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ルカの福音書のデボーション

恵まれた人

主は今このようにして(別訳:恵みと感心を持って)私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました。(ルカの福音書1:25)

おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。(28節)

恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。(30節)

上の言葉は私の心に打ちました。

神様は関心と恵みを持ってエリサベツに目を留め、子どもがいないという恥を取り除かれました。(その時代、子どもがいないことは、とても恥ずかしいことだったのです。)

また、神様は恵みを持ってマリアに目を留め、御子の母となるように選ばれました。

そして、神様はエリサベツとマリアに恵みを持って目を留められたように、私たちにも恵みを持って目を留めてくださいます。

マリアのように、私たちは恐れずに、むしろ、大胆に神様に近づくことができます。

また、神様はエリサベツの恥を取り除かれたように、イエス様の十字架によって、私たちの恥、つまり私たちの罪の恥を取り除いてくださいました。

だから、その真理に思いを巡らしましょう。

「神様は恵みを持って私に目を留めておられます。神様から恵みを受けたのです。」

「神様は私と共におられます。」

「神様は私の恥を取り除きました。だから、私は大胆に神様に近づくことができます。」

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サムエル記第二のデボーション

従順を選ぶ

いろんな意味で、これはとても難しい箇所です。

イスラエル人たちは罪を犯していました。

何の罪を犯したのか私たちは分かりませんが、もしかすると、その罪は、神様がイスラエルのために選ばれた王であるダビデを拒み、アブサロムやシェバに従ったことかもしれません。

とにかく、彼らの罪のために、神様はイスラエルの民を裁くことにされたのです。ところで、それはとても重要なポイントです。

ダビデの意見とは違って(17節)、イスラエル人たちは有罪であり、神の裁きにふさわしい者たちでした。

しかし、「ダビデをそそのかして、イスラエル人たちに向かわせた」とは、いったいどういう意味でしょうか。

神様はダビデに罪を犯させたのでしょうか。

また、歴代誌第一21章によれば、サタンがダビデをそそのかしてイスラエルの人口を数えさせたと書かれています。

では、ダビデの行動は誰の責任だったのでしょうか。

それは難しい疑問です。

けれども、私たちは三つのことを覚えていなくてはなりません。

一つ目は、サタンが常に神の民に敵対して立ち上がるということです。サタンは私たちを滅ぼそうとします。

しかし、ヨブ記の物語から分かるのは、神様がサタンの働きを制限されるということです(ヨブ記1〜2章)。

二つ目は、神様が人々を試すため、あるいは裁くために、その制限を一時的に緩められることがあるということです。

サウル王やアハブ王の場合には、神の裁きが示されました。(第一サムエル記16:14;列王記第一22:19〜23)

ヨブやイエス様(マタイ4:1)の場合には、神様が彼らを試されました。

三つ目は、神様が制限を緩められても、人が罪を犯さなければならないわけではないということです。人は正しいことを選ぶことができます。

ヨブとイエス様は正しい道を選びましたが、サウル王とアハブ王は罪を選びました。

ですから、神様が裁きの目的でサタンへの制限を緩められたとしても、ダビデには選択の余地がありました。そして、彼は罪を選びました。

ダビデ自身、自らの責任を認めています(10節、17節)。

神様がダビデに罪を犯すよう強制されたわけではなく、サタンが彼に罪を犯させたわけでもありません。

むしろ、ダビデは自らの心にある罪によって、罪を犯したのです(ヤコブ1:14)。

おそらく、ダビデの問題はプライドだったのかもしれません。つまり、自分の軍隊の力を誇りたかったのです。そのために、イスラエルの民を数えようとしたのでしょう。

ここで、さらに二つのポイントを指摘したいと思います。

一つ目は、イエス様の十字架のあと、私たちは神の子供として、神の裁きを恐れる必要がないということです。(第一ヨハネ4:14〜19)

イスラエルの民と同じように、私たちも神様の裁きにふさわしい者です。けれども、十字架において、イエス様は私たちの代わりに神の裁きを受けてくださいました。

神様が私たちを懲らしめられることはありますが、私たちは神様の裁きを受けることはありません。(へブル12:5〜11;ローマ8:1)

二つ目は、神様がサタンへの制限を緩められることがあり、私たちが試練や誘惑に直面することもありますが、私たちは罪を選ぶ必要はありません。

むしろ、パウロが言ったように、

あなたがたが経験した試練(別訳;誘惑)はみな、人の知らないものではありません。

神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。

むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(第一コリント10:13)

だから、私たちへの神様の忠実さと愛を信じ、ヤコブの言葉を覚えながら、神様についていきましょう。

試練に耐える人は幸いです。

耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。(ヤコブ1:12)

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サムエル記第二のデボーション

神様が私たちを見るとき

主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたからです。

主は、私の義にしたがって私に報い、手のきよさにしたがって顧みてくださいました。(サムエル記第二23:20-21)

ダビデの人生、特に彼の多くの失敗を考慮に入れると、その言葉は驚くべきものです。

それでも、ダビデはこう言えました。

私は主の道を守り、私の神に対して悪を行ないませんでした。

主のすべてのさばきは私の前にあり、主の掟から、私は遠ざかりませんでした。私は主に対して全き者。

自分の咎から身を守りまます。(22-24)

私は、ダビデが自分の失敗を忘れていたとは思いませんし、その罪を軽視していたとも思いません。

しかし、ダビデは神の恵みを深く理解していました。ほかの詩篇では、ダビデはこう歌っています。

主は、いつまでも争ってはおられない。
とこしえに、怒ってはおられない。

私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、
私たちの咎にしたがって私たちに報いをされることもない。。。

東が西から遠く離れているように、
主は、私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。(詩篇103:9-10,12)

何年か後、神様は預言者イザヤを通して、こう言われました。

わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(イザヤ書43:25)

でも、どれほど私たちは自分の罪と失敗をくよくよするでしょうか。どれほど私たちは自責の念で苦しむでしょうか。

神様は私たちの罪を忘れることを選ばれました。神様はもう二度とその罪のために私たちを責めることはありません。

神様が私たちをご覧になるとき、聖く、傷のない者、また、キリストの義を着ている者として見なされます。

私たちの「義」は不完全なものです。その「義」はしばしば不純な動機に汚されています。

それでも、神様は恵みによってダビデの義を受け入れられたように、私たちの義も受け入れてくださいます。

それでも、神様は恵みによってダビデの義を受け入れられたように、私たちの義も受け入れてくださるのです。

そればかりか、神様は私たちを喜びとされるのです。

主は生きておられる。ほむべきかな。
わが岩。あがむべきかな、わが救いの岩なる神。(47)

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サムエル記第二のデボーション

正義?

「ダビデは神のみ心に従ったでしょうか。」

今日の箇所を読んだ時、私はそう思いました。

サウルはギブオン人たちとの条約に違反して、多くのギブオン人を殺していました。(ヨシュア記9:3〜17)

そのゆえ、イスラエルの土地は霊的に汚され、飢饉が起こりました(民数記35:30〜34)。

その飢饉は三年間続き、ダビデは神様のみ顔を求めました。そして、神様はその飢饉の理由を明らかにされました。

ところが、そのあと、この話は少し霊的に濁ります。

ダビデはギブオン人たちに、何の償いを求めるか尋ねました。

彼らは、サウルの子孫7人を処刑するために引き渡してほしいと願いました。ダビデはその願いを叶えました。

しかし、ダビデは正しいことをしていたのでしょうか。

神様の律法によれば、殺人者の血以外によって土地は宥められることはありませんでした。(民数記35:33)

さらに、その律法によれば、子が父の罪のために殺されてはならなかったのです。(申命記24:16)

最後に、神様は、殺人者がすでに亡くなっている場合については何も命じておられませんでした。

けれども、殺人者が見つからない場合についての戒めはありました。それは、いけにえと祈りによって、その罪が赦されるということです。(申命記21:1〜9)

もしかすると、サウルの場合、神様は少し違う指示を与えられたかもしれませんが、おそらく似たような戒めを与えられたでしょう。

しかし、ダビデは神様にどうすればよいかを尋ねませんでした。

皮肉なことに、ヨシュアも初めてギブオン人たちに出会ったとき、同じような過ちを犯していました。(ヨシュア記9:14)

神様の恵みによって、その飢饉は終わりました。

それでも、ダビデの行為が神のみ心にかなっていなかったことを示唆するものがあるでしょうか。

私は、その示唆があると思います。

つまり、サウルの子孫が殺された後も、その飢饉はしばらく続いたということです。

実は、もう一つの違反がありました。神様の律法によれば、かけられた死体は翌日まで木に残されてはならなかったのです(申命記21:22〜23)。

その死体が埋葬されて初めて、飢饉は終息しました。

私たちはこの話から何を学べるでしょうか。

私たちは神のみ言葉をよく知っているでしょうか。何が神様を喜ばせるか、喜ばせないかを知っているでしょうか。

もし私たちが神のみ言葉を知らなければ、良い意図があっても、神様を喜ばせないことをしてしまうかもしれません。

だからこそ、毎日神のみ言葉を読み、学びましょう。

その言葉によってのみ、私たちは神様をどのように喜ばせることができるかを知ることができます。

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サムエル記第二のデボーション

罪悪感を手放す

王は身を震わせ、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。

「わが子アブサロム。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。

アブサロム。わが子よ、わが子よ。」(サムエル記第二18:33)

私の意見ですが、おそらくダビデはアブサロムの死が自分のせいだと思い、深い罪悪感を抱いていたでしょう。

なぜなら、アムノンがアブサロムの妹タマルを辱めた時、ダビデは何も行わなかったからです。

そして、アブサロムがアムノンを殺したあとも、ダビデは自分に与えられた神の恵みとあわれみをアブサロムに示さず、かえって彼から遠ざかってしまったのです。

でも、19章でヨアブが指摘したように、その罪悪感によって、ダビデとその国が滅ぼされる恐れがありました。

ダビデのように、私たちは自分の罪と失敗のために罪悪感を抱いているかもしれません。

その罪と失敗が、私たちの愛する人々にどのような影響を与えたかを見ると、それは特に苦しいことです。

でも、私たちがその罪悪感を手放して前に進まなければ、私たちの人生は壊れてしまいます。

私たちが自分の罪と失敗を軽視した方がいいと言っているわけではありません。自分の行為がそれほど悪くなかったと自分に言い聞かせようとしているわけでもありません。

むしろ、私たちは自分の罪を神様に告白するべきです。

そして、できれば私たちが傷つけた人に、自分の過ちを認めて、償いをするべきです。

また、私たちは反省して、自分の失敗や罪から学ぶべきです。

でも、そのあと、私たちは神様の赦しを抱くべきです。人々が私たちを許してくれなくても、神様は私たちを赦してくださいます。

罪悪感には私たちを滅ぼす力があります。でも、それは私たちのための神の望みではありません。

イエス様は十字架で、私たちのすべての罪と咎を背負われました。

そして、イエス様の血によって、私たちの罪は清められました(第一ヨハネ1:7)。

神様の目には、私たちはしみ一つない者です。

神様の目には、私たちは傷のない者です(エペソ1:4;5:27)。

私たちは赦されました!

あなたにとっては、それが信じにくいことかもしれません。

でも、それは本当です。

サタンの嘘を信じてはいけません。あなたの罪、あなたの失敗は赦されないものではありません。

神様の目には、あなたはしみ一つない者です。

神様の目には、あなたは傷のない者です。

あなたは赦されました!

だから、パウロの言葉を覚えていて、自分のものにしましょう。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

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サムエル記第二のデボーション

「許せない!」

「許せない!」

アヒトフェルは、ダビデが自分の孫バテ・シェバとその夫ウリヤに何をしたかを知ったとき、たぶんそう言ったのでしょう。(第二サムエル記11:3;23:34)

自分の行為によって、ダビデはバテ・シェバに恥をかかせ、アヒトフェルの家名を汚してしまいました。

だから、私たちはダビデに関するアヒトフェルのアドバイスをよく理解できます。

たぶんアブサロムがダビデの側女たちと寝た場所さえも、アヒトフェルには意義があったのでしょう(第二サムエル記11:2;16:20-22)。

また、どうしてアヒトフェルが兵士ではなく、ただの助言者でありながら、自らダビデを殺す軍隊を率いたかったのか、私たちは理解できます。

でも、最終的に、アヒトフェルはダビデを許せなかったため、自分の人生が壊れてしまいました。

あなたはどうですか。許してあげなければならない人はいますか。

許すとは、
囚人を自由にし、
その囚人が自分であったと分かってくることです。

ルイス・B・スメデス
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サムエル記第二のデボーション

サタンが私たちを責める時

出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者よ。主がサウ ルの家のすべての血に報いたのだ。。。

今、おまえはわざわいにあうのだ。 おまえは血まみれの男なのだから。(サムエル記第二16:7ー8)

たぶん、その言葉はダビデの心に染みたでしょう。

もちろん、ダビデはサウルとイシュ・ボシェテを殺したわけではないし、サウルの王座を奪ったわけでもありません。

それでも、ダビデは殺人者でした。そして、ナタンはダビデに、神様がその罪のゆえにダビデの家の中からダビデの上にわざわいを引き起こす、と言っていました(第二サムエル記12:11)。

だから、シムイの言葉が大分間違っていても、その言葉には真実味がありました。

もしかしたら、そういうわけで、ダビデは、「彼が呪うのは、主が彼に『ダビデを呪え』と言われた。だれが彼に『おまえは、どうしてこういうことをするのだ』と言えるだろうか」と言ったのかもしれません(10節)。

ダビデは自分の罪の実を刈り取っていました。

それでも、神様はダビデを責めていたわけではありません。神様はすでにダビデを赦してくださっていたのです(第二サムエル記12:12)。

さらに、私たちは後で見ることになりますが、神様はダビデの味方でした(第二サムエル記17:14)。

時々、この世界で、私たちは自分の罪の実を刈り取ります。

その時、サタンが私たちを責め、その言葉は私たちの心に染みます。なぜなら、その言葉には真実味があるからです。

でも、私たちがすでに悔い改めたのなら、神様は私たちを責めていないことを覚えておきましょう。

神様は私たちをすでに赦してくださいました。さらに、神様は私たちの味方です。

だから、パウロの言葉を心に留めておきましょう。

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。(神ではありません。)

神が義と認めてくださるのです。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。(イエスではありません。)

死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。 (ローマ8:33ー34)

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私の王がおられるところに

イタイは王に答えて言った。

「主は生きておられます。そして、王様も生きておられます。王様がおられるところに、生きるためでも死ぬためでも、このしもべも必ずそこにいます。」(サムエル記第二15:21)

その言葉は私の心に響きました。

イタイは外国人でした。おそらくピリシテ人で、ダビデがサウルから逃れていた頃に彼に従い始めました。

なぜ彼がピリシテを離れたのかは聖書に記されていませんが、ダビデがついに王となった時、イタイは新しい国、新しい家を見出しました。

しかし今、ダビデは再び逃亡中でした。今回は、息子アブサロムからの逃亡でした。

イタイはエルサレムの居心地の良い家に留まることもできましたが、彼は再びダビデに従う道を選びました。

ダビデは彼に残るよう説得しようとしましたが、イタイはどうしてもダビデと共に行くことを望みました。

彼の言葉を読んで、新約聖書に登場するもう一人の人物を思い出しました。その人はイエス様にこう言いました。

「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」

イエス様はその人に、ダビデがイタイに語った言葉とよく似たことを語られました。

狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。(マタイ8:20)

私たちは、その人がどう答えたかわかりません。彼はイタイのように、「私の主がおられるところに、生きるためでも死ぬためでも、このしもべも必ずそこにおります」と答えたでしょうか。

主よ、あなたは楽な人生を約束されません。しかし、あなたは私を愛してくださっています。あなたは私を救ってくださいました。あなたがおられるところこそ、私の家なのです。

だから、私の王、あなたがおられるところに、このしもべも必ずおります。

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サムエル記第二のデボーション

子どもたちへの赦しと希望の言葉

私たちの子どもたちが大きな失敗をしたとき、私たちはどんなメッセージを伝えるでしょうか。

私たちは彼らから距離を置くでしょうか。

彼らがしたことは許されないという印象を与えるでしょうか。

ダビデはそのようなメッセージをアブサロムに伝えてしまいました。

ダビデがアブサロムを抱きしめ、もう一度自分の愛を伝えていたらよかったのに。

ダビデがアブサロムに、次のような言葉を伝えていたと想像してみましょう。

「私はあなたと同じ立場に立ったことがある。私も人を殺した。しかも、私の理由はあなたの理由よりももっとひどかった。でも、神様は私にご自分のもとに戻る道を備えてくださった。神様はあなたにも、その道を備えることができる。」

ダビデがそう言っていたら、アブサロムは悔い改めたでしょうか。

私はわかりません。そうだったかもしれませんが、私にはわかりません。

しかし、神のいつくしみ深さが私たちを悔い改めへと導いてくださいます(ローマ2:4)。

だからこそ、私たちの子どもたちが大きな失敗をしたとき、その同じ恵みを与え、主のもとに帰る道を示してあげましょう。

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サムエル記第二のデボーション

主に愛された者

彼女は男の子を生み、彼はその名をソロモンと名づけた。主は彼を愛されたので、預言者ナタンを遣わし、主のために、その名をエディデヤと名づけさせた。(「エディデヤ」とは「主に愛されたもの」を意味します)。(サムエル記第二12:24-25)

ダビデは大きな失敗をしていました。自分の罪によって、ダビデは主を蔑んでしまいました。そして、その罪の結果は、ダビデとその家族に長い間、大きな影響を与えました。

それでも。。。

ダビデの悔い改めに伴って、彼は神様の赦しを知りました。そのあと、ダビデはこの言葉を書きました。

東が西から遠く離れているように、
主は、私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。(詩篇103:12)

もし私が神様だったら、たぶんこう言っていたと思います。

「ダビデとバテ・シェバを赦しはするが、この結婚を絶対に祝福しない。」

でも、神様はそのようには考えられませんでした。

ソロモンを「主に愛された者」と名づけることによって、神様はダビデとバテ・シェバにこのメッセージを伝えたかったのだと思われます。

「私はあなたたちをまだ愛している。あなたたちの罪によって、つらい時に直面することになるが、この子どもを見るとき、私の愛があなたたちから取り去られていないことを心に留めなさい。

ソロモンは私の愛する子どもです。あなたたちも、私の愛する子どもたちです。」

そして最終的に、ダビデとバテ・シェバとソロモンを通して、イエス様はこの世に来られました。(マタイ1:6–16)

それは恵みです。それは神の忠実な愛です。

あなたはどんな後悔を抱えているでしょうか。自分の過去の罪の結果によって、今も苦しんでいるでしょうか。

心に留めておきましょう。ダビデとバテ・シェバとソロモンのように、あなたは主に愛されている子どもです。

イエス様にあって、赦しがあり、神があなたのために整えられた道があります。

だからこそ、イエス様と共に、次の一歩を踏み出しましょう。

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サムエル記第二のデボーション

神様がどう思っておられるか

しかし、ダビデが行ったことは主のみこころを損なった。(サムエル記第二11:27)

私の意見ですが、聖書には、特に歴史書(ヨシュア記から歴代誌第二まで)には、上のような言葉がもっと書かれていたらいいのにと思います。

聖書には、時々「良い登場人物」が疑問に思われるような決断、あるいはまったく悪い決断をすることがありますが、神様がそのことについてどう思っておられたかは書かれていません。

私たちはその行動の悪い結果を見るかもしれません。それでも、神様はその人に対して一言の叱責も語られないのです。

だから、私たちはこう思うのです。 「もし神様がその行為を憎んでおられたとしたら、どうして何も言われなかったのだろうか。」

私はしばしばそう感じます。

しかし、心に留めなければならないのは、聖書の著者たちが、私たちがすでに神様がその行為についてどう感じておられるかを知っていることを前提にしている、ということなのです。

なぜなら、私たちは十戒や神の他の律法を知っているし、ほかの箇所では神様が同じような行為にどう反応されたかを知っているからです。

だから、多くの場合、聖書の著者たちはわざわざ「ところで、その人は悪かった」とは言いません。

でも、この場合、著者はわざわざ「ダビデが行ったことは主のみこころを損なった」と書いています。

なぜでしょうか。私はわかりません。

でも、その言葉から、私たちは大切な訓戒を学ぶことができると思います。

時々、ダビデのように、私たちは神様の戒めに違反しても、自分を騙し、自分が別に悪いことをしていないと自分に言い聞かせます。(第二サムエル記11:25)

特に、すぐに悪い結果が現れないとき、また、神様の叱責を感じないとき、私たちは自分を騙してしまいます。

それでも、私たちが行ったことは、神様の御心を損なっています。

神様はその行為をご覧になっています。そして、ある日、私たちは神様のみ前で、自分のことを申し開きしなければなりません。

地上でそうしなければならないかもしれませんし、神様の裁きの座の前でそうしなければならないかもしれません。

でも、いつか私たちは、自分のことを申し開きしなければなりません。

だから、自分を騙してはいけません。むしろ、神様に対して柔らかい心を保ち、私たちの良心が麻痺しないように、神の言葉を無視しないようにしましょう。

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サムエル記第二のデボーション

神の忠実な愛を受ける者として

王は言った。「サウルの家の者で、まだ、だれかいないか。私はその人に神の恵み(つまり、忠実な愛)を施そう。」(サムエル記第二9:3)

上の言葉は、私の心を打ちました。

第二サムエル記7章では、神様がご自分の忠実な愛をダビデに与えられ、ダビデは圧倒されました。

けれども、ダビデは神様に感謝しただけではありませんでした。

むしろ、ダビデは他の人々への神の忠実な愛のパイプラインになりたいと願っていました。

だからこそ、彼は積極的に、誰にその愛を与えられるかを探しました。

ヨナタンへのダビデの愛と約束のゆえに、メフィボシェテが選ばれたのは当然のことでした。(第一サムエル記20:14–15)

しかし、ダビデはメフィボシェテに、自分の忠実な愛だけでなく、神の忠実な愛を示したかったのです。

だから、この話の中で、ダビデはそのように行動しました。

主よ、私は周りの人々への、あなたの忠実な愛のパイプラインになりたいと願っています。

ダビデのように、私が積極的に、誰にあなたの愛を示すことができるかを探すように、私を助けてください。

そして、私と共にいるその人が、あなたの忠実な愛に圧倒され、喜びをもって叫びます。

「いったい私は何者なのでしょうか。神様がこのように私を愛してくださっているとは!」

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サムエル記第二のデボーション

神の忠実な愛

わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。

しかしわたしの恵み(英訳、忠実な愛)は、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない(サムエル記第二7:14-15)

神様はソロモンに関して、ダビデにそのように約束されました。しかし、興味深いのは、パウロがその言葉を少し変えて、私たちに当てはめたということです。

わたしはあなたがたの父となり、 あなたがたはわたしの息子、娘となる。 ──全能の主は言われる。(第二コリント6:18)

パウロが私たちに語っているのは、「ソロモンに関する言葉は、あなたたちにも当てはめられます。なぜなら、神様はあなたたちを、ご自分の子どもと呼ばれるからです」ということです。

たとえ私たちがソロモンのように大きな失敗をし、神様が私たちを厳しく懲らしめなければならなくなったとしても、神様はご自分の忠実な愛を私たちから決して取り去ることはありません。

この大切な真理を心に留めておきましょう。

「私たちの神との関係は、私たちの忠実さではなく、私たちへの神様の忠実な愛に基づいています。」(第二テモテ2:13)

天のお父さん、あなたが私を、ご自分の子どもと呼んでくださることに感謝します。私への、あなたの忠実な愛を与えてくださることに感謝します。

私は何者でしょうか。あなたが私をここまで導いてくださったとは。

私は何度も失敗し、あなたに忠実ではありませんでした。

あなたは大いなる方です。あなたのような方はほかになく、あなたのほかに神はいません。

あなたの言葉と、私への約束はまことです。

だからこそ、この祈りをあなたにささげる勇気を得ました。

天のお父さん、あなたを愛しています。私へのあなたの忠実な愛に確信を持っています。

だから今、あなたに近づき、その愛のうちに安心しています。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちのアイデンティティー

今日、ミカルの話を考えていました。

興味深いことに、第二サムエル記6章では、ミカルは「ダビデの妻」ではなく、「サウルの娘」と呼ばれています。

もしかしたら、第一サムエル記の著者には、それは深い意味がなかったかもしれません。その著者はヨナタンを「サウルの息子」と何度も呼びました。

それにしても、ダビデの友だちであることと、ダビデの妻であることは全く違うことでしょう。

創世記には、モーセが言ったのは、「男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる」ということです。(創世記2:24)

そのように、女も父と母を離れ、その夫と結ばれ、ふたりは一体となるはずです。

でも、ミカルが「ダビデの妻」と呼ばれるのは3回だけです。それに対して、ミカルは8回「サウルの娘」と呼ばれます。

第二サムエル記6章では、ミカルは2回「サウルの娘」と呼ばれています。

それは適切なことだと思います。なぜなら、第一サムエル記15章では、彼女は父サウルと同じように考えていたからです。

つまり、ミカルは周囲の人々の意見を、神様を喜ばせることよりも大事にしたということです。(第一サムエル記15:24,30;18:7–8;第二サムエル記6:16,20)

ミカルがダビデと結婚したとき、前の生活、前のアイデンティティー、前の考え方を捨てたはずです。でも、むしろ、彼女はサウルの娘として生き続けました。

そのように、私たちキリストの教会は、キリストの花嫁として、前の生活、前のアイデンティティー、前の考え方を捨てたはずなのです。

しかし、私たちは本当にそうしているでしょうか。もしかすると、私たちはまだこの世の子として生き、この世の民と同じように考え、行動しているのかもしれません。

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サムエル記第二のデボーション

私たちのリーダーたちのために祈る

私たちは、リーダーたちからしばしばがっかりさせられることがあります。

政治家も教会のリーダーたちも、私たちを失望させる時が多いです。

なぜなら、彼らはただの人間だからです。そういうわけで、彼らには欠点も失敗も多くあります。

ダビデはイシュ・ボシェテよりも強い王だったかもしれませんが、イシュ・ボシェテがアブネルのことをうまく扱えなかったように、ダビデもヨアブのことをうまく扱うことができませんでした。

さらに、王に関する神様の戒めを無視して、ダビデは多くの妻を持っていました。(申命記17:17)

ダビデは、少なくとも一人の妻と政治的な理由で結婚しました。(第二サムエル記3:3)

また、たぶん愛のためではなく、むしろ政治的な理由のために、ダビデはサウルの娘ミカルを自分に返してくれるように要求しました。ミカルの夫は彼女を愛していたのに、ダビデはその要求をしました。

ミカルはどう感じたでしょうか。もちろん、彼女はかつてダビデを愛していました。(第一サムエル記18:28)

しかし、父サウルに悪く扱われ(第一サムエル記25:44)、ミカルは新しい夫と歩んでいくことを選んだようです。

ところが今、彼女はダビデの愛のために他の妻たちと競争しなければなりませんでした。

もしかすると、そういうわけで、彼女はダビデを軽蔑するようになったのかもしれません。(第二サムエル記6:20)

それでも、神様はご自分の目的をダビデを通してもたらしました。

今なお、私たちが神様の目的を理解できなくても、神様は政治家や教会のリーダーたちを通してその目的をもたらされます。

だから、そのリーダーたちのために祈りましょう。彼らの欠点や弱さにもかかわらず、彼らを通して神様がご自分の目的をもたらされるように祈りましょう。

もし、そのリーダーたちが神様をまだ知らないなら、彼らの救いのために祈りましょう。

もし、彼らが神様を知っているなら、神様が彼らを導かれるように祈りましょう。

そしてその導きによって、彼らがリーダーとして、また人間として成長し、彼らに与えられた神様の召しを果たすことができるように祈りましょう。

神様は彼らに恵みを与えてくださっているのです。

その恵みの心をもって、彼らのために祈りましょう。

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サムエル記第二のデボーション

いつまで?

