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サムエル記第一のデボーション

些細なこと?

後になってダビデは、サウルの上着の裾を切り取ったことについて心を痛めた。(サムエル記24:5)

サウルの上着の裾を切り取ったことで、ダビデの心がどれほど痛んだかに私は驚きました。

その代わりに、ダビデはサウルを殺すこともできたのです。それと比べると、ダビデがしたことは些細な罪ではないでしょうか。

それでも、その「些細な罪」でさえ、ダビデの心を痛めました。

それを読んで、私は自問しました。

「些細な罪のために自分の良心が痛むとき、私はダビデと同じように反応するだろうか。」

私には、些細な罪のために言い訳をするのは容易なことです。

しかし、神様の心にかなう人とは、大きなことだけではなく、小さなことにおいても神様を喜ばせることを意味します。

私の人生の隅々まですべてを神様の支配下に置き、神様に捧げていないものは何一つあってはなりません。

それが、私の祈りです。

主よ、私の人生にあなたの御国が来ますように。御心が天で行われるように、私の人生の隅々までにも行われますように。

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ヨシュア記のデボーション

神のことばを一言も省かずに

主がそのしもべモーセに命じられたとおりに、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりに行った。主がモーセに命じられたすべてのことばを、彼は一言も省かなかった。(ヨシュア記11:15)

ヨシュア記には、いくつかの有名な箇所があります。 第1章5〜9節と第24章15節は、特に有名です。

けれども、私はこの箇所も気に入ります。「主がモーセに命じられたすべてのことばを、彼は一言も省かなかった。」

私も、そのような人になりたいのです。 特に、罪に向き合うときにこそ、そうありたいと願います。

私は、言い訳をしたくありません。 自分の罪を軽く見たくもありません。 むしろ、ヨシュアとイスラエルの民がカナン人とその悪を根絶やしにしたように、 私も自分の罪を根絶やしにしたいのです。(レビ記18章、特に24〜25節)

天のお父さん、どうか私の罪を根絶やしにするよう助けてください。 あなたが命じられたすべてのことばを、私は一言も省かない者となることができますように。

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ヨシュア記のデボーション

裁きの日

ヨシュアはその全地、すなわち、山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地、そのすべての王たちを討ち、一人も残さなかった。息のある者はみな聖絶した。イスラエルの神、主が命じられたとおりであった。(ヨシュア10:40)

正直に言えば、上の言葉には腑に落ちない思いを覚えるかもしれません。なぜ神様はそのような命令を出されたのでしょうか。

一言で言えば、それは「さばき」です。

人が聖絶されるとは、その人が神のさばきの下にあり、滅びるべきものとして神の前に定められたことを意味します。

したがって、イスラエルの民がアモリ人の命を奪ったのは、自分たちの都合によるものではなく、神様ご自身のさばきを執行したということなのです。

アモリ人たちは、何のためにさばかれたのでしょうか。

それは、自分たちの罪のゆえです。

レビ記18章で、神様はその罪を具体的に示され、「その地は、そこに住む者を吐き出す」と語られました(レビ記18:24〜25)。

とはいえ、神様は忍耐深く、アモリ人の悔い改めを約400年の間、待っておられました(創世記15:13〜16)。

それでも、彼らは決して悔い改めようとはしませんでした。

そして、その罪が満ちたとき、さばきが下されました。神様は、アモリ人たちをことごとく討つように、ヨシュアとイスラエルの民に命じられました。

前回の記事では、私は述べました。聖書のことばの全体が、神の愛とあわれみについての心強いメッセージだけではないということです。さばきについての厳しいことばもあるのです。

もちろん、神様は忍耐深いお方です。神様はだれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(第二ペテロ3:9)。

しかし、アモリ人たちのように、人々が悔い改めようとしないなら、最終的にさばきは訪れます。

だからこそ、私たちは自分の罪を決して軽く見ないようにしましょう。

さばきの日が来ることを心に留めておきましょう。

そして、ペテロのことばをしっかりと心に刻みましょう。

しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。

このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。

そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。(第二ぺテロ3:10ー12)

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民数記のデボーション

罪に対して警戒する

正直に言うと、民数記に書かれていることは、たまに読みづらいです。特に、神様の裁きの話は、かなり厳しいです。

でも、パウロによれば、神様がその話を書かれたのには理由があります。パウロはこう言いました。

これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。

あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。

また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。

また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、キリストを試みることのないようにしましょう。彼らは蛇によって滅んでいきました。

また、彼らのうちのある人たちがしたように、不平を言ってはいけません。彼らは滅ぼす者によって滅ぼされました。

これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。 (第一コリント10:6ー11)

その最初の話は、出エジプト記32章からです。

その他の話は、私たちが最近読んでいる民数記の箇所からです。

どうして神様は、その話を記録されたのでしょうか。

それは、私たちの戒めのためです。

私たちは、その話から何を学ぶことができるでしょうか。

1.神様は、罪を真剣に受け止めておられます。神様は、特に故意の反抗的な罪を真剣に受け止めておられます。

民数記15~17章でも、民数記25:6でも、私たちはそれを見ました。

今日の箇所では、イスラエル人が自分の罪と神様の裁きのために泣いている間、あるイスラエル人は厚かましくミディアン人の女を自分のテントに連れていきました。たぶん、それは性的な儀式のためだったでしょう。

2.罪、特に悔い改めずに犯した故意の反抗的な罪の報酬は死です。

だから、私たちは罪を軽く見てはいけません。

むしろ、私たちは罪から逃げなければなりません。

パウロは、私たちに警告します。

ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(第一コリント10:12)

私たちは、いつも罪に対して警戒しなければなりません。

でも、良い知らせは、神様が私たちとともにおられ、私たちが堅く立ち、罪に打ち勝つのを助けてくださるということです。

パウロは、こう言いました。

あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。

神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。

むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(第一コリント10:13)

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テサロニケ人への手紙第二のデボーション

模範になるなんて、私が?

どのように私たちを見習うべきか、あなたがた自身が知っているのです。。。

あなたがたが私たちを見習うように、身をもって模範を示す。。。(テサロニケ人への手紙第二3:7、9)

今朝、私はその言葉に心を打たれました。

パウロの言葉はとても大胆です。「どのように私たちを見習うべきか、あなたがた自身が知っているのです。」

正直に言うと、私はそんな大胆さを持っていません。

なぜなら、私は自分の欠点をよく知っているからです。まだ成長しなければならない部分が、私にははっきりと見えています。

いったいどうして、人々が私の真似をしたがるのでしょうか。

それでも、神様は私たち皆に弟子を作るよう命じておられます。牧師や教会のリーダーだけでなく、すべての信者に対して、周囲の人々が見習うべき模範を示すよう求めておられるのです。

模範となるとは、周囲の人々が私たちの長所を見て見習うだけでなく、私たちが自分の欠点や罪を克服しようとしている姿を見るということです。

さらに、彼らが見るべきなのは、私たちが罪や欠点のために罪悪感にさいなまれている姿ではなく、むしろ、毎日毎日、一瞬一瞬、神様の恵みによって歩み、神の子供であるという確信を持って生きている姿なのです。

天のお父さん、私は、人々が見習いたいと思うような人間になりたいです。いろんな意味で、私はふさわしくないと感じています。

でも、人々が私を見るとき、彼らが真似したいと思うような私の長所を見るだけでなく、私が自分の欠点や罪を克服しようとしている姿を通して、私が毎日歩んでいるあなたの恵みを見ることができますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

神様が真実ですから、そのようにしてくださいます。

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。

あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(テサロニケ人への手紙5:23ー24)

「あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。」

この言葉は、私の心に深く響きました。

それを読んだとき、私はローマ人への手紙8章29~30節にあるパウロの言葉を思い出しました。

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。

私たちは、その言葉を本当に信じているでしょうか。

私たちが生まれる前から、神様はその働きを始めておられました。イエス様のようになるために、私たちの霊、魂、身体のすべてが責められるところのないものとなるよう、神様は私たちを選んでくださいました。

そして、神様が始められたことを完成させてくださいます。なぜなら、神様は真実なお方だからです。

鏡に映った自分を見るとき、気に入っているでしょうか。

それとも、自分の失敗や罪の汚れを見て、顔をしかめるでしょうか。

でも、私たちのアバは、私たちを見るとき、顔をしかめることはありません。

私たちのアバは、あなたを最初から知っておられ、選んでくださいました。あなたを召してくださいました。あなたを義と認めてくださいました。あなたの罪の記録を完全に消し去ってくださいました。

そして、あなたがそれを見えるか見えないかにかかわらず、神様はあなたを完全に聖なるものとしてくださる過程におられます。

なぜなら、神様のみこころは、あなたがたが聖なる者となり、イエス様のようになることだからです。(第一テサロニケ4:3)

そして、その過程が完成されるまで、神様はあなたに栄光を与え、あなたがイエス様のようになるまで、働き続けてくださいます。

だから、義の胸当てを着けましょう。自分自身の義ではなく、イエス様を信じる信仰による神様の義を着けましょう。また、あなたに対する神様の愛の確信が、あなたの心を守るようにしましょう。(エペソ6:14;第一テサロニケ5:8)

そして、あなたの救いの希望—いつかあなたがイエス様のようになるという希望—が確かなものであることを覚えていましょう。その希望を、毎日かぶりましょう。

神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。(第一テサロニケ5:9)

また、

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(テサロニケ人への手紙5:24)」

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マタイの福音書のデボーション

これはわたしの血

また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。

「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。(マタイの福音書26:27~28)

イエス様の復活の後、聖餐式を受けるたびに、ペテロはイエス様の言葉の意味をどれほど深く感じたでしょうか。

彼は、イエス様を決して見捨てず、イエス様に忠実であることを誓いました。

でも、そのあと、イエス様がペテロに「わたしと一緒に目を覚まして、祈りなさい」と頼まれたのに、ペテロは寝てしまいました。

イエス様がペテロを起こされたとき、たぶんペテロは自分を責めて、ちゃんと目を覚まし、祈ろうと誓ったでしょう。

でも、ペテロは一回だけではなく、もう二回寝てしまいました。

そして、ユダがイエス様を裏切るために来たとき、ペテロは大祭司のしもべを襲いましたが、イエス様はペテロを誉めるのではなく、叱責されました。

さらにその後、ペテロは「イエスを知らない」と三度言いました。たぶん、鶏が鳴くまで、ペテロは自分が何をしているのか全然気づかなかったでしょう。でも、気づいた瞬間、彼は激しく泣きました。

聖餐式を受けるたびに、イエス様の言葉はペテロにとって、どれほどの意味があったのでしょうか。自分の罪と失敗を思い出すたびに、イエス様の言葉はペテロにとって、どれほどの意味があったでしょうか。

「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。ペテロ。これはあなたのために、あなたの罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」

私は、イエス様を裏切ったことが数え切れないほどあります。

私の誓いを破ったことがあります。良かれと思ってしたことが、悪い結果になってしまったことがあります。

私の言葉でイエス様を否定しなかったかもしれませんが、私の行動でイエス様を否定してしまったことがあります。

でも、イエス様は私に言われます。

「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。ブルース。これはあなたのために、あなたの罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」

だから、聖餐式を受けるときは、その言葉を心に留めましょう。罪や失敗を思い出して、罪悪感に沈みそうになるときも、その言葉を思い起こしましょう。そして、神様の恵みに安心しましょう。

これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。これはあなたのために、あなたの罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。

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マタイの福音書のデボーション

私たちが汚れているとき

すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。

イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。(マタイの福音書8:2ー3)

ツァラアトは、とてもひどい病気でした。ツァラアトにかかった人たちは、のけ者とされ、神の神殿に入ることも許されませんでした。(レビ記13:45〜46;民数記5:2〜3)

その意味では、ツァラアトは罪を描写するものです。罪によって、私たちは霊的に汚れ、神様との関係、また周囲の人々との関係が壊れてしまいます。

しかし、今日の箇所では、ツァラアトに冒された人がイエス様のみもとに来て、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言いました。

すると、イエス様は恵みとあわれみをもって、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われました。

私たちは、罪を犯したとき、神様が赦してくださるのか、受け入れてくださるのかと疑ってしまうことがあります。

だから、私たちはおどおどしながら神様のみもとに来て、「お心一つで私をきよくすることがおできになります」と祈ります。

イエス様は、ツァラアトに冒された人に答えてくださったように、私たちにも答えてくださいます。

「わたしの心だ。きよくなれ。」

ですから、神の子どもたちよ、神の御座に大胆に近づきましょう。なぜなら、私たちはあわれみを受け、恵みをいただくという確信をもっているからです。(ヘブル4:16)

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

イエスの焼き印を帯びる

肉において外見を良くしたい者たちが、ただ、キリストの十字架のゆえに自分たちが迫害されないようにと、あなたがたに割礼を強いています。

割礼を受けている者たちは、自分自身では律法を守っていないのに、あなたがたの肉を誇るために、あなたがたに割礼を受けさせたいのです。

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。。。

これからは、だれも私を煩わせないようにしてください。私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから。」( ガラテヤ人への手紙6:12~14、17)

今日、「私は、この身にイエスの焼き印を帯びている」という言葉を噛み締めていました。

パウロの時代、焼き印は、奴隷が誰のものかを示す印でした。

ユダヤ人たちにとって、割礼は彼らが神様のものであることを示す印でした。

パウロはユダヤ人だったから割礼を受けていましたが、パウロにとって、自分が神様のものである印は割礼ではありませんでした。

むしろ、彼は、福音を忠実に述べ伝えるために受けた傷跡を指しました。

パウロは、神の律法を守ること、特に割礼を受けることによる救いではなく、イエスの十字架による救いを述べ伝えました。

そういうわけで、ユダヤ人たちはパウロを何度も迫害しました。福音を述べ伝えるため、パウロは他の苦難も経験しました。(第二コリント11:24〜29)

だから、ガラテヤ人たちに偽りの福音を伝えた人たちに、パウロは言いました。

「もう私を煩わせないでください。ガラテヤ人たちの間で私の仕事を邪魔しないでください。あなたたちは真のキリストのしもべたちではありません。

あなたたちがガラテヤ人たちに割礼を受けさせたい理由は、単に迫害を避けるためです。でも、割礼ではなく、私の傷跡は、私がキリストのものであることを示しています。」

しかし、もしかしたら、パウロはガラテヤ人のクリスチャンたちに、もう一つのことを言いたかったのかもしれません。

「あなたたちが神様のものであることを示すのは、割礼ではありません。あなたたちは、すでに十字架でキリストが受けられた傷跡を、霊的に受けているのです。

あなたたちは、キリストとともに十字架につけられました。あなたたちは律法に対して死に、その律法によって罪に定められることはありません。

さらに、あなたたちを奴隷にしていた罪に対しても死に、もはやこの世のもののために生きることはありません。むしろ、あなたたちを愛し、あなたたちのためにご自身を与えてくださったイエス様のために生きているのです。

そのような人こそ、神の子供です。」

ですから、神の子供たちとして、誇りを持って、十字架につけられた私たちの主の傷跡を持ちましょう。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。(ガラテヤ人への手紙2:19〜20)

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創世記のデボーション

壊れた人生に神の癒しを受けるため

そのころのことであった。ユダは兄弟たちから離れて下って行き、名をヒラというアドラム人の近くで天幕を張った。(38:1)

私は、上のことばを何度も読んだことがありますが、今日は初めて自問自答しました。「なぜ?」

なぜ、ユダは自分の責任を捨て、家族から離れたのでしょうか。

彼の兄たち、ルベン、シメオン、レビが父ヤコブの不興を買ったので、もしかしたら、ヤコブはユダを一族の長に任命しようと思っていたかもしれません。(創世記49:3〜7)

でも、ユダは立ち去りました。なぜでしょうか。

私はわかりませんが、もしかしたら、彼は罪悪感を深く感じていたのかもしれません。つまり、ヨセフを裏切ったあと、毎日ヤコブの苦しみを見て、もう耐えられなかったのかもしれません。(創世記37:26〜28、34〜35)

だから、彼は立ち去ったのです。

新しい人生を始めようと思ったのかもしれません。

でも、ユダは自分自身から逃げることはできませんでした。自分の罪深い心から逃げることはできませんでした。

たぶん、38章の出来事のあと、自分自身と向き合ったとき、ユダは自分の中にあるものを見て、それを嫌ったのでしょう。

もちろん、ヨセフはユダよりも正しい人でした。でも、神様を知らないカナン人の女性タマルでさえ、ユダよりも正しい人でした。

たぶん、彼はそのことを考えて、こう言ったでしょう。「もうだめだ。私はこのような生活を送ってはならない。もう逃げてはならない。」

彼の最初の一歩は、責任をとって、タマルとその二人の息子たちの世話をすることでした。

そして、彼は以前とは違う人として、ヤコブと兄弟たちのところに戻りました。

創世記44〜45章を読めば、ユダがどれほど変わったかがわかります。

ユダは、一朝一夕で変わったわけではありません。でも、彼は最初の一歩を踏み出しました。そして、彼は日々、神様の導きに従って、一歩一歩進みました。

そうすることで、彼の壊れた人生は癒されました。

ヨセフは、彼を許しました。(創世記45章)

ヤコブは、彼を許しました。(創世記49:8〜12)

もちろん、神様は、彼を赦してくださいました。

鏡を見るとき、自分が見ているものが好きでしょうか。

人生の変化、また癒しは、一歩から始まります。

次のステップに関して、神様はあなたに何を語っておられるのでしょうか。

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ヨハネの手紙第一のデボーション

光の中を歩む

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(ヨハネの手紙第一1:7)

今朝、上のことばを読んだとき、「光の中を歩む」とは、どういう意味だろうかと思いました。

今まで私が考えていたのは、「罪を犯す瞬間、私たちは光から離れ、闇に入り、悔い改めるまでその闇にとどまる」ということです。

私たちが救いを失うとは思わなかったけれど、ある意味、私たちが闇に入ってしまうと思いました。

でも、ヨハネのことばを反芻してみると、その考え方が間違っていると思いました。

ヨハネは、光の中を歩む人が決して罪を犯すことはないとは言いません。

むしろ、ヨハネは、私たちが光の中を歩んでいるなら、私たちが罪を犯すとき、イエス様の血がその罪から私たちをきよめてくださると言います。

だから、光の中を歩むとは、私たちの人生の良い面も悪い面もすべてをイエス様にさらけ出すことです。

そして、イエス様の光が私たちの心の中の罪を現すと、私たちはすぐに悔い改めます。

私たちはその罪を隠そうとしません。私たちは言い訳をしません。私たちは悔い改めます。そうすれば、神様は真実で正しい方ですから、その罪を赦してくださいます。

それが、光の中を歩むことです。

その反面、神の光から隠れると、私たちは神との関係を持つことができません。アダムとエバと同じように、私たちが自分の罪と咎を隠そうとしたり、自分の罪のために言い訳をしたり、自分の罪を正当化しようとするなら、神様との関係を持つことができません。

それが、闇の中を歩むことです。

だから、私たちが光の中を歩んでいるかどうかを考えるとき、自問自答しなければならないのは、どれだけ誘惑に負けるかということではありません。

自問自答しなければならないのは、「私のすべてをイエス様にさらけ出しているだろうか。私は隠そうとしているところがまだあるだろうか」ということです。

天のお父さん、私は光の中に踏み入れ、その光の中を歩むことを選びます。私の恥ずべき罪も隠しません。

あなたの光を私に照らしてください。私が変わらなければならないところを教えてください。

私は、単にあなたの光の中に立ち、あなたの恵みを受けたいのではありません。私は、光の中で歩みたいのです。

だから、私の次のステップを教えてください。そして、一歩一歩前進し続けることで、私がよりあなたのようになれますように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ペテロの手紙第二のデボーション

罪とは?吐いたものと泥!

