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マルコの福音書のデボーション

頑なな心

イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみ。。。(マルコの福音書3:5)

その言葉は、私の心を深く打ちました。私はこう考えました。

イエス様は、私の心の頑なさを、どれほど頻繁に嘆き悲しんでおられるのでしょうか。

私が頑固で、自分の過ちを認めようとしないとき、イエス様はどれほど頻繁に嘆き悲しんでおられるのでしょうか。

イエス様が、私の周りの人々をどれほど愛しておられるかを忘れてしまうとき、イエス様はどれほど頻繁に嘆き悲しんでおられるのでしょうか。

神様がその人々に触れようとしておられることに気づかないほど、私の心が固くなっているとき、イエス様はどれほど頻繁に嘆き悲しんでおられるのでしょうか。

What can be done for an old heart like mine?
私のような古い心には、何ができるでしょうか。

Soften it up with oil and wine
主よ、油とぶどう酒で、私の心を柔らかくしてください。

The oil is You, Your Spirit of love
その油は、あなたご自身。あなたの愛の御霊です。

Please wash me anew in the wine of Your blood”
どうか、あなたの血であるぶどう酒によって、私を洗い、新しくしてください。

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マルコの福音書のデボーション

私たちの罪と恥を取り去る方

イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。(マルコの福音書2:5)

人々はその中風の人に、何度こう言ったでしょうか。「神様はあなたを罰しているのではないか。あなたの苦しみは、あなた自身のせいだ。」

その時代、多くの人々がそのように考えていました。(ヨハネ9:1ー2;ルカ13:1ー4)

何年もの間、彼は罪と恥の重荷を負っていたのではないでしょうか。自分の不自由な体を見るたびに、彼は何度、自分の罪を思い出し、自分を責めたことでしょう。

彼の健康問題が本当に罪と結びついていたかどうかは分かりません。でも、彼の罪と、その罪から生まれた恥は、確かに彼の現実でした。

そんなある日、彼はイエス様のことを耳にしました。イエス様の教えを聞きました。そして、彼とその友人たちの心に、信仰が芽生えました。

おそらく、中風の人は、イエス様が自分を癒すことができると信じただけではなかったでしょう。彼は、イエス様の語られるすべてのメッセージを信じたのだと思います。

時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)

イエス様はその信仰をご覧になったとき、中風の人にこう言われました。「子よ、あなたの罪は赦された。」

その瞬間、彼の罪と恥は取り去られました。

あなたはどうでしょうか。今、自分の罪と恥の重荷を背負っているでしょうか。

イエス様は、私たちの罪と恥を取り去ってくださる方です。

悔い改めと信仰をもってイエス様のもとに行くなら、イエス様は私たちにもこう言われます。「子よ、あなたの罪は赦された。」

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創世記のデボーション

見てくださる神、聞いてくださる神

創世記16章では、ハガルは神様を「エル・ロイ」、つまり、「私を見てくださる神」と呼びました。

そして、彼女は神様に出会った場所を「ベエル・ラハイ・ロイです」、つまり、「私を見てくださる生きておられる神の井戸」と呼びました。

数年後、イサクはベエル・ラハイ・ロイに行きました。

母サラが亡くなったばかりで、イサクは深い悲しみの中にいたようです。

新改訳では「散歩に出かけた」と訳されていますが、原語の意味はもっと繊細です。

イサクはただ歩いていたのではなく、心の中で多くのことを思い巡らし、祈っていたのかもしれません。

もしかすると、彼はこう祈っていたのではないでしょうか。「神様、あなたは本当に私を見てくださっているのですか。私の悲しみをご存じなのですか。」

神様は確かにイサクを見ておられました。そして、恵みによって、イサクの心の必要に備えてくださいました。

私は創世記24章67節が大好きです。イサクはリベカを迎え、彼女を愛し、母の死後、慰めを得ました。

私たちの心を見てくださる神。私たちの祈りに耳を傾けてくださる神。私たちの深い必要に備えてくださる神。

そのような神様に、今日も信頼して歩みます。

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創世記のデボーション

神様が備えてくださる

御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった」 。。。

アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエ(つまり、「主が備えてくださる」、または、「主が見てくださる」という意味)と呼んだ。

今日も、「主の山には備えがある」と言われている。(創世記22:12、14)

この話を読むたびに、私はいつも感動します。でも今日、初めて気づいたことがあります。

もしかすると、パウロはこの話を思いながら、こう書いたのかもしれません。

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(ローマ8:31ー32)

2000年前、カルバリという丘の上で、神様はご自分の御子を惜しむことなく、私たちの救いのために備えてくださいました。

神様がそうしてくださったのなら、どうして私は神様が私のすべての必要に備えてくださることを疑うことができるでしょうか。

天のお父さん、あなたはアドナイ・イルエです。あなたは私を見てくださる主です。あなたは私の必要に備えてくださる主です。

カルバリで、あなたがそのような神であることを証明してくださいました。

どうか私がその真理を忘れないように。あなたがどのような神であるか、私が決して忘れないように。

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創世記のデボーション

私たちに笑いをくださる神

主は約束したとおりに、サラを顧みられた。主は告げたとおりに、サラのために行われた。

サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。。。

サラは言った。「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう。」(創世記21:1ー2、6)

この壊れた世界では、私たちが苦しむことがあります。

サラもその苦しみをよく知っていました。彼女は長い間、子どもを望んでいましたが、与えられませんでした。

しかし、神様の時に、神様はサラを顧みられ、子どもを与えてくださいました。その時、サラは再び笑うことができました。

今、私は二人の人のことを思い浮かべています。一人は自分の罪のために苦しんでいます。もう一人は結婚の問題で苦しんでいます。

だから、私は彼らのために祈っています。

「天のお父さん、あなたがサラを顧みられたように、その二人の人をも顧みてください。彼らを癒してください。そして、あなたの時に、彼らが再び笑うことができるようにしてください。」

あなたは、苦しんでいる人を知っているかもしれません。その人のために祈りましょう。そして、できる限り、神様の愛でその人に触れましょう。

もしかすると、あなた自身が今、苦しんでいるかもしれません。

どうか絶望しないでください。神様はあなたを今も愛しておられます。神様はあなたを赦し、癒してくださいます。

そして、神様はいつも、ご自分の約束を守ってくださいます。

だから、神様に従い、待ち望み続けましょう。そうすれば、神様の時に、あなたは再び笑うことができるようになります。

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創世記のデボーション

隠れた罪?

アビメレクは。。。言った。「主よ。。。私は、全き心と汚れのない手で、このことをしたのです。」

神は夢の中で彼に仰せられた。

「そのとおりだ。あなたが全き心でこのことをしたのを、わたし自身もよく知っている。それでわたしも、あなたがわたしの前に罪ある者とならないようにした。だからわたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。」(創世記20:4ー6)

アブラハムの妻を奪ったアビメレクを責めることは難しいです。なぜなら、アブラハムは嘘をついて、「サラは私の妹だ」と言っていたからです。

でも、意図的に奪おうとしたわけではなくても、アビメレクはそうしてしまい、神様に対して罪を犯しました。

神様の恵みによって、アビメレクはサラと寝て、さらに大きな罪を犯すことはありませんでした。

この話を読んだとき、私はコリント人へのパウロの言葉を思い出しました。

私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。(第一コリント4:4)

私たちは、自分の罪に気づいていないことがあります。だからこそ、詩篇19篇にあるダビデの祈りを、時々祈る必要があります。

正直に言うと、私はその祈りをもっと祈るべきです。

今日、私はそうします。

だれが、自分の過ちを悟ることができるでしょう。

どうか 隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを、傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。

そのとき私は 大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。(詩篇19:12ー13)

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創世記のデボーション

恐ろしい言葉?

わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。(創世記17:1)

その言葉を読んだとき、あなたが何を感じたかわかりませんが、私の目に留まりました。

「私は全能の主、万物の創造主、宇宙の支配者です。私の前に歩みなさい。

私から離れて、自分の道を行ってはならない。

全き者であれ。自分の罪にふけってはならない。あなたは聖なる者でなければならない。私が聖だからです。

すべてにおいて、私の真似をしなさい。私の性格の真似をし、私の価値観と心に従いなさい。」

その言葉をちょっと考えてみてください。正直なところ、一つの真理を心に留めておかなければ、私はこの言葉に圧倒されてしまうでしょう。

その真理とは?神様は私たちを愛してくださる父であるということです。

そして、神様はアブラハムと契約を結ばれたように、私たちとも契約を結ばれました。しかし、その契約は私たちの行いによるものではなく、イエス様の十字架の働きによるものです。

イエス様の働きによって、私たちは失敗しても、神様が私たちを受け入れてくださる確信を持ち、大胆に神様のみ前に進み出ることができます。(へブル4:16;10:19)

だから毎日毎日、一瞬一瞬、全き者として神様の御前に歩みましょう。そして、サタンが私たちを責めるとき、以下の言葉を覚えていましょう。

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、(イエス・キリスト)にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ(ます)。(エペソ1:4ー8)

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創世記のデボーション

私を見てくださる神

ひざまずく、のけ者にとって、あなたは見てくださる神でした。ーーマイケル・カード

天のお父さん、あなたはエル・ロイです。つまり、あなたは「私を見てくださる神」なのです。

あなたはラハイ・ロイです。つまり、あなたは、「私を見てくださる生きておられる神」なのです。

でも、あなたはただ遠くから私を観察する神ではありません。

あなたは私の名前を知っておられます。

あなたは私と私の苦しみを聞いてくださる神です。

また、あなたは私を探し、見つけてくださる神です。

まことに、主は高くあられますが、低い者を顧みてくださいます。。。

主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。

主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。(詩篇138:6,8)

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創世記のデボーション

私はあなたの盾です

アブラムよ、恐れるな。 わたしはあなたの盾である。(創世記15:1)

今日、アブラムへの神の御ことば、そして私たちへの神の御ことばを思い巡らしていました。

わたしはあなたの盾である。

あなたのお金ではなく、あなたの持ち物ではなく、あなたの力ではなく、あなたの知識や知恵ではなく、他のどんなものや人でもなく、わたしはあなたの盾である。

わたしはあなたの盾である。

「以前はわたしはあなたの盾であったが、これからはあなた自身で自分を守らなければならない」と言っているのではない。わたしはあなたの盾である。

わたしはあなたの盾である。

わたしはあなたを愛している。わたしはあなたのことを思っている。わたしの手はあなたの上にある。わたしはあなたの盾である。

わたしはあなたの盾である。

あなたの敵であるサタンがあなたを攻撃するとき、この世のものがあなたを攻撃するとき、わたしはあなたを守る。わたしはあなたにいつも忠実である。わたしの真実、わたしの忠実さはあなたの大盾である(詩篇91:4)

天のお父さん、あなたは私の盾です。だからこそ、アブラムがあなたを信じたように、私もあなたを信じることができるように助けてください。

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創世記のデボーション

祝福となる

地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。(創世記12:3)

今朝、その言葉に思いを巡らしていました。

アブラハムの子孫であるイエス様を通して、神様はアブラハムへの約束を果たしてくださいました。イエス様によって、私たち皆は祝福されているのです(ガラテヤ人への手紙3:7-14)。

しかし今日、私が初めて気づいたのは、神の民である私たち自身が、その約束の成就の一部であるということです。

つまり、イエス様によるアブラハムの霊的な子孫として、私たちはこの地のすべての人々に対する神の祝福となるべき存在なのです。

神様は私たちを通して、この世の人々に触れたいと願っておられます。そして、私たちが周囲の人々に触れることによって、神様はアブラハムへの約束を今も果たし続けておられるのです。

それは本当に素晴らしいことですね。

天のお父さん、私を通して、アブラハムへのあなたの約束を果たし続けてください。私が周囲の人々と接するとき、私があなたから彼らへの祝福となるようにしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働きのデボーション

彼らが聞き従うことになる

ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らが聞き従うことになります。(使徒の働き28:28)

天のお父さん、この国の人々は、時にユダヤ人のようです。彼らは聞いても悟ることがなく、見ても知ることがありません。彼らの心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じています。

しかし、あなたの救いは、この国の人々に送られました。あなたは「彼らが聞き従うことになります」と言われました。

だからこそ、私はこの国のために祈り続けます。

どうか、彼らの目を開き、耳を開いてください。彼らの心を柔らかくしてください。

私の家族、同僚、友人、そして周囲の人々に触れ、 彼らをあなたのもとへ導くために、私を用いてください。彼らが癒され、あなたに立ち返るようにしてください。

私は希望を失いません。あなたの約束を握り続けます。「彼らが聞き従うことになります」と。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働きのデボーション

危険信号を無視する

何日もの間、船の進みは遅く、やっとのことでクニドの沖まで来たが、風のせいでそれ以上は進めず、サルモネ沖のクレタの島陰を航行した。

そしてその岸に沿って進みながら、やっとのことで、ラサヤの町に近い「良い港」と呼ばれる場所に着いた。

かなりの時が経過し、断食の日もすでに過ぎていたため、もはや航海は危険であった。(使徒の働き27:7ー9)(使徒の働き27:7ー9)

今日の箇所を読んだとき、私たちがどれほど危険信号を無視してしまうかを思わされました。

パウロは確かに、その危険信号に気づいていました。

けれども、百人隊長も、船長も、船主も、その危険信号を無視することを選びました。その結果、彼らは命を落としかけました。

私自身にも、同じような経験があります。

何年か前、私が勤めていた英会話学校が経済的に困っていることに気づいていました。でも、その問題を無視してしまったため、学校が倒産したとき、本当に困ってしまいました。

キリストの戦士として、私たちは常に目を覚ましていなければなりません。私たちはさまざまな危険に直面します。それは肉体的な危険かもしれませんし、霊的な危険かもしれません。

だからこそ、自分の状況や敵に注意を払う必要があります。

しかし、それ以上に、私たちの将に注意を払うべきです。私たちの将とその言葉に耳を傾けるなら、多くの問題を避けることができます。

あなたはどうでしょうか。あなたが無視している危険信号はありませんか?

あなたの結婚生活における危険信号を無視していませんか?

あなたの人間関係における危険信号を無視していませんか?

あなたの心における危険信号を無視していませんか?

あなたの態度における危険信号を無視していませんか?

神よ、私を探り、私の心を知ってください。

私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23ー24)

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使徒の働きのデボーション

神に望みを抱いて

また私は、正しい者も正しくない者も復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神に対して抱いています。

そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。(使徒の働き24:15ー16)

天のお父さん、私は望みを抱いています。

つまり、死が終わりではないという望みを抱いています。復活が必ずあるという望みを抱いています。

天のお父さん、私は望みを抱いています。

裁きの日があるという望みを抱いています。あなたがすべての不義を裁いてくださるという望みを抱いています。

天のお父さん、私は望みを抱いています。

裁きの日に、私は恐れる必要がないという望みを抱いています。イエス様の血によって、私は罪に定められることが決してないという望みを抱いています。

その望みを、私は確かに抱いています。

だからこそ、恐れのためではなく、むしろ、あなたへの感謝と愛のゆえに、私はあなたの前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。

今日、私の人生があなたに喜ばれる、聖なる生きたささげものとなりますように。私の人生があなたにとって、芳しい香りとなりますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働きのデボーション

「Stand by Me」

その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。。。」と言われた。(使徒の働き23:11)

二ヶ月前、私の中学校で「Stand by Me」という名曲を題材にした英語のレッスンがありました。

たぶん、その影響で、11節を読んだときに、その歌が思い浮かびました。

もちろん、パウロがその歌を歌っていたわけではありません。でも、その歌詞の一部は詩篇46篇に基づいているので、もしかすると、パウロはその言葉を心の中で口ずさんでいたかもしれません。

神は、われらの避け所、また力。 苦しむとき、そこにある強き助け。それゆえ、われらは恐れない。

たとえ地が変わり、山々が揺れ、海のただ中に移るとも。たとえその水が立ち騒ぎ、泡立っても、その水かさが増し、山々が揺れ動いても。(詩篇46:1ー3)

ベン・E.キングの歌詞を借りれば、

Lord, I won’t be afraid.
主よ、私は恐れません。

No, I won’t be afraid.
決して恐れません。

Just as long as you stand by me.
あなたが私のそばに立っていてくださる限り。

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使徒の働きのデボーション

 この同じ神

彼はこう言いました。「私たちの父祖の神は、あなたをお選びになりました。あなたがみこころを知り、義なる方を見、その方の口から御声を聞くようになるためです。

あなたはその方のために、すべての人に対して、見聞きしたことを証しする証人となるのです。」(使徒の働き22:14ー15)

サウロはアナニアの言葉を聞いて、どれほど驚いたことでしょうか。

「聖書では、神様について何度も読んできた。神様がアブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ、預言者たち──聖書のヒーローたちと歩まれたという話を繰り返し読んできた。

でも、その同じ神が私を選んでくださったのか?神様は私とも、そのような親しい関係を望んでおられるのだろうか。」

サウロがアナニアの言葉を最初に聞いたとき、その意味を深く考えていたかどうか、私にはわかりません。彼はきっと、他にも多くのことを考えていたでしょう。特に、イエス様について自分がどれほど間違っていたかを思い巡らしていたはずです。

でも、アナニアの言葉を読んだとき、私はこう思いました。

「聖書によれば、神様はある人々と特別な関係を持っておられた。でも、その同じ神が、私とも親しい関係を持ちたいと願っておられるのか?

みこころを知るために、神様は私を選んでくださったのか?御子を見るために、私を選んでくださったのか?神様の口から御声を聞くようになるために、私を選んでくださったのか?

そして、神様は不完全な私を、証人として用いたいと願っておられるのか?」

それは、なんと素晴らしい権利でしょうか。でも、その権利は牧師や宣教師、偉大なクリスチャンたちだけのものではありません。

その権利は、イエス様を信じる信仰によって、一人ひとりの神の子供に与えられているのです。

少し時間を取って、その権利について考えてみましょう。「私はその真理を本当に信じているだろうか?その権利が私に与えられていると信じているだろうか?」

天のお父さん、あなたは古代の書物の登場人物ではありません。あなたは昔の人々の人生の中で働いておられた神だけではありません。あなたは今も生きておられる神です。

だからこそ、私はあなたを本当に知りたいです。あの人たちがあなたを知っていたように、私もあなたを知りたいです。あなたを見たいです。あなたの御声を聞きたいです。あなたと御国のために用いられたいです。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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神の恵みのみことば

「神の恵みのみことば」、つまり「福音」という言葉を聞くと、私たちは普段、自分の救いのことだけを考えがちです。けれども、福音はそれ以上のことをしてくれます。

もちろん、福音によって私たちは救われます。しかし、パウロはエペソの人々にこう語りました。

今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。

みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。(使徒の働き20:32)

パウロによれば、福音を信じるとき、二つのことが起こります。

一つ目は、私たちは神の子供として御国を受け継ぐことです。つまり、救われるということです。けれども、それだけではありません。福音は私たちを成長させます。

原文で使われている「成長させる」という言葉には、「励ます」や「強める」というニュアンスも含まれています。

福音は私たちを一度だけ励ますものではありません。また、一度だけ強めるものでもありません。私たちには、毎日福音が必要なのです。

クリスチャンとして私たちが絶望するとき、多くの場合、その原因は神の恵みのメッセージを忘れてしまうことにあります。

私たちは、神の愛を得るために頑張る必要がないことを忘れてしまいます。

神様がすでに私たちを愛してくださっていることを忘れてしまいます。

また、神の受け入れを得るために頑張る必要がないことも忘れてしまいます。

神がすでに私たちを受け入れ、私たちのことを喜んでおられることを忘れてしまうのです。

私たちは、イエス様が私たちの罪の代価をすでに払ってくださったことを忘れてしまいます。そのため、イエス様の十字架の働きが不十分であるかのように、私たちは自分自身を責め続けてしまうのです。

だからこそ、私たちにはいつも福音のことば、福音のメッセージを思い出す必要があります。片時もそのメッセージを忘れないでください。

むしろ、毎日そのメッセージによって安心し、喜びましょう。

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権威を持つ者としての神の子

すると、悪霊が彼らに答えた。「イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。しかし、おまえたちは何者だ。」(使徒の働き19:15)

この言葉は、私の心を深く揺さぶりました。その悪霊はもちろんイエス様のことを知っていて、その権威を認めていました。

そして、パウロのことも知っていて、その権威を認めていました。なぜなら、イエス様との関係によって、また神の子供として、パウロは悪霊に対する権威を持っていたからです。

しかし、私たちクリスチャンは、神の子供としての自分の権威を理解しているでしょうか。私たちが堅く立つなら、私たちの敵であるサタンは逃げなくてはなりません。サタンには、私たちに対する力がないのです。

だからこそ、パウロは「堅く立ちなさい」と語りました(エペソ6:13〜14)。

また、ヤコブは「悪魔に対抗しなさい」と語りました(ヤコブ4:7)。

ですから、神の子供よ。神様から与えられたあなたの権威を覚えていましょう。

ヨハネはこう語りました。

子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。(第一ヨハネ4:4)

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#TBT — 素直な心

あなたは成熟したクリスチャンで、聖書をよく知っているかもしれません。

しかし、今もなお素直な心をもって、学ぶ姿勢を保っているでしょうか。

謙遜な態度をもって、自分にはまだ知らないことが多くあると認めているでしょうか。

そのような心を保つときこそ、私たちはクリスチャンとして成長し続け、神様のために実を結び続けることができるのです。

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別の王、別の王国

彼らはみな、「イエスという別の王がいる」と言って、カエサルの詔勅に背く行いをしています。(使徒の働き17:7)

この言葉は、私の心を深く打ちました。それは、この世界への私たちのメッセージだからです。つまり、私たちには別の王がいるということです。

その王は天地の主です。なぜなら、その王はすべてのものを造られたからです。 だからこそ、その王は私たちの忠誠と愛にふさわしい方です。

ある意味、悔い改めとはイエス様が誰であるかを認めることです。つまり、イエス様は私たちの王であるということです。

罪とは、私たちの人生においてイエス様の権威を拒絶することです。 悔い改めとは、イエス様の権威に服従することです。

しかし、多くの人々はイエス様の権威に服従することを恐れています。パウロとシラスのメッセージを聞いた人々は、本当に動揺していました(17:8)。

だからこそ、私たちはこのメッセージが本当に「良い知らせ」であることを、周りの人々に伝えなければなりません。

私たちの王は良い方です。私たちの王は、私たちを深く愛しておられます。そして、すべてをその王に明け渡すとき、私たちは本当のいのちと喜びを知るのです。

私自身の人生において、その真理を経験しました。私はイエス様にすべてを明け渡す喜びを経験しました。そして、その喜びをもっと深く経験したいと願っています。

私は、神様のすべての民がその喜びを知るように祈ります。

この国の人々は、良い知らせを必要としています。あなたが愛している人々も、その良い知らせを必要としています。

しかし、私たち自身がそれを本当に「良い知らせ」だと信じていないなら、どうして彼らが信じるようになるでしょうか。

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神の恵みにとどまる

「ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。

また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについて、この方によって、信じる者はみな義と認められるのです。。。」

会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちがパウロとバルナバについて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みにとどまるように説得した。(使徒の働き13:38ー39,43)

「神の恵みにとどまりなさい。」

多くのクリスチャンは、神様との関係が「神様を喜ばせるための自分の努力」によって成り立っていると誤解しています。

ユダヤ人たちも同じように考え、神の律法を守ろうと懸命に努力しました。

けれども、彼らはその律法を完全に守ることができず、罪悪感に苛まれ、神の基準に達することができないと感じていました。神様に受け入れられるためには、もっと頑張らなければならないと思い込んでいたのです。

あなたも、そう感じたことがあるかもしれません。

しかし、パウロとバルナバが語った福音はこうです── 「イエス様を信じるなら、神様はあなたを義と認めてくださる。」

その義は、あなたの努力や忠実さに基づくものではなく、イエス様の十字架の御業と、あなたに対するイエス様の忠実さに基づいています。

それこそが、私たちの希望です。

私たちが神様に忠実でない時でも、神様は変わることなく、私たちに忠実でいてくださいます。

そして、サタンが火矢を放ち、「あなたは不十分だ。神の基準には到底届かない」と責めるとき、神の忠実さこそが、その火矢をすべて消し去る私たちの盾となるのです。

パウロとバルナバは、新しく信仰に入ったクリスチャンたちに「神様に受け入れられるために、もっと頑張りなさい」とは言いませんでした。

彼らはこう語ったのです── 「あなたがたはすでに神の恵みを受けています。その恵みにとどまりなさい。その恵みに安心しなさい。そして、その恵みによって、イエス様と共に進み、歩み続けなさい。」

