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詩篇

神様が私たちの中に住んでおられると

多分、エルサレムが攻撃された後に、詩篇48篇は書かれたと思われます。そして詩人は、神様がエルサレムを守ってくださるために、神様の偉大さをほめたたえます。

その詩人は歌います。

主は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。その聖なる山、われらの神の都において。(詩篇48:1)

エルサレムにある山シオンの美しさを讃えた後、詩人は歌います。

神は、その宮殿で、ご自身をやぐらとして示された。

見よ。王たちは相つどい、ともどもにそこを通り過ぎた。

彼らは、見るとたちまち驚き、おじ惑って急いで逃げた。(3-5)

そして、詩人は歌います。

私たちは、聞いたとおりを、そのまま見た。万軍の主の都、われらの神の都で。神は都を、とこしえに堅く建てられる。(8)

この詩篇から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

神様がご自身の住まいを見守ってくださったように、私たちを見守ってくださいます。

神様はもうある都市の宮におられるわけではありません。(実は、エルサレムの宮は本当は神様の家ではなかったのですが、その時、神様はご自身の臨在をその宮で示されました。)(列王記第一8:27;9:3)

今、神様はご自身の民の心の中におられます。

だから、私たちの敵、つまりサタンが私たちを攻撃するとき、私たちが神様に信頼するなら、神様は私たちを堅く建ててくださいます。

だから困る時に、恐れずに神様の恵みを思い巡らしましょう。(9)

神様の目には、私たちは神様の美しい宮であり、神様の喜びであり、神様の貴い子供たちです。だから、神様はいつも私たちを見守ってくださいます。

そして、神様からの救いを見ると、神様の慈しみに感謝しましょう。また、それを覚えておきましょう。

この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる。(14)

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詩篇

歌って、叫ぼう

3年ほど前、茨木市に電車で通勤した時、私はワーシップの歌を聞き、歌いました。もちろん声を出さなかったけれど、聞きながら私の口は動いていました。その時、隣の人から変な顔をされました。

(日本人はそういうことはあまりしないのでしょうか。)

とにかく、気にせずに私は歌い続けました。

その前の日曜日、私の牧師は大胆に叫ぶや歌うことについて話しました。

彼は尋ねました。「もしあなたが、阪神タイガースの試合を見る時、『ファイト、ファイト』と囁くでしょうか。違いますよね?あなたは『ファイト!ファイト!』と叫ぶでしょう。」

とにかく、詩篇47篇を読んだ時、そのことについて考えました。この詩篇は囁くことができないと思います。こんな詩篇は叫び、大きな声で歌わなければならないと思います。

すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ。(詩篇47:1)

また、

神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。われらの王にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。(6)

詩人の熱心さがよく見えます。一節で、彼は「神様にほめ歌を歌え」と4回も言っています。

どうして彼はそんなに盛り上がっているのでしょうか。どうしてそんなに喜んでいるのでしょうか。それは、神様が大いなる神だからです。

まことに、いと高き方主は、恐れられる方。全地の大いなる王。(2)

また、神様は素晴らしいことをしてくださったからです。

国々の民を私たちのもとに、国民を私たちの足もとに従わせる。

主は、私たちのためにお選びになる。私たちの受け継ぐ地を。主の愛するヤコブの誉れを。(3-4)

この詩篇では、詩人は神様がイスラエル人を約束の地に導いてくださったことについて話しています。

しかし、神様は私たちクリスチャンにも勝利を与えてくださいました。サタンに対する勝利を与えてくださいました。罪に対する勝利を与えてくださいました。また、死に対する勝利を与えてくださいます。

神様の愛によって、私たちには天国にある遺産があります。それに、この世でも、あなたの人生が生きがいのあるものになります。

だから、パウロはこう書きました。

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。(第一コリント2:9-10)

だから、叫び、大きな声で歌うのは、当たり前のことですよね。

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詩篇

神様についての二つの誤解

詩篇50篇の内容は、預言書の内容に似ています。そして、この箇所で、私たちは神様についての二つの誤解を見ます。

最初の部分では、神様は裁判所に入って、被告を喚問されます。その被告は誰でしょうか。モーセの律法の下にあるイスラエル人です。

けれども、ある日、私たちもキリストのさばきの座に行かなくてはなりません。この詩篇の警告に注意するべきです。

最初の神様についての誤解は、神様は宗教的な儀式だけを望まれることです。つまり、神様は供え物やいけにえだけを望まれます。しかし、神様はイスラエル人にこう言われました。

わたしは、あなたの家から、若い雄牛を取り上げはしない。あなたの囲いから、雄やぎをも。

森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。

わたしは、山の鳥も残らず知っている。野に群がるものもわたしのものだ。

わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。

わたしが雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか。(詩篇50:9-13)

言い換えれば、神様はこう言っておられます。

「あなたは供え物やいけにえを捧げているが、その目的を理解していない。

私は飢えているわけでも、貧しいわけでもない。私は何も必要としていない。すべてのものはすでに私のものだから。もし食べ物が欲しければ、自分で取りに行くだろう。けれども、実際には、私は決して食べ物を必要としない。

私の空腹を満たすために、供え物やいけにえを求めているのではない。」

そして、神様はイスラエルに何を望んでおられるかを語られます。

感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。

苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。(14-15)

つまり、こういうことです。「感謝の心を持ちなさい。あなたの神として、あなたの必要を備える方として、そしてあなたの救い主として、私を認めなさい。自分自身のために生きるのをやめなさい。自分の力と知恵に頼って生きるのをやめなさい。」

そして、神様は彼らを厳しく責められました。なぜなら、周りの人たちが見ると、表面的には彼らが敬虔に見えたからですが、実は心の中で彼らは神様を侮っていたからです。神様は彼らにこう言われました。

しかし、悪者に対して神は言われる。「何事か。おまえがわたしのおきてを語り、わたしの契約を口にのせるとは。

おまえは戒めを憎み、わたしのことばを自分のうしろに投げ捨てた。

おまえは盗人に会うと、これとくみし、姦通する者と親しくする。

おまえの口は悪を放ち、おまえの舌は欺きを仕組んでいる。

おまえは座して、おのれの兄弟の悪口を言い、おのれの母の子をそしる。(16-20)

言い換えれば、こういうことです。「あなたは正しいことを語り、私を敬う言葉を口にします。けれども、そのあとで、自分の道を歩んでいくのです。」

多くのクリスチャンはその通りです。日曜日に、彼らは教会に行き、祈ったり、賛美したりしますが、月曜日から土曜日まで自分が好きなように生きます。

神様はあなたの宗教的な外見に感動しません。どんなに教会に通っても、それだけでは感動しません。たくさん献金を捧げても、感動しません。たくさん聖書の箇所を暗記しても、心を動かされることはありません。

神様はあなたの心を望まれます。神様があなたの心を持たないなら、あなたは神様を喜ばせることはできません。

そして、神様は二つ目の誤解について話されます。

こういうことをおまえはしてきたが、わたしは黙っていた。わたしがおまえと等しい者だとおまえは、思っていたのだ。わたしはおまえを責める。おまえの目の前でこれを並べ立てる。

神を忘れる者よ。さあ、このことをよくわきまえよ。さもないと、わたしはおまえを引き裂き、救い出す者もいなくなろう。(21-22)

つまり、神様はこう言っておられます。「あなたが悪を行っていた時、私は何も言いませんでした。だから、あなたは私がその行動を認めていると思ったのでしょう。しかし、実は私は忍耐して、あなたが悔い改めるのを待っていたのです。

けれども、もし悔い改めなければ、あなたには裁きが下ります。その時には、もう悔い改める機会は失われてしまうのです。」

そして、神様は最初の言葉に戻られます。

感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。(23)

この箇所から、私たちは何を学ぶことができますか。救いを得るための最初のステップは、神様を神様として認めることです。私たちが神様から独立して生きることを止めなくてはなりません。

むしろ、感謝の心を持って、へりくだって神様の前に生きるべきです。そうすれば、キリストにあっての救いのために私たちの心が整えられます。

裁きの日が来ます。だからヤコブはこう言いました。

主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(ヤコブ4:10)

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詩篇

私たちの周りにカオスがある時

カオス。

子供が叫んだり、夫が病気だったり、締め切りがあったり、八方からプレッシャーがかけられたりします。

そんな経験をしたことがあるでしょうか。

誰しも人生の混乱を経験します。時々、全世界が私たちの上に落ちてくるように感じます。

また、ニュースを見ると、戦争の話や天災の話をよく聞きます。

だから、神様がだんだん見えなくなって、パニックになってしまいます。そして嵐にいたペテロのように、私たちは溺れ始めます。

詩人の言う解決策は何でしょうか。

やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。(詩篇46:10)

つまり、ちょっと止まってください。あなたの状況を見るのを止めて、少し神様を仰いでください。あなたの問題の大きさについて考えずに、神様の大きさについて考えてください。

そうすれば、何が分かるようになるでしょうか。

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。

それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。

たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。(詩篇46:1-3)

私たちが見回ったら、

国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。(6)

しかし、

万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。(7,11)

私たちが自分の問題に焦点を当てると、神様がすべてのことをコントロールしていることを忘れてしまいがちです。神様の力はすべての問題を乗り越えます。

神様が声をかければ、この世は解けるでしょう。神様が「終わり」と言われれば、すべての戦争が終わり、すべての人々が裁かれます。

だから、主の前に静まりましょう。恐れを静め、疑問を止めましょう。そして、神様の大きさを見てください。

神様は私たちの中におられ、私たちは倒れることがありません。神様が私たちを助けてくださることを信じましょう。

神様の御霊は川のように私たちの中で流れ、私たちの人生の中で働いて、私たちを通して周りの人々に触れてくださいます。

だから、あなたはどんな問題に直面しても、神様の喜びと平和を知ることができます。

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詩篇

イエス様と結ばれて

詩篇45篇のタイトルは、「愛の歌」と書かれています。おそらく、この歌は王の結婚式で歌われました。

この歌は人間の王の結婚式のためのものでしたが、この歌から、王の王であるイエス様の結婚式も見ることができます。

私たちはキリストの花嫁と呼ばれます。この詩篇で、私たちの花婿であるイエス様を見ることができ、花嫁として私たちがイエス様にどう反応するべきかを知ることができます。

この詩篇の最初の部分は王について語ります。その言葉によって、イエス様のいろんな描写が見られます。例えば、イエス様は恵み深い方です。

あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ。(詩篇45:2)

また、イエス様は勇士です。

雄々しい方よ。あなたの剣を腰に帯びよ。あなたの尊厳と威光を。

あなたの威光は、真理と柔和と義のために、勝利のうちに乗り進め。あなたの右の手は、恐ろしいことをあなたに教えよ。

あなたの矢は鋭い。国々の民はあなたのもとに倒れ、王の敵は気を失う。(3-5)

また、イエス様は私たちの王です。

神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。

あなたは義を愛し、悪を憎んだ。それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。(6-7)

へブル人への手紙の著者は、イエス様について語る際に、詩篇45篇の6-7節を引用しました。(へブル1:8-9)

そして、詩人はキリストの花嫁である私たちに語りかけます。

娘よ。聞け。心して、耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。(10)

その言葉は創世記から来ます。神様は結婚についてこう言われました。

それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。(創世記2:24)

創世記の箇所は特に男性について話していますが、この詩篇によれば、女性もそうするべきです。

そのため、私たちはイエス様と結ばれるとき、キリストとの結びを邪魔するものを捨てなければなりません。

私はクリスチャンホームで育ちましたが、ある人はクリスチャンになると、その親たちと喧嘩します。また、ある人は、友達から離れなければならない。なぜなら、その友達が、その人を神様から引き離そうとするからです。

もちろん、それは極端な状態です。理想を言えば、私たちにはそのような必要はないと言いたいところです。私たちの証しによって彼らがキリストを求めるようになれば、それも理想的です。

けれども時々、私たちは「すみません。私はあなたが行く道を行くことができません。私はイエス様に従うからです。」と言わなければなりません。

そして、詩篇の著者は花嫁にこう言いました。

そうすれば王は、あなたの美を慕おう。彼はあなたの夫であるから、彼の前にひれ伏せ。(11)

それはどんな美しさでしょうか。体の美しさでしょうか。違います。ペテロはクリスチャンの妻たちにこう言いました。

むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。(第一ペテロ3:4)

私たち皆、そんな美しさが必要です。

また、イエス様が私たちの主なので、生涯イエス様を敬わなくてはなりません。

そして、詩人は歌います。

王の娘は奥にいて栄華を窮め、その衣には黄金が織り合わされている。

彼女は綾織物を着て、王の前に導かれ、彼女に付き添うおとめらもあなたのもとに連れて来られよう。

喜びと楽しみをもって彼らは導かれ、王の宮殿に入って行く。(13-15)

どうして、花嫁には栄華があるでしょうか。それは、その王が彼女を選び、きれいな着物を着せ、美しくしたからです。

イエス様は私たちのために同じことをしてくださいました。イエス様は、

教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた。。。

みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:25-27)

私たちがそのような花嫁になるように。

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詩篇

どうして私にこんなことが起こっているのだろう?

「どうして、私にこんなことが起こるのだろう?」

そう考えたことがあるでしょうか。詩篇44篇の詩人も同じように感じました。

この詩篇の背景はよくわかりませんが、おそらくその時代、イスラエル人は神様に仕えようとしていたけれど、敵に敗れました。

だから、彼らは言いました。

「私たちの先祖が、カナンに初めて来た時の話を聞きました。その時、あなたは私たちと共におられました。あなたが私たちを愛したので、私たちは自分の力ではなく、あなたの力によってたくさんの国々を追い出しました。

あなたは私たちの王です。私たちの先祖のように、私たちは勝利のために自分自身の力に頼らずに、あなたに信頼しました。私たちはあなたを誇ります。あなたをほめたたえます。」

それでは、どうして、あなたは私たちと共におられないのでしょうか。私たちが戦う時、倒れてしまいます。周りの国々は私たちをからかうので、私たちは恥ずかしくなりました。

もし、私たちがあなたに背を向け、偶像礼拝をしていたなら、今の苦しみも理解できます。けれども、そうしていないのです。どうして、あなたは私たちを捨てたのでしょうか。

どうして、あなたの顔をお隠しになっているのでしょうか。助けてください。」

言い換えれば、「神様、どうしてこんなことが私に起こっているのでしょうか。あなたに従おうとしているのに、どうして私の人生はめちゃくちゃになっているのでしょうか。」

この詩篇では、その答えは見つかりません。

しかし、ローマ書には希望があります。パウロはこの詩篇の22節を引用しています。

だが、あなたのために、私たちは一日中、殺されています。私たちは、ほふられる羊とみなされています。(詩篇44:22)

けれども、パウロは言います。

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ書8:37-39)

神様は、私たちには決してトラブルが起こらないとは約束されていません。私たちが決して苦しまないとも約束されていません。むしろ、私たちがきっと苦しむことになると宣言されました。(ヨハネ16:33、第二テモテ3:12)

しかし、何が起こっても、神様は私たちがその苦しみを乗り越えられるように助けてくださることを約束されます。そして、何も私たちを神様の愛から引き離すことはできません。

それが私たちの希望です。だから、苦しむ時は詩人のように神様に叫びましょう。そして、神様が近いと感じても感じなくても、神様があなたの叫びを聞いておられると思っても思わなくても、神様の約束に縋りつきましょう。

私たちの感情はよく変わります。神様が近いと感じる時も感じない時もあります。けれども、神様とその約束は決して変わりません。

だから、パウロの言葉を覚えておきましょう。

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(第一コリント15:58)

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詩篇

あなたが落ち込んでいる時

私たち皆は、鬱状態になることがあります。時々、私たちは落ち込んで、希望がないと思います。

この二つの詩篇の詩人も同じように感じました。彼は本当に心を打つ描写を使います。

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。(詩篇42:1-2)

アダム・クラークという聖書学者は、この箇所について興味深いことを言いました。

鹿は追いかけられて、本当に疲れて、のどが渇いた時、川に飛び込んで隠れます。その鼻だけが出ています。

私たちも時々そう感じます。八方から攻撃され、疲れ果ててしまいます。だから、私たちは疲れと恐れを抱えて、神様を慕いあえぎ、神様の腕の中に飛び込みます。

けれども、時々、どこを見ても神様を見つけられません。だから詩人のように私たちは叫びます。

いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。(2)

また、詩人のように、私たちは食事を楽しめなくなり、涙が私たちの食べ物になります。

そして、私たちは良い時を思い出します。

その時、教会に行って、友達と一緒に喜びました。また、私たちが祈った時、神様が近くにいて、神様に触れられるように感じました。

しかし今、嵐の中で私たちは溺れているように感じます。何度も大波が私たちの上を越えて行き、希望が失われます。

時々、私たちは自分自身を励まそうと思って、詩人のようにこう言います。

わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。

神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。私の神よ。(42:5-6)

けれども、すぐに落ち込んで、私たちは神様に尋ねます。

なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。(9)

この箇所から、私たちは何を学ぶことができますか。

一つ目は、あなたが普通の人間であることです。その感情を経験する人は、あなただけではありません。

サタンのよく言う嘘は、「あなただけです。」ということです。

「そんな経験をするのはあなただけだ。あなただけが心の中で苦しむのだ。」

だから、私たちは恥ずかしくなります。他の人には自分の感情など分からない、と思います。

しかし、この詩人は分かっていました。だから、神様はこの詩人にこの詩篇を書かせたのです。

この詩篇によって、私たちは思い出します。「私だけじゃない。他の人も私の戦い、私の苦しみを分かってくれる。」

だから、私たちはどうすれば良いでしょうか。

まず一つ目は、神様が良い方であることを信じ続けることを選択することです。41-42篇で、詩人は3回言います。

わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。

神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。私の神よ。

神様があなたの神であることを思い出しましょう。神様があなたを愛して、御子イエス様を私たちを救うために送ってくださったことを思い出しましょう。

昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。(42:8)

つまり、あなたが良い時の光の中にいても、悪い時の暗闇の中にいても、神様はあなたを決して捨てておられません。あなたが神様の臨在を感じなくても、神様はあなたのそばにおられます。

だから、詩人のように祈りましょう。

どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かってそれらが、私を連れて行きますように。(43:3)

詩人はこう言っています。

「主よ、あなたが見えず、私をどこに導いておられるのか分かりません。どうか、あなたの光を私の上に照らしてください。私が進むべき道を教えてください。

あなたが私を捨てたという嘘を信じないように、どうか私をあなたのもとへ導いてください。」

もう一つ、言いたいことがあります。

あなたが落ち込んでいる時、クリスチャンの友達に話しましょう。彼らは不完全な人ですが、この世にあるキリストの体として、彼らがキリストの手、足、口、耳であることを覚えておきましょう。

そうすれば、あなたが一人ぼっちではないと分かります。

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詩篇

人をあわれむ

詩篇41篇は、詩篇の第一巻の最後の歌です。(詩篇には、全部で5巻あります。)

ダビデは1節でこう書いています。

幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。(詩篇41:1)

イエス様はその言葉をこのように言い換えられました。

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。(マタイ5:7)

あわれみというのは、何でしょうか。二つのニュアンスがあります。

一つ目は、弱い人や、病気の人や、貧しい人に情けをかけることです。

二つ目は、罰に値する人を罰しないことです。

この詩篇では、私たちは両方の意味を見ることができます。

1-3節で、ダビデは、もしあなたが弱い人を憐れむなら、あなたが弱い時、神様があなたを憐れむと言います。

けれども、4節で、ダビデは叫びます。

主よ、あわれんでください。私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。

ダビデのように、私たちはよく神様のあわれみを求めて祈ります。しかし、私たちは周りの人々をどれほどあわれんでいるでしょうか。

ダビデの敵のように、私たちは自分を傷つけた人々の悪口をどれほど言っているでしょうか。

彼らが苦しむ時、「それは当然です。その苦しみに値するから」と言ってしまうことはないでしょうか。

私たちはどれほど、彼らについて噂をし、彼らの過ちを大げさに言っているでしょうか。(5–9節)

また、友達が苦しんでいる時、ヨブの友達のように慰めることなく、責めてしまうことはないでしょうか。

「あなたは罪を犯したから、苦しんでいるのでしょう」と言ってしまうことはないでしょうか。

さらに、「もっと信仰を持てば、きっと癒されるでしょう」と言ってしまうことはないでしょうか。

ダビデにとっても、人をあわれむことは難しいことでした。詩篇の中で、ダビデは何回も自分の敵を責め、呪います。

皮肉なことに、この詩篇でも、ダビデはこう言います。

しかし、主よ。あなたは私をあわれんでください。私を立ち上がらせてください。そうすれば私は、彼らに仕返しができます。(10)

私たちはダビデの言葉を正当化する必要はありません。詩篇は感情の正直な表現です。けれども、覚えておきましょう。ダビデは自分の怒りとフラストレーションを詩篇で表しましたが、正義に基づいて行動しました。

私たちも怒りやフラストレーションを感じることがあるかもしれません。しかし、神様が私たちをあわれんでくださったように、私たちも人々をあわれまなくてはなりません。

そして、神様が私たちが弱い時に助けてくださったように、私たちも弱い人を助けなければなりません。(ローマ5:6-8)

あなたは周りの人々にどれくらいあわれみを示すでしょうか。

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詩篇

救い主の歌

このダビデの詩篇では、私たちはダビデの苦しみと救いを見ることができますが、イエス様の十字架の苦しみと復活も見ることができます。

最初に、ダビデは自分の救いについて神様を賛美します。

私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は私のほうに身を傾け、私の叫びを聞き、

私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。

主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。(詩篇40:1~3)

そのように、イエス様は十字架とその苦しみを振り返ります。天の父はイエス様の忍耐に報いて、イエス様をよみがえらせました。だから、イエス様はもう死にません。

それに、イエス様の十字架の働きによって、「多くの者は見、そして恐れ、主に信頼します」(3節)

ダビデの預言は成就しました。2000年もの間、人々はイエス様の十字架の働きを見て、救われてきました。

そして、ダビデは歌いました。

幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。(4節)

アダムとエバが罪に落ちてから、人々は救いのために偽物の神々を求めました。もしくは、自分自身を救おうと思いました。けれども、ダビデが言ったのは、偶像はあなたを救うことができないし、あなたが自分自身を救うことができない、ということです。

むしろ、救い主を仰いで信頼する人は救われます。

それは、初めから神様の計画でした。この世を造る前に、神様はその計画を立てられました。

そして、6~8節でダビデは歌います。

あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。

そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。

わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」(6~8)

ヘブル人への手紙の著者は、この箇所を引用して、説明します。「神様の律法によれば、そのいけにえや捧げものは要求されました。しかし、それらはイエス様の十字架の働きのただの陰でした。」(ヘブル10章)

ちょっと説明しなければならないことがあります。詩篇では、「あなたは私の耳を開いてくださいました。」と書かれています。

けれども、ヘブル人への手紙では、「わたしのために、からだを造ってくださいました。」と書かれています。

その理由は、ヘブル人への手紙の著者がギリシャ語の翻訳から引用したということです。しかし、なぜヘブル語とギリシャ語がそれほど異なっているのでしょうか。

いろんな意見がありますが、まず一つの意見を紹介します。

神様の律法によって、もし奴隷が自由になる時間が来ても、その奴隷が主人を愛していて、ずっとその主人に仕えたいなら、彼の耳をきりで刺し通しました。それは、生涯のしもべのしるしでした。(申命記15:16-17)

もしかしたら、ギリシャの翻訳者はその詩篇の箇所をパラフレーズしたのかもしれません。つまり、ダビデは自発的に神様に供えられた体で、神様に永遠に仕えようと思いました。なぜなら、ダビデは神様を愛して、喜ばせたかったからです。

そのように、イエス様が天の父を愛して、喜ばせたかったので、天の父はイエス様に人間の体を備えられました。

そして、イエス様は私たちの罪のために十字架で死んでくださいました。しかし、イエス様はよみがえられて、永遠に天の父に仕えられます。(ローマ6:10;第一コリント15:24-27)

だから今、イエス様は神様の義、救い、真理、愛を全ての人々に述べ伝えます。(9-10)

この詩篇の最後の箇所では、十字架とイエス様の苦しみの話に戻ります。ダビデは自分の罪のために苦しんでいましたが、イエス様は十字架で私たちの罪を背負って、私たちのために苦しまれました。

そして、ダビデのように、イエス様は神様に願われます。「私を忘れないでください。私を憎む人々を裁いてください。また、あなたを愛する人によって、あなたの名前がほめたたえられるように。」(13-17)

天の父はイエス様の祈りに応えられたので、イエス様の働きによって、私たちはその救いを喜んで、「主をあがめよう」と叫ぶことができます。

アーメン。主をあがめよう。

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詩篇

本当の悔い改め

ダビデがこの二つの詩篇を同時に書いたかどうか分からないけど、どちらも神様の懲らしめに対するダビデの反応を表しています。

その詩篇がいつ書かれたか分からないけど、ダビデが自分のプライドによってイスラエルの人口を数えた後に書いたものかもしれません。

詩篇29篇のように、この詩篇では、ダビデは罪を犯したので、神様の懲らしめによって、苦しんでいました。だから、彼は祈りました。

主よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。

あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。

あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。

私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。

私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。

私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。

私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。

私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。(詩篇38:1-8)

詩篇38篇18節は私の心を打ちます。

私は自分の咎を言い表わし、私の罪で私は不安になっています。(詩篇38:18)

時々、人々は自分の罪を軽んじます。彼らは悔い改めの祈りを唱えるかもしれませんが、心の中ではあまり悲しんでいません。むしろ彼らは、「あ、私の足はちょっと汚れているから、拭いておこう。」という態度を取ります。

けれども、ダビデが罪を犯した時、彼は本当に不安になりました。そして、パウロのように、彼は心から叫びました、「私は、ほんとうにみじめな人間です。」(ローマ書7:24)

ダビデは自分の悪さを見て本当に悲しんでいたので、悔い改めました。それが本当の悔い改めです。

詩篇39篇で、私たちはダビデの反応をもっと見ます。その時、彼は苦しんでいましたが、最初は何も言いませんでした。なぜなら、悪者が彼を見ていて、ダビデの言葉によって神様に汚名を着せるかもしれないからです。(詩篇39:1-2)

つまり、もし悪者がダビデの罪の告白を聞いたら、神様の名前を汚すようなことを言うかもしれません。「この人は神様を愛していると言うのに、なぜこんな悪いことをするの?どんな神に従っているのだろうか。」と言うかもしれません。

また、もしダビデが神様の懲らしめについて文句を言ったら、その悪者は神様について間違ったイメージを持つかもしれません。

しかし、結局ダビデは叫びました。

主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。

ご覧ください。あなたは私の日を手幅ほどにされました。私の一生は、あなたの前では、ないのも同然です。まことに、人はみな、盛んなときでも、全くむなしいものです。セラ

まことに、人は幻のように歩き回り、まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます。人は、積みたくわえるが、だれがそれを集めるのかを知りません。(詩篇39:4-6)

この祈りでは、ダビデは自分の間違っている視点を告白しました。その視点によって彼は罪を犯しました。

もし、人口を数えた罪の後にこの詩篇を書いたなら、多分、ダビデが言っているのは「私の軍隊を強める努力はむなしかった。私の実績のためのプライドはむなしかった。」という事です。

ダビデは、それらが一時的なもので、すぐになくなることが分かるようになりました。

だから、ダビデは祈りました。

「私が正しい視点をもう忘れないように。私の命はむなしいものです。だから、私がもう一時的なものに焦点を当てないように助けてください。私がそんな罪をもう犯さないように。」

そして、彼は祈りました。

主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。(詩篇39:7)

言い換えれば、「私の希望は一時的なものから来ません。私の満足は一時的なものから来ません。これから、私の希望はあなたです。」

そして、ダビデは泣いて、神様の赦しを頼みました。だから、神様はダビデを赦してくださいました。ヨハネが言ったように、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

あなたはどうですか。あなたの罪のせいであなたの心は不安でしょうか。神様の懲らしめによって、あなたは一時的なものに背を向けて、永遠の物を求めるでしょうか。

ダビデのように、私たちは罪を捨てて、永遠の物、また、本当の命を与えるものを求めましょう。

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詩篇

悪を見て、フラストレーションを感じること

「神様に従い、正しいことをするなら、本当に利益があるだろうか。私は苦しんでいますが、周りの人々は自分の道を行き、栄えています。」

多くの場合、私たちはそう感じます。私たちの人生を周りの人々の人生と比べる時、私たちは苦しんでいますが、彼らは自分の人生を楽しんでいるように見えます。だから、私たちは、「神様に従う価値があるだろうか」と思います。

けれども、ダビデは自分の人生を振り返り、私たちを励ましてくれます。彼はこう書きました。

悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。(詩篇37:1)

どうしてですか。

彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。(2)

だから、ダビデは私たちを戒めます。

主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。

怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。

悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。(7-9)

つまり、悪い人が栄える時、怒らないでください。あなたのフラストレーションを捨ててください。そうしないと、あなたの心が苦々しくなって、自分の信仰を捨てて、自分の道を行くことに誘惑されてしまいます。

しかし、神様を待ち望み続けると、悪人が断ち切られますが、あなたは祝福されます。

だから、ダビデはこう言います。

主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。(3)

言い換えれば、悪人が栄える時、あなたの信仰を捨てないでください。良いことをし続け、神様があなたに報いを与えてくださることを信じましょう。

そして、ダビデは言います。

主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。(4)

ダビデが言うのは、「神様をあなたの主な願いにしなさい。神様をすべてよりも慕い求めなさい。そうすれば、神様はあなたの心の願いをかなえてくださる」ということです。

神様を慕い求めると、あなたはスポーツカーをもらうわけではありません。けれども、神様をあなたの喜びとすると、あなたが大切だと思ったものは、もうそんなに大切に見えなくなります。

また神様は、本当に貴いものであなたを祝福してくださいます。この世のものと違って、神様の賜物はあなたを満足させます。神様があなたの主な願いなら、あなたは本当の満足を見つけられます。

だから、ダビデはこう言います。

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。(5-6)

今、あなたが報いをもらっていないと思うかもしれません。しかし、あなたの道を主に委ねるなら、神様は決して忘れません。

そして、ある日、皆があなたの行動を見て、神様を賛美します。

だから、悪人の繁栄をねたむ時、思い出しましょう。

ひとりの正しい者の持つわずかなものは、多くの悪者の豊かさにまさる。

なぜなら、悪者の腕は折られるが、主は正しい者をささえられるからだ。(16-17)

そして、ダビデは私たちを励ます。

人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。

その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。

私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。

その人はいつも情け深く人に貸す。その子孫は祝福を得る。

悪を離れて善を行ない、いつまでも住みつくようにせよ。

まことに、主は公義を愛し、ご自身の聖徒を見捨てられない。彼らは永遠に保たれるが、悪者どもの子孫は断ち切られる。(23-28)

あなたはどうですか。悪を見る時、フラストレーションを感じるでしょうか。この言葉を思い出しましょう。

主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる。あなたは悪者が断ち切られるのを見よう。

私は悪者の横暴を見た。彼は、おい茂る野生の木のようにはびこっていた。

だが、彼は過ぎ去った。見よ。彼はもういない。私は彼を捜し求めたが見つからなかった。

全き人に目を留め、直ぐな人を見よ。平和の人には子孫ができる。

しかし、そむく者は、相ともに滅ぼされる。悪者どもの子孫は断ち切られる。(34-38)

その最後の部分が大好きです。「神様に従う人は子孫ができる。」

日本語の翻訳は「子孫」と書かれているけど、ヘブル語で、その言葉には別の意味もあります。それは、「将来」です。つまり、「神に従う人には、将来がある」ということです。そして、その将来は良い将来です。

一方で、悪人には、良い将来がありません。希望がありません。

だから、悪を見ると、憤りを捨てましょう。むしろ、毎日主の前に静まり、待ち望み、主をあなたの喜びとし、主に信頼しましょう。そうすれば、生きがいのある人生を見つけられます。

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詩篇

神様の良さ

詩篇36篇の前半で、私たちは人間の悪を見ました。この後半では、神様の良さを見ます。

私は、どうやってダビデが神様の性格を説明するか大好きです。

主よ。あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます。

あなたの義は高くそびえる山のようで、あなたのさばきは深い海のようです。(詩篇36:5-6)

この世では、多くの人の愛は浅いです。彼らは私たちの信頼に値しません。彼らにとって利益があれば良いことをしますが、そうでない時は必ずしもそうしません。

しかし、神様はそうではありません。神様の愛と恵みは天にまで及びます。神様の真実は雲にまで及びます。どんな状況でも、神様の義は堅く立ち、神様の正義は悪人を滅ぼします。

けれども、神様の正義の中には憐れみと恵みがあります。

あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。主よ。

神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。

彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。

いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。(6-9)

大洪水の後、神様は水によってこの世をもう滅ぼさないと約束されました。

だから、私たちが罪を犯しても、神様は私たちをあわれんで、私たちの悔い改めのために待っておられます。

また、神様の恵みによって、神様は私たちの悔い改めのために待つだけでなく、私たちに手を伸ばし、救いの道を備えるためにイエス様を送ってくださいました。

だから、すべての人々は、金持ちでも、貧しくても、強くても、弱くても、主にあって避け所と救いを見つけることができます。

さらに、神様は私たちのニーズに備えてくださり、神様にあって、私たちには喜びと命と光があります。

主よ、あなたの慈しみを感謝します。私が死にかけている時、あなたは命の泉でした。私の暗闇に、あなたの光を照らしてくださいました。

私の罪を示してください。私の罪を赦してください。あなたの憐れみと恵みと慈しみを与えてください。私が本当の命と喜びを知るように。

そして、私がもらったものを周りの人々にシェアするように助けてください。私はあなたの器になるように。アーメン。

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詩篇

人間の悪

時々、ニュースを見る時、あまりにも人が凶悪になるのが信じられないことがあります。どうして、人々は殺人を計画し、その計画を実行するのでしょうか。どうして、人々はレイプしたり、暴力の犯罪を犯したりするのでしょうか。

そんな話を見すぎて、もうニュース番組を見たくないとすら思います。

けれども、それは何も現代に限ったことではありません。何千年も前に、ダビデはこう書いています。

罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない。

彼はおのれの目で自分にへつらっている。おのれの咎を見つけ出し、それを憎むことで。

彼の口のことばは、不法と欺きだ。彼は知恵を得ることも、善を行なうこともやめてしまっている。

彼は寝床で、不法を図り、よくない道に堅く立っていて、悪を捨てようとしない。(詩篇36:1-4)

どうして人々はそんなに悪くなるのでしょうか。

なぜなら、私たちが神様を恐れないなら、悪はすぐに出てくるからです。私たちが神様とその権威を認めないと、大抵何をしても良いと思ってしまいます。私たちの悪を抑えるのは、恥の恐れや、罰の恐れや、私たちの良心です。

しかし、私たちが神様から離れると、私たちの良心は曲がってしまいます。ある人の良心は他の人の良心よりも曲がっているかもしれませんが、人は多かれ少なかれ、誰でも良心が曲がっています。だから、私たちは何が良いか、何が悪いか混乱します。

ダビデはそのことがよく分かっていたので、こう言いました。

彼はおのれの目で自分にへつらっている。おのれの咎を見つけ出し、それを憎むことで。(3)

つまり、人々は悪いことを愛しているので、誰かがその罪を見ても、彼らは気にしません。それに、彼らは自分の罪を自慢します。

その3節のヘブライ語はちょっと翻訳しにくくて、他の意味があるかもしれません。だから、ある英語の翻訳では、他の読み方があります。

彼は己の目で自分にへつらいすぎるので、自分の罪を見つけ出さないし、その罪を憎まない。

つまり、時々私たちは自分の罪が見えないので、自分たちが良い人だと思いますが、実はそうではありません。悪いことをしても、私たちは自分の行動を正当化します。だから、私たちは自分の罪を見つけ出さないし、その罪を憎むことがありません。

そして、私たちの罪によって、私たちは、「知恵を得ることも、善を行なうこともやめてしまっている。」(3)

ニュースを見た時、酷い犯罪について聞きました。あるプロのアメリカン・フットボールの選手が怒って、誰かを殺しました。彼は金持ちだったし、いい組織で働いていました。だから、彼には本当に良い人生があったし、良い将来もありました。

けれども、彼は恨みを忘れず、相手を許せませんでした。そして、彼にとってその恨みは、他のどんなことよりも重大な問題だったので、その人を殺してしまいました。

だから今、婚約者から離れなくてはならないし、彼の7か月の娘は父親を知らないまま成長することになってしまいました。

それは罪の結果です。私たちが悪を拒絶しないと、自分自身を滅ぼし、愛している人も傷つけてしまいます。

あなたはどうですか。多分、あなたは誰も殺したことはないでしょう。しかし、あなたの心の中で誰かを憎んでいるでしょうか。誰かを赦せないでしょうか。

もしそうなら、イエス様は、あなたが自分の心でその人を殺したも同じだと言われました。(マタイ5:21-22)

あなたには、他の破壊的な習慣があるでしょうか。

あなたは神様を恐れずに、「神様がきっと私を赦してくださるので、私はこの罪を犯してもいい」と言いますか。

あなたの悪い行動を正当化しようとしているでしょうか。あなたは悪い道を行くことを決めているでしょうか。

私たちが賢明になるようにしましょう。神様を恐れて、正しいことをしましょう。この世を移っている罪に負けないように。

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詩篇

人々が私たちを憎む時

子供の時、私には友達がいて、いつも一緒に遊びました。けれども、中学生になる頃、私たちはもう一緒に遊びませんでした。それに、彼は私を憎むようになりました。どうしてか、私は分かりません。

私たちはどのようにそんな人々を扱った方が良いでしょうか。

ダビデにもそんな経験がありました。ダビデが悪いことをしていなかったのに、サウル王は彼を憎むようになりました。おそらくダビデはサウルから逃げた時、詩篇35篇を書いたかもしれません。

ダビデは祈りました。

主よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。

盾と大盾とを手に取って、私を助けに、立ち上がってください。

槍を抜き、私に追い迫る者を封じてください。(詩篇35:1-3)

ダビデを憎む人を扱う時、彼はいつもその戦いを神様の手に委ねました。彼は言いました。「私のために戦ってください。私の助けになってください。」

それでも、自分で復讐しないことは難しかったかもしれません。だから、彼は祈りました。

私のたましいに言ってください。「わたしがあなたの救いだ」と。(3b)

つまり、「あなたが私の味方であることを思い出させてください。私が自分の手で復讐しないために、あなたが私を救ってくださることを思い出させてください。」

けれども、ダビデを憎む人に対する彼の態度は本当に驚くべきものです。

しかし、私は――、彼らの病のとき、私の着物は荒布だった。私は断食してたましいを悩ませ、私の祈りは私の胸を行き来していた。

私の友、私の兄弟にするように、私は歩き回り、母の喪に服するように、私はうなだれて泣き悲しんだ。(13-14)

それはただの言葉ではありませんでした。ダビデがサウルの死について聞いた時の態度は、まさにそのようなものでした。彼は友人ヨナタンのために泣いただけでなく、サウルのためにも泣きました。

イエス様も、その態度を取りました。実は、この詩篇で、私はイエス様のことがよく見えます。

ダビデのように、偽りの証人はイエス様を責めました。(11)

また、ダビデのように、人々はイエス様をからかったし、中傷しました。(15-16)

それでも、十字架に掛けられても、イエス様は彼らのために祈ってくださいました。

私たちもそうするべきです。ペテロはこう書きました。

あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。(第一ペテロ2:21)

特に、ペテロは義のために苦しむことについて話しています。イエス様は私たちを救うために苦しんでくださったので、私たちも義のために苦しむ覚悟を持つべきです。

この箇所には、もう一つのことを見ます。相手の憎しみに対して、どうやってイエス様が反応したか見ます。そして、私たちはイエス様の足跡に従うべきです。イエス様はどのように反応したでしょうか。

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。(第一ペテロ2:22-23)

あなたはどうですか。人々があなたを憎んで傷つける時、イエス様の足跡に従おうとしますか。

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詩篇

私たちの賛美と信頼にふさわしい神

以前も書きましたが、もし、私が詩篇32篇をスキップしてしまったと思うなら、ずっと前にその詩篇について書いています。私はダビデの人生について書いた時、時々、関係のある詩篇についても書きました。

だから、詩篇32篇について読みたいなら、ここをクリックしてください。

詩人がこの歌をどのように始めるか大好きです。彼は歌います。

正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。(詩篇33:1)

「賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい」という言葉は特に好きです。

もし、あなたが主を愛するなら、また、キリストの血によってあなたが神様の目に義と認められるなら、あなたが主を賛美するのはふさわしいことです。

立琴や十弦の琴やギターやピアノを弾いても大丈夫です。アカペラで歌ってもいいです。あなたが音痴なら、喜びの叫びでもいいです。また、あなたが音痴でも、心から歌うなら、神様はその歌を受け入れてくださいます。

どうして、神様を礼拝するのはふさわしい事なのでしょうか。

なぜなら、神様は良い方ですから。神様の言葉のすべては正しいです。また、神様はいつも仰せの通りにされます。神様は嘘つきや、偽善者ではありません。(4)

それに、神様は私たちの創造者です。神様の力によって、全ての物を造られました。(6-8)

そして、私たちは神様の知恵のために賛美します。神様は決して驚かれません。だから、神様の計画と目的は決して変わりません。(10-11)

その最後の事によって、神様は私たちの賛美に値するだけではなく、私たちの信頼に値します。

優柔不断な人に信頼することは難しいです。困る時にすぐにパニックになる人に信頼することは難しいです。また、どうするかよく分からないので、いつも気が変わる人に信頼するのは難しいです。

しかし、神様がすべてを見てくださり、すべてを知っておられ、全てをコントロールしておられるので、神様は私たちが立てられる岩です。

だから、神様が選ばれた人、また神様に属する人は祝福されています。詩人はこう書きました。

幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は。(12)

神様は私たちの名前を知っておられます。神様は天から私たちを見てくださり、私たちの行動について考えてくださいます。

けれども、神様は私たちのミスを待って、私たちを滅ぼそうと思っておられません。むしろ、神様は私たちを愛しておられるので、私たちが神様を仰ぐのを待っておられます。

しかし、多くの場合、私たちはそうしません。むしろ、私たちは他のものに信頼します。けれども、そのものによって、私たちはよくがっかりします。だから、詩人は私たちに思い出させます。

王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにならない。(16-17)

しかし、詩人は言います。

見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。彼らのたましいを死から救い出し、ききんのときにも彼らを生きながらえさせるために。(18-19)

その言葉は、私たちが決して苦しまないという約束ではありません。とはいえ、私たちが苦しむ時、神様は私たちのことを忘れておられるわけではありません。神様の目は私たちに注がれているし、神様は私たちを救い出してくださいます。

この世には、トラブルからの救いが来なくても、天国で、私たちはその救いを見つけます。だからパウロはこう書きました。

死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。(第一コリント15:55)

だから、詩人はこの詩篇の終わりに、こう言います。

私たちのたましいは主を待ち望む。主は、われらの助け、われらの盾。

まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。

主よ。あなたの恵みが私たちの上にありますように。

私たちがあなたを待ち望んだときに。(20-22)

アーメン。主イエスよ。すぐに来てください。

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詩篇

自分自身を神様の御手に委ねる

いつダビデが詩篇31篇を書いたか分かりませんが、サウルから逃げた時に書いたかもしれません。

私は21節を見ると、ダビデがケイラという町から逃げた時に(第一サムエル記23章)、この詩篇を書いたのかもしれないと思います。とは言え、それはただ私の意見に過ぎません。

私の心を打つのは、ダビデが神様の助けを請いながら、何回も神様に対する信頼を宣言するということです。

彼はこう言いました。

私の霊を御手にゆだねます。真実の神、主よ。

あなたは私を贖い出してくださいました。(詩篇31:5)

また、

しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。「あなたこそ私の神です。」

私の時は、御手の中にあります。(14-15)

私たち皆、何かしら苦しむ時を経験します。その時、自分自身だけに信頼することは簡単なことです。私たちは自分の状況をコントロールしようとします。

しかし、生きようが死のうが、ダビデは自分の命を神様に委ねました。

彼はこう言いました。

「私の命はあなたの手にあります。周りの人々は私を殺そうとしていますが、あなたが私を生かし続けたいのであれば、彼らは成功しません。だからたとえ私が死ぬことになっても、自分の状況をコントロールしません。」

第一サムエルによれば、ダビデには自分の状況をコントロールする機会が二つありました。ダビデはサウルを殺す機会が二つありましたが、殺すことを拒絶しました。

イエス様は十字架で、その態度を示されました。つまり、イエス様は自分の命を天の父の手に委ねられました。

この詩篇はメシアについての詩篇ではありませんが、ダビデの言葉でイエス様の経験もよく見えます。

ダビデのように、イエス様は悲しみをよく知っておられました。苦しみもよく知っておられました。(10)

ダビデのように、イエス様は非難されました。(11)

ダビデのように、イエス様は友達に捨てられました。(11-12)

ダビデのように、人々はイエス様を謗って、殺そうと思いました。(13)

ダビデのように、イエス様は天の父に叫ばれました。「どうして、あなたは私をお見捨てになったのですか?」(22)

けれども、ダビデのように、イエス様は自分の状況をコントロールしようと思われませんでした。むしろ、自分の命を天の父の手に委ね、死ぬ前に言われました。「私の霊を御手にゆだねます。」(5)

イエス様が天の父に従われたので、今私たちには希望があります。その希望は、もし私たちが神様に信頼するなら、結局私たちは恥を見ない、ということです。(17)

また、神様が私たちに慈しみを与えてくださる希望があります。(19)

また、私たちの救いの希望があります。(22-23)

だから、ダビデのように叫びましょう。

雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。(24)

神様に心から信頼しましょう。

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詩篇

神様が私たちを懲らしめると

この詩篇のタイトルによれば、この詩篇は「主の家を捧げる歌」でした。

多分、自分のプライドによってダビデがイスラエルの人口を数えた罪を犯した後、彼はこの詩篇を書きました。(歴代誌第一21章;歴代誌第二3章1節)

神様はその罪のために、ダビデとイスラエルを懲らしめられました。つまり、イスラエルに疫病を下されました。聖書には書かれていませんが、その時、多分ダビデも病気になったと思います。

詩篇30篇では、私たちは神様からの懲らしめに対するダビデの反応を見ます。

ダビデは癒された後、神様を賛美しました。

主よ。私はあなたをあがめます。あなたが私を引き上げ、私の敵を喜ばせることはされなかったからです。

私の神、主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。

主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました。(詩篇30:1-3)

そして、ダビデは、なぜ神様が彼を打たれたのか説明します。

私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない。」(6)

その時、ダビデの安心は神様から来ませんでした。むしろダビデは、自分の力と自分の軍隊を信頼しました。だから、彼はその兵隊を数えました。

けれども、ダビデが懲らしめられた後、ダビデは本当の安全がどこから来るか分かるようになりました。

主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。(7)

だから、ダビデは主の前にへりくだりました。彼は振り返る時、こう言いました。

主よ。私はあなたを呼び求めます。私の主にあわれみを請います。

私が墓に下っても、私の血に何の益があるのでしょうか。ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか。あなたのまことを、告げるでしょうか。

聞いてください。主よ。私をあわれんでください。主よ。私の助けとなってください。(8-10)

神様はダビデの悔い改めを見られ、ダビデを憐れんで、赦してくださいました。だから、ダビデは神様を賛美しました。

あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。

私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。(11-12)

私たちは何を学ぶことができますか。

まず、何かをはっきりと言いたいです。

もしあなたが病気なら、神様はあなたの罪のために懲らしめておられるかもしれませんが、そうではない時もあります。

例えば、ヨブは本当に苦しんでいましたが、その時、神様は彼を罰しておられませんでした。他の理由のために彼は苦しんでいました。

とはいえ、時々、私たちが悪い道を行き始めると、神様は病気を通して私たちを止めてくださいます。

だから、あなたが病気の時、またあなたにトラブルがある時、「神様、私の心の中には罪があるでしょうか」と祈った方が良いです。

そして、神様があなたの罪を表されたら、ダビデのようにへりくだって悔い改めなければなりません。けれども、神様が何も表さないなら、多分その病気やトラブルには他の原因があります。

なぜ私はそう考えるのでしょうか。なぜなら、神様は私たちが苦しむことを喜ばれないからです。もし、私たちが悔い改めるために苦しみを送られたなら、私たちが悔い改めると、神様はすぐに赦してくださいます。

神様は「もし、自分の罪が分からないなら、私はあなたに伝えない」と全然言われません。

また、神様は「あなたがこの経験から学んで、もうその罪を犯さないためにあなたをもっと苦しませよう」と言われません。

むしろ、ダビデはこう書きました。

まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。

夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。(5)

思い出しましょう。神様は私たちを憎むので懲らしめるわけではなく、私たちを愛しておられるので、懲らしめられます。

だから、懲らしめられる時、へりくだって悔い改めましょう。

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詩篇

大いなる神、あなたを愛する神

多くの人々は私がちょっとおかしいと思うかもしれませんが、私は雷雨が大好きです。稲妻が光るのと雷が鳴るのがかっこいいと思うからです。(もちろん、その時、家にいたいですが。)😊

とにかく、英語の聖書を読むと、興味深いことが書かれていました。この詩篇は、「雷雨の歌」と呼ばれます。雷雨の時、この歌が歌われ、詩人はノアと洪水の話を思い出しました。

詩篇29篇では、神様の偉大さが見えると思います。

最初にダビデは、私たち皆が主を礼拝するように呼びかけます。

力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力とを主に帰せよ。

御名の栄光を、主に帰せよ。聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ。(詩篇29:1-2)

つまり、「神様の栄光と力を認めなさい。神様が値する栄光を認めなさい。主をほめたたえなさい。」ということです。

日本語では、「聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ」と翻訳されています。ある英語の聖書も、この箇所はそのように翻訳されています。

しかし、この箇所を翻訳する方法がもう一つあります。それは、「神様の聖なるさの美しさのために、主をほめたたえなさい」ということです。

どれほど、私たちは神様の聖なるさの美しさについて考えているでしょうか。けれども、神様の聖さを見るなら、多分、私たちは「美しい」としか言えないでしょう。

実は、私たちは神様の形として造られました。残念なことですが、今、私たちの罪によって、その形は歪んでいます。それでも、周りの人々を見るなら、時々、その美しさがちらりと見えます。

しかし、神様を見る時、そこには罪の染みがないので、神様は本当に美しい方です。

そして、ダビデは自然を見る時、雷雨の中で神様を見ます。神様の荒れ狂う御声を聞き、その声の力と尊厳を見ます。つまり、稲妻が光り、雷が鳴って、地が揺れ、大きな木が引き裂かれ、その木が裸にされ、その葉と枝が風の中で踊っているのを見ます。

ダビデはその「声」を聞くと、他の声を聞くことを想像します。つまり、天使の声が天の宮で響いて、「栄光」と呼んで、神様を礼拝します。

けれども、私の心を打つのは、ダビデの最後の言葉です。

主は、ご自身の民に力をお与えになる。主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。(11)

どうして、その個所は私の心を打つのでしょうか。なぜなら、この大いなる神、この聖なる神、この全能の神は、私を愛しておられるからです。

神様は私を愛しておられるので、私が弱い時に、力を与えてくださいます。私が心配する時、私が恐れる時、神様は私に平和を与えてくださいます。

私が弱い時、神様は強いです。

ある英語の翻訳では、このように書かれています。

主は、ご自身の民に強硬な力、また、決して壊れない力をお与えになる。

主よ。あなたは大いなる神です。あなたは全能の神です。あなたは聖なる神です。けれども、あなたは私を愛しておられます。そのことを感謝します。

私が小さく、取るに足りない人間なのに、あなたにとっては、私は大事な存在です。だから、あなたは、この世に来て、私の罪のために死んでくださいました。

私が弱い時、あなたが私の力でいてくださいますように。私が嵐の中にいて恐れる時、あなたの平安を与えてください。

あなたを愛しています。主イエス・キリストの皆によって祈ります。アーメン。

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詩篇

苦しむ時、神様に叫ぶ

時々、私たちは祈る時、神様の応えが遅いと思うことがあります。もしくは、神様が私たちを無視しておられると感じることもあります。

詩篇28篇で、ダビデはそう感じました。彼は叫びました。

主よ。私はあなたに呼ばわります。私の岩よ。どうか私に耳を閉じないでください。私に口をつぐまれて、私が、穴に下る者と同じにされないように。

私の願いの声を聞いてください。私があなたに助けを叫び求めるとき。私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げるとき。(詩篇28:1-2)

私はダビデのトラブルが何だったか知らないけど、どれほど私たちはダビデのように祈るでしょうか。

「神様、私の言うことを聞いておられるでしょうか。どうして、あなたは沈黙しておられるのでしょうか。私の声を聞いてください。私があなたを呼ぶのを見ておられないのでしょうか。」

そして、ダビデは神様の正義が来るように祈ります。

どうか、悪者どもや不法を行なう者どもといっしょに、私をかたづけないでください。彼らは隣人と平和を語りながら、その心には悪があるのです。

彼らのすることと、彼らの行なう悪にしたがって、彼らに報いてください。その手のしわざにしたがって彼らに報い、その仕打ちに報復してください。(3-4)

多くの詩篇で、ダビデは神様が敵を罰するように祈ります。多くの人々はそれを読む時、「でも、私たちは敵を愛するべきではないでしょうか?どうして、ダビデはそのように祈ったのだろう」と思います。

しかし、私たちは二つのことを覚えておかなければなりません。

一つ目は、ダビデはいつも正義を神様の手に委ねたということです。自分の手で復讐しませんでした。むしろ、彼はいつも自分の敵を憐れみました。特に、サウルとアブサロムに対して、ダビデは憐れみの心を持っていました。

二つ目は、神様は私たちの敵に対する怒りの叫びを理解してくださいますが、私たちがその敵のために祈る時、神様の心に触れるということです。

ダビデが祈った後、再び喜びがダビデの心に注がれました。どうしてでしょうか。なぜなら、ダビデは神様がその祈りを聞いて、応えてくださる確信があったからです。

ほむべきかな。主。まことに主は私の願いの声を聞かれた。

主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。

主は、彼らの力。主は、その油そそがれた者の、救いのとりで。(6-8)

そして、ダビデは自分自身のために祈るだけではなく、彼が愛する人々のためにも祈りました。つまり、自分の民のために祈りました。

どうか、御民を救ってください。あなたのものである民を祝福してください。どうか彼らの羊飼いとなって、いつまでも、彼らを携えて行ってください。(9)

