少し久しぶりに歴史書に戻りましょう。
この箇所では、私たちはユダの素晴らしい王の一人に出会います。彼の名前はヒゼキヤです。
列王記の著者はヒゼキヤについて次のように書いています。
彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。(列王記第二18:18:1-5)
実は、ヒゼキヤの父アハズは酷い模範でした。
しかし、多分ヒゼキヤはイスラエル王国の崩壊を目の当たりにし、預言者ミカやイザヤの警告を聞いたことで、すぐに悔い改め、ユダを再び神様に向ける決意をしたのだと思います。
ヒゼキヤの人生を見ると、私たちがどのように神様に立ち返るべきかが分かると思います。
まず、ヒゼキヤはユダの民が礼拝していた偶像を取り除きました。
その中にはモーセが作った青銅の蛇も含まれていました。この青銅の蛇は、イスラエル人が荒野をさまよった際に、神様が蛇の毒からの癒しの手段として用いられました。
ところが、ユダの民はこの青銅の蛇を偶像として礼拝し始めたため、ヒゼキヤはこの蛇を打ち砕いたのです。
同じように、私たちが神様に戻りたいと願うなら、私たちも自分の偶像を捨てなければなりません。
もちろん、仏教の偶像や仏壇を捨てるべきですが、それだけでなく他の「神々」も捨てる必要があります。例えば、「お金の神」や「持ち物の神」です。
もし何かを神様よりも大切にしているなら、それはあなたの偶像です。
もちろん、文字通りにお金や持ち物を捨てるわけではありません。けれども、すべてに優先して神様を第一にし、大切にしなくてはなりません。
青銅の蛇のように、かつてはあなたの偶像が良いものだったかもしれません。例えば、あなたの趣味です。
ところが、その趣味によって神様との関係が疎かになり、神様のための働きを怠っているのであれば、その趣味をしばらく置いておく必要があるでしょう。
偶像を取り除いた後、ヒゼキヤは神様の宮を掃除し、清めました。
私たちクリスチャンはキリストの宮です。キリストが私たちの内に住んでおられるのですから、その宮を清める必要があります。つまり、偶像を捨てる必要があります。
それと共に、私たちは神様に罪を告白し、悔い改める必要があります。
ヒゼキヤの時代では、罪のためにいけにえを捧げなければなりませんでした。(歴代誌第二29:23-24)
しかし、私たちにとってイエス様こそが最後のいけにえです。イエス様は十字架で死んで、私たちの罰を代わりに受けてくださいました。
そして、イエス様の血が私たちをすべての罪から清めてくださいます。(第一ヨハネ1:7)
ただし、清い心を保つためには、私たちは常に罪を告白し、悔い改める必要があります。
ヨハネは次のように書いています。
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)
最後に、ヒゼキヤとユダの民は、もう一度自分たち自身を神様に捧げました。彼らは神様にこう言ったのです。
「私たちはあなたのものです。私たちの人生をもう一度あなたに捧げます。」
私たちも同じようにするべきです。
罪に背を向けるだけでは不十分です。神様に向き直らなくてはなりません。
偶像を捨てるだけでは十分ではありません。心を尽くして神様に従わなくてはならないのです。
あなたはクリスチャンであっても、神様から離れてしまったかもしれません。
かつては神様と共に歩んでいたとしても、今は神様から遠ざかっているかもしれません。
それでも、今も神様はあなたを愛しておられ、あなたのために待っておられるのです。
だから、もし神様に戻りたいと願うなら、次のように祈ってください。
イエス様、私はあなたから離れてしまい、自分の道を歩んでいました。どうか赦してください。
あなたの言葉にはこうあります。「もし私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:9)
今、私はあなたに立ち返ります。私の偶像を捨てる助けを与えてください。そして、私の心の王座にもう一度座ってください。
あなたの恵みと憐れみに感謝します。私を決して諦めないことに感謝します。
あなたのみ名によって祈ります。アーメン。