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マルコの福音書のデボーション

どんな形でも、あなたとかかわっていたいです!

ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。(マルコの福音書1:24)

今日、イエス様に対する悪霊の言葉を思い巡らしていました。悪霊は基本的に、「あなたとは関わりたくないです。あなたを信頼できないし、まったく愛していないのです」と言いました。

イエス様はユダヤ人にも私たちにもそのような態度こそを悔い改めるように促しておられました。

「天のお父さんはあなたを愛しておられる。あなたの最善を望んでおられ、ご自身の愛する子として御国に招いてくださるのです。だから、神様に向けなさい。天のお父さんを信頼しなさい。」

私はイエス様を信じているのです。

だから私は、心から叫びます。

「どんな形でも、あなたとかかわっていたいです!」

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使徒の働きのデボーション

健全な良心にしたがう

パウロは、最高法院の人々を見つめて言った。

「兄弟たち。私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました。」(使徒の働き23:1)

今日の箇所を読んだとき、「パウロの言葉を言うことができたらいいのに」と思いました。

もちろん、そう言うときに、傲慢で独善的な態度を取ってはいけません。

実際、私たちは健全な良心に従おうとしても、時にはひどいことをしてしまうことがあります。パウロは、他の多くの人々以上に、そのことを理解していたでしょう。(第一テモテ1:13〜14)

しかし、私は決して自分の良心に反して故意に罪を犯したくありません。

むしろ、自分の罪を見いだすとき、私はパウロのように柔らかい心を持ち、すぐに悔い改めたいです。(使徒の働き23:5)

だから、これはいつも私の心の祈りです。

だれが、自分の過ちを悟ることができるでしょう。

どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと、私の心の思いとが御前に受け入れられますように。主よ、わが岩、わが贖い主よ。」(詩篇19:12〜14)

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創世記のデボーション

悔い改め

ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。

あの子が一緒でなくて、どうして私は父のところへ帰れるでしょう。父に起こるわざわいを見たくありません。(創世記44:33ー34)

その言葉は、ユダの心がどれほど変わったかを明らかにします。

以前は、ユダは薄情な者で、ヨセフを奴隷として売ろうと勧めました。(創世記37:26〜27)

そして、父ヤコブの悲しみを見て、ユダは逃げてしまいました。(創世記37:33〜34;38:1)

でも今、ベニヤミンが戻らなかった場合のヤコブの悲しみを考えて、ユダは逃げるのではなく、ベニヤミンの代わりに自分自身をヨセフに奴隷として捧げました。

もしかしたら、ユダはこう考えていたかもしれません。

「これが正義だ。私はヨセフを奴隷として売った。だから今、ベニヤミンを自由にするため、私は奴隷になろう。そうすれば、ヨセフに対する罪を償うことができる。」

悔い改めとは、単に罪に対する罪悪感を感じることではありません。

悔い改めとは、単に相手を傷つけたことを後悔することではありません。

悔い改めとは、自分の罪を認め、他人を傷つけた場合、できるだけその罪を償うことです。

ユダはそうしようとしていました。

でも、実際のところ、私たちは完全に罪を償うことはできません。私たちは自分の罪を償うため、いろんな良いことをしようとしても、その罪の染みを完全に清めることはできません。

でも、良い知らせは、私たちの罪を清めてくださる方がおられるということです。

ユダがベニヤミンの代わりに自分自身を捧げたように、ユダの子孫であるイエス様は、私たちの代わりに自分自身を捧げられました。

皮肉なことに、ベニヤミンが父ヤコブのもとに戻るため、有罪であるユダは無罪であるベニヤミンの代わりに自分自身を捧げましたが、私たちが天の父のもとに戻るために、罪のないイエス様は罪深い私たちの代わりに自分自身を捧げました。

ぺテロの言葉を借りれば、

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは。。。あなたがたを神に導くためでした。(第一ぺテロ3:18)

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マタイの福音書のデボーション

神様が求めておられる実

ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。(マタイの福音書21:43)

今日の箇所、特に上のことばを読んだとき、私はパリサイ人たちとサドカイ人たちに向けられたバプテスマのヨハネのことばを思い起こしました。

それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。。。 斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。(マタイ3:8ー10)

神様が求めておられる実とは何でしょうか。それは、悔い改めにふさわしい実です。

収税人や遊女たちは、そのような実を結んだからこそ、神の国に入ることができました。しかし、宗教的な指導者たちは悔い改めを拒んだため、神の国に入ることができませんでした。(31ー32)

二人の息子に関するたとえ話では、イエス様はその二つの態度の違いを描写されました。(28ー30)

そして、いちじくの木を呪われたことと、ぶどう園のたとえ話によって、イエス様は悔い改めにふさわしい実を結ばない者たちに警告されました。(18ー19、33ー34)

悔い改めとは、単に「気が変わる」という意味ではありません。

悔い改めとは、単に神様のことばに同意することを意味するのでもありません。

悔い改めは、必ず変えられた心と、変えられた人生へと至るものです。

私の教会では、「Head, heart, hands」という言葉を用いています。

神様のことばが私たちの頭に入り、心が変えられ、そして人生も変えられていきます。

それこそが、神様が求めておられる実です。

あなたはどうでしょうか。そのような実を結んでいるでしょうか。

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マタイの福音書のデボーション

恵みの言葉、裁きの言葉

今日、私の心を打ったのは、イエス様が語られた恵みのことばと裁きのことばです。

イエス様は数々の奇跡を行われましたが、ある町の人々が悔い改めることを拒んだため、イエス様は彼らを厳しく裁かれました。

イエス様はご自身のミニストリーにおいて、常にその線を引かれました。イエス様は悔い改めのメッセージを語られました。

イエス様が説教されたとき、そのメッセージを語られました(マタイ4:17)。また、弟子たちを遣わされたときにも、同じメッセージを語るよう命じられました(マルコ6:12)。

そして、人々が悔い改めないとき、イエス様は裁きについて警告されました(ルカ13:1〜8;ヨハネ5:14)。

それと同時に、イエス様のことばは恵みに満ちていました。牢に入れられ、信仰が揺らいだヨハネに対して、イエス様は励ましのことばを与えられました。

また、罪悪感を抱えていた人々や、宗教指導者たちの律法主義的な規則によって重荷を負っていた人々に、イエス様は安らぎを与えられました。

しかし、悔い改めてイエス様を信じてこそ、私たちはその安らぎを真に知ることができます。

イザヤも、同じようなメッセージをイスラエルの民に語りました。

「立ち返って(別訳:悔い改めて)落ち着いていれば、 あなたがたは救われ、 静かにして信頼すれば、 あなたがたは力を得る。」 しかし、あなたがたはこれを望まなかった。(イザヤ30:15)

それは、コラジン、ベツサイダ、そしてカペナウムの人々の問題でした。だから、イエス様は彼らを裁かれました。

しかし、イエス様に対して柔らかい心を持っている人々には、たとえ疑いや罪悪感を抱えていたとしても、イエス様は恵みを与えられました。

さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:14ー16)

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マタイの福音書のデボーション

私たちの心、私たちのメッセージ

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。

『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マタイの福音書9:12-13)

イエス様のことばを反芻するとき、私たちの教会に来るノンクリスチャンに対する私たちの態度を考えさせられました。

私たちは、あわれみ深い心を持つべきです。なぜなら、彼らは羊飼いのいない羊の群れのようだからです。サタンの攻撃によって、彼らは弱り果て、倒れている人々なのです。

私たちは、彼らを避けるべきではありません。むしろ、手を伸ばし、キリストの愛を彼らに示すべきです。

それと同時に、私たちは彼らのためのメッセージを持っています。イエス様は、彼らを招くために来られました。では、何のために招いておられるのでしょうか。

ルカの福音書では、イエス様の意味がさらに明確に示されています。

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。(ルカ5:32)

愛は、「自分の罪を犯し続けて良い」とは言いません。

愛は、「悔い改めなさい」と語ります。

それは、最初からイエス様のメッセージでした。(マタイ4:17)

イエス様は、マタイや他の罪人たちと食事をしながら、そのメッセージを語られました。

イエス様は、ザアカイとその友人たちにも、必ず同じメッセージを語られたことでしょう。(ルカ19:1〜10)

ですから、教会でノンクリスチャンに出会うときには、イエス様の態度を取り、彼らを歓迎し、愛とあわれみを示しましょう。

しかし、それと同時に、謙虚さと柔和さをもって、イエス様がマタイとその友人たちに語られたメッセージを、彼らにも伝えましょう。

「神の御国が近づいた。神様はあなたを愛し、その御国に入るように招いておられる。だから、自分の罪を悔い改め、神様に向かってください。そうすれば、あなたは命を知ることになります。」

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ルカの福音書のデボーション

真の悔い改め

それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。(ルカの福音書3:8)

主よ、私はあなたのようになりたいです。 だから、どうか真の悔い改めの心を与えてください。

あなたの言葉が私の罪を明らかにするとき、私が言い訳をし、その罪を正当化しようとしないようにしてください。

むしろ、私がへりくだり、「私はどうすればよいのでしょうか。あなたは私に何を望んでおられるのでしょうか」と尋ねることができるようにしてください。

そして、あなたに従う力を与えてください。 私が悔い改めにふさわしい実を結ぶように助けてください。 あなたを離れては、私は変わることができません。(ヨハネ15:5)

神よ、私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23-24)

私へのあなたの恵みと忍耐を感謝します。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書のデボーション

自分が間違っていることを認める

多くの人が、自分が間違っていたと認めたくないものです。私もそうです。

祭司長や律法学者たちも同じでした。彼らは初めから、イエス様とバプテスマのヨハネを正当に評価しませんでした。

さらに、イエス様とヨハネのミニストリーによって変えられた人々を見ても、自分が間違っていたと認めようとはしませんでした。

その結果、彼らは最終的に粉々に砕かれてしまいました(マタイの福音書21:44節)。

それに対して、収税人や遊女たちは、ヨハネとイエス様の言葉を聞いて、謙虚に悔い改めました。そのゆえ、彼らは神様の恵みを受けました。

主よ、私の心が頑なになるときがあります。自分が間違っていると認めたくない時も、たくさんあります。どうか赦してください。私は、あなたと御国のために実を結びたいと願っています。

ですから、私が間違っているとき、それを認める心を、また、すぐに悔い改める心を与えてください。私があなたのようになりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第一のデボーション

神様を拒む者への裁き

サムエル記第一16〜19章では、私たちは三回このような言葉を読みます。「主からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた」(16:14、23;18:10;19:9)。

正直に言うと、これらは難しい言葉です。神様は災いの霊を、災いをもたらすために送ることがあるのでしょうか。どうして、良い神、また愛の神がそのようなことをなさることができるのでしょうか。

厳しい答えですが、それは神様の正当な裁きです。サウルは神様をあえて拒んだからです。

けれども、聖書はこの裁きが、悔い改めの最後のチャンスを与えるものであることを示唆しています。

第一列王記22章では、神様はアハブ王に破滅をもたらすために偽りの霊を送りました。それでも、それと同時に、神様はアハブに警告するために預言者を遣わし、悔い改めのチャンスを与えました。

けれども、以前の話と違って(列王記第一21:27〜29)、アハブは悔い改めようとしませんでした(列王記第一22:17〜28)。

新約聖書でも、同じようなことが見られます。パウロは、悔い改めようとしない罪人に関して、こう語っています。

そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(第一コリント5:5)

黙示録では、神様はいろいろな災害を送られます。悪霊によってもたらされる災害もあるようです。

多くの人々が死にますが、それ以上に多くの人々が生き残っていて、悔い改めのチャンスがあります。しかし、彼らは悔い改めようとしません(黙示録9:20〜21)。

そして、第二テサロニケでは、パウロは終わりの日について語っています。人々が騙されて滅びるために、神様は反キリストをこの世に放たれます。

なぜでしょうか。その理由は明確です。

彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。

それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。

それは、真理を信じないで、不義を喜んでいたすべての者が、さばかれるようになるためです。(第二テサロニケ2:10ー12)

つまり、反キリストとその惑わす力は、人々が真理を愛することを拒否したことに対する神の罰なのです。

神様がサウルやアハブを裁かれたように、終わりの日には、神様は悔い改めることを拒む人々を裁かれるのです。

あなたはどうでしょうか。神様を愛しているでしょうか。真理を愛しているでしょうか。正義を喜んでいるでしょうか。

あなたは、神様にどのように反応するでしょうか。

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ヨシュア記のデボーション

悔い改め

今日の話を読んだとき、私は新しいことに気づきました。それは、神様がすぐにアカンの罪を明らかにされなかったということです。むしろ、神様は次の日まで待っておられました。なぜでしょうか。

なぜすぐに、その問題の処理に当たられなかったのでしょうか。

私にはわかりませんが、もしかしたら、その答えは13節にあるかもしれません。

立て。民を聖別せよ。そしてこう言え。 あなたがたは、明日のために自らを聖別しなさい。(ヨシュア記7:13)

「自らを聖別しなさい」とは、自分の心を準備して、自分自身を神様に捧げるということです。たぶん、その過程の一部は、自分の心を探り、罪を告白することです。

もしかしたら、神様はアカンに悔い改めるチャンスを与えたいと思われたのかもしれません。

アカンには、その夜、自分の行為をよく考え、どのようにその罪がイスラエル人たち全体に影響を与えたかを省みる機会がありました。

その夜、アカンはモーセにその罪を告白し、悔い改める機会がありました。

翌朝でも、神様はアカンをすぐに明らかにされませんでした。

最初は、ユダの部族、そしてゼラフ人の氏族、そしてザブディの家族がくじで取り分けられました。

その間、アカンには悔い改めるチャンスがあったのに、何も言いませんでした。

最後に、神様はアカンを指摘されました。

でも、アカンは悔い改める機会をもう逸してしまいました。

アカンがすぐに自分の罪を告白し、悔い改めていたら、なお殺されていたでしょうか。

私はわかりません。でも、神様の性格を考慮すると、たぶん、アカンは憐れまれたと思います。

私たちは罪を隠してはいけません。むしろ、今のうちに、その罪を告白し、悔い改めましょう。

ヨハネはこう言いました。

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

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出エジプト記のデボーション

空しい悔い改め

ファラオは急いでモーセとアロンを呼んで言った。

「私は、おまえたちの神、主とおまえたちに対して過ちを犯した。

どうか今、もう一度だけ私の罪を見逃してくれ。おまえたちの神、主に、こんな死だけは取り去ってくれるよう祈ってくれ。」出エジプト記10:16-17)

それは、本当の意味での悔い改めのように聞こえたかもしれません。

しかし結局、それらは空しい言葉でした。

どうしてでしょうか。

なぜなら、その言葉には、神様に喜んで聞き従う心が伴っていなかったからです。ファラオは、ただ神の裁きからの救いを望んでいただけでした。

悔い改めとは、ただ「ごめんなさい」と言うことではありません。

悔い改めとは、ただ「許してください」と言うことでもありません。

悔い改めとは、愛と従順の心をもって、神様に向かうことです。

そのような心を伴わない悔い改めは、本当の悔い改めではありません。

あなたはどうですか。あなたは本当に悔い改めの心を持っておられるでしょうか。

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コリント人への手紙第二のデボーション

自分自身を試し、吟味する

あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。

それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。

あなたがたが不適格な者なら別ですが。(コリント人へん手紙第二13:5)

それはかなり厳しい言葉ですね。

でも、その文脈を覚えていた方がいいです。あるコリント人たちは、自分がクリスチャンと自称したのに、パウロの権威を拒絶し、神様の権威をも拒絶してしまいました。

さらに、彼らは自分の罪を悔い改めることを拒みました(10〜12章)。

そんなことをしてしまったら、自分がクリスチャンであると主張することはできません。

真のクリスチャンは、罪に何度も落ちてしまうかもしれませんが、神様の権威を拒絶しません。また、罪を犯したとき、言い訳をしません。むしろ、悲しんで、すぐに悔い改めます。

簡単に言うと、真のクリスチャンは神様に対して柔らかい心を持っています。

あなたは、そのような心を持っていますか。

もしそのような心を持っていないなら、自分がクリスチャンかどうかを疑わなくてはなりません。

でも、神様に対して柔らかい心を持っているなら、心配しなくていいです。なぜなら、神様はあなたのことを諦められないからです。

むしろ、神様はあなたのうちに始められたことを完成させてくださいます(ピリピ1:6)。

あなたが弱くて、何度も失敗しても、主イエスの恵み、天の父の愛、聖霊の交わりは、永遠にあなたとともにあります。

だから、毎日それを心に留めておいて、心を安らかにしましょう。

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コリント人への手紙第二のデボーション

癒しがない?赦しがない?

