむきの罪を、イスラエルにはその罪を告げよう。(8)

私たちはそのようなクリスチャンにならなければなりません。愛する人々が罪の道を歩んでいるなら、私たちは彼らに警告しなければなりません。

たとえ彼らが怒っても、それは仕方がありません。クリスチャンとしての私たちの責任は、彼らに警告することなのです。

もちろん、「あなたは地獄に行くよ!」と叫ぶ必要はありません。

私が以前述べたように、ある人たちはそのようなメッセージを伝えることが大好きなように見えます。彼らは、まるで人々が地獄で苦しむことを喜んでいるかのようです。

しかし、神様はそのようなことを喜ばれません。神様は涙を流されます。私たちも泣くべきです。

けれども、泣くだけでは足りません。人々に警告しなければなりません。しかしそうすることで、時には船を揺さぶることになるでしょう。

ミカは船を揺さぶりました。幸いなことに、ヒゼキヤ王はこの警告を聞いて悔い改めました(エレミヤ書26:17ー19)。

イザヤもまた、真実を語ることをためらいませんでした。だからこそ、ミカとイザヤ、そして他の預言者たちの働きによって、その社会に影響を与えることができたのです。

あなたはどうでしょうか?船を揺さぶることを恐れていますか?他の人々の反応を恐れて、神様の言葉のすべてを伝えないままでいるのでしょうか?

その言葉とは何でしょうか。それは、イエス・キリストにあって、罪の赦しがあるということです。しかし、その賜物を拒むなら、裁きしかありません。

イエス様のみ名によって船を揺さぶることを恐れないでください。

もちろん、ただ人を怒らせるために船を揺さぶるのではありません。

そうではなく、イエス様の愛をもって、人々が悔い改めて救われるために船を揺さぶりましょう。

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ミカ書

聞きたくない

「それは聞きたくない。」

聖書を読むとき、私たちはどれほどそのような態度を取るでしょうか。つまり、困難に直面しているとき、聖書から何をすべきかが示されているのに、その言葉が好きではないために、すぐに拒絶してしまうのです。

ある友人は、いつも口から悪い言葉を出していました。彼は自分の罪をよく知っていたため、口についての聖書の箇所をいつも避けていました。例えば、箴言やヤコブの手紙を決して読みませんでした。

けれども、ある日、彼が聖書を読んだとき、これまで一度も読んだことのなかった箇所によって、神様がその口の悪さの罪について彼の心を打たれました。幸いなことに、彼は結局悔い改めることができました。

それでも、私たちはしばしば聖書の言葉を避け、その言葉を無視してしまいます。なぜなら、その言葉を聞くことが耳に痛いからです。

イスラエルの民も同じでした。彼らはミカにこう言いました。

たわごとを言うな。(ミカ書2:6)

でもミカは答えました。

そんなたわごとを言ってはならない。恥を避けることはできない。ヤコブの家がそんなことを言われてよいものか。主がこれをがまんされるだろうか。(6b-7a)

つまり、神様の言葉を拒絶してはいけません。「たわごとを言うな」という言葉に神様は我慢できません。そのような態度を取れば、恥を避けることはできないのです。

そしてミカは訊きました。

「これは主のみわざだろうか。」(7b)

3-5節では、神様はいろんな裁きについてイスラエル人に警告しました。そしてイスラエル人たちは訊きました。「その裁きは本当に神様のみわざだろうか。神様は本当に私たちの態度と罪のために私たちを裁くだろうか。」

ミカはその質問に答えませんが、その答えは明白です。「はい。神様は本当にあなたを裁きます。」

もし私たちが罪を犯すと、悪い結果が起こります。悔い改めないと、必ず裁きが来ます。この世では、私たちの罪によって結婚生活が壊れるかもしれません。経済的にも困窮するかもしれません。

とはいえ、この世で何も起こらなくても、私たちが死ぬと神様は私たちを必ず裁きます。その裁きから逃げられません。

しかし、良いニュースもあります。神様は訊かれました。

私のことばは、正しく歩む者に益とならないだろうか。(7c)

