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使徒の働きのデボーション

御国への熱心

パウロは、神の国のことを証しし、モーセの律法と預言者たちの書からイエスについて彼らを説得しようと、朝から晩まで説明を続けた。

ある人たちは彼が語ることを受け入れたが、ほかの人たちは信じようとしなかった。(使徒の働き28:23ー24)

この言葉を読んで、私はパウロの熱心に気づかざるをえません。 神の御国へ導こうとするパウロの熱心は驚くべきものです。

パウロのメッセージを信じる人もいれば、信じない人もいました。しかし、信じるか信じないかに関わらず、パウロの熱心が消えることはありませんでした。

私もそのような熱心を持ちたいと思います。

使徒の働きの最後のいくつかの章を読みながら、コリントの信徒たちに対するパウロの言葉を思い起こしていました。 特に、第二コリント5章では、パウロは自分の動機をはっきりと説明しています。

そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。

そのため、主を恐れることを知っている私たちは、人々を説得しようとしています。。。(24章に登場するフェリクスのことを考えてください。)

私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。 (26章に登場するフェストゥスのことを考えてください。)

というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。(コリント人への手紙第二5:9ー11、13ー15)

天のお父さん、どうかパウロが持っていた御国への熱心を与えてください。キリストの愛に捉えられ、キリストへの愛に動かされ、そして周囲の人々へのキリストの愛に押し出されて、御国のために仕える者とならせてください。

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疲れた者を励ます言葉

神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まして、 私が弟子として聞くようにされる。(イザヤ書50:4)

最近、上の言葉を暗記しようとしています。

そこで、使徒の働き27章を読んだとき、イザヤの言葉はパウロに当てはめられる、とふと思いました。

パウロが神の声を聞くために、神様はその耳を呼び覚ましてくださいました。(使徒の働き27:23ー24)

また、疲れた者をことばで励ますため、神様はパウロに弟子の舌を与えてくださいました。(使徒の働き27:25、33ー36)

私もそのような人になるように願っています。

天のお父さん、あなたの御声に気づくために私の耳を呼び覚ましてください。そして、疲れた者をことばで励ますために弟子の舌を与えてください。

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私の神は小さすぎる?

神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいこととお考えになるのでしょうか。(使徒の働き26:8)

今日、私の心はその言葉に打たれました。

もちろん、私は復活を信じています。しかし、別の意味で、私の心の中で神様を小さく捉えてしまっているのではないでしょうか。

今日、私の同僚のために祈っていました。けれども、その祈りの途中でふと考えました。

「私は祈っているけど、神様がこの願いを聞き届けてくださると、本当に信じているだろうか。もしかすると、ただ希望的観測を口にしているだけなのではないか。」

私はそのような祈り方をしたくありません。私の神は偉大なお方です。そのことを心に留めて、信仰をもって祈りたいのです。

I have made you too small in my eyes.
私は私の目の中であなたを小さくしてしまいました。
O Lord, forgive me.
主よ、赦してください。
And I have believed in a lie
そして、私は嘘を信じてしまいました。
that you were unable to help me.
あなたは私を助けることができないと。

But now O Lord, I see my wrong.
しかし今、主よ、私は自分の過ちを悟ります。
Heal my heart and show yourself strong.
私の心を癒し、ご自身の力を現してください。

And in my eyes and with my song,
そして、私の目においても、私の歌においても、
Be magnified, O Lord.
主よ、あなたが大いなるお方として現れますように。
Be magnified, O Lord
主よ、あなたが褒め称えられますように。

ーードン・モーエン

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イエス・キリストに上訴します!

すると、パウロは言った。「私はカエサルの法廷に立っているのです。。。私はカエサルに上訴します。」(使徒の働き25章)

「法廷」という言葉は、聖書の別の箇所では「さばきの座」と訳されています。特に、「神のさばきの座」(ローマ14:10)と「キリストのさばきの座」(第二コリント5:10)です。

それゆえ、今日の箇所を読んだとき、私の心にはこの思いが浮かびました。

パウロがカエサルのさばきの座の前に立ったように、ある日、私たちも神のさばきの座の前に立たなければなりません。そのとき、サタンは私たちに対して、容赦ない告発を突きつけてくるでしょう。

しかし、パウロへの告発とは異なり、サタンの告発は正当なものであり、私たちは死に値する者です。なぜなら、私たちは確かに多くの罪を持っているからです。

それでも、私たちは神の子として宣言できます。「私はイエス・キリストに上訴します!」

そして、十字架で流されたイエス様の血によって、神様は私たちに対し「無罪」との判決を下してくださるのです。

これは、なんと素晴らしい真理でしょうか。

だからこそ、サタン、または自らの良心さえも容赦なく私たちを責めるとき、大胆に叫びましょう。

「私はイエス・キリストに上訴します!」

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健全な良心にしたがう(2)

そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。(使徒の働き24:16)

23~24章では、パウロが健全な良心に従うことについて二度語っています。(23:1)

なぜ、パウロにとってそれがそんなに重要だったのでしょうか。

おそらく、三つの理由がありました。

第一の理由は、復活の希望があり、いつか必ずさばきの御座の前に立たなければならないと確信していたからです。(15節)

パウロは、コリントの信徒たちにこう記しました。

そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。(コリント人への手紙第二5:9ー10)

しかし、パウロは主への恐れだけでなく、主の愛を深く知っていました。だからこそ、彼はこれも記したのです。

というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。(コリント人への手紙第二5:14ー15)

そして、最後の理由は、健全な良心に従うことで、汚点のない証しを守ることができると知っていたからです。

パウロがフェリクスに神のさばきについて語ったとき、フェリクスは恐れました。(使徒の働き24:24ー25)

もしかすると、フェリクスが賄賂を求めた理由のひとつは、パウロの証しの力を弱めるためだったのかもしれません。つまり、もしパウロが賄賂を渡そうとしたのなら、彼は神のさばきを本当に信じていなかったということになったでしょう。

しかし、パウロは健全な良心を保ち続けたため、その証しは揺らぐことなく立ち続けました。

健全な良心を保つことは、私たちにとってどれほど重要でしょうか。

天のお父さん、私がいつも健全な良心を保てるように導いてください。あなたへの恐れのためです。あなたの愛のゆえです。そして、人々があなたへと引き寄せられるための、汚点のない証しを守るためです。

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健全な良心にしたがう

パウロは、最高法院の人々を見つめて言った。

「兄弟たち。私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました。」(使徒の働き23:1)

今日の箇所を読んだとき、「パウロの言葉を言うことができたらいいのに」と思いました。

もちろん、そう言うときに、傲慢で独善的な態度を取ってはいけません。

実際、私たちは健全な良心に従おうとしても、時にはひどいことをしてしまうことがあります。パウロは、他の多くの人々以上に、そのことを理解していたでしょう。(第一テモテ1:13〜14)

しかし、私は決して自分の良心に反して故意に罪を犯したくありません。

むしろ、自分の罪を見いだすとき、私はパウロのように柔らかい心を持ち、すぐに悔い改めたいです。(使徒の働き23:5)

だから、これはいつも私の心の祈りです。

だれが、自分の過ちを悟ることができるでしょう。

どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと、私の心の思いとが御前に受け入れられますように。主よ、わが岩、わが贖い主よ。」(詩篇19:12〜14)

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何をためらっているの?

さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。(使徒の働き22:16)

今まで気づいていませんでしたが、サウロはバプテスマを受けることをためらっていたようです。

なぜでしょうか。

もしかすると、過去のことを思い出し、罪悪感を抱いていたのかもしれません。

「神様は私のような者を愛することができるのだろうか?」と考えていたかもしれません。

「神様は御国のために私のような者を本当に用いることができるのだろうか?」と悩んでいたのかもしれません。

もしかすると、あなたもサウロのようにバプテスマを受けることをためらっているかもしれません。自分の罪や弱さ、また疑いを感じているのではないでしょうか。

もしかしたら「私はまだ聖書について十分に理解していない」と思っているかもしれません。

「クリスチャンとしてちゃんと歩めるだろうか?」と不安に感じているかもしれません。

しかし、ためらわないでください。バプテスマを受ける前に、完全な人など誰もいません。完全な信仰を持つ人もいません。神様とそのみ言葉を十分に理解している人もいません。

私はクリスチャンとして40年以上歩んできましたが、それでもなお、これらを達成したとは言えません。

神様が望まれるのは、あなたがご自身と共に歩み始めることです。そして、神様との旅は<ひとつの決断から始まります。 「イエス様、私はあなたを主、救い主として信じ、従いたいです。」

もし、あなたがこの言葉を心から言うことができるなら、アナニアの言葉はあなたにも適用されるのです。

さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。(使徒の働き22:16)

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知らずに礼拝している?(2)

この人は主の道について教えを受け、霊に燃えてイエスのことを正確に語ったり教えたりしていたが、ヨハネのバプテスマしか知らなかった。。。

それを聞いたプリスキラとアキラは、彼をわきに呼んで、神の道をもっと正確に説明した。(使徒の働き18:25ー26)

その言葉を読んだとき、私は「アポロも、ある意味で知らずに神様を礼拝していたのではないか」と思いました。

彼はある程度までイエス様のことを知り、熱心に語り教えていましたが、神様についての知識にはまだ欠陥があったようです。

しかし、多くのアテネ人とは異なり、アポロはその欠陥を埋めたいと切に求めていました。そして、その欠陥が埋められることで、アポロは神様をさらに深く知り、神様は御国のために彼をより効果的に用いることができました。(使徒の働き18:27ー28)

あなたはどうでしょうか。あなたはイエス様を知り、熱心に仕えているかもしれません。けれども、私たちは皆、神様についての知識にはまだ欠陥があります。

その欠陥を残したまま満足しているでしょうか。それとも、積極的にその欠陥を埋めようと努めているでしょうか。

イエス様はこう言われました。

しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。

神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23ー24)

だからこそ、神様についての知識に欠陥を残したまま生きるのではなく、積極的にその欠陥を埋めていきましょう。そうすることで、神様が望まれるように、私たちは御霊と真理によって礼拝する者となるのです。

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知らずに礼拝している?

あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております。 。。あなたがたが知らずに拝んでいる。。。(使徒の働き17:22ー23)

今日、上記の言葉を思い巡らせていました。アテネ人たちは宗教心が厚い人々でしたが、何を拝んでいるのかを知りませんでした。彼らの神様についての概念は大きく誤っていたため、パウロはその考え方を正そうとしました。

サマリア人たちも同じ問題を抱えていました。イエス様はあるサマリア人にこう言われました。

あなたがたは知らないで礼拝しています。(ヨハネ4:22)

もちろん、多くの人々は神様について誤った考えを持っています。

しかし、ある意味では、私たちクリスチャンも神様を知らないまま礼拝していることがあるでしょうか。

言い換えると、私たちの神様についての知識には、どれほど欠陥があるのでしょうか。また、私たちの個人的な経験によって、神様への理解はどれほど歪められているのでしょうか。

私たちの多くは、神様が自分たちの天のお父さんであることを理解しています。

けれども、父親との関係によって、「天のお父さん」というイメージがどれほど歪められているでしょうか。

また、私たちは神様が良い王であることを主張します。しかし、この世のリーダーたち、さらには教会のリーダーたちが自分の権力を乱用していることで、私たちはどれほどその概念に違和感を抱いているでしょうか。

私は神様について健全なイメージを持っていると思っています。それでも、私の神様についての知識にはまだ欠陥があるでしょうか。

その欠陥のために、私はどれほど神様に従うことをためらっているでしょうか。

その欠陥のために、私はどれほど神様に信頼することをちゅうちょしているでしょうか。

神様が私をどのように見ておられるかを知らないために、私はどれほど周囲の人々の称賛を求めているでしょうか。

私の人生には、そのような葛藤が見られます。それは、ある意味で、私がまだ神様を知らないまま礼拝しているからでしょうか。

だから今日、このように祈ります。

天のお父さん、私があなたをもっと深く知るように導いてください。あなたについての知識の欠陥を埋めてください。あなたをありのままに見たいのです。

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鎖が砕かれるように

すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。(使徒の働き16:26)

この言葉を読んだとき、私は、鎖が砕かれ、自由にされる必要のある人々のことを考えていました。

ある人は、傷つき、怒りや苦々しい思いに縛られています。別の人は、混乱や不安に縛られています。

また、自己肯定感が低く、自分が不十分だと感じ、縛られている人々もいます。

罪に縛られている人々もいます。

私が気づいていないだけで、サタンは別の鎖によってさらに多くの人々を縛っているのかもしれません。

そこで、今日、神様は私に思い起こさせてくださいました。「わたしはその鎖を砕きたい。」

リディア、悪霊に取りつかれた女性、囚人たち、そして看守の鎖を砕かれたように、神様は私の周囲の人々の鎖を砕くことを望んでおられます。

だから今、私は彼らのために祈っています。彼らにとって、私が天と地の交わる場所となるように祈っています。彼らにどのように触れ、助けることができるか、神様に尋ねています。

あなたの周りには、鎖に縛られた人々がいるのではないでしょうか。あなた自身は鎖に縛られているでしょうか。

神である主の霊がわたしの上にある。。。心の傷ついた者を癒やすため、 主はわたしに油を注ぎ、 わたしを遣わされた。 捕らわれ人には解放を、 囚人には釈放を告げ(ます)。。。(イザヤ書61:1)

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恵みを与える人

興味深いことに、パウロは恵みによる救いの概念のために激しく戦いましたが、マルコに対してはほとんど恵みを示しませんでした。

以前の宣教旅行で、マルコは途中で一行から離れ、パウロとバルナバを失望させました。彼の理由ははっきりしていませんが、いずれにせよ、パウロは彼にセカンドチャンスを与えようとしませんでした。

この話を読んだとき、私はこう考えました。「私はどれほどパウロのように振る舞うだろうか。人々が私の基準に達せず、私をがっかりさせるとき、どれほど彼らに恵みを与えないことがあるだろうか。」

おそらく、それは数えきれないほどあるでしょう。

しかし、私は恵みを与える人になりたい。特に、キリストにある私の兄弟姉妹に対して恵みを示す者になりたい。

あなたは恵みを与える人でしょうか。

兄弟姉妹が私たちをがっかりさせるとき、心に留めておくべきことがあります。

神様は彼らの心を知っておられます。そして、彼らの弱さや失敗にも関わらず、御霊は私たちのために証されたように、彼らのためにも証し、「あなたは神の子です」と語っておられます。

神様は私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださいました。(使徒の働き15:8-9)

だから、彼らが私たちをがっかりさせるとしても、神様が彼らに、そして私たちにも注がれた恵みを示しましょう。

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熱心に祈り続けている?

こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。(使徒の働き12:5)

今日の箇所を読んだとき、私はクリスチャンたちの姿について考えました。彼らはヤコブのために熱心に祈りましたが、彼はヘロデによって殺されました。

それでも、ヘロデがペテロを拘束したとき、教会はペテロのために祈りました。そしてただ祈っただけでなく、熱心に祈りました。

そのことを考えながら、私は自問しました。 「神様の答えが遅く感じられるとき、私はどれほど熱心に祈り続けているだろうか。

そして、神様が『ノー』と答えられたことを思い出しながらも、それでも私は同じ熱心さで祈り続けているだろうか。」

今、私は二人の友人のことを考えています。彼らのためにずっと祈っていますが、今のところ神様の答えはまだ来ていません。

熱心に祈るときもあれば、あまり熱心に祈らないときもあります。

もちろん、熱心に祈ったからといって、必ず神様がその祈りを聞き届けてくださるとは限りません。

また、祈りの熱心さが、私の信仰の深さを証明するものとは限りません。(15-16節を読んでみてください。)

しかし、祈りの熱心さは、このような態度を表します。

「天のお父さん、私にとってこの問題は非常に重要です。あなたが私の願いを聞いてくださることを信じます。 あなたが私を愛してくださることを信じます。 だからこそ、私はあなたを信じて、すべてをあなたに委ねます。」

今日、そのような態度を持って、私は友人のために祈りたいと思います。

あなたはどうでしょうか。熱心に祈り続けていますか。

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パリサイ人のように聞こえることがる?

そこで、ペテロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちが、彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところに行って、彼らと一緒に食事をした」と言った。(使徒の働き11:2ー3)

その言葉を読んだとき、私はこう考えました。 「彼らは、どれほどパリサイ人のように聞こえたのか気づいていたのだろうか。」

イエス様が「罪人」とともに食事をされたとき、パリサイ人たちは彼を激しく批判しました。(ルカ5:30;15:2)

割礼を受けているクリスチャンたちは、このような話を何度も聞いてきたでしょう。そして、おそらくこう思っただろう。 「私は決してパリサイ人のような態度を取ることはない。」

しかし、彼らはペテロを非難するとき、自分たちがまさにパリサイ人のような態度を取っていることに気づいていたのでしょうか。

そして、私は自分自身について考えました。 私はパリサイ人のように聞こえることがあるのだろうか。

たとえその瞬間がなくても、私は気づかないうちに、他の罪深い態度を持っているのではないだろうか。

聖書の登場人物について読むとき、私は「決してこの人のように振る舞うことはない」と思いながらも、気づかぬうちに同じようなことをしているのではないだろうか。

私は今、その答えを知りません。

しかし、私はこのように祈ります。

天のお父さん、私の心を私自身に明らかにしてください。 私が気づいていない罪深い態度や行為を示してください。 どうか私をあなたのようにしてください。

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神の選びの器

聖書を読んだとき、「この言葉は私には当てはまらない」と思うのは、簡単なことかもしれません。

使徒の働き9:15を読むと、おそらく多くのクリスチャンは同じように考えるでしょう。神様はアナニアにこう語られました。

あの人(つまり、サウロ)は、わたしの名を異邦人、王たち、イスラエル人の子の前に運ぶ、わたしの選びの器です。

もちろん、神様はサウロについてその言葉を語られました。しかし、神様はあなたにも似たことを語られています。あなたも神様の選びの器であり、神様の御名を周囲の人々の前に運ぶように召されています。

けえども、それを本当に信じているでしょうか。

多くのクリスチャンは、それを信じていません。そのため、ミニストリー(特に福音を述べ伝えること)をプロに任せてしまいます。

さらに、自分が神様の選びの器だと信じていないため、聖書をあまり読まず、祈ることもしないでしょう。

しかし、神様はあなたにこう語られています。

「あなたは、わたしの名を周囲の人々の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼らにとって、あなたは天と地の交わる場所となりなさい。彼らがわたしに出会える場所となりなさい。」

もし神様があなたにそう語られていることを本当に信じたら、あなたの人生はどれほど変わるでしょうか。

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三つの質問

そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが分かりますか」と言った。(使徒の働き8:30)

ピリポの質問は本当に印象的です。少し想像してみてください。

あなたが聖書を読んでいると、ピリポが近づき、こう尋ねます。

「あなたは、読んでいることが分かりますか。」

あなたはどのように答えるでしょうか。

宦官と同じように、「私はさっぱりわからない」と答えることは、まったく問題ありません。

しかし、あなたはどれほど理解したいと思っていますか。分からない部分について積極的に尋ねるほど知りたいのですか。

宦官は本当に理解したかったので、ピリポを自分の隣に座らせ、謙虚に聖書の解説を願いました。

けれども、もっとも重要な問いは、「私は理解した真理をどのように扱っているのか」ということです。

ピリポの教えを通して、宦官は悟りました。

「私はイエス様を信じなければならない。そして、その最初の一歩はバプテスマを受けることだ。」

だから彼はすぐにバプテスマを受けることを願ったのです。

イエス様はこう語られました。

ですから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人はさらに与えられ(ます)。。。(ルカの福音書8:18)

言い換えれば、私たちが理解を求め、さらに、すでに知っている真理を実践すると、イエス様はさらに多くの御言葉を私たちに明らかにしてくださいます。

宦官はそれを経験しました。

では、私たちはどうでしょうか。おそらく、理解できない聖書の箇所が多くあるでしょう。もちろん、それらの箇所について理解を求めるべきです。

しかし、私たちはすでに理解している真理をどう扱っているでしょうか。私たちはイエス様に「はい」と答え、その御言葉に従っているでしょうか。

だからこそ、挑戦してみましょう。次に聖書を読むとき、自問してみましょう。

  1. 私は、読んでいることが分かりますか。
  2. 私は、この分からないところについて誰かに尋ねるほど理解したいのですか。
  3. 私は、すでに理解していることについてどうするのですか。
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神に出会える場所となる(3)

使徒の働き6章を読むたびに、ステパノについての記述が私の心に響きます。

「御霊に満ちた。」

「知恵に満ちた。」

「信仰に満ちた。」

「恵みに満ちた。」

「力に満ちた。」

今日、この言葉を読んで、私はこう考えました。

「もし私が、周囲の人々にとって神に出会える場所となりたいのなら、そのような人にならなければならない。」

しかし、ステパノはどのようにして、このような人物となったのでしょうか。

おそらく、その理由の一つは、彼が他のクリスチャンたちと同じように、御言葉と祈りに専念したからです。(使徒の働き2:42)

この二つの事柄は、12人の使徒たちのミニストリーの中心でした。(使徒の働き6:4)

ステパノは聖書に精通するにつれて、その知恵を深めていきました。

祈りによって、御霊と強く結ばれ、恵み、力、そして信仰に満ちるようになったのです。

だから、私は御言葉と祈りのために、もう少し時間を取る必要があると思います。もしかしたら、もっと多くの時間を取るべきなのかもしれません。

もちろん、私は仕事の責任、家族の義務、そして他にも果たすべき事柄があります。

しかし、もしかすると、神様が今、私に静かに語りかけておられるのではないかと思います。

「もう少し時間をちょうだい。もう少し時間を与えてくれないか。コンピューターの時間、YouTubeの時間、ポッドキャストの時間をもう少し減らして、私と過ごす時間を増やしてほしい。」

もしかしたら、神様はあなたにも同じようなことを語っておられるかもしれません。

あなたはどう思いますか。

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神様に出会える場所となる(2)

彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。(使徒の働き4:13)

今週の記事を読んでいるなら、「神様に出会える場所」という言葉が私の心に深く残っていることに気づいたでしょう。

つまり、私たちは天と地が交わる場所となるべきです。私たちを通して、周囲の人々は神様に出会うことができるはずです。

上記の箇所で、その真理をもう一度思い出しました。

私は、単なる「いい人」として知られることを望んでいません。

むしろ、「イエスとともにいた人」として知られることを願っています。

私は、御霊の愛と力に満たされ、見たことや聞いたことを語らずにはいられず、神の愛によって人々に触れたいと願っています。

天のお父様、私がそのような人となりますように。 ただ「いい人」であることに満足するのではなく、私が出会うすべての人が、私がイエス様とともにいたことを感じられるように。

そして、私を通して、彼らがあなたに惹かれ、あなたに出会うことができますように。

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神様に出会える場所となる

すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒の働き3:6)

日曜日に、私の牧師は、エデンの園が天と地の交わる最初の場所について話していました。そこでは、アダムとエバが神様と直接出会うことができました。

その後、幕屋と神殿が、神様と出会える場所として設けられました。

そして、イエス様がこの世に来られ、人々はイエス様に出会うことで、初めて神様の御顔を見ることができました。

しかし今、聖霊様が私たちのうちに住んでおられ、私たち自身が天と地の交わる場所となっています。人々は私たちを通して神様に出会うことができるのです。

足の不自由な人にとって、ペテロとヨハネは天と地の交わる場所となりました。彼らを通して、彼だけでなく、何千人もの人々が神様に出会いました。

私も、周囲の人々にとって天と地の交わる場所となりたいです。ペテロとヨハネのように、神様が私に導かれる人々に気づき、神様の愛で触れたいです。

彼らの癒しのために祈り、励ましの言葉をかけ、イエス様の福音を伝えたいのです。

それが私の祈りです。

天のお父様、私が天と地の交わる場所となりますように。 私を通して、人々があなたに出会うことができますように。

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御国が来ますように

彼らはみな。。。いつも心を一つにして祈っていた。(使徒の働き1:14)

使徒たちや他のクリスチャンたちは、何について祈っていたでしょうか。

ただ自分たちの個人的な必要のために祈っていたのでしょうか。

イエス様が神の御国について彼らに教え、「エルサレムで御霊を待ちなさい」と言われたことを考慮すると、彼らの祈りの焦点はそれだけではなかったでしょう。

ただ私の意見ですが、彼らは特に二つのことを祈っていたと思います。

「あなたの御国が来ますように。」

「あなたの御霊を遣わしてください。」

だから、今日、私はそのように祈ります。

天のお父さん、あなたの御国があなたの民の間に来ますように。

あなたの教会が天と地の交わる場所となりますように。

みこころが天で行われるように、あなたの民の間でも行われますように。

あなたの教会が、私たちの罪の鎖が砕かれ、壊れた人生が癒され、あなたとの関係が回復する場所となりますように。

しかし、それだけではなく、どうかあなたの御霊で私たちを満たしてください。イエス様が御霊に満たされたように、私たちをも満たしてください。それは、私たちが効果的な証人となるためです。

あなたが御国を私たちの人生にもたらされたように、私たちを用いて、周囲の人々にも御国をもたらしてください。人々の鎖を砕き、人生を癒し、人々をあなたへと導いてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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彼らが聞き従うことになる

ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らが聞き従うことになります。(使徒の働き28:28)

天のお父さん、この国の人々は、時にユダヤ人のようです。彼らは聞いても悟ることがなく、見ても知ることがありません。彼らの心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じています。

しかし、あなたの救いは、この国の人々に送られました。あなたは「彼らが聞き従うことになります」と言われました。

だからこそ、私はこの国のために祈り続けます。

どうか、彼らの目を開き、耳を開いてください。彼らの心を柔らかくしてください。

私の家族、同僚、友人、そして周囲の人々に触れ、 彼らをあなたのもとへ導くために、私を用いてください。彼らが癒され、あなたに立ち返るようにしてください。

私は希望を失いません。あなたの約束を握り続けます。「彼らが聞き従うことになります」と。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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危険信号を無視する

何日もの間、船の進みは遅く、やっとのことでクニドの沖まで来たが、風のせいでそれ以上は進めず、サルモネ沖のクレタの島陰を航行した。

そしてその岸に沿って進みながら、やっとのことで、ラサヤの町に近い「良い港」と呼ばれる場所に着いた。

かなりの時が経過し、断食の日もすでに過ぎていたため、もはや航海は危険であった。(使徒の働き27:7ー9)(使徒の働き27:7ー9)

今日の箇所を読んだとき、私たちがどれほど危険信号を無視してしまうかを思わされました。

パウロは確かに、その危険信号に気づいていました。

けれども、百人隊長も、船長も、船主も、その危険信号を無視することを選びました。その結果、彼らは命を落としかけました。

私自身にも、同じような経験があります。

何年か前、私が勤めていた英会話学校が経済的に困っていることに気づいていました。でも、その問題を無視してしまったため、学校が倒産したとき、本当に困ってしまいました。

キリストの戦士として、私たちは常に目を覚ましていなければなりません。私たちはさまざまな危険に直面します。それは肉体的な危険かもしれませんし、霊的な危険かもしれません。

だからこそ、自分の状況や敵に注意を払う必要があります。

しかし、それ以上に、私たちの将に注意を払うべきです。私たちの将とその言葉に耳を傾けるなら、多くの問題を避けることができます。

あなたはどうでしょうか。あなたが無視している危険信号はありませんか?

あなたの結婚生活における危険信号を無視していませんか?

あなたの人間関係における危険信号を無視していませんか?

あなたの心における危険信号を無視していませんか?

あなたの態度における危険信号を無視していませんか?