私たち皆、後悔することがあります。そして、自分の罪と失敗の結果を見ると、罪悪感に圧倒される時もあります。

確かに、私たちの敵であるサタンは、私たちが自分の罪の重さに押しつぶされることを望んでいます。

けれども、神様は何を望んでおられるのでしょうか。

さまざまな意味で、パウロの心は私たちの天の父の心を映しています。

パウロは手紙を書きながら、コリント人たちを彼らの罪のために責めていました。その手紙を読んで、彼らは罪悪感を抱き、悲しみました。

それでも、パウロはその悲しみについて何と言ったでしょうか。

今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。

あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。(コリント人への手紙第二7:9)

人に傷つけられるとき、私たちはよく、相手が自分の悪さを認め、苦しむことを望みます。相手が罪悪感に押しつぶされるのを見て、私たちは喜んでしまうことがあります。

実のところ、私たちが相手の苦しみによって滅びることを望む時さえあります。

しかし、パウロはそう望みませんでした。コリント人たちが害を受けることを望んだわけではありません。パウロが望んだのは、ただ彼らが悔い改めることでした。

私たちの天の父も、同じことを望んでおられます。

罪の結果は、本当に苦しい時もあります。圧倒的な罪悪感に押しつぶされそうになることもあります。

けれども、神様が私たちを押しつぶしたいわけではありません。むしろ、神様が望んでおられるのは、私たちが悔い改めることです。そして、悔い改めるなら、その結果は死ではなく、癒しです。

パウロはこう言っています。

神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(10節)

もしかしたら、あなたは罪悪感に押しつぶされそうになっているかもしれません。「私には癒しがない。赦しがない。」と思っているかもしれません。

しかし、癒しはあります。赦しもあります。

必要なのは、ただ悔い改めることです。自分の罪を認め、神様の赦しを願うなら、神様は必ず赦してくださいます。

「さあ、来たれ。論じ合おう。」──主は言われる──

「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。 たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ書1:18)

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ヨハネの黙示録

裁きが振りかかっても悔い改めない心

14章では、神様を拒絶し、獣の刻印を受けた人々が永遠の裁きを受けることを読みました。以前にも述べたように、永遠の裁きという概念に抵抗を感じる人々は少なくありません。

9章では、その永遠の裁きの理由を見ました。ある人々は長らく神様に逆らい、悔い改める心を持とうとしません。どれほど厳しい裁きが下されても、彼らはどうしても悔い改めたくないのです。むしろ、神様をますます呪うのです。

今日の箇所では、再びそのような人々が登場します。

16章で、神様は抑えることなく裁きを地上に注がれます。封印の裁きやラッパの裁きがなされたときには、神様は裁きに制限を設けられました。(封印の裁きでは被造物の4分の1が、ラッパの裁きでは3分の1が打たれました。)

今回は、全世界が打たれます。

獣の刻印を受けたすべての人々には、ひどく悪性な腫れものが生じます。(黙示録16:2)

海は死者の血のようになり、海の中のすべての生き物が死に絶えます。(3節)

神の民を殺していた彼らに対し、川と水の源の水は血へと変わります。(4-7節)

そして、

第四の御使いが鉢の中身を太陽に注いだ。すると、太陽は人々を火で焼くことを許された。(黙示録16:8)

私の意見ですが、おそらくこの描写が意味するのは、私たちを太陽の紫外線から守るオゾン層が著しく薄くなり、その結果、人々が焼かれるということではないでしょうか。

さて、人々はそのような状況にどのように反応するのでしょうか。

こうして人々は激しい炎熱で焼かれ、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名を冒瀆した。彼らが悔い改めて神に栄光を帰することはなかった。(9)

あなたはこう言うかもしれません。「でも、その裁きがもう少し続けば、最終的に人々は悔い改めるのでは?」

けれども、次に、モーセの時代のエジプトのように、全世界が闇に包まれます。また、人々は自分の腫れもののために激しい苦しみにさいなまれます。(10-11a)

それでも、彼らは、

天の神を冒瀆し、自分の行いを悔い改めようとしなかった。(11b)

「でも、彼らはきっと自分の頑固さを捨てて、悔い改めるだろう?決して悔い改めないほどの頑固な人はいないのでは?」

しかし、大河ユーフラテスの水が涸れ、東から来る王たちが集まり、神様に戦いを挑もうとします。(12)

悪霊たちが現れ、奇跡的なしるしを行って、王たちに神様に勝てるという希望を抱かせようとします。彼らはハルマゲドンに集結し、神の激しい怒りが込められた最後の鉢が空中に注がれます。

その時、稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、世界の歴史の中で最も大きな地震が起こります。

すべての国々の都市が崩れ去り、神様の激しい憤りは、御前に逆らう帝国に注がれます。島々は沈み、山々は崩れ、巨大な雹が天から人々の上に降り注ぎます。(20-21)

その結果は何でしょうか。人々は悔い改めたのでしょうか。

いいえ、悔い改めませんでした。

この雹の災害のために、人々は神を冒瀆した。その災害が非常に激しかったからである。(21)

私のポイントは何でしょうか。悔い改めなければ、人々は地獄から出られません。

しかし、私たちが今日の箇所から学んだのは、自分の心を固くし続けると、どれほど苦しみを味わっても、決して悔い改めることはないという現実です。

地獄にいる人々は、まさにそのような者たちです。

ですから、もしあなたが今なお神様に背を向けているなら、どうか今のうちに悔い改めてください。神様は、あなたが地獄に入ることを望んではおられません。

あなたがその罰を受けることがないように、神様はご自身のひとり子であるイエス様をこの世に送られました。そして十字架の上で、イエス様はあなたの罰を身代わりとして受けてくださいました。

あなたがすべきことはただ一つ。イエス様を、自分の主、そして救い主として受け入れることです。

神様は、あなたにこう語りかけておられます。

わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか。。。

彼らがその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。。。

だから立ち返って、生きよ。(エゼキエル書18:23、32)

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コリント人への手紙第二

二種類の悲しみ

サタンの名前は「責める方」という意味です。その名の通り、サタンはいつも人を責めます。彼は私たちの罪を指摘し、私たちを惨めな者と呼びます。

実際、サタンの咎めの中には真実が含まれていることもあります。彼は私たちにこう言います。

「お前はだめだ。自分の罪を見てみろ。お前は神様の前では何の価値もない。神様がどうしてお前のような者を愛せるだろうか。」

そして、サタンは罪悪感の重荷で私たちを押し潰そうとします。

しかし、もしあなたが神様の子供なら、その声が神様の声ではないことを理解してください。

もちろん、私たちが罪を犯したとき、神様は私たちが悲しむことを望まれます。けれども、神のみこころに添った悲しみは、世の悲しみとはまったく異なるものです。パウロはこう書きました。

あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔していません。

あの手紙が一時的にでも、あなたがたを悲しませたことを知っています。それで後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。

あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。(コリント人への手紙第二7:8-9)

パウロの言葉によって、コリント人たちは罪悪感を抱きました。その言葉により、彼らは悲しみました。しかし、その悲しみは一時的なものでした。

パウロの意図は、彼らを滅ぼすことではありませんでした。彼はその訓戒によって、彼らが長期的な害を受けることを望んだのではなく、むしろ悔い改めを通じて、彼らと神様との関係、また彼自身との関係が修復されることを願っていました。

だからこそ、パウロは神のみこころに添った悲しみと世の悲しみの違いを明確に区別します。

神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(10)

世の悲しみを持つ人々は、一生後悔し続け、罪の赦しへの希望を失い、さらには将来への希望もなくしてしまいます。そのため、彼らの悲しみと罪悪感は彼らを押し潰します。

しかし、その反面、神のみこころに添った悲しみは悔い改めへと導きます。その人々が知っているのは、どれほど大きな罪を犯していても、神様によって赦されているということです。

だから、彼らは悲しみと後悔を手放し、イエス様の手を取り、神様が整えた未来へと歩み出します。

それはどのような未来でしょうか。それは希望と命に満ち溢れた未来です。

あなたはどうでしょうか。罪を犯したとき、あなたの悲しみは世の悲しみでしょうか。その悲しみによって、罪悪感に押し潰されてはいませんか。

それとも、その悲しみは、あなたをイエス様のみもとへと導いているでしょうか。悔い改めと命へと導いているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

相手が悔い改めるとき

人々に傷つけられると、恨みを抱くのは容易です。相手が謝罪しても、許したくないと感じることがあります。

または、口では許すと言いながらも、心の中でその恨みを手放すことを拒んでしまうこともあります。その結果、相手は私たちの恨みを感じ続け、私たちと話すときに不安を覚えます。

教会のリーダーたちが罪を犯したメンバーを訓戒するときも、同じようなことが起こるかもしれません。

その人が悔い改めても、リーダーたちや他のメンバーたちは、その人を疑い、距離を置いてしまうことがあります。

もしかすると、彼らはこう考えるかもしれません。「すぐに相手を受け入れてはいけない。もう少し悲しませた方がいい。そして、その人が十分悲しんだと思ったら、受け入れよう。」

しかし、パウロはそのような訓戒の仕方を教えませんでした。むしろ、パウロはこう語りました。

その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、あなたがたは、むしろその人を赦し、慰めてあげなさい。

そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。

そこで私はあなたがたに、その人へのあなたがたの愛を確認することを勧めます。(コリント人への手紙第二2:6-8)

「あの処罰で十分」とは、どういう意味でしょうか。

おそらく、パウロが言いたかったのは、その処罰が目的を果たしたということです。つまり、その人が悔い改めたということです。そして、人が悔い改めたならば、処罰を続ける必要はありません。

むしろ、私たちはその人を許し、慰めるべきです。神様がその人を赦されたことを伝え、私たちも許したことを示すべきです。そして、その人に対して私たちの愛を確認することが大切です。

もちろん、私たちが罪を犯すとき、神様は私たちがその罪を悲しむことを望まれます。

しかし、悲しみには二つの種類があります。悔い改めへと導く悲しみもあれば、死へと導く悲しみもあります。

この「死へと導く悲しみ」とは、パウロが語ったように、絶望や神から離れることを意味します。

その一方、悔い改めへと導く悲しみは良いものです。けれども、もし私たちがその人を赦さないならば、相手は深く悲しみすぎて、霊的な死へと導かれてしまうかもしれません。それは神様の望まれることではなく、むしろサタンの望むことです。

サタンの目的は、盗み、殺し、滅ぼすことです。だから、私たちが相手を許さず、その人が深い悲しみに沈んでしまうならば、私たちは神様と協力するのではなく、むしろサタンの働きを助けていることになります。

あなたはどうでしょうか。誰かがあなたを傷つけたことがありますか。または、教会の中で、誰かが深刻な罪を犯したことがありますか。その人は悔い改めたでしょうか。

もしそうならば、神様と協力して、その人を許し、受け入れましょう。

イエス様の言葉を心に留めましょう。

あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。(ルカ6:36)

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コリント人への手紙第一

兄弟姉妹が故意に罪を犯すとき

前回の記事で、私は兄弟姉妹が厚かましく罪を犯す場合、教会がそのような態度を寛容に許すべきではないと述べました。

けれども、二つの重要な注意点があります。

一つ目は、パウロが「罪と戦っている人を避けるべきだ」と言っているわけではないということです。ここでのキーワードは「戦っている」です。

私たちは皆、自分の罪と戦っています。毎日、克服しなければならない罪があります。さらに、どれほど戦っても、ある罪はしつこく残ることがあります。

とはいえ、罪と戦うことと、故意に罪を犯すことは全く異なります。

クリスチャンにとって、罪との戦いは困難です。自分の行為が悪いと認識し、その罪に苦しんでいます。心の中では本当にその罪を捨てたいと願い、毎日神様の前に来て、その罪を克服する力を求めて祈ります。

もし、罪によって本当に苦しんでいるのなら、他のクリスチャンに祈りと支援を求めるべきです。そして、もし罪に陥ったなら、すぐに悔い改めることが必要です。

しかし、故意に罪を犯すことは、自らの罪を誇り、全く悔い改めようとしないことを意味します。そのような人は次のように言うでしょう。

「これは私の性格です。私は変わらないので、あなたは私をありのままで受け入れなければなりません。」

もし他のクリスチャンが御言葉を通してその人を戒めようとすると、その人は自分自身の行為を正当化しようとします。

コリントの教会の兄弟も、そのような態度で振る舞っていました。彼は罪と戦っていませんでした。むしろ、故意に罪を犯し続けていたのです。

そして、パウロは「そのような人と交際してはならない」と語りました。もし、その人の罪を見過ごし、その人を受け入れるなら、その罪はパン種のように教会全体へと広がってしまうからです。

もう一つの重要な注意点があります。それは、その人を戒めるときの私たちの心の態度です。パウロは次のように語りました。

「その人の罪の故に、あなたたちは悲しむべきだったでしょう。」(コリント人への手紙第一5:2)

その人に対する態度は、傲慢ではなく、悲しみであるべきです。私たちの願いは、彼らが悔い改めることにあります。

故意に罪を犯すクリスチャンを教会から除く理由は二つあります。

一つ目は、その罪が教会全体に広がらないようにするためです。

二つ目は、その人が悔い改める機会を得るためです。

パウロは次のように語りました。

そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(5)

「その人をサタンに引き渡しなさい。」

これは非常に厳しい言葉です。けれども、パウロの意図はこうです。「その人が故意に罪を犯すので、この世に送り出しなさい。彼を教会の守りから離れさせ、サタンの攻撃を許しなさい。」

なぜ、そのようなことを許すのでしょうか。サタンがその人を滅ぼすためでしょうか。

そうではありません。

私たちの願いは、その人が放蕩息子のように自らの罪の悲惨さを悟り、悔い改めることです。その結果として、彼の罪深い心が砕かれ、イエス様が再び来られるときに、その人が救われることです。

要するに、その人に対する私たちの態度は愛であるべきです。とはいえ、愛とは故意に罪を犯す人を無条件に受け入れることではありません。

愛とは、その罪を悲しみ、その人をこの世に送り出し、悔い改めを待つことです。

罪の深刻さを決して忘れないでください。イエス様が罪のために命を捧げられたほどに、罪は重大なものです。

イエス様の犠牲を知りながら故意に罪を犯すことは、「神の御子を踏みつけること」であり、「恵みの御霊を侮ること」なのです。(へブル人への手紙10:29)

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使徒の働き

祝福を受けることができる前

多くの人々は、神様からの祝福を願います。

実際、神様は、自分の子どもに贈り物を与える愛に満ちた父です。神様の子どもとして、私たちは祝福を期待することができます。

けれども、その祝福を受ける前に、私たちがすべきことがあります。ペテロはユダヤ人たちにこう言いました。

ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。

そうして、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。。。

モーセはこう言いました。

「あなたがたの神、主は、あなたがたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる。

彼があなたがたに告げることすべてに聞き従わなければならない。その預言者に聞き従わない者は誰でも、自分の民から断ち切られる」。。。

神はまず、そのしもべを立てて、あなたがたに遣わされました。その方が、あなた方一人ひとりを悪から立ち返らせて、祝福にあずからせてくださるのです。(使徒の働き3:19-20、22-23、26)

つまり、ペテロはこう語っていたのです。

「モーセ自身が、『モーセのような一人の預言者が来る』と言いました。そして、モーセは『あなたがたはその預言者に聞き従わなければならない。そうしなければ、あなたがたは自分の民から断ち切られる』とも語りました。

その預言者はすでに来られました。イエス様こそ、その預言者です。だから、イエス様の言葉を聞いて悔い改めなさい。

あなたを祝福するために、神様はイエス様を遣わしてくださいました。しかし、まずあなたがたが悔い改めなければなりません。そうすれば、イエス様があなたがたの罪をぬぐい去り、回復の時、そして祝福の時が訪れます。」

ペテロはこの言葉をユダヤ人たちに語りましたが、この言葉は私たちにも当てはまります。

神様はまずイエス様をユダヤ人たちのために遣わしましたが、同時に、神様は私たちのためにもイエス様を遣わしてくださいました。そして、イエス様がユダヤ人たちを祝福されたように、私たちも祝福してくださいます。

