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マタイの福音書のデボーション

私たちの王を見上げると

わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。(マタイ20:18~19)

「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」

私はこのことばを思いめぐらしていました。イエス様は何を言われていたのでしょうか。

「私は王です。」

だからこそ、私たちはすべてにおいてイエス様の命じられたことに従い、人々にもそのように教えるべきです。

しかし、私たちはこの王をどのように見なすのでしょうか。

力をふるって人を押さえつける方でしょうか。恐ろしい方でしょうか。

興味深いことに、女性たちは墓から立ち去ったとき、喜びを抱きながらも、同時に恐れもありました。なぜ恐れていたのかは分かりませんが、イエス様が彼女たちに現れたとき、最初に言われたことばは何だったでしょうか。

「恐れることはありません。」(マタイの福音書28:10)

そして、彼女たちの恐れは消え去り、大きな喜びだけが残りました。

なぜなら、この王は恐れるべき方、すなわち私たちの敬いと従順のすべてにふさわしい方でありながら、良い王だからです。そして、この良い王は私たちを深く愛しておられます。

今朝、私はたまたま詩篇47篇も読みましたが、その詩篇は王に対する私たちのあるべき態度を美しく表現しています。それはあなたの態度でしょうか。

すべての国々の民よ、手をたたけ。
喜びの声をもって神に大声で叫べ。

まことにいと高き方【主】は恐るべき方。
全地を治める大いなる王。(詩篇47:1~2)

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あなたの血は私の上にある

すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」(マタイの福音書27:25)

イエス様、あなたの血は私の上にあり、私の責任です。私の罪のためにあなたは死なれました。

けれども、あなたの血は私の上にあり、私の心に振りかけられて、邪悪な良心をきよめてくださいました。(ヘブル書9:22~23;10:22~23)

あなたの十字架のゆえに、私を天の父から隔てていた神殿の幕が裂かれました。 今や、私は恐れず、大胆に天の父、またあなたの御前に進み出て、近づくことができます。

イエス様、あなたの血が私の上にあることを感謝します。

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イエス様が杯を飲み干されたから

イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。(マタイの福音書26:42)

このイエス様のことばを読んだとき、私は過越の祭りの意味を思いめぐらしていました。

神様がエジプトを訪れられたとき、その裁きと御怒りはイスラエルの民を過ぎ越しました。

しかし、イエス様が認めておられたのは、神の裁きと御怒りの杯は、ご自身をただ過ぎ去ることはできないということでした。

なぜでしょうか。

イエス様は罪のない方でした。なのに、なぜその杯を飲まなければならなかったのでしょうか。

それは、本来なら私たちがその杯を飲まなければならなかったからです。私たちは神様の裁きと御怒りにふさわしい罪人だからです。

神の裁きと御怒りが私たちを過ぎ越す理由は、まさに十字架でイエス様がそれらを薄められることなく飲み干してくださったからなのです。

それを思うとき、本当に不思議で、深い恵みだと感じます。

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兄弟姉妹を愛すること

王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』(マタイの福音書25:40)

この箇所を読むと、多くの人々は、この世で悩んでいる人々――貧しい者、病気の者、飢えている者、牢に入っている者――に手を差し伸べるべきだと考えます。

もちろん、それは正しいことです。

しかし、この箇所でイエス様が語っておられるのは、すべての悩んでいる人々のことではありません。

イエス様はこう言われました。

あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。(40)

少し考えてみてください。「わたしの兄弟たち」とは誰でしょうか。イエス様は誰について語っておられるのでしょうか。(マタイ12:50、28:10、ヨハネ20:17)

マタイ10:40、42や使徒の働き9:1、4-5も読んでみてください。

「わたしの兄弟たち」と語られるとき、イエス様はご自身に従う者たちのことを指しておられるのです。

本当のイエス様の弟子の特徴の一つは、兄弟姉妹に対する愛です。もし私たちがそのような愛を持っていないなら、私たちの信仰は疑わしいものです。

だからこそ、ヨハネはこう言いました。

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。(第一ヨハネ4:20-21)

私たちは兄弟姉妹をどのように扱っているでしょうか。兄弟姉妹に対する私たちの態度は、神様への愛について何を示しているのでしょうか。

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最も大切なこととは

イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。

すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」(マタイの福音書24:1~2)

今朝、ユダヤ人たちが神殿、特にその美しさをどれほど誇っていたのかを思い巡らしていました。

けれども、その神殿は最終的に滅びました。なぜでしょうか。それは、ユダヤ人たちがご自身の主を拒んだからです。(マタイの福音書23:29~39)

そして、私はこのように思わされました。

「私の実績は何の上に建てられているのだろうか。私が誇ってきたもの、それらはキリストという土台の上に建てられているのだろうか。つまり、私の人生の土台は『イエス様は私の主』ということなのだろうか。私が愛し、喜ばせたいと願うお方はイエス様なのだろうか。」

イエス様、私がしていることのすべては「あなたが主」という土台に建てられますように。私の人生はあなたのものであり、あなたを愛しています。どうか、私が忠実なしもべとなり、毎日あなたが委ねられたことを行う者となりますように。

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神のもの

イエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像と銘ですか。」

彼らは「カエサルのです」と言った。そのときイエスは言われた。「それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」(マタイの福音書22:20~21)

このイエス様のことばを読んだとき、私たちが鏡をのぞくときにも、イエス様が同じ問いを投げかけられるのではないかと、私は思いました。

つまり、「これはだれの肖像であり、だれの銘なのか」という問いです。

その答えは、「神のもの」です。

神様は私たちを造られたとき、ご自身の肖像を私たちに刻みつけ、「主の聖なるもの」としての印を私たちの心に刻んでおられました。

詩人が記したように、

知れ。【主】こそ神。
主が私たちを造られた。
私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。 (詩篇100:3)

だからこそ、私たちは神のものを神に返さなければなりません。

特に、心のすべて、いのちのすべて、知性のすべて、力のすべてを神様にささげなければなりません。(マタイ23:37;マルコ12:30)

さらに、神様が求められる実をささげなければなりません。 すなわち、正義とあわれみと誠実という実です。 (マタイ23:23)

今日、私は自分がどれほど失敗しているかを思わされました。 パリサイ人や律法学者のように、私は語ることを実行しないことが多いのです。

私はそのように歩みたくありません。

神様はご自身の肖像を私に刻み、ご自身のすばらしい御名を私の心に刻んでおられます。

神様が私に刻んでくださったその肖像と刻印にふさわしく歩みたいと願います。

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喜んでついていく?ふさわしい報酬を求める?

そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』

彼らは出かけて行った。 (マタイの福音書20:4~5)

家の主人は最初の労働者たちにも同じことを言ったのでしょうか。

その労働者たちは、「いや、私たちは自分たちがふさわしいと思う報酬を求めます」と言い張ったのでしょうか。

たぶんそうだったのでしょう。

ペテロも同じような考え方を持っていたようです。(マタイの福音書19:27)

ヤコブとヨハネも同じでした。(マタイの福音書20:21)

一方で、癒された盲人たちは、イエス様の良さを味わい、ふさわしい報酬を求めることなく、喜んでイエス様について行きました。(マタイの福音書20:35)

多くの主人たちは、後者の労働者たちと同じような契約を結んだなら、彼らを酷使したことでしょう。(マタイの福音書20:4~7)

しかし、この主人は気前がよく、良い主人でした。(15節の「気前がいい」という表現は、通常「良い」と訳されます。)

だから、私が自問しているのはこうです。「私はどのような神に仕えていると思っているのだろうか。」

神様が気前よく、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて与えてくださる方だと、本当に思っているのだろうか。

癒された盲人たちのように、私は神様の良さを味わい、喜んでイエス様について行くのだろうか。

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子どもの心

イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。(マタイの福音書19:8)

天のお父さん、私が単に「何が許されているのか」に基づいて決断することがないようにしてください。

特に、私の心の頑なさのゆえに、あなたが最善だと言われることを拒んでしまうときです。

どうか私に子どもの心――柔らかい心、あなたを信じる心――を与えてください。

「何が許されているのか」と尋ねるのではなく、むしろ「私の良いお父さんが何を願っておられるのか」と尋ねる者としてください。

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私たちの優しい王

彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。

弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。

するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。 (マタイの福音書17:5~7)

私はペテロのことを考えていました。天の父のみ声を聞いたとき、彼はどれほど恐れたことでしょうか。その少し前、彼はイエス様をいさめようとしたばかりだったからです。(マタイの福音書16:22)

天の父は彼らにはっきりと言われました。「こちらは私の愛する子、私の喜ぶ者である。だから、彼の言うことに反対してはならない。彼の言うことを聞け。」

しかしその後、イエス様は柔和をもって、彼らに触れてくださいました。

主よ、あなたは聖なる方、大いなる方であり、私の従順を受けるにふさわしいお方です。それでも、あなたは私に対して本当に優しいお方です。そのことを感謝します。

主よ、私はあなたを愛し、あなたを喜びます。 あなたの言われることを聞き、従います。

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薄い信仰、立派な信仰

そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。(マタイの福音書15:28)

イエス様がカナン人の女性をほめられたとき、弟子たちはどう感じていたでしょうか。

弟子たちは彼女を追い出そうとしましたが、結局イエス様は彼女の願いをかなえてくださいました。さらに、イエス様は彼女にこう言われました。「ああ、あなたの信仰は立派です。」

弟子たちはそれを聞いて、きっと少し恥ずかしく感じたでしょう。彼らがその女性を追い出そうとしたからだけでなく、イエス様が何度も弟子たちに「あなたたちは信仰の薄い人たちだ」と言われていたからです。マタイ14章と16章を見ると、そのことが分かります。

一方で、イエス様はこの女性に「あなたの信仰は立派だ」と言われました。

では、なぜイエス様はそう言われたのでしょうか。

それは、最初イエス様が彼女を無視し、娘を助けてくださらないかのようにふるまわれたにもかかわらず、彼女はなおイエス様を信じ続けたからです。

つまり、彼女はイエス様が良い方であることを信じ続け、イエス様が娘を助けてくださると信じ続けたのです。

この話を読むと、私はルカ18章にあるイエス様のたとえ話を思い起こします。

そのたとえでは、あるやもめが堕落した裁判官に正義を願い求めました。裁判官は最初、彼女を助けようとしませんでしたが、彼女がしつこく願い続けたので、ついに助けてくれました。

イエス様はその裁判官を天の父と対比されました。

時には、天の父は私たちの祈りにすぐ答えてくださらないことがあります。また、神様が私たちを愛しておられないように見えることもあります。

けれども、私たちはあきらめずに祈るべきなのです。

そしてイエス様は私たちに問いかけられます。

人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。(ルカ18:8)

私たちが嵐に直面するとき、イエス様は信仰を見られるでしょうか。

サタンが私たちを攻撃するとき、イエス様は信仰を見られるでしょうか。

私たちが必要に迫られるとき、イエス様は信仰を見られるでしょうか。

私たちが不正に直面するとき、イエス様は信仰を見られるでしょうか。

イエス様が私たちをご覧になるとき、「ああ、あなたの信仰は立派です」と言ってくださるように。

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神のみことばを無にしてしまう?

こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました。(マタイの福音書15:6)

イエス様、あなたは私の主です。

だからこそ、私が誰のためでも、何のためでも、あなたのみことばを決して無にしないようにしてください。

罪のためでもありません。

私の感情、欲望、夢のためでもありません。

人間の伝統や思想、文化的な伝統、宗教的な伝統、政治的な伝統のためでもありません。

私があなたのみことばを決して変えようとしないようにしてください。

むしろ、あなたのみことばが私を変えるようにしてください。

あなたが私の主だからです。そして、あなたは良い主なのです。

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みことばが分からないとき

だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。(マタイの福音書13:19)

すると弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。(マタイの福音書13:36)

みことばが分からないとき、私たちはどうするでしょうか。

ただ「分からない」と言って脇へ置き、実を結ばないまま、サタンがそのみことばを私たちの心から奪うのを許してしまうでしょうか。

それとも、イエス様の弟子たちのように、みことばを切実に理解したいと願い、へりくだって積極的に「説明してください」と尋ねるでしょうか。

主よ、どうか私に弟子の心を与えてください。私が理解を求め、実を結ぶ者となるようにしてください。

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言葉づかいに注意すること以上に

木を良いとし、その実も良いとするか、木を悪いとし、その実も悪いとするか、どちらかです。木の良し悪しはその実によって分かります。。。

心に満ちていることを口が話すのです。(マタイの福音書12:33~34)

私は、いつも自分の言葉づかいに注意しようとします。口から出る言葉に気を付けようと努めています。

けれども、今日イエス様の言葉を読んだとき、気付かされたのは、言葉づかいに注意すること以上に、自分の心を探ることが大切だということでした。つまり、私の心は霊的に健全なのでしょうか。

もし心が健全であるなら、私の言葉も健全で、いのちを与えるものとなるでしょう。

しかし、もし心の中に腐ったものが残っているなら、腐った言葉が私の口から出てしまいます。

だから今日、私はこのように祈っています。

主よ、私の心を探ってください。あなたは私の心をよく知っておられます。まだ残っている腐ったものを根絶やしにしてください。

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羊飼いの招きに応える

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。 (マタイの福音書11:28~30)

それは、私たちへの良い羊飼いの招きです。

バプテスマのヨハネのように、私たちが霊的に疲れているとき。

神様が遠く感じられ、また、私たちの期待どおりになさらないゆえに失望するとき。

試練のゆえに、耐えられない重荷を抱えているとき。

ちょうどマタイの福音書を読む直前、私は詩篇143篇を思い巡らしていました。ダビデの言葉は、イエス様の招きに対するふさわしい応答だと思います。

あなたも、その良い羊飼いの招きに、同じように応えますように。

朝にあなたの恵みを聞かせてください。
私はあなたに信頼していますから。

行くべき道を知らせてください。
私のたましいはあなたを仰いでいますから。

【主】よ私を敵から救い出してください。
私はあなたのうちに身を隠します。

あなたのみこころを行うことを教えてください。
あなたは私の神であられますから。

あなたのいつくしみ深い霊が
平らな地に私を導いてくださいますように。(詩篇143:8~10)

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新しいことを抱く心

それから、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と言った。(マタイの福音書9:14)

今朝、私はヨハネの弟子たちについて考えていました。なぜ彼らは、まだヨハネに従い続けていたのでしょうか。

ヨハネは牢に入れられ、自分の奉仕は終わりました。

その一方で、ヨハネが指し示していたイエス様の奉仕はすでに始まっていました。それなのに、どうしてイエス様とその道に従わず、ヨハネとその道にしがみついていたのでしょうか。

神様は新しいことをなさっていました。(マタイの福音書3:11)

けれども、ヨハネの弟子たちの心はそれに向いていませんでした。古い布や古い皮袋のように、彼らの心は柔軟さを失っていて、新しいものを受け入れることができませんでした。

ある弟子たちは、イエス様が死なれ、復活されてから何年も後になっても、心はそのままでした。(使徒の働き19:1~7)

私はそのように生きたくありません。しかし、私の心の中にも、その傾向を見ることができます。慣れたこと、心地よいことを好み、すぐに新しいことを抱くことができないのです。