私たちは苦しんでいるかもしれませんが、私たちの周りの多くの人々も苦しんでいることを思い出すべきです。だから、自分自身のために祈るだけではなく、周りの人々のために祈りましょう。

そして、神様があわれみの手で私たちに触れてくださったように、私たちも周りの人々に、あわれみの手で触れましょう。

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詩篇

神様を待ち望む

私たちは神様を恐れるなら、他の物を恐れる必要はありません。詩篇27篇で、その真理を見ることができます。

ダビデはこう歌いました。

主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。

悪を行なう者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。

たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。(詩篇27:1-3)

困った時、ダビデの最初の思いは、「神様!助けて!」ではありませんでした。むしろ、彼の最初の思いは、神様を求めることでした。また、救い主との交わりを慕いました。だから、彼はこう祈りました。

私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。(4)

多くの場合、私たちは困った時に、「助けてください」と祈ります。けれども、ダビデが祈ったのは、「あなたを知りたいです。あなたを仰ぎます。あなたとの関係が欲しいです。」ということです。

どうして、彼はそう祈ったのでしょうか。なぜなら、自分自身を神様の手に委ねたら、神様が彼を守ってくださることを知っていたからです。ダビデはこう歌いました。

それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。

今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。(5-6)

私は8節が大好きです。

あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。

神様は私たちを呼びます。「私の顔を慕い求めなさい。」

どれほど、私たちがそうしないことで心の中に平和がないでしょうか。むしろ、私たちは自分の問題に焦点を当てるので、圧倒されます。

もし、私たちがその問題に焦点を当てずに、神様に焦点を当てたら、どれほど私たちの人生は良くなるでしょうか。

他の人々は私たちを裏切ったり、がっかりさせたりするかもしれませんが、神様は決してそうされません。だから、ダビデは歌いました。

私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。(10)

そして、神様の導きと神様からの救いのために祈った後、ダビデはこれを宣言しました。

ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら――(13)

良い時に、「神様は良い方」と言うのは簡単なことです。けれども、悪い時に、どれほど私たちは神様が良い方であることを宣言するでしょうか。

ダビデは神様を見つめたので、辛い時でも、「神様は良い方」と言うことができました。

だから、ダビデは苦しんでいる人にこう言います。

待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。(14)

主よ。苦しむ時に、私があなたを待ち望むことを助けてください。私があなたが良い方であることを信じ続けることを助けてください。あなたが見えなくても、あなたの臨在を感じなくても、私があなたが私と一緒におられることを思い出すように。

私の一つの願いはあなたを知ることです。だから、あなたが呼ぶ時、私があなたの声を聞くことができるように。そして、私にあなたを求める心を与えてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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詩篇

恵みによって、神様の御前に聖いもの

もう一度、ダビデがいつこの詩篇を書いたか知りたいです。

サウルから逃げた時に詩篇26篇を書いたのでしょうか。もしくは、アブサロムから逃げた時にこの詩篇を書いたのでしょうか。それとも、他の時にこの詩篇を書いたのでしょうか。

ダビデの言葉を見ると、多くの人々は彼がサウルから逃げた時にこの詩篇を書いたと思うでしょう。なぜなら、彼はこう書いたからです。

私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを。

主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

あなたの恵みが私の目の前にあり、私はあなたの真理のうちを歩み続けました。(詩篇26:1-3)

ウリヤとバテ・シェバの事件の後、ダビデはその言葉を書くことができたでしょうか。その事件の前、つまり、サウルから逃げた時、その言葉はもっと言いやすかっただろうと思います。

てはいえ、ダビデはバテ・シェバとの罪の後で、この詩篇を書いたかもしれません。

けれども、その罪の後で、どうしてダビデはそんな言葉が言えたのでしょうか。彼は本当に酷い罪を犯しました。

なぜなら、彼は神様の赦しの深さをよく理解していたからです。つまり、神様の赦しとあわれみによって、ダビデは雪よりも白くなりました。神様は彼の罪を本当に除いて清めてくださいました。(詩篇51)

だから、彼が「私は誠実に歩む」と言う時、その意味は彼が決して罪を犯していないという事ではありません。むしろ、神様が彼の罪を除いて清めてくださったことによって、ダビデはその言葉を言うことができました。(エレミヤ書31:34)

神様のあわれみによって、ダビデは正しい道に戻りました。また、彼は神様が計画された通りにもう一度生きはじめました。だから、ダビデは神様をほめたたえました。

主よ。私は手を洗ってきよくし、あなたの祭壇の回りを歩きましょう。

感謝の声を聞こえさせ、あなたの奇しいみわざを余すことなく、語り告げましょう。(6-7)

また確信を持って、彼は言いました。

私の足は平らな所に立っています。(12)

時々、私たちは振り返って自分の失敗を思い出します。私たちの罪を思い出します。そして、サタンは私たちを責めます。「ほら、あなたは絶対だめです。あなたの人生は本当にめちゃくちゃになった。」

けれども、その時、私たちは恥ずかしがらずにサタンにこう言えるのです。

「それはそうです。しかし、神様が私の罪を赦してくださり、神様はもうその罪を思い出されません。神様が私を責められないので、あなたには私を責める権利がありません。

だから黙って、出ていきなさい。私は神様の子です。私はもう赦されました。また、神様の目には私は聖い者です。」

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詩篇

神様に叫ぶ

私は、よくダビデの詩篇の背景を知りたいです。時々、ある詩篇のタイトルで、その背景が書かれています。けれども、この詩篇では、その背景が書かれていません。

詩篇25篇で、ダビデはトラブルの中で神様に叫びました。彼はこう歌いました。

主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。

わが神。私は、あなたに信頼いたします。(詩篇25:1-2)

つまり、「私のすべてをあなたに捧げます。私のすべてはあなたのものです。あなたを信頼するから。」

その言葉を言うことは簡単です。とはいえ、その言葉を生きるのは難しいことです。私はよく神様に捧げたものを取り戻します。多くの場合、私は信仰を持たないので、神様を信頼しません。

けれども、私は失敗しても、ダビデのようにその言葉を叫びます。

そして、ダビデはこう祈りました。

主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。

あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。(4-5)

この箇所では、私たちはダビデの謙遜な態度を見ることができます。私たちはしばしば、すべてのことを知っているかのような態度を持ち、神様に相談する必要がないと思いがちです。

しかし、ダビデはへりくだって、神様に言いました。「私はすべてのことを知りません。最も良い道を知りません。だから教えてください。導いてください。」

どうしてダビデは神様の道を求めたのでしょうか。それは、ダビデが神様を愛し、神様を喜ばせたかったからです。だから彼は「あなたは救いの神です。私はあなたを待ち望みます。」と言いました。

そして、ダビデは請いました。

主よ。あなたのあわれみと恵みを覚えていてください。それらはとこしえからあったのですから。

私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ。あなたのいつくしみのゆえに。。。

主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。(6-7,11)

ダビデはアブサロムから逃げた時、この言葉を書いたのでしょうか。もしそうなら、多分、バテ・シェバとの罪について考えたかもしれません。神様はダビデを赦されましたが、その罪は結局ダビデを追放に導きました。だから、ダビデは祈りました。

「私の咎は大きいけれども、どうか赦してください。
私はあなたの赦しに値しません。しかし、あなたの恵みとあわれみによって、どうか赦してください。」

多くの場合、私たちが振り返る時、私たちの罪は神様に赦されましたが、その罪が結局私たちのトラブルを起こしたことが分かります。その時、私たちは、「神様は本当に私を赦されたのだろうか。」と思います。

けれども、私たちが心から悔い改めたら、神様は私たちをきっと赦してくださいます。そして、私たちが赦しに値しないのに、裁きの日に、神様は私たちにあわれみを与えてくださいます。

それでも、神様は、この世における罪の結果を取り去らないかもしれません。しかし、ダビデの時と同じように、神様は私たちと共にいて、支えてくださいます。

だからダビデは歌いました。

主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。

主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。

主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。(8-10)

つまり、私たちが罪を犯しても、神様を求め続けたら、神様は私たちを決して諦めません。神様は私たちを導き続け、教え続けてくださいます。

もちろん、私たちはダビデと大きな違いがあります。それは、私たちがモーセの律法の下に生きていないことです。だから、私たちが罪を犯しても、神様の私たちに対する愛と忠実さは決して変わりません。

パウロはこう書きました。

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。(第二テモテ2:13)

そして、ダビデは神様の守りのために祈りました。

私のたましいを守り、私を救い出してください。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたに身を避けています。

誠実と正しさが私を保ちますように。私はあなたを待ち望んでいます。(20-21)

だから、ダビデはこの詩篇を始めたように、この詩篇を終えます。彼は自分の魂を神様の御手に委ね、神様を待ち望みました。

試練の中で、私たちもそのようにしましょう。

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詩篇

王様のために心を整える

詩篇23篇で、私たちは神様を羊飼いとして見ました。詩篇24篇では、神様を王として見ます。

神様はどのような理由で私たちの王であると主張しておられますか?神様は私たちの創造主だからです。ダビデはこう歌いました。

地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。

まことに主は、海に地の基を据え、また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。(詩篇24:1-2)

大体すべての人々は、もし誰かが何かを自分の手で、また自分の原料で作ったら、その物がその人に属することを認めます。

そのように、神様はこの世の全てを造られたから、すべては主の物です。神様は私たち皆をも造られたので、私たちも神様に属します。そして、いつか私たちの王の前に私たち皆は、自分のことを申し開きすることになります。

その日、誰が神様の前に立てるでしょうか。

手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。

その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。

これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。(4-6)

この箇所によれば、「良い人生」を生きることは不十分です。

神様をあなたの王として認めなくてはなりません。あなたの神として認めなくてはなりません。また、あなたの救い主として認めなくてはなりません。それに、あなたは神様を求める心が必要です。

神様にとって、それらは大切なことです。神様は、毎日私たちが神様に信頼することを望んでおられます。その態度によって、アブラハムは救われました。

アブラハムは何回も罪を犯しましたが、心の中で神様に信頼していたので、彼は神様の目には義人と認められました。

その信仰によって、旧約聖書の人々も、新約聖書の人々も、私たちも救われました。

神様はそのような人を祝福し、裁きの日に「無罪」と宣言されます。

あなたはどうですか。神様をあなたの王として認めていますか。あなたの心を王のために整えていますか。ダビデはこう書きました。

門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。

栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。

門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。

その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。(7-10)

私たちの心の門を開いて、私たちの王を歓迎しましょう。そして、その王に従いましょう。

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詩篇

私たちの羊飼い

多分、詩篇23篇は一番有名な詩篇です。なぜなら、この詩篇は、私たちの神様との親しい関係を表すからです。

他の詩篇では、私たちは神様を王や、裁判官や、正義の味方や、勇士として見ます。けれども、この詩篇では、私たちは神様を羊飼いとして見ます。

実は、私たちが羊と呼ばれることは、賛辞ではありません。世界中で、多分羊は一番馬鹿な動物です。羊飼いがいないと、羊は全く迷ってしまいますから。

私たちもその通りです。私たちの多くは、自分自身が他の人よりも賢いと思いたいです。また、私たちは神様を必要としないと思います。

しかし、神様がおられないと、私たちの人生はめちゃくちゃになります。神様がおられないと、私たちは全く迷ってしまいます。

ダビデは、「主は私の羊飼い」と書きました。「私たちの羊飼い」と書かなかったのです。つまり、多くの羊がいるかもしれませんが、神様はそれぞれの羊を愛しておられます。

迷っている羊のたとえ話のように、一匹の羊が羊飼いから離れると、羊飼いはその羊を探して救います(ルカ15:3-7)。

神様が私たちを愛しておられるので、ダビデは私たちが乏しいことがないと言います。イエス様も同じことを教えました。天の父は鳥に餌をやり、花を美しく着せるように、天の父は私たちを世話してくださいます(マタイ6:25-30)。

それに、神様は私たちに平和と安らぎを与えてくださいます。羊が不安で恐れているとき、全然眠れません。しかし良い羊飼いが羊を慰めると、羊は平安を持ってすぐに眠れます。

そして、私たちが重荷を持って疲れているとき、主が私たちのたましいを生き返らせてくださいます。

私たちが新しい日に向かうとき、神様は「彼は疲れているけど、私が彼に力をこれぐらい与えると、彼は何となく今日のチャレンジを乗り越えるだろう」とは言われません。

むしろ、神様は私たちを本当に生き返らせてくださいます。

私たちの羊飼いとして、神様は私たちを正しい道に導いてくださいます。その道がいつも楽しいわけではありません。ダビデが言ったように、時々その道は死の陰の谷を通ります。その時が暗くて、私たちが希望がないと思うこともあります。

しかし、ダビデは言います。「その暗い所を通る時、死に向かっても、私は決して恐れません。」

どうしてでしょうか。

「あなたが私とともにおられますから。」

また、ダビデは歌いました。

あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。(詩篇23:4)

羊飼いは、羊をライオンや狼から守るため、むちを使いました。また、羊を導くため、杖を使いました。

だから、ダビデの意味は「暗い時でも、あなたの守りと導きが見える」ということです。

神様は私たちの全ての逆境を取り去らないかもしれませんが、ダビデは私たちの必要とそれ以上を与えてくださると言います。だから5節に、彼はこう歌いました。

私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。(5)

そして、信仰と喜びによってダビデは歌いました。

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(6)

あなたはどうですか。神様はあなたの羊飼いでしょうか。神様だけにあって、あなたは私たち皆が求める平安と喜びと満足が見つけることができます。

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詩篇

苦しみを理解しておられる神

苦しみについてのメッセージで、私の牧師はこう言いました。

「神様は私たちの苦しみを取り除いてくださらないかもしれないけど、それは神様がおられない理由ではありません。時々、神様は私たちの望み通りに祈りに応えられないかもしれないけど、それは神様が私たちを愛しておられないわけではないのです。」

詩篇22篇では、その真理を見ることができます。ダビデは叫びました。

わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。

わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。(詩篇22:1-2)

神様が遠く離れたようで沈黙しておられた時でも、ダビデはこう言います。

けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。

私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。

彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。

彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。(3-5)

つまり、「あなたがまだ存在しておられるのを信じます。あなたは私の先祖が信頼した神で、彼らはあなたに信頼すると、結局恥を見ませんでした。だから、私はあなたが見えなくても、あなたが何をされているか見えなくても、私はあなたに信頼し続けます。」

それでも、ダビデは自分のトラブルについて神様に伝え続けました。

しかし、この詩篇で、私たちはもう一つのことを見ます。この詩篇はイエス様の苦しみも預言しています。

この詩篇は、十字架でイエス様の状態を預言しています。(14-17)

また、イエス様がからかわれることを預言しています。(7-8)

また、人々がイエス様の着物をくじ引きにすることを預言しています。(17-18)

そして、イエス様の犠牲からの勝利や、救いや、祝福を預言します。(22-31)

だから、イエス様は十字架にかけられた時、こう叫ばれました。「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)

その時、イエス様はこの詩篇を自分の状況に当てはめられました。

私たちは、この箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちが苦しむ時、神様が遠く離れたように感じ、また神様が私たちを愛しておられないと思うかもしれませんが、それはただ私たちの感情です。そして、その感情は現実とは異なります。

現実は、神様がまだ私たちと共におられることです。また、神様は私たちをまだ愛しておられます。

だから、ダビデは歌います。

まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。(24)

あなたは苦しむ時、この箇所を思い出しましょう。神様は私たちの悩みを軽く見ておられません。神様は私たちから隠れません。むしろ、神様は私たちの叫びを聞いてくださいます。また、神様は私たちの苦しみをよく理解しておられます。

どうして、私はそんなことが言えるのでしょうか。なぜなら、イエス様は苦しまれたからです。イエス様にも神様に捨てられた感じもありました。イエス様も苦しみをよく経験されました。

しかし、私たちが神様に信頼し続けると、神様はイエス様の苦しみを神様の栄光のために利用されたように、私たちの苦しみも神様の栄光のために利用されます。

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詩篇

勝利と祝福がどこから来るか思い出す

何かがうまく行かない時や思い通りにならない時、私たちはすぐに神様について考えます。

けれども、勝利の時、また、祝福の時はどうでしょうか。その時、私たちはすぐに神様をほめたたえるでしょうか。もしくは、私たちは誇って、自分の偉さについて考えるでしょうか。

ダビデにも、その罠で倒れる時もありました。(第二サムエル記11-12章;24章)

しかし、詩篇21篇で、ダビデは勝利と祝福がどこから来るかを思い出しました。だから、彼はこう歌いました。

主よ。王はあなたの御力を、喜びましょう。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。

あなたは彼の心の願いをかなえ、彼のくちびるの願いを、退けられません。セラ

あなたは彼を迎えてすばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます。

彼はあなたに、いのちを請い求めました。あなたは彼に、とこしえまでの長い日々を与えられました。

御救いによって彼の栄光は、大きい。あなたは、尊厳と威光を彼の上に置かれます。

あなたは、とこしえに彼を祝福し、御前の喜びで彼を楽しませてくださいます。(詩篇21:1-6)

それに、ダビデは、どうして神様が彼を祝福してくださったか思い出しました。

まことに、王は主に信頼し、いと高き方の恵みによってゆるがないでしょう。(7)

勝利の時、あなたの考えはどこに向くでしょうか。

自分の力と知恵について自慢するでしょうか。もしくは、神様をその御業のために賛美するでしょうか。

あなたは、おもに自分の力と能力に頼るでしょうか。もしくは、おもに神様とその力に頼るでしょうか。

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詩篇

勝利の鍵

多分、戦争の前にダビデはこの詩篇を書いたでしょう。だから、イスラエル人は神様がダビデとその軍隊を祝福してくださるように祈りました。

苦難の日に主があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の名が、あなたを高く上げますように。

主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように。

あなたの穀物のささげ物をすべて心に留め、あなたの全焼のいけにえを受け入れてくださいますように。セラ

主があなたの願いどおりにしてくださいますように。あなたのすべてのはかりごとを遂げさせてくださいますように。

私たちは、あなたの勝利を喜び歌いましょう。私たちの神の御名により旗を高く掲げましょう。主があなたの願いのすべてを遂げさせてくださいますように。(詩篇20:1-5)

それは素晴らしい祈りです。けれども、そのあと、ダビデは彼らに勝利の鍵を思い出させます。

ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。

彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。(7-8)

多くの場合、私たちは神様に相談せずに計画を立てて、「神様、私たちの計画を祝福してください」と祈ります。そして、私たちの計画がうまくいかないと、「どうしてでしょうか?」と尋ねます。

けれども、ダビデは自分の民に、そして私たちに思い出させます。成功の鍵は自分の力や知恵ではありません。むしろ、成功の鍵は神様に信頼することです。

自分の力と知恵に頼ると、結局あなたは倒れます。しかし、神様に信頼すると、結局あなたは立ち上がり、まっすぐに立つのです。

あなたはどうでしょうか。自分の力と知恵に頼りながら、神様の祝福のために祈っているでしょうか。それとも神様に頼り、信頼しているでしょうか。

戦う時だけではなく、計画を立てる時にも神様を求めているでしょうか。

私たちの知恵と力ではなく、神様とその言葉が私たちの基礎となりますように。

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詩篇

神様はどのようにご自身を示されるのか

私は、詩篇19篇が大好きです。この詩篇で、神様がどのようにご自身を現されるかを教えてくださいます。

最初に、神様は被造物を通してご自身を現しておられます。ダビデはこう歌いました。

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。

昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。

話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。

しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。(詩篇19:1-3)

多分、パウロはこの詩篇について考えたとき、この言葉を書いたでしょう。

それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ1:19-20)

時々、人々はこう訊きます。「神様について聞いたことがない人はどうなるでしょうか。彼らはキリストの名前について聞いたことがないのに、裁かれるのでしょうか。」

その答えは、「はい、裁かれます。」

けれども、その理由は、彼らがキリストの名前を聞いたことがないから裁かれるわけではありません。彼らが知っていることによって裁かれます。

つまり、彼らは被造物を見た時、心の中で、この世が偶然の産物ではないと悟ることができます。

また、彼らの偶像がこの世を造ることができなかったと分かったと思います。なぜなら、彼らは自分の手でその偶像を造ったからです。それでも、彼らはその知識を拒絶しました。

人々が神様が与えてくださった知識を拒絶するなら、神様がもっと情報を与える義務はありません。もし、神様がもっと情報を与えるのであれば、それはただ恵みによって与えてくださるのです。私たちはその情報を持つ権利がありません。

実は、神様についての情報のすべては賜物なのです。

しかし、もし福音が届かない国の人が、空を仰いで、「私はこの世を造らなかった。私が知っている人々もこの世を造らなかった。私が作った偶像もこの世を造らなかった。だから、この世を造った方、自分自身を私に現してください。」と言うなら、神様はきっとその人の祈りに応えるでしょう。

どうして私はそう信じるのでしょうか。それは、パウロがこう書いたからです。

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(第一テモテ2:4)

そのことを疑うなら、コルネリオの話を読んでください(使徒の働き10章)。

彼はイエス様を救い主として受け入れなくてはならないことを知りませんでした。けれども、彼は神様について聞いたことを信じたので、神様はもっと情報を与えました。

つまり、神様はペテロを送って、ペテロがコルネリオとその家族にイエス様のことを伝えたので、彼らは信じて救われました。

神様は被造物を通してご自身を現されますが、御言葉を通しても現されます。そして、被造物の知識のように、人々はその御言葉を信じるかどうか選ばなくてはなりません。

私たちは、その言葉が完全で確かなものであることを信じるかどうか選ばなくてはならないのです。(7)

神様の御言葉が正しいものであることを信じるかどうか選ばなくてはならない。(8)

神様の言葉が私たちに喜びと光を与えるものであることを信じるかどうか選ばなくてはならない。(8)

ダビデは信じることを選びました。けれども、多くの人はその選択をしません。

しかし、私たちが神様の御言葉をどのように考えるかは、私たちが神様をどのように考えるかに影響を与えます。もし神様の言葉を拒絶すると、私たちの神様についての考え方は間違ってしまいます。

けれども、私たちが神様をありのままに見ると、私たちは神様を愛し、喜ばせたいと望むようになります。ダビデもそうしました。だから、彼はこう祈りました。

だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。

私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。(詩篇19:12-14)

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神様のようになる

ダビデが困った時、つまり、人々が彼を殺そうとしたとき、彼は詩篇17篇を書きました。

何度も、人々はダビデを殺そうとしましたが、ダビデは決して彼らのレベルに降りませんでした。つまり、ダビデは彼らのようになることを拒絶しました。彼はこう書きました。

あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。あなたは私をためされましたが、何も見つけ出されません。

私は、口のあやまちをしまいと心がけました。人としての行ないについては、あなたのくちびるのことばによりました。

私は無法な者の道を避けました。私の歩みは、あなたの道を堅く守り、私の足はよろけませんでした。(詩篇17:3-5)

私たちは、よく、「私には選択肢などない。私を憎む人を扱うなら、ルールをちょっと曲げなくてはならない。そうしないと、彼は私をずっとひどく扱うことになるだろう。」と思います。

しかし、ダビデは神様の言葉に従い続け、復讐を神様の手に委ねました。彼は叫びました。

神よ。私はあなたを呼び求めました。あなたは私に答えてくださるからです。

耳を傾けて、私の申し上げることを聞いてください。あなたの奇しい恵みをお示しください。

立ち向かう者から身を避けて右の手に来る者を救う方。私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。

私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。(6ー9)

そして私たちは、ダビデの最も深い望みを見ます。彼は言いました。

「主よ。私の敵はこの世の物を求めているので、その物をどうぞ与えてください。けれども、私が求めるのは、あなたの顔を見ることです。また、私は目覚める時、私があなたのようになるなら、満足します。」(14-15)

だから、神様はダビデについてこう言われました。「彼はわたしの心にかなった者です。」

私は若い時、この歌を聞いて、本当に気に入りました。

私が大きくなると、あなたのようになりたいです。
あなたが愛するように、私も愛することを学びたいです。

周りの人々が微笑んで、私についてこう言ってほしいです。
「その人はきっと天の父の子です。」

私は大きくなったら、あなたのようになりたいです。

神様は私たちのために同じことを望んでおられます。

パウロはこう書きました。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。

これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3:18)

私たちの目的がこの世の物を得ることではなく、また、私たちを憎む人のようにならないようにしましょう。

むしろ、私たちは私たちを愛している天の父のようになることを目指しましょう。そうすれば、周りの人々が私たちを見ると、天の父を見ることができるでしょう。

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詩篇

命の道

人は皆、生きがいのある人生を求めるものです。

ダビデには多くのトラブルがあったけれども、彼はそのような人生を送りました。詩篇16篇で、ダビデは命の道について語っています。

しかし、命の道とは生き方のことではありません。命の道とは神様のことです。だから、ダビデはこう言いました。

私は、主に申し上げました。

「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」(詩篇16:2)

その言葉に、ダビデの喜びが見えます。「あなたこそ、私の主。」

自分の人生を支配することが本当の喜びだと思う人もいます。しかし、本当の喜びは、神様を私たちの王とし、神様に従うことです。

なぜでしょうか。なぜなら、神様のほかに本当の幸いはないからです。神様はすべての良い物の源だからです。

ヤコブもその真理を理解しました。

すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。(ヤコブ1:17)

だから、喜びの源から離れると、本当の喜びを見つけることはできません。

けれども、多くの人々は神様から離れて喜びを見つけようとします。だから、彼らはこの世の神々、つまりお金や持ち物やセックスから喜びを求めます。

それら自体は悪いものではありませんが、もしあなたが神様から離れたら、結局それらのものが虚しいことに気づくでしょう。

だから、ダビデはそのような人についてこう言います。「彼らのことは感心しない。今、彼らは成功しているかもしれないけど、結局彼らは苦しむことになるでしょう。だから、私はあなたに従う人生を喜びます。」(3-4)

そして、ダビデは神様に仰ぎ、歌います。

「主よ。他のすべてのものよりも、私はあなたを求めます。あなたは私の遺産です。私が一番大事にするのはあなたとの関係です。その関係によって、私の人生は生きがいがあるものになります。」

時々、人々は神様の命令が重荷だと思います。けれども、ダビデはそのようには考えませんでした。むしろ、ダビデは歌いました。

測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。(6)

ダビデには、神様と良い関係があったので、神様の命令に従うのは喜びでした。彼が分かっていたのは、その命令が喜びを取り去るためではなく、喜びを与えるためだということです。

また、その命令によって、神様の計画を知り、どのように生きるべきかが分かりました。

だから、ダビデは神様の言葉を喜んで聞いていました。神様の助言を聞き、神様が彼のそばにいらっしゃったので、彼は大変な状態の中でも、決して揺るぐことがありませんでした。(7-8)

それに、死んでも、彼には希望がありました。

まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。(10)

イエス様の復活によって、その言葉は成就されました。イエス様はこう約束されました。

わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。(ヨハネ14:19)

ダビデは彼の考えを要約して歌います。

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。(11)

あなたは命の道を知りたいでしょうか。命の道は宗教的なルールを守ることではありません。また、宗教的な習慣を実践することでもありません。

むしろ、イエス様にあって、命の道を見つけます。イエス様が私たちの主なら、生きがいのある人生を見つけます。

だから、イエス様はこう言われました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネ14:6)

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詩篇

聖い人生

ある牧師が言いました。「聖さは完全という意味です。」

つまり、私たちが聖い人生を生きるなら、私たちの人生は壊れずに、癒されて完全になります。なぜなら、私たちは神様が計画した通りに生きるからです。

昨日、私が言ったのは、人々が神様を拒絶すると、彼らの道徳観念は堕落するということです。しかし、この詩篇で、私たちは完全な人生がどんな人生であるかを学びます。どうして聖い人になることは大切なのでしょうか。

ダビデはその理由を与えます。

主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。(詩篇15:1)

つまり、すべての人々は神様の前に来ることができません。

へブル人への手紙の著者も、そのことをはっきりと言いました。

聖くなければ、だれも主を見ることができません。(12-14)

聖さとは、何でしょうか。

それは、正しく歩むことです。つまり、周りの人々は公正に罪のせいであなたを責めることができません。

もちろん、あなたを責めようとする人もいます。イエス様が罪のない方なのに、その敵はいつもイエス様を責めました。とはいえ、彼らは公正に責めることができなかった。

あなたはどうですか。周りの人々はあなたを罪のために公正に責めることができますか。

また、聖さは義を行なうことです。聖さは、悪いことを犯さないことだけではなく、良いことをすることです。ヤコブはこう書きました。

こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。(ヤコブ4:17)

そして、聖さは、心の中の真実を語ることです。あなたは真実を愛しているでしょうか。それとも、嘘がすぐにあなたの口から出るでしょうか。

「罪のない嘘」はどうでしょうか。相手の感情を考えずに真実を言うべきというわけではありません。しかし、愛を持って真実を語るべきです。(エペソ4:15)

また、聖さは人をそしらないことです。あなたは、どれくらい人の悪口を言うでしょうか。例えば、どれくらいあなたの妻や夫、お客さんや同僚について文句を言うでしょうか。聖い人はそんなことをしません。

また、聖さは悪を犯す人を感心せずに、善を行なう人を感心することです。

あなたのロールモデルは誰でしょうか。神様を愛する人、また神様に仕える人のようになりたいでしょうか。それとも、神様を拒絶する人のようになりたいですか。

誰の価値観を受け入れるでしょうか。

そして、たとえ損になっても、聖い人は立てた誓いを変えません。自分にとって不利な条件でも、あなたは自分の約束を守るでしょうか。

さらに、聖い人は気前がよく、苦しんでいる人を喜んで助けます。彼らが困難な時に、その不運につけ込むでしょうか。それとも、神様の愛で彼らを包むでしょうか。

最後に、聖さは正直に生き、正義を愛することです。相手の立場を考えずに、神様の愛で彼らを扱うでしょうか。あなたには利益がないのに、彼らを正直に扱うでしょうか。

ダビデは、そのような人が完全になると言いました。またその人は決して揺るがない人となります。

あなたはどうですか。あなたは聖い人でしょうか。

良い知らせは、あなたがイエス様に属するなら、イエス様の血によってあなたが清められて、神様の目で見ると、あなたはもう完全だということです。あなたはもう聖い人です。

だから、裁きの日に、神様が私たちをご覧になる時、「無罪」と言われます。

それだけではなく、ペテロはこう記しました。

というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。(第二べテロ1:3)

つまり、私たちは自分の力で自分自身を変える必要がないのです。むしろ、私たちが聖い人生を生きるために神様は力を与えてくださいます。

だから、毎日聖い人生を生きようと努めましょう。ペテロはこうも書いています。

こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。

これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。(第二ペテロ5:1-8)

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詩篇

神様を拒絶すると

詩篇14篇と53篇は大体同じだから、今日それらについて話しましょう。

この詩篇では、人々が神様を拒絶した結果を見ます。

ある人は「神はいない」と言います。

聖書によれば、そのような人は愚か者です。愚か者というのは、「知能のない」という意味ではなく、「堕落している人」という意味です。

なぜなら、私たちが神様を拒絶すると、私たちは堕落に陥れてしまうからです。ダビデはこう書きました。

彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。(詩篇14:1)

あなたは、「ちょっと待ってください。神様を信じない良い人も知っています。それに、彼らはあるクリスチャンよりも良い人です。」と言うかもしれません。

それはそうかもしれません。しかし、人を人と比べるのは、人を神様と比べることとは全然違うことです。つまり、神様と比べると、私たちの罪の染みは明らかになります。

例えば、私たちを傷つけた人を心から許せないことがあります。

また、妻や夫に親切にできない時もあります。

さらに、私たちは短気になって、すぐに怒りを爆発させてしまうことがあります。

家や職場では、自己中心な態度を取ってしまうこともあります。

「でも、それは当然なことですよ。私たちは人間だから、誰も完璧じゃないです。」

けれども、もしそのことが当然だと思うなら、それは堕落した考え方です。

神様が人間を初めて造った時、そのことは全然当たり前のことではありませんでした。しかし、人間が神様を拒絶すると、そのことは「当然」になりました。

私たちが罪を当然だと思えば、それは堕落です。

私たちはいろんな言い訳を考えるかもしれませんが、神様の目に私たちは堕落しており、私たちの行動は忌まわしいものです。

私たちが神様から離れている間、私たちの道徳観念は堕落します。もし、私たちが善の源から離れたら、善を知っているとは言えません。

多くの人は神様から離れて、自分の道徳を造ろうと思いますが、神様の目で見ると、その道徳はいつも堕落します。

その結果は?

死です。また、裁きです。いつか、神様はこの世に戻って、この世を裁きます。

その日、神様に属する人は喜びます。けれども、神様を拒絶した人は恐れます。なぜなら、彼らは神様の聖さを見て、自分がどれほど堕落しているかを見ます。そして、彼らの言い訳が虚しいことを理解します。

だから、愚か者にならないでください。神様を認めて、私たちの王として受け入れましょう。ソロモンが言ったように、

主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。(箴言9:10)

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詩篇

神様、あなたはどこ?

時々、私たちは、「神様、あなたはどこ?」と思うことがあります。

詩篇13篇で、ダビデはそのように祈りました。

主よ。いつまでですか。

あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。

私の心には、一日中、悲しみがあります。

いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう。(詩篇13:1-2)

時々、私たちは聖書の登場人物をスーパーヒーローのように考えます。私たちはダビデについて読む時、彼がいつも神様と親しい関係があったと思います。また、彼に問題があっても、神様の臨在を良く感じて、すぐに慰められたと思います。

けれども、私たち皆には霊的な砂漠の経験があります。その時、私たちは「神様はどこだろうか」と思います。また、私たちの祈りが天井に当たってすぐに落ちると感じることがあります。そして、どこを見ても、神様を見つけることができません。

だから、ダビデのように私たちは叫びます。

「神様、あなたはどこ?どうしてあなたは隠れているのですか?私の状態を見ていないのですか?私をもう愛していないのですか?

毎日、私の恐れと戦い、絶望と戦います。どれぐらいこれは続くのですか?助けてください。あなたがいらっしゃらないと、耐えられません。」

神様が遠いと感じる時、私たちはどうしたら良いでしょうか。

あなたの信仰にしがみつき続けてください。何も感じなくても、神様がまだあなたを愛していることを信じ続けてください。また、その気持ちがなくても、神様にあって喜んでください。

あなたは、「その気持ちがなくても、どのように喜ぶことができるでしょうか」と訊くかもしれません。

それは簡単なことではありません。けれども、ダビデの言葉を見ると、ヒントを見つけることができると思います。彼は歌いました。

私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。(5-6)

ダビデは、神様が過去に何をしてくださったかを思い出し、神様の慈しみに感謝しました。そうすると、彼は「過去に私を救い出した同じ神様は、きっと今も私を救い出します。」と分かりました。

そのように、私たちは神様が遠いと感じる時、神様が過去に何をしてくださったかを思い出すべきです。

特に、イエス様が十字架で何をしてくださったかを思い出すべきです。つまり、イエス様が私たちを愛して、この世に来て、私たちの罪のために死んでくださったことを思い出すのです。

イエス様がそのように私たちを愛されたなら、どうして私たちはその愛を疑うでしょうか。きっと今も私たちを助けてくださいます。

もう一つ覚えておいてください。私たちに気持ちがなくても神様を賛美することを選択することを、神様が近いと感じるから賛美することよりも、神様は喜ばれます。

また、神様の慈しみが見えなくても、その慈しみを信じ続けることを選べば、私たちの信仰は本当に成長します。

そして、結局神様は、もう一度自分自身を私たちに表してくださいます。

あるスティーブン・カーティス・チャップマンの歌も、そのことを教えています。

この場所で、私は神様を見いだせると思いました。
聖書を読み、跪いて祈りました。
私は待ち望み、天を仰ぎました。
けれども、太陽は全く照らしてはくれませんでした。

しかし、時にはイエス様は曇っている時に来られます。
時には、私たちはイエス様の御顔が見えません。
時には、空が暗いのです。

けれども、私たちが見えない時こそ、
神様から学ぶことがあります。
また、私たちが見えない時こそ、
私たちの信仰が成長する時でもあります。

だから、時には神様は雨の時にも来られます。
その時、私たちは苦しみ、「どうして?」と問いかけます。
「どうして神様はこんなに遠いのだろうか」と思います。

しかし、後で私たちが分かるのは、
「その時でも、神様は私と共におられた」ということです。

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詩篇

あなたの舌の主は誰?

詩篇12篇では、ダビデは忠実な人、また、敬虔な人がいないことを嘆きます。特に、ダビデは周りの人々の舌を嘆きます。彼はこう言いました。

人は互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話します。

主が、へつらいのくちびると傲慢の舌とを、ことごとく断ち切ってくださいますように。

彼らはこう言うのです。「われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか。(詩篇12:2-4)

しかし、ダビデは主の御言葉についてこう言います。

主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。(6)

私たちがイエス様を主と呼ぶなら、イエス様は私たちの舌の主であるべきです。

イエス様はあなたの舌の主ですか。イエス様の言葉のように、私たちの言葉も土の炉で七回試され、純化された銀のようですか。私たちの言葉は清いですか。

それとも、嘘、傲慢、欺き、中傷が私たちの口から出ますか。または、ゴシップ、文句、汚い言葉が私たちの口から出ますか。

パウロはこう書きました。

悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。(エペソ4:29)

今日、あなたの口から、何が出ているでしょうか。

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詩篇

恐れに屈しない

詩篇11篇を読むと、私はネヘミヤの話について考えます。ユダヤ人がエルサレムの城壁の修理を止めるために、その敵がある祭司を買収して、ネヘミヤにこう言いました。

「あなたを殺すために敵が来ているので、主の宮に隠れなくてはなりません。」

けれども、ネヘミヤは答えました。

私のような者が逃げてよいものか。私のような者で、だれが本堂に入って生きながらえようか。私は入って行かない。(ネヘミヤ記6:11)

ネヘミヤのように、ダビデはこう書きました。

主に私は身を避ける。どうして、あなたたちは私のたましいに言うのか。

「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。それ、見よ。悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、暗やみで心の直ぐな人を射ぬこうとしている。拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」(詩篇11:1-3)

ダビデとネヘミヤの状況は違いましたが、彼らには共通点がありました。彼らは恐れに屈することを拒絶しました。むしろ、彼らは神様に信頼することを選びました。

周りの人々は慌てて、「大変だ。どうしよう!」と言いましたが、ダビデとネヘミヤは堅く立って、動じませんでした。どうして彼らは怖がらなかったのでしょうか。

ダビデはこう書きました。

主は、その聖座が宮にあり、主は、その王座が天にある。その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる。

主は正しい者と悪者を調べる。そのみこころは、暴虐を好む者を憎む。(4-5)

つまり、「神様はここにおられます。神様は何が起こっているか知っておられます。神様はすべてをコントロールしておられます。また、神様は私を見守って、私を攻める人を扱ってくださいます。」

そして、ダビデはこう言いました。

主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。(7)

あなたはどうですか。ダビデのように、あなたは主に信頼していますか。あなたの世界が崩壊していると思う時、パニックに屈するでしょうか。

それとも、主があなたの砦ですか。主の手が見えなくても、その手があなたを覆うことを信じますか。主に100%信頼していますか。

イザヤはこう書きました。

立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。(イザヤ書30:15)

イスラエル人と違って、恐れに屈しないでください。むしろ、ダビデとネヘミヤのように、忠実な神様に信頼しましょう。

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詩篇

主に身を委ねる

詩篇10篇で、ダビデは祈りながら、ヨブの疑問を繰り返し問いかけます。彼は叫びます。

主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。(詩篇10:1)

そして、ダビデは、なぜ悪人が高ぶり、神様を拒み、周りの人々を苦しめているにもかかわらず、栄えているのかを尋ねます。(2〜11節)

だから12節で、ダビデは主に請います

主よ。立ち上がってください。神よ。御手を上げてください。どうか、貧しい者を、忘れないでください。

そのあと、ダビデは興味深いことを言います。

あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるためにじっと見つめておられました。

不幸な人は、あなたに身をゆだねます。あなたはみなしごを助ける方でした。(14節)

「不幸な人は、あなたに身をゆだねます」という表現は、私の心を打ちます。

普通、「委ねる」という言葉は、聖書では「捨てる」と訳されることがあります(例えば、ヨシュア記1:5)。

つまり、ある人がとても苦しんで、もうどうしても何もできないとき、お金への信頼を捨てたり、自分の力への信頼を捨てたりして、自分の人生のすべてを神様に捧げます。そして、神様にすべてを委ねます。

ダビデは、そのような人についてこう言います。

主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。あなたは彼らの心を強くしてくださいます。耳を傾けて、みなしごと、しいたげられた者をかばってくださいます。(17-18節)

日本語では、「心を強くしてくださいます」と訳されます。けれども、「強くする」という表現は、ヘブル語ではもっと深い意味があります。「彼らの心を強くし、整え、導く」という意味です。

私たちが身を神様に委ねると、神様は私たちを励まし、神様の計画のために私たちの心を整え、導いてくださいます。

とはいえ、私たちの身を神様に委ねるというのは、どういう意味でしょうか。

一つ目は、私たちの疑いを捨て、神様に信頼することです。つまり、私たちはこう祈ります。「どうして、こんな大変なことが起こったか分かりません。どうして、あなたが遠く離れているようなのか分かりません。それでも、私はあなたに信頼します。」

ヨブはその態度を学びました。

二つ目は、私たちの力と知恵で自分の問題を解決することを諦めることです。例えば、誰かが私たちを傷つける時、「論理的な解決」は復讐です。しかし、神様に身を委ねることは、復讐の権利を捨て、神様の手に正義を委ねることです。

伝道師オズワルド・チェンバーズはこう書きました。

「捨てる」と「委ねる」の証拠は、「神様がこう言ったことを知っているけど、この場合はどうですか」と訊かないことです。

自分の考えや想像に気を付けてください。「この場合はどうですか」と考え始めたら、それはあなたが神様に身を委ねていないことを表しています。

しかし、あなたが神様にすべてを委ねたら、もう神様が何をするかを考えなくなります。

「委ねる」というのは、質問を訊く権利を捨てることです。

そうすれば、あなたはこの世でもっとも驚かされる人、また、もっとも喜んでいる人になります。なぜなら、神様があなたのすべてを持っておられるなら、神様は本当の命をあなたに与えてくださるからです。

イエス様はこう言われました。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイ16:25)

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詩篇

正義の神

詩篇9篇の主なテーマは神様の正義です。

ダビデは神様についてこう言いました。

あなたが私の正しい訴えを支持し、義の審判者として王座に着かれるからです。(詩篇9:4)

また、

主は義によって世界をさばき、公正をもって国民にさばきを行なわれる。(8節)

また、

主はご自身を知らせ、さばきを行なわれた。(16節)

この世では、私たちは悪を見ないわけではありません。もちろん、私たちは悪をよく目にします。しかし、ダビデは神様についてこう言いました。

主はしいたげられた者のとりで、苦しみのときのとりで。御名を知る者はあなたに拠り頼みます。

主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。

主にほめ歌を歌え、シオンに住まうその方に。国々の民にみわざを告げ知らせよ。

血に報いる方は、彼らを心に留め、貧しい者の叫びをお忘れにならない。。。

貧しい者は決して忘れられない。悩む者の望みは、いつまでもなくならない。(9-12、18節)

つまり、私たちは正義が遅いと思うかもしれませんが、結局正義は必ず来ます。また、困難な時でも、神様がまだ私たちのそばにおられ、決して私たちを捨てません。

困難な時、神様があなたから遠く離れておられると思うかもしれませんが、神様は私たちを無視せず、私たちのすべての叫びを聞いてくださいます。神様は私たちを忘れておられず、助けるために立ち上がられます。

だからこそ、神様が私たちを助けてくださる時、ダビデのように神様をほめたたえましょう。彼は歌いました。

私は心を尽くして主に感謝します。あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。私は、あなたを喜び、誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。(1-2節)

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詩篇

私は誰だろう

ハワイに帰る時、私はいつも星を見るのが大好きです。今、西宮市に住んでいるので、星があまり見えません。ここではほんの2、3個しか星を見ることができません。

けれども、星空を見ると、ダビデのように私は驚きます。

私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。(詩篇8:1)

そして、ダビデのように、私は神様がどれほど大きいか、また、私がどれほど小さいかを考えます。そして、私は思います。「どうして、この素晴らしい宇宙を造られた神様が、私を愛してくださるのだろうか。」

あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。

人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。

あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。(3-5)

私は、この詩篇に基づく現代の歌が大好きです。

私は誰なのでしょうか。
どうして、あなたは私についていつも考えておられるのでしょうか。

私は誰なのでしょうか。
どうして、私が呼ぶ時、あなたの耳を私に傾けてくださるのでしょうか。

あなたは本当に私について考えてくださっているのでしょうか。
あなたが私をそんなに愛してくださるので、私は驚きます。

主よ。あなたが私を心に留めてくださることを感謝します。私が祈る時、あなたの耳を私に傾けてくださることを感謝します。

あなたよりも、天使よりも私は劣る者です。それでも、あなたは私に栄光と誉の冠を被らせてくださいます。

私は、あなたにも、天使にも劣る者です。それでも、あなたは私に栄光と誉れの冠を被らせてくださいます。

私はそれらに値するものは何ひとつありません。それでも、あなたは私を愛してくださり、そのように祝福してくださいます。

主よ、私が決してあなたの愛を当然のことと考えないように。むしろ、私があなたの愛でいつも驚くことができますように。アーメン。

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詩篇

裁判官の役割を神様に委ねる

ダビデの人生を見ると、彼が神様に裁判官の役割を委ねたことが分かります。彼はめったに復讐しようとはしませんでした。

(唯一の例外はナバルの話です。その時、ナバルの妻アビガイルがダビデにナバルを殺さないように願わなければなりませんでした。ダビデはその願いを聞いて、復讐しないことに決めました。)

詩篇7篇では、彼のそのような態度を見ることができます。ある人々がダビデを殺そうと思いましたが、ダビデは自分自身とその敵を神様の手に委ねました。また、裁く役割を神様の手に委ねました。ダビデはこう書きました。

主よ。御怒りをもって立ち上がってください。私の敵の激しい怒りに向かって立ち、私のために目をさましてください。あなたはさばきを定められました。

国民のつどいをあなたの回りに集め、その上の高いみくらにお帰りください。主は諸国の民をさばかれる。

主よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、私を弁護してください。(詩篇7:6-8)

どうしてダビデはその裁きを神様の手に委ねることができたのでしょうか。なぜなら、彼は心と思いを調べられる神様が正しく裁いて、悪者を罰されると確信していたからです。(9)

そして、ダビデは賛美でこの詩篇を終えました。

その義にふさわしく、主を、私はほめたたえよう。いと高き方、主の御名をほめ歌おう。(17)

ダビデのように、私たちは心と思いを調べられる神様に信頼し、その神様に裁きを委ねましょう。

復讐の思いは私たちを食い尽くし、私たちの喜びを奪います。しかし、正しく裁かれる神に裁きを委ねると、苦しみの中でも、私たちは喜びと平和を見つけることができます。

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詩篇

あなたの苦しみは長く続くと思う時

ダビデは詩篇第6篇を書きましたが、ヨブもまた、同じような思いを神様にぶつけました。

ヨブと同じように、ダビデも病に苦しみ、その苦しみが永遠に続くかのように感じていました。

さらに、神様はダビデを懲らしめるように思われましたが、ヨブと同じようにダビデもその理由を知りませんでした。(この詩篇で、ダビデは全く罪を告白していません。)

それだけでなく、ダビデの敵はその病気を見て、彼を攻撃する機会と捉えました。

それにもかかわらず、ヨブとは異なり、ダビデは神様の正義を決して疑いませんでした。

彼は、自分が神様から何ももらう価値がないことを理解していました。実際には、彼は神様の怒りに値していました。

だからこそ、自分の義によるのではなく、神様の憐れみと絶え間ない愛によって癒しを求めました。

彼は叫びました。

主よ。私をあわれんでください。私は衰えております。

主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。私のたましいはただ、恐れおののいています。

主よ。いつまでですか。あなたは。

帰って来てください。主よ。私のたましいを助け出してください。あなたの恵みのゆえに、私をお救いください。(詩篇6:2-4)

しかし、ダビデが祈った時、神様の慰めを受けました。

不法を行なう者ども。みな私から離れて行け。

主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。

私の敵は、みな恥を見、ただ、恐れおののきますように。彼らは退き、恥を見ますように。またたくまに。(8-10)

クリスチャンのコメディアン、マーク・ローリーはこう言いました。「私の大好きな聖書の箇所は『And it came to pass…』という箇所です。」

それはちょっとした冗談です。

「It came to pass」という表現は、少し古い英語で、「そのころ」や「ある時期になって」という意味です。

けれども、文字通りに解釈すると、「その時期はすぐに過ぎた」という意味になります。

ローリーのポイントは、「私たちの苦しみは永遠に続きません。いつか、その苦しみの時間は過ぎ去ります」ということです。

そして、彼は自分の詩篇を歌いました。

私の心には、私が一人で泣いた涙がいっぱい隠されています。

それでも、神様が近くにおられることを知っています。
神様が私の声を聞いてくださることを知っています。
この涙がいつまでも続かないことを知っています。

今日の苦しみは一掃されるのです。
なぜなら、この時期も過ぎます。

夜が朝になると、 私たちはその真実を見ます。
皆がトラブルを経験しますが、
そのトラブルは結局消えます。

この時期も過ぎます。
この時期も過ぎます。

雨垂れのように落ちる涙は結局乾きます。

この時期も過ぎます。

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詩篇

王に願う

私は詩篇5篇が大好きです。子供の時から今でも、その詩篇からの歌を歌い続けています。

私の言うことを耳に入れてください。
主よ。私のうめきを聞き取ってください。
私の叫びの声を心に留めてください。
私の王、私の神。

私はあなたに祈っています。
主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。
朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。(詩篇5:1ー3)

この詩篇を読む時、私は正義と助けを願う人が宮廷に入ることを想像します。その人は王の前に跪いて、叫びます。

「私の王。私の神。私を憐れんでください。あなたの助けが必要です。私の願いを聞いてください。」

この箇所では、その人の謙遜な態度が見えるし、その人が王を愛し、信頼することも見えます。

「主よ。朝に私が起きる時、私の最初の思いはあなたについてです。あなたの前に、私は来て、私の願いを捧げて、待ち望みます。なぜなら、あなたが私を愛し、私の祈りに応えてくださることを信じるからです。」

その時、ダビデがどの問題に直面していたのか、私たちは知りません。けれども、いつもトラブルや恐れや心配がある時、彼は王に向かいました。私たちもそうするべきです。

どうして、私たちは神様の前に来られるのでしょうか。私たちは私たちを傷つける人よりも正しい人だからでしょうか。違います。神様の憐れみによって、私たちは神様に近づくことができます。

人は私たちを傷つけたり、裏切ることがあるかもしれません。しかし、神様はそのようなことは決してなさいません。

神様は良い王であり、私たちが叫び求めると、神様は正義を与えてくださいます。また、神様はその翼で私たちを覆ってくださり、守ってくださいます。ダビデはこう祈りました。

あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。(11-12)

それを読む時、一つのイエス様のたとえ話を思い出します。その話では、ある女性が不正な裁判官に正義を求めました。彼はしばらく何もしませんでしたが、彼女が諦めずに頼み続けたので、最終的には彼女に正義を与えました。

イエス様はその裁判官を、私たちを愛している天の父に対比されました。

まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。

あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。

しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。(ルカ18:7-8)

時々、神様がダビデを救い出すために、ダビデは何日間も、何年も待たなければなりませんでした。それでも、彼は自分の信仰を決して失いませんでした。

毎朝、ダビデは神様の前に来て、自分の願いを捧げました。そして、神様は愛をもってその祈りを聞き、最終的にダビデを救い出されました。

私たちも苦しむ時、ダビデの信仰を持ちましょう。なぜなら、神様は私たちの声を聞き、私たちを愛し、私たちの祈りに応えてくださるからです。

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詩篇

平和

この混迷の世にあっては、平和を見つけるのが難しい時もあります。特に、皆があなたに反対している時には、平和を見つけるのは一層難しくなります。

サウルやアブサロムがダビデを攻めた時、ダビデもそのように感じたと思います。

だからこそ、ダビデは神様に向かって叫びました。

私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。

人の子たちよ。いつまでわたしの栄光をはずかしめ、むなしいものを愛し、まやかしものを慕い求めるのか。(詩篇4:1-2)

ダビデの苦しみの中で、周りの人々はダビデの信仰をからかっていたかもしれません。「神様はあなたを救えない。神様は本当に存在しているのだろうか。」

現代でも、人々は同じようなことを言います。彼らは偽りの神々を礼拝し、お金の「神」や、セックスの「神」や、力の「神」を追い求めます。

だからこそ、私たちが問題に直面する時、彼らは私たちが神様に従うことをからかいます。

けれども、ダビデはその敵にこう言いました。

知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。(3)

つまり、「あなたは私の信仰をからかうかもしれないけど、私は神様のものです。結局、あなたはそのことを知ります。神様は私の祈りに応えてくださるから。」

そして、自分自身に、また苦しんでいる私たちにこう言います。

恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。(4)

私たちが怒ることは悪いことではありません。イエス様も怒ったことがあります。

しかし、怒るときには、罪を犯さないようにする必要があります。

そのため、神様の前に静まり、自分の心を探り、自分の態度を見直すべきです。そして、神様が私たちの心を汚すものを清めてくださるように祈るべきです。

特に、苦々しい思いに気を付けなければなりません。私たちが苦々しい思いを持ち続けると、その苦々しい思いは、がんのように私たちの人生に広がるからです。

だからこそ、神様がその苦々しい思いを取り去ってくださるように祈るべきです。

そしてダビデはこう言いました。

義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。(5)

イエス様によれば、義のいけにえを捧げたいなら、健康な人間関係を保つべきです。イエス様はこう言われました。

だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。

それから、来て、その供え物をささげなさい。(マタイ5:23-24)

時々、人々が私たちを傷つけ、私たちが仲直りしようとしても、彼らが傷つけ続けることがあります。その場合、私たちは神様がふさわしい時にその人を扱ってくださると信頼すべきです。私たちは復讐してはいけません。

それでも、できるだけ、その人から距離を保つ方が良いです。

サウルがダビデを殺そうと思った時、ダビデはサウルから逃げました。けれども、ダビデのように、その人に対して苦々しい思いを持たないようにしましょう。むしろ、神様に信頼し、その状況とその人を神様の手に委ねるべきです。

そして、苦しむ時、神様の愛と慈しみを疑わないでください。むしろ、ダビデのように、こう祈りましょう。

どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。(6)

言い換えるなら、「主よ。私に向かってください。あなたが私とともにおられることを現してください。また、私たちに対するあなたの愛を現してください。なぜなら、あなたの光が私を照らす時、私の周りのものは、ただ陰になるから。」

その態度を取れば、神様の喜びはあなたを満たし、あなたはダビデのように言うでしょう。

平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。(8)

あなたはどうですか。神様の平和を知っているでしょうか。

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詩篇

私たちの正当な王に明け渡す

明け渡すこと。私たちの多くはそのコンセプトがあまり好きではありません。特に、私たちは自分の権利を持ち続けたいものです。「私の体。私の人生。私の道。」

そして、誰かが私たちを明け渡させようとすれば、私たちは戦います。なぜなら、そうしなければ、幸せな人生を送れないと思うからです。

しかし、本当に幸せな人生を望むなら、私たちは神様に明け渡さなければなりません。神様の祝福を知りたいなら、神様に明け渡さなければならないのです。

けれども、この箇所では、人々は神様に明け渡さずに、神様と戦います。

詩人はこう書きました。

なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。

「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」(詩篇2:1-3)

多くの人々はそのように思います。「神様は鎖で私たちを縛っておられます。神様は私たちの人生を惨めなものにしておられます。だから、その鎖を壊して捨ててしまいましょう。」

何世紀前も、人々はそのように思いました。アダムとエバの時代でも、イエス様の時代でもそのように思ったし、現代でも、人々はそう思います。

ところが、

天の御座に着いている方は笑い、主はその者どもをあざけられる。ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。

「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」(4-6)

つまり、私たちは主と戦おうとしても、私たちの努力や戦いは虚しいものだということです。神様はキリストの王位を確立し、こう言われます。

あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。(7-8)

いつか、この世の民、皆はイエス様に従わされる日が来ます。その日、愛と畏敬を持って明け渡す人もいれば、こぶしを握り、歯を食いしばって明け渡す人もいます。けれども、すべての人々がイエス様に従います。

それでは、私たちはどう反応すべきでしょうか。

それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。

御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。(10-12a)

つまり、私たちはイエス様が勝利されることを知っているので、今イエス様に明け渡した方が良いです。イエス様が値する畏敬で、イエス様を誇り、仕えるべきです。

なぜなら、イエス様は私たちの正当な王だからです。イエス様が私たちを造られたので、私たちはイエス様のものです。私たちの持ち物、私たちの命さえも、イエス様からの賜物です。だから、イエス様に明け渡すのは当たり前のことでしょう。

全ての人々は、いつかイエス様の前に跪きます。しかし、正当な王に反抗し続ける人々は滅びます。

詩人はこう書きました。

幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。(12b)

イエス様に明け渡すと、私たちは平和や喜び、命を見つけます。イエス様に明け渡すと、何も失わないのです。むしろ、私たちはすべてを得るのです。

あなたはどうでしょうか。正当な王に明け渡しますか。

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詩篇

幸いな道

それでは、詩篇を始めます。実は、すでにいくつかの詩篇について書きました。つまり、ダビデの人生に関係がある詩篇についてすでに書きました。

だから、もし詩篇がスキップされたと思うなら、そのことを思い出してください。そして、詩篇のためにメニューを作ったので、どうぞ使ってください。

詩篇1篇で、詩人は幸いな道について話します。どのように神様の祝福を見つけられるでしょうか。

私たちはどこを歩くか、どこに座るか、どこに立つか気を付けなくてはなりません。

詩人はこう書きました。

幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。(詩篇1:1)

つまり、あなたはだれと付き合うでしょうか。誰の模範に従っているでしょうか。どの道に立っているでしょうか。

もちろん、私たちはすべてのノンクリスチャンを避けることはできません。それは無理ですし、彼らを避けると、彼らにイエス様について話せなくなってしまいます。

けれども、私たちは自分自身にこの質問をするべきです。

「彼らは私たちに影響を与えているだろうか。もしくは、私は彼らに影響を与えているだろうか。

私たちは彼らの態度を取っているだろうか。もしくは、彼らは私たちの態度を取っているだろうか。

私たちは彼らの道を行き始めているだろうか。もしくは、彼らは私たちの道を歩き始めているだろうか。」

この詩人のポイントは、私たちが不敬虔な人に影響されるべきではない、ということです。むしろ、私たちは神様の御言葉に影響されるべきです。詩人はこう書きました。

まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。(2)

毎日、私たちは神様の言葉に浸るべきです。できれば、私たちは神様の言葉を読むべきです。

散歩するとき、電車に乗る時、運転するとき、家事をするとき、私たちは神様が教えていることを思い出し、そのことをもっと深く考えるべきです。

また、聖書を読むとき、私たちは「神様、あなたは私に何を言っておられますか」と訊くべきです。

そうすれば、私たちは、

水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。(3)

その木が水をもらうために、わざとその水路の近くに植えられました。その木は水路の近くにあるので、時が来ると実がなり、栄えます。

とはいえ、私たちは決して問題がないわけではありません。ヨブは、この詩篇の人のように生きましたが、彼はかなり苦しんでいました。

しかし、6節には、こう書いてあります。

まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。(6)

時々、ヨブは神様が彼を捨てたと思いましたが、神様は決して彼を捨てませんでした。神様はまだヨブを見守っておられました。サタンはもっと酷いことをしたかったのです。サタンはヨブを殺したかったけど、神様はそれを許しませんでした。

結局、ヨブはその水路のそばにいたので、回復されて、もう一度実を結びました。

だから、私たちはどこに立つか、どこに座るか、どこを歩くか、気を付けましょう。そして、私たちに本当の命を与える神様の霊で満たされましょう。

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マラキ書

私たちが神様に聞かないと

神様はイスラエル人を責められた後で、彼らに警告されました。

つまり、裁きの日が来ることを警告されます。もし彼らが罪を犯し続けるなら、彼らは裁かれ、救いの希望はなくなります。根も枝も残らない木のように、彼らは滅び尽くされます。

けれども、主を恐れる人には、この世で受けた傷のすべてが癒されます。悪はすべて消え、決して戻りません。だから、彼らの喜びは決して取り去られることはありません。

だから、神様は彼らにこう言われました。

あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めである。(マラキ書4:4)

つまり、「裁きの日が来るので、私が言ったことを覚えていなさい。私の命令に従いなさい。」

もちろん、私たちはもうモーセの律法の下にはおりません。しかし、神様は私たちに命令を与えてくださいました。それは何でしょうか。ヨハネが私たちに教えてくれます。

神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。(第一ヨハネ3:23)

そして、マラキはエリヤの到来を預言します。以前言ったように、バプテスマのヨハネはその預言を成就しました。彼はイエス様の道を整えました。そして、神様はヨハネの到来に関して、こう警告されました。

彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。(6)

2章で、私たちはイスラエル人の結婚の決裂を見ました。イスラエルの主人たちは妻を離婚し、この箇所によれば、父子の関係も決裂していました。私たちの社会のように、その二つの問題は関係があると思います。

マラキ書2章で、神様が言われたように、結婚の一つの目的は神様の子孫が生まれることです。つまり、その子どもは神様に従うのです。

けれども、結婚と家族が壊れたので、父子の関係も壊れ、その子どもの神様との関係も壊れました。

だから、その世代では、親も子どもも神様に聞かず、神様に従わないので、神様の呪いが来ていました。

そのように、この社会が悔い改めないと、結局神様の呪いがこの地を打ち滅ぼします。

あなたはどうですか。どんな心を持っているでしょうか。神様の御言葉に向かっている心を持っているでしょうか。それとも、神様の御言葉を無視しているでしょうか。

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マラキ書

虚しい?