神よ、私を探り、私の心を知ってください。

私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23ー24)

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神に望みを抱いて

また私は、正しい者も正しくない者も復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神に対して抱いています。

そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。(使徒の働き24:15ー16)

天のお父さん、私は望みを抱いています。

つまり、死が終わりではないという望みを抱いています。復活が必ずあるという望みを抱いています。

天のお父さん、私は望みを抱いています。

裁きの日があるという望みを抱いています。あなたがすべての不義を裁いてくださるという望みを抱いています。

天のお父さん、私は望みを抱いています。

裁きの日に、私は恐れる必要がないという望みを抱いています。イエス様の血によって、私は罪に定められることが決してないという望みを抱いています。

その望みを、私は確かに抱いています。

だからこそ、恐れのためではなく、むしろ、あなたへの感謝と愛のゆえに、私はあなたの前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。

今日、私の人生があなたに喜ばれる、聖なる生きたささげものとなりますように。私の人生があなたにとって、芳しい香りとなりますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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「Stand by Me」

その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。。。」と言われた。(使徒の働き23:11)

二ヶ月前、私の中学校で「Stand by Me」という名曲を題材にした英語のレッスンがありました。

たぶん、その影響で、11節を読んだときに、その歌が思い浮かびました。

もちろん、パウロがその歌を歌っていたわけではありません。でも、その歌詞の一部は詩篇46篇に基づいているので、もしかすると、パウロはその言葉を心の中で口ずさんでいたかもしれません。

神は、われらの避け所、また力。 苦しむとき、そこにある強き助け。それゆえ、われらは恐れない。

たとえ地が変わり、山々が揺れ、海のただ中に移るとも。たとえその水が立ち騒ぎ、泡立っても、その水かさが増し、山々が揺れ動いても。(詩篇46:1ー3)

ベン・E.キングの歌詞を借りれば、

Lord, I won’t be afraid.
主よ、私は恐れません。

No, I won’t be afraid.
決して恐れません。

Just as long as you stand by me.
あなたが私のそばに立っていてくださる限り。

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 この同じ神

彼はこう言いました。「私たちの父祖の神は、あなたをお選びになりました。あなたがみこころを知り、義なる方を見、その方の口から御声を聞くようになるためです。

あなたはその方のために、すべての人に対して、見聞きしたことを証しする証人となるのです。」(使徒の働き22:14ー15)

サウロはアナニアの言葉を聞いて、どれほど驚いたことでしょうか。

「聖書では、神様について何度も読んできた。神様がアブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ、預言者たち──聖書のヒーローたちと歩まれたという話を繰り返し読んできた。

でも、その同じ神が私を選んでくださったのか?神様は私とも、そのような親しい関係を望んでおられるのだろうか。」

サウロがアナニアの言葉を最初に聞いたとき、その意味を深く考えていたかどうか、私にはわかりません。彼はきっと、他にも多くのことを考えていたでしょう。特に、イエス様について自分がどれほど間違っていたかを思い巡らしていたはずです。

でも、アナニアの言葉を読んだとき、私はこう思いました。

「聖書によれば、神様はある人々と特別な関係を持っておられた。でも、その同じ神が、私とも親しい関係を持ちたいと願っておられるのか?

みこころを知るために、神様は私を選んでくださったのか?御子を見るために、私を選んでくださったのか?神様の口から御声を聞くようになるために、私を選んでくださったのか?

そして、神様は不完全な私を、証人として用いたいと願っておられるのか?」

それは、なんと素晴らしい権利でしょうか。でも、その権利は牧師や宣教師、偉大なクリスチャンたちだけのものではありません。

その権利は、イエス様を信じる信仰によって、一人ひとりの神の子供に与えられているのです。

少し時間を取って、その権利について考えてみましょう。「私はその真理を本当に信じているだろうか?その権利が私に与えられていると信じているだろうか?」

天のお父さん、あなたは古代の書物の登場人物ではありません。あなたは昔の人々の人生の中で働いておられた神だけではありません。あなたは今も生きておられる神です。

だからこそ、私はあなたを本当に知りたいです。あの人たちがあなたを知っていたように、私もあなたを知りたいです。あなたを見たいです。あなたの御声を聞きたいです。あなたと御国のために用いられたいです。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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神の恵みのみことば

「神の恵みのみことば」、つまり「福音」という言葉を聞くと、私たちは普段、自分の救いのことだけを考えがちです。けれども、福音はそれ以上のことをしてくれます。

もちろん、福音によって私たちは救われます。しかし、パウロはエペソの人々にこう語りました。

今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。

みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。(使徒の働き20:32)

パウロによれば、福音を信じるとき、二つのことが起こります。

一つ目は、私たちは神の子供として御国を受け継ぐことです。つまり、救われるということです。けれども、それだけではありません。福音は私たちを成長させます。

原文で使われている「成長させる」という言葉には、「励ます」や「強める」というニュアンスも含まれています。

福音は私たちを一度だけ励ますものではありません。また、一度だけ強めるものでもありません。私たちには、毎日福音が必要なのです。

クリスチャンとして私たちが絶望するとき、多くの場合、その原因は神の恵みのメッセージを忘れてしまうことにあります。

私たちは、神の愛を得るために頑張る必要がないことを忘れてしまいます。

神様がすでに私たちを愛してくださっていることを忘れてしまいます。

また、神の受け入れを得るために頑張る必要がないことも忘れてしまいます。

神がすでに私たちを受け入れ、私たちのことを喜んでおられることを忘れてしまうのです。

私たちは、イエス様が私たちの罪の代価をすでに払ってくださったことを忘れてしまいます。そのため、イエス様の十字架の働きが不十分であるかのように、私たちは自分自身を責め続けてしまうのです。

だからこそ、私たちにはいつも福音のことば、福音のメッセージを思い出す必要があります。片時もそのメッセージを忘れないでください。

むしろ、毎日そのメッセージによって安心し、喜びましょう。

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権威を持つ者としての神の子

すると、悪霊が彼らに答えた。「イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。しかし、おまえたちは何者だ。」(使徒の働き19:15)

この言葉は、私の心を深く揺さぶりました。その悪霊はもちろんイエス様のことを知っていて、その権威を認めていました。

そして、パウロのことも知っていて、その権威を認めていました。なぜなら、イエス様との関係によって、また神の子供として、パウロは悪霊に対する権威を持っていたからです。

しかし、私たちクリスチャンは、神の子供としての自分の権威を理解しているでしょうか。私たちが堅く立つなら、私たちの敵であるサタンは逃げなくてはなりません。サタンには、私たちに対する力がないのです。

だからこそ、パウロは「堅く立ちなさい」と語りました(エペソ6:13〜14)。

また、ヤコブは「悪魔に対抗しなさい」と語りました(ヤコブ4:7)。

ですから、神の子供よ。神様から与えられたあなたの権威を覚えていましょう。

ヨハネはこう語りました。

子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。(第一ヨハネ4:4)

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#TBT — 素直な心

あなたは成熟したクリスチャンで、聖書をよく知っているかもしれません。

しかし、今もなお素直な心をもって、学ぶ姿勢を保っているでしょうか。

謙遜な態度をもって、自分にはまだ知らないことが多くあると認めているでしょうか。

そのような心を保つときこそ、私たちはクリスチャンとして成長し続け、神様のために実を結び続けることができるのです。

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別の王、別の王国

彼らはみな、「イエスという別の王がいる」と言って、カエサルの詔勅に背く行いをしています。(使徒の働き17:7)

この言葉は、私の心を深く打ちました。それは、この世界への私たちのメッセージだからです。つまり、私たちには別の王がいるということです。

その王は天地の主です。なぜなら、その王はすべてのものを造られたからです。 だからこそ、その王は私たちの忠誠と愛にふさわしい方です。

ある意味、悔い改めとはイエス様が誰であるかを認めることです。つまり、イエス様は私たちの王であるということです。

罪とは、私たちの人生においてイエス様の権威を拒絶することです。 悔い改めとは、イエス様の権威に服従することです。

しかし、多くの人々はイエス様の権威に服従することを恐れています。パウロとシラスのメッセージを聞いた人々は、本当に動揺していました(17:8)。

だからこそ、私たちはこのメッセージが本当に「良い知らせ」であることを、周りの人々に伝えなければなりません。

私たちの王は良い方です。私たちの王は、私たちを深く愛しておられます。そして、すべてをその王に明け渡すとき、私たちは本当のいのちと喜びを知るのです。

私自身の人生において、その真理を経験しました。私はイエス様にすべてを明け渡す喜びを経験しました。そして、その喜びをもっと深く経験したいと願っています。

私は、神様のすべての民がその喜びを知るように祈ります。

この国の人々は、良い知らせを必要としています。あなたが愛している人々も、その良い知らせを必要としています。

しかし、私たち自身がそれを本当に「良い知らせ」だと信じていないなら、どうして彼らが信じるようになるでしょうか。

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神の恵みにとどまる

「ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。

また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについて、この方によって、信じる者はみな義と認められるのです。。。」

会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちがパウロとバルナバについて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みにとどまるように説得した。(使徒の働き13:38ー39,43)

「神の恵みにとどまりなさい。」

多くのクリスチャンは、神様との関係が「神様を喜ばせるための自分の努力」によって成り立っていると誤解しています。

ユダヤ人たちも同じように考え、神の律法を守ろうと懸命に努力しました。

けれども、彼らはその律法を完全に守ることができず、罪悪感に苛まれ、神の基準に達することができないと感じていました。神様に受け入れられるためには、もっと頑張らなければならないと思い込んでいたのです。

あなたも、そう感じたことがあるかもしれません。

しかし、パウロとバルナバが語った福音はこうです── 「イエス様を信じるなら、神様はあなたを義と認めてくださる。」

その義は、あなたの努力や忠実さに基づくものではなく、イエス様の十字架の御業と、あなたに対するイエス様の忠実さに基づいています。

それこそが、私たちの希望です。

私たちが神様に忠実でない時でも、神様は変わることなく、私たちに忠実でいてくださいます。

そして、サタンが火矢を放ち、「あなたは不十分だ。神の基準には到底届かない」と責めるとき、神の忠実さこそが、その火矢をすべて消し去る私たちの盾となるのです。

パウロとバルナバは、新しく信仰に入ったクリスチャンたちに「神様に受け入れられるために、もっと頑張りなさい」とは言いませんでした。

彼らはこう語ったのです── 「あなたがたはすでに神の恵みを受けています。その恵みにとどまりなさい。その恵みに安心しなさい。そして、その恵みによって、イエス様と共に進み、歩み続けなさい。」

もしかすると、彼らはイエス様の言葉を思い起こしていたかもしれません:

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28ー30)

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苦しみを経なければならないのか

二人はこの町で福音を宣べ伝え、多くの人々を弟子としてから、リステラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返して、 弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、

「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。(使徒の働き14:21ー22)

「多くの苦しみを経なければなりません。」

私はこの言葉に思いを巡らしました。

「多くの苦しみを経なければならないのだろうか。なぜ?」

もちろん、パウロは、苦しみを経ることによって私たちが神の国に入る権利を得る、と言っているわけではありません。

しかし、もし神の国に入りたいと願うなら、ある意味で、私たちは苦しみを経なければなりません。なぜなら、この罪によって壊れた世界では、私たちは苦しみを避けることができないからです。

さらに、私たちに反対する敵がいます。つまり、サタンは私たちに敵対しているのです。

それだけではなく、苦しみは神様が私たちを精錬するために用いられるプロセスでもあります。

その苦しみを通して、神様は私たちに何が本当に大切なのかを教えてくださいます。

この世の人々の考え方とは違い、もっとも大切なことは楽な人生を送ることではありません。一番大切なことは、自分の罪にふけり、自分のために生きることではありません。

もっとも大切なことは、神様を信頼し、従うことです。その道は真のいのちに至るからです。

ペテロはこの真理をよく理解していました。彼はこう言いました。

キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。

肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。

それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。(第一ぺテロ4:1ー2)

パウロもこの真理を理解していました。彼はそれを新しいクリスチャンたちに教えただけでなく、使徒の働き14章では、その真理に従って歩みました。彼自身の人生を通して、新しいクリスチャンたちに模範を示したのです。

ペテロはこうも言いました。

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。

むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。(第一ぺテロ4:12ー13)

それは勇士の心です。

私の教会では、私たちはほとんど(決して?)歌いませんが、私はこの「Amazing Grace」の歌詞が大好きです。

“Through many dangers, toils, and snares, I have already come;
いろんな危険や、苦労や、罠を乗り越え、私はすでにたどり着きました。

‘Tis grace hath brought me safe thus far,
恵みは私をここまで無事に導いてくださいました。

And grace will lead me home.”
そして、恵みは私を主の家に導いてくださいます。

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より高い力に訴える

こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。(使徒の働き12:5)

一方では、ヘロデの力によって、ペテロは捕らえられ、牢に閉じ込められていました。

他方では、教会はより高い力に訴えました。

それは覚えておく価値があります。

私たちは、自分たちより強い力に直面することが多くあります。そして、その力は私たちに敵対的なものです。

それは霊的な力かもしれません。あるいは、地上の力かもしれません。

けれども、どんな力に直面しても、神の子どもとして、私たちはより高い力に訴える権利を持っています。

その権利を用いて、教会がペテロのために熱心に祈ったように、私たちも熱心に祈りましょう。

そして、神様がどのように答えられるとしても、神様が忠実な方であることを覚えておきましょう。

神様は忠実な方で、ペテロをヘロデの手から救い出してくださいました。

しかし、神様はヤコブに対しても忠実でした。ヘロデはヤコブのからだを殺しましたが、ヤコブのたましいを殺すことはできませんでした。(マタイ10:28ー31)

そして、神様は忠実で、ヤコブを天国に導き、歓迎してくださいました。

いと高き方の隠れ場に住む者、その人は、全能者の陰に宿る。。。

主は、ご自分の羽であなたをおおい、あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は大盾、また砦。(詩篇91:1,4)

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あなたの使命を受け継ぐ

あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事柄をご存じです。それは、ナザレのイエスのことです。

神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。

イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。(使徒の働き10:37ー38)