「犬は自分が吐いた物に戻る」、「豚は身を洗って、また泥の中を転がる」という、ことわざどおりのことが、彼らに起こっているのです。(ペテロの手紙第二2:22-23)

天のお父さん、私が罪がどのようなものであるか理解できるように。つまり、罪とは、吐いたものと泥のようなものです。

でも、罪を吐いたものと泥と見なさないで、私はどれだけ罪に陥ってしまうでしょうか。

私は、自分の吐いたものを食べに戻りたくないです。私は、泥の中を転がりたくないです。

あなたの御前に、私は清いものとなりたいです。だから、肉の流れが私を吐いたものと泥に引っ張るとき、私がその流れに逆らい、あなたに従うように助けてください。

イエス様、あなたの義と聖さを私に着せてください。あなたにある自由と喜びを知りたいのです。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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マルコの福音書のデボーション

私たちの罪と恥を取り去る方

イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。(マルコの福音書2:5)

人々はその中風の人に、何度こう言ったでしょうか。「神様はあなたを罰しているのではないか。あなたの苦しみは、あなた自身のせいだ。」

その時代、多くの人々がそのように考えていました。(ヨハネ9:1ー2;ルカ13:1ー4)

何年もの間、彼は罪と恥の重荷を負っていたのではないでしょうか。自分の不自由な体を見るたびに、彼は何度、自分の罪を思い出し、自分を責めたことでしょう。

彼の健康問題が本当に罪と結びついていたかどうかは分かりません。でも、彼の罪と、その罪から生まれた恥は、確かに彼の現実でした。

そんなある日、彼はイエス様のことを耳にしました。イエス様の教えを聞きました。そして、彼とその友人たちの心に、信仰が芽生えました。

おそらく、中風の人は、イエス様が自分を癒すことができると信じただけではなかったでしょう。彼は、イエス様の語られるすべてのメッセージを信じたのだと思います。

時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)

イエス様はその信仰をご覧になったとき、中風の人にこう言われました。「子よ、あなたの罪は赦された。」

その瞬間、彼の罪と恥は取り去られました。

あなたはどうでしょうか。今、自分の罪と恥の重荷を背負っているでしょうか。

イエス様は、私たちの罪と恥を取り去ってくださる方です。

悔い改めと信仰をもってイエス様のもとに行くなら、イエス様は私たちにもこう言われます。「子よ、あなたの罪は赦された。」

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マタイの福音書のデボーション

罪の重荷に苦しむ人を支える

また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。(マタイの福音書23:4)

私たちは、パリサイ人たちや律法学者たちのように、神様の律法に余計なルールを付け加えることはないかもしれませんが、自分の罪によって苦しんでいる人たちを責めるのは、案外簡単なことです。

しかし、神様は、私たちが単に人を責めたり、逆にその人の罪を軽視したり、無視したりするのではなく、むしろ力となって、その人が罪を乗り越えることを助けるように望んでおられます。

そうする中で、私たちが神様から恵みと憐れみを受けたように、私たちも彼らに恵みと憐れみを与えるべきです。

だから、私たちの主の心を持ち、その言葉を心に留めておきましょう。

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28-30)

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マタイの福音書のデボーション

自分の罪に気づく

先日、マタイ6:22ー23を読んだとき、「私の目は健やかなのだろうか?」と考えました。

健やかな目を持っていれば、私は自分の罪や欠点を見ることができるはずです。しかし、自分の罪や欠点を見逃し、周囲の人々のそればかりを見るのは、いかに簡単なことでしょうか。

英語のことわざに、「最も悪い種類の欺瞞は自己欺瞞である」というものがあります。イエス様の言葉を借りれば、もし人が自己欺瞞に陥っているとしたら、その闇はどれほど深いものでしょうか。(マタイ6:23)

(主よ。)だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを 傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。 主よ、わが岩 わが贖い主よ。(詩篇19:12ー14)

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マタイの福音書のデボーション

クリスマスのメッセージ

マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイの福音書1:21)

「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

その言葉を聞いて、ヨセフはとても驚いたでしょう。

「私の息子が自分の民をその罪から救う?どういうことだろう?私の息子がどうやって人々をその罪から救うことができるのだろうか。」

その時、ヨセフは十字架をまったく想像できなかったでしょう。

もし御使いが、「この方はローマ人たちからお救いになる」と言っていたら、ヨセフはたぶんすぐに理解できたでしょう。なぜなら、神様は似た言葉をサムソンの両親に語られたからです(士師記13:5)。

しかし、「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」とは?

現代でも、その言葉を聞いて、ヨセフと同じように戸惑う人は多いでしょう。

もし彼らが自分に救いが必要だと思えば、政府の圧制からの救いを考えるでしょう。または、経済的な問題、健康の問題、家庭の問題などを考えるでしょう。

それらの問題が取り去られれば、喜びと平和を得られると考えるでしょう。

だから、もし彼らが祈ろうと思っても、それらの問題のために祈るでしょう。

けれども、彼らが気づいていないのは、自分の最大の問題が自分の罪であるということです。つまり、自分の罪からの救いを必要としていることに気づいていないのです。

多くの人々は自分の罪を軽んじています。また、自分の行為を罪として認めていません。

その一方で、ある人たちは自分の罪によって罪悪感と後悔を抱いていますが、どうしたらよいかわかりません。

それでも、どちらの場合でも、メッセージは同じです。

「イエス様がご自分の民をその罪からお救いになるために来られました。」

ですから、クリスマスのことを考え、私たちの愛する人々にクリスマスの意味をどのように説明すべきかを考えるとき、そのメッセージの中心を心に留めておきましょう。

イエス様がご自分の民をその罪からお救いになるために来られました。

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コリント人への手紙第一のデボーション

誤った問いかけ

コリントの教会はいろいろな問題を抱えていました。ある人は自分の兄弟を欺いていました。また、性的な罪を犯している人もいました。

なぜでしょうか。おそらく主な理由は、その教会でこの言葉が流行していたからです。

すべてのことが私には許されている。(コリント人への手紙第一6:12)

その言葉は、人々がパウロの教えを曲げたことから来たようです。それは、「あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです」(ローマ6:14-15)という言葉です。

現代でも、多くの人が同じようにパウロの教えを曲げています。彼らは神の恵みを放縦に変えてしまいます(ユダ1:4)。

しかし、パウロははっきりと言います。悔い改めず、あえて罪を犯す自称クリスチャンは、神の国に入ることができません(9-10)。

一方で、他の人々はいつもこう考えます。「罪を犯さずに、どれだけ罪に近づくことができるだろうか。」

たとえば、交際中の男女は、「キスなどのルールはどうだろうか」とよく尋ねます。

けれども、それは誤った問いです。

パウロが言ったように、あることは「許されている」かもしれませんが、それが益になるとは限りません(12)。

そして注意しなければ、その許されていることが罪に至る可能性もあります。

では、正しい問いとは何でしょうか。

それは、「私は誰のものでしょうか。どのようにして、その方を喜ばせることができるでしょうか」ということです。

クリスチャンにとって、その答えは明快です。

あなたがたは、もはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい(19-20)。

あなたは誰のものでしょうか。あなたは自分の行動によって主を喜ばせているでしょうか。

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創世記のデボーション

呪いが解かれる日

今日の箇所を読んだとき、罪の呪いを思い起こしました。

罪悪感。恥。苦しみ。死。

でも、最も恐ろしいのは、神様の御前から投げ捨てられることです。

それでも、神様の御言葉によって、アダムとエバはなお希望を持っていました。

神様はサタンにこう言われました。

わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。

彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。(創世記3:15)

神様はその約束を守ってくださいました。

十字架で、イエス様は死なれましたが、それと同時に、サタンに致命的な打撃を与えられました。

さらに、三日目にイエス様は蘇られました。

そういうわけで、私たちは呪いが取り除かれる日を心待ちにしています。

ヨハネは幻の中でその日を見て、こう言いました。

また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。

「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。

神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」(黙示録21:1-5)

アーメン。主イエスよ。来てください。(黙示録22:20)

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使徒の働きのデボーション

神がきよめたもの

神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。(使徒の働き10:15)

今日の箇所では、イエス様は異邦人に対するペテロの考え方を変えようとされています。

それまで、異邦人がユダヤ教に改宗しない限り、ユダヤ人は彼らを汚れた者として見なしていました。けれども、イエス様はペテロにこう語られました。

「私がきよめた人々(異邦人さえも)を、汚れていると言ってはならない。」

これは、すべてのクリスチャンに向けられたメッセージです。もちろん、私たちは他のクリスチャンを汚れた者として見なしてはいけません。けれども、それと同じように、私たちは自分自身をも汚れた者として見なしてはいけません。

それでも、私たちは自分の罪のゆえに、自分が汚れていて、神様の愛に値しないと感じることがしばしばあります。

しかし、私たちがイエス様を信じるなら、イエス様はすでに私たちをきよめてくださいました。神様はすでに私たちを受け入れてくださっています。(ヨハネ15:3)

だからこそ、自分の失敗を目にするとき、自分を責めるのではなく、真理を心に留めておきましょう。

私たちはすでにイエス様の血によってきよめられています。そして、自分の罪を告白するなら、神様は喜んでその罪を赦し、すべての不義から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

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ルカの福音書のデボーション

自分を正しいと思い込もうとしていないか

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。

人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。(ルカの福音書16:15)

主よ、私が悪いことをするとき、言い訳するのは簡単です。

私は周りの人々に、自分が正しいことをしていたと思わせるかもしれないし、自分自身にもそう思わせるかもしれません。でも、あなたは私の心をご存じです。

時々、私は言い訳しながら、あなたが忌み嫌われることをしてしまいます。ごめんなさい。

あなたの恵みに感謝します。

どうか、毎日、私を探り、私の心を知ってください。そして、私があなたを喜ばせる人生を送るように助けてください。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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詩篇のデボーション

悪を憎み、喜びを選ぶ

今朝、二つの聖句が私の目に留まりました。その言葉のゆえに、私は自分の心を探りました。

主を愛する者たちよ。悪を憎め。(詩篇97:10)

主を愛する人が悪を愛することはあり得ないことです。でも、私はどれだけ悪を憎むでしょうか。

特に、私は自分の罪をどれだけ憎むでしょうか。私には抱いている罪があるでしょうか。もしかしたら、その罪を抱いていないかもしれませんが、私はいつもその罪のために言い訳をしているでしょうか。

主よ、私が自分の罪を憎むように。

正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。(12節)

私はいろんなことについてぼやくことができます。でも、私たちは主にあって喜ぶために召されています。私たちは主に感謝するべきです。

もし私が毎日、喜ぶことと感謝することを選び続けたなら、私の態度はどれほど変わるでしょうか。

だからこそ、私は自分の救いを喜ぶべきです。神様の愛に感謝すべきです。神様の慈しみを喜ぶべきです。そして、神様が与えてくださった祝福に感謝すべきです。

主よ、毎日、あなたにあって喜ぶ心を与えてください。感謝の心を与えてください。

今日、あなたを喜び、感謝の心を保つことを選びます。

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ヨハネの黙示録

天国に入れないもの

前回の記事で、私は天国の栄光や神様の民の栄光について話しました。また、天国にある素晴らしいものを見ました。

でも、天国に入ることができないものもあります。それは、罪です。

罪をあえて犯す人や神様に反抗する人は、神様の民に属さず、その遺産を受けることもできません。旧約聖書の時代にも(レビ記18章)、その通りだったし、新約聖書の時代にもそうでした。

でも、どうしてでしょうか。神様は寛容な方ではないでしょうか?

けれども、天国とは死も悲しみも叫び声も苦しみもない場所です(21:4)。

もし神様が罪のある者の天国入りを許すなら、死も悲しみも叫び声も苦しみも天国に入ってしまいます。この世を見れば、それがよく分かるでしょう。

あなたは、それらを望みますか?私は望みません。

だから、神様はこう言われます。

しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。(黙示録21:8)

また、

しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。(21:27)

また、

犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、外にとどめられる。(22:15)

ちょっと注目してください。

殺害者だけが天国に入ることができないわけではありません。

嘘をつく人も入ることができません。

偶像礼拝をする人も入ることができません。この世のものを神様よりも大事にする人は、入ることができません。

性的な罪を犯す人も入ることができません。性的な罪とは、異性愛の結婚関係の中でのセックス以外の、すべての性的なふるまいのことです。

さらに、忌まわしいことや偽りを行う者も入ることができません。

しかし、最も重い罪は神様を信じないことです。イエス様とその十字架の働きを信じようとせず、頑なに自分の道を進む人です。

そのような人は、天国に入ることができません。

あなたは、上記の罪を犯したことがありますか?もしそうならば、あなたも天国に入ることはできないはずです。

けれども、あなたの名前が子羊のいのちの書に記されているなら、入ることができます。つまり、自分の罪を悔い改め、心を神様にささげるなら、天国に入ることができるのです。

私が以前に述べたとおり、あなたの永遠の運命は2冊の書物に記されている内容によって決まります。

1冊目は、子羊のいのちの書です。イエス様の十字架の働きを信じる者の名前がそこに記されています。

2冊目の書物には、私たちのすべての行為が記されています。良い行為だけでなく、悪い行為も書かれています。

覚えておいてください。私たちは、良い行為のせいで天国に入れないわけではありません。むしろ、悪い行為のゆえに天国に入ることができないのです。そして、あの書物に悪い行為が1つでも記されているなら、天国に入ることはできません。

残念ながら、悪い行為をひとつも犯していない人は誰もいません。

だから、自分の実績によって天国に入ろうとするなら、入ることはできません。あなたの名前が子羊のいのちの書に記されていてこそ、天国に入ることができるのです。

そのためには、自分の心をキリストにささげ、イエス様を自分の王、そして救い主として受け入れなくてはなりません。

使徒パウロはこう言いました。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)

あなたはどうされますか。今日、キリストを受け入れませんか。

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ヨハネの黙示録

人はなぜ悪を行うのか

どうして人々は悪を行うのでしょうか。それは悪魔のせいなのでしょうか。

あるいは、彼らは環境の影響を受けてしまったのでしょうか。周囲の不正や悪によって、悪に染まってしまったのでしょうか。困難な状況の中で、罪に巻き込まれてしまったのでしょうか。

それとも、別の原因があるのでしょうか。

今日の箇所を通して、私たちはその答えを見出せるかもしれません。

イエス様がこの世に来られる時、反キリストとその偽預言者、そして彼らの軍勢を打ち倒されます。その後、イエス様は約千年の間この世を治められます。

実際に文字通り千年かどうかは分かりませんが、ともかく、イエス様は長い間治められるのです。

そしてその時、復活したクリスチャンたちはイエス様と共にこの世を治めることになります。(黙示録20:4)

彼らは誰を治めるのでしょうか。おそらく、神の憤りを生き延びたこの世の人々を治めることになるでしょう。

復活した聖徒たちはもはや死ぬことはありません(6節)。しかし、神の憤りを生き延びた者たちは、依然として死すべき存在です。

その千年の間、この世の環境は天国に近づきますが、まだ完全なものではありません。その時代には、正義が全うされ、大いなる平和が地上にもたらされます。

ノアの洪水以前の時代のように、人々の寿命は長くなります。それでも人は死にます。なぜでしょうか。それは、この世に依然として罪が残っているからです(イザヤ11:1-9;65:17-25)。

このような背景のもと、イザヤはイエス様による裁きを描写します。

今の時代とは異なり、イエス様は完全なる正義を実行されます。人々は事実を歪めることができず、律法の抜け道も存在しません。有罪者は必ず裁かれます(イザヤ11:1-5)。

では、少し考えてみてください。もしこの世の状況がほとんど完全で、正義も完全に行われ、さらにサタンがその1000年間縛られていて、人々を誘惑することができないとしたら、なぜ人々はそれでも罪を犯し、死ぬのでしょうか。

その理由は、人々の罪が心に深く染みついているからです。人は罪を犯すことで罪人になるのではありません。むしろ、もともと罪人であるがゆえに罪を犯すのです。

現在の世界では、サタンは人を誘惑でき、また背景や環境からの影響もありますが、結局のところ人は本質的に罪人であるため、罪に走ります。

ダビデはこの真理を認めました(詩編51:5)。

パウロも同じくそれを認めています(エペソ2:1-3)。

この1000年間の時代には、その真理が明らかにされ、私たちの救い主の必要性も証明されます。

たとえ完全な世界に住んでいても、神の救いに値するほど良い人生を送る者は一人もいません。その時代、多くの人々がそれを悟り、イエス様を自らの救い主として信じるようになるでしょう。

けれども、他の人々はイエス様を拒みます。そして、サタンが再びこの世に現れることを許されると、多くの人々が彼に味方し、神に対して戦いを挑みます。

しかし、反キリストとその偽預言者のように、彼らは容易く滅ぼされるのです。また、反キリストとその偽預言者と同様に、サタンも火と硫黄の池に投げ込まれます(黙示録20:7〜10)。

だから、私たちは正直であるべきです。神様がサタンを縛らないことが原因で、私たちが罪を犯すわけではありません。背景や環境のせいでもありません。私たちは、もともと罪人であるがゆえに、罪を犯すのです。

だからこそ、私たちには救い主が必要です。

もしあなたがまだクリスチャンでないなら、今日、イエス様をあなたの救い主、そして主として受け入れてみませんか。

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ヨハネの黙示録

教会で悪に目をつぶるとき

寛容。

かつてアメリカでは、その言葉には良い意味がありました。

本来の意味はこうです。たとえ誰かの意見に同意できなくても、その人をなお愛し、丁寧に語り合うことができる。それが「寛容」でした。

日本ではどうか分かりませんが、アメリカではこの言葉の意味が大きく変わってしまいました。

今では、「寛容」とは、絶対的な真理が存在しないという前提のもと、誰かの考えが間違っているとしても、それを指摘してはならないという意味になっているのです。

特に、「罪」という言葉は、時代遅れのものと見なされ、他者の罪を指摘することは「不寛容」だと受け止められがちです。

その結果、多くの教会が深刻な課題を抱えるようになりました。罪が教会に入り込んだとき、信者たちはそれを見て見ぬふりをするようになり、罪を容認する空気さえ生まれるのです。

誤解しないでください。もちろん、クリスチャンはノン・クリスチャンを歓迎すべきであり、彼らが救われるように努める必要があります。

けれども、多くの教会では、人の罪を見ても「それは罪ではない」と言い張ることがあります。

このような問題を、ペルガモンやティアティラの教会も抱えていました。

もちろん、これらの教会には良い点もありました。迫害を受けても、彼らはイエス様に忠実であり続けたのです。ティアティラのアンティパスが殺された時でさえ、教会の人々は主に従いました。(黙示録2:13)

また、ティアティラの教会はエペソの教会とは違って、イエス様への熱心を保っていました。実際、その熱心さは増し加わっていたのです。

しかし、両教会は、罪を見過ごしてしまうという罠に陥っていました。

ペルガモンの教会は、偽りの教えを信じる者たちを「寛容」と称して受け入れてしまいました。その結果、教会の人々は偶像礼拝や性的な罪に陥ってしまったのです。

イスラエルの民がエジプトを脱出して荒野を旅していたとき、預言者バラムも彼らを同じ罪へと導きました。

バラムはイスラエルを呪おうとしましたが、神はそれを許しませんでした。そこでバラムは、イスラエルの男性たちがモアブの女性たちと結びつくように仕向けたのです。彼らはその助言に従い、最終的には偶像礼拝に落ち、神の呪いを受けてしまいました。

ペルガモンの教会の人々も、同じ罪に陥っていました。それにもかかわらず、教会のリーダーたちは何も対処しなかったのです。

ティアティラの教会も、ペルガモンと同じような問題を抱えていました。彼らは「預言者」と自称する女性を容認していました。イエス様はその女性を「イゼベル」と呼ばれました。

イスラエルの歴史において、王妃イゼベルは夫アハブ王を偶像礼拝へと導き、多くのイスラエル人を罪に陥らせました。

ティアティラの教会においても、イゼベルのような存在がサタンの深みを教え、教会の人々を偶像礼拝や性的な罪に誘っていたのです。(24)

そのため、イエス様は彼らに警告されました。「裁きは迫っている。」

ペルガモンの教会に向けて挨拶されたとき、イエス様はご自身を「鋭い両刃の剣を持つ方」と呼ばれました。それは、裁きを表す剣です。(12、16)

ティアティラの教会に向けて挨拶されたとき、イエス様はご自身を「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝く真鍮のような神の子」と呼ばれました。イエス様は、暗闇にある悪を見通し、ご自身の足でそれを踏み砕かれるのです。(18)

イエス様はこう言われました。

見よ、わたしはこの女を病の床に投げ込む。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めないなら、大きな患難の中に投げ込む。また、この女の子どもたちを死病で殺す。(黙示録2:22-23)

イエス様は、文字通り彼らを死に至らせる可能性について、警告されていたのでしょうか。おそらく、そうです。

使徒の働き(5:1〜10)、第一コリント(5:5)、そして第一コリント(11:27〜30)に、そのような例を見ることができます。

私たちは、悪に対して寛容になってしまうことがあるかもしれません。けれども、イエス様は、悪が教会の中に広がることを決して容認されません。

しかし、私たちが悪と戦い、それを乗り越えるなら、イエス様は約束されます。「隠されたマナ」と「白い石」を与えてくださるのです。(2:17)

ユダヤ人たちはこう信じていました。メシアが来られると、契約の箱が奇跡的に現れ、メシアの宴席で皆がマナを食べるようになる。

では、イエス様が「白い石」について語られたのは、なぜでしょうか。当時の競技において勝利した者は、特別な宴席への入場を許される「白い石」を与えられていました。

イエス様は、その2つの象徴を重ねて、約束の栄光を描かれたのです。

さらに、イエス様はティアティラの信徒たちにこう約束されました。イエス様が王としてこの世を支配するとき、彼らは国々を治める権威を受けるのです。さらに、イエス様は彼らに明けの明星を与えると約束されました。

イエス様ご自身が「明けの明星」と呼ばれているのです(黙示録22:16)。

それゆえ、イエス様はご自身との深い交わりを約束しておられるのでしょう。

しかし、悔い改めない者には、裁き以外に何も残されていません。

教会において、悪に目をつぶることは重大な問題です。やがて反キリストと偽預言者が現れると、その問題はさらに深刻になります。その時、この世が耐えられないものはただ一つです。それは、私たちが宣べ伝える福音です。

もし今、私たちが悪に目をつぶるなら、反キリストが現れた時、私たちはどうするのでしょうか。あなたと、あなたの教会はどうでしょうか。悪に目をつぶってはいませんか。

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ヨハネの手紙第一

私たちが罪に落ちると

前回の記事で、私たちが学んだのは、私たちが光の子どもとして生きるように呼ばれているけれども、まだ罪に落ちる時もあるということです。その時、私たちが悔い改めるなら、神様は私たちを赦してくださいます。

今日の箇所では、私たちはその赦しの基礎を見ることができます。ヨハネはこう言いました。

私の子供たち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとなりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。