神様に従う私たちの信仰の旅路において、失望を感じる時もあります。そのような時に注意しなければ、私たちは苦々しくなり、皮肉な態度を取ってしまうかもしれません。

イスラエルの民も同じようになりました。彼らは次のように言いました。

神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。

今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行なっても栄え、神を試みても罰を免れる。(マラキ書3:14-15)

彼らは、神様が求められたことを行っていたと思ったかもしれません。彼らは安息日に主の宮に行き、いけにえを捧げ、モーセの律法によって定められた祭りを祝いました。

けれども、彼らは神様の祝福を見ることができませんでした。むしろ、神様に従わない人々が繁栄するのを目の当たりにしました。

だから、彼らはこう言いました。「神様に従うことに何の利益があるだろうか。神様に仕えることは虚しい。」

しかし、彼らの問題の一部は、さまざまな宗教的な行いをしても、それらを心から行っていなかったということです。以前、私たちが読んだように、彼らは足のなえたものや病気の動物をいけにえとして捧げました。

それに、神様のすべての命令に従うのではなく、どの命令に従うかを選んでいました。だから、十一献金をきちんと捧げませんでしたし、多くの指導者たちは偶像礼拝する外国人と結婚してしまいました。

それにもかかわらず、彼らは図々しくこう言いました。「あなたが命じた通りに私たちはしたのに、なぜあなたは私たちを祝福してくださらないのですか。」

私たちも同じようなことをするでしょうか。正しいことをしているつもりでも、それを心からしていない。「神様に従っている」と言いながら、実際にはどの命令に従うかを自分で選んでいます。

それでも、「なぜ神様が私を祝福してくださらないのでしょうか」と不満を口にします。

とはいえ、時には、私たちが本当に心から神様に従っているのに、まだ神様の祝福を感じられないこともあります。だから、私たちは「どうして?」と尋ねます。その時、神様は私たちに何と言われるでしょうか。

そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。

「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる――

わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。

あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。(16-18)

つまり、「私はあなたを見て思い出します。私に忠実に仕える者は、私の宝となります。裁きの日には、彼らは恥じることなく私の前に立つことができます。その一方、不実な者は裁かれるでしょう。」

私たちががっかりしてしまう時には、どうすれば良いでしょうか。苦々しく皮肉な者にならないためには、何をすべきでしょうか。

おそらく、最も重要なことは、クリスチャンとの交わりを大切にすることです。あなたの感情を兄弟姉妹と分かち合いましょう。フラストレーションをシェアし、彼らの意見に耳を傾けてみてください。

彼らは、あなたの不実な部分を指摘するかもしれません。また、彼らはあなたを励ますかもしれません。そして、神様の忠実さや将来の報いを思い出させてくれるかもしれません。

けれども、私たちの苦々しく皮肉な思いが、私たちを神様から引き離すことのないようにしましょう。むしろ、イエスに目を留め、最後まで従い続けましょう。

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マラキ書

十一献金

このブログを見た時、「どうして十一献金について書いているのだろう。それは旧約聖書の律法であり、新約聖書にはクリスチャンが十一献金を捧げるべきだとは書かれていない」と考える人もいるかもしれません。

それは確かにその通りです。マラキがイスラエルの民に語った際、彼が話していたのはモーセの律法の下にいる人々でした。

時折、人々はアブラハムがメルキゼデクに十一献金を捧げた出来事を指摘します。

彼らの主張は、ヘブル人への手紙によれば、メルキゼデクがイエス様の象徴であり、さらにアブラハムがモーセの律法以前に十一献金を捧げたことから、クリスチャンも十一献金を捧げるべきだということです。

もしヘブル人への手紙の著者が、クリスチャンが十一献金を捧げるべきだという主張をしているのなら、私はその考えを受け入れるでしょう。

しかし、著者の主張は実際には、イエス様の祭司職がアロンの祭司職よりも優れているという点にあります。

したがって、この箇所を根拠にして「クリスチャンは十一献金を捧げるべきだ」と言うのは少し行き過ぎた解釈だと思います。

それでも、この箇所から献金についての原則を学ぶことができます。この原則はクリスチャンにも適用されます。

第一に、神様はクリスチャンに教会を献金で支えるように命じています。特に私たちの牧師を献金で支えることが求められています。

前述したように、ネヘミヤの時代、イスラエルの民がレビ人を支えなかったため、レビ人は主の宮での務めを諦めざるを得ませんでした。自分の家族を養うために、彼らは田畑に戻り働かなければならなかったのです。

もし私たちの牧師が家族を支えるためにアルバイトをしなければならない状況に置かれるなら、どうなるでしょうか。牧師は疲れ果て、その家族も疲弊するでしょう。

そして牧師が教会の務めに集中できない結果として、私たちも影響を受けることになります。

だからこそ、パウロはこう言いました。

よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。

聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない」、また「働き手が報酬を受けることは当然である」と言われているからです。(第一テモテ5:17-18)

それは新約聖書の教えです。

さらに、第一コリント9:7-12によれば、パウロとバルナバは自分たちのミニストリーのために報酬を受け取ることをしませんでした。むしろ、彼らは別の仕事をして自分自身を支えました。

それでも、パウロが主張したのは、「私たちはミニストリーの働きのために給料を受け取る権利を持っている」ということです。

それゆえ、マラキ書では神様がイスラエルの民に次のように言われました。

十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。(マラキ書3:10)

その食べ物は神様のためではありません。神様は食べ物を必要とされないからです。それは、宮で働いていた祭司たちとレビ人たちのためのものでした。

もう一つ重要なポイントがあります。時々、クリスチャンはこう言います。「これは私のお金です。だから、もし十一献金が神様の命令でないなら、私は教会に何も与えません。」

しかし、心に留めてください。クリスチャンであるあなたの人生は神様のものです。あなたは、イエス様が代価を払って買い取られた者です。その代価は十字架で流されたイエス様の尊い血です。

だから、あなたの持ち物は、実のところキリストのものです。あなたはイエス様から託された管理人です。

つまり、あなたのお金はあなた自身のものではありません。それは神様のものです。

タレントのたとえ話(マタイ25:14-30)から、その真理を学ぶことができます。

多くのクリスチャンがこの話を読むとき、霊的な賜物について考えます。けれども、神様は私たちにお金を儲ける能力も与えてくださっています。だから、私たちがそのお金をどのように使うのかを神様は問われます。

イスラエルの民がその真理を思い出すために、神様は彼らに悪い作物を与えられました。そして、神様は彼らにこう言われました。

「あなたたちは私のものを取り、それをただ自分自身のために使っています。だから、あなたたちは苦しんでいる。

しかし、もしあなたたちがそのものが本当に私に属することを覚えていたなら、私はあふれるばかりの祝福をあなたたちに注いでいたことでしょう。」

あなたはどうですか。あなたは自分のお金があなた自身に属すると考えていますか。ただ自分の目的のために使っていますか。

あなたが誰に属しているかを思い出しましょう。そして、あなたのお金が神様に属していることを心に留めましょう。

10%が神様のものなのではありません。100%が神様のものです。

そのお金を神様の目的のために使っていますか。

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正義はどこだろうか

多くの人々は、「もし神様が良いお方なら、どうしてこの世に悪があふれているのだろう。もし神様が正義の神なら、この世の正義はどこにあるのだろう」と問いかけます。

その疑問は決して新しいものではありません。マラキの時代にも、イスラエルの民は同じ質問を神様に投げかけました。そして、神様はこう言われました。

あなたがたは、あなたがたのことばで主を煩わした。しかし、あなたがたは言う。「どのようにして、私たちは煩わしたのか。」

「悪を行なう者もみな主の心にかなっている。主は彼らを喜ばれる。さばきの神はどこにいるのか」とあなたがたは言っているのだ。(マラキ書2:17)

神様は彼らの文句に、どのように答えられたのでしょうか。

「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。

あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と万軍の主は仰せられる。(3:1)

つまり、「あなたたちは、私がどこにいるのかを訊いています。あなたたちは、なぜ私がこの世の不正義を扱わないのかを問うています。けれども、私はすぐに来ます。あなたの宮に、私は現れます。」

イエス様がこの世に来られたとき、その預言が成就しました。また、イエス様の道を整えた使者はバプテスマのヨハネでした。

しかし、神様は心に刺さるような質問をされます。

だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現われるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。(3:2)

つまり、「あなたは私が来て正義を行うことを待っています。あなたは私が遅いと文句を言っています。けれども、私が来る準備ができているでしょうか。

私が来るとき、銀と金を清める火のように来ます。また、私はすべての罪を清める灰汁のように現れます。

私が来る時、あなたはその前に立つことができるでしょうか。」

そして、神様はご自身に属する祭司たちにこう言われました。(クリスチャンとして、あなたが神様の祭司であることを思い出してください。)

「私はあなたを清め、製錬します。」

けれども、神様はこう言われました。

「わたしは、さばきのため、あなたがたのところに近づく。

わたしは、ためらうことなく証人となり、呪術者、姦淫を行なう者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人をしいたげ、やもめやみなしごを苦しめる者、在留異国人を押しのけて、わたしを恐れない者たちに、向かう。――万軍の主は仰せられる――」(3:5)

つまり、「裁きの日が来ます。罪を犯す者はすべて裁かれます。だから、もう一度私は尋ねます。あなたはその日のために準備ができているでしょうか。」

だから、人が神様の正義を疑う時、こう伝えてください。

「まず、あなたが何を言っているかをよく考えてみてください。あなたは神様がすべての悪を取り除くことを望んでいますか。

もし、あなたの中に小さな悪があったとしても、それも取り除かれるべきです。

あなたは完全な人間ですか。過去に悪いことをしたことがありませんか。あなたは自分自身が裁かれることを本当に望むのでしょうか。」

では、なぜ神様はまだこの世を裁いていないのでしょうか。それは、神様が可能な限り多くの人々が悔い改めることを待っておられるからです。

だから、神様はこう言われます。

主であるわたしは変わることがない。ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない。

あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。(3:6-7)

つまり、「あなたたちは、長い間ずっと私の命令を破り続けてきました。そのため、本来ならあなたたちはすでに裁かれ、滅びていたはずです。

しかし、私は忍耐強く、憐れみ深い神であるがゆえに、あなたたちはまだ滅びていないのです。

ただし、私の忍耐を不正義と混同してはなりません。裁きの日は必ずやって来るのです。」

あなたはその日のための準備ができていますか。

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妻を裏切る

多くの人々にとって、離婚は本当に辛いトピックです。

アメリカでは、離婚率は約50%と言われています。クリスチャンの結婚でも、離婚率はほぼ同じくらいです。

一方、日本では離婚率は比較的低いものの、徐々に上昇傾向にあります。

この箇所では、神様は二つの重要なことについて語られます。まず最初に、神様はこう言われました。

私たちはみな、ただひとりの父を持っているではないか。ただひとりの神が、私たちを創造したではないか。なぜ私たちは、互いに裏切り合い、私たちの先祖の契約を汚すのか。

ユダは裏切り、イスラエルとエルサレムの中では忌まわしいことが行なわれている。まことにユダは、主の愛された主の聖所を汚し、外国の神の娘をめとった。(マラキ書2:10-11)

エズラ記とネヘミヤ記によると、祭司たちと他の指導者たちまでもが外国人と結婚し始めました。

では、なぜそれが大きな問題だったのでしょうか。それは、その外国人が再びイスラエル人を偶像礼拝へと導いていたからです。

偶像礼拝の結果、以前イスラエル人はバビロンに追放されるという辛い歴史を経験しました。

ネヘミヤはその状況を目の当たりにして、激しい怒りを覚えました。そして、イスラエル人を厳しく叱責しました。

イスラエルの王ソロモンは、このことによって罪を犯したではないか。多くの国々のうちで彼のような王はいなかった。

彼は神に愛され、神は彼をイスラエル全土を治める王としたのに、外国の女たちが彼に罪を犯させてしまった。(ネヘミヤ記13:26)

ネヘミヤのポイントは何だったのでしょうか。

それは、神様に従わない人々の影響によって、たとえ強い信仰を持つ者であっても神様に不実になる可能性があるということでした。

だからこそ、クリスチャンがノンクリスチャンと結婚することは非常に危険なのです。そのため、神様はイスラエルの民に偶像礼拝をしている人々と結婚することを禁じられました。

しかし、その結婚に関してはさらに深刻な問題がありました。そのことについて、マラキはこう言いました。

あなたがたはもう一つのことをしている。あなたがたは、涙と、悲鳴と、嘆きで主の祭壇をおおっている。主がもうささげ物を顧みず、あなたがたの手から、それを喜んで受け取らないからだ。

「なぜなのか」とあなたがたは言う。

それは主が、あなたとあなたの若い時の妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。(マラキ書2:13-14)

イスラエル人は、「どうして神様は私たちに反対するのだろうか。どうして神様は私たちの捧げ物を喜んで受け取らないのだろうか」と疑問に思いました。

神様はその理由をはっきりと説明されました。

それは、彼らが偶像礼拝をする人々と結婚しただけでなく、そのために、自分の妻を裏切り離婚してしまったからです。

しかし、妻との誓いを破る時、彼らは神様も裏切ることになったのです。なぜなら、彼らは神様の前でその誓いを立てたからです。そのため、神様は「私はあなたとあなたの妻との証人だ」と言われました。

また、神様はこう言われました。「私が結婚を作りました。あなたが結婚した時、私はあなたとあなたの妻を一体に造りました。だから、夫と妻は互いに属し合い、そして神様にも属します。」

ヘブル語での15節の意味は少し複雑です。英語の翻訳をいくつか比較すると、さまざまな解釈が見られます。

おそらく日本訳での理解は次のようになるでしょう。神様はアダムとエバを造られた時、結婚によって彼らを一体にされました。(創世記2:24)

その一体の中に神様の霊が宿っていました。そして、彼らが望んでいたのは、また神様が望んでいたのは、「神の子孫」でした。

アダムとエバの希望は、彼らの子孫を通して救い主が来ることでした。(創世記3:15)だから、彼らは神様に従う子供たちを望んでいました。

さらに、神様の計画によれば、親たちを通して子供たちは神様がどのような方であるかを知り、どうやって神様と強い関係を築くことができるかを学ぶのです。

しかし、離婚は子供にとても悪い影響を与えます。離婚は子供の結婚観や神様に対する考え方を歪めてしまいます。

神様はご自身を私たちの天の父として示されます。けれども、離婚の場合、多くの子供たちはそれを正しく理解することができません。なぜなら、彼らは自分の父親とほとんど会うことができないからです。

そのため、「神様は私たちの天の父だ」と聞いた時、悪いイメージを抱いてしまいます。彼らは「神様は約束を守らない。私が神様を必要とする時、神様は決してそこにいない」と感じるのです。

そして、神様は離婚についてご自身の感情を明確に語られます。

「わたしは、離婚を憎む」とイスラエルの神、主は仰せられる。(16)

新改訳聖書において、次の言葉はこのように訳されています

「わたしは、暴力でその[夫の?]着物をおおう」と万軍の主は仰せられる。(16b)

その翻訳は、少しわかりにくいかもしれません。けれども、おそらく、その意図するところは、神様がその夫を裁くことだということでしょう。

一方、口語訳は英語の翻訳により近いものとなっています。

(わたしは、)しえたげ(つまり、虐げ/暴力)をもってその衣をおおう人を憎むと、万軍の主は言われる。(16b)

どの翻訳においても、神様の要点は非常に明確であると言えます。神様は離婚を憎まれます。姦淫を憎まれます。妻への虐待を憎まれます。そして、妻を裏切ることをも憎まれます。

興味深い点として、神様は妻ではなく夫を責められることがあります。おそらく、その理由の一つは、その時代において夫だけが離婚を行う権利を持っていたからでしょう。

けれども、もう一つ別の理由として考えられるのは、神様が結婚を守る主な責任を夫に託しておられるということです。聖書を通じて、この原則を見いだすことができます。ペテロは次のように書きました。

同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。

それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。(第一ペテロ2:16)

マラキの時代、夫たちは妻を離婚したり、妻を虐待したりしていた可能性があります。そのため、神様は彼らを厳しく叱責されました。

あなた自身はいかがでしょうか。あなたは妻を裏切るような行為をしていませんか。また、あなたは夫を裏切るような行動を取っていませんか。

私たちの伴侶に忠実でいましょう。そして、私たちを結び合わせてくださる神様に誠実に歩み続けましょう。

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マラキ書

祭司としてのあなたの役割

あなたはこのタイトルを見て、「私は祭司じゃない。この箇所は私には無関係だ」と思うかもしれません。

けれども、もしあなたがクリスチャンであるならば、あなたは神様の祭司です。ペテロは私たちについて次のように語りました。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。

それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(第一ペテロ2:9)

だから、クリスチャンとして、マラキ書2章は私たちにも深く関連があります。

この箇所で、神様は祭司たちを責められました。なぜなら、彼らは神様から与えられた務めを忠実に果たしていなかったからです。

しかし、他のユダヤ人と同様に、彼らの最大の問題は、自分の人生で神様を敬わなかったことにありました。

それにもかかわらず、彼らは祭司であったため、神様は特に厳しく彼らを責められました。祭司として、彼らには他のユダヤ人よりも大きな責任があったのです。

その中で、神様は祭司たちと結んだ契約について語られました。その契約は「いのちと平和である」契約でした。(申命記25:12-13)

そして、神様は彼らにこう言われました。

わたしの彼との契約は、いのちと平和であって、わたしは、それらを彼に与えた。それは恐れであったので、彼は、わたしを恐れ、わたしの名の前におののいた。

彼の口には真理の教えがあり、彼のくちびるには不正がなかった。平和と公正のうちに、彼はわたしとともに歩み、多くの者を罪から立ち返らせた。

祭司のくちびるは知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。彼は万軍の主の使いであるからだ。(マラキ書2:5-7)

神様の祭司として、神様は私たちに何を求めておられるのでしょうか。神様は私たちにその答えをはっきりと教えてくださいます。

まず第一に、私たちは神様を恐れ、神様の名前におののくべきだということです。つまり、私たちは神様を深く敬うべきなのです。

確かに、神様は私たちを友と呼んでくださいますが、神様は私たちの友達だけではありません。昨日のブログで述べたように、神様は私たちの王であり主でもあります。

クリスチャンの牧師ゴードン・マクドナルドはこう語りました。「私が少しでも神様を恐れることをやめた時、最悪の罪を犯してしまいました。」

神様の祭司として、私たちはそのようになってはいけません。

第二に、私たちは平和と公正のうちに神様と共に歩むべきだということです。このことは、第一のポイントから自然に導かれます。もし私たちが神様を深く敬うならば、平和と公正のうちに神様と共に歩むことができるでしょう。

残念ながら、マラキの時代の祭司たちはそうしませんでした。彼らは神様を恐れることをやめてしまったため、自分たちの要らなくなった足の不自由なものや病気のものをいけにえとして捧げました。

では、神様の祭司として、私たちの役割は何でしょうか。

それは、周りの人々に神様の道を教えることです。私たち自身がその道を歩むことで、周りの人々が私たちの生き方を通して神様を見ることができるようになるはずです。また、彼らが私たちを通じて神様の御教えを求めるようになるでしょう。

けれども、私たちが神様を深く敬わなければ、彼らはそのようにはしないでしょう。

さらに、私たちの唇は神様の言葉を守るべきです。

ただし、私たちが神様の言葉を知らなければ、そうすることはできません。だからこそ、私たちは神様の言葉を学び続ける必要があります。その結果、私たちは知っていることを周りの人々と分かち合うことができます。

この役割は牧師だけのものではありません。あなたも神様の祭司ですから、それはあなた自身の役割でもあります。

そして、私たちは周りの人々を罪から立ち返らせるべきです。彼らが罪に陥り、悪い道を進んでいる時、私たちはそれを見て見ぬふりをしてはなりません。私たちは彼らに警告を与えるべきです。

彼らがその警告を受け入れるかどうかは分かりません。場合によっては無視されるかもしれません。それでも、神様は私たちが彼らに警告を与えることを命じておられます。(エゼキエル記33:7-9)

マラキの時代の祭司たちは大いに失敗しました。彼らはユダヤ人を罪から立ち返らせず、神様の道を教えませんでした。むしろ、彼らの教えによってユダヤ人はつまずいてしまいました。

さて、あなた自身はどうでしょうか。あなたはどのような祭司でしょうか。

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マラキ書

神様が値するもの

この箇所で、私たちはユダヤ人の主な問題を目にします。その問題はユダヤ人のすべての行動に影響を与えました。

では、その問題は何だったのでしょうか。それは、彼らが神様を敬わなかったことです。神様に対する畏れを全く持っていませんでした。神様は大いなる方であり、大いなる王であるにもかかわらず、ユダヤ人はそのようには考えていなかったのです。

そのため、神様は彼らにこう問いかけられました。

子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。(マラキ書1:6)

驚くべきことに、祭司たちはこう尋ねました。「一体何を言っているのでしょうか。どのように私たちはあなたを敬わなかったのでしょうか。どのように私たちはあなたの名前を軽んじたのでしょうか。」

おそらく、彼らはこう考えたのでしょう。「私たちはきちんと仕事をしている。いけにえも捧げている。やるべきことはやっている。この上、神様は一体何を求めておられるのだろう。」

けれども、神様はこう答えられました。

あなたがたは、盲目の獣をいけにえにささげるが、それは悪いことではないか。足のなえたものや病気のものをささげるのは、悪いことではないか。

さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたをよみし、あなたを受け入れるだろうか。――万軍の主は仰せられる――(8)

神様は律法をモーセとイスラエルの民に与えた際、いけにえには傷のない健康な動物を求められました。

ところが、ユダヤ人は神様を敬わず、自分たちが要らない足の不自由なものや病気のものをいけにえとして捧げました。

そのため、神様はこう言われました。

「あなた方は、総督を私以上に敬っている。私はあなたの王であるにもかかわらず。あなたの総督は最も良い物しか受け入れないのに、どうして私がこのような劣った物を受け入れると思うのだろうか。」

それに対し、ユダヤ人はこう言いました。

主の食卓は汚れている。その果実も食物もさげすまれている。。。見よ。なんとうるさいことか。(12-13)

彼らは愛を持って捧げ物をすることはありませんでした。むしろ、捧げ物をすることは彼らにとって面倒な義務となっていました。その結果、彼らは神様を敬わず、その行動によって神様を軽んじました。

しかし、神様は彼らにこう言われました。

わたしが大いなる王であり、わたしの名が諸国の民の間で、恐れられているからだ。(14)

あなた自身はどうでしょうか。神様についてどのように考えているでしょうか。私たちは、神様との関係の中でバランスを取ることが必要です。

イエス様は、「わたしはあなたがたを友と呼びました」と語られました。(ヨハネ15:15)

多くのクリスチャンにとって、その真実は心を打つものです。王の友となることは素晴らしい特権です。

けれども、私たちはイエス様が大いなる王であることを忘れてはなりません。イエス様は私たちの王として、私たちの敬いを受けるにふさわしい方です。

ですから、私たちは最も良いものをイエス様に捧げるべきです。それは、私たちのお金だけではなく、私たちの時間や人生も含まれます。

あなたは、神様に何を捧げているでしょうか。神様がふさわしいとされる敬いを捧げているでしょうか。

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マラキ書

神様の愛を疑う

マラキ書は旧約聖書におけるイスラエルの歴史の締めくくりとなる書です。

以前述べたように、マラキ書が正確にいつ書かれたのかは明確ではありません。けれども、主の宮が建て直された後に書かれたものと考えられます。したがって、おそらくマラキ書はエズラとネヘミヤの時代に記されたものでしょう。

エズラ記とネヘミヤ記を通して、私たちはイスラエルの民が直面していた多くの問題を読みました。特に、ネヘミヤ記13章では彼らの抱えていたさまざまな問題が詳しく描かれています。

マラキも、これらの問題についてイスラエルの民を責めました。

その冒頭で、神様は非常に印象的な言葉を語られます。

わたしはあなたがたを愛している。(マラキ書1:2)

私たちの多くは愛を求めています。残念なことに、多くの人々はその愛を決して見つけることができません。

しかし、もし神様を求めるならば、それはただの愛ではなく、永遠に続く絶えることのない愛を見つけることができるでしょう。

わたしはあなたがたを愛している。

あなたがどんな苦しみを抱えていても、どんな罪を犯していても、どんな失敗をしていても、神様の愛は決して変わることはありません。

神様は過去においてもあなたを愛していました。

現在も、神様はあなたを愛しています。

そして、これからも永遠に、神様はあなたを愛し続けられるのです。

けれども、イスラエルの民はそのことを理解していませんでした。そのため、彼らは皮肉っぽく答えたのです。

どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。(2)

どうして、彼らはその質問をしたのでしょうか。それは、神様が彼らをご自身の国に導いたにもかかわらず、彼らの人生はまだ上手くいっていなかったからです。

ペルシャ帝国が依然としてイスラエルを支配しており、イスラエルの地はあまり繁栄していませんでした。彼らの作物の収穫は乏しく、日々の生活は余裕のない厳しいものでした。

私たちもどれほど神様の愛を疑うでしょうか。

「もしあなたが私を愛しておられるなら、なぜ私はこんなにも苦しまなければならないのでしょう。もしあなたが私を愛しておられるなら、なぜ私の人生はこんなにみじめなのでしょう。」

しかし、神様はご自身の愛を証明するために、イスラエルの民、そして私たちにこう言われます。

エサウはヤコブの兄ではなかったか。――主の御告げ――わたしはヤコブを愛した。わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の継いだ地を荒野のジャッカルのものとした。(2-3)

「エサウを憎み」というのはどういう意味でしょうか。神様が本当にエサウを憎んだのでしょうか。そうではありません。実際、神様はエサウを祝福されました。(創世記33:9)

とはいえ、神様がイエス様をこの世に送る計画を考えると、神様がエサウの家系ではなく、ヤコブの家系を選び、エサウの家系を断絶したことがわかります。

では、なぜでしょうか。ヤコブがエサウよりも良い人だったからでしょうか。

違います。実は、ヤコブは若い頃、詐欺師のような生き方をしていました。彼は神様の道を歩まず、自分勝手な道を選びました。(創世記25:27)

そして、その結果として悪い決断を重ね、自分の家を追われることになりました。

その時、神様はご自身をヤコブに現されました。それにもかかわらず、ヤコブは神様に自分の人生を捧げることをせず、神様と交渉しようとしたのです。(創世記28:20-22)

ヤコブは長い間、そのような生き方を続けました。それでも神様はヤコブを選び、愛し、彼の人生に働きかけ続けられました。

同じように、神様はイスラエルの民を愛されました。たとえ彼らが神様に不実であり、自分勝手な道を歩んでも、神様は彼らを愛し続けられました。

当然ながら、神様は彼らを懲らしめられました。そのため、彼らはバビロンに追放されました。けれども、彼らが破滅に値していたにもかかわらず、神様は彼らを憐れまれました。

一方、エサウの子孫も罪を犯し、破滅に値していました。しかし、エサウの子孫の場合、神様は彼らに彼らが値するものを与えました。すなわち、荒れ果てた地を与えられました。

神様が言われたのは次のようなことです。

「あなたに対する私の愛の証明を見たいのか。私はエサウの子孫には彼らが値したものを与えた。その一方、あなたには値するものを与えなかった。むしろ、あなたが値しない恵みを与えたのだ。」

私たちが神様の愛を疑う時、神様は同じことを言われます。私たちは神様の愛に値せず、また赦しにも値しません。しかし、神様は私たちが値しないにもかかわらず、イエス様を送り、私たちの罪のために死んでくださいました。

だから今、神様は私たちにこう語られます。「私はあなたを選んだ。私はあなたを救った。私は決してあなたを見捨てない。」

これが恵みです。これこそが神様の愛です。

パウロはこう言いました。

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ[た]。(エペソ1:4-8)

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ネヘミヤ記

私たちの感情がなくなると

私がハワイに住んでいた頃、時々教会で山のキャンプに行きました。そこで私たちは賛美したり、良いメッセージを聞いたりしました。だから、帰ると私は本当に情熱を持って神様に仕えようと思わされました。

しかし、日常生活に戻るとどうなったでしょうか。山のキャンプでは、神様が近くに感じられ、神様に触れることができるように思えました。

けれども、帰ると神様は遠くなったように感じ、情熱も失われてしまいました。結局、生活そのものが劇的に変わることはなかったのです。

この箇所で、ユダヤ人もそのような経験をしました。彼らは神様の慈しみを祝ったり、自分の罪を告白して悔い改めたり、神様の前で神様との契約を結んだりしました。その契約で、彼らは神様の命令に従うことを約束しました。

具体的には、偶像礼拝する外国人と結婚しないこと、安息日を守ること、祭司たちとレビ人を支えるために献金を捧げることを約束しました。また、神様の宮をなおざりにしないことも約束しました。

その時、皆は非常に感情的になり、ずっと神様に従おうと思いました。

そして、彼らは祭りを祝ったり、エルサレムの城壁の奉献式を行いました。

しばらくの間、すべてはうまくいきました。けれども、彼らの日常生活が始まりました。彼らの最初の熱意も燃えた感情も次第になくなっていきました。

さらに、ネヘミヤはバビロンに帰らなければなりませんでした。なぜなら、彼は再び王様に仕えなければならなかったからです。

そして、ある日、ネヘミヤがエルサレムに戻ると、何を見たのでしょうか。

ユダヤ人はもうレビ人を支えなくなっていたため、レビ人は自分の農地に帰っていました。

さらに、ユダヤ人は安息日に仕事をしたり売買をしたりしていました。

それだけでなく、彼らは偶像礼拝をする外国人と結婚し始めました。

その時、祭司たちは何をしていたでしょうか。全く何もしませんでした。

実際、ある祭司はユダヤ人の敵であるサヌバラテの娘と結婚しました。ユダヤ人がエルサレムの城壁を建て直していた時、サヌバラテはその仕事を止めようとしていたのに、その祭司はサヌバラテの娘と結婚したのです。

その祭司の父である大祭司エルヤシブは、他のユダヤ人の敵(彼も城壁を建て直すことに反対していた)トビヤのために、主の宮の庭で大きな部屋を一つ準備し、トビヤはそこに住んでいました。

ネヘミヤはそのことを見て本当に怒りました。彼はトビヤを追い出し、その部屋を清めて、神の宮の器物を穀物のささげ物や乳香といっしょに、再びそこに納めました。(13:9)

そして、エルヤシブの息子のことも、主の宮から追い出しました。

その後、ネヘミヤがユダヤ人を叱ったので、彼らは安息日に仕事をするのを止め、もう一度レビ人を支え始めました。

この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちが霊的に盛り上がった時、神様に「これからあなたに従う」と約束することは簡単です。

しかし、その感情がなくなった時どうするでしょうか。

神様は私たちの「山上の約束」にあまり感動しません。神様が知りたいのは、私たちが日常生活に戻った時、どうするかということです。

私たちはまだ神様のために生きるでしょうか。神様にまだ忠実に仕えるでしょうか。

それとも、私たちは自分の古い生活に戻るでしょうか。

主の宮、つまり私たちの体に悪いものが入ることを許すでしょうか。

この世のものと結婚しているでしょうか。それらのものは私たちを神様から引き離しているでしょうか。私たちの仕事やお金を、神様より優先するでしょうか。

あなたはどうですか。神様への情熱がなくなった時、あなたはどうしますか。

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ネヘミヤ記

私たちの不実さ、神様の恵み

この箇所では、ユダヤ人たちは神様の前に来て、自分の罪を告白しました。その祈りには、彼らの不実さと神様の恵みが表れています。

その祈りの初めに、彼らは神様が世を造られたことを思い出し、また、神様が新しい国を始めるためにアブラハムを選ばれたことを思い出しました。

そして、彼らは先祖がエジプトで奴隷だったけれど、神様が彼らを救い出してくださり、砂漠で導かれたことを思い出しました。

砂漠で、神様はいろいろな奇跡を行われましたが、その先祖たちはエジプトに戻りたがっていました。それに、本当の神様を礼拝せずに、彼らは偶像を作り、その偶像を神と呼びました。

それでも、神様は彼らに恵みを与えてくださいました。つまり、神様は彼らに水とパンを与えてくださり、彼らを導き続けられました。

そして、神様は先祖を素晴らしい土地カナンに導かれました。けれども、彼らは再び神様に背を向け、神様の預言者たちを殺し、偶像を礼拝しました。

だから、神様は彼らを敵に渡されました。しかし、彼らが苦しんで悔い改めると、神様は恵みによって彼らを救い出されました。ところが、彼らはすぐに自分の罪に戻り、結局バビロンに追放されました。

だから、ユダヤ人はこう祈りました。

「ご覧ください。私たちは今、奴隷です。あなたが私たちの先祖に与えて、その実りと、その良い物を食べるようにされたこの地で、ご覧ください、私たちは奴隷です。

私たちが罪を犯したので、あなたは私たちの上に王たちを立てられましたが、その王たちのために、この地は多くの収穫を与えています。

彼らは私たちのからだと、私たちの家畜を思いどおりに支配しております。それで私たちは非常な苦しみの中におります。」(ネヘミヤ記9:36-37)

彼らは悔い改めた心を持って、もう一度、神様の民として神様と契約を結びたいと願いました。彼らはこう言いました。

これらすべてのことのゆえに、私たちは堅い盟約を結び、それを書きしるした。そして、私たちのつかさたち、レビ人たち、祭司たちはそれに印を押した。(38)

私はこの話を読んだ時、神様の恵みは本当に不思議なものだと思いました。もし私が神様だったら、きっと彼らを諦めていたと思います。けれども、神様は決してそうされませんでした。

それに、神様はご自身が呼ばれた私たちを決して諦められません。

そのことを考えると、私は本当に嬉しくなります。なぜなら、イスラエル人のように、私は不実だからです。私の罪によって私は倒れることがありますし、私の心を堅くして、いろいろな悪いことをしてしまいます。

しかし、私は不実であるにもかかわらず、神様はいつも忠実な方です。また、神様は決して私を諦められません。そのことを心から感謝します。

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ネヘミヤ記

喜び

ユダヤ人は城壁の修理を完成した後、レビ記23章で神様が命じられたように、ラッパの祭りを祝いました。

その日、祭司エズラはユダヤ人に神様の律法の書を読みました。この箇所を読んだ時、いくつかのことが私の心に響きました。

一つ目は、彼らが神様を恐れ、その言葉を尊重したことです。エズラが律法の書を開いた時、ユダヤ人は皆立ち上がりました。そして、エズラが読み上げている間、彼らは注意深く聞きました。

また、エズラが神様をほめたたえた時、彼らは「手を上げながら、『アーメン、アーメン』と答えてひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝しました。」(ネヘミヤ記8:6)

私たちは神様をどれほど深く恐れているでしょうか。私たちは神様の言葉をどれくらい尊重しているでしょうか。

神様の前に来る時、へりくだる心を持っているでしょうか。私たちは注意深く神様の言葉に耳を傾けているでしょうか。それとも、すぐに心が他のことへと逸れてしまうでしょうか。

二つ目は、私たちには聖書を上手に教える人が必要だということです。8節にはこう書かれています。

彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。(ネヘミヤ記8:8)

現代においても、教会にはそのような人が必要です。つまり、聖書をはっきりと読んで、人々が理解できるように説明できる人が必要です。

三つ目は、ユダヤ人の反応です。彼らは神様の言葉を聞くと、すぐに泣きました。なぜなら、彼らは神様の律法を犯したことを知ったからです。また、彼らの苦しみは自分たちのせいであることを悟りました。

神様が私たちの罪を示されたら、私たちはどのように反応するでしょうか。私たちは泣いて、悔い改めるでしょうか。それとも、私たちの心はさらに堅くなるでしょうか。

最後のポイントは、神様が私たちが自分の悲しみに浸ることを望んでおられないということです。むしろ、神様は私たちが神様の喜びによって生きることを望んでおられます。ネヘミヤはユダヤ人にこう言いました。

悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。(10)

9-10章は、彼らが悔い改める時間でした。けれども、8章では、神様は彼らの失敗によって、悲しみに浸ることを望んでおられませんでした。むしろ、神様は彼らが神様の慈しみと忠実さを喜ぶことを望んでおられました。

私たちが罪を犯した時、へりくだって悔い改めるべきです。しかし、私たちの涙と後悔に浸らないようにしましょう。

むしろ、十字架を思い出し、イエス様が私たちの罰を受けてくださったことを思い出しましょう。神様の恵みと私たちの救いを思い出しましょう。そうすれば、私たちは神様の喜びをもう一度知ることができます。

私たちが自分の罪を悲しむだけのために、神様が聖書を与えたのではありません。私たちの喜びを取り去るために、聖書を与えたのでもありません。

神様が望んでおられるのは、私たちが神様と親しい関係を持ち、神様の愛と喜びを知ることです。イエス様はこう言われました。

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。(ヨハネ15:10-11)

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ネヘミヤ記

敵に対する警戒心

エルサレムの城壁の修理は完成しました。それでも、ネヘミヤは安心できませんでした。ネヘミヤは信頼できる二人の人物にエルサレムを治めるように命じました。ハナニとハナヌヤは特にエルサレムの防衛の担当でした。ネヘミヤは彼らにこう言いました。

太陽が高く上って暑くなる前に、エルサレムの門をあけてはならない。そして住民が警備に立っている間に、門を閉じ、かんぬきを差しなさい。

エルサレムの住民のうちから、それぞれの見張り所と自分の家の前に見張りを立てなさい。(ネヘミヤ記7:3)

その指示の理由は、皆が寝ている間や、皆が起きたばかりの時に、エルサレムが攻撃されないためです。また、人々が自分の家の近くの地域を守らなければならないのなら、彼らはきっと用心するでしょう。

私たちも用心するべきです。私たちの霊的な城壁を建て直し、信仰に堅く立っているかもしれません。しかし、私たちは警戒心を緩めることはできません。サタンはいつも私たちを倒す機会を待っています。

彼は本当に忍耐強いです。私たちがあまり気を付けないと、彼はすぐに私たちを攻めてきます。

ダビデとバテシェバの話は本当に良い例です。

だから、パウロはこう書きました。

ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(第一コリント10:12)

また、ペテロの言葉をいつも思い出しましょう。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。(第一ペテロ5:8)

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ネヘミヤ記

嘘、識別、と力

エルサレムの城壁の修理がほとんど完成されたので、もう一度ユダヤ人の敵はその働きを止めようと計画しました。彼らはそれが最後のチャンスだと分かっていました。

最初に、彼らはネヘミヤに言いました。「私たちは今まで喧嘩していたけれど、ここで話し合いましょう。」

しかし、ネヘミヤがエルサレムを去ると、彼らは彼を殺す計画を立てていました。ネヘミヤはそれを知っていたので、彼らに会うことを拒絶しました。彼らは四回ネヘミヤを誘いましたが、彼は四回拒絶しました。

それゆえ、彼らはネヘミヤに言いました。

諸国民の間に言いふらされ、また、ゲシェムも言っているが、あなたとユダヤ人たちは反逆をたくらんでおり、そのために、あなたは城壁を建て直している。

このうわさによれば、あなたは彼らの王になろうとしている。また、あなたはエルサレムで、自分について宣言させるために、預言者たちを任命して、『ユダに王がいる』と言わせている。

今にこのようなことが王に聞こえるであろう。さあ、来なさい。いっしょに相談しよう。(ネヘミヤ6:6-7)

多分、彼らはゼカリヤ書9章を読んで、その預言によってネヘミヤを責めました。

けれども、ネヘミヤはその冤罪を否定しました。なぜなら、彼は王になることを全く計画しておらず、王のサポートがあることを知っていたからです。その敵もそのことを知っていたので、結局、彼らは王に手紙を送りませんでした。

そして、その敵がある祭司を買収し、その祭司はネヘミヤにこう言いました。

私たちは、神の宮、本堂の中で会い、本堂の戸を閉じておこう。彼らがあなたを殺しにやって来るからだ。きっと夜分にあなたを殺しにやって来る。(10)

けれども、ネヘミヤは再び拒絶しました。なぜなら、彼がリーダーであり、もし隠れたら、人々の信頼を失ったかもしれないからです。

それに、神様の律法によれば、彼が聖所に入ることは禁止されていました。そうすれば、ユダヤ人の尊敬を失ってしまったでしょう。

そして、彼らはスパイをネヘミヤに送りました。彼らはユダヤ人の敵トビヤについていろいろな良いことを言いましたが、ネヘミヤは騙されませんでした。だから、トビヤは再びネヘミヤを脅しました。

しかし、その試練の時、ネヘミヤはこう祈りました。

ああ、今、私を力づけてください。(9)

神様はその祈りに応えてくださいました。ユダヤ人の敵の努力にもかかわらず、城壁の修理は完成されました。そして、ユダヤ人とその敵の皆は、神様の助けによって彼らがその修理を完成したことを認めました。

私たちはこの箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちが神様の働きをすることを止めるために、サタンは努力します。私たちに嘘をつき、私たちを誘惑し、攻撃します。

どのようにしてサタンと戦うことができるでしょうか。

神様からの知恵と識別が必要です。それらを得るために、私たちは毎日祈り、聖書を読むべきです。そうすれば、私たちは真理と嘘を見分け、神様の御心を知ることができます。

そして、サタンが私たちを脅して攻撃する時、ネヘミヤのように、私たちは神様の前に跪き、力を求めるべきです。

だから、私たちがこの世において神様の働きをする時、神様の知恵と識別と力を求めましょう。そうすれば、サタンは私たちを止めることができません。

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ネヘミヤ記

仲間割れ

サタンは外からの攻撃では、ユダヤ人がエルサレムの城壁を建て直すことを止めることができませんでした。そこで、彼は別の作戦を考えました。それは、ユダヤ人の間、特に金持ちと貧しい人々の間で仲間割れを引き起こすことでした。

その時、貧しい人々は非常に苦しい状況に置かれていました。飢饉があり、さらに税金を支払わなければならなかったため、食べ物を買う余裕がなかったのです。結果として、彼らは自分の田畑や家を売るしかありませんでした。

それでも食べ物が足りないため、最終的には自分の子供たちを奴隷として売らざるを得ませんでした。

ネヘミヤがその状況を深く考えたとき、彼が気づいたのは、この問題の原因が、おもだった者たちや代表者たちにあるということでした。彼らは、貧しい人々の困窮に付け込んで、お金をもうけようとしたのです。

神様の律法では、担保を取って金を貸すことは禁じられていました。神様はこう命じられました。

隣人に何かを貸すときに、担保を取るため、その家に入ってはならない。(申命記24:10)

それでも、貧しい者がローンを返せない時、重立った者たちや代表者たちはためらうことなく彼らの土地や穀物、さらには子供まで取り上げていました。

ネヘミヤが彼らを叱責した時、彼らは反論することができませんでした。結局、彼らは悔い改め、貧しい者から奪った全てのものを返しました。

ネヘミヤには総督として手当を受け取る権利がありましたが、ユダヤ人に負担をかけないように一切受け取りませんでした。それどころか、毎日、彼は150人を招待し、一緒に食事をしました。

さらに、彼は総督としてユダヤ人に威張り散らすことはせず、むしろ彼らと共に働きながら、城壁を建て直しました。

私たちはこの箇所から何を学べるでしょうか。

直接私たちを攻撃してもサタンが神様の働きを止められない場合、サタンは私たちが互いに攻め合うように仕向けます。もし私たちの一致が失われ、私たちが戦い合うことになれば、神様の働きを続けるための時間を失ってしまいます。

では、どのようにしてその状況を避けることができるでしょうか。私たちはネヘミヤのような心を持つべきです。すなわち、人に仕える心を持つべきなのです。

そのため、自分の利益だけを追い求めるのはやめてください。そのような態度は不一致を生み出します。むしろ、互いに愛によって仕え合いましょう。

パウロは次のように書いています。

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。

もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。(ガラテ5:13-15)

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ネヘミヤ記

反対に直面しても、私たちの人生を建て直す

ネヘミヤのリーダーシップによって、ユダヤ人たちは城壁の修理を始めました。けれども、すぐに彼らは敵からの反対に直面しました。

2章の最後では、その敵はユダヤ人たちを責め、彼らがペルシャに反抗するつもりだと非難しました。しかし、アルタシャスタ王の権威を受けてネヘミヤが城壁を修理していたため、その冤罪は消えました。

その結果、4章によると、敵はユダヤ人たちをからかいました。そして彼らはこう言いました。

この哀れなユダヤ人たちは、いったい何をしているのか。あれを修復して、いけにえをささげようとするのか。一日で仕上げようとするのか。焼けてしまった石をちりあくたの山から生き返らせようとするのか。。。

彼らの建て直している城壁なら、一匹の狐が上っても、その石垣をくずしてしまうだろう。(ネヘミヤ記4:2-3)

それでも、ユダヤ人たちは働き続けました。そこで、敵はさらに本気で反対し始め、ユダヤ人を攻撃すると脅しました。

その反対と働きの大きさによって、ユダヤ人たちはがっかりしてしまいました。そして彼らはこう言いました。

荷をになう者の力は衰えているのに、ちりあくたは山をなしている。私たちは城壁を築くことはできない。(10)

だから、ネヘミヤは行動を起こしました。労働者を守るために、城壁の背後にある低い場所の空き地に、剣や槍を持った人々を配置しました。また、労働者自身も剣を携えていました。

さらに、警報システムを設けました。つまり、彼らが攻撃を受けた際には角笛が吹き鳴らされ、皆が即座にその場に駆けつけて戦うというものです。

それは実用的な対策であると同時に、ネヘミヤはユダヤ人たちを励まし続けました。

彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。(14)

だから、彼らはその働きを続けました。

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

サタンの作戦は何一つ変わっていません。

私たちが霊的な城壁を建て直そうとすると、サタンは私たちを失望させようとします。彼はこう囁きます。「あなたは弱い人だ。あなたは決して変わらない。」

さらにこうも言います。「この哀れなクリスチャンたちは、一体何をしているのだろうか。本当に城壁を建て直すことができるのか。彼らの結婚を回復できるのか。自分の罪によって崩れたものを建て直すことができるのか。」

それでも、私たちが諦めないと、サタンは攻撃を仕掛けてきます。私たちを止めるために、試練や反対を送り込んでくるでしょう。

私たちはどう対応すべきでしょうか。

一つ目は、サタンが強いとしても、神様はもっと強いという事実を心に留めることです。神様は「大いなる恐るべき主」であり、私たちを助け、救い出してくださいます。

それでも、私たちも戦う必要があります。神様の武具を身にまとい、決してサタンの攻撃に屈してはなりません。

二つ目は、私たちには助け合う兄弟姉妹がいることを忘れないことです。信頼できるクリスチャンにあなたの戦いについて話し、祈りを頼みましょう。また、彼らの助けやサポートを求めるとともに、彼らが攻撃を受けているときには彼らを助け、支えましょう。

