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ローマ人への手紙のデボーション

蛇に注意しなさい

今日、私が初めて気づいたことですが、17〜20節では、パウロはエデンの話によく触れていました(創世記3章)。

神様の望みは、アダムとエバが善には聡く、悪には疎くあることでした。

でも、サタンは滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴なエバの心を騙しました。そしてエバは、学んだ教えに背き、サタンの言葉に従い、罪に落ちてしまい、アダムも罪を犯してしまいました。

だから、パウロは私たちに警告します。「蛇に注意しなさい。」

パウロは主に教会の中の偽教師に関して話しています。でも、教会の外にも偽教師がいます。どのように、誰が偽教師であるかわかるでしょうか。

彼らは神の言葉に反することを教えています。

だからこそ、私たちは神様の言葉をよく知らなければなりません。神様の言葉をよく知っていれば、この世の間違った教えに騙されることはありません。

そういうわけで、パウロはローマ人たちにこの手紙を書きました。パウロは、私たちの信仰の基礎を据え、私たちがどのように生きるべきかを教えたいと思いました。

でも、神様の言葉を知っているだけでは、十分ではありません。

私たちはその言葉を信じ、その言葉に従わなくてはなりません。

だから、パウロは一章にあるテーマに戻ります。それは、信仰の従順です(1:5;16:26)。

キリストはすでにサタンに勝利しておられます(創世記3:15)。

イエス様の十字架の働きによって、私たちもその勝利を得るのです(ローマ16:20)。

その真理を覚えて、感謝を持って、毎日聖書を読みましょう。その言葉を信じましょう。そして、その言葉に従いましょう。

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ローマ人への手紙のデボーション

あなたを信じるよ

私の兄弟たちよ。あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています。

ただ、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうために、私が所々かなり大胆に書きました。。。

それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。(ローマ人への手紙15:14-16)

私たちはどれだけ、キリストにある弟たちや妹たちに「あなたを信じるよ」と言うでしょうか。

私たちは彼らにどれだけ、「あなたが、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、人を訓戒し、また、人を祝福することができると確信しています」と言うでしょうか。

もちろん、時々、私たちは彼らに所々大胆に話さなくてはなりません。

時々、私たちは彼らに信仰に関して、根本的な真理を思い起こさせなくてはなりません(ローマ1〜11章)。

時々、私たちは、神様が彼らをどのように生きるように呼んでおられるかを思い起こさせなくてはなりません(ローマ12〜13章)。

時々、彼らが失敗したり、罪に落ちたりして、私たちは彼らに訓戒しなくてはなりません(ローマ14〜15章)。

でも、そのとき、私たちは彼らを見下すことがあるでしょうか。自分が完全に成熟したクリスチャンになったかのように、彼らに関して「その人はまだまだだね」と思うことがあるでしょうか。

もしくは、私たちは彼らのことを信じ続けるでしょうか。聖霊様が彼らの人生に働いて、日々彼らを神に喜ばれるささげ物としてくださっていることを信じているでしょうか。

私たちは、彼らの人生における聖霊様の働きに参加しているでしょうか。

それは、弟子作りです。

イエス様はご自身の弟子たちのためにそうしてくださいました。

パウロはローマのクリスチャンたちのためにそうしてくれました。

そして、私たちはキリストにある弟たちや妹たちのためにそうするように呼ばれています。

聖霊様、神の御国のために人を育てるあなたの働きに参加するように助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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愛によって歩む

今日の箇所の背景と意味をここここで書いています。

でも、今日この箇所を読んだとき、神様は私の心に語り、13ー15の応用をちょっと広げました。つまり、「食べ物」を「行い」として読み替えるように導いてくださいました。

こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。。。

もし(あなたの行い)で、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、

そのような人を、あなたの(行い)で滅ぼさないでください。(ローマ人への手紙14:13,15)

言葉や行いによって、私は人を何度も傷つけたことがあります。

正直に言うと、時々、私は相手が傷つきやすくて過剰反応していると思いました。でも、もし私がその行いを繰り返していたら、私は愛によって歩んでいなかったでしょう。むしろ、私は、キリストが代わりに死んでくださった人を滅ぼしていたでしょう。

だから、私は自分のプライドを捨てて、謝らなくてはなりませんでした。

あなたは、自分の兄弟か姉妹が傷つきやすくて過剰反応していると思ったことがありますか。

それはそうかもしれません。

でも、あなたがその行動をし続けるなら、愛によって歩んでいるのではありません。むしろ、あなたは、キリストが代わりに死んでくださった人を滅ぼしているのです。

私たちはそうしてはいけません。むしろ、

。。。平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。(19節)

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ローマ人への手紙のデボーション

あなたの目には、私の人生が礼拝になるように

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。

そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。(ローマ人への手紙12:1-2)

主よ、あなたは私にあわれみを注いでくださいました。だから、毎日、私の人生をあなたに捧げたいです。

私のすべての思い、すべての言葉、すべての行為があなたの目にかなうように。あなたの目には、私の人生が礼拝になるように。

どうか私の心を新たにしてください。私があなたのように考えるように助けてください。あなたの目には何が良いのか、何が喜ばれるか、何が完全なのかを知りたいのです。

私の人生はあなたのものです。私はあなたのものです。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ローマ人への手紙のデボーション

誇る理由はありません

あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。

すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。

そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。

思い上がることなく、むしろ恐れなさい。(ローマ人への手紙11:18-20)

今日の箇所では、パウロは異邦人のクリスチャンたちに向かって話しています。彼らは自分の救いに関して誇り、ユダヤ人たちにこう言っていたようです。

「あなたたちはかつて神の民だったかもしれないが、今や、私たち異邦人たちは神の民です。」

でも、パウロは彼らに言いました。

「あなたたちがユダヤ人たちより優れているかのように誇ってはなりません。神様の恵みだけによって、あなたたちは神様の民になったのです。

イエス様は根です。そして、恵みだけによって、イエス様はあなたを支えてくださっているのです。

あなたたちが素晴らしい人たちだから、神様の民になったわけではありません。むしろ、あなたたちは自分の弱さと救いの必要性がわかったから、イエス様を信じたのです。

そして、恵みによって、神様はあなたたちを自分の家族に受け入れてくださいました。だから、あなたたちはいったい何を誇っているのでしょうか。」

たぶん、「私たちはユダヤ人たちよりも優れている人」と自慢するクリスチャンたちは今あまりいません。でも、ほかのクリスチャンよりも、自分が優秀なクリスチャンだと考えることがありますか。

「私はその人よりも成熟したクリスチャンです。

私はその人よりも聖書のことをよく知っています。

私はたくさんの霊的な賜物をいただいています。

神様は私を用いてくださっています。

でも、その人は、そのようなクリスチャンではありません。」

使徒ペテロの態度は私を驚かせました。ほかのクリスチャンたちに書いたとき、こう言いました。

私たちの信仰と対等の信仰を受けた方々へ」(第二ペテロ1:1、別訳)

ペテロは、「私は使徒ですから、私の信仰があなたのよりも優秀なものだよ。だから、私を尊敬をしなくてはならない。」と言いませんでした。

むしろ、ペテロはこう言いました。「神様の目には、あなたの信仰は私たちの信仰と対等なものです。」

どうして、ペテロはそう言ったのでしょうか。なぜなら、ペテロは、自分が根を支えずに、根が自分を支えてくださっていることが分かったからです。

彼の救いは、自分の義によるものではなく、むしろ、キリストの義によるものだと分かりました。(第二ペテロ1:1b)

だから、その謙遜な態度を取りましょう。ほかのクリスチャンたちを見下さずに、私たちの信仰と対等な信仰を受けた人たちとして考えましょう。

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理解できないけれど、感謝しています

「わたしは、わたしの民でない者をわたしの民と呼び、愛されない者を愛される者と呼ぶ。

あなたがたはわたしの民ではない、と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」(ローマ人への手紙9:25-26)

主よ。私はいろんな意味であなたの道が理解できません。

どうしてあなたがある人をあわれんでくださるけれど、ある人を頑なにされるのか、私は理解できません。つまり、私たち皆が罪人で頑なな心を持っているのです。どうして私たち皆を裁かれないのでしょうか。

あなたがどうしてエサウではなく、ヤコブを選ばれたのか、私は理解できません。実のところ、ヤコブもエサウも欠点が多い人たちでした。どうして、そんなに欠点の多い人をイエス様の先祖になるために選ばれたのでしょうか。

どうしてあなたがファラオとエジプト人を裁かれても、イスラエル人たちをあわれんでくださったのか、私は理解できません。エジプト人たちもイスラエル人たちも何回もあなたを拒絶しました。

どうして紅海であなたがエジプト人たちだけではなく、イスラエル人たちをも滅ぼされなかったのでしょうか。

そして、どうしてあなたが私を選んでくださったのか、私は理解できません。私はソドムとゴモラのように滅ぼされるのがふさわしいのです。

でも、なぜか、あなたは私を選び、愛し、自分の民になるように召し、自分の子供としてくださいました。

私は理解できません。でも、私はとっても感謝しています。

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神の律法の弱点

肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。

神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。

それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。(ローマ人への手紙8:3ー4)

今週、ヤイロの娘と長血をわずらっている女の人の話を考えていました。(マルコ5章)

私が気づいたのは、神様の律法は、死体や長血をわずらっている女の人を汚れているものと呼ばれるということです。(レビ記15:25ー32;民数記19:11ー13)

また、律法によれば、汚れているものに触れる人自身も、汚れているものになりました。

でも、律法ができなかったのは、汚れているものを清めることです。

律法はその女の人を癒すことができなかったし、ヤイロの娘を復活させることもできませんでした。

でも、律法ができなかったことを、イエス様はしてくださいました。イエス様はその女の人を癒し、ヤイロの娘を復活させてくださいました。そうすることで、イエス様はその女の人とヤイロの娘を清めてくださいました。

そのように、神様の律法は罪を汚れているものと呼び、罪に触れる人を汚れているものと呼ぶことができました。でも、律法は私たちを清めることができないし、私たちに命を与えることもできません。

それは、律法の弱点です。

でも、律法ができないことを、イエス様はしてくださいました。イエス様は十字架で死んでくださって、私たちの罪を清め、私たちに命を与えてくださいました。

私たちがしなくてはならないのは、一つのことだけです。ヤイロとその女の人のように、イエス様を信じることです。

彼らの信仰によって、その女の人とヤイロの娘は救われました。そのように、私たちの信仰によって、私たちも救われました。

だから、パウロと一緒に喜びましょう。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(1節)

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真のクリスチャンは。。。

真のクリスチャンたちは、罪との戦いに入っています。

クリスチャンになったからといって、私の罪との戦いが終わるわけではありません。私はよく誘惑されています。誘惑に勝つときも、負けてしまうときもあります。

真のクリスチャンたちは、罪を愛するのではなく、罪と戦おうと思います。

私は神の律法が良いものだと疑いません。むしろ、私はその律法を喜び、律法に従おうと努めています。だから、毎日、私は自分の罪と戦います。それでも、私は自分の失敗をよく知っています。

真のクリスチャンたちは、自分の罪を敵と見なします。

だから、私は行ってしまう悪を憎んでいます。また、私は、したいと願う善を行わないとき、フラストレーションを感じます。

真のクリスチャンたちは、自分の罪を見ると、苦しみます。

罪を犯すと、私はその罪を悲しみます。私は悔い改めます。私は本当に自分の罪を捨てたいのです。また、私は、自分の罪をすべて捨てて、イエス様のようになる日を待ち望んでいます。

真のクリスチャンたちは喜びます。

なぜなら、私はイエス様にあって希望を持っているからです。私は罪に定められることは決してありません。むしろ、イエス様の十字架の働きによって、私は神の子供として受け入れてくださいました。

ハレルヤ!

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ローマ人への手紙のデボーション

神との平和

最近、マルコ5章からのメッセージを準備していたので、今日の箇所を読んだとき、イエス様が癒してくださった女の人を連想しました。(マルコ5:25~34)

その女の人は、十二年の間、長血をわずらっていました。その病気のせいで、彼女はのけ者になって、神殿や会堂で神様を礼拝することができませんでした。

でも、信仰をもってイエス様に手を伸ばして触ると、彼女はすぐに癒されました。

そのとき、イエス様は彼女に言いました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して(別訳:平安のうちに)行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」(マルコ5:34)

信仰によって、その女の人は神様の前に義と認められました。だから、彼女は神との平和を持ち、神様に近づくことができるようになりました。

そして、その十二年間の苦しみを振り返ると、彼女は希望を持っていました。なぜなら、神様は愛を彼女の心に注いでくださったからです。

その人の人生は、私たちの人生の描写です。私たちは神様から離れていましたが、信仰によって神との平和を持ち、神の息子たちや娘たちとして神様の前に立っています。

以前、私たちは恥を持って神の栄光を受けることができず、自分の罪によって神様から離れていました。(ローマ3:23)

でも今、恵みによって神の愛している子供たちとして、神の栄光にあずかる望みを喜び、神様に近づきましょう。(ローマ5:2)

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自分の信仰が強められる

不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。(ローマ人への手紙4:20-21)

その言葉を読んで、私は「誰によってアブラハムの信仰は強められたのだろうか」と考えました。

私がいつも思っていたのは、アブラハムが自分の信仰を強めたということです。でも、実際のところ、アブラハムの信仰を強めたのは神様でした。

アブラハムは二回、神様がどうやって自分に男の子を与えるという約束を守ってくださるのだろうかと考えました。神様は二回、アブラハムとの約束を再確認されました。

そして、二回、神様の言葉によってアブラハムの信仰が強められ、アブラハムは神様を信じようと思いました。(創世記15:1~6、17章)

主よ、私の信仰が揺らぐ時もあります。あなたの恵みによって、私のことを諦めないことを感謝します。

私の信仰を強めてください。アブラハムにあなたの良い約束を思い出させたように、私にも思い出させてください。

それは、永遠のいのちという約束です。(ヨハネ3:16)

それは、あなたが私と共におられ、私に力を与えてくださるという約束です。(使徒の働き1:8、へブル13:5)

それは、あなたが私の人生に始められた良い働きを完成させてくださるという約束です。(ピリピ1:6)

また、それは、天に蓄えられている遺産という約束です。(ヨハネ14:2~3)

主よ。あなたは良い方です。あなたはいつもご自分の約束を守ってくださいます。私は、あなたには約束したことを実行する力があると確信しています。

だから、あなたの恵みによって、今日だけではなく、毎日、私はあなたを信じます。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ローマ人への手紙のデボーション

裁判官の立場を取っていませんか

いろんな意味で、パウロの言葉はイエス様の戒めに似ています。つまり、「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」(マタイ7:1~5)

でも、その言葉はどういう意味でしょうか。

多くの人々はその言葉を引用し、「私の罪を指摘してはいけない。私の行為を『罪』と呼ぶな。」と言います。

でも、イエス様とパウロはそう教えていません。

むしろ、彼らが言っているのは、「自分に罪がないかのように人々を裁いてはいけません。回りの人々の罪を指摘する前に、自分の罪を見て、悔い改めなさい。」ということです。

そうすれば、どうなるでしょうか。

私たちは謙虚になります。自分の罪をよくわかっているので、回りの人々の罪を見ても、偉そうな態度を取ることができません。

それに、私たちに対する神の豊かないつくしみと忍耐と寛容がわかっているので、回りの人々を見ると、私たちはそのような態度を取ります。

最後に、回りの人々の罪を見るとき、私たちは単に相手を責めずに、むしろ、その人が私たちのように悔い改めて、神様との関係が回復するように望みます。

でも、私たちが自分の罪を認めず、悔い改めないなら、どうなるでしょうか。

私たち自身が神様に裁かれます。

もう一度言いますが、単に人の罪を指摘するのは、人を裁くことではありません。自分の罪を認めないと、その人は悔い改めることができないからです。

でも、情け深い心を持たずに、ただ人を責めているなら、私たちはイエス様の心を忘れてしまっています。イエス様の使命をも忘れてしまっています。

それは、人々を裁くことではなく、むしろ、人々を救うことです。(ヨハネ1:17)

神様の豊かないつくしみによって、私たちは悔い改めに導かれて、救われました。

人々が私たちを見ると、神の豊かないつくしみを見ることができるでしょうか。

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ローマ人への手紙のデボーション

互いに励まし合う

私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。

というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。(ローマ人への手紙1:11ー12)

今朝、パウロの言葉に私の心は打たれました。私はパウロの心がよくわかります。

毎週の日曜日、教会に行くとき、私は、神様が私を用いて、誰かに触れてくださるように祈ります。

でも神様は、私も他のクリスチャンから強められ、励まされることが必要だと、よくご存知です。

クリスチャンたちが信仰をもって神様を賛美し、喜んで神様に仕える姿を見ると、私は励まされます。

また、彼らが自分の人生に神様がどのように働いておられるかを分かち合うとき、そして彼らを祝福した聖書の箇所を分かち合うとき、私は励まされます。

もちろん、彼らが私のために祈ってくれるときも、私は励まされます。

あなたはどうですか。あなたもそのように感じているでしょうか。

もしそうなら、毎週の日曜日、パウロの態度を取りましょう。互いの信仰によって、毎週励まし合いましょう。

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ユダの手紙のデボーション

神の愛のうちに自分自身を保つ

神の愛のうちに自分自身を保ち(なさい)。(ユダの手紙21)

今朝、私はその言葉を反芻しました。「神の愛のうちに保つ」とは、どういう意味なのでしょうか。

私たちへの神の愛は変わることはないでしょう?

もちろん、私たちへの神の愛は変わりません。けれども、放蕩息子のように、私たち自身が神の愛から立ち去ることはあり得ます。

では、私たちはどのようにして神の愛から立ち去るのでしょうか。

それは、自分の道を選び、神様の恵みを放縦へと変え、神様に従わずに、自分の欲望のままに生きるときです。

また、私たちは主に逆らい、暴言を語ります。神の愛や正義、そして神の良い性格を疑います。その結果、私たちは神様に従うことに価値があるのかどうかを疑ってしまいます。

しかし、私たちはそのように生きないように気を付けるべきです。

むしろ、自分のアイデンティティーを心に留めておきましょう。

あなたは神に選ばれた子供であり、神の祭司です(第一ペテロ2:9)。あなたは神に愛された民であり、イエス様によって、またイエス様のために守られています。(1節、その脚注も参照してください。)

だから、私たちは信仰の土台の上に自分自身を築き上げるべきです。そして、イエス様を私たちの善き支配者、主として認めましょう。毎日、イエス様を信頼し、従うことを学びましょう。

さらに、聖霊様とともに歩み、語り合いましょう。私たちの思いや行動に関して、聖霊様の導きに従いましょう。

そうするなら、私たちは神の愛にますます深く根ざすことができるのです。

その結果、神の愛、イエス様の恵みと憐れみ、そして聖霊の交わりが私たちとともにあります。(第二コリント13:13;ユダ20-21)

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ヨハネの手紙第二のデボーション

真理と愛のうちに歩む

聖霊様、毎日、私が真理のうちに歩むように。

聖霊様、あなたは真理です。(第一ヨハネ5:6)

この世は、神の真理を捨ててしまいました。その代わりに、多くの人々は勝手に自分の真理を作ろうとしています。

でも、聖霊様、私がキリストの真理、つまりキリストの教えにとどまるようにしてください。

すべての真理へと導いてください。毎日、キリストが教えられたすべてのことを私に思い起こさせてください。(ヨハネ14:26、16:13~15)

そして、私がその教えに従うように助けてください。天の父に喜ばれる人生を送りたいのです。

特に、私が毎日、愛のうちを歩むことができるように助けてください。私が神様と周りの人々を愛することができるように助けてください。

あなたが私のうちにとどまり、いつまでも私とともにおられることを感謝します。(ヨハネ14:16~17)

この平和のない世界にあって、私は恐れません。なぜなら、あなたは私と共におられるからです。(ヨハネ14:26~27、16:5~7)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの手紙第一のデボーション

神を偽り者としている?

