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士師記のデボーション

私たちの真の光

見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。。。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。(士師記13:5)

サムソンの名前は「小さな太陽」を意味しました。

でも、彼はやがて来られる真の光の微かな繁栄でした。

サムソンはイスラエルの民を救い始めましたが、自分の多くの欠点のゆえ、その働きを完成できませんでした。

イスラエルの真の光は、まだ来られていませんでした。(ヨハネ1:9)

しかし、2000年前、もう一人の天使がヨセフという人に現れて、こう言いました。

マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイ1:21)

私は今日、そのことを思い出して、喜んでいます。

私たちの光が来られました!

起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。(イザヤ書60:1)

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マルコの福音書のデボーション

私を救うために

同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。」(マルコの福音書15:31)

祭司長や律法学者たちの言葉は、いつも私の心に響きます。彼らはその言葉でイエス様をあざけりましたが、その言葉は彼らの理解を超えて真実でした。

私たちを救うために、イエス様はご自身を救うことができませんでした。むしろ、私の罪を背負って、激しい苦しみのうちに死なれなければなりませんでした。神の御怒りのすべてが、イエス様に注がれたのです。

しかし、イエス様のおかげで、神様と私の間に立っていた幕が、上から下まで真っ二つに裂けました。

私たちを救うために、イエス様がご自身を救うことを選ばれなかったことに心から感謝しています。

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ピリピ人への手紙のデボーション

恐れおののいて

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。(ピリピ人への手紙2:12)

「恐れおののいて。。。」

今日、その言葉を嚙み締めていました。

「恐れおののいて」というのは、どういう意味でしょうか。

自分の手紙の中で、パウロはその表現を三度使いました。その表現を使うたびに、パウロはイエス様への従順について話していました。

第二コリント7:15では、コリント人たちはテトスを恐れおののきながら迎えました。なぜなら、テトスはコリント人たちが従順したイエス様を代表していたからです。

エペソ6:5では、奴隷たちはイエス様に恐れおののいて従っていたように、自分の主人にも従うべきでした。

そして、今日の箇所では、ピリピ人たちがいつも従順であったように、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めるべきでした。

ある意味、十字架でイエス様は私たちの救いを完全に達成したけど、私たちがイエス様に従い仕えることで、私たちの救いの益をより完全に経験します。そして、救いの最大の益は、私たちを深く愛してくださる神様との関係の回復です。

だから、救いを達することの大部分は、その回復された関係の中で、毎日毎日、一瞬一瞬を歩むことを学ぶことなのです。

でも、どうして恐れおののいてそうするべきでしょうか。

なぜなら、イエス様はすべての名にまさる名を与えられ、すべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白しますから。

もしかしたら、パウロはその言葉を書いたとき、引用したイザヤ書45:23だけではなく、詩篇2編をも考えていたかもしれません。

詩篇2編は、メシアに関する詩篇です。その詩篇では、神様はイエス様を全世界の王として立てます。そして、イエス様に反抗する人たちのすべては滅ぼされます。そのような人々はイエス様の怒りを恐れるべきです。

でも、主に身を避ける人は喜びを知ります。(詩篇2:12)

だから詩人はこう書きました。

恐れつつ、主に仕えよ。おののきつつ喜べ。。。(詩篇2:11、脚注にある別訳)

上記の言葉はパウロの言葉に似ていますね。もしかしたら、「恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい」と言ったとき、詩人の言葉を考えていたかもしれません。

私たちはイエスと対等ではありません。

イエス様は王の王と主の主です。イエス様は私たちの従順にふさわしい方です。そして、イエス様はいつかすべての反逆者を裁きます。

そういうわけで、私たちはイエス様を軽んじてはいけません。

でも、イエス様を私たちの主と認めるなら、私たちが神様からの罰を恐れる必要はありません。裁きは私たちのためではなく、神様の敵のためですから。

むしろ、畏敬の念を抱き、さらに喜びの歌を歌って、イエス様に仕えます。(詩篇2:11;ピリピ2:13;詩篇100:2)

私たちはおののきながら、神様が私たちに与えてくださった恵を喜びます。神様がみこころのままに、私たちのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださることを喜びます。(ピリピ2:13)

もう一人の詩人は「恐れおののいて自分の救いを達成する」というコンセプトをまとめたと思います。

知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。(詩篇100:3-5)

だから今年、私たちの主とその救いを軽んじないようにしましょう。

むしろ、恐れおののいて、また、喜びをもって、自分の救いを達成するよう努めましょう。

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出エジプト記のデボーション

私たちを区別するもの

その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。

わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。(出エジプト記12:13)

イスラエル人とエジプト人は、何が違ったのでしょうか。どうして神様の裁きはエジプト人に下ったのに、イスラエル人には下らなかったのでしょうか。

イスラエル人がエジプト人より道徳的に優れていたというわけではありません。

そうではなく、彼らのために流されたやぎや子羊の血のゆえに、イスラエル人は救われました。

イスラエル人と同じように、私たちも神様の裁きを受けるべき存在でした。

私たちは他の人々より道徳的に優れているわけではありません。

私たちを区別するのは、私たちがどれだけ良い人であるか、どれだけ忠実であるかではなく、むしろ、私たちのために十字架で流されたイエス様の血です。

その血によって、私たちは神様の裁きから救われました。

もしかしたら、ダビデはイスラエル人たちがヒソプの束を使って、血を鴨居と二本の門柱に塗り付ける場面を思い浮かべて、この言葉を歌ったのかもしれません。

ヒソプで私の罪を除いてください。
そうすれば私はきよくなります。

私を洗ってください。
そうすれば 私は雪よりも白くなります。(詩篇51:7)

神様はイスラエル人たちに、神様がその日に彼らのためにしてくださったことを思い出すように命じられました(24~27節)。

私たちも、イエス様が十字架で私たちのためにしてくださったことを思い出し、イスラエル人のようにひざまずいて礼拝しましょう。

It’s your blood that cleanses me.
あなたの血は私を清め、
It’s your blood that gives me life.
あなたの血は私にいのちを与え、

It’s your blood that took my place
あなたの血は私の代わりに流され、
in redeeming sacrifice.
私をあがなってくださいました。

And washes me whiter than the snow.
その血は私を雪よりも白くしてくださいます。
My Jesus, God’s precious sacrifice.
私のイエス、神様の尊いいけにえです。ーーマイケル・キリスト

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出エジプト記のデボーション

私は何者でしょうか

神はモーセに語り、彼に仰せられた。

「わたしは主(原語:ヤハウェ)である。

わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神(原語:エル・シャダイ)として現れたが、主(原語:ヤハウェ)という名では、彼らにわたしを知らせなかった。(出エジプト記6:3)

天のお父さん、あなたはエル・シャダイ、全能の神です。あなたはヤハウェです。

あなたはアブラハム、イサク、ヤコブとともにおられた神様です。

あなたはモーセとともにおられた神様です。

そして、あなたは私とともにおられる神様です。

私は何者でしょうか。

どうして、あなたは私を愛し、心に留めてくださるのでしょうか。

どうして、私のうめきを耳に留めてくださるのでしょうか。

どうして、私を救い、購ってくださるのでしょうか。

どうして、私をご自分のものとしてくださるのでしょうか。

どうして、私を御国に導いてくださるのでしょうか。

どうして、私の神となり、あなた自身を私に現してくださるのでしょうか。

イエス様において、あなたはアブラハム、イサク、ヤコブ、モーセでさえ知らなかった方法で、私にご自身を現してくださいました。

だからこそ、苦しむときにも、私はあなた信頼することを選びます。

アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてモーセの時代に、あなたは忠実でおられました。今もあなたは忠実であり、そして永遠に、あなたは忠実な神様なのです。

アバ、あなたを愛しています。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書のデボーション

収穫の主への祈り

また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。

そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイの福音書9:36ー38)

収穫の主よ。私の周りで、弱り果てて倒れている人たちは誰でしょうか。希望のない人生を歩んでいる人たちは誰でしょうか。

どうか、私の目を開いてください。あなたがしてくださったように、私も人々のうわべを見抜き、心の深いニーズを見抜くことができるようにしてください。

私に、あなたのあわれみ深い心を与えてください。そして、私を収穫のために送ってください。

私が、希望のない人に希望を届けることができるように。私が彼らに、あなたの赦し、救い、そして愛を宣言することができるように助けてください。(マタイ9:2、22)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ルカの福音書のデボーション

闇の力に縛られた国への祈り

この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。

安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。(直訳:安息日に、彼女はこの束縛から解き放たれる必要がないんですか。)(ルカの福音書13:16)

天のお父さん、この国のために祈ります。日本は、18年ではなく、何千年もの間サタンに縛られているのです。日本はこの束縛から解き放たれる必要がないのでしょうか。

サタンに縛られている人々のためのイエスのあわれみ深い心を私に与えてください。

天のお父さん、からし種のようにあなたの御国が成長し、日本中に広がり、人々があなただけにある平安を知るように。

また、パン種のように、あなたの御国がこの社会の隅々にまで浸透し、完全に変容するように。

天のお父さん、あなたの御国が来ますように。

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ルカの福音書のデボーション

神の御子、神の子

イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、 聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。

すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」(ルカの福音書3:21ー22)

このアダムは神の子である。(38節、新改訳(第三版))

イエス様、あなたは天の父が喜ばれる神の子です。

天のお父さん、あなたはかつてアダムについても同じことを言われました。けれども、アダムは反逆し、罪を犯しました。そして、アダムによって、罪と死がこの世に入りました。

しかし、イエス様、あなたによって、私たちは赦され、永遠のいのちを与えられました。(ローマ5:12〜21)

天のお父さん、日本の人々、また世界中の人々が、あなたの救いを見ることができますように。(ルカ3:6)

イエス様、人々に悔い改めを促し、あなたに指し示したヨハネのような心と熱心を、私に与えてください。

また、あなたが救おうとされている人々に対する、あなたの心を私に与えてください。

あなたの心を、私に与えてください。

アーメン。

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イザヤ書のデボーション

とりなしをし続けなさい!

シオンのために、わたしは黙っていない。 エルサレムのために沈黙はしない。 その義が明るく光を放ち、 その救いが、たいまつのように燃えるまでは。。。

エルサレムよ、 わたしはあなたの城壁の上に見張り番を置いた。終日終夜、 彼らは、一時も黙っていてはならない。

思い起こしていただこうと主に求める者たちよ、 休んではならない。主を休ませてはならない。 主がエルサレムを堅く立て、 この地の誉れとするまで。(イザヤ書62:1,6ー7)

1〜2節では、メシアは黙らず、沈黙せず、エルサレムの義が明るく光を放ち、その救いがたいまつのように燃え上がるまで、働き、とりなしをしてくださると約束されています。

それは本当に励ましに満ちたことばです。なぜなら、イエス様はエルサレムのためだけでなく、神の民すべてのためにそうしてくださるからです。

私たちの義が明るく光を放ち、その救いがたいまつのように燃え上がるまで、イエス様は働き、とりなしをしてくださいます(ヘブル7:22〜25)。

でも、6〜7節は私の心を打ちました。

メシアはエルサレムの城壁の上に見張り番を置かれました。そして、メシアは彼らにこう言われます。

「休んではならない。主にご自身の約束を思い起こさせなさい。祈り続けなさい。主がエルサレムを堅く立て、この地の誉れとされるまで、主を休ませてはならない。」

私は日本について考えます。イエス様は私たちを、日本のための見張りとして任命してくださいました。そして、イエス様は私たちにこう言われます。

「日本のためにとりなしをし続けなさい。黙ってはなりません。すべての人をイエス様のもとに引き寄せるという約束を、神様に思い起こさせなさい。(ヨハネ10:16、12:32;黙示録7:9〜10)

神の国が日本に来るように祈りなさい。イエスにある日本の義が明るく光を放ち、その救いがたいまつのように燃え上がるまで、神様が働き続けるように祈りなさい。」

天のお父さん、この国民はあなたを切実に必要としています。あなたの国が日本に来るように。

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イザヤ書のデボーション

祝福されている

「彼らを見る者はみな、彼らが主に祝福された子孫であることを認める。」

私は主にあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義(別訳:義)の外套をまとわせ。。。」(イザヤ書61:9-10)

この箇所を読むとき、たいてい1〜3節が私の目に留まります。 なぜなら、イエス様がそのことばを、ご自身に当てはめられたからです(ルカ4:18〜21)。

でも今日、9〜10節が私の目に留まりました。私はどれほど祝福されているかに気づかされました。

私はいつも、自分の欠点や失敗、そして罪ばかりを見てしまいます。でも、恵みによって、神様は私に救いの衣と、キリストの義の外套を着せてくださいました。

天のお父さん、私は本当に祝福されています。あなたにあって楽しみ、あなたにあって喜びます。なぜなら、あなたが私に救いの衣と、キリストの義の外套を着せてくださったからです。

私はその衣を作る必要はありませんでした。私はその外套を買う必要もありませんでした。

イエス様、あなたはご自身の血によってその衣を贖い取ってくださり、私に着せてくださいました。

ただ、「ありがとう」としか申し上げることができません。

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イザヤ書のデボーション

羊飼いの歌?

今日、アドベントのディボーションを読んでいて、羊飼いの話を思い起こしました。彼らは天使を見たとき、どのように感じたでしょうか。

ルカの福音書によれば、彼らは非常に恐れました。なぜでしょうか。

神様は約400年もの間、ユダヤ人たちに語られませんでした。しかし突然、神様はその沈黙を破られました。なぜでしょうか。彼らを裁くためでしょうか。

違います。良い知らせを告げるためです。

神様の怒りは去り、神様は御子を通して救いをもたらされました。

羊飼いたちが天使の言葉を聞いたとき、イザヤ書12章を思い浮かべたでしょうか。

おそらくそうではなかったでしょう。でも、もし彼らがイザヤの言葉を思い出したなら、きっとその歌を歌ったことでしょう。

主よ、感謝します。 あなたは私に怒られたのに、 あなたの怒りは去り、 私を慰めてくださったからです。」

見よ、神は私の救い。 私は信頼して恐れない。

ヤハ、主は私の力、私のほめ歌。 私のために救いとなられた。(イザヤ書12:1ー2)

エッサイの根、つまりイエス様は来られました。(イザヤ書11:1〜5、10)

そして、イエス様を見た後、羊飼いたちは周りの人々にその良い知らせを伝えました。(ルカ2:16〜18)

シオンに住む者よ。 大声をあげて喜び歌え。

イスラエルの聖なる方は、 あなたの中におられる大いなる方。(イザヤ書12:6)

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使徒の働きのデボーション

希望を持っているからこそ

しかし、パウロはこう答えた。「わずかな時間であろうと長い時間であろうと、私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が。。。みな私のようになってくださることです。」(使徒の働き26:29)

パウロのように、私たちは希望を持っています。

永遠の命という希望を持っているのです。

ある日、すべてのものが新しくなるという希望も持っているのです。

すべての悪が裁かれるという希望も持っているのです。

また、恵みによって、神の子どもとして私たちが御国に受け入れられる希望も持っているのです。

私たちはパウロの希望を持っています。でも、パウロの心も持っているでしょうか。それは、周りの人々が私たちのようになってくれるということです。つまり、彼らも希望を持つ者になってくれるということです。

また、私たちは、彼らが闇から光へ、サタンの支配から神へと立ち返るように望むでしょうか。

そして、彼らが悔い改めて、イエス様を信じる信仰によって、罪の赦しを得て、聖なる者とされた人々とともに相続にあずかるように祈るでしょうか。

それは、あなたの心でしょうか。

イエス様、神の子どもとして私に希望を与えてくださり、感謝します。私の周りの人々もその希望を知るように、私を遣わしてください。私にパウロの心を与えてください。あなたの心を私に与えてください。あなたのみ名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働きのデボーション

御霊と知恵に満ちた人

そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。

その人たちにこの務めを任せることにして、私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。(使徒の働き6:3ー4)

今日の箇所を読んだとき、「祈りとみ言葉」と「御霊と知恵に満ちた人」の関係が見えてきました。

御霊に満ちた人になりたいですか。イエス様のように、御霊に導かれ、その力によって歩みたいですか(ルカ4:1、14)。

そのような人生を送りたいのであれば、御霊と繋がらなくてはなりません。つまり、私たちは祈らなくてはならないということです。毎日、私たちは、御霊が私たちを満たし、力を与え、導いてくださるように祈るべきです。

イエス様は私たちに言われました。「求め続けなさい。探し続けなさい。たたき続けなさい。そうすれば、神様は必ず御霊を与えてくださいます。」(ルカ11:9-13)

知恵に満ちた人になりたいですか。聖書に専念する人にならなくてはなりません。聖書を読み、その言葉に思いを巡らしてこそ、神様のように考え始めるのです。

使徒たちはその二つのことに専念したので、御霊と知恵に満ちた人になりました。でも、そのような生活は、ただ偉いクリスチャンたちのためのものではありません。

私たち皆が、そのようなクリスチャン生活を送るべきなのです。

使徒の働きの時代、すべてのクリスチャンたちはみ言葉と祈りに専念していました。(使徒の働き2:42)

だから、そのような生活は、ただ偉いクリスチャンのためであるという嘘を信じてはいけません。イエス様についていくすべてのクリスチャンが、そのように生きるべきなのです。

神様の民である私たちが御霊と知恵に満ちて生きるとき、私たちの愛する人々、そしてこの国の人々も変えられ、イエス様に従うようになります。

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使徒の働きのデボーション

イエス様の名前だけによって

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。(使徒の働き4:12)

クリスチャンとして、私たちはこのような言葉を何度も聞いてきたので、もはや深く考えることも少ないかもしれません。

しかし今日、私の心にこの問いが浮かびました。「そのユダヤ人の指導者たちは、それを聞いて何を思っただろうか。」

「イエス以外には、誰によっても救いはないって?でも、ヤハウェだけが私たちの救い主です。」(ヤハウェとは、ユダヤ人やクリスチャンが信じる神の御名です。)

また、「天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないって?でも、ヤハウェだけが私たちの救い主です。」

実は、その考え方は間違っていませんでした。預言者イザヤを通して、神様はこう語られました。

わたし、主(直訳、「ヤハウェ」)ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、わたしをおいて、ほかにはいない。

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。

わたしは自分にかけて誓う。ことばは、義のうちにわたしの口から出て、決して戻ることはない。すべての膝はわたしに向かってかがめられ、すべての舌は誓い…(イザヤ書45:21-23)

でも、ユダヤ人の指導者たちが知らなかったのは、神様が人間となられたということです。つまり、イエス様こそがヤハウェなのです。

だからこそ、神様はマリアに「その子をイエスと名付けなさい」と言われました。「イエス」とは、「ヤハウェが救い」を意味します。

また、使徒パウロも後に、上記のイザヤ書の言葉をイエス様に当てはめました。(ピリピ2:6-11)

イエス様を知らない、私たちの愛する人々のことを考えると、きっと多くの人がこう思いたくなるでしょう。「その人はイエス様を知らないけれど、神様はきっと受け入れてくださるだろう。」

しかし、イエス様のみ名のほかに、私たちが救われるべき名は与えられていないのです。なぜなら、イエス様だけが人となられた神であり、私たちの罪のための代価を払ってくださった方だからです。

さらに、イエス様が神であったからこそ、私たちの罪の代価を完全に払うことができたのです。

だから、今日祈るときに、イエス様を知らないあなたの愛する人々のことを思い起こしましょう。そして、彼らに救いの良い知らせを伝えるための機会と大胆さを求めて祈りましょう。

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マタイの福音書のデボーション

私たちの上のキリストの血

すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」(マタイの福音書27:25)

民がその言葉を言ったとき、彼らが意味したのは、「イエスの死の責任を取ります。私たちにその責任を負わせていいです」ということでした。

しかし皮肉なことに、十字架においてイエス様は、私たちの罪の責任を取ってくださいました。

そして今、別の意味で、イエス様の血は私たちの上にあります。

神様が最初の契約を結ばれたとき、モーセは子牛と雄やぎの血をイスラエル人たちに振りかけました。その時、モーセはこう言いました。

これは、神があなたがたに対して命じられた契約の血である。(ヘブル9:20)

どうして、民はその血を振りかけられたのでしょうか。なぜなら、血を流すことがなければ、罪の赦しはないからです。(ヘブル9:22)

しかし、雄牛と雄やぎの血は、実際に罪を除くことはできませんでした。そのいけにえは、ただイスラエル人たちに自分の罪を思い出させるものであり、イエス様の十字架の働きの伏線でした。(ヘブル10:1ー4)

けれども今、イエス様はまことの幕屋、すなわち天に入り、ご自身の血によって私たちの救いを成し遂げてくださいました。(ヘブル9:11ー12)

そういうわけで、イエス様が死なれたとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。その幕は、神とその民の間にある隔ての壁の象徴でした。

そして、イエス様が死なれたとき、神様はこう言われたのです。

「あなたは新しい契約の血を振りかけられました。あなたの罪は赦されました。だから、あなたは自由に私に近づくことができます。」(マタイ26:28)

だから、ヘブル書の言葉を心に留めておきましょう。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブル10:19ー22)

イエス様の血は私たちの上にあります。だから、喜びを持って、神様に近づきましょう。

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マタイの福音書のデボーション

クリスマスのメッセージ

マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイの福音書1:21)

「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

その言葉を聞いて、ヨセフはとても驚いたでしょう。

「私の息子が自分の民をその罪から救う?どういうことだろう?私の息子がどうやって人々をその罪から救うことができるのだろうか。」

その時、ヨセフは十字架をまったく想像できなかったでしょう。

もし御使いが、「この方はローマ人たちからお救いになる」と言っていたら、ヨセフはたぶんすぐに理解できたでしょう。なぜなら、神様は似た言葉をサムソンの両親に語られたからです(士師記13:5)。

しかし、「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」とは?

現代でも、その言葉を聞いて、ヨセフと同じように戸惑う人は多いでしょう。

もし彼らが自分に救いが必要だと思えば、政府の圧制からの救いを考えるでしょう。または、経済的な問題、健康の問題、家庭の問題などを考えるでしょう。

それらの問題が取り去られれば、喜びと平和を得られると考えるでしょう。

だから、もし彼らが祈ろうと思っても、それらの問題のために祈るでしょう。

けれども、彼らが気づいていないのは、自分の最大の問題が自分の罪であるということです。つまり、自分の罪からの救いを必要としていることに気づいていないのです。

多くの人々は自分の罪を軽んじています。また、自分の行為を罪として認めていません。

その一方で、ある人たちは自分の罪によって罪悪感と後悔を抱いていますが、どうしたらよいかわかりません。

それでも、どちらの場合でも、メッセージは同じです。

「イエス様がご自分の民をその罪からお救いになるために来られました。」

ですから、クリスマスのことを考え、私たちの愛する人々にクリスマスの意味をどのように説明すべきかを考えるとき、そのメッセージの中心を心に留めておきましょう。

イエス様がご自分の民をその罪からお救いになるために来られました。

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ヨハネの手紙第一のデボーション

神を偽り者としている?

神を信じない者は,神を偽り者としています。(ヨハネの手紙第一5:10)

その言葉は私の心を打ちました。

神を信じないと、私たちは神を偽り者と呼んでいます。

エデンで、サタンは神を偽り者と呼び、アダムとエバに神様を偽り者と呼ぶことを教えました。(創世記3:3-6)

神の言葉が時代遅れか間違っていると主張すると、私たちは神を偽り者と呼んでいます。

たぶん、多くの人にとって、最も受け入れがたい神の教えは、イエス様だけによって、私たちが神様との関係や永遠の命を得ることができるということです。(ヨハネ14:6)

特に、私たちは神様を知らない愛している人たちを考える時、その真理を信じたくないのです。

私たちは「ほかの道があるはずだ」と考えます。

でもそのようなことを言うと、私たちは神を偽り者と呼んでいます。

ヨハネによれば、水や血や御霊によって、神様は自分の神子が救いの道であると証しをしています。

イエス様がバプテスマを受けた時、神はイエス様のこととその使命に関して証しをしました。(ヨハネ1:29-34)

十字架で、イエス様の血はアベルの血よりもすぐれたことを語りました。(ヘブル12:24)

アベルの血は復讐を叫んでいました。(創世記4:10-11)

イエス様の血は「父よ、彼らをお赦しください」と叫びました。(ルカ23:34、ヨハネ19:34-35)

天の父はその願いを聞き、神殿の幕を裂いて、神様への道を開いてくださいました。(マタイ27:50-51)

そして、五旬節の日、御霊はイエス様の働きに関して証しをし、今なお証しをしています。(使徒の働き2:16-21、ヨハネ15:26、16:7-10、ローマ8:14-17)

だから、その証しを拒絶し、「ほかの道があるはずだ」と言うと、私たちは神様を偽り者と呼んでいます。

私たちは神様とその言葉を疑うことがありますか。

神のみ言葉を曲げないように。特に救いに関する神の言葉を曲げないように。

むしろ、その証しをしっかり握りましょう。そして、私たちの愛している人たちがイエス様を知り、救われるために、その証しを伝えましょう。

その救いを見て、私たちの喜びは本当に満ちあふれます。(第一ヨハネ1:1-4)

その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。

御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(ヨハネの手紙第一5:10-11)

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

救いの不思議さを思い巡らす

私たちはどれほど、自分の救いの不思議さを思い巡らすでしょうか。

パウロはよくそうしていました。

しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が。。。御子を私のうちに啓示することを良しとされた。。。(ガラテヤ人への手紙1:15-16)

パウロは自分のことについて話していましたが、その言葉は私たちにも当てはめることができます。

私たちが自分の母の胎にあるときから、神様は私たちを選び出してくださいました。

そして、ご自身のタイミングで、神様は恵みをもって、私たちを召してくださいました。

さらに、その同じ恵みによって、神様は私たちの周りの人々を救うために、私たちの人生を通して御子を現してくださいます。

その言葉を考えてみましょう。

想像してください。あなたが自分の母の胎にいるとき、神様はあなたを見て、「あなたを選びます」と言われました。

また、あなたを神様に近づけた色々な小さな「偶然」を思い起こしてみましょう。

そして、少し考えてみてください。あなたは不完全な者なのに、神様はあなたを用いて人々に御子を現すことを良しとされています。

そのすべてのことの不思議さを思い巡らしましょう。

神様の恵みの不思議さを思い巡らしましょう。

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民数記のデボーション

弱すぎると思うだろうか?

