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エゼキエル書

真理を学ぶことが遅すぎると

私は子供の頃、レゴでいろんなモデルを作るのが大好きでした。

エゼキエルもモデルを作りましたが、それは決して楽しいものではありませんでした。

彼はエルサレムのモデルを作りましたが、神様はこう命じられました。「それを包囲し、それに向かって塁を築き、塹壕を掘り、陣営を設け、その回りに城壁くずしを配置しなさい」(エゼキエル書4:2)。

さらに、エゼキエルはそのモデルの隣で390日間左わきを下にして横たわるように命じられました。なぜなら、北イスラエル王国が自分の罪のために390年間罰を受けることを象徴していたからです。

その後、エゼキエルは右わきを下にして40日間横たわるように命じられました。それは、ユダ王国が40年間罰を受けることを象徴していました。

それだけではなく、エゼキエルは料理をするために牛の糞でパンを焼き、それを食べました。このため、1年2か月以上、エゼキエルはつらい生活を送りました。(4章)

けれども、エゼキエルを通して、イスラエル人は自分たちがバビロンに追放された理由を知ることができました。また、エルサレムが滅びる理由も理解しました。

さらに、神様はエゼキエルに頭と髭を剃るよう命じられました。430日間の(エルサレムのモデルの)包囲の後、エゼキエルはその髪の3分の1を町の中で焼き、3分の1を町の回りで剣で打ち、3分の1を風に吹き散らしました。

その意味は、生き残るイスラエル人もいれば、死ぬイスラエル人もいることを表していました。(5章)

6章では、神様がイスラエル人を引き続き警告されました。その警告の中で何度も繰り返される表現があります。それは「あなたがたは、わたしが主であることを知ろう」というものです。

つまり、この預言の目的はイスラエル人に真の神が誰であるかを学ばせることでした。彼らが礼拝していた偶像は神ではありませんでした。彼らが拒絶した方が神様だったのです。

けれども、多くのイスラエル人にとって、それを学ぶのは遅すぎました。彼らの心が堅くなっていたため、裁きの日が来るまで真の神を知ることはありませんでした。

現代においても、多くの人々は神様に背を向け、自分の道を歩んでいます。

しかし、いつか彼らは神様の御座の前に立ち、真の神が誰であるかを知ることになるでしょう。けれども、それを知るのが遅すぎたために、彼らは裁きを受けることになるのです。

あなたはどうですか。神様を認めていますか。神様はあなたの王でしょうか。

今神様を認めていないなら、やがて神様の前に立つ時には必ず神様を認めることになります。けれども、その時まで待っていたら遅すぎます。

しかし、今神様を認めるなら、あなたは神様の赦しを知り、真の命を知ることができます。それは天国の命だけでなく、この世での豊かな人生をも知ることです。

パウロはこう書いています。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。。。

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。(ローマ10:9-10,13)

あなたが神様に向かい、イエス様を主と認めることができるように祈ります。

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エゼキエル書

相手が聞こうが聞くまいが

ああ、良かったですね!これは年代順に書かれている本なのですね。😊

エレミヤ書は本当に大変です。いつもあっちこっちに飛ばなくてはならないですから。

さて、エホヤキン王(最後から二番目のユダの王)が捕囚として連れ去られてから5年目に、エゼキエルは預言し始めました。

エゼキエルは、エホヤキンと他のユダ人たちと共にバビロンに追放されました。エゼキエルは祭司の息子で、30歳になり祭司として仕えるはずでしたが、神様は彼を預言者として召されました。

エゼキエルは最初に「ケルビム」という天使を見たようです。

ケルビムは4つの顔を持っていました。それらは人間の顔、獅子の顔、牛の顔、そして鷲の顔です。多くの聖書学者たちは、それらの顔がイエス様を象徴すると考えています。

  • マタイの福音書では、イエス様はユダの獅子として表されました。つまり、イエス様は王です。
  • マルコの福音書では、イエス様は牛として表されました。つまり、イエス様はしもべです。
  • ルカの福音書では、イエス様は人間として表されました。つまり、イエス様は人の子です。
  • ヨハネの福音書では、イエス様は鷲として表されました。つまり、イエス様は神の子です。

ケルビムは神様の全知を象徴しています。(4つの顔が別々の方向を向いていたため、何でも見ることができたのです。)

またケルビムは神様の偏在をも象徴していました。(1つの輪が他の輪の中にあり、どこにでも行くことができました。)

そして、神様が現れ、エゼキエルに語られました。

まず、神様はこう言われました。

人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。

彼らも、その先祖たちも、わたしにそむいた。今日もそうである。彼らはあつかましくて、かたくなである。わたしはあなたを彼らに遣わす。

あなたは彼らに『神である主はこう仰せられる』と言え。彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、彼らは、彼らのうちに預言者がいることを知らなければならない。

人の子よ。彼らや、彼らのことばを恐れるな。

たとい、あざみといばらがあなたといっしょにあっても、またあなたがさそりの中に住んでも、恐れるな。

彼らは反逆の家だから、そのことばを恐れるな。彼らの顔にひるむな。

彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。(エゼキエル書2:3ー7)

神様はエゼキエルに二つのことを言われました。

1つ目は、神様がエゼキエルをイスラエル人に遣わされるということです。

2つ目は、イスラエル人がエゼキエルのメッセージを聞こうが聞くまいが、エゼキエルはそのメッセージを伝えなければならないということです。

神様は私たちにも同じことを言われます。

神様は私たちを周りの人々に遣わしておられます。私たちが神様のメッセージを伝える時、聞く人もいれば、聞かない人もいます。

けれども、彼らが聞こうが聞くまいが、私たちはそのメッセージを伝えなければなりません。

そして、神様はエゼキエルにこう言われました。

あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。(エゼキエル書2:8)

神様はエゼキエルに巻物を与えられました。しかし、その巻物に幸いな言葉は書かれていませんでした。むしろ、「哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった」(2:10)のです。

つまり、それらの言葉は裁きの言葉でした。なぜなら、イスラエル人たちが罪を犯していたからです。

エゼキエルがその巻物を食べると、その言葉は蜜のように甘かったのです。

私たちも神様の言葉を受け入れるべきです。そして、その言葉を味わうべきです。けれども、その言葉を自分のためだけに保つのではなく、周りの人々にシェアしなければなりません。

もちろん良い言葉もシェアすべきですが、警告の言葉もシェアすべきです。なぜでしょうか。

神様はエゼキエルにこう言われました。

人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。

わたしが悪者に、「あなたは必ず死ぬ」と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。

もし、正しい人がその正しい行ないをやめて、不正を行なうなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。

それはあなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のために死に、彼が行なった正しい行ないも覚えられないのである。わたしは、彼の血の責任をあなたに問う。

しかし、もしあなたが正しい人に罪を犯さないように警告を与えて、彼が罪を犯さないようになれば、彼は警告を受けたのであるから、彼は生きながらえ、あなたも自分のいのちを救うことになる。(エゼキエル書3:17ー21)

神様は何を言われているのでしょうか。

私たちは神様の見張り人です。だから、人々に「罪を悔い改めなさい」と伝える責任があります。

彼らが聞いて悔い改めれば、救われます。もし聞かなければ、滅びます。いずれにせよ、その場合、神様は彼らの血の責任を私たちに問われません。

しかし、もし私たちが彼らに警告しないなら、神様は彼らの血の責任を私たちに問われます。

私たちは周りの人々が神様のメッセージにどのように反応するかをコントロールすることはできません。

とはいえ、彼らが聞こうが聞くまいが、神様は私たちにそのメッセージを伝えるように命じておられます。

私たちは友達、同僚、そして家族にこのメッセージを伝えるべきです。そのメッセージを聞いて救われる人もいれば、そのメッセージを聞かずに滅びる人もいます。

しかし、自分自身にこの質問をしてみてください。「私は神様が命じられたことを行っているでしょうか。私は周りの人々に神様の裁きと救いについて伝えているでしょうか。」

あなたはどうですか。

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エレミヤ書

逃げろ

前の箇所では、神様はたくさんの国々を裁いておられました。

この箇所では、神様はその国々を征服したバビロンを裁かれます。つまり、神様は北からの国々であるメディヤとペルシアがバビロンを攻撃し、バビロンが倒れると言われました。

しかし、その裁きの宣言の中で、神様はイスラエル人にこう言われました。「逃げろ。」

何度も、神様はこのようなことを言われました。

バビロンの中から逃げ、カルデヤ人の国から出よ。(エレミヤ書50:8)

また、

バビロンの中から逃げ、それぞれ自分のいのちを救え。(エレミヤ書51:6)

また、

わたしの民よ。その中から出よ。主の燃える怒りを免れて、おのおの自分のいのちを救え。(エレミヤ書51:45)

その命令は、29章の命令とは全然違います。29章で、神様はイスラエル人にこう言われました。

[バビロンで]家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み。。。

その町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。」(エレミヤ29:5ー7)

どうして神様はその命令を変えられたのでしょうか。それは、メディヤとペルシアが来たとき、バビロンの裁きが近づいていたからです。だから、神様はイスラエル人たちに「逃げろ」と命じられたのです。

そのように、私たちはこの世に楽すぎて生きないほうがいいのです。むしろ、私たちは神様に対して柔らかい心を保つべきです。神様がこの世において私たちの希望であることを思い出すべきです。(50:7)

また、神様が私たちの創造者であることを覚えているべきです。神様がすべてをご自身の力と知恵によって造られたことを思い出すべきです。(51:15-16)

さらに、この世に生きる人々のために、裁きの日が近づいていることを覚えているべきです。(51:6、56)

だから、罪の人生を捨てましょう。悪に留まらないでください。むしろ、

遠くから主を思い出せ。エルサレムを心に思い浮かべよ。(エレミヤ書51:50)

将来、私たちは新しいエルサレムに住みます。(黙示録21章1-2)

だから、パウロが言ったように、

こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。

あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。(コロサイ3:1ー4)

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エレミヤ書 オバデヤ書

裁きの理由

なぜ私はエレミヤ書とオバデヤ書の箇所を混ぜているのでしょうか。それは、オバデヤ書を読むと、このエレミヤ書の箇所に似ているからです。

例えば、エレミヤとオバデヤは同じ表現とイメージを使っています。だから、多分オバデヤはエレミヤの言葉を知っていたかもしれません。また、エレミヤはオバデヤの言葉を知っていたかもしれません。

一人の聖書の著者が別の聖書の著者を引用することは珍しいことではありませんでした。

あるいは、神様はオバデヤにこう言われたのかもしれません。「エレミヤの言葉を覚えていますか。彼が言ったことをもう一度書きなさい。」(逆の可能性もあります。)

または、彼らがお互いの預言を知らなかったけれど、神様は彼らに同じメッセージを伝えられたのかもしれません。それも珍しいことではありません。

とにかく、神様はユダの周りの国々を裁いておられます。おそらく、エレミヤ書27ー29章の出来事が起こったとき、この預言が書かれたのでしょう。27ー29章では、エレミヤはその同じ国々に対してネブカデネザルに降伏するよう警告しました。

どうして神様はその国々を裁かれたのでしょうか。神様は3つの理由を示されました。

1.偽物の神を礼拝すること。例えば、モアブ人の神はケモシュでした。またアモン人の神はモレクでした。すべての国々は真の神に背を向けて、自分の神々を礼拝しました。

2.プライドのこと。神様はモアブについてこう言われました。

おまえは自分の作った物や財宝に拠り頼んだので、おまえまで捕らえられ[る]。。。

私たちはモアブの高ぶりを聞いた。実に高慢だ。その高慢、その高ぶり、その誇り、その心の高ぶりを。「わたしは、彼の高ぶりを知っている。――主の御告げ――

その自慢話は正しくない。その行ないも正しくない。」(エレミヤ書48:7、29ー30)

アモンについて神様はこう言われました。

裏切り娘よ。あなたの谷には水が流れているからといって、なぜ、その多くの谷を誇るのか。あなたは自分の財宝に拠り頼んで、言う。「だれが、私のところに来よう。」(エレミヤ書49:4)

神様はエドムにこう言われました。

あなたの心は高慢だ。あなたが鷲のように巣を高くしても、わたしは、そこから引き降ろす。(エレミヤ書49:16)

そして、神様がケダルとハツォルという国について話されたとき、神様はネブカデネザルに命じられました。

さあ、安心して住んでいるのんきな国に攻め上れ。――主の御告げ。。。(エレミヤ書49:30-31)

3.その国々は、憐れみと情けを全然知らなかったこと。イスラエルが倒れたとき、モアブ人はイスラエル人をからかいました(エレミヤ書48:27)。

また、アモン人は追放されたイスラエル人の土地を奪いました(エレミヤ書49:1)。

そして、エドム人はイスラエル人の「兄弟」なのに、イスラエルが攻撃されたとき、エドムは全然助けませんでした。むしろ、イスラエルが倒れたとき、エドム人たちは喜んでいました。(オバデヤ12-13)

(エドムはエサウの子孫でした。イスラエル人はエサウの弟ヤコブの子孫でした。)

偶像礼拝。プライド。情けと憐れみのない心。あなたはそのような罪を犯すでしょうか。

仏壇を拝むでしょうか。もしくは、すべてのことよりもお金を大事にするでしょうか。あなたが一番大事にするものは、あなたの神です。

プライドはどうでしょうか。あなたは何に信頼するでしょうか。自分自身を信頼するでしょうか。それとも神様を信頼するでしょうか。

ナルニア国物語の著者C・S・ルイスはこう言いました。

「プライドは一番悪い罪です。ほかの罪よりも、プライドは私たちを神様から遠ざけるからです。なぜなら、プライドによって、私たちは神様がいらないと思うからです。そのプライドによって、私たちは神様に背を向けます。」

あなたには情け深くて、憐れみ深い心があるでしょうか。パリサイ人と律法学者にはそのような心がありませんでしたので、イエス様は彼らを厳しく批判されました。イエス様はこう言われました。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」

パリサイ人と律法学者は神様を愛していると言いましたが、周りの人々を愛していませんでした。

あなたはどうでしょうか。あなたの周りの人々を愛しているでしょうか。それとも自分自身のことだけを考えるでしょうか。

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エレミヤ書

私たちがこの世にいる間

このブログで、この箇所について英語で書いた時(3年前)、私は命と死について深く考えていました。なぜなら、私の教会で本当に愛された方が亡くなったからです。

彼女は牧師ではありませんでしたが、生きている間に多くの人々に影響を与えました。

この箇所を読んだとき、私は自分の人生について考えました。

神様はバビロンに追放された人々に語られました。彼らは自分の家と国を離れざるを得ず、偶像で満ちた国に連れて行かれました。その国は本当に不敬虔な場所でした。

それでも、神様は彼らにこう言われました。

家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。

妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。

わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」(エレミヤ書29:5-7)

神様は、私たちに同じことを言われています。ユダヤ人と同じように、私たちも不敬虔で偶像に満ちた世界に住んでいます。そのため、「もう天国に行きたい。この世界の悪や問題に向き合いたくない」と言うのは簡単なことです。

けれども、神様は私たちにこう言われます。

「この世にいる間、私があなたに与えた人生を楽しみなさい。結婚しなさい。子供を産みなさい。働きなさい。そして、あなたが住んでいる場所の繁栄を求めなさい。その場所のために祈りなさい。なぜなら、その場所の繁栄はあなたの繁栄になるからです。」

時には、クリスチャンがこの世界から自分自身を隔離してしまうことがあります。彼らは恐れて、教会を自分たちの砦とし、神様にこう祈ります。「神様、私たちを守ってください。」

しかし、それは神様の望みではありません。神様は、私たちが自分のコミュニティの中で積極的な役割を果たすことを望んでおられます。

神様は、私たちが周囲の人々に触れて、影響を与えることを望んでおられます。神様は、私たちが政治に参加することを望んでおられます。(あなたは投票するでしょうか。)

さらに、神様は私たちが自分のコミュニティと国のために祈ることを望んでおられます。

そして神様は、私たちが未来を恐れずに、この世にも良い将来と希望があることを知るように望んでおられます。

神様はこう言われました。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ――

それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。

もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。。。(11-14)

神様はユダヤ人たちにそう言われましたが、私たちにもそう言われます。

ですから、私たちがこの世にいる間、主を求めましょう。また祈りましょう。

将来を恐れないでください。この世の悪を恐れないでください。

むしろ、神様が与えてくださった人生を楽しみましょう。私たちは、与えられた賜物を用いて、神様とその御国のために働きましょう。そして、周囲の人々に触れて、影響を与えましょう。

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エレミヤ書

預言者たちを見分ける

ゼデキヤ王がユダ王国の最後の王であった時、ユダ王国の没落は近づいていました。その時、エレミヤはユダと周辺の国々に厳しいメッセージを伝えました。

それは、「バビロンに降伏しなさい。そうすれば生きることができます。そうしなければ死ぬことになります。」ということでした。

ユダの預言者たちと周辺の国々の預言者たちは、彼らの王たちにこう言いました。

「バビロンについて心配しないでください。あなたがたは彼らに決して仕えることはありません。」

けれども、エレミヤはその預言者たちについてこう言いました。

彼らは、あなたがたに偽りを預言しているからだ。それで、あなたがたは、あなたがたの土地から遠くに移され、わたしはあなたがたを追い散らして、あなたがたが滅びるようにする。(エレミヤ書27:10)

その時、偽の預言者ハナヌヤは、エレミヤの言葉に反対しました。彼はこう言いました。

イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。わたしは、バビロンの王のくびきを打ち砕く。

二年のうちに、わたしは、バビロンの王ネブカデネザルがこの所から取って、バビロンに運んだ主の宮のすべての器をこの所に帰らせる。

バビロンに行ったエホヤキムの子、ユダの王エコヌヤと、ユダのすべての捕囚の民も、わたしはこの所に帰らせる。――主の御告げ――わたしがバビロンの王のくびきを打ち砕くからだ。(エレミヤ書28:2ー4)

エレミヤはそれを聞き、こう答えました。

アーメン。そのとおりに主がしてくださるように。あなたが預言したことばを主が成就させ、主の宮の器と、すべての捕囚の民がバビロンからこの所に帰って来るように。

しかし、私があなたの耳と、すべての民の耳に語っているこのことばを聞きなさい。

昔から、私と、あなたの先に出た預言者たちは、多くの国と大きな王国について、戦いとわざわいと疫病とを預言した。

平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、ほんとうに主が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。(エレミヤ書28:6ー9)

エレミヤは何を言っているでしょうか。それは、私たちが平和ばかりを伝える預言者たちに注意しなければならないということです。彼らはいつもこのように言います。

「もちろん神様は、あなたの賛美を聞いて喜んでおられる。あなたの人生を見て、とても嬉しく思っておられる。」

けれども、彼らは悔い改めの必要について全く話しません。

29章では、シェマヤという人が祭司たちにこう言いました。

「どうしてエレミヤを責めないのでしょうか。彼は狂った人です。彼は狂ったことを言っています。」

しかし、神様はハナヌヤとシェマヤを裁かれ、彼らは死にました。

時々、人々は主の代表として話しますが、ただ自分の感情から話すことがあります。感情は良いことですが、感情から話す人がいつも神様のメッセージを伝えているわけではありません。

神様は時に預言者を通して私たちを励ましてくださいます。けれども、私たちが罪に落ちたときには、真の預言者は神様の祝福を私たちに伝えません。むしろ、真の預言者は悔い改めのメッセージを伝えます。

エレミヤもそのようにしました。

あなたは神様の代表として話す人を見分けることができるでしょうか。「神様はこう言います」と言われても、その言葉が神様からのものであるとは限りません。

私の言葉を誤解しないでください。神様の言葉を忠実に伝える人もいます。

そして、パウロはこう言いました。

御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはいけません。(第一タサロニケ5:19ー20)

とはいえ、その後で、パウロはこう言いました。

しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。(第一テサロニケ5:21)

あなたはどうでしょうか。あなたが聞くことを見分けることができるでしょうか。

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エレミヤ書

裁きと懲らしめ

エレミヤはこの箇所を書いた時、ネブカデネザルは周りの国々を脅していました。彼はユダを脅しましたし、エジプトも脅しました。

この箇所では、神様はエジプト人とペリシテ人への裁きについて話しておられます。神様は、エジプトを通してペリシテは倒れるが、バビロンを通してエジプトは倒れると言われました。

神様は国々を裁くために、そのようなパターンをよく用いられます。

けれども、その裁きのメッセージの間に、神様はユダにこう言われました。

わたしのしもべヤコブよ。恐れるな。イスラエルよ。おののくな。見よ。わたしが、あなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から、救うからだ。

ヤコブは帰って来て、平穏に安らかに生き、おびえさせる者はだれもいない。わたしのしもべヤコブよ。恐れるな。――主の御告げ――

わたしがあなたとともにいるからだ。わた しは、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。わたしはあなたを滅ぼし尽くさない。

公義によって、あなたを懲らしめ、あなたを罰せずに おくことは決してないが。(エレミヤ書46:27ー28)

この箇所では、私は、神様がご自身の者と他の人々を区別されることに気づきます。

神様の者でなければ、裁きが来ます。そして、その裁きは確かなものです。

しかし、神様はご自身の者を決して捨てられません。神様は私たちを懲らしめられるかもしれませんが、時にはその懲らしめが非常に厳しいこともあります。

それでも、神様はいつも私たちの悔い改めのために働いておられます。そして、私たちがどんなに失敗しても、神様は私たちと共におられることを約束されます。

あなたの罪のため、神様があなたを罰していると思うかもしれません。また、神様があなたをもう諦めたと思うかもしれません。

しかし、イエス様があなたの主であるならば、あなたは神様の子です。そして、神様はあなたにこう言われます。

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。(へブル13:5)

だから、

主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。

主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。。。

なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(へブル12:5ー6,10ー11)

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神様の選択、私たちの選択

クリスチャンの学者たちは長い間、神様の主権と人間の自由意志について議論を続けています。この箇所では、その二つの要素を見ることができますので、その議論について少し触れます。ただし、そのことに関して、私には特に新しい考えがあるわけではありません。

この箇所では、エホヤキム王がバビロンの王に反抗したため、バビロンはエルサレムを攻撃し、彼を退けてバビロンに囚人として連れて行きました。

その息子エホヤキンは、王としてわずか3か月しかユダを治めませんでした。ネブカデネザルは彼も退け、バビロンに囚人として連れて行きました。ネブカデネザルはエホヤキンだけでなく、エホヤキンの母、妻たち、すべての高官、一万人もの有力者、職人や鍛冶屋たちも捕囚として捕らえ、移しました。

さらに、エホヤキンの代わりにネブカデネザルは、エホヤキンのおじゼデキヤを王としました。(歴代誌によれば、ゼデキヤはエホヤキンの「兄弟」ですが、その意味は「近親者」です。列王記第二24:17によれば、ゼデキヤはエホヤキンのおじでした。)

その時、神様はエレミヤに幻を通して二つのかごのいちじくを見せられました。一つのかごにはとても良いいちじくがあり、もう一つのかごにはとても悪いいちじくがありました。

神様が言われたのは、追放された人々を良いいちじくだと見なされるということです。その一方、エルサレムに残った人々は悪いいちじくでした。そして、神様はエルサレムに残った人々を滅ぼされますが、追放された人々を祝福し、いつの日かイスラエルに帰らせると約束されました。

しかし、どうして神様はあるグループを救われ、他のグループを滅ぼされるのでしょうか。神様は追放された人々についてこのように言われました。

わたしは、良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない。また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。(6-7)

もちろん、追放された人々の中には、預言者ダニエルやエゼキエルのように、比較的良い人々もいました。とはいえ、あまり良くない人々もいました。どうして神様は彼らを救われたのでしょうか。私には分かりません。ただ、神様のあわれみだとしか言えません。

時々、人々はこう答えます。「神様は出来事が起こる前に、全てを知っておられます。だから、神様は彼らが最終的に悔い改めると知っておられたので、彼らを救われたのでしょう。」

しかし、この箇所によれば、どうして彼らは悔い改めたのでしょうか。自分の良い性格によって悔い改めたのでしょうか。それは違います。神様はこう言われました。「私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。」

つまり、神様が彼らの心を変えられたので、彼らは悔い改めることができたのです。では、どうして神様はゼデキヤや他のエルサレムに残った人々の心を変えられなかったのでしょうか。

私には分かりません。

では、私が確信していることは何でしょうか。

一つ目は、人々が自分の選択のゆえに裁かれるということです。彼らが神様に従うことを選んでいれば、神様は彼らを救われました。けれども、彼らはその道を選びませんでした。

二つ目は、神様が人々の心に働きかけ、神様を知る心を与えなければ、だれも救われないということです。

追放された人々には、そのようなことが起こりました。そして、私たちにとっても同じです。

ある牧師がこう言いました。「神様が私たちの壊れたアンテナを修理してくださったので、私たちは神様の声を聞けるようになったのです。」

三つ目は、神様の選択はランダムではないということです。神様はサイコロの結果によって選ばれることはありません。神様にはご自身の選択のための常に良い理由があります。

とはいえ、私たちの問題は、その理由を知らないことです。多くの場合、神様はその理由を説明されません。だからこそ、私たちは神様を信頼する以外に何もできないのです。

アブラハムはこのように言いました。

全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。(創世記18:25)

アブラハムはそう信じました。アブラハムは神様がいつも公義を行ってくださることを信じました。私たちもそう信じましょう。

しかし、私たちは自分自身に尋ねなくてはならないのは、「私は何を選択するのでしょうか」ということです。

だれも、神様の前に来て、「私が信じなかったのはあなたのせいです」と言うことはできません。

私たちは自分の選択に対して責任を取るべきです。そして、その選択に対して、私たちは神様の前に申し開きをしなくてはなりません。

神様に従うでしょうか。神様に従わないでしょうか。あなたはどうしますか。

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エレミヤ書

誰に聞いた方がいいでしょうか

教会でメッセージを聞く時、だれも違和感を感じたくありません。けれども、良い牧師は慰めと励ましのメッセージだけを伝えるのではなく、私たちが成長できるように、私たちにチャレンジするメッセージも伝えます。

そのようなメッセージを聞くと、私たちはよく違和感を覚えることがあります。

エレミヤの時代、ユダの祭司たち、預言者たち、そして他のリーダーたちは、ユダ人たちにチャレンジするメッセージを全く伝えませんでした。そのリーダーたちがその民をしっかりと世話しなかったので、エレミヤは彼らを責めました。

政治的な意味では、そのリーダーたちはその民のニーズや正義を顧みませんでした。

霊的な意味では、彼らはユダ人たちを偶像礼拝と霊的な姦淫へと導きました。

彼らは民の中の悪を止めなかっただけではなく、その悪を推進しました。そして、ユダ人たちが悪いことをしても、そのリーダーたちは励ましの言葉しか言いませんでした。

神様は彼らについてこのように言われました。

[預言者たち]の走る道は悪で、正しくないものをその力とする。実に、預言者も祭司も汚れている。わたしの家の中にも、わたしは彼らの悪を見いだした。。。

彼らはバアルによって預言し、わたしの民イスラエルを惑わした。

エルサレムの預言者たちの中にも、恐ろしい事をわたしは見た。彼らは姦通し、うそをついて歩き、悪を行なう者どもの手を強くして、その悪からだれをも戻らせない。。。

あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたをむなしいものにしようとしている。主の口からではなく、自分の心の幻を語っている。

彼らは、わたしを侮る者に向かって、『主はあなたがたに平安があると告げられた』としきりに言っており、また、かたくなな心のままに歩むすべての者に向かって、『あなたがたにはわざわいが来ない』と言っている。。。

それゆえ、見よ、――主の御告げ――わたしは、おのおのわたしのことばを盗む預言者たちの敵となる。見よ。――主の御告げ――

わたしは、自分たちの舌を使って御告げを告げる預言者たちの敵となる。見よ。わたしは偽りの夢を預言する者たちの敵となる。――主の御告げ――

彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に述べて惑わしている。わたしは彼らを遣わさず、彼らに命じもしなかった。彼らはこの民にとって、何の役にも立ちはしない。――主の御告げ―― (エレミヤ書23:10-11、13-14、16-17、30-32)

多くの教会はその通りです。彼らは神様が「悪」と呼ばれることを「善」と呼びます。そして、その民のために裁きが来ていても、教会のリーダーたちは神様の平和だけを伝えます。

しかし、その希望は偽物です。

神様はそのようなリーダーたちにこのように言われます。

夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか。――主の御告げ――

わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。――主の御告げ――(28-29)

あなたはどのような教会に出ているのでしょうか。

あなたの教会で、神様の言葉は火のように燃え、あなたの罪を取り除いているでしょうか。

神様の言葉は金槌のように、あなたの心の堅い部分を砕いているでしょうか。

その言葉によって、あなたの心が柔らかくなり、神様の実を結んでいるでしょうか。

それがそうでない場合、別の教会に行った方が良いと思います。あなたが成長できる教会に行った方が良いです。

いつの日か、イエス様はこの世に戻られます。「彼は王となって治め、栄え、この国に公義と正義を行われる。」(5)

その日が来るまで、私たちは神様に従いましょう。また、神様に従う教会に出ましょう。

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エレミヤ書

一時的なものを求める、永遠のものを求めること

エレミヤの書記バルクは自己憐憫に浸っていました。バルクはエホヤキム王にエレミヤの言葉を伝えましたが、エホヤキム王はその巻物を切り裂き、焼き尽くしてしまいました。

そのため、バルクは本当に落ち込んでいました。彼は言いました。

ああ、哀れなこの私。主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、いこいもない。(エレミヤ書45:3)

つまり、「どうして私はこんな仕事をしているのだろうか。エレミヤと主に仕えていますが、どんな報いを受けているのでしょうか。私は彼らに従いますが、いつも私はトラブルに巻き込まれることになってしまいます。

他の仕事を選んだ方がよかったのかもしれません。私はもっとお金をもらえる仕事をした方がいいのでしょうか。どうして私は、このようなことで時間を無駄にしているのでしょう。」

しかし、神様はこう答えられました。

見よ。わたしは自分が建てた物を自分でこわし、わたしが植えた物を自分で引き抜く。この全土をそうする。

あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。

見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下すからだ。――主の御告げ――

しかし、わたしは、あなたの行くどんな所ででも、あなたのいのちを分捕り物としてあなたに与える。(4-5)

神様は何を言われているのでしょうか。この世は一時的なものだということです。いつか、私たちが見えるものは全てなくなります。

だから、この一時的な世のものを求めないでください。むしろ、神様と神の国を求めてください。そうすれば、他の人々が滅びるかもしれませんが、あなたは本当の命を見つけるでしょう。

あなたが正しいことをすると、時々失望することがあるでしょうか。神様に仕えることは時間の無駄遣いだと思われるでしょうか。この世のものを求めた方が良いと思われるでしょうか。

一時的なものを求めないでください。永遠のものを求めてください。そうすれば、本当の命と報いを見つけるでしょう。

だからこそ、パウロはこう言いました。

善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。(ガラテヤ6:9)

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エレミヤ書

服従からの祝福

多くの場合、私たちは神様の言葉を知っていても、その言葉に従いません。

なぜなら、「楽しいこと」をしたいと思うからです。また、神様の道を歩まずに、自分の道を行けば幸せになれると考えるからです。

ユダの人々もそう考えました。しかし、この箇所では、神様は服従から来る祝福について教えられます。

神様はエレミヤに、ある家族を主の宮に連れて行くよう命じられました。彼らはレカブという人の子孫でした。

他のユダの人々は、この家族を見て少し不思議な家族だと思っていました。なぜなら、ユダの人々は自分の家を建てていたのに対し、レカブ人たちは今でもテントに住んでいたからです。また、彼らは全くお酒を飲まなかったからです。

その家族は宮に行き、ハナンという人の息子たちが住んでいる部屋に入りました。そこで、エレミヤは彼らにお酒を差し出しましたが、彼らはこう言いました。

「私たちはぶどう酒を飲みません。それは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。

あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。

あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め』と言ったからです。

それで、私たちは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じたすべての命令に聞き従い、私たちも、妻も、息子、娘たちも、一生、ぶどう酒を飲まず、住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持ちません。

私たちは天幕に住み、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、聞いて行なってきました。(エレミヤ書35:6-10)

ネブカデネザル王がユダを攻撃し、その家族が自分の土地を離れてエルサレムに逃れなければならなくなったとしても、彼らはヨナダブの命令に忠実に従い続けました。

そのため、神様はこう語られました。

イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。行って、ユダの人とエルサレムの住民に言え。

『あなたがたはわたしのことばを聞いて懲らしめを受けようとしないのか。――主の御告げ――レカブの子ヨナダブが、酒を飲むなと子らに命じた命令は守られた。彼らは先祖の命令に聞き従ったので、今日まで飲まなかった。

ところが、わたしがあなたがたにたびたび語っても、あなたがたはわたしに聞かなかった。(13-14)

つまり、「ヨナダブはただの人間であるにもかかわらず、その子孫たちは彼の言葉に従い続けています。私はあなたがたの神です。それなのに、あなたがたは私の言葉に従いません。なぜ、私の言葉に従わないのですか。」

そして、神様はレカブ人たちにこう語られました。

エレミヤはレカブ人の家の者に言った。「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。

『あなたがたは、先祖ヨナダブの命令に聞き従い、そのすべての命令を守り、すべて彼があなたがたに命じたとおりに行なった。』

それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。

『レカブの子、ヨナダブには、いつも、わたしの前に立つ人が絶えることはない。』」(18-19)

レカブ人たちはその先祖と神様に忠実であったため、ユダが裁きを受けた時も、神様は彼らを祝福されました。

あなたはどうでしょうか。神様に従うことで祝福されると信じていますか。

私は以前言ったように、神様に従うことで、あなたの人生が必ずしも楽になるわけではないかもしれません。しかし、神様に従うなら、どんな試練の中にあっても、喜びと満足を見いだすことができます。

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ダニエル書

それでも

私はダニエルとその友達が神様に対して示した忠実さに感心します。プレッシャーが津波のように押し寄せる時に、じっと立ち続けるのは本当に難しいことです。

ネブカデネザルの思いは分かりませんが、多分、彼の夢(2章を読んでください)によってインスパイアされました。ただし、残念ながら悪い方法でインスパイアされてしまいました。

つまり、彼は神様の御前にへりくだるのではなく、自分自身を高めようとしたのです。

夢とは異なり、いろいろな金属で像を作るのではなく、彼は純金の像を作りました。おそらく、この像を通してネブカデネザルは神様にこう言いたかったのでしょう。

「あなたのメッセージを拒絶します。あなたは私の王国が結局倒れると言いましたが、私の王国は永遠に続き、他の王国は私の王国を決して倒すことはできないのです。」

そのプライドゆえに、ネブカデネザルは自分の民に命令しました。「私のミュージシャンが演奏を始めたら、皆はこの金の像の前で礼拝しなければならない。」

バビロンに住んでいる人々は皆、その命令に従いました。しかし、3人の人々だけは礼拝しませんでした。それはダニエルの友達であるシャデラク、メシャク、そしてアベデ・ネゴです。

(ダニエルがどこにいたのかは分かりません。おそらく出張中だったのでしょう。)

カルデヤ人たちはその光景を見て、ネブカデネザルに報告しました。それを聞いたネブカデネザルは非常に怒り、その3人を呼び寄せてこう言いました。

もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。(ダニエル書3:15)

それでも、ダニエルの友達はそのプレッシャーに屈しませんでした。彼らはこう言いました。

私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。

王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。(16-17)

そして、彼らは言いました。

しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。(18)

ようするに、「神様は私たちをあなたの手から救い出すことができます。その力を持っておられます。もしかすると、神様は私たちを救い出してくださるでしょう。もしかすると、私たちは死ぬかもしれません。それでも、私たちは神様だけに仕えます。」

それでも神様だけに仕えます。

それは、無条件のコミットメントです。たとえ死を迎えることになっても、彼らは神様への愛を決して捨てないと固く決心しました。

では、あなたはどうでしょうか。神様に対して、そのようなコミットメントを持っているでしょうか。

家族があなたを拒絶するような状況でも、神様に従う決心があるでしょうか。

仕事を辞めざるを得ない状況になっても、神様に従うことを選ぶでしょうか。

神様があなたのすべての願いを叶えられない時でも、従うことを選ぶでしょうか。

神様は、そのような心を望んでおられます。私たちが神様に従う中で、神様は理想的な人生を約束されるわけではありません。時には、私たち自身が代償を支払わなければならないこともあるでしょう。

とはいえ、昨日のブログで書いたように、神様は私たちと共に歩まれます。神様は火の中でシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴと共に歩まれ、それを目の当たりにしたネブカデネザルとバビロンのリーダーたちは驚愕しました。

そのようにして、あなたがどんな苦しい試練に直面しても、神様はあなたと共に歩まれるお方です。

ですから、何が起こっても、神様に従っていきましょう。

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ダニエル書

人間と共に歩まれる神

聖書の中では、この箇所は有名な預言の一つです。神様はネブカデネザルにバビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマの帝国の将来を示されました。

神様がネブカデネザルにはっきりと教えたことは、これらの王国や帝国がどれほど素晴らしくても、それらは一時的なものであるということです。

これらの国々は神様の国と比べることはできません。なぜなら、神様の国がそれらを一掃し、神様の国は永遠に続くからです。

この預言は非常に興味深いですが、ネブカデネザルのカルデヤ人(つまり、占星術師)の言葉もまた注目に値します。

ネブカデネザルは彼らに、夢の意味だけでなく夢の内容そのものを知らせるよう命じました。夢の内容を知らせることができなければ、ネブカデネザルは彼らの解釈を信じることはできないからです。

そのカルデヤ人たちはこの要求を聞いて、不満を漏らしました。

この地上には、王の言われることを示すことのできる者はひとりもありません。どんな偉大な権力のある王でも、このようなことを呪法師や呪文師、あるいはカルデヤ人に尋ねたことはかつてありません。

王のお尋ねになることは、むずかしいことです。肉なる者とその住まいを共にされない神々以外には、それを王の前に示すことのできる者はいません。(10-11)

バビロン人たちは多くの神々を信じていましたが、その神々にアクセスすることはできませんでした。彼らはこう言いました。「私たちの神々は人間とその住まいを共にしない」。

しかし、ダニエルの神様は人間と共に歩まれる神です。

ネブカデネザルはバビロンの知者たちを全て殺すよう命じました。

ダニエルはその命令を聞き、神様に祈る時間を求めました。神様はダニエルの祈りを聞き届け、ネブカデネザルの夢とその意味を教えてくださいました。

そして、ダニエルは神様をほめたたえました。

神の御名はとこしえからとこしえまでほむべきかな。知恵と力は神のもの。神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。

神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す。私の先祖の神。私はあなたに感謝し、あなたを賛美します。

あなたは私に知恵と力とを賜い、今、私たちがあなたに請いねがったことを私に知らせ、王のことを私たちに知らせてくださいました。(ダニエル書2:20-23)

ダニエルと共に歩まれた神様は、私たちとも共に歩まれるお方です。イエス様は「インマヌエル」、つまり「私たちと共におられる神」です。

ですから、神様が遠く離れておられる神ではないことを忘れないようにしましょう。

私たちが問題に直面する時、ダニエルのようにへりくだり、神様を求めましょう。神様がダニエルと共におられたように、私たちとも共におられます。

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ダニエル書

決心した

実は、イスラエルの歴史を年代順に伝えることは非常に難しいです。なぜなら、多くの聖書の書は同時期に書かれていたからです。

それでも、私はこのブログを通して、多くのことを学びました。

以前、私はダニエル書の出来事がいつ起こったのかを尋ねたことがありました。ダニエル書の最初の部分は、エルサレムが滅ぼされる前に書かれていたことを知りました。

とはいえ、私はその出来事がユダの最後から二番目の王エホヤキンの時代に起こったのではないかと考えていました。けれども、ダニエル書によれば、エホヤキムの治世の第3年にバビロンの軍隊がエルサレムを包囲しました。

(エホヤキムは約11年間ユダを治め、その次の王がエホヤキンでした。)

ダニエルはエホヤキムの治世の第4年にバビロンへ追放されました。

ダニエルだけでなく、イスラエル人の中から王族や貴族の数人もバビロンに追放されました。なぜなら、バビロンの王ネブカデネザルは、ユダや他の国々の最も賢く、ハンサムで、偉大な人々を欲したからです。

そうすることで、征服された国々には有能なリーダーがいなくなり、バビロンがさらに強くなるからです。

そこで、バビロン人はダニエルと他のユダ人にバビロンの文化を教えました。

また、バビロン人は彼らに新しいバビロンの名前を与えました。ダニエルとその友達の名前は神様を敬うものでしたが、新しい名前はバビロンの神々を敬うものに変更されました。

やがてすぐに、ダニエルとその友達は選択しなければならない場面に直面しました。一見すると重要ではない小さな選択のように思えるかもしれませんが、王が提供した食べ物を食べるかどうかを決める必要がありました。

その食べ物は王の食卓から供されるもので、バビロンの訓練を受けている人々を尊ぶものでした。けれども、二つの問題がありました。

一つ目は、その食べ物を食べると、ダニエルが神様の食事に関する律法を破る可能性があることです。

二つ目は、その食べ物が偶像に捧げられていた可能性があることです。

では、ダニエルとその友達はどうしたのでしょうか。「私たちはイスラエルから遠くにいるし、神様が私たちを見捨てたようだから、その食べ物を食べても問題ないのではないか?」と考えるのは簡単なことです。

しかし、ダニエル書1:8にはこう記されています。

ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め[ました]。(ダニエル書1:8)

ダニエルが係の人と話し合った結果、彼とその友達は神様の方法に従う許可を得ることができました。そして、

十日の終わりになると、彼らの顔色は、王の食べるごちそうを食べているどの少年よりも良く、からだも肥えていた。

そこで世話役は、彼らの食べるはずだったごちそうと、飲むはずだったぶどう酒とを取りやめて、彼らに野菜を与えることにした。(15-16節)

その結果は?

神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。。。

王が彼らと話してみると、みなのうちでだれもダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤに並ぶ者はなかった。そこで彼らは王に仕えることになった。

王が彼らに尋ねてみると、知恵と悟りのあらゆる面で、彼らは国中のどんな呪法師、呪文師よりも十倍もまさっているということがわかった。(17,19-20)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

あなたは神様を喜ばせることを決心していますか。

ダニエルとその友達が直面したプレッシャーについて考えてみてください。バビロン人からの圧力、神様の律法を犯した友達からの影響、自分自身の情欲とプライドからの誘惑。

これらの試練がかかっても、彼らはその圧力に屈しませんでした。むしろ、彼らは神様に仕えることを固く決心しました。

その結果、神様は彼らを祝福されました。

周りの人々からの圧力がかかっても、あなたは神様に従うことを決心していますか。誘惑が迫っても、神様に仕えることを心に決めていますか。

私たちがダニエルとその友達のようになることができますように。そうすれば、神様は私たちを祝福してくださいます。

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エレミヤ書

激しい言葉に反応する

誰も自分が懲らしめられるのを好みません。厳しい言葉を好む人もいません。けれども、その言葉に対する私たちの反応が、私たちの人生を形作ります。

エレミヤはユダの人々に、数多くの厳しい言葉、つまり裁きの言葉を語りました。そのメッセージには常に二つの要素が含まれていました。

「裁きが来る。けれども、もしあなたたちが悔い改めるなら、その裁きを避けることができる。」

エレミヤ書25章で、エレミヤはユダの人々に警告しました。

「あなたたちが悔い改めないなら、バビロンに70年間追放される。」

しかし、エレミヤはユダの人々だけでなく、周囲の国々にも警告しました。

では、彼らの反応はどうだったのでしょうか。それは、決して良いものではありませんでした。

ユダの人々や、その祭司たちや、「預言者たち」がそれを聞いた時、こう答えました。

「あなたは必ず死ななければならない。なぜあなたはそんなことを言うのか。」

彼らはエレミヤの言葉を反逆だと思いました。

幸い、ある長老たちはエレミヤを守りました。彼らはこう言いました。

「ヒゼキヤ王の時代、預言者ミカは裁きの言葉を語ったが、ヒゼキヤ王が悔い改めて神様を恐れたので、神様はユダに憐れみを与えられた。」

ユダの人々はそれを聞いて、エレミヤを解放しましたが、悔い改めなかったようです。

彼らの王エホヤキムの反応も悪かったです。別の預言者ウリヤがエレミヤのように裁きを預言した時、エホヤキムはウリヤをエジプトまで追いかけて捕らえ、ウリヤを殺しました。(エレミヤ書26:20-23)

ある時、エレミヤは書記バルクを神様の宮に送ります。バルクはそこで神様がエレミヤに与えた言葉を伝えました。その後、宮殿の首長たちはバルクの巻き物を持ってエホヤキムのもとへ行き、その巻き物を読みました。

エホヤキムの反応はどうだったのでしょうか。彼はその巻き物を切り裂いて燃やしました。そして、彼はエレミヤを殺そうとしました。

あなたはどうでしょうか。辛い言葉を聞いた時、どのように反応しますか。誰かがあなたに面と向かって罪について指摘した時、無視するでしょうか。それとも怒って、その人を責めるでしょうか。

それとも、その言葉を聞き入れて、悔い改めるでしょうか。

神様は人々を裁くことを望んでおられるのではなく、むしろ私たちが悔い改めることを望んでおられます。そのため、神様は私たちのもとに人々を遣わされます。

私たちが彼らの言葉を拒まず受け入れ、その言葉によって私たちの人生が形作られるならば、その人生はどれほど素晴らしいものになるでしょうか。

あなたなら、どうしますか。

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ハバクク書

悪のある世に神様に信頼する

ハバククは預言者でした。おそらく彼はエレミヤと同時代に預言しました。つまり、ハバククはヨシヤの息子エホヤキム王の治世に活動したと考えられます。

エホヤキムの兄弟であるエホアハズは、王としてわずか3か月しかユダ王国を治めませんでした。その後、エジプトの王によってエホアハズは退けられ、エホヤキムがユダとエルサレムの王に据えられました。

エホヤキムの治世において、ハバククはユダの罪深い現状を目の当たりにしておののきました。ユダの民は再び偶像礼拝を始め、ハバククが見渡す限り、不義と悪が満ちていました。それゆえ、ハバククは神様に向かって切々と叫びました。

主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。

私が「暴虐」とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。

なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。

暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行なわれません。悪者が正しい人を取り囲み、さばきが曲げて行なわれています。(ハバクク書1:2-4)

そのような言葉を聞いたことがありますか。

また、あなたはそのような祈りをしたことがあるでしょうか。

ハバククが自分の時代に目にしたことは、私たちが現代でも目にすることです。暴力。不義。私たちの法制度は、時として機能していないように見えることがあります。正義は曲げられています。

そのため、ハバククは神様に向かって叫びました。「どうしてですか?どうしてあなたは何もしないのですか?どうして、この悪をお許しになるのですか?」

神様はどのように答えられたのでしょうか。神様はハバククにこう言われました。「バビロン人を通して、ユダを裁きます。」

その時代まで、アッシリアとエジプトは大国として君臨していました。けれども、バビロンがその地位を奪い、神様はバビロンを用いてユダと他の国々を、その罪のゆえに罰すると告げられました。(1:5-11)

これを聞いたハバククはこう答えました。「少々お待ちください。バビロン人たちは私たちよりも罪深い人々です。そんな彼らを通して、私たちを罰するのですか?どうして、そのような人々を用いるのですか。」(1:12-13)

神様は答えられました。

「バビロン人がユダの民よりも罪深い人々であることは知っています。それでも、私はバビロンを通してユダと他の国々を罰します。しかし、覚えておきなさい。彼らにも裁きの日が来ます。その時、彼らは倒れるでしょう。」

このやり取りの中で、神様はハバククに非常に大切なことを教えられました。神様はこう言われました。

「バビロン人は高慢な人々です。彼らは自分たちの力を誇り、偉そうに振る舞います。彼らは自分自身に信頼しています。しかし、ハバクク、「正しい人はその信仰によって生きる」(2:4)。」

新約聖書で、パウロはその箇所を何度も引用しました。また、マルティン・ルターがプロテスタント宗教改革を始めた際、その箇所は彼の信仰の基礎となりました。

そして、悪が満ちた世界の中で、神様はハバククにこのメッセージを伝えられました。「私に信頼しなさい。私は良い方です。私は正義の神です。そして、私はこの世に正義をもたらします。」

神様はこう言われました。

幻を板の上に書いて確認せよ。これを読む者が急使として走るために。この幻は、定めの時について証言しており、終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。

もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。(ハバクク書2:2ー3)

そして、バビロンの裁きを告げられた後で、神様はハバククに語られました。

しかし主は、その聖なる宮におられる。全地よ。その御前に静まれ。(ハバクク書2:20)

つまり、「ハバクク、私はこの状況を支配しています。あなたにはそれが見えないかもしれません。けれども、私は確かにこの状況を完全に支配しています。そして、ある日、この世の民は私の前にひれ伏します。だから、私を信頼しなさい。」

ハバククはどのように反応したでしょうか。彼は祈りを捧げ、神様を賛美しました。

主よ。私はあなたのうわさを聞き、主よ、あなたのみわざを恐れました。

この年のうちに、それをくり返してください。この年のうちに、それを示してください。激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください。(ハバクク書3:2)

私たちがこの世の悪を目にする時、私たちはハバククのように反応するべきです。つまり、神様を賛美し、神様の慈しみを覚えるべきです。神様が過去に行われた御業を心に留めるべきです。

そして、この壊れた世界のために祈り続けるべきです。神様の憐れみが私たちの上に再び注がれるように祈るべきです。

さらに、信仰によって歩むべきです。毎日神様に信頼し、この世において生きるべきです。

これがハバククの結論です。

そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。

しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。指揮者のために。弦楽器に合わせて。(ハバクク書3:17ー19)

主よ、この世には悪が溢れています。けれども、私がその悪を目にする時にも、あなたに信頼できるように助けてください。

また、あなたがすべてを完全に支配しておられることを信じることができますように。いつか正義が訪れると信じる心を私に与えてください。

主よ、壊れた人々に憐れみを注いでください。そして、どうか私を通して、彼らに触れてください。毎日、私が信仰によって歩むことができますように。アーメン。

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エレミヤ書 列王記第二 歴代誌第二

神様を知る

ユダ王国の最後の4人の王たちは皆悪い王でした。

エホアハズ(エレミヤ書22章では、エホアハズはシャルムと呼ばれました)、エホヤキム、エホヤキン、そしてゼデキヤは、王として大きな失敗をしました。

エレミヤ書22章では、神様はその最初の3人の王について語られました。

彼らには神様とその民に仕える心がありませんでした。むしろ、彼らは自己中心の心を持ち、自分の立場を利用して富を集めることを望んでいました。そのため、彼らは神様を無視し、その民のニーズも無視しました。

