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詩篇108-

神様の慈しみと恵みを心に留める

1節の言葉は詩篇136篇の要約です。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。 (詩篇136:1)

この詩篇はイスラエルに対する神様の慈しみと恵みについてです。しかし、この詩篇を通して、私たちは神様がどんな方であるか分かります。

詩人は詩篇135篇のテーマを続け、神様を神の神と、主の主と呼びます。(2-3)

そして、詩人は神様を創造主として認めます。つまり、神様がご自身の知恵と力によって、天と地とすべてのものを造られたことを認めます。(4-9)

そして、詩人は神様を贖い主として礼拝します。なぜなら、神様はイスラエル人たちをエジプトから救い出し、エジプトの軍隊を打倒し、紅海を二つに分け、イスラエル人たちをその中を通らせたからです。(10-15)

そして、詩人は神様を羊飼いと比べます。イスラエル人たちが砂漠を渡った時に、神様は彼らを導き、彼らのニーズに備えてくださいました。(16-22)

そのあとで、詩人は神様を勇士として礼拝します。なぜなら、神様はイスラエル人たちを約束の地に導いたとき、その敵を倒して、その地を遺産として与えてくださったからです。(17-22)

23-25節では、詩人は神様を恵みと憐みの神として宣言します。

イスラエル人たちが卑しめられたとき、神様は彼らを敵の手から救い出してくださいました。また、神様はイスラエル人たちのニーズだけではなく、すべての人間と動物のニーズに備えてくださいます。

最後に、詩人は神様を天の主として認めます。神様はすべてを治める方です。(26)

以前、私は皮肉の危険について話しました。皮肉に対する武器の一つは感謝の態度です。つまり、私たちは神様がどんな方であるか、また神様が私たちのために何をしてくださったかを覚えるべきです。

時々、私たちはこの世における神様の行いが分からないこともありますが、神様がすべてのことをコントロールしていることを覚えていなくてはなりません。

また、神様がどのように私たちをサタンの国から救い出したかを思い出すべきです。

今でも、神様はこの世で巡礼している私たちを、神様が私たちのために整えた国に導いてくださいます。

また、私たちが霊的な力と戦うときに、神様が私たちの勇士であることを覚えていなくてはなりません。

そして、私たちが転ぶとき、神様が憐れみと恵みを私たちに与えてくださって、私たちを拾い上げてくださることを覚えているべきです。

毎日そのことを思い出しましょう。そのことに焦点を当てましょう。そして希望を持って、詩人のように歌いましょう。

「その恵みはとこしえまで。」

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詩篇108-

神様の恵みを喜ぶ

ダビデは詩篇124篇を書いたのですが、いつ彼が書いたのかは分かりません。多分大きな勝利の後に書いたのでしょう。

その時、ダビデは神様の恵みを喜びました。彼は叫びました。

「もしも主が私たちの味方でなかったなら、私たちは敵に滅ぼされただろう。しかし、神様がその罠を壊してくださったので、私たちは免れました。」(詩篇124:1ー7)

そして、彼は歌います。

私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。(8)

幸いなことに、私は敵にそのように攻撃されたことはありません。けれども、神様が私をサタンの罠から救い出してくださったことに感謝します。私が自分自身を救えなかった時、キリストは私の罪のために死んでくださいました。

なぜ、イエス様は私のために死んでくださったのでしょうか。それは、私を愛しているからです。イエス様は私の味方だからです。

なぜ、イエス様が私を愛して、私を助けたがったのか分かりませんが、そのことに感謝します。

さらに、神様はあなたの味方です。

だからこそ、この詩篇を読むとき、この私たちに豊かに注がれた恵みを忘れないでください。

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詩篇96-

神様の愛とあわれみ

詩篇103篇では、ダビデは神様の愛と憐れみについて歌います。

いつダビデがこの詩篇を書いたかは分かりませんが、多分バテ・シェバとの罪の後かもしれません。

もしかしたら、ダビデはイスラエル人の人数を数えた罪の後に、この詩篇を書いたかもしれません。

とにかく、彼の罪が赦された後に、彼は歌います。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。(詩篇103:1)

私はこの箇所を読むと、イエス様の言葉が思い浮かびます。つまり、多くの罪が赦された人は神様をより多く愛します。(ルカ7:47)

ダビデは、多く赦されたので、彼の神様に対する愛はより大きかったのです。

彼は酷い罪を犯しても赦され、彼の健康が回復され、死から救われました。それに、彼が何回失敗しても、神様は彼に恵みとあわれみとの冠をかぶせてくださいました。(2-4)

そして、ダビデは神様がモーセに何を言われたかを思い出しました。神様はご自身についてこう言われました。

主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。(8)