神を信じない者は,神を偽り者としています。(ヨハネの手紙第一5:10)

その言葉は私の心を打ちました。

神を信じないと、私たちは神を偽り者と呼んでいます。

エデンで、サタンは神を偽り者と呼び、アダムとエバに神様を偽り者と呼ぶことを教えました。(創世記3:3-6)

神の言葉が時代遅れか間違っていると主張すると、私たちは神を偽り者と呼んでいます。

たぶん、多くの人にとって、最も受け入れがたい神の教えは、イエス様だけによって、私たちが神様との関係や永遠の命を得ることができるということです。(ヨハネ14:6)

特に、私たちは神様を知らない愛している人たちを考える時、その真理を信じたくないのです。

私たちは「ほかの道があるはずだ」と考えます。

でもそのようなことを言うと、私たちは神を偽り者と呼んでいます。

ヨハネによれば、水や血や御霊によって、神様は自分の神子が救いの道であると証しをしています。

イエス様がバプテスマを受けた時、神はイエス様のこととその使命に関して証しをしました。(ヨハネ1:29-34)

十字架で、イエス様の血はアベルの血よりもすぐれたことを語りました。(ヘブル12:24)

アベルの血は復讐を叫んでいました。(創世記4:10-11)

イエス様の血は「父よ、彼らをお赦しください」と叫びました。(ルカ23:34、ヨハネ19:34-35)

天の父はその願いを聞き、神殿の幕を裂いて、神様への道を開いてくださいました。(マタイ27:50-51)

そして、五旬節の日、御霊はイエス様の働きに関して証しをし、今なお証しをしています。(使徒の働き2:16-21、ヨハネ15:26、16:7-10、ローマ8:14-17)

だから、その証しを拒絶し、「ほかの道があるはずだ」と言うと、私たちは神様を偽り者と呼んでいます。

私たちは神様とその言葉を疑うことがありますか。

神のみ言葉を曲げないように。特に救いに関する神の言葉を曲げないように。

むしろ、その証しをしっかり握りましょう。そして、私たちの愛している人たちがイエス様を知り、救われるために、その証しを伝えましょう。

その救いを見て、私たちの喜びは本当に満ちあふれます。(第一ヨハネ1:1-4)

その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。

御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(ヨハネの手紙第一5:10-11)

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創世記のデボーション

正しくて、全き人

主は地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。

それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。。。

しかしノアは主の心にかなっていた。。。

ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。

ノアは神とともに歩んだ。(創世記6:5-6,8-9)

ノアのように、私たちは人の悪が増大している世界に生きています。人々の心に図ることがみな、いつも悪に傾いているようです。だから、私たちの主は悲しんでおられます。

でも、今日の箇所を読んだとき、ノアの名前の代わりに自分の名前を入れようと思いました。

「ブルースは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ブルースは神とともに歩んだ。」

正直に言うと、自分の罪や失敗を見ると、神様が私を正しくて全き人と呼ぶのは、想像しにくいです。「私は本当に主の心にかなっているだろうか」と思います。

でも、神様が私に思い出させてくださったのは、私が正しくて全き人と呼ばれている理由は、私が完全な人だからではなく、むしろ、私がただ神様と共に歩み、神様を信頼し、神様に従い、私の主であり創造主としてあがめ、神が良い方であることを信じているからなのです。

私は完全な人ではありませんが、イエス様が私の罪のために十字架で死なれ、私の罪を清め、私にイエスの義を着せてくださったので、神様は私を正しくて全き人と呼ぶことができます。(エペソ1:4、コロサイ1:22)

神様の恵みは本当に不思議だと思います。

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ヨハネの手紙第一のデボーション

闇の中を歩むか、光の中を歩むか

ヨハネの手紙第一3:4~10節は、とても難しい箇所です。その言葉によって、多くのクリスチャンが自分の救いを疑います。なぜなら、その言葉は、罪を犯す人がクリスチャンではないと教えているように見えるからです。

しかし、ヨハネはそのように教えているわけではありません。ヨハネによれば、すべてのクリスチャンは罪を犯します。(ヨハネの手紙第一1:8~10、2:1)

では、ヨハネの言葉はどういう意味なのでしょうか。その答えは、1:6~7にあると思います。

神の真の子供は、闇の中を歩まず、光の中を歩みます。なぜ、彼らはそうするのでしょうか。

それは、彼らが神様を愛し、神様が良い方であると信じ、天の父のようになろうと努めるからです。

闇の中を歩む人は、そのように考えません。むしろ、彼らには神様に対する根深い不信感があります。彼らは、神の良い性格と良い戒めを疑います。

彼らの心の中では、こう言っています。「あなたがそのような神なら、あなたが本当にそのように考えているなら、私はあなたとは関わりたくありません。」

それは、サタンの態度でした。

サタンはエデンで、その態度を人間に伝えました。

現代でも、多くの人々がそのように考えています。

そのような人々は、イエス様とその御父を見たこともなく、知ってもいません。

真のクリスチャンは、そのように考えません。真のクリスチャンは、そのような態度で神様と歩むことはできません。

真のクリスチャンは罪に落ちるかもしれませんが、神様の光がその罪を現すと、そのクリスチャンはすぐに悔い改めます。彼らは言い訳をしません。彼らはその罪を正当化しようとしません。また、彼らは神様の良い性格や戒めを疑いません。

だから、疑問は、私たちが罪を犯すかどうかということではありません。疑問は、私たちが光の中を歩んでいるか、闇の中を歩んでいるかということです。

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩み、罪を告白し、悔い改めるなら、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(1:7)

そして、たとえ自分の心が責めたとしても、神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じです。神様は私たちの愛と、神様を喜ばせようとする心をご存じで、私たちを受け入れてくださいます。

だから、ヨハネと一緒に喜びましょう。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。(1節)

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ヨハネの手紙第一のデボーション

神様と歩む

ヨハネの手紙第一1―2章を読んで、私は神様と歩むとはどういう意味かを考えていました。

たくさんの人々は、神様と歩むと主張します。ヨハネの言葉を借りれば、彼らは神様を知り、神と交わりがあると主張します。

でも、神様を知り、神と交わりがあるとはどういう意味でしょうか。

ヨハネがはっきりと言っているのは、私たちが闇を歩んでいるなら、神と交わりがあると主張することはできないということです。

残念なことですが、たくさんの自称クリスチャンたちはそのような生活を送っています。彼らはみことばを読むと、好きな箇所は受け入れるけれど、好きではない箇所はあっさりと捨ててしまいます。

でも、神様と歩む人は、神様の戒めと道のすべてが良いと信じます。だから、彼らはそれらを抱きます。彼らは神のみことばのすべてを尊重します。彼らの心は神様に属し、彼らはイエスが歩まれたように歩もうと思います。(ヨハネの手紙第一1:5~6、2:3~6)

とはいえ、光の中を歩むとは、私たちが罪のない人生を送ることを意味しません。

しかし、神の光が私たちの罪を明らかにするとき、私たちは言い訳をせずに、その罪を告白し、悔い改めます。

その時、サタンが私たちを責めようとするかもしれません。でも、イエス様は私たちの隣に立って擁護してくださいます。そして、イエス様の血によって、私たちはすべての罪から清められ、神様の怒りはなだめられます。(1:7、2:1~2)

どうして私たちは赦されているのでしょうか。私たちが真実だからですか?違います。神様が真実だからです。(1:9)

どうして私たちは受け入れられているのでしょうか。私たちの義のためですか?違います。イエス様が義なる方だからです。(2:1)

そして、イエス様はご自身の義の衣を私たちに着せてくださいます。

だから、闇の中を歩まないようにしましょう。

また、神の怒りと裁きを恐れて、光に入ることを恐れないようにしましょう。

むしろ、光に入りましょう。いや、光に向かって走りましょう。神様を抱きましょう。神の道を抱きましょう。そして、神様に愛されている子供として、毎日神様の恵みによって歩みましょう。

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ペテロの手紙第二のデボーション

私たちの堅実さを失う

ですから、愛する者たち。あなたがたは前もって分かっているのですから、不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失わないよう、よく気をつけなさい。(ぺテロの手紙第二3:17)

私たちは、どのようにクリスチャンとしての堅実さを失ってしまうのでしょうか。

もっとも簡単な方法は、神様の良いご性質を疑うことです。

例えば、2章にある偽教師たちのように、私たちは神の戒めが私たちのためになるものなのかを疑い始めます。むしろ、私たちは、その戒めを捨てると自由を知ると考え始めます。(2:19)

また、3章にある嘲る者たちのように、私たちは神様の忍耐を不正と取り違えます。イエス様がこの世に帰られることを疑うゆえに、聖なる敬虔な生き方をすることに価値があるかどうかを疑います。

私たちがクリスチャンとしての堅実さを失わないように。

むしろ、この確固とした真理にしがみつきましょう。それは、神様は良い方であるということです。

そして、毎日、私たちに与えてくださる神の恵みを喜び、私たちの主をもっと知ろうとしましょう。

ペテロの言葉を借りれば、

私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。(18節)

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ペテロの手紙第二のデボーション

神のみ言葉に目を留める

また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。

夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。(ぺテロの手紙第二1:19)

「(そのみことば)に目を留めているとよいのです。」

その言葉が私の目に留まりました。🙂

多くの人々は神のみことばを軽んじます。なぜでしょうか。なぜなら、彼らは聖書が実際に神のことばであることを信じていないからです。むしろ、彼らは聖書を人の言葉や発想と見なします。

もちろん、神様は人々を通して語られました。でも、ペテロはそのプロセスについてこう言いました。

ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。

預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。(20ー21節)

ペテロは、ただのディクテーションについて話しているのではありません。むしろ、聖霊の導きによって、人々は、神様が伝えようとする真理を自分の言葉で表明しました。

イエス様は何度もそのみことばの真実性を断言し、私たちがそのみことばを信じなければならないと主張されました。(マタイ5:17~19;ヨハネ5:39、46;10:34~36;ルカ24:25~27)

あなたは、聖書をどのように見なしているでしょうか。ただの人の言葉と見なしているでしょうか。それとも、神のみことばと見なしているでしょうか。

真理がだんだん霞んでいくようなこの世界において、神様のみことばは光のように輝きます。

そして、私たちの明けの明星であるイエス様がこの世に帰られる日まで、そのみことばは私たちを導きます。

そのみことばに目を留めているとよいのです。

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ペテロの手紙第一のデボーション

バビロンに寄留者として生きる

 あなたがたとともに選ばれたバビロンの教会。。。あなたがたによろしくと言っています。(ペテロの手紙第一5:13)

私の教会の夏のメッセージ・シリーズで、牧師はダニエル書から教えていました。そして、私が第一ペテロを読んだとき、考えたのは、「ペテロは、この手紙を書いたとき、ダニエルの話を考えていただろうか」ということです。

ペテロは、その読み手を寄留者と呼びました。(1:1、2:11)

同じように、ダニエルはバビロンに寄留者として生活しました。ペテロ自身は、自分がバビロンにいると言いました。

(ちなみに、ペテロの時代、クリスチャンたちはローマをバビロンと呼ぶことがよくありました。)

また、ダニエルは生ける望みを持っていました。つまり、復活の望みを持っていたということです。(ダニエル書12:2、13;第一ペテロ1:3)

ダニエルの友達の信仰は、文字通り火で精錬されました。(ダニエル3章;第一ペテロ1:7)

ダニエルの信仰も試され、文字通り吼えたけるライオンに直面しました。(ダニエル6章;第一ペテロ5:8)

主は、ダニエルとその友たちの祈りを聞かれ、その敵に反対されました。(ダニエル書1~3、6;第一ペテロ3:12)

主は、ダニエルとその友達を高く上げられ、高ぶっている王たちを低くされました。(ダニエル1~5;第一ペテロ5:5~6)

ダニエルとその友達が何も悪いことをしていないのに苦しんだとき、まるでペテロの手紙を読んでいたかのようにふるまいました。(第一ペテロ2:12~20、3:13~17、4:12~19、5:6~10)

最後に、ダニエル書では、この暗い世界においても、神様がなお治めておられるという素晴らしい真理を見ることができます。(ダニエル2:44、4:34、6:26、7:13~14、27;第一ペテロ4:11、5:11)

この世では、私たちはただの寄留者です。私たちはこの世界に属していません。そして、この壊れた世界で私たちは苦しむこともあります。でも、私たちの試練や苦しみの中で、ペテロとダニエルから学びましょう。

つまり、

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。

堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。(第一ペテロ5:6-11)

 

 

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ペテロの手紙第一のデボーション

不公平

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは。。。あなたがたを神に導くためでした。(ぺテロの手紙第一3:18)

「不公平だ!こんなこと許されない!」

そのような言葉を言ったことがあるでしょうか。私にはあります。

でも、18節を読んだとき、私が気づいたのは、イエス様が最大の不公平を受けていたということです。

イエス様は義人でした。彼は罪を犯したことがありませんでした。それでも、十字架で、イエス様は私たち罪人のために苦しみました。私たちの罪のために苦しみました。

どうしてでしょうか。

私たちを神様に導くためです。

でも、イエス様がただ「公平さ」だけを考えていたとしたら、私たちはどうなっていたでしょうか。

イエス様がそのように考えていなくて、本当に良かったですね。

むしろ、イエス様は私たちのことを心配してくださいました。

イエス様は、天の父と私たちとの関係が回復されることを望まれました。

だからイエス様は、「公平さ」への関心を脇に置かれました。

主よ、人々が私を不公平に扱うとき、私があなたの態度を取るように助けてください。彼らに対するあなたの愛と心配を私に与えてください。

あなたが十字架で苦しんでいた時、私に模範を残されました。私があなたの足跡に従うようにしてください。(第一ペテロ2:21~23)

私が悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、平和を求めるように助けてください。

私を傷つけた相手と私との平和だけではなく、その人とあなたとの平和をも求めるように助けてください。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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ペテロの手紙第一のデボーション

イエス様の血を注がれた者たち

選ばれた人たち、すなわち。。。イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。(ペテロの手紙第一1:1-2)

ペテロがその言葉を書いた時、たぶん、出エジプト記24章7~8節を思い浮かべていたのではないでしょうか。そのとき、イスラエル人たちは神様が記された契約に同意して、こう言いました。

主の言われたことはすべて行います。聞き従います。(出エジプト機24:7)

それを聞いて、モーセは雄牛の血を取って、イスラエル人たちに振りかけ、こう言いました。

見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。(出エジプト記24:8)

イスラエル人のように、私たちはイエス様に従うように選ばれました。

イスラエル人のように、私たちはしばしば神様に従うように誓います。

そして、イスラエル人のように、私たちはその誓いをよく破ってしまいます。

しかし、イスラエル人たちが、自分たちを清める力のない雄牛の血で振りかけられたのに対して(ヘブル10:4)、私たちは、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの尊い血によって振りかけられました。(19節)

その血によって、私たちは清められ、罪は赦されています。(マタイ10:28;第一ヨハネ1:7)

そういうわけで、私たちは恵みと神様との平和を受けています。けれども、それはただの恵みと平和ではなく、豊かな恵みと平安です。(2節)

あなたはクリスチャンとして、基準に達していないと感じていますか。

あなたの希望は、神様に従う自分の力に基づいているものではありません。

むしろ、あなたの希望は、イエス様が現れるときに与えられる恵みに基づいています。(13節)

だから、その日が来るまで、喜びを持って、イエス様について行き、歩み続けましょう。

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ヤコブの手紙のデボーション

イエス様はこの世に帰って来られるから

いろいろな意味で、5章ではヤコブは1章のポイントに戻っています。1章では、ヤコブは試練に直面していた人々を励ましていました。

そして、5章では、ヤコブの要点はイエス様がこの世に帰って来られることです。

そのとき、イエス様は不義を行う人々、また、私たちに傷をつけた人々を裁かれます。(ヤコブの手紙5:1-6)

だからヤコブは、私たちを励ましています。「正義はこの世に来ます。だから、忍耐をもってその正義を待ち望みましょう。ヨブや預言者たちが待ち望んだように、主を待ち望みましょう。そうすれば、やがて神様が良い方だとわかるようになります。」(7-11節)

だから、イエス様が帰って来られるまで、良い時でも悪い時でも、イエス様から目を離さず、イエス様に信頼を寄せましょう。(13節)

また、あなたもイエス様に裁かれるので、自分の行いに注意しなくてはなりません。特に、人間関係における行いに注意しなくてはなりません。(9、12節)

最後に、私たちが苦しんでいる時、私たちは一人で戦う必要がないことを覚えておくべきです。だから、クリスチャンの兄弟姉妹の助けを頼みましょう。また、彼らが苦しんでいる時、特に信仰を失いかけているような時には、彼らを支えましょう。(14-20節)

あなたは今、苦しんでいるでしょうか。ダビデ王とともに歌いましょう。

わたしは信じます、生ける者の地でわたしは主の恵みを見ることを。

主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め。(詩篇27:13-14,口語訳)

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ヤコブの手紙のデボーション

自由をもたらす律法に従う歩み

自由をもたらす律法によってさばかれることになる者として、ふさわしく語り、ふさわしく行いなさい。

あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。

あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。(ヤコブの手紙2:12-13)

主よ、あなたは、自由をもたらす律法、つまり、愛とあわれみの律法に従って生活するように私を召されました。

だから、私が周りの人々に愛とあわれみを与える人になるように。そして、私がその愛とあわれみを与えるにつれて、彼らが解放されるように。

彼らが劣等感から解放されるように。彼らが自分がほかの人々よりも価値がないという考えから解放されるように。(1-4、6節)

でも、それよりも、彼らが罪の鎖から解放されるように。彼らが罪の恥から解放されるように。また、彼らがあなたの裁きの恐れから解放されるように。(ローマ6:5-7、第一ヨハネ4:17-18)

私が周りの人々にあなたの愛とあわれみを与えるにつれて、彼らが神の子供たちの栄光の自由を知るように。(ローマ8:21)

私は完全な信仰を持っていると主張するかもしれないけど、愛がなければ、特に、私の言葉や行いによって表れる愛がなければ、その「信仰」は無益です。私は無に等しいのです。(14-26節、第一コリント13:2)

だから今日、また、毎日、私の人生が、あなたが私に与えてくださった愛とあわれみで特徴づけられますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヤコブの手紙のデボーション

試練の中での私たちの態度

私たちの生活はいつも楽なものではありません。私たち皆は苦しみと試練を経験します。でも、この箇所では、ヤコブは、私たちがどのような態度を持つべきか教えています。

どんな態度を取るべきでしょうか。

1. 神様が良い方であることを覚えていましょう。

神様が私たちを倒そうとしているわけではありません。(ヤコブの手紙1:13)

神様は気まぐれな方ではありません。神様が一瞬間に私たちに優しくして、次の瞬間に理由なく私たちに怒っている、というわけではありません。私たちが忠実でなくても、神様はいつも忠実です。(17節)

神様が私たちの人生に試練を許しても、神様の目的は、私たちが何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となることです。(4節)

そして、私たちの人生が終わり、私たちの最後の試練を通過した後、神様は、神を愛している私たちに、いのちの冠を与えてくださいます。(12節)

そういうわけで、

2. 神様を信頼しましょう。

神様の目的は、私たちが何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となることですが、試練の時、私たちが知恵に欠けているときもあります。

だから、ヤコブは、「神様に求めなさい」と言います。そして、神様は惜しみなく、とがめることなく与えてくださいます。でも、神様に求めるとき、信仰の心を持つべきです。(8節)

信仰の心とは何でしょうか。以前にも言いましたが、神様が良い方であることを信じるべきです。神様が私たちの最善を知り、望むことを信じるべきです。

だから、試練の時、神様に語るのに遅くあるべきです。つまり、不平を言うのに遅くあるべきということです。

神様が試練を許すときに、神様に怒るのに遅くあるべきです。むしろ、神様に聞くのに早くあるべきです。また、神の言葉に従うのに早くあるべきです。そうすれば、私たちは最終的に神の祝福を得ます。(17ー25節)

最後に、

3. 外側を向きましょう。この世には、他の苦しんでいる人々もいます。パウロは、孤児ややもめについて話すけど(27節)、あなたの回りに、誰が苦しんでいるでしょうか。

彼らに触れましょう。内側を向いて、自分の問題を見つめるのは簡単なことですけど、外側を向く人になりましょう。

試練で、あなたは苦しんでいるのでしょうか。どんな態度を持っているでしょうか。

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テサロニケ人への手紙第二のデボーション

神様の御言葉を尊ぶ

最後に兄弟たち、私たちのために祈ってください。主のことばが、あなたがたのところと同じように速やかに広まり、尊ばれるように。(テサロニケ人への手紙第二3:1)

たぶん、私たち皆はパウロのように祈ります。つまり、主のことば、特に神の福音が日本に速やかに広まり、尊ばれるように祈る、ということです。

でも、自分に訊かなくてはならないのは、「私たち神の民は、その言葉を尊んでいるだろうか」ということです。

神様の言葉が日本に尊ばれるために祈るなら、私たち自身がその言葉を尊ぶべきです。

私たちはその言葉を大事にしているでしょうか。

その言葉を定期的に読んでいるでしょうか。

その言葉に思いを巡らせているでしょうか。

また、その言葉に従っているでしょうか。

先日、興味深いことを読みました。

「教会を見つけると、聖書を尊ぶコミュニティーを見つけます。聖書を尊ばない民は、教会ではありません。」

私たちが神の言葉を尊ぶ民になるように祈ります。

もし、クリスチャンの人数が増えることを望むなら、最初に、私たち神の民は毎日み言葉を尊び、「神様、今日、私に何を語っているのですか」と祈るべきです。

主よ、私たちが真実ではないのに、あなたが真実な方であることを感謝します。

私たちがあなたの言葉を尊ぶ民になるように。また、あなたの言葉、特にあなたの福音がこの国に尊ばれるように。

毎日、私たちの心をあなたの愛に向けさせてください。

また、私たちがあなたの御国のために苦しむとき、私たちの心を十字架でのイエス様の忍耐に向けさせてください。

あなたの愛を感謝します。あなたの愛によって私たちは安心しています。私たちに対するあなたの慈しみによって安心しています。

だから、今、私たちに語ってください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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テサロニケ人への手紙第二のデボーション

真理を愛する者として生きる

また、あらゆる悪の欺きをもって、滅びる者たちに臨みます。彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。(テサロニケ人への手紙第二2:10)

現代の世界では、真理、特に道徳的な真理というコンセプトは、なくなりつつあります。かつて道徳的に間違っていると考えられていたことの多くが、もはやそう考えられていないのです。

特にセックスや性的指向、ジェンダーに関して、多くの人々の考え方が変わってきました。彼らが主張しているのは、「時代遅れの考え方」を捨てることが、自由と幸せに至る道だということです。

けれども、その道は、実際には死に至ります。

そして反キリストが来て、いろんな奇跡や印を行うとき、多くの人々は簡単に騙されることになります。なぜなら、反キリストが教えることは、彼らがすでに信じていることだからです。反キリストが彼らのように不義を抱くので、彼らは反キリストを受け入れます。

ローマ人へのパウロの言葉は、現代においてこれまでにも増して真実味があります。

彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。(ローマ1;32)

では、私たちはどうするべきでしょうか。真理を抱きましょう。神のみ言葉が、この世の言葉に反しているなら、神のみ言葉を堅く持ちましょう。

また、パウロの言葉に従いましょう。

ですから、兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。(テサロニケ人への手紙第二2:15)

神の真理を抱くなら、私たちは騙されることを恐れる必要がありません。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

望みをかぶる

しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。(テサロニケ人への手紙第一5:8)

「望みというかぶとをかぶり」という言葉は、私の心を打ちました。

この世界には、多くの人々が希望をあまり持っていません。むしろ、たくさんの人々が絶望の中にいます。多くのクリスチャンたちも絶望しています。

私たちは、この世の問題を見るからです。また、自分の問題を見るからです。

でも、パウロが私たちに促すのは、「絶望の念から守るために、望みをかぶりなさい」ということです。

でも、どんな望みのかぶとをかぶるべきでしょうか。それは、私たちの救いの望みです。

神様がいつかこの世の悪を裁くという希望です。

でも、裁きの日に、私たちが神の御怒りを受けないという希望を持っています。

むしろ、イエス様が私たちの罪のために死なれたから、神様との私たちの関係が回復して、私たちが生きていても、死んでも、イエス様と共にいつまでも歩むという希望を持っています。(9ー10節)

さらに、私たちが不完全な者であり、自分の罪と弱さと戦っているにもかかわらず、神様が私たちを完全に聖なる者とし、私たちの霊、たましい、からだのすべてが、イエス様がこの世に帰るときに、責められるところのない者として保たれているという希望を持っています。(23節)

私たちは、いつも真実ではないかもしれません。

でも、私たちを召された神様は真実ですから、そのようにしてくださいます。(24節)

だから、望みをかぶりましょう。

そして、神様が良い方で、私たちを愛していることを信じる信仰が、私たちの心を守りますように。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

歩み続けましょう。成長し続けましょう。

最後に兄弟たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから、ますますそうしてください。。。

神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。。。

兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちで。。。それを実行しているからです。

兄弟たち、あなたがたに勧めます。ますます豊かにそれを行いなさい。」(テサロニケ人への手紙第一4:1,3,9ー10)

私は以前にも言いましたが、私たちはクリスチャンとして、この世に生きている限り、終点にたどり着くことがありません。言い換えると、天国に着くまで、私たちは完全な者になれないのです。

でも、パウロは私たちに促します。「歩み続けましょう。成長し続けましょう。」

どうしてでしょうか。

なぜなら、神様の御心は、私たちが聖なる者となることだからです。つまり、私たちがますますイエス様のようになることです。神様が望むのは、私たちの行為において、特に私たちの愛において、私たちがイエス様のようになることです。

あなたは神様と歩んでいるのですか。素晴らしいです。ますます歩みましょう。

あなたは毎日神様を喜ばせているのですか。それは良かったです。ますます神様を喜ばせましょう。

あなたは、毎日神様や周りの人々を愛しているのですか。それを聞いて、嬉しいです。ますます愛しましょう。

でも、それらは、神様の愛を得るためではありません。神様の恵みによって、私たちはもうその愛を受けているのですから。(第一テサロニケ1:4)

だから、神の愛されている子供よ。その確信をもって、歩み続けましょう。成長し続けましょう。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

私の動機は何だろうか

私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。

神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。(テサロニケ人への手紙1: 3ー4)

パウロの言葉を読んだとき、私はこう思いました。「私の動機は何だろうか。それは、私に対する神様の愛だろうか。つまり、神様が愛によって私を選び、養子にしてくださったことですか。」

どうして、私はクリスチャンの生活を送るのでしょうか。神様が良い方であると確信しているからでしょうか。

どうして、主に仕えているのでしょうか。神様に対する愛、また、周りの人々に対する愛のゆえに仕えているのでしょうか。

大変なとき、どうして私は我慢するのでしょうか。イエス様にある私の希望のゆえに、我慢できるのですか。

信仰。希望。愛。それらによって、クリスチャンの生活は重荷ではなく、喜びです。

主よ。私の信仰が毎日成長するように。私をあなたの愛に根差してください。そして、苦しむときに、あなたにある私の希望を思い出させてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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コロサイ人への手紙のデボーション

どうして祈るべきか?

たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。(コロサイ人への手紙4:2)

どうして私たちは祈るべきなのでしょうか。パウロのこの指示の中に、私たちはいくつかの理由を見いだします。

「祈りつつ、目を覚ましていなさい。」

この言葉を読んで、私は弟子たちに対するイエス様の言葉を思い起こしました。

誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。(マタイ26:41)

サタンがどのように私たちを攻撃しようとしているか分かるように、私たちは祈ります。

また、私たちは弱い者だから、祈ります。サタンの攻撃や試練に直面するとき、私たちは神様の力が必要なのです。

でも、それだけではなく、神様が私たちの周りで何をなさっているか分かるために、私たちは祈ります。そうすれば、神様から与えられる機会を十分に活かし、私たちは神様の働きに参加できます。(5節)

もうひとつの理由があります。

祈りは、神様が良い方であることを思い出すための時間です。祈るとき、私たちは神様の恵みとあわれみを思い出します。そして、神様の恵みとあわれみを覚えているにつれて、私たちは感謝と喜びをもって歩みます。

だから、毎日、目を覚ましていて、感謝に満ちて祈りましょう。

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コロサイ人への手紙のデボーション

責められることのない者

あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。(コロサイ人への手紙2:10)

ある英訳がとても気に入っています。

あなたがたは、キリストにあって完全なものになったのです。(10)

自分の罪や弱さを見て、「私はあまり良くないクリスチャンだ」と思うことはありませんか。あなたは、キリストにあって満たされています。イエス様にあって、あなたは完全な者とされました。

天の父は、あなたの罪の債務証書を無効にし、十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。

天の父の目には、あなたは聖なる者、傷のない者、責められるところのない者です。(コロサイ1:22)天の父は、あなたに天の相続分にあずかる資格を与えてくださいました。(コロサイ1:15)

あなたは、神の子供です。

だから、悪魔があなたを責めようとするとき、「出て行け」と言いましょう。そして、あなたの心があなたを責めるとき、神様があなたの心よりも大きな方であることを覚えていましょう。

なぜなら、あなたの感情は、あなたに対する神様の愛と恵みを無効にすることはできないからです。

 

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ピリピ人への手紙のデボーション

どんな境遇にあっても、私は強い

私は。。。ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。(ピリピ人への手紙4:12-13)

私が高校生のころから、「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」という言葉が大好きです。

別訳で、「どんな境遇にあっても、私は強いです。なぜなら、キリストは私を強めてくださいますから。」

私は強いです。私の体質のためではなく、むしろ、キリストは私に力を注いでくださっているからです。

良いときだけではなく、悪いときにも私は強いです。

この世やサタンが私にどんな試練やトラブルを投げかけても、私は強いです。

ありとあらゆる境遇にあっても、私は強いです。

主よ、私は自分を見て、たくさんの弱さを見ることができます。だから、「私は強い」と言うと、その言葉が私には合わない気がします。

でも、あなたにおいて、私は強いです。私の弱さのうちにあなたの力は完全に現れるからです。(第二コリント12:9)

だから、どんな境遇にあっても、私は満足です。あなたは私とともにおられるからです。あなたが良い方で、私は感謝します。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ピリピ人への手紙のデボーション

まだ着いていない

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。

兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。

ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。

ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。(ピリピ人への手紙3:12-15)

クリスチャンとして、私たちはいつも成長しているはずですが、この世に生きている限り、私たちは終点に辿り着くことはありません。つまり、私たちは完全な人になることはないということです。

パウロも、自分がすでに到達しているとは思っていませんでした。でも毎日、彼はイエス様をもっと知り、イエス様のようになろうと努めていました。

しかし、パウロが前のものに向かって身を伸ばすにつれて、彼は二つのことを覚えていました。

一つ目は、自分の義ではなく、キリストの義によってパウロが神様に受け入れられていることです。パウロがイエス様とその十字架の働きを信じたので、キリストの「義の通知表」は、パウロの「義の通知表」になりました(9)。

だからこそ、パウロの通知表には「5」しか書いてありませんでした。

そういうわけで、パウロは、神様の愛と受け入れを得ようと努めていたわけではありません。彼は神様の愛と受け入れをもう受けていたからです。

むしろ、神様がパウロを捕らえてくださり、良い計画を持っていることを、パウロはとても喜びました。

そして、その喜びによって、パウロは神様が準備してくださった良いものを捕らえようとして追求していました。

二つ目は、自分の努力が無駄なものではないということです。パウロはこの世に生きている限り、完全になることがないと知っていたけれど、必ずある日、自分が愛しているイエス様のようになると知っていました(21)。

パウロは毎日その希望をもって、生活を送りました。

私たちもその希望をもって、生活を送りましょう。毎日、神様の恵みによって生き、イエス様のようになるように成長し、神様の良い計画を追求しましょう。

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ピリピ人への手紙のデボーション

私たちが世の光として輝けるように

恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。

すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。

そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。(ピリピ人への手紙2:12-16)

天のお父様、あなたは私たちに救いの賜物を与えてくださいました。

あなたは、ヨシュアとイスラエル人たちをエジプトの奴隷状態から救い出されたように、私たちをもサタンの国の奴隷状態から救い出してくださいました。

だから、ヨシュアのように、私たちはあなたの前にひれ伏し、畏敬の念を持って、礼拝します。そして、私たちは言います。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのでしょうか。」(ヨシュア5:14)

主よ、私たちはあなたの教会です。私たちはあなたの民です。だから、日本にあなたの御国をもたらすために、あなたのみこころのままに、私たちのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてください。私たちがあなたの働きに参加するように。

主よ、私たちは曲がった邪悪な世代のただ中にいます。だから、私たちは彼らの間で世の光として輝くように。

この世の人々と違って、私たちがあなたの御言葉を曲げないように。むしろ、私たちがその御言葉をしっかり握るように。なぜなら、その御言葉は、私たちにも、この世の民にも命を与えるものだからです。

また、私たちが、つまり、あなたの教会が非難されるところのない純真な者となり、傷のない神の子どもとなりますように。

私たちが、不平や疑いではなく、あなたの愛で特徴づけられるように。

そして、この世の人々が、あなたの民が互いに愛し合うことを見るにつれて、彼らがあなたに引き付けられるように。

私たちはこの国のために祈ります。私たちの愛する者たちのためにも祈ります。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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エペソ人への手紙のデボーション

御霊を悲しませるとき

神の聖霊を悲しませてはいけません。(エペソ人への手紙4:30)

たくさんの人々は、天の父と御子が人格を持っておられることを認めます。

でも、多くの人は、御霊も人格を持っておられることを認めません。

しかし、スターウォーズのフォースと違って、御霊はただの力ではありません。御霊は人格を持っておられます。そして、御霊も悲しまれるときがあります。

私たちは、神様に対する頑なな心を保つと、御霊は悲しまれます。(18節)

私たちのプライドのゆえに、私たちが神の民の一致を破るとき、御霊は悲しまれます。

私たちの言葉が、恵みではなく、むしろ、無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどに満ちているとき、御霊は悲しまれます。(29、31節)

私たちが御霊を悲しませないように。むしろ、神とその民に対して、謙虚な、柔らかい心を保ちましょう。

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エペソ人への手紙のデボーション

願いと思いを超えて働かれる神

どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に。。。(エペソ人への手紙3:20)

主よ。私があなたを小さな神と見なすことがありませんように。なぜなら、あなたは私が願うところ、思うところのすべてを、はるかに超えて行うことのできる方だからです。

イエスを死者の中からよみがえらせた力は、今、私のうちに働いています。(エペソ1:19–20)

だから、不可能と思われることのためにも、私がためらわずに祈れるように、私を助けてください。また、私が人々やさまざまな問題について祈るとき、もしあなたが私にしてほしいことがあれば、教えてください。

時々、自分の信仰が小さいと感じます。でも、あなたは、ほんのわずかな信仰心で十分だと言われました。(マタイ17:20)

だから、私の小さな信仰を用いてください。そして、私の小さな信仰を増し加えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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エペソ人への手紙のデボーション

神の国に仕えるために造られた

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ人への手紙2:10)

その箇所を読んで、「良い行い」という言葉を反芻しました。

パウロによれば、私たちは良い行いをするために、キリスト・イエスにあって造られました。

でも、「良い行い」とは何でしょうか。それは、ただ聖書を読んだり、祈ったり、教会に行ったり、機会に気づいたら人に親切にしたりすることなのでしょうか。

もちろん、それらは良いことですけれども、パウロは続けてこうう言います。

その良い行いをもあらかじめ備えてくださいました。

神様が私たちのために、もっと具体的なプランを持っていることに聞こえます。

神様は、私たちそれぞれのために役割を整えておられました。だから、神様を求めて、私たちの役割が何であるかを訊きましょう。

天のお父様、私が生まれる前に、あなたは私のために良い計画を持っておられました。その計画は、私があなたの御国に仕え、周りの人々にあなたの愛で触れることです。

だから、聖霊様、私に語ってください。あなたが私のためにあらかじめ整えてくださった良い行いを教えてください。

わが主は、何をこのしもべに告げられるのでしょうか。聖霊様、私に教えてください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

御霊と共に歩む

私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。(ガラテヤ人への手紙5:25)

聖霊様、あなたのおかげで、私は命を受けています。あなたは私の罪を清め、私を新しくしてくださいました。(テトス3:5)

だから、これからも私を導いてください。私がどの道を歩むべきか、ささやいてください。一瞬一瞬、あなたと歩調を合わせるように、私を助けてください。

そうすれば、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が、私の心から自然に流れ出ることを、私は知っています。

何にもまして、私はあなたを喜ばせたいのです。

私が間違った道を歩み始めたら、正しい道へと導いてください。

私の目があなたから離れないようにしてください。私が一歩一歩、あなたについていけますように。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

味わった幸福を失わないために

あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。(ガラテャ4:15、新共同訳)

天のお父様、私が味わった神の子供としての幸福を、決して手放すことのないよう、あなたの愛にとどまらせてください。

私の罪や失敗や弱さのゆえに、救いの確かさを疑うことなく、あなたを信頼し続ける者でいられますように。

主よ、私があなたの歓心を買おうとするのではなく、ただ恵みによって生きることを教えてください。

私はもはや奴隷ではありません。私は暴君の神の罰を恐れていません。

私は愛深い天の父の子供です。

アバ、父よ。私に対するあなたの愛を確信をもって、あなたのみもとに来ます。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

神の子供

多くのクリスチャンたちは、よく疑いをもって、「神様は自分の子供として私を本当に受け入れておられるだろうか」と考えます。

なぜなら、彼らは自分の罪と失敗を見るとき、「いったいどうして、神様は私を受け入れてくださるだろうか」と考えるからです。

でも、パウロは大切な質問を投げかけます。

あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。(ガラテヤ人への手紙3:2)

言い換えると、「どうして、神様はそもそもあなたを受け入れたのですか。なぜ神様は御霊を遣わして、あなたのうちに住まわせたのですか?」

あなたは何とか一年ぐらい完全に律法を守ることができたからでしょうか。1週間ぐらいその律法を守ることができたからでしょうか。一日ぐらいその律法を守ることができたからでしょうか。一時間ぐらいその律法を守ることができたからでしょうか。

違います。

あなたがイエス様とその十字架の働きを信じたからです。

そして、神様は試用期間で私たちを自分の子供として受け入れるのではありません。

ある会社はそのように人々を採用するかもしれません。

でも、神様はそのように自分の子供を養子にされません。

だから、神の子供としての自分のアイデンティティを心に留めておきましょう。

あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子供です。(26節)

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

救いの不思議さを思い巡らす

私たちはどれほど、自分の救いの不思議さを思い巡らすでしょうか。

パウロはよくそうしていました。

しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が。。。御子を私のうちに啓示することを良しとされた。。。(ガラテヤ人への手紙1:15-16)

パウロは自分のことについて話していましたが、その言葉は私たちにも当てはめることができます。

私たちが自分の母の胎にあるときから、神様は私たちを選び出してくださいました。

そして、ご自身のタイミングで、神様は恵みをもって、私たちを召してくださいました。

さらに、その同じ恵みによって、神様は私たちの周りの人々を救うために、私たちの人生を通して御子を現してくださいます。

その言葉を考えてみましょう。

想像してください。あなたが自分の母の胎にいるとき、神様はあなたを見て、「あなたを選びます」と言われました。

また、あなたを神様に近づけた色々な小さな「偶然」を思い起こしてみましょう。

そして、少し考えてみてください。あなたは不完全な者なのに、神様はあなたを用いて人々に御子を現すことを良しとされています。

そのすべてのことの不思議さを思い巡らしましょう。

神様の恵みの不思議さを思い巡らしましょう。

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ヨシュア記のデボーション

一心に神を愛する

今日の箇所を読んだとき、私には「一心」、つまり「一心に神を愛する」という言葉が思い浮かびました。

夫か妻がたくさんの恋人を持つ配偶者を許さないように、神様は二心のある人を受け入れられません。

それでも、私たちの心はすぐにさまよってしまいます。

イスラエル人のように、私たちが主に仕えると約束するのは簡単なことです。

ペテロのように、イエス様に対する忠誠を誓うのは簡単なことです。(マタイ26:33-35)

でも、多くの場合、この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかのいろいろな欲望が入り込んで、イエス様に対する愛を塞いでしまいます。(マルコ4:19)

主よ。あなたは私の気まぐれでさまよっている心をよく知っておられます。

私があなたの御名を恐れるように、私の心を一つにしてください。(詩篇86:11)

あなたの恵みは私に対して大きなものです。(詩篇86:13)

私は真実でなくても、あなたは常に真実でおられます。(第二テモテ2:13)

あなたを一心に愛さずにはいられないほど、私の心があなたの愛で満たされるようにしてください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ヨシュア記のデボーション

神の尊く大いなる約束

見よ。今日、私は地のすべての人が行く道を行こうとしている。

あなたがたは心を尽くし、いのちを尽くして、知りなさい。あなたがたの神、主があなたがたについて約束されたすべての良いことは、一つもたがわなかったことを。それらはみな、あなたがたのために実現し、一つもたがわなかった。(ヨシュア記23:14)

主よ。あなたがイスラエル人たちに確かな約束を与えてくださったように、私にも「尊く大いなる約束」を与えてくださいました。(第二ペテロ1:3-4)

つまり、あなたの御霊が私のうちに住んでおられ、私をあなたと同じかたちに姿を変えてくださるという約束です。(ヨハネ14:16-17;第二コリント3:17-18)

また、私にとって、罠となり、落とし穴となり、私の脇腹のむちとなり、私の目のとげとなる罪を乗り越える力という約束です。(ヨシュア記23:13)

さらに、永遠の遺産という約束です。(ヨハネ14:1-3)

あなたの栄光と栄誉、そして私に対するいつくしみに感謝します。

あなたの確かな約束に感謝します。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヨシュア記のデボーション

主の指示を求める

しかし、主の指示を求めなかった。(ヨシュア記9:14)

主よ、私にとって、自分の悟りに頼るのは簡単なことです。つまり、必要な情報のすべてをすでに持っていると思って、あなたの指示を求めずに決断することは簡単なことです。

でも、私が知らないことはたくさんあります。私が悟れないこともたくさんあります。

しかし、あなたはすべてのことを知っておられます。あなたはすべてのことを悟っておられます。

だから、私が毎日あなたに拠り頼み、私の行く道すべてにおいてあなたを認め、あなたの悟りに頼ることができますように助けてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヨシュア記のデボーション

悔い改め

今日の話を読んだとき、私は新しいことに気づきました。それは、神様がすぐにアカンの罪を明らかにされなかったということです。むしろ、神様は次の日まで待っておられました。なぜでしょうか。

なぜすぐに、その問題の処理に当たられなかったのでしょうか。

私にはわかりませんが、もしかしたら、その答えは13節にあるかもしれません。

立て。民を聖別せよ。そしてこう言え。 あなたがたは、明日のために自らを聖別しなさい。(ヨシュア記7:13)

「自らを聖別しなさい」とは、自分の心を準備して、自分自身を神様に捧げるということです。たぶん、その過程の一部は、自分の心を探り、罪を告白することです。

もしかしたら、神様はアカンに悔い改めるチャンスを与えたいと思われたのかもしれません。

アカンには、その夜、自分の行為をよく考え、どのようにその罪がイスラエル人たち全体に影響を与えたかを省みる機会がありました。

その夜、アカンはモーセにその罪を告白し、悔い改める機会がありました。

翌朝でも、神様はアカンをすぐに明らかにされませんでした。

最初は、ユダの部族、そしてゼラフ人の氏族、そしてザブディの家族がくじで取り分けられました。

その間、アカンには悔い改めるチャンスがあったのに、何も言いませんでした。

最後に、神様はアカンを指摘されました。

でも、アカンは悔い改める機会をもう逸してしまいました。

アカンがすぐに自分の罪を告白し、悔い改めていたら、なお殺されていたでしょうか。

私はわかりません。でも、神様の性格を考慮すると、たぶん、アカンは憐れまれたと思います。

私たちは罪を隠してはいけません。むしろ、今のうちに、その罪を告白し、悔い改めましょう。

ヨハネはこう言いました。

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

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ヨシュア記のデボーション

私たちは、神様が取り壊されたものを建て直そうとする時

ヨシュアは、そのとき誓った。「この町エリコの再建を企てる者は主の前にのろわれよ。その礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末の子を失う。」(ヨシュア6:26)

この何年か後、ある人はエリコを建て直そうとして、ヨシュアが言った通りに、呪われました。(列王記第一16:34)

どれほど、私たちは神様が取り壊された罪の砦を建て直そうとするでしょうか。

私たちがクリスチャンになるとき、神様が私たちにいろいろな罪に対する勝利を与えてくださるので、私たちは喜びます。

でもその後、私たちの罪が引き起こした損害や破壊を忘れてしまいます。むしろ、私たちは罪の楽しみを思い出します。

だから、私たちはその砦を建て直し、損を受けてしまいます。

主よ。あなたが取り壊してくださったものを、私が建て直さないようにしてください。私の罪深い習慣に戻るのは簡単なことです。でも、その習慣は私を滅ぼします。

私が振り返らずに、むしろ前を向いて、あなたに従うように助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヨシュア記のデボーション

主の御前での私たちの姿勢

私には、主の軍の将が実際にイエス様だと思われます。

なぜなら、黙示録にある天使と違って(黙示録19:10;22:8-9)、主の軍の将はヨシュアの礼拝を受けたし、モーセに対する神の言葉を繰り返したからです(出エジプト記3:5)。

誰と話しているかわかってくると、ヨシュアは、「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか」という質問を捨て、その代わりに、「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか」と訊きました。

私たちは同じ態度を取るべきです。神様が私たちの味方かどうか疑わず、私たちの願いをかなえてもらうことを要求せずに、むしろ、へりくだって、「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか」と言うべきです。

主よ、私はへりくだって、あなたの御前に来ます。私は何も求めていません。私に対するあなたの愛と忠実さを疑いません。むしろ、私は跪き、訊ねます。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」

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ヨシュア記のデボーション

導いてください、主よ

あなたがたの神、主の契約の箱を見、さらにレビ人の祭司たちがそれを担いでいるのを見たら、自分のいる場所を出発して、その後を進みなさい。

あなたがたが行くべき道を知るためである。あなたがたは今まで、この道を通ったことがないからだ。(ヨシュア3:3ー4)

主よ。いろんな意味で、私にはあなたの導きが必要です。私の知らないことがたくさんあります。私はこの道を通ったことがないからです。

でも、あなたはこの道を何度も通ったことがあります。だから、私があなたから目を離さず、ついていくように助けてください。

ヨシュアは民に言った。「あなたがたは自らを聖別しなさい。明日、主があなたがたのただ中で不思議を行われるから。」(5節)

主よ。私の人生をあなたに捧げます。私の人生はあなたのものです。私の時間はあなたのものです。私の持ち物のすべてはあなたのものです。

あなたの働きに参加したいです。あなたが私の周りで何をなさっているかを示してください。また、あなたが私と周りの人の人生に働くとき、私があなたの不思議な御業を見ることができますように。

ヨシュアはイスラエルの子らに言った。「ここに来て、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい。。。

生ける神があなたがたの中にい(る)。。。ことを、次のことで知るようになる。」(9ー10節)

主よ。私はあなたに近づきたいです。あなたのみ声を聞きたいです。だから、今、あなたのみもとに来ます。あなたが私に何を言おうとしているのか、私がわかるように助けてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヨシュア記のデボーション

いつくしみ深く、あわれみ深い神

私たちは、それを聞いたとき心が萎えて、あなたがたのために、だれもが気力を失ってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです。

今、主にかけて私に誓ってください。。。あなたがたもまた、私の父の家に誠意を尽くし、私に確かなしるしを与え。。。私たちのいのちを死から救い出す、と誓ってください。(ヨシュア2:11-13)

神様、あなたは天と地におられる神です。そして、あなたは聖なる神です。

だから、自分の罪のゆえに、私たちは死に値し、あなたを恐れました。

でも、あなたのいつくしみと愛が現れたとき、私たちが行った義によってではなく、むしろ、あなたのあわれみによって、あなたは私たちを救ってくださいました。(テトス3:4-5)

それだけではなく、今、あなたは私たちに救いの確かなしるしを与えてくださいました。つまり、あなたは御霊を送り、その御霊は私たちのうちに住んでおられるということです。(エペソ1:13)

