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ヨハネの福音書のデボーション

本当のところ神様は私のことをどう思っておられるの?

イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。(ヨハネの福音書11:5ー6)

多くの人々、クリスチャンたちを含めて、「本当のところ神様は私のことをどう思っておられるのだろうか」と疑問に思います。

イエス様がすぐに来られず、ラザロが亡くなったとき、たぶんマルタとマリアもイエス様について同じことを考えていたでしょう。

「イエス様は本当に私たちを愛しておられるのでしょうか。なぜ来てくださらなかったのですか?なぜ兄を癒してくださらなかったのですか?」

しかし、真実は何だったのでしょうか。本当のところイエス様は彼らのことをどう思っておられたのでしょうか。

イエス様はラザロ、マルタ、マリアを愛しておられました。

私たちが苦しんでいて、神様が沈黙されている時、神様が私たちのことをどう思っておられるのか疑問に思うのは簡単なことです。

でも、覚えておきましょう。神様は私たちの味方です。さらに、神様は私たちを深く愛してくださっています。(ローマ8:31ー32)

そして、何も、死のとげさえも、私たちを神様の愛から引き離すことはできません。(ローマ8:38ー39;ヨハネ11:25)

でも私たちが自問しなければならないのは、その真実を信じるかどうかです。(ヨハネ11:26)

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ヨハネの福音書のデボーション

私が天の父が喜ばれることをいつも行えるように

今日の箇所を読んだとき、私は多くの言葉に心を打たれました。特に、29節は私の心に響きました。イエス様は「わたしは、天の父が喜ばれることをいつも行います」と言われました。

私は、「それを言うことができたらいいのになあ」と思いました。

でも、私は他の言葉にも心を打たれました。

あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネの福音書8:31ー32)

まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。 奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。

ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。(34ー36)

私のことばはあなたの中で進行していません。(37、英訳)

神から出た者は、神のことばに聞き従います。(47)

わたしの父を敬っているのに、あなたがたはわたしを卑しめています。(49)

だから今日、私はその言葉をまとめて、このように祈りました。

イエス様、あなたのようになりたいです。あなたのように、「私は、天のお父さんが喜ばれることをいつも行います」と言えたいけど、言えません。私は天のお父さんが喜ばれないことをしばしば行うからです。赦してください。

私の言葉と行いによって、天のお父さんとあなたを決して卑しめることがないように。

むしろ、私がいつも心の中に、あなたのみ言葉のための場所を開けるように。

その御言葉が私の心の中で進行するように。私があなたのみ言葉をもっと理解することができるように助けてください。それだけではなく、私がその御言葉に従うことができるように助けてください。

アブラハムのように、私があなたの言葉の真理を聞き、信じ、受け入れ、従うことができるように助けてください。

イエス様、あなたの恵みを感謝します。あなたのおかげで、私はもはや罪の奴隷ではありません。十字架で流されたあなたの血によって、私は自由にされました。私を神の子にしてくださり、本当に感謝します。

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ヨハネの福音書のデボーション

生ける水の川

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。(ヨハネ7:37-39)

なぜかこの箇所を読むたびに私が最初に考えることは、私がイエス様のみもとに行くと、御霊が私の霊的な渇きを満たしてくださるということです。

でも今日、神様が私に思い出させたのは、単に私の渇きを満たすためだけに御霊を与えてくださるのではないということです。

むしろ神様は、私の周囲の霊的な渇きで死にそうになっている人たちが命を知ることができるように、神の生ける水の川が私の心の奥底から流れ出ることを望んでおられるのです。

だから、私はこのように祈りました。

聖霊様、私はあなたを受け、あなたは私の渇きを満たしてくださいました。でも、周囲の渇いている人たちも飲んで命を知ることができるように、あなたが川のように私から流れ出るように祈ります。

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ヨハネの福音書のデボーション

三つの質問

イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」

イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。(ヨハネ6:5ー6)

今朝、私は、イエス様がピリポをどのように試されたのだろうかと考えていました。

イエス様はピリポに実際に何を尋ねられたのでしたか。

私はちょっと分かりませんけど、もしかしたらイエス様はこう訊かれていたかもしれません。

「私が誰であるのかすでに知っている?私が何ができるのか知っている?あなたは私をどれほど信じているのか?」

もしそれらがイエス様の質問であったなら、ピリポはそのテストに完全に落ちてしまいました。

ピリポが考えたのは、「この群衆の必要をどのように満たすことができるだろうか。私たちには無理だろう」ということです。

でもイエス様は、すでにご自分が何をしようとしているのかを、知っておられました。

そして、イエス様はピリポと他の弟子たちが持っていたわずかなもので群衆の空腹を満たしてくださいました。

時々、私はピリポのようです。イエス様は私の回りの人々を見て、その人に触れたいと思っておられます。ご自分が何をしようとしているのかを知っておられるけど、私に向かって、尋ねられます。

「私が誰であるのかすでに知っている?私が何ができるのか知っている?あなたは私をどれほど信じているのか?」

しかし、イエスが誰であり、何ができるかを見る代わりに、私は自分の弱さと力不足を見てしまいます。

でも真実は、私の弱さと力不足は関係ないのです。大切なのは、イエス様が誰であり、何ができるかということです。

だから、私が自問自答しなければならないのは、イエス様を信じるかどうかということです。

なぜなら、イエス様は愛を持って、私が持っているわずかなもので人々に触れることができるからです。

だから私はイエス様の三つの質問についてもっと考えなければならないでしょう。

「私が誰であるのかすでに知っている?」

「私が何ができるのか知っている?」

「私を信じてくれる?」

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ヨハネの福音書のデボーション

まず神様に愛された

神は、このようにして世を愛された。そのひとり子をお与えになったのです。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16、英訳)

私はその英訳が好きです。多くの翻訳は、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」と訳されるけど、通常、そのギリシャ語は「ほどに」ではなく、「このように」と訳されます。

ヨハネの手紙では、ヨハネは違う言葉を使うけど、同じ概念を伝えます。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって、私たちにいのちを得させてくださいました。それによって、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(第一ヨハネ4:9ー10)

パウロは似たようなことを言います。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ書5:8)

驚くべきことは、神様が私たちの悔い改めを待たずに、まずご自身の愛を示してくださったことです。神は裁きではなく、憐れみをもって私たちに目を向けられます。

イエス様が「御子を遣わすことによって神様がこの世に愛を示された」と言ったとき、ニコデモはどう思ったでしょうか。

もしニコデモが、神が御子を遣わされたという概念を持っていたとしたら、それは反逆の世を裁くためだったでしょう(詩篇2篇)。

ニコデモは、詩篇2:12にある幸いな人たちがかつて反逆的な人たちであったことを考えたことがあったでしょうか。ニコデモは、御子を通して示された神の愛のゆえに、彼らが悔い改めたと考えたことがあったでしょうか。その詩篇を書いた詩人はそんなことを考えたことがあったでしょうか。

私にはわかりません。でも、ヨハネ3:16のもっとも驚くべきことを覚えていましょう。それは、神様が悔い改めることのない反逆の世(私たちを含む)をまず愛し、その世を救うために、御子を遣わしてくださったということです。

だから、今日、その言葉に思いを巡らしましょう。ヨハネ3:16、第一ヨハネ4:9−10、ローマ5:8に思いを巡らしましょう。

その真理を浴びましょう。「神様はまず私を愛しててくださいました。」

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ヨハネの福音書のデボーション

私たちの心を知っておられる方

過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。

しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。

すべての人を知っていたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。(ヨハネ2:23ー25)

ペテロは。。。イエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」(ヨハネ21:17)

イエス様、あなたは私の心を見ておられます。あなたは私の心に何があるのか、誰かに教えてもらう必要はありません。あなたは私のことをよく知っておられるからです。

だから、ぺテロとともに、私は言います。「あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」

あなたは私の愛がどれほど不完全なものであるのかよく知っておられます。私の失敗もよく知っておられます。それでも、あなたは私があなたを愛していることを知っておられます。

それにしても、自分を騙すのは簡単なことです。だから、私の心の層を剥がしてください。私の心の奥底を明らかにしてください。私の心を癒すために、あなたが見たものを見せてください。

イエス様、私はあなたのようになりたいのです。私をあなたのようにしてください。

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ヨハネの福音書のデボーション

光を必要とする世界

この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。。。

すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。(ヨハネ1:4ー5,9)

最近のニュースによると、2024年に527人の小中高生が自殺しました。

たとえ1人でも多すぎるでしょう。

ヨハネは、イエス様にはいのちがあり、イエス様が闇の中を歩んでいる人々に光を与える方であると言いました。

闇の中を歩んでいる人々は多いです。希望のない人々は多いです。

彼らはイエス様の光を必要としているのです。

最近、クロスロードでは、私たちは天の父の目について話しています。つまり、神様がどんなまなざしで私たちを見ているのかを理解する必要があります。

その真理を理解すれば、神の光は私たちの闇を照らすでしょう。

イエス様はそのように人々に触れました。人々がイエス様を見るとき、天の父の目を見ました。そして、彼らが神の目を見たとき、神の光は彼らの闇を照らしました。

だから、私の祈りは、人々が私のうちに住んでおられるイエス様を見るようになることです。

私の妻、娘、生徒たち、同僚たちが私の目を見るとき、私の天のお父さんの目を見ることができるように祈ります。

そして、私を通して、神様が彼らの闇を照らしてくださるように祈ります。

私たち皆が天のお父さんの目を持つように。

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民数記のデボーション

罪に対して警戒する

正直に言うと、民数記に書かれていることは、たまに読みづらいです。特に、神様の裁きの話は、かなり厳しいです。

でも、パウロによれば、神様がその話を書かれたのには理由があります。パウロはこう言いました。

これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。

あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。

また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。

また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、キリストを試みることのないようにしましょう。彼らは蛇によって滅んでいきました。

また、彼らのうちのある人たちがしたように、不平を言ってはいけません。彼らは滅ぼす者によって滅ぼされました。

これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。 (第一コリント10:6ー11)

その最初の話は、出エジプト記32章からです。

その他の話は、私たちが最近読んでいる民数記の箇所からです。

どうして神様は、その話を記録されたのでしょうか。

それは、私たちの戒めのためです。

私たちは、その話から何を学ぶことができるでしょうか。

1.神様は、罪を真剣に受け止めておられます。神様は、特に故意の反抗的な罪を真剣に受け止めておられます。

民数記15~17章でも、民数記25:6でも、私たちはそれを見ました。

今日の箇所では、イスラエル人が自分の罪と神様の裁きのために泣いている間、あるイスラエル人は厚かましくミディアン人の女を自分のテントに連れていきました。たぶん、それは性的な儀式のためだったでしょう。

2.罪、特に悔い改めずに犯した故意の反抗的な罪の報酬は死です。

だから、私たちは罪を軽く見てはいけません。

むしろ、私たちは罪から逃げなければなりません。

パウロは、私たちに警告します。

ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(第一コリント10:12)

私たちは、いつも罪に対して警戒しなければなりません。

でも、良い知らせは、神様が私たちとともにおられ、私たちが堅く立ち、罪に打ち勝つのを助けてくださるということです。

パウロは、こう言いました。

あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。

神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。

むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(第一コリント10:13)

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民数記のデボーション

神様はどんなまなさして私たちを見ているのか

私はどうして呪いをかけられるだろうか。 神が呪いをかけない者に。

私はどうして責めることができるだろうか。 主が責めない者を。(民数記23:8)

私は上の言葉を読んだとき、ローマのクリスチャンたちへのパウロの言葉を連想しました。

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(ローマ8:33ー34)

サタンは天の父の御前で、私たちの罪と失敗のために責めようとします。

私たち自身、自分を責めるときもあります。

でも、天の父が責めていない私たちを、どうして私たちは責めることができるでしょうか。

私たちのために流されたイエス様の血によって、神様は私たちを義と認めてくださいます。イエス様ご自身が、天の父の隣に立って、私たちを擁護してくださいます。

神様は、あらかじめ私たちを知っておられました。

神様は、私たちが御子のようになるように、自分の子供となるように、あらかじめ定められました。

神様は、私たちを召してくださいました。

神様は、私たちを義と認めてくださいました。

そして、私たちに栄光を与えてくださいました。

神様は、そのように私たちを考えておられます。天のお父さんは、愛に満ちたまなざしで私たちを見ているのです。

そして、良い知らせは、神様は私たちに対して気が変わることがないということです。

私は、民数記23:19の言葉が大好きです。

神は人ではないから、偽りを言うことがない。人の子ではないから、悔いることがない。

神が仰せられたら、実行されないだろうか。語られたら、成し遂げられないだろうか。

神様は、私たちが祝福されるように定められ、必ず祝福してくださいます。(民数記23:20)

神様は、私たちの罪のために懲らしめるかもしれませんが、私たちを決して見捨てることはありません。

神様は、気が変わることがないので、神様の愛から私たちを引き離すものは何もありません。(ローマ8:38~39)

神様は、私たちとともにおられます。だから、私たちの王をほめたたえましょう。(民数記23:21)

そして、毎日叫びましょう。

「神様が私のためにしてくださったことは、なんと素晴らしいことでしょう。」(民数記23:23)

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民数記のデボーション

ただの言葉?

バラムの話を読んだ時、私はパリサイ人たちと律法学者たちへのイエス様の言葉を連想しました。

この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。(マタイ15:8)

時々、バラムは敬虔な人に聞こえました。

私は私の神、主の命を破ることは、事の大小にかかわらず、断じてできません。(民数記22:18)

しかし、彼は口先で神様を敬っても、その心は神様から遠く離れていたのです。

自分の欲のために、彼は神様の命じられたことを回避する方法を探していたようです。(第二ペテロ2:15~16)

けれども、神様はバラムの心をよく知っておられ、バラムの言葉に騙されていないことをはっきりと告げられました。

神様の警告を聞いて、バラムはイスラエルを呪おうとする計画をやめました。それでも、彼は後にイスラエルを困らせる方法を見つけました。(民数記25:1~5;36:16)

日曜日に「はい、主よ。私はあなたに従います。アーメン」という言葉を歌うのは簡単なことです。

しかし、それはただの言葉でしょうか。

それとも、その言葉は本当に私たちの心の叫びでしょうか。

私たちの心は、日曜日だけではなく、むしろ毎日毎日、一瞬一瞬、神様に捧げられているものでしょうか。

私たちは心を尽くして神様に従っているでしょうか。

もしくは、私たちは神様の命じられたことを回避する方法を探しているのでしょうか。

天のお父さん、私はバラムのようになりたくありません。私の心のすべてが、あなたのものになるように。

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民数記のデボーション

 神様の信頼を裏切る

あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。

それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。(民数記20:12)

今朝、私はモーセとアロンへの神様の御言葉を反芻していました。

「あなたはわたしを信頼してくれなかった。」

神様の戒めを信じて従う代わりに、モーセは勝手に行動しました。

そうすることで、イスラエル人たちが自分の文句と反抗的な態度で神様を敬わなかったのと同じように、モーセも神様を敬いませんでした。

申命記では、モーセは神様の御言葉をこのように言い換えました。

「あなたは私の信頼を裏切りました。あなたは私に不誠実でした。」(申命記32:51)

神様は、人が自分の友達と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られました。(出エジプト記33:11)

でも、モーセはその信頼を裏切りました。

天の父は、どれだけモーセの裏切りに心を痛められたでしょうか。

天のお父さん、私はモーセのように、何度あなたを信じなかったことでしょうか。

あなたの戒めに信じて従う代わりに、私はどれだけ勝手に行動するでしょうか。

あなたは、恵みによって私を救ってくださいました。その恵みによって、私をご自分のものとし、私を「友達」と呼ばれます。

あなたの信頼を裏切ったと知りながら、あなたの目を見たくありません。

私がいつも、あなたを聖なる方としてあがめるように。

私のすべての言葉と行動によって、あなたにふさわしい名誉をお与えするように。

そして、回りの人々が私を見るとき、彼らがあなたを見ることができるように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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民数記のデボーション

 赦さざる罪

民数記15~17章では、私たちは神様の厳しい裁きを見ます。

多くの人(クリスチャンたちも含めて)には、それが理解しがたいものです。

でも、15章では、神様は大切な原則を定めました。それは、気づかずに罪を犯すことと、故意に反抗的な罪を犯すこととは雲泥の差があるということです。

その反抗的な態度を悔い改めようとしない限り、私たちは赦されることはありません。

神様の律法によれば、気づかずに罪を犯した人は、罪のきよめのささげ物を捧げることができました。

でも、悔い改めることなく故意に罪を犯した人には、罪のきよめの捧げ物はありませんでした。そのような人にとっては、きよめの捧げ物は無意味ですから。(民数記15:22~30)

そういうわけで、悔い改めることなく故意に安息日を破った人は、石で殺されました。(民数記15:32~36)

また、16章では、コラたちは反抗的な態度のために厳しく裁かれました。

反抗的な心は、酷いものです。

でも、その反抗的な態度を悔い改めようとしない心が結びつけば、その罪は赦されないものとなります。

私たち皆が罪を犯すことはあります。でも、私たちが悔い改めず、反抗的な心を持つことがないように。

むしろ、ダビデの心を持ちましょう。彼は故意に罪を犯したことがありましたが、最終的に悔い改めて、赦されました。

彼はこう祈りました。

だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。

そのとき私は大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。主よ わが岩 わが贖い主よ。(詩篇19:12~14)

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民数記のデボーション

自分の心を導こう

イスラエルの子らに告げて、彼らが代々にわたり、衣服の裾の四隅に房を作り、その隅の房に青いひもを付けるように言え。

その房はあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こしてそれを行うためであり、淫らなことをする自分の心と目の欲にしたがって、さまよい歩くことのないようにするためである。

こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神に対して聖なる者となるためである。

わたしが、あなたがたの神、主であり、わたしがあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出したのである。わたしはあなたがたの神、主である。(民数記15:38~41)

去年、私の教会では、私たちは自分の心に従うのではなく、神様に従うように自分の心を導くことについて話しました。

それは新しい概念ではありません。モーセはイスラエル人たちに同じことを教えました。

「ただ自分の心に従うな。目の欲に従うな。そうすれば、淫らなことをして、さまよい歩いてしまいます。」

英訳によれば、「あなたは霊的な売春婦になります。」

だから、モーセはイスラエル人たちに言いました。「神とその道に従うように、自分の心を導こう。」

どうして彼らはそうするべきだったのでしょうか。なぜなら、神様はまず彼らを愛してくださり、エジプトの奴隷生活から救い出してくださったからです。

神様が彼らをご自分の民にしてくださったので、彼らは神様に対して聖なるものとなるべきでした。

そのように、神様は私たちをまず愛してくださり、サタンの国から救い出してくださいました。

私たちは神様の愛しているものなので、もう一度自分を霊的な売春婦として罪に売ってはなりません。

むしろ、私たちは神様に対して聖なるものとなるべきです。

私たちは、どのように自分の心を導くことができるでしょうか。

神様はイスラエル人たちに、一つの方法を教えてくださいました。

神様は彼らに、衣服の裾の四隅に房を作り、その隅の房に青いひもを付けるように命じました。その目的は、服を着るたびに神様に従うように心を導くことを思い出させるためでした。

もちろん、私たちはそうする必要はありませんが、私たちが誰のものであるか、誰に従うべきかを日々思い出す方法を見つけるべきです。

最近、教会の友達が引っ越しをしたところ、そのアパートの礎に、こう書いてあります。

主は私たちの神。主は唯一である。(申命記6:4)

彼がそのアパートに入るたびに、それは彼の房になるかもしれません。

私の「房」は、黙示録4:11に基づく祈りです。毎日、私はこう祈ります。

主よ、私たちの神よ。 あなたこそ 栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。

あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。

みこころのゆえ、あなたは私を造られ、もう一日のために息吹を与えてくださいました。

私の人生によって、あなたがあがめられるように。アーメン。

あなたの房は何でしょうか。

自分の房を見つけましょう。

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民数記のデボーション

信仰の目、恐怖に満ちた目

モーセは、カナンの地の偵察のために彼らを遣わして言った。。。

「勇気を出して。。。」 (民数記13:17、20)

上の言葉で、私の心に打たれました。

モーセは12人の斥候を遣わす前に、「勇気を出しなさい」と言いました。

でも、彼らが戻って来た時に、まだ勇気を失っていなかったのはカレブとヨシュアだけでした。

なぜでしょうか。なぜなら、彼らは信仰の目を持っていたからです。彼らは神様の偉大さを見たのです。

でも、残りの10人の斥候は、恐怖に満ちた目をしていました。

なぜでしょうか。彼らはカナン人の大きさしか見ることができなかったからです。

どれだけ、私たちは神様の偉大さを忘れ、未来や神様が私たちをどこに導いてくださるのかを恐れるでしょうか。

また、神様がどれほど良い方であるのかを、私たちはどれほど忘れているでしょうか。

今日、私はたまたま詩篇16篇を祈っていました。5~8節は、特に今日の話に適していたと思いました。

主は私への割り当て分、また杯。あなたは、私の受ける分を堅く保たれます。

割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい、私へのゆずりの地です。

私はほめたたえます。助言を下さる主を。実に、夜ごとに内なる思いが私を教えます。

私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。(詩篇16:5ー8)詩篇16:5ー8)

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民数記のデボーション

 私があなたをあがめるように

聞け、わたしのことばを。

もし、あなたがたの間に預言者がいるなら、主であるわたしは、幻の中でその人にわたし自身を知らせ、夢の中でその人と語る。

だがわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者。(民数記12:6ー7)

ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。

モーセが神の家全体の中で忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実でした。

家よりも、家を建てる人が大いなる栄誉を持つのと同じように、イエスはモーセよりも大いなる栄光を受けるにふさわしいとされました。。。

モーセは、後に語られることを証しするために、神の家全体の中でしもべとして忠実でした。

しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。。。(ヘブル人への手紙3:1ー6)

イエス様、モーセは天の父の家全体の中で、しもべとして忠実でした。だから、彼は栄誉や栄光を受けるにふさわしい人でした。

でも、あなたは天の父の家全体の中で、御子として忠実でした。そういうわけで、モーセよりも、あなたは大いなる栄誉と栄光を受けるにふさわしい方です。

だから、私の言動によって、あなたがあがめられるように。あなたは、私の服従と敬いにふさわしい方です。

私があなたに従わないとき、あなたを敬わないとき、赦してください。

そんなときにも関わらず、あなたが私の大祭司として、私のために忠実にとりなし続けてくださり、感謝します。

あなたの素晴らしい恵みを感謝します。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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民数記のデボーション

烏合の衆の一員?

彼らのうちに混じって来ていた者たちは激しい欲望にかられ、イスラエルの子らは再び大声で泣いて、言った。

「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。

だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」(民数記11:4-6)

「混じって来ていた者」と訳された言葉は、かなり珍しくて、上記の箇所にしか出てきません。

ある英訳では、その言葉は「riffraff」、つまり、「烏合の衆」と訳されました。

もしかしたら、彼らはイスラエル人ではなかったかもしれません。でも、イスラエル人がエジプトから逃げた時、その人たちはイスラエル人と一緒に行きました。

とにかく、はっきりしているのは、彼らはいつも文句を言い、周りの人々に影響を及ぼし、モーセの重荷になっていたということです。

その反面、イスラエルの民の70人は御霊に満たされ、モーセを支えました。モーセはヨシュアに、「イスラエル人の皆が御霊に満たされるといいのに」と言いました。

数世紀後、神様はペンテコステでその願いをかなえられました。(使徒の働き2:14~18)

今日の箇所を読んだとき、私はこう考えました。

「烏合の衆の一員になりたくない。私はいつもぶつぶつ不平を言って、悪い影響を周りの人々に与えたくない。私はリーダーたちの重荷になりたくない。」

むしろ、私は御霊に満たされることを望みます。教会の内でも外でも、周りの人々に触れ、祝福をもたらすために、神様に用いられることを願います。

あなたはどうですか。

神様はあなたに御霊を与えてくださいました。

御霊に満たされ、導かれている人生を送っているでしょうか。

もしくは、烏合の衆の一員のように生きているでしょうか。

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詩篇のデボーション

神様を神様として認める

知れ。主こそ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。(詩篇100:3)

最近、私はヨブ記についての説教を準備していました。

多分、そのせいで私は神様と時間を過ごしていて、詩篇100篇を読んだとき、ヨブのことを連想しました。ヨブの試練の後、彼が詩篇100篇のような歌を歌うことを想像できました。

なぜなら、ヨブは上の真理を学んだからです。

神様は神様です。私たちは神様ではありません。

神様は私たちを造られました。私たちは神の民です。私たちは神の羊です。

そして、それは幸いなことです。

なぜでしょうか。

なぜなら、最終的に、神様は良い方で、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至るからです。(5節)

この世には、私たちが理解できないことがたくさんあります。ですから、私たちが神様を疑い始めることは簡単なことです。

私たちは、神様が良い方であるかどうか疑い始めます。私たちへの神様の愛も疑い始めます。

でも、試練の中で喜びを知ることができる鍵は、主を神様として認めることです。つまり、神様は賢明な方であり、全能の方であるということです。でも、最も大切なことは、神様は私たちを深く愛してくださっているということです。

だから、確信をもってその真理を信じ、主に向かって喜びの声をあげましょう。(1節)

喜びをもって主に仕え、喜び歌いつつ、御前に行きましょう。(2節)

感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入りましょう。主に感謝し、御名をほめたたえましょう。(4節)

なぜなら、主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至るからです。(5節)

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コロサイ人への手紙のデボーション

キリストのことばが豊かに住むように

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。

知恵を尽くして、詩と賛美と霊の歌により、互いに教え、忠告し合い、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。(コロサイ人への手紙3:16、英訳)

私はいつも「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい」という言葉が大好きでした。

でも、英訳を読むと、新しいことに気づきました。英訳によると、キリストのことばが私たちのうちに豊かに住むようになるのは、聖書を読んだり、説教を聞いたりすることだけではありません。(聖書を読むことと説教を聞くことも大切ですけど。)