イエス様は、私をヨハネの弟子たちのように戒められるでしょうか。

イエス様、あなたがなさっている新しいことに対して、私が柔らかい心を保つことができるようにしてください。

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おことばを下さい

私も権威の下にある者だからです。(マタイの福音書8:9)

主よ、百人隊長はあなたの権威を認めました。

あなたの弟子たちもあなたの権威を認めましたが、その権威がどれほど及ぶのか、まだ学んでいる途中でした。(マタイの福音書8:27)

その一方で、悪霊やガダラ人たちは、あなたの権威と全く関わりたくありませんでした。(マタイの福音書8:29、34)

けれども、私はあなたが良い王であることを信じています。私の人生にあなたの支配を歓迎します。

だからこそ、おことばをください。私は従います。

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みことばを真珠と見なしているだろうか

求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。 (マタイの福音書7:7~8)

そのことばを読んだとき、私はヤコブのことばを思い起こしました。

あなたがたのうちのだれかが知恵に欠けているなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。(ヤコブの手紙1:5)

そして、私はこのように考えました。

神の導きと知恵を求めるとき、私はそのみことばを良い贈り物、完全な賜物、いのちを与えるものと見なしているでしょうか。(ヤコブの手紙1:17~18)

それとも、石や蛇のように見なしてしまうことがあるでしょうか。(マタイの福音書7:9~10)

私の天のお父さんが良い方であり、そのみことばが真珠のように尊ぶべきもの、従うべきものだと信じているでしょうか。

それとも、豚のように、そのみことばを踏みつけてしまうことがあるでしょうか。(マタイの福音書7:6)

二心の者でありたくありません。神様に知恵を求めながら、そのみことばの良さを疑いたくありません。(ヤコブの手紙1:6~7)

私は神の戒めの理由が完全に分からないにもかかわらず、私の良い王に信頼し、従いたいと願っています。

私の良い王よ、すべてにおいて、あなたを信頼することができるように助けてください。いのちを与えるあなたのみことばの上に、私の人生を築くことができるようにしてください。

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私の心の王

しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。

地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。 (マタイの福音書5:34~35)

「偉大な王。」

なぜか、その言葉が私の心に響いています。

イエス様は偉大な王です。

けれども、私は毎日毎日、一瞬一瞬、本当にそのようにイエス様を見ているでしょうか。

それとも、イエス様を軽く見てしまうことがあるでしょうか。

パリサイ人たちや律法学者たちが、結婚や真実さ、人を愛することに関して抜け道を探したように、私もイエス様が語られることを避けようとすることがあるのでしょうか。

最近、神様は私に趣味について語っておられます。つまり、私はそれをやりすぎているということです。

私はその注意を完全に無視しているわけではありませんが、完全に従っているわけでもありません。

それは「小さいこと」に見えるかもしれません。

けれども、イエス様は偉大な王です。だから、私はイエス様を軽く見たくないのです。

あなたはどうでしょうか。

主イエスよ、すべてにおいて、私の心の王となってください。

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私が光となるように

闇の中に住んでいた民は
大きな光を見る。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に
光が昇る。(マタイの福音書4:16)

主よ、あなたは世の光です。しかし、あなたは私も世の光となるように召しておられます。

この世の人々は、恐れと怒りに支配されています。その恐れと怒りがよく分かります。

けれども、もし私自身が恐れと怒りに支配されているなら、私は光となることができません。どうか、周囲の人々が私を見るとき、恐れや怒りではなく、喜びを見ることができるようにしてください。

真の王がすでに来られたという喜び。

その御国がすでに始まっているという喜び。

そして、私が今やその御国に属しているという喜び。

私が御国の子どもとして生きることができるようにしてください。

私が毎日、あなたの口から出る一つ一つのことばによって生き、あなたを完全に信頼し、喜びをもってあなたに仕えることができるように助けてください。

そして、周囲の人々がその喜びを知るために、人間をとる漁師として私を用いてください。

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悔い改め以上

私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。。。

その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。(マタイの福音書3:11)

今朝、私はその言葉を思い巡らしました。

もちろん、神様は私たちの悔い改めを願っておられます。

しかし、神様はそれだけではなく、私たちの内側でさらに深いことをなさろうと願っておられます。

つまり、精錬する者の火で私たちを清め、御霊の力と臨在で私たちを満たそうとしておられるのです。(マラキ書3:2~3;使徒の働き1:8)

この世は本当に壊れています。

私の内にも、まだ壊れた部分があります。

けれども、私がひびのある器であっても、神様は私を通してこの壊れた世に触れたいと願っておられることを信じます。

だから今日、神様がそのように働いてくださるように祈っています。

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王を受け入れる

今日の話を読んだとき、マリアとヨセフに語られたシメオンの言葉を思い起こしました。

ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。

あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。(ルカの福音書2:34-35)

「多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」

祭司長たちや律法学者たちの心は、確かにあらわになりました。

彼らはきっと、メシアが生まれたという噂を聞いたはずです。(マタイの福音書2:3)

それでも、彼らはメシアを探そうと全く考えなかったようです。私は、彼らが何を考えていたのか全く理解できません。

もちろん、ヘロデ王は自分の王位への脅威を殺そうとしました。

その一方で、博士たちはイエス様を礼拝するために来ました。

今なお、イエス様によって、人々の思いはあらわになります。

多くの人々は、飼葉桶に寝ている赤ちゃんとしてのイエス様を見ても、全く動じていません。

しかし、イエス様が王であることを主張すると、彼らの心はあらわになります。

それを即座に否定する人が多いです。

敵対する人もいます。

一方で、ある人々は礼拝し、従います。

あなたはどうでしょうか。

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素直な心

ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れた。。。(マタイの福音書1:24)

今朝、主の御言葉に対するヨセフの反応を考えていました。

疑うことなく、異議を唱えず、ためらうこともありませんでした。

むしろ、完全に素直な心でした。

それを読んで、ソロモンへのダビデの戒めを思い起こしました。「あなたは強く、男らしくありなさい。主の御言葉に従いなさい。」(列王記第一2:2〜3)

言い換えると、真の男は余すところなく主に従うのです。

ヨセフはそのような男性でした。

私もそのような男性になりたいと願っています。

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不安な時

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。

「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28:18~20)

正直に言うと、今日、私は世界で起こっていることを考えると、心配に陥らないようにするのは難しかったのです。

でも、今日、イエス様は私に思い出させてくださいました。

「すべての権威がアバから私に与えられています。私は今もすべてを治めており、永遠にわたって治めるのです。

もちろん、この世はだんだん崩壊しており、やがては消え去ります。でも、私は再びこの世に来て、すべてを新しくします(第二ペテロ3:10~13)。

だから、その日が来るまで、心配してはなりません。私はあなたと共にいるから。」

この先、この世がどんなに狂っても、私たちの希望は変わりません。だから、将来に関する恐れや心配を捨て、神様が与えてくださった働きを忠実に果たしましょう。神の国のために、弟子を育てましょう。

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これはわたしの血

また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。

「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。(マタイの福音書26:27~28)

イエス様の復活の後、聖餐式を受けるたびに、ペテロはイエス様の言葉の意味をどれほど深く感じたでしょうか。

彼は、イエス様を決して見捨てず、イエス様に忠実であることを誓いました。

でも、そのあと、イエス様がペテロに「わたしと一緒に目を覚まして、祈りなさい」と頼まれたのに、ペテロは寝てしまいました。

イエス様がペテロを起こされたとき、たぶんペテロは自分を責めて、ちゃんと目を覚まし、祈ろうと誓ったでしょう。

でも、ペテロは一回だけではなく、もう二回寝てしまいました。

そして、ユダがイエス様を裏切るために来たとき、ペテロは大祭司のしもべを襲いましたが、イエス様はペテロを誉めるのではなく、叱責されました。

さらにその後、ペテロは「イエスを知らない」と三度言いました。たぶん、鶏が鳴くまで、ペテロは自分が何をしているのか全然気づかなかったでしょう。でも、気づいた瞬間、彼は激しく泣きました。

聖餐式を受けるたびに、イエス様の言葉はペテロにとって、どれほどの意味があったのでしょうか。自分の罪と失敗を思い出すたびに、イエス様の言葉はペテロにとって、どれほどの意味があったでしょうか。

「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。ペテロ。これはあなたのために、あなたの罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」

私は、イエス様を裏切ったことが数え切れないほどあります。

私の誓いを破ったことがあります。良かれと思ってしたことが、悪い結果になってしまったことがあります。

私の言葉でイエス様を否定しなかったかもしれませんが、私の行動でイエス様を否定してしまったことがあります。

でも、イエス様は私に言われます。

「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。ブルース。これはあなたのために、あなたの罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」

だから、聖餐式を受けるときは、その言葉を心に留めましょう。罪や失敗を思い出して、罪悪感に沈みそうになるときも、その言葉を思い起こしましょう。そして、神様の恵みに安心しましょう。

これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。これはあなたのために、あなたの罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。

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私のことを考えるとき、人々は何を思い出すのだろうか

マタイの福音書26:6-16では、クリスチャンたちがよく覚えている二人の人物が登場します。

もちろん、私たちはベタニヤのマリアを覚えています。なぜなら、彼女は本当にイエス様を愛していたからです。

イエス様は、彼女についてこう言われました。

まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。(マタイの福音書26:13)

でも14節では、私たちはもう一人の人物を見ます。私たちはイスカリオテ・ユダもよく覚えています。なぜでしょうか。なぜなら、彼はイエス様を裏切ったからです。

私たちが亡くなった後、人々は私たちについて何を思い出すでしょうか。彼らは私たちのことを何と言うでしょうか。彼らは、イエス様に対する私たちの愛を思い出すのでしょうか。

良い知らせは、たとえ私たちが大失敗しても、評価が変わる可能性があるということです。

ペテロは「イエス様を知らない」と三回言いました。もちろん、私たちはペテロの失敗をよく覚えています。でも、私たちはペテロの人生に注がれたイエス様の恵みも覚えているでしょう。

私のことを思い出すとき、人々がその二つのことを思い出してほしいです。つまり、イエス様に対する私の愛と、私の人生に注がれたイエス様の素晴らしい恵みを思い出してほしいのです。

How will they remember me? 
人々は、私について何を思い出すのだろうか。

I hope when they remember they see you.
人々が私のことを思い出すとき、私の中にイエス様を見てもらえるように祈ります。–キム・ボイス

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産みの苦しみ

また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。

民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。

しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。(マタイの福音書24:6~8)

イエス様の言葉を読んだとき、私はパウロの言葉を連想しました。

私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。

それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。(ローマ8:22~23)

この世の問題や自分の問題を見るとき、私たちが心の中でうめくことは自然なことです。

でも、私たちは希望を持っています。

被造物のうめきと私たちのうめきは、絶望のうめき、死のうめきではありません。

私たちのうめきは、産みの苦しみのうめき、つまり、命の希望のうめきなのです。

イエス様は、この世にもう一度来られます。そのとき、イエス様は、すべての悪を裁かれます。

そして、イエス様は、ご自分の民を救い、すべてを新しくしてくださいます。(マタイの福音書24:30~31)

それが、私たちの希望です。そして、その希望は確かなものです。なぜなら、イエス様の言葉は確かだからです。

イエス様は言われました。

天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。(マタイの福音書24:35)

だから、この世の問題を見るとき、自分の問題を見るとき、絶望に屈してはいけません。

また、自分の愛が冷えないように、注意しなくてはなりません。

むしろ、神様が私たちに与えてくださった役割を、忠実に果たしましょう。

そして、イエス様を待ち望んでいる間、私たちが一人ぼっちではないことを、覚えていましょう。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。

私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:26~28)

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どんな弟子を育てているのか

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。

おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。

そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ。(マタイの福音書23:15)

弟子作りに関して言えば、パリサイ人と律法学者が悪い手本であることは言うまでもないと思います。

でも、イエス様の言葉を読んだとき、私は考えました。

「神様は娘と他の人々を私に委ねてくださったけど、私はどんな弟子を作っているのだろうか。」

私は、重くて負いきれない荷を束ねて彼らの肩に載せて、ただ「頑張れ」と言ったことがあるでしょうか。

それとも、彼らは正義と誠実だけではなく、あわれみも知っているでしょうか。(マタイの福音書23:23)

彼らは、私の中にそのあわれみを見ているでしょうか。また、彼らへの神のあわれみを知っているでしょうか。

彼らは、そのあわれみを知って、安心しているでしょうか。そのあわれみを喜んでいるでしょうか。

そして、彼らは回りの人々にあわれみを与えているでしょうか。

それとも、彼らは常に自分に厳しすぎ、回りの人々に厳しすぎるのでしょうか。

天のお父さん、私の娘や妻、そして私の回りの人々が私を見るとき、私は彼らに正義の人、誠実な人を見てもらいたいです。

でも、それ以上に、あわれみ深い人を見てもらいたいです。彼らには、あなたのあわれみの中を歩み、回りの人々をあわれむ人を見てもらいたいです。

私が、あなたのあわれみの中を歩む弟子、回りの人々をあわれむ弟子を育てる者となるように、私を助けてください。

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何を求めているのですか

「何を求めているのですか。」

マタイの福音書20章では、その同じ本質的な質問が三回出てきます。

契約交渉のとき、主人は労働者たちにそう尋ねました。(マタイ20:2)

イエス様は、ヤコブ、ヨハネ、そしてそのお母さんにそう尋ねられました。(マタイ20:20ー21)

そして、イエス様は二人の盲人たちにもそう尋ねられました。(マタイ20:31ー33)

最初の二つの場合、彼らは「当然の報い」を求めました。

労働者たちは、1日の労働に対して1デナリを求めました。

ヤコブ、ヨハネ、そしてそのお母さんは、権力の座を求めました。

けれども、盲人たちは「当然の報い」を求めるのではなく、あわれみと恵みを求めました。

たぶん、イエス様が願いを断られたとき、ヤコブとヨハネはがっかりしたでしょう。

(でも、イエス様が十字架につけられたとき、ヤコブとヨハネはイエスの右と左で十字架につけられなかったことに失望しなかったでしょう。彼らは、何を求めているのか本当に分かっていませんでした。)

皮肉なことに、労働者たちは、求めた通りのものを受けたのに、かえって苦々しく思うようになりました。

その一方、盲人たちは、神の恵みとあわれみの喜びを知るようになりました。

神の御国とは、「当然の報い」ではなく、神の恵みとあわれみのことなのです。

「当然の報い」を求めると、あなたは失望したり、怒ったり、苦々しくなったりしてしまいます。

しかし、神様のあわれみと恵みを求めれば、神様がどんなに良い方であるのかを知るようになります。

なぜなら、神様は、いつも恵みとあわれみを豊かに与えてくださるからです。

あなたは、何を求めているのでしょうか。

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賜物を受ける心、大変さを恐れる心

イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から「男と女に彼らを創造され」ました。

そして、「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」と言われました。

ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。

そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」。。。

弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。」(マタイの福音書19:4ー6,10)

我々クリスチャンたちの考え方は、ときどき驚くべきものです。

神様は、私たちに良い賜物を与えたいと願っておられます。でも、私たちは「しなければならない」ということに拘ってしまいます。

神様は、結婚を私たちに賜物と祝福として与えてくださいます。けれども、弟子たちはその賜物を喜ばず、「えっ?妻とずっといなければならないのか」と考えてしまいました。

そのあと、イエス様は青年に、ご自分の弟子になる機会を与えてくださいました。真のいのちを知る機会を与えてくださいました。

しかし、その青年は、「えっ?私のものをすべて貧しい者に与えなくてはならないのか」と思っただけでした。(マタイの福音書19:21ー22)

どうして私たちは、すぐにそのようなことを考えてしまうのでしょうか。

神様は、私たちにこう語っておられます。「私があなたにどれだけ喜びを与えたいのか、知らないの?その賜物がどれほど良いものか、分からないの?」

天のお父さん、あなたは良い神です。私の堅くて愚かな心を赦してください。

「しなければならない」という考え方を捨てるように、私を助けてください。あなたが私に与えてくださる良い賜物を、喜んで抱く心を持ちたいです。

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許せないのか?許したくないのか?