この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげものです。(ヨハネの手紙第一2:1-2)

ヨハネは改めて強調します。私たちは光の子どもだから、暗闇の中で歩んではいけません。

しかし、そのあと、ヨハネは心強い言葉を伝えます。それは、私たちが罪に落ちるとき、私たちを擁護する方がおられるということです。イエス様は御父の前で、私たちのためにとりなしてくださいます。

では、その擁護のよりどころは何でしょうか。それは、十字架でのイエス様の宥めのささげものです。

それはどういうことでしょうか。

その時代、いろんな国では、人々は神々の怒りを宥めるため、また神々のご恩を得るために、さまざまな生贄を捧げました。

ヨハネは同じ描写を使いますが、大きな違いがあります。私たちはその生贄を捧げるのではありません。むしろ、神様ご自身が自分の怒りを宥めるために、その生贄を捧げられました。そして、その生贄によって、神様はもう一度私たちに恵みを与えてくださいます。

天の父による救いの働きを伏線する話として、アブラハムはこう言いました。

神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。(創世記22:8)

十字架で、天の父はその羊を備えてくださいました。義なるイエス・キリストがその羊でした。イエス様は罪を犯したことがなかったのに、私たちの罪の罰を受けてくださいました。イエス様が十字架につけられた時、神様はご自身の怒りのすべてをイエス様に注がれました。

その結果は何でしょうか。イエス様は天の父の前に私たちと共に立ち、こう言われます。「私はその人の罪の代価を払いました。」

天の父は答えられます。「あなたの支払いを受け入れます」

そして、天の父は私たちの罪を赦すだけではなく、私たちに愛を注いでくださいます。

それは憐れみです。それは恵みです。その恵みと憐れみは神様の子どもたちに属します。イエス様を通して、私たちはその恵みと憐れみを受けるのです。

だから感謝をもって、私たちを救った神様に仕えましょう。イエス様のようになるように努めましょう。

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ヨハネの手紙第一

神様との交わりを持つため

いろんな意味で、「クリスチャン」という言葉は無意味なものになって来ました。というのは、多くの人々は自分がクリスチャンであると自称しますが、自分の行為によって、実際には自分がクリスチャンではないと証明しているようなものだからです。

その言葉を読んで、私が厳しすぎると言われる人がいるかもしれません。けれども、イエス様ご自身はこう言われました。

「わたしに向かって「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

その日には多くの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。」(マタイ7:21-22)

現代では、ある人々はこう言うかもしれません。

「主よ、主よ。私たちは教会に行ったでしょう。献金を捧げたでしょう。いろんな良いことをしたでしょう。」

しかし、イエス様は彼らに言われます。

わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。(マタイ7:23)

簡単に言うと、あなたの行為を自分の信仰と分けることはできません。あなたの行為によって、あなたの信仰がれっきとしたものかどうかが現れます。

ヨハネは、今日の箇所でも、それを言っています。

私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。

もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。(ヨハネの手紙第一1:5-6)

多くの自称クリスチャンたちは自分の罪にふけります。ある人は嫌いな聖句をごまかします。他の人はただその聖句を無視します。

けれども、ヨハネは、神様が光であると言っています。つまり、神様には罪が全くないということです。だから、反逆の態度をもって、神様のみ言葉を無視したり、その言葉をごまかしながら、「私には神様と交わりがある」と主張するなら、私たちは嘘つきです。

ヨハネは率直に言います。「あなたは嘘つきです。あなたは真理を行っていません。」

さらに、ヨハネは続けてこう言います。

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(1:7)

神様が光であるので、神様との交わりを望むなら、私たちも光の中を歩まなくてはなりません。神様は私たちが歩いている暗闇の中を歩まれないからです。

けれども、私たちの反逆的な態度を捨て、私たちの主としてイエス様に従うなら、イエス様の血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

だから、私たちの反逆をやめなくてはなりません。神様に反逆しながら、神様との交わりがあると主張するのは無理なことです。

私の解釈を疑うなら、ヨハネの言葉を読んでください。

もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります。神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません。

しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。

神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。(2:3-6)

言い換えると、ある人の神様に対する態度によって、私たちはその人が神様との関係があるかどうかを見分けることができます。

その人のうちで神の愛がそこまで全うされて、愛をもって従うようになるのでしょうか。

その人はイエス様のようになりたいと願い、イエス様のように歩もうとするでしょうか。

その人は罪に落ちるとき、その罪を悲しみ、すぐに悔い改めるのでしょうか。

そうでない場合、その人が本当に救われているかどうかを疑うべきです。

あなたはどうでしょうか。神様に対するあなたの態度は、自分の神様との関係に関して何を現しているでしょうか。

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ヘブル人への手紙

私たちも

私はジョギングがあまり好きではありません。健康のために走ることはありますが、楽しいとは感じません。

しかし、クリスチャンとして、私たちは神の国のレースに招かれています。

ある意味で、私たちはすでに神の国に入っています。イエス様は「神の国はあなたがたのただ中にある」と言われました(ルカ17:21)。

そして私たちは、毎日御国の市民として歩むべきです。私たちの王とそのご計画のために仕えるべきなのです。

やがて、本格的な御国がこの世に到来します。クリスチャンとして、私たちはその日を慕い望んでいます。

信仰を持っていた偉大な男性や女性たちも、御国を慕い求めながら働きました。そして、この手紙の著者は、私たちが御国のために仕えるように勧めています。

この手紙の読み手たちは、自分の信仰ゆえに苦しんでいました。ある人々は迫害を受けました。ほかの人々は、自らの罪や疑いと格闘しました。さらにある人々は、世のものに心を奪われていました。

だから、この著者は彼らにこう言いました。

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。(へブル人への手紙12:1)

「私たちも。」

11章で、この著者は、信仰を持っていた「ヒーローたち」について語りました。

しかし彼らも、私たちと同じように、まとわりつく罪を捨てなければなりませんでした。彼らは疑いの重荷やこの世のものへの愛を捨てなければなりませんでした。彼らがそれを行ったからこそ、神様は彼らを称賛されたのです。

だから、私たちも彼らの模範に倣い、罪、疑い、そしてほかの重荷を捨て、このレースを走らなければなりません。

同時に、私たちは前方を見なければなりません。私たちの前に何があるでしょうか。

それはイエス様です。イエス様は私たちの信仰の創始者です。

別訳では「先駆け」とも訳されます。イエス様は天の父への道を備えてくださいました。十字架によって、私たちは赦され、神様との平和を得ることができるのです。

さらに、イエス様は私たちの信仰の完成者です。今の私たちは不完全であり、罪や疑いと戦っています。それでも、私たちが完全にされるその日まで、イエス様は私たちのうちで働き続けてくださいます。

だから、どんな試練や戦いに直面していても、イエス様から目を離してはなりません。

自分の状況に目を向けると、落胆するのは簡単です。この世の悪や自分の罪を見て、失望するのも簡単です。

しかし、それらから目を離しましょう。むしろ、イエス様から目を離してはいけません。

そして走りましょう。走ることを妨げるものがあるなら、それも捨てましょう。とくに、自分の罪を捨てましょう。

神様の恵みによって、イエス様は私たちを御国へと導いてくださいます。

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テトスへの手紙

罪の余裕もない。プライドの余裕もない。

前回の記事で、テトスの3章の最初の部分について話しましたが、今日は3章全体をまとめたいと思います。

前回の記事で私は言いましたが、1節ではパウロは私たちが権威者たちに従うべきだと教えます。そして、2節ではパウロはこう言います。

また、だれも中傷せず、争わず、柔和で、すべての人にあくまで礼儀正しい者となるようにしなさい。(テトスへの手紙3:2)

時々、ノン・クリスチャンたちの行為や態度のために、私たちが彼らを愛さずに裁くのは簡単です。でも、私たちは彼らを中傷せず、むしろ柔和な態度を持ち、礼儀正しい態度を取るべきです。

相手の弱さと失敗を見るとき、私たちが柔和な態度、また、謙虚な態度を取ることはとても大切だと思います。なぜでしょうか。

私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。

しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。

神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。(3-7)

要するに、クリスチャンになる前に、私たちは彼らと同じでした。私たちも愚かなことをしていました。私たちも罪の奴隷であり、罪を犯していました。

私たちが周りの人々よりも良い人であったために神様が私たちを救ったわけではありません。むしろ、神様の憐れみによって、神様は私たちを救ってくださいました。

私たちは神様から何も値しませんでしたが、神様はイエス様を送り、ご自身の愛と恵みを与えてくださいました。

そして、神様は聖霊を私たちに豊かに注いでくださいました。

聖霊によって、私たちは新しく造られた者となりました。

そのため、今、私たちは神様の目には義人とされ、神様の養子として永遠の命の望みを持っているのです。

そういうわけで、私たちにはプライドを持つ余裕がありません。私たちは周りの人々を不潔なものとして見下してはいけません。むしろ、神様が私たちを愛してくださったように、私たちは周りの人々に愛を示さなければなりません。

さらに、クリスチャンとして、私たちは故意に罪を犯してはいけません。

私たちは変わったのです。私たちはイエス様の血によって洗われました。私たちは新しく造られた者となりました。どうして私たちは自分を滅ぼしていた罪に戻りたいと思うでしょうか。

パウロはこう言いました。

このことばは真実です。私は、あなたがこれらのことを、確信をもって語るように願っています。神を信じるようになった人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであり、人々に有益です。(8)

また、

私たちの仲間も、実を結ばない者にならないように、差し迫った必要に備えて、良いわざに励むように教えられなければなりません。(14)

だから、私たちは自分の義に関するプライドを持つ余裕はないけれど、罪にふける余裕もないのです。

パウロの時代でも、その二つの問題に直面していました。あるクリスチャンたちは、律法主義的な態度を持って、自分の義を誇ったり、ユダヤ人の身分を誇ったりしていました。

その反面、自分勝手な人生を送っても良いと主張する人もいました。(9)

でも、パウロは彼らに関してテトスにこう言いました。

分派を作る者は、一、二度訓戒した後、除名しなさい。あなたも知っているとおり、このような人はゆがんでいて、自分で悪いと知りながら罪を犯しているのです。(10-11)

あなたはどうでしょうか。自分の義を誇って、周りの人々を見下しているでしょうか。

あなたは身分や行為によって救われたのではなく、神様の恵みと御業によって救われたことを忘れてはいけません。

自分の罪にふけっているでしょうか。

あなたは罪から自由にされるために救われました。神様はあなたを新しく造られた者としました。神様の望みは、あなたがこの世の偽物を追い求めず、本当の命と喜びを見つけることです。

あなたはどうしますか。

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エペソ人への手紙

罪を軽く見る

この世の問題の一つは、多くの人々が罪を軽く見ることです。 罪について冗談を言ったり、それを誇ったりする人さえいます。 けれども、罪は決して軽く見てよいものではありません。 特に、クリスチャンは罪を軽視してはならないのです。

だからこそ、パウロはこう言います。

 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪りも、口にすることさえしてはいけません。

また、わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。これらは、ふさわしくありません。むしろ、口にすべきは感謝のことばです。(エペソ人への手紙5:3-4)

要するに、周囲の人々が私たちの行いや言葉を責める余地もないほどに、私たちは清い生活を送るべきです。 もう一度言います。私たちは決して罪を軽く考えてはなりません。

けれども、テレビ番組や映画のことを語るとき、 「このドラマでは主人公が罪を犯していた」と私たちはどれほど言うでしょうか。

あるいは、歌を聴くとき、 「この歌の歌詞は罪を売り込んでいる。この歌詞に従えば、やがて人は神様に裁かれる」と考えることは、どれほどあるでしょうか。

私たちは、ふつうそのようには考えないのです。

あなたはこう言うかもしれません。 「そんな考え方は真面目すぎます。それがこの世の文化というものでしょう。」

ところが、まさにその態度こそが問題なのです。 多くのクリスチャンは、ノンクリスチャンのように、罪についてあまりに軽く考えすぎています。 けれど、パウロは私たちに思い出させてくれます。

に軽く考えています。でも、パウロは私たちに思い出させます。

このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。

だれにも空しいことばでだまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順の子らに下るのです。(5-6)

要するに、罪は極めて深刻な問題です。 人は自らの罪のゆえに、神様の怒りを受けるに値します。 さらに、地獄にさえ値するのです。 そのような現実を思うとき、どうして罪を軽く見ることができるでしょうか。

だから、パウロはこう言うのです。

ですから、彼らの仲間になってはいけません。

あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです。

何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇のわざに加わらず、むしろ、それを明るみに出しなさい。

彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます。明らかにされるものはみな光だからです。(7-14a)

神様は、私たちをこの世の民とは異なる者として召しておられます。 この世の人々は、罪の暗闇の中に生きています。

かつて、私たちもその暗闇の中を歩んでいました。 けれども、パウロによれば、今や私たちは主にあって光となりました。 それゆえ、私たちは光の子どもらしく歩むべきなのです。

私たちは、罪の実を結んではなりません。 むしろ、あらゆる善意と正義と真実の実を結ぶべきです。

ですから、私たちは罪を祝ってはならず、 むしろキリストの光によって、その罪を明るみに出さなければなりません。 罪が人を滅ぼすものであることを、はっきりと示さなければなりません。

そして、私たちは周囲の人々にこう語るべきです。

眠っている人よ、起きよ。 死者の中から起き上がれ。 そうすれば、キリストがあなたを照らされる。(14b)

あなたはどうでしょうか。罪を軽く見てはいないでしょうか。 罪の深刻さを忘れてしまってはいないでしょうか。

イエス様が、私たちの罪のために死ななければならなかったことを心に留めておきましょう。 イエス様は、私たちと私たちの周囲の人々を、罪の暗闇から出て、新しい命へと入るように招いておられます。

あなたは、その新しい命の光の中を歩んでいるでしょうか。 そして、周囲の人々を、あなたとともにその道を歩むように招いているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

何にしがみついているでしょうか

ある聖書学者たちは、この手紙がもともと2通の手紙だったと考えています。この手紙を読むと、彼らの主張の理由が理解できますが、それでも私は、この手紙は常に1通のものだったのではないかと思います。

では、なぜ一部の学者たちは、この手紙を複数の手紙をまとめたものだと考えるのでしょうか。

その理由のひとつは、手紙の前半部分では、パウロとコリントのクリスチャンたちがすでに和解したかのように見えることです。しかし、その後のパウロの言葉を見ると、彼らの関係にはまだ問題が残っているようにも感じられます。

もしかすると、パウロはその教会の多くの人々と和解したものの、一部のコリント人たちはなお彼の使徒としての資格を疑っていたのかもしれません。

彼らはなぜパウロの資格に疑念を抱いたのでしょうか。パウロはこう述べています。

コリントの人たち、私たちはあなたがたに対して率直に話しました。私たちの心は広く開かれています。あなたがたに対する私たちの愛の心は、狭くなってはいません。

むしろ、あなたがたの思いの中で狭くなっているのです。私は子どもたちに語るように言います。私たちと同じように、あなたがたも心を広くしてください。(コリント人への手紙第二6:11-12)

要するに、「私たちは正直であり、あなたたちを愛していました。けれども、あなたたちの愛は抑えられてしまいました。私たちがあなたたちをどのように扱ったかのゆえに、あなたたちは自分の心を閉ざしました。

私たちがあなたたちの中の罪人や偽使徒たちを懲らしめたことで、私たちが厳しすぎると思うかもしれません。私たちがあなたたちに対して心を閉じたと思うかもしれません。

しかし実際には、あなたたちがしがみついているもののせいで、あなたたち自身が心を閉ざしてしまっているのです。

あなたたちは今もなお、自分の罪を持ち続けています。偽使徒との関係を持ち続けています。心の中に偶像を抱え続けています。そして、私たちがそのことのためにあなたたちを懲らしめた時、あなたたちは心を閉ざしました。

あなたたちはそれを手放そうとしないため、自分の心を開くことができないのです。」

あなたはどうでしょうか。何にしがみついているでしょうか。

時に、人々は教会やクリスチャンの交わりから離れることがあります。または、親しい兄弟姉妹との関係が壊れてしまうこともあります。

その理由の一つは、ある人が罪を犯した際に、兄弟や姉妹がその人を訓戒しようとするからです。けれども、その訓戒のゆえに、その人は拒絶されたように感じてしまうのです。

クリスチャンの仲間から訓戒を受けることは、時に難しいものです。残念ながら、訓戒するときに柔和を欠き、厳しすぎる態度を取ってしまうこともあります。(ガラテヤ6:1)

もしかすると、コリントの人々を訓戒した時、パウロも厳しすぎたかもしれません。パウロ自身も罪人であり、ある時、マルコに対して厳しすぎる態度を取ったことがありました。(使徒の働き15:36-39)

彼が厳しすぎたかどうかは定かではありませんが、パウロは確かにコリントの人々を深く愛していました。それでも、彼の訓戒やコリントの人々が執着していた悪いもののために、彼らはパウロの愛を正しく理解することができなかったのです。

その結果、彼らは自らの心をパウロに対して閉ざしてしまったのです。

あなたはどうでしょうか。兄弟姉妹からの訓戒が厳しく感じられても、あなたは自分の罪を認め、それを手放すことができるでしょうか。

それとも、罪への執着があまりに強く、あなたを愛している兄弟姉妹との関係を断ち切ってしまうでしょうか。

要するに、あなたは訓戒を受けた時、どのように反応するでしょうか。

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コリント人への手紙第二

相手が悔い改めるとき

人々に傷つけられると、恨みを抱くのは容易です。相手が謝罪しても、許したくないと感じることがあります。

または、口では許すと言いながらも、心の中でその恨みを手放すことを拒んでしまうこともあります。その結果、相手は私たちの恨みを感じ続け、私たちと話すときに不安を覚えます。

教会のリーダーたちが罪を犯したメンバーを訓戒するときも、同じようなことが起こるかもしれません。

その人が悔い改めても、リーダーたちや他のメンバーたちは、その人を疑い、距離を置いてしまうことがあります。

もしかすると、彼らはこう考えるかもしれません。「すぐに相手を受け入れてはいけない。もう少し悲しませた方がいい。そして、その人が十分悲しんだと思ったら、受け入れよう。」

しかし、パウロはそのような訓戒の仕方を教えませんでした。むしろ、パウロはこう語りました。

その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、あなたがたは、むしろその人を赦し、慰めてあげなさい。

そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。

そこで私はあなたがたに、その人へのあなたがたの愛を確認することを勧めます。(コリント人への手紙第二2:6-8)

「あの処罰で十分」とは、どういう意味でしょうか。

おそらく、パウロが言いたかったのは、その処罰が目的を果たしたということです。つまり、その人が悔い改めたということです。そして、人が悔い改めたならば、処罰を続ける必要はありません。

むしろ、私たちはその人を許し、慰めるべきです。神様がその人を赦されたことを伝え、私たちも許したことを示すべきです。そして、その人に対して私たちの愛を確認することが大切です。

もちろん、私たちが罪を犯すとき、神様は私たちがその罪を悲しむことを望まれます。

しかし、悲しみには二つの種類があります。悔い改めへと導く悲しみもあれば、死へと導く悲しみもあります。

この「死へと導く悲しみ」とは、パウロが語ったように、絶望や神から離れることを意味します。

その一方、悔い改めへと導く悲しみは良いものです。けれども、もし私たちがその人を赦さないならば、相手は深く悲しみすぎて、霊的な死へと導かれてしまうかもしれません。それは神様の望まれることではなく、むしろサタンの望むことです。

サタンの目的は、盗み、殺し、滅ぼすことです。だから、私たちが相手を許さず、その人が深い悲しみに沈んでしまうならば、私たちは神様と協力するのではなく、むしろサタンの働きを助けていることになります。

あなたはどうでしょうか。誰かがあなたを傷つけたことがありますか。または、教会の中で、誰かが深刻な罪を犯したことがありますか。その人は悔い改めたでしょうか。

もしそうならば、神様と協力して、その人を許し、受け入れましょう。

イエス様の言葉を心に留めましょう。

あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。(ルカ6:36)

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コリント人への手紙第二

兄弟や姉妹と向き合うべきとき

兄弟や姉妹が罪を犯したとき、その人に向き合うことは決して容易ではありません。もしそれを『楽しい』と感じる人がいるなら、その人は向き合わない方が良いでしょう。

しかし、時にはその必要が生じることもあります。そのような状況において、パウロの生き方や言葉から、私たちは大切な原則を学ぶことができます。

パウロはこう記しました。

私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために協力して働く者です。あなたがたは信仰に堅く立っているのですから。(コリント人への手紙第二1:24)

人と向き合うとき、その態度はとても重要です。相手と話す際、「あなたは私の言葉に従わなくてはならない」という姿勢を持つべきではありません。

むしろ、私たちはこのような姿勢を持つべきです。「あなたを愛しています。あなたがこの罪を乗り越えられるように助けたいのです。あなたが本当の喜びを知り、信仰に固く立つことを願っています。」

しかし、多くの場合、私たちは相手を責める態度をとってしまい、彼らは私たちの中にイエス様の愛を見ることができません。

けれども、パウロの姿勢は違いました。彼はこう語りました。

私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。

それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした。(コリント人への手紙第二2:2-4)