もしかすると、彼らはイエス様の言葉を思い起こしていたかもしれません:

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28ー30)

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苦しみを経なければならないのか

二人はこの町で福音を宣べ伝え、多くの人々を弟子としてから、リステラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返して、 弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、

「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。(使徒の働き14:21ー22)

「多くの苦しみを経なければなりません。」

私はこの言葉に思いを巡らしました。

「多くの苦しみを経なければならないのだろうか。なぜ?」

もちろん、パウロは、苦しみを経ることによって私たちが神の国に入る権利を得る、と言っているわけではありません。

しかし、もし神の国に入りたいと願うなら、ある意味で、私たちは苦しみを経なければなりません。なぜなら、この罪によって壊れた世界では、私たちは苦しみを避けることができないからです。

さらに、私たちに反対する敵がいます。つまり、サタンは私たちに敵対しているのです。

それだけではなく、苦しみは神様が私たちを精錬するために用いられるプロセスでもあります。

その苦しみを通して、神様は私たちに何が本当に大切なのかを教えてくださいます。

この世の人々の考え方とは違い、もっとも大切なことは楽な人生を送ることではありません。一番大切なことは、自分の罪にふけり、自分のために生きることではありません。

もっとも大切なことは、神様を信頼し、従うことです。その道は真のいのちに至るからです。

ペテロはこの真理をよく理解していました。彼はこう言いました。

キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。

肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。

それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。(第一ぺテロ4:1ー2)

パウロもこの真理を理解していました。彼はそれを新しいクリスチャンたちに教えただけでなく、使徒の働き14章では、その真理に従って歩みました。彼自身の人生を通して、新しいクリスチャンたちに模範を示したのです。

ペテロはこうも言いました。

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。

むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。(第一ぺテロ4:12ー13)

それは勇士の心です。

私の教会では、私たちはほとんど(決して?)歌いませんが、私はこの「Amazing Grace」の歌詞が大好きです。

“Through many dangers, toils, and snares, I have already come;
いろんな危険や、苦労や、罠を乗り越え、私はすでにたどり着きました。

‘Tis grace hath brought me safe thus far,
恵みは私をここまで無事に導いてくださいました。

And grace will lead me home.”
そして、恵みは私を主の家に導いてくださいます。

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使徒の働きのデボーション

より高い力に訴える

こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。(使徒の働き12:5)

一方では、ヘロデの力によって、ペテロは捕らえられ、牢に閉じ込められていました。

他方では、教会はより高い力に訴えました。

それは覚えておく価値があります。

私たちは、自分たちより強い力に直面することが多くあります。そして、その力は私たちに敵対的なものです。

それは霊的な力かもしれません。あるいは、地上の力かもしれません。

けれども、どんな力に直面しても、神の子どもとして、私たちはより高い力に訴える権利を持っています。

その権利を用いて、教会がペテロのために熱心に祈ったように、私たちも熱心に祈りましょう。

そして、神様がどのように答えられるとしても、神様が忠実な方であることを覚えておきましょう。

神様は忠実な方で、ペテロをヘロデの手から救い出してくださいました。

しかし、神様はヤコブに対しても忠実でした。ヘロデはヤコブのからだを殺しましたが、ヤコブのたましいを殺すことはできませんでした。(マタイ10:28ー31)

そして、神様は忠実で、ヤコブを天国に導き、歓迎してくださいました。

いと高き方の隠れ場に住む者、その人は、全能者の陰に宿る。。。

主は、ご自分の羽であなたをおおい、あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は大盾、また砦。(詩篇91:1,4)

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あなたの使命を受け継ぐ

あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事柄をご存じです。それは、ナザレのイエスのことです。

神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。

イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。(使徒の働き10:37ー38)

イエス様、あなたの足跡をたどり、あなたから与えられた使命を続けたいです。

私の周りでは、たくさんの人々が悪魔に虐げられ、苦しんでいます。彼らは自由にされる必要があります。

あなたが命じられたように、私があなたの福音を彼らに伝えることができるよう助けてください。

その福音とは、天の父があなたを生きている者と死んだ者のさばき主として定められたということです。しかし、あなたを信じる者はだれでも、さばきの日だけでなく、今この時にも、あなたの御名によって罪の赦しを知るのです。

ですから、私に御霊と力によって油を注いでください。あなたがなさったように、私も良いわざを行いたいです。

私を通して、悪魔に虐げられている人たちが霊的な癒しを知ることができますように。

そして、私だけでなく、あなたの教会全体、あなたの民すべてが、この国を変革する力となりますように。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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主とその弟子たち

さて、ダマスコにアナニアという名の弟子がいた。主が幻の中で「アナニアよ」と言われたので、彼は「主よ、ここにおります」と答えた。(使徒の働き9:10)

私にとって驚くべきことは、イエス様には何億人もの弟子たちがいるけれど、一人一人の名前を知っておられるということです。イエス様は私たちを大切にしておられるので、私たちの名前をよく知っておられるのです。

アナニアはまったく有名なクリスチャンではありませんでした。22章では、パウロが証しを語ったときにアナニアの名前に言及しますが、それ以外に聖書には彼の名前は登場しません。

それでも、イエス様はアナニアを知っておられ、名前を呼ばれました。

私の心を打ったもう一つのことは、イエス様に対するアナニアの態度です。イエス様がアナニアを呼ばれたとき、アナニアはすぐに答えました。「主よ、ここにおります。」

アナニアはいつもイエス様の声に耳を傾けていました。

彼はイエス様の命令が理解できないときもありましたが、最終的には「はい、従います」と答えて従いました。

私はそのような弟子になりたいです。私の耳をいつも主に傾け、「はい、従います」という態度を取りたいのです。

あなたはどうですか。

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神の目にかなった、美しい子

モーセが生まれたのは、このような時でした。彼は神の目にかなった、かわいい子。。。(使徒の働き7:20)

「彼は神の目にかなった、かわいい子です。」

「かわいい」、または、「美しい」という言葉は新約聖書には二回だけ登場します。どちらの箇所も、モーセに関する記述です。

おそらく、著者たちは旧約聖書のギリシャ語訳を用いて、出エジプト記を引用したのでしょう。出エジプト記2章2節には、モーセの両親が彼を「美しい子」だと見たことが記されています。

もちろん、多くの親は自分の子どもを「かわいい」「美しい」と感じるでしょう。

しかし、ルカによれば、神様もモーセをそのように見ておられました。

とはいえ、神様はモーセの外見だけをご覧になっていたわけではないでしょう。神様は、愛と恵みのまなざしでモーセをご覧になっていたのだと思います。

神様はモーセのすべてをご存じでした。神様はモーセの弱さと劣等感をよく知っておられました。(出エジプト記4:10)

神様はモーセの短気を知っておられました。神様は、モーセが人を殺すことさえ知っておられました。(出エジプト記2:12)

それでも、神様は「この子は美しい」と言っておられました。

私にとって驚くべきことは、神様が私の弱さと失敗と罪を見て、それでも「あなたを選ぶ。あなたは私の目には美しい子です」と言われることです。

それは、恵みに満ちたまなざしです。

それは私たちの天のお父さんの目です。

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私たちの(良い)主に従う

主よ。あなたは天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた方です。(使徒の働き4:24)

「主よ」。

初期のクリスチャンたちは神様を「主」と呼びましたが、通常はギリシャ語の「クリオス」を使いました。

けれども、この場合、彼らは別の言葉を使いました。それは「デスポテース」という言葉です。

「デスポテース」という言葉は、神様の支配の権利と力を強調します。

残念なことですが、多くの人々は神の支配の権利と力を認めることを拒みます。

ダビデの時代でも、ペテロの時代でも、今でも、人々は神様の支配に抵抗します。(25ー27)

しかし、ペテロとほかのクリスチャンたちは神様を自分の主として認めました。だから彼らは喜んで神様に従いました。(19ー20)

なぜ彼らは喜んで従うことができたのでしょうか。それは、彼らが神様が良い方であることを認めたからです。

興味深いことですが、英語の「despot」、つまり「暴君」という言葉は「デスポテース」に由来します。

けれども、神様は暴君どころか、私たちを愛している創造主であり、天の父です。

神様、あなたは私の主です。あなたは良い主です。あなたはいつくしみ深い主です。

この世は時に乱れているように見えますが、あなたがすべてを支配しておられることを信じます。

また、あなたが私の最善を望むことを信じます。

あなたは私の信頼と服従にふさわしい方です。だから主よ、私は喜んであなたにすべてを明け渡します。

あなたに喜んで従います。あなたを愛しています。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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周りの人々に気づく

ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめ(ました)。(使徒の働き3:4)

上の言葉は私の目に留まりました。

ペテロとヨハネは、その足の不自由な人を無視し、こう言うことができました。「私たちは神様を礼拝するために、宮に行っているところなのだ。しかも、お金を持っていないから、しょうがない。宮に行こう。」

でも、その代わりに、彼らは止まってその人を見つめました。そして、彼らが持っているものをその人に与えました。

私はその点で、まだ成長すべきです。つまり、私は周りの人々にもっと気づくべきです。彼らのニーズに気づくべきです。

そして、すぐに「私は与えられるものを持っていない」と言わずに、できる限りのことをすべきです。神様はその点で私の心の中に働いています。

私が思っている以上に、神様は私を用いたいでしょう。

あなたが思っている以上に、神様はあなたを用いたいでしょう。

天のお父さん、あなたが私の行く手に置いてくださる人々に私が気づくように。そして、あなたが私に惜しみ無く与えてくださったように、私も惜しむなく周りの人々に与え、あなたの愛で彼らに触れるように。

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使徒の働きのデボーション

喜びに特徴つけられる

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。(使徒の働き2:28)

ペテロが引用したダビデの言葉は私の心を打ちました。

私たちはダビデの確信を持ち、「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、必ず私を喜びで満たしてくださいます」と言えるでしょうか。

その言葉を本当に信じれば、私たちにとってクリスチャン生活は喜びになります。

み言葉や祈りやクリスチャンの交わりは単なる義務ではなく、私たちを喜びで満たすものになります。

そして、私たちの周りの人々は必ず気づくでしょう。(46-47節)

天のお父さん、イエス様を通して、あなたは私にいのちの道を知らせてくださいました。あなたの御前で、あなたは必ず私を喜びで満たしてくださいます。

周りの人々が私の喜びに気づいてあなたに引き寄せられるほど、私の人生が喜びに特徴つけられますように。

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使徒の働きのデボーション

イエス様がもう一度来られるまで

「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。

あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。(使徒の働き1:11)

数年前、私はこの箇所についてブログの記事を書きました。その記事をこちらで読むことができます。

今日、この箇所を読むとき、御使いの言葉は以前と同じように私の心を打ちましたから、私はこう祈りました。

イエス様、この壊れた世界にあって、御使いの言葉は私の希望です。ある日、あなたはもう一度この世に来られます。そして、あなたはすべてを新しくしてくださいます。

でも、その間に、あなたは私に役割を与えてくださいました。

だから、あなたの御霊で私を満たしてください。そして、あなたがもう一度来られるその日まで、私が忠実にあなたに与えられた役割を果たすことができますように。

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ルカの福音書のデボーション

愚か者で、心が鈍い

そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。(ルカの福音書24:25)

イエス様、その二人の弟子たちのように、私は愚かで、心が鈍いために、預言者たちの言ったことだけではなく、あなたの言ったことを信じられない時がどれほど多いでしょうか。

私は愚かで、心が鈍いために、すぐに落ち込み、絶望する時がどれほど多いでしょうか。

私は愚かで、心が鈍いために、この世界で、私の中であなたが何をしようとしているのか分からない時がどれほど多いでしょうか。

私は愚かで、心が鈍いために、あなたを信頼せず、愚かな決断をする時がどれほど多いでしょうか。

赦してください。

イエス様、私の目を開いてください。私に悟りを与えてください。あなたの言葉によって、私の心が内で燃えて、希望といのちと平和と喜びが湧き上がるように。

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ルカの福音書のデボーション

私たちがつまずくとき

シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。

しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。

ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカの福音書22:31ー32)

ペテロは大失敗してしまいました。22章の最後では、イエス様の目の前で、ペテロは「イエス様を知らない」と言っていました。

でも、私たち皆が大失敗する時があります。私たち皆がイエス様を失望させる時もあります。

では、私たちはどうやって立ち直ることができるでしょうか。

イエス様の言葉を思い起こすべきです。

つまり、イエス様はあなたのために祈っているということです。イエス様は私たちを見限っているわけではありません。今なお、イエス様は私たちのためにとりなしてくださっているのです。

だから、イエス様のもとに戻りましょう。

そして、他のつまずいてしまった人たちを見たら、彼らを力づけてやりましょう。彼らに言いましょう。

「私はあなたに共感できます。私も失敗することがあります。でも、イエス様は私を赦してくださいました。あなたをも赦してくださいます。だから、一緒にイエス様のもとに戻りましょう。」

サタンの気に入った嘘は、「あなただけだよ。あなただけがこのように失敗するよ」ということです。

でも、現実は、もっとも偉いクリスチャンでも大失敗することがあるということです。

真理は、イエス様が私たちを見限ることはないということです。今でも、イエス様は私たちのために祈っていて、待っていてくださるのです。

だから、互いにその真理を思い起こし、励まし合いましょう。

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ルカの福音書のデボーション

主よ、私の目が見えるようにしてください

弟子たちには、(イエスが言われたこと)が何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。(ルカの福音書18:34)

(目の見えない人)が近くに来ると、イエスはお尋ねになった。「わたしに何をしてほしいのですか。」

するとその人は答えた。「主よ、目が見えるようにしてください。」(40ー41節)

イエス様、どれだけあなたは私に大切なこと、私が聞かなくてはならないことを伝えたいと思っておられるでしょうか。でも、弟子たちと同じように、私にはその言葉が隠されていて、理解できないのでしょうか。

私は霊的に盲目になりたくありません。どうか、私の目が見えるようにしてください。あなたが言わんとしていることを理解できるように、私の心の目を開いてください。

あなたが私に言わんとしていることを理解し、受け入れることを妨げるものを、私の心から取り除いてください。

パリサイ人のプライドを、私の心から取り除いてください。

すべてをあなたに開け渡そうとしない指導者の態度を、私の心から取り除いてください。

主よ、あなたにすべてを開け渡すことには、喜びがあります。あなたに従うことには、喜びがあります。

目が見えない人は、その喜びを知りました。

私も、その喜びを知るように。

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自分自身に気をつけなさい

イエスは弟子たちに言われた。

「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。

その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。

あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。

一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。」(ルカの福音書17:1ー4)

「あなたがたは、自分自身に気をつけなさい」という言葉は、その前の言葉に繋がっているでしょうか。もしかすると、そのあとの言葉に繋がっているでしょうか。答えは少し微妙です。

(新約聖書の節番号は、西暦1555年に発明されたことをご存じでしたか。)

とにかく、「あなたがたは、自分自身に気をつけなさい」という言葉は、どちらにも繋がると考えるのが理にかなっています。

1ー2節を読むと、いつも身に染みます。今朝、私は祈りました。

「天のお父さん、私はつまずきをもたらす者になりたくありません。私のせいで妻と娘がつまずかないように。私のせいで同僚たちと生徒たちがつまずかないように。私のせいで教会の兄弟たちと姉妹たちがつまずかないように。」

でも、もう一つのことに関して、私たちは自分自身に気をつけなければなりません。

私たちは傷ついたとき、苦々しい思いに気をつけなければなりません。私たちは相手への怒りを心にずっと抱いてはいけません。むしろ、私たちはすぐに相手と話さなくてはなりません。その目的は、単に怒りをぶつけることではなく、和解を求めることです。

でも、相手が悔い改めても、悔い改めなくても、私たちは許すべきです。それは相手の益のためではなく、私たちの益のためです。

相手を許さないと、苦々しい思いは私たちの心を蝕んでしまいます。だから、そういう意味でも、私たちは自分自身に気をつけなければなりません。

神よ、私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23ー24)

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私たちが入ろうとしないとき

すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。(ルカの福音書15:28節)

上の言葉に私は心打たれました。

放蕩息子の話を読むとき、私たちはたいてい次男に注目します。

でも、この話に登場する父親は、次男だけではなく、長男をも愛していました。

だから、長男が愚かな態度を取り、苦々しい思いを抱いて、家に入ろうとしないと、父親はその息子のところに行きました。

私たちは、どれだけ長男のように振る舞うでしょうか。

自分の問題のため、あるいは神様に不当に扱われていると感じるために、私たちは愚かな態度を取り、苦々しい思いを抱いて、神様のもとに来ようとしません。

でも、私たちが入ろうとしないとき、神様は出て来ます。神様は私たちを救われたとき、そのような恵みを与えてくださったし、今なお、その同じ恵みを与えてくださいます。

詩人アサフも、そのような恵みを受けて、こう書きました。

私の心が苦みに満ち 私の内なる思いが突き刺されたとき、私は愚かで考えもなく、あなたの前で、獣のようでした。

しかし、私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手を、しっかりとつかんでくださいました。

あなたは、私を諭して導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいます。(詩篇73:21ー24)

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闇の力に縛られた国への祈り

この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。

安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。(直訳:安息日に、彼女はこの束縛から解き放たれる必要がないんですか。)(ルカの福音書13:16)

天のお父さん、この国のために祈ります。日本は、18年ではなく、何千年もの間サタンに縛られているのです。日本はこの束縛から解き放たれる必要がないのでしょうか。

サタンに縛られている人々のためのイエスのあわれみ深い心を私に与えてください。

天のお父さん、からし種のようにあなたの御国が成長し、日本中に広がり、人々があなただけにある平安を知るように。

また、パン種のように、あなたの御国がこの社会の隅々にまで浸透し、完全に変容するように。

天のお父さん、あなたの御国が来ますように。

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自分の心を守る

イエスはまず弟子たちに話し始められた。「パリサイ人のパン種、すなわち偽善には気をつけなさい。」(ルカの福音書12:1)

そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(15)

そのことばを読んだとき、私は、自分の心にどんな偽善や貪欲さがあるのかを考えました。今もなお考え続けていますが、もう一つの思いが心に浮かびました。

それは、イエス様が私たちの心、そして心の中にあるものを深く気にかけておられるということです。だからこそ、ルカ12章でイエス様は二度、「気を付けなさい。警戒しなさい」と言われました。

では、私たちはどうすれば、自分の心を守ることができるのでしょうか。

今日の箇所を読んで、私が思ったのは、「私たちは心の中でどんな対話をしているのだろうか」ということです。

興味深いのは、17節の「考えた」と訳されているギリシャ語の単語が、英語の “dialogue” の語源となっていることです。つまり、「対話」です。

イエス様のたとえ話に登場する人物は、心の中で考えていました。彼は、自分自身と対話していたのです。そして、その対話は、彼の貪欲さを明らかにしました。

あなたの心の中で何が起こっているのか、知りたいと思いますか。

では、あなたの心の中で、どんな対話をしているのでしょうか。

自分との対話だけではなく、心の中で他人との議論がどれだけあるでしょうか。

その対話は、私たちの心の中身を明らかにします。だから、イエス様は私たちに注意されます。「心の中の対話が、あなたをどこに導いているのか——気を付けなさい。」

天のお父さん、私が自分の心を守ることができるように助けてください。貪欲に対しても、偽善に対しても。あなたとの関係や、私たちの人間関係を損なう態度に対しても。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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指一本だけで

しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。(ルカの福音書11:20)

霊的な戦い、特に私たちの敵サタンを考えるとき、私たちは大切な真理を忘れがちです。

それは、神様がサタンよりも断然強いということです。

サタンは神様と対等ではありません。

神様は創造主です。サタンは、ただの被造物なのです。

神様は、小指一本だけでサタンを破ることができます。

だから、霊的な戦いに直面するとき、私たちのうちにおられる方を信じて、立ち向かいましょう。

そして、ヨハネのことばを心に留めておきましょう。

子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。

あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。(第一ヨハネ4:4)

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信仰があれば

恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。(ルカの福音書8:50)

今日、私は上のことばを反芻しました。

信仰が弱くて、弟子たちは嵐を恐れました。

信仰がなくて、ゲラサの人々はイエス様を恐れ、イエス様に自分たちのところから出て行ってほしいと願いました。

その一方で、長血を患って苦しんでいた女の人は、イエス様の反応を恐れましたが、信仰によって、イエス様に受け入れられ、癒されました。

また、ヤイロは恐れに負けず、イエス様を信じたゆえに、娘は復活しました。

信仰があれば、恐れる必要はありません。

嵐も、悪霊も、健康問題も、死も、そしてもちろんイエス様をも、恐れる必要はありません。

むしろ、私たちは赦し(7:50)、救い、神の受け入れ、平安、そして命を知るのです。

それは本当に素晴らしい真理ですね。

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でも、真理は。。。

だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。(ルカの福音書7:23)

最近、私は霊的な戦いについて考えています。実は、日曜日から、私の教会では霊的な戦いに関するメッセージのシリーズが始まりました。

私たちの敵であるサタンについて考えたとき、私が気づいたのは、サタンの主な武器の一つが欺きと嘘であるということです。イエス様は、サタンを「偽りの父」と呼ばれました。(ヨハネ8:44)

サタンは、バプテスマのヨハネに対して、その武器を振るっていました。

「あなたの人生は無駄だった。あなたはこの牢に入っているが、いったい何を成し遂げたのか。

あなたはイエス様をメシアとして宣言したが、それは本当なのか?彼はローマ帝国からイスラエルを自由にしていないし、あなたを助けてもいない。あなたはまだここにいるではないか。」

嘘と真実を混ぜ合わせるのは、本当に効果的な武器ですね。

だから、ヨハネは自分の弟子たちをイエス様のもとに遣わし、尋ねました。「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」

イエス様はどのように答えられたでしょうか。イエス様は、人々を癒し、悪霊を追い出し、福音を宣べ伝えられました。

そして、イエス様はヨハネに、基本的にこう言われたのです。

「あなたは、私に失望しているのですね。私があなたの予想通りにローマ帝国を倒していないから。

でも、真理は、私はメシアです。そして、私はメシアに関する聖書の預言を成就しています。

だから、自分の人生や働きが無駄だと思わないでください。真理をしっかり信じなさい。私自身が真理です。だれでも、私につまずかない者は幸いです。」

サタンが私たちを嘘で攻撃するとき、私たちのクリスチャン生活がうまくいかないとき、私たちがイエス様に失望し、イエス様が良い方であることを疑うとき、その痛みと疑いのサイクルを破って、宣言しましょう。

「私はこのように感じているかもしれません。でも、真理は、イエス様は良い方です。真理は、イエス様が本当に神の子で、私の救い主です。真理は、イエス様は私を愛しておられます。」

そして何よりも、覚えていましょう。「イエス様自身が真理です。」

真理は、イエス様に信頼する者が、決して失望させられることがないということです。(ローマ10:11、第一ペテロ2:6)

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目を覚まして祈る

そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。(ルカ6:12)

ルカ3〜6章を読んで、イエス様が祈るために、3回一人で出て行かれたことに気づきました。

5章によれば、イエス様はしばしばそうされました。

今朝、私が思ったのは、私もイエス様の模範に従うべきだということです。

天の父は私を愛し、私の回りの人々に触れたいと願っておられます。でも、私は天の父が何をなさっているのか、気づいているでしょうか。

その一方で、サタンは私を憎み、私と私の愛する人々を滅ぼそうとしています。でも、私はサタンが何を謀っているのか、気づいているでしょうか。

イエス様は私たちに、「目を覚まして祈っていなさい」と命じられました。

パウロとペテロも、同じことを私たちに語っています。(エペソ6:18、コロサイ4:2、第一ペテロ4:7)