いつまで私たちは怒りや苦々しい思いを持ち続けるでしょうか。

いつ、その怒りと苦々しい思いを手放すのでしょうか。

アブネルはヨアブの弟アサエルを殺していたため、ヨアブともう一人の弟アビシャイはアブネルを殺そうとしました。

しかし、彼らがアブネルを追うにつれて、他の兵士たちも殺されていきました。

そして、太陽が沈んでもヨアブとアビシャイが諦めようとしないのがわかったとき、アブネルは彼らにこう言いました。

いつまでも剣が人を食い尽くしてよいものか。その果ては、ひどいことになるのを知らないのか。

いつになったら、兵たちに、自分の兄弟たちを追うのをやめて帰れ、と命じるつもりか。(サムエル記第二2:26)

後の章で見るように、ヨアブは非常に暴力的な人でした。(アビシャイも暴力的な人でした。)それでも、その日、彼はアブネルの知恵を認めて、帰りました。

あなたはどうでしょうか。心の中に、どんな傷を抱えているでしょうか。

許せない人がいるでしょうか。

自分の怒りのゆえに、相手を傷つけ続けようとしているでしょうか。

私たちの主の言葉に耳を傾けましょう。

「いつまでも剣が人を食い尽くしてよいものか。その果ては、ひどいことになるのを知らないのか。

あなたの怒りを手放しなさい。あなたの痛みを私に委ねなさい。そうすれば、私はあなたを癒します。」

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マタイの福音書のデボーション

私たちの上のキリストの血

すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」(マタイの福音書27:25)

民がその言葉を言ったとき、彼らが意味したのは、「イエスの死の責任を取ります。私たちにその責任を負わせていいです」ということでした。

しかし皮肉なことに、十字架においてイエス様は、私たちの罪の責任を取ってくださいました。

そして今、別の意味で、イエス様の血は私たちの上にあります。

神様が最初の契約を結ばれたとき、モーセは子牛と雄やぎの血をイスラエル人たちに振りかけました。その時、モーセはこう言いました。

これは、神があなたがたに対して命じられた契約の血である。(ヘブル9:20)

どうして、民はその血を振りかけられたのでしょうか。なぜなら、血を流すことがなければ、罪の赦しはないからです。(ヘブル9:22)

しかし、雄牛と雄やぎの血は、実際に罪を除くことはできませんでした。そのいけにえは、ただイスラエル人たちに自分の罪を思い出させるものであり、イエス様の十字架の働きの伏線でした。(ヘブル10:1ー4)

けれども今、イエス様はまことの幕屋、すなわち天に入り、ご自身の血によって私たちの救いを成し遂げてくださいました。(ヘブル9:11ー12)

そういうわけで、イエス様が死なれたとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。その幕は、神とその民の間にある隔ての壁の象徴でした。

そして、イエス様が死なれたとき、神様はこう言われたのです。

「あなたは新しい契約の血を振りかけられました。あなたの罪は赦されました。だから、あなたは自由に私に近づくことができます。」(マタイ26:28)

だから、ヘブル書の言葉を心に留めておきましょう。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブル10:19ー22)

イエス様の血は私たちの上にあります。だから、喜びを持って、神様に近づきましょう。

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マタイの福音書のデボーション

福音の物語における私たちの役割

まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」

すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。(マタイの福音書26:13-15)

その言葉を読んだとき、私が気付いたのは、人々がラザロとマルタの妹マリアとその行為だけではなく(ヨハネ12:1-8)、ユダとその行為をもよく覚えているということです。

マリアはイエス様への愛のために覚えられています。ユダは、イエス様を裏切ることのために覚えられています。

そして、私はこう考えました。神様はエデンの時代から今まで、福音の物語を書き続けておられます。その物語の中で、私はどんな役を演じているのでしょうか。人々は私のことについて何を思い出すでしょうか。彼らは、どんな物語を語るでしょうか。

そして、ペテロのことを考えました。人々は彼のことも覚えています。彼らはペテロの大きな失敗をよく覚えています。ペテロは三度、「イエスを知らない」と言い張りました。けれども、ペテロは神の恵みを受けた者としても覚えられています。

それが福音の中心です。福音は神の恵みについての物語です。福音は、私たちの罪の赦しのために十字架で砕かれたキリストのからだと、流された血潮についての物語です。

自分の罪や壊れた人生を見るとき、私たちはよく落ち込んでしまいます。しかし、マリアとペテロのように、私たちは神の素晴らしい愛と恵みを受けた者です。それが、神様が書き続けておられる福音の物語における、私たちの役割です。

それを喜びましょう。

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マタイの福音書のデボーション

神様を本当に知っている?

あなたのことをよくわかっている。(マタイの福音書25:24、英訳)

イエス様の第二のたとえ話で、悪いしもべはご主人にそう言いました。しかし、そのしもべは実際にはご主人のことをよく理解していませんでした。ご主人に関してゆがんだ考え方を持っていたため、ご主人とは全くかかわりたくなかったのです。

そのしもべと同じように、多くの人々は神様に関して、ゆがんだ考え方を持っています。特に、彼らは神様の戒めや罪の裁きを見ると、「神様は良い方、正義の方」とは言わず、「神様がそのような方なら、神様とは全くかかわりたくない」と言います。

また、ある人たちは神様を知っていると主張しますが、自分の行動によって、実際には神様を知らないことを証明してしまいます。つまり、神様を知っている人は、神の民を愛する者です。

羊とやぎのたとえ話において、私たちはその真理を知ることができます。イエス様によれば、私たちが神の民を祝福するとき、イエス様を祝福しているのです。

しかし、神の民を無視したり、虐待したりするとき、実際にはイエス様に対してそうしてしまっているのです。

(マタイ10:40-42と使徒の働き9:4-5に、その原則が示されています。)

もしかすると、ヨハネはそのたとえ話を思い巡らしながら、この言葉を書いたのかもしれません。

この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。(第一ヨハネ3:17)

私たちは本当に神様を知っているでしょうか。

神様が良い方であると信じているのでしょうか。

そして、神の民を愛しているのでしょうか。

愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。

愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。(第一ヨハネ4:7-8)

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罪の重荷に苦しむ人を支える

また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。(マタイの福音書23:4)

私たちは、パリサイ人たちや律法学者たちのように、神様の律法に余計なルールを付け加えることはないかもしれませんが、自分の罪によって苦しんでいる人たちを責めるのは、案外簡単なことです。

しかし、神様は、私たちが単に人を責めたり、逆にその人の罪を軽視したり、無視したりするのではなく、むしろ力となって、その人が罪を乗り越えることを助けるように望んでおられます。

そうする中で、私たちが神様から恵みと憐れみを受けたように、私たちも彼らに恵みと憐れみを与えるべきです。

だから、私たちの主の心を持ち、その言葉を心に留めておきましょう。

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28-30)

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わたしはあなたの神

死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。(マタイの福音書22:31-32節)

冬休みにハワイに帰ったとき、11年前に父の遺灰が散骨された場所を訪れました。

今日の個所を読んだとき、キリストにある私たちの希望を思い起こしました。

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とおっしゃった神は、今こう語っておられます。

「わたしは、あなたの父ジョージの神である。わたしは、ロブ牧師や、あなたが愛し、私を知っていたすべての人々の神である。さらに、わたしはあなたの神である。

今よりとこしえまで、わたしはあなたの神である。なぜなら、今よりとこしえまで、わたしはインマヌエル、あなたと共におられる神であるから。」

主よ、あなたにある希望を感謝します。あなたは死んだ者の神ではなく、あなたを知っている生きている者の神です。

だから、暗闇の中にいる人々や、絶望している人々に、その希望を伝えることができるように助けてください。今年、私があなたにある希望を彼らに分かち合うことができるように助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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自分が間違っていることを認める

多くの人が、自分が間違っていたと認めたくないものです。私もそうです。

祭司長や律法学者たちも同じでした。彼らは初めから、イエス様とバプテスマのヨハネを正当に評価しませんでした。

さらに、イエス様とヨハネのミニストリーによって変えられた人々を見ても、自分が間違っていたと認めようとはしませんでした。

その結果、彼らは最終的に粉々に砕かれてしまいました(マタイの福音書21:44節)。

それに対して、収税人や遊女たちは、ヨハネとイエス様の言葉を聞いて、謙虚に悔い改めました。そのゆえ、彼らは神様の恵みを受けました。

主よ、私の心が頑なになるときがあります。自分が間違っていると認めたくない時も、たくさんあります。どうか赦してください。私は、あなたと御国のために実を結びたいと願っています。

ですから、私が間違っているとき、それを認める心を、また、すぐに悔い改める心を与えてください。私があなたのようになりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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頑なな心

イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。(マタイの福音書19:8)

しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」(14節)

天のお父様、新年を迎えるにあたり、私が柔らかい心、子どものような心を持つことができますように祈ります。

すなわち、あなたに信頼する心のために祈ります。また、あなたの道が最善であると信じる心のために祈ります。そして、自分の罪にしがみつかず、言い訳をしない心のために祈ります。

あなたが私のために用意された次善のものに甘んじたくはありません。すなわち、あなたの「許し」にだけ満足したくはありません。

むしろ、あなたが私のために計画された最善を望みます。あなたが初めから私のために備えてくださったものを望みます。

ですから、私の心の頑なな部分を示してください。私の心の耕地を開拓してください。今年、あなたの鋤の刃が私の心の地面に深く食い込むように。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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人々をつまずかせる?

わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。

つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。(マタイの福音書18:6ー7)

主よ、私が決してあなたの子どもをつまずかせることがありませんように。私の人生を通して、人々があなたに近づくことを願います。人々をあなたから遠ざけることはしたくありません。

ですから、私のすべての行いとことばを守ってください。私のすべての行いとことばが、あなたの子どもたちを倒すものではなく、むしろ彼らを建て上げるためのものとなりますように。

あなたは、十字架で死なれるほどに、彼らを尊ばれました。ですから、私もあなたのように彼らを尊ぶことができますように。あなたの子どもたちへの愛の心を、私に与えてください。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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私の愛する子に聞け!

「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」。。。(マタイの福音書17:5)

クリスマスはもう終わりました。クリスマスの季節にイエス様のことを考えていた人がいたとしても、今では、多くの人々がイエス様のことをまったく考えていないかもしれません。

それも無理はありません。クリスマスのとき、人々が思い浮かべるイエス様のイメージは、飼い葉桶に寝ている赤ちゃんです。

赤ちゃんのイエス様は、人々に従順を求めることはありません。

しかし、天の父は「私の子に聞け」と命じられます。なぜなら、イエス様は2000年前に生まれた人間にすぎない方ではないからです。

イエス様は神の子です。イエス様は、天の父が愛される御子です。天の父はイエス様を喜ばれます。

ですから、クリスマスが終わっていても、私たちは毎日、天の父の言葉を忘れずに、御子に耳を傾けましょう。そして、それだけでなく、イエス様に従いましょう。

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喜びに動かされて

天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。(マタイの福音書13:44)

このクリスチャン生活を送るとき、私たちは何によって動かされているのでしょうか。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」などの言葉を読むと(マタイ16:24)、私たちは渋々その言葉に従っているのでしょうか。私たちは、ただ何を失うかを考えているのでしょうか。

それとも、その言葉を聞くと、喜びをもってイエス様に従っているのでしょうか。

私たちが捨てるものは、得るものよりも価値がないと、本当に理解しているのでしょうか。

主よ、あなたは良い神です。ですから、私が義務ではなく、むしろ喜びに満ちて、何も惜しまずに、すべてをあなたにささげることができますように。

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イエス様につまずいた?

イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。

目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。

だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」(マタイの福音書11:4-6)

イエス様が私たちの望み通りにしてくださらないとき、私たちは皆、失望することがあるでしょう。

ヨハネも、きっとそのように感じたことでしょう。彼は、イエス様がローマ帝国を倒し、神の御国を確立されることを望んでいました。

しかし、ヨハネは牢に入れられ、最終的には処刑されてしまいました。

それは辛い真理ですが、イエス様が私たちの願い通りに行動されないこともあります。

それでも、ヨハネへのイエス様のメッセージは、私たちへのメッセージでもあります。

「私はあなたの希望です。あなたには今、私が見えないかもしれませんが、私はあなたの益のために働いています。そして、あなたが私に希望を託すなら、最終的にあなたは失望させられることはありません。」

だから、2023年に目を向けるとき、その約束を覚え、ヘブル人への手紙の著者の言葉を心に留めておきましょう。

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。

「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。 遅れることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、 わたしの心は彼を喜ばない。」

しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(ヘブル人への手紙10:35ー39)

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イエス様のようになる

弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。(マタイの福音書10:24ー25)

たぶん、すべてのクリスチャンたちが「私はイエス様のようになりたい」と言うでしょう。

もちろん、イエス様はそれを聞いて、とても嬉しいでしょう。

でも、イエス様のようになることは、いつも楽な人生というわけではありません。

24〜25の前後を読むと、イエス様が私たちに警告しているのは、ある人々が福音を拒絶し、イエス様が迫害されたように、私たちも迫害されるかもしれないということです。

だから、私たちが自分自身に問いかけなくてはならないのは、それを受け入れられるかということです。良いことも悪いことも受け入れるほどに、私たちはイエス様のようになりたいのでしょうか。

イエス様、あなたのようになりたいのです。でも、そのような人生は、いつも楽しくて、楽ではないということがわかります。

時には、あなたが苦しまれたように、私も苦しまなくてはならないのです。また、あなたが拒絶されたように、私も拒絶されることがあるかもしれません。

でも、私には、あなたが私と共におられることが十分です。もし、私があなたのようになることができるなら、私は満足です。

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一言で

ただ、おことばを下さい。(直訳:一言をおっしゃってください。)そうすれば私のしもべは癒やされます。(マタイの福音書8:8)

その百人隊長は、権威と力をよく理解していました。彼は目上の人の権威と力の下に暮らし、自らも権威と力を振るっていました。

目上の人の一言で、彼はすぐにその言葉に従って行動しました。同じように、一言で、百人隊長の僕たちも彼の言葉に従って行動しました。

だから、その百人隊長はイエス様に言いました。「あなたがそのような権威と力を持っておられることを信じます。ですから、一言おっしゃってください。そうすれば、私のしもべは癒やされます。」

百人隊長の反応と比べて、弟子たちの嵐の中での反応を考えてみましょう。イエス様が一言で風と波を静めたとき、彼らは本当に驚いていました。

イエス様が一言で百人隊長の僕を癒し、悪霊を追い出されたのを見たばかりだったのに(13〜16)、弟子たちは本当に仰天しました。

主よ、私の薄い信仰のゆえに、私の目には、あなたが小さく見えることが多くあります。けれども、あなたは小さい方ではありません。

あなたは一言で、病の人を癒し、悪霊を追い出し、嵐を静められます。

一言で、すべてのものを造られ、そしてある日、一言で、すべてを終わらせて、新しい天と地を造ってくださいます(第二ペテロ3:5-13)。

ですから、私が百人隊長のような信仰を持つことができるようにしてください。どんな問題や嵐の中にあっても、あなたに信頼することができるように助けてください。

あなたが大いなる、素晴らしい神であることを感謝します。アーメン。

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マタイの福音書のデボーション

自分の罪に気づく

先日、マタイ6:22ー23を読んだとき、「私の目は健やかなのだろうか?」と考えました。

健やかな目を持っていれば、私は自分の罪や欠点を見ることができるはずです。しかし、自分の罪や欠点を見逃し、周囲の人々のそればかりを見るのは、いかに簡単なことでしょうか。

英語のことわざに、「最も悪い種類の欺瞞は自己欺瞞である」というものがあります。イエス様の言葉を借りれば、もし人が自己欺瞞に陥っているとしたら、その闇はどれほど深いものでしょうか。(マタイ6:23)

(主よ。)だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを 傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。 主よ、わが岩 わが贖い主よ。(詩篇19:12ー14)

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健やかな目?悪い目?

からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。

ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。(マタイの福音書6:22ー23)

上のことばを反芻しながら、私は考えました。「私の目は健やかだろうか。私は物事を正しく見ているのだろうか。」

私は神様からの称賛を、人からの称賛よりも大切にしているだろうか。私は誰を喜ばせたいのだろうか。

また、この世のものを正しく見ているだろうか。その価値を正しく評価しているだろうか。つまり、この世のものよりも、神様とその御国を大切にしているのだろうか。

そして、私は神様のことを正しく考えているだろうか。神様を良い父として見なしているだろうか。神様が私を愛しておられると信じているだろうか。そのことを信じて、私は経済や健康や必要なものについて、過度に心配せずに生活しているだろうか。

主よ、私に健やかな霊的な目を与えてください。私が物事をあるがままに見ることができますように。

私が毎日、あなたの光の中を歩む者となりますように。「いのちの泉はあなたとともにあり あなたの光のうちに 私たちは光を見るからです。」(詩篇36:9)

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従い、信じ、礼拝する

イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」 」マタイの福音書4:4;申命記8:3)

天のお父様、私が欲しいものや必要なものを与えてくださらないときがあります。

それは、それらが悪いものだからではなく、むしろあなたが私に大切なことを思い出させたいからです。

この世のものは良いものであり、大切に思えるかもしれませんが、最終的にそれらは私に豊かな人生を与えることはできません。私に豊かな人生を与えるのは、あなたの口から出る一つ一つのことばによって生きることです。

ですから、イエス様と同じように、私があなたの良いことばに従う者となるように助けてください。(ヨハネ4:34)

イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」(マタイ4:7;申命記6;16;出エジプト記17:7)

天のお父様、あなたが私を本当に愛しておられることを信じています。あなたがいつも私と共にいてくださることを信じています。

ですから、イスラエルの民のようにならず、私が辛いときにもあなたの愛を疑うことがないようにしてください。むしろ、イエス様のように、小さな子どもが良いパパを信頼するように、私があなたに完全に信頼する者となるように助けてください。

そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」(10節;申命記6:13)

天の神様、あなただけが私の礼拝にふさわしいお方です。ですから、毎日、毎秒、私の言葉や思いや行為、すなわち私の命のすべてが、あなたへの礼拝となるようにしてください。私が他のものを礼拝することがないように。私が他のものに仕えることがないように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書のデボーション

クリスマスの祈り

主よ、私が決してあなたのことを当たり前のものだと思うことがないように。あなたの不思議さに心打たれる感動を、いつまでも失うことがないように。

祭司たちと律法学者たちは、感動を失ってしまったようです。彼らは毎日、聖書を学び、さまざまな宗教的な儀式を行っていました。しかし、あなたが生まれたと聞いても、あなたを探し求めようとはしませんでした。

むしろ、彼らは変わらない心で、自分の学びや儀式に戻っていきました。

主よ、私が博士たちのようになれますように。あなたを求め、あなたを見たとき、喜びに満たされ、ひれ伏して礼拝する者となりますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書のデボーション

クリスマスのメッセージ

マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイの福音書1:21)

「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

その言葉を聞いて、ヨセフはとても驚いたでしょう。

「私の息子が自分の民をその罪から救う?どういうことだろう?私の息子がどうやって人々をその罪から救うことができるのだろうか。」

その時、ヨセフは十字架をまったく想像できなかったでしょう。

もし御使いが、「この方はローマ人たちからお救いになる」と言っていたら、ヨセフはたぶんすぐに理解できたでしょう。なぜなら、神様は似た言葉をサムソンの両親に語られたからです(士師記13:5)。

しかし、「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」とは?

現代でも、その言葉を聞いて、ヨセフと同じように戸惑う人は多いでしょう。

もし彼らが自分に救いが必要だと思えば、政府の圧制からの救いを考えるでしょう。または、経済的な問題、健康の問題、家庭の問題などを考えるでしょう。

それらの問題が取り去られれば、喜びと平和を得られると考えるでしょう。

だから、もし彼らが祈ろうと思っても、それらの問題のために祈るでしょう。

けれども、彼らが気づいていないのは、自分の最大の問題が自分の罪であるということです。つまり、自分の罪からの救いを必要としていることに気づいていないのです。

多くの人々は自分の罪を軽んじています。また、自分の行為を罪として認めていません。

その一方で、ある人たちは自分の罪によって罪悪感と後悔を抱いていますが、どうしたらよいかわかりません。

それでも、どちらの場合でも、メッセージは同じです。

「イエス様がご自分の民をその罪からお救いになるために来られました。」

ですから、クリスマスのことを考え、私たちの愛する人々にクリスマスの意味をどのように説明すべきかを考えるとき、そのメッセージの中心を心に留めておきましょう。

イエス様がご自分の民をその罪からお救いになるために来られました。

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サムエル記第一のデボーション

私たちを解放し、賜物を与えてくださる

ダビデは、アマレクが奪い取ったものをすべて取り戻した。ダビデは、二人の妻も救い出した。

子どもも大人も、息子たちも娘たちも、分捕られた物も、彼らが奪われたものは、何一つ失われなかった。ダビデは、これらすべてを取り返した。。。

ダビデはツィクラグに帰って来て、友人であるユダの長老たちに戦勝品の一部を送って言った。

「これはあなたがたへの贈り物で、主の敵からの戦勝品の一部です。」

その送り先は。。。ダビデとその部下がさまよい歩いたすべての場所の人々であった。(サムエル第一30:18-19,26-27,31)

その言葉を読んだとき、私はイエス様についてのパウロの言葉を思い起こしました。

そのため、こう言われています。 「彼はいと高き所に上ったとき、 捕虜を連れて行き、 人々に贈り物を与えられた。」(エペソ4:8)

ダビデが捕虜を敵から解放し、人々に贈り物を与えたように、イエス様もサタンの捕虜である私たちを解放し、贈り物を与えてくださいました。

イエス様は永遠の命を与えてくださいました。

御霊をも与えてくださいました。

教会をも与えてくださいました。

さらに、神の民を強め、他のサタンの捕虜をも解放するために、霊的な賜物を与えてくださいました。

ですから、このクリスマスの季節に、パウロと共に叫び、喜びましょう。

ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(第二コリント9:15)

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サムエル記第一のデボーション

真っ直ぐな人だろうか 

そこでアキシュはダビデを呼んで言った。「主は生きておられる。あなたは真っ直ぐな人だ。」(サムエル記第一29:6)

聖書の中のこのアキシュの言葉は、最も皮肉な言葉の一つです。

アキシュはダビデに言いました。「私はあなたが仕えている神の名によって誓って、真実を言います。あなたは真っ直ぐな人です。」

ところが、アキシュが知らなかったのは、ダビデが一年以上もアキシュに嘘をついていたということです。

そして、アキシュがそれを言った直後、ダビデはもう一度嘘をついて、自分がアキシュに忠実に仕えているしもべであるかのように話しました。

聖書には、その時の神様の思いやダビデの思いは記されていません。

けれども、アキシュの言葉を振り返ったとき、ダビデはこのように祈ったのではないでしょうか。

「主よ。私は大失敗しました。赦してください。私は真っ直ぐな人のように振る舞っていなかったのです。でも、これから、そのような人になりたいです。」

主よ、ダビデと同じように、私はいつも真っ直ぐな人ではありません。私の行為によって、あなたの御名を汚してしまいました。どうか赦してください。

私のすべての言葉、行為、思いが、あなたの目にかなうものとなりますように。

私が立っているあなたの恵みに感謝します。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第一のデボーション

ほかに道はない。。。本当に?