ダビデはその言葉に加えました。

主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。

私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。

天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。

東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。(9-12)

その言葉が大好きです。

「絶えず争ってはおられない。」

あなたのお父さんやお母さんが、何度もあなたを責めたことがあるかもしれません。彼らがあなたを決してほめず、いつも批判していたかもしれません。だから、あなたは神様もそのような方だと思ってしまうかもしれません。

しかし、神様は絶えず争う方ではありません。

そして、私たちが悔い改めると、神様はご自身の怒りを心の中に持ち続けることはありません。

時々、人々は「あなたを許してあげる」と言いますが、私たちがもう一度失敗したら、彼らは私たちの以前の失敗も思い出させます。

神様はそうなさいません。神様は私たちを赦す時、私たちの罪をもう思い出されません。

それに、神様は私たちの弱さを知っておられるので、私たちをあわれんでくださいます。

神様は人間になられたので、私たちの弱さをよく知っておられます。私たちのようにイエス様は誘惑されましたが、決して罪を犯されませんでした。しかし、その経験によって、私たちの誘惑が分かるようになりました。

だから、私たちは悔い改め、神様を敬うと、神様の恵みは永遠から永遠まで私たちの上にあります。(13-17)

だから、ダビデは天の者と全地の者が神様をほめたたえるように招きます。ダビデも賛美してこう歌いました。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。(22)

主よ、あなたの愛とあわれみを感謝します。私が弱くて、罪を犯しても、あなたが私をまだ愛してくださることを感謝します。あなたは私を争わずに、恵み深い目で見てくださいます。

どうか、その恵みとあわれみを周りの人々にシェアするように助けてください。アーメン。

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詩篇63-

すべての人々が神様を知るように祝福された

この詩篇は、申命記6:24-26の祭司の祝福に似ています。

どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。(詩篇67:1)

私が興味深いと思うのは、その詩人の動機です。

それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。(2)

多くのクリスチャンは自己中心的な理由のために「主よ。私を祝福してください」と祈ります。

しかし、詩人はこのように祈ります。

「主よ、私たちをあわれんでください。祝福してください。なぜなら、周りの人々があなたの恵みと慈しみを見るなら、あなたとの関係を求めるから。そして、私たちだけではなく、彼らもあなたの救いを知ります。」

詩人はその日を楽しみにして、歌います。

神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。

国民が喜び、また、喜び歌いますように。それはあなたが公正をもって国々の民をさばかれ、地の国民を導かれるからです。セラ

神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。(3-5)

詩人は、すべての国民が自分の心を神様に向けることを見るし、もう一つのことを見ます。それは、神様を恐れる人に対する神様の祝福です。

地はその産物を出しました。神、私たちの神が、私たちを祝福してくださいますように。

神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。(6-7)

神様、あなたの恵みを与えてください。主よ、私を引き寄せ、あなたの御顔を私の上に照り輝かせてくださるように。そして、私の周りの人々が私を見る時、彼らはあなたを見て、あなたに近づくように。

あなたの光が私を通して輝くように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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詩篇18-

恵みによって、神様の御前に聖いもの

もう一度、ダビデがいつこの詩篇を書いたか知りたいです。

サウルから逃げた時に詩篇26篇を書いたのでしょうか。もしくは、アブサロムから逃げた時にこの詩篇を書いたのでしょうか。それとも、他の時にこの詩篇を書いたのでしょうか。

ダビデの言葉を見ると、多くの人々は彼がサウルから逃げた時にこの詩篇を書いたと思うでしょう。なぜなら、彼はこう書いたからです。

私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを。

主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

あなたの恵みが私の目の前にあり、私はあなたの真理のうちを歩み続けました。(詩篇26:1-3)

ウリヤとバテ・シェバの事件の後、ダビデはその言葉を書くことができたでしょうか。その事件の前、つまり、サウルから逃げた時、その言葉はもっと言いやすかっただろうと思います。

てはいえ、ダビデはバテ・シェバとの罪の後で、この詩篇を書いたかもしれません。

けれども、その罪の後で、どうしてダビデはそんな言葉が言えたのでしょうか。彼は本当に酷い罪を犯しました。

なぜなら、彼は神様の赦しの深さをよく理解していたからです。つまり、神様の赦しとあわれみによって、ダビデは雪よりも白くなりました。神様は彼の罪を本当に除いて清めてくださいました。(詩篇51)

だから、彼が「私は誠実に歩む」と言う時、その意味は彼が決して罪を犯していないという事ではありません。むしろ、神様が彼の罪を除いて清めてくださったことによって、ダビデはその言葉を言うことができました。(エレミヤ書31:34)