もう一度、神様はその質問に答えませんが、その答えも明白です。「もちろんその通りです。」

つまり、神様の言葉は私たちの人生を惨めにするためのものではありません。

むしろ、神様の言葉は私たちに命を与えるものです。神様の言葉は、私たちの人生がうまくいくために必要なものです。つまり、私たちの結婚生活が良いものになり、良い仕事があり、食べ物があり、寝る場所もしっかり確保できるために、神様の言葉が必要です。

とはいえ、たとえそのようなものがなくても、神様に従うと、満足のいく人生を送ることができます。なぜならば、神様との関係があれば、一番大切なものを持つことになるからです。

時には神様の言葉が痛みを伴うこともあります。しかし最終的に、その言葉は私たちを癒すものなのです。

もしその罪の傷を神様の言葉で治療しないと、あなたの傷はもっと悪くなり、その傷によって私たちは滅びてしまいます。

あなたはどうですか?あなたは神様の言葉から逃げているでしょうか?あなたの耳を閉じているでしょうか?

どうかあなたの心を開いてください。あなたの心を柔らかくしてください。神様の言葉は痛みを伴うかもしれませんが、あなたを癒せるのです。

あなたの人生に癒しが始まりますように。

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イザヤ書

一時的な安心、永遠の希望

この預言はドマ(つまりエドム)とアラビヤに対するものです。そして、その預言によって、神様はこの二つの国に将来の裁きについて警告されました。

11節でエドム人は叫びました。「今は夜の何時か。」

つまり、

「私たちは苦しんでいる。いつまでアッシリヤ人の手によって私たちは苦しむのだろうか。」

イザヤの答えは暗いです。「朝が来、また夜も来る。」(イザヤ書21:12)

つまり、アッシリヤから救い出されますが、あなたは少しだけ安心します。アッシリヤは倒れますが、あなたが彼らを倒すわけではありません。そして、アッシリヤ人を倒す人々(つまりバビロン人)によって、あなたの人生はもっと惨めになります。

それは紀元前612-605年に起こりました。

そしてイザヤはアラビヤも、この預言の一年以内に倒れると警告しました。

本当に暗いメッセージです。

とはいえ、この箇所によって私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たち皆は時々辛い時を経験します。私たち皆は時々苦しみます。

この辛い時は来たり、行ったりします。誰でも良い時も悪い時も経験します。

けれども、神様と関係のない人にとっては、結局エドム人とアラビヤ人のように希望がまったくなくなります。彼らは死ぬと、地獄に行って永遠に苦しみます。

しかし、キリストと関係があると、私たちは結局光がある事を知ることができます。パウロはこう記しました。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。。。

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。。。

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。(ローマ8:18、22-23)

パウロは私たちの苦しみは辛いけれど、それは一時的なものだと分かりました。だから、彼の人生には苦しんでもいつも希望がありました。私たちにもその希望があります。

私たちの苦しみは永遠に続きません。

だから、苦しむときには、神様に向かいましょう。神様を仰ぎましょう。

今もなお、聖霊様があなたのために祈ってくださっていることを思い起こしてください。聖霊様が私たちのために祈ってくださっているからこそ、パウロはこのように語ることができたのです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ書8:28)

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イザヤ書

神様が沈黙するとき

時々私たちはこの世の悪を見て、「神様はどこにおられるのだろうか」と思います。

「どうして神様は何もされないのだろうか。何かしておられるのだろうか。神様は悪を見て、気になさらないのだろうか。」

この箇所で、神様はそのような方のようです。「あちこちで恐れられている民」また「力の強い、踏みにじる国」を見ると、神様は言われました。

「静まって、わたしの所からながめよう。」(イザヤ書18:4)

しかし、神様はいつまでもそうされません。むしろ、ある日、

「神様」はその枝をかまで切り、そのつるを取り去り、切り除くからだ。

それらはいっしょにして、山々の猛禽や野獣のために投げ捨てられ、猛禽はその上で夏を過ごし、野獣はみな、その上で冬を過ごす。(5-6)