ダビデは心の中で言った。「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない。(サムエル記第一27:1)

それは本当だったでしょうか。ダビデは本当に他の道がなかったのでしょうか。

もし、以前と同じようにダビデが神様に相談していたら、神様はより良い道を示してくださったかもしれません。

確かに、ダビデはその決断によって、一時的にサウルから逃れることができました。

しかし、そうするために、ダビデはアキシュを欺かなければなりませんでした。その結果、第二十八章で、ダビデがペリシテ人の軍隊と一緒にイスラエルと戦うように頼まれることになりました。(二十八章一節)

時々、私たちは道徳的に問題があることをしなければならないと思ってしまいます。そして、その決断によって、私たちの問題が一時的に解決されることもあるかもしれません。

けれども、ダビデの決断と同じように、私たちの決断はさらに多くの問題や、道徳的に問題がある選択へとつながることがあります。

主よ、私は決して「ほかに道はない」と考えながら決断しないようにしてください。

むしろ、正しい道を教えてください。あなたに喜ばれる道を教えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第一のデボーション

傷つけられたとき、どうすればよいか

ダビデがサウルと話すのは、これが最後のときでした。

彼らは和やかに離れましたが、サウルと一緒に帰るほどにダビデがサウルを信頼していなかったことは明らかです。

なぜなら、サウルは何度も自分の約束が頼りないものであることを証明していたからです。

それでも、ダビデはサウルのいのちを尊び、彼を許しました。

虐待のパターンがあるとき、私たちは大切なことを覚えていなくてはなりません。私たちは復讐を求めずに、その人を許すべきです。

しかし、神様は私たちが危険な状況に入ることを求めてはおられません。

つまり、その人が本当に心を入れ替えたことを証明するまで、その人から距離を置いてもよいということです。人が自分が本当に変わったことを示すには時間がかかります。

残念ながら、多くの場合、その時は決して来ません。サウルの場合は、その時は決して来なかったのです。

だから、ダビデから学びましょう。

あなたの虐待者を許しましょう。けれども、その人からの虐待を許してはいけません。

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サムエル記第一のデボーション

健全な良心を保つ

後になってダビデは、サウルの上着の裾を切り取ったことについて心を痛めた。(サムエル記第一24:5)

私たちの良心によって心が痛むとき、私たちはどうするでしょうか。

神様のみ前に柔らかい心を保つため、良心は罪に対して私たちの防衛最前線です。

しかし、良心を無視すると、その良心は麻痺してしまう恐れがあります。(第一テモテ四:二)

私たちの良心が麻痺してしまった兆候は何でしょうか。以前、ある罪を犯したときには心を痛めたけれど、今はもう気にしなくなることです。

何年か後に、ダビデの良心が麻痺してしまい、預言者ナタンはダビデに面と向かって責めなくてはなりませんでした。そのとき初めて、ダビデは悔い改めて、柔らかい心を取り戻しました。(第二サムエル記11-12章)

私たちが健全な良心を保つように努めましょう。そして、ダビデと一緒に歌いましょう。

だれが 自分の過ちを悟ることができるでしょう。

どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを 傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。

そのとき私は、大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと、私の心の思いとが 御前に受け入れられますように。主よ、わが岩 わが贖い主よ。(詩篇19:12ー14」

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サムエル記第一のデボーション

弱さに対する忍耐

ケイラの人たちを批判するのは簡単なことでしょう。なぜなら、ダビデが彼らをペリシテ人たちから救ったのに、彼らはサウルの手に引き渡そうと考えていたからです。

しかし、ジフ人とは違って、ケイラの人たちがサウルに連絡したという証拠はありません。

彼らはそうしていたかもしれませんが、何も言わなくても、サウルは自分の家来たちから、ダビデがケイラの人たちをペリシテ人たちから救ったことを聞いていたでしょう。

おそらく、ケイラの人たちは、サウルがダビデを捕らえるために来るという噂を耳にしたのでしょう。そして、ダビデと周囲の人々の会話を聞いたかもしれません。

「どうしたらいいでしょうか。私たちはダビデをサウルに引き渡してはいけないでしょう。ダビデは最近、私たちを助けてくれたのです。」

「でも、サウル王がノブで何をしたか聞いた?祭司アヒメレクがダビデを助けたことで、サウルは約八十人の祭司たちを殺したそうです。祭司たちですよ。」

「そうでしょう。さらに、私たちは自分自身をペリシテ人たちから守れなかった。どうすれば私たちはダビデをサウルから守ることができるでしょうか。」

たぶん、そのような話を聞いて、ダビデは神様に相談しました。「ケイラの者たちは、私をサウルの手に引き渡すでしょうか。」

神様が「彼らは引き渡す」と言われると、ダビデはケイラの人たちに怒りませんでした。彼らが自分を助けてくれるように要求しませんでした。

むしろ、ダビデはひっそりとケイラを出ました。ダビデは彼らの弱さを理解して、彼らを許しました。

時々、人々は私たちをがっかりさせます。彼らは弱いものだからです。

でも、私たちも弱いものです。それでも、イエス様は毎日、私たちに恵みを与えてくださいます。

だから、パウロの言葉を心に留めておきましょう。

ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。

互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。

主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。(コロサイ3:12ー13)

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サムエル記第一のデボーション

見捨てられたように感じるとき

「おまえたちのだれも、私のことを思って心を痛めてくれない」(第一サムエル22:8)

これは、サウルが自分の家来たちに語った言葉でした。だれもサウルに謀反を企てていないのに、彼はそう思い込んでいました。

同じ頃、洞窟の中で、ダビデも似たようなことを語りました。

ご覧ください。私の右に目を注いでください。私には、顧みてくれる人がいません。私は逃げ場さえも失って、私のいのちを気にかける人もいないのです。(詩篇142:4)

もちろん、サウルはダビデを殺そうとしていました。けれども、ダビデの言葉も正確ではありませんでした。

ヨナタンはダビデをかばい、彼を守ってくれました。

妻ミカルは命がけで、ダビデをサウルから逃がすように助けました。モアブの王も、ダビデの家族の世話をしてくれました。

さらに、四百人の者たちがダビデとともにいました。

それでも、ダビデは逃走中であり、洞窟に隠れていたため、彼の言葉は誇張された反応のように見えます。

しかし、サウルとは違って、ダビデは主に信頼を寄せました。彼は自分の心を神に注ぎ出し、自分の弱さを認めました。それでも、ダビデはこのように言いました。

私の霊がわたしのうちで衰えはてた時にも、あなたは、私の道をよく知っておられます。(詩篇142:3)

主よ、私はあなたに叫びます。「あなたこそ私の避け所、生けるもの地でもの、私の受ける分。」(詩篇142:5)

正しい人たちは私の周りに集まるでしょう。あなたが私に良くしてくださるからです。(詩篇142:7)

だれもあなたのことを気にかけてくれないと思うでしょうか。ちょっと考え直してみましょう。自分が思っている以上に、人々はあなたを愛しているのです。

さらに、すべての人々があなたを見捨てても、神様は決してそうされません。

神様は私たちの道を知っておられます。神様は私たちの避け所です。神様は私たちに良くしてくださいます。

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サムエル記第一のデボーション

神様を拒む者への裁き

サムエル記第一16〜19章では、私たちは三回このような言葉を読みます。「主からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた」(16:14、23;18:10;19:9)。

正直に言うと、これらは難しい言葉です。神様は災いの霊を、災いをもたらすために送ることがあるのでしょうか。どうして、良い神、また愛の神がそのようなことをなさることができるのでしょうか。

厳しい答えですが、それは神様の正当な裁きです。サウルは神様をあえて拒んだからです。

けれども、聖書はこの裁きが、悔い改めの最後のチャンスを与えるものであることを示唆しています。

第一列王記22章では、神様はアハブ王に破滅をもたらすために偽りの霊を送りました。それでも、それと同時に、神様はアハブに警告するために預言者を遣わし、悔い改めのチャンスを与えました。

けれども、以前の話と違って(列王記第一21:27〜29)、アハブは悔い改めようとしませんでした(列王記第一22:17〜28)。

新約聖書でも、同じようなことが見られます。パウロは、悔い改めようとしない罪人に関して、こう語っています。

そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(第一コリント5:5)

黙示録では、神様はいろいろな災害を送られます。悪霊によってもたらされる災害もあるようです。

多くの人々が死にますが、それ以上に多くの人々が生き残っていて、悔い改めのチャンスがあります。しかし、彼らは悔い改めようとしません(黙示録9:20〜21)。

そして、第二テサロニケでは、パウロは終わりの日について語っています。人々が騙されて滅びるために、神様は反キリストをこの世に放たれます。

なぜでしょうか。その理由は明確です。

彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。

それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。

それは、真理を信じないで、不義を喜んでいたすべての者が、さばかれるようになるためです。(第二テサロニケ2:10ー12)

つまり、反キリストとその惑わす力は、人々が真理を愛することを拒否したことに対する神の罰なのです。

神様がサウルやアハブを裁かれたように、終わりの日には、神様は悔い改めることを拒む人々を裁かれるのです。

あなたはどうでしょうか。神様を愛しているでしょうか。真理を愛しているでしょうか。正義を喜んでいるでしょうか。

あなたは、神様にどのように反応するでしょうか。

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サムエル記第一のデボーション

力ある神

信じられませんが、もうそろそろクリスマスですね。

このところ、イザヤ書9:6に思いを巡らしています。その箇所では、メシアは「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれています。

特に、「力ある神」という名前について考えていました。

この言葉は、メシアを強い勇士として描写しています。

ユダヤ人たちがしばしばメシアを「ダビデの子」と呼んだので(マタイ21:9)、ダビデ自身が強い勇士であったことはふさわしいことです。

イスラエル人たちが脅かされ、絶望した時、ダビデは彼らのために戦って、勝利しました。

同じように、私たちが自分の問題に打ちのめされ、絶望している時、私たちのメシアであるイエス様は私たちのために戦って、勝利してくださいます。

だから、どんな苦しみがあっても、私たちの力ある神に望みを託しましょう。

なぜなら、イエス様はあなたを見て、「私はあなたのために戦っている」と言われているからです。

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サムエル記第一のデボーション

心をご覧になる神

人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。(サムエル記第一16:7)

第一サムエル記の中で、あるいは聖書全体の中で、これは最も有名な言葉の一つです。

ダビデの家族でさえ、彼を正当に評価しませんでした。サムエルがエッサイの息子たちに会いたいと言った時、エッサイはダビデのことをすっかり忘れていました。

しかし、人間と違って、神様は私たちの外見ではなく、心をご覧になります。

神様はダビデの心の中に何を見ておられたのでしょうか。神様はそれを直接教えてはくださいませんが、ダビデの生涯を見ると、私たちは彼の心を少し垣間見ることができます。

ダビデは神様を愛する心を持っていました。

ダビデは神様に信頼する心を持っていました。

ダビデは神様に対して柔らかい心を持っていました。

ダビデは時々罪を犯しました。実際、彼は非常に深刻な罪を犯してしまいました。けれども、彼は最終的に悔い改め、再び神様に喜ばれたいという態度を持っていました。

主よ、私がダビデのような心を持つことができますように。あなたを愛する心。あなたに信頼する心。あなたに対して柔らかい心。

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サムエル記第一のデボーション

神様は悔やむことがあるのか?

主のことばがサムエルに臨んだ。「わたしはサウルを王に任じたことを悔やむ。」(サムエル記第一15:10ー11)

「実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔やむこともない。この方は人間ではないので、悔やむことがない。」(29節)

主も、サウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。(35節)

今日、私は上の言葉を反芻しました。

「悔やむ」という言葉は、「気が変わる」と訳すことができます。

神様は悔やむことがないのに、どうして著者は、神様がサウルのことを悔やんだと言うのでしょうか。

また、神様は気が変わることがあるでしょうか。神様は気まぐれな方でしょうか。

たぶん、鍵は29節にあります。

「主は人間ではないので、悔やむことがない。」

別訳では、「主は人間ではないので、気が変わりません。」

ある意味、私たちは神様が悔やむ、あるいは神様の気が変わると言えるかもしれませんが、神様は人間のようにそうするのではありません。

人間の知識には限界があります。そのため、私たちは多くのミスをしてしまいます。また、出来心で愚かな決断をしてしまう時もあります。さらに、私たちは気まぐれで、急に気が変わることもあります。

でも、神様はそのような方ではありません。

神様はすべてのことをご存知です。過去のこと、現在のこと、未来のことの全部を知っておられます。だから、神様はサウルが何をするかをご存知でした。

サウルが罪を犯した時、神様は「私は失敗した。サウルがそのような王になるとは知らなかった」とは言われませんでした。

また、神様は「私は愚かだった。サウルの性格をよく知っていたのに、どうして彼を選んだのだろうか」とは言われませんでした。

むしろ、神様は何が起こるかをよく知っておられました。さらに、神様のなさることにはすべて目的があります。

それでも、神様は感情を持っておられます。神様はサウルが何をするのかをよく知っておられましたが、サウルが実際に罪を犯した時、神様は悲しまれました。

いったいどうして、神様はサウルを選ばれたのでしょうか。

私にはわかりません。

もしかしたら、イスラエル人たちは神様のタイミングを待たずに、「今、王が欲しいです」と言ったからかもしれません。

彼らがもう少し待っていたら、神様の心にかなうダビデを彼らに与えてくださったでしょう。

もしかしたら、イスラエル人たちは、「ほかのすべての国民のよう」な王がどんな人であるかを学ばなくてはならなかったからかもしれません。

神様は彼らに、なぜその要望が悪いのかを教えなくてはなりませんでした。

とにかく、神様がサウルを選ばれた理由があり、その理由は良いものでした。でも、サウルの罪と反抗的な態度を見た時、神様は悲しまれました。神様は「悔やみました」。

それは、神様が失敗したからでも、急に悪い決断をしたことに気づいたからでもありませんでした。むしろ、神様は「こうあらねばならないが、辛い」と言われたのです。

「神様は人間のように気が変わるというわけではありません。」

それは心強い言葉です。

神様は気まぐれな方ではありません。神様の性格は首尾一貫しています。

例えば、神様は罪を裁かれますが、悔い改める罪人には憐れみを喜んで与えてくださいます。(エゼキエル33:10ー16)

聖書には、そのような話が何度も記されています。(列王記第一21:17ー28;列王記第二22:15ー20;歴代誌第二12:5ー8;33:1ー13;ヨナ3章)

また、その憐れみによって、自分の民が他の人のためにとりなすと、神様は裁きをよく先延ばしにしてくださいます。(出エジプト記32:9ー14)

しかし、神様は正義の方なので、最終的にはこう言われます。「もう時間です。この人々が悔い改めようとしないから、私は裁きます。」(エレミヤ7:16;11:14;14:11)

残念なことですが、今日の話では、サウルは心から悔い改めませんでした。むしろ、彼は言い訳をしました。

彼は最後には悔い改めましたが、それは自分の罪を悲しんだからではなく、自分の王位を失うことを恐れたからです。

だから、神様はサウルを裁かれ、イスラエルの王位から退けられました。

では、要約すると、

1.神様の性格は首尾一貫しています。神様は忍耐深く、憐れみ深い方なので、悔い改める人を赦し、改める時間を与えてくださいます。けれども、神様は正義の方なので、最終的には悔い改めようとしない罪人を裁かれます。

2.神様は何をなさっても、良い理由があります。神様は驚かれることがありません。それでも、罪を見ると神様はいつも悲しまれます。そういう意味で、神様は「悔やみます」。

しかし、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、神様はすべてのことを働かせて益としてくださいます」(ローマ8:28)。

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サムエル記第一のデボーション

神様を求めているのか

すると、兵は言った。「あなたが良いと思うようにしてください。」

しかし、祭司は言った。「ここで、われわれは神の前に出ましょう」(サムエル記第一14:36)

兵の言葉は、士師記の時代のイスラエルの態度に似ていました。その時代、「王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていました」。(士師記21:25)

しかし、サウルは王となり、神様を求める者であるはずでした。(申命記17:18-20)

それなのに、イスラエル人たちはサウルにこう言いました。「あなたが良いと思うようにしてください」。

このことは、サウルの生涯を通じて現れた最大の問題でした。彼は口では「神様を求めたい」と言いましたが、神様を求めることを忘れた時もありました。(36)

また、神様を求め始めたものの、すぐにあきらめてしまった時もありました。(19)

さらに、エフタのように(士師記11:30-31)、神様を求める代わりに、神様を操ろうとして愚かな誓いを立てました。

この話を読んで、私は考えました。「神に対する私の態度はどうなのか?」

決断の時、私は本当に神様を求めているでしょうか。それとも、ただ自分が良いと思うことを行っているだけでしょうか。

私の願いをかなえていただくために、神様を操ろうとしているのでしょうか。

それとも、私は本当に神様に仕え、神様の心に従いたいと願っているのでしょうか。

サウルの何年か後、神様は別の王にこう言われました。

主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々御力を現してくださるのです。(歴代誌第二16:9)

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サムエル記第一のデボーション

プレッシャーがかかる時に

サウルは答えた。「兵たちが私から離れて散って行こうとしていて、また、ペリシテ人がミクマスに集まっていたのに、あなたが毎年の例祭に来ていないのを見たからです。

今、ペリシテ人がギルガルにいる私に向かって下って来ようとしているのに、まだ私は主に嘆願していないと考え、あえて、全焼のささげ物を献げたのです。」

サムエルはサウルに言った。「愚かなことをしたものだ。あなたは、あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。」(サムエル記第一13:11ー13)

私たちの人生がうまくいく時、神様に従うのは簡単なことです。でも、大変な時はどうでしょうか。

試練によって、私たちの心の状態がよく現れます。

私は本当に神様に信頼しているのでしょうか。神様の道が最も良い道だと思っているでしょうか。大変なときに神様に従うことが、私たちの最初の本能となるほどに、それを信じているでしょうか。

それとも、私たちは愚かにも自分の道を行くのでしょうか。

サウルの試練によって、サウルの心が現れました。

私たちの試練によって、私たちの心には何が現れるでしょうか。

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サムエル記第一のデボーション

諦めないで

サムエルは民に言った。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。しかし主に従う道から外れず、心を尽くして主に仕えなさい。

役にも立たず、救い出すこともできない、空しいものを追う道へ外れてはならない。それらは、空しいものだ。

主は、ご自分の大いなる御名のために、ご自分の民を捨て去りはしない。主は、あなたがたをご自分の民とすることを良しとされたからだ。(サムエル記第一12:20-22)

時々、私たちは自分の罪と失敗を見て、クリスチャンとして落胆してしまいます。どうして神様が私たちを受け入れることができるのかと疑問に思います。

でも、サムエルの言葉によって、希望を持ちましょう。罪に落ちても、失敗しても、主に従う道から外れず、心を尽くして主に仕え続けましょう。

どうしてでしょうか。なぜなら、主はご自分の民を捨て去りはしないからです。

私たちが素晴らしい者だからではなく、むしろ、神様が素晴らしい方だからです。そして、主は、私たちをご自分の民とすることを良しとされました。

さらに、サムエルがイスラエル人たちのために祈り、正しい道を教えたように、イエス様、そして聖霊様も、私たちのために同じことをしてくださいます。(ローマ8:26〜27、34;ヨハネ14:26;16:13;第一ヨハネ2:27)

だから、諦めないでください。むしろ、サムエルの言葉を心に留めておきましょう。

ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい。

主がどれほど大いなることをあなたがたになさったかを、よく見なさい。(24節)

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サムエル記第一のデボーション

私の祈り

「主の霊があなたの上に激しく下り、あなたも彼らと一緒に預言して、新しい人に変えられます。

これらのしるしがあなたに起こったら、自分の力でできることをしなさい。神があなたとともにおられるのですから。」

。。。サウルがサムエルから去って行こうと背を向けたとき、神はサウルに新しい心を与えられた。(サムエル記第一10:6ー7、9)

天のお父様、あなたが短い間、一人の人のためにしてくださったことを、今やあなたの教会全体のためにしてくださいました。つまり、あなたが私たちに御霊を与えてくださったことです。(使徒の働き1:8;2:1〜18)

サウルが真実ではなかったので、結局、あなたの御霊は彼から離れ去りました。(第一サムエル16:14)

でも、あなたは真実であり、あなたの恵みによって、私たちを見捨てないと約束してくださいました。(第二テモテ2:13;ヘブル13:5)

だから聖霊様、あなたの民に激しく下り、私たちを新しい人に変えてください。私たちに新しい心を与えてください。私たちを導いてください。この国に触れて救うために、私たちを用いてください。

今日、私たちの愛する人々、同僚、隣人、私たちの周りのすべての人に、あなたの愛で触れるように助けてください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第一のデボーション

私の議題、神の議題

サウルのサムエルとの出会いについて読んだとき、私はこう考えました。「どれだけ、神様に祈るとき、私は自分の課題ばかりを持っているだろうか。」

私はよく、自分にとって大きいと思える問題について祈ります。でも、神様の御前に来ると、神様には、より大きな課題があります。

もちろん、神様は私の問題を心にかけてくださり、喜んで助けてくださいます。

でも、私はしばしば、自分の問題にとらわれて、神様のより大きなご計画を見損なってしまいます。

サウルのように、自分が取るに足りない者だと思っていても、実際には、私は神様のご計画の中で大切な役割を担っています。

つまり、神様は私を用いて、周りの人々に触れたいと願っておられるのです。神様は、ご自分の御国のために、私を用いたいと願っておられます。

主よ。私が自分の小さな世界に集中しすぎないように助けてください。私が自分の問題だけでなく、私の周りであなたが何をなさっているかを見ることができますように。

私は、あなたのご計画に参加したいと願っています。どうか、毎日、あなたが私にしてほしいことを教えてください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第一のデボーション

ここまで主が私たちを助けてくださった

サムエルは一つの石を取り、ミツパとエシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった」と言った。(サムエル記第一7:12)

「ここまで主が私たちを助けてくださった。」

振り返ると、神様はいつも困難の中にある私を助けてくださいました。

その問題の中で、神様はいつも私と共に歩んでくださいました。

そういうわけで、この世の問題や不安があっても、私は希望を持っています。なぜなら、神様がご自分が良い方であることを証明してくださったからです。

そして、将来の試練に直面するとき、「ここまで私を助けてくださった主」が、もう一度助けてくださるという確信を持っています。

あなたはどうでしょうか。その確信を持っているでしょうか。

少し時間を取って、これまで神様がどのようにあなたを助けてくださったかを考えてみましょう。そして、その思い出を、家族や友人、スモールグループの仲間たちと分かち合いましょう。

そして、一緒に喜びを持って叫びましょう。「ここまで主が私たちを助けてくださった。」

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サムエル記第一のデボーション

神様を聖なる方とする

だれが、この聖なる神、主の前に立つことができるだろう。(ササムエル記第一6:20)

私たちはしばしば神様の愛と恵みについて話すので、つい、神様との関係を軽んじてしまうことがあります。

そうすると、私たちは大切なことを忘れてしまいます。神様は聖なる方です。だから、私たちは神様を聖なる方としなくてはいけません。

私たちは、神様を魔法のランプの妖精のジーニーのように考えてはいけません。イスラエル人たちが主の契約の箱を戦場に運んだとき、そのような考え方がありました。(4章)

ペリシテ人たちとは違って、私たちは神様をこの世の偽の神々と同じように考えてはいけません。(5章)

そして、神様を軽んじてはいけません。イスラエル人たちは神様を軽んじて、ただの好奇心から契約の箱を開けて、その中を見ました。(6章)

神様は聖なる方であり、私たちの畏れにふさわしい方です。だから、私たちは神様を聖なる方としなくてはいけません。(レビ記22:32〜33、第一ペテロ3:15)

神様は愛の神ですが、天使たちが神様を褒め称えるとき、「愛の神、愛の神、愛の神」とは歌いません。

むしろ、天使たちは「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者」と歌います。(イザヤ書6:3;黙示録4:8)

あなたは、どのように神様を考えているでしょうか。神様を聖なる方としているでしょうか。それとも、神様を軽んじているでしょうか。

ペテロの言葉を心に留めておきましょう。

むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。

「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。

また、人をそれぞれのわざにしたがって公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、この世に寄留している時を、恐れつつ過ごしなさい。(第一ぺテロ1:15ー17)

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主よ、お話しください

主よ、私たちは、あなたのことばがまれにしかなく、幻も示されない国に住んでいます。そして、エリの目がかすんできて、見えなくなったように、多くの人々の霊的な目もかすんできて、見えなくなりました。

でも、サムエルのように、私は言います。「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」

あなたのことばによって、私にご自分を現してください。そして、私を通して、私の周りの人々に語ってください。

相手にとって聞きがたいことでも、私が恐れずにあなたのことばを伝えるように助けてください。私が何も隠さずに、すべてのことを彼らに知らせるように助けてください。

でも、私が語るとき、相手が私の愛を見ることができるように。そして、私を通して、彼らがあなたの愛を見ることができるように。

私の家族や友人や同僚や生徒たちに、あなたの命のことばを伝えるために、私を用いてください。そして、私が見つけた恵みと救いを、彼らも見つけることができるようにしてください。

私の人生でも、彼らの人生でも、あなたのことばが一つも地に空しく落ちることなく、あなたが望まれることを成し遂げるようにしてください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第一のデボーション

見ておられる神、裁かれる神

神様のことを考えると、私たちがあまり考えたくないことの一つは、神様がいつか全世界を裁くということです。つまり、神様が私たちを裁くということです。

でも、神様は私たちの裁判官であり、ある日、私たちを裁かれます。

ハンナはこう歌いました。

主はすべてを知る神であって、もろもろのおこないは主によって量られる。(サムエル記第一2:3,口語訳)

また、

主は地の果ての果てまで裁かれます。主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を高く上げてくださいますように。(10節)

イエス様が神に油注がれた王として、つまり、メシアとしてこの世に来られると、ハンナの言葉は成就します。

そして、裁きの日に、神様はご自分を重んじる者を重んじ、ご自分を蔑む者を軽んじられます。(30節)

エリとその息子たちの人生において、また、サムエルとその母の人生において、それを見ることができます。神様はエリとその息子たちを裁かれましたが、サムエルとその母を重んじられました。

実のところ、私たち皆は裁かれるのが当然なのです。なぜなら、私たち皆が神様に対して罪を犯したからです。

エリはこう言いました。

人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪をおかすなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。(25節)

でも、良い知らせは、この世に来られた時、イエス様が神であるだけでなく、人間でもあったということです。そして、神であり人間として、イエス様は天のお父さんの前で、私たちのためにとりなしてくださいます。

私たちの、いつも生きておられる忠実な大祭司として、イエス様は私たちのためにとりなしをしておられます。

そういうわけで、イエス様は、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことができます。(へブル7:24〜25)

だから、恐れ、喜びましょう。

神様を恐れ、聖なる方としましょう。なぜなら、神様は私たちの行いを量り、裁かれるからです。

でも、それと同時に、喜びましょう。なぜなら、イエス様は、神様を愛してあがめる人々のためにとりなしてくださっているからです。

だから、私たちは喜びと確信をもって、こう言えます。「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)

 

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サムエル記第一のデボーション

私たちの心を知っておられる方

今日の箇所を読んだとき、私が気づいたのは、ハンナの夫はハンナの心、特にハンナの痛みが分からなかったということです。(サムエル記第一1:8〜9)

また、祭司エリも誤解して、ハンナが酔っぱらっていると思いました。(13〜14節)

でも、神様はハンナの心をよく知っておられました。ハンナが声を出さなくても、神様は彼女の心をよく知っておられました。そして、神様はハンナの祈りを聞き、彼女のために行動してくださいました。(19〜20節)

人々は、私たちを誤解するかもしれません。彼らは、私たちのことを全然分かってくれないかもしれません。

でも、神様は私たちの心をよく知っておられます。そして、言葉を使っても、使わなくても、私たちの心を神様に注ぎ出すと、神様は聞き、私たちのために行動してくださいます。

パウロはこう言いました。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身がことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。(ローマ8:26ー27)

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ルツ記のデボーション

偶然ではないのです

それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。(ルツ記2:3)

ルツ記の著者は、ちょっと微笑みながら、その言葉を書いたでしょう。

「はからずも」?