この主の手が短いというのか。(民数記11:23)

今日、その言葉は私の心を打ちました。

「主の手が私のところに届かないと思うだろうか。主の手が弱すぎると思うだろうか。」

モーセや(14)、私たちとは違って、神様は弱いお方ではありません。

ご自身の約束を守ることに関して、神様は弱いお方ではありません。

ご自身の民の世話をすることに関して、神様は弱いお方ではありません。

ご自身の民を懲らしめることに関して、神様は弱いお方ではありません。

今日の箇所では、神様はそのようにご自身の力を現されます。

しかし、もう一つの面でも、神様は弱いお方ではありません。私は23節を読んで、イザヤ書59:1にある神様の言葉を思い起こしました。

見よ。主の手が短くて救えないのではない。 その耳が遠くて聞こえないのではない。(イザヤ書59:1)

私たちは、神様の救いを見ることに関して絶望することがあるでしょうか。

日本を思うとき。

愛する人々を思うとき。

この世の罪とよこしまを思うとき、人々の頑なな心を見るとき、絶望するのは簡単なことです。

しかし、この真理を心に留めておきましょう。

主の手が短くて救えないのではありません。

もう一つのことも覚えておきましょう。

神様がイスラエルの長老たちにご自身の御霊を注がれたように、神様は私たちにもご自身の御霊を注いでくださいました。(イザヤ書59:21、使徒の働き2:17-18)

神様の目的は、私たち皆が神の命の言葉を周りの人々に伝えることです。

それは、牧師たちだけの役割ではなく、私たち皆の役割です。

主よ、あなたがモーセやイスラエルの民に御霊を注がれたように、使徒の働きの時代のクリスチャンたちに御霊を注がれたように、私たちにも御霊を注いでください。

あなたの手が短くて救えないのではありません。あなたは私を救ってくださいました。

ですから、私の周りの人々を救うために、私をあなたの御霊で満たし、用いてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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詩篇のデボーション

喜びの理由

あなたがたは君主を頼みとしてはならない。 救いのない人間の子を。(詩篇146:3)

今日、その言葉は私の目に留まりました。特に、その最後の部分です。

「救いのない人間の子を頼みとしてはならない。」

でも、私たちクリスチャンは、救いのために人の子を信頼します。つまり、私たちはイエス様に信頼を寄せるということです。

なぜでしょうか。

なぜなら、イエス様は単なる人の子ではないからです。

むしろ、イエス様は、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって、力ある神の子として公に示された方です(ローマ1:4)。

単なる人間の子と違って、イエス様が死なれたとき、御自身の計画は滅び失せませんでした(4)。

むしろ、イエス様は復活して、永遠に生きておられる方です。

この世におられた時、イエス様は、飢えている者たちにパンを与え、目の見えない者たちの目を開け、かがんでいる者たちを起こされました。

そして、今、イエス様の十字架と復活によって、私たち霊的な囚人たちは解放されました。

また、ある日、イエス様はもう一度この世に来て、正義をもたらし、永遠に治められます。

だから、それを覚えていて、賛美しましょう。

ハレルヤ。

わがたましいよ、主をほめたたえよ。

私は生きているかぎり、 主をほめたたえる。

いのちのあるかぎり、 私の神にほめ歌を歌う。(1ー2節)

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コリント人への手紙第一のデボーション

救いの土台

神は真実です。(コリント人への手紙第一1:9a)

その言葉をちょっと噛み締めましょう。

神は真実です。

どうして私たちの救いは確実なものでしょうか。その答えは、この短い言葉にあります。

神は真実です。

素晴らしい愛によって、神様は私たちを召し、御子との交わりに入れてくださいました。(9b)

恵みによって、神様は私たちを聖なる者とし、聖徒として召してくださいました。(2)

そして、神の真実のゆえに、神様は私たちを最後まで堅く保ち、裁きの日に責められるところがない者としてくださいます。(8)

私の救いは、自分の忠実さによるものではなくて良かった。なぜなら、私はよく真実でない者だからです。

そういうわけで、私はテモテへのパウロの言葉が大好きです。

私たちが真実でなくても、 キリストは常に真実である。 ご自分を否むことができないからである。(第二テモテ2:13)

だから、自分が真実でないと思って落胆している時、心に留めておきましょう。

神は真実です。

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創世記のデボーション

私たちと共におられる神

ドタンで、ヨセフの兄弟たちが彼を捕らえ、イシュマエル人に奴隷として売ったとき、ヨセフは何を考えていたでしょうか。

「神様はどこだろう」と思うのは、自然な反応かもしれません。

不思議なことですが、何百年後、同じドタンの地で、もう一人の人物が似たような思いを抱いていました。

預言者エリシャとそのしもべが敵の軍隊に包囲されたとき、しもべは恐れにとらわれてパニックになりました。でも、エリシャは彼に言いました。

恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから(列王記第二6:16)

そして、エリシャは祈りました。

どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。(列王記第二6:17)

そして、そのしもべは、神様の軍隊が彼らを守っていることを見ました。神様は彼らを見捨てたわけではありませんでした。神様は最初から、彼らと共におられました。

そのように、神様はヨセフと共におられました。

そして、数千年後、イエス様が「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたとき、神様は実際にイエス様と共におられました。

また、神様がヨセフの兄弟たちの罪を用いて、ヤコブの家族(その兄弟たちを含む)の救いをもたらされたように、神様はユダヤ人たちの罪を用いて、私たちの救いをもたらされました。

だからこそ、あなたがどんな試練に直面しても、心に留めておきましょう。

その試練の中で神様を見ることができないかもしれませんが、神様はあなたと共におられます。そして、神様はあなたの益のために働いてくださいます。(ローマ8:28)

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創世記のデボーション

呪いが解かれる日

今日の箇所を読んだとき、罪の呪いを思い起こしました。

罪悪感。恥。苦しみ。死。

でも、最も恐ろしいのは、神様の御前から投げ捨てられることです。

それでも、神様の御言葉によって、アダムとエバはなお希望を持っていました。

神様はサタンにこう言われました。

わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。

彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。(創世記3:15)

神様はその約束を守ってくださいました。

十字架で、イエス様は死なれましたが、それと同時に、サタンに致命的な打撃を与えられました。

さらに、三日目にイエス様は蘇られました。

そういうわけで、私たちは呪いが取り除かれる日を心待ちにしています。

ヨハネは幻の中でその日を見て、こう言いました。

また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。

「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。

神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」(黙示録21:1-5)

アーメン。主イエスよ。来てください。(黙示録22:20)

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詩篇のデボーション

もしも、 主が私たちの味方でなかったなら

もしも、 主が私たちの味方でなかったなら。」

さあ イスラエルは言え。

「もしも、主が私たちの味方でなかったなら。。。(詩篇124:1ー2a)

それを読んだとき、私は牧師の最近のメッセージを思い出しました。

「もしも、主が私の味方でなかったなら、もしも、主が私を救ってくださらなかったら、私は今、どこでどうしていただろうか。」

どうでしょうか。

私の父は若い頃、とても短気な人だったので、私はいつも父を怖がっていました。でも、神様が父の心に働いてくださったので、私の父との関係は癒されました。さらに、その経験によって、私はより良い夫とパパになることができました。

でも、私自身もいろんな弱さや罪を持っています。もし神様が私の心に働いてくださらなかったら、その弱さや罪によって、私の人生はとてもめちゃくちゃになっていたと思います。

でも、何よりもまず、主が私の味方でなかったなら、私はまだ自分の罪の中にいて、地獄への道を歩んでいたと思うのです。

神様は、私をそのすべてから救ってくださいました。だから、私は歌います。

ほむべきかな 主。。。

鳥のように 私たちのたましいは 仕掛けられた罠から助け出された。罠は破られ 私たちは助け出された。

私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。(6ー8)

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詩篇のデボーション

ご自身を低くされた神

過ぎ越しの祭りの際、ユダヤ人たちは普段、詩篇113ー118篇を歌っていました。

最後の晩餐で、イエス様とその弟子たちが歌ったとき、たぶんその詩篇を歌ったのでしょう。(マタイ26:30)

だから、4ー6節は私の心を打ちました。

主はすべての国々の上に高くおられ その栄光は天の上にある。

だれが私たちの神、主のようであろうか。

主は高い御位に座し、身を低くして 天と地をご覧になる。(詩篇113:4ー6)

でも、神様はただご覧になったわけではありません。むしろ、神様はご自身の栄光を置いておいて、人間になり、私たちの罪のために死んでくださいました。(ピリピ2:5ー8)

イエス様の十字架の働きのおかげで、私たちはちりから起こされ、罪のあくたから引き上げられました。

さらに、神様は私たちを王の子供たちとして、イエス様と共に天上に座らせてくださいました。(詩篇113:7ー8、エペソ2:1ー7)

それを覚えていて、詩人と共に歌いましょう。

ハレルヤ。主のしもべたちよ、ほめたたえよ。 主の御名をほめたたえよ。

今よりとこしえまで 主の御名がほめられるように。

日の昇るところから沈むところまで、主の御名がほめたたえられるように。(詩篇113:1ー3)

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詩篇のデボーション

神様が天から見下ろされたとき

主は、その聖なるいと高き所から見下ろし、天から地の上に目を注がれました。

捕らわれ人のうめきを聞き、死に定められた者たちを解き放つために。

人々が主の御名をシオンで主の誉れをエルサレムで語り告げるために。

諸国の民や王国が 一つに集められて、主に仕えるために。(詩篇102:19-22)

その言葉を読んで、出エジプト記の話を連想しました。

イスラエル人たちはうめいて、死に定められた奴隷たちでした。でも神様は天から見下ろし、イスラエル人たちのうめきを聞き、彼らを解き放ってくださいました。(出エジプト記2:23-25,3:7-10)

そういうわけで、彼らは主の誉れを語り告げ、主に仕えました。

そのように、私たちは自分の罪のために死に定められた人々でした。でも、神様は天から見下ろし、私たちのうめきを聞いてくださいました。そして、神様の恵みによって、私たちは救われました。

それだけではなく、ある日、すべての国民、部族、民族、言語からの人々はいつまでも神様の御前に賛美し、神様に仕えます。(黙示録7:9-17)

だから、私たちは弱いとき、神様に叫ぶとき、神様がどれだけ素晴らしい神であるかを覚えていましょう。

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詩篇のデボーション

恐れはない

詩篇91篇を読むとき、私は「この詩篇は約束しすぎるんじゃないかなぁ」とよく考えます。

「私たちが神様に信頼を寄せれば、私たちの問題のすべてはなくなるのだろうか。」

実は、イエス様を誘惑したとき、サタンはこの詩篇を曲げました。「神殿の屋上から下に身を投げなさい。この詩篇によれば、御使いたちはあなたを守るでしょう?」

そして、あるクリスチャンによれば、私たちは決して病気にならないはずだし、問題のない人生を送るはずです。

でも、今日この箇所を読んだとき、私はイスラエル人たちのエジプトの経験を考えました。

エジプト人たちは神様の裁きを受けました。つまり、彼らは疫病や荒らす滅びに苦しんだということです。また、夜襲の恐怖を経験して、彼らの長男たちは亡くなりました。

でも、神様がイスラエル人たちを守ってくださったので、彼らはその恐ろしい裁きから逃れました。

聖書では、そんなパターンを何回も見ることができます。神様に反抗する人たちは裁かれるけど、神様の民はその裁きから逃れます。(エゼキエル書9章、第2ペテロ2:4ー10;黙示録7:1ー3、9:1ー21)

そのように、ある日、神様はこの世を裁かれます。でも、私たちが神様に属し、私たちが神様に自分の隠れ家として信頼を寄せれば、私たちは神様の裁きを恐れなくていいのです。だから、ヨハネはこう言いました。

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。

神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。

こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。

この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。

恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。(第一ヨハネ4:16ー18)

だから、もし神様があなたを罰しておられるかどうか疑問に思っているなら、大切な真理を覚えていましょう。それは、イエス様が十字架で私たちの罰をすでに受けてくださったということです。神様はあなたを罰しておられるわけではありません。

でも、私たちは神様の裁きだけではなく、サタンの攻撃をも恐れる必要がありません。聖書では、サタンは蛇やライオンに見立てています。(創世記3章、第一ペテロ5:8)

興味深いことですが、サタンはイエス様を誘惑するとき、この詩篇の11ー12節を引用したけど、13節を飛ばしました。

あなたは 獅子とコブラを踏みつけ、若獅子と蛇を踏みにじる。(詩篇91:13)

もしかしたら、サタンはその聖句を考えると、違和感を持っていたでしょう。なぜなら、神様は将来の救い主について蛇にこう言われたからです。

彼はおまえの頭を打ち、 おまえは彼のかかとを打つ。(創世記3:15)

サタンが私たちを打つときもあります。でも、イエス様の傷のように、私たちの傷は致命傷ではありません。

サタンは私たちの体を殺すことができるけど、私たちの魂を滅ぼすことができません。そういうわけで、ある日、私たちは天国で喜び、神様を賛美します。(黙示録7:9ー17)

だから、神様の裁きやサタンの攻撃を恐れずに、神様の約束を心に留めておきましょう。

彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出す。

彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げる。彼がわたしを呼び求めれば、わたしは彼に答える。

わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い、彼に誉れを与える。

わたしは、彼をとこしえのいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せる。(詩篇91:14ー16)

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詩篇のデボーション

私たちを元に戻してくださる方

詩篇80篇では、ほぼ同じ祈りが三度繰り返されています。

神よ、私たちを元に戻し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。(詩篇80:3)

万軍の神よ、私たちを元に戻し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。(7)

万軍の神、主よ、私たちを元に戻し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。(19)

私たちの唯一の救いの希望は、神様が私たちの心を変え、私たちを元に戻してくださることです。

最終的に、神様は十字架でその御業を成し遂げられました。その十字架によって、17節は成就しました。

天の父の右の座に着いておられる人の子、イエス様は、十字架で私たちの罪のために苦しみ、死んでくださいました。 イエス様がその使命を果たすために、天の父の御手はイエス様の上にあり、イエス様を強くしてくださいました。

だから今、イエス様の働きゆえに、天の父はご自身の御顔を私たちに照り輝かせてくださいます。さらに、天の父は私たちを元に戻し、私たちを救ってくださいます。

毎日、私たちが受けたこの素晴らしい恵みを喜びつつ歩むことができますように。

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詩篇のデボーション

毎日毎日

日々、私たちの重荷を担われる方。(詩篇68:19)

どれだけ私たちはそれを考えるでしょうか。

どれだけ神様が私たちを支えてくださっているのに、私たちは全然気づかないのでしょうか。

むしろ、苦しむとき、私たちは神様に見捨てられたと感じてしまいます。

でも、神様は決して私たちを見捨てることはありません。

毎日毎日、神様は私たちの重荷を担ってくださいます。

さらに、十字架でイエス様は、私たちの最も重い重荷を担ってくださいました。

だから、一番暗いとき、この世の重さに押し潰されそうになるとき、私たちはダビデと一緒に叫びましょう。

ほむべきかな主。 日々、私たちの重荷を担われる方。 この神こそ、私たちの救い。(19)

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詩篇のデボーション

新しいシーズンに臨むにつれて

私たちが新しいシーズンに臨むにつれて、神様の祝福を求めて祈ることは自然なことだと思います。

ダビデもそうしました。この詩篇では、ダビデは民数記6:24〜27にある祝福の祈りを歌い、神様の祝福を求めて祈りました。

私も新しいシーズンに臨んでいます。来月、7年ぶりに私は中学校で教え始めます。だから、私も神様の祝福を求めて祈っています。

でも、覚えておいてください。神様の祝福を祈り求めるとき、自己中心の態度を取ってはいけません。むしろ、私たちが神様の祝福を願う理由は—

あなたの道が地の上で 御救いがすべての国々の間で知られるために。(詩篇67:2)

つまり、私たちが望むのは、周りの人々が、神様の手が私たちの上にあることを見て、神様を知りたくなるということです。

私たちの祈りは、彼らが神様を畏れ、賛美することです。また、私たちは、彼らが神様の救いと祝福を知ることを願っています。

だから、新しいシーズンに臨むにつれて、ただ神様の祝福を求めて祈るだけではなく、むしろ、あなたを通して、あなたの周りの人々が神様の道と救いを知るように祈りましょう。

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ヨハネの手紙第一

神様の証し

神様が三位一体として救いの道を証しされるということは、非常に興味深いことだと思います。この記事を書く前には、そのことについて考えたことがありませんでした。

ヨハネはこう言いました。

この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけではなく、水と血によって来られました。

御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。三つのものが証しをします。御霊と水と血です。この三つは一致しています。(ヨハネの手紙第一5:6-8)

この手紙の背景を知らないと、その言葉を理解するのは少し難しいかもしれません。

ヨハネの時代、多くの人々は「イエス様はいつもキリスト(救い主)でいたわけではない」と主張していました。むしろ、彼らは非常に奇妙な教えを信じていたのです。

それは、イエス様がバプテスマを受けたときに「キリスト」という霊がイエス様の中に入ったものの、十字架にかかったときには、その霊がイエス様から立ち去った、というものです。

そのため、彼らの主張によれば、イエス様は十字架で死んだときにはキリストではなくなっており、私たちの罪の代価を支払うことができなかった、というわけです。

しかし、イエス様はバプテスマのときだけでなく、十字架で死なれたときにも、御自分がキリストであることを証明されました。

バプテスマのとき(つまり、水の証し)、天の父がイエス様を称賛され、聖霊様が鳩のようにイエス様の上に降られました(つまり、御霊の証し)。

そして、聖書の預言通りに、イエス様は十字架で私たちの罪の代価を支払ってくださいました(つまり、血の証し)。

このように、天の父と御子と御霊、すべてが一致して救いの道を証ししています。その証しとは、救いがメシアを通してもたらされる、ということです。(「キリスト」とは「メシア」、すなわち「王と救い主」を意味します。)

では、なぜこの証しが重要なのでしょうか。それは、神様が証しされるなら、それに反論できる者は誰もいないからです。9-10節でヨハネはそのように主張しています。

私たちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しはそれにまさるものです。御子について証しされたことが、神の証しなのですから。

神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っています。神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。(9-10)

私たちはしばしば人々の証しを信じます。それなら、どうして神様の証しを疑うのでしょうか。

神様がその証しをされた以上、神様に従っていると主張しながら、その証しを拒絶することはできません。

では、具体的にその証しとは何でしょうか。11-12節でヨハネは私たちに教えています。

その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(11-12)

けれども、多くの人々はその証しを好みません。彼らは、イエス様以外にも多くの救いの道があると信じたいのです。

しかし、ヨハネによれば、私たちがそのように主張するなら、それは実際に神様を嘘つきと呼ぶことになります。

神様の証しを信じることで初めて、私たちは自分の救いについて平安と確信を持つことができます。

どうしてでしょうか。それは、私たちの救いが自分の行いに基づいていないからです。むしろ、その救いは神様の恵みとイエス様の十字架の働きに基づいています。私たちがしなければならないのは、その賜物をただ受け取ることだけです。

だからこそ、ヨハネはこう言います。

神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。(13)

ヨハネは、「あなたがたに永遠のいのちの微かな希望を与えるため」とは言わずに、「永遠のいのちの確信を与えるため」と語っています。

あなたはどうでしょうか。神様の証しを受け入れていますか。永遠のいのちの確信を持っていますか。

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ヨハネの手紙第一

命である方を宣言する

これは聖書に記されている最後の長い手紙です。

そして、この手紙の初めから、私たちは使徒ヨハネの情緒を感じ取ることができます。イエス様に愛された弟子と呼ばれた使徒はこう言われます。

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。

このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。(ヨハネの手紙第一1-2)

「いのちのことば」とはイエス様です。イエス様ご自身は、いのちの表現です。イエス様にあって、私たちはいのちがどのようなものであるべきかを分かります。イエス様にあって、私たちは完全で不備のないいのちを見ることができます。

いのちの創造者である神様は、いのちの言葉であるイエス様を通してご自身を表されます。

また、イエス様ご自身がいのちです。

だから、ヨハネは、「このいのちが現れました」と言うと、イエス様の受肉について話しています。つまり、イエス様が人間としてこの世に来られたことです。

だからヨハネやほかの使徒たちは自分の耳でイエス様の声を聞き、自分の目でイエス様を見、復活の後、自分の手でイエス様の手の傷跡に触れることができました。

そして、ヨハネは、イエス様を「永遠のいのち」と呼びます。イエス様は永遠の方で、時間が始まる前から天の父と共におられました。

また、イエス様は死んだ者にいのちを与えてくださいます。もちろん、神様はご自身から遠く離れている霊的に死んでいる人たちにいのちを与えてくださいます。

しかし、ある日、イエス様は肉体的に死んだ者たちにいのちを与えてくださいます。つまり、イエス様がご自身のような体を彼らに与えてくださるのです。

それを考慮に入れると、ヨハネはこう言います。

私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。

私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。(3-4)

ヨハネと他の使徒たちは神様との関係をただ楽しみたいとは思いませんでした。むしろ、ほかの人々も神様との交わりを得るまで、使徒たちは自分の喜びが完成されたものではないと考えました。

そういうわけで、彼らは大胆に自分が見たことと聞いたことを宣言しました。

私たちは彼らの模範に従うべきです。

多くのクリスチャンたちは救われて、とても嬉しいです。彼らが神様の愛と赦しを受け、とても幸せです。また、神様が彼らの傷を癒してくださり、彼らは喜びます。

しかし、それだけで私たちは満足してはいけません。それは自己中心的な態度です。

たくさんの人々が神様から遠く離れて、毎日死んでいます。彼らは神様の愛を知らず、神様の赦しを知りません。また、彼らは神様からの癒しを知りません。私たちは彼らを哀れむべきです。

だから、ヨハネと他の使徒たちのように、私たちは与えられたいのちを宣言するべきです。そうすれば、周りの人々も神様との関係を得るでしょう。

あなたはどうでしょうか。救いが必要な周りの人々に気づかないほどに、あなたは自分の救いを喜びますか。

この世の人々の所に行きましょう。私たちの愛している人々にイエス様のことを宣言しましょう。私たちの近所や職場や学校にも行って、イエス様を宣言しましょう。そうすれば、人々が神様の御国に入って、私たちの喜びは満ち溢れるでしょう。

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ヘブル人への手紙

無理

これは、聖書の中でも最も論争の的となっている箇所の一つです。この箇所のゆえに、多くの人々は「クリスチャンでも救いを失うことがある」と信じています。へブル人への手紙の著者は、このように書いています。

一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。

彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。(ヘブル人への手紙6:4-6)

一見すると、この箇所はクリスチャンが自分の救いを失う可能性があるように思えます。けれども、私は一つの言葉に注目したいと思います。それは「できません」です。

言い換えるならば、「無理」ということです。

もしあなたが、「クリスチャンは堕落して救いを失う可能性がある」と考えるなら、その人が救いを取り戻すことは不可能である、ということも信じなければなりません。その結論からは逃れられません。

原語でも、著者は「無理」とも言える強い表現を使っています。

では、自分に問いかけてみてください。これまでに、クリスチャンが神様に背を向け、何年も神様から離れていたのに、再び神様に立ち返る姿を見たことはありますか? 私は、あります。