パウロによれば、詩と賛美と霊の歌を通して、そのことばは私たちのうちに豊かに住むようになります。

それを読んだ時、私の人生を形作った歌を思い出しました。賛美の歌だけではなく、他のクリスチャンの歌もまた、私の人生を形作りました。

ある歌は聖書を直接引用していたので、私は詩篇121篇やローマ12:1やローマ8:14~21やマタイ11:28を歌ったり、祈ったりしました。

ある歌は聖書を引用していませんでしたが、その歌詞は聖書に基づいていました。

ある歌のおかげで、私は、神様が私のお父さんであることがどういう意味なのかを学びました。

別の歌のおかげで、神様が私のことをどう考えておられるのかを学びました。

もう一つの歌は、頑なな心を捨て、神様に対する柔らかい心を保つように私に挑戦しました。

試練の中で、神様を賛美することを教えてくれた歌もありました。

ある歌のおかげで、礼拝とは歌を歌うことだけではなく、私の人生の全体が神様への礼拝であるべきだということを学びました。

そのような歌は、キリストのことばを私たちのうちに豊かに住まわせる、力強い道具です。

あなたは音楽を聴いているでしょうか。どのような音楽を聴いているでしょうか。その歌の歌詞に注目するでしょうか。

キリストのことばがあなたのうちに豊かに住むことを望むなら、聖書に基づいている歌を探してみましょう。

神様への「ラブソング」だけではなく、神様の真理を教える歌を歌いましょう。

教会で歌われている曲でもいいし、クリスチャン・アーティストの曲でもかまいません。そのような歌を歌いましょう。歌いながら、その歌詞を祈りましょう。

そして、そのことばによって励まされ、挑戦され、忠告されましょう。また、そのことばを周りのクリスチャンたちに伝えましょう。

そうすれば、キリストのことばは私たちのうちに住むようになります。

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コロサイ人への手紙のデボーション

感謝に満ちた歩み

このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。。。

あふれるばかりに感謝しなさい。(コロサイ人への手紙2:6ー7)

「あふれるばかりに感謝しなさい。」

なぜか、その言葉は私の心に本当に響きました。

私は、溢れんばかりの感謝で特徴づけられているのだろうか。

私は、義務からではなく、イエス様が私にしてくださったことへの感謝に満ちた心から、クリスチャン生活を送っているだろうか。

感謝に満ちた心を持っているなら、私はイエス様のうちに根差そうと努めるでしょう。

また、私はイエス様にあって建てられたいし、信仰を堅くしようと努めるでしょう。

天のお父さん、あなたとの関係に関して、私が無関心な態度を決して取らないように。私のクリスチャン生活が決して重荷にならないように。

むしろ、私が毎日、溢れんばかりの心をもって、あなたと歩むように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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コロサイ人への手紙のデボーション

あなたが第一の者となるように

御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。

なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。

万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。

また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。(コロサイ人への手紙1:15-18)

イエス様、私はあなたにあって造られました。私はあなたによって造られました。私はあなたのために造られました。だから、私の人生において、第一の者となってください。あなたは私の人生において第一の者となるにふさわしい方なのです。

どうか私があらゆる霊的な知恵と理解力によって、あなたの御心についての知識に満たされますように。

その知識に満たされることで、私はあなたにふさわしく歩み、あらゆる点であなたに喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、あなたを知ることにおいて成長することができます。

私がどんなことにも喜びと感謝を持ち、忍耐し、寛容でいられるため、あらゆる力で私を強くしてください。

私へのあなたの恵みは素晴らしいです。あなたは私に聖徒の相続分を与えてくださいました。あなたは私を暗闇の力から救い出して、あなたのご支配の中に移してくださいました。

あなたの十字架上の死によって、私を天の父の御前に聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として立たせてくださいます。

あなたの恵みによって、私が信仰に土台を据え、堅く立ち、あなたの福音の望みから外れることなく、信仰にとどまるように助けてください。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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ピリピ人への手紙のデボーション

自分の救いを達成するよう努める

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。(ピリピ人への手紙2:12)

今日、「自分の救いを達成するよう努める」という言葉を考えていました。それはどういう意味でしょうか。

ピリピ人への手紙3章では、パウロがその意味を説明していると思います。

彼は、義と認められるために律法を守ろうとすることを意味していませんでした。彼の義は、イエス様の十字架の働きを信じる信仰に基づいていました。(ピリピ3:9)

では、「自分の救いを達成するよう努める」とは、どういう意味でしょうか。

1.イエス様との関係を追求することです。イエス様を知ることは、パウロの究極の情熱となりました。

2.ますますイエス様のようになることです。パウロはイエス様の復活の力を経験し、その力によってイエス様のように変えられることを望みました。

でも、イエス様と共によみがえられる前に、パウロはイエス様と共に死ななければなりませんでした。

イエス様がただ一度罪に対して死なれたように、パウロは罪に対して死んだ者となり、また神に対して生きている者となるように学ぶべきでした(ローマ6:10ー11)。

そして、キリストの苦しみに参加することで、パウロは罪との関わりを断ち、神のみこころに生き始めていることを証明しました(第一ペテロ4:1ー2)。

それは、自分の救いを達成するよう努めるということです。

でも、それは一生続くプロセスです。パウロ自身も、まだそのプロセスを終えていないことを認めました。

彼はまだ失敗しました。彼はまだたどり着いていませんでした。

でも、恵みによって、イエス様はパウロを捕えてくださいました。だから、パウロは受けた救いを完全に捕らえるように努め、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めました。

パウロを捕えてくださったイエス様が、私をも捕えてくださったことに驚いています。だから、パウロのように、私も受けた救いを完全に捕えるように努め、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めています。

私はまだ失敗します。私はまだたどり着いていません。でも、神様が私に恵みと愛を与えてくださったという確信を持ち、パウロと共に言います。

うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。(ピリピ3:13ー14)

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ピリピ人への手紙のデボーション

恐れおののいて

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。(ピリピ人への手紙2:12)

「恐れおののいて。。。」

今日、その言葉を嚙み締めていました。

「恐れおののいて」というのは、どういう意味でしょうか。

自分の手紙の中で、パウロはその表現を三度使いました。その表現を使うたびに、パウロはイエス様への従順について話していました。

第二コリント7:15では、コリント人たちはテトスを恐れおののきながら迎えました。なぜなら、テトスはコリント人たちが従順したイエス様を代表していたからです。

エペソ6:5では、奴隷たちはイエス様に恐れおののいて従っていたように、自分の主人にも従うべきでした。

そして、今日の箇所では、ピリピ人たちがいつも従順であったように、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めるべきでした。

ある意味、十字架でイエス様は私たちの救いを完全に達成したけど、私たちがイエス様に従い仕えることで、私たちの救いの益をより完全に経験します。そして、救いの最大の益は、私たちを深く愛してくださる神様との関係の回復です。

だから、救いを達することの大部分は、その回復された関係の中で、毎日毎日、一瞬一瞬を歩むことを学ぶことなのです。

でも、どうして恐れおののいてそうするべきでしょうか。

なぜなら、イエス様はすべての名にまさる名を与えられ、すべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白しますから。

もしかしたら、パウロはその言葉を書いたとき、引用したイザヤ書45:23だけではなく、詩篇2編をも考えていたかもしれません。

詩篇2編は、メシアに関する詩篇です。その詩篇では、神様はイエス様を全世界の王として立てます。そして、イエス様に反抗する人たちのすべては滅ぼされます。そのような人々はイエス様の怒りを恐れるべきです。

でも、主に身を避ける人は喜びを知ります。(詩篇2:12)

だから詩人はこう書きました。

恐れつつ、主に仕えよ。おののきつつ喜べ。。。(詩篇2:11、脚注にある別訳)

上記の言葉はパウロの言葉に似ていますね。もしかしたら、「恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい」と言ったとき、詩人の言葉を考えていたかもしれません。

私たちはイエスと対等ではありません。

イエス様は王の王と主の主です。イエス様は私たちの従順にふさわしい方です。そして、イエス様はいつかすべての反逆者を裁きます。

そういうわけで、私たちはイエス様を軽んじてはいけません。

でも、イエス様を私たちの主と認めるなら、私たちが神様からの罰を恐れる必要はありません。裁きは私たちのためではなく、神様の敵のためですから。

むしろ、畏敬の念を抱き、さらに喜びの歌を歌って、イエス様に仕えます。(詩篇2:11;ピリピ2:13;詩篇100:2)

私たちはおののきながら、神様が私たちに与えてくださった恵を喜びます。神様がみこころのままに、私たちのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださることを喜びます。(ピリピ2:13)

もう一人の詩人は「恐れおののいて自分の救いを達成する」というコンセプトをまとめたと思います。

知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。(詩篇100:3-5)

だから今年、私たちの主とその救いを軽んじないようにしましょう。

むしろ、恐れおののいて、また、喜びをもって、自分の救いを達成するよう努めましょう。

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ピリピ人への手紙のデボーション

人々のために祈る。自分のために祈る。

今日、パウロの言葉を読んだとき、ピリピ人たちのためのパウロの祈りを借りて、私の祈りのリストにある人々のために祈りました。特に、私の家族とスモール・グループのために祈りましたが、私の牧師とその奥さんのためにも祈りました。

<名前>さんの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、<名前>さんが、大切なことを見分けることができますように。

こうして<名前>さんが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。

あなたは、<名前>さんの中で良い働きを始められたことを信じています。その働きを完成させてください。

<名前>さんがあなたの福音にふさわしく生活するように。そして、<名前>さんの身によってキリストがあがめられるように。(ピリピ人への手紙1:6,9~11,20,27)

でも、祈るとき、私もその祈りを必要としていることに気づきました。だから、自分のためにも祈りました。

天のお父さん、私の愛も知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、私が大切なことを見分けることができますように。

こうして私がキリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神様の栄光と誉れが現されますように。

あなたは、私の中で良い働きを始められたことを信じています。その働きを完成させてください。私があなたの福音にふさわしく生活するように。

そして、今日、私の身によって、私の人生によってキリストがあがめられるように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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エペソ人への手紙のデボーション

すべての武具を身に着けて

悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。。。

ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。(エペソ人への手紙6:11~13)

「すべての武具。」

今朝、神様はその言葉を私の心に刻まれました。

すべての武具を身に着けなさい。すべての武具を取りなさい。一部の武具ではなく、すべての武具なのです。

サタンは私たちに攻撃するため、一つの策略ではなく、さまざまな策略を使います。だから、毎日、すべての武具を身に着けなければ、私たちは攻撃に対して脆弱になります。

パウロの言葉を言い換えると、すべての武具を身に着けなければ、あなたは悪魔の策略に対して堅く立つことができません。

神様のすべての武具を取らなければ、あなたは抵抗することも、堅く立つこともできません。

だから、真理の帯を締めましょう。つまり、神様の言葉をあなたの思考の土台にしましょう。また、あなたの言葉が真理によって特徴づけられるようにしましょう。

そして、仮面を捨てましょう。つまり、教会では一人の人間、教会の外ではもう一人の人間という二面性を持たないことです。

胸には正義の胸当てを着けましょう。正義をもって、周りの人々に接しましょう。また、あなたの失敗のためにサタンがあなたを責めるときは、イエス様を信じる信仰によるキリストの義を着けましょう。

恵みの福音の備えをも履きましょう。そうすれば、自責の念や律法主義、そして意図的な罪に陥ることはありません。

信仰の盾をも取りましょう。でも、一人で立ってはいけません。ほかのクリスチャンたちと共に立ちましょう。クリスチャンの交わりを優先しましょう。

そうすれば、あなたの盾は強い亀の甲羅の一部となります。その甲羅は、あなただけでなく、周りのクリスチャンたちをサタンの攻撃から守ります。

救いのかぶとを受け取りましょう。感謝をもって、受け取りましょう。なぜなら、あなたは神様の恵みによって救いを得たからです。

そして、サタンが嘘であなたを攻撃するときは、神様のことばという剣を振るいましょう。

あなたはどうですか。神様の武具のすべてを身に着けているでしょうか。もしかしたら、その武具の一部は床に残されたままになっているのではないでしょうか。

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エペソ人への手紙のデボーション

あなたのようになるように

しかしあなたがたは、キリストをそのように学んだのではありません。ただし、本当にあなたがたがキリストについて聞き、キリストにあって教えられているとすれば、です。真理はイエスにあるのですから。

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。(エペソ人への手紙4:20~24)

天のお父さん、私たちは初めにあなたの似姿に造られました。(創世記1:26-27)

しかし、その似姿は私たちの罪によって歪められ、腐敗しています。

私の人生においても、あなたの似姿は私の罪によって歪められ、腐敗しています。

それでも、あなたは私を愛してくださり、あなたの恵みによって私を救ってくださいました。あなたの望みは、私があなたの御子のようになることです。(エペソ4:13)

ですから、私があなたにかたどって造られた新しい人を着ることができるように助けてください。私があなたの義、真理、愛、恵、親切さ、優しい心によって特徴づけられる者となるようにしてください。

周りの人々が私を見るとき、彼らがあなたを見てくださるように。私はあなたのようになりたいのです。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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エペソ人への手紙のデボーション

近い者となった

そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。

しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。。。

このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なので。(エペソ人への手紙2:12~13)

多分、上記は、私が最も気に入っているエペソ人への手紙の箇所です。その箇所は、クリスマスの意味、つまり、イエス様がこの世に来られた理由を要約しているからです。

私たちは、かつて神様の家族の部外者であり、アブラハムとその子孫への祝福の約束の契約から除外されていました。しかし今、イエス様にあって、かつて神様から遠く離れていた私たちは、近い者となりました。

イエス様の系図を見ると、それがよく分かります。

タマルはカナン人でした。カナン人の罪のため、神様はイスラエル人たちに、カナン人たちを滅ぼすように命じられました。(マタイ1:3;創世記10:15-18,15:16;レビ記18:24-28;申命記7:1-4)

ラハブもカナン人で、遊女でした。(マタイ1:5)

ルツはモアブ人でした。神様はイスラエル人たちに、モアブ人が主の集会に加わってはならないと言われていました。(マタイ1:5;申命記23:3-4)

彼女らは皆、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神様もおられない者たちでした。けれども、彼女らは近い者となり、聖徒たちと同じ国の民となり、神様の家族に加えられました。

私たちも同じです。

クリスマスはもう終わったかもしれませんが、パウロの言葉に思いを巡らしましょう。その言葉を反芻しましょう。

そして、喜びましょう。

私もそうしています。

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エペソ人への手紙のデボーション

ふんだんに恵まれている

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。(エペソ人への手紙1:3-6)

私は6節の英訳が大好きです。「神様は私たちに恵みの栄光をふんだんに与えてくださいました。」

「ふんだんに与える」と訳された言葉は、新約聖書では2回しか使われていません。2回目は、上のエペソの箇所です。一回目は、マリアへのガブリエルの言葉です。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(ルカ1:28)

ガブリエルの言葉を言い換えると、「マリア、神様はあなたにふんだんに恵みを与えてくださいました。」

あなたは、御使いがマリアにそのような言葉をかけたのは、マリアが本当に特別な人だったからだと思うかもしれません。

でも、神様は同じようなことを、私たちにも言ってくださいます。

「わたしの子を通して、あなたに恵みをふんだんに与えました。世界の基が据えられる前から、あなたをわたしの子供とするように定めていました。」

マリアへの神様の言葉は、あなたにも当てはまります。あなたは、ふんだんに恵まれた人です。そして、イエス様において、神様はインマヌエルです。「神様は私たちと共におられます。」

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テサロニケ人への手紙第二のデボーション

模範になるなんて、私が?

どのように私たちを見習うべきか、あなたがた自身が知っているのです。。。

あなたがたが私たちを見習うように、身をもって模範を示す。。。(テサロニケ人への手紙第二3:7、9)

今朝、私はその言葉に心を打たれました。

パウロの言葉はとても大胆です。「どのように私たちを見習うべきか、あなたがた自身が知っているのです。」

正直に言うと、私はそんな大胆さを持っていません。

なぜなら、私は自分の欠点をよく知っているからです。まだ成長しなければならない部分が、私にははっきりと見えています。

いったいどうして、人々が私の真似をしたがるのでしょうか。

それでも、神様は私たち皆に弟子を作るよう命じておられます。牧師や教会のリーダーだけでなく、すべての信者に対して、周囲の人々が見習うべき模範を示すよう求めておられるのです。

模範となるとは、周囲の人々が私たちの長所を見て見習うだけでなく、私たちが自分の欠点や罪を克服しようとしている姿を見るということです。

さらに、彼らが見るべきなのは、私たちが罪や欠点のために罪悪感にさいなまれている姿ではなく、むしろ、毎日毎日、一瞬一瞬、神様の恵みによって歩み、神の子供であるという確信を持って生きている姿なのです。

天のお父さん、私は、人々が見習いたいと思うような人間になりたいです。いろんな意味で、私はふさわしくないと感じています。

でも、人々が私を見るとき、彼らが真似したいと思うような私の長所を見るだけでなく、私が自分の欠点や罪を克服しようとしている姿を通して、私が毎日歩んでいるあなたの恵みを見ることができますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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テサロニケ人への手紙第二のデボーション

私たちが必要な祈り

今日、私はパウロの祈りに深く感動しました。なぜなら、彼がテサロニケ人たちのために祈ったことは、まさに私自身に必要な祈りだからです。実際、それはすべてのクリスチャンにとって必要な祈りです。

パウロはこう言いました。

こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。

それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。(第二テサロニケ2:11ー12)

私たちがよく考えるのは、自分自身を良い人にしなければならないということです。自分の力と自制心によって、自分自身を変えなくてはならないと考えがちです。

しかし、パウロが祈っているのは、神様が私たちを召しにふさわしい者としてくださり、神様の力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から生まれる働きを実現してくださるということです。

それによって、イエス様が私たちの間であがめられ、私たちにも主にあって栄光が与えられます。

けれども、その栄光は私たち自身の素晴らしさによるものではなく、私たちの人生に働いている天の父の恵みと御子の恵みによるものです。

そして、パウロはこう祈ります。

どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。(第二テサロニケ2:16ー17)

また、

主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。(第二テサロニケに3:5)

私たちの信仰の根底には、一つの根本的な真理があります。それは、神様が私たちを深く愛してくださるということです。

パウロが祈ったのは、イエス様が日々私たちを天の父の愛へと導き、私たちが必要な励ましと希望を受けることができるようにということです。そして、その励ましと希望によって、私たちはあらゆる良いわざとことばのために、神様によって強められます。

さらに、テサロニケ人たちのように、私たちが試練や苦しみに直面するとき、パウロは、私たちがイエス様を仰ぎ見ることによって、勇気を得るように祈りました。十字架で私たちの罪の代価を支払ってくださったイエス様の忍耐に目を向けることによってです。

私は前にも言いましたが、私たちはよく、自分の力と自制によってクリスチャン生活を送ろうとしてしまいます。

でも、イエス様が私たちを天の父の愛へと導いてくださるように、イエス様の十字架を覚えていましょう。神様の愛とイエス様の十字架に、心を向けて思いを巡らしましょう。

そして、あなたのあらゆる良いわざと言葉が、神様の愛とイエス様の十字架への感謝から生まれるものでありますように。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

神様が真実ですから、そのようにしてくださいます。

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。

あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(テサロニケ人への手紙5:23ー24)

「あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。」

この言葉は、私の心に深く響きました。

それを読んだとき、私はローマ人への手紙8章29~30節にあるパウロの言葉を思い出しました。

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。

私たちは、その言葉を本当に信じているでしょうか。

私たちが生まれる前から、神様はその働きを始めておられました。イエス様のようになるために、私たちの霊、魂、身体のすべてが責められるところのないものとなるよう、神様は私たちを選んでくださいました。

そして、神様が始められたことを完成させてくださいます。なぜなら、神様は真実なお方だからです。

鏡に映った自分を見るとき、気に入っているでしょうか。

それとも、自分の失敗や罪の汚れを見て、顔をしかめるでしょうか。

でも、私たちのアバは、私たちを見るとき、顔をしかめることはありません。

私たちのアバは、あなたを最初から知っておられ、選んでくださいました。あなたを召してくださいました。あなたを義と認めてくださいました。あなたの罪の記録を完全に消し去ってくださいました。

そして、あなたがそれを見えるか見えないかにかかわらず、神様はあなたを完全に聖なるものとしてくださる過程におられます。

なぜなら、神様のみこころは、あなたがたが聖なる者となり、イエス様のようになることだからです。(第一テサロニケ4:3)

そして、その過程が完成されるまで、神様はあなたに栄光を与え、あなたがイエス様のようになるまで、働き続けてくださいます。

だから、義の胸当てを着けましょう。自分自身の義ではなく、イエス様を信じる信仰による神様の義を着けましょう。また、あなたに対する神様の愛の確信が、あなたの心を守るようにしましょう。(エペソ6:14;第一テサロニケ5:8)

そして、あなたの救いの希望—いつかあなたがイエス様のようになるという希望—が確かなものであることを覚えていましょう。その希望を、毎日かぶりましょう。

神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。(第一テサロニケ5:9)

また、

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(テサロニケ人への手紙5:24)」

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

希望を持って、待ち望む

そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。

最後に兄弟たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから、ますますそうしてください。。。

神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。(テサロニケ人への手紙第一3:13~4:1、3)

今はクリスマスのシーズンなので、私たちはよくイエス様の初臨を振り返りますが、イエス様はもう一度この世に来られます。それが私たちの希望です。

最近、二人の友人が亡くなり、主と共に旅立ちました。しかし、パウロが言ったように、私たちは望みのない他の人々のように悲しむことはありません。

イエス様がもう一度この世に来られるとき、彼らはよみがえり、生き残っている私たちは彼らと一緒に空中で主と会います。そして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。

その日に、私たちは聖く、責められるところのない者となります。簡単に言えば、イエス様に似た者となるのです。なぜなら、私たちはイエス様をありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)

それが私たちの希望です。でも、その日が来るまで、パウロとヨハネは、私たちがますますイエス様のようになることを促しています。(第一テサロニケ4:1~3;第一ヨハネ3:3)

私は、第一テサロニケ4章3節の英訳が好きです。「あなた方は神に喜ばれるために現に歩もうとしているが、前進し続けなさい。」

「前進し続けなさい。」

それが神様の御心です。つまり、毎日毎日、一瞬一瞬、私たちがますますイエス様のようになるということです。

イエス様、私はクリスマスを楽しみにしていますが、あなたの再臨も心待ちにしています。あなたの御顔を仰ぎ見ること、友人たちと再会できることを心から待ち望んでいます。

でも、その日が来るまで、私が前進し続けるように助けてください。私が成長し続けるように助けてください。

あなたの恵みによって、毎日、私がますますあなたのようになるようにしてください。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

愛され、選ばれている

神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。(テサロニケ人への手紙第一1:4)

今朝、私はその言葉を反芻していました。

私は神様に愛されています。

私は神様に選ばれています。

その言葉を考える時、私はいつも驚かされます。

「神様は私を愛することを選ばれたの?どうしてだろうか。」

その答えは出てきません。でも、その真理は心強いものです。

私は神様のご恩を得ようと努める必要はありません。私はそのご恩をすでに得ているのです。

私が神様の愛に値することを証明する必要はありません。神様はすでに私を愛してくださっています。

だから、自分の弱さや失敗を見ても、神様が私を受け入れてくださることを知り、安心することができます。

下記の言葉が、あなたの心に染み渡りますように。

「私は神様に愛されています。」

「私は神様に選ばれています。」

Don’t try so hard
頑張らなくて良い
God gives you grace and you can’t earn it
神様はあなたに恵みを与えてくださいます。その恵みは、自分の努力で得ることはできません。
Don’t think that you’re not worth it
自分には価値がなくて、神様が恵みを与えてくださるはずがないと思わないでください。
Because you are
神様の目には、あなたには価値があります。

He gave you His love and He’s not leaving
神様はあなたに愛を与えてくださいました。そして、あなたを決して見捨てません。
Gave you His Son so you’d believe it
あなたがその真理を信じることができるように、神様は御子を与えてくださいました。
You’re lovely even with your scars
あなたには傷跡があっても、美しさがあります。
Don’t try so hard.
頑張らなくて良い。ーーエイミー・グラント

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出エジプト記のデボーション

私たちの間に幕屋を張られた神

そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。

モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。(出エジプト記40:34ー35)

今はクリスマス・シーズンなので、私は上記の言葉を読んだとき、ルカによる福音書2章の羊飼いたちの話を思い出しました。

さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。

すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。(ルカ2:8ー9)

幕屋を満たしていたのと同じ栄光が、羊飼いたちの周りを照らしました。羊飼いたちが恐れるのも無理はありません。

モーセでさえ、神様の栄光に満ちた場所に入るのを恐れました。

しかし、御使いは羊飼いたちにこう言いました。

恐れることはあ

りません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:10ー11)

イエス様を通して、羊飼いたちは、モーセでさえ持っていなかった神様へのアクセスを与えられました。

神様は、私たちにもその同じアクセスを与えてくださいました。

ヨハネはこう言いました。

ことば(つまり、神)は人となって、私たちの間に住まわれた。(マタイ1:14)

原語では、「住まわれる」という言葉には、「幕屋を張る」というニュアンスがあります。

神様がイスラエル人の間に幕屋を張られたように、イエス様が人間となられたとき、神様は私たちの間に幕屋を張られました。

だから、ヨハネはイエス様についてこう言いました。

私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14b)

そして、イスラエル人たちが旅をしている間、神様がインマヌエルであったように、私たちの人生の旅の間も、イエス様は私たちにとってインマヌエルであり、私たちにこう約束してくださいます。

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)

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私のすることすべてが。。。

心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな、会見の天幕の仕事のため、そのあらゆる奉仕のため、また聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。(出エジプト記35:21)

モーセはイスラエルの子らに言った。

「見よ。主は、ユダ部族の、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、 彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。(出エジプト記35:30ー31)

天のお父さん、私のすることすべてが心から流れるようにしてください。

義務からではなく、回りの人々の期待からでもなく、あなたの恵みと愛に触れられ、感謝に満ちた心から私が仕えるようにしてください。

私の動機はよく複雑なものです。私が心のすべてをあなたに捧げるように助けてください。

私が弱くても、自分の物足りなさを感じても、あなたは私を名指して召してくださいました。

あなたの御霊で私を満たしてください。あなたの仕事を成し遂げるため、私に知恵と英知と知識を与えてください。

あなたを離れては、私は何もできません。でも、あなたにとどまっているなら、私は多くの実を結ぶことができます。

私はあなたのために多くの実を結びたいのです。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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インマヌエル

「今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」

主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」

モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。」(出エジプト記33:13ー15)

今朝、私は自問しました。

「私はモーセの心を持っているだろうか。」

私はどれだけ、このように祈っているでしょうか。

「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私の家から出たくもありません。

もしも私がみこころにかなっているのでしたら、私と共に歩んでください。

どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。」

驚くべきことは、神様が私たちにこのように答えてくださるということです。

「あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出した。わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」(出エジプト記33:17、14)