それは、きっと神様の導きでした。

ナオミは、神様が自分を見捨てたと思っていました。でも、神様はまだナオミのために計画を持っておられました。上記の「偶然」は、ナオミだけではなく、私たちにも影響を与えました。

(ネタバレですが、興味があれば、マタイの福音書1:5〜6、16を読んでみてください。)

ナオミにそれがわかってきたので、心の中に希望がよみがえりました。

神様には、偶然はありません。神様は、意図的にご自分の目的を達成しておられます。そして、その計画は、神様を愛する私たちの益のためのものです。(ローマ8:28)

私はこれまで、いろんな「偶然」に出会ってきました。でも、振り返ると、それらは偶然ではありませんでした。そして、神様の私のための計画が明らかになるにつれて、私は神様が良い方であることを、もっと深く知るようになりました。

だからこそ、私は希望を持っています。

たしかに、主は御恵みを惜しまない方です。

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ルツ記のデボーション

飢饉の時の祈り

主よ、士師記の時代のように、私たちは飢饉のある国に住んでいます。多くの人々が霊的に飢えています。

ナオミのように、多くの人々が苦々しい思いを抱えています。彼らは、あなたの御手が自分たちに下ったと思い、あなたが自分たちを卑しくし、辛い目にあわせられたと思っているのです。

私の羊飼いよ、あなたの民を顧みてください。命のパンを与え、恵みを施し、あなたの恵みによって救ってください。彼らがこの世のものではなく、あなたにあって平安を知ることができますように。

ナオミに触れて憐れみと恵みを与えるために、ルツを用いられたように、周りの苦しんでいる人々に触れるために、私を用いてください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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士師記のデボーション

私たちの心はだれのものでしょうか

彼女はサムソンに言った。

「あなたの心が私にはないのに、どうして「おまえを愛している」と言えるのでしょう。」(士師記16:15)

それはとても皮肉な言葉です。なぜなら、デリラの心はサムソンにはなかったからです。デリラの「愛」は、お金への愛でした。

デリラへのサムソンの愛も、薄められたものでした。

さらに、神様へのサムソンの愛も、薄められたものでした。それこそが、サムソンの最大の問題でした。彼の心は、本当は神様のものではなかったのです。

彼が悔い改めたと信じたいです。でも、彼は本当に悔い改めたのでしょうか。私には分かりません。彼の最後の祈りでは、サムソンはイスラエルの福祉よりも、復讐を考えていたように見えます。

彼はイスラエルを「さばいていた」。しかし、神様から委ねられた羊たちを、本当に愛していなかったようです。

たぶん、イスラエル人たちはそれを感じ取っていたのでしょう。彼らはきっと、サムソンに従う心を持っていなかったのです。(士師記15:11〜12)

では、私たちはどうでしょうか。私たちの心は、本当に神様のものでしょうか。そして、神様から委ねられた人たちを、私たちは愛しているでしょうか。(マタイ22:36〜40)

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自分の目か、神様の目か

彼女を私の妻に迎えてください。彼女が私の目に良いと見える。(別訳)(士師記14:3節)

サムソンは下って行って、その女と話した。彼女がサムソンの目に良いと見えました。(別訳)(士師記14:7節)

その二つの箇所では、私たちはサムソンの問題だけではなく、すべてのイスラエル人たちの問題を見ることができます。

多くの場合、彼らは主の目に悪であることを行いました。(士師記2:11;3:7;4:1;6:1;10:6;13:1)

でも、彼らが考えていたのは、「私の目に良いと見えることをしているのだ。」ということです。(士師記17:6;21:25)

サムソンはナジル人に関する神様の命令を軽んじました。彼は、ライオンの死骸に触れましたし(民数記6:6〜7)、一週間の飲み会に参加しました。(民数記6:3〜4)

私たちは後で読みますが、サムソンはもう一つのナジル人に関するルールを違反することになります。

さらに、神様がイスラエル人たちに偶像礼拝する人たちと結婚してはいけないと命じられたのに(申命記7:3〜4)、サムソンはペリシテ人の女性と結婚しようと思いました。

どうしてサムソンはそのようなことをしていたのでしょうか。

もしかしたら、サムソンは、神様の命令が愚かで、無意味なものだと思っていたかもしれません。

もしかしたら、サムソンは、その命令は自分のためではなく、ほかの人々のためのものだと思っていたかもしれません。

もしかしたら、サムソンは、神様よりも何が正しくて良いかを知っていると思っていたかもしれません。

興味深いことは、神様がご自身の目的を果たすために、サムソンの悪い選択を用いられたということです。(4節)

それでも、サムソンは最終的に苦しみを刈り取ってしまいました。彼はその女性に裏切られ、彼女を失ってしまいました。

また、神様の道から外れ、自分の目に良いと見えることを選び続けた結果、さらに苦しみを刈り取ってしまいました。

私たちは、どれだけ神様よりも何が良いかを知っていると考えてしまうでしょうか。

彼や彼女、または夫や妻を選ぶとき。

キャリアのことを考えるとき。

どのように自分の問題を解決できるかと考えるとき。

道徳的な問題を考えるとき。

自分のやり方で何とかなることもあります。

私たちが自分の道を行っても、神様が私たちを用いられることもあります。

でも、サムソンのように、私たちは最終的に苦しみを刈り取ってしまうことがあります。

しかし、神様の道を選ぶとき、私たちはその道が最善であることを学びます。そして、私たちは本当の喜びを知るようになります。

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神様の恵みによって生きる

「マノアは妻に言った。「私たちは必ず死ぬ。神を見たのだから。」

妻は彼に言った。「もし私たちを殺そうと思われたのなら、主は私たちの手から、全焼のささげ物と穀物のささげ物をお受けにならなかったでしょう。

また、これらのことをみな、私たちにお示しにならなかったでしょうし、今しがた、こうしたことを私たちにお告げにならなかったはずです。」」(士師記12:22-23)

毎日、私たちは神様の恵みによって生かされています。私たちの罪のゆえに、私たちは本来、死に値する者です。

しかし、恵みによって、神様は私たちに語りかけ、聖書を通して私たちのための計画を示し、不完全な私たちの手からの供え物を受け入れてくださいます。

神様の恵みを当たり前のものと思うのは、簡単なことです。けれども、今日、時間を取って、その驚くべき恵みの素晴らしさに心を向けましょう。

主よ、あなたの御名は不思議に満ちています。私たちへの恵みと憐れみは、朝ごとに新しく注がれます。

ですから、あなたの恵みによって、私たちを御霊で満たしてください。私たちを祝福し、あなたの御心に従うように、私たちの心を揺り動かしてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちの羊飼いの模範に倣う

エフライム人たちは本当に怒りっぽい人たちでした。8章でも、私たちはそのことを見ました。

そして、傲慢で怒りっぽい人たちは、しばしば愚かなことを言い、人を傷つけてしまいます。

私たちは彼らの行為をコントロールすることはできません。でも、自分の反応をコントロールすることはできます。

では、私たちはどのように反応すべきでしょうか。私たちの羊飼いの模範に従うべきです。

ペテロはこう書いています。

しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。

このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、 あなたがたに模範を残された。

キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。(第一ぺテロ2:20ー23)

エフタのように、イエス様も良いことを行われたのに、言いがかりをつけられ、脅かされました。

しかし、自分の敵を殺したエフタとは違い、イエス様は罪を犯すことなく、すべてを天の父に委ねられました。イエス様は十字架に向かわれ、敵のために祈り、私たちの救いを買い取ってくださいました。(第一ペテロ2:24)

私たちは、さまよっていた羊のようでしたが、私たちの羊飼いは恵みによって私たちを引き戻してくださいました。(第一ペテロ2:25)

イエス様の模範に倣い、私たちを傷つけた人たちに対しても、そのように応答しましょう。

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エフタの誓いから学ぶこと

聖書の中で、これはとても解釈しにくい箇所です。エフタは本当に全焼のいけにえとして神様に娘を捧げたのでしょうか。そうだったとしたら、神様はその行動を認められたのでしょうか。

その二つ目の疑問には、以前のブログで答えています。もしエフタが本当に全焼のいけにえとして娘を捧げたなら、神様はそのいけにえを絶対に受け入れられなかったでしょう。

どうして私はそう思うのでしょうか。それは、モーセを通して神様がそのようないけにえを禁止されたからです。

あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。。。

これらのことを行う者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。(申命記18:10,12)

それでも、多くの聖書の学者は、エフタが娘を全焼のいけにえとして捧げたと考えています。

でも、この箇所には他の解釈もあるでしょうか。多くの聖書の学者はそう考えています。

新改訳によると、エフタはこう言いました。

私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。

でも、ある英語の聖書によると、エフタはこう言いました。

私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来るその者を主のものといたします。もしくは、私はそのものを全焼のいけにえとしてささげます。

つまり、もしエフタが動物を見たら、それを全焼のいけにえとして捧げます(その時代、多くの家では、家畜小屋は家の一階で玄関の隣でした)。

でも、人を見たら、その人をしもべとして神様に捧げるということです。

レビ記27章に、そのような例を読むことができます。その箇所では、もしある人が特別な誓願を立てて、つまりしもべとして誰かを神様に捧げた場合、その人をどうやって買い戻すかの教えがあります。

でも、28節にはこう書かれています。

しかし、人であっても、家畜であっても、自分の所有の畑であっても、人が自分の持っているすべてのもののうち主のために絶滅すべき聖絶のものは何でも、それを売ることはできない。

すべて聖絶のものは最も聖なるものであり、主のものである。

「絶滅すべき聖絶のもの」というのは、「神様に捧げたものであり、それを自分のために取り戻すことができない」という意味です。サムエルの母はそのような誓願を立てていました(第一サムエル1:11)。

もしエフタがそのような誓願を立てていたなら、聖書の教えに合致します。

それに、私たちはエフタの娘の反応を理解することができます。彼女は自分の死について泣きませんでした。彼女は子どもができないことを悲しみました。また、彼女は父から逃げずに、父に従いました。

その解釈を受け入れている学者もいれば、受け入れていない学者もいます。

どの解釈を受け入れるにしても、私たちは聖書を読むとき、神様が何を教えておられるかを考えるべきです。

もし、エフタの行動が罪だったとすれば、私たちは何を学べるでしょうか。それは、聖書をよく知らなければ、神様を喜ばせていると思っていても、実は神様が喜ばれないことをしているかもしれない、ということです。

神の御言葉をよく知っているでしょうか。あなたは本当に神様を喜ばせているでしょうか。それとも、神様の言葉を知らないために、知らず知らずのうちに、神様が憎まれることをしているのでしょうか。

もし、エフタがただ自分の誓いを後悔したのだとすれば、私たちは何を学べるでしょうか。それは、神様への誓いには注意が必要だということです。一度誓いを立てたなら、それを守らなければなりません。

(ただし、神の律法に違反する誓いは別です。そのような誓いは守ってはいけません。(レビ記5:4))

実は、イエス様は「誓わないほうがよい」と教えられました。むしろ、

あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。(マタイ5:37)

つまり、何かをすると言ったなら、それを実行すべきです。神様は、私たちがそのような者であることを望まれます。

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誰に自分を捧げているでしょうか

あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。

つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。(ローマ6:16)

今日の話を読んで、上記のパウロの言葉を連想しました。

イスラエル人たちは、アンモン人とペリシテ人の神々など、いろんな神々に仕え始めました。

どうしてでしょうか。私はわかりませんが、もしかしたら、彼らはその神々を通して、幸せと自由を見つけることができると思ったのかもしれません。でも逆に、アンモン人とペリシテ人たちがイスラエル人たちを苦しめ、打ち砕きました。

私たちはイスラエル人たちが愚かだったと思うかもしれませんが、私たちはどれだけ神様とその道を捨て、この世の神々を求めているでしょうか。

つまり、私たちは出世やセックスやお金やこの世のものを求めているということです。なぜなら、それらにおいて、私たちは自由と幸せを見つけられると思うからです。

でも、私たちに自由と幸せを約束するものは、逆に私たちを奴隷にして、滅ぼしてしまいます。喜びや命を見つけることなく、私たちは恥や苦しみや死を見つけてしまいます。

パウロの言葉を覚えて、その言葉に従いましょう。

以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい。。。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:19ー23)

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知恵にふさわしい柔和さ

あなたがたのうちで、知恵があり、分別のある人はだれでしょうか。その人はその知恵にふさわしい柔和(別訳、謙虚)な行いを、立派な生き方によって示しなさい。(ヤコブ3:13)

今日の箇所を読んで、ヤコブ3章を連想しました。

先生やリーダーには、真の知恵は、その人の柔和な行為や言葉で現れます。

ギデオンはそんな柔和な態度をエフライムの人々に表しました。

でも、そのあと、ギデオンはそうしませんでした。

むしろ、ギデオンは自分(士師記8:4〜17)やその家族(18〜21節)を傷つけられたことに拘って、復讐を求めました。

それに、ギデオンは利己的な思いに駆られました(22〜32節)。

イスラエル人たちが「私たちの王になってください」と願ったとき、ギデオンは断ったけれど、すぐにその時代の王のようにふるまって、イスラエル人の金を受け、金持ちになって、たくさんの妻を持ちました。

さらに、ギデオンは「神様は私たちの王です。私たちは神様に仕えるべきです」と敬虔に言ったのに、彼は自分のために祭司のエポデを作って(出エジプト記28:3〜8)、勝手に礼拝する場所を立て、祭司のように振る舞ったようです。

その結果、イスラエル人たちは神様に背を向けてしまいました(27節)。

ヤコブの言葉を借りれば、そのような知恵は、「上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです」(ヤコブ3:15)。

ギデオンは、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させる泉のようでした。彼の言葉や行為が甘い水のような時もありましたが、苦い水のような時もありました(ヤコブ3:11)。

私たちがそんなリーダーにならないように。私たちが自分の家族のリーダーとして、職場のリーダーとして、教会のリーダーとして、どんなリーダーシップの立場を持っていても、私たちは知恵から産み出す柔和な言葉や行いで特徴づけられるように。

その知恵はどのようなものでしょうか。

しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。

義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。(ヤコブ3:17ー18)

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士師記のデボーション

アドナイ・シャロム

主よ。あなたはアドナイ・シャロム(つまり、主は平安)。

私はあなたの御前に立ち、あなたの御顔を見るに値しません。

逆に、自分の罪のために私は死ぬに値するのです。

でも、あなたは愛を持って、私に言われます。

「安心せよ。恐れるな。あなたは死なない。あなたは生きるのです。

だから行きなさい。わたしがあなたを遣わすのではないか。わたしはあなたとともにいる。あなたは私との平和を持っています。だから、敵であるサタンに抑圧されている人々に私の平和をもたらしなさい。」

ギデオンのように、私は弱いものです。私は取るに足りないものです。でも、あなたの救いをもたらすため、あなたはこの世の取るに足りない者や見下されている者、無に等しい者を用いることを喜ばれます。(第一コリント1:26〜31)

だから、アドナイ・シャロム、ここに私がおります。私を遣わしてください。

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蛇に注意しなさい

今日、私が初めて気づいたことですが、17〜20節では、パウロはエデンの話によく触れていました(創世記3章)。

神様の望みは、アダムとエバが善には聡く、悪には疎くあることでした。

でも、サタンは滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴なエバの心を騙しました。そしてエバは、学んだ教えに背き、サタンの言葉に従い、罪に落ちてしまい、アダムも罪を犯してしまいました。

だから、パウロは私たちに警告します。「蛇に注意しなさい。」

パウロは主に教会の中の偽教師に関して話しています。でも、教会の外にも偽教師がいます。どのように、誰が偽教師であるかわかるでしょうか。

彼らは神の言葉に反することを教えています。

だからこそ、私たちは神様の言葉をよく知らなければなりません。神様の言葉をよく知っていれば、この世の間違った教えに騙されることはありません。

そういうわけで、パウロはローマ人たちにこの手紙を書きました。パウロは、私たちの信仰の基礎を据え、私たちがどのように生きるべきかを教えたいと思いました。

でも、神様の言葉を知っているだけでは、十分ではありません。

私たちはその言葉を信じ、その言葉に従わなくてはなりません。

だから、パウロは一章にあるテーマに戻ります。それは、信仰の従順です(1:5;16:26)。

キリストはすでにサタンに勝利しておられます(創世記3:15)。

イエス様の十字架の働きによって、私たちもその勝利を得るのです(ローマ16:20)。

その真理を覚えて、感謝を持って、毎日聖書を読みましょう。その言葉を信じましょう。そして、その言葉に従いましょう。

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あなたを信じるよ

私の兄弟たちよ。あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています。

ただ、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうために、私が所々かなり大胆に書きました。。。

それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。(ローマ人への手紙15:14-16)

私たちはどれだけ、キリストにある弟たちや妹たちに「あなたを信じるよ」と言うでしょうか。

私たちは彼らにどれだけ、「あなたが、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、人を訓戒し、また、人を祝福することができると確信しています」と言うでしょうか。

もちろん、時々、私たちは彼らに所々大胆に話さなくてはなりません。

時々、私たちは彼らに信仰に関して、根本的な真理を思い起こさせなくてはなりません(ローマ1〜11章)。

時々、私たちは、神様が彼らをどのように生きるように呼んでおられるかを思い起こさせなくてはなりません(ローマ12〜13章)。

時々、彼らが失敗したり、罪に落ちたりして、私たちは彼らに訓戒しなくてはなりません(ローマ14〜15章)。

でも、そのとき、私たちは彼らを見下すことがあるでしょうか。自分が完全に成熟したクリスチャンになったかのように、彼らに関して「その人はまだまだだね」と思うことがあるでしょうか。

もしくは、私たちは彼らのことを信じ続けるでしょうか。聖霊様が彼らの人生に働いて、日々彼らを神に喜ばれるささげ物としてくださっていることを信じているでしょうか。

私たちは、彼らの人生における聖霊様の働きに参加しているでしょうか。

それは、弟子作りです。

イエス様はご自身の弟子たちのためにそうしてくださいました。

パウロはローマのクリスチャンたちのためにそうしてくれました。

そして、私たちはキリストにある弟たちや妹たちのためにそうするように呼ばれています。

聖霊様、神の御国のために人を育てるあなたの働きに参加するように助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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愛によって歩む

今日の箇所の背景と意味をここここで書いています。

でも、今日この箇所を読んだとき、神様は私の心に語り、13ー15の応用をちょっと広げました。つまり、「食べ物」を「行い」として読み替えるように導いてくださいました。

こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。。。

もし(あなたの行い)で、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、

そのような人を、あなたの(行い)で滅ぼさないでください。(ローマ人への手紙14:13,15)

言葉や行いによって、私は人を何度も傷つけたことがあります。

正直に言うと、時々、私は相手が傷つきやすくて過剰反応していると思いました。でも、もし私がその行いを繰り返していたら、私は愛によって歩んでいなかったでしょう。むしろ、私は、キリストが代わりに死んでくださった人を滅ぼしていたでしょう。

だから、私は自分のプライドを捨てて、謝らなくてはなりませんでした。

あなたは、自分の兄弟か姉妹が傷つきやすくて過剰反応していると思ったことがありますか。

それはそうかもしれません。

でも、あなたがその行動をし続けるなら、愛によって歩んでいるのではありません。むしろ、あなたは、キリストが代わりに死んでくださった人を滅ぼしているのです。

私たちはそうしてはいけません。むしろ、

。。。平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。(19節)

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あなたの目には、私の人生が礼拝になるように

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。

そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。(ローマ人への手紙12:1-2)

主よ、あなたは私にあわれみを注いでくださいました。だから、毎日、私の人生をあなたに捧げたいです。

私のすべての思い、すべての言葉、すべての行為があなたの目にかなうように。あなたの目には、私の人生が礼拝になるように。

どうか私の心を新たにしてください。私があなたのように考えるように助けてください。あなたの目には何が良いのか、何が喜ばれるか、何が完全なのかを知りたいのです。

私の人生はあなたのものです。私はあなたのものです。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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誇る理由はありません

あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。

すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。

そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。

思い上がることなく、むしろ恐れなさい。(ローマ人への手紙11:18-20)

今日の箇所では、パウロは異邦人のクリスチャンたちに向かって話しています。彼らは自分の救いに関して誇り、ユダヤ人たちにこう言っていたようです。

「あなたたちはかつて神の民だったかもしれないが、今や、私たち異邦人たちは神の民です。」

でも、パウロは彼らに言いました。

「あなたたちがユダヤ人たちより優れているかのように誇ってはなりません。神様の恵みだけによって、あなたたちは神様の民になったのです。

イエス様は根です。そして、恵みだけによって、イエス様はあなたを支えてくださっているのです。

あなたたちが素晴らしい人たちだから、神様の民になったわけではありません。むしろ、あなたたちは自分の弱さと救いの必要性がわかったから、イエス様を信じたのです。

そして、恵みによって、神様はあなたたちを自分の家族に受け入れてくださいました。だから、あなたたちはいったい何を誇っているのでしょうか。」

たぶん、「私たちはユダヤ人たちよりも優れている人」と自慢するクリスチャンたちは今あまりいません。でも、ほかのクリスチャンよりも、自分が優秀なクリスチャンだと考えることがありますか。

「私はその人よりも成熟したクリスチャンです。

私はその人よりも聖書のことをよく知っています。

私はたくさんの霊的な賜物をいただいています。

神様は私を用いてくださっています。

でも、その人は、そのようなクリスチャンではありません。」

使徒ペテロの態度は私を驚かせました。ほかのクリスチャンたちに書いたとき、こう言いました。

私たちの信仰と対等の信仰を受けた方々へ」(第二ペテロ1:1、別訳)

ペテロは、「私は使徒ですから、私の信仰があなたのよりも優秀なものだよ。だから、私を尊敬をしなくてはならない。」と言いませんでした。

むしろ、ペテロはこう言いました。「神様の目には、あなたの信仰は私たちの信仰と対等なものです。」

どうして、ペテロはそう言ったのでしょうか。なぜなら、ペテロは、自分が根を支えずに、根が自分を支えてくださっていることが分かったからです。

彼の救いは、自分の義によるものではなく、むしろ、キリストの義によるものだと分かりました。(第二ペテロ1:1b)

だから、その謙遜な態度を取りましょう。ほかのクリスチャンたちを見下さずに、私たちの信仰と対等な信仰を受けた人たちとして考えましょう。

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理解できないけれど、感謝しています

「わたしは、わたしの民でない者をわたしの民と呼び、愛されない者を愛される者と呼ぶ。

あなたがたはわたしの民ではない、と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」(ローマ人への手紙9:25-26)

主よ。私はいろんな意味であなたの道が理解できません。

どうしてあなたがある人をあわれんでくださるけれど、ある人を頑なにされるのか、私は理解できません。つまり、私たち皆が罪人で頑なな心を持っているのです。どうして私たち皆を裁かれないのでしょうか。

あなたがどうしてエサウではなく、ヤコブを選ばれたのか、私は理解できません。実のところ、ヤコブもエサウも欠点が多い人たちでした。どうして、そんなに欠点の多い人をイエス様の先祖になるために選ばれたのでしょうか。

どうしてあなたがファラオとエジプト人を裁かれても、イスラエル人たちをあわれんでくださったのか、私は理解できません。エジプト人たちもイスラエル人たちも何回もあなたを拒絶しました。

どうして紅海であなたがエジプト人たちだけではなく、イスラエル人たちをも滅ぼされなかったのでしょうか。

そして、どうしてあなたが私を選んでくださったのか、私は理解できません。私はソドムとゴモラのように滅ぼされるのがふさわしいのです。

でも、なぜか、あなたは私を選び、愛し、自分の民になるように召し、自分の子供としてくださいました。

私は理解できません。でも、私はとっても感謝しています。

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神の律法の弱点

肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。

神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。

それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。(ローマ人への手紙8:3ー4)

今週、ヤイロの娘と長血をわずらっている女の人の話を考えていました。(マルコ5章)

私が気づいたのは、神様の律法は、死体や長血をわずらっている女の人を汚れているものと呼ばれるということです。(レビ記15:25ー32;民数記19:11ー13)

また、律法によれば、汚れているものに触れる人自身も、汚れているものになりました。

でも、律法ができなかったのは、汚れているものを清めることです。

律法はその女の人を癒すことができなかったし、ヤイロの娘を復活させることもできませんでした。

でも、律法ができなかったことを、イエス様はしてくださいました。イエス様はその女の人を癒し、ヤイロの娘を復活させてくださいました。そうすることで、イエス様はその女の人とヤイロの娘を清めてくださいました。

そのように、神様の律法は罪を汚れているものと呼び、罪に触れる人を汚れているものと呼ぶことができました。でも、律法は私たちを清めることができないし、私たちに命を与えることもできません。

それは、律法の弱点です。

でも、律法ができないことを、イエス様はしてくださいました。イエス様は十字架で死んでくださって、私たちの罪を清め、私たちに命を与えてくださいました。

私たちがしなくてはならないのは、一つのことだけです。ヤイロとその女の人のように、イエス様を信じることです。

彼らの信仰によって、その女の人とヤイロの娘は救われました。そのように、私たちの信仰によって、私たちも救われました。

だから、パウロと一緒に喜びましょう。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(1節)

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真のクリスチャンは。。。

真のクリスチャンたちは、罪との戦いに入っています。

クリスチャンになったからといって、私の罪との戦いが終わるわけではありません。私はよく誘惑されています。誘惑に勝つときも、負けてしまうときもあります。

真のクリスチャンたちは、罪を愛するのではなく、罪と戦おうと思います。

私は神の律法が良いものだと疑いません。むしろ、私はその律法を喜び、律法に従おうと努めています。だから、毎日、私は自分の罪と戦います。それでも、私は自分の失敗をよく知っています。

真のクリスチャンたちは、自分の罪を敵と見なします。

だから、私は行ってしまう悪を憎んでいます。また、私は、したいと願う善を行わないとき、フラストレーションを感じます。

真のクリスチャンたちは、自分の罪を見ると、苦しみます。

罪を犯すと、私はその罪を悲しみます。私は悔い改めます。私は本当に自分の罪を捨てたいのです。また、私は、自分の罪をすべて捨てて、イエス様のようになる日を待ち望んでいます。

真のクリスチャンたちは喜びます。

なぜなら、私はイエス様にあって希望を持っているからです。私は罪に定められることは決してありません。むしろ、イエス様の十字架の働きによって、私は神の子供として受け入れてくださいました。

ハレルヤ!

