クリスチャンとして、私たちは救いについてよく語ります。けれども、私たちは何から救われたのでしょうか。なぜ、私たちには救いが必要なのでしょうか。
この箇所では、その答えが示されています。この箇所は、聖書の中でも特に暗い部分の一つです。それは、私たちの状況がどれほど切迫しているかを理解するからです。
パウロは、こう語り始めます。
というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。(ローマ人への手紙1:18)
「神様の怒り。」
この言葉を考えると、恐れを感じるかもしれません。私たちは皆、神様の愛について語るのが好きです。しかし、神様の怒りについて話したがる人はほとんどいません。
では、なぜ神様の怒りは人々に注がれているのでしょうか。
理由は二つあります。それは、不敬虔と不義です。「不敬虔」と「不義」とは、どういう意味でしょうか。
「不敬虔」とは、神様に背を向けることを意味します。
この箇所で、パウロは、神様がご自身をすべての人々に示されたと語っています。神様は、ご自身をユダヤ人や限られた特別な人々だけに示されたわけではありません。神様はすべての人々にご自身を示されました。
では、どのようにして神様はご自身を現されたのでしょうか。神様は被造物を通して、ご自身を示してくださいました。創造された世界のすべてが、知的な創造者がおられることを証ししています。
その真理を拒絶する人でさえ、「この世界を見ると、知的な創造者がおられるという考え方は理解できる」と認めます。(もちろん、それを認めた後、すぐに自分の議論や理論によってその真理を覆い隠してしまいますが。)
とにかく、パウロのポイントは、被造物は創造者を指し示しているということです。
被造物を通して、私たちは神様の力や神性を見ることができます。被造物を通して、神様の偉大さが分かります。また、私たちは神様のみ心を見ることができます。
神様の想像力を見ることができます。神様の美しさや善さを見ることができます。神様は被造物を通して、それらすべてを示してくださっています。
それでも、人々はどう反応するでしょうか。自分の不義によって、その真理を抑え込んでしまいます。
神様の存在を否定する人々の動機を見ると、多くの場合、彼らは神様に裁かれることを認めたくないのだと分かります。
つまり、もし神様が本当におられるなら、彼らは自分の思うままに生きることができなくなります。なぜなら、いつか彼らは自分の行いについて神様の前で申し開きをしなければならないからです。
では、人々が神様に背を向けたとき、その結果はどうなるのでしょうか。
(彼らの)思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり(ます)。(21-22)
偶像礼拝をする人々を見ると、このことがよく分かります。彼らは自分の手で偶像を造ります。つまり、彼らはその偶像の創造者です。しかし、彼らは自ら造った偶像の前で拝み始めるのです。
とはいえ、人々はさまざまな「偶像」を持っています。彼らは自分の知恵や、お金、情欲に従います。けれども、それらの偶像に目がくらみ、支配されてしまいます。
特に、彼らは何が善で何が悪か分からなくなります。また、自分が崇拝する偶像が、実は自分を滅ぼしていることに気づくことができません。
そして、最も恐ろしいのは、彼らが神様に背を向けると、神様も彼らに背を向けられるということです。神様は彼らに言われます。
「あなたは私の心に従わないのですか。では、あなたの心のままにさせましょう。」
その結果は何でしょうか。ローマ1章24〜31節を読んでください。
その結果は、単に人間の不敬虔さだけではなく、私たちの不義も露わになることです。人々は互いに傷つけ合います。
私は24〜31節にある罪のリストを詳しく説明する必要はないでしょう。この世界を見れば、人々が神様に背を向けたときに何が起こるのか、すぐに分かるはずです。
そして、ローマ1:32もまた、私たちの世界の現実を正確に描写しています。
彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。(32)
人々の心の中では、彼らは自分の罪のために罰されるに値することを理解しています。それでも、彼らはその罪を続け、さらに他の人々が同じ罪を犯すと、その人々を応援します。
アメリカのメディアを見れば、そのことがよく分かります。人々が堂々と神様の律法に背くと、メディアはそれを祝います。神様の言葉に反する法案が可決されると、メディアはそれを歓迎します。
彼らは、「聖書は時代遅れだ。私たちは聖書の著者たちよりもよく知っている」と主張します。
だから、彼らはすでに裁かれています。
それが罪の問題です。だからこそ、私たち全員が救いを必要としているのです。
あなたはどうでしょうか。この世界が救いを必要としていることを理解していますか。
しかし、もっと大切なのは、あなた自身が救いを必要としていることを理解しているかどうかです。