それがクリスマスの意味です。

イエス様はインマヌエルです。イエス様にあって、神様は私たちと共におられます。

神様がモーセと共に歩み、モーセと語ってくださったように、神様は私たちと共に歩み、私たちと語ってくださいます。

さらに、イエス様は神様の栄光を私たちに現し、恵みの上にさらに恵みを与えてくださいます。(ヨハネ1:14、16~18)

考えてみれば、それはすごいことですね。

いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。(ルカ2:14)

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私たちの罪の深刻さ

翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。」(出エジプト記32:30)

モーセの言葉で、私の心は本当に打たれました。

「あなたがたは大きな罪を犯した。」

それを読んで、私は考えました。

「私は自分の罪をどれだけ重く受け止めているだろうか。自分の罪を軽く見てしまうことがあるだろうか。」

パウロによれば、罪の報酬は死です。(ローマ書6:23)

イスラエル人たちは、その真理を学びました。3000人のイスラエル人が死に、さらに多くの人々が打たれました。

十字架でイエス様が死ななければならなかったほど、私たちの罪は深刻なものです。

私たちが自分の罪の深刻さを正しく理解してこそ、ダビデの言葉に含まれた喜びの深さを理解することができます。

幸いなことよ、その背きを赦され、罪をおおわれた人は。

幸いなことよ、主が咎をお認めにならず、その霊に欺きがない人は。(詩篇32:1ー2)

天のお父さん、私が決して自分の罪を軽く見ないようにしてください。私が決して、あなたの素晴らしい恵みを当たり前のものだと思わないようにしてください。

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出エジプト記のデボーション

聖所

彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。

幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。(出エジプト記25:8~9)

天のお父さん、私のうちに住んでください。私があなたの聖所となるように。私の人生が私自身の設計図によってではなく、あなたの設計図によって築かれるように。

天のお父さん、あなたは聖なる方であり、あなたのみ言葉は聖なるものです。でも、私はしばしば罪に陥ってしまいます。だから、いつも宥めの蓋の上から私に語ってください。(出エジプト記25:21~22)

イエス様、あなたは私の宥めの蓋(別訳:宥めのささげ物)です。(ローマ3:25とその脚注)

毎日、あなたの血によって、私をすべての罪から清めてください。

天のお父さん、あなたはいつも私と共におられ、日ごとのパンを与えてくださいます。(出エジプト記25:23~30)

イエス様、あなたは私に永遠のいのちを与える天から下って来たパンです。(ヨハネ6:33~35)

イエス様、あなたは私の光です。(出エジプト記25:31~38;ヨハネ8:12)

私が毎日あなたの光の中で歩むことができるように。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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古い契約、新しい契約

モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。

「主の言われたことはすべて行います。聞き従います。」

モーセはその血を取って、民に振りかけ、そして言った。

「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」(出エジプト記24:6~8)

日曜日に聖餐式があったので、最後の晩餐でのイエス様の言葉を思い出しました。

この杯は、わたしの血による新しい契約です。

飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。(第一コリント11:25)

ある意味、古い契約は恵みの契約でした。その契約によって、自分の罪のゆえにふさわしくなかった人々も、神様との関係を持つことができたのです。

でも、ある意味では、その契約は不完全なものでした。

その契約は、イスラエル人が神様の命令に従うという約束に基づいていました。しかし、彼らは完全にそうすることができませんでした。(ヘブル8:7~9;10:1~4)

さらに、契約の血がイスラエル人たちに振りかけられましたが、彼らは神様に近づくことができませんでした。

モーセ、祭司たち、長老たちだけが、神様の御前で食べたり、飲んだりすることができました。それでも、モーセだけがシナイで神様に近づくことができました。

その一方、新しい契約は、神様の律法を守ろうとする私たちの努力に基づくものではありません。その契約は、私たちが良い人間になるという誓いに基づくものではありません。

その契約は、十字架で流されたイエス様の血によって基づくものです。

その血は、アベルの血と違って、復讐を求めるのではなく(創世記4:10)、「アバ、父よ、彼らを赦してください」と叫びます。

そういうわけで、私たち皆は、恐れず、喜びをもって、大胆に神様に近づくことができます。(ヘブル10:19~22)

ヘブルの著者は、新しい契約と古い契約の違いをこのようにまとめました。

あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。

そのことばのとどろきを聞いた者たちは、それ以上一言も自分たちに語らないでくださいと懇願しました。

彼らは、「たとえ獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができませんでした。

また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。

しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。(ヘブル書12:18~24)

それは、なんと素晴らしいことでしょう。

このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。

感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。

私たちの神は焼き尽くす火なのです。(ヘブル12:28~29)

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私たち皆が必要とするもの

すると、モーセのしゅうとは言った。

「あなたがしていることは良くありません。あなたも、あなたとともにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。

このことは、あなたにとって荷が重すぎるからです。あなたはそれを一人ではできません。」(出エジプト記18:17ー18)

「あなたはそれを一人ではできません。」

アマレク人との戦いの直後、イテロがその言葉をモーセに言ったということは興味深いです。

その戦いで、イスラエル人のためにとりなしているとき、モーセは文字通り自分の手を上げ続けることができませんでした。そのため、勝利を収めるまで、アロンとフルはモーセを支えてくれました。(出エジプト記17:8~16)

そして、そのあと、イテロはモーセに「あなたは神様の仕事を一人ではできません」と言いました。

私たち皆はそれを心に留めておかなくてはなりません。私たちの牧師やクリスチャン・リーダーたちがスーパー・クリスチャンに見えるかもしれませんが、一人で神様の仕事をすることはできません。

もちろん、彼らには私たちの励ましと支援が必要です。でも、私たちも自分の役割を果たさなくてはなりません。神様は私たちそれぞれに、人々に仕えるための賜物を与えてくださいました。

ミニストリー、奉仕はリーダーだけの仕事ではありません。ミニストリーはすべてのクリスチャンの仕事なのです。(エペソ4:11~16)

でも、リーダーたちだけではなく、私たち皆には、支援や励ましが必要です。家族や回りの人々に対する私たちの奉仕が大変になる時もあります。

私たちの日常生活も、大変になるときがあります。だから、一人でこのクリスチャン生活を送ろうとしないようにしましょう。

そうすれば、私たちの重荷は軽くなり、私たちは立ち続けることができます。(出エジプト記18:22~23)

また、パウロの言葉を心に留めておきましょう。

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。(ガラテヤ6:2)

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神様に叫ぶ?それとも責める?

それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。

それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。(出エジプト記17:7)

イスラエル人たちは、どのようにその言葉を言っていたでしょうか。どんな態度を持っていたでしょうか。

彼らは苦しみの中で謙遜な態度をもって、こう言っていたでしょうか。

「神様、私たちはどうしてこんなに苦しんでいるのか理解できません。あなたは本当に私たちと共におられるのですか。私たちには水がありません。助けてくださらなければ、私たちは死んでしまいます。どうか助けてください。」

それとも、彼らは反抗的な態度をもって、こう言っていたでしょうか。

「神様、本当に私たちと共におられるのですか。おられないのですか。私たちを死なせるのですか。あなたはどのような神なのですか。あなたは本当に良い方なのですか。」

モーセの反応から察すると、イスラエル人たちは反抗的な態度をもって話していたようです。さらに、モーセは後にイスラエル人たちにそのような態度を取らないように警告しました。(申命記6:16)

試練にあうとき、自分の感情にもまれるのは簡単なことです。

もちろん、苦しみの時には、自分の疑い、痛み、恐れを表現してもいいです。詩篇では、ダビデはしばしばそうしました。

でも、私たちは反抗的な態度に注意するべきです。私たちは神様を裁く立場を取ってはいけません。神様は私たちよりもはるかに多くのことを知っておられるからです。

だから、苦しむ時、理解できない時、神様に対してへりくだる態度を持つべきです。

サタンは私たちに、神様が良い方であることを疑わせようとします。試練を通して、サタンは私たちの神様への信頼を壊そうとします。

その誘惑に負けてはいけません。むしろ、神様が良い方であり、私たちに忠実であり、私たちを愛してくださるという真理にしがみつきましょう。

そして、ぺテロの言葉を心に留めておきましょう。

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。

堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。(第一ぺテロ5:6~10)

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安息を拒むことなく

七日目になって、民の中のある者たちが集めに出て行った。しかし、何も見つからなかった。

主はモーセに言われた。

「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを拒み、守らないのか。心せよ。主があなたがたに安息を与えたのだ。(出エジプト記16:27~29)

「主があなたがたに安息を与えたのだ。」

その言葉に、私は心を打たれました。

神様はイスラエル人たちに安息を与えようとされました。その安息は、彼らへの賜物でした。でも、神様を信頼し、従うことを拒む限り、彼らはその安息を知ることができませんでした。

彼らが神様の愛といつくしみを、どれほど早く忘れてしまったか驚くばかりです。

彼らはこう歌ったばかりでした。

「主よ、神々のうちに、だれかあなたのような方がいるでしょうか。だれかあなたのように、聖であって輝き、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行う方がいるでしょうか……

あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われた」(出エジプト記15:11、13)

それなのに、彼らはすぐに「エジプトでの奴隷生活の方がましだった」と文句を言い始めました。

私はそのような人間になりたくありません。

日曜日に「偉大なる主を誉めよ」と歌いながら、その後の6日間、神様を信頼し、従うことを拒むような人間になりたくありません。

そうすれば、私は天の父を悲しませ、神様の安息と平安の賜物を逃してしまうからです。

天のお父さん、あなたの安息と平安を知りたいです。さらに、あなたは、私がその安息と平安を経験することを望んでおられます。

だから、私があなたを信頼し、従うことができるように助けてください。

あなたは良い方で、信頼でき、私を深く愛してくださいます。

私がその3つのことを決して忘れないようにしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちの前に進まれる方

主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。

昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。(出エジプト記13:21ー22)

天のお父さん、あなたは私の前に進まれる方です。昼も夜も、あなたは私の前から離れることはありません。

あなたの知恵によって、私を導いてください。私自身よりも、あなたは私のことを知っておられます。あなたは、私が耐えられることと、耐えられないことをよく知っておられるのです。(出エジプト記13:17~18)

私がヨセフのような信仰を持つことができるように。あなたが約束された通りに、必ずしてくださるという確信を持てますように。(出エジプト記13:19)

私がモーセのような信仰を持つことができるように。あなたがどこに行こうとも、私があなたの導きに従うように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちを区別するもの

その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。

わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。(出エジプト記12:13)

イスラエル人とエジプト人は、何が違ったのでしょうか。どうして神様の裁きはエジプト人に下ったのに、イスラエル人には下らなかったのでしょうか。

イスラエル人がエジプト人より道徳的に優れていたというわけではありません。

そうではなく、彼らのために流されたやぎや子羊の血のゆえに、イスラエル人は救われました。

イスラエル人と同じように、私たちも神様の裁きを受けるべき存在でした。

私たちは他の人々より道徳的に優れているわけではありません。

私たちを区別するのは、私たちがどれだけ良い人であるか、どれだけ忠実であるかではなく、むしろ、私たちのために十字架で流されたイエス様の血です。

その血によって、私たちは神様の裁きから救われました。

もしかしたら、ダビデはイスラエル人たちがヒソプの束を使って、血を鴨居と二本の門柱に塗り付ける場面を思い浮かべて、この言葉を歌ったのかもしれません。

ヒソプで私の罪を除いてください。
そうすれば私はきよくなります。

私を洗ってください。
そうすれば 私は雪よりも白くなります。(詩篇51:7)

神様はイスラエル人たちに、神様がその日に彼らのためにしてくださったことを思い出すように命じられました(24~27節)。

私たちも、イエス様が十字架で私たちのためにしてくださったことを思い出し、イスラエル人のようにひざまずいて礼拝しましょう。

It’s your blood that cleanses me.
あなたの血は私を清め、
It’s your blood that gives me life.
あなたの血は私にいのちを与え、

It’s your blood that took my place
あなたの血は私の代わりに流され、
in redeeming sacrifice.
私をあがなってくださいました。

And washes me whiter than the snow.
その血は私を雪よりも白くしてくださいます。
My Jesus, God’s precious sacrifice.
私のイエス、神様の尊いいけにえです。ーーマイケル・キリスト

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頑固な心

いつまで、わたしの前に身を低くするのを拒むのか。(出エジプト記10:3)

ファラオの頑固さを批判するのは簡単なことです。

でも、私たちはどれほど頑固な心を保っているでしょうか。

自分が間違っているとよく知っているのに、私たちは身を低くすることを拒みます。

私も、時には頑固です。

神様は、私の頑固な心にどれほど驚かれるでしょうか。神様は、私にこう言われるでしょうか。

「いつまで、わたしの前に身を低くすることを拒むのか。」

アバ、お父さん、私が柔らかく、へりくだる心を保つことができるように助けてください。

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この世が知るように

あなたはわたしの命じることを、ことごとく告げなければならない。あなたの兄アロンはファラオに、イスラエルの子らをその地から去らせるようにと告げなければならない。。。

わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエルの子らを彼らのただ中から導き出すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。(出エジプト記7:2,5)

モーセとアロンは、ファラオとエジプト人全員が神様が主であることを知るように、神様の言葉を告げなければなりませんでした。

同じように、私たちの周りの人々が神様が主であることを知るために、私たちも神様の言葉を告げなければなりません。

しかし、モーセとアロンの言葉がほとんど裁きの言葉であったのに対し、私たちの言葉は和解の言葉なのです。

パウロはこう言いました。

これらのことはすべて、神から出ています。

神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。

すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。

こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。

私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。

神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。(第二コリント5:18ー21)

だからこそ、周りの人々が神様が主であることを知り、神様と和解することができるように、神様の言葉を告げましょう。

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私は何者でしょうか

神はモーセに語り、彼に仰せられた。

「わたしは主(原語:ヤハウェ)である。

わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神(原語:エル・シャダイ)として現れたが、主(原語:ヤハウェ)という名では、彼らにわたしを知らせなかった。(出エジプト記6:3)

天のお父さん、あなたはエル・シャダイ、全能の神です。あなたはヤハウェです。

あなたはアブラハム、イサク、ヤコブとともにおられた神様です。

あなたはモーセとともにおられた神様です。

そして、あなたは私とともにおられる神様です。

私は何者でしょうか。

どうして、あなたは私を愛し、心に留めてくださるのでしょうか。

どうして、私のうめきを耳に留めてくださるのでしょうか。

どうして、私を救い、購ってくださるのでしょうか。

どうして、私をご自分のものとしてくださるのでしょうか。

どうして、私を御国に導いてくださるのでしょうか。

どうして、私の神となり、あなた自身を私に現してくださるのでしょうか。

イエス様において、あなたはアブラハム、イサク、ヤコブ、モーセでさえ知らなかった方法で、私にご自身を現してくださいました。

だからこそ、苦しむときにも、私はあなた信頼することを選びます。

アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてモーセの時代に、あなたは忠実でおられました。今もあなたは忠実であり、そして永遠に、あなたは忠実な神様なのです。

アバ、あなたを愛しています。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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 天のお父さん、私はあなたを本当に信じるでしょうか?

モーセは最初から、イスラエル人たちに神様の言葉のすべてを伝えたでしょうか。つまり、ファラオの心が頑なになることまで伝えたでしょうか。

それとも、モーセはただ「神様はあなたを救い出すと約束された」とだけ伝えたのでしょうか。

モーセ自身は、神様の警告を真剣に受け止めていたでしょうか。

ファラオが神様の言葉を拒絶し、イスラエル人たちがモーセに怒ったとき、モーセの心はその現実に備えられていなかったように見えます。

では、私たちはどうでしょうか。神様を信じるでしょうか。

イエス様が「世にあっては苦難があります」と警告されたとき、私たちはその言葉を信じるでしょうか。(ヨハネ16:33)

パウロが「終わりの日には困難な時代が来る」と警告したとき、その言葉を本当に信じるでしょうか。(第二テモテ3:1~5)

ペテロが同じことを語ったとき、私たちはその言葉を信じるでしょうか。(第一ペテロ4:12)

そして、私たちが実際に試練に直面したとき、神様が良い方であること、イエス様がすでに世に勝利されたこと、神様がご自分の約束を守られること、そして最終的に私たちを救ってくださることを、信じ続けることができるでしょうか。

私が自問しているのは、そして私たち皆が自ら問うべき問いは、「神様、私はあなたを本当に信じているのでしょうか」ということです。

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神様の忍耐と怒り

私たちの神様は忍耐強い方です。それは確かです。

でも、結局のところ、神様は一つのことに耐えられません。それは、意図的な不従順です。

今日の箇所では、私たちはその真理を二度見ることができます。

神様がモーセにファラオのもとへ行くよう命じられたとき、モーセはいろいろな言い訳をしました。

でも、それらはただの言い訳でした。

神様がその言い訳に応えられた後、最終的にモーセは「私は行きたくない。他の人を遣わしてください」と言いました。

それを聞いて、神様は怒られました。

神様の恵みによって、ある程度までモーセの弱さは赦され、アロンがモーセに代わって民に語ることが許されました。

それでも、神様はモーセがその務めを怠ることを許されませんでした。

そのあと、不思議な出来事がありました。それは、神様がモーセを殺そうとされたということです。

なぜでしょうか。どうやら、神様はモーセに息子の割礼を命じておられたようです。

神様は、アブラハムとその子孫すべてに割礼を命じられました。(創世記17:9~14)

イスラエルのリーダーとして、モーセは良い模範を示すべきでした。

でもなぜか、モーセは息子に割礼を施していなかったようです。

もしかしたら、モーセの妻が息子の割礼。に反対していたのかもしれません。息子に割礼を施したとき、彼女は本当に怒ったようです。

私はもう一度言います。神様は恵み深く、忍耐強い方です。

でも、神様の恵みと忍耐を、罪に対する無関心と勘違いしてはいけません。

神様は、意図的な不従順を軽んじることはありません。

だから、私たちも不従順を軽んじてはいけません。

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天の父のみ心を持つ

こうして日がたち、モーセは大人になった。彼は同胞たちのところへ出て行き、その苦役を見た。

そして、自分の同胞であるヘブル人の一人を、一人のエジプト人が打っているのを見た。。。

それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。

重い労働による彼らの叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。」(出エジプト記2:11、23ー25)

モーセは不完全な人でした。それでも、神様はモーセをご覧になったとき、ご自分と同じような心を持った人をご覧になりました。

モーセは、周りの人々のうめきや苦しみをただ見ていたのではなく、その人を助けたいと思いました。

だから、自分の民の苦しみを見たとき、モーセはただ黙って見ていることができませんでした。

もちろん、モーセのやり方は間違っていましたが、自分の兄弟たちを助けたいと思ったその心は、間違っていませんでした。

そのあと、いじめられていた女性の羊飼いたちを見たとき、先の失敗にも関わらず、モーセはただ黙って見ていることができませんでした。

そのように、神様もご自分の民の苦しみを見たとき、ただ黙って見ておられることはできませんでした。神様は彼らをあわれみ、助けたいと思われました。

だから、神様はご自分と同じような心を持った人を選び、遣わされました。

今なお、神様はそのような人を選び、遣わされます。

私はそのような人になりたいです。あなたはどうですか。

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覚えられ、誉められた

興味深いことですが、エジプトの王の名前は記録されていないのに、「取るに足りない二人の助産婦」の名前は記録されています。

シフラとプアは、神様に忠実に仕えたので、神様はその二人を祝福してくださいました。そして、今日に至るまで、彼女たちの名前は聖書の中で記念されています。

その反面、エジプトの王は、神様に記憶されることも、誉められることもありません。

神の国では、自分は取るに足りない者だと思うかもしれません。

でも、神様に忠実に仕えるなら、シフラとプアのように、あなたは神様に覚えられ、誉められます。

私はシフラとプアの話を読んで、預言者マラキの言葉を連想しました。

そのとき、 主を恐れる者たちが互いに語り合った。

主は耳を傾けて、これを聞かれた。

主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、 主の前で記憶の書が記された。

「彼らは、わたしのものとなる。 ──万軍の主は言われる──

わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。」(マラキ書3:16ー17)

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マタイの福音書のデボーション

不安な時

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。

「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28:18~20)

正直に言うと、今日、私は世界で起こっていることを考えると、心配に陥らないようにするのは難しかったのです。

でも、今日、イエス様は私に思い出させてくださいました。

「すべての権威がアバから私に与えられています。私は今もすべてを治めており、永遠にわたって治めるのです。

もちろん、この世はだんだん崩壊しており、やがては消え去ります。でも、私は再びこの世に来て、すべてを新しくします(第二ペテロ3:10~13)。

だから、その日が来るまで、心配してはなりません。私はあなたと共にいるから。」

この先、この世がどんなに狂っても、私たちの希望は変わりません。だから、将来に関する恐れや心配を捨て、神様が与えてくださった働きを忠実に果たしましょう。神の国のために、弟子を育てましょう。

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これはわたしの血

また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。

「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。(マタイの福音書26:27~28)

イエス様の復活の後、聖餐式を受けるたびに、ペテロはイエス様の言葉の意味をどれほど深く感じたでしょうか。

彼は、イエス様を決して見捨てず、イエス様に忠実であることを誓いました。

でも、そのあと、イエス様がペテロに「わたしと一緒に目を覚まして、祈りなさい」と頼まれたのに、ペテロは寝てしまいました。

イエス様がペテロを起こされたとき、たぶんペテロは自分を責めて、ちゃんと目を覚まし、祈ろうと誓ったでしょう。

でも、ペテロは一回だけではなく、もう二回寝てしまいました。

そして、ユダがイエス様を裏切るために来たとき、ペテロは大祭司のしもべを襲いましたが、イエス様はペテロを誉めるのではなく、叱責されました。

さらにその後、ペテロは「イエスを知らない」と三度言いました。たぶん、鶏が鳴くまで、ペテロは自分が何をしているのか全然気づかなかったでしょう。でも、気づいた瞬間、彼は激しく泣きました。

聖餐式を受けるたびに、イエス様の言葉はペテロにとって、どれほどの意味があったのでしょうか。自分の罪と失敗を思い出すたびに、イエス様の言葉はペテロにとって、どれほどの意味があったでしょうか。

「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。ペテロ。これはあなたのために、あなたの罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」

私は、イエス様を裏切ったことが数え切れないほどあります。

私の誓いを破ったことがあります。良かれと思ってしたことが、悪い結果になってしまったことがあります。

私の言葉でイエス様を否定しなかったかもしれませんが、私の行動でイエス様を否定してしまったことがあります。

でも、イエス様は私に言われます。

「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。ブルース。これはあなたのために、あなたの罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」

だから、聖餐式を受けるときは、その言葉を心に留めましょう。罪や失敗を思い出して、罪悪感に沈みそうになるときも、その言葉を思い起こしましょう。そして、神様の恵みに安心しましょう。

これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。これはあなたのために、あなたの罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。

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私のことを考えるとき、人々は何を思い出すのだろうか

マタイの福音書26:6-16では、クリスチャンたちがよく覚えている二人の人物が登場します。

もちろん、私たちはベタニヤのマリアを覚えています。なぜなら、彼女は本当にイエス様を愛していたからです。

イエス様は、彼女についてこう言われました。

まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。(マタイの福音書26:13)

でも14節では、私たちはもう一人の人物を見ます。私たちはイスカリオテ・ユダもよく覚えています。なぜでしょうか。なぜなら、彼はイエス様を裏切ったからです。

私たちが亡くなった後、人々は私たちについて何を思い出すでしょうか。彼らは私たちのことを何と言うでしょうか。彼らは、イエス様に対する私たちの愛を思い出すのでしょうか。

良い知らせは、たとえ私たちが大失敗しても、評価が変わる可能性があるということです。

ペテロは「イエス様を知らない」と三回言いました。もちろん、私たちはペテロの失敗をよく覚えています。でも、私たちはペテロの人生に注がれたイエス様の恵みも覚えているでしょう。

私のことを思い出すとき、人々がその二つのことを思い出してほしいです。つまり、イエス様に対する私の愛と、私の人生に注がれたイエス様の素晴らしい恵みを思い出してほしいのです。

How will they remember me? 
人々は、私について何を思い出すのだろうか。

I hope when they remember they see you.
人々が私のことを思い出すとき、私の中にイエス様を見てもらえるように祈ります。–キム・ボイス

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産みの苦しみ

また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。

民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。

しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。(マタイの福音書24:6~8)

イエス様の言葉を読んだとき、私はパウロの言葉を連想しました。

私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。

それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。(ローマ8:22~23)

この世の問題や自分の問題を見るとき、私たちが心の中でうめくことは自然なことです。

でも、私たちは希望を持っています。

被造物のうめきと私たちのうめきは、絶望のうめき、死のうめきではありません。

私たちのうめきは、産みの苦しみのうめき、つまり、命の希望のうめきなのです。

イエス様は、この世にもう一度来られます。そのとき、イエス様は、すべての悪を裁かれます。

そして、イエス様は、ご自分の民を救い、すべてを新しくしてくださいます。(マタイの福音書24:30~31)

それが、私たちの希望です。そして、その希望は確かなものです。なぜなら、イエス様の言葉は確かだからです。

イエス様は言われました。

天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。(マタイの福音書24:35)

だから、この世の問題を見るとき、自分の問題を見るとき、絶望に屈してはいけません。

また、自分の愛が冷えないように、注意しなくてはなりません。

むしろ、神様が私たちに与えてくださった役割を、忠実に果たしましょう。

そして、イエス様を待ち望んでいる間、私たちが一人ぼっちではないことを、覚えていましょう。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。

私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:26~28)

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どんな弟子を育てているのか

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。

おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。

そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ。(マタイの福音書23:15)

弟子作りに関して言えば、パリサイ人と律法学者が悪い手本であることは言うまでもないと思います。

でも、イエス様の言葉を読んだとき、私は考えました。

「神様は娘と他の人々を私に委ねてくださったけど、私はどんな弟子を作っているのだろうか。」

私は、重くて負いきれない荷を束ねて彼らの肩に載せて、ただ「頑張れ」と言ったことがあるでしょうか。

それとも、彼らは正義と誠実だけではなく、あわれみも知っているでしょうか。(マタイの福音書23:23)

彼らは、私の中にそのあわれみを見ているでしょうか。また、彼らへの神のあわれみを知っているでしょうか。

彼らは、そのあわれみを知って、安心しているでしょうか。そのあわれみを喜んでいるでしょうか。

そして、彼らは回りの人々にあわれみを与えているでしょうか。

それとも、彼らは常に自分に厳しすぎ、回りの人々に厳しすぎるのでしょうか。

天のお父さん、私の娘や妻、そして私の回りの人々が私を見るとき、私は彼らに正義の人、誠実な人を見てもらいたいです。

でも、それ以上に、あわれみ深い人を見てもらいたいです。彼らには、あなたのあわれみの中を歩み、回りの人々をあわれむ人を見てもらいたいです。

私が、あなたのあわれみの中を歩む弟子、回りの人々をあわれむ弟子を育てる者となるように、私を助けてください。

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何を求めているのですか

「何を求めているのですか。」

マタイの福音書20章では、その同じ本質的な質問が三回出てきます。

契約交渉のとき、主人は労働者たちにそう尋ねました。(マタイ20:2)

イエス様は、ヤコブ、ヨハネ、そしてそのお母さんにそう尋ねられました。(マタイ20:20ー21)

そして、イエス様は二人の盲人たちにもそう尋ねられました。(マタイ20:31ー33)

最初の二つの場合、彼らは「当然の報い」を求めました。

労働者たちは、1日の労働に対して1デナリを求めました。

ヤコブ、ヨハネ、そしてそのお母さんは、権力の座を求めました。

けれども、盲人たちは「当然の報い」を求めるのではなく、あわれみと恵みを求めました。

たぶん、イエス様が願いを断られたとき、ヤコブとヨハネはがっかりしたでしょう。

(でも、イエス様が十字架につけられたとき、ヤコブとヨハネはイエスの右と左で十字架につけられなかったことに失望しなかったでしょう。彼らは、何を求めているのか本当に分かっていませんでした。)

皮肉なことに、労働者たちは、求めた通りのものを受けたのに、かえって苦々しく思うようになりました。

その一方、盲人たちは、神の恵みとあわれみの喜びを知るようになりました。

神の御国とは、「当然の報い」ではなく、神の恵みとあわれみのことなのです。

「当然の報い」を求めると、あなたは失望したり、怒ったり、苦々しくなったりしてしまいます。

しかし、神様のあわれみと恵みを求めれば、神様がどんなに良い方であるのかを知るようになります。

なぜなら、神様は、いつも恵みとあわれみを豊かに与えてくださるからです。

あなたは、何を求めているのでしょうか。

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賜物を受ける心、大変さを恐れる心

イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から「男と女に彼らを創造され」ました。

そして、「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」と言われました。

ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。

そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」。。。

弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。」(マタイの福音書19:4ー6,10)

我々クリスチャンたちの考え方は、ときどき驚くべきものです。

神様は、私たちに良い賜物を与えたいと願っておられます。でも、私たちは「しなければならない」ということに拘ってしまいます。

神様は、結婚を私たちに賜物と祝福として与えてくださいます。けれども、弟子たちはその賜物を喜ばず、「えっ?妻とずっといなければならないのか」と考えてしまいました。

そのあと、イエス様は青年に、ご自分の弟子になる機会を与えてくださいました。真のいのちを知る機会を与えてくださいました。

しかし、その青年は、「えっ?私のものをすべて貧しい者に与えなくてはならないのか」と思っただけでした。(マタイの福音書19:21ー22)

どうして私たちは、すぐにそのようなことを考えてしまうのでしょうか。

神様は、私たちにこう語っておられます。「私があなたにどれだけ喜びを与えたいのか、知らないの?その賜物がどれほど良いものか、分からないの?」

天のお父さん、あなたは良い神です。私の堅くて愚かな心を赦してください。

「しなければならない」という考え方を捨てるように、私を助けてください。あなたが私に与えてくださる良い賜物を、喜んで抱く心を持ちたいです。

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許せないのか?許したくないのか?