この言葉には、プライドや傲慢は微塵もありません。むしろ、パウロはコリントの人々に対する深い愛を示しました。

さらに、彼らと向き合うとき、パウロは彼らが悔い改めることへの強い希望を持っていました。

しかし、私たちは時として、人々と向き合う際にその希望を持たず、ただ怒りをぶつけて相手を責めてしまいがちです。

けれども、パウロの姿勢は違いました。彼はこう語りました。

あの手紙を書いたのは、私が訪れるときに、私に喜びをもたらすはずの人たちから、悲しみを受けることがないようにするためでした。

私の喜びがあなたがたすべての喜びであると、私はあなたがたすべてについて確信しています。(3)

つまり、「前回の手紙の目的は、次に会うときに辛い訪問にならないようにすることでした。私はあなたたちを信じているので、そのように書きました。あなたたちが悔い改め、もう一度共に主の喜びを知ることを信じていました。」ということです。

私たちは人と向き合うとき、「あなたらしい」と言うのではなく、「あなたらしくないよ。正しい道に戻りましょう。」という姿勢を持つべきです。

最後に、相手と向き合うべきときもありますが、神様が相手の心の中で働かれるべきときもあります。

パウロが最初にコリントの人々と向き合ったとき、彼らはただ怒っただけでした。パウロはすぐにもう一度向き合おうと思いましたが、最終的に後回しにしました。なぜでしょうか。

私は自分のいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたへの思いやりからです。。。

そこで私は、あなたがたを悲しませる訪問は二度としない、と決心しました。

もし私があなたがたを悲しませるなら、私が悲しませているその人以外に、だれが私を喜ばせてくれるでしょう。(コリント人への手紙第二1:23、2:1-2)

だから、彼はコリントに行かず、代わりに手紙を送り、彼らが悔い改めるように願いました。(2:3)

時として、それが最良の方法です。愛を伝えながら、彼らを神様の御手に委ねることです。

だから、人と向き合うとき、そのような姿勢を持ちましょう。そして、神様の恵みによって、彼らの人生に良い実が結ばれるでしょう。

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コリント人への手紙第一

キリストにある自由の誤解

パウロの書簡の中で、一つの重要なテーマは、私たちが律法から解放されていることです。私たちはもはや律法の下にはなく、恵みの下にあるのです。

けれども、現代の人々と同様に、パウロの時代の人々もその教えを曲げてしまいました。

コリントの人々は故意に罪を犯し、互いに傷つけ合っていたため、パウロは彼らを厳しく戒めました。

そこで、パウロは次のように語りました。

あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。

思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。(コリント人への手紙第一6:9-10)

コリントの人々はどのように反応したのでしょうか。彼らはこう言いました。

「でもね、パウロ。あなたは『すべてのことが私には許されている』と言いましたよね。だったら、罪を犯してもいいんじゃないですか?結局、これは私の人生でしょう?」

けれども、パウロは答えました。

「すべてのことが許されているかもしれない。しかし、すべてが益となるわけではありません。」(12)

8章では、一つの例が示されています。

偶像に捧げられた食べ物を食べること自体は罪ではありません。とはいえ、もしあなたの兄弟がそれを見て躓いてしまうと分かっているなら、あなたはそのような食べ物を食べてはならないのです。それは兄弟にとって益にならないからです。

さらに、パウロは続けます。「すべてのことがあなたに許されている。それでも、あなたは何ものにも支配されてはなりません。特に、罪に支配されてはなりません。」(12)

ローマ人への手紙では、パウロはさらに詳しく説明します。

あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。

つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。(ローマ人への手紙6:16)

多くの人は、最初は自ら罪を選ぶが、やがてその罪の奴隷となってしまいます。

飽食はその一例です。ポルノもまた一例です。人々は故意にその罪に耽りますが、ある時、自分の行動をもはやコントロールできなくなっていることに気づきます。

医師が「体重を減らさなければならない。そうしなければ、必ず心臓発作を起こすでしょう」と警告しても、彼らは食生活を変えることができません。

または、結婚生活が困難になっても、ポルノをやめることができません。

あるコリントの人々はこう言いました。

「でも、神様の御心は私たちが食べることです。そのために私たちに胃袋を与えられました。また、神様は私たちを性的な存在として創造されました。それゆえ、私たちにはそのニーズを満たすことが必要です。なぜ、さまざまな制限が課されるのでしょうか。」

しかし、パウロが答えたのは、確かに私たちは胃袋を持ち、性的な存在であるものの、それらの欲求を満たすことが私たちの主な目的ではないということです。

私たちは単に自分のために生きるために創造されたのではありません。私たちは自分自身を喜ばせるためだけに存在するのではないのです。

そこで、パウロは次のように語りました。

「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」と言いますが、神は、そのどちらも滅ぼされます。(13a)

要するに、食べ物も腹も永遠のものではなく、一時的なものです。したがって、私たちはただ自分の腹を満たすために創造されたのではありません。

パウロは続けてこう言いました。

からだは淫らな行いのためではなく、主のためにあり、主はからだのためにおられるのです。(13b)

つまり、私たちは罪を犯すためではなく、むしろ主を喜ばせるために創造されたのです。

私たちは主の宮となるように創造されました。そして、イエス様は私たちを贖うために、十字架で大きな代価を支払われました。

そこで、パウロは次のように書き記しました。

あなたがたは知らないのですか。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。

ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(19-20)

キリストにある自由とは、私たちが自分のためだけに生き、罪に耽ることではありません。むしろ、それは私たちを滅ぼしていた罪から解放するものです。

したがって、私たちはもはや神様からの罰を恐れる必要はありません。むしろ、神様が私たちを愛しておられ、聖霊様が私たちのうちに住んでおられることを知り、安心して歩むことができます。そして、私たちが創造された本来の目的を全うするのです。

それは、神様を愛し、敬い、栄光を捧げることです。

あなたはどうでしょうか。あなたはどのように自分の自由を用いるでしょうか。

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コリント人への手紙第一

プライドについての警告

C.S.ルイスというクリスチャンの著者は、プライドを「最大の罪」と呼びました。なぜでしょうか。それは、プライドが神様と私たちの間に壁を築くだけでなく、私たちと周囲の人々の間にも壁を生み出すからです。

エデンの物語の中で、その問題を見ることができます。エバはプライドによって「神様のようになりたい」と願い、罪に陥ってしまいました。また、プライドによってサタンも罪に落ちたとされています。

今日の箇所では、プライドがコリントの教会を引き裂いていたことが分かります。さらに、プライドはパウロとコリント人の間に壁を作っていました。

コリント人への手紙第一4章4〜13節と18〜19節によれば、コリントの人々はパウロを見下していたようです。自分の持ち物や知識に誇りを持ち、満足していたため、パウロの弱さや苦しみを目にしたとき、彼らは彼を軽蔑しました。

しかし、パウロは彼らに次のように語りました。

それは、私たちの例から「書かれていることを超えない」ことをあなたがたが学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して思い上がることのないようにするためです。(コリント人への手紙第一4:6)

「書かれていることを超えない」とは、どういう意味でしょうか。

答えははっきりしませんが、おそらくパウロは、キリストにある私たちの立場に関する教えについて語っているのだと思われます。

つまり、私たちの救いは身分や行いによるものではなく、神様の恵みに基づいているのです。

もし私たちが神様の恵みによって救われた者であることを覚えていれば、他の人々を軽蔑することはありません。また、リーダーたちを比較することもありません。

パウロはその真理を明確に教え、コリントの人々に思い出させました。

いったい誰が、あなたをほかの人よりも優れていると認めるのですか。

あなたには、何か、もらわなかったものがあるのですか。

もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(7)

最初の答えは少し曖昧です。もしかすると、パウロは「私は偉い」という態度を批判しているのかもしれません。

もしそれがパウロの意図であるなら、その答えは「あなたを他の人よりも優れていると認める者は誰もいません」となるでしょう。

けれども、パウロのポイントは別の可能性も考えられます。「もしあなたが本当に優れている人なら、それは神様の恵みによってその立場が与えられたのです。」

最後の二つの答えは明確です。二番目の答えは「何も」です。つまり、あなたが受け取らなかったものは何もないのです。

そして、三番目の答えは「あなたには誇る理由がありません。」

これらの答えを考えると、私たちは謙遜な態度を持たなければならないのです。

しかし、多くの場合、私たちはそのようには考えません。むしろ、私たちのプライドによって、神様との間に壁を築き、さらには周囲の人々との間にも壁を作ってしまいます。

もし私たちが神様の恵みを深く実感するなら、私たちの考え方は大きく変わるでしょう。そして、神様との関係だけでなく、配偶者との関係、教会の人々との関係、さらにはその他の人間関係もどれほど良くなることでしょうか。

あなたはどうでしょうか。あなたのプライドによって、どのような壁を築いてしまっているでしょうか。

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ローマ人への手紙

惨めな人生に本当に戻りたいの?

パウロがこの言葉を書いたとき、彼は出エジプトの物語を思い起こしていたことでしょう。

第一コリント10章では、パウロはこの話に言及し、イスラエル人が紅海を渡る出来事をバプテスマになぞらえました。

この箇所でも、さまざまな意味でパウロの言葉は、イスラエル人がエジプトから救い出された経験を反映しています。彼らはエジプトで死の危機に瀕していました。彼らは奴隷として惨めな人生を送っていたのです。

イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼ら叫びは神に届いた。(出エジプト記2:23)

そして、神様は彼らを救い出してくださいました。けれども、荒野を旅する中で、彼らはいくつもの試練に直面し、不満を言い始めました。

エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。(出エジプト記16:3)

その後、神様が彼らに与えると約束された地に入る直前、彼らの信仰は揺らぎました。そして、「エジプトの方がいいです。新しいリーダーを選んで、エジプトに帰りましょう。」と言ったのです。(民数記14:3-4)

この箇所では、パウロも同じような状況に直面しました。

彼は、「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました」と言いました。

けれども、パウロの経験では、このようなことを語ると、ある質問が必ず出てきました。だからこそ、彼はこう言ったのです。

それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。(ローマ人への手紙6:1)

彼の答えは?

決してそんなことはありません。(2)

その後、パウロは、クリスチャンたちが律法の下ではなく、恵みの下にあると言いました。だからこそ、もう一度パウロは、よく聞かれる質問を取り上げます。

では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。(15)

もう一度、パウロは答えました。

決してそんなことはありません。(15b)

なぜでしょうか。パウロはこのように説明しました。

罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。

それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。(2-4)

つまり、私たちは以前は罪の中に生きていました。しかし、クリスチャンになると、そのような生き方に対して死んだのです。

むしろ、今や私たちは新しい人となり、より良い人生を歩んでいます。今や私たちは神様との関係を持っています。(10)

それならば、なぜ古い人生に戻りたいのでしょうか。

それでも、多くのクリスチャンたちはイスラエル人のようです。彼らは紅海を渡ったとき、奴隷の人生に対して死にました。彼らは新しい人となりました。新しい人生を歩む自由を持っていました。勝利のある人生を歩む自由を持っていました。

それにもかかわらず、彼らは「古き良き時代」を懐かしみ始めました。彼らはエジプトのおいしい食べ物を思い出しました。そして、彼らは奴隷としての惨めな人生を忘れ、「エジプトに帰りましょう」と思ったのです。

罪は本当に欺瞞的なものです。私たちはすぐに罪の快楽を思い出しますが、罪がもたらす惨めさを忘れてしまいます。

だから、パウロはこう言いました。

あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。

今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。(20-21)

つまり、「あなたは罪に支配される人生に戻りたいのですか。そんな人生の惨めさをもう忘れてしまったのでしょうか。そのような人生は恥に至り、さらには死に至りました。本当にそんな人生に戻りたいのですか。」

だから、パウロはこう言いました。

また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。

むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。(13)

なぜ、私たちはそのようにすべきなのでしょうか。

(あなたは)罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。(22)

私たちの命を神様にささげると、私たちの人生は聖なるものになります。言い換えると、私たちは神様の計画通りに生き始めます。私たちの人生は健全なものとなり、私たちは真の命を得るのです。

けれども、最も素晴らしいことは、この賜物が無償であるということです。その賜物の価値を正しく理解するならば、私たちは決して死に至る人生に戻ることはないでしょう。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(23)

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ローマ人への手紙

良い伝染

「良い伝染」という表現を作ったと言いたいところですが、実はC.S.ルイスがこの表現を生み出しました。

(もし、ルイスの『キリスト教の精髄』をまだ読んでいないなら、ぜひおすすめします。)

さて、昨日私たちは「悪い伝染」について話しました。つまり、アダムを通して私たち皆に罪が伝染しました。

私たちは自分の罪によって罪人になるのではなく、罪人として生まれたために罪を犯すのです。

けれども、イエス様を通して良い伝染がもたらされます。パウロはこう書きました。

しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。

もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです。

また賜物は、一人の人が罪を犯した結果とは違います。

さばきの場合は、一つの違反から不義に定められましたが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。

もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。

こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。

すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。(ローマ人への手紙5:15-19)

要するに、アダムを通して罪が伝染したため、多くの人々が死にました。しかし、イエス様を通して恵みと義が伝染したため、イエス様を受け入れた人々は永遠の命を受けます。

言い換えると、アダムを通して罪が私たちに伝染し、私たちが裁かれたように、イエス様を通して義が私たちに伝染したため、私たちは義と認められました。

さらに、その良い伝染を通して、私たちはまったく別の人になりました。

けれども、幸いなことに私たちはゾンビにはなりません。むしろ、私たちは新しい本性を受けます。つまり、私たちは義人の本性を受けるのです。

だからクリスチャンは、自分の良い行いによって義人になるわけではありません。むしろ、イエス様にあって私たちが義人とされたため、自然に良いことをし始めます。

だから、パウロはこう書きました。

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。

古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5:17)

要するに、イエス様にあって、私たちは真に生き始めます。

私たちを通して、周りの人々にも神様の義が伝染するように。そうすれば、彼らも真に生き始めます。

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ローマ人への手紙

悪い伝染

私はこの箇所の要点はおおよそ理解できますが、パウロの言葉を完全に把握するのは少し難しいです。

最も分かりにくいのは、私たちの罪との関係です。つまり、次の問いかけに向き合うことになります。

「私たちは罪を犯してから罪人となるのでしょうか。それとも、もともと罪人だからこそ罪を犯すのでしょうか。

また、私たちは罪を犯すゆえに裁かれるのでしょうか。それとも、私たちの罪深い本性のゆえに裁かれるのでしょうか。」ということです。

パウロによれば、私たち皆はもともと罪人であるため罪を犯し、また私たちの罪深い本性のゆえに裁きに値します。

パウロはこう言います。

こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった。。。(ローマ人への手紙5:12)

この箇所の内容は分かりやすいです。パウロによれば、エデンでアダムが罪を犯すと、罪が世界に入りました。そして、その罪によって死がこの世界に入りました。

アダムは死に、エバも死にました。彼らの子孫はすべて死にました。今なお、すべての人々は最終的に死に至ります。

この箇所の最後の部分は少し分かりにくいです。パウロは、「すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった」と言いました。

それを読むと、多くの人々はこう考えます。「では、人は自分の犯した罪のために死ぬのだろうか。」

その説明はある程度正しいですが、完全ではありません。もちろん、長く生きる人は皆罪を犯し、その罪のゆえに裁かれます。私たち全員が死ぬことに値します。

けれども、赤ちゃんが死んだら、何の罪のために死んだのでしょうか。死産児はどうでしょうか。彼らには良心もなく、善悪の意識もありません。彼らは自分の犯した罪のために死んだのでしょうか。

パウロは、間接的にこのことについて語ります。

実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ罪は罪として認められないのです。

けれども死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪と犯さなかった人々さえも、支配しました。アダムは来たるべき方のひな型です。(13-14)

つまり、アダムの時代からモーセの時代までは、神様からの律法は存在しませんでした。神様はアダムに戒めを与えられましたが、その子孫には戒めを与えられませんでした。

そのため、神様は人々に「あなたは私の律法に違反した」と言われることはできませんでした。それでも人々は死にました。なぜでしょうか。

それは、アダムの罪が私たち皆の心の中にあるからです。その罪とは何でしょうか。私たち皆は神様に逆らい、それぞれ自分の道を歩みます。そして、それは生まれつきの性質なのです。

だからこそ、パウロが「すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった」と言ったとき、彼はアダムが罪を犯した結果、私たち皆が罪人となったことに触れています。私たちにはアダムの罪深い本性が受け継がれています。

少し異なる表現を使うなら、罪は伝染病のようなものです。アダムの罪は私たち皆に伝染しました。

では、どのようにしてアダムの罪が私たちに伝染したのでしょうか。それは分かりません。けれども、人類の歴史を見れば、その真理が明確に示されています。

イエス様以外に、完全に罪のない人は誰もいません。私たち皆は罪を犯します。

私たちは罪を犯してから罪人になったのではなく、罪人だからこそ罪を犯すのです。罪人は自然に罪を犯します。私たち皆は罪人であり、死ぬことに値します。

それは非常に憂鬱な真理ですが、次の記事で良い知らせが語られます。

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ローマ人への手紙

律法を捨ててしまう?

多くの人が3章を読むと、次のように尋ねるかもしれません。

「もし律法によって私たちが神様に義と認められないのなら、律法を捨ててしまってもよいでしょう。結局、律法には意味がないのだから。」

けれども、パウロはこのように答えました。

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになります。(ローマ人への手紙3:31)

「律法を確立する」とはどういう意味でしょうか。

言い換えれば、私たちが律法には、私たちを救いへと導く役割があることを認めるということです。

ガラテヤ人への手紙で、パウロは律法を私たちの「養育係」と呼びました。

では、律法は私たちに何を教えたのでしょうか。律法は神様の聖さを示しました。さらに、律法は私たちの罪を明らかにしました。

だから、パウロはこう書きました。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。(ローマ人への手紙3:20)

そして、律法が私たちの罪を明らかにすることで、私たちは救い主の必要性を理解するようになりました。

もし私たちの罪が明らかにならなかったら、救い主の必要性を感じなかったでしょう。なぜなら、「私たちはすでに十分に善良であり、神様がきっと私たちを受け入れてくださる」と思い込んでしまうからです。

そう考えるなら、私たちは、イエス様がなぜ私たちのために死ななければならなかったのかを理解できないでしょう。

しかし、律法は私たちの罪を明らかにすることはできても、その罪を取り除くことはできません。

少し考えてみてください。

鏡は男性のひげを映し出すことができます。けれども、鏡自体はそのひげを剃ることはできません。ひげを剃ることができるのは、髭剃りだけです。

同様に、律法は私たちの罪を映し出すことができますが、その罪を取り除く力は持っていません。しかし、神様の恵みは髭剃りのように私たちの罪を取り去ることができます。

さらに考えてみてください。確かに、鏡は私たちのひげを剃ることはできません。とはいえ、だからといって鏡が不要になるでしょうか?そうではありません。鏡は、私たちが剃るべき部分を映し出してくれるのです。

同様に、律法は私たちの罪や不完全な部分を明らかにします。そして、私たちがそれを認識すると、聖霊様が私たちを導き始めてくださるのです。

例えば、聖霊様は男性たちにこう語りかけるかもしれません。「『あなたの妻を愛しなさい』と書いてあるでしょう。では、今日どのように奥さんを愛するべきか教えます。」

または、「『許しなさい』と書いてあるでしょう。では、あなたはまだ〇〇さんを許していないでしょう。あなたの傷は深いかもしれません。それでも、私があなたを癒すので、相手を許しなさい。」

覚えておきましょう。律法は私たちに「自分の力だけでこのルールに従いなさい」と求めているわけではありません。

むしろ、神様は律法を通して私たちの目を開いてくださいます。そして、私たちは神様が私たちの人生の中で何をなさりたいのかを理解するようになります。

鏡を見ると、ただ自分の姿が映るだけではなく、私たちの天の父を見ることができます。そして、天の父は愛をもって、その恵みの髭剃りで私たちの罪を取り除き始めてくださいます。

私たちはその髭剃りを見て、少し怖いと感じるかもしれません。けれども、私たちが信仰をもって神様に「はい」と応じるなら、神様は私たちの罪を少しずつ取り去ってくださいます。

あなたはどうでしょうか。鏡を見ると、自分の罪や失敗だけが目に入るでしょうか。

それとも、あなたの天の父を見るでしょうか。天の父はきっとあなたの人生に働き、あなたを癒してくださいます。

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ローマ人への手紙

自分自身を見るとき

この箇所で、パウロはユダヤ人たちに語っています。そして、彼のポイントはこうです。

律法によって神様の前で義と認められたいのなら、ただ律法を知っているだけでは不十分です。あなたはその律法に完全に従わなければなりません。

だから、パウロはこう語ります。

あなたが自らユダヤ人と称し、律法を頼みとし、神を誇り、みこころを知り、律法から教えられて、大切なことをわきまえているなら、また、律法のうちに具体的に示された知識と真理を持っているので、目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だ、と自負しているなら、どうして、他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。

盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿の物をかすめ取るのですか。

律法を誇りとするあなたは、律法に違反することで、神を侮っているのです。(ローマ人への手紙2:17-23)

つまり、あなたたちは律法を知っていて、誇り高く思っています。神様の律法を与えられ、神様の民と呼ばれることを誇っています。

あなたたちは、すべてを理解していると思い、もし誰かが神様とその道を知りたいなら、自分たちのもとに来るべきだと考えています。

しかし、あなたたちは自分が教える律法に本当に従っているでしょうか。もしかすると、神様の言葉を伝えた後で、その言葉に反する行動をしてはいないでしょうか。

そして、パウロは彼らにこう語りました。

「あなたがたのゆえに、神の御名は異邦人の間で汚されている」と書いてあるとおりです。(24)