日本語の翻訳では、「人はその枝をかまで切り。。。」と書いてありますけど、ヘブル語では「彼はその枝をかまで切り。。。」と書いてあります。その「彼」とは神様です。

つまり、今神様が何もしておられないと思うかもしれませんが、結局神様がこの世界を裁かれます。その悪い民を裁かれ、神様とその民に反対する人々を裁かれます。

とはいえ、興味深いところもあります。神様はその敵が悔い改めるように働いておられます。

7節によると、神様とその民に反対して恐れられた人々は、神様を王として従い、贈り物をささげます。

だから、ペテロの言葉を思い出すことが大切だと思います。ペテロはこう書きました。

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。

かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。(第二ペテロ3:9-10)

神様の御心はすべての人々が滅びることではなく、むしろ救われることです。ある日、悔い改めない人々は裁かれます。

しかし、神様は彼らの悔い改めのために待っておられ、その日を伸ばしておられます。

神様の民として、私たちはどのように反応するべきでしょうか。

周りの人々の救いのために祈りましょう。彼らが私たちを憎んでも、彼らが私たちが見つけたキリストにあって命を見つけるように祈りましょう。

神様の子供としてそうするべきではないでしょうか。

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イザヤ書

もっと大変なこと

この箇所によって、私たちはイスラエルのタイムラインのどこにいるかを見ることができます。つまり、イザヤがこの箇所を書いた時に、ユダの王アハズは亡くなったところでした。

とはいえ、29節では、イザヤはアハズの死ではなく、アッシリヤの王の死については書いていませんでした。

多分、ペリシテ人はアッシリヤの王の死について喜んでいました。なぜなら、その王はペリシテ人を苦しめた存在だったからです。

しかし、イザヤはペリシテ人に警告しました。

「この王は死にましたが、あなたの苦しみは終わっていません。むしろ、あなたの苦しみはもっと酷くなります。

そのアッシリヤの王の息子はあなたたちを治め続けますし、飢饉もあなたたちの土地を打ちます。

だから、あなたたちはこの世界から消えて、全く将来の希望はありません。けれども、あなたたちが苦しめたイスラエル人は再びシオンに戻り、安全を知るようになります。」(イザヤ書14:30-32)

私たちはここから何を学ぶことができるでしょうか。

私たちが悔い改めるために、時々神様は私たちを懲らしめられます。

どうして神様は、アッシリヤを通してペリシテ人とイスラエル人を苦しませられたでしょうか。なぜなら、神様はその苦しみを通して彼らが罪を捨てて、神様に向かうことを望まれたからです。

しかし、アッシリヤ人は悔い改めなかったので、滅びました。

実は、イスラエル人も滅びるはずでした。けれども、神様の恵みによって滅びていませんでした。

以前、神様がアブラハムに約束されました。

わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。。。

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。(創世記22:17-18)

つまり、神様はアブラハムの子孫をずっと祝福し、アブラハムの家系を通して、救い主イエス様が来られると約束されました。

イザヤがペリシテ人に対して、もっと大変な裁きについて警告したように、イエス様はある人にもっと大変な裁きについて警告されました。

その人は38年間歩けなかったのですが、イエス様は彼を癒されました。後にイエス様はその人に会って、こう言われました。

見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。(ヨハネ5:14)

つまり、「あなたのけがが悪かったと思ったでしょうか。今癒されて喜んでいるでしょうか。

あなたにはもっと悪い問題があります。それは、あなたの罪です。もし悔い改めなければ、もっと悪いことが起こります。あなたのけがは一時的なものでした。しかし、地獄は永遠に続きます。」