彼の仲間はひれ伏して、「もう少し待ってください。そうすればお返しします」と嘆願した。

しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。(マタイの福音書18:29ー30)

「しかし、承知しませんでした。」

直訳すると、「彼はそうしたくなかった。」

彼は何をしたくなかったのでしょうか。

彼は、借金の返済を待ちたくなかったのです。

もちろん、彼は、絶対にその借金を許したくなかったのです。

原語では、しもべの仲間は何度もあわれみを願いましたが、しもべは何度も「嫌だ」と言いました。

「私は待ちたくない。我慢したくない。許したくない。」

あなたは、そのような態度を取っているでしょうか。

多くの人々は「許せない」と言います。

でも、「許せない」とは、「許すことができない」という意味でしょうか。それとも、「相手を赦したくない」という意味でしょうか。

神の子どもたちは、そのような態度を取ってはいけません。なぜなら、神様は私たちをたくさん赦してくださったからです。

「許せない、許したくない」という態度は、罪です。

もちろん、許すのが難しいときもあります。許すのが非常に難しいときもあります。神様はそれを理解しておられます。

しかし、頑なに「私は許したくない」と主張する態度と、へりくだってイエス様のもとに来て、「私は許したいけれど、私の傷は深いです。どうやって許すことができるのか、よく分かりません。助けてください」と願う態度は、まったく異なります。

ペテロはこう言います。

みな互いに謙遜を身に着けなさい。

「神は高ぶる者には敵対し、 へりくだった者には恵みを与えられる」 のです。

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(第一ぺテロ5:5~7)

プライドは、自分の傷を手放すことを拒みます。「私は傷ついた。私はもっと優しく扱われるべきだ。あいつは罰せられるべきだ。」

けれども、謙遜な人は、自分が人を傷つけることがあると認めます。

謙遜な人は、自分が神様に対して罪を犯したことがあると認めます。

謙遜な人は、周囲の人々のあわれみ、そして神様のあわれみをどれほど必要としているかを認めます。

だから、謙遜な人は自分の傷を手放し、相手を許すことを選びます。

とはいえ、以前にも言ったように、人を許すのが難しいときもあります。傷が深ければ深いほど、相手を許すのは難しくなります。

しかし、ペテロは、神様が私たちのことを心配してくださることを思い出させてくれます。神様は、私たちの傷を癒したいと願っておられます。

そして神様は、私たちの傷が癒されるためには、まず私たちが相手を許さなくてはならないことをご存じです。

もしあなたがへりくだって、「どうやって相手を許すことができるのか分かりません。でも、許そうとします。助けてください」と祈るなら、神様は喜んで助けてくださいます。

あなたはどうでしょうか。神様は、今あなたに誰かについて語っておられるでしょうか。

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不思議なこと

それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。

そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。(マタイの福音書17:1ー3)

イエス様、あなたは他の人々を残し、ペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、その山に登られました。どうしてでしょうか。彼らにご自分を、より完全に現すためです。

あなたは、私にもご自分を現したいと願っておられるのでしょうか。

それは、本当に不思議なことです。

だから、弟子たちのように、私は喜んであなたと時間を過ごします。

エリヤのように、私はあなたのもとに行き、あなたの御顔を求めます。(列王記第一19:8ー9、11)

モーセのように、私は願います。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」(出エジプト記33:18)

イエス様、私に、より完全にご自分を現してください。私は、あなたをもっと知りたいのです。

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イエス様について行っているだけなの?それとも、イエス様に従っているの?

それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(マタイの福音書16:24)

「イエス様について行く。」

「イエス様に従う。」

原語では、この二つの表現は弟子になることを表すために使われています。

「ついて行く」と訳される言葉は、直訳すると物理的に人の後ろを歩くことを意味します。

一方、「従う」と訳される言葉も「ついて行く」という意味を含みますが、多くの場合、「イエス様に従う」は、「イエス様から学び、イエス様の御声に応え、イエス様の導きに従う」というニュアンスを持っています。(マタイ4:20、ヨハネ10:4、27)

多くの人々がイエス様について行きました。癒しを求める人もいれば、イエス様の新しい教えに興味を持つ人もいました。

しかし、イエス様に本当に従っていた人は少数でした。

イエス様の弟子たちでさえ、従う姿勢を取らなかった時もありました。

イエス様が神様の計画を果たすために何をしなければならないかを説明されたとき、ペテロはその計画に従おうとはせず、むしろイエス様を別の道へ導こうとしました。その結果、ペテロはイエス様につまずきを与える者となってしまいました。

だから今日、私はこう考えました。

「私は本当にイエス様に従っているだろうか。それとも、イエス様を私の行きたい道に引っ張ろうとしているのだろうか。」

「私はイエス様の計画に従っているでしょうか。それとも、イエス様を操って、私の計画に従わせようとしているのだろうか。」

あなたはどうでしょうか。あなたは、ただイエス様について行っているだけでしょうか。

教会に行ったり、聖書を読んだり、祈ったりしているかもしれません。でも実際には、イエス様を操って、自分の計画に従わせようとしているのではないでしょうか。

それとも、あなたは本当にイエス様に従っているでしょうか。毎日毎日、一瞬一瞬、イエス様から学び、御声に応え、イエス様の導きに従っているでしょうか。

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誰を喜ばせようとしているのか

そのとき、弟子たちが近寄って来てイエスに言った。「パリサイ人たちがおことばを聞いて腹を立てたのをご存じですか。」

イエスは答えられた。「わたしの天の父が植えなかった木は、すべて根こそぎにされます。

彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」(マタイの福音書15:12ー14)

パリサイ人たちがイエス様の言葉に腹を立てたとき、イエス様の弟子たちはそのことを気にしているようでした。しかし、イエス様はまったく気にしていないようでした。

実際のところ、私たちはすべての人々を喜ばせることはできません。

英語のことわざに、”If you try to please everyone, you’ll end up pleasing no one.” というものがあります。

つまり、「すべての人を喜ばせようとすれば、結局は誰も喜ばせることができない」ということです。

とくに、私たちは神様を喜ばせることができないままでいることもあります。

だからこそ、自問自答しなくてはならないのは、「私は誰を喜ばせようとしているのだろうか」ということです。

もちろん、私たちはわざと人を怒らせようとしてはいけません。けれども、人を怒らせることを避けることができない場面もあります。

私たちの言動が人の考え方に反すると、彼らは怒ってしまうことがあります。

けれども、盲人に従えば、私たちも穴に落ちてしまいます。

私はそうしたくありません。

何よりもまず、私が望むのは、アバが私に「よくやった」と言ってくださることです。

あなたはどうでしょうか。

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イエス様に伝えなかればならない

なぜか、12節のことばが私の心を打ちました。

それから、ヨハネの弟子たちがやって来て遺体を引き取り、葬った。そして、イエスのところに行って報告した。(マタイの福音書14:12)

ヨハネを葬ったあと、その弟子たちが最初に考えたのは、「イエス様に伝えなければならない」ということでした。

なぜでしょうか。

もしかすると、彼らはイエス様にヘロデについて警告したかったのかもしれません。(ルカ9:9)

でも、もう一つの理由は、彼らがイエス様がヨハネを本当に愛しておられることを知っていたからではないでしょうか。

しかし、彼らはイエス様が自分たちを愛してくださっていることを知っていたでしょうか。

「イエス様はすべての人々を愛してくださっている」ではなく、「イエス様は私自身を愛し、私の悲しみをよく知っておられる」ということを、彼らは知っていたでしょうか。

あなたはどうでしょうか。イエス様があなたを愛してくださっていることを、あなたは知っているでしょうか。

「イエス様がすべての人々を愛してくださっている」ではなく、「イエス様は私自身を本当に愛してくださっている」ということを、あなたは知っているでしょうか。

試練と苦しみを経験するとき、あなたが最初に考えるのは、「私はイエス様に伝えなければならない」ということでしょうか。

I must tell Jesus all of my trials;
イエス様に、私のすべての試練を伝えなければなりません。I cannot bear these burdens alone;
私は、一人でその重荷を背負うことができません

In my distress He kindly will help me;
私の苦しみの中で、イエス様は優しく助けてくださいます。
He ever loves and cares for His own.
イエス様は、いつもご自分のものを愛し、心にかけてくださいます。

I must tell Jesus! I must tell Jesus!
私はイエス様に伝えなければならない。私はイエス様に伝えなければならない。
I cannot bear my burdens alone;
私は、一人でその重荷を背負うことができません。

I must tell Jesus! I must tell Jesus!
私はイエス様に伝えなければならない。私はイエス様に伝えなければならない。
Jesus can help me, Jesus alone.
私を助けることができるのは、イエス様ただお一人です。ーーエリシャ・ホフマン

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神様の真理に目と耳を閉じること

正直に言うと、神様の真理を聞くのが辛い時もあります。なぜなら、その言葉が私たちの心に深く染みることがあるからです。でも、そのような時、私たちはどうするでしょうか。

イエス様が言われたように、ある人たちは真理に目と耳を閉じてしまいます。

その結果はどうなるでしょうか。彼らの心は鈍くなり、神様の御声が聞こえなくなってしまいます。

それが、真理を無視することの危険性です。真理を無視すれば、あなたの心は鈍くなってしまいます。

あなたはどうでしょうか。最近、神様のみ言葉を聞いたとき、「ちょっと痛いな」と感じたことがあったでしょうか。その時、あなたはどうしましたか。

「主よ。あなたの恵みと力によって、私は従います。でも、どうか私を助けてください」と答えたでしょうか。

もしかすると、あなたは自分の目と耳を神様の真理に閉じてしまったかもしれません。

神様は、あなたの壊れた人生を癒したいと願っておられます。しかし、もしあなたが耳と目を神様のみ言葉に閉ざしてしまうなら、その癒しを知ることはできません。

あなたは、どうするでしょうか。

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安らぎのある人生

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイの福音書11:28-30)

イエス様の言葉の中でも、それは最も有名なものの一つです。

しかし、イエス様のやり方は、律法の専門家たちのやり方とはまったく異なっていました。イエス様は彼らについて、こう言われました。

おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない。(ルカ11:46)

クリスチャンとして、私たちが自問自答しなくてはならないのは、「クリスチャンとしての生活を送る中で、私は疲れ果てているだろうか。重荷を負っているように感じているだろうか」ということです。

多くの場合、満たされない期待の重荷を負っているために、私たちは疲れ果ててしまいます。

私たちは、周囲の人々の期待に応えられないという重みを感じています。私たちは、自分自身の期待に応えられないという重みを感じています。さらに、神様の期待に応えられないという重みも感じています。

そうした期待を思い巡らす中で、私たちは「あなたはやっぱりダメだ」という声を聞いてしまいます。

私たちは、周囲の人々からそのようなメッセージを受け取ります。私たちは、自分自身に関してそう思ってしまいます。さらに、私たちは神様がそう言われているのではないかと感じ始めます。

しかし、それは安らぎのある人生ではありません。だからこそ、イエス様は私たちにこう語られます。

「私のもとに来なさい。私から逃げないでください。私のもとに来なさい。

私はあなたの失敗や罪を責めているのではありません。私は、あなたの失敗と罪のために死にました。天のお父さんは、あなたをご自分の子として受け入れてくださいます。

だから、天のお父さんにあなたの価値を証明する必要はありません。

私の恵みの中で休んでください。私の愛の中で休んでください。」

また、イエス様はこう言われます。

「わたしのくびきを負いなさい。他の人の期待のくびきを負ってはいけません。そのくびきは重く、多くの場合、あなたには負いきれません。相手にとって、あなたはどんなに頑張っても、ダメな人に見えるかもしれません。

だから、わたしのくびきを負いなさい。それは裁きのくびきではなく、恵み深いくびきです。

さらに、あなたは一人でそのくびきを負う必要はありません。わたしはあなたと共にそのくびきを負っています。だから、あなたがつまずいても、そのくびきはあなたを潰しません。」

そして、イエス様はこう言われます。

「わたしから学びなさい。あなたは、学びの遅い人かもしれません。でも、わたしは優しく、忍耐強い者です。わたしはあなたのことを決してあきらめません。

わたしの考え方を学びなさい。わたしの生き方を学びなさい。

そして、いつも次のステップを考えて、進みなさい。わたしは急いでいるわけではありません。他のクリスチャンがもっと早く進んでいても、気にしなくていいのです。

わたしたちには、たくさんの時間があります。わたしたちには、永遠があります。」

それこそが、安らぎのある人生です。

あなたはどうでしょうか。

クリスチャンとしての人生を歩む中で、疲れ果てて、重荷を負っていると感じているでしょうか。

それとも、安らぎのある人生を歩んでいるでしょうか。

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厳しい言葉?

自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイの福音書10:38)

それらは、確かに厳しいことばでしょう。

イエス様の言葉を読んだとき、私たちはどう感じるでしょうか。

不安?恐れ?