正直に言えば、聖書を教える者として、この箇所は非常に厳しく感じます。私は、自分の行動のせいで神様の御名が友人や同僚の間で汚されることを望みません。偽善者にはなりたくないのです。

それでも、私はしばしば失敗してしまいます。時には、偽善的な行動をとってしまうこともあります。正しいことを行うのが難しい時もありますし、自分が説いていることに従うのが難しい時もあります。

説教する時や、このブログを書く時、私は多くの場合、自分自身に向かって語っているのです。

結局、私はただ、神様の御座の前にひれ伏し、憐れみを請うことしかできません。

実は、それこそがパウロのポイントです。私たちは皆、神様の恵みを必要としています。もし、律法によって自分が義と認められたいと主張するなら、その律法に完全に従わなければなりません。けれども、それができる人は誰もいません。

あなたはどうでしょうか。あなたはどれほど神様の恵みを必要としているか、理解していますか。

もし、「私はまあまあ良い人だ。ほかの人よりも、私はましだと思う」と考えているなら、自分自身をもっと見つめる必要があるかもしれません。なぜなら、私たちは自分が思うほど良い人ではないからです。

その真理を理解しない限り、私たちはどれほど神様を必要としているのかを正しく知ることはできません。

鏡を眺めると、あなたは何を見るでしょうか。

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ローマ人への手紙

罪という問題

クリスチャンとして、私たちは救いについてよく語ります。けれども、私たちは何から救われたのでしょうか。なぜ、私たちには救いが必要なのでしょうか。

この箇所では、その答えが示されています。この箇所は、聖書の中でも特に暗い部分の一つです。それは、私たちの状況がどれほど切迫しているかを理解するからです。

パウロは、こう語り始めます。

というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。(ローマ人への手紙1:18)

「神様の怒り。」

この言葉を考えると、恐れを感じるかもしれません。私たちは皆、神様の愛について語るのが好きです。しかし、神様の怒りについて話したがる人はほとんどいません。

では、なぜ神様の怒りは人々に注がれているのでしょうか。

理由は二つあります。それは、不敬虔と不義です。「不敬虔」と「不義」とは、どういう意味でしょうか。

「不敬虔」とは、神様に背を向けることを意味します。

この箇所で、パウロは、神様がご自身をすべての人々に示されたと語っています。神様は、ご自身をユダヤ人や限られた特別な人々だけに示されたわけではありません。神様はすべての人々にご自身を示されました。

では、どのようにして神様はご自身を現されたのでしょうか。神様は被造物を通して、ご自身を示してくださいました。創造された世界のすべてが、知的な創造者がおられることを証ししています。

その真理を拒絶する人でさえ、「この世界を見ると、知的な創造者がおられるという考え方は理解できる」と認めます。(もちろん、それを認めた後、すぐに自分の議論や理論によってその真理を覆い隠してしまいますが。)

とにかく、パウロのポイントは、被造物は創造者を指し示しているということです。

被造物を通して、私たちは神様の力や神性を見ることができます。被造物を通して、神様の偉大さが分かります。また、私たちは神様のみ心を見ることができます。

神様の想像力を見ることができます。神様の美しさや善さを見ることができます。神様は被造物を通して、それらすべてを示してくださっています。

それでも、人々はどう反応するでしょうか。自分の不義によって、その真理を抑え込んでしまいます。

神様の存在を否定する人々の動機を見ると、多くの場合、彼らは神様に裁かれることを認めたくないのだと分かります。

つまり、もし神様が本当におられるなら、彼らは自分の思うままに生きることができなくなります。なぜなら、いつか彼らは自分の行いについて神様の前で申し開きをしなければならないからです。

では、人々が神様に背を向けたとき、その結果はどうなるのでしょうか。

(彼らの)思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり(ます)。(21-22)

偶像礼拝をする人々を見ると、このことがよく分かります。彼らは自分の手で偶像を造ります。つまり、彼らはその偶像の創造者です。しかし、彼らは自ら造った偶像の前で拝み始めるのです。

とはいえ、人々はさまざまな「偶像」を持っています。彼らは自分の知恵や、お金、情欲に従います。けれども、それらの偶像に目がくらみ、支配されてしまいます。

特に、彼らは何が善で何が悪か分からなくなります。また、自分が崇拝する偶像が、実は自分を滅ぼしていることに気づくことができません。

そして、最も恐ろしいのは、彼らが神様に背を向けると、神様も彼らに背を向けられるということです。神様は彼らに言われます。

「あなたは私の心に従わないのですか。では、あなたの心のままにさせましょう。」

その結果は何でしょうか。ローマ1章24〜31節を読んでください。

その結果は、単に人間の不敬虔さだけではなく、私たちの不義も露わになることです。人々は互いに傷つけ合います。

私は24〜31節にある罪のリストを詳しく説明する必要はないでしょう。この世界を見れば、人々が神様に背を向けたときに何が起こるのか、すぐに分かるはずです。

そして、ローマ1:32もまた、私たちの世界の現実を正確に描写しています。

彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。(32)

人々の心の中では、彼らは自分の罪のために罰されるに値することを理解しています。それでも、彼らはその罪を続け、さらに他の人々が同じ罪を犯すと、その人々を応援します。

アメリカのメディアを見れば、そのことがよく分かります。人々が堂々と神様の律法に背くと、メディアはそれを祝います。神様の言葉に反する法案が可決されると、メディアはそれを歓迎します。

彼らは、「聖書は時代遅れだ。私たちは聖書の著者たちよりもよく知っている」と主張します。

だから、彼らはすでに裁かれています。

それが罪の問題です。だからこそ、私たち全員が救いを必要としているのです。

あなたはどうでしょうか。この世界が救いを必要としていることを理解していますか。

しかし、もっと大切なのは、あなた自身が救いを必要としていることを理解しているかどうかです。

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使徒の働き

罪を捨てる

私たちがクリスチャンになると、神様は新しいスタートを与えてくださいます。それは本当に素晴らしい知らせですね。

この箇所では、神様はエペソの人々にも新しいスタートを与えられました。多くの人々はクリスチャンになったことで、罪の道から離れ始めました。

例えば、魔術を行っていた人々は、その書物を焼き捨てました。その書物は非常に高価なものでしたが、彼らはちゅうちょせずに焼き捨てました。

さらに、彼らが皆の前でそうしたことで、周りの人々は彼らの決断を目の当たりにしました。

この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

もし私たちの心が本当に変えられたならば、私たちの行動も変わるはずです。私たちが本当にイエス様を信じるなら、たとえ痛みを伴うとしても、罪を捨てるべきです。

例えば、あなたの会社の業績が良かったとしても、もし悪徳商法を行っているならば、神様は私たちのやり方が変わることを望まれます。

あるいは、あなたが恋人と肉体関係を持っているかもしれません。相手があなたと絶交する可能性があったとしても、私たちは純潔を守るべきです。

とはいえ、そのような選択をする際には、自分の動機を明確に伝える必要があります。単に心を入れ替えたいからではなく、神様への感謝を持って、私たちは違う道を歩んでいるのだと示すべきです。

つまり、イエス様の十字架の働きによって私たちは赦され、新しいスタートを与えられました。そして、私たちの人生は、神様の愛、喜び、平和で満たされています。

私たちが神様の道を歩むと、私たちに怒りを向ける人もいるかもしれません。あざ笑う人もいるかもしれません。けれども、私たちを通してキリストの愛に触れ、イエス様を見つける人もいるのです。

エペソにもそのような人々がいました。エペソにいるクリスチャンを通して、神様は多くの人の心に働かれました。だから、

主のことばは力強く広がり、勢いを得て行った。(20)

あなたはどうでしょうか。神様はあなたに、どの罪を捨てるように命じられているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ13章

私たちの足が洗われること

この話から、私はもう一つの重要なポイントをお伝えしたいと思います。

イエス様がペテロの足を洗おうとされたとき、ペテロはこう言いました。

決して私の足を洗わないでください。(ヨハネの福音書13:8a)

イエス様がこのように答えられました。

わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。(8b)

そして、いつものように、ペテロは言い過ぎてしまいました。

主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。(9)

けれども、イエス様はこう答えられました。

水浴した者は、足以外は、洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたががたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。(10)

イエス様の言葉の意味は何だったのでしょうか。

「ペテロ、あなたは私を信じたので、すでにきよめられています。しかし、日々の歩みの中で、あなたの『足』は罪によって汚れます。だから、私はそれを清める必要があるのです。」

イエス様は、私たちにも同じことを語られます。

私たちがイエス様の前に来て、イエス様とその十字架の働きを信じると、イエス様は私たちの過去のすべての罪をきよめてくださいます。

それでも、日々の生活の中で私たちの心は罪によって汚れます。私たちの罪が神様や周りの人々を傷つけ、私たち自身も苦しみます。けれども、それによって救いが失われるわけではありません。私たちは今も神の子供です。

とは言え、毎日イエス様の前に来て、「私を赦してください。私の心を清めてください。」と祈らなければなりません。それは過去の罪のためではなく、今日の罪のためなのです。

ヨハネはこう書きました。

もし私たちが、自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

正直に言うと、私の足を洗っていただくために、私はもっとイエス様の前に行かなければなりません。

毎日罪を犯しても、私は深く反省せず、告白もしません。そのため、その罪が私と神様の間に壁を作ってしまいます。

だからこそ、私たちは日々イエス様の前に来て、罪を告白しましょう。イエス様の赦しを願いましょう。そうすれば、イエス様は真実な方なので、私たちをきよめてくださいます。

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ルカの福音書 ルカ17章

人々につまずきを与えている?

この箇所では、イエス様はこう言われます。

つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ。

この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。(ルカの福音書17:2)

それは非常に厳しい言葉ですが、イエス様は続けてこう語られました。

気をつけていなさい。(3)

つまり、「私はあなたに語っている。あなたに警告している。気を付けていなさい。」ということです。

それを読んだとき、私は少し恐れを感じます。私には9歳の娘がいます。彼女はまだ幼い存在です。私はどんな父親なのだろうか。私は懸命に努力していますが、決して完璧な父親ではありません。

彼女は私を見ています。私は彼女にとって良い模範となっているでしょうか。それとも、私の言動によって娘につまずきを与えてしまっているでしょうか。

そのことを思うとき、私はこう祈ります。 「神様、こんな罪人の私をあわれんでください。」

しかし、私はほかの人々にもつまずきを与えているでしょうか。私は、妻や同僚、教会の人々に対して、私の行動や悪い態度を通して、知らず知らずのうちに傷つけているでしょうか。

あなたはどうでしょうか。あなたは周りの人々にどのような影響を与えているでしょうか。

あなたの生き方を通して、彼らはイエス様に近づいているでしょうか。それとも、あなたが彼らにつまずきを与えているでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ11章

律法主義という問題

イエス様はパリサイ人たちを批判された後、律法学者たちにも言及されました。

イエス様はこう言われました。

おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。(ルカの福音書11:46)

この箇所では、私たちは律法主義がなぜそんなに悪いのかを学びます。

第一の理由は、律法主義が人々に耐えられないほどの重荷を負わせ、その重荷を取り除く希望が全くないことです。つまり、律法学者たちは神様の律法に多くの余計な規則を加えたのです。

例えば、律法では安息日に仕事をすることが禁じられていましたが、律法学者たちは「仕事」の定義を極めて細かく設定していました。

例えば、安息日に女性はアクセサリーを付けてはいけませんでした。なぜなら、もし彼女たちがアクセサリーを外そうとすると、それを手に持たなければならず、それが「重荷」とみなされるため、安息日の律法を破ることになってしまいます。

また、安息日に歩く距離にも制限がありました。もし 2.5キロメートル 以上歩いてしまうと、安息日の律法に違反することになってしまいます。

このような余計な規則は何百もありました。そして、これらの規則を破ると、律法学者たちから責められることになりました。

律法学者の規則は今では存在しませんが、今日のクリスチャンたちはどれほど他のクリスチャンに余計な規則を押し付けているでしょうか。聖書には記されていないにもかかわらず、それを守るべきだと考えるのです。

例えば、「酔ってはならない」という戒めではなく、「一切お酒を飲んではならない」と言います。

または、「映画を見てはならない。」

または、「踊ってはならない。」

こうした規則は、もう一つの問題につながります。それは、人を裁く態度です。

つまり、「あなたはその規則を守らないから、良いクリスチャンではない。」という考え方です。

さらに、「私は規則を守っている」と思うことで、プライドを感じます。

しかし、たとえ規則を守ったとしても、パリサイ人のように公義と神への愛と憐れみを忘れてしまいます。彼らは自分を正しい人間だと思いますが、神様の目にはパリサイ人や律法学者たちと変わりません。

けれども、律法主義の最も恐ろしい問題は、律法が正しいことと悪いことを教える一方で、正しいことを行う力を与えないことです。むしろ、人が失敗すると、律法は彼らを裁くばかりです。そのため、人々は何度も失敗し、やがて絶望してしまうのです。

イエス様の時代、多くの人々がそのように感じていました。彼らは律法学者の規則を守ろうとしましたが、できませんでした。

そして、彼らが律法学者に「どうすればよいでしょうか」と尋ねると、「もっと努力しなさい」と言われました。

つまり、律法学者たちは彼らを決して助けようとはしなかったのです。

たとえあなたが余計な規則を捨て、モーセの律法だけを守ろうとしても、その律法にはあなたを救う力はありません。最終的に、あなたはパウロのようにこう叫ぶでしょう。

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:24)

しかし、イエス様の時代の人々とは異なり、パウロは希望を持っていました。

私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(ローマ7:25)

律法主義はあなたを救うことができません。律法はあなたを救うことができません。

でもイエス様は、十字架の働きを通して、あなたを救うことができます。イエス様は十字架で私の罰を受けたから。だから、パウロはこう言いました。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(8:1)

だから、律法主義を捨てましょう。プライドと絶望も捨てましょう。むしろ、イエス様とその十字架に向かいましょう。

そうすれば、私たちは赦され、神様を喜ばせる力を受けるのです。

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ヨハネの福音書 ヨハネ9章

どうして私にそんなことが起こったのだろうか

時々、私たちに悪いことが起こると、私たちは「どうして?神様は私を罰しているのだろうか」と尋ねます。

実際、時々私たちの罪のために、神様は私たちが苦しむことを許されます。とはいえ、多くの場合、神様は積極的に私たちを罰しておられるのではありません。むしろ、私たちは自分の罪の自然の結果を受けるのです。

あなたがクリスチャンであり、神様があなたを赦してくださったかもしれませんが、この世において、罪の結果を避けられるとは限りません。多くの場合、私たちの罪のゆえに悪いことが起こります。

そして、神様がその罪の結果から私たちを守られないなら、私たちは神様を責めることができません。なぜなら、その苦しみによって、私たちは罪の悪さを理解できるようになるからです。

それは、私たちが聖くなる過程の一部です。その火を通して、神様は私たちを清めてくださいます。

とはいえ、私たちが罪を犯さなくても、私たちに悪いことが起こる場合もあります。

今日の箇所では、イエス様とその弟子たちは、生まれつき盲目の人を見ました。そして、弟子たちはイエス様にこう尋ねました。

先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。(ヨハネの福音書9:2)

その時代、多くの人々はこう考えていました。「あなたの体が不自由なら、それはあなたのせいです。神様があなたの罪のために罰しているのです。」

けれども、その人は生まれつき盲目でした。だから、弟子たちは混乱しました。「この人はご両親の罪のために盲目になったのでしょうか。それとも、もしかしたら子宮の中で、この人自身がなにか罪を犯したのでしょうか。」

すると、イエス様はこう答えられました。

この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(3)

イエス様が意味されたものは何だったのでしょうか。時々、私たちの苦しみは私たちの罪のためではありません。むしろ、神様は私たちを通して素晴らしいことをしようと思われるのです。

アメリカでは、ジョニー・エリクソン・タダという人がいます。彼女は十代の時にダイビング事故で四肢麻痺になりました。たくさんの人々が彼女のために祈りましたが、神様は彼女を癒されませんでした。

けれども、彼女を通して神様は多くの人々に触れられました。その事故が起こらなかったなら、ジョニーはそんな影響力を持つことはなかったでしょう。

神様は彼女を罰しておられませんでした。むしろ、彼女を通して神様のわざが現れたのです。

イエス様はこう言われました。

わたしが世にいる間、わたしは世の光です。(5)

イエス様は天国に戻られましたが、神様の栄光を現すために私たちの人生を照らしてくださいます。そして、私たちを通してイエス様は輝き、周りの人々に触れてくださいます。

だから、あなたが苦しんでいるなら、自己憐憫に浸らないでください。むしろ、このように祈りましょう。「神様、私を照らしてください。また私を通して、輝いてください。」

そうすれば、あなたの人生に神様の栄光が輝くでしょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ8章

わたしはあなたを罪に定めない。行きなさい。

私はこの話が大好きです。

イエス様は宮で教えておられます。多くの人々がイエス様を取り囲み、その教えに耳を傾けています。けれども、突然、パリサイ人たちと律法学者たちがイエス様のもとにやって来ました。

彼らは一人の女性を連れてきて、イエス様の足元に彼女を押し付けます。おそらく彼女は泣きながら、その目には恐怖が溢れていたことでしょう。

すると、一人のパリサイ人がこう言いました。

先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。(ヨハネの福音書8:4-5)

しかし、イエス様が彼らの目を見たとき、その心を見抜かれました。彼らは、その女性の罪に驚き、どうすればよいかわからなくて困っていたわけではありませんでした。

むしろ、彼らはイエス様に何か言わせて、罠に陥れようと考えていたのです。

例えば、イエス様が「彼女に石を投げなさい」と言えば、彼らはその言葉をローマ人たちに伝えていたでしょう。なぜなら、ローマ帝国の律法では、死刑を執行できるのはローマ政府だけだったからです。

また、イエス様が「罪人の友達」として知られていたにもかかわらず、そのような言葉を発したなら、罪人たちはイエス様を遠ざけたかもしれません。

一方で、イエス様が「その女性を逃せ」と言えば、パリサイ人たちは「イエス様はモーセの律法に反対している」と非難できたでしょう。その結果、人々はイエス様の言葉を信じなくなった可能性があります。

いずれにせよ、イエス様は彼らに直接答えず、指で地面に何かを書き始められました。つまり、イエス様は彼らを無視されたのです。

当然、彼らは腹を立て、イエス様に向かって叫びました。「おい、私たちを無視するな。答えろ。この女性は重大な罪を犯したのだ。どうすればいいか答えろ。」

ついに、イエス様は立ち上がり、彼らにこうおっしゃいました。「それなら、彼女に石を投げなさい。」

おそらく、これを聞いて彼らは微笑み始めたかもしれません。しかし、イエス様は続けてこう言われました。

あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。(7)

そして、イエス様はもう一度地面に書き始めました。何を書いたのでしょうか。

私はわかりませんが、時々「書く」という言葉には、「人の罪を書き留める」というニュアンスがあります。だから、もしかしたらイエス様は彼らの名前と罪を書き留められたかもしれません。

もし、誰かが皆の前であなたの名前と隠した罪を書き留めたら、あなたはどうしますか。おそらく、パリサイ人たちや律法学者たちのように、あなたは逃げるでしょう。

結局、その女性だけがイエス様の前に残りました。そしてイエス様は彼女にこう訊ねられました。

婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。(10)

彼女が目を上げると、誰もいませんでした。彼女は驚いて、こう答えました。

{主よ。}だれもいません。(11)

おそらく、イエス様は微笑まれました。そして、イエス様はこう言われました。

わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。(11b)

時々、私たちは鏡をのぞくと、こう思います。「どうして神様は私のことを愛しているだろうか。どうして私を受け入れるだろうか。」

なぜなら、私たちは自分の罪を目にし、私たちの人生はめちゃくちゃだからです。

けれども、イエス様は私たちにこう言われます。「わたしはあなたを罪に定めない。」

それだけではなく、イエス様はこう言われます。

「あなたの後悔に浸るな。いつも振り返るのをやめなさい。あなたはもう赦されたから。

そして、あなたの人生を壊した罪を捨てなさい。行きなさい。私はあなたの人生のすべてを新しくします。私の死によって、あなたには新しい人生があります。その新しい人生を送りなさい。」

あなたの後悔で思い詰めているでしょうか。あなたに対する神様の愛と赦しを疑うでしょうか。この言葉を覚えていてください。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。」

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5:17)

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章 ルカの福音書 ルカ9章

裁きの時間。憐れみの時間。

前回の記事でも書きましたが、私たちが真理を伝えると、私たちを憎む人もいます。

とはいえ、真理を伝えると同時に、私たちの態度と言葉遣いに注意しなくてはなりません。

この箇所では、その理由をはっきり見ることができます。

仮庵祭りのため、イエス様の兄弟たちは先にエルサレムへ向かいましたが、イエス様はしばらくとどまられました。どのくらい待たれたのかは分かりませんが、結局イエス様もエルサレムへ向かわれました。

この時から、イエス様のミニストリーのほとんどはユダヤとエルサレムで行われました。そして、十字架で死なれるまで、あと6っか月ほどの時間しか残されていませんでした。

けれでも、エルサレムへ向かう前に、イエス様は再びサマリヤを通ることを選ばれました。イエス様は以前に一度サマリヤを訪れ、そのとき多くのサマリヤ人がイエス様を受け入れ、信じました。(ヨハネ4章)

