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コロサイ人への手紙のデボーション

ただの我慢?神の喜び?

神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。

また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。 (コロサイ人への手紙1:11~12)

日本では、「我慢」ということばが、まるで合言葉のように使われています。

苦しいとき、「我慢しなくちゃ」と言われることがよくあります。

ときには、私たち自身が自分に向かって「我慢しなくちゃ」と言い聞かせることもあります。

でも、私が気づいたのは、パウロがコロサイのクリスチャンたちに、ただ我慢することだけを求めていたわけではないということです。

パウロの願いは、彼らが神の喜びに満たされることでした。

困難のとき、私たちに堅く立つ力を与えるのは、「我慢」ではなく、神の喜びです。

その喜びがなければ、我慢はやがて耐えられない重荷になってしまいます。

私は、ただ我慢するのではなく、神様がしてくださったことを喜びたいのです。

御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。(13~14節)

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申命記のデボーション

神様はあなたのために戦われる

彼らを恐れてはならない。あなたがたのために戦われるのは、あなたがたの神、主であるからだ。(申命記3:22)

「主は、あなたのために戦われる。」

その言葉を読んだとき、私の心にそれが響きました。

私たちの敵と対峙するとき、神様はただ遠くからご覧になるわけではありません。神様は私たちのために戦ってくださいます。

私たちが試練や苦しみに直面するとき、神様は気づいておられないわけではありません。神様は私たちのために戦ってくださいます。

しかし、神様は私たちも兄弟姉妹のために戦うように呼ばれます。

ルベン人、ガド人、マナセ人のように、私たちは安息しているかもしれませんが、兄弟姉妹が苦しんでいるとき、「私には関係ない」とは言えません。

神様のように、私たちは彼らの隣に立ち、戦わなければなりません。

私たちが受けてくださった神の愛を彼らに与えるべきです。

それが信仰の盾を共に持って立つという意味です。

だから、苦しむときは一緒に立ち戦いましょう。

また、神様も私たちのために戦ってくださるという確信を持ちましょう。

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ヨハネの福音書のデボーション

私を導いてください

あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。(ヨハネの福音書16:12-13)

イエス様、あなたが私に話してくださることはまだたくさんあると思いますが、私がまだ耐えられないゆえに、どれだけ教えてくださるのを控えられるのでしょうか。

あなたは私の気づいていない罪について、どれだけ教えてくださるのを控えられることがあるのでしょうか。なぜなら、私がすべてを見たならば、罪悪感に圧倒されてしまうからです。

私の未来に関して、どれだけ教えてくださるのを控えられることがあるのでしょうか。なぜなら、良いことを知っていたとしたら、私は無理にそれを起こそうとするからです。

また、大変な試練が迫っているとしたら、私は思い悩んでしまうからです。

それでも、あなたのタイミングで、あなたの御霊によって、私をすべての真理に導いてくださいます。

聖霊様、導いてください。

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テサロニケ人への手紙第二のデボーション

私たちが必要な祈り

今日、私はパウロの祈りに深く感動しました。なぜなら、彼がテサロニケ人たちのために祈ったことは、まさに私自身に必要な祈りだからです。実際、それはすべてのクリスチャンにとって必要な祈りです。

パウロはこう言いました。

こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。

それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。(第二テサロニケ2:11ー12)

私たちがよく考えるのは、自分自身を良い人にしなければならないということです。自分の力と自制心によって、自分自身を変えなくてはならないと考えがちです。

しかし、パウロが祈っているのは、神様が私たちを召しにふさわしい者としてくださり、神様の力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から生まれる働きを実現してくださるということです。

それによって、イエス様が私たちの間であがめられ、私たちにも主にあって栄光が与えられます。

けれども、その栄光は私たち自身の素晴らしさによるものではなく、私たちの人生に働いている天の父の恵みと御子の恵みによるものです。

そして、パウロはこう祈ります。

どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。(第二テサロニケ2:16ー17)

また、

主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。(第二テサロニケに3:5)

私たちの信仰の根底には、一つの根本的な真理があります。それは、神様が私たちを深く愛してくださるということです。

パウロが祈ったのは、イエス様が日々私たちを天の父の愛へと導き、私たちが必要な励ましと希望を受けることができるようにということです。そして、その励ましと希望によって、私たちはあらゆる良いわざとことばのために、神様によって強められます。

さらに、テサロニケ人たちのように、私たちが試練や苦しみに直面するとき、パウロは、私たちがイエス様を仰ぎ見ることによって、勇気を得るように祈りました。十字架で私たちの罪の代価を支払ってくださったイエス様の忍耐に目を向けることによってです。

私は前にも言いましたが、私たちはよく、自分の力と自制によってクリスチャン生活を送ろうとしてしまいます。

でも、イエス様が私たちを天の父の愛へと導いてくださるように、イエス様の十字架を覚えていましょう。神様の愛とイエス様の十字架に、心を向けて思いを巡らしましょう。

そして、あなたのあらゆる良いわざと言葉が、神様の愛とイエス様の十字架への感謝から生まれるものでありますように。

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出エジプト記のデボーション

神様に叫ぶ?それとも責める?

それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。

それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。(出エジプト記17:7)

イスラエル人たちは、どのようにその言葉を言っていたでしょうか。どんな態度を持っていたでしょうか。

彼らは苦しみの中で謙遜な態度をもって、こう言っていたでしょうか。

「神様、私たちはどうしてこんなに苦しんでいるのか理解できません。あなたは本当に私たちと共におられるのですか。私たちには水がありません。助けてくださらなければ、私たちは死んでしまいます。どうか助けてください。」

それとも、彼らは反抗的な態度をもって、こう言っていたでしょうか。

「神様、本当に私たちと共におられるのですか。おられないのですか。私たちを死なせるのですか。あなたはどのような神なのですか。あなたは本当に良い方なのですか。」

モーセの反応から察すると、イスラエル人たちは反抗的な態度をもって話していたようです。さらに、モーセは後にイスラエル人たちにそのような態度を取らないように警告しました。(申命記6:16)

試練にあうとき、自分の感情にもまれるのは簡単なことです。

もちろん、苦しみの時には、自分の疑い、痛み、恐れを表現してもいいです。詩篇では、ダビデはしばしばそうしました。

でも、私たちは反抗的な態度に注意するべきです。私たちは神様を裁く立場を取ってはいけません。神様は私たちよりもはるかに多くのことを知っておられるからです。

だから、苦しむ時、理解できない時、神様に対してへりくだる態度を持つべきです。

サタンは私たちに、神様が良い方であることを疑わせようとします。試練を通して、サタンは私たちの神様への信頼を壊そうとします。

その誘惑に負けてはいけません。むしろ、神様が良い方であり、私たちに忠実であり、私たちを愛してくださるという真理にしがみつきましょう。

そして、ぺテロの言葉を心に留めておきましょう。

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。

堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。(第一ぺテロ5:6~10)

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出エジプト記のデボーション

 天のお父さん、私はあなたを本当に信じるでしょうか?

モーセは最初から、イスラエル人たちに神様の言葉のすべてを伝えたでしょうか。つまり、ファラオの心が頑なになることまで伝えたでしょうか。

それとも、モーセはただ「神様はあなたを救い出すと約束された」とだけ伝えたのでしょうか。

モーセ自身は、神様の警告を真剣に受け止めていたでしょうか。

ファラオが神様の言葉を拒絶し、イスラエル人たちがモーセに怒ったとき、モーセの心はその現実に備えられていなかったように見えます。

では、私たちはどうでしょうか。神様を信じるでしょうか。

イエス様が「世にあっては苦難があります」と警告されたとき、私たちはその言葉を信じるでしょうか。(ヨハネ16:33)

パウロが「終わりの日には困難な時代が来る」と警告したとき、その言葉を本当に信じるでしょうか。(第二テモテ3:1~5)

ペテロが同じことを語ったとき、私たちはその言葉を信じるでしょうか。(第一ペテロ4:12)

そして、私たちが実際に試練に直面したとき、神様が良い方であること、イエス様がすでに世に勝利されたこと、神様がご自分の約束を守られること、そして最終的に私たちを救ってくださることを、信じ続けることができるでしょうか。

私が自問しているのは、そして私たち皆が自ら問うべき問いは、「神様、私はあなたを本当に信じているのでしょうか」ということです。

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マタイの福音書のデボーション

イエス様に伝えなかればならない

なぜか、12節のことばが私の心を打ちました。

それから、ヨハネの弟子たちがやって来て遺体を引き取り、葬った。そして、イエスのところに行って報告した。(マタイの福音書14:12)

ヨハネを葬ったあと、その弟子たちが最初に考えたのは、「イエス様に伝えなければならない」ということでした。

なぜでしょうか。

もしかすると、彼らはイエス様にヘロデについて警告したかったのかもしれません。(ルカ9:9)

でも、もう一つの理由は、彼らがイエス様がヨハネを本当に愛しておられることを知っていたからではないでしょうか。

しかし、彼らはイエス様が自分たちを愛してくださっていることを知っていたでしょうか。

「イエス様はすべての人々を愛してくださっている」ではなく、「イエス様は私自身を愛し、私の悲しみをよく知っておられる」ということを、彼らは知っていたでしょうか。

あなたはどうでしょうか。イエス様があなたを愛してくださっていることを、あなたは知っているでしょうか。

「イエス様がすべての人々を愛してくださっている」ではなく、「イエス様は私自身を本当に愛してくださっている」ということを、あなたは知っているでしょうか。

試練と苦しみを経験するとき、あなたが最初に考えるのは、「私はイエス様に伝えなければならない」ということでしょうか。

I must tell Jesus all of my trials;
イエス様に、私のすべての試練を伝えなければなりません。I cannot bear these burdens alone;
私は、一人でその重荷を背負うことができません

In my distress He kindly will help me;
私の苦しみの中で、イエス様は優しく助けてくださいます。
He ever loves and cares for His own.
イエス様は、いつもご自分のものを愛し、心にかけてくださいます。

I must tell Jesus! I must tell Jesus!
私はイエス様に伝えなければならない。私はイエス様に伝えなければならない。
I cannot bear my burdens alone;
私は、一人でその重荷を背負うことができません。

I must tell Jesus! I must tell Jesus!
私はイエス様に伝えなければならない。私はイエス様に伝えなければならない。
Jesus can help me, Jesus alone.
私を助けることができるのは、イエス様ただお一人です。ーーエリシャ・ホフマン

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創世記のデボーション

辛いときに信仰を保つ

ヨセフが自分の心の中で何を考えていたのか、私は時々知りたいと思います。

創世記40章では、私たちはヨセフの心を垣間見ることができ、42〜45章では、ヨセフの思いはもっと明らかになります。

でも、39章では、私たちはヨセフの思いをよく知ることができません。

そういうわけで、私たちはよく考えます。「ヨセフは本当に敬虔な人でした。どんな試練に直面しても、ヨセフは忠実に神様に仕えたのです。彼の心は決して揺らぐことはなかったのです。」

でも今日、私が考えたのは、「ヨセフにとって、その態度を保つのは、そんなに簡単だっただろうか」ということです。

奴隷として売られたとき、その最初の数日間、ヨセフは兄弟たちに対して苦々しい思いを抱いていたでしょうか。ヨセフは神様に、「どうしてそんなひどいことを許されたのか」と尋ねたでしょうか。

ポティファルの妻がヨセフに言いがかりをつけ、ヨセフが牢に座っていたとき、神様に対して苦々しい思いを抱くように誘惑されたでしょうか。

「私は神様の道に従ったのに、どうしてこんなことになったのだろうか。神様に従うのは無駄なのだ。」

たぶん、ヨセフはそのような思いと戦いました。彼はただの人間だったのです。彼は不完全な人だったのです。

それでも、彼は結局、自分の信仰を保ち、神様に忠実に仕え続けました。

その意味では、ヨセフはダビデのようでした。ダビデもヨセフも回りの人々に不当に扱われました。(詩篇62:3〜4)

彼らは、人に対して、また神様に対して苦々しい思いを抱く理由がありました。

それでも、彼らは神様を信じ続けることを選びました。そして、結局、神様はその信頼に値する方であることを証明されました。

今日、たまたま詩篇62編も読んでいました。そして、牢でヨセフがダビデの言葉と似たようなことを歌っているのを想像することができました。

私のたましいよ、黙って、ただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ。神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐら。私は揺るがされることがない。

私の救いと栄光は、ただ神にある。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。

民よ、どんなときにも神に信頼せよ。

あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。

神はわれらの避け所である。(詩篇62:5ー8)

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創世記のデボーション

穴にいるとき

今日、私たちは創世記37章を読んでいますが、私はたまたま詩篇118篇も読んで祈りました。

詩篇118篇を読んで、私はこう思いました。「自分の人生のもっとも暗いときを振り返ると、ヨセフはこの歌を歌うことができただろう。」

(この詩篇は、ヨセフの死後何百年も経ってから作られたものですが。)

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇118:1)

苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。主は答えて、私を広やかな地へ導かれた。

主は私の味方。私は恐れない。人は私に何ができよう。主は私の味方、私を助ける方。

私は、私を憎む者をものともしない。(詩篇118:5ー7)

おまえは私を激しく押し倒そうとしたが、主が私を助けられた。主は私の力、またほめ歌。主は私の救いとなられた。(13ー14)

興味深いことは、いろんな意味で、ヨセフの物語がイエス様の物語と似ているということです。

つまり、ヨセフは、自分を拒絶し、裏切った兄弟たちを救ったのです。だから、イエス様に関する預言は、ヨセフにも当てはめられるのです。

家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。(詩篇118:22)

振り返ると、ヨセフは喜びをもって、その歌を歌うことができたでしょう。でも、あの穴の中にいたときや、奴隷として売られたときには、そのことばを歌うのは難しかったでしょう。

それでも、ヨセフは自分の信仰にしがみつきました。神様が良い方であり、その恵みがとこしえまで続くことを、信じ続けました。次の数章を読めば、私たちはその姿を見ることができます。

その結果は?ヨセフは、パウロも学んだことを学びました。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

私たちの人生がうまくいっているとき、神様が良い方であること、神様の愛を信じるのは簡単です。

でも、あの穴の中にいるとき、私たちはまだそれを言うことができるでしょうか。

ヨセフと一緒に、あの歌を歌えるでしょうか。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇118:1)

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使徒の働きのデボーション

苦しみを経なければならないのか

二人はこの町で福音を宣べ伝え、多くの人々を弟子としてから、リステラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返して、 弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、

「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。(使徒の働き14:21ー22)

「多くの苦しみを経なければなりません。」

私はこの言葉に思いを巡らしました。

「多くの苦しみを経なければならないのだろうか。なぜ?」

もちろん、パウロは、苦しみを経ることによって私たちが神の国に入る権利を得る、と言っているわけではありません。

しかし、もし神の国に入りたいと願うなら、ある意味で、私たちは苦しみを経なければなりません。なぜなら、この罪によって壊れた世界では、私たちは苦しみを避けることができないからです。

さらに、私たちに反対する敵がいます。つまり、サタンは私たちに敵対しているのです。

それだけではなく、苦しみは神様が私たちを精錬するために用いられるプロセスでもあります。

その苦しみを通して、神様は私たちに何が本当に大切なのかを教えてくださいます。

この世の人々の考え方とは違い、もっとも大切なことは楽な人生を送ることではありません。一番大切なことは、自分の罪にふけり、自分のために生きることではありません。

もっとも大切なことは、神様を信頼し、従うことです。その道は真のいのちに至るからです。

ペテロはこの真理をよく理解していました。彼はこう言いました。

キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。

肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。

それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。(第一ぺテロ4:1ー2)

パウロもこの真理を理解していました。彼はそれを新しいクリスチャンたちに教えただけでなく、使徒の働き14章では、その真理に従って歩みました。彼自身の人生を通して、新しいクリスチャンたちに模範を示したのです。

ペテロはこうも言いました。

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。

むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。(第一ぺテロ4:12ー13)

それは勇士の心です。

私の教会では、私たちはほとんど(決して?)歌いませんが、私はこの「Amazing Grace」の歌詞が大好きです。

“Through many dangers, toils, and snares, I have already come;
いろんな危険や、苦労や、罠を乗り越え、私はすでにたどり着きました。

‘Tis grace hath brought me safe thus far,
恵みは私をここまで無事に導いてくださいました。

And grace will lead me home.”
そして、恵みは私を主の家に導いてくださいます。

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ヨハネの福音書のデボーション

平安

イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネの福音書19:19)

今日の箇所を読んだとき、弟子たちがその日曜日に何を感じていたかを考えました。不安。恐れ。混乱。でも、イエス様は来られて、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われました。(19)

その後、イエス様はトマスに、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。(27)

そのことばを読んで、私は、イエス様が死ぬ前に弟子たちに語られたことばを思い出しました。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネ14:1)

今週、私はあることを気にかけています。正直に言うと、そのことをくよくよするのは、簡単なことです。そのことを心配するのは、簡単なことなのです。

それでも、イエス様は私のところに来られて、「平安があなたにあるように。私はあなたと共にいる。私を信頼しなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われます。

イエス様、私のトラブルの中で、あなたは私の主、私の神、平和の君、インマヌエルです。私がそれを忘れず、あなたに信頼することができるように助けてください。

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ヨハネの福音書のデボーション

主の杯を受け入れる

イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」(ヨハネの福音書18:11)

時々、試練に直面し、私たちは祈りますが、神様はその試練を取り除かれないことがあります。その試練は、神様が私たちに与えられた杯なのです。

イエス様も、それを経験されました。(ルカ22:42〜43)

パウロも、それを経験しました。(第二コリント12:8〜9)

そして、その杯を前にして、私たちには選択肢があります。私たちは、苦々しい思いを抱いて、その杯と戦うこともできます。

あるいは、次のような態度を選ぶこともできます。「あなたの恵みは、私に十分です。あなたが私と共におられるので、私は満足しています。」

前者の道は、惨めな人生や死に至ります。でも、後者の道は、喜びに至り、そして最終的に復活に至ります。

だから今日、私が自問自答するのは、「神様の恵みは、私に十分だと思っているだろうか。『神様が私と共におられるので、私は満足しています』と告白できるだろうか」ということです。

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マタイの福音書のデボーション

あなたのみこころがなりますように

ですから、あなたがたはこう祈りなさい。 「天にいます私たちの父よ。。。御国が来ますように。 みこころが天で行われるように、 地でも行われますように。」(マタイ6:9ー10)

わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように。(マタイ26:42)

天のお父さん、十字架で死なれる前の夜、「弟子の祈り」で教えられたことばを、イエス様ご自身が祈られました。

人々にそのように祈るべきだと教えるのは、簡単なことです。

日常の祈りとして、そのことばを祈るのは、簡単なことです。

しかし、私が直面したくない問題があるとき、そのことばを祈るのは難しいです。

その祈りが自分の人生に深く関わるとき、私はそのことばを祈ることができるでしょうか。特に、あなたのみこころが、私が試練や苦しみに直面しなければならないというものであるとき、私はそのように祈ることができるでしょうか。

あなたの良いご性質を疑わず、また、苦々しい思いを抱かず、私はなおあなたを「父さん」と呼ぶことができるでしょうか。

イエス様、ペテロや他の弟子たちと同じように、私は弱い者です。

だからこそ、私よりも大きな問題に直面するとき、自分の力では耐えられない試練に直面するとき、あなたが祈られたように、私も「あなたのみこころがなりますように」と祈ることができる恵みと力と信仰を与えてください。

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マタイの福音書のデボーション

深く根差している信仰?