イエス様、あなたの足跡をたどり、あなたから与えられた使命を続けたいです。

私の周りでは、たくさんの人々が悪魔に虐げられ、苦しんでいます。彼らは自由にされる必要があります。

あなたが命じられたように、私があなたの福音を彼らに伝えることができるよう助けてください。

その福音とは、天の父があなたを生きている者と死んだ者のさばき主として定められたということです。しかし、あなたを信じる者はだれでも、さばきの日だけでなく、今この時にも、あなたの御名によって罪の赦しを知るのです。

ですから、私に御霊と力によって油を注いでください。あなたがなさったように、私も良いわざを行いたいです。

私を通して、悪魔に虐げられている人たちが霊的な癒しを知ることができますように。

そして、私だけでなく、あなたの教会全体、あなたの民すべてが、この国を変革する力となりますように。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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主とその弟子たち

さて、ダマスコにアナニアという名の弟子がいた。主が幻の中で「アナニアよ」と言われたので、彼は「主よ、ここにおります」と答えた。(使徒の働き9:10)

私にとって驚くべきことは、イエス様には何億人もの弟子たちがいるけれど、一人一人の名前を知っておられるということです。イエス様は私たちを大切にしておられるので、私たちの名前をよく知っておられるのです。

アナニアはまったく有名なクリスチャンではありませんでした。22章では、パウロが証しを語ったときにアナニアの名前に言及しますが、それ以外に聖書には彼の名前は登場しません。

それでも、イエス様はアナニアを知っておられ、名前を呼ばれました。

私の心を打ったもう一つのことは、イエス様に対するアナニアの態度です。イエス様がアナニアを呼ばれたとき、アナニアはすぐに答えました。「主よ、ここにおります。」

アナニアはいつもイエス様の声に耳を傾けていました。

彼はイエス様の命令が理解できないときもありましたが、最終的には「はい、従います」と答えて従いました。

私はそのような弟子になりたいです。私の耳をいつも主に傾け、「はい、従います」という態度を取りたいのです。

あなたはどうですか。

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神の目にかなった、美しい子

モーセが生まれたのは、このような時でした。彼は神の目にかなった、かわいい子。。。(使徒の働き7:20)

「彼は神の目にかなった、かわいい子です。」

「かわいい」、または、「美しい」という言葉は新約聖書には二回だけ登場します。どちらの箇所も、モーセに関する記述です。

おそらく、著者たちは旧約聖書のギリシャ語訳を用いて、出エジプト記を引用したのでしょう。出エジプト記2章2節には、モーセの両親が彼を「美しい子」だと見たことが記されています。

もちろん、多くの親は自分の子どもを「かわいい」「美しい」と感じるでしょう。

しかし、ルカによれば、神様もモーセをそのように見ておられました。

とはいえ、神様はモーセの外見だけをご覧になっていたわけではないでしょう。神様は、愛と恵みのまなざしでモーセをご覧になっていたのだと思います。

神様はモーセのすべてをご存じでした。神様はモーセの弱さと劣等感をよく知っておられました。(出エジプト記4:10)

神様はモーセの短気を知っておられました。神様は、モーセが人を殺すことさえ知っておられました。(出エジプト記2:12)

それでも、神様は「この子は美しい」と言っておられました。

私にとって驚くべきことは、神様が私の弱さと失敗と罪を見て、それでも「あなたを選ぶ。あなたは私の目には美しい子です」と言われることです。

それは、恵みに満ちたまなざしです。

それは私たちの天のお父さんの目です。

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私たちの(良い)主に従う

主よ。あなたは天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた方です。(使徒の働き4:24)

「主よ」。

初期のクリスチャンたちは神様を「主」と呼びましたが、通常はギリシャ語の「クリオス」を使いました。

けれども、この場合、彼らは別の言葉を使いました。それは「デスポテース」という言葉です。

「デスポテース」という言葉は、神様の支配の権利と力を強調します。

残念なことですが、多くの人々は神の支配の権利と力を認めることを拒みます。

ダビデの時代でも、ペテロの時代でも、今でも、人々は神様の支配に抵抗します。(25ー27)

しかし、ペテロとほかのクリスチャンたちは神様を自分の主として認めました。だから彼らは喜んで神様に従いました。(19ー20)

なぜ彼らは喜んで従うことができたのでしょうか。それは、彼らが神様が良い方であることを認めたからです。

興味深いことですが、英語の「despot」、つまり「暴君」という言葉は「デスポテース」に由来します。

けれども、神様は暴君どころか、私たちを愛している創造主であり、天の父です。

神様、あなたは私の主です。あなたは良い主です。あなたはいつくしみ深い主です。

この世は時に乱れているように見えますが、あなたがすべてを支配しておられることを信じます。

また、あなたが私の最善を望むことを信じます。

あなたは私の信頼と服従にふさわしい方です。だから主よ、私は喜んであなたにすべてを明け渡します。

あなたに喜んで従います。あなたを愛しています。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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周りの人々に気づく

ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめ(ました)。(使徒の働き3:4)

上の言葉は私の目に留まりました。

ペテロとヨハネは、その足の不自由な人を無視し、こう言うことができました。「私たちは神様を礼拝するために、宮に行っているところなのだ。しかも、お金を持っていないから、しょうがない。宮に行こう。」

でも、その代わりに、彼らは止まってその人を見つめました。そして、彼らが持っているものをその人に与えました。

私はその点で、まだ成長すべきです。つまり、私は周りの人々にもっと気づくべきです。彼らのニーズに気づくべきです。

そして、すぐに「私は与えられるものを持っていない」と言わずに、できる限りのことをすべきです。神様はその点で私の心の中に働いています。

私が思っている以上に、神様は私を用いたいでしょう。

あなたが思っている以上に、神様はあなたを用いたいでしょう。

天のお父さん、あなたが私の行く手に置いてくださる人々に私が気づくように。そして、あなたが私に惜しみ無く与えてくださったように、私も惜しむなく周りの人々に与え、あなたの愛で彼らに触れるように。

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喜びに特徴つけられる

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。(使徒の働き2:28)

ペテロが引用したダビデの言葉は私の心を打ちました。

私たちはダビデの確信を持ち、「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、必ず私を喜びで満たしてくださいます」と言えるでしょうか。

その言葉を本当に信じれば、私たちにとってクリスチャン生活は喜びになります。

み言葉や祈りやクリスチャンの交わりは単なる義務ではなく、私たちを喜びで満たすものになります。

そして、私たちの周りの人々は必ず気づくでしょう。(46-47節)

天のお父さん、イエス様を通して、あなたは私にいのちの道を知らせてくださいました。あなたの御前で、あなたは必ず私を喜びで満たしてくださいます。

周りの人々が私の喜びに気づいてあなたに引き寄せられるほど、私の人生が喜びに特徴つけられますように。

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イエス様がもう一度来られるまで

「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。

あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。(使徒の働き1:11)

数年前、私はこの箇所についてブログの記事を書きました。その記事をこちらで読むことができます。

今日、この箇所を読むとき、御使いの言葉は以前と同じように私の心を打ちましたから、私はこう祈りました。

イエス様、この壊れた世界にあって、御使いの言葉は私の希望です。ある日、あなたはもう一度この世に来られます。そして、あなたはすべてを新しくしてくださいます。

でも、その間に、あなたは私に役割を与えてくださいました。

だから、あなたの御霊で私を満たしてください。そして、あなたがもう一度来られるその日まで、私が忠実にあなたに与えられた役割を果たすことができますように。

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希望を持っているからこそ

しかし、パウロはこう答えた。「わずかな時間であろうと長い時間であろうと、私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が。。。みな私のようになってくださることです。」(使徒の働き26:29)

パウロのように、私たちは希望を持っています。

永遠の命という希望を持っているのです。

ある日、すべてのものが新しくなるという希望も持っているのです。

すべての悪が裁かれるという希望も持っているのです。

また、恵みによって、神の子どもとして私たちが御国に受け入れられる希望も持っているのです。

私たちはパウロの希望を持っています。でも、パウロの心も持っているでしょうか。それは、周りの人々が私たちのようになってくれるということです。つまり、彼らも希望を持つ者になってくれるということです。

また、私たちは、彼らが闇から光へ、サタンの支配から神へと立ち返るように望むでしょうか。

そして、彼らが悔い改めて、イエス様を信じる信仰によって、罪の赦しを得て、聖なる者とされた人々とともに相続にあずかるように祈るでしょうか。

それは、あなたの心でしょうか。

イエス様、神の子どもとして私に希望を与えてくださり、感謝します。私の周りの人々もその希望を知るように、私を遣わしてください。私にパウロの心を与えてください。あなたの心を私に与えてください。あなたのみ名によって祈ります。アーメン。

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神の裁きのことを考えるとき

数日後、フェリクスは。。。パウロを呼び出し、キリスト・イエスに対する信仰について話を聞いた。

しかし、パウロが正義と節制と来たるべきさばきについて論じたので、フェリクスは恐ろしくなり(ました)。(使徒の働き24:24-25)

私にとって興味深いのは、神様の裁きに関して、パウロとフェリクスは正反対の反応をしていたということです。

パウロは希望をパウロは、持って、その裁きを考えました。(15節)

その反面、フェリクスは裁きを恐れていました。なぜなら、心の中で、フェリクスは自分の罪をよく知っていたからです。また、自分が神の裁きを受けるにふさわしい人物であることも、知っていたからです。

では、どうしてパウロは神の裁きを考えたとき、希望を持つことができたのでしょうか。それは、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してないからです。(ローマ8:1)

イエス様は十字架で、私たちの罪の罰を受けてくださいました。

だから、パウロは神様からの罰を恐れていませんでした。むしろ、パウロは天の父の愛に安心していました。自分が神の子どもであるという確信をもって、安心していたのです。

ヨハネは何年か後に、この言葉を書きました。

こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。

恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。(第一ヨハネ4:17-18)

天のお父様、私があなたに裁かれることを恐れる必要がないことを感謝します。むしろ、あなたの愛と恵みによって、私はあなたの子どもとして受け入れられているという確信をもって、あなたの御前に立つことができます。

だから、私はあなたに近づきます。私はあなたを敬います。私はあなたを愛します。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちのそばに立っておられる神

その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。。。」といわれた。(使徒の働き23:11)

今朝、上の言葉は私の心を打ちました。

「主がパウロのそばに立ちました。」

私たちがどんな試練に直面していても、神様を見ることができるかどうかにかかわらず、神様は私たちのそばに立っておられます。そして、神様は私たちにささやかれます。「勇気を出しなさい。私はあなたと共にいるよ。」

今日の話を読んで、私にはさらに2つの聖書箇所が思い浮かびました。

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。

たじろぐな。わたしがあなたの神だから。

わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ書41:10.しかし、どうぞ11-14節も読んでください。)

詩篇16篇にあるダビデの言葉も思い出しました。

私はほめたたえます。助言を下さる主を。 実に、夜ごとに内なる思いが私を教えます。

私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることがありません。(詩篇16:7-8)

今日、少し時間を取って、この真理に思いを巡らせましょう。「主が私のそばに立っておられます。」

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精選された

私たちの父祖の神は、あなたをお選びになりました。あなたがみこころを知り、義なる方を見、その方の口から御声を聞くようになるためです。

あなたはその方のために、すべての人に対して、見聞きしたことを証しする証人となるのです。(使徒の働き22:14-15)

アナニアはパウロに、「神様はあなたをお選びになりました」と言いました。

原語では、「選ぶ」という言葉には、「精選する」というニュアンスがあります。

神様はパウロを精選されました。何のためでしょうか。

神様のみこころを知るためです。イエス様を見るためです。イエス様の御声を聞くためです。そして、イエス様の証人となるためです。

しかし、その言葉はすべてのクリスチャンに当てはまります。

神様はあなたを精選されました。神様のみこころを知るためです。イエス様を見るためです。イエス様の御声を聞くためです。

「でも、私は神様のみこころを知らない。それに、イエス様を見たこともない。イエス様の御声を聞いたこともない。」

けれども、あなたがクリスチャンであるならば、そのすべてをすでに経験しているはずです。

あなたは、悔い改めて神様に従うべきだという神のみこころが、少しずつわかってきました。また、神様があなたを御自分の子どもとすることを望んでおられることも、わかってきました。

そして、神様の御言葉を読むたびに、あなたは神様のみこころをさらに深く知ることができるようになります。

自分の目でイエス様を見たことがないし、自分の耳でイエス様の御声を聞いたことがないかもしれません。でも、神様はあなたの心の中で働かれ、あなたが神様を信じるようになりました。

そして、ある日、私たちは自分の目でイエス様の御顔を見るのです。(第一ヨハネ3:2)

しかし、二つのことを覚えておくべきです。

普通、人が精選される理由は、その人が特別な存在であり、特別な資格を持っているからです。でも、それは神様が私たちを選ばれた理由ではありません。

神様の恵みだけによって、私たちは精選されたのです。この世が造られる前から、神様は私たちを知っておられました。私たちの弱さも、罪も、失敗も、すべてをあらかじめ知っておられました。

それでも、神様はこう言われました。「あなたを精選する。」

もう一つのことを覚えておきましょう。神様が私たちを精選された理由は、私たちがただ神様との関係を楽しむためだけではありません。

もちろん、神様は私たちと親しい関係を望んでおられます。しかし、パウロのように、神様は私たちをご自分の証人として精選されたのです。私たちは、神様の福音をこの死にかけている世界に伝えるべきです。

自分のために生きるのではなく、あなたのために死んで復活されたイエス様のために生きるために、あなたは精選されたのです。(第二コリント5:15)

少しおすすめがあります。エペソ人への手紙1:3-14と、第二コリント5:14-21を読んでみてください。

その言葉を心に深く刻んでください。これらの箇所で、パウロはアナニアの言葉を具体的に説明しています。

パウロが悟ったのは、アナニアの言葉がパウロ一人のためではなく、すべてのクリスチャンのためであるということです。

私たちは神様に精選されました。それは、本当に驚くべき真理です。

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走るべき道のりを走り尽くし

ご覧なさい。私は今、御霊に縛られてエルサレムに行きます。そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません。

ただ、聖霊がどの町でも私に証しして言われるのは、鎖と苦しみが私を待っているということです。

けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。(使徒の働き22ー24)