彼の仲間はひれ伏して、「もう少し待ってください。そうすればお返しします」と嘆願した。

しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。(マタイの福音書18:29ー30)

「しかし、承知しませんでした。」

直訳すると、「彼はそうしたくなかった。」

彼は何をしたくなかったのでしょうか。

彼は、借金の返済を待ちたくなかったのです。

もちろん、彼は、絶対にその借金を許したくなかったのです。

原語では、しもべの仲間は何度もあわれみを願いましたが、しもべは何度も「嫌だ」と言いました。

「私は待ちたくない。我慢したくない。許したくない。」

あなたは、そのような態度を取っているでしょうか。

多くの人々は「許せない」と言います。

でも、「許せない」とは、「許すことができない」という意味でしょうか。それとも、「相手を赦したくない」という意味でしょうか。

神の子どもたちは、そのような態度を取ってはいけません。なぜなら、神様は私たちをたくさん赦してくださったからです。

「許せない、許したくない」という態度は、罪です。

もちろん、許すのが難しいときもあります。許すのが非常に難しいときもあります。神様はそれを理解しておられます。

しかし、頑なに「私は許したくない」と主張する態度と、へりくだってイエス様のもとに来て、「私は許したいけれど、私の傷は深いです。どうやって許すことができるのか、よく分かりません。助けてください」と願う態度は、まったく異なります。

ペテロはこう言います。

みな互いに謙遜を身に着けなさい。

「神は高ぶる者には敵対し、 へりくだった者には恵みを与えられる」 のです。

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(第一ぺテロ5:5~7)

プライドは、自分の傷を手放すことを拒みます。「私は傷ついた。私はもっと優しく扱われるべきだ。あいつは罰せられるべきだ。」

けれども、謙遜な人は、自分が人を傷つけることがあると認めます。

謙遜な人は、自分が神様に対して罪を犯したことがあると認めます。

謙遜な人は、周囲の人々のあわれみ、そして神様のあわれみをどれほど必要としているかを認めます。

だから、謙遜な人は自分の傷を手放し、相手を許すことを選びます。

とはいえ、以前にも言ったように、人を許すのが難しいときもあります。傷が深ければ深いほど、相手を許すのは難しくなります。

しかし、ペテロは、神様が私たちのことを心配してくださることを思い出させてくれます。神様は、私たちの傷を癒したいと願っておられます。

そして神様は、私たちの傷が癒されるためには、まず私たちが相手を許さなくてはならないことをご存じです。

もしあなたがへりくだって、「どうやって相手を許すことができるのか分かりません。でも、許そうとします。助けてください」と祈るなら、神様は喜んで助けてくださいます。

あなたはどうでしょうか。神様は、今あなたに誰かについて語っておられるでしょうか。

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不思議なこと

それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。

そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。(マタイの福音書17:1ー3)

イエス様、あなたは他の人々を残し、ペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、その山に登られました。どうしてでしょうか。彼らにご自分を、より完全に現すためです。

あなたは、私にもご自分を現したいと願っておられるのでしょうか。

それは、本当に不思議なことです。

だから、弟子たちのように、私は喜んであなたと時間を過ごします。

エリヤのように、私はあなたのもとに行き、あなたの御顔を求めます。(列王記第一19:8ー9、11)

モーセのように、私は願います。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」(出エジプト記33:18)

イエス様、私に、より完全にご自分を現してください。私は、あなたをもっと知りたいのです。

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イエス様について行っているだけなの?それとも、イエス様に従っているの?

それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(マタイの福音書16:24)

「イエス様について行く。」

「イエス様に従う。」

原語では、この二つの表現は弟子になることを表すために使われています。

「ついて行く」と訳される言葉は、直訳すると物理的に人の後ろを歩くことを意味します。

一方、「従う」と訳される言葉も「ついて行く」という意味を含みますが、多くの場合、「イエス様に従う」は、「イエス様から学び、イエス様の御声に応え、イエス様の導きに従う」というニュアンスを持っています。(マタイ4:20、ヨハネ10:4、27)

多くの人々がイエス様について行きました。癒しを求める人もいれば、イエス様の新しい教えに興味を持つ人もいました。

しかし、イエス様に本当に従っていた人は少数でした。

イエス様の弟子たちでさえ、従う姿勢を取らなかった時もありました。

イエス様が神様の計画を果たすために何をしなければならないかを説明されたとき、ペテロはその計画に従おうとはせず、むしろイエス様を別の道へ導こうとしました。その結果、ペテロはイエス様につまずきを与える者となってしまいました。

だから今日、私はこう考えました。

「私は本当にイエス様に従っているだろうか。それとも、イエス様を私の行きたい道に引っ張ろうとしているのだろうか。」

「私はイエス様の計画に従っているでしょうか。それとも、イエス様を操って、私の計画に従わせようとしているのだろうか。」

あなたはどうでしょうか。あなたは、ただイエス様について行っているだけでしょうか。

教会に行ったり、聖書を読んだり、祈ったりしているかもしれません。でも実際には、イエス様を操って、自分の計画に従わせようとしているのではないでしょうか。

それとも、あなたは本当にイエス様に従っているでしょうか。毎日毎日、一瞬一瞬、イエス様から学び、御声に応え、イエス様の導きに従っているでしょうか。

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誰を喜ばせようとしているのか

そのとき、弟子たちが近寄って来てイエスに言った。「パリサイ人たちがおことばを聞いて腹を立てたのをご存じですか。」

イエスは答えられた。「わたしの天の父が植えなかった木は、すべて根こそぎにされます。

彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」(マタイの福音書15:12ー14)

パリサイ人たちがイエス様の言葉に腹を立てたとき、イエス様の弟子たちはそのことを気にしているようでした。しかし、イエス様はまったく気にしていないようでした。

実際のところ、私たちはすべての人々を喜ばせることはできません。

英語のことわざに、”If you try to please everyone, you’ll end up pleasing no one.” というものがあります。

つまり、「すべての人を喜ばせようとすれば、結局は誰も喜ばせることができない」ということです。

とくに、私たちは神様を喜ばせることができないままでいることもあります。

だからこそ、自問自答しなくてはならないのは、「私は誰を喜ばせようとしているのだろうか」ということです。

もちろん、私たちはわざと人を怒らせようとしてはいけません。けれども、人を怒らせることを避けることができない場面もあります。

私たちの言動が人の考え方に反すると、彼らは怒ってしまうことがあります。

けれども、盲人に従えば、私たちも穴に落ちてしまいます。

私はそうしたくありません。

何よりもまず、私が望むのは、アバが私に「よくやった」と言ってくださることです。

あなたはどうでしょうか。

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イエス様に伝えなかればならない

なぜか、12節のことばが私の心を打ちました。

それから、ヨハネの弟子たちがやって来て遺体を引き取り、葬った。そして、イエスのところに行って報告した。(マタイの福音書14:12)

ヨハネを葬ったあと、その弟子たちが最初に考えたのは、「イエス様に伝えなければならない」ということでした。

なぜでしょうか。

もしかすると、彼らはイエス様にヘロデについて警告したかったのかもしれません。(ルカ9:9)

でも、もう一つの理由は、彼らがイエス様がヨハネを本当に愛しておられることを知っていたからではないでしょうか。

しかし、彼らはイエス様が自分たちを愛してくださっていることを知っていたでしょうか。

「イエス様はすべての人々を愛してくださっている」ではなく、「イエス様は私自身を愛し、私の悲しみをよく知っておられる」ということを、彼らは知っていたでしょうか。

あなたはどうでしょうか。イエス様があなたを愛してくださっていることを、あなたは知っているでしょうか。

「イエス様がすべての人々を愛してくださっている」ではなく、「イエス様は私自身を本当に愛してくださっている」ということを、あなたは知っているでしょうか。

試練と苦しみを経験するとき、あなたが最初に考えるのは、「私はイエス様に伝えなければならない」ということでしょうか。

I must tell Jesus all of my trials;
イエス様に、私のすべての試練を伝えなければなりません。I cannot bear these burdens alone;
私は、一人でその重荷を背負うことができません

In my distress He kindly will help me;
私の苦しみの中で、イエス様は優しく助けてくださいます。
He ever loves and cares for His own.
イエス様は、いつもご自分のものを愛し、心にかけてくださいます。

I must tell Jesus! I must tell Jesus!
私はイエス様に伝えなければならない。私はイエス様に伝えなければならない。
I cannot bear my burdens alone;
私は、一人でその重荷を背負うことができません。

I must tell Jesus! I must tell Jesus!
私はイエス様に伝えなければならない。私はイエス様に伝えなければならない。
Jesus can help me, Jesus alone.
私を助けることができるのは、イエス様ただお一人です。ーーエリシャ・ホフマン

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神様の真理に目と耳を閉じること

正直に言うと、神様の真理を聞くのが辛い時もあります。なぜなら、その言葉が私たちの心に深く染みることがあるからです。でも、そのような時、私たちはどうするでしょうか。

イエス様が言われたように、ある人たちは真理に目と耳を閉じてしまいます。

その結果はどうなるでしょうか。彼らの心は鈍くなり、神様の御声が聞こえなくなってしまいます。

それが、真理を無視することの危険性です。真理を無視すれば、あなたの心は鈍くなってしまいます。

あなたはどうでしょうか。最近、神様のみ言葉を聞いたとき、「ちょっと痛いな」と感じたことがあったでしょうか。その時、あなたはどうしましたか。

「主よ。あなたの恵みと力によって、私は従います。でも、どうか私を助けてください」と答えたでしょうか。

もしかすると、あなたは自分の目と耳を神様の真理に閉じてしまったかもしれません。

神様は、あなたの壊れた人生を癒したいと願っておられます。しかし、もしあなたが耳と目を神様のみ言葉に閉ざしてしまうなら、その癒しを知ることはできません。

あなたは、どうするでしょうか。

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安らぎのある人生

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイの福音書11:28-30)

イエス様の言葉の中でも、それは最も有名なものの一つです。

しかし、イエス様のやり方は、律法の専門家たちのやり方とはまったく異なっていました。イエス様は彼らについて、こう言われました。

おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない。(ルカ11:46)

クリスチャンとして、私たちが自問自答しなくてはならないのは、「クリスチャンとしての生活を送る中で、私は疲れ果てているだろうか。重荷を負っているように感じているだろうか」ということです。

多くの場合、満たされない期待の重荷を負っているために、私たちは疲れ果ててしまいます。

私たちは、周囲の人々の期待に応えられないという重みを感じています。私たちは、自分自身の期待に応えられないという重みを感じています。さらに、神様の期待に応えられないという重みも感じています。

そうした期待を思い巡らす中で、私たちは「あなたはやっぱりダメだ」という声を聞いてしまいます。

私たちは、周囲の人々からそのようなメッセージを受け取ります。私たちは、自分自身に関してそう思ってしまいます。さらに、私たちは神様がそう言われているのではないかと感じ始めます。

しかし、それは安らぎのある人生ではありません。だからこそ、イエス様は私たちにこう語られます。

「私のもとに来なさい。私から逃げないでください。私のもとに来なさい。

私はあなたの失敗や罪を責めているのではありません。私は、あなたの失敗と罪のために死にました。天のお父さんは、あなたをご自分の子として受け入れてくださいます。

だから、天のお父さんにあなたの価値を証明する必要はありません。

私の恵みの中で休んでください。私の愛の中で休んでください。」

また、イエス様はこう言われます。

「わたしのくびきを負いなさい。他の人の期待のくびきを負ってはいけません。そのくびきは重く、多くの場合、あなたには負いきれません。相手にとって、あなたはどんなに頑張っても、ダメな人に見えるかもしれません。

だから、わたしのくびきを負いなさい。それは裁きのくびきではなく、恵み深いくびきです。

さらに、あなたは一人でそのくびきを負う必要はありません。わたしはあなたと共にそのくびきを負っています。だから、あなたがつまずいても、そのくびきはあなたを潰しません。」

そして、イエス様はこう言われます。

「わたしから学びなさい。あなたは、学びの遅い人かもしれません。でも、わたしは優しく、忍耐強い者です。わたしはあなたのことを決してあきらめません。

わたしの考え方を学びなさい。わたしの生き方を学びなさい。

そして、いつも次のステップを考えて、進みなさい。わたしは急いでいるわけではありません。他のクリスチャンがもっと早く進んでいても、気にしなくていいのです。

わたしたちには、たくさんの時間があります。わたしたちには、永遠があります。」

それこそが、安らぎのある人生です。

あなたはどうでしょうか。

クリスチャンとしての人生を歩む中で、疲れ果てて、重荷を負っていると感じているでしょうか。

それとも、安らぎのある人生を歩んでいるでしょうか。

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厳しい言葉?

自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイの福音書10:38)

それらは、確かに厳しいことばでしょう。

イエス様の言葉を読んだとき、私たちはどう感じるでしょうか。

不安?恐れ?

私は長年クリスチャンですが、最初に思ったのは、「厳しい言葉だね。イエス様は私に多くを要求されているのだ」ということでした。

そして、イエス様の言葉を自分の人生にどう当てはめるべきかを考えると、その言葉はさらに厳しく感じられました。

だから今朝、私が自問自答しなくてはならなかったのは、「この感情をどうすればいいのだろうか」ということです。

私はどうすればいいのでしょうか。

真理を覚えておきましょう。

真理とは何でしょうか。

私のアバは良い方で、私を深く愛してくださっているのです。

二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。

あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。(マタイの福音書10:29ー31)

真理とは何でしょうか。

それは、私が自分の十字架を負ってイエス様に従うなら、私のいのちを失うのではなく、むしろ私のいのちを得るということです。

自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。(マタイの福音書10:39)

イエス様に従うことは、いつも簡単なこととは限りません。時には、イエス様に従うことが、非常に困難に感じられることもあります。

それでも、私のアバは良い方で、私を深く愛してくださり、いつもご自分の約束に忠実な方です。だから、私には希望があります。そして、その希望は確かなものです。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。

世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)

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収穫の主への祈り

また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。

そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイの福音書9:36ー38)

収穫の主よ。私の周りで、弱り果てて倒れている人たちは誰でしょうか。希望のない人生を歩んでいる人たちは誰でしょうか。

どうか、私の目を開いてください。あなたがしてくださったように、私も人々のうわべを見抜き、心の深いニーズを見抜くことができるようにしてください。

私に、あなたのあわれみ深い心を与えてください。そして、私を収穫のために送ってください。

私が、希望のない人に希望を届けることができるように。私が彼らに、あなたの赦し、救い、そして愛を宣言することができるように助けてください。(マタイ9:2、22)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書のデボーション

私たちが汚れているとき

すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。

イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。(マタイの福音書8:2ー3)

ツァラアトは、とてもひどい病気でした。ツァラアトにかかった人たちは、のけ者とされ、神の神殿に入ることも許されませんでした。(レビ記13:45〜46;民数記5:2〜3)

その意味では、ツァラアトは罪を描写するものです。罪によって、私たちは霊的に汚れ、神様との関係、また周囲の人々との関係が壊れてしまいます。

しかし、今日の箇所では、ツァラアトに冒された人がイエス様のみもとに来て、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言いました。

すると、イエス様は恵みとあわれみをもって、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われました。

私たちは、罪を犯したとき、神様が赦してくださるのか、受け入れてくださるのかと疑ってしまうことがあります。

だから、私たちはおどおどしながら神様のみもとに来て、「お心一つで私をきよくすることがおできになります」と祈ります。

イエス様は、ツァラアトに冒された人に答えてくださったように、私たちにも答えてくださいます。

「わたしの心だ。きよくなれ。」

ですから、神の子どもたちよ、神の御座に大胆に近づきましょう。なぜなら、私たちはあわれみを受け、恵みをいただくという確信をもっているからです。(ヘブル4:16)

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私たちのアバに祈るとき

また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。。。

ですから、あなたがたはこう祈りなさい。 「天にいます私たちの父よ。」」(マタイの福音書6:7、9)

イエス様の言葉を読んだとき、私は伝道者の書にあるソロモンの言葉を思い出しました。

神の前では、軽々しく 心焦ってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。(伝導者の書5:2)

ソロモンは、神様に対して愚かな誓いを立てることを戒めました。時には、神様の祝福を得るため、あるいは神様を操ろうとして、私たちは守ることのできない誓いを立ててしまいます。でも、そのようなことをしてはなりません。

一方で、イエス様は、神様や周囲の人々を感動させるために、霊的な響きを持つ長い祈りをすることを戒められました。

いずれの場合も、イエス様とソロモンは同じことを語っています。「ことばを少なくせよ。無駄な言葉を多く口にするのではなく、神様に耳を傾けよ。」

けれども、神様に語るときには、イエス様の模範に従いましょう。

神様を聖なる方として認め、それを心に留めて、私たちは神様を礼拝しましょう。(マタイ6:9;黙示録4:8〜11)

祈るときには、神の国に心を向けましょう。「あなたが何をしておられるのかを教えてください」と祈りましょう。(マタイ6:10、33)

それを思いながら、自分の人生に神のみこころが行われるように祈りましょう。神のご計画に参加できるように祈りましょう。(マタイ6:10b)

でも、神様が天におられる偉大な神であるだけでなく、あなたの天のアバでもあることを覚えていましょう。そして、あなたがアバの愛する子どもであることも覚えていましょう。(マタイ6:9)

だから、自分の必要のために祈りましょう。(マタイ6:11、25〜32)

罪を犯したときでも、アバに近づくことをためらう必要はありません。ですから、アバに近づいて、神の赦しを求めましょう。(マタイ6:12)

私たちの壊れた人間関係についても、アバと語り合いましょう。特に、他人を許すことが難しいときには、アバの助けを求めましょう。(マタイ6:12b)

そして、アバがあなたを導き、守ってくださるように祈りましょう。(マタイ6:13)

神の子どもとして、私たちは素晴らしい特権を与えられています。私たちのアバに、いつでも自由に近づくことができるのです。だからこそ、その特権を生かして、アバに近づきましょう。

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弟子?群衆の一人?

その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。(マタイの福音書5:1)

なぜか、私はいつも、イエス様が群衆に教えるために山に登られたと思っていました。でも、実際は、イエス様は群衆から離れようとされたのかもしれません。イエス様が山に登られるときは、たいてい祈るためでした。

もしマタイ5章とルカ6章が同じ出来事だとしたら(そう考える聖書学者もいます)、このときも、イエス様は祈るために山に登られたのでしょう。

そして、イエス様が祈られたあと、最初にみもとに来たのは群衆ではなく、弟子たちでした。(群衆はあとで来たようですけれど)(マタイ7:28)

群衆の多くは、イエス様に癒しを求めて来ました。(マタイ4:24〜25)

でも、弟子たちは、イエス様に教わるために来ました。

1節を読んで、私は考えていました。「どうして、私はイエス様のみもとに行くのだろうか。」

私はただ、イエス様に何かを求めているのでしょうか。イエス様の助け?癒し?祝福?それとも、私は本当にイエス様から学びたいのでしょうか。

私は、群衆の一人なのでしょうか。それとも、私は本当にイエス様の弟子なのでしょうか。

私は、イエス様の弟子になりたいです。私の主から学びたいのです。私は、イエス様のようになりたいです。

心の清い人になりたいです。

義に飢え乾く人になりたいです。

柔和な人になりたいです。

世の光、地の塩になりたいです。

うわべだけの義ではなく、心から溢れる真の義を持ちたいです。

イエス様と同じように人を愛したいです。

天のお父さんが完全であるように、私も完全でありたいです。

今日、ある歌が思い浮かび、それを祈りました。

Lord, I want to be your disciple, an example, the way you were to me.
主よ。私はあなたの弟子になりたいです。あなたが私の模範でいてくださったように、私も回りの人々の模範になりたいです。

And as I see your humble perfection, let me be a mirror of your heart.
あなたの謙遜と完全さを見るとき、私があなたの心を映す鏡となりますように。

I want to walk in the image of you, like a child imitating what his Father would do.
あなたのかたちに倣って歩みたいのです。お父さんの真似をする子どものように。

A mirror of your heart. — Chris Christian
あなたの心を映す鏡になりたいのです。――クリス・クリスチャン

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イエス様についていくという喜び

イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。

イエスはそこから進んで行き、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びになった。

彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。(マタイの福音書4:19ー22)

イエス様が「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたとき、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネはどう感じたでしょうか。

自分はふさわしくないと感じたでしょうか。自分には資格がないと感じたでしょうか。少し不安を感じたでしょうか。

そう感じたかもしれません。でも、彼らはきっと深く感動し、圧倒的な喜びに満たされたことでしょう。

「俺なの?イエス様は俺を選んでくださったの?」

そして、深く感動し、圧倒的な喜びに満たされて、彼らはすぐに網と家業を捨てて、イエス様に従いました。

彼らは「イエス様についていかなくてはならないの?でも、そうすれば、俺はいろんなものを捨てなくてはならない」とは考えていなかったでしょう。

たぶん、彼らが考えていたのは、「俺はイエス様についていってもいいの?イエス様の仕事に参加してもいいの?すごい!やった!」と思っていたことでしょう。

でも、イエス様についていき、イエス様の仕事に参加することを考えるとき、私たちの多くは不安を感じます。「私はふさわしくない。私には資格がない。」

また、「これもしなくてはならない。あれもしなくてはならない」と考えて、重荷を感じます。

私がそう感じるときもあります。

でも、イエス様は私たちを深く愛してくださいます。

イエス様は私たちの失敗、弱さ、すべてをご存じで、それでも私たちを見て、こう誘ってくださいます。「私について来なさい。私の仕事に参加しなさい。」

それが、イエス様についていくという喜びです。イエス様は、私たちに素晴らしい特権を与えてくださいます。

イエス様についていき、その仕事に参加することは、「しなくてはならない」という重荷ではありません。

それは、「やってもいいの?すごい!」という大きな喜びです。

あなたはどうですか。その喜びを知っているでしょうか。

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マタイの福音書のデボーション

イエス様の模範に従う

この箇所では、イエス様は私たちにクリスチャン生活の模範を示してくださいます。

イエス様は罪をまったく犯していませんでしたが、洗礼を通して、神様のみこころに従う心を表されました。

そして、御霊がイエス様の上に降って来られ、イエス様を満たされました。その瞬間、天の父はイエス様にこう言われました。

これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。(マタイ3:17)

それから、イエス様は毎日、御霊に導かれる人生を歩まれました。

イエス様がそのような生活を送られたのなら、まして私たちはなおさらです。

実は、パウロはローマ書8章で、そのような人生について語っています。

パウロによれば、私たちがクリスチャンになったとき、神様に対する反抗的な心は死にました。(ローマ書8:4〜11)

そして、御霊が私たちのうちに住み始め、神様は私たちを見るとき、「あなたは私の愛する子供だ」と言われます。

それを聞いて、私たちは御霊によって「アバ、お父さん」と叫びます。(ローマ書8:14〜17)

さらに、聖霊様は毎日毎日、一瞬一瞬、私たちを導いてくださいます。(ローマ書8:4〜5)

ですから、神様が私たちを「私の愛する子供」と呼んでくださることを感謝しましょう。

そして毎日、聖霊様に「私の次のステップは何ですか」とお尋ねしましょう。

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マタイの福音書のデボーション

敵対的?無関心?情熱的?