だからこそ、神様はその3人の王を裁かれました。その時、神様は彼らをヨシヤ王と比べて、こう語られました。

あなたは杉の木で競って、王になるのか。あなたの父は飲み食いしたが、公義と正義を行なったではないか。そのとき、彼は幸福だった。

彼はしいたげられた人、貧しい人の訴えをさばき、そのとき、彼は幸福だった。それが、わたしを知ることではなかったのか。――主の御告げ――

しかし、あなたの目と心とは、自分の利得だけに向けられ、罪のない者の血を流し、しいたげと暴虐を行なうだけだ。(エレミヤ書22:15-17)

彼らは神様について知っていました。神様の過去のわざを知っていました。けれども、彼らは本当に神様を知ってはいませんでした。

神様について知ることと、神様を知ることは異なることです。

神様を知るということは、あなたの行動と人生を通して神様を認めることです。また、神様を知るということは、正しいことを行うことでもあります。

しかし、これらの王たちはそのようなことをしませんでした。

ヤコブはこう言いました。

さらに、こう言う人もあるでしょう。

「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」

あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。(ヤコブ2:18-19)

あなたはどうでしょうか。ただ神様について知っているだけでしょうか。神様が存在することを信じるだけでしょうか。

それとも、あなたの行動と人生を通して、神様を知っていることを示しているでしょうか。

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列王記第二 歴代誌第二

たった一つの悪い選択

選択。それは神様からの贈り物です。けれども、選択することは責任を伴います。私たちは日々、数多くの選択を迫られています。

深刻ではない選択もあります。たとえば、朝食に何を食べるか、通勤にバスと電車のどちらを使うべきかといった選択です。

しかし、もっと重要な選択もあります。それは、今日神様に従うか従わないか、また、この瞬間に神様に従うかどうかという選択です。

ヨシヤ王は、基本的に神様に従う生涯を送りました。

王として、さまざまな賢明な決断を下し、ユダを導きました。

他のユダやイスラエルの王たちと比較すると、ヨシヤは本当に優れた王でした。

ところが、ある日、神様の声を無視したことで彼は命を落としました。

エジプトの王が他国と戦おうとしていたとき、ヨシヤは彼を止めようとして出向きました。その際、エジプトの王はヨシヤにこう語りました。

ユダの王よ。私とあなたと何の関係があるのですか。

きょうは、あなたを攻めに来たのではありません。私の戦う家へ行くところなのです。

神は、早く行けと命じておられます。

私とともにおられる神に逆らわずに、控えていなさい。さもなければ、神があなたを滅ぼされます。(歴代誌第二35:21)

神様の命令によって、エジプトの王はそう語りました。(歴代誌第二35:22)

けれども、ヨシヤは神様の声に従いませんでした。

どうしてだったのでしょうか。ヨシヤのプライドが原因だったのでしょうか。

たとえば、彼自身の軍隊についてのプライドや、自分の作戦に対するプライドがあったのかもしれません。(彼はその戦いのために変装していました。)

あるいは、ヨシヤはプライドから神様が外国の王に語りかけるはずがないと思っていたのかもしれません。

ヨシヤの考えを正確に知ることはできませんが、確かなのは、彼がその日に命を落としたということです。そして、ユダの没落は間もなく始まりました。

時には、正しいと分かっていても、あえて悪い選択をしてしまうことがあります。

ときに、自分の行動を正当化しようとすることもあります。あるいは、言い訳さえせずに悪を行ってしまうこともあるのです。

ヨシヤの人生から、この大切な真実を心に刻みましょう。

「たった一つの悪い選択が、私たちの人生を壊してしまう可能性がある。」

たとえば、一つの悪い選択によって、不倫をしてしまい、結婚生活を崩壊させることがあります。

一つの罪によって、自分のミニストリーを破壊してしまうこともあります。

もちろん、罪を犯したとしても、悔い改めるならば神様は赦してくださいます。

神様はヨシヤを赦されました。

ヨシヤは天国に入りました。

それでも、彼の治世と命はそこで終わってしまったのです。

だからこそ、毎日毎日、一瞬一瞬、神様に従うことを選びましょう。

さらに、主の祈りを心に留め、祈り続けましょう。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)

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燃えさかる火のような言葉

「もう黙った方が良いんじゃない?あなたが神様の言葉を述べ伝えると、いつもトラブルが起こるから。」

エレミヤの家族は、エレミヤにそのようなことを言ったかもしれません。また、エレミヤ自身もそのように考えたかもしれません。

ある日、神様はエレミヤに、民の長老と年長の祭司のうちの数人の前で土の焼き物の壺を壊すように命じられました。その際、エレミヤは彼らに裁きについて警告しました。つまり、ユダがその壊れた壺のようになることを伝えたのです。

エレミヤは彼らに警告した後、宮の庭に行き、皆の前で同じメッセージを伝えました。

しかし、祭司パシュフルはエレミヤの言葉を聞くと、彼を打ち、足かせにつないだのです。

そのため、エレミヤは神様に文句を言いました。

主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。

私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。

私は、語るごとに、わめき、「暴虐だ。暴行だ」と叫ばなければなりません。

私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。(エレミヤ書20:7-8)

でも、エレミヤはこう言いました。

私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。(エレミヤ書20:9)

この箇所では、エレミヤの感情は非常に混乱しています。

11-13節では、エレミヤは主への信仰をもって、こう語りました。

主は私とともにあって、横暴な勇士のようです。ですから、私を追う者たちは、つまずいて、勝つことはできません。彼らは成功しないので、大いに恥をかき、それが忘れられない永久の恥となりましょう。。。

主に向かって歌い、主をほめたたえよ。主が貧しい者のいのちを、悪を行なう者どもの手から救い出されたからだ。(エレミヤ書20:11,13)

でも、14節では、彼はこう言いました。

私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。

しかし、エレミヤは黙ることができませんでした。なぜなら、神様の言葉がエレミヤの心の中で燃えさかっていたからです。

あなたはどうでしょうか。神様の言葉はどれほどあなたの心の中で燃えさかっていますか。その言葉は消えやすい火花でしょうか。それとも、消されることのない燃えさかる火でしょうか。

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悔い改めなさい

私がハワイにいた時、エホバの証人やモルモン教の人たちが私の家によく訪ねてきました。私が日本に引っ越して、神戸に住んでいた時でも、エホバの証人たちが時々訪ねてきました。

けれども、現在住んでいるマンションにはルールがあるため、ほとんどのセールスや宗教の人々は戸別訪問ができません。

ある意味、それは残念なことです。時々興味深い会話があったからです。

いずれにせよ、このエホバの証人やモルモン教の人々は「私たちはクリスチャンです」と言います。しかし、彼らにはいくつかの問題があります。

例えば、彼らはクリスチャンの言葉を用いますが、その意味は全く異なります。

エホバの証人にとって、イエス様は御使いのかしらであるミカエルです。

モルモン教にとって、イエス様はサタンの兄弟とされています。

もう一つの問題は、彼らの預言者たちが偽の預言を語ったことです。(申命記28:21ー22では、神様は偽物の預言者について警告しておられます。どうぞお読みください。)

エホバの証人やモルモン教の人々の言い訳はこうです。

「聖書に記された本当の預言者たちでもミスをしました。ヨナの話を覚えているでしょうか。ヨナがニネベは滅びると預言しましたが、結局ニネベは滅びませんでした。」

しかし、ヨナの言葉は預言ではなく、警告でした。神様はニネベの人々が悔い改めることを望んでおられたので、ヨナをニネベに遣わされました。

この箇所では、その真実を見ることができます。神様はエレミヤにこのように言われました。

わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。

わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。(エレミヤ書18:7ー10)

この箇所を読むと、ヨナ書をより深く理解できると思います。ニネベの人々は悔い改めたので、神様は彼らに憐れみを注いでくださいました。

一方で、神様はイスラエルの人々に多くの祝福を約束されました。それは、彼らが神様の命令に従うならば、彼らが神様の民となり、神様が彼らの神となられるということです。

ところが、彼らは神様に背を向けたので、神様はその祝福を取り消され、彼らに災いを下されました。

この箇所の終わりでは、彼らの心が硬く、全く神様のメッセージを聞きたくなかったため、彼らはエレミヤを無視し、責めました。その結果は追放です。

私の言葉を誤解しないでください。神様はイスラエルの人々のためにまだ計画を持っておられます。神様は常にご自身の約束を守られます。

とはいえ、イスラエルの人々が悔い改めなければ、神様の祝福を得ることができません。(ローマ11章をお読みください。)

とにかく、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちの罪を悔い改めるべきです。私たちの自己中心的な態度を捨てるべきです。そして、神様に向かうべきです。

そうすれば、本当の命を見つけることができるでしょう。

あなたはどのような罪を悔い改めるべきでしょうか。また、神様はあなたに何を望んでおられるのでしょうか。

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損なわれた

私たちは壊れた世界に生きています。ニュースを見るだけで、その現実はすぐに理解できるでしょう。

けれども、この箇所では、神様が損なわれたものを美しいものへと変えることがおできになるということを学ぶことができます。

神様はエレミヤに「陶器師の家に下りなさい」と言われました。エレミヤがその場所に着くと、陶器師がろくろを使って仕事をしていました。

陶器師が作っていた器は一度失敗しましたが、彼はそれを捨てませんでした。むしろ、彼は、

再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。(エレミヤ書18:4)

そして、神様はエレミヤにこう言わました。

イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。――主の御告げ――

見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。(6)

イスラエルは自分の罪によって損なわれました。しかし、神様はこう言われました。「たとえあなたが損なわれても、私はあなたを美しいものに変えることができます。」

神様は私たちにも同じことを語っておられます。

あなたは、自分の人生を見て、価値がないと感じることがあるかもしれません。また、自分があまりにも罪深いので、神様が自分を愛することなどできないと思うかもしれません。

けれども、たとえどんなに損なわれていても、神様はあなたの傷を癒すことがおできになります。神様は、あなたの壊れた人生を新しいものに変えることができる方です。

あなたを癒すために、イエス様は損なわれました。イザヤは次のように語っています。

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ書53:5)

あなたは、自分自身を損なわれたものだと感じていますか。神様はあなたを赦し、そして新しいものに変えてくださいます。どうか神様に向かって、仰ぎませんか。

Something beautiful, something good
美しいもの、良いもの。

All my confusion, he understood
神様は私の混乱を理解しておられました。

All I had to offer him was brokenness and strife
私は壊れた人生と、闘争の多い心しかささげることができませんでした。

But he made something beautiful of my life
しかし、神様は私の人生を美しいものへと変えてくださいました。

ーービル・ゲイザー

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敬い、信頼、服従

この箇所をスキップしてしまうのは簡単なことかもしれません。なぜなら、この箇所は安息日についての内容ですし、パウロがコロサイの教会に宛てて書いた時に、次のように言っているからです。

安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。(コロサイ2:16)

私はその理由をここですでに書きました。

しかし、この箇所から、クリスチャン生活の重要な原則を学ぶことができると思います。

どうしてイスラエル人たちは安息日を守らなければならなかったのでしょうか。それは、安息日を通して、彼らが三つのことを示したからです。

第一に、彼らは神様を創造主として敬うことを示しました。彼らは神様の創造の働きを思い起こし、神様が7日目に休まれたことを覚えました。

第二に、彼らは神様への信頼を示しました。安息日に彼らは休むことで、神様が必要を満たしてくださることを信じました。

第三に、彼らは神様への服従を示しました。信頼と服従は深い関係があります。神様を信頼しないと、神様に従うことは難しいのです。

残念なことですが、イスラエル人たちはその三つのことに失敗しました。神様は彼らにこう言われました。

「もし、安息日を守るなら、私はあなたを祝福します。しかし、そうしないならば、裁きが起こります。」

なぜでしょうか。

安息日を守るのは簡単なことでした。それにもかかわらず、彼らは安息日を守らず、神様を敬わず、神様に信頼せず、神様の命令に従いませんでした。

彼らが安息日を守らなかったことは、彼らの心にある大きな問題の兆候だったのです。

あなたはどうでしょうか。神様を敬っていますか。神様があなたのためにしてくださったことを思い起こし、神様を賛美していますか。

神様に信頼していますか。神様はあなたのために最善の道を知っておられ、あなたの最善を望んでおられることを信じていますか。

また、小さなことでも神様に従っていますか。

神様はイスラエル人たちにこれらのことを望まれました。そして、それは私たちにも同じように望まれています。

私たちが神様を敬い、神様に信頼し、従う者となるように。

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癒しの必要

人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。(エレミヤ書17:9)

この箇所は人間の本質を端的に表していると思います。

この世の問題について考える時、その根本的な原因は人間の心にあります。私たちの心は陰険です。私たちは周りの人々を欺くだけでなく、自分自身さえも欺きます。

この箇所では、エレミヤはこう言います。

「ある人々は富を得るために周りの人々を欺きます。なぜなら、彼らは自分自身を欺き、お金さえあれば幸せになれると思い込んでいるからです。」

しかし、エレミヤは彼らについて次のように語りました。

彼の一生の半ばで、富が彼を置き去りにし、そのすえはしれ者となる。(11)

他の人々は、神様が人生の喜びを取り去ろうとされると思うため、神様に背を向けます。彼らは、自分の人生がもっと楽しくなると考えています。

しかし、エレミヤは次のように語りました。

あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。

「わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる。いのちの水の泉、主を捨てたからだ。」(13)

つまり、命の源は神様です。だから、神様に背を向けると、彼らは自分の命を失ってしまいます。

他の人々は神様の言葉を聞いて、あざけりました。彼らはこう言います。

主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。(15)

しかし、神様の言葉は必ず成就します。そして、もし彼らが悔い改めないならば、裁きの日に彼らのあざけりは後悔と涙に変わるでしょう。

私たちは周りの人々を欺くことがあるかもしれません。自分自身を欺くこともあるかもしれません。けれども、神様を欺くことは決してできません。

だからこそ、神様は私たちにこう警告されます。

わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。(10)

私たちの心は病にかかり、罪によって汚れてしまいました。私たちは自分自身の心を癒すことはできません。人間にはそれを治すための治療法がありません。

どんなに頑張っても、私たちは神様の目に正しい者となることはできません。むしろ、私たちは繰り返し罪のパターンに陥ります。

では、私たちの希望はどこにあるのでしょうか。それは、神様だけにあります。

だからこそ、エレミヤのように祈りましょう。

私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。(14)

十字架でイエス様が流された血によって、私たちの罪の代価が支払われました。そして、聖霊の働きによって、私たちの心が洗われ、清められます。

あなたはどうでしょうか。自分の罪を認識し、その癒しが必要だと感じていますか。

イエス様に向かうなら、イエス様はあなたを癒し、解放してくださいます。

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大変な時に実を結ぶ

正直に言えば、私たちの人生は難しいものです。

時々、それは私たちの責任ではない場合もあります。

しかし、私たちの悪い選択によって困難な状況に陥ることもよくあります。

エレミヤの時代、ユダ人たちは悪い選択をしたために困難に直面するようになりました。彼らが神様に背を向け、自分自身の道を選んで進んだ結果、さまざまな問題が起こりました。

そのため、神様は彼らにこう言われました。

あなたは、わたしが与えたあなたの相続地を、手放さなければならない。また、わたしは、あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる。

あなたがたが、わたしの怒りに火をつけたので、それはとこしえまでも燃えよう。(エレミヤ書17:4)

けれども、エレミヤは悪いことをしていなかったのに、苦しんでいました。彼が神様に従い、反抗的な人々に神様の言葉を伝えたにもかかわらず、苦しんでいました。

そのため、神様はこう言われました。

主はこう仰せられる。

「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。

そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。

主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。

その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。」(エレミヤ書17:4-8)

この言葉によって、神様はユダ人たちを責められましたが、同時にエレミヤを励まそうとされたのだと思います。

神様はユダ人たちが自分自身に信頼したことを責められましたが、エレミヤにはこう言って励まされました。

「エレミヤ、今あなたが苦しんでいることを知っています。しかし、あなたが私に信頼するなら、私はあなたを祝福します。あなたの状況が辛くても、あなたは私のために実を結びます。あなたの周りの人々が倒れても、あなたは栄えます。」

神様はその約束を守られました。エルサレムが倒れましたが、神様はエレミヤを救い出されました。バビロンの王ネブカドネザルは、エレミヤについてこう命じました。

[エレミヤ]を連れ出し、目をかけてやれ。何も悪いことをするな。ただ、彼があなたに語るとおりに、彼にせよ。(エレミヤ書39:12)

それでも、エレミヤの人生は決して楽なものではありませんでした。けれども、困難な状況の中にあっても、彼は実を結びました。

あなたはどのようなトラブルに直面しているでしょうか。もしかすると、あなたが神様に背を向けた結果、そのトラブルが訪れたのかもしれません。

その場合は、もう一度神様に向かってください。あなたの頑固さと罪を捨てて、もう一度神様に従ってください。

神様に従っているのにもかかわらず、あなたが困難に直面しているでしょうか。そのような時でも、神様に信頼し続けてください。絶望しないでください。

そして、エレミヤのように、あなたも実を結び、この世に良い影響を与えることができます。

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全ての国民が王として認める方

このブログを英語で書いた時、クリスマス・イブでした。

クリスマスの時、多くの人々はイエス様について考えます。けれども、イエス様について考えた時、どのようなイメージを見るのでしょうか。

クリスマスの時、多くの人々はイエス様を飼い葉おけに寝ておられる可愛い赤ちゃんとして考えます。彼らは、そのイエス様が好きです。

なぜでしょうか。そのイエス様は彼らから何も要求されないからです。イエス様はただ寝ておられるだけです。

しかし、いつかの日、

イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:10ー11)

その日に、

[主]のもとに、諸国の民は地の果てから来て言うでしょう。

「私たちの先祖が受け継いだものは、ただ偽るもの、何の役にも立たないむなしいものばかりだった。

人間は、自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない」と。(エレミヤ16:19ー20)

ある人々は喜んでそのことを告白します。けれども、ある人々は苦しんで泣きます。彼らはその神々を見て、その神々がただの木製か石の偶像であると分かるようになります。

また、ある人々は何を求めていたかを思い出します。つまり、お金や、セックスや、力や、この世の物を求めていましたが、そのものがすべて無駄なものであると分かるようになります。

その日、彼らはイエス様がもう飼い葉おけに寝ておられる赤ちゃんではないと分かるようになります。むしろ、彼らはイエス様が主であり、王であることを認めます。

その時について、神様はこう言われます。

だから、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手と、わたしの力を知らせる。

彼らは、わたしの名が主であることを知る。(21)

あなたはどうでしょうか。イエス様について考えた時、どのようなイメージが思い浮かぶでしょうか。ベツレヘムの飼い葉おけに寝ておられる赤ちゃんを見るでしょうか。

それとも、あなたの主であり王であるお方を見るでしょうか。

イエス様がこの世に戻られる時、あなたはひれ伏して、愛を持って、「イエスは主です」と言うでしょうか。

それとも、苦々しい心を抱きながら、その言葉を言うでしょうか。

どうか、イエス様を飼い葉おけに寝ておられる赤ちゃんとしてではなく、あなたの主であり、王である方として知ることができますように。

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救い主、贖い主

クリスマスの時、私はいつもの時よりも、イエス様について考えます。特に、どうしてイエス様がこの世に来られたかを思い出します。

イエス様は私たちを裁くために来られたのではありません。イエス様は私たちを罪から救い出してくださり、贖うために来られました。そして、その働きによって、私たちは神様と和解しました。

この箇所では、いつも通り、私たちは裁きの話を見ます。

神様はエレミヤに言われました。

「人が亡くなると、その家族と友達と一緒に泣いてはなりません。なぜなら、慰める言葉がないからです。つまり、私はいつくしみと、あわれみを彼らから取り去ったからです。

そして、すぐに、多くの人々が亡くなり、皆が苦しむため、誰も慰める言葉を与えられません。」(エレミヤ書16:5-7)

また、神様はエレミヤに言われました。「ユダ人の宴会にも参加してはなりません。なぜなら、すぐに、私は彼らの喜びを取り去るからです。」(8)

そして、神様はエレミヤに言われました。

「この裁きの理由を彼らにはっきりと伝えなさい。つまり、彼らは自分の心を堅くし、私に背を向けて、自分の神々を礼拝し始めたからです。」(10-13)

けれども、14-15節から、神様のトーンは変わります。神様はエレミヤに言われました。

「今、皆は、どうやって私がイスラエル人たちをエジプトから救い出したかを思い出しています。しかし、ある日、私はもっと素晴らしいことをします。

イスラエル人たちとユダ人たちは追放されますが、いつか、私はもう一度彼らを自分の土地に導きます。なぜなら、私は彼らの先祖にその土地を与えると約束したからです。

そして、人々はエジプトからの救いについて話すよりも、追放からの救いについて話し始めます。」(14-15)

神様はその約束を守られました。神様はイスラエル人たちをペルシアから自分の土地に導かれました。

そして、イエス様の使徒の時代に、ローマがエルサレムを滅ぼし、ユダヤ人たちは各地に散らされました。自分の国は無くなりました。

けれども、1948年に、神様はもう一度彼らをイスラエルに導かれました。

なぜでしょうか。神様がイスラエルの救い主と贖い主であることを証明するためです。

ある日、全イスラエルはそのことを認めます。神様は彼らについてこう言われました。

だから、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手と、わたしの力を知らせる。彼らは、わたしの名が主であることを知る。(21)

現代、多くの人々は罪に迷っています。彼らはイスラエル人のように堅い心を持ち、神様に背を向けました。

しかし、イエス様は彼らを救い、贖うために来られました。また、イエス様は彼らに神様を表し、彼らが神様を知り、神様と和解するために来られました。

そのことを覚えておきしょう。そして、私たちの周りの人々にその良いニュースを伝えましょう。

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自己憐憫の罠

時々、神様に従うことは辛いことがあります。そのような時、人々はよく文句を言います。

「どうして、こんなことが起こるのでしょうか。私にはわかりません。あなたに従ったら、私の人生は上手くいくと思っていましたのに。どうして、あなたはこの試練を許してくださっているのでしょうか。」

エレミヤもそう感じました。もう一度、彼は自分の民から迫害と拒絶の痛みを受けました。ですから、彼の疑いはもう一度浮かび上がりました。

彼はこのように祈りました。

なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は直らず、いえようともしないのでしょう。

あなたは、私にとって、欺く者、当てにならない小川のようになられるのですか。(エレミヤ書15:18)

つまり、「私は苦しんでいます。ご存じないのですか。助けてくださらないのですか。他の人々のように、あなたは私を裏切られるのですか。」

しかし、もう一度、神様はエレミヤの自己憐憫を許されませんでした。むしろ、神様はこう言われました。

もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせよう。

もし、あなたが、卑しいことではなく、尊いことを言うなら、あなたはわたしの口のようになる。

彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。

わたしはあなたを、この民に対し、堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても、勝てない。

わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。――主の御告げ――

また、わたしは、あなたを悪人どもの手から救い出し、横暴な者たちの手から助け出す。(19ー21)

つまり、「「かわいそうパーティ」を止めなさい。そうすれば、私はあなたを用いることができます。あなたの文句を止めて、私の言葉を伝えなさい。

この民はあなたに影響を与えて、あなたが彼らのようになることを望んでいますが、そうはさせてはいけません。むしろ、あなたが彼らに影響を与えるべきです。

彼らはあなたと戦い、迫害するかもしれませんが、あなたに勝つことはありません。私はあなたを救い出します。だから、自分自身を見ずに、私を見なさい。」

あなたはどうでしょうか。あなたが神様に従い、あなたの状況が辛くなる時、自己憐憫に陥っているのではありませんか。

サタンはそれを見て喜びます。なぜなら、神様にとって、私たちは役に立たなくなるからです。

自分自身に焦点を当てると、神様に焦点を当てられなくなります。また、周りの人々のニーズを見ることもできなくなります。

ですから、自分の問題に焦点を当てないようにしましょう。自分自身に焦点を当てないようにしましょう。

むしろ、

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(へブル12:2ー3)

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神様の言葉を食べること

ユダの状態は本当に悪化しました。そこで、神様はエレミヤに言われました。

「モーセやサムエルがこの民のために祈っても、私は聞かない。」

ヒゼキヤ王が亡くなった後、ユダ王国は徐々に霊的に堕落していきました。

ヒゼキヤの息子マナセはユダを偶像礼拝に導きました。マナセが悔い改めたにもかかわらず、ユダは自分の罪を犯し続けました。

ヨシヤ王はヒゼキヤのように神様を求めたにもかかわらず、多くのユダ人たちは罪を犯し続けました。

なぜでしょうか。彼らは神様の言葉を真に受け入れませんでした。彼らは、エレミヤや他の預言者たちを通してその言葉を聞きましたが、従うことを拒みました。

しかし、エレミヤは違いました。彼はこう言いました。

私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。

あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。

万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。(エレミヤ書15:16)

ユダ人たちは神様の言葉を味わった時、すぐに吐き出してしまいました。しかし、エレミヤがその言葉を味わった時、彼は喜び、それを受け入れて変わりました。

あなたはどうでしょうか。神様の言葉を聞いた時、どのように反応しますか。

ある人々は御言葉の栄養を十分に受け取っていないため、霊的に飢えています。彼らは日曜日のメッセージだけで十分だと思っています。

けれども、私たちは毎日食事をとりますよね。日曜日だけに食べる人がいるでしょうか。

また、他の人々は御言葉を聞きますが、すぐにその言葉を忘れてしまうため、彼らにとって御言葉は何の役にも立ちません。

もし、神様が私たちの人生に働くことを望んでおられるなら、私たちは神様の言葉を食べ、受け入れ、喜ばなければなりません。そして、その言葉に従うべきです。

そうするならば、私たちの思いは新しくされ、私たちの考え方と行動は変わります。

また、困難な時代に生きていても、私たちは裁きを受けることはありません。むしろ、エレミヤのように神様の憐れみを受けるのです。

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私たちの希望はどこから来るか

この箇所では、さらに裁きの警告を読むことができます。エレミヤはユダ人たちに対して、彼らの罪が原因で追放されると警告しました。また、彼らが希望の光を求める一方で、神様が彼らを絶望の暗闇で覆うことになると告げました。

けれども、その裁きが訪れる前に、神様はもう一つの警告をお与えになりました。それが、日照りという形で示されました。

その日照りの中で、エレミヤは祈りました。「私たちは罪を犯しましたが、どうかお赦しください。」(エレミヤ書14:7-9)

しかし、神様は答えられました。

この民のために幸いを祈ってはならない。彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のいけにえや、穀物のささげ物をささげても、わたしはそれを受け入れない。

かえって、剣とききんと疫病で、彼らをことごとく絶ち滅ぼす。(エレミヤ書14:11-12)

それでも、エレミヤはユダ人たちのために祈り続けました。彼はこのように祈りました。

異国のむなしい神々の中で、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるでしょうか。

私たちの神、主よ。それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたがこれらすべてをなさるからです。(エレミヤ書14:22)

エレミヤが理解したのは、私たちにはただ一つの希望しかないということです。それは神様です。しかし、ユダ人たちは自分自身の力と知恵に頼り、また他の国々との同盟に依存しました。

その結果、彼らのプライドによって滅びました。そして、彼らがしがみついていた神々は彼らを救うことができませんでした。

あなたの希望はどこから来るのでしょうか。その希望は神様から来ているでしょうか。あなたは人生のすべてを神様に信頼していますか。神様の道を歩んでいますか。

それとも、ユダ人のように、自分自身に信頼し、この世の神々に従っているのでしょうか。

神様に信頼しない限り、私たちに希望はありません。だからこそ、裁きが訪れる前に、神様に向き直り、従いましょう。

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何の役にも立たない

「どうして私たちはこの世にいるのだろう。神様は私たちに目的を与えておられるのだろうか。」

私たちには二つの目的があります。一つ目は神様を知ることです。二つ目は、神様の代表として、この世に触れることです。

もし私たちがクリスチャンとなり、すぐに天国に行くなら、最初の目的を果たすことは可能です。しかし、二つ目の目的を果たすためには、私たちはこの世に留まるべきなのです。

それでも、この世では、私たちは何の役にも立たない者になる可能性もあります。つまり、神様がこの世に触れるために、私たちを全く用いることができないということです。

どのようにしてクリスチャンがそのような者になってしまうのでしょうか。神様はユダヤ人たちにこう言われました。

わたしは、イスラエルの全家とユダの全家をわたしに結びつけた。――主の御告げ――それは、彼らがわたしの民となり、名となり、栄誉となり、栄えとなるためだったのに、彼らがわたしに聞き従わなかったからだ。(エレミヤ書13:11)

つまり、神様はイスラエルとユダを通して、周りの国々に光を照らしたかったのです。その目的は、周囲の人々がイスラエルとユダにおられる神様を見て、神様に近づくことを望むためでした。

しかし、イスラエル人とユダ人は神様に従いませんでした。そこで、神様はエレミヤを通して彼らにビジョンを与えられました。

エレミヤは亜麻布の帯を買って、自分の腰に締めました。その後、彼はその亜麻布の帯を岩の割れ目に隠しました。多くの日が経った後、エレミヤはその帯を取り出しましたが、

なんと、その帯は腐って、何の役にも立たなくなっていた。(7)

そして、神様はエレミヤはこう言われました。

わたしはユダとエルサレムの大きな誇りを腐らせる。

わたしのことばを聞こうともせず、自分たちのかたくなな心のままに歩み、ほかの神々に従って、それに仕え、それを拝むこの悪い民は、何の役にも立たないこの帯のようになる。(9-10)

私たちが誇り高ぶり、神様に背を向け、神様の声を聴かずにかたくなな心のまま歩み、この世の神々(偶像、お金、持ち物など)を求めると、私たちはその帯のようになります。私たちは腐敗し、何の役にも立たない者となってしまいます。

私はそのような人にはなりたくありません。

私は英語の歌「私の心を清めてください」が大好きです。

私の心のただ一つの願いは 聖くなることです。
あなたのために聖別されたいと願います。
私は聖くなることを選びます。
私の主のために聖別されることを選びます。
あなたの御心に従う準備をしています。

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疲れている

神様に従うことは簡単なことではありません。特に、預言者にとって、神様に従うことは時として本当に辛いものです。

エレミヤはそのことを学びました。彼は自分の出身地であるアナトテの人々が彼を殺そうとしていることを知りました。

神様はエレミヤを励まし、その人々に対する裁きについて教えられましたが、エレミヤは文句を言っていました。

主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、さばきについて、一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。

なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。あなたは彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて、実を結びました。

あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの思いからは遠く離れておられます。

主よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心をためされます。」(エレミヤ書12:1ー3)

つまり、エレミヤはこう言ったのかもしれません。

「どうして、この悪人たちは栄えているのでしょうか。私を見てください。私が一生懸命にあなたに従っているのに、私の報いはどこにあるのでしょうか。皆が私を憎み、私を殺そうとしています。」

神様はその言葉を聞いて、エレミヤを慰められたでしょうか。

「大丈夫だ。心配しなくてもよい。」と言われたでしょうか。

違います。むしろ、神様はエレミヤを責められました。

あなたは徒歩の人たちと走っても疲れるのに、どうして騎馬の人と競走できよう。

あなたは平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせよう。(エレミヤ書12:5)

つまり、「もう疲れてしまったのですか。これはまだ始まりにすぎません。あなたの状況はこれからもっと辛くなるでしょう。もしあなたがすでに疲れ果てているのなら、本当のプレッシャーが来た時、あなたはどうするのでしょうか。」

神様は私たちに簡単な人生を約束していません。神様はエレミヤにこう言われました。

「あなたの家族さえも信頼してはいけません。彼らは優しい言葉を口にしても、あなたを裏切るからです。」(エレミヤ書12:6)

では、私はすべての人々を恐れるべきでしょうか。それは違います。

とはいえ、キリストのために迫害されても驚かないでください。なぜなら、イエス様はこう言われたからです。

しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。

もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。(ヨハネ15:20)

エレミヤはその敵によって疲れていました。そこで、神様はこう言われました。

「私の国へようこそ。もしあなたが私に従いたいのなら、あなたの人生はさらに大変になるでしょう。だから、もしあなたが私の国で栄えたいのであれば、もっと強くなるべきです。」

どうやって私たちは強くなるのでしょうか。それは、自分が何に直面するのかを知り、準備をすることです。

私たちには敵がいます。しかし、その敵は人間ではありません。パウロはこのように言いました。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)

その霊的な戦いのために、どのように準備すればよいのでしょうか。パウロは私たちにその方法を教えます。

主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。(エペソ6:10ー11)

つまり、自分の力に頼ってはいけません。自分の力に頼ると、エレミヤのように疲れてしまいます。

だからこそ、神様に頼りましょう。毎日、神様と時間を過ごし、天の父から力をいただきましょう。

イエス様がこの世におられた時も、毎日そうされました。実は、私自身も、もっとそうすべきだと感じています。

そして戦いにいくとき、神様の武具を身に着けましょう。

足には平和の福音の備えをはきなさい。

これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。

救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。(エペソ6:15ー17)

多くのクリスチャンたちは、自分の力だけに頼りながら、この世を裸のままで歩き回っています。しかし、彼らは霊的な戦いをよく理解しておらず、自分の敵が誰であるかを知りません。

そのため、彼らはサタンにとって簡単な標的となり、容易に被害者になってしまうのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの神様との関係は強いでしょうか。毎日、神様の武具を身に着けていますか。

それを怠ると、あなたは攻撃を受けてしまい、すぐに疲れ果ててしまいます。

だからこそ、パウロが言ったように、

邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。(エペソ6:12)

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エレミヤ書

神様が聞かない時

「ユダの人、エルサレムの住民の間に、謀反がある。

彼らは、わたしのことばを聞こうとしなかった彼らの先祖たちの咎をくり返し、彼ら自身も、ほかの神々に従って、これに仕えた。

イスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの先祖たちと結んだわたしの契約を破った。」(エレミヤ書11:9ー10)

現代でも、多くの人々は同じことをします。彼らは罪を捨てたにもかかわらず、その罪に戻ります。

ユダ人たちはこう思ったかもしれません。「罪を犯しても、大丈夫。もし、いけにえを捧げれば、神様はきっと私たちを赦してくださる。」

しかし、彼らはいけにえが意図的な罪のためではないことを忘れていました。

時々、私たちは意図せず罪を犯します。例えば、私たちは突然怒りに駆られて、悪いことをしてしまいます。

いけにえは、そのような罪のためのものでした。(そのいけにえについてもっと知りたいなら、これをご覧ください。)

ユダ人たちは、自分の罪を十分に理解していたにもかかわらず、その罪を犯し続けました。

だからこそ、神様はこのように言われました。

それゆえ、主はこう仰せられる。「見よ。わたしは彼らにわざわいを下す。彼らはそれからのがれることはできない。彼らはわたしに叫ぶだろうが、わたしは彼らに聞かない。(11)

また、

あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいに会ってわたしを呼ぶときにも、わたしは聞かないからだ。(14)

もちろん、私たちは恵みの時代に生きています。もし私たちが心から悔い改めたならば、神様は私たちを赦してくださいます。

とはいえ、悔い改めたとしても、罪の結果を避けることができるわけではありません。

例えば、もしあなたが不倫をした場合、神様に祈り、妻に頼んでも、妻があなたと離婚するかもしれません。

また、ギャンブルでお金を失った場合、神様に祈っても、あなたが自己破産するかもしれません。

だから、「神様が私を赦してくださるので、罪を犯しても良い」と言って、自分自身を欺いてはいけません。

むしろ、パウロが言ったように、

それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。(第二テモテ2:22)

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列王記第二 歴代誌第二

表面的な悔い改め

これはユダ王国の没落の始まりを示しています。

ヨシヤはユダの最後の良い王でした。そして、この箇所を見ると、ヨシヤの影響によってユダ人たちは悔い改めたように見えます。

ヨシヤは偽物の神々とその祭壇を取り壊し、霊媒や口寄せ、偽りの祭司たちを処刑しました。

そして、ユダ人たちが過ぎ越しの祭りを祝った際、その祝いは非常に素晴らしいものでした。預言者サムエルの時代以来、このような祭りは行われていなかったのです。(歴代誌第二35:18)

そのため、歴代誌第二には、次のように記されています。

[ヨシヤ]の生きている間、[ユダ人たち]はその父祖の神、主に従う道からはずれなかった。(歴代誌第二34:33)

しかし、列王記第二には次のように記されています

それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行ないのために、主はユダに向けて燃やされた激しい怒りを静めようとはされなかった。

主は仰せられた。

「わたしがイスラエルを移したと同じように、ユダもまた、わたしの前から移す。わたしが選んだこの町エルサレムも、わたしの名を置く、と言ったこの宮も、わたしは退ける。」(列王記第二23:26-27)

問題は何だったのでしょうか。ヨシヤは心から悔い改めましたが、多くのユダ人たちはそうしませんでした。

もちろん、一部のユダ人たちは本当に悔い改めましたが、多くの人々は自分の罪を犯し続けました。

その罪を隠していたかもしれませんが、それでもなお罪を続けていたのです。そして、ヨシヤが死んだ後、その悪は再び現れてしまいました。

あなたはどうでしょうか。ヨシヤのように、心から神様に仕えているでしょうか。

それとも、表面的には神様に仕えているふりをしながら、この世の偶像、すなわちお金、セックス、力に仕えているのでしょうか。

周囲の人々を欺くことはできるかもしれませんが、神様を欺くことは決してできません。

そして、そのような振る舞いを続けるなら、ユダ人たちと同じように代価を支払うことになります。

私たちを神様から遠ざけるものを捨て去り、心から神様に従いましょう。

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列王記第二 歴代誌第二

神様の御言葉なしで、生きる

この箇所を読むと、私たちはユダ人の霊的な問題がどれほど深いかが分かります。なぜなら、祭司たちは神様の言葉がどこにあるか全く分からなかったからです。

どうして祭司たちが神様の言葉を失うことができたのか、私には全く理解できません。

彼らが神様の言葉を全く読んでいなかったのなら、どのようにしてユダ人に神様の言葉を教えることができたのでしょうか。

彼らはその父たちの教えを覚えていたかもしれません。けれども、ヒゼキヤ王が亡くなった後、その後の二人の王たちは偶像を礼拝したため、神様の宮は長い間放置されていました。

そのため、祭司たちが覚えていたことがどれほど正確だったのかは分かりません。

結果はどうなったのでしょうか。

おそらくイスラエルの士師の時代と同じように、ユダ人は「それぞれ自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」(士師記21:25)

しかし、彼らの基準は神様の基準とは異なっていました。

ヨシヤ王はその事実をすぐに理解するようになりました。

祭司たちが神様の宮を修理している最中に、誰かが神様の律法の書を見つけました。大祭司はその書物をヨシヤの書記であるシャファンに渡しました。ところが、シャファンがその書物の重要性を本当に理解していたかどうかは分かりません。

シャファンはヨシヤのもとに行き、次のように報告しました。

「あなたが命じた通りに、主の宮の修理が進められています。その修理のためのお金も適切に使われています。。。

あ、それから、大祭司が一つの書物を私に渡してくれました。」(列王記第二22:9-10)

シャファンはその書物の重要性を理解していなかったかもしれませんが、ヨシヤはすぐにその意義を理解しました。

シャファンがその律法の書をヨシヤの前で読み上げると、ヨシヤは自分の衣を裂き、こう言いました。

行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、主のみこころを求めなさい。

私たちの先祖が、この書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについてしるされているとおりに行なわなかったため、私たちに向かって燃え上がった主の憤りは激しいから。(列王記第二22:13)

女預言者フルダからのメッセージは決して良いものではありませんでした。

イスラエルの神、主は、こう仰せられます。

『あなたがたをわたしのもとに遣わした人に告げよ。主はこう仰せられる。

見よ。わたしは、この場所とその住民の上にわざわいをもたらす。

ユダの王が読み上げた書物のすべてのことばを成就する。

彼らはわたしを捨て、ほかの神々に香をたき、彼らのすべての手のわざで、わたしの怒りを引き起こすようにした。

わたしの憤りはこの場所に燃え上がり、消えることがない。(列王記第二22:15-17)

けれども、彼女は続けてこう言いました。

あなたが、この場所とその住民について、これは恐怖となり、のろいとなると、わたしが言ったのを聞いたとき、あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。――主の御告げです――

それゆえ、見よ、わたしは、あなたを先祖たちのもとに集めよう。あなたは安らかに自分の墓に集められる。

それで、あなたは自分の目で、わたしがこの場所にもたらすすべてのわざわいを見ることがない。(列王記第二22:19-20)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。聖書を読まなければ、私たちの人生は混乱してしまいます。

また、神様の言葉を読まなければ、私たちは神様を喜ばせることができません。

時々、牧師たちが説教するとき、彼らは多くを語り、自分の意見を述べますが、ほとんど聖書に触れません。

彼らは30~40分ほど話し、ようやく「では、聖書を読みましょう」となります。

けれども、5分後には聖書を閉じ、それ以上聖書には触れないのです。

私はそのようなメッセージがあまり好きではありません。

彼らは良いことを語るかもしれません。私たちは良い助言を受けることがあるかもしれません。けれども、それは神様の言葉ではなく、単に牧師たちの意見に過ぎないのです。

また、ある人々は教会で非常に良い聖書的なメッセージを聞くかもしれません。ところが、月曜日から土曜日まで全く聖書を読まなければ、彼らは霊的に飢えてしまいます。

聖書の上に埃が積もり、自分の知恵に頼んで生きるようになり、その結果、彼らの人生は混乱してしまうのです。

あなたはどうですか。あなたの教会では、聖書が失われていないでしょうか。あなたの家では、聖書が忘れ去られていないでしょうか。

もしそのような状態であるならば、あなたの宮、すなわちあなたの人生は混乱してしまうでしょう。

なぜなら、神様の知恵によって生きるのではなく、自分の知恵に頼って生きることになるからです。

ヨシヤのように、私たちの心をへりくだらせ、神様の言葉を受け入れる者となりましょう。

そして、毎日、神様の御言葉に従って生きていきましょう。

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ゼパニヤ書

主の日

少しエレミヤ書から離れ、ゼパニヤ書に目を向けましょう。ゼパニヤはエレミヤと同時代に生きた預言者です。

ナホム書と同様に、ゼパニヤ書について詳しく説明する時間はそれほど取らないつもりです。理由は、ゼパニヤのメッセージがイザヤやエレミヤのメッセージとほぼ一致しているからです。具体的には、それは裁きのメッセージです。

ゼパニヤ書1章からそのメッセージを知ることができます。

わたしは必ず地の面から、すべてのものを取り除く。――主の御告げ――

わたしは人と獣を取り除き、空の鳥と海の魚を取り除く。わたしは、悪者どもをつまずかせ、人を地の面から断ち滅ぼす。――主の御告げ――(ゼパニヤ書1:2-3)

他の預言者たちと同様に、ゼパニヤはユダの民の偶像礼拝(1:4-6)、澱んだ態度(1:12)、服従の欠如(3:1)、そしてリーダーたちと民の不正義(3:3-4)を厳しく責めました。

そのため、ゼパニヤは来るべき裁きについて警告しました。

主の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る。聞け。主の日を。勇士も激しく叫ぶ。

その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、やみと暗黒の日、雲と暗やみの日、角笛とときの声の日、城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日だ。

わたしは人を苦しめ、人々は盲人のように歩く。彼らは主に罪を犯したからだ。彼らの血はちりのように振りまかれ、彼らのはらわたは糞のようにまき散らされる。(ゼパニヤ書1:14-17)

しかし、ゼパニヤはユダだけを警告したのではありません。その周辺の国々にも警告を与えました(2:14-15)。その理由は、彼らも偶像を礼拝していたからです。それに加えて、彼らは神様が選ばれた国、つまりユダ王国を侮辱し、脅かしました。

この箇所を読むと、パウロの言葉が思い起こされます。

ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。

忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。

患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。(ローマ2:5-11)

パウロはゼパニヤの時代の後に生きていましたが、その言葉はゼパニヤの時代においてもふさわしいものでした。

ゼパニヤのメッセージは、パウロが示した裁きのパターンに一致していました。ユダの民はまず裁かれ、その後、異邦人も裁かれました。

なぜでしょうか。それは、ユダの民が神様の言葉を知っていたからです。他の国々はモーセの律法や預言者の言葉を知らなかったのです。

そして、いつの日か神様は私たちをも裁かれるでしょう。ゼパニヤのメッセージは私たちの時代においてもなお、ふさわしいものと言えます。

恥知らずの国民よ。こぞって集まれ、集まれ。昼間、吹き散らされるもみがらのように、あなたがたがならないうちに。主の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに。主の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに。

主の定めを行なうこの国のすべてのへりくだる者よ。主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。(ゼパニヤ書2:1ー3)

つまり、悔い改めなさい。神様の前にへりくだり、近づきなさい。神様の道を求めなさい。そうすれば、主の日に私たちは救われ、サタンは裁かれるでしょう。そして、イエス様が王としてこの世を治め、災いや悪は完全になくなるのです。(3:15)

その日、私たちは救いを目の当たりにして喜ぶでしょう。しかし、主ご自身が私たちを見て喜ばれるのです。ゼパニヤはこう語りました。

あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。(ゼパニヤ書3:17)

また、

その時、わたしはあなたがたを連れ帰り、その時、わたしはあなたがたを集める。

わたしがあなたがたの目の前で、あなたがたの繁栄を元どおりにするとき、地のすべての民の間であなたがたに、名誉と栄誉を与えよう、と主は仰せられる。(ゼパニヤ書3:20)

ゼパニヤは特にイスラエルの民について語りますが、その日、私たちすべてが神様と共にいるようになります。また、この世は再びエデンの園のような姿を取り戻すでしょう。

その日が待ち遠しいですね。

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エレミヤ書

大いなる神

アメリカでは、私たちは金の偶像や木製の偶像をあまり目にしません。けれども、セックスや力、お金はアメリカ人の「偶像」となっています。

日本にもそのような「偶像」がありますが、仏教の偶像や神道の偶像も多く見られます。

もちろん、多くの日本人にとって、仏教や神道は文化的な伝統でしかありません。彼らはそれらを本当に信じているわけではありません。

それでも、その偶像礼拝を見ると、私は本当に悲しくなります。なぜなら、それらの「神々」は全く力を持たないからです。

それらの「神々」は、ただの木材や金にすぎません。

だからこそ、神様はこのように言われました。

国々の民のならわしはむなしいからだ。それは、林から切り出された木、木工が、なたで造った物にすぎない。

それは銀と金で飾られ、釘や、槌で、動かないように打ちつけられる。

それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、いちいち運んでやらなければならない。

そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ。」(エレミヤ書10:3ー5)

また、

すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中に息がないからだ。

それは、むなしいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる。(14ー15)

しかし、神様はそれらの「神々」と全く異なります。

主よ。あなたに並ぶ者はありません。あなたは大いなる方。あなたの御名は、力ある大いなるものです。諸国の民の王よ。

だれかあなたを恐れない者がありましょうか。それは、あなたに対して当然なことです。

諸国の民のすべての知恵ある者たちの中にも、そのすべての王国の中にも、あなたと並ぶような者はいないからです。(6ー7)

また、

しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王。その怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない。。。

主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。(10、12)

私は、その偶像を礼拝している人々を嘲っているのではありません。けれども、彼らがその偶像を捨てて、まことの神様を礼拝するように祈ります。神様こそが、私たちの礼拝にふさわしいお方です。

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エレミヤ書

何について自慢しているのか

主はこう仰せられる。

「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。

わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。――主の御告げ――(エレミヤ書9:23ー24)

ユダ人たちは自分の知恵と力を自慢していました。あるユダ人たちは割礼を受けたので、「私たちは神様の民だ」と思っていました。

しかし、彼らが神様に背を向けて、自分の道を歩んでいたため、その自慢は無意味でした。だから、すぐに裁きが訪れました。

あなたはどうでしょうか。何について自慢しているでしょうか。あなたの教育でしょうか。あなたの仕事でしょうか。あなたの富でしょうか。あなたの立場でしょうか。あなたの持ち物でしょうか。

もしあなたが神様を知らないなら、それらのものは無意味です。

けれども、神様について知っているだけでは不十分です。たくさんの人々は神様について知っています。サタンでさえも、私たちよりも神様について多く知っています。

しかし、私たちは本当に神様を知っているでしょうか。神様と親しい関係を持っているでしょうか。

神様が喜ばれることを私たちも喜び、神様が嫌われるものを私たちも嫌っているでしょうか。また、神様が喜ばれることや、神様が嫌われるものを私たちは知っているでしょうか。

神様を知っていることは、本当に誇るべきことです。それは一生のプロセスです。なぜなら、神様は私たちの心が神様の心のように変えられることを望んでおられるからです。

あなたは神様を知るためにどれほどの時間を取っているでしょうか。あなたは神様との関係のために時間を取っているでしょうか。あなたにとって、それは一番大切なことでしょうか。

パウロはこのように書きました。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。

私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。(ピリピ3:8ー11)

あなたにはそのような情熱があるでしょうか。イエス様を知ろうとする情熱があるでしょうか。

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エレミヤ書

騙す心、嘘をつく舌

できるだけ、私は正直でいるようにしています。私は「罪のない嘘」であっても好きではありません。

何かをしたくない場合は、正直に言います。優しく伝えますが、正直に言います。

もし何かが好きではない場合、普通は何も言いません。英語では、このようなことわざがあります。

「もし、優しいことが言えないなら、何も言わない方が良いです。」

できるだけ、その言葉に従っています。もし何かを言わなければならない場合は、できるだけ優しく伝えます。(とはいえ、時々失敗することもあります。)

どうして、私はあまり嘘をつかないのでしょうか。一つ目は、私は嘘をつくのが苦手だからです。しかし、もっと大切な理由は、神様が私たちに真実を語る人々であることを望んでおられるからです。

この箇所では、そのことを読むことができます。神様はエレミヤにこのように言われました。

彼らは舌を弓のように曲げ、真実でなく、偽りをもって、地にはびこる。まことに彼らは、悪から悪へ進み、わたしを知らない。――主の御告げ――

おのおの互いに警戒せよ。どの兄弟も信用するな。どの兄弟も人を押しのけ、どの友も中傷して歩き回るからだ。

彼らはおのおの、だまし合って、真実を語らない。偽りを語ることを舌に教え、悪事を働き、依然として悔い改めない。

彼らはしいたげに、しいたげを重ね、欺きに欺きを重ねて、わたしを知ろうともしなかった。――主の御告げ――

それゆえ、万軍の主はこう仰せられる。「見よ。わたしは彼らを溶かしてためす。いったい、わたしの民の娘に対し、ほかに何ができようか。

彼らの舌はとがった矢で、欺きを語る。口先では友人に平和を語るが、腹の中では待ち伏せを計る。(エレミヤ書9:3ー8)

神様は非常に惨めな光景を描かれます。エレミヤは自分の家族や友人を信頼することができませんでした。彼らは優しい言葉を語りましたが、その舌は毒で満たされていました。

だから、神様はそのような人々についてこのように言われました。

これらのために、わたしは彼らを罰しないだろうか。――主の御告げ――このような国に対して、わたしが復讐しないだろうか。(9)

あなたはどのような人でしょうか。あなたは偽りを語ることを舌に教えているでしょうか。それとも、愛をもって真理を語ることを舌に教えているでしょうか。

あなたの口は嘘で満ちているでしょうか。それとも、あなたの口は真実で満ちているでしょうか。

妻や夫と話す時、彼らに何かを隠しているでしょうか。それとも、何も隠さないでしょうか。

仕事では、クライアントと契約を結ぶために、何かを隠しているでしょうか。それとも、本当に正直でいるでしょうか。

口で優しいことを言いながらも、心の中で相手を侮っているでしょうか。それとも、イエス様のように相手を愛し、あなたの言葉と心が一致しているでしょうか。

もしあなたが真理を愛していないなら、本当に神様を知っていると言えるでしょうか。

神様は真理です。そして、神様は私たちが真理を語る人であることを望んでおられます。

あなたはそのような人でしょうか。

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エレミヤ書

迷っている人々のために泣くこと

エレミヤは「泣いている預言者」と呼ばれます。この箇所で、私たちはその理由を見ることができます。

時々、私たちは預言者たちの裁きのメッセージを見て、彼らがそのメッセージを伝えるのを楽しんでいると思うことがあります。

しかし、多分エレミヤのように、多くの預言者たちがそのイスラエル人のために泣いたのだと思います。なぜなら、イスラエル人たちは預言者たちの警告に耳を傾けず、裁きの道を歩んでいたからです。

だから、エレミヤはこのように言いました。

私の悲しみはいやされず、私の心は弱り果てている。聞け。遠くの地からの私の民の娘の叫び声を。

「主はシオンにおられないのか。シオンの王は、その中におられないのか」。。。

「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない。」

私の民の娘の傷のために、私も傷つき、私は憂え、恐怖が、私を捕らえた。

乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか。それなのに、なぜ、私の民の娘の傷はいやされなかったのか。。。

ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを。

ああ、私が荒野に旅人の宿を持っていたなら、私の民を見捨てて、彼らから離れることができようものを。彼らはみな姦通者、裏切り者の集会だから。(8:18ー22;9:1ー2)

以前、私は言いましたが、旧約聖書の預言書を読み通すのは少し辛いです。なぜなら、何度も同じメッセージを伝えるからです。つまり、神様の裁きです。

なぜ預言者たちはいつもその裁きのメッセージを伝えたのでしょうか。それは、イスラエル人たちが罪を犯し続けたからです。

そして、彼らは新しい罪を犯していたわけではありません。むしろ、同じ罪を繰り返していました。彼らは自分たちの歴史から全く学びませんでした。

もし、最近あなたが私のブログを読んでいるなら、「ブルースは裁きについて書くのが大好き」だと思うかもしれません。

しかし、実際はあまり好きではありません。神様の愛と恵みについて話す方が、もっと楽しいです。

それでも、聖書の教師として、真実を語らなければなりません。そして、預言者たちのように、私の希望は人々が救われることです。

正直に言えば、私は罪に迷っている人々のためにもっとあわれみ深い心を持つ必要があります。

エレミヤのように、私は迷っている人々のためにさらに涙を流すべきです。彼らの必要を見て、彼らに手を差し伸べるべきです。

もし私たち皆がそのような心を持つなら、どれほどこの世の人々に大きな影響を与えることができるでしょうか。

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エレミヤ書

教会は避け所。。。じゃない?