また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。

しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。(マタイの福音書13:20-21)

イエス様は、石灰岩の上に土の薄いところに蒔かれた種について描写されました。その石灰岩のために根が張ることができず、困難や迫害が訪れると、信仰の芽はすぐに焼けて枯れてしまいました。

それを読んだとき、私は考えました。「根の成長を妨げた石灰岩とは何だろうか。」

もしかすると、それは“不信”という石灰岩かもしれません。つまり、神様の愛を疑い、神様が本当に良い方であることを疑う心の状態です。

ある人々は、「神様は良い方だ」「神様はあなたを愛している」と聞くと、すぐに喜びます。

しかし、試練が訪れ、迫害を受けると、心の奥深くに埋もれていた疑いが表面化します。

「神様は本当に良い方なのだろうか。神様は本当に私を愛しているのだろうか。もしそうなら、なぜこんな悪いことが起こるのだろうか。」

その結果、彼らの信仰はすぐに枯れてしまうのです。

あなたはどうでしょうか。試練や迫害が訪れるとき、あなたが最初に考えるのは、「神様が良い方なら、神様が私を本当に愛しているのなら、なぜ私は苦しんでいるのか」ということでしょうか。

それとも、あなたの信仰は、「神様は良い方である」「神様は私を本当に愛しておられる」という確信に深く根差しているでしょうか。

あなたの根は、どれほど深く張っているでしょうか。

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ヨハネの福音書のデボーション

私たちに神のわざが現れるため

さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」

イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。(ヨハネの福音書9:1-3)

時に、悪いことが起こると、神様が私たちを罰しておられるのではないかと思うことがあります。しかし、私たちは二つの真理を覚えていなければなりません。

一つ目は、もちろん、自分の罪のために苦しむこともあるということです。けれども、私たちは壊れた世界に生きており、壊れた人々と共に生活しているために、苦しみがあるということも覚えていなければなりません。

その苦しみを通して、私たちは大切なことを思い出します。それは、この世界が私たちの故郷ではないということです。私たちはただ通過している者です。私たちは「もっと良い故郷、すなわち天の故郷」を憧れながら歩んでいるのです(ヘブル11:16)。

二つ目は、神様が私たちの苦しみを許されることがあるのは、ご自身の御業が私たちに現れるためだということです。そして、その御業を見るためには、私たちは盲人の模範に従わなければなりません。つまり、イエス様を信じ、イエス様に従うということです(ヨハネ7:37-38)。

あなたは今、どんな試練や苦しみに直面しているでしょうか。イエス様が良い方であり、あなたを愛し、あなたの最善を望んでおられると信じて、イエス様の前にひれ伏し、礼拝するでしょうか。

それだけではなく、イエス様に従うでしょうか。

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ヤコブの手紙のデボーション

心を強くしなさい

ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。

見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。

心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです。(ヤコブ5:7ー8)

一章では、私たちが見たのは、この手紙を読んだ人々がさまざまな試練に直面していたということです。だからこそ、ヤコブは彼らに耐えるよう励ましました。そして、この手紙の終わりで、ヤコブはそのテーマに戻ってきます。

私の心に残った言葉は、8節にあります。「心を強くしなさい。」

では、自分の心を強くするには、どうすればよいのでしょうか。

ただ自分の心に「強くあれ!強くあれ!」と命じるだけでしょうか。

それは違います。

むしろ、意識的に自分に思い出させましょう。「主が来られる時が近づいている。私の苦しみは永遠に続くわけではない。この試練は長く感じられるかもしれないが、永遠と比べれば、ほんのわずかなものだ。」

また、主が慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方であることを思い出しましょう。もちろん、聖書にあるヨブのような話を見ることもできますが、自分自身の経験を思い返しましょう。過去の試練の中で、神様がどのようにご自分の慈愛とあわれみを私たちに与えてくださったかを思い出しましょう。

最後に、イエス様が今も私たちと共におられることを思い出しましょう。そして、喜ぶことを選びましょう。

自分の力で頑張ろうとする態度を捨て、へりくだって、自分の思い煩いを神様に委ねましょう(ピリピ4:4〜7;第一ペテロ5:6〜7)。

ダビデの模範に従って、祈りましょう。

主は私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。 主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。。。

聞いてください、主よ。私が呼ぶこの声を。 私をあわれみ 私に答えてください。 あなたに代わって 私の心は言います。「わたしの顔を慕い求めよ」と。 主よ、あなたの御顔を私は慕い求めます。。。

私の父、私の母が私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださいます。。。

もしも、私が、生ける者の地で主のいつくしみを見ると、信じていなかったなら──(希望はないでしょう。でも、それを信じることを選びます)。

待ち望め 、主を。 雄々しくあれ。心を強くせよ。 待ち望め 主を。(詩篇27:1,7ー8,10,13ー14)

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ヤコブの手紙のデボーション

 忍耐を学ぶ

私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。 あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。(ヤコブの手紙1:2ー4)

「その忍耐を完全に働かせなさい。」

この言葉は私の心を打ちました。

正直に言うと、私はその過程を回避したいのです。成熟した完全な者となる段階に、スキップできたらと思ってしまいます。

しかし、ヤコブによれば、それは不可能です。試練に直面し、忍耐することによってこそ、私たちはそのような人になるのです。

けれども、忍耐は、ただ我慢して自分の力を鍛えることで生まれるものではありません。

むしろ、私たちが神とその力に頼ることを学ぶとき、忍耐が生まれるのです。

成熟した完全な人は、神様から独立した人生を送るわけではありません。

その人は、自分の力と知恵では生きられないことを学びました。そして、神様を切実に必要とすることを学びました。パウロのように、その人はこの真理を学んだのです。

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。

ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。

というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(第二コリント12:9ー10)

天のお父さん、私は試練が嫌いです。試練に直面するとき、できるだけ早く通過したいと思ってしまいます。

しかし、その試練を通して、私があなたとその力に頼ることを学び、私の弱さのうちにあなたの力が完全に現れることを知り、そして試練の中であなたが私と共に歩んでくださるなら、私は喜んでその試練を通過します。

どうか、私を成熟した完全な人にしてください。私をイエス様のようにしてください。

イエス様のお御名によって祈ります。アーメン。

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ペテロの手紙第一のデボーション

目を覚ます

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。(ペテロの手紙第一4:7)

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。(ペテロの手紙第一5:8)

ペテロは上の言葉を書いたとき、自分の失敗を思い出していたでしょうか。

イエス様は、サタンがペテロを麦のようにふるいにかけることを願っていると警告されました。(ルカ22:31)また、イエス様はペテロに、「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」と訓戒されました。(マタイ26:41)

ペテロはどう反応したでしょうか。彼は寝静まってしまいました。だから、試練が来たとき、彼は大きな失敗をしました。(マタイ26:69–75)

私たちの多くは、「試練が来るとき、私は堅く信仰に立ちたいけど、できるかなぁ」と言います。

でも、天の父に繋がっていなければ、もし毎日、天の父から力や導きや知恵を受けていなければ、私たちは固く立つことができません。

イエス様はこの世におられたとき、それをよく知っておられました。だからこそ、彼は毎日天の父と時間を過ごされました。そして、試練が来たとき、ペテロと違って、イエス様は固く立つことができました。

試練の時、あなたは固く立ちたいですか。毎日、天の父と繋がっていますか。時間を取って、聖書を読んでいますか。祈っていますか。

それとも、あなたは眠っているのでしょうか。

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ペテロの手紙第一のデボーション

通過しているだけ

イエス・キリストの使徒ペテロから寄留している選ばれた人たち(へ)(ぺテロの手紙第一1:1)

「寄留している人たちへ。」

その言葉は私の心を打ちました。私は日本に27年間住んでいるので、ある意味で日本は私の国になっています。それでも、私がこの国に実際に属していないというリマインダーをよく見ます。

例えば、今でも、私の日本語はいまいちですし、和食よりも洋食が好きです。(私には、納豆がまだ苦手ですね。)

クリスチャンとして、私たちも同じような経験をしています。この世は私たちの「国」のように見えますが、私たちは実際にこの世に属していないのです。

この壊れた世界を見ると、その真理を実感するでしょう。戦争もあるし、疾患もあるし、罪もあるし、苦しみもあるし、死もあるのです。

私たちはただこの世を通過しているだけです。

でも、この世にあって、私たちは生ける望みを持っています。私たちは選ばれて、神の子どもになりました。私たちは朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない資産を受け継ぎました。その遺産は、私たちのために天に蓄えられています。(4)

イエス様が私たちの罪のために死んでくださり、三日目によみがえられたので、その遺産の確信を持っています。

さらに、聖霊様が私たちのうちに住んでおられ、私たちの力ではなく神様の力によって救いのために守られているので、私たちの遺産が確実なものであることを知っています。(1ー2、5)

だから、私たちがこの世に属していないというリマインダーを日々目にし、また、試練によって悲しみの中で試されることがあっても、私たちは「ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍る」ことができます。

なぜなら、私たちは「信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(6ー9)

私はもう一度言います。「私たちは喜ぶことができます。」

しかし、私たちは本当に喜んでいるでしょうか。それは、時に難しいことです。特に、苦しみの中にあるときには、喜ぶことが難しく感じられます。

けれども、一つのことを覚えているなら、私たちは喜ぶことができます。それは、「私たちはただこの世を通過しているだけ」という真理です。

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ルカの福音書のデボーション

イエス様への祈り

シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。

しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカの福音書22:31ー32)

主よ、ある日、あなたはこの世に来て、すべてを治められます。その日、私たちはあなたと共に治めます(第二テモテ2:12)。

それに、私たちはあなたの食卓で食し、あなたとの交わりを楽しみます。

でも、今はその時ではありません。ペテロや弟子たちのように、私たちは試練に直面します。その試練によって、サタンは私たちを麦のようにふるいにかけようと望んでいます。

だから、ペテロのために祈ってくださったように、私たちのためにも祈ってください。私たちのためにとりなしてください。

主よ。私は自分のことをよく知っています。私が失敗する時が必ず来ます。

でも、その時、私を引き起こしてください。そして、私の兄弟たちを力づけるために、私を用いてください。彼らに、私が受けた恵みを彼らも受けることができることを思い出させてください。

そして、私が落ち込んでいる時、あなたの恵みが私から遠く感じる時、私を力づけるために、私の兄弟たちを用いてください。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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ルカの福音書のデボーション

私たちの主の模範に倣う

「あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。

その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。

しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」

こうしてイエスは、昼は宮で教え、夜は外に出てオリーブという山で過ごされた。(ルカの福音書21:34~37)

イエス様は私たちに安楽な人生を約束してはいないのです。

弟子たちは、イエス様がローマ帝国を打ち倒し、自分の国を建てるという夢を持っていました。けれども、イエス様はエルサレムが倒れ、彼らがイエス様のために迫害されることを警告されました。

さらに、イエス様は、ご自身が雲のうちに来られる前に、他の試練も訪れることを警告されました。

だから、イエス様は彼らを戒められました。「いつも目を覚まして、その試練から逃げられるように祈っていなさい。」

興味深いのは、イエス様がすぐに弟子たちに模範を示されたということです。

イエス様には、ご自身の試練が迫っていました。つまり、彼はすぐに私たちの罪のために十字架にかけられるということです。

だから、イエス様は毎晩オリーブ山に登られました。彼が寝るために行ったとは思えません。おそらく、彼は力を得るために祈っておられたのでしょう。

もちろん、イエス様は十字架から逃げることはできませんでした。しかし、最終的に彼は十字架を耐え忍び、三日目によみがえられました。

イエス様のように、私たちも避けられない試練に直面するかもしれません。私たちが苦しむ時もあります。弟子たちのように、私たちがイエス様のために迫害されるかもしれません。

あなたは、その試練を耐える力を持っているかどうか疑問に思うかもしれません。あなたにはそのような力はありません。私にもありません。自分の力によって、その試練を乗り越えることはできません。

だから、イエス様の模範に従って、力を得るために祈りましょう。そして、天の父がイエス様を強くされたように、私たちをも強くしてくださいます。(ルカ22:43)

私たちは、自分の十字架に遭遇しなければならないかもしれません。でも、イエス様のように、復活をも経験するのです。

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サムエル記第二のデボーション

従順を選ぶ

いろんな意味で、これはとても難しい箇所です。

イスラエル人たちは罪を犯していました。

何の罪を犯したのか私たちは分かりませんが、もしかすると、その罪は、神様がイスラエルのために選ばれた王であるダビデを拒み、アブサロムやシェバに従ったことかもしれません。

とにかく、彼らの罪のために、神様はイスラエルの民を裁くことにされたのです。ところで、それはとても重要なポイントです。

ダビデの意見とは違って(17節)、イスラエル人たちは有罪であり、神の裁きにふさわしい者たちでした。

しかし、「ダビデをそそのかして、イスラエル人たちに向かわせた」とは、いったいどういう意味でしょうか。

神様はダビデに罪を犯させたのでしょうか。

また、歴代誌第一21章によれば、サタンがダビデをそそのかしてイスラエルの人口を数えさせたと書かれています。

では、ダビデの行動は誰の責任だったのでしょうか。

それは難しい疑問です。

けれども、私たちは三つのことを覚えていなくてはなりません。

一つ目は、サタンが常に神の民に敵対して立ち上がるということです。サタンは私たちを滅ぼそうとします。

しかし、ヨブ記の物語から分かるのは、神様がサタンの働きを制限されるということです(ヨブ記1〜2章)。

二つ目は、神様が人々を試すため、あるいは裁くために、その制限を一時的に緩められることがあるということです。

サウル王やアハブ王の場合には、神の裁きが示されました。(第一サムエル記16:14;列王記第一22:19〜23)

ヨブやイエス様(マタイ4:1)の場合には、神様が彼らを試されました。

三つ目は、神様が制限を緩められても、人が罪を犯さなければならないわけではないということです。人は正しいことを選ぶことができます。

ヨブとイエス様は正しい道を選びましたが、サウル王とアハブ王は罪を選びました。

ですから、神様が裁きの目的でサタンへの制限を緩められたとしても、ダビデには選択の余地がありました。そして、彼は罪を選びました。

ダビデ自身、自らの責任を認めています(10節、17節)。

神様がダビデに罪を犯すよう強制されたわけではなく、サタンが彼に罪を犯させたわけでもありません。

むしろ、ダビデは自らの心にある罪によって、罪を犯したのです(ヤコブ1:14)。

おそらく、ダビデの問題はプライドだったのかもしれません。つまり、自分の軍隊の力を誇りたかったのです。そのために、イスラエルの民を数えようとしたのでしょう。

ここで、さらに二つのポイントを指摘したいと思います。

一つ目は、イエス様の十字架のあと、私たちは神の子供として、神の裁きを恐れる必要がないということです。(第一ヨハネ4:14〜19)

イスラエルの民と同じように、私たちも神様の裁きにふさわしい者です。けれども、十字架において、イエス様は私たちの代わりに神の裁きを受けてくださいました。

神様が私たちを懲らしめられることはありますが、私たちは神様の裁きを受けることはありません。(へブル12:5〜11;ローマ8:1)

二つ目は、神様がサタンへの制限を緩められることがあり、私たちが試練や誘惑に直面することもありますが、私たちは罪を選ぶ必要はありません。

むしろ、パウロが言ったように、

あなたがたが経験した試練(別訳;誘惑)はみな、人の知らないものではありません。

神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。

むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(第一コリント10:13)

だから、私たちへの神様の忠実さと愛を信じ、ヤコブの言葉を覚えながら、神様についていきましょう。

試練に耐える人は幸いです。

耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。(ヤコブ1:12)

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ペテロの手紙第一のデボーション

バビロンに寄留者として生きる

 あなたがたとともに選ばれたバビロンの教会。。。あなたがたによろしくと言っています。(ペテロの手紙第一5:13)

私の教会の夏のメッセージ・シリーズで、牧師はダニエル書から教えていました。そして、私が第一ペテロを読んだとき、考えたのは、「ペテロは、この手紙を書いたとき、ダニエルの話を考えていただろうか」ということです。

ペテロは、その読み手を寄留者と呼びました。(1:1、2:11)

同じように、ダニエルはバビロンに寄留者として生活しました。ペテロ自身は、自分がバビロンにいると言いました。

(ちなみに、ペテロの時代、クリスチャンたちはローマをバビロンと呼ぶことがよくありました。)

また、ダニエルは生ける望みを持っていました。つまり、復活の望みを持っていたということです。(ダニエル書12:2、13;第一ペテロ1:3)

ダニエルの友達の信仰は、文字通り火で精錬されました。(ダニエル3章;第一ペテロ1:7)

ダニエルの信仰も試され、文字通り吼えたけるライオンに直面しました。(ダニエル6章;第一ペテロ5:8)

主は、ダニエルとその友たちの祈りを聞かれ、その敵に反対されました。(ダニエル書1~3、6;第一ペテロ3:12)

主は、ダニエルとその友達を高く上げられ、高ぶっている王たちを低くされました。(ダニエル1~5;第一ペテロ5:5~6)

ダニエルとその友達が何も悪いことをしていないのに苦しんだとき、まるでペテロの手紙を読んでいたかのようにふるまいました。(第一ペテロ2:12~20、3:13~17、4:12~19、5:6~10)

最後に、ダニエル書では、この暗い世界においても、神様がなお治めておられるという素晴らしい真理を見ることができます。(ダニエル2:44、4:34、6:26、7:13~14、27;第一ペテロ4:11、5:11)

この世では、私たちはただの寄留者です。私たちはこの世界に属していません。そして、この壊れた世界で私たちは苦しむこともあります。でも、私たちの試練や苦しみの中で、ペテロとダニエルから学びましょう。

つまり、

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。

堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。(第一ペテロ5:6-11)

 

 

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ヤコブの手紙のデボーション

イエス様はこの世に帰って来られるから

いろいろな意味で、5章ではヤコブは1章のポイントに戻っています。1章では、ヤコブは試練に直面していた人々を励ましていました。

そして、5章では、ヤコブの要点はイエス様がこの世に帰って来られることです。

そのとき、イエス様は不義を行う人々、また、私たちに傷をつけた人々を裁かれます。(ヤコブの手紙5:1-6)

だからヤコブは、私たちを励ましています。「正義はこの世に来ます。だから、忍耐をもってその正義を待ち望みましょう。ヨブや預言者たちが待ち望んだように、主を待ち望みましょう。そうすれば、やがて神様が良い方だとわかるようになります。」(7-11節)

だから、イエス様が帰って来られるまで、良い時でも悪い時でも、イエス様から目を離さず、イエス様に信頼を寄せましょう。(13節)

また、あなたもイエス様に裁かれるので、自分の行いに注意しなくてはなりません。特に、人間関係における行いに注意しなくてはなりません。(9、12節)

最後に、私たちが苦しんでいる時、私たちは一人で戦う必要がないことを覚えておくべきです。だから、クリスチャンの兄弟姉妹の助けを頼みましょう。また、彼らが苦しんでいる時、特に信仰を失いかけているような時には、彼らを支えましょう。(14-20節)

あなたは今、苦しんでいるでしょうか。ダビデ王とともに歌いましょう。

わたしは信じます、生ける者の地でわたしは主の恵みを見ることを。

主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め。(詩篇27:13-14,口語訳)

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ヤコブの手紙のデボーション

試練の中での私たちの態度

私たちの生活はいつも楽なものではありません。私たち皆は苦しみと試練を経験します。でも、この箇所では、ヤコブは、私たちがどのような態度を持つべきか教えています。

どんな態度を取るべきでしょうか。

1. 神様が良い方であることを覚えていましょう。

神様が私たちを倒そうとしているわけではありません。(ヤコブの手紙1:13)