けれども、その前に、私たちは悔い改めなければなりません。自分の道を歩み続けることはできません。私たちはイエス様に聞き従わなければならないのです。

そうしなければ、決して神様からの祝福を知ることはできません。それどころか、神様の民から断ち切られ、神様の国に入ることもできません。

多くの人々は神様からの祝福を望みますが、自分の道を歩み続けたいと思います。自分勝手な条件でその祝福を望みます。しかし、本当に祝福を望むなら、自分勝手な条件ではなく、神様の条件に従う必要があります。

もちろん、救いも同じです。自分勝手な条件では、救いを得ることはできません。つまり、良い行いによって救いを得ることはできないのです。むしろ、イエス様とその十字架の働きを信じることが必要です。

ただイエス様への信仰によって、あなたは神様に義と認められます。

そして、救いを得た後も、私たちは同じ原則に従って生き続けます。もし、自分の道を歩むなら、神様からの祝福を期待することはできません。私たちは神様の道を歩まなければならないのです。

では、私たちは何とかしてその祝福を得るために努力しなければならないのでしょうか。違います。私たちは決してそんなことはできません。

とはいえ、神様は私たちの信仰を求めておられます。私たちは神様に従うほどに、神様を信じるでしょうか。それなら、私たちはその祝福を知ることができます。

ノアが箱舟を作ったとき、その教訓を学びました。

アブラハムがカナンに行ったとき、その教訓を学びました。

ダニエルが王の食べ物を拒絶したとき、その教訓を学びました。

聖書の時代でも、現代でも、多くの人々がその教訓を学びました。

あなたは神様からの祝福を求めていますか。

あなたはどれほど神様を信じていますか。自分の道をやめて、神様の道を歩むほどに、神様を信じていますか。

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マタイの福音書 マタイ27章

死をもたらす悲しみ

この話では、私たちはイスカリオテのユダの死について知ることができます。

イエス様が死刑を宣告されたのを見て、ユダは深く後悔し、祭司長たちと民の長老たちの元へ行き、こう言いました。

私は無実の人の血を打って罪を犯しました。(マタイの福音書27:4)

そして、ユダは受け取ったお金を返そうとしましたが、祭司長たちや長老たちはそのお金を受け取ることを拒みました。そのため、ユダはそのお金を神殿に投げ込んで立ち去り、その後、首を吊りました。

コリント人への手紙第二7章で、パウロは二種類の悲しみについて語っています。パウロはこう書きました。

神様のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます。。。(7:10a)

ペテロも同じような悲しみを経験しました。彼はイエス様を知ることを三度否定し、深い悲しみに包まれました。それでも、彼は悔い改め、赦されて、イエス様の弟子としての役割に戻ることができました。

それに対して、ユダは決して悔い改めることはありませんでした。もちろん、彼は自分の行為の結果を後悔しました。しかし、神様からの赦しを求める代わりに、ユダは自ら命を絶ちました。

パウロはこのような悲しみを「死をもたらす悲しみ」と呼びました。(第二コリント7:10b)

残念ながら、多くの人々はユダのような悲しみを経験しています。

彼らは自分の行為によって生じた悪い結果を目の当たりにし、赦される希望を持てないと感じています。その行為があまりにも重大であるため、神様が自分を赦すことなどできないと思い込んでいるのです。

私たちはそのような人々のために何をしているのでしょうか。

祭司長たちはユダに、神様からの赦しを知る手助けをするべきでした。ところが、彼らはそうしませんでした。むしろ、ユダの悲しみを見て、「で?もしあなたが悪いことをしたなら、それは自分の責任だ。私たちには関係ない。」と言い放ちました。

もちろん、祭司長たちは罪深い心を持っていたため、ユダを助けることができませんでした。ユダを助けるためには、彼ら自身の罪を認める必要があったでしょう。しかし、彼らは自分の罪を認めたくありませんでした。

皮肉なことに、そのお金が「血の代価」であるため、彼らはそのお金を神殿の金庫に入れることはできないと思いました。実際には、彼らは自分たちの罪を自覚していたのでしょう。

それでもなお、神様の祭司として、私たちは罪に苦しんでいる人々を助けるべきです。私たちはその役割を果たしているでしょうか。私たちは、彼らが悔い改めれば、神様が赦してくださることを伝えているでしょうか。

あるいは、彼らの苦しみに対して、私たちはむしろ喜んでいるでしょうか。「それはあなたの責任だ。身から出た錆だ。私に助けを求めるな。」と冷たく言い放っているでしょうか。

イエス様はペテロに厳しく責める権利を持っておられました。それどころか、ペテロだけでなく、すべての弟子たちに対しても、同じように責めることができたはずです。

けれども、イエス様はその代わりに、彼らに恵みを与えられました。神様からの赦しを示されたのです。その結果、彼らは悔い改め、人生が根本から変えられました。

イエス様は、私たちが周囲の人々に対しても、同じように恵みをもって接することを望んでおられます。あなたは、そのように行動しているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ21章 マルコの福音書 マルコ11章 ルカの福音書 ルカ20章

あなたの間違った考え方を認めないと

私たちの考え方が間違っていると分かる時、時にはそれを認めるのが難しいものです。私自身もそれを認めたくないことがあります。どうしてでしょうか。

それは、プライドがあるからです。「私は間違っていた」と言うのは簡単ではなく、謙虚な態度が求められます。

けれども、もし私たちが神様との関係や人々との関係を守りたいと思うなら、その謙虚な態度が不可欠です。

イエス様の時代の宗教的なリーダーたちは、このような態度を持っていませんでした。イエス様は何度も彼らの間違った考え方を指摘されましたが、彼らはどうしてもそれを認めようとはしませんでした。特にイエス様の最後の週(つまり、十字架にかかる前)に、その姿が明らかになります。

イエス様が神殿から商人たちと両替人を追い出された後、祭司長たちや民の長老たちがイエス様のところに来て、こう尋ねました。

何の権威によって、これらのことをしてるのですか。だれがあなたにその何の権威を授けたのですか。(マタイ21:23)

いつものように、イエス様は彼らの質問に対して別の質問で答えられました。

ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか、それとも人からですか。(マタイ21:25)

それを聞かれた時、彼らは板挟みになってしまいました。

もし彼らが「天から」と答えたなら、イエス様は「では、どうしてヨハネの言葉を信じなかったのでしょうか。ヨハネは私がメシアであることを語りました。もしその言葉を受け入れるなら、私の権威がどこから来るのかが理解できるはずです。」と言われたでしょう。

その一方で、彼らが「人から」と答えたなら、周りの群衆は彼らに怒りを向けたでしょう。なぜなら、群衆はヨハネが本当の預言者であると信じていたからです。

そこで彼らは「分かりません」と答えました。

すると、イエス様は「もし私の質問に答えないなら、私もあなたの質問に答えません。」と仰いました。

その後、イエス様は彼らにたとえ話を語られました。その話では、あるお父さんに二人の息子がいました。お父さんが長男に何かを頼んだ時、最初はその息子が「それをしたくありません」と答えましたが、最終的にはその仕事をしました。

一方で、次男は頼まれた時に「はい、します。」と言いましたが、結局その仕事をしませんでした。

このたとえ話を通して、イエス様は宗教的なリーダーたちを、かつて罪を犯していた罪人たちと比較されました。

宗教的なリーダーたちは正しい人たちに見えましたが、心の中では神様に背いていました。

彼らがバプテスマのヨハネを見た時、彼が頭がおかしいと思いました。しかしすぐに分かったのは、ヨハネのミニストリーを通して多くの人々の人生が変わったということです。神様がヨハネを通して働かれていることは明らかでした。それでも、彼らはプライドのゆえにヨハネを拒絶しました。

さらに、彼らはイエス様をも見ていました。彼らはイエス様の奇跡を目の当たりにし、イエス様の教えを聞きましたが、それでもイエス様を拒絶しました。

イエス様が彼らの間違った考え方を暴露し、彼らがイエス様の議論に反論することができなくても、彼らは自分の考えに固執しました。

一方で、このリーダーたちに見下されていた罪人たちは、かつて神様に背き、人々をだましたり、自分の体を売ったりしましたが、ヨハネやイエス様の言葉を聞くと、謙虚に自分の罪を認め、悔い改めました。

そこで、イエス様は宗教的なリーダーたちにこう言われました。

まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。(マタイ21:31)

あなたはどうでしょうか。自分が間違った時、それを認めることができるでしょうか。プライドは人間関係を壊します。けれども、さらに深刻なのは、プライドが神様との関係を壊してしまうことです。

だからこそ、謙虚な心を保ちましょう。相手から訓戒された時は、その言葉を素直に受け入れましょう。そして、自分が間違ったと気づいた時には、すぐにそれを認めましょう。

そうしなければ、あの宗教的リーダーたちのように、私たちは周りの人々から距離を置かれ、さらには神様からも離れてしまうかもしれません。

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詩篇

自己憐憫に浸る

これは本当に憂鬱な詩篇です。多分、詩人はバビロンに追放されたときに詩篇137篇を書いたのでしょう。

この詩篇では、詩人はバビロンの川のそばに座り、立琴を持っていたけれど、エルサレムの没落を悩んでいたので、もう弾く気がなくなりました。

むしろ、彼は、その立琴を柳の木々に掛けて、エルサレムの没落を嘆きました。

そして、あるバビロン人が来て、彼をからかいます。「おい。歌えよ。エルサレムの歌を聞いてみたい。」

しかし、詩人は拒絶して答えました。

「一体どうしてそんな歌を歌えるでしょうか。エルサレムは滅びたので、私はエルサレムについて喜びの歌を歌えません。私がそうする前に、私の右手がその巧みさを忘れるように。また私が歌えなくなるように。」

そして、彼はバビロンとエドムを呪います。どうしてでしょうか。

エドム人の先祖エサウがイスラエル人の先祖ヤコブのお兄さんだったのに、エルサレムが没落したとき、エドム人は喜びました。

そしてバビロン人はイスラエル人の子供たちを殺し、さまざまな酷いことを犯しました。

だから、詩人は彼らを呪って、バビロン人とエドム人に対してそのようなことが起こるように願いました。

どれぐらい、私たちはそのように感じるでしょうか。自分の罪のため、私たちは苦しんで落ち込んでいます。時々、私たちの家族でも、私たちをからかい、私たちの敵は笑って、「あなたの神はどこだろう」と聞きます。

どうやって、私たちは反応すべきでしょうか。

私たちには選択肢があります。私たちは自己憐憫に浸り、私たちが失ったものを嘆き、苦々しい思いに負けることができます。けれども、そうすれば、私たちは霊的に、また肉的に枯れます。

それとも、ダニエルとネヘミヤのように、神様に向かって、悔い改めることもできます。そうすれば、神様は私たちの壊れた人生を癒してくださいます。そして、もう一度私たちは神様からの喜びを知ります。

あなたはどうするでしょうか。どの選択肢を選ぶでしょうか。

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詩篇

赦しの神、憐み深い神

詩篇130篇は短い詩篇ですが、私はこの詩篇が大好きです。苦しむ時、詩人は神様の赦しと愛を省みます。

いつこの詩篇が書かれたのか私は知らないけれど、バビロンへの追放の後に書かれた感じがします。ダニエルのような人がこの詩篇を書いたことが想像できます。

しかし、ダニエルの祈りと違って(ダニエル書9章)、この詩人は自分の罪のために赦しを願いました。彼は叫びました。

主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。

主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。(詩篇130:1-2)

彼は自分の義に基づいて願いませんでした。むしろ神様の性格に基づいて願いました。彼は言いました。

主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。

しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。(3-4)

その個所が大好きです。誰も神様のみ前に立つ資格を持ちません。もし、神様が私たちの罪の記録を持っていたら、私たち皆死んでしまうでしょう。

たとえあなたが一日に三回ぐらい罪を犯したら、あなたは三十代になるともう罪を三万回ぐらい犯したことになります。

私がどれぐらい罪を犯したか考えたくありません。けれども、イエス様の血によって、私の罪は清められました。私の罪の記録に、もう何も書かれていません。

だから、詩人はこう言います。

私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。(5)

彼は何を待ち望んでいるでしょうか。神様の恵みを待ち望んでいます。何に基づいて待っているでしょうか。神様の約束によって待ち望んでいます。

私たちも神様の約束に頼ることができます。つまり、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

そして、夜明けが確かに来るように、悔い改める人に神様の赦しも確かに来ます。(詩編130:6)

自分の罪を悔い改めたあとで、詩人はイスラエルが悔い改めるように招きます。

イスラエルよ。主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。

主は、すべての不義からイスラエルを贖い出される。(7-8)

私たちが神様の赦しを見つけたので、周りの人々に神様の憐れみについて伝え、彼らが悔い改めるように招きましょう。

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詩篇

私たちの話を伝える

私はずっとクリスチャンだったけど、最近まで、詩篇107篇の美しさに気づいていませんでした。特に1-2節は私の心を打ちました。

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」

主に贖われた者はこのように言え。(詩篇107:1-2)

ちょっとパラフレースだけど、ある英語の聖書は「主に贖われた者はこのように言え」を「主に贖われた者は自分の贖いの話を伝え」と訳しています。

この詩篇はそのような話です。人々は自分の贖い話をシェアして、神様を賛美します。

この詩篇は、賛美の言葉で始まります。イスラエルの詩篇では、この言葉がよく見られます。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(1)

この詩篇は、どうやって神様が私たちを贖って、自分の慈しみを表されたかを宣言します。

イスラエル人は、砂漠でさ迷って、飢え、渇き、自分の家がありませんでした。けれども、彼らが神様に叫んだら、神様は彼らの声を聞き、安全な所に導き、食べ物と水を備えてくださいました。

そのように、私たちは罪にさ迷って、霊的に飢えたり渇いたりし、平安を見つけませんでした。しかし、私たちが神様に叫んだら、神様は私たちを喜びと平和深い所に導いてくださいました。だから、私たちは満足します。

そして、詩人は囚人について歌います。彼らは神様に逆らったので、暗闇に住んでいました。けれども、彼らが神様に叫んだので、神様は彼らの鎖を打ち砕き、救い出してくださいました。マナセ王はそれを経験しました。

そのように、私たちも、神様を知っていましたが、神様に背を向けました。私たちは自由を求めて、この世の物を追い求めました。

しかし、私たちが追い求めたもの、つまり、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、かえって私たちを奴隷にしました。

それでも、私たちが神様にもう一度向かった時、神様はその鎖を砕いて、私たちを本当の自由に導いてくださいました。

ある人々は、自分の罪によって、病を経験しました。けれども、彼らが神様に叫んだら、神様は彼らを赦し、癒してくださいました。ダビデも、その経験があったかもしれません。(詩篇30,32,38-39)。

そのように、神様は私たちも注目を得るために倒されました。しかし、私たちが悔い改めたら、神様はすぐに赦してくださいました。

時々、私たちは人生の嵐に巻き込まれます。時々、それは私たちのせいですが、時々他の人のせいで苦しみます。それでも、私たちが神様に叫んだら、神様は私たちを救い出してくださいました。

他の人々は砂漠を渡った時に神様の備えを見たけれど、神様が約束の土地に着くと、彼らはすぐにそのことを忘れたので、自分の罪によってすべてを失ってしまいました。イスラエルの歴史はその通りでした。

けれども、彼らが神様に向かったら、神様は彼らをその土地に戻らせ、もう一度彼らを祝福してくださいました。

あなたもそのような経験があるかもしれません。砂漠で神様の祝福を見たのに、あなたの人生が上手くいき始めたら、神様を忘れたので、すべてを失ってしまいます。それでも、私たちが悔い改めたら、神様は私たちを赦し、癒してくださいました。

だから、私たちはどう反応するべきでしょうか。

彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。(15,21,31)

また、私たちの話を次の世代に伝えましょう。そうすれば、彼れらはこれらのことに心を留め、主の恵みを悟ります。(43)

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詩篇

悔い改めとあわれみ

詩篇85篇がいつ書かれたか誰も知りませんが、多分イスラエル人がバビロンへの追放の後に書かれたものだと思われます。

詩人はこう書きました。

主よ。あなたは御国に恵みを施し、ヤコブの繁栄を元どおりにされました。

あなたは、御民の咎を赦し、彼らのすべての罪を、おおわれました。セラ

あなたは、激しい怒りをことごとく取り去り、燃える御怒りを、押しとどめられました。(詩篇85:1-3)