あなたは神様の警告を聞いて、どうするでしょうか。無視するでしょうか。それとも、悔い改めるでしょうか。

神様の警告に注意しましょう。そうすれば、永遠の罰を受けずに、永遠の命を知るようになります。

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イザヤ書

サタンの敗北

この箇所は13章の続きで、バビロンの裁きについてです。

多くの人々はこの箇所がサタンに関するものだと思います。特に12−14節はサタンに関すると思います。

私はそこまで言わないけれども、バビロンの王とサタンは共通点がたくさんありました。

その二人は高い立場を望み、力も持ちたがっていました。その二人は神様のようになろうとしていました。そのために彼らは人々を抑え、囚人として捕えました。

しかし、神様はその二人を打ち倒されました。そして、バビロンの王の治世が終わったように、サタンの治世も終わります。

イザヤは、バビロンの王が倒れたら人々がこう言うと預言しました。

しいたげる者はどのようにして果てたのか。横暴はどのようにして終わったのか。

主が悪者の杖と、支配者の笏とを折られたのだ。

彼は憤って、国々の民を打ち、絶え間なく打ち、怒って、国々を容赦なくしいたげて支配したのだが。全地は安らかにいこい、喜びの歌声をあげている。。。

下界のよみは、あなたの来るのを迎えようとざわめき、死者の霊たち、地のすべての指導者たちを揺り起こし、国々のすべての王を、その王座から立ち上がらせる。彼らはみな、あなたに告げて言う。

「あなたもまた、私たちのように弱くされ、私たちに似た者になってしまった。」(イザヤ書14:4-7、9-10)

そのように、イエス様がこの世にもう一度来られると、サタンは永遠に打ち倒されます。その日、皆は喜び、やっと平和が訪れます。

また、サタンは地獄に落ち、その力はすべて失われます。そして、他の悪人のようにサタンは自分の罪とプライドによって火の池に投げ込まれます。

多くの人々はサタンと地獄について誤解があります。彼らはサタンが地獄の王だと思っています。

しかし、サタンは今地獄にいないし、全く行きたくありません。なぜなら、サタンが地獄に行く時、王として行くのではないからです。サタンは監獄の長としてさえも行きません。むしろ、地獄の囚人として行きます。

バビロンの王が落ちた時に、皆は驚いて言いました。

この者が、地を震わせ、王国を震え上がらせ、世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった者なのか。(16-17)

そのように、サタンが落ちると、皆は驚いて同じようなことを言います。

この箇所によって私たちは何を学ぶことができるでしょうか。サタンと悪霊があなたを攻めるかもしれませんが、彼らの時間は短いです。彼らもそのことを知っています。

ある日、彼らが裁かれ、その日この世の悪は消え、あなたの苦しみも終わります。だから、私たちは希望があります。

あなたは永遠に苦しむことはありません。サタンが永遠にあなたを責め続けることもありません。

イエス様の十字架の働きによって、神様はすでに救いの御業を始めておられます。そして、神様はあなたを罪の力と罪の罰からすでに解き放ってくださいました。

とはいえ、私たちは罪の臨在からまだ救われていません。だから、私たちはまだ苦しんでいます。しかし、その日も来ます。

その日、

彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示録21:4)

だからこそ、試練が来ても失望しないでください。むしろ喜びましょう。なぜなら、イエス様を通して、私たちはもう勝利を得たからです。

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イザヤ書

裁きの日

13章から、神様はいくつかの国に対して裁きを宣言し始められました。

最初に、神様はバビロンを裁かれました。そして、バビロンの裁きを通して、将来の世界の裁きの絵を見ることができます。

イザヤはこう書きました。

見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。

天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。

わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。

わたしは、人間を純金よりもまれにし、人をオフィルの金よりも少なくする。

それゆえ、わたしは天を震わせる。万軍の主の憤りによって、その燃える怒りの日に、大地はその基から揺れ動く。

追い立てられたかもしかのように、集める者のいない羊の群れのようになって、彼らはおのおの自分の民に向かい、おのおの自分の国に逃げ去る。(イザヤ書13:9-13)

「10節を読んだことがあるかなぁ」と思うなら、多分そうです。最後の日について話された時に、イエス様はこの箇所を引用されました。(マタイ24:29)