ということは、もしこの箇所が絶対的に正しければ、その人は本当に堕落していたとは言えません。実際に神様から立ち去っていたとは断定できないのです。なぜなら、彼らは最終的に神様に戻ったのですから。

言い換えれば、もし人が救いを失うことができると信じるなら、「堕落」の定義を非常に限定的にしなければなりません。その定義とは、「神様から離れ、決して戻ってこない人」です。

ですから、その人が亡くなるまでは、私たちは本当に堕落していたかどうかを判断することはできません。

それでも、私たちの心には疑いが残るでしょう。「その人は本当に神様から立ち去っていたのだろうか。もし、もう少し長く生きていたら、神様に戻っていたのではないか。」

私が信じているのは、人が救われたなら、その救いを失うことはありえない、ということです。神様は、この世の創造以前に、クリスチャンを救いのために選んでくださいました(エペソ1:4ー5)。

もし、その人が神様から離れてしまったのだとしたら、神様がその人を選ばれたことは無駄だったのでしょうか。神様は、その人の背信に驚き、傷つき、そしてその人を見捨てられたのでしょうか。私はそうは信じません。

では、「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者」とは、どういう意味なのでしょうか。

イスカリオテのユダについて考えてみてください。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者」という言葉は、ユダに完全に当てはめることができます。

ユダはイエス様の教えをすべて聞きました。おそらく、初めの頃はそのことばを信じていたかもしれません。

彼は天からの賜物を味わい、聖霊様の力も経験しました。その力によって、ユダは他の弟子たちと同じように、人々を癒し、悪霊を追い出し、奇跡を行ったのです(マタイ10:8)。

しかし、イエス様は初めから、ユダが真の信仰を持っておらず、いずれご自身を裏切ることを知っておられました(ヨハネ6:4)。

簡単に言えば、ユダは畑の毒麦の完全な例です(マタイ13:36〜43)。

ユダは信者のように見え、信者のように振る舞っていましたが、心から信じることは一度もありませんでした。

そのため、この手紙の著者は、次のように語っています。

たびたび降り注ぐ雨を吸い込んで、耕す人たちに有用な作物を生じる土地は、神の祝福にあずかりますが、茨やあざみを生えさせる土地は無用で、やがてのろわれ、最後は焼かれてしまうのです。(7-8)

他の弟子たちは、もちろん完全な者ではありませんでしたが、最終的には救いの実を結びました。それに対して、ユダは茨やあざみしか生み出さず、ついには滅びてしまいました。

この手紙の著者は、さらにもう一つの例を挙げています。それは、エジプトから救い出されたイスラエルの民です。

彼らは神様の律法を受け、多くの奇跡を見ましたが、心から神様を信じることはなかったため、約束の地に入ることはできませんでした。

著者が伝えたいポイントは何でしょうか。救いを得るためには、私たちには本物の信仰が必要なのです。

あなたは、どのような信仰を持っているでしょうか。あなたは真の信者でしょうか。あなたは、クリスチャンとして少しずつ成熟していますか。あなたは、日々キリストに似た者へと変えられていますか。

裁きの日には、実を結ばない信仰は偽りの信仰であったことが明らかにされます。

そして今もなお、自分をクリスチャンだと主張しながら、神様から離れていくことで、自らが毒麦であることを明らかにする人々がいます。

あなたは、どのような信仰を持っているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙

自力による救いを説く福音の問題点

この箇所では、パウロは福音をユダヤ人クリスチャンたちの攻撃から守ろうとしていました。彼らが主張するのは、パウロが宣べ伝える恵みの福音は罪に導くものだということです。

しかし、パウロは自分が伝えた福音を擁護するだけでなく、相手の福音の問題点を指摘しました。彼はこう言いました。

私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。(ガラテヤ人への手紙2:21)

簡単に言えば、もし私たちが神様に義と認められるために律法を守らなければならないとしたら、イエス様はなぜ死なれなければならなかったのでしょうか。神様は古い体制を続けて、イエス様が死ぬ必要はなかったはずです。

けれども、その必要がなかったとしたら、なぜ神様はイエス様が殴られ、鞭で打たれ、十字架につけられることを許されたのでしょうか。イエス様がその苦しみを受けられたにもかかわらず、なぜ神様はもう一度私たちを律法の下に置かれるのでしょうか。それは理にかなわない話です。

それでも、今もなお多くの人々がそのように考えています。特に、カルトの人々はこう言います。「もちろん、イエス様はあなたの罪のために死なれたが、彼はあなたの罪の代価を完全に支払うことができませんでした。だから、あなたは自分の救いのためにまだ働かなければなりません。」

しかし、パウロはその考え方に反論します。「その考え方は愚かです。自分の努力によって救いを得ることはできません。もしあなたがそうできるのなら、神様はイエス様を十字架に送られることはなかったでしょう。」

この議論を通して、パウロは「イエス様が神様への多くの道の一つである」という考え方に反論します。

もし仏教やヒンズー教、その他の宗教によって人が神様に義と認められるのなら、神様はその道を用いられたはずなのです。

もし他の道があったのなら、なぜ神様はイエス様が十字架で苦しまれることを許されたのでしょうか。それは意味をなさないのです。

だから、天国への別の道があるという考え方を捨てましょう。また、私たちが自分の努力によって救いを得られるという考え方も捨てましょう。

他に道がなかったからこそ、イエス様は十字架で死なれました。他の道があると主張し、イエス様の十字架を軽んじることがないようにしましょう。

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ローマ人への手紙

私たちを堅く立たせることができる方

これは、ローマ人への手紙に関する私の最後の記事です。この手紙について書くことは、本当に喜びでした。

そして、パウロはこの手紙の始めと同じように、その締めくくりを迎えます。彼は、救いが最終的に神様の働きであることを私たちに思い出させてくれます。

パウロは次のように記しています。

私の福音、すなわち、イエス・キリストを伝える宣教によって、また、世々にわたって、隠されていた億着の啓示によってーー永遠の神の命令に従い、預言者たちの書を通して今や明らかにされ、すべての異邦人に信仰の従順をもたらすために知らされた億着の啓示によって、あなたがたを強くすることが出来る方(別訳:あなたがたを堅く立たせることができる方)、知恵に富む唯一の神にイエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように。アーメン。(ローマ人への手紙16:25-27)

この箇所を通して、私たちは福音の神秘を見ることができます。

イエス様がこの世に来られる何百年も前に、神様は預言者たちを通して将来に起こることの片鱗を示されました。

預言者たちの言葉は長い間、完全には理解されていませんでしたが、イエス様にあって、その意味が明らかになりました。こうして、今やすべての国の人々がイエス様を信じ、従うことができるのです。

しかし、この福音は私たちの行いによるものではありません。むしろ、この福音は神様の恵みによるものです。神様は私たちを信仰と救いの上に立たせてくださいました。

時の始まる前から、神様は私たちを選び、御子のかたちに似た者としてあらかじめ定めてくださいました。

イエス様を通して、神様は私たちの罪の代価を支払ってくださいました。そして、私たちが天国でイエス様を見る日まで、神様は日々、聖霊によって私たちを清めてくださいます。

それは救いの不思議さです。

私たちは救いに値しないのです。私たちは救いのために働かなかったのです。

でも、恵みによって、神様が私たちの上に愛を注いだので、私たちはイエス様を信じました。そしてある日、私たちはイエス様のようになります。

だから、パウロはこの手紙をこのようにまとめました。

知恵に富む唯一の神にイエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように。アーメン。(27)

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ローマ人への手紙

私たちがしなければならないこと

ある意味では、救いの道は矛盾しているものです。つまり、その道はとても簡単だけど、それと同時に難しいのです。

パウロはこう書きました。

しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、「だれが天に上るのか』と言ってはならない。」

それはキリストを」とは、引き降ろすことです。

また、「「だれが深みに下るのか」と言ってはならない。」

それはキリストを死者の中から引き上げることです。(ローマ人への手紙10:6-7)

つまり、救いを得るために、私たちがイエス様を天から引き下ろす必要はありません。また、イエス様を墓から掘り出す必要もありません。

イエス様はすでに天から来られ、私たちの罪のために死に、そして復活してくださったのです。

では、私たちに残されているものは何でしょうか。

では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」

これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ人への手紙10:9-10)

簡単に言うと、私たちは心の中にイエス様を主として認め、イエス様が十字架で行った働きを認めることです。

「イエスは主」と言うと、私たちは実は何と言っているのでしょうか。パウロはこう説明します。

聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」

ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。

「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。(11-13)

その最後の部分で、パウロはヨエル書2:32を引用しました。そして、「主」という言葉は、ヘブル語では、「ヤハウェ」です。

「ヤハウェ」とは、神様の名前です。だから、私たちはこの箇所をこのように翻訳することができます。「ヤハウェの御名を呼び求める者はみな救われる。」

パウロはこの箇所をイエス様に当てはめます。だからパウロが言ったのは、イエス様はヤハウェだということです。要するに、イエス様ご自身が神です。

パウロはピリピ人への手紙2章で、似たことを説明します。その箇所では、パウロはイザヤ書45:23を引用します。イザヤ書45:23で、ヤハウェはこう言います。

すべての膝はわたしに向かってかがめられ、すべての舌は誓い。。。

そして、パウロはその言葉をイエス様に当てはめます。

それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。)「ピリピ2:10-11)

だから、私たちが救われたいと思うなら、私たちはイエス様を主と神として認めなくてはなりません。

さらに、私たちはイエス様の十字架の働きを認めなくてはなりません。つまり、イエス様が十字架で私たちの罪のために死んで、復活したことを信じなくてはならないことです。

でもそのことを信じるだけでは足りません。私たちは主を呼び求めなくてはなりません。

悪霊たちはイエス様が主であることを知っています。悪霊たちは、イエス様が罪のために死んで、復活したことを知っています。でも、彼らは救われていません。

ただの知識では足りないのです。私たちはイエス様に「私を救ってください」と願わなくてはなりません。そうすれば、イエス様は必ず私たちを救ってくださいます。

だから救いはとても簡単なことです。でもそれと同時に、救いは難しいです。なぜ救いは難しいのでしょうか。なぜなら、多くの人々はそう信じたくないからです。

多くの人々は「私は信じることができません。」と主張します。

でも、神様は私たちに十分な証拠を与えてくださいました。私たちには言い訳がありません。すべての人々は信じることができるけど、あえて信じないことを選びます。

自分のプライドのために信じない人もいます。

「その救いの方法は簡単すぎる。自分自身を救うために、私はもっと難しいことをするべきはずです。」

または、

「神様を必要としない。私はもう大丈夫です。霊的な松葉杖が要らない。」

または、

「私は知的な人だから、もう神様を信じない。」

他の人は、自分の罪に執着しすぎます。だから、その罪が彼らを滅ぼしているのに、彼らはその罪を手放し、神様に従いたくないのです。

あなたはどうですか。あなたはどうするのですか。

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ローマ人への手紙

どうして、神様への道はイエス様しかないだろうか

多くの人々のキリスト教に関する一つの疑問は、「どうして、神様への道はイエス様しかないだろうか。どうしてほかの道で救われることができないだろうか。」ということです。

この箇所では、パウロは一つの答えを教えます。パウロは特にユダヤ人たちについて話しているけど、その言葉がこの世界のすべての宗教的な人に当てはめられると思います。

パウロはこう言いました。

それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち、信仰による義を得ました。

しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。(ローマ人への手紙9:30-31)

パウロの言葉をちょっと言い換えて、この世の人々に当てはめましょう。

それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかったクリスチャンたちが義を、すなわち、信仰による義を得ました。

しかし、ほかの宗教を信じる人は、自分の宗教の義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。

どうして私たちはそのようなことを言えるでしょうか。その人々が頑張って自分の宗教の律法に従っても、どうして私たちは彼らの努力が足りないと主張するでしょうか。

パウロはこう言いました。

なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。(32)

要するに、彼らが神様に義と認められる方法かわからないことです。彼らの考え方は全く違います。

私たちは自分の良い行為によって、義と認められません。むしろ信仰だけによって、私たちは義と認められます。

この例をちょっと考えてみてください。

愛を伝える5つの方法」という有名な本がありますす。

その著者が言ったのは、一人一人は、違う方法で愛を感じるということです。

例えば、相手がプレゼントをくれるときに愛されると感じる人もいれば、何かをしてもらうときに愛されると感じる人もいます。また、褒められることで愛されると感じる人もいます。

とにかく、夫がどのように妻に愛を伝えるべきか知らないなら、または、妻がどのように夫に愛を伝えるべきか知らないなら、結婚の中で問題が出てきます。

例えば、夫は妻のためにたくさんのプレゼントを買うけど、彼の予想通りに妻が反応してくれないので、夫はフラストレーションを感じます。

もしかしたら、彼の場合、妻がプレゼントをくれるとき、彼はとても愛される感じがするかもしれません。でも、彼が知らないのは、妻がプレゼントよりも夫との時間を望むことです。

だから、彼はたくさんのプレゼントを買っても、彼女は彼の愛を特に感じません。

そのように、人々は、神様に受け入れられるのに、彼らは頑張ってたくさんの良い行為をしなくてはならないと思います。

でも、彼らがわからないのは、もちろん神様が良い行為を見て喜ばれるけれど、それよりも、神様は私たちの信仰を望まれているということです。つまり、私たちが神様に信頼する態度を望むのです。

アダムとエバの話を通して、神様の望みを知ることができます。神様は彼らにこう語られました。

「私に信頼しなさい。その木の実を食べてはならない。その実を食べると、あなたは必ず死ぬ。」

しかし、彼らは神様を信じずにその実を食べたため、神様との関係は壊れてしまいました。

聖書を読むと、このパターンが繰り返されるのを何度も目にします。神様は人々に「私に信頼しなさい」と語られましたが、彼らは神様を信じることなく、神様に背を向けてしまいました。

今もなお、このパターンは続いています。神様は人々にこう語られます。「私に信頼しなさい。イエスを信じなさい。イエスはあなたのために救いの働きをすべて成し遂げたのだから。」

けれども、人々は神様を信じず、自分の努力によって義と救いを得ようとします。

だから、パウロはこう言います。

彼らは、つまずきの石につまずいたのです。

「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は失望させられることがない」と書いてあるとおりです。(32-33)

あなたはどうでしょうか。自分の努力と良い行いで神様を喜ばせようと思っているでしょうか。

それは無駄なことです。神様はあなたの努力を求めておられるのではありません。むしろ、神様はあなたの信仰を望まれています。

あなたは神様に信頼しているでしょうか。イエス様に信頼しているでしょうか。そうしなければ、あなたはつまずいてしまいます。

しかし、神様に信頼すると、神様があなたを受け入れてくださるので、決して失望させられることはありません。

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ローマ人への手紙

救い:賜物?当然支払われるべきもの?(2)

多くの人々にとって、救いが本当に賜物というコンセプトを受け入れるのは難しいので、もうちょっとそのことについて話したいと思います。

イエス様の時代でも、多くの人々はそのコンセプトが把握することができませんでした。

福音書では、私たちはある若い金持ちについて読みます。彼はイエス様にこう訊きました。

先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。(マタイ19:16)

その人の質問を見ると、私たちはその人の仮定を見ます。それは、救いが神様の義務です。つまり、私たちがこれとこれとこれをするなら、神様は私たちに永遠の命を与えなくてはいけないことです。

最初は、イエス様はその人の仮定に反ばくせずに、「神様の戒めに従いなさい。」と答えました。

その人は答えました。「私はそれらすべてを守ってきました。」

だからイエス様は言いました。「本当ですか。では、あなたの服従を試してみましょう。あなたの財産を売り払って、貧しい者たちに与えなさい。そして私に従って来なさい。」

もし、その人が本当に心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、神を愛していて、また、隣人を彼自身のように愛していたら、(その二つの戒めは律法の土台でした)、彼はすぐにイエス様の戒めに従ったでしょう。

でも、彼は自分のお金に執着しすぎました。彼は神様や隣人よりも、自分のお金に執着しました。

だから、神様の律法はその人を正当化せずに、裁いてしまいました。だから、神様の義務は、ただその人を裁くことです。

嘆かわしいことだけど、その人はイエス様が教えようとすることの半分だけが分かるようになりました。つまり、彼が救いを自分の努力で得ることができなかったことです。

彼は、「私はそれができません。私は神様の戒めに完全に従うことができると思ったけど、それは無理です。どうしたらいいでしょうか。」と言えば、よかったのに。

そう言っていたら、イエス様は微笑んで、こう答えたでしょう。

それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。(マタイ19:26)

でも、イエス様の助けを求めずに、その人は悲しく立ち去ってしまいました。

別の時、イエス様はたとえ話を通して、同じことを教えました。

そのたとえ話では、あるパリサイ人は自分の義を誇りました。彼は神様に基本的にこう言いました。「私は本当にいい人です。だから、あなたは私に永遠の命を与えなくてはなりません。」

でも、ある取税人(その時代、取税人はとても堕落していた人で、イスラエル人に嫌われる職業でした)は神様にこう祈りました。

神様、罪人のわたしをあわれんでください。(ルカ18:13)

イエス様はこう尋ねられました。

「神様の前で義と認められたのは誰でしょうか。パリサイ人ではありません。彼が自分の義を誇っても、神様の義と比べると、その義は不完全なものです。だから彼は裁かれるのです。それは彼自身の努力の『報』なのでした。」

その一方、収税人は神様の前で義と認められました。なぜでしょうか?彼はいろいろな良い行いをしたからですか?

いいえ、違います。彼は恵みによって赦されたのです。彼が神様の憐れみを願い求めたため、神様は賜物として彼に永遠の命を与えてくださいました。

最後に、十字架の出来事について考えてみてください。イエス様の隣で十字架につけられた罪人も、死刑に処されました。

彼は救いに値しませんでした。むしろ、自分の行いのゆえに、彼は死に値しました。けれども、彼がイエス様を信じると、イエス様は彼にこう言われました。

まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。(ルカ23:43)

その罪人は救いのために働いたのではなく、むしろ賜物として救いを受けました。

福音書の中で、私たちはこのテーマを何度も目にします。

私たちの努力によって得るものは何でしょうか。それは裁きです。しかし、救いは賜物です。その真理は決して変わることはありません。

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ローマ人への手紙

罪という問題

クリスチャンとして、私たちは救いについてよく語ります。けれども、私たちは何から救われたのでしょうか。なぜ、私たちには救いが必要なのでしょうか。

この箇所では、その答えが示されています。この箇所は、聖書の中でも特に暗い部分の一つです。それは、私たちの状況がどれほど切迫しているかを理解するからです。

パウロは、こう語り始めます。

というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。(ローマ人への手紙1:18)

「神様の怒り。」

この言葉を考えると、恐れを感じるかもしれません。私たちは皆、神様の愛について語るのが好きです。しかし、神様の怒りについて話したがる人はほとんどいません。

では、なぜ神様の怒りは人々に注がれているのでしょうか。

理由は二つあります。それは、不敬虔と不義です。「不敬虔」と「不義」とは、どういう意味でしょうか。

「不敬虔」とは、神様に背を向けることを意味します。

この箇所で、パウロは、神様がご自身をすべての人々に示されたと語っています。神様は、ご自身をユダヤ人や限られた特別な人々だけに示されたわけではありません。神様はすべての人々にご自身を示されました。

では、どのようにして神様はご自身を現されたのでしょうか。神様は被造物を通して、ご自身を示してくださいました。創造された世界のすべてが、知的な創造者がおられることを証ししています。

その真理を拒絶する人でさえ、「この世界を見ると、知的な創造者がおられるという考え方は理解できる」と認めます。(もちろん、それを認めた後、すぐに自分の議論や理論によってその真理を覆い隠してしまいますが。)

とにかく、パウロのポイントは、被造物は創造者を指し示しているということです。

被造物を通して、私たちは神様の力や神性を見ることができます。被造物を通して、神様の偉大さが分かります。また、私たちは神様のみ心を見ることができます。

神様の想像力を見ることができます。神様の美しさや善さを見ることができます。神様は被造物を通して、それらすべてを示してくださっています。

それでも、人々はどう反応するでしょうか。自分の不義によって、その真理を抑え込んでしまいます。

神様の存在を否定する人々の動機を見ると、多くの場合、彼らは神様に裁かれることを認めたくないのだと分かります。

つまり、もし神様が本当におられるなら、彼らは自分の思うままに生きることができなくなります。なぜなら、いつか彼らは自分の行いについて神様の前で申し開きをしなければならないからです。

では、人々が神様に背を向けたとき、その結果はどうなるのでしょうか。

(彼らの)思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり(ます)。(21-22)

偶像礼拝をする人々を見ると、このことがよく分かります。彼らは自分の手で偶像を造ります。つまり、彼らはその偶像の創造者です。しかし、彼らは自ら造った偶像の前で拝み始めるのです。

とはいえ、人々はさまざまな「偶像」を持っています。彼らは自分の知恵や、お金、情欲に従います。けれども、それらの偶像に目がくらみ、支配されてしまいます。

特に、彼らは何が善で何が悪か分からなくなります。また、自分が崇拝する偶像が、実は自分を滅ぼしていることに気づくことができません。

そして、最も恐ろしいのは、彼らが神様に背を向けると、神様も彼らに背を向けられるということです。神様は彼らに言われます。

「あなたは私の心に従わないのですか。では、あなたの心のままにさせましょう。」

その結果は何でしょうか。ローマ1章24〜31節を読んでください。

その結果は、単に人間の不敬虔さだけではなく、私たちの不義も露わになることです。人々は互いに傷つけ合います。

私は24〜31節にある罪のリストを詳しく説明する必要はないでしょう。この世界を見れば、人々が神様に背を向けたときに何が起こるのか、すぐに分かるはずです。

そして、ローマ1:32もまた、私たちの世界の現実を正確に描写しています。

彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。(32)

人々の心の中では、彼らは自分の罪のために罰されるに値することを理解しています。それでも、彼らはその罪を続け、さらに他の人々が同じ罪を犯すと、その人々を応援します。

アメリカのメディアを見れば、そのことがよく分かります。人々が堂々と神様の律法に背くと、メディアはそれを祝います。神様の言葉に反する法案が可決されると、メディアはそれを歓迎します。

彼らは、「聖書は時代遅れだ。私たちは聖書の著者たちよりもよく知っている」と主張します。

だから、彼らはすでに裁かれています。

それが罪の問題です。だからこそ、私たち全員が救いを必要としているのです。

あなたはどうでしょうか。この世界が救いを必要としていることを理解していますか。

しかし、もっと大切なのは、あなた自身が救いを必要としていることを理解しているかどうかです。

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マタイの福音書 マタイ27章 マルコの福音書 マルコ15章 ヨハネの福音書 ヨハネ19章 ルカの福音書 ルカ23章

神様をののしること。神様の前にへりくだること。

これは、十字架にまつわる有名な話の一つです。イエス様の隣には、二人の犯罪人も十字架につけられました。そして、ルカはその二人についてこう記しています。

十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え、」と言った。(ルカ23:39)

「ののしり」という言葉が私の心に強く響きました。それを思い、こう考えました。「どれほどの人々が自分の罪による苦しみの中で、神様をののしるだろうか。」

この犯罪人は悪事を働いたために罰を受けていましたが、悔い改めることなく、その罰について不満を述べていました。

もしかすると、彼は自分の行為が正しいと思い込み、イエス様にこう叫んだのかもしれません。「あなたは本当にキリストなのですか。私はこの罰に値しない。私を救いなさい。」

他の福音書によれば、最初はもう一人の犯罪人もイエス様をののしっていました。しかし、おそらくイエス様は答えることなく、情け深く彼らを見つめられたのでしょう。

だからこそ、二人目の犯罪人は次第に静まっていったのかもしれません。彼が悟ったのは、ローマ人がイエス様の尊厳を奪おうとしていたにもかかわらず、イエス様がその尊厳を保ち続けておられたということでした。

さらに、彼はイエス様が敵に対して情けと愛と赦しの心を持っておられるのを目にしました。

もしかすると、その犯罪人は以前にイエス様の奇跡を目の当たりにしたことがあり、イエス様の教えを聞いたことがあったのかもしれません。

そして、彼は自分自身を見つめ直し、初めてこう認めたのでしょう。「やはり私は悪かったのだ。いろいろと言い訳をしたが、それはただの言い訳にすぎなかった。私は確かにこの罰に値する。」

だからこそ、もう一人の犯罪人がイエス様をののしり続けると、彼はこう言いました。

おまえは神を恐れないのか。お前も同じ刑罰を受けているではないか。

おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。(40-41)

そして、彼はイエス様に向き直り、こう願いました。

イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。(42)

私のただの想像にすぎませんが、たぶんイエス様は十字架の上で初めて微笑まれたのかもしれません。そしてイエス様はこう答えられました。

まことに、あなたに言います。あなたは今日、私とともにパラダイスにいます。(43)

