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リーダーとは。。。

リーダーとは何ですか。この箇所で、リーダーについて学ぶことができると思います。

アグルはこう書きました。

歩きぶりの堂々としているものが三つある。いや、その歩みの堂々としているものが四つある。

獣のうちで最も強く、何ものからも退かない雄獅子、いばって歩くおんどりと、雄やぎ、軍隊を率いる王である。(箴言30:29-31)

1.リーダーは、ライオンのようにどんな状態に直面しても挑戦します。

ある人は自信がありそうですが、問題が出てくると、彼らは逃げて、その問題をたらい回しにします。

真のリーダーは自信を持って進みます。なぜなら、彼らは自分自身を信頼するよりも、神様を信頼するからです。そして、神様が彼らと共におられる確信があります。

サウルとダビデの話を読むと、その違いが分かると思います。

ゴリヤテという勇士がイスラエルの軍隊に挑戦を表明し、「誰が私と戦う勇気があるでしょうか」と叫んだとき、多分イスラエル人はサウルを見ました。なぜなら、彼は王であり、イスラエル人の中で最も大きな人だったからです。

けれども、サウルはどうしましたか。彼は自分の宮殿に隠れ、ゴリヤテと戦う責任を取る人に報酬を提供しました。

しかし、ダビデは立ち上がってゴリヤテと戦いました。彼の理由は何でしたか。

獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。(第一サムエル17:37)

神様はダビデと共におられたので、ダビデはゴリヤテを殺しました。

2.リーダーは目を覚まし、挑戦に直面するために、自分の心を準備します。

では、「いばって歩くおんどり」との関係は何でしょうか。私は分かりませんが、実は、そのヘブル語のフレーズの意味はちょっと微妙です。

文字通りに、その意味は走る時に自分のローブの裾をちょっと持ち上げることです。

多くの翻訳は「いばって歩くおんどり」と書いてありますが、ある解説者たちによれば、その意味が「鎧を着る勇士」や「バーディング(つまり、馬のための鎧)を着る軍馬」ということです。

この箇所では、いろんな方法で解釈できますが、私はこの箇所を読むと、ペテロの言葉を思い出します。

ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。(第一ペテロ1:13)

キリストがいつかこの世に戻るので、イエス様が私たちに命じられることを果たすために、私たちは自分の心を準備しなくてはなりません。

3.リーダーは人々を導きます。

それは当たり前のことでしょう。雄やぎが他のやぎの先に行くように、リーダーたちも神様の導きに従って、神様の民を導くべきです。

4.リーダーの後ろには、ついて行っている人がいます。

それも当たり前のことですが、多くの人々はそのことについて考えません。私のハワイの牧師はいつもこう言いました。

「もし、人々がある人についていくなら、その人はリーダーです。彼らはリーダーとして自分自身を考えないかもしれないし、自分が資格がないと思うかもしれないけど、彼らはリーダーです。」

誰もあなたについていかないなら、あなたはリーダーではありません。けれども、軍隊が戦争に王に従うように、人々があなたについて行き、あなたを信頼したら、あなたたちはすごいことを達成できます。

しかし、アグルは悪いリーダーについて警告します。彼らは高ぶって愚かなことをよくします。彼らは人々を見下し、自分の力を乱用します。

彼らは真のリーダーではありません。たとえその立場があっても、自分の行動によって怒りをかき回してしまいます。だから最終的に、彼らについて行く人は、すべていなくなります。

あなたはどうですか。あなたはどんなリーダーでしょうか。

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箴言

小さいものや、弱いものから学ぶ

私たちが小さいものや弱いものを見下すのは簡単なことです。でも、アグルはそうしませんでした。彼は動物を四匹見て、知恵を獲得しました。

アリを見て、アグルは将来のためにちゃんと計画することを学びました。

アリが頑張って夏の時に食糧を確保するので、冬が来たら心配がありません。

多くの人々には、そんな知恵がありません。彼らは自分の快楽のためにお金を全部使ってしまうので、トラブル(例えば、不景気や一時解雇など)が不意に来ると、本当に困ってしまいます。

岩だぬきから、アグルは自分の弱さを認め、安全な所を見つけることを学びました。

岩だぬきは敵から自分自身を守ることができないので、敵が来れない岩間に巣を作ります。

そのように、私たちも弱いです。自分の力で、私たちの魂の敵サタンと戦うことができません。

だから、私たちの及びがたいほど高い岩の上に行って、神様を私たちの避けどころにするべきです。(詩篇61:2-3)

神様の力によって、私たちは生き残るだけでなく、サタンの攻撃を乗り越えられます。

イナゴから、アグルは一致と整理の大切さを学びました。

彼らは自分自身を制御し、一致があるので、すごいダメージを与えることができます。

そのように、教会は一致し、制御すれば、サタンの国にすごいダメージを与えることができます。

でも、イナゴと違って、私たちには王がいます。そして、イエス様に従って、隊を組んで出て行きます。

ヤモリから、アグルは注意深さとうまく逃げることを学びました。

ヤモリは小さくて、手で捕まえられるけど、注意深くすぐに逃げるので、ほとんど捕まえられません。

そのように、私たちはサタンとその計画に注意するべきです。ペテロはこう書きました。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。(第一ペテロ5:8)

覚えておきましょう。サタンは優しい敵ではありません。特に私たちが弱い時、サタンは攻撃します。

でも、私たちが強い時でも注意しなくてはなりません。その時、私たちは自己満足になって注意しないようになるかもしれません。ダビデの事例について考えましょう。(第一サムエル記11章)

だから、イエス様が私たちに命じられたように祈りましょう。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)

あなたはどうですか。あなたはこの動物のように賢く生きているでしょうか。

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堕落する世代

この箇所では、アグルは自分の世代について話します。その世代はどんな人たちだったでしょうか。

1.彼らは自分の父を呪い、自分の母を祝福しませんでした。(箴言30:11)

十戒で、人間関係に関する神様が与える最初の命令は父と母を敬いなさいということです。

神様が知っておられたのは、私たちの社会が栄えるためには、親子関係は本当に大事なことだということです。

残念なことですが、多くの人は自分の両親を敬いません。自分の両親を侮る人もいます。だから、ある日、神様はその人を裁かれます。(17)

2.彼らは独善的でした。(12)

彼らは相手の欠点を見ることができましたが、自分の魂の汚れを見ることができませんでした。

3.彼らは高ぶって、相手を見下しました。(13)

彼らは思うべき限度を越えて思い上がり、神様の形として創造された人々を見下しました。その結果は。。。

4.弱い人を愛さずに、世話せずに、彼らを利用し、ある場合は、彼らを殺してしまいました。(14)

どうして、彼らはそのように振る舞ったのでしょうか。

5.彼らは貪欲でした。

彼らはヒルのように、決して与えずに、いつももらおうと思っていました。

彼らはいつも「もっともっと」と叫び、目の前の物を食い尽くしましたが、決して満足しませんでした。(15-16)

6.彼らは神様が造った美しいものを酷いものにしました。

アグルは神様の被造物の素晴らしさに驚き、男女の関係の素晴らしさにも驚きました。(18-19)

けれども、この世代は何をしたでしょうか。彼らは姦淫を誉め、結婚を惨めなものにしました。なぜなら、多くの妻たちは愛されておらず、すぐに捨てられるからです。(20,23)

7.資格のない者が支配者になり、お金持ちは自分の快楽にふけるために生きました。(22)

それはアグルの世代でした。しかし何千年経っても、この世界はあまり変わっていません。実は、私たちの世界はもっと酷くなりました。

パウロは私たちの世代を予見しました。彼はこう言いました。

終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。

そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。

こういう人々を避けなさい。(第二テモテ3:1-5)

それは私たちの世代です。けれども、神様は私たちがそのような民になるように呼ばれたわけではありません。

私たちはどのような人でしょうか。ペテロは私たちに教えています。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。

それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(第一ペテロ2:9)

それは私たちです。だから、そのように生きましょう。

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神様の前にへりくだる

今日はアグルという人の言葉を読みます。彼がどのような人物であるかは誰も知りませんが、彼の言葉は知恵と謙遜に満ちています。

1節の意味は少し曖昧です。多くの翻訳によれば、アグルはイティエルとウカルという人々に向かって話しています。

けれども、他の翻訳では、アグルはこう言っています。「私は疲れました。神様、私は本当に疲れ果てています。」

いずれにせよ、アグルは続けて語ります。

確かに、私は人間の中でも最も愚かで、私には人間の悟りがない。私はまだ知恵も学ばず、聖なる方の知識も知らない。(箴言30:2-3)

要するに、自分の弱さを認めて、アグルは神様の前に立ちました。彼のプライドは消え去りました。自分の力や知恵から生じるプライドはすべてなくなりました。

だからこそ、自分の弱さを認めたうえで、彼は神様を求めたのです。

4節で、彼はこう尋ねます。

だれが天に上り、また降りて来ただろうか。

だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうちに包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。

その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている。

つまり、「誰が天に行ったことがあるでしょうか。誰がそのような経験を持ち、私たちに神様について説明することができるでしょうか。」

さらに、「私たちの創造主は誰でしょうか。その子の名前は何でしょうか。」

実際、アグルは自分の創造主をすでに知っていました。7節で彼が神様に祈っていることからも、その創造主を知っていたことは明らかです。

けれども、興味深いことに、彼はその創造主の子の名前を尋ねました。その答えを彼は全く知らなかったのです。

しかし、イエス様がこの世に来た時、その答えを明らかにしてくださいました。そしてイエス様は、アグルや他の誰よりも、神様について明確に説明することがおできになりました。

ヨハネはこう記しています。

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネ1:18)

そして、アグルは私たちに、神様の言葉に耳を傾け、神様を私たちの避けどころとするように励まします。彼はこう言いました。

神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。

神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。(箴言30:5-6)

そして、彼は心からの素晴らしい祈りを捧げます。

二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。

不信実と偽りとを私から遠ざけてください。

貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。

私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。

また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。(箴言30:7-9)

つまり、「私は自分の言葉と行動を通して、あなたを敬いたいです。だから、私を罪から遠ざけてください。」

私たちもそのような心を持ちましょう。神様の前にへりくだり、神様を敬いましょう。

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邪な世界に住んでいるのに

以前は、アメリカはクリスチャンの国と呼ぶことができました。今でも、多くのアメリカ人は「私はクリスチャンだ」とか、「神様を信じる」とか言います。

けれども、アメリカがクリスチャンの国だとはもう言えないと思います。実は、アメリカの歴史の中では、多分今は一番暗い時期でしょう。

ソロモンの時代はましだったけど、彼が周りの国々を見ると、いろんな悪を見ました。

彼は無政府状態を見たし(箴言28:2)、自分の民を気にしない独裁者や、正義を気にしない支配者や、酷い罪を犯す王を見ました。(箴言28:3、12、15-16;29:2、4、12)

アメリカや日本はまだそこまで悪くないと思いますが、私たちは、人に仕えるよりも、自分の立場を守りたがる政治家をよく見ます。

特に、アメリカでは、与党議員や裁判官は私たちの社会の道徳的価値観を変えて、罪を良いことだと呼びます。

ソロモンは社会の中の邪についても話します。多くの人々は神様の律法を拒絶し、その律法を拒絶する人を誉めます。(28:5)

彼らはその律法を拒絶するので、道徳的に堕落してしまいます。(28:5)

それに、彼らは正しい人を迫害し始めます。(箴言29:10)

それでは、どうやって、私たちはそんな社会に住むべきでしょうか。ソロモンはこう言います。「神様の道を行き続けなさい。その道を捨てるな。」

彼はこう書きました。

幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。

しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。(28:14)

私たちの周りの悪を見ると、自分の心が堅くなるのは簡単なことです。私たちの愛が冷たくなるのは簡単なことです。(マタイ24:12)

つまり、私たちの神様に対する愛、周りの人々に対する愛が冷たくなってしまいます。

そのような態度に注意しましょう。神様に対する柔らかい心を保ち、主を恐れ続けましょう。

ソロモンは私たちに警告します。

耳をそむけておしえを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる。(28:9)

また、

潔白な生活をする者は救われ、曲がった生活をする者は墓穴に陥る。(28:18)

だから、悪と戦い続け(28:4)、頑張って働き(28:19)、忠実に生き(28:20)、周りの人々に対して気前がいい態度を持ってください。(28:27)

あなたが罪を犯してしまうなら、すぐに悔い改めてください(28:13)。そして、自分の子供にそのように生きるように訓練するべきです(29:15,17)。

周りの人々は神様の律法を捨てるかもしれませんが、神様の道に従い続けるべきです(29:18)。

一番大事なポイントは、神様を信頼し続けるべきだということです。

ソロモンはこう書きました。

自分の心にたよる者は愚かな者、知恵をもって歩む者は救われる。(28:26)

また、

人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(29:25)

神様がエレミヤに命じられたように、私たちにもこう命じられます。

彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。

わたしはあなたを、この民に対し、堅固な青銅の城壁とする。

彼らは、あなたと戦っても、勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。――主の御告げ(エレミヤ15:19-20)

あなたはどうですか。周りの人々のようになっているでしょうか。それとも、この暗闇の中で、光となっているでしょうか。

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友人からの傷

ハワイに住んでいた時、ある時期、私は主と共に歩み、毎週教会に行っていましたが、スモール・グループに行くのは辞めました。

私のスモール・グループはいろんな理由で(悪い理由ではありませんでした)、解散しました。その時、「日本に引っ越すかもなあ」と思ったので、他のグループに参加しなくても良いと思いました。

ところが、時間が経ち、結局日本に行かなくなりました。それでも、私はスモール・グループに参加しようと思いませんでした。

けれども、ある日、神様は私に「もうそろそろ、スモール・グループに参加した方が良いんじゃない?」と言われました。

だから、私はそうしました。

その後、私は以前のスモール・グループのメンバーの一人と話し、「私はスモール・グループに入ったよ」と言いました。

彼女は答えました。「ああ、良かった。ブルースのこと、ちょっと心配だった。」

私はそれを聞いて、びっくりしました。「そう?なんで何も言わなかったの?」と尋ねました。

彼女は答えました。「まあ、ブルースはやっぱり大丈夫かなあと思ったから。」

成熟したクリスチャンのマイナス面は、私が大丈夫じゃなくても、私の周りのクリスチャンは、「ブルースは大丈夫だ」と思うことです。

だから、私は友だちにこう言いました。

「私について心配することがあるなら、今度は何か言ってください。私は最初はその言葉を聞かないかもしれないけど、あなたの言葉が神様から来るなら、結局神様が私の心に語ります。」

私が友だちに言ったように、時々私は頑固です。だから、友だちの言葉に注意しない時もあります。しかし、何度も、その言葉を通して、神様は私の心に語られました。

時々、その言葉は嫌です。私たちの友だちは私たちの罪を指摘することがあります。だから、私たちはその言葉を聞いて、傷ついてしまうことがあります。

また、私たちは「どうして、そんなに酷いことを言われただろうか」と思うかもしれません。

けれども、ソロモンはこう言いました。

あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。

憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。(箴言27:5-6)

要するに、あなたの友だちがあなたを本当に愛するなら、あなたが罪を犯すと、彼らはあなたを訓戒します。

しかし、あなたを愛していない人は何も言いません。彼らはあなたが転んでもいいと思うから。

あなたに正直に言う友だちは本当に大事です。彼らは、あなたを励ますだけでなく、あなたに聖書的な助言を与えてくれます。

だから、ソロモンはこう言います。

香油と香料は心を喜ばせ、友の慰めはたましいを力づける。

あなたの友、あなたの父の友を捨てるな。あなたが災難に会うとき、兄弟の家に行くな。

近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる。(9-10)

けれども、私たちは互いに支え合うべきです。 友だちが私たちの成長を励ますように、私たちも自分の言葉と行動を通して、彼らの成長を助けるべきです。

ソロモンはこう書きました。

鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。(17)

あなたにはそんな友だちがいるでしょうか。あなたたちは互いに研ぎ合うでしょうか。あなたたちは訓戒し合うでしょうか。

もしかしたら、あなたたちは相手が聞きたい言葉だけを言いますか。

あなたにはどんな友だちがいるでしょうか。

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愚か者との付き合い方、愚か者のように行動する

この箇所では、私たちはどのように愚かな者を扱うか、また、どのように愚か者にならないかを学びます。

この箇所でいう「愚か者」とは、馬鹿で高慢な人のことです。彼らは自分の意見を言い張り、訓戒を決して受け入れません。

私たちはどのようにそんな人を扱った方が良いのでしょうか。ソロモンはこう言います。

愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。

愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう。(箴言26:4-5)

一見したところ、これは矛盾です。ソロモンは最初に「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。」と言いますが、その後に「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。」と言います。

この意味は、愚か者と言い争わない方が良いということです。多くの場合、彼らは聞いてくれないし、あなたは怒ってしまい、彼らのように見えてしまいます。

しかし、柔和な態度と知恵を持って、彼らの愚かさを示すべきです。そうすれば、彼らは聞いてくれて、気が変わるかもしれません。

けれども、彼らがあなたの言葉を受け入れず、あなたが自分の怒りが上がることに気づいたら、止めた方が良いです。なぜなら、ソロモンはこう言うからです。

愚か者を臼に入れ、きねでこれを麦といっしょについても、その愚かさは彼から離れない。(箴言27:22)

それに、私たちは彼らを愛するべきですが、彼らを信頼しない方が良いです。つまり、彼らの意見に従うべきではないし(26:7、9)、彼らには責任を与えない方が良いです。(26:10)

私たちが愚か者になりたくないなら、どうしたら良いでしょうか。

私たちは自分の過ちから学ぶべきです。また、訓戒を受け入れるべきです。ソロモンはこう書きました。

犬が自分の吐いた物に帰って来るように、愚かな者は自分の愚かさをくり返す。(箴言26:11)

多くの人々は自分の過ちから学ばないので、その過ちを何度も繰り返してしまいます。

謙虚な態度を取るべきです。あなたは全てのことを知らないことを認めるべきです。ソロモンはこう言います。

自分を知恵のある者と思っている人を見ただろう。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。(箴言26:12)

そして、神様がご自身の手の中にあなたの未来を持っておられることを認めるべきです。だから、あなたの計画を神様に委ねた方が良いです。(27:1)

あなたは怠けてはいけません。(26:13-16)

箴言では何度もそのテーマが見えてきます。だから、自分の将来を考えて、今の責任を果たすべきです。(27:23-27)

あなたは関係のない喧嘩に勝手に入るべきではありません。(26:17)

そんな喧嘩に勝手に入ると、相手があなたに怒ってしまいます。

あなたの言葉に注意するべきです。(26:18,20)

噂をしない方が良いです。(26:20)

そして、喧嘩を売るべきではありません。(26:21;27:15-16)

むしろ、和解のために働くべきです。

人の言葉を聞くとき、その人の性格を考えるべきです(26:23-26)。

ある人は言葉が得意ですが、彼らの性格も試さなくてはなりません。彼らの性格を知るべきです。

あなたが人を傷つけるように計画するなら、多くの場合、最終的にあなたが傷つけられることを覚えておくべきです(26:27)。

エステル記で、ハマンはそう学びました。

人生の危険を避けるべきです。(27:12)

つまり、あなたの人生や結婚、仕事が悪い方向に向かっていることに気づいたら、立ち止まりましょう。自分の方向を変えましょう。そうしないと、全てを失ってしまうかもしれません。

あなたの隣人に対して気を利かせるべきです。(27:14)

あなたの意図は良いかもしれませんが、ちゃんと考えないと、彼らを祝福するつもりが、怒らせてしまうかもしれません。

あなたはどうですか。賢く生きていますか。愚か者のように生きていますか。

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人に愛される

このポストのタイトルは「人に愛されること」ですが、実は、クリスチャンにとっては、それが私たちの一番の目的ではありません。私たちの目的は神様を喜ばせることです。

けれども、聖書では、イエス様についてこう書いてあります。

イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。(ルカ2:52)

人にイエス様が愛されたように、私たちはどうすれば人に愛されるでしょうか。ソロモンは、箴言25章で良いアドバイスを与えてくれます。

まず、相手に敬われることを求めないべきです。もし彼らがあなたを敬うなら良いですが、その敬いを求めない方が良いです。

ソロモンはこう書きました。

王の前で横柄ぶってはならない。偉い人のいる所に立っていてはならない。

高貴な人の前で下に下げられるよりは、「ここに上って来なさい」と言われるほうがよいからだ。(箴言25:6-7)

イエス様はパリサイ人にも同じことを言われました。(ルカ14章)

そして、ソロモンは言います。

あまり多くの蜜を食べるのはよくない。しかし、りっぱなことばは尊重しなければならない。(27)

ヘブル語の文字通りに、その最後の部分は「自分の栄光を求めるのは、栄光ではないです。」という意味です。

その意味が微妙なため、さまざまな翻訳があります。多くの英語の聖書は「自分の栄光を求めるのは、良いことではありません。」と翻訳しています。

日本語のリビングバイブルの訳者も、ほぼ同じように翻訳しています。

どんなに良い食物でも、食べすぎは体に毒です。同じように、人にほめられるのはすばらしいことですが、それを意識しすぎるのはよくありません。(箴言25:27)

とにかく、皮肉なことに、私たちが謙虚な態度を持つなら、最終的に、人々は私たちを敬い、神様は私たちを誉めてくださいます。

ソロモンは続けて言います。

あなたがその目で見たことを、軽々しく訴えて出るな。

そうでないと、あとになって、あなたの隣人があなたに恥ずかしい思いをさせたとき、あなたはどうしようとするのか。(箴言25:7-8)

つまり、怪しいことをする人を見た時、すぐに訴えない方が良いです。なぜなら、彼らは自分の行動をちゃんと弁解できるかもしれないからです。

早とちりして訴えたら、結局あなたが恥をかいてしまうかもしれません。

さらに、ソロモンはこう言います。

あなたは隣人と争っても、他人の秘密を漏らしてはならない。

そうでないと、聞く者があなたを侮辱し、あなたの評判は取り返しのつかないほど悪くなる。(9-10)

時々、私たちの友だちは内緒で他の人について話します。そして、その言葉によって、私たちはその人を訴えます。けれども、そうすると、三つのことが起こるかもしれません。

一つ目は、その友達が相手を怖がって、あなたの言葉を否定するかもしれません。

二つ目は、あなたがその内緒で言った言葉をばらしたので、多分その友達はあなたに怒るでしょう。

三つ目は、相手を訴えるのに、あなたには証拠がないので、結局あなたが恥をかくかもしれません。

だから、人に愛されたいなら、すぐに訴えたり、人の内緒をばらしたりするべきではありません。

ソロモンは続けて言います。

あなたの言葉によって、人を助け、励ました方が良いです(11)。

その反面、相手が愛によってあなたを叱責するなら、へりくだってその言葉を受け入れるべきです(12)。

職場や他の場所で忠実に仕え(13,19)、自分の約束を守り(14)、正直に言うべきです(18)。

意見を与える時、忍耐を持って柔和な態度を持つべきです(15)。

隣の人を訪れる時、気を利かせて、彼の時間を取りすぎてはいけません(17)。

相手が苦しんでいるとき、彼らの感情に敏感になりましょう(20)。

最後に、自分の言葉に注意するべきです。また、あなたは自制するべきです(28)。

そうすれば、あなたは人々に愛されます。

周りの人々はあなたについてどう考えるでしょうか。

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仕返し

仕返し。

私たち皆、仕返しが悪いことを知っていますが、どれぐらい仕返しを計画するでしょうか。私たちはその計画を実行しないかもしれませんが、その計画を考えるのが好きですね。

また、相手が倒れる時、私たちはよく喜びます。

しかし、ソロモンはそのような態度に関して警告します。彼はこう書きました。

あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、あなたは心から楽しんではならない。

主がそれを見て、御心を痛め、彼への怒りをやめられるといけないから。(箴言24:17-18)

私たちが心に留めておかなければならないのは、相手がどんなに悪者でも、彼らが神様のかたちとして創造されたことです。その形は曲がったかもしれませんが、神様はまだ彼らを愛しておられます。

だから、彼らが苦しんだ時、神様はあなたがその人の苦しみを喜ぶことを憎まれます。なぜなら、神様は喜ばれないからです。

人々が地獄に行く時、彼らがどんなに悪者でも、神様は喜ばれません。むしろ、神様は涙を流されます。

だから、神様の形として創造された者を見下してはなりません。神様はそのような態度をご覧になる時、全然喜ばれません。

ソロモンはこう言います。

「彼が私にしたように、私も彼にしよう。私は彼の行ないに応じて、仕返しをしよう」と言ってはならない。(箴言24:29)

むしろ、

もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。

あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださる。(箴言25:21-22)

要するに、あなたの敵に復讐せずに、彼らに親切にすれば、彼らは罪悪感を持つかもしれません。もしくは、彼らが決して謝らなくても、神様はあなたに報いてくださいます。

その反面、

正しい人が悪者の前に屈服するのは、きたなくされた泉、荒らされた井戸のようだ。(25:26)

もし悪い人の仕業のために私たちが仕返しをするなら、私たちの証しは汚されます。その場合、私たちがこの世の民に影響を与えるのではなく、むしろ、この世の民が私たちに影響を与えてしまいます。

ソロモンはこう言います。

自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ。(25:28)

人々が私たちを傷つける時、私たちが自分の怒りと行動をコントロールできないなら、私たちの人生の城壁は倒れます。そして、私たちを神様から離させるために、サタンは、ますます攻撃します。

しかし、私たちの敵に親切にするなら、サタンはどうしても私たちを滅ぼすことができません。

それに、サタンが送った私たちの敵は友達になるかもしれません。その場合、サタンの計画は本当に無駄になってしまいます。

敵に仕返しすると、自分の城壁を強化すると思う人もいます。実は、自分の怒りをコントロールできる人、また、相手を許せる人が本当に強い人です。

あなたはどうですか。相手があなたを傷つける時、あなたはどうしますか。

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地獄に行く人に警告しないと

この箇所では、ソロモンは本当に鋭い言葉を言います。

捕らえられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。

もしあなたが、「私たちはそのことを知らなかった」と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。

あなたのたましいを見守る方は、それを知らないだろうか。

この方はおのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。(箴言24:11-12)

毎日、人々は地獄に行っています。永遠の死に行っています。彼らは虐殺されます。だから、あなたは何をしていますか。

地獄というのは嫌な話題なので、多くの人々は、そのことについて話したがりません。けれども、地獄について話さなくても、その問題は無くなりません。そして、私たちが人々に警告しないと、神様はその責任を私たちに負わせられます。

もちろん、私たちは無理矢理、誰かの道を彼の意志に背いて変えさせることはできません。それは私たちの責任ではありません。私たちは人間の心を変えられないからです。

とはいえ、神様は私たちに、彼らに警告するように命じられました。

神様は「私は彼らが地獄に行くことを知らなかった」と言う言い訳を受け入れられません。

多くの人は愛する人たちに関して、自分自身にこう言います。「彼らがイエス様を信じなくても、きっと天国に行くだろう。なぜなら、彼らは良い人だから。」

なぜ彼らはそう言うのでしょうか。多分、彼らは自分の家族や友達に真実を言いたがらないからです。彼らは拒絶されることを怖がるからです。また、彼らは愛する人が真実を聞くと怒られることを怖がります。

しかし、心の中で、そのクリスチャンは真実を知っています。そして、神様も、そのクリスチャンの心をよく知っておられます。私たちは神様から何も隠すことができません。

だから、神様が預言者エゼキエルに言われたように、私たちにも言われます。

「人の子よ。わたしはあなたをあなたの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。

わたしがあなたのお父さんや、お母さんや、兄弟たちや、友達に、『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、彼らに悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、彼らは自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

もしあなたが彼らに警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。(エゼキエル書3:17-19)

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箴言

あなたの家を建てる

あなたはどんな家を建てているでしょうか。私がここで家と呼んでいるのは、住む場所ではなく、あなたがどんな人生を建てているかと訊いています。

箴言24章でソロモンは、そのことについて話します。

彼はこう言います。

家は知恵によって建てられ、英知によって堅くされる。

部屋は知識によってすべて尊い、好ましい宝物で満たされる。(24:3-4)

家族を建てる時(多分ソロモンはそのことについて話している)、また、あなたの人生を建てる時、永続するものを作りたいなら、神様の知恵によって建てなければなりません。

ソロモンは続けてこう言います

知恵のある人は力強い。知識のある人は力を増す。(5)

神様からの知恵は、家族と人生を建てることに関して、何を教えるのでしょうか。

ソロモンは以前こんなことを言いましたが、もう一度言います。

悪い人を妬むべきではありません。また、彼らと付き合うべきでもありません。なぜなら、彼らはあなたを破壊の道に導くからです。(1ー2、19)

知恵のある人の意見を聞くべきです。(6、26)

知恵を抱くべきです。(13ー14)

怠ける人生を送るべきではありません。(30ー34)

しかし、ソロモンはこうも言います。

もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い。(10)

私たち皆は、苦しみに直面します。神様の御心に従っても、苦しむ時もあります。

パウロにはそんな経験がありました。エレミヤや、他の預言者たちも苦しむことがありました。イエス様にも、苦しんだ時がありました。けれども、そんな時に、私たちは神様に信頼し続けるべきです。

数年前、私の友だちの奥さんは、がんにかかって、結局亡くなりました。その二人にとっては、もちろん大変な時でした。しかし、彼らの信仰は決して揺るぎませんでした。

あくまでも、その奥さんは周りの人々を考えて、触れたがりました。ベッドから起きられなくても、そんな態度を持ち続けました。

ソロモンはそんな人に関して、こう言いました。

正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ。(16)

そして、ある日、その奥さんが目覚めたら、救い主イエス様の笑顔を見ました。

私たちが上手く行く人生を望むなら、神様に基づいて、人生を建てるべきです。

ソロモンは家を建てる他の方法を教えます。

主と王とを恐れよ。(21)

つまり、神様と権力のある人に従うべきです。総理大臣や、警察や、上司や、牧師に従うべきです。なぜなら、神様は彼らを確立されたからです。(ローマ13:1)

神様と神様が確立された力に反対したら、あなたの家の基礎は揺れます。

最後に、ソロモンはこう書きました。

外であなたの仕事を確かなものとし、あなたの畑を整え、そのあとで、あなたは家を建てよ。(27)

つまり、あなたがプロジェクトを始める前に、その費用を計算するべきです。そうしないと、最終的にあなたは、そのプロジェクトを諦めなければならないかもしれません。(ルカ14:28-30)

多くの人々は自分の経済を考えずに結婚するので、すぐに困ってしまいます。また、彼らは子育てのためにちゃんと計画しません。ミニストリーを始めるけど、前もって計画しない人もいます。

私たちが費用を計算しないと、私たちがしていることはめちゃくちゃになります。

あなたはどうですか。どんな人生を建てているでしょうか。

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箴言

私たちが追い求めるもの

箴言23章では、私たちが何を追い求めるべきかについて、ソロモンが警告します。

ソロモンはこう言いました。

あなたが支配者と食事の席に着くときは、あなたの前にある物に、よく注意するがよい。あなたが食欲の盛んな人であるなら、あなたののどに短刀を当てよ。

そのごちそうをほしがってはならない。それはまやかす食物だから。(箴言23:1-3)

つまり、食べ物や、この世の物によって満足を追い求めるなら、気を付けてください。

もし、あなたが偉い人や、力がある人や、影響力のある人と一緒に食事をする時、彼らの立場、また、彼らがどんな食べ物を与えるか注目してください。どうして彼らがあなたにおごってくれるか考えてください。

そうしないと、彼らはあなたに悪い計画に参加するように納得させるかもしれません。

自分のお腹や、快楽だけを考える人は簡単に騙されます。

それに、食事することが大好きで、食べ過ぎると、いろんな健康問題が出てきます。多分あなたはそんな人を知っていると思います。だから、ソロモンは警告します。

大酒飲みや、肉をむさぼり食う者と交わるな。大酒飲みとむさぼり食う者とは貧しくなり、惰眠をむさぼる者は、ぼろをまとうようになるからだ。(20-21)

この箇所では、ソロモンはお酒の危険性について警告します。アルコール依存症の人には、いろんな苦しみがあります。(29)

彼らは健康問題が出てきますし、彼らの思いは支離滅裂になります。(32-33)

それに、彼らの人生がどれぐらいめちゃくちゃになったか全然分かりません。次の飲み物だけを考えます(35)。

富を追い求める人もいます。ますますお金を稼ぐことだけを考えます。

しかし、ソロモンはこう警告しました。

富を得ようと苦労してはならない。自分の悟りによって、これをやめよ。あなたがこれに目を留めると、それはもうないではないか。

富は必ず翼をつけて、鷲のように天へ飛んで行く。(4-5)

要するに、この世の富は一時的なものだけです。あなたの死後に、その富を天国に持っていくことはできません。それに、パウロはこう言います。

金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。

金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。

ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。(第一テモテ6:9-10)

もちろんお金自体は悪いものではありません。とはいえ、多くの人は、お金を追い求めながら、自分の結婚や、家族や、人間関係や、自分の人生までも壊してしまいました。自分の信仰から迷い出る人もいます。

セックスを追い求める人もいます。神様はセックスを良いものとして創造されました。つまり、結婚の関係の中で、セックスは愛によって夫と妻を結び合わせるものです。

けれども、多くの人々は結婚の外でセックスを求めるため、最終的には苦しむことになります。

ソロモンは私たちに警告します。

遊女は深い穴、見知らぬ女は狭い井戸だから。彼女は強盗のように待ち伏せて、人々の間に裏切り者を多くする。(27-28)

どれくらい、多くの人が良いものを悪い方法で使ったために、自分の健康や、結婚や、ミニストリーを壊してしまったのでしょうか。

それでは、どう生きればいいのでしょうか。ソロモンはこう言います。

あなたは心のうちで罪人をねたんではならない。ただ主をいつも恐れていよ。

確かに終わりがある。あなたの望みは断ち切られることはない。(17-18)

要するに、この世の民が追い求めるものを追い求めるな。この世の民が願うものを願うな、ということです。

むしろ、神様を追い求めましょう。そうすれば、私たちには将来の希望があります。そして、その希望は決して断ち切られることはありません。

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箴言

良い評判を保つ

周りの人々があなたを見ると、彼らはどう思うでしょうか。

箴言では、そのトピックがよく取り上げられています。ソロモンは10章で、良い評判の大切さについて書きましたし、この箇所でも同じことについて書いています。彼はこう言いました。

名声は多くの富よりも望ましい。愛顧は銀や金にまさる。(箴言10:1)

この箇所では、私たちは、どのように良い評判を保つことができるか見ることができます。ソロモンはこう書きました。

利口な者はわざわいを見て、これを避け、わきまえのない者は進んで行って、罰を受ける。(箴言22:3)

時々、私はハワイ人の考え方に驚きます。津波の警報がある時、海へ津波を見に行く人もいます。(私の友達も見に行ったことがあります。私は信じられませんでした。)

幸い、津波がハワイに付く前に小さくなったので、誰も怪我をしませんでした。それでも、その人は本当にバカなことをしたと思います。

それに、多くの人々は他の危険も見ることができません。ソロモンはこう言いました。

曲がった者の道にはいばらとわながある。たましいを守る者はこれらから遠ざかる。(5)

多くの人々は、どのように自分の罪が彼らの健康や、結婚や、他の人間関係を壊すかを見ることができません。だから、彼らはその道を行き続けるので、苦しみ、自分の評判が地に落ちてしまいます。しかし、知恵を持つ人は、その危険を見て避けます。

ソロモンは続けてこう言います。

謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。(4)

私たちが主を恐れると、良い評判を獲得できます。

とはいえ、すべての人々があなたが好きなわけではありません。時々、主を恐れると、私たちは迫害されることもあります。イエス様は罪のない神の子でした。それでも、ある人々はイエス様を憎んだので、殺してしまいました。

けれども、多くの場合、神様を恐れると、私たちは栄え、良い評判を獲得します。

もう一つ覚えておくべきことがあります。私たちが自分の子供をちゃんとしつけないと、彼らは私たちの評判を汚すかもしれません。ソロモンはこう書きました。

愚かな子はその父の憂い、これを産んだ母の痛みである。(17:25)

また、

愚かな息子は父のわざわい。(箴言19:13)

だから、ソロモンはこう言いました。

若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。(箴言22:6)

また、

愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。(22:15)

そして、ソロモンは良い評判を獲得できる他の方法を教えます。つまり、

  • 周りの人々を祝福する。(9)
  • 清い心を保つ。また、恵み深い言葉を言う。(11)
  • 怠ける態度を避ける。(13)
  • 不倫を避ける。(14)
  • 友達を賢く選ぶ。(24-25)
  • あなたの経済に気を付ける。(26-27)
  • 正直に生きる。(28)
  • 自分の仕事を上手にする。(29)

そんなことをすれば、あなたはイエス様のように、神と人とに愛されます。(ルカ2:52)

あなたはどうですか。どんな評判を築いているでしょうか。

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箴言

この世を治めておられる方

この世の現実を目にするとき、私たちはこう考えてしまうことがあります。「神様は本当にすべてを治めておられるのだろうか」。

けれども、ソロモンはこう書きました。

王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。(箴言21:21)

多くのアメリカのクリスチャンは、だんだん変わっている国の道徳観念に悩んでいます。

例えば、数年前、アメリカの政府はゲイの結婚を認め始めました。そして、クリスチャンが「ゲイの結婚に同意できない」と言ったら、彼らは迫害されてしまいます。

あるケーキ屋さんは、ゲイの人のためにも、誰のためにもケーキを作りました。ところが、ある日、その店のゲイの常連は「私が結婚するので、ケーキを焼いてください」と頼むと、その店主はクリスチャンなので断りました。

誕生日のケーキであれば、大丈夫でしたが、ゲイの結婚を祝うために焼けませんでした。そのケーキ屋さんは訴えられて、結局その店を畳まなくてはなりませんでした。

アメリカでは、多くの人が聖書の道徳の教えを拒絶するので、たくさんのクリスチャンは心配して、自分の子供たちを公立学校に送りたがりません。なぜなら、学校で、その子供たちは聖書に反対する教えも受けるからです。

最近、日本人には別の心配があります。つまり、今、北朝鮮のリーダーたちは本当に怖いです。彼らはミサイルも持っており、私たちは彼らが何をするか予想できません。

だから、多くのアメリカ人でも、日本人でも、この世を見ると、「神様は、本当にこの世を治めておられるだろうか」と考えます。

けれども、ソロモンはこう書きました。

主の前では、どんな知恵も英知もはかりごとも、役に立たない。(30)

しかし、ソロモンが正しかったら、どうして私たちは、こんなトラブルを目にするのでしょうか。

それは、神様が人間に選択する権利を与えてくださるからです。私たちは神様を愛して、神様の道を行くことを選ぶことができます。その反面、神様とその道を拒絶する選択もできます。

私たちはロボットではありません。神様はロボットを望んでおられません。神様は、私たちが愛によって、神様に従うことを望んでおられます。

しかし、もう一つの理由があると思います。

それは、私たちが神様からの使命を実行していないということです。私たちは世界中に行って、弟子を作るべきです。そうすれば、人々は変わります。国々は変わります。

何世紀も前、あるクリスチャンは戦争を通して、クリスチャンの国を造ろうと思いました。もし、クリスチャンの国を造ったら、皆が救われると思いました。けれども、最終的に、彼らは失敗しました。

20-30年前、あるアメリカのクリスチャンたちは、政治を通してアメリカを変えようと思いました。だから、彼らは良い法律のために戦いました。それでも、アメリカはだんだん悪くなっています。

どうしてでしょうか。

私たちは人々の心を政治を通して変えることはできません。戦争や人間の力を通しても、人間の心を変えることはできません。

しかし、私たちがこの世の一人一人に福音を述べ伝えると、神様は彼らの心を変え始めてくださいます。私たちがこの世に変わって欲しいなら、神様だけが私たちの希望です。

では、私たちは自分の権利のために戦ってはいけないのでしょうか。私たちの国を攻撃から守るために準備してはいけないのでしょうか。もちろん、そのために準備するべきです。

とはいえ、それらは私たちの主な戦いではありません。むしろ、人々を奴隷にしているサタンと戦わなくてはなりません。人々を滅ぼしている悪魔と戦わなくてはなりません。それが私たちの主な戦いです。

神様は私たちが決して、迫害や苦しみに直面しないと約束してくださったことはありません。むしろ、神様は私たちが迫害や苦しみに直面することを約束されました。

それでも、心に留めてください。私たちがどんな迫害や苦しみに直面しても、神様はまだこの世を治めておられます。そして、イエス様がこの世に戻られたとき、皆がそれを認めます。

しかし、その日が来るまで、神様に従い、その使命を行いましょう。

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箴言

私たちのお金を賢く使う

アメリカでは、多くの人々がクレジット・カードを使います。アメリカ人と比べると、日本人はクレジット・カードをあまり使いません。

私が日本に住み始めた時、ちょっとカルチャーショックを受けました。なぜなら、店でレジの列が割と短かったからです。日本人の大部分は現金を使うからです。

アメリカでは、多くの人がクレジット・カードを使うので、列はもっと長いです。

アメリカでは、たくさんの現金を持っているとちょっと危ないです。私がアメリカに住んでいた時、そんなにたくさんの現金を持つことがありませんでした。けれども、日本は割と安全だから、大丈夫です。

アメリカでは、クレジット・カードを持っている人の間では、54%の人がクレジット・カードで支払います。

日本でクレジット・カードを持っている人の間では、18%の人がクレジット・カードで支払います。

それに、アメリカ人のクレジット・カードの負債は平均で65万円ぐらいです。アメリカ人の間では、半分ぐらいが分割払いを選ぶからです。しかし、日本人は、90%ぐらいが一括払いを選ぶそうです。

それでも、日本人はあまり貯金していません。アメリカ人は可処分所得の6%ぐらいを貯金します。日本人は可処分所得の0.72%ぐらいを貯金します。

だから、アメリカ人でも、日本人でも、お金をもっと賢く使わなくてはなりません。

多くのアメリカ人はお金が足りないのに、クレジット・カードで購入します。だから、分割払いを選んで、利子を付けて借金を払います。それに、軽率な購入のため、多くの人々は破産してしまいます。

だから、ソロモンはこう書きました。

勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべてあわてる者は欠損を招くだけだ。(箴言21:5)

どれほど、私たちは欲しいものを見つけると、家計の状態を考えずに買ってしまうでしょうか。

もし、私たちが時間を取って、私たちの消費について考えたら、どれほど経済的な苦しみが避けられるでしょうか。

ソロモンは続けてこう言います。

知恵のある者の住まいには、好ましい財宝と油がある。しかし愚かな者はこれをのみ尽くす。(21:20)

アメリカ人と比べると、日本人は持っていないお金を使う癖があまりありません。とはいえ、多くの人は自分の将来を考えずにお金を使いすぎます。

あなたはどうでしょうか。あなたの将来のために計画していますか。それとも、将来を考えずに、自分の快楽にふけっているでしょうか。

あなたはクレジット・カードを使いすぎているでしょうか。あなたの借金が大きすぎるので、最終的に破産してしまう可能性がありますか。

私たちは神様のお金の管理人です。だから、神様が私たちに委ねてくださったお金を賢く使いましょう。

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箴言

私たちの裁判官に自分のことを申し開きする

私たちがこの人生を送っている間、私たちが死後に永遠があることを忘れるのは簡単なことです。そして、その日、私たちは自分のことを私たちの裁判官である神様に申し開きをしなくてはなりません。

ソロモンはこう書きました。

人の心にあるはかりごとは深い水、英知のある人はこれを汲み出す。(箴言20:5)

もし、英知のある人が私たちの心を読み取れるなら、神様の前に私たちは何も隠すことができません。

ソロモンは続けてこう言います。

多くの人は自分の親切を吹聴する。しかし、だれが忠実な人を見つけえよう。(20:6)

たくさんの人々は神様を愛していると言うけれど、その神様に対する愛を示す人は少ないです。だから、ソロモンは私たちに警告します。

さばきの座に着く王は、自分の目ですべての悪をふるい分ける。(20:8)

もちろん、ソロモンは人間の王について話しているけれど、いつか、王の王は裁きの座に着いて、この世を裁かれます。

人間の王の判断は不完全です。なぜなら、彼らの知識と知恵には限界があるからです。

しかし、すべてのことは神様の前に置かれ、神様が正義の神なので、神様の判断は完全です。

ソロモンはこう言います。

人間の息は主のともしび、腹の底まで探り出す。(20:27)

つまり、神様は私たちの最も隠された思いも知っておられます。

ソロモンは続けてこう言います。

人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる。(21:2)

私たち皆が、いつか神様の御前に立って裁かれるので、ソロモンは私たちがどのように生きるか教えます。

私たちは正直に話さなくてはなりません。(20:10、16、23)

私たちは復讐を求めずに、裁きを神様の手に委ねなくてはなりません。(20:22)

たまに捧げものを捧げるよりも、毎日正しい生活を送らなくてはなりません。(21:3)

そして、神様の前にへりくだらなくてはなりません。(21:4)

そうしないと、ソロモンは私たちにこう警告します。

正しい人は悪者の家を見抜く。悪者どもは自分の悪事のために滅ぼされる。(箴言21:12)

多分、この箇所では、「正しい人」というのは、神様です。神様は悪者の家を見抜き、滅ぼしてしまいます。

ソロモンは続けてこう言います。

公義が行なわれることは、正しい者には喜びであり、不法を行なう者には滅びである。

悟りの道から迷い出る者は、死者の霊たちの集会の中で休む。(箴言21:15-16)

けれども、このソロモンの言葉を覚えておきましょう。

だれが、「私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた」と言うことができよう。(20:9)

その答えは当たり前です。誰でもそんなことが言えます。神様の前に立って、「私は罪を犯したことがない」と言える人は、一人もいません。自分の行動のために天国に行く値する人は一人もいません。

私たち皆が失敗したことがあります。私たち皆が罪を犯して、神様からの栄誉を受けることができません。だから、イエス様はこの世に来られました。私たち皆に救い主が必要だからです。