私たちが霊的な城壁を建て直す時、サタンは怒ります。しかし、サタンを恐れないようにしましょう。

むしろ、神様の力と周りの人々の支えによって、私たちが神様が計画されたように完全な人となるように。

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ネヘミヤ記

城壁を建て直す

ネヘミヤはエルサレムの崩れた城壁の修理について考えた時、それがどれほど大きな仕事になるかを理解しました。けれども、その仕事は非常に重要でした。その城壁が崩れている間、エルサレムは敵の攻撃に対して脆弱になってしまうからです。

エルサレムに到着してから3日間休みましたが、すぐに彼は城壁を調査しました。そして、ユダヤ人たちに城壁を修理する計画を伝えました。

ネヘミヤの言葉を聞き、王の支援について知ったユダヤ人たちは励まされました。そこで、彼らは一緒に城壁を建て直し始めました。

この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

まず一つ目は、エルサレムの城壁のように、私たちにも崩れた霊的な城壁が存在するということです。その城壁が崩れている間、私たちはサタンの攻撃に対して脆弱になります。

サタンは私たちを憐れむことはありません。なぜなら、私たちがクリスチャンになった瞬間に、彼の敵になるからです。だから、彼は私たちが倒れ、神様から離れるように私たちの弱い点を攻撃します。

短気な人もいれば、欲望と戦う人もいます。相手を許せない人もいれば、苦々しい心を抱える人もいます。これらは霊的な城壁の崩壊にあたります。もしクリスチャンとして完全になりたいなら、その城壁を修理しなければなりません。

ネヘミヤのように、私たちは神様の御言葉によって私たちの人生を照らし、崩れたところを調べなければなりません。どの誘惑に私たちは負けることが多いのでしょうか。サタンはどこで私たちを攻撃してくるのでしょうか。

サタンは愚かではありません。彼は私たちの強い部分を攻撃するのではなく、弱い部分を狙います。だからこそ、自分の城壁を調べて弱い部分を特定する必要があります。

二つ目は、王様が私たちの味方であり、城壁を修理するために必要な道具を与えてくださるということです。ペテロはこう言いました。

というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。(第二ペテロ2:3)

三つ目は、もちろん神様は私たちの味方ですが、私たちはクリスチャンの兄弟姉妹と協力し、一緒にその崩れた城壁を修理するべきだということです。ヤコブはこう書きました。

ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。(ヤコブ5:16)

つまり、私たちは互いに助け合うべきです。信頼できるクリスチャンを見つけて、自分の戦いを分かち合いましょう。彼らの祈りを求めましょう。また、彼らのためにも祈りましょう。

そうすれば、あなたたちの霊的な城壁は徐々に建て直されていくでしょう。

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エズラ記 ネヘミヤ記

心を変える力

以前言ったように、エズラ記は年代順に書かれていません。そういうわけで、エズラ記4:7-23はエズラ記の最後の出来事です。そして、その話はネヘミヤ記の最初の背景です。

エズラはアルタシャスタ王の許可をもらって、エルサレムに戻りました。その時、アルタシャスタ王はエズラにいけにえの捧げ物を買うために金と銀を与えました。そして、アルタシャスタ王はエズラにこう言いました。

また、残りの銀と金の使い方については、あなたとあなたの兄弟たちがよいと思うことは何でも、あなたがたの神の御心に従って行なうがよい。(エズラ7:18)

だから、そのお金を使って、エズラと他のユダヤ人たちはエルサレムの城壁を修理し始め、その礎も据え始めました。

けれども、彼らはすぐに反対に直面しました。

ユダヤ人の敵はアルタシャスタ王に手紙を送りました。その手紙の中で、彼らがアルタシャスタ王に伝えたのは、もしユダヤ人がその修理を完成すれば、きっとペルシャに反抗するだろうということです。それを証明するために、彼らはこう言いました。

あなたの先祖の記録文書をお調べになれば、この町が反抗的な町で、王たちと諸州に損害を与え、また昔からこの町で反逆が行なわれたことを、その記録文書の中に見て、おわかりになるでしょう。この町が滅ぼされたのも、そのためです。(エズラ4:15)

アルタシャスタ王はその記録文書を調べ、その意見に賛成したので、ユダヤ人にその働きを止めるよう命令しました。

それがネヘミヤ記の背景です。

数年が経ちましたが、アルタシャスタは依然としてペルシャを治めていました。エズラと他のユダヤ人が修理した城壁は再び崩れ、エルサレムの門も焼き払われたままでした。ですから、ユダヤ人の敵は彼らを簡単に攻撃できました。

ネヘミヤはアルタシャスタ王の献酌官でした。彼の仕事は、王に杯を持って行き、毒があるかどうかを確認するために先にその杯から飲むことでした。

それはシンプルな仕事のように見えますが、献酌官は非常に高位の官職でした。ネヘミヤは王に信頼されており、その影響力も大きかったのです。

ある日、ネヘミヤの親類の一人がエルサレムから来て、エルサレムの困難について伝えました。

それを聞いて、ネヘミヤは悲しみ、断食し、神様に祈りました。彼はユダヤ人の罪を告白し、王の好意を得るために祈りました。つまり、神様がアルタシャスタの心を変え、再びユダヤ人に好意を示してくださるように祈りました。

それは小さな願いではありませんでした。なぜなら、城壁の修理を止めるよう命令したのはアルタシャスタ自身だったからです。

しかし、神様はその祈りに応えてくださいました。

アルタシャスタはネヘミヤの悲しい顔に気づき、どうしたのか尋ねました。ネヘミヤはそれを聞いて怖がりました。なぜなら、ペルシャの法律によれば、王の前で悲しい顔をすることは死刑に値するかもしれなかったからです。

けれども、アルタシャスタはネヘミヤを尊敬していたので心配しました。

だから、ネヘミヤは速やかに祈り(おそらく、一時間もの祈りをする時間はなかったでしょう)、アルタシャスタにエルサレムの困難について話しました。

神様はアルタシャスタの心を変え、ネヘミヤは王の好意を得ました。なぜアルタシャスタの心が変わったのでしょうか。

もちろん、神様が王の心に働いたからです。でも、それだけではなく、おそらくアルタシャスタはネヘミヤの謙遜と忠実な働きを見続けていたので、ネヘミヤを信頼していたのです。

アルタシャスタは思ったかもしれません。

「もしネヘミヤがエルサレムの城壁を修理する責任を持っていたら、ユダヤ人はペルシャに反抗しないだろう。この忠実なユダヤ人は、他のユダヤ人がペルシャに反抗すると思ったら、こんな要望をしないだろう。」

だから、アルタシャスタはネヘミヤの望みを叶えました。

私たちはこの話から二つのことを学ぶことができます。

一つは、私たちが神様の国のためにつまらないと思うものが、最終的に非常に重要になるかもしれないということです。

ネヘミヤが献酌官として不実だったら、アルタシャスタはネヘミヤの要望を叶えなかったでしょう。しかし、ネヘミヤが忠実なしもべだったので、王は彼を信頼しました。

あなたは自分の仕事が神様の国に関係ないと思うかもしれません。けれども、忠実で上手に仕えることによって、周りの人々にクリスチャンがどのような人であるかを示すことができます。そして、あなたは彼らに影響を与えることができます。

その一方、あなたが不実で努力しないと、彼らにクリスチャンについて悪い印象を持たせてしまうかもしれません。

二つ目は、祈りには心を変える力があるということです。あなたは自分の夫、妻、上司、周りの人々を見て、彼らが全く変わることができないと思うかもしれません。しかし、彼らのために祈り、良い証を立てることで、神様は彼らの心に働かれます。

あなたは誰かの人生に変化を望んでいるでしょうか。キリストの弟子の模範となりましょう。彼らのために祈りましょう。そうすれば、神様は彼らの心に働かれます。

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エズラ記

この世のものと結婚する

この箇所は少し難しいです。なぜなら、神様は離婚を嫌うと言われる一方で、エズラは異邦人と結婚した男性たちに、その妻と別れるように命じ、その子供たちも追い出すように指示したからです。

どうしてエズラはそのようなことをしたのでしょうか。

一番重要な理由は、神様の律法によれば、その結婚が違法だったということです。神様はイスラエル人にはっきりと「カナン人と結婚してはならない」と命じられました。(出エジプト記34:15-16;申命記7:1-6)

では、どうして神様はその命令を与えられたのでしょうか。それは、神様がイスラエル人がカナン人の酷い行動を模倣することを望まれなかったからです。例えば、売春や子供をいけにえにすることなどが含まれます。

だから、神様の目にはその結婚は違法でした。

預言者マラキもこのことについて語りました。マラキがこれを書いた時期は不明ですが、おそらくエズラとネヘミヤの時代に記されたと考えられます。

マラキ書の中で、神様はこう言われました。

ユダは裏切り、イスラエルとエルサレムの中では忌まわしいことが行なわれている。

まことにユダは、主の愛された主の聖所を汚し、外国の神の娘をめとった。(マラキ2:11)

マラキはすぐに妻と離婚した男性たちを批判しました。

どうしてでしょうか。おそらく、その男性たちは外国の女性と結婚するために、自分のユダヤ人の妻と離婚したからです。その結果、神様の目には、その「結婚」は姦淫となり、本当に違法なものとなりました。

さらに、偶像礼拝している女性との結婚を通して、ユダヤ人はバビロンに追放される以前に犯していた罪を繰り返し始めてしまいました。(エズラ記9:1-2)

そのため、エズラはそのニュースを聞くと深く悲しみ、イスラエル人のために悔い改めの祈りを捧げました。彼はこう祈りました。

「私たちの悪い行ないと、大きな罪過のために、これらすべてのことが私たちの上に起こって後、――事実、私たちの神、あなたは、私たちの咎の受けるべき刑罰よりも軽く罰し、このようにのがれた者を私たちに残してくださいました――私たちは再び、あなたの命令を破って、忌みきらうべき行ないをするこれらの民と互いに縁を結んでよいのでしょうか。

あなたは私たちを怒り、ついには私たちを絶ち滅ぼし、生き残った者も、のがれた者もいないようにされるのではないでしょうか。

イスラエルの神、主。あなたは正しい方です。まことに、今日あるように、私たちは、のがれた者として残されています。

ご覧ください。私たちは罪過の中であなたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないのに。」(エズラ記9:13-15)

そのあとで、10章では、エズラはイスラエル人にその罪を清めるよう命じました。偶像礼拝をしている女性と結婚した男性たちは、その妻と子供を追い出さなければなりませんでした。

10章には、本当に印象的なシーンがあります。イスラエル人は大雨の中に座り、その罪のために泣いて悔い改めました。

この箇所から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

たとえあなたがノン・クリスチャンと結婚しているとしても、私は「離婚しなさい」と言うわけではありません。なぜなら、私たちはモーセの律法の下に生きているのではなく、恵みの契約の下に生きているからです。

さらに、パウロはこう教えました。

信者の男子に信者でない妻があり、その妻がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。

また、信者でない夫を持つ女は、夫がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。(第一コリント7:12-13)

むしろ、私たちは彼らの救いのために祈るべきです。彼らと結婚している間、神様は彼らの人生に働いて、救いの可能性を与えてくださるかもしれません。とはいえ、彼らの救いが約束されているわけではありません。(第一コリント7:14-16)

しかし、私たちは一つの原則を覚えておかなければなりません。それは、私たちがこの世の物と「結婚」すると、その物が私たちを神様から引き離してしまうということです。

時々、その外国の女性たちのように、その物は美しいかもしれません。けれども、その物に引っ付くと、私たちの心は神様から引き離されてしまいます。

お金と「結婚」する人もいます。彼らにとって、お金が一番大切なものです。

持ち物と「結婚」する人もいます。

力と「結婚」する人もいます。

もちろん、ノン・クリスチャンと結婚したい人もいます。だから、彼らは神様との関係を一時的に置いておいて、そのロマンチックな関係を求めます。

けれども、それは霊的な姦淫です。その行動によって、私たちは神様に「この物はあなたよりも大切だ」と言っているのです。

あなたはどうでしょうか。この世のものを愛しているでしょうか。その「結婚」は、あなたの神様との関係にどんな影響を与えているでしょうか。

そのようなものを、私たちの人生から追い出しましょう。

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エズラ記

神様の恵みの御手

今日、エズラ記に戻ります。アハシュエロス王は亡くなり(彼は側近に殺されました)、その息子アルタシャスタが王になりました。

その時、ペルシャに住んでいる祭司エズラは、ユダヤ人に神様の言葉を教えるためにエルサレムに帰ることを決心しました。

エズラ記7-8章では、何度も繰り返されるフレーズがあります。それは、「神様の御手」、または「神の恵みの御手」という表現です。

主の御手がエズラの上にあったので、王はエズラの願いをすべてかなえてくださいました。つまり、いけにえの捧げものを買うために銀と金を与え、小麦、ぶどう酒、油、塩を提供してくれたのです。(エズラ記7:6-20)

主の恵みの手によって、シェレベヤともう二人の人が来ました。そして彼らは他の人々を主の宮で仕えるために連れて行きました。(エズラ記8:18-20)

神の御手が彼らの上にあり、その道中、敵の手、待ち伏せする者の手から彼らを救い出してくださいました。だから彼らは無事にエルサレムに到着しました。(エズラ記8:31)

どうして神様の恵みの手が彼らの上にあったのでしょうか。エズラはアルタシャスタにこう言いました。

私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る。(エズラ記8:22)

エズラは心から神様を求めました。彼は真剣に神様の言葉を学び、すべての人が神様の言葉を知るようにと願いました。だから、神様は彼を祝福されました。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生の上に神様の御手が見えるでしょうか。もし見えないなら、その理由は何でしょうか。

あなたは心から神様を求めているでしょうか。あなたの人生の中心に神様がいらっしゃるでしょうか。朝起きた時、神様について考え、寝る前にも神様について思い巡らせるでしょうか。神様の働きと御言葉に専念しているでしょうか。

もしそうなら、神様は人々に触れるためにあなたの内に働き、あなたを通して働かれます。

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エステル記

周りの人の利益のために働く

エステル記10章には、アハシュエロス王とモルデカイの偉大さが描かれています。特に私の心を打つのは、3節です。

それはユダヤ人モルデカイが、アハシュエロス王の次に位し、ユダヤ人の中でも大いなる者であり、彼の多くの同胞たちに敬愛され、自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語ったから、自分の全民族に平和を語ったからである。(エステル記10:3)

多くの人々は、特権を得るためにリーダーになりたいと考えます。彼らは人に仕えられることを望みます。

もちろん、モルデカイは特権を得ましたし、人に仕えられました。しかし、彼にとって「リーダー」というのはもっと深い意味を持っていました。

つまり、本当のリーダーは人に仕えるのです。本当のリーダーは自分の利益だけを求めず、周りの人々の利益を求めるのです。本当のリーダーはその人々の世話をするのです。

エステル記4章には、モルデカイがエステルにそのように教えた記述があります。また、リーダーとしてモルデカイはそのように生きていました。

あなたはどうでしょうか。夫として、親として、教師として、上司として、リーダーとして、どのように生きていますか。自分のために生きていますか。周りの人々にあなたを尊敬するよう求めていますか。

それとも、周りの人々の利益のために働いていますか。

モルデカイは自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語ったことで尊敬されました。

私たちは周りの人々に尊敬を自分から要求することはできません。もし尊敬されたいのであれば、それを得るために行動しなければなりません。

もし、イエス様のように彼らを愛し、彼らの世話をするならば、その尊敬を得ることができるでしょう。

パウロはこう書きました。

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。(ピリピ2:3-4)

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エステル記

神様の慈しみを祝う

祝宴。喜び。祝い。

この箇所では、何度もこれらの言葉を目にします。なぜなら、ユダヤ人が自分たちを敵から自衛した後、その救いと勝利を祝ったからです。

そして、モルデカイとエステルは、イスラエルの歴史で初めて、モーセの律法によって要求されていない祭りを始めました。それがプリムという祭りです。その祭りを説明するとき、彼らはこう言いました。

また、この両日は、代々にわたり、すべての家族、諸州、町々においても記念され、祝われなければならないとし、これらのプリムの日が、ユダヤ人の間で廃止されることがなく、この記念が彼らの子孫の中でとだえてしまわないようにした。(エステル記9:28)

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。それは、私たちが神様の祝福と慈しみを決して忘れてはいけないということです。また、次の世代に神様の御業を伝えるべきだということです。

多くの場合、私たちが祈ると、神様はその祈りに応えてくださいます。私たちは感謝しますが、すぐにその祝福を忘れてしまうことがあります。

モルデカイとエステルは、ユダヤ人がその祝福を忘れることを望みませんでした。だからこそ、その新しい祭りを始めました。

同じように、神様があなたを祝福された時には、そのことを決して忘れないでください。例えば、その祝福について日記を書くのも良いでしょう。

または、祈りのリストを作ることもできます。そのリストがあれば、神様がどのように答えてくださったのかも記録してください。

そして、例えば、クリスマスの時、そのリストや日記を振り返り、何が書かれているかを読み返し、もう一度神様に感謝しましょう。そして、子供たちに神様がしてくださったことを教えるのも大切です。

けれども何よりも、イエス様がこの世に来て、私たちの罪のために死んでくださったことを思い出し、感謝しましょう。イエス様の働きを当たり前のこととして考えるのは簡単ですが、イエス様は私たちのために本当に高い代価を払われました。

だからこそ、特にクリスマスやイースターの時に、あなたの救いを喜び祝いましょう。しかし、それらの日だけでなく、一年を通して祝い続けましょう。

ダビデはこう書きました。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇118:1)

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エステル記

私たちを守ってくださる神

この箇所では、本当に劇的なシーンが描かれています。エステルは王に自分の国籍を告白し、ユダヤ人の命を請いました。

おそらく、その時点でエステルの恐れはほとんど消えていたのでしょう。それは、王がエステルに好意を示し、すでに2度こう言っていたからです。

あなたは何を願っているのか。王妃エステル。それを授けてやろう。何を望んでいるのか。王国の半分でも、それをかなえてやろう。(エステル記5:6,7:2)

それでも、彼女は王がまだハマンの計画を支持しているかどうか疑っていたかもしれません。

だからこそ、おそらく彼女が自分の民に迫っている危険について伝えた時、王の反応を聞いてほっとしたのでしょう。王は怒りながらこう言いました。

そんなことをあえてしようとたくらんでいる者は、いったいだれか。どこにいるのか。(7:5)

エステルがハマンの名前を口にした時、彼はショックを受けました。そして、突然彼は理解しました。「エステル女王はユダヤ人だ。」

王もそのことをすぐに理解しました。怒った王は、気持ちを落ち着けるために宮殿の園へと出て行きました。

その間に、ハマンは自分の命が危険にさらされているのを察し、エステルに近づいて命乞いをしようとしました。

けれども、エステルはハマンの意図を誤解した可能性があります。なぜなら、彼はユダヤ人の敵だったからです。それに、ペルシャの慣習では、男性が7歩以内に女王へ近づくことは禁じられていました。それでも、ハマンはエステルのすぐそばまで来ました。

ちょうどその瞬間、王が部屋に戻り、王もハマンの意図を誤解しました。おそらく、エステルの恐怖に満ちた表情を見た王は、激怒してこう叫びました。

私の前で、この家の中で、王妃に乱暴しようとするのか。(7:8)

その時、王のしもべの一人が王に申し上げました。

ちょうど、王に良い知らせを告げたモルデカイのために、ハマンが用意した高さ五十キュビトの柱がハマンの家に立っています。(7:9)

それを聞くと、王は答えました。

彼をそれにかけよ。(7:9)

その後、エステルはモルデカイを王のもとに連れて行き、王はモルデカイにハマンの立場を与えました。

エステルは再びユダヤ人の命を請いました。しかし、王はその律法を取り消すことはできませんでした。(たとえ王であっても、ペルシャの律法に従うべきでした。)

そこで王はエステルとモルデカイに新しい律法を作る許可を与えました。つまり、ユダヤ人には自衛する権利が与えられたのです。

ある学者は、その命令を日本語に翻訳しました。

つまり、

その中で王は、どこの町にいるユダヤ人にも、自分たちのいのちを守るために集まって、彼らを襲う民や州の軍隊を子どもも女たちも含めて残らず根絶やしにし、殺害し、滅ぼすことを許し、また、彼らの家財をかすめ奪うことも許した。(8:11)

それが正しい翻訳なら、その意味は、「ユダヤ人を襲う子供と女たちがいたら、彼らも殺されます」ということです。

しかし、おそらくその意味は、

その中で王は、どこの町にいるユダヤ人にも、自分たちのいのちを守るために集まって、彼ら(子どもも女たちも含めて)を襲う民や州の軍隊を残らず根絶やしにし、殺害し、滅ぼすことを許し、また、彼らの家財をかすめ奪うことも許した。

そのように書かれた英語の翻訳もあります。

その律法によって、ユダヤ人は彼らを襲う者の家財をかすめ奪うことも許されましたが、おそらく、敵がユダヤ人を襲わないように、その部分が記載されていたのでしょう。実際、ユダヤ人はそのことをしませんでした。(9:16)

ある人々は、ハマンの息子たちを柱にかけるエステルの願いを批判します。(9:13)けれども、実際には、その息子たちはユダヤ人を攻撃し、その時に彼らは殺されました。(9:5-10)

ですから、その死体が柱にかけられたのは、ユダヤ人の敵に警告するためでした。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

一つ目は、王が立ち上がってエステルとその民を守ったように、神様も立ち上がって私たちを守るということです。

サタンが私たちを滅ぼそうとする時、神様は私たちを見捨てません。むしろ、神様は私たちのために戦い、その敵を倒されます。それは私たちに対する神様の愛です。

二つ目は、王がユダヤ人の味方であったものの、ユダヤ人はそれでも戦わなければならなかったことです。

同様に、神様が私たちの味方ですが、私たちにも霊的な戦いがあります。そのため、毎日私たちは霊的な鎧を身につけなければなりません。(エペソ6:10-18)

ですから、攻撃されても勇気を持ってください。神様は私たちと共におられます。もうすぐクリスマスです。そして、イエス様の名前はインマヌエルです。つまり、「神様は私たちと共におられる」という意味です。

だから、神様の鎧を身につけ、信仰の戦いを勇敢に戦いましょう。(第一テモテ6:12)

イエス様の働きによって、私たちはすでに勝利したことを常に覚えておきましょう。

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エステル記

確率をコントロールする神

ハマンはいつユダヤ人を殺すのが良いかを知るために、くじを投げました。(3:7)

ところが、その後、神様はハマンの計画に干渉されました。

エステルの宴会から帰る時、ハマンは本当に喜んでいました。なぜなら、彼と王以外にはその宴会に誰も招待されなかったからです。それに、エステルは何か願いがあるように見えましたし、彼女はハマンの高い地位を認め、ハマンの助けを求めているように思えたからです。

けれども、帰る途中で、ハマンは再びモルデカイを見ました。そして、モルデカイがハマンの計画を知っているのに恐れを示さず、依然としてハマンを敬っていなかったのです。

そこで、ハマンは家族の助言に従い、翌朝に王にモルデカイを殺す許可を求めることに決めました。

しかし、偶然にもその夜、王は眠れませんでした。だから、たまたま彼は、

記録の書、年代記を持って来るように命じ、王の前でそれを読ませた。(エステル記6:1)

その時、王はモルデカイがどのようにして自分の命を救ったかを思い出しました。そして、その話を聞いたとき、王は尋ねました。

このために、栄誉とか昇進とか、何かモルデカイにしたか。(6:3)

でも、王のしもべは答えました。

彼には何もしていません。(6:3)

たまたまハマンは宮殿に到着したところでした。ハマンはモルデカイを殺す許可を求めようと考えていましたが、彼が話す前に、王が言いました。

王が栄誉を与えたいと思う者には、どうしたらよかろう。(6:6)

ハマンはそれを聞いて、このように考えました。

王が栄誉を与えたいと思われる者は、私以外にだれがあろう。(6:6)

だから、ハマンは最高の報いを思いつきました。そして、王はハマンに言いました。「なるほど、良い考えだ。モルデカイのためにそうしなさい。」

そのため、ハマンは一日中モルデカイを町の広場に導き、こう叫びました。「王が栄誉を与えたいと思われる人はこのとおりである。」(6:9)

もちろん、ハマンは本当に恥ずかしかったでしょう。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

この話の中には、多くの「偶然」が登場します。けれども、それは本当に偶然だったのでしょうか。私の言葉を借りるなら、それは「Godincidences」だと思います。つまり、それは神様が行った出来事なのです。

神様は時間と空間に介入して、ご自身の目的を果たすために人間の計画に干渉されました。

神様は王を眠れなくされました。

記録の書を読んでもらうという考えを王に与えられました。

そして、ちょうど良いタイミングでハマンを宮殿に導き、モルデカイの命を救い、ハマンを低くされました。

神様はエステルの時代に働かれました。そして、私たちの時代にも働いておられます。神様にとって、偶然は全くありません。

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エステル記

勇気

時々、私はモルデカイとエステルを批判しますが、彼らが持っていた尊敬すべき特徴は、その勇気だと思います。

あなたは、モルデカイがハマンにひざをかがめてひれ伏さないという決断に賛成できないかもしれませんが、その決断には大きな勇気が必要でした。なぜなら、彼は王の家来たちから多大なプレッシャーを受けていたからです。

さらに、モルデカイはエステルにも勇気を持つように励ましました。

エステルは、モルデカイが荒布をまとい、灰をかぶり、大声でひどくわめき叫んでいることを聞くと、自分のしもべを送って、モルデカイがなぜ泣いているのかを尋ねました。

モルデカイはその状況を説明し、エステルに王にあわれみを求めるように頼みました。

けれども、問題がありました。彼女は一ヶ月ほど王に全く会っていませんでした。その理由は分かりません。おそらく、彼は戦争の計画で忙しかったのかもしれません。

あるいは、彼は別のそばめと時間を過ごしていたのかもしれません。

とにかく、エステルは長い間王に会っていませんでしたし、王が自分と話したいのかどうかも分からなかったのです。

私の想像ですが、エステルの心に疑いが浮かんだかもしれません。「王は私の国籍を知っただろうか。私を殺すためにハマンの計画に同意したのだろうか。」と思い始めたかもしれません。

ペルシャの律法によれば、招待されずに王に会うことは禁止されていました。もし王が手に持っている金の笏をその人に差し伸べなければ、その人はすぐに殺されました。

ペルシャの歴史によれば、手紙を送り、王に会うことを頼む人もいました。けれども、エステルにはそのような自信はありませんでした。

そのため、エステルは王と話すことをためらいました。しかし、モルデカイはこう答えました。

あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。

あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。(エステル記4:13-14)

それは本当に厳しい言葉でした。それでも、いつものようにエステルはモルデカイの言葉を受け入れ、その指示に従いました。

彼女はこのメッセージを送りました。

行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。

たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。(6)

以前言ったように、エステル記を批判する人もいます。なぜなら、エステル記には「神様」や「主」という言葉が全く出ていないからです。

それはそうかもしれませんが、エステルと他のユダヤ人たちが断食する際には、きっと彼らは神様の恵みを求めていたのだと思います。

そして、神様はその祈りに応えられました。

エステルが王に近づいた時、彼女はおそらくとても緊張していたと思います。けれども、王はエステルを見ると、その金の笏を彼女に差し伸べました。それがユダヤ人の救いの始まりでした。

私たちはこの箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

時々、私たちは辛い状況に直面し、勇気が求められることがあります。

時々、エステルのように、私たちは厳しい言葉を聞き、正しいことを行うようにチャレンジされます。

しかし、何もしない方が楽です。そのために、私たちはいろいろな言い訳をします。時には、その言い訳はもっともなものだと思うこともあります。

けれども、本当の勇気とは、辛くても神様の言葉に従うことです。エステルの場合、王に近づくことで殺される可能性がありました。

彼女は王が何をするか全く分かりませんでした。それでも、エステルは神様を信頼し、自分の人生を神様の手に委ねました。

私たちが神様に従う時、結果がどうなるか分かりません。時には、私たちの人生がさらに辛くなることもあります。

イエス様は完全に天の父の御心に従われたのに、からかわれ、鞭で打たれ、十字架で殺されました。また、多くのイエス様の弟子たちも神様の御心に従いましたが、彼らも命を奪われました。

しかし、モルデカイが言ったように、神様の計画を果たすために、神様は私たちを今の状況に置かれました。

だから、何が起こっても、エステルのように神様に従いましょう。

イエス様はこう言われました。

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。(ルカ9:23-24)

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エステル記

二人の高ぶる者

皮肉なことですが、昨日私はモルデカイを誉めました。それは、彼が王を尊敬していたからです。けれども、今日はモルデカイを批判します。

なぜでしょうか。それは、モルデカイのプライドと頑固さのせいで、彼がハマンを尊敬しなかったからです。エステル記3:3では、こう書いてあります。

[ハマンに対して]モルデカイはひざもかがめず、ひれ伏そうともしなかった。

どうしてでしょうか。聖書にはモルデカイの言い訳は書かれていませんが、私たちは想像することができると思います。

ハマンを神様のように礼拝したと考える人もいます。私はそうは思いません。なぜなら、アハシュエロス王が人々にハマンにひざをかがめてひれ伏すように命じたからです。

アハシュエロス王は人々に自分を神様として礼拝することを要求しなかったのに、人々にハマンを神様として礼拝するように命じたでしょうか。それはあり得ないと思います。

さらに後で、モルデカイはアハシュエロス王の次の位につきました。けれども、もしモルデカイが王にひざをかがめてひれ伏さなかったとしたら、おそらく彼はその地位を得ることができなかったでしょう。

それでは、どうしてモルデカイはハマンにひざをかがめてひれ伏さなかったのでしょうか。

モルデカイの家系を見ると、彼はサウル王の子孫でした。神様はサウルにアマレク人とその王アガグを殺すように命じられました。なぜなら、アマレク人はいろいろな酷い罪を犯していたからです。

例えば、イスラエル人が沙漠を越えた時、アマレク人は疲れた弱い人々を攻撃して殺しました。

ところが、サウルはその命令に完全には従いませんでした。そのため、神様は王国をサウルから取り去られました。(第一サムエル記15章)

その時からユダヤ人とアマレク人の間には悪意がありました。特に、サウルの子孫とアマレク人の間には悪意がありました。

おそらくそのために、モルデカイはハマンにひざをかがめてひれ伏したくなかったのでしょう。つまり、プライドのためにそうしたくなかったのです。

それでも長い間、ハマンはモルデカイのことに全く気づいていませんでした。(おそらく、彼の鼻があまり高くて、周りのことにほとんど気づいていなかったのでしょう。)

けれども、王の家来たちがハマンにモルデカイのことを伝えると、ハマンは本当に怒りました。そして、ハマンはモルデカイがユダヤ人であることを知ったため、モルデカイだけではなく、すべてのユダヤ人を殺そうと思いました。

ハマンはそのプライドによってその決断をしました。しかし、そのプライドは結局ハマンを没落に導きました。

モルデカイはそのプライドによってハマンを尊敬しませんでした。しかし、もし神様がユダヤ人を救わなかったとしたら、そのプライドのせいでユダヤ人は皆殺しにされていたでしょう。

モルデカイがそのニュースを聞いて泣いた時、そのことについて考えたのでしょうか。彼は自分のプライドを後悔したのでしょうか。(4:1)

あなたはどうでしょうか。何によってあなたは決断をしますか。聖霊とその御言葉はあなたの行動を導くでしょうか。それとも、あなたのプライドがあなたの行動を導くのでしょうか。

私たちのプライドが私たちの人生を支配するなら、私たちは没落に導かれます。

どれほど多くの結婚がプライドによって壊れてしまうでしょうか。

どれほど多くの他の人間関係がプライドによって破壊されるでしょうか。

どれほど多くのキャリアやミニストリーがプライドによって失われるでしょうか。

だからこそ、謙遜になることを学びましょう。神様の前に謙遜に生きましょう。また、周りの人々の前に謙遜に生きましょう。

ヤコブはこう書きました。

神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。(ヤコブ4:6)

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エステル記

権威のある人を尊敬する

昨日のブログを読んだ方は、私がエステルとモルデカイをあまり尊敬していないと思われるかもしれません。けれども、実際には、私は彼らを本当に尊敬しています。

彼らのすべての決断に同意するわけではないかもしれませんが、彼らは本当に素晴らしい性格を持っていたと思います。アブラハムやダビデ、パウロのように、時々彼らは誤った決断をしたことがありましたが、それでも彼らは神様を心から愛していたと思います。

この箇所では、私たちはモルデカイの性格を伺うことができます。彼は王を暗殺する計画を耳にしたため、エステルに警告しました。その警告によって、悪者たちが捕らえられました。

モルデカイはアハシュエロス王についてどのように考えていたのでしょうか。モルデカイは、以前の女王に対するアハシュエロスの態度を知っていただけでなく、すべての女性に対する彼の態度も知っていました。(その「女王のコンテスト」の時、アハシュエロスは何人と寝たのでしょうか。)

さらに、アハシュエロス王は神様を恐れていませんでしたし、世の歴史書によれば、彼は平和を愛する人物でもありませんでした。

それにもかかわらず、暗殺者とは異なり、モルデカイは王の地位を尊重しました。したがって、暗殺計画を耳にしたとき、彼はすぐにエステルにそのことを警告しました。

モルデカイは王の命を救いましたが、その後も長い間、王は彼に報酬を与えませんでした。それでも、モルデカイは苦々しい心を抱きませんでした。彼にとって最も重要だったのは、権威のある人物を敬うことでした。

ペテロはこう書きました。

すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。(第一ペテロ2:17)

時々、私たちは権威のある人が私たちの尊敬に値しないと思うことがあります。そのため、私たちの大統領や総理大臣、または上司について文句を言うことがあります。

しかし、神様は私たちが彼らを尊敬するように命じられています。それはなぜでしょうか。パウロはこう書きました。

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。(ローマ13:1)

つまり、神様の御心によって彼らが権威を持つので、あなたが神様を恐れるなら、その人々を尊敬すべきです。

あなたはどうでしょうか。権威のある人を尊敬して従うことができるでしょうか。それとも、尊敬しにくいと感じる人がいるでしょうか。

もちろん、その人を尊敬できるなら、従うことは簡単です。しかし、あなたが神様を恐れるなら、神様はその人に従うように命じられます。

それは難しいことかもしれません。それでも、神様を恐れて、権威のある人を尊敬し、従いましょう。

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エステル記

神様の心に従い、用いられているでしょうか

私が読んだエステル記を解説する本によれば、エステル記について疑問を抱く人もいるそうです。

一つの理由は、エステル記で「神様」や「主」という言葉が全く出てこないということです。

どうしてでしょうか。もしかすると、この本がペルシャ人に対して、ユダヤ人がプリムの祭りをどのようにしてお祝いするかを説明するために書かれたのであり、ペルシャ人が宗教的な事柄に特に興味を持っていなかったからだと考えられます。

もう一つの理由は、神様はエステルの事情の中で全く働かれなかったという説明です。むしろ、ユダヤ人は神様を頼ることなく、自分たちの力と知恵によって行動しました。

そのような考え方は伝道者の書にも見ることができます。また、サウルやアブラハム、イサク、ヤコブも時々そのように生きました。

とはいえ、エステル記を読むと、私は神様が確かにその事情の中で働かれたと考えます。ただ、神様がエステルやモルデカイのすべての行動に同意されたかどうかは、私は断言できません。

2章を読む時、私はいろいろな疑問を持ちます。

例えば、エステルは自主的に「女王のコンテスト」に参加したのでしょうか。彼女には選択肢があったでしょうか。

それともモルデカイがエステルにそのコンテストに参加するように勧めたのでしょうか。もしそうなら、本当に悪い決断だったと思います。

なぜなら、神様はユダヤ人が偶像礼拝をしている人々と結婚することを禁止されているからです。このことはエズラ記やマラキ書に書かれています。

さらに、エステルは女王にならなくても家に帰ることができませんでした。むしろ、彼女が王と一夜を共にした時点で、彼女はその後王のそばめになりました。しかし、たぶん彼女はもう王と会うことはなかったでしょう。

もしエステルが自主的にそのコンテストに参加していたなら、神様の律法に基づけば、それは罪だったと言えるでしょう。

もしエステルが自主的に参加していなかったとしたら、どうしてモルデカイはエステルに自分の国籍を隠すように命じたのでしょうか。

その時代、ユダヤ人は迫害されていませんでした。エズラ4:6によると、ある人々がアハシュエロスに告訴状を送り、ユダヤ人を非難しましたが、彼は何もしなかったようです。

また、エステル記全体を読むと、アハシュエロスがユダヤ人を憎んでいなかったことがわかります。

では、どうしてエステルは国籍を隠したのでしょうか。私はわかりませんが、たぶんモルデカイはペルシャ人がエステルの国籍を知ったら、彼女が女王になれないと考えたのではないでしょうか。

しかし、もしそれが真実だったとしたら、それは良いことだったのではないでしょうか。もし彼女が正直に国籍を明かしていたら、アハシュエロスに会う前にエステルは家に帰されていたかもしれません。

あなたはこう言うかもしれません。「でも、エステルが女王にならなかったら、ユダヤ人は殺されてしまったでしょう。」

けれども、以下の二つのことを心に留めてください。

一つ目は、4章でモルデカイがエステルにこう言ったことです。

もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。(エステル記4:14)

もしエステルが女王にならなかったとしても、モルデカイの言葉は依然として真実だったと思います。神様は別の方法でユダヤ人を救われたことでしょう。

二つ目の理由として、もしハマンがエステルがユダヤ人であることを知っていたなら、ユダヤ人を殺す計画を立てたでしょうか(エステル3章)。きっとそうはしなかったと思います。

ここで私が言いたいのは次のことです。私たちが神様の心に従っているからこそ、神様は私たちを用いられるのでしょうか。それとも、私たちが悪い決断をしてしまったとしても、神様は私たちを用いられるのでしょうか。

もちろん、神様は働かれてユダヤ人を救われました。そして、エステルがすでに女王であったため、神様は彼女を通してユダヤ人を救われました。しかし、もし彼女が女王ではなかったとしても、神様は別の方法でユダヤ人を救われたことでしょう。

私たちはモルデカイとエステルを悪い人だと言っているのでしょうか。そうではありません。おそらく彼らは困難な状況の中で、自分たちの目に正しいと思えることを行っていたのでしょう。(士師記21:25)

とはいえ、時には彼らは誤った決断をしてしまいました。彼らの目には正しいと思えていたかもしれませんが、神様の目から見ると、彼らが行っていたことは正しくありませんでした。

ですから注意してください。あなたの行動を神様の言葉によって判断してください。あなた自身の目に正しいと思えることを行うのではなく、神様の基準によって生きてください。

あなたの状況を持ち出して、自分の行動を正当化しようとするかもしれません。

または、あなたは「でも、神様は私を通して良いことを行われました」と言うかもしれません。

しかし、どうして神様はあなたを用いられたのでしょうか。

あなたは神様の心に従っているからでしょうか。

それとも、あなたが誤った決断をしたにもかかわらず、神様はあなたを用いられたのでしょうか。

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エステル記

妻を尊敬する

今日からエステル記を読みます。

実は、聖書を年代順に見た時、エステル記の出来事がエズラとネヘミヤの時代に起こったと知り、私は驚きました。

それまで、これらの出来事がエズラとネヘミヤの時代の後に起こったと思っていたのです。

でも、たぶんこのアハシュエロス王はエズラ4章のアハシュエロスです。

(聖書学者の間ではそれが議論になっています。エステル記のアハシュエロスがアルタクセルクセス1世だと思う学者もいれば、彼がアルタクセルクセス2世だと思う学者もいます。以前言ったように、私はアハシュエロスがクセルクセス1世だと思います。)

とにかく、この箇所では、エステルの話の背景について読みます。つまり、どうしてアハシュエロスに新しい女王が必要だったのか、ということです。

アハシュエロスはすべての首長と家臣たちのために宴会を催しました。なぜなら、彼はその人々を自分の富と力で感動させたかったからです。

そして彼は、その人々に女王の美しさを見せるために彼女を呼びました。しかし、女王は来ることを拒絶したため、彼は恥ずかしい思いをしました。

アハシュエロスが知恵のある者たちに相談した時、彼らはこう答えました。

王妃ワシュティは王ひとりにではなく、すべての首長とアハシュエロス王のすべての州の全住民にも悪いことをしました。

なぜなら、王妃の行ないが女たちみなに知れ渡り、『アハシュエロス王が王妃ワシュティに王の前に来るようにと命じたが、来なかった』と言って、女たちは自分の夫を軽く見るようになるでしょう。

きょうにでも、王妃のことを聞いたペルシヤとメディヤの首長の夫人たちは、王のすべての首長たちに、このことを言って、ひどい軽蔑と怒りが起こることでしょう。(エステル記1:16-18)

だから、彼らはこう助言しました。

もしも王によろしければ、ワシュティはアハシュエロス王の前に出てはならないという勅令をご自身で出し、ペルシヤとメディヤの法令の中に書き入れて、変更することのないようにし、王は王妃の位を彼女よりもすぐれた婦人に授けてください。

王が出される詔勅が、この大きな王国の隅々まで告げ知らされると、女たちは、身分の高い者から低い者に至るまでみな、自分の夫を尊敬するようになりましょう。(19-20)

アハシュエロスは賛成したので、「男子はみな、一家の主人となること…を命じた。」(22)

私たちは、この箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

多くの夫たちは妻たちを人間としてではなく、物として扱っています。それに、彼らは聖書から引用して、妻たちからの尊敬を要求します。

もちろん、神様は妻たちが夫たちを尊敬することを命じられています。しかし、夫はどうやって妻が自分たちを扱っているかを考えるよりも、どうやって自分たちが妻を扱っているかを考えるべきです。

神様が命じられているように、夫がイエス様のようなリーダーとなるなら(エペソ5:25-28)、妻が夫を尊敬することは当然のこととなるでしょう。

もし、あなたが妻を物としてではなく、貴い人として扱い、自分のニーズを彼女のために犠牲にし、キリストの愛で彼女を愛するなら、どう反応すると思いますか。

多くの結婚は負のスパイラルにはまってしまっています。

夫たちが妻たちを愛さないために、妻たちは夫たちを尊敬しません。そして、夫たちが尊敬されていないために、妻たちへの愛がさらに少なくなります。

その結果、妻たちの夫たちへの尊敬もますます少なくなります。このようにして状態がさらに悪化し、最終的には離婚に至る場合もあります。

夫よ。もし、その負のスパイラルにはまってしまったなら、リーダーとして、そのスパイラルを止める責任があります。それは神様が命じられていることです。

ですから、妻に尊敬されていないのであれば、妻にもっと愛を示してください。そうすることで、きっと彼女はあなたをさらに尊敬し始めるでしょう。

とはいえ、もしお互いに深い傷がある場合、癒しには時間がかかるかもしれません。

妻は、「夫がこのように愛を示すのはどれくらい続くだろうか。一時的なものなのだろうか。これまで私を傷つけてきたのに、彼を信頼してもよいのだろうか。」と思うかもしれません。

それでも、諦めないでください。妻の信頼を得るために努力を続けてください。

もしかすると、自分のプライドを捨てて、こう謝らなくてはならないかもしれません。「今まで、神様が命じられたようにあなたを愛していませんでした。申し訳ありません。」

そして、神様の助けを求めてください。

妻よ。この文章を読んで、神様がその負のスパイラルを止めることをあなたに命じられている、と感じるかもしれません。それは簡単なことではありません。時々、私たち男性は自己中心的で、頑固です。

それでも、どうか夫のために祈ってください。そして、小さなことでも、夫について尊敬できる点を探してください。見つけられない場合には祈ってください。神様が示してくださいます。

そして、その尊敬を言葉で夫に表現してください。驚かれるかもしれませんが、ほんの小さなことが大きな変化をもたらすことがあります。

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ゼカリヤ書

勝利、命、光を与える方

ゼカリヤ書の最後では、私たちはイエス様がこの世に戻られる様子を見ることができます。また、イエス様がこの世を治める1000年の時代についても描かれています。

将来、周辺の国々がエルサレムを攻撃し、エルサレムの民の半分が追放されることが起こります。けれども、その時、イエス様はすぐに戻られるのです。

その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。

オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。(ゼカリヤ書14:4)

その時、世の光は無くなりますが、神様はご自身の栄光でこの世を照らされます。夜になっても、光があります。(6-7)

ヨハネはこう書きました。

都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。(黙示録21:23)

それだけではなく、エルサレムから湧き水が流れ出ます。おそらく、エゼキエル47:3-11も同じことについて言及しています。

神様はイスラエルのために戦い、その敵に災害を送られます。12節を読むと、神様が国々の核兵器を彼ら自身に向けて使われるのではないかと考えます。そうかもしれませんが、はっきりとは分かりません。

それでも、その患難の後、世のすべての人々は神様を王として認め、神様の正義と恵みを喜びます。

かつて、ユダヤ人たちは仮庵の祭りを祝いました。その時、彼らは神様に感謝を捧げました。なぜなら、神様は彼らをエジプトの奴隷生活から救い出し、砂漠を越える間、守ってくださったからです。

同じように、私たちも神様を賛美します。なぜなら、神様は私たちをサタンの国の奴隷生活から救い出し、私たちの試練を通して導き、守ってくださったからです。

しかし、悔い改めない人々には裁きが待っています。

ここから、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

1. 神様は勝利を与えてくださるお方です。

サタンは神様に逆らい、私たちを攻撃しますが、最終的に勝利を収めるのは神様です。実際、神様はすでに勝利しておられます。イエス様が十字架で死なれた時、神様は勝利されました。

とはいえ、サタンはその勝利を認めたくありません。それでも、どんな試練に遭っても、私たちは勝利を得ることを確信できます。それだけではなく、私たちは罪と死に対しても勝利を得るのです。

パウロはこう書きました。

しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(第一コリント15:57)

2.神様は命を与えてくださるお方です。

エルサレムから水が流れて、死海を魚が生きる場所に変えるように、聖霊様は私たちの人生に流れ込み、命を与えてくださいます。

しかし、神様から離れている人は命を離れ、惨めな人生を送ることになります。

3.神様は光を与えてくださるお方です。

私たちの人生が暗く、希望が見えない時、神様は私たちに光を照らし、希望を与えてくださいます。また、私たちが迷い、どの道を進むべきか分からない時、神様は正しい道に光を当ててくださいます。

主よ。あなたが私たちに勝利と命と光を与えてくださり、感謝します。どうか毎日、私たちがあなたにすがりつき、聖なる人として歩めるよう助けてください。

そして、毎日、私たちがあなたの目的のために生きることができますように。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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ゼカリヤ書

清められた

この箇所では、ゼカリヤはユダヤ人の悔い改めについてさらに詳しく話します。つまり、最後の日、神様の恵みによって、そして、イスラエル人が約2000年前に十字架に付けられたイエス様の血によって、彼らの罪は清められます。

その日、すべての偶像と偽の預言者たちはイスラエルから取り除かれます。こうして、イスラエルは神様のために本当に聖い国となります。

しかし、その前に、良い牧者は打ち殺されなければならず、その羊は散らされなければなりませんでした。

だから、イエス様は敵に捕らえられた時、彼の弟子たちは逃げ去りました。イエス様はあざけられ、鞭で打たれ、兵士たちの手で殴られ、そして十字架で殺されました。

ユダヤ人は自分の救い主を拒絶したため、神様は彼らを罰し、その国は滅ぼされました。

それでも、神様はご自分の恵みを彼らの上に注がれます。多くのユダヤ人が命を落としても、救い主イエス様に従うユダヤ人は残ります。神様は彼らについてこう言われます。

わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。

彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「これはわたしの民」と言い、彼らは「主は私の神」と言う。(ゼカリヤ書13:9)

神様は私たちが試練を経験しないと約束されたわけではありません。実は、イエス様はこう言われました。

あなたがたは、世にあっては患難があります。(ヨハネ16:33)

しかし、その試練を通して、神様は私たちを練り、清めてくださいます。そして、私たちが神様を呼ぶ時、神様は応えてくださいます。

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ゼカリヤ書

私たちの目が開かれるように

この箇所で、私たちはイスラエルの将来を少し見ることができます。

あるクリスチャンは、神様がイスラエルをもう捨てられたのだと思っています。つまり、神様の全ての約束はイスラエルのためではなく、教会のためだというのです。

けれども、その考え方は間違っていると思います。パウロはイスラエルについてこう書きました。

彼らは。。。選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。(ローマ11:28-29)

そして、ゼカリヤの預言によれば、ある日、神様はイスラエル人の目を開けてくださいます。

最後の日、周りの国々はイスラエルを滅ぼそうとし、エルサレムを攻撃します。しかし、神様はこう言われました。

わたしはエルサレムを、その回りのすべての国々の民をよろめかす杯とする。。。

その日、わたしはエルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする。すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける。。。(ゼカリヤ書12:2-3)

イスラエル人が、神様が自分たちを守っていることを目の当たりにするとき、彼らはこう言うでしょう。

エルサレムの住民の力は彼らの神、万軍の主にある、と。(5)

そして、彼らが神様の救いを見るとき、もう一つのことが分かるようになります。つまり、彼らが待ち望んでいた救い主は、すでに来ていたということです。けれども、約2000年前に、彼らは自分たちの手でその救い主を殺してしまいました。

わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。

彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。(10)

その日、すべてのイスラエル人はイエス様をメシアとして、つまり救い主として認めます。そして、すべてのイスラエル人は救われます。(ローマ11:26)

この箇所を読むと、神様の恵みの不思議さに心を打たれます。イスラエル人が神様を求めなくても、(もしくは間違った場所で神様を求めても)、彼らは神様を見つけます。

なぜでしょうか。彼らは神様の愛に値しているわけではなく、他の国民よりも優れているわけでもありません。むしろ、神様の愛と憐れみによって、彼らは神様を見つけ、救われます。

同じように、私たちの霊的な目が開かれ、私たちが悔い改めるために、神様は恵みと哀願の霊を私たちの上に注いでくださいます。そして、私たちが救い主イエス様を見るとき、ユダヤ人と同じように私たちも救われます。

おどろくばかりの神の恵み。
なんて麗しい響きでしょう。

神のすばらしい恵みによって、
こんな惨めな私が救われたのです。

かつて、私は迷って混乱していましたが、
神様は私を見つけてくださいました。

かつて、私は何も見えませんでしたが、
今、私には見えるのです。

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ゼカリヤ書

救い主を拒絶すると

神様は比喩を好まれます。だから、イエス様はたとえ話をよく使われました。預言者たちも比喩やたとえ話をよく用いました。この箇所では、その一つの例があります。

神様はイスラエルの没落を森の木が倒れることに比べられます。

レバノンの森は主の宮を表します。なぜなら、その宮はレバノンの木材で造られたからです。(ゼカリヤ書11:1)

バシャンの樫の木もヨルダンの茂みも荒らされました。つまり、イスラエルのすべてが倒れます。ヨルダン川の東の所も(バシャン)、ヨルダン川の西の所も倒れます。

どうしてでしょうか。それは、イスラエル人がそのメシア、つまり救い主を拒絶したからです。

そのことを表すために、ゼカリヤは羊飼いの役割を取りました。

神様はゼカリヤにこう言われました。

ほふるための羊の群れを養え。(ゼカリヤ書11:4)

その羊はイスラエルを表します。彼らは神様を拒絶したので、すぐにほふられます。おそらく、その裁きは預言者マラキの時代の後から、ローマ帝国の時代まで起こりました。

そして、そのローマ帝国の時代、突然メシアが来ます。(ゼカリヤはそのメシアを表しました)。

彼は2本の杖を持ちました。「慈愛」という杖は神様のイスラエル人に対する慈愛を表しました。「結合」という杖はイスラエルの一致を表しました。

羊飼いは羊を傷つけた羊飼い(つまり、悪い王と偽の預言者と悪い祭司)を取り除いて、羊を世話しました。

ところが、羊(または、悪い羊飼い)は羊飼いを憎んだので、彼は羊を手放しました。そして彼は自分の慈愛の杖を取り上げて、折りました。

その結果、将来のローマ敵国の天皇ティトゥスは西暦70年にエルサレムを滅ぼしました。その時から1948年まで、イスラエルは国として存在しませんでした。

彼の仕事のために、羊飼いは銀三十シェケルをもらいました。それは奴隷の値段で、羊飼いは侮辱されました。(13節に、「尊い価」と書いてありますが、それは皮肉です。)

そして、羊飼いはそのお金を主の宮の陶器師に投げ与えました。

それはイエス様のことを示しています。イエス様は銀三十シェケルのために裏切られました。そして、祭司たちはそのお金を陶器師の畑を買うために使いました。

将来、もう一人の羊飼いが来ます。しかし、その羊飼いは羊を全然愛しません。おそらく、その人は反キリストです。結局、神様は彼を倒します。(15-17)

この箇所は、イスラエルがメシアを拒絶する結果を示していますが、私たちがメシアを拒絶する結果も示しています。

神様は私たちをサタンからの抑圧から解放するためにメシア、イエス様を送りました。

しかし、私たちがイエス様を拒絶すると、私たちは罪の結果を受け、結局裁かれます。私たちは神様の慈愛を知ることも、神様の家族の一致を知ることもありません。むしろ、私たちは死と破壊を知ります。

ヘブル書の著者はこう書きました。

もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。

ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。

だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。

まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。

私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。

生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。(へブル10:26-31)

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ゼカリヤ書

全ての祝福は神様から来る

この箇所では、ゼカリヤはイスラエルの救いについて話し続けます。しかし、この箇所を読むと、この言葉は私の心を打ちます。

主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる。(ゼカリヤ書10:1)

わたしは雄やぎを罰しよう。万軍の主はご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場のすばらしい馬のようにされる。(3)

わたしはユダの家を強め、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを連れ戻す。(6)

わたしは彼らに合図して、彼らを集める。わたしが彼らを贖ったからだ。(8)

彼らの力は主にあり、彼らは主の名によって歩き回る。――主の御告げ―― (12)

つまり、私たちの祝福のすべては神様から来ます。

神様から雨や作物が来ます。(1)

神様は悪いリーダー(つまり、雄やぎ)を罰し、ご自分の民を世話してくださいます。(3)

神様は私たちを強め、救い、癒してくださいます。私たちが呼ぶ時、神様は応えてくださいます。(6)

神様は私たちを呼び、集め、贖ってくださいます。(8)

