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詩篇のデボーション

感謝する理由

詩篇100篇のタイトルは「感謝する賛歌」です。

この詩篇を反芻しているとき、私が思ったのは、旧約聖書の時代の詩人がこの詩篇を書いたけれど、新約聖書の時代の詩人の言葉のように聞こえるということです。

どうして私はそう思うのでしょうか。

なぜなら、その詩人は、ユダヤ人だけではなく、すべての人々に神様を礼拝するように促しているからです。

イエス様が十字架で死なれる前に、神様を礼拝する理由を持っていた人々は、ユダヤ人たちでした。

神様に近づく特権を持っていた人々は、ユダヤ人たちでした。なぜなら、神様は特に彼らを御自分の民、また、御自分の羊として選ばれたからです。

でも、十字架の後、イエス様を信じるすべての人々は、ユダヤ人でもユダヤ人でなくても、神様に近づくことができます。私たち皆は、「私は神の民です。私は神の羊です」と言う権利を持っています。

だから、喜びをもって主に仕えましょう。喜び歌いつつ神様の御前に進みましょう。

大胆に神様に近づいて、主に感謝し、ほめたたえましょう。そして、詩人と一緒に歌いましょう。

主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。(詩篇100:5)

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創世記のデボーション

忘れられたわけではない

水は百五十日間、地の上に増し続けた。神は、ノア。。。を覚えておられた。神は地の上に風を吹き渡らせた。

すると水は引き始めた。。。

第二の月の二十七日には、地はすっかり乾いた。(創世記7:24ー8:1、14)

コロナのせいで、私たちは何度も外出自粛するように要請されました。

でも、船が大きくても、一年以上の船の中での生活を想像できるでしょうか。

ノアとその家族はそうしなくてはなりませんでした。

大洪水が第一の月の十七日に始まり、次の年の第二の月の二十七日に地はやっと乾きました。(創世記7:11、8:14)

その間、神様は何回ぐらいノアと話しておられたでしょうか。

一回でしょうか。二回でしょうか。全然話しておられなかったでしょうか。

私は分かりませんが、「神はノアを覚えておられた」と書いてあります。

神様は一旦ノアたちを忘れて、「あ、しまった。ノアくんたちはまだその箱船にいる!忘れていた」と言われたわけではありません。

むしろ、神様はずっとノアたちを見守っておられました。

私たちは自分の試練やトラブルに直面しているかもしれません。でも、心に留めておいてください。あなたが神様に忘れられる時は一度もありません。

神様は私たちにこう言われます。

恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。

あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。

川を渡るときも、あなたは押し流されず、 火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、 あなたの救い主であるからだ。(イザヤ書43:1ー3)

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創世記のデボーション

彼の血が私に叫んでいる

カインがアベルを殺した後、神様はカインにこう言われました。

あなたの弟の血が、その大地からわたしに向かって叫んでいる。(創世記4:10)

アベルの血は正義を求めていました。

だから、神様はカインにこう言われました。

今や、あなたはのろわれている。(11)

そして、カインは主の御前から出て行きました。(創世記4:14、16)

でも、数千年後、もう一人の無実の人が殺されました。イエス様は罪を全く犯されなかったのに、十字架で殺されました。

しかし、へブル人への手紙の著者は、イエス様とその血についてこう言っています。

あなたが近づいているのは。。。新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。(へブル12:22ー24)

アベルの血は正義を求めましたが、イエス様の血は罪人への神の恵みを願いました。

だから今、神様は私たちをご覧になると、こう言われます。

「わたしのひとり子の血は、その大地からわたしに向かって叫んでいる。だから、今や、あなたは祝福されている。呪いは取り除かれている。そして、わたしのひとり子の血によって、あなたの罪は赦されている。」

そういうわけで、へブル人への手紙の著者は私たちにこう励ましています。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(へブル10:19ー22)

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創世記のデボーション

呪いが解かれる日

今日の箇所を読んだとき、罪の呪いを思い起こしました。

罪悪感。恥。苦しみ。死。

でも、最も恐ろしいのは、神様の御前から投げ捨てられることです。

それでも、神様の御言葉によって、アダムとエバはなお希望を持っていました。

神様はサタンにこう言われました。

わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。

彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。(創世記3:15)

神様はその約束を守ってくださいました。

十字架で、イエス様は死なれましたが、それと同時に、サタンに致命的な打撃を与えられました。

さらに、三日目にイエス様は蘇られました。

そういうわけで、私たちは呪いが取り除かれる日を心待ちにしています。

ヨハネは幻の中でその日を見て、こう言いました。

また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。

「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。

神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」(黙示録21:1-5)

アーメン。主イエスよ。来てください。(黙示録22:20)

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創世記のデボーション

男と女に私たちを創造された

「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。。。」

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。(創世記1:26ー27)

このブログを始めたとき、「いつかジェンダーのことを話すべきだ」とは全然考えていませんでした。

でも今は、「男」と「女」とは、ただの人間が作った概念だと教える人がたくさんいます。彼らによれば、その概念は現実に基づいていません。

だから、彼らが教えるのは、人間が「男」と「女」に分かれるという概念を捨てるべきだということです。

でも、今日の箇所によれば、「男」と「女」という概念は人間的な考えではなく、むしろ、それは神様の発明です。

イエス様ご自身も、その真理を受け入れ、教えられました。イエス様はパリサイ人たちにこう言われました。

あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から「男と女に彼らを創造され」した。(マタイ19:14)

神様は私たちを男と女に造られました。神様によれば、それは良いことです。(創世記1:31)

一つ目の理由は、神様の望みが私たちがこの地に満ちることです。(創世記1:28)

もう一つの理由は、私たちが神様のかたちをより良く反映することです。

男と女は、ちょうど同じ方法で神様のかたちを反映するわけではありません。でも、男と女の両方を見ると、神様がどんな方であるか私たちは分かります。

例えば、聖書では、神様はほとんどご自身を父として描写されますが、母として描写されることもあります。(イザヤ書49:15、イザヤ書66:13、詩篇131:2、詩篇103:13、ガラテヤ4:6―7、へブル12:5ー11)

「男」と「女」という概念を捨てるのは、私たちの創造者の教えと人間のための計画を捨てることです。

そうすれば、私たちは人間とは何であるかを理解することができません。

だから、この世の嘘を受け入れてはいけません。

「男」と「女」という概念は人間的な考えではありません。それは神様の計画です。私たちが新しいジェンダーアイデンティティーを作るとき、それは人間的な発明です。

もしかすると、あなたは自分のジェンダーアイデンティティーについて混乱しているかもしれません。

しかし、心に留めておいてください。

神様はあなたを愛しておられます。神様はあなたのために良い計画を持っておられるのです。

でも、この世の嘘によって、あなたは自分の問題を解決することはできません。

イエス様はこう言われました。

あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。。。

ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。(ヨハネ8:31ー32、36)

だから、神様の真理にしがみつきましょう。そして、イエス様の教えを信じましょう。

神様は人間を男と女に造られました。それは良いことです。

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創世記のデボーション

ただの動物?

この世によれば、私たち人間はただの動物です。

この世によれば、私たちは特別な存在ではありません。私たちは他の動物とあまり違いません。

でも、今日の箇所はその嘘を見破ります。

興味深いことに、神様は動物と人間を祝福して、「生めよ。増えよ。海の水や地に満ちよ。」と言われました。

しかし、神様は人間だけにこう言われました。

地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。(創世記1:28)

でも、神様が人間にもう一つの特徴を与えてくださらなかったら、人間はその命令を守ることができなかったでしょう。

その特徴は何でしょうか。

「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。。。」

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。(創世記1:26ー27)

神様は私たちをご自身のかたちとして造られました。

神様と同じく、私たちは考えることができます。

神様と同じく、私たちはコミュニケーションを取ることができます。

神様と同じく、私たちは愛することができます。

神様と同じく、私たちはものを作ることができます。

神様と同じく、私たちは道徳観念を持っています。(私たちの道徳観念は時々歪んでいるものですけど)。

喫茶店や公園や電車にいるとき、周りの人々を観察してください。

彼らは日常のことをしているかもしれませんけど、自分自身に聞いてみてください。

「その人たちはただの動物なのだろうか。彼らは、動物と違いがないのだろうか。動物よりも価値がないのだろうか。」

もちろん、私たちには動物と共通点があります。でも、神様は私たちを優れたものとして造られました。

だから、私たちの創造者に畏敬の念を抱きましょう。

そして、人間の不思議さに心を打たれましょう。

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創世記のデボーション

始めに神。。。

どうして私たちは神様を礼拝するのでしょうか。どうして神様に信頼を寄せるのでしょうか。

その理由は、聖書の最初の言葉にあります。

「始めに神。」

その言葉を噛み締めましょう。

他のものが存在する前に、神様はすでにおられました。

存在するもののすべては、神様から生まれました。

ご自身の知恵によって、神様はすべてのものを造られました。

神様の力によって、すべてのものは造られました。

神様の思いは、私たちの小さな頭では把握できないほど多く、深いものです。

神様の力は無限です。

この方こそ、私たちが礼拝する神です。

でも驚くべきことは、この神が私たちを愛してくださることです。

だから、天使たちと一緒に歌いましょう。

聖なる、聖なる、聖なる、 主なる神、全能者。 昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。。。

主よ、私たちの神よ。 あなたこそ 栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。 あなたが万物を創造されました。 みこころのゆえに、それらは存在し、 また創造されたのです。(黙示録4:8、11)

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使徒の働きのデボーション

私は望みを抱いている

また私は、正しい者も正しくない者も復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神に対して抱いています。(師との働き24:15)

その言葉は私の心に響きました。

どうして、パウロは望みを持っていたのでしょうか。

なぜなら、パウロは、神様が彼を愛しておられるという確信を持っていたからです。また、神様がパウロの罪の罰を受けるためにイエス様を送ってくださったことを、パウロは知っていました。

でも、それだけではなく、神様がイエス様を復活させたことも、パウロは知っていました。

そういうわけで、パウロは、自分の問題が永遠に続くわけがないと知っていました。

さらに、パウロは、すべての悪人が裁かれる日が来るという確信を持っていました。

でも、パウロは神様の愛をよく知っていたので、フェリックスと違って、神様の裁きを恐れませんでした。(25)

むしろ、パウロは毎日、望みを抱き、神様を喜ばせようと努め、イエス様を切実に必要とする世界に触れていました。(16)

私たちは暗い時代に生きているかもしれません。でも、パウロと共に、あなたは「望みを抱いている」と言えるでしょうか。

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詩篇のデボーション

主の家にたどり着くとき

これは、もう一つの都上りの歌です。ユダヤ人たちはエルサレムに巡礼する時、この歌を歌っていました。

詩篇126篇では、彼らはバビロンからの追放の後、エルサレムに戻ってきたときの喜びを思い起こしています。

でも、彼らはもう一度祈ります。

私たちを元どおりにしてください。(詩篇126:4)

そして、彼らは、自分の涙が喜びに変わる日を心待ちにしています。

私は以前にも言いましたが、私たちも巡礼している途中です。私たちは新しいエルサレムに巡礼しているのです。

そして、黙示録で、ヨハネはこの詩篇と同じような描写をしています。ヨハネの幻の中で、この世でキリストのために苦しんでいたクリスチャンたちは、喜びを持ってこう歌いました。

救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。(黙示録7:10)

そして、長老の一人は彼らについてこう言いました。

彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている。

御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。

彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。

御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。(黙示録7:15-17)

詩人が言ったように、私たちは涙とともに種を蒔くかもしれませんが、主の家についにたどり着くと、私たちは喜び叫びながら刈り取ります。そして、その喜びを私たちから奪い去る者はありません。(詩篇126:5、ヨハネ16:22)

 

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詩篇のデボーション

もしも、 主が私たちの味方でなかったなら

もしも、 主が私たちの味方でなかったなら。」

さあ イスラエルは言え。

「もしも、主が私たちの味方でなかったなら。。。(詩篇124:1ー2a)

それを読んだとき、私は牧師の最近のメッセージを思い出しました。

「もしも、主が私の味方でなかったなら、もしも、主が私を救ってくださらなかったら、私は今、どこでどうしていただろうか。」

どうでしょうか。

私の父は若い頃、とても短気な人だったので、私はいつも父を怖がっていました。でも、神様が父の心に働いてくださったので、私の父との関係は癒されました。さらに、その経験によって、私はより良い夫とパパになることができました。

でも、私自身もいろんな弱さや罪を持っています。もし神様が私の心に働いてくださらなかったら、その弱さや罪によって、私の人生はとてもめちゃくちゃになっていたと思います。

でも、何よりもまず、主が私の味方でなかったなら、私はまだ自分の罪の中にいて、地獄への道を歩んでいたと思うのです。

神様は、私をそのすべてから救ってくださいました。だから、私は歌います。

ほむべきかな 主。。。

鳥のように 私たちのたましいは 仕掛けられた罠から助け出された。罠は破られ 私たちは助け出された。

私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。(6ー8)

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詩篇のデボーション

ただのしもべではない

まことに、しもべたちの目が主人の手に向けられ、仕える女の目が女主人の手に向けられるように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。(詩篇123:2a)

その言葉を読むとき、「私たちは神様のしもべです。私たちはいつも神様に向かい、神様が私たちに何をしてほしいか考えるべきです。」と考えるのは自然な反応だと思います。

もちろん、神様のしもべとして、私たちはそうするべきです。

だから、私はその次の言葉を読んだとき、ちょっとびっくりしました。

主が私たちをあわれんでくださるまで。 (2b)

そして、詩人は叫びます。

あわれんでください、主よ、あわれんでください。私たちは蔑みでいっぱいです。(3)

私たちの神様との関係で驚くべきことは、神様が私たちをただのしもべと見なしておられないことです。

むしろ神様の目には、私たちは尊い存在です。神様は私たちを心から愛しておられます。

だから、私たちが神様に叫ぶと、神様は私たちの声を聞き、祈りに答え、私たちをあわれんでくださるという確信を持つことができます。

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詩篇のデボーション

神の民と共に感謝を選ぶ

神のおきてに従って、
イスラエル中の主の民がここに集まり、
主を礼拝し、感謝と賛美をささげるのです。(詩篇122:3ー4、リビング・バイブル)

私はその言葉を読んだとき、本当に印象に残りました。

イスラエル人たちは一年に三回、特別な祭りのためにエルサレムに行き、神様に感謝を捧げるように命じられました。

もちろん、クリスチャンとして私たちには、その祭りを祝う必要はありません。でも、私たちは主にあって喜び、主に感謝を捧げるように命じられています。(第一テサロニケ5:16ー18)

特に私たちは、主の民と共に集まり、そうするべきです。(エペソ5:18ー20)

どうして、感謝の心を持つことがそれほど大切なのでしょうか。ローマ人への手紙1章には、一つの答えが記されています。

彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。(ローマ1:21)

自分の問題に集中するのは簡単なことです。でも、そうすると、私たちはすぐに絶望し、苦々しい思いを抱き、神様を疑い、この世の考え方に従い始めてしまいます。そして、私たちの心は鈍くなり、暗くなってしまいます。

私たちがその罠に陥らないように祈りましょう。むしろ、神様から受けた祝福を思い起こし、喜ぶことを選びましょう。

そして、どんな問題があっても、クリスチャンの交わりを避けないようにしましょう。

むしろ、ダビデと共に歌いましょう。

「さあ 主の家に行こう。」 人々が私にそう言ったとき、私は喜んだ。(詩篇122:1)

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詩篇のデボーション

主と共に歩む巡礼

詩篇121篇のタイトル(実は、121篇から134篇までのタイトル)は、「都上りの歌」です。

ユダヤ人たちはエルサレムに巡礼したとき、この歌を歌いました。

でも、私たちも巡礼の旅の途中にいます。私たちは新しいエルサレムに向かって巡礼しています。(黙示録21:2)

この巡礼は長い旅です。私たちがクリスチャンになった瞬間に、神様に天国へ連れていかれたわけではありません。

この旅は時に辛く、私たちは苦しむこともあります。でも、この詩篇は、私たちの助けがどこから来るのかを思い出させます。

天地を造られたお方が、私たちと共におられるのです。(2)

また、神様はまどろむこともなく、眠ることもありません。(4)

ですから、何が起こっても、神様の御手は毎日、私たちの上に置かれているのです。

この詩篇を読むとき、イエス様の言葉を思い出します。

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。(ヨハネ14:18)

また、イエス様が弟子たちのために、そして私たちのために祈られたことは、この詩篇の内容を反映しています。

わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。

聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。。。

わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。(ヨハネ17:11、15)

もちろん、私たちが決して苦しまないというわけではありません。イエス様の弟子たちの多くが自分の信仰のために殺されました。

でも、神様はいつも私たちと共に歩んでおられます。神様が私たちを見捨てることはありません。

そして、最終的に、神様は私たちを主の家に導いてくださいます。

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詩篇のデボーション

神の恵みを求めて

詩篇119篇を読むとき、私はいつも神様とそのみ言葉に対するダビデの熱意に感動します。彼は本当に神様を愛し、神様を喜ばせたいと思いました。

それでも、ダビデは、自分が神様の恵みを必要とするのが分かりました。

彼はこう叫びました。

どうか、私の道が堅くされますように。あなたのおきてを守るために。(詩篇119:5)

でも、彼は自分の弱さを認めました。

私は、滅びる羊のようにさまよっています。(176)

だから、彼は何度も神様の恵みを願いました。

神様が彼に教えてくださるようにと、何度も祈ったのです。(12、29、33、66、68、108、124)

神様が彼の霊的な目を開くように願いました。(18)

神様が彼に悟らせるように願いました。(27、34、73、125、144、169)

神様の御言葉に従うために、彼は神様の導きを願いました。(35)

彼は、神様とそのみ言葉に傾いている心を願いました。(36)

彼がむなしいものを見ないように、神様が彼の目をそらせるように願いました。(37)

そして、神様があわれみと恵みによって、彼を取り扱ってくださるように願いました。(58、124)

完全な人は誰もいません。私たち皆は、神様の恵みを必要とします。だから毎日、この詩篇にあるダビデの祈りを祈りましょう。

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私の門、私の義

天のお父様、あなたは私のために義の門を開けてくださいました。

イエス様は私の門です。(ヨハネ10:9)

イエス様は私の義です。(第一コリント1:30)

イエス様によって、私はあなたに近づくことができます。(へブル10:19ー22)

だから今、私はあなたの御前に立って、あなたを感謝します。なぜなら、あなたは私に答え、私の救いとなられましたから。(詩篇118:19ー21)

家を建てる者たちが捨てて、十字架にかけた石は、あなたの教会の要の石となりました。(詩篇118:22、使徒の働き4:10ー12、エペソ2:19ー22)

天のお父様、これはあなたがなさったことです。私たちの目には不思議なことです。これはあなたが設けられた日です。この日を楽しみ喜びます。(詩篇118:23ー24)

主よ。あなたはまことにいつくしみ深い方です。その恵みはとこしえまでです。(詩篇118:1)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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 神の恵みとまこと

最近、ヤコブの人生の後半に関するメッセージをしました。ヤコブにとって、そのときは本当に辛いものでした。彼の妻と父が亡くなり、彼の一番愛していた息子であるヨセフも死んだと思いました。

そのとき、苦々しい思いをもって、皮肉っぽくこう言えたかもしれません。

私たちの神は 天におられ、その望むところをことごとく行われる。(詩篇115:3)

でも、ヤコブの晩年、彼が分かってきたのは「神様は気まぐれな方ではありません。神様は、いつも計画を持っておられます。そして、その計画は良いものです。神様は良い方です。」ということです。

この詩篇は、ヤコブが亡くなってから数百年後に書かれたけど、私は、ヤコブがこの歌を歌うのを想像できます。

イスラエルよ、主に信頼せよ。主こそ助け、また盾。(9節)

たぶん、長い間ヤコブは、自分が神様に見捨てられたと思っていました。でも、人生の終わりに、彼はこう歌うことができました。

主は私たちをみこころに留め 祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し。。。

主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も、大いなる者も。(12ー13節)

だから、あなたの人生が辛くて、神様に見捨てられたと思うなら、ヤコブの話を覚えていてください。そして信仰をもって、こう歌いましょう。

私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、ただあなたの御名に、栄光を帰してください。 あなたの恵みとまことのゆえに。(1節)

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祈り

主よ、あなたは私たちの岩を打ちました。つまり、十字架で、あなたはイエス様を打ちました。そういうわけで、イエス様を通して、私たちは生ける水を受けています。

私たちの霊的な乾きを癒してください。(第一コリント10:4; 出エジプト記17:6; 民数記20:7ー11; ヨハネ4:10、7:37ー39)

私たちはかつてサタンの国に属し、罪の奴隷でしたが、あなたは私たちを救い出してくださいました。(コロサイ1:13)

だから、今、私たちがあなたの聖所となるように。私たちがあなたの王国となるように。(エペソ2:16ー22; 黙示録1:5ー6)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ご自身を低くされた神

過ぎ越しの祭りの際、ユダヤ人たちは普段、詩篇113ー118篇を歌っていました。

最後の晩餐で、イエス様とその弟子たちが歌ったとき、たぶんその詩篇を歌ったのでしょう。(マタイ26:30)

だから、4ー6節は私の心を打ちました。

主はすべての国々の上に高くおられ その栄光は天の上にある。

だれが私たちの神、主のようであろうか。

主は高い御位に座し、身を低くして 天と地をご覧になる。(詩篇113:4ー6)

でも、神様はただご覧になったわけではありません。むしろ、神様はご自身の栄光を置いておいて、人間になり、私たちの罪のために死んでくださいました。(ピリピ2:5ー8)

イエス様の十字架の働きのおかげで、私たちはちりから起こされ、罪のあくたから引き上げられました。

さらに、神様は私たちを王の子供たちとして、イエス様と共に天上に座らせてくださいました。(詩篇113:7ー8、エペソ2:1ー7)

それを覚えていて、詩人と共に歌いましょう。

ハレルヤ。主のしもべたちよ、ほめたたえよ。 主の御名をほめたたえよ。

今よりとこしえまで 主の御名がほめられるように。

日の昇るところから沈むところまで、主の御名がほめたたえられるように。(詩篇113:1ー3)

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キリストの性格に生きる

1節では、詩人はこのように語っています。

幸いなことよ、主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。(詩篇112:1)

でも、主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は、どのような人でしょうか。

パリサイ人たちは、主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶと主張しました。ある意味で、彼らは義によって特徴づけられていました。それでも、彼らは情け深く、あわれみ深い人ではありませんでした。

主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は、情けやあわれみ、そして神様の義によって特徴づけられています。

イエス様は、そのような方でした。

多くのクリスチャンたちは、神様の戒めを抱きながら、情けやあわれみを忘れてしまいます。

その一方で、あるクリスチャンたちは、情けやあわれみを大切にしながら、神様の義を手放してしまうことがあります。

そのため、彼らはこう言います。「その戒めは私たちのためではありません。神様は、私たちがそのように生きることを望んでおられません。」

でも、私たちクリスチャンは、情けやあわれみ、そして神様の義によって特徴づけられるはずです。

私たち皆が、キリストの性格によって特徴づけられるように。

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詩篇のデボーション

王なる祭司への祈り

イエス様、あなたはダビデの主でした。あなたは、私の主です。(マタイ22:41ー45)

あなたは、天の父の右の座に着いておられます。あなたは、すべてを治めておられます。(へブル人への手紙1:3、8:1、10:12、12:2)

さらに、あなたは永遠に私の祭司でした。あなたは、いつも生きていて、私のためにとりなしをしておられるので、私を完全に救うことができます。(へブル人への手紙7:24ー25)

そういうわけで、この霊的な戦いにおいて、私は喜んであなたに仕えます。

私たちは人間と戦うのではなく、霊的な力と戦っています。その霊的な力は、人々を滅ぼそうとしています。(エペソ人への手紙6:12)

だから、私の周りの人々に、あなたの愛で触れるために、私を用いてください。

ここに私がおります。私を遣わしてください。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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詩篇のデボーション

私たちの望み、私たちの喜び

最近、私はヨハネ14章から16章をよく読んでいます。だから、この詩篇を読んだとき、私はこう思いました。

「この詩篇を歌ったとき、イエス様の弟子たちの心には、ヨハネ14章から16章にあるイエス様の言葉がどれほど思い浮かんだでしょうか。」

その時、イエス様はまもなく十字架にかかられることをご存じだったので、弟子たちに、「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません」と言われました。

ぺテロはその言葉を受け入れず、いつものように自信満々で、イエス様に「あなたのために、私は命を捨てます」と言いました。

しかし、イエス様は彼に、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います」と言われました。

それを聞いて、ぺテロと他の弟子たちは本当に悲しみました。(ヨハネ13章33〜38節)

だから、イエス様は彼らに語られました。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネ14:1)

イエス様が復活されたあと、弟子たちがこの詩篇を歌った時、イエス様の言葉は彼らの心に深く響いたでしょう。つまり、

神よ、私の心は揺るぎません。 私は歌い ほめ歌います。 私の心の底も。(詩編108:1)

ダビデのように、彼らは、自分の力ではなく、むしろ神様の忠実さに信頼することを学びました。

イエス様が彼らに「わたしは去って行く」と言われた時、弟子たちはダビデのようにこう考えていたでしょう。

神よ、あなたは私たちを拒まれるのですか。 神よ、あなたはもはや、私たちとともに出陣なさらないのですか。(詩篇108:11)

しかし、イエス様は彼らを励まされました。

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。

あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。(ヨハネ14:18ー19)

数年後、聖霊に満たされた弟子たちは、ダビデの言葉をどれほど勝利に満ちて歌ったでしょうか。つまり、

神にあって私たちは力ある働きをします。 神こそが、私たちの敵を踏みつけてくださいます。(詩篇108:13)

その言葉を歌った時、彼らはあの晩に語られたイエス様の最後の言葉を思い起こしたでしょうか。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。

しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)

そして、彼らが復活された主を思い出した時、彼らの心はどれほどダビデの言葉を歌ったでしょうか。

主よ、私は諸国の民の間で あなたに感謝し、もろもろの国民の間で あなたをほめ歌います。

あなたの恵みは大きく、天の上に及び あなたのまことは雲にまで及ぶからです。

神よ、あなたが天で、あなたの栄光が全地であがめられますように。(詩篇108:3ー5)

イエス様の弟子たちのように、私たちは生きておられる救い主に仕えています。だからこそ、彼らのように、イエス様にある望みを喜びましょう。

 

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詩篇のデボーション

主に贖われた者は、そう言え。

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」

主に贖われた者は、そう言え。(詩篇107:1ー2)

その最後の言葉は私の目に留まりました。

主に贖われた者は、そう言え。

私たちは何を言うべきでしょうか。

主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。

私たちの人生が順調な時、それを口にするのはたやすいことでしょう。

しかし、人生が思うように進まない時はどうでしょうか。

主が良いお方だと感じられない時もあります。

主の愛が途絶えたように思える時もあります。

けれども、その真理は私たちの感情によって左右されるものではありません。

だからこそ、その言葉の真実さを感じられない時こそ、私たちは意識的に自分自身に思い起こさせる必要があります。

「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」

私たちはすぐに物事を忘れてしまいます。 特に、主が私たちのためにどんな良いことをしてくださったかを、すぐに忘れてしまいます。

イスラエルの民も、しばしばそのように失敗しました。(詩篇106篇)

私たちは、彼らの模範に倣わないようにしましょう。

あなたは今、苦しみの中にいるでしょうか。

少し時間を取って、神様があなたのためにしてくださった良いことを思い起こしましょう。 過去に神様がどのようにあなたの人生に働かれたかを思い起こしましょう。 そして、神様に感謝をささげましょう。

しかし、何よりもまず、この信仰の言葉を告白することを選びましょう。

主はまことにいつくしみ深い。 その恵みはとこしえまで。

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ルカの福音書のデボーション

どうして、私にこんなに優しくしてくださるの?