私は長年クリスチャンですが、最初に思ったのは、「厳しい言葉だね。イエス様は私に多くを要求されているのだ」ということでした。

そして、イエス様の言葉を自分の人生にどう当てはめるべきかを考えると、その言葉はさらに厳しく感じられました。

だから今朝、私が自問自答しなくてはならなかったのは、「この感情をどうすればいいのだろうか」ということです。

私はどうすればいいのでしょうか。

真理を覚えておきましょう。

真理とは何でしょうか。

私のアバは良い方で、私を深く愛してくださっているのです。

二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。

あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。(マタイの福音書10:29ー31)

真理とは何でしょうか。

それは、私が自分の十字架を負ってイエス様に従うなら、私のいのちを失うのではなく、むしろ私のいのちを得るということです。

自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。(マタイの福音書10:39)

イエス様に従うことは、いつも簡単なこととは限りません。時には、イエス様に従うことが、非常に困難に感じられることもあります。

それでも、私のアバは良い方で、私を深く愛してくださり、いつもご自分の約束に忠実な方です。だから、私には希望があります。そして、その希望は確かなものです。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。

世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)

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収穫の主への祈り

また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。

そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイの福音書9:36ー38)

収穫の主よ。私の周りで、弱り果てて倒れている人たちは誰でしょうか。希望のない人生を歩んでいる人たちは誰でしょうか。

どうか、私の目を開いてください。あなたがしてくださったように、私も人々のうわべを見抜き、心の深いニーズを見抜くことができるようにしてください。

私に、あなたのあわれみ深い心を与えてください。そして、私を収穫のために送ってください。

私が、希望のない人に希望を届けることができるように。私が彼らに、あなたの赦し、救い、そして愛を宣言することができるように助けてください。(マタイ9:2、22)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちが汚れているとき

すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。

イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。(マタイの福音書8:2ー3)

ツァラアトは、とてもひどい病気でした。ツァラアトにかかった人たちは、のけ者とされ、神の神殿に入ることも許されませんでした。(レビ記13:45〜46;民数記5:2〜3)

その意味では、ツァラアトは罪を描写するものです。罪によって、私たちは霊的に汚れ、神様との関係、また周囲の人々との関係が壊れてしまいます。

しかし、今日の箇所では、ツァラアトに冒された人がイエス様のみもとに来て、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言いました。

すると、イエス様は恵みとあわれみをもって、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われました。

私たちは、罪を犯したとき、神様が赦してくださるのか、受け入れてくださるのかと疑ってしまうことがあります。

だから、私たちはおどおどしながら神様のみもとに来て、「お心一つで私をきよくすることがおできになります」と祈ります。

イエス様は、ツァラアトに冒された人に答えてくださったように、私たちにも答えてくださいます。

「わたしの心だ。きよくなれ。」

ですから、神の子どもたちよ、神の御座に大胆に近づきましょう。なぜなら、私たちはあわれみを受け、恵みをいただくという確信をもっているからです。(ヘブル4:16)

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私たちのアバに祈るとき

また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。。。

ですから、あなたがたはこう祈りなさい。 「天にいます私たちの父よ。」」(マタイの福音書6:7、9)

イエス様の言葉を読んだとき、私は伝道者の書にあるソロモンの言葉を思い出しました。

神の前では、軽々しく 心焦ってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。(伝導者の書5:2)

ソロモンは、神様に対して愚かな誓いを立てることを戒めました。時には、神様の祝福を得るため、あるいは神様を操ろうとして、私たちは守ることのできない誓いを立ててしまいます。でも、そのようなことをしてはなりません。

一方で、イエス様は、神様や周囲の人々を感動させるために、霊的な響きを持つ長い祈りをすることを戒められました。

いずれの場合も、イエス様とソロモンは同じことを語っています。「ことばを少なくせよ。無駄な言葉を多く口にするのではなく、神様に耳を傾けよ。」

けれども、神様に語るときには、イエス様の模範に従いましょう。

神様を聖なる方として認め、それを心に留めて、私たちは神様を礼拝しましょう。(マタイ6:9;黙示録4:8〜11)

祈るときには、神の国に心を向けましょう。「あなたが何をしておられるのかを教えてください」と祈りましょう。(マタイ6:10、33)

それを思いながら、自分の人生に神のみこころが行われるように祈りましょう。神のご計画に参加できるように祈りましょう。(マタイ6:10b)

でも、神様が天におられる偉大な神であるだけでなく、あなたの天のアバでもあることを覚えていましょう。そして、あなたがアバの愛する子どもであることも覚えていましょう。(マタイ6:9)

だから、自分の必要のために祈りましょう。(マタイ6:11、25〜32)

罪を犯したときでも、アバに近づくことをためらう必要はありません。ですから、アバに近づいて、神の赦しを求めましょう。(マタイ6:12)

私たちの壊れた人間関係についても、アバと語り合いましょう。特に、他人を許すことが難しいときには、アバの助けを求めましょう。(マタイ6:12b)

そして、アバがあなたを導き、守ってくださるように祈りましょう。(マタイ6:13)

神の子どもとして、私たちは素晴らしい特権を与えられています。私たちのアバに、いつでも自由に近づくことができるのです。だからこそ、その特権を生かして、アバに近づきましょう。

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弟子?群衆の一人?

その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。(マタイの福音書5:1)

なぜか、私はいつも、イエス様が群衆に教えるために山に登られたと思っていました。でも、実際は、イエス様は群衆から離れようとされたのかもしれません。イエス様が山に登られるときは、たいてい祈るためでした。

もしマタイ5章とルカ6章が同じ出来事だとしたら(そう考える聖書学者もいます)、このときも、イエス様は祈るために山に登られたのでしょう。

そして、イエス様が祈られたあと、最初にみもとに来たのは群衆ではなく、弟子たちでした。(群衆はあとで来たようですけれど)(マタイ7:28)

群衆の多くは、イエス様に癒しを求めて来ました。(マタイ4:24〜25)

でも、弟子たちは、イエス様に教わるために来ました。

1節を読んで、私は考えていました。「どうして、私はイエス様のみもとに行くのだろうか。」

私はただ、イエス様に何かを求めているのでしょうか。イエス様の助け?癒し?祝福?それとも、私は本当にイエス様から学びたいのでしょうか。

私は、群衆の一人なのでしょうか。それとも、私は本当にイエス様の弟子なのでしょうか。

私は、イエス様の弟子になりたいです。私の主から学びたいのです。私は、イエス様のようになりたいです。

心の清い人になりたいです。

義に飢え乾く人になりたいです。

柔和な人になりたいです。

世の光、地の塩になりたいです。

うわべだけの義ではなく、心から溢れる真の義を持ちたいです。

イエス様と同じように人を愛したいです。

天のお父さんが完全であるように、私も完全でありたいです。

今日、ある歌が思い浮かび、それを祈りました。

Lord, I want to be your disciple, an example, the way you were to me.
主よ。私はあなたの弟子になりたいです。あなたが私の模範でいてくださったように、私も回りの人々の模範になりたいです。

And as I see your humble perfection, let me be a mirror of your heart.
あなたの謙遜と完全さを見るとき、私があなたの心を映す鏡となりますように。

I want to walk in the image of you, like a child imitating what his Father would do.
あなたのかたちに倣って歩みたいのです。お父さんの真似をする子どものように。

A mirror of your heart. — Chris Christian
あなたの心を映す鏡になりたいのです。――クリス・クリスチャン

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マタイの福音書のデボーション

イエス様についていくという喜び

イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。

イエスはそこから進んで行き、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びになった。

彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。(マタイの福音書4:19ー22)

イエス様が「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたとき、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネはどう感じたでしょうか。

自分はふさわしくないと感じたでしょうか。自分には資格がないと感じたでしょうか。少し不安を感じたでしょうか。

そう感じたかもしれません。でも、彼らはきっと深く感動し、圧倒的な喜びに満たされたことでしょう。

「俺なの?イエス様は俺を選んでくださったの?」

そして、深く感動し、圧倒的な喜びに満たされて、彼らはすぐに網と家業を捨てて、イエス様に従いました。

彼らは「イエス様についていかなくてはならないの?でも、そうすれば、俺はいろんなものを捨てなくてはならない」とは考えていなかったでしょう。

たぶん、彼らが考えていたのは、「俺はイエス様についていってもいいの?イエス様の仕事に参加してもいいの?すごい!やった!」と思っていたことでしょう。

でも、イエス様についていき、イエス様の仕事に参加することを考えるとき、私たちの多くは不安を感じます。「私はふさわしくない。私には資格がない。」

また、「これもしなくてはならない。あれもしなくてはならない」と考えて、重荷を感じます。

私がそう感じるときもあります。

でも、イエス様は私たちを深く愛してくださいます。

イエス様は私たちの失敗、弱さ、すべてをご存じで、それでも私たちを見て、こう誘ってくださいます。「私について来なさい。私の仕事に参加しなさい。」

それが、イエス様についていくという喜びです。イエス様は、私たちに素晴らしい特権を与えてくださいます。

イエス様についていき、その仕事に参加することは、「しなくてはならない」という重荷ではありません。

それは、「やってもいいの?すごい!」という大きな喜びです。

あなたはどうですか。その喜びを知っているでしょうか。

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マタイの福音書のデボーション

イエス様の模範に従う

この箇所では、イエス様は私たちにクリスチャン生活の模範を示してくださいます。

イエス様は罪をまったく犯していませんでしたが、洗礼を通して、神様のみこころに従う心を表されました。

そして、御霊がイエス様の上に降って来られ、イエス様を満たされました。その瞬間、天の父はイエス様にこう言われました。

これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。(マタイ3:17)

それから、イエス様は毎日、御霊に導かれる人生を歩まれました。

イエス様がそのような生活を送られたのなら、まして私たちはなおさらです。

実は、パウロはローマ書8章で、そのような人生について語っています。

パウロによれば、私たちがクリスチャンになったとき、神様に対する反抗的な心は死にました。(ローマ書8:4〜11)

そして、御霊が私たちのうちに住み始め、神様は私たちを見るとき、「あなたは私の愛する子供だ」と言われます。

それを聞いて、私たちは御霊によって「アバ、お父さん」と叫びます。(ローマ書8:14〜17)

さらに、聖霊様は毎日毎日、一瞬一瞬、私たちを導いてくださいます。(ローマ書8:4〜5)

ですから、神様が私たちを「私の愛する子供」と呼んでくださることを感謝しましょう。

そして毎日、聖霊様に「私の次のステップは何ですか」とお尋ねしましょう。

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敵対的?無関心?情熱的?

天のお父さん、あなたの御子が生まれたとき、ヘロデ王は御子を敵視し、殺そうと思いました。

一方、祭司たちと律法学者たちは無関心で、ただ家に帰りました。

しかし、博士たちは喜びをもって、御子を求め、礼拝に向かいました。

天のお父さん、博士たちの心を私に与えてください。御子を求め、礼拝する情熱的な心を与えてください。

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神様がなさらなかった応答

「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」

しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」(マタイの福音書27:4)

私が驚いたのは、祭司たちがユダに対して反応したように、神様が私たちに対してはそのように反応されなかったことです。

私たちが咎と恥を負い、神様の御前に出て、「私は罪を犯しました」と告白したとき、神様は「私には関係ない。自分で始末しなさい」とは言われませんでした。

もし神様がそうされていたなら、私たちはユダのように絶望と死に陥っていたことでしょう。

しかし、神様はそうされず、むしろ、御子を送ってくださいました。

彼は私たちの背きのために刺され、 私たちの咎のために砕かれたのだ。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

私たちはみな、羊のようにさまよい、 それぞれ自分勝手な道に向かって行った。 しかし、主は私たちすべての者の咎を 彼に負わせた。(イザヤ53:5ー6)

I’ll never know why you did what you did.
私には、なぜあなたがあんなことをされたのか理解できません。

You didn’t have to die, but you did.
あなたは死なないことを選ぶことができたのに、私のために死んでくださいました。

You hung on the cross so that I wouldn’t be lost.
私が滅びないように、あなたは十字架にかけられました。

You took my place, now you’re pleading my case.
私の代わりに死んでくださっただけでなく、今も私のためにとりなしてくださっています。

You didn’t have to do it, but I’m glad you did.
あなたはそうする必要はなかったのに、私のためにそうしてくださって、私は心から感謝しています。

You didn’t have to do it, but I’m glad you did.
あなたはそうする必要はなかったのに、私のためにそうしてくださって、私は心から感謝しています。

-クリスタル・ルイス

 

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あなたのみこころがなりますように

ですから、あなたがたはこう祈りなさい。 「天にいます私たちの父よ。。。御国が来ますように。 みこころが天で行われるように、 地でも行われますように。」(マタイ6:9ー10)

わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように。(マタイ26:42)

天のお父さん、十字架で死なれる前の夜、「弟子の祈り」で教えられたことばを、イエス様ご自身が祈られました。

人々にそのように祈るべきだと教えるのは、簡単なことです。

日常の祈りとして、そのことばを祈るのは、簡単なことです。

しかし、私が直面したくない問題があるとき、そのことばを祈るのは難しいです。

その祈りが自分の人生に深く関わるとき、私はそのことばを祈ることができるでしょうか。特に、あなたのみこころが、私が試練や苦しみに直面しなければならないというものであるとき、私はそのように祈ることができるでしょうか。

あなたの良いご性質を疑わず、また、苦々しい思いを抱かず、私はなおあなたを「父さん」と呼ぶことができるでしょうか。

イエス様、ペテロや他の弟子たちと同じように、私は弱い者です。

だからこそ、私よりも大きな問題に直面するとき、自分の力では耐えられない試練に直面するとき、あなたが祈られたように、私も「あなたのみこころがなりますように」と祈ることができる恵みと力と信仰を与えてください。

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ただ人々を責めているだけなのか?

また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。(マタイの福音書23:4)

パリサイ人たちと律法学者たちは、周囲の人々の罪をよく指摘しました。

しかし、彼らは罪の重荷に苦しんでいる人々に手を差し伸べ、あわれむことはありませんでした。

イエス様のことばを読んで、私はこう考えました。「私はただ人々の罪を指摘するだけなのだろうか。それとも、罪によって苦しんでいる人々をすぐに助けてあげる者なのだろうか。」

おそらく、パウロは上のイエス様のことばを思い巡らしながら、このことばを書いたのでしょう。

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。

また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。(ガラテヤ人への手紙6:1ー2)

天のお父さん、パリサイ人たちや律法学者たちのようにはなりたくありません。ただ人々の罪を指摘する者ではなく、罪によって苦しんでいる人々に対するイエス様の心を持つ者となれますように。

あわれみの心を私に与えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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聖書を知らないのか?

サドカイ人たちがイエス様に愚かな質問をしたとき、イエス様はこう言われました。

そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。(マタイの福音書22:29)

イエス様は、私たちに対しても同じことを言われるでしょうか。

私たちは聖書を正しく知らないために、どれほど自分の世界観が誤っているでしょうか。

私たちは聖書を正しく知らないために、どれほど愚かな決断をしてしまうでしょうか。

私たちは聖書を正しく知らないために、偉大で力強い神様がどれほど小さく見えてしまうでしょうか。

イエス様がサドカイ人たちに語られたことばを、私たちに向けて語られることがないように。

むしろ、神様のみことばを愛し、読みましょう。

そうすれば、私たちは神のように考えるようになり、神様を親しく知るようになります。

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神様が求めておられる実

ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。(マタイの福音書21:43)

今日の箇所、特に上のことばを読んだとき、私はパリサイ人たちとサドカイ人たちに向けられたバプテスマのヨハネのことばを思い起こしました。

それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。。。 斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。(マタイ3:8ー10)

神様が求めておられる実とは何でしょうか。それは、悔い改めにふさわしい実です。

収税人や遊女たちは、そのような実を結んだからこそ、神の国に入ることができました。しかし、宗教的な指導者たちは悔い改めを拒んだため、神の国に入ることができませんでした。(31ー32)

二人の息子に関するたとえ話では、イエス様はその二つの態度の違いを描写されました。(28ー30)

そして、いちじくの木を呪われたことと、ぶどう園のたとえ話によって、イエス様は悔い改めにふさわしい実を結ばない者たちに警告されました。(18ー19、33ー34)

悔い改めとは、単に「気が変わる」という意味ではありません。

悔い改めとは、単に神様のことばに同意することを意味するのでもありません。

悔い改めは、必ず変えられた心と、変えられた人生へと至るものです。

私の教会では、「Head, heart, hands」という言葉を用いています。

神様のことばが私たちの頭に入り、心が変えられ、そして人生も変えられていきます。

それこそが、神様が求めておられる実です。

あなたはどうでしょうか。そのような実を結んでいるでしょうか。

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あなたの言葉が受け入れ難いとき

イエス様、時にあなたのことばは、私にとって受け入れがたいものです。

あなたが結婚について語られたとき、弟子たちにとって、そのことばは受け入れがたいものでした。

若い金持ちにとって、「あなたが執着しているものを手放し、私について来なさい」というあなたのことばは、受け入れがたいものでした。

そして時に、あなたは私にも受け入れがたいことを語られます。

私の心は頑なで、あなたの道よりも楽な道を選びたくなるのです。

また、私が手放したくないものもあります。

けれども、あなたのことばが受け入れがたいとき、私があなたが良い方であることを思い起こすことができるように助けてください。

あなたのことばが受け入れがたいとき、あなたの道が最善であることを思い起こすことができるように助けてください。

あなたのことばが受け入れがたいとき、私が柔らかい心を保ち、あなたとその道に従うことができるように助けてください。

なぜなら、あなたのことばは受け入れがたいものかもしれませんが、そのことばはいのちだからです。(ヨハネ6:63、68)

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イエス様の言うことを聞いていますか?

彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。。。

彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」

すると彼らはたいへん悲しんだ。(マタイの福音書17:5,22-23)

私たちは、どれほどイエス様の弟子たちのようにふるまっているでしょうか。

神様は良い計画を持っておられます。その計画は確かに良いものです。しかし、私たちは神様のことばすべてに耳を傾けていないため、その計画を十分に理解することができません。

私たちが聞いているのは、自分の計画や夢や希望が失われるということだけです。だから、私たちは深く悲しんでしまいます。

けれども、私たちは、その計画や夢や希望の灰の中から何がよみがえるのかを知りません。

それは、喜び、平和、そしていのちです。

しかし、最も大切なのは、私たちがイエス様ご自身を見ることになるということです。

ですから、神様の計画が私たち自身の計画に反していて、私たちが悲しみに沈んでいるときこそ、天の父のことばを思い起こしましょう。

「これは、わたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」

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忘れっぽい信仰

信仰の薄い人たち。。。まだ分からないのですか。。。覚えていないのですか。(マタイの福音書16:8-9)

私たちが忘れっぽいゆえに、どれほど私たちの信仰が薄く、神様が教えようとしておられることを理解できていないのでしょうか。

私たちは聖書を読んだり、教会でメッセージを聞いたりして、励まされ、鼓舞されますが、そのことばをすぐに忘れてしまいます。

また、神様が私たちの人生にどのように働いてくださったかを見て、驚き、喜びますが、それもすぐに忘れてしまいます。

ただ覚えているだけで、私たちの信仰はどれほど成長するでしょうか。

天のお父さん、私の信仰を増し加えてください。あなたが私に教えてくださったこと、してくださったことを覚えていることができるよう助けてください。

そして、そのことを覚えていることによって、良い時も悪い時も、私があなたを喜び、信頼する者となるように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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誰に従っているのでしょうか

ヨハネの死は、本当に切ない出来事ですね。でも今日、私はヨハネの弟子たちの反応について考えました。彼らはヨハネの遺体を引き取り、丁寧に葬りました。そして、イエス様のもとへ行って、そのことを報告しました。

今日、それを読んで、私は初めてこう思いました。

「そのあと、彼らは何をしたのだろうか。イエス様に従い始めたのだろうか。

それとも、ただ自分の家に戻ったのだろうか。」

私たちには分かりません。

もし彼らがイエス様に従い始めたのなら、それは本当に素晴らしいことだったと思います。なぜなら、ヨハネはいつもイエス様を指して、「その方に従いなさい」と語っていたからです。

それはさておき、私たちはどうでしょうか。私たちは誰に従っているのでしょうか。

多くの人々は、他の人の影響によってクリスチャンになりました。その人は牧師かもしれません。友人や家族かもしれません。

しかし、その人がいなくなったとき、私たちはどうするでしょうか。

その人は亡くなるかもしれません。

その人は引っ越すかもしれません。

残念なことですが、その人が罪に陥り、神様から離れてしまうこともあるかもしれません。

そのような時、私たちはどうするでしょうか。

私たちはただ「家に帰る」のでしょうか。

それとも、私たちはイエス様に向かい、従うのでしょうか。

イエス様は、5000人にパンを与えられたとき、ご自身が命のパンであることを証明されました(ヨハネ6章)。

つまり、イエス様こそが、私たちに真の命を与える方であることを示されたのです。イエス様こそが、私たちの霊的な飢えと渇きを満たすことのできるお方です。

さらに、人生の嵐が襲うときにも、イエス様はいつも私たちと共におられる方です。

人々が私たちから離れていくこともあります。彼らが私たちを失望させることもあります。

しかし、イエス様は決してそのようなことはなさいません。

だから、私はもう一度あなたに問いかけます。

あなたは誰に従っているのでしょうか。

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深く根差している信仰?

また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。

しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。(マタイの福音書13:20-21)

イエス様は、石灰岩の上に土の薄いところに蒔かれた種について描写されました。その石灰岩のために根が張ることができず、困難や迫害が訪れると、信仰の芽はすぐに焼けて枯れてしまいました。

それを読んだとき、私は考えました。「根の成長を妨げた石灰岩とは何だろうか。」

もしかすると、それは“不信”という石灰岩かもしれません。つまり、神様の愛を疑い、神様が本当に良い方であることを疑う心の状態です。

ある人々は、「神様は良い方だ」「神様はあなたを愛している」と聞くと、すぐに喜びます。

しかし、試練が訪れ、迫害を受けると、心の奥深くに埋もれていた疑いが表面化します。

「神様は本当に良い方なのだろうか。神様は本当に私を愛しているのだろうか。もしそうなら、なぜこんな悪いことが起こるのだろうか。」

その結果、彼らの信仰はすぐに枯れてしまうのです。

あなたはどうでしょうか。試練や迫害が訪れるとき、あなたが最初に考えるのは、「神様が良い方なら、神様が私を本当に愛しているのなら、なぜ私は苦しんでいるのか」ということでしょうか。

それとも、あなたの信仰は、「神様は良い方である」「神様は私を本当に愛しておられる」という確信に深く根差しているでしょうか。

あなたの根は、どれほど深く張っているでしょうか。

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恵みの言葉、裁きの言葉

今日、私の心を打ったのは、イエス様が語られた恵みのことばと裁きのことばです。

イエス様は数々の奇跡を行われましたが、ある町の人々が悔い改めることを拒んだため、イエス様は彼らを厳しく裁かれました。

イエス様はご自身のミニストリーにおいて、常にその線を引かれました。イエス様は悔い改めのメッセージを語られました。

イエス様が説教されたとき、そのメッセージを語られました(マタイ4:17)。また、弟子たちを遣わされたときにも、同じメッセージを語るよう命じられました(マルコ6:12)。

そして、人々が悔い改めないとき、イエス様は裁きについて警告されました(ルカ13:1〜8;ヨハネ5:14)。

それと同時に、イエス様のことばは恵みに満ちていました。牢に入れられ、信仰が揺らいだヨハネに対して、イエス様は励ましのことばを与えられました。

また、罪悪感を抱えていた人々や、宗教指導者たちの律法主義的な規則によって重荷を負っていた人々に、イエス様は安らぎを与えられました。

しかし、悔い改めてイエス様を信じてこそ、私たちはその安らぎを真に知ることができます。

イザヤも、同じようなメッセージをイスラエルの民に語りました。

「立ち返って(別訳:悔い改めて)落ち着いていれば、 あなたがたは救われ、 静かにして信頼すれば、 あなたがたは力を得る。」 しかし、あなたがたはこれを望まなかった。(イザヤ30:15)

それは、コラジン、ベツサイダ、そしてカペナウムの人々の問題でした。だから、イエス様は彼らを裁かれました。

しかし、イエス様に対して柔らかい心を持っている人々には、たとえ疑いや罪悪感を抱えていたとしても、イエス様は恵みを与えられました。

さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:14ー16)

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私たちの心、私たちのメッセージ

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。

『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マタイの福音書9:12-13)

イエス様のことばを反芻するとき、私たちの教会に来るノンクリスチャンに対する私たちの態度を考えさせられました。

私たちは、あわれみ深い心を持つべきです。なぜなら、彼らは羊飼いのいない羊の群れのようだからです。サタンの攻撃によって、彼らは弱り果て、倒れている人々なのです。

私たちは、彼らを避けるべきではありません。むしろ、手を伸ばし、キリストの愛を彼らに示すべきです。

それと同時に、私たちは彼らのためのメッセージを持っています。イエス様は、彼らを招くために来られました。では、何のために招いておられるのでしょうか。

ルカの福音書では、イエス様の意味がさらに明確に示されています。

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。(ルカ5:32)

愛は、「自分の罪を犯し続けて良い」とは言いません。

愛は、「悔い改めなさい」と語ります。

それは、最初からイエス様のメッセージでした。(マタイ4:17)

イエス様は、マタイや他の罪人たちと食事をしながら、そのメッセージを語られました。

イエス様は、ザアカイとその友人たちにも、必ず同じメッセージを語られたことでしょう。(ルカ19:1〜10)

ですから、教会でノンクリスチャンに出会うときには、イエス様の態度を取り、彼らを歓迎し、愛とあわれみを示しましょう。

しかし、それと同時に、謙虚さと柔和さをもって、イエス様がマタイとその友人たちに語られたメッセージを、彼らにも伝えましょう。

「神の御国が近づいた。神様はあなたを愛し、その御国に入るように招いておられる。だから、自分の罪を悔い改め、神様に向かってください。そうすれば、あなたは命を知ることになります。」

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イエス様についていく

イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。(マタイ7:28ー29)

イエス様についていくとは、どういう意味でしょうか。

もちろん、私たちはイエス様の権威を認めなければなりません。

イエス様は、はっきりとご自身の権威を示されました。

イエス様が命じられると、風と波は従いました。

イエス様が命じられると、悪霊たちも従いました。

イエス様は、もちろん権威を持っておられる方ですが、私たちはその権威を本当に認めているでしょうか。

百人隊長はそれを認めました。

イエス様についていきたいと思った二人の人たちが、その権威を認めていたかどうかは、私たちにはわかりません。

マタイ7:28〜29に登場する群衆の中には、イエス様の権威を認めた人もいれば、拒絶した人もいました。

しかし、イエス様の権威を認めることが、必ずしもイエス様についていくことを意味するわけではありません。

悪霊たちはイエス様の権威を認めましたが、イエス様を憎みました。

ガダラ人たちはイエス様を恐れ、その地方から立ち去ってほしいと願いました。

では、私たちはどうでしょうか。

イエス様は私たちに問いかけられます。「私の権威を認めているのですか。私に従うほどに、私を愛し、信頼しているのですか。」

あなたは、イエス様に従いたいと願っていますか。

あなたは、イエス様を愛し、心から知りたいと願っていますか。

イエス様のことばを心に留めましょう。

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。

わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。(ヨハネ14:21)

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イエスの教えを割るとき

ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。

雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。(マタイの福音書7:24-25)

今朝、イエス様のことばを読んだとき、ある絵が私の目に浮かびました。

もちろん、イエス様は家を岩の上に建てるという描写を与えておられます。

しかし、私の目に浮かんだのは、ある人が岩の上に建てるのではなく、むしろその岩を割って、その破片を家の壁に入れようとする姿でした。壁の一部は岩のかけらで構成されていたものの、その家は砂の上に建てられていたため、すぐに倒れてしまいました。

多くの人はその建築家のようです。彼らはイエス様に従っていると主張しますが、イエス様の教えすべてに従って生活しているわけではありません。

むしろ、彼らはイエス様の教えを「割って」、自分の好みに合う「破片」だけを自分の考え方に取り入れようとします。

私たちはそのようにしてはいけません。イエス様の教えの中から気に入った部分だけを取り入れ、それ以外の部分を捨てるような生き方をしてはいけません。

そのように生きる人は、天の父の御心を行っているのではなく、ただ自分の心に従っているのです。

私たちは、イエス様の教えの一部だけではなく、そのすべてによって、人生を建てなくてはなりません。

そして、イエス様の最初の教えは、「悔い改めなさい」ということです。私たちが罪を悔い改めなければ、神の御国に入ることはできません。(マタイ4:17)

悔い改めることを拒み、自分の罪にしがみつくなら、ある日、私たちはイエス様に「主よ、主よ」と呼びかけるでしょう。

しかし、イエス様はこう答えられます。「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」(23節)

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私の目が癒されるように

からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。

ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。(マタイの福音書6:22-23)

天のお父さん、私が物事を実際にあるがままに見ることができるように、どうか私の霊的な目を癒してください。

私が、あなたが良い父であることを悟ることができますように。あなたが私を本当に愛してくださっているゆえに、私は何も心配する必要がないということを理解できますように。

私が、この世とすべて世にあるものが過ぎ去ることを悟ることができますように。

私が何が最も大切なのかを理解できますように。すなわち、私があなたの義と御国を優先する者となりますように。

多くの場合、私の目は病んでいます。ですから、どうか私の目を癒してください。

私があなたを、ほかのどんなものよりも大切にする者となりますように。また、私が、あなたから委ねられた、あなたが愛しておられる人々を大切にする者となりますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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あなたの心を映す者となりたい

ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。(マタイの福音書5:48)

天のお父さん、私はあなたのようにもっとなりたいです。私の失敗をすべてご存じです。私の義と愛が、あなたの義と愛に到底及ばないことを、あなたはよくご存じです。

それでも、私へのあなたの愛とあわれみに眼差しを向けてくださるとき、どうか、あなたのようになりたいという願いを私のうちに増し加えてください。

あなたの麗しさと完全さを仰ぎ見るとき、私があなたのようにもっとなりたいと心から願う者となりますように。

I want to walk in the image of you,
あなたの姿をもち、歩みたいです。
Like a child imitating what his Father would do,
自分の父親を真似する子どものように。
A mirror of your heart.
あなたの心を映し出す者となりたいです。

–クリス・クリスチャン

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神の子どもの祈り

イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。

そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(マタイの福音書3:16ー17)

天のお父さん、どうして、恵みによって、あなたは私のために天を開き、御霊を私に遣わし、「これはわたしの愛する子どもです。わたしはこれを喜ぶ。」と仰ることができるのでしょうか。

どうしてでしょうか。それは私には把握しきれない真理です。でも、私は心から感謝します。

ですから、私が悔い改めの実を結ぶことができるように助けてください。あなたは、私がどんな罪と戦っているのかをすべてご存じです。

パリサイ人たちやサドカイ人たちのように、ただ義人のふりをしたくはありません。私が真の義の実を結ぶことができるように助けてください。

イエス様、あなたは御言葉によって、私がすでにきよい者であることを宣言してくださいました。ですから今、あなたの御言葉が私のうちにとどまるようにしてください。

その御言葉が私を刈り込み、形成し、変えてください。あなたの御言葉によって、私の言動が変えられるようにしてください。

あなたの御言葉によって、私の罪を明らかにしてください。

そして同時に、あなたの御言葉が、あなたの愛と赦しを私に思い起こさせてください。

あなたの御言葉によって、私があなたと共にもう一歩進み、あなたのようになるように励まされますように。

あなたはブドウの木、私はその枝です。私がどのようにしてあなたにとどまることができるかを教えてください。

あなたを離れては、私は何もすることができません。でも、あなたにとどまるなら、私は多くの実を結びます。私は心から、あなたのために多くの実を結びたいのです。(ヨハネ15:3〜7)

聖霊様、あなたがイエス様を導き、満たされたように、どうか日々、一瞬一瞬、私を導き、満たしてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書のデボーション

私たちとともにおられる神

このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。

「見よ、処女が身ごもっている。 そして男の子を産む。 その名はインマヌエルと呼ばれる。」

それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。(マタイの福音書1:22ー23)