でも、私はそのことばに従っているでしょうか。

天のお父さん、あなたが何をなさっているのか、また、サタンが何を謀っているのか、私がしっかり気づくことができますように。

イエス様がなさったように、目を覚まして祈ることを、私に教えてください。

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弱く、罪深くても

ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」。。。

イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとるようになるのです。」(ルカの福音書5:8,10)

ルカ5章とヨハネ21章には共通点があります。特に、ペテロたちはイエス様のことばに従い、奇跡的にたくさんの魚を捕ったことです。

その二つの話にあるペテロの感情とイエス様の反応が、私の心に深く残りました。

ペテロは、自分の罪を見て、イエス様にこう叫びます。「私はあなたとともに歩むにふさわしくありません。」

しかし、イエス様はペテロに言われます。「恐れないで。私はあなたの罪を見ています。それでも、私はあなたとともに歩みたいし、私のミッションのためにあなたを用いたいのです。」

そして、三年が経ち、イエス様の復活の後、ペテロはさらに自分の罪深さと弱さを知ることになりました。イエス様に忠実であると約束した数時間後、ペテロは三度、イエス様を知らないと言ってしまいました。

そのあと、イエス様に出会ったとき、ペテロは「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」とは言いませんでしたが、おそらくペテロは自分に対して、さらに疑いを抱いていたでしょう。

「イエス様は、まだ私を用いることができるだろうか。イエス様は、まだ私を用いたいと思っておられるだろうか。」

けれども、イエス様はペテロを励まされました。

「私を愛していますか。よし、私の子羊を飼いなさい。」

「私を愛していますか。よし、私の羊を牧しなさい。」

「私を愛していますか。よし、私の羊を飼いなさい。」

そして、イエス様はペテロに言われました。「私に従いなさい。」

それは本当に素晴らしいことだと思います。イエス様は、私の弱さと罪をご覧になります。

でも、私が「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。私はあなたにふさわしくない者です」と言うとき、イエス様はこう答えられます。

「恐れないで。あなたの失敗や罪に関わらず、私はあなたを受け入れました。さあ、私に従いなさい。私と一緒に行って、私から受けた愛と恵みで、周りの人々に触れましょう。」

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神の御子、神の子

イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、 聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。

すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」(ルカの福音書3:21ー22)

このアダムは神の子である。(38節、新改訳(第三版))

イエス様、あなたは天の父が喜ばれる神の子です。

天のお父さん、あなたはかつてアダムについても同じことを言われました。けれども、アダムは反逆し、罪を犯しました。そして、アダムによって、罪と死がこの世に入りました。

しかし、イエス様、あなたによって、私たちは赦され、永遠のいのちを与えられました。(ローマ5:12〜21)

天のお父さん、日本の人々、また世界中の人々が、あなたの救いを見ることができますように。(ルカ3:6)

イエス様、人々に悔い改めを促し、あなたに指し示したヨハネのような心と熱心を、私に与えてください。

また、あなたが救おうとされている人々に対する、あなたの心を私に与えてください。

あなたの心を、私に与えてください。

アーメン。

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天の父のことに関わる

わたしが自分の父の家にいるのは当然(直訳:必要)であることを、ご存じなかったのですか。(ルカの福音書2:49)

今朝、イエス様のことばは私の心を打ちました。12才のイエス様がすでにご存じだったのは、「わたしが自分の父の家にいるのは必要なのだ」ということです。

私には、この考えが思い浮かびました。「日曜日に、神の民は『私が自分の父の家にいるのは必要なのだ』と考えるだろうか。」

でも、49節の脚注を見ると、もう一つのことを思い起こしました。それは、ギリシャ語には「家」ということばは書かれていないということです。

文字通りには、イエス様が言われたのは、「わたしが自分の父のことに関わることは必要なのだ」ということです。

その「こと」は少し微妙です。イエス様の親たちはイエス様を探していたのだから、その「こと」が「父の家にいること」を意味するのは理にかなっています。

でも、新改訳の脚注によれば、さらに二つの可能性があります。それは、「父の者の間にいること」と「父のみわざのうちにいること」です。

正直に言うと、私が自己中心になるのは簡単なことです。

でも、私はイエス様のようになりたいです。天の父のみわざに関わりたいです。天の父が大事にされるものを、私も大事にしたいのです。

イエス様、あなたの心が欲しいです。毎日、天の父が大事にされるものを、私も大事にする者となれますように。

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詩篇のデボーション

自分の心を礼拝へ導く

わがたましいよ、主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ、聖なる御名をほめたたえよ。

わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:1ー2)

今日、この箇所を読んだとき、私は「どれだけ私は主をほめたたえるように自分の心を導くだろうか」と考えました。

「おい!自分よ。今日、主をほめたたえよ!主が良くしてくださったことを忘れるな。あなたへの主のいつくしみを忘れるな。」

もちろん、悪いときも、私たちはそうするべきです。ダビデが落ち込んだとき、彼はこう言いました。「おい!自分よ。どうしてあなたはそんなに落ち込んでいるの?主をほめたたえよ!」(詩篇42〜43篇)

でも、良いときにも、主をほめたたえることを覚えていることは大切です。私たちの祝福がどこから来たのか、自分に思い起こさせるべきです。(申命記6:10〜12)

この詩篇では、ダビデはそうしました。

私のただの意見ですが、おそらく、神様がダビデのバテ・シェバとの罪を赦し、ダビデの息子アブサロムの反乱の後に、神様がイスラエル王国をダビデに返されたときに、ダビデはこの詩篇を書いたのではないでしょうか。(第二サムエル記11〜19章)

あなたはどうでしょうか。主をほめたたえるように、毎日、自分の心を導いているでしょうか。

主のみこころを行い、主に仕える者たちよ。主をほめたたえよ、すべて造られたものたちよ。 主が治められるすべてのところで。

わがたましいよ 主をほめたたえよ。(21ー22)

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イザヤ書のデボーション

赦され、忘れられた罪

かつての苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。

見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。

先のことは思い出されず、心に上ることもない。(イザヤ書65:16ー17)

以前、上のことばを読んだとき、なぜか私はいつも、イザヤが「新しい天と新しい地」で神の御顔を見るときに、私たちがかつての苦難や罪や失敗を忘れる、と言っているのだと思っていました。

今でも、私たちの苦難や罪と失敗が忘れられると信じています。でも、それが神様の意図だとは思いません。

神様が言われたのは、「かつての苦難は忘れられ、わたしの目から隠される」ということです。

だから、「先のことは思い出されず、心に上ることもない」と言われるとき、神様が「先のことは思い出されず、わたしの心に上ることもない」と言っておられるのだと思います。

アダムとエバが初めて罪を犯して以来、私たちはこの世界でどれほどの苦しみを引き起こしてきたのでしょうか。

私たちは、どれほど神様の心を悲しませてきたでしょうか。

今日の箇所では、神様がそのことについて語られます。神様は、ご自身の民の罪と反逆について語り、彼らがどれほど神の心を悲しませたかを示されます。

それでも、神様は言われます。

「わたしはすべてを新しくします。その日、あなたの罪や、あなたがわたしの心を悲しませたすべてのことは忘れられ、わたしの目から隠されます。そのことは思い出されず、わたしの心に上ることもない。」

イエス様の十字架の働きによって、私たちのすべての罪は赦され、忘れられました。

それこそが、不思議な恵みですね。

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イザヤ書のデボーション

私たちをあわれんでくださる神

日曜日はイースターでしたが、この季節に、なぜイエス様が死ななければならなかったのかを思い起こすことは、とても大切だと思います。

今日の箇所は本当に興味深いです。イザヤは、神様が天を裂いて降りて来られ、ご自身をこの世の国民に現してくださるように祈ります。

その一方で、イザヤが悟ったのは、神様が来られるなら、イスラエルの敵だけでなく、イスラエル自身も裁かれるということです。なぜなら、イスラエルの民も神様に背を向けてしまったからです。

だから、イザヤは祈ります。

主よ、どうか激しく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えていないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに、目を留めてください。(イザヤ書64:9)

その祈りは、イエス様が死ななければならなかった理由を明らかにしています。十字架において、イエス様は私たちの代わりに神様の怒りを負ってくださいました。イエス様とその十字架の働きによって、私たちの罪は赦されます。

初代教会が旧約聖書を読む際には、ギリシャ語訳を用いていました。イザヤ書64:4のギリシャ語訳は少し意訳されていて、非常に興味深いものです。

「あわれみを待ち望む者のためにみわざを行われるあなたのほかに、私たちはとこしえから神を耳にしたこともなく、目で見たこともありません。」

神様の最終的な憐れみのみわざは、十字架において成し遂げられました。

パウロもそのように理解していたようです。十字架について語るとき、彼はイザヤ書64:4を意訳して引用しています。

目が見たことのないもの、 耳が聞いたことのないもの、 人の心に思い浮かんだことがないものを、 神は、神を愛する者たちに備えてくださった。(第一コリント2:9)

十字架は、ただの悲劇的な事件ではありませんでした。十字架は、私たちを憐れみ、私たちを救うための、永遠からの神のご計画でした。

それは、なんと素晴らしいことでしょう!

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イザヤ書のデボーション

とりなしをし続けなさい!

シオンのために、わたしは黙っていない。 エルサレムのために沈黙はしない。 その義が明るく光を放ち、 その救いが、たいまつのように燃えるまでは。。。

エルサレムよ、 わたしはあなたの城壁の上に見張り番を置いた。終日終夜、 彼らは、一時も黙っていてはならない。

思い起こしていただこうと主に求める者たちよ、 休んではならない。主を休ませてはならない。 主がエルサレムを堅く立て、 この地の誉れとするまで。(イザヤ書62:1,6ー7)

1〜2節では、メシアは黙らず、沈黙せず、エルサレムの義が明るく光を放ち、その救いがたいまつのように燃え上がるまで、働き、とりなしをしてくださると約束されています。

それは本当に励ましに満ちたことばです。なぜなら、イエス様はエルサレムのためだけでなく、神の民すべてのためにそうしてくださるからです。

私たちの義が明るく光を放ち、その救いがたいまつのように燃え上がるまで、イエス様は働き、とりなしをしてくださいます(ヘブル7:22〜25)。

でも、6〜7節は私の心を打ちました。

メシアはエルサレムの城壁の上に見張り番を置かれました。そして、メシアは彼らにこう言われます。

「休んではならない。主にご自身の約束を思い起こさせなさい。祈り続けなさい。主がエルサレムを堅く立て、この地の誉れとされるまで、主を休ませてはならない。」

私は日本について考えます。イエス様は私たちを、日本のための見張りとして任命してくださいました。そして、イエス様は私たちにこう言われます。

「日本のためにとりなしをし続けなさい。黙ってはなりません。すべての人をイエス様のもとに引き寄せるという約束を、神様に思い起こさせなさい。(ヨハネ10:16、12:32;黙示録7:9〜10)

神の国が日本に来るように祈りなさい。イエスにある日本の義が明るく光を放ち、その救いがたいまつのように燃え上がるまで、神様が働き続けるように祈りなさい。」

天のお父さん、この国民はあなたを切実に必要としています。あなたの国が日本に来るように。

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出エジプト記のデボーション

イースターの希望

神の贖いのご計画は、決して揺らぐことのないものです。私たちがどれほど失敗しても、どれほど深い罪を犯しても、救いようのない人など一人もいません。

それこそが、イースターの希望です。だからこそ、私たちは毎日、その希望の上に立って生きていきましょう。

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イザヤ書のデボーション

祝福されている

「彼らを見る者はみな、彼らが主に祝福された子孫であることを認める。」

私は主にあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義(別訳:義)の外套をまとわせ。。。」(イザヤ書61:9-10)

この箇所を読むとき、たいてい1〜3節が私の目に留まります。 なぜなら、イエス様がそのことばを、ご自身に当てはめられたからです(ルカ4:18〜21)。

でも今日、9〜10節が私の目に留まりました。私はどれほど祝福されているかに気づかされました。

私はいつも、自分の欠点や失敗、そして罪ばかりを見てしまいます。でも、恵みによって、神様は私に救いの衣と、キリストの義の外套を着せてくださいました。

天のお父さん、私は本当に祝福されています。あなたにあって楽しみ、あなたにあって喜びます。なぜなら、あなたが私に救いの衣と、キリストの義の外套を着せてくださったからです。

私はその衣を作る必要はありませんでした。私はその外套を買う必要もありませんでした。

イエス様、あなたはご自身の血によってその衣を贖い取ってくださり、私に着せてくださいました。

ただ、「ありがとう」としか申し上げることができません。

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イザヤ書のデボーション

 輝け!

あなたは忘れているかもしれませんが、イザヤ書60章は、もちろん59章の続きです。😀

そして、59章では、この暗い世界の中における、キリストにある私たちの希望が描かれています。

最悪の時、私たちが自分自身を救うことができなかったとき、神様は私たちの救いのためにイエス様を送ってくださいました。

イザヤ書59〜60章では、神様は主にイスラエルの回復について語っておられますが、黙示録においてヨハネは、イザヤのことばを借りて、新しい天と地、特に新しいエルサレムについて語ります。

(イザヤ書60:3/黙示録21:24;イザヤ書60:11/黙示録21:25〜26;イザヤ書60:19〜20/黙示録21:4、23、黙示録22:5)

その新しい天と地こそが、私たちの希望です。

だから、エルサレムとユダヤ人たちに向けられた神のみことばは、私たちにも当てはめることができます。

起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。

主の栄光があなたの上に輝く。(イザヤ書60:1)

今朝、神様はそのことばを通して、私に語られました。

「この世の闇を見ても、絶望しないで。この世の悪や、周りの人々の絶望、壊れた人生を見ても、へこたれないで。

起きなさい。この世で輝きなさい。あなたの希望を表しなさい。そうすれば、人々は暗闇から、私の光の中へ入ってくる。」

天のお父さん、どうか私があなたの光を輝かせる者となりますように。

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ローマ人への手紙のデボーション

認められた、選ばれた

パウロの挨拶を読むとき、二つのことばが目に留まりました。

パウロはアペレという人について、「彼はキリストにあって認められている人だ」と言いました(10)。

また、ルフォスという人について、パウロは「彼は主にあって選ばれた人だ」と言いました(13)。

実は、パウロはすべてのクリスチャンについて、同じように言うことができたはずです。それなのに、どうして彼は特にこの二人に対して、そのようなことばを添えたのでしょうか。

私たちはその二人についてほとんど何も知りません。だから、これは私のただの意見ですが、もしかしたら、その二人にはパウロの励ましのことばが必要だったのかもしれません。

聖書において「認められる」ということばには、「試された」というニュアンスが含まれています。

ですから、もしかすると、当時アペレは試練のただ中にいたのかもしれません。迫害や苦しみを経験していた可能性もあります。だからこそ、彼は時に「どうして?」と問いかけていたのかもしれません。

でも、パウロは彼に言いました。「あなたは試練に直面し、苦しみました。でも、あなたとあなたの信仰は、火で精錬された金のようです。神様はあなたに『よくやった』と言われています」(第一ペテロ第1:7)。

そして、パウロはルフォスに言いました。「あなたはイエス様にあって選ばれました。キリストにあるあなたのアイデンティティを忘れないでください。」

しかし、パウロが前に言ったように、ルフォスは自分の良い行動や実績によって選ばれたわけではありませんでした。むしろ、神様の恵みと憐れみによって、彼は選ばれました(ローマ書9:11〜17)。

けれども、私はもう一度言います。パウロのことばは、その二人のためだけのものではありません。そのことばは、イエス様に属するすべての人のためのものです。

だから、あなたが試練に直面しているなら、神様を信頼し続け、あなたへの神の慈しみと愛を信じ続けましょう。そして、アペレのように、あなたは火で試練された金のように現れてきます(ヨブ記23:10)。

また、あなたのアイデンティティを忘れないでください。あなたは主にあって選ばれた者です。

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ローマ人への手紙のデボーション

誰のために生きているのでしょうか

今日の箇所を読んだとき、私はパウロの以前のことばを思い出しました。

ローマ書14章では、パウロはこう書いています。

私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。

私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。

ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。(ローマ人への手紙14:7ー9)

このことばを読んだとき、ローマ書11章36節から12章1節が思い浮かびました。

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。

それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

また、ローマ書14章15節では、パウロはこう書いています。

もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。

(そのことばの背景をもっと詳しく知りたい方は、この記事をぜひ読んでみてください。

そのことばを読んだとき、ローマ書第13章のパウロのことばが思い浮かびました。

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。。。

愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。(13:8,10)

たぶん、イエス様が私に尋ねておられるのは、「あなたは誰のために生きているのでしょうか」ということです。

「自分のためだけに生きているのでしょうか。あなたは自分勝手に生きているのでしょうか。それとも、私のために生きているのでしょうか。

特に、私があなたに与えた人々を愛しているのでしょうか。私は彼らのためにも死にました。あなたも彼らに愛を示しているのでしょうか。」

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ローマ人への手紙のデボーション

私があなたのものだから

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。

それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ人への手紙11:36ー12:1)

最近、このことばは、私の毎日の祈りの土台となっています。

天のお父さん、すべてのものは、あなたから発し、あなたによって成り、あなたに至るのです。

あなたはすべてのものを造られ、すべてのものは、あなたとあなたの目的のために造られました。

私も、あなたとあなたの目的のために造られました。

だから、私のからだをあなたに捧げます。

私の人生が、あなたへの礼拝となるように。

私のすべてのことば、思い、行動が、あなたに喜ばれる聖なるものとなるように。

それらが、あなたに対して芳ばしい香りとなるように。

生きたささげ物として、私のからだを捧げます。

あなたは、私が捧げることができるすべてのものにふさわしい方です。

私への、あなたの素晴らしい恵みとあわれみを感謝します。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ローマ人への手紙のデボーション

神の残りの者

それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません。。。

神は、前から知っていたご自分の民を退けられたのではありません。

それとも、聖書がエリヤの箇所で言っていることを、あなたがたは知らないのですか。エリヤはイスラエルを神に訴えています。

「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを狙っています。」

しかし、神が彼に告げられたことは何だったでしょうか。

「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」

ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。(ローマ人への手紙11:1ー5)

ローマ書9章から11章にかけて、パウロは福音に対するユダヤ人の頑なな心について語っています。そして、彼はこう問いかけます。「神様はユダヤ人たちを退けられたのでしょうか。」

パウロの答えは明快です。「違います。これまでも、そしてこれからも、恵みの選びによって神様に属する残りのユダヤ人がいます。」

私は日本のことを思います。日本にはクリスチャンが少なく、「神様は日本を退けられたのだろうか」と考えてしまうのは、簡単なことかもしれません。

でも、パウロなら、明快に「違います」と答えるでしょう。

もちろん、パウロが語ったユダヤ人に関するすべてのことばを、日本人にそのまま当てはめることはできません。

それでも、私は信じています。日本の各都市には、神様が永遠の昔から知っておられ、選ばれた残りの人々がいると。私たちが福音を伝えるなら、彼らは必ず救われるでしょう。(ローマ書10章13〜15節)

だから、日本にいる神様をまだ知らない人々の数を考えるとき、失望しないでください。

祈りましょう。そして、神様から与えられた人々に福音を伝えましょう。そうすれば、神様の恵みによって、その残りの人々を必ず見つけることができます。

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ローマ人への手紙のデボーション

心を歌わせる言葉

この箇所を読むとき、私には高校生の頃のある思い出がいつも思い浮かびます。

ある日、バス停から高校まで歩いていたとき、私はパウロのことばを思い巡らしていました。

その日、私の心は歌っていました。

そして今日も、私の心は歌っていました。たぶん高校生のときよりも、もっと深く歌っていたかもしれません。

なぜなら、私は罪に定められることは決してないからです。私は赦されました。私はもう、恐れる必要はありません。

私は神の子どもです。私のうちにおられる御霊は、「アバ、父」と叫んでおられます。

私には希望があります。

私の祈りがめちゃくちゃでも、御霊がとりなしてくださっています。

天の父が御霊の祈りを聞いてくださるので、すべてのことがともに働いて、私の益となります。

神様は、私に反対するのではなく、むしろ、私の味方です。

神様は、私をあらかじめ知っておられました。私は、イエス様のかたちと同じ姿にあらかじめ定められていました。

私は、召されました。

私は、義と認められました。

さらに、神様は私に栄光を与えてくださいました。

私は、責められることなく、義と認められました。私は、裁かれることなく、擁護されています。

そして、神の愛から私を引き離せるものは、何一つありません。

あなたの心は、すでに歌い始めているでしょうか。

パウロのことばを思い巡らしましょう。

そのことばに心を向けましょう。

あなたの心は、歌っているでしょうか。

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ローマ人への手紙のデボーション

あなたの者となるため

ですから、私の兄弟たちよ。あなたがたもキリストのからだを通して、律法に対して死んでいるのです。

それは、あなたがたがほかの方、すなわち死者の中からよみがえった方のものとなり、こうして私たちが神のために実を結ぶようになるためです。(ローマ人への手紙7:4)

イエス様、私はかつて、サタンの国の奴隷でした。でも、私はもはやサタンのものではありません。

私は、もはや自分自身のものですらありません。私は、ただ自分の罪深い心に従って生きているわけではありません。

私は、他の方のものです。私は、あなたのものです。私は、自分の幸せのためだけに生きているのではなく、あなたのために実を結ぶために生きているのです。私は、あなたのために生きているのです。

私への、あなたの素晴らしい愛を感謝します。私があなたと共に歩み、あなたのために実を結ぶことができますように。アーメン。

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ローマ人への手紙のデボーション

いのちの新しさ

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。

それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。(ローマ人への手紙6:4)

ある英語の訳が大好きです。その訳者たちは、「いのちの新しさ」という表現を使っています。私たちは、いのちの新しさを喜び、歩むべきです。

私は、罪と死の臭いが漂っている墓の中を歩きたくありません。私は、義といのちの新鮮な空気を吸いたいのです。

私は、腐敗している罪の埋葬布に包まれて歩きたくありません。私は、キリストの義の衣を着たいのです。

ちょっと想像してみてください。イエス様がラザロを復活させて、「出てきなさい」と言われたのに、ラザロがこう答えます。

「いや、けっこうです。この布に包まれて、墓の中を歩き回るのが好きなんです。」

ばかげた話でしょう。

私は、新鮮な空気を吸い、新しい衣を着て、自分自身を義の道具、義の武器として神様に捧げ、たくさんの人々を奴隷にしているサタンと戦いたいのです。

イザヤのように、私は神様の前に立ち、自分自身を捧げ、「ここに私がおります。私を遣わしてください」と言いたいです。

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ローマ人への手紙のデボーション

平和

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。(ローマ人への手紙5:1)

長い文書を読むとき、要点を見逃してしまうのは簡単なことです。しかし、パウロの要点を見逃さないでください。それは何でしょうか。

こうして、私たちは。。。神との平和を持っています。

そのことばを反芻しましょう。

「私は神との平和を持っています。

私はかつて神様の敵でした。でも、今、神様と和解させていただきました。神様との平和を持っているのです。

だから、試練が来るとき、神様は私を罪のために罰しているわけではありません。

神様との平和を持っています。私は神様の恵みに立っているのです。

さらに、毎日、神様は愛を私に注いでくださっています。」

だから、試練に直面するとき、絶望しないでください。

「神様は私を罰している」と考えないでください。

十字架で、イエス様はあなたの罰をすでに受けてくださいました。

あなたは、神との平和を持っているのです。

苦しみのとき、その真理にしがみつきましょう。

その真理こそ、私たちの希望です。

神様の、私たちへの忠実な愛こそ、私たちの希望です。

そして、その希望は失望に終わることがありません。

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ローマ人への手紙のデボーション

神の忠実さ、キリストの忠実さ

日曜日、私の教会で私はメッセージを語りました。そのメッセージの要点は、神への私たちの忠実さではなく、私たちへの神の忠実さによって、私たちが神様に近づくことができるということです。

今日の箇所では、パウロがその真理について語ります。まず、パウロはユダヤ人たちへの神の忠実さ、神の真実さについて語ります。

では、どうですか。彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか。

決してそんなことはありません。たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。(ローマ人への手紙3:3ー4)

でも、パウロによれば、ユダヤ人たちだけではなく、私たち皆が神様に対して不忠実な者たちです。(9ー18節)