イエス様、ペテロのように、あなたの慈しみに値しない私は、あなたから豊かに祝福されています。

私が受けた祝福を見て、そして自分の罪を見つめると、私は叫びます。 「どうして、私にこんなに優しくしてくださるのですか?私から離れてください。私は罪深い人間です。あなたの慈しみに値しません。」

しかし、あなたは優しい目で私を見て、こう言われます。 「恐れることはない。私の働きに加わりなさい。私があなたに触れたように、周囲の人々に触れなさい。」

だから、ペテロと同じように、私は言います。 「おことばですので、私はそうします。」

あなたの尊い御名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働きのデボーション

神の前で清い良心を保って生きる

兄弟たち。私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました。(使徒の働き23:1)

パウロの言葉は、本当に驚くべきものです。それを言える人が、どれほどいるでしょうか。

もちろん、パウロは、自分が罪のない人間だとは考えていませんでした。

パウロは、コリントの人々にこう語りました。

私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。

ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。

そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。(第一コリント4:4ー5)

要するに、私たちは、自分では正しい動機で正しいことをしていると思っていても、神様の目には、心が正しくないこともあるのです。

それでも、私たちは、できる限り神様の前に清い良心を保つように努めるべきです。

覚えておきましょう。故意に自分の良心に反することは、罪です。

だからこそ、ダビデのように祈りましょう。

だれが 自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか 隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを 傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は、大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと 私の心の思いとが 御前に受け入れられますように。主よ、わが岩 わが贖い主よ。(詩篇19:12ー14)

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使徒の働きのデボーション

イエス様の証人

彼はこう言いました。「私たちの父祖の神は、あなたをお選びになりました。あなたがみこころを知り、義なる方を見、その方の口から御声を聞くようになるためです。

あなたはその方のために、すべての人に対して、見聞きしたことを証しする証人となるのです。」(使徒の働き22:14ー15)

「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため。。。

わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。

あなたがたも証しします。初めからわたしと一緒にいたからです。(ヨハネ15:16、26ー27)

この世が造られる前から、神様は私たちを選んでくださいました。ご自身の子どもとなり、みこころを知る者とするためです。

そのため、私たちは神様の命のことばを聞き、人生の中で神様の救いのみわざを見てきました。

しかし、私たちはただ神様の愛を享受するためだけに召されたのではありません。むしろ、イエス様は、私たちが実を結ぶようにと任命されました。

私たちは、イエス様の証人として選ばれたのです。そして、自分が受けた福音を周囲の人々に伝え、命を分かち合うようにと任命されています。

では、証人とは何をする者でしょうか。

彼らは説教をするのでしょうか。

違います。

彼らは神学を教えるのでしょうか。

違います。

彼らは、ただ自分が見聞きしたことを証しするのです。

あなたの人生に、神様は何をしてくださったでしょうか。あなたは何を見たでしょうか。

神様から聞いた真理によって、あなたの人生はどのように変えられたでしょうか。

私たちは、そのようなことを周囲の人々に証しすべきです。

そうすれば、私たちは実を結ぶのです。

だから、自分の証しを考えてみましょう。神様は、あなたのためにどんな素晴らしいことをしてくださったでしょうか。神様の真理は、あなたの人生をどのように変えてくださったでしょうか。

私たち皆が、牧師や教師として任命されているわけではありません。

しかし、私たち皆が、イエス様の証人として任命されているのです。

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使徒の働きのデボーション

離れがたい

私たちは、彼らと別れて船出した。。。ツロに入港した。。。私たちは弟子たちを探し(ました。)(使徒の働き21:1、3ー4)

新改訳では、ただ「私たちは、彼らと別れて船出した」と書かれていますが、原語のニュアンスには、パウロたちがエペソの人々と別れることを辛く感じていた様子が含まれています。

私たちは、どれほどクリスチャンの交わりを大切にしているでしょうか。

パウロたちは、エペソのクリスチャンたちを心から大切にしていて、彼らと離れたくありませんでした。そして、ツロに着いた瞬間、ツロのクリスチャンたちを探し始めました。

昨年から、コロナの影響で何度も緊急事態宣言が出されました。そのため、私たちはクリスチャンの交わりの大切さを忘れてしまったかもしれません。「オンライン礼拝があるから、それで十分だ」と考えるのは、簡単なことです。

あなたはどうでしょうか。他のクリスチャンたちにあまり会わないことに、慣れてしまったでしょうか。それとも、彼らに会えないことを辛く感じているでしょうか。

教会で集まることができなくても、積極的にクリスチャンの交わりを求めているでしょうか。他のクリスチャンたちに電話をかけていますか。メールを送っていますか。彼らと祈っていますか。

以前にも述べましたが、私たちは互いに必要とされています。

だからこそ、特にこの時期に、テサロニケ人へのパウロの言葉を心に留めておきましょう。

兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちで。。。

すべての兄弟たちに対して、それを実行しているからです。

兄弟たち、あなたがたに勧めます。ますます豊かにそれを行いなさい。(第一テサロニケ4:9ー10)

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使徒の働きのデボーション

信仰の道を走り抜き、イエス様から託された使命を果たす

けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。(使徒の働き20:24)

パウロの言葉を読むと、その言葉がクリスチャンのエリートだけに向けられたものだと考えてしまうのは、簡単なことです。

でも実際には、私たち一人ひとりに、主から与えられた道のりと任務があります。

特に、私たちは皆、周りの人々に福音を証しするという任務を受けています。私たちは、神に対する悔い改めと、イエスに対する信仰について証しするべきです。(21)

もちろん、私たちの道のりや任務はまったく同じではありません。神様は、私たちにパウロのように多くの国々に行って福音を伝える任務を与えておられないかもしれません。

それでも、私たちは皆、自分が受けた恵みの福音を周りの人々に伝える任務を受けています。

私たちは、イエス様が私たちのためにしてくださったことを彼らに伝えるべきです。そうすれば、彼らは私たちの喜びを知るようになるかもしれません。(第一ヨハネ1:3〜4)

あなたの人生に、神様が用意された人は誰でしょうか。

私たちが人生の終わりに、パウロのようにこう言えるように。

私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。

私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。(第二テモテ4:7~8)

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使徒の働きのデボーション

驚くべき

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。(エペソ人への手紙1:4~6)

神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。

それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。

確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。(使徒の働き17:26ー27)

私たちへの神様の愛と恵みは、本当に驚くべきものです。

それは、世界の基が据えられる前から、神様が私たちを選んでくださったということです。さらに、神様は私たちがどこに生まれるか、いつ生まれるか、どんな環境で生まれるかをお定めになりました。

神様の目的は、私たちが手探りで神様を求め、そして神様を見出すことです。そして、私たちがそうするときに分かってくるのは、神様が私たちから遠く離れておられたことは一度もなかったということです。

また、手で造られた宮にお住みにならない神は、私たちのうちに住まわれることを選ばれました。私たち自身が、神様の宮となるのです。(使徒の働き17:24;ヨハネ14:23;第二コリント6:16)

そのすべてを思うとき、心に浮かぶ言葉はただ一つです。驚くべき、ということです。

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人の心をご存じである方

そして、人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました。

私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。(使徒の働き15:8-9)

「人の心をご存じである神」。ギリシャ語では、それは「人の心をご存じである方」という神を意味します。

なぜか、その神の名称は私の心に深く響きます。

人の心をご存じである方は、私たちを見て、聖霊様を与え、私たちのために証をしてくださいました。クリスチャンたちの間に、神様は何の差別もされません。

私たち皆がイエス様を信じた時、恵みによって、神様に受け入れられました。イエス様にあって、私たちはすでに清いのです。

時々、人々は私たちを見下します。なぜなら、私たちはクリスチャンとして彼らの基準に達していないからです。今日の箇所でも、あるユダヤ人のクリスチャンたちは異邦人のクリスチャンたちを見下しました。

でも、他のクリスチャンたちの意見は気にしなくていいのです。なぜなら、人の心をご存じである方は、すでに私たちを受け入れてくださっているからです。

時々、私たちは自分自身を責めてしまいます。なぜなら、私たちはクリスチャンとして、自分の基準に達していないと感じるからです。

でも、私たちが自分の心を責めるとき、人の心をご存じである方は、私たちの心にこうささやいてくださいます。「あなたを愛しているよ。あなたを受け入れているよ。」

なぜなら、神様は私たちの心よりも大きな方だからです。(第一ヨハネ3:19〜20)

人の心をご存じである方、あなたが私を愛してくださっていることに、感謝します。

この世界が造られる前に、あなたが私を選んでくださったことに、感謝します。

私がその真理を深く実感できるように、助けてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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クリスチャンの交わりは必要ないのか?

そして(パウロとバルナバ)は、しばらくの間、弟子たち(つまり、クリスチャンたち)とともに過ごした。(使徒の働き14:28)

パウロとバルナバは、とても強いクリスチャンでした。それに、彼らは主の働きに大いに用いられていました。それでも、彼らはクリスチャンの交わりを大切にしていたのです。

彼らは、「私のイエス様との関係は大丈夫です。他のクリスチャンたちは必要ありません」と言うこともできたでしょう。

または、「私は神様のために重要な働きをしています。クリスチャンの交わりの時間はありません」と言うこともできたかもしれません。

しかし、彼らはそう言わずに、自分たちの教会で他のクリスチャンたちと多くの時間を過ごしました。

なぜでしょうか。おそらく、一つの理由は、彼らが兄弟姉妹を励ましたいと願っていたからです。そして、もう一つの理由は、その交わりによって、彼ら自身がリフレッシュされていたからではないでしょうか。

今、私たちの多くは自分の教会で集まることができません。それでも、私たちはクリスチャンの交わりを大切にしているでしょうか。私たちは互いに必要とされているのです。

このような緊急事態の中でも、私たちは誰かにメールを送ったり、ビデオチャットをしたり、電話をかけたりすることができます。

今日、あなたは誰に触れることができるでしょうか。

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喜びに満たされた

弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。(使徒の働き13:52)

私はいつもすぐに忘れてしまいますが、使徒の働きにおいて「弟子」とは、「普通のクリスチャン」を意味します。

だから、「弟子たちは喜びと聖霊に満たされた」と書かれているとき、著者であるルカはパウロとバルナバのことを語っているのではありません。ルカは、彼らのメッセージによって救われた新しいクリスチャンたちのことを語っているのです。

自分たちのリーダーが迫害され、その地方から追い出されたのに、どうしてそのクリスチャンたちは喜びに満たされたのでしょうか。

おそらく、二つの理由があったと思われます。

一つ目は、彼らが自分の救いを喜んでいたということです。それまで、彼らは部外者と呼ばれていました。神様に受け入れられるためには、ユダヤ人にならなければならないと教えられていたのです。

しかし、パウロとバルナバが彼らに教えたのは、イエス様を信じることによって、彼らがすでに神様に受け入れられているということでした。

さらに、彼らが学んだのは、この世界が造られる前から、神様が彼らを愛し、選んでおられたということでした。(使徒の働き13:48、エペソ1:4〜6)

でも、もう一つの理由があったと思います。彼らは、パウロとバルナバがどのように迫害されたかを見ました。彼らは、パウロとバルナバの試練を目の当たりにしました。そして、その試練の中での彼らの喜びも見たのです。

私たちが自分の困難にどう反応するかによって、周りの人々は影響を受けます。

もし私たちが試練の時に、神様が私たちを愛し、選んでくださったという真理に根差しているなら、私たちは喜びを保つことができます。そして、周りの人々はそれに気づくのです。

私たちの子どもたちや友人、同僚たちは気づきます。

そして、クリスチャンたちは私たちを見るとき、励まされます。一方で、ノンクリスチャンたちはそれを見て、なぜ私たちが喜びに満たされているのか疑問に思うのです。

この世の多くの人々は、喜びを見つけることができません。もし彼らが私たちの人生の中にその喜びを見いだせないなら、いったいどこで見つけることができるでしょうか。

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神がきよめたもの

神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。(使徒の働き10:15)

今日の箇所では、イエス様は異邦人に対するペテロの考え方を変えようとされています。

それまで、異邦人がユダヤ教に改宗しない限り、ユダヤ人は彼らを汚れた者として見なしていました。けれども、イエス様はペテロにこう語られました。

「私がきよめた人々(異邦人さえも)を、汚れていると言ってはならない。」

これは、すべてのクリスチャンに向けられたメッセージです。もちろん、私たちは他のクリスチャンを汚れた者として見なしてはいけません。けれども、それと同じように、私たちは自分自身をも汚れた者として見なしてはいけません。

それでも、私たちは自分の罪のゆえに、自分が汚れていて、神様の愛に値しないと感じることがしばしばあります。

しかし、私たちがイエス様を信じるなら、イエス様はすでに私たちをきよめてくださいました。神様はすでに私たちを受け入れてくださっています。(ヨハネ15:3)

だからこそ、自分の失敗を目にするとき、自分を責めるのではなく、真理を心に留めておきましょう。

私たちはすでにイエス様の血によってきよめられています。そして、自分の罪を告白するなら、神様は喜んでその罪を赦し、すべての不義から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

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「普通のクリスチャン」の生活

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため。。。(ヨハネ15:16)

しかし、主はアナニアに言われた。「行きなさい。」(使徒の働き9:15)

今日の箇所では、私たちはアナニアとタビタという、普通の弟子たちを見ます。

前にも述べたように、使徒の働きにおいて「弟子」とは、クリスチャンという意味です。つまり、今日の箇所では、私たちは二人の普通のクリスチャンを見ているのです。

そして、イエス様が十二人の使徒たちを選び、実を結ぶために任命されたように、イエス様はアナニアとタビタも選び、任命されました。

彼らは毎日、ただ自分の家で神様を礼拝するためだけに選ばれていたわけではありません。むしろ、彼らはこの世界に出て行き、実を結ぶために選ばれていたのです。そして、イエス様の御心は、彼らの実が残ることでした。

アナニアとタビタはそのことを理解し、実際にそう生きました。

アナニアはサウロという人に触れました。そして、サウロを通して、ローマ帝国はイエス様のためにひっくり返されました。

タビタの場合、彼女は毎日、周りの人々にキリストの愛で触れ続けました。

アナニアとタビタは「スーパークリスチャン」ではありませんでした。パウロの証し以外では、アナニアの名前はもう登場しませんし、この章以外では、タビタの名前も出てきません。

それでも、彼らはこの世界に出て行き、多くの人々に触れ、永遠に残る実を結びました。

クリスチャンとして、私たちはそのような生活に召されています。私たちはこの世界に出て行き、実を結ぶべきです。

それが「普通のクリスチャン」の生活です。

あなたは、そのような生活を送っているでしょうか。

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使徒の働きのデボーション

この世に喜びを届ける

サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた。

散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。。。

その町には、大きな喜びがあった。(使徒の働き8:3-4,8)

この世には、喜びがあまりありません。毎日、私たちはコロナのニュース、戦争のニュース、災害のニュースを目にします。それらは私たちクリスチャンにも影響を与えました。

でも、使徒の働きの時代のクリスチャンたちの模範に従いましょう。

この世で本当の喜びを与えることができるものは、ただ一つしかありません。それは、イエス様の福音です。

だから、その福音を周りの人々に伝えて、喜びを広げる者になりましょう。

その良い知らせは、私たちに命を与えてくれました。だから、その命を他の人々にも分かち合いましょう。

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あるがままを見る信仰

しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見(ました)。(使徒の働き7:55)

天のお父さん。このめちゃくちゃな世界の中で、私が本当に必要としているのは、あなたの聖霊に満たされることです。

この世界を見るとき、すべてが混乱していると感じるのは簡単なことです。あなたがもうこの世界の問題をコントロールできなくなったと考えるのも、簡単なことです。

でも、ステパノは、物事を実際にあるがままに見ました。彼はあなたの栄光を見て、あなたが今も御座に座っておられ、イエス様があなたの右に立っておられるのを見たのです。

だからこそ、彼自身が苦しい状況にあり、周囲の人々に憎まれ、迫害されていたにもかかわらず、ステパノは喜び、あわれみと恵みに満ちていました。

聖霊様、どうか私のうちに住んでください。私を満たしてください。私を導いてください。物事を実際にあるがままに見ることができるよう、私を助けてください。

そして、この世が切実に必要としている喜びとあわれみと恵みで、私を満たしてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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クリスチャン?弟子?

多くのクリスチャンたちは、「弟子」という言葉を聞くと、「特別なクリスチャン」というイメージを思い浮かべます。つまり、彼らにとって「弟子」とは、ただの信者ではなく、もっと高いレベルのクリスチャンということです。

でも、今日の箇所を読んだときに私が気づいたのは、使徒の働きの著者であるルカが「弟子」と言うとき、イエス様の十二人の弟子に限定して話していないということです。

ルカはいつもその十二人を「使徒」と呼びます。(2節、また、9章26〜27節を参照してください。)

むしろ、ルカが「弟子」と言うとき、それはすべてのクリスチャンを指しています。そして、ルカはその言葉を男性にも女性にも当てはめています。(使徒の働き9章10節、36節)

「クリスチャン」という言葉が初めて使われたとき、それはすべての弟子たちに当てはめられていました。(使徒の働き11章26節)

だから、使徒の働きを読んで「弟子」という言葉を見るとき、「十二人の弟子たち」や「特別なクリスチャン」と考えてはいけません。

むしろ、「クリスチャン」と考えるようにしましょう。

もっと大切なのは、自分自身を「弟子」として考えることです。私たちはある成熟のレベルに達してから弟子になるのではありません。イエス様を信じ始めた瞬間から、弟子としての歩みが始まるのです。

だから、イエス様の弟子として、イエス様にとどまることを学びましょう。毎日、神様に近づき、その愛と力を受け取りましょう。毎日、イエス様を信頼し、イエス様に頼りましょう。毎日、愛をもって、イエス様とその導きに従いましょう。

そうすれば、私たちは神様のために実を結び、この世の人々に触れることができます。(ヨハネ15:1〜8節)

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使徒の働きのデボーション

人生が辛いときに、どう生きるか

人生が辛いとき、私たちはどのように反応するでしょうか。

もし使徒たちが人々や神様に怒っていたら、私は彼らに共感できたと思います。

なぜなら、彼らは悪いことを何もせず、むしろ人を癒し、イエス様の福音を述べ伝えたのに、迫害されたからです。

でも、彼らはどのように反応したでしょうか。

彼らは喜んで自分たちのミッションに集中しました。それは、死にかけている世界に福音を述べ伝えることです。

私たちはどうでしょうか。辛いとき、私たちの反応はどのようなものでしょうか。

ただ落ち込んでしまうでしょうか。

ただ怒ってしまうでしょうか。

ただ歯を食いしばって頑張るでしょうか。

それとも、主の喜びに満ちた心を持ち、主を本当に必要としている人々に触れるでしょうか。

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あなたが私と共におられるから

私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。

さらに私の肉体も望みの中に安らう。あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。

あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。(使徒の働き2:25-28)

天のお父さん、私がいつも、自分の目の前にあなたを見ることができますように。

あなたを見失うのは簡単なことです。でも、そうなると、私は心配に支配されてしまいます。恐れや怒りに支配されることも、私にとっては簡単なことです。

でも、いつもあなたを自分の目の前に見るなら、私は決して動かされません。なぜなら、あなたにある希望を覚えているからです。あなたの御前にいるという喜びを覚えているからです。

あなたは私に命の道を知らせてくださいました。だから、その道を私と共に歩んでください。

あなたが私と共におられることを知っているので、私は満足です。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働きのデボーション

私が必要なのは。。。

イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。

そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒の働き1:7ー8)

主よ、私は、あなたがいつこの世に帰られるかを知る必要はありません。

また、コロナがいつ終息するかも、タリバンがいつ倒れるかも、知る必要はありません。 それらはすべて、天の父がご自身の権威によって定めておられることだからです。

でも、私に必要なのは、あなたの聖霊が私のうちに住んでおられることです。 あなたを知らず、傷ついている人々に触れるために、私にはあなたの力が必要です。

だから、聖霊様、私を満たしてください。私にあなたの力を与えてください。私を導いてください。そして、私の愛する人々にどのように触れることができるかを教えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ルカの福音書のデボーション

イエス様に望みをかけていたのに。。。

私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。(ルカの福音書24:21)

最近、私の牧師は希望について語っていました。彼はこう問いかけました。

「私たちは何かを望んでいるでしょうか。コロナの終息を望んでいるでしょうか。普通の日常が早く戻ることを望んでいるでしょうか。

それとも、私たちは誰かに望みを託しているでしょうか。特に、イエス様に望みを託しているでしょうか。」

イエス様が私たちの真ん中に立っておられるのに、私たちはどれほど取り乱しているのでしょうか。どれほど心に疑いを抱いているのでしょうか。

イエス様は私たちにこう言っておられるでしょうか。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、私の言葉を信じられない者たち。」

イエス様、あなたは死を打ち破られた方です。だから、私はあなたに望みを託すことを選びます。

コロナがいつまで続くか分かりません。いつ普通の日常が戻るかも分かりません。

でも、私はあなたを仰ぐことを選びます。あなたこそ、私の望みです。だから、弟子たちのように、私は大いに喜びます。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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ルカの福音書のデボーション

祈りの必要

今日の箇所を読んだとき、私は21章に記されているイエス様の言葉を思い起こしました。

イエス様は弟子たちにこう言われました。

あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。

あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。

民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。。。

それから、太陽と月と星にしるしが現れ、地上では海と波が荒れどよめいて、諸国の民が不安に陥って苦悩します。

人々は、この世界に起ころうとしていることを予測して、恐ろしさのあまり気を失います。天のもろもろの力が揺り動かされるからです(ルカの福音書21:34ー36)

イエス様はご自身の言葉に従われました。本当に苦しまれたとき、イエス様が天の父に祈られたので、天の父は迫る試練のためにイエス様を力づけてくださいました。(ルカ22:41ー43)

その反面、弟子たちは眠ってしまいました。どうしてでしょうか。彼らはただ疲れていたからでしょうか。いいえ、むしろ、悲しみの果てに眠り込んでしまったのです。(ルカ22:45)

イエス様の以前の言葉のゆえに、彼らは精神的に疲れ果てていました。だからこそ、彼らは眠り込んでしまったのです。

彼らの行動はよく理解できます。私も、きっと同じことをしていたでしょう。でも、試練が来たとき、彼らは恐れて逃げてしまいました。(マタイ26:56)

ペテロはイエス様について行きましたが、最終的にはイエス様を知っていることを否定してしまいました。イエス様の前に立つことができず、ペテロも恥を負って逃げてしまったのです。(ルカ22:54ー60)

私たち皆、弱い者です。コロナが長く続いている中で、私たちが精神的に疲れているのは当然のことです。

でも、特にこのような時こそ、私たちは祈らなくてはなりません。なぜなら、天の父の助けがなければ、私たちは立つことができないからです。しかし、神様の御前に来るなら、天の父は私たちを力づけてくださいます。

そして、もし私たちが弟子たちのように大きな失敗をしてしまったとしても、どうかへこたれないでください。イエス様がペテロと他の弟子たちに恵みを与えられたように、私たちにも恵みを与え、私たちの信仰を修復してくださいます。

だから、ヘブル人への手紙の著者の言葉を覚えていましょう。

さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:14ー16)

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ルカの福音書のデボーション

暗い時代にあっての私たちの希望

民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。。。

それから、太陽と月と星にしるしが現れ、地上では海と波が荒れどよめいて、諸国の民が不安に陥って苦悩します。

人々は、この世界に起ころうとしていることを予測して、恐ろしさのあまり気を失います。天のもろもろの力が揺り動かされるからです。(ルカの福音書21:10-11,25-26)

イエス様の言葉を読むと、最近のニュースがすぐに思い浮かびます。多くの人々は、この世の問題のゆえに、心配や恐れを抱えて生きています。

でも、私たちは希望を持っています。

そのとき人々は、人の子(つまり、イエス様)が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。(27節)

この世のすべての人がイエス様を歓迎するわけではありません。でも、イエス様を愛している私たちは、その日を心待ちにしています。この暗い時代にあって、イエス様は私たちの希望です。

そして、いつか天地は消え去りますが、私たちに対するイエス様の言葉、イエス様の約束は決して消え去ることがありません。(33節)

だから、

これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。(28節)

でも、それと同時に、自分の心を守りましょう。特に、イエス様の言葉を心に留めておきましょう。

あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。

その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。(34-35節)

だから、

あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。(36節)

私たち皆は弱いものです。イエス様から離れると、簡単に倒れてしまいます。

だからこそ、預言者イザヤの言葉を心に留めておきましょう。

あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。

主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。

疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる。若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。

走っても力衰えず、歩いても疲れない。(イザヤ書40:28-31)

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喜び

主よ、私がザアカイの喜びを知ることができますように。

私が、あなたに愛されている喜びを知ることができますように。私が、あなたに受け入れられている喜びを知ることができますように。あなたが私と交わりたいと願っておられる喜びを知ることができますように。

私が、あなたの赦しと憐れみの喜びを知ることができますように。

そして、その喜びによって、私がザアカイのように、あなたを本当に喜ばせたいという心を持つことができますように。

周りの人々が私について何を考え、何を言おうとも、私は気にしません。

あなたが私を愛し、受け入れてくださっているので、私は満足です。

私はあなたを心から愛しています。

あなたの恵みと愛に感謝します。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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感謝の心

そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。(ルカの福音書17:15ー16)

この言葉を読んだとき、私は、あのサマリア人が癒されたとき、どのように反応したかを考えました。

彼は、静かな声で「神様、ありがとう」と言ったのではありません。むしろ、大きな声で神様をほめたたえていました。

また、イエス様のところに戻ったとき、彼はイエス様と握手をしたのではありません。むしろ、イエス様の足元にひれ伏して、何度も「ありがとう、ありがとう!」と言っていました。

そして、私は考えました。「私はそんな感謝の心を持っているだろうか。私は謙虚で、喜びに満ちた感謝の心を持っているだろうか。」

私たちは本当に大変な時代に生きています。でも、あのサマリア人のように、私たちが謙虚で、喜びに満ちた感謝の心を持っているとしたら、どれほど私たちの物の見方は変わるでしょうか。

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自分を正しいと思い込もうとしていないか

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。

人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。(ルカの福音書16:15)

主よ、私が悪いことをするとき、言い訳するのは簡単です。

私は周りの人々に、自分が正しいことをしていたと思わせるかもしれないし、自分自身にもそう思わせるかもしれません。でも、あなたは私の心をご存じです。

時々、私は言い訳しながら、あなたが忌み嫌われることをしてしまいます。ごめんなさい。

あなたの恵みに感謝します。

どうか、毎日、私を探り、私の心を知ってください。そして、私があなたを喜ばせる人生を送るように助けてください。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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良い父?

私たちの天のお父さんが、どんなに良い方であるかを、私たちは分かっているでしょうか。

放蕩息子は分かっていませんでした。その文化では、自分の遺産を早く受け取るように頼むことは、基本的に「あなたは死んでしまえばいい」と父に言うのと同じ意味でした。

そして彼は飢え、必死になったとき、自分の父が許してくれて、息子として受け入れてくれるとは想像できませんでした。

その兄も、父がどんなに良い方であるかを分かっていませんでした。むしろ、自分を奴隷のように見なしていました。「俺はずっと父のために働いているのに、決して報いを受けていない」と思っていたのです。

しかし最終的に、その父は自分の良い性格を証明しました。放蕩息子の罪にもかかわらず、父は彼を許し、息子として喜んで受け入れてくれました。

また、長男が怒って、ふてくされていたときも、父は愛を持って、手を差し伸べました。

あなたはどうでしょうか。あなたの天のお父さんが、どんなに良い方であるかを分かっているでしょうか。

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私たちはなぜ教会に来るのでしょうか

今日の箇所を読んだとき、いろいろなことを考えさせられましたが、会堂でのイエス様の言葉は私の心を打ちました。

会堂司が気にしていたのは、宗教的なルールを守ることでした。だから、イエス様がある女性を癒されたとき、会堂司はまったく喜びませんでした。逆に、彼は怒りました。

働くべき日は六日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない。(ルカの福音書13:14)

しかし、イエス様は答えられました。

この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。(16)

教会に行くとき、私たちは何を気にするのでしょうか。

たぶん、宗教的なルールを心配することはないかもしれませんが、どれほど自分のこと、特に教会で自分が何を得ることができるかを考えているでしょうか。

でも、毎週の日曜日、神様はサタンに縛られていて、解放が必要な人を教会に何人送っておられるでしょうか。彼らが教会に来たとき、私たちは気づくでしょうか。

主よ。教会に行くとき、私の目を開いてください。サタンに縛られ、傷ついている人に気づくように助けてください。

私があなたの愛のパイプラインとなるようにしてください。私を通して、彼らが解放されるようにしてください。

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信仰の薄い人?

天のお父さん、私が心配に満ちて、信仰の薄い人にならないようにしてください。あなたは、烏やゆりのお世話をしてくださいます。だから、あなたが私のお世話をしてくださることを信じるように助けてください。

私の心が心配に満ちず、あなたに向かうように。

私にとって、あなたが私に御国を喜んでくださることは驚くべき事です。その真理を実感して、私がこの世のものに執着しないように。

喜びに満ちている心をもって、私があなたの御国のために周囲の人々に触れるように。私の中の喜びを見ると、彼らがあなたとの関係を望むようにしてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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間違った疑問

今日の箇所では、私たちはとても有名な例え話を読みました。それは、良いサマリア人の話です。

イエス様と律法の専門家は、神様を愛することと、隣人を愛することについて話していました。専門家は隣人を正しく愛していなかったので、自分が正しいことを示そうとして、イエス様に訊きました。「私の隣人とは誰ですか。」(ルカの福音書10:29)

興味深いのは、イエス様がその疑問に直接答えられなかったということです。どうしてでしょうか。なぜなら、それは間違った疑問だったからです。

では、正しい疑問は何でしょうか。

イエス様は例え話を語られたあと、専門家に訊かれました。「だれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」(36)

専門家は答えました。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」(37a)

イエス様は彼に言われました。「正解です。では、あなたも行って、同じようにしなさい。」(37b)

つまり、正しい疑問は「私の隣人は誰だろうか」ではありません。私たちは、誰を愛するか、愛さないかを選んではいけません。

正しい疑問は、「私は隣人だろうか。私は憐れみを与える人だろうか。」です。そう訊いたら、私たちは誰を愛するか選ぶことができません。むしろ、私たちは周りの人々すべてを愛さなくてはなりません。

私が告白しなくてはならないのは、人を愛することが難しいときもあるということです。愛しにくい人もいるからです。

だからこそ、私は救い主が必要です。実は、私たち皆が救い主を必要としています。なぜなら、私たちは人を正しく愛せないときがあるからです。

ところで、それこそがイエス様の要点でした。イエス様は、専門家が自分の罪を認めるように望まれました。でも、専門家は言い訳しようとしました。

とにかく、私の祈りはこうです。

主よ。あなたは私を憐れんで救ってくださるほどに、私を愛しておられました。だから、あなたの恵みによって、私も周りの人々に対する隣人、また憐れみを与える者となることができるように助けてください。

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周りの人々のニーズに備えるため

そこでイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げ、それらのゆえに神をほめたたえてそれを裂き、群衆に配るように弟子たちにお与えになった。

人々はみな、食べて満腹した。(ルカの福音書9:16ー17)

英語の翻訳では、「イエスは。。。パンと魚を群衆に配るように弟子たちに何回もお与えになっていました。」

「何回もお与えになっていました。」

その言葉は、私の心に残りました。

私たちの周りには、霊的なニーズを持つ人々が多くいます。でも、弟子たちのように、私たちには彼らに与えられるものがあまりありません。

それでも、イエス様は私たちに、ただ「あなたがたが、あの人たちのニーズに備えなさい」と言われるだけではありません。

むしろ、彼らのニーズに備えるために、イエス様は私たちに恵みと資源を与え続けてくださいます。

でも、それらを望むなら、私たちはイエス様に繋がらなくてはなりません。その資源を受け、恵みに満たされて溢れるために、私たちは常に霊的な蛇口の下に立たなくてはなりません。

でも、私たちはそうしているでしょうか。

イエス様はこう言われました。

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。。。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。(ヨハネ15:5、9)

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どれほど、私の目にはあなたが小さく見えてしまうのでしょうか

主よ、どれほど、私の目にはあなたが小さく見えてしまうのでしょうか。

私の人生には嵐が訪れ、その嵐はとても大きなものに見えます。でも、私が忘れてしまうのは、あなたがその嵐よりも大きな方であるということです。

そして、私はパニックになり、あなたは私に訊かれます。「あなたの信仰はどこにあるのですか。」

主よ、私があなたの偉大さを悟ることができるように助けてください。私があなたの力に畏敬の念を抱くことができるように助けてください。

でも、あなたの力と偉大さを見たとき、ゲラサ人たちのようにあなたを恐れるのではなく、悪霊から解放された人や、癒された女性、復活した少女の両親のように、あなたの慈しみを悟ることができるようにしてください。

私が恐れず、ただあなたを信じることができるように助けてください。(ルカの福音書8:50)

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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資格がある?資格がない?