英語では、私たちは教会を [sanctuary] と呼びます。

一つの意味は「聖所」です。

けれども、もう一つの意味は「避け所」です。つまり、教会に行くと、神様にお会いし、安全を見つけることができます。

しかし、教会はすべての人にとって避け所であるわけではありません。神様はユダ人たちにこのように言われました。

イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。あなたがたの行ないと、わざとを改めよ。そうすれば、わたしは、あなたがたをこの所に住ませよう。

あなたがたは、『これは主の宮、主の宮、主の宮だ』と言っている偽りのことばを信頼してはならない。

もし、ほんとうに、あなたがたが行ないとわざとを改め、あなたがたの間で公義を行ない、在留異国人、みなしご、やもめをしいたげず、罪のない者の血をこの所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、わたしはこの所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住ませよう。

なんと、あなたがたは、役にも立たない偽りのことばにたよっている。

しかも、あなたがたは盗み、殺し、姦通し、偽って誓い、バアルのためにいけにえを焼き、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。

それなのに、あなたがたは、わたしの名がつけられているこの家のわたしの前にやって来て立ち、『私たちは救われている』と言う。

それは、このようなすべての忌みきらうべきことをするためか。

わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。

そうだ。わたしにも、そう見えていた。――主の御告げ―― (エレミヤ書7:3ー11)

つまり、罪深い道を行くと、あなたにとって教会は避け所とはなりません。

ダビデの将軍ヨアブはそう学びました。彼はずっと自分の道を行き、無罪の人々を殺しましたが、ダビデの息子ソロモン王の正義を避けるために主の幕屋に逃げました。

なぜでしょうか。それは神様が律法を定められたからです。もし誰かが偶然に人を殺し、殺された人の家族から逃げるために、その殺人者が幕屋に行った場合、守られました。(出エジプト記 21:13ー14)

けれども、ヨアブが故意に人々を殺したので、ソロモンはその幕屋でヨアブを殺しました。(列王記第一2:28ー34)

神様はユダ人に言われました。

「シロを見なさい。以前、わたしの幕屋はシロにありました。しかし、その人々がわたしに背を向けたので、彼らは滅びました。

あなたたちが悔い改めないなら、エルサレムの宮も倒れます。(エレミヤ書7:12ー15)

わたしはあなたたちのいけにえや儀式に興味があるわけではありません。わたしはあなたの服従を望みます。

わたしに従うなら、あなたの人生はうまくいくでしょう。しかし、あなたたちは先祖たちのように、自分の心を堅くし続けます。」(エレミヤ書7:21ー27)

そして、神様はこのように言われました。

この民は、自分の神、主の声を聞かず、懲らしめを受けなかった民だ。真実は消えうせ、彼らの口から断たれた。。。

わたしの目の前に悪を行なったからだ。――主の御告げ――

彼らは、わたしの名がつけられているこの家に自分たちの忌むべき物を置いて、これを汚した。。。

それゆえ、見よ、その日が来る。――主の御告げ――その日には、もはや、そこはトフェテとかベン・ヒノムの谷と呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。

人々はトフェテに、余地がないほどに葬る。(28ー30、32)

トフェテという所は、イスラエル人たちが自分の子供たちを偽物の神々にいけにえとしてささげた所でした。彼らが主の宮でいけにえを捧げながら、彼らはトフェテで、この酷いいけにえをささげました。

だから、神様は言われました。

「あなたを裁きます。あなたが私の宮に行っても、赦しません。なぜなら、あなたの心から史実が消え、あなたたちは私の言葉に聞かずに程いことをするからです。」

あなたはどうですか。教会に行くからといって、月曜日から土曜日まで犯した罪が赦されると思いますか。

その罪は赦されていません。もし月曜日から土曜日まで自分の道を行くなら、教会に行く意味はありません。

だから、毎日私たちは神様のために生きましょう。また、ミカの言葉を覚えておきましょう。

主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。

それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ書6:8)

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エレミヤ書

クロスロード(四つ辻)

私はクロスロードという教会のメンバーです。いろいろな意味で、その名前は本当にふさわしいです。

教会の一番近い駅は乗換場所です。それに、私たちは国際的な教会です。いろいろな国から、人々が私たちの教会に来てくださいます。

また、教会として、私たちは周りの人々に霊的な四つ辻となっています。つまり、人々が私たちの教会に来ると、彼らはイエス・キリストに従うかどうか選択しなくてはならないからです。

もちろん、彼らが初めて来た日には、そのような決断をする必要はありません。けれども、毎週来るようになると、最終的に彼らはご自身でイエス様に従って生きるかどうかを決断するようになります。

エレミヤはユダヤ人たちにそのような決断をするよう促しました。

「神様に従われますか。従われないですか。どうぞ決断してください。」

エレミヤはこう言いました。

主はこう仰せられる。「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。」(エレミヤ書6:16a)

神様は何を言われているでしょうか。

「あなたは選択しなくてはなりません。こちらの方に行くのか、そちらの方に行くのかを決めなさい。

アブラハム、イサク、ヤコブ、そして他の信仰のある人々が歩いた道を求めなさい。それは幸いの道です。その道を行くと、平和を見つけることができます。」

しかし、ユダヤ人たちはこう答えました。

そこを歩まない。(16b)

頑固な心。堅い心。ユダヤ人たちはそのような心を持っていました。

神様はエレミヤや他の預言者たちをユダヤ人たちに警告するために送りましたが、彼らはこう言いました。

「私たちは」注意しない。(17b)

だから、エレミヤはユダヤ人たちについてこう言いました。

私はだれに語りかけ、だれをさとして、聞かせようか。

見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。

見よ。主のことばは、彼らにとって、そしりとなる。彼らはそれを喜ばない。(10)

その結果は?裁きです。

私が昨日のブログを英語で書いた時、Facebookで、そのブログからこの部分を書きました。

「皆は神様の愛とあわれみについて聞くのが好きです。しかし、だれも裁きについて聞きたくありません。」

ある人々は「いいね」とクリックしました。けれども、それを見た時、彼らが私の意味を理解しただろうかと思いました。

私が言いたかったのは、「神様の愛とあわれみは福音の一方だけです。しかし、もう一方があります。つまり、裁きです。」

けれども、ある人々は私の意味を誤解したかもしれません。彼らはこのように思ったかもしれません。

「私たちは神様の愛とあわれみだけを伝えた方が良いです。神様の裁きについて話さない方が良いです。」

偽物の預言者たちや祭司たちはそうしました。神様は彼らについてこう言われました。

彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。(14)

宣教師であるジム・エリオットは、こう祈りました。

私が一つの道の里程標にならないように。むしろ、私が分岐点になるように。人々が私に会うと、彼らがイエス・キリストを見て、イエス様に従うか従わないかを決めるように。

あなたはどうですか。あなたは里程標であるだけでしょうか。それとも、あなたは分岐点でしょうか。

もう一度言います。人々が私たちに初めて会った時、私たちが「今、決めなさい」と言う必要はありません。

しかし、もし私たちと長く知り合っているなら、彼らはその決断のポイントに来るはずです。

彼らがそのポイントに決して来ないのであれば、多分私たちは神様から与えられた仕事を忠実に行っていないのかもしれません。あなたはその仕事をしているでしょうか。

ある人々は福音のメッセージを拒絶するかもしれません。けれども、ある人々はそれを聞いて救われます。だからこそ、神様の福音を伝え続けましょう。

私たちがただイエス様への道を指さすだけで終わらないように。むしろ、私たちが人々をその分岐点に導くように。

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エレミヤ書

自分自身を騙す

この箇所では、エレミヤはユダの民を批判し続けます。最初に、エレミヤはソドムとゴモラをほのめかしています(創世記18章)。

その時、アブラハムはその都市のために祈りました。つまり、もし10人の正しい者がいたら、神様がその都市の罪を赦すように祈ったのです。

神様はその祈りを聞き入れましたが、結局10人さえもいなかったため、神様はその都市を滅ぼしました。

この箇所で、神様はこう言われました。「もし真実を求める者が一人でもいたら、エルサレムを赦します。」

ところが、そのような人は誰一人いませんでした。

その言葉が大げさかどうか分かりません。もちろん、エレミヤは神様を求めました。また、ナホムやゼパニヤなど他の預言者たちも神様を求めました。けれども、彼らはエルサレムに住んでいなかったのかもしれません。

ヨシヤ王も神様を求めましたが、エレミヤがこの箇所を書いた時、ヨシヤはまだ主を求め始めていなかったのかもしれません。

とにかく、この言葉の意味は、神様を求める人々がほとんどいなかったということです。

どうしてでしょうか。なぜなら、誰も神様を恐れなかったからです。神様についてあまり考えず、自分の好きなようにしました。

エレミヤは彼らについてこう言いました。

彼らは主を否んでこう言った。

「主が何だ。わざわいは私たちを襲わない。剣もききんも、私たちは、見はしない。預言者たちは風になり、みことばは彼らのうちにない。彼らはこのようになる。」(エレミヤ書5:12ー13)

今でも、多くの人々はそのように考えます。彼らはまったく裁きを恐れないので、好きなように生きています。

「神様は愛でしょう?神様は決して私たちを裁かないでしょう?神様の裁きについて話す人々は私たちを怖がらせますが、その言葉を気にしない方が良い。」

そのため、彼らはその言葉を無視して、自分を励ます人々の声だけを聞きます。

だからこそ、エレミヤはこう言いました。

預言者は偽りの預言をし、祭司は自分かってに治め、わたしの民はそれを愛している。その末には、あなたがたは、どうするつもりだ。(31)

皆は神様の愛と憐れみについて聞くのが好きです。だれも裁きについて聞きたくはありません。

しかし、その警告を無視するなら、あなた自身を欺いていることになります。なぜなら、裁きは必ず来るからです。

神様はバビロン人を通してユダの民を裁きました。そして、ある日、イエス様はこの世に戻り、生きている人と死んだ人とを裁かれます。皆はイエス様の前で申し開きをすることになります。

あなたはどうでしょうか。自分の道を行き、自分自身を欺き、「裁きは来ない」と思うのでしょうか。

神様は忍耐強い方ですが、最終的には裁きが来ます。もし裁きの警告を無視して悔い改めないなら、その日が来た時、あなたはどうするのでしょうか。

裁きの日のために準備したいなら、悔い改めて、イエス様をあなたの主として受け入れてください。パウロはこう書きました。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ書10:9ー10)

自分自身を欺いてはいけません。裁きは必ず訪れます。手遅れになる前に悔い改めましょう。

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エレミヤ書

私たちの行動によって

「どうして私は苦しんでいるのだろうか。」

悪いことが起こると、多くの人々はそのように問いかけます。

時には、その原因は、この罪によって堕落した世界にあります。しかし、時には、私たち自身の行動が悪いことを引き起こすこともあります。

ユダ人にとっては、自分たちの罪が悪い結果を招きました。

この箇所では、神様は将来の裁きについて警告されました。結局、その裁きは、バビロンの王ネブカドネザルを通して実現しました。

ネブカドネザルとその軍隊がユダを攻め、ユダの町々は滅びました。(エレミヤ書4:6ー7)

なぜでしょうか。それは、彼らが神様の御言葉を無視したからです。ユダの王、祭司たち、預言者たち、そしてユダのすべての民がそのように行動しました。

神様は彼らについてこう言われました。

彼ら(バビロン人たち)は畑の番人のように、ユダを取り囲む。それは、ユダがわたしに逆らったからだ。――主の御告げ――

あなたの行ないと、あなたのわざが、あなたの身にこれを招いたのだ。これがあなたへのわざわいで、実に苦い。もう、あなたの心臓にまで達している。(エレミヤ書4:17ー18)

また、

実に、わたしの民は愚か者で、わたしを知らない。彼らは、ばかな子らで、彼らは悟りがない。

彼らは悪事を働くのに賢くて、善を行なうことを知らない。(22)

災害が訪れても、彼らは悔い改めることはありませんでした。むしろ、彼らは偽物の神々を礼拝し続けました。

だから、エレミヤは彼らに訊いた。踏みにじられた女よ。あなたが緋の衣をまとい、金の飾りで身を飾りたてても、それが何の役に立とう。

目を塗って大きく見せても、美しく見せても、かいがない。恋人たちは、あなたをうとみ、あなたのいのちを取ろうとしている。(30)

何世紀が経っても、人間はあまり変わりません。

彼らは神様に対して心を堅くし、その罪の結果を受けます。それでも、彼らは悔い改めることなく、罪を犯し続けます。だからこそ、結局彼らは滅びてしまうのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの罪によって、自分の結婚、人間関係、キャリアを滅ぼしているでしょうか。

その罪の結果を目の当たりにしても、あなたは態度や行動を変えないままでいるのでしょうか。それとも、あなたは悔い改めることを選ぶのでしょうか。

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偽の悔い改め

私の娘が3歳の時、時々悪いことをすると、私は「謝りなさい」と言いました。

彼女は謝りましたが、時々心から謝っていませんでした。むしろ、彼女は笑いながら、「ごめんなさい~」と言っていました。

ユダ人たちは私の娘のようでした。神様は彼らについてこう言われました。

あなたは遊女の額をしていて、恥じようともしない。今でも、わたしに、こう呼びかけているではないか。

『父よ。あなたは私の若いころの連れ合いです。いつまでも怒られるのですか。永久に怒り続けるのですか』と。

なんと、あなたはこう言っていても、できるだけ多くの悪を行なっている。(エレミヤ書3:3ー5)

口では、彼らは「ごめんなさい」と言いましたが、彼らの行動はその心を表していました。

そして、神様は彼らを追放されたイスラエル人たちと比べられました。神様は彼らの「不倫」によって「離婚」されたのです。

つまり、彼らが偽物の神々を求めたために、神様は彼らをアッシリヤ人の手に渡されました。

ユダはそのことを知っていたにもかかわらず、悔い改めませんでした。悔い改めの言葉を口にしたものの、心から悔い改めることはありませんでした。

神様は彼らについてこう言われました。

このようなことをしながら、裏切る女、妹のユダは、心を尽くしてわたしに帰らず、ただ偽っていたにすぎなかった。――主の御告げ――」

主はまた、私に仰せられた。「背信の女イスラエルは、裏切る女ユダよりも正しかった。(10ー11)

つまり、「悔い改めるふりをするな。偽りの悔い改めよりも、反抗の方がまだ良い。」ということです。

しかし、もちろん、反抗よりも、神様は真実の悔い改めを望んでおられます。そのため、神様はこう言われました。

背信の女イスラエル。帰れ。――主の御告げ――

わたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深いから。――主の御告げ――

わたしは、いつまでも怒ってはいない。ただ、あなたは自分の咎を知れ。

あなたは自分の神、主にそむいて、すべての茂った木の下で、他国の男とかってなまねをし、わたしの声を聞き入れなかった。――主の御告げ――

背信の子らよ。帰れ。――主の御告げ――

わたしが、あなたがたの夫になるからだ。わたしはあなたがたを、町からひとり、氏族からふたり選び取り、シオンに連れて行こう。。。

背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。(エレミヤ書3:12-14,22)

私たちはどのように反応するべきでしょうか。

今、私たちはあなたのもとにまいります。あなたこそ、私たちの神、主だからです。(エレミヤ書3:22b)

神様はこう応えられます。

耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。

ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。(エレミヤ書4:3ー4)

つまり、神様に対して、あなたの心を柔らかくしなさい。心の堅い土壌を耕しなさい。罪のとげを取り除きなさい。あなたを神様から遠ざけるものを取り除きなさい。

そうすれば、私たちの悔い改めは私たち自身に影響を与えるだけでなく、周りの人々にも影響を与えます。

神様はこう言われます。

イスラエルよ。もし帰るのなら、――主の御告げ――わたしのところに帰って来い。

もし、あなたが忌むべき物をわたしの前から除くなら、あなたは迷うことはない。

あなたが真実と公義と正義とによって『主は生きておられる』と誓うなら、国々は主によって互いに祝福し合い、主によって誇り合う。(4:1ー2)

つまり、私たちが悔い改め、主のために生き始めるならば、神様は私たちを通して働き、私たちの周りの人々に触れて、彼らを祝福されるのです。

私たちがそのような心を持つことができますように。

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エレミヤ書

私たちの価値がどこから来るか

あなたの価値はどこから来るのでしょうか。

多くの人々は人生の目的を探します。また、彼らは「私の人生には本当に価値があるのだろうか」と問いかけます。

その答えを見つけたいのであれば、それはただ一つの場所にしか見つけられません。しかし、その答えは自分自身の中にはありません。

この箇所では、神様はイスラエル人にそのことを教えられました。

神様がイスラエル人を愛し、彼らにいろいろな祝福を注がれたのに、彼らは神様に背を向けました。そのため、神様はイスラエル人を不倫している妻にたとえられました。

神様は彼らに問いかけられました。

あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけて、わたしから遠く離れ[たでしょうか。」(エレミヤ書2:5a)

そして、神様はその先祖についてこう言われました。

[彼らは]むなしいものに従って行って、むなしいものとなった。。。(5b)

多くの人々は「私の人生には本当に価値があるでしょうか。私の目的を見つけなければならない」と言います。

そのため、その答えを見つけるためにあちらこちらへ行きます。

けれども、彼らは神様を求めません。むしろ、お金やキャリア、彼や彼女、夫や妻、そして持ち物を追い求めます。

イスラエル人も同じことをしていました。神様は彼らについてこう言われました。

彼らは尋ねもしなかった。『主はどこにおられるのか。。。

祭司たちは、『主はどこにおられるのか』と言わず、律法を取り扱う者たちも、わたしを知らず、牧者たちもわたしにそむき、預言者たちはバアルによって預言して、無益なものに従って行った。(6、8)

しかし、私たちがこの世の虚しい物を求めても、自分の価値を見つけることはできません。かえって私たちの価値を失ってしまいます。

私たちの目的を見つけることもできません。かえって私たちの目的を失ってしまいます。

神様はこう言われました。

わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。(13)

この箇所では、二つの罪を見ることができます。

1.湧き水の泉である神様を捨てること。

2.自分の水をためることができない、壊れた水ためを掘ること。

どれほど多くの人々が、お金や持ち物、力、人間関係によって、自分の「水ため」を掘るでしょうか。そして、彼らは一時的な満足を感じますが、結局はまた空っぽだと感じます。

そのため、彼らはさらにこう叫びます。「私の生きる目的は何でしょうか。私の価値はどこから来るのでしょうか。」

けれども、その道を生き続けるならば、神様はこう言われます。

あなたの悪が、あなたを懲らし、あなたの背信が、あなたを責める。だから、知り、見きわめよ。

あなたが、あなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、どんなに悪く、苦々しいことかを。――万軍の神、主の御告げ――(19)

どうしてでしょうか。命の源を捨てるならば、どうやって命を見つけることができるでしょうか。それは不可能です。他のものは結局、私たちを失望させるからです。

イスラエルはエジプトとの同盟、またアッシリヤとの同盟、さらにその国々の神々を通して、自分の目的と価値を探しました。(18)

しかし、神様はこう言われました。

あなたはアッシリヤによってはずかしめられたと同様に、エジプトによってもはずかしめられる。そこからもあなたは、両手を頭にのせて出て来よう。

主があなたの拠り頼む者を退けるので、あなたは彼らによって栄えることは決してない。(36ー37)

あなたは自分の目的を探しているでしょうか。自分の価値がどこから来るのか知りたいでしょうか。

自分の中ではその答えを見つけることはできません。この世の物によって見つけることもできません。

神様だけが、あなたの目的と価値を示されます。

だから神様を求めましょう。むなしいものに従って行くと、むなしいものとなってしまいます。

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エレミヤ書

私たちが思うよりも

今日からエレミヤ書を始めます。

エレミヤ書は、少し不思議な書です。つまり、この書は全く年代順に書かれておりません。

エレミヤはヨシヤ王について話し、それから急にゼデキヤ王(ユダの最後の王)について話し、さらにエホヤキム(ヨシヤの息子)について話し、またゼデキヤについて話します。

このブログではいつも通りに、年代順に進めます。そのため、エレミヤ書のあちこちを飛び回ることになります。

この箇所では、神様はエレミヤにこう言われました。

わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。(エレミヤ書1:5)

その時、エレミヤが何歳だったか分かりません。けれども、エレミヤには全く自信がありませんでした。そのため、彼はこう答えました。

ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。(6)

つまり、「私ですか。私はできません。私は若すぎますし、知恵がありません。それに、私はスピーチをするのが苦手です。別の人を呼んだら良いのではないでしょうか。」

しかし、神様はこう答えられました。

まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。

彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主の御告げ――」

そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。

「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」(7ー10)

神様は何を言われているのでしょうか。

「あなたが思うよりも、あなたは貴い人です。なぜなら、私は、あなたを貴くしたからです。私はあなたの口に私の言葉を入れ、あなたを通してこの世界に影響を与えます。」

多くの人々はエレミヤのように思います。

「私は特別な人ではありません。あまり賢明ではありません。神様が私を呼んでおられるかもしれませんが、そんな資格はありませんし、才能もありません。」

時々、私も自分自身についてそのように思います。

けれども、神様は私たちにこう言われます。

「自分自身を見下さないでください。私はあなたと共にいます。あなたがどのような人であるかは問題ではありません。

大切なのは、私がどのような者であるかということです。そして、私はあなたを用いることができます。あなたを通してこの世に影響を与えます。」

では、私たちはどうすれば良いでしょうか。神様が言われることにただ従うだけです。神様は私たちができないことを命じられることはありません。

そのため、神様はエレミヤに簡単なことを命じられました。

次のような主のことばが私にあった。「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」

そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」

すると主は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」(11ー12)

神様は簡単な幻を見せ、簡単な質問をされました。エレミヤが正しく答えたので、神様はこう言われました。

「ほら、できるでしょう。そして、私があなたに与える言葉を、私は必ず実現します。」

エレミヤがその幻を思い出すために、神様はダジャレを使われました。ヘブル語では、「アーモンドの枝」の発音は「見る」の発音に似ています。

そのように、神様は最初に簡単な仕事を私たちに与えられます。そして、私たちが上手になると、もっと大きな仕事を与えられます。

しかし、一番大切なのは、神様がいつも私たちと共におられることです。

神様はエレミヤにこう言われました。

さあ、あなたは腰に帯を締め、立ち上がって、わたしがあなたに命じることをみな語れ。

彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしはあなたを彼らの面前で打ち砕く。

見よ。わたしはきょう、あなたを、全国に、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、この国の人々に対して、城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁とした。

だから、彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない。わたしがあなたとともにいて、――主の御告げ――あなたを救い出すからだ。(17ー19)

神様は私たちに同じようなことを言われます。

「私の仕事のために準備しなさい。立ち上がって、私があなたに命じることを行いなさい。

ある人々はあなたに反対するかもしれませんが、あなたに勝つことはできません。

サタンもあなたを攻撃するかもしれませんが、あなたに勝つことはできません。なぜなら、私はあなたと共におり、あなたを救い出すからです。」

あなたは自分についてどう思うでしょうか。弱い者だと思うでしょうか。取るに足らない者だと思うでしょうか。価値がない者だと思うでしょうか。

神様の目には、あなたは本当に貴い人です。

神様に従えば、そのことが分かるようになります。神様に従いませんか。

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列王記第二 歴代誌第二

ごみを捨てる

私は古いものをあまり捨てません。必要のない物でも、私はずっと持ち続けてしまいます。

多くの人々は、私のようにため込む傾向があるかもしれません。けれども、もしあなたがクリスチャンであるなら、捨てなければならないものがあります。それは、罪と罪へと導くものです。

そのため、アモン王の息子であるヨシヤがユダの王になったとき、彼は霊的なごみを捨て始めました。ただし、それには少し時間がかかりました。

ヨシヤは8歳の時に王となりましたが、16歳になると神様を求め始めました。(歴代誌第二34:3)

では、なぜヨシヤは神様を求め始めたのでしょうか。

それは彼の父アモンの影響ではなかったはずです。アモンは本当に悪い王でした。

おそらく、彼の祖父マナセが自分の失敗についてヨシヤに教えたのかもしれません。

とにかく、ヨシヤは偶像やその祭壇を捨てました。実際、その偶像を粉々に砕いたのです。それだけでなく、その偽りの神々の祭司たちを処刑しました。

これはまさに「ごみ」を捨てることです。

私たちも同じようにすべきです。

それはポルノの雑誌やビデオといった具体的なものかもしれません。

または、心の中にある苦々しい思いや妬み、怒り、貪欲といったものかもしれません。それらもすべて捨てなければなりません。なぜなら、神様の民にはそのようなものはふさわしくないからです。

もし私たちが本当に神様を求めているなら、ヨシヤのようにそのようなものを捨てるべきです。

あなたは何を捨てるべきでしょうか。

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列王記第二 歴代誌第二

私たちの罪過を大きくする

少しだけ列王記と歴代誌に戻りましょう。

アモン王の話は短いものの、全く幸せな話ではありません。

その父であるマナセ王と同様に、アモンは偶像礼拝を行い、さまざまな酷い罪を犯しました。

アモンが父の試練を見たにもかかわらず、その同じ道を選んだのは信じがたいことです。

とはいえ、マナセとアモンには大きな違いがありました。

彼はその父マナセがへりくだったようには、主の前にへりくだらず、かえって、彼アモンは罪過を大きくした。(歴代誌第二33:23)

結果として、アモンの民は彼を裏切り、殺害しました。

おそらく預言者たちがマナセを警告したのと同様に、アモンも警告を受けたのだと思われます。

けれども、アモンは預言者たちの言葉を退けました。ところが、「彼の罪過を大きくしました」と記されており、それはどういう意味なのでしょうか。

おそらく、彼は全く悔い改めなかったのでしょう。

私たちが罪を告白し、悔い改めるならば、神様はその罪を赦してくださり、私たちの心を清めてくださいます。

しかし、私たちが悔い改めない場合、私たちの罪はゴミのように重なっていきます。

ゴミ捨て場に行ったことがあるでしょうか。それは本当に酷い場所です。

それだけではなく、おそらくアモンの罪は時間とともにさらに酷くなっていたのでしょう。

もし私たちが小さな罪を悔い改めるなら、私たちの良心の敏感さを保つことがでけれども、

けれども、神様の声を無視すると、私たちの心は堅くなってしまいます。

その結果、神様の声が聞こえなくなり、罪を犯しても罪悪感を抱かなくなります。そのため、私たちの罪はだんだんと大きくなります。

最後に、彼は自分が罪を犯していることを十分承知していながら、その罪を続けたため、その意味で彼の罪過はさらに大きくなったのです。

時々、私たちは思わず罪を犯してしまうことがあります。それでも、私たちの行動は罪であり、悔い改める必要があります。

けれども、わざと罪を犯すと、私たちの罪過はもっと大きくなります。

イエス様はこう言われました。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。

しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。

すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12:47-48)

あなたはどうでしょうか。罪を犯したとき、すぐに悔い改めているでしょうか。

それとも、罪が積み重なってしまっているでしょうか。

アモンのように罪過を大きくしないでください。そうでなければ、アモンのように代価を払うことになるでしょう。

むしろ、マナセのように悔い改めましょう。そうすることで、神の憐れみを知ることができるのです。

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ナホム書

確かな裁き

このブログの英語版を書いているとき、私はこう思いました。

「いつになれば列王記第二と歴代誌第二を読み終えることができるのだろうか。少ししか残っていないけれど、この預言書が邪魔に感じるなぁ。」

おそらく、イスラエル人もそのように感じていたでしょう。

彼らは罪深い生活を続けたいと思っていましたが、預言者たちはその生活を妨げました。だから、イスラエル人は預言者たちが黙ることを望んでいたのです。

けれども、イスラエル人がナホム書を読んだとき、多分慰めを感じたことでしょう。実は、ナホムという名前は「慰め」を意味しています。

ナホム書では、ナホムはイスラエルの敵であるアッシリヤの崩壊を預言しています。具体的には、アッシリヤの首都ニネベの滅亡を預言しているのです。

ヨナ書では、神様がニネベ人たちを彼らの罪のために裁こうとされましたが、彼らはへりくだり、悔い改めました。だから、神様は彼らに憐れみを与えられたのです。

しかし、その後すぐに彼らは再び罪に戻ってしまい、神様は再び彼らを裁こうとされました。今回は、彼らが悔い改めなかったため、裁きが実行されたのです。

この預言書がいつ書かれたのかは誰も知りません。おそらくマナセ王の時代(列王記第二21章)とヨシヤ王の時代(列王記第二22章)の間に書かれたのでしょう。

とにかく、ナホム書の冒頭では、私たちは「怒りの神」を目にします。(もしあなたがそれに違和感を覚えるなら、ここをご覧ください)。

ナホムはこう書きました。

主はねたみ、復讐する神。主は復讐し、憤る方。主はその仇に復讐する方。敵に怒りを保つ方。(ナホム書1:2)

怒りの神ですよね。けれども、第3節にはこうあります:「主は怒るのに遅い神です。」

そのため、ニネベの人々が悔い改めたとき、神様は彼らに憐れみを与えられました。そして、彼らが再び罪を犯し始めたとき、神様は彼らに悔い改める時間を与えられました。

もしナホムがマナセ王の時代にこの書を書いたとしたら、神様はおよそ50年間待たれたことでしょう。

もしヨシヤ王の時代に書いたのだとしたら、神様は約30年間待たれたのではないかと思われます。

けれども、彼らは悔い改めませんでした。だから、神様は彼らに警告を発せられたのです。

主は決して罰せずにおくことはしない方。(1:3)

ナホム書1:2-3を読めば、大体ナホム書のメッセージが分かります。

神様に信頼して従う人にとっては、

主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる。(1:7)

でも、ニネベに関して、ナホムはこう言いました。

しかし、主は、あふれみなぎる洪水で、その場所を滅ぼし尽くし、その敵をやみに追いやられる。(1:8)

また、

王妃は捕らえられて連れ去られ、そのはしためは鳩のような声で嘆き、胸を打って悲しむ。ニネベは水の流れ出る池のようだ。

みな逃げ出して、「止まれ、立ち止まれ」と言っても、だれも振り返りもしない。

銀を奪え。金も奪え。その財宝は限りない。あらゆる尊い品々が豊富だ。

破壊、滅亡、荒廃。心はしなえ、ひざは震え、すべての腰はわななき、だれの顔も青ざめる。(2:7-10)

なぜでしょうか。3章では、ナホムは説明します。

ああ。流血の町。虚偽に満ち、略奪を事とし、強奪をやめない。

むちの音。車輪の響き。駆ける馬。飛び走る戦車。突進する騎兵。剣のきらめき。槍のひらめき。

おびただしい戦死者。山なすしかばね。数えきれない死体。死体に人はつまずく。

これは、すぐれて麗しい遊女、呪術を行なう女の多くの淫行によるものだ。彼女はその淫行によって国々を、その魅力によって諸部族を売った。(3:1-4)

ニネベの人々は何年も周囲の国々を攻撃し、人々を殺し、その財産を奪いました。

なぜでしょうか。それは、彼らが力と富を愛していたからです。また、彼らは偽りの神々を礼拝し、その偶像崇拝を他の国々に広めました。

だからこそ、神様はこう宣言されました。

見よ。わたしはあなたに立ち向かう。。。わたしはあなたに汚物をかけ、あなたをはずかしめ、あなたを見せものとする。

あなたを見る者はみな、あなたから逃げて言う。「ニネベは滅びた」と。

だれが彼女を慰めよう。あなたのために悔やむ者を、どこにわたしは捜そうか。(3:5-7)

彼らの残虐行為があまりにも多かったため、誰一人としてニネベを悼む者はいませんでした。

最後に、ナホムはこう書きました。

あなたの傷は、いやされない。あなたの打ち傷は、いやしがたい。

あなたのうわさを聞く者はみな、あなたに向かって手をたたく。だれもかれも、あなたに絶えずいじめられていたからだ。(3:19)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

それは、裁きが確実に訪れるということです。神様は忍耐強く、憐れみ深いお方です。神様は、おそらく私たちよりも長く人々の悔い改めを待っておられることでしょう。それは、神様が人々の滅びを喜ばれないからです。

しかし、いずれの日か、神様の忍耐にも終わりが来て、裁きが訪れるのです。

ニネベの人々の上に裁きが下されたように、私たちの上にも裁きが訪れます。

ヘブル人への手紙の著者はこう書きました。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。。。(へブル9:27)

あなたは準備ができているでしょうか。

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神様の前にへりくだっている?神様の前に低くさせられる?

今日、やっとイザヤ書を読み通すのを完成しました。

この箇所では、神様は正しい者と悪者の区別を説明しておられます。

正しい者とはどのような人でしょうか。

神様はこう言われます。

わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。(イザヤ書66:2)

正しい者はへりくだっています。

その人はすべてのことを知らないことを認めます。その人は自分の罪と弱さをよく知っています。そして、罪を犯すと、すぐに悔い改めます。

さらに、その人は神様の言葉を軽く考えず、その言葉におののきます。なぜなら、その言葉は命の言葉だからです。

悪者とはどのような人でしょうか。神様はこう言われます。

実に彼らは自分かってな道を選び、その心は忌むべき物を喜ぶ。。。

わたしが呼んでもだれも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの喜ばない事を彼らが選んだからだ。」(3-4)

悪者は神様の言葉を侮ります。彼らはその言葉がもう時代遅れだと思います。そのため、神様の言葉を無視し、罪を犯します。

それだけではなく、彼らは神様に従う者をからかいます。けれども、結局彼らは恥ずかしい思いをし、その罪の結果を受けます。(5、6)

その一方、正しい者は喜びます。彼らは神様からの平和と慰めと満足と祝福を知っています。(10-14)

そして、神様は追放から戻ったイスラエル人についてこう言われました。

[彼らを]諸国に遣わす。。。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。

彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として。。。わたしの聖なる山、エルサレムに連れて来る。。。

わたしは彼らの中からある者を選んで祭司とし「ます」。(19~21)

そのように、私たちクリスチャンは神様の栄光を国々に伝えるべきです。私たちは人々を神様に導くべきです。そうすれば、私たちが触れた人々も神様の祭司としもべになります。

しかし、もう一つのことを覚えていなくてはなりません。裁きの日に、天と地が新しくなり、皆は神様の前に平伏します。(23)

その日、あなたは、へりくだって神様の前に来るでしょうか。それとも、神様の前に低くさせられるのでしょうか。へりくだって、悔い改めた心のある人々に、神様は赦しといつまでも続く名前を与えてくださいます。

けれども、神様に背いた人々は低くされます。イザヤは彼らについてこう言われました。

そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる。(24)

だから、その日が来る前に神様の前にへりくだりましょう。そうすれば、あわれみを知ることができます。そうすれば、永遠の命を知ることができます。

他の方法はないのです。

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イザヤ書

すべては新しくなる

私はあまりコンピューターを買いません。ある人々は三年に一度、または五年に一度くらい新しいコンピューターを買います。

私が今使っているコンピューターは三年前に買ったものですが、その前のコンピューターは十年ほど使いました(「Windows Me」のOSを覚えているでしょうか)。

とにかく、そのコンピューターはだんだん処理が遅くなり、もう寿命だと思ったので新しいものを買いました。今使っているコンピューターはかなり速く、すべてがスムーズに進むようになって本当に良かったと思います。

では、その話が私たちにどう関係しているのでしょうか。

もちろん、神様はコンピューターをアップグレードすることに興味を持っておられるわけではありません。神様ははるかにすばらしい計画を持っておられます。それは、この全世界を新しくされるという計画です。

私たちが住んでいる世界は、だんだん崩れいています。地震や台風やハリケーンが良く起こります。私たちが住んでいる世界は、だんだん崩れています。

地震や台風やハリケーンがよく起こります。

また、人々は他の人々を傷つけます。もちろん犯罪も起こりますが、それだけではなく、夫たちはその妻たちを傷つけ、妻たちはその夫たちを傷つけ、両親たちはその子供たちを傷つけ、友達はその友達を傷つけます。

それに、この世には死が治めています。いつか皆が死にます。あなたが若くても、年寄りの人でも、いつかあなたは死にます。

しかし、イザヤが言ったのは、いつかそのような問題が終わるということです。

この箇所では、イザヤは天国について話しているのではないと思います。イエス様の再臨で、この世を1000年ぐらい治めてくださるのだと思います。(黙示録20章)

その時について神様はこう言われます。

見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。

見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。

そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。

百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。(イザヤ書65:17-20)

その時、涙と悲しみはなくなり、皆が喜びます。死はまだ訪れますが、多くの人々は平和な人生を生きます。

そして、イエス様を愛している人々が死んでも、彼らは新しい体を与えられます。(とはいえ、そのタイミングについては私には少し分かりません。)

また、神様の最初の計画通りに、私たちは自分の仕事を喜ぶようになります。

彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。

わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。

彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。(21-23)

そして、その時、この世には平和があります。動物と人間の間にも平和があります。

狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない」と主は仰せられる。(25)

全てが新しくなります。その日が待ち遠しいです。

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神様の召しを無視する

神様が私たちをご覧になる時、どれほどフラストレーションを感じておられるでしょうか。この箇所では、神様のフラストレーションが見えるように思います。

神様はイスラエルについて話しておられますが、私たちについても話しておられるかもしれません。

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ」と言った。

わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。

この民は、いつもわたしに逆らってわたしの怒りを引き起こし[ます]。(イザヤ書65:1~3)

どうして神様は私たちをお見捨てにならなかったのでしょうか。私たちは罪を犯し、そのことは死に値しました。

では、どうして神様は「彼らは私を求めないのに、なぜ私の方が彼らに手を伸ばすべきなのか」と言われなかったのでしょうか。

何回も神様は私たちに、「私はここだ、私はここだ」と言われます。

それなのに、私たちはその愛を目にしても、わざと神様を怒らせます。私たちは神様に対して良い香りではなく、臭い煙となります。だから私たちは裁かれるのです。

神様はこう言われました。

わたしは黙っていない。必ず報復する。わたしは彼らのふところに報復する。。。

わたしは、彼らの先のしわざを量って、彼らのふところに、報復する。。。

わたしが呼んでも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの喜ばない事を選んだからだ。(イザヤ書65:6~7、12)

でも、その裁きの中にも、あわれみがあります。もし私たちが神様の召しに答えるなら、神様は私たちにあわれみを与えてくださいます。神様はこう言われました。

ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見れば、『それをそこなうな。その中に祝福があるから』と言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、その全部は滅ぼさない。

わたしは、ヤコブから子孫を、ユダからわたしの山々を所有する者を生まれさせよう。わたしの選んだ者がこれを所有し、わたしのしもべたちがそこに住む。(8~9)

神様がすべてのイスラエル人をお見捨てにならず、神様に属する心をあわれんだように、今もすべての人々をお見捨てにならず、神様に属する心をあわれんでおられます。

ペテロはこう書きました。

主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。(第二ペテロ2:9)

私たちはどのように神様の召しに反応するのでしょうか。

神様のもとに走るでしょうか。

それとも、神様に背を向けて、わざと怒らせるのでしょうか。

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情け深い神、力ある神

この世界を造られた神が私を愛しておられることは、本当に不思議だと思います。言葉だけですべてを造られた神が私について考えておられることも、不思議だと思います。

この箇所では、そのような神を見ることができます。

イザヤはイスラエル人について話し、神様がどのように彼らを選ばれたかを教えています。イスラエルのエジプトでの経験について、イザヤはこう言いました。

彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。

その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。(イザヤ書63:9)

イザヤはイスラエル人について話しますが、私たちについても話しています。

私たちが苦しむ時、神様も苦しんでおられます。私たちが泣く時、神様も泣いておられます。

だから、私たちが罪に迷った時、神様はイエス様の死によって、私たちを贖い、救ってくださいました。そして、神様は私たちを背負い、抱いて来られました。今でも神様はそうしてくださいます。

それに、神様は力ある神です。イザヤはこう言いました。

私たちが予想もしなかった恐ろしい事をあなたが行なわれるとき、あなたが降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。

神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。あなたは迎えてくださいます。喜んで正義を行なう者、あなたの道を歩み、あなたを忘れない者を。

ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか。(64:3-5)

神様は問題を解決する力を持っておられます。私たちを助ける力を持っておられます。

エジプトが大国だったのに、神様はイスラエル人をエジプトから救い出されました。神様のしるしと不思議を通して、イスラエルの敵は恐れました。

その同じ神が、私たちの人生の中でも働いておられます。神様に仕え、また神様を待ち望む私たちの中で、神様は働いておられます。

神様は情け深い神です。神様は力ある神です。

しかし、一つのものによって私たちは神様から離れます。そのものは、神様の祝福と助けを妨げます。それは、罪です。

神様がイスラエル人を救って祝福されたのに、彼らは神様に背き、御霊を悲しませました。だから、神様はイスラエル人をその敵の手に渡されました。

そのように、私たちの罪によって、私たちは神様から離れてしまいます。イザヤはこう言いました。

私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。

しかし、あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの咎のゆえに、私たちを弱められました。(イザヤ書64:6-7)

私たちが神様を求めないなら、私たちの義でさえ不潔な着物のようになってしまいます。イザヤの文字通りの言葉によれば、私たちの義は不潔な月経布のようだと言っています。

そして、私たちは罪の結果を知っています。自分自身を罪に捧げるなら、結局滅びに至るのです。

赦しへの道は何でしょうか。それは、悔い改めです。罪に背を向け、神様の赦しに頼ることです。私たちの創造者を思い出し、神様を求めることです。そして、イザヤのように祈ることです。

しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。

主よ。どうかひどく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください。(イザヤ書64:8-9)

そうすれば、もう一度、神様の情けと力を知ることができます。

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救いの神、裁きの神

福音は両刃の剣です。福音は始めからそのようなものでした。

イエス様を受け入れるなら、福音は救いの方法となります。しかし、イエス様を拒絶するなら、それは裁きに導きます。この箇所では、救いと裁きの両方を見ることができます。

まず最初に、キリストが国々を裁く姿が描かれています。イエス様の着物は、神様に背く人々の血で赤く染められています。彼はこう言われます。

わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。

わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。(イザヤ書63:3-4)

また、

わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。(6)

私たちがイエス様について考える時、だれもその絵を想像したくありません。けれども、パウロはこう言いました。

罪から来る報酬は死です。(ローマ6:23)

とはいえ、この同じ神は、救いの神でもあります。

イザヤは問いかけます。

エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。(イザヤ書63:1)

神様は答えられます。

正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。。。

わたしの贖いの年が来たからだ。わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。

そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。(イザヤ書63:1,4-5)

その言葉は、パウロの言葉に似ています。

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ書5:6-8)

誰も私たちを救えない時、また私たちが自分自身を救えない時、神様は人間としてこの世に来て、私たちの罪のために死なれました。

神様は私たちが良い人になるまで待っておられませんでした。なぜなら、私たちは自分自身を変えることができなかったからです。

だからこそ、私たちがまだ弱く罪人であった時、イエス様は私たちのために死んでくださいました。

今、私たちがするべきことはただ一つしかありません。それは、神様からの救いの賜物を受け取ることです。それこそが福音です。

しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ書6:23)

救いか裁き。私たち皆は選ばなければなりません。

あなたはどちらを選びますか?