神様の力と名前によって、私たちはこの世に恐れずに歩き回ることができます。(12)

どうして、神様は私たちをそのように祝福してくださるのでしょうか。私たちが良い人だからでしょうか。違います。神様の恵みによって、祝福してくださいます。

私たちのすべては、神様から来ます。私たちのすべては神様の恵みによって与えられたのです。

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ゼカリヤ書

平和の君

この箇所では、イエス様についての預言を見ることができます。既に成就した預言もあり、イエス様が戻られる時に成就する預言もあります。

9節には、こう書かれています。

シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。

この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。(ゼカリヤ書9:9)

イエス様が十字架で死ぬ前に、イエス様はエルサレムに行き、その預言を成就されました。

どうして馬ではなく、ろばに乗られたのでしょうか。その時代、戦争の時、王たちは馬に乗りました。しかし、平和な時は、ろばに乗りました。

イエス様はエルサレムに行かれた時、征服する王として行かれたのではなく、平和の君として行かれました。

そして、イエス様がこの世に戻られると、自分の民を守って、すべての戦争を終わらせてくださいます。10節には、こう書かれています。

わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。

この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。(10)

その時イエス様は、絶望している囚人を開放して、彼らに希望を与えてくださいます。何によって、そうされるのでしょうか。

「あなたとの契約の血によって」そうされます。(11)

おそらく、ゼカリヤはモーセの時代の契約について話しているのでしょう。しかし、その古い契約のいけにえは、キリストの血によって結ばれた新しい契約を指し示しています。

キリストの血によって、サタンの国で結ばれていた私たちは解放され、希望を与えられました。

それゆえ、神様はイスラエル人について話しておられましたが、私たちについてもこう言われました。

その日、彼らの神、主は、彼らを主の民の群れとして救われる。彼らはその地で、きらめく王冠の宝石となる。それは、なんとしあわせなことよ。

それは、なんと麗しいことよ。穀物は若い男たちを栄えさせ、新しいぶどう酒は若い女たちを栄えさせる。(16-17)

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ゼカリヤ書

全てを見守ってくださる神

この箇所では、神様がイスラエルを見守っておられることがよくわかります。また、神様がどのようにアレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)を通して、シリアとツロとシドンとペリシテを裁いてくださったかわかります。

けれども、ゼカリヤが書いたのは、歴史について書いたのではありません。むしろ、預言が書かれました。

この預言は、具体的にアレクサンドロスの軍事行動の道を説明しています。

彼はシリアのハマテとダマスコから始めました。そして、ツロとシドンを征服しました。アッシリヤ人とバビロン人は以前ツロを攻撃しましたが、征服できませんでした。しかし、7か月で、アレクサンドロスはツロを征服しました。

そのあとで、アレクサンドロスはペリシテを征服しました。つまり、アシュケロン市とガザ市とエクロン市とアシュドデ市を征服しました。彼はその君主制を終わらせ、その民を追放し、彼らの代わりに他の民族をペリシテに連れて行きました。

けれども、第8節で神様はこう言われます。

わたしは、わたしの家のために、行き来する者を見張る衛所に立つ。それでもう、しいたげる者はそこを通らない。今わたしがこの目で見ているからだ。(ゼカリヤ書9:8)

神様はその約束を守られました。アレクサンドロスはいろいろな所を征服しましたが、エルサレムとその民を助命されました。

聖書の中には書いていませんが、ユダヤ人の歴史家フラウィウス・ヨセフスはこの話を記録しています。

アレクサンドロスがエルサレムに近づいたとき、神様は夢で大祭司にこう言われました。「恐れるな。エルサレムの門を開けて、アレクサンドロスを迎えに行きなさい。」

大祭司は、紫と金色の服を着て、アレクサンドロスを迎えに行きました。他の祭司たちは白い服を着ました。アレクサンドロスが彼らを見たとき、彼は大祭司に近づいて、大祭司のかぶり物に付けられた純金の札に口づけしました。

そして、アレクサンドロスは見た夢について話しました。その夢で、祭司の服を着た人を見ました。その人はアレクサンドロスに「アジアを超えて、ペルシャを征服しなさい」と言われました。

だから、アレクサンドロスはユダヤ人たちが自分の律法を守ることを許したし、ユダヤ人は7年間ごとに税金を払わなくてもよかったのです。

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。神様はすべてのことを見て、コントロールしておられることです。もし、神様に背くと、あなたは裁かれます。しかし、神様の前にへりくだると、神様はあなたを守ってくださいます。

神様がユダヤ人を守られたように、神様は私たちを守ってくださいます。

ダビデはこう書きました。

主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。

主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。

幸いなことよ。彼に身を避ける者は。(詩編34:7-8)

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ゼカリヤ書

祝福になるために救われた

ゼカリヤ書には、たくさんの警告と戒めがあります。けれども、同時に、励ましの言葉も記されています。

この箇所では、両方の要素を見ることができます。

神様はまず、ユダヤ人を励まされました。エルサレムは復興し、喜びと平和に満ちた安全な場所になると約束されました。また、散らされていた人々がイスラエルに帰還し、再び彼らは神様の民となり、神様も彼らの神となられるのです。

ユダヤ人にとって、それは想像を超える希望でした。それでも、神様は彼らに力強く語りかけられました。

もし、これが、その日、この民の残りの者の目に不思議に見えても、わたしの目に、これが不思議に見えるだろうか。――万軍の主の御告げ――(ゼカリヤ書8:6)

もちろん、そうではありません。なぜなら、神様は何でもできるからです。

だからこそ、神様は彼らにこう語られました。

勇気を出せ。あなたがたは、万軍の主の家である神殿を建てるための礎が据えられた日以来、預言者たちの口から、これらのことばを日ごろ聞いているではないか。(9)

ユダヤ人たちが神殿の礎を据えたとき、神様の預言者たちは彼らを励まされました。それゆえ、ゼカリヤは彼らに言いました。「その預言者の言葉を思い出し、諦めないでください。反対があっても勇気を出し、この神殿建設を終えなさい。」

神様は私たちにも同じように言われます。神様の力によって私たちは救われました。だからこそ、反対があっても私たちは勇気を出し、神様が計画されたように神様の宮となるべきです。

神様は私たちの内に住んでおられるのですから、私たちは聖なるものとなり、神様のために生きるべきです。

そして、神様はこう言われました。

ユダの家よ。イスラエルの家よ。あなたがたは諸国の民の間でのろいとなったが、そのように、わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる。恐れるな。勇気を出せ。(13)

そのように、私たちが救われる前、私たちの人生は罪によって呪われていました。また、私たちの罪によって周りの人々をも呪っていました。

しかし、神様が私たちを救われたことによって、私たちは周りの人々に祝福をもたらす存在になります。神様は同じ約束をアブラハムにも与えられました。

地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。(創世記15:3)

神様は私たちにも同じことを望まれます。それゆえ、神様はこう言われました。

これがあなたがたのしなければならないことだ。互いに真実を語り、あなたがたの町囲みのうちで、真実と平和のさばきを行なえ。互いに心の中で悪を計るな。偽りの誓いを愛するな。

これらはみな、わたしが憎むからだ。――主の御告げ――」(16-17)

つまり、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(マルコ12:31)

そうすれば、周りの人々は私たちに引き付けられ、神様にも引き付けられるでしょう。

最後にゼカリヤはこう言いました。

「多くの国々の民、強い国々がエルサレムで万軍の主を尋ね求め、主の恵みを請うために来よう。」万軍の主はこう仰せられる。

「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかみ、「私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ」と言う。」(22-23)

いつか、すべての人がユダヤ人についてこう言うでしょう。 しかし、日ごとに人々が私たちについても同じことを言うようになりますように。

「私たちもあなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたとともにおられると聞いたからです。」

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ゼカリヤ書

偽の敬虔

多くの人々は、クリスチャンをその偽善のために批判します。確かに、クリスチャンがその批判に値する時もありますが、そうではない時もあります。しかし、神様は偽善を非常に深刻に考えられるお方です。

この箇所では、バビロンから追放され、イスラエルに戻ってきたユダヤ人たちが、ゼカリヤに質問をしました。

私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。(ゼカリヤ書7:3)

でも、神様はゼカリヤにこう答えられました。

この国のすべての民と祭司たちに向かってこう言え。この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、このわたしのために断食したのか。

あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。(5-6)

つまり、「あなたたちはその宗教的な儀式を行いましたが、心からではありませんでした。そのため、それは全く意味のないものとなり、ただのショーに過ぎませんでした。」

英語の「hypocrite」、つまり「偽善者」という言葉はギリシャ語に由来します。ギリシャ語では、「偽善者」という言葉は「舞台俳優」を意味します。

そのユダヤ人たちは俳優のような存在でした。彼らは敬虔な人々のように振る舞いましたが、実際には心からの敬虔さを持っていませんでした。

その結果、神様は彼らに対し、追放前に彼らの先祖に与えられた命令を思い起こさせました。

万軍の主はこう仰せられる。「正しいさばきを行ない、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え。やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。互いに心の中で悪をたくらむな。」

それなのに、彼らはこれを聞こうともせず、肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった。(9-11)

神様はそのユダヤ人たちに警告されました。「あなたたちの先祖は自分の心を堅くし、その結果として追放されました。」

「呼ばれたときも、彼らは聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない」と万軍の主は仰せられる。(13)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。神様は私たちの敬虔な儀式に感動されるわけではありません。神様にとって重要なのは、私たちが日々どのように生きるかということです。

私たちはどのように周りの人々を扱うでしょうか。彼らに憐れみを与えているでしょうか。正義を求めているでしょうか。

3年ほど前、私は「アメイジング・グレイス」という映画を観ました。この映画は、ウィリアム・ウィルバーフォースについての物語です。彼はイギリスで奴隷貿易を廃止するために戦いました。

ウィルバーフォースが奴隷に情けを示したように、私たちも周りの人々に憐れみを示すべきです。それが神様の望みです。

私たちはウィルバーフォースのように全国的な影響を与えることはできないかもしれません。しかし、私たちは周りの人々に影響を与えることができます。家庭でも、職場でも、近所でも、私たちは人々に影響を与えられます。

周りの人々は私たちの中にキリストの憐れみを見ているでしょうか。それが神様の望みです。もしキリストの体である私たちが、周りの人々に愛と憐れみを示すなら、この世界全体が変わるでしょう。

だから、偽善者にならないようにしましょう。ただ教会に行き、聖書を読み、祈るだけではなく、神様の愛と憐れみで私たちの心を満たしましょう。そして、私たちはキリストのために、この世の人々に触れましょう。

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ゼカリヤ書

再びこの世に来られる方

私が好きな歌の一つは、ダラス・ホルムの「Rise Again(よみがえる)」という歌です。この歌は、十字架のイエス様の言葉を想像しています。そして、イエス様が死からよみがえられた後、この歌の中で、イエス様はこう言われます。

どうぞ、私がもう死んだと言ってみてください。
しかし、あなたが間違っていることが分かるでしょう。

どうぞ、私を隠そうとしてみてください。
しかし、結局、この世のすべての人々が、私が救い主であることを知ることになります。

なぜなら、私はこの世に戻るからです。
私が戻ってくるのを止めることができる者は、誰もいません。

私はこの世に戻ります。 私の民を取り戻すために、私は戻ります。

この聖書の箇所は、キリストの再臨について記されています。1〜8節には、神様がこの世の国々とその民を裁かれることが書かれています。

この箇所を黙示録6章と比較すると、おそらく白い馬は戦争を表し、赤い馬は暴力と流血を象徴し、黒い馬は飢饉と死を表しています。また、まだら毛の馬は、黙示録に登場する青ざめた馬と同様に死病を象徴している可能性があります。

これは非常に恐ろしい光景ですが、それでも神様は全てをコントロールされています。あなたは、私たちがその災いをすでに経験していると思うかもしれません。けれども、実際、神様はまだ完全な裁きを注いでいないのです。

しかし、ある日、神様はご自身の怒りのすべてをこの世に注がれます。その時、これまで誰も知らなかったような苦しみがこの世に訪れるのです。

その後、イエス様がこの世に戻られます。この箇所では、大祭司ヨシュアがイエス様を象徴しています。(以前述べたように、「ヨシュア」という名前はギリシャ語で「イエス」を意味します。)

ゼカリヤはヨシュアのために冠を作り、その頭にかぶらせました。その時、ゼカリヤはヨシュアが象徴する救い主について預言しました。

ヨシュアは大祭司でした。一方で、ゼルバベルはダビデの子孫でしたが、王ではなく総督でした。しかし、将来現れる救い主は、王であり、同時に大祭司でもあるのです。

ゼカリヤはこう言いました。

彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある。(11)

多分、この宮はヨシュアとゼルバベルが建てた宮ではなく、むしろエゼキエル書40~43章に記されている宮でしょう。その時、イエス様は完全な王であり、大祭司となられます。

先に進む前に、少し説明しなくてはならないことがあります。聖書の翻訳は非常に難しく、この箇所ではヘブル語の意味が微妙です。

例えば、ヘブル語の11節では「二」と記されています。この「二」が、「二人」を指すのか、「二つの任務」、つまり「王と大祭司の任務」を指すのか解釈が分かれるのです。

ある英語訳では、「the counsel of peace will be between the two offices」(二つの任務の間に平和の一致がある)と訳されています。

一方、日本語訳では、「このふたりの間には平和の一致がある。」とされています。(実際、日本語訳に近い英語訳もあります。)

これらの解釈の違いは、さらに他の箇所の翻訳にも影響を与えています。日本語訳では、「その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいる」と訳されていますが、英語訳では、「he will be a priest on his throne」(彼は祭司であって、王座にいる)とされています。

したがって、日本語訳を読むと、大祭司と王は別々の人物であるかのように感じられますが、英語訳では、大祭司と王が同一人物であることが示唆されています。

明確にしておきたいのは、英語訳も日本語訳もヘブル語に忠実であることです。とはいえ、神様が与えられたビジョンを考慮すると、多分英語訳がより適切かもしれません。

例えば、祭司ヨシュアが王の冠を受け取ったことは、この箇所の重要な象徴です。また、聖書の他の箇所からも、イエス様が王であるだけでなく、大祭司でもあることが明らかにされています。

さて、この箇所から私たちは何を学べるのでしょうか。それは、どんな状況にあっても私たちには希望があるということです。

私たちの世界には多くの問題があります。政治家に目を向けても、彼らを完全に信頼することは難しいです。アメリカでは「正直な政治家」という言葉が矛盾しているかのように感じられています。(日本人はどう思うでしょうか。)

さらに、スキャンダルの影響でクリスチャンのリーダーたちも評判を失うことがあります。

けれども、イエス様が再び戻られる時、この世を正義によって支配し、イエス様の清さはすべての人々に明らかにされます。そして、イエス様を通して、私たちは天の父なる神様の御性質を知ることができるのです。

ですから、戦争や病気、飢饉、天災を見るとき、失望しないでください。神様がすべてを支配しておられるからです。

また、腐敗した政治家や霊的に堕落したリーダーを見るときも、がっかりしないでください。イエス様は必ずこの世に戻って来られるのです。

だからこそ、イエス様に焦点を当ててください。他のものに焦点を当てると、私たちはすぐに失望してしまいます。しかし、イエス様に焦点を当て続ければ、希望は決して奪われることはありません。

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ゼカリヤ書

全ての悪を清める

この箇所では、ゼカリヤは再び幻を見ました。その幻は、イスラエルの罪が清められることを示しています。

最初の幻の中で、ゼカリヤは空を飛んでいる巻き物を見ました。その巻き物の両面には呪いが書かれていました。

一つ目の呪いは盗む者に対するものでした。

二つ目の呪いは偽って誓う者に対するものでした。

この巻き物は、十戒のうちの二つの命令を象徴していますが、おそらくその二つの命令は十戒全体を表しているのです。ヤコブはこう言いました。

律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。(ヤコブ2:10)

おそらく、イスラエル人はその二つの罪において、特に罪深い人々だったのかもしれません。もしくは、その二つの罪にはもっと広い意味があったのでしょう。

つまり、彼らは隣人を傷つける(盗むこと)、そして神様の聖さを侮る(神様の名前によって偽って誓うこと)という行為をしたのです。

この幻については、二つのことに注目する必要があります。

一つ目は、その巻物の大きさです。その巻物は非常に大きく(長さは約9メートル、幅は約4.5メートル)、誰も「裁きが来ていることを知らなかった」と言い逃れることはできませんでした。

誰でもその巻物を読むことができたのです。

二つ目は、その裁きが確実なものであるということです。神様はこう言われました。

わたしが、それ(つまり、呪い)を出て行かせる。――万軍の主の御告げ――それは、盗人の家に入り、また、わたしの名を使って偽りの誓いを立てる者の家に入り、その家の真ん中にとどまり、その家を梁と石とともに絶ち滅ぼす。(ゼカリヤ書5:4)

そして、ゼカリヤは別の幻を見ました。それは、穀物のための枡でした。

しかし、その枡の中には穀物ではなく、イスラエル人の罪がありました。そして、その枡の中には女の人が座っており、その女の人は罪の原因を象徴していました。

なぜ女の人なのでしょうか。一つの考えとして、イスラエル人が周囲の国々の女神を礼拝していたことが挙げられます。または、イスラエルの男性たちが偶像礼拝する女性と結婚していた可能性もあります。(マラキ2:11-12、エズラ9章)

いずれにしても、天使はその女の人を枡の中に閉じ込めました。そして、二人の女性がその枡をシヌアル(バビロン)に運びました。これは、バビロン人がその女の人を喜んで受け入れるからです。

私たちはこの幻から何を学べるでしょうか。一つ目は、神様が悪に対処する日が必ず来るということです。サタンは可能な限り神様と戦おうとしますが、最終的には打ち負かされます。

二つ目は、私たちは自分の中にある罪を清める必要があるということです。

神様は、罪に対するご自身の感情をはっきりと示されました。そして、神様は裁きが来ることを明確に警告されました。私たちは「知らなかった」と言い訳することはできません。

だから、パウロはこう言いました。

いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。(第二コリント7:1)

もちろんバランスが必要です。つまり、自分自身の努力だけで自分を清めることは不可能です。しかし、神様は私たちが聖なる人生を生きるために必要な力を与えてくださいます。(第二ペテロ1:3-4)

そして、神様がイスラエルから悪を取り除かれたように、私たちが神様に従うなら、神様は私たちの人生から罪を取り除いてくださいます。

だからパウロはこう書きました。

平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。

主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。(第一テサロニケ5:23-24)

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ゼカリヤ書

神様の働きを成し遂げるために満たされた

私がゼカリヤ書を読めば読むほど、ますます好きになります。この箇所も、私たちにとって深い意味があります。

その時、ユダヤ人たちは主の宮を再建していた最中でしたが、まだ反対に直面していました。彼らは、ダリヨス王がその再建に許可を出せるかどうかまだ分かりませんでした。だから、総督ゼルバベルは失望していたかもしれません。

しかし、神様はゼカリヤに金の燭台を示されました。その燭台は宮の燭台のようでしたが、一つ違いがありました。大祭司はいつもその燭台に油を注ぎ続けなければなりませんでした。

けれども、ゼカリヤの幻では、二本のオリーブの木がその燭台を満たしていました。

そして、天使はゼカリヤにこのメッセージを伝えました。

「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。

大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」

ついで私に次のような主のことばがあった。「ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する。このとき、あなたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わされたことを知ろう。(ゼカリヤ書4:6-9)

つまり、「心配しないでください。あなた自身の力や周りの人々の力によってこの宮を完成させるのではありません。むしろ、あなたを通して働いている聖霊によって、この宮の再建は完了するのです。

どんな大きな障害に遭遇しても、その山はあなたの前で平らになります。そして、その宮のかしら石を運び出すとき、あなたは私の恵みによってこの宮が完成したことを知るでしょう。」

その宮の再建が遅れ、またソロモンの宮と比べると、新しい宮が美しくなかったために、失望する人もいました。けれども、神様は彼らにこう言われました。

だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。これらは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。これらの七つは、全地を行き巡る主の目である。(10)

つまり、「あなたの目には、あなたが成したことが小さく見えるかもしれません。

しかし、小さな一歩を軽んじてはいけません。また、私があなたに小さい仕事を与えても、その仕事を軽んじてはいけません。

なぜなら、私の民がその仕事をするとき、私はそれを喜び、あなたに報いを与えるからです。」

そして、天使は金の燭台とオリーブの木について説明しました。ゼカリヤがその意味、特にオリーブの二本の枝の意味について尋ねたとき、その天使は答えました。

これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。(14)

つまり、大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルのことです。神様はその宮を完成させるために、彼らを自分のしもべとして選ばれました。

けれども、一番重要なのは、油が御霊のシンボルであるということです。そして、御霊は私たちを通して神様の働きを成し遂げるために注がれます。御霊は私たちを通じて周りの人々に触れ、その人々に影響を与えるのです。

そのため、神様の御心は私たち自身の力によって成就するのではなく、私たちを通して働かれる御霊によって成就します。

ですから、小さなことを軽んじずに神様の働きをしましょう。神様は御霊によって私たちを満たし、私たちを通して流れることで、この世に影響を与えることができます。

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非難されるところのない者

旧約聖書のこの箇所は、本当に心に残る箇所です。なぜなら、クリスチャンにとっても深い意味を持つからです。

ここでは、大祭司ヨシュア(ヨシュア記のヨシュアとは別人)が主の前に立っていました。

けれども、サタンは彼を激しく責め立てていました。おそらく、サタンの批判は正当なものであったかもしれません。なぜなら、ヨシュアの服は罪によって汚れていたからです。

しかし、主はこう言われました。

サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。(ゼカリヤ書3:2)

2節は本当に興味深いです。「主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。」」

もしかすると、ヨシュアの前に立っている御使いはイエス様その方かもしれません。

いずれにしても、主はサタンをとがめられました。「私はこの人を救いました。どうして、あなたはこの人を責めるのか。」

その後、御使いは自分の前に立っている者たちにこう命じました。

彼のよごれた服を脱がせよ。(ゼカリヤ書3:4)

そのあと、彼はヨシュアにこう言いました。

見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。(ゼカリヤ書3:4)

そして、その御使いはヨシュアをさとして言いました。

万軍の主はこう仰せられる。もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたはまた、わたしの宮を治め、わたしの庭を守るようになる。

わたしは、あなたをこれらの立っている者たちの間で、宮に出入りする者とする。(ゼカリヤ書3:7)

神様はヨシュアに「先に自分自身をきれいにしなさい。それができれば、私に仕えなさい」とは言われませんでした。

むしろ、神様はこう言われました。

「私はもうあなたをきれいにしました。だから、私に仕えなさい。そうすれば、私の祭司として仕え続けることができ、あなたは私の宮に自由に入って、私のもとに近づくことができます。」

最後に、少し興味深い皮肉があります。神様はヨシュアに将来の「ヨシュア」について話されました。

つまり、イエス様について語られたのです。(「ヨシュア」という名前は、ギリシャ語で「イエス」と訳されます。)

次のヨシュアは神様の知恵を備えています(「一つの石の上に七つの目」という表現がそれを指します)。そして、イスラエルの罪を一日のうちに取り除かれるのです。

イエス様が再びこの世に戻るとき、彼はすべてを治め、ついに私たちは平和を知るのです。(ゼカリヤ書3:8-10)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちは、かつてヨシュアのように罪によって汚れた者として神様の前に立ちました。しかし、私たちがイエス様を信じたとき、イエス様は私たちの弁護士となり、私たちを擁護してサタンをとがめられるのです。

さらに、イエス様は私たちの汚れた服を取り除き、彼の義の衣を私たちに着せてくださいました。

なぜでしょうか。それは私たちが良い行動をしたからでしょうか。いいえ、違います。それはイエス様の十字架での働きによってのみ可能になったのです。

今や、きれいにされた者として、私たちは神様に従い、神様の祭司として仕えるべきです。そして、私たちは他の聖徒たちと共に、自由に神様のもとに近づけるという素晴らしい恵みを知るのです。

パウロはこう書きました。

あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。

それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。

ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。

この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。(コロサイ1:21-23)

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ゼカリヤ書

私たちを取り巻く火の城壁、私たちの内にある栄光

神様はこのメッセージ、そしてその後のすべてのメッセージを、主の宮の再建が進む間にゼカリヤに伝えられました。

ゼカリヤは不思議な幻を見ました。一人の人が赤い馬に乗っていました。その後ろには赤い馬、栗毛の馬、そして白い馬がいました。彼らは地を行き巡り、世の状態を観察しました。彼らは何を見たのでしょうか。

私たちは地を行き巡りましたが、まさに、全地は安らかで、穏やかでした。(ゼカリヤ書1:11)

イスラエル人がその言葉を聞いたら、驚いたことでしょう。なぜなら、神様が国々を揺り動かすと明言されたからです。

そのため、天使はこう問いかけました。

万軍の主よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたがのろって、七十年になります。(1:12)

神様はその天使、そしてイスラエルの民に慰めの言葉を言われました。具体的には、神様がイスラエルの民を祝福し、主の宮が再建され、イスラエルの町々が再び繁栄するという約束です。(1:13-17)

また、神様はイスラエルを征服した国々を裁くことを約束されました。神様は次のように言われました。

わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。

しかし、安逸をむさぼっている諸国の民に対しては大いに怒る。わたしが少ししか怒らないでいると、彼らはほしいままに悪事を行なった。(1:14-15)

18-20節では、神様はイスラエルを攻撃し、イスラエル人を散らした「角」(つまり、国々)を打倒されると約束されています。

おそらく、その「角」とはアッシリア、エジプト、バビロン、そしてペルシアを指しているのでしょう。

けれども、2章の内容は本当に心に響きます。神様がイスラエルの復活について語られる箇所だからです。イスラエルはもう一度繁栄するので、

エルサレムは、その中の多くの人と家畜のため、城壁のない町とされよう。(2:4)

それだけではなく、神様はこう言われました。

しかし、わたしが、それを取り巻く火の城壁となる。――主の御告げ――わたしがその中の栄光となる。。。あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。(2:5,8)

また、

シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。――主の御告げ――(2:10)

この言葉は本当に素晴らしいです。神様は私たちを取り巻く火の城壁であり、私たちの盾であり防衛です。神様は私たちを攻撃する者と戦ってくださいます。

そして、神様は私たちの内にある栄光です。聖霊様は私たちの心に住み、私たちを通して輝いてくださいます。

ダビデはこう歌いました。

しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。(詩編3:3)

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ハガイ書

全てが揺り動かされるのに

この箇所では、ハガイはユダの総督ゼルバベルを励まします。

おそらく、ゼルバベルはエルサレムとその宮の再建に反対する人々を目にして、深く失望していたかもしれません。けれども、神様は彼にこう言われました。

ユダの総督ゼルバベルに次のように言え。

わたしは天と地とを揺り動かし、もろもろの王国の王座をくつがえし、異邦の民の王国の力を滅ぼし、戦車と、それに乗る者をくつがえす。馬と騎兵は彼ら仲間同士の剣によって倒れる。(ハガイ書2:21-22)

つまり、「ゼルバベル、今あなたは自分の状況が辛いと感じているかもしれません。しかし、私は天と地を揺り動かします。そして、私は王国とその力を滅ぼします。」

そして、神様はこう言われました。

その日、――万軍の主の御告げ――シェアルティエルの子、わたしのしもべゼルバベルよ、わたしはあなたを選び取る。――主の御告げ――

わたしはあなたを印形のようにする。わたしがあなたを選んだからだ。――万軍の主の御告げ――」(23)

その時代、王たちは認印付きの指輪を持っていました。その指輪は王の権威を象徴するシンボルでした。そのため、大切な書類に署名するとき、その指輪を使用していました。

神様がゼルバベルに言われたのは、「王国の王座を覆し、王の力を滅ぼす。しかし、私は私の民のために、私の権威のシンボルとしてあなたを選んだ」ということです。

短期的には、ゼルバベルを通して神様はご自身の民を導き、主の宮を再建し、彼らの人生も復活させました。

長期的には、ゼルバベルの家系を通してメシヤであるイエス様がこの世に来られました。

イエス様の復活の後、弟子たちにこう言われました。

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。(マタイ28:18)

どうしてそれが大切なのでしょうか。それは、神様がゼルバベルをご自身のしもべとして呼ばれたように、私たちも選ばれ、呼ばれたからです。では、私たちは何のために選ばれ、呼ばれたのでしょうか。

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。(マタイ28:19-20)

この世は戦争や混乱、闘争によって揺り動かされています。そして、私たちの状況はさらに悪化する可能性があります。けれども、すべてが揺り動かされたとしても、将来を恐れないようにしましょう。

すべての権威がイエス様に与えられていることを覚え、イエス様が私たちに命じられたように従いましょう。イエス様の再臨まで、福音を伝え、弟子を作り続けましょう。

イエス様はこう約束されました。

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20b)

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エズラ記

私たちが神様に専念すると

イスラエル人は長い間主の宮の再建に専念しませんでした。しかし、ゼカリヤとハガイの励ましによって、彼らはもう一度再建を始めました。

ところが、再建を始めると、再び反対が来ました。総督タテナイとシェタル・ボズナイ(おそらく彼は調査官のような役割の人物でした)は、ユダヤ人に尋ねました。

だれがあなたがたに命令を下して、この宮を建て、この城壁を修復させようとしたのか。。。この建物を建てている者たちの名は何というのか。(エズラ記5:3-4)

彼らがユダヤ人の答えを聞いた後、ダリヨス王に手紙を送りました。

その結果はどうだったでしょうか?ダリヨス王はクロス王の命令を見つけました。つまり、クロス王はユダヤ人が主の宮を再建することを許しました。だから、ダリヨスはタテナイとシェタル・ボズナイにこう命じました。

この神の宮の工事をそのままやらせておけ。ユダヤ人の総督とユダヤ人の長老たちにこの神の宮をもとの所に建てさせよ。(6:7)

それだけでなく、ダリヨス王の命令によって、タテナイとシェタル・ボズナイはその再建のために費用を負担しなければならなかったし、宮の捧げ物のためにさまざまなものをユダヤ人に与えなければなりませんでした。

神様がそのように働かれたことは、素晴らしいと思います。ユダヤ人に反対した人々は、結局ユダヤ人を手伝わなければなりませんでした。

さらに、この話からもう一つのことを学ぶことができます。

もし神様がご自身の仕事をするために私たちを呼び、私たちがその仕事に専念するなら、その仕事を完成するために神様は私たちのすべての必要を与えてくださいます。

そして、もし反対する人々が来るなら、神様はその状況の中で働かれ、その仕事は必ず完成されます。

だから、私たちは自分自身に一つの質問をするべきです。

「私は神様の仕事にどれほど専念しているのだろうか。」

私たちの状況が大変になったら、私たちはすぐに諦めるでしょうか。それとも、お金や持ち物や私たちの欲望を求めるために、神様の仕事を忘れるでしょうか。

神様は素晴らしいプランを持っておられ、私たちがそのプランに参加するように呼んでおられます。あなたはどれぐらいそのプランに対して応え、専念しているでしょうか。

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ハガイ書

不潔と聖さの違い

ゼカリヤのメッセージの後、ハガイは次のメッセージを伝えました。そして彼は、不潔と聖さの違いを説明しました。

まず、この背景について説明します。モーセの律法によれば、祭壇が油で注がれると、それは聖なるものとされました。また、その祭壇に触れた物も聖なるものとされます。(出エジプト記29:37)

この箇所で、ハガイはこう問いかけました。「聖さは間接的に移すことができるでしょうか。」(ハガイ書1:10-12)

例えば、牛肉が祭壇に触れると、その肉は聖なるものとなります。しかし、その聖なる肉を持ち帰り、その肉が別の食べ物に触れたとしても、その触れられた食べ物が聖なるものになるでしょうか。それは違います。

つまり、聖さは間接的に移すことはできません。単に教会に入るだけで聖くなるわけではありません。敬虔な人と交わるだけでも、聖さが移ることはありません。

イスラエルの歴史においても、預言者たちの聖さがイスラエルの民に移ることはありませんでした。また、彼らが幕屋や宮に行っていけにえを捧げても、帰ると酷い罪を犯すことがありました。

一方、不潔は容易に移ります。例えば、死体に触れた者は汚れるとされました。そして、その汚れた者が触れた物も汚れてしまいます。(民数記19:11-22)

そして、神様はこう言われました。

わたしにとっては、この民はそのようなものだ。この国もそのようである。――主の御告げ――

彼らの手で作ったすべての物もそのようだ。彼らがそこにささげる物、それは汚れている。(ハガイ書2:14)

どうして彼らは汚れたのでしょうか。それは、彼らの態度が悪かったからです。彼らは自分の心の王座から神様を追い出し、自分自身がその座につきました。

その態度が彼らの間に広がった結果、宮の再建を止めてしまいました。代わりに、自分の家と生活に集中してしまったのです。

こうして、主の宮は長い間、廃墟のままとなっていました。

その不潔な態度は、彼らのすべての行動に悪影響を及ぼしました。彼らの行動は神様の目には不潔なものと映りました。たとえ宗教的な行為をしても、それは神様の目には不潔なものでした。

だから、神様は彼らにこう警告されました。「あなたの人生をよく考えなさい。あなたの態度が悪く、私の宮を無視したため、あなたの人生はうまくいっていない。しかし今、あなたは悔い改め、態度を改めたので、

きょうから後、わたしは祝福しよう。(19)

私たちが学ぶべきことは、罪の種や不潔な種が私たちの心に根付かないようにすることです。もしそのような種が心に根付いてしまうと、イスラエルの民のように、その罪は私たちの人生全体に広がり、行動を汚してしまいます。

パウロはこう書きました。

あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。

新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。(第一コリント5:6-7)

主よ、どうか私の人生から罪というパン種を取り除いてください。私の心に罪が広がらないよう守ってください。その罪が、私があなたに仕えるミニストリーに影響を及ぼさないように。むしろ、私をあなたの聖さで満たしてください。

私たちのすべての行動が、あなたの目にかなうものとなりますように。アーメン。

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ゼカリヤ書

私たちの過去から学ぶ

ゼカリヤとハガイのミニストリーは同じ時期に始まりました。そして、彼らは力を合わせて、イスラエル人が主の宮を再建するよう励ましました。ゼカリヤは預言者であるだけでなく、祭司でもありました。

ところで、「ダリヨスの第二年の第八の月に」と記されていますが、このダリヨスはダニエル書に登場するダリヨスではありません。このダリヨスはダレイオス1世、すなわちエズラ書に出てくるダリヨスです。

(聖書では、名前の書き方が時々異なることがあります。それはおそらく、元々ヘブル語で書かれていたためでしょう。)

さて、ゼカリヤが自らのミニストリーを始めたとき、彼はイスラエルの人々に自分たちの歴史を振り返らせました。そして彼はこう語りました。

主はあなたがたの先祖たちを激しく怒られた。あなたは、彼らに言え。万軍の主はこう仰せられる。わたしに帰れ。――万軍の主の御告げ――

そうすれば、わたしもあなたがたに帰る、と万軍の主は仰せられる。

あなたがたの先祖たちのようであってはならない。

先の預言者たちが彼らに叫んで、「万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの悪の道から立ち返り、あなたがたの悪いわざを悔い改めよ」と言ったのに、彼らはわたしに聞き従わず、わたしに耳を傾けもしなかった。――主の御告げ――

あなたがたの先祖たちは今、どこにいるのか。預言者たちは永遠に生きているだろうか。しかし、わたしのしもべ、預言者たちにわたしが命じた、わたしのことばとおきてとは、あなたがたの先祖たちに追い迫ったではないか。

そこで彼らは立ち返って言った。「万軍の主は、私たちの行ないとわざに応じて、私たちにしようと考えられたとおりを、私たちにされた」と。(ゼカリヤ書1:1-6)

神様は何度もイスラエルの先祖に、「悔い改めなさい。私のもとに戻りなさい」と語られました。

けれども、彼らは神様を無視しました。彼らは預言者たちの言葉を無駄な言葉だと思い込んでいましたが、ついに裁きが訪れました。その後、彼らはようやく悔い改めたのです。

そこで、神様はこう言われました。

「あなたの過去から学びなさい。私があなたの先祖に警告した時、私の言葉は決して無駄ではなかった。今でも、私の言葉は無駄ではない。悔い改めなさい。さもなければ、再び裁きが訪れるでしょう。」

神様は私たちにも同じことを語られます。私たちすべてが罪を犯します。しかし、あなたは自分の過ちから学んでいるでしょうか。それとも、自分を滅ぼす罪を繰り返しているでしょうか。

私たちの過ちを繰り返さないようにしましょう。むしろ、賢明な道を歩み、悔い改めて、神様の恵みの中で生きましょう。

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ハガイ書

私たちの栄光がどこから来るか

以前のブログでも触れましたが、ソロモンの宮を目にした世代は、新しい宮の礎が据えられるのを見た時、涙を流しました。なぜなら、ソロモンの宮の栄光は、新しい宮の栄光よりもはるかに素晴らしかったからです。

さらに、ユダの民がその働きを再び始めた時、同じ世代は再び泣き始めました。そこで、預言者ハガイは彼らを励ましたのです

あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。

しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。――主の御告げ――

エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。――主の御告げ――

仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。――万軍の主の御告げ――

あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。(ハガイ書2:3ー5)

つまり、「失望しないでください。この宮について落胆しないでください。また、反対に直面する時も、気落ちしないでください。私があなたと共にいるからです。働き続け、私の宮を建てなさい。

あなたをエジプトから救い出した時、私は多くの約束をしました。その約束は決して変わりません。私はあなたをここまで導いた神です。私は変わらず、私の霊もあなたと共にいます。」

そして、神様はこう言われました。

まことに、万軍の主はこう仰せられる。

しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。

万軍の主は仰せられる。銀はわたしのもの。金もわたしのもの。――万軍の主の御告げ――

この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。――万軍の主の御告げ――」(6ー9)

これはメシヤ、つまりイエス様についての預言です。イエス様が来られる前、神様はすべての国々を揺り動かされました。すなわち、さまざまな帝国が繁栄したり衰退したりしました。

そして、すべての国々の宝であるイエス様が来られました。イエス様はその宮に入り、ご自身の栄光でその宮を満たされました。神様が人間として来られ、福音を述べ伝え、多くの奇跡を行われたのです。

そのイスラエルの年配の人々の考え方には誤りがありました。彼らは、宮の外見にばかり注目し、宮の栄光がその建材や装飾から来ていると考えたのです。

けれども、ソロモンの宮がいくら美しかったとしても、その栄光は銀や金、あるいは他の素材から来たものではありませんでした。その栄光は神様の臨在から来たのです。神様がその宮に来られたからこそ、その宮に栄光がありました。

確かに、ソロモンの宮は新しい宮よりも美しかったかもしれません。しかし、神様は人間としてその宮に入られることはありませんでした。一方、新しい宮にはイエス様が入られた時、その宮はさらに素晴らしい栄光を受けたのです。

同じように、私たちも自分の「宮」、つまり人生を見て、他の「宮」と比べると、がっかりすることがあるかもしれません。ほかの人が自分よりもハンサムだったり美人だったり、あるいは才能が豊かだったりするように見えることがあります。

けれども、あなたの栄光は外見や才能から来るものではありません。あなたの栄光は、あなたの心に住まわれるイエス様から来るのです。

ですから、他の人々と自分自身を比べないでください。そして、周りの人々があなたの神様への従順に反対するときにも、失望しないでください。強く、雄々しくありなさい。恐れることなく、神様があなたに与えられた働きを成し遂げなさい。

あなたをサタンの国から救い出し、奴隷の人生から解放された神様は、あなたと共におられ、決してあなたを見捨てられません。そして、神様は毎日ご自身のご計画の中で、あなたをますます素晴らしい宮へと変えてくださいます。

パウロはこう書きました。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3:18)

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エズラ記 ハガイ書

優先順位を正しくする

以前言ったように、エズラ記の年代順は少し複雑です。もし私がその年代順を正確に理解できているならば、おそらくエズラ記4:1-5の後に記されている4:6-23の出来事は、すぐに起こったわけではないでしょう。

さらに、エズラ記7章から最後までの出来事は、4:6-23の前に起こったと考えられます。

そして、ネヘミヤ記の出来事は、エズラ記4章の後に起こりました。

少し混乱するかもしれませんが、心配しないでください。このブログを読み進めることで、徐々に理解が深まるでしょう。🙂

では、もし6-23節の出来事が1-5節の後にすぐ起こったわけではないのなら、なぜそのように記されているのでしょうか。

その理由は、記述が共通のテーマに基づいているからかもしれません。すなわち、ユダの民が城壁、その礎、そして宮を再建する際に直面した反対に焦点を当てているのです。

いずれにせよ、その反対のために彼らは宮の再建を中断しました。(エズラ記4:1-5)

しかし、ハガイ書によれば、宮の再建が中断された理由はもう一つありました。それは、ユダの民にとって、主の宮を再建することが必ずしも最優先事項ではなかったということです。

そこで、預言者ハガイは彼らにこう言いました。

「万軍の主はこう仰せられる。この民は、主の宮を建てる時はまだ来ない、と言っている。」

ついで預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。」(ハガイ1:2-4)

つまり、彼らは自分自身の生活を優先するあまり、主の宮を顧みませんでした。

私たちも同じようなことをしているのではないでしょうか。私たちの霊的な生活や神様との関係が重要ですが、時には家計や仕事、家族のことをさらに重要視してしまうことがあります。

もちろん、これらは非常に大切なものです。しかし、もしそれらを神様よりも優先してしまうなら、私たちは罪を犯しているのです。

神様はユダの民にこう言われました。

今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。

あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。

かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。(ハガイ1:5-6)

なぜ彼らの状態がそのようになってしまったのでしょうか。それは、彼らの優先順位が完全に狂っていたからです。彼らが神様を顧みず無視したため、神様はもはや彼らを祝福されませんでした。そこで、神様は彼らにこうこう言われました。

万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。

そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。(ハガイ1:7-8)

神様は私たちに同じことを語られています。

「あなたの現状をよく考えなさい。あなたの神様との関係を最優先にしなさい。神様とその御国を何よりも大切にしなさい。そうすれば、あなたは神様の祝福を知ることができるでしょう。」

イエス様はこう言われました。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)

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ダニエル書3

思慮深い人

多くの人々にとって、特に聖書を信じない人々にとって、この箇所は最も信じがたい部分かもしれません。それは、この預言が非常に具体的であり、すべてが成就されたからです。つまり、ダニエルはペルシャ帝国とギリシャ帝国の将来について語っています。

まず、クロス王の後に続く3人のペルシャの王について言及します。それはカンビュセス2世、ガウマタ、そしてダリヨスです(ここでのダリヨスはダニエル書のダリヨスではなく、エズラ記6章に出てくるダリヨスです)。

ダリヨスの息子はアハシュエロス(クセルクセス1世)であり、エズラ記とエステル記に登場するアハシュエロスです。

アハシュエロスは他のペルシャの王よりも裕福でした。その理由は、莫大な税金を徴収し、多くの国を征服したからです。彼はギリシャを攻撃し、最初は成功を収めましたが、最終的にはその海軍が敗北を喫しました。

その後、彼の軍隊もプラタイアの戦いで敗北を喫しました。(ダニエル書11:2)

その後、ギリシャでアレクサンダー大王(つまり、アレクサンドロス3世)が王となりました。けれども、彼の死後、その帝国は4つに分割されました。ただし、アレクサンダーの子孫が支配していたわけではありません。むしろ、アレクサンダーの4人の将軍がそれらを治めました。(ダニエル書11:3-4)

さらにダニエルは具体的に、ギリシャで何が起こるかを預言します。彼はプトレマイオス1世とアンティオコス2世の時代から、プトレマイオス12世とアンティオコス4世の時代まで預言しています。(ダニエル書11:5-34)

歴史的な本を読めば、その預言がどのように成就されたかがよく分かるでしょう。あるいは、ウィキペディアにも関連した情報があるかもしれません。

いずれにせよ、ダニエル書11:36から最後までは、ダニエルが終わりの日と反キリストについて預言している箇所です。反キリストは他の神々を礼拝せず、「すべてにまさって自分を大きいものとする」とあります。(ダニエル書11:37)

おそらく、彼は「私は神である」と主張するのかもしれません。

また、彼は「砦の神」を崇めると記されています。つまり、力の神、あるいは戦争の神を崇めることを意味しています。この反キリストは力を好み、戦争を始める者であることを示唆しています。そして、イエス様が再臨されるまで反キリストは支配を続けます。

その時代には多くの困難が起こりますが、神様はご自身の民を救い出し、終わりの日の復活の時に、神様を愛する者は復活して永遠に生きます。

しかし、神様を憎み逆らう者はそしりと永遠の忌みを受けることになります。(ダニエル書12:1-3)

私たちは何を学ぶべきでしょうか。

ダニエル書11:33-35では、アンティオコス4世とマカバイ戦争について言及されています。その時、ユダヤ人は迫害されましたが、ダニエルはそのユダヤ人について次のように記しています。

民の中の思慮深い人たちは、多くの人を悟らせる。

彼らは、長い間、剣にかかり、火に焼かれ、とりことなり、かすめ奪われて倒れる。彼らが倒れるとき、彼らへの助けは少ないが、多くの人は、巧言を使って思慮深い人につく。

思慮深い人のうちのある者は、終わりの時までに彼らを練り、清め、白くするために倒れるが、それは、定めの時がまだ来ないからである。(ダニエル書11:33-35)

神様はご自身の民が決して苦しまないとは約束されませんでした。むしろ、思慮深い人たちが周囲の人々に神様の方法を教えるために、「彼らは、長い間、剣にかかり、火に焼かれ、とりことなり、かすめ奪われて倒れる」と記されています。

しかし、その苦しみの中には、神様のご計画があります。つまり、その試練を通して、「彼らを練り、清め、白くする」とされています。

そして、12章によれば、彼らは苦難の時代から救い出され、復活します。その時、

思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。(12:3)

そして、ダニエルはこう書きました。

多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。(12:10)

そして、天使はダニエルにこう言いました。

あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。(13)

この箇所を読むと、希望に満たされます。たしかに、戦争は起こり、将来には様々な困難や試練が訪れます。

けれども、それらを通して、神様は私たちを清め、白くし、練り上げてくださいます。そして、終わりの日の復活において、私たちを救い出してくださった神様の御前で、私たちは星のように輝くのです。

だからこそ、私たちは思慮深い人になるよう努めましょう。毎日神様を求め、周囲の人々を神様のもとへ導きましょう。

そうすれば、ダニエルのように、私たちは休みを得た後に復活し、自分の割り当てられた地に立つことができるでしょう。

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ダニエル書3

戦い

私が高校生だった頃、天使と悪魔について描かれたフィクションの本を読んだことがあります。その時、私は目に見えない霊的な戦いについて深く考え、祈りの重要性を実感するようになりました。

おそらく、その著者がその作品を書いた時、この箇所を思い浮かべていたのかもしれません。なぜなら、聖書のこの箇所で初めて、霊的な戦いについて明確に描かれているからです。

この箇所の冒頭には、ダニエルが3週間の喪に服していたと記されています。彼が何に悩んでいたのかははっきりしません。

もしかすると、彼はエルサレム再建にまつわる問題を聞いて心を痛めていたのかもしれません。

または、ユダヤ人が神様を敬うことを忘れ、自分のことだけを考えているという話を聞いていたのかもしれません。(預言者ハガイが彼らのその態度を批判しています。)

いずれにせよ、ダニエルは断食し、神様の御心を求めていました。けれども、約3週間もの間、ダニエルは何の答えも受け取ることがありませんでした。

私たちも同じように感じることがあるのではないでしょうか。困難に直面し、神様の御心を求めても、神様が私たちを無視しているように思えることがあります。

しかし、本当に神様はダニエルを無視していたのでしょうか。違います。ある日、天使が現れました。そして、彼はダニエルにこう言いました。

恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。

ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき[た]。(ダニエル書10:12-13)

その天使は、ダニエルを強め、そのメッセージを聞く準備を整えさせてから、こう言いました。

私が、なぜあなたのところに来たかを知っているか。今は、ペルシヤの君と戦うために帰って行く。私が出かけると、見よ、ギリシヤの君がやって来る。

しかし、真理の書に書かれていることを、あなたに知らせよう。あなたがたの君ミカエルのほかには、私とともに奮い立って、彼らに立ち向かう者はひとりもいない。(20-21)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。この世の問題に直面するとき、私たちは時折、神様が沈黙しているように感じることがあります。けれども、私たちの目には見えない多くのことが存在しています。それは、霊的な戦いです。

パウロは次のように書きました。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)

時折、私たちクリスチャンは周りの人々と戦っていると感じることがありますが、実際には霊的な力と戦っているのです。その力と戦うためには、霊的な武具が必要です。(エペソ書6:13ー17)

ここでは、この武具について詳しく説明しませんが、一つ重要なポイントを覚えておいてください。その武具はあなたの体の前を守るためのものです。後ろを守る武具は存在しません。

どうしてでしょうか。それは、私たちが逃げることなく、前進し続けることを求められているからです。

しかし、その武具だけでは十分ではありません。私たちは祈らなくてはなりません。

パウロはこう書きました。

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。

そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ6:18)

私たちは一人では戦えませんし、自分だけの力では太刀打ちできません。私たちには、聖霊様が私たちのために戦ってくださることが必要です。

ですから、自分自身のためだけでなく、キリストにある兄弟姉妹たちのためにも祈ってください。牧師のために祈りましょう。苦しんでいる兄弟姉妹たちのために祈りましょう。

ひとりよがりになることを避けましょう。サタンはほえたける獅子のように私たちを狙っているので、目を覚ましていましょう。そして、神様の命令に従い、祈りを欠かさずに行いましょう。また、信仰の戦いを勇敢に戦いましょう。

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ダニエル書2

正直さ

少し話をバビロンとダニエルに戻しましょう。

ダリヨスという人物が王として治めました。このダリヨスは、エズラ記6章に登場するダリヨスとは異なります。

実は、ダニエル書におけるダリヨスが誰であるかについては議論が続いています。

ダリヨスはクロス王の別名である可能性があります。また、ダリヨスはグバルという人物かもしれません。グバルはクロス王の治世において、バビロンの知事を務めていました。

いずれにしても、ダニエルが他の大臣や太守よりも際立って優れていたため、ダリヨスは彼を任命して全国を治めさせようと考えました。(3節)

けれども、他の大臣や太守たちは全く喜ばなかったことでしょう。おそらく、彼らはユダヤ人がそのような地位に就くことを受け入れられなかったのです。

そのため、彼らはダニエルを非難する理由を探しましたが、何も見つけることができませんでした。

4節にはこのように書かれています。

何の口実も欠点も見つけることができなかった。彼は忠実で、彼には何の怠慢も欠点も見つけられなかったからである。(ダニエル書6:4)

だから、彼らは言いました。

私たちは、彼の神の律法について口実を見つけるのでなければ、このダニエルを訴えるどんな口実も見つけられない。(5)

そして、彼らはダリヨスにこう提案しました。

今から三十日間、王よ、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれると。(7)

なぜダリヨスが賛成したのか、私にはわかりません。

もしかすると、自分のプライドから賛成したのかもしれませんし、その律法によってバビロン人の忠誠をペルシャ側に移そうと考えたのかもしれません。

いずれにしても、彼はその提案を気に入り、その禁令の文書に署名しました。

では、ダニエルはその律法について聞いたとき、どう反応したでしょうか。いつものように、彼は一日に三回祈り続けました。

他の大臣や太守たちはそれを見つけると、すぐにダリヨスに報告しました。

ダリヨスはその知らせを聞いて、深くショックを受けました。彼はなんとかしてダニエルを救おうとしましたが、その律法を変えることができなかったため、最終的にダニエルを獅子の穴に投げ入れることとなりました。

この話をよくご存じかもしれません。神様は天使を送り、その獅子たちの口を塞がれたため、ダニエルは無事でいられました。それを見たダリヨスは、ダニエルをその穴から救い出し、ダニエルを非難した者たちとその家族を獅子の穴に投げ込みました。

この物語で私が最も感動したのは、ダニエルの正直さと忠実さです。大臣や太守たちはダニエルの生活を注意深く調べましたが、何一つ非難できる点を見つけることができませんでした。

彼は忠実で、怠慢も欠点もありませんでした。そして、神様に従うか、信仰を妥協するかを選ばなければならない場面でも、彼はためらうことなく神様を選びました。

あなたはいかがでしょうか。周囲の人々はあなたについて、そのように語ることができるでしょうか。また、プレッシャーがかかったとき、信仰を妥協するでしょうか。

それとも、ダニエルのように神様に忠実に仕え続けるでしょうか。

私たちもダニエルのように、正直さと忠実さを持って神様に従いましょう。

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エズラ記

反対

これから、エズラの年代順は少し複雑になります。ここでは私の考えを述べますが、聖書学者たちは年代順だけでなく、エズラ記の中に登場する人物に関しても議論しています。

おそらく、エズラ記4章のアハシュエロス王とアルタシャスタ王は、紀元前486年から423年に治めたペルシャの王たちでした。

その仮定に基づき、私はエズラ記の順番を少し変更します。

エズラ記の年代順は複雑ですが、主の宮を再建するユダヤ人たちにとって、その状況も複雑でした。

再建中、サマリヤ人は手伝いを申し出ました。そのサマリヤ人は北イスラエル王国の残った人々(つまり、追放されなかった人々)の子孫と、メソポタミアとシリアからの移民でした。

彼らは本当の神を礼拝していましたが、他の神々も礼拝していました。だから、エズラと他のユダヤ人たちは彼らの助けを断りました。

そういうわけで、そのサマリヤ人たちはユダヤ人たちが主の宮とエルサレムの城壁を再建することに反対し始めました。エズラ記とネヘミヤ記では、サマリヤ人が反対している様子がよく描かれています。

この話から大切なことを学ぶことができます。私たちが神様に従って、私たちの宮(つまり、私たちの体)を神様に捧げ、また私たちの霊的な力を強める時、それに対して反対するものが現れます。

時々、周りの人々が私たちの変化を見ると、彼らは喜んで私たちを応援します。しかし、私たちの信仰が彼らの信仰とは異なる場合、彼らは私たちがそれほど真剣に神様に従わないよう説得しようとします。

例えば、仏教の葬式で焼香するよう説得されるかもしれません。また、彼らは私たちが道徳的な基準を妥協するように説得しようとするかもしれません。そして、私たちが妥協しないと、彼らは怒るでしょう。