今日の箇所には、人々が自分自身をどのように見なしていたかについて、興味深いことが記されています。特に、自分がイエス様にお付き合いいただく資格があると思っていたかどうかが注目されます。

百人隊長について見ると、ユダヤ人たちは、彼にはイエス様の助けを受ける資格があると考えていました。なぜなら、彼は多くの良いことをしていたからです。

しかし、百人隊長自身はそうは思いませんでした。だからこそ、彼はイエス様にこう言いました。

あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。(ルカの福音書7:7)

その反面、シモンは、自分が資格を持っていると思っていました。もしかしたら、彼は、イエス様がシモンの家に入る資格がないと思っていたかもしれません。

さらに、シモンは、罪深い女性が偉い先生に付き合う資格はないと思っていました。

でも、実は、私たち皆は資格のない者です。なぜなら、私たち皆は返すことができない罪の借金を持っているからです。でも、私たちがへりくだって、イエス様のもとに来ると、イエス様は私たちに言います。「あなたの罪は赦されています。」

そして、恵みによって、イエス様は私たちを受け入れてくださいます。

だから、感謝に満ちている心をもって、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づきましょう。(へブル4:16)

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私たちを喜ばれる神

さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。

そして祈っておられると、天が開け、 聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。

すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。(ルカの福音書3:21ー22)

私にとって興味深いのは、この話のあと、ルカがイエス様の家系図について書いていることです。そして、その家系図の最後に、ルカはこう記します。「アダムは神の子である」。

それを読んで、私はこう考えました。「アダムを造ったとき、神様はアダムに『あなたは私の愛する子。わたしはあなたを喜ぶ』と言われたのだろうか」。

私は分かりません。でも、もしかしたら、神様はそう言われたかもしれません。

もちろん、イエス様は罪のない神の子です。

でも、アダムも神様によって、完全な人間として造られました。

だから、神様がアダムに『あなたは私の愛する子。わたしはあなたを喜ぶ』と言われたとしても、不思議ではありません。

でも驚くべきことは、罪深い私たちに対しても、神様が『あなたは私の愛する子。わたしはあなたを喜ぶ』と言われることです。

どうして、神様はそう言えるのでしょうか。

それは、十字架でイエス様が、私たちの罪の代価を支払ってくださったからです。だから神様は、私たちを見るとき、罪ではなく、イエス様の義に包まれた私たちをご覧になります。

だから神様は、私たちに微笑みながら、『あなたは私の愛する子。わたしはあなたを喜ぶ』と言われるのです。

『あなたに怒る』とは言われません。

『あなたにはがっかりです』とも言われません。

むしろ、『あなたを喜ぶ』と言われます。

そのことを思い巡らし、心から喜びましょう。

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ルカの福音書のデボーション

神様の慈しみを心に留める

しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。(ルカの福音書2:19)

その言葉を読んだとき、私はこう思いました。「どれだけ、私はそうするだろうか。神様が私のために良いことをしてくださるとき、その出来事を私の心に納めるだろうか。どれだけ、私はその出来事に思いを巡らすだろうか。」

神様が私たちのためにしてくださったことを忘れるのは、簡単なことです。私たちは、意識してその出来事を自分の心に納めないと、苦しみの中で絶望するのも、簡単なことです。

私たちの人生では、剣が私たちの心を刺し貫く時もあります。(35)

だから、そんな時が来る前に、神様がご自身の慈しみを私たちに現してくださるとき、神様が何をしてくださったかを、私たちの心に納めましょう。

いっそのこと、神様の慈しみを忘れないように、日記やスマホ、コンピューターのWordファイルなどに、神様が何をしてくださったかを書き留めましょう。そして、神様の慈しみに思いを巡らしましょう。

それだけではなく、羊飼いたちのように、周りの人々に、神様が私たちのためにしてくださったことを伝えましょう。

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伝道者の書のデボーション

最終的な答え

「この世は壊れている。神様が良い方なら、どうして私たちは悪をよく見るのか。」

「人生の意味は何だろうか。」

この二つの疑問は、この書の主なテーマです。

今なお、人々は同じ二つの質問をします。

イエス様以外で最も賢明な人であるソロモンは、その二つの疑問について、こう言われました。

わが子よ、さらに次のことにも気をつけよ。多くの書物を書くのはきりがない。学びに没頭すると、からだが疲れる。(伝道者の書12:12)

悪の理由を説明しようとする本は、何冊あるでしょうか。

また、自己啓発の本や、人生の意味を説明しようとする本は、何冊あるでしょうか。数えきれないほどあります。

もちろん、それらの本は、ある程度、真理を持っているでしょう。もしかしたら、それらの本は、私たちを良い方向に導くかもしれません。なぜなら、すべての知恵は神様から来るからです(11)。

そして、神様の恵みによって、ノン・クリスチャンたちも、ある程度まで真理を把握します。

でも、最終的に神様から離れるなら、すべての人間の知恵は不十分なものと証明されます。人間の知恵に頼るなら、私たちは結局、疲れて、絶望してしまいます。

一つの結論だけによって、私たちは本当の命を知ります。その真理を信じ、その真理によって私たちの人生を送るなら、後悔せずに、他の本を捨てることができます。

その結論は、何でしょうか。

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。

神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。(13-14節)

悪の疑問の答えは、何でしょうか。どうして「良い人たち」は苦しむのでしょうか。

最終的に、自分の限られた知恵や知識では、私たちはその疑問に答えることができません。また、私たちの知恵が限られているので、神様とその善良さを疑う立場にはありません。

むしろ、私たちは神様を恐れるべきです。なぜなら、ある日、神様は私たちの罪を含めて、すべての悪を裁かれるからです。そして、イエス様とその十字架の働きだけによって、私たちは神様の御前に立つことができます。

人生の意味は、何でしょうか。神様の命令を守ることです。特に、神様を愛し、周りの人々を愛することです。この世にある他のものは、最終的に空しいものです。なぜなら、それらは儚いものだからです。

私たちが死ぬとき、天国に持っていけるものは、二つしかありません。それは、神様との関係と、他のクリスチャンたちとの関係です。だから、神様との関係、また御国の働きに投資しましょう。そうしてこそ、私たちは人生の意味を知ることができます。

 

 

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私たちの人生はただの一息だから

ソロモンがしばしば言う「空しい」という言葉を読むとき、覚えておいた方がいいのは、その言葉が「一息」、また「一時的」という意味もあるということです。

「一息」はとても一時的なものなので、その言葉は空しさの比喩としてよく使われています。

聖書の中では、命はしばしば一息に例えられます。この地上にある私たちの人生はとても短いのですから。

私たちの人生は不確定要素に満ちています。どんな災いが自分に降りかかるか分かりません。

もちろん、不確定要素のために、私たちは伏線を張ることができます。未来に何が起こるか分からないから、そうするのは賢明なのです。(伝道者の書11:1-6節)

でも、以前も言ったように、私たちは皆、死を避けることができません。

では、その真理を知った上で、どうすればいいでしょうか。

1.神様から与えられた賜物である命を喜びましょう。喜ぶことができる神様の賜物はたくさんありますから。(7-9節)

2.壊れた世界に生きていることを覚えておきましょう。どんなに正しい人でも、悪い時は必ず来ます。(8節b)

3.悪いことも良いことも、この人生にあるすべてがはかないものであることを心に留めておきましょう。

だから、悪いことが起こるとき、それがはかないものであることを覚えておきましょう。私たちの問題は永遠に続くわけではありません。

特に、若い人たちはそれを心に留めておかなくてはなりません。多くの若者は、自分の青春を無駄にしてしまいます。なぜなら、ずっと自分の苦しみにくよくよするからです。(10節)

その反面、良いことが起こったら、喜びましょう。神様に感謝しましょう。でも、良い時もはかないものであり、また悪い時が必ずもう一度来ることを覚えておきましょう。

4.中でも、この地上にある私たちの人生が永遠の準備であることを心に留めておきましょう。そして、ある日、神様が私たち皆を裁かれることを覚えておきましょう。(9節b)

私たちは一時的なものに集中して、たくさんの時間を無駄にすることができます。救えないものに望みを託すこともできます。

だから、そうせずに、神様に向かい、望みを託しましょう。

ダビデと一緒に、こう祈りましょう。

主よ、お知らせください。私の終わり、私の齢がどれだけなのか。私がいかにはかないかを知ることができるように。

ご覧ください。あなたは、私の日数を手幅ほどにされました。あなたの御前では、私の一生はないも同然です。

人はみなしっかり立ってはいても、実に空しいかぎりです。まことに、人は幻のように歩き回り、まことに 空しく立ち騒ぎます。人は蓄えるがだれのものになるのか知りません。

主よ、今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。(詩篇39:4-7)

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自然なもの?

「死は自然なものです。死は、ただ生命の循環の一部です。」

そんな言葉を聞いたことがあるでしょうか。

それは本当でしょうか。

ある意味では、それは本当ですが、ある意味では、本当ではありません。

この罪によって壊れた世界では、死は自然なものです。パウロが言ったように、罪の報酬は死です。(ローマ6:23)

でも、神様はもともと私たちを永遠のものとして造られました。

死が本当に自然なものであれば、人々は死を恐れず、悲しむことはないでしょう。でも、実際には、自分自身に死が自然なものだと説得しようとしなくてはなりません。

自分の心の中で、彼らはソロモンが分かってきたことを理解します。それは、死が悪であるということです。(3節)

すべての人は死にますし、私たちが全然予期しないときに、死は来るかもしれません。(2、11ー12節)

では、その真理にどのように反応するべきでしょうか。

私たちは絶望するのを選ぶことができます。また、死に対して憤るのを選ぶことができます。

私たちは憎しみや妬みや他の空しい感情を抱いて、たくさんの時間を無駄に費やすのを選ぶことができます。

もしくは、命がはかないものであっても、私たちはソロモンの助言に従って、神様から与えられた賜物であるこの人生を楽しむのを選ぶことができます。大切な人々に愛を示すことができます。(6ー9節)

また、神様から与えられた脳と体を用いて、仕事やレジャーやすべての活動を通して、神様に栄光を帰するのを選ぶことができます。(10節、コロサイ3:17)

でも、なぜ私たちはそうするべきでしょうか。命がはかないものであるなら、私たちの人生や行動には本当に意味があるのでしょうか。

意味があります。なぜなら、死は終わりではないからです。

イエス様はこう言われました。

わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。(ヨハネ14:19)

また、最終的に、

正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にある。(伝導者の書9:1)

だから、死を考えるとき、絶望しないでください。むしろ、ソロモンのお父さんダビデと一緒に歌いましょう。

私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることがありません。

それゆえ、私の心は喜び、私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。

あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。

満ち足りた喜びがあなたの御前にあり、楽しみがあなたの右にとこしえにあります。(詩篇16:8ー11)

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伝道者の書のデボーション

悪に触れる世界での信仰

私たちが悪に満ちた世界に存在していることを否定することはできないでしょう。悪に触れない人は誰もいません。でも、悪に直面したら、どうすれば良いでしょうか。

今日の箇所では、私たちは三つの答えを見つけます。

1.この世の悪の理由を知るために、脳みそを絞ってはいけません。前回の記事でも言いましたが、イエス様以外では、ソロモンは最も賢明な人なのに、すべての悪の理由を知ることができませんでした。私たちも知ることができません。(伝導者の書8:16ー17)

2.神様が最終的に正義をもたらすことを信じましょう。(12ー13節)

この世で、正義を見ることができないかもしれません。(10ー11節)

でも、神様は良い方で、最終的に、全地をさばくお方は、公正を行います。(創世記18:25)

3.神様の知恵を求めましょう。

この世では、相手を傷つける力を持っている人々がいます。(9節)

私たちはクリスチャンかもしれませんが、人々に決して傷つけられないとは限りません。だから、どうすれば良いかを考えるとき、神様の知恵を求めるべきです。

私たちはいつ正義を求めるべきでしょうか。私たちはいつ相手にあわれみと恵みを与えるべきでしょうか。私たちはいつ、ただ正義を神様の手に委ねるべきでしょうか。その疑問に答えるために、私たちには神様の知恵が必要です。

だから、ソロモンはこう言いました。

知恵ある者の心は時とさばきを知っている。すべての営みには時とさばきがある。人に降りかかるわざわいは多い。(5-6節)

4.喜ぶことを選びましょう。(15節)

いつも自分のトラブルに集中するなら、私たちは絶望の落とし穴に落ちてしまいます。でも、主は近いです。主は良い方です。だから、苦しみのとき、主とその慈しみに集中しましょう。

また、私たちの重荷を主に委ねるとき、神様が今までしてくださったことを感謝することを忘れないようにしましょう。

そうするにつれて、この世の悪に触れても、私たちは神様の平和を知ることになります。(ピリピ4:6ー7)

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詩篇のデボーション

弟子の祈り

味わい、見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。(詩篇34:8)

主よ。私は慈しみを味わったことがあります。でも、あなたの慈しみをもっともっと味わいたいと思います。

聖書を読むとき、私があなたの慈しみを味わうように。

私が祈って、あなたの御声を聞くとき、私があなたの慈しみを味わうように。

あなたが私の祈りに応えてくださるにつれて、私があなたの慈しみを味わうように。

私がもう一度失敗して、罪に落ちるとき、あなたの赦しの甘さを知って、あなたの慈しみを味わうように。

試練に直面して苦しむとき、私の弱さと力不足を見るとき、私があなたの恵みは私に十分であり、あなたの力が弱さのうちに完全に現れることが分かるにつれて、あなたの慈しみを味わうように。

私が社会に出て、周りの人々に触れるにつれて、彼らがあなたの慈しみを味わうように。

私を通して、私の家族があなたの慈しみを味わうように。

私を通して、私の友人や同僚や隣人があなたの慈しみを味わうように。

私を通して、あなたの民があなたの慈しみを味わうように。

そして、不完全な神の子供である私を通してあなたが人々に触れてくださるにつれて、私があなたの慈しみを味わうように。

私が毎日、何かとあなたの慈しみを味わうように。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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どうしてこれが私に起こっているの?

正直に言うと、今日の個所には分かりにくい言葉があります。

私はいろいろな聖書学者の解説を読みましたが、彼らの意見はあまり一致していません。

例えば、

あなたは正しすぎてはならない。

自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。

あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。

一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。(伝道者の書7:16-18)

「あなたは正しすぎてはならない」とはどういう意味でしょうか。

また、「あなたは悪すぎてはいけない」とは、どういう意味でしょうか。

ソロモンは、「やりすぎないなら、ちょっと罪を犯しても良い」と言っているのでしょうか。

多分そうではありません。なぜなら、ソロモンは「神を恐れる者は、この両方(の真理)を持って出て行く。」と言っているからです。

では、ソロモンは何を言いたいのでしょうか。

12節では、ソロモンは、知恵が私たちを守ると言っています。

でも、ソロモンは私たちに警告します。私たちは知恵を持っているかもしれませんが、何も悪いことが起こらないとは限りません。

もちろん、神様が私たちを祝福してくださるときもありますが、神様が私たちが試練に直面することを許されるときもあります。

良い人が滅びることもあるし、悪い人が栄えることもあります。(13-15)

とは言え、20節で、ソロモンは、本当に正しい人が誰もいないことを指摘しています。

私たち皆は罪人です。

だから、「どうして、これは私に起こっているの?私は何も悪いことを全然していないのに。」と正直に言える人は誰もいません。

どれだけ、私たちは、相手の罪に気づくのに、自分が同じ罪を犯していることに気づかないでしょうか。(21-22)

だから、たぶんソロモンが意味したのはこうです。「自分が正しいほどに、試練や苦しみを経験することに値しないと考えてはいけません。」

そんなに正しい人は誰もいません。

その反面、「良い人が滅びることもあるし、悪い人が栄えることもあるので、やたらと罪を犯してもいい」と考えてはいけません。なぜなら、その道は必ず死に導くからです。(ローマ6:23)

では、「自分を知恵のありすぎる者としてはならない」とはどういう意味でしょうか。

多分、ソロモンが意味したのは、「自分が十分な知恵を持って、悪の理由のすべてを悟ることができると考えてはいけない」ということです。

イエス様以外では、ソロモンは最も知恵のある人でした。

それでも、ソロモンは悪の理由を説明することができませんでした。

彼は男性も女性もよく観察しました。

彼は、完全に理解できる女性を誰も見つけられませんでした。理解できる男性もあまりいませんでした。

彼が分かったのは、一つのことです。それは、すべての人々が罪に染まっているということです。(23-29)

悪の理由のすべてを理解しようとすると、私たちの脳は爆発してしまい、私たちは自分の信仰を壊してしまうかもしれません。

ヨブの友人たちは、すべての理由を理解していると思っていましたが、最終的に、神様は彼らの知恵を批判し、彼らを責められました。

だから、その二つの間違った考え方を避けましょう。

むしろ、神様の御前にへりくだり、神様が良い方であることを信じ、何が起こっても、神様に従いましょう。

そうすれば、ヨブのように、私たちは神様がやっぱり良い方であることを知るようになります。

 

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満足して生きる、祝福を分かち合う

この章の主なテーマの一つは、満足することです。ソロモンはこう書きました。

目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさる。 これもまた空しく、風を追うようなものだ。(伝導者の書6:9)

私たちが満足していないなら、自分の人生を楽しむことができません。でも、どれだけ私たちは持っていないものを追い求めすぎて、持っているものを楽しんでいないでしょうか。

ソロモンは、たくさんの子供がいる人について話します。しかし、自分の不満のゆえに、その人は自分の子供たちとの関係を楽しみませんでした。だから、彼は愛されていない人として亡くなり、彼の死を悼む人は誰もいませんでした。(3)

でも、満足することだけでは足りません。イエス様の例え話の一つでは、ある人は大満足でした。(ルカ12:16ー21)

でも、彼がとても自己中心だったので、神様は彼を裁かれました。もしかしたら、イエス様がこの話を語られたとき、伝道者の書6:2を考えておられたかもしれません。

私たちは、神様に人々を祝福するように召されています。人々を祝福するにつれて、私たちはイエス様の言葉を実感します。つまり、

受けるよりも与えるほうが幸いである。(使徒の働き20:35)

神様があなたに与えてくださった人生を楽しみたいと思うでしょうか。

満足することを学びましょう。

そして、神様があなたを祝福してくださったように、周りの人々を祝福しましょう。

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伝道者の書のデボーション

私たちは誰を信頼すべきか

ある州で、貧しい者が虐げられ、権利と正義が踏みにじられているのを見ても、そのことに驚いてはならない。その上役には、それを見張るもう一人の上役がいて、彼らよりももっと身分が高い者たちもいるからだ。

国にとっての何にもまさる利益は、農地が耕されるようにする王がいることである。(伝道者の書5:8ー9)

あなたはどう感じるか分からないけど、私は政治家たちや官僚たちや裁判官たちをあまり信じていません。

ちょっと可笑しいけど、ソロモンが王だったのに、彼もその人たちをあまり信じていなかったらしいです。

もちろん、政治家や官僚や裁判官の皆が悪いわけではありません。

ソロモン自身は政府の利点をよく分かっていました。良い政府があれば、国は栄えることができます。(9)

その反面、説明責任のために政治制度や官僚制があるけれど、堕落が入り込んでしまいます。その結果は?政府や社会に、私たちは不正をよく目にします。

私たちが罪によって壊れた世界にいるので、それは当然のことです。

だから、私たちクリスチャンは、政府に希望を寄せるべきではありません。もちろん、神様が政府を良いものとして立ててくださり、政府は必要なものです。それでも、私たちの政府は不完全な道具です。

それでは、私たちは誰に信頼を寄せるべきでしょうか。私は、チャールズ・コルソンというクリスチャンの言葉が大好きです。

希望はどこにあるでしょうか。私は、社会の腐敗によって落ち込んでいる人に何度も会ったことがあります。

私たちが持っている希望は、政治家にあるわけではありません。

私たちの希望は、新しい法律を制定することではありません。

私たちの希望は、この国の実績から生まれるものではありません。

私たちが持っている希望は、人々の心に働いている神様の力です。

それがこの国の希望です。それが私たちの人生の希望です。

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伝道者の書のデボーション

何を優先しているか?

私は再び、日の下で 空しいことを見た。

ひとりぼっちで、仲間もなく、 子も兄弟もいない人がいる。それでも彼の一切の労苦には終わりがなく、その目は富を求めて飽くことがない。

そして「私はだれのために労苦し、楽しみもなく、自分を犠牲にしているのか」とも言わない。

これもまた空しく、辛い営みだ。(伝道者の書4:7ー8)

どれだけ、私たちは、自分がしていることを休憩して、反省し、自分の優先順位を考え直すでしょうか。

今日の箇所では、ソロモンは仕事人間について話します。彼の目的は金持ちになり、経済的に安定することです。

でも、その結果、彼は働きすぎて、愛の関係がなく、自分の富を楽しむことができません。さらに、彼はもう金持ちなのに、なんだか満足していません。

私たちは何を優先するでしょうか。神様との関係、また、私たちを愛している人との関係のない人生は、生き甲斐のあるものではありません。

ひとりぼっちの人はすぐに打ち負かされるかもしれません。

でも、三つ撚りの糸は簡単には切れません。神様と自分を愛している人々と一緒に歩めば、私たちはすぐに打ち負かされません。(12)

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伝道者の書のデボーション

私たちの喜びの源

前回の記事で私は言いましたが、伝道者の書で、ソロモンは神様中心の生活を送っていない人であるかのようによく話します。なぜでしょうか。

なぜなら、長い間ソロモンはそんな生活を送っていたからです。彼は外国人の女性と結婚して、彼女たちの偶像を礼拝し始めました。

ソロモンはまだ神様も礼拝していましたが、その礼拝は希薄なものになりました。さらに、ソロモンは神様から離れて、喜びを追い求め始めました。

今なお、多くの人々は同じ罪を犯してしまいます。彼らは神様から離れて、喜びを追い求めます。

彼らは快楽によって、喜びを追い求めます。(伝道者の書2:1)

彼らは仕事や物を得ることによって、喜びを追い求めます。(4ー9節)

また、彼らはこう考えます。「もし私は他の人よりも頭が良く、知恵を持つなら、幸せな人生を送るだろう。」(12節)

それらによって、彼らは一時的に幸せになるかもしれません。でも、神様から離れると、彼らは最終的にそのものの空しさが分かってきて、絶望してしまいます。(1ー2、11、14ー23節)

最終的にソロモンもその真理が分かってきました。もちろん神様は、私たちが与えられた世界を楽しむことを望まれます。でも、私たちは賜物を与える方から賜物を切り離すことはできません。

だから、ソロモンはこの話をこのようにまとめます。

実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか。なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え(ます)。。。(25ー26節)

ソロモンのようにならず、時間を無駄にせず、その教訓を学びましょう。

神様は、私たちがこの人生を楽しむことを望まれます。命は神様からの賜物です。でも、神様から離れるなら、私たちは決して真の喜びを見つけることができません。

だから、神様中心の生活を送りましょう。そうすれば、私たちは喜びだけではなく、満ち溢れる喜びを持つことができます。(ヨハネ15:9ー11)

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伝道者の書のデボーション

神様が人生の中心であるなら

伝道者の書を読むと、気が沈むのは簡単なことです。

でも、この書の鍵は以下の表現にあります。

「もし、神様が私たちの人生の中心なら。。。」

もし、神様が私たちの人生の中心なら、私たちの仕事には意味があります。なぜなら、その仕事によって、私たちは神様に栄光を与えるからです(コロサイ3:17、23ー24)。

もし、仕事そのものが私たちの人生の中心なら、最終的に、私たちが振り返ると「私は意義のあることを本当にやり遂げただろうか」と疑問に思います。(3節)

神様が私たちの人生の中心なら、私たちは被造物を見ると、そのデザイン、また、その創造者に感嘆します(詩篇19:1ー6;詩篇104)。

でも、神様が私たちの人生の中心ではないなら、その畏敬の念を失ってしまいます。(伝道者の書1:5ー9)

神様が私たちの人生の中心なら、毎日は神様との新しい冒険です。神様のあわれみや慈しみは朝ごとに新しいですから(哀歌3:22ー23)。

でも、神様が私たちの人生の中心ではないなら、毎日、私たちは喜びがなく、何も期待せず、ただ一日を乗り切ろうとします。(伝道者の書1:8ー11)

神様が私たちの人生の中心なら、私たちはいつも希望を持っています。神様の知恵を持つので、私たちはこの壊れた世を見るけれど、神様が人間が壊したものを直すことができるという確信を持っています。

でも、神様から離れると、人間の知恵は絶望に至ります。なぜなら、私たちは人間の力の限界を見て、人間が自分で壊したものを直すことができないと分かるからです。(12ー18節)

だから、伝道者の書にあるソロモンの言葉を読むとき、ソロモンがどんなものの見方を表現するかに注意しましょう。神様中心のものの見方で話すときもあるし、神様中心ではないものの見方で話すときもあります。

ソロモンが悲観的な言葉、また、憂鬱な言葉を語るとき、考えてみてください。ソロモンが神様中心のものの見方を使えば、どのようにその言葉は変わるでしょうか。

でも、それだけではなく、自分に訊きましょう。「私の人生が神様中心のものなら、どのように、私のものの見方は変わるだろうか。」

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箴言のデボーション

神の知恵を尊ぶ

今日の箇所を読むとき、私たちはよく理想的な妻について考えます。

でも今日、私に思い浮かんだのは箴言8ー9章で、知恵が女性に擬人化されていることです。

残念なことですが、なぜか、新改訳では私たちはその描写を見ることができません。

とにかく、理想的な妻に関する言葉の多くは、知恵に関しても以前に箴言で書かれていました。

例えば、知恵は真珠よりもはるかに尊いものです。(箴言3:13ー15;31:10)

また、知恵は主を恐れることで特徴つけられています。(箴言9:10;31:30)

知恵は、努力や(箴言6:6ー11;31:13ー19)、気前が良い態度や(箴言11:24ー25、31:20)、未来に関する安心で特徴つけられています。(箴言24:14;31:25)

最後に、知恵は自分の言葉で自分自身を表現します。(箴言8:6ー9、14;10:11ー13、20ー21;31:26)

だから、私たち皆が、(女性でも、男性でも)箴言にある知恵を実践し、神様の知恵で特徴づけられる人になることを願います。

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箴言のデボーション

神の前にへりくだる

皮肉なことですが、箴言の終わりに私たちがたくさんの知恵を聞いたのに、アグルという人はこう言います。

まことに、私は粗野で、人ではない。私には人間としての分別がない。私はまだ知恵も学ばず、 聖なる方の知識も持っていない。(箴言30:2ー3)

でももしかしたら、私たちはそんな謙遜な態度を取るべきかもしれません。なぜなら、私たちがどんなに知恵を持っても、私たちの知恵は神様の知恵と比べられないものです。

それでも、苦しむときに、私たちは神様を疑います。

「どうして、神様は、コロナを許しただろうか。」

「どうして、神様は、天災を許すだろうか。」

「どうして、神様は、この世の悪を許すだろうか。」

ヨブのように、私たちは神様から答えを迫ろうとすることができます。ヨブの友達のように、私たちはもうその答えを知っているふりをすることができます。

でも、最終的に、私たちが認めなくてはならないのは、「私は何も知らない」ということです。

すべてのことを知っている方は一人しかおられません。でも、その人は私たちではありません。(4)

だから、私たちは選択があります。私たちは無知なままで、神様を罵ることができます。

もしくは、私たちはヨブのようにへりくだって、神様にこう認めることができます。

あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。

あなたは言われます。「知識もなしに摂理をおおい隠す者はだれか」と。

確かに私は、 自分の理解できないことを告げてしまいました。自分では知り得ない、あまりにも不思議なことを。(ヨブ記42:2ー3)

箴言の冒頭で、私たちはこの言葉を読みました。

主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。(箴言1:7)