それでも、神様は、私たちへのご自分の真実さ、忠実さを現されます。では、どのようにそうされたのでしょうか。

しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。

すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。(21ー22)

それは普通の訳ですけど、脚注によると、別訳もあります。それは、

すなわち、イエス・キリストの真実によって、信じるすべての人に与えられる神の義です。

イエス様を信じる私たち皆に対して、イエス様はご自身が真実な神、真実な救い主であることを現してくださいます。

私たちがイエス様に対して不真実だったにもかかわらず、イエス様は私たちを諦めませんでした。むしろ、イエス様は十字架にかかり、天の父の御怒りを私たちの代わりに受け、ご自身の血潮によって、私たちの罪の代価を支払ってくださいました。

私は、そのような忠実さが本当に不思議なことだと思います。イエス様の忠実さのおかげで、私は躓くときにも落ち込むことはありません。私がイエス様に対して真実でなくても、キリストは常に私に対して真実です(第二テモテ2:13)。

だから、私が躓くとき、イエス様は「あなたが私をがっかりさせた」とは言わず、「あなたの破れた誓いを新たにしなさい」とも言わず、むしろ、こう言われます。

「私のことを愛するかい?よし。私についてきなさい。」(ヨハネ21:15ー19)

天のお父さん、私へのあなたの素晴らしい忠実さを感謝します。

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ローマ人への手紙のデボーション

あなたがあがめられるように

彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。(ローマ人への手紙1:21)

天のお父さん、

上のことばが、私に関して言われることがありませんように。

私は、あなたによって造られ、あなたのために造られました。だから、私の人生によって、あなたがあがめられるように。

私のことばや思いや行動によって、あなたがあがめられるように。

私の人生全体が、あなたへの礼拝となるように。

また、毎日、私の心があなたへの感謝で溢れ、その感謝の心によって、私の考え方や生き方が変えられるように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヤコブの手紙のデボーション

一つの心

ですから、神に従い。。。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。(ヤコブの手紙4:7ー8)

天のお父さん、

「あなたに従う」とは、どういう意味でしょうか。

「あなたに従う」ことの一面は、私のすべての欲望をあなたに委ねることのようです。

私の欲望の主となってください。私の願いが、あなたの御心と一致するように。あなたが求めるものを、私も求めるように。あなたの優先順位が、私の優先順位になるように。

また、私があなたを、他のどんなものよりも求めるように。私の最高の願いが、あなたに近づくことであるように。

私は、二心の人になりたくありません。私の心を一つにしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヤコブの手紙のデボーション

完全な人

私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。(ヤコブの手紙3:2)

今朝、このことばは私の心を打ちました。「完全な人」の「人」と訳されたことばは、もちろん、男性も女性も指すことができますが、多くの場合、そのことばは特に男性たちを指します。

誤解しないでください。翻訳者たちは、おそらく2節を正しく訳したと思います。でも、男性として、ヤコブのことばは私の心に響きました。

自分があるべき完璧な男であることを妨げているものについて考えるとき、舌を指摘する男性は、あまりいないと思います。

私は、普通そのように考えません。

でも、ヤコブは、私たちの舌を指摘します。

私たちの舌は、私たちがあるべき夫であることを妨げます。

私たちの舌は、私たちがあるべき父であることを妨げます。

シングルの男性の舌は、自分があるべき彼氏であることを妨げます。

自分のことばによって、私たちの妻たち、子どもたち、彼女たちに、どれだけのダメージを与えるでしょうか。

男性たち、どのような男性になりたいですか。私は、イエス様のようになりたいです。私のことばが人々を燃やすのではなく、むしろ、彼らを癒すことを望みます。私のことばが、知恵にふさわしい柔和さで特徴づけられることを望みます。

イエス様、私が舌を制して、完全な男性になることができるようにしてください。イエス様、私があなたのようになることができるようにしてください。

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ヤコブの手紙のデボーション

成熟した、完全な者

私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。

あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。(ヤコブの手紙1:2ー4)

「成熟した、完全な者。」

今朝、このことばは私の心に響きました。

天の父は、私が何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者になることを望んでおられます。たぶん、すべてのお父さんたちは、自分の子どもたちのために、それを望んでいるでしょう。

私は、自分自身を成熟した、完全な人だと思いたいです。でも、つい先週、私は「このところでは、私はまだ成熟しなければならないなぁ」と考えました。

私は、何一つ欠けたところのないクリスチャンだとは、全然言えません。

性格に関しても、知恵に関しても、私にはたくさん欠けたところがあります。

だから、ヤコブの次のことばも、私の心に響きました。

あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。(5節)

正直に言うと、父として、私はもっと忍耐が必要です。娘の未熟さと不完全さを見ると、私はよくフラストレーションを感じます。でも、神様は私に対してそう感じておられません。

むしろ、弱く不完全なままで私が天の父のもとに来ると、天の父は惜しみなく、とがめることなく、私に必要なものを与えてくださいます。それは、本当に不思議なことだと思います。

天のお父さん、私は成熟した、完全な人になりたいです。あなたも、私のためにそれを望んでおられます。

私の欠けたところを、よくご存じです。私がそのところで成長することができるように、助けてください。

すべてにおいて、私はあなたのようになりたいのです。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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イザヤ書のデボーション

暗い世界にあっての希望

イザヤのことばを読んだとき、「この世界はあまり変わらないなぁ」と思いました。

今週のニュースを見たとき、私は、暴力や銃殺事件、そしてさまざまな不義を目にしました。

この世では、真理が広場でつまずき、人々は神の真理を拒み、自分の真理を作ろうとしています。

でも、それらは新しい問題ではありません。数千年前、イザヤもそのような問題について語っていました。だから、イザヤの感情がよく理解できます。

私たちは光を待ち望んでいたが、見よ、闇。 輝きを待ち望んでいたが、歩くのは暗闇の中。(イザヤ書59:9)

でも、15ー16節にあるイザヤのことばが大好きです。

主はこれを見て、 公正がないことに心を痛められた。主は人がいないのを見て、 とりなす者がいないことに啞然とされた。

それで、ご自分の御腕で救いをもたらし、 ご自分の義を支えとされた。(15ー16節)

もちろん、イザヤはイエス様について語っています。

私たちの罪は、私たちと神様との仕切りとなりましたが、十字架でイエス様は私たちの罪の代価を支払い、救いをもたらしてくださいました。

しかし、それだけではなく、ある日、イエス様はこの世に戻られ、正義をもたらし、この世を癒してくださいます。(17ー20節)

それが、私たちの希望です。だから、この暗い世界に直面するとき、神のすべての武具を取りましょう。

私たちの思いと心を、失望やサタンの他の攻撃から守るために、救いのかぶとをかぶり、正義の胸当てを着けましょう。

また、平和の福音の備えをはき、希望のない人々に、私たちの救いの希望を伝えましょう。

イザヤのことばを借りれば、

良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。

平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」と シオンに言う人の足は。(イザヤ52:7)

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あなたのような父になるように

いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、 その名が聖である方が、こう仰せられる。+

「わたしは、高く聖なる所に住み、 砕かれた人、へりくだった人とともに住む。 へりくだった人たちの霊を生かし、 砕かれた人たちの心を生かすためである。

わたしは、永遠に争うことはなく、 いつまでも怒ってはいない。わたしから出た霊が衰え果てるからだ。わたしが造ったいのちの息が。」(イザヤ書57:15ー16)

天のお父さん、あなたが、私から遠く離れておられる神ではなく、私を気にかけていない神ではなく、むしろ、私のそばにおられ、情け深い神であることを感謝します。

あなたが、いつも私に怒っている父ではなく、私をいつも責めている父ではなく、むしろ、私の弱さを見て、憐れんでくださる父であることを感謝します。

私が、自分の娘にとって、そのような父になることができるようにしてください。

私の娘が、私を見るとき、あなたがどのような父であるかが、わかるようにしてください。

私は、あなたのようになりたいです。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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石を巧みに投げる

最近、教会でダビデとゴリアテについてのメッセージを聞きました。

牧師の一つのポイントは、すべての国が、イスラエルが従っている神を知るように、ダビデは石を投げたということです。(第一サムエル17:40、46)

そして、巧みに投げられた石は、神様が望まれた目的を成し遂げました。その石によって、ゴリアテは倒されただけではなく、イスラエル人たちも、周りの国の人々も、主が神であることを知るようになりました。

今日の箇所を読んだとき、そのメッセージを思い出しました。私が巧みに投げたい石は、神の御ことばです。特に、福音です。

私は、周りの人々に、満足を与えられないものではなく、心の穴を満たすことのできる神を求めるように促したいのです。

彼らに、自分の人生を滅ぼしている罪から悔い改めるように促したいのです。

また、彼らには遅すぎるわけではないという良い知らせを伝えたいのです。なぜなら、神様は、悔い改める者を豊かに赦してくださるからです。

そして、神様が約束しておられるのは、ダビデの石のように、神のことばがご自分のもとに空しく帰ることはなく、神様が望まれることを成し遂げるということです。

天のお父さん、私の周りの人々があなたを知り、また、永遠のいのちを知るために、私があなたのことばをよく知り、巧みに用いることができるようにしてください。

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なぜ、あなたは私をそんなにも愛してくださるのですか

イエス様、あなたはこの世に来られたとき、私たち人間のようになられました。あなたは、美男子ではなく、私たちが慕うような見栄えもありませんでした。

あなたは、人々から退けられることも、病をも経験されました。

そして、あなたは刺されました。あなたは砕かれました。十字架にかけられるまでに、あなたの姿は人とは思えないほどに、打たれました。(イザヤ52:14)

そのすべては、私のためでした。私の背きのために、あなたは刺され、打たれました。私の咎のために、あなたは砕かれました。

私が天の父と平和を持つことができる理由は、あなたが私のために罰せられたからです。そして、あなたの打ち傷のゆえに、私の罪によって壊れた人生は癒されました。

私は、さまよった羊のようでした。私は、自分勝手な道に向かって行ったのです。でも、良い羊飼いのように、あなたは私を探し求めてくださいました。

私は、神様に罰せられて当然でしたが、あなたは、私の罰を受け取ってくださいました。

あなたに十字架を強いた者は、誰もいませんでした。あなたは、自ら望んで、自分のいのちを死に明け渡されました。あなたは、私の罪を負ってくださいました。そして、今なお、あなたは私のために、とりなしをしてくださっています。

「父よ、彼をお赦しください。彼は、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

イエス様、あなたが十字架で私の罪を負ってくださったおかげで、私は天の父の御前に立ち、義と認められます。

あなたは、苦しみと死を経験されましたが、よみがえられました。そして、あなたの死によって救われた私たちを見るとき、あなたは満足しておられます。

あなたの恵みに、畏敬の念を抱いています。どうして、あなたは私をそんなにも愛してくださっているのでしょうか。

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イザヤ書のデボーション

私の祈り

わたしの民よ、わたしに心を留めよ。 わたしの国民よ、わたしに耳を傾けよ。 おしえはわたしのもとから出て。。。

義を知る者たちよ、わたしに聞け。 心にわたしのおしえを持つ民よ。。。」(イザヤ書51:4、7)

天のお父さん、

私の心を、あなたに導いてください。私の目が覚めるように。祈るとき、私があなたに耳を傾け、あなたの声を聞こうとする態度を持つことができるようにしてください。

あなたから出る教えを、聞きたいのです。私の心に、あなたの教えを宿すことができるようにしてください。

祈るとき、私が口先だけで「あなたのみこころが行われますように」と言うことがないようにしてください。むしろ、聖書の中であなたが何を語られたかを、思い出させてください。

あなたのことばによって、私はあなたのこころを本当に知ることができ、そのこころに従って祈ることができるようになるからです。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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イエス様の心

こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい。。。さあ、朝の食事をしなさい。」

。。。イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。(ヨハネの福音書21:9ー10,12ー13)

いろんな意味で、私はヨハネ21章が大好きです。なぜなら、私たちはイエス様の心を見ることができるからです。

もちろん、ペテロに対するイエス様の愛を見ることができますが、今日、上のことばを読んだとき、私はこう考えました。

「どうして、イエス様は弟子たちのために、わざわざ朝ごはんを作られたのだろうか。イエス様は、彼らのために大きな奇跡を行われたばかりなのに。」

その答えは、はっきりしていると思います。イエス様には、「私の弟子たちは、とても疲れて、お腹が空いているだろう。何か作ってあげよう」という思いが浮かばれたからです。

そのパンと魚は、どこから来たのでしょうか。イエス様が奇跡的にそれらを作られたわけではないと思います。(もちろん、イエス様はそのような力を持っておられましたが。)

たぶん、前日にその近くの村でパンを買われて、その日の朝、他の漁師たちから魚を買われたのではないでしょうか。

とにかく、イエス様は弟子たちのことを思っておられ、祝福したいと願われました。イエス様は、大きな奇跡を行われたわけではありません。むしろ、思いやりをもって、彼らを祝福されたのです。

私は、イエス様の心を持ち、その模範に従いたいです。

私の愛する人たちのニーズに、もっと気づけるようになりたいです。それは、大きなニーズだけではなく(たとえば、ペテロの弟子としての自信を建て直すこと)、小さなことにも気づけるようになりたいのです。そして、できる限り、私は彼らを祝福したいのです。

イエス様、そのような心を私に与えてください。

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平安

イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネの福音書19:19)

今日の箇所を読んだとき、弟子たちがその日曜日に何を感じていたかを考えました。不安。恐れ。混乱。でも、イエス様は来られて、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われました。(19)

その後、イエス様はトマスに、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。(27)

そのことばを読んで、私は、イエス様が死ぬ前に弟子たちに語られたことばを思い出しました。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネ14:1)

今週、私はあることを気にかけています。正直に言うと、そのことをくよくよするのは、簡単なことです。そのことを心配するのは、簡単なことなのです。

それでも、イエス様は私のところに来られて、「平安があなたにあるように。私はあなたと共にいる。私を信頼しなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われます。

イエス様、私のトラブルの中で、あなたは私の主、私の神、平和の君、インマヌエルです。私がそれを忘れず、あなたに信頼することができるように助けてください。

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主の杯を受け入れる

イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」(ヨハネの福音書18:11)

時々、試練に直面し、私たちは祈りますが、神様はその試練を取り除かれないことがあります。その試練は、神様が私たちに与えられた杯なのです。

イエス様も、それを経験されました。(ルカ22:42〜43)

パウロも、それを経験しました。(第二コリント12:8〜9)

そして、その杯を前にして、私たちには選択肢があります。私たちは、苦々しい思いを抱いて、その杯と戦うこともできます。

あるいは、次のような態度を選ぶこともできます。「あなたの恵みは、私に十分です。あなたが私と共におられるので、私は満足しています。」

前者の道は、惨めな人生や死に至ります。でも、後者の道は、喜びに至り、そして最終的に復活に至ります。

だから今日、私が自問自答するのは、「神様の恵みは、私に十分だと思っているだろうか。『神様が私と共におられるので、私は満足しています』と告白できるだろうか」ということです。

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イエス様の忍耐

あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。(ヨハネの福音書16:12ー13)

上のことばを読んで、私はこう考えました。「どれだけイエス様は、私に同じことを語っておられるのだろうか。イエス様は、私に語りたいことがたくさんあるけれど、私はそのことばに耐えることができません。なぜなら、私の心はまだ整えられていないからです。

でも、イエス様は私を叱られることはありません。むしろ、イエス様は忍耐をもって待っていてくださいます。そして、イエス様の時に、御霊が私に必要なことを語ってくださいます。」

イエス様、あなたは私の心をよく知っておられます。私が何を聞くに耐えられるか、耐えられないかを、よくご存じです。

私に対するあなたの忍耐と柔和さを感謝します。あなたのことばを聞くために、私の心を整え続けてください。私があなたに対して、柔らかい心を保つことができるように助けてください。

聖霊様、私は自分の心をあなたに開きます。あなたの時に、私をすべての真理へと導いてください。その真理が、私には受け入れがたいものであったとしても、その真理へと導いてください。

そして、イエス様、私へのあなたの忍耐と柔和さを、私も周りの人々に示すことができるように助けてください。

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イエス様を知る

イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。(ヨハネの福音書14:9)

イエス様のことばを読んだとき、私はこう考えました。「イエス様は、時々私に同じ質問をされるのだろうか。」

「こんなに長い間、あなたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。」

もちろん、私が初めてクリスチャンになった時よりも、私はイエス様を知っています。去年よりも、私はイエス様を知っていると思いたいです。

でも、私はあとどれだけイエス様について知らなくてはならないのでしょうか。それは、一生続くプロセスでしょう。

使徒パウロは、長い間クリスチャンでしたが、「キリストを知りたい」と言いました。(ピリピ3:10)

パウロはイエス様をよく知っていましたが、イエス様をもっと知る必要があると認めていました。

正直に言うと、私もそうしなければなりません。

イエス様、あなたをもっと知りたいです。あなたを、本当に知りたいのです。私は、頭ではあなたについてたくさんのことを知っています。でも、そのすべての知識が、私の心に入ってくるように祈ります。

あなたに、もっと信頼したいです。あなたの働きに参加したいです。あなたが行われるわざを行い、さらに大きなわざを行いたいです。

正直に言うと、私はその概念を把握できていません。

あなたは、あなたを愛する人たちに、ご自身を現すと約束してくださいました。(21)

だから、私は願っています。あなたが、毎日ご自身を私に、もっともっと現してください。あなたを、本当に知りたいですから。アーメン。

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すでにきよい

イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのです。。。」(ヨハネの福音書13:10)

たくさんのクリスチャンたちは、自分の罪によって、自責の念に苦しみます。彼らは、いつも自分の罪と失敗をくよくよします。

あなたも、よくそうすることがあるでしょうか。

もし、イエス様と、あなたのための十字架のみわざを信じるなら、イエス様のことばは、あなたのためのものです。

「あなたは、きよいです。」

そのことばが、あなたの心に響きますように。

「あなたは、きよいのです。」

そのことばによって、神様と私の関係は、完全に変わりました。

もちろん、この世を歩むと、罪によって、私の霊的な足は汚れてしまいます。

でも、イエス様が私を受け入れてくださっているという確信を持っています。

私がイエス様のもとに来ると、イエス様が恵みによって私の足を洗い、私がもう一度完全に清くなるという確信を持っています。

私は、その確信を持って、イエス様と毎日歩んでいます。そういうわけで、私の罪と失敗にもかかわらず、私はクリスチャンとして、喜びを持って歩んでいます。

あなたは、どうでしょうか。その確信と喜びをもって、イエス様と歩んでいますか。

イエス様のことばに思いを巡らしましょう。あなたの心の中で、そのことばを繰り返して言いましょう。

そのことばが、あなたの心に刻み込まれますように。

「あなたは、きよいです。」

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もうダメ?

マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。(ヨハネの福音書11:21)

マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(32節)

今まで、マリアとマルタの言葉を読んだとき、彼女たちがイエス様を責めているのだと思っていました。「何でもっと早く来てくださらなかったのですか。もっと早く来てくださっていたら、私の兄は死ななかったでしょうに。」

しかし今、私は彼女たちが本当にイエス様を責めていたのかどうか、少し疑問を感じています。

なぜなら、イエス様が着かれたとき、ラザロはすでに墓に葬られていて、四日が経っていたからです。つまり、イエス様がすぐに来られたとしても、ラザロはすでに二日間亡くなっていたということになります。

だから、たぶん、彼女たちが言いたかったのは、「イエス様のせいではないけれど、兄が病気になったとき、あなたがそんなに遠くにおられなかったらと思います。もしここにいてくださったなら、私の兄は死ななかったでしょうに」ということだったのかもしれません。

でも、はっきりしているのは、イエス様が着かれたとき、マリアとマルタには、イエス様がラザロを復活させることができるという考えがまったく思い浮かばなかったということです。イエス様にラザロを復活させていただきたいと願うという考えも、まったく思い浮かびませんでした。

マルタは「あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています」と言いましたが、24節と39節にあるマルタの言葉を見ると、彼女がイエス様にその日にラザロを復活させていただけるとは考えていなかったことが、はっきりと分かります。

それを読んで、私はこう考えました。「もうダメだ。祈り続けるのはもう無駄だ」と思うときがあるでしょうか。

「イエス様がこの死んだものを復活させることはできない。私の状況には、もう復活の希望がない」と思うときがあるでしょうか。

私は、イエス様がそんなに小さなお方だと思ってしまうでしょうか。

イエス様が、私の願いや思いをはるかに超えて行うことができると信じているでしょうか。それとも、イエス様にできることについての私の概念は、まだ小さすぎるのでしょうか。

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私は信じる

イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」

その人は答えた。「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」

イエスは彼に言われた。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」

彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。」(ヨハネの福音書9:35ー38)

天のお父さん、私が、かつて目の見えなかった人のような心を持つことができますように。あなたに開かれた心を持つことができますように。周りの人々が何を言おうとも、あなたをすぐに信じ、信頼し、礼拝し、従う心を持つことができますように。

パリサイ人たちの態度は、まったく違っていました。彼らはわざと目を閉じ、明らかなことを信じることを拒み、あなたを信じることを拒みました。

私は、パリサイ人たちのようにはなりたくありません。

だから今日、あの、かつて目の見えなかった人とともに、私はあなたのもとに来て、礼拝し、子どものような心を持ち、「主よ、信じます」と言います。

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弟子のしるし

イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。(ヨハネの福音書8:31)

その言葉を読んだとき、イエス様は私の心に語りかけられました。

弟子のしるしの一つは、もちろん愛です。(ヨハネ13:34〜35)

しかし、イエス様によれば、もう一つの弟子のしるしは、私たちがただイエス様を信じることだけではなく、そのことばにとどまることです。つまり、私たちはいつもそのことばに心を開き、受け入れ、従うということです。

37節では、イエス様はユダヤ人たちにこう言われました。

わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。

ある英訳には、こう書かれています。

私のことばは、あなたのうちで前進していません。

口語訳も非常に興味深い表現をしています。

わたしの言葉が、あなたがたのうちに根をおろしていないからである。

それを読んだとき、神様が私たちにこう問いかけておられるように感じました。「あなたは、私のことばに心を開いているでしょうか。私のことばは、あなたのうちで前進しているでしょうか。」

私たちが神のことばに心を開くと、そのことばによって私たちは変えられます。私たちの考え方も、私たちの行いも変えられます。私たちはイエス様のように考え、生き始めます。神の子どもたちのように考え、生き始めます。

そして、イエス様によれば、私たちが神のことばにとどまり、心を開き、そのことばを信じ、受け入れ、従うなら、その真理は私たちを自由にします。(32節)

あなたはどうでしょうか。あなたは神のことばに心を開いているでしょうか。そのことばは、あなたのうちで前進しているでしょうか。

天のお父さん、あなたのことばは、私のうちでどこまで前進しているでしょうか。時々、私は「どうかなぁ」と思います。

私が、あなたのことばに開かれた心を持つことができますように。

教会のメッセージを聞くとき、聖書を読むとき、兄弟姉妹があなたのことばを分かち合うとき、そのことばが厳しくても、そのことばを聞きたくなくても、私がそのことばを聞き、受け入れ、従うことができますように助けてください。

なぜなら、私はあなたが良い方であることを信じているからです。また、あなたのことばによって、私が自由と喜びを知ることができると信じているからです。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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イエス様が私たちに与えたいもの

イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」。。。

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:26,35)

どうして、私たちはイエス様を求めるのでしょうか。どうしてイエス様のもとに行くのでしょうか。それは、私たちが単にイエス様から何かを求めているからでしょうか。それとも、私たちはイエス様に出会いたいのでしょうか。イエス様をもっと知りたいのでしょうか。

もちろん、イエス様は私たちのニーズに備えたいと願っておられます。でも、イエス様は他のどんなものよりも、ご自身を私たちに与えたいと願っておられます。なぜなら、イエス様こそが私たちの魂の飢えと乾きを満たすことができる方だからです。

良い知らせは、私たちがイエス様のドアを叩けば、イエス様はいつもそのドアを開けてくださるということです。そして、イエス様はこう言われます。

わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。(37)