私に対するあなたのあわれみといつくしみに感謝します。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ヨシュア記のデボーション

神様の思いと調子を合わせる

ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。

これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。(ヨシュア記1:7)

主よ、私が好きな部分だけではなく、あなたの言葉のすべてに従う心を与えてください。私がその言葉から離れて、右にも左にもそれないようにしてください。

また、私が自分の思いをこの世の思いと調子を合わせないようにしてください。この世の考え方は日々堕落しつつあるからです。むしろ、私の心を新たにして、私の思いをあなたの思いと調子を合わせてください。(ローマ12:2)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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民数記のデボーション

性的な罪を軽く見ていないか

バラムが神様に仕えているかどうかという疑いがあれば、25章では、その疑いは解けました。なぜなら、バラムのせいで、イスラエル人たちは偶像礼拝や性的な罪に陥ってしまったからです。(民数記31:16)

その罪のゆえに、2万4千人のイスラエル人たちが死にました。

イスラエル人たちがその罪を犯したのは、これが二度目です。(出エジプト記32章)

さらに、民数記15章の話のように、イスラエル人たちは気づかずに罪に陥ったわけではありません。むしろ、彼らは故意に罪を犯したのです。

特に、祭司ピネハスが殺した人は、故意に罪を犯しました。

主の罰で多くの人々が死にかけている中で、また、モーセや他のイスラエル人たちが主の前で泣いている中で、その人はバアル礼拝の関係で、ある女性と性的な関係を持とうとしました。

その時代、売春と偶像礼拝には強い関係がありました。

もちろん、日本では今も偶像礼拝がありますが、性的な罪そのものが現代の偶像になっています。

現代社会では、多くの人々が性的な罪を軽く考え、実際には罪だと思っていないのです。(ローマ1:24、26-27、32)

しかし、神様によれば、その罪は死に値するのです。(ローマ1:32;第一コリント6:9-10)

そういうわけで、パウロはその二つの事件を振り返って、こう言いました。

これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。

あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。

また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。(第一コリント10:7ー8)

あなたはどうですか。

現代の人々と同じように、性的な罪を軽く考えているのでしょうか。

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民数記のデボーション

本当に神様を求めているのか

バラムとバラクは、本当に敬虔な人々のように聞こえましたね。

「主にお会いして、その御言葉を求めます。」

「はい、わかりました。主の御言葉を待ち望みます。。。では、主は何をお告げになりましたか。」(民数記23:15-17)

しかし、神の御言葉を聞いて、バラムとバラクは怒りました。

神様がイスラエルを呪うことを拒まれたとき、バラクは怒りました。

バラムは、バラクに報酬を受けたかったので、切実に神様がご自身の考えを変えてくださることを願いました。けれども、神様はどうしてもそうされませんでした。(19節)

どれほど、私たちはバラクとバラムのように振る舞っているでしょうか。

私たちは、神様の御言葉を求めていると言いながら、神様が語られるとき、その言葉を受け入れません。

神様の御言葉が気に入るときだけ、その言葉を受け入れるのでしょうか。

それとも、その御言葉が気に入らないときにも、その言葉に従うのでしょうか。

私たちは、神様が自分たちの意思に従ってくださることを望んでいるのでしょうか。

それとも、私たちは神様の御心に従うのでしょうか。

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民数記のデボーション

神が私たちの口に置かれることば

バラムはバラクに言った。

「ご覧なさい。私は今あなたのところに来ているではありませんか。私に何が言えるでしょう。神が私の口に置かれることば、それを私は告げなければなりません。」(民数記22:38)

私が教会で聖書を教えているので、その言葉は私の心を打ちました。

私には、単に好きなことを教える自由がありません。神様が私の口に置かれた言葉を告げなければなりません。

しかし、すべてのクリスチャンがその原則に従わなければなりません。

時には、周りの人々が、自分が聞きたいことを言うように、私たちにプレッシャーをかけてきます。

パウロはこう言いました。

というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め(ます)。。。(第二テモテ4:3)

イエス様も、そんなプレッシャーをよく感じられました。けれども、イエス様はいつも天の父の言葉に応じて話されました。(ヨハネ7:16-17)

それに、バラムとは違って、イエス様はいつも天の父の栄誉を求められました。

私たちは、主の模範に従って、恵みとまことをもって人々に語りましょう。

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民数記のデボーション

死者と生者の間に立つ

(アロン)が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、主の罰は終わった。(民数記16:48)

その言葉は、私の心の中に響きました。

アロンの片側では、何千人もの人々が、自分の反抗のために死にました。

アロンの反対側では、何千人もの人々が救われました。

神様の祭司として、私たちは同じ立場に立っています。

私たちの周りでは、多くの人々が自分の罪のゆえに死にかけています。

私たちには選択肢があります。

私たちは、ただ神様の裁きが彼らに降りかかるのを見ていることもできます。

それとも、アロンのように、私たちは祈ることができます。彼らのためにとりなし、彼らに触れて、悔い改めと赦しという神様の福音を伝えることができます。

主よ、アロンの心を私に与えてください。

たくさんの人は自分の罪のゆえに苦しみ、死にかけています。

アロンのあわれみの心を私に与えてください。

あなたのあわれみの心を私に与えてください。

私がどのように人に触れることができるか教えてください。

そして、私を通して、彼らの人生にあなたの救いをもたらしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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民数記のデボーション

反抗的

安息日を破った人の話が、民数記15:27-31にある神様の指示のあとに記録されているのは、偶然ではないと思います。

27-31節では、神様は、気づかずに罪に陥ってしまう人と、故意に罪を犯す人を区別されます。

気づかずに罪に陥ってしまう人のためには、祭司が宥めを行い、その人は赦されました。

しかし、故意に罪を犯した人のためには、宥めはありませんでした。神様はその人を赦されませんでした。

安息日を破った人は、そのような人でした。

彼はただ、その日が安息日であったことを忘れていたわけではありません。周りの人々がその罪を指摘したとき、彼は「大変です。忘れてしまいました。どうしたらいいですか」とは言いませんでした。

むしろ、彼はまったく気にしませんでした。彼は神様の言葉を侮り、その行為によって神様を冒瀆しました。

その結果は――死です。

素直に悔い改める心を持つ人に対して、神様は恵み深いお方です。神様は、いつもそのような人を赦してくださいます。

しかし、悔い改めようとしない反抗的な人は、神様の赦しを知ることがありません。

ですから、いつも神様に対して柔らかい心を保ちましょう。

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民数記のデボーション

神様にを信頼し従うように、互いに励まし合う

わたしの栄光と、わたしがエジプトとこの荒野で行ったしるしとを見ながら、十度もこのようにわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、だれ一人、わたしが彼らの父祖たちに誓った地を見ることはない。

わたしを侮った者たちは、だれ一人、それを見ることはない。

ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者とは違った霊を持ち、わたしに従い通したので、わたしは、彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。(民数記14:22ー24)

時間があれば、この箇所と一緒にへブル書3章を読む甲斐があります。なぜなら、へブル書の著者がこの出来事の霊的な応用を説明しているからです。

兄弟たち。あなたがたのうちに、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。(へブル3:12)

不信仰で悪い心は、多くのイスラエルの民の問題でした。

彼らは、自分たちをエジプトから贖ってくださった主を侮りました。

神様が多くのことをしてくださったのに、彼らは神様に信頼することを拒みました。

私たちは、どのような心を持っているでしょうか。

神様に対して頑なな心を持っているでしょうか。神様を信頼しない心を持っているでしょうか。

それとも、私たちはカレブとヨシュアのように、柔らかい心を持っているでしょうか。彼らのように、私たちは周りの兄弟姉妹に神様に信頼するように促すでしょうか。

罪に欺かれるのは簡単なことです。心が頑なになるのも簡単なことです。

だからこそ、クリスチャンの交わりはとても大切なのです。

ですから、カレブやヨシュアのような人々と時間を過ごしましょう。

また、周りのクリスチャンに対して、私たち自身がカレブやヨシュアのような者となりましょう。

「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。(へブル3:13)

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イエス様の声を聞いて、従う

(モーセ)はわたしの全家を通じて忠実な者。彼とは、わたしは口と口で語り、 明らかに語って、謎では話さない。 彼は主の姿を仰ぎ見ている。

なぜあなたがたは、わたしのしもべ、 モーセを恐れず、非難するのか。(民数記12:7ー8)

言うまでもなく、神様はモーセに対するアロンとミリアムの反抗的な態度に怒られました。

しかし、へブル書の著者は興味深い方法で、その出来事を私たちに当てはめています。

モーセは、後に語られることを証しするために、神の家全体の中でしもべとして忠実でした。

しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。。。

ですから、聖霊が言われるとおりです。

「今日、もし(イエスの)御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。 荒野での試みの日に 神に逆らったときのように。」(へブル3:5ー8)

イスラエルの民はモーセに従わなければなりませんでした。私たちがイエス様に従わなければならないことは、なおさらです。

モーセは忠実なしもべにすぎませんでした。

イエス様は忠実な御子です。さらに、イエス様は私たちの使徒であり、大祭司です。(へブル3:1)

ですから、頑なな心を持たず、柔らかい心をもって、イエス様の声を聞き、従いましょう。

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民数記のデボーション

弱すぎると思うだろうか?

この主の手が短いというのか。(民数記11:23)

今日、その言葉は私の心を打ちました。

「主の手が私のところに届かないと思うだろうか。主の手が弱すぎると思うだろうか。」

モーセや(14)、私たちとは違って、神様は弱いお方ではありません。

ご自身の約束を守ることに関して、神様は弱いお方ではありません。

ご自身の民の世話をすることに関して、神様は弱いお方ではありません。

ご自身の民を懲らしめることに関して、神様は弱いお方ではありません。

今日の箇所では、神様はそのようにご自身の力を現されます。

しかし、もう一つの面でも、神様は弱いお方ではありません。私は23節を読んで、イザヤ書59:1にある神様の言葉を思い起こしました。

見よ。主の手が短くて救えないのではない。 その耳が遠くて聞こえないのではない。(イザヤ書59:1)

私たちは、神様の救いを見ることに関して絶望することがあるでしょうか。

日本を思うとき。

愛する人々を思うとき。

この世の罪とよこしまを思うとき、人々の頑なな心を見るとき、絶望するのは簡単なことです。

しかし、この真理を心に留めておきましょう。

主の手が短くて救えないのではありません。

もう一つのことも覚えておきましょう。

神様がイスラエルの長老たちにご自身の御霊を注がれたように、神様は私たちにもご自身の御霊を注いでくださいました。(イザヤ書59:21、使徒の働き2:17-18)

神様の目的は、私たち皆が神の命の言葉を周りの人々に伝えることです。

それは、牧師たちだけの役割ではなく、私たち皆の役割です。

主よ、あなたがモーセやイスラエルの民に御霊を注がれたように、使徒の働きの時代のクリスチャンたちに御霊を注がれたように、私たちにも御霊を注いでください。

あなたの手が短くて救えないのではありません。あなたは私を救ってくださいました。

ですから、私の周りの人々を救うために、私をあなたの御霊で満たし、用いてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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民数記のデボーション

神の導きに従う

主の令によりイスラエルの子は旅立ち、主の命により宿営した。

雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営した。(民数記9:18)

今日、私はこのように祈りました。

主よ、私があなたの導きに従う心を持つことができますように。

時に、私があまりに快適になってしまい、あなたが新しい方向へ進まれるとき、私はためらってしまいます。

しかし、別の時には、私は多くの計画を抱えて、待ちきれなくなります。今すぐ何かをしたいと思ってしまいます。

でも、あなたは私に語られます。

「待ちなさい。少し休みなさい。私との時間を楽しみなさい。私の顔を求めなさい。私の時を待ちなさい。」

ですから主よ、私があなたの前に出すぎることなく、あなたの後ろに遅れてしまうこともありませんように。

むしろ、毎日あなたに導かれるままに、私が進むことができますように。

あなたが進まれるとき、私も進み、あなたが立ち止まられるとき、私も立ち止まることができますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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出エジプト記のデボーション

神様の言葉に従う

正直に言うと、出エジプト記36-39章はあまり面白く感じられないかもしれません。特に、その章は25-30章の内容をほとんど繰り返しているからです。

25-30章では、神様が幕屋やその道具などの作り方を教えられました。

36-39章では、イスラエル人たちがその指示に従いました。

それが39章の要点のようです。何度も、「主がモーセに命じられたとおりに…」という言葉が繰り返されます。(1、5、7、21、26、31、32、43)

幕屋を作るために、神様はイスラエル人たちに知恵と英知と知識を与えてくださいました。(35:31-36:2)

しかし、彼らは自分の好きなようにそれらを作ったわけではありません。彼らは単に自分にとって都合のよいことをしたわけではありません。むしろ、彼らは神様の指示に従いました。

彼らは手抜きをしませんでした。彼らは神様の指示をあえて変えませんでした。

私たちはどうでしょうか。

仕事をするとき、教会の奉仕をするとき、私たちのすべての行動において、私たちは勝手に行動するでしょうか。

それとも、神様の言葉に従うでしょうか。

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出エジプト記のデボーション

神様が望まれるもの

すべて、進んで献げる心のある人に。。。(出エジプト記35:5)

心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな。。。(21節)

心を動かされ、知恵を用いたいと思った女たちはみな。。。(26節)

イスラエルの子らは男も女もみな。。。心から進んで献げた。。。(29節)

「神様は私たちから何を望んでおられるだろうか?」

それを考えたことがありますか。

この言葉が、その答えを明らかにしていると思います。

ほかのどんなものよりも、神様は私たちの心を望んでおられるのです。

献金を捧げることにおいて、主に仕えることにおいて、私たちが行うすべてのことにおいて、神様は私たちの心を望んでおられます。

あなたの心は神様のものですか。

主よ、あなたが私のためにしてくださったことは数えきれません。あなたは何度も私に愛とあわれみを注いでくださいました。あなたは本当に良いお方です。

私のすべての行動が、あなたの愛と喜びに根差したものでありますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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出エジプト記のデボーション

神様のご性格

「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。

しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」(出エジプト記34:6ー7)

これは旧約聖書の中でもっとも有名な箇所の一つです。その言葉は旧約聖書の中で何度も繰り返されます。

なぜでしょうか。それは、その言葉が神様のご性格を表しているからです。

出エジプト記や他の旧約聖書の物語を読むと、神様を怒りの神と見なすのは簡単なことです。

確かに、ある意味で神様は怒りの神です。神様は罪を憎み、罰せられます。

良い神が罪を愛することができるでしょうか。正義の神が罪を見過ごすことができるでしょうか。

それでも、神様は「あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す神」です。

神様は何度も裁きが迫ると警告されます。

しかし、人を裁く前に、神様がいつもご自分の民にその裁きについて知らせておられることに気づいたことがありますか。

たとえば、神様はアブラハムに知らせました。(創世記18章)また、モーセにも知らせました。(出エジプト記32章)

なぜ、神様はアブラハムとモーセに知らせられたのでしょうか。彼らがただその裁きを観測するためだったのでしょうか。

違います。その理由は、彼らがその人々のためにとりなすためだったのです。

いずれの場合も、神様は正義を実行されました。どうしても悔い改めない人々は裁かれました。けれども、アブラハムとモーセのとりなしによって、ある人々は救われました。

神様は必ず悪を裁かれます。けれども、それ以上に、神様は人をあわれみたいと願っておられます。

そのために、神様はイエス様をこの世に送ってくださいました。十字架において、イエス様は私たちの罪の代価を支払われたので、神様は私たちをあわれむことができます。

ですから、モーセのように、覆いを取り除かれた顔で、大胆に神様に近づきましょう。

私たちは神様の怒りと裁きを恐れる必要はありません。むしろ、神様に近づくにつれて、神様は私たちをイエス様と同じかたちに姿を変えてくださいます。(第二コリント3:12、18)

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出エジプト記のデボーション

一息つく

イスラエルの子らはこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。

これは永遠に、わたしとイスラエルの子らとの間のしるしである。

それは主が六日間で天と地を造り、七日目にやめて、休息したからである。(出エジプト記31:16-17)

「主はやめて、休息した」とは、実に興味深い言葉です。

まるで神様が疲れて、英気を養わなくてはならないかのように聞こえます。

しかし、もちろん神様にはそのような必要はありません。

むしろ、神様はご自分の働きを止めて、一息つかれたのです。けれども、それは疲れたからではなく、ご自分が造られたものを楽しもうと思われたからなのです。

どれぐらい、私たちは自分がしていることを休憩して、ちょっと一息つき、創造主との関係を楽しむでしょうか。

もちろん、私たちは毎日そうした方がいいです。でも、特に日曜日に、私たちはそうした方がいいです。

時々、クリスチャンたちは問いかけます。「私は毎週の日曜日に、教会に行かなくてはならないのですか。」

でも、その考え方は間違っています。

教会に行くのは義務ではありません。教会に行くのはチャンスなのです。

毎週の日曜日に、私たちは2時間ぐらい、仕事や勉強や日常の単調さを休憩して、創造主との関係を楽しむことができます。私たちに対する神様のあわれみと恵みを思い出します。

さらに、教会では、神の家族を祝福するチャンスがあるし、神の家族に祝福されるチャンスもあります。

あなたにとって、教会は何でしょうか。

教会に行くのは、義務でしょうか。

それとも、教会に行くのはチャンスでしょうか。

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出エジプト記のデボーション

私たちの宥めな蓋

今日の箇所では、幕屋に関して、とても具体的な指示がたくさんありますね。

どうして、幕屋のことはそんなに大切なのでしょうか。私たちには、関係あるでしょうか。

ヘブル書の著者は説明します。

この祭司たちは、天にあるものの写しと影に仕えています。

それは、モーセが幕屋を設営しようとしたときに、御告げを受けたとおりのものです。

神は、「よく注意して、山であなたに示された型どおりに、すべてのものを作らなければならない」と言われました。(へブル書8:5)

「天にあるものの写しと影」とは、どういう意味でしょうか。

出エジプト記25章には、いくつかの例がありますが、私の心を打ったのは、22節です。

わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その「宥めの蓋」の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る。(出エジプト記25:22)

そのあかしの箱の中には、十戒が書かれた板が入っていました。(16)

十戒は神の民に神様の聖なるさを思い出させました。また、十戒は、彼らが神様のように聖なる者とならなければならない、ということを思い出させました。

でも、十戒は彼らの罪をも思い出させました。

私たちは自分の聖さによって、神様に近づくことができません。

むしろ、神様は宥めの蓋から私たちに語られます。その場所で、私たちは神様に近づきます。

旧約聖書の時代、一年に一回、宥めの供え物からの血は宥めの蓋の上にかけられました。その血によって、イスラエル人たちは赦されました。(レビ記16章)

でも、今、パウロはこう言います。

神は(イエス)を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。(ローマ3:25)

別訳では、

神は(イエス)を、信仰によって受けるべき、血による宥めの蓋として公に示されました。

イエス様こそが私たちの宥めの蓋です。

イエス様の血によって、私たちは赦されました。

また、その血によって、私たちは神様に近づくことができます。

だから、今日の箇所を読むとき、パウロの言葉を覚えていて、喜びましょう。

すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。

神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めの蓋として公に示されました。(ローマ3:23ー25)

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血によって近づく者たち

モーセはその血を取って、民に振りかけ、そして言った。

「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」(出エジプト記24:8)

その言葉を読むとき、私はいつも最後の晩餐でのイエス様の言葉を思い起こします。

これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。(マタイ26:28)

モーセや祭司たちや、長老たちは血に振りかけられたので、彼らは神様の裁きを恐れず、神様との交わりができました。(9〜11)

そのように、私たち皆は(クリスチャンのリーダーたちだけではなく)、イエス様の血に振りかけられたので、裁きを恐れず、神様との交わりができます。

ペテロによれば、私たちは天の父に選ばれ、聖霊に聖別され、イエス様の血の注ぎかけを受けました。

そのゆえ、私たち皆は、恵みを受け、神様との平和を持っています。(第一ペテロ1:1〜3)

出エジプト記24章を読むとき、ヘブル9章も読んだ方が良いでしょう。

ヘブル書の著者は出エジプト記24章を引用し、その出来事をちょっと解説します。

でも、とりあえず、この素晴らしい言葉を心に留めておきましょう。

雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。(へブル9:13ー14)

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律法の精神を求めて

出エジプト記やレビ記の律法を読むとき、「この律法は私に本当に関係あるのか」と思うのは簡単なことです。

例えば、4〜5節をちょっと読んでみましょう。

あなたの敵の牛やろばが迷っているのに出会った場合、あなたは必ずそれを彼のところに連れ戻さなければならない。

あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない。(出エジプト記23:4-5)

どれぐらい、私たちはそんな状況に遭遇するでしょうか。多分、そんな状況に遭遇することはないでしょう。

でも、その律法の文字だけではなく、その原則をも考えた方がいいです。

上記の律法の原則は何でしょうか。

イエス様は、こう言われました。

しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。

あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。。。

しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。

そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。

いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。

あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。(ルか6:27ー28、35ー36)

だから、旧約聖書にある戒めを見るとき、その文字だけではなく、その精神をも考えましょう。

そして、神様に「この言葉を通して、あなたは私に何を教えたいのですか」と祈りましょう。

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飼いならされた神ではない

それでモーセは民に言った。

「恐れることはありません。神が来られたのは、あなたがたを試みるためです。これは、あなたがたが罪に陥らないよう、神への恐れがあなたがたに生じるためです。」(出エジプト記20:20)

それらは、ちょっと逆説的な文だと思いませんか。

「恐れることはありません。」

「神様を恐れるべきです。」

どのようにその二つの文を繋ぎ合わせることができるでしょうか。

私たちが覚えていなくてはならないのは、神様は良い方ですが、飼いならされた神様ではないということです。

私たちは神様をコントロールすることができません。

私たちは神様を操ることができません。

聖なる万能の神様を相手にするとき、私たちは恐れるべきです。私たちは、故意に神様を軽んじてはならないのです。

なぜなら、ある日、神様はご自分に反対して憎む人々を裁かれるからです。(5)

その裁きを見るとき、私たちは恐れるべきです。なぜなら、私たち皆は罪を犯したからです。私たち皆は裁きにふさわしい者です。

それでも、神様は良い方です。神様は気まぐれな方ではありません。神様は悪意を持っておられる方ではありません。

さらに、神様はご自分のひとり子をこの世に送って、私たちの代わりにイエス様は裁かれました。

だから、神様を愛し、イエス様を受け入れる人々には、神様は恵みを注いでくださいます。

私たちが罪を犯すとき、神様は私たちを懲らしめるかもしれませんが、ご自分の恵みを私たちから取り去られることはありません。(第二サムエル記7:14ー15)

そういうわけで、イスラエル人と違って、私たちは神様の裁きを恐れて、神様から遠く離れて立つ必要はありません。

むしろ、モーセのように、私たちは神様に近寄ることができます。(18、21)