また、

主を恐れることは知恵の初め、 聖なる方を知ることは悟ることである。(箴言9:10)

私たちはすべてのことを理解することはできません。でも理解し始めたいと思うなら、私たちは二つのことをしなくてはなりません。

神様を恐れなくてはいけません。

神様を信頼しなくてはなりません。

あなたはどうするでしょうか。

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箴言のデボーション

自分の群れを心に留める

あなたの羊の様子をよく知り、 群れを心に留めておけ。(箴言27:23)

その言葉を読んで、私は神様からゆだねられた人々を考えました。私の妻。私の娘。私のスモールグループ。

私は彼らの様子をよく知っているでしょうか。私は彼らのニーズを心に留めているでしょうか。

どうして、それは大切なのでしょうか。

24ー27節で、私たちは一つの理由を読みます。もちろん、その羊は私たちから祝福されます。でも、私たちが彼らから祝福を受ける日が来ます。

しかし、それよりも、私たちの羊飼いの命令を心に留めておかなければなりません。

イエス様はペテロに言われました。「わたしを愛していますか。わたしの子羊を飼いなさい。わたしの羊を牧しなさい。わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:15ー17)

イエス様は私たち皆にも同じことを言われます。

私たちは、イエス様への愛と回りの人々への愛を切り離すことができません。特に、私たちがイエス様を愛しているなら、神様からゆだねられている人々を愛さなくてはなりません。

神様は誰をあなたにゆだねたでしょうか。彼らの様子をよく知っているでしょうか。彼らのニーズを心に留めているでしょうか。

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箴言のデボーション

知恵をもって箴言に向き合う

愚かな者が口にする箴言は、 足の萎えた者の垂れ下がった足。(箴言26:7)

愚かな者が口にする箴言は、 酔った人が手に取り上げる茨。(9節)

箴言を読むときに、多くの人々はどのように箴言を解釈するべきか分かりません。

でも上記の箴言が指摘するように、もし箴言の使い方が分からなければ、最善の場合でも箴言は役に立たないものになります。最悪な場合、箴言によって人は傷ついてしまいます。

ヨブの友達をちょっと考えてみてください。彼らはいつも箴言を語りました。さらに、パウロはその友達のひとつの箴言を引用しました。

だから、その言葉自体は間違っていませんでした。(ヨブ5:13;第一コリント3:19)

でも、その友達は愚か者で、その箴言によってヨブを傷つけてしまいました。

だから、箴言を読むときには、二つの大切なことを心に留めておきましょう。

1. 箴言は神様の約束ではありません。むしろ、箴言は、神様が造られた世界に関する一般的な原則を表現しています。でも、心に留めておいてください。一般的な原則にはいつも例外があります。

例えば、ヨブの友達がいつもヨブに語った一般的な原則は何でしょうか。それは、神様が良い人々を祝福され、悪い人々を呪われるということです。

でも、すべての金持ちが神様に祝福されているとは限りません。また、すべての苦しんでいる人々が神様に呪われているとは限りません。

この壊れた世界では、良い人も苦しむし、悪い人も栄えます。でも最終的に、神様が正義をもたらされて、良い人は栄え、悪い人は苦しみます。

また、箴言22:6をちょっと考えてみてください。

若者をその行く道にふさわしく教育せよ。 そうすれば、年老いても、それから離れない。

それは神様の約束でしょうか。

それは約束ではありません。それは一般的な原則です。

でも、自分の子供が悪い道を行ってしまう時、どれだけ良い両親が自責の念に苦しむでしょうか。

だから、箴言を読むときには、相手を責めること、また自分を責めることに注意しましょう。

2. 箴言には、適切な時も、不適切な時もあります。

例えば、箴言26:4〜5をちょっと読んでみましょう。

愚かな者には、その愚かさに合わせて答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。

愚かな者には、その愚かさに合わせて答えよ。そうすれば彼は、 自分を知恵のある者と思わないだろう。

では、どうすれば良いのでしょうか。愚かなものにはその愚かさに合わせて答えるべきか、答えるべきではないでしょうか。

事情によって違います。あるとき、議論に巻き込まれたら、たくさんの熱は出てくるけど、光はあまり出ません。だから、何も言わない方が良いです。

でも、ある場合には、もしあなたが何も言わなければ、相手が自分の意見に固執し、自分や回りの人々を傷つけてしまいます。

だから、どうすれば良いか考えるときに、神様の知恵が必要です。

5節にも、6節にも知恵のある言葉があります。。。適切な時に使えば。

とにかく、箴言を読むときには、知恵を持って、その箴言を私たちの人生に当てはめましょう。

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箴言のデボーション

銀のように清められる心

銀から金かすを除け。そうすれば細工人に、良い器ができあがる。(箴言25:4)

主よ、私の中にあるかすを除け、汚れたものを清めてください。私があなたの目的のために良い器になりますように。

私の心を探ってください。罪深い思いや習慣を取り除いてください。悪い動機や態度も取り除いてください。

私が不完全な人なのに、あなたが私を用いることを選び、感謝します。恵みによって、あなたは欠点のたくさんある私を用いることができます。それは本当に驚くべきことです。

それでも、私はあなたのようになりたいと思います。私の人生があなたの目に叶うものになりますように。

私が尊いことに用いられる器となり、聖なるものとされ、あなたにとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなりますように。(第二テモテ2:21)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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自分の力では足りない時

もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い。(箴言24:10)

この言葉を読むと、自分を責めるのは簡単なことでしょう。苦難の日に私たちは気落ちして、「私は弱いなぁ。私はもっと強い人であるはずだ。」と言います。

でも、実は、私たちの力は弱いのです。もし、自分の力に頼ると、結局、私たちは倒れてしまいます。なぜなら、私たちがどんなに強くても、私たちの手に余る状態に直面するときがあるから。

では、私たちはどうすれば良いでしょうか。

主にあって、その大能の力によって強められなさい。(エペソ6:10)

詩人も、私たちにこう言います。

主とその御力を尋ね求めよ。 絶えず御顔を慕い求めよ。(詩篇105:4)

イエス様自身は私たちに言われます。

わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。(第二コリント12:9)

だから、試練に直面すると、パウロの態度を取りましょう。

ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。

というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(第二コリント12:9bー10)

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箴言のデボーション

私たちの天の父の心

今日の箇所では、ソロモンは自分の子に書いています。でも、その言葉は、私たちに対する天の父の心を反映しています。

わが子よ。もし、あなたの心に知恵があれば、私の心も喜び、あなたの唇が公正を語るなら、私の心は喜びに躍る。(箴言23:15ー16)

たぶん、多くの親たちはその気持ちが分かるでしょう。私たちの子供たちが知恵を持って生活し、正しいことをする時、私たちは喜ぶでしょう。

そのように、私たちが知恵を持って生活し、正しいことをする時、天の父は喜ばれます。

だから、天の父は私たちにこう言われます。

わが子よ。よく聞いて、知恵を得よ。あなたの心が道をまっすぐ進むようにせよ。(19節)

でも、それだけでなく、天の父は私たちにこう言われます。

わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。あなたの目が、わたしの道を喜ぶようにせよ。(26節)

他のどんなものよりも、神様は私たちの心を望んでおられます。なぜなら、私たちの心が神様のものなら、私たちは喜んで神様に従い、その道を行きますから。

天のお父さん、私の心をあなたにゆだねます。

私の心があなたの道をまっすぐ進むように。私の毎日の生活があなたの心を喜ばせるように。あなたを愛しています。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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神様の恵みを当然と思い、神様ご自身を軽んじる?

私たちの先祖はエジプトであなたの奇しいみわざを悟らず、あなたの豊かな恵みを思い出さず。。。(詩篇106:7)

どれだけ、その言葉は、イスラエル人の先祖だけではなく、私たちにも該当するでしょうか。

私たちは神様の救いの奇しいみわざの意義を悟らず、十字架で現れた神様の豊かな恵みを思い出しません。

むしろ、私たちは、神様が私たちのためにしてくださったことを忘れてしまいます。(13a)

私たちは主のさとしを求めず、自分の知恵に従います。(13b)

私たちの古い罪深い生活のものを慕います。(14a)

私たちは神様を試み、神様が本当に私たちと供におられるかどうか疑います。(14b)

神様が備えてくださった良いものを軽んじて、神様の約束を疑います。(24)

私たちは不平を言って、神様の御声を聞きません。(25)

私たちの文化の道を行き、神様の道を捨ててしまいます。(35)

私たちの文化が礼拝する神々が私たちに対して罠になって、私たちはその神々に仕えます。(36)

私たちは自分の行為によって自分を汚し、神様に対して霊的な姦淫を犯してしまいます。(39)

そのすべてをそうするのに、私たちが悔い改めると、神様は私たちに恵みを豊かに与えてくださいます。

モーセや祭司ピネハスが神様の御前に立ち、イスラエル人のためにとりなしたように、イエス様は天の父の御前に立ち、私たちのためにとりなしてくださいます。(23ー30)

私たちが神様の恵みを当たり前のものだと決して思わないように。私たちがイエス様とその十字架での苦しみを決して軽んじないように。

むしろ、感謝と賛美に満ちた心を持って、こう歌いましょう。

ほむべきかな イスラエルの神 主。 とこしえから とこしえまで。(48)

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絶えず神様を慕い求める

主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。(詩篇105:4)

詩人は、「絶えず御顔を慕い求めよ」と言いましたね。

「ただ自分が困るときに御顔を慕い求めよ」と言いませんでした。

「ただ自分が圧倒されると感じるときに御顔を慕い求めよ」と言いませんでした。

むしろ、「絶えず御顔を慕い求めよ」と言いました。

でも、どれだけ私たちは自分の知恵と力に頼るでしょうか。私もよくそうします。

私たちは神様に言います。「私は大丈夫だよ。あっちに座って、リラックスしてください。」

そして、私たちは倒れてしまいます。

多くの場合、大きな勝利の後、私たちはそんな態度を取って、失敗してしまいます。

ヨシュアとイスラエル人たちは約束の地に入った時、二回そうしてしまいました。(ヨシュア記7、9)

アサ王もそうしてしまいました。(歴代次第に16章)

私たちがその罠に陥れられないように。

むしろ、

主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。(4節)

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神の慈しみと配剤

今日の詩篇を読むと、山上の説教にあるイエス様の御言葉を連想しました。

ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。

いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。

あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。(マタイ6:25ー26)

私は分からないけど、もしかしたら、イエス様はその言葉を言われたとき、この詩篇を考えておられたかもしれません。

この詩篇では、詩人は何回も、神様が動物に食べ物や、水や、住まいを備えてくださることについて話します。

もし神様が動物のことを心配してくださるなら、神様が私たちのことを心配してくださることはなおさらでしょう。

でも、どれだけ私たちは自分の心配事をくよくよとするでしょうか。

そうせずに、詩人の祈りを歌った方がいいと思います。

私はいのちの限り、主に歌い、生きるかぎり、私の神をほめ歌います。

私の心の思いが みこころにかないますように。

私は主を喜びます。(詩篇104:33ー34)

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神様が天から見下ろされたとき

主は、その聖なるいと高き所から見下ろし、天から地の上に目を注がれました。

捕らわれ人のうめきを聞き、死に定められた者たちを解き放つために。

人々が主の御名をシオンで主の誉れをエルサレムで語り告げるために。

諸国の民や王国が 一つに集められて、主に仕えるために。(詩篇102:19-22)

その言葉を読んで、出エジプト記の話を連想しました。

イスラエル人たちはうめいて、死に定められた奴隷たちでした。でも神様は天から見下ろし、イスラエル人たちのうめきを聞き、彼らを解き放ってくださいました。(出エジプト記2:23-25,3:7-10)

そういうわけで、彼らは主の誉れを語り告げ、主に仕えました。

そのように、私たちは自分の罪のために死に定められた人々でした。でも、神様は天から見下ろし、私たちのうめきを聞いてくださいました。そして、神様の恵みによって、私たちは救われました。

それだけではなく、ある日、すべての国民、部族、民族、言語からの人々はいつまでも神様の御前に賛美し、神様に仕えます。(黙示録7:9-17)

だから、私たちは弱いとき、神様に叫ぶとき、神様がどれだけ素晴らしい神であるかを覚えていましょう。

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イエス様のようになる

主よ、あなたをほめたたえます。なぜなら、あなたは恵み深い神であり、あなたのさばきはいつも正しいからです。(詩篇第101:1)

私はあなたのようになりたいです。

皆の前だけでなく、私の家でも、全き心で生活したいです。(2)

主よ、この世の空しいものが私の考え方に影響を与えないようにしてください。むしろ、あなたの御言葉だけが私の考え方を形成するようにしてください。

私はこの世にいますが、この世のものではありません。だから、この世の罪が私にまとわりつかないようにしてください。(詩篇101:3–4)

むしろ、あなたの光が私を通して輝くようにしてください。

天のお父さん、私のところに来てください。イエス様、私のところに来てください。私とともに住んでください。(2、ヨハネ14:23)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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天国にいるかのように、今を生きる

詩篇100篇を読むと、私に思い浮かんだのは、天国で私たちがそのような人生を送るということです。

イエス様にある私たちの勝利のゆえに、私たちは主に向かって喜びの声をあげます。(詩篇100:1)

私たちは喜びを持って主に仕えます。私たちは主の御前に来て、喜びの歌を歌います。(2節)

私たちは主のものであることを認め、喜びます。(3節)

私たちは感謝と賛美に満ちた心を持って主の御前に来ます。私たちは主の御名をほめたたえます。(4節)

なぜなら、主はいつくしみ深く、その恵みは永遠まで、その真実は代々に至るからです。(5節)

それは素晴らしい天国の描写ですね。

でも、私たちが天国にいるまで待つ必要はありません。毎日、そのような人生を送りましょう。

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神の祭司、神の子供

詩篇99篇を読んだとき、私に思い浮かんだのは、モーセやアロン、サムエルと同じように、私たちも神様の祭司であるということです。(第一ペテロ2:9)

それは本当に驚くべきことですね。

私たちが神様を呼ぶと、神様は答えてくださいます。神様はご自身を私たちに現し、私たちに語り、ご自身の道を教えてくださいます。

主は雲の柱から私たちに語られませんが、私たちはさらに良いものを持っています。つまり、聖霊様が私たちのうちに住んでおられるのです。

私たちが失敗するとき、神様は私たちを赦してくださいますが、私たちの罪を無視されるわけではありません。むしろ、神様は私たちを懲らしめ、訓練されます。

でも、最も驚くべきことは、この偉大な神、この聖なる神がご自身を低くして人間となられたことです。そして、十字架で私たちの罪を背負ってくださいました。

だからこそ、私たちは神様の祭司として、また愛されている子どもとして、神様の御前に立つことができるのです。

それらは本当に驚くべきことではありませんか。

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悪を憎み、喜びを選ぶ

今朝、二つの聖句が私の目に留まりました。その言葉のゆえに、私は自分の心を探りました。

主を愛する者たちよ。悪を憎め。(詩篇97:10)

主を愛する人が悪を愛することはあり得ないことです。でも、私はどれだけ悪を憎むでしょうか。

特に、私は自分の罪をどれだけ憎むでしょうか。私には抱いている罪があるでしょうか。もしかしたら、その罪を抱いていないかもしれませんが、私はいつもその罪のために言い訳をしているでしょうか。

主よ、私が自分の罪を憎むように。

正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。(12節)

私はいろんなことについてぼやくことができます。でも、私たちは主にあって喜ぶために召されています。私たちは主に感謝するべきです。

もし私が毎日、喜ぶことと感謝することを選び続けたなら、私の態度はどれほど変わるでしょうか。

だからこそ、私は自分の救いを喜ぶべきです。神様の愛に感謝すべきです。神様の慈しみを喜ぶべきです。そして、神様が与えてくださった祝福に感謝すべきです。

主よ、毎日、あなたにあって喜ぶ心を与えてください。感謝の心を与えてください。

今日、あなたを喜び、感謝の心を保つことを選びます。

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主こそ王です

主こそ王です。。。

あなたの御座は、いにしえから堅く立ち、
あなたは、とこしえからおられます。(詩篇93:12)

このトラブルに満ちて苦しんでいる世界には、それは心強い言葉でしょう。

主こそ王です。主はすべてのものを治めておられる方です。

主は、始めからこの世の王でした。

なぜなら、この世が造られる前に、神様はすでに存在しておられたからです。

そしてコロナや他の問題が発生するときも、神様はまったく心配しておられません。なぜなら、神様はその問題よりも力強い方だからです。

だから、こんな大変なとき、その真理に思いを巡らしましょう。

主こそ王です。

主こそ王です!!!

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喜びの理由

主よ。私は暗い世にいます。私の回りでは、人々の道徳観念は曲がって来たし、彼らは希望のない人生を送っています。

でも、私はあなたにあって喜ぶために召されています。私は新しい歌を歌うために召されています。なぜなら、あなたは私に喜びの理由を与えてくださったからです。(詩篇96:1-2)

あなたは私を救い、私の罪を赦し、私に新しい命を与えてくださいました。

だから、私はあなたに日から日へと御救いの良い知らせを告げるために召されています。また、私はあなたの栄光や奇しい救いのみわざを死にかけている人々に伝えるために召されています。(3節)

主よ。彼らは力のない偽りの神々に従っています。でも、私たちはあなたを礼拝します。あなたは大いなる方、大いに賛美される方です。

あなたは王です。そして、ある日、あなたは正義と真実をもって、この世の民を裁かれます。(4-5,10,13節)

主よ、私はその日を楽しみにしています。

でも、私の回りにいる、たくさんの人々はあなたをまだ知りません。あなたの慈しみを知らないし、あなたの救いを知らないのです。

彼らが私の中にあるあなたの喜びを見るようにしてください。そして、あなたの奇しい救いのみわざを彼らに伝える機会を与えてください。

また、あなたの福音を伝える勇気を私に与えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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救いの岩への祈り

主よ。あなたは、私の救いの岩です。マサとメリバで、岩が打たれて、命を与える水が出たように、あなたは十字架で打たれて、私に永遠の命を与えてくださいました。(出エジプト記17:1ー7、第一コリント10:4;ヨハネ4:10ー14、7:37ー39)

あなたがサタンや罪や死に勝ったので、私はあなたにあって大喜びます。あなたが私に与えてくださった恵みを本当に感謝します。(詩篇95:1ー2)

あなたは大いなる神です。あなたはすべての「神々」にまさって、大いなる王であります。

あなたはすべてのものを創造されました。(3ー5節)

そういうわけで、私はあなたの御前に来て、ひれ伏し、膝をかがめます。私はあなたの御前にひざまずきます。なぜなら、あなたは私の神だからです。また、あなたは私の羊飼いです。私はあなたの羊です。私はあなたのものです。(6ー7)

私がいつもその真理を覚えていられるように助けてください。

試練に直面して苦しんでいるとき、私があなたを疑わないように助けてください。私が「あなたは私と共におられないのか」という反抗的な態度を決して持たないようにしてください。(出エジプト記17:7)

あなたはすでに私に対するご自身の愛と慈しみを証明してくださいました。

ですから、私があなたに信頼するように助けてください。私に何が起こっても、私があなたの安息に入り、毎日あなたにあって喜ぶように助けてください。

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正しい物の見方を保つ

今朝、詩人の言葉は私の心を打ちました。

主に感謝することは良いことです。いと高き 方よ、あなたの御名をほめ歌うことは。朝に、あなたの恵みを夜ごとにあなたの真実を告げることは。(詩篇92:1-2)

正直に言うと、私はその言葉にもっと従うべきです。

多くの場合、朝に私が起きるとき、私が最初に聞くのはニュースです。でも、そうすると、全然、神様を賛美する気になりません。逆に、多くの場合、ニュースは私の態度に悪い影響を与えてしまいます。

また、寝る前に、私は神様の真実をあまり考えません。

もし、毎朝、私が神様の恵みを喜び、また、毎晩、私が神様の真実を告げるなら、どれだけ、私の態度は変わるでしょうか。起きる時と寝る時だけではなく、私の態度は一日中どれだけ変わるでしょうか。

 

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詩篇のデボーション

恐れはない

詩篇91篇を読むとき、私は「この詩篇は約束しすぎるんじゃないかなぁ」とよく考えます。

「私たちが神様に信頼を寄せれば、私たちの問題のすべてはなくなるのだろうか。」

実は、イエス様を誘惑したとき、サタンはこの詩篇を曲げました。「神殿の屋上から下に身を投げなさい。この詩篇によれば、御使いたちはあなたを守るでしょう?」

そして、あるクリスチャンによれば、私たちは決して病気にならないはずだし、問題のない人生を送るはずです。

でも、今日この箇所を読んだとき、私はイスラエル人たちのエジプトの経験を考えました。

エジプト人たちは神様の裁きを受けました。つまり、彼らは疫病や荒らす滅びに苦しんだということです。また、夜襲の恐怖を経験して、彼らの長男たちは亡くなりました。

でも、神様がイスラエル人たちを守ってくださったので、彼らはその恐ろしい裁きから逃れました。

聖書では、そんなパターンを何回も見ることができます。神様に反抗する人たちは裁かれるけど、神様の民はその裁きから逃れます。(エゼキエル書9章、第2ペテロ2:4ー10;黙示録7:1ー3、9:1ー21)

そのように、ある日、神様はこの世を裁かれます。でも、私たちが神様に属し、私たちが神様に自分の隠れ家として信頼を寄せれば、私たちは神様の裁きを恐れなくていいのです。だから、ヨハネはこう言いました。

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。

神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。

こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。

この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。

恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。(第一ヨハネ4:16ー18)

だから、もし神様があなたを罰しておられるかどうか疑問に思っているなら、大切な真理を覚えていましょう。それは、イエス様が十字架で私たちの罰をすでに受けてくださったということです。神様はあなたを罰しておられるわけではありません。

でも、私たちは神様の裁きだけではなく、サタンの攻撃をも恐れる必要がありません。聖書では、サタンは蛇やライオンに見立てています。(創世記3章、第一ペテロ5:8)

興味深いことですが、サタンはイエス様を誘惑するとき、この詩篇の11ー12節を引用したけど、13節を飛ばしました。

あなたは 獅子とコブラを踏みつけ、若獅子と蛇を踏みにじる。(詩篇91:13)

もしかしたら、サタンはその聖句を考えると、違和感を持っていたでしょう。なぜなら、神様は将来の救い主について蛇にこう言われたからです。

彼はおまえの頭を打ち、 おまえは彼のかかとを打つ。(創世記3:15)

サタンが私たちを打つときもあります。でも、イエス様の傷のように、私たちの傷は致命傷ではありません。

サタンは私たちの体を殺すことができるけど、私たちの魂を滅ぼすことができません。そういうわけで、ある日、私たちは天国で喜び、神様を賛美します。(黙示録7:9ー17)

だから、神様の裁きやサタンの攻撃を恐れずに、神様の約束を心に留めておきましょう。

彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出す。

彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げる。彼がわたしを呼び求めれば、わたしは彼に答える。

わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い、彼に誉れを与える。

わたしは、彼をとこしえのいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せる。(詩篇91:14ー16)

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箴言のデボーション

私たちの素晴らしいデザイナー

聞く耳と見る目は、 二つとも主が造られた。(箴言20:12)

たぶん、多くの人々はその言葉を読むとき、「で?」と考えるでしょう。

「はい、はい。分かった、分かった。神様は私の目と耳を造った。でも、どうしてソロモンはそんな当たり前のことを言うべきだと思ったのだろうか。」

でも、目と耳がどれほど素晴らしく、不思議なものであるかを考えたことがありますか。

少し目について考えてみましょう。私たちの目は、遠くのものや近くのものに自動的に焦点を合わせることができます。また、光と暗闇にも自動的に適応することができます。

そして、私たちの目は脳と繋がっているので、私たちは何を見ているかを理解することができます。

最先端のテクノロジーを持っていても、技師たちや科学者たちは、神様のデザインを完全にコピーすることがまだできていません。

耳についても、同じことが言えます。

私たちは、この世の主張を信じることができるでしょうか。耳と目がデザイナーなしで造られたものだと、本当に信じられるでしょうか。耳と目が偶然によって造られたものだと、信じられるでしょうか。

私はそれを信じられません。私は知性のあるデザイナーを信じます。

私たちは、なんと素晴らしい神を礼拝していることでしょう。そう思いませんか。

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詩篇のデボーション

神様の御言葉に思いを巡らす

神様の裁きに関するモーセの歌の言葉を考えて、ペテロはそのテーマを膨らませました。(詩篇90:3〜8)

そして、ペテロはモーセの言葉を引用しました。ちょっと考えてみてください。ペテロはモーセの祈りにどのように反応したでしょうか。つまり、モーセはこう祈りました。

「主よ、帰ってください。私たちはいつまでこの壊れた世界に住まなくてはならないのでしょうか。」(4、13節)

ペテロによれば、なぜ神様はこんなに長く待っておられるのでしょうか。神様は何のために待っておられるのでしょうか。

また、ペテロによれば、主はどのようにモーセの願いに答えられるのでしょうか。(14〜17節)

そして、イエス様がこの世に来られるまで、私たちが神様を恐れ、知恵をもって生活するとは、どういう意味でしょうか。(10〜12節)

ペテロは、自分の手紙の中で、そのすべてのことを考えました。だから、私たちもそうしましょう。でも、今日の聖句だけではなく、毎日そのように聖書を読みましょう。

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箴言のデボーション

神様に怒っているの?