イエス様、今日、私はあなたのもとに来ます。私は、あなたから何かを求めているわけではありません。私が欲しいのは、あなただけなのです。

あなたをもっと知りたいのです。あなたがいつも私にドアを開けてくださることに感謝します。

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キリストの労苦の中に入る

わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。。。

わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。

ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです(直訳:ほかの者たちが苦労し、あなたは彼らの労苦の中に入りました)。(ヨハネの福音書4:34、38)

「彼らの労苦の中に入りました。」

神様は私の心をその言葉で打たれました。

サマリアの女の人の証しによって、たくさんのサマリア人たちがイエス様を求めに来て、弟子たちはその女の人の労苦の中に入りました。

彼らはイエス様の労苦の中に入ったとも言えます。イエス様が彼女に語りかけ、その言葉によって彼女は心を動かされ、町の人たちにイエス様のことを伝えました。

その箇所を読んで、神様はこの思いを私の心に与えられました。

「私は、あなたと私の民すべてがイエスの労苦の中に入ることを望んでいます。イエスは十字架でその労苦を始められました。他のクリスチャンたちは何百年にもわたってその労苦の中に入りました。あなたがたもその労苦の中に入ることを望んでいます。

だから、目を上げなさい。罪によって死にかけている人々に目をつぶってはいけません。彼らには私が必要です。

彼らを無視してはなりません。むしろ、彼らに手を伸ばし、私の愛によって彼らに触れなさい。」

だから、今日このように祈りました。

天のお父さん、今日だけではなく、毎日、私があなたの労苦の中に入るように。

イエス様は私の周りの人々のために死なれました。だから、私を用いてください。

私が彼らにあなたの愛によって触れるように。私があなたのみこころを行い、あなたのわざを成し遂げるように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン

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奇跡を求めるとき

母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」(ヨハネの福音書2:5)

あなたは今年、奇跡を求めているかもしれません。それは、身体の癒しかもしれません。それは、人間関係の癒しかもしれません。あなたは新しい仕事を探しているかもしれません。あなたは果てしのない問題の解決策を求めているかもしれません。

しかし、その奇跡を求めて神様のもとに来るとき、マリアの態度を取りましょう。

「神様、私の問題を解決してください」と繰り返して祈るだけではなく、むしろイエス様に、「あなたは私に何をしてほしいのか。あなたが言われることは、私はします」と祈りましょう。

神様はそのような心を求めておられます。

神様は、神様をジーニーのように見る心ではなく、神様を操ろうとする心ではなく、むしろ神様に完全に従う心を求めておられるのです。

そして、私たちが神様に従うときに分かるようになるのは、最大の奇跡とは神様が私たちの状況にもたらす変化ではなく、神様が私たち自身の心にもたらす変化であるということです。

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私たちの主の模範に倣う

神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まして、私が弟子として聞くようにされる。

神である主は私の耳を開いてくださった。私は逆らわず、うしろに退きもせず。。。(イザヤ書50:4-5)

いろんな意味で、イエス様は4〜7節にある言葉を成就されました。(マルコ1:35〜38;ルカ9:51;ヨハネ12:23〜33;マタイ26:67;ヨハネ19:1〜3)

けれども、4〜5節にあるイエス様の模範に、私は特に倣いたいのです。今年だけでなく、残りの人生においても倣い続けたいのです。

疲れた者を言葉で励ますために、キリストの弟子の舌を持ちたいです。

しかし、弟子の舌を持つためには、キリストの弟子の耳が必要です。毎朝、私はイエス様に時間をささげ、私への主の言葉を聞かなければなりません。

それだけではなく、キリストの弟子の心が必要です。私は毎日毎日、一瞬一瞬、イエス様を私の主として従わなくてはなりません。

天のお父さん、私にキリストの弟子の耳をお与えください。私へのあなたの言葉を聞きたいのです。

また、私が疲れた者にあなたの命の言葉を与えるために、キリストの弟子の舌をお与えください。

そして、キリストの弟子の心をお与えください。私が毎日毎日、一瞬一瞬、イエス様を私の主として従うように。

イエス様、私はあなたのようになりたいです。アーメン。

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マラキ書のデボーション

心を導いて主に従う

今年、私の教会では、自分の心に単に従ってはいけないということを学んでいます。なぜなら、私たちの心が間違った道に私たちを導いてしまうことがあるからです。

だから、心に従うのではなく、むしろ神様に従うように、私たちは自分の心を導くべきです。

そのような態度を取ることはとても大切です。なぜなら、この壊れた世界では、私たちの考え方がひねくれてしまうのは簡単なことだからです。

ユダヤ人たちもそのようになりました。彼らはバビロンの追放から戻ってきて、神殿もエルサレムの城壁も再建されましたが、なお多くの問題に直面しました。

そのため、彼らは神の愛と神の正義を疑い(マラキ書1:2;2:17)、神様に仕える価値を疑いました(3:14)。

その態度は、彼らの神様への接し方に表れています。つまり、彼らは神様を侮ったり(1:6〜8)、神様のものを盗んだりしました(3:14)。

さらに、その態度は、ユダヤ人たちが自分の妻への接し方(2:14〜16)、また互いへの接し方にも表れています(3:5)。

しかし、すべてのユダヤ人がそのような態度を取っていたわけではありません。自分の状況にかかわらず、周りの人々の態度にかかわらず、彼らは自分の心を導いて、主に従い続けました。

神様が自分を愛しておられることを信じることを選びました。神様がいつかこの世に正義をもたらすと信じることを選びました。だから、彼らは神様に忠実に仕え続けました。

その結果は?

主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で記憶の書が記された。

「彼らは、わたしのものとなる。──万軍の主は言われる──わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。」(マラキ書3:16-17)

この世の問題や、自分の問題を見るとき、自分の考え方はひねくれてしまっているでしょうか。

自分の心を導き、神様を信頼し、従うことを選ぶでしょうか。

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マラキ書のデボーション

私たちの大祭司の模範に倣う

イエス様、あなたは私たちの完全な大祭司です。あなたは天の父を恐れ、その御名の前におののかれました。あなたの口には真理のみおしえがあり、あなたの唇には不正がありませんでした。

あなたは平和と公平のうちに天の父とともに歩み、多くの者を不義から立ち返らせました。あなたの唇は知識を守り、人々はあなたの口からみおしえを求めました。

しかし、あなたは今、すべてのクリスチャンをあなたの祭司とされました。あなたは私さえも祭司とされました。私たちを王国とし、あなたの父である神のために祭司としてくださいました。(黙示録1:6)

だから、毎日、私があなたに追随するように。私が天の父を恐れ、その御名の前におののくように。私の口に真理のみおしえがあり、私の唇に不正がないように。

私が毎日毎日、一瞬一瞬、平和と公平のうちに天の父と共に歩み、多くの人々を不義から立ち返らせるように。私の唇が知識を守り、人々が私の口からみおしえを求めるように。

天のお父さん、私にはその務めを果たす資格がないと感じています。私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいます。

けれども、あなたの恵みによって、あなたは私の唇に触れ、私の不義を取り去り、私の罪も贖ってくださいました。(イザヤ書6:5〜6)

だから、私はあなたのみ前に立ち、こう言います。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ書6:8)

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テトスへの手紙のデボーション

神様の愛といつくしみに応えて

しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。(テトスへの手紙3:4-5)

「人に対する愛。」

この言葉が私の目に留まりました。

なぜなら、3章でパウロはこのようなことも語っているからです。

あなたは人々に注意を与えて、その人々が。。。すべての良いわざを進んでする者となるようにしなさい。(3:1)

神を信じるようになった人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであり、人々に有益です。(8)

私たちの仲間も、実を結ばない者にならないように、差し迫った必要に備えて、良いわざに励むように教えられなければなりません。(14)

なぜ私たちはそうするべきなのでしょうか。

なぜなら、神様はまず私たちに愛といつくしみを与えてくださったからです。

だから、神様が言葉だけではなく、行為でも私たちを愛しておられるように、私たちも周りの人々を行為で愛するべきです。

今日、神様は私に尋ねられました。「私と同じように、周りの人を愛していますか。」

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テトスへの手紙のデボーション

真の礼拝

キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。(テトスへの手紙2:14)

最近、私はこの疑問について考えています。人々が「ワーシップするのが好きです」と言うとき、それは何を意味しているのでしょうか。また、私自身は何を意味しているのでしょうか。

多くの人々がそう言うとき、「賛美するとき、私は本当に嬉しいです。神様の愛を感じるから。神様が私とともにおられることを感じるから」という意味で使っています。

実は、アメリカ人として、「ワーシップ」という言葉を聞くとき、賛美を思い浮かべるので、そのような人々に共感できます。

しかし、日本では、聖書の翻訳者たちは「ワーシップ」ではなく「礼拝」という言葉を用いています。

「礼拝」とは何でしょうか。それはただ賛美することなのでしょうか。礼拝は、神様に愛の歌を歌うことだけなのでしょうか。礼拝は、教会での日曜日の集まりだけなのでしょうか。

それは違います。

礼拝、すなわち真のワーシップとは、イエス様がその素晴らしいあわれみのゆえに十字架にかけられたことを認めることです。

さらに、真のワーシップとは、イエス様がなぜそのようにしてくださったのかを理解することです。 それは、私たちをご自分のものとし、罪から清め、良いわざに熱心な民とするためです。

私たちはイエス様のものとなりました。私たちはイエス様に属する者です。

ですから、礼拝—ワーシップとは—ただ神様に愛の歌を歌うことではありません。

ワーシップとは、「私の人生はすべてあなたのものです。私の時間も、お金も、すべてのものをあなたにささげます」と告白する生活を送ることです。

ローマ書11章から12章にかけて、パウロはこのことについて語りました。

彼は歌を歌いましたが、その歌は単なる神への愛唱ではありませんでした。むしろ、パウロはこう歌いました。

「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。」(ローマ11:36)

そして、パウロは真のワーシップを定義します。

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。

それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ12:1)

あなたはどうでしょうか。「ワーシップが大好き」と言うとき、あなたはパウロのワーシップの定義を用いているでしょうか。

天のお父さん、私が本当にワーシップを愛するように。私が何も隠さず、喜んで私のすべてをあなたに捧げるように。

あなたをそのようにワーシップするのは、ふさわしいことです。なぜなら、あなたは私を造り、あなたのみこころゆえに、私は存在し、また造られたのですから(黙示録4:11)。

すべてのものがあなたから発し、あなたによって成り、あなたに至るのです。だから、私の歌の中だけではなく、私の人生の全体において、あなたに栄光がありますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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クリスマスの12日

クリスマス12日目

彼女はさらに身ごもって男の子を産み、「今度は、私は主をほめたたえます」と言った。

それゆえ、彼女はその子をユダと名づけた。その後、彼女は子を産まなくなった。(創世記29:35)

ヘブライ語では、「ユダ」は「ほめたたえる」を意味する言葉に聞こえます。

ユダはヤコブの四男でしたが、イエス様はユダの系図に属しておられるので、ユダの話でこのシリーズを終えるのがふさわしいと思いました。

ユダが生まれたあと、レアはしばらくの間、自分の苦しみから目を離し、ヤコブの愛で心の穴を埋めようとするのをやめました。むしろ、レアは神様に向かって賛美しました。

今年、レアの模範に従いましょう。ただ一日だけでもなく、一週間だけでもなく、一ヶ月だけでもなく、むしろ、毎日、毎朝、自分の心を導き、自分の問題や苦しみから目を離し、イエス様を仰ぎ、こう言いましょう。

「今日、今日、私は主をほめたたえることを選びます。」

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クリスマスの12日

クリスマス11日目

彼らはベテルから旅立った。エフラテに着くまでまだかなりの道のりがあるところで、ラケルは出産したが、難産であった。

彼女が大変な難産で苦しんでいたとき、助産婦は彼女に、「恐れることはありません。今度も男のお子さんです」と告げた。

彼女が死に臨み、たましいが離れ去ろうとしたとき、その子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。(創世記35:16-18)

ベン・オニとは、「私の悲しみの子」という意味です。

その反面、ベニヤミンとは、「右手の子」という意味です。

どちらの名前も、イエス様に当てはめることができます。

預言者イザヤは、イエス様についてこう語りました。

彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。(イザヤ53:3)

でも、十字架の後、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。(エペソ1:20-21)

「悲しみの子」であり、「神の右手の子」であるイエス様をほめたたえましょう。

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クリスマスの12日

クリスマス10日目

神はラケルに心を留められた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。

彼女は身ごもって男の子を産み、「神は私の汚名を取り去ってくださった」と言った。

彼女は、その子をヨセフと名づけ、「主が男の子をもう一人、私に加えてくださるように」と言った。(創世記30:22-24)

ヘブライ語では、ヨセフは「取り去られた」を意味する言葉に聞こえますが、「加える」ことを意味します。

神様がラケルに息子を与え、彼女の汚名を取り去られたように、イエス様の十字架の働きによって、神様は罪による私たちの汚名を取り去ってくださいました。

さらに、イエス様のおかげで、神様は毎日、私たちに恵みの上にさらに恵みを与えてくださいます。

背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました。

私たちのすべての背きを赦し、私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。(コロサイ2:13-14)


私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。(ヨハネ1:16)

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クリスマスの12日

クリスマス9日目

レアはまた身ごもって、ヤコブに六番目の男の子を産んだ。

レアは言った。「神は私に良い賜物を下さった。今度こそ夫は私を尊ぶでしょう。彼に六人の子を産んだのですから。」

そしてその子をゼブルンと名づけた。(創世記30:19-20)

ヘブライ語では、ゼブルンは「尊ぶ」を意味する言葉に聞こえます。

私たちは何をしても、望んでいる人から名誉を受けることはないかもしれません。レアがヤコブに6人の子を産んだにもかかわらず、聖書にはヤコブがラケルを尊んだように、レアを尊んだという示唆は見られません。

しかし、神様はイエス様を信じる私たちに、栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。それは私たちの行いによるのではなく、イエス様が私たちのためにしてくださったことによるのです。

「あなたは、人を御使いよりわずかの間低いものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、 万物を彼の足の下に置かれました。」。。。

それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。

ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。

イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。(へブル2:7-10)


ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(第二コリント9:15)

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クリスマスの12日

クリスマス8日目

神はレアの願いを聞かれたので、彼女は身ごもって、ヤコブに五番目の男の子を産んだ。

そこでレアは、「私が女奴隷を夫に与えたので、神は私に報酬を下さった」と言って、その子をイッサカルと名づけた。(創世記30:17-18)

ヘブライ語では、「イッサカル」は「報酬」を意味する言葉に聞こえます。

レアが女奴隷をヤコブに与えたことによって、神様が本当にレアに報酬を与えられたのかは、疑わしいところです。

しかし、それは罪の問題です。罪は、私たちに良いものを与えていると主張し、私たちを欺こうとします。罪は、「神様があなたに報酬を与えてくださっている」とさえ主張することがあります。

それよりも、イエス様にある神の無償の賜物を受け取る方が、はるかに良いのではないでしょうか。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)

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クリスマスの12日

クリスマスの7日目

レアの女奴隷ジルパはヤコブに二番目の男の子を産んだ。

レアは、「なんと幸せなことでしょう。女たちは私を幸せ者と言うでしょう」と言って、その子をアシェルと名づけた。(創世記30:12-13)

アシェルとは、「幸せ」という意味です。

レアは心の穴を埋めるために、女奴隷であるジルパをヤコブに差し出し、ヤコブはジルパと関係を持ちました。そうすることで、レアは幸せを感じました。しかし、その幸せはすぐに消えてしまいました。

創世記30章20節では、レアはなおもヤコブの愛によって心の穴を埋めようとしています。

けれども、何百年も後、アシェルの子孫であるアンナは、本当の幸せがどこから来るのかを知りました。

ルカの福音書2章36〜38節には、アンナの物語が記されています。アンナは若い頃に結婚しましたが、7年後に夫を亡くしました。その後の人生、彼女は昼も夜も神を慕い求め続けました。

そしてある日、アンナはイエス様を見て、その心の穴が埋められました。

ちょうどそのとき(アンナ)も近寄って来て、神に感謝をささげ、エルサレムの購いを待ち望んでいたすべての人に、この幼子ことを語った。(ルカ2:38)

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クリスマスの12日

クリスマスの6日目

レアは自分が子を産まなくなったのを見て、彼女の女奴隷ジルパをヤコブに妻として与えた。

レアの女奴隷ジルパはヤコブに男の子を産んだ。

レアは「幸運が来た」と言って、その子をガドと名づけた。(創世記30:9-11)

ガドとは、「幸運」という意味です。

子どもはもちろん、神様からの祝福です。

しかし、レアはその「幸運」のために代償を払わなくてはなりませんでした。彼女がヤコブにもう一人の女性を提供したことで、ヤコブは4人の妻と関係を持つことになりました。

それは本当に幸せなことでしょうか。それは本当に幸運と言えるでしょうか。

私たちがそのような「幸運」を求めることがありませんように。むしろ、キリストにある祝福を求めましょう。

その祝福の中で、最も嬉しいことをご存じでしょうか。

それは、イエス様が十字架でその祝福の代価を支払ってくださったということです。

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。

神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ人への手紙1:3)

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クリスマスの12日

クリスマスの5日目

ラケルの女奴隷ビルハは再び身ごもって、ヤコブに二番目の男の子を産んだ。

そこでラケルは、「私は姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った」と言って、その子をナフタリと名づけた。(創世記30:7-8)

ヘブライ語では、「ナフタリ」は「私の戦い」を意味する言葉に聞こえます。

心の穴を埋めることができないもののために、私たちはどれほど多く、相手と戦ってしまうことでしょう。ラケルの場合、彼女はヤコブの愛を求めてレアと争いました。

しかし、最終的に、私たちが戦い終えたあとでも、心の穴は残ります。神様こそが、その穴を埋めることのできるお方です。

だから、賜物そのものではなく、賜物を与えてくださる方を慕い求めましょう。

あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。

あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。

自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。(ヤコブ4:1-3)

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クリスマスの12日

クリスマスの4日目

そこでラケルは、「神は私をかばってくださり、私の声を聞き入れて、私に男の子を与えてくださった」と言った。

それゆえ、彼女はその子をダンと名づけた。(創世記30:6)

結婚式の夜、ラケルはレアにヤコブを奪われました。しかも、ヤコブはその後ラケルとも結婚し、レアよりもラケルを愛していました。 それでも、レアにはすでに4人の息子がいたのに対し、ラケルにはまだ子どもがいませんでした。

そこで、ラケルは自分の女奴隷をヤコブに差し出しました。ヤコブはビルハと関係を持ち、その子どもたちはラケルの子どもとして認められました。

ヘブライ語では、「ダン」は「裁く」や「正当化する」を意味する言葉に聞こえます。

神様が実際にレアとラケルの間で、どちらに有利な判断をくだされたのかは、本当に分かりません。

しかし、神様がイエス様を信じる私たちに有利な判断を下されたことは確かです。

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(ローマ8:33-34)

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クリスマスの12日

クリスマスの3日目

彼女はまた身ごもって男の子を産み、「今度こそ、夫は私に結びつくでしょう。私が彼に三人の子を産んだのだから」と言った。

それゆえ、その子の名はレビと呼ばれた。(創世記29:34)

「レビ」は、ヘブライ語で「結ぶ」を意味する言葉に聞こえます。

レアはヤコブの愛を切望し、彼と結ばれることを願っていました。

多くの人々もまた、そのような愛を切望します。

イエス様において、神様は愛を与えてくださり、私たちは神様と結ばれました。

そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。

しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。(エペソ2:12-13)

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クリスマスの12日

クリスマスの2日目

彼女は再び身ごもって男の子を産み、「主は私が嫌われているのを聞いて、この子も私に授けてくださった」と言って、その子をシメオンと名づけた。(創世記29:33)

「シメオン」は、ヘブライ語で「聞く」を意味する言葉に聞こえます。

レアはヤコブに嫌われ、軽んじられていたため、深く傷つき、苦しんでいました。

しかし、神様はレアの叫びを聞いてくださいました。同じように、神様はご自分を愛する人々の叫びをも聞いてくださいます。

また、別の御使いが来て、金の香炉を持って祭壇のそばに立った。

すると、たくさんの香が彼に与えられた。すべての聖徒たちの祈りに添えて、御座の前にある金の祭壇の上で献げるためであった。

香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。(黙示録8:3-4)


主の目は、正しい人たちの上にあり、主の耳は、彼らの叫びに傾けられる。。。

苦しむ者が叫ぶと、主は聞かれ、そのすべての苦難から救い出してくださる。

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。(詩篇34:15,17-18)

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クリスマスの12日

クリスマスの1日目

メリークリスマス!

今日から、クリスマスの12日間のために、特別なデボーションを始めます。このデボーションは、私の最近の説教に基づいています。それをこちらで聞くことができます。

その説教では、私はヤコブの12人の息子たちの名前を取り上げました。ラケルとレアの苦悩の中で生まれた名前でしたが、クリスマスと私たちへの神のメッセージに照らして、その意味を再解釈しました。

今日は、ルベンの話を取り上げます。

主はレアが嫌われているのを見て、彼女の胎を開かれたが、ラケルは不妊の女であった。

レアは身ごもって男の子を産み、その子をルベンと名づけた。

彼女が、「主は私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するでしょう」と言ったからである。(創世記29:31-32)

ルベンとは、「子を見よ」という意味です。

レアはヤコブに、「見てください。私はあなたに息子を生みました。私を愛してください」と言っていました。

しかし、神様は私たちを見て、こう言われます。「見よ、私の子を与えた。私はあなたを愛している。」

それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ7:14)


神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。(第一ヨハネ4:9)

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イザヤ書のデボーション

クリスマスの歌

主よ、あなたは私の神。 私はあなたをあがめ、御名をほめたたえます。

あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、 まことに、真実に成し遂げられました。(イザヤ書25:1)

クリスマスがもうすぐなので、今朝、上の歌は私の心に響きました。

神様の遠い昔からの不思議な計画を真実に成し遂げ、御子イエス様をこの世に送られました。

でも、25ー26章では、イザヤはイエス様の初臨ではなく、イエス様の再臨について話しているようです。

イエス様はこの世にもう一度来ると、正義をもって、すべての悪を滅ぼします。その後、イエス様は最後の敵を克服します。その敵は死です。

今、死はベールのようにこの世のおおうけど、神様はそのベールを取り除き、 永久に死を飲み込まれます。

神様は私たちの罪の恥を取り除き、すべての顔から涙をぬぐい取ってくださいます。(イザヤ書25:7ー8)

パウロもヨハネもその事をもっと具体的に話すので、彼らの言葉をどうぞ読んでください。(第一コリント15:20ー28,51ー57;黙示録20:7ー21:4)

とにかく、その日、私たちはイエス様を見て、以下のクリスマスの歌を歌います。

もちろん、今でも私たちは歌うことができるけど、イエス様がもう一度来るとき、私たちはその歌の意味をもっと深く知ることになるでしょう。

見よ。この方こそ、待ち望んでいた私たちの神。 私たちを救ってくださる。

この方こそ、私たちが待ち望んでいた主。 その御救いを楽しみ喜ぼう。(イザヤ書25:9)

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テトスへの手紙のデボーション

偽ることのない神

それは、偽ることのない神が永遠の昔から約束してくださった、永遠のいのちの望みに基づくものです。(テトスへの手紙1:2)

「偽ることのない神。」

今朝、その言葉が何となく私の心に響きました。

それは、私の希望の土台です。神様は偽ることのない方だから、約束されたことを必ず実行されます。その中には、神様が永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちも含まれています。

その約束は、イエス様において成就しました。

私は、ルカの福音書にあるシメオンの言葉を思い起こしました。

主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。

私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。(ルカ2:29-32)

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エペソ人への手紙のデボーション

神の御心を悟る

ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。

知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、 機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。

ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。(エペソ人への手紙5:15-17)

天のお父さん、この世界を歩むとき、私があなたの御心の大局を心に留めることができますように。あなたの御心は、すべてのものが御子の支配下に集められることです。(エペソ1:9〜10)

それは、私を含み、私の周りの人々を含み、被造物の全体を含みます。

しかし、あなたの御心の大局を心に留めながら、あなたが今日、私に何を望んでおられるのかを理解することができますように。

周りの人々に触れる、あなたが与えてくださる機会を見いだすことができますように。私がサタンの捕虜を救い出し、あなたの御国へ導くことができますように。彼らに対する、あなたのあわれみ深い心を私に与えてください。