イスラエル人がバビロンに70年いた後で、神様は彼らをエルサレムに帰らせました。多分、詩人はこの箇所でそのことについて歌ったのでしょう。

それでも、イスラエル人はまだトラブルを抱えていました。だから、詩人は願います。

われらの救いの神よ。どうか、私たちを生き返らせ、私たちに対する御怒りをやめてください。

あなたは、いつまでも、私たちに対して怒っておられるのですか。代々に至るまで、あなたの御怒りを引き延ばされるのですか。

あなたは、私たちを再び生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶために。

主よ。私たちに、あなたの恵みを示し、あなたの救いを私たちに与えてください。(詩篇85:4-7)

なぜ、詩人はそう祈ったのでしょうか。ネヘミヤ記によれば、ユダヤ人がエルサレムに帰ったけれど、城壁はまだ崩れていたので、彼らの敵はいつも攻撃しました。だからユダヤ人の人生は本当に大変でした。

だから、詩人は神様のあわれみを願います。そして、詩人は本当に大切なことを言います。

私は、主であられる神の仰せを聞きたい。主は、御民と聖徒たちとに平和を告げ、彼らを再び愚かさには戻されない。

まことに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは、栄光が私たちの国にとどまるためです。(詩篇85:8-9)

私たちはよく神様のあわれみのために祈りますが、平和は悔い改める人のためであることを覚えておきましょう。

もし、私たちが神様に背を向け、私たちを滅ぼした罪に戻るなら、神様のあわれみを期待できません。

もちろん、神様が私たちが完全な人になるまであわれんでくださらないわけではありません。とはいえ、神様は私たちの心を望まれます。神様は、私たちが古い道を行かずに、神様の道を歩み始めることを見たいと望まれます。

たまに私が転ぶかもしれませんが、神様の道を行き続けるなら、神様は私たちを拾って、私たちを導き続けてくださいます。そして、私たちは神様の祝福を知ることができます。

だから、詩人はこう書きました。

まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます。

義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。(詩篇85:12-13)

あなたはどうですか。悔い改めの道を歩んでいますか。

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詩篇

本当の悔い改め

ダビデがこの二つの詩篇を同時に書いたかどうか分からないけど、どちらも神様の懲らしめに対するダビデの反応を表しています。

その詩篇がいつ書かれたか分からないけど、ダビデが自分のプライドによってイスラエルの人口を数えた後に書いたものかもしれません。

詩篇29篇のように、この詩篇では、ダビデは罪を犯したので、神様の懲らしめによって、苦しんでいました。だから、彼は祈りました。

主よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。

あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。

あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。

私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。

私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。

私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。

私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。

私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。(詩篇38:1-8)

詩篇38篇18節は私の心を打ちます。

私は自分の咎を言い表わし、私の罪で私は不安になっています。(詩篇38:18)

時々、人々は自分の罪を軽んじます。彼らは悔い改めの祈りを唱えるかもしれませんが、心の中ではあまり悲しんでいません。むしろ彼らは、「あ、私の足はちょっと汚れているから、拭いておこう。」という態度を取ります。

けれども、ダビデが罪を犯した時、彼は本当に不安になりました。そして、パウロのように、彼は心から叫びました、「私は、ほんとうにみじめな人間です。」(ローマ書7:24)

ダビデは自分の悪さを見て本当に悲しんでいたので、悔い改めました。それが本当の悔い改めです。

詩篇39篇で、私たちはダビデの反応をもっと見ます。その時、彼は苦しんでいましたが、最初は何も言いませんでした。なぜなら、悪者が彼を見ていて、ダビデの言葉によって神様に汚名を着せるかもしれないからです。(詩篇39:1-2)

つまり、もし悪者がダビデの罪の告白を聞いたら、神様の名前を汚すようなことを言うかもしれません。「この人は神様を愛していると言うのに、なぜこんな悪いことをするの?どんな神に従っているのだろうか。」と言うかもしれません。

また、もしダビデが神様の懲らしめについて文句を言ったら、その悪者は神様について間違ったイメージを持つかもしれません。

しかし、結局ダビデは叫びました。

主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。

ご覧ください。あなたは私の日を手幅ほどにされました。私の一生は、あなたの前では、ないのも同然です。まことに、人はみな、盛んなときでも、全くむなしいものです。セラ

まことに、人は幻のように歩き回り、まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます。人は、積みたくわえるが、だれがそれを集めるのかを知りません。(詩篇39:4-6)

この祈りでは、ダビデは自分の間違っている視点を告白しました。その視点によって彼は罪を犯しました。

もし、人口を数えた罪の後にこの詩篇を書いたなら、多分、ダビデが言っているのは「私の軍隊を強める努力はむなしかった。私の実績のためのプライドはむなしかった。」という事です。

ダビデは、それらが一時的なもので、すぐになくなることが分かるようになりました。

だから、ダビデは祈りました。

「私が正しい視点をもう忘れないように。私の命はむなしいものです。だから、私がもう一時的なものに焦点を当てないように助けてください。私がそんな罪をもう犯さないように。」

そして、彼は祈りました。

主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。(詩篇39:7)

言い換えれば、「私の希望は一時的なものから来ません。私の満足は一時的なものから来ません。これから、私の希望はあなたです。」

そして、ダビデは泣いて、神様の赦しを頼みました。だから、神様はダビデを赦してくださいました。ヨハネが言ったように、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

あなたはどうですか。あなたの罪のせいであなたの心は不安でしょうか。神様の懲らしめによって、あなたは一時的なものに背を向けて、永遠の物を求めるでしょうか。

ダビデのように、私たちは罪を捨てて、永遠の物、また、本当の命を与えるものを求めましょう。

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詩篇

神様が私たちを懲らしめると

この詩篇のタイトルによれば、この詩篇は「主の家を捧げる歌」でした。

多分、自分のプライドによってダビデがイスラエルの人口を数えた罪を犯した後、彼はこの詩篇を書きました。(歴代誌第一21章;歴代誌第二3章1節)

神様はその罪のために、ダビデとイスラエルを懲らしめられました。つまり、イスラエルに疫病を下されました。聖書には書かれていませんが、その時、多分ダビデも病気になったと思います。

詩篇30篇では、私たちは神様からの懲らしめに対するダビデの反応を見ます。

ダビデは癒された後、神様を賛美しました。

主よ。私はあなたをあがめます。あなたが私を引き上げ、私の敵を喜ばせることはされなかったからです。

私の神、主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。

主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました。(詩篇30:1-3)

そして、ダビデは、なぜ神様が彼を打たれたのか説明します。

私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない。」(6)

その時、ダビデの安心は神様から来ませんでした。むしろダビデは、自分の力と自分の軍隊を信頼しました。だから、彼はその兵隊を数えました。

けれども、ダビデが懲らしめられた後、ダビデは本当の安全がどこから来るか分かるようになりました。

主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。(7)

だから、ダビデは主の前にへりくだりました。彼は振り返る時、こう言いました。

主よ。私はあなたを呼び求めます。私の主にあわれみを請います。

私が墓に下っても、私の血に何の益があるのでしょうか。ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか。あなたのまことを、告げるでしょうか。

聞いてください。主よ。私をあわれんでください。主よ。私の助けとなってください。(8-10)

神様はダビデの悔い改めを見られ、ダビデを憐れんで、赦してくださいました。だから、ダビデは神様を賛美しました。

あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。

私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。(11-12)

私たちは何を学ぶことができますか。

まず、何かをはっきりと言いたいです。

もしあなたが病気なら、神様はあなたの罪のために懲らしめておられるかもしれませんが、そうではない時もあります。

例えば、ヨブは本当に苦しんでいましたが、その時、神様は彼を罰しておられませんでした。他の理由のために彼は苦しんでいました。

とはいえ、時々、私たちが悪い道を行き始めると、神様は病気を通して私たちを止めてくださいます。

だから、あなたが病気の時、またあなたにトラブルがある時、「神様、私の心の中には罪があるでしょうか」と祈った方が良いです。

そして、神様があなたの罪を表されたら、ダビデのようにへりくだって悔い改めなければなりません。けれども、神様が何も表さないなら、多分その病気やトラブルには他の原因があります。

なぜ私はそう考えるのでしょうか。なぜなら、神様は私たちが苦しむことを喜ばれないからです。もし、私たちが悔い改めるために苦しみを送られたなら、私たちが悔い改めると、神様はすぐに赦してくださいます。

神様は「もし、自分の罪が分からないなら、私はあなたに伝えない」と全然言われません。

また、神様は「あなたがこの経験から学んで、もうその罪を犯さないためにあなたをもっと苦しませよう」と言われません。

むしろ、ダビデはこう書きました。

まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。

夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。(5)

思い出しましょう。神様は私たちを憎むので懲らしめるわけではなく、私たちを愛しておられるので、懲らしめられます。

だから、懲らしめられる時、へりくだって悔い改めましょう。

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ネヘミヤ記

私たちの不実さ、神様の恵み

この箇所では、ユダヤ人たちは神様の前に来て、自分の罪を告白しました。その祈りには、彼らの不実さと神様の恵みが表れています。

その祈りの初めに、彼らは神様が世を造られたことを思い出し、また、神様が新しい国を始めるためにアブラハムを選ばれたことを思い出しました。

そして、彼らは先祖がエジプトで奴隷だったけれど、神様が彼らを救い出してくださり、砂漠で導かれたことを思い出しました。

砂漠で、神様はいろいろな奇跡を行われましたが、その先祖たちはエジプトに戻りたがっていました。それに、本当の神様を礼拝せずに、彼らは偶像を作り、その偶像を神と呼びました。

それでも、神様は彼らに恵みを与えてくださいました。つまり、神様は彼らに水とパンを与えてくださり、彼らを導き続けられました。

そして、神様は先祖を素晴らしい土地カナンに導かれました。けれども、彼らは再び神様に背を向け、神様の預言者たちを殺し、偶像を礼拝しました。

だから、神様は彼らを敵に渡されました。しかし、彼らが苦しんで悔い改めると、神様は恵みによって彼らを救い出されました。ところが、彼らはすぐに自分の罪に戻り、結局バビロンに追放されました。

だから、ユダヤ人はこう祈りました。

「ご覧ください。私たちは今、奴隷です。あなたが私たちの先祖に与えて、その実りと、その良い物を食べるようにされたこの地で、ご覧ください、私たちは奴隷です。

私たちが罪を犯したので、あなたは私たちの上に王たちを立てられましたが、その王たちのために、この地は多くの収穫を与えています。

彼らは私たちのからだと、私たちの家畜を思いどおりに支配しております。それで私たちは非常な苦しみの中におります。」(ネヘミヤ記9:36-37)

彼らは悔い改めた心を持って、もう一度、神様の民として神様と契約を結びたいと願いました。彼らはこう言いました。

これらすべてのことのゆえに、私たちは堅い盟約を結び、それを書きしるした。そして、私たちのつかさたち、レビ人たち、祭司たちはそれに印を押した。(38)

私はこの話を読んだ時、神様の恵みは本当に不思議なものだと思いました。もし私が神様だったら、きっと彼らを諦めていたと思います。けれども、神様は決してそうされませんでした。

それに、神様はご自身が呼ばれた私たちを決して諦められません。

そのことを考えると、私は本当に嬉しくなります。なぜなら、イスラエル人のように、私は不実だからです。私の罪によって私は倒れることがありますし、私の心を堅くして、いろいろな悪いことをしてしまいます。

しかし、私は不実であるにもかかわらず、神様はいつも忠実な方です。また、神様は決して私を諦められません。そのことを心から感謝します。

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ゼカリヤ書

私たちの過去から学ぶ

ゼカリヤとハガイのミニストリーは同じ時期に始まりました。そして、彼らは力を合わせて、イスラエル人が主の宮を再建するよう励ましました。ゼカリヤは預言者であるだけでなく、祭司でもありました。

ところで、「ダリヨスの第二年の第八の月に」と記されていますが、このダリヨスはダニエル書に登場するダリヨスではありません。このダリヨスはダレイオス1世、すなわちエズラ書に出てくるダリヨスです。

(聖書では、名前の書き方が時々異なることがあります。それはおそらく、元々ヘブル語で書かれていたためでしょう。)

さて、ゼカリヤが自らのミニストリーを始めたとき、彼はイスラエルの人々に自分たちの歴史を振り返らせました。そして彼はこう語りました。

主はあなたがたの先祖たちを激しく怒られた。あなたは、彼らに言え。万軍の主はこう仰せられる。わたしに帰れ。――万軍の主の御告げ――

そうすれば、わたしもあなたがたに帰る、と万軍の主は仰せられる。

あなたがたの先祖たちのようであってはならない。

先の預言者たちが彼らに叫んで、「万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの悪の道から立ち返り、あなたがたの悪いわざを悔い改めよ」と言ったのに、彼らはわたしに聞き従わず、わたしに耳を傾けもしなかった。――主の御告げ――

あなたがたの先祖たちは今、どこにいるのか。預言者たちは永遠に生きているだろうか。しかし、わたしのしもべ、預言者たちにわたしが命じた、わたしのことばとおきてとは、あなたがたの先祖たちに追い迫ったではないか。

そこで彼らは立ち返って言った。「万軍の主は、私たちの行ないとわざに応じて、私たちにしようと考えられたとおりを、私たちにされた」と。(ゼカリヤ書1:1-6)

神様は何度もイスラエルの先祖に、「悔い改めなさい。私のもとに戻りなさい」と語られました。

けれども、彼らは神様を無視しました。彼らは預言者たちの言葉を無駄な言葉だと思い込んでいましたが、ついに裁きが訪れました。その後、彼らはようやく悔い改めたのです。

そこで、神様はこう言われました。

「あなたの過去から学びなさい。私があなたの先祖に警告した時、私の言葉は決して無駄ではなかった。今でも、私の言葉は無駄ではない。悔い改めなさい。さもなければ、再び裁きが訪れるでしょう。」

神様は私たちにも同じことを語られます。私たちすべてが罪を犯します。しかし、あなたは自分の過ちから学んでいるでしょうか。それとも、自分を滅ぼす罪を繰り返しているでしょうか。

私たちの過ちを繰り返さないようにしましょう。むしろ、賢明な道を歩み、悔い改めて、神様の恵みの中で生きましょう。

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エズラ記

喜びと後悔

この箇所では、私たちはいくつかのことを見ます。

一つ目は、ユダヤ人たちがもう一度いけにえと捧げ物を捧げ始めたということです。また、何年かぶりに彼らは仮庵の祭りを祝いました。

二つ目は、彼らが主の宮を再建し始めたということです。そして、神殿の礎を据えたとき、彼らは大いに喜びました。

11節には、こう書かれています。

そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。(エズラ記3:11)

けれども、同時に、泣いている人もおり、その涙は喜びのためではありませんでした。

しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。

一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。そのため、だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた。(12-13)

どうして彼らは泣いていたのでしょうか。おそらく、彼らにはほろ苦い思いがあったのだと思います。彼らは愛する宮の再建を見て、喜びました。それでも、ソロモンの宮と比べると、その新しい宮には栄光がありませんでした。

時々、私たちの悪い決断によって、私たちの人生はめちゃくちゃになります。つまり、私たちの罪によって、私たちの結婚や、健康や、家計を壊してしまいます。

そして、私たちが悔い改めると、神様は私たちを赦してくださいます。また少しずつ、神様は私たちの人生を癒し始めます。その癒しによって、私たちは喜びます。

しかし同時に、私たちは振り返って後悔します。私たちが人生の被害を見て、だんだん私たちの関係や、私たちの人生は癒されているけれど、そのプロセスは苦しいです。そして、私たちが再建するものは以前のものほど、あまり良くないと思います。

それでも、あなたの後悔によって圧倒されないようにしましょう。私たちが悔い改めると、神様は私たちが自分の失敗とその結果に焦点を当てることを望んでおられません。

むしろ、私たちが神様の赦しと恵みに休んで、未来に焦点を当てることを望んでおられます。そうすれば、神様は私たちのすべての涙をすっかりぬぐい取ってくださり、神様の栄光は私たちを通してもう一度輝き始めます。

パウロの言葉を覚えておきましょう。

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます。。。(第二コリント7:10)

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エレミヤ書 列王記第二 歴代誌第二

没落の理由

この箇所は少し特別です。つまり、同じ出来事が聖書の4つの箇所に記されています。それはエルサレムの没落です。

おそらく、エレミヤは52章を書いたわけではありません。それは別の人が記した付録のようです。エレミヤ書52章と列王記の記述はほとんど同じです。

ゼデキヤ王は神様の御名によって、バビロンのしもべになることを誓いました。けれども、彼がその約束を破ったため、ネブカデネザルが軍隊を送ってエルサレムをおよそ2年にわたり包囲しました。