だから、あなたが神様の目に義人になりたがるなら、一番大切な命令に従ってください。

それは何でしょうか。

神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。(第一ヨハネ3:23)

あなたはどうですか。裁きの日のために準備できていますか。

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箴言

怠ける

子供の時に、私は本当に怠けていました。特に、私はよく宿題をサボっていました。

4年生の時、私がずっと宿題をサボっていたので、父は私に、「お前はハワイ島への修学旅行に行けないかもしれない」と警告しました。

5年生の時も、中学1年生の時も、私は宿題をサボったので、叱られてしまいました。

そのあとに、私はやっとその教訓を学びました。

なぜか分からないけれど、大学についての悪夢を見ます。その夢で、私はある授業をずっとサボっていて、期末試験が迫っています。だから、私は全然準備できなくて、パニックになります。

どうしてでしょうか?大学生の時、私は真面目に勉強したのに。😀

とにかく、箴言では、私たちは、いろんな怠け癖に関する警告を読みます。

ソロモンは何度も怠け者をからかいます。

なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていこうとしない。(19:24)

また、

なまけ者は言う。「獅子が外にいる。私はちまたで殺される」と。(22:13)

そして、彼は怠け者に関して、当たり前のことも言います。

怠惰は人を深い眠りに陥らせ、なまけ者は飢える。(19:15)

また、

しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。

だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(箴言24:33-34)

しかし、私に対して、一番印象が残る箇所は、21:25-26です。

なまけ者の欲望はその身を殺す。その手が働くことを拒むからだ。

この者は一日中、自分の欲望に明け暮れている。しかし、正しい人は人に与えて惜しまない。

神様は私たちが周りの人々を祝福するように望んでおられます。けれども、私たちが怠けたら、私たちはもちろん苦しむことになりますが、周りの人々を祝福することができません。

また、私たちが怠けたら、神様からの賜物を無駄にしてしまいます。そして、ある日、私たちは神様の前に申し開きしなくてはなりません。

イエス様はタラントのたとえ話で、その真理を教えられました。(マタイ25:14-30)

あなたはどうでしょうか。神様からの賜物を無駄にしているでしょうか。

神様があなたの脳や、手を与えてくださったのに、あなたはそれらをちゃんと使っているでしょうか。神様はあなたに才能や、霊的な賜物を与えてくださったのに、ちゃんと使っていますか。

怠けないようにしましょう。あなたの賜物をちゃんと生かしましょう。そうすれば、あなた自身が祝福され、周りの人々も祝福されます。

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誰を信頼するのか。何に頼るのか。

あなたは、誰を信頼するでしょうか。何に頼るでしょうか。

自分自身ですか。お金ですか。もしくは、神様ですか。

箴言で、ソロモンは何度もこの疑問に取り組みます。彼はこう書きました。

主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。

富む者の財産はその堅固な城。自分ではそそり立つ城壁のように思っている。

人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。(箴言18:10-12)

多くの人々は、自分自身だけを信頼します。彼らは、自分の知恵や富みに頼ります。彼らは、もしお金さえあれば、どんな問題に直面しても、大丈夫だと思います。

しかし、ソロモンが言ったのは、神様こそを信頼するなら、あなたは本当に安心できるということです。

多くの人々はお金に頼るけれど、まだ幸せと安心を見つけていません。

彼らの結婚はうまくいかず、彼らの仕事や投資した株についていつも心配して、あまり眠れません。必要な物を持っていても、なんとなく安心できません。

ある人は安心して達成感があるけれど、最終的に彼らの建てた国は倒れてしまいます。

さらに、裁きの日に、彼らは神様の前に自分のことを申し開きしなくてはなりません。そして、自分自身だけのために生きていたら、彼らの達成は無駄になります。

その反面、神様を信頼する人は、本当に安心できます。なぜなら、神様の御心に従うので、神様は彼らを見守っておられるからです。それに、裁きの日に、イエス様はご自身の十字架の働きによって、彼らを擁護してくださいます。

だから、私たちは誰を信頼するか、また何に頼るか、気を付けなくてはなりません。

ソロモンはこう書きました。

熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。(箴言19:2)

自分の人生に対する情熱を持つかもしれないけれど、神様とその導きに従わないと、あなたはつまずきます。

多くの人々は、しばしば情熱を持つけれど、愚かな決断をするので、振り返ると、後悔が多いです。

そんな人について、ソロモンはこう言います。

人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主に向かって激しく怒る。(19:3)

どれほど、私たちは自分の愚かな決断によって自分の人生を台無しにして、神様に「どうして、こんなことが起こるのを許したんですか?」と問うでしょうか。

けれども実は、私たちは蒔いたものを刈り入れたのです。神様を信頼さえすれば、私たちはその落とし穴に落ちなかったでしょう。

だから、ソロモンはこう言いました。

命令を守る者は自分のいのちを保ち、自分の道をさげすむ者は死ぬ。(19:16)

神様の言葉は命の言葉です。私たちがその言葉を無視することは、私たちの責任です。

だから、ソロモンは訓戒します。

忠告を聞き、訓戒を受け入れよ。そうすれば、あなたはあとで知恵を得よう。(19:20)

ソロモンの言葉を覚えておきましょう。

人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。(19:21)

あなたはいろんな計画を立てるかもしれないけれど、最終的に神様の計画が成就されます。

だから、神様の御心と戦わないようにしましょう。むしろ、その計画と協力しましょう。そうすれば、あなたはこう分かります。

主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない。(19:23)

あなたは誰を信頼していますか。何に頼っていますか。

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あなたの夫を祝福する

このブログでは、私は妻たちについてあまり書きません。つまり、妻たちが何をするべきかについてほとんど書いたことはありません。

私が結婚について書いた時、主に夫たちに対して書きました。なぜなら、聖書では、神様が健康的な結婚を保つ主な責任を夫たちにかぶせたからです。

聖書で何度もその原則を読むことができます。

けれども、この箇所では、私たちは妻たちに対する言葉を読みます。

ソロモンはこう書きました。

良い妻を見つける者はしあわせを見つけ、主からの恵みをいただく。(箴言18:22)

私は2005年に結婚しましたが、その言葉が本当だと言えます。私の妻を見つけた時、幸せを見つけました。私の妻は私を本当に祝福してくれます。

しかし、妻たちが気を付けないと、自分の夫に対する祝福にならずに、呪いになります。

例えば、ソロモンはこう言いました。

妻のいさかいは、したたり続ける雨漏り。(箴言19:13)

また、

争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい。(箴言21:9)

もし、それは曖昧すぎなら、

争い好きで、うるさい女といるよりは、荒野に住むほうがまだましだ。(21:19)

夫たちは、もちろん完璧な人ではありません。そして、私たちはしばしば思わず自分の妻をいらいらさせるかもしれません。認めたくないですが、私もそうしてしまいます。

とはいえ、彼らの過ちをかさぶたのように剥がしてはいけません。

それは少し気持ち悪い描写かもしれませんが、旦那さんにがみがみ小言を言う時、そのイメージを覚えておいてください。なぜなら、あなたはそのようなことをしているからです。

では、もし旦那さんがあなたをいらいらさせる時、無視すればいいでしょうか。彼の欠点を見逃せばいいですが、できないなら、旦那さんとそのことについて話してください。何も変わらないなら、もう一度話してください。

けれども、まだ変わらないなら、旦那さんに、もう何も言わず、その状態を神様の手に委ねてください。彼のために祈ってください。

なぜなら、あなたは旦那さんを変えることができません。神様だけが、彼を変えることができます。

実は、小言によって、あなたの旦那さんを変えることができるかもしれないけれど、多くの場合、彼はあなたに恨みを持つかもしれません。

神様だけが、結婚の平和を保ちながら、あなたの旦那さんを変えることができます。

ソロモンはこう書きました。

人(または、妻)に思慮があれば、怒りをおそくする。その人(妻)の光栄は、そむきを赦すことである。(19:11)

しかし、夫たちへ、あなたに対する少し厳しい言葉があります。それは、神様が私にも言う言葉だからです。それは、「あなたの奥さんの言うことを聞きなさい。」

あなたは彼女の文句が細かいと思うかもしれませんが、本当に細かいなら、簡単に変わることができるでしょう。そうすれば、あなたの奥さんに対する祝福になります。

そして、妻たち。神様は、あなたがご主人にとって祝福となることを望んでおられます。

けれども、もしあなたが彼の心のかさぶたを繰り返し剥がし続けるなら、それは祝福とは言えません。むしろ、その傷が再び開き、血が流れ出すようになれば、彼は防衛的になり、反撃してしまうかもしれません。

だから、がみがみ小言を言わずに、祈ってください。そうすれば、神様がどのようにあなたの旦那さんを変えるか、どのように神様があなたの心と態度を変えるかに驚くことでしょう。

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話す前に

箴言では、ソロモンは何度も私たちの言葉について警告します。

私の友だちは、一時期、箴言を読むのを避けたと認めました。なぜなら、彼の言葉が悪かったことを知っていて、ソロモンの警告を読みたがらなかったからです。

(ところが結局、彼の努力は無駄でした。神様は別の箇所を通して、私の友達を訓戒されました。)

とにかく、この箇所では、私たちが話す前に考えるように警告します。また、私たちが話す前に、相手の意見を聞くように忠告しています。

ソロモンはこう言いました。

愚かな者は英知を喜ばない。ただ自分の意見だけを表わす。(箴言18:2)

この箇所によれば、相手から学ぶ興味がなくて、自分が話すのが好きな人もいます。けれども、彼らが相手の意見を聞いてこそ、知恵を獲得します。

ソロモンは続けてこう言います。

人の口のことばは深い水のようだ。知恵の泉はわいて流れる川のようだ。(4)

また、

愚かな者のくちびるは争いを起こし、その口はむち打つ者を呼び寄せる。愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分のたましいのわなとなる。(6-7)

さらに、

よく聞かないうちに返事をする者は、愚かであって、侮辱を受ける。(13)

要するに、先に考えずに話せば、妻や夫、友達や上司を怒らせるかもしれません。だから、ソロモンはこう言いました。

反抗する兄弟は堅固な城よりも近寄りにくい。敵意は宮殿のかんぬきのようだ。(19)

どれほど、あなたが先を考えずに話したために、愛する人を傷つけたでしょうか。話すのは簡単なことです。しかし、その言葉が出たら、取り戻すのは不可能です。

だから、ソロモンはこう言います。

人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。

死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。(20-21)

言い換えると、結局、私たちは自分の言葉の実を食べます。その実は美味しいでしょうか。まずいでしょうか。

私たちがどこにいても、私たちの言葉は私たちの人間関係に影響を与えます。私たちの言葉によって、人々は私たちを愛します。もしくは、私たちを憎みます。

だから、妻や夫、子供や同僚、教会の人たちと話す時に、私たちの言葉に気を付けましょう。

イエス様の言葉は、人々に命を与えてくださいました。私たちの言葉もイエス様の言葉のようになるように。

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真の友だち

一生を通じて、私は親友ができて、本当に良かったと思います。良い時でも、悪い時でも、彼らは私を応援し、支えてくれました。

数年前、親友の大切さを改めて感じました。その時、私はスモールグループに参加し、5人の友だちと一ヶ月に二回ほど集まり、自分の人生について話し、聖書を読み、祈り合いました。

その時、私たちの人生は非常に大変でした。私が勤めていた会社が倒産し、私は失業中でした。他の人には、彼女とのトラブルがあったり、婚約者と別れたり、奥さんががんにかかったりしました。

そのため、私たちは皆、友人を必要としていました。そして、その友人関係と神様の助けのおかげで、私たちはその問題を乗り越えました。

ソロモンは、そんな友だちについて書きました。

友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。(箴言17:17)

また、

滅びに至らせる友人たちもあれば、兄弟よりも親密な者もいる。(箴言18:24)

私が高校生の時に、父はこう言いました。「お前は内気なのはよく知ってるけれど、親友が必要だよ。親友はたくさんいなくてもいいけれど、少なくとも一人は持っていた方がいい。」

その時期、私には友だちがいたけれど、親友がいなかった。私は本当に心を誰にもシェアできなかった。だから、父の言葉は私の心を打ちました。

そして、神様の恵みによって、親友ができました。特に、高校生時代、また、大学生の時代、その親友関係が私の人生を形作りました。

おそらく、私たちは自分自身に二つの質問を問うべきです。私たちにはそんな関係があるでしょうか。

そして、私たちはどのような友達でしょうか。私たちの友だちが困る時、彼らを助けるでしょうか。

それとも、私たちはすぐに逃げるでしょうか。19章では、ソロモンはそんな「友だち」についてこう書きます。

財産は多くの友を増し加え、寄るべのない者は、その友からも引き離される。(箴言19:4)

また、

貧しい者は自分の兄弟たちみなから憎まれる。彼の友人が彼から遠ざかるのは、なおさらのこと。彼がことばをもって追い求めても、彼らはいない。(箴言19:7)

あなたはどうですか。あなたの友だちが苦しんでいるときに、あなたは消えてしまうでしょうか。それとも、彼らを支えて、励ましてあげるでしょうか。

もちろん、彼らが経済的な問題を抱えている場合、私たちは常にお金をあげるわけではありません。しかし、私たちはできる限り、彼らが自分の問題を乗り越えるために助けてあげるべきです。

あなたは本当の友だちでしょうか。

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効果的でも

私は以前にも言いましたが、時々箴言で、ソロモンはこの世の現実を説明していますが、神様がそれを見た時、喜ばれないだろうと思います。

箴言17:8はその一つの例です。

わいろは、その贈り主の目には宝石、その向かう所、どこにおいても、うまくいく。

その箴言を読めば、ソロモンがわいろを勧めていると思うかもしれませんが、後に彼はこう言います。

悪者は人のふところからわいろを受け、さばきの道を曲げる。(箴言17:23)

ソロモンの目には、また、神様の目には、賄賂を使う人も、賄賂を受け取る人も悪者です。なぜなら、彼らは正義を曲げるからです。私たちは政治の世界でそれを見ることがあります。また、裁判所でそれを見ることがあります。

ソロモンは、そのことに関して、こう言います。

悪者を正しいと認め、正しい者を悪いとする、この二つを、主は忌みきらう。(15)

たぶん、あなたは賄賂を使ったことはないでしょう。でも、どれほど悪い方法が効果的だからといって、その方法を利用するでしょうか。

例えば、どれくらい「罪のない嘘」をつくでしょうか。

それとも、あなたは、違法にインターネットで曲やビデオをダウンロードするでしょうか。

あなたは成功するかもしれませんが、神様はあなたの仕業を見て、それを忌み嫌われます。

自分自身を騙さないようにしましょう。ある方法は効果的かもしれませんが、神様の目には罪です。

だから、神様の御言葉によって、私たちの行動を評価しましょう。その行動の効果は私たちの基準ではありません。神様の言葉が私たちの基準です。

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箴言

人間関係の築き方と壊し方

この箇所では、私たちは人間関係を築き、守るための原則を読みます。

一つの鍵は、私たちの言葉に気を付けることです。

ソロモンはこう書きました。

知恵のある者の心はその口をさとし、そのことばに理解を増し加える。

親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。(箴言16:23-24)

私たちが他の人と話す時、私たちの言葉に気を付けなくてはなりません。

私たちは何を言った方が良いか、また、いつ言った方が良いか知っているでしょうか。私たちの言葉は魂に甘く、人々を癒すものでしょうか。

そんな言葉は人間関係を築き、守ります。

その反面、

ねじれ者は争いを巻き起こし、陰口をたたく者は親しい友を離れさせる。(16:28)

ある人は、人間関係を癒すのではなく、その関係を壊してしまいます。例えば、彼らはしばしば噂をするので、いろんな人を傷つけてしまいます。

また、彼らが傷つけられた時、相手と話しをせずに、周りの人々にその人について悪口を言います。

しかし、ソロモンはこう言いました。

そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者。同じことをくり返して言う者は、親しい友を離れさせる。(17:9)

もちろん、私たちは罪を隠すべきという意味ではありません。もし、人々が本当に傷つけられた時、その罪を無視してはいけません。

とはいえ、毎日、人々は私たちに対して罪を犯します。時々、彼らはあえて罪を犯しますが、たまには、彼らは思わず私たちに対して罪を犯します。多くの場合、私たちはいらいらさせられますが、時々私たちは本当に傷つけられます。

けれども、どんな状態でも、噂をしたり、悪口を言ったりすれば、その状態は良くなりません。むしろ、その状態はもっと悪くなります。

だから、あなたが本当に傷つけられたら、相手に面と向かう方が良いです。それはイエス様の命令です。(マタイ18:15)

そして、その問題を解決するとき、その人を許してあげて、もうそのことについて話さないべきです。「もうするなと言ったでしょう?私は何回そう言わなければいけないの?」と言ってはいけません。

むしろ、過去を指さずに、相手にその問題について話すべきです。

けれども、時々、その問題が本当に小さかったら、何も言わずに、許した方が良いです。

ソロモンはこう言いました。

争いの初めは水が吹き出すようなものだ。争いが起こらないうちに争いをやめよ。(箴言17:14)

また、

そむきの罪を愛する者はけんかを愛する。自分の門を高くする者は破滅を求める。(箴言17:19)

時々、私の妻は、私の家事のやり方について文句を言います。そして、私は「細かいなぁ。どうして彼女はそんなに怒っているのだろうか」と思います。

しかし、その時、神様はこう応えられます。

「細かいかもしれないけど、簡単なことでしょう?だから、喧嘩せずに、しなさい。喧嘩すると、壁を築くだけです。そして、ずっと壁を築き続けると、あなたの結婚を壊してしまいます。」

私は自分のプライドを抑えなくてはならないけど、私の結婚にはその方がいいと思います。

実のところ、私の弱さや欠点が妻のよりも多いと思うので、妻の方が忍耐が必要だと思います。その忍耐を本当に感謝しています。

最後に、ソロモンはこう言います。

自分のことばを控える者は知識に富む者。心の冷静な人は英知のある者。(箴言17:27)

私たちが喧嘩するときには、言葉を控えて、気を付けなくてはなりません。私たちは冷静でいるべきです。なぜなら、怒りによって話すと、後でその言葉を後悔することが多いからです。

あなたはどうでしょうか。あなたの言葉は人間関係を築いていますか。それとも、その関係を壊していますか。

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箴言

私たちの心を神様の心に合わせる

私たちはしばしば、自分の計画を勝手に立て、「神様、私の計画に参加しませんか」と祈ります。

けれども、そんな考え方は間違っています。

私たちは神様に私たちの計画に参加するように招待しない方が良いです。むしろ、神様が何をしておられるのか訊いて、どうやって神様の計画に参加できるか考えた方が良いです。

ソロモンはそれを知っていたので、箴言16章では、彼はこう言いました。

人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。(箴言16;1)

また、

人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。(9)

私たちはいろんな計画を立てることができますが、最後の答えは神様から来ます。もし、私たちの計画が神様の御心に合っていないなら、その計画は上手くいきません。

ソロモンは続けてこう言います。

人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。(2)

また、

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(25)

時々私たちは自分の動機に関して、自分自身を騙してしまいます。私たちは自分が正しいことをしていると思いますが、神様は私たちの本当の動機を知っておられます。

そして、私たちは自分の立てた計画が良いものだと思っているのに、結局その計画のために大損をしてしまうことがあります。

だから、計画を立てる時、私たちはこう祈った方が良いです。

「神様、私を探り、私の心を知ってください。なぜ、私はこの計画を立てるのでしょうか。この計画はあなたから来たものでしょうか。これは私の考えに過ぎないでしょうか。」

ソロモンはこう言いました。

あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。(3)

私が以前言ったように、ソロモンは、「自分の計画を立てて、神様の祝福のために祈りなさい」と言っていません。

むしろ、私たちは主の御心に従って、こう訊くべきです。「主よ。これはあなたの御心でしょうか。私はこの道を行った方が良いでしょうか。」

私たちがすべてを神様に奉げ、自分の計画を主に委ねてこそ、私たちの計画は成功します。

ソロモンはこう言いました。

主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。(4)

神様は決して驚かれません。私たちの選択を見る時、神様は決して面食らわれません。神様は皆の選択を既に知っておられ、神様がどう反応された方が良いかを知っておられます。

だから、私たちの計画は神様の計画を決して妨げることはできません。けれども、私たちの計画が神様の計画に反しているなら、私たちの計画は失敗してしまいます。

だから、私たちはどうしたら良いでしょうか。へりくだって、神様の御心を求めるべきです。多くの人々は、神様が要らないと思うので、自分の知恵によって計画を立てます。

しかし、ソロモンはこう言いました。

高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。(18)

その反面、

みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。(20)

あなたはどうですか。

あなたの人生をどのように送っているでしょうか。あなたは勝手に自分の計画を立て、「神様、私の計画を祝福してください」と祈っていますか。神様の御心をあなたの計画に合わせようとしていますか。

それとも、あなたの計画を神様の御心に合わせようとしているでしょうか。

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その代価を本当に支払いたいの?

イエス様は弟子になることに関して、こう言われました。「費用を計算しなくてはなりません。」(ルカ14:28-33)

私たちの人生では、いろいろな費用を計算するべきです。そして、私たちは自分自身にこう訊かなくてはなりません。「私が求める物はその代価に値するでしょうか。」

ソロモンはこう書きました。

心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば気はふさぐ。(箴言15:13)

また、

悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。(15)

要するに、私たちの心の調子は私たちの喜びのレベルを左右します。

もし、心の中に主の喜びを持てば、私たちの顔は明るくなり、神様からのこの人生を楽しむことができます。

しかし、この世の重荷を背負い、サタンに圧迫されたなら、あなたの人生は本当にみじめなものになります。

だから、ソロモンはこう言います。

わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。

野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。(16-17)

お金を持てば、幸せになると思う人もいます。けれども、多くの場合、お金を持っていても、彼らは苦しみます。彼らはいつも証券市場や景気について悩んでいるからです。

また、彼らは働きすぎるため、家族との関係が悪化してしまいます。奥さんはいつも文句を言い、子供たちも父親との関係が悪くなります。

さらに、彼らは寝不足でストレスがたまり、その結果、健康も悪化します。

その一方で、お金があまりないけれど、神様との平和と家族との平和がある人もいます。

彼らは欲しがるものをすべて持っていないかもしれませんが、必要なものを持っています。彼らはちゃんと食べられるし、ちゃんと寝られるし、洋服も持っています。それに、家族の愛も持っています。

あなたは何を求めているでしょうか。その費用を計算していますか。あなたの健康や、家族や、神様との関係は上手くいっているでしょうか。上手くいっていないでしょうか。

あなたが求めるものはその代価に値するでしょうか。

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主を喜ばせる

どうやって、私たちの主を喜ばせることができるでしょうか。

ソロモンはこう書きました。

主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。(箴言15:3)

私たちは神様から隠れることができません。神様は私たちの行動を見るだけではなく、私たちの心も見ておられます。

だから、ソロモンはこう言いました。

よみと滅びの淵とは主の前にある。人の子らの心はなおさらのこと。(11)

要するに、神様が地獄でも見ることができるなら、私たちの心も神様の前では開いている本のようなものです。

だから、神様を喜ばせたいなら、正しい行動だけでは足りません。私たちの全ての心を捧げなくてはなりません。なぜなら、神様は私たちの動機も見ておられ、気にされるからです。

だから、ソロモンはこう言いました。

悪者のいけにえは主に忌みきらわれる。正しい者の祈りは主に喜ばれる。

主は悪者の行ないを忌みきらい、義を追い求める者を愛する。(8-9)

あなたはどんな「いけにえ」を神様に捧げるでしょうか。

例えば、毎週の日曜日、あなたの時間を捧げて教会に行くでしょうか。けれども、月曜日から土曜日まではどうでしょうか。その日にも、主を喜ばせるためにあなたの時間を捧げるでしょうか。

あなたは、十一献金を捧げるかもしれません。また、チャリティーに寄付するかもしれません。けれども、残りのお金はどうでしょうか。主を喜ばせるためにお金を使うでしょうか。

本当に神様を愛していないなら、神様に対してあなたのいけにえや捧げものは意味がありません。

だから、ソロモンはこれも書きました。

悪人の計画は主に忌みきらわれる。親切なことばは、きよい。(26)

この瞬間、神様があなたの心を見たら、何を見るでしょうか。あなたは心を尽くして、神様を喜ばせようと思っているでしょうか。それとも、自分自身を喜ばせようと思っているでしょうか。

また、神様があなたを懲らしめる時、あなたはどのように反応するでしょうか。あなたはへりくだって、その懲らしめを受け入れるでしょうか。ソロモンは私たちに忠告します。

愚か者は自分の父の訓戒を侮る。叱責を大事にする者は利口になる。

また、

いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る。

訓戒を無視する者は自分のいのちをないがしろにする。

叱責を聞き入れる者は思慮を得る。主を恐れることは知恵の訓戒である。謙遜は栄誉に先立つ。(31-33)

だから、あなたが神様を喜ばせたいなら、二つのことを覚えておきましょう。

一つ目は、主を喜ばせるのは、一週間に一度のことではないということです。アルバイトのクリスチャンになるのは不可能です。

あなたはクリスチャンかもしれませんし、クリスチャンじゃないかもしれません。しかし、中途半端なクリスチャンという人は存在しません。

神様は私たちの一部だけを望んでおられるのではなく、私たちのすべてを望んでおられます。

二つ目は、神様が私たちを懲らしめる時、私たちはその訓戒をへりくだって受け入れなくてはならないことです。

そうすれば、私たちは神様を喜ばせることができます。

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知恵を持って、話す

箴言では、ソロモンは、しばしば私たちの言葉に関する知恵を伝えます。特に、箴言15章では、ソロモンは私たちの言葉について話します。

柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。(箴言15:1)

人々が私たちに怒るとき、時々彼らは私たちに酷いことを言います。そして、私たちが酷いことを言い返すのは本当に簡単なことです。けれども、そうすれば、その人はもっと怒り狂い、その問題は解決できなくなります。

しかし、多くの場合、あなたが「ごめんなさい」と言いさえすれば、彼らは落ち着きます。

「でも、私は悪くなかった。どうして謝らなければならないのか。」と言う人もいます。

けれども、時々、私たちは思わず私たちの言葉や行動によって彼らを傷つけてしまいます。あなたは相手が敏感すぎると思うかもしれません。それに、彼らは実際に敏感すぎるかもしれません。

そんな場合、私はこう言います。「ごめんなさい。あなたを傷つけるつもりはなかったけど、申し訳ありません。許してくれませんか。」

そして、その以降、私の行動と言葉に気を付けます。私が悪くなかったと思うかもしれませんが、相手の気持ちを認めて、その人に対する愛のため、またキリストに対する愛のため、彼らを傷つける言葉や行動を避けます。

ある日、私はメールを友達に送って、ちょっとその人をからかいました。彼女は爆発して、酷い返事を送りました。

そんな反応は私を驚かせました。 私は悪意を持って彼女をからかったつもりはありませんでした。 以前から何度も同じようなことを言ったことがありましたが、彼女は怒らずに笑っていたのです。

だから、彼女の返事を読んだとき、私は信じられませんでした。

けれども、私にとって大切なのは、私が悪かったかどうかではありませんでした。 私たちの友情こそが何よりも大切だったのです。 だから、私はすぐに謝り、彼女は落ち着きました。

今でも、私たちは良い関係を保っています。 しかし、あれ以来、彼女と話すときには、どんな冗談を言うかに気を付けています。

実は、あれ以来、誰と話すときも、自分の冗談に気を付けるようにしています。

ソロモンは4節で続きます。

穏やかな舌はいのちの木。偽りの舌はたましいの破滅。(4)

私たちの口から、どんな言葉が出るでしょうか。私たちの言葉は相手の傷を癒すでしょうか。それとも、その言葉は相手の魂を砕くでしょうか。

実は、私がその友達に謝った理由の一つは、以前、彼女が自分のお父さんについて話してくれたことです。

つまり、彼はいつも彼女とそのお母さんに酷いことを言っていました。そして、彼女たちが傷ついたときに、彼はいつも「お前たちが繊細すぎる」と言いました。

そのとき、彼は彼女たちの魂を砕いていました。ですから、私は彼の態度を真似したくなかったのです。

ソロモンは続いて、もっとポジティブなことを言います。

良い返事をする人には喜びがあり、時宜にかなったことばは、いかにも麗しい。(23)

私たちはそのような人になるべきです。人を傷つけることを喜ばず、時宜にかなった言葉で人を励ますことを喜ぶべきです。

ソロモンはもう一つのことを言います。

正しい者の心は、どう答えるかを思い巡らす。悪者の口は悪を吐き出す。(28)

あなたはどうですか。話す前に、あなたの言葉を思い巡らすでしょうか。その言葉が癒す言葉かどうか、またその言葉が命を与える言葉かどうか、確認するでしょうか。

それとも、あなたの口から悪を吐き出すでしょうか。

あなたの口から何が出るでしょうか。

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周りの人々との平和、心の中の平和

この箇所を読むと、次の三つの箴言が私の心に響きます。

罪過のためのいけにえは愚か者をあざけり、正しい者の間には恩恵がある。(箴言14:9)

時々、私のブログを日本語に翻訳するのは難しいです。なぜなら、時々新改訳と英語の翻訳は違うからです。一つの単語にはいろんな意味があり、ヘブル語の文法は英語と日本語の文法と違うからです。

この箇所は一つの例です。

多分、文法的に、日本語の方が正しいでしょう。とはいえ、その意味はちょっと分かりにくいです。

新改訳が正しいなら、多分その意味は、愚か者が自分の罪を思い出すと、彼らは罪悪感があって、苦しむということです。

けれども、多くの英語の聖書では、この箇所はこのように翻訳されています。

愚か者は過去のためのいけにえをあざけり、正しい者の間には恩恵がある。

つまり、愚か者には罪悪感がありません。誰かが彼らに「あなたは罪を犯しました。あなたは悔い改めて、神様にいけにえを捧げるべきです」と言っても、彼らは全然悔い改める気がありません。

けれども、悔い改める人は相手と和解することができます。

私たちはただの人間です。私たちは皆、意図せずに人を傷つけることがあります。多くの場合、あなたが謝ったら、その人と和解できます。しかし、時々謝罪するだけでは足りないこともあります。

例えば、自分の子供と遊ぶと約束したけれど、急用のためにできなかった場合、もちろん謝った方が良いですが、後で、予定を空けて、彼らと遊ぶべきです。正しい人はそのようなことをします。

その一方で、愚か者、つまり、道徳観念のない人は、謝らないし、償いをするのを拒絶します。むしろ、彼らは償いをする必要がないと言い張ります。「相手が気にしすぎだ」と言います。

けれども、周りの人々と平和を望むなら、償いをしなくてはならないのです。

22節では、ソロモンはこう書きます。

悪をたくらむ者は迷い出るではないか。善を計る者には恵みとまことがある。(22)

もちろん、悪をたくらむ人は人間関係を壊します。けれども、私たちが意識して周りの人々を祝福するなら、その関係から恵みと真が生まれます。私たちが相手に親切にするなら、彼らも私たちに親切にしてくれます。

どれくらい、あなたは意識して友達を祝福するでしょうか。どれくらい、あなたの妻や夫を祝福するでしょうか。

例えば、あなたはどれくらい外食に行く時に友達におごったり、あなたの妻にバラを買ってあげたり、そのようなことをするでしょうか。

もちろん、周りの人々との平和は大切なことです。しかし、自分の心の中で平和があることも大事なことです。それに関して、ソロモンはこう言います。

穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。(30)

この箇所も、翻訳は少し難しいです。新改訳では「激しい」と書いてありますが、別の意味として「嫉妬」があります。

だから、ある英語の聖書はこう書いてあります。

嫉妬は骨をむしばむ。

あなたは満足でしょうか。周りの人々のものを見る時、ねたむことはありますか。彼らの仕事や持ち物、妻や夫を見る時、ねたむことはありますか。

嫉妬すると、骨をむしばみます。決して幸せを得ることはできません。なぜなら、良いものを持っていても、それに感謝できないからです。常に相手のものを見ているからです。

しかし、あなたが満足していれば、平和があり、神様からの賜物を楽しむことができます。

あなたはどうですか。周りの人々と平和がありますか。心の中で平和がありますか。

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私たちの創造主を侮る

どれくらい私たちは神様を侮るでしょうか。

あなたは「神様を侮る?私は、神様を侮らないよ。」と言うかもしれません。

けれども、私たちが神様が造られた人々を見下す時、実は私たちは神様を侮るのです。

ソロモンは何度もそう教えていました。

貧しい者はその隣人にさえ憎まれるが、富む者を愛する人は多い。

自分の隣人をさげすむ人は罪人。貧しい者をあわれむ人は幸いだ。(箴言14:20-21)

箴言を読むとき、時々私たちは20節のような箇所を見て考えます。「これは神様が望んでおられるのだろうか。」

実は、それは神様の希望ではありません。ソロモンは現実に実際に起きていることを説明しているだけです。金持ちはたくさんの友達がいますが、彼らのお金がなくなったら、その友だちもすぐにいなくなってしまいます。

放蕩息子の話がその一例です。(ルカ15章)

しかし、『現実』がいつも神様の望まれる姿であるとは限りません。

神様が語られたのは、私たちが人々を侮るとき、特に苦しんでいる人を侮るとき、それは実際には神様ご自身を侮っていることになる、ということです。

けれども、私たちがそのような人々を祝福するなら、神様は私たちを祝福してくださいます。

31節で、ソロモンはこう言います。

寄るべのない者をしいたげる者は自分の造り主をそしり、貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う。

17章で、ソロモンは同じようなことを言います。

貧しい者をあざける者は自分の造り主をそしる。人の災害を喜ぶ者は罰を免れない。(17:5)

どうして、私たちが人々を侮る時に、私たちは本当に神様を侮ると書いてあるのでしょうか。

二つの理由があります。

一つ目は、人々を侮る時、私たちは神様に「この人を造られた時、あなたはミスされた。この人は侮りにふさわしい人です。」と言っていることです。

二つ目は、私たちは神様のかたちとして造られたものを侮っていることです。私たちが彼らの顔につば吐きをかけたら、神様のかたちにつば吐きをかけることになります。

あなたはどうですか。貧しい者やホームレスを侮るでしょうか。弱い人を見下すでしょうか。そんな人を侮る時、私たちはイエス様を侮っているのです。

しかし、彼らに親切にするとき、私たちはイエス様に親切にしているのです。イエス様はこう言われました。

まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。(マタイ25:40)

あなたは周りの人々をどのように考えますか。

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考えなさい

私には日本人の親のことはよく分かりませんが、アメリカでは、子どもが愚かなことをしたとき、親の叱責の最後にしばしばこう言われます——「考えなさい」。

私は詳しく覚えていませんが、私の父にそう言われたことがある気がします。

この箇所では、ソロモンも「考えなさい」と言います。

利口な者は自分の知恵で自分の道をわきまえ、愚かな者は自分の愚かさで自分を欺く。(箴言14:8)

また、

わきまえのない者は何でも言われたことを信じ、利口な者は自分の歩みをわきまえる。(15)

どれくらい、私たちは考えずに行動するでしょうか。そして、その軽率な行動によって、私たちは苦しんでしまいます。特に、私たちが怒るとき、しばしば愚かなことをしてしまいます。

だから、ソロモンはこう言いました。

愚かな者は怒りやすくて自信が強い。短気な者は愚かなことをする。(16-17)

また、私たちは神様の知恵に頼らずに、自分の知恵に頼ることがあります。その時、私たちはソロモンの言葉が正しいと分かるようになります。

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(12)

それでは、私たちはどうすれば良いでしょうか。まず、ソロモンは二つの警告をします。

あざける者は知恵を捜しても得られない。しかし悟りのある者はたやすく知識を得る。

愚かな者の前を離れ去れ。知識のことばはそこにはない。(6-7)

つまり、神様からの知恵をあざけるな、ということです。聖書を読む時、「この言葉は昔の時代には合うと思う。けれども、現代には適応できない。その道徳は昔の人のためにふさわしかったかもしれないけど、もう21世紀だよ。」と言ってはなりません。

そんなことを言ったら、あなたは神様の言葉を見下しています。しかし、神様はご自分の御言葉が決して変わらないと言われます。

多くの人々は神様の知恵を捨てて、現代にふさわしい知恵を求めますが、結局見つけられません。なぜなら、神様の知恵を拒絶すると、知恵がなくなってしまうからです。

二つ目の警告は、愚か者から知恵を求めるなということです。ある人は、高ぶって、馬鹿です。彼らは神様の道を考えないし、叱責を決して受け入れません。

だから、彼らの知恵は神様の知恵に反対するものです。もし彼らの知恵に従うと、あなたは苦しんでしまいます。

では、どう生きればいいでしょうか。どうやって、最もいい道が見分けられるでしょうか。ソロモンはこう言います。

知恵のある者は用心深くて悪を避け[ます]。(16)

また、

力強い信頼は主を恐れることにあり、子たちの避け所となる。主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる。(26-27)

つまり、私たちの道を考える時、私たちは主を恐れるべきです。私たちは主に尋ねるべきです。「どの道が最も良いでしょうか。どうすれば良いでしょうか。」

そうすれば、神様は本当の知恵を教えてくださいます。

ヤコブはこう言いました。

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブ1:5)

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私たちの子供たちを懲らしめる

英語では、「Spare the rod, spoil the child」(むちを控えると、子供はだめになる)ということわざがあります。

これは聖書からきているわけではありませんが、聖書には、似ている言葉が何回も出てきます。

箴言13:24で、ソロモンはこう書きました。

むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。

時々、親はこう言います。「私は子供を愛しているので、彼らが悪いことをしても、私は懲らしめることができない。彼らの涙を見たくないから。」

しかし、ソロモンが言ったのは、「あなたは自分の子供を懲らしめないなら、本当にその子供を愛していないのです。あなたはその子を憎んでいるのと同じです。」ということです。

どうしてソロモンはそう思ったのでしょうか。他の箴言で、私たちはソロモンの答えを読むことができます。

望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。しかし、殺す気を起こしてはならない。(19:18)

つまり、子供を懲らしめないことは、その子どもを殺すようなものです。なぜなら、子供を懲らしめないなら、その子供は自分の愚かな行動によって、殺されるかもしれないから。

箴言では、この言葉もあります。

愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。(22:15)

子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。(23:13-14)

むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。(29:15)

要するに、子供たちはすべてのことを知りません。だから、彼らの愚かな行動によって、彼らは周りの人々だけではなく、自分自身をも傷つけてしまいます。最悪の事態では、彼らの行動は死に導くかもしれません。

例えば、あなたが子供に「道に飛び出すな」と決して言わなければ、どうなるでしょうか。

その一方で、あなたが「止まれ」と言う時、子供がさっそく止まることを訓練すると、その子供の命を救うでしょう。

あなたの子供を懲らしめるのは、親に対しても、子供に対しても苦しいことです。私の娘を懲らしめるのは嫌いですが、彼女の利益のために私は彼女を懲らしめます。

いろんな懲らしめ方があります。私の家では、タイムアウトのシステムを使います。娘は悪いことをしたら、自分の部屋に行かなくてはなりません。そのあと、私は彼女と話します。

彼女が2〜3歳くらいの時、私たちはそのように何回も懲らしめました。幸い、最近はそんな必要はあまりありません。

私はもう娘を懲らしめたくないです。けれども多分将来、またしなくてはならないでしょう。

あなたはどうですか。あなたの子供を愛して、懲らしめるでしょうか。

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知恵のある人と歩む

私が知っている牧師の一人は、この箇所が大好きです。

知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける。(箴言13:20)

その牧師はこの箇所をこのように説明します。

「ソロモンは、愚か者の友達が愚かになると言いません。(でも、もちろん彼らといつも時間を過ごすなら、あなたも愚かな決断をしてしまうかもしれません。)

ソロモンは、あなたが愚か者の友達になると害を受けると言います。愚か者と一緒によく遊ぶと、最終的に私たちは苦しんでしまいます。」

あなたにも、振り返るとそんな経験があるでしょうか。悪い人と遊んで、彼らの悪い行動に巻き込まれて、苦しんだことがあるでしょうか。

もちろん私はノン・クリスチャンと決して一緒に過ごしてはいけないとは言っていません。

もし彼らと時間を過ごさないなら、弟子を造りなさいというイエス様の命令をどうやって成し遂げることができるでしょうか。

でも、自分自身にこの質問をしなければなりません。誰が誰に影響を与えているでしょうか。あなたは彼らに影響を与えているでしょうか。それとも、彼らがあなたに影響を与えているでしょうか。

あなたがノン・クリスチャンに影響されないように、彼らとだけ時間を過ごすのではなく、知恵のあるクリスチャンとも時間を過ごすべきです。知恵のあるクリスチャンというのは、毎日神様と歩み、神様の声を聞く人です。

そんな人と時間を過ごせば、神様はしばしば彼らを通してあなたに話します。そして、その言葉を通して、あなたは命を得るでしょう。

あなたは誰と歩んでいるでしょうか。知恵のある人と歩んでいるでしょうか。愚か者と歩んでいるでしょうか。

神様と歩み、神様の声を聞く人から意見を受けているでしょうか。それとも、愚か者の意見を受け入れているでしょうか。

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プライド

箴言には、さまざまなテーマが繰り返し登場します。その中の一つは、プライドの危険性です。

私たちのプライドによって、どのように私たちは苦しむのでしょうか。

叱責を聞かないと、私たちは最終的に悩んでしまいます。もちろん叱責を聞くのは痛いですが、将来の苦しみから私たちを救います。

ソロモンはこう書きました。

知恵のある子は父の訓戒に従い、あざける者は叱責を聞かない。(箴言13:1)

私は父の叱責を楽しまなかった。多分、私に対する一番心を刺した父が言った言葉は「私はお前をもう信頼できない。」ということでした。

私が何回も父に嘘をついたので、彼はそう言ったのです。けれども、私は父の信頼(また、私の周りの人々の信頼)を望んだので、あれから私は正直に言うことを心掛けています。

ソロモンはこれも言います。

みことばをさげすむ者は身を滅ぼし、命令を敬う者は報いを受ける。

知恵のある者のおしえはいのちの泉、これによって、死のわなをのがれることができる。(13-14)

また、

貧乏と恥とは訓戒を無視する者に来る。しかし叱責を大事にする者はほめられる。(18)

私たちは知恵のある人の言葉を聞くと、命を見つけます。なぜなら、私たちがまだ経験していないことを、彼らは経験したからです。もし彼らの意見に従えば、私たちは彼らが落ちてしまった落とし穴を避けることができます。

しかし、私たちのプライドによって、その意見を無視すると、私たちは苦しむことになるでしょう。

私たちのプライドによって、私たちの人間関係も壊れるかもしれません。ソロモンはこう書きました。

高ぶりは、ただ争いを生じ、知恵は勧告を聞く者とともにある。(10)

実は、多くの場合私たちの喧嘩は(特に妻や夫との喧嘩は)プライドから生まれるのです。私たちは自分が悪かったと認めたくないし、自分が間違っていると認めたくありません。だから、私たちは頑固に自分の意見が正しいと言い張ります。

けれども、あなたが自分の心に素直になって認めるなら、自分が悪いと分かることがあります。

時々、私の妻は「こうするべきだよ」と言ったけど、私はそうしたくなかった。しかし、神様は私に、「あなたのプライドを離しなさい。あなたの妻の言うことを聞きなさい。」と言いました。

時々、私が確かに正しいと思ったけど、神様は私に、「あなたのプライドを離しなさい。この喧嘩は些細なことだから。」と言いました。

私たちのプライドを飲み込むのは難しいです。けれども、関係がうまくいくことを望むなら、プライドを捨てることを学ばなければなりません。それに、時々、妻や夫が正しいので、その意見に従った方が良いです。

あなたはどうですか。あなたのプライドに支配されていますか。それとも、あなたがプライドを支配していますか。

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人を傷つける言葉、人を癒す言葉

箴言12章では、18節と25節が私の心を打ったので、その箇所に焦点を当てようと思いました。

ソロモンはこう言いました。

軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。(箴言12:18)

どれくらいあなたの軽率な言葉によって、愛する人を傷つけたことがあるでしょうか。また、どれくらい相手の軽率な言葉によって、傷つけられたことがあるでしょうか。

特に、喧嘩するときに、私たちはお互いを傷つけ合ってしまいます。だから、喧嘩するときには、何を言うか気を付けなければなりません。

基本的に私たちは相手を侮辱してはいけません。

「あなたは馬鹿だね。何でそんなことをしたの?」

「あなたは敏感すぎ。」

「あなたはあまりにも感情的だよ。」

時々私たちは相手について大げさに言います。

「あなたは決して手伝ってくれない。」

「いつも遅く帰って来るなぁ。」

そんな言葉を言うと、その問題が解決できません。むしろ相手は怒って、残酷な言葉で言い返してしまいます。そして、ソロモンが言ったように、そんな言葉は剣のように心を刺します。

冗談を言う時や皮肉を使う時にも、気を付けなければなりません。時々、誰かをからかって、思わずその人を傷つけてしまうことがあります。私にもそんな経験があって、後悔しています。

私たちの言葉によって人を癒すはずですが、どれくらい私たちは彼らを傷つけてしまうのでしょうか。

25節では、ソロモンはこう言います。

心に不安のある人は沈み、親切なことばは人を喜ばす。(25)

以前言ったように、私たちは人々をからかって、思わずに彼らを傷つけてしまうことがあります。相手を傷つけなくても、あなたは彼らを励ましてあげていないかもしれません。

彼らを愛によって励ました方が良いのではないでしょうか。彼らが悩んでいるときに、彼らを励ますとしたら、どうでしょうか。

また、「あなたのために祈りましょうか」と言えば、どうでしょうか。

神様は私たちがそんな人になることを望んでおられます。イエス様はそのような方でした。

あなたはどんな人でしょうか。

あなたの言葉は人々を傷つけるでしょうか。彼らを癒すでしょうか。

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単刀直入な知恵

箴言12章は本当に単刀直入ですね。

訓戒を愛する人は知識を愛する。叱責を憎む者はまぬけ者だ。(箴言12:1)