今朝、私はその最後の言葉に思いを巡らせました。つまり、「神様が私たちとともにおられる」ということです。

私たちとともにおられる。

私たちから遠く離れておられない。

私たちとともにおられる。

神様は、私たちをご自身の愛にふさわしくない者と見なして、私たちから遠ざかられることはありません。

私たちとともにおられる。

私たちの罪や失敗をご覧になっても、私たちをお見捨てにはなりません。

私たちとともにおられる。

私たちを常に責めておられるのではなく、むしろ、私たちを擁護してくださっています。

私たちとともにおられる。

敵が私たちを攻撃するとき、神様は私たちを見捨てることなく、私たちのために戦ってくださいます。

私たちとともにおられる。

私たちの神様は、確かに私たちとともにおられます。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)

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マタイの福音書のデボーション

私たちの上のキリストの血

すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」(マタイの福音書27:25)

民がその言葉を言ったとき、彼らが意味したのは、「イエスの死の責任を取ります。私たちにその責任を負わせていいです」ということでした。

しかし皮肉なことに、十字架においてイエス様は、私たちの罪の責任を取ってくださいました。

そして今、別の意味で、イエス様の血は私たちの上にあります。

神様が最初の契約を結ばれたとき、モーセは子牛と雄やぎの血をイスラエル人たちに振りかけました。その時、モーセはこう言いました。

これは、神があなたがたに対して命じられた契約の血である。(ヘブル9:20)

どうして、民はその血を振りかけられたのでしょうか。なぜなら、血を流すことがなければ、罪の赦しはないからです。(ヘブル9:22)

しかし、雄牛と雄やぎの血は、実際に罪を除くことはできませんでした。そのいけにえは、ただイスラエル人たちに自分の罪を思い出させるものであり、イエス様の十字架の働きの伏線でした。(ヘブル10:1ー4)

けれども今、イエス様はまことの幕屋、すなわち天に入り、ご自身の血によって私たちの救いを成し遂げてくださいました。(ヘブル9:11ー12)

そういうわけで、イエス様が死なれたとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。その幕は、神とその民の間にある隔ての壁の象徴でした。

そして、イエス様が死なれたとき、神様はこう言われたのです。

「あなたは新しい契約の血を振りかけられました。あなたの罪は赦されました。だから、あなたは自由に私に近づくことができます。」(マタイ26:28)

だから、ヘブル書の言葉を心に留めておきましょう。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブル10:19ー22)

イエス様の血は私たちの上にあります。だから、喜びを持って、神様に近づきましょう。

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福音の物語における私たちの役割

まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」

すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。(マタイの福音書26:13-15)

その言葉を読んだとき、私が気付いたのは、人々がラザロとマルタの妹マリアとその行為だけではなく(ヨハネ12:1-8)、ユダとその行為をもよく覚えているということです。

マリアはイエス様への愛のために覚えられています。ユダは、イエス様を裏切ることのために覚えられています。

そして、私はこう考えました。神様はエデンの時代から今まで、福音の物語を書き続けておられます。その物語の中で、私はどんな役を演じているのでしょうか。人々は私のことについて何を思い出すでしょうか。彼らは、どんな物語を語るでしょうか。

そして、ペテロのことを考えました。人々は彼のことも覚えています。彼らはペテロの大きな失敗をよく覚えています。ペテロは三度、「イエスを知らない」と言い張りました。けれども、ペテロは神の恵みを受けた者としても覚えられています。

それが福音の中心です。福音は神の恵みについての物語です。福音は、私たちの罪の赦しのために十字架で砕かれたキリストのからだと、流された血潮についての物語です。

自分の罪や壊れた人生を見るとき、私たちはよく落ち込んでしまいます。しかし、マリアとペテロのように、私たちは神の素晴らしい愛と恵みを受けた者です。それが、神様が書き続けておられる福音の物語における、私たちの役割です。

それを喜びましょう。

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神様を本当に知っている?

あなたのことをよくわかっている。(マタイの福音書25:24、英訳)

イエス様の第二のたとえ話で、悪いしもべはご主人にそう言いました。しかし、そのしもべは実際にはご主人のことをよく理解していませんでした。ご主人に関してゆがんだ考え方を持っていたため、ご主人とは全くかかわりたくなかったのです。

そのしもべと同じように、多くの人々は神様に関して、ゆがんだ考え方を持っています。特に、彼らは神様の戒めや罪の裁きを見ると、「神様は良い方、正義の方」とは言わず、「神様がそのような方なら、神様とは全くかかわりたくない」と言います。

また、ある人たちは神様を知っていると主張しますが、自分の行動によって、実際には神様を知らないことを証明してしまいます。つまり、神様を知っている人は、神の民を愛する者です。

羊とやぎのたとえ話において、私たちはその真理を知ることができます。イエス様によれば、私たちが神の民を祝福するとき、イエス様を祝福しているのです。

しかし、神の民を無視したり、虐待したりするとき、実際にはイエス様に対してそうしてしまっているのです。

(マタイ10:40-42と使徒の働き9:4-5に、その原則が示されています。)

もしかすると、ヨハネはそのたとえ話を思い巡らしながら、この言葉を書いたのかもしれません。

この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。(第一ヨハネ3:17)

私たちは本当に神様を知っているでしょうか。

神様が良い方であると信じているのでしょうか。

そして、神の民を愛しているのでしょうか。

愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。

愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。(第一ヨハネ4:7-8)

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罪の重荷に苦しむ人を支える

また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。(マタイの福音書23:4)

私たちは、パリサイ人たちや律法学者たちのように、神様の律法に余計なルールを付け加えることはないかもしれませんが、自分の罪によって苦しんでいる人たちを責めるのは、案外簡単なことです。

しかし、神様は、私たちが単に人を責めたり、逆にその人の罪を軽視したり、無視したりするのではなく、むしろ力となって、その人が罪を乗り越えることを助けるように望んでおられます。

そうする中で、私たちが神様から恵みと憐れみを受けたように、私たちも彼らに恵みと憐れみを与えるべきです。

だから、私たちの主の心を持ち、その言葉を心に留めておきましょう。

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28-30)

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わたしはあなたの神

死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。(マタイの福音書22:31-32節)

冬休みにハワイに帰ったとき、11年前に父の遺灰が散骨された場所を訪れました。

今日の個所を読んだとき、キリストにある私たちの希望を思い起こしました。

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とおっしゃった神は、今こう語っておられます。

「わたしは、あなたの父ジョージの神である。わたしは、ロブ牧師や、あなたが愛し、私を知っていたすべての人々の神である。さらに、わたしはあなたの神である。

今よりとこしえまで、わたしはあなたの神である。なぜなら、今よりとこしえまで、わたしはインマヌエル、あなたと共におられる神であるから。」

主よ、あなたにある希望を感謝します。あなたは死んだ者の神ではなく、あなたを知っている生きている者の神です。

だから、暗闇の中にいる人々や、絶望している人々に、その希望を伝えることができるように助けてください。今年、私があなたにある希望を彼らに分かち合うことができるように助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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自分が間違っていることを認める

多くの人が、自分が間違っていたと認めたくないものです。私もそうです。

祭司長や律法学者たちも同じでした。彼らは初めから、イエス様とバプテスマのヨハネを正当に評価しませんでした。

さらに、イエス様とヨハネのミニストリーによって変えられた人々を見ても、自分が間違っていたと認めようとはしませんでした。

その結果、彼らは最終的に粉々に砕かれてしまいました(マタイの福音書21:44節)。

それに対して、収税人や遊女たちは、ヨハネとイエス様の言葉を聞いて、謙虚に悔い改めました。そのゆえ、彼らは神様の恵みを受けました。

主よ、私の心が頑なになるときがあります。自分が間違っていると認めたくない時も、たくさんあります。どうか赦してください。私は、あなたと御国のために実を結びたいと願っています。

ですから、私が間違っているとき、それを認める心を、また、すぐに悔い改める心を与えてください。私があなたのようになりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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頑なな心

イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。(マタイの福音書19:8)

しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」(14節)

天のお父様、新年を迎えるにあたり、私が柔らかい心、子どものような心を持つことができますように祈ります。

すなわち、あなたに信頼する心のために祈ります。また、あなたの道が最善であると信じる心のために祈ります。そして、自分の罪にしがみつかず、言い訳をしない心のために祈ります。

あなたが私のために用意された次善のものに甘んじたくはありません。すなわち、あなたの「許し」にだけ満足したくはありません。

むしろ、あなたが私のために計画された最善を望みます。あなたが初めから私のために備えてくださったものを望みます。

ですから、私の心の頑なな部分を示してください。私の心の耕地を開拓してください。今年、あなたの鋤の刃が私の心の地面に深く食い込むように。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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人々をつまずかせる?

わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。

つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。(マタイの福音書18:6ー7)

主よ、私が決してあなたの子どもをつまずかせることがありませんように。私の人生を通して、人々があなたに近づくことを願います。人々をあなたから遠ざけることはしたくありません。

ですから、私のすべての行いとことばを守ってください。私のすべての行いとことばが、あなたの子どもたちを倒すものではなく、むしろ彼らを建て上げるためのものとなりますように。

あなたは、十字架で死なれるほどに、彼らを尊ばれました。ですから、私もあなたのように彼らを尊ぶことができますように。あなたの子どもたちへの愛の心を、私に与えてください。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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私の愛する子に聞け!

「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」。。。(マタイの福音書17:5)

クリスマスはもう終わりました。クリスマスの季節にイエス様のことを考えていた人がいたとしても、今では、多くの人々がイエス様のことをまったく考えていないかもしれません。

それも無理はありません。クリスマスのとき、人々が思い浮かべるイエス様のイメージは、飼い葉桶に寝ている赤ちゃんです。

赤ちゃんのイエス様は、人々に従順を求めることはありません。

しかし、天の父は「私の子に聞け」と命じられます。なぜなら、イエス様は2000年前に生まれた人間にすぎない方ではないからです。

イエス様は神の子です。イエス様は、天の父が愛される御子です。天の父はイエス様を喜ばれます。

ですから、クリスマスが終わっていても、私たちは毎日、天の父の言葉を忘れずに、御子に耳を傾けましょう。そして、それだけでなく、イエス様に従いましょう。

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喜びに動かされて

天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。(マタイの福音書13:44)

このクリスチャン生活を送るとき、私たちは何によって動かされているのでしょうか。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」などの言葉を読むと(マタイ16:24)、私たちは渋々その言葉に従っているのでしょうか。私たちは、ただ何を失うかを考えているのでしょうか。

それとも、その言葉を聞くと、喜びをもってイエス様に従っているのでしょうか。

私たちが捨てるものは、得るものよりも価値がないと、本当に理解しているのでしょうか。

主よ、あなたは良い神です。ですから、私が義務ではなく、むしろ喜びに満ちて、何も惜しまずに、すべてをあなたにささげることができますように。

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イエス様につまずいた?

イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。

目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。

だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」(マタイの福音書11:4-6)

イエス様が私たちの望み通りにしてくださらないとき、私たちは皆、失望することがあるでしょう。

ヨハネも、きっとそのように感じたことでしょう。彼は、イエス様がローマ帝国を倒し、神の御国を確立されることを望んでいました。

しかし、ヨハネは牢に入れられ、最終的には処刑されてしまいました。

それは辛い真理ですが、イエス様が私たちの願い通りに行動されないこともあります。

それでも、ヨハネへのイエス様のメッセージは、私たちへのメッセージでもあります。

「私はあなたの希望です。あなたには今、私が見えないかもしれませんが、私はあなたの益のために働いています。そして、あなたが私に希望を託すなら、最終的にあなたは失望させられることはありません。」

だから、2023年に目を向けるとき、その約束を覚え、ヘブル人への手紙の著者の言葉を心に留めておきましょう。

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。

「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。 遅れることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、 わたしの心は彼を喜ばない。」

しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(ヘブル人への手紙10:35ー39)

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イエス様のようになる

弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。(マタイの福音書10:24ー25)

たぶん、すべてのクリスチャンたちが「私はイエス様のようになりたい」と言うでしょう。

もちろん、イエス様はそれを聞いて、とても嬉しいでしょう。

でも、イエス様のようになることは、いつも楽な人生というわけではありません。

24〜25の前後を読むと、イエス様が私たちに警告しているのは、ある人々が福音を拒絶し、イエス様が迫害されたように、私たちも迫害されるかもしれないということです。

だから、私たちが自分自身に問いかけなくてはならないのは、それを受け入れられるかということです。良いことも悪いことも受け入れるほどに、私たちはイエス様のようになりたいのでしょうか。

イエス様、あなたのようになりたいのです。でも、そのような人生は、いつも楽しくて、楽ではないということがわかります。

時には、あなたが苦しまれたように、私も苦しまなくてはならないのです。また、あなたが拒絶されたように、私も拒絶されることがあるかもしれません。

でも、私には、あなたが私と共におられることが十分です。もし、私があなたのようになることができるなら、私は満足です。

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一言で

ただ、おことばを下さい。(直訳:一言をおっしゃってください。)そうすれば私のしもべは癒やされます。(マタイの福音書8:8)

その百人隊長は、権威と力をよく理解していました。彼は目上の人の権威と力の下に暮らし、自らも権威と力を振るっていました。

目上の人の一言で、彼はすぐにその言葉に従って行動しました。同じように、一言で、百人隊長の僕たちも彼の言葉に従って行動しました。

だから、その百人隊長はイエス様に言いました。「あなたがそのような権威と力を持っておられることを信じます。ですから、一言おっしゃってください。そうすれば、私のしもべは癒やされます。」

百人隊長の反応と比べて、弟子たちの嵐の中での反応を考えてみましょう。イエス様が一言で風と波を静めたとき、彼らは本当に驚いていました。

イエス様が一言で百人隊長の僕を癒し、悪霊を追い出されたのを見たばかりだったのに(13〜16)、弟子たちは本当に仰天しました。

主よ、私の薄い信仰のゆえに、私の目には、あなたが小さく見えることが多くあります。けれども、あなたは小さい方ではありません。

あなたは一言で、病の人を癒し、悪霊を追い出し、嵐を静められます。

一言で、すべてのものを造られ、そしてある日、一言で、すべてを終わらせて、新しい天と地を造ってくださいます(第二ペテロ3:5-13)。

ですから、私が百人隊長のような信仰を持つことができるようにしてください。どんな問題や嵐の中にあっても、あなたに信頼することができるように助けてください。

あなたが大いなる、素晴らしい神であることを感謝します。アーメン。

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自分の罪に気づく

先日、マタイ6:22ー23を読んだとき、「私の目は健やかなのだろうか?」と考えました。

健やかな目を持っていれば、私は自分の罪や欠点を見ることができるはずです。しかし、自分の罪や欠点を見逃し、周囲の人々のそればかりを見るのは、いかに簡単なことでしょうか。

英語のことわざに、「最も悪い種類の欺瞞は自己欺瞞である」というものがあります。イエス様の言葉を借りれば、もし人が自己欺瞞に陥っているとしたら、その闇はどれほど深いものでしょうか。(マタイ6:23)

(主よ。)だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを 傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。 主よ、わが岩 わが贖い主よ。(詩篇19:12ー14)

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健やかな目?悪い目?

からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。

ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。(マタイの福音書6:22ー23)

上のことばを反芻しながら、私は考えました。「私の目は健やかだろうか。私は物事を正しく見ているのだろうか。」

私は神様からの称賛を、人からの称賛よりも大切にしているだろうか。私は誰を喜ばせたいのだろうか。

また、この世のものを正しく見ているだろうか。その価値を正しく評価しているだろうか。つまり、この世のものよりも、神様とその御国を大切にしているのだろうか。

そして、私は神様のことを正しく考えているだろうか。神様を良い父として見なしているだろうか。神様が私を愛しておられると信じているだろうか。そのことを信じて、私は経済や健康や必要なものについて、過度に心配せずに生活しているだろうか。

主よ、私に健やかな霊的な目を与えてください。私が物事をあるがままに見ることができますように。

私が毎日、あなたの光の中を歩む者となりますように。「いのちの泉はあなたとともにあり あなたの光のうちに 私たちは光を見るからです。」(詩篇36:9)

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従い、信じ、礼拝する

イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」 」マタイの福音書4:4;申命記8:3)

天のお父様、私が欲しいものや必要なものを与えてくださらないときがあります。

それは、それらが悪いものだからではなく、むしろあなたが私に大切なことを思い出させたいからです。

この世のものは良いものであり、大切に思えるかもしれませんが、最終的にそれらは私に豊かな人生を与えることはできません。私に豊かな人生を与えるのは、あなたの口から出る一つ一つのことばによって生きることです。

ですから、イエス様と同じように、私があなたの良いことばに従う者となるように助けてください。(ヨハネ4:34)

イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」(マタイ4:7;申命記6;16;出エジプト記17:7)

天のお父様、あなたが私を本当に愛しておられることを信じています。あなたがいつも私と共にいてくださることを信じています。

ですから、イスラエルの民のようにならず、私が辛いときにもあなたの愛を疑うことがないようにしてください。むしろ、イエス様のように、小さな子どもが良いパパを信頼するように、私があなたに完全に信頼する者となるように助けてください。

そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」(10節;申命記6:13)

天の神様、あなただけが私の礼拝にふさわしいお方です。ですから、毎日、毎秒、私の言葉や思いや行為、すなわち私の命のすべてが、あなたへの礼拝となるようにしてください。私が他のものを礼拝することがないように。私が他のものに仕えることがないように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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クリスマスの祈り

主よ、私が決してあなたのことを当たり前のものだと思うことがないように。あなたの不思議さに心打たれる感動を、いつまでも失うことがないように。

祭司たちと律法学者たちは、感動を失ってしまったようです。彼らは毎日、聖書を学び、さまざまな宗教的な儀式を行っていました。しかし、あなたが生まれたと聞いても、あなたを探し求めようとはしませんでした。

むしろ、彼らは変わらない心で、自分の学びや儀式に戻っていきました。

主よ、私が博士たちのようになれますように。あなたを求め、あなたを見たとき、喜びに満たされ、ひれ伏して礼拝する者となりますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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クリスマスのメッセージ

マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイの福音書1:21)

「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

その言葉を聞いて、ヨセフはとても驚いたでしょう。

「私の息子が自分の民をその罪から救う?どういうことだろう?私の息子がどうやって人々をその罪から救うことができるのだろうか。」

その時、ヨセフは十字架をまったく想像できなかったでしょう。

もし御使いが、「この方はローマ人たちからお救いになる」と言っていたら、ヨセフはたぶんすぐに理解できたでしょう。なぜなら、神様は似た言葉をサムソンの両親に語られたからです(士師記13:5)。

しかし、「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」とは?

現代でも、その言葉を聞いて、ヨセフと同じように戸惑う人は多いでしょう。

もし彼らが自分に救いが必要だと思えば、政府の圧制からの救いを考えるでしょう。または、経済的な問題、健康の問題、家庭の問題などを考えるでしょう。

それらの問題が取り去られれば、喜びと平和を得られると考えるでしょう。

だから、もし彼らが祈ろうと思っても、それらの問題のために祈るでしょう。

けれども、彼らが気づいていないのは、自分の最大の問題が自分の罪であるということです。つまり、自分の罪からの救いを必要としていることに気づいていないのです。

多くの人々は自分の罪を軽んじています。また、自分の行為を罪として認めていません。

その一方で、ある人たちは自分の罪によって罪悪感と後悔を抱いていますが、どうしたらよいかわかりません。

それでも、どちらの場合でも、メッセージは同じです。

「イエス様がご自分の民をその罪からお救いになるために来られました。」

ですから、クリスマスのことを考え、私たちの愛する人々にクリスマスの意味をどのように説明すべきかを考えるとき、そのメッセージの中心を心に留めておきましょう。

イエス様がご自分の民をその罪からお救いになるために来られました。

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自分の目的を果たす神

この大変な時期、牧師たちはよく言います。「神様はまだこの世を治めておられます。神様はコントロールを失なっておられません。」

でも、私たちはそう信じるでしょうか。

今日の個所で私たちが学ぶのは、そう見えなくても、神様はまだすべてのことをコントロールしておられることです。

神様は初めから、自分の計画を現わしまた。神様はアブラハムに約束しました。「あなたを通して、私はすべての国々を祝福します。」

そのあと、神様はダビデに約束しました。「あなたの子孫は永遠に王座に座ります。」

でも、神様はどのようにその約束を守ったでしょうか。神様はずっとアブラハムとダビデの子孫を祝福したのでしょうか。

いや、実は、メシアの系図を見ると、罪によって堕落する人々、また、罪によって壊れた人々が多いとわかります。

ユダとその兄弟たちは弟ヨセフを殺そうと思ったけど、神様が彼らを制止したので、結局、彼らはヨセフを奴隷として売りました。

ヨセフは13年ぐらいエジプトの奴隷でしたけど、神様はコントロールを失ったというわけではありません。むしろ、神様はヨセフを用いて、ヨセフの家族だけではなく、エジプト人たちと周りの国々の人たちを飢饉から救ってくださいました。

また、イスラエル人たちの罪のため、神様は彼らを裁いて、飢饉を送りました。皆は自分の目に正しいと見えることを行なっていたけど、結局、完全に堕落する人たちになりました。

その時、その壊れた社会では、ナオミと他の人たちは苦しみました。ナオミの夫と息子たちが亡くなったとき、ナオミは、「神様はコントロールを失ったのかしら」と思ったかもしれません。

でも、その苦しみを通して、神様はルツという外国人をメシアの系図に入らせてくださいました。

その大変な時期に、神様はもうアブラハムに対する約束を守り始めました。つまり、アブラハムを通して、神様はイスラエルだけではなく、すべての国々を祝福し始めたことです。

イスラエルの歴史で、良い王たちもいたし、悪い王もいました。ダビデは良い王だったけど、夫として、また、父としてよく失敗したので、その家族は引き裂かれそうでした。

そして、その孫レハブアム王のバカな決断によって、イスラエル王国は二つの王国に分かれました。

その結果は、内戦や、偶像礼拝、子供の犠牲、ほかのひどい罪でした。だから、最終的にイスラエル人たちはバビロンに追放されました。そのとき、神様はコントロールを失っていたでしょうか。

いや、その時でも、神様はコントロールを失っていませんでした。70年後、神様は自分の民をイスラエルに引き戻してくださいました。

ある国々はイスラエル人たちに反対して、抑圧して、完全に殺そうとしました。それでも、神様はメシアの系図を守りました。

そしてイエス様が生まれました。イエス様の名前は、神様の計画と目的を表現します。「ヤハウェは救いです。ヤハウェは私たちを救ってくださいます。」(「ヤハウェ」とは、神様の名前です。)

私たちの周りのカオスの中で、その真理は私たちの希望です。

神様は、約束したことを必ず果たしてくださいます。神様の約束と計画を阻むものは、全くありません。

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聖さの中心

[この記事は、私が伝えた教会のメッセージでした。私の通訳者は、このメッセージを翻訳してくれました。]

SNSを使ってる人はどのくらいいますか?私もSNS使ってます。でも時々、ちょっと怒りを感じる書き込みを見かけるときがあります。そんな時は、つい言い返しそうになる口をぐっと抑えます。正確に言うと、書き返しそうになる “腕を” 抑えます。

最近Facebookでこう言う投稿を見ました。「クリスチャンていうのはさ、『あれは罪、これは罪、なぜなら旧約聖書にそう書いてあるから』って言って人を裁くよね。でも旧約聖書には『シーフードは食べたらいけない。二つの素材が混じった服は着たらいけない。土曜日に働いてはいけない。』と書いてあるじゃないか。でもそれをクリスチャンは今は守ってないことに関しては、どういうつもりなんだい?」という書き込みでした。

この人は何を言いたいんでしょう?「クリスチャンは矛盾してる。旧約聖書から、自分の好きなところだけ選んで従って、それ以外は見ないふりしてる。」ということでしょう。

この指摘は正しいですか?もしあなたがこのように問われたら、何と答えますか?アメリカのある有名な牧師が、このことに関して最近非常に”面白い”回答を導き出しました。「もう旧約聖書の律法はすべて忘れてしまえ」と。

その牧師はこう言ってるんですね。「十戒はもう気にしなくていいんです。汝らはもう十戒に従うことなかれ。なぜならこれらはもはや現代を生きるあなたへの命令ではないんです。」

さらにエスカレートしてこう言います。「ペテロも、ヤコブも、パウロも、クリスチャンの信仰から旧約聖書を切り離すことにしました。つまりこの使徒たちは、教会からこの世の価値観や仕組みから切り離し、旧約聖書の掟すら切り離したんです」。

はっきりさせておかないといけないのは、この牧師は決して、私たちは好きなように生きていい、とは言ってはいません。彼は、私たちに大切なのは愛の律法だ、と言いたいのです。愛の律法とは、「神を心から愛しなさい。自分を愛するように隣人(となりびと)を愛しなさい。」です。これは完全に真実です。でも、だからと言って、愛の律法から十戒を切り離すことはできません。愛の律法と旧約聖書にある倫理的な律法を切り離すことはできません。イエス様はそうされませんでした。イエス様の弟子たちもそうはしませんでした。実際、愛の律法とは旧約聖書の倫理的律法から来ているんです。(レビ19:18, 申命6:5)

じゃあ、私たちにとって旧約聖書って何でしょうか。神様を喜ばせるために、一個一個すべての律法を厳密に守るべきでしょうか。じゃあ食べ物に関しての律法は?着るものに関しては?もっと言えば、いけにえを捧げることは?なぜ私たちはもういけにえを捧げなくていいんでしょうか?このようなことを、皆さんは考えた事ありますか?

最近こういう本をもらいました。「聖書的に生きる1年。」1年間、この本の著者は、聖書に書いてある戒めの一つ一つを厳格に守るということにチャレンジしました。もちろん その中には、人のものを欲しがらない、嘘をつかない、ゴシップをしない、というものも含まれています。そして、安息日に休む事、特定の食べ物は食べないこと、服装のことも、全部聖書の通りに守るようにしました。不貞を働く夫がいれば、その人に石を投げることすらしました。(まあ、石といっても小石ですけど。) 私たちも皆こういうふうに生きるべき?これが聖いってことでしょうか?

先週からSteadfast断固というシリーズが始まりました。聖いという事が、毎日の日常の生活の中ではどういう事なのか、を一緒に考えてみましょう。

イエス様の弟子の一人、ペテロはこのように言いました。

あなたがたを召してくださった聖なる方(神様)にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。(第一ペテロ 1:15-16)

この箇所では、ペテロは旧約聖書のレビ記というところから引用しています。(レビ11:44-45, 19:2; 20:7)レビ記で神様は民に繰り返し語られています。「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」そして、その度に、神様はこうも言っています。あなたがたは周りの人たちと同じことをしてはならない。 (レビ18:3; 24-30, 20:23-26) あなた方は選り分けれたほかとは違う存在なのです。

ペテロが、旧約聖書から引用したということは、実はすごく大事な意味があります。つまり、こと聖さに関して言うと、私たちと旧約聖書は大事な関係がある、ということです。じゃあ、旧約聖書と私たちの関係って本当のところ、何でしょうか。私たちが聖い生き方をしようとするとき、旧約聖書は私たちに何を語っているのでしょうか。イエス様が何と言われたか、見てみましょう。

マタイによる福音書5:17から。

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。(17-20)

ここはとても大事なことですが、イエス様は神様のことばに対して、最大限の敬意を払っています。イエス様が律法や預言者について語るとき、それらはすべて旧約聖書から語っています。そしてこう言っていますよね。「わたしが来たのは、律法を廃棄するためではないです。成就するために来たのです。」

どういう意味でしょうか。二つ意味があります。一つ目は、イエス様は神の律法に完全に従いました。大工として30年間を過ごし、3年間は福音を伝える説教者としていきました。その間、一度として神の律法を破ることはありませんでした。神がしなさいということはしたし、神がしてはいけないといわれることは決してしませんでした。私たち「してはいけないことをしてしまうこと」イコール罪と考えがちですよね。でも、実は「しなければならないことをしない」ことも罪です。イエス様はどちらにも従いました。

二つ目は、旧約聖書はイエス様を指し示しているということです。旧約聖書の中にある300以上もの預言がイエス様を指し示しています。 それだけではないです。旧約聖書の中にあるストーリーもイエス様のことを示しています。ノアの箱船や、ヨナと大きな魚や、モーセがイスラエルの民を連れてエジプトを脱出した、これらのストーリーは、すべてイエス様のことを指しています。

律法もそうです。イスラエルの民が捧げたいけにえはイエス様を指し示しています。いけにえは、人の罪は、誰かの死を持って贖わなければならないということを示しました。幕屋もそうです。幕屋は、神がわたしたちの間に住まわれるということを表しました。. 民法もそうです。民法はイエス様の聖さ、正しさ、愛を表しています。そして倫理的律法は、イエス様がいかに罪の無いお方か、ということをを示しています。

預言、ストーリー、律法これら全てがイエス様のことを指し示し、またイエス様によって成就しました。だから、これらは今イエス様が説明したように イエス様の教えに従って、理解するべきなんです。この山上の説教と呼ばれる箇所の最後の部分では、イエスさまの話を聞いていた人々は、イエス様が権威を持って話されることに驚いた、とあります。イエス様はこのことを権威を持って話すことができました。なぜなら、イエス様ご自身ががこれらを作られた方だからです。そしてすべてはイエス様のことを指し示していました。

だから、「どうして旧約聖書の律法のうち、これは守るけど、あれは守らないのはなんでだろう」って思ったら、これを思い出してください。私たちは「イエス様の権威に従う」のです。

なぜならすべての律法はイエス様を指し示しているからです。つまりどの律法が今も有効で、どの律法がそうじゃないのか、それを知りたかったら、一番簡単な方法はイエスさまがそのことについてどう教えたかを、調べることです。

そしてイエス様は、旧約聖書についてご自分の弟子たちに教えましたので、弟子たちが何と言っているか、ということも調べることができます。つまり、弟子たちが、「この律法やあの律法は今は当てはまらない」、と言っていたら、それはつまりそうなんです。

だから、私たちはもういけにえを捧げることはしません。だから今はなんでも食べていいのです。イエス様も、弟子もこう言っています。「それらの律法はイエス様によって成就された。果たされた。それらの律法は私たちにイエス様がなぜ必要なのかを表すpictureとして大切です。でも、もはやあなたたちは律法にしばられてはいないのです。」でも、イエス様もしくは弟子たちがこの律法には従うべきとする時、私たちもその律法に従う必要があります。なぜなら、そこには聖く生きるとはどういうことかが、表されているからです。