その結果、エルサレムの食料は徐々になくなり、最終的にエルサレムは陥落しました。

ゼデキヤは逃げようとしましたが、捕らえられました。彼の息子たちは殺され、その後、彼の目がつぶされました。

そしてネブカデネザルは大祭司、次席祭司、そしてユダの長老たちを殺しました。

バビロン人は主の宮から価値のあるものをすべて取り去り、宮、宮殿、エルサレムの家々をすべて焼きました。

なぜ、神様はそのようなことを許されたのでしょうか。

歴代誌第二には、その理由が記されています。

彼「ゼデキヤ」はその神、主の目の前に悪を行ない、主のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。。。

そのうえ、祭司長全員と民も、異邦の民の、忌みきらうべきすべてのならわしをまねて、不信に不信を重ね、主がエルサレムで聖別された主の宮を汚した。

彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。

ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。(歴代誌第二36:12-16)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。なぜエルサレムは滅びたのでしょうか。

一つ目の理由は、ゼデキヤ王とその民が主の目の前で悪を行ったことです。私たちが悪を行えば、私たちの人生にも悪い結果が起こります。

二つ目の理由は、彼らが神様の言葉を聞いたとき、へりくだって悔い改めなかったことです。むしろ、彼らの心はさらに堅くなり、ますます悪化しました。

三つ目の理由は、彼らが周囲の国々の宗教的な忌み嫌われるならわしを真似して、神様の宮を汚したことです。

最後の理由は、彼らが神様の言葉を侮り、神様の預言者たちを嘲笑したことです。その結果、彼らの癒しはもはや不可能なものとなりました。

時に、私たちの心もあまりにも堅くなり、悔い改めることができなくなることがあります。しかし、悔い改めなければ、癒しも得られません。

あなたはどうでしょうか。どの道を進んでいますか。あなたは悔い改めることなく罪を犯し続けていますか。もし神様が聖書や日曜日のメッセージを通してあなたを責められたとき、あなたはその言葉に心を閉ざしてしまうでしょうか。

周りの人々の宗教的な習慣や教えに従って、聖霊の宮、つまりあなたの体を汚してしまっていませんか。(第一コリント6:19)

また、この世の神々、すなわちお金やセックス、持ち物を求めていませんか。それらも聖霊の宮を汚すことがあります。

さらに、あなたは神様の言葉を侮り、神様の使者を嘲笑してはいませんか。

これらのことによってエルサレムは滅びました。そして、これらのことによってあなたも倒れるでしょう。

もしあなたが真のクリスチャンであれば、救いを失うことはありませんが、人生は崩壊してしまいます。

神様はあなたに良い計画を用意されていますが、あなたはその計画を知ることができません。充実した人生ではなく、後悔に満ちた人生を送ることになるでしょう。

私たちはイスラエルのようにならないようにしましょう。むしろ、神様に対して柔らかい心を保ちましょう。そうすることで、真の命を見つけることができます。

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エレミヤ書

無駄な希望

ゼデキヤは私が理解しがたい人物です。彼はユダの最後の良い王、ヨシヤの息子でした。だから、ゼデキヤには良いロールモデルがありました。

さらに、彼は兄弟エホアハズ、エホヤキム、そして甥エホヤキンの失敗を目の当たりにしました。

それでも、ゼデキヤはヨシヤの道を歩まず、兄弟たちと甥の道を選び、神様に背きました。

とはいえ、ある程度、彼はエレミヤを尊敬していました。そのため、何度もエレミヤに相談しました。けれども、首長たちはエルサレムに対する裁きの預言に飽き、彼らはエレミヤに言いました。

「あなたはカルデヤ人のところへ落ちのびるのか。」(エレミヤ書37:13)

エレミヤはそのことを否定しましたが、彼らはエレミヤを捕らえ、打ちたたいて牢に入れました。ゼデキヤはそのことを聞いても、何もしませんでした。

それでも、彼はエレミヤに相談し続けました。その後、首長たちはエレミヤについて文句を言い続けたので、ゼデキヤは彼らに言いました。

今、彼はあなたがたの手の中にある。王は、あなたがたに逆らっては何もできない。(エレミヤ書38:5)

だから、彼らはエレミヤを穴に投げ込み、エレミヤは泥の中に沈みました。

幸いなことに、勇気のある人がゼデキヤに面と向かって訴えたため、ゼデキヤはエレミヤを監視の庭に連れて行きました。

ゼデキヤは本当に弱い人でした。

私が知りたいのは、どうしてゼデキヤが何度もエレミヤに相談したのかということです。彼は決してエレミヤの言葉に従いませんでした。エレミヤ37:2には、こう書いてあります。

彼も(つまり、ゼデキヤ)、その家来たちも、一般の民衆も、預言者エレミヤによって語られた主のことばに聞き従わなかった。

私には分かりませんが、ゼデキヤは神様のご意志が変わることを望んでいたのかもしれません。

彼は自分の道を歩み続けたいと思っていたので、彼の願いは、神様が彼を救い、なおその道を歩み続けることを許してくださる、というものでした。

けれども、それは無駄な希望でした。

もちろん、時には、裁きに関して神様のご意志が変わることがあります。

しかし、エレミヤ18章に書かれているように、一つの条件があります。それは悔い改めです。

ゼデキヤは決して悔い改めませんでした。むしろ、彼は言い訳をしました。

エレミヤは彼に言いました。「バビロン人に降伏しなさい。そうすれば、あなたは生きる。」

けれども、ゼデキヤは答えました。

私は、カルデヤ人(バビロン人)に投降したユダヤ人たちを恐れる。カルデヤ人が私を彼らの手に渡し、彼らが私をなぶりものにするかもしれない。(エレミヤ書38:19)

エレミヤは説得しようとしましたが、ゼデキヤはその言葉を受け入れられませんでした。

あなたはどうでしょうか。罪にしがみついたまま、「全てがなんとなく良くなる」と希望していませんか。

神様があなたを裁かず、憐れみを示してくださることを願いながら、自分の道を行き続けていませんか。

それは無駄な希望です。罪にしがみつき、自分の道を行き続けるなら、裁きが来ます。悔い改めなければ、裁きは必ず訪れます。

しかし、もし悔い改めるなら、神様はあなたを赦し、癒してくださいます。

それでも、この世では罪の結果を受けることがあるかもしれません。けれども、神様はあなたを確かに赦してくださり、癒しの働きを始めてくださいます。

あなたはどう選びますか。

無駄な希望を持ち続けますか。

それとも、悔い改めから生まれる希望を求めますか。

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エレミヤ書

一時的な悔い改め

いつ34章の事件が起こったか分かりませんが、32-33章の前に起こったと思います。なぜなら、32-33章では、エレミヤは牢にいたからです。

最初に、エレミヤはゼデキヤ王に警告しました。「ネブカデネザルはエルサレムを倒すけれど、ゼデキヤは剣で死なない」と言いました。

おそらく、その言葉によって、ゼデキヤとユダ人たちはある程度まで悔い改めました。その時まで、彼らはずっと自分の兄弟を奴隷にしていました。

神様の律法によると、7年ごとに、彼らはその奴隷を解放するべきでした。(その時代、負債の問題によって、多くの人々は自分自身を奴隷として売りました。)けれども、彼らはその律法をずっと破り続けました。

そのため、バビロン人が来て、またユダ人がエレミヤの警告を聞いたので、ゼデキヤとユダ人は神様との契約を結びました。つまり、彼らはすべての奴隷を解放することを約束しました。そして、彼らはその約束を守りました。

しかし、その悔い改めは一時的なものでした。

事件のタイミングははっきり分かりませんが、恐らく彼らがその奴隷を解放した直後に、ネブカデネザルとその軍隊はエジプト人と戦うためにエルサレムの包囲を解きました。(エレミヤ書34:21)

ネブカデネザルが行ってしまったので、ユダ人は自分たちの約束を破り、解放された奴隷を勝手に連れ戻し、もう一度奴隷にしました。そのため、神様は裁きを宣言されました。

わたしはまた、ユダの王ゼデキヤとそのつかさたちを敵の手、いのちをねらう者たちの手、あなたがたのところから退却したバビロンの王の軍勢の手に渡す。見よ。わたしは命じ、――主の御告げ――

彼らをこの町に引き返させる。彼らはこの町を攻め、これを取り、火で焼く。わたしはユダの町々を、住む者もいない荒れ果てた地とする。』」(エレミヤ書34:21ー22)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。時々、人々は困って神様に向かい、悔い改めます。神様は彼らを赦し、彼らの人生に働きかけて癒されます。

けれども、全てが上手くいくと、彼らは神様の恵みを忘れ、自分の道に戻ります。その結果、彼らは再びトラブルに巻き込まれて苦しみます。

彼らは自分の救いを失うことはありませんが、この世でその罪の結果を経験します。

あなたはどうでしょうか。悔い改めて癒されたのに、また古い道に戻ってしまっているでしょうか。

その道に戻らないでください。むしろ、罪から避け、神様に従いましょう。そうすれば、あなたは神様の祝福を受けることができます。

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エゼキエル書

無駄な涙

この箇所では、ユダ王国の没落が間近に迫っています。

エレミヤやエゼキエルは長い間ユダの人々に警告してきましたが、ついにバビロンがユダを攻撃するためにエルサレムに到着しました。

包囲が始まった時、神様はエゼキエルにこう言われました。「これは裁きの日である。この国は罪に満ち、人を殺しておきながらその罪を隠そうともしない。

私はこの国を清めようとしたが、彼らは私の警告を無視し続けた。だから、私の忍耐は尽きた。彼らに憐れみをもう与えない。今は裁きの時だ。」

さらに、神様はエゼキエルに非常に辛い知らせを伝えられました。「あなたの妻が亡くなる。」

それでも神様はエゼキエルにこう命じられました。

嘆くな。泣くな。涙を流すな。声をたてずに悲しめ。死んだ者のために喪に服するな。

頭に布を巻きつけ、足にサンダルをはけ。口ひげをおおってはならない。人々からのパンを食べてはならない。(エゼキエル書24:16-17)

なぜでしょうか。それはエルサレムが倒れると、ユダの人々がそのように反応するからです。

彼らの砦、彼らの栄光、彼らの喜び、そして彼らの子どもたちすべてが取り去られます。その時、彼らの憂いは非常に深くなり、どれだけ泣いても慰められることはありません。

それでもなお、彼らは悔い改めようとしないのです。むしろ、彼らは、

自分たちの咎のために朽ち果て、互いに嘆き合うようになる。(23)

だから、神様はユダ人にこう言われました。

エゼキエルはあなたがたのためのしるしとなり、彼がしたとおりを、あなたがたもするようになる。このとき、あなたがたは、わたしが神、主であることを知ろう。(24)

私たちはここから何を学べるでしょうか。

時には涙を流すことが良いのです。もし私たちの涙が悔い改めへと導き、神様に向かわせるなら、神様は私たちを慰め、癒してくださいます。

イエス様はこのように言われました。

悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。(マタイ5:4)

けれども、ある人は自分の罪によって心が堅くなり、すべてを失っても、またその苦しみに耐えられなくても、悔い改めることがありません。むしろ、彼らは神様を責め、自己憐憫に浸るのです。

ユダの人々も同じようにしました。私たちの心が罪によって堅くなるとき、私たちも彼らと同じような反応をするかもしれません。

あなたはどうでしょうか。あなたの罪のせいで、あなたの心は堅くなっているでしょうか。絶望しているでしょうか。神様を責め、自己憐憫に浸っているでしょうか。

どうか悔い改めてください。あなたの罪の結果に対してではなく、あなた自身の罪そのもののために涙を流してください。

そうするなら、神様はあなたに触れ、あなたを赦し、そして癒してくださるでしょう。

悔い改めるのに決して遅すぎることはありません。かつて、使徒パウロはキリストを冒涜し、多くのクリスチャンを迫害しました。

しかし、クリスチャンになった後、パウロはこう記しました。

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。(第一テモテ1:15-16)

パウロの涙は、悔い改めへと導かれました。あなたの涙もまた、悔い改めへと導かれますように。

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エゼキエル書

神の御前に申し開きするとき

この箇所では、私たちは重要な真理を学ぶことができます。すなわち、私たち全員がいつか神の御前で申し開きをしなければならないということです。

エゼキエルの時代、イスラエルの人々はこのことわざを引用して、文句を言いました。

父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。(エゼキエル18:2)

つまり、「私たちは先祖の罪のために苦しんでいます。どうして私たちは、彼らの罪のために罰されているのでしょうか。」

けれども、神様は彼らにこう答えられました。

わたしは誓って言う。――神である主の御告げ――あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。

見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。(3-4)

時々、私たちは両親の罪や他の人の罪によって被害を受けることがあるかもしれません。それでも、私たちすべての人間は、自分の行動に対して責任を持たなければならないのです。

例えば、両親に虐待された人がいるかもしれません。その両親の行動によって、彼らは肉体的にも精神的にも苦しむことになります。

とはいえ、それに対する反応は自分自身の責任です。彼らは自分の子供に対して両親の罪を犯し続けるでしょうか。それとも、その罪を止めるでしょうか。

神様はイスラエルの人々に対して多くの仮定の質問をされました。

「もし、正しい人に悪い息子がいたら、私はその息子を正しい人として認めるでしょうか。違います。私はその息子を父の行動のために祝福せず、彼を罰します。」(5-13)

「しかし、悪い人に息子がいる場合、その息子が父の罪を見ても、彼はその罪を拒絶して正しい人生を歩むなら、私はその息子をその父の罪のために罰するでしょうか。

違います。その父は自分の罪のために死にますが、その息子は生きます。」(14-18)

また、「もし悪い人が悔い改めて正しいことをし始めたなら、その人は以前の罪のために死ぬでしょうか。違います。私はその人を赦し、哀れみます。」(21-22)

けれども、「正しい人が義の道から離れてしまったら、その人は生き続けるでしょうか。違います。その人は死にます。」(24)

ユダの王たちの歴史を見ると、このパターンをよく目にします。

例えば、アサ王は義の道から離れ、罪を犯し始めたため、苦しみの中で死にました。

しかし、彼の息子ヨシャパテは父の罪から離れ、良いことを行ったので、神様に祝福されました。

けれども、ヨシャパテの息子ヨラムは父の義の道から離れたため、苦しみの中で死を迎えました。

また、別の王であるマナセは、良い父を持っていましたが、罪を犯したために罰を受けました。しかし、彼は悔い改めたので、神様に赦されたのです。

神様のポイントは何でしょうか。

――神である主の御告げ――

悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。

あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。

イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ――

だから、悔い改めて、生きよ。(30-32)

つまり、神様はこう語られているのです。

「自分の行動に責任を持ちなさい。自分の罪を認めなさい。他の人をあなたの罪の責任者として責めるのはやめなさい。

彼らもそれぞれ、自分の罪について申し開きをしなければなりません。けれども、あなた自身もまた、自分の罪について申し開きをしなければならないのです。

ですから、彼らをあなたのトラブルの原因として責めるのではなく、悔い改めなさい。そして、私に新しい心と新しい霊を求めなさい。

なぜなら、私は誰かが死ぬことを喜ぶ神ではないからです。」

その前に神様はこう言われました。

わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ――

彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。(23)

あなたはどうでしょうか。あなたのトラブルを他の人のせいにして責めていませんか。あなたの罪の結果について相手を責めていませんか。

確かに、彼らにはある程度の責任があるかもしれません。とはいえ、神様の御前で彼らを責めることは、あなた自身を助けることにはなりません。

ですから、自分の心を見つめ、自分の罪に目を向けましょう。そして、悔い改めましょう。そうすれば、神様はあなたを赦し、癒してくださいます。

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列王記第二 歴代誌第二

たった一つの悪い選択

選択。それは神様からの贈り物です。けれども、選択することは責任を伴います。私たちは日々、数多くの選択を迫られています。

深刻ではない選択もあります。たとえば、朝食に何を食べるか、通勤にバスと電車のどちらを使うべきかといった選択です。

しかし、もっと重要な選択もあります。それは、今日神様に従うか従わないか、また、この瞬間に神様に従うかどうかという選択です。

ヨシヤ王は、基本的に神様に従う生涯を送りました。

王として、さまざまな賢明な決断を下し、ユダを導きました。

他のユダやイスラエルの王たちと比較すると、ヨシヤは本当に優れた王でした。

ところが、ある日、神様の声を無視したことで彼は命を落としました。

エジプトの王が他国と戦おうとしていたとき、ヨシヤは彼を止めようとして出向きました。その際、エジプトの王はヨシヤにこう語りました。

ユダの王よ。私とあなたと何の関係があるのですか。

きょうは、あなたを攻めに来たのではありません。私の戦う家へ行くところなのです。

神は、早く行けと命じておられます。

私とともにおられる神に逆らわずに、控えていなさい。さもなければ、神があなたを滅ぼされます。(歴代誌第二35:21)