箴言では、このテーマがよく出てきます。賢明な人になりたいなら、あなたは喜んで訓戒を受け入れるべきです。そうしないなら、あなたは…間抜けです。

また、もしあなたがすでにすべてのことを知っていると思い、アドバイスがいらないと感じるなら、それは間抜けな考え方です。15節で、ソロモンはこう言います。

愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。(15)

そして、ソロモンは生き生きとした描写を使って、単刀直入なことわざを教えています。

しっかりした妻は夫の冠。恥をもたらす妻は、夫の骨の中の腐れのようだ。(4)

二つの視点から、この箴言を読むことができます。

男性の視点では、誰と結婚するか気を付けてください。その女性の見た目がもっとも大切なことではありません。

もし、その女性がしっかりした人なら、彼女はあなたの人生を豊かにするでしょう。しかし、恥をもたらす妻はあなたの骨の中の腐れのようです。

女性の視点では、あなたはどんな妻でしょうか。あなたの夫に命と喜びを与えているでしょうか。それとも、あなたは夫の人生に腐敗を引き起こしているでしょうか。

もう一つの単刀直入なことわざ。

自分の畑を耕す者は食糧に飽き足り、むなしいものを追い求める者は思慮に欠ける。(11)

多くの人は、頑張って働かずに、ギャンブルしたり、宝くじを買ったりするので、結局、彼らはすべてをなくしてしまいます。

もし、彼らがちゃんと働いていたなら、生活できたでしょうが、彼らの金を捨ててしまったのです。

最後の単刀直入なことわざがあります。

愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。(16)

あなたはすぐ自分の怒りを現すでしょうか。あなたの夫に対して?あなたの妻に対して?あなたの同僚に対して?あなたの友達に対して?もしそうするなら、ソロモンはあなたを愚か者だと言います。

なぜなら、誰かがあなたをイライラさせるときに、あなたがいつも怒りを現すと、その人を傷つけ、その関係を壊してしまうかもしれないからです。

誰かがあえてあなたをイライラさせるときにも、爆発するより、そのことを無視した方がいいです。もし爆発すると、その人は喜んで、あなたをもっとイライラさせようとするかもしれません。

では、私はあなたが決してその人に面と向かわない方が良いと言っているのでしょうか。それは違います。もし、あなたの夫や妻や友達があなたを思わずイライラさせるなら、彼らと話した方がいいと思います。

一度話しましょう。二度話しましょう。もし何も変わらないなら、彼らを神様の手に委ねましょう。そして、忍耐のために祈りましょう。

あなたが人々を変えることができないことを覚えておきましょう。神様だけが人々の心を変えることができます。

だから、自分の努力で相手を変えようとしないでください。人を変えられる神様の御手に委ねましょう。

この箴言を見るとき、ソロモンが言ったように、間抜け者にならないように。頑固にならないでください。言い訳を言わないようにしましょう。

むしろ、私たちは賢明な人になりましょう。神様の訓戒を受け入れましょう。そうすれば、私たちのフラストレーションは減り、私たちの喜びは増えるでしょう。

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神様の恵みのパイプラインになる

もう箴言11章について書いたけど、もうちょっと24-30節を見たいと思います。

この箇所は人に恵みを与える喜びについてです。あなたが人々に恵みを与えるとき、もちろん彼らが祝福されるけど、あなたも祝福されます。ソロモンはこう書きました。

ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。(箴言11:24)

私たちは神様の恵みのパイプラインになるように呼ばれました。神様が私たちに恵みを与えてくださるとき、私たちはその恵みを周りの人々に与えるべきです。

そして私たちが周りの人々に恵みを与えるとき、神様がさらに私たちに恵みを与えるので、私たちはさらに周りの人々に恵みを与えることができます。

パウロはこの原則をこのように説明します。

神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。。。

あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。(第二コリント9:8、11)

けれども、もし私たちが自分のお金にしがみつくと、その恵みのパイプラインは詰まってしまいます。

だから、私たちの周りの人々が祝福されないし、神様は私たちの人生に恵みを注がれなくなります。なぜなら、あなたのパイプラインが詰まっているので、神様の恵みはもう入れないからです。

その反面、ソロモンはこう言います。

おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。(25)

私たちは周りの人々に恵みを与えて、恵みのパイプラインになると、私たちも潤されます。

英語では、「Random acts of Kindness](ランダムな親切な行動)という表現があります。

例えば、ホームレスの人に出会ったら、あなたはその人にお金をあげる。また、あなたは花屋を見たら、急にあなたの友だちについて考えて、その友達に花を買ってあげます。

もちろんそれは良いことです。しかし、私は「意識して親切にする人」について聞きました。その人は周りの人々をよく見て、意識して「どうやってその人を祝福できるだろうか」と思います。

彼がすぐに分かってきたのは、人々を祝福するとき、彼も祝福されることです。キリストの愛が彼を通して流れて、人々に触れることを見るとき、彼は大喜びです。

どれくらい、私たちがけちなので、その喜びを経験する機会を失うでしょうか。私たちが神様のパイプラインになったら、どれくらい私たちは喜ぶでしょうか。

ソロモンはこう言いました。

穀物を売り惜しむ者は民にのろわれる。しかしそれを売る者の頭には祝福がある。(26)

どれくらい、私たちが恵みのパイプラインを詰めるので、私たちのクリスチャンの証は汚れるでしょうか。なぜなら、周りの人々は私たちを通してキリストの愛を見ずに、自己中心の人だけを見るからです。

あなたはどうですか。周りの人々があなたに出会うとき、彼らはキリストに出会うでしょうか。

30節で、ソロモンはこう言いました。

正しい者の結ぶ実はいのちの木である。知恵のある者は人の心をとらえる。(30)

人々は私たちに出会うとき、命に出会うはずです。もし神様の愛が私たちを通して流れるなら、彼らは命に出会います。その愛は彼らを私たちに近づけるだけではなく、神様に近づけます。

ソロモンは、「知恵のある者は人の心をとらえる」と言いました。けれども、神様の愛と恵みがあなたを通して流れないなら、神様のために人の心をとらえられないです。

私は何か認めなくてはなりません。私は何回もその恵みのパイプラインを詰めたことがあります。私も変わらなくてはなりません。あなたはどうですか。あなたは神様の恵みと愛のパイプラインでしょうか。

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将来を考える

この箇所の繰り返すテーマは将来を考えることです。特に、私たちは自分の行動の結果を考えるべきです。

多くの人々はそうしません。数年前、私は「すっからかん」というアメリカのスポーツ・ドキュメンタリーを見ました。

その番組で、多くの有名なプロ選手は自分の愚かな決断について話していました。彼らは何百万円を稼いだけど、すべてを失ってしまいました。

一人の選手はヨットと二台の車と大豪邸のために7億円を払いました。もう一人の選手は、9人の女性と関係を持ち、11人の子供がいるので、その女性たちとその子供たちを養うために何百万円も支払わなくてはなりませんでした。

彼らは自分の行動の結果について全く考えなかったので、多額のお金を支払わなくてはならず、さまざまな苦しみを経験しました。

この箇所の例は違いますが、教訓は同じです。もし将来を考えないと、結局あなたは苦しみます。

プライドが私たちの人生を治めたら、私たちは没落してしまいます。自分の地位を自慢する人もいます。自分の持ち物を自慢する人もいます。また、自分の才能を自慢する人もいます。

けれども、そんなプライドは没落に導きます(2節)。その選手たちは破産して、その教訓を学びました。

ある人は経済的に賢いですが、彼らは自分の情欲に治められます。

彼らについてソロモンはこう言いました。

財産は激しい怒りの日には役に立たない。しかし正義は人を死から救い出す。(箴言11:4)

裁きの日に、彼らはソロモンの言葉が真理であることが分かります。

私たちはお金によって天国に入ることはできません。なぜなら、神様は私たちのお金を必要とされないからです。

キリストを信じる信仰に基づいて、神様から与えられる義だけが私たちを救うことができます。もしその義を拒絶したら、神様の怒りを受けることになります。

この世には力がある人もいます。けれども、もし彼らが神様の前にへりくだらないと、裁きの日にその力は彼らを救うことができません。ソロモンはこう言いました。

悪者が死ぬとき、その期待は消えうせ、邪悪な者たちの望みもまた消えうせる。(7)

新改訳では「邪悪な者」と書いてありますが、他の翻訳では「力のある人」とされています。

とにかく、邪悪な人でも、彼らが悔い改めて、へりくだったら、神様の憐みを知ります。けれども、彼らがそうしないなら、彼らの希望は無くなります。彼らの力は救うことができません。

ある人は、罪にふけっているので、本当の自由を発見したと思います。彼らは神様の道を行く人が束縛されていると思います。しかし、ソロモンはこう言いました。

潔白な人の道は、その正しさによって平らにされ、悪者は、その悪事によって倒れる。

直ぐな人は、その正しさによって救い出され、裏切り者は、自分の欲によって捕らえられる。(5-6)

つまり、私たちが神様の道を行くなら、私たちの人生はうまくいきます。しかし、自分の道を行くと、私たちは最終的に滅びてしまいます。私たちの結婚や他の人間関係を壊してしまいます。私たちが頑張って築いたものも壊れてしまいます。

それに、私たちが自由だと思っていたのに、自分の情欲に束縛されていることに気づくでしょう。その情欲によって私たちの人生が壊れているのに、変わることができないと分かるようになります。

どれくらいの人々がギャンブルや、お酒や、麻薬や、不倫によって、自分の人生を壊しているのに、自分自身を止められないでしょうか。

この箇所の後半では、ソロモンは他の人々について話します。彼らも自分の行動の結果を予想できません。

ある人が誰に話すかに気をつけないので、彼らの秘密がばれてしまいます。(13節)

ある人がほかの人々の知恵を求めずに、自分の知恵だけに頼るので、彼らの人生はダメになってしまいます。(14節)

ある人は、お金を儲けることに集中して、人間関係を無視するので、彼らは誉れと愛をつかめず、ずっと独りぼっちです。(16節)

ある美人はどう生きるか、誰に自分の心を与えるべきなのか気をつけないので、傷つけられてしまいます。(22節)

ある人の人生がうまくいくとき、誰にも助けてあげないので、彼らの人生が苦しくなる時、誰も彼を助けてあげません。(24節)

ある人が自分の行動が家族にどんな影響を与えるか気にしないので、その関係は壊れてしまいます。(29節)

私たちは将来を考えないと、苦しむことになります。この世で苦しむかもしれないし、裁きの日に苦しむかもしれません。

あなたはどうですか。どのように生きているのでしょうか。あなたの将来を考えているでしょうか。

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あなたはどんな名前を持っているでしょうか。

シェイクスピアはこう聞いた。「名前はなんだ?」

ソロモンはこう答えました。

正しい者の呼び名はほめたたえられ、悪者の名は朽ち果てる。(箴言10:7)

例えば、人々がヒトラーという名前を聞くと、悪いイメージがすぐに浮かびます。多分だれも自分の子供にその名前をつけないでしょう。

でもクリスチャンがヤコブや、ノアや、マリヤや、ハンナという名前を聞くと、良いイメージが浮かびます。実は、アメリカでは、ヤコブとノアは、今でもとても人気の名前です。

あなたにはどんな名前があるでしょうか。つまり、あなたにはどんな評判があるでしょうか。それは大部分あなたの人生によります。

ソロモンはこう書いた。

知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみである。(1)

知恵のある人はどんな人でしょうか。

  • 彼らは勤勉で、よく働きます。(4-5)
  • 彼らは権力を認めて、戒めを受け入れます。(8,17)
  • 彼は正直な人です。(9)
  • 彼らは人々に赦してあげます。(12)
  • 彼らの口から命が流れます。(11)
  • 彼らの口から知恵がえられます(13,31)。
  • 彼らがいつ黙った方がいいか分かります(19,32)。
  • かれらの言葉は、人々を養います(21)。
  • また、彼らは絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めます。 (第二テモテ4:2)

朽ち果てる名前のある人はどんな人でしょうか。

  • 彼らは怠けている。(4-5、26)
  • 彼らは戒めを受け入れないので、思慮がないです。それに、ほかの人々をその悪い道に導きます。(8、13、17)
  • 彼らは心の中で憎しみを抱いて、人々を傷つけます。(11-12)
  • 彼らの言葉に気を付けないので、周りの人々を傷つけます。時々、彼らは自分自身も傷つけてしまいます。(8、14、19ー21)

あなたはどんな人でしょうか。人々はあなたを見るとき、どんな人を見ますか。

あなたが亡くなると、彼らはあなたについて何を思い出すでしょうか。

あなたを知っている人々を祝福する名前を残すでしょうか。もしくは朽ち果てる名前を残すでしょうか。

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知恵:良い方向に変わる気がある

神様の私たちに対する愛と受け入れを、罪の許可と取り間違える人もいます。

彼らは「神様はもう私を受け入れてくださっているなら、どうして私は変わらなくてはならないだろうか。好きなように生きてもいいんじゃないか。」と思います。

しかし、この箇所によれば、知恵のある人は良い方向に変わる気持ちがあります。

この箇所は二つの招きで始まり、終わります。一つ目の招きは知恵から来ます。彼女は自分の家を整え、私たちが入るように招きます。彼女はこう言います。

「わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい」と。

また、思慮に欠けた者に言う。「わたしの食事を食べに来なさい。わたしの混ぜ合わせたぶどう酒を飲み、(箴言9:4-5)

多くの人々は自分の行動の結果を全く予測できません。彼らはどんなふうに生きても、すべてが何とかなってしまうと思います。けれども、彼らの道は痛みに導き、最終的には死に至ります。

だから、知恵は叫びます。「その道を行き続けないでください。あなたのわきまえのない道を捨ててください。私はより良い道を示します。その道は命に導きます。」

しかし、愚かな女はこう言います。

わきまえのない者はだれでもここに来なさい。。。盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい。(箴言9:16-17)

(知恵のように、ソロモンは愚かさを女性と比べています。もしまだ読んでいないなら、昨日の記事を読んでください。)

要するに、「どうぞ自分の道を生き続けてください。罪は甘いものですよ。罪はおいしいし、あなたを喜ばせるから。」

あなたはどんな人ですか。良い方向に変わる気がありますか。

もちろん、神様はあなたをありのままで愛しておられます。けれども、神様があなたを愛しておられるなら、あなたを泥に住むままには残したくないのです。

ソロモンはこう書きました。

あざける者を戒める者は、自分が恥を受け、悪者を責める者は、自分が傷を受ける。

あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。

知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。知恵のある者に与えよ。彼はますます知恵を得よう。

正しい者を教えよ。彼は理解を深めよう。(箴言9:7-9)

イエス様はこのように言われました。

聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。(マタイ7:6)

イエス様は犬や豚(つまり、あざける者)に聖なるものや真珠を与えてはならないと言われます。(その文化では、犬と豚には悪いイメージがありました。)なぜなら、彼らはその知恵に感謝せず、あなたを攻撃するからです。

けれども、知恵の真珠を知恵のある人に与えると、ソロモンは彼らがもっと賢くなると言います。

だから、私たちは自分自身にこう問うべきです。私たちは知恵のある人でしょうか。もしかしたら、私たちは犬や豚でしょうか。

人々があなたを戒めるなら、どうしますか。あなたはその言葉を反省するでしょうか。それとも反省せずにその言葉を拒絶するでしょうか。

あなたはへりくだって、人々からの戒めを受け入れられるでしょうか。それよりも、神様からの戒めを受け入れられるでしょうか。それをしてこそ、あなたは本当の知恵と命を見つけることができます。

だからソロモンはこう書きました。

主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。

わたしによって、あなたの日は多くなり、あなたのいのちの年は増すからだ。

もし、あなたが知恵を得れば、その知恵はあなたのものだ。

もし、あなたがこれをあざけるなら、あなただけが、その責任を負うことになる。(箴言9:10-12)

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神様のみ言葉を正しく理解する

時として、人々は聖書をどのように読めばよいか分からず、聖書の内容を正しく理解できないことがあります。

たとえば、関係のない箇所を組み合わせてしまい、奇妙な解釈や誤った理解が生まれることがあります。箴言8章と第一コリント1章24節は、その一例です。

たとえば、エホバの証人は箴言8章を読んで、「この箇所はイエス様のことを語っている」と考えます。なぜそう思うのでしょうか。

それは、「知恵」が人間のように語っているからです。特に22ー31節では、知恵がこう語っています

主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。

大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。(箴言8:22-23)

また、

地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。(29-30)

だからエホバの証人はこう言います。

「第一コリント1:24によれば、キリストは神の知恵です。

ですから、箴言8章では、イエス様が語っているのです。この箇所によれば、神様は創造の働きを始める前から、イエス様を立てられました。つまり、神様がイエス様を造られたのです。

だからイエス様は神様ではなく、神様の被造物なのです。」

けれども、箴言7章から8章を丁寧に読むなら、その考え方が誤っていることに気づくはずです。

残念ながら、新改訳の表現ではその誤解が見えにくいかもしれません。それでも、7章と8章を通して、知恵が女性として描かれていることがわかります。

実際、新改訳でも7:4にその描写が見られます。

知恵に向かって、「あなたは私の姉妹だ」と言い、悟りを「身内の者」と呼べ。

そして、8章でも、ヘブル語で、こう書いてあります。

知恵は呼ばわらないだろうか。英知は彼女

これは丘の頂、道のかたわら、通り道の四つかどに彼女は立ち、門のかたわら、町の入口、正門の入口で彼女は

英語の翻訳を読むと、「彼女(she)」という表現が明確に使われていることがわかります。

それを見ると、おそらくエホバの証人の解釈に問題があることに気づくでしょう。彼らは「イエスは箴言8章の知恵である」と主張しますが、イエス様は女性ではありません。

それでも彼らは、箴言の箇所と第一コリントの箇所、さらにコロサイ1:15ー17節を組み合わせて、「イエス様は神ではなく、被造物である」と結論づけます。

しかし、そのようなまとめ方をすれば、聖書からどんな主張でも導き出せてしまうことになります。

「ユダは」外に出て行って、首をつった。(マタイ27:5)

するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)

さあ、自殺しようか。

それは極端で愚かな話です。けれども、文脈を無視して関連のない箇所を組み合わせると、そのような誤った解釈が生まれてしまいます。

ですから、聖書を読むときには、必ずその箇所の前後を丁寧に読みましょう。そうしないと、エホバの証人のように、私たちも誤った考えに導かれてしまうかもしれません。

箴言7章から8章にかけて、ソロモンは何を語ろうとしているのでしょうか。知恵は本当に女性なのでしょうか。そうではありません。彼は比喩を用いて、知恵を女性になぞらえているのです。

そして、ソロモンはこう語ります。 「知恵はあなたを呼びかけています。不貞な女があなたを誘惑するように(7章参照)、知恵もあなたに語りかけているのです。

しかし、不貞な女はあなたを死へと招いています。

知恵はあなたを真の命へと導きます。神様が天地を創造された時、知恵は神様とともにおられました。そして、知恵を通して、すべての被造物はどのように生きるべきかを知ることができるのです。」

知恵によって、王たちは治め、君主たちは正義を定めます。知恵によって、支配者たちは国を導きます。

今、知恵は分別のない者に呼びかけています。知恵を通して、あなたも分別を身につけることができます。思慮深さを得て、祝福にあずかることができるのです。

知恵を見出すなら、この世のどんな宝物にもまさる価値あるものを見つけることになります。

知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これには比べられないからだ。(11)

実は、私は少し古い歌「More Precious Than Silver」(銀にまさる)がとても好きです。この歌は箴言8:11と3:15節に基づいています。

その歌の作詞者の意図は分かりませんが、おそらく彼はその箇所を正確に理解していなかったのでしょう。きっと「知恵はイエス様のことだ」と考えたのだと思います。

だから、彼はこう書きました。

「主よ、あなたは銀にまさります。あなたは金より価値があります。あなたはダイヤよりも美しいです。私が求めるものは、何もあなたに勝るものはありません。」

もちろん、イエス様はすべてにまさるお方です。とはいえ、箴言のこの箇所では、知恵は「男性」ではなく「女性」として描かれています。

とにかく、私たちは主を求めましょう。主の知恵を求めましょう。ただし、その言葉を正しく読み、正しく理解することが大切です。

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簡単に騙される

私の娘が保育園に通っていたころ、運動会に行きました。「釣り」をする競技があって、子供たちは「釣り場」まで走って、プレゼントを捕まえようとしました。実を言うと、そこにいる先生がそのプレゼントをフックに付けてくれました。

アメリカでは、ボウルにいる金魚を捕まえるゲームがありますが、その運動会のゲームはもっと簡単でした。私の娘はほとんど何もしませんでしたが、そのプレゼントを捕まえることができました。

とにかく、英語では、「It’s like catching goldfish」、つまり「金魚を捕まえるようだ」という表現があります。その意味は「それをすることはとても簡単。」ということです。

多くの人々はその金魚のようです。そして、悪魔が彼らを騙して、引っ掛けるのは本当に簡単です。ソロモンはこの箇所で、例を挙げています。

ある若い男性がすぐにトラブルに陥りました。なぜでしょうか。

一つの理由は彼が思慮に欠けたからです。彼はずっとわきまえのない者たちと一緒に遊びました。その友達も道徳観念がなかった。そして、彼は現在のために生きて、将来を全然考えませんでした。

二つ目の理由は、彼が怠け者だったからです。また彼は深夜にうろついて、退屈していました。彼は全然予定がなかったので、不倫の女性の計画にすぐに従ってしまいました(8-9)。

彼女は家を出て、人前で厚かましく彼に口をつけ、こう言いました。「私の夫は出張中です。明日まで帰りません。私はあなたをずっと見ていて、待っていました。あなたのためにすべてを整えました。食事とか、私のベッドとか。」

14節では、彼女は「和解のいけにえをささげた」と語っています。それは神様との平和の象徴であり、神様への感謝のしるしでもありました。

この儀式の一部には、いけにえの肉を持ち帰り、家族とともに祝って食べるという習慣が含まれていました。

そのような神聖な感謝の食事を用いて、この女性は若い男性を誘惑しようとしたのです。本来なら、神様への感謝をもって夫と共に分かち合うべきものでした。

その男性はわきまえのない人だったので、彼はほふり場に引かれる牛のように彼女の家に入りました。

ソロモンは彼がその罪に落ちて、自分の命がかかると言いました。なぜなら、その主人がその罪を知ったら、多分彼を殺すからです。その主人が決して知ることがなくても、神様はきっとその男性を裁かれます。

だから、ソロモンは自分の息子に警告します。

あなたの心は、彼女の道に迷い込んではならない。

その通り道に迷ってはならない。彼女は多くの者を切り倒した。

彼女に殺された者は数えきれない。彼女の家はよみへの道、死の部屋に下って行く。(箴言7:25-27)

どうやって、私たちはその男性の運命を避けることができるでしょうか。

まず、神様の知恵を求めましょう。その知恵をあなたの仲間にしましょう。ソロモンはこう言いました。

知恵に向かって、「あなたは私の姉妹だ」と言い、悟りを「身内の者」と呼べ。(4)

二つ目は、怠けてはいけません。目的がなくて、町中でうろついたら、トラブルを招きます。退屈は多くの人々を罪に導きます。多分、あなたはそのことをもうご存知かもしれません。

最後に、罪から逃げましょう。罪は魅力的に見えるかもしれませんが、神様の言葉を知っているなら、その罪が悪いものであることがすぐに分かります。

だから、罪を見ると、すぐに逃げましょう。そうしないと、誘惑がもっと強くなって、あなたはその誘惑に負けるかもしれません。

私たちがわきまえのない人にならないように。むしろ、知恵の道を歩んで、主を恐れましょう。

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罪に執着する

現代のテレビドラマで、不倫の話がよく出ています。それはごく普通のトピックのようです。それでも、多くの人はその教訓を学びません。

そのテレビ番組でも、人々は不倫して、大変な結果が出ます。人は傷つけられるし、人間関係は壊れるし、時々、人は殺されます。

テレビ番組でも、「あ、あなたは私の妻と寝ているのですか。どうぞ、続けてください。」と言う人は一人もいないと思います。

だから、ソロモンはこう言いました。

人は火をふところにかき込んで、その着物が焼けないだろうか。また人が、熱い火を踏んで、その足が焼けないだろうか。

隣の人の妻と姦通する者は、これと同じこと、その女に触れた者はだれでも罰を免れない。(箴言6:27-29)

そして、ソロモンはこう言います。もし、誰かが飢えているので、食べ物を盗むなら、裁判官は同情するかもしれませんが、その人を罰します。

けれども、ほかの男性がある人の妻と寝るなら、その夫は全然同情せずに、その人に対して復讐しようとします。ソロモンはその不倫する男性についてこう言いました。

彼は傷と恥辱とを受けて、そのそしりを消し去ることができない。

嫉妬が、その夫を激しく憤らせて、夫が復讐するとき、彼を容赦しないからだ。

彼はどんな償い物も受けつけず、多くの贈り物をしても、彼は和らがない。(33-35)

だから、ソロモンは「あなたの心を守りなさい」と言います。「不倫するな。また、売春婦を避けなさい。」

ソロモンはこれも言いました。

遊女はひとかたまりのパンで買えるが、人妻は尊いいのちをあさるからだ。(26)

つまり、売春婦はあなたのお金を全部取ってから、いなくなります。そして、不倫すると、あなたの結婚と家族は壊れるし、性病にかかるかもしれません。もしかしたら、あなたは殺されるかもしれません。

しかし、不倫だけではなく、すべての罪は人々を滅ぼします。

だから、罪に執着にしないように。その罪は魅力的かもしれませんが、最終的にはその罪は火のようにあなたに火傷を負わせます。またその罪は私たちのものを取って、私たちを滅ぼします。

むしろ、私たちを愛し、私たちの罪のために十字架で命を捧げられた方を求めましょう。毎日、イエス様をさらに深く愛することを学び続けましょう。そうすれば、真の愛と真の命に出会うことができます。

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箴言

悪魔の子のようにふるまうのか?神様の子のようにふるまうのか。

この箇所では、ソロモンは「よこしまな人」について話します。ある英語の翻訳では、「役に立たない人」と翻訳されます。

その人は自分のために生きて、どんな権力でも反対するので、神様に対しても、人間に対しても全然役に立たない人です。

聖書では、日本語の「よこしま」という言葉は、ヘブル語の「ベリアル」という言葉です。

ベリアルはサタンの名前の一つです。だから、「よこしまな人」は「ベリアルの子」です。

イエス様に対する悪意のあるユダヤ人に、イエス様はこう言われました。

あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。

悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。

彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。(ヨハネ8:44)

そんな人は、話すときにも、目くばせをしても、指でさしても、足で合図しても、悪い意図があります。ソロモンは神様がいつかそんな人を罰されると言います。

そして、ソロモンは神様が憎むものについて話します。

1. 高ぶる目。

彼らは高ぶって、人々を見下します。それに、彼らは神様をご覧になるとき、そむく態度を取ります。

C.S.ルイスは「プライドは最悪の罪」と言いました。なぜなら、プライドは人々の間に距離を置くし、神様と人間の間に距離を置くからです。

2. 偽りの舌。

多くの人々は偽りを軽く考えますが、神様にとっては、偽りは本当に深刻なことです。嘘をつく人は悪魔の子です。なぜなら、イエス様は「悪魔は偽りの父である」と言われるからです。

あなたはいつも真理を言うでしょうか。

3. 罪のない者の血を流す手。

アガサ・クリスティーのエルキュール・ポアロの口癖は「私は殺人に同意しない。」ということです。

けれども、神様は殺人に同意しないだけではなく、殺人を憎まれます。なぜなら、人が殺されたら、神様が大事にされるものが滅びるからです。

神様が私たちを造られたので、私たちにはすごい価値があります。

しかし、心に留めておきましょう。もしあなたが誰かを憎むなら、あなたの心の中で彼らを殺したようなものです(第一ヨハネ3:15)。

そうすると、あなたはサタンの道を行っています。なぜなら、彼は初めから人殺しだったからです。

4. 邪悪な計画を細工する心。

時々私たちは思わず罪を犯してしまいます。例えば、悪いことが起きるので、私たちは怒って、悪いことをしてしまいます。

もちろん、それでも、あなたの罪に言い訳はありません。しかし、神様にとって、あなたが悪いことをする計画を立てたら、それはより悪いです。

思わず罪を犯すのと、あえて罪を犯すのは別のものです。

5. 悪へ走るに速い足

ためらわずに罪を犯す人もいます。彼らには全然良心がないみたいです。彼らは自分の良心を押さえつけ、彼らにとっては、罪は魅力的なものです。それに、彼らは罪を喜び、その罪について自慢します。

6. まやかしを吹聴する偽りの証人。

この人は隣人に関して嘘をつきます。彼らは人々を中傷して、その評判を汚します。噂をする人も評判を汚せます。

7. 兄弟の間に争いを引き起こす者。

神様は私たちを平和をつくる者として呼ばれます。けれども、平和を作りたいよりも、争いを引き起こしたい人がいます。彼らは噂したり、「あなたについて、だれだれさんが何を言ったか知っていますか?」と言ったりします。

彼らの目的は和解ではなく、その距離をもっと広げることです。神様はそのような態度が大嫌いです。

あなたはどうですか。このふるまいのリストにはあなたに関連があるでしょうか。悔い改めましょう。

あなたは神様の子供のようにふるまっているでしょうか。悪魔の子のようにふるまっているでしょうか。

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箴言

経済的に安定する

私が経済のことについて話すのが特別な資格がないので、経済のことについて話すのはちょっと気まずいです。けれども、ソロモンは経済について話すので、彼が何を言ったか読みましょう。

箴言では、お金についてのアドバイスがたくさんあります。この箇所では、二つの助言があります。

一つ目は、誰かの保証人にならない方がいいということです。特にローンのために保証人にならない方がいいです。

日本では、そのアドバイスはちょっと厳しいです。私たちがアパートを借りるとき、普通、不動産屋は保証人を要求します。また、日本のビザを得るために私は保証人が必要でした。

だから、この箇所によると、私たちは決して保証人にならないべきでしょうか。そうではないと思います。

とはいえ、もしあなたが保証した人が困窮するようになり、代わりにあなたが支払いを求められるとしたら、その金額を支払うことができるでしょうか。あるいは、その支払いによって、あなたの経済状況が本当に厳しくなることはないでしょうか。

もしあなたの生活に支障がないのであれば、その人の保証人になってもよいでしょう。

けれども、もしあなたがその金額を支払えないのであれば、こう伝えるべきです。

「すみません。私はあなたのことが好きですし、あなたを信頼しています。でも、私たちの未来はまだ見えていません。

もし、あなたの状況が悪化して、私が代わりに支払わなければならなくなったら、私自身の経済も立ち行かなくなってしまいます。」

投資について考えるときにも、同じ原則が当てはまると思います。私も投資をしていますが、たとえそのお金が失われたとしても、私の家族が困ることはありません。(もちろん、それはとても痛いことですが。)

つまり、投資をするときには注意が必要です。もし投資したお金が失われた場合に家計が苦しくなるようであれば、そのお金は投資すべきではありません。

次のソロモンの助言は、一見するとただの常識のように思えるかもしれません。それでも、多くの人々はその常識に従っていません。その助言とは、できるだけ長く働き、将来のために貯蓄することです。

日本には「フリーター」と呼ばれる人々がいます。彼らには安定した仕事がありません。中には、教育の機会に恵まれず安定した職に就けない人もいれば、そもそも働く意欲があまりない人もいます。

私が読んだある記事によれば、少しだけ働いて貯金し、その後仕事を辞めて、お金が尽きるまで遊ぶ人々がいるそうです。そして、お金がなくなると、再び仕事を探します。彼らはその生活パターンを繰り返し続けているのです。

しかし、ソロモンは彼らに関して、こう言います。

なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。

蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。

なまけ者よ。いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。

しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(6-11)

要するに、そのような生活を続けていると、貧しさに陥ってしまいます。その生き方は近視眼的であり、先を見据えた知恵が欠けています。

さらに、そのような生活は神様にまったく栄光をお返ししません。なぜなら、神様から授かった才能を無駄にしているからです。そして、いつか神様の御前で、自分の歩みについて申し開きをしなければならなくなるでしょう。

だから今日、ソロモンから二つの助言を受け取ることができます。

  • 第一に、もしあなたに十分な資金がないなら、他の人の保証人になることは避けましょう。また、投資をする際には、どれほどの金額を投資するか慎重に判断してください。
  • できるだけ長く働き、将来のために貯蓄することを心がけましょう。
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箴言

あなたの妻(夫)を喜ぶ

箴言の中でいくつかの姦淫に関する箇所があります。これはその一つの箇所です。

この世では、多くの人々は結婚の意味が分からなくなりました。だから、彼らはセックスに関しても、分からなくなりました。

結婚というのは、人々は互いに相手を喜び合うことを学んで、一体となることです。それは性的だけではなく、感情的に、また霊的に一体となることです。

二人が一体になると、その関係はほかの人間関係と比べられません。彼らは互いに相手のことを全く知っているけど、全く受け入れ合います。

ある日、私はこんな言葉を書いているTシャツを見ました。”Love is blind.”(愛は盲目です。)

それは間違っていると思います。本当の愛はすべてを見るけど、相手を受け入れて愛します。相手のすべてを見ても、その人を喜びます。

夫婦にそんな関係があれば、彼らはスリルを感じます。なぜなら、彼らは互いに愛し合ったり、受け入れたりするからです。

あなたは相手に裁かれないし、他の人と比較されません。むしろ、あなたはありのままで受け入れられます。それに、あなたの欠点と弱さがあるのに、相手があなたを喜ぶことを知っています。

一方で、不倫する人はどうですか。彼らはそんな関係ができません。

もし、彼らが自分の夫か妻を捨てて、あなたと不倫すると、いつか彼らはあなたを捨てて、ほかの人と不倫するかもしれません。

彼らがそうしなくても、あなたはその疑いと不安を感じるでしょう。もし、彼らが現在の夫か妻をあなたと比較するなら、将来、彼らはあなたをもっと素敵な人と比べ始めるかもしれません。

その不倫する人は自分の愛が彼らをどこに連れていくか知りません。彼らはただ自分の感情についていくからです。また、彼らは自分の道がどんなに曲がったか知りません。

ソロモンはそんな人に関して、こう書きました。

その女はいのちの道に心を配らず、その道筋は確かでないが、彼女はそれを知らない。(箴言5:6)

そんな人とは長期の関係ができません。最初、その関係は楽しいかもしれないけど、最終的にその関係はあなたの口に苦い味を残してしまいます。

ソロモンはこう書きました。

他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。

その足は死に下り、その歩みはよみに通じている。(箴言5:3-5)

それに、姦淫の道は永遠の死に導くかもしれません。この個所では、ソロモンは私たちに警告します。神様は私たちを見て、私たちの罪を裁かれます。

それだけではなく、姦淫は物理的な死に導くかもしれません。例えば、嫉妬深い夫か妻の手であなたは殺されるかもしれません。もしくはエイズやほかの性病によってあなたは死ぬかもしれません。

また、姦淫によって、あなたは経済的に苦しむかもしれません。そして、どれぐらい、人々は自分の夫か妻を捨てた後で、すぐ自分の恋人に振られるでしょうか。

だから、ソロモンはこう言いました。

あなたの水ためから、水を飲め。豊かな水をあなたの井戸から。

あなたの泉を外に散らし、通りを水路にしてよいものか。それを自分だけのものにせよ。

あなたのところにいる他国人のものにするな。

あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。愛らしい雌鹿、いとしいかもしかよ。その乳房がいつもあなたを酔わせ、いつも彼女の愛に夢中になれ。(箴言5:15-19)

つまり、あなたの時間とエネルギーを不倫するために使わないようにしましょう。その関係は最終的に幸せに導かないからです。

むしろ、あなたの夫を喜びましょう。あなたの妻を喜びましょう。彼らの愛に夢中になりましょう。

神様が彼らを愛しておられるように、私たちも彼らを愛することを学びましょう。また、神様があなたを愛しておられるように、あなたも彼らに愛されることを学びましょう。

そうすれば、結婚における満足、そして性的な面でも満たされるようになるでしょう。

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箴言

足元に注意する

「足元にご注意ください。」

私たちが危険な状態に入っているとき、人々は私たちにいつも警告してくれます。そして、この世には、いろんな落とし穴があります。

だから、ダビデはソロモンにその落とし穴について警告して、ソロモンも自分の息子に警告しました。

彼はこう言いました。

わが子よ。聞け。私の言うことを受け入れよ。そうすれば、あなたのいのちの年は多くなる。

私は知恵の道をあなたに教え、正しい道筋にあなたを導いた。

あなたが歩むとき、その歩みは妨げられず、走るときにも、つまずくことはない。

訓戒を堅く握って、手放すな。それを見守れ。それはあなたのいのちだから。(箴言4:10-13)

ダビデとソロモンが自分の息子たちに警告したように、神様も私たちに神様の息子と娘として警告してくださいます。

神様が私たちを正しい道に導いておられるので、私たちが神様に従うと、周りの人々が躓くかもしれませんが、私たちは決して躓きません。もし、神様のみ言葉を見守るなら、私たちは命の道を見つけます。

どれぐらい、クリスチャンのリーダーたちはその教えを見守らなかったので、躓いたでしょうか。

彼らを批判するのは簡単なことですが、私たちが気を付けないと、私たちも躓くでしょう。私たちも同じ罪に落ちるでしょう。

だから、ソロモンは「足元に注意しなさい」と警告します。

また彼は、「罪人の道を避けなさい。むしろ、日に照らされる道を歩みなさい。その道は命に導くから。」と言います。

ソロモンはこう言いました。

義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。

悪者の道は暗やみのようだ。彼らは何につまずくかを知らない。(18-19)

要するに、私たちがイエス様に従えば従うほど、イエス様は真理をもっと表してくださるし、私たちの道はもっとはっきりします。

しかし、聖書の光を拒絶すると、私たちは目が見えなくなって、躓き、落とし穴に落ちてしまいます。

ソロモンはこの個所をこの言葉でまとめます。

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(23)

要するに、あなたの心に何が入らせるか気を付けましょう。また、あなたの心がどこに行かせるか気を付けましょう。あなたの心を危ない所に行かせないようにしましょう。

むしろ、

あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。

あなたの足の道筋に心を配り、あなたのすべての道を堅く定めよ。

右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。(25-27)

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箴言

知恵を尊重する

この箇所では、ソロモンはその父ダビデの言葉を思い出します。ソロモンにとって、その言葉は本当に印象に残りました。ダビデはこう言いました。

父は私を教えて言った。

「私のことばを心に留め、私の命令を守って、生きよ。知恵を得よ。悟りを得よ。

忘れてはならない。私の口の授けたことばからそれてはならない。

知恵を捨てるな。それがあなたを守る。これを愛せ。これがあなたを保つ。

知恵の初めに、知恵を得よ。あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ。

それを尊べ。そうすれば、それはあなたを高めてくれる。それを抱きしめると、それはあなたに誉れを与える。

それはあなたの頭に麗しい花輪を与え、光栄の冠をあなたに授けよう。」 (箴言4:4-9)

ソロモンはその言葉に感動したので、神様がソロモンに「あなたに何を与えようか。願え。」と言われたとき、ソロモンは富や力を願いませんでした。むしろ、知恵を願いました。神様は喜んでその知恵を与えてくださいました。

そのように、もしあなたが知恵を求めると、神様はその知恵をあなたに与えてくださいます。ヤコブはこう言いました。

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブ1:5)

しかし、どれぐらい私たちは知恵を尊重するでしょうか。私たちは知恵を積極的に求めているでしょうか。

特に、あなたは聖書から知恵を求めているでしょうか。毎日時間を取って、聖書を読むでしょうか。どれぐらい読むでしょうか。

多くのクリスチャンは日曜日だけに聖書を読みます。後は、彼らは「聖書の断食」をします。

だから、私たちの人生を送る時、私たちは知恵がないので、どうして私たちの人生がうまくいかないか分かりません。

だから、ソロモンはこう言いました。

知恵の初めに、知恵を得よ。あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ。(7)

けれども、知恵を学ぶだけでは十分ではありません。その知恵に従うべきです。ヤコブはこう言いました。

ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。

そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。(ヤコブ1:6-8)

時々、人々は神様から知恵を求めるけど、その知恵を聞くと、神様の道が最も良いかどうか疑います。だから、彼らは自分の道を行き続けます。

けれども、そのような人は人生に安定を決して見つけられません。むしろ、その人は自分の状況やほかの人々の意見によって、吹かれて揺れ動いてしまいます。

しかし、私たちは知恵を尊重し、その知恵に従うと、平和や安定と誉を見つけます。

あなたはどうですか。知恵を尊重していますか。

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箴言

愛と忠実さ

愛と忠実さ。この世では、その二つのものは見つけられません。だから、たくさんの人間関係、特に結婚の関係は壊れています。

ソロモンはこう書きました。

恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。神と人との前に好意と聡明を得よ。(箴言3:3-4)

その恵みは「変わらない愛」という意味です。そして、たくさんの英語の翻訳は「誠」という言葉を「忠実さ」と翻訳します。

神様に対する愛と忠実さはどういう意味でしょうか。それは、神様に信頼するので、従うという意味です。

簡単に言うと、あなたに対する神様の愛の確信を持って、あなたがその信仰によって生きることです。

ソロモンはその真理をもっと説明します。

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。

あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。(5-7)

私たちが神様を愛するなら、私たちは全く神様に信頼します。私たちが何をしても、私たちがどこにいても、私たちは自己中心の生活を送らず、神様中心の生活を送ります。そして私たちの知恵に頼らずに、神様の知恵に頼ります。

時々、それは難しいです。正直に言うと、多くの場合、それは難しいです。

特に難しいところは、私たちの家計です。ソロモンはこう書きました。

あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。(9-10)

あなたが十一献金が新約聖書の教えであることを信じるかどうか分かりませんけど、はっきりしているのは、あなたのお金は実はあなたのものではないことです。あなたは、代価を払って買い取られたのですから(第一コリント6:20)。

そして、もし、自分の体をもって、神の栄光を現わすべきなら、お金によって、神の栄光を現わすべきです。

十一献金に反対する多くの人々は、自分の心で「これは私のお金です。私は好きなように使える権利がある。」と思います。

もちろん、あなたの給料の10%は神様に属しません。実は、すべては神様のものです。あなたは、ただその神様が与えてくださるお金の管理人です。

だから十一献金を捧げても、捧げなくても、あなたはこう聞かなくてはならない。「神様、私がどうやってこのお金を使えば良いか教えてください。これはあなたのものだから。」

そして、私たちは神様の懲らしめを謙遜に受け入れなくてはなりません。ソロモンはこう書きました。

わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。

父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。(11-12)

私たちが聖書を読むとき、また教会の説教を聞くとき、厳しいことを聞くこともあります。その時、聖霊様は私たちを懲らしめてくださいます。

例えば、私たちの結婚の関係に関して、また、子供との関係に関して、神様は私たちに話してくださいます。もしくは、私たちの家計や仕事に関して話してくださいます。

そして、神様の懲らしめを聞くのは辛くて、私たちはその言葉を全然聞きたくないです。

けれども、私たちが本当に神様を愛するなら、その言葉に従います。私たちの知恵に頼らずに、神様の道を選びます。

そうすれば、神様は私たちが命と平和を得ると約束してくださいます。(16-18)

また私たちはその知恵にしがみつき、神様を恐れると、ほかのものを恐れる必要がないです。(21-26)

しかし、私たちは周りの人々にも愛と忠実さを与えるべきです。ソロモンはこう言いました。

あなたの手に善を行なう力があるとき、求める者に、それを拒むな。

あなたに財産があるとき、あなたの隣人に向かい、「去って、また来なさい。あす、あげよう」と言うな。(27-28)

つまり、周りの人々を祝福する機会があれば、待たないでください。すぐにその人を祝福してください。

また、彼らを裏切らないでください。なぜなら、神様はあなたを見ておられるし、そんな人々に反対されるからです。

最後に、ソロモンはこう言いました。

あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。

知恵のある者は誉れを受け継ぎ、愚かな者は恥を得る。(34-35)

私たちが神様の知恵をあざけり、自分の道を行くことを決めたら、蒔いたものを刈り取ります。つまり、恥や悲しみや死を刈り取ります。

けれども、あなたが謙遜に、神様の懲らしめを受け入れて、神様の道を行くなら、神様はあなたに命や、恵みや、平和や、誉れを与えてくださいます。

あなたはどうするでしょうか。

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箴言

柔らかい心を保つ

昨日の記事では、神様とその知恵に対する固い心を持つ危険を見ました。けれども、この箴言2章では、神様とその言葉に対する柔らかい心を持つ祝福を見ます。

ソロモンはこう書きました。

わが子よ。もしあなたが、私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちにたくわえ、あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に向けるなら、もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。

主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。(箴言2:1-6)

神様とその言葉に対する柔らかい心を持つというのは、どういう意味でしょうか。

1. 神様の言葉を受け入れることです。

「あなたの言葉は良いし、正しい」と認めることです。

2. 神様の言葉をあなたの心に蓄えることです。

私たちはよく神様の言葉を聞いて同意しますが、すぐにその言葉を忘れてしまいます。

けれども、それでは物足りないです。私たちはその言葉に思いを巡らし、その言葉を生かすべきです。

3. あなたの耳を知恵に傾けることです。

つまり、神様は聖書や牧師や友達を通して話されるとき、私たちは自分の心を開かなくてはなりません。しかし、多くの場合、私たちは「もう知っているよ」または「その言葉は私の場合に当てはめられないよ」と言います。