ところが、今回は、サマリヤ人たちはイエス様を拒絶しました。その理由は、イエス様がエルサレムへ向かっていたからです。

サマリヤ人とユダヤ人の間にはまだ深い敵意が残っていました。サマリヤ人たちはユダヤ人の祭りで歓迎されることがなかったため、イエス様がその祭りへ向かうと知ると、彼らはイエス様を拒絶したのです。

イエス様の弟子たちは、このサマリヤ人たちの反応を見て激怒しました。サマリヤ人たちはイエス様から何も受けるに値しないのにもかかわらず、イエス様は彼らを訪ねようとされました。それにもかかわらず、サマリヤ人たちはイエス様を拒絶したのです。

他の町に住むサマリヤ人たちがイエス様を受け入れたことで、弟子たちは彼らに対して寛容な態度を取るようになりました。

けれども、この町の人々がイエス様を拒絶したとき、ヤコブとヨハネはイエス様にこう申し出ました。

主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。(ルカの福音書9:54)

おそらく、彼らはエリヤの話を思い浮かべていたのでしょう。エリヤが軽蔑されたとき、天から火を呼び下し、その人々を滅ぼしたという出来事です。(列王記第二1章)

しかし、イエス様は彼らを叱責されました。

なぜでしょうか。おそらく、裁きの時はまだ来ていなかったからです。イエス様は人々を救うために来られました。(ヨハネ3:17)

私たちは、イエス様の心を持つべきです。もちろん、イエス様を拒絶する人々に対して、いつか裁きの日が来ます。

とはいえ、その日はまだ来ていません。その日が来るまで、私たちは彼らの救いのために祈り、働く必要があります。そして、愛をもってイエス様が与えてくださった真理を伝えなければなりません。そのとき、神様の恵みによって人々は救われるのです。

周囲の人々の罪がどれほど酷くても、彼らが滅びることを私たちは喜ぶべきではありません。

イエス様もそのようなことを喜ばれません。彼らが永遠の命を得るために、イエス様は十字架で命を捧げられたのです。

罪人に対して、私たちはイエス様の心を持っているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:なんとしても

私の一番好きなスポーツチームは、アメリカンフットボールのピッツバーグ・スティーラーズです。

1970年代にスティーラーズの監督が好んで使った標語は、「何としても」というものです。つまり、「何としても、勝たなければならない。」という意味でした。

イエス様にも、似たような態度がありました。けれども、イエス様は勝負について話されたのではありません。むしろ、罪について語られました。簡単に言えば、イエス様は「何としても、罪をあなたの人生から追い出しなさい。」と教えたのです。

イエス様はこう言われました。

もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。

もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。(マタイの福音書5:29-30)

ある人々は、この言葉を文字通りに解釈しますが、それはイエス様が意図された意味ではありません。イエス様は、あなたが自分の目や手を捨てることを望まれているのではありません。

イエス様が意味されたのは、私たちが罪について真剣に考えるべきだということです。けれども、多くの場合、私たちは罪を軽く考えます。

私たちは、「大丈夫。神様は赦してくださる」と考えます。山上の垂訓でのイエス様の教えに反して、私たちは自分の罪を嘆きません。むしろ、悔い改めることなく罪を犯し続けます。

しかし、イエス様が十字架で死なれた理由は私たちの罪のためです。自分の罪のため、人々は地獄に行きます。イエス様に出会う前、私たちは自分の罪のために地獄に行くことに値していました。

どうして、私たちは自分の罪を軽く考え、悔い改めることなく罪を続けることができるでしょうか。

だからこそ、イエス様は「何としても、罪を捨てなさい」と教えます。では、どうやって罪を捨てることができるのでしょうか。

1.祈り。 私たちには、自分の力で罪に勝つことはできません。神様の力が必要です。

2.できるだけ誘惑を避けること。 例えば、アルコール依存の問題がある場合、バーなどに行かない方が良いでしょう。情欲の問題がある場合は、インターネットの利用に注意し、ポルノを販売している場所を避けるべきです。

3.クリスチャンの友人に問題を伝えること。 その人に祈りを頼み、時々その罪についてチェックしてもらうようにお願いするべきです。

ヤコブはこう書いています。

ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。(ヤコブ5:16)

あなたの罪を軽く考えないでください。イエス様は決してそのようにはされませんでした。あなたの罪のために、イエス様は十字架で死なれたのです。

ですから、神様が聖であるように、あなたも聖でなければなりません。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:悲しむ人

私は、山上の垂訓についてのメッセージを多く聞き、聖書の解釈書も数多く読んできました。そして、多くの聖書学者や牧師たちによれば、この箇所の意味は、「自分の罪を嘆く人は幸いである」ということです。

もちろん、その解釈は「心の貧しい者」という概念と一致しています。(マタイの福音書5:3)つまり、私たちは自分が霊的に破産している者であることを認め、その罪を嘆くのです。

実は、罪を嘆くことは時として良いことでもありますが、悪いことでもあります。もし、その嘆きの結果が悔い改めであれば、それは命に至ります。ところが、もしその嘆きが絶望へと導くのであれば、それは死に至ります。

ペテロとユダの話を考えてみましょう。ペテロは悔い改めたことで、命を見出しました。その一方、ユダは絶望し、自ら命を絶ってしまいました。

ですから、私たちの嘆きがどこへ向かうのかを考える必要があります。

嘆きは神様とその恵みへと導くものでしょうか。

それとも、私たちは自分自身の過ちや失敗に焦点を当てすぎてしまうでしょうか。

もし、私たちが神様とその恵みに焦点を当てるなら、神様の慰めを受けることができます。

しかし、自分自身の過ちばかりに焦点を当ててしまうなら、絶望へと向かいます。

とはいえ、この箇所でイエス様が「罪を嘆くこと」について話されたかどうか、私は確信がありません。

もちろん、私たちは罪を嘆くべきです。とはいえ、罪によって壊れたこの世界を嘆くこともあります。

私たちが愛する人が病気になったり、亡くなったりすると、深い悲しみに襲われます。

また、人々が互いに傷つけ合うのを見て、嘆くこともあります。

戦争や飢餓、苦しみを目の当たりにすると、絶望を感じるのは自然なことです。そして、未来に希望があるのかどうか、疑念が湧いてきます。

けれども、もう一度問いかけます。それらの出来事を見たとき、私たちはどこに焦点を当てるべきでしょうか。

もし、自分自身に焦点を当てるならば、絶望へと向かいます。なぜなら、私たちにはこれらのひどい状況を変える力がないからです。

しかし、もし私たちが神様に焦点を当てるなら、希望へと導かれます。なぜなら、神様は私たちの状況や問題よりも遥かに偉大な方であり、壊れたものを回復させることができるからです。

神様は、壊れた人間関係を回復させることができます。崩れた結婚を再生させることができます。失われた希望をよみがえらせることができます。そして、霊的に死んだ人を新しく生かすことができます。

あなたは、自分の罪のために人生が壊れていると感じていますか。あなたの傷や、周りの人々の傷を見て、嘆いていますか。

自分自身の弱さだけを見つめるのではなく、むしろ死んだものを回復させることができる方を仰ぎ見てください。そうすれば、あなたは神様の慰めを受けることができます。

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イエス様を悲しませる?

私たちがこの三つの箇所をまとめると、この話全体を理解することができると思います。

イエス様は会堂におられ、片手のなえた人をご覧になりました。同時に、イエス様はパリサイ人たちと律法学者たちの存在にも気づかれました。そして彼らは、イエス様がその人を安息日に癒やすかどうかをじっと見守っていました。(マルコ3:1-2)

イエス様は、彼らの思いをよく知っておられました。そのため、イエス様は片手のなえた人を呼ばれました。その時、そのリーダーたちはイエス様にこう尋ねました。

安息日にいやすのは正しいことでしょうか。(マタイ12:10)

イエス様は、いつものように、質問で答えられました。

あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。(ルカ6:9)

もちろん、そのリーダーたちはその質問に答えることができませんでした。

もし彼らが「安息日に善を行うのはだめです」または「命を救うのはだめです」と答えたなら、彼らは愚か者と見なされたでしょう。

しかし、もし彼らが「善を行ってもよいです。命を救ってもよいです。」と答えたなら、イエス様は「よし、この人を癒やします」と言われたことでしょう。

さらに、彼らはもちろん「悪を行うのは良いです」または「命を失うのは良いです」と全く言えませんでした。

そのため、彼らはずっと沈黙を守り続けました。英語のことわざには真理があると思います。「Better to remain silent and be thought a fool than to speak and to remove all doubt.」

つまり、「黙っていることで周りの人々に愚か者だと思われる方が、言葉によってそれがはっきり知られるよりも良いです。」ということです。

ルカはイエス様が彼らの答えを待っていたと記していますが、マルコはさらに詳しい情報を教えてくれます。

イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆き[ました。] (マルコ3:5)

だから、イエス様は、彼らにもう一つの質問を投げかけられました。

あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。(マタイ12:11-12)

つまり、「あなたは自分の羊を助けるでしょう。どちらの方が大切でしょうか。羊でしょうか、人間でしょうか。もし、人間の方が大切であるなら、どうして私が安息日に人を癒やすと、あなたたちは私を責めるのでしょうか。」

こうして、イエス様はご自身の疑問に答えられました。

それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。(マタイ12:12b)

そして、イエス様はその人を癒やされました。

この話には皮肉な点があります。イエス様は彼らに「安息日にしてよいのは、いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」と尋ねられました。

そのリーダーたちは、この出来事の後、イエスをどのようにして殺すかを相談し始めました。彼らは安息日にそのことを考え始めたのです。(マルコ3:6)

けれども、もう一つのことが私の心に深く響きます。

イエス様は彼らの頑なな心をご覧になり、嘆かれました。彼らの伝統と律法主義的な考え方によって心が固くなりすぎていたため、神様の言葉と真理がその心を貫くことはできませんでした。

彼らは心の中で、自分たちが間違っていることに気づいて、沈黙しました。それでも、自分たちの間違いを認めることはありませんでした。

あなたはどうでしょうか。神様に対して頑なな心を持っていませんか。

もしかすると、あなたの行動や思いが間違っているために、神様が語りかけておられるのかもしれません。そして、その言葉を通して、自分の誤りに気づき、変わらなければならないと示されることもあります。

それでもなお、自分の間違った考えや罪にしがみついてしまうでしょうか。もしそうなら、あなたは神様を悲しませてしまうことになります。

なぜなら、神様はあなたの最善を望んでおられるからです。けれども、罪によってあなたは神様だけでなく、周りの人々、そして自分自身をも傷つけてしまいます。

だから、あなたの心を開いてください。神様のみ言葉を受け入れてください。そして、私たちのために死なれたイエス様を悲しませることのないようにしましょう。むしろ、イエス様を喜ばせましょう。

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赦しの権威

イエス様は誰でしょうか。ただの偉い宗教的なリーダーだったのでしょうか。ただの良い人だったのでしょうか。それとも、奇跡を行う人だったのでしょうか。いや、イエス様はそれらをはるかに超えたお方だったのです。

この箇所を通して、私たちはイエス様がそうしたお方であることを理解できます。イエス様はカペナウムに戻られました。(その頃、イエス様の家はカペナウムにありました。(マタイ4:13))

この話では、イエス様がその日ご自分の家におられたかは定かではありませんが、イエス様がおられた家は人々でいっぱいでした。おそらく、窓の外からも大勢の人が覗き込み、イエス様の言葉を聞こうとしたのでしょう。

そして、四人の人たちが足が不自由な友達をその家に連れて行き、癒しを求めました。けれども、人があまりにも多く、家の中に入ることができませんでした。

そこで彼らは工夫して、クリエイティブな方法を考えました。彼らは屋根をはがし、穴を開け、その穴から友達を寝かせたまま床に吊り下ろしました。

そのシーンを想像してみてください。イエス様が教えている最中、突然屋根から奇妙な音がし始めます。

そして、急に屋根の破片が落ちてきて、人々は逃げようとしましたが、家が人でいっぱいだったため、逃げるのが難しい状況でした。

結局、人々は家から出て、スペースを空けました。当然ながら、イエス様の説教は中断されました。そして、皆は何が起こるのか気になり、じっと見守っていました。

やがて、足が不自由なその人がイエス様の足下に運ばれてきました。多分、皆はイエス様がその人をすぐに癒やすと期待していたでしょう。ところが、イエス様は意外なことを言われました。

子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。(マタイ9:2)

多分、その落ちた屋根の破片よりも、その言葉がさらに強い衝撃を与えたことでしょう。皆は静まり返りました。そして、パリサイ人と律法の学者が、皆の心に浮かんだ思いを代弁しました。

神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。(ルカ5:21)

つまり、「イエス様には罪を赦す権威がないでしょう。神様だけが罪を赦すことができます。」

彼らの言うことの半分は確かに正しいことでした。

もちろん、罪を赦すことができるのは神様だけです。傷つけられた方だけが、相手を赦すことができるのです。

しかし、彼らが理解していなかったのは、神様ご自身が彼らの間に立っておられたということです。イエス様は神なので、罪を赦す権威をお持ちです。

そして、イエス様はその人の癒やしを通して、その赦す権威を明確に示されました。

イエス様は、ただの宗教的なリーダーではありません。ただの良い人でもありません。また、ただの奇跡を行う人でもありません。イエス様において、神様は人間となられたのです。

イエス様はこの世に来られ、私たちと共におられました。そしてその後、私たちの罪のために十字架で死なれました。その御業を通して、神様は私たちの罪を赦すことができるのです。

イエス様は、その人を赦し救われたように、あなたをも赦し救ってくださいます。あなたがイエス様に祈るなら、必ず応えてくださいます。

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ヨハネの福音書 ヨハネ3章

福音のもう一つの側面

多分あなたはもうご存じかもしれませんが、「福音」という言葉は「良い知らせ」という意味です。

しかし、私たちが「悪い知らせ」を知らなければ、その「良い知らせ」を本当に理解することはできません。その悪い知らせとは何でしょうか。

[イエス様を]信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:18b)

最初の人間アダムの時代から、すべての人々は神様のみ前で裁きを受けることとなりました。なぜでしょうか。それは、私たちが皆、神様を信頼せずに神様に背を向け、自分の道を選んだからです。

では、なぜそれがそれほど重大な問題なのでしょうか。

使徒パウロがその答えを教えています。

罪から来る報酬は死です。(ローマ6:23)

私たちは「死刑囚となるかもしれない」という状態ではありません。実際には、私たちはすでに死刑囚なのです。なぜなら、私たちは皆罪を犯し、すでに裁きを受けたからです。

そのため、17節にはこう書かれています。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではな[い]。

なぜヨハネは、「イエス様はこの世に私たちを裁くために来られたのではない」と言うことができたのでしょうか。それは、イエス様がこの世に来られる以前に、私たちはすでに裁かれていたからです。

これが福音のもう一つの側面です。とはいえ、多くのクリスチャンはこの側面についてあまり語りたがりません。

もしあなたがイエス様を信じないのなら、将来神様に裁かれるというわけではありません。あなたはすでに裁かれているのです。

私たちはこのことをどのくらい深く考えているでしょうか。今、あなたの家族や友人、そして同僚がイエス様を知らないのであれば、彼らはすでに裁かれています。もし、あなたがイエス様を信じないのであれば、あなたもまた神様に裁かれているのです。

これは本当に恐ろしい事実です。けれども、幸いにも、素晴らしい良い知らせがあります。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(3:16-17)

私たちが神様に背を向けたにもかかわらず、神様は私たちを変わらず愛しておられました。だからこそ、神様はイエス様をこの世に送り、イエス様は十字架の上で私たちの罪の罰を引き受けてくださいました。

そのため、今、神様はあなたに問いかけておられます。「私を信じ始めますか。私の子イエスと、その十字架での働きを信じますか。」

あなた自身と、あなたが愛している人々は死刑囚であるかもしれません。そして、解放される方法はただ一つしかありません。赦される道もただ一つです。それはイエス様を信じることです。

ヨハネはこう記しています。

御子を信じる者はさばかれない。(18a)

イエス様とその十字架での働きを信じるなら、神様はあなたを赦してくださいます。その赦しは私たちの良い行動によるものではありません。むしろ、それはイエス様の十字架での働きによるのです。

神様はそれを見て、私たちにこう語られます。「私の子イエスがあなたの罪の罰を支払いました。だから、私はあなたを裁きません。」

実際のところ、神様がこれを語られる時、それは将来のことだけを指しているのではありません。今この瞬間においても、神様の前であなたは裁かれていないのです。

使徒パウロはこう述べています。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

しかし、もしあなたがイエス様を拒絶するなら、あなたはすでに死刑囚なのです。そして、裁きの日が次第に迫っているため、ヨハネはあなたにこう語っています。

[イエス様を]信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:18b)

あなたはどうしますか。

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箴言

簡単に騙される

私の娘が保育園に通っていたころ、運動会に行きました。「釣り」をする競技があって、子供たちは「釣り場」まで走って、プレゼントを捕まえようとしました。実を言うと、そこにいる先生がそのプレゼントをフックに付けてくれました。

アメリカでは、ボウルにいる金魚を捕まえるゲームがありますが、その運動会のゲームはもっと簡単でした。私の娘はほとんど何もしませんでしたが、そのプレゼントを捕まえることができました。

とにかく、英語では、「It’s like catching goldfish」、つまり「金魚を捕まえるようだ」という表現があります。その意味は「それをすることはとても簡単。」ということです。

多くの人々はその金魚のようです。そして、悪魔が彼らを騙して、引っ掛けるのは本当に簡単です。ソロモンはこの箇所で、例を挙げています。

ある若い男性がすぐにトラブルに陥りました。なぜでしょうか。

一つの理由は彼が思慮に欠けたからです。彼はずっとわきまえのない者たちと一緒に遊びました。その友達も道徳観念がなかった。そして、彼は現在のために生きて、将来を全然考えませんでした。

二つ目の理由は、彼が怠け者だったからです。また彼は深夜にうろついて、退屈していました。彼は全然予定がなかったので、不倫の女性の計画にすぐに従ってしまいました(8-9)。

彼女は家を出て、人前で厚かましく彼に口をつけ、こう言いました。「私の夫は出張中です。明日まで帰りません。私はあなたをずっと見ていて、待っていました。あなたのためにすべてを整えました。食事とか、私のベッドとか。」

14節では、彼女は「和解のいけにえをささげた」と語っています。それは神様との平和の象徴であり、神様への感謝のしるしでもありました。

この儀式の一部には、いけにえの肉を持ち帰り、家族とともに祝って食べるという習慣が含まれていました。

そのような神聖な感謝の食事を用いて、この女性は若い男性を誘惑しようとしたのです。本来なら、神様への感謝をもって夫と共に分かち合うべきものでした。

その男性はわきまえのない人だったので、彼はほふり場に引かれる牛のように彼女の家に入りました。

ソロモンは彼がその罪に落ちて、自分の命がかかると言いました。なぜなら、その主人がその罪を知ったら、多分彼を殺すからです。その主人が決して知ることがなくても、神様はきっとその男性を裁かれます。

だから、ソロモンは自分の息子に警告します。

あなたの心は、彼女の道に迷い込んではならない。

その通り道に迷ってはならない。彼女は多くの者を切り倒した。

彼女に殺された者は数えきれない。彼女の家はよみへの道、死の部屋に下って行く。(箴言7:25-27)

どうやって、私たちはその男性の運命を避けることができるでしょうか。

まず、神様の知恵を求めましょう。その知恵をあなたの仲間にしましょう。ソロモンはこう言いました。

知恵に向かって、「あなたは私の姉妹だ」と言い、悟りを「身内の者」と呼べ。(4)

二つ目は、怠けてはいけません。目的がなくて、町中でうろついたら、トラブルを招きます。退屈は多くの人々を罪に導きます。多分、あなたはそのことをもうご存知かもしれません。

最後に、罪から逃げましょう。罪は魅力的に見えるかもしれませんが、神様の言葉を知っているなら、その罪が悪いものであることがすぐに分かります。

だから、罪を見ると、すぐに逃げましょう。そうしないと、誘惑がもっと強くなって、あなたはその誘惑に負けるかもしれません。

私たちがわきまえのない人にならないように。むしろ、知恵の道を歩んで、主を恐れましょう。

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詩篇

神様に聞き従いさえすれば

詩篇81篇の最初で、詩人は私たちを神様を礼拝するために招いています。

われらの力であられる神に喜び歌え。ヤコブの神に喜び叫べ。

声高らかにほめ歌を歌え。タンバリンを打ち鳴らせ。六弦の琴に合わせて、良い音の立琴をかき鳴らせ。(詩篇81:1-2)

多分、この詩篇は祭りのために書かれたのだと思います。

神様の律法で、神様はイスラエル人がさまざまな祭りを祝うように命じられました。過ぎ越しの祭りと仮庵の祭りは特に大切な祭りでした。

過ぎ越しの祭りは、神様がどのようにイスラエル人をエジプトから救い出してくださったかを記念してお祝いしました。

仮庵の祭りは、神様がイスラエル人を砂漠を通って導いてくださったことを記念してお祝いしました。

どうして神様はその祭りを祝うように命じられたのでしょうか。それは、イスラエル人が神様が彼らのために何をしてくださったかを忘れないためです。

この詩篇では、詩人はそのことを思い出して歌います。

私は、まだ知らなかったことばを聞いた。

「わたしは、彼の肩から重荷を取り除き、彼の手を荷かごから離してやった。

あなたは苦しみのときに、呼び求め、わたしは、あなたを助け出した。わたしは、雷の隠れ場から、あなたに答え、メリバの水のほとりで、あなたをためした。(5-7)