神様のあわれみによって、ダビデは正しい道に戻りました。また、彼は神様が計画された通りにもう一度生きはじめました。だから、ダビデは神様をほめたたえました。

主よ。私は手を洗ってきよくし、あなたの祭壇の回りを歩きましょう。

感謝の声を聞こえさせ、あなたの奇しいみわざを余すことなく、語り告げましょう。(6-7)

また確信を持って、彼は言いました。

私の足は平らな所に立っています。(12)

時々、私たちは振り返って自分の失敗を思い出します。私たちの罪を思い出します。そして、サタンは私たちを責めます。「ほら、あなたは絶対だめです。あなたの人生は本当にめちゃくちゃになった。」

けれども、その時、私たちは恥ずかしがらずにサタンにこう言えるのです。

「それはそうです。しかし、神様が私の罪を赦してくださり、神様はもうその罪を思い出されません。神様が私を責められないので、あなたには私を責める権利がありません。

だから黙って、出ていきなさい。私は神様の子です。私はもう赦されました。また、神様の目には私は聖い者です。」

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マラキ書

神様の愛を疑う

マラキ書は旧約聖書におけるイスラエルの歴史の締めくくりとなる書です。

以前述べたように、マラキ書が正確にいつ書かれたのかは明確ではありません。けれども、主の宮が建て直された後に書かれたものと考えられます。したがって、おそらくマラキ書はエズラとネヘミヤの時代に記されたものでしょう。

エズラ記とネヘミヤ記を通して、私たちはイスラエルの民が直面していた多くの問題を読みました。特に、ネヘミヤ記13章では彼らの抱えていたさまざまな問題が詳しく描かれています。

マラキも、これらの問題についてイスラエルの民を責めました。

その冒頭で、神様は非常に印象的な言葉を語られます。

わたしはあなたがたを愛している。(マラキ書1:2)

私たちの多くは愛を求めています。残念なことに、多くの人々はその愛を決して見つけることができません。

しかし、もし神様を求めるならば、それはただの愛ではなく、永遠に続く絶えることのない愛を見つけることができるでしょう。

わたしはあなたがたを愛している。

あなたがどんな苦しみを抱えていても、どんな罪を犯していても、どんな失敗をしていても、神様の愛は決して変わることはありません。

神様は過去においてもあなたを愛しておられました。

現在も、神様はあなたを愛しておられます。

そして、これからも永遠に、神様はあなたを愛し続けられるのです。

けれども、イスラエルの民はそのことを理解していませんでした。そのため、彼らは皮肉っぽく答えたのです。

どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。(2)

どうして、彼らはその質問をしたのでしょうか。それは、神様が彼らをご自身の国に導いたにもかかわらず、彼らの人生はまだ上手くいっていなかったからです。

ペルシャ帝国が依然としてイスラエルを支配しており、イスラエルの地はあまり繁栄していませんでした。彼らの作物の収穫は乏しく、日々の生活は余裕のない厳しいものでした。

私たちもどれほど神様の愛を疑うでしょうか。

「もしあなたが私を愛しておられるなら、なぜ私はこんなにも苦しまなければならないのでしょう。もしあなたが私を愛しておられるなら、なぜ私の人生はこんなにみじめなのでしょう。」

しかし、神様はご自身の愛を証明するために、イスラエルの民、そして私たちにこう言われます。

エサウはヤコブの兄ではなかったか。――主の御告げ――わたしはヤコブを愛した。わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の継いだ地を荒野のジャッカルのものとした。(2-3)

「エサウを憎み」というのはどういう意味でしょうか。神様が本当にエサウを憎んだのでしょうか。そうではありません。実際、神様はエサウを祝福されました。(創世記33:9)

とはいえ、神様がイエス様をこの世に送る計画を考えると、神様がエサウの家系ではなく、ヤコブの家系を選び、エサウの家系を断絶したことがわかります。

では、なぜでしょうか。ヤコブがエサウよりも良い人だったからでしょうか。

違います。実は、ヤコブは若い頃、詐欺師のような生き方をしていました。彼は神様の道を歩まず、自分勝手な道を選びました。(創世記25:27)

そして、その結果として悪い決断を重ね、自分の家を追われることになりました。

その時、神様はご自身をヤコブに現されました。それにもかかわらず、ヤコブは神様に自分の人生を捧げることをせず、神様と交渉しようとしたのです。(創世記28:20-22)

ヤコブは長い間、そのような生き方を続けました。それでも神様はヤコブを選び、愛し、彼の人生に働きかけ続けられました。

同じように、神様はイスラエルの民を愛されました。たとえ彼らが神様に不実であり、自分勝手な道を歩んでも、神様は彼らを愛し続けられました。

当然ながら、神様は彼らを懲らしめられました。そのため、彼らはバビロンに追放されました。けれども、彼らが破滅に値していたにもかかわらず、神様は彼らを憐れまれました。