神様は気まぐれな方ではありません。神様が一瞬間に私たちに優しくして、次の瞬間に理由なく私たちに怒っている、というわけではありません。私たちが忠実でなくても、神様はいつも忠実です。(17節)

神様が私たちの人生に試練を許しても、神様の目的は、私たちが何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となることです。(4節)

そして、私たちの人生が終わり、私たちの最後の試練を通過した後、神様は、神を愛している私たちに、いのちの冠を与えてくださいます。(12節)

そういうわけで、

2. 神様を信頼しましょう。

神様の目的は、私たちが何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となることですが、試練の時、私たちが知恵に欠けているときもあります。

だから、ヤコブは、「神様に求めなさい」と言います。そして、神様は惜しみなく、とがめることなく与えてくださいます。でも、神様に求めるとき、信仰の心を持つべきです。(8節)

信仰の心とは何でしょうか。以前にも言いましたが、神様が良い方であることを信じるべきです。神様が私たちの最善を知り、望むことを信じるべきです。

だから、試練の時、神様に語るのに遅くあるべきです。つまり、不平を言うのに遅くあるべきということです。

神様が試練を許すときに、神様に怒るのに遅くあるべきです。むしろ、神様に聞くのに早くあるべきです。また、神の言葉に従うのに早くあるべきです。そうすれば、私たちは最終的に神の祝福を得ます。(17ー25節)

最後に、

3. 外側を向きましょう。この世には、他の苦しんでいる人々もいます。パウロは、孤児ややもめについて話すけど(27節)、あなたの回りに、誰が苦しんでいるでしょうか。

彼らに触れましょう。内側を向いて、自分の問題を見つめるのは簡単なことですけど、外側を向く人になりましょう。

試練で、あなたは苦しんでいるのでしょうか。どんな態度を持っているでしょうか。

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コリント人への手紙第二のデボーション

へりくだって神様に頼る

1章にも12章にも、パウロは自分が耐えられない試練に直面しました。パウロはその二つの試練に圧倒されました。

そして、その二つの試練によって、パウロは同じ教訓を学びました。それは、へりくだって神に頼ることです。

私たちは、自分が賢くて、どんな問題に遭遇しても、自分の力によって解決できると思って、自分をよく騙してしまいます。

しかし、神様は私たちを自己に頼るものとして造られたのではありません。むしろ、神様は私たちを神に頼るものとして造られました。

そういうわけで、神様は私たちの試練を許されます。その試練によって、私たちは、自分が思っていたほどに賢くも強くもないことを実感します。

そして、私たちはもう一度、神様の御前に来て、子供のような依存と信頼をもって、神様に両手をあげます。

そうすれば、神の恵みが私たちに十分であることがわかるようになります。また、神の力が弱さのうちに完全に現れることがわかるようになります。

そのとき、私たちはパウロと一緒に、こう言います。

ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。

というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(コリント人への手紙第二12:9bー10)

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マルコの福音書のデボーション

目を覚まし、祈る

ですから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るのか、夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴くころなのか、明け方なのか、分からないからです。

主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見ることがないようにしなさい。

わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。」(マルコ13:35ー37)

彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」。。。イエスは戻り、彼らが眠っているのを見(ました。)(マルコ14:34、37)

興味深いことは、ゲツセマネで弟子たちが、イエス様がさっき語られた例え話を演じたということです。例え話を語られたとき、またゲツセマネに着かれたとき、イエス様は同じことを言われました。「目を覚ましていなさい。」

ところが、弟子たちの主が戻られると、彼らは眠っていました。なぜでしょうか。ルカは説明します。「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。」(ルカ22:45)

その前、イエス様はご自身がすぐに去っていかれると言われました(ヨハネ16:5〜6)。

イエス様は、弟子の一人がご自身を裏切ると言われました(マルコ14:18)。

イエス様は、弟子たち全員がご自身を見捨てると言われました(マルコ14:27)。

イエス様の言葉を聞いて、弟子たちは本当に悲しんでいました。

けれども、その悲しみのゆえに、彼らは目を覚まして祈ることができませんでした。そのため、試練が訪れたとき、彼らは大きく失敗しました。(50)

時に、私たちは重荷のゆえにこう言います。「もう祈れない。もう疲れた。あまりにも弱く感じる。」

しかし、まさにその時こそ、私たちは目を覚まし、祈らなければなりません。

イエス様も疲れていました。特に、精神的に疲れ果てていました。それでも、ゲツセマネで、イエス様は目を覚まし、祈られました。そのため、試練が訪れたとき、イエス様は立つことができました。

あなたは疲れていますか。精神的に疲れ果てていませんか。今こそ、目を覚まし、神様に祈る必要があります。

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使徒の働きのデボーション

喜びに満たされた

弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。(使徒の働き13:52)

私はいつもすぐに忘れてしまいますが、使徒の働きにおいて「弟子」とは、「普通のクリスチャン」を意味します。

だから、「弟子たちは喜びと聖霊に満たされた」と書かれているとき、著者であるルカはパウロとバルナバのことを語っているのではありません。ルカは、彼らのメッセージによって救われた新しいクリスチャンたちのことを語っているのです。

自分たちのリーダーが迫害され、その地方から追い出されたのに、どうしてそのクリスチャンたちは喜びに満たされたのでしょうか。

おそらく、二つの理由があったと思われます。

一つ目は、彼らが自分の救いを喜んでいたということです。それまで、彼らは部外者と呼ばれていました。神様に受け入れられるためには、ユダヤ人にならなければならないと教えられていたのです。

しかし、パウロとバルナバが彼らに教えたのは、イエス様を信じることによって、彼らがすでに神様に受け入れられているということでした。

さらに、彼らが学んだのは、この世界が造られる前から、神様が彼らを愛し、選んでおられたということでした。(使徒の働き13:48、エペソ1:4〜6)

でも、もう一つの理由があったと思います。彼らは、パウロとバルナバがどのように迫害されたかを見ました。彼らは、パウロとバルナバの試練を目の当たりにしました。そして、その試練の中での彼らの喜びも見たのです。

私たちが自分の困難にどう反応するかによって、周りの人々は影響を受けます。

もし私たちが試練の時に、神様が私たちを愛し、選んでくださったという真理に根差しているなら、私たちは喜びを保つことができます。そして、周りの人々はそれに気づくのです。

私たちの子どもたちや友人、同僚たちは気づきます。

そして、クリスチャンたちは私たちを見るとき、励まされます。一方で、ノンクリスチャンたちはそれを見て、なぜ私たちが喜びに満たされているのか疑問に思うのです。

この世の多くの人々は、喜びを見つけることができません。もし彼らが私たちの人生の中にその喜びを見いだせないなら、いったいどこで見つけることができるでしょうか。

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ルカの福音書のデボーション

祈りの必要

今日の箇所を読んだとき、私は21章に記されているイエス様の言葉を思い起こしました。

イエス様は弟子たちにこう言われました。

あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。

あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。

民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。。。

それから、太陽と月と星にしるしが現れ、地上では海と波が荒れどよめいて、諸国の民が不安に陥って苦悩します。

人々は、この世界に起ころうとしていることを予測して、恐ろしさのあまり気を失います。天のもろもろの力が揺り動かされるからです(ルカの福音書21:34ー36)

イエス様はご自身の言葉に従われました。本当に苦しまれたとき、イエス様が天の父に祈られたので、天の父は迫る試練のためにイエス様を力づけてくださいました。(ルカ22:41ー43)

その反面、弟子たちは眠ってしまいました。どうしてでしょうか。彼らはただ疲れていたからでしょうか。いいえ、むしろ、悲しみの果てに眠り込んでしまったのです。(ルカ22:45)

イエス様の以前の言葉のゆえに、彼らは精神的に疲れ果てていました。だからこそ、彼らは眠り込んでしまったのです。

彼らの行動はよく理解できます。私も、きっと同じことをしていたでしょう。でも、試練が来たとき、彼らは恐れて逃げてしまいました。(マタイ26:56)

ペテロはイエス様について行きましたが、最終的にはイエス様を知っていることを否定してしまいました。イエス様の前に立つことができず、ペテロも恥を負って逃げてしまったのです。(ルカ22:54ー60)

私たち皆、弱い者です。コロナが長く続いている中で、私たちが精神的に疲れているのは当然のことです。

でも、特にこのような時こそ、私たちは祈らなくてはなりません。なぜなら、天の父の助けがなければ、私たちは立つことができないからです。しかし、神様の御前に来るなら、天の父は私たちを力づけてくださいます。

そして、もし私たちが弟子たちのように大きな失敗をしてしまったとしても、どうかへこたれないでください。イエス様がペテロと他の弟子たちに恵みを与えられたように、私たちにも恵みを与え、私たちの信仰を修復してくださいます。

だから、ヘブル人への手紙の著者の言葉を覚えていましょう。

さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:14ー16)

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箴言のデボーション

試練のとき

今日の箇所を読んで、二つの聖句が心に深く響きました。

銀にはるつぼ、金には炉、人の心を試すのは主。(箴言17:3)

聖書の著者たちがはっきり教えていることの一つは、神様がご自分の民に試練を経験させるということです。 一つの理由は、神様が私たちの心を試しておられることです。

でも、なぜ神様は私たちの心を試さなくてはならないのでしょうか。神様は私たちの心をすでにご存じではないでしょうか。

もちろん、神様は私たちの心をご存じです。

でも、多くの場合、私たちは自分の心を知らないのです。そして、試練によって、私たちの欠点や弱さが浮かび上がります。その反面、試練によって、自分が思っていたよりも強いと分かることもあります。

どちらにしても、神様の目的は、私たちが滅びることではなく、むしろイエス様のようになることです。

でも、もう一つの大切なことを覚えておきましょう。私たちは一人で試練を通る必要はありません。

ソロモンはこう書いています。

友はどんなときにも愛するもの。兄弟は苦難を分け合うために生まれる。(17節)

神様の望みは、試練を通るとき、兄弟たちや姉妹たちが互いに支え合うことです。

だから、苦しんでいるときに、恥ずかしがる必要はありません。周りの人々の助けを求めましょう。

また、誰かが苦しんでいるとき、その人にすぐに手を差し伸べましょう。

でも何よりも、覚えておきましょう。イエス様はどんなときにもあなたを愛する友です。私たちが最も苦しい試練の中にあるとき、イエス様は私たちと共におられます。

ダニエル書3章にあるシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの話を思い出します。彼らは文字通り火の中を通ったとき、互いに支え合いました。

それだけではなく、火の中でイエス様ご自身が彼らと共におられました。その結果は?彼らは金のようになって出て来ました。

私たちも必ずそうなります。

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ヨハネの黙示録

神様に属する私たち

第7章では、不信者が裁かれる前に、十四万四千人のクリスチャンが神様の印を受け、守られました。

第13章では、獣に属する者たちが獣の印を受けました。そして、その印を受けなかった者たちは迫害されました。

つまり、神様の印を受けた者たちは神様の怒りから守られましたが、獣の怒りを受けたのです。

だから私たちは、自分自身に問いかけなくてはなりません――「迫害を受ける甲斐があるのだろうか」と。

多くの人にとって、「はい」と答えるのは容易ではありません。迫害を好む人など、誰もいないからです。

しかし、神様に忠実に従い、忍耐を保つなら、どうなるでしょうか。第14章に、その答えが記されています。

今日の箇所では、14万4千人がもう一度登場します。私は以前言いましたが、たぶん、その14万4千人は、特別なクリスチャンたちではなく、すべてのクリスチャンを象徴します。そして、7章と14章によれば、天の父の名前と子羊の名前が彼らの額に封印されます。

7章では、彼らは来たる試練に心構えをしていました。でも、14章では、彼らはすでに試練の火を通りました。その時、彼らは何をするでしょうか。

彼らは、自分が受けた迫害について文句を言っているのでしょうか。彼らは、どうして神様がその試練を許したのか、神様に問いただしているのでしょうか。違います。

むしろ、彼らは新しい歌を歌っています。その歌を学ぶことができたのは、彼らのほかには誰もいませんでした。

どうしてでしょうか。御使いたちや4つの生き物、長老たちは、その言葉やメロディーを学ぶことができたかもしれませんが、彼らは14万4千人の試練を経験していませんでした。だから、彼らは救いの喜びを本当に理解することができないのです。でも、神様の民はその喜びをよく理解することができます。

4節によれば、彼らは女に触れて汚れたことがない者たちで、童貞です。でも、彼らが文字通りの童貞ではないと思います。むしろ、その言葉は、彼らがイエス様に忠実であることを意味します。

私たちクリスチャンはキリストの花嫁であり、獣に従ってはなりません。むしろ、私たちが迫害されても、イエス様に忠実に従い、清い心を保つべきです。

そして、忠実な花嫁として、私たちは子羊が行く所にはどこへでもついて行きます。

だから、私たちはもう一度訓戒を受けます。

ここに、聖徒たち、すなわち神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける者たちの忍耐が必要である。。。

「書き記せ、『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』と。」

御霊も言われる。「しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行くからである。」(黙示録14:12-13)

あなたはどうですか。あなたは現在の苦しみだけではなく、来たる栄光をも見ることができるでしょうか。そうできないなら、あなたが試練に直面するとき、また反キリストに直面するとき、しっかり立つのは難しいことです。

だから、以前の記事で私が言ったように、イエスから目を離してはいけません。なぜなら、イエス様は苦しみに直面しても、ご自分の前に置かれた喜びに照準を合わせたからです。そういうわけで、イエス様は私たちが同じことをするのを助けることができます。

だから、パウロの言葉を覚えていましょう。

今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:18,26-28)

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ヨハネの黙示録

決してのけ者にされない私たち

多くの人が、のけ者にされた経験を持っているのではないでしょうか。

高校生の時、私は級友たちに近づいたところ、一人にこう言われました。「どうしてここに来ているの?出て行け!」

フィラデルフィアの教会のクリスチャンたちも、似たような問題に直面していました。スミルナの教会と同様に、彼らはユダヤ人たちにのけ者とされ、会衆に入ることが許されませんでした。

しかし、イエス様は彼らにこう言われました。「私は、ダビデの鍵を持っている者です。」(黙示録3:7)

言い換えれば、「神様がダビデとその子孫に永遠の国を約束されましたが、その国の鍵を持っているのは私です。私において、その約束は実現されます」という意味です。

そして、イエス様は続けて語られました。「私はあなたのために門を開きました。ですから、ユダヤ人たちはあなたの入るのを阻むことができません。実のところ、彼らは本当のユダヤ人ではありません。むしろ、サタンの会衆に属する者たちです。

あなたがたは、私を信じることによって、真のユダヤ人となりました。そして、いつか彼らはその真理を認めることになるでしょう。」(黙示録3:7〜9)

その後、イエス様は彼らにこう言われました。

あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。(黙示録3:10)

私は以前言いましたが、たぶん、私たちは最後の反キリストと向き合わなくてはならないでしょう。

けれども、教会の中には、この一節を読んで違う結論に至る人もいます。彼らは、試練の前にイエス様が私たちを天国に連れていかれると考えます。

しかし、二つの理由で、私はその意見に同意できません。

最初の理由は、たくさんの聖書の箇所によれば、私たちが反キリストと向き合い、大きな患難を経験しなくてはならないということです。

二つ目は、イエス様がフィラデルフィアのクリスチャンたちに語られたということです。そして、イエス様がそのクリスチャンたちが試練に直面する前に、彼らを天国に連れていかれたと信じる人は、誰もいないと思います。

むしろ、イエス様が約束されたのは、試練の時に、イエス様が彼らを守られるということです。

空いている門や閉じている門を考えると、私はノアの箱舟を連想します。箱舟の戸はノアとその家族のために開いていました。でも、彼らが入ると、神様ご自身がその戸を閉じられました。(創世記7:16)

そして大洪水の時、神様はノアとその家族を天国に連れて来られませんでした。むしろ、その大洪水の中で、神様は彼らを守ってくださいました。

黙示録を読むと、私たちはそのパターンを見ます。私たちが反キリストや大きな患難を経験しても、神様は私たちを守ってくださいます。

だから、患難の時、イエス様の言葉を覚えているべきです。

わたしはすぐに来る。あなたは、自分の冠をだれにも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい。(11)

大きな患難を考えると、たくさんのクリスチャンたちが恐れるのは、自分が耐えることが出来ないということです。彼らは、自分の冠をなくすと心配します。

でも、イエス様がその教会の人たちに何を言われたか見ましょう。

あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。(8)

この教会の人たちは、自分が弱いと考えました。イエス様ご自身は、「あなたたちが少しばかりの力があります」と言われました。それでも、試練があっても、彼らはしっかり立っていました。

だから、私たちがその試練を耐えるかどうかに関して考えると、大切なのは、私たちの力や意地ではありません。むしろ、大切なのは、神様の恵みです。神様の恵みによって、私たちはしっかり立ちます。

イエス様は、私たちに言われます。

わたしは、勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱とする。彼はもはや決して外に出て行くことはない。

わたしは彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書き記す。(12)

イエス様があなたをのけ者とされることはありません。イエス様はあなたを神様の神殿の柱とされます。イエス様は神様の名前をあなたの上に書き記されます。要するに、あなたは永遠にイエス様の者とされます。

それを考えると、昔から親しまれている賛美歌が思い浮かびます。(日本語では、「主われを愛す。」)

Jesus loves me! This I know.
イエス様は私を愛してくださいます。私はそれを知っています。

For the Bible tells me so.
聖書がそう教えてくれています。

Little ones to Him belong;
小さな者たちはイエス様に属しています。

They are weak, but He is strong.
彼らは弱いですが、イエス様は強い方です。

Yes, Jesus loves me!
イエス様は私を愛してくださいます。

Yes, Jesus loves me!
イエス様は私を愛してくださいます。

Yes, Jesus loves me!
イエス様は私を愛してくださいます。

The Bible tells me so.
聖書がそれを教えてくれています。

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ヨハネの黙示録

試練や苦難を経験するのに

以前にも述べましたが、黙示録に記された手紙の目的は、教会を、反キリストたちや、迫り来る試練に備えさせることです。

あなたは、クリスチャンが最後の反キリストや大患難時代を経験しないと信じているかもしれません。実際、多くのクリスチャンがそう信じています。

けれども、黙示録やその他の新約聖書を読むかぎり、私はその見解に同意できません。何度も、イエス様や使徒たちは、私たちがさまざまな苦難に直面すると警告しています。とりわけ、彼らは私たちが反キリストと向き合うことになると告げています。

私は、クリスチャンが大患難時代を完全に回避できるという約束を聖書の中で見たことがありません。

私が信じるのは、私たちが反キリストや大患難時代に直面するとしても、神様は決して私たちを見捨てないということです。また、その患難の時は一時的なものであると信じています。

だから、私たちがどんな試練に直面しても、神様は私たちが神様にしがみつくように促してくださいます。

今日の箇所では、その真理を余すところなく見ることができます。イエス様は、スミルナという都市の教会に語りかけます。ご自身を紹介されるとき、イエス様は、「初めであり終わりである方、死んでよみがえられた方」と呼ばれます(8節)。

興味深いのは、スミルナという都市もまた「死んでよみがえった」経験を持っていることです。紀元前600年に一度滅びましたが、紀元前290年に再建されました。

スミルナのクリスチャンたちは、イエス様のために迫害や処刑に直面しました。だからこそ、イエス様は彼らを励まされたのです。「何が起ころうとも、私はすべてのことを支配しています。私は初めであり終わりである者なのですから。」