だから、イエス様は、「すべてが成就されるまでは、律法の中の1ピースすら廃されることはない。」と言われました。イエス様が再び戻って来られるその日まで、私たちには旧約聖書が必要です。

その理由は二つです。一つ目は、旧約聖書と律法はイエスさまがなぜこの地に来られたのかを証言しています。もう一つは、旧約聖書は私たちがどのように生きるべきかを教えてくれます。

だから「旧約聖書はもういらない」とは言えないんですね。私たちには必要です。そして「あなたがそれを軽く扱うなら、天の御国で一番小さいものと呼ばれる。」とイエス様は言われます。さらに、イエス様やその弟子たちが教えた「戒めを破ったり、破るように人に教えたりするものは、天の御国で一番小さいものと呼ばれます。」と言われます。

注目したいのは、イエス様がこの箇所で聖く生きることについて話すときに、いつも十戒を引用してきているということです。でもただ十戒にだけ目を向けさせたいのではないです。イエス様はあなたの心を指さしています。「あなたの心はどこにありますか?」と聞いています。

聖さの中心は、単にたくさんの律法を守ることではありません。「ここからこっちはアウトだけど、ここからこっちはセーフだよね?」と、安全ラインを見極めようとすることでもありません。聖さの中心は、あなたの心が神様のものかどうか、です。

だからイエス様は続けてこう言いました。「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」

律法学者たちやパリサイ人たちっていうのは、当時とてもちゃんとした、宗教的な人々とされていました。でもそれはとても表面的なもので、彼らの心は神様に向いてはいませんでした。もちろん彼らは律法を一言一句守ろうとしていました。でも同時に、いつも、その律法の抜け穴を探していました。残りの箇所からそれが伺えます。

21-22節を読みましょう。

昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(21-22)

イエス様はここで十戒から引用していますよね。殺してはならない。すると、律法学者やパリサイ人はこう言います。「私たちは誰も殺してはいない。だから大丈夫だ。」

でもイエスさまは言われます。「それは良かった。じゃあ、あなたの心の中はどうですか?あなたが怒りを感じた時、あなたはその怒りをすぐに水に流しますか?それともあなたの兄弟姉妹に対して怒りをくすぶらせたままでいますか?」

私たちは、感情を持ってるから、怒りを感じることがあるのは当然です。ただ、その怒りを握りしめたままでいませんか?そうするとどうなりますか?私たちは心の中で、人を殺すんです。

その人に刺々しく話すようになる。言葉で攻撃するようになる。場合によっては、その人を自分の人生から締め出そうとします。それを言葉に出さなくても、行動や態度でそれを伝えてしまうんです。 それが伝えるメッセージは「あなたが死んでしまえばいいのに」です。

イエス様が言ってるのは、「心にそんな怒りや憎しみを抱えたままでいるなら、あなたは神様の命令を破っていることになる」です。

だから23節から26節では、あなたが律法を破り、誰かを傷つけたらなら、まず行って、仲直りしなさい、と言っています。ただ教会に来て、我敬虔なり、という顔で、献金をして祈って、賛美をしないで。まず関係を修復しなさい、と。

あなたはどうですか?行って修復しなければならない関係がありますか?

27節、28節を読みましょう。

『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(27-28)

ここでも十戒から引用しています。ここでも、イエス様は、「もう十戒を守る必要はないよ」と言っているのではなくて、この文字の言葉の向こう側にあるものを見なさい、そして自分の心を探りなさい。あなたは心の中で、姦淫の罪を犯していないですか?」と言っています。

夫である皆さん、妻である皆さん、自分の夫や妻以外の異性を見て、「あー、この人が私の伴侶だったらな」って思ったこと、ありますか?それは、神様の目には、姦淫です。心の中であっても、その人を欲しがることは、十戒を破っていることになります。

男性にとってポルノは大きな誘惑です。それも、心の中で姦淫を犯していることになります。

イエス様は言います。「あなたのその目があなたをつまづかせるなら、えぐりだしてしまいなさい」と言われました。

文字通り、えぐりだせと言っているのではないです。イエス様が言われるのは、心の中をあつかうためには、そのくらい極端でありなさい、と言われました。

最近アメリカのあるクリスチャンの政治家が、あることで批判にさらされました、それは、たとえ仕事であったとしても、女性と二人きりでランチやディナーに行ったりしないというふうに彼が決めたからです。周りの人は彼を批判しました。

「いやいやちょっと待って。あなたの周りの女性がみんなあなたを誘惑しようとしてるとでもいうの?」といって彼を批判しました。

でも彼が言ってるのはそうじゃないですよね。彼が言ってるのは、「僕は自分自身を信用していない。僕は罪人です。だから気をつけていなければ、僕の心が僕をどこに連れて行くか、わからない。」

極端にも見えるかもしれないど、彼は自分の心の弱さを真剣に取り扱いました。私たち全員が彼の真似をする必要はないです。でも罪のことを考える時、私たちもそれを避けるために、そのくらい真剣に向き合う必要があります。あなたはどうですか?

多くの場合、私たちは罪を軽く考えてしまいます。だから、旧約聖書の律法を読むと、罪に対する裁きがあまりにも大きすぎるように、神様が厳しすぎるように感じるんですね。私たちは、神様が真剣に考えてる罪をとても軽く考えている。

でも神様は罪はとてもシリアスなものと考えた。だから、罪のあがないのためにイエス様を十字架に送ったんです。イエス様は殺人や、レイプや、盗みといった罪のために死んだのではありません。あなたの口から出る汚れた言葉のために死んだのです。あなたが誰かを傷つけた言葉のために死んだのです。あなたがついた嘘のためにです。あなたが、私が自己中心だったから、その罪のために死なれたんです。これらは私たちを地獄に送る罪です。決して軽く扱うことはできません。

イエス様は罪を避けるためなら、どんなことでもしなさい、と言われます。あなたの心はどこにありますか?

31節、32節を読みましょう。

また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ』と言われています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。(31-32)

離婚を経験された人は、この言葉はすごく痛いと思います。ここでイエスさまが伝えようとしていることをまず言いますね、そのあとで、離婚についてもうすこし触れます。

ここでイエスさまが仰っているのは、やはり姦淫についてです。当時、夫が妻に離婚を突きつけることはできました。でもその逆はできませんでした。夫が妻と離婚したいとなったら、その離婚状と呼ばれるものを渡すだけでいいんです。そこには「もうお前は私の妻ではない、誰とでも再婚すればいい。」と書いてありました。

でもイエス様がここで夫たちに言っているのは、夫が妻と不当な理由で離婚する時、それは、妻に対して「好きなように姦淫の罪を犯しなさい」って言ってることになる、ということです。なぜなら神の目には、その離婚は正当なものではなくて、妻はまだその人の妻だからです。だから彼女がもし誰か別の人と結婚するという罪を犯すなら、その責任は元々の夫であるその人にあると。

神様が結婚というものを作られました。それは、いつまでも続く関係としてデザインされたものです。神様がアダムとエバを作られた時、二人は元々永遠のいのちが与えられていたはずでした。永遠に夫婦として生きるはずでした。彼らが罪を犯し、死というものがこの世界に入ってきたそのあとでも、結婚は、死が二人を分かつまで、夫婦を一つに結びつけるものでした。

神様の結婚に対する計画は、最初にそれをデザインされた時と全く変わってはいません。だからもしあなたが、不当な理由で結婚の関係を壊し、他の人と再婚するなら、神様の目には、あなたは姦淫の罪を犯していることになります。

そうなってくるとbig questionが出てきます。じゃあ離婚の、正当な理由って何。

イエスさまがここで言われる様に、相手が自分以外と性的関係を持った時というのがそうです。

パウロはこう言いっています。ノンクリスチャンの伴侶が離れていくなら、離れて行かせなさい。(第一コリ7:15-16)

この二つ以外に、神様が認める離婚の理由はあるでしょうか? あるとしても、私はそれを聖書に見つけることはできません。でも大事なことは、もし他にも正当な理由が あったとしても、この質問自体が正しくないんです。

たとえ、あなたの状況がどうであったとしても、あなたが最初に問うべき質問は、「神様がデザインした結婚から、逃れる方法はありますか」ではあってはいけないです。それはパリサイ人の思考です。だからパリサイ人は神様の結婚への計画からかけ離れたことをしていました。つまりしょっちゅう離婚を繰り返してました。

あなたが神様に聞くべき質問は、「神様、私の結婚を何とかして守る方法はないでしょうか。」「神様、私の心はあなたのものです。あなたは私に何を望まれていますか」。結婚を守ることがいつも可能であるとは言いません。でも夫と妻の両方がその心を持てば、そして神様には対してへり下るなら、希望があります。あなたの心はどこにありますか?

考えて欲しいことはこうです。この中にも、離婚を経験した人がいるでしょう。それはあなたのせいではなかった。あなたの夫や、妻があなたを裏切ったんです。彼らがあなたに背を向けたんです。もしそうなら、どうか自分を責めないでください、なぜならイエス様はあなたを責めません。

でももし、あなたが自分の心を、神に対して、相手に対して頑なにしてしまったが故に、離婚したのなら。もしそうなら、そしてそのことを悔い改めていないなら、どうか、今日、悔い改めてください。悔い改めるなら、あなたは赦しと癒しを受け取ります。神様は離婚のドロドロの醜ささえも、美しいものに変えることのできるお方です。たとえ一度は離婚することになっても、神様が関係を癒してくれて、再度一緒になったっていう夫婦がいることも私は知っています。

もうそうするには遅すぎる人もいるかもしれない。相手はすでに再婚してしまったかもしれないもしくはあなたが再婚しているかもしれない。でも聞いてください。あなたの新しい結婚が良くない形で始まったとしても、神様は、それを贖うことが、修復できるお方です。

聖書にダビデという男性が出てきます。彼はバテシェバという女性と結婚しました。彼のこの結婚は、最も良くない形でスタートしました。ダビデは夫のある女性と関係を持ち、女性を妊娠させました。そして自分が結婚するために、女性の夫を殺しました。でもダビデが心から悔い改めた時、そのことに対する裁きはダビデはもちろん受けましたけれども、神様はダビデの結婚を祝福されました。この結婚がのちに生み出した子孫を知っていますか。イエス様です。神様は結婚を修復してくれます。

あなたの結婚もそうです。でもあなたが悔い改めないなら、最初の結婚を壊した時と同じ態度のままなら、次の結婚もいつか崩れます。もう一度言いますねだから大事な質問は、あなたの心はどこにありますか?

時間がなくなってきたので、もう一つだけ例を見ましょう。43節から45節を開きましょう。

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。(43-45)

最初の自分の隣人を愛しなさい、は、レビ記に出てくることばですが、後半の自分の敵を憎みなさいは、旧約聖書のどこにも書かれていません。じゃあここ、イエス様は間違ってるの?そうではなくて、律法が歪んだ解釈をされている点を指摘しているんです。

律法学者たちやパリサイ人たちは勝手にこう言いました。「神は自分の隣人を愛しなさいと言われる、ということは、その理屈でいうと、敵は憎みなさいってことだよね。」

なぜこういうふうに考えたのでしょうか。律法が本当に伝えようとしていることを見ようとせずに、表面だけとって、私は誰に対して愛を示すべきだろうか?と考え、そしてその範囲を限定し、じゃあ誰に対しては愛を示さなくてもいいだろうか?と考えるようになりました。そして結論は、「じゃあ敵のことは愛さなくてもいいよね!」でした。

このことは、ヒデさんが先月話してくれた、良きサマリヤ人の話にも出てきました。律法の専門家はイエス様に尋ねましたよね。「私の隣人とは誰のことですか?」

彼の本当の質問はこうなんです。「ここからは愛さないといけない、ここからは愛さなくても良い。その境界線のラインはどこにあるんですか?」

イエス様の答えはよく読んでみると、イエス様はこう言ってることがわかります。「律法学者君、君の質問は間違っています。誰が私の隣人かと聞くのではなくて、私は誰の隣人になれますか?って聞くべきです。そして出会うすべての人の隣人になりなさい。たとえその人たちがあなたを憎んでいたとしてもね。」

この少し後の箇所で、イエス様は言われます。もし自分を愛してくれるものだけを愛したとして、それじゃあこの世界の人々と何も変わりません。誰だってそうします。この世界とは違う、聖いものになりなさい。イエス様はこれらの教えのまとめとして、ペテロがレビ記を引用したことと同じような言い方をされています。

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(48)

律法や、十戒や、それらを全て要約した、イエス様と弟子たちが私たちに守る様に言われた愛の律法、いろいろな戒めががありますね。でも聖さの中心とは、これらの戒めを表面を見てただ単に守ることだけではないんです。聖さの中心は、あなたの心が神様のものかどうかです。

今日のメッセージを聞いて、こう感じてる人もいるでしょうか。「私にはそんなの不可能だわ」その通りです。不可能です。だから私たちはイエス様が必要なんです。だから聖霊様に私たちの内側に住んでいただく必要があるんです。この山上の説教の一番最初に、イエス様は何と言われたでしょうか。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(5:3)

イエス様は、「超霊的な人たちは幸いです。天の御国はそういう立派な人たちのものだから」とは言われませんでした。イエス様は、心の貧しい人は幸いです、自分の罪のために苦しみの声を上げる人は幸いです。と言われました。なぜなら、天の御国は、まさにその人たちのためのものだからです。

だからイエス様が来られたんです。私たちのすべての失敗を償うために死なれました。でもイエスさまは死からよみがえりました。そして私たちがイエスさまに心を明け渡すなら、イエス様は私たちの心を作り変えてくれます。そしていつか私たちはイエス様のようになります。イエス様は私たちをこう励ましています。

義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。(5:6)

あなたの心はどこにありますか?義に対する飢え渇きはありますか?イエス様のようになりたいと願う心はありますか?それとも何も思わないですか?

あなたの義が、ただ表面的に決まりを守るだけの律法学者たちと何も変わらないなら、あなたは天の御国には入れません。神様はあなたの心を求めておられます。あなたの心は神様のものですか?

Plant Group Questions
1. マタイ5:17-22, 27-28, 31-32, 43-48を読もう。

2. 旧約聖書に書かれている法の中で、クリスチャンとして、あるものは今も守り、あるものは守らないことについて、不思議に思ったことはありましたか?メッセージを聞いた今、どのようにほかの人に説明することができるでしょう?

3. 聖書の中に書かれている、神様からの命令について、従うのが難しかったり、つい言い訳をして逃れようとしてしまうものはありますか?もしあるなら、それは何ですか?日曜日のメッセージの中で話された個所のものかもしれないし、それ以外でも構いません。

4. 神様の命令を聖書を通して知りながらも、「でも、神様はこんな状況のときは例外ですよね?あんな状況のときは仕方ないですよね?」と聞き続けることは、どうして良くないのでしょうか?

5. クリスチャンの政治家のとった、極端な行動についてあなたはどう思いますか?(たとえ仕事であっても、女性と二人きりでは会わない)あなたの心の中を探ったとき、あなたも、同じように”極端な”対策をとる必要なことがありますか?もしそうなら、それはどんなことですか?そのためにお互いに祈りましょう。