だから、神様を恐れましょう。でも、神様を怖いと思う必要はありません。

それを心に留めて、神様に近づきましょう。

こうして、愛が私たちにあって全うされました。

ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。

恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。(第一ヨハネ4:17ー18)

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出エジプト記のデボーション

私たちのアイデンティティーを心に留めて

「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」

これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。(出エジプト記19:5ー6)

それらは驚くべき言葉ですね。

でも、1000年以上経って、ペテロはイスラエル人たちに語られた神様の言葉を、私たちに当てはめました。

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。

それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。(第一ぺテロ2:9ー10)

私たちのアイデンティティーを心に留めておきましょう。

私たちは神様に愛され、選ばれた民です。

でも、それだけではなく、私たちは大王の祭司で、神様の栄誉を告げ知らせるために召されました。

しかし、それは、ただ神様をほめたたえるためではありません。むしろ、回りの人々が私たちのあかしを聞いて、彼らも闇の中から神様の驚くべき光の中に入るためです。

だから、私はもう一度言います。

自分が何者であるかを心に留めておきましょう。

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出エジプト記のデボーション

打たれてくださった神

どれほど、私たちは神様を疑い、「あなたは本当に私と共におられるでしょうか」と疑問に思うでしょうか。

イスラエル人たちは荒野でそのように感じました。

だからその荒野で、旧約聖書の中で神様は初めて、そしてただ一度だけ、裁かれるために人の前に立たれました。

通常、人は裁かれるために神様の前に立ちました。(申命記19:17)

しかし今回は、神様は(もしかすると、雲の柱の形で)モーセとイスラエルの長老たちの前に、岩の上に立たれます。

もちろん、雲を打つことはできないので、その代わりに、モーセは神様が立っておられる岩を打ちます。

そして神様はイスラエル人たちに水を与え、ご自身が彼らと共におられることを証明されました。

神様は打たれるに値しませんでした。むしろ、イスラエル人たちが不信の罪のために打たれるに値しました。しかし神様は打たれてくださり、彼らに命を与えてくださいました。

パウロによれば、その岩はキリストの象徴でした。(第一コリント10:4)

そして、千年以上後に、神様が人間となられたイエス様は、もう一度、裁かれるために人の前に立たれました。

もう一度、イエス様はご自身の罪のためではなく、ご自身の民の罪のために裁かれました。

十字架で、イエス様はもう一度打たれました。そして、十字架でイエス様が流された血によって、私たちは命を得ました。

あなたはどんな試練に直面していますか。あなたは、神様が本当にあなたと共にいるかどうか疑問に思っていますか。

十字架を仰ぎましょう。

イエス様の十字架のみわざを心に留めておきましょう。

そして、イエス様を信じましょう。

イエス様はインマヌエルです。

イエス様は、私たちと共におられる神様です。

ダビデは、今日の話を覚えていたとき、詩篇95篇を作りました。

ダビデと共に歌いましょう。

さあ、主に向かって、喜び歌おう。

私たちの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。(詩篇95:1)

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出エジプト記のデボーション

私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください

主はモーセに言われました。

「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。

これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。」(出エジプト記16:4)

もしかすると、イエス様はこの箇所を覚えておられ、ご自身の弟子たちにこのように祈ることを教えられたのかもしれません。

私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。(マタイ6:11)

今日、私が気づいたのは、そのように祈るとき、私たちが単に自分のニーズのために祈っているのではない、ということです。

むしろ、私たちはこう祈っているのです。

「神様、私が日々あなたに信頼するように教えてください。すべてにおいてあなたに従うほど、私があなたに信頼するように教えてください。」

主よ。私を罪の奴隷から救い出してくださり、感謝します。

毎日、私があなたをもっと知り、あなたの栄光を見ることができますように。(6–7節)

私がそうするにつれて、すべてにおいて、あなたを信頼し、従うように教えてください。

私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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出エジプト記のデボーション

神様に叫ぶとき、信仰で進むとき

主はモーセに言われた。「なぜ、あなたはわたしに向かって叫ぶのか。

イスラエルの子らに、前進するように言え。(出エジプト記14:15)

私たちにとって大きすぎる問題に遭遇するときもあります。そのとき、私たちの自然な反応は、神様に「助けて!」と叫ぶことです。

もちろん、神様に叫ぶべき時もあります。

でも、私たちがただ神様とその約束を信じて、前進すべき時もあります。つまり、私たちは最終的に神様の救いを見ることを信じて、神様の指示に従うのです。

私たちがこの世でその救いを見るとは限りません。

イエス様は、私たちの問題のすべてを取り去ると約束されたわけではありません。あるクリスチャンはこの世でイエス様のために苦しみ、命を落としました。

しかし、イエス様は十字架において最終的な勝利を得られたのです。だから、この世で私たちがどのような苦しみを経験しても、やがて神様の救いを見るという確信を持つことができるのです。

だからこそ、信仰によって前進し、神様が私たちに与えてくださった役割を果たしましょう。

そして、パウロの言葉を心に留めておきましょう。

しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。

あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。(コリント人への手紙第一15:57ー58)

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神様の印を受けた者

その血は、あなたがたがいる家の上で、あなた方のためにしるしとなる。

わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。

わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。(出エジプト記12:13)

聖書には、神様が人々を裁かれるが、ご自身の民をその裁きから守られるというテーマがあります。

エゼキエル書9:4にも、黙示録7:3と9:4にも、そのテーマが見られます。

しかし、今日の箇所では、神様の裁きから私たちを守る印の描写が見られます。それは、傷もなく汚れのない子羊の血潮です。

私たちにとって、イエス様は私たちの過越の子羊です。(第一コリント5:7)

十字架で流されたイエス様の血潮によって、私たちは印を押されているのです。

そのゆえに、この世界が裁かれるとき、神様は私たちをあわれみ、過ぎ越してくださるのです

だから毎日、罰を恐れずに、私たちに対する神様の愛と恵みの確信をもって、神様に近づきましょう。(第一ヨハネ4:17–18、へブル10:19–22)

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怒りを覚えるとき

こうして、モーセは怒りに燃えてファラオのところから出て行った。(出エジプト記11:8)

その言葉は私の印象に残りました。

どうしてモーセはそんなに怒りを覚えたのでしょうか。

たぶん、彼はファラオの頑なな心に対して怒りを覚えたのでしょう。また、モーセは、ファラオが神様の民をどのように酷使したかについても怒ったのかもしれません。

モーセの怒りは清いものだったでしょうか。

それは少し微妙です。モーセは人間でしたから。

自分の怒りによって、モーセが困難に陥ったこともありました。(出エジプト記2:11–12、民数記20:10–12)

それでも、クリスチャンの生活には、怒りの余地があります。特に、人々の頑なな心を見るとき。また、この世界の中の不正を見るときです。

イエス様も怒りを覚えられたことがありました。(マルコ3:5、11:15–17)

しかし、注意しなくてはならないのは、私たちがその怒りを感じた後に、どうするかということです。

パウロはこう言いました。

怒っても、罪を犯してはなりません。

憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。

悪魔に機会を与えないようにしなさい。(エペソ4:26ー27)

私たちが覚えておかなくてはならないのは、人々の頑なな心やこの世の中の不正の中で、神様が計画を持っておられるということです。その最終的な計画は、人々を救うことです。

ファラオの頑なな心は神様の計画の一部であり、神様はイスラエル人の救いをもたらされました。

また、ユダヤ人の指導者たちの頑なな心によって、イエス様が十字架にかけられ、神様は私たちの救いをもたらされました。

だから、怒りを覚えるとき、私たちはどうすればよいでしょうか。

怒ってもかまいません。でも、罪を犯してはいけません。サタンに私たちを操る機会を与えてはいけません。

人々の頑なな心のために罵ることは、神様の救いをもたらすはずがありません。

世界の中の不正を呪うことも、神様の救いをもたらすはずがありません。

むしろ、神様の愛によって人々に触れることによって、私たちは神様の救いを目にします。

その救いを見たいなら、私たちはイエス様の恵みとまことの模範に従わなくてはなりません。

イエス様は真理を曲げられたことがありません。むしろ、イエス様は人々の罪を指摘されました。(ヨハネ4:16–18)

イエス様は、神様の言葉に関する人々の無知を指摘されました。(マタイ22:29)

人々が神様の言葉を曲げたとき、イエス様はそれをも指摘されました。(マタイ5:43–44)

それでも、イエス様は罪人の仲間と呼ばれました。(マタイ11:19)

私たちはどうでしょうか。

私たちも罪人の仲間と呼ばれるでしょうか。

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空しい悔い改め

ファラオは急いでモーセとアロンを呼んで言った。

「私は、おまえたちの神、主とおまえたちに対して過ちを犯した。

どうか今、もう一度だけ私の罪を見逃してくれ。おまえたちの神、主に、こんな死だけは取り去ってくれるよう祈ってくれ。」出エジプト記10:16-17)

それは、本当の意味での悔い改めのように聞こえたかもしれません。

しかし結局、それらは空しい言葉でした。

どうしてでしょうか。

なぜなら、その言葉には、神様に喜んで聞き従う心が伴っていなかったからです。ファラオは、ただ神の裁きからの救いを望んでいただけでした。

悔い改めとは、ただ「ごめんなさい」と言うことではありません。

悔い改めとは、ただ「許してください」と言うことでもありません。

悔い改めとは、愛と従順の心をもって、神様に向かうことです。

そのような心を伴わない悔い改めは、本当の悔い改めではありません。

あなたはどうですか。あなたは本当に悔い改めの心を持っておられるでしょうか。

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神様の御怒りとあわれみ

今度、わたしは、あなた自身とあなたの家臣と民に、わたしのすべての災害を送る。わたしのような者が地のどこにもいないことを、あなたが知るようになるためである。

実に今でも、わたしが手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。

しかし、このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。(出エジプト記9:14ー16)

今日、この箇所は私の心を打ちました。神様は裁きをエジプト人たちに注がれましたが、彼らをあわれんでくださいました。

神様は一瞬で彼らを滅ぼすことができましたが、そうされませんでした。

さらに、彼らの命を守るために、雹に関する警告を与えられました。(19)

神様は人々の罪のために御怒りを注がれますが、人々をあわれんでくださいます。

なぜでしょうか。それは、人々が神様を知り、悔い改めることを望まれているからです。

ファラオは傲慢で、モーセに言いました。「私は主を知らない。」(出エジプト記5:2)

それゆえ、神様はご自身がどのような方であるかをファラオに現されました。

つまり、神様は正義の神であり、罪を罰される方です。そして、主はあわれみ深い神であり、主を恐れる者をあわれまれる方です。

私にとって興味深いことは、神様の言葉がラハブの人生に成就したことです。

神様はファラオを生かし、紅海を分け、ご自身の力と御名を周囲の国々に現されました。

その結果、ラハブとその家族は救われました。(ヨシュア記2:8–14、6:25)

ですから、神様が紅海で御怒りをファラオとその軍隊に注がれたことによって、ラハブとその家族は神様のあわれみを受けました。

さらに、ラハブはイエス様の系図に加えられました。(マタイ1:5)

ある意味で、神様はすべての人々をあわれんでくださいます。つまり、神様はこの瞬間、私たちを滅ぼされないということです。しかし、私たちが悔い改めてこそ、救いに至るあわれみを受けるのです。

神様は私たちに警告を与えられます。神様は私たちに悔い改める時間を与えてくださいます。

あなたはどうされますか。

神は言われます。 「恵みの時に、わたしはあなたに答え、 救いの日に、あなたを助ける。」

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

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私たちが絶望するとき

モーセはこのようにイスラエルの子らに(神様の約束を)語ったが、彼らは失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができなかった」(出エジプト記6:9)

正直に言うと、私たちが絶望して、この世に打ちのめされているとき、人々が神様の励ましの言葉を語っても、多くの場合、私たちはその言葉を聞きたくないものです。

私たちはその言葉を聞いて、うんざりし、「私は何回もこんな言葉を聞いたことがあるけれど、私の人生は前よりも大変になった」と思います。

でも、私たちが覚えていなくてはならないのは、神様が「ヤハウェ」という神であるということです。

「ヤハウェ」という名前は、変わることのない神、いつも約束を守られる神、そして、常に忠実な神を意味します。

だからこそ、神様は三回、「私は主である」、つまり「私はヤハウェである」と言われました(2、6、8)。

ですから、今あなたが苦しんでいるなら、その真理に思いを巡らしましょう。

「私は主である。私はヤハウェである。」

そして、心に留めておきましょう。アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、そしてイスラエルの民と共におられた神様は、今もあなたと共におられるのです。

神様は、昔も今も忠実であり、永遠に忠実でおられるお方です。

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主の権威を拒む心

主とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは。

私は主を知らない。(出エジプト記5:2)

たぶん、ファラオのように、自分の人生における主の権威をきっぱりと否定するクリスチャンは、あまりいないでしょう。

しかし、私たちはどれほど、自分の不従順のために言い訳をするでしょうか。

どれほど、聖書に記されている神様の明快な言葉を否定するでしょうか。

聖霊様が私たちの罪を指摘されるとき、どれほど、私たちは御霊の声を無視するでしょうか。

そうすることで、私たちは基本的にこう言っていることになります。

「主とは何者だ。私がその声を聞かなければならないとは。私は主を知らない。」

「主よ」と「いいえ」とは、相いれない言葉です。

もし、イエス様が本当に私たちの主であるならば、どうして、私たちは主に「いいえ」と言えるでしょうか。

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神様が私たちに求められること

モーセは主に言った。

「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」

主は彼に言われた。

「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか。

今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」(出エジプト記4:10-12)

私たちは皆、弱点と限界を持っています。そして、神様が私たちに何かをするように命じられると、自分の限界や弱点を、神様の指示に従わない言い訳にしてしまうのは、簡単なことです。

しかし、神様は私たちの限界や弱点に縛られることはありません。

神様が私たちに求められるのは、ただ二つのことです。それは、神様に喜んで自分の時間を捧げることと、神様に従う心です。

そして、私たちは自分の力に頼らず、神様に頼るにつれて、神様が命じられることを何でも行うことができます。

主よ、私は弱点や限界を持っていますが、あなたは私をこのように造ってくださいました。そして、あなたは私の限界に縛られることはありません。

だから、その限界や弱点を持つ自分自身をあなたに捧げ、「ここに私がおります。私を遣わしてください」と申し上げます。

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出エジプト記のデボーション

私たちをみこころに留めてくださる神

神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。(出エジプト記2:24-25)

どのようにイスラエルの民は嘆いたのでしょうか。

もしかすると、アサフは詩篇77篇で彼らの苦しみを代弁したのかもしれません。

主は、いつまでも拒まれるのか。
もう決して受け入れてくださらないのか。

主の恵みは、とこしえに尽き果てたのか。
約束のことばは、永久に絶えたのか。

神は、いつくしみを忘れられたのか。
怒って、あわれみを閉ざされたのか。(詩篇77:7-9)

どれほど私たちは、そのように感じることがあるでしょうか。

神様が私たちを拒まれたのではないかと疑問に思います。神様の愛や忍耐、そして私たちへの恵みが尽き果てたのではないかと疑問に思います。

しかし、神様は私たちの声を聞いてくださいます。神様は、私たちのために流されたイエス様の血による新しい契約を思い起こされます。そして、私たちの苦しみの中で、神様は私たちをご覧になり、みこころに留めてくださいます。

そして最も大切なのは、神様がご自分の民を救ってくださるということです。

エジプトで、神様はそうしてくださいました。十字架でも、神様はそうしてくださいました。

だから、神様がなさったすべてのことを思い巡らし、神様のみわざを静かに考えましょう。

そして、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの霊的な子孫として、アサフとともに歌いましょう。

神よ。あなたの道は聖です。
私たちの神のように大いなる神がいるでしょうか。

あなたは奇しいみわざを行なわれる神。
国々の民の中で御力を現わされる方。

あなたは御腕をもって贖われました。
ご自分の民、ヤコブとヨセフの子らを。(詩篇77:13-15)

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出エジプト記のデボーション

神の揺るぐことのない計画

それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてある事を彼らに説き明かされた。(ルカ24:27)

モーセの書について話されたとき、イエス様は、モーセの人生がどのようにイエス様の人生の伏線となったかを説明されたのでしょうか。

イエス様のように、モーセは救い主となるために生まれました。

イエス様のように、王の命令によって、生まれたばかりのモーセは命の危険にさらされました(マタイ2:8、16)。

イエス様の場合のように、神様の救いの計画が進むように、ある人々は王の命令に従わず、神様に従いました(マタイ2:12–15)。

最近、私はこの言葉を読みました。「神様の贖いの計画は揺るぐことのないものです。」

サタンは、初めからその計画を妨害しようとしました。

アダムとエバがエデンから追い出されて以来、サタンはその計画を妨害しようとしました。そして、十字架でサタンは自分がついに勝ったと思いました。

でも、神様の贖いの計画は揺るぐことのないものです。

イエス様は十字架で死なれましたが、三日目に神様はイエス様を復活させられました。

そして、イエス様の死と復活によって、私たちは赦しと永遠の命を得ました。

今なお、神様の贖いの計画は揺るぐことのないものです。

私たちがどんなに失敗しても、どんなにひどい罪を犯しても、救いようのない人は誰もいません。

それがイースターの希望です。毎日、その希望の上に立ちましょう。

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詩篇のデボーション

主をほめたたえよう!

先週末、かつて私が通っていたハワイの教会は、「懐かしい賛美ナイト」を開催しました。彼らは、25〜30年前の賛美の歌ばかりを歌いました。

それだけではなく、その当時の賛美のリーダーたちも、私の友達も戻って来ました。彼らの多くは、神様の導きによって何年も前に別の教会に通い始めましたが、そのイベントのために戻って来ました。

私も行きたかったのですが、残念ながら日本にいるので、参加できませんでした。私は、写真や録画を見ることしかできませんでした。

でも、それを見て、私が初めてイエス様を愛するようになった日のことを思い起こしました。

興味深いことに、彼らが歌った歌の一つは、この詩篇から来たものでした。そして、この詩篇は、そのイベントの意味をよく表しています。それは、「賛美」です。

「ほめたたえる」という言葉は、13回も出てきます。(「ハレルヤ」とは、「主をほめたたえる」という意味です。)

この世界は、さまざまなトラブルに満ちています。そして、私たちはそのトラブルに思い悩むのは、簡単なことです。

でも、もしかしたら、私たちがそのトラブルから目を離して、イエス様に向かうべき時なのかもしれません。

そして、イエス様に向かう良い方法の一つは、イエス様を賛美することです。

イエス様の大能のみわざのゆえに、また、その比類なき偉大さのゆえに、賛美しましょう。

特に、このイースターの季節に、私たちの贖いを買い取ってくださったイエス様の死と復活のゆえに、賛美しましょう。

歌や、フルートや、ギターで賛美しましょう。

そうすれば、私たちの周りのトラブルは、イエス様の光によって、取るに足りない影のように見えるようになります。

だから、どんなトラブルに遭遇していても、そのものから目を離し、イエス様に向かいましょう。そして、イエス様をほめたたえましょう。

ほめたたえましょう!

ほめたたえましょう!

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喜びの理由

あなたがたは君主を頼みとしてはならない。 救いのない人間の子を。(詩篇146:3)

今日、その言葉は私の目に留まりました。特に、その最後の部分です。

「救いのない人間の子を頼みとしてはならない。」

でも、私たちクリスチャンは、救いのために人の子を信頼します。つまり、私たちはイエス様に信頼を寄せるということです。

なぜでしょうか。

なぜなら、イエス様は単なる人の子ではないからです。

むしろ、イエス様は、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって、力ある神の子として公に示された方です(ローマ1:4)。

単なる人間の子と違って、イエス様が死なれたとき、御自身の計画は滅び失せませんでした(4)。

むしろ、イエス様は復活して、永遠に生きておられる方です。

この世におられた時、イエス様は、飢えている者たちにパンを与え、目の見えない者たちの目を開け、かがんでいる者たちを起こされました。

そして、今、イエス様の十字架と復活によって、私たち霊的な囚人たちは解放されました。

また、ある日、イエス様はもう一度この世に来て、正義をもたらし、永遠に治められます。

だから、それを覚えていて、賛美しましょう。

ハレルヤ。

わがたましいよ、主をほめたたえよ。

私は生きているかぎり、 主をほめたたえる。

いのちのあるかぎり、 私の神にほめ歌を歌う。(1ー2節)

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神様に祝福され、神様をほめたたえる

私の神、王よ、私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなくほめたたえます。

日ごとにあなたをほめたたえ、あなたの御名を世々限りなく賛美します。(詩篇145:1-2)

今朝、私はその言葉に心打たれました。特に、2節に心打たれました。

日ごとにあなたをほめたたえ。。。(2節)

「ほめたたえ」という言葉は、興味深い言葉です。多くの場合、この言葉は「祝福」と訳されます。

神様が私たちを祝福されるとき、それは神様が私たちの満たせないニーズを備えてくださるという意味合いがあります(例えば、8–9節、14–16節、18–20節)。

しかし、ある意味で、私たちも神様を祝福します。

けれども、私たちが神様を祝福する方法は、神様が私たちを祝福される方法とはまったく異なります。

神様には、まったくニーズがありません。

神様は、私たちの愛を必要としておられるわけではありません。

神様は、私たちの礼拝を必要としておられるわけではありません。

それでも、神様は私たちを造り、愛しておられるので、私たちの愛と礼拝を大いに喜ばれます。そういう意味で、神様は私たちに祝福されるのです。

だからこそ、いつも「神様、私を祝福してください」と祈るだけではなく、むしろ、神様に対して感謝と愛をもって、このように祈りましょう。

主よ、今日、私をご覧になるとき、私の言葉を聞き、私の思いや行為をご覧になるとき、あなたが祝福されますように。

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詩篇のデボーション

一日の良いスタートを切るため

私は花見が大好きです。

最近、花見に行って、この詩篇を思い出しました。

私は昔の日々を思い起こし、あなたのすべてのみわざに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています。(詩篇143:5)

どれだけ、一日の始まりに、私たちはそのことを考えるでしょうか。

ダビデがこの詩篇を書いたとき、彼はいろいろなトラブルを抱えていました。もしかしたら、彼はサウルかアブサロムから逃走中だったかもしれません。

でも、絶望の時、彼はこう言いました。「私は思い起こし、思いを巡らし、静かに考えています。」

ダビデは何を思い起こしたのでしょうか。彼は、昔の話を思い起こしました。つまり、神様がどれだけご自分の民を助けてくださったかを思い起こしたのです。

たぶん、ダビデは、ノアの話やアブラハムの話やヤコブの話やヨセフの話やモーセの話やデボラの話やギデオンの話やサムソンの話を思い起こしたでしょう。

ダビデは何に思いを巡らしたのでしょうか。彼は、神様のみわざに思いを巡らしました。神様がダビデの先人を助けてくださったことにも、自分を助けてくださったことにも思いを巡らしました(例えば、第一サムエル記17:34–37)。

ダビデは何を静かに考えていたのでしょうか。

彼は、神様の御手の御業を考えていました。ダビデは、天や動植物やすべての創造物を静かに考えていました。

そのすべてを思い起こし、思いを巡らし、静かに考えていたとき、ダビデは、神様の力とご自分の民に対する憐れみを思い出しました。

ダビデの反応は?