つまり、神様の言葉によって、すべてのものは造られ、神様の言葉によって、人間の歴史は閉じられます。

さらに、イエス様は死に打ち勝たれました。死に直面するクリスチャンたちも、イエス様のように復活し、永遠のいのちを受けるという確信を抱いていました。

だからこそ、イエス様は彼らにこう語られました。

わたしは、あなたの苦難と貧しさを知っている。だが、あなたは富んでいるのだ。ユダヤ人だと自称しているが実はそうでない者たち、サタンの会衆である者たちから、ののしられていることも、わたしは知っている。(黙示録2:9)

彼らはユダヤ人たちから迫害を受けていたようです。そのユダヤ人たちは、ローマ帝国の支配者たちにこう訴えました。

「キリスト教はユダヤ教の一部ではありません。実際、クリスチャンの中には多くの異邦人がいます。あなたの律法によれば、私たちユダヤ人は皇帝を礼拝する必要はありません。けれども、彼らは異邦人なのだから、皇帝を礼拝しないなら、処刑しても構いません。」

こうして、ローマ帝国はクリスチャンたちへの迫害を始めました。

しかし、イエス様は彼らにこう語られました。「ユダヤ人たちは、あなたが真のユダヤ人ではないと主張します。けれども本当は、あなたこそが真のユダヤ人です。あなたこそがアブラハムの真の子孫です。なぜなら、アブラハムのように、あなたは信仰によってわたしのもとに来たからです。

それどころか、彼らは偽りのユダヤ人であり、彼らの会衆は神の会衆ではなく、むしろサタンの会衆なのです。」

そしてイエス様は彼らに語れました。「心配するな。あなたたちは決して迫害を経験しません。私は迫害からあなたたちを救い出します。」

イエス様はそう語れたでしょうか。違います。逆に、イエス様はこう言われました。

あなたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。見よ。悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあう。(10)

言い換えると、こうです。「あなたは苦しむことになる。だが恐れるな。サタンはあなたに大きな試練を与えるだろう。けれども、その試練は永遠には続かない。しばらくの間は続くが、やがて終わるのだ。」

この言葉は、当時の人々だけのためではありません。これは、私たち自身のためであり、反キリストに直面するクリスチャンたちのためでもあるのです。私たちは苦しみに向かっていきます。それでも、イエス様によれば、その苦しみはほんの一瞬なのです。

だからこそ、イエス様は私たちにこう言われます。

死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。

耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によって害を受けることはない。(10b-11)

イエス様がこの世におられたとき、同じようなことをご自分の弟子たちに語っておられました。イエス様はこう言われました。

からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。(マタイ10:28)

私たちが神様を畏れるなら、ほかのものを恐れる必要はありません。死さえも、恐れる必要はないのです。なぜなら、人々は私たちのからだを殺すかもしれませんが、魂を滅ぼすことはできないからです。

イエス様によれば、私たちは第二の死、すなわち地獄を経験しません。むしろ、私たちは永遠に、天においてイエス様と共にいるのです。

あなたはどうですか。あなたは、自分の信仰ゆえに迫害を受けていますか。それが、ひと時の苦しみにすぎないことを覚えていましょう。人々があなたに何を言っても、あなたを傷つけても、魂に触れることはできません。

だからこそ、忠実でいましょう。たとえあなたが死んでも、あなたは生きるのです。(ヨハネ11:25)

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ペテロの手紙第一

神様の御心に従って生きる(3)

神様の御心について考えるとき、ある重要な真理を深く考える人は恐らく少ないでしょう。その真理とは、時に神様の御心が、私たちが試練と苦しみを経験することである、ということです。

新約聖書を読めば読むほど、この結論は避けられないものだと感じます。

けれども、素晴らしい知らせは、その苦しみを通して神様が栄光を受けられるだけでなく、私たち自身も最終的に栄光を受けるということです。

だから、ペテロはこう言います。

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。(ペテロの手紙第一4:12)

要するに、クリスチャンとしての生活において、試練は避けられないものです。イエス様のために、のけ者にされるのは当然のことなのです。

どうしてでしょうか。

それは、人々がイエス様ご自身をものけ者にしたからです。

ペテロはこう言います。

むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。(13)

言い換えると、「イエス様が不当に苦難を受けられたように、あなたが不当に苦難を経験するとき、それを喜びなさい。ある日、イエス様はこの世に戻られ、その栄光が現れるでしょう。そのとき、あなたは自分の苦難を忘れてしまうでしょう。」

しかし、イエス様が戻られる前にも、私たちには喜ぶ理由があります。ペテロはこう言います。

もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。(14)

その言葉を読むと、私はステパノの話を思い出します。ステパノは石打ちされる直前、自分を告発する人々に直面していたとき、その顔は天使のように輝いていました(使徒の働き6:15)。

さらに、最高法院の人々に迫害された後、使徒たちは祈り、御霊の力で満たされ、大胆に福音を宣べ伝えました(使徒の働き4:31)。

私たちがキリストのために苦しむとき、御霊が私たちの上にとどまり続けてくださいます。だからこそ、ペテロは私たちが祝福されていると言います。

だから、ペテロはこう言います。

しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、このことのゆえに神をあがめなさい。(16)

そして、ペテロはちょっと不思議なことを言います。

さばきが神の家から始まる時が来ているからです。それが、まず私たちから始まるとすれば、神の福音に従わない者たちの結末はどうなるのでしょうか。

「正しい者がかろうじて救われるのなら、不敬虔な者や罪人はどうなるのか。」(17-18)

それはどういう意味でしょうか。

神様はクリスチャンの人生に試練が起こることを許されます。けれども、神様の目的は、私たちを滅ぼすことではありません。むしろ、その試練を通して、私たちは金のように精錬され、キリストのように造り変えられていくのです。

それでも、その試練が楽しいものではないのは事実です。むしろ、そうした試練は苦しいものです。

けれども、神様をずっと拒絶し続けた人々にとって、裁きの日はもっと苦しいものになるでしょう。

だから、どうか心に留めてください。私たちは神様のために苦しむことがあるかもしれませんが、その試練は常に私たちの益となるためのものです。

さらに、私たちの試練を通して神様が栄光を受けられます。なぜなら、私たちはその火を通過した後、精錬された金のように輝くからです。

だから、ペテロはこう言います。

ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。(19)

あなたは落ち着いている時期を迎えているでしょうか。喜び、感謝しましょう。ただし、覚えていてください。私たちは壊れた世界の中で生きているため、試練は必ずやって来ます。

あなたは今、苦しみの中にいるでしょうか。その中でも喜びましょう。なぜなら、その試練は一時的なものであり、あなたを滅ぼすことはないからです。むしろ、その試練はあなたの益となるものです。

いずれの場合であっても、善を行いながら、真実な創造者に自分のたましいをゆだねましょう。そして、あなたを通して神様は栄光を受けられるのです。

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ペテロの手紙第一

私たちの希望の理由

ペテロの読み手たちは迫害を受けていました。おそらく、その時のローマ皇帝はネロだったと考えられます。

具体的にペテロがこの手紙を書いた時期は不明ですが、おそらくネロがクリスチャンたちを迫害し始めた頃、またはその直後だったのでしょう。

その当時、クリスチャンたちが絶望に陥るのは容易なことでした。そこで、ペテロは彼らに希望の理由を思い出させました。

その希望の理由は、1-2節に記されている真理に基づいています。

つまり、神様がその予知により彼らを選び、イエス様の血によって彼らを清めたという事実です。また、彼らがイエス様に従うように、神様は御霊によって彼らを聖別してくださったのです。

そして、ペテロはさらに具体的にそのことについて説明していきます。

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。

また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。

これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。(ペテロの手紙第一1:3-5)

その言葉によって、私たちは希望の基礎を見ることができます。それはイエス様の復活です。

イエス様の復活によって、神様はイエス様の十字架の生贄が罪の罰を完全に支払うのに十分であることを証明してくださいました。そして、その同じ復活によって、私たちは永遠のいのちの希望を持つことができるのです。

だからこそ、イエス様は弟子たちにこう言われました。

わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。(ヨハネ14:19)

神様の憐れみによって、神様は私たちに新しい命を与えてくださいました。そして、私たちの救いは確実に保証されたものです。

サタンが私たちを滅ぼそうとしているとしても、私たちが信仰によって立ち続ける限り、イエス様が再びこの世に来られるその日まで、神様とその力は私たちを守ってくださいます。

その日、私たちは朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない資産を受け継ぐのです。

だからこそ、ペテロはこれを言うことができるのです。

そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。

今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。(6-7)

どうして試練の中で私たちは喜ぶことができるのでしょうか。それは、その試練が一時的なものであるからです。

神様は私たちを滅ぼすためにその試練を許されるわけではありません。むしろ、試練を通して神様は私たちを清め、イエス様の形へと変えようとしておられます。

イエス様ご自身も大きな苦しみを経験されました。だからこそ、私たちがイエス様の苦しみを経験するとき、私たちはイエス様のようになっていくのです。

では、どのように苦しみを通して私たちはイエス様のようになっていくのでしょうか。その試練は、私たちがこの世に住んでいるものの、実際にはただの在留外国人であることを思い出させます。

前回の記事で述べたように、私たちはこの世に属していないのです。その真理を理解するにつれて、私たちは一時的なものではなく、永遠のものに目を向けるようになります。

私たちは一時的な喜びを約束する罪を捨て、永遠の喜びを与えるものを追求します。そして、この世の汚れは私たちから取り除かれ、金のように純粋になります。

だからこそ、ヨブはこう言いました。

しかし神は、私の行く道を知っておられる。私は試されると、金のようになって出て来る。(ヨブ23:10)

ペテロによれば、このすべては神様の称賛と栄光と誉れをもたらします。なぜなら、神様が私たちを選んでくださったからです。けれども、同時に私は、神様が私たち自身にも称賛と栄光と誉れを与えてくださるという確信を持っています。

だからこそ、ペテロはこう言います。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。(8-9)

あなたが試練に直面しているとき、その言葉を自分に当てはめることができるでしょうか。もしそうできないのであれば、根本的な真理を思い出す必要があります。それは、神様があなたを愛し、ご自身の子供として選んでくださったということです。

そして、イエス様の十字架を思い出しましょう。そこで、イエス様はあなたの救いの代価を完全に支払ってくださいました。

また、イエス様の復活を思い出しましょう。その復活によって、あなたは自分自身の復活の希望を持つことができます。そして、将来の天にある遺産を思い出しましょう。

そうすることで、ヨブのように、あなたは金のように純粋になって出てくるのです。

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ヤコブの手紙

どのように信仰は苦しみに反応するか

この手紙の冒頭で、ヤコブは、神様が試練を通して私たちを成熟させ、完全にされることについて語ります。

その後、ヤコブは、成熟した信仰がどのように表現されるかを示します。つまり、真の信仰によって、人々は愛や清さ、そして正しい言葉を持って成長するのです。

これは、神様が私たちに望まれる計画です。神様は、私たちがキリストに近づき、イエス様のようになることを願っています。

そして、この箇所では、ヤコブは私たちが試練をどのように扱うべきかについて再び語ります。

一見すると、ヤコブは4章の話を続けながら、クリスチャンの資産家たちを非難しているように思えます。

しかし、実際には、ヤコブは旧約聖書の預言者たちと同じように、神様の民を苦しめ、迫害する者たちを責めているのではないでしょうか。

ある金持ちたちは自分の富を握りしめ、働き手に正当な賃金を支払うことを怠りました。また、彼らは貪欲と自堕落によって、人々を裁いたり、殺したりしました。そのため、ヤコブは彼らに警告します。「裁きの日は迫っています。」

そして、ヤコブは苦しんでいるクリスチャンたちに向かって、こう語ります。

ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。

あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです。(ヤコブの手紙5:7-8)

簡単に言えば、忍耐には信仰が伴います。私たちが信じるべきなのは、神様が正義の神であり、いつかその正義をもたらされるということです。

農夫が神様が作物のために雨を備えてくださることを信じるように、私たちもまた、神様が私たちの望む正義を備えてくださることを信じなければなりません。そして、信仰を持って待ち望みながら、私たちは義の実を結ぶのです。

しかし、時として、それは難しいことです。私たちはフラストレーションを感じ、神様に怒りを抱き、兄弟姉妹にも怒りを向けてしまうことがあります。そのため、ヤコブは私たちに警告します。

兄弟たち。さばかれることがないように、互いに文句を言い合うのはやめなさい。見なさい。さばきを行う方が戸口のところに立っておられます。(9)

もし私たちが忍耐を失い、怒りに身を任せ、互いに責め合うならば、神様は私たちに責任を問われます。

見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いだと私たちは思います。あなたがたはヨブの忍耐のことを聞き、主によるその結末を知っています。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられます。(11)

預言者たちの人生を見ると、彼らの多くが大変な苦しみを経験していたことが分かります。それでも、周りの人々に憎まれたとしても、彼らは忠実であり続け、主の御言葉を述べ伝え続けました。

ヨブも同じでした。彼は激しい苦しみを味わい、その理由をまったく理解できませんでした。それでも、彼は信仰を捨てませんでした。そして最終的に、神様はヨブとすべての預言者たちを賞賛されたのです。

だからこそ、ヤコブは私たちに語ります。「あなたの試練から学びなさい。忍耐を保ちなさい。」

すべてが順調なとき、「神様は良い方だ」と言うのは簡単です。けれども、試練の中でそれを言うことは、はるかに困難です。

最後に、ヤコブはこう語ります。

私の兄弟たち。とりわけ、誓うことはやめなさい。天にかけても地にかけても、ほかの何にかけても誓ってはいけません。

あなたがたの「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」でありなさい。そうすれば、さばきにあうことはありません。(12)

つまり、どんなに困難な状況に直面しても、自分の高潔さを保たなければならないということです。

試練があなたの高潔を奪うことを許してはなりません。常に正直さをもって語り、生きるべきです。そうしなければ、あなたの証しは汚されてしまいます。

あなたは試練に直面したとき、どのように反応するでしょうか。神様に怒りを抱くでしょうか。それとも、周りの人々に怒りを向けるでしょうか。その試練によって、あなたの高潔は失われているかもしれません。

あるいは、あなたは堅く立ち、神様が良い方であり、あなたを救い出してくださることを信じ続けるでしょうか。

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ヤコブの手紙

開いている心

時々、ヤコブの手紙は少しまとまりがないように感じられます。なぜなら、彼の話は頻繁に飛ぶように思えるからです。けれども、この手紙を読めば読むほど、彼の話の統一性が見えてきます。

一見すると、ヤコブはいきなり格言のようなことを言います。

私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。人の怒りは神の義を実現しないのです。(ヤコブの手紙1:19-20)

もちろん、私たちの人間関係には、その言葉にはさまざまな応用があります。もしその言葉に従えば、私たちの人間関係はもっとスムーズに進むでしょう。

けれども、ヤコブは主に人間関係について話しているのではないと思います。むしろ、彼は私たちの神様との関係について語っているのだと思います。

その言葉を述べる前に、ヤコブは、神様が私たちの試練を通して、私たちを成熟した完全な者へと導くと語りました。つまり、その時、私たちは神様に信頼し、神様の道を歩むことを学ぶのです。

しかし、多くの場合、問題があります。それは、試練の時に、私たちが神様の声を聞くことを拒むことです。むしろ、私たちは神様に怒り、「どうしてその試練を許しているの?」と叫びます。

けれども、ヤコブによれば、神様は真理の言葉をもって私たちを生んでくださいました。私たちが聞いて受け入れた福音によって、神様は私たちを罪から救い、神様の子供としてくださいました。その言葉によって、私たちは次第にイエス様のようになり、最終的に完全な者となります。

だから、ヤコブは私たちにこう言っています。「神様の言葉を聞くことに早くなりなさい。神様に文句を言うことに遅くなりなさい。そして、試練の時、神様に怒ることを遅くしなさい。

神様はご自身の義をあなたの人生に実現したいと望んでおられるが、そのような怒りは神の義を実現しません。」

そして、ヤコブは続けてこう言います。

 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。(21)

簡単に言えば、神様は試練とみ言葉を通して、あなたを清めようとされています。だから、神様があなたに語るとき、その教えに心を開かなければなりません。その言葉は、あなたの試練からだけではなく、問題をもたらすあなたの罪からも救うことができます。

だから、神様の言葉を聞くとき、「分かりました」と言うだけでなく、その言葉に従わなければなりません。

ヤコブはこう言いました。

みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。

みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。

しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。(22-25)

多くの人々は、神様の律法が私たちの自由を奪うと考えます。彼らは、神様の律法が私たちの人生の楽しみを奪うと考えます。ところが、実際には、神様の言葉は私たちに自由を与えてくださいます。

その律法は、私たちを苦々しい思いや恨みから解放します。

その律法は、結婚や人間関係、そして人生を壊す鎖を断ち切ります。

その律法によって、私たちは神様が計画された充実した人生を歩むことができます。

簡単に言えば、私たちは祝福を知るのです。

あなたはどうですか。試練のゆえに、神様に怒り、苦々しい思いを抱いているでしょうか。それとも、自分の心を神様の言葉に開いているでしょうか。

神様はその試練を通して、あなたを完全な者にしたいと望んでおられます。

神様がささやくとき、あなたは聞いているでしょうか。

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ヤコブの手紙

私たちの益のため

「どうして神様はこの試練を許しているの?神様は僕が躓くことを望んでいるの?」

試練に直面するとき、私たちは時々そう感じるものです。私たちは、神様が自分が躓くことを望んでおられると考えてしまいます。また、神様がいつも私たちに怒り、罰したいと望んでおられると考えることもあります。

しかし、そのような考え方は誤りです。確かに神様は試練を許されます。けれども、それは私たちを罰するためではありません。むしろ、神様の望みは、私たちが何一つ欠けたところのない、成熟した完全な者となることです。(1:4)

だからこそ、ヤコブは私たちにこう言います。

だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。

人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。(ヤコブの手紙1:13-15)

原語では、「誘惑」と「試練」は同じ言葉です。もしかしたら、ヤコブの読み手たちはその言葉を読んだとき、少し混乱したかもしれません。彼らは、「神様は私たちを誘惑するの?」と考えたかもしれません。

現代でも、多くのクリスチャンがそれを疑問に思います。

以前に言ったように、神様は試練を許されます。神様はその試練を通して私たちの心を探りたいと望んでおられます。また、その試練を通して、神様は私たちの信仰を強めたいと望んでおられます。

しかし、神様は私たちに罪を犯させるために決して誘惑されません。神様は決して、「情欲に負けなさい」とか、「妻を虐待しなさい」とか、「私を呪いなさい」とは言いません。

ヤコブによれば、その誘惑は神様からではなく、私たちの罪深い心から来るのです。私たちは、自分の欲に引かれます。そして、その欲に負けると、その欲は罪を生み、罪が熟して死を生みます。

しかし、それは神様の私たちのための望みではありません。

むしろ、ヤコブはこう言います。

私の愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。

父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。

この父が私たちを、いわば被造物の初穂にするために、みこころのままに真理のことばをもって生んでくださいました。(16-18)

要するに、神様は私たちに良い物だけを与えてくださいます。そして、そのすべての賜物は完全なものです。その賜物は不良品ではありません。また、神様には隠れた腹黒い意図はありません。

私たちの救いはその一つの例です。神様は、私たちを自分のために死なせることもできました。しかし、逆に、神様はイエス様を通して私たちに永遠の命を与えてくださいました。

また、神様には移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。神様はある日私たちを祝福し、次の日に滅ぼそうとすることは決してありません。

むしろ、神様の目的は、私たちが完全な者になることです。神様は私たちが神様の聖さにあずかることを望んでおられます。(へブル12:10)