しかし、柔らかい心はその言葉を受け入れ、その言葉によって変えられていきます。では、知恵が心を変えるために、私たちはどうすればよいのでしょうか。

4.あなたの心を英知に向けるべきです。

「この言葉はどういう意味でしょうか。どうやってこの言葉を私の人生に当てはめられるでしょうか」と聞いた方がいいです。

また、

5.悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげるべきです。

つまり、私たちは神様から英知と悟りを求めるべきです。

自分の人生に聖書のことばをどう当てはめればよいか分からないときでも、そのことばを捨ててはなりません。「私の人生には関係ない」と言ってはなりません。

むしろ、神様に尋ねてみましょう。そうすれば、

主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられる。(6)

さらに、知恵に従うことを決めて、また、神様の道を行くことを決めたら、勝利を得ることができ、神様は私たちを見守ってくださいます。その知恵は私たちを悪の道から救い出してくださいます。

悪者は知恵を拒絶するので滅びますが、私たちは命を見つけます。

あなたはどうですか。神様とその知恵に柔らかい心を持っているでしょうか。積極的にその知恵を求めているでしょうか。その知恵をあなたの人生に当てはめているでしょうか。

そうすれば、満ちたりた人生を見つけることができます。

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知恵を拒絶すると

この箇所では、神様の知恵を拒絶し、自分の知恵に頼る危険を見ることができます。

この個所を読むと、ノアの話を思い出します。洪水が来る前に、ノアはずっと人々に警告していました。

この個所の「知恵」のように、広場でノアは声を上げたでしょう。

「わきまえのない者たち。あなたがたは、いつまで、わきまえのないことを好むのか。あなたには道徳観念がないので、悪魔の言葉にすぐに騙され、悪に落ちてしまいます。(箴言1:22a)

(実は、箴言で、「わきまえのない者」というのは、道徳観念がなく、すぐに騙される人という意味です。)

多分、ノアは「知恵」のように、「いつまで、あなたは神様の言葉をあざけることを楽しむでしょう。いつまで神様の言葉を憎むでしょうか。」と尋ねていました。(22b)

そして、神様はノアを通して、彼らにこう叫んだでしょう。

「わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。しかし、むしろ、あなたはわたしを拒絶します。

わたしの手を伸ばすのに、あなたは顧みません。あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、わたしの叱責を受け入れません。」(23-25)

そして、洪水が来ました。その時、おそらく彼らはやっと神様に叫びましたが、神様は応えてくださいませんでした。彼らが神様を探しても、見つけられませんでした。なぜでしょうか。

なぜなら、彼らは知識を憎み、主を恐れなかったからです。だから、彼らの行ないの実を食らいました。(31)

彼らの背信は自分を殺し、彼らの安心は自分を滅ぼしました。(32)

けれどもノアとその家族は主に従ったので、恐れずに、安全でした。

あなたはどうですか。

道徳観念がなくて、罪を犯しても安心するなら、あなたは結局滅びてしまいます。あなたの人生はめちゃくちゃになるし、最終的に地獄に行ってしまいます。

そして、地獄に行くなら、もう遅すぎます。つまり、悔い改める機会がありません。むしろ、あなたは自分の行いの実を食べます。

しかし、あなたが生きている間に、まだ希望があります。

だから、悔い改めてめましょう。神様の叱責を受け入れましょう。あなたの耳を開きましょう。

あなたの心が柔らかいなら、神様は自分の心をあなたに開いてくださいます。神様は命の道を教えてくださいます。天国への道だけではなく、この世にどうやって満ちた人生を送れるか教えてくださいます。

そして、あなたの人生は神様の喜びと平和で満ちます。

ノアのように、神様の声を聞いて従いましょう。そして、嵐が来るとき、あなたは恐れずに安心して生きることができます。

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私たちは誰に相談するべきか

私は高校生の時、「Who to listen to」(誰に相談するべきか)という歌を聞きました。その歌詞はこうでした。

誰に聞いた方がいいか、誰に聞かない方がいいかを知っていなくてはなりません。

さまざまなアドバイスがあちこちから来ます。

だから、誰に聞いた方がいいか、誰に聞かない方がいいかを 決めなくてはなりません。ーーエイミー・グラント

それはソロモンのメッセージです。

最初に、彼は私たちが誰に聞いた方がいいか教えます。

わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである。(箴言1:8-9)

私たちの両親が神様の御言葉に合うことを教えてくださる限り、そのアドバイスを聞いた方がいいです。なぜなら、私たちよりも、彼らがいろんなことを経験しているので、私たちに知恵を与えてくださるからです。

振り返ると、私は父からいろんなことを学びました。父は特に、友達の大切さと正直に言う大切さを教えてくれました。その会話は本当に短かったけど、今でも、その教えを覚えています。

時々父に叱られて、その教訓は痛かったです。けれども、その教訓によって、私は成長したので、私は感謝しています。

とにかく、ソロモンは言い続けます。

わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならない。(10)

この場合、ソロモンは私たちが罪人に従い、ほかの人々を襲わないように警告します。

けれども、周りの人々は私たちをいろんな罪で誘惑するかもしれません。例えば、私の友達は同僚に海外旅行に行って売春婦と遊ぶことに誘われました。彼は断りました。

しかし、時々ほかの人々は愚かなので、エイズやほかの性病にかかりました。

時々、ある人々はあなたの最善を望んでいるけれども、聖書に反するアドバイスを与えます。例えば、「彼女を愛しているでしょう?彼女と関係をもってもいいよ。一緒に住んでもいいよ。」と言います。

しかし、その結果はどうなるでしょうか?妊娠してしまったり、中絶したりして、いろんな苦しみが来るのです。

あなたは誰に聞いていますか。あなたは誰から助言を求めていますか。

どの助言を聞いても、その助言を神様の御言葉と比べてください。聖書に合うなら、その助言に従ってください。けれども聖書に合わないときは、聖書に従ってください。

そうすれば、問題を避け、本当の喜びを見つけます。

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知恵はどこから始まるか

それでは、箴言を始めましょう。

実は、どのように箴言について書くかちょっと迷いました。なぜなら、箴言にはいろんなテーマがあるし、一つの章でも、いろんなテーマがあるからです。

最初は、「テーマごとに整理してみようか」とも考えましたが、最終的には、いつも通りの進め方で書くことに決めました。

初めに、ソロモンがどうして箴言を書いたか説明します。

これは、知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するためであり、正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり、わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためである。

知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る。これは箴言と、比喩と、知恵のある者のことばと、そのなぞとを理解するためである。(箴言1:1-6)

箴言は誰のために書かれたのでしょうか。まず、わきまえのない者や若者のためです。(4)

つまり、彼らに分別を与えるためです。要するに、彼らが実世界に入る時、良い決断ができるようにするためです。

さらに、ソロモンは彼らに知識と思慮を授けたいと願っていました。そうすることで、彼らが自分の経済や人間関係において賢く決断できるようになるのです。

けれども、ソロモンは知恵がある者のためにも書きました。そして、箴言を通して、彼らは自分の理解を深め、指導を得ます。

私たちが年を取れば取るほど、「私はもう知っている」という態度を取ることが容易になります。

しかし、ソロモンが言っているのは、私たちが自分の知恵を深めなければならないということです。私たちの勉強は決して終わらないのです。

なぜなら、賢い人でも、知恵を忘れてしまい、愚かな決断をして、自分の人生を壊してしまうことがあるからです。

実は、ソロモンもそうでした。彼はこの世界で一番賢い人だったのに、自分の悪い決断によって自分の人生を壊してしまいました。

さて、知恵のカギは何でしょうか。ソロモンは7節でそのカギを教えてくれます。

主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。(7)

箴言9:10で、ソロモンはこれも書きました。

主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。(9:10)

知恵がある者は主を恐れます。私たちが主を恐れ始めると、私たちは知恵を知り初めます。

なぜでしょうか。なぜなら、神様は私たちの創造主だからです。神様は私たちの人生がどのようにうまくいくかを知っておられます。もし、何かのデザインを知りたいなら、そのデザイナーに尋ねた方がいいです。

しかし自分の道に行こうとしたら、最終的にあなたは困ってしまいます。

私たちは「愚か者」と聞いたら、「馬鹿な人」だと考えます。もちろん、自分の道を行くと、あなたはいろんな愚かな決断をしてしまいます。

けれども、聖書によれば、愚か者は堕落する人です。

私たちが神様とその知恵を侮ると、愚かな決断をして、私たちは損なわれます。私たちは神様の形として造られました。しかし、私たちの罪はその形に傷をつけてしまいます。

どれぐらい、あなたは鏡を見て、神様の形を見ずに、損なわれたイメージを見るでしょうか。

神様は私たちが完全になるように望んでおられます。また、神様は私たちが神様の形を映すことを望んでおられます。

けれども、そのために、私たちは神様とその知恵を受け入れなくてはなりません。神様から知恵を求めれば、神様は喜んで与えてくださいます。

愚か者にならないでください。すべてのことをもう知っていると思わないでください。

箴言を読むとき、あなたの心を開きましょう。その知恵を受け入れましょう。神様があなたに語りかけ、神の形にあなたを形成してくださるように祈りましょう。

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詩篇

息のあるものはみな。。。

いよいよ最後の詩篇に入りましょう。詩篇150篇は、まことにふさわしい言葉で締めくくられています。

息のあるものはみな、主をほめたたえよ。(詩篇150:6)

どこで、私たちは神様をほめたたえるべきでしょうか。神様の天の聖所と、この地の聖所で賛美するべきです。

神様の聖所は教会の建物だけではないことを覚えておくべきだと思います。むしろ、クリスチャンとして、私たちは神様の聖所です。

神様が私たちの中に住んでおられるので、私たちは神様の聖所なのです。だから、私たちの人生は神様に対する賛美になるべきです。

どうして、私たちは神様をほめたたえるべきなのでしょうか。

一つ目の理由は、神様は偉大な方で、私たちの賛美に相応しい方であることです。

それに、神様は私たちの近くにおられ、私たちを愛しています。だから、神様はイエス様を私たちの罪のために死なせるために送ってくださいました。そして、自分の力によって、神様はイエス様をよみがえらせました。

それに、神様の御業はまだ続いています。今でも、神様は自分自身を表し、人々を救っています。

どのように神様をほめたたえるべきでしょうか。

大喜びをもって、ほめたたえましょう。トランペットや、弦の琴や立琴や、タンバリンや、フルートを演奏して、ほめたたえましょう。私たちの踊りでも、主をほめたたえましょう。

私はダビデのことについて考えます。彼が本当に張り切って、踊ったり歌ったりしたので、彼の奥さんは彼を責めました。

「あなたはバカのように踊った。全然王のようにふるまわなかった。」と言いました。

しかし、ダビデはこう返事しました。

私はその主の前で喜び踊るのだ。私はこれより、もっと卑しめられよう。私の目に卑しく見え【る】。(第二サムエル記6:21-22)

それが私たちの態度となるように。私たちはいつも神様を賛美し、賛美にふさわしい神様に向かって「ハレルヤ」と叫びましょう。

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詩篇

歌うとき、戦うとき

多くの人々にとって、詩篇149篇は気持ち悪く感じられる部分があるでしょう。特に6節以降は少し読みにくいでしょう。

この詩篇の前半では、詩人は人々に神様を賛美するように招きます。なぜなら、神様は私たちの創造主であり、私たちの神だからです。詩人は、楽器で神様を賛美し、また踊りをもって賛美しようと呼びかけます。

私は全然踊れませんが、人々が神様を踊りを通して賛美する様子を見ると、感動し、祝福されます。

また、神様を賛美するために人々が楽器を演奏するとき、私は神様に近づくことができます。私の教会では、プロのヴァイオリニストがよく演奏しており、その賛美の雰囲気は本当に素晴らしいです。

私自身、賛美の時間を楽しみますが、神様はもっと喜んでおられます。たとえ音痴でも、楽器が演奏できなくても、踊れなくても、あなたが賛美するときに、神様は喜ばれます。詩人はこう言います。

主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる。(詩篇149:4)

神様は私たちの才能よりも、私たちの心を喜ばれます。私たちが神様を愛し、賛美するとき、神様は喜ばれます。

また、私たちがへりくだって、神様に信頼するとき、神様は私たちを救いで飾ってくださいます。だから私たちは喜ぶべきです。私たちは神様から何も値しないのに、神様は私たちに永遠の命を与えてくださいます。

けれども、この詩篇の後半は、少し気持ち悪く感じるかもしれません。なぜなら、詩人は私たちに神様を賛美するように招き、その後、神様のために戦うように招くからです。つまり、神様に反抗する人々と戦い、神様の裁きを行うことです。

イスラエル人がカナンに着いたとき、そうしなければなりませんでした。

神様はカナン人が悔い改めるために何百年も待っておられましたが、彼らはさらに悪化しました。だから、彼らの罪が満ちたとき(創世記15:16)、神様はイスラエル人を裁きを行うために遣わされました。

もちろん、私たちはそのイスラエル人ではありませんが、この詩篇は私たちにとってどんな意味を持つのでしょうか。

私たちは霊的な戦争に入っていることを覚えておかなければなりません。しかし、私たちの敵は人間ではありません。むしろ、霊的な力が人々を用いています。

だから、私たちは人々と戦わずに、その背後にある霊的な力と戦っています。

そして、私たちの武器は刀ではなく、神様のみ言葉です。そのみ言葉は、

生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(へブル4:12)

だから私たちは人々と戦わないのです。むしろ、彼らが救われるために私たちは戦います。

私たちのメッセージは裁きのメッセージであり、救いのメッセージです。

信じる人々に対し、私たちはイエス様の名前によって、神様の赦しを宣言する権利があります。

しかし、神様の言葉を拒絶する人々に対しては、私たちは裁きのメッセージを伝える権利があります。(ヨハネ20:23)

だから忘れないでください。もちろん、私たちは神様を賛美するように招かれました。けれども、私たちは戦うようにも招かれています。罪に迷った人々のために戦わなければなりません。

だから、戦いに走りましょう。

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詩篇

礼拝の招き

ワーシップ・リーダーのトミー・ウォーカーは、「All the Saints Join In

(すべての聖徒たちは参加しよう)という歌を歌っています。この歌は、詩篇148篇に基づいています。

詩篇148篇では、詩人がすべての被造物に神様を賛美するように呼びかけています。天使、太陽、月、鳥、地上の被造物、海の生き物、王たち、若者、年老いた人々までもが、神様を礼拝するように招かれているのです。

なぜでしょうか。

主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。(13)

つまり、神様はすべての栄光にふさわしい方です。もし神様の被造物に栄光があるのなら、神様にはどれほどの栄光があるでしょうか。だからこそ、神様は私たちの賛美にふさわしい方なのです。

しかも、

主は、その民の角を上げられた。主のすべての聖徒たち、主の近くにいる民、イスラエルの子らの賛美を。(14)

聖書において、角は力の象徴です。ですから、私たちが打ち倒される時にも、神様は私たちのそばにいて、私たちを強め、救い出してくださいます。

ダビデ自身もそのような経験をしました。また、イスラエルの民がバビロンに追放された時にも、彼らは神様の救いを経験しました。

現代においても、神様はイスラエルの民に再び国を与えてくださいました。

最も良い例は、私たちが罪のゆえに地獄に値する者であった時、神様が私たちを愛し、救うためにイエス様を送ってくださったことです。イエス様は、私たちの救いの角なのです。(ルカ1:69)

イエス様はこの世におられた時、神様を現し、十字架の上で私たちの罪のための罰を受けてくださいました。ですから、イエス様の御業によって、私たちは赦され、新しい命をいただいたのです。

神様はまことに、私たちの賛美にふさわしい方です。ですから、すべての被造物と共に、神様を賛美しましょう。

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詩篇

神様を信頼するとき

詩篇146篇では、神様が私たちの信頼にふさわしい方であることが示されています。この詩篇は、神様に信頼することの結果を私たちに教えています。

イスラエルの民は長い間神様に背き、信頼することを怠ってきました。むしろ、自分自身や偽りの神々、周囲の国々に頼っていたのです。その結果、国は崩れてしまいました。

しかし、エズラ、ネヘミヤ、ハガイ、ゼカリヤのリーダーシップのもとで、彼らは再び神様に立ち返り始めました。こうして、癒しのプロセスが始まったのです。

向かい始めました。だから、癒しのプロセスが始まりました。

詩人はこう書きました。

主はエルサレムを建てイスラエルの追い散らされた者を集める。

主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。(詩篇147:2-3)

そして、詩人はイスラエルの民に、神様の偉大さを思い起こさせました。また、なぜ神様が私たちの賛美にふさわしい方であるのかを思い起こさせます。それは、神様がすべてのものを造り、支えておられるからです。(5–9)

また、詩人はイスラエルの民に、神様が人間や動物の力に心を動かされることはないと教えています。むしろ、

主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。(11)

だから、詩人はイスラエル人を励まします。

「あなたの人生において、神様をほめたたえましょう。神様が私たちの門を強め、私たちを祝福し、平和を与え、必要を満たしてくださることを心に留めておきましょう。」

そして、詩人は彼らに、神様がほかの国々にはご自身を現さず、イスラエルにだけご自身を現して祝福してくださったことを思い起こさせます。

しかし、ヘブル人への手紙の著者によれば、神様は預言者たちだけを通してご自分を現されませんでした。今はイエス様を通して、神様はご自分を現してくださいます。だから、私たち皆はイエス様を通して、神様に近づくことができます。

また、神様はイエス様にあって人間となられたので、私たちをよく理解でき、私たちに対して情け深いです。

だから、その確信を持って、神様に近づきましょう。私たちは神様を信頼しましょう。そうすれば、癒しと祝福、そして平和を見いだすことができます。

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詩篇

私たちの信頼にふさわしい神

多くの場合、私たちは人々にがっかりさせられます。私たちは彼らの助けと励ましを期待しますが、結局彼らはそうしてくれません。

だから、詩人はこう書きました。

君主たちにたよってはならない。救いのない人間の子に。(詩篇146:3)

イスラエルの歴史の中で、彼らは敵に脅されたとき、神様の助けを求めずに、周りの国々の助けを求めました。

その結果は何でしたか。その国々はイスラエルを裏切りました。または、彼らは最終的にイスラエルを助ける力がありませんでした。

だから、その時代の預言者たちのように、詩人はこう言いました。

幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は。

主は天と地と海とその中のいっさいを造った方。とこしえまでも真実を守り【ます】。(詩篇146:5-6)

しかし、神様は王たちやその王国だけを見守っておられるわけではありません。神様はご自身を愛する、苦しんでいる人々のことも見守っておられます。

神様は、抑圧されている人々、飢えている者、囚人、盲人、在留異国人、やもめ、みなしごと共におられます。彼らが苦しむことがあっても、神様は決して彼らを見捨てることはありません。そして、彼らの必要に備えてくださいます。

以前も述べたように、神様は無限の方であるだけでなく、私たちと共におられ、私たちを愛してくださいます。

ですから、あなたが苦しんでいる時も、そうでない時も、この無限であり、私たちを愛しておられる神様に近づきましょう。

そして、イザヤの言葉を心に留めておきましょう。

[神様]を信じる者は、あわてることがない。(イザヤ28:16)


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詩篇

私たちの無限の神、私たちに近い神

ある日、私はA Praying Lifeという本を読みました。残念ながら英語版しかありませんが、英語ができるなら、ぜひ読んでみてください。私は本当にその本をお勧めします。

とにかく、その本では、著者は神様の本質の二つについて話します。

一つ目は、神様が無限の方であることです。

二つ目は、神様が私たちに近い方であることです。

神様について考えるとき、両方のことを覚えていなければなりません。そうしないと、私たちの祈りは影響を受けます。

もし神様が無限の方であることを忘れたら、私たちの心の中で神様の力を制限してしまいます。もちろん、神様は何でもできるのですが、私たちがそう思わないなら、祈ることができません。

その反面、もし私たちが神様が私たちに近く、私たちを本当に愛していることを忘れたら、私たちは祈りません。なぜなら、「神様はこの小さいことに興味がないだろう」と思い始めるからです。

しかし、神様は私たちの人生の細かいことにも興味を持っておられます。そう思わないなら、もう一度詩篇139篇を読んでください。

詩篇145篇では、ダビデが両方のことを覚えていたことが分かります。最初に、彼は神様の偉大さについて歌います。

主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測り知ることができません。

代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、あなたの大能のわざを告げ知らせるでしょう。

私は栄光輝くあなたの主権と、あなたの奇しいわざに思いを潜めます。(詩篇145:3-5)

けれども、何度も、彼は私たちに対する神様の愛について歌います。

主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。(8)

また9節です。

主はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。(9)

そして13-16節で、彼はこう歌います。

あなたの王国は、永遠にわたる王国。あなたの統治は、代々限りなく続きます。

主は倒れる者をみなささえ、かがんでいる者をみな起こされます。

すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。

あなたは御手を開き、すべての生けるものの願いを満たされます。(13-16)

また、18-20節で、彼はこう歌います。

主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。

また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。

すべて主を愛する者は主が守られる。(18-20)

ダビデはそのことをすべて信じたので、この詩篇の最初で、彼はこう叫びました。

私の神、王よ。私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。

日ごとにあなたをほめたたえ、あなたの御名を世々限りなく賛美します。(詩篇145:1ー2)

あなたはどうでしょうか。神様が無限の方であることを信じていますか。神様があなたの人生に立ちはだかる山に取り組むことができると信じていますか。また、神様があなたの敵に向き合うことができると信じていますか。

そして、神様があなたを愛しておられるゆえに、あなたを助けてくださるという確信がありますか。

神様の無限のご性質と深い愛を、決して忘れることのないようにしましょう。

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詩篇

勝利を与えてくださる神

多分、戦いの前に、ダビデは詩篇144篇を書いたでしょう。けれども、興味深いことは、ダビデがこの詩篇を賛美の言葉で始めたことです。

大変な状況に直面するとき、私たちは普段最初に、「神様、助けてください」と祈ります。しかし、ダビデはこう歌いました。

ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。(詩篇144:1)

私はこの歌を読むと、ヨシャパテの話を思い出します。彼が戦うとき、兵士たちの前に歌手たちを送りました。そして、彼らはこう歌いました。

主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。(歴代誌第二20:21)

この詩篇にも、ダビデは戦うときに、神様に対する信仰を言い表しました。自分の軍隊や盾に頼らずに、神様に頼りました。彼はこう歌いました。

主は私の恵み、私のとりで。私のやぐら、私を救う方。私の盾、私の身の避け所。私の民を私に服させる方。(詩篇144:2)

そして、8篇のように、ダビデはどうして神様が彼を愛しているのかを思い、驚きました。

彼は神様の愛を確信し、神様が戦いの中で彼を助けてくださることを願いました。また、神様が彼を敵から救い、彼の民に平安と繁栄をもたらしてくださるように祈りました。

そして、彼はこう歌って、この詩篇を終えました。

幸いなことよ。このようになる民は。幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。(15)

あなたはどんな戦いに直面しているでしょうか。職場や学校や家庭でも、戦いがあるかもしれません。

一日の始まりに心配事を考えず、まず神様を賛美しましょう。神様があなたを愛していることを覚え、その知識に安心しましょう。

もし、あなたの周りに争いがあれば、神様の平和があなたを通して流れるように祈りましょう。

そして、その戦いがあなたに対しても、周りの人々に対しても、さらに敵に対しても、祝福となるように祈りましょう。

なぜなら、私たちの敵は本当の敵ではないからです。イエス様は彼らのためにも死んでくださったのです。

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詩篇

どこに向かうか

私たちは困った時に、どこに向かうでしょうか。人々が私たちに反対するとき、私たちは助けを得るためにどこに行くでしょうか。ダビデは何度も自分にその質問をしなくてはなりませんでした。

ダビデも多くの人々のように、自分自身に頼ることができたでしょう。自分の力や知恵に頼ることができたでしょう。

しかし、彼は神様に向かいました。彼はこう祈りました。

主よ。私の祈りを聞き、私の願いに耳を傾けてください。あなたの真実と義によって、私に答えてください。(詩篇143:1)

暗闇の中で、自分の失望から、彼は叫びました。

私に行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。

主よ。私を敵から救い出してください。私はあなたの中に、身を隠します。

あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。(詩篇143:8-10)

どれほど私たちは神様に頼らず、自分の力で問題に取り組もうと思うでしょうか。どれほど私たちは神様の言葉を聞かず、自分の知恵に頼るでしょうか。

ダビデはそうしませんでした。むしろ、彼は神様に何をすべきか尋ね、神様の知恵に頼りました。また彼は聖霊様の導きに従いました。

ヤコブはこう言いました。

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブ1:5)

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詩篇

自分の嘆きを神様の前に注ぎ出す

以前、詩篇57篇と一緒にこの詩篇について話しましたが、今回は詩篇142篇だけについて話したいと思います。

ダビデがこの詩篇を書いたとき、サウルかアブサロムから逃げて洞穴に隠れていました。だから、ダビデは牢に入っているように感じていました。(詩篇142:7)

洞穴から彼は神様に叫びました。

私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表わします。(詩篇142:2)

彼は本当に苦しんだので、時々彼のトラブルを大げさに言いました。彼はこう言いました。

私の右のほうに目を注いで、見てください。私を顧みる者もなく、私の逃げる所もなくなり、私のたましいに気を配る者もいません。(4)

実は、ダビデの周りには彼の兵隊たちがいました。彼らはダビデを愛し、本当に忠実でした。

また、ダビデがサウルから逃げたとき、親友(また、サウルの息子)ヨナタンはダビデを見つけて、励ましました。

また、ダビデがアブサロムから逃げたとき、他の親友がダビデを助け、アブサロムの計画を無にしました。

時々、私たちが試練に直面するとき、実際よりも状況を悪く考えることがあります。だから、文句を言ったり、自分の問題を大げさに言ったりします。

しかし、私たちがそうしても、神様は私たちをよく理解しておられます。だから、嘆きを注ぐとき、神様は私たちを責めずに、憐れみを注いでくださいます。

ダビデは、神様が彼を受け入れておられることを知っていたので、神様に正直に祈ることができました。

そして、神様が彼と共にいて、素晴らしい計画を持っておられることを知っていたので、ダビデはこう歌いました。

私の霊が私のうちで衰え果てたとき、あなたこそ、私の道を知っておられる方です。(3)

また、

あなたは私の避け所、生ける者の地で、私の分の土地です。(5)

だから、試練に直面するとき、ダビデのように、自分の嘆きを神様の前に注ぎ出しましょう。神様があなたを責めないことを心に留めておきましょう。

また、神様が私たちのために計画を持っておられる確信を捨てないようにしましょう。もし神様が私たちと共におられるなら、私たちは乏しいことがありません。

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詩篇

私にかかわる計画を成し遂げてくださる神

詩篇137篇は少し憂鬱な詩篇でしたが、138篇は励ましてくれる詩篇です。なぜなら、この詩篇では、詩人(ダビデ)が神様に焦点を当てているからです。

ダビデがこの詩篇を書いた時期ははっきりしませんが、多分王になった後に書いたと思われます。

この詩篇を書きながら、彼は自分の人生や、神様が彼をどのように守り導いてくださったかを振り返っていたかもしれません。

彼はこのように歌い始めました。

私は心を尽くしてあなたに感謝します。天使たちの前であなたをほめ歌います。 (詩篇138:1)

どうしてダビデは神様をほめたたえたのでしょうか。それは、ダビデに対する神様の恵みとまことのためです。

つまり、ダビデが苦しんで神様に叫んだとき、神様は天から手を伸ばして助けてくださいました。

また、ダビデが殺されると思ったとき、神様は彼に勇気を与えてくださいました。

だから、ダビデが振り返ったとき、神様の偉大さと忠実さを見ることができました。神様はダビデに対するすべての約束を守りました。

だから、ダビデはこう歌いました。

主よ。地のすべての王たちは、あなたに感謝しましょう。彼らがあなたの口のみことばを聞いたからです。

彼らは主の道について歌うでしょう。主の栄光が大きいからです。(4-5)

また、神様の忠実さによって、ダビデは確信を持ってこう言いました。

主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。(8)

あなたは疑いと戦っているでしょうか。迷って、神様に捨てられたと思いますか。

あなたの人生を振り返り、神様のあなたに対する忠実さを思い出してください。イエス様が十字架であなたのために何をしてくださったかを思い出してください。

あなたをキリストに導いてくれた人々のことを思い出してください。また、あなたがイエス様に出会った時の状況を思い起こしてください。そして、神様がその時から今日までしてくださったことを思い出してください。

その同じ神様は今でもあなたと共におられます。神様はあなたを見捨てられなかった。私たちがどんなに失敗しても、神様の恵みはとこしえにあります。

そして、「主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。」

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詩篇

私たちを試みに会わせないように

詩篇140篇では、主の祈りのように、ダビデは「悪からお救いください」と祈りました。

詩篇141篇も、主の祈りに似ている点があります。この詩篇では、ダビデは祈りました。

私たちを試みに会わせないように。(マタイ6:13)

特に、ダビデはこう祈りました。

主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。

私の心を悪いことに向けさせず、不法を行なう者どもとともに、悪い行ないに携わらないようにしてください。私が彼らのうまい物を食べないようにしてください。(詩篇141:3-4)

ダビデは二つのことを気にしました。つまり、彼の言葉と思いを気にしました。

最初に、彼は祈りました。「私の口から悪い言葉が出ないように」

多くのクリスチャンは口の罪と戦います。彼らは文句を言ったり、噂をしたり、人々を傷つけたりします。私もそんな罪と戦います。時々その誘惑に負けてしまうこともあります。

でも、ダビデは自分の思いも気にしました。彼は祈りました。「私の心を悪いことに向けさせないように。私は悪者の生活を見たら、彼らをねたまないように。」

もし私たちが罪について考えて、悪者をねたんだら、罪に落ちるのは簡単なことです。

イエス様は私たちの思いについて注意を促されました。イエス様が言ったのは、もし私たちが心の中で兄弟に対する怒りを抱いたら、心の中で彼らを殺したのと同等であるということです。(マタイ5:21-22)

また、

だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(マタイ5:28)

神様は私たちの行いだけでなく、私たちの心や思いも気にされます。ダビデはそのことを知っていたので、神様に彼の口と心を守ってくださるように祈りました。

そして、彼は謙遜な態度と柔らかい心のために祈りました。彼はこう祈りました。

正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。それは頭にそそがれる油です。私の頭がそれを拒まないようにしてください。(詩篇141:5)

私たちの多くは、責められるのが嫌いです。でも、ダビデは、それを注がれる癒しの油のように受け入れました。

ダビデがバテ・シェバの夫を殺し、彼女と結婚したとき、預言者ナタンは彼を厳しく責めました。ダビデにとって、その言葉は本当に苦しかったと思います。

しかし、彼はその言葉を受け入れて、悔い改めました。だから神様は彼を赦してくださいました。

これは誘惑と戦うカギの一つです。私たちは神様の懲らしめを受け入れなくてはなりません。神様が私たちを責めるとき、私たちは柔らかい心が必要です。そして、悔い改めなくてはなりません。

この詩篇の終わりで、ダビデはもう一度、神様が彼を敵から救い出すように祈ります。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)

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詩篇

悪からお救いください

そろそろ、詩篇の学びを終えると思います。これまで4か月ほどかかり、あと2週間ほどかかると思います。

とにかく、詩篇140篇を読むとき、私は主の祈りを思い出します。

イエス様は私たちにこのように祈るべきだと教えました。

悪からお救いください。(マタイ6:13)

この詩篇では、ダビデはそのように祈りました。実は、141篇から144篇まで、ダビデはそのように祈りました。

おそらく、ダビデがサウルかアブサロムから逃げたときに、この詩篇を書いたと思います。彼はこう祈った。

主よ。私をよこしまな人から助け出し、暴虐の者から、私を守ってください。

彼らは心の中で悪をたくらみ、日ごとに戦いを仕掛けています。

蛇のように、その舌を鋭くし、そのくちびるの下には、まむしの毒があります。セラ

主よ。私を悪者の手から守り、暴虐の者から、私を守ってください。彼らは私の足を押し倒そうとたくらんでいます。

高ぶる者は、私にわなと綱を仕掛け、道ばたに網を広げ、私に落とし穴を設けました。(詩篇140:1-5)

ダビデは本当に大変な状況に陥っていたようです。人々が彼を殺そうとしたので、彼は何度も「私を敵から助け出してください」、「私を守ってください」と祈りました。

けれども、彼のトラブルの中で、私たちは神様に対するダビデの信仰を見ることができます。彼は祈りました。

私は主に申し上げます。「あなたは私の神。」(6)

また、

私の主、神、わが救いの力よ。あなたは私が武器をとる日に、私の頭をおおわれました。 (7)

そして、ダビデは神様が正義によって敵を裁くように祈りました。その後、彼はこう祈りました。

私は知っています。主は悩む者の訴えを支持し、貧しい者に、さばきを行なわれることを。

まことに、正しい者はあなたの御名に感謝し、直ぐな人はあなたの御前に住むでしょう。(12-13)

あなたはダビデのように試練を経験しているかもしれません。周りの人々はなぜかあなたを憎み、あなたを倒そうとしているかもしれません。

しかし、ダビデのように、その問題を神様に任せてください。正義を神様の手に委ねてください。そして、ダビデのように、私たちの敵に憐れみを与えてください。

あなたが今、攻撃されていないかもしれませんが、私たちが霊的な戦いに入っていることを覚えていてください。私たちに対する悪意を持つ霊的な力があり、彼らは私たちを滅ぼしたがっています。

イエス様はそれを知っていたので、私たちに「悪からお救いください」という祈りを教えてくださいました。

だから、私たちはそのように祈るべきです。私たちは壊れた世界に住み、私たちの周りにはたくさんの壊れた人々がいます。サタンはまだこの世にいて、機会があれば私たちを攻撃します。

だから、目を覚まして祈りましょう。

しかし、自分自身を守るだけでなく、サタンの国を攻撃してください。人間は私たちの敵ではありません。サタンは私たちの敵です。だから、神様がこの世の民を救い出すように、福音を宣べ伝えてください。

私たちに与えられた鎧は私たちの背中を守るためではなく、私たちの前を守るためであることを覚えていてください。

だから、神様について行って、前進してください。

古い讃美歌があります。日本語のタイトルは「見よや十字架」のですが、英語はちょっと違います。英語ではこう書いてあります。

クリスチャンの兵隊たちよ。
戦うために行進せよ。
イエス様の十字架は私たちの旗で、
その旗についていく。

キリストは私たちの王、私たちの主。
キリストは敵を戦うのに私たちを導いておられる。

その戦いに行進せよ。
キリストの旗を見て、戦おう。

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詩篇

私を知っておられる神、私を愛しておられる神

詩篇139篇は本当に有名な詩篇です。多くの人々が23篇と139篇が大好きだと思います。

どうして、この二つの詩篇は親しまれるでしょうか。なぜなら、それらは神様の愛をはっきりと表しているからです。

実は、あなたの視点によって、この詩篇は怖いかもしれません。

アメリカでは、たくさんの人々が「お兄さん」について心配しています。「お兄さん」というのは、政府が、衛星やほかのテクノロジーを通して、私たちを見ていることです。

しかし、神様は私たちの政府よりも有能な方です。私たちが出かけても、リビングにいても、神様は私たちを見てくださいます。

神様は私たちのすべての行動を知っておられます。私たちは暗い所でも隠れることができません。そして、私たちがどこに行っても、神様から逃げられません。

それに、神様は私たちの携帯電話の話も知っておられます。私たちが家にいても、職場にいても、神様は私たちのすべての言葉を知っておられます。

もし、私たちが神様ににらまれたら、それは怖いことでしょう。もし神様が私たちを罰するために待っておられるなら、それは怖いことでしょう。

けれども、神様は愛深く憐み深い目で私たちを見てくださいます。私たちが母のお腹の中にいたとき、神様は私たちを見守っておられました。その子宮の中で、神様は私たちを組み立ててくださいました。

そして、私たちを造っておられる間に、神様は私たちのために夢と計画をお持ちでした。神様は私たちについてずっと考えておられました。ダビデはこう言いました。

神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。

それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。(詩篇139:17-18)

それに、神様がこの世界を造る前に、神様は私たちが何をするか、私たちの選択も知っておられたので、そのすべてを神様の計画に織り込みました。

神様は決して驚かれることがありません。神様はプランBの必要がありません。プランAだけがあります。そして、神様の計画は初めから決して変わることがありません。

だから、私たちが何をしても、また、どんなに失敗しても、私たちに対する神様の思いは決して変わりません。神様はご自身の計画に私たちの良い行動も悪い行動も織り込みます。

だから、私たちにとっては一つの質問しかありません。私たちは喜んで神様の計画に参加するでしょうか。それとも、私たちは神様と戦うでしょうか。

もし、神様と戦うなら、神様は私たちの行動を神様の計画に織り込みますが、私たちは苦しむことになります。

ダビデはその選択肢を知っており、神様に従うことを選びました。

彼の言葉は厳しいかもしれませんが、神様が罪を憎んでおられることを知っていたので、ダビデも罪を憎みました。だから、ダビデは罪を犯したがらなかったし、罪人と付き合いたがらなかったのです。

むしろ、彼は神様の前に清い心を保ちたがり、神様を喜ばせたがりました。だから、彼はこう祈りました。

神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(23-24)

主よ。あなたが私を知って、愛してくださり感謝します。

私が母の胎にいるときに、あなたは私をもう知っていて、計画を持っておられました。

あなたの目的のために私を用いてください。私の人生はあなたのものです。私がどこに行っても、私が何をしても、私を導いてください。

私が変わらなくてはならないところを変えてください。私の罪を取り除き、清めてください。そして、とこしえの道に導いてください。アーメン。

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詩篇

自己憐憫に浸る

これは本当に憂鬱な詩篇です。多分、詩人はバビロンに追放されたときに詩篇137篇を書いたのでしょう。

この詩篇では、詩人はバビロンの川のそばに座り、立琴を持っていたけれど、エルサレムの没落を悩んでいたので、もう弾く気がなくなりました。

むしろ、彼は、その立琴を柳の木々に掛けて、エルサレムの没落を嘆きました。

そして、あるバビロン人が来て、彼をからかいます。「おい。歌えよ。エルサレムの歌を聞いてみたい。」

しかし、詩人は拒絶して答えました。

「一体どうしてそんな歌を歌えるでしょうか。エルサレムは滅びたので、私はエルサレムについて喜びの歌を歌えません。私がそうする前に、私の右手がその巧みさを忘れるように。また私が歌えなくなるように。」

そして、彼はバビロンとエドムを呪います。どうしてでしょうか。

エドム人の先祖エサウがイスラエル人の先祖ヤコブのお兄さんだったのに、エルサレムが没落したとき、エドム人は喜びました。

そしてバビロン人はイスラエル人の子供たちを殺し、さまざまな酷いことを犯しました。

だから、詩人は彼らを呪って、バビロン人とエドム人に対してそのようなことが起こるように願いました。

どれぐらい、私たちはそのように感じるでしょうか。自分の罪のため、私たちは苦しんで落ち込んでいます。時々、私たちの家族でも、私たちをからかい、私たちの敵は笑って、「あなたの神はどこだろう」と聞きます。

どうやって、私たちは反応すべきでしょうか。

私たちには選択肢があります。私たちは自己憐憫に浸り、私たちが失ったものを嘆き、苦々しい思いに負けることができます。けれども、そうすれば、私たちは霊的に、また肉的に枯れます。

それとも、ダニエルとネヘミヤのように、神様に向かって、悔い改めることもできます。そうすれば、神様は私たちの壊れた人生を癒してくださいます。そして、もう一度私たちは神様からの喜びを知ります。

あなたはどうするでしょうか。どの選択肢を選ぶでしょうか。

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詩篇

神様の慈しみと恵みを覚えている

1節の言葉は詩篇136篇の要約です。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。 (詩篇136:1)

この詩篇はイスラエルに対する神様の慈しみと恵みについてです。しかし、この詩篇を通して、私たちは神様がどんな方であるか分かります。

詩人は詩篇135篇のテーマを続け、神様を神の神と、主の主と呼びます。(2-3)

そして、詩人は神様を創造主として認めます。つまり、神様がご自身の知恵と力によって、天と地とすべてのものを造られたことを認めます。(4-9)

そして、詩人は神様を贖い主として礼拝します。なぜなら、神様はイスラエル人たちをエジプトから救い出し、エジプトの軍隊を打倒し、紅海を二つに分け、イスラエル人たちをその中を通らせたからです。(10-15)

そして、詩人は神様を羊飼いと比べます。イスラエル人たちが砂漠を渡った時に、神様は彼らを導き、彼らのニーズに備えてくださいました。(16-22)

そのあとで、詩人は神様を勇士として礼拝します。なぜなら、神様はイスラエル人たちを約束の地に導いたとき、その敵を倒して、その地を遺産として与えてくださったからです。(17-22)

23-25節では、詩人は神様を恵みと憐みの神として宣言します。

イスラエル人たちが卑しめられたとき、神様は彼らを敵の手から救い出してくださいました。また、神様はイスラエル人たちのニーズだけではなく、すべての人間と動物のニーズに備えてくださいます。

最後に、詩人は神様を天の主として認めます。神様はすべてを治める方です。(26)

以前、私は皮肉の危険について話しました。皮肉に対する武器の一つは感謝の態度です。つまり、私たちは神様がどんな方であるか、また神様が私たちのために何をしてくださったかを覚えるべきです。

時々、私たちはこの世における神様の行いが分からないこともありますが、神様がすべてのことをコントロールしていることを覚えていなくてはなりません。

また、神様がどのように私たちをサタンの国から救い出したかを思い出すべきです。

今でも、神様はこの世で巡礼している私たちを、神様が私たちのために整えた国に導いてくださいます。

また、私たちが霊的な力と戦うときに、神様が私たちの勇士であることを覚えていなくてはなりません。

そして、私たちが転ぶとき、神様が憐れみと恵みを私たちに与えてくださって、私たちを拾い上げてくださることを覚えているべきです。

毎日そのことを思い出しましょう。そのことに焦点を当てましょう。そして希望を持って、詩人のように歌いましょう。

「その恵みはとこしえまで。」

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詩篇

神の神

134篇のように、この詩篇は私たちを神様を礼拝するように招きます。また、詩篇135篇は115篇に似ているところもあります。

この詩篇のテーマは、神様が偉大な方で、ほかの(偽の)神々が神様と比べられないということです。

5節で詩人はこう歌います。

まことに、私は知る。主は大いなる方、私たちの主はすべての神々にまさっておられる。 (詩篇135:5)

そして、彼は神様がどのようにほかの神々よりも勝っているかを説明します。

つまり、神様は全能の主で、すべての被造物を支配しておられます。また、イスラエル人たちを救うために、神様はエジプトとその神々を倒し、さらに二人の王たちを倒してくださいました。

そして、詩人は神様を周りの国々の偶像と比べます。

神様はすべての被造物を造られましたが、偶像は人間の作品です。

偶像は目がありますが見ることができませんし、耳がありますが聞こえませんし、口がありますが息できませんし話せません。だから、詩人はその自分の手で作ったものを礼拝する人々をからかいます。

これを造る者もこれに信頼する者もみな、これと同じです。 (18)

そして、詩人はすべての人々をすべてを治める神様を礼拝するように招きます。

けれども、私が気に入ったところは4節です。

まことに、主はヤコブを選び、ご自分のものとされ、イスラエルを選んで、ご自分の宝とされた。 (4)

神様はヤコブとイスラエルを選び、ご自分のものとされ、またご自分の宝とされました。今でも、多くのイスラエル人たちがイエス様を拒絶しているけれど、神様は彼らを諦めていません。

パウロはイスラエルに関してこう言いました。

神の賜物と召命とは変わることがありません。 (ローマ11:29)

神様はイスラエルを捨てないが、神様はイエス様を信じる方々を見るとき、私たちに関しても、イスラエルに対する同じ言葉を言われます。

つまり、ペテロは私たちについてこう言いました。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。

それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。 (第一ペテロ2:9)

なぜ神様は私たちを選び、ご自分の民とされたのでしょうか。それは、私たちが周りの人々に神様の素晴らしいみわざを宣べ伝えるためです。

そうすれば、彼らも闇の中から出て、神様の驚くべき光に行くように招かれます。

だから、詩人は私たちにこう言います。

イスラエルの家よ。主をほめたたえよ。アロンの家よ。主をほめたたえよ。

レビの家よ。主をほめたたえよ。主を恐れる者よ。主をほめたたえよ。

ほむべきかな。主。シオンにて。エルサレムに住む方。ハレルヤ。(詩篇135:19ー21)

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詩篇

礼拝する心を保つこと

これは最後の都上りの歌です。もしかしたら、イスラエル人たちはエルサレムへの巡礼が終わって、帰る時にこの歌を歌ったかもしれません。

帰る時、彼らは夕方にまだ宮で働く人々にこう歌ったかもしれません。

さあ、主をほめたたえよ。主のすべてのしもべたち、夜ごとに主の家で仕える者たちよ。

聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ。(詩篇134:1-2)

彼らは祭司たちとレビ人に、怠けずに注意をし続け、主を礼拝し続け、主に仕え続けるように励ましました。

あるレビ人たちは歌う役割があって、昼となく夜となくその仕事に携わりました。(歴代誌第一9:33)

もしかしたら、イスラエル人たちはそのレビ人たちにその言葉を歌ったかもしれません。

とにかく、私たちが覚えているべきなのは、神様についてよく考えるべきだということです。

時々、私たちの考え方は皮肉っぽくなるので、その考え方が私たちの祈りに影響を与えてしまいます。私たちは神様の愛を忘れます。神様の良さを疑い始めます。

だから、祈る価値があるかどうかを疑います。そして、私たちは神様からもっと離れるように感じます。

けれども、感謝の心を持てば、神様がどんな方であるかを覚えていて、また神様の良さを覚えていたら、皮肉があなたの魂を毒することはありません。

神様の民として、私たちは神様の祭司です。しかし、皮肉っぽい祭司が本当に酷いものであることを覚えていてください。

あなたはどうですか。皮肉な態度はあなたの魂を毒しているでしょうか。皮肉はあなたのこの世に対する態度や、あなたの人生に対する態度を毒しているでしょうか。

もう一度私たちの思いを神様中心にしましょう。神様の良さに焦点を当ててください。神様のあなたに対する愛に焦点を当ててください。神様があなたのためにしてくださったことに焦点を当ててください。