その瞬間、その犯罪人は救われました。彼は死にかけていながらも、命を見いだしたのです。

私は前にも述べましたが、多くの人々は一人目の犯罪人のような態度を取ります。彼らは悪事を行いますが、罰を受けて苦しむと、自分の悪さを認めることなく神様をののしるのです。

多くの人々が、なぜ神様が地獄で人々を永遠に罰するのか疑問を持ちます。

その理由の一つとして、地獄では誰も悔い改めないからかもしれません。むしろ、彼らは永遠に神様をののしり続けます。

彼らは自分の行為が正しかったと主張し続けます。彼らの心では、自分の悪さを理解していながらも、自分の罰について不平を言い続けるのです。

地獄では、人々は自分の罪深さを認識し、その罰に値することも理解していますが、それを決して認めることはありません。

しかし、自分の罪を認め、へりくだって悔い改める人は、二人目の犯罪人のように赦され、命を見いだすのです。

そのための時間は「今」しかありません。死んでからでは、すでに手遅れなのです。だからこそ、パウロはこう書きました。

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

あなたはどうでしょうか。イエス様の前にへりくだって来ることができるでしょうか。そして、イエス様からの救いを受け入れるでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ22章 マルコの福音書 マルコ12章

神の国に入りたいと思うと

イエス様を尋問していた人々の中に、イエス様の言葉に深く感動した一人の人物がいました。そこで、彼はイエス様にこう尋ねました。

すべての中で、どれが第一の戒めですか。(マルコ12:28)

イエス様はこのように答えられました。

第一の戒めはこれです。「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

第二の戒めはこれです。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」

これらよりも重要な命令は、ほかにありません。(マルコ12:29-31)

この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。(マタイ22:40)

要するに、もしあなたが完全にその二つの戒めを守ることができるなら、実はすべての戒めを守ることになるということです。なぜなら、すべての戒めは、その二つの戒めに基づいているからです。

すると、イエス様に質問した人はこう答えました。

先生、そのとおりです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。

そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。(マルコ12:32-33)

この人は、パリサイ人たちや律法の学者たちとは違い、とても重要なことを理解したようです。それは、儀式的な聖さだけでは不十分だということです。

もし私たちが神様を喜ばせたいなら、律法に文字通り従うだけではなく、律法の精神にも従わなければなりません。そして、もし私たちがその二つの戒めに従わないのなら、私たちの他のすべての良い行いには、全く意味がないのです。

その人がそのことをよく理解したので、イエス様は彼にこう言われました。

あなたは神の国から遠くない。(マルコ12:34)

イエス様が言っていないことに気づいてください。

イエス様は「ああ、良かった。あなたがそのことをよく理解しているから、天国へようこそ。」とは言われませんでした。

むしろ、イエス様は「あなたは神の国から遠くない。」と言われました。

どうしてでしょうか。

それは、その人がもう一つの重要なことを理解しなければならなかったからです。それは何だったのでしょうか。

それは、その二つの戒めを完全に守ることができる人は誰もいないということです。だからこそ、私たちには救い主が必要なのです。その人がその必要性を理解し、イエス様を信じていたなら、イエス様はその人に「神の国にようこそ」と言われたでしょう。

私たち皆、この真理を理解しなければなりません。自分の良い行いだけでは、天国に入れる人は誰もいません。いくら努力しても、私たちは完全に神様を愛することや、周りの人々を愛することに失敗します。

そういうわけで、イエス様はこの世に来られました。イエス様は十字架で私たちの罰を受けてくださいました。しかし、三日目にイエス様はよみがえられました。そのため、イエス様を信じてこそ、私たちは救われるのです。

あなたはイエス様を信じていますか。もしイエス様をあなたの主としてまだ受け入れていないのであれば、今日そうしてみませんか。

イエス様、私は罪を犯しました。私は心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くしてあなたを愛してきませんでした。隣人を自分自身のように愛してきませんでした。

むしろ、私の行為を通して、あなたを傷つけ、周りの人々も傷つけました。どうかお赦しください。

あなたが十字架で私の罰を受けてくださったことに感謝します。私の主となってください。アーメン。

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ヨハネの福音書 ヨハネ12章

遅すぎる前に

時には、人々はイエス様に従うことを先延ばしにします。なぜなら、「あとでできる」と思ってしまうからです。しかし、それには危険が伴います。

この箇所では、イエス様が十字架を前にして、覚悟を決め、叫ばれました。

父よ。御名の栄光を現してください。(ヨハネの福音書12:28a)

そして、天の父は、すべての人の前で答えられました。

わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。(28b)

イエス様の周りにいた人々は、その声を聞きましたが、正しく聞き取ることができなかったようです。

ある人々は、「雷が鳴ったのだ」と言いました。

また、別の人々は、「天使があの方に話しかけた」と言いました。

なぜ彼らは天の父の言葉を理解できなかったのでしょうか。

ヨハネはこのことを解説します。

それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。

「主よ。私たちが聞いたころを、誰が信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」

イザヤはまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである。

「主よ。彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒すこともないように。」

イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。(38-41)

私は以前の記事でこの箇所について説明しましたが、基本的に彼らが天の父の声を理解できなかった理由は、すでにイエス様に対して頑なな心を持っていたからです。

ある人々にとって、イエス様が以前大工の仕事をしていたという事実は、彼らの持つメシア像と一致しませんでした。

また、別の人々がイエス様を拒絶した理由は、イエス様が彼らを宗教的な偽善者として明らかにされたことでした。

さらに、イエス様の教えが彼らの伝統や宗教的な規則と対立していたため、それを理由にイエス様を拒む人々もいました。

そのため、イエス様が奇跡によってご自身のメシアとしての資格と、その言葉の真実性を証明されても、彼らは「悪魔の力によってその奇跡を行った」と言い張りました。

この箇所では、彼らはこう言いました。 「まさか、それが神様の声だとは思えない。ただの私の想像だろう。きっと雷の音に違いない。」

けれども、彼らが自分の目と耳を閉ざせば閉ざすほど、心はますます頑なになり、霊的にも盲目になっていきました。

そこで、イエス様はもう一度彼らに警告されました。

もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。

闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。(35-36)

要するに、「あなたの時間は限られています。すぐに心を開かなければ、永遠に盲目になってしまいます。まだ可能なうちに、私と私がもたらす光を信じなさい。」ということです。

イエス様は、あなたにも同じことを語っておられます。人々がイエス様のもとへ引き寄せられ、救われるために、イエス様は地上から上げられ、十字架にかけられました。

けれども、もしあなたが目と耳を閉ざし続けるなら、たとえ真理が目の前にあっても、それを認識することはできません。そして、そのときには、救いの機会は失われてしまいます。

だからこそ、パウロはこう語りました。

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

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ルカの福音書 ルカ19章

ミナのたとえ話:私たちが待っているうちに

ルカによれば、イエス様がこのたとえ話を教えられた理由は、「イエス様がエルサレムの近くに来ていて、人々が神の国がすぐに現れると思っていたから」です(ルカの福音書19:11)。

つまり、イエス様は彼らの間違った考えを正すと同時に、正しい考えを彼らの心に植え付けたいと思われたのです。それで、イエス様はこう言われました。

ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。

彼はしもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え、「私が帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言った。(12-13)

イエス様は、どのような間違った考えを覆したいと思われたのでしょうか。それは、神の国がすぐに来るという考えです。

王としての地位につく前に、イエス様は罪の問題を解決するために十字架で死ななければなりませんでした。

イエス様は死なれ、復活された後、天に帰って天の父の右に座られました。そして、聖書によれば、現在イエス様は「敵がご自分の足台とされるのを待っておられます」(へブル人への手紙10:13)。

ですから、私たちはいまだにイエス様の帰りを待っています。

では、イエス様が帰られるまで、私たちは何をすべきでしょうか。私たちはイエス様に忠実に仕えるべきです。

イエス様は弟子たちの心にその考えを植え付けたいと思われました。神の国のために、まだたくさんの仕事をしなければなりません。

このたとえ話では、王は十人のしもべに同じ金額を与えました。そして、王は彼らに、「私が帰って来るまで、これで商売をしなさい」と命じられました。

そのお金は何を象徴しているのでしょうか。おそらく、それは私たちの救いです。しもべたちはそのお金を得るために働いたのではありません。王はそのお金を彼らに預け、彼らはそれを投資しなければなりませんでした。

同じように、私たちは働いて救いを得たのではありません。神様の恵みによって救いが与えられました。しかし、私たちはその救いを用いて、神様の国のために働かなければなりません。

パウロは次のように言いました。

恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。【ピリピ2:12-13)

私たちが与えられた救いを投資するとは、どういう意味なのでしょうか。それは、私たちが受けた救いを用いて、周りの人々に投資することを意味します。

私たちは自分の救いを喜ぶだけではなく、その救いを周りの人々と分かち合う心が必要です。彼らのために祈り、彼らに仕えましょう。

そして、私たちは彼らに対して、イエス様の目、口、耳、手となるべきです。イエス様が帰られるまで、私たちはそうし続けなければなりません。

そのように行動するなら、私たちは報いを受けるでしょう。どんな報いでしょうか。それは、神様の国のためにさらに大きな責任が与えられることです。

多くのクリスチャンは神様のために素晴らしいことをしたいと思っています。しかし、もし彼らが受けた救いを周りの人々と分かち合わないのであれば、神様がさらに大きな責任を彼らに委ねられるでしょうか。

さらに、最後のしもべのように、神様の国のために投資をしないのであれば、イエス様が帰られるとき、その人々は叱責されることになるでしょう。

パウロはそのような人々について次のように語っています。

その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。(第一コリント3:15)

あなたはどうでしょうか。あなたが受けた救いで、何をしているのでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ17章

感謝

この箇所では、10人のツァラアトに冒された人々は一緒にイエス様の所に行きます。

もちろんツァラアトはつらい病気でしたけど、一つの良い点がありました。ツァラアトに冒された人々の間では、普段存在する壁は崩れました。

普通は、ユダヤ人とサマリヤ人は互いに憎み合いました。でも、その十人は病気のせいで、自分の民の間でのけ者になりました。だから、彼らがわっかったのは、彼ら皆がただの人間で、ユダヤ人とサマリヤ人には大差がないことです。

私たちもそのことを学ぶべきです。つまり、パウロはこう教えました。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず。。。(ローマ3:23)

私たちにどんな宗教的な背景があっても、どんな文化的な背景があっても、私たち皆は同じです。つまり、私たち皆は罪人です。そして、イエス様が私たちに触れてくれないと、私たちは死ぬとき永遠に神様から離れます。私たちの罪のせいで、私たちはのけ者になりましたから。

おまけに、その10人のように、私たちは自分自身を救うために何もできません。

その時代、ツァラアトの治療がなかったので、ツァラアトに冒された人は、何もできませんでした。

そのツァラアトに冒される人のように、私たちは一つのことしかできません。それは、神様様の憐れみを願うことです。

その十人はイエス様にこう叫びました。

イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。(ルカの福音書17:13)

イエス様は彼らを憐れんで、癒してくださいました。でも、彼らは信仰が必要でした。イエス様はその場で彼らを癒してくださいませんでした。むしろ、イエス様は彼らにこう言いました。

行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。(14)

そして、彼らは行く途中で癒されました。

このように、私たちがイエス様に信仰を置くときにのみ、私たちの罪は清められるのです。

彼らは自分が癒されたことを知ると、大喜びしました。ところが、サマリヤ人だけがイエス様のもとへ戻り、イエス様に感謝を捧げました。

イエス様はそれをご覧になり、こう尋ねられました。

十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。(17-18)

イエス様は、私たちについてどれほど同じことを言われるでしょうか。私たちの罪を清めるために、イエス様は十字架で死なれました。イエス様の恵みによって、私たちは永遠の死から救われました。

しかし、私たちはその救いをどれほど当たり前のものとして受け止めているでしょうか。

私はただ感謝の言葉について話しているのではありません。私たちの行動は、どれほどイエス様への感謝を表しているでしょうか。

イエス様は愛と恵みを私たちの人生に注いでくださいましたが、私たちはそれをただ享受しているだけでしょうか。それとも、その愛と恵みが私たちを通して周囲の人々に届いているでしょうか。私たちの人生は神様に栄光を帰しているでしょうか。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生はイエス様への感謝を映し出しているでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ15章

見失った羊と無くした銀貨のたとえ話:失われた人を捜して救う

この箇所では、イエス様とパリサイ人たちの間の大きな違いが明らかになります。 それは、パリサイ人たちが失われた人々を裁いたのに対して、イエス様はその人々を探し、救おうとされたことです。

残念ながら、今もなお、多くのいわゆるクリスチャンの態度は神様の御心とは全く異なります。

一方で、イエス様はいつも失われた人々を探し求め、救おうとされました。

イエス様はパリサイ人たちと時間を過ごした直後、「罪びとたち」と時間を過ごされました。実際、イエス様は普段から罪人たちとともに時間を過ごされていました。

ところが、パリサイ人たちはそれを見たとき、イエス様を非難しました。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」(2)

パリサイ人たちは「罪びとたち」に触れると自分が汚れると考え、彼らを避けました。

パリサイ人たちは決して罪人たちを食事に招待することはなく、罪人の家を訪れることは想像すらできませんでした。仕事をする上でも、罪人と関わりを持たないように努めていました。

そのため、イエス様が罪人たちを歓迎されたとき、パリサイ人たちは衝撃を受けました。

そこで、イエス様は三つのたとえ話を語られました。今日は、そのうち二つのたとえ話についてお話しします。

一つ目は迷子の羊のたとえ話です。羊飼いはその羊を愛していたため、必死に探しました。そして、羊を見つけたとき、羊飼いは友人や近所の人々を呼び集めてこう言いました。

いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。(ルカの福音書15:6)

そして、イエス様はパリサイ人たちにこう語られました。

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。(7)

パリサイ人たちについて少し考えてみてください。もし彼らが羊飼いだったとしたら、彼らは羊を責めたでしょう。「なんて愚かな羊なんだ。あいつが死んでも自業自得だ。」

けれども、イエス様はそのようには決して考えられませんでした。むしろ、命を捨てるほどまでに羊を愛し、羊を救おうと思われました。

パリサイ人たちの考え方はそれとは全く異なっていました。

とはいえ、彼らも本来イエス様のような態度を持つべきだったはずです。

おそらく、彼らは預言者たちの書を何度も読んでいたでしょう。そして、もしそれを正しく記憶し、理解していたなら、神様がそのように考えるお方であることを知るべきだったのです。実際、それこそがホセア書の中心的なメッセージです。

続けて、イエス様は銀貨を一枚なくした女性についての話をされました。それはおそらく結婚した女性の頭飾りだったのでしょう。頭飾りは10枚の銀貨で作られたアクセサリーで、現代の結婚指輪に似たものです。

もしあなたが結婚指輪をなくしたとしたら、どう感じるでしょう。その女性もきっと同じ気持ちだったに違いありません。

だからこそ、彼女は懸命に家を掃き、銀貨を見つけるまで細かく探しました。

それと同じように、神様は全地を見渡し、失われた人々を念入りに探し、救おうと思われます。

そして、イエス様はこう言われました。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ15:10)

これが神様の態度です。あなたはどうでしょうか。「罪びと」を見たとき、その人を裁くでしょうか。それとも、神様の愛をもって接し、その人々の救いのために働くでしょうか。

パリサイ人のように人々を裁くのではなく、むしろ、私たちを救ってくださったイエス様のようになりましょう。

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ルカの福音書 ルカ13章

手遅れになる前

地獄について考えることを好む人はほとんどいないでしょう。また、私たちは誰かが地獄に行くとは思いたくないものです。むしろ、私たちは麻原彰晃やヒトラーのような例外を除けば、すべての人々が天国に行くものと思いたいのです。

おそらく、イエス様の時代にも、多くの人々がそのように考えていたでしょう。だから、ある人がイエス様のもとに来て、こう尋ねました。

主よ。救われる者は少ないのですか。(ルカの福音書13:23)

もしかすると、その人の真意は、「天国へ行く方法をもっと簡単にできないでしょうか。もっと多くの人々が天国に入れるようになればいいのに。」ということだったのかもしれません。

その人の言葉について少し考えてみましょう。その人はユダヤ人でした。おそらく、彼は異邦人の救いについて深く考えたことはなかったでしょう。

彼はユダヤ人として、天国に入ることがどれほど難しいかを思い巡らしていたかもしれません。なぜなら、彼は自分自身を周囲の人々と比べていたからです。

パリサイ人たちや律法学者たちは律法を熱心に学び、神様の定めた規則だけでなく、人間が作り出した宗教的な戒律にも従おうとしていました。

だからこそ、その人がパリサイ人や律法学者たちを見たとき、こう思ったのかもしれません。

「これは到底無理だ。パリサイ人のように生きることはできない。それに加え、イエス様は、私たちの義がパリサイ人の義に勝らなければならないと教えられた。」(マタイ5:20)

イエス様の次の言葉は、その人にとって慰めにはならなかったでしょう。

努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。(24)

要するに、「はい。救われる人は少ないのです。」ということです。

そして、イエス様は私たちに警告されます。

家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、「ご主人さま。あけてください」と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、「あなたがたがどこの者か、私は知らない」と答えるでしょう。

つまり、その狭い門に入るには、期限が限られています。もし私たちがその門を通る前に死んでしまえば、もう手遅れなのです。

では、その門とは何でしょうか。

イエス様はこう言われました。

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。(ヨハネ10:9)

天国に入るためには、イエス様との関係が必要です。イエス様と、その十字架における御業を信じなければなりません。そうすれば、私たちは救われるのです。

そして、イエス様はユダヤ人たちに警告されました。

神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。

人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。(28-30)

多くのユダヤ人たちは、「私はユダヤ人だ。神様が私たちを御自分の民として選ばれたのだから、私は問題ない」と考えていました。

また、あるユダヤ人たちは、律法を守れば救われると思っていました。

けれども、イエス様が教えられたのは、イエス様を救い主として受け入れた者は救われるが、イエス様を拒絶する者は救われないということです。

そのため、多くのユダヤ人は天国で先頭に立つと考えていましたが、結局彼らは天国に入ることができませんでした。

そして、今でも多くの人々がユダヤ人たちと同じように考えています。

彼らはクリスチャンホームに生まれたから、自分がクリスチャンだと思い込んでいます。または、彼らは教会に通い、さまざまな良い行いをしているので、救われると考えているかもしれません。

しかし、そのような人々が天国に行くとは限りません。イエス様こそが門なのです。イエス様以外に、天国への門はありません。

手遅れになる前に、その門に入りますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ9章

救い

イエス様が生まれつき盲目の人を癒されたとき、ユダヤ人たちは驚きました。

しかし、この話を通して、私たちはもう一つのことを見ることができます。それは、美しい救いの描写です。

この話では、その人は生まれてからずっと目が不自由でした。同じように、私たちも生まれてから霊的に盲目であり、霊的に死んでいました。

そして、イエス様は私たちを見つけてくださいました。この話では、盲目の人はイエス様を求めていませんでした。むしろ、イエス様はその人を見つけ、触れてくださいました。

同じように、私たちが神様を求めていなかったのに、神様は私たちを見つけて、触れてくださいました。

さらに、イエス様はその人にこう言われました。「行って、シロアムの池で洗いなさい。」

そのように、神様は霊的なバプテスマを通して私たちの罪を清めてくださいました。そして、私たちの洗礼式を通じて、私たちは周りの人々に神様が私たちのために何をしてくださったかを宣言します。

その人の目が癒されたのは、本当に劇的な変化でした。そのため、周りの人々は彼のことをほとんど認識できませんでした。彼らはこう言いました。

これはすわって物ごいをしていた人ではないか。(ヨハネの福音書9:8)

ある人は、「これはその人だ」と言いました。けれども、ほかの人は、「そうじゃない。ただその人に似ているだけだ」と言いました。(9)

しかし、その人は言い張りました。「私がその人です。」

時々、私たちがクリスチャンになると、周りの人々がユダヤ人たちのように反応します。私たちが劇的な変化を経験するので、周りの人々は私たちを見て驚きます。「あなたは全然違う人みたいです。どうして。」

その時、私たちには、彼らに神様が私たちのために何をしてくださったかを伝える機会があります。

また、時間が経つにつれて、私たちはイエス様のことをもっと深く理解するようになります。この話では、癒された人にとっていろんな段階がありました。

「彼はイエスという方です。」

さらに、「あの方は預言者です。」

そして、最後に、「あなたは人の子(つまり、メシア、王、救い主)です。」

私たちは自分のあかしを言うかもしれませんし、相手が私たちの変化を否定できないかもしれません。それでも、彼らはキリストだけではなく、私たちをも拒絶する可能性があります。

この話では、癒された人も同じ経験をしました。パリサイ人たちは、その人にイエス様が罪人であることを説得しようとしました。けれども、その人が彼らの主張を否定すると、彼らはその人を拒絶しました。

それでも、その人の信仰は揺らぎませんでした。イエス様がもう一度彼を見つけたとき、その人はひれ伏してイエス様を拝みました。なぜなら、彼は新しい命を受けていたからです。

私たちもその人のように反応しましょう。

神様が私たちのためにしてくださったことに感謝し、大胆に周りの人々に私たちのあかしを伝えましょう。反対されても、勇気を持って恐れに屈することのないように。そして、毎日私たちの救い主を求め、礼拝しましょう。

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マタイの福音書 マタイ18章 マルコの福音書 マルコ9章

神様がどのように子供を見ておられるのか

イエス様が神の国について教えられた時、神様がどのように子供たちを見ておられるかを明確に示されました。

まず最初に、イエス様は私たちに「子供に罪を起こさせるようにするな」と警告されました。

そして、イエス様は続けてこう言われました。

しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。

つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。(マタイ18:6-7)

また、イエス様は「子供につまずきを与えるくらいなら、自分の手や足を切った方が良い」と言われました。

どうしてイエス様はそのような極端なことを言われたのでしょうか。それは、子供たちが非常に影響を受けやすいからです。彼らは私たちの行動を見て、すぐに学びます。

もし私たちが怒りっぽいなら、彼らも怒りっぽくなります。

もし私たちが夫や妻に感謝しないなら、彼らが成長して結婚した時、自分の伴侶に対して感謝をしないでしょう。

もし私たちが彼らを虐待するなら、彼らも自分の子供を虐待する可能性があります。

ですから、子供がいる時は、自分の言動に注意してください。神様はそれに基づいてあなたを裁かれるからです。

イエス様はさらに私たちに警告されます。

あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。

まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。(マタイ18:10)

神様は子供たちを愛しておられるので、その子供たちを守るために天使を遣わされます。ですから、私たちも子供たちを大切にしなければなりません。彼らを取るに足りない存在と見なしてはいけません。神様はその宝物を私たちに託されたのです。

さらに、イエス様は子供たちを迷子になった羊に例えられます。神様はその子供たちを救いたいと望んでおられます。ですから、イエス様はこう言われました。

このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。(マタイ18:14)

子供に関して、私はもう二つのことをお伝えしたいと思います。

まず第一に、人には責任を取らなければならない年齢があると思います。つまり、子供が自分の罪の責任を取らなければならない時が来るということです。

その年齢が具体的にいつなのかは分かりませんが、きっと子供によって異なるでしょう。彼らが自分の罪を認識し、さらに罪の悪さを理解するのであれば、責任を取る必要があると思います。

第二に、「この小さい者たちのひとりが滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません」と書かれています。

それでも、私は子供たちが滅びる可能性があると考えます。このことについては、ペテロが似たようなことを言っています。

[神様は]あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(第二ペテロ3:9)

けれども、ペテロははっきりと言っています。人は悔い改めなければ救われません。ですから、子供がどうしても悔い改めないのであれば、救われることはありません。

だからこそ、神様が子供たちを大切にされるように、私たちも子供たちを大切にしましょう。また、彼らが救われるように、福音を彼らに伝えましょう。

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マタイの福音書 マタイ13章

隠された宝と真珠の商人のたとえ話:救いの喜び

数年前、私は興味深い記事を読みました。ある夫婦が自分の庭にいたとき、木の下に埋まっていた缶を見つけました。それはただのごみのように見えましたが、注意深く見ると、中には古い金貨が入っていました。その金貨は1800年代のものでした。

さらに庭を探してみると、彼らは金貨が入った缶をいくつも見つけました。その金貨の価値は約10億円でした。私もそんな宝物を見つけられたらいいのにと思います。

この箇所で、イエス様のたとえ話は、この話に似ています。

最初のたとえ話では、ある男性が畑に隠された宝を見つけました。けれども、その畑は自分のものではなかったため、その宝をもう一度埋めた後、彼は自分の持ち物をすべて売り払って、その畑を購入しました。

2つ目のたとえ話では、商人が真珠を探していて、素晴らしい真珠を見つけました。しかし、その真珠は非常に高価だったため、彼は自分の持ち物をすべて売り払って、その真珠を購入しました。