人の愚かさは自らの道を滅ぼす。その心は主に向かって激しく怒る。(箴言19:3)

私たちは、自分の悪い決断によって困ってしまうことがどれほど多いでしょうか。それなのに、神様に怒りを向けてしまうことがあります。

私たちは、よく考えもせず、神様に相談することもなく、自分の思うままに行動してしまいます(2節、21節)。

あるいは、神様の戒めを無視してしまいます(16節、27節)。

または、すぐに怒りを爆発させてしまいます(11節)。

あるいは、怠けて時間を無駄にしてしまいます(15節)。

ソロモンはこう言いました。

主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいにあわない。(23節)

私たちは、神様の前にへりくだり、自分の悪い決断のゆえに神様に怒るのではなく、むしろ、すぐに悔い改め、神様とそのみ言葉に従いましょう。

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和解への道

時々、私たちの人間関係が壊れてしまい、私たちは和解への道を見つけることができません。

そういうわけで、ソロモンはこう言いました。

堅固な城を攻め落とすより、けんかした友人と仲直りするほうが大変です。

怒った相手は、頑としてあなたを受けつけません。(箴言18:19、リビングバイブル)

和解を望むなら、私たちは一つのことを学ばなくてはなりません。それは、相手の話をちゃんと聞くことです。

ソロモンはこう言いました。

よく聞かないで返事をする者は、愚かであり、恥を見る。(13節)

どれだけ、相手が話すとき、私たちはちゃんと聞かずに、むしろ、自分が次に何を言おうと考え始めるでしょうか。

私もそうやったことがあります。

もちろん、私たちがいつも相手の言葉に同意するとは限りません。なぜなら、相手が実際に悪かったかもしれないから。

でも、私たちが彼らの言うことをちゃんと聞かないと、彼らの城壁はもっと高くなるでしょう。

それに、相手ではなくて、私たちの方が実際に悪かったかもしれません。

だから、ソロモンはこう言いました。

最初に訴える者は、相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。(17節)

私たちは、自分の方が正しいと思うかもしれません。でも、相手の話をちゃんと聞くなら、自分が悪かったと分かるようになるかもしれません。

もちろん、和解は双方向の関係でなければなりません。

しかし、私たちは相手の反応をコントロールすることはできません。私たちにできるのは、自分自身の行動を整えることだけです。

もし、私たちが謙遜な態度をもって、相手の話をちゃんと聞くなら、彼らは私たちの話を聞いてくれるかもしれません。そして、和解への戸は開かれるかもしれません。

主よ。私に謙虚な心を与えてください。自分が正しいと思うときにも、私は相手にちゃんと耳を傾けるように助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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試練のとき

今日の箇所を読んで、二つの聖句が心に深く響きました。

銀にはるつぼ、金には炉、人の心を試すのは主。(箴言17:3)

聖書の著者たちがはっきり教えていることの一つは、神様がご自分の民に試練を経験させるということです。 一つの理由は、神様が私たちの心を試しておられることです。

でも、なぜ神様は私たちの心を試さなくてはならないのでしょうか。神様は私たちの心をすでにご存じではないでしょうか。

もちろん、神様は私たちの心をご存じです。

でも、多くの場合、私たちは自分の心を知らないのです。そして、試練によって、私たちの欠点や弱さが浮かび上がります。その反面、試練によって、自分が思っていたよりも強いと分かることもあります。

どちらにしても、神様の目的は、私たちが滅びることではなく、むしろイエス様のようになることです。

でも、もう一つの大切なことを覚えておきましょう。私たちは一人で試練を通る必要はありません。

ソロモンはこう書いています。

友はどんなときにも愛するもの。兄弟は苦難を分け合うために生まれる。(17節)

神様の望みは、試練を通るとき、兄弟たちや姉妹たちが互いに支え合うことです。

だから、苦しんでいるときに、恥ずかしがる必要はありません。周りの人々の助けを求めましょう。

また、誰かが苦しんでいるとき、その人にすぐに手を差し伸べましょう。

でも何よりも、覚えておきましょう。イエス様はどんなときにもあなたを愛する友です。私たちが最も苦しい試練の中にあるとき、イエス様は私たちと共におられます。

ダニエル書3章にあるシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの話を思い出します。彼らは文字通り火の中を通ったとき、互いに支え合いました。

それだけではなく、火の中でイエス様ご自身が彼らと共におられました。その結果は?彼らは金のようになって出て来ました。

私たちも必ずそうなります。

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神様の忠実な愛

恵みとまことによって、咎は赦され、主を恐れることによって、人は悪を離れる。(箴言16:16)

その言葉を読んだとき、私はこう思いました。「自分の忠実な愛によって、自分の罪が赦されるなら、私たちは本当に困ります。」

なぜなら、私たちの愛はあまり忠実ではないものだからです。

しかし、神様の忠実な愛によって、私たちの罪は赦されます。 新改訳聖書の言葉を借りれば、神様の恵みとまことによって、私たちの咎は赦されます。

私たちが神様に忠実でなかったときも、神様は私たちに忠実でいてくださいました。

だから、私たちがまだ罪人であったとき、キリストは私たちのために死なれました。(ローマ5:8)

自分の罪のゆえに、私たちは神様の怒りを受けるにふさわしく、死に値する者でした。(ローマ5:14)

けれども、十字架で、イエス様は天の父の怒りをなだめてくださいました。

だから今、神様が私たちをご覧になるとき、天の父の御顔は明るくなります。天の父のいつくしみは、後の雨(つまり、春の雨)をもたらす密雲のようです。(ホセア6:3)

イエス様を通して、私たちは神様の恵みとまことを知ることができます。(ヨハネ1:17)

だから、神様の恵みとまことに思いを巡らしましょう。神様の忠実な愛について考えましょう。イエス様の御業によって与えられた神様の慈しみを噛み締めましょう。

そして神様を畏れ、喜びましょう。

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神様は私たちをどのように見ておられるか

今日の箇所を読んだとき、私は神様との関係について思いを巡らせました。 ソロモンはこう記しています。

主の目はどこにもあり、悪人と善人を見張っている。(箴言15:3)

また、

よみと滅びの淵は主の前にある。人の子らの心はなおさらのこと。(11節)

たぶん、多くの人々にとって、それらは恐ろしい言葉に聞こえるかもしれません。 私たちの心、私たちの人生は、神様にとって開かれた本のようなものです。

私たちは神様から何も隠すことができません。 神様は、私たちが隠そうとするすべての酷いものをご覧になります。

しかし、イエス様のおかげで、私たちは心を探られる神の目を恐れる必要はありません。 むしろ、神様が私たちの心を探られるとき、私たちは喜んで自分の心を開きます。

私たちにとって、神様が心を探られることは、喜びなのです。

なぜでしょうか。

なぜなら、私たちは神様に愛されている子どもたちだからです。 イエス様は、十字架で私たちの罪の罰をすでに受けてくださいました。

「どうして神様は私たちを『正しい人』と呼ばれるのだろうか」と疑問に思ったことがあるでしょうか。

私たちは完全な人間なのでしょうか。 私たちは他の人々よりも良い人間なのでしょうか。

違います。

その理由は、天の父が私たちをイエス様の義で包んでくださったからです。

イエス様の義のゆえに、神様は私たちを受け入れ、喜んでくださいます。(8節)

だから、喜びをもって、ダビデと共に祈りましょう。

神よ、私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23ー24)

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主を恐れる

主を恐れることはいのちの泉、死の罠から離れさせる。(箴言14:27)

その聖句を読んだとき、私は箴言13章にあるソロモンの言葉を思い起こしました。

知恵のある者のおしえはいのちの泉。これによって、死の罠から逃れることができる。(箴言13:14)

主を恐れるとは、どういう意味でしょうか。 その意味の中心は、主の御言葉に耳を傾け、従うことです。

しかし、私たちはどれほど、自分が神様よりも知っているかのように振る舞ってしまうでしょうか。

聖書を読むとき、私たちはこう思うことがあります。 「この言葉には同意できない。これは時代遅れだ。」

ソロモンはそのような考え方について、こう語りました。

人の目にはまっすぐに見えるが、 その終わりが死となる道がある。(箴言14:12)

サタンは偽りの証人です。彼は偽りの父です。 この世の民はサタンの嘘を信じており、私たちにもその嘘を受け入れさせようとします。

しかし、彼らが神様の言葉に反することを語るとき、私たちはその言葉を受け入れてはいけません。

その反面、イエス様は真実で確かな証人です。イエス様は、決して嘘をつかれません。 さらに、イエス様の知恵に満ちた御言葉によって、私たちは死の罠から逃れ、命を得ることができます。(黙示録3:14;箴言14:5;14:25)

忘れないでください。イエス様は、私たちの罪のための償いとして、十字架でご自身を捧げられました。(レビ記5:6;箴言14:9)

そのゆえに、私たちは天の父と和解しました。

だから、神様を恐れ、信頼して従いましょう。また、私たちの子どもたちにもそうするように教えましょう。

そうすれば、神様は彼らにとっても避け所となってくださいます。(箴言14:26)

神様はいのちの泉です。毎日、神様を恐れ、そのいのちの言葉を飲みましょう。

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イライラするとき

愚か者は自分の怒りをすぐ表す。(箴言12:16)

正直に言うと、今日、職場で私は少しイライラしていました。時々、同僚とのコミュニケーションはあまり良くありませんが、最近は特にそう感じています。

そのため、今日、私は自分のフラストレーションを同僚に表してしまいました。

誤解しないでください。怒鳴ったわけではありませんが、私のフラストレーションは明らかだったと思います。

その10分後、私は今日の聖句を読みました。そして、神様と少し話さなくてはなりませんでした。

私のフラストレーションは自然な反応だったと思います。でも、その表し方は良くありませんでした。

今日の聖句を読んだとき、私はこう考えました。 「イライラするとき、私はどれだけ『愚か者』のように振る舞っているだろうか。

私はすぐに、自分の表情やため息、そして言葉によって、そのフラストレーションを表してしまうのだろうか。」

主よ、特に私がイライラするとき、どうか私に忍耐を与えてください。 私が愚か者のように振る舞うことのないように。

むしろ、私のうちに恵みと憐れみと忍耐が満ちあふれますように。 なぜなら、あなたはいつも、私に恵みと憐れみと忍耐を注いでくださる方だからです。

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あなたは神様から潤されていますか?

他人を潤す人は自分も潤される。(箴言11:25)

こんな大変なとき、自分の問題のゆえに、私たちが自己中心になるのは簡単です。私たちは「私の方が潤される必要がある」と言います。

でも、多くの場合、自分に目を向けるのではなく、周りの人々に目を向けて祝福することによって、私たちは潤されます。周りの人々を潤すと、私たち自身も潤されるように感じます。

さらに、人々を祝福すると、いつか彼らから私たちも祝福を受けるでしょう。

でも、覚えていてください。私たちの主な泉は神様です。神様から潤されていなければ、私たちが周りの人々に与えることができるものは限られています。

だからこそ、私たちは毎日、神様との時間が必要です。

イエス様もそのような時間を必要とされました。(マルコ1:35;6:45ー46)

私たちはなおさらです。

だから、自分自身にこう問いかけましょう。

1.私は神様と時間を過ごし、神様から潤されているだろうか。

2.今日、神様は、私が誰を潤すように望んでおられるだろうか。

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人々が私を思い出すとき

主よ、私が亡くなったとき、人々は私について何を思い出すでしょうか。(箴言10:7)

彼らは、私を誠実に歩んでいた人として思い出すでしょうか。(9節)

彼らは「ブルースの口は命の泉だった」と言うでしょうか。(11節)

彼らは「ブルースの言葉は選り抜きの銀だった。その言葉は多くの人々を養った」と言うでしょうか。(20~21節)

彼らは、私をあわれみ深く、恵み深い人として思い出すでしょうか。(12節)

彼らは、私をあなたの訓戒を大切にし、あなたの叱責を受け入れていた人として思い出すでしょうか。(17節)

彼らは、私を主を恐れる人として思い出すでしょうか。(27節)

彼らは、私を喜びと希望に満たされていた人として思い出すでしょうか。(28節)

私はそのような人になりたいです。妻や娘、友人、隣人、同僚にとって、私はそのような人になりたいです。

彼らが私を思い出すとき、何を思い出すでしょうか。彼らが私を思い出すとき、あなたがどのようなお方であるかをはっきりと心に描くことができますように。

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叱責を喜んで受け入れる心

嘲る者を戒める者は、自分が恥辱を受け、悪しき者を叱る者は、自分が傷を受ける。

嘲る者を叱るな。彼があなたを憎まないために。

知恵のある者を叱れ。彼はあなたを愛する。

知恵のある者に与えよ。彼はますます知恵ある者となる。

正しい人を教えよ。彼は洞察を深める。(詩篇9:7ー9)

その言葉を読むとき、私たちは他の人々の頑固さを思い浮かべるのは簡単です。

でも、私たちはどうでしょうか。私たちは、自分を叱る人を憎み、嘲る者でしょうか。

それとも、私たちは知恵ある者でしょうか。自分を叱る人を愛しているでしょうか。叱られるとき、ますます知恵ある者になるでしょうか。洞察を深めるでしょうか。

正直に言うと、私は頑固な人間です。人々が私を叱ったとき、私は何度もその言葉を無視し、「その言葉は私のためではない」と思いました。

だから、その頑固な態度を砕くために、神様には、私にこう言わなければならない時がありました。「注意しなさい。その言葉はあなたのためです。」

ところで、これはもう一つの大切なポイントです。私たちは周りの人々の叱責を受け入れるべきですが、神様の叱責を受け入れることはなおさら重要です。

だから、ソロモンはこう書きました。

主を恐れることは知恵の初め、 聖なる方を知ることは悟ることである。(10)

主よ、私がいつもあなたの叱責を受け入れる心を持つことができますように。

あなたが人を私のもとに遣わされるとき、私が聖書を読むとき、あなたの御霊が語られるとき、 どうか私に素直な心をお与えください。 イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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銀にまさる御言葉

主よ、あなたの御言葉は、銀にも金にも、すべての真珠にもまさるものです。(箴言8:10〜11)

あなたの御言葉は、命の言葉です。(35節)

それでも、私はすぐに自分の知恵に頼ってしまいます。 すると、あなたの語りかけを見逃し、自らを傷つけてしまいます。(36節)

主よ、私はあなたの傍らで見張りたい。 あなたの御声に耳を傾けられるよう、助けてください。 毎日、私を教え導いてください。 私はあなたのように考えたいのです。(9、34節)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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神の御言葉を子に伝える責任

多分、ソロモンは箴言7章を書いた時、申命記11:18〜19を思い起こしていたのでしょう。

ソロモンは神の御言葉を大切にし、自分の心に蓄えるだけでなく、自分の息子にもそうするように教えていました。

私たちも同じようにしているでしょうか。神様は、私たちが自分の子供たちに神の御言葉を教える責任を委ねてくださいました。

それは、日曜学校の先生たちの責任ではありません。それは、私たちの子供たちの学校の先生たちの責任でもありません。

切ないことですが、私たちの子供たちが学校で学んでいる道徳的価値観が、神様の教えに反していることもあります。

学校で先生たちや友達から学んだ道徳的価値観が神様の教えと異なる時、私たちの子供たちはその違いに気づくことができるでしょうか。それは、私たちの責任です。

神の御言葉を自分の心に蓄えるだけでなく、私たちの子供たちにもそうするように教えましょう。

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旧約聖書を読むとき、イエス様を探す

旧約聖書を読むとき、私はいつもイエス様を捜します。

なぜでしょうか。

それは、イエス様ご自身が、旧約聖書の著者たちはご自分のことについて語ったとおっしゃったからです。(ヨハネ5:39、ヨハネ1:17)

だから、旧約聖書で「恵みとまこと」という言葉の組み合わせを見ると、私はいつもイエス様のことを考えます。

旧約聖書では、その二つの言葉は何回も神様に関して言われていたけど、新約聖書では、その二つの言葉はイエス様に関して言われていました。

特に、ヨハネはイエス様に関してこう言いました。

律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(ヨハネ1:17)

神様はどんな神でしょうか。神様は恵みとまことに満ちておられる神です。そして、神様はイエス様を通してその恵みとまことを表してくださいました。

今日の箇所では、ソロモンはこう言いました。

恵みとまことがあなたを捨てないようにせよ。

それをあなたの首に結び、心の板に書き記せ。神と人の前に好意を得、聡明であれ。(箴言3:3~4)

イエス様は、恵みとまことに特徴付けられました。そういうわけで、イエス様は神と人との前に好意を得ておられました。(ルカ2:52)

だから、今日、私はこのように祈りました。

天のお父様、イエス様が恵みとまことに特徴付けられたように、私も恵みとまことに特徴付けられますように。

私を通して、あなたの恵みとまことが、私の家族、友人、同僚、そして私が関わるすべての人々に輝きますように。

イエス様、私はあなたのようになりたいです。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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箴言のデボーション

聖書を読むとき

私たちは聖書を読むとき、どのような態度を持っているでしょうか。

私たちはその御言葉を受け入れるでしょうか。もしかすると、私たちは自分に都合の悪い言葉を拒むかもしれません。

神様の命令を心に蓄えるでしょうか。あるいは、その命令を時代遅れとして退けてしまうでしょうか。

私たちは自分の耳を神様の知恵に傾けるでしょうか。もしかすると、その知恵に耳を閉ざすかもしれません。

私たちは自分の心を英知に向けるでしょうか。あるいは、英知に背を向けるでしょうか。

私たちは謙遜な態度で、悟りを得るために神様に呼びかけるでしょうか。あるいは、無関心な態度を持っているでしょうか。

聖書が分からない時、私たちは神様に向かって声を上げるでしょうか。それとも、分からないままで沈黙しているでしょうか。

神様の知恵を銀のように探し求めるでしょうか。あるいは、一円玉のように見過ごしてしまうでしょうか。

隠された宝のように、神様の知恵を探し出すでしょうか。それとも、その言葉を昨日のごみのように放置するでしょうか。

神様は私たちに知識と英知を与えようとされています。神様は私たちを祝福したいと願っておられるからです。

しかし、私たちは本当に、その知識と英知を求めているでしょうか。

主よ、私は毎日、聖書を読むときに、私の心の目と耳を開いてください。私があなたの知恵を見て、聞いて、理解できるよう助けてください。

私の頑なな石のような心を取り除いてください。その代わりに、あなたの言葉を受け入れる柔らかい心を私に与えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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箴言のデボーション

主よ、私に語りかけてください

主よ、私に語りかけてください。

あなたを恐れることは知識の初めです。私が決してあなたの知恵や訓戒を侮ることのないようにしてください。(箴言1:17)

むしろ、あなたが私を訓戒されるとき、その訓戒を受け入れる謙遜な心を与えてください。あなたの叱責に立ち返る心を与えてください。

そして、私があなたに向かうにつれて、私にあなたの霊を注ぎ、あなたの言葉を知らせてください。(23節)

私が聖書を読むとき、あなたが私に何を語りたいかを理解できるよう、悟りを与えてください。

私にはまだ分からないことがたくさんあります。この人生を歩むために、私はあなたの知恵と導きを必要としています。(2〜6節)

だから、主よ、私に語りかけてください。どうか、私に語りかけてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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詩篇のデボーション

私たちの希望の理由

多分、詩篇88篇は最も暗い詩篇でしょう。でも、この詩篇では、私たちはイエス様の経験を見ることができます。

私は、イエス様がゲツセマネで、この言葉を祈ることを想像できます。

主よ、私の救いの神よ、昼私は叫びます。夜もあなたのみそばで。私の祈りをあなたの御前にささげます。どうか私の叫びに耳を傾けてください。(詩篇88:1-2)

そして、十字架で友達に見捨てられた時、死が近づいていた時、神様の怒りのすべてがイエス様の上に注がれたとき、イエス様がこの言葉を祈ることが想像できます。

私のたましいは、苦しみに満ち、私のいのちは、よみに触れていますから。私は穴に下る者たちとともに数えられ。。。

あなたの憤りが私の上にとどまり、あなたのすべての波で あなたは私を苦しめておられます。

あなたは、私の親友を私から遠ざけ、私を彼らの忌み嫌う者とされました。

私は閉じ込められて、出て行くことができません。。。

主よ、なぜあなたは私のたましいを退け、私に御顔を隠されるのですか。。。

あなたの燃える怒りが私の上を越えて行き、あなたからの恐怖が私を滅ぼし尽くしました。(3-4、7-8,14,16)

そして、イエス様の死体がお墓にあったとき、イエス様の霊はこう歌ったかもしれません。

私は穴に下る者たちとともに数えられ、力の失せた者のようになっています。

私は、死人たちの間に放り出され、墓に横たわる、刺し殺された者たちのようです。

あなたはもはや彼らを覚えてはおられません。彼らは、あなたの御手から断ち切られています。

あなたは私を最も深い穴に置かれました。暗い所に、深い淵に。(4-6)

でも驚いたのは、詩人の最も暗い疑問がイエス様にあって答えられました。

あなたは死人のために、奇しいみわざを行われるでしょうか。亡霊が起き上がり、あなたをほめたたえるでしょうか。

あなたの恵みが墓の中で宣べられるでしょうか。あなたの真実が滅びの淵で。

あなたの奇しいみわざが闇の中で知られるでしょうか。あなたの義が忘却の地で。(詩篇88:10~12)

詩人にとって、その問いの答えは「いいえ」でした。

しかし、イエス様において、その問いの答えは「はい」です。

天の父は死人のために奇しいみわざを行われ、イエス様をよみがえらせました。しかも、イエス様の霊だけでなく、イエス様の御体も起き上がり、天の父をほめたたえました。

イエス様のゆえに、空のお墓で、み使いたちは神様の恵みと真実を宣言しました。さらに、イエス様のゆえに、罪と死によって暗くなった地に、神様の奇しいみわざと義が宣言されたのです。

そういうわけで、私たちは希望を持っています。たとえ物事がどんなに大変になっても、神様は忠実なお方であり、その憐れみは決して尽きません。だからこそ、エレミヤはこう言いました。

「私は待ち望む。主の恵みを。」

実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。

「あなたの真実は偉大です。」(哀歌3:21-23)

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詩篇のデボーション

神に属する者たち

旧約聖書の時代、神様がユダヤ人たちをご自身の民として召されたとき、エルサレムは「神の都市」と呼ばれました。

しかし、詩篇87篇では、詩人は将来のエルサレム、すなわち天上のエルサレムを思い描いています。(ヘブル12:22〜23)

おそらく、ユダヤ人たちはこの詩篇を初めて読んだとき、驚いたことでしょう。なぜなら、彼らが最も憎んでいた敵さえも神様の民と呼ばれていたからです。

ラハブ(すなわちエジプト)やバビロン、ペリシテの民が神様の民と呼ばれました。また、ツロやクシュ(すなわちエチオピア)の民も神様の民と呼ばれました。

神様は彼らについてこう言われました。「彼らは部外者ではない。彼らは真の市民である。なぜなら、彼らは私の都市に生まれたからだ。」(詩篇87:5〜6節)

黙示録において、ヨハネはそのことについて書いています。

その後、私は見た。すると見よ。

すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。

彼らは大声で叫んだ。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」(黙示録7:9ー10)

だから、私たちが誰であるかを忘れずにいましょう。

私たちは誰でしょうか。

私たちは神様に属する者です。

あなたが日本人であっても、韓国人、中国人、アメリカ人、オーストラリア人などであっても、イエス様を信じたとたん、あなたは神の国に生まれました。

パウロはこの真理を次のように説明しました。

(あなたがたは部外者であったとき)、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。

しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。。。

また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。

このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。(エペソ2:12ー13、17ー19)

だから、私たちが誰であるかを覚え、神の民のすべての者たちとともに喜び歌いましょう。

私の泉はみな、あなたにあります。(詩篇87:7)

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詩篇のデボーション

一つの心

主よ、あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。

私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。

わが神、主よ、私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめます。

あなたの恵みは私の上に大きく、あなたが私のたましいをよみの深みから救い出してくださるからです。(詩篇86:11ー13)

どれだけ、私の心は分かれているものだろうか。

どれだけ、心配事や恐れのゆえに、私は気もそぞろなのだろうか。

どれだけ、私の心は罪やこの世のものに惹かれるのだろうか。

主よ。あなたの恵みは私の上に大きく、あなたは私の魂を死や地獄から救い出してくださいました。

私は真実ではなくても、あなたは常に真実でおられます。

だから、私の心を一つにしてください。私のすべての思いを取り押さえてください。私のすべての心配事や罪深い思いや愛着が、あなたの支配下にあるようにしてください。

私の心のすべてがあなたのものとなり、毎日、私のすべての行為において、私があなたを礼拝し、あなたの御名をあがめますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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詩篇のデボーション

私たちの叫びに答えてくださる方

もしかすると、詩篇85篇は、ユダヤ人たちがバビロンの追放から帰還した後に書かれたものかもしれません。エズラ記やネヘミヤ記によれば、ユダヤ人たちはイスラエルに戻ったものの、なお多くの困難に直面していました。

そういうわけで、詩人は、ユダヤ人への神様のあわれみを認めたうえで(1〜3節)、神様に向かって叫びました。

帰って来てください。私たちのところに。私たちの救いの神。

私たちへの御怒りをやめてください。あなたは、とこしえに私たちに対して怒られるのですか。代々に至るまで御怒りを引き延ばされるのですか。

あなたは、帰って来て、私たちを生かしてくださらないのですか。あなたの民があなたにあって喜ぶために。

主よ、私たちにお示しください。あなたの恵みを。私たちにお与えください。あなたの救いを。(詩篇85:4〜7)

詩人の痛みから、多くの疑問が生まれたことでしょう。しかし、その疑問には最終的にイエス様によって答えが与えられました。

イエス様が十字架で天の父の御怒りを背負われたゆえに、神様は私たちに永遠に怒るわけではありません。私たちが神様にあって喜ぶために、神様は私たちを生かしてくださいます。

イエス様のゆえに、神様は私たちに恵みと救いを与えてくださいます。

イエス様のゆえに、神様は私たちに平和を告げられます。(ルカ2:14;エペソ2:17)

イエス様にあって、神様の恵みとまことは共に会います。(ヨハネ1:14、17)

イエス様にあって、平和と義は口づけします。(ヘブル6:20〜7:3)

神様が私たちから遠く離れていると感じるとき、また神様の愛を疑うとき——それらのときこそが、私たちの希望を思い出す機会です。

イエス様こそ私たちの希望です。だから、私たちが疑いや叫び声に満ちた困難な時にあるときでも、魂の錨であるイエス様にしがみつきましょう。(ヘブル6:18〜20)

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天の父がイエス様の御顔に目を留めるゆえに

私は詩篇84篇が大好きです。いろんなことについて書くことができますが、今日、8〜9節が私の目に留まりました。

万軍の神、主よ、私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ、耳を傾けてください。 セラ 。

神よ、われらの盾をご覧ください。あなたに油注がれた者の顔に目を留めてください。(詩篇84:8ー9)

9節では、詩人は神様がイスラエルの盾や油注がれた者に目を留めるように祈りました。

「盾」も「油注がれた者」も、当時のイスラエルの王を指します。しかし、最終的に、これらの言葉はイエス様を指しています。

(ちなみに、「キリスト」と「メシア」は「油注がれた者」、つまり「神様に油を注がれた王」を意味します。)

では、神様が私たちの祈りを聞いてくださる理由を疑問に思ったことはあるでしょうか。

私たちが神様の恵みや好意に値するわけではありません。

むしろ、その理由は、天の父が私たちの盾をご覧になっているからです。天の父は、ご自身が油を注いだ者に目を留めておられます。そして天の父は、イエス様の十字架の御業をご覧になっています。

イエス様のゆえに、天の父は私たちに好意を持ち、恵みを与えてくださいます。

イエス様のゆえに、私たちは天の父の御前に近づくことができます。

イエス様のゆえに、私たちは涙の谷を通るとき、力から力へと進みます。

イエス様のゆえに、私たちはいつか永遠の住まいに辿り着きます。

だから、神様の素晴らしい恵みを覚えて、感謝しましょう。

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詩篇のデボーション

神に逆らう世界のために祈る

私たちは神様に対して敵対的な世界に生きています。つまり、人々は、自分が神様の支配下にあり、神様に対して説明責任を持っていることを認めたくないのです。

アサフはそのことをよく理解していました。だからこそ、アサフは、イスラエルに対する周辺の国々の憎しみを見たとき、その憎しみの根本的な理由が分かりました。つまり、彼らは先に神様を憎んでいたからです。

イエス様もその真理をよく理解し、それをご自身と弟子たちに当てはめられました(ヨハネ15:18ー25)。

しかし、ある日すべての人々が膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白します(ピリピ2:10ー11)。

ある人々は、愛と感謝をもって告白します。けれども、他の人々は神様に対する憎しみをもって、渋々それを告白します。

今日の詩篇には、その真理が示されています。

ある日、すべての人々は神様の主権を認めるようになります。彼らは、すべての人々が(自分を含めて)神様の支配下にあることを認めるようになります(詩篇83:18節)。

ある人々は、自分の罪のゆえに恥を負い、正当に裁かれて滅びます。ですから、悔い改めようとしない人々に関して、私たちは神様が正義を実行されるように祈ります。なぜなら、正義を決して実行しない神は、良い神ではないからです。

しかし、それ以上に、私たちは人々が自分の恥の中で悔い改め、神様の御顔を求めるように祈ります(16節)。

なぜでしょうか。それは、神様がご自身の恵みによって、私たちを憐れんでくださったからです。神様は、人々が滅びることなく、救われることを望まれます(エゼキエル書33:11;第一テモテ2:3ー4)。

ですから、神様に敵対するこの世界のために祈りましょう。世の人々が神様の御顔を求め、神様の恵みによって神様を見出すように祈りましょう。

こうして彼らが知りますように。その名が主であるあなただけが全地の上におられる、いと高き方であることを。(詩篇83:18)

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詩篇のデボーション

喜ぶように命じられた

私にとって、詩篇81篇4〜5節は興味深い箇所です。1〜3節でアサフは、「神様に喜び歌え」、「喜び叫べ」、「ほめ歌を歌え」と語っています。

そして、4〜5節でアサフはその理由を示します。神様への賛美は、神様からのおきて、定め、さとしなのです。

神様はイスラエル人をエジプトから救い出されたとき、神様にあって喜ぶように命じられました。

では、なぜ神様はそのように命じられたのでしょうか。それは、イスラエル人が、神様がどのように彼らを救ってくださったかを思い出すためです。

神様は彼らの重荷を除き、奴隷の生活から自由にし、荒野を通って約束の地へと導かれました。

神様は私たちにも喜ぶように命じておられます。なぜなら、神様は私たちの罪の重荷を除き、サタンの国における奴隷の生活から自由にしてくださったからです。

また、神様が私たちと共におられ、私たちを神の永遠の御国に導いてくださっていることを、私たちは喜ぶのです。

それを覚えていることが、なぜ大切なのでしょうか。それは、私たちが神様を信頼し、喜んで従うようになるためです。そして、私たちは神の御言葉に口を大きく開けるようになります。(10節、また、エレミヤ書15:16、エゼキエル書3:1〜3)

私たちはそれをするにつれて、神様の祝福を受けます。(16)

もし、神様が私たちを愛し、祝福したいと願っておられることを覚えていたら、今よりもどれほど私たちは神様を信頼し、従うでしょうか。

もし、神様の救いの御業を思い起こして喜ぶなら、今よりもどれほど私たちは神様の慈しみを覚えているでしょうか。

そういうわけで、聖餐式はとても大切なのです。聖餐式を行うとき、私たちは神様の救いの御業を思い起こし、喜びます。

このコロナのシーズン、多くの教会が聖餐式を行えない状況ですが、私はもう一度、聖餐式によって神様の民と共に、神様の救いの御業を思い起こして喜ぶことを楽しみにしています。

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詩篇のデボーション

私たちを元に戻してくださる方

詩篇80篇では、ほぼ同じ祈りが三度繰り返されています。

神よ、私たちを元に戻し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。(詩篇80:3)

万軍の神よ、私たちを元に戻し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。(7)

万軍の神、主よ、私たちを元に戻し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。(19)

私たちの唯一の救いの希望は、神様が私たちの心を変え、私たちを元に戻してくださることです。

最終的に、神様は十字架でその御業を成し遂げられました。その十字架によって、17節は成就しました。

天の父の右の座に着いておられる人の子、イエス様は、十字架で私たちの罪のために苦しみ、死んでくださいました。 イエス様がその使命を果たすために、天の父の御手はイエス様の上にあり、イエス様を強くしてくださいました。

だから今、イエス様の働きゆえに、天の父はご自身の御顔を私たちに照り輝かせてくださいます。さらに、天の父は私たちを元に戻し、私たちを救ってくださいます。

毎日、私たちが受けたこの素晴らしい恵みを喜びつつ歩むことができますように。

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詩篇のデボーション

次の世代へ信仰を伝えるために

詩篇78篇、特に最初の7節によって、私は親として挑戦されています。

私は自分にこの質問を訊いています。

どれだけ私は自分の娘に、神様が私の人生になさった素晴らしいことについて話しているだろうか。(詩篇78:4)

私は、どれだけ忠実に自分の娘に、聖書にある神の教えを伝えているだろうか。(5-6節)

私の言動によって、私は自分の娘に、神様を信頼し、従うように教えているだろうか。(7節)

娘が私の失敗を避けるように、私はどれだけその失敗について娘に話しているだろうか。(8節)

主よ、私の娘があなたを知り、あなたを愛し、あなたに従うために、上記のことを伝えることができるよう、どうか助けてください。

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詩篇のデボーション

神様を見ることができないとき

 あなたの道は 海の中。その通り道は大水の中。あなたの足跡を見た者はいませんでした。

あなたは モーセとアロンの手によって、ご自分の民を羊の群れのように導かれました。(詩篇77:19ー20)