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新しい名前

あなたは自分の名前を変えたいと思ったことがありますか。私は子供の頃、そう思ったことがあります。

なぜなら、「Bruce」という名前は、たくさんの言葉と韻を踏むからです。例えば、「goose」「loose」「moose」「juice」などです。そのため、友達はいつも私をからかっていました。

ところで、イスラエル人もさまざまな名前で呼ばれていました。彼らが追放された時、周りの人々はイスラエル人を「見捨てられている人」と呼び、その国を「荒れ果てている国」と呼びました。

けれども、この箇所では、神様はこう言われました。

シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。

そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。(イザヤ書62:1-2)

その新しい名前は何でしょうか。

あなたはもう、「見捨てられている」と言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている」とは言われない。

かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。(4)

神様がこう言われました。「あなたは私に捨てられたと思っているかもしれません。あなたの国が荒れ果てていると思っているかもしれません。しかし、ある日、私はもう一度あなたを喜びます。もう一度、あなたは私の愛する花嫁となるのです。」

そして、神様はこう言われました。

見よ。主は、地の果てまで聞こえるように仰せられた。「シオンの娘に言え。「見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある」と。

彼らは、聖なる民、主に贖われた者と呼ばれ、あなたは、尋ね求められる者、見捨てられない町と呼ばれる。」(11-12)

つまり、「あなたは神様に捨てられた都市と呼ばれることはありません。むしろ、『神様の聖なる民』、『主に贖われたもの』、そして『尋ね求められるもの』と呼ばれるのです。」

神様は私たちにもそれらの名前を与えてくださいます。けれども、それらの名前は何を意味するのでしょうか。

神様の聖なる民。

聖なるというのは、神様のために聖別されたものという意味です。つまり、私たちは神様の尊い民です。

主に贖われたもの。

贖うというのは、失ったものをもう一度買い戻すという意味です。神様は私たちを造られたので、私たちは本来神様のものでした。しかし、私たちは自分自身を罪の奴隷として売り、サタンの国の囚人となりました。

それでも、神様は私たちを愛し、贖ってくださいました。神様はイエス様の十字架で流された血によって、私たちの罪の代価を支払われたのです。だからこそ、私たちはもう一度神様のものとなりました。

尋ね求められるもの。

私たちが罪に落ちた時、神様は私たちを捨てませんでした。むしろ、羊飼いが迷った羊を探すように、神様は私たちを探してくださいました。イエス様はこう言われました。

もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。(マタイ18:12)

そのように、イエス様は私たちを探してくださいました。イエス様はそのように私たちを愛しておられます。

あなたは神様に捨てられたと思いますか。拒絶されたと感じますか。神様はあなたのために新しい名前を用意されています。

「尋ね求められるもの。」

「贖われたもの。」

「尊い、聖別された者。」

「愛する花嫁。」

「神様の喜び。」

あなたがクリスチャンであるなら、それらはすでにあなたの名前です。神様に属する者として、それらはあなたの名前です。

だから、サタンの嘘を信じないでください。例えば、「神様はあなたを嫌っている」とか、「神様はあなたを見捨てた」などの嘘です。

神様はすでにあなたに新しい名前を与えてくださいました。その名前について深く考え、そして神様の愛に安心してください。

もし、あなたがまだクリスチャンでないなら、神様は今もあなたを尋ね求めておられます。あなたが誰であっても、どのように呼ばれていようとも、神様はあなたのために新しい名前を用意されています。あなたが神様に向かう時、その名前を受け取ることができます。

もしそうしたいと願うなら、この祈りを祈りましょう。

主よ、あなたの御言葉によれば、あなたは私を尋ね求めておられます。また、イエス様は十字架で私を贖ってくださいました。そのことを感謝します。どうか私の罪を赦してください。

私を清めてください。私の人生に来てください。私をあなたの花嫁としてください。私をあなたの喜びとしてくださいますように。毎日、私にあなたのことを教えてください。アーメン。

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良い知らせ

この世では多くの悪いニュースを耳にします。地震が起こり、犯罪が増え、戦争も絶えません。私たちがこうしたニュースを見ると、落ち込んでしまうのは自然なことです。

しかし、イエス様がこの世に来られた時、イザヤ書のこの箇所を引用されました。

神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。

捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年。。。を告げ「知らせるために。」。(イザヤ書61:1-2)

良い知らせ。それは、誰もが必要とするものです。多くの人々の心は傷ついており、罪に捕らわれています。また、多くの人々は暗闇の中で生きており、希望を見出せないでいます。

しかし、イエス様は彼らを解放するために来られました。

イエス様は、苦しむ者を慰めるために来られました。絶望の言葉を取り去り、彼らの口に賛美を満たすために来られました。

彼らの人生の灰の代わりに、頭の飾りを与えるために来られました。

そして、彼らを義の樫の木のように植えるために来られました。だからこそ、人生の嵐が襲っても、彼らは立ち続けることができます。また、彼らは神様の栄光のために生きるのです。(イザヤ書61:2-3)

イエス様は、彼らの人生の廃墟を建て直し、荒れ跡を復興するために来られました。(4節)

イエス様は、彼らを神様の祭司と仕える者にするために来られました。(6節)

イエス様は、彼らの恥を取り去り、彼らに永遠の遺産を与えるために来られました。それは、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない」遺産です。(第一ペテロ1:4、イザヤ書61:7)

イエス様は、私たちに救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせるために来られました。

イエス様の血によって、私たちは義と認められます。また、聖霊の働きによって、私たちは毎日少しずつ聖くなっていきます。

良い知らせでしょうか。それは、なんと素晴らしい知らせでしょう!だからこそ、その知らせを周りの人々に伝えましょう。

イザヤが言ったように、

良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。(イザヤ書52:7)

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神様の愛を反映する

イザヤ書60:1ー3が大好きです。

起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。

見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。

しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。(イザヤ書60:1~3)

「国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」

「あなたの光」、「あなたの輝き」というのはどういう意味でしょうか。

一節には、「あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いている」と書かれています。

そのため、「あなたの光」とは神様を指しているのでしょうか。つまり、国々は直接主のもとへ来るということなのでしょうか。

それとも、私たちが主を反映する存在であるために、国々は私たちのところに来るのでしょうか。

おそらく、そのどちらも真実なのではないでしょうか。

イエス様の栄光が私たちの上に輝いているため、周りの人々はそれに気づき、私たちに興味を持つようになります。そして、私たちを通して彼らもイエス様を知りたいと思うようになります。

この世には、悪と罪が満ちています。そのため、多くの人々は暗闇に迷い込み、「この世にあって望みもなく、神もない人たちでした」(エペソ2:12)とあるような状態にあります。

けれども、イエス様がこの世に来られた時、その暗闇の中でイエス様は光となりました。イエス様は希望の光でした。

そして今、イエス様はその希望の光を私たちの心に照らしてくださいました。ですから、私たちはそのいただいた光をこの世に反映するように召されています。

私たちの贖いと救いを喜ぶことは、確かに良いことです。しかし、神様は私たちが神様の光をこの世に照らすように召されています。なぜなら、神様はこの全世界の人々が、私たちが与えられた喜びを知ることを望んでおられるからです。

イエス様はこう言われました。

あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイの福音書5:14-16)

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神様は遠くにおられるのでしょうか。

時々、人々はこう尋ねます。「神様はどこにおられるのでしょうか。私には神様が見えません。この世にある悪しか目に入りません。」

神様は確かにここにおられます。けれども、私たちの心の中に罪があるため、神様を見るのが難しいことがあります。イザヤはこう語りました。

見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。

あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ書59:1-2)

神様を見たいと思いますか。あなたが悔い改めるなら、神様はあなたの罪を赦し、あなたの心を清めてくださいます。そして、その結果、神様を見ることができるようになります。

イエス様はこう言われました。

心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。(マタイ5:8)

神様は聖なる方であり、罪を見ることができません。そのため、私たちの心の中に悔い改めていない罪があるならば、私たちは神様から遠ざかってしまいます。

しかし、自分の罪に取り組むのではなく、多くの人々は言い訳をしてしまいます。イザヤは次のように語りました。

むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。(4)

また、

彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。

彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。

彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。

それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。

私たちは盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだ。(7-10)

この世界を見渡すと、私たちはそのような現実にどれほど頻繁に直面していることでしょうか。人々は罪を善と呼び、神様が定めた罪を良いこととして受け入れ、それを喜びます。

けれども、結局のところ、私たちは暗闇に迷い込んで、「どうしてこの世はこんなに混乱してしまったのだろうか」と問いかけます。

その理由は明白なのに、私たちにはその理由が見えていません。それは、私たちが良い神を拒絶し、罪を愛しているからです。その結果、この世はますます悪くなり、崩れていっています。

それでも、私たちが罪人であっても、神様は私たちを見捨てることはありませんでした。

主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。

そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり「ました。」(15-17)

約2000年前、イエス様はこの世に来られ、私たちの罪のために十字架で死なれました。そのため、もし私たちが悔い改め、イエス様に立ち返るならば、私たちは赦され、自由にされるのです。それは、まさに良い知らせです。

しかし、悪い知らせもあります。それは、もし私たちが神様に向かわないならば、神様の裁きを受けるということです。

主は彼らのしうちに応じて報い、その仇には憤りを報い、その敵には報復をし「ます」(18)

だから、どうか待たないでください。今日は救いの日です。今、この瞬間に神様に向かいましょう。

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虚しい宗教

神様は虚しい宗教に全く感動されません。ミカ書6章では、神様がそのことについて語られています。そして、この箇所でも、同じテーマが語られています。

この箇所では、イスラエルの民が神様に対して文句を言いました。

なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。(イザヤ58:3)

外見だけを見ると、それが正当な文句のように思えるかもしれません。なぜなら、

彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行ない、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らはわたしの正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる。(2)

けれども、神様は私たちの断食や祈り、宗教的な行動だけをご覧になっているわけではありません。神様は私たちの人生のすべてを見ておられます。

それゆえ、神様はイスラエルの民にこう言われました。

見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、圧迫する。見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかをするためであり、不法にこぶしを打ちつけるためだ。

あなたがたは今、断食をしているが、あなたがたの声はいと高き所に届かない。

わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。

わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。

飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。(3-7)

つまり、「あなたが祈り、断食をするとき、霊的な人々のように見えるかもしれません。しかし、それ以外のときに自分自身のためだけに生きているなら、あなたの断食と祈りは無意味です。

あなたの周りには多くの人々が悩んでいるのに、あなたが彼らを無視しているなら、そのような生き方では、私にとってあなたの断食と祈りは意味をなしません。」

一方で、あなたが周りの人々に手を差し伸べるならば、

。。。暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。

そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる」と仰せられる。。。

あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。

主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。

あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。(8-11)

多くの人々は「日曜日クリスチャン」です。つまり、彼らは日曜日には教会に行くけれど、それ以外の日には自分自身のために生きています。

イスラエルの民も、安息日に神様を礼拝していたかもしれませんが、他の日には自分自身のために生きていました。実際、多くの場合、安息日ですら彼らは自分のために生きていたのです。

そのため、神様は彼らにこう言われました。

もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。(13-14)

ですから、日曜日には自分自身のために生きるのではなく、その日を神様を敬うために過ごしましょう。

あなたはどうでしょうか。あなたの信仰は虚しいものでしょうか。それとも、神様と他の人々への愛が、あなたの心に豊かに満ちているでしょうか。

神様は、私たちの宗教的な形式や習慣を望んでおられるわけではありません。神様が望んでおられるのは、私たちの愛です。そして、私たちが周りの人々を愛し、彼らに仕えることを望んでおられます。

あなたはどのような信仰を持っていますか。

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平和へと導く道

神様は、反抗したイスラエルの民を叱った後、へりくだっている人々に憐れみを注がれました。そして、神様はこう言われました。

盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の道から、つまずきを取り除け。(イザヤ書57:14)

この箇所では、神様は追放されたイスラエルの民がバビロンから帰還することを預言しています。それゆえ、神様はこう言われました。

「私の民の帰還のために道を整えよ。つまずきを取り除きなさい。」

そして、神様はクロス王の心を動かし、彼がイスラエルの民を自分の国に帰らせました。

しかし、この預言には二つ目の意味もあるのではないでしょうか。つまり、イスラエルの民が神様のもとに帰る道にもつまずきがありました。そして、神様ご自身がそのつまずきを取り除かれたのです。

神様は、私たちが義人になるのを待たれていたのではありません。それどころか、その前にイエス様をこの世に送り、イエス様が私たちの罪のために十字架で死なれました。

その働きによって、私たちは赦され、神様との関係が回復されたのです。

では、私たちはどうすればよいのでしょうか。へりくだって悔い改めましょう。そうすれば、神様は私たちにこう言われます。

いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。

「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから。

彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおそむいて、自分の思う道を行った。

わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。

わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」と主は仰せられる。(イザヤ書57:15-19)

わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。

私はその言葉が大好きです。多くの人々は神様を恐れ、罪を犯すと神様からの罰を待っています。

しかし、悔い改めるならば、神様はすぐに赦してくださいます。神様は私たちを義の道に導き、慰め、そして私たちの傷を癒してくださいます。その結果は――

平和です。

それでも、多くの人々は自分の道の虚しさに気づきません。そのため、彼らは自分の心を頑なにし、悔い改めることなく、自分の道を歩み続けます。

神様はそのような人々について、こう言われます。

しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。

「悪者どもには平安がない」と私の神は仰せられる。(20-21)

あなたはどうでしょうか。あなたの心には平和がありますか。神様があなたの罪を赦してくださった平和を持っていますか。神様がもうあなたに対して怒っておられないことを、本当に知っていますか。

へりくだった心の平和を経験したことがありますか。悔い改めた心の平和を味わったことがありますか。あなたは自分自身の道を離れ、神様の道を歩んでいますか。それは平和へと導く道です。

あなたは、どの道を選びますか。

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希望のないものをすがる

ある日、私の友人がこう訊きました。「どうしてサタンは戦い続けているのでしょうか。彼はすでに負けたと分かっているはずなのに。なぜ諦めないのでしょうか。」

また、他の人々はこう尋ねます。「どうしてサタンは悔い改めないのでしょうか。彼は悔い改めることができるのでしょうか。」

これは興味深い質問ですが、正直に言えば、私にはその答えが分かりません。

私の考えとしては、サタンは悔い改めることが理論的には可能かもしれませんが、決してそうしないと思います。彼は長い間神様に反抗し続け、その結果、彼の心が固くなりすぎているのだと感じます。

とはいえ、これはサタンだけの問題ではありません。人間もまた、そのような態度を取ることがあります。この箇所では、私たちはそのような態度を見ることができます。

イスラエルの民は神様に背を向けたため、追放されました。(実際にはそれは預言ですが、イザヤはまるでイスラエルの民がすでに追放されたかのように語っています。)

彼らは長い間、偶像を礼拝し続けましたが、その礼拝の虚しさを目の当たりにしても、悔い改めることを拒みました。

イザヤはイスラエルの民について、こう言いました。

あなたは、長い旅に疲れても、「あきらめた」とは言わなかった。あなたは元気を回復し、弱らなかった。

あなたは、だれにおじけ、だれを恐れて、まやかしを言うのか。あなたはわたしを思い出さず、心にも留めなかった。

わたしが久しく、黙っていたので、わたしを恐れないのではないか。(イザヤ書57:10-11)

10節はイザヤ書40:29-31に少し似ています。けれども、イザヤは40章の言葉を少し変えています。

40章では、神様はこう言われました。

主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ書40:31)

この箇所では、残念なことに、イスラエルの民は自分の罪によって疲れ果て、希望のない状況を目の当たりにしても、「諦めた」とは言いませんでした。

それどころか、彼らは自分の罪にしがみつき、それによって元気を回復しようとしました。しかし、最終的に彼らはその罪のために滅びてしまいました。

では、あなたはどうでしょうか。希望がないにもかかわらず、自分の道を歩み続けていますか。

どうか、あなたの心を頑なにせず、自分自身の道を捨てて、神様の道を歩んでください。あなたの道は死へと導きますが、神様の道は命へと導きます。

どの道を選びますか。

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なぜ、義人は滅びるのか

私の父は、2011年に亡くなりました。その最後の週、私の家族は父のベッドの隣で見守っていました。

実は、私の心はその日のために約10年間準備していました。なぜなら、父の心臓は弱かったからです。それに、彼は糖尿病を患っており、他にもいくつか健康上の問題がありました。父がこれほど長く生きてくれたことは、私にとって驚きでもありました。

幸いなことに、父が亡くなったとき私はハワイにいました。私はずっと日本に住んでいるので、いつも心配していたのは、ある日突然、姉から「父が亡くなったよ」と電話で知らせを受けることでした。

けれども、神様のタイミングと御心によって、父が亡くなったとき、私はハワイにいることができました。

それはもちろん辛い出来事でしたが、それでもやはり、私はハワイにいられて本当に良かったと思います。

時々、人々は「どうして私たちは死ななければならないのだろうか」と尋ねます。

この箇所で、神様はその答えを私たちに示してくださいます。

義人が滅びても心に留める者はなく、誠実な人が取り去られても、心を向ける者もいない。

まことに、義人はわざわいから取り去られて、平安に入り、まっすぐに歩む人は、自分の寝床で休むことができる。(イザヤ書57:1-2)

この世界は死にかけています。この世界は罪によって堕落してしまいました。そのため、私たちは地震や他の天災を目にするだけでなく、罪に堕ちた人々の姿も目の当たりにしています。このように、この世の人々は壊れてしまいました。

そのような状態で、あなたはいつまでも生き続けたいと思うでしょうか。私はそう思いません。

私の父は、悪い健康状態に苦しんでいました。そのため、私は父がそのままの状態で長く生き続けることを望みませんでした。しかし、神様が父を御許に迎えてくださったことに、私は感謝しています。

もちろん、私は寂しい気持ちがあります。それでも今、父はもっと良い場所にいます。壊れて死にかけていた父の体は新しくされます。

さらに、父には今、平和があります。父は安らかに休んでいます。そして、父はイエス様の顔を見ているのです。そのことを考えると、私は少しうらやましい気持ちさえ抱きます。

私の言葉を誤解しないでください。すぐにこの世を離れたいと思っているわけではありません。天国に行ったら、私が喜んで手放すものがたくさんあります。苦しみ。痛み。罪。

そして、神様のタイミングが来たら、私は喜んで天国に行きます。

私が亡くなる時、私の墓石にこの言葉を書いてほしいです。

「ブルースのために泣かないでください。ブルースはこのお墓にいないから。」

イエス様の十字架の働きを信じる人々にとっては、死は本当にとげがないです。(第一コリント15:55)

あなたはどうですか。死のために準備しているでしょうか。

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リーダーって?

私たち全員、悪いリーダーに出会ったことがあると思います。そのような人々は、リーダーの役割を担わない方が良いでしょう。残念なことに、イスラエルには多くの悪いリーダーがいました。

この箇所で、神様はそのリーダーたちを厳しく責められます。

野のすべての獣、林の中のすべての獣よ。食べに来い。見張り人はみな目が見えず、知ることがない。

彼らはみな口のきけない犬、ほえることもできない。あえいで、横になり、眠りをむさぼる。この貪欲な犬どもは、足ることを知らない。

彼らは、悟ることも知らない牧者で、みな、自分かってな道に向かい、ひとり残らず自分の利得に向かって行く。

「やって来い。ぶどう酒を持って来るから、強い酒を浴びるほど飲もう。あすもきょうと同じだろう。もっと、すばらしいかもしれない。」(イザヤ書56:9-12)

悪いリーダーとは、どのようなリーダーでしょうか。

彼らは、何が起こっているのかを見えていません。

周りの人々のニーズが見えず、さらには先に待ち受けるトラブルにも気づきません。そのため、トラブルが発生すると、驚き、どう対応すれば良いのか分からなくなります。

彼らには知識や知恵が欠けています。

何をしているのか分からないリーダーを見たことがあるかもしれません。また、知恵を使わずに行動することもあります。たとえ正しいことをしようと試みたとしても、リーダーシップに必要な知識と知恵を求めようとはしません。

その結果、彼らは繰り返し愚かな決断を下してしまいます。

トラブルが起きても、彼らは何も言いません。

トラブルが訪れても、彼らは警報を鳴らさず、その問題を解決するために何もしません。むしろ、彼らはその問題を無視し、「何とかなるだろう」と楽観的に考えます。しかし、結局それは現実離れした希望に過ぎません。

彼らは怠惰であり、自分自身のためだけに生きています。

彼らは周りの人々に仕えることなく、むしろ周りの人々が自分に仕えることを期待します。

他人のニーズには無関心であり、自分自身のニーズばかりを考えています。彼らは自分が満足している一方で、彼らの後輩たちは飢えています。

私たちのリーダーたちを批判するのは容易なことです。けれども、あなた自身はどうでしょうか。

あなたはどのようなリーダーですか?あなたの家族に対しては?あなたの子供に対しては?あなたの教会の人々に対しては?そして、あなたを見上げる人たちに対しては?

あなたは、自分が良いリーダーであると言えるでしょうか。神様は、あなたに何を語っておられるでしょうか。

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差別のない救い

旧約聖書の時代、主の宮での礼拝は非常に排他的でした。そのことは、モーセ五書(創世記から申命記まで)に詳しく記されています。

例えば、祭司だけが宮の聖所に入ることができ、大祭司だけが至聖所に入ることを許されていました。しかも、大祭司が至聖所に入るのは、年に一度だけでした。

さらに、他にも厳しいルールがありました。たとえば、もし祭司たちが睾丸を損傷していたり、身体に欠陥があれば、聖所や至聖所に入ることはできませんでした(レビ記21:16-24)。

また、旧約聖書と新約聖書の時代には、宮の中で女性や外国人が立ち入ることのできない区画も存在しました。

しかし、この箇所では、神様が「ある日、そのような差別は終わる」と約束されています。神様はこう宣言されました。

主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。

宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。

まことに主はこう仰せられる。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。

また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。

彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。(イザヤ書56:3-7)

つまり、どんな人であっても、神様を求めるならば、神様はその人を受け入れてくださいます。

神様の目には、誰も二流市民などではありません。ユダヤ人でも、アメリカ人でも、日本人でも、神様はあなたを愛する子として迎え入れてくださいます。

パウロはこう書きました。

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。

ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ3:26-28)

神様の国で、あなたが二流市民だと感じることがあるでしょうか。

心に留めておきましょう。たとえあなたが誰であっても、過去に何をしていたとしても、神様の目には二流市民など存在しません。

人種や性別、またはこれまでの履歴に関係なく、神様はあなたに恵みを注いでくださいます。ですから、その真理の中で安心しましょう。

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充実した人生

古いロックの歌詞にこんな一節があります。

「私は決して満足していない。」

多くの人々がこの言葉に共感します。彼らは「努力しても、努力しても、」決して満足できません。

それは、彼らが求めているものが虚しいものであり、結果として空虚さを感じてしまうからです。

けれども、この問題は現代に始まったものではありません。古くから人々は充実した人生を求めてきましたが、それを見つけることができませんでした。

イザヤの時代においても、同じ問題がありました。そのため、神様はこう語っておられました。

ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。

さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。

なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。

わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。

耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。(イザヤ書55:1-3)

多くの人々は、食べ物や飲み物、またさまざまな物を手に入れるためにお金を使います。そのために彼らは夜遅くまで働き、「もしその物を買うことができたら、私は満たされるだろう」と考えます。

しかし、神様はこう言われます。

「あなたはお金を無駄にしているのです。その物を得るために時間とお金を費やしても、それらはあなたを満たすことはありません。一方で、わたしが与えるものを受け取れば、真の満足と真の命を得ることができます。」

では、どこで真の満足を見つけることができるのでしょうか。イザヤはこう語ります。

主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。

悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。

そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(6-7)

つまり、すべての物よりも、命を与える神を求めなくてはなりません。自分自身の道を捨て、悔い改めてください。そうすれば、赦しと真の命を得ることができます。

多くの人々は自分の道を歩み続けます。その道が幸せに導くと信じているからです。

彼らは神様の道を選ぼうとしません。なぜなら、神様が彼らの喜びを取り去ろうとしていると誤解しているからです。けれども、神様はこう言われました。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ――

天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。

そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。

まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。(8-12)

神様は何を言われているのでしょうか。

「あなたは自分の思いや道が最善だと思っているかもしれません。しかし、私の思いと道はそれよりもはるかに高いのです。あなたには見えないものが、私には見えています。あなたが理解できないことも、私はすべて理解しています。

そして、雨と雪が天から降り、植物を育て、芽を出させ、種を蒔く者には種を与え、人々を祝福するように、私の言葉もまた、あなたのために私が望むことを必ず成し遂げるのです。

ですから、私を信頼し、私に従いなさい。そうすれば、あなたは祝福され、さらに周りの人々も祝福されるでしょう。」

その結果は何でしょうか。それは、喜びと平和に満たされた人生です。さらに、充実感あふれる人生です。

あなたはどのように生きているでしょうか。虚しいものを追い求めているでしょうか。もしそうであれば、結果として虚しい人生を手にすることになるでしょう。

そうしないでください。あなたには本当の満足を見つける方法があります。

そのためには、自分自身のプランやプライドを捨てる必要があります。

そして、謙虚な心を持って神様の前に出て、「あなたに信頼します。毎日あなたを求めます。あなたの道を学びたいので、私に教えてください」と祈りましょう。

そうすれば、あなたの結婚や仕事、人生において、本当の満足を見つけることができるでしょう。

あなたはどの道を選びますか。

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和解

聖書では、神様はイスラエルを浮気性の妻にたとえることがよくあります。それでも、神様は忠実な夫として、いつもイスラエルを追い求め続けておられました。

それは本当に不思議なことだと思います。もし私の妻が浮気したら、私はどう対応するか自信がありません。もし彼女がいつも他の男性を追い求めていたら、私は何をすれば良いのか分からないでしょう。

それでも、イスラエルの民がいつも他の神々を追い求めたにもかかわらず、神様は彼らを見捨てることなく、追い求め続けておられました。

そして、この箇所で神様は、イスラエルに祝福を与えると約束されています。

つまり、イスラエルの民が追放され、捨てられた妻のような存在であり、さらに子どものいない妻であったにもかかわらず(当時のイスラエル文化では、それは大変な恥とされていました)、神様は彼らと和解されたのです。

神様は彼らにこう語られました。

あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。

主は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか」とあなたの神は仰せられる。

「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。

怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」とあなたを贖う主は仰せられる。(イザヤ書54:5-8)

そして、神様はこう言われました。

たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ主は仰せられる。(10)

この世界では、愛はとても揺れやすいものです。愛はすぐに崩れることがあります。

夫が妻を捨てることもあれば、妻が夫を捨てることもあります。

しかし、神様が約束されるのは、神の愛が決して変わることはないということです。たとえ私たちが何をしても、どんなに失敗しても、神様の愛が私たちから離れることはありません。

それだけではなく、私たちが困難に直面しているとき、神様は私たちを守ってくださいます。

17節で、神様はこのように語られています。

あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。

これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。――主の御告げ――」(17)

神様があなたを捨てたと思いますか。罪や失敗が多すぎるから、神様があなたを諦めたと感じていますか。

いいえ、神様は今もあなたを追い求めています。神様の愛は決して絶えることがありません。永遠に変わらず、あなたを包み込んでいます。

だから、過去のものを忘れましょう。罪の廃墟から歩み出て、新しい道へ進みましょう。

そして、

「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。」(2)

つまり、私たちはイエス・キリストを通して、すでに神様と和解しました。そして、神様は私たちのために良いものを備えておられるのです。

そのため、毎日充実した人生を送りましょう。毎日、神様に信頼し、神様の変わることのない愛の中で安心しましょう。

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なぜイエス様は来たのか

不思議なことに、イエス様が生まれる何世紀も前に、この預言は書かれていました。この箇所では、イエス様の命と死についての重要な真理を学ぶことができます。

彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。

彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。(イザヤ書53:2)

もし私が神様だったら、イエス様を王族の家に生まれさせたかもしれません。また、イエス様をとてもハンサムな姿にしたかもしれません。

けれども、イエス様は貧しい大工の息子としてこの世に来られました。

さらに、イザヤによると、イエス様の外見はごく普通であり、特にハンサムというわけではありませんでした。イエス様の容姿で、女性たちを惹きつけることはなかったようです。

それに加えて、イエス様は人々から拒絶されることもありました。

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。

人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ書53:3)

時々、私たちはこう考えることがあります。「イエス様は本当に私のことを理解してくださるのだろうか。」

なぜなら、私たちは特別にハンサムでも美しくもないし、時には拒絶されることもあるからです。しかし、イエス様には私たちのことがよく理解できます。

それだけではありません。イエス様は私たちを本当に深く愛しておられます。たとえ私たちがイエス様を拒絶したとしても、それでもなお、イエス様の愛は変わりません。それでも、

彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ書53:5)

私たちがイエス様を求めていなかったにもかかわらず、イエス様は私たちのために命を捨てられました。私たちがイエス様から逃げ続けていたにもかかわらず、イエス様は私たちを深く愛しておられました。

イザヤ53:6には、次のように書かれています。

私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。

しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(6)

それは本当に不思議なことです。私たちはイエス様を拒絶し、イエス様から背を向けて逃げました。それにもかかわらず、イエス様は私たちの罪のために、言葉で表現しきれないほどの苦しみに耐えられたのです。

彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。。。

多くの者があなたを見て驚いたように、――その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。(イザヤ書53:7-8、52:14)

そして、十字架で、

彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。。。

彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。(イザヤ書53:8、12)

そのあとで、

彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。(イザヤ書53:9)

しかし、それで話が終わりではありません。

もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。

わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。(イザヤ書53:10-11)

つまり、死はイエス様の終わりではありませんでした。むしろ、イエス様は苦しみの後に「見ました。」つまり、イエス様はよみがえられ、末永く生き、子孫を見られたのです。

その子孫とは誰でしょうか。それは私たちクリスチャンです。私たちがイエス様を受け入れるならば、神様の子供となります。(ヨハネ1:12)

イエス様はその目的のためにこの世に来られました。私たちはイエス様を拒絶し、イエス様から逃げました。それでも、イエス様は私たちを愛し、救うために来られたのです。

ですから、十字架の御業を通して、私たちは永遠の死から救われ、神様の子供として新しい命をいただきます。

私たちがするべきことはただ一つです。イエス様とその御業を信じることです。それによって、私たちは本当の命を知ることができます。

このことをどうか忘れないでください。イエス様は私たちを理解されており、何よりも私たちを愛し、あがなうために来られたのです。

だからこそ、その素晴らしい知らせを周りの人々に伝えましょう。

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救い

この箇所では、神様がイスラエルの民を追放の地から呼び戻される姿が描かれています。同時に、この箇所には救いの象徴的な絵を見ることもできます。

イザヤはイスラエルの民にこう語りました。

さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム。あなたは、主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した。。。

あなたの子らは網にかかった大かもしかのように気を失って、すべての町かどに倒れ伏す。彼らには、主の憤りと、あなたの神のとがめとが満ちている。(イザヤ書51:17、20)

この箇所では、イザヤが神様の裁きによって打ちひしがれたユダヤの民を呼び戻しています。彼らは罪を犯したために、持っていたすべてのものを失いました。

それにもかかわらず、神様は彼らにこう語られました。

見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことはない。(イザヤ書51:22)

つまり、彼らの裁きがすぐに終わり、彼らはもう神様の怒りを飲む必要がなくなるのです。

同じように、私たちも罪深く壊れた状態でイエス様の前に来るならば、イエス様は私たちを救ってくださいます。なぜなら、イエス様は十字架の上で私たちの罪のために代価を支払われたからです。

そのため、私たちはもはや神様の怒りを飲む必要はありません。

そして、イザヤは次のように語っています。

さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレム。。。

ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け、エルサレム。あなたの首からかせをふりほどけ、捕囚のシオンの娘よ。(イザヤ書52:1-2)

神様がイスラエルの民の汚れた服を取り去り、新しい服を与えられたように、神様は私たちの罪を取り去り、私たちに義の服を着せてくださいます。

さらに、神様が彼らの鎖を打ち砕かれたように、神様は私たちの罪の鎖をも打ち砕いてくださいます。私たちはもはや囚人ではありません。私たちは神様の愛する子供たちです。

神様はユダヤの民について、こう語られました。

あなたがたは、ただで売られた。だから、金を払わずに買い戻される。(イザヤ書52:3)

そのように、サタンは私たちのために何も代価を払うことはしませんでした。むしろ、私たちは自分の罪によって、自分自身をサタンの奴隷として売り渡してしまったのです。

しかし、神様が私たちをあがなう時には、お金ではなく、イエス様の尊い血によって私たちをあがなってくださいました。

そして今、神様はその救いを全世界に向けて宣言されています。

良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。

平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。(イザヤ書52:7)

また、

主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現わした。地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。(イザヤ書52:10)

それでは、私たちはどのように応答すべきでしょうか。

去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。。。

主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。(イザヤ書52:11-12)

神様はユダヤの民にこう語られました。

「あなたの囚人としての生活を捨てなさい。罪の生活を捨てなさい。そして、私はあなたと共にいる。」

神様は同じ言葉を私たちにも語っておられます。

「サタンの国から離れ、神様の国へ来なさい。その道はすでに整えられた。私はあなたの罪のために代価を支払った。救いの服はあなたのためにすでに用意されている。

だから、あなたの古い生活を捨てなさい。罪の生活を捨てなさい。私はあなたと共にいる。」

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私たちの遺産

クリスチャンの中には、旧約聖書を読むのがあまり好きではないという人もいます。彼らは「旧約聖書は本当に読む価値があるのだろうか」と疑問に思うからです。

けれども、この箇所で神様はイスラエルの民にこう語られます。「あなたの先祖から受け継いだ遺産、すなわちアブラハムとサラを通して受け継いだ遺産をよく見なさい」。

(イスラエルの歴史は、アブラハムとその妻サラから始まりました。)

神様はこう言われました。

義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。(イザヤ書51:1)

神様はイスラエルの民に語られましたが、同じように神様は私たちにも語りかけておられます。もしあなたが神様を求めているのなら、この言葉はまさにあなたのためのものです。

あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。

あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。(イザヤ書51:1-2)

アブラハムとサラはイスラエルの父と母でしたが、クリスチャンとしての私たちにも彼らとの深い関係があります。彼らは信仰の歩みの模範であり、また信仰による義の象徴でもあります。

もちろん、彼ら以前にも信仰によって歩んだ人々はいましたが、旧約聖書の著者たちは信仰による義について語る際、常にアブラハムを例として挙げています。

パウロがアブラハムについて語ったとき、創世記を引用しました。

それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。(ローマ4:3)

私たちが旧約聖書を読む理由は何でしょうか。

それは、私たちが切り出された岩を見つめるためです。私たちの信仰による義の遺産がどこから来たのかを知るためです。それだけでなく、彼らが信頼した神様について学び、その神の忠実さを見るためでもあります。

イザヤは、その神について記しています。まず、イザヤはイスラエルの民がエジプトから贖い出された出来事を思い起こします。

海と大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではないか。(イザヤ書51:10)

さらに、イザヤは神様がどのようにしてこの世界を造られたのかを思い起こします。

わたしは、あなたの神、主であって、海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主。。。

わたしの手の陰にあなたをかばい、天を引き延べ、地の基を定め、「あなたはわたしの民だ」とシオンに言う。(15-16)

だからこそ、私たちがその神を思い起こし、またアブラハムとサラから受け継がれた信仰の遺産を見つめるとき、神様は私たちに次のように語り、戒めておられます。

義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。

しみが彼らを衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす。しかし、わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ。。。

わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。

天を引き延べ、地の基を定め、あなたを造った主を、あなたは忘れ、一日中、絶えず、しいたげる者の憤りを恐れている。まるで滅びに定められているかのようだ。そのしいたげる者の憤りはどこにあるのか。(7-8、12-13)

私たちの信仰を弱めるもの、それは恐れです。将来への恐れ、そして他人の目を気にする恐れです。

「もし私が神様に従ったら、周りの人々はどう思うだろうか」という心配もその一つです。

しかし、アブラハムやサラ、そして信仰の道を歩んだ他の人々を見守られた神様は、私たちも同じように見守ってくださいます。

私たちを造られた神様、また私たちを罪から救い出された神様は、私たちを滅ぼそうとする敵からも救い出すことがおできになります。サタンからも確かに救ってくださいます。

だからこそ、自分たちが受け継いだ信仰の遺産を思い出しましょう。そして、その遺産を与えてくださった神様のことも思い起こし、神様に信頼しましょう。

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神様の光に歩む。自分の光に歩む。

「私が何をしているか自分でよく分かっている。あなたの教えなんて必要ない。」

私たちはよくそのような態度を取りますが、結局行き詰まってしまいます。そしてその時、私たちはしばしば神様を責めます。

「なぜ、あなたは私を見捨てたのですか。」

イスラエルの民も同じようにしました。自分たちの罪の結果として困難に陥ったにもかかわらず、彼らは神様を責めたのです。

あなたがたの母親の離婚状は、どこにあるか。わたしが彼女を追い出したというのなら。あるいは、その債権者はだれなのか。わたしがあなたがたを売ったというのなら。

見よ。あなたがたは、自分の咎のために売られ、あなたがたのそむきの罪のために、あなたがたの母親は追い出されたのだ。

なぜ、わたしが来たとき、だれもおらず、わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか。(イザヤ書50:1-2)

イスラエルの民はこう文句を言いました。「あなたは私たちの母であるエルサレムを離婚し、私たちというその子供たちを見捨てた。」

しかし、神様は答えられました。

「離婚状はどこにあるのでしょうか。私は誰にあなたたちを売ったでしょうか。私は何もしていません。

あなたたちの罪のせいで、あなたたちは自分自身を奴隷として売り渡したのです。

私はあなたたちを見捨ててはいません。私は家に帰って来たが、去ったのはあなたたちです。不実であったのは私ではなく、あなたたちです。」

そして、神様は不実なイスラエルと来るべきメシアを対比されます。天の父はイエス様に「弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教えられた」のです。

さらに、イエス様は毎日天の父の言葉に耳を傾けておられました。イエス様は天の父に決して反抗せず、その御心に従うために苦しみを耐え忍ばれました。

そのため、天の父は常にイエス様を助け、いつもイエス様と共におられました。(4-7)

そして、神様はこう言われました。

あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。

暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。

見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。あなたがたは自分たちの火のあかりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くがよい。

このことはわたしの手によってあなたがたに起こり、あなたがたは、苦しみのうちに伏し倒れる。(10-11)

神様は何を言われているでしょうか。

もし、あなたが暗闇に迷い、つまずいているのなら、神様に信頼を置いてください。そして、神様とその知恵に頼り続けてください。

そうすることで、暗闇を抜け出し、光の中に入ることができます。神様の赦しを知り、そしてイエス様のように、あなたもこう言うでしょう。

私を義とする方が近くにおられる。だれが私と争うのか。さあ、さばきの座に共に立とう。

どんな者が、私を訴えるのか。私のところに出て来い。見よ。神である主が、私を助ける。だれが私を罪に定めるのか。(8-9)

パウロは同じような言葉を書きました。

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ8:33-34)

しかし、もしあなたが自分自身の「光」に頼り続けて歩むなら、最終的に苦しみを味わうことになるでしょう。

どれほど私たちは自分の知恵に頼って生き、自分の人生を自ら台無しにしているのでしょうか。私たちが神様に耳を傾けないことで、結婚生活や経済が混乱し、破綻してしまいます。

そして、それにもかかわらず、私たちは神様を責めるのです。

もし私たちが神様に従い、その道を歩むなら、私たちの人生はどれほど豊かで平安に満ちたものになるでしょうか。

あなた自身はどうでしょうか。神様の光に導かれて歩んでいますか。それとも、自分自身の光に頼って歩んでいるのでしょうか。

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神様に忘れられた?

「神様は私を忘れられたのだろうか。私には希望が残されているのだろうか。」

ユダヤの亡命者たちは、きっとそう思ったことでしょう。彼らは心の中で叫び続けていました。

主は私を見捨てた。主は私を忘れた。(イザヤ書49:14)

時々、私たちも同じように感じることがあります。「神様に捨てられた」と思います。また、「私は希望がない」と思います。

女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。

たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。

見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。(イザヤ書49:15-16)

つまり、私たちは、母が自分の乳飲み子を忘れることを想像することはできません。また、母が自分の子を憐れまないことも考えられません。とはいえ、この壊れた世界では、自分の子を捨てる母親もいるのです。

それにもかかわらず、神様はこう言われます。

「そのような親しい母子の関係が壊れたとしても、私は決してそのようなことをしない。私の愛は母の愛よりも深いから。あなたを決して忘れない。あなたを決して捨てない。」

神様はイスラエルの民を彼らの土地に帰らせることを約束されました。そして、たとえ彼らが希望を失ったとしても、神様はもう一度彼らに祝福を注ぐと約束されたのです。その時、

あなたは、わたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。(23)

私が主であることを知る。

私たちは本当にそのことを理解しているのでしょうか。「私は神様を信じている」と言いながらも、私たちの行動はその言葉と一致しているでしょうか。

神様の約束を心から信じているでしょうか。

神様が私たちの将来をその御手の中に持っておられることを信じているでしょうか。

神様がご自身の約束を守られることを、本当に信じることができるでしょうか。

私たちに希望が見いだせない時でさえ、神様に信頼し、従い続けることができるでしょうか。

わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。

何によって希望を見出すのでしょうか。私たちには本当に希望があるのでしょうか。

神様が約束されたのは、もし私たちが神様を待ち望み、また神様に従い続けるなら、最終的に神様の祝福を体験するということです。

けれども、時々私たちは神様に失望させられると感じることがあります。そのため、神様に信頼し従うことをためらうこともあるでしょう。

「もし神様に従っても、良い結果が得られなかったら、私はどうしたら良いのだろうか。」

あるいは、こう考えるかもしれません。

「神様に従うことで、私の状況がさらに悪化するのではないか。」

けれども、神様の約束は、最終的に私たちが恥を見ないということです。ある英語の翻訳では、「神様は私たちをがっかりさせない」と書かれています。

しかし、あなたは本当にそう信じているでしょうか。神様が来られるまで、待ち望むことができるでしょうか。

あなた自身はどうでしょうか。「忘れられた」と感じていますか。「捨てられた」と思っていますか。「もう希望がない」と思っていますか。

神様はあなたを決して忘れていません。神様はあなたを決して見捨てません。もしあなたが神様に向かうなら、神様はあなたに希望を与えてくださいます。

神様を信頼してましょう。神様を待ち望みましょう。そして、神様の言葉に従いましょう。そうすれば、たとえ大きな試練に直面しても、最終的にあなたは恥を見ることがないのです。

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メシアの使命、私たちの使命

この箇所では、メシア、つまりイエス様の使命について見ることができます。それは何でしょうか。

一つ目は、神様の栄光を現すことです。(イザヤ書49:3)

つまり、イエス様はイスラエルの民に神様がどのようなお方であるかを教えました。なぜなら、イエス様は神でありながら人間となられたからです。

パウロはイエス様についてこう言いました。

御子は、見えない神のかたちであり。。。神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ「た」。(コロサイ1:15、19)

二つ目は、イエス様が異邦人のために光となることです。つまり、イエス様はイスラエルを救うために来られましたが、それだけではなく、全世界を救うためにも来られたのです。(6節)

三つ目は、イエス様が私たちのために「契約」となられることです。(8節)

イエス様が死ぬ前、自分の弟子たちとともに食事をされました。その時、イエス様は盃を取ってこう言われました。

この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。(ルカ22:20)

また、

罪を赦すために多くの人のために流されるものです。(マタイ26:28)

神様はモーセを通してイスラエルの民と最初の契約を結ばれました。けれども、その契約には重要な条件がありました。それは、イスラエルの民が神様の律法を守るということです。

しかし、新しい契約は異なります。その契約の基礎は私たちの行いではありません。むしろ、その契約の基礎はイエス様の十字架の働きにあります。

もし私たちがイエス様とその働きを信じるなら、私たちの罪は赦されます。

最後に、メシアは

捕らわれ人には「出よ」と言い、やみの中にいる者には「姿を現わせ」と言う。

イエス様はご自身の使命について話された時、こう言われました。

主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし。。。(ルカ4:18)

多くの人々はサタンの国の囚人ですが、神様は彼らを自由にするために来られました。

ただし、一つのことを思い出してください。神様は救いの働きを十字架で始められました。しかし今、その働きを完成させるために、イエス様は御霊を信者たちの心に送られました。

つまり、私たちを通して、イエス様は全世界に福音を述べ伝えたいと願っておられるのです。

御霊は私たちの心の中におられ、私たちを通してこの世界に触れたいと願っておられます。神様は救いのメッセージ、また自由のメッセージを伝えるために、私たちを召されます。

私たちは人々に「牢から出よ」と、また「光のところへおいで」と伝えるべきです。

あなたはそうしているでしょうか。

時々、私たちは失望することがあります。自分の働きが神様のために実を結んでいるのかどうか、疑ってしまうこともあります。それは、時に人々が私たちのメッセージを無視するからです。

イエス様も同じようなことを言われました。

私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。4a)

けれども、イエス様はご自身に、また私たちにこう言われました。

それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。(4b)

神様はきっとあなたの働きのために報いを与えられます。たとえあなたが自分の働きが実を結んでいないと思うことがあったとしても、神様は確かに働いておられます。

パウロはこう言いました。

善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。(ガラテヤ6:9)

あなたが周りの人々に対して、霊的な光となり、塩となりますように。

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平和の道

私たちはしばしば平和を探しますが、見つけることができず、「どうして」と問いかけます。

イスラエルの民も同じでした。けれども、17-18節で神様は彼らに答えられます。

あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。

あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。(イザヤ書48:17-18)

日本語の翻訳では「しあわせ」と書かれていますが、別の翻訳では「平和」と訳されています。

英語の翻訳では「平和」と表現されています。つまり、神様は平和の青写真を持っておられます。

それは当然のことだと思います。神様は人間を造られました。私たちをデザインされ、私たちの人生がどのように上手くいくかを完全にご存じです。

だからこそ、私たちが神様に従うなら、平和を見出し、私たちの人生は上手くいくのです。

しかし、多くの人々は神様とその言葉に従うと言いながらも、実際にはその言葉を無視して、自分の道を進みます。イスラエルの民もそのような人々でした。

それゆえ、神様はこう言われました。

これを聞け。ヤコブの家よ。あなたはイスラエルの名で呼ばれ、ユダの源から出て、主の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めるが、誠実をもってせず、また正義をもってしない。

確かに彼らは聖なる都の名を名のり、イスラエルの神――その名は万軍の主――に寄りかかっている。(イザヤ書48:1-2)

イスラエルの民は、神様に従うと言っていました。神様の御名によって誓い、神様を呼び求めました。「あなたは私たちの神です」と告白していました。

けれども、彼らの態度や行動は、彼らの心の本当の姿を明らかにしていました。

だから、神様はこう言われました。

あなたがかたくなであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っている。。。

あなたは聞いたこともなく、知っていたこともない。ずっと前から、あなたの耳は開かれていなかった。

わたしは、あなたがきっと裏切ること、母の胎内にいる時からそむく者と呼ばれていることを、知っていたからだ。(4、8)

それは厳しい言葉です。けれども、神様は私たちについてこのように言われるでしょうか。私たちは神様とその御言葉に対して心を堅くしているでしょうか。神様の御言葉を拒絶しているでしょうか。

私たちはしばしば、「どうして私の人生はめちゃくちゃになっているのだろうか」と考えます。

「どうして私の結婚は上手くいかないのだろうか。どうして他の人間関係が上手くいかないのだろうか。どうして私のキャリアは上手くいかないのだろうか。」

しかし、私たちは神様の御言葉を読むと、それを無視します。そして、「従っても、私の問題は解決しない」と言い、「難しすぎる」とも言います。

そのため、私たちは自分の道を行き続けます。

その結果はどうなるでしょうか?