それは、神様に頼る心です。

朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。

行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。。。

あなたのみこころを行うことを教えてください。あなたは私の神であられますから。

あなたのいつくしみ深い霊が平らな地に私を導いてくださいますように。(8-10節)

一日の始まりに、私たち皆がそんな心を持っていますように。

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詩篇のデボーション

一人ぼっちではない

私たち皆には、一人ぼっちだと感じるときがあります。ダビデも、そう感じたことがありました(詩篇142:4)。

ダビデの言葉は、私の心を打ちました。

声をあげて、私は。。。叫びます。 

声をあげて、私は。。。あわれみを乞います。

私は。。。自分の嘆きを注ぎ出し。。。 

私の苦しみを。。。言い表します。

誰にダビデはそうしていたのでしょうか。もちろん、主にそうしていたのです。

ダビデが一人ぼっちだと感じたのに、主はダビデと共におられました。そういうわけで、ダビデはこう言えました。

私の霊が私のうちで衰え果てたときにも、あなたは私の道をよく知っておられます。(3節)

また、

主よ、私はあなたに叫びます。「あなたこそ私の避け所、生ける者の地での私の受ける分。」(5節)

あなたは自分が一人ぼっちだと思いますか。自分が捨てられたと感じていますか。

イエス様も、その感じがよく分かっておられました(マタイ27:46)。

しかし、神様はイエス様を、よみの牢に捨て置かれませんでした(使徒の働き2:25–32)。

神様は、あなたをも見捨てられません。

だから、主に声をあげましょう。主にあわれみを乞いましょう。

主に、自分の嘆きを注ぎ出しましょう。主に、自分の苦しみを言い表しましょう。

神様は、あなたの声に耳を傾けてくださいます。

そして、神様は、あなたを復活させてくださいます。

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詩篇のデボーション

自分の言葉を慎む

ヤコブによれば、舌を制することができる人は誰もいません(ヤコブ3:8)。

正直に言うと、私がいつも反省するのは、自分の言葉です。でも、ただ口で言うことだけではなく、SNSで書くことも考えます。「神様はその言葉を見て、喜ばれたのだろうか。」

140篇で、ダビデは、よこしまな人の言葉が蛇のように鋭く、まむしの毒のようだと言います(詩篇140:3)。

でも、141篇では、ダビデはこのように祈ります。

主よ、私の口に見張りを置き、私の唇の戸を守ってください。(詩篇141:3)

それを読んで、今日、私もそのように祈りました。

主よ。私の口に見張りを置いてください。私の唇の戸を守ってください。

私を探り、私の心を知ってください(詩篇139:23)。

私の言葉があなたを悲しませるとき、教えてください。

私の口のことばと、私の心の思いとが御前に受け入れられますように(詩篇19:14)。

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詩篇のデボーション

心を神様に開く

自分の物の見方によって、詩篇139篇は心強いものかもしれませんし、もしかしたら、怖いものかもしれません。

なぜなら、この詩篇によれば、神様は私たちのことを隅々まで知っておられるからです。神様は、私たちの思いや言葉や行為のすべてを知っておられます。

もし、私たちを本当に愛してくださる神のイメージを持っていたら、それは本当に心強いことでしょう。

でも、私たちをストーキングする怪しい神のイメージを持っていたら、それは本当に怖いことでしょう。

しかし、この詩篇では、ダビデが神様をどのような方だと思っていたかが明らかです。つまり、ダビデは、自分に対する神の愛を確信していたということです。

そういうわけで、ダビデは自分の心を神様の探っておられる目に向けて開きました。

ダビデは、自分の良い心を確信していたのではありません。むしろ、ダビデは、神様の慈しみを確信していました。

その確信をもって、ダビデはこのように祈りました。

神よ、私を探り、私の心を知ってください。私を調べ 私の思い煩いを知ってください。

私のうちに傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23ー24)

あなたはどうでしょうか。神様をどのような方だと思いますか。

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詩篇のデボーション

主の恵みとまことのゆえに

主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。 主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。(詩篇138:8)

ある英訳では、上の言葉はこのように翻訳されています。

「主は私に関するすべてのことを完成させてくださいます。」

その翻訳が大好きです。私はそれを読んで、パウロの言葉を連想しました。

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。(ピリピ1:6)

どうして、ダビデとパウロはその確信を持っていたのでしょうか。自分の良い行いと忠実さによって、その確信を持っていたのでしょうか。

違います。

彼らは、主の恵みがとこしえにあることを信じたからこそ、その確信を持つことができました。

だから、ダビデと一緒に歌いましょう。

心を尽くして 私はあなたに感謝をささげます。御使いたちの前で、あなたをほめ歌います。

私は、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏し、恵みとまことのゆえに、御名に感謝します(1ー2節)

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コリント人への手紙第二のデボーション

自分自身を試し、吟味する

あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。

それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。

あなたがたが不適格な者なら別ですが。(コリント人へん手紙第二13:5)

それはかなり厳しい言葉ですね。

でも、その文脈を覚えていた方がいいです。あるコリント人たちは、自分がクリスチャンと自称したのに、パウロの権威を拒絶し、神様の権威をも拒絶してしまいました。

さらに、彼らは自分の罪を悔い改めることを拒みました(10〜12章)。

そんなことをしてしまったら、自分がクリスチャンであると主張することはできません。

真のクリスチャンは、罪に何度も落ちてしまうかもしれませんが、神様の権威を拒絶しません。また、罪を犯したとき、言い訳をしません。むしろ、悲しんで、すぐに悔い改めます。

簡単に言うと、真のクリスチャンは神様に対して柔らかい心を持っています。

あなたは、そのような心を持っていますか。

もしそのような心を持っていないなら、自分がクリスチャンかどうかを疑わなくてはなりません。

でも、神様に対して柔らかい心を持っているなら、心配しなくていいです。なぜなら、神様はあなたのことを諦められないからです。

むしろ、神様はあなたのうちに始められたことを完成させてくださいます(ピリピ1:6)。

あなたが弱くて、何度も失敗しても、主イエスの恵み、天の父の愛、聖霊の交わりは、永遠にあなたとともにあります。

だから、毎日それを心に留めておいて、心を安らかにしましょう。

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コリント人への手紙第二のデボーション

へりくだって神様に頼る

1章にも12章にも、パウロは自分が耐えられない試練に直面しました。パウロはその二つの試練に圧倒されました。

そして、その二つの試練によって、パウロは同じ教訓を学びました。それは、へりくだって神に頼ることです。

私たちは、自分が賢くて、どんな問題に遭遇しても、自分の力によって解決できると思って、自分をよく騙してしまいます。

しかし、神様は私たちを自己に頼るものとして造られたのではありません。むしろ、神様は私たちを神に頼るものとして造られました。

そういうわけで、神様は私たちの試練を許されます。その試練によって、私たちは、自分が思っていたほどに賢くも強くもないことを実感します。

そして、私たちはもう一度、神様の御前に来て、子供のような依存と信頼をもって、神様に両手をあげます。

そうすれば、神の恵みが私たちに十分であることがわかるようになります。また、神の力が弱さのうちに完全に現れることがわかるようになります。

そのとき、私たちはパウロと一緒に、こう言います。

ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。

というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(コリント人への手紙第二12:9bー10)

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コリント人への手紙第二のデボーション

あなたの推薦を受けるために

私たちは、自分自身を推薦している人たちの中のだれかと、自分を同列に置いたり比較したりしようとは思いません。

彼らは自分たちの間で自分自身を量ったり、互いを比較し合ったりしていますが、愚かなことです。。。

自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です。(コリント人への手紙第二10:12、18)

主よ。自分自身を他の人と比較するのは簡単なことです。つまり、自分の実績を周りの人々の実績と比較するのは簡単なことです。

しかし、そんな考え方は空しいものです。最終的に、大切なのはただ一つ──あなたの評価です。

あなたは私を他の人と比較しておられるのではありません。むしろ、私があなたに忠実であるかどうかを評価しておられるのです。

だから、私が忠実なしもべとなるように。あなたの推薦を受けたいです。そして、あなたの誉め言葉を聞きたいです。

「よくやったよ。良い忠実なしもべ。」

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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コリント人への手紙第二のデボーション

癒しがない?赦しがない?

私たち皆、後悔することがあります。そして、自分の罪と失敗の結果を見ると、罪悪感に圧倒される時もあります。

確かに、私たちの敵であるサタンは、私たちが自分の罪の重さに押しつぶされることを望んでいます。

けれども、神様は何を望んでおられるのでしょうか。

さまざまな意味で、パウロの心は私たちの天の父の心を映しています。

パウロは手紙を書きながら、コリント人たちを彼らの罪のために責めていました。その手紙を読んで、彼らは罪悪感を抱き、悲しみました。

それでも、パウロはその悲しみについて何と言ったでしょうか。

今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。

あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。(コリント人への手紙第二7:9)

人に傷つけられるとき、私たちはよく、相手が自分の悪さを認め、苦しむことを望みます。相手が罪悪感に押しつぶされるのを見て、私たちは喜んでしまうことがあります。

実のところ、私たちが相手の苦しみによって滅びることを望む時さえあります。

しかし、パウロはそう望みませんでした。コリント人たちが害を受けることを望んだわけではありません。パウロが望んだのは、ただ彼らが悔い改めることでした。

私たちの天の父も、同じことを望んでおられます。

罪の結果は、本当に苦しい時もあります。圧倒的な罪悪感に押しつぶされそうになることもあります。

けれども、神様が私たちを押しつぶしたいわけではありません。むしろ、神様が望んでおられるのは、私たちが悔い改めることです。そして、悔い改めるなら、その結果は死ではなく、癒しです。

パウロはこう言っています。

神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(10節)

もしかしたら、あなたは罪悪感に押しつぶされそうになっているかもしれません。「私には癒しがない。赦しがない。」と思っているかもしれません。

しかし、癒しはあります。赦しもあります。

必要なのは、ただ悔い改めることです。自分の罪を認め、神様の赦しを願うなら、神様は必ず赦してくださいます。

「さあ、来たれ。論じ合おう。」──主は言われる──

「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。 たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ書1:18)

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コリント人への手紙第二のデボーション

福音の務めを汚さないように

私たちは、この務めがそしられないように、どんなことにおいても決してつまずきを与えず、  むしろ、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しています。(コリント人への手紙第二6:3ー4)

今朝、その言葉は私の心を打ちました。

福音は多くの人につまずきを与えるものです。人々に彼らの罪や神様の聖さについて語るとき、また、イエス様だけが救いの道であると主張するとき、私たちは相手を怒らせる可能性があります。

しかし、彼らが怒ったとしても、私たちを見ると、私たちの中に疑う余地のない誠実さを見るはずです。また、私たちの中に御霊の実、愛や親切や忍耐などを見るはずです。

では、なぜパウロの言葉が私の心を打ったのでしょうか。

時に、私は自分の行為や言葉によって、人々に福音をそしる機会を与えてしまっているのではないかと疑問に思います。

正直に言うと、私はそうしたことがあります。そのとき、私は悔い改めなくてはなりませんでした。

けれども、私だけではなく、私たち皆が、キリストの使節として召されています。

神様の恵みと力によって、その召しにふさわしく歩み、私たちの務めを果たしましょう。私たちが自分の言葉や行為によって、人々に福音をそしる機会を与えないように。

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あなたに喜ばれる者となるために

そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。。。

というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。(コリント人への手紙第二5:9ー10、14ー15)

主よ。私が心から願うのは、あなたに喜ばれることです。私のすべての行為や思いによって、あなたを喜ばせたいのです。

しかし、私は自分の人生を振り返ると、どれほど失敗してきたかが分かります。そして、私は改めて、なぜあなたが十字架で死なれなければならなかったのかを悟ります。けれども、あなたの十字架の御わざによって、私は神の義とされました。

あなたが私を見ると、私の罪や失敗を認めません。むしろ、私はキリストの完全な義に包まれています。

そういうわけで、あなたは私を受け入れます。あなたは私に言われます。「あなたはわたしの愛する子です。わたしはあなたを喜ぶ。」

あなたの愛は素晴らしいものです。

その愛が私の人生を動かしますように。あなたの愛が、私の人生観を形づけますように。また、あなたの愛が、私が周りの人々を見る目を形づけますように。

私が毎日、自分のためではなく、あなたのために生きますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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神様の栄光を見る

モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」

主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」

 また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」」(出エジプト記33:18ー20)

その出エジプト記の箇所と第二コリント3章には、深い関係があります。

私たち罪深い人間にとって、神様の栄光は恐ろしいものです。神様が聖なる方であり、人間がそうではないため、人は神様の顔を見ると死んでしまいます。

そのため、神様の栄光が通り過ぎるとき、モーセは岩の後ろに隠れなければなりませんでした(出エジプト記33:21–23)。

また、幕屋や神殿の中には、至聖所の前に垂れ幕がありました。なぜなら、神様が至聖所でご自身の栄光を現されたため、通常は祭司たちでさえ入ることができなかったからです(レビ記16:2)。

一年に一度だけ、宥めの日に大祭司は至聖所に入ることができましたが、そのとき、香を主の前の火にくべて「雲」を作りました。それは、神様の栄光が霞むためです(レビ記16:12–13)。

イスラエル人にとって、神様の栄光によって輝いていたモーセの顔を見るのは、恐ろしいことでした。だから、その栄光が消えていったにもかかわらず、モーセは覆いをかけました(出エジプト記34:29–30)。

しかし、十字架でイエス様が死なれたとき、その垂れ幕は裂かれました。そして、私たちは主に立ち返ると、覆いは取り除かれます。イエス様の顔を見るとき、私たちは神様の栄光を見るのです。

その栄光を見ても、私たちは滅びることはありません。むしろ、私たちは主と同じかたちに姿を変えられていきます。

私たちは罪深い者であるにもかかわらず、神様は私たちを少しずつ変えてくださいます。そして、イエス様がもう一度この世に来られると、私たちはたちまちイエス様に似た者とされます(第一ヨハネ3:2)。

そして、最も素晴らしいことは、モーセの場合は神様の栄光が消えていきましたが、私たちの場合は、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていくということです(第二コリント3:18)。

だから、パウロのように大胆に振る舞いましょう(第二コリント3:13)。

大胆に神様に近づきましょう(ヘブル10:19–22)。

また、大胆に命を与える福音を伝えましょう(第二コリント4:4–6)。

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コリント人への手紙第二のデボーション

信頼と希望を神様に向けて

私たちは、困難や試練に直面するとき、自分に頼るのはたやすいことです。私たちはよく、自分の力と知恵に頼ります。私も、しばしばそうしてしまいます。

だからこそ、時に、神様は私たちが対処できないほどの圧倒的な試練を経験することを許されるのかもしれません。その試練を通して、私たちは自分の力と知恵に頼るのではなく、神様に頼ることを学びます。

パウロも、そう考えていたようです。

彼はこう言いました。

兄弟たち。アジアで起こった私たちの苦難について、あなたがたに知らずにいてほしくありません。

私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。

実際、私たちは死刑の宣告を受けた思いでした。それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。(コリント人への手紙第二1:8ー9)

しかし、パウロは神様に信頼を寄せることを学び、希望を知るようになりました。

神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。(10)

あなたはどうでしょうか。どんな試練に遭っているでしょうか。

誰に信頼を寄せているでしょうか。誰に希望を置いているでしょうか。

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コリント人への手紙第一のデボーション

困難な時代にあっても

毎日のニュースを読むと、私たちが困難な時代に生きていることがよく分かります。そして、へこたれたり、恐れたり、絶望したりするのは、たやすいことです。

しかし、まさにこのような時代にこそ、パウロの言葉が本当に適切だと感じます。

目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。一切のことを、愛をもって行いなさい。(コリント人への手紙第一16:13ー14)

「目を覚ましていなさい。」

なぜでしょうか。なぜなら、サタンは私たちを絶望させようとしているからです。また、私たちを恐れさせようとしています。

ペテロが言ったように、サタンは吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています(第一ペテロ5:8)。だから、私たちは気を付けなくてはなりません。

「雄々しく、強くありなさい。」

どうして私たちはそうできるのでしょうか。なぜなら、私たちのうちにおられるイエスは、この世にいる悪魔よりも偉大だからです(第一ヨハネ4:4)。

イエス様にあって、私たちはすでに勝利を得ています(第一コリント15:57–58)。

また、イエス様はもう一度この世に来られます。最初に来られたとき、イエス様は私たちの罪を背負われましたが、今度はすべての悪を滅ぼし、救いをもたらし、すべてを新しくしてくださいます(ヘブル9:28)。

「一切のことを、愛をもって行いなさい。」

なぜでしょうか。私たちが世の人々と違うのは、キリストの愛です。そして、その愛によってのみ、私たちは神の国のために、周りの人々に影響を与えることができます。

だから、堅く信仰に立ちましょう。ダビデが歌ったように、私たちは主のいつくしみを見るのです(詩篇27:13)。

待ち望め 主を。雄々しくあれ。
心を強くせよ。 待ち望め 主を。(詩篇27:14)

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コリント人への手紙第一のデボーション

互いに建て上げる

今日の箇所では、パウロは教会にさまざまな指示を与えています。特に、異言や預言に関する指示が中心です。

もちろん、それらの指示は重要ですが、それだけに注目するなら、私たちはパウロの主なポイントを見逃してしまうかもしれません。

それは、教会において、私たちはただ自分自身や自分の益について考えるべきではないということです。むしろ、周りの人々のことを考え、特にその人をどのように強めることができるかを思い巡らすべきです。

(新改訳第3版では「徳を高める」と訳され、第4版では「成長させる」と訳されていますが、ギリシャ語のニュアンスは「建てる」あるいは「強化する」という意味です。)

パウロは何度も教会を強めることについて語ります。けれども、彼が語っているのは組織の強化ではありません。むしろ、神の民をどのように強めることができるかを語っています。なぜなら、神の民そのものが教会だからです。

パウロによれば、教会に行くとき、ただ「どうすれば自分の益を得られるか」と考えるなら、私たちは子どものような考え方をしていることになります(20)。

多くのクリスチャンは教会に来て、「励まされたい」「力を受けたい」と言います。

もちろん、自分の教会で励まされたり、強められたりすることを願うのは自然なことです。

しかし、パウロが語っているのは、私たち全員が「どうすれば他の人を強めることができるか」を考えるべきだということです(26)。

ですから、日曜日に教会へ行くときは、意図的に誰かに声をかけましょう。その人を励ましましょう。その人のために祈りましょう。

もしオンライン礼拝に参加するなら、意図的に教会の人に電話やLINE、Zoomなどで連絡を取り、会話を持ちましょう。

意図的に互いに強め合い、励まし合う教会となりましょう。

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コリント人への手紙第一のデボーション

最も大切なこと

今日、私が気づいたのは、パウロが霊的な賜物について語っているものの、賜物そのものがパウロの主なポイントではないということです。

もし賜物が主題であるならば、パウロはそれらをもっと具体的に説明していたはずです。

たとえば、パウロは賜物を列挙しますが、ある賜物を省略しており(ローマ12:6〜8)、それぞれの賜物が何であるかを詳しく説明していません。

では、パウロは霊的な賜物について教えるよりも、何を伝えたかったのでしょうか。

それは、コリント人たちが教会の分裂や派閥を捨てるべきだということです。パウロは何度もそのテーマを繰り返しています。

「あなたがたは一つのからだです。あなたがたは同じ御霊、同じ主、同じ神に属しています。あなたがたの賜物は教会全体の益のために与えられています。互いに必要とされているのです。互いに敬い合うべきです。

教会のメンバーの苦しみは、あなたの苦しみです。その一方で、もしその人が尊ばれるなら、その人と共に喜びましょう。その人はあなたの一部です。または、あなたはその人の一部です。

あなたがたは霊的な賜物を求めています。それは良いことです。しかし、覚えておきなさい。あなたがたは一つのからだです。だから、分裂を捨てなさい。」

そして、パウロはこの話を第13章へと続けます。

私たちはどうでしょうか。私たちはパウロのように、神の教会とそのメンバーたちを大切にしているでしょうか。それとも、私たちはコリント人たちのように考えてしまっているでしょうか。

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コリント人への手紙第一のデボーション

裁きと懲らしめの違い

コリント人たちの一つの問題は、聖餐式において主とその十字架の御わざを祝いながら、キリストのからだを軽んじてしまったことです。つまり、彼らは貧しいクリスチャンたちに恥ずかしい思いをさせていたのです。

そのため、あるコリント人たちは主によって裁かれ、病気になったり、亡くなったりしました(コリント人への手紙第一11:22、30)。

それは本当に厳しい裁きであったため、パウロはコリント人たちに警告します。「そのような裁きを避けるために、聖餐式を受ける前に、自分の心を吟味しなさい」(28、31)。

神様の懲らしめが厳しいときもあります。しかし、覚えておきましょう。私たちが主から受ける懲らしめは、この世が受ける裁きとは異なります。

パウロはこう言いました。

私たちがさばかれるとすれば、それは、この世とともにさばきを下されることがないように、主によって懲らしめられる、ということなのです。(コリント人への手紙第一11:32)

主から私たちが受ける懲らしめがどんなに厳しくても、それは永遠の死に至るものではありません。その意味で、私たちは主の怒りを恐れる必要はありません。

しかし、覚えておきましょう。神様は私たちの罪を軽んじられません。だから、私たちも自分の罪を軽んじてはなりません。そうでなければ、神様の懲らしめが非常に苦しいものとなることがあります。その意味で、私たちは主を恐れるべきです。

もちろん、神様は私たちを愛しておられます。しかし、それは私たちが主の懲らしめを免れるという意味ではありません。だから、ヘブル人への手紙の著者の言葉を覚えておきましょう。

わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。 主に叱られて気落ちしてはならない。

主はその愛する者を訓練し、 受け入れるすべての子に、 むちを加えられるのだから。(へブル12:5ー6)

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コリント人への手紙第一のデボーション

私たちは誰のものか、何のために生きるのか

今週、コリント人への手紙第一第6章〜第10章を読むことは、本当に興味深い体験でした。実は、私たちは第6章〜第10章をひとつのまとまりとして読むべきです。

この章全体を通して、二つのテーマが貫かれています。

第一のテーマは、コリント人たちの口癖です。それは、「すべてのことが許されている」(6:12;10:23)という言葉です。

この口癖によって、彼らは性的な罪を犯すことや、偶像に捧げた肉を食べることはまったく問題ないと考えていました。

パウロは、性的な罪については厳しく責めました(6:12;10:8)。しかし、偶像に捧げた肉を食べることについては、ある程度まで許容しました(第8章)。

パウロがコリント人たちの考え方を正そうとする中で、私たちは第二のテーマを見ることになります。それは、「私たちは誰のものか」、そして「私たちは何のために生きているのか」という問いです。