天のお父さん、あなたの御子が生まれたとき、ヘロデ王は御子を敵視し、殺そうと思いました。

一方、祭司たちと律法学者たちは無関心で、ただ家に帰りました。

しかし、博士たちは喜びをもって、御子を求め、礼拝に向かいました。

天のお父さん、博士たちの心を私に与えてください。御子を求め、礼拝する情熱的な心を与えてください。

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

イエスの焼き印を帯びる

肉において外見を良くしたい者たちが、ただ、キリストの十字架のゆえに自分たちが迫害されないようにと、あなたがたに割礼を強いています。

割礼を受けている者たちは、自分自身では律法を守っていないのに、あなたがたの肉を誇るために、あなたがたに割礼を受けさせたいのです。

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。。。

これからは、だれも私を煩わせないようにしてください。私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから。」( ガラテヤ人への手紙6:12~14、17)

今日、「私は、この身にイエスの焼き印を帯びている」という言葉を噛み締めていました。

パウロの時代、焼き印は、奴隷が誰のものかを示す印でした。

ユダヤ人たちにとって、割礼は彼らが神様のものであることを示す印でした。

パウロはユダヤ人だったから割礼を受けていましたが、パウロにとって、自分が神様のものである印は割礼ではありませんでした。

むしろ、彼は、福音を忠実に述べ伝えるために受けた傷跡を指しました。

パウロは、神の律法を守ること、特に割礼を受けることによる救いではなく、イエスの十字架による救いを述べ伝えました。

そういうわけで、ユダヤ人たちはパウロを何度も迫害しました。福音を述べ伝えるため、パウロは他の苦難も経験しました。(第二コリント11:24〜29)

だから、ガラテヤ人たちに偽りの福音を伝えた人たちに、パウロは言いました。

「もう私を煩わせないでください。ガラテヤ人たちの間で私の仕事を邪魔しないでください。あなたたちは真のキリストのしもべたちではありません。

あなたたちがガラテヤ人たちに割礼を受けさせたい理由は、単に迫害を避けるためです。でも、割礼ではなく、私の傷跡は、私がキリストのものであることを示しています。」

しかし、もしかしたら、パウロはガラテヤ人のクリスチャンたちに、もう一つのことを言いたかったのかもしれません。

「あなたたちが神様のものであることを示すのは、割礼ではありません。あなたたちは、すでに十字架でキリストが受けられた傷跡を、霊的に受けているのです。

あなたたちは、キリストとともに十字架につけられました。あなたたちは律法に対して死に、その律法によって罪に定められることはありません。

さらに、あなたたちを奴隷にしていた罪に対しても死に、もはやこの世のもののために生きることはありません。むしろ、あなたたちを愛し、あなたたちのためにご自身を与えてくださったイエス様のために生きているのです。

そのような人こそ、神の子供です。」

ですから、神の子供たちとして、誇りを持って、十字架につけられた私たちの主の傷跡を持ちましょう。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。(ガラテヤ人への手紙2:19〜20)

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

御霊によって導かれているの?律法の下に生きているの?

御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。(ガラテヤ人への手紙5:18)

御霊によって導かれている人と、律法の下にいる人には、似ているところがあります。

表面的には、御霊によって導かれている人も、律法の下にいる人も、どちらも良い人に見えます。

でも、著しく違う点もあります。

律法の下にいる人は、ルールに従うことで、神様の愛と受け入れを得ようと一生を過ごします。

でも、そのルールを完全に守ることができないので、神の基準に達することができないという不安をいつも抱えています。

また、神様を失望させることをいつも恐れています。だから、彼らが失敗するとき、神様から罰せられることを恐れています。そういうわけで、神様のことを考えると、彼らはいつもおどおどしています。

ある律法の下にいる人は、自分がルールをちゃんと守っていると思うので、自信があります。でも、実際のところ、彼らは何度も神の律法を破っているので、神様に裁かれることになります。

でも、御霊によって導かれている人々は、罪に定められることは決してありません。なぜ彼らはその確信を持っているのでしょうか。それは、神の律法を完全に守ることができると思っているからではなく、むしろ、彼らがイエス様とその十字架の働きを信じているからです。

彼らは、「神の愛と受け入れを得るために頑張らなきゃ」と考えるのではなく、神様がすでに彼らを愛して、受け入れてくださっていることを知って安心しています。

その喜びを持って、彼らは天のお父さんと歩みます。彼らは毎日、天のお父さんを喜ばせたいと思っています。それは、彼らが神様を恐れているからではなく、自分たちへの神の愛に応えているからです。

彼らは自分の力と努力で神様の律法を守ろうと考えていません。恐れをもって、「私の心の中で、隠れた罪があるだろうか」といつも心配することはありません。

そうではなく、彼らは天のお父さんと一緒に次の一歩を踏み出したいのです。そして、御霊によって導かれて、彼らは一歩一歩進み、自分の罪を殺し始めます。

また、一歩一歩進んで、彼らは愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という実を結び、だんだん自分を愛してくださる天の父のようになります。

あなたはどのような人生を送っているでしょうか。御霊に導かれている神の愛する子として生きているでしょうか。

もしくは、律法の下にいるかのように生きているのでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

アバ、お父さん

そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。(ガラテヤ人への手紙4:6-7)

お父さん、

あなたは神です。だから、私があなたを「神様」と呼ぶことを要求することができます。

あなたは私の主です。だから、私があなたを「主」と呼ぶことを要求することができます。

あなたは私の創造主です。だから、私があなたを「創造主」と呼ぶことを要求することができます。

でも、あなたは私をご自分の子とし、養子縁組の書類にあなたの御霊で印を押してくださいました。

そして、御霊は「アバ、お父さん」と叫ぶことを教えてくださいます。

だから、私はあなたを「神様」、「主」、「創造主」と呼ぶときもあるけれど、私は通常、御霊が教えてくださった言葉を使うことを選びます。

「アバ。お父さん。」

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

神の子の生き方

しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。(ガラテヤ人への手紙2:19ー20)

私は上の言葉が大好きです。

私はかつて神の律法の下にありました。その時、律法は私の養育係りとして、正しいことを教えてくれたけれど、正しいことを行うために力を与えることはできませんでした。(ガラテヤ3:24)

むしろ、私が失敗したとき、罪を犯したとき、神の律法は私を断罪することしかできませんでした。

でも、私を断罪した神の律法は、私をイエス様に導いてくれました。律法を通して、私にはイエス様が必要なのだと分かりました。そして律法が私をイエスの十字架に導いた途端、私は律法においては死んだ者となりました。

私はもはや律法によって断罪されていません。なぜなら、十字架でイエス様が私の罪と失敗の代価を払ってくださったからです。

そして、イエス様とともに、神様に敵対的だった私、神様を信頼できなかった私も死にました。

そして今は、キリストが私のうちに生きておられます。

私たちは、神の期待に応えられないことを恐れて生きているのではありません。

むしろ、イエス様が私を愛し、私のためにご自分を与えてくださったという確信を持って、生きているのです。

神様に愛され、受け入れられるため、頑張ってルールを守らなくてはならないと思って、生きているのではありません。

むしろ、神様が私をご自分の子供として愛し、受け入れてくださっているという確信を持ち、安心して生きているのです。

また、私は毎朝起きるたびに、神様が私を見て、「あなたは私の愛する子供です。私はあなたを喜ぶ」と言っておられるという確信をもって、生きているのです。

だから、私の最大の願いは、私の天のお父さんのために生き、天のお父さんを喜ばせることです。

それが神の子の生き方です。

それは、あなたの生き方でしょうか。

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神様から離れる

私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。(ガラテヤ人への手紙1:6)

「神様から離れる」という言葉を聞くとき、私たちは、罪の道に戻る放蕩息子のような人をよく考えるでしょう。

もちろん、そのような人は神様から離れているけれど、パウロは違うことについて話しています。

ガラテヤ人たちにとって危険なのは、罪の道に戻ることではなく、ルール中心の生活を送ることです。彼らの場合、割礼を受けなくてはならないし、いろんなユダヤ教の儀式的な律法に従わなくてはならないと教えられました。

でも、その儀式は真の聖さとは何の関係もありませんでした。(コロサイ2:20〜23)

さらに、その律法は一時的なものでした。その律法の目的は、ユダヤ人にキリストを指し、キリストの到来に備えて彼らの心を整えるということです。(ガラテヤ3:19〜25)

私たちはルールではなく、神様に焦点を合わせるべきです。「神様は私の人生とその回りで、何をしておられるだろうか。御霊は私をどこに導いてくださっているだろうか。」

ルールに集中する人生は、自己中心のものです。つまり、私たちはよくこう考えます。「私は神の基準に達しているだろうか。」

恵みの生活は神中心です。「神様はとても良いお方です!神の恵みと愛は素晴らしい!神様はどこに行っておられるだろうか。私も行きたい!神の働きに参加したい!」

だから、神様から離れる人生、特にルール中心の生活を捨てましょう。むしろ、喜びをもって、毎日毎日、一瞬一瞬、御霊に導かれましょう。

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創世記のデボーション

天のお父さん、あなたは泣いたことがある?

ヨセフの兄弟たちは、自分たちの父が死んだのを見たとき、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪に対して、仕返しをするかもしれない」と言った。

そこで、彼らはヨセフに言い送った。

「あなたの父は死ぬ前に命じられました。

「ヨセフにこう言いなさい。おまえの兄弟たちは、実に、おまえに悪いことをしたが、兄弟たちの背きと罪を赦してやりなさい、と。」

今、どうか、父の神のしもべたちの背きを赦してください。」

ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。( 創世記50:15ー17)

天のお父さん、あなたは泣いたことがあるでしょうか。

私たちを赦してくださったにも関わらず、私たちが罪悪感を抱き続けることを見るとき、あなたは泣いたことがあるでしょうか。

私たちが裁きと罰を恐れ、あなたから遠く離れて立つとき、あなたは泣いたことがあるでしょうか。

私たちをご自分の愛する子供たちと呼んでおられるにも関わらず、私たちが恐怖に陥れる奴隷として生きることを見るとき、あなたは泣いたことがあるでしょうか。

私たちが、あなたがどのようなお父さんであるかを知り、あなたに近づくように。

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私たちがだれのものであるかを心に留めておく

ヨセフは民に言った。「見よ。私は今、おまえたちとおまえたちの土地を買い取って、ファラオのものとした。」(創世記47:23)

「すると彼らは言った。「あなた様は私たちを生かしてくださいました。私たちは、あなた様のご好意を受けて、ファラオの奴隷となりましょう。」(25節)

上の言葉を読むたびに、私はイエス様が私たちのためにしてくださったことを思い出します。

エジプト人たちと同じように、私たちは死にかけていましたが、イエス様は私たちを買い取って、ご自分のもの、また天の父のものとされ、救ってくださいました。(黙示録5:9;第一ペテロ1:18〜19)

そして、エジプト人たちが収穫の五分の一を納めたとき、ファラオのいつくしみを思い出していたように、私たちは献金を捧げるとき、神のいつくしみを思い出します。

でも、素晴らしい真理は、イエス様が私たちを神の奴隷ではなく、神の子供とするために買い取ってくださったということです。

パウロの言葉を借りれば、

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。。。

神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。(ローマ8:15ー17)

だから、毎日、喜びをもって、私たちが誰のものであるかを心に留め、私たちの人生を神様に捧げましょう。

あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。

ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(第一コリント6:19ー20)

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創世記のデボーション

どうか私に近寄ってください

兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり、答えることができなかった。ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」(創世記45:3~4)

ヨセフの兄たちの立場になって想像してみましょう。

彼らは通訳者を通して、エジプトの支配者と話していました。(創世記42:23)

でも突然、通訳者とヨセフの他のしもべたちが部屋を出ていき、その支配者は彼らにヘブル語で話しかけます。それだけではなく、彼は、「私はヨセフです」と言います。

それを聞いて、彼らは恐れました。彼らは22年前にヨセフを奴隷として売ったからです。自分たちの罪をよく知っていて、ヨセフの怒りに値することを知っていました。

でも、ヨセフは彼らに言いました。「どうか私に近寄ってください。」

イエス様も同じことを私たちに言われます。

私たちはイエス様の御前に立ち、私たちの罪と失敗はすべて明らかになります。だから、私たちは神の怒りに値することをよく知っています。

でも、イエス様は私たちを見て、言われます。

「どうか私に近寄ってください。大いなる救いをもたらすために、神は私をあなたより先に遣わされた。

天の父は私をすべての主に任命された(第一コリント15:27)。

だから、あなたは神に近寄ることができる。

あなたが恐れず、毎日毎日、一瞬一瞬、私と共に歩み、私のそばにいることができる。

あなたの試練と苦しみの中で、私はあなたを支える。

だから、あなたの家族と回りの人々のところに行き、私の栄光、あなたが見た一切のことを告げなさい。そうすれば、彼らも私に近寄り、私を知るようになる。」

私はこういうことを考えて、本当に不思議だなぁと思います。

今日、私が祈った詩篇は、とても適切な反応だと思います。

全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ。
喜びをもって主に仕えよ喜び歌いつつ御前に来たれ。

知れ。主こそ神。
主が私たちを造られた。
私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。

感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ。

主に感謝し、御名をほめたたえよ。

主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、
その真実は代々に至る。(詩篇100編)

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悔い改め

ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。

あの子が一緒でなくて、どうして私は父のところへ帰れるでしょう。父に起こるわざわいを見たくありません。(創世記44:33ー34)

その言葉は、ユダの心がどれほど変わったかを明らかにします。

以前は、ユダは薄情な者で、ヨセフを奴隷として売ろうと勧めました。(創世記37:26〜27)

そして、父ヤコブの悲しみを見て、ユダは逃げてしまいました。(創世記37:33〜34;38:1)

でも今、ベニヤミンが戻らなかった場合のヤコブの悲しみを考えて、ユダは逃げるのではなく、ベニヤミンの代わりに自分自身をヨセフに奴隷として捧げました。

もしかしたら、ユダはこう考えていたかもしれません。

「これが正義だ。私はヨセフを奴隷として売った。だから今、ベニヤミンを自由にするため、私は奴隷になろう。そうすれば、ヨセフに対する罪を償うことができる。」

悔い改めとは、単に罪に対する罪悪感を感じることではありません。

悔い改めとは、単に相手を傷つけたことを後悔することではありません。

悔い改めとは、自分の罪を認め、他人を傷つけた場合、できるだけその罪を償うことです。

ユダはそうしようとしていました。

でも、実際のところ、私たちは完全に罪を償うことはできません。私たちは自分の罪を償うため、いろんな良いことをしようとしても、その罪の染みを完全に清めることはできません。

でも、良い知らせは、私たちの罪を清めてくださる方がおられるということです。

ユダがベニヤミンの代わりに自分自身を捧げたように、ユダの子孫であるイエス様は、私たちの代わりに自分自身を捧げられました。

皮肉なことに、ベニヤミンが父ヤコブのもとに戻るため、有罪であるユダは無罪であるベニヤミンの代わりに自分自身を捧げましたが、私たちが天の父のもとに戻るために、罪のないイエス様は罪深い私たちの代わりに自分自身を捧げました。

ぺテロの言葉を借りれば、

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは。。。あなたがたを神に導くためでした。(第一ぺテロ3:18)

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創世記のデボーション

この世には、苦難があっても

ヨセフは長子をマナセ(意味:「忘れる」)と名づけた。「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」からである。

また、二番目の子をエフライム(意味:「実り多い」)と名づけた。「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」からである。(創世記41:51ー52)

イエス様、あなたは、「世にあっては苦難があります」と言われました。(ヨハネ16:33)

でもヨセフと同じように、ある日、私の苦しみはなくなり、過去が私に影響を及ぼすことはなくなります。(黙示録21:24)

やがて私に啓示される栄光に比べれば、今の時の私の苦難が取るに足りないものであることを感謝します。(ローマ8:18)

私の苦しみの中で、私がどう祈ればいいのかよく分からないとき、御霊が私のために祈ってくださることを感謝します。(ローマ8:26)

あなたを愛する私たち、あなたのご計画にしたがって召された私たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを感謝します。(ローマ8:28)

それが私の希望です。あなたこそが私の希望なのです。

だから苦しみに満ちたこの世にいる間、私はあなたに信頼することを選びます。

私のためにあなたの計画を成し遂げてください。私があなたのために実を結ぶように。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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創世記のデボーション

自己憐憫を捨てよう

朝、ヨセフが彼らのところに来て、見ると、彼らは顔色がすぐれなかった。

それで彼は、自分の主人の家に一緒に拘留されている、このファラオの廷臣たちに「なぜ、今日、お二人は顔色がさえないのですか」と尋ねた。(創世記40:6ー7)

ヨセフが自分の問題にくよくよし、自己憐憫に浸っていたとしたら、私たちはそれをよくわかってあげられると思います。でも、彼はそうするのではなく、他の二人の囚人たちのことを気にかけました。

この間、私の牧師は、回りの人々のニーズに気づき、彼らに触れることについて話しました。

けれども、自己憐憫に浸っているなら、私たちは回りの人々のニーズに気づくことはないでしょう。自分のことだけについて考えているなら、私たちは彼らに触れることはないでしょう。

私はヨセフのようになりたいです。自分のことだけを考えるのではなく、回りの人々のニーズに気づきたいです。神様が私を用いて、彼らに触れてほしいです。

あなたはどうですか。

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創世記のデボーション

辛いときに信仰を保つ

ヨセフが自分の心の中で何を考えていたのか、私は時々知りたいと思います。

創世記40章では、私たちはヨセフの心を垣間見ることができ、42〜45章では、ヨセフの思いはもっと明らかになります。

でも、39章では、私たちはヨセフの思いをよく知ることができません。

そういうわけで、私たちはよく考えます。「ヨセフは本当に敬虔な人でした。どんな試練に直面しても、ヨセフは忠実に神様に仕えたのです。彼の心は決して揺らぐことはなかったのです。」

でも今日、私が考えたのは、「ヨセフにとって、その態度を保つのは、そんなに簡単だっただろうか」ということです。

奴隷として売られたとき、その最初の数日間、ヨセフは兄弟たちに対して苦々しい思いを抱いていたでしょうか。ヨセフは神様に、「どうしてそんなひどいことを許されたのか」と尋ねたでしょうか。

ポティファルの妻がヨセフに言いがかりをつけ、ヨセフが牢に座っていたとき、神様に対して苦々しい思いを抱くように誘惑されたでしょうか。

「私は神様の道に従ったのに、どうしてこんなことになったのだろうか。神様に従うのは無駄なのだ。」

たぶん、ヨセフはそのような思いと戦いました。彼はただの人間だったのです。彼は不完全な人だったのです。

それでも、彼は結局、自分の信仰を保ち、神様に忠実に仕え続けました。

その意味では、ヨセフはダビデのようでした。ダビデもヨセフも回りの人々に不当に扱われました。(詩篇62:3〜4)

彼らは、人に対して、また神様に対して苦々しい思いを抱く理由がありました。

それでも、彼らは神様を信じ続けることを選びました。そして、結局、神様はその信頼に値する方であることを証明されました。

今日、たまたま詩篇62編も読んでいました。そして、牢でヨセフがダビデの言葉と似たようなことを歌っているのを想像することができました。

私のたましいよ、黙って、ただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ。神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐら。私は揺るがされることがない。

私の救いと栄光は、ただ神にある。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。

民よ、どんなときにも神に信頼せよ。

あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。

神はわれらの避け所である。(詩篇62:5ー8)

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創世記のデボーション

壊れた人生に神の癒しを受けるため

そのころのことであった。ユダは兄弟たちから離れて下って行き、名をヒラというアドラム人の近くで天幕を張った。(38:1)

私は、上のことばを何度も読んだことがありますが、今日は初めて自問自答しました。「なぜ?」

なぜ、ユダは自分の責任を捨て、家族から離れたのでしょうか。

彼の兄たち、ルベン、シメオン、レビが父ヤコブの不興を買ったので、もしかしたら、ヤコブはユダを一族の長に任命しようと思っていたかもしれません。(創世記49:3〜7)

でも、ユダは立ち去りました。なぜでしょうか。

私はわかりませんが、もしかしたら、彼は罪悪感を深く感じていたのかもしれません。つまり、ヨセフを裏切ったあと、毎日ヤコブの苦しみを見て、もう耐えられなかったのかもしれません。(創世記37:26〜28、34〜35)

だから、彼は立ち去ったのです。

新しい人生を始めようと思ったのかもしれません。

でも、ユダは自分自身から逃げることはできませんでした。自分の罪深い心から逃げることはできませんでした。

たぶん、38章の出来事のあと、自分自身と向き合ったとき、ユダは自分の中にあるものを見て、それを嫌ったのでしょう。

もちろん、ヨセフはユダよりも正しい人でした。でも、神様を知らないカナン人の女性タマルでさえ、ユダよりも正しい人でした。

たぶん、彼はそのことを考えて、こう言ったでしょう。「もうだめだ。私はこのような生活を送ってはならない。もう逃げてはならない。」

彼の最初の一歩は、責任をとって、タマルとその二人の息子たちの世話をすることでした。

そして、彼は以前とは違う人として、ヤコブと兄弟たちのところに戻りました。

創世記44〜45章を読めば、ユダがどれほど変わったかがわかります。

ユダは、一朝一夕で変わったわけではありません。でも、彼は最初の一歩を踏み出しました。そして、彼は日々、神様の導きに従って、一歩一歩進みました。

そうすることで、彼の壊れた人生は癒されました。

ヨセフは、彼を許しました。(創世記45章)

ヤコブは、彼を許しました。(創世記49:8〜12)

もちろん、神様は、彼を赦してくださいました。

鏡を見るとき、自分が見ているものが好きでしょうか。

人生の変化、また癒しは、一歩から始まります。

次のステップに関して、神様はあなたに何を語っておられるのでしょうか。

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創世記のデボーション

穴にいるとき

今日、私たちは創世記37章を読んでいますが、私はたまたま詩篇118篇も読んで祈りました。

詩篇118篇を読んで、私はこう思いました。「自分の人生のもっとも暗いときを振り返ると、ヨセフはこの歌を歌うことができただろう。」

(この詩篇は、ヨセフの死後何百年も経ってから作られたものですが。)

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇118:1)

苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。主は答えて、私を広やかな地へ導かれた。

主は私の味方。私は恐れない。人は私に何ができよう。主は私の味方、私を助ける方。

私は、私を憎む者をものともしない。(詩篇118:5ー7)

おまえは私を激しく押し倒そうとしたが、主が私を助けられた。主は私の力、またほめ歌。主は私の救いとなられた。(13ー14)

興味深いことは、いろんな意味で、ヨセフの物語がイエス様の物語と似ているということです。

つまり、ヨセフは、自分を拒絶し、裏切った兄弟たちを救ったのです。だから、イエス様に関する預言は、ヨセフにも当てはめられるのです。

家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。(詩篇118:22)

振り返ると、ヨセフは喜びをもって、その歌を歌うことができたでしょう。でも、あの穴の中にいたときや、奴隷として売られたときには、そのことばを歌うのは難しかったでしょう。

それでも、ヨセフは自分の信仰にしがみつきました。神様が良い方であり、その恵みがとこしえまで続くことを、信じ続けました。次の数章を読めば、私たちはその姿を見ることができます。

その結果は?ヨセフは、パウロも学んだことを学びました。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

私たちの人生がうまくいっているとき、神様が良い方であること、神様の愛を信じるのは簡単です。

でも、あの穴の中にいるとき、私たちはまだそれを言うことができるでしょうか。

ヨセフと一緒に、あの歌を歌えるでしょうか。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇118:1)

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ユダの手紙のデボーション

私たちの大前提:召された、愛されている、守られている

しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。

聖霊によって祈りなさい。

神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。(ユダ20~21)

「自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。」

「神の愛のうちに自分自身を保ちなさい。」

今日、これらのことばを反芻していました。

そして、いつものように、私はある詩篇を選び、それを祈りとして捧げ始めました。今日は、詩篇29篇を祈りました。

力ある者の子らよ。主に帰せよ。 栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。 聖なる装いをして主にひれ伏せ。

主の声は水の上にあり、栄光の神は雷鳴をとどろかせる。主は大水の上におられる。

主の声は力強く、主の声は威厳がある。。。

主の宮では、すべてのものが「栄光」と言う。。。

主は、とこしえに王座に着いておられる。(詩篇29:1ー4,9ー10)

そのことばを読んで、黙示録4章を連想しました。

4つの生き物と24人の長老たちは、神の御座の前で礼拝していました。生き物は、神の聖なるさを賛美し、長老たちは、神様が栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方であることを認めていました。(黙示録4:8〜11)

ヨハネは、そのシーンを見て、たぶん震えていたでしょう。でも、イエス様の血によって、ヨハネは天の父に愛され、受け入れられているという確信を持っていました。

そして、私はユダの挨拶を思い起こしました。

父なる神にあって愛され、イエス・キリストによって守られている(別訳:イエス・キリストのために守られている)、召された方々へ。(1)

それが、ユダの大前提でした。

それが、ヨハネの大前提でした。

それが、私たちの大前提です。

私たちは、天の父に召され、愛され、イエス様によって、またイエス様のために守られているのです。

その大前提を抱いて、私たちは聖書を読んだり、祈ったりします。私たちは、イエス・キリストの恵みと知識において成長し、自分たちの信仰の土台の上に、自分自身を築き上げたいのです。

その大前提を抱いて、私たちは神の愛のうちに自分自身を保ちます。毎日、私たちは神様を信頼し、従います。長老たちとともに、私たちは叫びます。

「あなたは、栄光と誉れを受けるにふさわしい方です。あなたは、私の人生を支配するにふさわしい方です。」

その大前提を抱いて、私たちは聖なる装いをし、賛美のことばだけではなく、私たちの人生を神様に捧げて礼拝します。(黙示録4:10;ローマ12:1)

ユダが、私たちに警告した人々は、まったく違う態度を持っていました。(ユダ8〜19)

しかし、神の子どもたちとして、私たちはユダとヨハネの態度を抱くべきです。

もし、キリストにある自分のアイデンティティーを覚えているなら、私たちは必ずその態度を抱くでしょう。

私たちは、神様に召されました。

私たちは、神様に愛されています。

私たちは、イエス様によって、イエス様のために守られています。

それを覚えて、ユダとともに歌いましょう。

(私)を、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、支配、権威が、永遠の昔も今も、世々限りなくありますように。アーメン。」