感謝の態度を取りましょう。そうすれば、あなたの皮肉な態度はなくなって、あなたの喜びは戻ります。

巡礼者が帰る時、祭司たちはこう叫びました。

天地を造られた主がシオンからあなたを祝福されるように。(3)

この巡礼で、神様があなたにすべての霊的な祝福を与えてくださるように。神様があなたの皮肉な心を清めて、あなたの心に喜びを満たしてくださるように。

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詩篇

一致

イスラエル人たちはエルサレムに巡礼したとき、彼らは教会に対して大切なことについて歌いました。つまり、一致です。ダビデはこう歌いました。

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。(詩篇133:1)

キリストの教会で、一致は本当に美しいものです。その反面、闘争や争いは教会の染みです。

人々が初めて教会に行って、キリストの愛によって一致している人々を見ると、彼らは興味が湧いてきて、イエス様とその教会について、もっと知りたいと思うでしょう。

しかし、もし彼らが入る時、文句やゴシップを聞いたり、苦々しい心を持っている人々を見るなら、彼らはすぐに逃げようと思います。彼らはとても悪い印象を受けて、尋ねます。

「教会の人々はこの世界の人々とどう違うだろうか。」

だから、イエス様は弟子たちにこう言われました。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。

互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。(ヨハネ13:34-35)

そして、イエス様は教会のためにこう祈ってくださいました。

それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。

そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。(ヨハネ17:21)

キリストの教会が一致していれば、周りの人々は私たちの中にキリストを見て、神様とその祝福を知るようになります。それに、教会の人々も神様の祝福を知ります。

ダビデはこう書きました。

それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。(詩篇133:2)

その油は祭司たちのためのものでした。オリーブ油は液体の没薬、かおりの強い肉桂、におい菖蒲、桂枝と混じりました。(出エジプト30:22-24)

ダビデが言ったのは、祭司にとっては(アロンはイスラエルの最初の大祭司でした)、一致はその油で注がれたようです。

現代でも、牧師たちはキリストにあって一致した教会を見ると、喜びます。教会のメンバーたちがキリストが命令したように愛し合ったり、仕え合ったりすると、牧師たちは本当に嬉しいです。

それに、油は聖霊の象徴です。人々は聖霊に導かれたら、一致に導く聖霊の実を結びます。それは愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、そして自制です。(ガラテ書5:22-23)

一致した教会はそのような実を結びます。

そして、ダビデはこう歌います。

それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。(詩篇133:3a)

ヘルモンの山がシオンの山々よりも高かったので、シオンはヘルモンからの露を受けました。その露はシオンをすっきりさせて、清めました。

一致とはそのようなものです。一致によって人々はすっきりした感じがあり、神様の手に触れられて、清められます。

だから、ダビデはこう歌います。

主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。(3b)

キリストにあって一致した教会は神様に祝福されています。そして、その人々は神様からの命を知ります。

あなたはどんな教会に行っているでしょうか。

実を結ぶ一致した教会に行っているでしょうか。もしくは闘争で満ちる教会に行っているでしょうか。

あなたは教会を建てていますか。もしくは、教会を取り壊していますか。

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ご自身の約束を守ってくださる神

これは興味深い詩篇です。つまり、この詩篇の前半は神様に対する祈りですが、後半は神様の答えです。他の詩篇にそのパターンがあったのか、私は今思い出せません。

この詩篇も都上りの歌です。そして、イスラエル人たちはエルサレムに巡礼するとき、この歌を歌って、神様がご自身のダビデに対する約束を覚えるように祈ります。要するに、ダビデの子孫がいつも治めるように祈りました。

そして、彼らは神様の宮を建てるダビデの願いを思い出して、エルサレムに上がった時、礼拝する喜びを言い表しました。彼らはこう歌いました。

さあ、主の住まいに行き、主の足台のもとにひれ伏そう。(詩篇132:7)

そして、彼らは神様にこう祈りました。

主よ。立ち上がってください。あなたの安息の場所に、お入りください。あなたと、あなたの御力の箱も。

あなたの祭司たちは、義を身にまとい、あなたの聖徒たちは、喜び歌いますように。(8-9)

つまり、「私たちと共にいてください。あなたの祭司たちは聖くなりますように。また、私たちにあなたの喜びで満たしてください。」

私たちは礼拝するとき、そのような態度を取るべきです。神様が私たちと共にいて、神様の祭司が私たちを清め、私たちを喜びで満たしてくださるように祈るべきです。

イスラエル人たちの祈りを聞いた後、神様はその祈りに応えてくださいました。

神様は、シオンで彼らに会うと約束されました。シオンに関して、神様はこう言われました。

これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。

わたしは豊かにシオンの食物を祝福し、その貧しい者をパンで満ち足らせよう。(14-15)

それに、神様は彼らの他の願いに叶ってくださいました。神様はその祭司たちに救いを着せたし、イスラエル人に大喜びを与えてくださいました。(16)

そして、神様はダビデの王座に座る方を送ると約束しました。その王はイスラエルの敵をも治めるし、光り輝く冠を被と約束しました。もちろん、イエス様はこの世に戻る時、その約束が成就します。

この詩篇を読む時、私は希望があります。なぜなら、神様は決して変わらないし、その約束も変わりません。神様は約束したことを必ず行います。

だから、私はイエス様の帰りを待ち望みます。なぜなら、その日に神様のすべての約束が成就するからです。

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詩篇

謙遜

詩篇131篇もかなり短い詩篇ですが、この詩篇を通して、ダビデは私たちが神様に近づくときに、どのような心が必要かを教えています。

私たちはどんな心が必要でしょうか。へりくだる心が必要です。ダビデはこう書きました。

主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。(詩篇131:1)

心の中でプライドを持ったら、神様の前に行くのは無理です。私はヨブについて考えます。

彼が苦しんだ時に、彼は神様の正義を疑い始めました。だから、神様の前に行きたがって、神様の正義に関して議論したがりました。

多くの人々はそうします。彼らは神様と同じ知力を持っていると思い、神様と議論したら勝てると思っています。

多くの無神論者はこう思います。「たとえ神様が存在しても、どうして私が神様を信じなかったかを説明できます。」

けれども、彼らが神様の前に来て話す時、ヨブのように彼らの論法が虚しいと実感することでしょう。

しかし、他の人々はヨブの友達のようです。彼らは誇って、他の人々を見下し、すぐに裁きます。けれども、神様はそんな人々にも反対します。なぜなら、彼らの判断は間違っているからです。

しかし、ダビデは彼らとは違いました。神様に対しても、他の人々に対しても謙遜な態度を持っていました。

だから、彼が理解できないことが起きたり、またどうして神様がいろんな試練を許したか理解できない時、彼は謙遜に言いました。

及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。(1b)

ヨブは、悔い改めた時、同じようなことを言いました。

まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。(ヨブ記42:3)

私たちも理解できないことを経験します。どうして神様が災いを許されるか分からないので、私たちは神様と議論したいと考えます。

しかし、ダビデのように、その疑いを置いておいて、神様に信頼しましょう。神様が私たちと共におられ、私たちを愛してくださることを信じ続けましょう。

「乳離れした子が母親の前にいるように」、また自分のニーズに供えられた子のように、神様の前に静まり、信頼しましょう。

ダビデのように私たちはこう言いましょう。

今よりとこしえまで主を待て。(詩篇131:3)

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詩篇

赦しの神、憐み深い神

詩篇130篇は短い詩篇ですが、私はこの詩篇が大好きです。苦しむ時、詩人は神様の赦しと愛を省みます。

いつこの詩篇が書かれたのか私は知らないけれど、バビロンへの追放の後に書かれた感じがします。ダニエルのような人がこの詩篇を書いたことが想像できます。

しかし、ダニエルの祈りと違って(ダニエル書9章)、この詩人は自分の罪のために赦しを願いました。彼は叫びました。

主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。

主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。(詩篇130:1-2)

彼は自分の義に基づいて願いませんでした。むしろ神様の性格に基づいて願いました。彼は言いました。

主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。

しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。(3-4)

その個所が大好きです。誰も神様のみ前に立つ資格を持ちません。もし、神様が私たちの罪の記録を持っていたら、私たち皆死んでしまうでしょう。

たとえあなたが一日に三回ぐらい罪を犯したら、あなたは三十代になるともう罪を三万回ぐらい犯したことになります。

私がどれぐらい罪を犯したか考えたくありません。けれども、イエス様の血によって、私の罪は清められました。私の罪の記録に、もう何も書かれていません。

だから、詩人はこう言います。

私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。(5)

彼は何を待ち望んでいるでしょうか。神様の恵みを待ち望んでいます。何に基づいて待っているでしょうか。神様の約束によって待ち望んでいます。

私たちも神様の約束に頼ることができます。つまり、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

そして、夜明けが確かに来るように、悔い改める人に神様の赦しも確かに来ます。(詩編130:6)

自分の罪を悔い改めたあとで、詩人はイスラエルが悔い改めるように招きます。

イスラエルよ。主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。

主は、すべての不義からイスラエルを贖い出される。(7-8)

私たちが神様の赦しを見つけたので、周りの人々に神様の憐れみについて伝え、彼らが悔い改めるように招きましょう。

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詩篇

私たちが迫害される時

詩篇129篇では、私たちは二つのことを見ることができます。

一つ目は、ユダヤ人の迫害される歴史です。彼らはエジプトで迫害されたし、士師の時代にも、王国の時代にも迫害され、そして最終的に追放されました。

その追放から戻った後にも、迫害は続きました。ギリシャ王国とローマの帝国の時代に彼らは本当に苦しみました。

現代でも、その迫害が続いています。ヒトラーはたくさんのユダヤ人を殺し、イスラエルは何回も周りの国々に攻撃されました。今でも、イスラエルが滅びたら、アラブ世界は喜ぶでしょう。

それでも、ユダヤ人はこう言えます。

彼らは私の若いころからひどく私を苦しめた。彼らは私に勝てなかった。(詩篇129:2)

つまり(これは二つ目のことなんですが)、試練の中で、神様の手はずっとイスラエル人の上にありました。

私たちもそう言えます。私たちはアブラハムの霊的な相続人です。私たちも迫害されるかもしれません。家族や友達や私たちの政府が私たちを襲うかもしれません。

しかし、神様は私たちが立つように助けてくださいます。また、神様は教会が立つように助けてくださいます。だから、私たちの敵は私たちに最終的に勝てません。

だから、イエス様の言葉を覚えていましょう。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。

あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。(マタイ5:10-12)

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神様をまず第一に求めば

私たちの多くは自分の幸せを求めます。そして、私たちは自分の家族や仕事や家計によって、その幸せが見つけられると思います。

けれども、詩篇128篇では、本当の幸せの鍵を見ることができます。詩人はこう記しました。

幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。

あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。

あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。

見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。(詩篇128:1ー4)

要するに、私たちが神様をすべてよりも敬い、神様の道を選べば、神様は私たちを祝福してくださいます。

多くの人々は、家計の不安から働きすぎてしまい、自分の健康や家族を顧みなくなります。

その結果、仕事の成果を十分に享受することができなくなります。つまり、妻との関係や子どもとの関係が悪化してしまうのです。場合によっては、若くして命を失うことさえあるかもしれません。

けれども、あなたが神様を敬うなら、神様はあなたの家計を祝福し、あなたの家族も祝福してくださいます。

神様が命じられたように、夫たちが自分の妻を愛し、子供たちを育てるなら、その妻と子供たちは実を結びます。

もちろん、妻が自分の夫を敬うなら、また、子供たちが親に従うなら、彼らも神様の祝福を受けます。

しかし、家族に関する多くの命令、もしくはすべての命令は主にお父さんたちや旦那さんたちに対するものです。

つまり、まずお父さんたちと旦那さんたちがその命令に従うべきです。そうすれば、妻や子供たちは喜んで従い始めます。

だから、男性たち、責任を取り、神様とその命令に従いましょう。そうすれば、神様の祝福を知ることができます。

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詩篇

私たちの努力の限界

ソロモンは詩篇127篇を書いたのですが、私はこの詩篇を読むと、ネヘミヤの話を思い浮かべます。

ソロモンはこう書きました。

主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。

主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。(詩篇127:1)

もちろん、ネヘミヤは自分の計画を立てました。ユダヤ人の敵がエルサレムを脅した時、彼は対策を練りました。とはいえ、神様がユダヤ人と共におられなかったら、その計画は虚しかったでしょう。

私たちが自分の役割を果たすことと、神様に信頼して委ねることのバランスがあります。

もし、私たちが座っているだけで何もしないなら、神様の祝福は期待できません。けれども、神様が私たちの計画の中心でなければ、私たちの努力は虚しくなるでしょう。

多くの場合、私たちはこう祈ります。「神様、私たちはこうすることにしました。私たちの計画を祝福してください。」

しかし、私は最初からこう祈るべきです。「神様、あなたの御心を教えてください。私たちはどうすれば良いでしょうか。」

ネヘミヤの話を見ると、彼が何をしても、いつも祈っていたことが分かります。私たちもそうするべきです。

ソロモンはこう書きました。

あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。

主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。(2)

多くの人々の問題は、その人生を仕事中心にすることです。けれども、彼らは自分の健康と家族を放置してしまいます。

もちろん、仕事は大切なのですが、私たちの優先順位が正しいかどうか確認しなくてはなりません。私たちはちゃんと寝るべきだし、ちゃんと食べるべきだし、家族と一緒に時間を過ごすべきです。

ソロモンはそれを理解していました。特に家族の大切さが分かっていました。だから彼はこう書きました。

見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。(3)

もし、あなたの仕事が大変すぎて、ちゃんと寝られず、しっかり食事をとれず、家族と時間を過ごせないなら、新しい仕事のために祈った方が良いと思います。

とにかく、心に留めてください。あなたの人生を神様中心にしてください。そうすれば、あなたの努力は決して虚しくなりません。しかし、そうしないなら、あなたの努力は最終的に虚しくなります。

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解放された

多分、詩篇126篇はエズラとネヘミヤの時代に書かれたものでしょう。この詩篇では、ユダヤ人はバビロンの追放からエルサレムへの帰還を振り返っています。

この詩人の喜びをよく見ることができます。

主がシオンの繁栄を元どおりにされたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。

そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。

「主は彼らのために大いなることをなされた。」

主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。(詩篇126:1-3)

この詩篇について考えると、新しいエルサレムはそのようなものだろうと思います。私たちの目が光り輝き、私たちの口は喜びと笑いで満たされるでしょう。

この世の旅を振り返ると、私たちは神様の御業を見ます。つまり、神様は十字架によって、私たちをサタンの国から解放してくださいました。

この世では、私たちはたくさんの涙と共に種を蒔くかもしれませんが、最終的には喜び叫びながら刈り取ります。それに、私たちの苦労のために、神様は報いを与えてくださいます。

だからパウロはこう書きました。

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。

あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(第一コリント15:58)

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詩篇

揺るぐことはない

詩篇125篇も私のお気に入りです。実は、私が高校生の時、私の教会はこの詩篇をもとにした歌を歌っていました。

主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。

山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。(詩篇125:1-2)

詩人は二つの生き生きとした描写を使います。一つ目は、揺るがない山です。

詩人は神様に信頼する人がシオンの山のようだと言います。

どうして、シオンは揺るがなかったのでしょうか。大きな山だからでしょうか。それは違います。

シオンの高さは約730メートルしかありません。富士山の方が断然大きいです(3776メートル)。富士山と比べると、シオンはただの丘です。

しかし、神様がシオンを見守ってくださったので、シオンは揺るがなかったのです。そのように、神様が私たちを見守ってくださるので、私たちは揺るがないのです。

それに、山々がエルサレムを取り囲むように、神様は私たちを囲んでくださいます。主は私たちの砦であり、私たちを滅ぼそうとする悪魔から守ってくださいます。

そして、詩人は神様の正義に関して、確信を言い表します。つまり、悪者は義人を治めないということです。なぜなら、悪者が義人を治めれば、最終的に義人は罪に落ちるかもしれないからです。

残念なことですが、詩人の言葉は神様の約束ではありません。とはいえ、神様は支配者の行動に限界を置いてくださいます。神様はどれくらいその支配者の治世が続くかの限界を置くし、信者に対する迫害の限界も置いてくださいます。

だから、いつか世界の酷い苦難のため、神様は最後の日数を少なくしてくださいます。イエス様はその時についてこう言いました。

もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。(マタイ24:22)

とにかく、詩人は神様が自分の民に慈しみを施してくださるように祈りました。また、悪者がいつか裁かれることを覚えています。(詩篇125:4ー5)

そして、彼は祈ります。

イスラエルの上に平和があるように。(5b)

私たちの人生はいつもスムーズに行きません。けれども、神様に信頼しましょう。神様が私たちを見守り、私たちと共におられることを覚えておきましょう。そうすれば、私たちは決して揺るぐことがありません。

また、私たちの苦難の中で、詩人のように、神様の祝福と恵みのために祈りましょう。そうすれば、イスラエルを見守った神様が、私たちをも守ってくださることを実感するでしょう。

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詩篇

神様の恵みを喜ぶ

ダビデは詩篇124篇を書いたのですが、いつ彼が書いたのかは分かりません。多分大きな勝利の後に書いたのでしょう。

その時、ダビデは神様の恵みを喜びました。彼は叫びました。

「もしも主が私たちの味方でなかったなら、私たちは敵に滅ぼされただろう。しかし、神様がその罠を壊してくださったので、私たちは免れました。」(詩篇124:1ー7)

そして、彼は歌います。

私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。(8)

幸いなことに、私は敵にそのように攻撃されたことはありません。けれども、神様が私をサタンの罠から救い出してくださったことに感謝します。私が自分自身を救えなかった時、キリストは私の罪のために死んでくださいました。

なぜ、イエス様は私のために死んでくださったのでしょうか。それは、私を愛しているからです。イエス様は私の味方だからです。

なぜ、イエス様が私を愛して、私を助けたがったのか分かりませんが、そのことに感謝します。

さらに、神様はあなたの味方です。

だからこそ、この詩篇を読むとき、この私たちに豊かに注がれた恵みを忘れないでください。

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詩篇

憐れみを求める叫び

詩篇123篇は興味深い比喩を使っています。詩人はこう書きました。

あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。

ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。(詩篇123:1~2)

一見したところ、この詩篇は奴隷がその主人に仕えることを描写しています。その時代、もちろん、奴隷はその主人の言葉に注意しましたが、それ以上に奴隷は主人の合図に注意して、その主人の必要を察していました。

そのように、私たちも神様に目を上げて、仕える心を持つべきです。私たちの人生は自分中心ではありません。私たちが自分だけのために生きるのは良くありません。むしろ、私たちの創造主に仕えるべきです。

けれども、2節の全体を見ると、こう書いてあります。

ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。

要するに、奴隷は仕えるために主人に目を上げたのではありません。むしろ、彼は憐れみを求めていました。彼は叫びます。

私たちをあわれんでください。主よ。私たちをあわれんでください。私たちはさげすみで、もういっぱいです。

私たちのたましいは、安逸をむさぼる者たちのあざけりと、高ぶる者たちのさげすみとで、もういっぱいです。(3-4)

詩篇の背景ははっきりしません。バビロンへの追放の時に書かれたかもしれません。もしかしたら、アンティオコス4世エピファネスの時代に書かれたかもしれません。彼は、主の宮で祭壇の上で豚を殺し、その行動によって、主の宮を汚しました。

とにかく、イスラエル人にはあまり希望がありませんでした。だから、詩人は主に目を上げました。詩人は、イスラエル人の罪のため、彼らが神様からの祝福に値しないことをよく知っていました。

とはいえ、彼は神様の性格も知っていました。つまり、神様が私たちを懲らしめるかもしれませんが、私たちをまだ愛しておられることを知っていました。また、私たちが悔い改めると、神様が赦してくださることを知っていました。

この詩篇を読むと、私はイエス様のたとえ話を思い出します。ある人は神様の前に立って、自分の胸をたたいて言いました。「神さま、こんな罪人の私をあわれんでください。」

イエス様はその人についてこう言われました。

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。(ルカ18:14)

あなたの罪のために、神様に懲らしめられているかもしれません。あなたは神様に捨てられたと思うかもしれません。

しかし、イエス様に目を上げて、悔い改めましょう。憐れみを願いましょう。そうすれば、イエス様はあなたを赦してくださいます。

あなたが神様の憐れみを知るように。

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詩篇

神様の民と一緒にいる喜び

巡礼者がエルサレムの門にたどり着くと、詩篇122篇を歌い始めたでしょう。この歌は、詩人が神様の宮に入る喜びを言い表しています。

人々が私に、「さあ、主の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。(詩篇122:1)

私は若い時、あまりそんな喜びはありませんでした。私は7-8歳ぐらいでクリスチャンになったのですが、中学生になったとき、もう教会に行きたくなくなりました。

私の教会は良い場所でしたが、私は他のことをしたかったのです。

けれども、高校生になった時、初めて神様の臨在を感じました。私が賛美をするとき、急に理解したのは、私たちはカラオケをしているのではなく、その歌を通して神様に祈っているということです。

その経験で、私の教会と礼拝に対する考え方が変わりました。

時々、クリスチャンは教会が必要ないと思います。なぜなら、彼らは自分で礼拝できると思うからです。

もちろん、礼拝には個人的な側面もあります。しかし、もし私たちが他のクリスチャンと一緒に礼拝するのが嫌いなら、私たちの態度は間違っています。

時々、私たちにはプライドの問題があります。「私は聖書をもうよく知っている。牧師の説教は必要ない。」

時々、私たちは人々を許せないので、教会に行きたくないと思います。「どの教会に行っても、誰かが私を傷つける。だから、教会はもういいです。」

時々、私たちはいつも人々を裁きます。「全てのメンバーは偽善者だ。彼らと付き合いたくない。」

また、時々私たちは自己中心です。「私にとって、教会に行く益がない。」

けれども、教会に行くのは、ただ私たちの利益のためではありません。教会で、私たちは神様に賛美を捧げます。

また、私たちは周りの人々に仕えるべきです。そして、彼らと一緒にそのコミュニティに仕えるべきです。

この詩篇では、詩人はエルサレムの平和のために祈ることについて話します。また、彼はエルサレムの繁栄を求めます。そのように、私たちは自分の都市のために祈るべきであり、その都市の繁栄を求めるべきです。

一人では、このようなことは私たちはあまりできません。しかし、キリストの体として、教会は私たちのコミュニティに影響を与えることができます。

もしあなたが、ただ礼拝に出て、すぐに帰るなら、あなたは神様の計画が全然見えません。

だから、教会の人々と交わり、一緒に働いてください。神様の体で、あなたには自分の役割があるので、その役割を果たしましょう。

ヘブル人への手紙の著者はこう書きました。

また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(へブル書10:24-25)

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詩篇

私たちを見守る神

詩篇121篇は本当に美しい詩篇です。私の父が生前、この詩篇が大好きだったので、彼が亡くなった時、葬式でこの詩篇が読まれました。

この詩篇では、詩人は主に対する信頼を言い表しています。彼は歌います。

私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。

私の助けは、天地を造られた主から来る。(詩篇121:1-2)

120篇のように、これは都上りの歌です。人々はエルサレムに巡礼するときにこの歌を歌いました。

だから、彼らが目を上げてエルサレムを見るとき、心の中で喜びが湧いてきたことが想像できます。なぜなら、神様がソロモン王に約束したように、神様の臨在は主の宮にあったからです。(列王記9:4)

もちろん、主の宮は神様をお入れすることはできませんでした。ソロモンもそのことを認めました。

でも神様は、宮に来てイスラエル人に会うように約束してくださいました。また、彼らが宮に向かい、祈るとき、神様はその祈りに答えるように約束してくださいました。

だから、人々がエルサレムに巡礼したとき、決して眠らない神様が彼らを見守ってくださることを思い出して、慰められました。

暑い日には、神様は彼らの陰でした。また夜には、神様は彼らを守ってくださいました。

それだけでなく、彼らの人生を送る間に、神様が彼らと共におられることを思い出していました。

だから、詩人はこう歌いました。

主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。

主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。(7-8)

私たちもその言葉によって慰められましょう。何が起きても、神様はあなたを「耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。」(第一コリント10:13)

私たちがこの世界に生きる間に、神様は私たちを見守ってくださいます。そして、私たちを栄光に導いてくださるのです。

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詩篇

私たちの周りの悪によって怒られる

どれほどあなたは周りの悪によって怒るでしょうか。

詩人はそれを見て、本当に怒りました。彼は何を見たのでしょうか。偽りの唇。欺きの舌。平和を憎む人。戦いを望む人。

だから、詩人は呻きました。

ああ、哀れな私よ。メシェクに寄留し、ケダルの天幕で暮らすとは。(詩篇120:5)

メシェク人とケダル人たちは放浪の部族で、彼らは周りの人々を攻撃しました。

この詩人が彼らの間に住んだのか、それともそのような人々の間に住んだのかは、私は分かりません。

けれども、興味深いことは、この詩篇が都上りの歌であることです。つまり、人々がエルサレムに巡礼するとき、この歌を歌いました。

なぜ、彼らが神様に心を向け、礼拝するときに、このような歌を歌ったのでしょうか。あなたはそれがちょっと不思議だと思うかもしれません。しかし、私はそんなに不思議だとは思いません。

なぜなら、私たちの人生はいつも楽しいわけではないからです。私たちがこの世界を見るとき、落ち込むのは簡単なことです。

そのとき、私たちは神様がどこにおられるのかと思うかもしれません。また、神様が何かをしておられるのかと思うかもしれません。

けれども、詩人が神様に向かうとき、自分自身に思い出させます。「神様はいつか正義によって治めてくださるから、すべてのことは大丈夫。」

だから、彼はこう書きました。

欺きの舌よ。おまえに何が与えられ、おまえに何が加えられるのか。

勇士の鋭い矢、それに、えにしだの熱い炭火だ。(3-4)

だから、テレビのニュースを見るとき、がっかりしないでください。神様が良い方で、正義の方であることを覚えておきましょう。

そして、この世の悪に焦点を当てずに、全てを解決してくださる神を仰ぎましょう。

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詩篇

悪に負けない

それでは、今日詩篇119を終えます。

以前私は言いましたが、私たちはこの詩の著者を知りません。しかし、もしダビデがこの詩篇を書いたのだとしたら、驚くには及びません。なぜなら、この詩篇の終わりで、私たちは詩人が経験したことを読むからです。

つまり、彼は敵に追いかけられたり、迫害されたりしましたが、彼は復讐を求めませんでした。むしろ、彼は主に叫びました。

私はあなたを呼びました。私をお救いください。私はあなたのさとしを守ります。

私は夜明け前に起きて叫び求めます。私はあなたのことばを待ち望んでいます。(詩篇119:146-147)

それでも、彼の神様の道を行く決心は決して揺るぎませんでした。

彼は寝る前に、どうやって復讐しようか全然考えませんでした。むしろ、彼はこう言いました。

私の目は夜明けの見張りよりも先に目覚め、みことばに思いを潜めます。(148)

彼の敵が神様の言葉を捨てて、彼を殺そうと思ったのに、彼は神様の言葉を捨てずに、自分の命を神様の手に委ねました。

私の悩みを顧み、私を助け出してください。私はあなたのみおしえを忘れません。

私の言い分を取り上げ、私を贖ってください。みことばにしたがって、私を生かしてください。(153-154)

また、

ご覧ください。どんなに私があなたの戒めを愛しているかを。主よ。あなたの恵みによって、私を生かしてください。(159)

また、

君主らは、ゆえもなく私を迫害しています。しかし私の心は、あなたのことばを恐れています。(161)

どうして、彼はそのように生きたのでしょうか。なぜなら、彼は神様の道が最も良いと思ったからです。彼はこう書きました。

あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。(165)

そして、彼はもう一度、へりくだって、神様の導きを頼み、神様の道を行くことを決心し、自分の命を神様の手に委ね、神様からの救いを待ち望みました。

あなたはどうですか。あなたは傷ついたら、どう反応するでしょうか。攻められる時、あなたは怒って、悪をもって悪に報いるでしょうか。

あなたは「それは許せない。神様の道じゃないかもしれないけど、復讐する」と言うでしょうか。

そう思うなら、詩人の態度を覚えておきましょう。また、十字架にかけられたイエス様の態度を覚えておきましょう。

イエス様は復讐を求めませんでした。むしろ、その敵を赦してくださいました。また、イエス様は私たちをも赦してくださいました。

最後に、パウロの言葉も覚えておきましょう。

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:19-21)

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詩篇

理解への道

私たちは皆、ますます理解と知恵において成長したいと思います。この箇所では、私たちがどのように成長できるかを見ることができます。

詩人はこう書きました。

あなたの仰せは、私を私の敵よりも賢くします。それはとこしえに、私のものだからです。

私は私のすべての師よりも悟りがあります。それはあなたのさとしが私の思いだからです。

私は老人よりもわきまえがあります。それは、私があなたの戒めを守っているからです。(詩篇119:98-100)

詩人はどのように賢くなったのでしょうか。神様の言葉を知っているだけではなく、その言葉に思いを巡らすだけでなく、彼は神様の言葉に従いました。

たくさんの人々は神様の言葉を知っていますが、知恵を持っていません。彼らは、神様が何を言われたか知っていますが、自分の道を行き続けるので、結局彼らは苦しんでしまいます。

でもこの詩人はそのような人ではありませんでした。彼は神様の言葉を愛したので、その言葉は彼をだんだん変化させました。

神様が憎まれるものを彼は憎み始めました。神様が愛されるものを彼は愛し始めました。(103-104、127-128)

それに、神様の言葉が彼の言動の基準になりました。その言葉は、彼の足のともしびと道の光になりました。(105)

だから彼は悪者とその意見を避けました。(113、115)

それに、彼は神様の前にへりくだって、神様から学び(125、133、135、144)、神様の戒めに従うために神様の力に頼りました。(133-134)

どうして彼はそうしたのでしょうか。彼は大切な真理を発見したからです。つまり、

あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。。。

あなたの義は、永遠の義、あなたのみおしえは、まことです。(140,142)

要するに、彼は神様の約束と命令を試したとき、神様が真実で、その言葉は正しいと分かるようになったのです。

あなたはどうですか。あなたには本当の理解があるでしょうか。あなたは神様の命令を実行するでしょうか。あなたは神様が忠実な方であると分かるようになりましたか。

もしそうなら、あなたは本当の知恵を見つけたのです。

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詩篇

私たちは何によって希望があるか

今日私たちは詩篇119篇の中間点を過ぎます。

私は81節が大好きです。

私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。私はあなたのみことばを待ち望んでいます。

時々、私たちは試練を経験します。この詩人もいろんな試練を経験しました。たくさんの人々が、彼を迫害したり、彼を殺そうとしたりしました。(詩篇119:85-87,95)

83節では、彼は「私は煙の中の皮袋のようになった」と言いました。

その時代、人々が砂漠を渡った時、テントの中で火が必要なら、彼らは火の上に皮袋を吊るしました。その皮袋は煙を吸い込みましたが、だんだん縮んで堅くなりました。

そのように、周りの人々の罪によって、詩人は苦しみを吸い込み、縮んでしまいました。だから、彼は叫びました。

いつあなたは私を慰めてくださるのですか。。。

あなたのしもべの日数は、どれだけでしょうか。

あなたはいつ、私を迫害する者どもをさばかれるのでしょうか。(82-84)

それでも、神様の言葉と約束によって彼には希望がありました。最悪な状態になっても、彼はその言葉と約束にしがみつきました。どうしてでしょうか。

主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています。

あなたの真実は代々に至ります。

あなたが地を据えたので、地は堅く立っています。(89-90)

要するに、彼は神様とその約束が決して変わらないと知っていました。人々が不実なのに、神様がいつも忠実であることを知っていました。

だから、何が起きても、彼が信じたのは、神様はいつも彼を助けてくださることです。

あなたはどうでしょうか。人生の暗闇を通る時、あなたは神様の御言葉に従うでしょうか。神様が忠実であることを信じるでしょうか。

試練に直面するとき、「神様の道を行くのは空しいです。自分の道を行った方が良い。」と言うのは簡単です。

だから、私たちの結婚や、私たちの家計はダメになってしまいます。

でも、大変な時が来ても、自分自身に頼らないでください。自分の知恵に頼らないでください。むしろ、神様を待ち望みましょう。

何千年が経っても、神様の言葉は決して変わりませんでした。だから、その言葉を信頼できます。イザヤはこう言いました。

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(イザヤ40:8)

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詩篇

柔らかい心

このブログで以前私は、詩篇119篇を書いた詩人が謙遜な心を持っていたと書きました。彼はすべてのことを知らないと認め、神様から学びたいと願っていました。

この箇所でも、その心が見えますし、神様に対する柔らかい心も見えます。

66節で、彼はもう一度「私に教えてください」と祈りましたが、67節で彼はこう言いました。

苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。

そして、71節で、彼はこう言います。

苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

つまり、神様は彼を懲らしめられました。どのように彼が懲らしめられたか分かりませんが、私たちは彼の反応を知っています。彼は悔い改めたのです。

どうして彼は悔い改めたのでしょうか。なぜなら、彼は神様が良い方であり、神様が彼の最善を望んでおられることを信じたからです。だから、彼はこう歌いました。

なたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。(詩篇119:68)

悪者に関して、彼はこう歌いました。

彼らの心は脂肪のように鈍感です。(70a)

けれども、自分自身に関して、彼は歌いました。

しかし、私は、あなたのみおしえを喜んでいます。(70b)

そして、彼は祈ります。

どうか、私の心が、あなたのおきてのうちに全きものとなりますように。それは、私が恥を見ることのないためです。(80)

私たちの心は神様とその言葉に対してどれぐらい柔らかいでしょうか。

神様が私たちを懲らしめられる時、私たちは腹が立つでしょうか。もしくは、私たちはへりくだって、悔い改めるでしょうか。

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詩篇

自由と慰めを与える言葉

詩篇119篇を読む時、私は詩人の神様の御言葉に対する姿勢がよく見えます。

多くの人々は神様の御言葉を人を縛るものとして考えます。つまり、彼らは神様の御言葉が人生の楽しみを奪ってしまうと考えます。

「こうしなさい。こうするな。」

けれども、詩人はそのように考えませんでした。どうしてでしょうか。多分、彼には神様について正しい視点があったからです。彼はこう歌います。

主よ。あなたの恵みと、あなたの救いとが、みことばのとおりに、私にもたらされますように。(詩篇119:41)

また、

主よ。地はあなたの恵みに満ちています。(64)

要するに、彼は神様が彼を愛し、彼の最善を望んでおられることを理解していました。また、この壊れた世界において、神様が彼の救いだと分かっていました。

だから、彼が神様の戒めを見る時、神様が彼の楽しみを取り去ろうとしておられるとは思いませんでした。むしろ、神様が彼に本当の命を与えようとしておられるのだと分かりました。

だから、彼はこう書きました。

そうして私は広やかに歩いて行くでしょう。それは私が、あなたの戒めを求めているからです。(45)

この詩人にとっては、神様の戒めは人々を縛らずに、人々を自由にするものです。どうしてでしょうか。

もし神様のデザインの通りに私たちがこの人生を生きたら、精一杯に生きるからです。

多くの人々はスマートフォンを持っています。しかし、彼らは説明書を読まないので、その機能を少ししか使いません。

けれども、その機能が分かれば、彼らの人生はもっと便利になります。彼らが今までできなかったことができるようになります。

そのように、聖書は人生の説明書です。聖書によって、私たちは神様がどのように人間をデザインされたか分かります。

そして、聖書に従うと、私たちは縛られず、むしろ、私たちは自由にされます。また、本当の命を見つけます。

それに、苦しみの時に、神様の御言葉は私たちを慰めてくださいます。なぜなら、聖書によって、私たちは神様を愛する人に対する神様の約束を読むからです。だから、この壊れた世に、私たちは希望を見つけます。

詩人はこう書きました。

どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。

これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。(49-50)

私の気にいる箇所はヨハネ14:1-3.イエス様は弟子たちにこう言われました。

あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。

あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。

わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

弟子たちが迫害と死に直面した時、その言葉によって慰められたと思います。この約束は私たちをも慰めます。

けれども、ちょっと考えてください。神様が良い方だと思いますか。神様があなたの最善を望んでおられると思いますか。

それなら、神様の御言葉はあなたを慰め、自由にします。

そうしないなら、多分あなたは神様の御言葉に対する詩人の熱心が理解できないでしょう。

あなたはどのように神様について考えているでしょうか。

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詩篇

理解の必要

この箇所では、私たちは詩人のへりくだる心が見えます。彼は、「全てのことを知っているわけではありません。だから教えてください」と言います。

私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。

私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。(詩篇119:18-19)

要するに、

「私は旅人です。だから、あなたの道と律法がよく分かりません。あなたが私に何を要求されるか分かりません。

けれども、あなたが私の最善を望んでおられることを知っています。だから、私の目を開いてください。あなたの道が理解できるように助けてください。」

彼は祈り続けます。

どうか、あなたのおきてを私に教えてください。

あなたの戒めの道を私に悟らせてください。私が、あなたの奇しいわざに思いを潜めることができるようにしてください。(26-27)

もう一度、私たちは詩人のへりくだる心が見えます。多分、彼は自分の罪のため、「ちりに打ち伏しています」と言いました。(25)

だから、彼はこう言いました。

みことばのとおりに私を堅くささえてください。(28)

また、

私は真実の道を選び取り[ます](30)

また、

私はあなたの仰せの道を走ります。(32)

なぜでしょうか。

あなたが、私の心を広くしてくださるからです。(32b)

そして、彼はもう一度言います。

あなたのおきての道を私に教えてください。(33)

また、

あなたのおきての道を私に教えてください。(34)

また、

私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。(35)

つまり、「私はあなたの道を知らないので、教えてください。私は本当にあなたの道を理解したいです。」

けれども、多くの場合、私たちは「もう知っている」と言う態度を取ります。私たちの知恵と知識がもう十分だと思います。

しかし、そのような態度は破壊と恥に導きます。私たちはいつもへりくだる心が必要です。私たちは神様の教えに耳を開かなくてはならないのです。

また、私たちは自分の力で神様の道を歩むことができないと認めなくてはならないのです。

だから、詩人は神様の助けのために祈ります。

私の心をあなたのさとしに傾かせ、不正な利得に傾かないようにしてください。

むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください。(36-37)

そして、彼は40節で祈ります。「どうか私の義によって、私を生かしてください。」(40)

実は上記の箇所で、一つのミスがあります。あなたは気づいたでしょうか。

ダビデが言ったのは、「どうかあなたの義によって、私を生かしてください。」と言っていました。

神様は私たちを私たち自身の義によって救われません。むしろ、神様の義によって私たちを救ってくださいます。神様の義によって、私たちは神様の目に義と認められます。

あなたはそのことを認めますか。詩人はそう認めました。

だから、プライドを捨てましょう。自分の義や知恵に頼らないようにしましょう。

むしろ、神様の前にへりくだって来て、「教えてください」と言いましょう。

そうすれば、神様は私たちに教えてくださいます。

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聖さの望み

詩篇119篇は最も長い詩篇であり、最も長い聖書の章です。だから、少しずつこの詩篇を読み、そのテーマについて話していこうと思います。

この箇所では、私たちは詩人の聖さの望みを見ることができます。だから、この詩人がダビデかもしれないと考える方もいるでしょう。なぜなら、ダビデは神様の心に叶うものと呼ばれたからです。(とはいえ、この詩篇は無名の詩人によって書かれました。)

最初に、詩人は全き道を行く人々の幸せについて話します。そして、彼は心から叫びます。

どうか、私の道を堅くしてください。あなたのおきてを守るように。

そうすれば、私はあなたのすべての仰せを見ても恥じることがないでしょう。(詩篇119:5-6)

つまり、「どうして、聖い人生を生きることができないのだろう。私はよく自分の罪を恥じます。あなたの命令を守ることができたらいいのに。」

そして、もう一度、彼は約束します。

私は、あなたのおきてを守ります。どうか私を、見捨てないでください。(8)

聖さの鍵は何でしょうか。詩人は私たちにその答えを示してくれます。

どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。

私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。

あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。(9-11)

私たちはどのように聖い人生を生きられるでしょうか。私たちは神様の言葉に従って守るべきです。私たちは神様の言葉を心にたくわえ、その言葉に思いを巡らすべきです。

私たちは聖書を本棚にずっと置かずに、その言葉を読んで、喜ぶべきです。

私たちを清める御言葉を喜ぶでしょうか。また、私たちは神様の聖さを喜ぶでしょうか。

時々私はそうしません。聖いものに思いを巡らさずに、そのものを喜ばずに、私は聖くないものに焦点を当てます。だから、私は罪に落ちます。

だから、パウロのように私は叫びます。

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:24)

もし自分の力で聖い人生を求めるなら、それは当然の結果です。

それでは、その解決は何でしょうか。パウロはこう言います。

私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(ローマ7:25)

私たちは自分の力によって聖い人生を生きることはできません。それは無理です。詩人もそのことが分かりました。だから、彼は神様に叫びました。

どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。(詩篇119:10)

要するに、「私は聖い人生を送れません。助けてください。」

この詩篇を読む時、律法主義の考え方を持つことは簡単です。多くのクリスチャンは「私は自分の力で聖い人生を生きなくてはならない。」と思います。

けれども、私たちが神様の恵みによって救われたことを決して忘れないでください。また、神様が私たちの中で働いてくださらないなら、私たちは決して聖い人生を生きることができません。

しかし、「もしそれは無理なら、どうして努力するだろうか」と思わないでください。

むしろ、私たちは義に飢え渇きましょう。そうすれば、どうして私たちが神様が必要かはっきり分かるようになります。その時、神様の恵みが私たちの心に注がれます。

また、自分の正しさに関するプライドが無くなって、神様の恵みと憐れみを見ますので、私たちはへりくだります。

その結果は何ですか。私たちが自分の力に頼らず、神様の力に頼るので、私たちは神様ともっと親しく歩みます。そして、神様が私たちの心を変えてくださいますので、私たちの人生は変わります。

それが私たちが聖くなるプロセスです。

あなたはどうですか。神様の聖さに飢えるでしょうか。

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詩篇

救いの歌

イエス様がこの世に再臨される日に、クリスチャンたちが詩篇を歌うなら、多分この詩篇を歌うでしょう。なぜならこれは救いの讃美歌だからです。

多分、詩篇118篇の詩人よりも、この詩篇は私たちにとって意味があると思います。

新エルサレムに入る時、多分私たちはこう歌うでしょう。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇118:1)

どうして私たちはそう歌うでしょうか。なぜなら、私たちが苦しんだ時、また私たちが自分の罪によって死にかけていて、神様に叫んだ時、神様は私たちを自由にしてくださったからです。

それに、毎日、神様は私たちを見守ってくださいます。人々は私たちの体を滅ぼすかもしれませんが、私たちの魂を滅ぼすことはできません。だから詩人はこう歌いました。

主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。(6)

そして詩人はどのように神様の力によって敵を断ち切ったか歌います。そのように、神様は私たちにサタンに対する勝利を与えてくださいます。だから、私たちもこう歌います。

おまえは、私をひどく押して倒そうとしたが、主が私を助けられた。

主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。。。

主の右の手は高く上げられ、主の右の手は力ある働きをする。

私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のみわざを語り告げよう。(13-17)

時々、詩人のように、私たちは神様の懲らしめの手を見ることがあります。けれども、神様は私たちを滅ぼすために懲らしめるのではなく、私たちに命を与えるために懲らしめてくださいます。

だから、私たちはエルサレムの門に着くとき、門番にこう言えます。

義の門よ。私のために開け。私はそこから入り、主に感謝しよう。(19)

どうして、私たちにはその門に入られる確信があるでしょうか。それは、私たちが救いの基礎を知っているからです。

家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。

これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。(22-23)

イエス様は私たちの救いの礎の石になりました。ユダヤ人たちはイエス様を拒絶しましたが、十字架で流されたイエス様の血によって、私たちは救いを見つけることができます。

だから、毎日私たちの希望が新しくなり、私たちは歌うことができます。

これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。(24)

そして、イエス様がエルサレムに来られたとき、人々が叫んだように、いつか私たちも歌います。「ホサナ。ああ、主よ。どうぞ救ってください。」(25)

けれども、私たちがそう歌う時には、もう救いが来るのを待っているのではなく、むしろ、私たちの救いを振り返ります。そして、もう一度、私たちは歌います。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(29)

アーメン。イエス様、すぐに来てください。

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詩篇

全ての国民は礼拝するとき

これは聖書の中で、一番短い章です。けれども、すぐに一番長い章を読みます。だから、私の英語のブログで、私は、「This is the calm before the storm.」と言いました。

つまり、「これは嵐の前の静けさです。」 🙂

とにかく、詩篇117篇はメシアについての詩篇です。なぜなら、詩人はすべての国民が神様を礼拝する日を楽しみにしているからです。彼はこう歌いました。

すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え。(詩篇117:1)

パウロはこの箇所によって、キリストがユダヤ人のためだけではなく、すべての人々のために来てくださったことを証明します。(ローマ15:11)

なぜ、詩人はすべての国民が神様をほめたたえるように招くのでしょうか。二つの理由があります。

一つ目は、神様の私たちに対する大きな恵みです。神様は、十字架でキリストの死によってその恵みを示してくださいました。

その死によって、私たちの罪が赦され、私たちは神様の家族に入ることができます。

その真理を理解したので、ヨハネはこう叫びました。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。(第一ヨハネ3:1)

あなたが日本人でも、アメリカ人でも、ユダヤ人でも、あなたがイエス様を信じたら、神様は自分の子供としてあなたを受け入れてくださいます。

二つ目の理由は、神様の忠実さは永遠に続くことです。私たちがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して見捨てません。