これら2つの話を読むとき、私は2つのことに心を打たれます。

1つ目は、宝を見つけた人たちの喜びです。2つ目は、どうしてもその宝物を手に入れようとする彼らの決意です。

多くの人々がこの話を読むとき、キリストを見つけた人の喜びを思い浮かべます。

イエス様との関係には計り知れない価値があるため、彼らはイエス様を得るためにすべてを捨てる覚悟があります。イエス様に従うために、自分の家や家族、持ち物を手放します。(マルコ10:29)

それは少し痛いかもしれませんが、彼の喜びはその苦しみをはるかに上回ります。

けれども、この話にはもう一つの解釈があります。それは、私たちが宝物であり、真珠であるということです。そして、イエス様が私たちを探している人です。

私たちは自分の罪のために迷い、霊的に死んでいました。ところが、イエス様が私たちを見つけたとき、喜びをもってすべてを売り払って私たちを買い取られました。イエス様は天国を去り、自分の栄光を天国に残して人間となられました。

この世にいる間、イエス様は空腹を感じることもあり、喉が渇くこともあり、疲れることもあり、痛みに耐えることもありました。そして、イエス様は十字架で苦しみ抜いて死なれました。

なぜでしょうか。それは、イエス様にとって私たちがすばらしい価値を持つ真珠だからです。私たちは埋もれている宝物です。

私たちは汚れていて、錆びついているかもしれませんが、イエス様の目には非常に高い価値がありました。だからこそ、イエス様はすべてを捨てて、私たちを買い取られました。

では、私たちはどのように応答すべきでしょうか。

パウロは次のように言いました。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(第一コリント6:19-20)

だからこそ、毎日私たちを愛してくださる救い主をほめたたえましょう。。

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ヨハネの福音書 ヨハネ4章

隔ての壁を取り壊す

イエス様とサマリヤ人の会話に対する弟子たちの反応は、とても興味深いものです。ヨハネはこのことについて、次のように記録しています。

このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。

しかし、だれも、「何を求めておられるのですか」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか」とも言わなかった。(ヨハネの福音書4:27)

どうして、彼らはその質問をしなかったのでしょうか。

他のユダヤの教師たちが、人前でサマリヤの女性と話すなどあり得ないのに、弟子たちはイエス様の考え方に慣れ、当然のことと思ったのでしょうか。

それとも、本当はその質問をしたかったけれど、イエス様の反応を少し恐れていたのでしょうか。

おそらく、彼らは恐れていたのだと思います。

その状況を思い出してください。ユダヤ人はサマリヤ人を、ユダヤ教を汚した混血の人と見なしていました。そのため、彼らとは一切交流したくありませんでした。

それでも、サマリヤ人たちがイエス様に会いに来たとき、イエス様は弟子たちにこう言われました。

目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。(4:35)

つまり、「このサマリヤ人たちは、汚れたのけ者ではありません。彼らは救いの希望がない罪人ではありません。彼らは神様に愛されている人々です。

あなたには見えなかったかもしれませんが、神様はずっと彼らの心の中で働いておられました。ほかの人々が彼らの心に種を蒔きましたが、あなたには刈り入れる特権があります。」

そして、その日、たくさんのサマリヤ人がイエス様を信じるようになりました。

イエス様は人々が築いた文化的な壁や宗教的な壁を取り壊し、彼らを罪による死の危機から救われました。イエス様は私たちにも同じことをするよう招いておられます。

あなたはどうでしょうか。あなたは周りの人々をどのように考えていますか。

たとえば、アメリカでは、ユダヤ人がサマリヤ人を扱ったように、多くのクリスチャンがゲイの人々を扱っています。彼らはゲイの人々を敵と見なします。

しかし、ゲイの人々は私たちの敵ではありません。彼らも、私たちと同じように救い主を必要としているのです。

または、あなたが周りの人々にイエス様のことを伝えない理由が別にあるかもしれません。たとえば、彼らが創価学会に従っているから、あるいは、彼らの性格が嫌いだからかもしれません。

イエス様は私たちにこう言われます。「彼らを救いの希望がない人と見なしてはなりません。彼らを侮りに値する人と見なしてはなりません。

「彼らを、種を蒔くべき畑と見なしなさい。彼らを、刈り入れるべき畑と見なしなさい。そして、彼らを、私を必要としている人々と見なしなさい。」

あなたは種を蒔く人かもしれません。

あなたは刈り入れる人かもしれません。

いずれにせよ、文化的な壁や宗教的な壁を取り壊し、さらに私たちの心の中にある壁をも取り壊して、イエス様のためにこの死にかけている世界に触れましょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ3章

どのように新しく生まれることができるのか

ヨハネ3章の前半では、イエス様はニコデモに、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われました(3節)。

つまり、私たちがこの世に生まれるように、私たちは神様の国に生まれなくてはなりません。どんなに良い行動をしても、それによって天国に入ることはできません。

人がこの世に生まれるのは、主に母の働きによるものです。人が神様の国に生まれるのは、御霊の働きによるものです。

ニコデモは旧約聖書をよく知っていたにもかかわらず、この概念を理解することができませんでした。彼は天国に入るために、懸命に神様の律法に従おうとしていました。けれども、イエス様は「その考え方は間違っている」と言われました。

そのため、ニコデモは質問しました。

どうして、そのようなことがありうるのでしょう。(9)

つまり、「私はよく分かりません。ずっと律法に従おうと努力してきました。しかし、あなたは天国に入るために私自身の働きによるのではなく、御霊の働きによると言われているのですか。」

今でも、多くの人々は同じ質問を抱えています。彼らは、神様を喜ばせるために良い行動をしなければならないとずっと教えられてきました。そのため、救いがただであるという話を聞いても、彼らは信じられません。それが簡単すぎると感じてしまうのです。

いずれにせよ、イエス様はニコデモを少し叱責されました。

あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。(ヨハネの福音書3:10)

もしニコデモが預言者たちの言葉を正しく理解していたならば、イエス様の言葉も理解できたはずです。(特に、ニコデモは預言者エレミヤやエゼキエルの言葉を知っていたに違いありません。昨日の記事をご覧ください。)

けれども、ニコデモがそれを理解できなかったため、イエス様はさらに古い聖書の話を取り上げて語り始められました。ユダヤ人にとって非常によく知られた話です。

イスラエル人がエジプトから救い出された後、砂漠を旅していました。ところが、その途中で彼らはモーセと神様に対して不平を言い始めました。その反抗的な態度の結果として、神様は多くの蛇を送り、人々の多くが噛まれて死んでしまいました。

イスラエル人が悔い改めた時、神様はモーセにこう命じられました。

あなたは燃える蛇(つまり、青銅の蛇)を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。(申命記21:9)

彼らは救われるために、多くの良い行動をする必要はありませんでした。ただ、神様の約束を信じるべきだったのです。神様の約束を信じた人々は救われましたが、神様に対する不信を持ち続けた人々は亡くなりました。

イエス様はニコデモにこう言われました。

「同じように、永遠の命を得るためには、働かなくてもよいのです。モーセが荒野で蛇を掲げたように、私も十字架で掲げられなければなりません。私はあなたの罪のために死ぬのです。そして、あなたが私を仰ぎ見て信じるなら、あなたは救われます。」

ギリシャ語では引用符が存在しないため、イエス様の言葉がどこで終わり、ヨハネの言葉がどこから始まるのかが明確ではありません。おそらく、15節でイエス様の言葉が終わり、16節からヨハネがその話の意味を解釈しているのでしょう。

いずれにせよ、この箇所は聖書の中で最も有名な箇所の一つです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(3:16)

どうすれば、私たちは新しく生まれることができるのでしょうか。それは、イエス様を信じることによって実現します。つまり、イエス様が十字架であなたの罪の罰を引き受けてくださったことを信じる必要があるのです。

罪とは、「神様、私はあなたを信頼しません。」という態度そのものです。ですから、罪の解決方法は良い行動を積むことではありません。罪の解決方法は、神様に対する不信の態度を捨てることです。

そして、その最初の一歩は、「神様、私はあなたの救いの計画を信じます。あなたの国に入るために、私の働きに頼るのではなく、イエス様の十字架での働きに頼ります。」と告白することです。

このような祈りをしたことがありますか。

天のお父様、私は自分が罪を犯したことを認めます。つまり、私はずっとあなたを信頼せず、あなたの道を歩まず、自分勝手な道を選んできました。どうか私を赦してください。

イエス様、あなたが私の罪のために死んでくださったことを感謝します。私の主となってください。これから私は、私の人生のすべてにおいてあなたを信頼し、あなたの道を歩みたいと願います。

御霊様、どうか毎日私を導いてください。特に、私が毎日イエス様のようになることができるように導いてください。私の心を変えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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ルカの福音書 ルカ1章

救い

ゼカリヤは約9ヶ月間話せない間、どんな気持ちだったでしょうか。おそらく、少しは自分の不信を後悔したことでしょう。

一方で、話せないという印(しるし)は、神様が子供を授ける約束を確実なものとして示してくださいました。そのため、ゼカリヤは自己憐憫に浸ることなく、むしろ喜びを持って毎日を過ごしていたのではないでしょうか。

そして、息子が生まれた際、ゼカリヤの口は開かれ、喜びに満ちた言葉が彼の口からあふれました。彼はこう歌ったのです。

ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。

古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。(ルカの福音書1:68-70)

彼の歌を通して、私たちは救いの深い意味を知ることができます。

1.その救いは、暗闇と死の陰に座る者たちを照らします。(79)

多くの人々は、罪の暗闇の中で生きています。そのため、死の影が彼らの上に覆いかぶさっています。パウロはこう言いました。

「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)

でも、暗闇の陰に座る人に、救いはイエス様を信じる人に赦しを約束します。(77)

2.その救いは私たちの良い行いによるものではありません。むしろ、その救いは神様のあわれみによります。

私たちは永遠の死に値します。それでも、神様は私たちを愛して、イエス様をこの世に送られました。そして、イエス様は私たちの罪のために死んでくださいました。だから今、イエス様を通して、私たちの罪は赦されます。

3.その救いは私たちをサタンの国から救い出します。(71、74)

サタンは私たちを憎み、罪の鎖で縛りました。しかし、神様は私たちを解放してくださいました。

4.その救いは私たちに新しい命を与えます。

私たちはもうサタンの国のために働かず、神様に仕えます。私たちはもう罪に仕えません。その罪深い生活は、恐れ、恥、悲しみ、そして破滅に至りました。

しかし、今では神様が私たちに正義の外套をまとわせてくださいます。そして、日々、私たちはますます「イエス様と同じかたちに姿を変えられて行きます。」(第二コリント3:18)

5.その救いは私たちに平和を与えてくださいます。どんな試練に直面しても、神様の平和を経験します。それは「人のすべての考えにまさる神の平安」です(ピリピ4:7)。なぜなら、私たちには神様との平和があるからです。

どのようにしてその平和を知ることができるでしょうか。こう祈ってください。

イエス様、私は自分が罪人であることを認めます。何度もあなたを傷つけ、また周りの人々を傷つけてしまいました。どうか私を赦してください。

私のために十字架で死んでくださり、私の罰を引き受けてくださったことを感謝します。私に新しいスタートを与えてください。

あなたに従いたいです。そして、ますますあなたのようになりたいです。私を変えてください。そして、あなたの平和を私に与えてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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詩篇

礼拝の招き

ワーシップ・リーダーのトミー・ウォーカーは、「All the Saints Join In

(すべての聖徒たちは参加しよう)という歌を歌っています。この歌は、詩篇148篇に基づいています。

詩篇148篇では、詩人がすべての被造物に神様を賛美するように呼びかけています。天使、太陽、月、鳥、地上の被造物、海の生き物、王たち、若者、年老いた人々までもが、神様を礼拝するように招かれているのです。

なぜでしょうか。

主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。(13)

つまり、神様はすべての栄光にふさわしい方です。もし神様の被造物に栄光があるのなら、神様にはどれほどの栄光があるでしょうか。だからこそ、神様は私たちの賛美にふさわしい方なのです。

しかも、

主は、その民の角を上げられた。主のすべての聖徒たち、主の近くにいる民、イスラエルの子らの賛美を。(14)

聖書において、角は力の象徴です。ですから、私たちが打ち倒される時にも、神様は私たちのそばにいて、私たちを強め、救い出してくださいます。

ダビデ自身もそのような経験をしました。また、イスラエルの民がバビロンに追放された時にも、彼らは神様の救いを経験しました。

現代においても、神様はイスラエルの民に再び国を与えてくださいました。

最も良い例は、私たちが罪のゆえに地獄に値する者であった時、神様が私たちを愛し、救うためにイエス様を送ってくださったことです。イエス様は、私たちの救いの角なのです。(ルカ1:69)

イエス様はこの世におられた時、神様を現し、十字架の上で私たちの罪のための罰を受けてくださいました。ですから、イエス様の御業によって、私たちは赦され、新しい命をいただいたのです。

神様はまことに、私たちの賛美にふさわしい方です。ですから、すべての被造物と共に、神様を賛美しましょう。

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詩篇

悪からお救いください

そろそろ、詩篇の学びを終えると思います。これまで4か月ほどかかり、あと2週間ほどかかると思います。

とにかく、詩篇140篇を読むとき、私は主の祈りを思い出します。

イエス様は私たちにこのように祈るべきだと教えました。

悪からお救いください。(マタイ6:13)

この詩篇では、ダビデはそのように祈りました。実は、141篇から144篇まで、ダビデはそのように祈りました。

おそらく、ダビデがサウルかアブサロムから逃げたときに、この詩篇を書いたと思います。彼はこう祈った。

主よ。私をよこしまな人から助け出し、暴虐の者から、私を守ってください。

彼らは心の中で悪をたくらみ、日ごとに戦いを仕掛けています。

蛇のように、その舌を鋭くし、そのくちびるの下には、まむしの毒があります。セラ

主よ。私を悪者の手から守り、暴虐の者から、私を守ってください。彼らは私の足を押し倒そうとたくらんでいます。

高ぶる者は、私にわなと綱を仕掛け、道ばたに網を広げ、私に落とし穴を設けました。(詩篇140:1-5)

ダビデは本当に大変な状況に陥っていたようです。人々が彼を殺そうとしたので、彼は何度も「私を敵から助け出してください」、「私を守ってください」と祈りました。

けれども、彼のトラブルの中で、私たちは神様に対するダビデの信仰を見ることができます。彼は祈りました。

私は主に申し上げます。「あなたは私の神。」(6)

また、

私の主、神、わが救いの力よ。あなたは私が武器をとる日に、私の頭をおおわれました。 (7)

そして、ダビデは神様が正義によって敵を裁くように祈りました。その後、彼はこう祈りました。

私は知っています。主は悩む者の訴えを支持し、貧しい者に、さばきを行なわれることを。

まことに、正しい者はあなたの御名に感謝し、直ぐな人はあなたの御前に住むでしょう。(12-13)

あなたはダビデのように試練を経験しているかもしれません。周りの人々はなぜかあなたを憎み、あなたを倒そうとしているかもしれません。

しかし、ダビデのように、その問題を神様に任せてください。正義を神様の手に委ねてください。そして、ダビデのように、私たちの敵に憐れみを与えてください。

あなたが今、攻撃されていないかもしれませんが、私たちが霊的な戦いに入っていることを覚えていてください。私たちに対する悪意を持つ霊的な力があり、彼らは私たちを滅ぼしたがっています。

イエス様はそれを知っていたので、私たちに「悪からお救いください」という祈りを教えてくださいました。

だから、私たちはそのように祈るべきです。私たちは壊れた世界に住み、私たちの周りにはたくさんの壊れた人々がいます。サタンはまだこの世にいて、機会があれば私たちを攻撃します。

だから、目を覚まして祈りましょう。

しかし、自分自身を守るだけでなく、サタンの国を攻撃してください。人間は私たちの敵ではありません。サタンは私たちの敵です。だから、神様がこの世の民を救い出すように、福音を宣べ伝えてください。

私たちに与えられた鎧は私たちの背中を守るためではなく、私たちの前を守るためであることを覚えていてください。

だから、神様について行って、前進してください。

古い讃美歌があります。日本語のタイトルは「見よや十字架」のですが、英語はちょっと違います。英語ではこう書いてあります。

クリスチャンの兵隊たちよ。
戦うために行進せよ。
イエス様の十字架は私たちの旗で、
その旗についていく。

キリストは私たちの王、私たちの主。
キリストは敵を戦うのに私たちを導いておられる。

その戦いに行進せよ。
キリストの旗を見て、戦おう。

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詩篇

神様の恵みを喜ぶ

ダビデは詩篇124篇を書いたのですが、いつ彼が書いたのかは分かりません。多分大きな勝利の後に書いたのでしょう。

その時、ダビデは神様の恵みを喜びました。彼は叫びました。

「もしも主が私たちの味方でなかったなら、私たちは敵に滅ぼされただろう。しかし、神様がその罠を壊してくださったので、私たちは免れました。」(詩篇124:1ー7)

そして、彼は歌います。

私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。(8)

幸いなことに、私は敵にそのように攻撃されたことはありません。けれども、神様が私をサタンの罠から救い出してくださったことに感謝します。私が自分自身を救えなかった時、キリストは私の罪のために死んでくださいました。

なぜ、イエス様は私のために死んでくださったのでしょうか。それは、私を愛しているからです。イエス様は私の味方だからです。

なぜ、イエス様が私を愛して、私を助けたがったのか分かりませんが、そのことに感謝します。

さらに、神様はあなたの味方です。

だからこそ、この詩篇を読むとき、この私たちに豊かに注がれた恵みを忘れないでください。

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詩篇

救いの歌

イエス様がこの世に再臨される日に、クリスチャンたちが詩篇を歌うなら、多分この詩篇を歌うでしょう。なぜならこれは救いの讃美歌だからです。

多分、詩篇118篇の詩人よりも、この詩篇は私たちにとって意味があると思います。

新エルサレムに入る時、多分私たちはこう歌うでしょう。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇118:1)

どうして私たちはそう歌うでしょうか。なぜなら、私たちが苦しんだ時、また私たちが自分の罪によって死にかけていて、神様に叫んだ時、神様は私たちを自由にしてくださったからです。

それに、毎日、神様は私たちを見守ってくださいます。人々は私たちの体を滅ぼすかもしれませんが、私たちの魂を滅ぼすことはできません。だから詩人はこう歌いました。

主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。(6)

そして詩人はどのように神様の力によって敵を断ち切ったか歌います。そのように、神様は私たちにサタンに対する勝利を与えてくださいます。だから、私たちもこう歌います。

おまえは、私をひどく押して倒そうとしたが、主が私を助けられた。

主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。。。

主の右の手は高く上げられ、主の右の手は力ある働きをする。

私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のみわざを語り告げよう。(13-17)

時々、詩人のように、私たちは神様の懲らしめの手を見ることがあります。けれども、神様は私たちを滅ぼすために懲らしめるのではなく、私たちに命を与えるために懲らしめてくださいます。

だから、私たちはエルサレムの門に着くとき、門番にこう言えます。

義の門よ。私のために開け。私はそこから入り、主に感謝しよう。(19)

どうして、私たちにはその門に入られる確信があるでしょうか。それは、私たちが救いの基礎を知っているからです。

家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。

これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。(22-23)

イエス様は私たちの救いの礎の石になりました。ユダヤ人たちはイエス様を拒絶しましたが、十字架で流されたイエス様の血によって、私たちは救いを見つけることができます。

だから、毎日私たちの希望が新しくなり、私たちは歌うことができます。

これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。(24)

そして、イエス様がエルサレムに来られたとき、人々が叫んだように、いつか私たちも歌います。「ホサナ。ああ、主よ。どうぞ救ってください。」(25)

けれども、私たちがそう歌う時には、もう救いが来るのを待っているのではなく、むしろ、私たちの救いを振り返ります。そして、もう一度、私たちは歌います。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(29)

アーメン。イエス様、すぐに来てください。

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詩篇

私たちの救いを喜ぶ

私たちはこの詩篇の著者を知らないため、いつ書かれたのかは分かりません。

もしかすると、イスラエル人がエジプトから救い出された後に書かれたのかもしれません。あるいは、ダビデが王になった時に書かれたのかもしれません。または、イスラエルが国として確立された後に書かれた可能性もあります。

そんなわけで、私にはいつ書かれたのか分かりませんが、詩篇98篇を読むと、その詩人の喜びがはっきり見えます。

詩人は歌います。

新しい歌を主に歌え。(詩篇98:1)

時々私はギターを弾いて、昔の賛美の歌を歌います。その歌は今も好きですが、教会で新しい歌を歌うのも好きです。

昔の歌は素敵ですが、歌いすぎるとすぐに飽きてしまいます。なぜなら、その歌の意味を考えずに歌い始めてしまうからです。祈りを歌うというより、カラオケになってしまいます。

その一方、新しい歌を歌うとき、何を歌っているのか考えなくてはなりません。だから、もう一度私たちは神様が私たちのために何をしてくださったかを思い出します。

だから、詩人はこの新しい歌を書きました。彼は歌いました。

奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。

主は御救いを知らしめ、その義を国々の前に現わされた。

主はイスラエルの家への恵みと真実を覚えておられる。地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている。(1-3)

その箇所を読むと、イザヤ書59章を思い出します。イザヤはこう書きました。

主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。

そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。(イザヤ59:15-16)

神様は世の悪を見る時、その悪に取り組む人を見ませんでした。だから、神様自身が何かをされました。

私たちが自分の罪のせいで神様が見えなかった時、また私たちが救いを求めなかった時、神様は救いのわざを行われました。パウロはこう書きました。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)

だから今、神様を信じる人はその救いを受けることができます。

詩人はその真理が分かったので、こう書きました。

地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている。(3)

そして、彼は叫びます。

全地よ。主に喜び叫べ。大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え。

立琴に合わせて、主にほめ歌を歌え。立琴と歌の調べに合わせて。

ラッパと角笛の音に合わせて、主である王の御前で喜び叫べ。(4-6)

そして、詩人は全創造物を呼んで、「神様をこの救いのためにほめたたえよう」と言います。(7-8)

私たちの救いを喜ぶことは良いことです。それに、そうするべきです。しかし、詩人の最後の言葉を思い出しましょう。

確かに、主は地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、公正をもって国々の民を、さばかれる。(9)

イエス様を救い主として受け入れた人は、もはや罪に定められることがないため、将来の裁きを喜びをもって迎えることができます。

けれども、私たちが愛している人々も、その裁きに備えることができているでしょうか。

もちろん私たちの救いを喜びましょう。しかし、私たちの喜びと希望を周りの人々とシェアしましょう。

そうすれば、彼らもその希望と喜びを知るのです。

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詩篇

悪からお救いください

詩篇83篇を読むとき、私は主の祈りについて考えます。つまり、「悪からお救いください」という願いです。(マタイ6:13)

この詩篇では、イスラエルは周りの国々に脅かされました。だから、詩人は叫びます。

神よ。沈黙を続けないでください。黙っていないでください。神よ。じっとしていないでください。

今、あなたの敵どもが立ち騒ぎ、あなたを憎む者どもが頭をもたげています。

彼らは、あなたの民に対して悪賢いはかりごとを巡らし、あなたのかくまわれる者たちに悪だくみをしています。

彼らは言っています。「さあ、彼らの国を消し去って、イスラエルの名がもはや覚えられないようにしよう。」(詩篇83:1-4)

そして、詩人はイスラエルを襲う国々の名前をリストアップします。けれども、その後で、彼は神様が以前イスラエルをどのように救い出してくださったかを思い出します。

その敵からの救いを願った後、彼は祈ります。

こうして彼らが知りますように。その名、主であるあなただけが、全地の上にいますいと高き方であることを。(18)

周りの国々はあなたを襲わないかもしれませんが、あなたを憎む人がいるかもしれません。

また、エペソ人への手紙で、パウロは私たちを襲う霊的な力があると警告します。時々悪霊は人を通して、私たちを物理的に、感情的に、また霊的に襲います。

しかし、覚えておきましょう。神様は全地の上におられるいと高き方です。神様はすべてをコントロールしておられます。だから、攻撃されるなら、神様に向かいましょう。

今攻撃されていなくても、神様の守りを祈った方が良いです。なぜなら、神様に従うなら、結局サタンはそれに気づいて、あなたを攻撃し始めるからです。

もし、イエス様が「悪からお救いください」と祈りなさいと言われたら、そうするべきでしょう。

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詩篇

神様!急いでください!