一方、エサウの子孫も罪を犯し、破滅に値していました。しかし、エサウの子孫の場合、神様は彼らに彼らが値するものを与えました。すなわち、荒れ果てた地を与えられました。

神様が言われたのは次のようなことです。

「あなたに対する私の愛の証明を見たいのか。私はエサウの子孫には彼らが値したものを与えた。その一方、あなたには値するものを与えなかった。むしろ、あなたが値しない恵みを与えたのだ。」

私たちが神様の愛を疑う時、神様は同じことを言われます。私たちは神様の愛に値せず、また赦しにも値しません。しかし、神様は私たちが値しないにもかかわらず、イエス様を送り、私たちの罪のために死んでくださいました。

だから今、神様は私たちにこう語られます。「私はあなたを選んだ。私はあなたを救った。私は決してあなたを見捨てない。」

これが恵みです。これこそが神様の愛です。

パウロはこう言いました。

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ[た]。(エペソ1:4-8)

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ネヘミヤ記

私たちの不実さ、神様の恵み

この箇所では、ユダヤ人たちは神様の前に来て、自分の罪を告白しました。その祈りには、彼らの不実さと神様の恵みが表れています。

その祈りの初めに、彼らは神様が世を造られたことを思い出し、また、神様が新しい国を始めるためにアブラハムを選ばれたことを思い出しました。

そして、彼らは先祖がエジプトで奴隷だったけれど、神様が彼らを救い出してくださり、砂漠で導かれたことを思い出しました。

砂漠で、神様はいろいろな奇跡を行われましたが、その先祖たちはエジプトに戻りたがっていました。それに、本当の神様を礼拝せずに、彼らは偶像を作り、その偶像を神と呼びました。

それでも、神様は彼らに恵みを与えてくださいました。つまり、神様は彼らに水とパンを与えてくださり、彼らを導き続けられました。

そして、神様は先祖を素晴らしい土地カナンに導かれました。けれども、彼らは再び神様に背を向け、神様の預言者たちを殺し、偶像を礼拝しました。

だから、神様は彼らを敵に渡されました。しかし、彼らが苦しんで悔い改めると、神様は恵みによって彼らを救い出されました。ところが、彼らはすぐに自分の罪に戻り、結局バビロンに追放されました。

だから、ユダヤ人はこう祈りました。

「ご覧ください。私たちは今、奴隷です。あなたが私たちの先祖に与えて、その実りと、その良い物を食べるようにされたこの地で、ご覧ください、私たちは奴隷です。

私たちが罪を犯したので、あなたは私たちの上に王たちを立てられましたが、その王たちのために、この地は多くの収穫を与えています。

彼らは私たちのからだと、私たちの家畜を思いどおりに支配しております。それで私たちは非常な苦しみの中におります。」(ネヘミヤ記9:36-37)

彼らは悔い改めた心を持って、もう一度、神様の民として神様と契約を結びたいと願いました。彼らはこう言いました。

これらすべてのことのゆえに、私たちは堅い盟約を結び、それを書きしるした。そして、私たちのつかさたち、レビ人たち、祭司たちはそれに印を押した。(38)

私はこの話を読んだ時、神様の恵みは本当に不思議なものだと思いました。もし私が神様だったら、きっと彼らを諦めていたと思います。けれども、神様は決してそうされませんでした。

それに、神様はご自身が呼ばれた私たちを決して諦められません。

そのことを考えると、私は本当に嬉しくなります。なぜなら、イスラエル人のように、私は不実だからです。私の罪によって私は倒れることがありますし、私の心を堅くして、いろいろな悪いことをしてしまいます。

しかし、私は不実であるにもかかわらず、神様はいつも忠実な方です。また、神様は決して私を諦められません。そのことを心から感謝します。

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ゼカリヤ書

清められた

この箇所では、ゼカリヤはユダヤ人の悔い改めについてさらに詳しく話します。つまり、最後の日、神様の恵みによって、そして、イスラエル人が約2000年前に十字架に付けられたイエス様の血によって、彼らの罪は清められます。