日本語の聖書では、こう訳されています。

主のまことはとこしえに。(詩篇117:2)

つまり、神様とそのみことばは決して変わることがありません。

神様が気まぐれな方であると心配する必要はありません。神様が何かを語られるなら、その御心が変わることを恐れる必要はありません。

だから、私たちは恐れずに神様に信頼することができます。

だからこそ、詩人は歌います。

ハレルヤ。(2)

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詩篇

暗い時に希望

私が高校生の時、詩篇116篇にちなんだ歌を聴きました。その時から、この詩篇は私のお気に入りになりました。

そのソングライターはリビング・バイブルの訳を引用しました。

私は主を愛します。なぜなら、主は私の祈りに聞き、答えてくださるから。

主が私に耳を傾けられるので、私は生きる限り祈ります。(詩篇116:1-2)

なぜか、「主が私に耳を傾けられる」と言う言葉は私の心の中に響きます。

神様は私を愛しておられるので、私のすべての言葉を聞くために耳を傾けてくださいます。

そのことについて考える時、私は驚きます。

私には7歳の娘がいます。もちろん私の方が背が高いので、時々、私はちょっと低くして、彼女と話します。なぜなら、私が彼女の言葉を聞くのがもっと簡単になるし、彼女の目がちゃんと見えるからです。

神様は私たちのためにもそうしてくださいます。特に、私たちが暗闇の中にいる時に神様はそうしてくださいます。この詩篇では、詩人は自分のそんな時について歌います。

死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。

そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」(3-4)

そして、神様は憐れみと恵みによって、その詩人に触れられました。だから、詩人は歌います。

私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。(7)

けれども、この詩篇で私たちが学ぶのは、神様に従ったとしても、時々私たちは困難に直面することです。

詩人はこう書きました。

「私は大いに悩んだ」と言ったときも、私は信じた。(10)

パウロは、自分の試練について話した時、この詩篇を引用しました。彼はこう言いました。

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。

途方にくれていますが、行きづまることはありません。

迫害されていますが、見捨てられることはありません。

倒されますが、滅びません。(第二コリント4:8-9)

そして、彼はこう言いました。「私が福音のために苦しんでいても、イエス様の命は私たちを通して表れました。だから、私の周りの人々はその命を受けました。」(第二コリント4:10-12)

だから、パウロは詩人のように言いました。

「私は信じた。それゆえに語った。」(第二コリント4:13)

要するに、「私が福音を述べ伝えることができるなら、私は喜んで暗い時を通って、苦しみます。」

だから、パウロはこう言います。

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(第二コリント4:16-18)

詩人も主からの救いを知ったので、永遠の物に照準を合わせ、主をほめたたえ、自分の人生を主に奉げました。彼は歌いました。

主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。

私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。

私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。(詩篇116:12-14)

神様は私たちの鎖も打ち砕いてくださいました。だから、心から主をほめたたえ、感謝のいけにえを捧げ、周りの人々に主が私たちのために何をしてくださったか伝えましょう。

そうすれば、彼らも暗闇から自由にされます。

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詩篇

私たちの賛美と信頼にふさわしい方

この詩人の叫びは、私の心に響きます。

私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。(詩篇115:1)

あなたは誰のために生きているでしょうか。何のために生きているでしょうか。お金を儲けるためでしょうか。栄光を得るためでしょうか。

もしくは、全ての栄光に値する方のために生きているでしょうか。神様の恵みとまことのために、主にあなたの人生を捧げるでしょうか。

この詩篇では、詩人は私たちが神様に信頼し、神様を賛美するように励まします。どうしてでしょうか。どうして、神様は私たちの信頼と賛美にふさわしいのでしょうか。

一つの理由は、神様は全能の主です。

詩人はこう言います。

私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。(3)

そのことを聞くと、恐れる人がいます。彼らは「神様が自分が望むことをことごとく行われるなら、神様は私をどのように取り扱われるだろうか」と思います。

けれども、神様を知っている人は、神様に畏敬の念を抱きます。なぜなら、この全能の神は私たちを愛しておられるからです。それに、私たちがどんなに不実でも、神様はいつも私たちに忠実です。

それに、神様は、口があっても語れず、目があっても見えず、耳があっても聞こえず、手があっても触れず、足があっても歩けず、のどがあっても声をたてることもできない偶像ではありません。

そのような「神」は自分自身を支えられないし、私たちをも助けられません。

むしろ、神様は私たちを見る時、私たちの叫びを聞き、応えてくださいます。また、神様は私たちを助けてくださいます。

だから、詩人は言います。

主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。(11)

そうすれば、どうなるでしょうか。

主はわれらを御心に留められた。主は祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福し、主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も、大いなる者も。(12-13)

あなたはどのように生きているでしょうか。あなたは自分の人生をコントロールしようとしているでしょうか。あなたがすべてのことをコントロールできないので、思い悩んでいるでしょうか。

神様に信頼してください。神様は全能の主なので、あなたがコントロールできないことを神様は掌握できます。

だから、詩人はこう歌います。

しかし、私たちは、今よりとこしえまで、主をほめたたえよう。ハレルヤ。(18)

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詩篇

聖所となるように救われた、神の国民になるように救われた

詩篇114篇では、詩人はどうやって神様がイスラエル人をエジプトから救い出し、砂漠を通して、約束の地に導いてくださったかを話します。

神様はイスラエル人のためにいろんな奇跡を行って、自分の力を表されました。(詩篇114:3ー8)

けれども、2節は私の心を打ちます。

詩人はこう歌います。

ユダは神の聖所となり、イスラエルはその領地となった。(詩篇114:2)

どうして、神様はイスラエル人のためにたくさんの奇跡を行われたでしょうか。

神様の目的は、神様が彼らの間に住み、イスラエル人が神様の聖い国民になることです。

そのように、神様は、ただ私たちが天国に行くために私たちを救ったのではありませんでした。むしろ、神様は私たちの間に住むように私たを救われました。

また、私たちが神様の宮となり、神様は私たちの中に住まわれます。そして、神様の民として、私たちは神様が設立する国に参加します。

だからペテロはこう書きました。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。

それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(第一ペテロ2:9)

その最後の部分に注意してください。どうして、神様は私たちを聖所とされるのでしょうか。どうして、神様は私たちを自分の国民とされるのでしょうか。

私たちが神様の素晴らしい御業を宣べ伝え、私たちの周りの人々を闇の中から神様の驚くべき光の中に導くためです。

主よ。私の中に住んで、私があなたの使節になるようにしてください。あなたが私を闇の中から光の中に招いてくださり、ありがとうございます。

私たちの周りの人々があなたの光に来るように私たちを用いてください。アーメン。

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詩篇

高い御位に座る神、身を低くして覧になる神

多分、神様に関して最も驚いたことは、神様は威光ある方でありながら、私たちを愛しておられることです。

詩人は詩篇113篇の最初から私たちを礼拝するように呼びかけます。

ハレルヤ。主のしもべたちよ。ほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。

今よりとこしえまで、主の御名はほめられよ。

日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。(詩篇113:1-3)

そして、彼は歌います。

主はすべての国々の上に高くいまし、その栄光は天の上にある。

だれが、われらの神、主のようであろうか。主は高い御位に座し。。。(4-5)

要するに、「神様は偉大な方です。神様を他のものと比べられません。神様が私たちの賛美に値する方だから、ほめたたえましょう。」

けれども、6節で、詩人はこう言います。

「神様は」身を低くして天と地をご覧になる。(6)

そして、詩人は、どうやって神様が弱いもの、貧しいもの、子供のいない女性(その時代、それは本当に恥ずかしいことでした)を引き上げ、祝福してくださることについて話します。(7-9)

神様は私たちを見るために身を低くし、私たちに触れられました。

しかし、それだけではなく、神様は人間として、この世に来られ、私たちと共に住まわれました。パウロはこう書きました。

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ[た]。(ピリピ2:6-7)

だから、神様は私たちのことを本当に理解しておられます。

さらに、神様は私たちの最大の必要を見て、十字架で私たちの罪のための罰を受けられました。

イエス様は死に値しなかったのに、私たちを愛し、この世に来て、私たちのために死んでくださいました。

だから、詩人が歌ったように、

日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。(3)

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詩篇

神様を恐れる祝福、神様を喜ぶ祝福

恐れと喜び。私たちはふだんその言葉をいっしょに使うことはありません。けれども、詩篇112篇では、詩人はそうします。

彼は神様を恐れる祝福と、神様とその言葉を喜ぶ祝福について話します。

詩人はこう言います。

ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。(詩篇112:1)

神様を恐れることは、どういう意味でしょうか。

一つ目は、神様の偉大さに畏敬の念を抱くことです。

私たちは神様が私たちよりも偉大な方であり、私たちよりも聖い方であることを理解します。その知識によって、私たちは神様を恐れます。なぜなら、私たちは神様の前に立つことに値しないからです。

むしろ、私たちの罪のため、私たちは死に値します。聖書で神様に会う人々はそう感じました。

しかし、同時に彼らは、彼らに対する神様の愛と憐れみを知ったので、神様を喜び、神様を喜ばせたいと思いました。

詩人はそのような人々が祝福を知ることを言います。

そして、彼らは天の父の性格を取るようになります。彼らも、恵み深く、情け深くなり、義の道を歩みます。彼らも気前がよく、自由に人に貸し、義によって行います。(4-5)

その結果は?

彼は決してゆるがされない。正しい者はとこしえに覚えられる。

その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。

その心は堅固で、恐れることなく、自分の敵をものともしないまでになる。(6-8)

多くの人々は自分自身だけを信頼するので、将来について心配します。どうしてでしょうか。なぜなら、将来をコントロールできないからです。だから、悪い便りを聞くと、彼らはパニックになります。

しかし、神様に信頼したら、悪い時が来ても、私たちは安心できるし、将来を恐れません。

どうしてでしょうか。

なぜなら、私たちは全てをコントロールできる方の手に任せるからです。そして、人々が私たちを攻めても、神様は私たちに勝利を与えてくださいます。

詩人は悪者についてこう言います。

悪者はそれを見ていらだち、歯ぎしりして溶け去る。悪者の願いは滅びうせる。(10)

その一方、神様に信頼する人は周りの人々を祝福します。それに、神様は私たちに栄光を与えてくださいます。(9)

だから、毎日この聖く、良く、素晴らしい神を恐れ、喜びましょう。

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詩篇

主の御業に思いを巡らす

私たちが悪いことについて考え続けるのは簡単なことです。私たちは自分の問題を思い出して、その問題のことしか考えられなくなります。

そして、私たちにその問題を解決する力がないなら、私たちのストレスは増します。私には何度もそんな経験があります。

でも、詩人は私たちが他のことについて考えるように励まします。

ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝しよう。直ぐな人のつどいと集会において。

主のみわざは偉大で、みわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる。

そのみわざは尊厳と威光。その義は永遠に堅く立つ。(詩篇111:1-3)

この箇所では、詩人は神様がどんな方であるか、また神様が何をしたか考えるように私たちを励まします。

神様はどんな方でしょうか。神様は義の神だし(3)、情け深く、あわれみ深い神です。(4)。また、神様の戒めは確かです。(7)

神様は何をしたでしょうか。イスラエル人を憐れんで、エジプトから彼らを贖い、砂漠で彼らのニーズに備え(5)、彼らに自分の土地を与えて、国として確立しました(6)。

そして、イスラエルの民の罪のゆえに追放された時、神様は彼らをバビロンから贖ってくださいました。(9)

それに、神様は私たちのためにもそうして下さいます。神様は私たちのニーズに備え、私たちを憐れみ、サタンの国から私たちを贖い、私たちを神様の民にし、約束の地に導いてくださいます。

私たちの命は一時的なものです。だから、私たちが天国に行くと、この世の苦しみとトラブルをすぐに忘れます。

それなら、どうして、私たちは心配しているでしょうか。心配すると、私たちはストレスを溜めるだけです。

だから、詩人はこう書きます。

主を恐れることは、知恵の初め。(詩篇111:10)

私たちが神様に畏敬の念を抱くとき、この世の一時的なトラブルは小さく見えるようになります。

私たちが神様がどんな方であるか、また、神様が何をされたか思いを巡らすと、私たちは心配しなくて良いと悟ります。

それこそが知恵ではありませんか。

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詩篇

苦々しい心と許し、憐れみと正義

詩篇109篇は「呪いの詩篇」です。

時々、詩篇の中で、ダビデは自分の敵を呪ったり、その敵に対する神様の裁きを求めて祈ります。

多くの人々は(私も)こんな詩篇を読む時、気持ちがよくありません。なぜなら、イエス様は私たちに自分の敵を赦しなさいと命じられたからです。

以前、このブログでこのことについて説明したことがあるけど、繰り返した方が良いと思います。

王として、ダビデは正義の大切さをよく知っていました。彼は悪が続くことを許しませんでした。だから、ダビデはその悪者が自分が蒔いたものを刈り入れるように祈りました。

ダビデは無実なのに敵に責められたので、ダビデは彼らが裁かれるように祈ったのです。

「どうか、悪者を彼に遣わしてください。なじる者が彼の右に立つようにしてください。」という言葉は少し難しいです。

もしかしたら、ダビデは彼らも不公平に責められる経験を知ることを望んだのかもしれません。

そして、ダビデは祈ります。

その子らはみなしごとなり、彼の妻はやもめとなりますように。

彼の子らは、さまよい歩いて、物ごいをしますように。その荒れ果てた家から離れて、物ごいをしますように。(詩篇109:9-10)

それは酷い祈りです。とはいえ、その悪者は他の家族をそのように苦しませたのです。

最近、私はニュースを見て、ある殺人者が刑務所で自殺したことを聞きました。彼は婚約者と娘を残しました。

私たちの罪は自分自身に影響を与えるだけでなく、私たちが愛する者にも影響を与えてしまいます。

そして、私たちが悔い改めないなら、神様の赦しを決して知ることがありません。

けれども、このことを覚えていてください。私たちは正義を望むかもしれないけど、苦々しい心を持ってはいけません。なぜなら、苦々しい心は相手を傷つけるよりも、自分自身を傷つけるからです。

興味深いのは、ペテロがこの詩篇をユダに当てはめたことです。ユダは理由もなくイエス様を裏切り、善にかえて悪を与え、愛にかえて憎しみを返しました。

そして、彼が決して悔い改めなかったため、神様は彼を赦されませんでした。その結果、彼の人生は短く終わり、彼の務めと立場は他の人に引き継がれました。

しかし、イエス様はユダに対して苦々しい心を持っておられませんでした。むしろ、最後の晩餐ではユダの足を洗い、彼にパンを与えられました。

そして、ユダが裏切るためにゲツセマネの園に来た時も、イエス様は苦々しさを示されませんでした。むしろ、イエス様はユダに対して情け深く接しておられました。

イエス様は騙されやすい方ではありませんでした。イエス様はユダの性格と動機をよく知っておられました。

それでも、イエス様はユダに憐れみと愛を示されました。その愛と憐れみによって、イエス様は彼の頭に燃える炭火を積まれたので(箴言25:21-22)、結局ユダは自分の罪悪感を感じて、自殺しました。

けれども、イエス様は苦々しさに汚れませんでした。

ダビデも苦々しさに汚れませんでした。一回だけ、ダビデは苦々しい心を持って、誰かを殺したいと思いました。

けれども、彼は本当の正義を思い出して、その苦々しい心を手放し、その人に憐れみを与えました。そして、彼が神様の正義を見たとき、この詩篇のように、彼は喜びました。

私は、この口をもって、大いに主に感謝します。私は多くの人々の真ん中で、賛美します。

主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われるからです。(30-31)

だから、苦々しい心を手放しましょう。むしろ、憐れみ、赦し、そして正義を大事にしましょう。

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詩篇

私たちの王と祭司

これは、本当に有名なメシアについての詩篇です。イエス様はその詩篇を引用して、パリサイ人が答えられない謎をかけられました。(マタイ22:41-45)

詩篇110篇では、主(つまり、天の父)は、ダビデの主(つまり、メシヤ)にこう言います。

わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。(詩篇110:1)

昔は、戦勝した王は敗戦した王の首を踏みました。

この箇所では、天の父がイエス様に敵を打ち勝たせることを約束しておられます。また、イエス様がご自身に逆らう者さえも支配されることを約束しておられます。

しかし第4節によれば、イエス様はただの王ではありません。イエス様は私たちの祭司でもあります。

ただし、イエス様はアロンの系統に属する祭司ではありません。むしろ、天の父はこう言われました。

主は誓い、そしてみこころを変えない。「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」(4)

アブラハムの時代、メルキゼデクは祭司であり、王でした。

ダビデとその息子ソロモンは王でしたが、時に祭司のように、いけにえをささげたり、主の名によって人々を祝福したりしました。それでも、彼らは祭司ではありませんでした。

しかし、イエス様は私たちの王であり、祭司でもあります。

ただし、アロンの系統に属する祭司の職と、イエス様の祭司の職には大きな違いがあります。アロンとその子孫は、一時的に祭司として神様に仕えました。

その一方、イエス様は永遠の祭司です。なぜなら、イエス様は永遠の方だからです。(へブル人への手紙7:24)

そして、6節によれば、最後の日にイエス様はすべての国々を裁かれます。その日、すべての人々はイエス様の王座の前に立って、裁かれます。

良い知らせは、イエス様は私たちの大祭司なので、天の父の前で私たちのためにとりなしてくださることです。だから、私たちは神様を恐れる必要はありません。

むしろ、へブル人への手紙の著者はこう言います。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:16)

イエス様、あなたは私の王と神と裁判官です。けれども、一番感謝しているのは、あなたは私の大祭司であることです。

あなたは私のためにとりなし、私の罪をあなたの血によって取り去ってくださり、感謝します。

けれども、それよりも、あなたが本当に素晴らしい神であることを感謝します。あなたの名前によって祈ります。アーメン。

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詩篇

私たちの話を伝える

私はずっとクリスチャンだったけど、最近まで、詩篇107篇の美しさに気づいていませんでした。特に1-2節は私の心を打ちました。

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」

主に贖われた者はこのように言え。(詩篇107:1-2)

ちょっとパラフレースだけど、ある英語の聖書は「主に贖われた者はこのように言え」を「主に贖われた者は自分の贖いの話を伝え」と訳しています。

この詩篇はそのような話です。人々は自分の贖い話をシェアして、神様を賛美します。

この詩篇は、賛美の言葉で始まります。イスラエルの詩篇では、この言葉がよく見られます。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(1)

この詩篇は、どうやって神様が私たちを贖って、自分の慈しみを表されたかを宣言します。

イスラエル人は、砂漠でさ迷って、飢え、渇き、自分の家がありませんでした。けれども、彼らが神様に叫んだら、神様は彼らの声を聞き、安全な所に導き、食べ物と水を備えてくださいました。

そのように、私たちは罪にさ迷って、霊的に飢えたり渇いたりし、平安を見つけませんでした。しかし、私たちが神様に叫んだら、神様は私たちを喜びと平和深い所に導いてくださいました。だから、私たちは満足します。

そして、詩人は囚人について歌います。彼らは神様に逆らったので、暗闇に住んでいました。けれども、彼らが神様に叫んだので、神様は彼らの鎖を打ち砕き、救い出してくださいました。マナセ王はそれを経験しました。

そのように、私たちも、神様を知っていましたが、神様に背を向けました。私たちは自由を求めて、この世の物を追い求めました。

しかし、私たちが追い求めたもの、つまり、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、かえって私たちを奴隷にしました。

それでも、私たちが神様にもう一度向かった時、神様はその鎖を砕いて、私たちを本当の自由に導いてくださいました。

ある人々は、自分の罪によって、病を経験しました。けれども、彼らが神様に叫んだら、神様は彼らを赦し、癒してくださいました。ダビデも、その経験があったかもしれません。(詩篇30,32,38-39)。

そのように、神様は私たちも注目を得るために倒されました。しかし、私たちが悔い改めたら、神様はすぐに赦してくださいました。

時々、私たちは人生の嵐に巻き込まれます。時々、それは私たちのせいですが、時々他の人のせいで苦しみます。それでも、私たちが神様に叫んだら、神様は私たちを救い出してくださいました。

他の人々は砂漠を渡った時に神様の備えを見たけれど、神様が約束の土地に着くと、彼らはすぐにそのことを忘れたので、自分の罪によってすべてを失ってしまいました。イスラエルの歴史はその通りでした。

けれども、彼らが神様に向かったら、神様は彼らをその土地に戻らせ、もう一度彼らを祝福してくださいました。

あなたもそのような経験があるかもしれません。砂漠で神様の祝福を見たのに、あなたの人生が上手くいき始めたら、神様を忘れたので、すべてを失ってしまいます。それでも、私たちが悔い改めたら、神様は私たちを赦し、癒してくださいました。

だから、私たちはどう反応するべきでしょうか。

彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。(15,21,31)

また、私たちの話を次の世代に伝えましょう。そうすれば、彼れらはこれらのことに心を留め、主の恵みを悟ります。(43)

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詩篇 歴代誌第一

不従順の歴史、憐れみの歴史

詩篇106篇では、ダビデはイスラエルの歴史を伝えます。けれども、その歴史はいつもポジティブではありません。

何回も、ダビデは、どうやってイスラエル人が神様に背を向けたかを話します。その話は私たちの人生も反映します。

1. イスラエル人は神様に逆らいました。(詩篇106:6-7)

これはこの詩篇の主要なテーマの一つです。彼らは逆らうことを選びました。

一つの理由は、彼らが神様の御業をすぐに忘れたからです。何回も彼らの目の前で神様は素晴らしい奇跡を行われました。けれども、トラブルが来るとき、彼らはその御業を覚えていませんでした。

だから、何回も、彼らは罪を犯したのです。

どれくらい私たちもそうするでしょうか。神様が私たちのために何をしてくださったか忘れるので、困る時に、私たちは文句を言い、神様を責め、自分の道を行きます。

2. 彼らは自分の欲望に負けました。(14)

イスラエル人は肉を貪りました。神様が肉を与えてくださいましたが、そのあと、疫病が発生したので、たくさんの人々が亡くなりました。

そのように、私たちの欲望に従えば、結局私たちは滅びます。例えば、性病や、心臓麻痺や、ガンにかかります。

あなたは貪ったものを得るかもしれませんが、結局その代価を払うことになります。

3.彼らは本当の神の代わりに、他の神々を礼拝し始めました。(19-20,28)

そのように、私たちもよく神様に背を向け、違うものを追い求めます。私たちはセックスやお金や、この世の物を追い求めます。それらのものが私たちの「神」になります。

だから、私たちは心のすべてを神様に捧げなくなります。また、それらの物は私たちを神様から奪います。

4. 神様の約束を信じず、神様の良い計画を侮りました。(24-27)

だから、彼らは文句を言って、神様が約束したものを受け取れませんでした。

どれくらい、私たちもそうするでしょうか。私たちは聖書を読んで、神様の良い計画を見ますが、神様がその約束を守ることを信じません。

だから、神様の言葉に従わないので、神様が約束したものを受け取れません。

5. 彼らは周りの国民のようになりました。彼らはその国民の価値観と道徳を受け入れました。(34-39)

多くのクリスチャンもそうします。神様のために、この世に影響を与えずに、かえってこの世の民のようになるので、神様が憎むことをし始めます。

この詩篇では、イスラエル人の失敗がよく見えます。しかし、神様の憐みも見えます。

何回も、自分の罪によって苦しんだ時に、イスラエル人が神様に叫んだので、神様は彼らを救い出してくださいました。

そのように、私たちが罪に落ちるとき、本当に悔い改めると、神様は赦してくださいます。

だから、ダビデは歌います。

私たちの神、主よ。私たちをお救いください。国々から私たちを集めてください。あなたの聖なる御名に感謝し、あなたの誉れを勝ち誇るために。

ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。すべての民が、「アーメン」と言え。ハレルヤ。(47ー48)

主よ。私は何度も罪を犯しました。何度も私はあなたが私のために何をしてくださったか忘れるので、感謝することも忘れてしまいます。

何度も私はあなたの約束を信じることをせず、自分の道を行き、あなたに背きます。

私はよくこの世の神を追い求めます。また、何度も私はこの世の民のようになります。

赦してください。私を変えてください。

あなたの私に対する憐れみを感謝します。

毎日、私がもっとあなたのようになりますように助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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詩篇 歴代誌第一

ご自身の約束を覚えておられる神

詩篇105篇のテーマは、神様がご自身の約束を覚えておられる方であるということです。

特に、詩人はアブラハム、イサク、ヤコブに対する神様の約束について語ります。

神様は彼らにカナンの地を与え、その子孫から大きな国が起こると約束されました。そして、彼らとその子孫がどのような試練に直面しても、神様はその上に御手を置いて守ってくださいました。

だから、アブラハムとイサクとヤコブが寄留の他国人としてカナンにいたとき、神様は彼らを守ってくださいました。(詩篇105:12-15)

ヨセフが奴隷としてエジプトに住んでいたとき、神様は彼に対する約束を守って、彼を支配者にされました。(17-22)

そして、エジプト人がイスラエル人を迫害したとき、神様はパロとその民を裁かれました。(23-38)

イスラエル人が水と食べ物を必要としたとき、神様は彼らのニーズに備えられました。(40-41)

そして、最終的に神様がアブラハムとイサクとヤコブに対する約束を守られたので、ダビデはこの歌を書いて神様をほめたたえました。

だから、覚えておきましょう。神様はいつもご自身の約束を守られます。何が起こっても、どんな試練に直面しても、神様が忠実な方なので、私たちは神様に信頼できます。

だから、パウロはこう書きました。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。。。

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

私たちは、この望みによって救われているのです。

目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。(ローマ8:18,23-25)

ある日、神様がイスラエル人に安息を与えてくださったように、私たちにも安息を与えてくださいます。その日まで、ダビデは私たちに言います。

1.主が何をしてくださったか思い出して、感謝せよ。(1、5)

時々、私たちは自分の問題に巻き込まれて、主からの祝福を感謝することを忘れます。

そのとき、私たちの問題に圧倒されます。しかし、神様からの祝福を思い出し、感謝するとき、希望と喜びは戻ります。

2.主に歌え。私たちの問題に圧倒されるとき、主の聖なる名を誇りとせよ。喜ばせよ。(2-3)

そうすれば、私たちはどれくらい神様が大きいか、またどれくらい私たちの問題が小さいか分かるようになります。そして、私たちの問題に焦点を当てずに、私たちの助け主に照準を合わせます。

3.主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。(4)

あなたの人生が辛すぎるとき、また希望がないとき、主を慕い求めてください。その力を尋ね求めてください。そうすれば、神様はあなたを助けてくださいます。

パウロはこう書きました。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。

私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ書8:26-28)

神様は私たちへの約束を覚えてくださり、守ってくださいます。だから、主を思い出し、慕い求め、賛美しましょう。

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詩篇

創造者とその被造物

ダビデがこの詩篇を書いたかどうか分かりませんが、詩篇103篇のように、詩人はこう歌い始めます。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。(詩篇104:1)

けれども、103篇と違って、主の愛と憐れみのためではなく、神様の被造物のために詩人は神様に感謝します。彼は被造物を見る時、神様の素晴らしさを驚き、歌います。

わが神、主よ。あなたはまことに偉大な方。あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。

あなたは光を衣のように着[る](詩篇104:1-2)

それを読むとき、私はヨハネの言葉を思い浮かべます。

神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。(第一ヨハネ1:5)

要するに、神様は聖なる方です。だから、光を見ると、私たちは神様の栄光と聖さを垣間見ることができます。

そして、詩人は星空に感心します。神様は、天を幕のように広げておられます。そして、雲は神様の車です。

詩人がこの詩篇を書いたとき、彼は風と稲妻を神様の使いと召使いと呼びました。それらは神様の栄光を宣言し、神様の目的を果たします。

しかし、ヘブル人への手紙の著者はこの箇所を天使に当てはめました。彼が言ったのは、イエス様が神様のひとり子ですが、稲妻と風のように天使はただの召使いということです。

そして、詩人は創世記1章について話します。つまり、神様は土地を造り、植物や動物を造られました。また、神様は日や月や季節を造られました。また、神様は動物にエサを与えられます。そして、神様はすべての物に命を与えてくださいます。

だから、詩人はその被造物のために神様をほめたたえました。

主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは、それらをみな、知恵をもって造っておられます。地はあなたの造られたもので満ちています。

そこには大きく、広く広がる海があり、その中で、はうものは数知れず、大小の生き物もいます。(詩篇104:24-25)

主の栄光が、とこしえにありますように。主がそのみわざを喜ばれますように。

主が地に目を注がれると、地は震え、山々に触れられると、山々は煙を上げます。(31-32)

そして、詩人はこの歌をまとめて歌います。

私は生きているかぎり、主に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。

私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。(33-34)

それは最も大切な教訓です。神様が私たちの創造者なので、神様は私たちの賛美に値する方です。だから、私たちは毎日、私たちの言葉や思い、行動で神様を礼拝しましょう。

なぜなら、神様を私たちの創造主として認めない人は裁かれて滅びるからです。(35a)

だから詩人は歌います。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。ハレルヤ。(35b)

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詩篇

神様の愛とあわれみ

詩篇103篇では、ダビデは神様の愛と憐れみについて歌います。

いつダビデがこの詩篇を書いたかは分かりませんが、多分バテ・シェバとの罪の後かもしれません。

もしかしたら、ダビデはイスラエル人の人数を数えた罪の後に、この詩篇を書いたかもしれません。

とにかく、彼の罪が赦された後に、彼は歌います。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。(詩篇103:1)

私はこの箇所を読むと、イエス様の言葉が思い浮かびます。つまり、多くの罪が赦された人は神様をより多く愛します。(ルカ7:47)

ダビデは、多く赦されたので、彼の神様に対する愛はより大きかったのです。

彼は酷い罪を犯しても赦され、彼の健康が回復され、死から救われました。それに、彼が何回失敗しても、神様は彼に恵みとあわれみとの冠をかぶせてくださいました。(2-4)

そして、ダビデは神様がモーセに何を言われたかを思い出しました。神様はご自身についてこう言われました。

主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。(8)

ダビデはその言葉に加えました。

主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。

私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。

天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。

東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。(9-12)

その言葉が大好きです。

「絶えず争ってはおられない。」

あなたのお父さんやお母さんが、何度もあなたを責めたことがあるかもしれません。彼らがあなたを決してほめず、いつも批判していたかもしれません。だから、あなたは神様もそのような方だと思ってしまうかもしれません。

しかし、神様は絶えず争う方ではありません。

そして、私たちが悔い改めると、神様はご自身の怒りを心の中に持ち続けることはありません。

時々、人々は「あなたを許してあげる」と言いますが、私たちがもう一度失敗したら、彼らは私たちの以前の失敗も思い出させます。

神様はそうなさいません。神様は私たちを赦す時、私たちの罪をもう思い出されません。

それに、神様は私たちの弱さを知っておられるので、私たちをあわれんでくださいます。

神様は人間になられたので、私たちの弱さをよく知っておられます。私たちのようにイエス様は誘惑されましたが、決して罪を犯されませんでした。しかし、その経験によって、私たちの誘惑が分かるようになりました。

だから、私たちは悔い改め、神様を敬うと、神様の恵みは永遠から永遠まで私たちの上にあります。(13-17)

だから、ダビデは天の者と全地の者が神様をほめたたえるように招きます。ダビデも賛美してこう歌いました。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。(22)

主よ、あなたの愛とあわれみを感謝します。私が弱くて、罪を犯しても、あなたが私をまだ愛してくださることを感謝します。あなたは私を争わずに、恵み深い目で見てくださいます。

どうか、その恵みとあわれみを周りの人々にシェアするように助けてください。アーメン。

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詩篇

決して変わらない神

私は詩篇102篇の最後の部分が大好きです。

あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。

これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。

しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。(詩篇102:25-27)

要するに、いつかこの世が滅びるので、神様はこの世を新しくしなくてはなりません。けれども、神様は決して変わりません。

どうしてその真理は大切なのでしょうか。それは、私たちがどんなに失敗しても、私たちに対する神様のあわれみが決して絶えないからです。

おそらく、ユダヤ人がバビロンに追放された時期に、詩人はこの詩篇を記したのでしょう。だからこそ、彼はイスラエルの民の苦しみを目にした時、涙を流しました。

神様がご自身の怒りを彼らに注がれたため、敵はあざ笑い、イスラエルの民は絶望の中にありました。

けれども、詩人は叫びます。

しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御名は代々に及びます。

あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます。今やいつくしみの時です。定めの時が来たからです。(詩篇102:12-13)

エレミヤの預言によれば、イスラエル人の追放は70年続きます。だから、おそらくその追放の終わりが迫るとき、詩人は祈りました。

「私たちがエルサレムに帰る時間がもうすぐ来ます。だから、立ち上がって、私たちをあわれんでください。」

そして、彼は将来について考えました。そのとき、神様がエルサレムを建て直されるので、周りの国々は驚きます。

詩人はこう歌いました。

こうして、国々は主の御名を恐れ、地のすべての王はあなたの栄光を恐れましょう。

なぜなら、主はシオンを建て、その栄光のうちに現われ「ます。」(詩篇102:15-16)

その日を楽しみにして、詩人は主のあわれみを喜び、歌います。

窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。(詩篇102:17)

また、

主はその聖なるいと高き所から見おろし、天から地の上に目を注がれました。

捕らわれ人のうめきを聞き、死に定められた者を解き放つために。(詩篇102:19-20)

この箇所が大好きです。私たちが罪で縛れて、死に値したのに、神様は私たちの叫びを聞いて下さって、私たちを解放してくださいました。

いつかの日に、私たちは私たちを贖った神の前に集まり、礼拝します。それに、私たち永遠まで神様の御前に住みます。(詩篇102:22,28) 私はそれを楽しみにしています。

主よ、あなたは永遠からの神です。人々は変わるかもしれませんが、あなたは決して変わりません。私たちが罪を犯しても、あなたのあわれみは決して変わりません。だから、あなたを賛美します。

あなたがもう一度来るまで、私に対するあなたのあわれみが毎日新しくなるように。あなたの忠実さを感謝します。アーメン。

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詩篇

神様のようになる事

詩篇101篇では、私たちはなぜ神様がダビデを神様の心にかなう人だと呼んだのか分かります。

ダビデは歌います。

私は、恵みとさばきを歌いましょう。主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう。(詩篇101:1)

神様のダビデに対する愛のため、また、ダビデの神様に対する愛のため、ダビデはもっと神様のようになりたいと願っていました。つまり、ダビデは正義を愛し、清い人になりたかったのです。だから、彼は言いました。

私は、全き道に心を留めます。(2)

そして、彼はどのように神様のようになりたがったかをリストアップします。

彼は自分の家庭生活によって神様を喜ばせたかった。だから、家でも、卑しいことを見ませんでした。(2-3)

私たちが教会や仕事に行く時、敬虔な人生を生きるふりをするのは簡単です。けれども、正直な人は、家でも、外でも同じように振る舞います。

そして、ダビデは人の罪を憎み、その罪に参加しないと言いました。だから、誰かが隣人を謗った時、ダビデはその人を黙らせました。また、彼らが高ぶって、人を見下したり、神様を侮ったりしたら、ダビデは彼らのことを我慢できませんでした。

しかし、どれぐらい私たちは悪を耐えるでしょうか。私たちの友達が噂話をする時、どれぐらい私たちも参加するでしょうか。どれぐらい、私たちは高ぶって、相手を見下すでしょうか。

ダビデは神様を愛していたので、そんな態度を憎み、その罪に参加しませんでした。

それに、ダビデは友達を選ぶ時、気を付けました。また、誰のアドバイスに従ったかを気を付けました。だから、彼はこう言いました。

私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者は、私に仕えます。(6)

最後に、自分の家族のリーダーとして、また、国のリーダーとして、真理と正義によって治めることを決心しました。(7-8)

私たちは本当に神様を愛するなら、そんな態度は私たちの心を治めるべきです。なぜなら、神様の心にかなう人はそのような人だから。

私たちがダビデのように、私たちを愛する神、また私たちが愛する神のようになるように。

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詩篇

本当の礼拝

詩篇100篇は礼拝のための歌です。

だから、この詩篇の始めに、詩人は私たちを神様を礼拝するように招きます。

全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。

喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。(詩篇100:1-2)

そして、詩人は私たちの礼拝の理由を教えます。つまり、詩人は神様がだれであるか、私たちがだれであるか、また私たちの神様との関係は何であるかを反省します。

神様は誰でしょうか。神様は「主」です。

この話を進める前に、少し説明した方が良いと思います。

新改訳では、時々「主」は太字で書かれます。時々、「主」は普通のフォントで書かれます。どうしてでしょうか。

「主」が太字で書かれたとき、それは「ヤハウェ」という言葉です。「ヤハウェ」は神様の名前です。

実は、私たちはその名前の子音しか知りません。なぜなら、ユダヤ人は神様の名前を尊重したので、聖書を読むとき、決して「ヤハウェ」と言わなかったからです。その代わりに「主」と言いました。

そして、ヤハウェの名前を書くとき、子音しか書きませんでした。だから、今では誰もヤハウェの本当の発音をよく知りません。誰もヤハウェの母音を知らないからです。

そういうわけで、日本語の聖書と英語の聖書のほとんどは神様の名前のために「主」を使います。

とにかく、太字の「主」を見るなら、その代わりに「ヤハウェ」と入れ替えてみてください。

多分「ヤハウェ」という名前は、出エジプト記3章14節から来ます。そのとき、モーセは神様に尋ねました。「あなたの名前は何ですか。」

神様は「わたしは、『わたしはある』という者です。」と答えられました。

ヘブライ語では、「ヤハウェ」という名前は「ある」という動詞から来ています。

その名前によって、神様が私たちに言われるのは、「私は永遠の方です。私は永遠から存在し、永遠まで存在します。私は決して変わりません。」ということです。

そして、神様は私たちの創造主です。

それでは、私たちは誰でしょうか。そして、私たちの神様との関係は何でしょうか。私たちは神様のものです。私たちは神様に属するものです。なぜでしょうか。

それは神様が私たちを造られたからです。私たちは自分自身を造りませんでした。神様は私たちの創造主ですから、私たちは正当に神様に属します。だから詩人は言います。

私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。(3)

神様の羊として私たちはどうすればいいでしょうか。

感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。(4)

以前のブログでは、私はジム・エリオットという人について話しました。「Shadow of the Almighty」という本の一節は本当に私の心を打ちました。エリオットは詩篇100篇4節についてこう書きました。

どうして、羊はその門に入っているのでしょうか。どうして、主の大庭に入っているのでしょうか。歌を歌って、羊の交わりを楽しむためでしょうか。それだけでしょうか。違います。

彼らは祭壇に行っていました。彼らが牧場で食べた目的は、彼らを試し、いけにえの準備をさせられるためです。

だから、神様に感謝しましょう。なぜなら、あなたはその祭壇に値するものとして認められたからです。

賛美しながら、神様の仕事をしなさい。。。

天のお父様、あなたの御心でしたら、私の命、私の血を取って、あなたの火で焼き尽くしてください。

私の人生を救おうとは思いません。なぜなら、この人生は私の物ではないからです。

私の人生のすべてを取って、用いてください。

この世のために私の血を供え物として注いでください。なぜなら、私の血は、あなたの祭壇の前に流れる時だけに価値があるからです。

あなたはその言葉が極端だと思うかもしれませんが、多分エリオットはパウロの言葉をよく理解していました。

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。

あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1)

実は、エリオットはアウカ族の救いのために自分の血を注ぎました。

だから、覚えておきましょう。礼拝はただ賛美の歌を歌うことではありません。

礼拝は生きた供え物になることです。

礼拝は、自分の目的のためでなく、神様の目的のために生きることです。

礼拝は主を喜ばせることです。

それらが本当の礼拝です。

時々、礼拝の代価は高いです。しかし、主にすべてを捧げると、あなたは喜びを知ります。どうして私はそう思うでしょうか。

主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。(5)

その言葉を信じないなら、主に人生を捧げるのは難しくなります。

けれども、神様が良い方であることを信じたら、また、神様が忠実で、私たちを愛して、私たちの最善を望んでおられることを信じたら、神様にすべてを捧げることは当然なことになります。

あなたはどうですか。そのことを信じるでしょうか。神様を本当に礼拝しているでしょうか。

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詩篇

聖なる神

私たちが神様の性格について考えるとき、たいてい「愛」という言葉がすぐに浮かぶでしょう。

もちろん、神様は愛です。 しかし、この箇所では、もう一つの面を見ることができます。 つまり、神様は聖なる方であるということです。

だから、詩篇97篇と99篇の最初の言葉は少し異なります。

詩篇97篇では、詩人は歌います。

主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。(97:1)

けれども、99篇では、詩人はこう歌います。

主は王である。国々の民は恐れおののけ。

主は、ケルビムの上の御座に着いておられる。地よ、震えよ。(99:1)

どうして神様の前に私たちは恐れおののくのでしょうか。どうして、地は震えるのでしょうか。なぜなら、神様は聖なる方だけど、私たちはそうではないからです。

この詩篇では、詩人は何度も神様の聖さについて歌います。

国々の民よ。大いなる、おそれおおい御名をほめたたえよ。主は聖である。(3)

また、

われらの神、主をあがめよ。その足台のもとにひれ伏せ。主は聖である。(5)

また、

われらの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かって、ひれ伏せ。われらの神、主は聖である。(9)

神様の聖さを見ると、何度も人々は神様を恐れ、平伏しました。モーセ(出エジプト記3:5-6)、イザヤ(イザヤ書6:5)、ヨハネ(黙示録1:17)はそうしました。

彼らは神様を見る資格がないことをよく知っていました。むしろ、彼らは自分の罪のために死に値することをよく知っていたのです。

けれども、何度も神様は彼らとイスラエル人にあわれみを与えてくださいました。

だから、詩人はそのあわれみについて歌います。

あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。しかし、彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。(8)

イスラエル人は神様に信頼しそびれたのに、神様は彼らを決して捨てませんでした。彼らが罪を犯した時、神様は彼らを懲らしめられましたが、彼らを捨てずに、あわれんでくださいました。

それに、モーセや、アロンや、サムエルが不完全な人間なのに、彼らが神様に祈った時、神様は応えてくださいました。

ここでの良い知らせは、神様が私たちにもそのように扱ってくださることです。

神様は聖なる方で、私たちがそうではないのに、私たちを決して捨てません。私たちが何度も失敗しても、神様は私たちを赦し、私たちの祈りに答えてくださいます。

だから、神様の聖さとあわれみを覚えていて、毎日神様をほめたたえましょう。

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詩篇

私たちの救いを喜ぶ

私たちはこの詩篇の著者を知らないため、いつ書かれたのかは分かりません。

もしかすると、イスラエル人がエジプトから救い出された後に書かれたのかもしれません。あるいは、ダビデが王になった時に書かれたのかもしれません。または、イスラエルが国として確立された後に書かれた可能性もあります。

そんなわけで、私にはいつ書かれたのか分かりませんが、詩篇98篇を読むと、その詩人の喜びがはっきり見えます。

詩人は歌います。

新しい歌を主に歌え。(詩篇98:1)

時々私はギターを弾いて、昔の賛美の歌を歌います。その歌は今も好きですが、教会で新しい歌を歌うのも好きです。

昔の歌は素敵ですが、歌いすぎるとすぐに飽きてしまいます。なぜなら、その歌の意味を考えずに歌い始めてしまうからです。祈りを歌うというより、カラオケになってしまいます。

その一方、新しい歌を歌うとき、何を歌っているのか考えなくてはなりません。だから、もう一度私たちは神様が私たちのために何をしてくださったかを思い出します。

だから、詩人はこの新しい歌を書きました。彼は歌いました。

奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。

主は御救いを知らしめ、その義を国々の前に現わされた。

主はイスラエルの家への恵みと真実を覚えておられる。地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている。(1-3)

その箇所を読むと、イザヤ書59章を思い出します。イザヤはこう書きました。

主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。

そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。(イザヤ59:15-16)

神様は世の悪を見る時、その悪に取り組む人を見ませんでした。だから、神様自身が何かをされました。

私たちが自分の罪のせいで神様が見えなかった時、また私たちが救いを求めなかった時、神様は救いのわざを行われました。パウロはこう書きました。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)

だから今、神様を信じる人はその救いを受けることができます。

詩人はその真理が分かったので、こう書きました。

地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている。(3)

そして、彼は叫びます。

全地よ。主に喜び叫べ。大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え。

立琴に合わせて、主にほめ歌を歌え。立琴と歌の調べに合わせて。

ラッパと角笛の音に合わせて、主である王の御前で喜び叫べ。(4-6)

そして、詩人は全創造物を呼んで、「神様をこの救いのためにほめたたえよう」と言います。(7-8)

私たちの救いを喜ぶことは良いことです。それに、そうするべきです。しかし、詩人の最後の言葉を思い出しましょう。

確かに、主は地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、公正をもって国々の民を、さばかれる。(9)

イエス様を救い主として受け入れた人は、もはや罪に定められることがないため、将来の裁きを喜びをもって迎えることができます。

けれども、私たちが愛している人々も、その裁きに備えることができているでしょうか。

もちろん私たちの救いを喜びましょう。しかし、私たちの喜びと希望を周りの人々とシェアしましょう。

そうすれば、彼らもその希望と喜びを知るのです。

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詩篇

私たちの王を喜ぶ

詩篇97篇も、私たちの王の偉大さを喜びます。

詩人は叫びます。

主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。(詩篇97:1)

「地は、小躍りせよ。」

完全な世では、すべての国民は神様を私たちの王として喜ぶでしょう。

完全な世では、彼らは義と裁きが神様の王座の基であることを喜ぶでしょう。(2)

また、彼らは神様の力を喜ぶでしょう。(3-5)

また、神様の栄光を喜ぶでしょう。(6)