だから、どんな試練に直面しても、神様があなたを滅ぼそうとしているのではないことを心に留めておきましょう。神様はあなたの人生を壊そうと思っているのではありません。

むしろ、私たちは自分の選択と行為によって、自分の人生をめちゃくちゃにすることがよくあります。

しかし、その試練を通して、神様は私たちに神様に信頼することを教えたいと望んでおられます。そして、その時、私たちは神様の良さと忠実さを悟ります。

また、私たちはその火を通過し、精錬された金のように出てくるでしょう。その時、私たちは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となるのです。

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ヤコブの手紙

私たちが何に信頼を寄せるか

私たちは何に、また誰に信頼を寄せるでしょうか。試練が訪れると、その答えは明らかになります。

多くの人々は自分の財産に信頼を寄せます。彼らは、お金こそがすべての問題の解決策だと思っています。だから、お金を持つ者は問題を解決するために多くの財産を費やし、持たない者は苦しみ、お金を切望します。

しかし、そのような人々は二心を抱く者です(8)。彼らは神様の知恵を求めるかもしれませんが、実際には神様ではなく財産に頼っています。

だからヤコブはこう言いました。

身分の低い兄弟は、自分が高められることを誇りとしなさい。富んでいる人は、自分が低くされることを誇りとしなさい。

富んでいる人は草の花のように過ぎ去って行くのです。太陽が昇って炎熱をもたらすと、草を枯らします。すると花は落ち、美しい姿は失われます。

そのように、富んでいる人も旅路の途中で消えて行くのです。(ヤコブの手紙1:9-11)

試練の時、お金のない人々がお金を切望するのは当然のことです。なぜなら、彼らはお金こそが問題の解決策だと考えているからです。

しかし、ヤコブは言います。「この世の富や高い地位ではなく、キリストにあるあなたの地位と天に蓄えられた富こそ、真に価値のあるものです。

だから、試練に直面するとき、この世のものではなく、永遠のものに目を留めましょう。

そして、あなたが持っている物に満足しなければなりません。なぜなら、あなたにお金があってもなくても、神様はあなたと共におられ、あなたを助けてくださるからです。」

へブル人への手紙の著者も同じようなことを言いました。

金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。

ですから、私たちは確信をもって言います。「主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。」(へブル書13:5-6)

その反面、ある金持ちが試練のゆえに絶望し、なぜそんな問題があるのかと疑問に思うのは自然なことです。彼らは神様に見捨てられたのではないかと考えます。

けれども、ヤコブは金持ちに言います。「あなたの低くされることから学びなさい。自分の富は試練からあなたを救うことはできません。あなたの富はいつか消え去るものです。だから、その試練を通して、本当に大切なものに目を向けなさい。

この世のものに頼らず、神様に頼りなさい。神様だけがあなたを救うことができるのです。」

そして、ヤコブは金持ちと貧しい人々に言います。

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。(12)

簡単に言えば、試練によって揺らいではなりません。

あなたの信仰が揺らぎ、この世のものを求めてはなりません。そのようなものに頼ってはなりません。この世の富はいつか消え去るのです。

しかし、あなたは永遠のものを待ち望んでいるのです。つまり、あなたは天国と永遠の報いを得るのです

あなたはどんな試練に直面しているでしょうか。あなたは何に焦点を当てているでしょうか。あなたは何に信頼を寄せているでしょうか。お金でしょうか。それとも神様でしょうか。

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ヘブル人への手紙

試練に直面するとき

試練が好きな人は誰もいないでしょう。でも、神様は私たちの人生にその試練を許されます。

なぜでしょうか。この手紙の著者はその理由を説明しています。

霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。(へブル人への手紙12:10)

私たちは壊れた人間であり、壊れた世界に住んでいます。けれども、神様の目的は、私たちを癒し、ご自身の計画どおりに完全な者へと造り変えることです。

神様は私たちの汚れを清めてくださいます。なぜなら、神様は私たちが神のかたちに倣って聖なる者とされることを望まれているからです。神様は、私たちがご自身の完全な反映となることを願っておられます。

そのために、神様は火によって私たちを精錬されます。その火の中で、私たちの性格が現れてきます。

性格は、良い時だけでなく、苦しい時にも表れます。もし私たちの性格が整えられていれば、試練の中でその良い性格が表れます。ヨブがその一例です。

しかし、性格に歪みがあれば、試練によってそれも露わになります。サウル王がその一例です。

私たちが自分の性格を見つめるとき、そこには選びが与えられます。

私たちは罪深く不敬虔な者として生き続けることもできます。

あるいは、神様に向かってこう叫ぶこともできます──「神様、私は惨めな者です。私を救ってください。私を変えてください。」

そのとき、私たちは神様の驚くべき恵みだけでなく、人を変えることのできる神様の力も知るのです。

さらに、私たちが神様の声に耳を傾け、信仰によって従っていく中で、神様は私たちの性格をイエス様のかたちに造り変えてくださいます。

それは常に楽しいプロセスでしょうか。通常はそうではありません。だからこそ、この手紙の著者はこう言います。

すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。(11)

では、私たちは神様の火の中にいるとき、どうすれば良いでしょうか。最初に、イエス様に向かいましょう。

イエス様が私たちの救いのプロセスを始め、それを完成させることを覚えていましょう。イエス様は私たちにこうは言われません──「私はあなたに自分を更生する道具を与えました。頑張ってね。」

むしろ、イエス様はこう言われます──「私はあなたに、その道具の使い方を教えてあげます。」

そして、一歩一歩の歩みにおいて、イエス様は私たちと共にいて助けてくださいます。私たちが完成されるまで、イエス様は働き続けてくださいます。

その上で、覚えていてください──イエス様ご自身も苦しみを経験されました。イエス様は十字架の苦しみに耐えられました。だからこそ、人生の辛さをご存知なのです。

そして、天の父はイエス様の信頼に報いて、今イエス様は御座にあって父なる神の右に座しておられます。

イエス様の模範に従って、天の父に信頼して試練を耐えると、私たちは天の父からの報いを得て、天国でイエス様の隣に座ります。

もう一つのことを覚えておきましょう。あなたの苦しみには意味があります。

その意味は何でしょうか。神様はあなたのことを嫌っておられるのでしょうか。あなたを苦しませたいと思っておられるのでしょうか。

違います。神様はあなたを愛しておられ、あなたの最善を望んでおられるゆえに、あなたを訓練されるのです。

もしかすると、あなたのお父さんがそのような愛をもってあなたを訓練してくれたことがあったかもしれません。けれども、そうでなかった方もいるでしょう。

お父さんが正しくない方法で、あるいは正しくない動機のまま、あなたを躾けたかもしれません。しかし、神様の動機と訓練の方法は、常に清く、いつも愛に満ちています。

ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。また、あなたがたは自分の足のために、まっすぐな道を作りなさい。

足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。(12-13)

要するに、私たちは正しい道を歩まなければなりません。神様が示してくださった道をたどりましょう。

あなたの足は不自由です。もし、自分勝手な道を進み続けるなら、あなたの状況はさらに悪化します。しかし、神様の道を歩むなら、癒しに出会います。

その道は簡単ではないかもしれません。苦しいかもしれません。でも最終的には、癒しに至るのです。

では、あなたはどうしますか。

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ヘブル人への手紙

もうしばらく。。。

神様は私たちに楽な人生を約束されたことはありません。むしろ、イエス様は、私たちが試練に直面することを語られました。また、イエス様によれば、私たちが主に従うなら、ある人々に憎まれることもあるのです。

今、あなたはまだそれを経験していないかもしれません。けれども、この手紙の最初の読み手たちは、まさにそのような困難に直面していました。

彼らは人々の前で迫害を受け、辱められました。ある者は牢に入れられ、持ち物も奪われました。

彼らは最初、その試練に耐え抜いたのです。

でも、彼らは揺れ始め、倒れそうになったため、この手紙の著者は彼らを励ましました。

「あきらめてはいけません。今まで耐えた試練を無駄にしてはいけません。頑張りなさい。頑張れば、あなたは必ず報いを得ますから。」(へブル人への手紙10:32-35)

そして、彼は彼らにこう語りかけます。

あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。」(36-37)

「もうしばらく。。。」

その言葉は私の心に深く響きます。

もうしばらく待てば、あなたの試練は消え去ります。

もうしばらく待てば、イエス様は再びこの世に来られます。

そして、あなたの苦しみは霞のように消えてゆきます。イエス様の御顔を仰ぐとき、あなたの苦労は遠い記憶のようになるでしょう。

その日まで、私たちはどうすればよいのでしょうか。

わたしの義人は信仰によって生きる。(38)

簡単に言えば、私たちは神様を信じ続けなければなりません。神様が約束を守られることを、揺るがず信じ続けなければなりません。すべてが崩れ落ちるように思える時でも、その信仰こそが、私たちに生き続ける希望を与えるのです。

しかし、もし私たちが恐れて退き、疑いながら歩むなら、神様から称賛されることはありません。そうした歩みでは、神様を喜ばせることができないのです。(38)

それでも、この手紙の著者は、読み手たちに対して自らの確信をはっきりと語ります。

しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(39)

あなたはどんな苦しみを体験しているでしょうか。どんな疑いと戦っているでしょうか。

その苦しみや疑いから目を背けましょう。それらに囚われてしまうと、私たちは恐れて退いてしまいます。ところが、実のところ、それらは一時的なものにすぎません。

だからこそ、私たちはイエス様に目を向けるのです。イエス様の忠実さと愛を心に刻み続けましょう。

そうすれば、

神様の栄光と恵みが照り輝くと、
この世の試練や困難は、不思議と微かに映ります。

ーーヘレン・レンメル

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テモテへの手紙第二

私たちは一人で立たなくてはならないのに

多分、パウロは裁判でのイエス様の気持ちがよくわかったことでしょう。

イエス様のように、パウロは処刑の可能性に直面した時、裁判で一人で立ちました。それ以前、パウロにはたくさんの友達がいましたが、その裁判でパウロを支える人はいませんでした。

その時、多分パウロは十字架でイエス様の祈りを覚えていたでしょう。だから、イエス様のように、パウロは自分を裏切った友達のために祈りました。

どうか、その責任を彼らが負わせられることがありませんように。(テモテへの手紙第二4:16)

どうやって、パウロは裁判での敵対的な「獅子」に直面したことができたでしょうか。(多分、それは文字道理の獅子ではなかったでしょう。) パウロはその答えを私たちに与えます。

しかし、主は私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。

こうして私は獅子の口から救い出されたのです。(17節)

パウロは友人たちに見捨てられながらも、イエス様の臨在を感じていました。おそらく、イエス様が弟子たちに約束されたように、パウロは自分を弁護した際に、聖霊様からの知恵を受けていたのでしょう。(マルコ13:11)

そういうわけで、自分の裁判で処刑に直面したのにパウロは大胆に福音を述べ伝えることができました。

さらに、パウロは強い希望を持っていました。

主は私を、どんな悪しきわざからも救い出し、無事、天にある御国に入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように。アーメン。(18節)

パウロは、神様が自分の命を救ってくださると信じていたわけではありませんでした。むしろ、彼は自分が間もなく死ぬことを信じていました。(6節)

でも、パウロが信じていたのは、ローマ人たちは彼の身体を殺しても、彼の魂を殺すことができないということです。だから、パウロの身体が死んだとしても、彼の魂は天国に行って永遠にイエス様と共にいることを信じていました。

そういうわけで、パウロは平安を持っていました。

あなたはどうですか。あなたはパウロの確信と希望を持っているでしょうか。

私はこれまで何度もお伝えしてきましたが、イエス様は私たちに楽な人生を約束されたわけではありません。むしろ、イエス様は苦難を約束されました(ヨハネ16:33)。

それでも、試練の中でイエス様があなたと共におられることを、しっかりと心に留めてください。たとえ周りの人々があなたを見捨てたとしても、イエス様は決してあなたを見捨てられません。

そして、あなたが亡くなる時でさえ、イエス様はあなたを天国に連れて行ってくださいます。

だから、どんな試練に直面しても、勇気を持ってあきらめないでください。むしろ、ヘブル書の著者の言葉を覚えておきましょう

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。

この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。(へブル書12:2-3)

パウロが祈ったように、私もあなたのために祈ります。

主があなたの霊とともにいてくださいますように。恵みがあなたがたとともにありますように。(テモテへの手紙第二4:22)

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テモテへの手紙第二

耐えられるための恵み

パウロがテモテが訪問してくれるように望んだ理由の一つは、多くのクリスチャンたちがパウロから離れて行ったということです。数名の人たちはまだ残っていましたが、パウロはほとんど孤独でした。

わざわざパウロを探して励ますオネシポロのような人たちは少なかったですが、パウロを見捨てたフィゲロとヘルモゲネのような人たちはたくさんいました。(テモテへの手紙第二1:15-18)

なぜその二人はパウロを見捨てたのでしょうか。

パウロは迫害され、牢に入っていたので、もしかしたら、彼らは同じ運命を恐れたかもしれません。もしかしたら、最初は彼らは頑張ったかもしれませんが、結局彼らはもう迫害に耐えられないと思って、立ち去ったかもしれません。

多くの人たちはフィゲロとヘルモゲネのようです。彼らはクリスチャンになり、最初は彼らの人生がうまくいっているので、喜びに満ちていました。けれども、試練が来るとき、彼らは最初は頑張ったけれど、最終的に自分の信仰を捨ててしまいます。

どうしてでしょうか。

私たちはクリスチャンとして、恵みによって生きるように呼ばれました。けれども、試練の時、多くのクリスチャンは恵みを忘れて、自分の力によってクリスチャン生活を送ろうとします。結果として、彼らの力がなくなると、もう耐えられなくなります。

2章3ー6節のような言葉を読むとき、このように考えるのは簡単です。

「私は頑張らなくてはならない。私は良い兵士にならなくてはならない。私はちゃんと訓練し、ルールをすべて守らなくてはならない。神様から委ねられた働きに心血を注がなくてはならない。」

けれども、自分がしなくてはならないことに焦点を当てると、あなたの力がどこから来るか忘れてしまうでしょう。

言い換えると、私たちは2章の初めのパウロの言葉を忘れてしまいます。つまり、

私の子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。(テモテへの手紙第二2:1)

それは一体どういう意味でしょうか。

「恵みによって強くなりなさい」という言葉よりも、「良い兵隊や農家や選手になりなさい」という言葉は分かりやすいでしょう。そういうわけで、多くの人々はその最初の言葉を飛ばして忘れてしまいます。

しかし、その言葉は肝心な真理です。

あなたは恵みによって救われました。自分の努力に救われたわけではありません。だから、毎日あなたは恵みによって生きなくてはいけません。

私たちの救いのために神様に頼らなくてはならないように、日常生活を送るのに神様に頼らなくてはなりません。特に、苦難や迫害と向き合うとき、神様に頼らなくてはいけません。

もちろん、私たちは神様を喜ばせようとすべきです。もちろん、私たちはこの世のものに執着してはいけません。

また、もし神様から報いを得ようと思うなら、私たちは神様が命じられることに従わなくてはなりません。そして、私たちが忠実にイエス様に仕えるとき、私たちの努力は無駄なものではありません。

けれども、私たちが「自分の力で頑張らなくてはならない」と思うなら、私たちは失敗するという結果になります。

私はもう一度言います。私たちは恵みによって救われました。でもそれだけではなく、私たちは毎日恵みによって生きなくてはなりません。

神様が聖霊様を送ってくださり、聖霊様は私たちのうちに住んでおられます。聖霊様が私たちに力を与えるので、私たちは神様の御心に従うことができます。(1:7)

そういうわけで、パウロはテモテにこう言いました。

イエス・キリストのことを心に留めていなさい。私が伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった方です。

この福音のために私は苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばはつながれていません。(テモテへの手紙第二2:8-9)

言い換えると、「あなたの苦しみの中で、もう耐えることができないと思う時、イエス様を心に留めていなさい。イエス様はあなたをこの道の最初から最後まで導いてくださいます。

イエス様を通して、神様は私たちを贖い、私たちの罪を赦してくださいました。イエス様は復活して、私たちに命を与えてくださいます。そして、イエス様はこの試練の中で、私たちを導いて、最終的に天国に連れて行ってくださいます。

それを覚えていなさい。自分の力で、試練を通過しようとしてはいけません。」

そして、パウロはテモテに思い出させました。「私は鎖で繋がれています。私は弱い者です。それでも、神のことばは繋がれていません(9)。

神様はご自身の業を成し遂げられます。その希望を持っているので、私は自分の処刑と向き合っても、神様の働きをし続けています。なぜなら、私は、人々が私を通してイエス様を信じ、私たちが見つけた恵みを知るようになる確信を持っているからです。」

最後に、パウロは励ましの讃美歌を歌います。その歌によって、私たちは耐えるように励まされます。なぜなら、その歌によって、私たちはイエス様の忠実さを思い出すからです。

パウロはこう歌いました。

耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。

私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。(12-13節)

パウロがその賛美歌を恵みの言葉で終えることはふさわしいことです。なぜなら、私たちの試練を耐える力は最初から最後まで恵みから来るからです。

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テサロニケ人への手紙第二

試練に直面するとき

このブログで私は何度も語ってきましたが、神様は私たちに安楽な人生を約束されているわけではありません。パウロはまさに、そのような人生とはほど遠い歩みをしました。

パウロは福音のために鞭打たれ、迫害を受けました。海で遭難も経験し、耐えがたいほどの重圧にさらされました。そして最終的には、キリストのために命を落としたのです。

それでもパウロは、歩みを止めませんでした。どうして彼は、そこまでして耐え抜くことができたのでしょうか。

パウロは、テサロニケの人々にこう願い出ました。

最後に兄弟たち、私たちのために祈ってください。

主のことばが、あなたがたのところと同じように速やかに広まり、尊ばれるように。

また、私たちが、ひねくれた悪人どもから救い出されるように祈ってください。すべての人に信仰があるわけではないからです。(テサロニケ人への手紙第二3:1-2)

おそらく、いくつかの理由があったからこそ、パウロは歩みを止めずに進み続けることができたのでしょう。

一つ目は、自らの苦しみの実を、目に見える形で見ることができたことです。すなわち、テサロニケの人々やピリピの人々を通して、神様が確かに働いておられることを見たのです。

そのことによって、パウロは自分の苦労と苦難が決して無駄ではないと確信し、励まされました。

二つ目は、パウロが人々の祈りに支えられていたことです。彼は決して「私は大丈夫、自分の力でこの試練を乗り越えられます」とは言いませんでした。

むしろ彼は、繰り返し願い求めました。「私のために祈ってください。私の周りには災いがあり、悪意ある者たちがいるのですから。」

三つ目は、敵対する者たちがいたとしても、主が真実であり、良い方であるとパウロが深く理解していたことです。パウロはこう語っています。

すべての人に信仰があるわけではないからです。しかし、主は真実な方です。あなたがたを強くし悪い者から守ってくださいます。(2-3)

そしてパウロは、テサロニケの人々を励まして、こう語りました。

私たちが命じることを、あなたがたは実行していますし、これからも実行してくれると、私たちは主にあって確信しています。(4)

最後に、パウロは、彼らが試練の中でもしっかりと立ち続けることができるように、その鍵を示しました。彼はこう祈ったのです。

主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。(5)

多くの場合、私たちは試練の中で怒りや苦々しさに陥り、「神様に見捨てられたのではないか」と感じてしまいます。そして、自分がかわいそうでならず、周りの人たちにも理解されていないと思ってしまうのです。