その日、すべての偶像と偽の預言者たちはイスラエルから取り除かれます。こうして、イスラエルは神様のために本当に聖い国となります。

しかし、その前に、良い牧者は打ち殺されなければならず、その羊は散らされなければなりませんでした。

だから、イエス様は敵に捕らえられた時、彼の弟子たちは逃げ去りました。イエス様はあざけられ、鞭で打たれ、兵士たちの手で殴られ、そして十字架で殺されました。

ユダヤ人は自分の救い主を拒絶したため、神様は彼らを罰し、その国は滅ぼされました。

それでも、神様はご自分の恵みを彼らの上に注がれます。多くのユダヤ人が命を落としても、救い主イエス様に従うユダヤ人は残ります。神様は彼らについてこう言われます。

わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。

彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「これはわたしの民」と言い、彼らは「主は私の神」と言う。(ゼカリヤ書13:9)

神様は私たちが試練を経験しないと約束されたわけではありません。実は、イエス様はこう言われました。

あなたがたは、世にあっては患難があります。(ヨハネ16:33)

しかし、その試練を通して、神様は私たちを練り、清めてくださいます。そして、私たちが神様を呼ぶ時、神様は応えてくださいます。

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ゼカリヤ書

私たちの目が開かれるように

この箇所で、私たちはイスラエルの将来を少し見ることができます。

あるクリスチャンは、神様がイスラエルをもう捨てられたのだと思っています。つまり、神様の全ての約束はイスラエルのためではなく、教会のためだというのです。

けれども、その考え方は間違っていると思います。パウロはイスラエルについてこう書きました。

彼らは。。。選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。(ローマ11:28-29)

そして、ゼカリヤの預言によれば、ある日、神様はイスラエル人の目を開けてくださいます。

最後の日、周りの国々はイスラエルを滅ぼそうとし、エルサレムを攻撃します。しかし、神様はこう言われました。

わたしはエルサレムを、その回りのすべての国々の民をよろめかす杯とする。。。

その日、わたしはエルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする。すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける。。。(ゼカリヤ書12:2-3)

イスラエル人が、神様が自分たちを守っていることを目の当たりにするとき、彼らはこう言うでしょう。

エルサレムの住民の力は彼らの神、万軍の主にある、と。(5)

そして、彼らが神様の救いを見るとき、もう一つのことが分かるようになります。つまり、彼らが待ち望んでいた救い主は、すでに来ていたということです。けれども、約2000年前に、彼らは自分たちの手でその救い主を殺してしまいました。

わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。

彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。(10)

その日、すべてのイスラエル人はイエス様をメシアとして、つまり救い主として認めます。そして、すべてのイスラエル人は救われます。(ローマ11:26)

この箇所を読むと、神様の恵みの不思議さに心を打たれます。イスラエル人が神様を求めなくても、(もしくは間違った場所で神様を求めても)、彼らは神様を見つけます。

なぜでしょうか。彼らは神様の愛に値しているわけではなく、他の国民よりも優れているわけでもありません。むしろ、神様の愛と憐れみによって、彼らは神様を見つけ、救われます。

同じように、私たちの霊的な目が開かれ、私たちが悔い改めるために、神様は恵みと哀願の霊を私たちの上に注いでくださいます。そして、私たちが救い主イエス様を見るとき、ユダヤ人と同じように私たちも救われます。

おどろくばかりの神の恵み。
なんて麗しい響きでしょう。

神のすばらしい恵みによって、
こんな惨めな私が救われたのです。

かつて、私は迷って混乱していましたが、
神様は私を見つけてくださいました。

かつて、私は何も見えませんでしたが、
今、私には見えるのです。

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ゼカリヤ書

全ての祝福は神様から来る

この箇所では、ゼカリヤはイスラエルの救いについて話し続けます。しかし、この箇所を読むと、この言葉は私の心を打ちます。

主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる。(ゼカリヤ書10:1)

わたしは雄やぎを罰しよう。万軍の主はご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場のすばらしい馬のようにされる。(3)

わたしはユダの家を強め、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを連れ戻す。(6)

わたしは彼らに合図して、彼らを集める。わたしが彼らを贖ったからだ。(8)

彼らの力は主にあり、彼らは主の名によって歩き回る。――主の御告げ―― (12)

つまり、私たちの祝福のすべては神様から来ます。

神様から雨や作物が来ます。(1)

神様は悪いリーダー(つまり、雄やぎ)を罰し、ご自分の民を世話してくださいます。(3)

神様は私たちを強め、救い、癒してくださいます。私たちが呼ぶ時、神様は応えてくださいます。(6)

神様は私たちを呼び、集め、贖ってくださいます。(8)

神様の力と名前によって、私たちはこの世に恐れずに歩き回ることができます。(12)

どうして、神様は私たちをそのように祝福してくださるのでしょうか。私たちが良い人だからでしょうか。違います。神様の恵みによって、祝福してくださいます。

私たちのすべては、神様から来ます。私たちのすべては神様の恵みによって与えられたのです。

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エレミヤ45ー 列王記第二

恵み

今日、エレミヤ書と列王記を終えます。

この話はエホヤキン王についてです。彼はユダの最後から二番目の王でした。彼はわずか3か月間だけユダを治めました。その後、彼はネブカデネザルによってバビロンに追放されました。