そして、イザヤははっきりと言いました。「神様の忍耐は永遠に続かない。」

今、私たちは恵みの時代に生きています。ペテロはこう記しました。

主は。。。あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(第二ペテロ3:9)

しかしペテロはこれも言いました。

主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。(第二ペテロ3:10)

イザヤの言葉も私の心を打ちます。つまり、「残酷な日」、「憤り」、「燃える怒り」、「荒れすたらせる」、「根絶やしにする」と「罰する」。

私たちはよく神様が愛であると思います。それはその通りです。とはいえ、神様は正義の神でもあります。そして、正義の神は結局罪を裁かなくてはなりません。

時々、私たちは神様がその裁きに関して遅いと思います。しかし、神様ははっきりと言われます。「裁きの日が来る。」

神様は、バビロンとその王にその警告を宣言されました。また、神様は私たちにも警告されます。

あなたは裁きの日のために準備しているでしょうか。神様があなたの罪を無視されると思わないでください。また、神様があなたの罪に気づかないと思わないでください。

神様は、すべての人々の罪を裁かれます。あなたの悪い行動、あなたの悪い言葉、あなたの悪い態度、あなたの悪い思いを全部裁かれます。

その日は必ず来ます。そして、あなたはその日から逃れることはできません。

私たちの希望は一つしかありません。まだ時間があるうちに、神様の赦しとあわれみを求めることです。その時間は今です。

パウロはこう記しました。

確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

今、そうしませんか。

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イザヤ書

悪の本質

いつイザヤがこの預言を書いたか私は分かりませんが、多分イスラエルの王ペカの治世の時に(列王記第二15:29)、もしくはホセア王の治世の時に書きました。(列王記第二17:3-5)

ペカの治世の時、アッシリアはイスラエルを攻めていました。ホセアの治世の時、アッシリヤはもう一度来てサマリヤを攻めていました。

とにかく、イスラエルは困っていたのに、神様に向かうことを拒絶しました。むしろ、自分のプライドと力によって、砕かれた物を回復しようとしました。

だから、神様は言われました。「あなたがたのプライドと罪のためにあなたがたは追放される。」

その警告の中で、鮮やかなイメージを通してイザヤはイスラエルの悪について話しました。そのイメージを通して私たちが悪の本質を学べると思います。

イザヤはこう記しました。

悪は火のように燃えさかり、いばらとおどろをなめ尽くし、林の茂みに燃えついて、煙となって巻き上がる。

万軍の主の激しい怒りによって地は焼かれ、民は火のえじきのようになり、だれも互いにいたわり合わない。(イザヤ9:18-19)

私は森林火災を見たことがありません。けれども、森林火災が始まると、すぐに広がって木や植木はその火災の燃料になります。結局、灰しか残りません。

悪はそのようなものです。放置されると、悪が広がって、人々は逃げられずにその悪の燃料になります。そして、悪はさらに悪を生みます。結局、皆が滅びてしまいます。

20-21節にこう書いてあります。

右にかぶりついても、飢え、左に食いついても、満ち足りず、おのおの自分の腕の肉を食べる。

マナセはエフライムとともに、エフライムはマナセとともに、彼らはいっしょにユダを襲う。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。(イザヤ書9:20-21)

つまり、悪によって、結局誰も満足することはありません。

時々私たちの望んだことが叶ったら、嬉しくなると思うから罪を犯します。だから私たちの夢を得るために周りの人々を踏みつけます。

またはポルノや姦淫を犯して、私たちの結婚を捨ててしまいます。

また私たちのお金や持ち物の愛によって、周りの人々を傷つけます。

しかし、結局私たちはまだ不満です。それでも、私たちは悪に背を向けずにその道を行き続けます。その結果、周りの人々を傷つけ、私たち自身も滅びてしまいます。

イスラエルとユダはその通りになりました。そして、神様は裁きの日が来ると警告されています。

私たちのために裁きの日が来ます。私たちの行動のために私たちは裁かれます。

だからこそ、堅い心と私たちを滅びる罪を捨ててましょう。むしろ、私たちは悔い改めましょう。そうすれば、私たちが癒されるのです。

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列王記第二

ふたりの主人に仕える?