イエス様は、私たちが彼に従うと、すべての人々が私たちを好きになると約束されませんでした。イエス様は完全な方であったのに、彼を憎む人々もいました。だからイエス様はこう言われました。

もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。(ヨハネ15:18)

だから、私たちは自分自身にこの質問をするべきです。「私は誰を喜ばせようとしているのだろうか。神様でしょうか。それとも周りの人々でしょうか。」

神様の賞賛をほかの人々の賞賛よりも求めましょう。反対が来ても、神様の賞賛を求めましょう。また、私たちの人生がつらくなっても、神様の賞賛を求めましょう。

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エズラ記

喜びと後悔

この箇所では、私たちはいくつかのことを見ます。

一つ目は、ユダヤ人たちがもう一度いけにえと捧げ物を捧げ始めたということです。また、何年かぶりに彼らは仮庵の祭りを祝いました。

二つ目は、彼らが主の宮を再建し始めたということです。そして、神殿の礎を据えたとき、彼らは大いに喜びました。

11節には、こう書かれています。

そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。(エズラ記3:11)

けれども、同時に、泣いている人もおり、その涙は喜びのためではありませんでした。

しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。

一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。そのため、だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた。(12-13)

どうして彼らは泣いていたのでしょうか。おそらく、彼らにはほろ苦い思いがあったのだと思います。彼らは愛する宮の再建を見て、喜びました。それでも、ソロモンの宮と比べると、その新しい宮には栄光がありませんでした。

時々、私たちの悪い決断によって、私たちの人生はめちゃくちゃになります。つまり、私たちの罪によって、私たちの結婚や、健康や、家計を壊してしまいます。

そして、私たちが悔い改めると、神様は私たちを赦してくださいます。また少しずつ、神様は私たちの人生を癒し始めます。その癒しによって、私たちは喜びます。

しかし同時に、私たちは振り返って後悔します。私たちが人生の被害を見て、だんだん私たちの関係や、私たちの人生は癒されているけれど、そのプロセスは苦しいです。そして、私たちが再建するものは以前のものほど、あまり良くないと思います。

それでも、あなたの後悔によって圧倒されないようにしましょう。私たちが悔い改めると、神様は私たちが自分の失敗とその結果に焦点を当てることを望んでおられません。

むしろ、私たちが神様の赦しと恵みに休んで、未来に焦点を当てることを望んでおられます。そうすれば、神様は私たちのすべての涙をすっかりぬぐい取ってくださり、神様の栄光は私たちを通してもう一度輝き始めます。

パウロの言葉を覚えておきましょう。

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます。。。(第二コリント7:10)

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エズラ記 歴代誌第二

呼ばれた

私が歴代誌について書き始めたのは、約2年前でした。今日はやっとその話を終えることができます。列王記と歴代誌の話はずっと続いてきました。

この箇所では、また、エズラ記の初めに、ユダヤ人がイスラエルに戻ることについて読みます。なぜ彼らは帰国できたのでしょうか。

ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。

「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。

あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。』」(エズラ記1:1-3)

2節は私の心を打ちました。「天の神、主(つまり、ヤハウェ)は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。」

ペルシャ人が自分の神々を礼拝していたのに、どうしてクロスはイスラエルの神ヤハウェをほめたたえたのでしょうか。

おそらく、彼は預言者イザヤの言葉を知っていたからです。クロスが生まれるずっと前に、イザヤはこの言葉を書きました。

わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる』と言う。」(イザヤ44:28)

また、

主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。。。

それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。(イザヤ45:1、3)

おそらくその言葉によって、クロスはその宣言を伝えました。また、彼はネブカデネザルが取った主の宮の用具を返し、その宮の修理のために、イスラエル人の隣人にこう命じました。

残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。(エズラ1:4)

そして、クロスの応援で、神様が言われたように、イスラエル人は帰国しました。

神様がクロスを神様の目的を果たすために呼ばれたように、神様は私たちを呼ばれました。私たちが自分自身のために生きるように呼ばれたのではありません。私たち自身の目的を果たすために呼ばれたのでもありません。むしろ、私たちが神様のために生きるために、神様は私たちの名前を呼ばれました。

パウロはこう書きました。

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(第二コリント5:15)

あなたは誰のために生きているでしょうか。神様はご自身の目的のためにあなたの名前を呼ばれました。その召しに応えるでしょうか。

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ダニエル書3

メシヤが来られること、反キリストが来ること

この箇所は、本当に素晴らしい預言です。

以前、私は他のダニエル書の預言について話しました。つまり、バビロン帝国、ペルシャ帝国、ギリシャ帝国、そしてローマ帝国についての預言です。

多くの人々はその預言を見ても信じません。彼らは、「その預言はきっと本物ではない。その出来事が起こった後に、誰かがダニエルの名前を使ってこの預言を書いたのだろう」と言います。

彼らは超自然的なことを全く信じず、そのようなことを言うのです。

けれども、この9章の箇所はその考えを覆すのではないかと思います。なぜなら、この箇所はイエス様の生涯と働き、さらにはエルサレムの没落を預言しているからです。

旧約聖書全体が紀元前3年から1年の間にギリシャ語に翻訳されたことを考えると、エルサレムの没落の後にダニエル書を編集することは不可能でした。

神様はダニエルにこう言われました。

あなたの民とあなたの聖なる都(つまり、エルサレム)については、七十週が定められている。(ダニエル書9:24)

その「70週」というのは70の7年期間を指します。その間に、

  • 神様はそむきをやめさせます。
  • 神様は罪を終わらせます。
  • 神様は咎を贖います。
  • 神様は永遠の義をもたらします。
  • 神様は幻と預言を確証します。
  • 神様は至聖所(つまり、主の宮)に油を注ぎます。

その最初の7年間がいつ始まるのかについて、聖書学者たちは議論を続けています。おそらく、その始まりはエズラ記7章に記されている出来事だと思われます。

その時、ペルシャの王アルタシャスタが祭司エズラに主の宮を立て直し、飾るよう命じました。その箇所の焦点は宮を立て直すことにありますが、エズラ記9:9によれば、イスラエル人はエルサレムの城壁を立て直す許可も与えられたようです。

その後、ネヘミヤがエルサレムの城壁がまだ崩れていることを聞き、非常に落胆した場面があります。

いずれにしても、この預言によれば、最初の7年期間で苦しみの時代にエルサレムは立て直されると書かれています。(25節)

エズラとネヘミヤの時代、それは確かにその通りでした。彼らは主の宮とエルサレムの城壁を立て直そうとしましたが、数々の反対に直面しました。

それだけでなく、エステルの時代には、誰かが全てのユダヤ人を殺そうと計画したことがありました。(エステル記をぜひお読みください。)

その時から、62の7年期間(つまり、434年間)を数えると、それは紀元27年頃になります。その時、「油そそがれた者」が現れました。

私たちはいつもイエス・キリストと言いますが、「キリスト」は名前ではありません。「キリスト」という言葉は、「油そそがれた者」という意味です。

したがって、この箇所はイエス様について語っています。そして、紀元27年頃にイエス様はご自身のミニストリーを始められました。

その62の7年期間の後、「油そそがれた者」(つまり、イエス・キリスト)は断たれました。直訳すると、キリストは殺されました。また、「彼には何も残らない」と書かれています。

おそらく、その意味は、弟子たちがキリストを捨てたということでしょう。

その時、イエス様は十字架で私たちの罪をあがなわれました。その後、紀元70年にエルサレムと主の宮は滅びました。(26節)

最後の7年期間は将来の出来事です。その時、反キリストが現れるでしょう。彼は多くの者(つまり、ユダヤ人)と契約を結びますが、半週(3年半)の間にその契約を破り、ユダヤ人のいけにえとささげ物をやめさせます。

けれども、最終的に反キリストは倒され、その時、神様は罪を終わらせ、永遠の義をもたらされます。そして、新しい宮に油を注がれます(おそらく、エゼキエル書40-44章に記されている宮でしょう)。この預言はすべて成就されます。

この箇所には数多くの預言が含まれています。しかし、大切なのは、神様が未来を完全に支配しておられるということです。

もし、神様が帝国の興亡、イエス様の来臨、エルサレムの没落を正確に預言されたのであれば、私たちは反キリストや将来の神の国についての預言も信じることができるでしょう。

だから、将来が困難になったとしても、心配しすぎないでください。神様はすべてを支配しており、神様が約束されたすべてのことは必ず成就されるからです。

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ダニエル書3

自分の罪によってあなたの人生が壊れた時

ペルシアがバビロンを打ち破った後、ダニエルはエレミヤの預言を思い出しました。それは、イスラエルの追放が70年間続くというものでした。その70年が過ぎたとき、ダニエルは神様の前に跪き、祈りを捧げました。

実際、他のイスラエル人と比べると、ダニエルは正しい人でした。彼は一貫して神様に忠実であり、それほど悔い改める必要がありませんでした。

それでもなお、イスラエル人のために祈るとき、ダニエルは「私は正しい人だからイスラエル人のために祈ります」とは言いませんでした。むしろ、自分の罪を認め、神様の恵みの必要性を訴えました。

ダニエルはこの祈りを通して、私たちの人生が罪によって壊れたとき、どのように祈るべきかを教えてくれます。

第一に、ダニエルは言い訳をせず、正直に自分の罪を告白することです。彼はこのように祈りました。

私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行ない、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました。

私たちはまた、あなたのしもべである預言者たちが御名によって、私たちの王たち、首長たち、先祖たち、および一般の人すべてに語ったことばに、聞き従いませんでした。(ダニエル書9:5-6)

第二に、ダニエルはユダヤ人が抱えるトラブルの原因を神様のせいにせず、彼ら自身の責任を認めることです。

イスラエル人はみな、あなたの律法を犯して離れ去り、御声に聞き従いませんでした。そこで、神のしもべモーセの律法に書かれているのろいと誓いが、私たちの上にふりかかりました。私たちが神に罪を犯したからです。

神は、大きなわざわいを私たちにもたらすと、かつて私たちと、私たちをさばいたさばきつかさたちに対して告げられたみことばを、成就されたのです。(ダニエル書9:11-12)

第三に、ダニエルはイスラエル人ではなく、神様こそが正義の方であることを認めることです。

私たちの神、主のみわざは、すべて正しいのです。私たちが、御声に聞き従わなかったからです。(ダニエル書9:14)

最後に、ダニエルはユダヤ人の良い行いに基づくのではなく、神様の恵みに基づいて赦しを願うことです。

私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。

主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。(ダニエル書9:18-19)

私たちの人生が罪によって壊れるとき、私たちはしばしば自分自身を責めるのではなく、周りの人々を責めます。

時には神様さえも責めることがあります。「あなたは不公平です。どうして私の人生はこんなにもめちゃくちゃになったのですか?」と文句を言うこともあります。

たとえ自分が悪かったと認めたとしても、私たちはよく自分の行動を弁解しようとします。

しかし、そのような態度を持ち続けるなら、私たちの人生は壊れたままで、神様の赦しを知ることは決してありません。むしろ、苦々しい心だけを抱くことになるでしょう。

もし赦しと癒しを知りたいなら、ダニエルのように祈るべきです。言い訳をせず、正直に神様に「私は悪かった。私は罪を犯しました」と告白することが必要です。

また、「神様、あなたは不公平です。だから私の人生はめちゃくちゃになったのです」と言うのではなく、自分の責任を認めることが大切です。

さらに、神様の判断が正しいと認めるべきです。

そして、神様の憐れみによってのみ、神様の赦しを願うべきです。私たちは神様の赦しに値する存在ではありません。神様の憐れみを得るために何かをすることはできません。ただへりくだって神様に頼ることしかできません。

そうすれば、神様がイスラエルの人々を触れて癒されたように、私たちの人生にも触れて癒してくださいます。

あなたはどうでしょうか。あなたの罪によって、あなたの人生は壊れているのですか。神様を責めていますか。他の人々を責めていますか。

今こそ、自分の責任を認め、罪を告白する時です。そうすれば、神様の赦しと癒しを知ることができるでしょう。

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ダニエル書

数えられ、量られた

2章、3章、8章では、ダニエルはバビロンの没落を預言していました。この箇所では、その預言が成就します。

メディヤ・ペルシャの軍隊によってバビロンは包囲されていましたが、ベルシャツァル王は盛大な宴会を開いていました。それはなぜでしょうか。彼らの防御が強固であり、敵軍が絶対に侵入できないと信じていたからです。

ところが、メディヤ・ペルシャの軍隊は、バビロンを流れるユーフラテス川の流れを変え、その川の門を通って侵入することができました。

その間、ベルシャツァルはその事実を全く知らずに、食べたり、飲んだり、自分の神々を賛美したりしていました。さらに、彼は自分のプライドから、自分の神々を賛美する際に、主の宮から持ち出された金の器を使用しました。

すると、突然、ベルシャツァルは驚くべき光景を目の当たりにしました。

すると突然、人間の手の指が現われ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側の所に物を書いた。(ダニエル書5:5)

それを見たベルシャツァルは恐怖に駆られ、呪文師やカルデヤ人、星占いたちを召し出しました。けれども、彼らはその言葉の意味を理解することができませんでした。そのとき、ベルシャツァルの母が騒ぎを聞きつけ、彼にこう言いました。

おびえてはいけません。顔色を変えてはなりません。あなたの王国には、聖なる神の霊の宿るひとりの人がいます。

あなたの父上の時代、彼のうちに、光と理解力と神々の知恵のような知恵のあることがわかりました。ネブカデネザル王、あなたの父上、王は、彼を呪法師、呪文師、カルデヤ人、星占いたちの長とされました。

王がベルテシャツァルと名づけたダニエルのうちに、すぐれた霊と、知識と、夢を解き明かし、なぞを解き、難問を解く理解力のあることがわかりましたから、今、ダニエルを召してください。そうすれば、彼がその解き明かしをいたしましょう。(10-12)

ダニエルが来ると、ベルシャツァルは彼に言いました。

今、もしあなたが、その文字を読み、その解き明かしを私に知らせることができたなら、あなたに紫の衣を着せ、首に金の鎖をかけさせ、国の第三の権力を持たせよう。(16)

ダニエルはその提案を断りましたが、その文字の意味を説明しました。まず、ダニエルはネブカデネザルの話を語りました。神様がネブカデネザルを立てましたが、ネブカデネザルが神様の主権を認めるまで、神様は彼を低くされたのです。

そして、ダニエルはこう言いました。

その子であるベルシャツァル。あなたはこれらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。

それどころか、天の主に向かって高ぶり、主の宮の器をあなたの前に持って来させて、あなたも貴人たちもあなたの妻もそばめたちも、それを使ってぶどう酒を飲みました。

あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。(22-23)

そして、ダニエルはその文字を説明しました。

『メネ』(つまり、数えられたという意味です)とは、神があなたの治世を数え、それを終わらせられたということです。

『テケル』(つまり、量られたという意味です)とは、あなたがはかりで量られ、目方の足りないことが判明したということです。

『パルシン』(つまり、分割されたという意味です)とは、あなたの国が分割され、メディヤとペルシャに与えられるということです。

その晩、ベルシャツァルの治世は終わりを迎えました。彼は自分の約束を守りましたが、ダニエルの新しい立場はわずか数時間しか続きませんでした。

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

ベルシャツァルの日と同様に、私たちの日も数えられています。私たちはほんの短い間、この世に住みます。

しかしその後、私たちの人生は量られるのです。私たちの行いに基づいて、神様が私たちを裁かれます。もし、私たちの目方が足りないなら、私たちはすべてを失います。

つまり、もしベルシャツァルのように、自分の心を神様の前に低くせず、神様に栄誉を帰さず、イエス様とその十字架の働きを拒絶した場合、あなたは永遠に裁きを受けることになります。

ヨハネはこう書きました。

神を信じない者は、神を偽り者とするのです。

神が御子についてあかしされたことを信じないからですそのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。

御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(第一ヨハネ5:10-12)

あなたは、もうクリスチャンになったでしょうか。神様は私たちの行動に基づいて裁かれます。ですから、私たちは自分自身のためにではなく、神様の御国のために生きるべきです。

ですから、パウロはこう言いました。

そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。

というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。

というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。

もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。(第一コリント3:10-15)

ですから、モーセのように祈りましょう。

私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。。。

それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(詩編90:10,12)

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ダニエル書3

儚い力

4頭の獣の幻の2年後、ダニエルは2頭の獣の幻を見ました。この二つの幻にはいくつかの共通点があります。

この夢の中で、ダニエルは一頭の雄羊を見ました。その雄羊には二本の角がありましたが、一方の角はもう一方よりも長かったのです。ガブリエルによると、その雄羊はメディア・ペルシア帝国を象徴していました。

(以前述べたように、ペルシア(長い角)はメディア(短い角)よりも強かったのです。)

メディア・ペルシャ帝国は非常に強力で、自分たちの思いのままにふるまいました。誰もその帝国を阻止することはできませんでした。

ところが、そこに一頭の雄やぎが現れました。その雄やぎには非常に目立つ一本の角がありました。そして、その雄やぎは雄羊を打ち破り、その角をへし折ったのです。雄やぎは高ぶりましたが、

その強くなったときに、あの大きな角が折れた。そしてその代わりに、天の四方に向かって、著しく目だつ四本の角が生え出た。(ダニエル書8:8)

その雄やぎはアレキサンダー大王を象徴していました。そして、預言通りに、彼が最も強くなった時に死に、四人の将軍たちが支配を始めました。この出来事は最初の幻ですでに示されていました。

けれども、この幻では、より具体的なことが示されます。そして、その事情は将来の出来事を表しています。

その雄やぎの一本の角は小さかったものの、やがて大きくなりました。ダニエルは次のように語っています。

それは大きくなって、天の軍勢に達し、星の軍勢のうちの幾つかを地に落として、これを踏みにじり、軍勢の長にまでのし上がった。

それによって、常供のささげ物は取り上げられ、その聖所の基はくつがえされる。軍勢は渡され、常供のささげ物に代えてそむきの罪がささげられた。

その角は真理を地に投げ捨て、ほしいままにふるまって、それを成し遂げた。(10-12)

その角はアンティオコス4世エピファネスという人物です。彼は、ギリシャ帝国の4分の1(つまり、セレウコスの領土)を取って支配しました。

彼の治世において、彼は2万人の軍隊を送り、エルサレムを攻撃しました。その際、主の宮にゼウスの偶像を立て、神様の祭壇の上で豚を犠牲として捧げました。

(神様の律法によれば、豚は不潔な動物とされているため、その祭壇は汚されました。)

この行動は、「荒らす者のするそむきの罪」と呼ばれるものです。(ダニエル書8:13)

「星」とは、アンティオコスに迫害され、命を奪われたユダヤ人のことです。

そして、ダニエルが預言した通り、アンティオコスは常供のささげ物を取り上げ、真理を地に投げ捨てました。神様の宮はゼウスの宮になったのです。

アンティオコスのプライドゆえに、彼は「私は神だ」と宣言しました。お金には「現れた神」という言葉が刻まれました。

けれども結局、彼は廃されました。ユダス・マカベウスというユダヤ人が反抗を導きました。ユダヤ人たちは最終的に神様の宮を清め、再びその宮を神様に奉献しました。そして、アンティオコスは急病により命を落としました。

ダニエルはこれらの出来事を全て預言していました。

とはいえ、この箇所には、私たちは反キリストの姿を見ることもできます。反キリストはアンティオコスが行ったことを模倣するでしょう。しかし最終的に、神様は反キリストも廃されます。

私たちはここから何を学ぶことができるでしょうか。力は儚いものです。

ペルシャの王たちは自分が強いと思っていましたが、彼らは廃されました。

アレキサンダー大王もそう考えていましたが、彼も廃されました。

アンティオコスも廃されました。

反キリストはサタンの力によって一時的に支配するでしょうが、最終的に彼も廃されます。

おそらく、あなたはこの世を支配しようとは考えていないでしょう。けれども、あなたの人生についてどのように考えているでしょうか。あなたは自分の人生の中心ですか。

周りの人々があなたに仕えるべきだと思っていますか。あなたの目標を果たすために他の人々を踏みにじりますか。また、あなたの心の王座から神様を追い出しますか。

もしそうするなら、あなたはその支配者たちが学んだ教訓を自ら学ぶことになるでしょう。あなたの力は儚いものです。

私たちは喜んで神様に従った方が良いのです。そうしなければ、最終的にあなたの力は取り去られるでしょう。神様に従うと、命を見つけます。しかし、力を握り続けたいのであれば、最終的には死に至ります。

イエス様はこう言われました。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイ16:25)

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ダニエル書3

すべてを治めておられる神

ダニエル書は年代順に書かれていないため、まず5章と6章をスキップします。この箇所が書かれた時、ベルシャツァルがバビロンの王でした。

(実際には、ベルシャツァルは父ナボニドスと共にバビロンを治めていましたが、その当時ナボニドスはテイマという場所に住んでおり、ベルシャツァルがバビロンの管理を任されていました。)

その時、ダニエルは幻を見ました。その幻はネブカデネザルの夢に似ていました。(ダニエル書2章参照)

ダニエルは四頭の大きな獣を見ました。それらの四頭の獣は四つの王国を象徴していました。

鷲の翼を持つ獅子はバビロンを表していました。ダニエルは次のように書いています。

見ていると、その翼は抜き取られ、地から起こされ、人間のように二本の足で立たされて、人間の心が与えられた。(ダニエル書7:4)

その話はネブカデネザルについてです。私たちはすでにダニエル書4章でその物語を読みました。ネブカデネザルは理性を失いましたが、その後、神様が彼に正気を返してくださいました。

熊はメディア・ペルシャ帝国を表していました。ダニエルは次のように書いています。

その獣は横ざまに寝ていて、その口のきばの間には三本の肋骨があった。(5節)

横ざまに寝ているということは、ペルシャがメディアよりも強いことを象徴していました。そして、その三本の肋骨はメディア・ペルシャ帝国に征服された国々を示しています。つまり、バビロン、ギリシア、そしてエジプトです。

次の獣はヒョウでした。ダニエルは次のように書いています。

その背には四つの鳥の翼があり、その獣には四つの頭があった。そしてそれに主権が与えられた。(7節)

そのヒョウはギリシャを表していました。アレキサンダー大王は迅速に世界を征服しました。けれども、彼の死後、四人の将軍たちが(幻では四つの頭)支配を始めました。

最後の獣はローマ帝国を表していました。ダニエルは次のように書いています。

その後また、私が夜の幻を見ていると、突然、第四の獣が現われた。それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。

これは前に現われたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。

私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。

よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。(7-8節)

その十本の角は、おそらく古代ローマ帝国(つまり、現代のヨーロッパ)から現れる将来の支配者たちを象徴しています。

けれども、もう一人の支配者が他の支配者たちよりも高い地位を取ることになります。その支配者は神様に逆らう言葉を吐き、神様の民を迫害します。(20-25節)

その人物は、おそらく反キリストと考えられます。(第一ヨハネ2:18)

しかし、神様はその反キリストを裁かれるのです。その時、

人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。

その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。(ダニエル書7:13-14)

つまり、イエス様がこの世に戻られる時、神様の国が来て、イエス様が永遠に支配されます。

聖書学者たちの間では、その出来事のタイミングについて多くの議論があります。私にも自分の考えがありますが、最終的には神様だけがそのタイミングを知っているため、私はそのすべてを神様の御手に委ねます。

ですから、イエス様がいつ帰って来られるかについてはあまり考えません。重要なのは、イエス様が帰って来られる時に、私がちゃんと準備ができていることです。反キリストが来る前に天国へ行きたいですが、もしまだこの世にいるなら、パウロの言葉を思い出します。

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。

むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(第一コリント13:10)

でも、一番大切なのは、結局神様が全てを治めておられるということです。世の状況がどんなに厳しくなっても、神様がすべてをコントロールしておられるので、私たちには希望があります。神様は王を廃し、王を立てられます。(ダニエル2:21)

神様はネブカデネザル、クロス王、アレキサンダー大王、そしてシーザーを立て、その時が来ると彼らを廃されました。

そして、反キリストが来る時、すべてが困難になりますが、結局神様は彼をも廃されます。そして、神様は永遠にこの世を治められます。

だから、この世の状況を見て不安に思う時は、イエス様の言葉を思い出しましょう。

あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネ14:1)

また、

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。

しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16:33)

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エレミヤ書 列王記第二

恵み

今日、エレミヤ書と列王記を終えます。

この話はエホヤキン王についてです。彼はユダの最後から二番目の王でした。彼はわずか3か月間だけユダを治めました。その後、彼はネブカデネザルによってバビロンに追放されました。

けれども、それでエホヤキンの話が終わったわけではありません。

ユダの王エホヤキンが捕らえ移されて三十七年目の第十二の月の二十五日に、バビロンの王エビル・メロダクは、彼が即位した年のうちに、ユダの王エホヤキンを釈放し、獄屋から出し、彼に優しいことばをかけ、彼の位をバビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くした。

彼は囚人の服を着替え、その一生の間、いつも王の前で食事をした。

彼の生活費は、死ぬ日までその一生の間、日々の分をいつもバビロンの王から支給されていた。(エレミヤ書52:31-34)

どうして、神様は私たちにこの話を伝えられたのでしょうか。どうして、突然バビロンの王はエホヤキンに親切にしたのでしょうか。

聖書では、その理由が全く書かれていません。

しかし、ユダヤ教の伝承によれば、エホヤキンはバビロンで悔い改めたので、神様はネブカデネザルの息子(エビル・メロダク)の心に働きかけ、彼がエホヤキンに親切にし始めました。

その伝承が本当かどうかは分かりません。けれども、おそらくこの話は神様の恵みの象徴です。この話を読むと、私は神様が私たちのために何をしてくださったかを思い出します。

エホヤキンはバビロンの王のために何もしていなかったのに、その王は彼を解放し、親切な言葉をかけ、新しい衣を与え、共に食事をし、彼の位を高めました。

神様は私たちのために同じことをしてくださいました。

私たちが神様のために何もしていなかったのに、神様の恵みとあわれみによって、神様は私たちを救ってくださいました。

神様は私たちの罪を赦し、罪と死の鎖を解き、私たちに親切な言葉をかけ、キリストの義を着せてくださいました。

そして、いつの日か私たちは神様の食卓で共に食事をし、栄光の冠をいただくでしょう。

それが恵みです。

興味深いのは、第12の月の25日にエホヤキンの許しが公表されたということです。(おそらくわずか2日後に彼は牢から解放されました。(列王記第二25:27))

私は真剣に言っているわけではありませんが、神様は将来の出来事を知っておられ、人々がイエス様の誕生を12月25日に祝うことを知っておられました。

そのため、エホヤキンの赦しは、私たちの赦しの象徴であるとも言えるかもしれません。

メリークリスマス、エホヤキン!

…多分そうではありません。それを無視してください。

とにかく、大切なのは、私たちが受けたすべての祝福は、ただ神様の恵みによるものだということです。

それを心に留めておきましょう。

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ダニエル書

主権である神

今日はダニエル書に戻り、ネブカデネザルの話を締めくくります。

このよく知られた話では、ネブカデネザルは理性を失い、約7年間牛のように生活しました。けれども、理性が戻ったとき、彼は神様が主権者であることを認めました。

この話の冒頭では、ネブカデネザルが神様を賛美する場面があります。彼は次のように言いました。

そのしるしのなんと偉大なことよ。その奇蹟のなんと力強いことよ。その国は永遠にわたる国、その主権は代々限りなく続く。(ダニエル書4:3)

その言葉は、この箇所の中心的なテーマです。ネブカデネザルは、自分の過去を振り返り、体験を通じて得た教訓を伝えます。

私、ネブカデネザルが私の家で気楽にしており、私の宮殿で栄えていた。。。(4)

けれども、ある日、彼は恐ろしい夢を見ました。彼は大きな木を見ました。その木の葉は美しく、その実は豊かで、動物を保護し、食べ物を供給していました。

しかし、天使が現れて宣言しました。

その木を切り倒し、枝を切り払え。その葉を振り落とし、実を投げ散らせ。獣をその下から、鳥をその枝から追い払え。

ただし、その根株を地に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて、野の若草の中に置き、天の露にぬれさせて、地の草を獣と分け合うようにせよ。

その心を、人間の心から変えて、獣の心をそれに与え、七つの時をその上に過ごさせよ。

この宣言は見張りの者たちの布告によるもの、この決定は聖なる者たちの命令によるものだ。

それは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最もへりくだった者をその上に立てることを、生ける者が知るためである。(14-17)

ダニエルの反応は非常に興味深いものであり、それは情け深さに満ちていました。もしかすると、ダニエルはエレミヤの言葉を思い出したのかもしれません。

わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。(29:7)

ネブカデネザルは、ダニエルが愛する国を滅ぼしたにもかかわらず、ダニエルは彼の最善を望みました。

ダニエルはネブカデネザルにこう言いました。

「この夢はあなたについてです。あなたが神様の主権を認めなければ、裁きを受けるでしょう。あなたではなく、神様が主権者です。だから、悔い改めてください。そうすれば、神様の裁きは来ないかもしれません。」

神様は人々を裁く前に、必ず悔い改めのチャンスを与えてくださいます。ネブカデネザルにもそのチャンスを与えてくださいました。

神様は約1年間待っておられました。けれども、ネブカデネザルの態度は全く変わりませんでした。

そして、ある日、彼は宮殿の屋上に立ち、自分の栄光を誇りました。彼はこう言いました。

この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。(30)

その時、神様はネブカデネザルを裁かれました。彼は約7年間獣のように過ごしました。

いつそれが起こったのかは誰にも分かりません。とはいえ、紀元前582年から575年の間、ネブカデネザルの活動に関する記録は全くありません。

7年の終わりに、ネブカデネザルは目を上げて天を見ました。その時、彼は正気に返り、神様をほめたたえました。彼はこう言いました。

その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。地に住むものはみな、無きものとみなされる。

彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押さえて、「あなたは何をされるのか」と言う者もいない。。。

そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだった者とされる。(34-35,37)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。神様は主権者です。私たちではありません。

私たちの日常生活において、その真理は重要でしょうか。もちろんです。

例えば、あなたには権威を持つ立場がありますか。会社では上司として、また家庭では親として、あなたは権威を持っているかもしれません。

けれども、その権威がどこから来たのかを思い出してください。あなたは神様の権威の下にあります。そして、神様はあなたがその権威をどのように使ったかを裁かれます。

神様は、人々を踏みつけるためにその権威を与えられたのではありません。むしろ、人々に仕えるためにその権威を与えられたのです。

イエス様は私たちの模範です。神様として、イエス様は全ての権威を持っておられましたが、支配するためではなく仕えるために来られました。(マルコ10:45)

同じように、あなたは妻や子供、従業員に仕えるべきです。それが本当のリーダーシップです。

もう一つ考えてみてください。自分の会社のリーダー、家庭のリーダー、または政府のリーダーについて心配する時、神様が主権者であることを思い出してください。

私たちは神様のご計画を理解できないかもしれませんが、神様はその権威を彼らに与えられました。

だからこそ、ダニエルのように、私たちは彼らの最善を求め、彼らのために祈るべきです。

たとえ彼らが悪いリーダーであっても、そうするべきです。彼らが倒れることを喜ぶのではなく、彼らの悔い改めと癒しのために祈るべきです。なぜなら、私たちのリーダーが神様に従うなら、彼らは栄え、私たちも栄えるからです。

あなたはどうですか。神様の主権を認めるでしょうか。

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エゼキエル書

新しい遺産

今日、私はエゼキエル書の最後の箇所を読みます。

この箇所では、神様がイスラエルの新しい遺産について語られています。それは、実に新たな遺産です。

神様はイスラエルの民を先祖の土地に連れていくことを約束されましたが、その時、遺産の形が変わります。つまり、土地の分割方法が変わるのです。

ヨシュアの時代、その土地は等しく分割されていませんでした。それぞれの部族の人口に応じて分割されたのです。(申命記26:52-54)

例えば、イッサカルとゼブルンは小さな遺産をもらいましたが、ユダとマナセは大きな遺産を受け取りました。けれども、新しい遺産は等しく分割されます。(エゼキエル書47:14)

さらに、古い遺産によって、ダン、マナセ、ガドの部族は他のイスラエルの民から離れ、神様が約束された土地からも離れ、ヨルダン川の向こうに住んでいました。

しかし、新しい遺産によって、すべての部族が神様の約束された土地に住むようになります。

最後に、外国人がイスラエルの民の中に住みたいと願うなら、彼らも遺産を受け取ることが許されます。

この箇所から、いくつかの重要な教訓を学ぶことができます。

一つ目は、神様の国では私たち全員が等しい遺産を受け取ることです。私たちの行動や国籍によって遺産を受け取るのではなく、その救いの遺産は神様の恵みによって与えられます。

そして、ユダヤ人も異邦人もその遺産を受け取ることができるのです。

パウロはこう記しました。

そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。

キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。(コロサイ3:11)

二つ目の教訓は、神様の国において私たちは次善のものを相続することはないということです。

ヨシュアの時代、ダン、マナセ、そしてガドの部族は次善の土地を受け取りました。しかし、神様は私たちに次善のものではなく、最善のものを与えることを望んでおられるのです。

三つ目の教訓は、私たちの本当の遺産は天国ではなく、神様そのものだということです。

イスラエルの新しい遺産では、神様の地域は他の部族の地域の真ん中に置かれています。そして、神様は新しいエルサレムが「主はここにおられる」と呼ばれると言われました。

クリスチャンの生活の最大の喜びは、神様が私たちと共におられ、そして私たちの心の中に住んでおられることです。

ダビデはこう記しました。

主は、私へのゆずりの地所、また私へ[祝福」の杯です。(詩編16:5)

主よ、あなたが私の遺産であることに感謝します。あなたの恵みによって私を救ってくださったことを感謝します。

それだけでなく、あなたは私の心に住み、決して私を捨てないお方です。

あなたが私に次善ではなく、最善を与えようとしてくださることに感謝します。

どうか毎日私と共に歩んでください。そして私の神として導き続けてください。アーメン。

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エゼキエル書

生ける水

上の写真は死海です。なぜ「死海」と呼ばれるのでしょうか。

それは、この海の塩分濃度が非常に高いため、魚や貝などの生物が生きることができないからです。緑藻類や菌類を除いて、何も生きることができないのです。

しかし、この箇所では、神様はこの「死んだ海」と呼ばれる場所がいつか変わると語っています。

将来、神殿の敷居の下から東へ向けて水が流れ出します。その流れは小さな水流から始まりますが、やがて大きな川へと変わります。そして、その川は最終的に死海へと注ぎ込みます。

そして、

海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。

この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。

この水が入ると、そこの水が良くなるからである。

この川が入る所では、すべてのものが生きる。(エゼキエル47:8-9)

それだけではなくて、

川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。

その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。(12)

それはいつか本当に起こると信じますが、その預言は私たちの人生を描いた美しい絵だとも感じます。つまり、天国の王座から生ける水の川が流れ出し、それが私たちの人生に注ぎ込まれるということです。

さらに、罪の中に死んでいた私たちから、神様の命が溢れ出します。私たちの人生は実を結び始め、その実が私たち自身の魂を癒し、栄養を与えるのです。

しかし、それだけではありません。その実は私たちの周りの人々にも癒しをもたらし、彼らの魂にも栄養を与えるのです。

イエス様はこう言われました。

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7:37ー38)

主よ、どうかあなたの聖霊で私を満たしてください。私の魂にあなたの生ける水を注ぎ、私を癒してください。私があなたのために実を結ぶ者となることができますように。

そして、私を通して、あなたの生ける水を流してくださり、私の周りの人々の魂を癒し、彼らの魂にも栄養を与えることができますように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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エゼキエル書

神様に心を捧げる?

この箇所では、神様がイスラエルの民の帰国について語られます。

それはまだ遠い未来のことでしたが、彼らが帰国する時のために、神様はいくつもの命令を与えられました。

その大部分は、何百年も前に神様がモーセに伝えられた命令を繰り返すものです。特に43ー44章では、それが明確に示されています。

けれども、一つの箇所が特に私の心に深く響きました。

あなたがたがその地を相続地として、くじで分けるとき、その地の聖なる区域を奉納地として主にささげなければならない。。。

その周囲の全域は聖なる地である。。。

そして、その中に聖なる至聖所があるようにせよ。(エゼキエル書45:1,3)

つまり、「私たちがあなたに与えた土地に帰る時、私のために場所を整えなさい。なぜなら、私はあなたの主であり、あなたがたの中に住むからです。」

私はそれを読むとき、ペテロの言葉を思い出します。

むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。(第一ペテロ3:15)

それはどういう意味でしょうか。それは、神様にあなたの心の王座を捧げることを意味します。そして、神様だけのために、あなたの心を整えることです。

その後、神様は別の命令を与えられ、君主たちにこう言われました。

イスラエルの君主たちよ。もうたくさんだ。暴虐と暴行を取り除き、公義と正義とを行なえ。わたしの民を重税で追い立てることをやめよ。(エゼキエル書45:9)

神様は私たちにも同じことを語っておられます。もし私たちが神様を主としてあがめるなら、自分の罪を止め、神様の目にかなった正しいことを行うべきです。

また、神様は祭司たちに雄牛をいけにえとして捧げるよう命じられました。そして、その血を用いて聖所を清めなければなりませんでした。彼らはそれを毎年行う必要がありました。

このように、私たちも清い聖所を保ち続けるべきです。

つまり、私たちの体が神様の宮であるため、私たちは自分の罪を告白しなければなりません。そして、イエス様の血によって清められ、神様が私たちの罪を赦してくださるよう祈るべきです。

神様はその祭司たちにこう言われました。

あやまって罪を犯した者やわきまえのない者のためにこのようにし、宮のために贖いをしなければならない。(20)

私たちは意識的に罪を犯していなかったかもしれません。しかし、その罪のためにイエス様は贖いをしなければなりませんでした。

だからこそ、ダビデが祈ったように、私たちも次のように祈るべきです。

だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。

そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。(詩篇19:12-13)

そして、神様はイスラエルの民に過越の祭りを守るよう命じられました。その祭りの時、彼らは神様がイスラエルの民をエジプトから救い出されたことを思い起こしたのです。

同じように、私たちもサタンの国と罪から救い出されたことを思い起こすべきです。なぜなら、私たちはしばしば、なぜ神様に心を捧げるのかを忘れてしまうからです。

その理由は、神様が私たちを愛しておられること、そして神様の救いに感謝することにあるのです。ヨハネはこう書きました。

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。第一ヨハネ4:19)

46章では、供え物に関する内容の中で、神様は45章のテーマを再び繰り返されています。

全焼のいけにえは、罪の贖いのためのものでした。さらに、イスラエルの民は神様に心のすべてを捧げることを表しました。(そのいけにえは完全に燃やされました。)

穀物のささげ物は、神様への感謝を表すためのものでした。

和解のいけにえも、全焼のいけにえと同じく、贖いのためのものでした。つまり、捧げられた動物は人の代わりに、その人の罪のために命を犠牲にしたのです。

けれども、もうひとつの意味が込められていました。それは、その動物の血によって、私たちには神様との間に平和があることを示すということです。

最後にもうひとつ重要な点があります。

イスラエルの民が礼拝のために宮に来たとき、一つの門を通りました。(北の門でも、南の門でもよかったのです。)

しかし、帰るときには、必ず反対側の門を通らなければなりませんでした。

なぜでしょうか。それは、おそらく、私たちが神様の前で礼拝をすることで心が変えられるからではないでしょうか。

イエス様の血によって、私たちは清められ、神様の目には義と認められました。そして、イエス様は私たちの心の王座に座っておられます。

その結果、私たちは新しい人として生まれ変わるのです。

パウロはこう書きました。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。

古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5:17)

新しく造られた者として、毎日、神様に心を捧げましょう。

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エゼキエル書

私たちの心に入るもの

子供の頃、私は日曜学校でこの歌を歌いました。

あなたが見ることに気を付けて。

そして、

あなたが聞くことに気を付けて。

この歌はシンプルですが、本当に大切なメッセージを持っています。私たちは、自分の心に入り込むものに注意しなければなりません。

なぜでしょうか。それは、私たちの体が聖霊の宮だからです。

だから、神様はエゼキエルにこう言われました。

宮に入れる者と、聖所に入れないすべての者を心に留めよ。

あなたは、反逆の家、イスラエルの家にこう言え。神である主はこう仰せられる。

イスラエルの家よ。あなたがたのあらゆる忌みきらうべきわざは、もうたくさんだ。あなたがたは、心にも肉体にも割礼を受けていない外国人を連れて来て、わたしの聖所におらせ、わたしの宮を汚した。

あなたがたは、わたしのパンと脂肪と血とをささげたが、あなたがたのすべての忌みきらうべきわざによって、わたしとの契約を破った。(エゼキエル書44:5ー7)

祭司たちだけが聖所に入ることが許されていました。しかし、イスラエルの民は神様を信じない外国人をその聖所に入らせてしまったのです。

その結果、彼らは神様の宮で偶像を礼拝し始め、宮を汚してしまいました。

そのため、神様は偶像を礼拝した先祖を持つレビ人に対し、祭司となることを禁じられました。そして、神様に忠実であったレビ人だけが祭司となることを許されたのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの宮の門、つまり、あなたの目と耳には何が入っているでしょうか。あなたの心に何を住まわせているでしょうか。

あなたはテレビでどんなものを見ていますか。どんな音楽を聴いていますか。どんなメッセージを耳にしていますか。そして、何があなたの心を治めているでしょうか。

もし私たちが不潔なものを心に入れたなら、神様の宮は汚れてしまいます。お金の偶像、持ち物の偶像、あるいはセックスの偶像を心に住まわせたなら、神様の宮は汚れてしまうのです。

そうではなく、私たちの心を汚すものに対して心の戸を閉ざしましょう。むしろ、神様に心の戸を喜んで開き、心の王座を神様に捧げましょう。

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エゼキエル書

新しくなった

最近、私は出エジプト記25ー27章を読みました。

その箇所を「つまらない」と言いたくはありませんが、幕屋の作り方が非常に詳細に書かれているため、読んでいるうちに少し眠くなってしまいました。

このエゼキエル書の箇所は、その出エジプト記の箇所と非常に似ています。けれども、エゼキエルは幕屋についてではなく、将来の主の宮について語っています。

エゼキエルの時代、イスラエルの罪のゆえに、神様の聖霊はその宮を去られました。その結果、宮は間もなく倒れ、その栄光は失われてしまったのです。

しかし、その後、神様はエゼキエルに新しい宮に関する幻を見せられました。そして、神様はその宮の形を非常に具体的に説明されました。

43章では、エゼキエルは神様の栄光がその宮に戻る幻を見ました。

神様が東の方から宮を去られたように(10:18-19)、再び東の方から宮に戻り、その宮を神様の栄光で満たされたのです。

神様はエゼキエルにこう言われました。

人の子よ。ここはわたしの玉座のある所、わたしの足の踏む所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む所である。

イスラエルの家は、その民もその王たちも、もう二度と、淫行や高き所の王たちの死体で、わたしの聖なる名を汚さない。。。

今、彼らにその淫行や王たちの死体をわたしから遠く取り除かせなければならない。わたしは永遠に彼らの中に住もう。(エゼキエル書43:7-9)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちは神様との関係を持つために造られました。そして、聖霊の宮となるために造られたのです。

けれども、私たちの罪のために、その宮を汚してしまい、私たちは神様から離れてしまいました。その結果、私たちの人生はめちゃくちゃになってしまったのです。

それでも、私たちが神様に立ち帰るなら、神様は私たちの中からそのごみを取り除き、私たちを新しくしてくださいます。

神様はご自身の霊を私たちに注ぎ、最初から計画されていたように、私たちは神様の宮となるのです。

そして、神様がイスラエルの民に語られたことを、私たちにも語っておられます。パウロはこう書きました。

私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。

わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。

そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」(第二コリント6:16-18

また、

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(第一コリント6:19-20)

イエス様の血によって、私たちは清められ、新しくされました。

ですから、私たちの罪を捨て、私たちを救ってくださった神様と共に歩みましょう。

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エゼキエル書

神様の目的のため、神様の栄光のため

この箇所では、エゼキエルが将来の戦いについて語ります。その時、いくつかの国々がイスラエルを打ち破ろうとして攻撃しますが、神様はその国々を滅ぼされます。

この箇所についてはさまざまな議論が交わされていますが、このブログではその議論には触れません。なぜなら、それは非常に複雑であり、私よりもはるかに賢い人たちが議論しているからです。😊

私が特に注目したいのは、なぜ神様がその戦いを許されるのかという点です。神様はその将来のリーダーたちにこう言われます

あなたは、わたしの民イスラエルを攻めに上り、終わりの日に、あなたは地をおおう雲のようになる。。。

わたしはあなたに、わたしの地を攻めさせる。それは、わたしがあなたを使って諸国の民の目の前にわたしの聖なることを示し、彼らがわたしを知るためだ。(エゼキエル書38:16)

そして、その国々の裁きについて語った後、神様はその裁きの理由を説明されます。

わたしがわたしの大いなることを示し、わたしの聖なることを示して、多くの国々の見ている前で、わたしを知らせるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。(38:23)

39章でも、そのテーマは続いています。

わたしは、わたしの聖なる名をわたしの民イスラエルの中に知らせ、二度とわたしの聖なる名を汚させない。

諸国の民は、わたしが主であり、イスラエルの聖なる者であることを知ろう。(エゼキエル書39:7)

そして、イスラエルの癒しについて語る際に、神様はこう言われます。

わたしが彼らを国々の民の間から帰らせ、彼らの敵の地から集め、多くの国々が見ている前で、彼らのうちにわたしの聖なることを示す。。。(39:27)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

神様はご自身の目的を果たすために働いておられます。また、神様はご自身の栄光を現すために働いておられるのです。

そして、神様の御業の目的は、この世が神様を知ることにあります。つまり、神様は他の「神々」よりも優れたお方です。なぜなら、それらの「神々」は本当の神ではないからです。

そして、最後の日に、

イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられる。。。(ピリピ2:10-11)

神様はイスラエルの民を、ご自身の民とするために呼んでくださいました。しかし、アブラハムとその子孫が他の人々よりも優れていたわけではありません。

アブラハムとその子孫の話を読むと、彼らもまた罪人であったことがわかります。

それでも、神様の恵みによって彼らが呼ばれたのです。

神様はご自身の目的のために彼らを選ばれました。神様は彼らが罪を犯すことをすでに知っておられましたが、それでも彼らを通してご自身の栄光をこの世に現すことを計画されたのです。

神様はイスラエルの民を通してイエス様を送り、私たちを贖い、神様がどのような方であるかを示されました。

そして、終わりの日に、神様はイスラエルを守り、ご自身の民に聖霊を注ぎ、彼らの罪を赦されます。その御業を通して、神様はご自身の栄光と力、そして恵みをこの世に現されるのです。

その同じ理由で、神様は私たちクリスチャンを選ばれました。

私たちは他の人々よりも優れているわけではありません。また、私たちの目的や栄光のために選ばれたのでもありません。

むしろ、神様の恵みによって、そして神様の目的と栄光のために私たちは選ばれたのです。

この世が神様を知るために、神様は私たちを選んでくださいました。その神は、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者。。。(出エジプト34:6-7)

私たちは神様の目的と栄光のために生きましょう。

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エゼキエル書

死者をよみがえらせる方

この箇所を読むとき、私はイースターについて思い浮かべます。なぜなら、この箇所を通してイースターの意味を鮮明に見ることができるからです。

37章で、エゼキエルは不思議な幻を見ました。谷には、たくさんの干からびた骨が広がっていました。そして、神様はエゼキエルに問いかけられました。

人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。(エゼキエル書37:3a)

エゼキエルはこのように答えました。

神、主よ。あなたがご存じです。(3b)

そして、神様はエゼキエルにこう言われました。

「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。

見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。

わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」(4-6)

エゼキエルは神様の指示に従いました。すると、すぐにその骨が人間となり、神様が彼らに息を与えると、彼らは非常に多くの集団となったのです。

その集団がエゼキエルの前に立ったとき、神様はエゼキエルにその幻の意味を説明してくださいました。

人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。

ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる』と言っている。

それゆえ、預言して彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。

わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。

わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。

このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。――主の御告げ――(11-14)

イスラエルの希望は本当に失われていました。彼らの王と祭司は殺され、イスラエルの民は追放されてしまいました。

けれども、神様は彼らにこう言われました。

「あなたはすべてを失ったと思うかもしれない。しかし、私は死者をよみがえらせる力を持つ神です。あなたの国が滅び、あなたがたが追放されたとしても、私の力によってあなたは自分の土地に戻るでしょう。

私はあなたの罪を癒し、壊れた関係を回復します。私の聖霊はあなたの中に宿り、あなたはもう一度生きるのです。

私はあなたの神となり、あなたは私の民となります。そして、私は永遠にあなたと共に住むでしょう。」

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちの多くには、壊れた夢や壊れた人生があります。それらがすべて潰されて、もう修復されることはないと思うかもしれません。私たちはまるで干からびた骨のように感じることがあります。

しかし、神様はあなたに命を与えてくださいます。神様はあなたの人生と希望をよみがえらせることができるのです。

ある人はこう言いました。「イエス様がこの世に来られた目的は、悪い人を良い人に変えることではありません。イエス様が来られた理由は、死んだ人をよみがえらせることです。」

パウロは私たちについてこう書きました。

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって。。。この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。(エペソ人への手紙2:1、12)

けれども、キリストにあって、私たちの罪は赦されます。壊れた人生は癒され、神様は私たちの干からびた骨を新しくしてくださいます。私たちが神様を呼び求めるなら、神様は必ず私たちを救ってくださいます。

パウロはこう書きました

同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。(ローマ10:12-13)

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エゼキエル書

私たちが倒れると

この箇所では、神様は再びユダの周辺の国々を厳しく責められます。なぜなら、エルサレムが倒れたとき、彼らがそれを喜んだからです。

まず、神様はエドムを責められました。エドムはユダに対して悪意や妬み、怒りを抱いていただけでなく、ユダの苦しみを自分たちの利益のために利用しようとしました。

そして、神様はイスラエルにその国々の裁きとイスラエルの癒しについて伝えられました。

とはいえ、イスラエルはその憐れみにまったく値しませんでした。彼らが癒されるのは、イスラエルの性格によるのではなく、神様の恵みによるのです。

むしろ、彼らが癒されるのは、神様のご性質によるのです。

エルサレムの没落の際、周りの国々は神様に向かって「高慢なことばを吐いた」のです。(35:13)

けれども、神様がイスラエルを癒すとき、その国々は神様がどのようなお方であるかを知ることになります。

つまり、神様は力ある神であり、恐るべき神です。また、神様は約束を守られる神であり、罰を与える神でありながら癒す神でもあります。怒りの神でありながら、人を赦す神なのです。

したがって、イスラエルを通じて周辺の国々は、神様だけが主であることを知るようになります。

神様はどのようにしてイスラエルを癒されるのでしょうか。それは人間の心を変えることです。他の神々には決してできないことです。

そして、神様はこう言われました。

わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。

わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。

わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。

わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。(25ー27)

そのようにして、神様は私たちの心に働きかけておられます。私たちは神様に背を向け、自分の道を歩みましたが、それでも神様は私たちを救ってくださいます。

私たちの良い性格によってではなく、神様ご自身が素晴らしいお方であるからこそ、私たちを救われるのです。

私たちの行いによってではなく、むしろ神様の御業によって、私たちは救われます。

パウロはこう書きました。

神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。

神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。

それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。(テトス3:5-7)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちがどんなに倒れても、神様は私たちを救うことができます。神様は私たちを良い性格によって救われるのではありません。

もし私たちが本当に良い人であれば、救いを必要としないでしょう。しかし、私たちは罪人であり、救いが必要です。なぜなら、私たちは神様に背を向けて、自分の道を歩んだからです。

ですから、もしあなたが神様から遠く離れているのなら、神様に向き直りましょう。そして、神様の赦しを求めましょう。そうすれば、神様はあなたの声を聞き、あなたを癒してくださいます。

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エゼキエル書

リーダーって?

この箇所では、神様はユダの政治的および霊的なリーダーたちを厳しく責められます。なぜでしょうか。それは神様が彼らにこう言われたからです。

ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。(エゼキエル書34:2)

この牧者たちの問題は、彼らがその羊に仕えることなく、むしろその羊に彼らを仕えるよう求めたことにあります。

彼らは自分の立場を利用して、力やお金、名誉を手にしましたが、その人々を世話しませんでした。むしろ、彼らは自分の利益のためにその人々を利用したのです。

そして、神様はこう言われました

あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。

弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。(3-4)

つまり、彼らはできる限り羊から多くのものを奪いましたが、その羊には何も返しませんでした。むしろ、彼らは暴力によってその羊を支配したのです。

その結果はどうだったでしょうか。「狼」がその羊を攻撃したとき、その羊は無力でした。

彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。(5)

だから、神様はそのリーダーたちにこう言われました。

「私の民の没落の責任をあなたがたに問います。私はあなたがたの立場を取り去り、私自身がイスラエルの民の羊飼いとなるのです。」

神様はその約束を守られました。神様はご自身の力でイスラエルの民をバビロンから彼らの国に導かれました。

そして、イエス様が来られました。イエス様は神様でありながら、人間の姿を取られたのです。そして、イエス様が来られたとき、こう言われました

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(マルコ10:45)

イエス様はしもべとしてこの世に来られました。イエス様は良い羊飼いであり、私たちを愛してくださったので、私たちの罪のために死なれました。

私たちは神様から遠く離れていましたが、イエス様の血によって近い者とされたのです。(エペソ2:13)

イエス様は私たちの傷を癒し、私たちを完全にしてくださいます。

しかし、自分自身にこの質問をしてみてください。「私はどんなリーダーだろうか。」

あなたはこう言うかもしれません。「私が?私はリーダーじゃない。」

ですが、もしあなたが親であれば、あなたはその子供のリーダーです。

夫であれば、あなたは家族のリーダーです。上司であれば、あなたはリーダーです。そして教会でミニストリーを行い、誰かがあなたについてきているなら、あなたもリーダーです。

もしあなたがリーダーであるなら、私たちはイエス様の例に従うべきです。

あなたについていく人々を世話するべきです。あなた自身の必要よりも、彼らの必要を優先するべきです。そして、できる限り、彼らの傷を癒し、彼らを導くべきです。

イエス様は私たちのためにそうしてくださいました。私たちも周りの人々のためにそうしましょう。

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エゼキエル書

どうやって私は生き続けることができるの?