「悪者どもには平安がない」と主は仰せられる。(22)

私たちが神様に従うなら、私たちの人生はどれほど良くなるでしょうか。聖書の青写真に従うなら、私たちの人生はどれだけ豊かになるでしょうか。

あなたはどうでしょうか。平和がないと感じていますか。

自分の知恵に頼るのをやめ、堅い心を柔らかくしてください。神様の道を求めてみてください。そうすれば、あなたの魂には平和の川が流れ始めます。

あなたは、どのように応えるでしょうか。

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自分自身を神とする

昔、サタンがエデンで言った嘘を、今でも私たちに囁きます。それは、「あなたは神のようになる」というものです。

人類の歴史を振り返ると、人々は自分自身を神にしようとしてきました。つまり、自分の道を進み、心の王座を神様に捧げずに、自分自身がその王座に座るのです。

バビロンの支配者たちも同じことをしました。そのため、イザヤは彼らを責めました。

あなたは「いつまでも、私は女王でいよう』と考えて。。。

だから今、これを聞け。楽しみにふけり、安心して住んでいる女。

心の中で、『私だけは特別だ。私はやもめにはならないし、子を失うことも知らなくて済もう」と言う者よ。。。

あなたは自分の悪に拠り頼み、「私を見る者はない」と言う。

あなたの知恵と知識、これがあなたを迷わせた。だから、あなたは心の中で言う。「私だけは特別だ。」(イザヤ書47:7、8、10)

バビロンの人々は、神様がご自身について言われた言葉を取り、それを自分自身に当てはめました。

日本語の翻訳では「私だけは特別だ」と書かれていますが、それは少し簡略化された翻訳です。

実際には、バビロンの人々が「私は特別だ」と言ったとき、それは神様の言葉を模倣していたのです。

つまり、

わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。(イザヤ書41:4)

また、

わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。(イザヤ書45:5)

また

わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。(イザヤ書46:9)

しかし、イザヤは彼らに警告されました。

「あなたたちは神ではない。あなたの罪のために裁きが来る。あなたの知恵と力は、神様の怒りからあなたを救うことはできない。」

それでも、どれほど私たちはバビロンの人々のように生きているでしょうか。

私たちは安全だと思い込み、安心してしまいます。自分の道を進み、それで大丈夫だと思い込みます。誰も私たちの罪を見ていないと考え、将来の裁きについて全く思いを巡らせません。

そのような生き方を続けるなら、バビロンの人々のように私たちは倒れるでしょう。私たちは神様の前で裸で恥ずかしい姿のまま立つことになります。

そして、この世の中で、経済問題や結婚生活の問題が生じ、私たちはどうしたら良いか分からなくなるでしょう。

だからこそ、プライドを捨て、心の王座を神様にお捧げしましょう。ただお一人の神様がおられます。そして、その神様は私たちではないのです。

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自分のはかりごとが成就する神

この箇所では、神様はご自身と他の国々の神々を比べ続けておられます。5節で、神様はこう言われました。

わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。(イザヤ書46:5)

なぜ神様はそんなことを言われたのでしょうか。それは、人々がその偶像を造ったとしても、その偶像は自分の力で動くことができないからです。人々は偶像を運ばなければなりません。

そして、一度置かれると、その偶像は自分の位置を全く変えることができません。

そのため、人々が偶像に助けを求めても、偶像は答えることも助けることもできません。もし偶像が自ら動く力を持っていないのなら、どうして人々を助けることができるのでしょうか。(7節)

だから、神様はもう一度言われます。

遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。(9)

神様は他の『神々』とどのように異なっておられるのでしょうか。

わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる』と言う。。。

わたしが語ると、すぐそれを行ない、わたしが計ると、すぐそれをする。(10-11)

つまり、神様は将来をその御手の中に持っておられます。神様は何が起こるかをご存じであるだけでなく、ご自身のプランを持っておられ、そのプランを止められる者は誰もいません。

サタンであれ、人間であれ、誰も神様の計画を妨げることはできないのです。

神様は決して驚くことがなく、将来のことを知っておられ、さらに将来を形づくる力を持っておられます。

特に、神様は救いのプランを立て、そのプランについてこう言われました。

わたしに聞け。強情な者、正義から遠ざかっている者たちよ。

わたしは、わたしの勝利を近づける。それは遠くはない。わたしの救いは遅れることがない。

わたしはシオンに救いを与え、イスラエルにわたしの光栄を与える。」(12-13)

神様は、私たちを救うためにご自身の子イエス・キリストをこの世に送られました。

サタンがイエス様と戦い、ユダヤ人たちもイエス様を拒絶しましたが、神様は彼らの行動さえもご自身の計画の中に取り入れられ、イエス様を通して私たちを救われました。

イエス様は十字架で死なれ、私たちの罪の代価を完全に支払われました。その結果、かつて神様の正義から遠ざかっていた私たちも、今は神様に近づく道が開かれました。

神様がそのようなことを成し遂げられるのなら、私たちは神様が私たちの将来もその御手の中に持っておられると確信できます。そして、何者も、その計画を妨げることはできません。

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あなたを背負う方

ずっと預言者たちの言葉を読んでいると、多くの裁きの言葉に目を留めてきました。けれども、最近イザヤの言葉を読む中で、私は本当に励まされました。

この箇所では、イザヤはバビロンに追放される人々に語りかけています。(ただし、思い出してください。これは預言です。イスラエルの民はまだバビロンに追放されてはいませんでした。)

神様はバビロンの神々を裁かれた後、亡命者たちにこう言われました。

わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。

あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。

なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。(イザヤ書46:3-4)

時々、私たちはイスラエルの亡命者たちのように、落ち込むことがあります。神様が私たちを捨てたのではないか、もう愛していないのではないかと思うことがあります。

しかし、神様はこう言われます。

「わたしは、あなたが母の胎にいる時から、あなたを担ってきた。

あなたが母の胎にいる時、わたしはあなたと共におり、あなたを形づくっていた。

あなたは生まれる前から、わたしに運ばれていた者である。

あなたの目が初めて光を見、医者の顔や母や父の目を見る前から、わたしは存在し、あなたを見守っていた。

あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。 あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。

あなたが成長し、中年を迎え、年を重ねても、どんな変化が訪れようとも、わたしは全く変わらない。わたしは永遠の神である。

なお、わたしはあなたがたを運び、背負い、救い出す。」

つまり、神様は私たちを決して捨てることがありません。私たちが神様を必要とする時、神様はすぐに来られます。それほど深く神様は私たちを愛しておられます。

あなたは、自分が一人ぼっちだと感じているでしょうか。神様に捨てられたと思っているでしょうか。誰も信じられなくなり、皆に裏切られたと感じているでしょうか。

神様はあなたを造り、あなたの名前を知っており、決してあなたを捨てることがありません。

どんな試練を経験しても、神様は必ずあなたを助けてくださいます。

有名な詩が語っているように、私たちが人生の道を振り返る時、砂の上に残された足跡を見て、そこに一組の足跡しか見えないことがあります。

そして、私たちは神様にこう問いかけます。「私があなたを必要としていた時、あなたはどこにおられたのですか?」

しかし、神様は私たちにこう言われます。

「あなたは一人ぼっちだと思ったのですか?決して一人ぼっちではありませんでした。一組の足跡しかなかった時、それは私があなたを背負って歩いていたからです。」

あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。

わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。(4)

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神様を知って、救われるように

神様の方法は時に私たちには理解しにくいものです。アッシリア人、バビロン人、ペルシア人たちもイスラエル人と同じように悪かったのに、どうして神様はこれらの国々を用いてイスラエル人を罰されたのでしょうか。

おそらく、イザヤもイスラエル人たちも同じ質問をしていたかもしれません。だからこそ、神様はこう言われました。

ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。

粘土は、形造る者に、「何を作るのか」とか、「あなたの作った物には、手がついていない」などと言うであろうか。。。

イスラエルの聖なる方、これを形造った方、主はこう仰せられる。

「これから起こる事を、わたしに尋ねようとするのか。わたしの子らについて、わたしの手で造ったものについて、わたしに命じるのか。

このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。わたしはわたしの手で天を引き延べ、その万象に命じた。(イザヤ書45:10,11-12)

つまり、「私はすべてのものを造った。天を引き延べ、その天に無数の星と惑星を置いた。では、あなたはどうでしょうか。最近、何を造りましたか。もしあなたがこのようなものを造れるのなら、さあ話しましょう。」と。

私たちは神様の考え方をすべて理解することはできません。しかし、確かなことが一つあります。それは、神様がすべての人々がご自身を知り、救われることを望んでおられるということです。

この真理は、神様がクロス王について語られる時に、はっきりと見ることができます。

神様はクロスにこう言われました(これは私の意訳ですが)。「あなたは私を知らず、私を求めていない。それでも、私はあなたを偉大な人物とする。あなたは数多くの国を打倒するだろう。」

なぜでしょうか。

それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない。。。

彼ら(つまり、倒れた国民)は鎖につながれて、あなたに従って来、あなたにひれ伏して、あなたに祈って言う。

「神はただあなたのところにだけおられ、ほかにはなく、ほかに神々はいない。」(6、14)

神様はペルシアを用いてイスラエルを罰され、そしてイスラエルを再び彼らの土地へと戻されました。

そのことによって、神様の御名は世界の国々の中で有名になりました。なぜなら、最終的にクロス王が神様の働きを認め、すべての国々にその働きを宣言したからです。(歴代誌第二36:23)

そして、神様はこう言われます。

告げよ。証拠を出せ。共に相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。

わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにはいない。

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。

わたしは自分にかけて誓った。わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことはできない。すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い。。。」(21-23)

神様のメッセージは何でしょうか。

「私は神です。他に神はいない。他に救い主はいない。あなたの神々は偽物です。だから、その神々に背を向けて、私に向かいなさい。そうすれば、あなたは救われる。」

何千年もの時が経ったとしても、神様のメッセージは変わりません。今でも神様は私たちに語りかけておられます。

「この世の神々に背を向けて、私に向かってください。あなたを救いたいから。」

ある日、すべてのひざは神様に向かってかがみ、すべての舌が誓うでしょう。その誓いの内容とは何でしょうか。

パウロはその答えを示しています。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:10-11)

ある日、すべての人が「イエス・キリストは主である」と告白するでしょう。

ある人々は愛と畏敬の心をもってそう言います。しかし、ある人々は歯を食いしばりながら言わなければなりません。なぜなら、その事実を認めたくないからです。

それでも、最終的には全員がそのことを告白するのです。

あなたはどうしますか。今、神様に向かう機会が与えられています。イエス様にあなたの心を捧げてみませんか。

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イザヤ書

あなたの名前を知っておられる神

多くの聖書学者は、イザヤが40-66章を書いたかどうかについて疑問を抱いています。もちろん、その学者の大部分はクリスチャンではありません。

さらに、中には「私はクリスチャンだ」と言いながらも、この部分について疑いを持つ人もいます。

どうしてでしょうか。それは、イザヤが将来の出来事を、あたかも過去に起こった出来事のように書いたからです。また、イザヤの預言が実際に成就しているからでもあります。

イザヤ書を読む時に思い出さなくてはならないのは、イザヤがバビロンやペルシア、そしてイスラエルの追放について記した時、ほとんど何も起こっていなかったという事実です。

当時、バビロンとペルシアはまだ大国ではありませんでした。また、北イスラエル王国はすでに追放されていましたが、ユダ王国はまだ存続していました。

実は、イスラエルにとって最大の敵は、バビロンでもペルシアでもありませんでした。一番の敵はアッシリアでした。

それはさておき、多くの人々がイザヤの預言を読む時、こう言います。

「イザヤの預言はあまりにも完全だ。これは本当の預言であるはずがない。きっとイザヤが亡くなった後、さらにペルシアの王クロスがイスラエル人を自分たちの土地に帰らせた後になって、誰かがこの『預言』を書いたに違いない。」

けれども、それは不信仰な態度です。そのような人々が実際に言っているのは、「神様など存在せず、超自然的な知識はあり得ない。仮に神様が存在したとしても、この世の中にそのように働くはずがないのです」ということです。

ここでは具体的にその疑問に答えませんが、これだけは断言できます。イエス様が生まれる100年以上も前に、旧約聖書のすべてがギリシャ語に翻訳されていました。この点についてはクリスチャンもノンクリスチャンも疑いません。

それでも、旧約聖書にはイエス様についての多くの預言が記されています。例えば、イエス様がどこで、いつ生まれるのか、また、イエス様の死とよみがえりについて、旧約聖書の中で預言されているのです。

だから、私はこのバビロンとペルシアに関する預言を疑いません。

この44章で最も不思議な預言の一つは、クロス王がエルサレムの再建を命じるということです。

なぜそれが不思議なのでしょうか。それは、クロス王がまだ生まれていなかったからです。クロス王が生まれる前に、神様はすでにその名前を知っておられ、クロス王が何をするかをご存じでした。

おそらく、クロス王はその預言を目にしたのでしょう。そして、きっとクロス王はエレミヤの預言も読んだに違いありません。(歴代誌第二36:22-23)

おそらく、その預言によってクロス王は深く感動し、ユダの人々をエルサレムに帰還させる決断をしたのだと思います。

クロス王が学んだ教訓は、私たちにとっても非常に重要です。もちろん、神様は将来を完全に知っておられます。しかし、神様はそれだけではありません。

神様は、私たちが母の胎内にいる時から形造ってくださった方であり、私たちを深く愛し、私たちの名前をご存じです。そして、私たちが神様と協力するならば、神様は私たちのために素晴らしい計画をご用意してくださいます。

パウロはこう言いました。

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。(エペソ1:4-6)

エペソ1:3-14を読んでください。その言葉を深く心に留めましょう。神様があなたの将来だけでなく、あなたの名前も知っておられることを覚えておきましょう。そして、神様はあなたを深く愛しておられるのです。

それを知り、心に平安を持ちましょう。その希望によって、安心しましょう。

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イザヤ書

ほかの神はいない

イザヤ書43-44章では、神様はその民にこの真理を教え込んでおられます。「私だけが神です。他に神はいないのです。」

43章には、次のように書かれています。

あなたがたはわたしの証人、――主の御告げ――わたしが選んだわたしのしもべである。

これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。

わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。

わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。(イザヤ書43:10-11)

そして、44章でも、神様は同じ真理を語られます。

わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。(イザヤ書44:6)

多くの人々は、クリスチャンが偏狭な人々だと思います。それは、私たちが他の神が存在するという考えを受け入れないからです。しかし、もしクリスチャンが正しいなら、それは本当に偏狭な態度と言えるのでしょうか。

例えば、もし私が娘に「2+2=4」と言い張ったとしたら、それは偏狭さを表しているでしょうか。

そうではありません。ただ、真理を語っているだけです。

同じように、この聖書の箇所では、神様は何度も、さまざまな方法で、ご自身の唯一性と独特さをイスラエルの民に教えられています。

まず、神様はこう言われました。

わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。

あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない。(イザヤ書44:8)

神様はご自身の預言を指されます。何度も神様はイスラエルの民に将来の出来事を預言し、その言葉の通りにそれが実現しました。

さらに、神様はご自身の知識について語られます。神様はこう言われました。「私はすべてを造りました。この世界も、また宇宙も造りましたが、私は他に神を知りません。」

イザヤ書43章では、神様はこう言われます。「私は他の神を造らなかった。また、私より先に造られた神はない。」

そして、44章12-20節では、神様はイスラエルの民にこう語られます。

「考えてみなさい。あなたたちは木材で偶像を造ります。しかし、その木材の残りを使って、自分自身を温めるために燃やします。また、その木材の残りで料理を作ります。それでも、その同じ木材で作った偶像を拝むのですか。

あなたはその偶像の創造者です。それにも関わらず、その偶像に助けを求めるのですか。創造されたものが創造者よりも偉いでしょうか。」

だから、神様はこう言われます。

ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。

イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。

わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。

わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。(イザヤ書44:21-22)

神様がイスラエルの民に語られたのと同じことを、私たちにも語っておられます。

「私だけが神であることを思い出しなさい。私はあなたの創造者です。私はあなたの贖い主です。私のもとに戻ってきなさい。なぜなら、十字架で、あなたの罪のために私は代価を支払ったからです。」

神様だけが真の神であることを心に刻みましょう。他に神はいないからです。

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イザヤ書

私たちが誰のものであるか思い出す

「私の人生。私のお金。私の物。私の体。」

どれほど私たちは、このような言葉を口にしているでしょうか。そして、そのような態度を取ることで、私たちはどれほど自分の人生を混乱させてしまうでしょうか。

自己中心的な態度を取ると、私たちは虚しい人生以外にはたどり着けません。

多くの人々は満足を求めて自己中心的になります。けれども、自己中心の生活は私たちを決して満足させません。むしろ、私たちはますます空虚さを感じるだけです。

この聖書の箇所において、その真理が明らかにされています。

イスラエルの民は、長い間自己中心的な態度を取り続けました。その結果、彼らは追放されることになりました。そして、彼らの魂は乾き、涸れてしまいました。

しかし、そのような中で、神様は彼らにこう語られました。

今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。

「恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。(イザヤ書44:1-3)

イザヤがこれを書いた時、ヨエルの言葉を思い浮かべていたのかもしれません。ヨエルはこう預言しています。「わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」(ヨエル書2:28)

この箇所で神様が語っておられるのは、イスラエルの民が神様に背を向けてしまったにもかかわらず、彼らが依然として神様に選ばれた民であるという事実です。

だからこそ、神様は彼らを癒し、助けると約束されました。神様が彼らに聖霊を注がれる時、彼らの乾ききった、涸れた人生に新しい命が吹き込まれます。

その日、彼らの態度は大きく変わります。「私の人生、私の物、私の体だ」とはもう言わなくなるのです。むしろ、

ある者は『私は主のもの』と言い。。。ある者は手に『主のもの』としるし[ます]。(5)

それが、満たされた人生の鍵です。すなわち、聖霊に満たされた人生です。また、聖霊の臨在と力によってよみがえらされた人生です。

そのような人は自信を持ってこう言うでしょう。「私は神様の者です。」

あなたはどうでしょうか。心に空虚さを感じていますか。満たされていないと感じているでしょうか。

自分のためだけに生きていると、決して満足を得ることはできません。持ち物やお金、そしてこの世のものでは、私たちを完全に満たすことはできません。それらは決して人生に真の充実感をもたらしません。

しかし、神様のために生きるならば、また聖霊に満たされるならば、本物の平安と満足を見つけることができます。

あなたは誰の者ですか。そして、誰のために生きていますか。

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イザヤ書

過去を忘れて、進んでいく

この箇所を読めば読むほど、ますます好きになります。

先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。

見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。

確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。(イザヤ書43:18-19)

神様がイスラエルの民に語られたことはこうです。

「あなたたちは失敗した。あなたたちは罪を犯した。それゆえに追放された。けれども、そのことをもう考えるな。私はあなたたちの人生に新しいことをする。

目を開きなさい。そうすれば、私は帰る道を造り、あなたの人生の荒野に命の川を備えるだろう。」

私たちも、しばしば失敗に囚われすぎて、過去に焦点を当ててしまうことがあります。その結果、神様が私たちの未来のために何を計画しているのか気づかないことが多いのです。振り返ってばかりいると、当然ながら前を見ることはできません。

しかし、神様は私たちの人生に新しいことをなさりたいと望んでおられます。今この瞬間でも、私たちが心の目を開けば、神様の計画が見えるのです。

ところが、多くの場合、私たちがその計画を見逃してしまう原因があります。それは何でしょうか。

しかしヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった。イスラエルよ。あなたはわたしのために労苦しなかった。。。

あなたの罪で、わたしに苦労をさせ、あなたの不義で、わたしを煩わせただけだ。(22、24)

心を尽くして神様を求めるなら、私たちは神様の働きを見ることができ、神様の祝福を受け取ることができます。

けれども、多くの場合、私たちは神様を無視し、求めるとしても心が伴わず、消極的にそうしているのです。

それだけではなく、私たちはしばしば自己中心的になり、高慢になります。自分自身のためだけに生きているがゆえに、私たちの罪が神様を悲しませることもあります。

しかし、もし悔い改めて心から神様を求めるなら、神様は私たちのために素晴らしいことをなさりたいと願っておられます。神様には私たち一人一人のための素晴らしいご計画があります。

だから、神様はこう語られます。

わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(25)

あなたの人生はめちゃくちゃになっていると感じていますか。経済はどうですか。結婚はどうでしょうか。仕事についてはどうですか。

過去に焦点を当てるのはやめましょう。代わりに、神様があなたの人生においてどのように働いておられるのかを見てください。

神様に祈って尋ねてください。「神様、あなたは私に何をしてほしいと願っておられるのでしょうか。」

そして、あなたの罪や悪い態度によって神様を悲しませることをやめましょう。

悔い改めて、心を尽くして神様を求めましょう。そうすれば、神様の祝福を知ることができるでしょう。

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イザヤ書

尊い

多分イザヤ書43:1-13が私の一番好きな聖書の箇所です。

だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。

「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。

火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。(イザヤ書43:1-3)

私たちの創造者が語られた言葉を深く心に留めましょう。

「私はあなたを贖ったのだ。」

イスラエルの民がこの言葉を聞いた時、彼らの心はエジプトからの救いへと思いを馳せていたでしょう。かつて、彼らはエジプトで奴隷として苦しんでいましたが、神様は彼らを解放し、約束の地へと導かれました。

しかし、この言葉には、私たちにとってさらに深い意味があります。キリストの十字架を通して、私たちは罪の罰から贖われました。イエス様の流された血によって、私たちは赦されたのです。

わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

あなたは取るに足りない存在ではありません。神様はあなたの名前をよく知っておられます。神様があなたを見て、こう言われます。「あなたは私のものだ。あなたは私が愛している子だ。」

「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり…」

イエス様が語っておられるのは、こういうことです。

「たとえ人生の海が深く、あなたがパニックに陥る時があっても、私はペテロとともにいたように、あなたと共にいます。私はあなたの手を取り、波の上を導くのです。」

川を渡るときも、あなたは押し流されることはない。火の中を歩いても、あなたは焼かれることはなく、炎があなたを燃えつくすこともない。

つまり、どのような試練を経験しても、神様を信頼するならば、あなたは必ず乗り越えることができるのです。

そして、神様はこう語られました。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。(4)

これはおそらく預言の一つでしょう。つまり、イスラエルの追放の後に、ペルシアがイスラエルの民を自分たちの土地に帰らせるようにするため、神様がエジプトや他の国々をペルシアに与えるという意味だと思われます。

とはいえ、これが私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか。

神様は、私たちが高価で尊い存在だと思われたからこそ、イエス様をこの世に送られました。そして、イエス様は私たちの代わりに十字架で死なれました。神様が私たちを深く愛しておられるゆえに、イエス様は私たちの罪のために命を捧げられたのです。

さらに、神様はイスラエルの民にこのように約束されました。 「あなたがたが国々の民の中に散らされても、私はあなたがたをイスラエルに帰らせる。」

神様は私たちにも同じように語られます。たとえ私たちが神様からどれほど離れてしまったとしても、また私たちの人生がどれほどめちゃくちゃになったとしても、神様に立ち返るならば、神様は私たちをもう一度迎え入れてくださいます。

私たちの霊的な目が長い間神様を見ず、耳が神様の声を聞かなかったとしても、それでも神様は私たちを受け入れてくださるのです。(8)

そして今、神様は私たちを神様の証人として呼び出しておられます。

神様は私たちが救いの中で安住するだけで満足してほしいとは望んでおられません。むしろ、その救いを世界の果てまでも伝える使命を担ってほしいと望んでおられます。

神様はこう語られます。

あなたがたはわたしの証人、――主の御告げ――わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。(10)

私たちへのメッセージは何でしょうか。

わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。

わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。(10-11)

イエス様は同じようなことを言われました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)

ですから、神様の尊い愛されている子供たちとして、この世界が救われるために、そのメッセージを伝えていきましょう。

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イザヤ書

目が見えない人、耳が聞こえない人

私たちが霊的な盲人について考える時、私たちはよくノン・クリスチャンのことを思い浮かべます。もちろん、ノン・クリスチャンたちは霊的な盲人に該当します。

しかし、この箇所には、驚くべきことが書かれています。

耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目をこらして見よ。

わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。わたしの送る使者のような耳の聞こえない者が、ほかにいようか。わたしに買い取られた者のような盲目の者、主のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか。

あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない。(イザヤ書42:18-20)

目の見えない人々とは誰だったでしょうか。彼らは本来、神様に仕えるべき人々でした。では、耳の聞こえない人々とは誰だったでしょうか。彼らは神様の使者でした。

彼らは神様の驚くべきみわざを目にしましたが、それに感動することがありませんでした。また、彼らは神様の御言葉を耳にしましたが、それを注意深く聞こうとはしませんでした。

その結果、どうなったのでしょうか。イスラエル人たちは、

かすめ奪われ、略奪された民のことであって、若い男たちはみな、わなにかかり、獄屋に閉じ込められた。

彼らはかすめ奪われたが、助け出す者もなく、奪い取られても、それを返せと言う者もいない。(22)

けれども、神様がイスラエルの民を懲らしめられても、彼らは悔い改めようとはしませんでした。

それは本当に悲しい状態でした。神様が諸国の民の光として召された人々が、逆にその諸国の民がいる暗闇へと落ちてしまったのです。

周囲の国々の民と同じように、イスラエルの民は耳の聞こえない者、目の見えない者となってしまいました。

このことから、私たちは何を学べるでしょうか。

神様の民である私たちも、耳の聞こえない者や目の見えない者になる可能性があります。

では、どのようにしてそのような状態に陥ってしまうのでしょうか。それは、神様とその御言葉に耳を傾けることをやめ、自分自身の道を選んでしまう時です。

また、私たちの周りで神様が何をしておられるのかに無関心になり、自分の夢や計画だけに心を向ける時にも起こります。

神様は私たちを、この死にかけている世界の光として召されました。しかし、もし私たちがこの世のように目が見えず、耳が聞こえなかったら、どのようにして光となることができるでしょうか。それは不可能です。

だからこそ、私たちはこの世界の人々のようになってはいけません。

イエス様にならって、私たちは天のお父様に心を向け、耳と目を開きましょう。

神様が私たちの周りで何をしておられるのかに目を向け、また神様が私たちの内でどのように働いておられるのかを心から尋ね求めましょう。

私たちの手を天のお父様の手に置き、共に神様の働きを進めていきましょう。

目が見えない者にならず、耳が聞こえない者にならずにいましょう。むしろ、この世に生きる人々に手を差し伸べ、暗闇から神様の光へと導いていきましょう。

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イザヤ書

正義と希望を与える方

このイエス様に関する預言がとても大好きです。天のお父様はこう語られます。

見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。。。

まことをもって公義をもたらす。彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。(イザヤ書42:1、3-4)

英語では、このような質問をよく耳にします。「誰がこの世界がフェアだと言うでしょうか。」

その答えは明白です。「だれもそう言わない。この世界はフェアではないからです。」

この世界には、不正義が溢れています。たとえば、裁判官が犯罪者を何度も開放することがあります。

けれども、いつの日か、イエス様は再びこの世に戻られます。その日、イエス様はこの不公平な世界に正義を打ち立てられます。

人々は皆、イエス様の前に立ち、自分の行動について申し開きをしなければなりません。そして、イエス様は全ての人を正しく裁かれます。

しかし、イエス様は正義だけをもたらされるのではありません。砕かれている人々や、苦しんでいる人々には癒しを与えられます。また、希望を持てない人々には希望を与えてくださいます。

私は特に3節が大好きです。

彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく。。。

また、6-7によれば、イエス様は、

国々の光とする。こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。

多くの人々は暗闇の中で生きています。彼らは神様の良さを目にすることができず、罪の囚人として縛られ、そこから逃げ出すこともできません。

けれども、イエス様は私たちの目を開き、暗闇から解放してくださり、神様の素晴らしい光へと導いてくださいます。

16節には、このように書かれています。

わたしは目の見えない者に、彼らの知らない道を歩ませ、彼らの知らない通り道を行かせる。

彼らの前でやみを光に、でこぼこの地を平らにする。これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない。

だからこそ、イエス様にあって、私たちは深い喜びを得ることができます。

そして、いつの日か、私たちはこの歌を共に歌うことでしょう。

主に向かって新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから。海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者よ。

荒野とその町々、ケダル人の住む村々よ。声をあげよ。セラに住む者は喜び歌え。山々の頂から声高らかに叫べ。主に栄光を帰し、島々にその栄誉を告げ知らせよ。(10-12)

希望と正義――イエス様はこれらをもたらすためにこの世に来られました。

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イザヤ書

すべてを治める神

時々、この世界を見渡すと、全てが混乱しているように感じることがあります。犯罪、戦争、そして天災を目の当たりにすると、「神様は本当にこの世を治めておられるのだろうか」と疑問を抱くことさえあります。

けれども、神様はこう答えられます。「はい、私はこの世を治めており、全てを支配しています。」

この箇所では、神様はペルシアの王クロスについて預言されています。クロス王がいろいろな国々を倒すという出来事が預言されているのです。

しかし、神様が本当に伝えたかったのは、「私はすべてを治めており、この出来事は偶然ではなく、私の計画に基づいているのです」ということです。

そして、神様はイスラエルの民にこう問いかけられます。

だれが、これを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。

わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。(イザヤ書41:4)

つまり、神様はこう言われているのです。

「私は永遠です。私は人間の歴史を私の手に持っています。時の始まりから私はおり、時の終わりに至るまで私はいます。」

私たちはこの言葉を聞いた時、どのように反応するでしょうか。それには二つの選択肢があります。

一つ目は、周囲の人々と同じように反応することです。

イザヤは国々について、このように語りました。

島々は見て恐れた。地の果ては震えながら近づいて来た。彼らは互いに助け合い、その兄弟に「強くあれ」と言う。

鋳物師は金細工人を力づけ、金槌で打つ者は、鉄床をたたく者に、はんだづけについて「それで良い」と言い、釘で打ちつけて動かないようにする。(5-7)

多くの人々は、神様の力に触れると恐れを抱くようになります。そこで彼らは互いに励まし合いながら、こう考えます。

「この神をコントロールすることはできない。だからこそ、私たちがコントロールできる神々を造りましょう。」

イザヤの時代には、彼らは金や木材を使って偶像を造りました。

現代においては、多くの人々がお金を自分の神としています。彼らはこう考えるのです。「もし多くのお金を手に入れることができれば、神様に頼らずに、自分自身に頼ることができる」と。

しかし、かつて神様が偶像の虚しさを明らかにされたように、神様はお金の虚しさも明らかにされます。

偶像が未来を預言できないのと同じように、私たちもお金によって将来の安全を保証することはできません。なぜなら、株式市場は時折暴落するからです。また、私たちの投資が思い通りにいかないこともあるでしょう。

たとえ一時的にお金をたくさん儲けることができたとしても、それはすぐに消えてしまうかもしれません。

だからこそ、神様はこれら偽物の神々について、こう言われます。

あなたがたは無に等しい。あなたがたのわざはむなしい。あなたがたを選んだことは忌まわしい。(24)

それでは、私たちの他の選択肢とは何でしょうか。それは、神様に信頼することです。そうすれば、神様はこう言われます。

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(10)

また、

あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。

恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。。。

見よ。わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く。丘をもみがらのようにする。あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。

あなたは主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。(13ー16)

神様が約束されているのは、私たちを決して捨てないということです。むしろ、神様はこう言われます。

「荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。」(17-18)

さらに、神様は私たちの荒地にさまざまな木を植えてくださいます。(19)

つまり、神様は私たちの乾ききった人生を、美しく豊かなものにしてくださるのです。なぜでしょうか。

主の手がこのことをし、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、彼らが見て知り、心に留めて、共に悟るためである。(20)

神様はすべてのことを治めておられます。だから、あなたの人生のコントロールを神様にお譲りしませんか。

人生のコントロールを強く握りしめればしめるほど、私たちの歩みは混乱します。でも、神様にそのコントロールを譲るなら、すべてはもっとスムーズに運び、神様の祝福を知ることができます。

誰があなたの人生を治めているでしょうか。

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希望の力

希望。

未来に直面するとき、私たちに必要なのは希望です。希望がなければ、残るのは絶望だけです。

このイザヤ書の箇所では、イスラエルの民もそう感じていました。彼らは絶望し、人生は混乱し、神様が遠くにおられるように感じていました。だから、彼らは叫んでいたのです。

私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。(イザヤ書40:27)

つまり、こう問いかけるのです。

「神様、どこにおられるのですか。あなたは本当にここにおられるのですか。私を愛しておられるのですか。それとも、私を愛しておられても、私を助ける力がないのですか。」

しかし、神様は答えられました。

あなたは知らないのか。聞いていないのか。

主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。(28)

神様が言われるのは、こういうことです。

「何を言っているのですか。もちろん、私はあなたを助けることができます。私がすべてのものを造ったことをご存じではないのですか。

あなたとは違って、私は決して疲れることがなく、たゆむこともありません。私の英知は、人間の知恵よりも遥かに優れているのです。」

そして、神様はこの慰めの言葉を言われます。

疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。

若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(29-31)

神様はあなたにこう訊かれます。「あなたは疲れているのですか。私は疲れた人に力を与えますよ。あなたにはもう精力がないのですか。私はあなたに活気を与えますよ。」

その力と活気を得る鍵は何でしょうか。

それは神様を待ち望むことです。神様の憐みを思い出しましょう。神様の愛を思い出しましょう。そして、神様があなたのために計画を持っておられることを思い出しましょう。

もしそのことを思い出し、そして神様を待ち望むならば、何が起こっても、それを乗り越える力を受けることができます。それだけではなく、あなたは鷲のように翼を広げて上がることができるのです。

あなたは希望を失いましたか。この箇所を暗記して、その言葉の意味をよく考えてみましょう。

そして、パウロが言ったように、

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)

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神様の偉大さ

私たちが宣言する神様は誰でしょうか。神様はどのような方でしょうか。この箇所でイザヤは教えてくれます。

イザヤはこう言いました。

「見よ。あなたがたの神を。」見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。(イザヤ書40:9ー10)

イザヤは何を言っているのでしょうか。

神様は全能の主です。12節によれば、神様はすべてを造られた方であり、神様と比べると、この宇宙でさえも神様よりはるかに小さいのです。

時々、私は美しい星空を見上げます。その瞬間、宇宙の広大さを感じると同時に、自分がいかに小さい存在であるかを理解します。

しかし、宇宙は神様の手の中に収まるほどの大きさです。造り主は、自らの被造物よりもはるかに大きいに違いありません。

イザヤは続けてこう言います。

目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。

この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。

この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。(26)

神様は国々とその支配者たちよりもはるかに大きな存在です。イザヤはこう言いました。

見よ。国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。

見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。レバノンも、たきぎにするには、足りない、その獣も、全焼のいけにえにするには、足りない。

すべての国々も主の前では無いに等しく、主にとってはむなしく形もないものとみなされる。(15ー17)

王たちが王座に座って、自分の国を広げようとするかもしれませんが、

主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。

主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。

君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。(22ー23)

しかし、神様は全能の主であるだけでなく、知恵に富む方でもあります。だからこそ、イザヤはこう書きました。

だれが主の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか。

主はだれと相談して悟りを得られたのか。

だれが公正の道筋を主に教えて、知識を授け、英知の道を知らせたのか。(13ー14)

その答えは明らかです。「誰も。」

神様だけがすべての知恵を持っておられます。神様だけがすべてのことをご存じです。

だからこそ、イザヤは尋ねます。

あなたがたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか。

鋳物師は偶像を鋳て造り、金細工人はそれに金をかぶせ、銀の鎖を作る。

貧しい者は、奉納物として、朽ちない木を選び、巧みな細工人を捜して、動かない偶像を据える。(18ー20)

ここでイザヤは皮肉を述べています。

「主は地をおおう天蓋の上に住んでおられます。地の住民はまるでいなごのようです。(22)

それでも、あなたたちはこの小さな金と銀の偶像を造るのでしょうか。ある人々は貧しいため、金や銀すら使いません。木材から造ります。

それでも、あなたはこのようなものを礼拝するのですか。このようなものを生きている神と比べるのですか。」

神様は全ての力と知恵と栄光を持っておられます。神様は本当に偉大な方です。そのことを心に留めていなくてはなりません。

とはいえ、もう一つ心に留めるべき大切なポイントがあります。それは何でしょうか。その偉大な神様は私たちを愛しておられるということです。

イザヤはこう書きました。

主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。(11)

それは本当に最も驚くべきことです。

神様がこれほど偉大であり、私たちがこれほど小さくても、神様はなお私たちを愛しておられます。そして、私たちが神様と和解できるように、神様はご自身の子をこの世に送られました。

どれほどあなたは神様の偉大さについて考えるでしょうか。

どれほどあなたは神様の愛について考えるでしょうか。

そのようにすれば、私たちの問題は小さく見えるようになるでしょう。

たとえどんな問題があったとしても、私たちの神様の方がはるかに大きいです。そして、神様は私たちを愛しておられるので、きっと私たちを助けてくださいます。

ですから、私たちの問題に焦点を当てないようにしましょう。偉大な神様に焦点を当てましょう。私たちを愛しておられる神様に焦点を当てましょう。

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イザヤ書

神様のために私たちの心を準備する

それでは、新約聖書を始めましょう。

もしかすると、今日のタイトルを見て少し混乱したかもしれません。

「イザヤ書は新約聖書ではなく、旧約聖書だよ」と思ったかもしれません。

けれども、ある人々は、イザヤ書が聖書全体の要約であることに気づきました。

聖書には66の書がありますが、イザヤ書にも66の章があります。

そして、聖書は二つの部分に分かれています。旧約聖書(39の書)と新約聖書(27の書)です。

同じように、イザヤ書も二つの部分に分かれています。最初の部分には39章、後半の部分には27章が含まれています。

旧約聖書のように、イザヤ書の最初の部分では、人々の罪と神様からの裁きをよく見ることができます。

しかし、40章からは、メシヤの出現とその救いの働きが描かれています。そして、黙示録のように(聖書の最後の書)、イザヤ書66章では、最後の裁きと新しい地と天を見ることができます。

だから、私が言ったように、「新約聖書」を始めましょう。😊

イザヤ書の第二部の冒頭では、バプテスマのヨハネが引用した言葉を見ることができます。

荒野に呼ばわる者の声がする。

「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。

このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の御口が語られたからだ。(イザヤ書40:3-5)

イザヤの叫び、またバプテスマのヨハネの叫びは、現代においても適切です。

この霊的な砂漠や、神様がいらっしゃらない荒れ地のような私たちの心に、主のための道を整えなくてはなりません。私たちは自分自身の心にも、この世界にも、主のための道を備える必要があります。

では、どのようにその道を整えるでしょうか。それには、二つのことを思い出さなければなりません。

一つ目は、

すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。

主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。(6-7)

つまり、私たちの人生が一時的なものであることを思い出さなくてはなりません。この世界の物のほかに、永遠の何かが存在するのです。また、私たちが得た栄光は、最終的にはすべて消え去ります。

だからこそ、私たちの優先順位を正しく定める必要があります。つまり、私たち自身を一番にするのではなく、神様を一番にしなければなりません。

私たちの計画だけを追い求めるのではなく、まず神様とその御国を第一に求めましょう。

二つ目は、このことを思い出しましょう。

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(8)

つまり、神様はいつもご自身の約束を守られます。神様の言葉は決して変わりません。だからこそ、その言葉を私たちの人生の基礎としましょう。

私たちの人生は、常に変化しています。試練は行き来し、良い時もまた、去っては戻ってきます。

しかし、神様は決して変わることがありません。

もし神様の言葉を私たちの基礎とするならば、変わりゆく風が吹いても、私たちの人生は安定します。人生の嵐が押し寄せても、堅く立ち続けることができるのです。

あなたはどうでしょうか。主の帰還に向けて準備をしているでしょうか。

イエス様が帰られるとき、あなたにこう言われるでしょうか。「よくやった。良い忠実なしもべだ。」

イエス様の再臨の日まで、私たちが忠実に生き続けることができますように。

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列王記第二 歴代誌第二

決して遅すぎない

「私にはもう遅すぎるでしょう。」

ジョージ・ルーカスは『スター・ウォーズ』がダース・ベイダーの贖いについての物語だと語っています。つまり、ベイダーは悪によって腐敗しましたが、息子の愛によって救われたのです。

『ジェダイの帰還』で、ルーク・スカイウォーカーは父ベイダーにこう願いました。

「あなたの憎しみを捨ててください。皇帝を拒絶して、私と一緒に逃げましょう。」

けれども、ベイダーは悲しく答えました。「私にはもう遅すぎるのです。私は主人に従わなければなりません。」

その後、皇帝はルークを殺そうとしました。ルークはベイダーの助けをもう一度求めました。

ベイダーはその光景を見て心を悩ませましたが、最終的に皇帝を攻撃して倒したのです。こうして、彼はルークだけでなく、自分自身も救ったのです。

この箇所の話も似たような内容です。

マナセはヒゼキヤ王の息子でした。ヒゼキヤは本当に良い王でしたが、マナセは別の道を歩みました。

彼は偶像を礼拝し始め、偶像とその祭壇を主の宮に築きました。さらに霊媒や口寄せに相談し、占いも行いました。

それだけではなく、彼は自分の息子を火の中に通しました。列王記によると、

罪のない者の血まで多量に流し、それがエルサレムの隅々に満ちるほどであった。(列王記第二21:16)

何度も預言者たちはマナセに警告しましたが、マナセは全く耳を貸しませんでした。むしろ、彼はその預言者たちを殺してしまいました。

ユダヤ人の伝承によれば、マナセが預言者イザヤを殺害したとされています。へブル人への手紙11章37節にある「[他の人たちは]のこぎりで引かれ[た]」という表現は、イザヤを指している可能性があります。

そのため、神様はこう言われました。

見よ。わたしはエルサレムとユダにわざわいをもたらす。だれでもそれを聞く者は、二つの耳が鳴るであろう。

わたしは、サマリヤに使った測りなわと、アハブの家に使ったおもりとをエルサレムの上に伸ばし、人が皿をぬぐい、それをぬぐって伏せるように、わたしはエルサレムをぬぐい去ろう。

わたしは、わたしのものである民の残りの者を捨て去り、彼らを敵の手に渡す。

彼らはそのすべての敵のえじきとなり、奪い取られる。

それは、彼らの先祖がエジプトを出た日から今日まで、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの怒りを引き起こしたからである。(列王記第二21:12-15)

そして、アッシリヤ人たちはマナセを鉤で捕らえ、青銅の足かせにつないでバビロンへ引いて行きました。

列王記ではそれ以上の記録はありませんが、歴代誌の記述はもう少し続きます。

バビロンで、マナセはへりくだり、悔い改め、神様を求め始めました。そこで、神様はマナセを赦してくださいました。

そして、マナセはエルサレムに戻り、再びユダの王として立つことができました。

彼は偶像とその祭壇を取り除き、主の祭壇をもう一度築き、その上で和解のいけにえと感謝のいけにえをささげました。

マナセは数々の悪事を行っていました。ユダの王の中でも、彼は本当に酷い王でした。それでもマナセが悔い改めるのは遅すぎることはありませんでした。

神様はマナセのように人々を裁かれますが、多くの場合、神様は長く待った後で裁かれます。神様はマナセを何度も警告し、ついに裁かれたのです。

しかし、私たちが悔い改めると、神様はすぐに赦してくださいます。

悔い改めるのが遅すぎると思うでしょうか。失敗しすぎたから、神様がもうあなたを赦せないと思うでしょうか。

遅すぎることは決してありません。

悔い改めると、神様はあなたのために待つだけでなく、あなたのもとに走り、喜んで歓迎してくださいます。

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イザヤ書 列王記第二 歴代誌第二

神様の恵みを忘れる

この箇所を読んで私が驚いたのは、神様がいろいろな不思議な方法でヒゼキヤを助けられたにもかかわらず、ヒゼキヤがその恵みを忘れてしまったことです。

歴代誌第二32:35には、このことについてこう記されています。

ところが、ヒゼキヤは、自分に与えられた恵みにしたがって報いようとせず、かえってその心を高ぶらせた。そこで、彼の上に、また、ユダとエルサレムの上に御怒りが下った。

ヒゼキヤはどのように高ぶったのでしょうか。神様がヒゼキヤの病気を癒された後、バビロンから使者がやって来ました。彼らは、神様がヒゼキヤのために何をしてくださったのかを聞いたからです。

しかし、ヒゼキヤは神様を誉めることなく、自分の富、つまり金や銀、武器、そして宝物のすべてを見せびらかしました。

そのため、イザヤはヒゼキヤにこう言いました。

万軍の主のことばを聞きなさい。見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。

また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。(イザヤ39:5-7)

多分、その日バビロン人はヒゼキヤの富を目にしたことで、後にその富を得るためにユダを攻めようと考え始めたのでしょう。

それだけではなく、ヒゼキヤはバビロン人に神様の恵みについて伝える絶好のチャンスを逃してしまいました。もし彼が神様の恵みを語っていたなら、彼らは悔い改めて神様に従い始めた可能性もあったのです。

私たちも、神様の恵みを忘れると同じようなことが起こるかもしれません。自分の持ち物や、自分が成し遂げたことを誇ってしまい、それらの祝福がどこから来たのかを見失ってしまうのです。

そして、他の人々が私たちの祝福を見るとき、私たちは時に神様が与えてくださった恵みを忘れてしまい、自分自身がどのようにそれらを得たのかを誇ることがあります。

その結果、彼らは私たちが仕える神様を誉めるのではなく、私たち自身を誉めてしまうのです。

あなたはどうでしょうか。他の人々があなたを見るとき、その人たちはあなたの成功に感動し、あなたを誉めるのでしょうか。

それとも、彼らはあなたを通して神様を知り、神様を求め始めるのでしょうか。

どうか、神様の恵みを忘れないでください。むしろ、謙遜な心を持ち、いつも神様に感謝を捧げ、神様からいただいた恵みを周りの人々と分かち合いましょう。

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イザヤ書 列王記第二 歴代誌第二

私たちの問題を神様に委ねる

ヒゼキヤはついに悔い改め、神様に向き直りました。それでも、彼の問題はまだ解決していませんでした。アッシリヤは依然としてエルサレムを占領しようと狙っていました。

それでも、ヒゼキヤは再び神様に信頼を置き、神様の約束(イザヤ書38:6)を心に刻んでいたため、希望を持つことができました。そこで、ヒゼキヤは民に向かってこう言いました。

強くあれ。雄々しくあれ。アッシリヤの王に、彼とともにいるすべての大軍に、恐れをなしてはならない。おびえてはならない。

彼とともにいる者よりも大いなる方が私たちとともにおられるからである。

彼とともにいる者は肉の腕であり、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる方である。(歴代誌第二32:7-8)

ユダ人たちはその言葉を聞いて励まされました。

けれども、アッシリヤの王は自分の家来たちをエルサレムに送りました。

そして、その家来たちは、サタンのように、ユダ人を恐れさせるために嘘と真実を混ぜて語りました。

彼らはこう言いました。

「エジプトはあなたたちを助けることができない。他の国々は私たちの前に立つことができなかった。その国々の神々は彼らを救うことができなかった。」

それらの言葉は、すべて事実でした。しかし、彼らは続けてこうも言いました。

「あなたたちの神も、あなたたちを助けることができない。たとえできたとしても、あなたたちの神は私たちの味方です。実は、あなたたちを滅ぼすために私たちを遣わしたのです。」

それは本当に興味深い言葉です。もちろん、一部は嘘でした。それは、神様がユダを救うことができないということです。

とはいえ、アッシリヤ人たちは神様の預言者たちの言葉を耳にしたことがあったのかもしれません。つまり、預言者たちはアッシリヤがユダを攻撃することを警告していました。

だから、多分アッシリヤ人たちはこう言いたかったのです。

「ほら、あなたたちの預言者たちは、私たちが来ることを警告したでしょう。そして今、私たちは来たのです。あなたたちを倒すために。」

けれども、アッシリヤ人たちは二つのことを言いませんでした。

一つ目は、神様がアッシリヤの没落をも預言していたということです。

二つ目は、神様が警告された理由は、ユダ人たちが悔い改めて救われるためだったということです。

とにかく、ヒゼキヤはその言葉を聞くと、すぐに主の宮に行き祈りました。そして、イザヤはもう一度ヒゼキヤを励ましました。

その後すぐに、クシュの王とその軍隊がアッシリヤ人たちを攻撃したため、アッシリヤ人たちは退却せざるを得ませんでした。

しかし、去る前に、彼らはヒゼキヤに手紙を送り、こう言いました。「また戻ってきます。」

さらに、その家来たちはもう一度アッシリヤが成し遂げたことを自慢しました。

では、ヒゼキヤはどうしたのでしょうか。彼はその手紙を主の前に広げ、祈りました。

ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。

主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばをみな聞いてください。

主よ。アッシリヤの王たちが、すべての国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。

私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。(イザヤ書37:16-20)

その祈りから、私たちはいくつかの大切なことを学ぶことができると思います。

1.困難なときに、主がどのような方であるかを思い出しましょう。

神様は天におられる神であり、この世を治めるお方です。また、創造者として私たちを助ける力を持っておられます。

2.私たちの問題を神様に委ねましょう。

自分の必要や疑いについて、正直に神様に語りましょう。

3.へりくだって、神様の助けを求めて祈りましょう。

神様の力に頼るとき、私たちは真の希望を見つけることができます。

ヒゼキヤはこのように行動しました。その結果、神様は彼の祈りを聞き入れ、彼を救われました。神様はアッシリヤの軍隊を打ち滅ぼし、その王も最終的に自分の息子たちによって命を落としました。

あなたが直面している問題は何ですか。 神様があなたの問題よりも偉大なお方であることを思い出してください。

あなたの問題を神様に委ねましょう。そして、救いを求めて祈り、神様に信頼し、その御言葉に従いましょう。

そうすれば、ヒゼキヤのように神様からの救いを経験することができます。

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イザヤ書 列王記第二 歴代誌第二

低くされた

以前も言ったように、この出来事が起こった正確なタイミングは分かっていません。残念ながら、聖書は特定の箇所で具体的な説明をしていないため、私は推測するしかありません。

列王記第二17章から18章では、アッシリヤの王セナケリブが北イスラエル王国を攻撃して滅ぼしたことが記されています。

そして彼はユダを攻撃しました。その理由は、ユダがアッシリヤへの貢物の支払いをやめたからです。しかし、セナケリブ王が攻撃しようとした際、ヒゼキヤは自分のお金と主の宮から金銀を取り除いてセナケリブに支払いました。

ところが、セナケリブ王が再び攻撃してきた際、ヒゼキヤは別の準備を進めていました。ヒゼキヤとユダの民は武器を集め、都市の壁を修理し、さらにアッシリヤ人に水が流れないようにするため、エルサレムの外にある泉の水を塞ぎました。

これは私自身の考えですが、そのような状況でも、多分ヒゼキヤはまだ自分自身に頼り続けていたのだと思います。エジプトとの同盟が失敗したにもかかわらず、依然として神様に向かうことはありませんでした。

そこで、神様はヒゼキヤを病気で打たれました。ずっとイザヤの警告を無視してきたヒゼキヤでしたが、ついに主を訪ねるためにイザヤを呼びました。

そして、イザヤが来てこう言ったのです。

主はこう仰せられます。「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」(列王記20:1)

ヒゼキヤはその状況をどう感じたでしょうか。エルサレムは包囲され、彼自身は病に倒れて死にかけていました。そして、その時点ではまだ息子がいませんでした。(息子のマナセは3年後に誕生しました。)

彼は神様を責めたかもしれません。「どうしてこんなことが起こるのでしょうか。どうして私を打たれるのでしょうか。」

その怒りは自己憐憫へと変わった可能性もあります。

けれども、最終的に彼は神様の前にへりくだるようになりました。

ヒゼキヤは自分のプライドと罪を悔い改め、神様に祈いました。彼の祈りは、神様がヒゼキヤの過去の良い行い、つまり心から主を求めたことを思い出してくださるよう願うものでした。

そして彼は主の前で涙を流しました。

イザヤはその場を立ち去り始めていましたが、神様が彼を止め、ヒゼキヤへの特別なメッセージを与えてくださいました。

わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。

わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る。(イザヤ書38:5-6)

そして、主はしるしを与えてくださいました。それは日時計に下った時計の影を十度後に戻すというものでした。

神様がどのようにそのことをされたのかは分かりません。神様がこの世界を逆方向に回されたのか、光の錯覚を起こされたのかは分かりません。いずれにせよ、神様は約束されたとおりに、ヒゼキヤを癒してくださいました。

私たちはこの出来事から何を学ぶことができるでしょうか。

時に神様は、私たちが神様に目を向けるようにするために私たちを低くされます。もし私たちが神様の言葉に耳を傾けないとしても、神様は私たちを愛しておられるので、私たちを無視することはありません。

神様は私たちの悔い改めのために働いてくださるのです。

ヒゼキヤは次のように書き残しました。

何を私は語れましょう。主が私に語り、主みずから行なわれたのに。私は私のすべての年月、私のたましいの苦しみのために、静かに歩みます。。。

ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。(イザヤ書38:15,17)

あなたは自分の罪によって苦しんでいるでしょうか。神様はあなたを滅ぼすことを望んでおられません。

神様の望みは、あなたがへりくだって生きることです。神様の望みは、あなたが神様に信頼し、あなたの人生が豊かになることです。また、あなたが他の人々にも神様に信頼することを教えることです。

ヒゼキヤは次のように歌いました。

父は子らにあなたのまことについて知らせます。主は、私を救ってくださる。私たちの生きている日々の間、主の宮で琴をかなでよう。(イザヤ書38:19-20)

私たちは自分自身に信頼するのではなく、毎日へりくだって神様に信頼することを選びましょう。そして、その生き方を他の人々に教え、神様への信頼を広めましょう。

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イザヤ書

裁きと贖い

裁きと贖い。聖書では、この二つのコンセプトを頻繁に目にします。この箇所でも、その二つのコンセプトを見ることができます。

34章では、神様がイスラエルを攻撃した国々を裁き、滅ぼします。

35章では、イスラエルの贖いが描かれています。その贖いはどのように来るのでしょうか。

それは、イエス・キリストを通してやって来ます。

イザヤはイスラエル人を励まします。

弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。

「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」(イザヤ書35:3-4)

「あなたの神は来られる。」

短期的には、神様はアッシリヤ人やバビロン人を裁きに来られました。しかし、神様は救いのためにも来られました。

5-6節で、イザヤはこう言っています。

そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。

そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。(35:5-6a)

バプテスマのヨハネは牢にいた時、自分の弟子たちをイエス様のもとに送り、こう質問しました。「あなたは本当にメシアでしょうか。」

それに対して、イエス様は答えられました。

あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。

目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。(マタイ11:4-5)

多分、イエス様はこのイザヤの箇所を考えておられたのでしょう。イエス様はこう言われました。

「イザヤの言葉を覚えていますか。つまり、神様が来ると、目の見えない者の目が開かれ、耳の聞こえない者の耳が開き、足の不自由な者は鹿のように跳びはねるということです。覚えていますか。

今、それは起こっています。

だから、ヨハネに伝えてください。「あなたの弱い手を強め、あなたのよろめく膝をしっかりせよ。強くあれ。恐れるな。私は来たから。あなたの希望を捨てないでください。」」

ヨハネのように、私たちは時々神様を疑うことがあるかもしれません。私たちの信仰が枯れて、神様が本当に存在するのかを疑い、神様の愛を疑い、神様からの救いが本当に来るのかどうかを迷うことがあります。

しかし、イエス様がヨハネに言われたように、疑いに負けないでください。イエス様にすがってください。イエス様は来られたのです。

そして、イエス様はあなたのところに来てくださいます。イエス様が来られると、

荒野に水がわき出し、荒地に川が流れる。。。

焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり[ます]。。。(イザヤ書35:6b-7a)

そして、ある日、あなたは、

喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。

楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。(イザヤ書35:10)

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命の鍵

この箇所の5-6節が私は大好きです。

主はいと高き方で、高い所に住み、シオンを公正と正義で満たされる。あなたの時代は堅く立つ。

知恵と知識とが、救いの富である。主を恐れることが、その財宝である。(イザヤ書33:5-6)

この時、イスラエル人は本当に困難な状況にありました。彼らがエジプトや他の国々と結んだ同盟は失敗に終わり、アッシリヤは攻撃のために迫っていました。

それでも、神様はこう言われました。

「私はすべてに勝る力を持っています。この世の力よりも私は力強いのです。私はあなたの基礎であり、あなたの時代を堅く立たせます。私の知恵と知識は、あなたの救いの富です。」

しかし、その財宝の鍵は何でしょうか。それは、主を恐れることです。

つまり、他のどんなものよりも、神様を敬うことです。

また、神様と比べると、私たちがどれほど小さな存在であるかを思い起こすことです。

さらに、一言で言えば、神様が私たちを滅ぼすことのできる方であることを思い起こすことです。

それでも、私たちが主の御前で謙遜にへりくだる時、神様が私たちに愛と憐れみを注いでくださることを思い起こすことです。

だから、神様はこう言われます。

「遠くの者よ。わたしのしたことを聞け。近くの者よ。わたしの力を知れ。」(13)

多くの人々にとって、神様に面と向かうことは恐ろしいものです。だから、14節にはこう書いてあります。

罪人たちはシオンでわななき、神を敬わない者は恐怖に取りつかれる。(13a)

だから、彼らはこう叫びます。

私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えられよう。

私たちのうち、だれがとこしえに燃える炉に耐えられよう。(13b)

しかし、神様はこう答えられます。「誰にでもできるよ。」

正義を行なう者、まっすぐに語る者、強奪による利得を退ける者、手を振ってわいろを取らない者、耳を閉じて血なまぐさいことを聞かない者、目を閉じて悪いことを見ない者。。。(15)

そのような人々に神様はこう言われます。

このような人は、高い所に住み、そのとりでは岩の上の要害である。

彼のパンは与えられ、その水は確保される。あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る。(16-17)

そして、私たちが振り返ると、かつて恐れていたもののすべてが一掃されることが分かります。

その結果、私たちの人生は安らかな住まいとなり、取り払われることのない天幕となります。(20)

また、

そこに住む民の罪は赦される。(24)

私たちは何を恐れるでしょうか。人々は実に多くのことを恐れます。

最近、熊本で大きな地震がありました。そのため、皆は地震などの災害が起こることを心配しています。

多くの人々は日本の経済についても不安を感じています。

さらに、自分の将来を恐れている人も少なくありません。

しかし、私たちが神様を恐れるならば、他のものを恐れる必要はありません。

そして、イザヤはこう言いました。

しかも、そこには威厳のある主が私たちとともにおられる。。。

まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。(21-22)

だから、神様が与えてくださった鍵を持って、神様を恐れましょう。そうすれば、私たちは生き残るだけでなく、繁栄することができます。

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今日の祈り

この祈りが大好きです。

主よ。私たちをあわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。

朝ごとに、私たちの腕となり、苦難の時の私たちの救いとなってください。(イザヤ書33:2)

この箇所は私の心の中に深く響いています。

主よ、私たちをあわれんでください。

主よ、私たちは毎日あなたの憐れみを必要としています。私は毎日失敗したり、罪を犯したりして、あなたを悲しませてしまいます。どうか赦してください。憐れんでください。

そして、この憐れみを受けた私が、周りの人々にその受けた憐れみを与えることができるように助けてください。

私たちはあなたを待ち望みます。

主よ、私の魂はあなたを慕いあえぎます。私の人生にもっともっとあなたを求めています。どうか私の心があなたを求め続けるようにしてください。そして、私の心を一つにしてください。

朝ごとに、私たちの腕となってください。(腕は力のシンボルです。)

主よ、毎朝私が目覚めるとき、私の力となってください。

試練に直面するとき、私の力となってください。難しい人と向き合うとき、私の力となってください。大変な状況に立ち向かうとき、私の力となってください。そして、今日、私とともに歩んでください。

苦難のとき、私たちの救いとなってください。

主よ、私が心配の重荷を抱えているときに助けてください。敵が迫ってくるとき、私の救い主となってください。

主よ、私は弱い者です。自分の力では敵と戦うことができません。どうか悪から私をお救いください。そして、私がその悪を乗り越えることができるように助けてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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安心。。。じゃない

安心。

多くの人々は安心を求めています。彼らは心から安心したいと願っています。特に自分の将来において、安定を求めています。

そのため、多くの人々がお金を求めています。お金さえあれば安心できると思うからです。

1980年代、日本の経済は本当に順調でした。その結果、多くの日本人が経済的に繁栄していました。

けれども、結局バブルは崩壊し、その安心も消えてしまいました。1991年から2003年の間に、日本の自殺率は約70%も上昇しました。現在でも、日本の自殺率は依然としてかなり高いままです。

イザヤの時代、イスラエル人は1980年代の日本人のようでした。彼らは繁栄し、安心していました。ところが、日本人と同じように、その繁栄と安心は突然失われました。

そんな中、イザヤは彼らに次のように言いました。

のんきな女たちよ。立ち上がって、わたしの声を聞け。うぬぼれている娘たちよ。わたしの言うことに耳を傾けよ。うぬぼれている女たちよ。

一年と少しの日がたつと、あなたがたはわななく。ぶどうの収穫がなくなり、その取り入れもできなくなるからだ。

のんきな女たちよ。おののけ。うぬぼれている女たちよ。わななけ。着物を脱ぎ、裸になり、腰に荒布をまとえ。(イザヤ書32:9-11)

あなたは何に安心を感じますか。お金でしょうか。

お金は安心を買うことはできません。

むしろ、多くの人々はお金によってさまざまなトラブルを抱えてしまいます。

例えば、働きすぎることで結婚生活が弱くなり、最終的に離婚に至ることがあります。そして、離婚によって子供との関係も壊れてしまうのです。

また、他の人々は働きすぎて、自分が貯めたお金を楽しむことすらできません。現在でも、日本政府の報告によれば、過労死により毎年約200人が亡くなっています。

他の人々はお金を愛し、自分の経済のことを絶えず心配しています。どうやってそのお金を持ち続けるか、常に不安に感じています。

しかし、神様だけにあって、本当の安全を見つけることができます。

イザヤがイスラエル人に言ったのは、「あなたが信頼しているものは、あなたから取り除かれる」ということです。

けれども、そのあとで、イザヤは次のように言いました。

しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。(15)

私たちが聖霊によって満たされるなら、私たちは霊の実を結ぶことができます。例えば、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、そして自制を結びます。(ガラテヤ5:22-23)

これらの実を結ぶことで、私たちは真の安心を見出すことができるのです。

そして、イザヤは次のように書きました。

義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。(17)

あなたは安心を求めているでしょうか。お金やこの世のものによって安心を見つけることはできません。一時的な安心を見つけることができても、それはすぐに消えてしまいます。

むしろ、神様に信頼しましょう。聖霊があなたの人生を満たしてくださるように祈りましょう。そうすれば、

人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:7)

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イザヤ書

「本当の男」って?