パウロの歩んだ道と、その道に対する彼の態度は、イエス様のそれとよく似ています。

イエス様もパウロも、御霊に縛られてエルサレムへ向かいました。どちらも、そこに苦しみが待っていることを知っていました。

それでも、自分のいのちを惜しむことなく、走るべき道のりを走り抜き、与えられた任務を全うしようとされました。

おそらくパウロは、意識的にイエス様の模範に従おうとしていたのでしょう。イエス様は、「ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍ばれました」(ヘブル12:2)

では、私たちはどうでしょうか。私たちも、パウロと私たちの主が持っていたその態度を、心に抱いているでしょうか。

主よ。私のためにあなたが受けられた苦しみを思うと、私は涙を禁じ得ません。

あなたは私のために、いのちを惜しむことなく、自らの道のりを走り尽くし、天の父から受けた任務を全うされました。

ですから、私も、すべての重荷と絡みつく罪を捨てることができるように助けてください。私があなたから目を離さず、私の前に置かれた競走を、忍耐をもって走り続けることができますように。(ヘブル12:1ー2)

主よ。私は弱い者です。自分の力では何もできません。しかし、あなたが力ある神であることを信じます。ですから、御霊によって私のうちに住んでください。

そして、私も自らの道のりを走り尽くし、あなたから受けた任務を全うするために、力を与えてください。あなたの尊い御名によって祈ります。アーメン。

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カウンターカルチャー

そのころ、この道のことで、大変な騒ぎが起こった。(使徒の働き19:23)

キリスト教が生まれたとき、「この道」と呼ばれていました。おそらく、その名前はヨハネ14:6にあるイエス様の言葉に基づいていたのでしょう。

そして、キリスト教が誕生して以来、「この道」は常にカウンターカルチャーでした。

この話の少し前、人々は「クリスチャンたちは世界中を騒がせてきた者だ」と叫びました。(使徒の働き17:6)

エペソでは、多くの人々が福音に反対して、「偉大なるかな、エペソ人のアルテミス」と叫びました。

私たちがイエス様に忠実に従うなら、家族や人間関係、社会の中で大きな騒ぎが起こるかもしれません。暴動ではないかもしれませんが、本当に深刻な問題が起こる可能性はあります。

なぜなら、私たちが信じていることは、この社会の教えと相容れないからです。

そして、私たちが信じていることを語り、信仰に従って生きるなら、ある人々は怒りを覚えるでしょう。時には、私たちが愛している人々さえも怒るかもしれません。

では、私たちはどうすればよいのでしょうか。

イエス様が死なれた後、弟子たちがしたように、私たちは自分の部屋に隠れるべきでしょうか。(ヨハネ20:19)

それとも、神様に近づき、神様と共に歩み、その愛と受け入れを受けるべきでしょうか。

御霊の力によって、私たちは部屋を出て、悔い改めと神の赦しのメッセージをもって周囲の人々に触れていきましょう。

また、この混乱した世界の中で、イエス様の言葉を心に刻み続けましょう。

平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。。。聖霊を受けなさい。(ヨハネ20:21ー22)

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神様の言葉を、積極的に聞いていますか?

教会のメッセージを聞くとき、クリスチャンのポッドキャストを聞くとき、またクリスチャンの本を読むとき、私たちはどのような態度を取るべきでしょうか。

ベレヤ人たちは、私たちがどんな態度を持つべきかを示しています。

ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。 (使徒の働き17:11)

彼らは何をしたでしょうか。

1.彼らは熱心に聞きました。神様の声を本当に聞きたいと願っていました。

2.パウロの言葉が聖書に合っているかどうかを確かめるために、彼らは聖書を丁寧に調べました。

私たちは、同じようにするでしょうか。

聖書を読むとき、また聖書に関するメッセージを聞くとき、私たちは神様が語ってくださることを期待しているでしょうか。

私たちの心と体は、神様の御言葉を聞く準備ができているでしょうか。もしかすると、私たちは眠気を感じているかもしれません。あるいは、疲れているかもしれません。もしくは、他のことに心を奪われているかもしれません。

私たちは、牧師やクリスチャンの著者の言葉をそのまま受け入れてしまうでしょうか。それとも、彼らの言葉を聖書と照らし合わせて吟味するでしょうか。

私たちは聖書を大切にし、日々読んでいるでしょうか。

神様が私たちの心に語られるとき、私たちはその言葉を実践するでしょうか。それとも、すぐに忘れてしまうでしょうか。(先週の日曜日のメッセージを、まだ覚えているでしょうか。)

神様の御言葉に対する私たちの態度は、どのようなものでしょうか。

どうか、私の言葉を誤解しないでください。私の願いは、あなたが罪悪感を抱くことではありません。

良い知らせは、私たちが失敗するとき、神様が私たちを引き上げてくださるということです。私たちが何度も失敗するからこそ、イエス様は十字架にかかってくださいました。

イエス様の言葉を、心に留めていましょう。

だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。(ルカ8:18)

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囚人たちは聞き入っている

真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。(使徒の働き16:25)

「囚人たちはそれに聞き入っていた。」

この世には、たくさんの囚人たちがいます。彼らはサタンの国の囚人なのです。また、彼らは自分の罪の囚人なのです。

その囚人たちは、私たちに聞き入っています。

でも、彼らは私たちから何を聞いているのでしょうか。

私たちが苦しんでいる姿を見たとき、囚人たちは私たちから何を聞いているのでしょうか。

私たちが不当な扱いを受けている姿を見たとき、囚人たちは私たちから何を聞いているのでしょうか。

彼らが聞いている私たちの言葉には、彼らの鎖を砕く力があるでしょうか。

私たちの言葉を聞いて、彼らは私たちにこう尋ねるでしょうか。「救われるためには、何をしなければなりませんか」(使徒16:30)。

囚人たちは聞き入っています。

あなたから、何を聞いているのでしょうか。

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神様の計画が見えない時に

クリスチャンとして、私たちはしばしば「どうして」と神に問いかけます。けれども、その答えが与えられることは、ほとんどありません。

ヘロデ王がイエスの弟子であり、ヨハネの兄でもあるヤコブを殺したとき、エルサレムのクリスチャンたちはきっと神様に「どうしてですか」と尋ねたことでしょう。

(ちなみに、このヘロデ王は、ベツレヘムでイエス様を殺そうとしたヘロデの孫です。また、17節に登場するヤコブは、イエス様の弟です。)

彼らがヤコブの死を悲しんでいる最中、ヘロデ王はすぐにペテロを捕らえ、牢に入れ、彼も処刑しようとしました。

しかし、神様は奇跡的にペテロを救い出されました。

では、なぜ神様はペテロを助け、ヤコブを助けられなかったのでしょうか。

ペテロのために祈ったとき、クリスチャンたちはより強い信仰を持っていたからでしょうか。

そうではありません。ペテロが門の前に立っていると告げられたとき、彼らは「あなたは気が変になっている」と言いました。

彼らはペテロのために熱心に祈っていたのに、神様が「はい」と答えられるとは全く信じていなかったようです。

では、なぜでしょうか。

私たちには分かりません。

不思議であり、時に痛みを伴う真理は、神様の計画が私たちの計画とは異なるということです。

では、私たちはどのように応答すべきでしょうか。

1. どんな試練に直面しても、神様が良い方であることを信じましょう。

私たちは神様の計画を理解できないかもしれませんが、その計画が良いものであるという確信を持つことができます。なぜなら、神様は良い方だからです。

2. 神様が最終的に正義をもたらされることを信じましょう。

神様はその正義を速やかにもたらされますが(ルカ18:7ー8)、私たちの「速やかさ」と神様の「速やかさ」は異なります(黙示録6:9ー11)。

それでも、神様はご自身の時に、正義をもたらしてくださいます。この話では、その正義を見ることができます。結局、神様はヘロデをさばいて殺されました(20~23節)。

3. 祈り続け、神様を求め続けましょう。

イエス様は私たちにそう命じられました(ルカ18:1)。

しかし、祈るときに覚えておくべき大切なことがあります。私たちの目的は、神様を私たちの計画に従わせることではなく、神様の計画を知り、その計画に従うことです。

最近、私の友人が興味深いことを言いました。「神様はいつも私の祈りに答えてくださいます。でも、ほとんどの場合、神様は私の期待通りには答えてくださいません。」

彼がそう言ったとき、苦々しい態度ではありませんでした。また、祈ることを諦めようとしているわけでもありませんでした。むしろ、神様が良い方であるという確信をもって語っていました。

神様は良い方です。神様の計画は良いものです。

けれども、イエス様がこの世に来られ、その計画が成就するとき、私たちはなお信仰をもっているでしょうか(ルカ18:8)。

あなたはどうでしょうか。そのような信仰を持っているでしょうか。

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兄弟姉妹たちの信仰を励ます

バルナバはそこに到着し、神の恵みを見て喜んだ。そして、心を堅く保っていつも主にとどまっているようにと、皆を励ました。

彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。(使徒の働き11:23-24)

今日、私は上の言葉に思いを巡らしています。バルナバのように人々の信仰を鼓舞する、私の二人の友人のことを考えていました。彼らは、人々がイエス様に忠実に従い、心のすべてを捧げるように励まします。

また、他の人々がサウロのことを疑ったときに、バルナバが彼を信じたように、私の友人たちも人々を信じます(使徒の働き9:26-27;11:25-26)。

バルナバと私の友人たちのことを思いながら、私もそのような人になりたいと願っています。

この世にいる限り、私は人々の信仰を励ましたいのです。イエス様が私を通して彼らに触れてくださり、彼らも周りの人々の信仰を励ますようになることを願っています。

だから、今日私は祈っています。「主よ、誰に触れてほしいのですか。私は誰の信仰を励ますことができるのでしょうか。どうすれば、私は彼らの信仰を成長させることができるのでしょうか。」

今、神様はあなたの心に語りかけておられるかもしれません。あなたは誰に触れることができるでしょうか。

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神がきよめたもの

神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。(使徒の働き10:15)

(ペテロは)その人たちにこう言った。「ご存じのとおり、ユダヤ人には、外国人と交わったり、外国人を訪問したりすることは許されていません。

ところが、神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならないことを、示してくださいました。(28節)

イスラエルの民をご自身の民として召されたとき、神様は食べ物に関する多くの規定を与えられました。「この食べ物やその食べ物は、あなたたちにとって汚れている」と言われました。

しかし、その規定の目的は単なる健康上の配慮ではありませんでした。むしろ、それらの日々の規則を通して、イスラエルの民は周囲の国々の慣習に流されず、神様の導きに従って生きるべきであることを思い起こさせられました。

神様は彼らにこう教えようとされたのです。

「周りの人々がある食べ物を口にしているからといって、あなたたちもそれを食べるべきとは限らない。

同じように、周りの人々がある罪を犯しているからといって、あなたたちもその罪を犯すべきとは限らない。

今や、あなたたちは私の民である。だから、私に従いなさい。」

そういうわけで、神様が「汚れている食べ物」を食べるように命じられたとき、ペテロは衝撃を受けました。

ところが、ペテロが「この食べ物は汚れています」と言ったとき、神様はこう言われました。「私はこのものをきよめた。私がきよめたものを、汚れていると言ってはならない。」

けれども今回も、神様は単なる食べ物について話していたのではありませんでした。

むしろ、神様がペテロに示そうとされたのは、神がアブラムに与えられた「大いなる国民となる」という約束が、もはやユダヤ人だけに限られないということです。

その約束は、かつて「汚れた異邦人」とされていた者たちにも与えられました。つまり、イエス様を信じるすべての人が神様に受け入れられるということです。(エペソ2:12-18)

神様は私たちについても語られています。かつて、神様の約束は私たちのものではなく、私たちは神の民から除外され、希望を持たず、神様との関係もありませんでした。

しかし、十字架で流されたイエス様の血によって、神様は私たちをご自身に近づけてくださいました。私たちはきよめられ、罪の咎も清められました。

だからこそ、今、私たちは聖徒です。私たちは神の子供です。

けれども、多くのクリスチャンは自分をそのように見ていません。

もしかすると、過去の罪を思い出して恥じているのかもしれません。または、何度も罪に負けてしまうために、失望し、恥を感じているのかもしれません。

あるいは、幼い頃から、両親や先生に「お前はダメだ」と言われ続けてきたのかもしれません。

あなたはどうでしょうか。自分を汚れた存在だと思ってしまうことはありますか。神様があなたを「聖徒」と呼ぶことが、残酷な冗談のように聞こえることはありませんか。

鏡を見たとき、あなたは何を見ますか。その人を受け入れることができますか。それとも、「自分はダメだ」という考えが、心の中で響き続けているでしょうか。

神様はあなたにこう語られています。

「わたしがきよめたものを、あなたが汚れていると言ってはならない。 わたしはあなたの罪をきよめた。だから、罪悪感を抱き続ける必要はない。

わたしはすでにあなたを受け入れている。自分を責め続けるのはやめなさい。 あなたはわたしの愛する子なのだから。」

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新しい命

(サウロ)は三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしなかった。(使途の働き9:9)

たぶんイースターの後にこの箇所を読んだからこそ、上の言葉が私の心を打ったのでしょう。

サウロは、ある意味で死んでいました。

しかし、三日目に、彼は新しい人として復活しました。

サウロはイエス様を見直したのです。

彼は、イエス様を偽メシアとはもう思わず、真のメシア、そして主であると認めました。

サウロが驚いたのは、自分がイエス様の民を攻撃し、イエス様ご自身を迫害したにもかかわらず、主でありメシアであるイエス様が彼を愛し、十字架で彼の罪の代価を支払ってくださったことです(ガラテヤ2:20)。

サウロは悔い改めて、自分自身を見直したのです。

自分の義に関するプライドは消えました。ユダヤ人としての地位や、パリサイ人としての誇りも消えました(ピリピ3:4-6)。

むしろ、彼は、自分が神様の恵みを必要とする罪人であることを悟ったのです。そして、神様がその恵みを与えてくださったことに、彼は驚き、大いに喜びました。

サウロは、他の人々のことも見直しました。

かつて彼が軽蔑していた「道の者」、つまりイエス様の弟子たちは、今や彼の兄弟姉妹となりました。また、以前は見下していた異邦人たちも、神様に愛されていることを悟り、彼らに福音を届けることがサウロの使命となったのです。