この箇所では、エゼキエルは以前のテーマを繰り返して言っています。

神様はもう一度エゼキエルに警告されました。

「私があなたに『このメッセージを伝えなさい』と言うとき、あなたは決して黙っていてはいけません。なぜなら、もしあなたが何も言わず、その人が自分の罪によって死ぬなら、彼の血の責任をあなたに問うことになるからです。」

その後、神様はエゼキエルにイスラエルの民が言っていることを教えられました。

私たちのそむきと罪は私たちの上にのしかかり、そのため、私たちは朽ち果てた。

私たちはどうして生きられよう。(エゼキエル書33:10)

私たちはよく同じようなことを言います。私たちを束縛している自分自身の罪を見ますが、文句を言います。

「私の罪のせいで、私の人生はめちゃくちゃになってしまった。神様が私を罰しておられるでしょう。神様がこんなにも私に反対しているなら、どうやって私は生き続けることができるのでしょうか。」

けれども、神様はイスラエルの民にこう言われました

わたしは誓って言う。――神である主の御告げ――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。

悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。(11)

神様は私たちにこう言われます。「私があなたの苦しみを見ることを喜ぶと思うのですか。人々が地獄に行くとき、私がそれを喜ぶと思うのですか。

そうではありません。悔い改めなさい。私がその苦しみを許す理由は、あなたが悔い改めることを望んでいるからです。なぜあなたはその死の道を歩み続けるのですか。」

ところが、イスラエルの民は神様の言葉に耳を傾けませんでした。

彼らはエルサレムの没落について聞きましたが、それでも自分たちの努力を通じていつかイスラエルに戻れると信じていました。

そこで、神様は彼らにこう言われました。「あなたがたは自分の力によって帰国することはできない。もしあなたがたが私に背き続けるならば、あなたがたは死ぬことになる。」

そして、神様はエゼキエルにこう言われました

彼らは群れをなしてあなたのもとに来、わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。しかし、それを実行しようとはしない。

彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている。

あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌われる恋の歌のようだ。彼らはあなたのことばを聞くが、それを実行しようとはしない。(31ー32)

彼らは神様の御言葉を聞きたがり、神様を礼拝したいふりをしていました。しかし、彼らの心は神様から遠く離れていました。

彼らにとって、エゼキエルの言葉はただのエンターテインメントに過ぎませんでしたが、その言葉には従いませんでした。

時々、人々は同じような態度を持って教会に行きます。彼らはショーを観たい、楽しい時間を過ごしたいと思っています。教会で良い気分になれるから行くのです。

けれども、彼らが神様の御言葉を聞いても、その言葉に従うことはありません。その結果、彼らは生きているように見えても、罪によって霊的に死んでいるのです。

そして、いつか裁かれる日が来るでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたの罪のせいで苦しんでいるのではありませんか。

神様はあなたが滅びることなく、救われることを望んでいます。神様はあなたが罪から解放され、真の命を見つけることを望んでおられるのです。

2000年前、イエス様は十字架であなたの罪のために死なれました。そして、3日目にイエス様はよみがえられました。だから今、イエス様はあなたに赦しと永遠の命を提供しておられます。

神様はあなたの心を見通しています。たとえ神様に従うふりをしても、神様を欺くことはできません。神様はあなたの罪をすべて知っておられるのです。

だからこそ、悔い改めて、神様に従う生活を始めませんか。

イエス様、私の罪のせいで私の人生はめちゃくちゃになっています。私は自分の道を選んで歩んだために、今苦しんでいます。どうか私を赦してください。

あなたが私の罪のために死なれたことを信じます。私の心を清め、私を変えてください。そして、私の人生を新しくしてください。どのように生きれば良いか教えてください。

これからはあなたに従って生きたいと思います。アーメン。

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エゼキエル書

壊れやすいものに頼る?

少し皮肉なことですが、神様はイスラエルの民をエジプトでの奴隷生活から救い出されたにもかかわらず、バビロンがイスラエルを攻撃した際、イスラエルの民はエジプトの助けを求めました。

エルサレムが包囲されたとき、エジプトの軍勢はイスラエルを助けるためにバビロンと戦い、バビロンの包囲は一時的に停止しました。

けれども、すぐにバビロンはエジプトを打ち破った後、エルサレムに戻り、エルサレムはその後すぐに陥落しました。

この箇所では、神様がエジプトの没落を預言されたことが記されています。神様は、エジプトを川から引きずり出され、砂漠に取り残され死にかけている鰐にたとえられました。

では、エジプトはなぜ裁きを受けたのでしょうか。その理由は複数ありますが、そのうちの一つは、イスラエルが神様に向かわずにエジプトの助けを求めたことです。

そのため、神様はパロにこう言われました。

エジプトの住民はみな、わたしが主であることを知ろう。彼らが、イスラエルの家に対して、葦の杖にすぎなかったからだ。

彼らがあなたの手をつかむと、あなたは折れ、彼らのすべての肩を砕いた。彼らがあなたに寄りかかると、あなたは折れ、彼らのすべての腰をいためた。

それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは剣を送ってあなたを攻め、人も獣も、あなたのうちから断ち滅ぼす。エジプトの地は荒れ果てて廃墟となる。。。

イスラエルの家は、これに助けを求めるとき、咎を思い起こして、もう、これを頼みとしなくなる。(エゼキエル書29:6-9、16)

エジプト人は自分たちが強大な力を持っていると信じていました。そして、パロの誇りによって、自らを神と見なすまでになりました。彼はこう言いました。

川は私のもの。私がこれを造った。(エゼキエル書29:9)

実は、彼の名前ホフラは、「強い腕を持つ者」という意味を持っています。

しかし、神様は彼にこう言われました

人の子よ。わたしはエジプトの王パロの腕を砕いた。

見よ。それは包まれず、手当をされず、ほうたいを当てて包まれず、元気になって剣を取ることもできない。

それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしはエジプトの王パロに立ち向かい、強いが砕かれている彼の腕を砕き、その手から剣を落とさせる。(エゼキエル書30:21-22)

エジプトは他の国々との同盟に頼り、自分たちの神々を信頼していました。しかし、神様は彼らにこう言われました。

エジプトをささえる者は倒れ、その力強い誇りは見下げられ。。。

神である主はこう仰せられる。わたしは偶像を打ちこわし、ノフから偽りの神々を取り除く。(30:6-13)

31章では、神様がバビロンにアッシリヤの没落を思い出させました。アッシリヤもまた、自分たちの力と美しさを誇り、数多くの同盟を結びました。それにもかかわらず、バビロンは彼らを打ち破りました。

そこで、神様はエジプトにこう言われました。「アッシリヤはあなたよりも優れた国でした。それでも彼らは倒れた。どうしてあなたが立ち続けることができると思えるのですか。」

続けて、32章では、神様がエジプトに警告を与えられました。

「多くの国々は自分のプライドに基づいて立ちましたが、結局彼らは地獄に行ってしまいました。あなたもその運命から逃れることはできません。」

ここから私たちは何を学べるでしょうか。

私たちは何に頼っているでしょうか。他の人々に頼っているでしょうか。それとも、自分自身の力に頼っているでしょうか。

この世の神々、つまり、お金、持ち物、権力に頼っているでしょうか。

これらのものは壊れやすいものです。人々はあなたを失望させるでしょう。あなた自身の力も最終的には消え去ります。お金や持ち物もいつかはなくなります。

そのすべてがなくなったとき、あなたは何に頼るのでしょうか。

頼るべきお方は、ただお一人。それはイエス様です。

この世のすべてのものは、最終的に崩れ去ります。しかし、イエス様だけは決して崩れません。

イエス様こそが、あなたの人生をその上に建てることのできる、決して揺るがない岩なのです。

イザヤはイエス様についてこう言いました。

見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。

これを信じる者は、あわてることがない。(イザヤ28:16)

あなたは誰に頼っているでしょうか。

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エゼキエル書

ひとりの神しかおられない

この箇所では、私たちは興味深い「ツロの君主」に関する言葉を目にします。

多くの聖書学者によれば、「ツロの君主」とは人間の王を指しており(1-10節)、「ツロの王」はサタンを表しているとされています(11-19節)。

とはいえ、それが本当かどうかは私には分かりません。「ツロの君主」と「ツロの王」は同一人物、つまり人間の王を指している可能性もあります。彼が自分を神々のようになりたいと願ったのかもしれません。

ただし、その王がサタンであれ人間であれ、神様のポイントは明確です。一人の神しか存在しません。そして、「ツロの君主」もサタンも神様ではないのです。

ツロの君主は自分の力とその都市の繁栄を見て、こう言いました。

私は神だ。海の真ん中で神の座に着いている。(エゼキエル書28:2)

でも、神様は彼に言われました。

あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真ん中で神の座に着いている』と言った。

あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。。。

あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真ん中で神の座に着いている』と言った。

あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。(2、8-9)

ここから、私たちは何を学べるでしょうか。

あなたは「私は神だ」と口にしないかもしれません。けれども、神様のように振る舞ってはいませんか。

どれほど、あなたは自分の成功や実績を誇り、周囲の人々を見下しているでしょうか。彼らを兄弟ではなく、自分のしもべのように見てはいませんか。

また、どれほど、あなたは心の王座から神様を追い出し、その王座に自分が座ろうとしているでしょうか。どれほど、神様の御心を求めず、自分の道を歩もうとしているでしょうか。

そのようにして、あなたもツロの王が知ったことを理解することになるでしょう。たとえあなたが美しくても、賢くても、どれほど成功していても、あなたは神様ではなく、ただの人間なのです。

そして、もしあなたが神様に反抗し、その王座を奪おうとするならば、あなたはかえって低くされてしまいます。

唯一の神が存在します。私たちはその神ではありません。

だからこそ、神様の前にへりくだり、仕えましょう。そして、神様を私たちの王として認めましょう。

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エゼキエル書

悪意の心

それでは、バビロンにいるエゼキエルに話を戻しましょう。この預言はエルサレムの包囲と没落の後に与えられたものです。

この箇所では、エゼキエルはユダの周囲の敵に対する預言を語ります。それはアモン人、モアブ人、エドム人、ペリシテ人、ツロ人、そしてシドン人に関するものでした。

彼らには共通点がありました。それは、ユダに対して悪意の心を抱いていたことです。

バビロン人がユダを攻撃したとき、これらの国々はその状況を喜びました。ある国々はユダの苦しみを自分たちの繁栄のために利用し、またある国々は復讐を行いました。

そのため、神様は彼らを裁き、彼らの没落を預言されたのです。

私たちはここから何を学べるでしょうか。

私たちは周囲の人々に対してどのような心を持っているでしょうか。悪意の心を抱いているでしょうか。

例えば、相手があなたを傷つけたとき、あなたはその人を許すことができるでしょうか。また、その人に悪いことが起きたならば、あなたはそれを喜び、「彼はその悪いことに値する人だ」と言うでしょうか。

さらに、相手が困っているとき、彼らを助けるのではなく、彼らの苦しみを利用しようとするでしょうか。

神様はそのような態度を非常に嫌われます。神様の民として、私たちは心の中にそのような態度を抱いてはいけません。

ダビデのことを考えてみましょう。ダビデを殺そうとしたサウルが殺されたとき、ダビデは喜ぶどころか、彼のために涙を流しました。さらに、サウルとその息子ヨナタンのために哀歌を書いたのです。

また、サウルの子イシュ・ボシェテが自分の民によって殺されたとき、ダビデは「この国を団結させる絶好の機会だ。きっと私は王になるだろう」と考えることなく、その殺人者たちを罰しようとしました。

ダビデは決して完璧な王ではありませんでした。しかし、彼は悪意の心を捨てて憐れみの心を抱きました。そのため、神様は彼について「この人はわたしの心にかなった者だ」と語られたのです。

では、あなたの心はどうでしょうか。あなたの心は悪意に満ちているでしょうか。それとも、憐れみに満ちているでしょうか。イエス様は次のように言われました。

「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。(マタイ5:43-45)

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エレミヤ書

後戻り

年代順を守るために、私たちはエレミヤ書の中であっちこっち飛んでいましたが、今日はエレミヤ書の終わりです。

私は少し驚きました。なぜなら、すでに45章から52章までを読んでいたことを忘れていたからです。

実は、エレミヤ書にはもう一つ、エホヤキン王に関する短い記録があります。これがエレミヤについての最後の記述です。

さらに、エレミヤはおそらくエジプトで亡くなったとされているので、私は改めて驚きを覚えました。

43章によれば、エジプトに逃げたユダの人々は、エレミヤを無理やり自分たちと共に行かせました。

そして、ユダヤ人の伝承によると、エレミヤは石打ちにされて亡くなったとされています。

なぜ彼が殺されたのかは分かりませんが、その理由を44章に見ることができるかもしれません。

エレミヤがエジプトに着いたとき、彼はおそらく大きな衝撃を受けたことでしょう。

なぜなら、エルサレムの没落の際、ユダの人々が深く苦しんでいたにもかかわらず、彼らは悔い改めることなく偶像礼拝を続けていたからです。

つまり、彼らは「天の女王」(おそらくアシュトレトという神)を礼拝していたのです。

そこで神様はエレミヤを通してメッセージを伝えられました。

「あなたたちはエルサレムで私に背を向け、さまざまな神々を礼拝したので、エルサレムの没落を目の当たりにしました。

あなたたちは、私が憎むことを数々行いました。私があなたたちに警告したのに、あなたたちは聞き入れませんでした。だから、私は怒りをあなたたちに注ぎました。

あなたたちはそれを見たのに、なぜ自分の家族や友人を滅ぼす罪を犯し続けるのでしょうか。その罪によって、ここでもあなたたちは裁かれるのです。」(エレミヤ書44:1-14)

彼らはどう反応したでしょうか。

「一体何を言っているのですか。私たちが天の女王にいけにえを捧げていた間は、私たちの生活は順調でした。

けれども、そのいけにえをやめたために、私たちの生活はうまくいかなくなりました。だから、再びそのいけにえを捧げ始めたのです。」(エレミヤ書44:15-19)

このユダ人たちの記憶力はかなり悪かったようです。

私は正確には分かりませんが、おそらくヨシヤ王の治世にユダの人々はそのいけにえをやめました。その時、神様はユダ王国を大いに祝福されました。

しかし、ヨシヤが亡くなったあと、ユダの王たちとその民は再び偶像礼拝を始めました。神様は預言者たちを通して何度も警告されましたが、彼らはその警告を聞き入れなかったので、最終的に裁きが下りました。

とはいえ、どうして彼らが偶像を礼拝していたときにユダは時々繁栄を楽しめたのでしょうか。

それはその神々の恵みではなく、神様のあわれみでした。神様はユダ人が悔い改めるのをずっと待っておられましたが、その忍耐が尽きたとき、エルサレムは倒れたのです。(エレミヤ書44:」20-23)

そして神様は、彼らがその罪を犯し続けているので、エジプトでも彼らが裁かれると語られました。

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

時々、私たちはクリスチャンになる前の古い人生を思い返し、「良い時間」を思い出します。

私たちはその罪深い人生を振り返って、「そのときは良かった。本当に楽しい日々だった。その頃の人生に戻った方が良い」と考えるかもしれません。

けれども、私たちは二つのことを忘れています。

一つ目は、その「良い日々」は実際にはそれほど良くなかったということです。

なぜなら、私たちは自分の態度や行動によって家族や周囲の人々を傷つけ、その結果、人間関係は崩れてしまったからです。

さらに、自分の悪い選択によって自分自身をも傷つけていました。

二つ目は、そのとき私たちはすでに裁きの下にあったということです。

パウロは私たちについて、こう記しています。

「私たちは」生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ3:2)

そして、もし私たちがその道を歩み続けていたなら、永遠に裁きの下に置かれていたでしょう。

その人生が楽しく思えたとしても、結局、私たちはその罪のゆえに裁かれました。

ユダの人々はそれを忘れ、罪に戻ったので、彼らは裁かれました。

もし私たちが罪に戻るなら、私たちも滅びることになるでしょう。

だからこそ、私たちは古い罪深い人生に戻らないようにすべきです。むしろ、神様が与えてくださった新しい人生を受け入れましょう。

そうすることで、私たちは真に満ち足りた人生を知ることができるのです。

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哀歌

悔い改めに至る悲しみ

レミヤはエルサレムの没落の後に哀歌を書きました。哀歌の中に、エレミヤの深い苦しみが表れています。

第1章では、エレミヤはエルサレムを女王に例えています。その女王の主人は亡くなり、彼女は追放されてしまいました。

彼女が牢屋にいる時、苦々しい心を抱き、涙を流し続けています。なぜなら、彼女の恋人や友人が彼女を捨て、裏切ったからです。

哀歌を読み続けると、エルサレムの状態がどれほど酷くなったかが分かります。ソロモンの美しい宮はかつてエルサレムの誇りでしたが、それは略奪され、焼かれてしまいました。

さらに、エルサレムの指導者たちは殺されるか追放されました。お金持ちは貧しくなり、すべてのエルサレムの人々は飢えていました。どこを見ても、人々が命を落としていました。

だからこそ、エレミヤはこう言いました。「剣で殺される者は、飢え死にする者よりも、幸せであった」(哀歌4:9)。

その結果、ユダヤ人たちは喜びを失い、深い絶望に陥りました。

けれども、エレミヤにとって最も辛いことは、主がエルサレムを捨てられたことです。神様はその宮と祭壇を拒絶し、エルサレムと戦って、その怒りによってエルサレムを滅ぼされました。

どうして神様はエルサレムを滅ぼされたのでしょうか。

彼女の多くのそむきの罪のために、主が彼女を悩ましたのだ。(哀歌1:5)

だから、周辺の国々はエルサレムの没落を嘲笑しました。

しかし、この破壊と苦しみの中で、エレミヤの心には希望のオアシスがありました。

第3章では、エレミヤはエルサレムの状態について語っています。もしかすると、彼はエルサレムの状態を自分が穴に入れられた経験と重ね合わせているのかもしれません。

その時、エレミヤは苦々しい心を抱き、暗闇の中に住んでおり、逃げることができませんでした。彼は鎖で繋がれており、神様を呼んだにもかかわらず、神様は答えてくださいませんでした。その上、皆が彼の苦しみを嘲笑しました。

それでも、エレミヤはこう言いました。

私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。」(3:21-23)

エレミヤの希望はどこから来たのでしょうか。

それは、神様の変わらない愛と慈しみによるものでした。つまり、神様はご自身の民を裁かれましたが、彼らを完全に見捨てられたわけではありませんでした。彼らは苦しみの中で追放されましたが、なお生き続けていました。

だから、エレミヤはこう言いました。

主は、いつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。(3:31-33)

だから、エレミヤはその民にこう語りました。「自己憐憫に陥って泣くのではなく、むしろ涙を流す時には悔い改めなさい。」

彼はこう言いました。

夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。(2:19)

また、

生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。

私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。「私たちはそむいて逆らいました。あなたは私たちを赦してくださいませんでした。(3:39-42)

神様は私たちにも同じことを語られます。あなたの罪によって人生が壊れたために、希望がないと思うかもしれません。しかし、ただ自己憐憫に陥って泣いているだけでは、本当に希望はありません。

けれども、あなたが悔い改めるならば、神様は憐れんでくださり、赦し、癒してくださいます。

パウロは次のように書いています。

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(第二コリント7:10)

哀歌の結びにおいて、エレミヤはこう言いました。

主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくしてください。それとも、あなたはほんとうに、私たちを退けられるのですか。きわみまで私たちを怒られるのですか。(5:21-22)

あなたが悔い改めるならば、神様は決してあなたを見捨てられません。ですから、死をもたらす悲しみに溺れるのではなく、むしろ神のみこころにかなう悲しみを抱きましょう。そうすれば、赦しと命を見つけることができます。

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エレミヤ書

良くても、悪くても

正直に言うと、時々私たちは神様の言葉を好ましく思わないことがあります。つまり、私たちは神様に求められたことをしたくないのです。そのようなとき、神様の言葉を無視し、自分の欲望に集中し、自分の道を行くのは簡単なことです。

この箇所で、ユダ人たちはそうしました。

ゲダルヤが殺害された後、イシュマエルと彼を助けた人々はアモン人のところへ逃げました。なぜなら、アモンの王がイシュマエルをゲダルヤを殺害するために送り込んだからです。

けれども、ユダの将校たちヨハナンとイザヌヤは他の将校たちと共にイシュマエルと戦いました。イシュマエルと8人の仲間は逃げましたが、その将校たちはイシュマエルの虜を解放しました。

その後、ヨハナンとイザヌヤは少し迷いました。彼らはネブカデネザルがゲダルヤの死の責任を追及するのではないかと恐れたため、エジプトに逃げようとしました。

しかし、逃げる前に、彼らはエレミヤに相談しました。

あなたの神、【主】が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。。。

それが良くても悪くても、私たちは、あなたを遣わされた私たちの神、【主】の御声に聞き従います。私たちの神、【主】の御声に聞き従って幸せを得るためです。(エレミヤ書42:3、6)

ところが、おそらく彼らは本当に神様の御心を求めていたわけではありませんでした。むしろ、彼らは神様が自分たちの計画を祝福してくださるように望んでいたのです。

だから、彼らはエレミヤが「神様は、あなたたちがエジプトに行くことを望んでおられる」と言うことを予想して、その準備を始めていたのかもしれません。

けれども、エレミヤは反対のことを語りました。

あなたがたは自分たちのために嘆願してもらおうと私を主に遣わしたが、そのイスラエルの神、【主】はこう言われる。

『もし、あなたがたがこの地にとどまるのであれば、わたしはあなたがたを建て直して、壊すことなく、あなたがたを植えて、引き抜くことはない。わたしは、あなたがたに下したあのわざわいを悔やんでいるからだ。

あなたがたが恐れているバビロンの王を恐れるな。彼を恐れるな──【主】のことば──。わたしがあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを救い、助け出すからだ。

わたしがあなたがたにあわれみを施すので、彼はあなたがたをあわれんで、あなたがたを自分たちの土地に帰らせる。』(エレミヤ書42:9-12)

しかし、エレミヤは彼らに警告しました。

もし、あなたがたがエジプトに行こうと決意し、そこに行って寄留するなら、あなたがたの恐れている剣が、あのエジプトの地であなたがたを襲い、あなたがたの心配している飢饉が、あのエジプトであなたがたに追い迫り、あなたがたはそこで死ぬ。

エジプトに行ってそこに寄留しようと決意した者たちはみな、そこで剣と飢饉と疫病で死ぬ。わたしが彼らに下すわざわいから、生き残る者も逃れる者もいない。(エレミヤ書42:13,15-17)

そして、エレミヤは彼らに言いました。

あなたがたは、自分たちのいのちの危険を冒して迷い出てしまったからだ。

あなたがたは私をあなたがたの神、【主】のもとに遣わして、『私たちのために、私たちの神、【主】に祈り、すべて私たちの神、【主】の言われるとおりに、私たちに告げてください。私たちはそれを行います』と言ったのだ。

私は今日、あなたがたに告げたが、あなたがたは、自分たちの神、【主】の御声を、すなわち、主がそのために私をあなたがたに遣わされたすべてのことを聞こうとしなかった。(42:20-21)

「あなたがたは、自分たちのいのちの危険を冒して迷い出てしまった。」

なぜでしょうか。それは、彼らが本当に神様を信頼していなかったからです。彼らは神様を求めるふりをしていましたが、心から神様を求めてはいませんでした。

ある英語の聖書では、この言葉を次のように翻訳しています。

「あなたは偽善者です。なぜなら、あなたは私に相談したけれど、自分が聞きたいことだけを受け入れるからです。」

彼らは、神様の言葉に従うことを約束しました。その言葉が良くても悪くても、従うと約束しました。けれども、彼らはその約束を破り、エジプトに逃げました。

あなたはどうでしょうか。神様のアドバイスを求めるとき、偽善的な心を持ってはいないでしょうか。

あなたが「あなたが言うことに従います」と祈るとき、その本当の意味は「もし、あなたの言葉が私がしたいことに合うなら、私は従います」という意味になっていないでしょうか。

時々、私たちにとって神様の言葉が良いと思えることがあります。そのとき、神様に従うことは簡単です。しかし、神様の言葉が気に入らないときはどうでしょうか。

例えば、神様があなたに「安定した仕事を辞めなさい」と語られたら、あなたはどうするでしょう。

また、神様が「ノンクリスチャンの彼や彼女と別れなさい」と語られたら、あなたはどうするでしょう。

神様は私たちの最善を望んでおられます。あなたはそのことを認識し、神様を信頼して従うことができるでしょうか。

あなたはどうするでしょうか。

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エレミヤ書 列王記第二

赤ランプを無視する

エルサレムの没落の後、ネブカデネザルは、ゲダルヤという人物を、ユダの地に残された民の総督として任命しました。

ゲダルヤは良い人だったと思われます。彼がユダ人の恐れを抑えることができたため、多くの人々は周辺の国々からエルサレムに戻りました。

とはいえ、ゲダルヤは世間知らずでした。彼はダビデの子孫イシュマエルが彼を殺そうとしているという話を聞きましたが、それを信じず、自分自身を守るために何もしませんでした。

その結果、最終的にゲダルヤは殺害され、彼の良い働きはすべて無駄になりました。つまり、エルサレムに戻ったユダ人たちは、バビロン人の復讐を恐れ、エジプトに逃げました。

私たちは、この出来事から何を学ぶことができるでしょうか。たとえ私たちに善意があり、良いことを行っていたとしても、「赤ランプ」を無視してしまうと、私たちが達成したことは無駄になる可能性があります。

私の牧師は、日曜日のメッセージで何度も自分の経験をシェアしてくれました。

彼は若い頃、別の教会で副牧師として仕えていました。

しかし、働きすぎたために家族は次第に壊れていきました。妻はストレスから胃潰瘍を患い、息子は顔にチック症を発症しました。

それにもかかわらず、彼は教会のために多くの良い働きをしていたため、家族のことを長い間顧みませんでした。

このままその道を進み続けていたら、彼は家族とミニストリーの両方を失ったかもしれません。

最終的に、彼は教会の仕事を一時休み、神様を求めました。そのとき、神様が彼の心に語りかけ、彼は自分が別の道を進むべきであると悟るようになりました。

現在、神様は彼のミニストリーと家族を祝福してくださっています。彼が私たちの牧師であり、教会の皆も祝福されています。

あなたも多くの良いことを行っているかもしれませんが、あなたが気づいていない「赤ランプ」はないでしょうか。あなたの人生には?あなたの家族には?あなたの家計には?あなたのミニストリーには?

その「赤ランプ」を無視してしまうと、すべてを失うかもしれません。

ゲダルヤのようにならないように、私たちは「赤ランプ」に注意を払い、神様の導きに従い、神様が備えてくださった道を進みましょう。

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エレミヤ書

あなたは私に信頼するから

このブログでは、私は可能な限り、聖書の出来事を年代順に読んでいます。私にとって、そのような読み方は非常に興味深いです。なぜなら、それまで気づいていなかったことに気づくことができたからです。

例えば、この箇所では、ネブカデネザルはエレミヤに関して次のように命じました。

彼を連れ出し、目をかけてやれ。何も悪いことをするな。ただ、彼があなたに語るとおりに、彼にせよ。(エレミヤ書39:12)

どうしてネブカデネザルはエレミヤに親切にしたのでしょうか。

40章によれば、ネブカデネザルはエレミヤの預言を知っていたからです。つまり、ユダの罪のゆえに、神様がユダをネブカデネザルの手に渡すと預言していたからです。

けれども、どうしてネブカデネザルはその預言を知っていたのでしょうか。

おそらく、エホヤキン王と他のユダ人たちが追放された際に、ネブカデネザルは彼らからその預言を知ったのかもしれません。

しかし、誰がネブカデネザルにその預言について話したのでしょうか。また、なぜネブカデネザルはその預言を信じたのでしょうか。

私は分かりませんが、多分ダニエルがネブカデネザルにその預言について話したのではないかと思います。なぜなら、ネブカデネザルはダニエルを尊敬していたからです。ダニエルは「呪法師の長」でした。(ダニエル4:9)

彼はネブカデネザルに仕えました。また、ダニエルはエレミヤの預言をよく知っていました。(ダニエル9章)

それゆえ、ダニエルはエルサレムが滅びそうだと聞いたとき、おそらく彼はネブカデネザルにこう言ったのかもしれません。

「王様、エルサレムにはエレミヤという預言者がいます。私たちは同じ神に仕えています。また、彼はユダの没落を預言しました。ですから、彼を守ってください。」

もちろん、これは私の想像に過ぎませんが、正しいかもしれないと思います。

いずれにせよ、ネブカデネザルはエレミヤを守りました。

ヨシヤ王が亡くなった後、エレミヤはずっと苦しんでいました。それでも、彼が神様に信頼したため、ユダが滅び、そのリーダーたちが追放され、あるいは殺された時も、エレミヤは救われました。

エベデ・メレクという人も救われました。以前、エレミヤが穴に投げ込まれた時、エベデ・メレクはゼデキヤ王のもとに行き、エレミヤの解放を頼みました。

そのため、神様はエベデ・メレクにこう言われました。

イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。見よ。わたしはこの町にわたしのことばを実現する。幸いのためではなく、わざわいのためだ。それらは、その日、あなたの前で起こる。

しかしその日、わたしはあなたを救い出す。――主の御告げ――

あなたはあなたが恐れている者たちの手に渡されることはない。わたしは必ずあなたを助け出す。

あなたは剣に倒れず、あなたのいのちはあなたの分捕り物としてあなたのものになる。それは、あなたがわたしに信頼したからだ。――主の御告げ――(39:16-18)

神様はその約束を守られました。エルサレムが滅びた時、神様は彼を守られました。

「あなたが私に信頼したからだ。」

その言葉は私の心に響いています。私たちが神様に信頼すると、周りの人々が裁かれても、私たちは救われます。私たちは神様の恵みとあわれみを受けます。

ただ、神様に信頼するからといって、私たちが決して苦しまないというわけではありません。エレミヤは多くの苦しみを経験しましたし、多くの人々も自分の信仰のために苦しみました。

しかし、彼らが死んだ後、最終的に休息と報いを受けました。

この世では私たちが救いを受けられないかもしれません。イエス様に従うことによって、私たちは苦しむことがあるかもしれません。けれども信仰はこう言います。

「私の救いは今は見えないけれど、最終的にその救いが来ると信じます。」

エレミヤはそのような信仰を持っていました。エベデ・メレクもそのような信仰を持っていました。私たちにもそのような信仰が必要です。

へブル人への手紙の著者はこう書いています。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(へブル書11:6)

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エレミヤ書 列王記第二 歴代誌第二

没落の理由

この箇所は少し特別です。つまり、同じ出来事が聖書の4つの箇所に記されています。それはエルサレムの没落です。

おそらく、エレミヤは52章を書いたわけではありません。それは別の人が記した付録のようです。エレミヤ書52章と列王記の記述はほとんど同じです。

ゼデキヤ王は神様の御名によって、バビロンのしもべになることを誓いました。けれども、彼がその約束を破ったため、ネブカデネザルが軍隊を送ってエルサレムをおよそ2年にわたり包囲しました。

その結果、エルサレムの食料は徐々になくなり、最終的にエルサレムは陥落しました。

ゼデキヤは逃げようとしましたが、捕らえられました。彼の息子たちは殺され、その後、彼の目がつぶされました。

そしてネブカデネザルは大祭司、次席祭司、そしてユダの長老たちを殺しました。

バビロン人は主の宮から価値のあるものをすべて取り去り、宮、宮殿、エルサレムの家々をすべて焼きました。

なぜ、神様はそのようなことを許されたのでしょうか。

歴代誌第二には、その理由が記されています。

彼「ゼデキヤ」はその神、主の目の前に悪を行ない、主のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。。。

そのうえ、祭司長全員と民も、異邦の民の、忌みきらうべきすべてのならわしをまねて、不信に不信を重ね、主がエルサレムで聖別された主の宮を汚した。

彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。

ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。(歴代誌第二36:12-16)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。なぜエルサレムは滅びたのでしょうか。

一つ目の理由は、ゼデキヤ王とその民が主の目の前で悪を行ったことです。私たちが悪を行えば、私たちの人生にも悪い結果が起こります。

二つ目の理由は、彼らが神様の言葉を聞いたとき、へりくだって悔い改めなかったことです。むしろ、彼らの心はさらに堅くなり、ますます悪化しました。

三つ目の理由は、彼らが周囲の国々の宗教的な忌み嫌われるならわしを真似して、神様の宮を汚したことです。

最後の理由は、彼らが神様の言葉を侮り、神様の預言者たちを嘲笑したことです。その結果、彼らの癒しはもはや不可能なものとなりました。

時に、私たちの心もあまりにも堅くなり、悔い改めることができなくなることがあります。しかし、悔い改めなければ、癒しも得られません。

あなたはどうでしょうか。どの道を進んでいますか。あなたは悔い改めることなく罪を犯し続けていますか。もし神様が聖書や日曜日のメッセージを通してあなたを責められたとき、あなたはその言葉に心を閉ざしてしまうでしょうか。

周りの人々の宗教的な習慣や教えに従って、聖霊の宮、つまりあなたの体を汚してしまっていませんか。(第一コリント6:19)

また、この世の神々、すなわちお金やセックス、持ち物を求めていませんか。それらも聖霊の宮を汚すことがあります。

さらに、あなたは神様の言葉を侮り、神様の使者を嘲笑してはいませんか。

これらのことによってエルサレムは滅びました。そして、これらのことによってあなたも倒れるでしょう。

もしあなたが真のクリスチャンであれば、救いを失うことはありませんが、人生は崩壊してしまいます。

神様はあなたに良い計画を用意されていますが、あなたはその計画を知ることができません。充実した人生ではなく、後悔に満ちた人生を送ることになるでしょう。

私たちはイスラエルのようにならないようにしましょう。むしろ、神様に対して柔らかい心を保ちましょう。そうすることで、真の命を見つけることができます。

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エレミヤ書

理解を越えた大いなる事

この箇所では、私は第3節が特に好きです。

わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。(エレミヤ書33:3)

正直に言うと、私はもっと神様を求めるべきだと感じています。そのように考えることがよくあります。

それでも、私はいつも自分の人生について思いを巡らせ、重要だと思うことに集中しています。

(ただし、その「重要だと思うこと」が本当に重要かどうかは分からないこともあります。)

イエス様の生涯について考えてみてください。彼は毎朝、天の父と共に時間を過ごしました。そのとき、どれほどの力と知恵を得たのでしょうか。

同じように私がそんな時間を持つことができたら、どれほどの力と知恵を得ることができるでしょうか。

最近、私は聖書を読むことは多いのですが、祈りの時間があまり取れていません。特に、私は神様の声をもっと聞く必要があると感じます。

神様の約束はこうです――私たちが神様を求めるなら、神様を見出し、神様が私たちに語りかけてくださる、と。

もちろん、私たちの将来のためには神様の知恵が必要です。しかし、それ以上に、私たちの理解を超えた偉大な事――神様の恵みを思い起こすべきです。

この箇所は神様の恵みに関するものです。

ただし、この箇所の冒頭は神様の裁きについて記されています。つまり、イスラエルの罪ゆえに裁きが訪れるということです。

もちろん、誰もそのような話を聞きたいとは思わないでしょう。

それでも、神様は続けてこう言われました。

見よ。わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。。。

わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしにそむいたすべての咎を赦す。

この町は世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる。」(エレミヤ書33:6、8-9)

神様はイスラエル人について語られましたが、この言葉は私たちにも深く関係しています。

私たちの人生は罪によって壊れてしまいましたが、神様は私たちを癒してくださいました。

神様は私たちの罪と背きを赦し、私たちに平安を豊かに示してくださいます。そして、世界の国々の間で、私たちは神様にとって喜びの名となり、栄誉となり、栄えとなるのです。

私たちが毎日そのことについて思いを巡らせたら、私たちの人生はどれほど変わるでしょうか。どれほど神様に感謝することでしょうか。そして、神様の恵みを受けたなら、私たちの人生に対する態度や他の人々への態度はどれほど変わるでしょうか。

けれども、もう一つ、私たちの理解を超えた大いなる事を思い起こすべきです。それは、ある日、イエス様がこの世に戻られるということです。

14-16節には、次のように書かれています。

「見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみのことばを成就する。

その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝(つまり、イエス様)を芽ばえさせる。彼はこの国に公義と正義を行なう。

その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの町は、『主は私たちの正義』と名づけられる。」

私たちはしばしば一時的なことに気を取られがちです。しかし、もしイエス様が戻られることを思い起こしたなら、果たしてその一時的なことに集中し続けることができるでしょうか。

その真理を心に留めるなら、私たちの優先順位はどれほど変わることでしょうか。

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エレミヤ書

私たちの益のため

この箇所では、エルサレムはまだ包囲されていました。また、エレミヤはまだ牢屋にいました。その時、神様はエレミヤにこう言われました。

「あなたのいとこが、土地を売るためにあなたのところに来る。その時、その土地を買いなさい。」

普通に考えれば、それは良い機会のように思えますが、エルサレルムが包囲されていたため、エレミヤがその土地を持ち続けられるかどうかは不明であり、少し愚かな決断に見えるかもしれません。

それでも、神様は「買いなさい」と言われました。それは神様がこう言われたからです。

まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。再びこの国で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるのだ。(エレミヤ書32:15)

つまり、エレミヤの土地の購入は、イスラエル人の帰国のしるしでした。

エレミヤの反応は少し複雑でした。(16-25節)

それは信仰に基づく祈りだったのでしょうか。それとも、神様が本当にイスラエル人を御自身の国に帰らせてくださるかどうかを疑っていたのでしょうか。または、その祈りには信仰と疑いの両方が混在していたのでしょうか。

私たちも、イエス様に息子の癒しを願った父親のような立場にいることがあるのではないでしょうか。イエス様は父親に言われました。

「私があなたの息子を癒せることを信じますか。」

その父親は次のように答えました。「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:25)

エレミヤもこのように祈ったように思えます。

「主よ。あなたはすべてのことができます。あなたにとって、不可能なことはありません。あなたは、バビロン人が来てエルサレムを包囲すると警告してくださり、あなたが言われた通りに彼らが来ました。私は信じます。

けれども、あなたは私に言われます。『その土地を買いなさい。なぜなら、ある日イスラエル人がこの土地に戻るからです。』

それは本当なのでしょうか。私たちは本当にこの国に戻れるのでしょうか。」

おそらく、エレミヤは神様の力そのものを疑っていたのではありませんでした。むしろ、イスラエル人が本当に悔い改めるのかどうかを疑っていたのかもしれません。なぜなら、その時点で彼らは全く悔い改めていなかったからです。

しかし、神様はこのようにお答えになりました。

「見よ。わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる。

彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。

わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、 わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。

わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。

わたしは彼らを幸福にして、彼らをわたしの喜びとし、真実をもって、心を尽くし思いを尽くして、彼らをこの国に植えよう。」(エレミヤ書32:37ー41)

つまり、神様は、きっとイスラエル人を御自身の国に帰らせると言われました。

けれども、神様が31章で言われたように、イスラエルの霊的な復活は、イスラエル人の働きではなく、神様の働きです。神様が彼らの心を変えてくださり、彼らは悔い改めます。そして、神様は彼らをもう一度祝福すると約束してくださいました。

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

第一に、私たちが疑うときでも、神様は私たちの益のために働いてくださっているということです。神様は、私たちを祝福したいと思われます。神様は、私たちを祝福することを喜ばれます。

私たちがそのことを心に留めるなら、神様を信頼し従うことがさらに容易になるでしょう。

第二に、神様は、いつも私たちの心に働きかけて、神様が望まれるように私たちを形作ってくださるということです。

私たちの役割は、神様と協力することです。そうすれば、神様は私たちを祝福してくださいます。

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エレミヤ書

無駄な希望

ゼデキヤは私が理解しがたい人物です。彼はユダの最後の良い王、ヨシヤの息子でした。だから、ゼデキヤには良いロールモデルがありました。

さらに、彼は兄弟エホアハズ、エホヤキム、そして甥エホヤキンの失敗を目の当たりにしました。

それでも、ゼデキヤはヨシヤの道を歩まず、兄弟たちと甥の道を選び、神様に背きました。

とはいえ、ある程度、彼はエレミヤを尊敬していました。そのため、何度もエレミヤに相談しました。けれども、首長たちはエルサレムに対する裁きの預言に飽き、彼らはエレミヤに言いました。

「あなたはカルデヤ人のところへ落ちのびるのか。」(エレミヤ書37:13)

エレミヤはそのことを否定しましたが、彼らはエレミヤを捕らえ、打ちたたいて牢に入れました。ゼデキヤはそのことを聞いても、何もしませんでした。

それでも、彼はエレミヤに相談し続けました。その後、首長たちはエレミヤについて文句を言い続けたので、ゼデキヤは彼らに言いました。

今、彼はあなたがたの手の中にある。王は、あなたがたに逆らっては何もできない。(エレミヤ書38:5)

だから、彼らはエレミヤを穴に投げ込み、エレミヤは泥の中に沈みました。

幸いなことに、勇気のある人がゼデキヤに面と向かって訴えたため、ゼデキヤはエレミヤを監視の庭に連れて行きました。

ゼデキヤは本当に弱い人でした。

私が知りたいのは、どうしてゼデキヤが何度もエレミヤに相談したのかということです。彼は決してエレミヤの言葉に従いませんでした。エレミヤ37:2には、こう書いてあります。

彼も(つまり、ゼデキヤ)、その家来たちも、一般の民衆も、預言者エレミヤによって語られた主のことばに聞き従わなかった。

私には分かりませんが、ゼデキヤは神様のご意志が変わることを望んでいたのかもしれません。

彼は自分の道を歩み続けたいと思っていたので、彼の願いは、神様が彼を救い、なおその道を歩み続けることを許してくださる、というものでした。

けれども、それは無駄な希望でした。

もちろん、時には、裁きに関して神様のご意志が変わることがあります。

しかし、エレミヤ18章に書かれているように、一つの条件があります。それは悔い改めです。

ゼデキヤは決して悔い改めませんでした。むしろ、彼は言い訳をしました。

エレミヤは彼に言いました。「バビロン人に降伏しなさい。そうすれば、あなたは生きる。」

けれども、ゼデキヤは答えました。

私は、カルデヤ人(バビロン人)に投降したユダヤ人たちを恐れる。カルデヤ人が私を彼らの手に渡し、彼らが私をなぶりものにするかもしれない。(エレミヤ書38:19)

エレミヤは説得しようとしましたが、ゼデキヤはその言葉を受け入れられませんでした。

あなたはどうでしょうか。罪にしがみついたまま、「全てがなんとなく良くなる」と希望していませんか。

神様があなたを裁かず、憐れみを示してくださることを願いながら、自分の道を行き続けていませんか。

それは無駄な希望です。罪にしがみつき、自分の道を行き続けるなら、裁きが来ます。悔い改めなければ、裁きは必ず訪れます。

しかし、もし悔い改めるなら、神様はあなたを赦し、癒してくださいます。

それでも、この世では罪の結果を受けることがあるかもしれません。けれども、神様はあなたを確かに赦してくださり、癒しの働きを始めてくださいます。

あなたはどう選びますか。

無駄な希望を持ち続けますか。

それとも、悔い改めから生まれる希望を求めますか。

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エレミヤ書

一時的な悔い改め

いつ34章の事件が起こったか分かりませんが、32-33章の前に起こったと思います。なぜなら、32-33章では、エレミヤは牢にいたからです。

最初に、エレミヤはゼデキヤ王に警告しました。「ネブカデネザルはエルサレムを倒すけれど、ゼデキヤは剣で死なない」と言いました。

おそらく、その言葉によって、ゼデキヤとユダ人たちはある程度まで悔い改めました。その時まで、彼らはずっと自分の兄弟を奴隷にしていました。

神様の律法によると、7年ごとに、彼らはその奴隷を解放するべきでした。(その時代、負債の問題によって、多くの人々は自分自身を奴隷として売りました。)けれども、彼らはその律法をずっと破り続けました。

そのため、バビロン人が来て、またユダ人がエレミヤの警告を聞いたので、ゼデキヤとユダ人は神様との契約を結びました。つまり、彼らはすべての奴隷を解放することを約束しました。そして、彼らはその約束を守りました。

しかし、その悔い改めは一時的なものでした。

事件のタイミングははっきり分かりませんが、恐らく彼らがその奴隷を解放した直後に、ネブカデネザルとその軍隊はエジプト人と戦うためにエルサレムの包囲を解きました。(エレミヤ書34:21)

ネブカデネザルが行ってしまったので、ユダ人は自分たちの約束を破り、解放された奴隷を勝手に連れ戻し、もう一度奴隷にしました。そのため、神様は裁きを宣言されました。

わたしはまた、ユダの王ゼデキヤとそのつかさたちを敵の手、いのちをねらう者たちの手、あなたがたのところから退却したバビロンの王の軍勢の手に渡す。見よ。わたしは命じ、――主の御告げ――

彼らをこの町に引き返させる。彼らはこの町を攻め、これを取り、火で焼く。わたしはユダの町々を、住む者もいない荒れ果てた地とする。』」(エレミヤ書34:21ー22)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。時々、人々は困って神様に向かい、悔い改めます。神様は彼らを赦し、彼らの人生に働きかけて癒されます。

けれども、全てが上手くいくと、彼らは神様の恵みを忘れ、自分の道に戻ります。その結果、彼らは再びトラブルに巻き込まれて苦しみます。

彼らは自分の救いを失うことはありませんが、この世でその罪の結果を経験します。

あなたはどうでしょうか。悔い改めて癒されたのに、また古い道に戻ってしまっているでしょうか。

その道に戻らないでください。むしろ、罪から避け、神様に従いましょう。そうすれば、あなたは神様の祝福を受けることができます。

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エレミヤ書

新しい契約

これは私のお気に入りの箇所の一つです。

エゼキエルのように、エレミヤはイスラエル人がよく引用していたことわざについて話します。

父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。(エレミヤ書31:29)

つまり、「私たちは悪いことを全然しなかった。私たちは先祖の罪のために苦しんでいる。それは不公平だ。」

しかし、神様は彼らに言われました。「あなたの先祖の罪のために苦しまない。自分自身の罪のために苦しむのです。」

けれども、この箇所は、裁きよりも、神様の憐みに焦点を当てています。神様は彼らにこう言われました。

見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。

かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。――主の御告げ――(27-28)

そして、神様は将来設立される新しい契約について話されます。

見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。

その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。

わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ――

彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ――

わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

そのようにして、人々はもはや、 『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ――

わたしは彼ら の咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミヤ書31:31-34)

この契約はキリストによって成就しました。以前の契約と新しい契約の違いは何でしょうか。

主な違いは、以前の契約は双方向の契約だったということです。新しい契約は一方的な契約です。

以前の契約では、イスラエル人が神様の命令に従うと、神様は彼らを祝福すると約束されました。

しかし、彼らがその命令に従わないと、彼らは呪われました。結局、彼らが何回もその契約を破ったので、彼らは呪われたのです。

けれども、新しい契約は全然違います。その契約は私たちの行動によるものではありません。むしろ、その契約は神様の行動に基づいています。

だから、私たちが自分の心を変えることができなくても、神様は私たちの心を変えてくださると約束されました。

つまり、神様は私たちの心にご自身の律法を置き、神様に従う心を与えてくださると約束されたのです。

もう一つの違いがあります。それは、皆が神様のみもとに近づくことができるようになったことです。

私たちはもう人間の祭司や仲介者を必要としません。むしろ、私たちは神様と直接話すことができます。また、私たちの罪の代価が支払われ、私たちの罪が赦されたので、神様はその罪をもう思い出されません。

それが新しい契約です。また、それは、私たちが宣べ伝える良い知らせです。

私たちは神様の好意を得るために働く必要がありません。むしろ、恵みによって、私たちはその好意を受け取ります。

神様が私たちを既に受け入れてくださったので、私たちは神様の前でリラックスすることができます。

とはいえ、その恵みを当然のものと思わないでください。毎日、その素晴らしい賜物に感謝しましょう。

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エレミヤ書

天の父の御心

私はこの箇所が大好きです。なぜなら、この箇所は私たちの天の父の御心を表しているからです。

主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」(エレミヤ書31:3)

この箇所では、エレミヤはイスラエルの将来の癒しについて話します。その言葉の中に自分の民に対する神様の御心を見ることができます。

8-9節に、神様はイスラエル人を自分の土地に帰らせると約束されます。その時、自分の過去の罪のために泣く人もいるし、神様の憐みを感謝するために泣く人もいます。

そのとき、神様はこう言われました。

わたしは彼らを、水の流れのほとりに導き、彼らは平らな道を歩いて、つまずかない。

わたしはイスラエルの父となろう。エフライムはわたしの長子だから。」(9)

私たちは何回も神様の憐み深い御心を見ることができます。自分の子供たちが反抗的な態度を取るのに、神様は永遠の愛を持って、彼らを愛してくださいます。

わたしは、エフライムが嘆いているのを確かに聞いた。

『あなたが私を懲らしめられたので、くびきに慣れない子牛のように、私は懲らしめを受けました。

私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。主よ。あなたは私の神だからです。

私は、そむいたあとで、悔い、悟って後、ももを打ちました。私は恥を見、はずかしめを受けました。私の若いころのそしりを負っているからです』と。

エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。

それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。――主の御告げ――(18-20)

だから、神様は自分の民にこう言われました。

おとめイスラエルよ。帰れ。これら、あなたの町々に帰れ。裏切り娘よ。いつまで迷い歩くのか。(21-22)

この箇所から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。神様は私たちを愛することを決して止められません。私たちが神様から立ち去っても、神様は私たちの戻りを待ち望んでおられます。

ある歌はその真理をよく表しています。

全能の神、
永遠の神、
動かない岩、
力ある神、
素晴らしい神、
勝利の戦士、
王の王、
強い戦勝者

その神様が走るのを一度しか見たことがありません。

神様は私のところに走って、
私を抱きしめ、
「私の息子は帰りました」と言われました。

神様は私の頭を上げて、
私の涙をぬぐい、
赦しの声でこう言われました。
「私の子よ。私があなたをまだ愛していることを知っていますか。」

私は驚きました。
なぜなら、神様は走られたからです。

ーーベニー・ヘスター

神様。私が罪を犯しても、また失敗しても、また、あなたから立ち去っても、あなたが私をまだ愛してくださり、感謝します。あなたの永遠の愛に感謝します。

あなたが私のために待つだけではなく、私のところに駆け寄ってくださることを感謝します。あなたを愛します。アーメン。

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エレミヤ書

天の父に近づくためにいのちをかける者

エレミヤは、エルサレムの没落について預言しましたが、その民に希望の言葉を伝えました。つまり、神様は彼らを懲らしめられますが、まったく滅ぼされないということです。(エレミヤ書30:10-11)

それでも、エレミヤは彼らの状況を正直に説明します。

あなたの傷はいやしにくく、あなたの打ち傷は痛んでいる。あなたの訴えを弁護する者もなく、はれものに薬をつけて、あなたをいやす者もいない。

あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いため、わたしはこれらの事を、あなたにしたのだ。(エレミヤ書30:12-13,15)

しかし、神様は救い主を送られることを約束されます。

その権力者は、彼らのうちのひとり、その支配者はその中から出る。

わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。――主の御告げ――

あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」

見よ。主の暴風、――憤り。――吹きつける暴風が起こり、悪者の頭上にうずを巻く。

主の燃える怒りは、御心の思うところを行なって、成し遂げるまで去ることはない。終わりの日に、あなたがたはそれを悟ろう。(21-24)

この箇所はイエス様についてです。私は21節が好きです。神様は訊かれます。「わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。」

エレミヤの時代に、誰も神様に近づくことができませんでした。一年に一回、大祭司はその権利がありましたが、エレミヤの時代には、祭司たちは偽物の神々を礼拝していました。

しかし、神のひとり子として、イエス様は天の父に近づき、私たちのためにとりなしてくださいます。イエス様は破れ口に立って

十字架の上で、私たちの罪のために神様の怒りを受けて、死なれました。だから、私たちに対する神様の怒りは静められました。

ですから、もし私たちがイエス様を信じるなら、私たちは恐れずに天の父に近づくことができます。ヘブル人への手紙の著者はこう書きました。

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。

そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。(へブル10:19-23)

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エレミヤ書

ジーニーじゃない

エゼキエルがいるバビロンからエルサレムに戻りましょう。ネブカデネザルはエルサレムの包囲を始めていました。

その時、ゼデキヤ王がパニックになり、それまでずっとエレミヤの裁きについての警告を無視していたにもかかわらず、エレミヤにメッセージを送りました。「私たちのために祈ってください。」

ゼデキヤはこう言いました。

どうか、私たちのために主に尋ねてください。バビロンの王ネブカデレザルが私たちを攻めています。

主がかつて、あらゆる奇しいみわざを行なわれたように、私たちにも行ない、彼を私たちから離れ去らせてくださるかもしれませんから。(エレミヤ書21:2)

これを読んだ時、私はアラジンのジーニーの話について考えていました。ゼデキヤ王は神様をジーニーとして考えていたからです。

ジーニーをランプに入れて物置に置いておき、普段はそのジーニーについて考えないけれど、トラブルが起こるとそのジーニーを呼んで助けを頼む、という話です。

でも、神様はジーニーではありません。神様はゼデキヤにこう言われました。

「私は助けてあげません。私はあなたに反対しているからです。私はあなたをネブカデネザルの手に渡します。彼はあなたを『惜しまず、容赦せず、あわれまない。』」(3-7)

それでも、神様はゼデキヤに一つの希望を与えてくださいました。

彼は裁きを避けることはできませんでしたが、死を避ける可能性はありました。そのためには、ゼデキヤは一つのことをしなくてはなりませんでした。つまり、神様に信頼することです。また、神様の言葉に従うことです。

神様はゼデキヤにこう言われました。

「あなたは、この民に言え。主はこう仰せられる。「見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。

この町にとどまる者は、剣とききんと疫病によって死ぬが、出て、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者は、生きて、そのいのちは彼の分捕り物となる。

なぜならわたしは、幸いのためにではなく、わざわいのためにこの町から顔をそむけるからである。――主の御告げ――

この町は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼くであろう。」」(8-10)

つまり、「あなたが今まで私に信頼していないけれど、今私を信じてください。あなたは裁きから逃げられません。バビロン人(つまり、カルデヤ人)にくだるのは怖いかもしれませんが、そうすれば、あなたは生きるのです。」

そして、神様はゼデキヤにこう言われました。「あなたの民に正義を与えなさい。あなたのプライドを捨てなさい。今まであなたがそのことをしていないので、裁きが来ました。」

しかし、ゼデキヤは神様の言葉に従いませんでした。神様がゼデキヤのジーニーのように答えられなかったので、ゼデキヤは神様にもう一度背を向けたのです。だから結局、彼の世界は倒れました。

あなたはどうですか。どのように神様を見なすでしょうか。神様をあなたのジーニーと見なすでしょうか。もしくは、あなたの神として認めるでしょうか。

あなたは神様に信頼しているでしょうか。また、神様に従っているでしょうか。

たくさんの人は、自分の道を行くことを幸せだと思います。また、神様が彼らの願いを叶えるなら、彼らは幸せになると思います。しかし、本当の幸せは、神様を認め、神様に信頼し、従うことです。

神様に信頼し、従おう。
イエス様にあって幸せになるため、
他の方法はないから。

ーージョン・H・サミス

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エゼキエル書

無駄な涙

この箇所では、ユダ王国の没落が間近に迫っています。

エレミヤやエゼキエルは長い間ユダの人々に警告してきましたが、ついにバビロンがユダを攻撃するためにエルサレムに到着しました。

包囲が始まった時、神様はエゼキエルにこう言われました。「これは裁きの日である。この国は罪に満ち、人を殺しておきながらその罪を隠そうともしない。

私はこの国を清めようとしたが、彼らは私の警告を無視し続けた。だから、私の忍耐は尽きた。彼らに憐れみをもう与えない。今は裁きの時だ。」

さらに、神様はエゼキエルに非常に辛い知らせを伝えられました。「あなたの妻が亡くなる。」

それでも神様はエゼキエルにこう命じられました。

嘆くな。泣くな。涙を流すな。声をたてずに悲しめ。死んだ者のために喪に服するな。

頭に布を巻きつけ、足にサンダルをはけ。口ひげをおおってはならない。人々からのパンを食べてはならない。(エゼキエル書24:16-17)

なぜでしょうか。それはエルサレムが倒れると、ユダの人々がそのように反応するからです。

彼らの砦、彼らの栄光、彼らの喜び、そして彼らの子どもたちすべてが取り去られます。その時、彼らの憂いは非常に深くなり、どれだけ泣いても慰められることはありません。

それでもなお、彼らは悔い改めようとしないのです。むしろ、彼らは、

自分たちの咎のために朽ち果て、互いに嘆き合うようになる。(23)

だから、神様はユダ人にこう言われました。

エゼキエルはあなたがたのためのしるしとなり、彼がしたとおりを、あなたがたもするようになる。このとき、あなたがたは、わたしが神、主であることを知ろう。(24)

私たちはここから何を学べるでしょうか。

時には涙を流すことが良いのです。もし私たちの涙が悔い改めへと導き、神様に向かわせるなら、神様は私たちを慰め、癒してくださいます。

イエス様はこのように言われました。

悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。(マタイ5:4)

けれども、ある人は自分の罪によって心が堅くなり、すべてを失っても、またその苦しみに耐えられなくても、悔い改めることがありません。むしろ、彼らは神様を責め、自己憐憫に浸るのです。

ユダの人々も同じようにしました。私たちの心が罪によって堅くなるとき、私たちも彼らと同じような反応をするかもしれません。

あなたはどうでしょうか。あなたの罪のせいで、あなたの心は堅くなっているでしょうか。絶望しているでしょうか。神様を責め、自己憐憫に浸っているでしょうか。

どうか悔い改めてください。あなたの罪の結果に対してではなく、あなた自身の罪そのもののために涙を流してください。

そうするなら、神様はあなたに触れ、あなたを赦し、そして癒してくださるでしょう。

悔い改めるのに決して遅すぎることはありません。かつて、使徒パウロはキリストを冒涜し、多くのクリスチャンを迫害しました。

しかし、クリスチャンになった後、パウロはこう記しました。

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。(第一テモテ1:15-16)

パウロの涙は、悔い改めへと導かれました。あなたの涙もまた、悔い改めへと導かれますように。

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エゼキエル書

あなたの滅びる情欲

この箇所では、たとえ話を用いて、エゼキエルは北イスラエル王国とユダ王国を責めています。

この話は二人の売春婦についてのものです。彼女たちは姉妹であり、姉の名前はオホラ、妹の名前はオホリバでした。

オホラは北イスラエル王国の首都サマリヤを象徴します。

ユダ王国から分離したとき、北イスラエル王国は自分たちの礼拝所を建設しました。それを「神様のため」と言いましたが、実際には偶像を礼拝するための場所でした。(「オホラ」という名前は「彼女自身の幕屋」という意味です。)

オホリバはユダ王国の首都エルサレムを象徴します。ユダ王国には神様の宮がありました。(「オホリバ」という名前は「彼女に私の幕屋がある」という意味です。)

このたとえ話では、その姉妹はかつてエジプトで売春婦でしたが、神様が彼女たちをその生活から救い出しました。

この意味は、エジプトにいたとき、イスラエルの人々が他の神々を礼拝していたにもかかわらず、神様が彼らに偶像を捨てて自分に従うようにと呼びかけたということです。

その後、オホラはアッシリヤ人を恋い慕い、姦淫を犯しました。けれども、最終的にアッシリヤ人によって彼女は殺され、その子どもたちは奴隷にされました。

これは、北イスラエル王国がアッシリヤと同盟を結び、その神々を礼拝するようになったものの、最終的にアッシリヤ人に滅ぼされ、追放されたことを象徴しています。

一方、オホリバは姉の罪から何も学びませんでした。そのため、彼女もアッシリヤ人を恋い慕い、さらにはバビロン人も恋い慕いました。

けれども、後に彼女の心はバビロン人から離れ、再びエジプト人に戻りました。それでも、将来バビロン人が彼女を追ってきて、彼女を殺し、その子どもたちを奴隷にすることになります。

その意味は、ユダ王国がアッシリヤ人、バビロン人、そしてエジプト人と同盟を結び、それぞれの神々を礼拝していたということです。ところが、最終的に彼らはバビロンに追放されることになりました。

神様の言葉はすべて成就しました。

この話から二つの重要な教訓を学ぶことができます。

一つ目は、神様は私たちに神様に従うことを強制されないということです。

私たちが神様から離れようとするならば、神様は私たちを止めません。むしろ、神様は私たちを、私たちが恋い慕うものに引き渡されます。

二つ目は、私たちが恋い慕うものは、最終的に私たちを滅ぼすということです。

それらが喜びや安全、そして祝福を与えてくれるように思えるかもしれませんが、実際には私たちを奴隷にし、滅ぼします。

パウロはこのように言いました。

あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。。。

罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。

その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。(ローマ6:16、20-21)

イスラエルの人々はそのような経験をしました。そして、私たちも同じような経験をする可能性があります。

どれほど多くの夫が不倫によって自分の家族を壊しているでしょうか。彼らの行動は妻や子どもたちを深く傷つけます。

そのような夫は自分の行動がもたらす結果を十分理解しているにもかかわらず、自分自身を止めることができません。

また、どれほど多くの人々がアルコールや麻薬によって自分の人生を破壊しているでしょうか。

さらに、お金への執着のあまり、働きすぎて家族や健康を損なう人々はどれほど多いでしょうか。

多くの人は、自分の情欲に従って生きることを「自由」だと思っています。

しかし、自分自身を止められないなら、それは本当に自由でしょうか。情欲によって自らの人生が壊れることが自由と言えるでしょうか。

あなたを滅ぼすものから解放するために、イエス様は十字架で死なれました。イエス様はあなたが真に生きるために命を捧げられたのです。

けれども、自分に問いかけなければならないのは、「私は本当に自由になりたいのだろうか」ということです。

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エゼキエル書

破れ口に立つ?