しかしパウロは、こう語ります。試練のゆえに神様から離れないでください。むしろ、その試練の中でこそ、神様に近づいていきましょう。神様のもとへ駆け寄りましょう。

さらに、パウロは私たちにこう勧めます。

「キリストを覚えなさい。イエス様があなたのために何を耐えられたのかを思い起こしなさい。

イエス様は、愛しておられた人々に裏切られ、見捨てられ、侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられました。それでもイエス様は、すべてを耐え抜かれました。

なぜでしょうか。それは、イエス様があなたを愛しておられるからです。」

だから、「もう耐えられない」と思うときには、イエス様を仰ぎ見ましょう。イエス様はあなたの痛みをご存じです。あなたを愛しておられるのです。あなたは決して、見捨てられていません。

そして、へブル書の著者はこう語りました。

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。(へブル12:2-3)

また、

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:15-16)

だから、もしあなたが見捨てられ、「もう終わった」と感じているなら、私もパウロのように、あなたのために祈りたいと願います。

主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。(第二テサロニケ3:5)

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ピリピ人への手紙

満足さの秘訣

私たちは電子レンジのような社会に生きています。今すぐに欲しいものを受け取りたいと願い、それがかなわないと、不平を言い始めてしまいます。

けれども、私たちはそのような態度を取るべきでしょうか。

パウロは決してそのような態度を取りませんでした。ピリピ人たちの気前のよさに感謝を表すとき、彼はこう語りました。

乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。

満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。(ピリピ人への手紙4:11-13)

「ありとあらゆる境遇に秘訣を心得ています。」

では、パウロはどのような秘訣を学んだのでしょうか。実のところ、彼はその中身を具体的には述べていません。2017年版の新改訳では、「ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」と記されています。

一方、第3版では、こう訳されています。「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」

実際、多くの英語訳聖書でも、パウロの言葉はそのように訳されています。

「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」

私たちも、そう言えるでしょうか。

パウロは乏しいときにも、満ち足りていました。富んでいるときにも、満ち足りていました。

乏しいときに満ち足りることを学ぶべきだということは、比較的理解しやすいかもしれません。でも、なぜ富んでいるときにも、満ち足りることを学ばなければならないのでしょうか。

もしかすると、あなたは必要なもの以上にすでに持っているかもしれません。それでも、まだ欲しいものがあって、不平を口にすることはないでしょうか。

なぜ私たちはそのようにしてしまうのでしょうか。たとえ多くのものを持っていても、なぜ満ち足りることはそんなにも難しいのでしょうか。

おそらく、それは私たちが非常に自己中心だからです。多くのクリスチャンもまた、なお自己中心にとらわれています。

彼らは自分の必要や欲望についてよく考えます。しかし、そうしたものにばかり心を向けるあまり、本当に満ち足りることができるお方のことを忘れてしまうのです──それは、イエス様です。

イエス様との関係こそが、真の満ち足りる秘訣です。すなわち、私たちはイエス様を知り、また、イエス様の復活の力を知ることなのです。

たとえさまざまな試練や苦しみを経験していても、私たちは日ごとに鏡をのぞく中で、自分のうちにイエス様の姿がだんだん映されているのを見ることができます。そしてまた日々、神様がなぜ私たちを選んでくださったのか、その理由が少しずつ分かるようになるのです。

パウロはそのすべてを完全に経験したわけではありませんが、おそらく多くの人々よりも深くそれをつかんでいたのでしょう。

だからこそ、試練の中にあっても、彼の喜びは奪われませんでした。物が乏しいときにも、イエス様にあって喜び、豊かなときにも、イエス様にあって喜んでいたのです。

日本では、「我慢」という言葉がよく語られます。苦しいときに耐え忍ぶことを、美徳として誇る傾向があります。しかし、私たちはしばしば自分の力に頼ってしまうために、結局のところ、もう耐えられないという限界に達してしまうのです。

けれども、パウロはただ「我慢」していたのではありません。彼はイエス様との関係を喜んでいました。だからこそ、どのような試練にあっても、パウロはそれを乗り越える力を持っていたのです。

あなたは、どうでしょうか。あなたの心には、満ち足りる思いがあるでしょうか。イエス様は、あなたの人生の中心におられるでしょうか。あるいは、満足を求めて、世のものばかりを追いかけてはいないでしょうか。

世のものは、あなたを本当には満たすことができません。イエス様との関係だけが、あなたの心に真の満足を与えるのです。

あなたの人生の中心は、いったい何でしょうか。

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コリント人への手紙第二

私たちが神様に信頼できる理由

試練のとき、神様に対する信仰を失うのは容易なことがあります。

パウロもそのような経験をしたでしょうか。特に、彼が耐えがたいほどの激しい圧迫を受け、生きる望みさえ失いかけたとき、信仰を失う危機に直面したでしょうか。(コリント人への手紙第二1:8)

最終的に、信仰を失うのではなく、その試練を通して、パウロたちは神様に頼ることを学びました。(9節)

では、彼らはどのようにして信仰を保つことができたのでしょうか。また、私たちはどのようにして自分の信仰を守ることができるでしょうか。

パウロはこう記しました。

神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「はい」であると同時に「いいえ」である、というようなものではありません。(コリント人の手紙第二1:18)

その言葉の中で、私の心を打つことの一つは、神様が真実な方であるということです。

試練の中で振り返ると、私たちはその真理を実感するはずです。

しかし、自分の人生だけでなく、過去のクリスチャンや現代のクリスチャンの歩みを見ても、神様の真実さがよく分かります。

さらに、神様は私たちの罪のためにイエス様を送られたとき、ご自身の約束を守ることで、その真実さを証明されました。

パウロはこう言いました。「私たちのことばは、『はい』であると同時に『いいえ』である、というようなものではありません。」

要するに、福音は私たちが頼ることのできるものです。そのメッセージは決して変わりません。

神様は私たちに、「イエスを信じれば、あなたは救われる」と約束されたので、天国の門で突然「やっぱりだめです。私の気が変わりました。入ってはいけません」と言われることは決してありません。

人は約束を破ることがあるかもしれませんが、神様の約束は決して変わりません。神様は真実な方だからです。

だから、パウロはこう語りました。

たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。(ローマ書3:4)

パウロは続けてこう言います。

私たち、すなわち、私とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「はい」と同時に「いいえ」であるような方ではありません。

この方においては「はい」だけがあるのです。神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。

それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。(コリント人の手紙第二1:19-20)

要するに、この絶えず変わり続ける世界にあっても、イエス様は決して変わりません。言い換えると、「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」(ヘブル 13:8)

イエス様にあって、神様の約束はすべて確認されています。

イエス様は良い知らせを宣べ伝え、病を癒し、私たちの罪のために死なれたとき、メシアについての預言を成就されました。そして、やがて来る日には、永遠の国を開始し、残された預言をも成就されるでしょう。

だからこそ、私たちは神様の約束をなおさら信じることができます。

すなわち、試練のとき、神様が私たちと共におられるという約束です。また、この試練がただ一時的なものであるという約束です。そして、私たちは勝利を得て、この試練から精錬された金のようになって出てくるという約束です。

だから、イエス様にあって、私たちは「アーメン。あなたがそれらのことを約束されたので、必ずその約束を守られると信じます。」と言うことができます。

しかし、パウロはさらにこう語ります。

私たちをあなたがたと一緒にキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。

神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました。(コリント人の手紙第二1:21-22)

神様は私たちに聖霊という油を注がれました。神様はご自身の目的のために私たちを聖別されました。そして、神様の保証の証印を私たちに押されました。

その証印を通して、神様は宣言されます。「この人は私のものです。私のひとり子の血によって、この人を贖いました。」

聖霊様は、神様がすべての約束を守られることの確かな保証です。

だから、どんな試練に直面しても、神様に信頼しましょう。

人は私たちを失望させることがあるかもしれませんが、神様は真実な方です。

あなたはどうでしょうか。神様に信頼しますか。

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コリント人への手紙第二

試練の中の慰め

これは、聖書の中で私が最も好きな箇所のひとつです。パウロはこう書きました。

私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。

神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。

私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。(コリント人への手紙第二1:3-5)

私たちが試練や苦しみに直面するとき、神様が本当に私たちを愛しているのか疑問に思うことがあります。しかし、パウロによれば、神様は「あわれみ深い父」です。

つまり、神様は私たちの苦しみを見ても無関心ではありません。むしろ、憐れみに満ちた心をもって、深く私たちを思っておられます。

イエス様も、苦しむイスラエルの人々を見たとき、同じ心を持っておられました。福音書の著者たちは何度も「イエスは深くあわれみ…」と記しています。

この点において、イエス様は天の父の性格を完全に映し出しておられます。

さらに、パウロはもう一つのことを語っています。彼によれば、神様は「あらゆる慰めに満ちた神」です。

神様は私たちに対して憐れみを感じるだけでなく、御手を伸ばして私たちに触れてくださいます。

ある日、ツァラアトを患う人がイエス様のもとにやって来ました。(マタイ8章)

イエス様は深く憐れみ、手を伸ばしてその人に触れました。おそらく、その人は何年もの間、誰にも触れられていなかったでしょう。なぜなら、周囲の人々はその病気にかかることを恐れていたからです。

しかし、イエス様が触れたことで、その人は慰められ、癒されました。

そして、パウロによれば、私たちが苦難に満ちているように、キリストによって私たちの慰めも豊かに与えられています(5)。

パウロは自身の経験をもとに語りました。彼は、自分の力では耐えられないほどの深い苦しみを経験しました。

私たちはよく耳にします。「神様は私たちに耐えられない試練を許しません。」

ある程度まではその言葉は正しいですが、実は完全ではありません。

神様は私たちが自分の力では耐えられない試練を許されます。私たちは「耐えられないほどの圧迫を受ける」ときがあるかもしれません。

さらに、「生きる望みさえ失うほどの圧迫を受ける」こともあるかもしれません。(8)

なぜ、神様はそのような試練を許されるのでしょうか。

パウロはその理由を説明しています。

それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。(9)

要するに、神様は私たちが自分の力だけではこの人生を歩むことができないことを学ぶために、こうした試練を許されるのです。

しかし、私たちが神様に頼るなら、神様が死者をよみがえらせるほどに力強い方であることを知るようになります。

そして、神様はその恵みによって、私たちを絶望の深い穴から引き上げ、新しい希望と命を与えてくださいます。

神様はパウロにこう言われました。

わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。(第二コリント12:9)

だから、私たちは試練を通過した後、振り返ると、神様が常に私たちと共におられたことに気づきます。だから、未来の試練に直面するとき、私たちはその同じ神がもう一度私たちを救ってくださるという希望を持つことができます。

パウロはこのことを学び、確信を持ってこう語りました。

神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。(10)

あなたはどうでしょうか。果てしない試練に直面しているのでしょうか。もう耐えられないと感じているかもしれません。

しかし、神様はあなたを愛しておられ、決して見捨てることはありません。そのことを心に留めておきましょう。だからこそ、自分の力に頼るのではなく、神様の力に頼りましょう。

そうすれば、神様の恵みによって、あなたはその試練を乗り越えることができます。

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ローマ人への手紙

私たちが苦しんでも

今日の箇所では、パウロは15-18節の話をまとめています。

15-16節では、パウロは私たちが神様とどのような関係を持っているのかを教えています。私たちは神様を恐れずに、神様の御前に来て「アバ、お父さん」と呼ぶ権利を持っています。

そして、17-18節では、パウロは私たちがこの世界で苦しむこともあると警告しています。

時には、私たちはイエス様に従うゆえに苦しみます。時には、ただこの壊れた世に住んでいることで苦しむのです。

けれども、35節では、パウロは私たちにとても大切なことを思い出させます。私たちは苦しむとき、この言葉を心に留めるべきです。

だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」(ローマ人への手紙8:35-36)

もちろん、その答えは、私たちをキリストの愛から引き離せるものは何もないということです。

私たちが直面する苦難、迫害、災害、飢えなどは、私たちをその愛から引き離すことはできません。たとえ私たちが死んでも、神様の愛から離れることはありません。

けれども、パウロはさらに語ります。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(38-39)

だから、霊的な力や、私たちの不安や将来への恐れ、この世のどんな力も、私たちをイエス様の愛から引き離すことはできません。

たとえあなたが海底にいようとも、宇宙にいようとも、どこにいようとも、神様の愛はあなたに届くのです。

だから、パウロはこう言うことができるのです。

これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。(ローマ人への手紙8:37)

要するに、イエス様は十字架で勝利を得られたので、最終的に私たちも勝利を得るのです。十字架でイエス様はサタンを打ち破り、その計画を覆されました。

だから、サタンが私たちを誘惑したり、責めたり、苦しめたりしても、神様は変わらず私たちを愛しておられるので、私たちには希望があります。そして、私たちをその愛から引き離せるものは何もありません。

だから、苦しむとき、その愛によって安心しましょう。その愛の慰めを受けましょう。なぜなら、神様の愛は決して私たちを手放さないからです。

そして、どんな試練に直面しても、その愛によって私たちは乗り越えるのです。

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ローマ人への手紙

私たちの希望の理由

聖書の中で、これは私が最も好きな箇所の一つです。実は、26節から8章の最後までの言葉が大好きです。なぜでしょうか。この箇所は、私たちの希望の根拠を示しているからです。

多くの人々は28節を引用します。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8:28)

けれども、神を愛する人々のために、なぜすべてのことが共に働いて益となるのでしょうか。26-27節において、パウロはその理由を説明しています。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。

私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。(26-27)

祈りの時に、私たちはしばしば何のために祈るべきか、またどのように祈るべきか分からなくなります

。言葉が出ず、祈れない時もあります。また、時には間違ったことのために祈ってしまうこともあります。

イエス様のたとえを用いるなら、私たちはパンを求めているつもりでも、実は石を求めてしまっていることがあるのです。

しかし、良い知らせがあります。それは、神様が私たちの弱さや、誤った祈りに制限されることはないということです。

神様が最も望んでおられるのは、私たちが神様と交わり、語り合うことです。

私たちが祈るとき、聖霊様は私たちのためにとりなしをしてくださいます。聖霊様は、私たちのうめきや言葉にならない祈り、誤った祈りを取り、神様の御心にかなう祈りへと変えてくださいます。

だから、パウロはこう語ります。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8:28)

私にとって、この言葉はとても心強いものです。

私の娘が赤ちゃんだった頃、私と妻は時々フラストレーションを感じました。なぜなら、娘が泣いたときに、なぜ泣いているのか分からないことがあったからです。彼女の泣き声や叫びは、私たちに彼女のニーズを正確に伝えてはくれませんでした。

そのため、私たちは彼女のニーズを推測するしかありませんでした。当たりだったこともあれば、まったく的外れだったこともありました。

その一方、私たちがうめいたり、言葉を使わずに祈るときでも、聖霊様は私たちのニーズを完全に理解しておられます。だからこそ、聖霊様は正しくとりなし、私たちを助けてくださいます。

あなたは今、どんな試練に直面していますか。祈るときにフラストレーションを感じることはあるでしょうか。あなたの祈りが天井にぶつかり、届かないように思えることはありますか。

希望があります。今もなお、聖霊様はあなたのためにとりなしてくださいます。そして、その祈りは神様の御心にかなっています。

だから、安心しましょう。神様はあなたの試練を用いて、良いことをもたらしてくださいます。

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ローマ人への手紙

神様は私を罰しておられるでしょうか

前回の記事で、私は6-8節について話しましたが、その箇所を文脈に戻した方がよいと思います。そうすることで、私たちはパウロの主張をより明確に理解できるでしょう。

パウロが言ったのは、私たちは苦難さえも喜ぶということです。なぜなら、その苦難は忍耐を生み出し、忍耐は練られた品性を生み出し、その品性は希望を生み出すからです。

しかし、多くのクリスチャンは苦難に直面すると、喜びません。むしろ、苦々しい思いを抱きます。忍耐を持たずにあきらめ、希望を持たずに絶望してしまいます。

なぜでしょうか。

多くの人々は、神様が彼らを罰していると思っているからです。彼らが失敗したために、神様が怒り、彼らを苦しませているのだと考えています。

さらに、時々彼らはそう感じますが、なぜ神様が彼らを罰しておられるのか分かりません。だから、その罰が不公平だと感じるのです。

では、パウロは何と言っているのでしょうか。

「神様があなたを罰しておられるという考え方を捨てなさい。」

パウロはこう説明します。

「少し考えてみてください。あなたがクリスチャンになる前、あなたは神様に背を向け、数多くの罪を犯しました。それでもイエス様はあなたのために死んでくださいました。

イエス様は、あなたの悔い改めを待っておられませんでした。あなたが自分自身を清めるのを待っておられませんでした。

あなたがイエス様を求める前に、イエス様はすでにあなたをお探しになり、手を伸ばしておられました。

ルールにこだわる人のために命を捨てる人はほとんどいないでしょう。優しい人のために命を捨てる人はいるかもしれません。

しかし、あなたが神様のルールに背き、神様や周りの人々を傷つけたにもかかわらず、神様はあなたを愛してくださいました。

神様はあなたのために御子を送り、イエス様があなたのために死なれました。

神様がこれほどのことをしてくださったのに、どうして神様があなたを罰しておられると思うのでしょうか。」

パウロはこう言いました。

ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方(つまり、イエス様)によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。

敵であった私たちが、御子の死によって、神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが御子のいのちによって、救われるのは、なおいっそう確かなことです。(ローマ人への手紙5:10-11)

つまり、神様の目には、私たちはすでに義と認められています。では、どうして「神様は私を罰している」と思うのでしょうか。私たちはすでに神様の怒りから救われています。

そして、私たちが神様の敵であった時に神様が御手を伸ばしてくださったのなら、今私たちが神様の友である時に、なおさら御手を伸ばしてくださらないでしょうか。

だからこそ、苦難に直面しても、私たちは喜ぶことができます。神様は私たちを罰しておられません。神様は私たちの試練を無視しておられません。

むしろ、神様が私たちを罪から救われたように、試練からも救ってくださいます。

だから、パウロはこう言います。

それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。(11)

あなたは苦難に直面しているでしょうか。神様があなたを罰しておられるのか疑問に思っているでしょうか。

心に留めておきましょう。神様はあなたを罰しておられません。

もし神様に信頼するなら、火の中を歩いても、あなたは焼かれることはありません。むしろ、その火を通して、神様はあなたを清め、強めてくださいます。

だから、諦めないでください。絶望しないでください。むしろ、神様に信頼し続けましょう。

神様はこう言われました。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(5)

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ローマ人への手紙

火を通過するとき

時々、聖書を読むと、私は少し首をひねることがあります。この箇所もその一例です。

パウロはこう書きました。

それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ人への手紙5:3-5)

この箇所はよく知られた部分で、私も何度も読んだことがあります。けれども、今回改めて読んでみると、ある疑問が浮かびました。

「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す」ということは理解できますが、どうして練られた品性が希望を生み出すのでしょうか。その関係は何でしょうか。

実は、新改訳は英訳よりも明確です。英訳では単に「忍耐が品性を生み出す」と書かれています。

しかし、原語では「品性」という言葉には、試された人というニュアンスがあります。彼らは試練に直面し、それを乗り越えたことで、神様に認められています。

彼らの信仰は単なる知識ではなく、実際に神様の忠実さや愛を経験したものです。

だからこそ、彼らの信仰は強まり、品性も強められました。どんなに困難な試練に直面しても、神様の愛と忠実さに対する確信を持つことで、希望を抱くのです。

だからパウロは、「この希望は失望に終わることがありません」と言えたのです。私たちの希望は、自分自身の身分や品性に基づくものではありません。

むしろ、私たちの希望は二つの確固たる事実によるものです。それらは、神様が私たちを愛し、私たちのうちに住んでおられる聖霊を通して私たちと共におられるということです。