しかし、私たちは神様の心の叫びも聞きます。

聞け。わが民よ。わたしは、あなたをたしなめよう。イスラエルよ。よくわたしの言うことを聞け。

あなたのうちに、ほかの神があってはならない。あなたは、外国の神を拝んではならない。

わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。(8-10)

また、

ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。

わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。」。。。

わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。(13-14,16)

つまり、「もしあなたが私に聞き従いさえすれば、私はあなたを祝福し、あなたのニーズに備え、あなたのために戦います。」

ところが、神様は言い続けられます。

しかしわが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。

それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せ、自分たちのおもんぱかりのままに歩かせた。(11-12)

神様は私たちを祝福したいと望んでおられます。私たちの人生に素晴らしいことをしてくださろうとしています。けれども、もし私たちが自分の道を行きたいなら、神様は私たちに行かせます。

しかし、そうすれば、私たちの人生は悲しくなるし、神様も悲しまれます。

あなたはどうするでしょうか。あなたの耳を開き、神様に聞き従うでしょうか。そうすれば、あなたは祝福されます。けれども、頑固な心を持ち続けたら、破壊に導かれます。

それはあなたの選択です。あなたはどうしますか。

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ダニエル書3

自分の罪によってあなたの人生が壊れた時

ペルシアがバビロンを打ち破った後、ダニエルはエレミヤの預言を思い出しました。それは、イスラエルの追放が70年間続くというものでした。その70年が過ぎたとき、ダニエルは神様の前に跪き、祈りを捧げました。

実際、他のイスラエル人と比べると、ダニエルは正しい人でした。彼は一貫して神様に忠実であり、それほど悔い改める必要がありませんでした。

それでもなお、イスラエル人のために祈るとき、ダニエルは「私は正しい人だからイスラエル人のために祈ります」とは言いませんでした。むしろ、自分の罪を認め、神様の恵みの必要性を訴えました。

ダニエルはこの祈りを通して、私たちの人生が罪によって壊れたとき、どのように祈るべきかを教えてくれます。

第一に、ダニエルは言い訳をせず、正直に自分の罪を告白することです。彼はこのように祈りました。

私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行ない、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました。

私たちはまた、あなたのしもべである預言者たちが御名によって、私たちの王たち、首長たち、先祖たち、および一般の人すべてに語ったことばに、聞き従いませんでした。(ダニエル書9:5-6)

第二に、ダニエルはユダヤ人が抱えるトラブルの原因を神様のせいにせず、彼ら自身の責任を認めることです。

イスラエル人はみな、あなたの律法を犯して離れ去り、御声に聞き従いませんでした。そこで、神のしもべモーセの律法に書かれているのろいと誓いが、私たちの上にふりかかりました。私たちが神に罪を犯したからです。

神は、大きなわざわいを私たちにもたらすと、かつて私たちと、私たちをさばいたさばきつかさたちに対して告げられたみことばを、成就されたのです。(ダニエル書9:11-12)

第三に、ダニエルはイスラエル人ではなく、神様こそが正義の方であることを認めることです。

私たちの神、主のみわざは、すべて正しいのです。私たちが、御声に聞き従わなかったからです。(ダニエル書9:14)

最後に、ダニエルはユダヤ人の良い行いに基づくのではなく、神様の恵みに基づいて赦しを願うことです。

私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。

主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。(ダニエル書9:18-19)

私たちの人生が罪によって壊れるとき、私たちはしばしば自分自身を責めるのではなく、周りの人々を責めます。

時には神様さえも責めることがあります。「あなたは不公平です。どうして私の人生はこんなにもめちゃくちゃになったのですか?」と文句を言うこともあります。

たとえ自分が悪かったと認めたとしても、私たちはよく自分の行動を弁解しようとします。

しかし、そのような態度を持ち続けるなら、私たちの人生は壊れたままで、神様の赦しを知ることは決してありません。むしろ、苦々しい心だけを抱くことになるでしょう。

もし赦しと癒しを知りたいなら、ダニエルのように祈るべきです。言い訳をせず、正直に神様に「私は悪かった。私は罪を犯しました」と告白することが必要です。

また、「神様、あなたは不公平です。だから私の人生はめちゃくちゃになったのです」と言うのではなく、自分の責任を認めることが大切です。

さらに、神様の判断が正しいと認めるべきです。

そして、神様の憐れみによってのみ、神様の赦しを願うべきです。私たちは神様の赦しに値する存在ではありません。神様の憐れみを得るために何かをすることはできません。ただへりくだって神様に頼ることしかできません。

そうすれば、神様がイスラエルの人々を触れて癒されたように、私たちの人生にも触れて癒してくださいます。

あなたはどうでしょうか。あなたの罪によって、あなたの人生は壊れているのですか。神様を責めていますか。他の人々を責めていますか。

今こそ、自分の責任を認め、罪を告白する時です。そうすれば、神様の赦しと癒しを知ることができるでしょう。

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エゼキエル書

どうやって私は生き続けることができるの?

この箇所では、エゼキエルは以前のテーマを繰り返して言っています。

神様はもう一度エゼキエルに警告されました。

「私があなたに『このメッセージを伝えなさい』と言うとき、あなたは決して黙っていてはいけません。なぜなら、もしあなたが何も言わず、その人が自分の罪によって死ぬなら、彼の血の責任をあなたに問うことになるからです。」

その後、神様はエゼキエルにイスラエルの民が言っていることを教えられました。

私たちのそむきと罪は私たちの上にのしかかり、そのため、私たちは朽ち果てた。

私たちはどうして生きられよう。(エゼキエル書33:10)

私たちはよく同じようなことを言います。私たちを束縛している自分自身の罪を見ますが、文句を言います。

「私の罪のせいで、私の人生はめちゃくちゃになってしまった。神様が私を罰しておられるでしょう。神様がこんなにも私に反対しているなら、どうやって私は生き続けることができるのでしょうか。」

けれども、神様はイスラエルの民にこう言われました

わたしは誓って言う。――神である主の御告げ――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。

悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。(11)

神様は私たちにこう言われます。「私があなたの苦しみを見ることを喜ぶと思うのですか。人々が地獄に行くとき、私がそれを喜ぶと思うのですか。

そうではありません。悔い改めなさい。私がその苦しみを許す理由は、あなたが悔い改めることを望んでいるからです。なぜあなたはその死の道を歩み続けるのですか。」

ところが、イスラエルの民は神様の言葉に耳を傾けませんでした。

彼らはエルサレムの没落について聞きましたが、それでも自分たちの努力を通じていつかイスラエルに戻れると信じていました。

そこで、神様は彼らにこう言われました。「あなたがたは自分の力によって帰国することはできない。もしあなたがたが私に背き続けるならば、あなたがたは死ぬことになる。」

そして、神様はエゼキエルにこう言われました

彼らは群れをなしてあなたのもとに来、わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。しかし、それを実行しようとはしない。

彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている。

あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌われる恋の歌のようだ。彼らはあなたのことばを聞くが、それを実行しようとはしない。(31ー32)

彼らは神様の御言葉を聞きたがり、神様を礼拝したいふりをしていました。しかし、彼らの心は神様から遠く離れていました。

彼らにとって、エゼキエルの言葉はただのエンターテインメントに過ぎませんでしたが、その言葉には従いませんでした。

時々、人々は同じような態度を持って教会に行きます。彼らはショーを観たい、楽しい時間を過ごしたいと思っています。教会で良い気分になれるから行くのです。

けれども、彼らが神様の御言葉を聞いても、その言葉に従うことはありません。その結果、彼らは生きているように見えても、罪によって霊的に死んでいるのです。

そして、いつか裁かれる日が来るでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたの罪のせいで苦しんでいるのではありませんか。

神様はあなたが滅びることなく、救われることを望んでいます。神様はあなたが罪から解放され、真の命を見つけることを望んでおられるのです。

2000年前、イエス様は十字架であなたの罪のために死なれました。そして、3日目にイエス様はよみがえられました。だから今、イエス様はあなたに赦しと永遠の命を提供しておられます。

神様はあなたの心を見通しています。たとえ神様に従うふりをしても、神様を欺くことはできません。神様はあなたの罪をすべて知っておられるのです。

だからこそ、悔い改めて、神様に従う生活を始めませんか。

イエス様、私の罪のせいで私の人生はめちゃくちゃになっています。私は自分の道を選んで歩んだために、今苦しんでいます。どうか私を赦してください。

あなたが私の罪のために死なれたことを信じます。私の心を清め、私を変えてください。そして、私の人生を新しくしてください。どのように生きれば良いか教えてください。

これからはあなたに従って生きたいと思います。アーメン。

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エレミヤ書 列王記第二 歴代誌第二

没落の理由

この箇所は少し特別です。つまり、同じ出来事が聖書の4つの箇所に記されています。それはエルサレムの没落です。

おそらく、エレミヤは52章を書いたわけではありません。それは別の人が記した付録のようです。エレミヤ書52章と列王記の記述はほとんど同じです。

ゼデキヤ王は神様の御名によって、バビロンのしもべになることを誓いました。けれども、彼がその約束を破ったため、ネブカデネザルが軍隊を送ってエルサレムをおよそ2年にわたり包囲しました。

その結果、エルサレムの食料は徐々になくなり、最終的にエルサレムは陥落しました。

ゼデキヤは逃げようとしましたが、捕らえられました。彼の息子たちは殺され、その後、彼の目がつぶされました。

そしてネブカデネザルは大祭司、次席祭司、そしてユダの長老たちを殺しました。

バビロン人は主の宮から価値のあるものをすべて取り去り、宮、宮殿、エルサレムの家々をすべて焼きました。

なぜ、神様はそのようなことを許されたのでしょうか。

歴代誌第二には、その理由が記されています。

彼「ゼデキヤ」はその神、主の目の前に悪を行ない、主のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。。。

そのうえ、祭司長全員と民も、異邦の民の、忌みきらうべきすべてのならわしをまねて、不信に不信を重ね、主がエルサレムで聖別された主の宮を汚した。

彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。

ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。(歴代誌第二36:12-16)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。なぜエルサレムは滅びたのでしょうか。

一つ目の理由は、ゼデキヤ王とその民が主の目の前で悪を行ったことです。私たちが悪を行えば、私たちの人生にも悪い結果が起こります。

二つ目の理由は、彼らが神様の言葉を聞いたとき、へりくだって悔い改めなかったことです。むしろ、彼らの心はさらに堅くなり、ますます悪化しました。

三つ目の理由は、彼らが周囲の国々の宗教的な忌み嫌われるならわしを真似して、神様の宮を汚したことです。

最後の理由は、彼らが神様の言葉を侮り、神様の預言者たちを嘲笑したことです。その結果、彼らの癒しはもはや不可能なものとなりました。

時に、私たちの心もあまりにも堅くなり、悔い改めることができなくなることがあります。しかし、悔い改めなければ、癒しも得られません。

あなたはどうでしょうか。どの道を進んでいますか。あなたは悔い改めることなく罪を犯し続けていますか。もし神様が聖書や日曜日のメッセージを通してあなたを責められたとき、あなたはその言葉に心を閉ざしてしまうでしょうか。

周りの人々の宗教的な習慣や教えに従って、聖霊の宮、つまりあなたの体を汚してしまっていませんか。(第一コリント6:19)

また、この世の神々、すなわちお金やセックス、持ち物を求めていませんか。それらも聖霊の宮を汚すことがあります。

さらに、あなたは神様の言葉を侮り、神様の使者を嘲笑してはいませんか。

これらのことによってエルサレムは滅びました。そして、これらのことによってあなたも倒れるでしょう。

もしあなたが真のクリスチャンであれば、救いを失うことはありませんが、人生は崩壊してしまいます。

神様はあなたに良い計画を用意されていますが、あなたはその計画を知ることができません。充実した人生ではなく、後悔に満ちた人生を送ることになるでしょう。

私たちはイスラエルのようにならないようにしましょう。むしろ、神様に対して柔らかい心を保ちましょう。そうすることで、真の命を見つけることができます。

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エゼキエル書

神の御前に申し開きするとき

この箇所では、私たちは重要な真理を学ぶことができます。すなわち、私たち全員がいつか神の御前で申し開きをしなければならないということです。

エゼキエルの時代、イスラエルの人々はこのことわざを引用して、文句を言いました。

父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。(エゼキエル18:2)

つまり、「私たちは先祖の罪のために苦しんでいます。どうして私たちは、彼らの罪のために罰されているのでしょうか。」

けれども、神様は彼らにこう答えられました。

わたしは誓って言う。――神である主の御告げ――あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。

見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。(3-4)

時々、私たちは両親の罪や他の人の罪によって被害を受けることがあるかもしれません。それでも、私たちすべての人間は、自分の行動に対して責任を持たなければならないのです。

例えば、両親に虐待された人がいるかもしれません。その両親の行動によって、彼らは肉体的にも精神的にも苦しむことになります。

とはいえ、それに対する反応は自分自身の責任です。彼らは自分の子供に対して両親の罪を犯し続けるでしょうか。それとも、その罪を止めるでしょうか。

神様はイスラエルの人々に対して多くの仮定の質問をされました。

「もし、正しい人に悪い息子がいたら、私はその息子を正しい人として認めるでしょうか。違います。私はその息子を父の行動のために祝福せず、彼を罰します。」(5-13)

「しかし、悪い人に息子がいる場合、その息子が父の罪を見ても、彼はその罪を拒絶して正しい人生を歩むなら、私はその息子をその父の罪のために罰するでしょうか。

違います。その父は自分の罪のために死にますが、その息子は生きます。」(14-18)

また、「もし悪い人が悔い改めて正しいことをし始めたなら、その人は以前の罪のために死ぬでしょうか。違います。私はその人を赦し、哀れみます。」(21-22)

けれども、「正しい人が義の道から離れてしまったら、その人は生き続けるでしょうか。違います。その人は死にます。」(24)

ユダの王たちの歴史を見ると、このパターンをよく目にします。

例えば、アサ王は義の道から離れ、罪を犯し始めたため、苦しみの中で死にました。

しかし、彼の息子ヨシャパテは父の罪から離れ、良いことを行ったので、神様に祝福されました。

けれども、ヨシャパテの息子ヨラムは父の義の道から離れたため、苦しみの中で死を迎えました。

また、別の王であるマナセは、良い父を持っていましたが、罪を犯したために罰を受けました。しかし、彼は悔い改めたので、神様に赦されたのです。

神様のポイントは何でしょうか。

――神である主の御告げ――

悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。

あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。

イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ――

だから、悔い改めて、生きよ。(30-32)

つまり、神様はこう語られているのです。

「自分の行動に責任を持ちなさい。自分の罪を認めなさい。他の人をあなたの罪の責任者として責めるのはやめなさい。

彼らもそれぞれ、自分の罪について申し開きをしなければなりません。けれども、あなた自身もまた、自分の罪について申し開きをしなければならないのです。

ですから、彼らをあなたのトラブルの原因として責めるのではなく、悔い改めなさい。そして、私に新しい心と新しい霊を求めなさい。

なぜなら、私は誰かが死ぬことを喜ぶ神ではないからです。」

その前に神様はこう言われました。

わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ――

彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。(23)

あなたはどうでしょうか。あなたのトラブルを他の人のせいにして責めていませんか。あなたの罪の結果について相手を責めていませんか。

確かに、彼らにはある程度の責任があるかもしれません。とはいえ、神様の御前で彼らを責めることは、あなた自身を助けることにはなりません。

ですから、自分の心を見つめ、自分の罪に目を向けましょう。そして、悔い改めましょう。そうすれば、神様はあなたを赦し、癒してくださいます。

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エレミヤ書

癒しの必要

人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。(エレミヤ書17:9)

この箇所は人間の本質を端的に表していると思います。

この世の問題について考える時、その根本的な原因は人間の心にあります。私たちの心は陰険です。私たちは周りの人々を欺くだけでなく、自分自身さえも欺きます。

この箇所では、エレミヤはこう言います。

「ある人々は富を得るために周りの人々を欺きます。なぜなら、彼らは自分自身を欺き、お金さえあれば幸せになれると思い込んでいるからです。」

しかし、エレミヤは彼らについて次のように語りました。

彼の一生の半ばで、富が彼を置き去りにし、そのすえはしれ者となる。(11)

他の人々は、神様が人生の喜びを取り去ろうとされると思うため、神様に背を向けます。彼らは、自分の人生がもっと楽しくなると考えています。

しかし、エレミヤは次のように語りました。

あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。

「わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる。いのちの水の泉、主を捨てたからだ。」(13)

つまり、命の源は神様です。だから、神様に背を向けると、彼らは自分の命を失ってしまいます。

他の人々は神様の言葉を聞いて、あざけりました。彼らはこう言います。

主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。(15)

しかし、神様の言葉は必ず成就します。そして、もし彼らが悔い改めないならば、裁きの日に彼らのあざけりは後悔と涙に変わるでしょう。

私たちは周りの人々を欺くことがあるかもしれません。自分自身を欺くこともあるかもしれません。けれども、神様を欺くことは決してできません。

だからこそ、神様は私たちにこう警告されます。

わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。(10)

私たちの心は病にかかり、罪によって汚れてしまいました。私たちは自分自身の心を癒すことはできません。人間にはそれを治すための治療法がありません。

どんなに頑張っても、私たちは神様の目に正しい者となることはできません。むしろ、私たちは繰り返し罪のパターンに陥ります。

では、私たちの希望はどこにあるのでしょうか。それは、神様だけにあります。

だからこそ、エレミヤのように祈りましょう。

私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。(14)

十字架でイエス様が流された血によって、私たちの罪の代価が支払われました。そして、聖霊の働きによって、私たちの心が洗われ、清められます。

あなたはどうでしょうか。自分の罪を認識し、その癒しが必要だと感じていますか。

イエス様に向かうなら、イエス様はあなたを癒し、解放してくださいます。

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エレミヤ書

神様が聞かない時

「ユダの人、エルサレムの住民の間に、謀反がある。

彼らは、わたしのことばを聞こうとしなかった彼らの先祖たちの咎をくり返し、彼ら自身も、ほかの神々に従って、これに仕えた。

イスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの先祖たちと結んだわたしの契約を破った。」(エレミヤ書11:9ー10)

現代でも、多くの人々は同じことをします。彼らは罪を捨てたにもかかわらず、その罪に戻ります。

ユダ人たちはこう思ったかもしれません。「罪を犯しても、大丈夫。もし、いけにえを捧げれば、神様はきっと私たちを赦してくださる。」

しかし、彼らはいけにえが意図的な罪のためではないことを忘れていました。

時々、私たちは意図せず罪を犯します。例えば、私たちは突然怒りに駆られて、悪いことをしてしまいます。

いけにえは、そのような罪のためのものでした。(そのいけにえについてもっと知りたいなら、これをご覧ください。)

ユダ人たちは、自分の罪を十分に理解していたにもかかわらず、その罪を犯し続けました。

だからこそ、神様はこのように言われました。

それゆえ、主はこう仰せられる。「見よ。わたしは彼らにわざわいを下す。彼らはそれからのがれることはできない。彼らはわたしに叫ぶだろうが、わたしは彼らに聞かない。(11)

また、

あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいに会ってわたしを呼ぶときにも、わたしは聞かないからだ。(14)

もちろん、私たちは恵みの時代に生きています。もし私たちが心から悔い改めたならば、神様は私たちを赦してくださいます。

とはいえ、悔い改めたとしても、罪の結果を避けることができるわけではありません。

例えば、もしあなたが不倫をした場合、神様に祈り、妻に頼んでも、妻があなたと離婚するかもしれません。

また、ギャンブルでお金を失った場合、神様に祈っても、あなたが自己破産するかもしれません。

だから、「神様が私を赦してくださるので、罪を犯しても良い」と言って、自分自身を欺いてはいけません。

むしろ、パウロが言ったように、

それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。(第二テモテ2:22)

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エレミヤ書

私たちの行動によって

「どうして私は苦しんでいるのだろうか。」

悪いことが起こると、多くの人々はそのように問いかけます。

時には、その原因は、この罪によって堕落した世界にあります。しかし、時には、私たち自身の行動が悪いことを引き起こすこともあります。

ユダ人にとっては、自分たちの罪が悪い結果を招きました。

この箇所では、神様は将来の裁きについて警告されました。結局、その裁きは、バビロンの王ネブカドネザルを通して実現しました。

ネブカドネザルとその軍隊がユダを攻め、ユダの町々は滅びました。(エレミヤ書4:6ー7)

なぜでしょうか。それは、彼らが神様の御言葉を無視したからです。ユダの王、祭司たち、預言者たち、そしてユダのすべての民がそのように行動しました。

神様は彼らについてこう言われました。

彼ら(バビロン人たち)は畑の番人のように、ユダを取り囲む。それは、ユダがわたしに逆らったからだ。――主の御告げ――

あなたの行ないと、あなたのわざが、あなたの身にこれを招いたのだ。これがあなたへのわざわいで、実に苦い。もう、あなたの心臓にまで達している。(エレミヤ書4:17ー18)