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神との平和

最近、マルコ5章からのメッセージを準備していたので、今日の箇所を読んだとき、イエス様が癒してくださった女の人を連想しました。(マルコ5:25~34)

その女の人は、十二年の間、長血をわずらっていました。その病気のせいで、彼女はのけ者になって、神殿や会堂で神様を礼拝することができませんでした。

でも、信仰をもってイエス様に手を伸ばして触ると、彼女はすぐに癒されました。

そのとき、イエス様は彼女に言いました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して(別訳:平安のうちに)行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」(マルコ5:34)

信仰によって、その女の人は神様の前に義と認められました。だから、彼女は神との平和を持ち、神様に近づくことができるようになりました。

そして、その十二年間の苦しみを振り返ると、彼女は希望を持っていました。なぜなら、神様は愛を彼女の心に注いでくださったからです。

その人の人生は、私たちの人生の描写です。私たちは神様から離れていましたが、信仰によって神との平和を持ち、神の息子たちや娘たちとして神様の前に立っています。

以前、私たちは恥を持って神の栄光を受けることができず、自分の罪によって神様から離れていました。(ローマ3:23)

でも今、恵みによって神の愛している子供たちとして、神の栄光にあずかる望みを喜び、神様に近づきましょう。(ローマ5:2)

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自分の信仰が強められる

不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。(ローマ人への手紙4:20-21)

その言葉を読んで、私は「誰によってアブラハムの信仰は強められたのだろうか」と考えました。

私がいつも思っていたのは、アブラハムが自分の信仰を強めたということです。でも、実際のところ、アブラハムの信仰を強めたのは神様でした。

アブラハムは二回、神様がどうやって自分に男の子を与えるという約束を守ってくださるのだろうかと考えました。神様は二回、アブラハムとの約束を再確認されました。

そして、二回、神様の言葉によってアブラハムの信仰が強められ、アブラハムは神様を信じようと思いました。(創世記15:1~6、17章)

主よ、私の信仰が揺らぐ時もあります。あなたの恵みによって、私のことを諦めないことを感謝します。

私の信仰を強めてください。アブラハムにあなたの良い約束を思い出させたように、私にも思い出させてください。

それは、永遠のいのちという約束です。(ヨハネ3:16)

それは、あなたが私と共におられ、私に力を与えてくださるという約束です。(使徒の働き1:8、へブル13:5)

それは、あなたが私の人生に始められた良い働きを完成させてくださるという約束です。(ピリピ1:6)

また、それは、天に蓄えられている遺産という約束です。(ヨハネ14:2~3)

主よ。あなたは良い方です。あなたはいつもご自分の約束を守ってくださいます。私は、あなたには約束したことを実行する力があると確信しています。

だから、あなたの恵みによって、今日だけではなく、毎日、私はあなたを信じます。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ローマ人への手紙のデボーション

裁判官の立場を取っていませんか

いろんな意味で、パウロの言葉はイエス様の戒めに似ています。つまり、「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」(マタイ7:1~5)

でも、その言葉はどういう意味でしょうか。

多くの人々はその言葉を引用し、「私の罪を指摘してはいけない。私の行為を『罪』と呼ぶな。」と言います。

でも、イエス様とパウロはそう教えていません。

むしろ、彼らが言っているのは、「自分に罪がないかのように人々を裁いてはいけません。回りの人々の罪を指摘する前に、自分の罪を見て、悔い改めなさい。」ということです。

そうすれば、どうなるでしょうか。

私たちは謙虚になります。自分の罪をよくわかっているので、回りの人々の罪を見ても、偉そうな態度を取ることができません。

それに、私たちに対する神の豊かないつくしみと忍耐と寛容がわかっているので、回りの人々を見ると、私たちはそのような態度を取ります。

最後に、回りの人々の罪を見るとき、私たちは単に相手を責めずに、むしろ、その人が私たちのように悔い改めて、神様との関係が回復するように望みます。

でも、私たちが自分の罪を認めず、悔い改めないなら、どうなるでしょうか。

私たち自身が神様に裁かれます。

もう一度言いますが、単に人の罪を指摘するのは、人を裁くことではありません。自分の罪を認めないと、その人は悔い改めることができないからです。

でも、情け深い心を持たずに、ただ人を責めているなら、私たちはイエス様の心を忘れてしまっています。イエス様の使命をも忘れてしまっています。

それは、人々を裁くことではなく、むしろ、人々を救うことです。(ヨハネ1:17)

神様の豊かないつくしみによって、私たちは悔い改めに導かれて、救われました。

人々が私たちを見ると、神の豊かないつくしみを見ることができるでしょうか。

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ローマ人への手紙のデボーション

互いに励まし合う

私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。

というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。(ローマ人への手紙1:11ー12)

今朝、パウロの言葉に私の心は打たれました。私はパウロの心がよくわかります。

毎週の日曜日、教会に行くとき、私は、神様が私を用いて、誰かに触れてくださるように祈ります。

でも神様は、私も他のクリスチャンから強められ、励まされることが必要だと、よくご存知です。

クリスチャンたちが信仰をもって神様を賛美し、喜んで神様に仕える姿を見ると、私は励まされます。

また、彼らが自分の人生に神様がどのように働いておられるかを分かち合うとき、そして彼らを祝福した聖書の箇所を分かち合うとき、私は励まされます。

もちろん、彼らが私のために祈ってくれるときも、私は励まされます。

あなたはどうですか。あなたもそのように感じているでしょうか。

もしそうなら、毎週の日曜日、パウロの態度を取りましょう。互いの信仰によって、毎週励まし合いましょう。

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ユダの手紙のデボーション

神の愛のうちに自分自身を保つ

神の愛のうちに自分自身を保ち(なさい)。(ユダの手紙21)

今朝、私はその言葉を反芻しました。「神の愛のうちに保つ」とは、どういう意味なのでしょうか。

私たちへの神の愛は変わることはないでしょう?

もちろん、私たちへの神の愛は変わりません。けれども、放蕩息子のように、私たち自身が神の愛から立ち去ることはあり得ます。

では、私たちはどのようにして神の愛から立ち去るのでしょうか。

それは、自分の道を選び、神様の恵みを放縦へと変え、神様に従わずに、自分の欲望のままに生きるときです。

また、私たちは主に逆らい、暴言を語ります。神の愛や正義、そして神の良い性格を疑います。その結果、私たちは神様に従うことに価値があるのかどうかを疑ってしまいます。

しかし、私たちはそのように生きないように気を付けるべきです。

むしろ、自分のアイデンティティーを心に留めておきましょう。

あなたは神に選ばれた子供であり、神の祭司です(第一ペテロ2:9)。あなたは神に愛された民であり、イエス様によって、またイエス様のために守られています。(1節、その脚注も参照してください。)

だから、私たちは信仰の土台の上に自分自身を築き上げるべきです。そして、イエス様を私たちの善き支配者、主として認めましょう。毎日、イエス様を信頼し、従うことを学びましょう。

さらに、聖霊様とともに歩み、語り合いましょう。私たちの思いや行動に関して、聖霊様の導きに従いましょう。

そうするなら、私たちは神の愛にますます深く根ざすことができるのです。

その結果、神の愛、イエス様の恵みと憐れみ、そして聖霊の交わりが私たちとともにあります。(第二コリント13:13;ユダ20-21)

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ヨハネの手紙第二のデボーション

真理と愛のうちに歩む

聖霊様、毎日、私が真理のうちに歩むように。

聖霊様、あなたは真理です。(第一ヨハネ5:6)

この世は、神の真理を捨ててしまいました。その代わりに、多くの人々は勝手に自分の真理を作ろうとしています。

でも、聖霊様、私がキリストの真理、つまりキリストの教えにとどまるようにしてください。

すべての真理へと導いてください。毎日、キリストが教えられたすべてのことを私に思い起こさせてください。(ヨハネ14:26、16:13~15)

そして、私がその教えに従うように助けてください。天の父に喜ばれる人生を送りたいのです。

特に、私が毎日、愛のうちを歩むことができるように助けてください。私が神様と周りの人々を愛することができるように助けてください。

あなたが私のうちにとどまり、いつまでも私とともにおられることを感謝します。(ヨハネ14:16~17)

この平和のない世界にあって、私は恐れません。なぜなら、あなたは私と共におられるからです。(ヨハネ14:26~27、16:5~7)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの手紙第一のデボーション

神を偽り者としている?

神を信じない者は,神を偽り者としています。(ヨハネの手紙第一5:10)

その言葉は私の心を打ちました。

神を信じないと、私たちは神を偽り者と呼んでいます。

エデンで、サタンは神を偽り者と呼び、アダムとエバに神様を偽り者と呼ぶことを教えました。(創世記3:3-6)

神の言葉が時代遅れか間違っていると主張すると、私たちは神を偽り者と呼んでいます。

たぶん、多くの人にとって、最も受け入れがたい神の教えは、イエス様だけによって、私たちが神様との関係や永遠の命を得ることができるということです。(ヨハネ14:6)

特に、私たちは神様を知らない愛している人たちを考える時、その真理を信じたくないのです。

私たちは「ほかの道があるはずだ」と考えます。

でもそのようなことを言うと、私たちは神を偽り者と呼んでいます。

ヨハネによれば、水や血や御霊によって、神様は自分の神子が救いの道であると証しをしています。

イエス様がバプテスマを受けた時、神はイエス様のこととその使命に関して証しをしました。(ヨハネ1:29-34)

十字架で、イエス様の血はアベルの血よりもすぐれたことを語りました。(ヘブル12:24)

アベルの血は復讐を叫んでいました。(創世記4:10-11)

イエス様の血は「父よ、彼らをお赦しください」と叫びました。(ルカ23:34、ヨハネ19:34-35)

天の父はその願いを聞き、神殿の幕を裂いて、神様への道を開いてくださいました。(マタイ27:50-51)

そして、五旬節の日、御霊はイエス様の働きに関して証しをし、今なお証しをしています。(使徒の働き2:16-21、ヨハネ15:26、16:7-10、ローマ8:14-17)

だから、その証しを拒絶し、「ほかの道があるはずだ」と言うと、私たちは神様を偽り者と呼んでいます。

私たちは神様とその言葉を疑うことがありますか。

神のみ言葉を曲げないように。特に救いに関する神の言葉を曲げないように。

むしろ、その証しをしっかり握りましょう。そして、私たちの愛している人たちがイエス様を知り、救われるために、その証しを伝えましょう。

その救いを見て、私たちの喜びは本当に満ちあふれます。(第一ヨハネ1:1-4)

その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。

御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(ヨハネの手紙第一5:10-11)

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創世記のデボーション

正しくて、全き人

主は地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。

それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。。。

しかしノアは主の心にかなっていた。。。

ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。

ノアは神とともに歩んだ。(創世記6:5-6,8-9)

ノアのように、私たちは人の悪が増大している世界に生きています。人々の心に図ることがみな、いつも悪に傾いているようです。だから、私たちの主は悲しんでおられます。

でも、今日の箇所を読んだとき、ノアの名前の代わりに自分の名前を入れようと思いました。

「ブルースは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ブルースは神とともに歩んだ。」

正直に言うと、自分の罪や失敗を見ると、神様が私を正しくて全き人と呼ぶのは、想像しにくいです。「私は本当に主の心にかなっているだろうか」と思います。

でも、神様が私に思い出させてくださったのは、私が正しくて全き人と呼ばれている理由は、私が完全な人だからではなく、むしろ、私がただ神様と共に歩み、神様を信頼し、神様に従い、私の主であり創造主としてあがめ、神が良い方であることを信じているからなのです。

私は完全な人ではありませんが、イエス様が私の罪のために十字架で死なれ、私の罪を清め、私にイエスの義を着せてくださったので、神様は私を正しくて全き人と呼ぶことができます。(エペソ1:4、コロサイ1:22)

神様の恵みは本当に不思議だと思います。

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ヨハネの手紙第一のデボーション

闇の中を歩むか、光の中を歩むか

ヨハネの手紙第一3:4~10節は、とても難しい箇所です。その言葉によって、多くのクリスチャンが自分の救いを疑います。なぜなら、その言葉は、罪を犯す人がクリスチャンではないと教えているように見えるからです。

しかし、ヨハネはそのように教えているわけではありません。ヨハネによれば、すべてのクリスチャンは罪を犯します。(ヨハネの手紙第一1:8~10、2:1)

では、ヨハネの言葉はどういう意味なのでしょうか。その答えは、1:6~7にあると思います。

神の真の子供は、闇の中を歩まず、光の中を歩みます。なぜ、彼らはそうするのでしょうか。

それは、彼らが神様を愛し、神様が良い方であると信じ、天の父のようになろうと努めるからです。

闇の中を歩む人は、そのように考えません。むしろ、彼らには神様に対する根深い不信感があります。彼らは、神の良い性格と良い戒めを疑います。

彼らの心の中では、こう言っています。「あなたがそのような神なら、あなたが本当にそのように考えているなら、私はあなたとは関わりたくありません。」

それは、サタンの態度でした。

サタンはエデンで、その態度を人間に伝えました。

現代でも、多くの人々がそのように考えています。

そのような人々は、イエス様とその御父を見たこともなく、知ってもいません。

真のクリスチャンは、そのように考えません。真のクリスチャンは、そのような態度で神様と歩むことはできません。

真のクリスチャンは罪に落ちるかもしれませんが、神様の光がその罪を現すと、そのクリスチャンはすぐに悔い改めます。彼らは言い訳をしません。彼らはその罪を正当化しようとしません。また、彼らは神様の良い性格や戒めを疑いません。

だから、疑問は、私たちが罪を犯すかどうかということではありません。疑問は、私たちが光の中を歩んでいるか、闇の中を歩んでいるかということです。

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩み、罪を告白し、悔い改めるなら、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(1:7)

そして、たとえ自分の心が責めたとしても、神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じです。神様は私たちの愛と、神様を喜ばせようとする心をご存じで、私たちを受け入れてくださいます。

だから、ヨハネと一緒に喜びましょう。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。(1節)

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ヨハネの手紙第一のデボーション

神様と歩む

ヨハネの手紙第一1―2章を読んで、私は神様と歩むとはどういう意味かを考えていました。

たくさんの人々は、神様と歩むと主張します。ヨハネの言葉を借りれば、彼らは神様を知り、神と交わりがあると主張します。

でも、神様を知り、神と交わりがあるとはどういう意味でしょうか。

ヨハネがはっきりと言っているのは、私たちが闇を歩んでいるなら、神と交わりがあると主張することはできないということです。

残念なことですが、たくさんの自称クリスチャンたちはそのような生活を送っています。彼らはみことばを読むと、好きな箇所は受け入れるけれど、好きではない箇所はあっさりと捨ててしまいます。

でも、神様と歩む人は、神様の戒めと道のすべてが良いと信じます。だから、彼らはそれらを抱きます。彼らは神のみことばのすべてを尊重します。彼らの心は神様に属し、彼らはイエスが歩まれたように歩もうと思います。(ヨハネの手紙第一1:5~6、2:3~6)

とはいえ、光の中を歩むとは、私たちが罪のない人生を送ることを意味しません。

しかし、神の光が私たちの罪を明らかにするとき、私たちは言い訳をせずに、その罪を告白し、悔い改めます。

その時、サタンが私たちを責めようとするかもしれません。でも、イエス様は私たちの隣に立って擁護してくださいます。そして、イエス様の血によって、私たちはすべての罪から清められ、神様の怒りはなだめられます。(1:7、2:1~2)

どうして私たちは赦されているのでしょうか。私たちが真実だからですか?違います。神様が真実だからです。(1:9)

どうして私たちは受け入れられているのでしょうか。私たちの義のためですか?違います。イエス様が義なる方だからです。(2:1)

そして、イエス様はご自身の義の衣を私たちに着せてくださいます。

だから、闇の中を歩まないようにしましょう。

また、神の怒りと裁きを恐れて、光に入ることを恐れないようにしましょう。

むしろ、光に入りましょう。いや、光に向かって走りましょう。神様を抱きましょう。神の道を抱きましょう。そして、神様に愛されている子供として、毎日神様の恵みによって歩みましょう。

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ペテロの手紙第二のデボーション

私たちの堅実さを失う

ですから、愛する者たち。あなたがたは前もって分かっているのですから、不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失わないよう、よく気をつけなさい。(ぺテロの手紙第二3:17)

私たちは、どのようにクリスチャンとしての堅実さを失ってしまうのでしょうか。

もっとも簡単な方法は、神様の良いご性質を疑うことです。

例えば、2章にある偽教師たちのように、私たちは神の戒めが私たちのためになるものなのかを疑い始めます。むしろ、私たちは、その戒めを捨てると自由を知ると考え始めます。(2:19)

また、3章にある嘲る者たちのように、私たちは神様の忍耐を不正と取り違えます。イエス様がこの世に帰られることを疑うゆえに、聖なる敬虔な生き方をすることに価値があるかどうかを疑います。

私たちがクリスチャンとしての堅実さを失わないように。

むしろ、この確固とした真理にしがみつきましょう。それは、神様は良い方であるということです。

そして、毎日、私たちに与えてくださる神の恵みを喜び、私たちの主をもっと知ろうとしましょう。

ペテロの言葉を借りれば、

私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。(18節)

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ペテロの手紙第二のデボーション

神のみ言葉に目を留める

また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。

夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。(ぺテロの手紙第二1:19)

「(そのみことば)に目を留めているとよいのです。」

その言葉が私の目に留まりました。🙂

多くの人々は神のみことばを軽んじます。なぜでしょうか。なぜなら、彼らは聖書が実際に神のことばであることを信じていないからです。むしろ、彼らは聖書を人の言葉や発想と見なします。

もちろん、神様は人々を通して語られました。でも、ペテロはそのプロセスについてこう言いました。

ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。

預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。(20ー21節)

ペテロは、ただのディクテーションについて話しているのではありません。むしろ、聖霊の導きによって、人々は、神様が伝えようとする真理を自分の言葉で表明しました。

イエス様は何度もそのみことばの真実性を断言し、私たちがそのみことばを信じなければならないと主張されました。(マタイ5:17~19;ヨハネ5:39、46;10:34~36;ルカ24:25~27)

あなたは、聖書をどのように見なしているでしょうか。ただの人の言葉と見なしているでしょうか。それとも、神のみことばと見なしているでしょうか。

真理がだんだん霞んでいくようなこの世界において、神様のみことばは光のように輝きます。

そして、私たちの明けの明星であるイエス様がこの世に帰られる日まで、そのみことばは私たちを導きます。

そのみことばに目を留めているとよいのです。

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ペテロの手紙第一のデボーション

バビロンに寄留者として生きる

 あなたがたとともに選ばれたバビロンの教会。。。あなたがたによろしくと言っています。(ペテロの手紙第一5:13)

私の教会の夏のメッセージ・シリーズで、牧師はダニエル書から教えていました。そして、私が第一ペテロを読んだとき、考えたのは、「ペテロは、この手紙を書いたとき、ダニエルの話を考えていただろうか」ということです。

ペテロは、その読み手を寄留者と呼びました。(1:1、2:11)

同じように、ダニエルはバビロンに寄留者として生活しました。ペテロ自身は、自分がバビロンにいると言いました。

(ちなみに、ペテロの時代、クリスチャンたちはローマをバビロンと呼ぶことがよくありました。)

また、ダニエルは生ける望みを持っていました。つまり、復活の望みを持っていたということです。(ダニエル書12:2、13;第一ペテロ1:3)

ダニエルの友達の信仰は、文字通り火で精錬されました。(ダニエル3章;第一ペテロ1:7)

ダニエルの信仰も試され、文字通り吼えたけるライオンに直面しました。(ダニエル6章;第一ペテロ5:8)

主は、ダニエルとその友たちの祈りを聞かれ、その敵に反対されました。(ダニエル書1~3、6;第一ペテロ3:12)

主は、ダニエルとその友達を高く上げられ、高ぶっている王たちを低くされました。(ダニエル1~5;第一ペテロ5:5~6)

ダニエルとその友達が何も悪いことをしていないのに苦しんだとき、まるでペテロの手紙を読んでいたかのようにふるまいました。(第一ペテロ2:12~20、3:13~17、4:12~19、5:6~10)

最後に、ダニエル書では、この暗い世界においても、神様がなお治めておられるという素晴らしい真理を見ることができます。(ダニエル2:44、4:34、6:26、7:13~14、27;第一ペテロ4:11、5:11)

この世では、私たちはただの寄留者です。私たちはこの世界に属していません。そして、この壊れた世界で私たちは苦しむこともあります。でも、私たちの試練や苦しみの中で、ペテロとダニエルから学びましょう。

つまり、

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。

堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。(第一ペテロ5:6-11)

 

 

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ペテロの手紙第一のデボーション

不公平

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは。。。あなたがたを神に導くためでした。(ぺテロの手紙第一3:18)

「不公平だ!こんなこと許されない!」

そのような言葉を言ったことがあるでしょうか。私にはあります。

でも、18節を読んだとき、私が気づいたのは、イエス様が最大の不公平を受けていたということです。

イエス様は義人でした。彼は罪を犯したことがありませんでした。それでも、十字架で、イエス様は私たち罪人のために苦しみました。私たちの罪のために苦しみました。

どうしてでしょうか。

私たちを神様に導くためです。

でも、イエス様がただ「公平さ」だけを考えていたとしたら、私たちはどうなっていたでしょうか。

イエス様がそのように考えていなくて、本当に良かったですね。

むしろ、イエス様は私たちのことを心配してくださいました。

イエス様は、天の父と私たちとの関係が回復されることを望まれました。

だからイエス様は、「公平さ」への関心を脇に置かれました。

主よ、人々が私を不公平に扱うとき、私があなたの態度を取るように助けてください。彼らに対するあなたの愛と心配を私に与えてください。

あなたが十字架で苦しんでいた時、私に模範を残されました。私があなたの足跡に従うようにしてください。(第一ペテロ2:21~23)

私が悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、平和を求めるように助けてください。

私を傷つけた相手と私との平和だけではなく、その人とあなたとの平和をも求めるように助けてください。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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ペテロの手紙第一のデボーション

イエス様の血を注がれた者たち

選ばれた人たち、すなわち。。。イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。(ペテロの手紙第一1:1-2)

ペテロがその言葉を書いた時、たぶん、出エジプト記24章7~8節を思い浮かべていたのではないでしょうか。そのとき、イスラエル人たちは神様が記された契約に同意して、こう言いました。

主の言われたことはすべて行います。聞き従います。(出エジプト機24:7)

それを聞いて、モーセは雄牛の血を取って、イスラエル人たちに振りかけ、こう言いました。

見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。(出エジプト記24:8)

イスラエル人のように、私たちはイエス様に従うように選ばれました。

イスラエル人のように、私たちはしばしば神様に従うように誓います。

そして、イスラエル人のように、私たちはその誓いをよく破ってしまいます。

しかし、イスラエル人たちが、自分たちを清める力のない雄牛の血で振りかけられたのに対して(ヘブル10:4)、私たちは、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの尊い血によって振りかけられました。(19節)

その血によって、私たちは清められ、罪は赦されています。(マタイ10:28;第一ヨハネ1:7)

そういうわけで、私たちは恵みと神様との平和を受けています。けれども、それはただの恵みと平和ではなく、豊かな恵みと平安です。(2節)

あなたはクリスチャンとして、基準に達していないと感じていますか。

あなたの希望は、神様に従う自分の力に基づいているものではありません。

むしろ、あなたの希望は、イエス様が現れるときに与えられる恵みに基づいています。(13節)

だから、その日が来るまで、喜びを持って、イエス様について行き、歩み続けましょう。

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ヤコブの手紙のデボーション

イエス様はこの世に帰って来られるから

いろいろな意味で、5章ではヤコブは1章のポイントに戻っています。1章では、ヤコブは試練に直面していた人々を励ましていました。

そして、5章では、ヤコブの要点はイエス様がこの世に帰って来られることです。

そのとき、イエス様は不義を行う人々、また、私たちに傷をつけた人々を裁かれます。(ヤコブの手紙5:1-6)