旧約聖書のヨブの話を考えてみましょう。彼は大きな試練に直面しました。彼の財産や子供たちは奪われ、さらに友人たちにも責められました。

それでも、彼は忍耐を持ち続けました。そして、火を通過した後、神様の愛と忠実さをより深く理解し、希望を知ったのです。

あなたはどうでしょうか。どんな試練に直面していますか。その試練のゆえに、神様から逃げないようにしましょう。むしろ、神様に近づきましょう。

そうすれば、あなたは神様の愛と忠実さを経験し、希望を知ることができます。

そして、パウロが言ったように、「この希望は失望に終わることがありません。」

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使徒の働き

代価がどんなに高くても

この箇所の解釈は少し難しいかもしれません。

なぜ神様はその預言をパウロに示されたのでしょうか。神様は、パウロがエルサレムに行かないように警告されたかったのでしょうか。それとも、パウロが試練に備えることを望まれたのでしょうか。

私の考えですが、おそらく神様はパウロが試練に備えるために、あらかじめ警告されたのだと思います。

イエス様が初めてパウロに現れたときから、すでにパウロがユダヤ人や異邦人に福音を述べ伝える中で苦しむことを警告されていました。(使徒の働き9:15-16)

だからこそ、他のクリスチャンたちがパウロに「エルサレムへ行かないでほしい」と願ったとき、パウロはこう答えたのではないでしょうか。

あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。(使徒の働き21:13)

つまり、どれほど代価が高くても、パウロはイエス様に従おうと努めました。だからこそ、周囲の人々が何を言っても、彼の決意は揺るぎませんでした。

あなたはどうでしょうか。

神様は決して、私たちが順調な人生を送ることを約束されたわけではありません。また、神様に従うことですべての人々が私たちを愛してくれるとも約束されませんでした。

むしろ、神様はその正反対のことを約束されました。(ヨハネ16:33;第二テモテ3:12)

あなたはすでにそのことを知っているかもしれません。しかし、試練に直面したとき、あなたはどうするでしょうか。

その試練が訪れるとき、神様が恵みと勇気を与えてくださるように願います。

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マタイの福音書 マタイ26章 マルコの福音書 マルコ14章 ヨハネの福音書 ヨハネ18章 ルカの福音書 ルカ22章

弱い

サタンが優しい存在だと言う人は誰もいません。サタンは私たちの肉体的な弱さや精神的な弱さを見つけると、すぐに攻撃してきます。

この箇所では、それがはっきりと分かります。イエス様と弟子たちがゲツセマネに着いたとき、イエス様は彼らに警告されました。

誘惑に陥らないように祈っていなさい。(ルカ22:40)

その時、弟子たちはすでに精神的に疲れ果てていました。彼らはまだイエス様の言葉を理解しようとしていました。つまり、イエス様が裏切られること、そしてイエス様が彼らのもとを去っていくことを、受け入れられなかったのです。

そのため、彼らは肉体的に、精神的に、そして霊的に弱くなりました。(ルカ 22:45)

だからこそ、イエス様が「わたしと一緒に目を覚ましていなさい」と言われたのに、彼らは眠ってしまいました。イエス様は何度も彼らに警告し、願われましたが、彼らは1度だけではなく、3度も眠ってしまいました。

その結果どうなったのでしょうか?イスカリオテのユダとユダヤ人の指導者たちがやって来ると、彼らは逃げ去ってしまいました。

しかし、イエス様はさらに過酷な試練に直面されました。イエス様は十字架を背負い、すべての人々の罪を担われました。その時、天の父はイエス様に背を向けられました。

この箇所では、イエス様の祈りをほんのわずかしか見ることができません。けれども、イエス様の最初の祈りは約1時間続き、その後さらに2度祈られました。

イエス様が祈るとき、その苦しみはあまりにも深く、汗が血のしずくのように地に落ちました。(ルカ 22:44)

さらに、その時、弟子たちは眠っていたため、イエス様には精神的な支えがありませんでした。

けれども、イエス様が弱さの中におられた時、天の父はイエス様を力づけてくださいました。

そして、天の父はイエス様を支えるために天使を遣わされたのです。(ルカ22章43節)

だから、捕らえられた時、イエス様は冷静に、最後の試練に直面する覚悟を決められました。

では、なぜ弟子たちは目を覚まして祈ることができなかったのに、イエス様はできたのでしょうか。

おそらく、イエス様は生前、毎朝目を覚まして祈ることを習慣としていたからです。 それは朝だけでなく、夜にも行われました。(マルコ 1:35、マタイ 14:23)

そのため、イエス様は最も弱い時に、日々の訓練によって培われたように自然に反応されたのです。

けれども、弟子たちはその訓練を積んでいなかったため、弱さの中で失敗してしまいました。

あるアメリカの有名なアメリカンフットボールの監督は、自分の選手たちと試合のビデオを見る際、相手チームの選手について語りました。 そのチームのある選手は、何度も同じミスを繰り返していました。そこで、その監督はこう言いました。

「その選手は練習の時、自分の技術について、きちんと気をつけなかったのだろう。 たぶん、彼はこう思ったのかもしれない。「正しいやり方はもうよく知っている。だから、今は気をつけなくても、試合の時にはちゃんとできるだろう」”

けれども、疲れ果てた時、人はただ反応するだけだ。 そして、その反応は、自分が普段どのように訓練してきたかによって決まるのだ。」

霊的な世界においても、これは同じです。

もし、あなたが 「私は困った時、何をすべきかよく知っている。だから、その時が来たらちゃんと祈るだろう」 と思っていたとしても、 毎日その訓練をしていなければ、肉体的に、そして精神的に疲れた時に、 あなたは本当に祈ることができるでしょうか。

そして、試練が訪れた時、弟子たちのようにあなたも自分の弱さに負けてしまうかもしれません。

しかし、もしイエス様のように、毎日神様を求め、目を覚まして神様と語るならば、 試練に直面した時、あなたは迷うことなく、すべきことを行い、固く立つことができるのです。

あなたはどうでしょうか? あなたは、毎日目を覚まして神様と語っていますか?

誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。(マルコ14:38)

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ヨハネの福音書 ヨハネ17章

私たちが敵対的な世にいるのに。。。

この箇所では、イエス様が私たちへの深い愛をもって、私たちのために祈られる姿を見ることができます。

この真理を心に留めておきましょう。イエス様は私たちのために祈ってくださいます。

私たちはしばしば周りの人々のために祈ります。しかし、私たちの大祭司であるイエス様は、私たちのために祈ってくださいます。特に、イエス様は天の父が私たちを守ってくださるように祈られます。

もちろん、この箇所でイエス様は弟子たちのために祈られました。

けれども、イエス様が私たちのためにも祈っておられると信じます。なぜなら、イエス様が弟子たちを敵対する世へ遣わされたように、私たちもまた敵対する世へ遣わされているからです。そして、弟子たちが霊的な戦いに直面したように、私たちも霊的な戦いに直面しています。

だから、イエス様はこのように祈られました。(今もなお、イエス様は私たちのためにこのように祈っておられることでしょう。)

聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。。。

わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。

わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。(ヨハネの福音書17:11,14-15)

福音のゆえに、あなたを憎む人もいるかもしれません。

迫害の時が訪れることもあります。

それでも、イエス様が私たちのために祈ってくださるので、天の父はサタンの攻撃に限界を定めてくださいます。そして、神様の力に頼るなら、私たちは耐えられない試練を経験することはありません。

だからこそ、どんなにつらい試練に直面しても、揺るがず堅く立ちましょう。神様は常に私たちとともにおられるのです。

そして、あなたは必ずその試練を乗り越え、勝利を得ることを忘れないでください。なぜなら、イエス様はあなたのために祈っておられるのです。

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ルカの福音書 ルカ18章

やもめと裁判官のたとえ話:試練に直面するとき、信仰を貫く

一節だけ読むと、イエス様のポイントは「神様がすぐに祈りに応えないときでも、祈り続けるべきである」ということだと思うかもしれません。

もちろん、それも正しいのですが、実際には、イエス様は特定の種類の祈りについて話されています。

この箇所では、イエス様はまだこの世の最後の日について話しています。その日は、悩みの日であり、試練に満ちた日です。

イエス様は私たちが自分の罪のために裁かれないことを約束されましたが、試練や苦しみを経験しないとは約束されませんでした。

時には、私たちは不正義を経験します。特に、反キリストが現れてこの世を支配する時には、クリスチャンたちは大いに苦しむことでしょう。

この箇所でイエス様は、そうしたクリスチャンたちについて語られています。聖書によれば、すべてのクリスチャンが迫害を受けるとされています。

そのような時には、「神様はどこにおられるのだろうか。神様は私を見捨てたのだろうか。まだ私を愛しておられるだろうか。正義はいつ実現するのだろうか」と疑問に思うかもしれません。

だからこそ、イエス様はこのたとえ話をされたのです。この話では、ある女性が不正義を経験したため、裁判官のもとへ行き、正義を求めました。

けれども、その裁判官は彼女の願いを何度も断りました。それでも彼女はあきらめず、何度も裁判官のもとへ行き、お願いを続けました。最終的に、裁判官はこう言いました。

私は神を恐れ ず、人を人と思わ ない が、このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよ う。

そうでないと、ひっきりなしに やって来 て、私は疲れ果ててしまう。(ルカの福音書18:4-5)

イエス様の意味されたことは何でしょうか。神様がその裁判官のように、私たちに正義を与えたくないために、毎日祈りで神様を困らせないと応えてくださらないということでしょうか。それは違います。

実際には、イエス様はその正反対のことを言われています。この不正な裁判官でさえ、その女性のしつこい願いに応じて正義を与えたのです。まして、あなたを愛する公正な神様が、喜んであなたに正義を与えてくださらないことがあるでしょうか。

黙示録6:9-11には、似たような場面が描かれています。その箇所では、聖徒たちはイエス様のために迫害を受けましたが、この世では正義を受けることはありませんでした。

それでも神様は彼らを励まし、「正義は必ず来る」と約束されました。

しかし、苦しんでいるときに正義を待つことは非常に辛いものです。だからこそ、イエス様は私たちにこう問いかけておられるのです。

だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。(8)

もしかすると、あなたはこう考えるかもしれません。

「大丈夫です。私はひどい苦難(マタイ24:21-22)に直面しない。イエス様はその前にクリスチャンたちのすべてを天国に連れて行ってくださるから、心配しなくていい。反キリストを見ることは決してないだろう。」

正直に言えば、私はその確信は持てません。もしかすると、私たちはそのひどい苦難を経験し、反キリストに直面するかもしれません。

とはいえ、仮にそれを避けられるとしても、あなたの信仰はどれほど強いでしょうか。

辛い時、あなたは神様とその正義を疑い始めるでしょうか。「神様、どこにおられるのですか。私を愛しておられるでしょうか。どうして私はこんなに苦しむのでしょうか。」と問いかけるでしょうか。

それとも、信仰を貫いて、こう言うでしょうか。

「神様、私はまだあなたを信じます。たとえ苦しんでいても、あなたを捨てません。私は、最終的にあなたが私に正義を与えてくださると信じます。この世ではその正義を見ないかもしれませんが、後に必ずあなたの正義を知ることになると信じます。」

イエス様があなたをご覧になるとき、揺らぐ信仰をご覧になるでしょうか。それとも、動じない信仰をご覧になるでしょうか。

へブル人への手紙の著者の言葉を心に留めましょう。

ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。(へブル12:12)

そして、私たちの忠実な神様への信仰を貫き続けましょう。

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ルカの福音書 ルカ3章

私はあなたの御心に従っていると思ったのに

時々、私たちは自分の悪い決断によって苦しむことがあります。

たとえば、私が勤めていた会社が倒産しそうなのに、私はそこに留まり続けました。「なんとかなる」と思っていましたが、結局その会社は倒産し、私は失業しました。それは本当に愚かな決断でした。

しかし、時には私たちが神様の御心に従い続けているにもかかわらず、試練に直面することもあります。そして私たちは神様にこう訊きます。「どうしてですか?あなたの御心に従っていると思っていました。」

バプテスマのヨハネもそのように感じたかもしれません。

18節によれば、ヨハネは「多くのことを教えて、民衆に福音を知らせた」とあります。

また、彼は自分の弟子たちをイエス様のもとに向かわせて、「イエス様こそ、あなたが従うべき方です」と言いました。

さらに、ヨハネは予言者としての役割を忠実に果たし、人々の罪を指摘しました。その結果として、彼は苦しみました。

具体的には、ヘロデ・アンティパス王が兄弟の妻を自分の妻としたことをヨハネが非難したため、ヘロデはヨハネを牢に閉じ込めました。

この話の続きをいつかブログで書こうと思っていますが、ここで一つの質問を投げかけてみたいと思います。「どうして神様はこのようなことを許されたのでしょうか?」

ヨハネは牢に閉じ込められるような罪を犯したのでしょうか。そんなことはありません。

神様はヨハネを救うことができたでしょうか。はい、できました。

では、どうして神様はヨハネを救われなかったのでしょうか。それは私にはわかりません。

最終的に、私たちは神様を信頼しなくてはなりません。

私たちが神様に従っても、神様は気楽な人生を約束されません。私たちの人生がすべてうまくいくことを約束されるわけではありません。

イエス様は完璧な人だったのに、打たれて、十字架につけられました。イエス様は気楽な人生を送られることはありませんでした。もしイエス様がそんな人生を送られたなら、私たちが気楽な人生を期待する理由があるでしょうか。

ペテロはこう書きました。

罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。

けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。

あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。(第一ペテロ2:20-21)

私たちは何のために召されたのでしょうか。それは、イエス様のために苦しみを受けることです。

イエス様の足跡はどこに導くのでしょうか。それは苦しみに導きます。

誤解しないでください。私たちが苦しみを探すべきだというわけではありません。しかし、試練が訪れても驚いてはいけません。

もし試練が訪れるなら、ヘブル人への手紙の著者の言葉を心に留めておきましょう。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(ヘブル12:3)

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詩篇

暗い時に希望

私が高校生の時、詩篇116篇にちなんだ歌を聴きました。その時から、この詩篇は私のお気に入りになりました。

そのソングライターはリビング・バイブルの訳を引用しました。

私は主を愛します。なぜなら、主は私の祈りに聞き、答えてくださるから。

主が私に耳を傾けられるので、私は生きる限り祈ります。(詩篇116:1-2)

なぜか、「主が私に耳を傾けられる」と言う言葉は私の心の中に響きます。

神様は私を愛しておられるので、私のすべての言葉を聞くために耳を傾けてくださいます。

そのことについて考える時、私は驚きます。

私には7歳の娘がいます。もちろん私の方が背が高いので、時々、私はちょっと低くして、彼女と話します。なぜなら、私が彼女の言葉を聞くのがもっと簡単になるし、彼女の目がちゃんと見えるからです。

神様は私たちのためにもそうしてくださいます。特に、私たちが暗闇の中にいる時に神様はそうしてくださいます。この詩篇では、詩人は自分のそんな時について歌います。

死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。

そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」(3-4)

そして、神様は憐れみと恵みによって、その詩人に触れられました。だから、詩人は歌います。

私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。(7)

けれども、この詩篇で私たちが学ぶのは、神様に従ったとしても、時々私たちは困難に直面することです。

詩人はこう書きました。

「私は大いに悩んだ」と言ったときも、私は信じた。(10)

パウロは、自分の試練について話した時、この詩篇を引用しました。彼はこう言いました。

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。

途方にくれていますが、行きづまることはありません。

迫害されていますが、見捨てられることはありません。

倒されますが、滅びません。(第二コリント4:8-9)

そして、彼はこう言いました。「私が福音のために苦しんでいても、イエス様の命は私たちを通して表れました。だから、私の周りの人々はその命を受けました。」(第二コリント4:10-12)

だから、パウロは詩人のように言いました。

「私は信じた。それゆえに語った。」(第二コリント4:13)

要するに、「私が福音を述べ伝えることができるなら、私は喜んで暗い時を通って、苦しみます。」

だから、パウロはこう言います。

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(第二コリント4:16-18)

詩人も主からの救いを知ったので、永遠の物に照準を合わせ、主をほめたたえ、自分の人生を主に奉げました。彼は歌いました。

主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。

私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。

私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。(詩篇116:12-14)

神様は私たちの鎖も打ち砕いてくださいました。だから、心から主をほめたたえ、感謝のいけにえを捧げ、周りの人々に主が私たちのために何をしてくださったか伝えましょう。

そうすれば、彼らも暗闇から自由にされます。

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詩篇 歴代誌第一

ご自身の約束を覚えておられる神

詩篇105篇のテーマは、神様がご自身の約束を覚えておられる方であるということです。

特に、詩人はアブラハム、イサク、ヤコブに対する神様の約束について語ります。

神様は彼らにカナンの地を与え、その子孫から大きな国が起こると約束されました。そして、彼らとその子孫がどのような試練に直面しても、神様はその上に御手を置いて守ってくださいました。

だから、アブラハムとイサクとヤコブが寄留の他国人としてカナンにいたとき、神様は彼らを守ってくださいました。(詩篇105:12-15)

ヨセフが奴隷としてエジプトに住んでいたとき、神様は彼に対する約束を守って、彼を支配者にされました。(17-22)

そして、エジプト人がイスラエル人を迫害したとき、神様はパロとその民を裁かれました。(23-38)

イスラエル人が水と食べ物を必要としたとき、神様は彼らのニーズに備えられました。(40-41)

そして、最終的に神様がアブラハムとイサクとヤコブに対する約束を守られたので、ダビデはこの歌を書いて神様をほめたたえました。

だから、覚えておきましょう。神様はいつもご自身の約束を守られます。何が起こっても、どんな試練に直面しても、神様が忠実な方なので、私たちは神様に信頼できます。

だから、パウロはこう書きました。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。。。

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

私たちは、この望みによって救われているのです。

目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。(ローマ8:18,23-25)

ある日、神様がイスラエル人に安息を与えてくださったように、私たちにも安息を与えてくださいます。その日まで、ダビデは私たちに言います。

1.主が何をしてくださったか思い出して、感謝せよ。(1、5)

時々、私たちは自分の問題に巻き込まれて、主からの祝福を感謝することを忘れます。

そのとき、私たちの問題に圧倒されます。しかし、神様からの祝福を思い出し、感謝するとき、希望と喜びは戻ります。

2.主に歌え。私たちの問題に圧倒されるとき、主の聖なる名を誇りとせよ。喜ばせよ。(2-3)

そうすれば、私たちはどれくらい神様が大きいか、またどれくらい私たちの問題が小さいか分かるようになります。そして、私たちの問題に焦点を当てずに、私たちの助け主に照準を合わせます。

3.主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。(4)

あなたの人生が辛すぎるとき、また希望がないとき、主を慕い求めてください。その力を尋ね求めてください。そうすれば、神様はあなたを助けてくださいます。

パウロはこう書きました。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。

私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ書8:26-28)

神様は私たちへの約束を覚えてくださり、守ってくださいます。だから、主を思い出し、慕い求め、賛美しましょう。

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詩篇

試練から私たちを救い出してくださる神

試練が好きだと言う人はいません。私も全然好きではありません。けれども、この詩篇では、私たちは試練から救い出してくださった神様の民が喜ぶのを見ます。

詩篇66篇では、詩人はこう歌います。

全地よ。神に向かって喜び叫べ。

御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ。

神に申し上げよ。「あなたのみわざは、なんと恐ろしいことでしょう。偉大な御力のために、あなたの敵は、御前にへつらい服します。

全地はあなたを伏し拝み、あなたにほめ歌を歌います。あなたの御名をほめ歌います。」 (詩篇66:1-4)