詩篇70篇が詩篇40篇の最後に似ているので、この詩篇について書くかどうかちょっと迷いましたが、40篇の最後の部分についてあまり書かなかったので、やっぱりこの詩篇について書こうと思いました。

私の心を打ったのは、ダビデの必死な祈りです。

神よ。私を救い出してください。主よ。急いで私を助けてください。(詩篇70:1)

また、

私は、悩む者、貧しい者です。神よ。私のところに急いでください。あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。(5)

ダビデが私のように祈っていたのを知って、私は少し励まされます。「神様、急いでください。私のニーズを知らないのですか。今あなたの助けが必要なのです。」

ダビデはいつも自分の敵から逃げていたので、彼の気持ちがよく理解できます。

もう一つ励まされることは、時々ダビデが望んでいたほど救いが早く来なかったけれど、その救いは結局来ました。

このように、私たちが望むほど、神様は私たちの祈りに早く答えてくださらないかもしれませんが、最終的には私たちを救い出してくださいます。

あなたは祈りの答えを待っていますか。神様が少し遅いと思っていますか。

祈る時、神様と正直に話しても良いのです。「急いでください」と言っても良いのです。

しかし、覚えておきましょう。神様のタイミングは私たちのものと違うかもしれませんが、神様はいつも忠実な方です。結局、神様は私たちを救い出してくださいます。だから、神様の答えを待ち望みましょう。

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詩篇

試練から私たちを救い出してくださる神

試練が好きだと言う人はいません。私も全然好きではありません。けれども、この詩篇では、私たちは試練から救い出してくださった神様の民が喜ぶのを見ます。

詩篇66篇では、詩人はこう歌います。

全地よ。神に向かって喜び叫べ。

御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ。

神に申し上げよ。「あなたのみわざは、なんと恐ろしいことでしょう。偉大な御力のために、あなたの敵は、御前にへつらい服します。

全地はあなたを伏し拝み、あなたにほめ歌を歌います。あなたの御名をほめ歌います。」 (詩篇66:1-4)

そして、詩人は喜びの理由を教えます。

さあ、神のみわざを見よ。神の人の子らになさることは恐ろしい。

神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は川の中を歩いて渡る。さあ、私たちは、神にあって喜ぼう。(5-6)

もちろん、詩人は神様がイスラエル人をエジプトからどのように救い出してくださったかについて話しています。つまり、神様は紅海に乾いた道を整えてくださいました。その時、神様はその力をイスラエルと周りの国々に現わされました。

だから、詩人は警告します。

神はその権力をもってとこしえに統べ治め、その目は国々を監視される。頑迷な者を、高ぶらせないでください。(7)

そして詩人は振り返って、イスラエル人のエジプトの苦しみも砂漠の苦しみも思い出します。けれども、その苦しみの中で、詩人は神様の御手を見ました。

国々の民よ。私たちの神をほめたたえよ。神への賛美の声を聞こえさせよ。

神は、私たちを、いのちのうちに保ち、私たちの足をよろけさせない。

神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精錬するように、私たちを練られました。

あなたは私たちを網に引き入れ、私たちの腰に重荷をつけられました。

あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。(8-12)

11-12節は興味深い箇所です。神様はイスラエル人を網に引き入れ、外国の王を彼らを治めるために送りました。

神様は私たちの人生に直接悪を送らないけど、この壊れた世に悪は来ます。もちろん神様はその悪を止めることができますが、時々その悪が私たちの人生に来ることを許されます。

どうしてでしょうか。神様は私たちを憎むからでしょうか。違います。

その試練を通して、神様は銀を精錬するように、私たちを練られます。

その試練を通して、私たちのプライドや罪を清め、私たちは神様が望んでおられる聖いものになります。

しかし、私たちが火を通るとき、神様は私たちを手放しません。むしろ、神様は私たちを守り、私たちの足をよろけさせません。そして、私たちはその試練を乗り越え、勝利を得ます。

だから、火を通ってから、詩人は感謝のいけにえを捧げ、自分の経験を周りの人々に伝えました。彼はこう歌います。

さあ、神を恐れる者は、みな聞け。神が私のたましいになさったことを語ろう。

私は、この口で神に呼ばわり、この舌であがめた。

もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。

しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。

ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。(16-20)

あなたはどうですか。どんな試練を通っているでしょうか。どんな試練を通っても、神様はあなたを決して離れません。

だから失望しないでください。神様に叫びましょう。あなたの心を主の前に注ぎ出しましょう。そうすれば、神様の救いを知ります。その時、周りの人々に、神様が何をしてくださったか教えましょう。

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詩篇

私たちを救い、 満たしてくださる神

私はこの詩篇がいつ書かれたのか分かりません。もしかすると、神様の裁きによってイスラエルには飢饉があったのかもしれません。けれども、その後イスラエル人が悔い改めたので、もう一度神様の祝福を受けたのでしょう。

だから、詩人は神様のあわれみに感謝します。

神よ。あなたの御前には静けさがあり、シオンには賛美があります。あなたに誓いが果たされますように。

祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。

咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。

幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。(詩篇65:1-4)

この個所で、詩人はイスラエルの罪と神様の裁きを思い出します。私は3節が大好きです。

咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。

私たちは自分の罪に圧倒されました。私たちは神様の裁きから逃げられなかった。けれども、パウロが言ったように、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった。」(ローマ5:8)

だから今、神様は私たちを近づけて、祝福を注いでくださいます。私たちはもう神様を恐れる必要がありません。むしろ、神様のあわれみと恵みを受けたので、愛で満たされた心で私たちは神様を仰ぎます。

そして、ある日、天国で私たち皆は神様のあわれみを賛美します。(1)

5節でダビデはこう言います。

私たちの救いの神よ。あなたは、恐ろしい事柄をもって、義のうちに私たちに答えられます。あなたは、地のすべての果て果て、遠い大海の、信頼の的です。

この詩篇の後半で、ダビデは神様の創造の力を思い出し、どうやって神様が雨を降らして、この世を支え、祝福することについて歌います。

けれども、この詩篇を読むとき、私はもう一つのことを見ます。それは私たちの救い主の業です。つまり、イエス様は私たちの罪のために死んでくださったので、この死にかけている世においても、私たちには希望があります。

神様がこの世を祝福するために天から雨を降らすように、神様は生ける水、つまり聖霊を私たちに注ぎ、毎日私たちを満たしてくださいます。

また御霊によって、神様は私たちと私たちが触れる人に恵みを注いでくださるので、私たちは豊かな実を結びます。

主よ、あなたが私に注いでくださった恵みを感謝します。その恵みによって私は救われました。私が自分自身を救う力がないとき、あなたは私を救ってくださいました。

今、あなたの聖霊で私を満たしてください。あなたの聖霊が私の人生にあふれ、私が実を結び、周りの人々に触れるように。

あなたが私の人生に注いでくださる喜びを感謝します。主イエスキリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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詩篇

神様についての二つの誤解

詩篇50篇の内容は、預言書の内容に似ています。そして、この箇所で、私たちは神様についての二つの誤解を見ます。

最初の部分では、神様は裁判所に入って、被告を喚問されます。その被告は誰でしょうか。モーセの律法の下にあるイスラエル人です。

けれども、ある日、私たちもキリストのさばきの座に行かなくてはなりません。この詩篇の警告に注意するべきです。

最初の神様についての誤解は、神様は宗教的な儀式だけを望まれることです。つまり、神様は供え物やいけにえだけを望まれます。しかし、神様はイスラエル人にこう言われました。

わたしは、あなたの家から、若い雄牛を取り上げはしない。あなたの囲いから、雄やぎをも。

森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。

わたしは、山の鳥も残らず知っている。野に群がるものもわたしのものだ。

わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。

わたしが雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか。(詩篇50:9-13)

言い換えれば、神様はこう言っておられます。

「あなたは供え物やいけにえを捧げているが、その目的を理解していない。

私は飢えているわけでも、貧しいわけでもない。私は何も必要としていない。すべてのものはすでに私のものだから。もし食べ物が欲しければ、自分で取りに行くだろう。けれども、実際には、私は決して食べ物を必要としない。

私の空腹を満たすために、供え物やいけにえを求めているのではない。」

そして、神様はイスラエルに何を望んでおられるかを語られます。

感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。

苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。(14-15)

つまり、こういうことです。「感謝の心を持ちなさい。あなたの神として、あなたの必要を備える方として、そしてあなたの救い主として、私を認めなさい。自分自身のために生きるのをやめなさい。自分の力と知恵に頼って生きるのをやめなさい。」

そして、神様は彼らを厳しく責められました。なぜなら、周りの人たちが見ると、表面的には彼らが敬虔に見えたからですが、実は心の中で彼らは神様を侮っていたからです。神様は彼らにこう言われました。

しかし、悪者に対して神は言われる。「何事か。おまえがわたしのおきてを語り、わたしの契約を口にのせるとは。

おまえは戒めを憎み、わたしのことばを自分のうしろに投げ捨てた。

おまえは盗人に会うと、これとくみし、姦通する者と親しくする。

おまえの口は悪を放ち、おまえの舌は欺きを仕組んでいる。

おまえは座して、おのれの兄弟の悪口を言い、おのれの母の子をそしる。(16-20)

言い換えれば、こういうことです。「あなたは正しいことを語り、私を敬う言葉を口にします。けれども、そのあとで、自分の道を歩んでいくのです。」

多くのクリスチャンはその通りです。日曜日に、彼らは教会に行き、祈ったり、賛美したりしますが、月曜日から土曜日まで自分が好きなように生きます。

神様はあなたの宗教的な外見に感動しません。どんなに教会に通っても、それだけでは感動しません。たくさん献金を捧げても、感動しません。たくさん聖書の箇所を暗記しても、心を動かされることはありません。

神様はあなたの心を望まれます。神様があなたの心を持たないなら、あなたは神様を喜ばせることはできません。

そして、神様は二つ目の誤解について話されます。

こういうことをおまえはしてきたが、わたしは黙っていた。わたしがおまえと等しい者だとおまえは、思っていたのだ。わたしはおまえを責める。おまえの目の前でこれを並べ立てる。

神を忘れる者よ。さあ、このことをよくわきまえよ。さもないと、わたしはおまえを引き裂き、救い出す者もいなくなろう。(21-22)

つまり、神様はこう言っておられます。「あなたが悪を行っていた時、私は何も言いませんでした。だから、あなたは私がその行動を認めていると思ったのでしょう。しかし、実は私は忍耐して、あなたが悔い改めるのを待っていたのです。

けれども、もし悔い改めなければ、あなたには裁きが下ります。その時には、もう悔い改める機会は失われてしまうのです。」

そして、神様は最初の言葉に戻られます。

感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。(23)

この箇所から、私たちは何を学ぶことができますか。救いを得るための最初のステップは、神様を神様として認めることです。私たちが神様から独立して生きることを止めなくてはなりません。

むしろ、感謝の心を持って、へりくだって神様の前に生きるべきです。そうすれば、キリストにあっての救いのために私たちの心が整えられます。

裁きの日が来ます。だからヤコブはこう言いました。

主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(ヤコブ4:10)

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詩篇

救い主の歌

このダビデの詩篇では、私たちはダビデの苦しみと救いを見ることができますが、イエス様の十字架の苦しみと復活も見ることができます。

最初に、ダビデは自分の救いについて神様を賛美します。

私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は私のほうに身を傾け、私の叫びを聞き、

私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。

主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。(詩篇40:1-3)

そのように、イエス様は十字架とその苦しみを振り返ります。天の父はイエス様の忍耐に報いて、イエス様をよみがえらせました。だから、イエス様はもう死にません。

それに、イエス様の十字架の働きによって、「多くの者は見、そして恐れ、主に信頼します」(3)

ダビデの預言は成就しました。2000年もの間、人々はイエス様の十字架の働きを見て、救われてきました。

そして、ダビデは歌いました。

幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。(4)

アダムとエバが罪に落ちてから、人々は救いのために偽物の神々を求めました。もしくは、自分自身を救おうと思いました。けれども、ダビデが言ったのは、偶像はあなたを救うことができないし、あなたが自分自身を救うことができない、ということです。

むしろ、救い主を仰いで信頼する人は救われます。

それは、初めから神様の計画でした。この世を造る前に、神様はその計画を立てられました。

そして、6-8節でダビデは歌います。

あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。

そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。

わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」(6-8)

ヘブル人への手紙の著者は、この箇所を引用して、説明します。「神様の律法によれば、そのいけにえや捧げものは要求されました。しかし、それらはイエス様の十字架の働きのただの陰でした。」(ヘブル10章)

ちょっと何かを説明しなくてはなりません。詩篇では、「あなたは私の耳を開いてくださいました。」と書かれています。

けれども、ヘブル人への手紙では、「わたしのために、からだを造ってくださいました。」と書かれています。

その理由は、ヘブル人への手紙の著者がギリシャ語の翻訳から引用したということです。しかし、なぜヘブル語とギリシャ語がそれほど異なっているのでしょうか。

いろんな意見がありますが、まず一つの意見を紹介します。

神様の律法によって、もし奴隷が自由になる時間が来ても、その奴隷が主人を愛していて、ずっとその主人に仕えたいなら、彼の耳をきりで刺し通しました。それは、生涯のしもべのしるしでした。(申命記15:16-17)

もしかしたら、ギリシャの翻訳者はその詩篇の箇所をパラフレーズしたのかもしれません。つまり、ダビデは自発的に神様に供えられた体で、神様に永遠に仕えようと思いました。なぜなら、ダビデは神様を愛して、喜ばせたかったからです。

そのように、イエス様が天の父を愛して、喜ばせたかったので、天の父はイエス様に人間の体を備えられました。

そして、イエス様は私たちの罪のために十字架で死んでくださいました。しかし、イエス様はよみがえられて、永遠に天の父に仕えられます。(ローマ6:10;第一コリント15:24-27)

だから今、イエス様は神様の義、救い、真理、愛を全ての人々に述べ伝えます。(9-10)

この詩篇の最後の箇所では、十字架とイエス様の苦しみの話に戻ります。ダビデは自分の罪のために苦しんでいましたが、イエス様は十字架で私たちの罪を背負って、私たちのために苦しまれました。

そして、ダビデのように、イエス様は神様に願われます。「私を忘れないでください。私を憎む人々を裁いてください。また、あなたを愛する人によって、あなたの名前がほめたたえられるように。」(13-17)

天の父はイエス様の祈りに応えられたので、イエス様の働きによって、私たちはその救いを喜んで、「主をあがめよう」と叫ぶことができます。

アーメン。主をあがめよう。

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詩篇

私たちの賛美と信頼にふさわしい神

以前も書きましたが、もし、私が詩篇32篇をスキップしてしまったと思うなら、ずっと前にその詩篇について書いています。私はダビデの人生について書いた時、時々、関係のある詩篇についても書きました。

だから、詩篇32篇について読みたいなら、ここをクリックしてください。

詩人がこの歌をどのように始めるか大好きです。彼は歌います。

正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。(詩篇33:1)

「賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい」という言葉は特に好きです。

もし、あなたが主を愛するなら、また、キリストの血によってあなたが神様の目に義と認められるなら、あなたが主を賛美するのはふさわしいことです。

立琴や十弦の琴やギターやピアノを弾いても大丈夫です。アカペラで歌ってもいいです。あなたが音痴なら、喜びの叫びでもいいです。また、あなたが音痴でも、心から歌うなら、神様はその歌を受け入れてくださいます。

どうして、神様を礼拝するのはふさわしい事なのでしょうか。

なぜなら、神様は良い方ですから。神様の言葉のすべては正しいです。また、神様はいつも仰せの通りにされます。神様は嘘つきや、偽善者ではありません。(4)

それに、神様は私たちの創造者です。神様の力によって、全ての物を造られました。(6-8)

そして、私たちは神様の知恵のために賛美します。神様は決して驚かれません。だから、神様の計画と目的は決して変わりません。(10-11)

その最後の事によって、神様は私たちの賛美に値するだけではなく、私たちの信頼に値します。

優柔不断な人に信頼することは難しいです。困る時にすぐにパニックになる人に信頼することは難しいです。また、どうするかよく分からないので、いつも気が変わる人に信頼するのは難しいです。

しかし、神様がすべてを見てくださり、すべてを知っておられ、全てをコントロールしておられるので、神様は私たちが立てられる岩です。

だから、神様が選ばれた人、また神様に属する人は祝福されています。詩人はこう書きました。

幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は。(12)

神様は私たちの名前を知っておられます。神様は天から私たちを見てくださり、私たちの行動について考えてくださいます。

けれども、神様は私たちのミスを待って、私たちを滅ぼそうと思っておられません。むしろ、神様は私たちを愛しておられるので、私たちが神様を仰ぐのを待っておられます。

しかし、多くの場合、私たちはそうしません。むしろ、私たちは他のものに信頼します。けれども、そのものによって、私たちはよくがっかりします。だから、詩人は私たちに思い出させます。

王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにならない。(16-17)

しかし、詩人は言います。

見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。彼らのたましいを死から救い出し、ききんのときにも彼らを生きながらえさせるために。(18-19)

その言葉は、私たちが決して苦しまないという約束ではありません。とはいえ、私たちが苦しむ時、神様は私たちのことを忘れておられるわけではありません。神様の目は私たちに注がれているし、神様は私たちを救い出してくださいます。

この世には、トラブルからの救いが来なくても、天国で、私たちはその救いを見つけます。だからパウロはこう書きました。

死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。(第一コリント15:55)

だから、詩人はこの詩篇の終わりに、こう言います。

私たちのたましいは主を待ち望む。主は、われらの助け、われらの盾。

まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。

主よ。あなたの恵みが私たちの上にありますように。

私たちがあなたを待ち望んだときに。(20-22)

アーメン。主イエスよ。すぐに来てください。

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ゼカリヤ書

私たちの目が開かれるように

この箇所で、私たちはイスラエルの将来を少し見ることができます。

あるクリスチャンは、神様がイスラエルをもう捨てられたのだと思っています。つまり、神様の全ての約束はイスラエルのためではなく、教会のためだというのです。

けれども、その考え方は間違っていると思います。パウロはイスラエルについてこう書きました。

彼らは。。。選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。(ローマ11:28-29)

そして、ゼカリヤの預言によれば、ある日、神様はイスラエル人の目を開けてくださいます。

最後の日、周りの国々はイスラエルを滅ぼそうとし、エルサレムを攻撃します。しかし、神様はこう言われました。

わたしはエルサレムを、その回りのすべての国々の民をよろめかす杯とする。。。

その日、わたしはエルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする。すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける。。。(ゼカリヤ書12:2-3)

イスラエル人が、神様が自分たちを守っていることを目の当たりにするとき、彼らはこう言うでしょう。

エルサレムの住民の力は彼らの神、万軍の主にある、と。(5)

そして、彼らが神様の救いを見るとき、もう一つのことが分かるようになります。つまり、彼らが待ち望んでいた救い主は、すでに来ていたということです。けれども、約2000年前に、彼らは自分たちの手でその救い主を殺してしまいました。

わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。

彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。(10)

その日、すべてのイスラエル人はイエス様をメシアとして、つまり救い主として認めます。そして、すべてのイスラエル人は救われます。(ローマ11:26)

この箇所を読むと、神様の恵みの不思議さに心を打たれます。イスラエル人が神様を求めなくても、(もしくは間違った場所で神様を求めても)、彼らは神様を見つけます。

なぜでしょうか。彼らは神様の愛に値しているわけではなく、他の国民よりも優れているわけでもありません。むしろ、神様の愛と憐れみによって、彼らは神様を見つけ、救われます。

同じように、私たちの霊的な目が開かれ、私たちが悔い改めるために、神様は恵みと哀願の霊を私たちの上に注いでくださいます。そして、私たちが救い主イエス様を見るとき、ユダヤ人と同じように私たちも救われます。

おどろくばかりの神の恵み。
なんて麗しい響きでしょう。

神のすばらしい恵みによって、
こんな惨めな私が救われたのです。

かつて、私は迷って混乱していましたが、
神様は私を見つけてくださいました。

かつて、私は何も見えませんでしたが、
今、私には見えるのです。

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ゼカリヤ書

祝福になるために救われた

ゼカリヤ書には、たくさんの警告と戒めがあります。けれども、同時に、励ましの言葉も記されています。

この箇所では、両方の要素を見ることができます。

神様はまず、ユダヤ人を励まされました。エルサレムは復興し、喜びと平和に満ちた安全な場所になると約束されました。また、散らされていた人々がイスラエルに帰還し、再び彼らは神様の民となり、神様も彼らの神となられるのです。

ユダヤ人にとって、それは想像を超える希望でした。それでも、神様は彼らに力強く語りかけられました。

もし、これが、その日、この民の残りの者の目に不思議に見えても、わたしの目に、これが不思議に見えるだろうか。――万軍の主の御告げ――(ゼカリヤ書8:6)

もちろん、そうではありません。なぜなら、神様は何でもできるからです。

だからこそ、神様は彼らにこう語られました。

勇気を出せ。あなたがたは、万軍の主の家である神殿を建てるための礎が据えられた日以来、預言者たちの口から、これらのことばを日ごろ聞いているではないか。(9)

ユダヤ人たちが神殿の礎を据えたとき、神様の預言者たちは彼らを励まされました。それゆえ、ゼカリヤは彼らに言いました。「その預言者の言葉を思い出し、諦めないでください。反対があっても勇気を出し、この神殿建設を終えなさい。」

神様は私たちにも同じように言われます。神様の力によって私たちは救われました。だからこそ、反対があっても私たちは勇気を出し、神様が計画されたように神様の宮となるべきです。

神様は私たちの内に住んでおられるのですから、私たちは聖なるものとなり、神様のために生きるべきです。

そして、神様はこう言われました。

ユダの家よ。イスラエルの家よ。あなたがたは諸国の民の間でのろいとなったが、そのように、わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる。恐れるな。勇気を出せ。(13)

そのように、私たちが救われる前、私たちの人生は罪によって呪われていました。また、私たちの罪によって周りの人々をも呪っていました。

しかし、神様が私たちを救われたことによって、私たちは周りの人々に祝福をもたらす存在になります。神様は同じ約束をアブラハムにも与えられました。

地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。(創世記15:3)

神様は私たちにも同じことを望まれます。それゆえ、神様はこう言われました。

これがあなたがたのしなければならないことだ。互いに真実を語り、あなたがたの町囲みのうちで、真実と平和のさばきを行なえ。互いに心の中で悪を計るな。偽りの誓いを愛するな。

これらはみな、わたしが憎むからだ。――主の御告げ――」(16-17)

つまり、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(マルコ12:31)

そうすれば、周りの人々は私たちに引き付けられ、神様にも引き付けられるでしょう。

最後にゼカリヤはこう言いました。

「多くの国々の民、強い国々がエルサレムで万軍の主を尋ね求め、主の恵みを請うために来よう。」万軍の主はこう仰せられる。

「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかみ、「私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ」と言う。」(22-23)

いつか、すべての人がユダヤ人についてこう言うでしょう。 しかし、日ごとに人々が私たちについても同じことを言うようになりますように。

「私たちもあなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたとともにおられると聞いたからです。」

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エレミヤ書

あなたは私に信頼するから

このブログでは、私は可能な限り、聖書の出来事を年代順に読んでいます。私にとって、そのような読み方は非常に興味深いです。なぜなら、それまで気づいていなかったことに気づくことができたからです。

例えば、この箇所では、ネブカデネザルはエレミヤに関して次のように命じました。

彼を連れ出し、目をかけてやれ。何も悪いことをするな。ただ、彼があなたに語るとおりに、彼にせよ。(エレミヤ書39:12)

どうしてネブカデネザルはエレミヤに親切にしたのでしょうか。

40章によれば、ネブカデネザルはエレミヤの預言を知っていたからです。つまり、ユダの罪のゆえに、神様がユダをネブカデネザルの手に渡すと預言していたからです。

けれども、どうしてネブカデネザルはその預言を知っていたのでしょうか。

おそらく、エホヤキン王と他のユダ人たちが追放された際に、ネブカデネザルは彼らからその預言を知ったのかもしれません。

しかし、誰がネブカデネザルにその預言について話したのでしょうか。また、なぜネブカデネザルはその預言を信じたのでしょうか。

私は分かりませんが、多分ダニエルがネブカデネザルにその預言について話したのではないかと思います。なぜなら、ネブカデネザルはダニエルを尊敬していたからです。ダニエルは「呪法師の長」でした。(ダニエル4:9)

彼はネブカデネザルに仕えました。また、ダニエルはエレミヤの預言をよく知っていました。(ダニエル9章)

それゆえ、ダニエルはエルサレムが滅びそうだと聞いたとき、おそらく彼はネブカデネザルにこう言ったのかもしれません。

「王様、エルサレムにはエレミヤという預言者がいます。私たちは同じ神に仕えています。また、彼はユダの没落を預言しました。ですから、彼を守ってください。」

もちろん、これは私の想像に過ぎませんが、正しいかもしれないと思います。

いずれにせよ、ネブカデネザルはエレミヤを守りました。

ヨシヤ王が亡くなった後、エレミヤはずっと苦しんでいました。それでも、彼が神様に信頼したため、ユダが滅び、そのリーダーたちが追放され、あるいは殺された時も、エレミヤは救われました。