私たちクリスチャンも、新しい命を与えられました。

私たちもイエス様を見直してきたでしょうか。私たちにとって、イエス様はただ昔に死んだ人ではなく、私たちを愛し、救ってくださった主であり救い主なのでしょうか。

私たちも悔い改めて、自分自身を見直してきたでしょうか。

私たちの自尊心は、自分の達成や地位に基づくものではなく、赦された罪人であるという事実に根ざしているでしょうか。

神様が私たちに「あなたは私の愛する子どもだ」と言われるとき、私たちは驚き、大いに喜ぶでしょうか。

私たちは、周りの人々のことも見直してきたでしょうか。彼らを、神様が愛し、大切にされる人々だと認めているでしょうか。彼らが新しい命を知るために、神様が私たちを遣わしておられることを悟っているでしょうか。

もしかすると、私たちはまだ死んでいる人のように振る舞っているかもしれません。

だからこそ、パウロと改名されたサウロのように、こう言いましょう。

というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。

私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。

ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5:14-17)

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弟子の心

ピリポとエチオピア人の話を読むとき、私はたいていピリポのことを考えます。特に、「私はピリポのように御霊に導かれたらいいなあ」と思います。

でも、今日私はエチオピア人の心に感動しました。なぜなら、彼は真の弟子の心を持っていたからです。

つまり、彼は謙遜に学びたいという態度を持っていたのです。今日の話では、彼は聖書を読んでいましたが、その言葉が理解できませんでした。

ピリポが「あなたは、読んでいることが分かりますか」と訊いたとき、エチオピア人は自分のプライドを保とうとしませんでした。「もちろん分かっていますよ」とは答えなかったのです。

むしろ、彼は謙遜に「預言者の言葉が分かりません」と認めて、ピリポに助けを求めました。

イエス様の弟子たちも同じ態度を持っていました。イエス様がたとえ話を語られたとき、その後に弟子たちは何度もイエス様に「私たちはその話の意味が理解できません。教えてください」と言いました。

あなたはどうでしょうか。聖書の中に理解できない言葉があるとき、「もういいや」と思ってしまうでしょうか。

それとも、誰かに助けを求めるでしょうか。「これはどういう意味でしょうか。私は分かりません」と訊くでしょうか。

しかし、弟子は聖書の言葉を理解しただけでは満足しません。むしろ、その人は御言葉に従います。

エチオピア人はそのような態度を持っていました。彼は福音を理解した後、たまたま水のある場所を見つけると、「バプテスマを受けてもよいでしょうか」と尋ねました。

彼はまったくためらうことなく、その言葉に従ったのです。

謙遜、学びたいという態度、従順。それが弟子の心です。

あなたはどうでしょうか。弟子の心を持っているでしょうか。

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神様にとって本当に重要なこと

うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。

あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。(使徒の働き7:51)

ユダヤ人の指導者たちはステパノに対して重大な告発をしました。つまり、ステパノが神殿や神の律法に逆らう言葉を語ったということです(6:13~14)。

しかし、ステパノによれば、その指導者たち自身が神様に逆らっていました。

過去にユダヤ人の先祖たちが、神様の任命された救い主であるヨセフ(創世記37:8、26~28;45:5~7)とモーセ(使徒の働き7:27、39)を拒絶したように、ユダヤ人の指導者たちはイエス様を拒絶してしまいました。

そして、その指導者たちが律法に従っていると主張したにもかかわらず、彼らは先祖たちと同様に、律法に何度も違反し、ついにはイエス様を十字架につけてしまいました。

さらに、彼らは神殿を大切にしましたが、その理由は誤っていました。

神殿自体は重要なものではありませんでした。なぜなら、人が造った建築物は主を収めることができないからです。むしろ、神殿は神様が人々の間に住まわれることを象徴するものにすぎませんでした(使徒の働き7:47~50)。

ヨハネによれば、イエス様こそが真の神殿です(ヨハネ2:19~21)。

イエス様にあって、神様は人となり、私たちの間に住まわれました。

原語では、ヨハネは文字通り「イエス様にあって、神様は私たちの間に幕屋を建てられた」と述べています(ヨハネ1:14)。

しかし、ユダヤ人の指導者たちはイエス様を大切にせず、むしろ十字架につけてしまいました。

では、神様にとって本当に重要なことは何でしょうか。それは、私たちが御子を敬い、御子に従うことです。天の父ご自身がこう言われました。

これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。(マルコ9:7)

主よ、あなたこそが律法の指し示す方です。あなたこそが幕屋や神殿の象徴する方です。私が御霊に逆らったとき、どうか赦してください。また、あなたに耳と心を閉ざしたときも、赦してください。

十字架で、あなたは私のためにご自身の命を捧げられました。私の心の中で、もう二度とあなたを十字架につけたくはありません。(へブル6:6)

あなたは私の愛、敬い、従順にふさわしい方です。毎日、それらをあなたに捧げることができるよう、どうか助けてください。

私はあなたを愛しています。あなたがまず私を愛してくださり、ご自身の命を私のために捧げてくださったことは、本当に不思議なことです。心から感謝します。あなたのみ名によって祈ります。アーメン。

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御霊と知恵に満ちた人

そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。

その人たちにこの務めを任せることにして、私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。(使徒の働き6:3ー4)

今日の箇所を読んだとき、「祈りとみ言葉」と「御霊と知恵に満ちた人」の関係が見えてきました。

御霊に満ちた人になりたいですか。イエス様のように、御霊に導かれ、その力によって歩みたいですか(ルカ4:1、14)。

そのような人生を送りたいのであれば、御霊と繋がらなくてはなりません。つまり、私たちは祈らなくてはならないということです。毎日、私たちは、御霊が私たちを満たし、力を与え、導いてくださるように祈るべきです。

イエス様は私たちに言われました。「求め続けなさい。探し続けなさい。たたき続けなさい。そうすれば、神様は必ず御霊を与えてくださいます。」(ルカ11:9-13)

知恵に満ちた人になりたいですか。聖書に専念する人にならなくてはなりません。聖書を読み、その言葉に思いを巡らしてこそ、神様のように考え始めるのです。

使徒たちはその二つのことに専念したので、御霊と知恵に満ちた人になりました。でも、そのような生活は、ただ偉いクリスチャンたちのためのものではありません。

私たち皆が、そのようなクリスチャン生活を送るべきなのです。

使徒の働きの時代、すべてのクリスチャンたちはみ言葉と祈りに専念していました。(使徒の働き2:42)

だから、そのような生活は、ただ偉いクリスチャンのためであるという嘘を信じてはいけません。イエス様についていくすべてのクリスチャンが、そのように生きるべきなのです。

神様の民である私たちが御霊と知恵に満ちて生きるとき、私たちの愛する人々、そしてこの国の人々も変えられ、イエス様に従うようになります。

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イエス様の名前だけによって

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。(使徒の働き4:12)

クリスチャンとして、私たちはこのような言葉を何度も聞いてきたので、もはや深く考えることも少ないかもしれません。

しかし今日、私の心にこの問いが浮かびました。「そのユダヤ人の指導者たちは、それを聞いて何を思っただろうか。」

「イエス以外には、誰によっても救いはないって?でも、ヤハウェだけが私たちの救い主です。」(ヤハウェとは、ユダヤ人やクリスチャンが信じる神の御名です。)

また、「天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないって?でも、ヤハウェだけが私たちの救い主です。」

実は、その考え方は間違っていませんでした。預言者イザヤを通して、神様はこう語られました。

わたし、主(直訳、「ヤハウェ」)ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、わたしをおいて、ほかにはいない。

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。

わたしは自分にかけて誓う。ことばは、義のうちにわたしの口から出て、決して戻ることはない。すべての膝はわたしに向かってかがめられ、すべての舌は誓い…(イザヤ書45:21-23)

でも、ユダヤ人の指導者たちが知らなかったのは、神様が人間となられたということです。つまり、イエス様こそがヤハウェなのです。

だからこそ、神様はマリアに「その子をイエスと名付けなさい」と言われました。「イエス」とは、「ヤハウェが救い」を意味します。

また、使徒パウロも後に、上記のイザヤ書の言葉をイエス様に当てはめました。(ピリピ2:6-11)

イエス様を知らない、私たちの愛する人々のことを考えると、きっと多くの人がこう思いたくなるでしょう。「その人はイエス様を知らないけれど、神様はきっと受け入れてくださるだろう。」

しかし、イエス様のみ名のほかに、私たちが救われるべき名は与えられていないのです。なぜなら、イエス様だけが人となられた神であり、私たちの罪のための代価を払ってくださった方だからです。

さらに、イエス様が神であったからこそ、私たちの罪の代価を完全に払うことができたのです。

だから、今日祈るときに、イエス様を知らないあなたの愛する人々のことを思い起こしましょう。そして、彼らに救いの良い知らせを伝えるための機会と大胆さを求めて祈りましょう。

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希望と喜びを持って、歩む

彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。(使徒の働き2:42)

今日の箇所を読むと、上の言葉をクリスチャンの生活のための方式にしてしまうのは簡単だと思います。

つまり、「良いクリスチャンになるためには、教会に行き、聖書を読み、祈り、聖餐式に参加しなければならない」という方式を作ることです。

私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。

それゆえ、私の心は喜び、私の舌は喜びにあふれます。私の身も、望みの中に住まいます。

あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。(25-28節)

その言葉を読んだとき、私はダビデの喜びに気づかされました。

「主は、いつも私と共におられます。だから、暗い谷、死の陰の谷を歩んでも、私は揺るがされることはありません。あなたは私をよみに捨て置かれることはありません。だから、この世にあっても、あなたは私を見捨てられることはないでしょう。

あなたはいのちの道を示してくださいました。あなたの御前にいるだけで、私は喜びに満たされています。」

ダビデの希望のよりどころは、主が常に共におられるという確信でした。

あなたにある敬虔な者(つまり、イエス様)に滅びをお見せにならないからです。(27節)

イエス様が生きておられるからこそ、私たちも生きることができるのです。(ヨハネ14:19)

その希望と喜びをもって、初代のクリスチャンたちは日々を歩んでいました。

だからこそ、彼らは喜んで使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りを捧げていたのです。彼らにとって、愛してくださる主とその民と共に時を過ごすことは、何よりの喜びでした。

それゆえ、私は自分に問いかけました。「私はその希望と喜びをもって、生きているだろうか。」

あなたは、その希望と喜びをもって、生きていますか。

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主がもう一度来られるから

「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。

あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒の働き1:11)

今朝、上の言葉を読んだとき、私はこう考えました。「天使たちは何を伝えたかったのだろうか。ただ『イエス様がもう一度この世に来る』と告げたかっただけなのだろうか。」

もしかすると、その言葉には言外の意味が込められていたのかもしれません。

きっと、言外の意味があったのでしょう。私にははっきりとは分かりませんが、もしかしたら天使たちは、弟子たちにイエス様の言葉を思い出させたかったのかもしれません。

つまり、

腰に帯を締め、明かりをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人たちのようでありなさい。。。

主人が帰って来たときに、そのようにしている(つまり、忠実に仕えている)のを見てもらえるしもべは幸いです。(35-36,43)

要するに、天使たちは弟子たちにこう語りかけていたのだと思います。「どうして、ただそこに立っているのですか?イエス様は帰って来られます。だから、行きなさい。イエス様が命じられたことを行いなさい。」

もちろん、弟子たちが福音を述べ伝える前に、聖霊様が来て彼らを満たしてくださるのを待たなければなりませんでした。

しかし、待っている間、彼らは共に祈り、ユダの代わりにマッティアという人を選びました。

ところで、私たちはどれほど、イエス様がもう一度この世に来られることを思い巡らしているでしょうか。そのことを覚えて、神様から与えられた働きを忠実に行っているでしょうか。

正直に言うと、私はよく自分のしていることに夢中になってしまい、神様が私に望んでおられることを全く考えなくなってしまいます。その結果、どうでもいいことに時間や力を浪費してしまうのです。

あなたはどうでしょうか。神様から与えられた働きを、忠実に果たしておられますか。

主よ。あなたはこの世に帰って来られます。その日がいつなのか、私は分かりません。けれどもその日、私があなたから与えられた働きを忠実に行っている姿を、あなたに見ていただきたいのです。

私に何をしてほしいのかを教えてください。誰に触れてほしいのかを教えてください。

あなたのみ名によって祈ります。アーメン。

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私は望みを抱いている

また私は、正しい者も正しくない者も復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神に対して抱いています。(師との働き24:15)

その言葉は私の心に響きました。

どうして、パウロは望みを持っていたのでしょうか。

なぜなら、パウロは、神様が彼を愛しておられるという確信を持っていたからです。また、神様がパウロの罪の罰を受けるためにイエス様を送ってくださったことを、パウロは知っていました。

でも、それだけではなく、神様がイエス様を復活させたことも、パウロは知っていました。

そういうわけで、パウロは、自分の問題が永遠に続くわけがないと知っていました。

さらに、パウロは、すべての悪人が裁かれる日が来るという確信を持っていました。

でも、パウロは神様の愛をよく知っていたので、フェリックスと違って、神様の裁きを恐れませんでした。(25)

むしろ、パウロは毎日、望みを抱き、神様を喜ばせようと努め、イエス様を切実に必要とする世界に触れていました。(16)

私たちは暗い時代に生きているかもしれません。でも、パウロと共に、あなたは「望みを抱いている」と言えるでしょうか。

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神の前で清い良心を保って生きる

兄弟たち。私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました。(使徒の働き23:1)

パウロの言葉は、本当に驚くべきものです。それを言える人が、どれほどいるでしょうか。

もちろん、パウロは、自分が罪のない人間だとは考えていませんでした。

パウロは、コリントの人々にこう語りました。

私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。

ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。

そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。(第一コリント4:4ー5)