この詩篇では、アサフの苦しみの中で、神様が沈黙されたので、アサフは悲しんでいました。 そういうわけで、19-20節は印象に残るものです。

紅海で神様はご自分の民のために救いの道を整えられました。でも、彼らは神様を見ることができませんでした。彼らは神様の足跡さえも見ることができませんでした。(出エジプト記14章)

それでも、神様は彼らを導いてくださいました。神様は彼らを見捨てられませんでした。

神様が私たちを見捨てられたと思うときがあるかもしれません。私たちの苦しみの中で神様が沈黙される時もあります。

でも、神様を見ることができなくても、神様の足跡を見ることができなくても、神様は今も私たちを導いておられます。また、神様は私たちのために道を整えておられます。

だから、神様を待ち望み、歌いましょう。

神よ、あなたの道は聖です。私たちの神のように大いなる神がいるでしょうか。あなたは奇しいみわざを行われる神。(13ー14)

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詩篇のデボーション

裁きの杯を飲まれた方

まことに神こそさばき主。 ある者を低くし、ある者を高く上げられる。

主の御手には杯があり、混ぜ合わされた泡立つぶどう酒が満ちている。主がこれを注ぎ出されると、実にすべて地の悪者どもは、それを飲み、かすまで飲み干す。(詩篇75:7ー8)

その言葉を読むと、私は黙示録14章を連想します。その箇所にも、私たちは同じテーマを見ることができます。つまり、神様が国々を裁くこと。

その箇所にも、神様の御怒りに満ちた杯というイメージが描かれています。そして、神様に背く者たちは、その杯から混ぜ物なしに注がれた、神様の憤りのぶどう酒を飲まなくてはなりません。(黙示録14:9–11)

その日は必ず来ます。

しかし、他の日にも、神様の御怒りは杯から注がれていました。二千年前、十字架の上で、その御怒りが注がれたのです。

イエス様は、その杯を飲みたくはありませんでしたが、私たちのために飲んでくださいました。十字架の上で、イエス様は混ぜ物なしに注がれた、神様の憤りのぶどう酒を飲まれたのです。イエス様のおかげで、私たちはその杯を飲む必要がなくなりました。

だから今、私たちは詩人と一緒に歌うことができます。

私たちはあなたに感謝します。 神よ、私たちは感謝します。 あなたの御名は近くにありあなたの奇しいみわざが 語り告げられています。(詩篇75:1)

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ヨハネの福音書のデボーション

私たちがイエス様を裏切るとき

今日、ヨハネの福音書21章を読んだとき、私はこう思いました。

どれだけペテロは自分の罪の重さを感じたでしょうか。どれだけ、ペテロはイエス様を裏切ったことを覚えていて、後悔したでしょうか。

でも、ペテロがイエス様の御前に立ったとき、イエス様は彼を叱り飛ばすようなことはなさいませんでした。イエス様はペテロから償いを要求しませんでした。

むしろ、イエス様はただ一つの質問を訊かれました。

「ペテロ、あなたは私を愛しますか。」

そして、ペテロの愛が不完全なものであったのに、イエス様はその愛を受け入れられました。

その後、イエス様はペテロに言われました。

「私に従いなさい。」

さらに、イエス様はペテロに御国の働きを委ねられました。

時々、私たちは罪悪感に打ちのめされます。私たちは自分の罪と失敗の大きさを見るから。

私たちは、いったいイエス様が私たちの罪を赦すことができるのか疑問に思います。

でも、イエス様は私たちにただ一つの質問を訊かれます。

「あなたは私を愛しますか。」

そして、私たちの愛がどんなに不完全なものであるにもかかわらず、イエス様はその愛を受け入れられます。

そして、イエス様は私たちに言われます。

「私に従いなさい。」

さらに、イエス様は、私たちのような壊れた人々に触れる働きを私たちに委ねられます。

だから、自分の罪の大きさを感じましょう。

でも、そのあと、神様のさらに大きな恵みを受けましょう。

私たちの罪は大きなものかもしれないけど、神様の恵みはさらに満ち溢れますから。(ローマ書5:20)

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詩篇のデボーション

神の視点を取り戻す

私たちの考え方が歪んでしまうのは、簡単なことです。そのような時、私たちは真理を見失ってしまいます。

詩篇73篇では、アサフは三回「まことに」と言います。

アサフはその言葉を二回は正しく使います。

「まことに 神はいつくしみ深い。 イスラエルに 心の清らかな人たちに。」(詩篇73:1)

また、

「まことにあなた(悪者)]を滑りやすい所に置き 彼らを滅びに突き落とされます。」(18)

でも、その言葉の間、アサフはもう一度「まことに」と言います。新改訳では、その「まことに」は訳されていませんが、アサフは実にこう言いました。

「まことに、空しく私は自分の心を清め、手を洗って、自分を汚れなしとした。」(13)

それは、1節の言葉と正反対ですね。

しかし、アサフが悪者の繁栄を見るとき、彼の考え方は曲がってしまいました。そのため、彼の心は苦みに満ちて、彼は愚か者のように考え始めました。(21〜22)

私たちも、その罠に陥ってしまうことがどれほどあるでしょうか。この世界にある悪を見たり、自分のトラブルに目を向けたりすると、私たちの心の中で真理が曲がってしまいます。

その結果は?

私たちの心は苦みに満ちてしまいます。私たちは愚か者のように考え始めます。

では、私たちはどうすれば、正しい物の見方を取り戻すことができるでしょうか。

17節に、その答えがあります。

神の聖所に入りましょう。神様の御前に行って、神様を仰ぎましょう。神様の御声に耳を傾けましょう。神様を礼拝しましょう。

そうすると、私たちの考え方は、もう一度正しくなります。

日曜日まで待つ必要はありません。なぜなら、私たち自身が神の聖所だからです。神様は私たちのうちに住んでおられます。

だから、私たちがどこにいても、自分の心を静めましょう。神様の御前に行きましょう。

スマホを消しましょう。テレビも消しましょう。開いた聖書と開かれた心を持って、神様の御前に跪きましょう。

提案ですが、まず、21〜28節を読んで、思い巡らしましょう。その言葉を祈りましょう。そして、神様に私たちの考え方を変えていただきましょう。

まことに、神様は慈しみ深い方です。まことに、神様は良い方です。

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詩篇のデボーション

私たちの望みを託す王 

たぶん、私たち皆は良いリーダーたちを望みます。

正義をもたらすリーダーたちを望みます。

弱い人を助けるリーダーたちを望みます。

正しい者たちが栄える社会をもたらすリーダーたちを望みます。

詩篇72篇で、ソロモンは、自分がそのようなリーダーになるように祈りました。

ある点では、彼は良いリーダーでしたが、他の点では悪いリーダーでした。(列王記第一11:4〜8、12:4)

最終的に、ソロモンの祈りは、自分や他の王やリーダーによっては成就しませんでした。

イエス様だけによって、その祈りは成就します。ある日、イエス様はこの世に戻り、ご自身の国を確立されます。

その時、イエス様は「海から海に至るまで、川から地の果てに至るまで統べ治めます。」(詩篇72:8)

人々はイエス様によって祝福され、すべての国々はイエス様をほめたたえます。そして、神様の栄光が全地に満ちあふれます。(詩篇72:17、19)

だからニュースを読んだり聞いたりして、政治家たちの行為によってフラストレーションを感じるとき、彼らのために祈りましょう。

でも、覚えておきましょう。私たちは自分の望みを彼らに託しません。

むしろ、私たちは奇しいみわざを行われる方に望みを託します。(18節)

イエス様は「私はすぐに来る」と約束されました。(黙示録22:20)

だから、毎日、希望をもってイエス様を仰ぎ、祈りましょう。「アーメン。主イエスよ、来てください。」(黙示録22:20b)

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詩篇のデボーション

神様が苦しみを許されるとき

あなたは私を多くの苦難とわざわいとにあわせられました。。。(詩篇71:20)

それは酷いと思いませんか。

神様が私たちに苦難とわざわいとに合わせられるときがあるのでしょうか。

はい、あります。

誤解しないでください。神様が積極的に私たちをバットで打つわけではありません。

多くの場合、私たちのトラブルは自分のせいです。他の時、周りの人々のせいで、私たちは苦しみます。また、この壊れた世界のせいで、私たちは時に試練に直面します。

もちろん、神様はそのトラブルを阻止することができます。神様の恵みによって、時には神様がそうしてくださいます。

たぶん、私たちが気づかずに、神様は私たちをたくさんのトラブルから守ってくださったのでしょう。

でも、神様が私たちに苦難とわざわいとに合わせられるときもあります。

どうしてでしょうか。神様は私たちを憎んでいるのでしょうか。神様が酷い方なのでしょうか。

違います。

むしろ、ダビデはこう歌います。

私を再び生き返らせ、地の深みから再び引き上げてくださいます。(21b)

苦しむとき、私たちは神様の腕に抱かれて、神様に頼ることを学びます。(6)

また、私たちは神様を待ち望むことを学びます。(14)

そして、神様が私たちを引き上げてくださるとき、私たちは、神様がやっぱり良い方であることを学びます。(16〜17)

私たちは神様を畏れ、ダビデと一緒に叫びます。

神よ、あなたの義は天にまで届きます。

あなたは大いなることをなさいました。

神よ、だれがあなたのようでしょう。(19)

でも、試練が来るとき、大切なことを覚えておきましょう。それは、イエス様も苦しみを知っておられるということです。

へブル人への手紙の著者はこう書きました。

多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。。。

したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。

それで民の罪の宥めがなされたのです。(へブル書2:10,17)

神様が私たちに苦難とわざわいとに合わせられるときがあります。

でも、その前に、天の父は御子を苦難とわざわいとに合わせられました。

そういうわけで、へブル人への手紙の著者はこう言います。

イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。(へブル書2:18)

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詩篇のデボーション

毎日毎日

日々、私たちの重荷を担われる方。(詩篇68:19)

どれだけ私たちはそれを考えるでしょうか。

どれだけ神様が私たちを支えてくださっているのに、私たちは全然気づかないのでしょうか。

むしろ、苦しむとき、私たちは神様に見捨てられたと感じてしまいます。

でも、神様は決して私たちを見捨てることはありません。

毎日毎日、神様は私たちの重荷を担ってくださいます。

さらに、十字架でイエス様は、私たちの最も重い重荷を担ってくださいました。

だから、一番暗いとき、この世の重さに押し潰されそうになるとき、私たちはダビデと一緒に叫びましょう。

ほむべきかな主。 日々、私たちの重荷を担われる方。 この神こそ、私たちの救い。(19)

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詩篇のデボーション

新しいシーズンに臨むにつれて

私たちが新しいシーズンに臨むにつれて、神様の祝福を求めて祈ることは自然なことだと思います。

ダビデもそうしました。この詩篇では、ダビデは民数記6:24〜27にある祝福の祈りを歌い、神様の祝福を求めて祈りました。

私も新しいシーズンに臨んでいます。来月、7年ぶりに私は中学校で教え始めます。だから、私も神様の祝福を求めて祈っています。

でも、覚えておいてください。神様の祝福を祈り求めるとき、自己中心の態度を取ってはいけません。むしろ、私たちが神様の祝福を願う理由は—

あなたの道が地の上で 御救いがすべての国々の間で知られるために。(詩篇67:2)

つまり、私たちが望むのは、周りの人々が、神様の手が私たちの上にあることを見て、神様を知りたくなるということです。

私たちの祈りは、彼らが神様を畏れ、賛美することです。また、私たちは、彼らが神様の救いと祝福を知ることを願っています。

だから、新しいシーズンに臨むにつれて、ただ神様の祝福を求めて祈るだけではなく、むしろ、あなたを通して、あなたの周りの人々が神様の道と救いを知るように祈りましょう。

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コロサイ人への手紙のデボーション

感謝で満たされた心

前回の記事では、私はすでに感謝の心について語りましたが、パウロがそれを大切にしていたように、私たちも同じようにするべきです。

では、パウロはどれほど感謝の心を大切にしていたのでしょうか。コロサイ人への手紙3章15〜17節では、彼が三回も感謝について言及するほどに、それを大切にしていたことがわかります。

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてのを主イエスの名において行いなさい。(コロサイ人への手紙3:15-17)

感謝で満たされた心は、教会の平和につながります。もし、私たちが神様から受けた恵みのゆえに、私たちの心が感謝で満たされているなら、私たちは周りの人々の欠点や失敗をすぐに見逃すでしょう。

また、私たちの心が感謝に満ちているなら、キリストの言葉は私たちの口から、詩と賛美と霊の歌として自然に流れるでしょう。

さらに、私たちが感謝の心を持つなら、私たちの歌だけではなく、私たちのすべての言葉や行為によって、その感謝の心が表されます。私たちは、自分を愛し、救ってくださった方を喜ばせたいと思うので、私たちの人生のすべてが、賛美のいけにえとなります。

私たちの心がいつも神様に対する感謝によって特徴づけられるものとなりますように。

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ピリピ人への手紙のデボーション

感謝を忘れずに

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。。。

主は近いのです。

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ人への手紙4:4-7)

「感謝をもって。。。」

その小さな表現は私の注意を引きました。

私たちが思い煩うとき、祈りや願いはすぐに私たちの口から出てしまいます。

パウロは、「それはいけない」とは言いません。逆に、パウロは私たちが自分の祈りと願いによって、自分の願い事を神に知っていただくように促します。

でも、パウロはその小さな表現を加えます。

「感謝をもって。」

私たちは、自分の祈りと願いと共に、感謝の言葉も神様に捧げるべきです。

「感謝をもって」という言葉は、4節を指します。

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(ピリピ人への手紙4:4)

思い煩うときでも、喜びなさい。感謝しなさい。

主にあって喜びなさい。主の慈しみを喜びなさい。主の恵みを喜びなさい。十字架によって私たちが受けた赦しを喜びなさい。神様が私たちを自分の最愛の子供たちとして受け入れることを喜びなさい。

6節を意訳すると、私はこう言います。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝を忘れず、むしろ、主にあって喜び、主の慈しみを喜びながら、ささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」

そうすれば、私たちの試練の中で、「すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(7)

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ピリピ人への手紙のデボーション

キリストは私を捕えてくださいました

「キリストは私を捕えてくださいました。」(ピリピ人への手紙3章12節)

「メシアは私を捕えてくださいました。」

その言葉に、少し思いをめぐらせてみましょう。

ユダヤ人にとって、「メシア」または「キリスト」とは、偉大な方です。その方はユダヤ人を救い、イスラエル王国を復興する王です。

パウロはクリスチャンになる前、自分が「メシアは私を捕えてくださいました」と言えるようになるとは想像できなかったでしょう。なぜなら、彼はメシアと親しい関係を持つことはありえないと思っていたからです。

でも、ダマスコへの道で、イエス様はパウロを捕えました。それまで、パウロはイエス様を憎み、イエス様の教会を滅ぼそうとしていました。

しかし、イエス様は彼を捕え、パウロの世界をひっくり返されたのです。

そういうわけで、パウロの人生はキリスト中心のものになりました。7-12節の中で、パウロがどれだけキリストに触れているか数えてみてください。それは十回にのぼると思います。

イエス様が、どのようにあなたを捕えてくださったでしょうか。その経験を振り返ってみると、あなたもパウロのように、不思議に思うかもしれません。

その不思議さゆえに、パウロはイエス様ご自身、そして自分のために備えられたイエス様の計画を追い求め、キリストを捕えようと努めました。

正直に言うと、私はその不思議さをあまり深く考えていません。たぶん、だからこそ、私はイエス様をパウロほど追求していないのかもしれません。

だから、もう少し思いめぐらしてみましょう。

「イエス様は私を捕えてくださいました。」

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ピリピ人への手紙のデボーション

恐れと感謝をもって救いを歩む

周りのクリスチャンたちを批判することは簡単なことです。私も時々そうします。

自分の弟子や教会の人々を見たり、有名なクリスチャンについてのニュースを読んだりするとき、彼らの言動のゆえに、私たちは怒ったり、フラストレーションを感じたりするときもあります。

でも、パウロは私たちにこう言います。

自分の救いを達成するよう努めなさい。(ピリピ人への手紙2:12)

パウロは、「周りのクリスチャンたちの救いを達成するよう努めなさい」とは言いません。むしろ、「自分の救いを達成するよう努めなさい」と言います。さらに、私たちは恐れおののいて、自分の救いを達成するよう努めなくてはなりません。

なぜ恐れおののきながらそうするべきなのでしょうか。

私たちが自分自身に正直になるなら、認めざるを得ないのは、私たちが神様の御前に立つことができるただ一つの理由は、神様が私たちに恵みを与えてくださったということです。

そのことを思うとき、私たちは神様の御前に感謝と恐れをもっておののくべきです。

なぜ恐れでしょうか。それは、私たちが神様の裁きに値するからです。

では、なぜ感謝でしょうか。それは、神様が裁きではなく、むしろ恵みを私たちに与えてくださったからです。

神様の恵みのゆえにおののくにつれて、私たちは周りのクリスチャンたちに恵みや忍耐を与えたいと思うようになります。

だから、周りのクリスチャンたちを批判するのではなく、自分自身を顧みましょう。 恐れをもっておののきましょう。感謝をもっておののきましょう。

そして、覚えておきましょう。神様は御心のままに、あなたや周りのクリスチャンたちのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださっています。

私たちの間に完全な人は誰もいません。 でも、パウロの言葉を心に留めておきましょう。

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。(ピリピ1:6)

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ピリピ人への手紙のデボーション

新しいシーズンを迎える人々への祈り

たくさんの日本人にとって、4月は新しいシーズンの始まりです。 新しい学校や、新しい仕事をスタートする人は多いです。

もしかしたら、あなたは新しいシーズンに臨んでいるかもしれません。 私もそうしています。

私は、7年間同じ高校で働いていましたが、今年度からは3つの中学校で働くことになりました。

今日の聖句を読んだとき、9〜11節は私の心を打ちました。

この新しいシーズンに、私は自分のためにその祈りを祈っています。 また、新しいシーズンに臨んでいる皆さんのためにも祈っています。 特に、この新しいシーズンに大きな決断をしなければならない人々のために祈っています。

私はこう祈っています。あなた方の愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。

こうしてあなた方が、キリストの日に備えて、純真で避難されることのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。(ピリピ人への手紙1:9-11)

 

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エペソ人への手紙のデボーション

神様の御手から救いを受ける

今日、興味深いことを見つけました。 エペソ人への手紙6章17節で、パウロはこう言いました。

救いのかぶとをかぶり(なさい)。

「かぶる」という言葉は、普通、聖書では「受ける」と翻訳されます。 パウロが描写するのは、兵隊がしもべからかぶとを受け取ることです。もちろん、彼は受け取ってから、そのかぶとをかぶります。

とにかく、私たちは大切なことを覚えていなくてはなりません。 それは、私たちが自分の救いの方法を作らないことです。 また、私たちは自分の救いのために働きません。 むしろ、私たちは神様の御手から救いを受けます。

サタンはよく私たちの心に火矢を放ちます。「あなたは救いに値しない人です。」

でも、私たちはサタンに大胆に答えることができます。

「それはそうです。でも恵みによって、神様は救いを私に与えてくださいました。イエス様はしもべの姿を取り、十字架で私の罪のために支払ってくださいました。私はイエス様の御手から救いを受けました。」

その真理を喜びましょう。そして、私たちの訴えるものに直面するとき、その真理の上にしっかり立ちましょう。

私は、大きな声が天でこう言うのを聞いた。

「今や、私たちの神の救いと力と王国と、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、投げ落とされたからである。(黙示録12:10)

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エペソ人への手紙のデボーション

私たちはもうすでに。。。だから

エペソ人への手紙5章にあるパウロの言葉は、私の心を打ちました。

「あなたはもうすでに神様に愛される子なので、天のパパに倣う者となりなさい。」

「あなたはもうすでに聖徒なので、性的な罪や貪りや汚い言葉を捨てなさい。」

「あなたはもうすでに光の子なので、そのように歩みなさい。」

パウロが言わなかったことに注目してください。

「神様の愛を知り、神様の子になりたいなら、神様の倣う者となりなさい」とは言いませんでした。

「聖徒になりたいなら、性的な罪や貪りや汚い言葉を捨てなさい」とは言いませんでした。

「光の子となりなさい」とは言いませんでした。

私たちはもうすでに神様に愛されている子供たちです。 私たちはもうすでに聖徒たちです。 私たちはもうすでに光の子供たちです。

だからパウロが意味したものは、「あなたたちはもうすでに神様に愛されている子供たちや聖徒たちや光の子供たちなので、そのように生きましょう」ということです。

そして、私たちが倒れるときに、神様は私たちを引き起こしてくださいます。

でも心に留めておきましょう。神様の子供や聖徒や光の子となるように努める必要はありません。

神様の恵みによって、私たちはそんな身分をもう持っています。 だから恵みによって、毎日、神様の子や聖徒や光の子として生きましょう。

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エペソ人への手紙のデボーション

なぜこの世の民に従ってはいけないのか

この世にあって、私たちは、その考え方を受け入れるように促されます。特に、聖書の教えを曲げて、この世の道徳的価値観を受け入れるよう強いプレッシャーを受けています。

人々はこう言います。「道徳に関して、社会の考え方は変わりつつあります。だから、私たちは歴史の流れに乗らなくてはなりません。聖書の教えはもう時代遅れです。」

しかし、私たちはそのような考え方に従ってはなりません。

なぜでしょうか。

パウロは、この世の人々をどのように描写しているでしょうか。

彼らの心はむなしいのです。(エペソ人への手紙4:17)

彼らの心は神様に対して、頑なで、また無感覚なのです。

そのため、彼らの知性は暗くなり、神のいのちから遠く離れてしまっています。(18〜19)

さらに、彼らは自分の罪深い情欲に惑わされています。だから、彼らは神様が憎まれるものを「良い」と呼び、神様が「悪」とされるものを喜びます。

その結果はどうなるでしょうか。

彼らの人生は腐敗し、破滅に至る道を歩んでいます。(22)

だからこそ、パウロは私たちにこう訓戒します。「彼らの模範に従ってはいけません。」

むしろ、私たちは彼らの考え方を脱ぎ捨てる必要があります。反対に、私たちは「真理に基づく義と聖を持って、神にかたどり造られた新しい人を着なければなりません。」(24)

だから、聖書の教えを曲げ、この世の教えを受け入れるように誘惑されるとき、この世の人々の本当の状態を覚えておきましょう。

彼らのために祈りましょう。

彼らに神様の光を照らしましょう。

しかし、彼らの考え方や模範に従ってはなりません。

私たちが救い主イエス様のようになるために、そして本当のいのちを受けるために、イエス様は十字架でご自身のいのちを捧げられたのです。

 

 

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エペソ人への手紙のデボーション

自分が悪いクリスチャンだと思っているのか?

パウロがどのように自分を見なしていたかは、興味深いことです。

第一コリント15:9では、パウロは自分を「使徒の中では最も小さな人です」と呼びました。

エペソ3:8では、彼はさらにこう言います。「私はすべての聖徒たちのうちで最も小さな者です。」

(「聖徒」とは、「とても聖いクリスチャン」ではなく、「神に属する人」を意味します。ですから、パウロが意図したのは、「私はすべてのクリスチャンたちのうちで最も小さな者です」ということです。)

第一テモテ1:15では、パウロはそれ以上のことを言います。「私は罪人のかしらです。」

注目すべき点があります。パウロは「私は使徒の中では最も小さな人でした」や「私はすべての聖徒たちのうちで最も小さな者でした」、また「私は罪人のかしらでした」とは言いませんでした。

「でした」ではなく、「です」と言ったのです。

現代だったら、パウロがそんなことを言ったとしたら、多くの人はこう言うかもしれません。「パウロ、自分についてそんなことを言ってはいけません。もっと自己肯定感を持たなくては。」

でも、その謙遜な態度ゆえに、パウロは自分が受けた恵みに驚いていました。毎日、その恵みを思い起こすたびに、彼はその不思議さに心を打たれました。きっと、そのたびに涙ぐんだことでしょう。

彼は、天の父に近づくことができるという事実に驚きました。

彼は、神様の代表として人々に福音を伝える権利が与えられたことに驚きました。

だからこそ、彼は大いに喜んだのです。

あなたは、自分が悪いクリスチャンだと思うでしょうか。あなたは、自分が「クリスチャン」と呼ばれることにふさわしくないと思っているでしょうか。

確かに、あなたはふさわしくない人です。私も、ふさわしくない人です。

でも、どうか恥じ入らないでください。

むしろ、自分の惨めさを見つめながら、もう一度神様の恵みに目を向けて、あなたが受けたものを喜びましょう。すなわち、赦し。神様に近づく権利。神様のために周りの人々に触れる使命。そして、永遠の遺産。

そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。

そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ人への手紙3:17-19)

 

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エペソ人への手紙のデボーション

私たちに対する神様のご厚意

エペソ人への手紙1章を読んだとき、一つの言葉が私の注意を引きました。その言葉は5節と9節にあり、日本語では「みこころの良しとするところ」や「みむね」と訳されていますが、実はギリシャ語では、どちらも同じ語が使われています。

その語のニュアンスは、神様が私たちのために良い計画を持っておられることです。その良い計画は、私たちに対する神様のご厚意に基づいています。言い換えれば、神様は私たちを祝福することを喜んでおられるのです。

考えたことがあるでしょうか。神様は、私たちを祝福することが大好きなのです。神様は、私たちを祝福することを喜んでおられます。

だからこそ、神様はキリストにあって、私たちにあらゆる霊的な祝福を与えてくださるのです。

神様の愛のゆえに、世界の基が据えられる前から、神様は私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされました。

さらに、神様は、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

また、神様は、私たちの人生に恵みをふんだんに注いでくださいました。

イエス様の血によって、私たちの罪は赦され、私たちは贖われました。

そして、イエス様にあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。

では、どうして神様はそうしてくださったのでしょうか。

なぜなら、神様は、私たちに対してご厚意を持っておられるからです。神様は、私たちのためにそれらすべてを行うことを喜んでおられるからです。

だから、どんな試練に直面しても、その真理を心に留めていましょう。

十字架を仰ぎましょう。あなたが受けた恵みを思い起こしましょう。そして、自分自身に思い出させましょう。

「神様は、私たちに対してご厚意を持っておられます。」

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テトスへの手紙のデボーション

神様が取りたい写真

今日の箇所を読んだとき、最近の教会のメッセージを連想しました。

神様の子供たちとして、私たちは偉大な恵みを与えられています。でも、神様は、私たちがただその恵みを楽しんでいるだけの「写真」を、望んでおられるわけではありません。

むしろ、パウロはこう言っています。

この言葉(つまり、神様の恵みと憐れみについての教え)は真実です。私は、あなたがこれらのことを、確信をもって語るように願っています。神を信じるようになった人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。

これらのことは良いことであり、人々に有益です。(テトスへの手紙3:8)

後で、彼はさらに具体的に説明します。

私たちの仲間も、実を結ばない者にならないように、差し迫った必要に備えて、良いわざに励むように教えられなければなりません。(14)

ただ神様の恵みを楽しむことは、実を結ぶことではありません。実を結ぶとは、苦しんでいる人々に触れ、彼らの差し迫った必要に備えることです。

そうするとき、私たちは、自分自身が受けた恵みを彼らに与えているのです。

神様は、そのような写真を撮りたいと思っておられます。

天のお父様、今日、私があなたのために実を結ぶように。アーメン

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テトスへの手紙のデボーション

希望によって形づくられた人生

クリスチャンとして、私たちの人生は希望によって形づけられているはずです。

その真理について、考えたことがあるでしょうか。

使徒たちはそのように信じていました。

彼らにとって、希望は非実用的で空しいものではありませんでした。

むしろ、希望は彼らの人生を形づくる力でした。

ヨハネは最初の手紙の中で、そのことを教えました。

しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。(第一ヨハネ3:2-3)

今日の箇所では、パウロも同じようなことを語っています。

というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。

キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。(テトスへの手紙2:11-14)

どうして、私たちは不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活するのでしょうか。どうして、私たちは良いわざを行う熱心を持っているのでしょうか。

なぜなら、私たちは希望を持っているからです。つまり、ある日、イエス様がこの世に戻り、すべての物を新しくするのです。

その日、この世のすべての悪は全滅させられます。さらに、私たちは、私たちを愛してくださるイエス様に似た者となります。イエス様はそのために、私たちを自分の民として選び、贖ってくださいました。

また、私たちの希望するほとんどのものと違って、イエス様にあるこの希望は確かなものです。

あなたは、どれだけその希望を考えるでしょうか。その希望は、どれだけあなたの人生、あなたの考え方や行動を形づけているでしょうか。

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テモテへの手紙第二のデボーション

私の人生を形づけた聖句

聖書の教師として、第二テモテ3:16-4:8の聖句は、私の人生を形づくるものです。

特に、私は4:1-4に記されたパウロの言葉の重みを深く感じます。

ある日、私は天の父とイエス様の前に立ち、裁きを受けます。それは、私が救いに値するかどうかではなく、私の奉仕が忠実であったかどうかを問われるのです。

私は神のみ言葉を忠実に教えてきたでしょうか。この世では、多くの人々が真理から耳をそむけ、自分が聞きたいことを語る教師や牧師たちを集めています。

そのような時代にあって、私は神のご計画の全体、神のみ言葉の全体を教えてきたでしょうか。(使徒の働き20:26-27)