男とは何でしょうか。

30年前、私は興味深いアメリカの記事を読んだことがあります。その記事によれば、アメリカには「本当の男」がほとんどいなかったそうです。つまり、多くの男性が弱虫だとされていました。

ある女性はこう言いました。「アメリカには、他の国よりも弱虫が多いと思います。多くの若い男性たちは弱虫です。私が知っている男性たちの大部分は弱虫です。」

それは本当に辛い言葉です。では、今はどうでしょうか。「本当の男」はいるのでしょうか。

「本当の男」とはどんな男性を指すのでしょうか。相手をいじめる人でしょうか。威力を振るう人でしょうか。それとも、相手に自分の意志を押し付ける人でしょうか。

この箇所では、その答えを見つけることができると思います。イザヤは正義によって治める王について語っています。

ヒゼキヤについて述べているのかもしれませんが、将来の王、つまりイエス様についても語っていると思います。

そして、その王(と首長)についての記述を通して、本当の王とは何か、また本当の男とはどういう人かが分かると思います。

彼らはみな、風を避ける避け所、あらしを避ける隠れ場のようになり、砂漠にある水の流れ、かわききった地にある大きな岩の陰のようになる。(イザヤ書32:2)

つまり、「本当の男」とは、神様が彼に委ねられた人々を守る者です。嵐が訪れても、彼はその民を守ります。彼は水の流れのように人々を潤し、リフレッシュさせます。

気短な者の心も知識を悟り、どもりの舌も、はっきりと早口で語ることができる。

もはや、しれ者が高貴な人と呼ばれることがなく、ならず者が上流の人と言われることもない。(3-4)

この箇所によれば、本当の男とは教師です。彼の言葉を通して、相手の耳と目が開かれ、彼らは真理を理解できるようになります。その結果、彼らの人生は変えられます。

そして最後に、イザヤは次のように言いました。

しかし、高貴な人は高貴なことを計画し、高貴なことを、いつもする。(8)

つまり、「本当の男」とは、神様の目にかなう計画を立て、神様の目にかなうことを行う人です。

けれども、6~7節では、イザヤは違う種類の男性について述べています。

その男性は、恥ずべき言葉を語り、悪事を企むだけでなく、それを実行します。さらに、神様とその心について誤った教えを広めます。

また、相手を潤すこともなく、必要なものを与えず、人々を励ますどころか、自らの言葉と行動によって相手を滅ぼしてしまいます。

父として、夫として、私が自問しなければならないのは、「私はどんな男なのか」ということです。

私は、しばしば自分の失敗に気づかされます。神様は私を男として生きるように召してくださいましたが、私はなお、男として成長し続けなければなりません。

しかし、イエス様こそが本当の男でした。私がこれまで成し得なかったことを、すべて成し遂げられた方です。

イエス様は私の弱さをよく知っておられ、私の誘惑も深く理解しておられます。

ヘブル人への手紙の著者は次のように書いています。

さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:14-16)

イエス様の再臨まで、私はその恵みの御座に近づきます。

男性の皆さん。あなたはどのような男でしょうか。イエス様のような男でしょうか。

女性の皆さん、特にシングルの女性たち。どのようなボーイフレンドと付き合っていますか。また、どのような伴侶を探していますか。イエス様のような人を求めていますか。

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イザヤ書 列王記第二

私たちの力と救いがどこから来るか

歴史の出来事と預言を結びつけるのは確かに少し難しいですが、この二つの箇所のタイミングは一致している可能性があります。

アッシリヤの王セナケリブとその軍隊は再びユダに侵攻し、攻撃しようとしました。理由は、ヒゼキヤ王がアッシリヤへの貢物を納めるのをやめたからです。

セナケリブはユダの城壁のある町々を攻撃し、侵略しました。そのため、ヒゼキヤは恐れ、謝罪して再びセナケリブに貢物を納めました。

けれども、その貢物を納めるために、ヒゼキヤは主の宮の金と銀を取り除かなければなりませんでした。

なぜそうなったのでしょうか。イザヤ書30-31章では、イザヤがヒゼキヤ王に対して「エジプトと同盟を結んではならない」と警告しました。

それにもかかわらず、ヒゼキヤはその警告を無視して、エジプトとの同盟を結びました。それだけでなく、ヒゼキヤとユダの民はイザヤにこう言いました。

「そのようなことを言わないでください。私たちは聞きたくありません。もし何か言いたいなら、私たちが聞きたいことだけを言ってください。例えば、エジプトが私たちを助けてくれるということなど。」(イザヤ書30:10-11)

その結果、神様は「あなたの背きのゆえに裁きが来る」と警告しました。

けれども、その後、神様はこう言われました。

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。。。

それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。

幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。(イザヤ30:15、18)

つまり、神様はこう言われました。

「もう諦めなさい。自分自身を救おうとするのを止めなさい。自分の力や知恵に頼るのではなく、悔い改めて、落ち着いて私に信頼しなさい。」

さらに、神様は彼らにこう言われました。

「あなたたちにはエジプトの助けは必要ありません。私は神です。エジプトは神ではありません。私はアッシリヤを打倒することのできる神なのです。」

けれども、以前言ったように、ヒゼキヤは神様の言葉に従いませんでした。それどころか、エジプトと同盟を結び、彼らに多額のお金を送ったのです。

そして、神様の言葉どおり、アッシリヤの手によってエジプトは倒されました。

しかし、その後、イスラエルはすでに多くの金と銀をエジプトに支払っていたため、アッシリヤへの貢物を納めるために、主の宮からその金と銀を取り除かなくてはなりませんでした。

それでもアッシリヤはユダを攻撃しました。そのとき、ついにヒゼキヤは悔い改め、神様に立ち返りました。そして、神様が約束されたとおりにエルサレムを救われたのです。

私たちはこの出来事から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちは皆、試練に直面します。そして、自分自身に頼ろうとするのは簡単なことです。

しかし、神様は私たちを助けたいと望んでおられます。神様は私たちの人生に働き、私たちを祝福したいと望んでおられるのです。ですから、神様がヒゼキヤとユダの民に語られたように、私たちにもこう言われます。

ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。

たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜わっても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。

あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。(イザヤ書30:19-21)

神様は知恵の言葉と慰めの言葉を私たちにささやいておられます。

けれども、私たちはその声に耳を傾けているでしょうか。

私たちは本当に神様に頼っているでしょうか。

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イザヤ書

盲人、無知な人

「どうして神様ははっきりとご自身を現されないのでしょうか。そうしてくだされば、私は神様が存在するかどうかを推測する必要がなくなるのです。」

時々、信者も信じない人も、そのようなことを言います。

けれども、その質問をするのであれば、まず、私からあなたに質問があります。

もし神様がそのようにはっきりと現れたら、あなたは本当に神様についていくでしょうか。それとも、単に神様についていかないための言い訳をしているだけではないでしょうか。

実際、聖書の時代には神様はご自身をもっとはっきりと現されました。それでも、多くの人々は神様についていこうとはしませんでした。

例えば、神様は驚くべきしるしと奇跡を通して、イスラエル人をエジプトから救い出してくださいました。何度も砂漠で、神様は彼らに食べ物と水を備えてくださいました。また、雲の柱と火の柱はイスラエル人の宿営にあり、それらは神様の臨在のしるしでした。

それにもかかわらず、イスラエル人は何度も神様を信頼せず、神様に背きました。

そして、新約聖書の時代、神様は人間としてこの世に来られ、イスラエル人にご自身を現されました。イスラエル人はずっと救い主の到来を祈り求めており、ついにイエス様が来られました。

イエス様は奇跡を行い、知恵によって人々を教えられました。他の人々はイエス様と議論しようとしましたが、最終的に彼らは黙らざるを得ませんでした。

それなら当然、イスラエル人全員がイエス様についていったと思うかもしれませんね。

ところが、そうではありません。彼らはイエス様を十字架に掛けました。

このイザヤの箇所では、私たちはそのような態度を見ることができます。アリエル(つまりエルサレム)はまさにそのような態度を持っていたため、イザヤは彼らを責めました。

「アリエル」という言葉の意味は、「神様のライオン」ですが、イザヤはその名前を皮肉として用いています。

彼らは「私たちは神様のライオンだ」と言っていながら、自分たちの道を歩んでいました。

イザヤは次のように言いました。

そこで主は仰せられた。

「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。(イザヤ書29:13)

だから、神様は裁きについて警告されました。まず、神様はエルサレムを裁くと告げましたが、彼らのプライドが打ち砕かれた後には、エルサレムの敵も裁くと警告されました。

しかし、イスラエル人はその警告を聞いても、危険を認識することができませんでした。なぜでしょうか。

イザヤは次のように言いました。

主が、あなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから。(10)

あなたはこう言うかもしれません。「ちょっと待って、それは公平ではない。神様が彼らの目を閉じたのなら、彼らが見ないことで罰するのは不公平ではないですか。」

けれども、実際のところ、イスラエル人は何も見たくありませんでした。知りたいとも思いませんでした。

イザヤは次のように言いました。

のろくなれ。驚け。目を堅くつぶって見えなくなれ。(9)

つまり、「あなたは見たくないのですか。真実に目を閉じたいのですか。いいでしょう。では、あなたはその真理を見ることはできないでしょう。」

イザヤは別の比喩を使いました。神様の言葉は、イスラエル人にとって封じられた書物のようになる、と。

そのため、イスラエル人はこう言います。「神様の言葉は封じられた書物だから、読むことができない。」

または、こう言います。「この預言は難しすぎる。理解できない。」

さらに、「私は読むことができないから、しょうがない。」とも言います。

しかし、それは単なる言い訳でした。彼らは心の中で、本当に理解したくなかったのです。もし本当に理解したかったのなら、間違いなくイザヤや他の預言者に尋ねていたでしょう。

けれども、彼らは、ただ「ごめんなさい。分かりません。」と言って立ち去っただけでした。

イエス様の時代、多くのイスラエル人もまた、このような人々でした。

イエス様は多くのたとえ話を使いました。彼らはその話を気に入りましたが、その意味を理解することはありませんでした。それでも、説明を求めることもせず、彼らはただ帰っていきました。

その一方、イエス様の弟子たちはその意味を知りたかったので、イエス様に質問をしました。すると、イエス様がそのたとえ話を説明され、彼らは理解することができました。

現代でも、多くの人々はこう言います。「聖書は難しすぎて、分かりません。」

しかし、本当に理解したいという心があれば、理解することは可能です。

それでも、彼らは助けを求めることなく、すぐに立ち去ってしまいます。

それは、自分の目を閉じることを意味します。つまり、真理を知りたくないという態度です。

そのような態度を取れば、神様はこう言われます。「それはあなたの選択です。けれども、裁きの日は確実に来ています。あなたは必ず裁かれるでしょう。」

あなたはどうでしょうか。神様の心に対して、自分の目を閉じますか。神様の言葉を知りたくないと考えていますか。

もし、あなたが自分の目を閉じて真理を知りたくないなら、神様はあなたに無理やりご自身を認めさせることはされません。

しかし、もし見たいと望み、心から神様を求めるなら、神様はご自身をあなたに現されるのです。

神様は、イスラエル人にこのような日が来ることを語られました。

その日、耳の聞こえない者が書物のことばを聞き、目の見えない者の目が暗黒とやみから物を見る。(18)

また、

心の迷っている者は悟りを得、つぶやく者もおしえを学ぶ。(24)

私たちが盲人にならないように、無知な人にならないようにしましょう。むしろ、心から神様を求めましょう。そうすることで、私たちは本当に生きはじめるのです。

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イザヤ書

知恵はどこから来るのか

「神様は物理学を理解できるだろうか。生物学はどうだろうか。テクノロジーはどうだろうか。神様は本当にそんなことを理解できるだろうか。」

多くの人々はそのように考えます。

イザヤの時代でも、人々は神様の知恵を疑いました。そのため、彼らは何度も神様に信頼しませんでした。

この箇所では、神様はイスラエル人に、彼らの農業の知識がどこから来たのかを尋ねます。

これまで私は考えていませんでしたが、神様がアダムとエバを造り、エデンに置いたとき、多分神様は彼らに基本的な農業技術を教えたのかもしれません。

そして、時間が経つにつれて、神様はアダムとエバの子孫に、さらに高度な技術を授けられました。

直接教えなくても、神様が彼らに知恵を与えてくださったので、最終的に彼らは自分たちでその技術を学び取ることができました。

こうして、神様はご自身の問いに答えておられるのです。

農夫を指図する神は、彼に正しく教えておられる。(26)

また、

これもまた、万軍の主のもとから出ることで、そのはかりごとは奇しく、そのおもんぱかりはすばらしい。(イザヤ書28:29)

神様のポイントは何でしょうか?

私たちの知識は、もともと神様から来たものです。

世紀にもわたって、私たちはさまざまなことを学んできましたが、神様は最初から全てを知っておられました。私たちが学んだことの中で、神様が知らないことは一つもありません。

神様は、科学、政治学、経済学、心理学、人間関係など、全てを理解されています。私たちが良い人生を送るために何が必要なのか、神様はよくご存じです。

それなのに、なぜ私たちは神様に信頼しないのでしょうか。

多くの場合、私たちは神様の御言葉を読んで、こう言います。

「神様、あなたは分かっておられない。私たちの社会が分かっておられない。私の必要が分かっておられない。もし分かっているなら、あなたの御言葉にこんなことが書いてあるはずがない。」

でも、私たちがそのように考えると、私たちの心は神様を小さくします。

神様は偶然に私たちを造られたのではありません。神様は指を鳴らして、急に全てを造り、そのあとで、「どうやって全てを造ったのだろうか」と悩むような方ではありません。

神様は全てをご存じです。全てを理解されています。神様にあって、私たちが必要とする知恵が備えられています。

だから、神様をあなたの心の中で小さくしないでください。神様をありのままに認めましょう。

パウロが言ったように、

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。

というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。

どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:33-36)

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イザヤ書

おぼつかない礎、堅く据えられた礎

預言書の中でよく扱われるテーマの一つは、信頼です。私たちは誰に信頼を置いているでしょうか。私たちの人生の基盤は何でしょうか。

イスラエルは自分自身を守るために、神様ではなく、自分たちの知恵と努力に信頼しました。そして、神様の預言者たちを拒絶し、その真理をわけのわからない言葉として見なしました。

そのため、イザヤは彼らを厳しく批判します。ユダ人たちは、自分たちをアッシリヤから守るために、エジプトと同盟を結びました。けれども、イザヤはその同盟を「死との契約」と比べています。

イザヤは次のように言いました。

あなたがたは、こう言ったからだ。「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。

たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」(イザヤ書28:15)

イザヤは、皮肉をよく使います。彼はこう言いました。

「あなたがこの同盟を結んだとしても、実際には、あなたは死と契約を結んだのです。

あなたは倒れ、相手の国も倒れるでしょう。だから、自分自身に嘘をついてはいけません。この同盟は、あなたを守ることなどできないのです。」

そして、イザヤは彼らに警告しました。

わたしは公正を、測りなわとし、正義を、おもりとする。

雹は、まやかしの避け所を一掃し、水は隠れ家を押し流す。

あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。

にわか水があふれ、越えて来ると、あなたがたはそれに踏みにじられる。それは押し寄せるたびに、あなたがたを捕らえる。それは朝ごとに押し寄せる。昼も夜も。

この啓示を悟らせることは全く恐ろしい。」(17-19)

けれども、こうした警告の中で、イザヤは次のようにも言いました。

だから、神である主は、こう仰せられる。

「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」(16)

新約聖書の著者たちは、この箇所を使ってイエス様について語ります。つまり、イエス様は私たちの堅く据えられた礎です。

もし私たちがイエス様に信頼するなら、私たちは堅く立つことができ、決して慌てることはありません。

しかし、もし私たちが自分の嘘を信じ、自分の知恵と努力に頼り、神様の言葉をからかうなら、裁きが来て、私たちは滅ぼされるのです。

だから、イザヤは次のように言いました。

だから今、あなたがたはあざけり続けるな。あなたがたを縛るかせが、きつくされるといけないから。

私は万軍の神、主から、全世界に下る決定的な全滅について聞いているのだ。(22)

あなたはどうでしょうか。あなたの礎は何でしょうか。あなたの知恵でしょうか。あなたの努力でしょうか。それとも、イエス様でしょうか。

他の礎では不安定です。もしあなたがその礎に人生を築いたなら、その人生はきっと倒れるでしょう。

しかし、キリストにあって、私たちは堅く据えられた礎を持っています。そして、イエス様に信頼する者は、決して失望させられることがありません。

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イザヤ書

聞こうとしない、学ぼうとしない

英語の教師として、いらいらさせられるのは、学ぶ意欲のない生徒たちです。

ある授業では、生徒たちは全く努力をしません。もし、私が彼らに英語のアクティビティを与えたら、彼らはショックを受けたように見えます。

とはいえ、それよりも、もう一つの態度の方が嫌いです。それは、「既に全て知っている」という態度です。

「もう知っていますよ。教えていただく必要はありません。全て知っていますから。」

それでも、彼らに質問をすると、自分たちが思っているほど理解していないことが、はっきりと分かるものです。

イスラエル人は、そのような人々でした。特に、その「祭司たち」と「預言者たち」は、そのような人々でした。

実は、その祭司たちと預言者たちは偽物の祭司たちと預言者たちでした。彼らは、本当の信仰と偶像礼拝を混ぜたからです。

イザヤは、この人々を酔っ払い、混乱している人々として描写しています。彼らは、イスラエル人を神様を礼拝するように導くはずでしたが、お酒によって「幻」を見て、イスラエル人を神様から遠ざけました。

イザヤや他の本当の預言者たちは彼らに教えようと思いましたが、彼らはイザヤたちをからかって答えました。

「彼はだれに知識を教えようとしているのか。だれに啓示を悟らせようとしているのか。乳離れした子にか。乳房を離された子にか。

彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し』と。」(イザヤ書28:9-10)

つまり、「私たちはもう知っていますよ。子供ではありませんよ。イザヤの言葉はちんぷんかんぷんです。」

(ヘブル語では、「戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し」という言葉は、意味のない言葉のように響きます。)

アテネ人はパウロについて、そのようなことを言いました。「このおしゃべりは、何を言おうとしているのか。」(使徒の働き 17:18)

しかし、イザヤは彼らに警告しました。

「もし私の言葉がちんぷんかんぷんだと思うなら、待ってください。すぐに、他の国の軍隊が来て、イスラエルを攻撃し、イスラエルは倒れるでしょう。その日、外国人からずっとちんぷんかんぷんに聞こえる言葉を聞くことになります。」

神様の望みは、イスラエル人が神様を愛し、神様に信頼することでした。そうすれば、彼らは神様にあって休息することができたことでしょう。(12)

けれども、彼らが神様に背を向けたため、イザヤの言葉は彼らにとってつまずきとなるものになりました。

現代でも、同じ問題があります。多くの人々は、簡単な福音を聞きますが、ちんぷんかんぷんに聞こえる言葉として、それを拒絶します。

「これは子供の話です。私はもう大人だから、いりません」と言います。

しかし、私たちの救い主イエス様を拒絶することによって、彼らは罪に陥り、いつか裁かれることになります。

クリスチャンでさえも、「もう知っている」という罠にはまることがあります。

彼らは教会に行き、メッセージを聞く時、「もう知っている」と思ったり、または「このメッセージを聞きたくない」と思ったりするため、聞くことをやめて、他のことについて考え始めます。

その結果、神様の警告も祝福も受けることができません。

あなたはどうでしょうか。神の御言葉を、わけのわからないものとして拒絶するでしょうか。それとも、神の御言葉を心に受け入れるでしょうか。その御言葉は、あなたの人生を変える力を持っています。

私たちはよく考えます。「どうしてこんなにたくさん問題があるのでしょうか。どうして、神様の祝福を受けることができないのでしょうか。」

多くの場合、それは私たちが神様の言葉を聞かないからです。

あなたの心はどうでしょうか。神様の御言葉に対して、柔らかい心を持っているでしょうか。

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神様が愛する民

「神様は私を本当に愛してくださるだろうか。」

時々、私たちは自分の状況を見て、そう思います。特に、苦しい時に私たちは神様の愛を疑います。

また、私たちは自分の人生をめちゃくちゃにして、「神様は私をもう諦めてしまわれたのだろうか」と思います。

イスラエルはそう思ったかもしれません。けれども、神様は彼らにこう言われました。

その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え。

わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。

わたしはもう怒らない。もしも、いばらとおどろが、わたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。

しかし、もし、わたしのとりでにたよりたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。

時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。(イザヤ書27:2-6)

この箇所では、神様はイスラエルを神様が世話するぶどう畑と比べられました。その言葉はイスラエルのためですが、神様は私たちクリスチャンたちにも話されます。

「私はあなたを見守ります。」

私の目はいつもあなたに留まっています。あなたの人生に何が起こっているかよく知っています。私が気づかないことはありません。全ての微笑み、すべての涙を見守ります。

「あなたに水を注ぎます。」

あなたが枯れている時に、私はあなたを潤します。のどが乾いたら、あなたの渇きを癒します。

「私はあなたを守ります。」

あなたの敵が来ると、私はあなたの盾になります。あなたが恐れたら、私はあなたの砦となります。

「私はあなたのために戦います。」

敵の力によってあなたが圧倒されると、私はあなたのために戦い、あなたは勝利を得ます。

「私の力によって、あなたは実を結びます。」

あなたの人生は咲いて、あなたの人生によって、この世界は祝福されます。

あなたは神様の言葉を聞くと、こう尋ねるかもしれません。「でも、私が罪を犯すと?神様は私を拒絶されるでしょうか。」

それでも、神様はあなたを捨てられません。

イザヤはこう記しました。

主は、イスラエルを打った者を打つように、イスラエルを打たれただろうか。あるいは、イスラエルを殺した者を殺すように、イスラエルを殺されただろうか。

あなたは彼らを追い立て、追い出し、彼らと争い、東風の日、激しい風で彼らを追放された。(7-8)

あなたが罪を犯して、神様に背くと、神様はあなたを懲らしめられます。

しかし、神様はイスラエル人を捨てられませんでしたし、あなたをも捨てられません。あなたが悔い改めると、神様はあなたを赦し、癒してくださいます。

神様はイスラエルにこう言われました。

その日、主はユーフラテス川からエジプト川までの穀物の穂を打ち落とされる。

イスラエルの子らよ。あなたがたは、ひとりひとり拾い上げられる。

その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリヤの地に失われていた者や、エジプトの地に散らされていた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で、主を礼拝する。(12-13)

私たちに対する神様の怒りはいつまでも続きません。イエス様にあなたの救いのために信頼すると、私たちの罪のために滅びることはありません。(ヨハネ3:16)

神様は私たちが神様に戻ることを待っておられます。私たちが悔い改めたら、神様は私たちを癒して、もう一度実を結ぶぶどう畑にしてくださいます。

ダビデが書いたように、

まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。

夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。(詩編30:5)

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神様に信頼すると

時々、神様に信頼することは難しいです。

多くの場合、私たちが祈る時、私たちは神様の御心を求めずに、神様を私たちの意志に従わせようとします。

「あなたに信頼します。あなたの御心が行われるように」と祈らずに、神様に何かをさせようとします。

だから、私たちが望んだように、神様がその祈りに答えてくださらないと、私たちは怒ります。

また、「神様は私を本当に愛してくださっているだろうか」と訊きます。

でもイザヤはこう言いました。

志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。

いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。(イザヤ書26:3-4)

「志の堅固な者。」

それはどういう意味でしょうか。

と言うのは、変化の風が吹くと、また試練が行ったり来たりすると、私たちの信仰は決して揺れません。私たちは神様に信頼し続けます。私たちは神様に頼り続けます。神様は私たちが自分の人生を立てる岩です。

そうすると、私たちは全き平安のうちに守られます。

ヘブル語では、「平安」、「平安」のうちに守られます、と書いてあります。

なぜ「平安」という言葉を繰り返すでしょうか。その平安は浅くないからです。弱くないからです。試練が来ても、その平安はすぐに吹き飛ばされないからです。

むしろ、その平安は私たちの心に根強くあるものです。何が起こっても、その平安は私たちの心を満たします。

イザヤは続きます

義人の道は平らです。あなたは義人の道筋をならして平らにされます。(7)

つまり、私たちが神様に信頼すると、神様は私たちを導いて守ってくださいます。

箴言3:6でこう書いてあります。

あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

でもプライドによって、自分の道を行く人に対して、イザヤはこう言います。

主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、これを下して地に倒し、これを投げつけて、ちりにされる。(5)

イスラエルはずっとそのように生きました。

神様は彼らに恵みを与えられたのに、彼らは罪の道を生き続けました。そして、神様は彼らを苦しめられたので、彼らは神様に叫びました。彼らが悔い改めたら、神様は彼らを赦されました。

でも、もし私たちが最初から神様に信頼して従うと、どれくらい私たちの人生がうまくいくでしょうか。

だから、今神様に従いましょう。全てよりも神様を求めましょう。イザヤが言ったように、私たちも言いましょう。

主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。

私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。(8-9)

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イザヤ書

死が滅ぼされる時

2011年に、私の父は入院して、健康状態が非常に悪いと聞きました。私の母と姉はどれぐらい父が生き続けるか分かりませんでした。

それを聞いて、私の家族は父を見舞うためにハワイに帰省しました。私たちがハワイにいる間に、私の父は亡くなりました。

多くの人々にとって、死は苦しいことです。

父の最後の週に、私は毎晩父の部屋にいて、待ちました。彼はずっと寝て、全然起きなくて話しませんでした。それでも、私は父とよく話しました。

父は私の言うことが聞こえていたかどうか分かりません。本当に辛かったです。

ある日、私は午前12時に兄の家に戻り、姉が私の代わりに父の部屋で待ってくれました。5時間後、父は最後の息を引き取りました。

死は本当に苦しいことです。

でもある日、死も無くなります。

この箇所ではイザヤはイエス様の再臨について話します。イザヤはその事についてこう言いました。

この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。

神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。(イザヤ書25:7-8)

その日、皆は神様にこの賛美を歌います。

見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。(9)

父が亡くなった時は、糖尿病や肺炎を患っていたし、もう目が見えなかったし、足に全然治らない傷がありました。

でも、今その健康の問題は全部無くなりました。父の苦しみと痛みのすべては勝利に飲まれました。(第一コリント15:54)

だから、父は大きな声で天国の皆と一緒に救いの歌を歌っています。毎日、父は主の食卓で食べています。

もう一度私の父に会うことを楽しみにしています。

私はある歌が大好きです。その歌を聞くと、父のことを思い出します。そして、私たちの希望についても思い巡らします。

There are burdens that I carry every day
毎日私は重荷を背負っています。
Sometimes it makes me want to cry
時々私は泣きたくなります。
Hopeless feelings harbored deep inside my heart
私の心の中に絶望の思いがあります。
And I find it hard to hold my head up high.
だから、私の頭を上げることは難しいです。

In the middle of the darkness in my life
その人生の暗闇の中に
I find the strength to carry on.
私は生き続ける力を見つけます。
I am holding to a promise Jesus made
イエス様の約束を握っているからです。
And I know it won’t be long ‘til we’ll be gone.
そろそろ私たちはこの世から去ると知っています。

In a while, we’ll be gone.
もうすぐ私たちはこの世から去ります。
And we won’t have to cry anymore.
その時、私たちはもう泣く必要がないのです。
All our sorrows left behind.
私達の悲しみはこの世に残ります。

That’s the day that I am waiting for.
私はその日を待っています。

That’s the day I’m longing for.
その日を願っています。

That’s the day that I am looking for.
その日を待ち望んでいます。

ーー エイミー・グラント

あなたがキリストにある希望を見いだすことができますように。

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イザヤ書

裁きの理由

SFの映画で、人気のテーマは地球の破壊です。例えばマトリックスとターミネーターはそんな感じの映画です。

この箇所を読むと、まるで地球の終わりのように感じられます。ある日、神様の裁きが訪れると預言されている箇所です。

イザヤはその日についてこう言いました。

見 よ。主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして、その住民を散らされる。。。

地は嘆き悲しみ、衰える。世界はしおれ、衰える。天も地とともにしおれる。。。

地は裂けに裂け、地はゆるぎにゆるぎ、地はよろめきによろめく。地は酔いどれのように、ふらふら、ふらつき、仮小屋のように揺り動かされる。

その そむきの罪が地の上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない。(イザヤ書24:1、4、19-20)

どうしてそのような裁きは来なくてはならないのでしょうか。イザヤはそれに答えます。

地はその住民によって汚された。彼らが「神様の」律法を犯し、定めを変え、とこしえの契約を破ったからである。(5)

イザヤは続けてこう言います。

それゆえ、のろいは地を食い尽くし、その地の住民は罪ある者とされる。

それゆえ、地の住民は減り、わずかな者が残される。(6-7)

神様は完璧な世界を造られました。神様が人間を造られた時、私たちは完璧でした。

でも、私たちは神様に背を向けて、自分の道を行って、この完璧な世界を汚しました。だから、この世界はもはや、神様が造られた美しい場所ではありません。私たちの罪によって汚されてしまいました。

そのため、神様はすべてを取り壊し、すべてを新しくしなければなりません。そして、すべてを取り壊しておられる間に、神様は人間の罪を扱わなければなりません。そうしなければ、その新しい世界も再び汚されてしまうからです。

だから、神様は罪人を罰しなければなりません。神様に背を向けた人々は、永遠に神様の臨在から離されるのです。

でも、神様に属する人々は守られて、救われます。イザヤはその人々についてこう言いました。

彼らは、声を張り上げて喜び歌い、海の向こうから主の威光をたたえて叫ぶ。。。私たちは、「正しい者に誉れあれ」という地の果てからのほめ歌を聞く。(14、16)

だからこの箇所では、警告も希望もあります。

裁きが訪れる警告があります。

でも、神様の民が守られて、もう一度神様の賛美を歌う希望があります。

神様の警告に注意しましょう。そうすれば、神様の希望を知ることができます。

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イザヤ書

あなたの栄光はどこから来るのか

あなたの栄光はどこから来るのでしょうか。あなたの賞賛はどこから来るのでしょうか。何について自慢するのでしょうか。

ツロ人は自分の商売について自慢しました。

ツロは港町で、彼らの商売はうまく行っていました。彼らは金持ちでしたし、何をしても成功しました。

でも、彼らは不敬虔な人でした。彼らはいろんな神々を礼拝しました。私たちの社会のように、彼らはお金の「神」も礼拝しました。

彼らはプライドがあって、自分の栄光を自慢しました。でも神様は彼らに警告されました。

「裁きが来ます。ある日、ツロは倒されます。また、あなたの評判と富は取り去られます。」

イザヤはこう言いました。

海辺の住民よ。タルシシュへ渡り、泣きわめけ。

これが、あなたがたのおごった町なのか。その起こりは古く、その足を遠くに運んで移住したものを。

だれが、王冠をいただくツロに対してこれを計ったのか。その商人は君主たち、そのあきゅうどは世界で最も尊ばれていたのに。

万軍の主がそれを計り、すべての麗しい誇りを汚し、すべて世界で最も尊ばれている者を卑しめられた。(イザヤ書23:6-9)

神様はツロが後で復活すると言われましたが、これも言われました。

その儲け、遊女の報酬は、主にささげられ、それはたくわえられず、積み立てられない。その儲けは、主の前に住む者たちが、飽きるほど食べ、上等の着物を着るためのものとなるからだ。(18)

つまり、ツロのプライドと栄光は自分のためではなくて、主とその民のためです。

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。持続的な栄光は一つの所から来ます。

その栄光はお金や、評判や、他の世のものから来ません。なぜなら、 それらのものはただ一時的なものです。持続的な栄光はただ神様から来ます。

そして、その栄光は私たちが自分のイメージを好きなように形成することから来るものではありません。

むしろ、私たちが神様に近づくと、私たちは主の栄光を反映します。

パウロはこう書きました。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。

これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3:18)

「栄光から栄光へと。」

その言葉が好きです。私たちが神様に近づけば近づくほど、私たちは神様の栄光を反映します。

つまり、私たちの罪深い性格は神様の性格のように変えられます。そして、いつか、私たちの不完全な体はイエス様の素晴らしい体のように変えられます。

だから、私たちは何を自慢するでしょうか。エレミヤはその答えを私たちに与えます。

主はこう仰せられる。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。

わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。――主の御告げ―― (エレミヤ書9:23ー24)

あなたはどうですか。あなたの栄光はどこから来るのでしょうか。あなたは何について自慢するのでしょうか。

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ミカ書

神様の怒りと憐れみ

ある人々は「旧約聖書の神」を批判します。(「旧約聖書の神」と「新約聖書の神」は実際には同じ方であるにもかかわらず。)

彼らはこう言います。「旧約聖書の神は憐れみの神ではなく、怒りの神です。」

けれども、そのような主張をする人々は旧約聖書を慎重に読んでいないように感じます。彼らは神様の怒りの例を頻繁に見る一方で、なぜか神様の憐れみの例には目を向けようとしないのです。

(皮肉なことに、その人々が新約聖書を読む際には、神様の憐れみの例をよく見るものの、神様の怒りの例はほとんど見ていないようです。)

このミカ書の箇所では、神様の怒りの例と憐れみの例の両方を見ることができます。9節にはこのように記されています。

私(つまり、イスラエル)は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。(ミカ書7:9)

ある人々はこの箇所を読み、こう言います。「ほら、これが神様の怒りだよ。私が罪を犯すと、神様はすぐに私を罰すると書いてあるじゃないか。」

とはいえ、その箇所の最後の部分にも目を向けてください。

しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。

この箇所を読むとき、私はパウロの言葉を思い起こします。

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ書8:33-34)

このミカ書の箇所とローマ書の箇所に基づくと、神様は私たちの裁判官であるだけでなく、私たちの弁護士でもあるのです。もし私たちがイエス様に属しているなら、イエス様は私たちの隣に立ち、とりなしをしてくださいます。

その時、イエス様はこのように言われることでしょう。

「父よ、私はこの人の罪のためにすでに支払いました。私の血によって、彼の債務は完全に支払われました。」

そして、神様はこう言われます。

「そうだ。それは真実だ。正義は成し遂げられた。あなたの罪は赦され、あなたは自由だ。」

このミカ書の最後の部分は本当に素晴らしいと思います。

あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。

もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。(18-19)

この箇所で描かれる神様の姿が本当に素晴らしいと思います。

神様は私たちの罪のゆえに私たちを踏みつけることはされません。むしろ、神様は私たちの罪そのものを踏みつけてくださるのです。

神様は私たちを鎖で縛り、船から海の深みに投げ入れることはされません。むしろ、神様は私たちの罪を包み、海の深みに投げ入れてくださるのです。

この方こそ私たちの神です。怒りの神であるだけでなく、憐れみの神でもあるのです。

ミカはこう言いました。

昔、私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコブに、いつくしみをアブラハムに与えてください。(20)

神様がヤコブとアブラハムに真実と憐れみを与えられたように、神様は私たちにも真実と慈しみを与えてくださいます。神様はそのように誓われました。(ヘブル6:13-20)

だから、ヨハネはこう書きました。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

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ミカ書

私たちが人々に頼ることができない時に

信頼関係が破れると、その修復は非常に難しいものとなります。浮気によって心に傷を負った人々は、その事実を深く理解していることでしょう。

時として、信頼関係が破れると、他の人々を信頼することさえ困難になります。「この世で一体誰を信頼できるのだろうか」と思うこともあるかもしれません。

ミカもそのように感じた可能性があります。彼の国は暴力と不正義に満ちあふれていました。ミカにとって、誰を信頼すべきかわからない状況だったのです。

リーダーたちや士師たちさえも信頼に値しませんでした。なぜなら、彼らには正義への関心が全くなく、むしろ常に賄賂を要求していたからです。

このような堕落はすべての人々に悪影響を及ぼしました。ミカは次のように言いました。

敬虔な者はこの地から消えうせ、人の間に、正しい者はひとりもいない。みな血を流そうと待ち伏せし、互いに網をかけ合って捕らえようとする。。。

彼らのうちの善人もいばらのようだ。正しい者もいばらの生け垣のようだ。(ミカ書7:2,4)

そして、ミカはこう言いました。

友を信用するな。親しい友をも信頼するな。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。息子は父親を侮り、娘は母親に、嫁はしゅうとめに逆らい、それぞれ自分の家の者を敵としている。(5-6)

それは確かに暗い言葉ですが、その国の中でミカは深刻な堕落を目の当たりにしていたため、そう感じたのです。

私たちも時として同じように感じることがあります。「この世で一体誰を信頼できるのだろうか」と思うことがあるでしょう。

けれども、間違いなく信頼できるお方がおられます。

ミカはこう書きました。

しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。(7)

たとえ皆が私たちをがっかりさせても、神様は決してそうなさいません。

たとえ皆が私たちに背を向けても、神様は私たちを決してお見捨てになりません。

たとえ皆が私たちを裏切っても、神様は常に私たちに忠実でいてくださいます。

神様はいつも私たちを見守ってくださっています。

神様は私たちの声に耳を傾け、私たちの祈りを聞き入れてくださいます。

神様は私たちが置かれている状況をすべてご存じです。

だからこそ、私たちは主を仰ぎ見て、主を待ち望みましょう。

主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」(へブル13:5-6)

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ミカ書

空しい宗教

この箇所では、イスラエルの民は神様の裁判所に立たされていました。そして、神様は彼らを被告として召喚し、問い詰められました。

わたしの民よ。わたしはあなたに何をしたか。どのようにしてあなたを煩わせたか。わたしに答えよ。(ミカ書6:3)

そして、神様はご自身の証言をされました。「私はあなたたちをエジプトから救い出しました。また、私はあなたたちを荒野で守り、私が約束した土地に導きました。」(4-5)

ところが、イスラエルの民はその言葉を聞いて苛立ちました。

彼らは答えました。

「しつこいですね。それでは、私たちに何を望んでおられるのですか。子牛や雄羊のいけにえですか。それとも、私たちの子供をいけにえとして捧げることでしょうか。一体何を求めておられるのですか。」

現代でも、多くの人々は同じような態度で神様に向き合います。彼らは、神様が宗教的な儀式を求めておられると誤解しています。例えば、神様が彼らに教会に行くことや献金を捧げることを望んでいると考えています。

多くの人々はイースターの六週間前からタバコや砂糖、肉を控えます。(これを四旬節と言います。)

けれども、その年の残りの期間は、まったく神様のことを考えず、自分自身のために生きるのです。

イスラエルの民も同じでした。彼らは神様の怒りを収めるためにいけにえを捧げることには同意しましたが、その後は自分自身のために生き続けたいと考えていました。

しかし、ミカはこう答えました。

主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。

それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(8)

神様は空しい宗教に興味を持っておられません。空しい宗教とは、神様を愛さずに宗教的な行為だけを行うことです。つまり、ある日は宗教的なことを行うけれど、その残りの日々は自分自身のために生きることです。

イスラエルの民の場合、彼らは日々の商売でお客さんを騙し、暴力や不正に満ちた生活をしていました。

それゆえ、神様は怒られました。イスラエルの民は宗教的な儀式を行ったにもかかわらず、神様が本当に望んでおられることは全く行いませんでした。すなわち、正しいことを行い、誠実を愛し、へり下って神様と共に歩むことです。

神様はそれを日々求めておられたのです。一週間に一度だけそのような態度を取ることを望んでおられたのではありません。

あなたはどうでしょうか。神様を喜ばせることは何だと思いますか。

それはお金だけではありません。それは教会に行くことだけではありません。それは宗教的な儀式を行うことだけでもありません。

イエス様が最も重要な戒めについて語られたとき、犠牲や献金、儀式については全く言及されませんでした。

むしろ、イエス様はこう言われました。

「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」

次にはこれです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この二つより大事な命令は、ほかにありません。」 (マルコ12:30-31)

あなたは神様を喜ばせたいと願っていますか。

空しい宗教的な行動だけでは、神様を喜ばせることはできません。

もし神様を喜ばせたいと願うなら、毎日神様を愛し、周りの人々を愛するべきです。

それが神様の望まれることなのです。

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ミカ書

私たちの敵が攻める時に

イスラエルの歴史を振り返ると、その周囲には多くの敵が存在していました。この箇所では、アッシリヤがイスラエルを攻める敵の典型として描かれています。しかし、ミカはイスラエルの勝利を預言しました。

アッシリヤが私たちの国に来て、私たちの宮殿を踏みにじるとき、私たちはこれに対して七人の牧者と八人の指導者を立てる。

彼らはアッシリヤの地を剣で、ニムロデの地を抜き身の剣で飼いならす。アッシリヤが私たちの国に来、私たちの領土に踏み込んで来たとき、彼は、私たちをアッシリヤから救う。(ミカ書5:5-6)

つまり、ある日、神様に逆らう者たちがイスラエルを打倒するために攻めてきます。しかし、神様はリーダーを立ててイスラエルを救われます。ただし、イスラエルの力は軍隊から来るのではなく、神様から与えられるのです。

ミカは7節で、イスラエルの残りの者を「主から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ」と描写しています。つまり、この救いと勝利は人間の働きではなく、主の働きです。

だから、イスラエルの残りの者は敵が止めることのできないライオンのようになるのです。(8節)

その日、以前イスラエル人が信頼していたもの、つまり、軍隊や呪術師、占い師、偶像を捨てて、永遠に敵を打倒する神様に信頼するのです。

私たちはこの箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちの魂の敵が攻めてきたとき、どのように反応するでしょうか。私たちの人生、仕事、人間関係、経済、ミニストリーなどが攻められたときに何が起こるでしょうか。

私たちの勝利が自分の力と知恵から来るのではないことを思い出しましょう。

攻められたとき、私たちはよくパニックに陥り、自分の知恵と力でその問題を解決しようとしてしまいます。けれども、私たちは助けることのできる神様を忘れがちです。

もし本当の勝利を望むなら、神様に信頼しなければなりません。そして、神様がどうするかを教えてくださったら、私たちは従わなければなりません。そうすれば、私たちは勝利を得ることができるのです。

もう一つ覚えておかなければならないのは、イエス様はすでに最後の勝利を得られたことです。イエス様の十字架の働きによって、私たちは赦され、救われました。

だから、この世では、私たちの敵が私たちを攻めても、彼らは天国の報いに触れることはできません。

ですから、頑張り続けましょう。がっかりせず、むしろ神様に信頼しましょう。神様を待ち望みましょう。なぜなら、私たちはすでに勝利を得たのです。

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ミカ書

平和を与える方

平和。

あなたは平和を得るために、どれほどの代価を払うつもりですか。ミカの時代、多くのイスラエル人がそのように考えていたかもしれません。

現代でも、多くのユダヤ人が同じように考えているかもしれません。

この箇所では、ミカはエルサレムの崩壊について預言しました。その日、ユダの王が打たれ、倒れます。

とはいえ、ミカが伝えたのは、それがイスラエルの終わりではないということです。むしろ、ミカはこう言いました。

ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。(ミカ書5:2)

もちろん、これはイエス様についての預言です。ヘロデ王がメシアがどこから来るのかを尋ねたとき、祭司たちと律法学者たちはこの箇所を引用しました。(マタイ2:6)

ミカはイエス様についてこう預言しました。

彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ。(5:4)

5節では、英語の翻訳と新改訳は少し異なります。実は、この箇所では、日本語のリビングバイブルと英語の翻訳が一致しています。このように書かれています。

その方は私 たちの平和となる。(5)

ミカ時代のイスラエル人は、この言葉を聞いて慰めを受けたかもしれません。なぜなら、彼らは長い間トラブルを経験してきましたが、平和を与える方が来るという希望があったからです。

皮肉なことに、イエス様は来られました。しかし、イスラエル人は平和を与える方を受け入れず、十字架につけてしまいました。

今でも、人々はあまり変わっていません。

どれほど私たちは、恐れと痛みと戦っているでしょうか。どれほど私たちは、平和を望んでいるでしょうか。それにもかかわらず、私たちは平和を与える方を拒絶します。私たちは、自分の心の王座をイエス様に捧げることを拒否するのです。

ある日、イエス様は再びこの世に戻られます。その日、イエス様はこの世を治め、すべての人々が平安のうちに住むようになります。

しかし、もし私たちが今、自分の心の王座をイエス様に捧げるなら、どんなトラブルがあったとしても平和を得ることができます。たとえ周りに多くの苦しみがあったとしても、私たちの魂は平安を保つのです。

2000年前、イエス様がエルサレムのために泣かれたように、イエス様は私たちのために涙を流されます。イエス様はこう言われました。

ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。(ルカ13:34)

それで、エルサレムはどうなりましたか。

見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。(ルカ13:35)

今でも、その結果は変わりません。もしイエス様に背を向けるなら、私たちの人生は荒れ果てたままとなり、希望や平和を全く知らないままとなってしまいます。

あなたはどうでしょうか。希望がないと感じていますか。人生に意味がないと感じていますか。平和がないと感じていますか。その解決は、2000年が経っても変わることはありません。それはイエス様です。