神様の命令によって、エジプトの王はそう語りました。(歴代誌第二35:22)

けれども、ヨシヤは神様の声に従いませんでした。

どうしてだったのでしょうか。ヨシヤのプライドが原因だったのでしょうか。

たとえば、彼自身の軍隊についてのプライドや、自分の作戦に対するプライドがあったのかもしれません。(彼はその戦いのために変装していました。)

あるいは、ヨシヤはプライドから神様が外国の王に語りかけるはずがないと思っていたのかもしれません。

ヨシヤの考えを正確に知ることはできませんが、確かなのは、彼がその日に命を落としたということです。そして、ユダの没落は間もなく始まりました。

時には、正しいと分かっていても、あえて悪い選択をしてしまうことがあります。

ときに、自分の行動を正当化しようとすることもあります。あるいは、言い訳さえせずに悪を行ってしまうこともあるのです。

ヨシヤの人生から、この大切な真実を心に刻みましょう。

「たった一つの悪い選択が、私たちの人生を壊してしまう可能性がある。」

たとえば、一つの悪い選択によって、不倫をしてしまい、結婚生活を崩壊させることがあります。

一つの罪によって、自分のミニストリーを破壊してしまうこともあります。

もちろん、罪を犯したとしても、悔い改めるならば神様は赦してくださいます。

神様はヨシヤを赦されました。

ヨシヤは天国に入りました。

それでも、彼の治世と命はそこで終わってしまったのです。

だからこそ、毎日毎日、一瞬一瞬、神様に従うことを選びましょう。

さらに、主の祈りを心に留め、祈り続けましょう。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)

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エレミヤ書

私たちの希望はどこから来るか

この箇所では、さらに裁きの警告を読むことができます。エレミヤはユダ人たちに対して、彼らの罪が原因で追放されると警告しました。また、彼らが希望の光を求める一方で、神様が彼らを絶望の暗闇で覆うことになると告げました。

けれども、その裁きが訪れる前に、神様はもう一つの警告をお与えになりました。それが、日照りという形で示されました。

その日照りの中で、エレミヤは祈りました。「私たちは罪を犯しましたが、どうかお赦しください。」(エレミヤ書14:7-9)

しかし、神様は答えられました。

この民のために幸いを祈ってはならない。彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のいけにえや、穀物のささげ物をささげても、わたしはそれを受け入れない。

かえって、剣とききんと疫病で、彼らをことごとく絶ち滅ぼす。(エレミヤ書14:11-12)

それでも、エレミヤはユダ人たちのために祈り続けました。彼はこのように祈りました。

異国のむなしい神々の中で、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるでしょうか。

私たちの神、主よ。それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたがこれらすべてをなさるからです。(エレミヤ書14:22)

エレミヤが理解したのは、私たちにはただ一つの希望しかないということです。それは神様です。しかし、ユダ人たちは自分自身の力と知恵に頼り、また他の国々との同盟に依存しました。

その結果、彼らのプライドによって滅びました。そして、彼らがしがみついていた神々は彼らを救うことができませんでした。

あなたの希望はどこから来るのでしょうか。その希望は神様から来ているでしょうか。あなたは人生のすべてを神様に信頼していますか。神様の道を歩んでいますか。

それとも、ユダ人のように、自分自身に信頼し、この世の神々に従っているのでしょうか。

神様に信頼しない限り、私たちに希望はありません。だからこそ、裁きが訪れる前に、神様に向き直り、従いましょう。

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列王記第二 歴代誌第二

表面的な悔い改め

これはユダ王国の没落の始まりを示しています。

ヨシヤはユダの最後の良い王でした。そして、この箇所を見ると、ヨシヤの影響によってユダ人たちは悔い改めたように見えます。

ヨシヤは偽物の神々とその祭壇を取り壊し、霊媒や口寄せ、偽りの祭司たちを処刑しました。

そして、ユダ人たちが過ぎ越しの祭りを祝った際、その祝いは非常に素晴らしいものでした。預言者サムエルの時代以来、このような祭りは行われていなかったのです。(歴代誌第二35:18)

そのため、歴代誌第二には、次のように記されています。

[ヨシヤ]の生きている間、[ユダ人たち]はその父祖の神、主に従う道からはずれなかった。(歴代誌第二34:33)

しかし、列王記第二には次のように記されています

それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行ないのために、主はユダに向けて燃やされた激しい怒りを静めようとはされなかった。

主は仰せられた。

「わたしがイスラエルを移したと同じように、ユダもまた、わたしの前から移す。わたしが選んだこの町エルサレムも、わたしの名を置く、と言ったこの宮も、わたしは退ける。」(列王記第二23:26-27)

問題は何だったのでしょうか。ヨシヤは心から悔い改めましたが、多くのユダ人たちはそうしませんでした。

もちろん、一部のユダ人たちは本当に悔い改めましたが、多くの人々は自分の罪を犯し続けました。

その罪を隠していたかもしれませんが、それでもなお罪を続けていたのです。そして、ヨシヤが死んだ後、その悪は再び現れてしまいました。

あなたはどうでしょうか。ヨシヤのように、心から神様に仕えているでしょうか。

それとも、表面的には神様に仕えているふりをしながら、この世の偶像、すなわちお金、セックス、力に仕えているのでしょうか。

周囲の人々を欺くことはできるかもしれませんが、神様を欺くことは決してできません。

そして、そのような振る舞いを続けるなら、ユダ人たちと同じように代価を支払うことになります。

私たちを神様から遠ざけるものを捨て去り、心から神様に従いましょう。

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エレミヤ書

偽の悔い改め

私の娘が3歳の時、時々悪いことをすると、私は「謝りなさい」と言いました。

彼女は謝りましたが、時々心から謝っていませんでした。むしろ、彼女は笑いながら、「ごめんなさい~」と言っていました。

ユダ人たちは私の娘のようでした。神様は彼らについてこう言われました。

あなたは遊女の額をしていて、恥じようともしない。今でも、わたしに、こう呼びかけているではないか。

『父よ。あなたは私の若いころの連れ合いです。いつまでも怒られるのですか。永久に怒り続けるのですか』と。

なんと、あなたはこう言っていても、できるだけ多くの悪を行なっている。(エレミヤ書3:3ー5)

口では、彼らは「ごめんなさい」と言いましたが、彼らの行動はその心を表していました。

そして、神様は彼らを追放されたイスラエル人たちと比べられました。神様は彼らの「不倫」によって「離婚」されたのです。

つまり、彼らが偽物の神々を求めたために、神様は彼らをアッシリヤ人の手に渡されました。

ユダはそのことを知っていたにもかかわらず、悔い改めませんでした。悔い改めの言葉を口にしたものの、心から悔い改めることはありませんでした。

神様は彼らについてこう言われました。

このようなことをしながら、裏切る女、妹のユダは、心を尽くしてわたしに帰らず、ただ偽っていたにすぎなかった。――主の御告げ――」

主はまた、私に仰せられた。「背信の女イスラエルは、裏切る女ユダよりも正しかった。(10ー11)

つまり、「悔い改めるふりをするな。偽りの悔い改めよりも、反抗の方がまだ良い。」ということです。

しかし、もちろん、反抗よりも、神様は真実の悔い改めを望んでおられます。そのため、神様はこう言われました。

背信の女イスラエル。帰れ。――主の御告げ――

わたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深いから。――主の御告げ――

わたしは、いつまでも怒ってはいない。ただ、あなたは自分の咎を知れ。

あなたは自分の神、主にそむいて、すべての茂った木の下で、他国の男とかってなまねをし、わたしの声を聞き入れなかった。――主の御告げ――

背信の子らよ。帰れ。――主の御告げ――

わたしが、あなたがたの夫になるからだ。わたしはあなたがたを、町からひとり、氏族からふたり選び取り、シオンに連れて行こう。。。

背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。(エレミヤ書3:12-14,22)

私たちはどのように反応するべきでしょうか。

今、私たちはあなたのもとにまいります。あなたこそ、私たちの神、主だからです。(エレミヤ書3:22b)

神様はこう応えられます。

耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。

ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。(エレミヤ書4:3ー4)

つまり、神様に対して、あなたの心を柔らかくしなさい。心の堅い土壌を耕しなさい。罪のとげを取り除きなさい。あなたを神様から遠ざけるものを取り除きなさい。

そうすれば、私たちの悔い改めは私たち自身に影響を与えるだけでなく、周りの人々にも影響を与えます。

神様はこう言われます。

イスラエルよ。もし帰るのなら、――主の御告げ――わたしのところに帰って来い。

もし、あなたが忌むべき物をわたしの前から除くなら、あなたは迷うことはない。

あなたが真実と公義と正義とによって『主は生きておられる』と誓うなら、国々は主によって互いに祝福し合い、主によって誇り合う。(4:1ー2)

つまり、私たちが悔い改め、主のために生き始めるならば、神様は私たちを通して働き、私たちの周りの人々に触れて、彼らを祝福されるのです。

私たちがそのような心を持つことができますように。

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イザヤ書

情け深い神、力ある神

この世界を造られた神が私を愛しておられることは、本当に不思議だと思います。言葉だけですべてを造られた神が私について考えておられることも、不思議だと思います。

この箇所では、そのような神を見ることができます。

イザヤはイスラエル人について話し、神様がどのように彼らを選ばれたかを教えています。イスラエルのエジプトでの経験について、イザヤはこう言いました。

彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。

その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。(イザヤ書63:9)

イザヤはイスラエル人について話しますが、私たちについても話しています。

私たちが苦しむ時、神様も苦しんでおられます。私たちが泣く時、神様も泣いておられます。

だから、私たちが罪に迷った時、神様はイエス様の死によって、私たちを贖い、救ってくださいました。そして、神様は私たちを背負い、抱いて来られました。今でも神様はそうしてくださいます。

それに、神様は力ある神です。イザヤはこう言いました。

私たちが予想もしなかった恐ろしい事をあなたが行なわれるとき、あなたが降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。

神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。あなたは迎えてくださいます。喜んで正義を行なう者、あなたの道を歩み、あなたを忘れない者を。

ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか。(64:3-5)

神様は問題を解決する力を持っておられます。私たちを助ける力を持っておられます。

エジプトが大国だったのに、神様はイスラエル人をエジプトから救い出されました。神様のしるしと不思議を通して、イスラエルの敵は恐れました。

その同じ神が、私たちの人生の中でも働いておられます。神様に仕え、また神様を待ち望む私たちの中で、神様は働いておられます。

神様は情け深い神です。神様は力ある神です。

しかし、一つのものによって私たちは神様から離れます。そのものは、神様の祝福と助けを妨げます。それは、罪です。

神様がイスラエル人を救って祝福されたのに、彼らは神様に背き、御霊を悲しませました。だから、神様はイスラエル人をその敵の手に渡されました。

そのように、私たちの罪によって、私たちは神様から離れてしまいます。イザヤはこう言いました。

私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。

しかし、あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの咎のゆえに、私たちを弱められました。(イザヤ書64:6-7)

私たちが神様を求めないなら、私たちの義でさえ不潔な着物のようになってしまいます。イザヤの文字通りの言葉によれば、私たちの義は不潔な月経布のようだと言っています。

そして、私たちは罪の結果を知っています。自分自身を罪に捧げるなら、結局滅びに至るのです。

赦しへの道は何でしょうか。それは、悔い改めです。罪に背を向け、神様の赦しに頼ることです。私たちの創造者を思い出し、神様を求めることです。そして、イザヤのように祈ることです。

しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。

主よ。どうかひどく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください。(イザヤ書64:8-9)

そうすれば、もう一度、神様の情けと力を知ることができます。

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イザヤ書

神様は遠くにおられるのでしょうか。

時々、人々はこう尋ねます。「神様はどこにおられるのでしょうか。私には神様が見えません。この世にある悪しか目に入りません。」

神様は確かにここにおられます。けれども、私たちの心の中に罪があるため、神様を見るのが難しいことがあります。イザヤはこう語りました。

見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。

あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ書59:1-2)

神様を見たいと思いますか。あなたが悔い改めるなら、神様はあなたの罪を赦し、あなたの心を清めてくださいます。そして、その結果、神様を見ることができるようになります。

イエス様はこう言われました。

心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。(マタイ5:8)

神様は聖なる方であり、罪を見ることができません。そのため、私たちの心の中に悔い改めていない罪があるならば、私たちは神様から遠ざかってしまいます。

しかし、自分の罪に取り組むのではなく、多くの人々は言い訳をしてしまいます。イザヤは次のように語りました。

むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。(4)

また、

彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。

彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。

彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。

それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。

私たちは盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだ。(7-10)

この世界を見渡すと、私たちはそのような現実にどれほど頻繁に直面していることでしょうか。人々は罪を善と呼び、神様が定めた罪を良いこととして受け入れ、それを喜びます。

けれども、結局のところ、私たちは暗闇に迷い込んで、「どうしてこの世はこんなに混乱してしまったのだろうか」と問いかけます。

その理由は明白なのに、私たちにはその理由が見えていません。それは、私たちが良い神を拒絶し、罪を愛しているからです。その結果、この世はますます悪くなり、崩れていっています。

それでも、私たちが罪人であっても、神様は私たちを見捨てることはありませんでした。

主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。

そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり「ました。」(15-17)

約2000年前、イエス様はこの世に来られ、私たちの罪のために十字架で死なれました。そのため、もし私たちが悔い改め、イエス様に立ち返るならば、私たちは赦され、自由にされるのです。それは、まさに良い知らせです。

しかし、悪い知らせもあります。それは、もし私たちが神様に向かわないならば、神様の裁きを受けるということです。

主は彼らのしうちに応じて報い、その仇には憤りを報い、その敵には報復をし「ます」(18)

だから、どうか待たないでください。今日は救いの日です。今、この瞬間に神様に向かいましょう。

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イザヤ書

平和へと導く道

神様は、反抗したイスラエルの民を叱った後、へりくだっている人々に憐れみを注がれました。そして、神様はこう言われました。

盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の道から、つまずきを取り除け。(イザヤ書57:14)

この箇所では、神様は追放されたイスラエルの民がバビロンから帰還することを預言しています。それゆえ、神様はこう言われました。

「私の民の帰還のために道を整えよ。つまずきを取り除きなさい。」

そして、神様はクロス王の心を動かし、彼がイスラエルの民を自分の国に帰らせました。

しかし、この預言には二つ目の意味もあるのではないでしょうか。つまり、イスラエルの民が神様のもとに帰る道にもつまずきがありました。そして、神様ご自身がそのつまずきを取り除かれたのです。

神様は、私たちが義人になるのを待たれていたのではありません。それどころか、その前にイエス様をこの世に送り、イエス様が私たちの罪のために十字架で死なれました。

その働きによって、私たちは赦され、神様との関係が回復されたのです。

では、私たちはどうすればよいのでしょうか。へりくだって悔い改めましょう。そうすれば、神様は私たちにこう言われます。

いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。

「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから。

彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおそむいて、自分の思う道を行った。

わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。

わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」と主は仰せられる。(イザヤ書57:15-19)

わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。

私はその言葉が大好きです。多くの人々は神様を恐れ、罪を犯すと神様からの罰を待っています。

しかし、悔い改めるならば、神様はすぐに赦してくださいます。神様は私たちを義の道に導き、慰め、そして私たちの傷を癒してくださいます。その結果は――

平和です。

それでも、多くの人々は自分の道の虚しさに気づきません。そのため、彼らは自分の心を頑なにし、悔い改めることなく、自分の道を歩み続けます。

神様はそのような人々について、こう言われます。

しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。

「悪者どもには平安がない」と私の神は仰せられる。(20-21)

あなたはどうでしょうか。あなたの心には平和がありますか。神様があなたの罪を赦してくださった平和を持っていますか。神様がもうあなたに対して怒っておられないことを、本当に知っていますか。