だからヤコブは、私たちを励ましています。「正義はこの世に来ます。だから、忍耐をもってその正義を待ち望みましょう。ヨブや預言者たちが待ち望んだように、主を待ち望みましょう。そうすれば、やがて神様が良い方だとわかるようになります。」(7-11節)

だから、イエス様が帰って来られるまで、良い時でも悪い時でも、イエス様から目を離さず、イエス様に信頼を寄せましょう。(13節)

また、あなたもイエス様に裁かれるので、自分の行いに注意しなくてはなりません。特に、人間関係における行いに注意しなくてはなりません。(9、12節)

最後に、私たちが苦しんでいる時、私たちは一人で戦う必要がないことを覚えておくべきです。だから、クリスチャンの兄弟姉妹の助けを頼みましょう。また、彼らが苦しんでいる時、特に信仰を失いかけているような時には、彼らを支えましょう。(14-20節)

あなたは今、苦しんでいるでしょうか。ダビデ王とともに歌いましょう。

わたしは信じます、生ける者の地でわたしは主の恵みを見ることを。

主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め。(詩篇27:13-14,口語訳)

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ヤコブの手紙のデボーション

自由をもたらす律法に従う歩み

自由をもたらす律法によってさばかれることになる者として、ふさわしく語り、ふさわしく行いなさい。

あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。

あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。(ヤコブの手紙2:12-13)

主よ、あなたは、自由をもたらす律法、つまり、愛とあわれみの律法に従って生活するように私を召されました。

だから、私が周りの人々に愛とあわれみを与える人になるように。そして、私がその愛とあわれみを与えるにつれて、彼らが解放されるように。

彼らが劣等感から解放されるように。彼らが自分がほかの人々よりも価値がないという考えから解放されるように。(1-4、6節)

でも、それよりも、彼らが罪の鎖から解放されるように。彼らが罪の恥から解放されるように。また、彼らがあなたの裁きの恐れから解放されるように。(ローマ6:5-7、第一ヨハネ4:17-18)

私が周りの人々にあなたの愛とあわれみを与えるにつれて、彼らが神の子供たちの栄光の自由を知るように。(ローマ8:21)

私は完全な信仰を持っていると主張するかもしれないけど、愛がなければ、特に、私の言葉や行いによって表れる愛がなければ、その「信仰」は無益です。私は無に等しいのです。(14-26節、第一コリント13:2)

だから今日、また、毎日、私の人生が、あなたが私に与えてくださった愛とあわれみで特徴づけられますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヤコブの手紙のデボーション

試練の中での私たちの態度

私たちの生活はいつも楽なものではありません。私たち皆は苦しみと試練を経験します。でも、この箇所では、ヤコブは、私たちがどのような態度を持つべきか教えています。

どんな態度を取るべきでしょうか。

1. 神様が良い方であることを覚えていましょう。

神様が私たちを倒そうとしているわけではありません。(ヤコブの手紙1:13)

神様は気まぐれな方ではありません。神様が一瞬間に私たちに優しくして、次の瞬間に理由なく私たちに怒っている、というわけではありません。私たちが忠実でなくても、神様はいつも忠実です。(17節)

神様が私たちの人生に試練を許しても、神様の目的は、私たちが何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となることです。(4節)

そして、私たちの人生が終わり、私たちの最後の試練を通過した後、神様は、神を愛している私たちに、いのちの冠を与えてくださいます。(12節)

そういうわけで、

2. 神様を信頼しましょう。

神様の目的は、私たちが何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となることですが、試練の時、私たちが知恵に欠けているときもあります。

だから、ヤコブは、「神様に求めなさい」と言います。そして、神様は惜しみなく、とがめることなく与えてくださいます。でも、神様に求めるとき、信仰の心を持つべきです。(8節)

信仰の心とは何でしょうか。以前にも言いましたが、神様が良い方であることを信じるべきです。神様が私たちの最善を知り、望むことを信じるべきです。

だから、試練の時、神様に語るのに遅くあるべきです。つまり、不平を言うのに遅くあるべきということです。

神様が試練を許すときに、神様に怒るのに遅くあるべきです。むしろ、神様に聞くのに早くあるべきです。また、神の言葉に従うのに早くあるべきです。そうすれば、私たちは最終的に神の祝福を得ます。(17ー25節)

最後に、

3. 外側を向きましょう。この世には、他の苦しんでいる人々もいます。パウロは、孤児ややもめについて話すけど(27節)、あなたの回りに、誰が苦しんでいるでしょうか。

彼らに触れましょう。内側を向いて、自分の問題を見つめるのは簡単なことですけど、外側を向く人になりましょう。

試練で、あなたは苦しんでいるのでしょうか。どんな態度を持っているでしょうか。

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テサロニケ人への手紙第二のデボーション

神様の御言葉を尊ぶ

最後に兄弟たち、私たちのために祈ってください。主のことばが、あなたがたのところと同じように速やかに広まり、尊ばれるように。(テサロニケ人への手紙第二3:1)

たぶん、私たち皆はパウロのように祈ります。つまり、主のことば、特に神の福音が日本に速やかに広まり、尊ばれるように祈る、ということです。

でも、自分に訊かなくてはならないのは、「私たち神の民は、その言葉を尊んでいるだろうか」ということです。

神様の言葉が日本に尊ばれるために祈るなら、私たち自身がその言葉を尊ぶべきです。

私たちはその言葉を大事にしているでしょうか。

その言葉を定期的に読んでいるでしょうか。

その言葉に思いを巡らせているでしょうか。

また、その言葉に従っているでしょうか。

先日、興味深いことを読みました。

「教会を見つけると、聖書を尊ぶコミュニティーを見つけます。聖書を尊ばない民は、教会ではありません。」

私たちが神の言葉を尊ぶ民になるように祈ります。

もし、クリスチャンの人数が増えることを望むなら、最初に、私たち神の民は毎日み言葉を尊び、「神様、今日、私に何を語っているのですか」と祈るべきです。

主よ、私たちが真実ではないのに、あなたが真実な方であることを感謝します。

私たちがあなたの言葉を尊ぶ民になるように。また、あなたの言葉、特にあなたの福音がこの国に尊ばれるように。

毎日、私たちの心をあなたの愛に向けさせてください。

また、私たちがあなたの御国のために苦しむとき、私たちの心を十字架でのイエス様の忍耐に向けさせてください。

あなたの愛を感謝します。あなたの愛によって私たちは安心しています。私たちに対するあなたの慈しみによって安心しています。

だから、今、私たちに語ってください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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テサロニケ人への手紙第二のデボーション

真理を愛する者として生きる

また、あらゆる悪の欺きをもって、滅びる者たちに臨みます。彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。(テサロニケ人への手紙第二2:10)

現代の世界では、真理、特に道徳的な真理というコンセプトは、なくなりつつあります。かつて道徳的に間違っていると考えられていたことの多くが、もはやそう考えられていないのです。

特にセックスや性的指向、ジェンダーに関して、多くの人々の考え方が変わってきました。彼らが主張しているのは、「時代遅れの考え方」を捨てることが、自由と幸せに至る道だということです。

けれども、その道は、実際には死に至ります。

そして反キリストが来て、いろんな奇跡や印を行うとき、多くの人々は簡単に騙されることになります。なぜなら、反キリストが教えることは、彼らがすでに信じていることだからです。反キリストが彼らのように不義を抱くので、彼らは反キリストを受け入れます。

ローマ人へのパウロの言葉は、現代においてこれまでにも増して真実味があります。

彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。(ローマ1;32)

では、私たちはどうするべきでしょうか。真理を抱きましょう。神のみ言葉が、この世の言葉に反しているなら、神のみ言葉を堅く持ちましょう。

また、パウロの言葉に従いましょう。

ですから、兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。(テサロニケ人への手紙第二2:15)

神の真理を抱くなら、私たちは騙されることを恐れる必要がありません。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

望みをかぶる

しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。(テサロニケ人への手紙第一5:8)

「望みというかぶとをかぶり」という言葉は、私の心を打ちました。

この世界には、多くの人々が希望をあまり持っていません。むしろ、たくさんの人々が絶望の中にいます。多くのクリスチャンたちも絶望しています。

私たちは、この世の問題を見るからです。また、自分の問題を見るからです。

でも、パウロが私たちに促すのは、「絶望の念から守るために、望みをかぶりなさい」ということです。

でも、どんな望みのかぶとをかぶるべきでしょうか。それは、私たちの救いの望みです。

神様がいつかこの世の悪を裁くという希望です。

でも、裁きの日に、私たちが神の御怒りを受けないという希望を持っています。

むしろ、イエス様が私たちの罪のために死なれたから、神様との私たちの関係が回復して、私たちが生きていても、死んでも、イエス様と共にいつまでも歩むという希望を持っています。(9ー10節)

さらに、私たちが不完全な者であり、自分の罪と弱さと戦っているにもかかわらず、神様が私たちを完全に聖なる者とし、私たちの霊、たましい、からだのすべてが、イエス様がこの世に帰るときに、責められるところのない者として保たれているという希望を持っています。(23節)

私たちは、いつも真実ではないかもしれません。

でも、私たちを召された神様は真実ですから、そのようにしてくださいます。(24節)

だから、望みをかぶりましょう。

そして、神様が良い方で、私たちを愛していることを信じる信仰が、私たちの心を守りますように。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

歩み続けましょう。成長し続けましょう。

最後に兄弟たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから、ますますそうしてください。。。

神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。。。

兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちで。。。それを実行しているからです。

兄弟たち、あなたがたに勧めます。ますます豊かにそれを行いなさい。」(テサロニケ人への手紙第一4:1,3,9ー10)

私は以前にも言いましたが、私たちはクリスチャンとして、この世に生きている限り、終点にたどり着くことがありません。言い換えると、天国に着くまで、私たちは完全な者になれないのです。

でも、パウロは私たちに促します。「歩み続けましょう。成長し続けましょう。」

どうしてでしょうか。

なぜなら、神様の御心は、私たちが聖なる者となることだからです。つまり、私たちがますますイエス様のようになることです。神様が望むのは、私たちの行為において、特に私たちの愛において、私たちがイエス様のようになることです。

あなたは神様と歩んでいるのですか。素晴らしいです。ますます歩みましょう。

あなたは毎日神様を喜ばせているのですか。それは良かったです。ますます神様を喜ばせましょう。

あなたは、毎日神様や周りの人々を愛しているのですか。それを聞いて、嬉しいです。ますます愛しましょう。

でも、それらは、神様の愛を得るためではありません。神様の恵みによって、私たちはもうその愛を受けているのですから。(第一テサロニケ1:4)

だから、神の愛されている子供よ。その確信をもって、歩み続けましょう。成長し続けましょう。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

私の動機は何だろうか

私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。

神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。(テサロニケ人への手紙1: 3ー4)

パウロの言葉を読んだとき、私はこう思いました。「私の動機は何だろうか。それは、私に対する神様の愛だろうか。つまり、神様が愛によって私を選び、養子にしてくださったことですか。」

どうして、私はクリスチャンの生活を送るのでしょうか。神様が良い方であると確信しているからでしょうか。

どうして、主に仕えているのでしょうか。神様に対する愛、また、周りの人々に対する愛のゆえに仕えているのでしょうか。

大変なとき、どうして私は我慢するのでしょうか。イエス様にある私の希望のゆえに、我慢できるのですか。

信仰。希望。愛。それらによって、クリスチャンの生活は重荷ではなく、喜びです。

主よ。私の信仰が毎日成長するように。私をあなたの愛に根差してください。そして、苦しむときに、あなたにある私の希望を思い出させてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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コロサイ人への手紙のデボーション

どうして祈るべきか?

たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。(コロサイ人への手紙4:2)

どうして私たちは祈るべきなのでしょうか。パウロのこの指示の中に、私たちはいくつかの理由を見いだします。

「祈りつつ、目を覚ましていなさい。」

この言葉を読んで、私は弟子たちに対するイエス様の言葉を思い起こしました。

誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。(マタイ26:41)

サタンがどのように私たちを攻撃しようとしているか分かるように、私たちは祈ります。

また、私たちは弱い者だから、祈ります。サタンの攻撃や試練に直面するとき、私たちは神様の力が必要なのです。

でも、それだけではなく、神様が私たちの周りで何をなさっているか分かるために、私たちは祈ります。そうすれば、神様から与えられる機会を十分に活かし、私たちは神様の働きに参加できます。(5節)

もうひとつの理由があります。

祈りは、神様が良い方であることを思い出すための時間です。祈るとき、私たちは神様の恵みとあわれみを思い出します。そして、神様の恵みとあわれみを覚えているにつれて、私たちは感謝と喜びをもって歩みます。

だから、毎日、目を覚ましていて、感謝に満ちて祈りましょう。

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コロサイ人への手紙のデボーション

責められることのない者

あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。(コロサイ人への手紙2:10)

ある英訳がとても気に入っています。

あなたがたは、キリストにあって完全なものになったのです。(10)

自分の罪や弱さを見て、「私はあまり良くないクリスチャンだ」と思うことはありませんか。あなたは、キリストにあって満たされています。イエス様にあって、あなたは完全な者とされました。

天の父は、あなたの罪の債務証書を無効にし、十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。

天の父の目には、あなたは聖なる者、傷のない者、責められるところのない者です。(コロサイ1:22)天の父は、あなたに天の相続分にあずかる資格を与えてくださいました。(コロサイ1:15)

あなたは、神の子供です。

だから、悪魔があなたを責めようとするとき、「出て行け」と言いましょう。そして、あなたの心があなたを責めるとき、神様があなたの心よりも大きな方であることを覚えていましょう。

なぜなら、あなたの感情は、あなたに対する神様の愛と恵みを無効にすることはできないからです。

 

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ピリピ人への手紙のデボーション

どんな境遇にあっても、私は強い

私は。。。ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。(ピリピ人への手紙4:12-13)

私が高校生のころから、「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」という言葉が大好きです。

別訳で、「どんな境遇にあっても、私は強いです。なぜなら、キリストは私を強めてくださいますから。」

私は強いです。私の体質のためではなく、むしろ、キリストは私に力を注いでくださっているからです。

良いときだけではなく、悪いときにも私は強いです。

この世やサタンが私にどんな試練やトラブルを投げかけても、私は強いです。

ありとあらゆる境遇にあっても、私は強いです。

主よ、私は自分を見て、たくさんの弱さを見ることができます。だから、「私は強い」と言うと、その言葉が私には合わない気がします。

でも、あなたにおいて、私は強いです。私の弱さのうちにあなたの力は完全に現れるからです。(第二コリント12:9)

だから、どんな境遇にあっても、私は満足です。あなたは私とともにおられるからです。あなたが良い方で、私は感謝します。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ピリピ人への手紙のデボーション

まだ着いていない

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。

兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。

ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。

ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。(ピリピ人への手紙3:12-15)

クリスチャンとして、私たちはいつも成長しているはずですが、この世に生きている限り、私たちは終点に辿り着くことはありません。つまり、私たちは完全な人になることはないということです。

パウロも、自分がすでに到達しているとは思っていませんでした。でも毎日、彼はイエス様をもっと知り、イエス様のようになろうと努めていました。

しかし、パウロが前のものに向かって身を伸ばすにつれて、彼は二つのことを覚えていました。

一つ目は、自分の義ではなく、キリストの義によってパウロが神様に受け入れられていることです。パウロがイエス様とその十字架の働きを信じたので、キリストの「義の通知表」は、パウロの「義の通知表」になりました(9)。

だからこそ、パウロの通知表には「5」しか書いてありませんでした。

そういうわけで、パウロは、神様の愛と受け入れを得ようと努めていたわけではありません。彼は神様の愛と受け入れをもう受けていたからです。

むしろ、神様がパウロを捕らえてくださり、良い計画を持っていることを、パウロはとても喜びました。

そして、その喜びによって、パウロは神様が準備してくださった良いものを捕らえようとして追求していました。

二つ目は、自分の努力が無駄なものではないということです。パウロはこの世に生きている限り、完全になることがないと知っていたけれど、必ずある日、自分が愛しているイエス様のようになると知っていました(21)。

パウロは毎日その希望をもって、生活を送りました。

私たちもその希望をもって、生活を送りましょう。毎日、神様の恵みによって生き、イエス様のようになるように成長し、神様の良い計画を追求しましょう。

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ピリピ人への手紙のデボーション

私たちが世の光として輝けるように

恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。

すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。

そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。(ピリピ人への手紙2:12-16)

天のお父様、あなたは私たちに救いの賜物を与えてくださいました。

あなたは、ヨシュアとイスラエル人たちをエジプトの奴隷状態から救い出されたように、私たちをもサタンの国の奴隷状態から救い出してくださいました。

だから、ヨシュアのように、私たちはあなたの前にひれ伏し、畏敬の念を持って、礼拝します。そして、私たちは言います。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのでしょうか。」(ヨシュア5:14)

主よ、私たちはあなたの教会です。私たちはあなたの民です。だから、日本にあなたの御国をもたらすために、あなたのみこころのままに、私たちのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてください。私たちがあなたの働きに参加するように。

主よ、私たちは曲がった邪悪な世代のただ中にいます。だから、私たちは彼らの間で世の光として輝くように。

この世の人々と違って、私たちがあなたの御言葉を曲げないように。むしろ、私たちがその御言葉をしっかり握るように。なぜなら、その御言葉は、私たちにも、この世の民にも命を与えるものだからです。

また、私たちが、つまり、あなたの教会が非難されるところのない純真な者となり、傷のない神の子どもとなりますように。

私たちが、不平や疑いではなく、あなたの愛で特徴づけられるように。

そして、この世の人々が、あなたの民が互いに愛し合うことを見るにつれて、彼らがあなたに引き付けられるように。

私たちはこの国のために祈ります。私たちの愛する者たちのためにも祈ります。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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エペソ人への手紙のデボーション

御霊を悲しませるとき

神の聖霊を悲しませてはいけません。(エペソ人への手紙4:30)

たくさんの人々は、天の父と御子が人格を持っておられることを認めます。

でも、多くの人は、御霊も人格を持っておられることを認めません。

しかし、スターウォーズのフォースと違って、御霊はただの力ではありません。御霊は人格を持っておられます。そして、御霊も悲しまれるときがあります。

私たちは、神様に対する頑なな心を保つと、御霊は悲しまれます。(18節)

私たちのプライドのゆえに、私たちが神の民の一致を破るとき、御霊は悲しまれます。

私たちの言葉が、恵みではなく、むしろ、無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどに満ちているとき、御霊は悲しまれます。(29、31節)

私たちが御霊を悲しませないように。むしろ、神とその民に対して、謙虚な、柔らかい心を保ちましょう。

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エペソ人への手紙のデボーション

願いと思いを超えて働かれる神

どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に。。。(エペソ人への手紙3:20)

主よ。私があなたを小さな神と見なすことがありませんように。なぜなら、あなたは私が願うところ、思うところのすべてを、はるかに超えて行うことのできる方だからです。

イエスを死者の中からよみがえらせた力は、今、私のうちに働いています。(エペソ1:19–20)

だから、不可能と思われることのためにも、私がためらわずに祈れるように、私を助けてください。また、私が人々やさまざまな問題について祈るとき、もしあなたが私にしてほしいことがあれば、教えてください。

時々、自分の信仰が小さいと感じます。でも、あなたは、ほんのわずかな信仰心で十分だと言われました。(マタイ17:20)

だから、私の小さな信仰を用いてください。そして、私の小さな信仰を増し加えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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エペソ人への手紙のデボーション

神の国に仕えるために造られた

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ人への手紙2:10)

その箇所を読んで、「良い行い」という言葉を反芻しました。

パウロによれば、私たちは良い行いをするために、キリスト・イエスにあって造られました。

でも、「良い行い」とは何でしょうか。それは、ただ聖書を読んだり、祈ったり、教会に行ったり、機会に気づいたら人に親切にしたりすることなのでしょうか。

もちろん、それらは良いことですけれども、パウロは続けてこうう言います。

その良い行いをもあらかじめ備えてくださいました。

神様が私たちのために、もっと具体的なプランを持っていることに聞こえます。

神様は、私たちそれぞれのために役割を整えておられました。だから、神様を求めて、私たちの役割が何であるかを訊きましょう。

天のお父様、私が生まれる前に、あなたは私のために良い計画を持っておられました。その計画は、私があなたの御国に仕え、周りの人々にあなたの愛で触れることです。

だから、聖霊様、私に語ってください。あなたが私のためにあらかじめ整えてくださった良い行いを教えてください。

わが主は、何をこのしもべに告げられるのでしょうか。聖霊様、私に教えてください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

御霊と共に歩む

私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。(ガラテヤ人への手紙5:25)

聖霊様、あなたのおかげで、私は命を受けています。あなたは私の罪を清め、私を新しくしてくださいました。(テトス3:5)

だから、これからも私を導いてください。私がどの道を歩むべきか、ささやいてください。一瞬一瞬、あなたと歩調を合わせるように、私を助けてください。

そうすれば、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が、私の心から自然に流れ出ることを、私は知っています。

何にもまして、私はあなたを喜ばせたいのです。

私が間違った道を歩み始めたら、正しい道へと導いてください。

私の目があなたから離れないようにしてください。私が一歩一歩、あなたについていけますように。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

味わった幸福を失わないために

あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。(ガラテャ4:15、新共同訳)

天のお父様、私が味わった神の子供としての幸福を、決して手放すことのないよう、あなたの愛にとどまらせてください。

私の罪や失敗や弱さのゆえに、救いの確かさを疑うことなく、あなたを信頼し続ける者でいられますように。

主よ、私があなたの歓心を買おうとするのではなく、ただ恵みによって生きることを教えてください。

私はもはや奴隷ではありません。私は暴君の神の罰を恐れていません。

私は愛深い天の父の子供です。

アバ、父よ。私に対するあなたの愛を確信をもって、あなたのみもとに来ます。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

神の子供

多くのクリスチャンたちは、よく疑いをもって、「神様は自分の子供として私を本当に受け入れておられるだろうか」と考えます。

なぜなら、彼らは自分の罪と失敗を見るとき、「いったいどうして、神様は私を受け入れてくださるだろうか」と考えるからです。

でも、パウロは大切な質問を投げかけます。

あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。(ガラテヤ人への手紙3:2)

言い換えると、「どうして、神様はそもそもあなたを受け入れたのですか。なぜ神様は御霊を遣わして、あなたのうちに住まわせたのですか?」

あなたは何とか一年ぐらい完全に律法を守ることができたからでしょうか。1週間ぐらいその律法を守ることができたからでしょうか。一日ぐらいその律法を守ることができたからでしょうか。一時間ぐらいその律法を守ることができたからでしょうか。

違います。

あなたがイエス様とその十字架の働きを信じたからです。

そして、神様は試用期間で私たちを自分の子供として受け入れるのではありません。

ある会社はそのように人々を採用するかもしれません。

でも、神様はそのように自分の子供を養子にされません。

だから、神の子供としての自分のアイデンティティを心に留めておきましょう。

あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子供です。(26節)

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

救いの不思議さを思い巡らす

私たちはどれほど、自分の救いの不思議さを思い巡らすでしょうか。

パウロはよくそうしていました。

しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が。。。御子を私のうちに啓示することを良しとされた。。。(ガラテヤ人への手紙1:15-16)

パウロは自分のことについて話していましたが、その言葉は私たちにも当てはめることができます。

私たちが自分の母の胎にあるときから、神様は私たちを選び出してくださいました。

そして、ご自身のタイミングで、神様は恵みをもって、私たちを召してくださいました。

さらに、その同じ恵みによって、神様は私たちの周りの人々を救うために、私たちの人生を通して御子を現してくださいます。

その言葉を考えてみましょう。

想像してください。あなたが自分の母の胎にいるとき、神様はあなたを見て、「あなたを選びます」と言われました。

また、あなたを神様に近づけた色々な小さな「偶然」を思い起こしてみましょう。

そして、少し考えてみてください。あなたは不完全な者なのに、神様はあなたを用いて人々に御子を現すことを良しとされています。

そのすべてのことの不思議さを思い巡らしましょう。

神様の恵みの不思議さを思い巡らしましょう。

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ヨシュア記のデボーション

一心に神を愛する

今日の箇所を読んだとき、私には「一心」、つまり「一心に神を愛する」という言葉が思い浮かびました。

夫か妻がたくさんの恋人を持つ配偶者を許さないように、神様は二心のある人を受け入れられません。

それでも、私たちの心はすぐにさまよってしまいます。

イスラエル人のように、私たちが主に仕えると約束するのは簡単なことです。

ペテロのように、イエス様に対する忠誠を誓うのは簡単なことです。(マタイ26:33-35)

でも、多くの場合、この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかのいろいろな欲望が入り込んで、イエス様に対する愛を塞いでしまいます。(マルコ4:19)

主よ。あなたは私の気まぐれでさまよっている心をよく知っておられます。

私があなたの御名を恐れるように、私の心を一つにしてください。(詩篇86:11)

あなたの恵みは私に対して大きなものです。(詩篇86:13)

私は真実でなくても、あなたは常に真実でおられます。(第二テモテ2:13)

あなたを一心に愛さずにはいられないほど、私の心があなたの愛で満たされるようにしてください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ヨシュア記のデボーション

神の尊く大いなる約束

見よ。今日、私は地のすべての人が行く道を行こうとしている。

あなたがたは心を尽くし、いのちを尽くして、知りなさい。あなたがたの神、主があなたがたについて約束されたすべての良いことは、一つもたがわなかったことを。それらはみな、あなたがたのために実現し、一つもたがわなかった。(ヨシュア記23:14)

主よ。あなたがイスラエル人たちに確かな約束を与えてくださったように、私にも「尊く大いなる約束」を与えてくださいました。(第二ペテロ1:3-4)