(ユダ24ー25、ユダの言葉を個人的なものにするため、「あなたがた」を 「私」に変えました。

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ヨハネの手紙第三

私があなたの真理のうちに歩むことができるように

私にとって、自分の子どもたちが真理のうちに歩んでいることを聞くこと以上の大きな喜びはありません。(ヨハネの手紙第三4節)

天のお父さん、私が毎日、真理のうちに歩むことができるようにしてください。

あなたの真理が、私の人生を形作るように。あなたの真理が、私の思考と生き方を形作るように。

私が、この世の邪悪な道を歩まず、あなたを見習うようにしてください。(11節)

私が、することすべてにおいて、あなたの愛によってそれを行うようにしてください。(6節)

私が、忠実にあなたの民に仕えるようにしてください。(5節)

私が、あなたの福音の真理のために働く人々を支えるようにしてください。(8節)

ヨハネが、ガイオがあなたの真理のうちに歩んでいることを喜んだように、私があなたの真理のうちに歩んでいることを、あなたが喜んでくださいますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの手紙第二のデボーション

真の弟子とは

私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。。。

だれでも、「先を行って」キリストの教えにとどまらない者は、神を持っていません。

その教えにとどまる者こそ、御父も御子も持っています。(ヨハネの手紙第二6,9)

ヨハネの手紙を読むと、彼がよくイエス様のことばに思いを巡らしていたことがわかります。ヨハネのことばは、イエス様のことばに基づいています。

あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。

あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ8:31-32)

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。。。

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。(ヨハネ14:21,23)

イエス様の弟子の特徴は何でしょうか。何によって、イエス様への愛は現れるのでしょうか。

それは、私たちがイエス様のことばに従うほど、イエス様に信頼することです。

そうすれば、私たちは自由を知るようになります。

しかし、それだけではなく、私たちの神との関係は、より親しくなります。神様は、御自身を私たちにさらに現してくださり、私たちは神様の愛といつくしみを、より深く理解し、経験します。

私は、神様の愛といつくしみを味わい、神様が良い方であることを知るようになりました。だから、私は神様をもっともっと求めたいです。

あなたはどうですか。イエス様のことばに従い、神様の愛といつくしみを味わったことがあるでしょうか。

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ヨハネの手紙第一のデボーション

恐れがない

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。

神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。こうして、愛が私たちにあって全うされました。

ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。

恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。(ヨハネの手紙第一4:16~19)

日曜日に、私は黙示録4章によるメッセージをしました。ヨハネの上のことばを読んだとき、その黙示録の箇所を連想しました。

イスラエル人たちとイザヤは、神の栄光を見たら死んでしまうと思いました。(出エジプト記19:16;20:18〜21;イザヤ6:5)

でも、御座の前に立って神の栄光を見たとき、ヨハネは震えたかもしれませんが、「私は滅んでしまう」とは叫びませんでした。

イスラエル人たちとイザヤと同じように、ヨハネも罪深い人間でした。では、なぜヨハネは神様からの罰を恐れなかったのでしょうか。

それは、ヨハネが自分に対する神の愛を知り、信じていたからです。神の愛は、ヨハネにあって全うされていたからです。

あなたはどうですか。ヨハネと同じように、「自分に対する神の愛を知り、信じている」と言えるでしょうか。

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ヨハネの手紙第一のデボーション

自分の心が私たちを責めるとき:神の子供としての私たちの希望

子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。

そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。

たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。(ヨハネの手紙第一3:18ー20)

「神は…すべてをご存じだ。」

ヨハネのことばを読んで、ヨハネの福音書21章にある、イエス様へのペテロのことばを連想しました。

「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」(ヨハネ21:17)

イエス様は、確かにペテロの心を知っておられました。実際、ペテロ以上に、イエス様はペテロの心を知っておられました。ペテロが将来、イエス様のために死ぬほどイエス様を愛していることを、知っておられました。(ヨハネ21:18〜19)

イエス様は、ペテロの弱さをよく知っておられました。

イエス様は、ペテロの過去の罪と失敗をよく知っておられました。

イエス様は、ペテロの将来の罪も知っておられました。

でも、ペテロがイエス様を愛し、イエス様のようになりたいと願っていることを、知っておられました。

神の子どもたちは、その態度によって特徴づけられています。彼らは、愛する主のようになりたいのです。

ヨハネは、その真理をこのように表現します。

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。

しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。(ヨハネの手紙第一3:2ー3)

もちろん、今は、私たちは完全にイエス様のようになっているわけではありません。でも、神の子どもとして、私たちはそれを望みます。私たちは、完全になる日を待ちきれません。

だから、その間、イエス様のようになるための一歩を踏み出します。小さい子どものように、私はよちよち歩きかもしれないけれど、一歩一歩、歩き続けます。

イエス様が歩まれたように、私は歩き始めます。(第一ヨハネ2:6)

イエス様が愛されたように、私は愛し始めます。(第一ヨハネ3:16〜18)

そして、私たちが転んで、自分の心が私たちを責める時、私たちの天のお父さんは、私たちを引き上げ、励ましてくださいます。

「大丈夫です。あなたが私を愛していることを、よく知っているよ。歩き続けなさい。」

私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。

事実、私たちは神の子どもです。(第一ヨハネ3:1)

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ヨハネの手紙第一のデボーション

人を愛しているのか?それとも、つまずいているのか?

光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。

自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。(ヨハネの手紙第一2:9ー10)

たぶん、私たちの多くは、上のことばをよく読み流します。なぜなら、私たちは「私は大丈夫だ。私は誰も憎んでいない」と思うからです。

それはそうかもしれないけれど、私たちがよく裁く人がいるでしょうか。

私たちが許していない人がいるでしょうか。

今日、私は4人の人たちのことを考えていました。私は彼らを憎んでいるわけではないけれど、彼らを思い出すたびに、私はよくつまずいてしまいます。

私は、「私は彼らを本当に愛していないのだろう」と思いました。

だから、彼らに対する私の態度を直せるように祈っています。そのために、私は本当に神様の助けが必要です。

あなたはどうですか。神様は、あなたに誰かについて語りかけておられるでしょうか。

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ヨハネの手紙第一のデボーション

光の中を歩む

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(ヨハネの手紙第一1:7)

今朝、上のことばを読んだとき、「光の中を歩む」とは、どういう意味だろうかと思いました。

今まで私が考えていたのは、「罪を犯す瞬間、私たちは光から離れ、闇に入り、悔い改めるまでその闇にとどまる」ということです。

私たちが救いを失うとは思わなかったけれど、ある意味、私たちが闇に入ってしまうと思いました。

でも、ヨハネのことばを反芻してみると、その考え方が間違っていると思いました。

ヨハネは、光の中を歩む人が決して罪を犯すことはないとは言いません。

むしろ、ヨハネは、私たちが光の中を歩んでいるなら、私たちが罪を犯すとき、イエス様の血がその罪から私たちをきよめてくださると言います。

だから、光の中を歩むとは、私たちの人生の良い面も悪い面もすべてをイエス様にさらけ出すことです。

そして、イエス様の光が私たちの心の中の罪を現すと、私たちはすぐに悔い改めます。

私たちはその罪を隠そうとしません。私たちは言い訳をしません。私たちは悔い改めます。そうすれば、神様は真実で正しい方ですから、その罪を赦してくださいます。

それが、光の中を歩むことです。

その反面、神の光から隠れると、私たちは神との関係を持つことができません。アダムとエバと同じように、私たちが自分の罪と咎を隠そうとしたり、自分の罪のために言い訳をしたり、自分の罪を正当化しようとするなら、神様との関係を持つことができません。

それが、闇の中を歩むことです。

だから、私たちが光の中を歩んでいるかどうかを考えるとき、自問自答しなければならないのは、どれだけ誘惑に負けるかということではありません。

自問自答しなければならないのは、「私のすべてをイエス様にさらけ出しているだろうか。私は隠そうとしているところがまだあるだろうか」ということです。

天のお父さん、私は光の中に踏み入れ、その光の中を歩むことを選びます。私の恥ずべき罪も隠しません。

あなたの光を私に照らしてください。私が変わらなければならないところを教えてください。

私は、単にあなたの光の中に立ち、あなたの恵みを受けたいのではありません。私は、光の中で歩みたいのです。

だから、私の次のステップを教えてください。そして、一歩一歩前進し続けることで、私がよりあなたのようになれますように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ペテロの手紙第二のデボーション

罪とは?吐いたものと泥!

「犬は自分が吐いた物に戻る」、「豚は身を洗って、また泥の中を転がる」という、ことわざどおりのことが、彼らに起こっているのです。(ペテロの手紙第二2:22-23)

天のお父さん、私が罪がどのようなものであるか理解できるように。つまり、罪とは、吐いたものと泥のようなものです。

でも、罪を吐いたものと泥と見なさないで、私はどれだけ罪に陥ってしまうでしょうか。

私は、自分の吐いたものを食べに戻りたくないです。私は、泥の中を転がりたくないです。

あなたの御前に、私は清いものとなりたいです。だから、肉の流れが私を吐いたものと泥に引っ張るとき、私がその流れに逆らい、あなたに従うように助けてください。

イエス様、あなたの義と聖さを私に着せてください。あなたにある自由と喜びを知りたいのです。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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ペテロの手紙第二のデボーション

天の父の約束を抱く

私たちをご自身の栄光と栄誉によって(別訳:「栄光と栄誉へと」)召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。(ペテロの手紙第二1:3)

今朝、私はその別訳を考えていました。(3節の脚注を調べてください。)

私たちは、神の栄光と栄誉へと召されました。

言い換えると、私たちは天の父のようになるように召されました。私たちは、天の父の性格を身に着けるべきです。私たちは、神の光を周りの人々に照らすべきです。

だから、ペテロは言います。

だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。(第二ペテロ1:5-7)

もちろん、天の父のようになるために努力が必要です。それでも、天の父は、私たちをほっといて、「がんばれ」と言われるわけではありません。

むしろ、ペテロはこう言います。

その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。

それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。(第二ペテロ1:4)

その約束は何でしょうか。

最も素晴らしい約束は、御霊が私たちのうちに住んでおられ、私たちを導き、私たちに力を与え、私たちのためにとりなしてくださることです。(ヨハネ16:13-15、ローマ8:11-14,26-27)

さらに、私たちがどんなに苦しんでも、私たちの努力は最終的に無駄にならないのです。ヨハネは私たちにこう言います。

しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。 (第一ヨハネ3:2)

私の罪と失敗を見るとき、それは私の希望です。

私は一人でやる必要はないのです。

最終的には、私の努力は無駄にならないのです。私は必ずイエス様のようになります。

でも、その日が来るまで、私は恵みの中に立っているのです。(ローマ5:1-2)

天のお父さん、あなたが私をご自分の子どもにしてくださり、ありがとうございます。私へのあなたの尊く大いなる約束を感謝します。私はその約束に頼ります。毎日、私があなたのようになるように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ペテロの手紙第一のデボーション

神の御心のために生きる

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。

それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。。。

キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。

肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。

それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。(ペテロの手紙第一3:18,4:1-2)

日曜日に、私の牧師は、私たちの世界観、私たちのパラダイムを変えることについて話しました。多分、最大のパラダイムシフトは、私たちが誰のため、何のために生きるのかということです。

ペテロは、はっきりと言います。私たちの罪との契約は解除されました。私たちが罪の力と罰から自由になるため、イエス様は死んでくださいました。

だからこそ、私たちのパラダイムは、もはや自分の心、つまり、罪に導く自分の本能、感情、欲望に従うのではありません。むしろ、私たちは、御子を遣わすほどに私たちを愛してくださっている神のために生きているのです。

だから、ペテロは「心を整え、身を慎みなさい」と言います。私たちは、毎日毎日、一瞬一瞬、神の御心、知恵、力を求めるべきなのです。(第一ペテロ4:7)

でも、一人ではなく、神の民と一緒にするべきです。なぜなら、時々、私たちは油断して罪に陥ってしまうからです。でも、兄弟たちと姉妹たちの愛によって、私たちは癒され、立ち戻ることができます。

だから、ペテロは言います。

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。(第一ペテロ4:8)

多分、ペテロは自分の経験を考えていました。彼も油断して、罪に陥ってしまいました(マルコ14:37、66〜72)。でも、イエスの愛によって、彼は立ち直ることができました。

だから、イエスのパラダイムを取り上げましょう。自分の心に従うのではなく、私たちを深く愛してくださっている天の父の御心に従いましょう。でも、一人ではなく、神の民と一緒にそうしましょう。

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ペテロの手紙第一のデボーション

生ける石、生きたささげ物

主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。

あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。(ぺテロの手紙第一2:4ー5)

今朝、上のことばを読んだとき、「ぺテロはローマ書にあるパウロのことばを考えていただろうか」と思いました。

ぺテロは、きっとパウロの手紙を読んだことがあったのでしょう。(第二ぺテロ3:15〜16)

さらに、ぺテロのことばは、ローマ12:1にあるパウロのことばに似ていました。

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。

それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

ぺテロは、「生ける石として、また、聖なる祭司として、神に喜ばれる霊のいけにえを捧げなさい」と言いました。

パウロは、「自分のからだを神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい」と言いました。

また、パウロは、「神のあわれみによってそうしなさい」と言いました。

ぺテロは、具体的にそのあわれみについて語りました。

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。

それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。(9ー10節)

だから、今日、私はこう祈りました。

天のお父さん、私は、あなたがいつくしみ深い方であることを味わいました。

あなたは私をご自分のものにして、闇の中からご自分の驚くべき光の中に召してくださいました。

私は以前はあわれみを受けたことがなかったけれど、今はあわれみを受けて、溢れています。

私は以前は羊のようにさまよっていました。でも今や、あなたのめぐみによって、私はたましいの牧者であり、監督者である方のもとに帰りました。

だから、私の人生をあなたに捧げます。私が暗闇に囚われた人々に、あなたの栄誉を告げ知らせることができるように。

私の人生、私のすべてのことば、思い、行動が、あなたに聖なるもの、喜ばれる礼拝となるように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ペテロの手紙第一のデボーション

自分のアイデンティティーを覚えていよう

天のお父さん、私がいつも自分のアイデンティティーを覚えているように。

時が始まる前から、あなたは私を知っておられ、ご自分の子どもとして呼んでくださいました。あなたの御霊によって、あなたは日々、私を御子のように変えてくださいます。

毎日、あなたは私をイエス様の血で注ぎかけ、私の罪を清めてくださいます。そして、あなたはイエス様に従うように、私を呼んでくださいます。

イエス様を通して、私は朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない、天に蓄えられている資産を受け継ぎました。

そして、私が試練に直面しても、あなたの力によって私を守ってくださいます。だから、イエス様が現れるとき、私はあなたが用意してくださっている救いをいただくことができます。あなたにとって、私の信仰は火で精錬された金よりも高価なものなのです。

だから毎日、私が正しい物の見方を保つように。私があなたの武具を身に付け、心を引き締めるように。

私が自分の肉、つまり、自分の本能や願望や感情に単に従うのではなく、あなたの愛する子供として、私が聖なる者になるように。あなたが聖なる方だから、あなたのようになりたいのです。

この世は私の永遠の家ではありません。私がそれを覚えていて、毎日あなたを喜ばせる人生を送るように。つまり、私があなたを愛し、あなたが私に与えてくださった人々をも愛するように助けてください。

私をあなたの子どもにしてくださり、ありがとうございます。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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創世記のデボーション

神様と共に前進する

それで、ヤコブは自分の家族と、自分と一緒にいるすべての者に言った。

「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい。

私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。」(創世記35:2~3)

34章にある恐ろしい出来事の後、私たちはヤコブの人生に神の恵みを見ることができます。

ヤコブの息子たちの恐ろしい罪にも関わらず、神様はヤコブに言われました。「私はまだあなたと共にいる。私が最初にあなたに現れた場所、ベテルに戻りなさい。」

だから、ヤコブは家族に異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替え、ベテルに上って行くように命じました。

ベテルで、神様はヤコブに約束を再確認しました。また、神様はもう一度ヤコブを「イスラエル」と名付けました。

「イスラエル」とは、「神と戦う」という意味もあるし、「神は戦う」という意味もあります。

たぶん、後者の定義の方が適切かもしれません。なぜなら、ヤコブは神様と戦うことをやめ、神様の支配に従っていたからです。さらに、神様はヤコブとその家族のために戦っていたのです。(5節)

この話を読んで、私は励まされました。私たちがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して見捨てないのです。むしろ、私たちが神様と共に前進するように招いてくださいます。

神様と共に前進するため、私たちはどうすればいいでしょうか。

私たちの罪を捨て、私たちを清めるイエス様の血で洗われ(第一ヨハネ1:7)、そして、再びイエス・キリストとその義を着るべきです(ローマ書13:14)。

そして、サタンが私たちを責めるとき、神様が私たちのために戦っていることを覚えていましょう。(ローマ書8:31〜34)

だから毎日、神の恵みによって歩み、神様と共に前進し続けましょう。

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神の祝福を得るため

ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」(創世記32:26)

ヤコブは、生涯を通じて神の祝福を得ようと努力しました。

その祝福を得るため、ヤコブは父と兄を騙しました。(創世記26〜27章)

その後、神の祝福を得るため、ヤコブは神様と交渉しようとしました。(創世記28:20〜22)

そして、今日の箇所では、神の祝福を得るため、ヤコブは神様と格闘しました。

彼が理解していなかったのは、神様が単純にヤコブを祝福したいと願っておられたということです。

ヤコブがするべきことは、神のあわれみと忠実さに信頼することだけでした。神様は、私たちのようなふさわしくない者にも、喜んでそのあわれみと忠実さを示してくださるのです。(10節)

その真理を把握することができれば、私たちはどんなに喜ぶことでしょう。

私たちは、神の祝福を得ようと努力する必要はありません。神のあわれみと真実さを信じ、ただその祝福を受けることができるのです。

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 心が壊れている人々のために祈る

昨日、私は姉とある従姉妹の話をしていました。その従姉妹は、叔父がどれほどひどい父親だったかを語っていました。

彼は男の子を望んでいたため、従姉妹が生まれたとき、病院に来てくれませんでした。

どうやら、彼は娘に「あなたが男の子だったら良かったのに……」と何度も言ったらしいです。

従姉妹は、50年もの間、その傷を抱えて生きています。

今日の箇所を読んだとき、この世界の歴史の中には、いつも傷ついた人がいたことを思い出しました。レアも、ラケルも、ヤコブも、心が壊れた人々でした。

でも、神様は私たちを見ておられ、聞いておられ、心に留めてくださいます。神様は、私たちを痛みのサイクルから解放し、平和のサイクルへと導こうと望んでおられます。

つまり、神様は、ご自分の真理と愛が私たちの心に治めることを望んでおられるのです。そうして初めて、私たちは癒しを知ることができます。

だから、今日、私は従姉妹のために祈っています。

従姉妹が神様を知るように祈っています。

神の恵みによって、従姉妹が過去の痛みと恥から解放されるように祈っています。

また、神との関係を通して、従姉妹が平和を知るように祈っています。

心が壊れている人々を知っているでしょうか。

今日、その人のために祈りましょう。

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 自分の目にある梁を取り除く

朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。

「あなたは私に何ということをしたのですか。私はラケルのために、あなたに仕えたのではありませんか。なぜ、私をだましたのですか。」(創世記29:25)

今朝、上のことばを読んだとき、私は考えました。

「エサウはヤコブのことばを聞いていたら、どれほど笑っただろうか。ヤコブは、自分のことばがどれほど皮肉なものであったかを理解していただろうか。」

そして、私は自分のことを考えました。

先週、私をイライラさせる人について考えていました。

でも、私も同じようなことをしたことがあるでしょうか。たとえ同じことをしていないとしても、私が気づいていない自分の過ちは何でしょうか。

それを考えるとき、イエス様のことばを思い出しました。

あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。

兄弟に向かって、「あなたの目からちりを取り除かせてください」と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。

偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。(マタイ7:3~5)

だから、私はもう一度祈りました。「天のお父さん、私を探り、私の心を知ってください。私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇139:23~24)

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私たちを決して見捨てない方

見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。

わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。創世記28:15)

ヤコブがどれほど失敗したかを考えれば、神様の約束は本当に驚くべきものです。

でも、神様は私たちに関して、同じようなことを言っておられます。私たちがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して見捨てません。

むしろ、神様は私たちとともに歩み、守り続けてくださいます。

さらに、御霊は毎日、私たちの心の中に働き、私たちをイエス様のようにしてくださいます。

そして、ご自分が約束してくださったことを成し遂げ、私たちが完成されて、顔と顔を合わせて神様を見るまで、神様は私たちを決して捨てません。

パウロのことばを借りれば、

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。(ピリピ1:6)

それは、私たちの希望です。その希望を持って、歩みましょう。

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誰の計画?

今日の箇所を読んだとき、私は考えました。

「イサクは誰の計画に従っていただろうか。神様がヤコブとエサウに関してリベカに何と言われたか知っていただろうか(創世記25:23)。」

きっと、イサクはエサウがヤコブに長子の権利を売っていたことを知っていたでしょう。それでも、イサクはヤコブではなく、エサウの方を祝福しようとしました。

そして、私はもう一つのことを考えました。「ヤコブは誰の計画に従っていただろうか。」

ヤコブは「もちろん、神様の計画に従っているよ。だって、神様はエサウが私に仕えると約束してくださった」と主張することができたでしょう。

でも、私はダビデ王のことを思い出しました。

ダビデも同じようなことを言うことができました。神様はダビデがイスラエルの王になると約束してくださいました。しかし、サウルを殺す機会が二度あったのに、ダビデはそうしませんでした。

むしろ、ダビデは神様とそのタイミングを待ちました。

今日、私はたまたま詩篇25篇を祈っていて、ダビデの態度を見ました。

主よ、あなたをわがたましいは仰ぎ求めます。。。

まことに、あなたを待ち望む者がだれも恥を見ず、ゆえなく裏切る者が恥を見ますように。(詩篇25:1、3)

ヤコブは、神様とそのタイミングを待つのではなく、むしろ、ゆえなくイサクとエサウを裏切りました。その結果、ヤコブは恥を見ました。

エサウがヤコブを殺そうと思っていたので、ヤコブは逃げなくてはなりませんでした。彼は母リベカの顔を見ることは、二度とありませんでした。

エサウは最終的にヤコブを許してくれましたが、ヤコブは何年もの間、恐れと苦しみをもって生きていました。

それでも、神様はヤコブに恵みを与えてくださいました。

ダビデと同じように、ヤコブがこのようなことばを祈る姿を想像できます。

私の若いころの罪や背きを思い起こさないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ、あなたのいつくしみのゆえに。(詩篇25:7)

神様は、そのような恵みをヤコブに与えてくださいました。

とにかく、私が考えていたのは、「私は誰の計画に従っているだろうか。神の計画だろうか。私の計画だろうか」ということです。

だから、今日、私はダビデのことばを祈りました。

主よ、あなたの道を私に知らせ、あなたの進む道を私に教えてください。

あなたの真理に私を導き、教えてください。

あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望みます。(詩篇25:4ー5)

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この世にいるけど、この世のものではない

[あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。」

(イサク)はそこからベエル・シェバに上った。主はその夜、彼に現れて言われた。

「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」

イサクはそこに祭壇を築き、主の御名を呼び求めた。彼はそこに天幕を張り(ました)」。。。(創世記26:3,23~25)

天のお父さん、私はこの世にいるけれど、この世のものではありません。私は短い間、この世に寄留しているだけです。

だから、私がこの世の一時的なものに執着しないようにしてください。

むしろ、私が何よりもあなたを慕い求め、あなたがおられるところに、私の天幕を常に張る者となりますように。

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神の子供の権利を侮る

エサウは、「見てくれ。私は死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう」と言った。。。

こうしてエサウは長子の権利を侮った。(創世記25:32~34)

イサクの長子として、エサウは特別な権利を持っていました。彼の遺産はヤコブの二倍だったし、イサクが亡くなった後、エサウは一族の長になるはずでした。

でも、最も大切な権利は、アブラハムとイサクに約束された神との契約の祝福でした。つまり、神との特別な関係です。

しかし、一瞬にして、エサウはその権利を失いました。なぜなら、彼は自分の「肉」に従って、その権利を侮ったからです。

最近の教会の説教で、私は「肉」をこのように定義しました。「本能、欲望、感情、その他すべての、神様から私たちを引き離すもの。」

エサウの場合、お腹を満たすために、彼は長子の権利をヤコブに売ってしまいました。

私たちクリスチャンは、自分の肉に従うことで、神の子供としての権利をどれほど侮っているでしょうか。

神の子供として、私たちはさまざまな祝福を受けています。神との新しい関係、神の子供としてのアイデンティティ、過去からの解放、神の恵みと力へのアクセスなどです。

でも、私たちはそれらを本当に大切にしているでしょうか。

それとも、自分の肉に従うことで、その祝福を侮っているでしょうか。

例えば、神の子供としての祝福の一つは、私たちが霊的な家族に属することです。

でも、できるだけ毎週の日曜日に教会に行こうとするほど、その祝福を大切にしているでしょうか。

それとも、教会を軽く見て、あっさりと自分のやりたいことを選んでしまうのでしょうか。

あるいは、私たちは十字架でイエス様が支払われた代価を軽んじて、自分の罪にふけり、「後で、神様の赦しを願うから」と言う時があるでしょうか。

いろんな意味で、私たちは自分の肉に従って、霊的な権利を侮ることができます。

でも、私はそうしたくありません。

私は肉の流れに逆らい、神の子供としての権利を抱きたいのです。

あなたはどうでしょうか。

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あなたをまだ信じているよ

さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできますと。」(マルコの福音書16:7)

天使のことばを読んだとき、ある表現が私の目に留まりました。それは、かなり普通で、読み流してしまいそうなことばですが、今日、私の心に深く響きました。

そのことばは——

「…とペテロ…」

天使は、ただ「弟子たちに伝えなさい」と言ったのではなく、「弟子たちとペテロに伝えなさい」と言ったのです。

私は確かなことは分かりませんが、きっとイエス様はその天使に特別に命じられたのでしょう。

「そのメッセージを伝えるとき、必ずペテロの名前を挙げなさい。彼は、私を知らないと言ってしまって以来、自分を責め続けている。でも、私は彼をまだ信じていると伝えなさい。」

もしかすると、そのことばを聞いても、ペテロはなお罪悪感を抱いていたかもしれません。

だからこそ、イエス様はペテロに直接現れて語られ(ルカ24:34;第一コリント15:5)、その後、もう一度ペテロと向き合い、励ましてくださいました(ヨハネ21章)。

ペテロに対するイエス様の反応を思うと、私は深く励まされます。私がどんなに失敗しても、イエス様は私の名前を呼び、「あなたをまだ信じているよ」と言ってくださるのです。

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名ばかりの王?