へりくだった心の平和を経験したことがありますか。悔い改めた心の平和を味わったことがありますか。あなたは自分自身の道を離れ、神様の道を歩んでいますか。それは平和へと導く道です。

あなたは、どの道を選びますか。

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イザヤ書

希望のないものをすがる

ある日、私の友人がこう訊きました。「どうしてサタンは戦い続けているのでしょうか。彼はすでに負けたと分かっているはずなのに。なぜ諦めないのでしょうか。」

また、他の人々はこう尋ねます。「どうしてサタンは悔い改めないのでしょうか。彼は悔い改めることができるのでしょうか。」

これは興味深い質問ですが、正直に言えば、私にはその答えが分かりません。

私の考えとしては、サタンは悔い改めることが理論的には可能かもしれませんが、決してそうしないと思います。彼は長い間神様に反抗し続け、その結果、彼の心が固くなりすぎているのだと感じます。

とはいえ、これはサタンだけの問題ではありません。人間もまた、そのような態度を取ることがあります。この箇所では、私たちはそのような態度を見ることができます。

イスラエルの民は神様に背を向けたため、追放されました。(実際にはそれは預言ですが、イザヤはまるでイスラエルの民がすでに追放されたかのように語っています。)

彼らは長い間、偶像を礼拝し続けましたが、その礼拝の虚しさを目の当たりにしても、悔い改めることを拒みました。

イザヤはイスラエルの民について、こう言いました。

あなたは、長い旅に疲れても、「あきらめた」とは言わなかった。あなたは元気を回復し、弱らなかった。

あなたは、だれにおじけ、だれを恐れて、まやかしを言うのか。あなたはわたしを思い出さず、心にも留めなかった。

わたしが久しく、黙っていたので、わたしを恐れないのではないか。(イザヤ書57:10-11)

10節はイザヤ書40:29-31に少し似ています。けれども、イザヤは40章の言葉を少し変えています。

40章では、神様はこう言われました。

主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ書40:31)

この箇所では、残念なことに、イスラエルの民は自分の罪によって疲れ果て、希望のない状況を目の当たりにしても、「諦めた」とは言いませんでした。

それどころか、彼らは自分の罪にしがみつき、それによって元気を回復しようとしました。しかし、最終的に彼らはその罪のために滅びてしまいました。

では、あなたはどうでしょうか。希望がないにもかかわらず、自分の道を歩み続けていますか。

どうか、あなたの心を頑なにせず、自分自身の道を捨てて、神様の道を歩んでください。あなたの道は死へと導きますが、神様の道は命へと導きます。

どの道を選びますか。

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列王記第二 歴代誌第二

決して遅すぎない

「私にはもう遅すぎるでしょう。」

ジョージ・ルーカスは『スター・ウォーズ』がダース・ベイダーの贖いについての物語だと語っています。つまり、ベイダーは悪によって腐敗しましたが、息子の愛によって救われたのです。

『ジェダイの帰還』で、ルーク・スカイウォーカーは父ベイダーにこう願いました。

「あなたの憎しみを捨ててください。皇帝を拒絶して、私と一緒に逃げましょう。」

けれども、ベイダーは悲しく答えました。「私にはもう遅すぎるのです。私は主人に従わなければなりません。」

その後、皇帝はルークを殺そうとしました。ルークはベイダーの助けをもう一度求めました。

ベイダーはその光景を見て心を悩ませましたが、最終的に皇帝を攻撃して倒したのです。こうして、彼はルークだけでなく、自分自身も救ったのです。

この箇所の話も似たような内容です。

マナセはヒゼキヤ王の息子でした。ヒゼキヤは本当に良い王でしたが、マナセは別の道を歩みました。

彼は偶像を礼拝し始め、偶像とその祭壇を主の宮に築きました。さらに霊媒や口寄せに相談し、占いも行いました。

それだけではなく、彼は自分の息子を火の中に通しました。列王記によると、

罪のない者の血まで多量に流し、それがエルサレムの隅々に満ちるほどであった。(列王記第二21:16)

何度も預言者たちはマナセに警告しましたが、マナセは全く耳を貸しませんでした。むしろ、彼はその預言者たちを殺してしまいました。

ユダヤ人の伝承によれば、マナセが預言者イザヤを殺害したとされています。へブル人への手紙11章37節にある「[他の人たちは]のこぎりで引かれ[た]」という表現は、イザヤを指している可能性があります。

そのため、神様はこう言われました。

見よ。わたしはエルサレムとユダにわざわいをもたらす。だれでもそれを聞く者は、二つの耳が鳴るであろう。

わたしは、サマリヤに使った測りなわと、アハブの家に使ったおもりとをエルサレムの上に伸ばし、人が皿をぬぐい、それをぬぐって伏せるように、わたしはエルサレムをぬぐい去ろう。

わたしは、わたしのものである民の残りの者を捨て去り、彼らを敵の手に渡す。

彼らはそのすべての敵のえじきとなり、奪い取られる。

それは、彼らの先祖がエジプトを出た日から今日まで、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの怒りを引き起こしたからである。(列王記第二21:12-15)

そして、アッシリヤ人たちはマナセを鉤で捕らえ、青銅の足かせにつないでバビロンへ引いて行きました。

列王記ではそれ以上の記録はありませんが、歴代誌の記述はもう少し続きます。

バビロンで、マナセはへりくだり、悔い改め、神様を求め始めました。そこで、神様はマナセを赦してくださいました。

そして、マナセはエルサレムに戻り、再びユダの王として立つことができました。

彼は偶像とその祭壇を取り除き、主の祭壇をもう一度築き、その上で和解のいけにえと感謝のいけにえをささげました。

マナセは数々の悪事を行っていました。ユダの王の中でも、彼は本当に酷い王でした。それでもマナセが悔い改めるのは遅すぎることはありませんでした。

神様はマナセのように人々を裁かれますが、多くの場合、神様は長く待った後で裁かれます。神様はマナセを何度も警告し、ついに裁かれたのです。

しかし、私たちが悔い改めると、神様はすぐに赦してくださいます。

悔い改めるのが遅すぎると思うでしょうか。失敗しすぎたから、神様がもうあなたを赦せないと思うでしょうか。

遅すぎることは決してありません。

悔い改めると、神様はあなたのために待つだけでなく、あなたのもとに走り、喜んで歓迎してくださいます。

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歴代誌第二

悔い改めの招き

この箇所の興味深いポイントは、この時代、イスラエル王国とユダ王国がまだ仲が良くなかったということです。

イスラエル王国はすでに崩壊し、多くのイスラエル人が追放されていました。それでも、ヒゼキヤは残ったイスラエル人たちに手を差し伸べました。

ヒゼキヤはこう言いました。

「私たちもあなたがたのように神様に背を向けたため、罰を受けました。でも、今私たちは神様のもとに戻ります。あなたがたも神様に立ち返りませんか。」

この箇所を通して、私たちは人々を悔い改めに招く方法を学ぶことができます。

一つ目は、たとえ相手が私たちを傷つけたとしても、私たちには憐み深い心が必要だということです。私たちは彼らを赦さなくてはなりません。

ヒゼキヤの父アハズの時代には、イスラエル人がアラム人と協力して、ユダ人たちを苦しめていました。(イザヤ書7章)

けれども、アッシリヤがイスラエルを倒したとき、ヒゼキヤは情け深い心を持ち、彼らを神様に立ち返るように招きました。

私たちもそのような心を持つ必要があります。たとえ相手が私たちを傷つけても、私たちは彼らの悔い改めと救いのために祈るべきです。

残念なことですが、多くの場合、私たちは相手の苦しみを見て、手を差し伸べることなく喜んでしまいます。そうしないようにしましょう。

二つ目は私たちのメッセージについてです。救いのメッセージとは何でしょうか。

「神様に戻ってください。あなたがたは神様に背を向けたため、あなたがたの人生はめちゃくちゃになってしまいました。

それでも、神様はあなたがたをまだ愛しておられます。そして、神様のもとに戻るなら、神様はあなたがたを赦し、癒してくださいます。

ですから、悔い改めませんか。」

これが私たちのメッセージです。悔い改めと希望のメッセージです。

最後に覚えておいてください。私たちは人々の反応をコントロールすることはできません。

多くのイスラエル人はヒゼキヤのメッセージを聞いて、彼とその使者たちをからかいました。

しかし、あるイスラエル人たちは遜った心を持ってエルサレムに行き、ユダ人と共に過越の祭りを祝いました。

そして、その祭りの後で、彼らはユダ人たちと共にユダの偶像礼拝の場所を打ち壊しました。

その後、彼らは自分の国に戻り、自分たちの偶像礼拝の場所も打ち壊しました。

ある人々は福音のメッセージを拒絶します。それでも、がっかりしないでください。私たちは彼らの反応をコントロールすることはできません。

他の人々はそのメッセージを聞いて、神様に立ち返ります。ですから、どうか頑張ってください。そのメッセージを伝え続けてください。

神様はイザヤにこう言われました。

雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。

そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。

必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。(イザヤ書55:10-11)

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神様に立ち返る

少し久しぶりに歴史書に戻りましょう。

この箇所では、私たちはユダの素晴らしい王の一人に出会います。彼の名前はヒゼキヤです。

列王記の著者はヒゼキヤについて次のように書いています。

彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。(列王記第二18:18:1-5)

実は、ヒゼキヤの父アハズは酷い模範でした。

しかし、多分ヒゼキヤはイスラエル王国の崩壊を目の当たりにし、預言者ミカやイザヤの警告を聞いたことで、すぐに悔い改め、ユダを再び神様に向ける決意をしたのだと思います。

ヒゼキヤの人生を見ると、私たちがどのように神様に立ち返るべきかが分かると思います。

まず、ヒゼキヤはユダの民が礼拝していた偶像を取り除きました。

その中にはモーセが作った青銅の蛇も含まれていました。この青銅の蛇は、イスラエル人が荒野をさまよった際に、神様が蛇の毒からの癒しの手段として用いられました。

ところが、ユダの民はこの青銅の蛇を偶像として礼拝し始めたため、ヒゼキヤはこの蛇を打ち砕いたのです。

同じように、私たちが神様に戻りたいと願うなら、私たちも自分の偶像を捨てなければなりません。

もちろん、仏教の偶像や仏壇を捨てるべきですが、それだけでなく他の「神々」も捨てる必要があります。例えば、「お金の神」や「持ち物の神」です。

もし何かを神様よりも大切にしているなら、それはあなたの偶像です。

もちろん、文字通りにお金や持ち物を捨てるわけではありません。けれども、すべてに優先して神様を第一にし、大切にしなくてはなりません。

青銅の蛇のように、かつてはあなたの偶像が良いものだったかもしれません。例えば、あなたの趣味です。

ところが、その趣味によって神様との関係が疎かになり、神様のための働きを怠っているのであれば、その趣味をしばらく置いておく必要があるでしょう。

偶像を取り除いた後、ヒゼキヤは神様の宮を掃除し、清めました。

私たちクリスチャンはキリストの宮です。キリストが私たちの内に住んでおられるのですから、その宮を清める必要があります。つまり、偶像を捨てる必要があります。

それと共に、私たちは神様に罪を告白し、悔い改める必要があります。

ヒゼキヤの時代では、罪のためにいけにえを捧げなければなりませんでした。(歴代誌第二29:23-24)

しかし、私たちにとってイエス様こそが最後のいけにえです。イエス様は十字架で死んで、私たちの罰を代わりに受けてくださいました。

そして、イエス様の血が私たちをすべての罪から清めてくださいます。(第一ヨハネ1:7)

ただし、清い心を保つためには、私たちは常に罪を告白し、悔い改める必要があります。

ヨハネは次のように書いています。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

最後に、ヒゼキヤとユダの民は、もう一度自分たち自身を神様に捧げました。彼らは神様にこう言ったのです。

「私たちはあなたのものです。私たちの人生をもう一度あなたに捧げます。」

私たちも同じようにするべきです。

罪に背を向けるだけでは不十分です。神様に向き直らなくてはなりません。

偶像を捨てるだけでは十分ではありません。心を尽くして神様に従わなくてはならないのです。

あなたはクリスチャンであっても、神様から離れてしまったかもしれません。

かつては神様と共に歩んでいたとしても、今は神様から遠ざかっているかもしれません。

それでも、今も神様はあなたを愛しておられ、あなたのために待っておられるのです。

だから、もし神様に戻りたいと願うなら、次のように祈ってください。

イエス様、私はあなたから離れてしまい、自分の道を歩んでいました。どうか赦してください。

あなたの言葉にはこうあります。「もし私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:9)

今、私はあなたに立ち返ります。私の偶像を捨てる助けを与えてください。そして、私の心の王座にもう一度座ってください。

あなたの恵みと憐れみに感謝します。私を決して諦めないことに感謝します。

あなたのみ名によって祈ります。アーメン。

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イザヤ書

神様が沈黙するとき

時々私たちはこの世の悪を見て、「神様はどこにおられるのだろうか」と思います。

「どうして神様は何もされないのだろうか。何かしておられるのだろうか。神様は悪を見て、気になさらないのだろうか。」

この箇所で、神様はそのような方のようです。「あちこちで恐れられている民」また「力の強い、踏みにじる国」を見ると、神様は言われました。

「静まって、わたしの所からながめよう。」(イザヤ書18:4)

しかし、神様はいつまでもそうされません。むしろ、ある日、

「神様」はその枝をかまで切り、そのつるを取り去り、切り除くからだ。

それらはいっしょにして、山々の猛禽や野獣のために投げ捨てられ、猛禽はその上で夏を過ごし、野獣はみな、その上で冬を過ごす。(5-6)

日本語の翻訳では、「人はその枝をかまで切り。。。」と書いてありますけど、ヘブル語では「彼はその枝をかまで切り。。。」と書いてあります。その「彼」とは神様です。

つまり、今神様が何もしておられないと思うかもしれませんが、結局神様がこの世界を裁かれます。その悪い民を裁かれ、神様とその民に反対する人々を裁かれます。

とはいえ、興味深いところもあります。神様はその敵が悔い改めるように働いておられます。

7節によると、神様とその民に反対して恐れられた人々は、神様を王として従い、贈り物をささげます。

だから、ペテロの言葉を思い出すことが大切だと思います。ペテロはこう書きました。

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。

かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。(第二ペテロ3:9-10)

神様の御心はすべての人々が滅びることではなく、むしろ救われることです。ある日、悔い改めない人々は裁かれます。

しかし、神様は彼らの悔い改めのために待っておられ、その日を伸ばしておられます。

神様の民として、私たちはどのように反応するべきでしょうか。

周りの人々の救いのために祈りましょう。彼らが私たちを憎んでも、彼らが私たちが見つけたキリストにあって命を見つけるように祈りましょう。

神様の子供としてそうするべきではないでしょうか。

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列王記第二

不従順、殺人、敗北

イザヤ書から少し休憩して、列王記第二に戻りましょう。

イザヤが書いた時、何が起こっていたのでしょうか。

一言で言うと、北イスラエル王国は滅亡寸前の状態にありました。

ヤロブアム二世王が亡くなると、イスラエルの繁栄はすぐに終わりました。

その後の32~33年間に、イスラエルには5人の王がいました。

一人は6か月治め、次は1か月治め、次は10年治め、さらに次は2年間治め、最後の王は20年間治めました。

つまり、イスラエルは非常に不安定な王国だったのです。

その時代にイスラエルでは三つの重要な出来事が目立ちました。

一つ目は不従順です。

列王記の著者は4人の王のことをほぼ同じ言葉で説明しています。その5人目の王についてはほとんど何も書かれていませんが、おそらく1か月しか治めなかったためでしょう。

けれども、4人の王については、「彼らは主の目の前に悪を行ない、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を離れなかった」と記されています。