そして、詩人は喜びの理由を教えます。

さあ、神のみわざを見よ。神の人の子らになさることは恐ろしい。

神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は川の中を歩いて渡る。さあ、私たちは、神にあって喜ぼう。(5-6)

もちろん、詩人は神様がイスラエル人をエジプトからどのように救い出してくださったかについて話しています。つまり、神様は紅海に乾いた道を整えてくださいました。その時、神様はその力をイスラエルと周りの国々に現わされました。

だから、詩人は警告します。

神はその権力をもってとこしえに統べ治め、その目は国々を監視される。頑迷な者を、高ぶらせないでください。(7)

そして詩人は振り返って、イスラエル人のエジプトの苦しみも砂漠の苦しみも思い出します。けれども、その苦しみの中で、詩人は神様の御手を見ました。

国々の民よ。私たちの神をほめたたえよ。神への賛美の声を聞こえさせよ。

神は、私たちを、いのちのうちに保ち、私たちの足をよろけさせない。

神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精錬するように、私たちを練られました。

あなたは私たちを網に引き入れ、私たちの腰に重荷をつけられました。

あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。(8-12)

11-12節は興味深い箇所です。神様はイスラエル人を網に引き入れ、外国の王を彼らを治めるために送りました。

神様は私たちの人生に直接悪を送らないけど、この壊れた世に悪は来ます。もちろん神様はその悪を止めることができますが、時々その悪が私たちの人生に来ることを許されます。

どうしてでしょうか。神様は私たちを憎むからでしょうか。違います。

その試練を通して、神様は銀を精錬するように、私たちを練られます。

その試練を通して、私たちのプライドや罪を清め、私たちは神様が望んでおられる聖いものになります。

しかし、私たちが火を通るとき、神様は私たちを手放しません。むしろ、神様は私たちを守り、私たちの足をよろけさせません。そして、私たちはその試練を乗り越え、勝利を得ます。

だから、火を通ってから、詩人は感謝のいけにえを捧げ、自分の経験を周りの人々に伝えました。彼はこう歌います。

さあ、神を恐れる者は、みな聞け。神が私のたましいになさったことを語ろう。

私は、この口で神に呼ばわり、この舌であがめた。

もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。

しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。

ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。(16-20)

あなたはどうですか。どんな試練を通っているでしょうか。どんな試練を通っても、神様はあなたを決して離れません。

だから失望しないでください。神様に叫びましょう。あなたの心を主の前に注ぎ出しましょう。そうすれば、神様の救いを知ります。その時、周りの人々に、神様が何をしてくださったか教えましょう。

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詩篇

神様に叫ぶ

私は、よくダビデの詩篇の背景を知りたいです。時々、ある詩篇のタイトルで、その背景が書かれています。けれども、この詩篇では、その背景が書かれていません。

詩篇25篇で、ダビデはトラブルの中で神様に叫びました。彼はこう歌いました。

主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。

わが神。私は、あなたに信頼いたします。(詩篇25:1-2)

つまり、「私のすべてをあなたに捧げます。私のすべてはあなたのものです。あなたを信頼するから。」

その言葉を言うことは簡単です。とはいえ、その言葉を生きるのは難しいことです。私はよく神様に捧げたものを取り戻します。多くの場合、私は信仰を持たないので、神様を信頼しません。

けれども、私は失敗しても、ダビデのようにその言葉を叫びます。

そして、ダビデはこう祈りました。

主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。

あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。(4-5)

この箇所では、私たちはダビデの謙遜な態度を見ることができます。私たちはしばしば、すべてのことを知っているかのような態度を持ち、神様に相談する必要がないと思いがちです。

しかし、ダビデはへりくだって、神様に言いました。「私はすべてのことを知りません。最も良い道を知りません。だから教えてください。導いてください。」

どうしてダビデは神様の道を求めたのでしょうか。それは、ダビデが神様を愛し、神様を喜ばせたかったからです。だから彼は「あなたは救いの神です。私はあなたを待ち望みます。」と言いました。

そして、ダビデは請いました。

主よ。あなたのあわれみと恵みを覚えていてください。それらはとこしえからあったのですから。

私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ。あなたのいつくしみのゆえに。。。

主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。(6-7,11)

ダビデはアブサロムから逃げた時、この言葉を書いたのでしょうか。もしそうなら、多分、バテ・シェバとの罪について考えたかもしれません。神様はダビデを赦されましたが、その罪は結局ダビデを追放に導きました。だから、ダビデは祈りました。

「私の咎は大きいけれども、どうか赦してください。
私はあなたの赦しに値しません。しかし、あなたの恵みとあわれみによって、どうか赦してください。」

多くの場合、私たちが振り返る時、私たちの罪は神様に赦されましたが、その罪が結局私たちのトラブルを起こしたことが分かります。その時、私たちは、「神様は本当に私を赦されたのだろうか。」と思います。

けれども、私たちが心から悔い改めたら、神様は私たちをきっと赦してくださいます。そして、私たちが赦しに値しないのに、裁きの日に、神様は私たちにあわれみを与えてくださいます。

それでも、神様は、この世における罪の結果を取り去らないかもしれません。しかし、ダビデの時と同じように、神様は私たちと共にいて、支えてくださいます。

だからダビデは歌いました。

主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。

主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。

主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。(8-10)

つまり、私たちが罪を犯しても、神様を求め続けたら、神様は私たちを決して諦めません。神様は私たちを導き続け、教え続けてくださいます。

もちろん、私たちはダビデと大きな違いがあります。それは、私たちがモーセの律法の下に生きていないことです。だから、私たちが罪を犯しても、神様の私たちに対する愛と忠実さは決して変わりません。

パウロはこう書きました。

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。(第二テモテ2:13)

そして、ダビデは神様の守りのために祈りました。

私のたましいを守り、私を救い出してください。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたに身を避けています。

誠実と正しさが私を保ちますように。私はあなたを待ち望んでいます。(20-21)

だから、ダビデはこの詩篇を始めたように、この詩篇を終えます。彼は自分の魂を神様の御手に委ね、神様を待ち望みました。

試練の中で、私たちもそのようにしましょう。

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詩篇

正義の神

詩篇9篇の主なテーマは神様の正義です。

ダビデは神様についてこう言いました。

あなたが私の正しい訴えを支持し、義の審判者として王座に着かれるからです。(詩篇9:4)

また、

主は義によって世界をさばき、公正をもって国民にさばきを行なわれる。(8節)

また、

主はご自身を知らせ、さばきを行なわれた。(16節)

この世では、私たちは悪を見ないわけではありません。もちろん、私たちは悪をよく目にします。しかし、ダビデは神様についてこう言いました。

主はしいたげられた者のとりで、苦しみのときのとりで。御名を知る者はあなたに拠り頼みます。

主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。

主にほめ歌を歌え、シオンに住まうその方に。国々の民にみわざを告げ知らせよ。

血に報いる方は、彼らを心に留め、貧しい者の叫びをお忘れにならない。。。

貧しい者は決して忘れられない。悩む者の望みは、いつまでもなくならない。(9-12、18節)

つまり、私たちは正義が遅いと思うかもしれませんが、結局正義は必ず来ます。また、困難な時でも、神様がまだ私たちのそばにおられ、決して私たちを捨てません。

困難な時、神様があなたから遠く離れておられると思うかもしれませんが、神様は私たちを無視せず、私たちのすべての叫びを聞いてくださいます。神様は私たちを忘れておられず、助けるために立ち上がられます。

だからこそ、神様が私たちを助けてくださる時、ダビデのように神様をほめたたえましょう。彼は歌いました。

私は心を尽くして主に感謝します。あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。私は、あなたを喜び、誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。(1-2節)

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ゼカリヤ書

清められた

この箇所では、ゼカリヤはユダヤ人の悔い改めについてさらに詳しく話します。つまり、最後の日、神様の恵みによって、そして、イスラエル人が約2000年前に十字架に付けられたイエス様の血によって、彼らの罪は清められます。

その日、すべての偶像と偽の預言者たちはイスラエルから取り除かれます。こうして、イスラエルは神様のために本当に聖い国となります。

しかし、その前に、良い牧者は打ち殺されなければならず、その羊は散らされなければなりませんでした。

だから、イエス様は敵に捕らえられた時、彼の弟子たちは逃げ去りました。イエス様はあざけられ、鞭で打たれ、兵士たちの手で殴られ、そして十字架で殺されました。

ユダヤ人は自分の救い主を拒絶したため、神様は彼らを罰し、その国は滅ぼされました。

それでも、神様はご自分の恵みを彼らの上に注がれます。多くのユダヤ人が命を落としても、救い主イエス様に従うユダヤ人は残ります。神様は彼らについてこう言われます。

わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。

彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「これはわたしの民」と言い、彼らは「主は私の神」と言う。(ゼカリヤ書13:9)

神様は私たちが試練を経験しないと約束されたわけではありません。実は、イエス様はこう言われました。

あなたがたは、世にあっては患難があります。(ヨハネ16:33)

しかし、その試練を通して、神様は私たちを練り、清めてくださいます。そして、私たちが神様を呼ぶ時、神様は応えてくださいます。

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ダニエル書3

思慮深い人

多くの人々にとって、特に聖書を信じない人々にとって、この箇所は最も信じがたい部分かもしれません。それは、この預言が非常に具体的であり、すべてが成就されたからです。つまり、ダニエルはペルシャ帝国とギリシャ帝国の将来について語っています。

まず、クロス王の後に続く3人のペルシャの王について言及します。それはカンビュセス2世、ガウマタ、そしてダリヨスです(ここでのダリヨスはダニエル書のダリヨスではなく、エズラ記6章に出てくるダリヨスです)。

ダリヨスの息子はアハシュエロス(クセルクセス1世)であり、エズラ記とエステル記に登場するアハシュエロスです。

アハシュエロスは他のペルシャの王よりも裕福でした。その理由は、莫大な税金を徴収し、多くの国を征服したからです。彼はギリシャを攻撃し、最初は成功を収めましたが、最終的にはその海軍が敗北を喫しました。

その後、彼の軍隊もプラタイアの戦いで敗北を喫しました。(ダニエル書11:2)

その後、ギリシャでアレクサンダー大王(つまり、アレクサンドロス3世)が王となりました。けれども、彼の死後、その帝国は4つに分割されました。ただし、アレクサンダーの子孫が支配していたわけではありません。むしろ、アレクサンダーの4人の将軍がそれらを治めました。(ダニエル書11:3-4)

さらにダニエルは具体的に、ギリシャで何が起こるかを預言します。彼はプトレマイオス1世とアンティオコス2世の時代から、プトレマイオス12世とアンティオコス4世の時代まで預言しています。(ダニエル書11:5-34)

歴史的な本を読めば、その預言がどのように成就されたかがよく分かるでしょう。あるいは、ウィキペディアにも関連した情報があるかもしれません。

いずれにせよ、ダニエル書11:36から最後までは、ダニエルが終わりの日と反キリストについて預言している箇所です。反キリストは他の神々を礼拝せず、「すべてにまさって自分を大きいものとする」とあります。(ダニエル書11:37)

おそらく、彼は「私は神である」と主張するのかもしれません。

また、彼は「砦の神」を崇めると記されています。つまり、力の神、あるいは戦争の神を崇めることを意味しています。この反キリストは力を好み、戦争を始める者であることを示唆しています。そして、イエス様が再臨されるまで反キリストは支配を続けます。

その時代には多くの困難が起こりますが、神様はご自身の民を救い出し、終わりの日の復活の時に、神様を愛する者は復活して永遠に生きます。

しかし、神様を憎み逆らう者はそしりと永遠の忌みを受けることになります。(ダニエル書12:1-3)

私たちは何を学ぶべきでしょうか。

ダニエル書11:33-35では、アンティオコス4世とマカバイ戦争について言及されています。その時、ユダヤ人は迫害されましたが、ダニエルはそのユダヤ人について次のように記しています。

民の中の思慮深い人たちは、多くの人を悟らせる。

彼らは、長い間、剣にかかり、火に焼かれ、とりことなり、かすめ奪われて倒れる。彼らが倒れるとき、彼らへの助けは少ないが、多くの人は、巧言を使って思慮深い人につく。

思慮深い人のうちのある者は、終わりの時までに彼らを練り、清め、白くするために倒れるが、それは、定めの時がまだ来ないからである。(ダニエル書11:33-35)

神様はご自身の民が決して苦しまないとは約束されませんでした。むしろ、思慮深い人たちが周囲の人々に神様の方法を教えるために、「彼らは、長い間、剣にかかり、火に焼かれ、とりことなり、かすめ奪われて倒れる」と記されています。

しかし、その苦しみの中には、神様のご計画があります。つまり、その試練を通して、「彼らを練り、清め、白くする」とされています。

そして、12章によれば、彼らは苦難の時代から救い出され、復活します。その時、

思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。(12:3)

そして、ダニエルはこう書きました。

多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。(12:10)

そして、天使はダニエルにこう言いました。

あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。(13)

この箇所を読むと、希望に満たされます。たしかに、戦争は起こり、将来には様々な困難や試練が訪れます。

けれども、それらを通して、神様は私たちを清め、白くし、練り上げてくださいます。そして、終わりの日の復活において、私たちを救い出してくださった神様の御前で、私たちは星のように輝くのです。

だからこそ、私たちは思慮深い人になるよう努めましょう。毎日神様を求め、周囲の人々を神様のもとへ導きましょう。

そうすれば、ダニエルのように、私たちは休みを得た後に復活し、自分の割り当てられた地に立つことができるでしょう。

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ダニエル書

それでも

私はダニエルとその友達が神様に対して示した忠実さに感心します。プレッシャーが津波のように押し寄せる時に、じっと立ち続けるのは本当に難しいことです。

ネブカデネザルの思いは分かりませんが、多分、彼の夢(2章を読んでください)によってインスパイアされました。ただし、残念ながら悪い方法でインスパイアされてしまいました。

つまり、彼は神様の御前にへりくだるのではなく、自分自身を高めようとしたのです。

夢とは異なり、いろいろな金属で像を作るのではなく、彼は純金の像を作りました。おそらく、この像を通してネブカデネザルは神様にこう言いたかったのでしょう。

「あなたのメッセージを拒絶します。あなたは私の王国が結局倒れると言いましたが、私の王国は永遠に続き、他の王国は私の王国を決して倒すことはできないのです。」

そのプライドゆえに、ネブカデネザルは自分の民に命令しました。「私のミュージシャンが演奏を始めたら、皆はこの金の像の前で礼拝しなければならない。」

バビロンに住んでいる人々は皆、その命令に従いました。しかし、3人の人々だけは礼拝しませんでした。それはダニエルの友達であるシャデラク、メシャク、そしてアベデ・ネゴです。

(ダニエルがどこにいたのかは分かりません。おそらく出張中だったのでしょう。)

カルデヤ人たちはその光景を見て、ネブカデネザルに報告しました。それを聞いたネブカデネザルは非常に怒り、その3人を呼び寄せてこう言いました。

もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。(ダニエル書3:15)

それでも、ダニエルの友達はそのプレッシャーに屈しませんでした。彼らはこう言いました。

私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。

王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。(16-17)

そして、彼らは言いました。

しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。(18)

ようするに、「神様は私たちをあなたの手から救い出すことができます。その力を持っておられます。もしかすると、神様は私たちを救い出してくださるでしょう。もしかすると、私たちは死ぬかもしれません。それでも、私たちは神様だけに仕えます。」

それでも神様だけに仕えます。

それは、無条件のコミットメントです。たとえ死を迎えることになっても、彼らは神様への愛を決して捨てないと固く決心しました。

では、あなたはどうでしょうか。神様に対して、そのようなコミットメントを持っているでしょうか。

家族があなたを拒絶するような状況でも、神様に従う決心があるでしょうか。

仕事を辞めざるを得ない状況になっても、神様に従うことを選ぶでしょうか。

神様があなたのすべての願いを叶えられない時でも、従うことを選ぶでしょうか。

神様は、そのような心を望んでおられます。私たちが神様に従う中で、神様は理想的な人生を約束されるわけではありません。時には、私たち自身が代償を支払わなければならないこともあるでしょう。

とはいえ、昨日のブログで書いたように、神様は私たちと共に歩まれます。神様は火の中でシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴと共に歩まれ、それを目の当たりにしたネブカデネザルとバビロンのリーダーたちは驚愕しました。

そのようにして、あなたがどんな苦しい試練に直面しても、神様はあなたと共に歩まれるお方です。

ですから、何が起こっても、神様に従っていきましょう。

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イザヤ書

尊い

多分イザヤ書43:1-13が私の一番好きな聖書の箇所です。

だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。

「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。

火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。(イザヤ書43:1-3)

私たちの創造者が語られた言葉を深く心に留めましょう。

「私はあなたを贖ったのだ。」

イスラエルの民がこの言葉を聞いた時、彼らの心はエジプトからの救いへと思いを馳せていたでしょう。かつて、彼らはエジプトで奴隷として苦しんでいましたが、神様は彼らを解放し、約束の地へと導かれました。

しかし、この言葉には、私たちにとってさらに深い意味があります。キリストの十字架を通して、私たちは罪の罰から贖われました。イエス様の流された血によって、私たちは赦されたのです。

わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

あなたは取るに足りない存在ではありません。神様はあなたの名前をよく知っておられます。神様があなたを見て、こう言われます。「あなたは私のものだ。あなたは私が愛している子だ。」

「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり…」

イエス様が語っておられるのは、こういうことです。

「たとえ人生の海が深く、あなたがパニックに陥る時があっても、私はペテロとともにいたように、あなたと共にいます。私はあなたの手を取り、波の上を導くのです。」

川を渡るときも、あなたは押し流されることはない。火の中を歩いても、あなたは焼かれることはなく、炎があなたを燃えつくすこともない。

つまり、どのような試練を経験しても、神様を信頼するならば、あなたは必ず乗り越えることができるのです。

そして、神様はこう語られました。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。(4)

これはおそらく預言の一つでしょう。つまり、イスラエルの追放の後に、ペルシアがイスラエルの民を自分たちの土地に帰らせるようにするため、神様がエジプトや他の国々をペルシアに与えるという意味だと思われます。

とはいえ、これが私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか。

神様は、私たちが高価で尊い存在だと思われたからこそ、イエス様をこの世に送られました。そして、イエス様は私たちの代わりに十字架で死なれました。神様が私たちを深く愛しておられるゆえに、イエス様は私たちの罪のために命を捧げられたのです。

さらに、神様はイスラエルの民にこのように約束されました。 「あなたがたが国々の民の中に散らされても、私はあなたがたをイスラエルに帰らせる。」

神様は私たちにも同じように語られます。たとえ私たちが神様からどれほど離れてしまったとしても、また私たちの人生がどれほどめちゃくちゃになったとしても、神様に立ち返るならば、神様は私たちをもう一度迎え入れてくださいます。

私たちの霊的な目が長い間神様を見ず、耳が神様の声を聞かなかったとしても、それでも神様は私たちを受け入れてくださるのです。(8)

そして今、神様は私たちを神様の証人として呼び出しておられます。

神様は私たちが救いの中で安住するだけで満足してほしいとは望んでおられません。むしろ、その救いを世界の果てまでも伝える使命を担ってほしいと望んでおられます。

神様はこう語られます。

あなたがたはわたしの証人、――主の御告げ――わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。(10)

私たちへのメッセージは何でしょうか。

わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。

わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。(10-11)

イエス様は同じようなことを言われました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)

ですから、神様の尊い愛されている子供たちとして、この世界が救われるために、そのメッセージを伝えていきましょう。