また、

実に、わたしの民は愚か者で、わたしを知らない。彼らは、ばかな子らで、彼らは悟りがない。

彼らは悪事を働くのに賢くて、善を行なうことを知らない。(22)

災害が訪れても、彼らは悔い改めることはありませんでした。むしろ、彼らは偽物の神々を礼拝し続けました。

だから、エレミヤは彼らに訊いた。踏みにじられた女よ。あなたが緋の衣をまとい、金の飾りで身を飾りたてても、それが何の役に立とう。

目を塗って大きく見せても、美しく見せても、かいがない。恋人たちは、あなたをうとみ、あなたのいのちを取ろうとしている。(30)

何世紀が経っても、人間はあまり変わりません。

彼らは神様に対して心を堅くし、その罪の結果を受けます。それでも、彼らは悔い改めることなく、罪を犯し続けます。だからこそ、結局彼らは滅びてしまうのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの罪によって、自分の結婚、人間関係、キャリアを滅ぼしているでしょうか。

その罪の結果を目の当たりにしても、あなたは態度や行動を変えないままでいるのでしょうか。それとも、あなたは悔い改めることを選ぶのでしょうか。

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列王記第二 歴代誌第二

私たちの罪過を大きくする

少しだけ列王記と歴代誌に戻りましょう。

アモン王の話は短いものの、全く幸せな話ではありません。

その父であるマナセ王と同様に、アモンは偶像礼拝を行い、さまざまな酷い罪を犯しました。

アモンが父の試練を見たにもかかわらず、その同じ道を選んだのは信じがたいことです。

とはいえ、マナセとアモンには大きな違いがありました。

彼はその父マナセがへりくだったようには、主の前にへりくだらず、かえって、彼アモンは罪過を大きくした。(歴代誌第二33:23)

結果として、アモンの民は彼を裏切り、殺害しました。

おそらく預言者たちがマナセを警告したのと同様に、アモンも警告を受けたのだと思われます。

けれども、アモンは預言者たちの言葉を退けました。ところが、「彼の罪過を大きくしました」と記されており、それはどういう意味なのでしょうか。

おそらく、彼は全く悔い改めなかったのでしょう。

私たちが罪を告白し、悔い改めるならば、神様はその罪を赦してくださり、私たちの心を清めてくださいます。

しかし、私たちが悔い改めない場合、私たちの罪はゴミのように重なっていきます。

ゴミ捨て場に行ったことがあるでしょうか。それは本当に酷い場所です。

それだけではなく、おそらくアモンの罪は時間とともにさらに酷くなっていたのでしょう。

もし私たちが小さな罪を悔い改めるなら、私たちの良心の敏感さを保つことがでけれども、

けれども、神様の声を無視すると、私たちの心は堅くなってしまいます。

その結果、神様の声が聞こえなくなり、罪を犯しても罪悪感を抱かなくなります。そのため、私たちの罪はだんだんと大きくなります。

最後に、彼は自分が罪を犯していることを十分承知していながら、その罪を続けたため、その意味で彼の罪過はさらに大きくなったのです。

時々、私たちは思わず罪を犯してしまうことがあります。それでも、私たちの行動は罪であり、悔い改める必要があります。

けれども、わざと罪を犯すと、私たちの罪過はもっと大きくなります。

イエス様はこう言われました。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。

しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。

すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12:47-48)

あなたはどうでしょうか。罪を犯したとき、すぐに悔い改めているでしょうか。

それとも、罪が積み重なってしまっているでしょうか。

アモンのように罪過を大きくしないでください。そうでなければ、アモンのように代価を払うことになるでしょう。

むしろ、マナセのように悔い改めましょう。そうすることで、神の憐れみを知ることができるのです。

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ミカ書

他の人々の罪についていく

イザヤ書を読むのをしばらく休みます。二つの理由があります。

一つ目は、イザヤがもうすぐエルサレムに対して預言するからです。この箇所では、ミカも同じことをします。

二つ目は、聖書の経緯をキャッチアップしなければならないからです。

ミカとイザヤは同じ時代に預言しましたが、ミカはイザヤの少し後に預言を始めました。イザヤはウジヤ王の時代に始めましたが、ミカはウジヤの息子ヨタム王の時代に預言を始めました。

この箇所では、北イスラエル王国はまだ立っていますが、ミカが預言したように、すぐに倒れます。彼らが偶像礼拝を行ったので、ミカは警告しました。「裁きが差し迫ります。もうすぐ、あなたの都市はすべて倒れ、あなたが信頼する偶像は砕かれます。」

そして、ミカはユダに対して話し始めました。二つの箇所が私に印象に残りました。

一つ目は9節です。

まことに、「イスラエル」の打ち傷はいやしがたく、それはユダにまで及び、わたしの民の門、エルサレムにまで達する。(ミカ書1:9)

そして13節です。

ラキシュに住む者よ。。。それはシオンの娘にとって罪の初めであった。イスラエルの犯したそむきの罪が、あなたのうちに見つけられたからだ。

つまり、イスラエル人は偶像礼拝を始めて罪を犯しましたが、その罪はユダにも及びました。

ここに少し皮肉なことがあります。ラキシュはユダの要塞都市の一つでした。そのため、ラキシュはユダを守るべき存在だったのです。けれども、ラキシュに霊的な隙が生じ、それが物理的な隙へと繋がりました。

ミカが預言した通り、アッシリアがユダを打ち砕きました。そしてアッシリアはエルサレムを包囲しました。その時、やっとユダの民が悔い改め、神様が彼らを救い出してくださったのです。しかし、それはまた別の話です。

罪がユダにこっそり入り込み、その人々を汚したように、私たちも気をつけなければ、この世の罪が私たちの心にこっそり入り込み、私たちを汚してしまいます。

どれだけのクリスチャンが罪に陥るのを見たことがあるでしょうか。多くのクリスチャンが姦淫を犯したり、お金に執着するようになったりします。

この世を見ると、時々罪が魅力的に見えることがあります。私たちはその罪が良いものだと思い、欲してしまいます。

しかし、イスラエル人とユダ人のように、その罪は私たちを荒廃へと導きます。それは私たちの家族を荒廃させ、信仰を荒廃させ、人生をも荒廃させます。

ですから、罪に対して注意を払いましょう。そして、神様の目に聖い者となり、神様を喜ばせる者となりましょう。

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イザヤ書

悪の本質

いつイザヤがこの預言を書いたか私は分かりませんが、多分イスラエルの王ペカの治世の時に(列王記第二15:29)、もしくはホセア王の治世の時に書きました。(列王記第二17:3-5)

ペカの治世の時、アッシリアはイスラエルを攻めていました。ホセアの治世の時、アッシリヤはもう一度来てサマリヤを攻めていました。

とにかく、イスラエルは困っていたのに、神様に向かうことを拒絶しました。むしろ、自分のプライドと力によって、砕かれた物を回復しようとしました。

だから、神様は言われました。「あなたがたのプライドと罪のためにあなたがたは追放される。」

その警告の中で、鮮やかなイメージを通してイザヤはイスラエルの悪について話しました。そのイメージを通して私たちが悪の本質を学べると思います。

イザヤはこう記しました。

悪は火のように燃えさかり、いばらとおどろをなめ尽くし、林の茂みに燃えついて、煙となって巻き上がる。

万軍の主の激しい怒りによって地は焼かれ、民は火のえじきのようになり、だれも互いにいたわり合わない。(イザヤ9:18-19)

私は森林火災を見たことがありません。けれども、森林火災が始まると、すぐに広がって木や植木はその火災の燃料になります。結局、灰しか残りません。

悪はそのようなものです。放置されると、悪が広がって、人々は逃げられずにその悪の燃料になります。そして、悪はさらに悪を生みます。結局、皆が滅びてしまいます。

20-21節にこう書いてあります。

右にかぶりついても、飢え、左に食いついても、満ち足りず、おのおの自分の腕の肉を食べる。

マナセはエフライムとともに、エフライムはマナセとともに、彼らはいっしょにユダを襲う。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。(イザヤ書9:20-21)

つまり、悪によって、結局誰も満足することはありません。

時々私たちの望んだことが叶ったら、嬉しくなると思うから罪を犯します。だから私たちの夢を得るために周りの人々を踏みつけます。

またはポルノや姦淫を犯して、私たちの結婚を捨ててしまいます。

また私たちのお金や持ち物の愛によって、周りの人々を傷つけます。

しかし、結局私たちはまだ不満です。それでも、私たちは悪に背を向けずにその道を行き続けます。その結果、周りの人々を傷つけ、私たち自身も滅びてしまいます。

イスラエルとユダはその通りになりました。そして、神様は裁きの日が来ると警告されています。

私たちのために裁きの日が来ます。私たちの行動のために私たちは裁かれます。

だからこそ、堅い心と私たちを滅びる罪を捨ててましょう。むしろ、私たちは悔い改めましょう。そうすれば、私たちが癒されるのです。

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列王記第二

でも私はそんなに悪くないのに

この箇所は北イスラエル王国の終焉について記しています。イスラエルにはずっと悪い王が治めており、ホセアはイスラエルの最後の王でした。(このホセアは預言者ホセアとは異なる人物です)。

私にとって興味深いのは、ホセアが最も悪い王ではなかったことです。

もし私が神様なら、アハブ王やヤロブアムの治世のときにすでにイスラエルを追放していたことでしょう。

もちろん、ホセアも悪い王でしたが、2節には次のように書かれています。

彼は主の目の前に悪を行なったが、彼以前のイスラエルの王たちのようではなかった。(列王記第二17:2)

つまり、ホセアは悪い王でしたが、以前のイスラエルの王たちよりもましでした。しかし、神様の裁きはホセアの治世の時に下りました。

時々、私たちは周りの人々を見て、こう言います。

「私はそんなに悪くない。誰も殺していないし、人々に親切にしようとしています。もちろん時々悪いことをするかもしれないけれど、この人やあの人よりも、私は良い人です。」

そして、自分が周りの人々よりも良い人だと思うがゆえに、神様が自分を受け入れてくださると思います。

けれども、それは誤った考えです。

イスラエル人は時々公然と罪を犯しましたが、時には人々の目に見えないところで悪を行いました。

9節には次のように書かれています。

イスラエルの人々は、彼らの神、主に対して、正しくないことをひそかに行ない[ました。]

しかし、誰の前で罪を犯したとしても、またはひそかに罪を犯したとしても、神様はすべてをご覧になります。

14-17節では、イスラエルの最も深刻な問題を見ることができます。それは、神様の言葉を聞かず、頑なになり、神様に信頼することを拒絶したことです。

その結果、空しい偶像を礼拝し、彼ら自身も空しい存在になってしまったのです。

彼らが周囲の国々の民を真似るにつれて、罪の程度はさらに深刻になりました。

私たちはイスラエル人のようになってしまう可能性があります。

もし私たちが神様の言葉に従うことを拒み、神様に信頼せず、周りの人々の罪を真似して、お金やセックスの「神々」に従うなら、私たちも空しい存在になってしまうのです。

そして、最終的には裁きが訪れます。他の人々よりも罪が少ないとしても、それは関係ありません。

もちろん彼らも裁かれますが、あなたも裁かれるのです。

だからこそ、自分自身を欺いてはいけません。他の人々のほうが悪いかもしれませんが、神様の目の前では私たちも罪人なのです。

だからこそ、悔い改めましょう。神様を信頼し、神様の声を聞いて従いましょう。

そうすれば、神様の祝福、臨在、そして恵みを知ることができるのです。

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イザヤ書

私たちの罪を表す

イザヤ書3:9を読んで、私はこの箇所が本当に印象に残っています。

彼らの顔つきが、そのことを表わしている。彼らは罪を、ソドムのように現わして、隠そうともしなかった。

ああ、彼らにわざわいあれ。彼らは悪の報いを受けるからだ。

日本の社会については分からないけど、アメリカの社会では、そのような人々は増えています。彼らは罪を犯しますが、もう恥ずかしいと思うことはありません。むしろ、彼らは誇っています。彼らは自分の罪について自慢します。

もし、誰かが彼らの振る舞いが罪だと言うと、彼らはこう返事します。「あなたは偏狭だ。」

ソロモンはこう書きました。「日の下には新しいものは一つもない。」(伝道者の書1:9)

それは本当です。ソドムの罪は決して消えていませんでした。それに、ソドムの罪は悪かったですが、私たちの罪もそんなに違いはありません。

しかし、罪を犯すと、恥が来ます。

この箇所で、イザヤは貧しい人々を虐げた金持ちたちを責めました。またその妻たちを責めました。多分彼らは二つの方法で自分の罪を表しました。

一つ目は、夫たちが貧しい者を虐げることによって金持ちになったのに、その妻たちが貧しい者の前に自分の富を見せびらかしたことです。

二つ目は、性的な罪を犯したかもしれないことです。

イザヤはこう記しました。

シオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら小またで歩いている。(3:16)

けれども、イザヤは彼らに警告しました。ある日、彼らの富はすべて取られます。戦争が起こり、彼らは追放されます。その日、彼らの富が取られて、彼らの恥しか残らないのです。

こうして、良いかおりは腐ったにおいとなり、帯は荒なわ、結い上げた髪ははげ頭、晴れ着は荒布の腰巻きとなる。

その美しさは焼け傷となる。あなたの男たちは剣に倒れ、あなたの勇士たちは戦いに倒れ、その門はみな、悲しみ嘆き、シオンはさびれ果てて地に座す。

その日、七人の女がひとりの男にすがりついて言う。

「私たちは自分たちのパンを食べ、自分たちの着物を着ます。私たちをあなたの名で呼ばれるようにし、私たちへのそしりを除いてください。」(3:24-4:1)

第4章1節は少し分かりにくいかもしれませんが、当時の文化では夫と子供がいない女性は恥ずかしい存在とされていました。

しかし、戦争で彼女たちの夫たちは亡くなってしまうので、男性はほとんど残りません。それでも、彼女たちは必死に夫になる男性を探します。その男性が彼女たちをうまく世話できないにもかかわらず、その人と結婚したいと思うのです。

この箇所のポイントは、罪を犯すと恥が来るということです。

あなたの罪を誇示するかもしれません。あなたの罪について自慢するかもしれません。けれども結局、あなたには恥しか残らないのです。

だから、この世の人々とは異なり、罪を愛さないようにしましょう。むしろ罪から逃げて、私たちの恥を取り去り、私たちに栄光と誉を与える神様を求めましょう。

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イザヤ書

罪は何でしょうか。罪の結果は何でしょうか。

それでは、イザヤ書を始めましょう。イザヤは大預言書の最初の預言者です。いつも通りにできるだけ、イザヤ書の話を歴代誌と列王記の話と統合します。全部を時系列順にすることは約束できませんが、頑張ります。

多くの日本人は「罪」と言うと犯罪を考えます。例えば、殺人やレイプ、盗難などです。

だから、多くの日本人は「すべての人々は罪人です」と聞くと、こう思います。「私は罪人ではありません。殺人やレイプを犯したことがないからです。」

西洋諸国でも、多くの人々は「私はそんなに悪くない」と思います。

けれども、神様によれば、罪とは何でしょうか。この箇所では、神様が私たちに教えてくださいます。

子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。

牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」

ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行なう者どもの子孫、堕落した子ら。

彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。(イザヤ書1:2-4)

1.罪は神様に逆らうことです。

神様がおられることを知っているし、神様が私たちの正当な王であることを知っているのに、私たちは自分の心の王座に座ります。つまり、私たちが神様とその道を拒絶することです。それは罪です。

2.罪は悪いことをすることです。

西洋諸国には、多くの人々は罪をそう定義します。けれども、悪い行動は本当の問題の症状に過ぎません。

本当の問題は神様に逆らう心です。人々が神様に逆らうので、悪いことをするようになります。

3.罪は神様を捨てたり、侮ったり、神様に背を向けて離れ去ったりすることです。

つまり、私たちがこう言うことです。「神様、私にはあなたは要りません。」

あなたは殺人やレイプや盗難などを犯さないかもしれませんが、神様に背を向けて、「あなたは要りません」と言ったら、あなたは罪人です。

その態度は霊的な姦淫のようです。神様は私たちの霊的な夫ですが、私たちは他のものを探し求めます。実際、神様はユダとイスラエルをその罪のために責められました。(21)

罪の結果は何でしょうか。私たちは霊的に病気になり、人生はめちゃくちゃになります。

神様が言われました。

あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。

足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。(5-6)

ある牧師は、「聖い」というのを「完全」と定義しました。その定義が多くの意味で正しいと思います。

私たちの人生が聖いなら、また、神様の命令に従うなら、私たちの人生は完全になります。私たちの結婚や他の人間関係がうまくいき、私たちの経済もうまくいき、私たちの人生もうまくいきます。

しかし、自分の道を頑固に進み続けたら、全てはめちゃくちゃになります。私たちの人生は「病気」になります。

そして、治療法を探しても、神様に背を向け続けると、その治療を見つけることができません。

だから、神様が私たちに言われます。

さあ、来たれ。論じ合おう。。。

たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(18)

あなたはどうですか。あなたの結婚と人間関係と人生に傷と打ち傷と打たれた生傷が見えるでしょうか。自分の道を進み続けたら、治りません。

だから、主に向かいましょう。神様に信頼しましょう。神様があなたを洗って変えるように祈りましょう。そうすれば、あなたの人生は完全になります。

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サムエル記第二

誰も傷つけないでしょう?

この嘘によってだれも傷つけないだろう。

アマレク人がダビデにサウルの死について伝えたとき、彼はそう考えたのかもしれません。そのため、彼は真実を言わず、少し嘘をつきました。

もしかすると、彼はサウルが武器持ちに自分を殺すように頼むことに耳をしていたかもしれません。

おまえの剣を抜いて、それで私を刺し殺してくれ。(第一サムエル記31:4)

多分、そのアマレク人はこう思ったのかもしれません。

「もし私がダビデの敵であるサウルを殺したと言えば、報いを受けるかもしれません。

サウルはもう死んでいるでしょう。私の嘘によって誰も傷つけないでしょう。そして、もし私が利益を得ることができたなら、それで良いのではないでしょうか。」

ところが、ダビデの反応はアマレク人の予想通りではありませんでした。報いを得るどころか、そのアマレク人は殺されてしまいました。

ダビデはこう言いました。

おまえの血は、おまえの頭にふりかかれ。おまえ自身の口で、「私はに油そそがれた方を殺した」と言って証言したからである。(サムエル記第二1:16)

アマレク人の行動は誰を傷つけたでしょうか。結局、自分自身を傷つけました。

罪とはそのようなものです。罪は私たちを滅ぼします。小さい罪であっても、私たちを滅ぼしてしまいます。

アダムとエバも、アマレク人と同じように思ったかもしれません。「この果物を食べたら、誰を傷つけるでしょうか。」

しかし、結局彼らは、その罪によって死にました。

聖書にはこのように書かれています。

罪から来る報酬は死です。(ローマ 6:23)

罪が大きくても、小さくても、関係ありません。その結果は同じです。すべての罪の結果は死です。

ですから、自分自身を欺かないでください。「小さい罪だから、誰も傷つけないでしょう?」と言ってはいけません。神様は罪を深刻に考えておられるので、私たちもそのように考えるべきです。

ペテロはこのように書きました。

従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。

それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。(第一ペテロ1:14-16)

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サムエル記第一

でも、良い目的のためですよ

サウルがずっとダビデを追いかけていたため、ダビデは疲れてしまい、ペリシテに戻り、その王アキシュに自分を受け入れるよう願いました。

多分、アキシュはダビデとサウルのトラブルについて聞いており、ダビデを信頼するようになったのかもしれません。そこで、彼はダビデとその民に住む土地を与えました。

その間に、ダビデとその民はイスラエルの他の敵を攻撃し始めました。けれども、アキシュがその戦いについてダビデに尋ねると、ダビデは嘘をつきました。「私はイスラエルを攻撃しました。」と言ったのです。

どうしてダビデは嘘をついたのでしょうか。多分、アキシュの信頼と好意を得るためだったと思います。

また、ダビデはこう考えたのかもしれません。「これは良い目的のためです。イスラエルの敵を攻撃して、イスラエル人を助けるのだから。」

確かにイスラエルを助けていたかもしれませんが、ダビデは嘘をつきました。そして結局、その嘘が原因で、ダビデは困難に陥りました。アキシュはダビデの嘘を信じたために、彼に頼み事をしました。

あなたと、あなたの部下は、私といっしょに出陣することになっているのを、よく承知していてもらいたい。(サムエル記第一28:1)

ダビデは、それを聞いて、本当に困りました。何を言うことができたでしょうか。

以前、嘘をついてしまったため、「イスラエル人を攻撃したくありません。彼らは私の民だからです。」と全く言えませんでした。

そこで、ダビデはこう言いました。

よろしゅうございます。このしもべが、どうするか、おわかりになるでしょう。(2節)

しかし、神様の恵みと御業によって、結局ダビデはイスラエルを攻撃する必要がありませんでした。ペリシテ人の首長たちは文句を言い、ダビデが彼らと一緒に戦うことを許しませんでした。

どれほど私たちは、「良い目的」のために罪を犯してしまうでしょうか。どれほど、そのような言い訳をしてしまうでしょうか。

神様の目には、罪はいつも悪であり、避けるべきものであることを心に留めておきましょう。そうしないと、ダビデのように、さまざまな問題が生じることになります。

あなたの人生において、罪を正当化するような言い訳をしていないでしょうか。