けれども、それでエホヤキンの話が終わったわけではありません。

ユダの王エホヤキンが捕らえ移されて三十七年目の第十二の月の二十五日に、バビロンの王エビル・メロダクは、彼が即位した年のうちに、ユダの王エホヤキンを釈放し、獄屋から出し、彼に優しいことばをかけ、彼の位をバビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くした。

彼は囚人の服を着替え、その一生の間、いつも王の前で食事をした。

彼の生活費は、死ぬ日までその一生の間、日々の分をいつもバビロンの王から支給されていた。(エレミヤ書52:31-34)

どうして、神様は私たちにこの話を伝えられたのでしょうか。どうして、突然バビロンの王はエホヤキンに親切にしたのでしょうか。

聖書では、その理由が全く書かれていません。

しかし、ユダヤ教の伝承によれば、エホヤキンはバビロンで悔い改めたので、神様はネブカデネザルの息子(エビル・メロダク)の心に働きかけ、彼がエホヤキンに親切にし始めました。

その伝承が本当かどうかは分かりません。けれども、おそらくこの話は神様の恵みの象徴です。この話を読むと、私は神様が私たちのために何をしてくださったかを思い出します。

エホヤキンはバビロンの王のために何もしていなかったのに、その王は彼を解放し、親切な言葉をかけ、新しい衣を与え、共に食事をし、彼の位を高めました。

神様は私たちのために同じことをしてくださいました。

私たちが神様のために何もしていなかったのに、神様の恵みとあわれみによって、神様は私たちを救ってくださいました。

神様は私たちの罪を赦し、罪と死の鎖を解き、私たちに親切な言葉をかけ、キリストの義を着せてくださいました。

そして、いつの日か私たちは神様の食卓で共に食事をし、栄光の冠をいただくでしょう。

それが恵みです。

興味深いのは、第12の月の25日にエホヤキンの許しが公表されたということです。(おそらくわずか2日後に彼は牢から解放されました。(列王記第二25:27))

私は真剣に言っているわけではありませんが、神様は将来の出来事を知っておられ、人々がイエス様の誕生を12月25日に祝うことを知っておられました。

そのため、エホヤキンの赦しは、私たちの赦しの象徴であるとも言えるかもしれません。

メリークリスマス、エホヤキン!

…多分そうではありません。それを無視してください。

とにかく、大切なのは、私たちが受けたすべての祝福は、ただ神様の恵みによるものだということです。

それを心に留めておきましょう。

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エレミヤ25ー

新しい契約

これは私のお気に入りの箇所の一つです。

エゼキエルのように、エレミヤはイスラエル人がよく引用していたことわざについて話します。

父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。(エレミヤ書31:29)

つまり、「私たちは悪いことを全然しなかった。私たちは先祖の罪のために苦しんでいる。それは不公平だ。」

しかし、神様は彼らに言われました。「あなたの先祖の罪のために苦しまない。自分自身の罪のために苦しむのです。」

けれども、この箇所は、裁きよりも、神様の憐みに焦点を当てています。神様は彼らにこう言われました。

見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。

かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。――主の御告げ――(27-28)

そして、神様は将来設立される新しい契約について話されます。

見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。

その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。

わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ――

彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ――

わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

そのようにして、人々はもはや、 『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ――

わたしは彼ら の咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミヤ書31:31-34)

この契約はキリストによって成就しました。以前の契約と新しい契約の違いは何でしょうか。

主な違いは、以前の契約は双方向の契約だったということです。新しい契約は一方的な契約です。

以前の契約では、イスラエル人が神様の命令に従うと、神様は彼らを祝福すると約束されました。

しかし、彼らがその命令に従わないと、彼らは呪われました。結局、彼らが何回もその契約を破ったので、彼らは呪われたのです。

けれども、新しい契約は全然違います。その契約は私たちの行動によるものではありません。むしろ、その契約は神様の行動に基づいています。

だから、私たちが自分の心を変えることができなくても、神様は私たちの心を変えてくださると約束されました。

つまり、神様は私たちの心にご自身の律法を置き、神様に従う心を与えてくださると約束されたのです。

もう一つの違いがあります。それは、皆が神様のみもとに近づくことができるようになったことです。

私たちはもう人間の祭司や仲介者を必要としません。むしろ、私たちは神様と直接話すことができます。また、私たちの罪の代価が支払われ、私たちの罪が赦されたので、神様はその罪をもう思い出されません。