私たちは誰のものでしょうか。私たちは主のものです。なぜなら、イエス様が十字架でご自身の血によって、私たちを買い取ってくださったからです(6:19〜20;10:14〜20)。

では、私たちは何のために生きるべきでしょうか。私たちは、神様とその御国のために生きるべきです。

この真理は、結婚(第7章)、奉仕(第9章)、そしてクリスチャンとしての自由と権利(第8章と第10章)に関する私たちの考え方を形づくるはずです。

このことや、その他の生活における決断をするとき、私たちはまず「主に自分が何を望むか」を考えるべきではありません。

むしろ、最初に考えるべきことは、「神とその御国に仕える最も良い方法は何か」、そして「どのようにすれば、神の御国にできるだけ多くの人を導くことができるか」ということです。

パウロは、この第二のテーマを次のようにまとめています。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。

私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。(10:31ー33)

イエス様の言葉も心に留めておきましょう。

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(つまり、あなたの必要なもの)はすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)

あなたの考え方や人生は何によって形成されているでしょうか。

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コリント人への手紙第一のデボーション

神様を喜ばせる選び

前にもこの箇所について書きましたので、今回は具体的な解説はしません。ただ、今日私が気づいたのは、第8章には第6章との強い関係があるということです。

(ちなみに、パウロがこの手紙を書いたときには、章と節の番号は付けられていませんでした。)

前回の記事でも触れましたが、コリント人たちには口癖がありました。それは、

すべてのことが私には許されている。(コリント人への手紙第一6:12a)

でも、パウロはこのように答えました。

すべてが益になるわけではありません。(6:12b)

第8章では、私たちはもう一度、コリント人たちの口癖を見ることになります。つまり、彼らは「偶像の神は実際には存在しないので、その偶像に捧げた肉を食べてもよい」と言っていました。

実のところ、パウロはその考えに同意しています(8:4〜6、8)。

しかし問題は、その肉を食べることが教会に益をもたらしていないという点です。なぜなら、弱い良心を持つクリスチャンたちがそれを見て、自分の信仰が滅びることになったからです(8:10〜11)。

そのため、パウロはコリント人たちに思い起こさせます。

すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。(新改訳, 第3版)

パウロは、ただ神学的な真理を教えているだけではないと思います。むしろ、以前に自分が語ったことを、コリント人たちに思い起こさせているのです。つまり、

あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(6:19〜20)

だから、パウロはコリント人たちに訓戒を与えます。

あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。(8:12)

この場合、偶像に捧げた肉を食べること自体は罪ではありませんでしたが、兄弟たちがつまずいたため、彼らの行為は罪となりました。

ですから、覚えておきましょう。「何が許されているか?」という問いは、誤った問いです。

正しい問いは、「私は誰のものでしょうか。どのように神様を喜ばせることができるでしょうか」ということです。

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誤った問いかけ

コリントの教会はいろいろな問題を抱えていました。ある人は自分の兄弟を欺いていました。また、性的な罪を犯している人もいました。

なぜでしょうか。おそらく主な理由は、その教会でこの言葉が流行していたからです。

すべてのことが私には許されている。(コリント人への手紙第一6:12)

その言葉は、人々がパウロの教えを曲げたことから来たようです。それは、「あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです」(ローマ6:14-15)という言葉です。

現代でも、多くの人が同じようにパウロの教えを曲げています。彼らは神の恵みを放縦に変えてしまいます(ユダ1:4)。

しかし、パウロははっきりと言います。悔い改めず、あえて罪を犯す自称クリスチャンは、神の国に入ることができません(9-10)。

一方で、他の人々はいつもこう考えます。「罪を犯さずに、どれだけ罪に近づくことができるだろうか。」

たとえば、交際中の男女は、「キスなどのルールはどうだろうか」とよく尋ねます。

けれども、それは誤った問いです。

パウロが言ったように、あることは「許されている」かもしれませんが、それが益になるとは限りません(12)。

そして注意しなければ、その許されていることが罪に至る可能性もあります。

では、正しい問いとは何でしょうか。

それは、「私は誰のものでしょうか。どのようにして、その方を喜ばせることができるでしょうか」ということです。

クリスチャンにとって、その答えは明快です。

あなたがたは、もはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい(19-20)。

あなたは誰のものでしょうか。あなたは自分の行動によって主を喜ばせているでしょうか。

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故意に罪を犯す自称クリスチャン

「裁いてはいけません。」

「私たちは寛容をもって、人を受け入れなくてはいけません。」

現代では、この世の人々はその言葉をよく言います。

ある意味、その言葉は正しいです。

イエス様は偽善的な裁きに関して警告します。(マタイ7:1ー5)

パウロは、教会の外部の人たちを裁くすることを神様に委ねなさいと教えます。(11ー12a)

それでも、パウロははっきりと言います。「悔い改めずにあえて罪を犯す自称クリスチャンを裁きなさい。」(12b)

つまり、

あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。(13)

もちろん、私たちは怒りをもって、独善的な態度を取ってはいけません。

むしろ、私たちはその人とその罪のために悲しむべきです。(2)

また、私たちは、その人が悔い改めるように望んで、祈るべきです。(5)

でも、私たちはその人の罪を受け入れてはいけません。むしろ、その人を私たちの中から除き去らなくてはなりません。

その原則は神様の律法から来ました。モーセは、罪の問題を扱って裁くことに関して話したとき、こう言いました。

もし人が、あなたの神、主に仕えてそこに立つ祭司やさばき人に聞き従わず、不遜なふるまいをするなら、その者は死ななければならない。

あなたはイスラエルのうちからその悪い者を除き去りなさい。

そうすれば、民はみな聞いて恐れ、もう不遜なふるまいをすることはないであろう。(新命記17:12ー13)

モーセの時代、不遜な罪の罰は死刑でした。教会の時代では、その罰は教会から追い出されることです。でも原則は同じです。教会では、私たちは悔い改めずにあえて罪を犯す人を許してはいけません。

残念なことですけど、コリント人たちは不遜な態度を取っていました。「私たちはそんな人を歓迎するよ。私たちは愛の教会だから」と自慢しました。だから、パウロは彼らを厳しく責めました。(2、6)

誤解しないでください。私たち皆は、罪に落ちてしまう時もあります。

また、よく同じ誘惑に負けてしまうクリスチャンもいます。

でも、もしそのクリスチャンが悔い改めて、本当に神様に従いたいなら、私たちはその人のために祈り、その人を支え、励ますべきです。

でも、故意に罪を犯し、「神様の御言葉を気にせずに、勝手にする」と言う人は別です。

その人は、正直に、「私はクリスチャン」と主張できません。そして、私たちはその人を私たちの教会に歓迎することができません。

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コリント人への手紙第一のデボーション

清い良心?

私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。(コリント人への手紙第一4:4)

パウロはきっと、私たちが神様の御前に清い良心を保つべきだと言うはずです。

しかし、パウロが理解していたのは、私たちは自分の心によく欺かれるということです。

つまり、私たちは自分が清いと思っていても、自分の罪を見ることができません。パウロがコリント人たちに4〜5節を書いたとき、預言者エレミヤの言葉を思い浮かべていたことでしょう。

人の心は何よりもねじ曲がっている。 それは癒やしがたい。 だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。

わたし、主が心を探り、心の奥を試し、 それぞれその生き方により、 行いの実にしたがって報いる。(エレミヤ書17:9ー10)

では、私たちはいつも自分の心が清いかどうか心配するべきでしょうか。「私の心の中に、隠れた罪があるだろうか。私が気づいていない悪い動機があるだろうか。」と、ずっと疑問に思うべきでしょうか。

いいえ、神様は、私たちがいつも罪悪感をもって、恐れによって生きることを望んでおられません。

もちろん、謙遜な心を持つべきです。

毎日、ダビデのように祈ればよいと思います。「私の心を探ってください。悪いものがあれば、教えてください。」(詩篇19:12〜13;139:23〜24)

もし神様が何か罪を現されたなら、ぜひそれを告白し、悔い改めましょう。

しかし、神様が何も現されないなら、私たちが立っている恵みを感謝しましょう。

実際、もし神様が私たちの罪のすべてを一度に現されたなら、私たちは圧倒されてしまうでしょう。

けれども、恵みによって、神様は私たちを最後まで堅く保ち、裁きの日に責められるところがない者としてくださいます。(第一コリント1:8)

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コリント人への手紙第一のデボーション

救いの土台

神は真実です。(コリント人への手紙第一1:9a)

その言葉をちょっと噛み締めましょう。

神は真実です。

どうして私たちの救いは確実なものでしょうか。その答えは、この短い言葉にあります。

神は真実です。

素晴らしい愛によって、神様は私たちを召し、御子との交わりに入れてくださいました。(9b)

恵みによって、神様は私たちを聖なる者とし、聖徒として召してくださいました。(2)

そして、神の真実のゆえに、神様は私たちを最後まで堅く保ち、裁きの日に責められるところがない者としてくださいます。(8)

私の救いは、自分の忠実さによるものではなくて良かった。なぜなら、私はよく真実でない者だからです。

そういうわけで、私はテモテへのパウロの言葉が大好きです。

私たちが真実でなくても、 キリストは常に真実である。 ご自分を否むことができないからである。(第二テモテ2:13)

だから、自分が真実でないと思って落胆している時、心に留めておきましょう。

神は真実です。

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創世記のデボーション

心からの従順

ユダは獅子の子。 わが子よ、おまえは獲物によって成長する。 雄獅子のように、雌獅子のように、 うずくまり、身を伏せる。 だれがこれを起こせるだろうか。

王権はユダを離れず、 王笏はその足の間を離れない。 ついには彼がシロに来て、 諸国の民は彼に従う。(創世記49:9ー10)

この預言では、私たちが初めて知るのは、ユダの血筋から全世界を治める支配者が来ることです。

最終的に、ユダ族から出た獅子であるイエス様がその預言を成就されました。(黙示録5:5)

しかし、私に印象に残ったのは、その最後の言葉です。「諸国の民は彼に従う。」

私たちもイエス様に従わなくてはなりません。なぜなら、イエス様は私たちの正当な王であり主だからです。

けれども、イエス様は、私たちがただルールに従うことを求めておられるのではありません。

それよりも、イエス様は私たちの心を求めておられます。つまり、イエス様を信頼し、愛する心を求めておられるのです。

私たちがそのような心を持たなければ、私たちの「従順」でさえ、神様を喜ばせることにはなりません。(へブル11:6)

あなたはどうでしょうか。あなたの心は神様のものでしょうか。

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創世記のデボーション

子どもたちのための祈り

今日、ヨセフの息子たちへのヤコブの祝福を読んだとき、私は自分の娘のために祈りました。

主よ、あなたは私の父が御前に歩んだ神です。それだけではなく、あなたは今日という日まで、ずっと私の羊飼いでいてくださいました。

あなたは私をすべてのわざわいから贖ってくださいました。私を罪から救い、私を滅ぼそうとする敵であるサタンからも救ってくださいました。

だから今、私は祈ります。私の娘を祝福してください。あなたがずっと私の羊飼いでいてくださったように、私の娘の羊飼いとなってください。私を贖ってくださったように、私の娘をも贖ってください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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創世記のデボーション

わずかで、いろいろなわざわいがある

 ファラオはヤコブに尋ねた。「あなたの生きてきた年月は、どれほどになりますか。」

ヤコブはファラオに答えた。「私がたどってきた年月は百三十年です。

私の生きてきた年月はわずかで、いろいろなわざわいがあり、私の先祖がたどった日々、生きた年月には及びません。」(創世記47:8ー9)

ヤコブの言葉を読んで、私はモーセの詩篇を思い浮かべました。

もしかしたら、モーセが詩篇90篇を書いたとき、このヤコブの話を考えていたのかもしれません。

ヤコブは、辛い時も経験しました。ある問題はヤコブ自身のせいで起こりました。例えば、ヤコブが父と兄を騙したことで、さまざまなトラブルがヤコブに降りかかりました。

そのあと、神様はヤコブに騙される痛みを教えられました。ヤコブの息子たちの嘘によって、ヤコブは20年間ヨセフが亡くなったものと思っていました。

ヤコブの人生は、アブラハムやイサクと比べると短いものでした。(創世記25:7、35:28)

しかし、その短い人生の中で、ヤコブはいろいろな試練に臨みました。

モーセの時代には、人間の寿命はさらに短くなっていました。それでも、ヤコブはモーセの言葉に同意したことでしょう。

私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります。(詩篇90:10)

しかし、人生の終わりに、ヤコブは神の忠実な愛と恵みを見ました。(詩篇90:14)

神様は、ヤコブが苦しみとわざわいを経験することをお許しになりましたが、ヤコブは自分の人生に神様の御業と威光を見出しました。(詩篇90:16)

また、ヤコブは自分に対する神様の素晴らしい慈愛を見ました。(詩篇90:17)

私たちも旅の途中です。

この世は、私たちの住まいではありません。

この旅は短く、私たちは悲しみや苦労に臨むことがよくあります。

それでも、神様から目を離さず、私たちに対する神の忠実な愛と恵みを覚えていましょう。

そして、毎日、モーセとともに祈りましょう。

どうか教えてください。自分の日を数えることを。 そうして私たちに 知恵の心を得させてください。(詩篇90:12)

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創世記のデボーション

神の恵みの計画

いろいろな意味で、ヨセフはイエス様の前触れでした。

ヨセフは父に愛されました。(創世記37:3;マタイ3:17)

ヨセフは自分の民に拒絶されました。(創世記37:8;ヨハネ1:10〜11)

ヨセフは銀で売られました。(創世記37:28;マタイ26:14〜16)

ヨセフは言いがかりをつけられました。(創世記39:16〜18;マタイ26:59〜61)

ヨセフは権力の座を与えられました。(創世記41:37〜44;ピリピ2:9〜11)

ヨセフは自分の民に、大いなる救いを備えてくださいました。(創世記45:7;マタイ1:21)

45章では、私たちの救いの描写を見ることができます。

ヨセフの兄弟たちのように、ある日、私たちはイエス様の御前に立ち、自分の罪を知り、自分が死刑に値することもわかります。

でも、ヨセフのように、イエス様は私たちに優しく言われます。

「どうか私に近寄ってください。神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。」(創世記45:4,7)

今なお、ユダヤ人の間には、恵みによって救われた残りの者がいます。(ローマ11:5)

神様の恵みによって、私たちも神様の家族に属しています。私たちもイエス様の大いなる救いを受けました。

その救いは偶然ではありませんでした。ヨセフの場合と同じように、それは神様の恵みの計画の一部でした。(創世記45:5〜8;使徒2:13〜18、4:27〜28)

だから、パウロとともに歌いましょう。

ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。

「だれが主の心を知っているのですか。 だれが主の助言者になったのですか。だれがまず主に与え、 主から報いを受けるのですか。」

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ12:33ー36)

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創世記のデボーション

何の申し開きもできないでしょう

ユダが答えた。「あなた様に何を申し上げられるでしょう。何の申し開きができるでしょう。何と言って弁解することができるでしょう。神がしもべどもの咎を暴かれたのです。」(創世記44:16)

ユダの言葉は、私たちすべてに当てはまるでしょう。

私たちは天の御座の前に立ち、神様が私たちの人生の記録を開かれたとき、何も言うことができません。弁解することもできません。

ユダが自分の父ヤコブに語った言葉も、本当に印象に残ります。

もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らなかったなら、私は一生あなたの前に罪ある者となります。(32節)

ヤコブは知らなかったかもしれませんが、ユダの言葉には、二つの意味があったと思われます。

ヨセフを奴隷として売るように勧めたのは、ユダでした。(創世記37:26ー27)

しかし、44章では、ユダが自分の罪の重さをどれほど感じていたかがわかります。

ヨセフを奴隷として売ったことで、もちろんヨセフに罪を犯しましたが、自分の父にも罪を犯しました。

ユダは過去を変えることはできませんでした。でも、ベニヤミンの命を保証することによって、自分の罪の償いをしようとしたのだと思います。

ユダの隠されたメッセージは、こうだったのかもしれません。

「もし、ベニヤミンを父のもとに連れ帰らなかったなら、私は一生あなたの前で、ヨセフに関して罪ある者となります。」

でも実際には、ユダがベニヤミンを父のもとに連れ帰ったとしても、その罪の償いをしたことにはなりません。

私たちは、どれほどユダのように、自分の罪の償いをしようとするでしょうか。でも、どんなに良いことをしても、私たちはその罪の償いをすることはできません。

神様が私たちの咎を暴かれるとき、私たちは弁解することができません。

しかし、良い知らせがあります。イエス様は十字架で、私たちの罪を背負われ、その代価を支払ってくださいました。私たちがしなければならないのは、ただイエス様の働きを信じて、休むことです。

だから、パウロはこう言いました。

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。

そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。(ローマ5:1ー2)

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創世記のデボーション

神様の訓練

ここは実に興味深い箇所です。

今日の箇所では、ヨセフは過去の傷に直面します。

20年ぶりに、彼は「正直な」兄たちに会います。(創世記42:11)

(「正直者?あなたたちは私に何をしたか、正直にお父さんに伝えたの?」)

兄たちと話したとき、ヨセフは奴隷として売られたことを思い出します。

もう一人の弟はいなくなりました。(13)

そして、私たちはヨセフの兄たちを見ます。神様は、彼らがずっと埋めようとしていた罪悪感を掘り起こされました。

まったく、われわれは弟のことで罰を受けているのだ。(21)

最後にヤコブがいます。

ヨセフがいなくなってから、ヤコブはずっとその憂いに明け暮れていました。たぶん彼は、「神様はどこにいらっしゃるのだろうか」と思っていたでしょう。

ヨセフはいなくなり、シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンまで取ろうとしている。こんなことがみな、私に降りかかってきたのだ。(36)

私たちはよく苦しみに遭います。人に傷つけられることもあります。罪悪感に苦しむこともあります。だから、「神様はそんなに私を憎んでおられるのか」と疑問に思うことがあります。

でも、神様の目的は私たちを苦しませることではありません。むしろ、神様は私たちに癒しと救いをもたらしてくださっています。

ヨセフが初めて知ったのは、ルベンがヨセフを売ることに反対していたということです。むしろ、ルベンはヨセフをかばってくれていました。

また、ヨセフは兄たちがそれほど薄情ではなかったことも分かりました。つまり、彼らはずっと罪悪感に苦しんでいたのです。(21〜22)

それを理解したことで、ヨセフは彼らを許すことができたのでしょう。

ヨセフの兄たちは、自分たちは神様の裁きを受けていると思いました。(21、28)

でも実際には、彼らは神様の救いを見ていたのです。

そして、ヨセフがいなくなってから、ヤコブは神様から何も語られていませんでしたが、最終的にヤコブが知ったのは、神様がヤコブの益のために働いてくださっていたということです。

だから、へブル人への手紙の著者が語る励ましの言葉を心に留めておきましょう。

私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。

すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。

ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。また、あなたがたは自分の足のために、まっすぐな道を作りなさい。足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。(へブル12:9ー13)

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創世記のデボーション

私たちの希望

夢が二度ファラオに繰り返されたのは、このことが神によって定められ、神が速やかにこれをなさるからです。(創世記41:32)

その言葉は本当に興味深いです。

ヨセフはいろいろな苦しみを経験しました。どのようにしてヨセフは希望を持ち続けることができたのでしょうか。

ヨセフの言葉の中に、私たちは彼の希望の理由を見ることができると思います。

つまり、彼が若いときに二つの夢を見て、その夢によって神様はヨセフの将来の希望を示されました。その希望は、神様のいつくしみと忠実さに基づいていました。

ヨセフの場合、「速やか」とは約20年のことでした。でも、結局、その日は来ました。

私たちも希望を持っています。その希望は確かなものです。

なぜでしょうか。

へブル人への手紙の著者によれば、私たちの希望は、変わらない二つのものに基づいています。それは、神様の変わらない約束と誓いです。(へブル6:17〜18)

おそらく、もう一つ加えることができるでしょう。それは、神様の良いご計画です。

その変わらないものによって、私たちには大祭司が与えられています。それはイエス様です。イエス様は私たちの大祭司であり、私たちの永遠の救いの源となられました。(へブル5:5〜10、7:10〜28)

だからこそ、前に置かれている希望をつかもうとして逃れてきた私たちは、力強い励ましを受けるのです。その希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものです。(へブル6:18〜19)

だから、どんな試練に遭っていても、ヨセフのように、キリストにある希望にしがみつきましょう。

あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。

「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、 わたしの心は彼を喜ばない。

しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」(へブル10:36ー39)

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創世記のデボーション

私を思い出してください

「あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。」

。。。ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった。(創世記40:14、23)

献酌官長がヨセフのことをすっかり忘れてしまったとき、ヨセフはどれほど失望していたことでしょうか。

ヨセフが言った通りに献酌官長が自由にされ、元の地位に戻されたとき、ヨセフはその最初の数日間、どれほど希望を持っていたことでしょうか。

でも、数日が過ぎました。数週間が過ぎました。ヨセフの状況はまったく変わりませんでした。

人間は不完全な存在です。人々が私たちをがっかりさせることもあります。

でも良い知らせは、神様が私たちのことを忘れないということです。

39章には、「神様はヨセフと共におられた」と4回書かれています。

ヨセフは神様の臨在を感じ取れない時もあったかもしれませんが、神様はいつもヨセフと共におられました。

数千年後、もう一人の人が叫びました。「どうか私を思い出してください」と願いました。

十字架の上で、イエス様はその人にこう言われました。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

でも、献酌官長と違って、イエス様はその人を思い出し、天の父のもとで、その人のためにとりなしてくださいました。

そのように、イエス様は私たちのためにもとりなしてくださいます。(へブル7:22〜25)

だから、私たちはどんなに苦しんでいても、イエス様にある希望にしがみつきましょう。

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創世記のデボーション

聖書にはどうしてこんなに酷い話があるの?