しかし今は、この世の人々はそうしません。むしろ、彼らの偶像にしがみついて、お金や、セックスや力を追い求めます。だから、ある日、彼らは恥を見ます。(7)

それでは、私たちは何を喜ぶでしょうか。私たちの王の偉大さを喜ぶでしょうか。それとも恥を与えるものを喜ぶでしょうか。

もし、神様を喜ぶなら、詩人は私たちに言います。

主を愛する者たちよ。悪を憎め。(10)

あなたは神様を愛しながら、悪を抱くことができません。だから、神様を愛するなら、あなたは神様が憎むものを知って、その物を捨てなくてはなりません。

そのような人に関して、詩人は言います。

主は聖徒たちのいのちを守り、悪者どもの手から、彼らを救い出される。

光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。(10-11)

そして、詩人はこの詩篇をまとめます。

正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。(12)

あなたは何を喜ぶでしょうか。

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詩篇 歴代誌第一

神様の名前を国々に宣言する

ダビデは神様の契約の箱をエルサレムに持ってきたとき、感謝の詩篇を書きました。

もしかしたら、その詩篇は詩篇96篇、105篇、106篇からのメドレーかもしれません。

もしくは、元々ダビデは一つの詩篇を書いたけど、後でその詩篇を三つの詩篇に分けて、歌詞を少し加えたかもしれません。

とにかく、私はそれぞれの詩篇について書こうと思いました。歴代誌に出た詩篇はその三つの詩篇と少し違うけど、96篇、105篇、106篇だけについて解説します。

今日は96篇について話します。

この詩篇では、私たちが学ぶのは、神様には私たちのための目的があるということです。その目的は何でしょうか。

ダビデはこう歌いました。

新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。

主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。

主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。

まことに主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。

まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。

尊厳と威光は御前にあり、力と光栄は主の聖所にある。(詩篇96:1-6)

私たちの目的は何でしょう。それは、国々に神様の名前を宣言することです。私たちは持っている喜びを周りの人々とシェアするべきです。

ダビデは、「主に歌え」と言います。どうしてでしょうか。神様をほめたたえるためでしょうか。もちろんそうですが、それだけではありません。

ダビデは歌い続けます。

日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。

主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。(2-3)

どうしてそうしなくてはならないのでしょうか。それは、多くの人々がそのことを知らないからです。

まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。(5)

多くの人々は神様を知っていると思っていますが、実は、その神々はただの虚しい偶像です。

だから、私たちは神様の偉大さを宣言するべきだし、裁きの日が来ることも宣言するべきです。だから、ダビデはこう書きました。

国々の民の諸族よ。主にささげよ。栄光と力を主にささげよ。

御名の栄光を主にささげよ。(7-8)

ある日、神様は自分の王座に座り、この世の民は神様を王として認めます。その日について、ダビデはこう言いました。

確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさばき、その真実をもって国々の民をさばかれる。(13)

多くの人々は不正義について文句を言います。けれども、彼らが知らないのは、正義が来ると、彼らも裁かれるということです。

もし彼らの罪がイエス様の血によってまだ赦されていないなら、彼らは自分の罪のために裁かれます。

だから、神様はその人々に警告するように私たちを招いておられます。

あなたはどうですか。あなたは周りの人々に神様について話しますか。

彼らは神様の偉大さを知っていますか。また彼らは神様の愛について知っていますか。また、将来の裁きについて知っていますか。

彼らにそのことを宣言するのが私たちの目的です。だから、ただあなたのもらった救いに安心しきってはいけません。むしろ、周りの人々に神様の名前を宣言しましょう。

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詩篇

私たちの賛美と信頼に値する神

私にとって、この詩篇は興味深いものです。なぜなら、この詩篇は賛美と大喜びで始まりますが、深刻な警告で終わるからです。

詩人の言葉を読むと、その詩人の喜びが聞こえます。彼は歌います。

さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。

感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。(詩篇95:1-2)

どうして、私たちは神様を賛美するでしょうか。

1.神様は大いなる方ですから。(3)

2.神様は王の王だし、すべての神々にまさるから。(3)

3.神様は私たちの創造者ですから。(4-5)

4.それなのに、神様は私たちを本当に愛しておられます。(実は、多分「神様はそのような方だから私たちを本当に愛する」と言った方が良いです。)(7)

だから、詩人は私たちを招待します。

来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。(6)

けれども、最後に、彼は私たちに警告します。

主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、

メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。

あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。

わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない」と。

それゆえ、わたしは怒って誓った。「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない」と。(7-11)

イスラエル人が砂漠を渡った時、水が見つけられなかった時が二回ありました。その時、彼らは神様を信頼せずに、文句を言いました。神様がそこまで彼らのニーズに備えられたのに、彼らは神様を信じませんでした。

その時だけではなく、何回も彼らは文句を言って、神様を信頼しませんでした。彼らは神様が彼らに与えると約束した土地に入ることを拒絶し、エジプトに帰りたがりました。(申命記13-14章)

だから、神様は彼らに言われました。「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない。」

だから、詩人は私たちに警告します。「彼らのようにならないでください。あなたの心を堅くしないでください。神様の前にへりくだってください。なぜなら、神様は私たちの賛美と信頼に値する方ですから。」

あなたはどうですか。神様に信頼しますか。神様の道を行っているでしょうか。もしかしたら、自分の道を行っているでしょうか。

もし神様に信頼すると、あなたは神様からの喜びと安息と平和を知ります。しかし、自分自身に信頼すると、それらを失います。

あなたは誰に信頼しているでしょうか。

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詩篇

人々を裁く神、私たちを懲らしめてくださる神

裁きか懲らしめか。私たちの人生に悪いことが起きる時、神様がそのどちらかをしているのではないかと、私たちは混乱することがあります。

だから、私たちが「神様が私を裁いて、罰している」と考えるのは簡単なことです。

けれども、神様はそのように考えておられるでしょうか。

詩篇94篇では、裁きと懲らしめの違いを見ることができます。裁きは神様を拒絶する人のためですが、懲らしめは神様の民のためです。

この詩篇の最初の部分では、詩人は神様が悪者を裁くように祈ります。

地をさばく方よ。立ち上がってください。高ぶる者に報復してください。

主よ。悪者どもはいつまで、いつまで、悪者どもは、勝ち誇るのでしょう。(詩篇94:2-3)

そして、詩人は悪者の行動について話します。その人は「神様は私の罪を見ない」と思っています。

だから、詩人は彼らを責めます。

気づけ。民のうちのまぬけ者ども。愚か者ども。おまえらは、いつになったら、わかるのか。

耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。

国々を戒める方が、お責めにならないだろうか。人に知識を教えるその方が。

主は、人の思い計ることがいかにむなしいかを、知っておられる。(8-11)

そして、彼らについて詩人はこう言います。

主は彼らの不義をその身に返し、彼らの悪のゆえに、彼らを滅ぼされます。われらの神、主が、彼らを滅ぼされます。(23)

けれども、神様の子供が罪を犯したら、神様はどうされるでしょうか。神様はどのようにその罪を扱われるでしょうか。

主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。

わざわいの日に、あなたがその人に平安を賜わるからです。その間に、悪者のためには穴が掘られます。

まことに、主は、ご自分の民を見放さず、ご自分のものである民を、お見捨てになりません。(12-14)

この詩篇によって、私たちは神様の懲らしめについて二つのことを学びます。

一つ目は、神様は私たちの益のために懲らしめてくださるということです。神様は私たちを苦しませるために懲らしめるのではなく、私たちを苦しみから守るために懲らしめてくださいます。

二つ目は、私たちがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して見捨てないことです。

それに、神様は私たちを擁護してくださいます。詩人はこう歌いました。

だれが、私のために、悪を行なう者に向かって立ち上がるのでしょうか。だれが、私のために、不法を行なう者に向かって堅く立つのでしょうか。

もしも主が私の助けでなかったなら、私のたましいはただちに沈黙のうちに住んだことでしょう。

もしも私が、「私の足はよろけています」と言ったとすれば、主よ、あなたの恵みが私をささえてくださいますように。

私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。(16-19)

つまり、悪者が私たちを攻める時、神様は私たちを擁護してくださいます。サタンが私たちを責める時、神様は私たちを擁護してくださいます。

だから、詩人はこう書きます。

彼らは、正しい者のいのちを求めて共に集まり、罪に定めて、罪を犯さない人の血を流します。

しかし主は、わがとりでとなり、わが神は、わが避け所の岩となられました。(21-22)

だから、神様の子供として、神様の裁きと神様の懲らしめを取り違えないようにしましょう。

私たちが罪を犯すと、神様は私たちを懲らしめてくださいます。しかし、それは私たちに損害を与えるためではなく、私たちの益のためです。

神様は私たちを滅ぼそうとは思っておられません。私たちを救いたいと望んでおられます。だから、覚えておきましょう。あなたがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して見捨てません。

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詩篇

全てを治めておられる神

これはとても短い詩篇です。この詩篇を読む時、ジャック・ヘイフォードの歌「Majesty」(「威光」)という歌を思い出します。

詩篇93篇は私たちに神様の威光を思い出させます。また、神様がこの世のすべてを治めておられることを思い出させます。詩人は宣言します。

主は、王であられ、みいつをまとっておられます。主はまとっておられます。力を身に帯びておられます。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはありません。

あなたの御座は、いにしえから堅く立ち、あなたは、とこしえからおられます。(詩篇93:1-2)

時々、私たちはこの世を見て、戦争があったり、暴力があったり、いろんな悪があったりするので、本当に神様がこの世を治めておられるのだろうか、と疑います。

けれども、詩人は私たちに思い出させます。

「神様はまだ治めておられます。神様はまだこの世を治めておられます。神様はこの世界を造られ、そのずっと前に、ご自分の王座を確立されました。

だからパニックに陥らないで。思い悩まないでください。むしろ、永遠の方に信頼してください。」

そして、詩人は私たちに尋ねます。「海の力が見えますか。波の音が聞こえますか。どのようにその波が海岸に激しく打ち寄せるか見えますか。神様は海よりも力強い方です。」

そして、詩人は歌います。

あなたのあかしは、まことに確かです。聖なることがあなたの家にはふさわしいのです。主よ、いつまでも。(5)

神様は威光である方だけではなく、聖なる方です。私はそれを聞いて慰められます。なぜなら、神様が力強くてすべてを治めておられるけれど、神様が悪を愛する方なら、私たちは本当に困るからです。

しかし、神様は聖なる方であり、良い方であり、正義の方です。

だから、神様の民として、私たちは聖なる民にならなければなりません。へブル人への手紙の著者はこう書いています。

聖くなければ、だれも主を見ることができません。(へブル12:14)

だから、神様の威光と聖なるさを覚えて、聖さを求めましょう。

そしてある日、私たちは自分の目で、すべてを治めておられる神様を見ることになります。

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詩篇

神様の御名にほめ歌を歌う

詩篇92篇は安息日のために書かれました。神様はイスラエル人が神様を礼拝するために安息日を聖別されました。だから、この詩篇では、詩人は神様を賛美します。

私は1-2節が好きです。

主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。

朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表わすことは。(詩篇92:1-2)

朝にあなたの恵みを言い表す。

どうして、私たちがそうするのは大切なのでしょうか。それは、今日も私たちが希望があることを思い出すからです。

私たちはどんな試練に直面しても、神様が私たちと共におられ、神様の手が私たちの上にあることを思い出します。

夜ごとにあなたの真実を言い表す。

日の終わりに、振り返って、神様が何をしてくださったか思い出すのは良いことです。

振り返れば、私たちが問題に直面しても、神様が私たちを捨てなかったことを悟ります。むしろ、神様が愛によって私たちを救い出してくださったことを悟ります。

だから、詩人は歌います。

主よ。あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいましたから、私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。

主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。(4-5)

そして、詩篇1篇のように、詩人は悪者を正しい者と比べます。最初に、彼は歌います。

悪者どもが青草のようにもえいでようと、不法を行なう者どもがみな栄えようと、それは彼らが永遠に滅ぼされるためです。

しかし主よ。あなたはとこしえに、いと高き所におられます。

おお、主よ。今、あなたの敵が、今、あなたの敵が滅びます。不法を行なう者どもがみな、散らされるのです。(7-9)

けれども、正しい者に関して、詩人はこう歌います。

正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。

彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。

彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。

こうして彼らは、主の正しいことを告げましょう。主は、わが岩。主には不正がありません。(12-15)

私はその最後の部分が大好きです。私たちは年を取っても、実を結び、みずみずしく、茂ります。

年を取るとき、私は枯れたものになりたくない。私はみずみずしく、茂っているものになって、周りの人々に神様の愛で触れたいです。

しかし、私たちがいつも神様にほめ歌を歌わないなら、枯れるものになるかもしれません。神様の愛や忠実さや慈しみを忘れ、苦々しく貪欲のある心を持ったら、私たちは枯れた木のようになります。

だから、毎日時間を取って、神様をほめたたえましょう。

朝でもほめたたえましょう。夜でもほめたたえましょう。一日中、機会があれば、主をほめたたえましょう。

そして私たちの一日だけではなく、私たちの心も神様のために聖別しましょう。

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詩篇

全能の神の陰に宿ること

私が好きな本の一冊は「Shadow of the Almighty」(つまり、全能の神の陰)という本です。この本はジム・エリオットという宣教師について書かれています。彼は南米のアウカ族に対する宣教師でした。

この本の中には、彼の手紙や日記の書き入れがあります。残念ながら、日本語の翻訳はないのですが、もしあなたが英語ができるなら、私はその本を本当に勧めます。

皮肉なことに、その本のタイトルはこの詩篇から取られていますが、エリオットの人生のうわべを見ると、彼が本当に神様の陰に宿っていたかどうか疑うかもしれません。

詩篇91篇は神様の陰に宿る人の祝福について話します。詩人はその人についてこう言います。

あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。

また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。

千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。(詩篇91:5-7)

そして、彼はこの詩篇をこの素晴らしい言葉で終えます。

それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。

わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。

まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。

彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。

あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。

彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。

彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。

わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。(9-16)

それでは、エリオットはどのように死んだのでしょうか。実は、彼が福音を述べ伝えた人々が彼を殺してしまったのです。

それは神様の人々に対して、異常なことではありません。多くの人々は神様に従ったのに、暴力的な死を経験しました。

イザヤやエレミヤやペテロやヤコブやパウロは神様に従ったけれど、神様の敵に殺されました。

では、私のポイントは何でしょうか。神様の言葉が間違っているということでしょうか。とんでもない。

しかし、もしこの詩篇によって、私たちがこの壊れた世界で決して苦しまないと思うなら、その詩人の意味を誤解しているのです。

なぜなら、その詩人が(モーセかもしれませんが、私は分かりません)きっと神様の陰に宿る人々が苦しむのも見たことがあったと思うからです。

それでは、この詩人は何を言っているのでしょうか。

もし、私たちが神様の陰に宿るなら、私たちがどんな試練に直面しても、神様が私たちを決して見捨てないことを確信できます。神様は私たちを守るために天使を送ってくださり、神様ご自身が私たちと共におられます。

そして、死の陰の谷を歩いても、その谷の反対側にきっと辿り着くことができます。

そのとき、私たちが振り返るなら、神様が最後まで私たちとともにおられたことを見るでしょう。

私たちは神様が私たちの絶望の叫びを聞いてくださったことを悟り、私たちをいろんな災いから守ってくださったことも理解します。また、私たちは神様からの救いを見ます。

ジム・エリオットが天国に着いた時、そのように見えたと思います。彼の救い主は微笑んで、こう言われたでしょう。

「よくやったよ。あなたの死による実を見てごらん。あなたの妻と友達がもう一度アウカ族のところに行って、福音を述べ伝えたので、アウカ族はクリスチャンになった。

それに、あなたを殺した人々もクリスチャンになったよ。あなたはよくやったよ。」

だから、どんな試練に直面しても、神様の陰に宿りましょう。

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詩篇

正しい視点を保つ

モーセの人生について書いた時、私は詩篇90篇について書きましたが、そのブログを読んだ後で、もう少し書きたいと思いました。

この詩篇では、モーセは人間の短い寿命を神様の永遠さと比べます。

主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。(詩篇90:1)

1節では、神様の永遠さを見ることができます。世代が行ったり来たりするけれど、神様は決して変わりません。神様は最初からおられたし、いつまでもおられます。

それに、昔は神様がイスラエル人の住まいだったように、今でも神様は私たちの住まいです。

アブラハムとイサクとヤコブを見守った神様は、私たちも見守ってくださいます。ペテロとヤコブとヨハネと一緒に歩んだ神様は、私たちとともに歩んでくださいます。

神様はその人たちが生まれる前からおられ、時間が始まる前にもおられました。だから、モーセはこう言いました。

山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。(2)

しかし、私たちの寿命は息のようです。モーセはこう書きました。

あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」

まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。

あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。

朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。(3-6)

私はそのことが想像できません。もし80歳まで生きるなら、私の人生はもう半分以上終わりました。

今まで、私はいろんなことを経験しました。たくさんの喜びを経験したし、いろんな苦しみを経験したし、たくさんの勝利を経験したし、多くの失敗を経験しました。

けれども、私の人生は海の水玉のようです。実は、私の人生はそこまでさえも大きくないのです。

しかし、いつか私たちは神様の前で、どうやってこの人生を生きたかの申し開きをしなければならない。私たちの人生は短いけど、神様からのたまものです。だから私たちはどうやって生きているのでしょうか。

多くの人々はこの世の快楽のために生きるので、罪深い人生を生きます。けれども、モーセはこう記しました。

なたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。(8)

つまり、神様は私たちの罪を見るので、その罪のために私たちを裁きます。私たちは誰も知らないと思うかもしれませんが、結局その罪は暴露され、裁かれます。

だから、モーセはこう記しました。

だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。(11)

私たちはいつも神様の愛について話しますが、神様を恐れることも覚えていなければなりません。神様は罪を憎むので、罪人を罰します。

神様はいきなり私たちをその罪のために殺さないかもしれませんが、神様が私たちの罪を気にしないと思わないでください。

神様は愛ですけど、神様は聖なる方です。だから、神様は私たちが聖なる人になることを望んでおられます。

だから、モーセはこう祈りました。

それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(12)

また、本当の喜びがどこから来るか思い出して、モーセのように歌いましょう。

どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。(14)

そして、毎日、さらに毎秒を神様に捧げて、こう祈りましょう。

私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。

どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。(17)

アーメン。

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詩篇

私たちの信頼できる神

詩篇88篇は本当に暗い歌だったけど、詩篇89篇はもっと明るく始まります。それでも、この詩篇は、苦しんだ時に書かれました。 詩人は歌います。

私は、主の恵みを、とこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。

私はこう言います。「御恵みは、とこしえに建てられ、あなたは、その真実を天に堅く立てられる」と。(詩篇89:1-2)

そして詩人は神様の偉大さを思い出します。

主よ。天は、あなたの奇しいわざをほめたたえます。また、聖徒たちの集まりで、あなたの真実をも。

まことに、雲の上ではだれが主と並びえましょう。力ある者の子らの中でだれが主に似ているでしょう。

主は、聖徒たちのつどいで大いに恐れられている神。主の回りのすべての者にまさって恐れられている方です。

万軍の神、主。だれが、あなたのように力がありましょう。主よ。あなたの真実はあなたを取り囲んでいます。(5-8)

そして、彼は神様に従う人の喜びについて歌い(15-17)、神様のダビデに対する約束を思い出します。つまり、ダビデの子孫はいつまでもイスラエルを王として治めます。(3-4,19-37)

けれども、急にこの詩篇の感情は変わります。なぜなら、その約束はもうだめになったようだからです。

ダビデの子孫の罪のせいで、神様は彼らを拒絶され、彼らに背を向けられました。だから詩人は叫びます。

いつまでですか。主よ。あなたがどこまでも身を隠し、あなたの憤りが火のように燃えるのは。。。

主よ。あなたのさきの恵みはどこにあるのでしょうか。それはあなたが真実をもってダビデに誓われたものです。(46,49)

けれども、イスラエルの状態は暗かったのに、神様は変わりませんでした。神様はイスラエル人を自分の土地に一回だけではなく、二回戻されました。

そして、いつかダビデの子孫イエス様はこの世に戻って、神様が約束通りにこの世を永遠に治めてくださいます。

私たちは時々見えないけれど、神様の愛と忠実さは決して変わらないものです。神様が約束されると、いつもその約束を守ってくださいます。

神様はイスラエル人への約束を守ってくださったし、私たちへの約束も守ってくださいます。だから、詩人のように神様に信頼し続けて、歌いましょう。

ほむべきかな。主。とこしえまでも。アーメン。アーメン。(52)

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詩篇

神様の沈黙

ヨブが詩篇88篇を書いたわけではありませんが、この詩篇を読むとき、私はヨブの話を思い浮かべます。なぜなら、この詩人は自分の苦しみの中にある神様の沈黙について話すからです。

けれども、実生活と同じように、この詩篇にはハッピーエンドがありません。

詩人は叫びます。「神様。私の声を聞いてください。あなたはここにおられるでしょうか。私はトラブルで圧倒されています。私は病気で、死にかけています。もう私の力はなくなってしまいました。」(詩篇88:1-5)

そして、詩人は、どうして神様がそのトラブルを送ったのか尋ねて、文句を言います。詩人は何度もこう言います。

「あなたは私を最も深い穴に置いておられます。」(6)

「あなたの激しい憤りが私の上にとどまります。」(7)

「あなたは私の親友を私から遠ざけ、私を彼らの忌み嫌う者とされました。」(8)

そして、彼は叫びます。「私はあなたを呼んでいる。どうして、あなたは隠れておられるでしょうか。どうしてあなたは私を拒絶しておられるのでしょうか?私の生涯、ずっと苦しんでいます。私は独りぼっちです。」(13-18)

それは、この詩篇の終わりです。

希望の言葉も、慰めの言葉もありません。

時々私たちもそう感じることがあるでしょう。もし、あなたがそう感じたら、覚えておきましょう。たくさんの人々もそう感じたことがあります。あなただけではありません。

もちろん、この詩人はそう感じました。多分、すべてのクリスチャンはそう感じたことがあると思います。

ある人は諦めて、その穴を決して出ませんでした。そのような人にならないでください。

覚えておきましょう。あなたの信仰はあなたの感情に基づいてはいけません。むしろ、神様の性格とみ言葉に基づいていなければなりません。

あなたの感情は時々揺るぐかもしれません。それは不安定なものです。だから、感情は信頼できる土台ではありません。

サタンはそのことをよく知っています。だから神様が沈黙されるとき、サタンはあなたを絶望させようとします。あなたの信仰を奪おうとします。

私たちの感情はいつも変わります。しかし、神様とその言葉は決して変わりません。あなたは神様の約束を信頼できます。

だから、落ち込んでいる時や失望している時、自分の感情に頼らずに、神様とその約束に頼りましょう。

そうすれば、どんなに暗いトンネルを通っても、あなたは最終的には抜け出すことができるのです。

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詩篇

神様の民

詩篇87篇はエルサレムについてですが、この詩篇を読むとき、私は神様のご自身の民に対する愛がわかりますし、どのように神様が私たちのことを喜んでくださるかを見ることができます。

詩人はエルサレムについて歌います。

主は聖なる山に基を置かれる。

主は、ヤコブのすべての住まいにまさって、シオンのもろもろの門を愛される。

神の都よ。あなたについては、すばらしいことが語られている。セラ (詩篇87:1-3)

どうして神様はエルサレムを愛されたのでしょうか。神様はエルサレムの城壁や建物を愛されたのではなく、エルサレムに住んでいた人々を愛されました。神様は彼らをご自身の民として選んで呼ばれました。

その愛によって神様がエルサレムを確立されたので、周りの国民はそれを見て、感心しました。

そして、エルサレムの敵、ラハブ(つまり、エジプト)や、バビロンや、ペリシテも、いつかエルサレムの栄光を見て、神様を認めます。

その時、彼らは「その人はシオンで生まれた。その人もシオンで生まれた」と誇ります。(4)

それに、神様は彼らの名前を登録して、「この民はここで生まれた」と認められます。

この詩篇を読むとき、私が考えるのは、これが教会のための神様の意図であるということです。

教会は建物ではなく、神様の民です。そして、神様がエルサレムの人々に愛を注いだように、私たちにも愛を注いでくださいます。

神様の希望は、私たちが周りの人々に影響を与えることです。また、私たちを憎む人々でも、私たちを通して神様を知ることです。

そして、私たち皆が新しいエルサレムに着いたら、神様は命の書を指して、「私が確立した教会で、その人は生まれました。その人も。その人も」と言われるでしょう。

多分、誇りを持って、神様はそう言われるでしょう。

そして、神様が命の書の名前のすべてを呼ばれた後で、私たち皆は歌います。

私の泉はことごとく、あなたにある。(7)

言い換えれば、「主よ。あなたは私の命と愛と喜びの源です。」

私たちは神様の民です。神様は私たちを愛して、喜んでくださいます。しかし、できるだけ、多くの人々を天国に連れて行きましょう。私たちは隠れることができない山の上にある町になりましょう。

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詩篇

苦難の中にいる時、心を守る

ソロモン王はこう書きました。

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(箴言4:23)

もちろん私たちはいつもそうするべきですが、私たちが苦難の中にいる時は、特にそうするべきです。ソロモンの父ダビデは、それをよく知っていました。なぜなら、彼はいろんな試練を経験したからです。

詩篇86篇の最初で、彼は神様の助けを願います。

ダビデの人生を見る時、私たちが分かっているのは、苦難の中にいる時に彼が自分の力と知恵に頼らずに、神様を信頼したということです。だから、4節で、彼は言います。

主よ。私のたましいはあなたを仰いでいますから。(詩篇86:4)

そして、彼は神様の性格について考え始めます。彼は祈りました。

主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。

主よ。私の祈りを耳に入れ、私の願いの声を心に留めてください。

私は苦難の日にあなたを呼び求めます。あなたが答えてくださるからです。(5-7)

つまり、「私はいろんな問題があるけれど、あなたが私を愛してくださることを信じます。あなたが良い方であることを信じます。また、私が呼ぶとき、あなたがきっと答えてくださることを信じます。」

クリスチャンはそのことを信じるはずですが、試練に直面するとき、疑いが私たちの心に入るのは簡単なことです。しかし、ダビデは全然疑いませんでした。

むしろ、彼は神様の偉大さに焦点を当てました。つまり、ダビデは神様にとってダビデの問題が大きすぎることはないと思い出しました。だから、彼は歌いました。

主よ。神々のうちで、あなたに並ぶ者はなく、あなたのみわざに比ぶべきものはありません。

主よ。あなたが造られたすべての国々はあなたの御前に来て、伏し拝み、あなたの御名をあがめましょう。

まことに、あなたは大いなる方、奇しいわざを行なわれる方です。あなただけが神です。(8-10)

そして、ダビデは自分の心について考えて、主に祈りました。

主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。(11)

ある英語の翻訳には、こう書いてあります。

あなたの道を私に教えてください。そうすれば、私はあなたの忠実さを信じます。

試練に直面するとき、この箇所は本当に大切だと思います。なぜなら、大変な問題に直面するとき、時々私たちの信仰は揺るぎ始めるからです。

けれども、試練の中で、ダビデは祈ります。「主よ、あなたの道を教えてください。私の心を一つにしてください。私があなたの真理の道を歩むように、私があなたを信頼できるように。」

私たちもそんな態度が必要です。私たちはいつも神様を見つめ、私たちの信仰を持ち続けるべきです。

だから、苦難の中にいる時、ダビデのように歌いましょう。

わが神、主よ。私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめましょう。

それは、あなたの恵みが私に対して大きく、あなたが私のたましいを、よみの深みから救い出してくださったからです。(12-13)

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詩篇

悔い改めとあわれみ

詩篇85篇がいつ書かれたか誰も知りませんが、多分イスラエル人がバビロンへの追放の後に書かれたものだと思われます。

詩人はこう書きました。

主よ。あなたは御国に恵みを施し、ヤコブの繁栄を元どおりにされました。

あなたは、御民の咎を赦し、彼らのすべての罪を、おおわれました。セラ

あなたは、激しい怒りをことごとく取り去り、燃える御怒りを、押しとどめられました。(詩篇85:1-3)

イスラエル人がバビロンに70年いた後で、神様は彼らをエルサレムに帰らせました。多分、詩人はこの箇所でそのことについて歌ったのでしょう。

それでも、イスラエル人はまだトラブルを抱えていました。だから、詩人は願います。

われらの救いの神よ。どうか、私たちを生き返らせ、私たちに対する御怒りをやめてください。

あなたは、いつまでも、私たちに対して怒っておられるのですか。代々に至るまで、あなたの御怒りを引き延ばされるのですか。

あなたは、私たちを再び生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶために。

主よ。私たちに、あなたの恵みを示し、あなたの救いを私たちに与えてください。(詩篇85:4-7)

なぜ、詩人はそう祈ったのでしょうか。ネヘミヤ記によれば、ユダヤ人がエルサレムに帰ったけれど、城壁はまだ崩れていたので、彼らの敵はいつも攻撃しました。だからユダヤ人の人生は本当に大変でした。

だから、詩人は神様のあわれみを願います。そして、詩人は本当に大切なことを言います。

私は、主であられる神の仰せを聞きたい。主は、御民と聖徒たちとに平和を告げ、彼らを再び愚かさには戻されない。

まことに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは、栄光が私たちの国にとどまるためです。(詩篇85:8-9)

私たちはよく神様のあわれみのために祈りますが、平和は悔い改める人のためであることを覚えておきましょう。

もし、私たちが神様に背を向け、私たちを滅ぼした罪に戻るなら、神様のあわれみを期待できません。

もちろん、神様が私たちが完全な人になるまであわれんでくださらないわけではありません。とはいえ、神様は私たちの心を望まれます。神様は、私たちが古い道を行かずに、神様の道を歩み始めることを見たいと望まれます。

たまに私が転ぶかもしれませんが、神様の道を行き続けるなら、神様は私たちを拾って、私たちを導き続けてくださいます。そして、私たちは神様の祝福を知ることができます。

だから、詩人はこう書きました。

まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます。

義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。(詩篇85:12-13)

あなたはどうですか。悔い改めの道を歩んでいますか。

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詩篇

永遠の物に照準を合わせる

詩篇84篇は本当に美しい歌だと思います。私が大好きな詩篇の一つです。この詩篇で、私たちはこの世の物に照準を合わせずに、永遠の物に照準を合わせるように励まされます。

この詩篇はエルサレムに巡礼する喜びを言い表していますが、私たちの新しいエルサレムへの巡礼とも関連があります。

詩人は歌います。

万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。

私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。(詩篇84:1-2)

私たちはそのような態度を持って、神様と歩みたいです。神様を恋い慕う心が欲しいです。けれども時々、私の魂は乾きます。

だから、その時、今でも、私は祈ります。「主よ。あなたを慕います。あなたの臨在をもっと知りたいです。あなたのみ前にいたいです。」

この詩人はそのように祈りました。

私は3節も好きです。

雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。(3)

この箇所を読むとき、イエス様の言葉を思い出します。

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。

また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。

だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(マタイ10:29-31)

もし、神様が雀を主の家に歓迎したら、神様は私たちも歓迎してくださるのではないでしょうか。

そして、詩人は礼拝の喜びを言い表します。

なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。(4)

そして、詩人は神様の家への巡礼について考え始めます。彼は歌います。

なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。

二つのことが私の心を打ちます。

一つ目は、彼らは現在どこにいるかに焦点を当てずに、どこに行くかに照準を合わせたということです。

クリスチャンとして、私たちもそうするべきです。この世は私たちの住まいではありません。だから、私たちは永遠の住まいに照準を合わせるべきです。

二つ目は、新しいエルサレムに巡礼するとき、自分の力ではなく、神様の力によって行くべきだということです。私たちは自分の力ではできません。神様の力が必要です。

6節で、詩人は歌います。

彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。(6)

この世では、私たちは時々涙の谷を過ぎます。私たちは痛みや愛する人の死を経験します。けれども、神様はその場所を泉の湧く所とされます。恵みの雨がその痛みと苦しみを覆って癒します。

だから、

彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。(7)

イザヤはこう書きました。

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ40:31)

だから、詩人は神様に叫びます。

万軍の神、主よ。私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ。耳を傾けてください。セラ

神よ。われらの盾をご覧ください。あなたに油そそがれた者の顔に目を注いでください。(8-9)

この箇所では、詩人は王のために祈りました。その王はイスラエルの盾でした。

しかし、私たちクリスチャンにとって、その王はイエス様です。この世で、イエス様は私たちの盾です。

最後に、詩人は礼拝者の祝福と喜びについて歌います。

まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。

まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。

万軍の主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は。(10-12)

私たちはただ旅人です。この世の物は将来の栄光の影だけです。

だから、一時的なものに照準を合わせずに、神様に照準を合わせましょう。

あなたはどこに照準を合わせていますか。

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詩篇

悪からお救いください

詩篇83篇を読むとき、私は主の祈りについて考えます。つまり、「悪からお救いください」という願いです。(マタイ6:13)

この詩篇では、イスラエルは周りの国々に脅かされました。だから、詩人は叫びます。

神よ。沈黙を続けないでください。黙っていないでください。神よ。じっとしていないでください。

今、あなたの敵どもが立ち騒ぎ、あなたを憎む者どもが頭をもたげています。

彼らは、あなたの民に対して悪賢いはかりごとを巡らし、あなたのかくまわれる者たちに悪だくみをしています。

彼らは言っています。「さあ、彼らの国を消し去って、イスラエルの名がもはや覚えられないようにしよう。」(詩篇83:1-4)

そして、詩人はイスラエルを襲う国々の名前をリストアップします。けれども、その後で、彼は神様が以前イスラエルをどのように救い出してくださったかを思い出します。

その敵からの救いを願った後、彼は祈ります。

こうして彼らが知りますように。その名、主であるあなただけが、全地の上にいますいと高き方であることを。(18)

周りの国々はあなたを襲わないかもしれませんが、あなたを憎む人がいるかもしれません。

また、エペソ人への手紙で、パウロは私たちを襲う霊的な力があると警告します。時々悪霊は人を通して、私たちを物理的に、感情的に、また霊的に襲います。

しかし、覚えておきましょう。神様は全地の上におられるいと高き方です。神様はすべてをコントロールしておられます。だから、攻撃されるなら、神様に向かいましょう。

今攻撃されていなくても、神様の守りを祈った方が良いです。なぜなら、神様に従うなら、結局サタンはそれに気づいて、あなたを攻撃し始めるからです。

もし、イエス様が「悪からお救いください」と祈りなさいと言われたら、そうするべきでしょう。

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詩篇

裁判官が裁かれるとき

裁判所で不正義を見るとき、私たちはみなフラストレーションを感じるでしょう。有罪の人は解放され、彼らが傷つけた人はその決断によってさらに傷つけられます。

そんな問題は現代だけのものではありません。聖書の時代にも、同じような問題がありました。だから、詩篇82篇では、神様は裁判官を裁きます。

私が続ける前に、1節を少し説明した方が良いと思います。1節では、こう書いてあります。

神は神の会衆の中に立つ。神は神々の真ん中で、さばきを下す。(詩篇82:1)

詩人は「神の会衆」と「神々」と言いますが、皮肉っぽく話しています。彼は本当の神々について話しているわけではありません。本当の神は一人しかいないのです。

この「神々」はイスラエルの士師たちのことです。この士師たちが神様の代表であり、人々を裁く力を持っていたので、詩人は彼らを「神」と呼びました。

もし、あなたがモルモン宣教師と話したら、彼らはこの詩篇を指摘して、「ほら、たくさんの神々が存在します。そして、あなたも神になることができます。」と言うでしょう。

けれども、この詩人はそのようなことを教えているのではありません。6節で、詩人は「おまえたちは神々になる」ではなく、「おまえたちは神々だ。」と言っています。モルモンの人でも、今彼らが神であるとは言いません。

さらに、7節で、神様はこの「神々」にこう言います。「にもかかわらず、おまえたちは、人のように死に[ます]」。

この士師たちはただの人間であり、また、堕落している人間なので、彼らは結局死にました。その一方、本当の神は決して死にません。

さて、なぜ神様はこの士師たちを裁くのでしょうか。

2-4節で、その答えを見つけることができます。

いつまでおまえたちは、不正なさばきを行ない、悪者どもの顔を立てるのか。セラ

弱い者とみなしごとのためにさばき、悩む者と乏しい者の権利を認めよ。

弱い者と貧しい者とを助け出し、悪者どもの手から救い出せ。(2-4)

神様はこの士師に関してこう言われます。

彼らは、知らない。また、悟らない。彼らは、暗やみの中を歩き回る。(5)

そして、詩人は本当の神に歌います。

神よ。立ち上がって、地をさばいてください。まことに、すべての国々はあなたが、ご自分のものとしておられます。(8)

だから、この世の不正義を見るとき失望しないでください。ある日、神様は悪人と彼らを解放した裁判官を裁かれます。

裁判官は正しい人ではないかもしれませんが、神様は公正な方です。だから、最後の日には必ず正義が訪れます。

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詩篇

神様に聞き従いさえすれば

詩篇81篇の最初で、詩人は私たちを神様を礼拝するために招いています。

われらの力であられる神に喜び歌え。ヤコブの神に喜び叫べ。

声高らかにほめ歌を歌え。タンバリンを打ち鳴らせ。六弦の琴に合わせて、良い音の立琴をかき鳴らせ。(詩篇81:1-2)

多分、この詩篇は祭りのために書かれたのだと思います。

神様の律法で、神様はイスラエル人がさまざまな祭りを祝うように命じられました。過ぎ越しの祭りと仮庵の祭りは特に大切な祭りでした。

過ぎ越しの祭りは、神様がどのようにイスラエル人をエジプトから救い出してくださったかを記念してお祝いしました。

仮庵の祭りは、神様がイスラエル人を砂漠を通って導いてくださったことを記念してお祝いしました。

どうして神様はその祭りを祝うように命じられたのでしょうか。それは、イスラエル人が神様が彼らのために何をしてくださったかを忘れないためです。

この詩篇では、詩人はそのことを思い出して歌います。

私は、まだ知らなかったことばを聞いた。

「わたしは、彼の肩から重荷を取り除き、彼の手を荷かごから離してやった。

あなたは苦しみのときに、呼び求め、わたしは、あなたを助け出した。わたしは、雷の隠れ場から、あなたに答え、メリバの水のほとりで、あなたをためした。(5-7)

しかし、私たちは神様の心の叫びも聞きます。

聞け。わが民よ。わたしは、あなたをたしなめよう。イスラエルよ。よくわたしの言うことを聞け。

あなたのうちに、ほかの神があってはならない。あなたは、外国の神を拝んではならない。

わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。(8-10)

また、

ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。

わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。」。。。

わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。(13-14,16)

つまり、「もしあなたが私に聞き従いさえすれば、私はあなたを祝福し、あなたのニーズに備え、あなたのために戦います。」

ところが、神様は言い続けられます。

しかしわが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。

それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せ、自分たちのおもんぱかりのままに歩かせた。(11-12)

神様は私たちを祝福したいと望んでおられます。私たちの人生に素晴らしいことをしてくださろうとしています。けれども、もし私たちが自分の道を行きたいなら、神様は私たちに行かせます。

しかし、そうすれば、私たちの人生は悲しくなるし、神様も悲しまれます。

あなたはどうするでしょうか。あなたの耳を開き、神様に聞き従うでしょうか。そうすれば、あなたは祝福されます。けれども、頑固な心を持ち続けたら、破壊に導かれます。

それはあなたの選択です。あなたはどうしますか。

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詩篇

罪の結果

詩篇79篇と80篇は関係があるので、一緒にまとめます。多分、バビロンがエルサレムを滅ぼした後に、これらの詩篇が書かれたので、少し哀歌に似ています。

79篇はこう始まります。

神よ。国々は、ご自身のものである地に侵入し、あなたの聖なる宮をけがし、エルサレムを廃墟としました。

彼らは、あなたのしもべたちのしかばねを空の鳥のえじきとし、あなたの聖徒たちの肉を野の獣に与え、

聖徒たちの血を、エルサレムの回りに、水のように注ぎ出しました。彼らを葬る者もいません。(詩篇79:1-3)

そして、詩人は5節でこう叫びます。

主よ。いつまででしょうか。あなたは、いつまでもお怒りなのでしょうか。いつまで、あなたのねたみは火のように燃えるのでしょうか。(79:5)

80篇でも、同じような叫びがあります。

万軍の神、主よ。いつまで、あなたの民の祈りに怒りを燃やしておられるのでしょう。

あなたは彼らに涙のパンを食べさせ、あふれる涙を飲ませられました。(80:4-5)

ふたつの詩篇で、詩人はイスラエル人に対する神様のあわれみを願います。

先祖たちの咎を、私たちのものとして、思い出さないでください。あなたのあわれみが、すみやかに、私たちを迎えますように。私たちは、ひどくおとしめられていますから。

私たちの救いの神よ。御名の栄光のために、私たちを助けてください。御名のために、私たちを救い出し、私たちの罪をお赦しください。(79:8-9)

また、

万軍の神、主よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。(80:19)

ふたつの詩篇で、詩人はイスラエル人のために誓います。

そうすれば、あなたの民、あなたの牧場の羊である私たちは、とこしえまでも、あなたに感謝し、代々限りなくあなたの誉れを語り告げましょう。(79:13)

80篇で、詩人は祈ります。

あなたの右の手の人の上に、御手が、ご自分のため強くされた人の子の上に、御手がありますように。

そうすれば、私たちはあなたを裏切りません。私たちを生かしてください。私たちは御名を呼び求めます。(80:17-18)

けれども、イスラエル人が神様に忠実に仕えていたら、どれほど彼らの人生がより良くなっていたでしょうか。どうして彼らは苦しむまで待ったのでしょうか。

もちろん神様はあわれみ深い神様です。私たちが悔い改めると、神様は赦してくださいます。それでも、多くの場合、この世で私たちはその罪の結果を受けてしまいます。

だから、苦しいことが起こるまで待たないでください。むしろ、今神様に向かい、求めましょう。そうすれば、罪から生み出される痛みや苦しみを避けることができます。

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詩篇

次の世代を教える

私の娘の4歳の誕生日のために、私は子供の聖書を買ってあげました。その聖書がバイリンガルだったので、私は英語の部分を読んであげましたが、私の妻は日本語の部分を読んであげました。

私の娘はもうすぐ8歳になるので、その聖書をもう読みませんが、私たちはどのように彼女に聖書を教えればいいかと考えています。

私たちの子供を神様について教えることは、本当に大切なことです。けれども、私は娘が神様について知識を得るだけでなく、本当に神様を知ることを望んでいます。

詩人にもその希望があったため、詩篇78篇を書きました。彼は次の世代に神様について教えたかったのです。そのため、彼は歌いました。

私の民よ。私の教えを耳に入れ、私の口のことばに耳を傾けよ。

私は、口を開いて、たとえ話を語り、昔からのなぞを物語ろう。

それは、私たちが聞いて、知っていること、私たちの先祖が語ってくれたこと。

それを私たちは彼らの子孫に隠さず、後の時代に語り告げよう。主への賛美と御力と、主の行なわれた奇しいわざとを。(詩篇78:1ー4)

そして、彼はイスラエル人に、神様が私たちが自分の子供に教えることを命じられることを思い出させます。その命令の理由は何でしょうか。

後の世代の者、生まれてくる子らが、これを知り、彼らが興り、これをその子らにまた語り告げるため、

彼らが神に信頼し、神のみわざを忘れず、その仰せを守るためである。(6-7)

そして詩人アサフは、神様の御業について歌い始めます。つまり、アサフはどうやって神様がイスラエル人をエジプトから救い出してくださり、砂漠で彼らの必要を満たしてくださったのか歌います。パンや肉や水がない時、神様はそれらを備えてくださいました。

そして、彼はどうやって神様がイスラエル人の敵を追い出し、その土地をイスラエル人に与えてくださったのかを歌います。

しかし、次に、彼はイスラエル人の失敗について歌います。つまり、彼らは神様を信頼しませんでした。

彼らは砂漠で、いつも不平を言いましたし、新しい土地に住み始めた時、彼らはすぐに偶像を礼拝し始めました。だから、彼らは裁かれました。

それでも、彼らが失敗しても、神様は彼らに憐れみと恵みを与えてくださいました。だから、アサフは歌います。

しかし、あわれみ深い神は、彼らの咎を赦して、滅ぼさず、幾度も怒りを押さえ、憤りのすべてをかき立てられはしなかった。

神は、彼らが肉にすぎず、吹き去れば、返って来ない風であることを心に留めてくださった。(38-39)

そして、アサフはイスラエルに神様の恵みを思い出させます。つまり、神様はイスラエルの敵を破って、ダビデを正義の王として確立してくださいました。

私たちも、そのようなことを次の世代に教えるべきです。つまり、

  • どうやって神様が私たちを罪から救い出してくださったか、また、神様が私たちのために何をしてくださったかということ。
  • 私たちの失敗とその結果について。それはなぜでしょうか。それは、彼らが私たちの失敗を繰り返さないようにするためです。
  • 神様の恵みと憐れみについて。つまり、私たちが失敗しても、神様は私たちのことを諦めずに、私たちを赦し、救い出してくださったのです。
  • 神様は彼らのために計画をもっておられます。ダビデが羊飼いであったにもかかわらず、神様は彼をイスラエルの王として選ばれました。そのように、神様は私たちの人生を素晴らしいものに変えることができるのです。

私たちの子供たちに、そのことを教えましょう。そうすれば、彼らも神様を知るでしょう。

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詩篇

捨てられた?