私が毎日、あなたの愛のうちに歩むことができますように。そして、あなたが与えてくださる機会を十分に活かすことができますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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エペソ人への手紙のデボーション

私たちのうちに働く神の御力

どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に。。。(エペソ人への手紙3:20)

今日、「私たちのうちに働く御力」という言葉を考えました。

今まで、それを読むと、神様の力が私を通して働き、周りの人々に触れることを思い浮かべていました。

しかし、今日私が考えたのは、神様の力が私を変えるために、私のうちに働いておられるということです。そして、その過程において、神様は私が願うところ、思うところのすべてを、はるかに超えて行うことができる方です。

問題に直面するとき、私はしばしば、神様が私の問題を取り除いてくださるように祈ります。私の状況を変えてくださるように祈ります。

神様の恵みによって、そうしてくださる時もあります。

しかし、多くの場合、神様は私たちの状況を変えようとはされません。

むしろ、神様は御子のかたちと同じ姿に、私たちを変えたいと願っておられます。(ローマ8:28)

けれども、時には私たちは、それは無理だと思ってしまいます。

最近、私の牧師は、自分の心を導くことについて語っています。(箴言23:19)

しかし、それは時に難しいものです。特に、人に傷つけられて、私たちが許さなければならないときです。

私たちは、相手に謝ってほしいと思います。相手が変わることを望みます。

そして同時に、まず相手が変わらなければ、まず私たちの状況が変わらなければ、自分たちの心が変わるのは無理だと主張します。

しかし、神様は、私たちが願うところ、思うところのすべてを、はるかに超えて行うことのできる方です。

なぜでしょうか。

それは、イエス様を復活させた力が、私たちのうちにも働いているからです。

しかし、私たちはそれを本当に信じているでしょうか。

天のお父様、あなたの愛に私を根差してください。私がその愛の確信をもって生きることができますように。

私が、あなたの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、私の心の穴が埋められ、私の傷が癒されますように。

私の状況や周りの人々を変えてくださるようには祈りません。むしろ、私自身を変えてください。

私たちが願うところ、思うところのすべてを、はるかに超えて行うことのできるあなたの力によって、私をイエス様のように変えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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エペソ人への手紙のデボーション

しかし神は。。。

しかし、あわれみ豊かな神は。。。キリストとともに生かしてくださいました。。。

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。。。

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ人への手紙2:4ー6,10)

今朝、神様の恵みに驚嘆していました。

ギリシャ語では、パウロが「私たちは神の作品」と書いたとき、「神の」という言葉を強調しています。

私は、「なぜ『神の』という言葉を強調したのだろうか」と思いました。

でも、4節をもう一度読みました。「しかし、神は。。。」

私の犯した罪によって、私は霊的に死んでいて、神様から遠く離れていました。自分の罪によって、私は御怒りを受けるべき子であり、地獄にふさわしい者でした。

しかし、神は。。。

神様は私を生かしてくださいました。イエス様の血によって、神様は私の罪を赦してくださいました。神様は私をともによみがえらせ、イエス様とともに、天上でご自分のそばに座らせてくださいました。

なぜでしょうか。

私が素晴らしい人だからではありません。私の良い行いのためでもありません。

むしろ、私たちへの神様の愛とあわれみのゆえです。

神様が母の胎の内で私を形づくられたとき、私は神の傑作(英訳)でした。(詩篇139:13〜14)

私の罪によって、その「傑作」は傷つき、壊れてしまいました。でも、恵みによって、神様は私を新しく造り直してくださいました。

私は、神様が二度造られた傑作です。

しかし、神様は人々が私を観賞するためだけに造られたのではありません。私は特別な目的のために造られたのです。それは、神の国のために、人々に触れることです。私は毎日、その良い行いに歩みたいのです。

あなたも神の傑作です。あなたは、神様が二度造られた傑作です。その真理を喜びましょう。そして、毎日、神様が備えてくださった行いに歩みましょう。

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イザヤ書のデボーション

羊飼いの歌?

今日、アドベントのディボーションを読んでいて、羊飼いの話を思い起こしました。彼らは天使を見たとき、どのように感じたでしょうか。

ルカの福音書によれば、彼らは非常に恐れました。なぜでしょうか。

神様は約400年もの間、ユダヤ人たちに語られませんでした。しかし突然、神様はその沈黙を破られました。なぜでしょうか。彼らを裁くためでしょうか。

違います。良い知らせを告げるためです。

神様の怒りは去り、神様は御子を通して救いをもたらされました。

羊飼いたちが天使の言葉を聞いたとき、イザヤ書12章を思い浮かべたでしょうか。

おそらくそうではなかったでしょう。でも、もし彼らがイザヤの言葉を思い出したなら、きっとその歌を歌ったことでしょう。

主よ、感謝します。 あなたは私に怒られたのに、 あなたの怒りは去り、 私を慰めてくださったからです。」

見よ、神は私の救い。 私は信頼して恐れない。

ヤハ、主は私の力、私のほめ歌。 私のために救いとなられた。(イザヤ書12:1ー2)

エッサイの根、つまりイエス様は来られました。(イザヤ書11:1〜5、10)

そして、イエス様を見た後、羊飼いたちは周りの人々にその良い知らせを伝えました。(ルカ2:16〜18)

シオンに住む者よ。 大声をあげて喜び歌え。

イスラエルの聖なる方は、 あなたの中におられる大いなる方。(イザヤ書12:6)

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イザヤ書のデボーション

あなたのために

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。

主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ書9:6)

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれます。」

この言葉を読んだとき、私は、イエス様が生まれた夜に羊飼いたちに語った御使いの言葉を思い起こしました。

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:11)

御使いが羊飼いたちに良い知らせを伝えたとき、イザヤの言葉を思い浮かべていたでしょうか。私はそう思います。

御使いはただ、「救い主がお生まれになりました」と言うこともできたでしょう。

あるいは、「イスラエル人のために救い主がお生まれになりました」と言うこともできたでしょう。

しかし、御使いはこう言いました。「あなたがたのために救い主がお生まれになりました。」

それは、勢力のある人のためだけではなく、一般の人々のためです。あなたのためです。

そして御使いは、羊飼いたちを、生まれたばかりの王を見に行くように招きました。

その王は、兵士に守られた宮殿にはおられませんでした。そこにいたのは、王の父親と母親(そして、おそらく家畜)だけでした。だから、羊飼いたちでさえ、その王を訪ねることができたのです。

救い主は、あなたのためにお生まれになりました。

羊飼いたちのように、自分を取るに足りない者だと思うかもしれません。自分にはあまり価値がないと思うかもしれません。

それでも、イエス様はあなたのためにお生まれになりました。

あなたのために。

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イザヤ書のデボーション

恐れではなく信仰を選ぶ

アラムは、エフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企てて、「われわれはユダに上ってこれを脅かし、これに攻め入ってわがものとし、タベアルの子をその王にしよう」と言っているが、神である主はこう言われる。

それは起こらない。それはあり得ない。(イザヤ書7:5-7)

上の言葉を読んだとき、私はこう考えました。「私はどれだけ、実際には起こらないことを心配しているのだろうか。」

心配で眠れない夜もありました。でも、多くの場合、私が心配していたことは実際には起こりませんでした。

神様を信じるほうが、はるかに良いのです。神様が私とともにおられることを思い出すほうが、はるかに良いのです。

2千年前、神様は「私と共におられる」というしるしを与えてくださいました。そのしるしとは、飼葉おけに寝ておられた赤ちゃんでした。

それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。

見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ書7:14)

マタイによれば、「インマヌエル」とは、「神が私たちと共におられる」という意味です。(マタイ1:22〜23)

アハズが神様に信頼することを拒んだことを批判するのは、簡単なことです。でも、私はどれほど神様が与えてくださったしるしを無視して、神様を信頼していないでしょうか。

イエス様、あなたはいつも私と共におられます。あなたこそ、まことのインマヌエルです。ですから、私が心配に引き込まれそうになるとき、あなたに心を向け、信頼することができるように助けてください。

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イザヤ書のデボーション

聖なる神、恵み深い神

これは、聖書の中で私が最も好きな箇所のひとつです。この箇所を読むたびに、私はいつも深く感動します。

今日は、神様の聖さと恵みについて思い巡らしていました。

セラフィム(ある種の天使)は叫びました。

聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満ちる。(イザヤ書6:3)

残念なことですが、ウジヤ王はその生涯の後半において、神様の聖なるさを認めることを拒み、神様の目から見て、ひどい罪を犯してしまいました。(歴代誌第二26:16〜21)

その反面、イザヤは神様の聖なるさを認め、叫びました。

ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、 唇の汚れた民の間に住んでいる。 しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。(5)

でも、それと同時に、私たちは神様の恵みも見ることができます。

皮肉なことに、イスラエルに対する神様の裁きの中に、私たちはその恵みを見ることができます。神様はイザヤに、「この人々の心を肥え鈍らせなさい」と言われました。

では、イザヤはどのようにして彼らの心を肥え鈍らせたのでしょうか。彼らが聞きたくない真理を語り続けることによって、イザヤはそうしたのです。

最終的に、イスラエルはバビロンに倒されました。でも、イザヤの言葉によって「切り株」が残されました。

その「切り株」とは、神様に忠実な人々のことでした。たとえば、ダニエル、エゼキエル、ネヘミヤ、エズラは、ずっと神様に忠実に仕えました。

そして、その「切り株」を通して、イエス様は来て、私たちを救ってくださいました。

幻でイザヤが見た王は、王座から下り、この世に来て、私たちのために死んでくださいました。(ヨハネ12:23〜41)

それがクリスマスの意味です。王は私たちを救うために、ご自分の王座からくだり、この世に来てくださいました。

だから今、イザヤのように、私たちは自分の恥と咎をもってイエス様のみ前に来るとき、イエス様は恵みをもって、私たちに言われます。「あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」

だからこそ、私たちは歌います。

Joy to the world!
世界に喜びを!

The Lord is come!
主がおいでになりました!

Let earth receive her king!
地のすべての民は、その王をお迎えいたしましょう!

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イザヤ書のデボーション

癒しはいつ訪れるのか

天のお父さん、私たちはあなたの家の山が堅く立つ日を待ち望んでいます。

戦争が終わる日を待ち望んでいます。正義をもってすべての悪人が裁かれる日を待ち望んでいます。すべての人々があなたを求める日を待ち望んでいます。(イザヤ書2:2〜4)

癒しはいつ来るのでしょうか。この世とその民は霊的に病んでいます。(イザヤ書1:5〜6)

なぜでしょうか。なぜなら、彼らは自分たちの主を認めないからです。彼らはいのちの源を知らないからです。彼らの心の飢えを満たすことができる方を知らないからです。

むしろ、彼らはあなたを捨て、侮り、あなたに背を向けました。(イザヤ書1:3〜4)

癒しはいつ来るのでしょうか。

私たちのお金や、私たちが誇れるものによって、癒しはもたらされません。(イザヤ書2:7〜18)

私たちの政治家によって癒しは来ません。(イザヤ書2:22)

この世界は、あなたを王、主、神として認めて初めて、癒しを知るのです。

私たちは、形だけではなく、心からあなたを求めて初めて、癒しを知るのです。(イザヤ書1:11〜19)

その日、人々はこう言うでしょう。

さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。(イザヤ書2:3)

でも、あなたの民は、まず最初にそうしなければなりません。私たちは、心からあなたを求めなければなりません。

だから、あなたを求める飢えを、私の心に与えてください。毎日毎日、一瞬一瞬、私があなたを信頼し、あなたに頼るように助けてください。

毎日、私があなたのみ言葉、御心、知恵、力を求めるようにしてください。

この壊れた世界、また、その壊れた人々に、あなたの御国が来ますように。

そのために、私を用いてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ピリピ人への手紙のデボーション

心を留めるべきもの

最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。(ピリピ人への手紙4:8)

8節を読んだとき、「私はどのようなことをいつも考えているだろうか」と思いました。

最近、私はいろいろなことをくよくよしています。

政治的な問題。社会問題。ガザとイスラエルの問題。

また、個人的な問題。つまり、家庭の問題です。

でも、私がそのようなことをくよくよすると、フラストレーションや怒り、悲しみ、心配に至ります。

平安に至ることは、まったくありません。

だから、神様は私によく語られます。「焦点を変えなさい。テレビやインターネットを消しなさい。頭の中で人と議論するのをやめなさい。私に向かいなさい。」

そして、私は神のみ言葉を読みます。神のみ言葉に、私の考え方を形成させます。神様のみ言葉によって、私は真実なこと、尊ぶべきこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判の良いこと、徳とされること、称賛に値することに注意を向けます。

また、私の考えていることをすべてイエス様に話します。

パウロの言葉を借りれば、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、自分の願い事を神様に知っていただきます。」

あなたはどうでしょうか。どのようなことをいつも考えているでしょうか。

イエス様、あなたはブドウの木で、私は枝です。私のいのちと霊的な栄養は、あなたから流れます。だから、私があなたのことに心を留めるようにしてください。

私が一日中、何を考えているか、あなたはよく知っておられます。でも、私がそのようなことをくよくよしないように助けてください。むしろ、私があなたにとどまり、あなたのことを思い巡らすようにしてください。あなたは私のいのちですから。

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ピリピ人への手紙のデボーション

私たちの希望

私の好きな聖書箇所のひとつは、ピリピ人への手紙1章6節です。

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。

ピリピ人への手紙2章12〜13節では、パウロはその真理をさらに詳しく説明しています。

。。。恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。

クリスチャンとしての私の希望は、自分の罪と弱さにもかかわらず、神様が私を決して諦めないということです。神様が始められた良い働きを完成させてくださいます。

今なお、神様は私の心の中で働いて、イエス様のようになろうとする思いと力を与えてくださっています。

時々、その過程が進むのがとても遅く感じられることもあります。今でも、自分の欠点ははっきりと見えています。私は完全な人間とは言えません。でも、振り返ってみると、神様が私を少しずつ変えてくださってきたことがわかります。

だからこそ、私への神様の日々の素晴らしい恵みに、畏敬の念を抱かずにはいられません。そういうわけで、私は神様に従い続けているのです。

私の動機は、罪悪感や神様の怒りではありません。神様が私を拒絶するのではないかと心配することもありません。むしろ、神様の素晴らしい恵みのゆえに、私は神様に従っているのです。

それは、あなたの希望でもあるでしょうか。

あなたが神様に従おうとするとき、その動機は何ですか。

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コロサイ人への手紙のデボーション

戦え!

彼はいつも、あなたがたが神のみこころのすべてを確信し、成熟した者として堅く立つことができるように、あなたがたのために祈りに励んでいます。(コロサイ人への手紙4:12)

「彼はいつも。。。あなたがたのために祈りに励んでいます。」

「励む」という言葉は、新約聖書では「戦う」と訳されることもあります(第一テモテ6:12;第二テモテ4:7)。

だから、パウロの言葉を「彼は祈りによっていつもあなたがたのために戦っています」と訳すことができるでしょう。

そのことばは、私の心に深く響きます。

私はどれほど祈りによって、人々のために戦っているでしょうか。

今、私は特に二人の苦しんでいる人たちのことを思い浮かべています。でも、他にも苦しんでいる人たちを知っています。

だから、神様が「彼らのために祈って戦いなさい」と語っておられるように感じます。「戦いなさい。ただ短く形だけの祈りをしてはいけない。彼らのために戦いなさい。」

神様は今、あなたが誰のために戦うことを望んでおられるのでしょうか。

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コロサイ人への手紙のデボーション

神様のまなざしで兄弟姉妹を見る

ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。

互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。

主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。

また、感謝の心を持つ人になりなさい。(コロサイ人への手紙3:12ー15)

時々、私はキリストにある兄弟姉妹に対して、いら立ちを覚えてしまいます。

しかし、今日の聖書箇所を読んだとき、神様は私に大切なことを思い起こさせてくださいました。

もちろん、私は神様に選ばれた者、聖なる者、愛されている者です。

けれども、私の兄弟姉妹も同じです。

だからこそ、彼らと接するとき、私は慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を身に着けるべきです。

また、神様は私に、忍耐をもって彼らを許し、愛するように命じておられます。

神様が私たちすべてを、ご自身の子どもとして大切にしておられるので、キリストの平和が私たちの心を支配すべきです。

神様が彼らをどのように見ておられるかを忘れてしまうと、私たちの心の中で彼らを罵るのは簡単になってしまいます。

しかし、それは間接的に神様を冒涜することになります。なぜなら、私たちは神様のかたちに造られた人を罵ることになるからです。(ギリシャ語では、「罵る」という語が神様に向けられるとき、常に「冒涜」と訳されます。)

だから今朝、神様が私に思い起こさせてくださったのは、ご自身の子どもたちは皆、神様に選ばれた者、聖なる者、愛されている者であるということです。だからこそ、特に私は自分の妻と娘を見るとき、その真理を覚えていて、彼女たちに接するべきです。

あなたはどうでしょうか。兄弟姉妹をどのように見ていますか。

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コロサイ人への手紙のデボーション

主に喜ばれる者として受け入れられる

こういうわけで、私たちもそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。

どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。

また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。(コロサイ人への手紙1:9-10)

「あらゆる点で主に喜ばれる。」

今朝、このことばが私の心に深く響きました。私の願いは、自分があらゆる点で主に喜ばれる者となることです。しかし、私は何度も失敗してしまいます。主にふさわしく歩めていない時が多くあります。

だからこそ、パウロの次のことばは、私にとって大きな励ましです。

今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。(22節)

私がいつも主にふさわしく歩んでいるとは言えません。自分があらゆる点で主に喜ばれているとも言えません。

しかし、イエス様の十字架のみわざによって、神様の目には、私は聖なる者、傷のない者、責められるところのない者とされています。

簡単に言えば、私は神様に受け入れられているのです。

私は完全に受け入れられているのです。

あなたはどうでしょうか。

その確信をもって、毎日イエス様と共に歩んでいますか。

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マタイの福音書のデボーション

神様がなさらなかった応答

「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」

しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」(マタイの福音書27:4)

私が驚いたのは、祭司たちがユダに対して反応したように、神様が私たちに対してはそのように反応されなかったことです。

私たちが咎と恥を負い、神様の御前に出て、「私は罪を犯しました」と告白したとき、神様は「私には関係ない。自分で始末しなさい」とは言われませんでした。

もし神様がそうされていたなら、私たちはユダのように絶望と死に陥っていたことでしょう。

しかし、神様はそうされず、むしろ、御子を送ってくださいました。

彼は私たちの背きのために刺され、 私たちの咎のために砕かれたのだ。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

私たちはみな、羊のようにさまよい、 それぞれ自分勝手な道に向かって行った。 しかし、主は私たちすべての者の咎を 彼に負わせた。(イザヤ53:5ー6)

I’ll never know why you did what you did.
私には、なぜあなたがあんなことをされたのか理解できません。

You didn’t have to die, but you did.
あなたは死なないことを選ぶことができたのに、私のために死んでくださいました。

You hung on the cross so that I wouldn’t be lost.
私が滅びないように、あなたは十字架にかけられました。

You took my place, now you’re pleading my case.
私の代わりに死んでくださっただけでなく、今も私のためにとりなしてくださっています。

You didn’t have to do it, but I’m glad you did.
あなたはそうする必要はなかったのに、私のためにそうしてくださって、私は心から感謝しています。

You didn’t have to do it, but I’m glad you did.
あなたはそうする必要はなかったのに、私のためにそうしてくださって、私は心から感謝しています。

-クリスタル・ルイス

 

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マタイの福音書のデボーション

あなたのみこころがなりますように

ですから、あなたがたはこう祈りなさい。 「天にいます私たちの父よ。。。御国が来ますように。 みこころが天で行われるように、 地でも行われますように。」(マタイ6:9ー10)

わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように。(マタイ26:42)

天のお父さん、十字架で死なれる前の夜、「弟子の祈り」で教えられたことばを、イエス様ご自身が祈られました。

人々にそのように祈るべきだと教えるのは、簡単なことです。

日常の祈りとして、そのことばを祈るのは、簡単なことです。

しかし、私が直面したくない問題があるとき、そのことばを祈るのは難しいです。

その祈りが自分の人生に深く関わるとき、私はそのことばを祈ることができるでしょうか。特に、あなたのみこころが、私が試練や苦しみに直面しなければならないというものであるとき、私はそのように祈ることができるでしょうか。

あなたの良いご性質を疑わず、また、苦々しい思いを抱かず、私はなおあなたを「父さん」と呼ぶことができるでしょうか。

イエス様、ペテロや他の弟子たちと同じように、私は弱い者です。

だからこそ、私よりも大きな問題に直面するとき、自分の力では耐えられない試練に直面するとき、あなたが祈られたように、私も「あなたのみこころがなりますように」と祈ることができる恵みと力と信仰を与えてください。

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マタイの福音書のデボーション

ただ人々を責めているだけなのか?

また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。(マタイの福音書23:4)

パリサイ人たちと律法学者たちは、周囲の人々の罪をよく指摘しました。

しかし、彼らは罪の重荷に苦しんでいる人々に手を差し伸べ、あわれむことはありませんでした。

イエス様のことばを読んで、私はこう考えました。「私はただ人々の罪を指摘するだけなのだろうか。それとも、罪によって苦しんでいる人々をすぐに助けてあげる者なのだろうか。」

おそらく、パウロは上のイエス様のことばを思い巡らしながら、このことばを書いたのでしょう。

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。

また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。(ガラテヤ人への手紙6:1ー2)

天のお父さん、パリサイ人たちや律法学者たちのようにはなりたくありません。ただ人々の罪を指摘する者ではなく、罪によって苦しんでいる人々に対するイエス様の心を持つ者となれますように。

あわれみの心を私に与えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書のデボーション

聖書を知らないのか?

サドカイ人たちがイエス様に愚かな質問をしたとき、イエス様はこう言われました。

そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。(マタイの福音書22:29)

イエス様は、私たちに対しても同じことを言われるでしょうか。

私たちは聖書を正しく知らないために、どれほど自分の世界観が誤っているでしょうか。

私たちは聖書を正しく知らないために、どれほど愚かな決断をしてしまうでしょうか。

私たちは聖書を正しく知らないために、偉大で力強い神様がどれほど小さく見えてしまうでしょうか。

イエス様がサドカイ人たちに語られたことばを、私たちに向けて語られることがないように。

むしろ、神様のみことばを愛し、読みましょう。

そうすれば、私たちは神のように考えるようになり、神様を親しく知るようになります。

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マタイの福音書のデボーション

神様が求めておられる実

ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。(マタイの福音書21:43)

今日の箇所、特に上のことばを読んだとき、私はパリサイ人たちとサドカイ人たちに向けられたバプテスマのヨハネのことばを思い起こしました。

それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。。。 斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。(マタイ3:8ー10)

神様が求めておられる実とは何でしょうか。それは、悔い改めにふさわしい実です。

収税人や遊女たちは、そのような実を結んだからこそ、神の国に入ることができました。しかし、宗教的な指導者たちは悔い改めを拒んだため、神の国に入ることができませんでした。(31ー32)

二人の息子に関するたとえ話では、イエス様はその二つの態度の違いを描写されました。(28ー30)

そして、いちじくの木を呪われたことと、ぶどう園のたとえ話によって、イエス様は悔い改めにふさわしい実を結ばない者たちに警告されました。(18ー19、33ー34)

悔い改めとは、単に「気が変わる」という意味ではありません。

悔い改めとは、単に神様のことばに同意することを意味するのでもありません。

悔い改めは、必ず変えられた心と、変えられた人生へと至るものです。

私の教会では、「Head, heart, hands」という言葉を用いています。

神様のことばが私たちの頭に入り、心が変えられ、そして人生も変えられていきます。

それこそが、神様が求めておられる実です。

あなたはどうでしょうか。そのような実を結んでいるでしょうか。

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マタイの福音書のデボーション

あなたの言葉が受け入れ難いとき

イエス様、時にあなたのことばは、私にとって受け入れがたいものです。

あなたが結婚について語られたとき、弟子たちにとって、そのことばは受け入れがたいものでした。

若い金持ちにとって、「あなたが執着しているものを手放し、私について来なさい」というあなたのことばは、受け入れがたいものでした。

そして時に、あなたは私にも受け入れがたいことを語られます。

私の心は頑なで、あなたの道よりも楽な道を選びたくなるのです。

また、私が手放したくないものもあります。

けれども、あなたのことばが受け入れがたいとき、私があなたが良い方であることを思い起こすことができるように助けてください。

あなたのことばが受け入れがたいとき、あなたの道が最善であることを思い起こすことができるように助けてください。

あなたのことばが受け入れがたいとき、私が柔らかい心を保ち、あなたとその道に従うことができるように助けてください。

なぜなら、あなたのことばは受け入れがたいものかもしれませんが、そのことばはいのちだからです。(ヨハネ6:63、68)

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マタイの福音書のデボーション

イエス様の言うことを聞いていますか?

彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。。。

彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」

すると彼らはたいへん悲しんだ。(マタイの福音書17:5,22-23)

私たちは、どれほどイエス様の弟子たちのようにふるまっているでしょうか。

神様は良い計画を持っておられます。その計画は確かに良いものです。しかし、私たちは神様のことばすべてに耳を傾けていないため、その計画を十分に理解することができません。

私たちが聞いているのは、自分の計画や夢や希望が失われるということだけです。だから、私たちは深く悲しんでしまいます。

けれども、私たちは、その計画や夢や希望の灰の中から何がよみがえるのかを知りません。

それは、喜び、平和、そしていのちです。

しかし、最も大切なのは、私たちがイエス様ご自身を見ることになるということです。

ですから、神様の計画が私たち自身の計画に反していて、私たちが悲しみに沈んでいるときこそ、天の父のことばを思い起こしましょう。

「これは、わたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」

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マタイの福音書のデボーション

忘れっぽい信仰

信仰の薄い人たち。。。まだ分からないのですか。。。覚えていないのですか。(マタイの福音書16:8-9)

私たちが忘れっぽいゆえに、どれほど私たちの信仰が薄く、神様が教えようとしておられることを理解できていないのでしょうか。

私たちは聖書を読んだり、教会でメッセージを聞いたりして、励まされ、鼓舞されますが、そのことばをすぐに忘れてしまいます。

また、神様が私たちの人生にどのように働いてくださったかを見て、驚き、喜びますが、それもすぐに忘れてしまいます。

ただ覚えているだけで、私たちの信仰はどれほど成長するでしょうか。

天のお父さん、私の信仰を増し加えてください。あなたが私に教えてくださったこと、してくださったことを覚えていることができるよう助けてください。

そして、そのことを覚えていることによって、良い時も悪い時も、私があなたを喜び、信頼する者となるように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書のデボーション

誰に従っているのでしょうか

ヨハネの死は、本当に切ない出来事ですね。でも今日、私はヨハネの弟子たちの反応について考えました。彼らはヨハネの遺体を引き取り、丁寧に葬りました。そして、イエス様のもとへ行って、そのことを報告しました。

今日、それを読んで、私は初めてこう思いました。

「そのあと、彼らは何をしたのだろうか。イエス様に従い始めたのだろうか。

それとも、ただ自分の家に戻ったのだろうか。」

私たちには分かりません。

もし彼らがイエス様に従い始めたのなら、それは本当に素晴らしいことだったと思います。なぜなら、ヨハネはいつもイエス様を指して、「その方に従いなさい」と語っていたからです。

それはさておき、私たちはどうでしょうか。私たちは誰に従っているのでしょうか。

多くの人々は、他の人の影響によってクリスチャンになりました。その人は牧師かもしれません。友人や家族かもしれません。

しかし、その人がいなくなったとき、私たちはどうするでしょうか。

その人は亡くなるかもしれません。

その人は引っ越すかもしれません。

残念なことですが、その人が罪に陥り、神様から離れてしまうこともあるかもしれません。

そのような時、私たちはどうするでしょうか。

私たちはただ「家に帰る」のでしょうか。

それとも、私たちはイエス様に向かい、従うのでしょうか。

イエス様は、5000人にパンを与えられたとき、ご自身が命のパンであることを証明されました(ヨハネ6章)。

つまり、イエス様こそが、私たちに真の命を与える方であることを示されたのです。イエス様こそが、私たちの霊的な飢えと渇きを満たすことのできるお方です。

さらに、人生の嵐が襲うときにも、イエス様はいつも私たちと共におられる方です。

人々が私たちから離れていくこともあります。彼らが私たちを失望させることもあります。

しかし、イエス様は決してそのようなことはなさいません。

だから、私はもう一度あなたに問いかけます。

あなたは誰に従っているのでしょうか。

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マタイの福音書のデボーション

深く根差している信仰?

また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。

しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。(マタイの福音書13:20-21)

イエス様は、石灰岩の上に土の薄いところに蒔かれた種について描写されました。その石灰岩のために根が張ることができず、困難や迫害が訪れると、信仰の芽はすぐに焼けて枯れてしまいました。

それを読んだとき、私は考えました。「根の成長を妨げた石灰岩とは何だろうか。」

もしかすると、それは“不信”という石灰岩かもしれません。つまり、神様の愛を疑い、神様が本当に良い方であることを疑う心の状態です。

ある人々は、「神様は良い方だ」「神様はあなたを愛している」と聞くと、すぐに喜びます。

しかし、試練が訪れ、迫害を受けると、心の奥深くに埋もれていた疑いが表面化します。

「神様は本当に良い方なのだろうか。神様は本当に私を愛しているのだろうか。もしそうなら、なぜこんな悪いことが起こるのだろうか。」

その結果、彼らの信仰はすぐに枯れてしまうのです。

あなたはどうでしょうか。試練や迫害が訪れるとき、あなたが最初に考えるのは、「神様が良い方なら、神様が私を本当に愛しているのなら、なぜ私は苦しんでいるのか」ということでしょうか。

それとも、あなたの信仰は、「神様は良い方である」「神様は私を本当に愛しておられる」という確信に深く根差しているでしょうか。

あなたの根は、どれほど深く張っているでしょうか。

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マタイの福音書のデボーション

恵みの言葉、裁きの言葉

今日、私の心を打ったのは、イエス様が語られた恵みのことばと裁きのことばです。

イエス様は数々の奇跡を行われましたが、ある町の人々が悔い改めることを拒んだため、イエス様は彼らを厳しく裁かれました。

イエス様はご自身のミニストリーにおいて、常にその線を引かれました。イエス様は悔い改めのメッセージを語られました。

イエス様が説教されたとき、そのメッセージを語られました(マタイ4:17)。また、弟子たちを遣わされたときにも、同じメッセージを語るよう命じられました(マルコ6:12)。

そして、人々が悔い改めないとき、イエス様は裁きについて警告されました(ルカ13:1〜8;ヨハネ5:14)。

それと同時に、イエス様のことばは恵みに満ちていました。牢に入れられ、信仰が揺らいだヨハネに対して、イエス様は励ましのことばを与えられました。

また、罪悪感を抱えていた人々や、宗教指導者たちの律法主義的な規則によって重荷を負っていた人々に、イエス様は安らぎを与えられました。

しかし、悔い改めてイエス様を信じてこそ、私たちはその安らぎを真に知ることができます。

イザヤも、同じようなメッセージをイスラエルの民に語りました。

「立ち返って(別訳:悔い改めて)落ち着いていれば、 あなたがたは救われ、 静かにして信頼すれば、 あなたがたは力を得る。」 しかし、あなたがたはこれを望まなかった。(イザヤ30:15)

それは、コラジン、ベツサイダ、そしてカペナウムの人々の問題でした。だから、イエス様は彼らを裁かれました。

しかし、イエス様に対して柔らかい心を持っている人々には、たとえ疑いや罪悪感を抱えていたとしても、イエス様は恵みを与えられました。

さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:14ー16)

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マタイの福音書のデボーション

私たちの心、私たちのメッセージ

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。

『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マタイの福音書9:12-13)

イエス様のことばを反芻するとき、私たちの教会に来るノンクリスチャンに対する私たちの態度を考えさせられました。

私たちは、あわれみ深い心を持つべきです。なぜなら、彼らは羊飼いのいない羊の群れのようだからです。サタンの攻撃によって、彼らは弱り果て、倒れている人々なのです。

私たちは、彼らを避けるべきではありません。むしろ、手を伸ばし、キリストの愛を彼らに示すべきです。

それと同時に、私たちは彼らのためのメッセージを持っています。イエス様は、彼らを招くために来られました。では、何のために招いておられるのでしょうか。

ルカの福音書では、イエス様の意味がさらに明確に示されています。

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。(ルカ5:32)

愛は、「自分の罪を犯し続けて良い」とは言いません。

愛は、「悔い改めなさい」と語ります。

それは、最初からイエス様のメッセージでした。(マタイ4:17)

イエス様は、マタイや他の罪人たちと食事をしながら、そのメッセージを語られました。

イエス様は、ザアカイとその友人たちにも、必ず同じメッセージを語られたことでしょう。(ルカ19:1〜10)

ですから、教会でノンクリスチャンに出会うときには、イエス様の態度を取り、彼らを歓迎し、愛とあわれみを示しましょう。

しかし、それと同時に、謙虚さと柔和さをもって、イエス様がマタイとその友人たちに語られたメッセージを、彼らにも伝えましょう。

「神の御国が近づいた。神様はあなたを愛し、その御国に入るように招いておられる。だから、自分の罪を悔い改め、神様に向かってください。そうすれば、あなたは命を知ることになります。」

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マタイの福音書のデボーション

イエス様についていく

イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。(マタイ7:28ー29)

イエス様についていくとは、どういう意味でしょうか。

もちろん、私たちはイエス様の権威を認めなければなりません。

イエス様は、はっきりとご自身の権威を示されました。

イエス様が命じられると、風と波は従いました。

イエス様が命じられると、悪霊たちも従いました。

イエス様は、もちろん権威を持っておられる方ですが、私たちはその権威を本当に認めているでしょうか。

百人隊長はそれを認めました。

イエス様についていきたいと思った二人の人たちが、その権威を認めていたかどうかは、私たちにはわかりません。

マタイ7:28〜29に登場する群衆の中には、イエス様の権威を認めた人もいれば、拒絶した人もいました。

しかし、イエス様の権威を認めることが、必ずしもイエス様についていくことを意味するわけではありません。

悪霊たちはイエス様の権威を認めましたが、イエス様を憎みました。

ガダラ人たちはイエス様を恐れ、その地方から立ち去ってほしいと願いました。

では、私たちはどうでしょうか。

イエス様は私たちに問いかけられます。「私の権威を認めているのですか。私に従うほどに、私を愛し、信頼しているのですか。」

あなたは、イエス様に従いたいと願っていますか。

あなたは、イエス様を愛し、心から知りたいと願っていますか。

イエス様のことばを心に留めましょう。

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。

わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。(ヨハネ14:21)

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マタイの福音書のデボーション

イエスの教えを割るとき

ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。

雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。(マタイの福音書7:24-25)

今朝、イエス様のことばを読んだとき、ある絵が私の目に浮かびました。

もちろん、イエス様は家を岩の上に建てるという描写を与えておられます。

しかし、私の目に浮かんだのは、ある人が岩の上に建てるのではなく、むしろその岩を割って、その破片を家の壁に入れようとする姿でした。壁の一部は岩のかけらで構成されていたものの、その家は砂の上に建てられていたため、すぐに倒れてしまいました。

多くの人はその建築家のようです。彼らはイエス様に従っていると主張しますが、イエス様の教えすべてに従って生活しているわけではありません。

むしろ、彼らはイエス様の教えを「割って」、自分の好みに合う「破片」だけを自分の考え方に取り入れようとします。

私たちはそのようにしてはいけません。イエス様の教えの中から気に入った部分だけを取り入れ、それ以外の部分を捨てるような生き方をしてはいけません。

そのように生きる人は、天の父の御心を行っているのではなく、ただ自分の心に従っているのです。

私たちは、イエス様の教えの一部だけではなく、そのすべてによって、人生を建てなくてはなりません。

そして、イエス様の最初の教えは、「悔い改めなさい」ということです。私たちが罪を悔い改めなければ、神の御国に入ることはできません。(マタイ4:17)

悔い改めることを拒み、自分の罪にしがみつくなら、ある日、私たちはイエス様に「主よ、主よ」と呼びかけるでしょう。

しかし、イエス様はこう答えられます。「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」(23節)

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マタイの福音書のデボーション

私の目が癒されるように

からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。

ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。(マタイの福音書6:22-23)

天のお父さん、私が物事を実際にあるがままに見ることができるように、どうか私の霊的な目を癒してください。

私が、あなたが良い父であることを悟ることができますように。あなたが私を本当に愛してくださっているゆえに、私は何も心配する必要がないということを理解できますように。

私が、この世とすべて世にあるものが過ぎ去ることを悟ることができますように。

私が何が最も大切なのかを理解できますように。すなわち、私があなたの義と御国を優先する者となりますように。

多くの場合、私の目は病んでいます。ですから、どうか私の目を癒してください。

私があなたを、ほかのどんなものよりも大切にする者となりますように。また、私が、あなたから委ねられた、あなたが愛しておられる人々を大切にする者となりますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書のデボーション

あなたの心を映す者となりたい

ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。(マタイの福音書5:48)

天のお父さん、私はあなたのようにもっとなりたいです。私の失敗をすべてご存じです。私の義と愛が、あなたの義と愛に到底及ばないことを、あなたはよくご存じです。

それでも、私へのあなたの愛とあわれみに眼差しを向けてくださるとき、どうか、あなたのようになりたいという願いを私のうちに増し加えてください。

あなたの麗しさと完全さを仰ぎ見るとき、私があなたのようにもっとなりたいと心から願う者となりますように。

I want to walk in the image of you,
あなたの姿をもち、歩みたいです。
Like a child imitating what his Father would do,
自分の父親を真似する子どものように。
A mirror of your heart.
あなたの心を映し出す者となりたいです。

–クリス・クリスチャン

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マタイの福音書のデボーション

神の子どもの祈り

イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。

そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(マタイの福音書3:16ー17)

天のお父さん、どうして、恵みによって、あなたは私のために天を開き、御霊を私に遣わし、「これはわたしの愛する子どもです。わたしはこれを喜ぶ。」と仰ることができるのでしょうか。

どうしてでしょうか。それは私には把握しきれない真理です。でも、私は心から感謝します。

ですから、私が悔い改めの実を結ぶことができるように助けてください。あなたは、私がどんな罪と戦っているのかをすべてご存じです。

パリサイ人たちやサドカイ人たちのように、ただ義人のふりをしたくはありません。私が真の義の実を結ぶことができるように助けてください。

イエス様、あなたは御言葉によって、私がすでにきよい者であることを宣言してくださいました。ですから今、あなたの御言葉が私のうちにとどまるようにしてください。

その御言葉が私を刈り込み、形成し、変えてください。あなたの御言葉によって、私の言動が変えられるようにしてください。

あなたの御言葉によって、私の罪を明らかにしてください。

そして同時に、あなたの御言葉が、あなたの愛と赦しを私に思い起こさせてください。

あなたの御言葉によって、私があなたと共にもう一歩進み、あなたのようになるように励まされますように。

あなたはブドウの木、私はその枝です。私がどのようにしてあなたにとどまることができるかを教えてください。

あなたを離れては、私は何もすることができません。でも、あなたにとどまるなら、私は多くの実を結びます。私は心から、あなたのために多くの実を結びたいのです。(ヨハネ15:3〜7)

聖霊様、あなたがイエス様を導き、満たされたように、どうか日々、一瞬一瞬、私を導き、満たしてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書のデボーション

私たちとともにおられる神

このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。

「見よ、処女が身ごもっている。 そして男の子を産む。 その名はインマヌエルと呼ばれる。」

それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。(マタイの福音書1:22ー23)

今朝、私はその最後の言葉に思いを巡らせました。つまり、「神様が私たちとともにおられる」ということです。

私たちとともにおられる。

私たちから遠く離れておられない。

私たちとともにおられる。

神様は、私たちをご自身の愛にふさわしくない者と見なして、私たちから遠ざかられることはありません。

私たちとともにおられる。

私たちの罪や失敗をご覧になっても、私たちをお見捨てにはなりません。

私たちとともにおられる。

私たちを常に責めておられるのではなく、むしろ、私たちを擁護してくださっています。

私たちとともにおられる。

敵が私たちを攻撃するとき、神様は私たちを見捨てることなく、私たちのために戦ってくださいます。

私たちとともにおられる。

私たちの神様は、確かに私たちとともにおられます。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)

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テモテへの手紙第一のデボーション

敬虔の訓練はどこから始まるか

敬虔のために自分自身を鍛錬しなさい。(テもテへの手紙第一4:7)

もし、やもめに子どもか孫がいるなら、まずその人たちに、自分の家の人に敬愛を示して、親の恩に報いることを学ばせなさい。それが神の御前に喜ばれることです。(5:4)

私の母は未亡人なので、上の言葉は私の心に響きました。特に、母は今、うつ病で苦しんでいるからです。

私は母から遠く離れて暮らしているので、今はあまり多くのことができませんが、定期的に母と話したり、母と一緒に祈ったり、母のために祈ったりしています。

でも、正直に言うと、このようなときにパウロの言葉に従って母に仕えることは難しいです。私は神様の恵みを本当に必要としています。でも、それこそが私の敬虔の訓練の一部なのです。

そして、自分の母が未亡人でなくても、パウロの言葉は私たち皆に当てはまります。つまり、私たちの敬虔の訓練は家庭から始まるということです。私たちは教会や職場だけで敬虔を示すのではなく、

両親、兄弟姉妹、夫や妻、子どもたちにも敬虔を示さなくてはなりません。

そうすれば、私たちの天の父は喜ばれます。

しかし、家庭で敬虔を示すのは難しいときもあります。特に、家に帰って疲れているときです。また、家族にイライラさせられるときに敬虔を示すのは、なおさら難しいのです。

でも、私たちを愛しておられる天の父のようになりたいのなら、家庭において敬虔のために自分自身を鍛錬しなければなりません。

天のお父さん、私はあなたのようになりたいです。私が母に敬虔を示すことができるように助けてください。また、私の妻にも、私の娘にも敬虔を示すことができるように助けてください。

彼女たちへの私の愛によって、あなたを喜ばせたいのです。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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テモテへの手紙第一のデボーション

祈る男性たち

そういうわけで、私はこう願っています。男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。(テモテへの手紙第一2:8)

男性として、上の言葉はいつも私の心を打ちます。

私たち男性は、どれほど祈りを大切にしているでしょうか。

その一方で、どれほど私たちは無神論者のように生きているでしょうか。つまり、神様がおられないかのように、また、自分自身だけに頼るかのように生きているのではないでしょうか。

家庭や職場、教会において、私たちを特徴づけているのは何でしょうか。

それは怒りでしょうか。

それは議論好きな態度でしょうか。

もしかすると、祈りによって特徴づけられているでしょうか。私たちは毎日、きよい手を上げて祈っているでしょうか。

もちろん、女性たちも祈るべきです。これらのことは女性にも当てはまります。

しかし、この箇所では、パウロは特に男性に語っています。

だからこそ、神様の挑戦に応え、祈る男性になりましょう。

私たちはイエス様の兵士です。(第二テモテ2:3–4)

私たちはサタンと戦っています。サタンは私たちの家族、愛する人々、そして私たち自身さえも滅ぼそうとしている敵です。(エペソ6:10–14;第一ペテロ5:8;ヨハネ10:10)

だから、イエス様の兵士として、男らしく、ひざまずき、祈りによって戦いましょう!

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テモテへの手紙第一のデボーション

神の律法の目的とは

私たちは知っています。律法は、次のことを知っていて適切に用いるなら、良いものです。

すなわち、律法は正しい人のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪深い者、汚れた者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、淫らな者、男色をする者、人を誘拐する者、噓をつく者、偽証する者のために、また、そのほかの健全な教えに反する行為のためにあるのです。

祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、そうなのであって、私はその福音を委ねられたのです。(テモテへの手紙第一1:8-11)

最近、あるクリスチャンたち、ある牧師でさえも、教会を旧約聖書の教えから「解き放とう」としています。つまり、彼らは神の律法が私たちにはまったく関係ないと教えているのです。

なぜなら、私たちは儀式的な律法—割礼、生贄、宗教的な祭りなど—を守る必要がないからです。

しかし、パウロによれば、律法を適切に用いるなら、それは今も私たちにとって有益なものです。では、律法を適切に用いるとは何でしょうか。それは、罪を定義することです。

上に挙げられたリストは、基本的に十戒の拡大版です。

そしてパウロが教えているのは、神の律法がすでに神様を喜ばせている義人のためではなく、むしろ神様に反抗している人々のためにあるということです。

つまり、律法は彼らの罪を指摘するのです。ローマ3:19–20では、パウロは「律法を通して生じるのは罪の意識です」と語っています。

それと同時に、パウロは「人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められない」とも語っています。なぜなら、律法を完全に行うことができる人は誰もいないからです。

だからこそ、私たちにはパウロが述べ伝える良い知らせが必要なのです。それは、

キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られたのです。(15)

しかし、「罪人」を定義するためには、「罪」を定義しなければなりません。神の律法は罪を定義します。その定義がなければ、福音は成り立ちません。私たちが罪とは何かを知らなければ、私たちは何から救われているのでしょうか。

残念ながら、教会を旧約聖書の教えから「解き放とう」としている多くの人々は、ヒメナイとアレクサンドロのように、健全な良心を捨て、自分の罪を抱え、信仰の破船に陥ってしまいました。(20)

私たちはそうではなく、信仰を保ち、立派に戦い抜き、きよい心と健全な良心、偽りのない信仰から生まれる愛の人生を歩みましょう。(5、18–19)

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テサロニケ人への手紙第二のデボーション

聖書の言葉を祈る

祈るとき、私たちはしばしば何を祈るべきかわからず、ただ「〇〇さんを祝福してください」と祈ってしまうことがあります。

そのような祈りも良いものですが、何を祈るべきかわからないときには、聖書の言葉を祈るほうが良いと思います。

今朝、霊的にも精神的にも苦しんでいる人たちのことを思い、パウロの言葉を借りて祈りました。

「天のお父さん、彼女を強め、サタンの攻撃から守ってください。」

「天のお父さん、彼の心を導き、あなたの愛とキリストの忍耐に向けてください。」

「天のお父さん、彼女がたゆまず良い働きを続けられるように助けてください。」

「平和の主よ、どんな時にも、どんな状況でも、彼女に平和を与えてください。あなたが彼女と共におられることを、彼女が知ることができますように。」

「イエス様、彼があなたの恵みをいつも覚えているように。あなたの恵みが彼と共にありますように。」

ところで、あなたの牧師にも、そのような祈りが必要です。きっと、人々がそのように祈ってくれたら、牧師はとても励まされるでしょう。人々が私のためにそのように祈ってくれたら、私もとても嬉しいです。

今日、誰のためにそのような祈りをささげることができるでしょうか。今、誰の名前が思い浮かんでいるでしょうか。

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テサロニケ人への手紙第二のデボーション

神が良い方であることを信じる

ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。(テサロニケ人への手紙第二2:15)

2章を読んだとき、3節にある言葉が私の心を打ちました。つまり、イエス様がこの世に来て、すべての悪を克服し、この世を癒す前に、まず背教が起こるということです。

言い換えると、ある日、かつてイエス様を信じると主張していた多くの人々が、イエス様に背を向けてしまうのです。

ユダは最初の背教者でしたが、多くの人々が彼の模範に従いました。かつて私と共に主に仕えていた人の中にも、今は主に背を向けている人がいます。アメリカでは、かつて有名だったクリスチャンの歌手や牧師たちも背教に陥ってしまいました。

人が主に背を向ける理由はさまざまですが、多くの場合、その根本的な理由は、彼らが真理を拒絶したということです。

つまり、彼らはもはや聖書が神の御言葉であることを信じていないのです。なぜなら、彼らはこの世の考え方に流されてしまったからです。

彼レアは、「良い神」とはどのような方かというこの世の定義に流されていました。

彼らは「良い神」が何を語るはずかというこの世の期待に流されていました。特に道徳に関して、彼らはこの世の価値観に流されていたのです。

そのような態度を持っているため、「不法の人」である反キリストが現れると、彼らは喜んで従うようになります。なぜなら、彼らはすでに真理を拒絶し、偽りと取り替えてしまったからです。