エベデ・メレクという人も救われました。以前、エレミヤが穴に投げ込まれた時、エベデ・メレクはゼデキヤ王のもとに行き、エレミヤの解放を頼みました。

そのため、神様はエベデ・メレクにこう言われました。

イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。見よ。わたしはこの町にわたしのことばを実現する。幸いのためではなく、わざわいのためだ。それらは、その日、あなたの前で起こる。

しかしその日、わたしはあなたを救い出す。――主の御告げ――

あなたはあなたが恐れている者たちの手に渡されることはない。わたしは必ずあなたを助け出す。

あなたは剣に倒れず、あなたのいのちはあなたの分捕り物としてあなたのものになる。それは、あなたがわたしに信頼したからだ。――主の御告げ――(39:16-18)

神様はその約束を守られました。エルサレムが滅びた時、神様は彼を守られました。

「あなたが私に信頼したからだ。」

その言葉は私の心に響いています。私たちが神様に信頼すると、周りの人々が裁かれても、私たちは救われます。私たちは神様の恵みとあわれみを受けます。

ただ、神様に信頼するからといって、私たちが決して苦しまないというわけではありません。エレミヤは多くの苦しみを経験しましたし、多くの人々も自分の信仰のために苦しみました。

しかし、彼らが死んだ後、最終的に休息と報いを受けました。

この世では私たちが救いを受けられないかもしれません。イエス様に従うことによって、私たちは苦しむことがあるかもしれません。けれども信仰はこう言います。

「私の救いは今は見えないけれど、最終的にその救いが来ると信じます。」

エレミヤはそのような信仰を持っていました。エベデ・メレクもそのような信仰を持っていました。私たちにもそのような信仰が必要です。

へブル人への手紙の著者はこう書いています。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(へブル書11:6)

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エゼキエル書

私たちの責任、相手の責任

私が若い頃、クリスチャンの本でこの言葉を読みました。「あなたがクリスチャンになると、神様はあなたの家族を救うと約束されます。」

そして、その著者は使徒の働き16:31から引用していました。

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。

だから、その著者は私たちに「あなたの家族の救いのために祈ってください」と励ましました。

もちろん、私たちは家族の救いのために祈るべきです。とはいえ、私はその著者の聖書の解釈に同意することはできません。

パウロが言いたかったことは、「あなたがイエス様を信じるなら、あなたは救われます。そして、あなたの家族がイエス様を信じるなら、彼らも救われます」という意味です。

聖書の箇所の意味を理解するためには、その箇所だけを読むのではなく、その箇所に関係する他の箇所もすべて読むべきです。

例えば、コリント人への手紙第一でパウロはこう語りました。

もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。

そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです。(第一コリント7:15)

なぜパウロはこのように語ったのでしょうか。

なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。

また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。(第一コリント7:16)

つまり、私たちは、自分の夫や妻がいつか救われるかどうか分かりません。だから、その人が離れたいのであれば、離れて行かせるべきです。

もし使徒の働きで、パウロが「あなたが救われるなら、きっとあなたの家族も救われる」と言おうとしていたのであれば、なぜパウロは第一コリントで「あなたの妻や夫がいつか救われるかどうか分からない」と語ったのでしょうか。

さらに、このエゼキエルの箇所では、神様はイスラエルを裁き、エゼキエルにこう言われました。

人の子よ。国が、不信に不信を重ねてわたしに罪を犯し、そのためわたしがその国に手を伸ばし、そこのパンのたくわえをなくし、その国にききんを送り、人間や獣をそこから断ち滅ぼすなら、たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。――神である主の御告げ―― (エゼキエル書14:13-14)

また、神様はこう言われました。

たとい、その地にこれら三人の者がいても、――わたしは生きている。神である主の御告げ――彼らは決して自分の息子も娘も救い出すことができない。

ただ彼ら自身だけが救い出される。(18)

この箇所では、神様はこのようなことを4回繰り返されました。「あなたは自分の義によって自分の命を救い出すだけです。」

そして、新約聖書によれば、私たちの義は、イエス・キリストを信じる信仰によるものです。

パウロはこう書きました。

義人は信仰によって生きる。(ローマ1:17)

旧約聖書の時代でも、新約聖書の時代でも、そして現代でも、同じことが言えます。そして、私たち全員が、自分自身の決断をしなければなりません。

とはいえ、私たちには神様から与えられた責任があります。つまり、私たちは周りの人々のために祈るべきです。また、彼らに福音を伝えるべきです。

ただし、その後は彼らの救いを神様に委ねましょう。

私たちは自分の家族や友人が地獄に行くことについて考えたくはありません。しかし、それは私たちが決めることではなく、彼ら自身が決めなければならないことなのです。

それでも、次の質問を自分自身に問いかけてください。「私はできる限り、彼らのために祈り、彼らに福音を伝えているだろうか。」

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エゼキエル書

終わり

私が子供の頃、キカイダーというスーパーヒーロー番組を見ていました。最近キカイダーの映画が上映されて、私は驚きました。(私はその映画を見る興味はありませんが。)

さて、キカイダーはいつも怪獣と戦い、最後に「電磁エンド!」と叫びながらその怪獣を倒していました。

その時、英語の字幕はいつも「The end」とだけ表示されていました。(どうして「電磁」を翻訳しなかったのでしょうね。)

では、なぜ私はこのちょっと可笑しい話について話しているのでしょうか。それは、この箇所で神様がイスラエル人に同じようなメッセージを語られたからです。

「電磁エンド」とは言われませんでしたが、「終わりが来る」と語られました。

神様はこう言われました。

終わりが来る。その終わりが来る。あなたを起こしに、今、やって来る。この地に住む者よ。あなたの上に終局が来る。その時が来る。その日は近い。

しかし、山々での歓声の日ではなく、恐慌の日だ。今、わたしはただちに、憤りをあなたに注ぎ、あなたへのわたしの怒りを全うする。

わたしはあなたの行ないにしたがって、あなたをさばき、あなたのすべての忌みきらうべきわざに報いをする。(エゼキエル書7:6-8)

つまり、「あなたの終わりが来る。あなたは何度も私に逆らった。けれども、裁きの日が来て、バビロン人が来て、あなたを滅ぼすだろう。」

この箇所を読むと、神様からの裁きについていくつかのことを学ぶことができます。

1つ目は、私たちが自分の罪によって裁かれるということです。

これまで、神様があなたを罰していないからといって、あなたは裁きが決して来ないと思うかもしれません。しかし、裁きの日には、神様は私たちの罪をすべて思い出し、私たちを罰されます。

2つ目は、神様の愛は裁きを止めるものではないということです。

神様はイスラエル人にこう言われました。

わたしはあなたを惜しまず、あわれまない。わたしがあなたの行ないに仕返しをし、あなたのうちの忌みきらうべきわざをあらわにするとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。(4)

多くの人は尋ねます。「もし神様が愛の方であるなら、どうして神様は人を地獄に行かせるのでしょうか。」

確かに神様は愛の神ですが、同時に正義の神でもあります。神様は清いお方であるため、罪を罰さなければなりません。

さらに、神様は罪を全く耐えることができません。そのため、罪によって汚された人は神様と交わることができません。そしてその罪のゆえに、人は神様から離れなければなりません。

それが地獄です。地獄とは神様から離れた存在のことです。

神様から離れると、私たちには絶望しか残りません。神様は私たちがそのような状態になることを望んでおられませんが、それでも私たちが神様に背を向ければ、そのような人生以外に道はありません。

3つ目は、私たちがこの世でどれほど多くの物を集めても、裁きが来るということです。

私たちはお金や持ち物で自分の救いを買うことはできません。神様はイスラエル人についてこう言われました。

 彼らは銀を道ばたに投げ捨て、彼らの金は汚物のようになる。

銀も金も、主の激しい怒りの日に彼らを救い出すことはできない。(19)

あなたが物を集めても、土地を買っても、お金を儲けても、裁きの日にはそれらすべてが無駄になります。

そして最後に、私たちは知っていることによって裁かれます。私たちが知らないことによっては裁かれません。神様はイスラエル人にこう言われました。

わたしが彼らの行いにしたがって彼らに報い、彼らのやり方にしたがって彼らをさばくとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」(27)

彼らの行い、つまり、彼ら自身の基準によって、神様はイスラエル人を裁かれました。

どの国にも、その国独自の基準があります。すべての国には、自国の法律があり、またそれぞれの道徳法則があります。

時には、それらの法律や道徳法則が神様の律法と異なることもあります。とはいえ、私たちの道徳感覚が曇っていても、私たちの心は善悪をおおよそ理解しています。

それにもかかわらず、私たちはその曇った基準に従わないことがあります。だから、人々は自分自身の基準によって裁かれるのです。

裁きの日には、神様は私たちにこう言われます。「あなたにはまったく言い訳がありません。なぜなら、あなた自身の基準によってあなたは裁かれるからです。」

では、私たちにはもう何の希望もないのでしょうか。私たち全員が裁きを受ける運命にあるのでしょうか。

決してそんなことはありません。イエス様はこの世に来て、十字架で私たちの罰を引き受けてくださいました。

だから、もしあなたがイエス様とその働きに信頼を置くなら、あなたの罪は清められます。(第一ヨハネ1:7)

ですから、私たちの罪を捨て、イエス様に心を向けましょう。イエス様にあって私たちには希望があります。

しかし、イエス様との関係がなければ、希望はまったくありません。

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エゼキエル書

相手が聞こうが聞くまいが

ああ、良かったですね!これは年代順に書かれている本なのですね。😊

エレミヤ書は本当に大変です。いつもあっちこっちに飛ばなくてはならないですから。

さて、エホヤキン王(最後から二番目のユダの王)が捕囚として連れ去られてから5年目に、エゼキエルは預言し始めました。

エゼキエルは、エホヤキンと他のユダ人たちと共にバビロンに追放されました。エゼキエルは祭司の息子で、30歳になり祭司として仕えるはずでしたが、神様は彼を預言者として召されました。

エゼキエルは最初に「ケルビム」という天使を見たようです。

ケルビムは4つの顔を持っていました。それらは人間の顔、獅子の顔、牛の顔、そして鷲の顔です。多くの聖書学者たちは、それらの顔がイエス様を象徴すると考えています。

  • マタイの福音書では、イエス様はユダの獅子として表されました。つまり、イエス様は王です。
  • マルコの福音書では、イエス様は牛として表されました。つまり、イエス様はしもべです。
  • ルカの福音書では、イエス様は人間として表されました。つまり、イエス様は人の子です。
  • ヨハネの福音書では、イエス様は鷲として表されました。つまり、イエス様は神の子です。

ケルビムは神様の全知を象徴しています。(4つの顔が別々の方向を向いていたため、何でも見ることができたのです。)

またケルビムは神様の偏在をも象徴していました。(1つの輪が他の輪の中にあり、どこにでも行くことができました。)

そして、神様が現れ、エゼキエルに語られました。

まず、神様はこう言われました。

人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。

彼らも、その先祖たちも、わたしにそむいた。今日もそうである。彼らはあつかましくて、かたくなである。わたしはあなたを彼らに遣わす。

あなたは彼らに『神である主はこう仰せられる』と言え。彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、彼らは、彼らのうちに預言者がいることを知らなければならない。

人の子よ。彼らや、彼らのことばを恐れるな。

たとい、あざみといばらがあなたといっしょにあっても、またあなたがさそりの中に住んでも、恐れるな。

彼らは反逆の家だから、そのことばを恐れるな。彼らの顔にひるむな。

彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。(エゼキエル書2:3ー7)

神様はエゼキエルに二つのことを言われました。

1つ目は、神様がエゼキエルをイスラエル人に遣わされるということです。

2つ目は、イスラエル人がエゼキエルのメッセージを聞こうが聞くまいが、エゼキエルはそのメッセージを伝えなければならないということです。

神様は私たちにも同じことを言われます。

神様は私たちを周りの人々に遣わしておられます。私たちが神様のメッセージを伝える時、聞く人もいれば、聞かない人もいます。

けれども、彼らが聞こうが聞くまいが、私たちはそのメッセージを伝えなければなりません。

そして、神様はエゼキエルにこう言われました。

あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。(エゼキエル書2:8)

神様はエゼキエルに巻物を与えられました。しかし、その巻物に幸いな言葉は書かれていませんでした。むしろ、「哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった」(2:10)のです。

つまり、それらの言葉は裁きの言葉でした。なぜなら、イスラエル人たちが罪を犯していたからです。

エゼキエルがその巻物を食べると、その言葉は蜜のように甘かったのです。

私たちも神様の言葉を受け入れるべきです。そして、その言葉を味わうべきです。けれども、その言葉を自分のためだけに保つのではなく、周りの人々にシェアしなければなりません。

もちろん良い言葉もシェアすべきですが、警告の言葉もシェアすべきです。なぜでしょうか。

神様はエゼキエルにこう言われました。

人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。

わたしが悪者に、「あなたは必ず死ぬ」と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。

もし、正しい人がその正しい行ないをやめて、不正を行なうなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。

それはあなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のために死に、彼が行なった正しい行ないも覚えられないのである。わたしは、彼の血の責任をあなたに問う。

しかし、もしあなたが正しい人に罪を犯さないように警告を与えて、彼が罪を犯さないようになれば、彼は警告を受けたのであるから、彼は生きながらえ、あなたも自分のいのちを救うことになる。(エゼキエル書3:17ー21)

神様は何を言われているのでしょうか。

私たちは神様の見張り人です。だから、人々に「罪を悔い改めなさい」と伝える責任があります。

彼らが聞いて悔い改めれば、救われます。もし聞かなければ、滅びます。いずれにせよ、その場合、神様は彼らの血の責任を私たちに問われません。

しかし、もし私たちが彼らに警告しないなら、神様は彼らの血の責任を私たちに問われます。

私たちは周りの人々が神様のメッセージにどのように反応するかをコントロールすることはできません。

とはいえ、彼らが聞こうが聞くまいが、神様は私たちにそのメッセージを伝えるように命じておられます。

私たちは友達、同僚、そして家族にこのメッセージを伝えるべきです。そのメッセージを聞いて救われる人もいれば、そのメッセージを聞かずに滅びる人もいます。

しかし、自分自身にこの質問をしてみてください。「私は神様が命じられたことを行っているでしょうか。私は周りの人々に神様の裁きと救いについて伝えているでしょうか。」

あなたはどうですか。

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エレミヤ書

救い主、贖い主

クリスマスの時、私はいつもの時よりも、イエス様について考えます。特に、どうしてイエス様がこの世に来られたかを思い出します。

イエス様は私たちを裁くために来られたのではありません。イエス様は私たちを罪から救い出してくださり、贖うために来られました。そして、その働きによって、私たちは神様と和解しました。

この箇所では、いつも通り、私たちは裁きの話を見ます。

神様はエレミヤに言われました。

「人が亡くなると、その家族と友達と一緒に泣いてはなりません。なぜなら、慰める言葉がないからです。つまり、私はいつくしみと、あわれみを彼らから取り去ったからです。

そして、すぐに、多くの人々が亡くなり、皆が苦しむため、誰も慰める言葉を与えられません。」(エレミヤ書16:5-7)

また、神様はエレミヤに言われました。「ユダ人の宴会にも参加してはなりません。なぜなら、すぐに、私は彼らの喜びを取り去るからです。」(8)

そして、神様はエレミヤに言われました。

「この裁きの理由を彼らにはっきりと伝えなさい。つまり、彼らは自分の心を堅くし、私に背を向けて、自分の神々を礼拝し始めたからです。」(10-13)

けれども、14-15節から、神様のトーンは変わります。神様はエレミヤに言われました。

「今、皆は、どうやって私がイスラエル人たちをエジプトから救い出したかを思い出しています。しかし、ある日、私はもっと素晴らしいことをします。

イスラエル人たちとユダ人たちは追放されますが、いつか、私はもう一度彼らを自分の土地に導きます。なぜなら、私は彼らの先祖にその土地を与えると約束したからです。

そして、人々はエジプトからの救いについて話すよりも、追放からの救いについて話し始めます。」(14-15)

神様はその約束を守られました。神様はイスラエル人たちをペルシアから自分の土地に導かれました。

そして、イエス様の使徒の時代に、ローマがエルサレムを滅ぼし、ユダヤ人たちは各地に散らされました。自分の国は無くなりました。

けれども、1948年に、神様はもう一度彼らをイスラエルに導かれました。

なぜでしょうか。神様がイスラエルの救い主と贖い主であることを証明するためです。

ある日、全イスラエルはそのことを認めます。神様は彼らについてこう言われました。

だから、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手と、わたしの力を知らせる。彼らは、わたしの名が主であることを知る。(21)

現代、多くの人々は罪に迷っています。彼らはイスラエル人のように堅い心を持ち、神様に背を向けました。

しかし、イエス様は彼らを救い、贖うために来られました。また、イエス様は彼らに神様を表し、彼らが神様を知り、神様と和解するために来られました。

そのことを覚えておきしょう。そして、私たちの周りの人々にその良いニュースを伝えましょう。

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ゼパニヤ書

主の日

少しエレミヤ書から離れ、ゼパニヤ書に目を向けましょう。ゼパニヤはエレミヤと同時代に生きた預言者です。

ナホム書と同様に、ゼパニヤ書について詳しく説明する時間はそれほど取らないつもりです。理由は、ゼパニヤのメッセージがイザヤやエレミヤのメッセージとほぼ一致しているからです。具体的には、それは裁きのメッセージです。

ゼパニヤ書1章からそのメッセージを知ることができます。

わたしは必ず地の面から、すべてのものを取り除く。――主の御告げ――

わたしは人と獣を取り除き、空の鳥と海の魚を取り除く。わたしは、悪者どもをつまずかせ、人を地の面から断ち滅ぼす。――主の御告げ――(ゼパニヤ書1:2-3)

他の預言者たちと同様に、ゼパニヤはユダの民の偶像礼拝(1:4-6)、澱んだ態度(1:12)、服従の欠如(3:1)、そしてリーダーたちと民の不正義(3:3-4)を厳しく責めました。

そのため、ゼパニヤは来るべき裁きについて警告しました。

主の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る。聞け。主の日を。勇士も激しく叫ぶ。

その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、やみと暗黒の日、雲と暗やみの日、角笛とときの声の日、城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日だ。

わたしは人を苦しめ、人々は盲人のように歩く。彼らは主に罪を犯したからだ。彼らの血はちりのように振りまかれ、彼らのはらわたは糞のようにまき散らされる。(ゼパニヤ書1:14-17)

しかし、ゼパニヤはユダだけを警告したのではありません。その周辺の国々にも警告を与えました(2:14-15)。その理由は、彼らも偶像を礼拝していたからです。それに加えて、彼らは神様が選ばれた国、つまりユダ王国を侮辱し、脅かしました。

この箇所を読むと、パウロの言葉が思い起こされます。

ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。

忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。

患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。(ローマ2:5-11)

パウロはゼパニヤの時代の後に生きていましたが、その言葉はゼパニヤの時代においてもふさわしいものでした。

ゼパニヤのメッセージは、パウロが示した裁きのパターンに一致していました。ユダの民はまず裁かれ、その後、異邦人も裁かれました。

なぜでしょうか。それは、ユダの民が神様の言葉を知っていたからです。他の国々はモーセの律法や預言者の言葉を知らなかったのです。

そして、いつの日か神様は私たちをも裁かれるでしょう。ゼパニヤのメッセージは私たちの時代においてもなお、ふさわしいものと言えます。

恥知らずの国民よ。こぞって集まれ、集まれ。昼間、吹き散らされるもみがらのように、あなたがたがならないうちに。主の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに。主の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに。

主の定めを行なうこの国のすべてのへりくだる者よ。主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。(ゼパニヤ書2:1ー3)

つまり、悔い改めなさい。神様の前にへりくだり、近づきなさい。神様の道を求めなさい。そうすれば、主の日に私たちは救われ、サタンは裁かれるでしょう。そして、イエス様が王としてこの世を治め、災いや悪は完全になくなるのです。(3:15)

その日、私たちは救いを目の当たりにして喜ぶでしょう。しかし、主ご自身が私たちを見て喜ばれるのです。ゼパニヤはこう語りました。

あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。(ゼパニヤ書3:17)

また、

その時、わたしはあなたがたを連れ帰り、その時、わたしはあなたがたを集める。

わたしがあなたがたの目の前で、あなたがたの繁栄を元どおりにするとき、地のすべての民の間であなたがたに、名誉と栄誉を与えよう、と主は仰せられる。(ゼパニヤ書3:20)

ゼパニヤは特にイスラエルの民について語りますが、その日、私たちすべてが神様と共にいるようになります。また、この世は再びエデンの園のような姿を取り戻すでしょう。

その日が待ち遠しいですね。

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イザヤ書

情け深い神、力ある神

この世界を造られた神が私を愛しておられることは、本当に不思議だと思います。言葉だけですべてを造られた神が私について考えておられることも、不思議だと思います。

この箇所では、そのような神を見ることができます。

イザヤはイスラエル人について話し、神様がどのように彼らを選ばれたかを教えています。イスラエルのエジプトでの経験について、イザヤはこう言いました。

彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。

その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。(イザヤ書63:9)

イザヤはイスラエル人について話しますが、私たちについても話しています。

私たちが苦しむ時、神様も苦しんでおられます。私たちが泣く時、神様も泣いておられます。

だから、私たちが罪に迷った時、神様はイエス様の死によって、私たちを贖い、救ってくださいました。そして、神様は私たちを背負い、抱いて来られました。今でも神様はそうしてくださいます。

それに、神様は力ある神です。イザヤはこう言いました。

私たちが予想もしなかった恐ろしい事をあなたが行なわれるとき、あなたが降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。

神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。あなたは迎えてくださいます。喜んで正義を行なう者、あなたの道を歩み、あなたを忘れない者を。

ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか。(64:3-5)

神様は問題を解決する力を持っておられます。私たちを助ける力を持っておられます。

エジプトが大国だったのに、神様はイスラエル人をエジプトから救い出されました。神様のしるしと不思議を通して、イスラエルの敵は恐れました。

その同じ神が、私たちの人生の中でも働いておられます。神様に仕え、また神様を待ち望む私たちの中で、神様は働いておられます。

神様は情け深い神です。神様は力ある神です。

しかし、一つのものによって私たちは神様から離れます。そのものは、神様の祝福と助けを妨げます。それは、罪です。

神様がイスラエル人を救って祝福されたのに、彼らは神様に背き、御霊を悲しませました。だから、神様はイスラエル人をその敵の手に渡されました。

そのように、私たちの罪によって、私たちは神様から離れてしまいます。イザヤはこう言いました。

私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。

しかし、あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの咎のゆえに、私たちを弱められました。(イザヤ書64:6-7)

私たちが神様を求めないなら、私たちの義でさえ不潔な着物のようになってしまいます。イザヤの文字通りの言葉によれば、私たちの義は不潔な月経布のようだと言っています。

そして、私たちは罪の結果を知っています。自分自身を罪に捧げるなら、結局滅びに至るのです。

赦しへの道は何でしょうか。それは、悔い改めです。罪に背を向け、神様の赦しに頼ることです。私たちの創造者を思い出し、神様を求めることです。そして、イザヤのように祈ることです。

しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。

主よ。どうかひどく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください。(イザヤ書64:8-9)

そうすれば、もう一度、神様の情けと力を知ることができます。

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イザヤ書

救いの神、裁きの神

福音は両刃の剣です。福音は始めからそのようなものでした。

イエス様を受け入れるなら、福音は救いの方法となります。しかし、イエス様を拒絶するなら、それは裁きに導きます。この箇所では、救いと裁きの両方を見ることができます。

まず最初に、キリストが国々を裁く姿が描かれています。イエス様の着物は、神様に背く人々の血で赤く染められています。彼はこう言われます。

わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。

わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。(イザヤ書63:3-4)

また、

わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。(6)

私たちがイエス様について考える時、だれもその絵を想像したくありません。けれども、パウロはこう言いました。

罪から来る報酬は死です。(ローマ6:23)

とはいえ、この同じ神は、救いの神でもあります。

イザヤは問いかけます。

エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。(イザヤ書63:1)

神様は答えられます。

正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。。。

わたしの贖いの年が来たからだ。わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。

そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。(イザヤ書63:1,4-5)

その言葉は、パウロの言葉に似ています。

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ書5:6-8)

誰も私たちを救えない時、また私たちが自分自身を救えない時、神様は人間としてこの世に来て、私たちの罪のために死なれました。

神様は私たちが良い人になるまで待っておられませんでした。なぜなら、私たちは自分自身を変えることができなかったからです。

だからこそ、私たちがまだ弱く罪人であった時、イエス様は私たちのために死んでくださいました。

今、私たちがするべきことはただ一つしかありません。それは、神様からの救いの賜物を受け取ることです。それこそが福音です。

しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ書6:23)

救いか裁き。私たち皆は選ばなければなりません。

あなたはどちらを選びますか?