要するに、私たちは、自分では正しい動機で正しいことをしていると思っていても、神様の目には、心が正しくないこともあるのです。

それでも、私たちは、できる限り神様の前に清い良心を保つように努めるべきです。

覚えておきましょう。故意に自分の良心に反することは、罪です。

だからこそ、ダビデのように祈りましょう。

だれが 自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか 隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを 傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は、大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと 私の心の思いとが 御前に受け入れられますように。主よ、わが岩 わが贖い主よ。(詩篇19:12ー14)

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イエス様の証人

彼はこう言いました。「私たちの父祖の神は、あなたをお選びになりました。あなたがみこころを知り、義なる方を見、その方の口から御声を聞くようになるためです。

あなたはその方のために、すべての人に対して、見聞きしたことを証しする証人となるのです。」(使徒の働き22:14ー15)

「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため。。。

わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。

あなたがたも証しします。初めからわたしと一緒にいたからです。(ヨハネ15:16、26ー27)

この世が造られる前から、神様は私たちを選んでくださいました。ご自身の子どもとなり、みこころを知る者とするためです。

そのため、私たちは神様の命のことばを聞き、人生の中で神様の救いのみわざを見てきました。

しかし、私たちはただ神様の愛を享受するためだけに召されたのではありません。むしろ、イエス様は、私たちが実を結ぶようにと任命されました。

私たちは、イエス様の証人として選ばれたのです。そして、自分が受けた福音を周囲の人々に伝え、命を分かち合うようにと任命されています。

では、証人とは何をする者でしょうか。

彼らは説教をするのでしょうか。

違います。

彼らは神学を教えるのでしょうか。

違います。

彼らは、ただ自分が見聞きしたことを証しするのです。

あなたの人生に、神様は何をしてくださったでしょうか。あなたは何を見たでしょうか。

神様から聞いた真理によって、あなたの人生はどのように変えられたでしょうか。

私たちは、そのようなことを周囲の人々に証しすべきです。

そうすれば、私たちは実を結ぶのです。

だから、自分の証しを考えてみましょう。神様は、あなたのためにどんな素晴らしいことをしてくださったでしょうか。神様の真理は、あなたの人生をどのように変えてくださったでしょうか。

私たち皆が、牧師や教師として任命されているわけではありません。

しかし、私たち皆が、イエス様の証人として任命されているのです。

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離れがたい

私たちは、彼らと別れて船出した。。。ツロに入港した。。。私たちは弟子たちを探し(ました。)(使徒の働き21:1、3ー4)

新改訳では、ただ「私たちは、彼らと別れて船出した」と書かれていますが、原語のニュアンスには、パウロたちがエペソの人々と別れることを辛く感じていた様子が含まれています。

私たちは、どれほどクリスチャンの交わりを大切にしているでしょうか。

パウロたちは、エペソのクリスチャンたちを心から大切にしていて、彼らと離れたくありませんでした。そして、ツロに着いた瞬間、ツロのクリスチャンたちを探し始めました。

昨年から、コロナの影響で何度も緊急事態宣言が出されました。そのため、私たちはクリスチャンの交わりの大切さを忘れてしまったかもしれません。「オンライン礼拝があるから、それで十分だ」と考えるのは、簡単なことです。

あなたはどうでしょうか。他のクリスチャンたちにあまり会わないことに、慣れてしまったでしょうか。それとも、彼らに会えないことを辛く感じているでしょうか。

教会で集まることができなくても、積極的にクリスチャンの交わりを求めているでしょうか。他のクリスチャンたちに電話をかけていますか。メールを送っていますか。彼らと祈っていますか。

以前にも述べましたが、私たちは互いに必要とされています。

だからこそ、特にこの時期に、テサロニケ人へのパウロの言葉を心に留めておきましょう。

兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちで。。。

すべての兄弟たちに対して、それを実行しているからです。

兄弟たち、あなたがたに勧めます。ますます豊かにそれを行いなさい。(第一テサロニケ4:9ー10)

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信仰の道を走り抜き、イエス様から託された使命を果たす

けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。(使徒の働き20:24)

パウロの言葉を読むと、その言葉がクリスチャンのエリートだけに向けられたものだと考えてしまうのは、簡単なことです。

でも実際には、私たち一人ひとりに、主から与えられた道のりと任務があります。

特に、私たちは皆、周りの人々に福音を証しするという任務を受けています。私たちは、神に対する悔い改めと、イエスに対する信仰について証しするべきです。(21)

もちろん、私たちの道のりや任務はまったく同じではありません。神様は、私たちにパウロのように多くの国々に行って福音を伝える任務を与えておられないかもしれません。

それでも、私たちは皆、自分が受けた恵みの福音を周りの人々に伝える任務を受けています。

私たちは、イエス様が私たちのためにしてくださったことを彼らに伝えるべきです。そうすれば、彼らは私たちの喜びを知るようになるかもしれません。(第一ヨハネ1:3〜4)

あなたの人生に、神様が用意された人は誰でしょうか。

私たちが人生の終わりに、パウロのようにこう言えるように。

私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。

私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。(第二テモテ4:7~8)

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驚くべき

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。(エペソ人への手紙1:4~6)

神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。

それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。

確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。(使徒の働き17:26ー27)

私たちへの神様の愛と恵みは、本当に驚くべきものです。

それは、世界の基が据えられる前から、神様が私たちを選んでくださったということです。さらに、神様は私たちがどこに生まれるか、いつ生まれるか、どんな環境で生まれるかをお定めになりました。

神様の目的は、私たちが手探りで神様を求め、そして神様を見出すことです。そして、私たちがそうするときに分かってくるのは、神様が私たちから遠く離れておられたことは一度もなかったということです。

また、手で造られた宮にお住みにならない神は、私たちのうちに住まわれることを選ばれました。私たち自身が、神様の宮となるのです。(使徒の働き17:24;ヨハネ14:23;第二コリント6:16)

そのすべてを思うとき、心に浮かぶ言葉はただ一つです。驚くべき、ということです。

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人の心をご存じである方

そして、人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました。

私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。(使徒の働き15:8-9)

「人の心をご存じである神」。ギリシャ語では、それは「人の心をご存じである方」という神を意味します。

なぜか、その神の名称は私の心に深く響きます。

人の心をご存じである方は、私たちを見て、聖霊様を与え、私たちのために証をしてくださいました。クリスチャンたちの間に、神様は何の差別もされません。

私たち皆がイエス様を信じた時、恵みによって、神様に受け入れられました。イエス様にあって、私たちはすでに清いのです。

時々、人々は私たちを見下します。なぜなら、私たちはクリスチャンとして彼らの基準に達していないからです。今日の箇所でも、あるユダヤ人のクリスチャンたちは異邦人のクリスチャンたちを見下しました。

でも、他のクリスチャンたちの意見は気にしなくていいのです。なぜなら、人の心をご存じである方は、すでに私たちを受け入れてくださっているからです。

時々、私たちは自分自身を責めてしまいます。なぜなら、私たちはクリスチャンとして、自分の基準に達していないと感じるからです。

でも、私たちが自分の心を責めるとき、人の心をご存じである方は、私たちの心にこうささやいてくださいます。「あなたを愛しているよ。あなたを受け入れているよ。」

なぜなら、神様は私たちの心よりも大きな方だからです。(第一ヨハネ3:19〜20)

人の心をご存じである方、あなたが私を愛してくださっていることに、感謝します。

この世界が造られる前に、あなたが私を選んでくださったことに、感謝します。

私がその真理を深く実感できるように、助けてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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クリスチャンの交わりは必要ないのか?

そして(パウロとバルナバ)は、しばらくの間、弟子たち(つまり、クリスチャンたち)とともに過ごした。(使徒の働き14:28)

パウロとバルナバは、とても強いクリスチャンでした。それに、彼らは主の働きに大いに用いられていました。それでも、彼らはクリスチャンの交わりを大切にしていたのです。

彼らは、「私のイエス様との関係は大丈夫です。他のクリスチャンたちは必要ありません」と言うこともできたでしょう。

または、「私は神様のために重要な働きをしています。クリスチャンの交わりの時間はありません」と言うこともできたかもしれません。

しかし、彼らはそう言わずに、自分たちの教会で他のクリスチャンたちと多くの時間を過ごしました。

なぜでしょうか。おそらく、一つの理由は、彼らが兄弟姉妹を励ましたいと願っていたからです。そして、もう一つの理由は、その交わりによって、彼ら自身がリフレッシュされていたからではないでしょうか。

今、私たちの多くは自分の教会で集まることができません。それでも、私たちはクリスチャンの交わりを大切にしているでしょうか。私たちは互いに必要とされているのです。

このような緊急事態の中でも、私たちは誰かにメールを送ったり、ビデオチャットをしたり、電話をかけたりすることができます。

今日、あなたは誰に触れることができるでしょうか。

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喜びに満たされた

弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。(使徒の働き13:52)

私はいつもすぐに忘れてしまいますが、使徒の働きにおいて「弟子」とは、「普通のクリスチャン」を意味します。

だから、「弟子たちは喜びと聖霊に満たされた」と書かれているとき、著者であるルカはパウロとバルナバのことを語っているのではありません。ルカは、彼らのメッセージによって救われた新しいクリスチャンたちのことを語っているのです。

自分たちのリーダーが迫害され、その地方から追い出されたのに、どうしてそのクリスチャンたちは喜びに満たされたのでしょうか。

おそらく、二つの理由があったと思われます。

一つ目は、彼らが自分の救いを喜んでいたということです。それまで、彼らは部外者と呼ばれていました。神様に受け入れられるためには、ユダヤ人にならなければならないと教えられていたのです。

しかし、パウロとバルナバが彼らに教えたのは、イエス様を信じることによって、彼らがすでに神様に受け入れられているということでした。

さらに、彼らが学んだのは、この世界が造られる前から、神様が彼らを愛し、選んでおられたということでした。(使徒の働き13:48、エペソ1:4〜6)

でも、もう一つの理由があったと思います。彼らは、パウロとバルナバがどのように迫害されたかを見ました。彼らは、パウロとバルナバの試練を目の当たりにしました。そして、その試練の中での彼らの喜びも見たのです。

私たちが自分の困難にどう反応するかによって、周りの人々は影響を受けます。

もし私たちが試練の時に、神様が私たちを愛し、選んでくださったという真理に根差しているなら、私たちは喜びを保つことができます。そして、周りの人々はそれに気づくのです。

私たちの子どもたちや友人、同僚たちは気づきます。

そして、クリスチャンたちは私たちを見るとき、励まされます。一方で、ノンクリスチャンたちはそれを見て、なぜ私たちが喜びに満たされているのか疑問に思うのです。

この世の多くの人々は、喜びを見つけることができません。もし彼らが私たちの人生の中にその喜びを見いだせないなら、いったいどこで見つけることができるでしょうか。

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神がきよめたもの

神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。(使徒の働き10:15)

今日の箇所では、イエス様は異邦人に対するペテロの考え方を変えようとされています。

それまで、異邦人がユダヤ教に改宗しない限り、ユダヤ人は彼らを汚れた者として見なしていました。けれども、イエス様はペテロにこう語られました。

「私がきよめた人々(異邦人さえも)を、汚れていると言ってはならない。」

これは、すべてのクリスチャンに向けられたメッセージです。もちろん、私たちは他のクリスチャンを汚れた者として見なしてはいけません。けれども、それと同じように、私たちは自分自身をも汚れた者として見なしてはいけません。

それでも、私たちは自分の罪のゆえに、自分が汚れていて、神様の愛に値しないと感じることがしばしばあります。

しかし、私たちがイエス様を信じるなら、イエス様はすでに私たちをきよめてくださいました。神様はすでに私たちを受け入れてくださっています。(ヨハネ15:3)

だからこそ、自分の失敗を目にするとき、自分を責めるのではなく、真理を心に留めておきましょう。

私たちはすでにイエス様の血によってきよめられています。そして、自分の罪を告白するなら、神様は喜んでその罪を赦し、すべての不義から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

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「普通のクリスチャン」の生活

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため。。。(ヨハネ15:16)

しかし、主はアナニアに言われた。「行きなさい。」(使徒の働き9:15)

今日の箇所では、私たちはアナニアとタビタという、普通の弟子たちを見ます。

前にも述べたように、使徒の働きにおいて「弟子」とは、クリスチャンという意味です。つまり、今日の箇所では、私たちは二人の普通のクリスチャンを見ているのです。

そして、イエス様が十二人の使徒たちを選び、実を結ぶために任命されたように、イエス様はアナニアとタビタも選び、任命されました。

彼らは毎日、ただ自分の家で神様を礼拝するためだけに選ばれていたわけではありません。むしろ、彼らはこの世界に出て行き、実を結ぶために選ばれていたのです。そして、イエス様の御心は、彼らの実が残ることでした。

アナニアとタビタはそのことを理解し、実際にそう生きました。

アナニアはサウロという人に触れました。そして、サウロを通して、ローマ帝国はイエス様のためにひっくり返されました。

タビタの場合、彼女は毎日、周りの人々にキリストの愛で触れ続けました。

アナニアとタビタは「スーパークリスチャン」ではありませんでした。パウロの証し以外では、アナニアの名前はもう登場しませんし、この章以外では、タビタの名前も出てきません。

それでも、彼らはこの世界に出て行き、多くの人々に触れ、永遠に残る実を結びました。

クリスチャンとして、私たちはそのような生活に召されています。私たちはこの世界に出て行き、実を結ぶべきです。

それが「普通のクリスチャン」の生活です。

あなたは、そのような生活を送っているでしょうか。

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この世に喜びを届ける

サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた。

散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。。。

その町には、大きな喜びがあった。(使徒の働き8:3-4,8)

この世には、喜びがあまりありません。毎日、私たちはコロナのニュース、戦争のニュース、災害のニュースを目にします。それらは私たちクリスチャンにも影響を与えました。

でも、使徒の働きの時代のクリスチャンたちの模範に従いましょう。

この世で本当の喜びを与えることができるものは、ただ一つしかありません。それは、イエス様の福音です。

だから、その福音を周りの人々に伝えて、喜びを広げる者になりましょう。

その良い知らせは、私たちに命を与えてくれました。だから、その命を他の人々にも分かち合いましょう。

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あるがままを見る信仰

しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見(ました)。(使徒の働き7:55)

天のお父さん。このめちゃくちゃな世界の中で、私が本当に必要としているのは、あなたの聖霊に満たされることです。

この世界を見るとき、すべてが混乱していると感じるのは簡単なことです。あなたがもうこの世界の問題をコントロールできなくなったと考えるのも、簡単なことです。

でも、ステパノは、物事を実際にあるがままに見ました。彼はあなたの栄光を見て、あなたが今も御座に座っておられ、イエス様があなたの右に立っておられるのを見たのです。

だからこそ、彼自身が苦しい状況にあり、周囲の人々に憎まれ、迫害されていたにもかかわらず、ステパノは喜び、あわれみと恵みに満ちていました。

聖霊様、どうか私のうちに住んでください。私を満たしてください。私を導いてください。物事を実際にあるがままに見ることができるよう、私を助けてください。

そして、この世が切実に必要としている喜びとあわれみと恵みで、私を満たしてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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クリスチャン?弟子?