この箇所は北イスラエル王国の物語の跋文です。

イスラエル人がアッシリヤに追放された後、アッシリヤの王は征服した他の国々の民をイスラエル人の代わりにサマリヤの町々に住まわせました。(サマリヤは北イスラエル王国の首都でした。)

ところが、間もなく、その人々はライオンによって殺されました。そして、アッシリヤの王はこの報告を聞きました。

あなたがサマリヤの町々に移した諸国の民は、この国の神に関するならわしを知りません。

それで、神が彼らのうちに獅子を送りました。今、獅子が彼らを殺しています。彼らがこの国の神に関するならわしを知らないからです。(列王記第二17:26)

この箇所を初めて読んだとき、「本当に主がそのライオンを送られたのだろうか」と思いました。

列王記の著者はそう考えていたのでしょうが、この話を読むと、その考えを受け入れるのは難しいと感じました。

なぜなら、アッシリヤの王が捕らえ移したイスラエルの祭司の一人をイスラエルに送り返し、その祭司がその人々にどのように主を礼拝するかを教えたからです。

そして、それ以降、ライオンが人々を襲うことはなくなったようです。

もちろん、神様は時々人々を裁かれます。また、旧約聖書の時代には、神様が動物を通して人々を裁かれた例も時々ありました。

とはいえ、問題は、サマリヤに送り返された祭司たちが堕落した祭司だったという点です。彼らは本当の祭司ではありませんでした。

ヤロブアム王一世が王位に就いたとき、本物の祭司たちは皆ユダ王国に移ったため、ヤロブアムは自分の意にかなう祭司を任命したのです。

そして、彼らは真の神様の礼拝を教えませんでした。むしろ、金の子牛がイスラエルの神であると教えたのです。

だから、もし神様がそのライオンを送られたのだとしたら、なぜ堕落した礼拝のためにライオンを送るのを止められたのでしょうか。

けれども、さらに考えてみると、一つの可能性として考えられるのは、神様が彼らを罰したものの、彼らの無知によって神様はご自身の怒りを収められたのではないかということです。

イエス様は次のように言われました。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。

しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。

すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12:47-48)

とにかく、その人々は神様について教えられたにもかかわらず、彼らは自分の神々を礼拝し続けました。

だから、私たちはこの矛盾した状況について読むことになります。

彼らは主を礼拝し[た]。(列王記第二17:32)

そして、

彼らは主を恐れているのでもなく、主が、その名をイスラエルと名づけたヤコブの子らに命じたおきてや、定めや、律法や、命令のとおりに行なっているのでもない。(列王記第二17:34)

どのようにしてこの二つの文が同時に正しいと言えるのでしょうか?

この箇所によって、神様はこう言っておられるのだと思います。「二人の主人を礼拝することは、真の礼拝ではありません。」

十戒の最初の命令で、神様は「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」(出エジプト記20:3)と仰いました。

したがって、列王記の著者は、この命令によってその人々を非難したのです。(列王記第二17:34-40)

では、あなた自身はどうでしょうか。主だけに仕えているでしょうか。それとも、二人の主人に仕えようとしているでしょうか。

ある人々にとって、お金が彼らの主人となっています。そのために、イエス様はパリサイ人を非難されました。

しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。

あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(ルカ16:13)

ある人にとっては、自分の持ち物が彼らの主人となっています。また、ある人にとっては、趣味が彼らの主人となっています。

あなたにとって一番大事なもの――それこそが、あなたの神です。

もし神様よりも他のものを優先して仕えるなら、神様はあなたの礼拝を受け入れられません。

そのような礼拝はサマリヤ人の礼拝と同じであり、神様の目には無意味なものになってしまいます。

あなたの主人は誰でしょうか。