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イザヤ書

良い知らせ

この世では多くの悪いニュースを耳にします。地震が起こり、犯罪が増え、戦争も絶えません。私たちがこうしたニュースを見ると、落ち込んでしまうのは自然なことです。

しかし、イエス様がこの世に来られた時、イザヤ書のこの箇所を引用されました。

神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。

捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年。。。を告げ「知らせるために。」。(イザヤ書61:1-2)

良い知らせ。それは、誰もが必要とするものです。多くの人々の心は傷ついており、罪に捕らわれています。また、多くの人々は暗闇の中で生きており、希望を見出せないでいます。

しかし、イエス様は彼らを解放するために来られました。

イエス様は、苦しむ者を慰めるために来られました。絶望の言葉を取り去り、彼らの口に賛美を満たすために来られました。

彼らの人生の灰の代わりに、頭の飾りを与えるために来られました。

そして、彼らを義の樫の木のように植えるために来られました。だからこそ、人生の嵐が襲っても、彼らは立ち続けることができます。また、彼らは神様の栄光のために生きるのです。(イザヤ書61:2-3)

イエス様は、彼らの人生の廃墟を建て直し、荒れ跡を復興するために来られました。(4節)

イエス様は、彼らを神様の祭司と仕える者にするために来られました。(6節)

イエス様は、彼らの恥を取り去り、彼らに永遠の遺産を与えるために来られました。それは、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない」遺産です。(第一ペテロ1:4、イザヤ書61:7)

イエス様は、私たちに救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせるために来られました。

イエス様の血によって、私たちは義と認められます。また、聖霊の働きによって、私たちは毎日少しずつ聖くなっていきます。

良い知らせでしょうか。それは、なんと素晴らしい知らせでしょう!だからこそ、その知らせを周りの人々に伝えましょう。

イザヤが言ったように、

良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。(イザヤ書52:7)

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イザヤ書

神様の愛を反映する

イザヤ書60:1ー3が大好きです。

起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。

見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。

しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。(イザヤ書60:1~3)

「国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」

「あなたの光」、「あなたの輝き」というのはどういう意味でしょうか。

一節には、「あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いている」と書かれています。

そのため、「あなたの光」とは神様を指しているのでしょうか。つまり、国々は直接主のもとへ来るということなのでしょうか。

それとも、私たちが主を反映する存在であるために、国々は私たちのところに来るのでしょうか。

おそらく、そのどちらも真実なのではないでしょうか。

イエス様の栄光が私たちの上に輝いているため、周りの人々はそれに気づき、私たちに興味を持つようになります。そして、私たちを通して彼らもイエス様を知りたいと思うようになります。

この世には、悪と罪が満ちています。そのため、多くの人々は暗闇に迷い込み、「この世にあって望みもなく、神もない人たちでした」(エペソ2:12)とあるような状態にあります。

けれども、イエス様がこの世に来られた時、その暗闇の中でイエス様は光となりました。イエス様は希望の光でした。

そして今、イエス様はその希望の光を私たちの心に照らしてくださいました。ですから、私たちはそのいただいた光をこの世に反映するように召されています。

私たちの贖いと救いを喜ぶことは、確かに良いことです。しかし、神様は私たちが神様の光をこの世に照らすように召されています。なぜなら、神様はこの全世界の人々が、私たちが与えられた喜びを知ることを望んでおられるからです。

イエス様はこう言われました。

あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイの福音書5:14-16)

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イザヤ書

神様は遠くにおられるのでしょうか。

時々、人々はこう尋ねます。「神様はどこにおられるのでしょうか。私には神様が見えません。この世にある悪しか目に入りません。」

神様は確かにここにおられます。けれども、私たちの心の中に罪があるため、神様を見るのが難しいことがあります。イザヤはこう語りました。

見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。

あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ書59:1-2)

神様を見たいと思いますか。あなたが悔い改めるなら、神様はあなたの罪を赦し、あなたの心を清めてくださいます。そして、その結果、神様を見ることができるようになります。

イエス様はこう言われました。

心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。(マタイ5:8)

神様は聖なる方であり、罪を見ることができません。そのため、私たちの心の中に悔い改めていない罪があるならば、私たちは神様から遠ざかってしまいます。

しかし、自分の罪に取り組むのではなく、多くの人々は言い訳をしてしまいます。イザヤは次のように語りました。

むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。(4)

また、

彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。

彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。

彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。

それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。

私たちは盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだ。(7-10)

この世界を見渡すと、私たちはそのような現実にどれほど頻繁に直面していることでしょうか。人々は罪を善と呼び、神様が定めた罪を良いこととして受け入れ、それを喜びます。

けれども、結局のところ、私たちは暗闇に迷い込んで、「どうしてこの世はこんなに混乱してしまったのだろうか」と問いかけます。

その理由は明白なのに、私たちにはその理由が見えていません。それは、私たちが良い神を拒絶し、罪を愛しているからです。その結果、この世はますます悪くなり、崩れていっています。

それでも、私たちが罪人であっても、神様は私たちを見捨てることはありませんでした。

主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。

そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり「ました。」(15-17)

約2000年前、イエス様はこの世に来られ、私たちの罪のために十字架で死なれました。そのため、もし私たちが悔い改め、イエス様に立ち返るならば、私たちは赦され、自由にされるのです。それは、まさに良い知らせです。

しかし、悪い知らせもあります。それは、もし私たちが神様に向かわないならば、神様の裁きを受けるということです。

主は彼らのしうちに応じて報い、その仇には憤りを報い、その敵には報復をし「ます」(18)

だから、どうか待たないでください。今日は救いの日です。今、この瞬間に神様に向かいましょう。

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イザヤ書

救い

この箇所では、神様がイスラエルの民を追放の地から呼び戻される姿が描かれています。同時に、この箇所には救いの象徴的な絵を見ることもできます。

イザヤはイスラエルの民にこう語りました。

さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム。あなたは、主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した。。。

あなたの子らは網にかかった大かもしかのように気を失って、すべての町かどに倒れ伏す。彼らには、主の憤りと、あなたの神のとがめとが満ちている。(イザヤ書51:17、20)

この箇所では、イザヤが神様の裁きによって打ちひしがれたユダヤの民を呼び戻しています。彼らは罪を犯したために、持っていたすべてのものを失いました。

それにもかかわらず、神様は彼らにこう語られました。

見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことはない。(イザヤ書51:22)

つまり、彼らの裁きがすぐに終わり、彼らはもう神様の怒りを飲む必要がなくなるのです。

同じように、私たちも罪深く壊れた状態でイエス様の前に来るならば、イエス様は私たちを救ってくださいます。なぜなら、イエス様は十字架の上で私たちの罪のために代価を支払われたからです。

そのため、私たちはもはや神様の怒りを飲む必要はありません。

そして、イザヤは次のように語っています。

さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレム。。。

ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け、エルサレム。あなたの首からかせをふりほどけ、捕囚のシオンの娘よ。(イザヤ書52:1-2)

神様がイスラエルの民の汚れた服を取り去り、新しい服を与えられたように、神様は私たちの罪を取り去り、私たちに義の服を着せてくださいます。

さらに、神様が彼らの鎖を打ち砕かれたように、神様は私たちの罪の鎖をも打ち砕いてくださいます。私たちはもはや囚人ではありません。私たちは神様の愛する子供たちです。

神様はユダヤの民について、こう語られました。

あなたがたは、ただで売られた。だから、金を払わずに買い戻される。(イザヤ書52:3)

そのように、サタンは私たちのために何も代価を払うことはしませんでした。むしろ、私たちは自分の罪によって、自分自身をサタンの奴隷として売り渡してしまったのです。

しかし、神様が私たちをあがなう時には、お金ではなく、イエス様の尊い血によって私たちをあがなってくださいました。

そして今、神様はその救いを全世界に向けて宣言されています。

良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。

平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。(イザヤ書52:7)

また、

主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現わした。地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。(イザヤ書52:10)

それでは、私たちはどのように応答すべきでしょうか。

去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。。。

主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。(イザヤ書52:11-12)

神様はユダヤの民にこう語られました。

「あなたの囚人としての生活を捨てなさい。罪の生活を捨てなさい。そして、私はあなたと共にいる。」

神様は同じ言葉を私たちにも語っておられます。

「サタンの国から離れ、神様の国へ来なさい。その道はすでに整えられた。私はあなたの罪のために代価を支払った。救いの服はあなたのためにすでに用意されている。

だから、あなたの古い生活を捨てなさい。罪の生活を捨てなさい。私はあなたと共にいる。」

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イザヤ書

尊い

多分イザヤ書43:1-13が私の一番好きな聖書の箇所です。

だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。

「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。

火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。(イザヤ書43:1-3)

私たちの創造者が語られた言葉を深く心に留めましょう。

「私はあなたを贖ったのだ。」

イスラエルの民がこの言葉を聞いた時、彼らの心はエジプトからの救いへと思いを馳せていたでしょう。かつて、彼らはエジプトで奴隷として苦しんでいましたが、神様は彼らを解放し、約束の地へと導かれました。

しかし、この言葉には、私たちにとってさらに深い意味があります。キリストの十字架を通して、私たちは罪の罰から贖われました。イエス様の流された血によって、私たちは赦されたのです。

わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

あなたは取るに足りない存在ではありません。神様はあなたの名前をよく知っておられます。神様があなたを見て、こう言われます。「あなたは私のものだ。あなたは私が愛している子だ。」

「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり…」

イエス様が語っておられるのは、こういうことです。

「たとえ人生の海が深く、あなたがパニックに陥る時があっても、私はペテロとともにいたように、あなたと共にいます。私はあなたの手を取り、波の上を導くのです。」

川を渡るときも、あなたは押し流されることはない。火の中を歩いても、あなたは焼かれることはなく、炎があなたを燃えつくすこともない。

つまり、どのような試練を経験しても、神様を信頼するならば、あなたは必ず乗り越えることができるのです。

そして、神様はこう語られました。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。(4)

これはおそらく預言の一つでしょう。つまり、イスラエルの追放の後に、ペルシアがイスラエルの民を自分たちの土地に帰らせるようにするため、神様がエジプトや他の国々をペルシアに与えるという意味だと思われます。

とはいえ、これが私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか。

神様は、私たちが高価で尊い存在だと思われたからこそ、イエス様をこの世に送られました。そして、イエス様は私たちの代わりに十字架で死なれました。神様が私たちを深く愛しておられるゆえに、イエス様は私たちの罪のために命を捧げられたのです。

さらに、神様はイスラエルの民にこのように約束されました。 「あなたがたが国々の民の中に散らされても、私はあなたがたをイスラエルに帰らせる。」

神様は私たちにも同じように語られます。たとえ私たちが神様からどれほど離れてしまったとしても、また私たちの人生がどれほどめちゃくちゃになったとしても、神様に立ち返るならば、神様は私たちをもう一度迎え入れてくださいます。

私たちの霊的な目が長い間神様を見ず、耳が神様の声を聞かなかったとしても、それでも神様は私たちを受け入れてくださるのです。(8)

そして今、神様は私たちを神様の証人として呼び出しておられます。

神様は私たちが救いの中で安住するだけで満足してほしいとは望んでおられません。むしろ、その救いを世界の果てまでも伝える使命を担ってほしいと望んでおられます。

神様はこう語られます。

あなたがたはわたしの証人、――主の御告げ――わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。(10)

私たちへのメッセージは何でしょうか。

わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。

わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。(10-11)

イエス様は同じようなことを言われました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)

ですから、神様の尊い愛されている子供たちとして、この世界が救われるために、そのメッセージを伝えていきましょう。

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イザヤ書

今日の祈り

この祈りが大好きです。

主よ。私たちをあわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。

朝ごとに、私たちの腕となり、苦難の時の私たちの救いとなってください。(イザヤ書33:2)

この箇所は私の心の中に深く響いています。

主よ、私たちをあわれんでください。

主よ、私たちは毎日あなたの憐れみを必要としています。私は毎日失敗したり、罪を犯したりして、あなたを悲しませてしまいます。どうか赦してください。憐れんでください。

そして、この憐れみを受けた私が、周りの人々にその受けた憐れみを与えることができるように助けてください。

私たちはあなたを待ち望みます。

主よ、私の魂はあなたを慕いあえぎます。私の人生にもっともっとあなたを求めています。どうか私の心があなたを求め続けるようにしてください。そして、私の心を一つにしてください。

朝ごとに、私たちの腕となってください。(腕は力のシンボルです。)

主よ、毎朝私が目覚めるとき、私の力となってください。

試練に直面するとき、私の力となってください。難しい人と向き合うとき、私の力となってください。大変な状況に立ち向かうとき、私の力となってください。そして、今日、私とともに歩んでください。

苦難のとき、私たちの救いとなってください。

主よ、私が心配の重荷を抱えているときに助けてください。敵が迫ってくるとき、私の救い主となってください。

主よ、私は弱い者です。自分の力では敵と戦うことができません。どうか悪から私をお救いください。そして、私がその悪を乗り越えることができるように助けてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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イザヤ書 列王記第二

私たちの力と救いがどこから来るか

歴史の出来事と預言を結びつけるのは確かに少し難しいですが、この二つの箇所のタイミングは一致している可能性があります。

アッシリヤの王セナケリブとその軍隊は再びユダに侵攻し、攻撃しようとしました。理由は、ヒゼキヤ王がアッシリヤへの貢物を納めるのをやめたからです。

セナケリブはユダの城壁のある町々を攻撃し、侵略しました。そのため、ヒゼキヤは恐れ、謝罪して再びセナケリブに貢物を納めました。

けれども、その貢物を納めるために、ヒゼキヤは主の宮の金と銀を取り除かなければなりませんでした。

なぜそうなったのでしょうか。イザヤ書30-31章では、イザヤがヒゼキヤ王に対して「エジプトと同盟を結んではならない」と警告しました。

それにもかかわらず、ヒゼキヤはその警告を無視して、エジプトとの同盟を結びました。それだけでなく、ヒゼキヤとユダの民はイザヤにこう言いました。

「そのようなことを言わないでください。私たちは聞きたくありません。もし何か言いたいなら、私たちが聞きたいことだけを言ってください。例えば、エジプトが私たちを助けてくれるということなど。」(イザヤ書30:10-11)

その結果、神様は「あなたの背きのゆえに裁きが来る」と警告しました。

けれども、その後、神様はこう言われました。

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。。。

それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。

幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。(イザヤ30:15、18)

つまり、神様はこう言われました。

「もう諦めなさい。自分自身を救おうとするのを止めなさい。自分の力や知恵に頼るのではなく、悔い改めて、落ち着いて私に信頼しなさい。」

さらに、神様は彼らにこう言われました。

「あなたたちにはエジプトの助けは必要ありません。私は神です。エジプトは神ではありません。私はアッシリヤを打倒することのできる神なのです。」

けれども、以前言ったように、ヒゼキヤは神様の言葉に従いませんでした。それどころか、エジプトと同盟を結び、彼らに多額のお金を送ったのです。

そして、神様の言葉どおり、アッシリヤの手によってエジプトは倒されました。

しかし、その後、イスラエルはすでに多くの金と銀をエジプトに支払っていたため、アッシリヤへの貢物を納めるために、主の宮からその金と銀を取り除かなくてはなりませんでした。

それでもアッシリヤはユダを攻撃しました。そのとき、ついにヒゼキヤは悔い改め、神様に立ち返りました。そして、神様が約束されたとおりにエルサレムを救われたのです。

私たちはこの出来事から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちは皆、試練に直面します。そして、自分自身に頼ろうとするのは簡単なことです。

しかし、神様は私たちを助けたいと望んでおられます。神様は私たちの人生に働き、私たちを祝福したいと望んでおられるのです。ですから、神様がヒゼキヤとユダの民に語られたように、私たちにもこう言われます。

ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。

たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜わっても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。

あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。(イザヤ書30:19-21)

神様は知恵の言葉と慰めの言葉を私たちにささやいておられます。

けれども、私たちはその声に耳を傾けているでしょうか。

私たちは本当に神様に頼っているでしょうか。

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イザヤ書

一時的な安心、永遠の希望

この預言はドマ(つまりエドム)とアラビヤに対するものです。そして、その預言によって、神様はこの二つの国に将来の裁きについて警告されました。

11節でエドム人は叫びました。「今は夜の何時か。」

つまり、

「私たちは苦しんでいる。いつまでアッシリヤ人の手によって私たちは苦しむのだろうか。」

イザヤの答えは暗いです。「朝が来、また夜も来る。」(イザヤ書21:12)

つまり、アッシリヤから救い出されますが、あなたは少しだけ安心します。アッシリヤは倒れますが、あなたが彼らを倒すわけではありません。そして、アッシリヤ人を倒す人々(つまりバビロン人)によって、あなたの人生はもっと惨めになります。

それは紀元前612-605年に起こりました。

そしてイザヤはアラビヤも、この預言の一年以内に倒れると警告しました。

本当に暗いメッセージです。

とはいえ、この箇所によって私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たち皆は時々辛い時を経験します。私たち皆は時々苦しみます。

この辛い時は来たり、行ったりします。誰でも良い時も悪い時も経験します。

けれども、神様と関係のない人にとっては、結局エドム人とアラビヤ人のように希望がまったくなくなります。彼らは死ぬと、地獄に行って永遠に苦しみます。

しかし、キリストと関係があると、私たちは結局光がある事を知ることができます。パウロはこう記しました。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。。。

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。。。

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。(ローマ8:18、22-23)

パウロは私たちの苦しみは辛いけれど、それは一時的なものだと分かりました。だから、彼の人生には苦しんでもいつも希望がありました。私たちにもその希望があります。

私たちの苦しみは永遠に続きません。

だから、苦しむときには、神様に向かいましょう。神様を仰ぎましょう。

今もなお、聖霊様があなたのために祈ってくださっていることを思い起こしてください。聖霊様が私たちのために祈ってくださっているからこそ、パウロはこのように語ることができたのです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ書8:28)

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イザヤ書

神様が沈黙するとき

時々私たちはこの世の悪を見て、「神様はどこにおられるのだろうか」と思います。

「どうして神様は何もされないのだろうか。何かしておられるのだろうか。神様は悪を見て、気になさらないのだろうか。」

この箇所で、神様はそのような方のようです。「あちこちで恐れられている民」また「力の強い、踏みにじる国」を見ると、神様は言われました。

「静まって、わたしの所からながめよう。」(イザヤ書18:4)

しかし、神様はいつまでもそうされません。むしろ、ある日、

「神様」はその枝をかまで切り、そのつるを取り去り、切り除くからだ。

それらはいっしょにして、山々の猛禽や野獣のために投げ捨てられ、猛禽はその上で夏を過ごし、野獣はみな、その上で冬を過ごす。(5-6)

日本語の翻訳では、「人はその枝をかまで切り。。。」と書いてありますけど、ヘブル語では「彼はその枝をかまで切り。。。」と書いてあります。その「彼」とは神様です。

つまり、今神様が何もしておられないと思うかもしれませんが、結局神様がこの世界を裁かれます。その悪い民を裁かれ、神様とその民に反対する人々を裁かれます。

とはいえ、興味深いところもあります。神様はその敵が悔い改めるように働いておられます。

7節によると、神様とその民に反対して恐れられた人々は、神様を王として従い、贈り物をささげます。

だから、ペテロの言葉を思い出すことが大切だと思います。ペテロはこう書きました。

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。

かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。(第二ペテロ3:9-10)

神様の御心はすべての人々が滅びることではなく、むしろ救われることです。ある日、悔い改めない人々は裁かれます。

しかし、神様は彼らの悔い改めのために待っておられ、その日を伸ばしておられます。

神様の民として、私たちはどのように反応するべきでしょうか。

周りの人々の救いのために祈りましょう。彼らが私たちを憎んでも、彼らが私たちが見つけたキリストにあって命を見つけるように祈りましょう。

神様の子供としてそうするべきではないでしょうか。

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イザヤ書

救いの喜び

ある日曜日、ヨハネ3章についてのメッセージを聞きました。その日、私の牧師は16節を読みました。多分ヨハネ3:16は一番有名な聖書の箇所です。

そして、私の牧師は私たちに訊きました。「この箇所はあなたの心にまだ触れるでしょうか。それとも、その言葉を聞いても何も感じなくなったでしょうか。」

時々、私たちは救いを当然のことだと思います。つまり、救いについて考えても、特に感謝の心を持ちません。

どれぐらいあなたは救いの意味について本当に考えるでしょうか。前回はいつだったでしょうか。

この箇所を読むと、私は救いの意味を思い出します。

「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」

見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。

ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。

あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。(イザヤ書12:1-3)

子供の時に、私はいつも父の怒りを恐れていました。特に私が悪いことをした時に父の怒りを恐れました。

多くの人々は神様についてそのように考えます。神様が彼らを罰すると思うから、神様から隠れます。

しかし、この箇所によると、神様を恐れる必要はありません。神様の恵みとあわれみによって、神様の怒りは私たちから去られました。イエス様を通して私たちは罪の罰から救われました。

だから、神様を恐れて隠れる必要はありません。むしろ、神様は私たちの喜びと歌になられました。

それだけではなくて、神様は毎日私たちと共におられます。私たちがどこに行っても、何をしても、神様の手は私たちの上にあります。祝福してくださるために。導いてくださるために。また守ってくださるために。

私はそのことについてもっと考えるべきです。イエス様にあって、どのような祝福を持っているか覚えているべきです。

感謝するべきものがたくさんあります。そして、この世界は私たちを自由にさせられたメッセージを聞くべきです。

イザヤが書いたように、

主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。

主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。シオンに住む者。

大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方。(4-6)

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アモス書

あなたは準備ができているでしょうか

時々、人々はこの世を見て、犯罪や暴力、そして天災について考えるとき、神様がすぐに来て、すべてを治してくださることを望みます。けれども、彼らは本当に何のためにそう望んでいるのか理解しているでしょうか。

神様はイスラエル人にこう言われました。

すべての広場に嘆きが起こり、すべての通りで、人々は『ああ、ああ』と言い、農夫を呼んで来て泣かせ、泣き方を知っている者たちを呼んで来て、嘆かせる。すべてのぶどう畑に嘆きが起こる。(アモス書5:16ー17)

それはなぜでしょうか。

それは、わたしがあなたがたの中を通り過ぎるからだ。(17)

つまり、神様が来られると、すべてを治してくださいますが、犯罪や天災だけを止めるのではありません。神様は人々の心の中にある罪も扱われます。そして、神様はあなたの罪も扱われます。「扱う」とはどういう意味でしょうか。

神様はこう言われました。

ああ。主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。

人が獅子の前を逃げても、熊が彼に会い、家に入って手を壁につけると、蛇が彼にかみつくようなものである。

ああ、まことに、主の日はやみであって、光ではない。暗やみであって、輝きではない。(18-20)

神様は何を言われているのでしょうか。

人々は神様が来ると、地震や犯罪、暴力、その他の災いが終わると思います。それはその通りです。しかし、あなたの心の中に悪いことがあるなら、神様はあなたも裁かれます。

イスラエル人は「主の日」を待ち望んでいましたが、その真理を理解していませんでした。彼らは自分たちが正しい人々だと思っていましたが、神様の目には全く正しくありませんでした。

彼らは宗教的な祭りを祝ったり、いけにえやさまざまな捧げものを捧げたりしていたため、自分たちの神様との関係は問題ないと思っていました。

けれども、それ以外では、彼らは自分自身のために生きていました。そのため、神様にとっては、彼らの祭りやいけにえ、捧げものには何の意味もありませんでした。

彼らは、神様が来ればすべてが良くなると思っていましたが、事実は、神様が来ると彼らの状態はさらに悪化するということでした。

彼らの問題は、神様が何度もさまざまな災いを通して警告されたにもかかわらず、その警告を無視し続けたことです。したがって、神様が来るのは、イスラエルが望んだ救いのためではなく、彼らの裁きのためなのです。

そのため、神様はこう警告されました。「あなたたちはライオン(この世の災い)から逃れることはできるが、熊(自分の罪のための裁き)に会う。」(19)

つまり、神様が来られたとき、イスラエル人は準備ができていなかったのです。あなたはどうですか。神様に会うための準備はできていますか。

宗教的な行動だけでは不十分です。教会に行ったり、十一献金を捧げたり、日曜日に良い行いをしたりするだけでは足りません。

むしろ、あなたはあなたの人生全体を神様に捧げる必要があります。あなたの心を神様に捧げなくてはなりません。

最も重要なのは、あなたの救いのために自分自身の努力に頼るのではなく、イエス様とその十字架の働きに信頼することです。

そうすれば、「主の日」は喜びの日となるでしょう。しかしそうしなければ、その日は裁きの日となります。

あなたは準備ができていますか。