つまり、あなたの御霊が私のうちに住んでおられ、私をあなたと同じかたちに姿を変えてくださるという約束です。(ヨハネ14:16-17;第二コリント3:17-18)

また、私にとって、罠となり、落とし穴となり、私の脇腹のむちとなり、私の目のとげとなる罪を乗り越える力という約束です。(ヨシュア記23:13)

さらに、永遠の遺産という約束です。(ヨハネ14:1-3)

あなたの栄光と栄誉、そして私に対するいつくしみに感謝します。

あなたの確かな約束に感謝します。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヨシュア記のデボーション

主の指示を求める

しかし、主の指示を求めなかった。(ヨシュア記9:14)

主よ、私にとって、自分の悟りに頼るのは簡単なことです。つまり、必要な情報のすべてをすでに持っていると思って、あなたの指示を求めずに決断することは簡単なことです。

でも、私が知らないことはたくさんあります。私が悟れないこともたくさんあります。

しかし、あなたはすべてのことを知っておられます。あなたはすべてのことを悟っておられます。

だから、私が毎日あなたに拠り頼み、私の行く道すべてにおいてあなたを認め、あなたの悟りに頼ることができますように助けてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヨシュア記のデボーション

悔い改め

今日の話を読んだとき、私は新しいことに気づきました。それは、神様がすぐにアカンの罪を明らかにされなかったということです。むしろ、神様は次の日まで待っておられました。なぜでしょうか。

なぜすぐに、その問題の処理に当たられなかったのでしょうか。

私にはわかりませんが、もしかしたら、その答えは13節にあるかもしれません。

立て。民を聖別せよ。そしてこう言え。 あなたがたは、明日のために自らを聖別しなさい。(ヨシュア記7:13)

「自らを聖別しなさい」とは、自分の心を準備して、自分自身を神様に捧げるということです。たぶん、その過程の一部は、自分の心を探り、罪を告白することです。

もしかしたら、神様はアカンに悔い改めるチャンスを与えたいと思われたのかもしれません。

アカンには、その夜、自分の行為をよく考え、どのようにその罪がイスラエル人たち全体に影響を与えたかを省みる機会がありました。

その夜、アカンはモーセにその罪を告白し、悔い改める機会がありました。

翌朝でも、神様はアカンをすぐに明らかにされませんでした。

最初は、ユダの部族、そしてゼラフ人の氏族、そしてザブディの家族がくじで取り分けられました。

その間、アカンには悔い改めるチャンスがあったのに、何も言いませんでした。

最後に、神様はアカンを指摘されました。

でも、アカンは悔い改める機会をもう逸してしまいました。

アカンがすぐに自分の罪を告白し、悔い改めていたら、なお殺されていたでしょうか。

私はわかりません。でも、神様の性格を考慮すると、たぶん、アカンは憐れまれたと思います。

私たちは罪を隠してはいけません。むしろ、今のうちに、その罪を告白し、悔い改めましょう。

ヨハネはこう言いました。

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

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ヨシュア記のデボーション

私たちは、神様が取り壊されたものを建て直そうとする時

ヨシュアは、そのとき誓った。「この町エリコの再建を企てる者は主の前にのろわれよ。その礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末の子を失う。」(ヨシュア6:26)

この何年か後、ある人はエリコを建て直そうとして、ヨシュアが言った通りに、呪われました。(列王記第一16:34)

どれほど、私たちは神様が取り壊された罪の砦を建て直そうとするでしょうか。

私たちがクリスチャンになるとき、神様が私たちにいろいろな罪に対する勝利を与えてくださるので、私たちは喜びます。

でもその後、私たちの罪が引き起こした損害や破壊を忘れてしまいます。むしろ、私たちは罪の楽しみを思い出します。

だから、私たちはその砦を建て直し、損を受けてしまいます。

主よ。あなたが取り壊してくださったものを、私が建て直さないようにしてください。私の罪深い習慣に戻るのは簡単なことです。でも、その習慣は私を滅ぼします。

私が振り返らずに、むしろ前を向いて、あなたに従うように助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヨシュア記のデボーション

主の御前での私たちの姿勢

私には、主の軍の将が実際にイエス様だと思われます。

なぜなら、黙示録にある天使と違って(黙示録19:10;22:8-9)、主の軍の将はヨシュアの礼拝を受けたし、モーセに対する神の言葉を繰り返したからです(出エジプト記3:5)。

誰と話しているかわかってくると、ヨシュアは、「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか」という質問を捨て、その代わりに、「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか」と訊きました。

私たちは同じ態度を取るべきです。神様が私たちの味方かどうか疑わず、私たちの願いをかなえてもらうことを要求せずに、むしろ、へりくだって、「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか」と言うべきです。

主よ、私はへりくだって、あなたの御前に来ます。私は何も求めていません。私に対するあなたの愛と忠実さを疑いません。むしろ、私は跪き、訊ねます。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」

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ヨシュア記のデボーション

導いてください、主よ

あなたがたの神、主の契約の箱を見、さらにレビ人の祭司たちがそれを担いでいるのを見たら、自分のいる場所を出発して、その後を進みなさい。

あなたがたが行くべき道を知るためである。あなたがたは今まで、この道を通ったことがないからだ。(ヨシュア3:3ー4)

主よ。いろんな意味で、私にはあなたの導きが必要です。私の知らないことがたくさんあります。私はこの道を通ったことがないからです。

でも、あなたはこの道を何度も通ったことがあります。だから、私があなたから目を離さず、ついていくように助けてください。

ヨシュアは民に言った。「あなたがたは自らを聖別しなさい。明日、主があなたがたのただ中で不思議を行われるから。」(5節)

主よ。私の人生をあなたに捧げます。私の人生はあなたのものです。私の時間はあなたのものです。私の持ち物のすべてはあなたのものです。

あなたの働きに参加したいです。あなたが私の周りで何をなさっているかを示してください。また、あなたが私と周りの人の人生に働くとき、私があなたの不思議な御業を見ることができますように。

ヨシュアはイスラエルの子らに言った。「ここに来て、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい。。。

生ける神があなたがたの中にい(る)。。。ことを、次のことで知るようになる。」(9ー10節)

主よ。私はあなたに近づきたいです。あなたのみ声を聞きたいです。だから、今、あなたのみもとに来ます。あなたが私に何を言おうとしているのか、私がわかるように助けてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヨシュア記のデボーション

いつくしみ深く、あわれみ深い神

私たちは、それを聞いたとき心が萎えて、あなたがたのために、だれもが気力を失ってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです。

今、主にかけて私に誓ってください。。。あなたがたもまた、私の父の家に誠意を尽くし、私に確かなしるしを与え。。。私たちのいのちを死から救い出す、と誓ってください。(ヨシュア2:11-13)

神様、あなたは天と地におられる神です。そして、あなたは聖なる神です。

だから、自分の罪のゆえに、私たちは死に値し、あなたを恐れました。

でも、あなたのいつくしみと愛が現れたとき、私たちが行った義によってではなく、むしろ、あなたのあわれみによって、あなたは私たちを救ってくださいました。(テトス3:4-5)

それだけではなく、今、あなたは私たちに救いの確かなしるしを与えてくださいました。つまり、あなたは御霊を送り、その御霊は私たちのうちに住んでおられるということです。(エペソ1:13)

私に対するあなたのあわれみといつくしみに感謝します。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ヨシュア記のデボーション

神様の思いと調子を合わせる

ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。

これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。(ヨシュア記1:7)

主よ、私が好きな部分だけではなく、あなたの言葉のすべてに従う心を与えてください。私がその言葉から離れて、右にも左にもそれないようにしてください。

また、私が自分の思いをこの世の思いと調子を合わせないようにしてください。この世の考え方は日々堕落しつつあるからです。むしろ、私の心を新たにして、私の思いをあなたの思いと調子を合わせてください。(ローマ12:2)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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民数記のデボーション

性的な罪を軽く見ていないか

バラムが神様に仕えているかどうかという疑いがあれば、25章では、その疑いは解けました。なぜなら、バラムのせいで、イスラエル人たちは偶像礼拝や性的な罪に陥ってしまったからです。(民数記31:16)

その罪のゆえに、2万4千人のイスラエル人たちが死にました。

イスラエル人たちがその罪を犯したのは、これが二度目です。(出エジプト記32章)

さらに、民数記15章の話のように、イスラエル人たちは気づかずに罪に陥ったわけではありません。むしろ、彼らは故意に罪を犯したのです。

特に、祭司ピネハスが殺した人は、故意に罪を犯しました。

主の罰で多くの人々が死にかけている中で、また、モーセや他のイスラエル人たちが主の前で泣いている中で、その人はバアル礼拝の関係で、ある女性と性的な関係を持とうとしました。

その時代、売春と偶像礼拝には強い関係がありました。

もちろん、日本では今も偶像礼拝がありますが、性的な罪そのものが現代の偶像になっています。

現代社会では、多くの人々が性的な罪を軽く考え、実際には罪だと思っていないのです。(ローマ1:24、26-27、32)

しかし、神様によれば、その罪は死に値するのです。(ローマ1:32;第一コリント6:9-10)

そういうわけで、パウロはその二つの事件を振り返って、こう言いました。

これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。

あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。

また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。(第一コリント10:7ー8)

あなたはどうですか。

現代の人々と同じように、性的な罪を軽く考えているのでしょうか。

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民数記のデボーション

本当に神様を求めているのか

バラムとバラクは、本当に敬虔な人々のように聞こえましたね。

「主にお会いして、その御言葉を求めます。」

「はい、わかりました。主の御言葉を待ち望みます。。。では、主は何をお告げになりましたか。」(民数記23:15-17)

しかし、神の御言葉を聞いて、バラムとバラクは怒りました。

神様がイスラエルを呪うことを拒まれたとき、バラクは怒りました。

バラムは、バラクに報酬を受けたかったので、切実に神様がご自身の考えを変えてくださることを願いました。けれども、神様はどうしてもそうされませんでした。(19節)

どれほど、私たちはバラクとバラムのように振る舞っているでしょうか。

私たちは、神様の御言葉を求めていると言いながら、神様が語られるとき、その言葉を受け入れません。

神様の御言葉が気に入るときだけ、その言葉を受け入れるのでしょうか。

それとも、その御言葉が気に入らないときにも、その言葉に従うのでしょうか。

私たちは、神様が自分たちの意思に従ってくださることを望んでいるのでしょうか。

それとも、私たちは神様の御心に従うのでしょうか。

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民数記のデボーション

神が私たちの口に置かれることば

バラムはバラクに言った。

「ご覧なさい。私は今あなたのところに来ているではありませんか。私に何が言えるでしょう。神が私の口に置かれることば、それを私は告げなければなりません。」(民数記22:38)

私が教会で聖書を教えているので、その言葉は私の心を打ちました。

私には、単に好きなことを教える自由がありません。神様が私の口に置かれた言葉を告げなければなりません。

しかし、すべてのクリスチャンがその原則に従わなければなりません。

時には、周りの人々が、自分が聞きたいことを言うように、私たちにプレッシャーをかけてきます。

パウロはこう言いました。

というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め(ます)。。。(第二テモテ4:3)

イエス様も、そんなプレッシャーをよく感じられました。けれども、イエス様はいつも天の父の言葉に応じて話されました。(ヨハネ7:16-17)

それに、バラムとは違って、イエス様はいつも天の父の栄誉を求められました。

私たちは、主の模範に従って、恵みとまことをもって人々に語りましょう。

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民数記のデボーション

死者と生者の間に立つ

(アロン)が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、主の罰は終わった。(民数記16:48)

その言葉は、私の心の中に響きました。

アロンの片側では、何千人もの人々が、自分の反抗のために死にました。

アロンの反対側では、何千人もの人々が救われました。

神様の祭司として、私たちは同じ立場に立っています。

私たちの周りでは、多くの人々が自分の罪のゆえに死にかけています。

私たちには選択肢があります。

私たちは、ただ神様の裁きが彼らに降りかかるのを見ていることもできます。

それとも、アロンのように、私たちは祈ることができます。彼らのためにとりなし、彼らに触れて、悔い改めと赦しという神様の福音を伝えることができます。

主よ、アロンの心を私に与えてください。

たくさんの人は自分の罪のゆえに苦しみ、死にかけています。

アロンのあわれみの心を私に与えてください。

あなたのあわれみの心を私に与えてください。

私がどのように人に触れることができるか教えてください。

そして、私を通して、彼らの人生にあなたの救いをもたらしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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民数記のデボーション

反抗的

安息日を破った人の話が、民数記15:27-31にある神様の指示のあとに記録されているのは、偶然ではないと思います。

27-31節では、神様は、気づかずに罪に陥ってしまう人と、故意に罪を犯す人を区別されます。

気づかずに罪に陥ってしまう人のためには、祭司が宥めを行い、その人は赦されました。

しかし、故意に罪を犯した人のためには、宥めはありませんでした。神様はその人を赦されませんでした。

安息日を破った人は、そのような人でした。

彼はただ、その日が安息日であったことを忘れていたわけではありません。周りの人々がその罪を指摘したとき、彼は「大変です。忘れてしまいました。どうしたらいいですか」とは言いませんでした。

むしろ、彼はまったく気にしませんでした。彼は神様の言葉を侮り、その行為によって神様を冒瀆しました。

その結果は――死です。

素直に悔い改める心を持つ人に対して、神様は恵み深いお方です。神様は、いつもそのような人を赦してくださいます。

しかし、悔い改めようとしない反抗的な人は、神様の赦しを知ることがありません。

ですから、いつも神様に対して柔らかい心を保ちましょう。

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民数記のデボーション

神様にを信頼し従うように、互いに励まし合う

わたしの栄光と、わたしがエジプトとこの荒野で行ったしるしとを見ながら、十度もこのようにわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、だれ一人、わたしが彼らの父祖たちに誓った地を見ることはない。

わたしを侮った者たちは、だれ一人、それを見ることはない。

ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者とは違った霊を持ち、わたしに従い通したので、わたしは、彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。(民数記14:22ー24)

時間があれば、この箇所と一緒にへブル書3章を読む甲斐があります。なぜなら、へブル書の著者がこの出来事の霊的な応用を説明しているからです。

兄弟たち。あなたがたのうちに、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。(へブル3:12)

不信仰で悪い心は、多くのイスラエルの民の問題でした。

彼らは、自分たちをエジプトから贖ってくださった主を侮りました。

神様が多くのことをしてくださったのに、彼らは神様に信頼することを拒みました。

私たちは、どのような心を持っているでしょうか。

神様に対して頑なな心を持っているでしょうか。神様を信頼しない心を持っているでしょうか。

それとも、私たちはカレブとヨシュアのように、柔らかい心を持っているでしょうか。彼らのように、私たちは周りの兄弟姉妹に神様に信頼するように促すでしょうか。

罪に欺かれるのは簡単なことです。心が頑なになるのも簡単なことです。

だからこそ、クリスチャンの交わりはとても大切なのです。

ですから、カレブやヨシュアのような人々と時間を過ごしましょう。

また、周りのクリスチャンに対して、私たち自身がカレブやヨシュアのような者となりましょう。

「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。(へブル3:13)

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民数記のデボーション

イエス様の声を聞いて、従う

(モーセ)はわたしの全家を通じて忠実な者。彼とは、わたしは口と口で語り、 明らかに語って、謎では話さない。 彼は主の姿を仰ぎ見ている。

なぜあなたがたは、わたしのしもべ、 モーセを恐れず、非難するのか。(民数記12:7ー8)

言うまでもなく、神様はモーセに対するアロンとミリアムの反抗的な態度に怒られました。

しかし、へブル書の著者は興味深い方法で、その出来事を私たちに当てはめています。

モーセは、後に語られることを証しするために、神の家全体の中でしもべとして忠実でした。

しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。。。

ですから、聖霊が言われるとおりです。

「今日、もし(イエスの)御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。 荒野での試みの日に 神に逆らったときのように。」(へブル3:5ー8)

イスラエルの民はモーセに従わなければなりませんでした。私たちがイエス様に従わなければならないことは、なおさらです。

モーセは忠実なしもべにすぎませんでした。

イエス様は忠実な御子です。さらに、イエス様は私たちの使徒であり、大祭司です。(へブル3:1)

ですから、頑なな心を持たず、柔らかい心をもって、イエス様の声を聞き、従いましょう。

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民数記のデボーション

弱すぎると思うだろうか?

この主の手が短いというのか。(民数記11:23)

今日、その言葉は私の心を打ちました。

「主の手が私のところに届かないと思うだろうか。主の手が弱すぎると思うだろうか。」

モーセや(14)、私たちとは違って、神様は弱いお方ではありません。

ご自身の約束を守ることに関して、神様は弱いお方ではありません。

ご自身の民の世話をすることに関して、神様は弱いお方ではありません。

ご自身の民を懲らしめることに関して、神様は弱いお方ではありません。

今日の箇所では、神様はそのようにご自身の力を現されます。

しかし、もう一つの面でも、神様は弱いお方ではありません。私は23節を読んで、イザヤ書59:1にある神様の言葉を思い起こしました。

見よ。主の手が短くて救えないのではない。 その耳が遠くて聞こえないのではない。(イザヤ書59:1)

私たちは、神様の救いを見ることに関して絶望することがあるでしょうか。

日本を思うとき。

愛する人々を思うとき。

この世の罪とよこしまを思うとき、人々の頑なな心を見るとき、絶望するのは簡単なことです。

しかし、この真理を心に留めておきましょう。

主の手が短くて救えないのではありません。

もう一つのことも覚えておきましょう。

神様がイスラエルの長老たちにご自身の御霊を注がれたように、神様は私たちにもご自身の御霊を注いでくださいました。(イザヤ書59:21、使徒の働き2:17-18)

神様の目的は、私たち皆が神の命の言葉を周りの人々に伝えることです。

それは、牧師たちだけの役割ではなく、私たち皆の役割です。

主よ、あなたがモーセやイスラエルの民に御霊を注がれたように、使徒の働きの時代のクリスチャンたちに御霊を注がれたように、私たちにも御霊を注いでください。

あなたの手が短くて救えないのではありません。あなたは私を救ってくださいました。

ですから、私の周りの人々を救うために、私をあなたの御霊で満たし、用いてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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民数記のデボーション

神の導きに従う

主の令によりイスラエルの子は旅立ち、主の命により宿営した。

雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営した。(民数記9:18)

今日、私はこのように祈りました。

主よ、私があなたの導きに従う心を持つことができますように。

時に、私があまりに快適になってしまい、あなたが新しい方向へ進まれるとき、私はためらってしまいます。

しかし、別の時には、私は多くの計画を抱えて、待ちきれなくなります。今すぐ何かをしたいと思ってしまいます。

でも、あなたは私に語られます。

「待ちなさい。少し休みなさい。私との時間を楽しみなさい。私の顔を求めなさい。私の時を待ちなさい。」

ですから主よ、私があなたの前に出すぎることなく、あなたの後ろに遅れてしまうこともありませんように。

むしろ、毎日あなたに導かれるままに、私が進むことができますように。

あなたが進まれるとき、私も進み、あなたが立ち止まられるとき、私も立ち止まることができますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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出エジプト記のデボーション

神様の言葉に従う

正直に言うと、出エジプト記36-39章はあまり面白く感じられないかもしれません。特に、その章は25-30章の内容をほとんど繰り返しているからです。

25-30章では、神様が幕屋やその道具などの作り方を教えられました。

36-39章では、イスラエル人たちがその指示に従いました。

それが39章の要点のようです。何度も、「主がモーセに命じられたとおりに…」という言葉が繰り返されます。(1、5、7、21、26、31、32、43)

幕屋を作るために、神様はイスラエル人たちに知恵と英知と知識を与えてくださいました。(35:31-36:2)

しかし、彼らは自分の好きなようにそれらを作ったわけではありません。彼らは単に自分にとって都合のよいことをしたわけではありません。むしろ、彼らは神様の指示に従いました。

彼らは手抜きをしませんでした。彼らは神様の指示をあえて変えませんでした。

私たちはどうでしょうか。

仕事をするとき、教会の奉仕をするとき、私たちのすべての行動において、私たちは勝手に行動するでしょうか。

それとも、神様の言葉に従うでしょうか。

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出エジプト記のデボーション

神様が望まれるもの

すべて、進んで献げる心のある人に。。。(出エジプト記35:5)

心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな。。。(21節)

心を動かされ、知恵を用いたいと思った女たちはみな。。。(26節)

イスラエルの子らは男も女もみな。。。心から進んで献げた。。。(29節)

「神様は私たちから何を望んでおられるだろうか?」

それを考えたことがありますか。

この言葉が、その答えを明らかにしていると思います。

ほかのどんなものよりも、神様は私たちの心を望んでおられるのです。

献金を捧げることにおいて、主に仕えることにおいて、私たちが行うすべてのことにおいて、神様は私たちの心を望んでおられます。

あなたの心は神様のものですか。

主よ、あなたが私のためにしてくださったことは数えきれません。あなたは何度も私に愛とあわれみを注いでくださいました。あなたは本当に良いお方です。

私のすべての行動が、あなたの愛と喜びに根差したものでありますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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出エジプト記のデボーション

神様のご性格

「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。

しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」(出エジプト記34:6ー7)

これは旧約聖書の中でもっとも有名な箇所の一つです。その言葉は旧約聖書の中で何度も繰り返されます。

なぜでしょうか。それは、その言葉が神様のご性格を表しているからです。

出エジプト記や他の旧約聖書の物語を読むと、神様を怒りの神と見なすのは簡単なことです。

確かに、ある意味で神様は怒りの神です。神様は罪を憎み、罰せられます。

良い神が罪を愛することができるでしょうか。正義の神が罪を見過ごすことができるでしょうか。

それでも、神様は「あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す神」です。

神様は何度も裁きが迫ると警告されます。

しかし、人を裁く前に、神様がいつもご自分の民にその裁きについて知らせておられることに気づいたことがありますか。

たとえば、神様はアブラハムに知らせました。(創世記18章)また、モーセにも知らせました。(出エジプト記32章)

なぜ、神様はアブラハムとモーセに知らせられたのでしょうか。彼らがただその裁きを観測するためだったのでしょうか。

違います。その理由は、彼らがその人々のためにとりなすためだったのです。

いずれの場合も、神様は正義を実行されました。どうしても悔い改めない人々は裁かれました。けれども、アブラハムとモーセのとりなしによって、ある人々は救われました。

神様は必ず悪を裁かれます。けれども、それ以上に、神様は人をあわれみたいと願っておられます。

そのために、神様はイエス様をこの世に送ってくださいました。十字架において、イエス様は私たちの罪の代価を支払われたので、神様は私たちをあわれむことができます。

ですから、モーセのように、覆いを取り除かれた顔で、大胆に神様に近づきましょう。

私たちは神様の怒りと裁きを恐れる必要はありません。むしろ、神様に近づくにつれて、神様は私たちをイエス様と同じかたちに姿を変えてくださいます。(第二コリント3:12、18)

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出エジプト記のデボーション

一息つく

イスラエルの子らはこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。

これは永遠に、わたしとイスラエルの子らとの間のしるしである。

それは主が六日間で天と地を造り、七日目にやめて、休息したからである。(出エジプト記31:16-17)

「主はやめて、休息した」とは、実に興味深い言葉です。

まるで神様が疲れて、英気を養わなくてはならないかのように聞こえます。

しかし、もちろん神様にはそのような必要はありません。

むしろ、神様はご自分の働きを止めて、一息つかれたのです。けれども、それは疲れたからではなく、ご自分が造られたものを楽しもうと思われたからなのです。

どれぐらい、私たちは自分がしていることを休憩して、ちょっと一息つき、創造主との関係を楽しむでしょうか。

もちろん、私たちは毎日そうした方がいいです。でも、特に日曜日に、私たちはそうした方がいいです。

時々、クリスチャンたちは問いかけます。「私は毎週の日曜日に、教会に行かなくてはならないのですか。」

でも、その考え方は間違っています。

教会に行くのは義務ではありません。教会に行くのはチャンスなのです。

毎週の日曜日に、私たちは2時間ぐらい、仕事や勉強や日常の単調さを休憩して、創造主との関係を楽しむことができます。私たちに対する神様のあわれみと恵みを思い出します。

さらに、教会では、神の家族を祝福するチャンスがあるし、神の家族に祝福されるチャンスもあります。

あなたにとって、教会は何でしょうか。

教会に行くのは、義務でしょうか。

それとも、教会に行くのはチャンスでしょうか。

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出エジプト記のデボーション

私たちの宥めな蓋

今日の箇所では、幕屋に関して、とても具体的な指示がたくさんありますね。

どうして、幕屋のことはそんなに大切なのでしょうか。私たちには、関係あるでしょうか。

ヘブル書の著者は説明します。

この祭司たちは、天にあるものの写しと影に仕えています。

それは、モーセが幕屋を設営しようとしたときに、御告げを受けたとおりのものです。

神は、「よく注意して、山であなたに示された型どおりに、すべてのものを作らなければならない」と言われました。(へブル書8:5)

「天にあるものの写しと影」とは、どういう意味でしょうか。

出エジプト記25章には、いくつかの例がありますが、私の心を打ったのは、22節です。

わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その「宥めの蓋」の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る。(出エジプト記25:22)

そのあかしの箱の中には、十戒が書かれた板が入っていました。(16)

十戒は神の民に神様の聖なるさを思い出させました。また、十戒は、彼らが神様のように聖なる者とならなければならない、ということを思い出させました。

でも、十戒は彼らの罪をも思い出させました。

私たちは自分の聖さによって、神様に近づくことができません。

むしろ、神様は宥めの蓋から私たちに語られます。その場所で、私たちは神様に近づきます。

旧約聖書の時代、一年に一回、宥めの供え物からの血は宥めの蓋の上にかけられました。その血によって、イスラエル人たちは赦されました。(レビ記16章)

でも、今、パウロはこう言います。

神は(イエス)を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。(ローマ3:25)