それが新しい契約です。また、それは、私たちが宣べ伝える良い知らせです。

私たちは神様の好意を得るために働く必要がありません。むしろ、恵みによって、私たちはその好意を受け取ります。

神様が私たちを既に受け入れてくださったので、私たちは神様の前でリラックスすることができます。

とはいえ、その恵みを当然のものと思わないでください。毎日、その素晴らしい賜物に感謝しましょう。

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エゼキエル書

優しい方

時々、私たちが旧約聖書を読むと、神様を非常に厳しい方だと思うことがあります。また、私たちが失敗すると、神様はすぐに怒り、私たちを罰するのではないかと感じるかもしれません。

しかし、この箇所では、神様はいつか来られる優しい方について語っておられます。神様はこう言われました。

神である主はこう仰せられる。「わたしは、高い杉のこずえを取り、そのうちから、柔らかい若枝の先を摘み取り、わたしはみずからそれを、高くてりっぱな山に植える。

わたしがそれをイスラエルの高い山に植えると、それは枝を伸ばし、実を結び、みごとな杉の木となり、その下にはあらゆる種類の鳥が住みつき、その枝の陰に宿る。

このとき、野のすべての木は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知るようになる。

主であるわたしが語り、わたしが行なう。」(エゼキエル書17:22-24)

この預言には二つの成就があると考えられます。

一つ目の成就は、エホヤキンの孫であるゼルバベルの人生に見られます。

ゼルバベル(柔らかい若枝とも呼ばれる)と大祭司ヨシュアは、追放されていたイスラエル人たちをバビロンからエルサレムへ導きました。

(この時、イスラエル人全員が帰還したわけではありませんが、ゼルバベルとヨシュアは最初のグループを導きました。)

その後、ゼルバベルはユダの総督に任命されました。

神様の恵みによって枯れ木のようであったイスラエルは徐々に復活しました。一方、緑の木であったバビロンはメド・ペルシャ帝国によって低くされました。

とはいえ、二つ目の成就はイエス・キリストの人生に見られます。この箇所はイザヤ書53章の記述に似ています。

彼(つまり、イエス様)は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。(イザヤ53:2)

イエス様は高貴な家庭で育ったのではありません。彼は小さな町ベツレヘムで生まれ、普通の町ナザレで成長されました。

実際、多くの人々はナザレの人々を見下していました。また、イエス様の父親は貧しい大工であるヨセフでした。

その後、イエス様は十字架で死なれました。その時代において、十字架による死は最も恥ずかしく、残酷な死に方とされていました。

しかし、その後、イエス様はよみがえられました。そして、

それゆえ神は、この方(つまり、イエス様)を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:9-11)

この箇所には、「柔らかい枝」という表現が書かれています。

ヘブル語で「柔らかい」という言葉は、「優しい」とも翻訳できます。(例えば、申命記28:54)

そのため、この「柔らかい枝」は優しい方を指しています。そして、イエス様の恵みの翼の下に宿ることができるのです。

私たちの人生が枯れてしまった時、イエス様は命の水を与えてくださり、私たちをもう一度栄えるようにしてくださいます。

ですから、神様があなたに怒り、あなたを諦めたと思う時には、イエス様を心に留めておきましょう。

神様は私たちが神様の愛と恵みを知ることができるように、この優しい方であるイエス様をこの世に送りました。そして、イエス様の十字架の働きによって、私たちの壊れた人生は癒されるのです。

その真理を心に留めておきましょう。

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イザヤ書

差別のない救い

旧約聖書の時代、主の宮での礼拝は非常に排他的でした。そのことは、モーセ五書(創世記から申命記まで)に詳しく記されています。

例えば、祭司だけが宮の聖所に入ることができ、大祭司だけが至聖所に入ることを許されていました。しかも、大祭司が至聖所に入るのは、年に一度だけでした。

さらに、他にも厳しいルールがありました。たとえば、もし祭司たちが睾丸を損傷していたり、身体に欠陥があれば、聖所や至聖所に入ることはできませんでした(レビ記21:16-24)。

また、旧約聖書と新約聖書の時代には、宮の中で女性や外国人が立ち入ることのできない区画も存在しました。

しかし、この箇所では、神様が「ある日、そのような差別は終わる」と約束されています。神様はこう宣言されました。

主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。

宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。

まことに主はこう仰せられる。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。

また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。

彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。(イザヤ書56:3-7)

つまり、どんな人であっても、神様を求めるならば、神様はその人を受け入れてくださいます。

神様の目には、誰も二流市民などではありません。ユダヤ人でも、アメリカ人でも、日本人でも、神様はあなたを愛する子として迎え入れてくださいます。

パウロはこう書きました。

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。

ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ3:26-28)