私は詩篇を読み通した時、同じテーマがよく繰り返されることに気づきました。つまり、時々詩人には、目に見えない神様との関係が本当に難しいものであったのです。私にもそう考える時があるので、少し慰められます。

詩篇77篇はそのような詩篇です。詩人は叫びます。

私は神に向かい声をあげて、叫ぶ。私が神に向かって声をあげると、神は聞かれる。

苦難の日に、私は主を尋ね求め、夜には、たゆむことなく手を差し伸ばしたが、私のたましいは慰めを拒んだ。(詩篇77:1-2)

どれぐらい私たちにはそんな経験があるでしょうか。私たちは神様に叫びますが、何も聞こえません。そして、悩んでいる心のせいで、私たちは眠れません。

だから、詩人のように、私たちは問い始めます。

「主は、いつまでも拒まれるのだろうか。もう決して愛してくださらないのだろうか。

主の恵みは、永久に絶たれたのだろうか。約束は、代々に至るまで、果たされないのだろうか。

神は、いつくしみを忘れたのだろうか。もしや、怒ってあわれみを閉じてしまわれたのだろうか。」セラ (7-9)

言い替えれば、「あなたは私を捨ててしまったのでしょうか。私を諦めたのでしょうか。私がもうだめだと思われるのでしょうか。」

しかし、失望の中で、彼は叫びます。

「私の弱いのはいと高き方の右の手が変わったことによる。」

私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。

私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。

神よ。あなたの道は聖です。神のように大いなる神が、ほかにありましょうか。

あなたは奇しいわざを行なわれる神、国々の民の中に御力を現わされる方です。

あなたは御腕をもって、ご自分の民、ヤコブとヨセフの子らを贖われました。セラ

。。。あなたは、ご自分の民を、モーセとアロンの手によって、羊の群れのように導かれました。(10-15、20)

急に詩人は神様が彼を捨ててしまった考えを捨てます。彼は言います。

「あなたが私を捨てるのが信じられません。なぜなら、あなたは私のために多くのことをしてくださったからです。

あなたは私を愛してくださったので、私とあなたの民を贖ってくださり、羊のように私たちをこの良い土地に導いてくださいました。

その愛によって、私はあなたが私を捨てたという考え方を拒絶します。」

それが信仰です。私たちは神様が見えなくても、信じ続けます。その瞬間に私たちは神様の臨在を感じなくても、神様が私たちを捨てずに、私たちと共におられることを信じ続けます。

とはいえ、それは盲信ではありません。なぜなら、振り返る時、私たちの人生に神様の力と愛の事例が見えるからです。

だから、捨てられたと思う時、詩人のように、神様の慈しみを思い出し、以前、私たちと共におられた神様が、まだ私たちと共におられることを思い出しましょう。

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詩篇

誉れに値する神

ある聖書の学者たちは、この詩篇がヒゼキヤの時代に書かれたと考えています。すなわち、アッシリヤの王セナケリブの事件の後に書かれた可能性があります。その学者たちが正しいかどうかは分かりませんが、この詩篇はその話に関係があるようです。

詩篇76篇では、神様がイスラエルを敵から救い出してくださるために、詩人は賛美します。彼は歌います。

神はユダにおいて知られ、御名はイスラエルにおいて大きい。

神の仮庵はシャレムにあり、その住まいはシオンにある。

その所で神は弓につがえる火矢、盾と剣、また戦いを打ち砕かれた。セラ (詩篇76:1-3)

そして詩人は、どのように神様がエルサレムを攻撃しようとした人々を滅ぼしてくださったかを歌います。10節は本当に興味深いです。

まことに、人の憤りまでもが、あなたをほめたたえ[る]。

どうすれば、人の憤りが神様をほめたたえるのでしょうか。

多分その意味は、人々が神様に対する怒りを抱き、神様と戦っても、最終的に神様が勝つので、神様の名前がほめたたえられるということです。

だから、セナケリブは神様の名前をからかい、エルサレムを攻撃しましたが、神様がその軍隊を滅ぼされたので、イスラエル人は神様をほめたたえました。

また、パロは「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない」と言い、イスラエル人を迫害しましたが、神様がパロを低くされ、イスラエル人を自由にされたので、周りの国々は神様の名前を恐れました。

だから、この詩篇を読む時、慰めと警告の両方があります。私たちが神様の手の中で休めば、神様は私たちを守り、助けてくださいます。しかし、神様に背くと、私たちは裁かれます。

とはいえ、私たちがどう選択しても、神様の名前はほめたたえられます。だから、パウロはこう書きました。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:10-11)

だから、私たちは自分自身にこう訊かなくてはなりません。感謝と愛を持って、そのことを告白するのでしょうか。それとも、憤りを持って、苦々しい心からそう告白するのでしょうか。

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詩篇

正義がやっと来ると

子供の時、私はいつも教会で、この詩篇からの歌を歌いました。つまり、1節を歌いました。

私たちは、あなたに感謝します。神よ。私たちは感謝します。御名は、近くにあり、人々は、あなたの奇しいわざを語り告げます。(詩篇75:1)

けれども、その歌を歌った時、何に感謝するか分かりませんでした。どの奇しいわざを悟り告げるか分かりませんでした。

しかし、この詩篇の全体を読むと、その答えがすぐに分かります。この詩篇は裁きの日についてです。その日、神様はすべての人々を自分の行動のために裁かれます。

この詩篇で、神様はこう言われます。

わたしが、定めの時を決め、わたしみずから公正にさばく。地とこれに住むすべての者が揺らぐとき、わたしは地の柱を堅く立てる。セラ

わたしは、誇る者には、「誇るな」と言い、悪者には、「角を上げるな。おまえたちの角を、高く上げるな。横柄な態度で語るな」と言う。(2-5)

そしてこの詩篇の最後の部分によれば、神様は悪者を低くされ、義人を高く上げてくださいます。だから、詩人は神様をほめたたえます。

しかし私は、とこしえまでも告げよう。ヤコブの神を、ほめ歌おう。

悪者どもの角を、ことごとく切り捨てよう。しかし、正しい者の角は、高く上げられる。(9-10)

私は以前にも言ったことがありますが、私たちはこの世の悪を見る時、「神様はどこだろうか。どうして神様は何もしないのだろう」とよく思います。けれども、この詩篇によれば、正義は必ず来ます。

だから、私たちは待っている間、神様をほめたたえましょう。なぜなら、神様は忍耐強く、人々が悔い改めるのを待っておられますが、必ずや神様の正義は訪れます。(第二ペテロ3:9)

その憐れみによって、私たちも救われたので、神様を信頼し、感謝し続けましょう。

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詩篇

憐れみのための願い

私には、いつこの詩篇が書かれたか分かりません。「アサフのマスキール(歌)」と書かれていますが、多分、アサフの子孫の歌という意味です。

なぜなら詩篇74篇では、主の宮の破壊について話していますが、アサフが生きている間はその宮はまだ建っていたからです。(アサフはダビデ王や、ソロモン王、レハブアム王の時代に生きていました。)

多分、この詩篇はネブカデネザルがエルサレムを攻撃して、ユダヤ人がバビロンに追放された後に書かれました。

詩人は、「もう私たちのしるしは見られません。もはや預言者もいません。」と書いていますが、多分エルサレムには預言者がいないという意味です。

ダニエルとエゼキエルはバビロンにいましたし、エレミヤはしばらくエルサレムに住み続けましたが、結局彼はエジプトに連れていかれました。

とにかく、この詩篇は憐れみを求める願いです。詩人は嘆きます。

神よ。なぜ、いつまでも拒み、あなたの牧場の羊に御怒りを燃やされるのですか。

どうか思い起こしてください。昔あなたが買い取られた、あなたの会衆、あなたがご自分のものである部族として贖われた民を。また、あなたがお住まいになったシオンの山を。

永遠の廃墟に、あなたの足を向けてください。敵は聖所であらゆる害を加えています。(詩篇74:1-3)

そして、詩人は宮の破壊を嘆き、神様がいらっしゃらないことを嘆きます。

しかし、12節で、彼は歌います。

確かに、神は、昔から私の王、地上のただ中で、救いのわざを行なわれる方です。

そして、13〜17節で、彼は神様の力を思い出します。つまり、神様がどうやってこの世を造られたか、またどうやってイスラエル人をエジプトから救い出してくださったかを思い出します。

そして、彼はもう一度神様の憐れみを願います。

この詩篇では、興味深いポイントがあると思います。特に、神様の憐れみについて学ぶことができると思います。

最も大切なポイントは、私たちが神様の憐れみに値しないことです。詩人は「私たちが良い人だから、憐れんでください」とは全く言いませんでした。

むしろ、神様の名前の誉のために、神様の憐れみを願います。詩人は尋ねます。

神よ。いつまで、仇はそしるのでしょうか。敵は、永久に御名を侮るのでしょうか。(10)

要するに、「イスラエルの敵があなたの宮を破壊したので、あなたの名前は汚されました。周りの国民はもうあなたのみ名を誉めません。」

だから、詩人は祈ります。

神よ。立ち上がり、あなたの言い分を立ててください。愚か者が一日中あなたをそしっていることを心に留めてください。

あなたに敵対する者どもの声や、あなたに立ち向かう者どもの絶えずあげる叫びを、お忘れにならないでください。(22-23)

それに、詩人は神様の約束ゆえに、憐れみを願いました。この詩篇の最初に、彼は祈りました。

どうか思い起こしてください。昔あなたが買い取られた、あなたの会衆、あなたがご自分のものである部族として贖われた民を。また、あなたがお住まいになったシオンの山を。(2)

要するに、「あなたは私たちを買い取られ、私たちがあなたのものとすると約束しました。あなたが私たちの間に住むことも約束されました。だから、その約束を思い出し、私たちを救ってください。」

最後に、神様の情けによって、詩人は憐れみを願いました。彼は歌いました。

しいたげられる者が卑しめられて帰ることがなく、悩む者、貧しい者が御名をほめたたえますように。(21)

神様の憐れみに値する人は一人もいません。それでも、神様は憐れみ深い方です。だから、神様が私たちを捨てられたと思う時、失望しないでください。むしろ、神様に向かい、憐れみを願いましょう。

そうすれば、神様はユダヤ人を救われたように、私たちを救ってくださいます。

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詩篇

悪を見て、がっかりする時

この世の悪を見る時、私たちは簡単に失望します。悪人が神様を恐れないのに栄えるからです。彼らは自分のことだけ考えるので、他の人々を傷つけても、気にしません。

だから、彼らが栄える時、時々私たちは「どうして私は頑張って正しいことをし続けているのだろうか。正しいことをする価値が本当にあるのだろうか。」と思います。

アサフも、そんな疑いと戦いました。

けれども、彼は詩篇73篇を彼の結論から始めます。

まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。(詩篇73:1)

言い替えれば、いつか振り返る時、あなたは神様が良い方だと分かるということです。あなたが聖い心を持ち、神様に従うと、神様の慈しみを見ます。

とはいえ、アサフは自分の疑いとの戦いについて語ります。

しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。

それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。(2-3)

そして、4ー10節で、彼は言います。「彼らは他の人々と違って、元気だし、問題がないし、重荷がありません。だから、彼らは誇って、暴虐の着物を着ます。」

それに、その悪人は神様に逆らって叫びます。

どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか。(11)

だからアサフは叫びます。

確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。

私は一日中打たれどおしで、朝ごとに責められた。(13-14)

けれども、アサフが神様の前に来たとき、悪人の最後の運命が分かったので、その疑いは消えてしまいました。

まことに、あなたは彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます。

まことに、彼らは、またたくまに滅ぼされ、突然の恐怖で滅ぼし尽くされましょう。

目ざめの夢のように、主よ、あなたは、奮い立つとき、彼らの姿をさげすまれましょう。(18-20)

要するに、彼らは裁かれます。彼らの繁栄は一時的なものですが、彼らの罰は永遠のものです。裁きの日、彼らはそのことが分かるでしょう。

その真理が分かった時、アサフは神様を疑ったことを恥ずかしいと思いました。「私は馬鹿だった」と言いました。

それでも、彼はこう言いました。

しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。

あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。(23-24)

神様の忍耐について考える時、私は「良かった」と思います。なぜなら、私たちが神様とその慈しみを疑っても、神様は私たちのことを見捨てないからです。神様は私たちと共におられ、私たちが天国に着くまで導いてくださいます。

その日、私たちは神様の御顔を見て喜びます。

アサフはその真理が分かったとき、歌いました。

天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。

この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。

それゆえ、見よ。あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたはあなたに不誠実な者をみな滅ぼされます。

しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。(25-28)

主よ。天では、あなたのほかに、誰を持つことができましょう。罪を犯す人をねたむのが簡単なことです。なぜなら、彼らの人生が楽だと見えるからです。

けれども、あなたの近くにいることは良いことです。私が悪人の人生をねたまないように助けてください。むしろ、あなたが私の求めるものになるように。あなたがとこしえに私の心の岩、私の分の土地になるように。アーメン。

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詩篇

キリストがこの世を治める時

ソロモン王は詩篇72篇を書きました。しかし、彼も王の王の治世、つまりイエス様の治世を待ち望んでいました。

私たちは大統領や総理大臣を見ると、しばしばがっかりします。なぜなら、彼らが私たちの福祉のために働くはずなのに、多くの場合、彼らは自分自身の福祉のために働くからです。

もし、自分にとって利益があれば、その時だけ彼らは私たちの福祉のためにも働きます。

けれども、この箇所では、本当の義にあってキリストがこの世を治めることが見えます。キリストは悩んでいる人や貧しい人を愛しているので、彼らを助けてくださいます。(1ー4、12ー14)

さらに、キリストがこの世を治める時、義人は栄え、祝福されます。私は6節が好きです。

彼は牧草地に降る雨のように、地を潤す夕立のように下って来る。(詩篇72:6)

けれども、特に大好きな箇所は17節です。

彼の名はとこしえに続き、その名は日の照るかぎり、いや増し、人々は彼によって祝福され、すべての国々は彼をほめたたえますように。

多分、ソロモンは神様がアブラハムにされた約束について考えていたでしょう。

そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し。。。

地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。(創世記12:2-3)

キリストにあって、その約束は完全に成就されます。だから、ソロモンはこの詩篇をこのようにまとめて、祈ります。

ほむべきかな。神、主、イスラエルの神。ただ、主ひとり、奇しいわざを行なう。

とこしえに、ほむべきかな。その栄光の御名。その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン。(18-19)

アーメン。イエス様、すぐに来てください。

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詩篇

私たちの希望と確信

詩篇71篇はあまり有名な詩篇ではないかもしれませんが、私はこの詩篇を読めば読むほど好きになります。なぜなら、最も暗い時に、詩人は神様を知っていたので、希望と確信があったからです。

だから、彼はこう書きました。

主よ。私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。

あなたの義によって、私を救い出し、私を助け出してください。あなたの耳を私に傾け、私をお救いください。(詩篇71:1-2)

私は5節も大好きです。

神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。(5)

そして、自分の敵からの救いのために祈る時、彼は歌います。

しかし、私自身は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美しましょう。(14)

この世には、多くの人々が自分の辛い状況のため、希望を失います。だから、詩人の言葉は私の心に響きます。「私自身は絶えずあなたを待ち望みます。」

どうして彼にはそんな希望があったのでしょうか。

あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。(20)

多くの人々は自分の試練のため、神様に怒ります。しかし、詩人は神様の慈しみを確信を持って宣言します。つまり、彼が試練を通っていても、神様はもう一度彼を引き上げてくださるということです。

だから、この詩篇の中で、私たちは神様に対する彼の賛美する心を見ることができます。彼は歌います。

神よ。あなたの義は天にまで届きます。あなたは大いなることをなさいました。神よ。だれが、あなたと比べられましょうか。(19)

また、

私があなたにほめ歌を歌うとき、私のくちびるは、高らかに歌います。また、あなたが贖い出された私のたましいも。(23)

あなたはどうですか。あなたの試練のため、希望を失いましたか。それとも、神様があなたを救い出してくださるという確信を持ち、まだ希望を持っていますか。

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詩篇

神様!急いでください!

詩篇70篇が詩篇40篇の最後に似ているので、この詩篇について書くかどうかちょっと迷いましたが、40篇の最後の部分についてあまり書かなかったので、やっぱりこの詩篇について書こうと思いました。

私の心を打ったのは、ダビデの必死な祈りです。

神よ。私を救い出してください。主よ。急いで私を助けてください。(詩篇70:1)

また、

私は、悩む者、貧しい者です。神よ。私のところに急いでください。あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。(5)

ダビデが私のように祈っていたのを知って、私は少し励まされます。「神様、急いでください。私のニーズを知らないのですか。今あなたの助けが必要なのです。」

ダビデはいつも自分の敵から逃げていたので、彼の気持ちがよく理解できます。

もう一つ励まされることは、時々ダビデが望んでいたほど救いが早く来なかったけれど、その救いは結局来ました。

このように、私たちが望むほど、神様は私たちの祈りに早く答えてくださらないかもしれませんが、最終的には私たちを救い出してくださいます。

あなたは祈りの答えを待っていますか。神様が少し遅いと思っていますか。

祈る時、神様と正直に話しても良いのです。「急いでください」と言っても良いのです。

しかし、覚えておきましょう。神様のタイミングは私たちのものと違うかもしれませんが、神様はいつも忠実な方です。結局、神様は私たちを救い出してくださいます。だから、神様の答えを待ち望みましょう。

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詩篇

キリストの叫び

詩篇69篇はダビデの経験について書かれていますが、この詩篇の大部分はキリストのことも表しています。新約聖書において、この詩篇はキリストによく当てはめられました。

つまり、ここではイエス様の十字架の苦しみが見えます。その時、イエス様は死の泥沼に沈まれました。イエス様は天の父に叫ばれたけれども、返事は来ませんでした。イエス様はのどが渇かれ、衰え果てられました。(詩篇69:1-3)

ゆえなくイエス様を憎む者は多く(4)、イエス様の兄弟たちもイエス様をからかい、拒絶しました(8)。

イエス様が主の宮を清められた時、その父の家に対する熱心さが見えます。(9)

周りの人々はイエス様をそしり、侮辱しました。(19)

そして、イエス様が飲み物を頼まれたとき、彼らはイエス様に酢を飲ませました。(21)

それに、使徒の働き1章で、ペテロは詩篇69:25節をユダに当てはめました。

だから、この詩篇では、私たちは十字架でイエス様の叫びを見ることができます。けれども、それだけではなく、私たちの救いも見えます。なぜなら、イエス様の十字架の働きを通して、私たちのすべての罪が支払われたからです。

十字架でイエス様が苦しまれ叫ばれましたが、今、私たちはイエス様が歌われた賛美を歌うことができます。

私は神の御名を歌をもってほめたたえ、神を感謝をもってあがめます。

それは雄牛、角と割れたひづめのある若い雄牛にまさって主に喜ばれるでしょう。

心の貧しい人たちは、見て、喜べ。神を尋ね求める者たちよ。あなたがたの心を生かせ。(30-32)

そして、詩人は歌います。

まことに神がシオンを救い、ユダの町々を建てられる。こうして彼らはそこに住み、そこを自分たちの所有とする。

主のしもべの子孫はその地を受け継ぎ、御名を愛する者たちはそこに住みつこう。(35-36)

新しいエルサレムが来ます。それはユダヤ人だけのためではなく、イエス様の十字架の働きを信じ、その御名を愛する人のために来ます。その新しいエルサレムで、私たちの救いは成就されます。

主よ、あなたが私の救いのために多大な代価を払ってくださったことに感謝いたします。あなたは罪を犯されることなく、私のために死んでくださいました。

私が決してそのいけにえを軽んじることのないように、私の人生があなたに対する賛美となるようにお導きください。私の人生と言葉で周りの人々にあなたの御業を宣言するように助けてください。アーメン。

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詩篇

神様の力とあわれみ

詩篇68篇を読むとき、二つのことが私の心を打ちます。

一つ目は、神様の力です。

この詩篇の初めに、私たちは敵を滅ぼしてくださる神様の力が見えます。

神よ。立ち上がってください。神の敵は、散りうせよ。神を憎む者どもは御前から逃げ去れ。

煙が追い払われるように彼らを追い払ってください。悪者どもは火の前で溶け去るろうのように、神の御前から滅びうせよ。(詩篇68:1-2)

そして、詩人は、どうやって神様がイスラエル人をエジプトから救い出してくださって、約束の地に導いてくださったか思い出します。

神よ。あなたが御民に先立って出て行かれ、荒れ地を進み行かれたとき、セラ

地は揺れ動き、天もまた神の御前に雨を降らせ、シナイもイスラエルの神であられる神の御前で震えました。(7-8)

そして、詩人は歌います。

神よ。御力を奮い起こしてください。私たちのために、事を行なわれた神よ。御力を示してください。(28)

また、

神の力を認めよ。みいつはイスラエルの上に、御力は雲の上にある。

神よ。あなたはご自身の聖なる所におられ、恐れられる方です。イスラエルの神こそ力と勢いとを御民にお与えになる方です。ほむべきかな。神。(34-35)

神様の力を見ていると、私は畏敬の念を抱きます。

しかし、この詩篇にはもう一つのことが見られます。それは神様のあわれみです。

みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。

神は孤独な者を家に住まわせ、捕らわれ人を導き出して栄えさせられる。(5-6)

詩人は、神様がどうやってイスラエル人を約束の地に導いてくださったかについて話すとき、こう言います。

神よ。あなたは豊かな雨を注ぎ、疲れきったあなたのゆずりの地をしっかりと立てられました。

あなたの群れはその地に住みました。神よ。あなたは、いつくしみによって悩む者のために備えをされました。(9-10)

けれども、私が一番好きな箇所は19節です。

ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。セラ

以前言ったように、神様の力について考えるとき、私は畏敬の念を抱きます。なぜなら、神様はすべてのことをコントロールしておられるし、何でもできます。

しかし、私たちに対する神様のあわれみと恵みはもっと素晴らしいものです。毎日、神様は私たちを愛し、見守ってくださいます。

それに、神様は私たちの重荷を背負ってくださいます。

また、私たちのニーズを見るとき、神様はそのニーズに備えてくださいます。

私たちが寂しいとき、神様は私たちとともにおられます。

私たちが囚人だったとき、神様は私たちを解放してくださいました。

主よ。あなたが力ある神であることを感謝します。けれども、あなたが私たちを愛していることをもっと感謝します。私があなたの臨在をもっと感じるように。私の人生にあなたの力をもっと知るように。

以前のように、あなたの力を示してください。しかし、あなたのあわれみも私がもっと知るように。そして、私がそのあわれみを周りの人々に与えるように助けてください。私を通して、彼らがあなたのあわれみと力を見えるように。アーメン。

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詩篇

すべての人々が神様を知るように祝福された

この詩篇は、申命記6:24-26の祭司の祝福に似ています。

どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。(詩篇67:1)

私が興味深いと思うのは、その詩人の動機です。

それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。(2)

多くのクリスチャンは自己中心的な理由のために「主よ。私を祝福してください」と祈ります。

しかし、詩人はこのように祈ります。

「主よ、私たちをあわれんでください。祝福してください。なぜなら、周りの人々があなたの恵みと慈しみを見るなら、あなたとの関係を求めるから。そして、私たちだけではなく、彼らもあなたの救いを知ります。」

詩人はその日を楽しみにして、歌います。

神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。

国民が喜び、また、喜び歌いますように。それはあなたが公正をもって国々の民をさばかれ、地の国民を導かれるからです。セラ

神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。(3-5)

詩人は、すべての国民が自分の心を神様に向けることを見るし、もう一つのことを見ます。それは、神様を恐れる人に対する神様の祝福です。

地はその産物を出しました。神、私たちの神が、私たちを祝福してくださいますように。

神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。(6-7)

神様、あなたの恵みを与えてください。主よ、私を引き寄せ、あなたの御顔を私の上に照り輝かせてくださるように。そして、私の周りの人々が私を見る時、彼らはあなたを見て、あなたに近づくように。

あなたの光が私を通して輝くように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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詩篇

逃げられない

私は刑事コロンボという番組が大好きです。その番組にはいつも同じパターンがあります。つまり、犯罪者は完全犯罪を犯しますが、コロンボは少しずつ彼らの犯罪を解明します。

詩篇64篇を読むとき、コロンボの話について考えます。ダビデはこう書きました。

彼らは、その舌を剣のように、とぎすまし、苦いことばの矢を放っています。

全き人に向けて、隠れた所から射掛け、不意に射て恐れません。

彼らは悪事に凝っています。語り合ってひそかにわなをかけ、「だれに、見破ることができよう」と言っています。

彼らは不正をたくらみ、「たくらんだ策略がうまくいった」と言っています。人の内側のものと心とは、深いものです。(詩篇64:3ー6)

けれども、コロンボのように、神様は彼らの計画を暴露して、彼らを罰されます。

しかし神は、矢を彼らに射掛けられるので、彼らは、不意に傷つきましょう。

彼らは、おのれの舌を、みずからのつまずきとしたのです。彼らを見る者はみな、頭を振ってあざけります。

こうして、すべての人は恐れ、神のみわざを告げ知らせ、そのなさったことを悟ります。(7ー9)

エステル記で、ハマンはそう学びました。ユダヤ人を滅ぼすために完璧な計画を立てましたが、その計画はハマンの目の前で崩れました。

しかし、時々私たちは正義が遅れて来ると感じます。有罪な人が解放されて、私たちは「神様はどこにおられるのか。どうして神様は何もしないのか。」と思うことがあります。

けれども、いつか神様が彼らを裁かれることを忘れないでください。裁きの日には、神様がすべての罪を裁かれます。

だから、不正義を見るときに思い悩まないでください。人間の正義は失敗するかもしれませんが、神様の正義は決して失敗しません。だからダビデはこう言われました。

正しい者は主にあって喜び、主に身を避けます。心の直ぐな人はみな、誇ることができましょう。(10)

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詩篇

試練から私たちを救い出してくださる神

試練が好きだと言う人はいません。私も全然好きではありません。けれども、この詩篇では、私たちは試練から救い出してくださった神様の民が喜ぶのを見ます。

詩篇66篇では、詩人はこう歌います。

全地よ。神に向かって喜び叫べ。

御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ。

神に申し上げよ。「あなたのみわざは、なんと恐ろしいことでしょう。偉大な御力のために、あなたの敵は、御前にへつらい服します。

全地はあなたを伏し拝み、あなたにほめ歌を歌います。あなたの御名をほめ歌います。」 (詩篇66:1-4)

そして、詩人は喜びの理由を教えます。

さあ、神のみわざを見よ。神の人の子らになさることは恐ろしい。

神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は川の中を歩いて渡る。さあ、私たちは、神にあって喜ぼう。(5-6)

もちろん、詩人は神様がイスラエル人をエジプトからどのように救い出してくださったかについて話しています。つまり、神様は紅海に乾いた道を整えてくださいました。その時、神様はその力をイスラエルと周りの国々に現わされました。

だから、詩人は警告します。

神はその権力をもってとこしえに統べ治め、その目は国々を監視される。頑迷な者を、高ぶらせないでください。(7)

そして詩人は振り返って、イスラエル人のエジプトの苦しみも砂漠の苦しみも思い出します。けれども、その苦しみの中で、詩人は神様の御手を見ました。

国々の民よ。私たちの神をほめたたえよ。神への賛美の声を聞こえさせよ。

神は、私たちを、いのちのうちに保ち、私たちの足をよろけさせない。

神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精錬するように、私たちを練られました。

あなたは私たちを網に引き入れ、私たちの腰に重荷をつけられました。

あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。(8-12)

11-12節は興味深い箇所です。神様はイスラエル人を網に引き入れ、外国の王を彼らを治めるために送りました。

神様は私たちの人生に直接悪を送らないけど、この壊れた世に悪は来ます。もちろん神様はその悪を止めることができますが、時々その悪が私たちの人生に来ることを許されます。

どうしてでしょうか。神様は私たちを憎むからでしょうか。違います。

その試練を通して、神様は銀を精錬するように、私たちを練られます。

その試練を通して、私たちのプライドや罪を清め、私たちは神様が望んでおられる聖いものになります。

しかし、私たちが火を通るとき、神様は私たちを手放しません。むしろ、神様は私たちを守り、私たちの足をよろけさせません。そして、私たちはその試練を乗り越え、勝利を得ます。

だから、火を通ってから、詩人は感謝のいけにえを捧げ、自分の経験を周りの人々に伝えました。彼はこう歌います。

さあ、神を恐れる者は、みな聞け。神が私のたましいになさったことを語ろう。

私は、この口で神に呼ばわり、この舌であがめた。

もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。

しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。

ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。(16-20)

あなたはどうですか。どんな試練を通っているでしょうか。どんな試練を通っても、神様はあなたを決して離れません。

だから失望しないでください。神様に叫びましょう。あなたの心を主の前に注ぎ出しましょう。そうすれば、神様の救いを知ります。その時、周りの人々に、神様が何をしてくださったか教えましょう。

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詩篇

私たちを救い、 満たしてくださる神

私はこの詩篇がいつ書かれたのか分かりません。もしかすると、神様の裁きによってイスラエルには飢饉があったのかもしれません。けれども、その後イスラエル人が悔い改めたので、もう一度神様の祝福を受けたのでしょう。

だから、詩人は神様のあわれみに感謝します。

神よ。あなたの御前には静けさがあり、シオンには賛美があります。あなたに誓いが果たされますように。

祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。

咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。

幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。(詩篇65:1-4)

この個所で、詩人はイスラエルの罪と神様の裁きを思い出します。私は3節が大好きです。

咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。

私たちは自分の罪に圧倒されました。私たちは神様の裁きから逃げられなかった。けれども、パウロが言ったように、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった。」(ローマ5:8)

だから今、神様は私たちを近づけて、祝福を注いでくださいます。私たちはもう神様を恐れる必要がありません。むしろ、神様のあわれみと恵みを受けたので、愛で満たされた心で私たちは神様を仰ぎます。

そして、ある日、天国で私たち皆は神様のあわれみを賛美します。(1)

5節でダビデはこう言います。

私たちの救いの神よ。あなたは、恐ろしい事柄をもって、義のうちに私たちに答えられます。あなたは、地のすべての果て果て、遠い大海の、信頼の的です。

この詩篇の後半で、ダビデは神様の創造の力を思い出し、どうやって神様が雨を降らして、この世を支え、祝福することについて歌います。

けれども、この詩篇を読むとき、私はもう一つのことを見ます。それは私たちの救い主の業です。つまり、イエス様は私たちの罪のために死んでくださったので、この死にかけている世においても、私たちには希望があります。

神様がこの世を祝福するために天から雨を降らすように、神様は生ける水、つまり聖霊を私たちに注ぎ、毎日私たちを満たしてくださいます。

また御霊によって、神様は私たちと私たちが触れる人に恵みを注いでくださるので、私たちは豊かな実を結びます。

主よ、あなたが私に注いでくださった恵みを感謝します。その恵みによって私は救われました。私が自分自身を救う力がないとき、あなたは私を救ってくださいました。

今、あなたの聖霊で私を満たしてください。あなたの聖霊が私の人生にあふれ、私が実を結び、周りの人々に触れるように。

あなたが私の人生に注いでくださる喜びを感謝します。主イエスキリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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詩篇

何を信頼するか

これはもう一つの私が好きな詩篇です。いつものように、ダビデは困っていましたが、こう歌いました。

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。(詩篇62:1-2)

「ただ神を待ち望む」という言葉は私の心を打ちます。

ダビデはいろんな試練を経験したので、人々がいつも忠実なわけではないと分かるようになりました。また、お金や富にも頼ることができないと分かるようになりました。

ダビデはこう書きました。

まことに、身分の低い人々は、むなしく、高い人々は、偽りだ。はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。

圧制にたよるな。略奪にむなしい望みをかけるな。富がふえても、それに心を留めるな。(9ー10)

つまり、人が偉くても、そうではなくても、私たちは彼らをいつも信頼することができないということです。

時々彼らはあなたを裏切るからです。

彼らが忠実でも、いつまでも生きるわけではありません。ある日、彼らは亡くなってしまうので、あなたは彼らにもう頼ることができません。

自分の富に頼る人もいます。しかし、そのお金を盗んでも、そのお金のためにちゃんと働いても、一時的な幸せだけを買うことができます。結局、あなたはお金と持ち物の虚しさを分かるようになります。

だからダビデは、「これらのものに頼りません」と言います。むしろ、彼はこう言いました。

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。(5)

そして、ダビデは私たちに言います。

民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。(8)

あなたは何に頼るでしょうか。人に頼るでしょうか。富に頼るでしょうか。自分自身に頼るでしょうか。

それらのものは偽りの避け所です。結局、それらのものによって私たちはがっかりします。神様だけが私たちの信頼に値します。だから、ダビデはこの詩篇をこの言葉でまとめます。

神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。

主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。(11ー12)

私たちを決してがっかりさせない神に信頼しましょう。

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詩篇

私たちと共におられる神

詩篇61篇で、ダビデはもう一度敵から逃げています。この詩篇を書いた時、ダビデはすでにイスラエルの王でした。

多分、この詩篇の背景にはアブサロムのクーデターがあるでしょう。アブサロムはダビデの王座を奪い、ダビデを追放しました。

だからダビデは叫びました。

神よ。私の叫びを聞き、私の祈りを心に留めてください。

私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。(詩篇61:1-2)

「私は地の果てから、あなたに呼ばわります」という言葉は私の心を打ちます。ダビデは自分の家から遠く離れていて、ダビデが愛した神様の幕屋からも遠かったのです。

けれども、ダビデがどこにいても、神様が彼の声を聞いてくださることを知っていました。だから、ダビデは自分の苦しみの中で神様に叫びました。

どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。

まことに、あなたは私の避け所、敵に対して強いやぐらです。

私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み、御翼の陰に、身を避けたいのです。(2b-4)

言い換えれば、「あなたにあって、私は安心します。あなたを慕い求めるけど、あなたは遠く離れるようです。私をあなたのところに導いてください」ということです。

私たちはどれほどダビデのように感じるでしょうか。私たちは、神様に捨てられたと思うことがあります。神様にあって休みたいけど、神様は遠く離れているように感じます。

時々、私たちはダビデのように誓いをします。「私を助けてくだされば、私はこうします。」

その誓いをすれば、守らなくてはなりません。しかし、そんな誓いは要りません。神様からの私たちの遺産は恵みによって受けるのです。その遺産は、神様を愛し恐れる人のものです。

それは、困難の中の平和と希望の遺産です。

それは、神様が私たちを自分の子供と呼ぶ遺産です。

それは、神様が私たちの叫びに応える遺産です。

それは、いつか私たちがキリストとともに治める遺産です。(第二テモテ2:12)

だから困るとき、また神様が遠く離れると思うとき、その遺産を思い出しましょう。

私たちが想像するよりも、神様は近いです。

神様は聖霊によって、私たちを及びがたいほど高い岩の上に導いてくださいます。その高いところから、私たちのトラブルは小さく見えます。

その時、ダビデのように私たちは神様の御名をとこしえまでもほめ歌います。(8)

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詩篇

勝利を思い出す

ちょっと詩篇108篇に飛びます。なぜなら、詩篇108篇には詩篇57篇と詩篇60篇の部分が含まれているからです。

具体的には、詩篇108:1-5は詩篇57篇の最後の部分から来ており、詩篇108:6-13は詩篇60篇の最後の部分から来ています。

詩篇108篇がその二つの詩篇のメドレーかどうかは分かりません。もしかしたら、ダビデはその二つの詩篇から新しい詩篇を書いたのかもしれません。でも、どうしてダビデはその二つの詩篇を組み合わせたのでしょうか。

私は二つの推測をしています。

一つ目は、ダビデが詩篇60篇を書いたときに、同時に詩篇108篇も書いたということです。

詩篇60篇の背景には、イスラエルが敵に敗れたことで苦しんでいた時期があります。だから、ダビデは神様が洞穴でどのように彼をサウルから救い出してくださったかを思い出したのでしょう。

多分彼は自分にこう言ったのです。「この敗戦には失望してはならない。神様が過去に何をしてくださったかを思い出そう。もし、過去に神様が私を救い出したなら、将来も神様は私を救い出してくださるだろう。」

二つ目は、詩篇108篇はその二つの事件の後に書かれたものであるということです。つまり、ダビデは振り返り、神様が何をしてくださったかを思い出して、神様を賛美したのです。

そのように、私たちも過去の勝利を思い出したほうが良いです。特に、苦難の時に、過去の勝利を思い出したほうが良いです。

そして、神様が私たちを救い出してくださった後、私たちは神様に感謝するべきです。

どうしてそうするべきでしょうか。

希望のためです。

苦しい時、勝利を思い出すことは私たちに希望を与えます。希望がないなら、試練に直面することは難しいです。

でも希望を持てば、どんな試練に直面しても、私たちは乗り越えられます。なぜなら、神様が私たちの味方で、私たちを助けてくださることを知っているからです。

あなたはどんな勝利を経験したでしょうか。その勝利について書きましょう。神様があなたの祈りに応えてくださるとき、そのことについて書きましょう。それだけではなく、神様をほめたたえましょう。

そうすれば、試練が来るとき、あなたは立つことができます。

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詩篇

私たちが敗れる時

詩篇60篇はちょっと不思議です。なぜなら、そのタイトルを見ると、この詩篇は勝利の時に書かれたもののように思えます。けれども、この詩篇によれば、イスラエル人は戦いに敗れたらしいです。

だから、彼らは叫びます。

神よ。あなたは私たちを拒み、私たちを破り、怒って、私たちから顔をそむけられました。

あなたは地をゆるがせ、それを引き裂かれました。その裂け目を、いやしてください。地がぐらついているのです。(詩篇60:1-2)

どうしてイスラエル人は敗れたのでしょうか。私たちにはわかりません。聖書ではその理由が書かれていないからです。列王記にも歴代誌にも、その敗北に関しては何も書かれていません。

言えることは、霊的な力と戦うとき、時々私たちは敗れるということです。しかしその時、二つのことを思い出しましょう。

一つ目は、神様が私たちを見捨てておられないということです。時々、私たちはそう感じるかもしれませんが、神様は私たちを拒絶しておられません。

二つ目は、時々私たちは戦いに負けることがありますが、結局私たちは戦闘に勝つということです。

神様はイスラエル人の叫びを聞いて、こう答えられました。

「わたしは、喜び勇んで、シェケムを分割し、スコテの谷を配分しよう。

ギルアデはわたしのもの。マナセもわたしのもの。エフライムもまた、わたしの頭のかぶと。ユダはわたしの杖。

モアブはわたしの足を洗うたらい。エドムの上に、わたしのはきものを投げつけよう。ペリシテよ。わたしのゆえに大声で叫べ。」(6-8)

つまり、「勝利は私の手にあります。私はあなたを私のものとして選んだので、あなたの敵をあなたの手に渡します。」ということです。

だから、イスラエル人は拒絶されたと感じたのに、彼らはもう一度神様に叫びました。

どうか、敵から私たちを助けてください。まことに、人の救いはむなしいものです。

神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です。(11-12)

そして、信仰によって、彼らは自分の力ではなく、神様の力によって出て戦いました。その時、神様は彼らに勝利を与えてくださいました。

最近、あなたは何かに敗れたでしょうか。失望しないでください。立ち上がりましょう。自分の力ではなく、神様の力によって立ち上がりましょう。神様の助けを願いましょう。そうすれば、勝利を得ます。

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詩篇

不義を見る時

裁判官が有罪の人を自由にさせるのを見ると、私たちは皆フラストレーションを感じると思います。

もしかしたら、警察や検事のミスによって、その被告は解放されたのかもしれません。または、堕落した裁判官や陪審員のため、その被告が解放されたのかもしれません。

だから私たちは怒って叫びます。

しかし、こんな問題は新しいものではありません。詩篇58篇では、ダビデは同じ問題について嘆いています。

力ある者よ。ほんとうに、おまえたちは義を語り、人の子らを公正にさばくのか。

いや、心では不正を働き、地上では、おまえたちの手の暴虐を、はびこらせている。(詩篇58:1-2)

どうしてこの世にそんな問題があるのでしょうか。

理由の一つとして、私たち皆が生まれた時から罪人であることが挙げられるでしょう。生まれた時から、私たちは自分の欲望に引っ張られています。(3)

それに、神様が正しい道を教えるのに、私たちは自分の耳を閉じます。(4-5)

だから、ダビデは神様が悪人を裁いてくださるように叫びます。けれども、ダビデのように、私たちは裁きの日が来ることを確信できるので、慰められます。神様がこの世に来るとき、すべての悪人は一掃されます。その日、

人々は言おう。「まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。」(11)

その日を待つのは難しいでしょうか。不義を見るとき、フラストレーションを感じるでしょうか。もちろんです。

けれども、失望しないでください。他の詩篇で、ダビデはこう書きました。

悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。

彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。(37:1-2)

だからこそ、毎日、私たちは神様を信頼し続け、良いことを行い、主をおのれの喜びとし、私たちの道を主にゆだねましょう。(37:3-5)

そうすれば、この悪の時代にも、私たちはこの世に神様の働きと、私たちの人生に神様の働きを見ることができます。

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詩篇

友達があなたを裏切る時

いつ詩篇55篇が書かれたか分かりませんが、ダビデに対するアブサロムの反抗の時に書かれたものかもしれません。

その時、ダビデの議官アヒトフェルはダビデに背を向けて、アブサロムを助け始めました。どうしてアヒトフェルがダビデを裏切ったのかについてはこちらのブログで書きました。

ダビデは追放され、絶望して、叫びました。

神よ。私の祈りを耳に入れ、私の切なる願いから、身を隠さないでください。

私に御心を留め、私に答えてください。私は苦しんで、心にうめき、泣きわめいています。

それは敵の叫びと、悪者の迫害のためです。彼らは私にわざわいを投げかけ、激しい怒りをもって私に恨みをいだいています。

私の心は、うちにもだえ、死の恐怖が、私を襲っています。(詩篇55:1~4)

そして、ダビデは嘆きます。

まことに、私をそしる者が敵ではありません。それなら私は忍べたでしょう。私に向かって高ぶる者が私を憎む者ではありません。それなら私は、彼から身を隠したでしょう。

そうではなくて、おまえが。私の同輩、私の友、私の親友のおまえが。

私たちは、いっしょに仲良く語り合い、神の家に群れといっしょに歩いて行ったのに。(12-14)

また、

彼は、自分の親しい者にまで手を伸ばし、自分の誓約を破った。

彼の口は、バタよりもなめらかだが、その心には、戦いがある。彼のことばは、油よりも柔らかいが、それは抜き身の剣である。(20-21)

友達に裏切られるのは苦しいことです。あなたが彼らを愛していたのに、彼らはあなたに背を向けて、わざとあなたを傷つけようとするからです。彼らはあなたの友達のふりをしますが、あなたが見ていない時、ナイフをあなたの背中に刺します。

友達に裏切られるのも苦しいですが、夫や妻に裏切られるなら、本当に苦しいです。そして、その裏切りによって、あなたは人を信頼することが難しくなるかもしれません。もしくは、神様を信頼することが難しくなるかもしれません。

でも、イエス様も裏切りの苦しみを知っていることを覚えていてください。ユダがイエス様を裏切ったので、イエス様はあなたの感情がよく分かります。

それに、イエス様はあなたを決して裏切りません。むしろ、イエス様はいつもあなたに対して誠実です。

ダビデはそのことを知っていたので、こう歌いました。

私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる。

夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。

主は、私のたましいを、敵の挑戦から、平和のうちに贖い出してくださる。私と争う者が多いから。(16-18)

言い換えれば、他の人々は私たちに背を向けるかもしれませんが、神様は決してそうしないということです。だから、ダビデは私たちに言います。

あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。(22)

そして、ダビデは、信仰によって叫びます。

けれども、私は、あなたに拠り頼みます。(23)

あなたは裏切られましたか。あなたが人を信頼することは難しくなりましたか。あなたの苦しみに駆られることがないようにしましょう。

むしろ、あなたに忠実である神に信頼しましょう。あなたの重荷と痛みを主に委ねましょう。そうすれば、あなたは癒されます。

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詩篇

お金で買えない物

英語では、「Money makes the world go round」ということわざがあります。つまり、「金は天下の回りもの。」ということです。

お金がないと、私たちの社会は動きません。

しかし、詩篇49篇では、詩人はもっと大切な真理を教えます。「お金で買えない物もあります。」

詩人はこう書きました。

人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。

自分の身代金を神に払うことはできない。――たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない――人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。墓を見ないであろうか。(詩篇49:7-9)

言い換えれば、お金で永遠の命を買うことはできません。私たち皆は、お金持ちでも貧乏な人でも、賢い人でも愚か者でも、強い人でも弱い人でも、いつか死にます。そして、死ぬと、貯まったお金を天国に(または地獄に)持って行けません。

だから、私たちのお金では天国に入ることはできません。「天国への切符」を買うことはできません。

なぜなら、私たちの罪によって、神様に対する負債があるからです。けれども、この世界のお金のすべてを持って行っても、私たちの負債を支払うことはできません。

神様だけが、その代価を支払うことができます。だから、神様自身が人間としてこの世に来て、私たちの負債を支払ってくださいました。しかし、お金を使わずに、十字架で自分の血を流されました。

びっくりするのは、この詩人がイエス様について全然知らなかったのに、彼がその真理を知っていたということです。彼はこう書きました。

しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。(15)

イエス様が生まれる何百年も前に、神様が私たちを贖なうので、私たちが永遠に神様と共にいる確信が詩人にはありました。だから、彼はこう書いた。

恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。

人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。

彼が生きている間、自分を祝福できても、また、あなたが幸いな暮らしをしているために、人々があなたをほめたたえても。

あなたは、自分の先祖の世代に行き、彼らは決して光を見ないであろう。(16-19)

あなたはどうですか。金持ちをねたんでいるでしょうか。あなたは富を求めているでしょうか。もしくは、あなたにはお金がたくさんあるけど、まだ満足していないでしょうか。もっともっとお金を儲けたいでしょうか。

詩人の言葉を覚えておきましょう。

人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。(20)

お金や富を持つことは悪いことではありません。この世では、また神様の国のために、私たちはお金でたくさんの良いことができます。

けれども、お金は一番大切なものではありません。もっと大切なものがあります。

だから覚えておきましょう。きっと、お金で買えない物があります。