そして、イエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、それから、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫んで敬礼し始めた。

また、葦の棒でイエスの頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝んだ。(マルコの福音書15:17~19)

主よ、兵士たちはあなたを「王」と呼びました。ピラトもあなたを「ユダヤ人の王」と宣言しました。でも、それらは空虚な言葉にすぎませんでした。

彼らはあなたを打ち、十字架につけました。

私があなたを名ばかりの王として扱ってしまうことがあるでしょうか。

私の賛美の歌の中で、あなたを王と呼ぶことがどれほどあるでしょうか。

そのことばが、決して空虚なものにならないように。

あなたは名ばかりの王ではありません。

あなたは王の王です。あなたは、私の誉れと服従にふさわしい方です。

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イエス様を大切にする。イエス様に大切にされる。

この箇所を読んで、私はラザロとマルタの妹、マリアの姿に驚かされました。(ヨハネ12:1-8)

彼女は、高価なナルド油をイエス様の頭に注ぐほど、イエス様を大切にしました。そのことを思いながら、私は自分自身に問いかけます。

「私はイエス様をどれほど大切にしているだろうか。」

私はマリアのようでしょうか。

もしかしたら、私はユダのようでしょうか。イエス様への愛を口では語っていても、行動によってイエス様を裏切っているかもしれません。

もしかしたら、私はペテロのようでしょうか。イエス様への愛を語っていても、祈らずに眠ってしまうかもしれません。

でも、この箇所で、もう一つ見逃してはならないことがあります。

私たちが弱くても、イエス様は私たちを大切にしてくださいます。

イエス様は、ご自身の試練が迫っていたことを知っておられました。弟子たちが逃げることも、ペテロがイエス様を知らないと言うことも、すべてご存じでした。

それでも、最後の晩餐で神様をほめたたえ、パンを裂いて、「取りなさい。これはわたしのからだです」と言われました。

また、イエス様は杯を取り、感謝の祈りをささげた後、弟子たちに与えて、「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です」と言われました。(マルコの福音書14:22~24)

イエス様は、それほどまでに私たちを愛してくださいました。私たちが弱く、壊れやすい存在であるにもかかわらず、イエス様はご自身のいのちを十字架でささげてくださいました。

それは、簡単な決断ではありませんでした。イエス様は、あっさりとご自身のいのちをささげたわけではありません。

イエス様は苦しみながら、天の父に祈られました。「どうか、この杯をわたしから取り去ってください。十字架に行きたくないのです。」

それでも最終的に、イエス様は十字架に向かい、私たちのために死んでくださいました。

なぜでしょうか。それほどまでに、イエス様は私たちを大切にしてくださったからです。

だからこそ、私たちも毎日、マリアのようにイエス様を大切にしましょう。

そして同時に、イエス様がどれほど私たちを愛してくださるのかを、心に留めておきましょう。

ヨハネはこう書きました。

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:19)

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神様から与えられた仕事に忠実であること

気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。

それはちょうど、旅に出る人のようです。家を離れるとき、しもべたちそれぞれに、仕事を割り当てて、責任(別訳:権限)を持たせ、門番には目を覚ましているように命じます。

ですから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るのか。。。分からないからです。(マルコの福音書13:33ー35)

主人は「しもべたちそれぞれに、仕事を割り当てて、権限を持たせました。」

そのことばが、私の目に留まりました。

イエス様は、いつかこの世に帰って来られます。でもその間、イエス様は私たち一人ひとりに仕事を割り当ててくださり、その仕事を果たすための権限も与えてくださいました。

私たちは、神様から与えられた仕事を果たすのに、他人の許可を求める必要はありません。ただ、その仕事に忠実であるべきです。

最近、私は自分自身のことを考えています。できる限り、神様から与えられた仕事を果たそうとしています。でも、自信がなくて、失敗を恐れて、ためらうことがあります。

その恐れを乗り越えなくてはなりません。その点で、私は成長しようとしています。恐れずに、大胆に、神様から委ねられた仕事を果たしたいのです。

あなたはどうでしょうか。神様は、あなたにどんな仕事を割り当てられたでしょうか。神様があなたに触れさせるために与えた人は、誰でしょうか。あなたは忠実に、神様に仕えているでしょうか。

イエス様、あなたが帰って来られる日を待ち望みながら、私があなたから与えられた仕事に忠実であるように。

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私は神様のものを返しているでしょうか

するとイエスは言われた。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」(マルコの福音書12:17)

(律法学者は)イエスに尋ねた。「すべての中で、どれが第一の戒めですか。」

イエスは答えられた。。。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(28~30節)

イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。

皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」(43~44節)

天のお父さん、私は正当にあなたのものを返しているでしょうか。私のすべては、あなたのものでしょうか。私は本当に、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたを愛しているのでしょうか。

私はもはや、自分自身のものではありません。私は、代価を払って買い取られた者です。イエス様の血によって、私は買い取られました。

ですから、やもめのように、毎日、自分のからだ、持ち物、私のすべてをもって、あなたの栄光を現す者となります。(第一コリント6:19~20)

もし、私があなたに捧げていないものがあるなら、それを明らかにしてください。

あなたは、私のすべてを受けるにふさわしい方だからです。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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塩気を失う?

今日の箇所を読んで、さまざまなことを考えさせられました。でも、イエス様の最後のことばには、特に心を打たれました。

塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。

あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。(マルコの福音書9:50)

イエス様は、私たちを地の塩と呼ばれました(マタイ5:13)。

私たちは、神の愛と恵みによって、この世に味をつけるべきです。

けれども、神の民が互いに愛し合うことができなければ、教会は塩気を失ってしまいます。

プライド、苦々しい思い、人を許せない心、自分勝手な態度によって、私たちは塩気を失うことがあります。

今日の箇所、そして関連箇所であるマタイ18章では、弟子たちがそのような問題を抱えていたことが明らかです。

しかし、正直に言うと、私自身もそのような問題を抱えています。

特に、自分勝手な態度とプライドは大きな問題です。昨日を振り返ると、そうした問題がまた現れました。だから、私は悔い改める必要がありました。

あなたはどうですか。人間関係の問題を抱えているでしょうか。特に、兄弟姉妹との関係に問題を抱えているでしょうか。

その関係の中で、あなたは塩気を失いかけているでしょうか。

イエス様はこう言われました。

互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:34ー35)

イエス様の戒めを心に留め、互いに愛し合いましょう。そうすれば、神の教会は塩気を失うことなく、神の恵みと愛によって、この世界、そして日本に味をつけていくのです。

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主よ、ため息をつかれることはありますか

すると、パリサイ人たちがやって来てイエスと議論を始めた。彼らは天からのしるしを求め、イエスを試みようとしたのである。

イエスは、心の中で深くため息をついて、こう言われた。「この時代はなぜ、しるしを求めるのか。」(マルコの福音書8:11ー12)

イエスはそれに気がついて(弟子たちに)言われた。

「なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。

目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。。。

まだ悟らないのですか。」(17ー18,21節)

イエス様、私たちの頑固さ、私の不信仰に、あなたはどれほど深くため息をつかれるのでしょうか。私が頑なな心を持ち、目が見えず、耳が聞こえず、何も悟れないとき、あなたはどれほど深くため息をつかれるのでしょうか。

それでも、あなたは私を諦めることはありません。

目の見えない人が見えるようになるまで、あなたがその目に触れ続けてくださったように、私が見えるようになるまで、私の目にも触れ続けてくださいます。

そして、私が聞こえるようになるまで、私の耳に触れ続けてくださり、心が和らぎ、悟るようになるまで、私の心にも触れ続けてくださいます。

あなたの素晴らしい恵みに感謝します。

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神の支配を拒むとき

「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。」

あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。(マルコの福音書7:6ー8)

この箇所を読むたびに、イエス様のことばに心を打たれます。

今日、私が考えているのは、私たちクリスチャンは何を堅く守っているのか、ということです。

イエス様は、私たちにこう言われるでしょうか。私にこう言われるでしょうか。

「あなたがたは神の戒めを捨てて、社会の価値観や考え方を堅く守っているのです。」

「あなたがたは神の戒めを捨てて、自分の意見に固執しているのです。」

「あなたがたは神の戒めを捨てて、自分の心に従っているのです。」

「あなたがたは神の戒めを捨てて、自分の罪や言い訳にしがみついているのです。」

神様の支配を拒むなら、私たちの礼拝はむなしいものとなります。

神様の支配を拒むなら、私たちは口先で神様を敬うかもしれませんが、心は神様から遠く離れています。

天のお父さん、毎日、そして一瞬一瞬、私の心があなたのものとなりますように。どうか私の心を支配してください。私の思いの王、選びの王、行動の王、そして心の王となってください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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イエス様がこの世に来られた理由

その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。(第一ヨハネ3:8)

マルコ5章を読んだとき、ヨハネのことばが心に浮かびました。

エデンでサタンがアダムとエバを欺き、彼らは罪に落ちました。サタンのわざによって、あらゆる災いがこの世に入りました。今もなお、サタンは積極的に人々を滅ぼそうとしています。

けれども、イエス様はサタンのわざを打ち破るために、この世に来られました。

マルコ5章では、イエス様がサタンのわざを打ち破っておられることが示されています。イエス様は、悪霊に取りつかれた人を自由にし、12年間も出血が止まらなかった女性を癒し、死んだ少女を生き返らせました。

イエス様は今も同じように働いておられます。イエス様は、サタンに虐げられている人々を自由にし、肉体的・精神的・霊的な癒しをもたらし、霊的に死んだ人々を新しく生かしてくださいます。

そして、やがて来る日には、イエス様は死そのものを打ち破ってくださいます。

しかし、私はその真実をただ喜ぶだけではありません。イエス様の弟子として、私はイエス様の働きに加わりたいのです。私の周りの人々に、神様の愛で触れたいのです。神様がしておられることに、私自身も加わりたいのです。あなたはどうですか。

イエス様、あなたの働きにどのように加わることができるかを教えてください。私の周りにあるサタンのわざを打ち破るために、どうか私を用いてください。

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神様の言葉を理解する鍵

多くのクリスチャンは、「聖書をもっと理解できたらいいのに」と言います。(あなたも、そう思ったことがあるかもしれません。)

今日の箇所で、イエス様は、私たちが聖書をより深く理解するための道を教えてくださいます。

第一の鍵は、自分の心を神様のみ言葉に開くことです。イエス様は、私たちが理解できる範囲で、みことばを教えてくださいます。(33節。ギリシャ語では、「聞く」という言葉に「理解する」という意味も含まれています。)

しかし、イエス様は二度、同じことを繰り返されます。「聞く耳のある者は、聞きなさい」(マルコの福音書4:9、23)

多くの人々の問題は、理解できるみ言葉を歓迎しないことです。

むしろ、彼らは神様と議論しようとしたり、神様のみ言葉を無視したりします。

だからこそ、イエス様はこう言われるのです。

聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。

持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまうからです。(マルコの福音書4:24-25)

聖書を理解する鍵は、ただ知らないことをたくさん学ぶことではありません。理解の鍵は、すでに把握しているみ言葉を実践することです。

もう一度言います。多くのクリスチャンの問題は、聖書についての知識が少ないことではありません。問題は、すでに把握しているみ言葉を実践しないことです。さらに、み言葉に逆らってしまうこともあります。

もし、あなたがすでに把握していることを実践するなら、神様はあなたの聖書理解をさらに深めてくださいます。

しかし、そうしないなら、あなたはイエス様が批判された人々のようになってしまいます。つまり、見るには見るが、知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない者となるのです。(12)

あなたは聖書をもっと理解したいと願っていますか。すでに把握しているみ言葉を、どれだけ実践しているでしょうか。

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頑なな心

イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみ。。。(マルコの福音書3:5)

その言葉は、私の心を深く打ちました。私はこう考えました。

イエス様は、私の心の頑なさを、どれほど頻繁に嘆き悲しんでおられるのでしょうか。

私が頑固で、自分の過ちを認めようとしないとき、イエス様はどれほど頻繁に嘆き悲しんでおられるのでしょうか。

イエス様が、私の周りの人々をどれほど愛しておられるかを忘れてしまうとき、イエス様はどれほど頻繁に嘆き悲しんでおられるのでしょうか。

神様がその人々に触れようとしておられることに気づかないほど、私の心が固くなっているとき、イエス様はどれほど頻繁に嘆き悲しんでおられるのでしょうか。

What can be done for an old heart like mine?
私のような古い心には、何ができるでしょうか。

Soften it up with oil and wine
主よ、油とぶどう酒で、私の心を柔らかくしてください。

The oil is You, Your Spirit of love
その油は、あなたご自身。あなたの愛の御霊です。

Please wash me anew in the wine of Your blood”
どうか、あなたの血であるぶどう酒によって、私を洗い、新しくしてください。

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私たちの罪と恥を取り去る方

イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。(マルコの福音書2:5)

人々はその中風の人に、何度こう言ったでしょうか。「神様はあなたを罰しているのではないか。あなたの苦しみは、あなた自身のせいだ。」

その時代、多くの人々がそのように考えていました。(ヨハネ9:1ー2;ルカ13:1ー4)

何年もの間、彼は罪と恥の重荷を負っていたのではないでしょうか。自分の不自由な体を見るたびに、彼は何度、自分の罪を思い出し、自分を責めたことでしょう。

彼の健康問題が本当に罪と結びついていたかどうかは分かりません。でも、彼の罪と、その罪から生まれた恥は、確かに彼の現実でした。

そんなある日、彼はイエス様のことを耳にしました。イエス様の教えを聞きました。そして、彼とその友人たちの心に、信仰が芽生えました。

おそらく、中風の人は、イエス様が自分を癒すことができると信じただけではなかったでしょう。彼は、イエス様の語られるすべてのメッセージを信じたのだと思います。

時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)

イエス様はその信仰をご覧になったとき、中風の人にこう言われました。「子よ、あなたの罪は赦された。」

その瞬間、彼の罪と恥は取り去られました。

あなたはどうでしょうか。今、自分の罪と恥の重荷を背負っているでしょうか。

イエス様は、私たちの罪と恥を取り去ってくださる方です。

悔い改めと信仰をもってイエス様のもとに行くなら、イエス様は私たちにもこう言われます。「子よ、あなたの罪は赦された。」

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見てくださる神、聞いてくださる神

創世記16章では、ハガルは神様を「エル・ロイ」、つまり、「私を見てくださる神」と呼びました。

そして、彼女は神様に出会った場所を「ベエル・ラハイ・ロイです」、つまり、「私を見てくださる生きておられる神の井戸」と呼びました。

数年後、イサクはベエル・ラハイ・ロイに行きました。

母サラが亡くなったばかりで、イサクは深い悲しみの中にいたようです。

新改訳では「散歩に出かけた」と訳されていますが、原語の意味はもっと繊細です。

イサクはただ歩いていたのではなく、心の中で多くのことを思い巡らし、祈っていたのかもしれません。

もしかすると、彼はこう祈っていたのではないでしょうか。「神様、あなたは本当に私を見てくださっているのですか。私の悲しみをご存じなのですか。」

神様は確かにイサクを見ておられました。そして、恵みによって、イサクの心の必要に備えてくださいました。

私は創世記24章67節が大好きです。イサクはリベカを迎え、彼女を愛し、母の死後、慰めを得ました。

私たちの心を見てくださる神。私たちの祈りに耳を傾けてくださる神。私たちの深い必要に備えてくださる神。

そのような神様に、今日も信頼して歩みます。

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神様が備えてくださる

御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった」 。。。

アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエ(つまり、「主が備えてくださる」、または、「主が見てくださる」という意味)と呼んだ。

今日も、「主の山には備えがある」と言われている。(創世記22:12、14)

この話を読むたびに、私はいつも感動します。でも今日、初めて気づいたことがあります。

もしかすると、パウロはこの話を思いながら、こう書いたのかもしれません。

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(ローマ8:31ー32)

2000年前、カルバリという丘の上で、神様はご自分の御子を惜しむことなく、私たちの救いのために備えてくださいました。

神様がそうしてくださったのなら、どうして私は神様が私のすべての必要に備えてくださることを疑うことができるでしょうか。

天のお父さん、あなたはアドナイ・イルエです。あなたは私を見てくださる主です。あなたは私の必要に備えてくださる主です。

カルバリで、あなたがそのような神であることを証明してくださいました。

どうか私がその真理を忘れないように。あなたがどのような神であるか、私が決して忘れないように。

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創世記のデボーション

私たちに笑いをくださる神

主は約束したとおりに、サラを顧みられた。主は告げたとおりに、サラのために行われた。

サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。。。

サラは言った。「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう。」(創世記21:1ー2、6)

この壊れた世界では、私たちが苦しむことがあります。

サラもその苦しみをよく知っていました。彼女は長い間、子どもを望んでいましたが、与えられませんでした。

しかし、神様の時に、神様はサラを顧みられ、子どもを与えてくださいました。その時、サラは再び笑うことができました。

今、私は二人の人のことを思い浮かべています。一人は自分の罪のために苦しんでいます。もう一人は結婚の問題で苦しんでいます。

だから、私は彼らのために祈っています。

「天のお父さん、あなたがサラを顧みられたように、その二人の人をも顧みてください。彼らを癒してください。そして、あなたの時に、彼らが再び笑うことができるようにしてください。」

あなたは、苦しんでいる人を知っているかもしれません。その人のために祈りましょう。そして、できる限り、神様の愛でその人に触れましょう。

もしかすると、あなた自身が今、苦しんでいるかもしれません。

どうか絶望しないでください。神様はあなたを今も愛しておられます。神様はあなたを赦し、癒してくださいます。

そして、神様はいつも、ご自分の約束を守ってくださいます。

だから、神様に従い、待ち望み続けましょう。そうすれば、神様の時に、あなたは再び笑うことができるようになります。

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創世記のデボーション

隠れた罪?

アビメレクは。。。言った。「主よ。。。私は、全き心と汚れのない手で、このことをしたのです。」

神は夢の中で彼に仰せられた。

「そのとおりだ。あなたが全き心でこのことをしたのを、わたし自身もよく知っている。それでわたしも、あなたがわたしの前に罪ある者とならないようにした。だからわたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。」(創世記20:4ー6)

アブラハムの妻を奪ったアビメレクを責めることは難しいです。なぜなら、アブラハムは嘘をついて、「サラは私の妹だ」と言っていたからです。

でも、意図的に奪おうとしたわけではなくても、アビメレクはそうしてしまい、神様に対して罪を犯しました。

神様の恵みによって、アビメレクはサラと寝て、さらに大きな罪を犯すことはありませんでした。

この話を読んだとき、私はコリント人へのパウロの言葉を思い出しました。

私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。(第一コリント4:4)

私たちは、自分の罪に気づいていないことがあります。だからこそ、詩篇19篇にあるダビデの祈りを、時々祈る必要があります。

正直に言うと、私はその祈りをもっと祈るべきです。

今日、私はそうします。

だれが、自分の過ちを悟ることができるでしょう。

どうか 隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを、傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。

そのとき私は 大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。(詩篇19:12ー13)

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創世記のデボーション

恐ろしい言葉?

わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。(創世記17:1)

その言葉を読んだとき、あなたが何を感じたかわかりませんが、私の目に留まりました。

「私は全能の主、万物の創造主、宇宙の支配者です。私の前に歩みなさい。

私から離れて、自分の道を行ってはならない。

全き者であれ。自分の罪にふけってはならない。あなたは聖なる者でなければならない。私が聖だからです。

すべてにおいて、私の真似をしなさい。私の性格の真似をし、私の価値観と心に従いなさい。」

その言葉をちょっと考えてみてください。正直なところ、一つの真理を心に留めておかなければ、私はこの言葉に圧倒されてしまうでしょう。

その真理とは?神様は私たちを愛してくださる父であるということです。

そして、神様はアブラハムと契約を結ばれたように、私たちとも契約を結ばれました。しかし、その契約は私たちの行いによるものではなく、イエス様の十字架の働きによるものです。

イエス様の働きによって、私たちは失敗しても、神様が私たちを受け入れてくださる確信を持ち、大胆に神様のみ前に進み出ることができます。(へブル4:16;10:19)

だから毎日毎日、一瞬一瞬、全き者として神様の御前に歩みましょう。そして、サタンが私たちを責めるとき、以下の言葉を覚えていましょう。

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、(イエス・キリスト)にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ(ます)。(エペソ1:4ー8)

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創世記のデボーション

私を見てくださる神

ひざまずく、のけ者にとって、あなたは見てくださる神でした。ーーマイケル・カード

天のお父さん、あなたはエル・ロイです。つまり、あなたは「私を見てくださる神」なのです。

あなたはラハイ・ロイです。つまり、あなたは、「私を見てくださる生きておられる神」なのです。

でも、あなたはただ遠くから私を観察する神ではありません。

あなたは私の名前を知っておられます。

あなたは私と私の苦しみを聞いてくださる神です。

また、あなたは私を探し、見つけてくださる神です。

まことに、主は高くあられますが、低い者を顧みてくださいます。。。

主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。

主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。(詩篇138:6,8)

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創世記のデボーション

私はあなたの盾です

アブラムよ、恐れるな。 わたしはあなたの盾である。(創世記15:1)

今日、アブラムへの神の御ことば、そして私たちへの神の御ことばを思い巡らしていました。

わたしはあなたの盾である。

あなたのお金ではなく、あなたの持ち物ではなく、あなたの力ではなく、あなたの知識や知恵ではなく、他のどんなものや人でもなく、わたしはあなたの盾である。

わたしはあなたの盾である。

「以前はわたしはあなたの盾であったが、これからはあなた自身で自分を守らなければならない」と言っているのではない。わたしはあなたの盾である。

わたしはあなたの盾である。

わたしはあなたを愛している。わたしはあなたのことを思っている。わたしの手はあなたの上にある。わたしはあなたの盾である。

わたしはあなたの盾である。

あなたの敵であるサタンがあなたを攻撃するとき、この世のものがあなたを攻撃するとき、わたしはあなたを守る。わたしはあなたにいつも忠実である。わたしの真実、わたしの忠実さはあなたの大盾である(詩篇91:4)

天のお父さん、あなたは私の盾です。だからこそ、アブラムがあなたを信じたように、私もあなたを信じることができるように助けてください。

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創世記のデボーション

祝福となる

地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。(創世記12:3)

今朝、その言葉に思いを巡らしていました。

アブラハムの子孫であるイエス様を通して、神様はアブラハムへの約束を果たしてくださいました。イエス様によって、私たち皆は祝福されているのです(ガラテヤ人への手紙3:7-14)。

しかし今日、私が初めて気づいたのは、神の民である私たち自身が、その約束の成就の一部であるということです。

つまり、イエス様によるアブラハムの霊的な子孫として、私たちはこの地のすべての人々に対する神の祝福となるべき存在なのです。

神様は私たちを通して、この世の人々に触れたいと願っておられます。そして、私たちが周囲の人々に触れることによって、神様はアブラハムへの約束を今も果たし続けておられるのです。

それは本当に素晴らしいことですね。

天のお父さん、私を通して、アブラハムへのあなたの約束を果たし続けてください。私が周囲の人々と接するとき、私があなたから彼らへの祝福となるようにしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働きのデボーション

彼らが聞き従うことになる

ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らが聞き従うことになります。(使徒の働き28:28)

天のお父さん、この国の人々は、時にユダヤ人のようです。彼らは聞いても悟ることがなく、見ても知ることがありません。彼らの心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じています。

しかし、あなたの救いは、この国の人々に送られました。あなたは「彼らが聞き従うことになります」と言われました。

だからこそ、私はこの国のために祈り続けます。

どうか、彼らの目を開き、耳を開いてください。彼らの心を柔らかくしてください。

私の家族、同僚、友人、そして周囲の人々に触れ、 彼らをあなたのもとへ導くために、私を用いてください。彼らが癒され、あなたに立ち返るようにしてください。

私は希望を失いません。あなたの約束を握り続けます。「彼らが聞き従うことになります」と。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働きのデボーション

危険信号を無視する

何日もの間、船の進みは遅く、やっとのことでクニドの沖まで来たが、風のせいでそれ以上は進めず、サルモネ沖のクレタの島陰を航行した。

そしてその岸に沿って進みながら、やっとのことで、ラサヤの町に近い「良い港」と呼ばれる場所に着いた。

かなりの時が経過し、断食の日もすでに過ぎていたため、もはや航海は危険であった。(使徒の働き27:7ー9)(使徒の働き27:7ー9)

今日の箇所を読んだとき、私たちがどれほど危険信号を無視してしまうかを思わされました。

パウロは確かに、その危険信号に気づいていました。

けれども、百人隊長も、船長も、船主も、その危険信号を無視することを選びました。その結果、彼らは命を落としかけました。

私自身にも、同じような経験があります。

何年か前、私が勤めていた英会話学校が経済的に困っていることに気づいていました。でも、その問題を無視してしまったため、学校が倒産したとき、本当に困ってしまいました。

キリストの戦士として、私たちは常に目を覚ましていなければなりません。私たちはさまざまな危険に直面します。それは肉体的な危険かもしれませんし、霊的な危険かもしれません。

だからこそ、自分の状況や敵に注意を払う必要があります。

しかし、それ以上に、私たちの将に注意を払うべきです。私たちの将とその言葉に耳を傾けるなら、多くの問題を避けることができます。

あなたはどうでしょうか。あなたが無視している危険信号はありませんか?

あなたの結婚生活における危険信号を無視していませんか?

あなたの人間関係における危険信号を無視していませんか?

あなたの心における危険信号を無視していませんか?

あなたの態度における危険信号を無視していませんか?