別訳では、

神は(イエス)を、信仰によって受けるべき、血による宥めの蓋として公に示されました。

イエス様こそが私たちの宥めの蓋です。

イエス様の血によって、私たちは赦されました。

また、その血によって、私たちは神様に近づくことができます。

だから、今日の箇所を読むとき、パウロの言葉を覚えていて、喜びましょう。

すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。

神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めの蓋として公に示されました。(ローマ3:23ー25)

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出エジプト記のデボーション

血によって近づく者たち

モーセはその血を取って、民に振りかけ、そして言った。

「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」(出エジプト記24:8)

その言葉を読むとき、私はいつも最後の晩餐でのイエス様の言葉を思い起こします。

これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。(マタイ26:28)

モーセや祭司たちや、長老たちは血に振りかけられたので、彼らは神様の裁きを恐れず、神様との交わりができました。(9〜11)

そのように、私たち皆は(クリスチャンのリーダーたちだけではなく)、イエス様の血に振りかけられたので、裁きを恐れず、神様との交わりができます。

ペテロによれば、私たちは天の父に選ばれ、聖霊に聖別され、イエス様の血の注ぎかけを受けました。

そのゆえ、私たち皆は、恵みを受け、神様との平和を持っています。(第一ペテロ1:1〜3)

出エジプト記24章を読むとき、ヘブル9章も読んだ方が良いでしょう。

ヘブル書の著者は出エジプト記24章を引用し、その出来事をちょっと解説します。

でも、とりあえず、この素晴らしい言葉を心に留めておきましょう。

雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。(へブル9:13ー14)

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出エジプト記のデボーション

律法の精神を求めて

出エジプト記やレビ記の律法を読むとき、「この律法は私に本当に関係あるのか」と思うのは簡単なことです。

例えば、4〜5節をちょっと読んでみましょう。

あなたの敵の牛やろばが迷っているのに出会った場合、あなたは必ずそれを彼のところに連れ戻さなければならない。

あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない。(出エジプト記23:4-5)

どれぐらい、私たちはそんな状況に遭遇するでしょうか。多分、そんな状況に遭遇することはないでしょう。

でも、その律法の文字だけではなく、その原則をも考えた方がいいです。

上記の律法の原則は何でしょうか。

イエス様は、こう言われました。

しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。

あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。。。

しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。

そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。

いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。

あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。(ルか6:27ー28、35ー36)

だから、旧約聖書にある戒めを見るとき、その文字だけではなく、その精神をも考えましょう。

そして、神様に「この言葉を通して、あなたは私に何を教えたいのですか」と祈りましょう。

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出エジプト記のデボーション

飼いならされた神ではない

それでモーセは民に言った。

「恐れることはありません。神が来られたのは、あなたがたを試みるためです。これは、あなたがたが罪に陥らないよう、神への恐れがあなたがたに生じるためです。」(出エジプト記20:20)

それらは、ちょっと逆説的な文だと思いませんか。

「恐れることはありません。」

「神様を恐れるべきです。」

どのようにその二つの文を繋ぎ合わせることができるでしょうか。

私たちが覚えていなくてはならないのは、神様は良い方ですが、飼いならされた神様ではないということです。

私たちは神様をコントロールすることができません。

私たちは神様を操ることができません。

聖なる万能の神様を相手にするとき、私たちは恐れるべきです。私たちは、故意に神様を軽んじてはならないのです。

なぜなら、ある日、神様はご自分に反対して憎む人々を裁かれるからです。(5)

その裁きを見るとき、私たちは恐れるべきです。なぜなら、私たち皆は罪を犯したからです。私たち皆は裁きにふさわしい者です。

それでも、神様は良い方です。神様は気まぐれな方ではありません。神様は悪意を持っておられる方ではありません。

さらに、神様はご自分のひとり子をこの世に送って、私たちの代わりにイエス様は裁かれました。

だから、神様を愛し、イエス様を受け入れる人々には、神様は恵みを注いでくださいます。

私たちが罪を犯すとき、神様は私たちを懲らしめるかもしれませんが、ご自分の恵みを私たちから取り去られることはありません。(第二サムエル記7:14ー15)

そういうわけで、イスラエル人と違って、私たちは神様の裁きを恐れて、神様から遠く離れて立つ必要はありません。

むしろ、モーセのように、私たちは神様に近寄ることができます。(18、21)

だから、神様を恐れましょう。でも、神様を怖いと思う必要はありません。

それを心に留めて、神様に近づきましょう。

こうして、愛が私たちにあって全うされました。

ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。

恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。(第一ヨハネ4:17ー18)

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出エジプト記のデボーション

私たちのアイデンティティーを心に留めて

「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」

これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。(出エジプト記19:5ー6)

それらは驚くべき言葉ですね。

でも、1000年以上経って、ペテロはイスラエル人たちに語られた神様の言葉を、私たちに当てはめました。

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。

それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。(第一ぺテロ2:9ー10)

私たちのアイデンティティーを心に留めておきましょう。

私たちは神様に愛され、選ばれた民です。

でも、それだけではなく、私たちは大王の祭司で、神様の栄誉を告げ知らせるために召されました。

しかし、それは、ただ神様をほめたたえるためではありません。むしろ、回りの人々が私たちのあかしを聞いて、彼らも闇の中から神様の驚くべき光の中に入るためです。

だから、私はもう一度言います。

自分が何者であるかを心に留めておきましょう。

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出エジプト記のデボーション

打たれてくださった神

どれほど、私たちは神様を疑い、「あなたは本当に私と共におられるでしょうか」と疑問に思うでしょうか。

イスラエル人たちは荒野でそのように感じました。

だからその荒野で、旧約聖書の中で神様は初めて、そしてただ一度だけ、裁かれるために人の前に立たれました。

通常、人は裁かれるために神様の前に立ちました。(申命記19:17)

しかし今回は、神様は(もしかすると、雲の柱の形で)モーセとイスラエルの長老たちの前に、岩の上に立たれます。

もちろん、雲を打つことはできないので、その代わりに、モーセは神様が立っておられる岩を打ちます。

そして神様はイスラエル人たちに水を与え、ご自身が彼らと共におられることを証明されました。

神様は打たれるに値しませんでした。むしろ、イスラエル人たちが不信の罪のために打たれるに値しました。しかし神様は打たれてくださり、彼らに命を与えてくださいました。

パウロによれば、その岩はキリストの象徴でした。(第一コリント10:4)

そして、千年以上後に、神様が人間となられたイエス様は、もう一度、裁かれるために人の前に立たれました。

もう一度、イエス様はご自身の罪のためではなく、ご自身の民の罪のために裁かれました。

十字架で、イエス様はもう一度打たれました。そして、十字架でイエス様が流された血によって、私たちは命を得ました。

あなたはどんな試練に直面していますか。あなたは、神様が本当にあなたと共にいるかどうか疑問に思っていますか。

十字架を仰ぎましょう。

イエス様の十字架のみわざを心に留めておきましょう。

そして、イエス様を信じましょう。

イエス様はインマヌエルです。

イエス様は、私たちと共におられる神様です。

ダビデは、今日の話を覚えていたとき、詩篇95篇を作りました。

ダビデと共に歌いましょう。

さあ、主に向かって、喜び歌おう。

私たちの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。(詩篇95:1)

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出エジプト記のデボーション

私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください

主はモーセに言われました。

「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。

これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。」(出エジプト記16:4)

もしかすると、イエス様はこの箇所を覚えておられ、ご自身の弟子たちにこのように祈ることを教えられたのかもしれません。

私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。(マタイ6:11)

今日、私が気づいたのは、そのように祈るとき、私たちが単に自分のニーズのために祈っているのではない、ということです。

むしろ、私たちはこう祈っているのです。

「神様、私が日々あなたに信頼するように教えてください。すべてにおいてあなたに従うほど、私があなたに信頼するように教えてください。」

主よ。私を罪の奴隷から救い出してくださり、感謝します。

毎日、私があなたをもっと知り、あなたの栄光を見ることができますように。(6–7節)

私がそうするにつれて、すべてにおいて、あなたを信頼し、従うように教えてください。

私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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出エジプト記のデボーション

神様に叫ぶとき、信仰で進むとき

主はモーセに言われた。「なぜ、あなたはわたしに向かって叫ぶのか。

イスラエルの子らに、前進するように言え。(出エジプト記14:15)

私たちにとって大きすぎる問題に遭遇するときもあります。そのとき、私たちの自然な反応は、神様に「助けて!」と叫ぶことです。

もちろん、神様に叫ぶべき時もあります。

でも、私たちがただ神様とその約束を信じて、前進すべき時もあります。つまり、私たちは最終的に神様の救いを見ることを信じて、神様の指示に従うのです。

私たちがこの世でその救いを見るとは限りません。

イエス様は、私たちの問題のすべてを取り去ると約束されたわけではありません。あるクリスチャンはこの世でイエス様のために苦しみ、命を落としました。

しかし、イエス様は十字架において最終的な勝利を得られたのです。だから、この世で私たちがどのような苦しみを経験しても、やがて神様の救いを見るという確信を持つことができるのです。

だからこそ、信仰によって前進し、神様が私たちに与えてくださった役割を果たしましょう。

そして、パウロの言葉を心に留めておきましょう。

しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。

あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。(コリント人への手紙第一15:57ー58)

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神様の印を受けた者

その血は、あなたがたがいる家の上で、あなた方のためにしるしとなる。

わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。

わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。(出エジプト記12:13)

聖書には、神様が人々を裁かれるが、ご自身の民をその裁きから守られるというテーマがあります。

エゼキエル書9:4にも、黙示録7:3と9:4にも、そのテーマが見られます。

しかし、今日の箇所では、神様の裁きから私たちを守る印の描写が見られます。それは、傷もなく汚れのない子羊の血潮です。

私たちにとって、イエス様は私たちの過越の子羊です。(第一コリント5:7)

十字架で流されたイエス様の血潮によって、私たちは印を押されているのです。

そのゆえに、この世界が裁かれるとき、神様は私たちをあわれみ、過ぎ越してくださるのです

だから毎日、罰を恐れずに、私たちに対する神様の愛と恵みの確信をもって、神様に近づきましょう。(第一ヨハネ4:17–18、へブル10:19–22)

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怒りを覚えるとき

こうして、モーセは怒りに燃えてファラオのところから出て行った。(出エジプト記11:8)

その言葉は私の印象に残りました。

どうしてモーセはそんなに怒りを覚えたのでしょうか。

たぶん、彼はファラオの頑なな心に対して怒りを覚えたのでしょう。また、モーセは、ファラオが神様の民をどのように酷使したかについても怒ったのかもしれません。

モーセの怒りは清いものだったでしょうか。

それは少し微妙です。モーセは人間でしたから。

自分の怒りによって、モーセが困難に陥ったこともありました。(出エジプト記2:11–12、民数記20:10–12)

それでも、クリスチャンの生活には、怒りの余地があります。特に、人々の頑なな心を見るとき。また、この世界の中の不正を見るときです。

イエス様も怒りを覚えられたことがありました。(マルコ3:5、11:15–17)

しかし、注意しなくてはならないのは、私たちがその怒りを感じた後に、どうするかということです。

パウロはこう言いました。

怒っても、罪を犯してはなりません。

憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。

悪魔に機会を与えないようにしなさい。(エペソ4:26ー27)

私たちが覚えておかなくてはならないのは、人々の頑なな心やこの世の中の不正の中で、神様が計画を持っておられるということです。その最終的な計画は、人々を救うことです。

ファラオの頑なな心は神様の計画の一部であり、神様はイスラエル人の救いをもたらされました。

また、ユダヤ人の指導者たちの頑なな心によって、イエス様が十字架にかけられ、神様は私たちの救いをもたらされました。

だから、怒りを覚えるとき、私たちはどうすればよいでしょうか。

怒ってもかまいません。でも、罪を犯してはいけません。サタンに私たちを操る機会を与えてはいけません。

人々の頑なな心のために罵ることは、神様の救いをもたらすはずがありません。

世界の中の不正を呪うことも、神様の救いをもたらすはずがありません。

むしろ、神様の愛によって人々に触れることによって、私たちは神様の救いを目にします。

その救いを見たいなら、私たちはイエス様の恵みとまことの模範に従わなくてはなりません。

イエス様は真理を曲げられたことがありません。むしろ、イエス様は人々の罪を指摘されました。(ヨハネ4:16–18)

イエス様は、神様の言葉に関する人々の無知を指摘されました。(マタイ22:29)

人々が神様の言葉を曲げたとき、イエス様はそれをも指摘されました。(マタイ5:43–44)

それでも、イエス様は罪人の仲間と呼ばれました。(マタイ11:19)

私たちはどうでしょうか。

私たちも罪人の仲間と呼ばれるでしょうか。

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空しい悔い改め

ファラオは急いでモーセとアロンを呼んで言った。

「私は、おまえたちの神、主とおまえたちに対して過ちを犯した。

どうか今、もう一度だけ私の罪を見逃してくれ。おまえたちの神、主に、こんな死だけは取り去ってくれるよう祈ってくれ。」出エジプト記10:16-17)

それは、本当の意味での悔い改めのように聞こえたかもしれません。

しかし結局、それらは空しい言葉でした。

どうしてでしょうか。

なぜなら、その言葉には、神様に喜んで聞き従う心が伴っていなかったからです。ファラオは、ただ神の裁きからの救いを望んでいただけでした。

悔い改めとは、ただ「ごめんなさい」と言うことではありません。

悔い改めとは、ただ「許してください」と言うことでもありません。

悔い改めとは、愛と従順の心をもって、神様に向かうことです。

そのような心を伴わない悔い改めは、本当の悔い改めではありません。

あなたはどうですか。あなたは本当に悔い改めの心を持っておられるでしょうか。

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神様の御怒りとあわれみ

今度、わたしは、あなた自身とあなたの家臣と民に、わたしのすべての災害を送る。わたしのような者が地のどこにもいないことを、あなたが知るようになるためである。

実に今でも、わたしが手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。

しかし、このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。(出エジプト記9:14ー16)

今日、この箇所は私の心を打ちました。神様は裁きをエジプト人たちに注がれましたが、彼らをあわれんでくださいました。

神様は一瞬で彼らを滅ぼすことができましたが、そうされませんでした。

さらに、彼らの命を守るために、雹に関する警告を与えられました。(19)

神様は人々の罪のために御怒りを注がれますが、人々をあわれんでくださいます。

なぜでしょうか。それは、人々が神様を知り、悔い改めることを望まれているからです。

ファラオは傲慢で、モーセに言いました。「私は主を知らない。」(出エジプト記5:2)

それゆえ、神様はご自身がどのような方であるかをファラオに現されました。

つまり、神様は正義の神であり、罪を罰される方です。そして、主はあわれみ深い神であり、主を恐れる者をあわれまれる方です。

私にとって興味深いことは、神様の言葉がラハブの人生に成就したことです。

神様はファラオを生かし、紅海を分け、ご自身の力と御名を周囲の国々に現されました。

その結果、ラハブとその家族は救われました。(ヨシュア記2:8–14、6:25)

ですから、神様が紅海で御怒りをファラオとその軍隊に注がれたことによって、ラハブとその家族は神様のあわれみを受けました。

さらに、ラハブはイエス様の系図に加えられました。(マタイ1:5)

ある意味で、神様はすべての人々をあわれんでくださいます。つまり、神様はこの瞬間、私たちを滅ぼされないということです。しかし、私たちが悔い改めてこそ、救いに至るあわれみを受けるのです。

神様は私たちに警告を与えられます。神様は私たちに悔い改める時間を与えてくださいます。

あなたはどうされますか。

神は言われます。 「恵みの時に、わたしはあなたに答え、 救いの日に、あなたを助ける。」

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

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私たちが絶望するとき

モーセはこのようにイスラエルの子らに(神様の約束を)語ったが、彼らは失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができなかった」(出エジプト記6:9)

正直に言うと、私たちが絶望して、この世に打ちのめされているとき、人々が神様の励ましの言葉を語っても、多くの場合、私たちはその言葉を聞きたくないものです。

私たちはその言葉を聞いて、うんざりし、「私は何回もこんな言葉を聞いたことがあるけれど、私の人生は前よりも大変になった」と思います。

でも、私たちが覚えていなくてはならないのは、神様が「ヤハウェ」という神であるということです。

「ヤハウェ」という名前は、変わることのない神、いつも約束を守られる神、そして、常に忠実な神を意味します。

だからこそ、神様は三回、「私は主である」、つまり「私はヤハウェである」と言われました(2、6、8)。

ですから、今あなたが苦しんでいるなら、その真理に思いを巡らしましょう。

「私は主である。私はヤハウェである。」

そして、心に留めておきましょう。アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、そしてイスラエルの民と共におられた神様は、今もあなたと共におられるのです。

神様は、昔も今も忠実であり、永遠に忠実でおられるお方です。

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主の権威を拒む心

主とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは。

私は主を知らない。(出エジプト記5:2)

たぶん、ファラオのように、自分の人生における主の権威をきっぱりと否定するクリスチャンは、あまりいないでしょう。

しかし、私たちはどれほど、自分の不従順のために言い訳をするでしょうか。

どれほど、聖書に記されている神様の明快な言葉を否定するでしょうか。

聖霊様が私たちの罪を指摘されるとき、どれほど、私たちは御霊の声を無視するでしょうか。

そうすることで、私たちは基本的にこう言っていることになります。

「主とは何者だ。私がその声を聞かなければならないとは。私は主を知らない。」

「主よ」と「いいえ」とは、相いれない言葉です。

もし、イエス様が本当に私たちの主であるならば、どうして、私たちは主に「いいえ」と言えるでしょうか。

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神様が私たちに求められること

モーセは主に言った。

「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」

主は彼に言われた。

「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか。

今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」(出エジプト記4:10-12)

私たちは皆、弱点と限界を持っています。そして、神様が私たちに何かをするように命じられると、自分の限界や弱点を、神様の指示に従わない言い訳にしてしまうのは、簡単なことです。

しかし、神様は私たちの限界や弱点に縛られることはありません。

神様が私たちに求められるのは、ただ二つのことです。それは、神様に喜んで自分の時間を捧げることと、神様に従う心です。

そして、私たちは自分の力に頼らず、神様に頼るにつれて、神様が命じられることを何でも行うことができます。

主よ、私は弱点や限界を持っていますが、あなたは私をこのように造ってくださいました。そして、あなたは私の限界に縛られることはありません。

だから、その限界や弱点を持つ自分自身をあなたに捧げ、「ここに私がおります。私を遣わしてください」と申し上げます。

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出エジプト記のデボーション

私たちをみこころに留めてくださる神

神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。(出エジプト記2:24-25)

どのようにイスラエルの民は嘆いたのでしょうか。

もしかすると、アサフは詩篇77篇で彼らの苦しみを代弁したのかもしれません。

主は、いつまでも拒まれるのか。
もう決して受け入れてくださらないのか。

主の恵みは、とこしえに尽き果てたのか。
約束のことばは、永久に絶えたのか。

神は、いつくしみを忘れられたのか。
怒って、あわれみを閉ざされたのか。(詩篇77:7-9)

どれほど私たちは、そのように感じることがあるでしょうか。

神様が私たちを拒まれたのではないかと疑問に思います。神様の愛や忍耐、そして私たちへの恵みが尽き果てたのではないかと疑問に思います。

しかし、神様は私たちの声を聞いてくださいます。神様は、私たちのために流されたイエス様の血による新しい契約を思い起こされます。そして、私たちの苦しみの中で、神様は私たちをご覧になり、みこころに留めてくださいます。

そして最も大切なのは、神様がご自分の民を救ってくださるということです。

エジプトで、神様はそうしてくださいました。十字架でも、神様はそうしてくださいました。

だから、神様がなさったすべてのことを思い巡らし、神様のみわざを静かに考えましょう。

そして、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの霊的な子孫として、アサフとともに歌いましょう。

神よ。あなたの道は聖です。
私たちの神のように大いなる神がいるでしょうか。

あなたは奇しいみわざを行なわれる神。
国々の民の中で御力を現わされる方。

あなたは御腕をもって贖われました。
ご自分の民、ヤコブとヨセフの子らを。(詩篇77:13-15)

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出エジプト記のデボーション

神の揺るぐことのない計画

それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてある事を彼らに説き明かされた。(ルカ24:27)

モーセの書について話されたとき、イエス様は、モーセの人生がどのようにイエス様の人生の伏線となったかを説明されたのでしょうか。

イエス様のように、モーセは救い主となるために生まれました。

イエス様のように、王の命令によって、生まれたばかりのモーセは命の危険にさらされました(マタイ2:8、16)。

イエス様の場合のように、神様の救いの計画が進むように、ある人々は王の命令に従わず、神様に従いました(マタイ2:12–15)。

最近、私はこの言葉を読みました。「神様の贖いの計画は揺るぐことのないものです。」

サタンは、初めからその計画を妨害しようとしました。

アダムとエバがエデンから追い出されて以来、サタンはその計画を妨害しようとしました。そして、十字架でサタンは自分がついに勝ったと思いました。

でも、神様の贖いの計画は揺るぐことのないものです。

イエス様は十字架で死なれましたが、三日目に神様はイエス様を復活させられました。

そして、イエス様の死と復活によって、私たちは赦しと永遠の命を得ました。

今なお、神様の贖いの計画は揺るぐことのないものです。

私たちがどんなに失敗しても、どんなにひどい罪を犯しても、救いようのない人は誰もいません。

それがイースターの希望です。毎日、その希望の上に立ちましょう。

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詩篇のデボーション

主をほめたたえよう!

先週末、かつて私が通っていたハワイの教会は、「懐かしい賛美ナイト」を開催しました。彼らは、25〜30年前の賛美の歌ばかりを歌いました。

それだけではなく、その当時の賛美のリーダーたちも、私の友達も戻って来ました。彼らの多くは、神様の導きによって何年も前に別の教会に通い始めましたが、そのイベントのために戻って来ました。

私も行きたかったのですが、残念ながら日本にいるので、参加できませんでした。私は、写真や録画を見ることしかできませんでした。

でも、それを見て、私が初めてイエス様を愛するようになった日のことを思い起こしました。

興味深いことに、彼らが歌った歌の一つは、この詩篇から来たものでした。そして、この詩篇は、そのイベントの意味をよく表しています。それは、「賛美」です。

「ほめたたえる」という言葉は、13回も出てきます。(「ハレルヤ」とは、「主をほめたたえる」という意味です。)

この世界は、さまざまなトラブルに満ちています。そして、私たちはそのトラブルに思い悩むのは、簡単なことです。

でも、もしかしたら、私たちがそのトラブルから目を離して、イエス様に向かうべき時なのかもしれません。

そして、イエス様に向かう良い方法の一つは、イエス様を賛美することです。

イエス様の大能のみわざのゆえに、また、その比類なき偉大さのゆえに、賛美しましょう。

特に、このイースターの季節に、私たちの贖いを買い取ってくださったイエス様の死と復活のゆえに、賛美しましょう。

歌や、フルートや、ギターで賛美しましょう。

そうすれば、私たちの周りのトラブルは、イエス様の光によって、取るに足りない影のように見えるようになります。

だから、どんなトラブルに遭遇していても、そのものから目を離し、イエス様に向かいましょう。そして、イエス様をほめたたえましょう。

ほめたたえましょう!

ほめたたえましょう!

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詩篇のデボーション

喜びの理由

あなたがたは君主を頼みとしてはならない。 救いのない人間の子を。(詩篇146:3)

今日、その言葉は私の目に留まりました。特に、その最後の部分です。

「救いのない人間の子を頼みとしてはならない。」

でも、私たちクリスチャンは、救いのために人の子を信頼します。つまり、私たちはイエス様に信頼を寄せるということです。

なぜでしょうか。

なぜなら、イエス様は単なる人の子ではないからです。

むしろ、イエス様は、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって、力ある神の子として公に示された方です(ローマ1:4)。

単なる人間の子と違って、イエス様が死なれたとき、御自身の計画は滅び失せませんでした(4)。

むしろ、イエス様は復活して、永遠に生きておられる方です。

この世におられた時、イエス様は、飢えている者たちにパンを与え、目の見えない者たちの目を開け、かがんでいる者たちを起こされました。

そして、今、イエス様の十字架と復活によって、私たち霊的な囚人たちは解放されました。

また、ある日、イエス様はもう一度この世に来て、正義をもたらし、永遠に治められます。

だから、それを覚えていて、賛美しましょう。

ハレルヤ。

わがたましいよ、主をほめたたえよ。

私は生きているかぎり、 主をほめたたえる。

いのちのあるかぎり、 私の神にほめ歌を歌う。(1ー2節)

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詩篇のデボーション

神様に祝福され、神様をほめたたえる

私の神、王よ、私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなくほめたたえます。

日ごとにあなたをほめたたえ、あなたの御名を世々限りなく賛美します。(詩篇145:1-2)

今朝、私はその言葉に心打たれました。特に、2節に心打たれました。

日ごとにあなたをほめたたえ。。。(2節)

「ほめたたえ」という言葉は、興味深い言葉です。多くの場合、この言葉は「祝福」と訳されます。

神様が私たちを祝福されるとき、それは神様が私たちの満たせないニーズを備えてくださるという意味合いがあります(例えば、8–9節、14–16節、18–20節)。

しかし、ある意味で、私たちも神様を祝福します。

けれども、私たちが神様を祝福する方法は、神様が私たちを祝福される方法とはまったく異なります。

神様には、まったくニーズがありません。

神様は、私たちの愛を必要としておられるわけではありません。

神様は、私たちの礼拝を必要としておられるわけではありません。

それでも、神様は私たちを造り、愛しておられるので、私たちの愛と礼拝を大いに喜ばれます。そういう意味で、神様は私たちに祝福されるのです。

だからこそ、いつも「神様、私を祝福してください」と祈るだけではなく、むしろ、神様に対して感謝と愛をもって、このように祈りましょう。

主よ、今日、私をご覧になるとき、私の言葉を聞き、私の思いや行為をご覧になるとき、あなたが祝福されますように。