つまり、イスラエル人は自分が好きなように神々を礼拝し、神様の律法を拒絶し、自分の目に正しいと見えることを行っていたのです。

その結果、二つ目の出来事が起こります。それは殺人です。

この5人の王のうち4人が暗殺されました。

その中で息子が王となったのはたった一人でしたが、彼も2年間しか治められませんでした。そのため、その「王朝」はわずか12年間しか続きませんでした。

そういう状態だったため、誰も王を尊敬せず、その結果、無政府状態に陥りました。

三つ目の出来事は敗北です。

アッシリヤという国がイスラエルを攻め始めました。

最初に、イスラエルはアッシリヤに貢物を納めなければなりませんでした。しかし、すぐにアッシリヤはイスラエルの町を占領し、その住民をアッシリヤに捕らえ移しました。

私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。

私たちが神様に背を向け、自分の道を行けば、それは混乱と敗北に導くのです。

アメリカはその例の一つです。離婚率や貧困率、犯罪率が高く、暴力や児童虐待の話をよく耳にします。

けれども、日本でもさまざまな問題が見られます。

他国と比べても日本の自殺率は非常に高いです。昨年、日本では2万5千人が自殺しました。また、十代の子供の死因の主な原因も自殺でした。

日本の離婚率はアメリカの半分ほどですが、それでも27%にのぼります。

今年の児童虐待の事例は、昨年より32%も増加しました。

私たちが神様に背を向け、自分の目に正しいと思うことを行っているため、最終的に私たちの社会は深刻な状態に陥っているのです。

その結果、多くの人々は敗北し、打ち砕かれます。彼らの人生は罪によって壊され、闇の国の囚人となってしまうのです。

神様はイザヤにそのようなことについて警告されました。つまり、イスラエル人は神様に対して自分の目と耳を閉じたため、最終的に彼らの人生は滅びることになるのです。(イザヤ6:11-12)

あなたはどうでしょう。あなたも神様に背いて、人生が壊れていると感じてはいないでしょうか。

希望があります。もし神様に向かって悔い改めるなら、神様はあなたを赦し、癒してくださいます。

神様が望むのは、人々が滅びることではなく、命を見つけることです。それは一歩から始まります。

神様、私は自分の道を歩むことをやめます。どうか私の罪を赦してください。私はあなたの道を歩み始めたいのです。私の主となってください。

パウロはこう書いています。

もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10:9)

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アモス書

裁きの時間

アモス1:1によると、アモスはホセア、ヨナ、イザヤの時代に生きていました。また、イスラエルの王ヤロブアム2世とユダの王ウジヤの時代に預言しました。

以前述べたように、その二つの国は物質的には繁栄していましたが、霊的には貧しい状態でした。特にイスラエルがそのような状態にありました。

そこで、神様は羊飼いであったアモスをイスラエルとユダに対する預言者として召されました。けれども、アモスは主にイスラエルに対する預言者でした。

この箇所では、アモスは非常に厳しいことを語りました。ある牧師がいつも地獄と裁きについて説教するように、アモスもそのような説教をしていたのです。彼はこう言いました。

主はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。羊飼いの牧場はかわき、カルメルの頂は枯れる。(アモス書1:2)

アモス1:1によると、アモスはイスラエルの隣国に対して神様の裁きについて伝えました。そして、ユダとイスラエルに対する裁きについても語りました。

最初の裁きはダマスコに対するものでした。アラム人がイスラエルを攻撃したため、アモスは神様がその王を取り除き、その民を捕らえて移されると預言しました。(列王記第二16:9でその預言が成就しました。)

次に、アモスはペリシテ人に対して預言しました。彼らが奴隷売買を行っていたためです。歴代誌第二26:6では、ウジヤ王がペリシテ人と戦い、その預言の一部が成就しました。

次はツロに対する裁きでした。彼らはイスラエルとの同盟を破り、イスラエル人を捕囚の民としてエドムに引き渡したためです。

次に、神様はエドムに裁きを下されました。

エドム人はイスラエルの兄弟のような存在でした。エドムの先祖がエサウであり、エサウはイスラエルの先祖ヤコブの兄弟だったからです。

それでも、エサウが一度ヤコブを殺そうとしたように、エドム人も怒りに駆られてイスラエル人を殺そうとしました。

さらに、神様はアモン人を裁かれました。彼らは自分の領土を広げるために残酷な行為を行っていたためです。

また、神様はモアブ人を裁かれました。彼らはエドムの王を殺し、その骨を焼いたためです。

次に、アモスはユダに対して預言しました。ユダが神様の律法を無視し、偽物の神々を礼拝していたためです。ユダの王ウジヤが神様に従ったにもかかわらず、その民はウジヤの模範に従わなかったようです。(列王記第二15:4)

最後に、アモスはイスラエル人に向かって神様の裁きを伝えました。イスラエル人は偶像を礼拝し、弱い人々を踏みにじり、貧しい人々に正義を与えず、神様のために聖別されたナジル人の誓いを破らせ、預言者たちを黙らせたのです。

だから、アモスは神様の裁きが来ると警告しました。

この箇所を読むと、少ししんどいと感じるかもしれません。

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。二つのことです。

一つ目は、神様の目から何も隠れることはないということです。神様はすべてを見ることがおできになります。

二つ目は、罪のために裁きの日が来るということです。

神様が私たちの罪に気づかない、あるいはそれを気にしていないと思うかもしれません。けれども、神様は私たちの罪に気づいており、それを重要視しています。それゆえ、神様は私たちに警告を与えるのです。

これがアモスの目的でした。アモスは人々に対する裁きを喜んでいたわけではありません。むしろ、彼は彼らが悔い改めることを望んでいました。

だから、私たち自身に問いかけるべき質問は、「神様の警告を聞いて、私は何をするだろうか」ということです。

私たちが悔い改めるなら、神様は私たちを赦してくださいます。しかし、イスラエル人のようにその警告を無視するなら、裁きが来るのです。

「神様が愛だから、私たちの罪を裁かない」と思わないでください。そうすれば、あなたは自分自身を騙すことになります。神様は正義の神であり、罪を裁く必要があるのです。

だからこそ、神様の警告を聞いて悔い改めましょう。そうすることで、神様の赦しを知り、祝福を受けることができるのです。

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ホセア書

悔い改め

悔い改め。

教会ではその言葉をよく耳にするかもしれませんが、教会の外ではほとんど使われることがありません。しかし、悔い改めとは何を意味するのでしょうか。この箇所でホセアはその意味を教えています。彼はイスラエル人にこう言いました。

イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ。

あなたがたはことばを用意して、主に立ち返り、そして言え。「すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます。アッシリヤは私たちを救えません。

私たちはもう、馬にも乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』とは言いません。みなしごが愛されるのはあなたによってだけです。」(ホセア書14:1-3)

悔い改めというのはどういう意味でしょうか。悔い改めとは、神様に立ち返ることです。自分の歩んでいた道を離れ、もう一度神様に従うことを選ぶことです。

また、自分の罪を告白し、神様の赦しを求めることでもあります。さらに、自分が追い求めていたものを捨て、神様こそが必要な存在であると認めることです。そして、悔い改めは、神様の憐れみを切に求めることでもあります。

そのように悔い改めると、神様はどのように反応されるのでしょうか。

わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。わたしはイスラエルには露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張る。

その若枝は伸び、その美しさはオリーブの木のように、そのかおりはレバノンのようになる。

彼らは帰って来て、その陰に住み、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふき、その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。エフライムよ。

もう、わたしは偶像と何のかかわりもない。わたしが答え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得るのだ。(4-8)

つまり、神様が私たちを赦されると、私たちは神様の愛をもう一度深く知るようになります。罪によって涸れた私たちの人生の部分が再び活力を得て、私たちは祝福されるだけでなく、私たちの周りの人々もその祝福にあずかります。

それでは、なぜ私たちはそもそも神様から逃げるのでしょうか。

神様も同じ質問を私たちに投げかけられるかもしれません。そのため、神様はこう言われました。

知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟るがよい。

悟りある者はだれか。その人はそれらを知るがよい。

主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまずく。(9)

私たちが知恵を持って自分の罪を悔い改めることができますように。しかし、それ以上に、私たちが知恵を持って、決して神様の隠れ場から離れることがありませんように。

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ホセア書

言葉が足りない時

私の娘、結実は三歳になると、だんだん正しいことと悪いことが分かるようになりました。そして、彼女は私と妻を試し始めました。

例えば、彼女がリビングテーブルに上ると、私たちは「だめ」と言い、結実はすぐに降りました。けれども、すぐにもう一度テーブルに上りました。

私たちが2ー3回注意した後、結実を自分の部屋に行かせました。彼女が謝ると、出ることを許しましたが、時々、彼女は本気で謝りませんでした。むしろ、彼女は可愛い顔をして、「ごめんなさい」と言いました。

多分、結実は「もし、可愛い顔をすれば許してくれるかな」と思ったのでしょう。

しかし、彼女が正しいことと悪いことを区別できるようになったので、私たちは許しませんでした。彼女はちゃんと謝らなくてはならなかったのです。

神様とイスラエル人の関係も同様でした。時々、彼らは主を求めるふりをしましたが、実際には姦淫の霊が彼らのうちにありました。だから、神様はこう言われました。

彼らは羊の群れ、牛の群れを連れて行き、主を尋ね求めるが、見つけることはない。主は彼らを離れ去ったのだ。(ホセア書5:6)

彼らは神様に対して不忠だったので、神様は彼らを懲らしめられました。そして、彼らはもう一度神様に向かいましたが、彼らの態度は私の娘の態度に似ていました。

彼らは、「ごめんなさい」と言いましたが、本気で言っていなかったのです。

例えば、6章で、イスラエル人はこう言いました。

「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。

私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」(6:1-3)

それは素晴らしい言葉ですが、主の反応を見てください。

エフライムよ。わたしはあなたに何をしようか。ユダよ。わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ。(6:4)

つまり、「そんな美しい言葉を言ったり、私を求め始めたりするけれど、あなたの状態が良くなると、あなたはすぐに私を捨てる。」

そして、神様は言われました。

ユダよ。わたしが、わたしの民の繁栄を元どおりにするとき、あなたのためにも刈り入れが定まっている。わたしがイスラエルをいやすとき、エフライムの不義と、サマリヤの悪とは、あらわにされる。(6:11-7:1)

また、

彼らはわたしに向かって心から叫ばず、ただ、床の上で泣きわめく。(7:14)

また、

彼らは、わたしに向かって、「私の神よ。私たちイスラエルは、あなたを知っている」と叫ぶが、イスラエルは善を拒んだ。。。

彼らは王を立てた。だが、わたしによってではない。彼らは首長を立てた。だが、わたしは知らなかった。彼らは銀と金で自分たちのために偶像を造った。(8:2-4)

また、

エフライムは罪のために多くの祭壇を造ったが、これがかえって罪を犯すための祭壇となった。。。

彼らがわたしにいけにえをささげ、肉を食べても、主はこれを喜ばない。今、主は彼らの不義を覚え、その罪を罰せられる。。。(8:11-13)

多くの人々は敬虔な行動によって神様を感動させようとします。しかし、日常生活で彼らが自分自身のために生きると、神様はその敬虔な行動を受け入れられません。

だから、神様はイスラエル人にこう言われました。

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。(6:6)

また、

サマリヤよ。わたしはあなたの子牛をはねつける。わたしはこれに向かって怒りを燃やす。彼らはいつになれば、罪のない者となれるのか。(8:5)

あなたはどうですか。毎日神様を求めていますか。それとも、ただ神様を求めるふりをしているだけではありませんか。神様を欺くことはできません。神様はあなたの心をご覧になるからです。

だから、心から神様に向かいましょう。そうすれば、主は私たちを癒し、私たちの傷を包み、私たちを生き返らせ、私たちを立ち上がらせてくださいます。

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ヨエル書

本当の悔い改め

時々、人々が「ごめんなさい」と言っても、それが心からの言葉ではないことが分かる場合があります。彼らが本当に謝りたくないために、その謝罪の言葉を彼らの口から引き出さなければならないことがあります。

時には、人は自分が悪いことをしたからといって悲しむのではありません。むしろ、他の人々がその人の悪い行いを知ることに苦しむのです。

この箇所では、神様はそのような問題について語っておられます。2章の最初で、神様は「このいなごの問題はたまたま起こったことではありません。あなたの罪の結果としてこの災害が訪れたのです」と言われました。

そして、神様は続けてこう言われました。

しかし、今、ーー主の御告げーー

心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとを持って、わたしに立ち返れ。あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。

あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。(ヨエル書2:13-14)

「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂きなさい。」

旧約聖書の時代、人々は自分の謙遜さや悲しみを表すために、自分の着物を引き裂きました。

しかし、神様はこう言われました。「そのような上辺だけの悔い改めを望んでいません。私が欲しいのはあなたの心です。私はあなたが心から悔い改めることを望んでいます。」

ダビデはこう書きました。

たとい私がささげても、まことにあなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。

神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51:16-17)

神様はイスラエル人に言われました。「もし、あなたがたが悔い改めるならば、私はあなたがたを癒します。いなごによって受けた被害を回復させます。」

今、わたしは穀物と新しいぶどう酒と油とをあなたがたに送る。あなたがたは、それで満足する。わたしは、二度とあなたがたを、諸国の民の聞いて、そしりとしない。(ヨエル書2:19)

神様は私たちに同じことを語られます。悔い改めるのに決して遅すぎることはありません。私たちが神様に向かうならば、憐み深い神様は、すぐに私たちの罪による傷を癒してくださいます。

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ヨエル書

悪を見るとどう反応するでしょうか

どうして、この世に悪があるのでしょうか。どうして、たくさんの悲劇があるのでしょうか。昔から、人々はこのような質問をしてきました。ヨエル書を見ると、その質問が浮かんできます。いなごの群れがユダに来て、すべての収穫を食べ尽くしてしまいました。

いつヨエルがこの予言を書いたか分かりませんが、多くの学者の意見によれば、ヨアシュが赤ちゃんの時や、若い子どもの時(つまり、すでに王になった時に)ヨエルはこれを書いたかもしれません。

ヨアシュが王になる前にユダには三つの不敬虔な支配者がいました。つまり、ヨラム王、アハズヤ王、アタルヤ女王でした。この三人はユダの民を偶像礼拝に導いたのです。

そして、この悲劇が起こりました。その時、ヨエルはユダの民に神様の言葉を伝えました。ヨエルのメッセージは何だったのでしょうか。

「神様に向かいなさい。霊的な眠りから目を覚まして、悔い改めなさい。」

ヨエルはこう言いました。

酔っぱらいよ。目を覚まして、泣け。すべてぶどう酒を飲む者よ。泣きわめけ。甘いぶどう酒があなたがたの口から断たれたからだ。(ヨエル書1:5)

そして、ヨエルは祭司たちに戒めました。「悔い改めはあなたたちから始まらなければなりません。あなたたちは皆を主に導いてください。」

彼はこう言いました。

祭司たちよ。荒布をまとっていたみ悲しめ。祭壇に仕える者たちよ。泣きわめけ。神に仕える者たちよ。宮に行き、荒布をまとって夜を過ごせ。。。

断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。長老たちとこの国に住むすべての者を、あなたがたの神、主の宮に集め、主に向かって叫べ。(13-14)

なぜヨエルはそのように言ったのでしょうか。

主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。(15)

どうして、この世に悪があるのでしょうか。どうして、地震や津波、台風などがあるのでしょうか。一つの理由は、人々が霊的な眠りから目を覚ますためです。これはノンクリスチャンだけでなく、クリスチャンにとっても重要なことです。

もし、この世に悪がなかったら、すべての人々は楽に生き、彼らの罪のための将来の裁きについて全く考えないでしょう。多くの人々は全く神様について考えないでしょう。

しかし、その裁きは地震よりも、台風よりも、津波よりも、はるかに酷いものです。裁きが来ると、その結果は永遠に続きます。その裁きから逃れることはできません。

これがヨエルのメッセージでした。「目を覚ましなさい。この悲劇は大変だと思いますか。神様からの裁きと比べると、この悲劇は些細なことです。悔い改めなさい。神様にもう一度向かってください。そうしなければ、もっと酷いことが起こります。」

イエス様は同じようなことを癒やされた人に言われました。

「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪いことがあなたの身に起こるから。」(ヨハネ5:14)

つまり、「あなたはずっと苦しんでいました。けれども、悔い改めなければ、もっと大変な苦しみが訪れるでしょう。足が不自由であることよりも、地獄に行くことのほうがはるかに大変です。しかし、悔い改めるならば、足だけでなく、あなたの魂と霊が癒されます。」

あなたは悲劇を見るとどのように反応しますか。悲劇を目の当たりにしたら、神様の前に跪きましょう。ヨアシュの時代に、神様は祭司たちを呼ばれました。

同様に、神様の祭司として、私たちも召されています。ですから、悔い改めましょう。そして、周りの人々のために祈りましょう。彼らを闇の中から神様の驚くべき光の中に招いてください。

神様の光の中で眠らないでください。目を覚まし、周りの人々も起こしましょう。裁きが訪れる前に神様に向かいましょう。