もしかすると、私は人々が受け入れやすいことだけを語ってしまったのかもしれません。

便利な時も、そうでない時も、私はみ言葉を教えてきたでしょうか。人々がその言葉を好む時も、好まない時も、私は神のみ言葉を忠実に語ってきたでしょうか。

この問いは、私の教えの奉仕を形づけてきました。

そのために、このブログを立ち上げました。このブログでは、聖書全体について書いてきたので、難しいテーマや難しい箇所を避けることはできませんでした。

このブログの目的の一つは、神の民が、神様の語られたすべての言葉を知ることにあります。

私はいつも神のみ言葉を忠実に語ってきたでしょうか。そうできなかった時も、私は覚えています。でも、過去の失敗は変えられません。私にできるのは、これから聖書を忠実に教え続けることです。

でも、覚えておきましょう。私たちすべてのクリスチャンには、周りの人々に神のみ言葉を伝える責任があります。

やがて、私たちは神様の前に立ち、周りの人々に何を伝え、何を伝えなかったかによって裁かれることになります。

だから、パウロの言葉を心に留めておきましょう。その言葉は、私やあなたの牧師だけのためではなく、すべてのクリスチャンのためのものです。

神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。

時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。(テモテへの手紙第二4:1-2)

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テモテへの手紙第二のデボーション

真理を保つこと

パウロの言葉を借りれば、私たちは「困難な時代」に生きています。

神様の真理と自分の「真理」を取り替える人が、少しずつ増えています。

その結果は良いものではありません。(テモテへの手紙第二3章2-5)

やがて、私たちがこの世の「真理」を受け入れないなら、迫害される時が来るでしょう。

神様の真理に反するこの世の「真理」を受け入れるよう求めるプレッシャーは、非常に大きなものとなっています。

アメリカでは、LGBTQ+の問題に関して、クリスチャンたちはすでにこのようなプレッシャーに直面しています。ある人々は、そのプレッシャーに屈してしまいました。最近のニュースで、私はそのような話を読みました。

でも、パウロが言ったように、人々が他の人々を騙し、彼ら自身も騙されているとしても、私たちは自分が受けた神様の真理を守らなくてはなりません。

聖書は神の霊感によるもので、人に命を与えるものです。

その反面、この世の「真理」は人を死へと導きます。

でも、覚えていてください。偽りを守る人々は、私たちの敵ではありません。キリストは彼らのためにも死んでくださいました。だから、昨日の聖句を思い出して、従いましょう。

主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍耐し、反対する人たちを柔和に教え導きなさい。

神は、彼らに悔い改めの心を与えて、真理を悟らせてくださるかもしれません。悪魔に捕らえられて思いのままにされている人々でも、目を覚まして、その罠を逃れるかもしれません。(テモテへの手紙第二2:24-26)

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テモテへの手紙第二のデボーション

み言葉を反芻する旅へ

聖書の読書を習慣化させることの危険性の一つは、その習慣がただの習慣になってしまうことです。

その結果、私たちは出来るだけ急いで聖書の箇所を読み終え、すぐに読んだことを忘れてしまいます。私たちは「私はクリスチャンとして今日の義務を果たした」と考えてしまいます。

正直に言うと、私には聖書の箇所を急いで読み終えようとする誘惑がよくあります。なぜなら、「この箇所はもうよく知っている。新しいことを学ぶことはない」と考えてしまうからです。

でも、パウロはテモテにこう言いました。

私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに与えてくださいます。(テモテへの手紙第二2:7)

よく考えなさい。思いめぐらしなさい。反芻しなさい。

そして、聖書を読みながら、「主よ。私に理解する力を与えてください。あなたは私に何を語りたいのですか」と祈りましょう。

聖書をすぐに読み終える誘惑に負けるのではなく、聖書を反芻することによって、私は何度も祝福されてきました。

だから今日から、そうしましょう。今日の箇所をすぐに読み終える誘惑を捨てましょう。

探せば、今日の箇所に隠されている宝物を見つけることができるでしょう。

今日の箇所を読んで、そして読み直しましょう。その言葉をよく考えましょう。神様が私たちの心に語る機会を与えてくださるように。

耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。(黙示録2:29)

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終了。。。ではなりません。

十年前、私はこのブログを始めました。

私の目標は、日本のクリスチャンたちが聖書をより深く理解し、み言葉を日々の生活の中でどのように生かすことができるかを考える助けとなることでした。

そのため、この十年間にわたって、私たちは創世記からヨハネの黙示録まで読み通しました。前回のブログで、聖書全体を読み終えました。

この十年間、私の人生にもさまざまな変化がありました。

このブログを始めた頃、私の娘は2歳でしたが、今年の4月には6年生になります。

また、昨年、私と妻は結婚15周年を迎えました。そして、私はより安定した仕事に恵まれました。

その一方で、この十年間の間に、私の父が亡くなりました。また、私は糖尿病を患いました。

さらに、昨年から、私たち皆がコロナウイルスの問題に直面しています。

それでも、私は神様の忠実さといつくしみを見てきました。それを心から感謝しています。

また、妻の忍耐にも心から感謝しています。この十年間、妻はこのブログの記事を訂正してくれました。今でも、私にとって「は」と「が」の違いは分かりにくく、他の助詞や区切りのミスもよくしてしまいます。だからこそ、妻の助けに深く感謝しています。

では、これからこのブログはどうなるのでしょうか。

私はこのブログを続ける予定です。でも、これからは書き方にいくつか変化があります。

1.これまでは、一週間に5回ほど記事を掲載していました。でも、これからは一週間に2〜4回に減らそうと考えています。今、私の英語のブログもそのくらいのペースです。もし本当に書きたいことがあれば書きますし、そうでない時は少し休みます。

2.今は、私の教会の聖書通読プランに従っているので、多くの場合、その日の聖句について書くことになります。

3.これからの記事は、より短くなり、よりデボーションに役立つものになります。以前は、聖句を詳しく説明し、私たちがその個所をどのように日々の生活に当てはめられるかを語っていました。もちろん、それは今後も続けますが、これからの目的は、神様が私に何を教えておられるかを分かち合うことです。

また、聖句を新たに認識したとき、それをシェアしたいと思います。私は子供の頃から聖書を読んできましたが、素晴らしいのは、今でも新しいことを学び続けているということです。

以上です。

また来週!

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ヨハネの黙示録

イエス様がもうすぐ来られるから。。。

黙示録の最後に繰り返し登場する重要なテーマは、「イエス様がまもなく来られる」という約束です。実はこの約束、黙示録だけではなく、聖書全体を通して繰り返し語られているテーマでもあります。

特に黙示録22章では、イエス様がご自身の再臨を三度宣言されています(7、12、20)。

では、私たちはこの約束にどう応答すればよいのでしょうか。 そのヒントが、17節に記されています。

御霊と花嫁が言う。「来てください。」

これを聞く者も「来てください」と言いなさい。(黙示録22:17a)

興味深いことは、御霊さえもイエス様に「来てください」と叫ばれることです。もしかしたら、それは私たちのための御霊のとりなしの祈りの一つかもしれません。(ローマ8:18-27)

でも、キリストの花嫁として、私たちもイエス様の到来を待ち望むべきです。その日のために、私たちは自分の心を整えなくてはなりません。

私たちはどのようにそうするべきでしょうか。

1.神様が私たちに与えた役割を忠実に果たしましょう。

見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。(黙示録22:12)

私たちは20章で読みましたが、二種類の書物があります。一冊目には、私たちの行為のすべてが記されています。二冊目は、子羊のいのちの書です。

でも、あなたの名前が子羊のいのちの書に記されていても、一冊目の書がなくなるわけではありません。ある日、私たちは神様のみ前に立ち、自分の行為のために裁かれます。福音書や使徒たちの書簡には、そのテーマが何度も出てきます。

私たちが神様から与えられたものを忠実に用いたかどうか、判断されます。

忠実に用いれば、報いを得ます。でも忠実でなければ、私たちは救われるものの、火の中をくぐるようにして助かるのです。(第一コリント3:10-15)

だから、イエス様は私たちに警告されます。「目を覚まし、わたしの到来を期待して、忠実に仕えなさい。」(マタイ24:36-25:30)

2.聖さを追い求めましょう。

第一ヨハネでは、ヨハネはこう語りました。

しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。(第一ヨハネ3:2-3)

言い換えると、私たちがキリストの到来を期待し、いつかキリストに似た者になるという希望を抱いているので、今、私たちは清い人生を送るように努めます。

正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。(黙示録22:11b)

3.神様を礼拝しましょう。

この世には、さまざまなものが私たちの注目を集め、心を虜にしようとします。その中には良いものもあります。でも、私たちはそれらを礼拝してはなりません。

ヨハネも二度、その罠に陥りそうになりました。彼は御使いを見て、礼拝しようとしたのです。けれども、天使は二度こう言いました。

いけません。。。神を礼拝しなさい。(22:9)

私たちは被造物を礼拝してはなりません。私たちは創造者だけを礼拝するべきです。

4.神様のみ言葉に忠実になりましょう。

この書では、私たちはさまざまな訓戒を読んできました。特に、2〜3章では多くの訓戒を読みましたが、黙示録の他の箇所にも訓戒がいくつもあります。 だから、イエス様は、私たちがそれらの訓戒に留意し、忠実に従うように命じられます。

イエス様はこう言われました。

見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守る者は幸いである。(22:7)

また、イエス様は、私たちがその言葉から何かを取り除かないように注意し、その言葉に付け加えないように注意されます(22:18〜19)。

イエス様がこの世に来られるまで、私たちはそのような人生を送るべきです。

しかし、もしあなたがまだイエス様を知らないなら、イエス様の次の言葉はあなたのためのものです。

渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。(22:17b)

神様は、あなたがご自身のもとに来るように強制されません。 もしあなたが自分の罪にとどまりたいなら、神様はあなたをそのままにされます(22:11a)。

けれども、神様の望みは、あなたがご自身のもとに来て、救われることです。

神様はこう言われます。

自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。(22:14)

私たちはどのように自分の衣を洗うことができるでしょうか。 私たちは自分の努力によってそうするのでしょうか。

違います。十字架で流されたイエス様の血によって、私たちは清められます。 イエス様を信じると、イエス様はあなたの罪のすべてを清めてくださいます(第一ヨハネ1:7)。

今日、あなたは祈って、イエス様を自分の救い主と主として受け入れませんか。

イエス様、今まで、私は自分の道を行き、あなたや周りの人々、そして自分自身さえも傷つけました。 私を赦してください。あなたが十字架で私の罪のために死んでくださり、感謝します。 私の罪と失敗を清めてください。

あなたは王の王、主の主です。 私は自分の人生をあなたに捧げます。 イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

この記事を、イエス様とヨハネの言葉で終わります。

イエス様はこう言われました。

わたしイエスは御使いを遣わし、諸教会について、これらのことをあなたがたに証しした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。。。

これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」(黙示録22:16,20)

ヨハネはこのように答えました。

アーメン。主イエスよ、来てください。(20b)

「主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。」(22)

アーメン、アーメン。

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ヨハネの黙示録

天国に入れないもの

前回の記事で、私は天国の栄光や神様の民の栄光について話しました。また、天国にある素晴らしいものを見ました。

でも、天国に入ることができないものもあります。それは、罪です。

罪をあえて犯す人や神様に反抗する人は、神様の民に属さず、その遺産を受けることもできません。旧約聖書の時代にもその通りだったし(レビ記18章)、新約聖書の時代にもそうでした。

でも、どうしてでしょうか。神様は寛容な方ではないでしょうか?

神様は確かに寛容なお方です。

けれども、天国とは死も悲しみも叫び声も苦しみもない場所です。(黙示録21:4)

もし神様が罪のある者の天国入りを許すなら、死も悲しみも叫び声も苦しみも天国に入ってしまいます。この世を見れば、それがよく分かるでしょう。

だから、神様はこう言われます。

しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。(黙示録21:8)

また、

しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。(21:27)

また、

犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、外にとどめられる。(22:15)

あなたは、それらを天国に望みますか。私は望みません。

しかし、ちょっと考えてみてください。あなたはそのような罪を犯したことがありますか。

偶像礼拝をしたことがありますか。

性的な罪を犯したことがありますか。不倫をしたり、ポルノを見たりしたことはありますか。

嘘をつくことがありますか。

占い師に相談したことがあるでしょうか。

しかし、最も大切な疑問は、神様へのあなたの態度はどうでしょうか。あなたは不信仰な者でしょうか。

上のリストに記された人たちには共通点があります。それは、神様を信頼しないことです。特に、神様が良い方であり、彼らを愛しておられることを疑うのです。

その結果、彼らは神様を王として拒絶し、頑なに自分の道を進みます。

そのような人は、天国に入ることができません。

もし、あなたが神様を王として拒絶し、その良い支配に従わないなら、どうしてその御国に入ることができると思うでしょうか。

けれども、なぜか多くの人々は神様を王として拒絶しているのに、その御国に入れるはずだと思っています。そのような考え方は不思議ではないでしょうか。

それはあり得ません。

神様を王として受け入れないなら、あなたの「良い」行動は無意味です。

覚えておいてください。私たちは、良い行動のせいで天国に入れないわけではありません。むしろ、悪い行動のゆえに天国に入ることができないのです。

そして最もひどい行動は、正当な王を拒絶することです。

だから、神様を王として拒絶するなら、神様の御国には入れません。神様には、あなたの「実績」は無意味なのです。

あなたの名前が子羊のいのちの書に記されていてこそ、天国に入ることができるのです。

そのためには、自分の心をキリストにささげ、イエス様を自分の王、そして救い主として受け入れなくてはなりません。

実際、「キリスト」とは「神様の選ばれた王」を意味します。

イエス様を王として受け入れているでしょうか。

使徒パウロはこう言いました。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)

あなたはどうされますか。今日、キリストを受け入れませんか。

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ヨハネの黙示録

天国:花嫁が現れた!

いいえ、この記事でこのブログを終えることはありません。私たちは永遠に新しい天と新しい地にいるのですから、数日にわたって、それらがどんなところであるのかについて話していきましょう。🙂

皮肉なことに、最後の七つの災害に満ちた七つの鉢を持っていた七人の御使いのうちの一人がヨハネのもとに来て、「ここに来なさい。あなたに、子羊の妻である花嫁を見せましょう」と言います。

この御使いは、古い天と古い地の破壊に関わっていましたが、 彼は新しい天と新しい地をヨハネに紹介するのです。

前回の記事でも触れましたが、「新しいエルサレム」とは、文字通りの都市なのか、神様の民なのか、それともその両方なのかは分かりません。

でも、この場面を読んでいると、高価な真珠のたとえ話を思い出しました。そこでは、ある人がその真珠を得るために、持っていたものすべてを売り払いました(マタイ13:45〜46)。

イエス様は、十字架でご自分の血によって、教会という高価な真珠を、ご自分の花嫁として買い取られたのです。

パウロによれば、

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:26-27)

今日の聖句では、キリストの花嫁が登場し、私たちはその美しさを目にすることができます。ヨハネはこう語ります。

都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。(黙示録21:11)

ヨハネが花嫁を描写するとき、「12」という数字や「12の倍数」という数字が頻繁に登場し、それらの数字は時に「1000」(完全さを表す数字)と組み合わされています。

なぜ「12」なのでしょうか。その答えは、21章12節と14節にあるかもしれません。

「12」とは、神様の民を象徴する数字です。イスラエルの十二部族は旧約聖書時代の神様の民を象徴し、12使徒は新約聖書時代の神様の民を象徴します。(私たちも新約聖書の時代に生きています。)

旧約の信仰者たちは、新約の信仰者たちと共に神様の民なのです。

そして、花嫁は旧約時代の祭司たちのように宝石で飾られます(出エジプト記28:15〜21)。

エデンの園もまた、宝石で飾られていました(エゼキエル書28:13)。

この花嫁には、神様と出会うために神殿に行く必要はありません。なぜなら、神様ご自身と子羊ご自身が「神殿」だからです(21:22)。

つまり、昔は神殿が神様の臨在を表しましたが、新しい天と地において、神様はご自身が私たちの間におられるため、そのような建物は不要です。その上、神の栄光、そして子羊の栄光が都市を照らしています(21:23)。

しかも、花嫁自身も輝いています。この世の国々は彼女の栄光によって照らされ、国民たちはそれぞれの栄光を彼女にささげます(21:24)。

花嫁は完全に安心しています。侵入者が入る恐れがないため、その都市の門は常に開かれています。アダムとエバが裸でも恥を感じず安心していたように、キリストの民も人間関係において完全に安心しています。

御霊の喜びに満たされるにつれて、私たちの心の奥底から、生ける水の川が流れ出ます(ヨハネ7:37-39)。そのため、私たちはいのちの実を結び、味わいます(22:1-2)。

でも、天国で花嫁にとって最も素晴らしい事は何でしょうか。それは、私たちが神様のみ顔を見ることです(22:4)。

この都市は立方体として描写されています(21:16)。

聖書の中で、他に立方体として描かれているのはただ一つ。それは神殿の至聖所であり、神様がそこに住んでおられました(列王記第一6:20)。

その立方体の意味は?前回の記事で、私たちはその意味を見ました。

見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。(21:3)

また、

もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え。。。彼らは世々限りなく王として治める。(22:3,5)

どうして、私たちはそんな素晴らしい祝福を得ることができるのでしょうか。

なぜなら、2000年前、イエス様は十字架で私たちの罪のために死んでくださいました。イエス様の働きのおかげで、私たちはイエス様の尊い宝石のように輝き、イエス様の花嫁として栄光を持って、イエス様と共におり、共に治めます。

私はその日が来るのを待ちきれません。

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ヨハネの黙示録

天国:聖書の約束がついに成就する時

この10年間、このブログでは、私たちは聖書の初めから終わりまでを読み通してきました。そして、今日の聖句では、歴史の集大成が描かれています。聖書のすべてがその時に成就するのです。

創世記では、私たちはエデンを見ました。アダムとエバが罪に落ちる前、彼らはエデンで神様と共に歩みました。

けれども、彼らが罪を犯し、被造物のすべてが呪われた後でも、神様は人間を見限ることはありませんでした。むしろ、神様はノア、アブラハム、イサク、ヤコブを選び、ご自分の民とされました。

その後、イスラエル人たちは神様の民となり、神様は彼らの神となりました。

そして、イエス様の死と復活の後、神様はその権利をイエス様を信じるすべての人々に拡げ、彼らも神様の民と呼ばれるようになったのです。

21章では、私たちはその物語の集大成を目にします。ヨハネは新しい天と新しい地を見ます。そして、もはや海は存在しないのです。

「海はない」とは、文字通りのことなのか、判断がつきません。

黙示録では、海は悪の象徴とされてきました。たとえば、13章では、獣が海から上がってきました。ですから、ヨハネが意味しているのは、悪とそのカオスが完全に消え去るということかもしれません。

そして、ヨハネはこう語ります。

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。(黙示録21:2)

もう一度、私はこの描写が文字通りのことなのかどうか、疑問に思います。ヨハネは文字通りの都市を見ていたのでしょうか。 それとも、キリストの花嫁である神様の民だけを見ていたのでしょうか(エペソ5:25〜32)。あるいは、都市とその民の両方を見ていたのでしょうか。

いずれにしても、次の聖句では、私たちは最も大切なことを目にします。

私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。

「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。(3)

神様は、かつてアダムとエバと共にエデンを歩まれました。彼らは神様の民であり、神様は彼らの神でした。けれども、彼らは最終的に罪に落ちてしまいました。

神様がイスラエル人をエジプトから救い出すと約束されたとき、 神様は彼らにこう告げられました。「あなたたちは私の民となり、私はあなたたちの神となります」(出エジプト記6:7)。

そのとき、幕屋は、神様が彼らの間に住まわれることの象徴となりました(出エジプト記40:34〜35)。

彼らが約束の地に入ったとき、神殿は幕屋に代わって神様の住まいとなりました。神殿もまた、神様が彼らの間に住まわれることの象徴でした(列王記第一8:10〜12)。

ところが、イスラエル人が再び罪を犯したため、神様の御霊は神殿から離れられました(エゼキエル書10:18)。

その神殿は破壊されたり、再建されたりしましたが、西暦70年には再び破壊され、今に至るまで再建されていません。

今では、神様の民自身が神様の神殿です。神様は私たちのうちに住んでおられます(第一コリント6:19)。

そして、すべてが成就する日には、私たちは永遠に神様の御前にいて、神様のみ顔を仰ぎ見ることになります。

そのとき、神様は私に希望を与える言葉を語ってくださいます。

見よ、わたしはすべてを新しくする。(5)

そして、天の父は、十字架上でイエス様が語られた言葉に少し似たことを語ってくださいます。

事は成就した。(6a)

イエス様が「完了した」と語られたとき、イエス様が意味されたのは、私たちの罪の罰が支払われたということです。

けれども、天の父が「事は成就した」と語られたとき、神様が意味されたのは、神様の救いの計画のすべてが成就し、私たちがついに神様の家にいるということです。

そして、アルファであり、オメガであり、初めであり、終わりである方がこう語られます。

わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。(6b-7)

私たちは皆、苦しみの時を経験します。時に、その苦しみは絶え間なく、また耐えがたいもののように感じられます。

それでも、その苦しみは永遠に続くものではありません。神様はすべてのことを支配しておられます。神様は初めからすべてを支配しておられ、決してその支配を失われません。

神様はすでにこの物語の結末を書いておられます。その結末とは、私たちが永遠に神様と共にいることです。

ですから、神様から目を離さないでください。あなたの試練は永遠ではないことを覚えておきましょう。神様はあなたを、ご自分の家に導いてくださいます。

その日に関して、ヨハネはこう語ります。

神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。(4)

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ヨハネの黙示録

2種類の書物

私は読書が大好きです。Kindle Fireタブレットのおかげで、読書がずっと便利になりました。このタブレットには、たくさんの本を簡単に持ち運ぶことができます。

さて、今日の聖書箇所では、私たちは二種類の書物を見ます。

ヨハネによれば、裁きの日に、死んだすべての人々が、大きい者も小さい者も、御座の前に立ちます。そして、数々の書物が開かれます。その書物には何が書かれているのでしょうか。

どうやら、私たちのすべての行いが記されているようです。

その書物のほかに、もう一つの書物があります。それは「いのちの書」です。

その本には、神様に属する人たちの名前が記されています。彼らは、自分の救いのために、イエス様とその十字架の働きを信じた人々です。

ヨハネはこう言います。

また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。

書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。

海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。

それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。

いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。(黙示録20:12-15)

私たちはその言葉から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちには選択があります。自分と自分の行いに頼って救いを得ようとすることもできれば、イエス様とその十字架の働きに頼ることもできます。

もしイエス様とその働きに頼るなら、私たちの名前はいのちの書に記され、私たちは救われます。

しかし、自分と自分の行いに頼ろうとするなら、神様の目にはそれらの行いは不十分とみなされます。

なぜでしょうか。

神様は私たちの良い行いだけでなく、悪い行いも見ておられます。また、たとえ良い行いをしたとしても、その動機や態度が悪いことも多いのです。

けれども、もっとも重要な理由は、私たちがイエス様を自分の王と救い主として拒んだからです。

簡単に言えば、天国に行くために自分の良い行いに頼ろうとするなら、私たちは失敗してしまいます。

だから私は自分の行いに頼りたくありません。イエス様とその十字架の働きに頼りたいのです。

あなたはどうでしょうか。何を選びますか。

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ヨハネの黙示録

人はなぜ悪を行うのか

どうして人々は悪を行うのでしょうか。それは悪魔のせいなのでしょうか。

あるいは、彼らは環境の影響を受けてしまったのでしょうか。周囲の不正や悪によって、悪に染まってしまったのでしょうか。困難な状況の中で、罪に巻き込まれてしまったのでしょうか。

それとも、別の原因があるのでしょうか。

今日の箇所を通して、私たちはその答えを見出せるかもしれません。

イエス様がこの世に来られる時、反キリストとその偽預言者、そして彼らの軍勢を打ち倒されます。その後、イエス様は約千年の間この世を治められます。

実際に文字通り千年かどうかは分かりませんが、ともかく、イエス様は長い間治められるのです。

そしてその時、復活したクリスチャンたちはイエス様と共にこの世を治めることになります。(黙示録20:4)

彼らは誰を治めるのでしょうか。おそらく、神の憤りを生き延びたこの世の人々を治めることになるでしょう。

復活した聖徒たちはもはや死ぬことはありません(6節)。しかし、神の憤りを生き延びた者たちは、依然として死すべき存在です。

その千年の間、この世の環境は天国に近づきますが、まだ完全なものではありません。その時代には、正義が全うされ、大いなる平和が地上にもたらされます。

ノアの洪水以前の時代のように、人々の寿命は長くなります。それでも人は死にます。なぜでしょうか。それは、この世に依然として罪が残っているからです(イザヤ11:1-9;65:17-25)。

このような背景のもと、イザヤはイエス様による裁きを描写します。

今の時代とは異なり、イエス様は完全なる正義を実行されます。人々は事実を歪めることができず、律法の抜け道も存在しません。有罪者は必ず裁かれます(イザヤ11:1-5)。

では、少し考えてみてください。もしこの世の状況がほとんど完全で、正義も完全に行われ、さらにサタンがその1000年間縛られていて、人々を誘惑することができないとしたら、なぜ人々はそれでも罪を犯し、死ぬのでしょうか。

その理由は、人々の罪が心に深く染みついているからです。人は罪を犯すことで罪人になるのではありません。むしろ、もともと罪人であるがゆえに罪を犯すのです。

現在の世界では、サタンは人を誘惑でき、また背景や環境からの影響もありますが、結局のところ人は本質的に罪人であるため、罪に走ります。

ダビデはこの真理を認めました(詩編51:5)。

パウロも同じくそれを認めています(エペソ2:1-3)。

この1000年間の時代には、その真理が明らかにされ、私たちの救い主の必要性も証明されます。

たとえ完全な世界に住んでいても、神の救いに値するほど良い人生を送る者は一人もいません。その時代、多くの人々がそれを悟り、イエス様を自らの救い主として信じるようになるでしょう。

けれども、他の人々はイエス様を拒みます。そして、サタンが再びこの世に現れることを許されると、多くの人々が彼に味方し、神に対して戦いを挑みます。

しかし、反キリストとその偽預言者のように、彼らは容易く滅ぼされるのです。また、反キリストとその偽預言者と同様に、サタンも火と硫黄の池に投げ込まれます(黙示録20:7〜10)。

だから、私たちは正直であるべきです。神様がサタンを縛らないことが原因で、私たちが罪を犯すわけではありません。背景や環境のせいでもありません。私たちは、もともと罪人であるがゆえに、罪を犯すのです。

だからこそ、私たちには救い主が必要です。

もしあなたがまだクリスチャンでないなら、今日、イエス様をあなたの救い主、そして主として受け入れてみませんか。

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預言の中心におられる方、私たちの言動の中心となられる方

私が何年もこのブログを書いてきて、もうすぐ聖書全体を読み終えるところなので、できるだけ早くこのブログを終えたいという誘惑を感じています。

けれども、ヨハネが自分の語りの途中で少し脱線したように、私もそうしたいと思います。というのも、その言葉が、私がなぜこのブログを書き始めたのかを思い出させてくれるからです。

御使いが子羊の婚宴について語った後、ヨハネはその足もとにひれ伏して、礼拝しようとしました。

ヨハネの考えは理解しやすいでしょう。この御使いは、ヨハネよりも栄光に満ち、聖なる存在でした。だからこそ、束の間、ヨハネはその御使いこそ礼拝にふさわしい者だと思ったのです。

しかし、御使いはヨハネに言いました。

いけません。私はあなたや、イエスの証しを堅く保っている、あなたの兄弟たちと同じしもべです。

神を礼拝しなさい。イエスの証しは預言の霊なのです。(黙示録19:10)

要するに、「私があなたにこの幻を現す目的は、あなたが私を礼拝することではありません。私はこの幻の中心ではありません。

また、預言者たちは自分の預言の中心ではなく、あなたもこの預言の中心ではありません。

むしろ、イエス様がその預言の中心です。すべての預言は、イエス様に関して証しするためのものです」ということです。

これはとても大切で、心に留めておくべき真理です。イエス様はすべての中心におられる方です。特に、イエス様は私たちの言動の中心であるべきです。

私がこのブログを書くときも、教会でメッセージを語るときも、それは私の栄光のためではありません。それは、イエス様に栄光をお返しするためです。

あなたが教会や社会の場で仕えるときも、それはあなた自身の栄光のためではありません。それは、イエス様を証しするための奉仕です。

それを忘れると、私たちは非常に深刻な状態に落ちてしまいます。

名声を礼拝し始め、お金を礼拝し始め、周囲の人々からの称賛や尊敬を礼拝し始めます。イエス様は本来、私たちの人生の中心であるはずですが、私たちはそのお方を忘れてしまうのです。

だからこそ、私たちが自分自身に問いかけなければならないのは、教会で仕えるとき、私たちの心がイエス様に向けられた礼拝の姿勢になっているかどうかということです。

この社会に触れる時、私たちは神様に栄光をお返しする心を持っているでしょうか。

あなたは、誰の前に、また何の前に、ひれ伏して礼拝しているでしょうか。

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ヨハネの黙示録

正義が来るとき

数年前、Facebookで、私のハワイの友人が小学校からの手紙を掲載しました。その手紙によれば、ある児童が下校途中、怪しい人物に誘拐されそうになりました。

幸い、通りかかった高校生がいたため、その子供は高校生の方へ逃げ、犯人はそれを見て逃走しました。

私たちの社会では、そのような出来事が増えており、恐ろしい現実です。時として、正義は本当に訪れるのかと疑問に思うことがあります。

黙示録6章では、聖徒たちも同じ問いを抱いていました。

今日の箇所では、正義がついに訪れます。悪者は裁かれ、そうした者たちを生み出した社会も滅ぼされます。反キリスト、その預言者、バビロン、そして反キリストに従う者たちは皆、倒れます。