多くのクリスチャンたちは、「弟子」という言葉を聞くと、「特別なクリスチャン」というイメージを思い浮かべます。つまり、彼らにとって「弟子」とは、ただの信者ではなく、もっと高いレベルのクリスチャンということです。

でも、今日の箇所を読んだときに私が気づいたのは、使徒の働きの著者であるルカが「弟子」と言うとき、イエス様の十二人の弟子に限定して話していないということです。

ルカはいつもその十二人を「使徒」と呼びます。(2節、また、9章26〜27節を参照してください。)

むしろ、ルカが「弟子」と言うとき、それはすべてのクリスチャンを指しています。そして、ルカはその言葉を男性にも女性にも当てはめています。(使徒の働き9章10節、36節)

「クリスチャン」という言葉が初めて使われたとき、それはすべての弟子たちに当てはめられていました。(使徒の働き11章26節)

だから、使徒の働きを読んで「弟子」という言葉を見るとき、「十二人の弟子たち」や「特別なクリスチャン」と考えてはいけません。

むしろ、「クリスチャン」と考えるようにしましょう。

もっと大切なのは、自分自身を「弟子」として考えることです。私たちはある成熟のレベルに達してから弟子になるのではありません。イエス様を信じ始めた瞬間から、弟子としての歩みが始まるのです。

だから、イエス様の弟子として、イエス様にとどまることを学びましょう。毎日、神様に近づき、その愛と力を受け取りましょう。毎日、イエス様を信頼し、イエス様に頼りましょう。毎日、愛をもって、イエス様とその導きに従いましょう。

そうすれば、私たちは神様のために実を結び、この世の人々に触れることができます。(ヨハネ15:1〜8節)

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人生が辛いときに、どう生きるか

人生が辛いとき、私たちはどのように反応するでしょうか。

もし使徒たちが人々や神様に怒っていたら、私は彼らに共感できたと思います。

なぜなら、彼らは悪いことを何もせず、むしろ人を癒し、イエス様の福音を述べ伝えたのに、迫害されたからです。

でも、彼らはどのように反応したでしょうか。

彼らは喜んで自分たちのミッションに集中しました。それは、死にかけている世界に福音を述べ伝えることです。

私たちはどうでしょうか。辛いとき、私たちの反応はどのようなものでしょうか。

ただ落ち込んでしまうでしょうか。

ただ怒ってしまうでしょうか。

ただ歯を食いしばって頑張るでしょうか。

それとも、主の喜びに満ちた心を持ち、主を本当に必要としている人々に触れるでしょうか。

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あなたが私と共におられるから

私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。

さらに私の肉体も望みの中に安らう。あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。

あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。(使徒の働き2:25-28)

天のお父さん、私がいつも、自分の目の前にあなたを見ることができますように。

あなたを見失うのは簡単なことです。でも、そうなると、私は心配に支配されてしまいます。恐れや怒りに支配されることも、私にとっては簡単なことです。

でも、いつもあなたを自分の目の前に見るなら、私は決して動かされません。なぜなら、あなたにある希望を覚えているからです。あなたの御前にいるという喜びを覚えているからです。

あなたは私に命の道を知らせてくださいました。だから、その道を私と共に歩んでください。

あなたが私と共におられることを知っているので、私は満足です。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私が必要なのは。。。

イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。

そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒の働き1:7ー8)

主よ、私は、あなたがいつこの世に帰られるかを知る必要はありません。

また、コロナがいつ終息するかも、タリバンがいつ倒れるかも、知る必要はありません。 それらはすべて、天の父がご自身の権威によって定めておられることだからです。

でも、私に必要なのは、あなたの聖霊が私のうちに住んでおられることです。 あなたを知らず、傷ついている人々に触れるために、私にはあなたの力が必要です。

だから、聖霊様、私を満たしてください。私にあなたの力を与えてください。私を導いてください。そして、私の愛する人々にどのように触れることができるかを教えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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抜かれた?(旧約聖書が私たちに関係あるでしょうか)

普段私はこんなことをしないけど、最近、私は有名なアメリカの牧師のメッセージを聞いたので、そのことについて話したいと思います。

彼は、使徒の働き15章から話しました。私は、そのメッセージの80%ぐらいに賛成できたけど、あと20%は賛成できませんでした。

でも、彼を批判するよりも、私は、どのように旧約聖書が私たちに関係があるか話したいと思います。

多分、彼の要点は、クリスチャンになるために、私たちがユダヤ人になる必要がないことです。つまり、ユダヤ人たちは神様がモーセとイスラエル人に与えた契約に結ばれたけど、私たちは、その契約とは結ばれていません。

今、クリスチャンたちの皆は(ユダヤ人でも、ユダヤ人じゃなくても)神様の恵みによって、神様の民になります。私たち皆、救い主が必要である罪人です。

多分、彼はそう言いたかったと思います。もしその牧師が、そのように説明していたら、彼を批判する人はいないと思います。でも、彼はこう言いました。

「不品行を定義するために、パウロやほかの使徒たちは旧約聖書、つまり、モーセの律法を調べませんでした。実は、彼らは罪を定義するために旧約聖書を全然調べませんでした。」

「あなたは、十戒とは全く関係ありません。あなたは、そのユダヤ人の律法、またモーセの律法に全然関係ありません。あなたは十戒に従うべきではありません。なぜなら、その律法は、あなたのためではないから。

あなたが従う律法(つまり、隣人を愛する戒め)は、より優れたものです。あなたが従う律法は、もっと理解しやすいです。実は、あなたが従う律法は、あなたからもっと要求します。」

「ペテロとヤコブとパウロがクリスチャンの信仰について話したとき、旧約聖書に頼りませんでした。彼らは教会から旧約聖書の世界観や、価値観や、律法を抜きました。

どうやってクリスチャンになることについて教えたとき、旧約聖書を全然使いませんでした。教会から旧約聖書の全体を抜きました。使徒たちは、クリスチャンの信仰から旧約聖書を抜いたし、私たちもそうするべきです。」

私は、この牧師の言葉を言いなおします。そうすれば、あなたには、彼の言葉と聖書の言葉の違いをはっきり見ることができると思います。彼の最後のポイントから始めましょう。

1.ペテロとヤコブとパウロは、クリスチャンになることと、ユダヤ人になることを区別しました。

ユダヤ人の世界観によれば、あなたが救われたいなら、ユダヤ人にならなくてはいけませんでした。また、モーセの律法のすべてを守らなくてはなりませんでした。

だから、使徒の働き15章では、あるユダヤ人たちは「クリスチャンになりたいなら、ユダヤ人になるべきです」と言いました。

でも、ペテロたちは、その考え方を捨てました。私たちも、そうするべきです。

それでも、旧約聖書は、教会とその教えにとって欠かせないものでした。だから、パウロはテモテにこう言いました。

私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。(第一テモテ4:13)

パウロは「聖書」と言ったけど、私たちの66書のある聖書(創世記から黙示録)について話していません。なぜなら、パウロがその言葉を書いた時、新約聖書は、まだ書かれている途中だったから。

もう書かれた手紙と福音書があっても、多分テモテはそのすべてを持っていなかったでしょう。

それに、新約聖書の著者たちが「聖書」と言ったとき、その意味が「新約聖書の書」だったのは二回だけでした。(第二ペテロ3:15-16--パウロの手紙、第一テモテ5:17-18--多分ルカの福音書)。

だからパウロは「聖書」と言ったとき、だいたい旧約聖書について話していました。

ところで、その牧師の話の話では、もう一つの問題が出てきます。彼は、よく言います。

「使徒たちの信仰は特別な本(つまり、聖書)に基づいていなかった。なぜなら、彼らは特別な本を持っていなかったから。」

もちろん、使徒たちは新約聖書の全部を持ってはいなかったけど、彼はきっと旧約聖書をもって、教えました。

使徒たちは、すべての教会で旧約聖書の全体を持っていたかどうかわかりませんけど、彼らの手紙でも、福音書でも、また彼らのメッセージでも、彼らは、いつも旧約聖書を引用しました。

また、上記の箇所では、パウロはテモテに、「旧約聖書を朗読しさい」と言いました。

この牧師は、もう一つのことをよく言います。「使徒の働きでは、ペテロたちは、いつもイエス様の復活について教えました。聖書ではなく、イエス様の復活は彼らの信仰の基礎でした。」

もちろん、イエス様の復活は、彼らの信仰の基礎でした。でも使徒の働きで、彼らのユダヤ人に対するメッセージを読んで見てください。彼らは復活だけはなく、旧約聖書も指摘しました。

「ほら、旧約聖書では、神様は、イエス様の死と復活について話しています。」

そして、パウロはコリント人に復活について話したとき、最初に旧約聖書を指摘しました。(第一コリント15:3-4)

だから、教会にとっては、旧約聖書は欠かせないものでした。でも、彼らは旧約聖書を読んだとき、ほかのユダヤ人と違うレンズを使いました。イエス様の復活の後、イエス様は彼らにそのレンズを与えました。(ルカ24:26-27、44-47)

もしあなたがそのことを疑うなら、使徒の働きと使徒たちの手紙を読んでみてください。何回も彼らはイエス様からのレンズを用いて、旧約聖書を教えました。彼らの教えには、旧約聖書は欠かせないものでした。

ところで、そのレンズは何でしたか。旧約聖書のすべてがイエス様を指していることです。イエス様の死と復活は一つの例です。

また、そのレンズのため、儀式に関る律法は私たちには、もう関係がないのです。その儀式はイエス様のことを示していました。でも、イエス様はもう来て、その律法を満たしたので、その儀式はもういりません。(へブル人への手紙8-10章を読んでください。)

ユダヤ人の民法もイエス様のことを指しています。

例えば民法は聖さの大切さを教えました。また民法は、罪の深刻さを教えました。もしあなたが、民法に書かれた罰がひどいと思うなら、十字架を見てください。そこで、イエス様は私たちの罰を受けてくださいました。

とにかく、ユダヤ人の民法の目的もイエス様を指しているので、イエス様が来た後、私たちはその律法に従う必要がありません。でも、その律法を読むとき、イエス様があなたのために何をしてくださったか忘れないでください。

2.教会で使徒たちは不品行や、ほかの罪について教えたとき、旧約聖書によって、その罪を定義しました。

私たちにとっては、「不品行」というのは、ちょっとあいまいなことかもしれないど、パウロは具体的にそれを説明しました。そして、その定義は旧約聖書の律法から来ました。パウロはこう言いました。

それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。

ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。

律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。(ローマ7:7)

パウロは、むさぼることについて話したけど、それは例だけでした。ほかの罪を入れてもいいです。だから、その言葉をちょっと変えてみましょう。

律法が、「姦淫してはならない。同性愛は罪です。獣と寝てはならない」と言わなかったら、私は不品行を知らなかったでしょう。

でも律法は足りませんでした。なぜなら、律法は罪を定義するけど、私たちに罪を克服する力を与えてくれないから。

だから、パウロはこう言いました。

なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。(ローマ3:20)

地図は私たちの目的地を示していますが、その地図が私たちの手を取って、導くことはできません。そして、私たちが地図を読めなくて、フラストレーションを感じるとき、その地図は私たちを慰めず、助けることができません。

そのように、神様の律法は、正しいことと罪を定義することできるけど、私たちに罪と戦う力、また正しいことをする力を与えることができません。むしろ、私たちが罪を犯すと、律法は私たちを裁きます。だからこそ、私たち皆にイエス様が必要です。

3.あなたがクリスチャンなら、あなたは十戒に従います。

「あなたがクリスチャンなら、十戒に従いなさい」と言っていません。

クリスチャンが十戒に従うのは、事実です。もちろん、あなたは完全に十戒に従うことができません。でも、聖霊様の導きと力によって、あなたはだんだん十戒に従い始めます。

あなたが頑張っているから、十戒に従うというわけではないです。むしろ、毎日、聖霊様が、あなたを導いて、あなたの考え方と生き方を変えるのです。

聖霊の導きによって、私たちは律法の文字だけに従うだけではなく、その律法の精神にも従い始めます。つまり、私たちは神様を愛し、隣人を私たち自身のように愛します。

それは、もちろんより優れた命令です。なぜなら、その命令には、抜け穴がないのですから。

要するに、私たちはユダヤ人になる必要はありませんが、私たちはまだ旧約聖書に強い関係があります。私たちはユダヤ人ではありませんが、私たちが教会に入れる理由は、ヤコブが教会を旧約聖書につないだから。つまり、

この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。

それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。

大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。(使途の働き15:16-18)

もちろん、私たちは新約聖書と旧約聖書(つまり、神様との新しい契約、神様との古い契約)を混ぜません。

でも、私たちは旧約聖書が私たちにまったく関係ないと言えません。むしろ、私たちは新しいレンズを用いて、旧約聖書を読みます。そのレンズは、イエス様のレンズ。

そこで、イエスは、聖書(つまり、旧約聖書)を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。

キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。(ルカ24:45-47)