イエス様はあなたを抱きしめ、あなたに平和と希望、そして人生の本当の意味を与えたいと願っておられます。

あなたの人生をイエス様に捧げてみませんか。

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ミカ書

神様の計画

神様について考えると、いつも「不思議だなあ」と感じます。

一つ興味深い点は、神様が決して驚かれることがないということです。この世界で何が起こっても、神様は驚かれません。

一方で、私たちはよく驚き、パニックになります。そのため、時々私たちは神様もそのような方だと思いがちです。

例えば、私たちはこう考えるかもしれません。「アダムとエバが罪を犯したとき、神様は驚かれたためにパニックになり、急いで新しい計画を立てなければならなかった。」

または、「イスラエル人を自分の民として選ばれたが、彼らが神様に背を向けたとき、神様はショックを受け、急いで新しい計画を立てなければならなかった。」

けれども、最初から神様はアダムとエバの選択を知っておられました。イスラエル人の選択も知っておられました。ですから、その知識に基づいて神様はご自身の計画を立てられたのです。

この箇所でそのことが示されていると思います。この箇所では、神様がイスラエル人を彼らの罪のために懲らしめられました。

なぜ、あなたは今、大声で泣き叫ぶのか。あなたのうちに王がいないのか。あなたの議官は滅びうせたのか。子を産む女のような苦痛があなたを捕らえたのか。

シオンの娘よ。子を産む女のように、身もだえし、もがき回れ。今、あなたは町を出て、野に宿り、バビロンまで行く。(ミカ書4:9-10)

つまり、私はあなたたちの王であるべきでした。私はあなたたちの議官であるべきでした。けれども、あなたたちは私に背を向け、頼りにしていた人々はいなくなりました。だから、あなたたちはバビロンに追放される、と神様は言われています。

それでも、神様はイスラエル人のために計画を持っておられました。神様はこう言われました。

そこであなたは救われる。そこで主はあなたを敵の手から贖われる。(10b)

神様はパニックになって、計画を変えられたわけではありません。むしろ、神様は予めイスラエル人が何をするか、そしてイスラエル人の反応をすべてご存じでした。

だから、神様にはすでにご用意された計画がありました。それは、イスラエル人をその罪のために罰することですが、その後で憐れみと恵みによって彼らを贖われることです。

では、神様の計画がどうしても成就されるから、私たちの選択は何を選んでも構わないのでしょうか。

いいえ、そうではありません。私たちにとって、私たちの選択は非常に重要なのです。なぜなら、私たちが神様の計画に従うなら、神様の祝福を受けるからです。しかし、従わなければ、必ず苦しみが訪れるのです。

イスラエル人は追放されたとき、そのことを学びました。

イスラエルを打倒した国々も同じことを学びました。神様はその国々に関してこう言われました。

今、多くの異邦の民があなたを攻めに集まり、そして言う。「シオンが犯されるのをこの目で見よう」と。

しかし彼らは主の御計らいを知らず、そのはかりごとを悟らない。(11-12)

その国々は神様の計画を知らず、神様に逆らったため、結局イスラエル人のように砕かれました。けれども、悔い改めて救われたイスラエルの残りの者とは違い、その国々には救いがありませんでした。

あなたはどうでしょうか。神様の心を求めていますか。神様の計画に従っていますか。それを行うなら、本当の命を見つけることができます。けれども、そうしなければ、パロやバビロン、そして神様に逆らった他の国々のように、あなたも砕かれてしまうのです。

だから、モーセの言葉に耳を傾けましょう。

あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり[ます。] (申命記30:19-20)

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ミカ書

永遠までじゃない

多分、世界で一番戦争を嫌う国は日本ではないでしょうか。もし日本人にインタビューをしたら、彼らが他の先進国の民よりも戦争に対して嫌悪感を持っていると感じるでしょう。なぜなら、自分たちの目で戦争がどれほど恐ろしいものかを見たことがあるからです。

残念なことに、多くの国々はそのようには感じていません。

長い間、私たちは冷戦を経験しました。その時代、人々は核戦争が起こることを恐れていました。

今では少し状況が改善されていますが、人間が国々を治め続ける限り、戦争は決してなくならないでしょう。なぜなら、人々は常に持っていないものを求めたり、さらなる力を欲しがったりするため、本当に酷いことをし続けるからです。

とはいえ、この状態が永遠に続くわけではありません。ある日、神様が神様に背く人々からその力を取り去り、全世界の王となられるのです。そして、サタンとその民は裁かれ、その日から、この世には正義と平和が訪れます。

ミカはこのように書きました。

終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。。。

主は多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。

彼らはみな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下にすわり、彼らを脅かす者はいない。まことに、万軍の主の御口が告げられる。(ミカ書4:3-4)

その日が来る前に、私たちは自分自身にとって非常に重要な質問をしなければなりません。「私たちは誰の味方なのだろうか。」

もし私たちが神様の味方であるならば、その日が来たとき、ついに平和を知ることができます。しかし、もし神様の味方でないならば、あなたにとっては裁きしか残されていません。

ですから、今こそ神様を求めましょう。裁きの日を待つのではなく、今、この瞬間に応えましょう。

さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。(2)

また、

まことに、すべての国々の民は、おのおの自分の神の名によって歩む。しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩もう。(5)

あなたは誰の味方でしょうか。

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歴代誌第二

リーダーの資質

私はヒゼキヤが何を行ったかを読んだとき、深く感動します。なぜなら、ヒゼキヤの姿を通して、神様がリーダーに求めておられる資質が明確になるからです。

それは何でしょうか。

ヒゼキヤは自分の民のために祈りました。(歴代誌第二30:18)

この箇所では、多くの人々が過越の祭りを祝いましたが、モーセの律法によれば彼らは儀式的に聖くありませんでした。

(例えば、ある人の父が亡くなり、その遺体に触れた場合は儀式的に聖さを失います。)

そのため、彼らは病気になってしまいました。

しかし、その人々には本当に神様に従いたいという心があったため、ヒゼキヤは彼らのために祈りました。

そして、神様は彼らを癒してくださいました。

ヒゼキヤはその民を励ましました。(歴代誌第二30:22)

レビ人たちが熱心に働く姿を見ても、それを当たり前だとは思いませんでした。むしろ、ヒゼキヤは彼らを励まし、その努力に対して感謝を表しました。

ヒゼキヤはその民に仕事を与えました。(歴代誌第二31:2)

ヒゼキヤは自分ですべての仕事をしようとはせず、むしろ、神様が命じられた通りに祭司たちとレビ人たちに仕事を与えました。

ヒゼキヤは主の働きのために自分の物を捧げました。(歴代誌第二31:3)

ヒゼキヤはただ人々に命令するだけではありませんでした。むしろ、主の働きのために(この場合、いけにえのために)自分の物を捧げました。

ヒゼキヤは主を求めました。(歴代誌第二31:20-21)

これは最も大切な資質でした。

ヒゼキヤは時々失敗しましたが、普段は自分の知恵に頼らず、本当に神様を喜ばせたいと願っていました。

だからこそ、彼は神様との関係を何よりも大事にし、主の目の前で良いこと、正しいこと、誠実なことを行い、心を尽くして働いたのです。

神様はこのようなリーダーを望んでおられます。あなたが教会を導く場合でも、家族を導く場合でも、神様はこのようなリーダーを求めておられます。

つまり、あなたが自分の民のために祈り、彼らを励まし、仕事を与えることを望んでおられます。

また、良い模範となり、自分の物を主の働きのために捧げることを期待しておられます。

しかし、神様が最も大切だと考えておられるのは、あなたが神様を求めることです。

あなたはどのようなリーダーでしょうか。

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歴代誌第二

悔い改めの招き

この箇所の興味深いポイントは、この時代、イスラエル王国とユダ王国がまだ仲が良くなかったということです。

イスラエル王国はすでに崩壊し、多くのイスラエル人が追放されていました。それでも、ヒゼキヤは残ったイスラエル人たちに手を差し伸べました。

ヒゼキヤはこう言いました。

「私たちもあなたがたのように神様に背を向けたため、罰を受けました。でも、今私たちは神様のもとに戻ります。あなたがたも神様に立ち返りませんか。」

この箇所を通して、私たちは人々を悔い改めに招く方法を学ぶことができます。

一つ目は、たとえ相手が私たちを傷つけたとしても、私たちには憐み深い心が必要だということです。私たちは彼らを赦さなくてはなりません。

ヒゼキヤの父アハズの時代には、イスラエル人がアラム人と協力して、ユダ人たちを苦しめていました。(イザヤ書7章)

けれども、アッシリヤがイスラエルを倒したとき、ヒゼキヤは情け深い心を持ち、彼らを神様に立ち返るように招きました。

私たちもそのような心を持つ必要があります。たとえ相手が私たちを傷つけても、私たちは彼らの悔い改めと救いのために祈るべきです。

残念なことですが、多くの場合、私たちは相手の苦しみを見て、手を差し伸べることなく喜んでしまいます。そうしないようにしましょう。

二つ目は私たちのメッセージについてです。救いのメッセージとは何でしょうか。

「神様に戻ってください。あなたがたは神様に背を向けたため、あなたがたの人生はめちゃくちゃになってしまいました。

それでも、神様はあなたがたをまだ愛しておられます。そして、神様のもとに戻るなら、神様はあなたがたを赦し、癒してくださいます。

ですから、悔い改めませんか。」

これが私たちのメッセージです。悔い改めと希望のメッセージです。

最後に覚えておいてください。私たちは人々の反応をコントロールすることはできません。

多くのイスラエル人はヒゼキヤのメッセージを聞いて、彼とその使者たちをからかいました。

しかし、あるイスラエル人たちは遜った心を持ってエルサレムに行き、ユダ人と共に過越の祭りを祝いました。

そして、その祭りの後で、彼らはユダ人たちと共にユダの偶像礼拝の場所を打ち壊しました。

その後、彼らは自分の国に戻り、自分たちの偶像礼拝の場所も打ち壊しました。

ある人々は福音のメッセージを拒絶します。それでも、がっかりしないでください。私たちは彼らの反応をコントロールすることはできません。

他の人々はそのメッセージを聞いて、神様に立ち返ります。ですから、どうか頑張ってください。そのメッセージを伝え続けてください。

神様はイザヤにこう言われました。

雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。

そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。

必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。(イザヤ書55:10-11)

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列王記第二 歴代誌第二

神様に立ち返る

少し久しぶりに歴史書に戻りましょう。

この箇所では、私たちはユダの素晴らしい王の一人に出会います。彼の名前はヒゼキヤです。

列王記の著者はヒゼキヤについて次のように書いています。

彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。(列王記第二18:18:1-5)

実は、ヒゼキヤの父アハズは酷い模範でした。

しかし、多分ヒゼキヤはイスラエル王国の崩壊を目の当たりにし、預言者ミカやイザヤの警告を聞いたことで、すぐに悔い改め、ユダを再び神様に向ける決意をしたのだと思います。

ヒゼキヤの人生を見ると、私たちがどのように神様に立ち返るべきかが分かると思います。

まず、ヒゼキヤはユダの民が礼拝していた偶像を取り除きました。

その中にはモーセが作った青銅の蛇も含まれていました。この青銅の蛇は、イスラエル人が荒野をさまよった際に、神様が蛇の毒からの癒しの手段として用いられました。

ところが、ユダの民はこの青銅の蛇を偶像として礼拝し始めたため、ヒゼキヤはこの蛇を打ち砕いたのです。

同じように、私たちが神様に戻りたいと願うなら、私たちも自分の偶像を捨てなければなりません。

もちろん、仏教の偶像や仏壇を捨てるべきですが、それだけでなく他の「神々」も捨てる必要があります。例えば、「お金の神」や「持ち物の神」です。

もし何かを神様よりも大切にしているなら、それはあなたの偶像です。

もちろん、文字通りにお金や持ち物を捨てるわけではありません。けれども、すべてに優先して神様を第一にし、大切にしなくてはなりません。

青銅の蛇のように、かつてはあなたの偶像が良いものだったかもしれません。例えば、あなたの趣味です。

ところが、その趣味によって神様との関係が疎かになり、神様のための働きを怠っているのであれば、その趣味をしばらく置いておく必要があるでしょう。

偶像を取り除いた後、ヒゼキヤは神様の宮を掃除し、清めました。

私たちクリスチャンはキリストの宮です。キリストが私たちの内に住んでおられるのですから、その宮を清める必要があります。つまり、偶像を捨てる必要があります。

それと共に、私たちは神様に罪を告白し、悔い改める必要があります。

ヒゼキヤの時代では、罪のためにいけにえを捧げなければなりませんでした。(歴代誌第二29:23-24)

しかし、私たちにとってイエス様こそが最後のいけにえです。イエス様は十字架で死んで、私たちの罰を代わりに受けてくださいました。

そして、イエス様の血が私たちをすべての罪から清めてくださいます。(第一ヨハネ1:7)

ただし、清い心を保つためには、私たちは常に罪を告白し、悔い改める必要があります。

ヨハネは次のように書いています。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

最後に、ヒゼキヤとユダの民は、もう一度自分たち自身を神様に捧げました。彼らは神様にこう言ったのです。

「私たちはあなたのものです。私たちの人生をもう一度あなたに捧げます。」

私たちも同じようにするべきです。

罪に背を向けるだけでは不十分です。神様に向き直らなくてはなりません。

偶像を捨てるだけでは十分ではありません。心を尽くして神様に従わなくてはならないのです。

あなたはクリスチャンであっても、神様から離れてしまったかもしれません。

かつては神様と共に歩んでいたとしても、今は神様から遠ざかっているかもしれません。

それでも、今も神様はあなたを愛しておられ、あなたのために待っておられるのです。

だから、もし神様に戻りたいと願うなら、次のように祈ってください。

イエス様、私はあなたから離れてしまい、自分の道を歩んでいました。どうか赦してください。

あなたの言葉にはこうあります。「もし私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:9)

今、私はあなたに立ち返ります。私の偶像を捨てる助けを与えてください。そして、私の心の王座にもう一度座ってください。

あなたの恵みと憐れみに感謝します。私を決して諦めないことに感謝します。

あなたのみ名によって祈ります。アーメン。

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イザヤ書

自己中心

あなたは誰のために生きているでしょうか。

多くの人々は「私自身のために生きる」と答えます。

宮廷をつかさどる執事シェブナもそのような人でした。

彼は高ぶって、自分のために岩に墓を掘りました。

どうしてそれはそんなに悪いことだったのでしょうか。その時代では、そのような派手な墓は王の家族のためでした。でもシェブナは王の家族のメンバーではありませんでした。

そして、その時、アッシリヤはエルサレムを囲む準備をしていました。だから、エルサレムの中で苦しんでいる人々はたくさんいました。それなのに、シェブナはその派手な墓を掘りました。

だから主はシェブナを責められました。

あなたは自分のために、ここに墓を掘ったが、ここはあなたに何のかかわりがあるのか。ここはあなたのだれにかかわりがあるのか。高い所に自分の墓を掘り、岩に自分の住まいを刻んで。

ああ、ますらおよ。主はあなたを遠くに投げやる。

主はあなたをわしづかみにし、あなたをまりのように、くるくる丸めて、広い広い地に投げ捨てる。あなたはそこで死ぬ。あなたの誇った車もそこで。

主人の家の恥さらしよ。わたしはあなたをその職から追放し、あなたの地位から引き降ろす。(イザヤ書22:16-19)

そして、神様はエルヤキムという人にシェブナの立場を与えられました。神様はエルヤキムについてこう言われました。

彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。。。

わたしは、彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる。彼の上に、父の家のすべての栄光がかけられる。(22-24)

ある日、私はハワイの牧師の話を聞きました。彼は罪に落ちて、その教会を失いました。でも神様の恵みによって、彼のミニストリーと家族はだんだん回復しています。

どうして彼は罪に落ちたのでしょうか。彼はこう言いました。「私のミニストリーの中心は私になりました。私の人生の中心は私になりました。」

そして、彼はそのミニストリー、また彼の人生が神様からの賜物であることを忘れていました。

牧師が失敗すると非難されやすいです。もちろん、神様は彼らをもっと厳しくさばかれます。なぜなら、「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」からです。(ルカ12:48)

でも、誰でも倒れてしまう可能性があります。そして、あなたの人生の中心が自分自身になったら、全てを無くす危険があります。私たちの結婚や家族やミニストリーを失うかもしれません。

だから、倒れた人々を責めるよりも、私たちは自分自身を見つめて問いかけるべきです。

「私の人生の中心は誰でしょうか。私でしょうか。神様でしょうか。私は自分のために生きているのでしょうか。それとも神様と私に与えられた人々に仕えているのでしょうか。」

皮肉なことですが、もし謙って主と他の人々に仕えると、エルヤキムのように私たちは栄光をいただきます。

あなたは誰のために生きているのでしょうか。

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イザヤ書

穴を塞ごうとする

時々私たちは「私の人生はめちゃくちゃになった」と思って、落ち込みます。

時々私たちの結婚がダメになったり、他の人間関係がめちゃくちゃになったり、私たちの経済が大変になったりします。

だから、私たちはできるだけその穴を塞ごうとします。でも、その穴を塞いでも、すぐに別の穴が現れます。そして、その穴を塞いでも、また別の穴が出てきます。

結局、どうしても私たちの船は沈んでしまうのです。

ユダ人はその状況に入っていました。この箇所では、アッシリヤの軍隊はエルサレムを囲むために来ていたので、ユダ人たちは頑張って準備していました。

彼らは武器を集めていたり、都市の壁を修理していたり、アッシリヤ人が水がないようにエルサレムの外にある泉の水を塞いだりしていました。

でも一番大きな問題を解決しませんでした。それは彼らの罪です。

イザヤはこう書きました。

その日、万軍の神、主は、「泣け。悲しめ。頭を丸めて、荒布をまとえ」と呼びかけられた.(イザヤ書22:12)

つまり、アッシリヤの攻撃は神様の働きでした。なぜなら、神様はユダ人がもう一度神様に向かうように望んでおられたからです。ユダ人が悔い改めて、もう一度神様を礼拝するように望んでおられました。

でも、彼らはその罪を犯し続けてこう言いました。

飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから。(13)

彼らがイザヤの警告を信じず、イザヤをからかっていたか、彼らが諦めて、「どうしても死ぬ」と思ったか、私は分かりません。

でも結局彼らは神様に立ち返らなかったので、神様は彼らに言われました。

この罪は、おまえたちが死ぬまでは決して赦されない。(14)

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。問題を見る時に解決しようと思うのは良いことです。

でも、私たちの一番大きな問題は神様に背く態度です。その態度を悔い改めないと、私たちの船に穴が出続けます。そして結局私たちは沈みます。

だから、自分の努力と知恵によってその穴を塞ぐことをやめましょう。むしろ、神様に向かいましょう。

罪を悔い改めて、神様の道を歩みましょう。そうすれば、あなたの船はもう沈まずに、新しくなり、どんな嵐に遭っても、あなたは無事に港に着きます。

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ミカ書

船を揺さぶるな

英語には、「Don’t rock the boat」という興味深い表現があります。

その直訳は、「船を揺さぶるな。」

つまり、「余計なもめ事を起こすな。」

また、「人を怒らせることを言うな。」

普通は、それは良いアドバイスです。

とはいえ、クリスチャンとして、いつもその言葉に従うことはできません。時には、相手が聞きたくないことを言わなくてはならないのです。

けれども、多くのクリスチャンはそうしたくありません。残念なことに、多くの教会もそうしたくありません。

その結果はどうなるでしょうか?神様の言葉、特に福音を正しく伝えないことです。つまり、神様の愛と恵みについてはよく話されますが、罪と裁きについてはほとんど話されません。

しかし、ミカは船を揺さぶることを恐れませんでした。ユダのリーダーたちはその民に正義を与えなかったため、ミカは彼らを責めました。

さらに、ユダの「預言者」たちは人々が聞きたいことだけを語っていたため、ミカは彼らにこう言いました。

預言者たちについて、主はこう仰せられる。彼らはわたしの民を惑わせ、歯でかむ物があれば、「平和があるように」と叫ぶが、彼らの口に何も与えない者には、聖戦を宣言する。

それゆえ、夜になっても、あなたがたには幻がなく、暗やみになっても、あなたがたには占いがない。

太陽も預言者たちの上に沈み、昼も彼らの上で暗くなる。先見者たちは恥を見、占い師たちははずかしめを受ける。彼らはみな、口ひげをおおう。神の答えがないからだ。(ミカ書3:5-7)

そしてミカはこう言いました。

しかし、私は、力と、主の霊と、公義と、勇気とに満ち、ヤコブにはそのそむきの罪を、イスラエルにはその罪を告げよう。(8)

私たちはそのようなクリスチャンにならなければなりません。愛する人々が罪の道を歩んでいるなら、私たちは彼らに警告しなければなりません。

たとえ彼らが怒っても、それは仕方がありません。クリスチャンとしての私たちの責任は、彼らに警告することなのです。

もちろん、「あなたは地獄に行くよ!」と叫ぶ必要はありません。

私が以前述べたように、ある人たちはそのようなメッセージを伝えることが大好きなように見えます。彼らは、まるで人々が地獄で苦しむことを喜んでいるかのようです。

しかし、神様はそのようなことを喜ばれません。神様は涙を流されます。私たちも泣くべきです。

けれども、泣くだけでは足りません。人々に警告しなければなりません。しかしそうすることで、時には船を揺さぶることになるでしょう。

ミカは船を揺さぶりました。幸いなことに、ヒゼキヤ王はこの警告を聞いて悔い改めました(エレミヤ書26:17ー19)。

イザヤもまた、真実を語ることをためらいませんでした。だからこそ、ミカとイザヤ、そして他の預言者たちの働きによって、その社会に影響を与えることができたのです。

あなたはどうでしょうか?船を揺さぶることを恐れていますか?他の人々の反応を恐れて、神様の言葉のすべてを伝えないままでいるのでしょうか?

その言葉とは何でしょうか。それは、イエス・キリストにあって、罪の赦しがあるということです。しかし、その賜物を拒むなら、裁きしかありません。

イエス様のみ名によって船を揺さぶることを恐れないでください。

もちろん、ただ人を怒らせるために船を揺さぶるのではありません。

そうではなく、イエス様の愛をもって、人々が悔い改めて救われるために船を揺さぶりましょう。

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ミカ書

聞きたくない

「それは聞きたくない。」

聖書を読むとき、私たちはどれほどそのような態度を取るでしょうか。つまり、困難に直面しているとき、聖書から何をすべきかが示されているのに、その言葉が好きではないために、すぐに拒絶してしまうのです。

ある友人は、いつも口から悪い言葉を出していました。彼は自分の罪をよく知っていたため、口についての聖書の箇所をいつも避けていました。例えば、箴言やヤコブの手紙を決して読みませんでした。

けれども、ある日、彼が聖書を読んだとき、これまで一度も読んだことのなかった箇所によって、神様がその口の悪さの罪について彼の心を打たれました。幸いなことに、彼は結局悔い改めることができました。

それでも、私たちはしばしば聖書の言葉を避け、その言葉を無視してしまいます。なぜなら、その言葉を聞くことが耳に痛いからです。

イスラエルの民も同じでした。彼らはミカにこう言いました。

たわごとを言うな。(ミカ書2:6)

でもミカは答えました。

そんなたわごとを言ってはならない。恥を避けることはできない。ヤコブの家がそんなことを言われてよいものか。主がこれをがまんされるだろうか。(6b-7a)

つまり、神様の言葉を拒絶してはいけません。「たわごとを言うな」という言葉に神様は我慢できません。そのような態度を取れば、恥を避けることはできないのです。

そしてミカは訊きました。

「これは主のみわざだろうか。」(7b)

3-5節では、神様はいろんな裁きについてイスラエル人に警告しました。そしてイスラエル人たちは訊きました。「その裁きは本当に神様のみわざだろうか。神様は本当に私たちの態度と罪のために私たちを裁くだろうか。」

ミカはその質問に答えませんが、その答えは明白です。「はい。神様は本当にあなたを裁きます。」

もし私たちが罪を犯すと、悪い結果が起こります。悔い改めないと、必ず裁きが来ます。この世では、私たちの罪によって結婚生活が壊れるかもしれません。経済的にも困窮するかもしれません。

とはいえ、この世で何も起こらなくても、私たちが死ぬと神様は私たちを必ず裁きます。その裁きから逃げられません。

しかし、良いニュースもあります。神様は訊かれました。

私のことばは、正しく歩む者に益とならないだろうか。(7c)

もう一度、神様はその質問に答えませんが、その答えも明白です。「もちろんその通りです。」

つまり、神様の言葉は私たちの人生を惨めにするためのものではありません。

むしろ、神様の言葉は私たちに命を与えるものです。神様の言葉は、私たちの人生がうまくいくために必要なものです。つまり、私たちの結婚生活が良いものになり、良い仕事があり、食べ物があり、寝る場所もしっかり確保できるために、神様の言葉が必要です。

とはいえ、たとえそのようなものがなくても、神様に従うと、満足のいく人生を送ることができます。なぜならば、神様との関係があれば、一番大切なものを持つことになるからです。

時には神様の言葉が痛みを伴うこともあります。しかし最終的に、その言葉は私たちを癒すものなのです。

もしその罪の傷を神様の言葉で治療しないと、あなたの傷はもっと悪くなり、その傷によって私たちは滅びてしまいます。

あなたはどうですか?あなたは神様の言葉から逃げているでしょうか?あなたの耳を閉じているでしょうか?

どうかあなたの心を開いてください。あなたの心を柔らかくしてください。神様の言葉は痛みを伴うかもしれませんが、あなたを癒せるのです。

あなたの人生に癒しが始まりますように。

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ミカ書

私ができるから

この箇所では、神様が人々を傲慢の罪のために責めておられます。

時として、人々は意図せずに罪を犯すことがあります。例えば、私たちは急に怒り、その怒りを悪い方法で表現してしまうことがあります。

けれども、この箇所では、その人々は自分たちの罪を計画し、その計画を実行しました。罪を犯していることをよく知っていながら気にしなかったのです。彼らがその計画を実行できる力を持っていたからです。

ですから、神様はこう言われました。

ああ。悪巧みを計り、寝床の上で悪を行なう者。朝の光とともに、彼らはこれを実行する。自分たちの手に力があるからだ。(ミカ書2:1)

そして、神様はこう警告されました。「裁きが訪れます。そして、その裁きから逃れることはできません。」

見よ。わたしは、こういうやからに、わざわいを下そうと考えている。あなたがたは首をもたげることも、いばって歩くこともできなくなる。それはわざわいの時だからだ。(3)

どれほど私たちはあえて罪を犯すのでしょうか。つまり、罪を犯す機会があり、誰にも知られず、誰も私たちを止められないから、私たちは罪を犯してしまうのです。

例えば、昔はポルノを見たい場合、店で購入しなければなりませんでした。そうすると他の人々にその罪が知られる可能性があったため、クリスチャンにとっては恥ずかしいことでした。

けれども、今では誰にも知られずにインターネットを通じてポルノを見ることができるため、多くのクリスチャンがその罪に陥っています。

さらに、多くの人々は不倫をします。それは罪を犯す機会があり、誰にも知られないと思うからです。

しかし、神様はすべてをご存じです。そして、結局その罪は必ず現れるのです。この世で現れないかもしれませんが、死後、その罪が現れ、神様が必ず裁きをされるのです。

ですから、罪を犯す機会が来たとしても、そこから逃れましょう。罪を犯す選択肢があっても、それをしてはなりません。

パウロが言ったように、

また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。(ローマ6:13-14)

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ミカ書

他の人々の罪についていく

イザヤ書を読むのをしばらく休みます。二つの理由があります。

一つ目は、イザヤがもうすぐエルサレムに対して預言するからです。この箇所では、ミカも同じことをします。

二つ目は、聖書の経緯をキャッチアップしなければならないからです。

ミカとイザヤは同じ時代に預言しましたが、ミカはイザヤの少し後に預言を始めました。イザヤはウジヤ王の時代に始めましたが、ミカはウジヤの息子ヨタム王の時代に預言を始めました。

この箇所では、北イスラエル王国はまだ立っていますが、ミカが預言したように、すぐに倒れます。彼らが偶像礼拝を行ったので、ミカは警告しました。「裁きが差し迫ります。もうすぐ、あなたの都市はすべて倒れ、あなたが信頼する偶像は砕かれます。」

そして、ミカはユダに対して話し始めました。二つの箇所が私に印象に残りました。

一つ目は9節です。

まことに、「イスラエル」の打ち傷はいやしがたく、それはユダにまで及び、わたしの民の門、エルサレムにまで達する。(ミカ書1:9)

そして13節です。

ラキシュに住む者よ。。。それはシオンの娘にとって罪の初めであった。イスラエルの犯したそむきの罪が、あなたのうちに見つけられたからだ。

つまり、イスラエル人は偶像礼拝を始めて罪を犯しましたが、その罪はユダにも及びました。

ここに少し皮肉なことがあります。ラキシュはユダの要塞都市の一つでした。そのため、ラキシュはユダを守るべき存在だったのです。けれども、ラキシュに霊的な隙が生じ、それが物理的な隙へと繋がりました。

ミカが預言した通り、アッシリアがユダを打ち砕きました。そしてアッシリアはエルサレムを包囲しました。その時、やっとユダの民が悔い改め、神様が彼らを救い出してくださったのです。しかし、それはまた別の話です。

罪がユダにこっそり入り込み、その人々を汚したように、私たちも気をつけなければ、この世の罪が私たちの心にこっそり入り込み、私たちを汚してしまいます。

どれだけのクリスチャンが罪に陥るのを見たことがあるでしょうか。多くのクリスチャンが姦淫を犯したり、お金に執着するようになったりします。

この世を見ると、時々罪が魅力的に見えることがあります。私たちはその罪が良いものだと思い、欲してしまいます。

しかし、イスラエル人とユダ人のように、その罪は私たちを荒廃へと導きます。それは私たちの家族を荒廃させ、信仰を荒廃させ、人生をも荒廃させます。

ですから、罪に対して注意を払いましょう。そして、神様の目に聖い者となり、神様を喜ばせる者となりましょう。

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一時的な安心、永遠の希望

この預言はドマ(つまりエドム)とアラビヤに対するものです。そして、その預言によって、神様はこの二つの国に将来の裁きについて警告されました。

11節でエドム人は叫びました。「今は夜の何時か。」

つまり、

「私たちは苦しんでいる。いつまでアッシリヤ人の手によって私たちは苦しむのだろうか。」

イザヤの答えは暗いです。「朝が来、また夜も来る。」(イザヤ書21:12)

つまり、アッシリヤから救い出されますが、あなたは少しだけ安心します。アッシリヤは倒れますが、あなたが彼らを倒すわけではありません。そして、アッシリヤ人を倒す人々(つまりバビロン人)によって、あなたの人生はもっと惨めになります。

それは紀元前612-605年に起こりました。

そしてイザヤはアラビヤも、この預言の一年以内に倒れると警告しました。

本当に暗いメッセージです。

とはいえ、この箇所によって私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たち皆は時々辛い時を経験します。私たち皆は時々苦しみます。

この辛い時は来たり、行ったりします。誰でも良い時も悪い時も経験します。

けれども、神様と関係のない人にとっては、結局エドム人とアラビヤ人のように希望がまったくなくなります。彼らは死ぬと、地獄に行って永遠に苦しみます。

しかし、キリストと関係があると、私たちは結局光がある事を知ることができます。パウロはこう記しました。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。。。

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。。。

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。(ローマ8:18、22-23)

パウロは私たちの苦しみは辛いけれど、それは一時的なものだと分かりました。だから、彼の人生には苦しんでもいつも希望がありました。私たちにもその希望があります。

私たちの苦しみは永遠に続きません。

だから、苦しむときには、神様に向かいましょう。神様を仰ぎましょう。

今もなお、聖霊様があなたのために祈ってくださっていることを思い起こしてください。聖霊様が私たちのために祈ってくださっているからこそ、パウロはこのように語ることができたのです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ書8:28)

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砕かれた人々のための希望

この箇所はちょっと難しいです。多くの聖書の学者によれば、この箇所はペルシア人とメディヤ人がバビロンを攻撃することを預言しているものです。とはいえ、ほかの可能性もあります。

その攻撃の150年以上前に、バビロンはメディヤ人とエラム人と同盟を結んでアッシリヤを攻撃しました(紀元前700年ごろ)。

そしてユダはそれを見て、その同盟を応援しました。なぜなら、アッシリヤはユダも虐げたからです。

イザヤもそれを見て、希望を持ったかもしれません。けれども、イザヤはこの主からの幻を見て、泣きました。なぜなら、その攻撃は失敗して、バビロンが倒れたからです。(イザヤ書21:3-4)

最初にその攻撃について聞いた時、ユダ人たちは大宴会を催しましたが、バビロンが倒れたニュースを聞いたら、希望がなくなって、その大宴会は急に終わりました。

しかし、イザヤは彼らに言いました。

踏みにじられた私の民、打ち場の私の子らよ。私はイスラエルの神、万軍の主から聞いた事を、あなたがたに告げたのだ。(イザヤ書21:10)

この言葉は脱穀された穀物の絵です。最初に穀物の穂は踏まれます。そして、その穀物の種が出て、農夫はその穀物を空気中に投げます。そうすると、風によってその要らない殻が吹き飛ばされて、穀物は落ちて保存されます。

そのように、神様はユダ人たちがアッシリヤ人に踏まれたとしても、神様が主を愛して仕える残りの者を保護すると約束されました。しかし、以前ユダ人が信頼したバビロン人たちは殻のように吹き飛ばされるのです。

時々私たちは困難な時に、ユダ人のように助けを探しますが、神様に向かいません。けれども、結局その助けが無駄になって、私たちは砕かれるように感じます。

しかし、もう一度神様に向かって信頼すると、神様がまだ私たちのために計画を持っておられるので、私たちには希望があることが分かるようになります。

あなたは砕かれたと思うでしょうか。あなたは助けを探しているけど、神様があなたの人生に何をされるのか無視しているでしょうか。

神様はあなたを癒すことができます。まだ希望があります。

もしへりくだって神様に立ち返り、悔い改めるなら、神様はあなたを癒してくださいます。神様に信頼するなら、神様の力によってあなたの人生は回復するのです。

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イザヤ書

頑固

私が子供たちに聖書を教えるトレーニングを受けた時に、私の先生はこう言いました。「もし子供たちにあなたの話すポイントを覚えさせたいなら、三回繰り返さなくてはなりません。」

なぜなら、一回だけだと、彼らが聞いていないかもしれないし、二回繰り返せば彼らが思い出すかもしれませんが、三回繰り返すと彼らの記憶に残るだろうからです。

(とはいえ、ある子供にとっては三回でも覚えてくれないかもしれません。)😊

とにかく、ユダ人にとっては三回でも不十分でした。アハズ王の息子ヒゼキヤはアッシリヤを恐れたため、何回も「エジプトと同盟を結ぼう」と思いました。

実は、ヒゼキヤはその在位の間、ほぼ良い王でした。しかし、時々彼の信仰が弱くなり、失敗したこともあります。つまり、神様に信頼せずに、軍事同盟に頼りました。

何回もイザヤはヒゼキヤにそのような同盟について警告しました。

20章では、イザヤは裸でユダを歩き回りました。(本当にすっ裸かどうか分かりません。下着を履いていたかもしれませんが。)

なぜでしょうか。それは神様からのしるしだったのです。つまり、いつかヒゼキヤが信頼していたエジプト人とクシュ人が、アッシリヤの捕虜として裸で歩かされることになるからです。

そして、エジプトとクシュに信頼していた人々も、恥を受けることになるのです。

さらに、イザヤは三十章で、もう一度ヒゼキヤとユダの民に警告を与えました。

ああ。反逆の子ら。――主の御告げ――彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。

彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示をあおごうとしない。パロの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする。(イザヤ書30:1-2)

そして、31章でイザヤは彼らに警告しました。

「エジプトはきっと倒れます。もしあなたたちがこの同盟を求め続けるなら、ユダも倒れてしまうでしょう。」

ヒゼキヤはその警告も無視しました。しかし、結局エジプトが「いたんだ葦の杖」のようになった時、ヒゼキヤは必死になって、やっと神様に向かって信頼しました。

そして、神様はユダを救われました。

どうして、ヒゼキヤはそんなに頑固だったのでしょうか。

どうして、私たちはそんなに頑固になるのでしょうか。

私はよくわかりません。プライドかもしれません。神様が要らなくて、自分の問題を解決できると思うかもしれません。もしくは神様に信頼したら、がっかりしてしまうと思うかもしれません。

もし、最初から神様に信頼したら、私たちの人生はどれほど楽になるでしょうか。

最初に神様の声を聞いて従ったら、どれほど私たちの人生は楽になるでしょうか。

頑固にならないようにしましょう。ヒゼキヤとユダ人は頑固で、ずっと自分の計画を握りしめて、罪を犯しました。そのような態度を避けましょう。

むしろ、最初から、神様の警告と戒めに従いましょう。

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祝福を得るために打たれた。人々を祝福するために打たれた。

子供の時に、私はよくしつけられました。もちろん、それは楽しい思い出ではありません。けれども、振り返ると、私は父に感謝しています。なぜなら、そのしつけによって私は人として成長したからです。

そのように神様は私たちをしつけられます。しかし、多くの人々のイメージと違って、神様は怒りの神ではありません。むしろ、神様は私たちを祝福したいと思っておられます。

この箇所の最初の部分では、モーセの時代のように、神様はエジプトを厳しく裁いておられました。けれども、急に神様のトーンが変わります。

その日、エジプトの国には。。。万軍の主に誓いを立てる五つの町が起こり。。。彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる。

そのようにして主はエジプト人にご自身を示し、その日、エジプト人は主を知り。。。主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。

彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。(イザヤ書19:18,20-22)

それだけではなく、神様はエジプトの敵アッシリヤ人の心の中に働くと約束されました。そしてエジプト人とアッシリヤ人に関して、神様はこう言われました。

その日、エジプトからアッシリヤへの大路ができ、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。

その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける。(23-24)

この箇所を読んだ時、ちょっと驚きました。なぜなら、普通は神様はイスラエルだけに関してそのような言葉を言われるからです。けれども、この箇所によると、神様に戻る人々全てを神様は受け入れてくださいます。

もちろん、私たちが罪を犯すと神様は私たちを打たれます。とはいえ、神様の望みは、私たちが悔い改めることです。そうすれば、神様は私たちを癒してくださいます。

それだけではなく、神様は私たちを祝福したいと思っておられます。そして、神様は私たちが周りの人々に対して祝福になることを望んでおられます。

神様は今あなたを懲らしめておられるでしょうか。あなたの罪によって、あなたの状況は辛いでしょうか。

神様に向かって悔い改めましょう。神様は私たちを打ちたくはありません。むしろ、私たちを祝福したいと思っておられます。

私たちが周りの人々に対して呪いになることを望んでおられません。むしろ、私たちが周りの人々に対して祝福になることを望んでおられます。

だから、へブル人への手紙の著者の言葉を覚えておきましょう。

主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。

主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。(へブル12:5-6)

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神様が沈黙するとき

時々私たちはこの世の悪を見て、「神様はどこにおられるのだろうか」と思います。

「どうして神様は何もされないのだろうか。何かしておられるのだろうか。神様は悪を見て、気になさらないのだろうか。」

この箇所で、神様はそのような方のようです。「あちこちで恐れられている民」また「力の強い、踏みにじる国」を見ると、神様は言われました。

「静まって、わたしの所からながめよう。」(イザヤ書18:4)

しかし、神様はいつまでもそうされません。むしろ、ある日、

「神様」はその枝をかまで切り、そのつるを取り去り、切り除くからだ。

それらはいっしょにして、山々の猛禽や野獣のために投げ捨てられ、猛禽はその上で夏を過ごし、野獣はみな、その上で冬を過ごす。(5-6)

日本語の翻訳では、「人はその枝をかまで切り。。。」と書いてありますけど、ヘブル語では「彼はその枝をかまで切り。。。」と書いてあります。その「彼」とは神様です。

つまり、今神様が何もしておられないと思うかもしれませんが、結局神様がこの世界を裁かれます。その悪い民を裁かれ、神様とその民に反対する人々を裁かれます。

とはいえ、興味深いところもあります。神様はその敵が悔い改めるように働いておられます。

7節によると、神様とその民に反対して恐れられた人々は、神様を王として従い、贈り物をささげます。

だから、ペテロの言葉を思い出すことが大切だと思います。ペテロはこう書きました。

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。

かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。(第二ペテロ3:9-10)

神様の御心はすべての人々が滅びることではなく、むしろ救われることです。ある日、悔い改めない人々は裁かれます。

しかし、神様は彼らの悔い改めのために待っておられ、その日を伸ばしておられます。

神様の民として、私たちはどのように反応するべきでしょうか。

周りの人々の救いのために祈りましょう。彼らが私たちを憎んでも、彼らが私たちが見つけたキリストにあって命を見つけるように祈りましょう。

神様の子供としてそうするべきではないでしょうか。

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神様を忘れる

英語では、私たちはよく言います。「Out of sight, out of mind.」

つまり、しばらく相手を見ないとすぐに忘れてしまうのです。

残念なことですが、多くの人々は神様についてそのように考えます。神様を見ることができないため、もし活発に求めないと神様をすぐに忘れてしまうのです。

多くのクリスチャンも神様をすぐに忘れてしまいます。けれども、困った時には、私たちは神様をすぐに思い出して、叫びます。「神様!助けて!」

イスラエル人もその通りでした。彼らは偽物の神々と霊的な同盟を結び、シリアと政治的および軍事的同盟を結んだのです。

だから、神様は彼らを責められました。

あなたが救いの神を忘れてあなたの力の岩を覚えていなかったからだ。(イザヤ書17:10)

私たちはどれぐらいそのようなことをするでしょうか。私たちは他の神々を礼拝しないかもしれません。しかし、神様に頼れずに、私たちはお金に頼ります。神様ではなく、お金は私たちの岩になります。

あるいは、私たちの持ち物を何よりも大事にします。もしくは、私たちの仕事が上手くいくために妥協して、不敬虔な人々と働きます。

一時的にすべては上手くいくかもしれませんが、結局すべてを失います。イスラエル人とシリア人はそのことを学びました。

そして神様は言われました。

その日(つまり、全てを無くす日)、人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見、自分の手で造った祭壇に目を向けず、自分の指で造ったもの、アシェラ像や香の台を見もしない。(7-8)

その日が来る前に、今こそ神様を思い起こすべきではないでしょうか。

つまり、お金ではなく、神様こそを私たちの岩とすべきではないでしょうか。 なぜなら、人々が作った物ではなく、神様こそが強い砦だからです。

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兄弟のための思いやり

兄弟の憎しみは他の憎しみよりも大変なことです。なぜなら、私たちは自分の兄弟からもっと期待するものだからです。

モアブ人はイスラエル人ともっと親しい関係があるべきでしたが、全然親しくありませんでした。

彼らの先祖はアブラハムとロトでした。アブラハムはロトのおじでした。そして、アブラハムの子孫たちはイスラエル人で、ロトの子孫はモアブ人でした。

それでも、その二つの国の関係は大部分において悪いものでした。

そして、この箇所で神様はモアブを裁かれました。しかし、イザヤのモアブへの裁きに対する反応は、他の国々の裁きに対する反応と違いました。

イザヤは言いました。

わたしの心はモアブのために叫ぶ。。。

それゆえ、わたしのはらわたはモアブのために、わたしの内臓はキル・ヘレスのために立琴のようにわななく。(イザヤ書15:5;16:11)

どうしてイザヤは、イスラエルとユダの敵のために泣いていたのでしょうか。多分彼らは兄弟のはずだったからです。だからモアブはユダやイスラエルと仲良くないのに、イザヤはまだその人々を愛していました。

イザヤはモアブ人に、「保護のためにユダに行ってください」と言いました。

そして、ユダ人にイザヤは言いました。「モアブ人を受け入れて、保護してください。」

また、イザヤはモアブ人を慰めようとしました。彼は言いました。

「しいたげる者(アッシリヤ人)は死にます。もしあなたがユダに行ったら、あなたは安全と正義を見つけることになるでしょう。」(イザヤ書16:1ー4)

そしてイザヤは言いました。

一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行なう者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる。(イザヤ書16:5)

つまり、彼らには一つの希望しかありませんでした。それは、将来のエルサレムを治められる救い主です。

残念なことに、モアブ人はイザヤの言葉を無視しました。だからイザヤは彼らに言いました。

雇い人の年期のように、三年のうちに、モアブの栄光は、そのおびただしい群衆とともに軽んじられ、残りの者もしばらくすれば、力がなくなる。(イザヤ書16:14)

この箇所を読むと、私たちを憎む人々に対する思いやりの必要を思い出します。

時々親友は私たちを裏切ります。しかし、彼らが苦しむ時、私たちは喜ぶべきではありません。むしろ私たちは彼らのために祈るべきです。

そしてイザヤのように、私たちは彼らに「イエス様に向かってください」と願うべきです。また、彼らのただ一つの希望はイエス様にあることを伝えるべきです。

あなたはどうですか。あなたを憎む人々が苦しむ時に、あなたは喜ぶでしょうか。それとも泣くでしょうか。

「彼らが苦しんで良かった」と言いますか。それとも彼らの癒しのために祈るでしょうか。

イエス様は私たちに教えられました。

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

イエス様にとっては、それは言葉だけではありませんでした。イエス様はその言葉に従われました。十字架で死にかけているときにも、イエス様はご自身の敵のために祈られました。

その愛によって、イエス様を信じる私たちは救われました。

私たちも、その受けた憐れみを、私たちを傷つけた人々に与えるように。

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もっと大変なこと

この箇所によって、私たちはイスラエルのタイムラインのどこにいるかを見ることができます。つまり、イザヤがこの箇所を書いた時に、ユダの王アハズは亡くなったところでした。

とはいえ、29節では、イザヤはアハズの死ではなく、アッシリヤの王の死については書いていませんでした。

多分、ペリシテ人はアッシリヤの王の死について喜んでいました。なぜなら、その王はペリシテ人を苦しめた存在だったからです。

しかし、イザヤはペリシテ人に警告しました。

「この王は死にましたが、あなたの苦しみは終わっていません。むしろ、あなたの苦しみはもっと酷くなります。

そのアッシリヤの王の息子はあなたたちを治め続けますし、飢饉もあなたたちの土地を打ちます。

だから、あなたたちはこの世界から消えて、全く将来の希望はありません。けれども、あなたたちが苦しめたイスラエル人は再びシオンに戻り、安全を知るようになります。」(イザヤ書14:30-32)

私たちはここから何を学ぶことができるでしょうか。

私たちが悔い改めるために、時々神様は私たちを懲らしめられます。

どうして神様は、アッシリヤを通してペリシテ人とイスラエル人を苦しませられたでしょうか。なぜなら、神様はその苦しみを通して彼らが罪を捨てて、神様に向かうことを望まれたからです。

しかし、アッシリヤ人は悔い改めなかったので、滅びました。

実は、イスラエル人も滅びるはずでした。けれども、神様の恵みによって滅びていませんでした。

以前、神様がアブラハムに約束されました。

わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。。。

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。(創世記22:17-18)

つまり、神様はアブラハムの子孫をずっと祝福し、アブラハムの家系を通して、救い主イエス様が来られると約束されました。

イザヤがペリシテ人に対して、もっと大変な裁きについて警告したように、イエス様はある人にもっと大変な裁きについて警告されました。

その人は38年間歩けなかったのですが、イエス様は彼を癒されました。後にイエス様はその人に会って、こう言われました。

見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。(ヨハネ5:14)

つまり、「あなたのけがが悪かったと思ったでしょうか。今癒されて喜んでいるでしょうか。

あなたにはもっと悪い問題があります。それは、あなたの罪です。もし悔い改めなければ、もっと悪いことが起こります。あなたのけがは一時的なものでした。しかし、地獄は永遠に続きます。」

あなたは神様の警告を聞いて、どうするでしょうか。無視するでしょうか。それとも、悔い改めるでしょうか。

神様の警告に注意しましょう。そうすれば、永遠の罰を受けずに、永遠の命を知るようになります。

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自分の目的を果たされる神

時々、私たちは自分の状況を見て、神様が本当に私たちのために御計画を持っておられるのか疑ってしまうことがあります。

あるいは、神様はもともと御計画を持っておられたけれど、私たちの罪や過ちによって、その御計画が失われてしまったのではないかと思うこともあります。

または神様が予想できなかった状況によって、その御計画がダメになったと思うことがあります。なぜなら、私たちの経験では、私たちの立てた計画は予想できない事によってダメになってしまうことが多いからです。

でも、神様の御計画は決してダメになりません。神様は言われました。

「万軍の主が立てられたことを、だれが破りえよう。

御手が伸ばされた。だれがそれを戻しえよう。」(イザヤ書14:24,27)

この箇所では、神様はアッシリヤの将来の裁きについて話しておられます。アッシリヤには強い軍隊があり、ユダとイスラエルを困らせていましたが、神様がアッシリヤを打ち破り、そのくびきは主の民の上から除かれると約束しておられます。

だから、イスラエルとユダの罪によって、彼らはアッシリヤの手によって苦しんでいたのに、また希望が無くなったようだったのに、神様はまだイスラエルの民のために御計画を持っておられました。アッシリヤや他のものは、その計画の成就を止めることができませんでした。

そのように、神様はまだあなたのために御計画を持っておられます。イスラエル人のように、あなたは罪を犯したから苦しんでいるかもしれません。

または、サタンがあなたを攻めていて、あなたはそれから逃げられないと思っているかもしれません。私たちのための神様の御計画は、きっと成就できないと思うかもしれません。

でも神様が言われているのは、「私の御計画はまだ有効だ」ということです。

神様は状況によって決して驚かれません。また、いつも何をするか知っておられます。何も、また誰も神様の御計画の成就を止めることはできません。

私たちもできません。サタンもできません。神様の御計画は永遠に立ちます。

だから、がっかりしないでください。希望を失わないでください。むしろ、主から目を離さないでいましょう。そして、神様に心を開いて、従いましょう。

ダビデが言ったように、

主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。

主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。(詩篇138:8)

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サタンの敗北

この箇所は13章の続きで、バビロンの裁きについてです。

多くの人々はこの箇所がサタンに関するものだと思います。特に12−14節はサタンに関すると思います。

私はそこまで言わないけれども、バビロンの王とサタンは共通点がたくさんありました。

その二人は高い立場を望み、力も持ちたがっていました。その二人は神様のようになろうとしていました。そのために彼らは人々を抑え、囚人として捕えました。

しかし、神様はその二人を打ち倒されました。そして、バビロンの王の治世が終わったように、サタンの治世も終わります。

イザヤは、バビロンの王が倒れたら人々がこう言うと預言しました。

しいたげる者はどのようにして果てたのか。横暴はどのようにして終わったのか。

主が悪者の杖と、支配者の笏とを折られたのだ。

彼は憤って、国々の民を打ち、絶え間なく打ち、怒って、国々を容赦なくしいたげて支配したのだが。全地は安らかにいこい、喜びの歌声をあげている。。。

下界のよみは、あなたの来るのを迎えようとざわめき、死者の霊たち、地のすべての指導者たちを揺り起こし、国々のすべての王を、その王座から立ち上がらせる。彼らはみな、あなたに告げて言う。