反キリストとその軍勢は神様に対する最後の戦いのために立ち上がり、イエス様はご自身に属する者たちを取り戻すためにこの世に戻られます。

その時、イエス様が真に「忠実また真実」である方であることが証明されます。十字架において流されたご自身の血によって、それをすでに証明されましたが、この世界に正義と救いをもたらすことによって、もう一度それが明らかにされます。

もしかすると、この最後の戦いを思い浮かべるとき、映画の戦闘シーンを連想するかもしれません。けれども、実際には、神様が圧倒的に有利なのです。

神様の一言でその軍勢は滅ぼされ(黙示録19:21)、反キリストとその預言者は硫黄の燃える火の池に投げ込まれ(20節)、バビロンは倒れ、その焼かれる煙は世々限りなく立ち上り(3節)、猛禽たちは裁かれた人々を宴席として食い散らかします(17-18、21節)。

その結果は何でしょうか。礼拝です。なぜなら、正義がついに訪れたからです。

だからこそ、天にいる者たちは大声で叫びます。

ハレルヤ。救いと栄光と力は私たちの神のもの。神のさばきは真実で正しいからである。

神は、淫行で地を腐敗させた大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされた。。。

ハレルヤ。彼女が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。。。アーメン。ハレルヤ。」(黙示録19:1-4)

そして、裁かれた人々による恐ろしい「宴席」の後に、栄光に満ちた宴席が整えられます。

神様の御座から声が響き、こう告げられます。

神のすべてのしもべたちよ、神を恐れる者たちよ、小さい者も大きい者も私たちの神を賛美せよ。(5)

そして、天にいるすべての者たちが応えます。

ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。

子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。(6-8)

そして、御使いはヨハネに向かって、こう告げます。

子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい。。。これらは神の真実なことばである。(9)

では、私が言いたいのは何でしょうか。

正義が来ます。そして、その日、イエス様の花嫁である私たちは喜びます。

少し考えてみてください。私たちはキリストの花嫁となる資格はありませんでした。むしろ、私たちは裁きの宴席で滅びるにふさわしい者でした。

しかし、イエス様はご自身の義によって私たちを着せてくださいました。神様の目には、私たちは義とされ、キリストに愛される民となりました。そして、私たちは永遠にキリストと共に喜びます。

だから、この世の不正や堕落を見る時、その希望にしがみつきましょう。

正義は来ます。

イエス様は来られます。

そして、その日、天と地は、「忠実また真実」であられるイエス様への礼拝に響き渡ります。

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ヨハネの黙示録

この世に望みを託してしまうと

今日の箇所では、私たちは大淫婦バビロンの没落を目にします。ヨハネは、「大淫婦バビロン」を地の王たちを支配する偉大な都と定義しています。(黙示録17:18)

14章に関する記事では、私たちが目にしたのは、ヨハネ自身とこの書の読み手たちが、バビロンはローマを象徴すると理解したという点でした。ローマ帝国自体は、神なき社会、すなわち神に反する世の制度を象徴しています。

その女は、13章に登場した獣に乗っています。その獣は七つの頭を持っています。御使いによれば、その七つの頭とは、この女が座している七つの山のことであり、それはローマ帝国の七人の王のことです。

ヨハネがこの言葉を書いた時点では、七人のうち五人はすでに亡くなり、一人はまだ生きていてローマを治めており、残りの一人はまだ現れていない状態でした。(17:7)

その後、反キリストである獣が八番目の王として現れ、この世を支配することになります。(17:11)

反キリストは十人の王たちと同盟を結びます。(それが文字通り十人の王なのか、それとも世界の支配者たちを象徴しているのかは定かではありません。)

とにかく、世の人々は皆、獣に従います。なぜでしょうか。

第一の理由は、獣の力です。

第二の理由は、その獣が人々を欺く能力を持っているからです。私たちはすでに13章で、それを読んでいます。

そして、第三の理由は、大淫婦の存在です。彼女は「大水の上に座しています。」

御使いによれば、その大水は諸々の国民を象徴しています(15)。人々は、大淫婦が提供するもの、すなわち彼女の裕福さと栄光を飲み込んでいます。(4)

ところが、彼らが実際に飲み込んでいるのは、忌まわしいものと、大淫婦の淫行の汚れなのです。つまり、神の目から見るなら、彼らは神が忌み嫌われることを行っているということです。彼らは自らの創造主に対して霊的な姦淫を犯しているのです。

簡単に言えば、人々がこの世とそのものに執着しているため、彼らは獣に従います。

この世の制度は獣と結びついています。この世の友でありながら神の友であることは両立しません。だからこそ、大淫婦は聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔いしれています(17:6、18:24)。

今日の箇所で私たちが学ぶのは、この世の制度は結局滅ぼされるということです。

おそらく、神様に対する戦いのゆえに、獣とその十人の王たちは大淫婦のすべてを奪い取ります。

言い換えれば、神様との戦いにおいてこの世を滅ぼすことさえいとわないほどに、彼らは神様に敵対しているのです。だからこそ、その戦争のために彼らは自国の経済を崩壊させ、核兵器の使用さえもためらわないのです(17:6)。

そして、御使いはヨハネにこう告げます。

それは、神のことばが成る時まで、神はみこころが実現するように王たちの心を動かし、彼らが一つ思いとなって、自分たちの支配権を獣に委ねるようにされたからです。(黙示録17:17)

つまり、神様の計画は、この世が荒らされることです。その被害の一部は神様の手によって行われますが、大部分は人間の手によって行われます。結局、人間たちは自らを滅ぼすのです。

しかし、最終的に獣とその王たちが神様と戦い、この世を荒らしても、

子羊は彼らに打ち勝ちます。子羊は主の主、王の王だからです。(17:14)

では、私たちはこの箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

この世の制度に属する人々は、自分の財産や実績を誇ります。彼らは、それらが永遠に続くと信じています。

けれども、それらは一日のうちに崩れ去り、この世の約束の空しさが露わになります。(黙示録18:8)

神様は、それらすべてを大きなひき臼のように海へ投げ込み、滅ぼされます。人々が喜び、頼っていたすべてのものは滅ぼされます。(18:21-23)

そのため、この世の人々は恐れ、嘆きます。(18:9-19)

自分が頼っていたものが、瞬く間に失われるため、彼らは嘆くのです。

バビロンに降りかかった裁きが自分にも降りかかることを知っているので、彼らは恐れます。

では、私は何を言いたいのでしょうか。

この世に望みを託してはなりません。この世の制度は倒れ、この世の制度に頼る人々も倒れます。

だからこそ、神様のみ言葉に心を留めましょう。

わたしの民は、この女の罪に関わらないように、その災害に巻き込まれないように、彼女のところから出て行きなさい。(18:4)

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裁きが振りかかっても悔い改めない心

14章では、神様を拒絶し、獣の刻印を受けた人々が永遠の裁きを受けることを読みました。以前にも述べたように、永遠の裁きという概念に抵抗を感じる人々は少なくありません。

9章では、その永遠の裁きの理由を見ました。ある人々は長らく神様に逆らい、悔い改める心を持とうとしません。どれほど厳しい裁きが下されても、彼らはどうしても悔い改めたくないのです。むしろ、神様をますます呪うのです。

今日の箇所では、再びそのような人々が登場します。

16章で、神様は抑えることなく裁きを地上に注がれます。封印の裁きやラッパの裁きがなされたときには、神様は裁きに制限を設けられました。(封印の裁きでは被造物の4分の1が、ラッパの裁きでは3分の1が打たれました。)

今回は、全世界が打たれます。

獣の刻印を受けたすべての人々には、ひどく悪性な腫れものが生じます。(黙示録16:2)

海は死者の血のようになり、海の中のすべての生き物が死に絶えます。(3節)

神の民を殺していた彼らに対し、川と水の源の水は血へと変わります。(4-7節)

そして、

第四の御使いが鉢の中身を太陽に注いだ。すると、太陽は人々を火で焼くことを許された。(黙示録16:8)

私の意見ですが、おそらくこの描写が意味するのは、私たちを太陽の紫外線から守るオゾン層が著しく薄くなり、その結果、人々が焼かれるということではないでしょうか。

さて、人々はそのような状況にどのように反応するのでしょうか。

こうして人々は激しい炎熱で焼かれ、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名を冒瀆した。彼らが悔い改めて神に栄光を帰することはなかった。(9)

あなたはこう言うかもしれません。「でも、その裁きがもう少し続けば、最終的に人々は悔い改めるのでは?」

けれども、次に、モーセの時代のエジプトのように、全世界が闇に包まれます。また、人々は自分の腫れもののために激しい苦しみにさいなまれます。(10-11a)

それでも、彼らは、

天の神を冒瀆し、自分の行いを悔い改めようとしなかった。(11b)

「でも、彼らはきっと自分の頑固さを捨てて、悔い改めるだろう?決して悔い改めないほどの頑固な人はいないのでは?」

しかし、大河ユーフラテスの水が涸れ、東から来る王たちが集まり、神様に戦いを挑もうとします。(12)

悪霊たちが現れ、奇跡的なしるしを行って、王たちに神様に勝てるという希望を抱かせようとします。彼らはハルマゲドンに集結し、神の激しい怒りが込められた最後の鉢が空中に注がれます。

その時、稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、世界の歴史の中で最も大きな地震が起こります。

すべての国々の都市が崩れ去り、神様の激しい憤りは、御前に逆らう帝国に注がれます。島々は沈み、山々は崩れ、巨大な雹が天から人々の上に降り注ぎます。(20-21)

その結果は何でしょうか。人々は悔い改めたのでしょうか。

いいえ、悔い改めませんでした。

この雹の災害のために、人々は神を冒瀆した。その災害が非常に激しかったからである。(21)

私のポイントは何でしょうか。悔い改めなければ、人々は地獄から出られません。

しかし、私たちが今日の箇所から学んだのは、自分の心を固くし続けると、どれほど苦しみを味わっても、決して悔い改めることはないという現実です。

地獄にいる人々は、まさにそのような者たちです。

ですから、もしあなたが今なお神様に背を向けているなら、どうか今のうちに悔い改めてください。神様は、あなたが地獄に入ることを望んではおられません。

あなたがその罰を受けることがないように、神様はご自身のひとり子であるイエス様をこの世に送られました。そして十字架の上で、イエス様はあなたの罰を身代わりとして受けてくださいました。

あなたがすべきことはただ一つ。イエス様を、自分の主、そして救い主として受け入れることです。

神様は、あなたにこう語りかけておられます。

わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか。。。

彼らがその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。。。

だから立ち返って、生きよ。(エゼキエル書18:23、32)

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ヨハネの黙示録

裁きと救いに現れる神様の栄光

私は何度も言いましたが、私たちは反キリストと向き合うと信じています。

私がわからないのは、七つの鉢から神の憤りが地に注がれるとき、私たちがまだこの地にいるかどうかということです。イエス様がもう一度この世に来られるとき、その七つの鉢は、この世の人々に対する神様の最後の裁きです(黙示録16:1)。

私の意見ですが、その時には、たぶん私たちはもうこの地にいないと思います。

以前は、イエス様が再臨されると、私たちが空中でイエス様に会って、すぐにこの地に戻ると考えていました。でも黙示録14〜15章を読んでから、私の意見は変わりました。

もしかすると、神の憤りが地に注がれるまで、私たちは待ち、その後にイエス様がとうとうオリーブ山に着かれるのかもしれません(ゼカリヤ書14:4)。

14章では、御使いが雲の上に座っておられる人の子のような方に呼びかけます。その方の頭には金の冠、手には鋭い鎌があります。

その方は誰でしょうか。おそらく、それはイエス様です。

そして、御使いが大声で叫びます。

あなたの鎌を送って、刈り取ってください。刈り入れの時が来ましたから。(黙示録14:15)

イエス様はそうされますが、イエス様は何を刈り取られるのでしょうか。

おそらく、イエス様はご自身に属する人々を刈り取られるのだと思います。最後の警告はすでに宣言され、ある人々はその警告に耳を傾けましたが、他の人々はそれを無視しました。

しかし今、時が満ちたので、イエス様はご自身の民を、ご自身とともにおられるために集められるのです。だから、この地に残されたのは、イエス様を拒絶した人々だけです。

その後、もう一人の御使いが天の神殿から出てきて、彼も鋭い鎌を持っています。そして、火をつかさどる権威を持つ別の御使いが祭壇から出てきて、鋭い鎌を持つ御使いに、その鎌を地に送るよう命じます。

その「祭壇」とはどの祭壇でしょうか。おそらく、それは8章に登場する祭壇のことです。そこでは、聖徒たちによる正義のための祈りが、神様の御前に立ち上りました(8:3–4)。

どうして私はそう思うのでしょうか。なぜなら、御使いが鎌を投げて地のぶどうを刈り集め、神の憤りの大きな踏み場に投げ入れたからです。

その時代、ぶどうは踏まれ、その汁が踏み場から流れ出ました。同じように、神様を拒絶した人々は踏みつけられ、その血が約三百キロメートルにわたって流れ、その深さは一〜二メートルに達するほどでした。それは非常に恐ろしい描写です。

15章では、私たちは14章の出来事をさらに詳しく知ることができます。

ヨハネは、火が混じったガラスの海のようなものを見ます。そのそばに、イエス様に刈り入れられたクリスチャンたちが立っています。その人々は獣に打ち勝った者たちです。

聖書の時代、海は悪や混沌の象徴と見なされていました。けれども、聖徒たちはすでに試練の火を通過しています。だから、彼らはモーセと子羊の歌を歌うのです。

主よ、全能者なる神よ。あなたのみわざは偉大で、驚くべきものです。諸国の民の王よ。あなたの道は正しく真実です。

主よ、あなたを恐れず、御名をあがめない者がいるでしょうか。

あなただけが聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが明らかにされたからです。(黙示録15:3-4)

その後、神殿が開かれ、七人の御使いが七つの災害を携えて神殿から出てきます。そして、七人の御使いたちは神の憤りが満ちている七つの金の鉢を手渡されます。そして、

神殿は、神の栄光とその御力から立ち上る煙で満たされ、七人の御使いたちの七つの災害が終わるまでは、だれもその神殿に入ることができなかった。(8)

その聖句は、私の心に深く響きました。

神様の栄光が救いによって現れることは、言うまでもありません。救われた人々の賛美を通して、その栄光を仰ぐことができます。

しかし、救いだけでなく、神様の裁きを通しても、神様の栄光は現れます。なぜでしょうか。その裁きには、神様が愛だけではなく、正義の神であることが示されています。

もし神様が愛の神であるだけで、正義の神でないとしたら、果たして神様を「善い方」と言えるでしょうか。悪を決して罰しないなら、神様の善性を問われることになるでしょう。

神様は忍耐強いお方です。けれども、やがて必ず正義を実行されます。そのとき、神様の栄光と善良さがあらわになります。

ですから、神様のご性質を考えるとき、愛だけでなく正義もまた、神様のご性質であることを心に留めておきましょう。

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最後の警告

このブログで私は何回も言いましたが、神様は忍耐強い方です。でも、その忍耐は永遠に続くわけではありません。

今日の箇所では、その忍耐が尽きるところです。

6節で、一人の御使いが中天を飛びながら、あらゆる国民、部族、言語、民族に最後の福音の宣言をします。彼は大声でこう言います。

神を恐れよ。神に栄光を帰せよ。神のさばきの時が来たからだ。天と地と海と水の源を創造した方を礼拝せよ。(黙示録14:7)

それが文字通りの御使いかどうかは、ちょっとわかりません。もしかしたら、その御使いは、福音を全世界に宣べ伝えて、すべての民族に証しするクリスチャンたちを象徴しているのかもしれません(マタイ24:14)。

でも、文字通りの御使いから伝えられるにしろ、普通のクリスチャンたちから伝えられるにしろ、とにかく、人々は福音を聞く最後の機会を得ます。

でも、その福音の宣言には、警告が付いています。

「今、悔い改めて、神様に向かわなくてはなりません。神様の忍耐が尽きてしまって、裁きが迫っています。だから今のうちに神様を恐れなさい。神様に栄光を帰せよ。神様を礼拝しなさい。」

その後、さらに二人の御使いたちが、もっと至急な警告を宣言します。

倒れた、倒れた、大バビロンが。御怒りを招く淫行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた都が。(黙示録14:8)

その警告は後の出来事への伏線となります。バビロンはかつて偉大な帝国でした。でも、その帝国はいろいろな偽の神々を礼拝し、真の神に背を向け、この悪の世界と霊的な姦淫を犯しました。

ヨハネは、たしかバビロンをローマの象徴と見なしたと思われます。私たちにとっても、バビロンとローマは神なき社会の象徴です。その社会から反キリストが現れます。

でも、御使いが叫んだのは、バビロンがすぐに倒れるということではなく、むしろ、バビロンがすでに倒れたということです。つまり、バビロンはまだ生きているように見えても、実際にはもう死んでいるのです。そしていずれ、すべての人々がそれを悟るようになります。

そして、第三の御使いが最後の警告を宣言します。

もしだれかが獣とその像を拝み、自分の額か手に刻印を受けるなら、その者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた、神の憤りのぶどう酒を飲み、聖なる御使いたちと子羊の前で火と硫黄によって苦しめられる。

彼らの苦しみの煙は、世々限りなく立ち上る。獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者には、昼も夜も安らぎがない。(9-11)

言い換えると、あなたは中立的な立場をとることができません。あなたは神様の味方かサタンの味方を選ばなくてはいけません。あなたは神様を礼拝しなくてはならないか、獣を礼拝しなくてはなりません。

でも、もし獣を礼拝すると、神様のすべての怒りがあなたに注がれます。

多くの人々は地獄という概念を嫌います。彼らは、愛の神が人々を永遠の苦しみの場所に送ることを信じられません。でも、その御使いの言葉は、はっきりしています。そういった人々には昼も夜も安らぎがありません。むしろ、彼らは永遠に苦しみます。

なぜ彼らは地獄で苦しまなくてはならないのでしょうか。

第一の理由は、私たちは永遠の存在として造られたということです。疑問は、私たちが永遠に生きるかどうかではなく、私たちがどこに存在するかです。

第二の理由は、人々が神様を自分の王として受け入れない場合、神様から遠く離れなくてはならないということです。なぜなら、彼らは神様の近くにいたくないからです。でも、神様から離れること自体が地獄なのです。

あなたはどう考えるでしょうか。この世の情勢を見てみましょう。私たちは、神様を自分の王として認めない世界に生きようとしてきました。その結果は何でしょうか。殺人、レイプ、テロ、さまざまな悪。

私たちの実験は大失敗です。

さらに、神様が今もここにおられ、人々の人生の中で働いておられるため、この世にはまだ良いものが残っています。愛、親切さ、赦し。

でも、もし神様がまったくここにおられないとしたら、この世界はどれほど恐ろしい場所になるでしょうか。そんな世界こそが地獄です。

でも、私たちは地獄に行く必要はありません。十字架において、イエス様は私たちのために神様の怒りを受けました。イエス様は神の怒りの杯を飲まれたので、私たちはその怒りを受ける必要がありません。

しかし、イエス様を拒絶すれば、あなた自身がその杯から飲まなくてはなりません。

あなたはどうされますか。

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神様に属する私たち

第7章では、不信者が裁かれる前に、十四万四千人のクリスチャンが神様の印を受け、守られました。

第13章では、獣に属する者たちが獣の印を受けました。そして、その印を受けなかった者たちは迫害されました。

つまり、神様の印を受けた者たちは神様の怒りから守られましたが、獣の怒りを受けたのです。

だから私たちは、自分自身に問いかけなくてはなりません――「迫害を受ける甲斐があるのだろうか」と。

多くの人にとって、「はい」と答えるのは容易ではありません。迫害を好む人など、誰もいないからです。

しかし、神様に忠実に従い、忍耐を保つなら、どうなるでしょうか。第14章に、その答えが記されています。

今日の箇所では、14万4千人がもう一度登場します。私は以前言いましたが、たぶん、その14万4千人は、特別なクリスチャンたちではなく、すべてのクリスチャンを象徴します。そして、7章と14章によれば、天の父の名前と子羊の名前が彼らの額に封印されます。

7章では、彼らは来たる試練に心構えをしていました。でも、14章では、彼らはすでに試練の火を通りました。その時、彼らは何をするでしょうか。

彼らは、自分が受けた迫害について文句を言っているのでしょうか。彼らは、どうして神様がその試練を許したのか、神様に問いただしているのでしょうか。違います。

むしろ、彼らは新しい歌を歌っています。その歌を学ぶことができたのは、彼らのほかには誰もいませんでした。

どうしてでしょうか。御使いたちや4つの生き物、長老たちは、その言葉やメロディーを学ぶことができたかもしれませんが、彼らは14万4千人の試練を経験していませんでした。だから、彼らは救いの喜びを本当に理解することができないのです。でも、神様の民はその喜びをよく理解することができます。

4節によれば、彼らは女に触れて汚れたことがない者たちで、童貞です。でも、彼らが文字通りの童貞ではないと思います。むしろ、その言葉は、彼らがイエス様に忠実であることを意味します。

私たちクリスチャンはキリストの花嫁であり、獣に従ってはなりません。むしろ、私たちが迫害されても、イエス様に忠実に従い、清い心を保つべきです。

そして、忠実な花嫁として、私たちは子羊が行く所にはどこへでもついて行きます。

だから、私たちはもう一度訓戒を受けます。

ここに、聖徒たち、すなわち神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける者たちの忍耐が必要である。。。

「書き記せ、『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』と。」

御霊も言われる。「しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行くからである。」(黙示録14:12-13)

あなたはどうですか。あなたは現在の苦しみだけではなく、来たる栄光をも見ることができるでしょうか。そうできないなら、あなたが試練に直面するとき、また反キリストに直面するとき、しっかり立つのは難しいことです。

だから、以前の記事で私が言ったように、イエスから目を離してはいけません。なぜなら、イエス様は苦しみに直面しても、ご自分の前に置かれた喜びに照準を合わせたからです。そういうわけで、イエス様は私たちが同じことをするのを助けることができます。

だから、パウロの言葉を覚えていましょう。

今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:18,26-28)

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知恵と思慮の必要性

今日の記事では、第二の獣について取り上げます。

この獣は地から現れ、子羊の角に似た二本の角を持っていますが、竜のように語ります。つまり、彼は神の子羊のように清く見えるものの、実際にはサタンの言葉を語るのです。

第一の獣は暴力を用いて、人々を従わせようとしました。けれども、第二の獣は欺瞞を使います。言葉だけでなく、奇跡も行います。しかし、結果は同じ——聖徒たちが迫害されるのです。

そして、中立的な立場は存在しません。あなたは獣の印を受けるか、神様の印を受けるか、いずれかを選ばなければなりません。

獣の印を受ければ、この世において通常通りに暮らし、必要なものを売り買いすることができます。ところが、神様の印を持っているなら、あなたは迫害を受けることになるのです。

そういうわけで、獣の印が文字通りの印なのかどうかは分かりません。クリスチャンの皆は神様の印を持っていますが、その印は誰の目にも見えません(7:3-4)。

ですから、もしかすると獣の印も目に見えるものではないのかもしれません。時が来れば、私たちはその印が何であるかを知ることになるでしょう。

では、今日の箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。あなたは迫害に備えて心構えをしているかもしれません。でも、欺瞞に対しても用心しているでしょうか。

イエス様はこう言われました。

偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。(マタイ24:24)

第二の獣は、最後の偽預言者です。

では、どのようにして私たちは彼と反キリストを識別することができるでしょうか。

ヨハネは、私たちには知恵と思慮が必要だと言っています(黙示録13:18)。

ヨハネによれば、第一の獣の番号は六百六十六です。聖書学者たちはその意味について議論を重ねていますが、依然として分かりにくいものです。だからこそ、私たちには知恵と思慮が必要なのです。🙂

私の意見ですが、こう考えています。聖書において「7」は「完全さ」を象徴します。したがって「777」は三位一体なる神様を表す数字です。

それに対して、「6」は「不完全さ」を象徴します。竜と二頭の獣は神様を真似ようとしますが、実際には不完全な偽物なのです。

私たちが知恵と思慮を得るためには、真の神様を知る必要があります。そうすることで、偽物を見分けることができるようになるのです。

あるクリスチャンは、自分にはそのような知恵や思慮は必要ないと思っています。なぜなら、反キリストが現れる前に、神様が彼らを天に引き上げてくださると信じているからです。

しかし、忘れてはならないのは、最後の反キリストや偽預言者が現れる前にも、別の反キリストたちや偽預言者たちはすでに登場するということです。

そして、第二の獣のように、彼らは子羊のように見えます。私たちと同じ言葉で語り、似たようなふるまいをします。ところが、実際には獰猛な狼なのです。私たちが彼らに惑わされないためにも、神様からの知恵と思慮が必要です。

あなたはどうでしょうか。

あなたは、ご自身の主とその言葉をどれほどよく知っているでしょうか。あなたは、偽物を見分けることができるでしょうか。

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忍耐と信仰の必要性

今日の箇所では、さまざまな出来事があり、聖書学者たちは例によってその意味を議論しています。

竜(つまりサタン)と共に、二頭の獣が現れます。今回の記事では、最初の獣について取り上げ、次回のブログで二頭目の獣について扱います。

第一の獣は海から現れます。それは不思議な存在で、ダニエル書第7章に出てくる四頭の獣の特徴を併せ持っています。

竜の力を授けられたこの獣の七つの頭のうち一つは致命的な傷を負って死にましたが、その傷が癒え、世界の人々は驚きました。その結果として、世界の人々はこの獣と、それに力を与える竜を拝むようになります。

では、この幻の意味は何でしょうか。

ダニエル書では、四頭の獣がバビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマの各帝国を象徴しています。

ある程度、黙示録に登場する第一の獣は、それら四つの帝国に似た性質を持っています。これらの帝国は次々に現れては滅び、別の帝国に取って代わられました。

けれども、その結果はいつも同じでした。すなわち、竜を礼拝する新たな帝国が登場し、神の民を迫害するのです。

このように、黙示録において獣に従う者たちは竜を礼拝し、神の民に敵対します。

興味深いことに、黙示録第17章では、その獣が「昔はいて今はいないが、やがて底知れぬ所から上って来るもの」と描写されています(17:8,11)。

もしかすると、ヨハネはかつて獣を見たが、この書を書いた時点ではその獣がすでに滅びていたことを示しているのかもしれません。つまり、ヨハネは過去の皇帝、ネロについて言及している可能性があります。

いずれにせよ、ヨハネによれば、その皇帝は致命的な傷を受けたものの、いつか別の皇帝が現れ、ネロのように神を冒涜し、神の民を迫害するのです。

ヨハネがそのような意図を持っていたとすれば、獣は単一の人物ではなく、歴史の中に登場した多くの人々を象徴していることになります。ヨハネ自身、「キリスト教が始まってから、多くの反キリストがすでに現れている」と述べています(第一ヨハネ2:18)。

これらの反キリストたちは現れ、死に、そして新たな反キリストが再び登場します。そのパターンは何度も繰り返されてきました。

しかし、ヨハネによれば、最終的な反キリストが現れます。そして、かつての反キリストたちと同様に、人々を竜を礼拝するように導きます。

おそらく、その反キリストは「サタンを礼拝せよ」と直接は言わないでしょう。けれども、かつてのローマ皇帝のように、彼は救い主として人々に礼拝されるのです。なぜなら、一時的な平和と繁栄をこの世にもたらすからです。

ところが、人々は、自分が実際にはサタンの代理者に従っていることに気づいていません。

おまけに、反キリストは神様を冒涜し、多くのクリスチャンが迫害されます(7)。

第7〜8節によれば、クリスチャンでない者たちは喜んで獣に従います。言い換えれば、クリスチャンを迫害し殺害することが、政治的に正しいとみなされる時代になるのです。

それでは、今日の箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちが第一の獣に直面する時、彼は私たちを激しく虐げるでしょう。だからこそ、ヨハネは私たちに警告を与えているのです。

捕らわれの身になるべき者は捕らわれ、剣で殺されるべき者は剣で殺される。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰が必要である。(黙示録13:10)

その言葉は、スミルナにある教会の人々に対するイエス様の言葉に似ています。だからこそ、おそらく彼らがこれらの言葉を読んだ時、それは心に深く響いたことでしょう。

しかし、10では、ヨハネは私たちすべてに語りかけておられます。

「心構えをしなさい。迫害は来ます。でも、忍耐と信仰を保ちなさい。そうすれば、あなたたちはいのちの冠を与えられます。また、あなたたちは決して第二の死によって害を受けることはありません。」

このメッセージを私は何度も繰り返してきたので、あなたの耳にはタコができているかもしれません。でも、私たちが反キリストに直接直面しなくても、他者による迫害を受ける可能性はあります。家族や友人、隣人、同僚、そして政府ですら、私たちを迫害するかもしれません。

アメリカでは、クリスチャンたちはこうしたことを経験し始めています。日本の歴史においても、クリスチャンたちは迫害を受けました。今は想像できないかもしれませんが、その時は再び訪れる可能性があるのです。

だから、気持ちを引き締めましょう。信仰を保ちましょう。そして、忍耐を保ちましょう。もしかすると、神様は私たちが迫害を経験するように召しておられるのかもしれません。

それでも、もし迫害を受けるなら、忘れないでください——イエス様はすでに私たちのために迫害を受けておられます。

だからこそ、『へブル人への手紙』の著者は次のように語っています。

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。

この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。(へブル12:2-3)