私たちは、この世の悪を目にするたびに、しばしば文句を言います。けれども、本当にそれを気にかけているのでしょうか。その悪に対して、私たちは具体的にどのような行動をしているのでしょうか。

この箇所では、神様はエゼキエルに、間近に迫ったイスラエルの裁きについて警告するよう命じられました。

すなわち、バビロンを通して、イスラエルのリーダーたちの地位が取り去られることになるのです。祭司たちの被り物は剥ぎ取られ、王の冠は取り去られます。(エゼキエルしょ21:25-26)

神様はエゼキエルにこう言われました。

人の子よ。嘆け。彼らが見ているところで腰が砕けるほど激しく嘆け。(21:6)

なぜなら、そのように裁きの日が来ると、イスラエルの人々は皆嘆くことになるからです。

では、どうして裁きが来るのでしょうか。それは彼らの罪のためです。イスラエルには、偶像礼拝があり、殺人事件があり、性的な罪があり、その他さまざまな堕落がありました。

簡単に言うと、イスラエルの人々は神様を忘れ、自分の道を歩んでいたのです。(22:1-12)

しかし、22章の最後で、神様はとても興味深いことを語られます。

わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。

それで、わたしは彼らの上に憤りを注ぎ、激しい怒りの火で彼らを絶滅し、彼らの頭上に彼らの行ないを返した。――神である主の御告げ――」(30-31)

壊れた石垣を築く者、破れ口を修理する者。

昔の都市の防御は石垣でした。その石垣が壊れると、その都市は敵の攻撃を受けやすくなります。

イスラエルの霊的な石垣は崩れ、大きな穴が開いてしまいました。つまり、彼らは神様に背を向け、さまざまな罪を犯していたのです。

そこで、神様は問いかけられました。「その道徳の石垣を修理する者はいないのか。私の律法は彼らを守るためのものだったが、彼らはその律法を取り壊してしまった。」

けれども、神様はもう一つのことを示されているようです。

日本語の聖書では、「破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めている」と訳されていますが、ヘブル語で使われている「修理する」という語には、複数の意味があります。その一つが、「立つ」という意味です。

英語の聖書の多くでは、この箇所がそのように訳されています。つまり、「神様は破れ口に立つ者を探している」という表現になっています。

神様はその破れ口に入ろうとされています。そして、そのまま裁きが訪れます。果たして、誰かがその破れ口に立つでしょうか。

誰もいないなら、多くの人々が滅びることになります。しかし、誰かがその破れ口に立ち、そこから人々のために祈るならば、神様は憐れみを与えるかもしれません。

何度もモーセはイスラエルの人々のために祈り、神様は彼らを滅ぼさずに憐れみを与えられました。モーセはその破れ口に立ち、祈り続けたのです。

けれども、エゼキエルの時代には、ほとんど誰もそのように立ち上がる者はいませんでした。その結果、裁きが訪れることになりました。

では、あなたはどうでしょうか。この世の悪を見るとき、ただ文句を言うだけでしょうか。ただ嘆くだけでしょうか。

それとも、何か行動を起こすのでしょうか。エゼキエルのように、正義のために戦いますか。周りの人々に裁きについて警告しますか。

あなたは彼らのために祈りますか。

聖霊が彼らの心に働いて、その破れ口を修理するように祈りますか。イエス様がその破れ口の中に立ち、彼らを救ってくださるように祈りますか。

私たちがただ涙を流すだけでは十分ではありません。その破れ口に立たなければなりません。

あなたはその一歩を踏み出すでしょうか。

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エゼキエル書

裁きの神、憐みの神

私は以前にも言いましたが、預言書を読むのは時々少し辛いものです。なぜなら、預言者のメッセージの大部分が裁きのメッセージだからです。

この箇所もそうです。イスラエルの長老たちは主に助言を求めるためにエゼキエルのもとを訪れました。しかし、彼らは心から主を求めてはいませんでした。

そこで、神様はエゼキエルにこう言われました。「彼らのために私からのメッセージはありません。

ただし、もしあなたが良ければ、彼らに自分たちの歴史を思い出させ、彼らの罪について気付かせてください。そして、どうして私が彼らに直接語らないのかを教えてください。」(エゼキエル書20:4-32)

それにもかかわらず、この箇所にはある重要な真理が繰り返し現れています。つまり、神様は憐れみ深い神です。神様がイスラエルの歴史について語られる際には、その真理が幾度となく現れます。

イスラエルの人々は何度も神様に反抗しましたが、神様は彼らを完全に滅ぼすことはされませんでした。むしろ、神様は彼らに憐れみを与えてくださったのです。

それは彼らの行動のゆえではなく、神様ご自身が憐れみ深いお方だからです。

何度も神様はこう言われました。「私の名のためにあなたを滅ぼさなかった。周りの国々が、たとえあなたが忠実でなくても、私が忠実であることを知るために、私はあなたを諦めなかった。

周りの国々が私が憐れみ深い神であることを知るために、私はあなたの罪を赦した。」

そして、イスラエルの人々が悔い改めるその日に、

わたしが、あなたがたの悪い行ないや、腐敗したわざによってでなく、ただわたしの名のために、あなたがたをあしらうとき、イスラエルの家よ、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。――神である主の御告げ――」(エゼキエル書20:44)

ダビデはこう書きました。

私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。(詩編103:10)

私はこの素晴らしい真理に喜びます。私は神様の裁きを受けるに値する者です。それでも、神様がイスラエルに憐れみを与えられたように、神様は私にも憐れみを与えてくださいます。

神様は私を暗闇の王国から救い出し、光の王国へと導いてくださいました。そのことを心から神様に感謝します。

神様、あなたが私の罪に従って私を扱われないことに感謝します。あなたは私を赦し、毎日私を新しく変え続けてくださっています。

どうか私が自分の罪を憎む者となれますように。そして、私があなたのように変えられますように。

さらに、あなたが私に憐れみを与えてくださったように、私も周りの人々に憐れみを示すことができますように。アーメン。

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エゼキエル書

私たちの国の希望はどこから来るか

私たちの国の希望はどこから来るのでしょうか。

イスラエルの人々は自分たちのリーダーたちに信頼を置きました。彼らは、そのリーダーたちの力と知恵によってイスラエルが栄えることを願い、希望しました。

そして、アッシリヤやバビロンの軍隊が攻撃してきたとき、イスラエルの人々は救いをリーダーたちに求めました。

けれども、彼らの希望は虚しいものでした。この箇所は、そのことについて語っています。

雌獅子はイスラエルを象徴していました。その最初の子獅子はエホアハズでした。彼はユダの王となりましたが、三か月後にはエジプトへ追放され、そこで死にました。

次に王となったのはエホヤキムでした。けれども、彼もまたユダを救うことはできませんでした。それどころか、彼はエジプトのしもべとなりました。

その後、バビロンがエジプトを打ち破ると、エホヤキムはバビロンのしもべとなり、最終的にはバビロンへ追放されることになりました。

だから、

雌獅子は、待ちくたびれ、自分の望みが消えうせたことを知ったとき、子獅子のうちのほかの一頭を取り、若い獅子とした。(エゼキエル書19:5)

その若い獅子はエホヤキンでした。しかし、彼もまたバビロンへ追放されてしまいました。

そのため、エゼキエルはイスラエルのために深く悲しみました。かつてイスラエルは実を結ぶ良い枝のようであり、国々の中で力強い存在でした。

ところが、自分たちの罪のゆえに、ユダは、

憤りのうちに引き抜かれ、地に投げ捨てられ、東風はその実を枯らし、その強い枝も折られて枯れ、火に焼き尽くされた。(12)

そして、ユダは、

荒野と砂漠と、潤いのない地に移し植えられ「た」。(13)

つまり、彼らはバビロンに追放されました。(10-14)

その結果、結局イスラエルの人々が信頼して委ねた王たちは皆、いなくなってしまいました。

多くの国々の希望は、そのリーダーたちにかかっています。そのリーダーたちの知恵と力によって、その国が栄えることを望んでいます。

しかし、その国民が神様に背を向けて自分の道を進むなら、どれだけリーダーが優れていても、命の源から離れてしまえば国は枯れ始めます。

もしそのリーダーが悪い者であれば、その国はさらに早く滅びます。

国の救いは政治家にはありません。国の救いは人々の心から始まります。一人一人が神様に向かい、自分の心を捧げるなら、国は変わり始めるのです。

私は政治が重要ではないと言っているのでしょうか。そうではありません。とはいえ、私たちの国が神様に向かわなければ、希望はまったくありません。

ですから、あなたはどのように行動していますか。周りの人々に神様の愛をもって接していますか。

神様は私たちに暗闇の中の光となるように呼びかけています。私たちはその光となりましょう。

神様こそが、この国の希望です。神様こそが、この世界の希望です。

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エゼキエル書

曲がった正義感

「神様はフェアじゃない。」

人々がそんなことを言うのは、どこか皮肉なことです。なぜなら、神様は完璧で聖なる方だからです。一方で、私たちの心は罪によって堕落しています。

それでも、堕落した心を持つ私たちは、神様の裁きを批判して「これはフェアじゃない」と口にします。

90年代に、ジェフリー・ダーマーという殺人者がいました。彼の犯罪は非常に酷いものでした。けれども、彼は刑務所にいる間にクリスチャンとなりました。その後、他の囚人によって彼は殺されました。

そして、私はダーマーについてクリスチャンたちの様々な意見を目にしました。

死ぬ前、ダーマーはインタビューで自分の証しを語りました。そのインタビューを見たクリスチャンたちは、彼が本当に悔い改めたと考えました。

けれども、インタビューを見ていないクリスチャンたちは、彼をただのモンスターと見なしました。ある一人はこう言いました。

「神様がそんなに悪い犯罪者を赦すはずがありません。彼が心から悔い改めたはずはない。」

多くの人々はこの最後の意見に同意します。

けれども、そのような人々も、自分の罪によって苦しむ時、神様に文句を言います。「神様、どうして私を罰しているのですか。」

しかし、彼らはそのように文句を言いながら、自分の責任を見落としています。

イスラエルの人々もそのような態度をとっていました。そこで、神様は彼らにこう言われました。

あなたがたは、「主の態度は公正でない』と言っている。

さあ、聞け。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。

正しい人が自分の正しい行ないから遠ざかり、不正をし、そのために死ぬなら、彼は自分の行なった不正によって死ぬ。

しかし、悪者でも、自分がしている悪事をやめ、公義と正義とを行なうなら、彼は自分のいのちを生かす。

彼は反省して、自分のすべてのそむきの罪を悔い改めたのだから、彼は必ず生き、死ぬことはない。

それでも、イスラエルの家は、『主の態度は公正でない』と言う。

イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。」(エゼキエル書18:25-29)

イスラエルの人々は苦しんでいたため、神様を不正義な方だと非難しました。けれども、彼らの罪が神様の裁きを招いたことを無視していました。

あなた自身はどうでしょうか。神様があなたを懲らしめるとき、あなたは怒りますか。それとも、神様が他の人々に憐れみを与えるとき、あなたは憤りますか。

神様が正義の方であることを常に覚えていてください。あなたは神様の決断に同意しないかもしれませんが、神様は常に正しいことをされます。

神様の決断が間違っているのではありません。歪んでいるのは、あなたの正義感です。

ですから、神様の御前でへりくだる心を持つよう努めましょう。周りの人々が悔い改めるなら、彼らに憐れみを示しましょう。また、神様があなたを懲らしめられるなら、悔い改めましょう。

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エゼキエル書

神の御前に申し開きするとき

この箇所では、私たちは重要な真理を学ぶことができます。すなわち、私たち全員がいつか神の御前で申し開きをしなければならないということです。

エゼキエルの時代、イスラエルの人々はこのことわざを引用して、文句を言いました。

父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。(エゼキエル18:2)

つまり、「私たちは先祖の罪のために苦しんでいます。どうして私たちは、彼らの罪のために罰されているのでしょうか。」

けれども、神様は彼らにこう答えられました。

わたしは誓って言う。――神である主の御告げ――あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。

見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。(3-4)

時々、私たちは両親の罪や他の人の罪によって被害を受けることがあるかもしれません。それでも、私たちすべての人間は、自分の行動に対して責任を持たなければならないのです。

例えば、両親に虐待された人がいるかもしれません。その両親の行動によって、彼らは肉体的にも精神的にも苦しむことになります。

とはいえ、それに対する反応は自分自身の責任です。彼らは自分の子供に対して両親の罪を犯し続けるでしょうか。それとも、その罪を止めるでしょうか。

神様はイスラエルの人々に対して多くの仮定の質問をされました。

「もし、正しい人に悪い息子がいたら、私はその息子を正しい人として認めるでしょうか。違います。私はその息子を父の行動のために祝福せず、彼を罰します。」(5-13)

「しかし、悪い人に息子がいる場合、その息子が父の罪を見ても、彼はその罪を拒絶して正しい人生を歩むなら、私はその息子をその父の罪のために罰するでしょうか。

違います。その父は自分の罪のために死にますが、その息子は生きます。」(14-18)

また、「もし悪い人が悔い改めて正しいことをし始めたなら、その人は以前の罪のために死ぬでしょうか。違います。私はその人を赦し、哀れみます。」(21-22)

けれども、「正しい人が義の道から離れてしまったら、その人は生き続けるでしょうか。違います。その人は死にます。」(24)

ユダの王たちの歴史を見ると、このパターンをよく目にします。

例えば、アサ王は義の道から離れ、罪を犯し始めたため、苦しみの中で死にました。

しかし、彼の息子ヨシャパテは父の罪から離れ、良いことを行ったので、神様に祝福されました。

けれども、ヨシャパテの息子ヨラムは父の義の道から離れたため、苦しみの中で死を迎えました。

また、別の王であるマナセは、良い父を持っていましたが、罪を犯したために罰を受けました。しかし、彼は悔い改めたので、神様に赦されたのです。

神様のポイントは何でしょうか。

――神である主の御告げ――

悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。

あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。

イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ――

だから、悔い改めて、生きよ。(30-32)

つまり、神様はこう語られているのです。

「自分の行動に責任を持ちなさい。自分の罪を認めなさい。他の人をあなたの罪の責任者として責めるのはやめなさい。

彼らもそれぞれ、自分の罪について申し開きをしなければなりません。けれども、あなた自身もまた、自分の罪について申し開きをしなければならないのです。

ですから、彼らをあなたのトラブルの原因として責めるのではなく、悔い改めなさい。そして、私に新しい心と新しい霊を求めなさい。

なぜなら、私は誰かが死ぬことを喜ぶ神ではないからです。」

その前に神様はこう言われました。

わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ――

彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。(23)

あなたはどうでしょうか。あなたのトラブルを他の人のせいにして責めていませんか。あなたの罪の結果について相手を責めていませんか。

確かに、彼らにはある程度の責任があるかもしれません。とはいえ、神様の御前で彼らを責めることは、あなた自身を助けることにはなりません。

ですから、自分の心を見つめ、自分の罪に目を向けましょう。そして、悔い改めましょう。そうすれば、神様はあなたを赦し、癒してくださいます。

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エゼキエル書

優しい方

時々、私たちが旧約聖書を読むと、神様を非常に厳しい方だと思うことがあります。また、私たちが失敗すると、神様はすぐに怒り、私たちを罰するのではないかと感じるかもしれません。

しかし、この箇所では、神様はいつか来られる優しい方について語っておられます。神様はこう言われました。

神である主はこう仰せられる。「わたしは、高い杉のこずえを取り、そのうちから、柔らかい若枝の先を摘み取り、わたしはみずからそれを、高くてりっぱな山に植える。

わたしがそれをイスラエルの高い山に植えると、それは枝を伸ばし、実を結び、みごとな杉の木となり、その下にはあらゆる種類の鳥が住みつき、その枝の陰に宿る。

このとき、野のすべての木は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知るようになる。

主であるわたしが語り、わたしが行なう。」(エゼキエル書17:22-24)

この預言には二つの成就があると考えられます。

一つ目の成就は、エホヤキンの孫であるゼルバベルの人生に見られます。

ゼルバベル(柔らかい若枝とも呼ばれる)と大祭司ヨシュアは、追放されていたイスラエル人たちをバビロンからエルサレムへ導きました。

(この時、イスラエル人全員が帰還したわけではありませんが、ゼルバベルとヨシュアは最初のグループを導きました。)

その後、ゼルバベルはユダの総督に任命されました。

神様の恵みによって枯れ木のようであったイスラエルは徐々に復活しました。一方、緑の木であったバビロンはメド・ペルシャ帝国によって低くされました。

とはいえ、二つ目の成就はイエス・キリストの人生に見られます。この箇所はイザヤ書53章の記述に似ています。

彼(つまり、イエス様)は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。(イザヤ53:2)

イエス様は高貴な家庭で育ったのではありません。彼は小さな町ベツレヘムで生まれ、普通の町ナザレで成長されました。

実際、多くの人々はナザレの人々を見下していました。また、イエス様の父親は貧しい大工であるヨセフでした。

その後、イエス様は十字架で死なれました。その時代において、十字架による死は最も恥ずかしく、残酷な死に方とされていました。

しかし、その後、イエス様はよみがえられました。そして、

それゆえ神は、この方(つまり、イエス様)を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:9-11)

この箇所には、「柔らかい枝」という表現が書かれています。

ヘブル語で「柔らかい」という言葉は、「優しい」とも翻訳できます。(例えば、申命記28:54)

そのため、この「柔らかい枝」は優しい方を指しています。そして、イエス様の恵みの翼の下に宿ることができるのです。

私たちの人生が枯れてしまった時、イエス様は命の水を与えてくださり、私たちをもう一度栄えるようにしてくださいます。

ですから、神様があなたに怒り、あなたを諦めたと思う時には、イエス様を心に留めておきましょう。

神様は私たちが神様の愛と恵みを知ることができるように、この優しい方であるイエス様をこの世に送りました。そして、イエス様の十字架の働きによって、私たちの壊れた人生は癒されるのです。

その真理を心に留めておきましょう。

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エゼキエル書

あなたの約束を破る?

関係を保つためには、相手を信頼することが非常に大切です。そのため、神様は正直さを重んじておられます。

私たちが神様に祈るとき、神様は正直な態度を望まれます。また、神様は私たちが周りの人々に対して正直に話すことを求められます。

この箇所では、ゼデキヤ王とイスラエルの人々について語られる中で、神様がどれほど正直さを大切にしておられるかが示されています。

ここで、エゼキエルは一つのたとえ話を伝えます。このたとえ話では、大鷲が杉の木のこずえを取り、商人の町に植えました。その後、大鷲は地の種を取り、別の場所に植え、その種がぶどうの木に育ちました。

このたとえの意味は、バビロン(大鷲)がユダの王(エホヤキン)やその他の指導者たち(杉の木のこずえ)をバビロンに追放するということです。

その後、ネブカデネザルはエホヤキンの後任であるゼデキヤ(ぶどうの木)と同盟を結びました。その同盟において、ゼデキヤはネブカデネザルに仕えることを約束しました。

しかし、たとえ話の中で、もう一羽の大鷲が現れます。植えられたぶどうの木はその新しい大鷲から潤いを求めました。

この二番目の大鷲はエジプトを象徴しています。つまり、このたとえ話は、ゼデキヤがバビロンとの約束を破り、バビロンと戦うためにエジプトと同盟を結ぼうとしていたことを意味しています。

このため、神様はゼデキヤについて次のように言われました。

彼は誓いをさげすみ、契約を破った。彼は、誓っていながら、しかも、これらすべての事をしたから、決して罰を免れない。

それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは生きている。彼がさげすんだわたしの誓い、彼が破ったわたしの契約、これを必ず彼の頭上に果たそう。(エゼキエル書17:18-19)

ゼデキヤは神様の名前によってネブカデネザルに仕えることを誓いましたが、神様の警告を無視して、その同盟を破り、エジプトに助けを求めました。

それだけでなく、ゼデキヤは神様とイスラエルとの契約をも破りました。つまり、彼は他の神々を礼拝し続けたのです。そのため、神様は「バビロンを通して裁きが来る」と告げられました。

あなた自身はどうでしょうか。約束をしたとき、その約束を確実に守りますか。それとも、すぐにその約束を破ってしまうでしょうか。正直さを大切にしていますか。

神様にとって正直さは非常に重要です。ですから、神様に対しても、周りの人々に対しても、正直に話すことを心がけましょう。

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エゼキエル書

姦淫

この箇所はホセア書に似ています。ホセアがイスラエルを姦淫する妻と例えたように、エゼキエルもエルサレムを姦淫する妻と例えています。

まず、エゼキエルはエルサレムに対する神様の愛について語ります。

悪人、つまりエモリ人とヘテ人がエルサレムを建て、その都市が嫌われる存在となったにもかかわらず、神様はエルサレムを世話し、美しく整えてくださいました。

ダビデがエルサレムの王となったとき、彼は契約の箱をエルサレムへ運びました。

その後、ソロモンが神様のために宮を建てました。この時、神様はエルサレムを祝福し、御自分のものとされました。

ソロモンの時代、エルサレムは大いに栄え、銀はほとんど価値がないほどでした(列王記第10:21)。

けれども、すぐにエルサレムの没落が始まりました。ソロモンが多くの女性と結婚し、その妻たちの影響によって、ソロモンは偶像を礼拝するようになったのです。

偶像礼拝はたちまちイスラエル全土に広がりました。彼らは神様から与えられたものを他の神々を礼拝するために使いました。さらには、神様の宮で他の神々を礼拝することさえありました。

また、彼らはエジプト人、アッシリヤ人、バビロン人と同盟を結び、神様を拒絶して、その国々の神々を礼拝しました。

神様はこう言われました。

遊女には、すべて代価が支払われるのに、あなたは、自分のほうから持参金をすべての愛人たちに与え、彼らに贈り物をして、四方からあなたのところに来させて姦淫をした。

だから、あなたの姦淫は、ほかの女の場合と反対だ。だれもあなたを求めて姦淫をする者はいなかった。

あなたが報酬を支払い、だれもあなたに報酬を支払わなかった。だからあなたは反対のことをしたのだ。(エゼキエル16:33-34)

その罪を犯しても、エルサレムの人たちは「私たちはそんなに悪くはない」と言いました。

しかし、神様はこう言われました。

「あなたは北イスラエル王国の首都サマリヤよりも悪い。あなたはソドムよりも悪い。私は彼らを裁いたが、あなたと比べれば、彼らは正しい者だった。」(46-52)

だから、神様は「あなたを裁く」と言われました。

しかし、神様はもう一つのことも言われました。それは、いつの日か神様が彼らを癒し、彼らの罪を赦してくださるという約束です。また、神様は彼らの恥を取り去ることをも約束されました。

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

一つ目は、神様が私たちのためにしてくださったことを決して忘れるべきではないということです。

神様は私たちを罪と恥から救い出し、私たちにイエス様の義と美しさを着せてくださいました。

私たちが赦されるためにイエス様が十字架で成し遂げた働きを思い出し、感謝を捧げましょう。そして、私たちを恥ずかしくするものに戻って霊的な姦淫を犯すことがないようにしましょう。

二つ目は、自分が自分自身を救ったと思って、自分を欺くことがないようにするということです。「自分の力と知恵によって祝福された」と思い上がることは避けましょう。

ヤコブはこう書きました。

すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。(ヤコブ1:17)

「誰も私に何も与えてくれなかった。私はその物のためにちゃんと働いた」と思うかもしれません。

けれども、神様はあなたの命、才能、力を与えてくださいました。すべては神様からのものです。

三つ目は、私たちが自分自身を周りの人々と比べるべきではないということです。つまり、「私はその人ほど悪くはない」と言うべきではありません。

なぜなら、多くの場合、私たちの標準は神様の標準とはかなり異なるからです。

私たちは自分の行動がそれほど悪くないと思うかもしれませんが、神様はその行動を罪と呼ばれるのです。そして、神様の目には、私たちの行動が他の人々の行動よりも悪いと映ることもあります。

四つ目は、私たちがどんなに失敗しても、神様の約束は決して変わらないということです。私たちが忠実でなくても、神様は常に忠実です。(第一テモテ2:13)

エルサレムの人々は完全に失敗しましたが、結局、神様は彼らを癒されました。同じように、神様はあなたをも癒してくださいます。

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エゼキエル書

実りのない人

私は農家でも大工でもありません。それでも、この箇所を通して、私はぶどうの木の枝について学びました。つまり、実を結ばない枝は全く価値がないということです。

実際、私は「この椅子の木材はぶどうの木から来た」と聞いたことは一度もありません。

エゼキエルの時代、ぶどうの木が実を結ばない場合、人々はその枝を薪として使いました。それ以外の用途はありませんでした。

現代では、ぶどうの木には他の使い道があります。インターネットによると、ぶどうの木で花輪を作る人もいるそうです。

また、別のウェブサイトでは、ぶどうの木について興味深い情報がありました。その情報を読んで、なぜぶどうの木が他の使い方に向かないのかが理解できるようになりました。

それは、ぶどうの木の枝を切るとすぐにその枝が枯れ、割れやすくなるということです。

だから、神様はイスラエル人をぶどうの木の枝と比べられました。聖書の中で、神様はイスラエルをしばしばぶどう園に例えられます。

神様は、イスラエルが実を結ぶぶどうの木になることを望まれました。つまり、彼らが周りの国々に神様の栄光を表す存在になることを望まれたのです。

また、彼らが周りの国々に対して祝福となることを望まれました。

しかし、イスラエルの罪と偶像礼拝によって、彼らは実を結ばないぶどうの木となりました。周りの国々に光をもたらすことはなく、むしろ彼らのようになってしまいました。

命の源から離れたことで、彼らは枯れて、割れやすくなり、全く価値のない存在になりました。

そのため、バビロンが来て、彼らの都市、宮殿、神殿、そしてイスラエル人の家を焼き尽くしました。

私たちクリスチャンも気を付けなければ、同じことが起こるかもしれません。

イエス様はこう言われました。

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。

枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。。。

あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。(ヨハネ15:4-6,8)

神様は私たちがイエス様にとどまることを望まれます。イエス様にとどまるなら、私たちは神様のために多くの実を結びます。そして、私たちは周りの人々に光をもたらし、神様がどんな方であるかを示す存在となります。

しかし、私たちがイエス様にとどまらない場合、私たちは枯れて、割れやすい枝となります。そのような枝では、神様は私たちを用いることができません。

それでも、私たちの救いが失われることはありません。

イスラエルが不忠実だったとしても、神様は忠実で、約束は変わりませんでした。同様に、私たちが不忠実であっても、神様の私たちに対する約束は変わることがありません。

ただし、私たちが悔い改めない場合、神様は私たちを懲らしめられるでしょう。

あなたはどのような枝でしょうか。実を結んでいる枝でしょうか。それとも、枯れてしまった枝でしょうか。

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エゼキエル書

私たちの責任、相手の責任

私が若い頃、クリスチャンの本でこの言葉を読みました。「あなたがクリスチャンになると、神様はあなたの家族を救うと約束されます。」

そして、その著者は使徒の働き16:31から引用していました。

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。

だから、その著者は私たちに「あなたの家族の救いのために祈ってください」と励ましました。

もちろん、私たちは家族の救いのために祈るべきです。とはいえ、私はその著者の聖書の解釈に同意することはできません。

パウロが言いたかったことは、「あなたがイエス様を信じるなら、あなたは救われます。そして、あなたの家族がイエス様を信じるなら、彼らも救われます」という意味です。

聖書の箇所の意味を理解するためには、その箇所だけを読むのではなく、その箇所に関係する他の箇所もすべて読むべきです。

例えば、コリント人への手紙第一でパウロはこう語りました。

もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。

そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです。(第一コリント7:15)

なぜパウロはこのように語ったのでしょうか。

なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。

また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。(第一コリント7:16)

つまり、私たちは、自分の夫や妻がいつか救われるかどうか分かりません。だから、その人が離れたいのであれば、離れて行かせるべきです。

もし使徒の働きで、パウロが「あなたが救われるなら、きっとあなたの家族も救われる」と言おうとしていたのであれば、なぜパウロは第一コリントで「あなたの妻や夫がいつか救われるかどうか分からない」と語ったのでしょうか。

さらに、このエゼキエルの箇所では、神様はイスラエルを裁き、エゼキエルにこう言われました。

人の子よ。国が、不信に不信を重ねてわたしに罪を犯し、そのためわたしがその国に手を伸ばし、そこのパンのたくわえをなくし、その国にききんを送り、人間や獣をそこから断ち滅ぼすなら、たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。――神である主の御告げ―― (エゼキエル書14:13-14)

また、神様はこう言われました。

たとい、その地にこれら三人の者がいても、――わたしは生きている。神である主の御告げ――彼らは決して自分の息子も娘も救い出すことができない。

ただ彼ら自身だけが救い出される。(18)

この箇所では、神様はこのようなことを4回繰り返されました。「あなたは自分の義によって自分の命を救い出すだけです。」

そして、新約聖書によれば、私たちの義は、イエス・キリストを信じる信仰によるものです。

パウロはこう書きました。

義人は信仰によって生きる。(ローマ1:17)

旧約聖書の時代でも、新約聖書の時代でも、そして現代でも、同じことが言えます。そして、私たち全員が、自分自身の決断をしなければなりません。

とはいえ、私たちには神様から与えられた責任があります。つまり、私たちは周りの人々のために祈るべきです。また、彼らに福音を伝えるべきです。

ただし、その後は彼らの救いを神様に委ねましょう。

私たちは自分の家族や友人が地獄に行くことについて考えたくはありません。しかし、それは私たちが決めることではなく、彼ら自身が決めなければならないことなのです。

それでも、次の質問を自分自身に問いかけてください。「私はできる限り、彼らのために祈り、彼らに福音を伝えているだろうか。」

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エゼキエル書

表裏のある人

だれも表裏のある人を好みません。そして、神様もそのような人々を嫌われます。

この箇所では、イスラエルの長老たちがエゼキエルのもとを訪れ、神様からのメッセージがあるかどうか尋ねました。その時、神様はエゼキエルにこう言われました。

人の子よ。これらの者たちは、自分たちの偶像を心の中に秘め、自分たちを不義に引き込むものを、顔の前に置いている。わたしは、どうして彼らの願いを聞いてやれようか。(エゼキエル14:3)

つまり、「これらの人々が偶像を礼拝しているにもかかわらず、私の心を知りたいと言うのでしょうか。それは許されません。私は答えないのです。」

その時、神様はこう言われました。

それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。

悔い改めよ。偶像を捨て去り、すべての忌みきらうべきものをあなたがたの前から遠ざけよ。

イスラエルの家の者でも、イスラエルにいる在留異国人でも、だれでもわたしから離れ、心の中に偶像を秘め、不義に引き込むものを顔の前に置きながら、わたしに尋ね求めようと、預言者のところに来る者には、主であるわたしが答えよう。

わたしがそのような者から顔をそむけ、彼をしるしとし、語りぐさとして、わたしの民のうちから彼を断ち滅ぼすとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。(エゼキエル書14:6-8)

あなたはどうでしょうか。神様のみ心を知りたいと言いながら、この世の物をあなたの神々にしてはいないでしょうか。

あるいは、あなたの未来を知るために、占い師に相談してはいないでしょうか。

神様を本当に求めるのであれば、そのような心の状態ではいけません。

神様は私たちに一心を求めておられます。神様を一心に求めなければ、神様は私たちを受け入れてくださいません。

あなたの心はどのような状態でしょうか。

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エゼキエル書

真理を白く塗る?

「私は本当におばあさんに福音を伝えなくてはならないでしょうか。彼女はクリスチャンではありませんが、本当にいい人です。神様はきっと彼女を受け入れるのではないでしょうか?」

どれほど多くのクリスチャンがそのようなことを言うでしょうか。あるいは、彼らは言葉にしなくてもそのように考えているかもしれません。

その結果、愛する人に福音を伝えることを決してしないのです。

「皆は結局救われる」と語る牧師もいます。彼らはこう言います。

「皆はいつか天国に行きます。だから、地獄について教える必要はありません。神様の愛だけを伝えた方が良いのです。」

しかし、もし私たちがそのようなことを言うなら、真理を白く塗りつぶすことになります。神様は、真理が塗りつぶされることを非常に嫌われます。

この箇所では、その罪のために神様は偽の預言者たちを責められました。そして、神様はこう言われました。

あなたがたは、主の日に、戦いに耐えるために、破れ口を修理もせず、イスラエルの家の石垣も築かなかった。(エゼキエル書13:5)

また、

実に、彼らは、平安がないのに『平安』と言って、わたしの民を惑わし、壁を建てると、すぐ、それをしっくいで上塗りしてしまう。

しっくいで上塗りする者どもに言え。『それは、すぐはげ落ちる。』大雨が降り注ぎ、わたしが雹を降らせ、激しい風を吹きつける。すると、壁が倒れ落ちる。

人々はあなたがたに向かって、『上塗りしたしっくいはどこにあるのか』と言わないだろうか。(10-12)

これらの預言者たちは何をしていたのでしょうか。彼らはイスラエル人にこう言いました。

「あなたの神様との関係は大丈夫です。裁きについて心配する必要はありません。」

イスラエル人は、自分たちの罪によって倒れそうな壁のような状態でした。それにもかかわらず、その偽の預言者たちは悔い改めのメッセージを伝えませんでした。

もし彼らがイスラエル人を警告していれば、その「壁」を強めることができたかもしれません。

しかし、むしろ彼らはイスラエル人の罪を平和の言葉で白く塗ったのです。

(「白く塗る」というのは英語からの翻訳です。日本語の翻訳では、彼らはイスラエルの罪の罅をしっくいで上塗りしました。その「しっくい」は偽の預言者たちの慰めの言葉でした。)

その結果はどうなったでしょうか?それは、裁き、追放、そして死でした。

もし私たちが愛する人々の罪を白く塗るなら、彼らも同じ裁きを受けることになります。

もし彼らが神様との平和を持っていないのに、私たちが「平和だ」と伝えたなら、最終的に彼らは裁かれるのです。

ですから、真理を白く塗ってはいけません。神様から離れている人々に、真理をはっきりと伝えましょう。悔い改めのメッセージを語りましょう。

そうすれば、彼らは神様に向かうかもしれません。そして、彼らは本当の命を見いだすことができるでしょう。

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エゼキエル書

神様が言われた通り

この箇所では、私たちは神様の忠実さをはっきりと見ることができます。つまり、もし神様が何かを語られるなら、私たちはその言葉を信じることができるのです。

この箇所では、神様はエルサレムの追放について話されています。具体的には、神様はユダの最後の王ゼデキヤの追放について語られました。

そのため、神様はエゼキエルにユダ人の前で小さな劇を演じるよう命じられました。

エゼキエルはゼデキヤの役を演じました。夕方、彼は家の壁に穴を開け、捕囚のための荷物を持ってその穴から出て行きました。そして歩きながら顔を覆いました。

その劇が意味することとは何でしょうか。

ゼデキヤは暗闇の中、エルサレムから逃げざるを得ませんでした。しかし、彼は捕らえられ、目を潰されてバビロンの王ネブカデネザルの前に連れて行かれることになる、ということです。

さらに、イスラエル人は諸国に散らされました。神様が語られた通りに、すべてそのように起こったのです。

どうして神様はエゼキエルとイスラエル人にそのメッセージを伝えられたのでしょうか。

それは、その預言が成就したときに、彼らが神様だけが主であることを知るためです。

イスラエル人にとって、その真理を受け入れることは簡単ではありませんでした。そして、神様が長い間忍耐を示されたため、彼らは次第に神様の裁きの警告を信じなくなっていました。

彼らはこう言いました。

日は延ばされ、すべての幻は消えうせる。(エゼキエル書12:22)

エゼキエルの時代には、それはよく知られたことわざでした。イスラエル人は、エゼキエルやエレミヤの幻を嘘や妄想だと思っていました。

しかし、神様はイスラエル人にこう言われました。

それゆえ、神である主はこう仰せられると言え。『わたしは、あのことわざをやめさせる。それで、彼らはイスラエルでは、もうくり返してそれを言わなくなる。

かえって、その日は近づき、すべての幻は実現する』と彼らに告げよ。

もう、むなしい幻も、へつらいの占いもことごとく、イスラエルの家からなくなるからだ。

それは、主であるわたしが語り、わたしが語ったことを実現し、決して延ばさないからだ。

反逆の家よ。あなたがたが生きているうちに、わたしは言ったことを成就する。――神である主の御告げ――」(23ー25)

神様の言葉は、いつでも私たちが信頼することのできるものです。

神様からの預言だけでなく、神様の約束も信じることができます。神様が何かを約束されたなら、その約束は必ず守られます。

では、神様はどのような約束を私たちに与えてくださったのでしょうか。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。(へブル13:5)

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1;9)

また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(ピリピ4:19)

それだけではなく、聖書には神様からの約束が数多く記されています。

ですから、私たちはその約束にすがり、信じ続けましょう。神様の言葉はいつでも私たちが頼ることのできるものだからです。

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エゼキエル書

真の宮、神様の真の民

私が子供の頃、日曜学校で何度もこの言葉を聞きました。「教会は建物ではありません。教会は人々そのものです。」

確かにそれは真実ですが、完全な定義ではありません。教会とは、神に属する人々のことです。つまり、彼らの心は神様のものです。

残念なことに、イスラエル人の心は神様のものではありませんでした。

彼らは「神様の民」と呼ばれていましたが、神様に背を向け、偶像を礼拝しました。さらに、彼らはその偶像を神様の宮に置きました。

そのため、ついに神様はその宮を立ち去られました。ソロモン王がその宮を建ててからエゼキエルの時代まで、神様の臨在はそこにありました。(歴代誌第二5:14)

とはいえ、ソロモンの時代ですら、その宮は実際の神様の家ではありませんでした。その時、ソロモンはこう言いました。

それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。

実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。(歴代誌第二6:18)

それでもソロモンは、神様がいつもその宮を見守り、その宮で捧げられる祈りを聞いてくださるように祈りました。(歴代誌第二6:20-42)

ソロモンが建てた宮は本当に素晴らしいものでした。その宮は栄光に満ちた場所でした。

しかし、イスラエルの罪と神様に対する不忠実によって、神様の臨在とその栄光はその宮から離れてしまいました。

11章では、私たちはイスラエル人の頑固さを目の当たりにします。

イスラエルのリーダーたちは頑なにこう言いました。「何も悪いことは起こらない。私たちは偉い人だから。」

そのため、神様は彼らを責められました。そして、しるしとして、神様はそのうちの一人を殺されました。

そのとき、エゼキエルは叫びました。

ああ、神、主よ。あなたはイスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼされるのでしょうか。(11:13)

けれども、神様はこう答えられました。「いいえ、そうではない。私はバビロンに追放されたイスラエル人と共にいます。」

エルサレムに残った人々は、追放された人々についてこのように言っていました。

主から遠く離れよ。この地は私たちの所有として与えられているのだ。(11:15)

追放された人々は、もしかするとエレミヤの助言に従ったのかもしれません。つまり、彼らはバビロン人に降伏しました。(エレミヤ書27:17)

そのため、エルサレムに残った人々は彼らを売国奴だと考えた可能性があります。

エルサレムに残った人々は、神様が追放された人々を拒絶されたと思ったかもしれません。なぜなら、神様はイスラエル人にその土地を与えたのに、その「売国奴」はその土地を去ったからです。

ところが、エルサレムに残った人々は神様の民ではありませんでした。エレミヤは彼らに神様の言葉を伝えましたが、彼らはその言葉を拒絶しました。

むしろ、バビロンに行った人々こそが神様の民でした。神様は彼らについてこう言われました。

「神である主はこう仰せられる。わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた。」

それゆえ言え。

「神である主はこう仰せられる。わたしはあなたがたを、国々の民のうちから集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを連れ戻し、イスラエルの地をあなたがたに与える。」(11:16ー17)

また、

わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。

わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。

それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なうためである。

こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。(19ー20)

真の宮とは何でしょうか。それは建物ではありません。

では、神様の民とは誰でしょうか。ただ教会に通う人ではありません。また、ただクリスチャン・ホームで育った人でもありません。

神様の宮とは、神様が住んでおられるところです。神様の民とは、神様に属する人々のことです。

つまり、神様は彼らの心に住んでおられるのです。そして神様は彼らに新しく、柔らかい心を与えてくださいます。そのため、彼らは毎日神様に従います。

私たち一人ひとりに、そのような心を持つことができますように。

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隠れたものを見ておられる方

時々私たちは「神様は私たちが何をしているかご存じだろうか」と考えます。また、「神様は私のすることを気にされるだろうか」と思うことがあります。

けれども、この箇所で神様はこう言われます。「もちろん、私はあなたの行動に気づき、それを気にしています。」

この幻で、エゼキエルはエルサレムに連れて行かれ、そこで多くの罪を目撃しました。

彼は、主の宮の内庭で偶像を見ました。また、70人の長老たちが偶像を礼拝しているのを見ました。

エゼキエルが宮の門に戻ると、彼は地力と雨の神タンムズの前で泣いている女性たちを見ました。そして、太陽を礼拝している男性たちも目撃しました。

どうして彼らはそのような罪を犯したのでしょうか。それは、彼らがこう言ったからです。

主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた。(エゼキエル書8:12)

だから、神様は彼らを裁かれました。

しかし、神様は隠れた悪だけを見ておられるのではありません。神様はご自身を愛する者たちのことも見ておられます。それゆえ、神様はある男(おそらく天使)にこう言われました。

町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。(エゼキエル書9:4)

そして神様はエルサレムの人々を裁かれましたが、しるしが付けられた人々を救い出されました。

私たちはここから何を学ぶことができるでしょうか。他の人々が気づいていなくても、神様は私たちのすべての行動をご存じです。

私たちの罪は神様から隠れることがありません。そのため、いつか神様はすべての罪人を裁かれるのです。

とはいえ、もしあなたが神様に従い、この世の悪を見て心を痛めたとしても、失望しないでください。

この世では一時的に悪が支配しているように見えるかもしれませんが、最終的には神様が正義によってこの世を裁かれるのです。

その時、神様は私たちを覚えてくださり、救い出してくださいます。

さらに、神様は私たちに報いを与えてくださるのです。

主よ。あなたがすべてを見てくださることを感謝します。あなたの目から隠れるものは何一つありません。

私が人と一緒にいる時も、一人でいる時も、私の人生が清いものとなりますように。私がどこにいても、だれと一緒にいても、私の人生があなたを喜ばせるものとなりますように。アーメン。

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終わり

私が子供の頃、キカイダーというスーパーヒーロー番組を見ていました。最近キカイダーの映画が上映されて、私は驚きました。(私はその映画を見る興味はありませんが。)

さて、キカイダーはいつも怪獣と戦い、最後に「電磁エンド!」と叫びながらその怪獣を倒していました。

その時、英語の字幕はいつも「The end」とだけ表示されていました。(どうして「電磁」を翻訳しなかったのでしょうね。)

では、なぜ私はこのちょっと可笑しい話について話しているのでしょうか。それは、この箇所で神様がイスラエル人に同じようなメッセージを語られたからです。

「電磁エンド」とは言われませんでしたが、「終わりが来る」と語られました。

神様はこう言われました。

終わりが来る。その終わりが来る。あなたを起こしに、今、やって来る。この地に住む者よ。あなたの上に終局が来る。その時が来る。その日は近い。

しかし、山々での歓声の日ではなく、恐慌の日だ。今、わたしはただちに、憤りをあなたに注ぎ、あなたへのわたしの怒りを全うする。

わたしはあなたの行ないにしたがって、あなたをさばき、あなたのすべての忌みきらうべきわざに報いをする。(エゼキエル書7:6-8)

つまり、「あなたの終わりが来る。あなたは何度も私に逆らった。けれども、裁きの日が来て、バビロン人が来て、あなたを滅ぼすだろう。」

この箇所を読むと、神様からの裁きについていくつかのことを学ぶことができます。

1つ目は、私たちが自分の罪によって裁かれるということです。

これまで、神様があなたを罰していないからといって、あなたは裁きが決して来ないと思うかもしれません。しかし、裁きの日には、神様は私たちの罪をすべて思い出し、私たちを罰されます。

2つ目は、神様の愛は裁きを止めるものではないということです。

神様はイスラエル人にこう言われました。

わたしはあなたを惜しまず、あわれまない。わたしがあなたの行ないに仕返しをし、あなたのうちの忌みきらうべきわざをあらわにするとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。(4)

多くの人は尋ねます。「もし神様が愛の方であるなら、どうして神様は人を地獄に行かせるのでしょうか。」

確かに神様は愛の神ですが、同時に正義の神でもあります。神様は清いお方であるため、罪を罰さなければなりません。

さらに、神様は罪を全く耐えることができません。そのため、罪によって汚された人は神様と交わることができません。そしてその罪のゆえに、人は神様から離れなければなりません。

それが地獄です。地獄とは神様から離れた存在のことです。

神様から離れると、私たちには絶望しか残りません。神様は私たちがそのような状態になることを望んでおられませんが、それでも私たちが神様に背を向ければ、そのような人生以外に道はありません。

3つ目は、私たちがこの世でどれほど多くの物を集めても、裁きが来るということです。

私たちはお金や持ち物で自分の救いを買うことはできません。神様はイスラエル人についてこう言われました。

 彼らは銀を道ばたに投げ捨て、彼らの金は汚物のようになる。

銀も金も、主の激しい怒りの日に彼らを救い出すことはできない。(19)

あなたが物を集めても、土地を買っても、お金を儲けても、裁きの日にはそれらすべてが無駄になります。

そして最後に、私たちは知っていることによって裁かれます。私たちが知らないことによっては裁かれません。神様はイスラエル人にこう言われました。

わたしが彼らの行いにしたがって彼らに報い、彼らのやり方にしたがって彼らをさばくとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」(27)

彼らの行い、つまり、彼ら自身の基準によって、神様はイスラエル人を裁かれました。

どの国にも、その国独自の基準があります。すべての国には、自国の法律があり、またそれぞれの道徳法則があります。

時には、それらの法律や道徳法則が神様の律法と異なることもあります。とはいえ、私たちの道徳感覚が曇っていても、私たちの心は善悪をおおよそ理解しています。

それにもかかわらず、私たちはその曇った基準に従わないことがあります。だから、人々は自分自身の基準によって裁かれるのです。

裁きの日には、神様は私たちにこう言われます。「あなたにはまったく言い訳がありません。なぜなら、あなた自身の基準によってあなたは裁かれるからです。」

では、私たちにはもう何の希望もないのでしょうか。私たち全員が裁きを受ける運命にあるのでしょうか。

決してそんなことはありません。イエス様はこの世に来て、十字架で私たちの罰を引き受けてくださいました。

だから、もしあなたがイエス様とその働きに信頼を置くなら、あなたの罪は清められます。(第一ヨハネ1:7)

ですから、私たちの罪を捨て、イエス様に心を向けましょう。イエス様にあって私たちには希望があります。

しかし、イエス様との関係がなければ、希望はまったくありません。