神様の国で、あなたが二流市民だと感じることがあるでしょうか。

心に留めておきましょう。たとえあなたが誰であっても、過去に何をしていたとしても、神様の目には二流市民など存在しません。

人種や性別、またはこれまでの履歴に関係なく、神様はあなたに恵みを注いでくださいます。ですから、その真理の中で安心しましょう。

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創世記

神様のさばき

こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、また全ての人も死に絶えた。

命の息を吹き込まれたもので、 かわいた地の上にいたものはみな死んだ。

こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥にいたるまで消し去った。それらは、地 から消し去られた。

ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。(創世記 7:21-23)

上の言葉は本当に切ないですね。

多くの人々は尋ねます。「どうして神様はそのような恐ろしいことをされたのでしょうか。どうして神様は地上のすべての生き物を滅ぼされたのでしょうか。」

旧約聖書では、神様は人々を裁かれ、時にはある民族を完全に滅ぼされることもありました。そのため、ある人々は言います。

「旧約聖書の神様はあまり好きではありません。その神様は本当にひどい方ですから。新約聖書の神様の方が好きです。その神様は愛の神、恵み深い神ですから。」

けれども、そのような考え方は間違っています。旧約聖書にも神様の恵みと愛がはっきりと現れています。

そして、新約聖書にも神様の裁きがはっきりと現れています。特に、黙示録にその裁きが記されています。

どうして神様は人々を裁かなくてはならないのでしょうか。

多くの人々は神様について二つの誤解を持っていると思います。

一つ目は、神様は愛の神でしかないという考えです。

だから彼らは尋ねます。「どうして愛の神様はそのようなことをされるのですか。」

しかし、その人たちが知らないのは、神様が聖なる方であるということです。神様は罪を見過ごすことができません。また、神様は正義の神です。神様は永遠に罪を容認することはできません。

いつか神様は罪を罰しなければなりません。もしそうしなければ、神様はもはや正義の神ではないからです。

もう一つの誤解は、神様が裁きを喜んでいるということです。けれども、その考え方も間違っています。神様は預言者エゼキエルを通してこう言われました。

私は悪者の死を喜ぶだろうか。神である主の御告げ。かれがその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。(エゼキエル書18:23)

また、

彼らにこう言え。「私は誓って言う。神である主の御告げ。私は決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。

悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。(エゼキエル書33:11)

真理は、神様が正義の方であると同時に、忍耐強い神であるということです。

時々、神様の正義に文句を言う人が、神様の忍耐を見て苛立ち、こう言います。

「神様が正義の方であるならば、なぜこれほど多くの悪が存在しているのですか?悪い人が罰せられずに、栄えているように見えます。」

けれども、そのようなことを言う人々は、自分自身の罪にはほとんど気づいていません。

聖書によれば、すべての人々は罪を犯します。もし今、神様がすべての罪人を裁くとしたら、誰も生き残ることはできないでしょう。

でも、神様は忍耐強い方です。この世の歴史の中で、神様の裁きが来る前に、神様はいつも大いなる忍耐を示されます。人々を裁く前に、神様は必ず悔い改める機会を与えてくださいます。

ノアを通して、神様は差し迫った裁きについて繰り返し警告されました。しかし、誰も悔い改めなかったため、神様は大洪水を送られました。

カナンの民を裁く前に、神様は約400年を待たれました(創世記15:16)。

イスラエルの民が罪を犯したとき、神様は多くの預言者を遣わして警告されました。

そして、今、神様は私たちにこう言われます。

まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざけるものどもがやってきてあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょ う。

「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

こう言い張る彼らは次のことを 見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神の言葉によって水から出て、水によってなったのであって、当時の世界は、その水により、洪水に覆われて滅びました。

しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

しかし、 愛する人達。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておれるのではありません。

かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、一人でも滅びる事を望まず、すべての人が悔い改めに進む事を望んでおられるのです。(第二ペテロ3:3-9)

もちろん神様は愛の神です。けれども、神様は正義の神でもあります。

もちろん神様は正義の神です。けれども、神様は忍耐強い神でもあり、すべての人が救われることを望んでおられるのです。

もちろん神様は忍耐強い神です。けれども、その忍耐は永遠に続くものではありません。

だから、イエス様の言葉を心に留めておきましょう。

人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。

洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。

そして、洪水が来てすべてのものをさらってしまうまで、彼らは分からなかったのです。

人の子が来るのも、そのとおりです。

その時、畑に二人いると、一人は取られ、一人は残されます。二人の女が臼を引いていると、一人は取られ、一人は残されます。

だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつこられるか、知らないからです。(マタイ24:37-42)