「あなたもまた、私たちのように弱くされ、私たちに似た者になってしまった。」(イザヤ書14:4-7、9-10)

そのように、イエス様がこの世にもう一度来られると、サタンは永遠に打ち倒されます。その日、皆は喜び、やっと平和が訪れます。

また、サタンは地獄に落ち、その力はすべて失われます。そして、他の悪人のようにサタンは自分の罪とプライドによって火の池に投げ込まれます。

多くの人々はサタンと地獄について誤解があります。彼らはサタンが地獄の王だと思っています。

しかし、サタンは今地獄にいないし、全く行きたくありません。なぜなら、サタンが地獄に行く時、王として行くのではないからです。サタンは監獄の長としてさえも行きません。むしろ、地獄の囚人として行きます。

バビロンの王が落ちた時に、皆は驚いて言いました。

この者が、地を震わせ、王国を震え上がらせ、世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった者なのか。(16-17)

そのように、サタンが落ちると、皆は驚いて同じようなことを言います。

この箇所によって私たちは何を学ぶことができるでしょうか。サタンと悪霊があなたを攻めるかもしれませんが、彼らの時間は短いです。彼らもそのことを知っています。

ある日、彼らが裁かれ、その日この世の悪は消え、あなたの苦しみも終わります。だから、私たちは希望があります。

あなたは永遠に苦しむことはありません。サタンが永遠にあなたを責め続けることもありません。

イエス様の十字架の働きによって、神様はすでに救いの御業を始めておられます。そして、神様はあなたを罪の力と罪の罰からすでに解き放ってくださいました。

とはいえ、私たちは罪の臨在からまだ救われていません。だから、私たちはまだ苦しんでいます。しかし、その日も来ます。

その日、

彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示録21:4)

だからこそ、試練が来ても失望しないでください。むしろ喜びましょう。なぜなら、イエス様を通して、私たちはもう勝利を得たからです。

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裁きの日

13章から、神様はいくつかの国に対して裁きを宣言し始められました。

最初に、神様はバビロンを裁かれました。そして、バビロンの裁きを通して、将来の世界の裁きの絵を見ることができます。

イザヤはこう書きました。

見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。

天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。

わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。

わたしは、人間を純金よりもまれにし、人をオフィルの金よりも少なくする。

それゆえ、わたしは天を震わせる。万軍の主の憤りによって、その燃える怒りの日に、大地はその基から揺れ動く。

追い立てられたかもしかのように、集める者のいない羊の群れのようになって、彼らはおのおの自分の民に向かい、おのおの自分の国に逃げ去る。(イザヤ書13:9-13)

「10節を読んだことがあるかなぁ」と思うなら、多分そうです。最後の日について話された時に、イエス様はこの箇所を引用されました。(マタイ24:29)

そして、イザヤははっきりと言いました。「神様の忍耐は永遠に続かない。」

今、私たちは恵みの時代に生きています。ペテロはこう記しました。

主は。。。あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(第二ペテロ3:9)

しかしペテロはこれも言いました。

主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。(第二ペテロ3:10)

イザヤの言葉も私の心を打ちます。つまり、「残酷な日」、「憤り」、「燃える怒り」、「荒れすたらせる」、「根絶やしにする」と「罰する」。

私たちはよく神様が愛であると思います。それはその通りです。とはいえ、神様は正義の神でもあります。そして、正義の神は結局罪を裁かなくてはなりません。

時々、私たちは神様がその裁きに関して遅いと思います。しかし、神様ははっきりと言われます。「裁きの日が来る。」

神様は、バビロンとその王にその警告を宣言されました。また、神様は私たちにも警告されます。

あなたは裁きの日のために準備しているでしょうか。神様があなたの罪を無視されると思わないでください。また、神様があなたの罪に気づかないと思わないでください。

神様は、すべての人々の罪を裁かれます。あなたの悪い行動、あなたの悪い言葉、あなたの悪い態度、あなたの悪い思いを全部裁かれます。

その日は必ず来ます。そして、あなたはその日から逃れることはできません。

私たちの希望は一つしかありません。まだ時間があるうちに、神様の赦しとあわれみを求めることです。その時間は今です。

パウロはこう記しました。

確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

今、そうしませんか。

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救いの喜び

ある日曜日、ヨハネ3章についてのメッセージを聞きました。その日、私の牧師は16節を読みました。多分ヨハネ3:16は一番有名な聖書の箇所です。

そして、私の牧師は私たちに訊きました。「この箇所はあなたの心にまだ触れるでしょうか。それとも、その言葉を聞いても何も感じなくなったでしょうか。」

時々、私たちは救いを当然のことだと思います。つまり、救いについて考えても、特に感謝の心を持ちません。

どれぐらいあなたは救いの意味について本当に考えるでしょうか。前回はいつだったでしょうか。

この箇所を読むと、私は救いの意味を思い出します。

「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」

見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。

ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。

あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。(イザヤ書12:1-3)

子供の時に、私はいつも父の怒りを恐れていました。特に私が悪いことをした時に父の怒りを恐れました。

多くの人々は神様についてそのように考えます。神様が彼らを罰すると思うから、神様から隠れます。

しかし、この箇所によると、神様を恐れる必要はありません。神様の恵みとあわれみによって、神様の怒りは私たちから去られました。イエス様を通して私たちは罪の罰から救われました。

だから、神様を恐れて隠れる必要はありません。むしろ、神様は私たちの喜びと歌になられました。

それだけではなくて、神様は毎日私たちと共におられます。私たちがどこに行っても、何をしても、神様の手は私たちの上にあります。祝福してくださるために。導いてくださるために。また守ってくださるために。

私はそのことについてもっと考えるべきです。イエス様にあって、どのような祝福を持っているか覚えているべきです。

感謝するべきものがたくさんあります。そして、この世界は私たちを自由にさせられたメッセージを聞くべきです。

イザヤが書いたように、

主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。

主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。シオンに住む者。

大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方。(4-6)

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この同じ御霊

もちろんこの箇所はイエス様についてです。つまり、イエス様はこの世に来られ、そして御霊がイエス様の上にとどまって、イエス様を知恵と悟りと力に満たされました。

そして、イザヤは将来の国について話しました。その時、狼は子羊とともに宿り、子供はコブラの隣に遊び、イエス様はイスラエルを回復し、この世界を義によって治められます。

けれども、この箇所を読んだ時、私はこう思いました。イエス様の上にとどまった御霊は私たちに与えられました。この同じ知恵と悟りとはかりごとと能力の御霊は私たちにも与えられました。

イエス様が約束されたのは「私は天国に帰ると聖霊をあなたに送る。その御霊によってあなたは私よりも素晴らしい業を行う」という事です。(ヨハネ14:12−17)

また、イエス様は、御霊が私たちにすべてのことを教えると約束されました。(ヨハネ14:26)

また、イエス様は、私たちがこの世に影響を与えるために、御霊が私たちに知恵を与えると約束されました(ヨハネ16:13−15)。

今日まで、私は気づいていませんでしたが、多分パウロはエペソ人への手紙を書いた時に、この箇所について考えていたかもしれません。パウロの言葉はイザヤ書のパラフレーズのようです。

パウロはこう記しました。

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせ[た」。(エペソ1:17-20)

「私たちが神様を知るための知恵と啓示の御霊。」

心の目がはっきり見えるようになったので、私たちは与えられた望みが分かります。全能の力ある御霊は私たちの中で働いています。その力によって神様はキリストをよみがえらせました。

時々、私たちは「どうして神様はこの世の中にもっと働かないの?」と訊きます。

一つの理由は御霊に満たされたクリスチャンがあまりいないからです。知恵と悟りと力に満たされたクリスチャンは少ないです。また神様を恐れるクリスチャンもあまりいません。

むしろ、私たちはこの世の物で私たちの人生を満たそうとします。私たちは仕事や趣味に集中しすぎます。私たちは御霊の力に満たされずに、空っぽで生きます。だからこそ、この世界は死にかけているのです。

しかし、イエス様の上にとどまっていた同じ御霊を、私たちも受けることができます。

御霊を求めているでしょうか。御霊に満たされることを望んでいるでしょうか。そうすれば、私たちの人生だけでなく、この世界も変わります。けれども、そうでなければ何も変わりません。

あなたはどうですか。あなたは空っぽでしょうか。あなたは御霊に飢えているでしょうか。

私たちが求めると、きっと満たされます。

イエス様は言われました。

してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。

とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。(ルカ11:13)

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主に信頼する人々に

私はこの箇所が大好きです。神様はアッシリヤを裁かれた後、イスラエル人にこう言われました。

その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者(つまり、アッシリヤ人)にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。。。

それゆえ、万軍の神、主は、こう仰せられる。「シオンに住むわたしの民よ。アッシリヤを恐れるな。彼がむちであなたを打ち、エジプトがしたように杖をあなたに振り上げても。

もうしばらくすれば、憤りは終わり、わたしの怒りが彼らを滅ぼしてしまうから。。。

その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。」(イザヤ書10:20、24ー25、27)

これを読むと、私たちの人生について考えます。

以前、私たちは私たちを打った者に頼っていました。つまり、サタンは私たちに幸せと満足を与えると約束しましたが、結局私たちのすべてを盗みました。サタンは私たちを打ったので、私たちは自分の罪と情欲の奴隷になりました。

しかし、もし私たちがサタンの嘘を信じずに、むしろ主に頼ると、私たちの罪と罪悪感と恥の重荷は取り除かれ、私たちは自由にされます。

そして、ある日、神様がアッシリヤ人を裁かれたように、神様はサタンも裁かれます。サタンはそれを知っています。だから、サタンは私たちに向かって拳を振り上げます。(32)

けれども、神様はサタンを木のように切り落として、サタンは低くされます。

だから、サタンの嘘を拒絶して信頼しないでください。

サタンはいろいろな約束をしますが、その約束は虚しいものです。サタンは私たちを脅すかもしれませんが、私たちが神様に信頼すると、サタンは私たちに対して力がありません。

むしろ、主に頼りましょう。なぜなら、主は私たちを愛し、癒やし、新しい人生を与えたいと願っておられるからです。

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誰が主人でしょうか。誰が道具でしょうか。

聖書が私たちによく警告することはプライドです。そして、この箇所で、神様はアッシリヤ人をプライドのために責められました。

アッシリヤは強い国になって、周りの国々を征服し始めました。しかし、彼らが知らなかったことは、神様が彼らを通してその国々を裁いておられたことです。つまり、アッシリヤ人たちはただ神様の道具にすぎませんでした。

神様はこう言われました。

わたしはこれを神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる。(イザヤ書10:6)

けれども、自分のプライドによって、アッシリヤ人たちは自慢しました。

私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。

私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のように、住民をおとしめた。(13)

だから神様は答えられました。

斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。(15a)

そして、神様は皮肉っぽく言われました。

それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものではないか。(15b)

だから、神様は彼らを裁いてこう宣言されました。

それゆえ、万軍の主、主は、その最もがんじょうな者たちのうちにやつれを送り、その栄光のもとで、火が燃えるように、それを燃やしてしまう。(16)

ヒゼキヤ王の治世のとき、その預言は成就されました。(イザヤ37:36ー37)

ここから、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちはよく自分ができること、また自分ができたことを自慢します。社会でも、教会でも私たちはそうします。

しかし、覚えていなくてはならないことは、私たちが主人ではないことです。私たちはただの道具です。

私たちが持っている物の全ては神様から来ます。そうであれば、私たちは何を自慢できるでしょうか。

パウロはこう言いました。

いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。

あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。

もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(第一コリント4:7)

だから、教会でも、この世界でも、私たちが素晴らしいことをする時、すべてがどこから来るか思い出しましょう。

私たちの賜物と才能がどこから来るか思い出しましょう。私たちの祝福がどこから来るか思い出しましょう。

そして自分自身のために生きずに、謙遜な態度を持って、神様に感謝して仕えましょう。

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悪の本質

いつイザヤがこの預言を書いたか私は分かりませんが、多分イスラエルの王ペカの治世の時に(列王記第二15:29)、もしくはホセア王の治世の時に書きました。(列王記第二17:3-5)

ペカの治世の時、アッシリアはイスラエルを攻めていました。ホセアの治世の時、アッシリヤはもう一度来てサマリヤを攻めていました。

とにかく、イスラエルは困っていたのに、神様に向かうことを拒絶しました。むしろ、自分のプライドと力によって、砕かれた物を回復しようとしました。

だから、神様は言われました。「あなたがたのプライドと罪のためにあなたがたは追放される。」

その警告の中で、鮮やかなイメージを通してイザヤはイスラエルの悪について話しました。そのイメージを通して私たちが悪の本質を学べると思います。

イザヤはこう記しました。

悪は火のように燃えさかり、いばらとおどろをなめ尽くし、林の茂みに燃えついて、煙となって巻き上がる。

万軍の主の激しい怒りによって地は焼かれ、民は火のえじきのようになり、だれも互いにいたわり合わない。(イザヤ9:18-19)

私は森林火災を見たことがありません。けれども、森林火災が始まると、すぐに広がって木や植木はその火災の燃料になります。結局、灰しか残りません。

悪はそのようなものです。放置されると、悪が広がって、人々は逃げられずにその悪の燃料になります。そして、悪はさらに悪を生みます。結局、皆が滅びてしまいます。

20-21節にこう書いてあります。

右にかぶりついても、飢え、左に食いついても、満ち足りず、おのおの自分の腕の肉を食べる。

マナセはエフライムとともに、エフライムはマナセとともに、彼らはいっしょにユダを襲う。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。(イザヤ書9:20-21)

つまり、悪によって、結局誰も満足することはありません。

時々私たちの望んだことが叶ったら、嬉しくなると思うから罪を犯します。だから私たちの夢を得るために周りの人々を踏みつけます。

またはポルノや姦淫を犯して、私たちの結婚を捨ててしまいます。

また私たちのお金や持ち物の愛によって、周りの人々を傷つけます。

しかし、結局私たちはまだ不満です。それでも、私たちは悪に背を向けずにその道を行き続けます。その結果、周りの人々を傷つけ、私たち自身も滅びてしまいます。

イスラエルとユダはその通りになりました。そして、神様は裁きの日が来ると警告されています。

私たちのために裁きの日が来ます。私たちの行動のために私たちは裁かれます。

だからこそ、堅い心と私たちを滅びる罪を捨ててましょう。むしろ、私たちは悔い改めましょう。そうすれば、私たちが癒されるのです。

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イザヤ書

その日が来ると

3年間前に英語のブログでこの箇所について書きました。その時、私はちょっと落ち込んでいました。なぜなら、家計がちょっときつくて心配していたからです。毎日そのことについて考えていました。

けれども、その時、この箇所を読んで希望が戻りました。

しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。

先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。

やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。

あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。(イザヤ書9:1ー4)

この箇所はイエス様についてです。パリサイ人と律法学者はそれを理解せず、言いました。

あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。(ヨハネ7:52)

けれども、この箇所は確かに救い主についてです。イザヤは続けてこう言いました。

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。

主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。

万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。(6ー7)

クリスマスの時にいつもメッセージと歌の中でその言葉を聞きます。

しかし、この世界は一年中このメッセージを聞かなくてはなりません。多くの人々は闇の中に歩んでいます。彼らは経済的な問題や人間関係の問題や健康の問題があります。

世界の先進国の中で、日本は二番目に高い自殺率です。

けれども、イエス様が希望のないイスラエル人に光と希望を与えられたように、イエス様は今でも人々に希望を与えてくださいます。

また失望する人に喜びを与えてくださいます。そして、疲れた人のくびき、また重荷を負っている人のくびきを破ってくださいます。

イエス様は不思議な助言者です。この壊れた世界で、イエス様はどうやって生きた方が良いか教えてくださいます。また私たちの壊れた人生をどうやって治すか教えてくださいます。

イエス様は力ある神です。私たちの苦しみの中で、イエス様は私たちを助ける力を持っておられます。

イエス様は永遠の父です。時間が始まる前に、イエス様は私たちを知って愛しておられました。

イエス様は平和の君です。イエス様は恐れで結ばれた人々に、安心と平和を与えてくださいます。

そして、2000年前に来られたように、いつかもう一度イエス様はこの世界に戻られます。

その日、イエス様は世界の悪を打ち破られます。不正義はなくなりますし、死と苦しみと悩みもなくなります。

しかし、その日が来るまで、イエス様は聖霊様を私たちに与えてくださいました。聖霊様は私たちの心の中に住んで、私たちを慰めて、導いてくださいます。

イエス様は私たちを捨てて孤児にはされませんでした。毎日、私たちと共におられます。そして、私たちが心配して苦しむ時、イエス様は私たちの光となられます。

だからこそ、イエス様に向かいましょう。

イエス様は今でも私たちに言われます。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。

そうすればたましいに安らぎが来ます。(マタイ11:28ー29)

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列王記第二

ふたりの主人に仕える?

この箇所は北イスラエル王国の物語の跋文です。

イスラエル人がアッシリヤに追放された後、アッシリヤの王は征服した他の国々の民をイスラエル人の代わりにサマリヤの町々に住まわせました。(サマリヤは北イスラエル王国の首都でした。)

ところが、間もなく、その人々はライオンによって殺されました。そして、アッシリヤの王はこの報告を聞きました。

あなたがサマリヤの町々に移した諸国の民は、この国の神に関するならわしを知りません。

それで、神が彼らのうちに獅子を送りました。今、獅子が彼らを殺しています。彼らがこの国の神に関するならわしを知らないからです。(列王記第二17:26)

この箇所を初めて読んだとき、「本当に主がそのライオンを送られたのだろうか」と思いました。

列王記の著者はそう考えていたのでしょうが、この話を読むと、その考えを受け入れるのは難しいと感じました。

なぜなら、アッシリヤの王が捕らえ移したイスラエルの祭司の一人をイスラエルに送り返し、その祭司がその人々にどのように主を礼拝するかを教えたからです。

そして、それ以降、ライオンが人々を襲うことはなくなったようです。

もちろん、神様は時々人々を裁かれます。また、旧約聖書の時代には、神様が動物を通して人々を裁かれた例も時々ありました。

とはいえ、問題は、サマリヤに送り返された祭司たちが堕落した祭司だったという点です。彼らは本当の祭司ではありませんでした。

ヤロブアム王一世が王位に就いたとき、本物の祭司たちは皆ユダ王国に移ったため、ヤロブアムは自分の意にかなう祭司を任命したのです。

そして、彼らは真の神様の礼拝を教えませんでした。むしろ、金の子牛がイスラエルの神であると教えたのです。

だから、もし神様がそのライオンを送られたのだとしたら、なぜ堕落した礼拝のためにライオンを送るのを止められたのでしょうか。

けれども、さらに考えてみると、一つの可能性として考えられるのは、神様が彼らを罰したものの、彼らの無知によって神様はご自身の怒りを収められたのではないかということです。

イエス様は次のように言われました。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。

しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。

すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12:47-48)

とにかく、その人々は神様について教えられたにもかかわらず、彼らは自分の神々を礼拝し続けました。

だから、私たちはこの矛盾した状況について読むことになります。

彼らは主を礼拝し[た]。(列王記第二17:32)

そして、

彼らは主を恐れているのでもなく、主が、その名をイスラエルと名づけたヤコブの子らに命じたおきてや、定めや、律法や、命令のとおりに行なっているのでもない。(列王記第二17:34)

どのようにしてこの二つの文が同時に正しいと言えるのでしょうか?

この箇所によって、神様はこう言っておられるのだと思います。「二人の主人を礼拝することは、真の礼拝ではありません。」

十戒の最初の命令で、神様は「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」(出エジプト記20:3)と仰いました。

したがって、列王記の著者は、この命令によってその人々を非難したのです。(列王記第二17:34-40)

では、あなた自身はどうでしょうか。主だけに仕えているでしょうか。それとも、二人の主人に仕えようとしているでしょうか。

ある人々にとって、お金が彼らの主人となっています。そのために、イエス様はパリサイ人を非難されました。

しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。

あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(ルカ16:13)

ある人にとっては、自分の持ち物が彼らの主人となっています。また、ある人にとっては、趣味が彼らの主人となっています。

あなたにとって一番大事なもの――それこそが、あなたの神です。

もし神様よりも他のものを優先して仕えるなら、神様はあなたの礼拝を受け入れられません。

そのような礼拝はサマリヤ人の礼拝と同じであり、神様の目には無意味なものになってしまいます。

あなたの主人は誰でしょうか。

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列王記第二

でも私はそんなに悪くないのに

この箇所は北イスラエル王国の終焉について記しています。イスラエルにはずっと悪い王が治めており、ホセアはイスラエルの最後の王でした。(このホセアは預言者ホセアとは異なる人物です)。

私にとって興味深いのは、ホセアが最も悪い王ではなかったことです。

もし私が神様なら、アハブ王やヤロブアムの治世のときにすでにイスラエルを追放していたことでしょう。

もちろん、ホセアも悪い王でしたが、2節には次のように書かれています。

彼は主の目の前に悪を行なったが、彼以前のイスラエルの王たちのようではなかった。(列王記第二17:2)

つまり、ホセアは悪い王でしたが、以前のイスラエルの王たちよりもましでした。しかし、神様の裁きはホセアの治世の時に下りました。

時々、私たちは周りの人々を見て、こう言います。

「私はそんなに悪くない。誰も殺していないし、人々に親切にしようとしています。もちろん時々悪いことをするかもしれないけれど、この人やあの人よりも、私は良い人です。」

そして、自分が周りの人々よりも良い人だと思うがゆえに、神様が自分を受け入れてくださると思います。

けれども、それは誤った考えです。

イスラエル人は時々公然と罪を犯しましたが、時には人々の目に見えないところで悪を行いました。

9節には次のように書かれています。

イスラエルの人々は、彼らの神、主に対して、正しくないことをひそかに行ない[ました。]

しかし、誰の前で罪を犯したとしても、またはひそかに罪を犯したとしても、神様はすべてをご覧になります。

14-17節では、イスラエルの最も深刻な問題を見ることができます。それは、神様の言葉を聞かず、頑なになり、神様に信頼することを拒絶したことです。

その結果、空しい偶像を礼拝し、彼ら自身も空しい存在になってしまったのです。

彼らが周囲の国々の民を真似るにつれて、罪の程度はさらに深刻になりました。

私たちはイスラエル人のようになってしまう可能性があります。

もし私たちが神様の言葉に従うことを拒み、神様に信頼せず、周りの人々の罪を真似して、お金やセックスの「神々」に従うなら、私たちも空しい存在になってしまうのです。

そして、最終的には裁きが訪れます。他の人々よりも罪が少ないとしても、それは関係ありません。

もちろん彼らも裁かれますが、あなたも裁かれるのです。

だからこそ、自分自身を欺いてはいけません。他の人々のほうが悪いかもしれませんが、神様の目の前では私たちも罪人なのです。

だからこそ、悔い改めましょう。神様を信頼し、神様の声を聞いて従いましょう。

そうすれば、神様の祝福、臨在、そして恵みを知ることができるのです。

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イザヤ書 列王記第二 歴代誌第二

私たちが立てられる岩、つまずきの岩

妥協――私たちの信仰を妥協するのは、時として本当に簡単なことです。

私たちが神様のために決断を迫られるとき、私たちはどうするでしょうか。神様に従うでしょうか。それとも、人々からのプレッシャーに屈するでしょうか。

二人の預言者、イザヤとオデデは神様に従いました。けれども、ある祭司ウリヤはそのプレッシャーに屈してしまいました。

ユダの罪のゆえに、神様はアハズの軍隊をイスラエル軍の手に渡されました。けれども、イスラエル人たちはユダ人の物だけを奪うことにとどまらず、ユダ人をイスラエルまで連れて行き、奴隷にしようとしていました。

しかし、サマリヤに入る前に、オデデはイスラエル人たちの前に立ち、こう言いました。

見よ。あなたがたの父祖の神、主がユダに対して憤られたため、主はあなたがたの手に彼らを渡された。ところが、あなたがたは天に達するほどの激しい怒りをもって彼らを殺した。

今、あなたがたはユダとエルサレムの人々を従えて自分たちの男女の奴隷にしようとしている。

しかし、実はあなたがた自身にも、あなたがたの神、主に対して罪過があるのではないか。

今、私に聞きなさい。あなたがたが自分の同胞をとりこにしたそのとりこを帰しなさい。主の燃える怒りがあなたがたに臨むからです。(歴代誌第二28:9-11)

オデデにとって、そのメッセージを伝えることは非常に困難だったと思います。ユダ人たちが多くの悪事を行った一方で、イスラエル人たちはそれ以上に酷い人々でした。

それでも、この一人の預言者は軍隊の前に立ち、「あなたたちは間違っている」と言わなくてはなりませんでした。

もし私がオデデだったなら、こう考えたかもしれません。

「彼らは私の言葉に決して従わないだろう。なぜこんなメッセージを伝えなくてはならないのか。きっと私は殺されるだろう。」

それでも、オデデは彼らの前に立ち、神様のメッセージを伝えました。そして、彼らはオデデの言葉に従い、ユダ人たちに衣服と薬と食べ物を与え、彼らを解放しました。

一方で、ウリヤは全く勇気を持たず、神様の言葉をアハズ王に伝えることができませんでした。

それは驚くべきことです。なぜなら、かつて神様は「ウリヤはわたしの確かな証人」と言われたからです。(イザヤ8:2)

けれども、列王記第二によれば、アハズはウリヤにアッシリヤの神々のために祭壇を造り、全焼のいけにえを捧げるよう圧力をかけました。

そして、モーセの兄アロンがしたように(出エジプト記32章)、ウリヤはそのプレッシャーに屈しました。アハズのためにその祭壇を造り、その偶像を礼拝し始めたのです。

神様はイザヤを通して、そのような妥協について警告されました。(イザヤ書8:11-21)

例えば、神様はイザヤにこう言われました

この民が謀反と呼ぶことをみな、謀反と呼ぶな。(イザヤ書8:12)

ヘブル語で「謀反」にはもう一つの意味があります。それは「同盟」です。

したがって、この箇所を「この民が同盟と呼ぶことをみな、同盟と呼ぶな」と翻訳することができます。

この翻訳が正しいとするならば、多くのユダ人がアッシリヤとの同盟を望んでいたことを意味するでしょう。なぜなら、イスラエルとアラムは同盟を結び、ユダを攻撃していたからです。

しかし、神様はこう言われました。

「妥協してはいけません。不敬虔な国と同盟を結んではいけません。このイスラエルとアラムの同盟を恐れてはなりません。周りの人々を恐れるのではなく、むしろ私を恐れなさい。そうすれば、私はあなたの聖所となるでしょう。」(イザヤ書8:12-14)

また、神様はこう言われました。

「霊媒に尋ねてはなりません。あなたは私に尋ねなければなりません。どうして光を持たない人々に助言を求めるのでしょうか。そのようなことをすると、あなたは苦悩と暗闇だけを見つけるでしょう。」(19-22)

神様はイザヤに次のように言われました。

[主は]イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。多くの者がそれにつまずき、倒れて砕かれ、わなにかけられて捕らえられる。(14-15)

新約聖書の著者がその箇所を引用すると、彼らはその「岩」をイエス様と結びつけました。つまり、イエス様はイスラエルの民にとって「つまずきの石」となるという意味です。

ペテロは次のように記しています。

彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。(第一ペテロ2:8)

その「御言葉」とは、「悔い改めてください。あなたの罪が赦されるためにイエス・キリストを信じてください。」というメッセージです。

しかし、私たちが神様に背くならば、神様は私たちにとってつまずきの岩となられます。そして、ユダ人とイスラエル人が砕かれたように、私たちも背きによって倒れ、砕かれるのです。

したがって、私たちには選択肢があります。神様に背いて倒れるか、それとも神様を私たちの基礎とし、人生の礎石とするかです。

その選択をした場合、どうなるでしょうか。ペテロは次のように記しています。

彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。(第一ペテロ2:6)

イザヤとオデデのようになりましょう。プレッシャーが来ても、妥協してはいけません。むしろ、私たちの岩であるイエス・キリストの上にしっかりと立ちましょう。

イザヤのようにこう言いましょう。

私は主を待つ。。。私はこの方に、望みをかける。(イザヤ8:17)

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誰を恐れるでしょうか

以前言ったように、ヨタムの息子アハズはユダの王になると、イスラエルをさらに深く偶像礼拝へ導きました。

列王記と歴代誌によれば、アハズは偶像を造り、バアルを礼拝しました。

けれども、最も悪かったのは、アハズが自分の息子を全焼のいけにえとして神々に捧げたことです。その理由は、ユダがアラムとイスラエルと戦っており、その神々の助けを望んだからです。

ある日、アラムの王とイスラエルの王が同盟を結び、エルサレムを攻撃するために来ました。ユダの人々がその知らせを聞くと、

王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。(イザヤ書7:2)

そこで、アハズはアッシリヤと同盟を結ぼうと考えました。その時、イザヤがアハズのもとを訪れ、こう言いました。

気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。

あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。

アラムはエフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企ててこう言っています。。。

[しかし]そのことは起こらないし、ありえない。(イザヤ書7:4-5,7)

そこで、イザヤはアハズにこう言いました。「あなたの神、主から、しるしを求めなさい。」(イザヤ7:11)

けれども、アハズはそれを拒み、「私は求めません。主を試みることはしません。」と答えました。(イザヤ7:12)

その言葉は敬虔に聞こえますが、実際にはアハズはイザヤの言葉の真偽を確かめたくありませんでした。なぜなら、彼はすでにアッシリヤと同盟を結ぶことを決意していたからです。

アハズは主を信頼せず、アッシリヤに頼る道を選んだのです。

そのため、イザヤは怒り、こう言いました。

あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。

見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。。。

まだその子が、悪を退け、善を選ぶことも知らないうちに、あなたが恐れているふたりの王の土地は、捨てられるからだ。(イザヤ書7:13-16)

もちろん、マタイはこの箇所を引用してイエス様について語っていますが、イザヤはおそらく別の出産について考えていたようです。

多くの学者が指摘するのは、イザヤが自身の将来の子について言及している可能性です。(イザヤ8:3-4)

ところで、なぜマタイはイエス様を指すためにこの箇所を引用したのでしょうか。それはおそらく、イザヤの息子の出産がイエス様の出産を象徴しているからです。つまり、イザヤの息子の出産がユダの救いのしるしだったように、イエス様の出産は世界の救いのしるしでした。

また、イザヤの息子は神様がユダとともにおられるというしるしでしたが、イエス様は本物の神様であり、私たちの間に住んでくださいました。(ヨハネ1:14)

さて、イザヤはアハズに「アッシリヤに頼らないでください」と警告しました。

神様はアッシリヤを用いてアラムとイスラエルを打ち砕かれますが、アハズがアッシリヤに頼るなら、アッシリヤがユダも打ち砕くことになると警告しました。(イザヤ書7:17-8:10)

そして、それは現実となりました。

歴代誌によれば、アラムとイスラエルがユダを攻撃した際、アハズはアッシリヤの助けを求めました。アッシリヤの王が来たものの、

彼[つまり、アハズ]を攻め、彼を悩ました。彼の力にはならなかった。(歴代誌第二28:20)

それから、ユダの状態はさらに悪化しました。アハズはアラムの神々を礼拝し始め、ついには神様に背を向けて、

主の宮の戸を閉じ、エルサレムの町かどの至る所に祭壇を造った。(歴代誌第二28:24)

この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

誰を恐れるのか、注意してください。また、誰に信頼するのかにも気を付けてください。

アハズは主を恐れなかったため、状況が悪化すると敵を恐れるようになりました。神様に信頼しなかったため、信頼できない人々に依存し、無力な偶像を頼り始めました。

その結果、すべてが崩れてしまいました。

あなた自身はどうでしょうか。誰を恐れているでしょうか。人々を恐れているでしょうか。他人があなたについてどう思うかを心配しているでしょうか。

経済的な問題を恐れているでしょうか。この世が恐れるものを恐れていますか。

それとも神様を恐れているでしょうか。

何に頼っているでしょうか。お金でしょうか。自分の知恵や能力でしょうか。

それらはあなたを救うことはできません。それらに頼るなら、あなたもアハズのように倒れてしまうでしょう。

イザヤがアハズに言ったように、

もし、あなたがたが[神様を]信じなければ、長く立つことはできない。(イザヤ7:9)

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列王記第二 歴代誌第二

ほとんど完璧だけど

この箇所では、ユダの王ヨタムについての短い記録を読みます。彼はほぼ正しい王でした。

歴代誌第二によると、

彼はすべて、主の目にかなうことを行なった。父ウジヤが行なったとおりである。ただし、彼は、主の神殿に入るようなことはしなかった。(歴代誌第二27:2)

ウジヤ王の話を覚えていますか。彼は香を焚くために主の神殿に入ってしまいました。そのため、神様は彼を裁かれました。

(祭司たちだけがその仕事をするべきとされていました。)(歴代誌第二26:18-19)

ウジヤの治世は悪い形で終わりましたが、その息子であるヨタムの治世は非常に成功しました。

例えば、ヨタムはアモン人と戦って打ち勝ったのです。では、どうして彼が成功を収めたのでしょうか。

彼が、彼の神、主の前に、自分の道を確かなものとしたからである。(歴代誌第二27:6)

それでも、ヨタムは完璧な王ではありませんでした。どうしてでしょうか。

それは2節にこう記されています。

民はなお滅びに向かっていた。(歴代誌第二27:2)

「滅びに向かっていた」とは、どのような意味なのでしょうか。

列王記第二によると、

ただし、高き所は取り除かなかった。民はなおも高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた。(列王記第二15:35)

ヨタムは主の前で自分の道を確かなものとしましたが、その民はそうしませんでした。このような行動のために、ホセアやイザヤはユダの民を責めました。

さらに悪かったのは、ヨタムが息子アハズに主の礼拝を教えなかったように見えることです。

そのため、アハズが王になると、彼はユダの民をますます偶像礼拝へと導きました。

私たちはここから何を学ぶことができるでしょうか。

私たちが神様とともに歩み、神様の心に従っているとしても、私たちには自分が影響を及ぼす範囲があるのです。それは私たちの伴侶、子供、隣人、そして同僚です。

私たち自身が神様を仕えることだけでは十分ではありません。神様が私たちに与えてくださった人々に良い影響を与えるべきなのです。

そうしないと、神様は私たちをそのために裁かれるのです。

もちろん、私たちは他の人々に良い決断を強制することはできません。また、他の人々が主に仕えることを強制することもできません。

しかし、私たちに権威が与えられている場合、特に子供に対しては、できる限り神様について教え、彼らが神様に従うように導くべきです。

あなたの影響の範囲はどこでしょうか。神様は誰をあなたに託されたのでしょうか。

あなた自身が主に仕えるだけで満足しているでしょうか。

それとも、他の人々を主の道に導いているでしょうか。

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列王記第二

不従順、殺人、敗北

イザヤ書から少し休憩して、列王記第二に戻りましょう。

イザヤが書いた時、何が起こっていたのでしょうか。

一言で言うと、北イスラエル王国は滅亡寸前の状態にありました。

ヤロブアム二世王が亡くなると、イスラエルの繁栄はすぐに終わりました。

その後の32~33年間に、イスラエルには5人の王がいました。

一人は6か月治め、次は1か月治め、次は10年治め、さらに次は2年間治め、最後の王は20年間治めました。

つまり、イスラエルは非常に不安定な王国だったのです。

その時代にイスラエルでは三つの重要な出来事が目立ちました。

一つ目は不従順です。

列王記の著者は4人の王のことをほぼ同じ言葉で説明しています。その5人目の王についてはほとんど何も書かれていませんが、おそらく1か月しか治めなかったためでしょう。

けれども、4人の王については、「彼らは主の目の前に悪を行ない、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を離れなかった」と記されています。

つまり、イスラエル人は自分が好きなように神々を礼拝し、神様の律法を拒絶し、自分の目に正しいと見えることを行っていたのです。

その結果、二つ目の出来事が起こります。それは殺人です。

この5人の王のうち4人が暗殺されました。

その中で息子が王となったのはたった一人でしたが、彼も2年間しか治められませんでした。そのため、その「王朝」はわずか12年間しか続きませんでした。

そういう状態だったため、誰も王を尊敬せず、その結果、無政府状態に陥りました。

三つ目の出来事は敗北です。

アッシリヤという国がイスラエルを攻め始めました。

最初に、イスラエルはアッシリヤに貢物を納めなければなりませんでした。しかし、すぐにアッシリヤはイスラエルの町を占領し、その住民をアッシリヤに捕らえ移しました。

私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。

私たちが神様に背を向け、自分の道を行けば、それは混乱と敗北に導くのです。

アメリカはその例の一つです。離婚率や貧困率、犯罪率が高く、暴力や児童虐待の話をよく耳にします。

けれども、日本でもさまざまな問題が見られます。

他国と比べても日本の自殺率は非常に高いです。昨年、日本では2万5千人が自殺しました。また、十代の子供の死因の主な原因も自殺でした。

日本の離婚率はアメリカの半分ほどですが、それでも27%にのぼります。

今年の児童虐待の事例は、昨年より32%も増加しました。

私たちが神様に背を向け、自分の目に正しいと思うことを行っているため、最終的に私たちの社会は深刻な状態に陥っているのです。

その結果、多くの人々は敗北し、打ち砕かれます。彼らの人生は罪によって壊され、闇の国の囚人となってしまうのです。

神様はイザヤにそのようなことについて警告されました。つまり、イスラエル人は神様に対して自分の目と耳を閉じたため、最終的に彼らの人生は滅びることになるのです。(イザヤ6:11-12)

あなたはどうでしょう。あなたも神様に背いて、人生が壊れていると感じてはいないでしょうか。

希望があります。もし神様に向かって悔い改めるなら、神様はあなたを赦し、癒してくださいます。

神様が望むのは、人々が滅びることではなく、命を見つけることです。それは一歩から始まります。

神様、私は自分の道を歩むことをやめます。どうか私の罪を赦してください。私はあなたの道を歩み始めたいのです。私の主となってください。

パウロはこう書いています。

もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10:9)

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イザヤ書

自分の目をつぶる

これはよく引用される旧約聖書の箇所です。とはいえ、これは本当に理解しにくい箇所です。

神様はイザヤにイスラエル人のためにこのメッセージを与えられました。

行って、この民に言え。「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。」

この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。(イザヤ書6:9ー10)

本当につらいメッセージですね。そして、イザヤは神様に尋ねました。「いつまでですか。」(11)

神様は答えられました。

町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。

そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。(11-13)

これはどういう意味でしょうか。少し不公平ではないでしょうか。なぜなら、神様が彼らの目を閉ざし、彼らの耳も遠くされたからです。神様は本当にそのようなことをされるでしょうか。

イエス様がこの世に生まれる前に、この箇所はギリシャ語に翻訳されました。そして、パウロはその翻訳を引用しました。その翻訳によって、神様の意味がもっとはっきり分かるかもしれません。

パウロは言いました。

この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。

この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。。。(使徒28:26ー27)

つまり、その問題は神様のせいではありません。その問題はイスラエル人のせいでした。

神様は彼らに語り、罪の結果について警告されましたが、彼らは耳と目を閉ざし、神様の言葉を聞くことを拒絶しました。

そして、神様が語られれば語られるほど、彼らの心はますます堅くなっていきました。さらに、心が堅くなればなるほど、神様の言葉を受け入れることがいっそう難しくなっていきました。

神様は彼らの反応が分かっておられましたが、警告し続けられました。その意味で、神様は彼らの心を堅くされました。けれども、神様には他の選択肢があったでしょうか。

ある歌によると「蝋を溶かす太陽は粘土を固める。」

神様の言葉が心に与える影響は同じです。

ある人々にとっては、神様の言葉が心を柔らかくするので、彼らは神様の声を喜んで聞きます。

しかし、ある人々にとっては、その同じ言葉が彼らの心を堅くするので、彼らは神様に背を向けます。

だから、神様には選択肢があります。

一つ目は、神様が何も言わずにすべての人々が滅びることです。

二つ目は、神様が彼らを警告して、ある人々が救われることです。

だから、神様はイスラエル人とユダ人を警告し続けられました。

もちろん、多くの人々は神様の言葉を聞いて、その心が堅くなりました。しかし、ある人々はその同じ言葉を聞いて、その心が柔らかくなりました。

イザヤと他の預言者たちはそのような人々でした。時々、ユダの王も神様の言葉を聞いて神様に従い始めました。

神様は私たちを愛されているので、私たちをそのままにして滅びることを望んでおられません。ただ、どう反応するかは私たちの選択です。

私たちは心を神様に開くでしょうか。それとも、その心を閉ざしてしまうでしょうか。

耳と目を閉じるでしょうか。それとも、耳と目を開いて神様の語りかけに応えるでしょうか。

あなたはどうしますか?

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神様に呼ばれた

この箇所では、私たちは天国をちょっと見ることができます。今までヨブ記以外に旧約聖書の中で天国のシーンを描いているところはありませんでした。

けれども、ここで、イザヤは天国についての幻を見ました。イザヤは記しました。

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。

「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。(イザヤ書6:1-4)

興味深いことに、イザヤは「主を見た」と言いますが、ヨハネがこの箇所について話した時には、イザヤがイエス様を見たと言っています(ヨハネ12:39-41)。

だから、エホバの証人などが「イエス様は神様ではない」と言う時には、この二つの箇所を指摘すると良いでしょう。

とにかく、イザヤは栄光のキリストを見た時に本当に圧倒されました。多分彼は跪いて、叫んだでしょう。

ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。

しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。(イザヤ書6:5)

多くの人々はこう思います。「もし、私が神様の前に立って私の人生のために申し開きをしなくてはならないなら、私は雄弁に自分を弁護できるから、神様は私の弁解を受け入れてくださるだろう。」

しかし事実は、私たちが神様の前に立って神様の聖さを見て、私たちは無言になります。なぜなら、私たちは神様の聖さと私たちの汚れを見るからです。その時、私たちが言おうと思った言葉が空しいとわかります。

もし何か言えば、私たちはイザヤのように言うはずです。「私はもうだめです。私は汚れた者です。」

とはいえ、イザヤが恐れで震えていると、神様は天使を送ってくださり、イザヤの口を燃えさかる炭で触れて言われました。

見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。(イザヤ書6:7)

つまり、こういうことです。「あなたは汚れた者であり、罪深い者だった。しかし、わたしはあなたを汚れのない者とした。あなたは自分の行いによって清くなったのではない。わたしの行いによって、あなたは清くされたのだ。」

そして、イザヤはもう一度神様の声を聞きました。

だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。(イザヤ書6:8)

イザヤはそれを聞くと、また恐れで震えたかもしれませんが、彼は驚きによっても震えたと思います。彼は返事しました。

ここに、私がおります。私を遣わしてください。(イザヤ書6:8)

どうしてイザヤは恐れたでしょうか。なぜなら、彼は汚れた者として聖なる神様の前に立ったからです。

どうしてイザヤは驚いたでしょうか。なぜなら、神様はイザヤの罪を赦して清めてくださったからです。また、彼がよく失敗しても、たくさんの罪を犯しても、神様は彼を用いようとされたからです。

そして、神様はイザヤを呼ばれたように、あなたのことも呼んでおられます。

私たちは罪深い汚れた者として、また裁きに値する者として神様の前に立ちます。けれども、イエス様の血によって神様は私たちを清めてくださいます。

そして、神様は言われます。「日本人のために誰を遣わそうか。アメリカ人のために誰を遣わそうか。この世界の人々のために誰を遣わそうか。あなたの家族に触れたいです。あなたの隣人と友達に触れたいです。誰が、われわれのために行くだろう。」

私たちはイザヤのように「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と答えるでしょうか。

イザヤのように、あなたがふさわしくないと思うかもしれない。しかし、イエス様があなたに触れるとあなたはその働きにふさわしい者となります。あなたの罪はすべて赦される。

神様はあなたを用いたいと願っておられます。そして、あなたを用いることがおできになります。ただ一つ、神様は私たちに求めておられることがあります。それは、私たちが神様に「はい」と応答することです。

あなたはどうしますか?

主よ。イザヤのように私はふさわしくないと思います。あなたは私の罪をよく知っています。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。私はふさわしくない。

けれども、十字架によって、あなたが私を清めたことを信じる。あなたの行動によっては私がふさわしくなった。

だから、イザヤのように私は言います。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

あなたの栄光のために、私をお用いください。周りの人々にあなたのメッセージを伝えるために、また彼らの心に触れるために、私をお用いください。

私の命が永遠にわたってあなたのものとなるように。

どうか私をお用いください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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神様が憎まれる行動

「神様は愛です。」

多くの人はその言葉を好みます。それは慰めを与える言葉だからです。しかし、神様には憎まれることがあります。この箇所では、そのことについて神様ご自身が語っておられます。

イザヤはこう記しました。

ああ。家に家を連ね、畑に畑を寄せている者たち。あなたがたは余地も残さず、自分たちだけが国の中に住もうとしている。(イザヤ書5:8)

つまり、ある人々が貪欲によって、特に正当な目的もなく物を集め過ぎたために、他の人々は貧しくなってしまいました。しかし、神様はそのような態度を憎まれます。

あなたはどうですか。要らない物を集めすぎて他の人々のニーズを気にしないでしょうか。

そして、イザヤはこう記しました。

ああ。朝早くから強い酒を追い求め、夜をふかして、ぶどう酒をあおっている者たち。。。

ああ。酒を飲むことでの勇士、強い酒を混ぜ合わせることにかけての豪の者。(11,22)

時々お酒を飲むことは罪ではありませんが、神様は酔っぱらうことを裁かれます。お酒があなたをコントロールすることは良くないのです。

私たちは神様の宮です。お酒ではなく聖霊が私たちをコントロールする方が良いです。(エペソ5:18)

神様の宮で酔っぱらうことは不適切です。

ああ。うそを綱として咎を引き寄せ、車の手綱でするように、罪を引き寄せている者たち。(18)

この箇所では、イザヤは罪の道を歩む人々を責めています。どこに行っても、彼らは自分の罪を持っていきます。

私たち皆は罪を犯します。私たち皆は失敗します。けれども、私たちの罪が私たちを定義するべきではありません。

むしろ、人々は私たちの正義を見るはずです。神様は聖であられるから、私たちも聖でなければならないのです。(第一ペテロ1:16)

彼らは言う。「彼「神様」のすることを早くせよ。急がせよ。それを見たいものだ。イスラエルの聖なる方のはかりごとが、近づけばよい。それを知りたいものだ」と。(19)

一見すると、この人々は神様を求めているようです。けれども、実は、この人々は全然本気ではありませんでした。

彼らの言葉はこうでした。「神様、もしあなたが本当に存在しておられるなら、ご自身を現してください。そうすれば、信じます。」

けれども、彼らは神様の言葉を無視し、神様が彼らの人生にしておられることにも目を向けませんでした。それでも、神様は侮られるような方ではありません。本気で神様を求めなければ、神様はご自身を現されないのです。

ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。

ああ。おのれを知恵ある者とみなし、おのれを、悟りがある者と見せかける者たち。(20-21)

私たちの時代においても、イザヤのメッセージは適切なものです。多くの人々は神様の戒めを捨てて、自分の善悪の標準を作ります。

彼らは、神様が善とされることを悪と言い、神様が悪とされることを善と言います。しかし、神様はそのような「知恵」を憎まれます。

彼らはわいろのために、悪者を正しいと宣言し、義人からその義を取り去っている。(23)

神様の知恵と義を捨てると、不正がきっと起こります。今でも、イザヤが見たことを私たちは見ることができます。賄賂のために悪者が正しいと宣言され、義人から義が取り去られています。

イザヤの時代から、私たちの時代はあまり変わっていません。変わらないことが確か一つあります。それは、神様が憎まれる行動です。

神様がイスラエルをその行動のために裁かれたように、その行動を犯す人々を裁かれます。神様は愛ですが、罪の道を歩む人をきっと裁かれます。

だからこそ、パウロが語ったように、私たちは神様が憎まれる行動を捨て、善に親しむ者となりましょう。(ローマ12:9)

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私たちの防御が無くなると

私は雨が降っても全然傘を使いたくない人々が分かりません。ずぶ濡れになっても彼らは気にしません。彼らにとっては濡れることは傘を持つことよりも楽です。

時々、日本人の友だちが私にこう尋ねます。「どうして外国人は傘を使わないのですか?」

私にはさっぱり分かりません。

とにかく、イスラエル人はそのような人々でした。

彼らは神様の国民でした。神様は彼らをエジプトから解放して、新しい所に連れて行き、その土地を与えられました。神様は彼らに言われました。

「もしあなたがたがこの契約を守ると、私はあなたがたを守り、祝福します。けれども、そうしないと、もし私が与えた防御から離れると、あなたの人生はダメになってしまいます。」

しかし、結局イスラエル人はそうしました。彼らは神様に背を向けて、偽物の神々を礼拝し始めました。

この箇所はその問題を説明します。

神様はイスラエルとユダをぶどう畑と比べられます。神様は、

そこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。(イザヤ書5:2)

しかし結局、実ったのは酸いぶどうだけでした。

だから、神様はイスラエル人に尋ねられました。

わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。

なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。

イスラエル人はその話が理解できていなかったので、神様ははっきり説明されました。

まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。

主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。(7)

イスラエルが酸いぶどうを結んだから、神様は警告されました。

さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。

わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。

わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。(5-6)

つまり、こういうことです。「これまで、わたしは敵からあなたを守り、損害からも守ってきた。けれども、これからはあなたを守らない。あなたを囲んでいた垣と石垣を取り除く。あなたは荒れ果てた地のようになり、茨とおどろだけが生い茂る。」

私たちが人生を罪にささげたら、神様はそのようにされます。神様が私たちの防御を取り除いて、私たちは罪の結果を刈り取ります。

パウロはコリントの教会に悔い改めない人に関してこう書きました。

このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主{イエス}の日に救われるためです。。。

その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。(第一コリント5:5,12)

つまり、「その人の防御を取り除きなさい。今まであなたの教会が彼を守りましたが、もう守るな。彼を追い出して、サタンに引き渡しなさい。」

どうして、パウロはそのようなことを言ったのでしょうか。その人を滅ぼすためでしょうか。違います。パウロの希望はその人が悔い改めて救われることです。

神様は私たちを滅ぼすために私たちの防御を取り除かれません。むしろ、神様の希望は、私たちが神様から離れる人生が惨めなことが分かって悔い改めることです。

あなたはどうですか。あなたは神様が与えた防御を軽蔑するでしょうか。神様が気にしないと思って罪をわざと犯すでしょうか。

そうすると、あなたの防御がなくなります。その結果は喜びではなく、惨めな人生です。

そのような人生を選ばないでください。本当のぶどうの木であるイエス様に繋がり、良い実を結びましょう。そうすれば、真の喜びと、神様が備えてくださる素晴らしい人生を見いだすことができます。