神よ、私を探り、私の心を知ってください。

私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23ー24)

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使徒の働きのデボーション

神に望みを抱いて

また私は、正しい者も正しくない者も復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神に対して抱いています。

そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。(使徒の働き24:15ー16)

天のお父さん、私は望みを抱いています。

つまり、死が終わりではないという望みを抱いています。復活が必ずあるという望みを抱いています。

天のお父さん、私は望みを抱いています。

裁きの日があるという望みを抱いています。あなたがすべての不義を裁いてくださるという望みを抱いています。

天のお父さん、私は望みを抱いています。

裁きの日に、私は恐れる必要がないという望みを抱いています。イエス様の血によって、私は罪に定められることが決してないという望みを抱いています。

その望みを、私は確かに抱いています。

だからこそ、恐れのためではなく、むしろ、あなたへの感謝と愛のゆえに、私はあなたの前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。

今日、私の人生があなたに喜ばれる、聖なる生きたささげものとなりますように。私の人生があなたにとって、芳しい香りとなりますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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「Stand by Me」

その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。。。」と言われた。(使徒の働き23:11)

二ヶ月前、私の中学校で「Stand by Me」という名曲を題材にした英語のレッスンがありました。

たぶん、その影響で、11節を読んだときに、その歌が思い浮かびました。

もちろん、パウロがその歌を歌っていたわけではありません。でも、その歌詞の一部は詩篇46篇に基づいているので、もしかすると、パウロはその言葉を心の中で口ずさんでいたかもしれません。

神は、われらの避け所、また力。 苦しむとき、そこにある強き助け。それゆえ、われらは恐れない。

たとえ地が変わり、山々が揺れ、海のただ中に移るとも。たとえその水が立ち騒ぎ、泡立っても、その水かさが増し、山々が揺れ動いても。(詩篇46:1ー3)

ベン・E.キングの歌詞を借りれば、

Lord, I won’t be afraid.
主よ、私は恐れません。

No, I won’t be afraid.
決して恐れません。

Just as long as you stand by me.
あなたが私のそばに立っていてくださる限り。

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使徒の働きのデボーション

 この同じ神

彼はこう言いました。「私たちの父祖の神は、あなたをお選びになりました。あなたがみこころを知り、義なる方を見、その方の口から御声を聞くようになるためです。

あなたはその方のために、すべての人に対して、見聞きしたことを証しする証人となるのです。」(使徒の働き22:14ー15)

サウロはアナニアの言葉を聞いて、どれほど驚いたことでしょうか。

「聖書では、神様について何度も読んできた。神様がアブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ、預言者たち──聖書のヒーローたちと歩まれたという話を繰り返し読んできた。

でも、その同じ神が私を選んでくださったのか?神様は私とも、そのような親しい関係を望んでおられるのだろうか。」

サウロがアナニアの言葉を最初に聞いたとき、その意味を深く考えていたかどうか、私にはわかりません。彼はきっと、他にも多くのことを考えていたでしょう。特に、イエス様について自分がどれほど間違っていたかを思い巡らしていたはずです。

でも、アナニアの言葉を読んだとき、私はこう思いました。

「聖書によれば、神様はある人々と特別な関係を持っておられた。でも、その同じ神が、私とも親しい関係を持ちたいと願っておられるのか?

みこころを知るために、神様は私を選んでくださったのか?御子を見るために、私を選んでくださったのか?神様の口から御声を聞くようになるために、私を選んでくださったのか?

そして、神様は不完全な私を、証人として用いたいと願っておられるのか?」

それは、なんと素晴らしい権利でしょうか。でも、その権利は牧師や宣教師、偉大なクリスチャンたちだけのものではありません。

その権利は、イエス様を信じる信仰によって、一人ひとりの神の子供に与えられているのです。

少し時間を取って、その権利について考えてみましょう。「私はその真理を本当に信じているだろうか?その権利が私に与えられていると信じているだろうか?」

天のお父さん、あなたは古代の書物の登場人物ではありません。あなたは昔の人々の人生の中で働いておられた神だけではありません。あなたは今も生きておられる神です。

だからこそ、私はあなたを本当に知りたいです。あの人たちがあなたを知っていたように、私もあなたを知りたいです。あなたを見たいです。あなたの御声を聞きたいです。あなたと御国のために用いられたいです。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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神の恵みのみことば

「神の恵みのみことば」、つまり「福音」という言葉を聞くと、私たちは普段、自分の救いのことだけを考えがちです。けれども、福音はそれ以上のことをしてくれます。

もちろん、福音によって私たちは救われます。しかし、パウロはエペソの人々にこう語りました。

今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。

みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。(使徒の働き20:32)

パウロによれば、福音を信じるとき、二つのことが起こります。

一つ目は、私たちは神の子供として御国を受け継ぐことです。つまり、救われるということです。けれども、それだけではありません。福音は私たちを成長させます。

原文で使われている「成長させる」という言葉には、「励ます」や「強める」というニュアンスも含まれています。

福音は私たちを一度だけ励ますものではありません。また、一度だけ強めるものでもありません。私たちには、毎日福音が必要なのです。

クリスチャンとして私たちが絶望するとき、多くの場合、その原因は神の恵みのメッセージを忘れてしまうことにあります。

私たちは、神の愛を得るために頑張る必要がないことを忘れてしまいます。

神様がすでに私たちを愛してくださっていることを忘れてしまいます。

また、神の受け入れを得るために頑張る必要がないことも忘れてしまいます。

神がすでに私たちを受け入れ、私たちのことを喜んでおられることを忘れてしまうのです。

私たちは、イエス様が私たちの罪の代価をすでに払ってくださったことを忘れてしまいます。そのため、イエス様の十字架の働きが不十分であるかのように、私たちは自分自身を責め続けてしまうのです。

だからこそ、私たちにはいつも福音のことば、福音のメッセージを思い出す必要があります。片時もそのメッセージを忘れないでください。

むしろ、毎日そのメッセージによって安心し、喜びましょう。

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権威を持つ者としての神の子

すると、悪霊が彼らに答えた。「イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。しかし、おまえたちは何者だ。」(使徒の働き19:15)

この言葉は、私の心を深く揺さぶりました。その悪霊はもちろんイエス様のことを知っていて、その権威を認めていました。

そして、パウロのことも知っていて、その権威を認めていました。なぜなら、イエス様との関係によって、また神の子供として、パウロは悪霊に対する権威を持っていたからです。

しかし、私たちクリスチャンは、神の子供としての自分の権威を理解しているでしょうか。私たちが堅く立つなら、私たちの敵であるサタンは逃げなくてはなりません。サタンには、私たちに対する力がないのです。

だからこそ、パウロは「堅く立ちなさい」と語りました(エペソ6:13〜14)。

また、ヤコブは「悪魔に対抗しなさい」と語りました(ヤコブ4:7)。

ですから、神の子供よ。神様から与えられたあなたの権威を覚えていましょう。

ヨハネはこう語りました。

子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。(第一ヨハネ4:4)

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#TBT — 素直な心

あなたは成熟したクリスチャンで、聖書をよく知っているかもしれません。

しかし、今もなお素直な心をもって、学ぶ姿勢を保っているでしょうか。

謙遜な態度をもって、自分にはまだ知らないことが多くあると認めているでしょうか。

そのような心を保つときこそ、私たちはクリスチャンとして成長し続け、神様のために実を結び続けることができるのです。

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別の王、別の王国

彼らはみな、「イエスという別の王がいる」と言って、カエサルの詔勅に背く行いをしています。(使徒の働き17:7)

この言葉は、私の心を深く打ちました。それは、この世界への私たちのメッセージだからです。つまり、私たちには別の王がいるということです。

その王は天地の主です。なぜなら、その王はすべてのものを造られたからです。 だからこそ、その王は私たちの忠誠と愛にふさわしい方です。

ある意味、悔い改めとはイエス様が誰であるかを認めることです。つまり、イエス様は私たちの王であるということです。

罪とは、私たちの人生においてイエス様の権威を拒絶することです。 悔い改めとは、イエス様の権威に服従することです。

しかし、多くの人々はイエス様の権威に服従することを恐れています。パウロとシラスのメッセージを聞いた人々は、本当に動揺していました(17:8)。

だからこそ、私たちはこのメッセージが本当に「良い知らせ」であることを、周りの人々に伝えなければなりません。

私たちの王は良い方です。私たちの王は、私たちを深く愛しておられます。そして、すべてをその王に明け渡すとき、私たちは本当のいのちと喜びを知るのです。

私自身の人生において、その真理を経験しました。私はイエス様にすべてを明け渡す喜びを経験しました。そして、その喜びをもっと深く経験したいと願っています。

私は、神様のすべての民がその喜びを知るように祈ります。

この国の人々は、良い知らせを必要としています。あなたが愛している人々も、その良い知らせを必要としています。

しかし、私たち自身がそれを本当に「良い知らせ」だと信じていないなら、どうして彼らが信じるようになるでしょうか。

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神の恵みにとどまる

「ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。

また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについて、この方によって、信じる者はみな義と認められるのです。。。」

会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちがパウロとバルナバについて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みにとどまるように説得した。(使徒の働き13:38ー39,43)

「神の恵みにとどまりなさい。」

多くのクリスチャンは、神様との関係が「神様を喜ばせるための自分の努力」によって成り立っていると誤解しています。

ユダヤ人たちも同じように考え、神の律法を守ろうと懸命に努力しました。

けれども、彼らはその律法を完全に守ることができず、罪悪感に苛まれ、神の基準に達することができないと感じていました。神様に受け入れられるためには、もっと頑張らなければならないと思い込んでいたのです。

あなたも、そう感じたことがあるかもしれません。

しかし、パウロとバルナバが語った福音はこうです── 「イエス様を信じるなら、神様はあなたを義と認めてくださる。」

その義は、あなたの努力や忠実さに基づくものではなく、イエス様の十字架の御業と、あなたに対するイエス様の忠実さに基づいています。

それこそが、私たちの希望です。

私たちが神様に忠実でない時でも、神様は変わることなく、私たちに忠実でいてくださいます。

そして、サタンが火矢を放ち、「あなたは不十分だ。神の基準には到底届かない」と責めるとき、神の忠実さこそが、その火矢をすべて消し去る私たちの盾となるのです。

パウロとバルナバは、新しく信仰に入ったクリスチャンたちに「神様に受け入れられるために、もっと頑張りなさい」とは言いませんでした。

彼らはこう語ったのです── 「あなたがたはすでに神の恵みを受けています。その恵みにとどまりなさい。その恵みに安心しなさい。そして、その恵みによって、イエス様と共に進み、歩み続けなさい。」

もしかすると、彼らはイエス様の言葉を思い起こしていたかもしれません:

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28ー30)

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苦しみを経なければならないのか

二人はこの町で福音を宣べ伝え、多くの人々を弟子としてから、リステラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返して、 弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、

「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。(使徒の働き14:21ー22)

「多くの苦しみを経なければなりません。」

私はこの言葉に思いを巡らしました。

「多くの苦しみを経なければならないのだろうか。なぜ?」

もちろん、パウロは、苦しみを経ることによって私たちが神の国に入る権利を得る、と言っているわけではありません。

しかし、もし神の国に入りたいと願うなら、ある意味で、私たちは苦しみを経なければなりません。なぜなら、この罪によって壊れた世界では、私たちは苦しみを避けることができないからです。

さらに、私たちに反対する敵がいます。つまり、サタンは私たちに敵対しているのです。

それだけではなく、苦しみは神様が私たちを精錬するために用いられるプロセスでもあります。

その苦しみを通して、神様は私たちに何が本当に大切なのかを教えてくださいます。

この世の人々の考え方とは違い、もっとも大切なことは楽な人生を送ることではありません。一番大切なことは、自分の罪にふけり、自分のために生きることではありません。

もっとも大切なことは、神様を信頼し、従うことです。その道は真のいのちに至るからです。

ペテロはこの真理をよく理解していました。彼はこう言いました。

キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。

肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。

それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。(第一ぺテロ4:1ー2)

パウロもこの真理を理解していました。彼はそれを新しいクリスチャンたちに教えただけでなく、使徒の働き14章では、その真理に従って歩みました。彼自身の人生を通して、新しいクリスチャンたちに模範を示したのです。

ペテロはこうも言いました。

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。

むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。(第一ぺテロ4:12ー13)

それは勇士の心です。

私の教会では、私たちはほとんど(決して?)歌いませんが、私はこの「Amazing Grace」の歌詞が大好きです。

“Through many dangers, toils, and snares, I have already come;
いろんな危険や、苦労や、罠を乗り越え、私はすでにたどり着きました。

‘Tis grace hath brought me safe thus far,
恵みは私をここまで無事に導いてくださいました。

And grace will lead me home.”
そして、恵みは私を主の家に導いてくださいます。

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より高い力に訴える

こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。(使徒の働き12:5)

一方では、ヘロデの力によって、ペテロは捕らえられ、牢に閉じ込められていました。

他方では、教会はより高い力に訴えました。

それは覚えておく価値があります。

私たちは、自分たちより強い力に直面することが多くあります。そして、その力は私たちに敵対的なものです。

それは霊的な力かもしれません。あるいは、地上の力かもしれません。

けれども、どんな力に直面しても、神の子どもとして、私たちはより高い力に訴える権利を持っています。

その権利を用いて、教会がペテロのために熱心に祈ったように、私たちも熱心に祈りましょう。

そして、神様がどのように答えられるとしても、神様が忠実な方であることを覚えておきましょう。

神様は忠実な方で、ペテロをヘロデの手から救い出してくださいました。

しかし、神様はヤコブに対しても忠実でした。ヘロデはヤコブのからだを殺しましたが、ヤコブのたましいを殺すことはできませんでした。(マタイ10:28ー31)

そして、神様は忠実で、ヤコブを天国に導き、歓迎してくださいました。

いと高き方の隠れ場に住む者、その人は、全能者の陰に宿る。。。

主は、ご自分の羽であなたをおおい、あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は大盾、また砦。(詩篇91:1,4)

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あなたの使命を受け継ぐ

あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事柄をご存じです。それは、ナザレのイエスのことです。

神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。

イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。(使徒の働き10:37ー38)

イエス様、あなたの足跡をたどり、あなたから与えられた使命を続けたいです。

私の周りでは、たくさんの人々が悪魔に虐げられ、苦しんでいます。彼らは自由にされる必要があります。

あなたが命じられたように、私があなたの福音を彼らに伝えることができるよう助けてください。

その福音とは、天の父があなたを生きている者と死んだ者のさばき主として定められたということです。しかし、あなたを信じる者はだれでも、さばきの日だけでなく、今この時にも、あなたの御名によって罪の赦しを知るのです。

ですから、私に御霊と力によって油を注いでください。あなたがなさったように、私も良いわざを行いたいです。

私を通して、悪魔に虐げられている人たちが霊的な癒しを知ることができますように。

そして、私だけでなく、あなたの教会全体、あなたの民すべてが、この国を変革する力となりますように。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働きのデボーション

主とその弟子たち

さて、ダマスコにアナニアという名の弟子がいた。主が幻の中で「アナニアよ」と言われたので、彼は「主よ、ここにおります」と答えた。(使徒の働き9:10)

私にとって驚くべきことは、イエス様には何億人もの弟子たちがいるけれど、一人一人の名前を知っておられるということです。イエス様は私たちを大切にしておられるので、私たちの名前をよく知っておられるのです。

アナニアはまったく有名なクリスチャンではありませんでした。22章では、パウロが証しを語ったときにアナニアの名前に言及しますが、それ以外に聖書には彼の名前は登場しません。

それでも、イエス様はアナニアを知っておられ、名前を呼ばれました。

私の心を打ったもう一つのことは、イエス様に対するアナニアの態度です。イエス様がアナニアを呼ばれたとき、アナニアはすぐに答えました。「主よ、ここにおります。」

アナニアはいつもイエス様の声に耳を傾けていました。

彼はイエス様の命令が理解できないときもありましたが、最終的には「はい、従います」と答えて従いました。

私はそのような弟子になりたいです。私の耳をいつも主に傾け、「はい、従います」という態度を取りたいのです。

あなたはどうですか。

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使徒の働きのデボーション

神の目にかなった、美しい子

モーセが生まれたのは、このような時でした。彼は神の目にかなった、かわいい子。。。(使徒の働き7:20)

「彼は神の目にかなった、かわいい子です。」

「かわいい」、または、「美しい」という言葉は新約聖書には二回だけ登場します。どちらの箇所も、モーセに関する記述です。

おそらく、著者たちは旧約聖書のギリシャ語訳を用いて、出エジプト記を引用したのでしょう。出エジプト記2章2節には、モーセの両親が彼を「美しい子」だと見たことが記されています。

もちろん、多くの親は自分の子どもを「かわいい」「美しい」と感じるでしょう。

しかし、ルカによれば、神様もモーセをそのように見ておられました。

とはいえ、神様はモーセの外見だけをご覧になっていたわけではないでしょう。神様は、愛と恵みのまなざしでモーセをご覧になっていたのだと思います。

神様はモーセのすべてをご存じでした。神様はモーセの弱さと劣等感をよく知っておられました。(出エジプト記4:10)

神様はモーセの短気を知っておられました。神様は、モーセが人を殺すことさえ知っておられました。(出エジプト記2:12)

それでも、神様は「この子は美しい」と言っておられました。

私にとって驚くべきことは、神様が私の弱さと失敗と罪を見て、それでも「あなたを選ぶ。あなたは私の目には美しい子です」と言われることです。

それは、恵みに満ちたまなざしです。

それは私たちの天のお父さんの目です。

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私たちの(良い)主に従う

主よ。あなたは天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた方です。(使徒の働き4:24)

「主よ」。

初期のクリスチャンたちは神様を「主」と呼びましたが、通常はギリシャ語の「クリオス」を使いました。

けれども、この場合、彼らは別の言葉を使いました。それは「デスポテース」という言葉です。

「デスポテース」という言葉は、神様の支配の権利と力を強調します。

残念なことですが、多くの人々は神の支配の権利と力を認めることを拒みます。

ダビデの時代でも、ペテロの時代でも、今でも、人々は神様の支配に抵抗します。(25ー27)

しかし、ペテロとほかのクリスチャンたちは神様を自分の主として認めました。だから彼らは喜んで神様に従いました。(19ー20)

なぜ彼らは喜んで従うことができたのでしょうか。それは、彼らが神様が良い方であることを認めたからです。

興味深いことですが、英語の「despot」、つまり「暴君」という言葉は「デスポテース」に由来します。

けれども、神様は暴君どころか、私たちを愛している創造主であり、天の父です。

神様、あなたは私の主です。あなたは良い主です。あなたはいつくしみ深い主です。

この世は時に乱れているように見えますが、あなたがすべてを支配しておられることを信じます。

また、あなたが私の最善を望むことを信じます。

あなたは私の信頼と服従にふさわしい方です。だから主よ、私は喜んであなたにすべてを明け渡します。

あなたに喜んで従います。あなたを愛しています。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働きのデボーション

周りの人々に気づく

ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめ(ました)。(使徒の働き3:4)

上の言葉は私の目に留まりました。

ペテロとヨハネは、その足の不自由な人を無視し、こう言うことができました。「私たちは神様を礼拝するために、宮に行っているところなのだ。しかも、お金を持っていないから、しょうがない。宮に行こう。」

でも、その代わりに、彼らは止まってその人を見つめました。そして、彼らが持っているものをその人に与えました。

私はその点で、まだ成長すべきです。つまり、私は周りの人々にもっと気づくべきです。彼らのニーズに気づくべきです。

そして、すぐに「私は与えられるものを持っていない」と言わずに、できる限りのことをすべきです。神様はその点で私の心の中に働いています。

私が思っている以上に、神様は私を用いたいでしょう。

あなたが思っている以上に、神様はあなたを用いたいでしょう。

天のお父さん、あなたが私の行く手に置いてくださる人々に私が気づくように。そして、あなたが私に惜しみ無く与えてくださったように、私も惜しむなく周りの人々に与え、あなたの愛で彼らに触れるように。

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使徒の働きのデボーション

喜びに特徴つけられる

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。(使徒の働き2:28)

ペテロが引用したダビデの言葉は私の心を打ちました。

私たちはダビデの確信を持ち、「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、必ず私を喜びで満たしてくださいます」と言えるでしょうか。

その言葉を本当に信じれば、私たちにとってクリスチャン生活は喜びになります。

み言葉や祈りやクリスチャンの交わりは単なる義務ではなく、私たちを喜びで満たすものになります。

そして、私たちの周りの人々は必ず気づくでしょう。(46-47節)

天のお父さん、イエス様を通して、あなたは私にいのちの道を知らせてくださいました。あなたの御前で、あなたは必ず私を喜びで満たしてくださいます。

周りの人々が私の喜びに気づいてあなたに引き寄せられるほど、私の人生が喜びに特徴つけられますように。

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使徒の働きのデボーション

イエス様がもう一度来られるまで

「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。

あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。(使徒の働き1:11)

数年前、私はこの箇所についてブログの記事を書きました。その記事をこちらで読むことができます。

今日、この箇所を読むとき、御使いの言葉は以前と同じように私の心を打ちましたから、私はこう祈りました。

イエス様、この壊れた世界にあって、御使いの言葉は私の希望です。ある日、あなたはもう一度この世に来られます。そして、あなたはすべてを新しくしてくださいます。

でも、その間に、あなたは私に役割を与えてくださいました。

だから、あなたの御霊で私を満たしてください。そして、あなたがもう一度来られるその日まで、私が忠実にあなたに与えられた役割を果たすことができますように。

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ルカの福音書のデボーション

愚か者で、心が鈍い

そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。(ルカの福音書24:25)

イエス様、その二人の弟子たちのように、私は愚かで、心が鈍いために、預言者たちの言ったことだけではなく、あなたの言ったことを信じられない時がどれほど多いでしょうか。

私は愚かで、心が鈍いために、すぐに落ち込み、絶望する時がどれほど多いでしょうか。

私は愚かで、心が鈍いために、この世界で、私の中であなたが何をしようとしているのか分からない時がどれほど多いでしょうか。

私は愚かで、心が鈍いために、あなたを信頼せず、愚かな決断をする時がどれほど多いでしょうか。

赦してください。

イエス様、私の目を開いてください。私に悟りを与えてください。あなたの言葉によって、私の心が内で燃えて、希望といのちと平和と喜びが湧き上がるように。

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ルカの福音書のデボーション

私たちがつまずくとき

シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。

しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。

ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカの福音書22:31ー32)

ペテロは大失敗してしまいました。22章の最後では、イエス様の目の前で、ペテロは「イエス様を知らない」と言っていました。

でも、私たち皆が大失敗する時があります。私たち皆がイエス様を失望させる時もあります。

では、私たちはどうやって立ち直ることができるでしょうか。

イエス様の言葉を思い起こすべきです。

つまり、イエス様はあなたのために祈っているということです。イエス様は私たちを見限っているわけではありません。今なお、イエス様は私たちのためにとりなしてくださっているのです。

だから、イエス様のもとに戻りましょう。

そして、他のつまずいてしまった人たちを見たら、彼らを力づけてやりましょう。彼らに言いましょう。

「私はあなたに共感できます。私も失敗することがあります。でも、イエス様は私を赦してくださいました。あなたをも赦してくださいます。だから、一緒にイエス様のもとに戻りましょう。」

サタンの気に入った嘘は、「あなただけだよ。あなただけがこのように失敗するよ」ということです。

でも、現実は、もっとも偉いクリスチャンでも大失敗することがあるということです。

真理は、イエス様が私たちを見限ることはないということです。今でも、イエス様は私たちのために祈っていて、待っていてくださるのです。

だから、互いにその真理を思い起こし、励まし合いましょう。

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主よ、私の目が見えるようにしてください

弟子たちには、(イエスが言われたこと)が何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。(ルカの福音書18:34)

(目の見えない人)が近くに来ると、イエスはお尋ねになった。「わたしに何をしてほしいのですか。」

するとその人は答えた。「主よ、目が見えるようにしてください。」(40ー41節)

イエス様、どれだけあなたは私に大切なこと、私が聞かなくてはならないことを伝えたいと思っておられるでしょうか。でも、弟子たちと同じように、私にはその言葉が隠されていて、理解できないのでしょうか。

私は霊的に盲目になりたくありません。どうか、私の目が見えるようにしてください。あなたが言わんとしていることを理解できるように、私の心の目を開いてください。

あなたが私に言わんとしていることを理解し、受け入れることを妨げるものを、私の心から取り除いてください。

パリサイ人のプライドを、私の心から取り除いてください。

すべてをあなたに開け渡そうとしない指導者の態度を、私の心から取り除いてください。

主よ、あなたにすべてを開け渡すことには、喜びがあります。あなたに従うことには、喜びがあります。

目が見えない人は、その喜びを知りました。

私も、その喜びを知るように。

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自分自身に気をつけなさい

イエスは弟子たちに言われた。

「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。

その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。

あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。

一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。」(ルカの福音書17:1ー4)

「あなたがたは、自分自身に気をつけなさい」という言葉は、その前の言葉に繋がっているでしょうか。もしかすると、そのあとの言葉に繋がっているでしょうか。答えは少し微妙です。

(新約聖書の節番号は、西暦1555年に発明されたことをご存じでしたか。)

とにかく、「あなたがたは、自分自身に気をつけなさい」という言葉は、どちらにも繋がると考えるのが理にかなっています。

1ー2節を読むと、いつも身に染みます。今朝、私は祈りました。

「天のお父さん、私はつまずきをもたらす者になりたくありません。私のせいで妻と娘がつまずかないように。私のせいで同僚たちと生徒たちがつまずかないように。私のせいで教会の兄弟たちと姉妹たちがつまずかないように。」

でも、もう一つのことに関して、私たちは自分自身に気をつけなければなりません。

私たちは傷ついたとき、苦々しい思いに気をつけなければなりません。私たちは相手への怒りを心にずっと抱いてはいけません。むしろ、私たちはすぐに相手と話さなくてはなりません。その目的は、単に怒りをぶつけることではなく、和解を求めることです。

でも、相手が悔い改めても、悔い改めなくても、私たちは許すべきです。それは相手の益のためではなく、私たちの益のためです。

相手を許さないと、苦々しい思いは私たちの心を蝕んでしまいます。だから、そういう意味でも、私たちは自分自身に気をつけなければなりません。

神よ、私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23ー24)

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私たちが入ろうとしないとき

すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。(ルカの福音書15:28節)

上の言葉に私は心打たれました。

放蕩息子の話を読むとき、私たちはたいてい次男に注目します。

でも、この話に登場する父親は、次男だけではなく、長男をも愛していました。

だから、長男が愚かな態度を取り、苦々しい思いを抱いて、家に入ろうとしないと、父親はその息子のところに行きました。

私たちは、どれだけ長男のように振る舞うでしょうか。

自分の問題のため、あるいは神様に不当に扱われていると感じるために、私たちは愚かな態度を取り、苦々しい思いを抱いて、神様のもとに来ようとしません。

でも、私たちが入ろうとしないとき、神様は出て来ます。神様は私たちを救われたとき、そのような恵みを与えてくださったし、今なお、その同じ恵みを与えてくださいます。

詩人アサフも、そのような恵みを受けて、こう書きました。

私の心が苦みに満ち 私の内なる思いが突き刺されたとき、私は愚かで考えもなく、あなたの前で、獣のようでした。

しかし、私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手を、しっかりとつかんでくださいました。

あなたは、私を諭して導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいます。(詩篇73:21ー24)