誤解しないでください。聖書に関して疑いや質問があっても、大丈夫です。神様の言葉について「どうして」と尋ねても構いません。

正直に言うと、私が神様とその道を理解できないときもあります。そのような疑いや質問があれば、牧師や成熟したクリスチャンにどうぞ尋ねてください。

しかし、最終的に、私たち皆は選択をしなくてはなりません。あなたは神様が良い方であることを信じるか、信じないか。

神様の御言葉が良いものであることを信じるか、信じないか。

神様の道が最善のものであることを信じるか、信じないか。

「いいえ」と答えるなら、私たちはユダのように背教に陥り、滅びてしまいます。

しかし、「はい」と答えるなら、私たちは喜びと命を知ることになります。

私はすでに選択しました。

神様が良い方であり、神の道が良いものであることを信じることを選びます。

なぜなら、私の人生において、私は神様の恵みといつくしみを見てきたからです。

あなたは何を信じますか。

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テサロニケ人への手紙第二のデボーション

私が実を結ぶことができるように

こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。

それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。(テサロニケ人への手紙第二1:11-12)

天のお父さん、私をあなたの召しにふさわしい者にしてください。私はよく失敗します。善を求め、あなたのために実を結ぼうと思っても、多くの場合、そうできません。

イエス様、あなたはぶどうの木、私は枝です。あなたの力によって、善を求めるあらゆる私の願いを実現してください。

それは、私が周りの人々の称賛を得るためではなく、あなたの御名があがめられ、あなたの父もあがめられるためです。「よくやった。良い忠実なしもべだ」というあなたの言葉を聞きたいのです。

天のお父さん、あなたの恵みに感謝します。私を選び、召してくださったあなたは真実なお方です。(第一テサロニケ5:24)

また、あなたが私のうちに始められた良い働きを完成させてくださると確信しています。(ピリピ1:6)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

私たちのための神のみ心

いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。

これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(テサロニケ人への手紙第一5:16ー18)

多くのクリスチャンたちは、「私のための神の御心は何だろうか」とよく尋ねます。

この箇所でパウロは、神の御心のすべてを教えているわけではありませんが、神様が私たちにどのように生きることを望んでおられるのかを示しています。それは、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことにおいて感謝する」ということです。

しかし、私たちの人生はいつも楽しいものではありません。私たちはしばしば試練に直面します。

では、どうすれば私たちはいつも喜び、すべてのことにおいて感謝することができるでしょうか。苦しいとき、何を喜び、何に感謝することができるでしょうか。

私たちは、神様が私たちをどのように見てくださっているかを思い起こし、それに感謝し、喜ぶことができます。つまり、神様が私たちをご覧になるとき、ご自分の似姿を見ておられるのです(創世記1:26ー27)。

また、私たちは神の祭司とされ、神様は私たちに「主の聖なるもの」という言葉を記してくださっています(出エジプト記36:28;申命記7:6;14:2;第一ペテロ2:5、9)。

そして、神のもの、神の祭司、神の民、神に愛されている子どもとして、私たちはいつでも神様の御前に出ることができます。神様が私たちを拒まれる恐れはまったくありません。

良いときでも、悪いときでも、勝利のときでも、苦しみのときでも、私たちは大胆に天の父に近づくことができます。

これこそが、私たちのための神の御心です。つまり、私たちが一瞬一瞬、神様と共に歩み、神様との関係を喜ぶことです。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

私たちから響き渡る主のことば

主のことばがあなたがたのところから出て。。。響き渡った。。。(テサロニケ人への手紙第一1:8)

天のお父さん、あなたは私を愛し、選んでくださいました。あなたが御霊で私を満たしてくださったので、私に対するあなたの愛に関して、強い確信を持っています。

だから、あなたのことばが私から出て、周りの人々に響き渡るように。

私の言動が、周りの人々に私の信仰を表すように。彼らが、あなたに対する私の愛、また彼らに対する私の愛を見ることができるように。そして、私がどんな苦しみに直面しても、彼らが私の中にあなたの希望が輝いていることを見ることができるように。

私の周りの多くの人々は、あなたを知りません。彼らはこの世に、平安や希望を持っていません。彼らは愛に飢えています。だから、彼らに触れるために私を用いてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

疲れた

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。。。

失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。

ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。(ガラテヤ人への手紙6:2、9ー10)

正直に言うと、上の言葉は私にとって、今ちょっと難しいです。なぜなら、問題解決の目処が立たないとき、相手の重荷を負うのはとても辛いのです。そして、今は、問題解決の目処が立ちそうにありません。

それでも、パウロは言います。「失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。」

でも、自分の力では、私はそのことばに従うことができません。私には、ぶどうの木にとどまることによって生まれる霊的な栄養と憩いが必要です。(ヨハネ15:4-5)

イエス様、私は今あなたを必要としているのです。あなたはブドウの木で、私は枝です。あなたを離れては、私は何もすることができないのです。

あなたは私に、「失望せずに、あきらめずに人の重荷を負いなさい」と言われました。

でも、私は疲れました。だから、私がどのようにあなたに一瞬一瞬とどまることができるかを教えてください。私を強めてください。私を満たしてください。

そして、あなたの臨在で、あなたの恵みと愛によって、私の魂をリフレッシュしてください。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

聖霊によって歩み、導かれ、生き、進む

御霊によって歩みなさい。(ガラテヤ人への手紙5:16)

御霊によって導かれている。。。(18節)

私たちは、御霊によって生きているのなら。。。(25a節)

御霊によって進もうではありませんか。(25b節)

聖霊様、私はたくさんの宗教的なルールを守って頑張ろうとするクリスチャン生活を送ろうとしているのではありません。むしろ、私はあなたとの関係の中で歩んでいます。

聖霊様、あなたのおかげで私は命を持っています。私は霊的に死んでいましたが、あなたの恵みによって、私にいのちの息を吹き込んでくださいました。だから今、あなたによって、私は神の子供として「アバ、父」と叫びます(4:6)。

ですから聖霊様、今日、私を導いてください。あなたがどこへ行かれるのかを教えてください。私の周りで、あなたが何をなさっているのかを教えてください。

今日、私はあなたと歩調を合わせることができるように助けてください。私があなたより先に行かず、あなたに遅れず、あなたと違う道を歩まないように。

むしろ、私があなたの知恵と力によって、あなたと共に歩み、あなたの実を結び、周りの人々にあなたの愛で触れることができるようにしてください。

あなたによって歩み、導かれ、生き、進むという人生がどのように送れるかを教えてください。私はそのような人生をもっと知り、歩みたいのです。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

信仰によって生きる?

これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。

あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。。。

律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。(ガラテヤ人への手紙3:2ー3,11)

信仰によって生きるとは、どういう意味でしょうか。パウロは何を意味したのでしょうか。

たぶん、その意味の基礎は2章20節にあります。

今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

信仰によって生きるとは、この二つのことを信じることから始まります。

1. 神様は実際に私を愛しておられます。

2. イエス様は私の罪のために死んでくださいました。十字架で、イエス様は私の罪の債務を完全に赦してくださいました。

私が初めてその真理を実感したとき、私は深く感動しました。何年もの間、その真理を知ってはいましたが、その日、その真理は私の心に染み渡りました。

多くの人は、クリスチャンになるとき、その真理を信じ、喜びます。しかし、やがて次のような思いが心に入り始めます。

「神様は私にがっかりしているのではないか。」

「私はあまり良いクリスチャンじゃないなあ。もっと良いクリスチャンになるべきだ。」

「私はもっとやるべきだろう。もっと聖書を読んだり、祈ったり、友達にイエス様のことを話したり、神様に仕えたりするべきだろう。」

「私は罪に対してもっと勝利を得るはずなのに。」

「私はもっと良い人間になるべきだ。もっと良い父親。もっと良い母親。もっと良い生徒。もっと良い教会のリーダー。」

そそのような考えが自分の心に浮かぶことがあるでしょうか。

それらは信仰の言葉ではありません。それらは信仰から生まれる喜びの言葉ではありません。

私たちがクリスチャンになったとき、神の愛、イエス様の十字架の働きによる神の受け入れを信じ、喜びました。それなのに、どうしてすぐに、神様の愛と受け入れが私たちの「実績」によるものだと考え始めるのでしょうか。

パウロはガラテヤ人たちにこう言いました。「クリスチャンになるとき、神様があなたがたを受け入れた理由は、あなたがたが割礼を受け、神の律法に従ったからではありません。むしろ、あなたがたがイエス様を信じることによって、神様はあなたがたを受け入れてくださいました。

では、なぜ今、神の律法に従うあなたがたの努力によって、神様の受け入れを得ようとしているのですか。」

あなたはどのようにクリスチャンとしての生活を送ろうとしているでしょうか。信仰によって生きているでしょうか。イエス様があなたを愛し、あなたのためにご自身を与えてくださったことを喜んでいるでしょうか。

もしかすると、あなたが神の愛と受け入れに値することをまだ証明しようとしているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

他の福音?

しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。

私たちが以前にも言ったように、今もう一度、私は言います。もしだれかが、あなたがたが受けた福音に反する福音をあなたがたに宣べ伝えているなら、そのような者はのろわれるべきです。

今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取りとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。

もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。(ガラテヤ人への手紙1:8-10)

ガラテヤの教会は深刻な問題に直面しました。あるユダヤ人たちは彼らに、「モーセの律法を守り、割礼を受けなければ、あなたは救われない」と教えました。

しかし、その教えはパウロが彼らに述べ伝えていた福音とは正反対のものでした。つまり、私たちは神の恵みによってのみ救われるのです。

だから、パウロは彼らにこう言いました。「もし誰かが別の『福音』を述べ伝えるなら、その人は神様に呪われるべきです。私たちの福音はイエス様ご自身から来たものです。

私たちがその福音を変えれば、周りの人々を喜ばせるかもしれませんが、キリストを喜ばせることにはなりません。」

現代では、救われるために割礼を受けなければならないと教える人はほとんどいないでしょう。しかし、他の点では人々は福音を変える誘惑にさらされています。

たとえば、多くの人々は「イエス様を信じても信じなくても、すべての『良い人』は天国に行く」と信じたがります。

また、罪を悔い改める必要性について語ることを避ける人もいます。さらに、神様が「罪」と呼ぶことを「善」と呼び、神様が「善」と呼ぶことを「悪」と呼ぶ人もいます(イザヤ書5:20;ローマ1:24–32)。

私たちがそのような「福音」を述べ伝えるなら、周りの人々は喜ぶかもしれません。しかし、イエス様は喜ばれません。

正直に言えば、キリストの福音を忠実に述べ伝えるのが難しい時もあります。そうすれば、私たちが愛している人々は喜ばないかもしれません。

それでも、神様への愛、そして彼らへの愛をもって、イエス様が私たちに委ねられた福音を忠実に分かち合いましょう。なぜなら、その福音によって、イエス様は私たちを救ってくださったのですから。

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恵み(再び)

私は8年前、この記事を書きました。私が書いた記事の中で、これは最も好きな記事の一つのです。

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列王記第二のデボーション

み言葉に従う前に必要なこと

そのとき、大祭司ヒルキヤは書記シャファンに、「の宮で律法の書を見つけました」と言った。

そしてヒルキヤがその書物をシャファンに渡したので、彼はそれを読んだ。。。

シャファンは王の前でそれを読み上げた。王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を引き裂いた。(列王記第二22:8,10-11)

今週、私はヨハネ15章を反芻しています。そして、神のみ言葉が私たちにとどまるとはどういう意味かを考えていました。

もちろん、神のみ言葉が私たちにとどまるためには、私たちはそのみ言葉を信じ、従わなければなりません。

でも、そのみ言葉を信じて従う前に、もう一つのことをしなければなりません。

私たちは、そのみ言葉を知るべきです。

今日の話では、私たちはその真理を見ます。

神殿の状態は本当にひどいものでした。どうして祭司たちは神の律法の巻物がどこにあるのか、ずっと知らなかったのでしょうか。

ヨシヤは神様に対して柔らかい心を持っていました。神のみ言葉に対するヨシヤの反応は、自分の心を明らかにしました。ヨシヤはそのみ言葉を信じて従いました。

でも、私たちは知らないことを信じて従うことはできません。

あなたは神のみ言葉を知っているでしょうか。

神様の目には、無知は言い訳ではありません。ユダの無知によって、神の怒りと裁きは彼らに下ろうとしていました。

そのように、私たちが神様のみ言葉を信じ、従わなければ、私たちの人生、つまり、私たちの家族やほかの人間関係や経済などは、めちゃくちゃになってしまいます。

でも、私はもう一度言います。信じ、従う前に、神のみ言葉を知らなければなりません。

あなたは毎日、神のみ言葉を読む時間を取っていますか。もしかすると、聖書はあなたの家に、あるいはあなたのスマホに「見当たらない」のではないでしょうか。

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列王記第二のデボーション

神のさばき、神の忍耐

ユダの王マナセは、これらの忌み嫌うべきことを行い。。。

それゆえ、イスラエルの神、主はこう言われる。

見よ、わたしはエルサレムとユダにわざわいをもたらす。だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る。(列王記第二21:11ー12)

マナセ王のことを考えたとき、神様の忍耐とあわれみは私の心をもう一度打ちました。

マナセ王はたぶん、ユダの王たちの中でもっとも悪い王でした。

彼はユダに偶像礼拝を復活させたり、自分の息子をその偶像に捧げて火の中を通らせたり、たくさんの人々を殺したりしました。

ユダヤ人の伝承によると、その時、預言者イザヤは「のこぎりで引かれました。」(へブル11:37)

そういうわけで神様はマナセとユダに判決を下しました。それでも、そのさばきは何年もユダに降りかかりませんでした。

なぜでしょうか。なぜなら、神様の望みは彼らが悔い改めることだったからです。

驚くべきことですが、マナセは最終的に悔い改めました。(歴代誌第二33:10ー13)

あいにく、マナセの息子であるアモンは悔い改めませんでしたが、その孫であるヨシヤは悔い改めたので、ヨシヤが死ぬまで、そのさばきはユダに降りかかりませんでした。

マナセの話を考えて、私は自分への神様のあわれみを思い出しました。

私が神様の目に忌み嫌うことを何度も犯したのに、神様は私をあわれんでくださいました。

神様の忍耐は本当に素晴らしいです。私は心から神様に感謝しています。

ダビデもその忍耐とあわれみを経験して、こう歌いました。

主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。(詩篇103:8)

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列王記第二のデボーション

祈るときの私たちの態度

ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。(列王記第二20:3)

この出来事は、アッシリアの王センナケリブがユダに侵略し始めた後、その軍隊がエルサレムを包囲する前に起こったようです。(20:13と18:14ー16を参考してください。)

私が気づいたのは、ヒゼキヤの祈りの根拠と神様の答えの根拠です。

ヒゼキヤは祈るとき、自分の忠実さを指して、「私は良い人だ」と主張しました。

でも、神様がなぜヒゼキヤを癒し、ユダをアッシリアから救ってくださったのかを説明された時、何と言われたでしょうか。

神様は、「わたしのために、わたしのしもべダビデのため」と言われました。(16節)

簡単に言うと、ヒゼキヤの真実さや善良さではなく、ご自分の栄光のため、また、ご自分のいつくしみ、忠実さ、恵みによって神様はそうしてくださいました。

神様はダビデにいろんな約束をしたので、その約束を忠実に守ってくださいました。

そして、ヒゼキヤを癒し、ユダをアッシリアから救われたことによって、神様はヒゼキヤだけでなく、ユダの人々にも、周囲の国々にも、ご自分の栄光といつくしみと恵みを現されたのです。

この話を読んで、私はこう考えました。

「何によって、私は神様の前に来て祈るのだろうか。自分の忠実さや良い行為を指すのだろうか。私は神様に『私はあなたの祝福に値する』と主張するだろうか。」

もしかすると、私はこう祈るだろうか。

「神様、私はあなたから何も受けるに値しません。でも、私へのあなたのいつくしみや恵みや忠実さによって、私はあなたの前に来て、祈ります。」

そのような心をもって、祈るだろうか。

もし、私たちが「神様の祝福に値する」と思うなら、ヒゼキヤのように、プライドの罠に陥りやすくなります。(12ー19節;歴代誌第二32:24ー25)

「神様が私の願いをかなえてくださることは当たり前だろう。私はふさわしいものだから。私は神様の祝福に値するのだ。」

その反面、神様が私の祈りに「いいえ」と答えると、私たちは怒ってしまいます。

あなたは、何によって神様の前に来て、祈るでしょうか。

自分の善良さを指すのでしょうか。

それとも、神様の恵み、いつくしみ、忠実さによって祈るでしょうか。

天のお父さん、あなたから私は何の良いものに値しません。

それでも、あなたの恵みによって、あなたが私をご自分の子供と呼んでくださり、私は何でも願うことができます。

だから、私はへりくだってあなたの前に来て祈ります。

私の善良さではなく、あなたのいつくしみ、恵み、真実さによって、私は祈ります。

そして、あなたが「はい」と答えても、「いいえ」と答えても、私は、あなたが良い方であり、あなたの道が最善のものであることを信じることを選びます。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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列王記第二のデボーション

何に拠り頼んでいるのか

(ヒゼキヤ)は。。。主の目にかなうことを行った。。。

彼はイスラエルの神、主に信頼していた。

彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。

彼は主に堅くつき従って離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。。。

ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリアの王センナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々に攻め上り、これを取った。。。

ラブ・シャケは彼らに言った。

「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリアの王がこう言っておられる。「いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。」」(列王記第二18:3、5ー6、13、19)

天のお父さん、ヒゼキヤは心を尽くしてあなたに従い、仕えました。それでも、困難は起こりました。そして、敵が来て叫びました。

「いったい、お前は何に拠り頼んでいるのか。」

私はヒゼキヤに共感できます。時々、私は正しいことを行い、あなたに頼り、忠実に仕えようとしますが、それでも困難が起こります。

そして、敵であるサタンが来て、私に叫びます。

「いったい、お前は何に拠り頼んでいるのか。神様なのか。」

サタンは、私があなたを疑うことを望んでいます。彼の動機は悪いものですが、その問いは実際に良いものです。

私はいったい何に拠り頼んでいるのでしょうか。私は本当にあなたに拠り頼んでいるのでしょうか。

試練が訪れるとき、自分自身に頼るのは簡単なことです。つまり、自分の力や知恵に頼るのは自然なことです。

しかし、もしかすると、この試練を通して、あなたは私に、私がどれほどあなたを必要としているかを思い起こさせてくださっているのかもしれません。

ヒゼキヤはエジプトに拠り頼むことをやめ、あなたに拠り頼み始めなければなりませんでした。(イザヤ書30-31章)

天のお父さん、私も、自分自身に頼ることをやめ、あなたに拠り頼む者となるよう助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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根本的な問題

こうなったのは、イスラエルの子らが。。。主に対して罪を犯し(ました。)(列王記第二17:7)

数年前、私はメッセージを聞いたとき、牧師は興味深い質問を訊きました。

「私たちの問題には、いろんな理由があるかもしれません。でも、根本的な理由は何でしょうか。」

7節を読んだとき、その牧師の言葉を思い出しました。

イスラエルが倒れた理由はたくさんありました。

そのころ、アッシリアは大国でしたが、イスラエルは小さな国でした。

ホセア王はアッシリアの王と条約を結びましたが、その条約を破りました。

この二つの理由によって、イスラエルが倒れたことを説明することはできます。

でも、それらは根本的な理由でしょうか。

18章と19章では、ヒゼキヤもアッシリアとの条約を破り、エルサレムはアッシリアの軍隊に囲まれました。

アッシリアはユダ王国よりも強かったのですが、ヒゼキヤが神様の御前にへりくだったとき、神様はエルサレムを救ってくださいました。

その時だけではなく、イスラエルが何度もより強い敵に直面したとき、イスラエルの民が神様を信頼したので、神様は彼らを救ってくださいました。

イスラエルがアッシリアに倒された根本的な理由は、イスラエルの民が神様に背を向け、ほかの神々を礼拝していたからです。

神様とその道に従わず、イスラエルの民は周囲の国々の道を歩みました。

今日の話を読んで、自分の問題について考えました。

私の問題にはさまざまな理由があるかもしれません。でも、最も根本的な理由は何でしょうか。

私の心は神様の目にかなっているでしょうか。私は神様とその道に従っているでしょうか。

それとも、私は自分の道を歩んでいるのでしょうか。

神様が私の罪を指摘されるとき、私は悔い改めているでしょうか。

それとも、ただ言い訳をしているのでしょうか。

天のお父さん、私の心を探り、知ってください。

あなたは私の問題をすべてご存じです。その問題の根本的な理由を現してください。

私がしなければならないことがあれば、悔い改めるべきことがあれば、明らかにしてください。

私があなたを信頼し、従うことができるように助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちが誰ものであるかを思い出す

「アハズは使者たちをアッシリアの王ティグラト・ピレセルに遣わして言った。「私はあなたのしもべであり、あなたの子です。。。」(列王記第二16:7)

この話の背景をもっと知りたいなら、イザヤ書7章を読んでみてください。

アハズがアラムやイスラエルと対立している最中に、イザヤは有名なインマヌエルの預言を語りました。

イザヤ書7章では、神様はアハズにこう語られました。

「私を信じなさい。あなたの敵は成功しない。信じるためのしるしを与える。しるしを求めなさい。」

しかし、アハズは神様を信じることを拒み、しるしを求めませんでした。

むしろ、彼はアッシリアの助けを求めました。その助けを受けたものの、「贈り物」を送らねばならず、結局、アハズの「主」と「父」はイスラエルに敵対することになったのです。

もしアハズがへりくだって神様に向かい、「私はあなたのしもべであり、あなたの子です」と告白していたなら、その結果はどれほど異なっていたことでしょうか。

私は今、自分の問題に直面しながら、神様が私にこう語っておられると感じました。

「あなたが誰のものであるかを覚えていなさい。あなたは私のしもべです。しかし、それだけではなく、あなたは私の愛する子です。私を求めなさい。私を信じなさい。」

そして、神様は私にこの詩篇を思い起こさせてくださいました。

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある強き助け。それゆえ、われらは恐れない。

たとえ地が変わり、山々が揺れ 海のただ中に移るとも。

たとえその水が立ち騒ぎ、泡立っても、その水かさが増し、山々が揺れ動いても。。。

「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる万軍の主はわれらとともにおられる(インマンヌエル)。

ヤコブの神はわれらの砦である。(詩篇46:1ー3、10ー11)

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列王記第二のデボーション

神様の忠実な愛を忘れる、再び

しかし、エホアハズが主に願ったので、主はこれを聞き入れられた。アラムの王の虐げによって、イスラエルが虐げられているのをご覧になったからである。

主がイスラエルに一人の救う者を与えられたので、彼らはアラムの支配を脱した。こうしてイスラエル人は以前のように、自分たちの天幕に住むようになった。

それにもかかわらず、彼らは、イスラエルに罪を犯させたヤロブアム家の罪から離れず、なおそれを行い続け、アシェラ像もサマリアに立ったままであった。(列王記第二13:4-6)

神様の恵みは本当に素晴らしいですね。

エホアハズとイスラエルの民は主に背を向けていたのに、エホアハズが神様の助けを求めると、神様は恵みによってイスラエルの民を助け、アラムから救ってくださいました。

しかし、彼らの生活が元に戻ると、神様のいつくしみに感謝することなく、自分の罪に戻ってしまいました。彼らは神様を捨て、自分の道に戻ったのです。

私たちもまた、自分の罪のゆえに苦しみ、神様に叫び求めるとき、神様は恵みによって私たちを助けてくださいます。

そして、私たちは神の忠実な愛といつくしみを忘れ、神様を脇に置いて、自分の道に戻ってしまうことがあるのです。

私たちの人生が順調なときこそ、神様を忘れないように。また、神様の忠実な愛といつくしみを当然のものと思わないようにしましょう。

パウロの言葉を心に留めておきましょう。

神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。(ローマ書2:4)