「どうして、聖書には、こんなに酷い話が書いてあるのだろうか」と疑問に思ったことがありますか。

ユダとタマルの話は、本当に酷いと思いませんか。でも、聖書には他にも酷い話がたくさん書かれています。

簡単に答えると、それが人間の歴史なのです。人間の歴史は、酷い話に満ちています。

聖書は、理想的な人間の歴史を描いているのではありません。聖書は、罪深い人間の歴史を描いています。

でも、それだけではなく、聖書は、罪に歪んだ人間をあがなうことができる神を描いています。

ユダとタマルの話は本当に酷いですが、最終的に私たちの救い主は、その血筋から来られました。(マタイの福音書1章を調べてください。)

あなたは、この世界や自分の生活の中で、多くのひどい罪やひどい状況を目にするかもしれません。

けれども、私たちが神様に信頼を寄せるなら、神様があがなうことができない人や状況はありません。

だからこそ、パウロはこう書きました。

私は福音を恥としません。福音は。。。信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。(ローマ1:16)

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創世記のデボーション

私たちと共におられる神

ドタンで、ヨセフの兄弟たちが彼を捕らえ、イシュマエル人に奴隷として売ったとき、ヨセフは何を考えていたでしょうか。

「神様はどこだろう」と思うのは、自然な反応かもしれません。

不思議なことですが、何百年後、同じドタンの地で、もう一人の人物が似たような思いを抱いていました。

預言者エリシャとそのしもべが敵の軍隊に包囲されたとき、しもべは恐れにとらわれてパニックになりました。でも、エリシャは彼に言いました。

恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから(列王記第二6:16)

そして、エリシャは祈りました。

どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。(列王記第二6:17)

そして、そのしもべは、神様の軍隊が彼らを守っていることを見ました。神様は彼らを見捨てたわけではありませんでした。神様は最初から、彼らと共におられました。

そのように、神様はヨセフと共におられました。

そして、数千年後、イエス様が「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたとき、神様は実際にイエス様と共におられました。

また、神様がヨセフの兄弟たちの罪を用いて、ヤコブの家族(その兄弟たちを含む)の救いをもたらされたように、神様はユダヤ人たちの罪を用いて、私たちの救いをもたらされました。

だからこそ、あなたがどんな試練に直面しても、心に留めておきましょう。

その試練の中で神様を見ることができないかもしれませんが、神様はあなたと共におられます。そして、神様はあなたの益のために働いてくださいます。(ローマ8:28)

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マルコの福音書のデボーション

目を覚まし、祈る

ですから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るのか、夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴くころなのか、明け方なのか、分からないからです。

主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見ることがないようにしなさい。

わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。」(マルコ13:35ー37)

彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」。。。イエスは戻り、彼らが眠っているのを見(ました。)(マルコ14:34、37)

興味深いことは、ゲツセマネで弟子たちが、イエス様がさっき語られた例え話を演じたということです。例え話を語られたとき、またゲツセマネに着かれたとき、イエス様は同じことを言われました。「目を覚ましていなさい。」

ところが、弟子たちの主が戻られると、彼らは眠っていました。なぜでしょうか。ルカは説明します。「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。」(ルカ22:45)

その前、イエス様はご自身がすぐに去っていかれると言われました(ヨハネ16:5〜6)。

イエス様は、弟子の一人がご自身を裏切ると言われました(マルコ14:18)。

イエス様は、弟子たち全員がご自身を見捨てると言われました(マルコ14:27)。

イエス様の言葉を聞いて、弟子たちは本当に悲しんでいました。

けれども、その悲しみのゆえに、彼らは目を覚まして祈ることができませんでした。そのため、試練が訪れたとき、彼らは大きく失敗しました。(50)

時に、私たちは重荷のゆえにこう言います。「もう祈れない。もう疲れた。あまりにも弱く感じる。」

しかし、まさにその時こそ、私たちは目を覚まし、祈らなければなりません。

イエス様も疲れていました。特に、精神的に疲れ果てていました。それでも、ゲツセマネで、イエス様は目を覚まし、祈られました。そのため、試練が訪れたとき、イエス様は立つことができました。

あなたは疲れていますか。精神的に疲れ果てていませんか。今こそ、目を覚まし、神様に祈る必要があります。

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マルコの福音書のデボーション

目を覚まして、主を待ち望む

同じように、これらのことが起こるのを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。。。

気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。(マルコの福音書13:29、33)

イエス様がいつ再びこの世に来られるかは、誰にも分かりません。 しかし、イエス様がとても苦しい時にこの世に来られることは確かです。(マルコ13:22〜27)

私たちが気をつけなければならないのは、苦しみの中で、自分の問題に心を奪われやすいということです。 そのような時、私たちは自己中心になり、イエス様を待ち望むことを忘れてしまいがちです。

けれども、イエス様を待ち望むとは、ただ空を見上げてイエス様を探すことではありません。

本当にイエス様を待ち望んでいるなら、イエス様から託された仕事を、日々誠実に果たしているはずです。(ルカ12:42〜43)

その主な仕事の一つは、神様が私たちに与えてくださった人々に、神の愛をもって触れることです。

一日の終わりに、私たちは「今日、そうしていた」と言えるでしょうか。 それとも、振り返ってみると、一日中ただ自分のことばかり考えていたと気づくでしょうか。

私たちの日々を無駄にしないように。むしろ、毎日、主を待ち望みながら歩みましょう。

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マルコの福音書のデボーション

イエス様を微笑ませる

マルコは言わなかったけど、今日の箇所では、たぶん二人の人たちはイエス様を微笑ませたでしょう。

ちょっと驚くべきことですが、一人は律法学者でした。なぜそれは驚くべきでしょうか。なぜなら、多くの律法学者たちは、イエス様に敵対していたからです。

もう一人は、貧しいやもめでした。

どうして、私は、その二人がイエス様を微笑ませたと思うのでしょうか。

その二人には共通点がありました。それは、彼らが、神様が人々にルールを守らせることよりも、人々の心に関心を持っておられると理解したということです。

律法学者が理解したのは、神様がユダヤ人たちに全焼のささげ物やいけにえを捧げるように命じられたけれど、それらよりも、神様が人々に心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛することを望んでおられるということです。

さらに、神様は、人々が神様が大切にされる人々(つまり、すべての人々)を大切にすることを望んでおられます。

やもめが理解したのは、自分の捧げ物が小さいけれど、その捧げ物の大きさよりも、神様が神様への彼女の愛と信頼に関心を持っておられるということです。

その日、たぶん、多くの人々は神様の律法に従い、十一献金を捧げました。彼らはそのやもめよりもたくさんのお金を捧げたでしょう。

でも、そのやもめの心は神様のものでした。イエス様はそれを見抜かれました。

私たち皆が、イエス様を微笑ませる者となりますように。

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私たちの力の源

イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」

すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」(マルコの福音書9:28-29)

イエス様の弟子たちはとても恥ずかしかったのです。彼らは何回も悪霊を追い出したことがありました。でも、今回はその悪霊を追い出せませんでした。なぜでしょうか。

たぶん、彼らは悪霊を追い出す力が自分から来たと思い始めたからです。彼らはそう言わなかったかもしれませんが、彼らの態度や行動はその考え方を現していました。

つまり、悪霊がその人から去ることを拒んだとき、弟子たちは神様のみ前に来て願わずに、ただフラストレーションを感じただけでした。

多くの場合、私たちがクリスチャンの奉仕をすればするほど、私たちの自信はつきます。「私はこれができる!」と思い始めます。

でも、私たちは何を信じているでしょうか。

私たちは自分と自分の賜物を信じているのでしょうか。

もしかすると、神様を信じているのでしょうか。

私たちがただ自分と自分の賜物に頼るなら、その奉仕はしばらくうまく行くかもしれません。

でも、最終的に、イエス様の弟子たちのように、私たちは失敗してしまって、フラストレーションを感じてしまいます。

だから、私たちの力がどこから来るか覚えていましょう。イエス様は私たちに言われます。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:4ー5)

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マルコの福音書のデボーション

恥じているのですか

だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。(マルコの福音書8:38)

今まで気づいていなかったけど、イエス様の言葉には、皮肉があります。

イエス様はこの世の民を「姦淫と罪の時代」と呼ばれます。

彼らはイエス様の言葉を聞いて、恥を感じるはずでしょう。でも、実は、多くの人々は自分の罪を誇ります。さらに、彼らは罪を行う人たちを応援します。(ローマ1:21ー32)

それだけではなく、彼らはキリストの言葉に従う人たちに恥をかかせようとします。

でも、イエス様は私たちにこう言われます。

だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(34節)

たぶん、十字架は、最も苦しくて恥ずべき死に方だったでしょう。人々は裸で十字架にかけられました。イエス様が十字架にかけられたとき、周りの人々はイエス様をあざ笑いました。

イエス様の弟子とは、自分の十字架を負い、イエス様の恥と苦しみを受けることを意味します。

ある人々は私たちを憎みます。

私たちをあざ笑う人もいます。

でも、イエス様が教えられたのは、私たちの恥の中に、私たちが祝福を得るということです。(マタイ5:10ー12)

さらに、私たちの大胆さによって、今、私たちをあざ笑っている人たちは、いつか救われるかもしれません。

だから、パウロと一緒に言いましょう。

私は福音を恥としません。福音は。。。信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。(ローマ1:16)

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神様の戒めを捨てる

「この民は口先でわたしを敬うが、 その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。 人間の命令を、教えとして教えるのだから。」

あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。。。

あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。(マルコの福音書7:6ー9)

今日の箇所を読んで、私は現代の文化を考えました。特に、その文化に入っている自称するクリスチャンたちを考えました。

自分がクリスチャンと主張する人たちの多くは、口先で神様を敬って、神様を愛し、神様に従うと主張しますが、道徳に関して、神様の戒めを捨ててしまいました。

教会では、そのような人たちがますます増えています。彼らは見事に神様の戒めをないがしろにして、自分の道徳観念を確立し、この世の教えを真理として教えています。

特に、性的な道徳やジェンダーに関してそうしている自称するクリスチャンたちは、ますます増えています。彼らは神様の戒めを捨て、この世の考えを抱いています。

おまけに、彼らは神様の教えをこの世の教えに合わせるため、神様のみ言葉を曲げてしまいます。

でも、イエス様はそのような人々に関してご自身の意見をはっきりと教えられました。

あなたが神様を愛し、神様に従うと主張しながら、同時に神様の戒めを捨て、この世の教えに従うことはできません。

あなたはどうですか。あなたは口先で神様を敬いながら、神様の命令を捨てているでしょうか。

もしくは、あなたの心は本当に神様のものでしょうか。

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マルコの福音書のデボーション

苦しむ人々で満ちた世界

今日の箇所を読んで、この世の中で苦しんでいる人々のことを考えました。

死がこの世に入って来て、愛している人々に触れたために苦しんでいる人々がいます。(マルコの福音書5:22ー23、35節)

ある人々は、何をしても自分の問題が悪化しているので、苦しんでいます。(25ー26節)

ある人々は心の中で、昼も夜も叫び続けます。(5節)

イエス様はそのような人々を憐れんでくださいました。イエス様は彼らに触れて、癒してくださいました。

今、イエス様は私たちが同じことをするように召しておられます。この壊れた世界には、私たちはイエス様の目、耳、口、手と足です。

主よ。私の目を開いてください。私の周りの苦しんでいる人々を見ることができるように助けてください。どうか私を用いてください。私があなたの愛で彼らに触れ、あなたからの癒しを与えることができるように助けてください。

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どうして怖がるのですか

どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。(マルコの福音書4:40)

今日、イエス様の言葉は私の心を打ちました。

どれだけ、私たちは恐れや心配を持って、自分の問題を見てしまうでしょうか。

どれだけ、イエス様が私たちにこう訊かれるでしょうか。「どうして怖がるのですか。どうして心配するのですか。まだ私に信頼していないのですか。私があなたを愛し、あなたの益のためにすべてのことを働かせていることを、あなたはまだ信じていないのですか?」

私たちが自分の問題に集中せずに、イエス様を見て、「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。もしイエス様がそんなに力強い方で、私をそんなに愛しておられるなら、どうして私はこんなに心配しているのだろうか」と言ったら、どれだけ、私たちのストレスは解消されるでしょうか。

主よ、私の信仰を増やしてください。あなたに信頼することを教えてください。

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マルコの福音書のデボーション

イエス様と共に歩み、戦うために選ばれた

イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。(マルコの福音書3:14-15)

クリスチャンの生活を送るとはどういうことでしょうか。

その答えは14-15節にあります。

私たちはイエス様のそばにいるために選ばれました。それは、朝にイエス様と時間を過ごし、聖書を読み、祈ることだけではありません。(もちろん、それも大切ですけど。)

多くのクリスチャンたちはイエス様と時間を過ごしますが、そのあと、自分のために生きます。それはクリスチャンの生活ではありません。

イエス様のそばにいるとは、毎日、毎秒、イエス様と歩むことです。私たちは一日中、イエス様の声に聴き、イエス様の導きを求めることです。(ヨハネ15:4-5)

でも、イエス様のそばにいるためだけではなく、私たちは霊的な戦いに参加するために選ばれました。(エペソ6:11-12;第二コリント10:3-5)

私たちは悪霊を人から追い出さないかもしれませんが、私たちはサタンとその国と戦うために選ばれました。つまり、私たちは福音を周りの人々に伝えるために選ばれたのです。福音によって、地獄の門は倒され、人々はサタンの国から自由にされます。

それがクリスチャンの生活です。イエス様のそばにいて、人を福音で触れることです。

そうすれば、イエス様は微笑み、私たちを見て、こう言われます。

わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」と言われた。。。

ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。(マルコ3:33-35)

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マルコの福音書のデボーション

神様は私たちを愛しておられるから

そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。

イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。

すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。

イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。(マルコの福音書1:9-13)

いつも私を驚かせるのは、この個所では、神様がイエス様に「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」と言われた直後、聖霊様はイエス様を荒野に追いやられたということです。

時々、私たちはこう思います。「神様は私を愛しているのに、時々私が砂漠を体験することを許される。」

でも、今日、私にこの考えが思い浮かびました。「神様は私を愛しているので、時々、私を砂漠に追いやられます。」

でも、どうして神様はそうされるのでしょうか。

その答えは、へブル12:6-7に書いてあります。

「主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」

訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。(へブル12:6-7)

イエス様は罪を犯されたことがなかったのに、神様の訓練を受けられました。

今日の個所では、私たちはその一つの例を見ます。でも、どうして罪のないイエス様が訓練を受けなくてはならなかったのでしょうか。

その答えも、へブル書に記されています。

キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり(ました)。(へブル5:8-9)

人間として、イエス様も従順を学ばなくてはなりませんでした。でも、従順は、良い時ではなく、辛い時に試されます。すべてがうまく行くとき、神様に従うのは簡単なことです。でも、砂漠を渡るとき、従順は難しいのです。

砂漠におられるとき、イエス様は従順を学ばれました。その従順は、ゲツセマネでも試されました。(マルコ14:36-40)

でも今、イエス様が従順を学ばれたので、へブル人への手紙の著者はこう言います。

イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。(へブル2:18)

だから、あなたが砂漠を渡っているなら、絶望しないでください。神様があなたを砂漠に追いやられた理由は、あなたを憎んでおられるからではありません。神様はあなたを愛しておられるので、あなたを砂漠に追いやられました。

神様はイエス様を訓練されたように、私たちをも訓練されます。私たちを滅ぼすためではなく、私たちの益のためです。(へブル12:10-11)

もし、あなたが砂漠を渡っているなら、イエス様があなたの苦しみを理解しておられることを心に留めてください。なぜなら、イエス様も、天の父の訓練を受けられたからです。

さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:14-16)

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詩篇のデボーション

主の恵みを省みる

詩篇136篇では、詩人は、イスラエルに対する神様の慈しみと恵みを省みます。 この詩篇の初めから、彼はその憐れみと恵みについて歌っています。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。
主の恵みはとこしえまで。(詩篇136:1)

どれだけ私たちに対する神様の慈しみと恵みを省みるでしょうか。

たぶん、私はあまりしていないように思います。

でも今日、詩篇136篇を自分なりに書いてみました。

その詩は以下のとおりです。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。 主の恵みはとこしえまで。

私が生まれる前に、主は私の両親をご自分のもとに引き寄せてくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

私が7才の時、主は私をご自分のもとに引き寄せてくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

私が教会に興味を失ったとき、主はご自身を私に現してくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

主は子どもへの奉仕活動に導いてくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

私が子どもへの奉仕活動から燃え尽きたとき、 主の恵みはとこしえまで。

また、私が霊的な砂漠を渡っていたとき、 主の恵みはとこしえまで。

主は私をその砂漠から導いて、私の魂を生き返らせてくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

主は私を日本に導いてくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

私に妻を与えてくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

私に娘も与えてくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

私が失業したとき、 主の恵みはとこしえまで。

経済的に苦しんだとき、 主の恵みはとこしえまで。

主は私のすべてのニーズに備えてくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

神様の導きによって、私は25年ほど日本で宣教師として働いてきました。 主の恵みはとこしえまで。

私の弱さや頑固さや失敗にもかかわらず、 主の恵みはとこしえまで。

私は天の神に感謝します。 主の恵みはとこしえまで。

それは、私の物語の一部分です。あなたの物語は何ですか。その物語を書きましょう。

神様の慈しみを心に留めておきましょう。

あなたに対する神様の恵みを覚えておきましょう。

そして、その話をご主人や奥さんや子どもや友達に伝えましょう。そうすれば、彼らも神様の慈しみと恵みを見ることができます。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。
主の恵みはとこしえまで。(1)

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詩篇のデボーション

主に仕える人を励ます

さあ、主をほめたたえよ。 主のすべてのしもべたち、夜ごとに主の家で仕える者たちよ。

聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ。(詩篇134:1ー2)

エルサレムにたどり着くと、巡礼者たちは神殿で仕える人たちに上の言葉を歌いました。

それを聞いて、その神殿で仕える人たちは巡礼者たちを祝福しました。(3)

神殿で仕える人たちに、手を上げて主をほめたたえるように促すことは、ちょっと不思議だと思わないでしょうか。それは彼らの仕事ではないでしょうか。

でも、主に仕える人たちには、危険があります。それは、彼らが心を主に向かって礼拝することを忘れるほど、奉仕に集中してしまうことです。

だから、あなたが教会のリーダーなら、もちろん心を尽くして主に仕えてください。でも、それと同時に、主に向かって礼拝することを忘れないように注意してください。

そして、あなたが主に仕える人からよく祝福を受けるなら、その人を励ましてください。

もちろん、彼らに「ありがとうございます!」というべきです。でも、それよりも、彼らに主に向かって礼拝するように促しましょう。

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創世記のデボーション

神様を後回しにするとき

聖書の中で、これは最も酷い話の一つです。ディナがレイプされたことはもちろん酷かったけれど、そのお兄さんたちの反応も酷かったのです。

でも、ヤコブが一つのことをしていたら、その事変を避けられていたかもしれません。それは、ベテルに行って、神様に対する誓いを果たすことです。(創世記28:18ー22)

ヤコブはもう一日旅していたら、ベテルに着いていたはずですが、そうせずに、シェケムで土地を買い取って、そこに暮らしていました。その間、若い子供たち(33:13ー14)は青年になりました。

もしかしたら、町のとなりに住むのはもっと便利だったかもしれません。また、もしかしたら、ヤコブは「ベテルは近い。ここでも、私の誓いを果たすことができるだろう」と思ったのかもしれません。

でも、実際には、シェケムの事変の後まで、ヤコブはその誓いを果たさなかったようです。(35:1ー4)

どれだけ、私たちは神様をすべてのものよりも優先しないために、悪い状態に入ってしまうでしょうか。

もちろん、神様は私たちにセカンドチャンスを与えてくださる神です。シェケムの事変の後、ヤコブもセカンドチャンスを受けました。

でも、最初から神様に私たちの心を尽くしていれば、私たちはどれだけ苦しみを避けることができるでしょうか。

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創世記のデボーション

神様の御顔を見るとき

ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した。

エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。。。

ヤコブは答えた。「。。。私は兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです。兄上は私を喜んでくださいましたから。」(創世記33:3ー4、10)

時々、私たちは、神様が私たちのことをどのように考えておられるか疑問に思います。

ヤコブがエサウに対して罪を犯したように、私たちは神様に対して罪を犯しました。だから、神様が私たちを本当に受け入れてくださるかどうか疑います。

でも、驚くべきことは、私たちがうつむき、神様の罰を恐れるのに、エサウのように神様は迎えに走って来て、私たちを抱きしめ、口づけしてくださるということです。言い換えれば、神様は私たちを受け入れてくださいます。

ヤコブに対するエサウの反応は、イエス様の有名なたとえ話に登場する父親の反応によく似ています。

ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。(ルカ15:20)

私たちが天の父なる神様の御顔を見るとき、同じような反応が見られます。

あわれみ。

赦し。

受け入れること。

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詩篇のデボーション

クリスマスの意義

今や私たちは、エフラテでそれを聞き、ヤアルの野でそれを見出した。

さあ、主の住まいに行き、主の足台のもとにひれ伏そう。(詩篇132:6-7)

旧約聖書の時代、主の契約の箱は神様の臨在の象徴でした。

でも、イスラエル人たちが神様に背を向けたとき、その箱はペリシテ人たちに奪われました。ペリシテ人たちはその契約の箱を返しても、イスラエル人たちはずっと契約の箱を無視しました。(第一サムエル4-7章;歴代誌第一13:3)

でも、この詩篇では、詩人は、ダビデが契約の箱をキルヤテ・エアリムというところからエルサレムまで運んだことを祝います。(歴代誌第一15章)

また、詩人はダビデに対する神様の約束を思い出します。つまり、神様がダビデの王朝を永遠に守るということです。

旧約聖書では、二つのエフラテがあります。一つ目は、キルヤテ・エアリムにあります。

でも興味深いことは、別のエフラテ、つまり、ベツレヘムでイエス様がお生まれになって、神様はダビデに対する約束を守ってくださったということです。(ミカ5:2;マタイ2:5)

そして、イエス様がお生まれになった後、東の方から博士たちはこう言いました。

ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。(マタイ2:2)

さらに、イエス様の十字架によって、神様の祭司たちとして、私たちに救いをまとわせて、喜び歌います。(16)

そして、ある日、神様はイエス様のすべての敵をイエス様の足の下に置かれます。(第一コリント15:24-27)

その日、イエス様の王冠が光り輝きます。(18)

だから、心に留めておきましょう。クリスマスの意義は、イエス様が2000年前に来られたということだけではありません。クリスマスの意義は、イエス様がもう一度この世に来られるということです。

その日、私たち皆は歌います。

この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される。(黙示録11:15)

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詩篇のデボーション

豊かな贖い

イスラエルよ、主を待て。

主には恵みがあり、豊かな贖いがある。 主は、すべての不義からイスラエルを贖い出される。(詩篇130:7ー8)

その言葉を読んで、ヨセフに対する天使の言葉を連想しました。

マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイ1:21)

私たちは罪によって壊れた世界に住んでいます。

あなたの人生は自分の罪や失敗によって壊れたかもしれません。

もし神様が私たちの罪に目を留められていたら、私たちは神様の御前に立つことができないでしょう。(3)

でも、主を待ち望みましょう。

主には恵みがあります。私たちが真実でなくても、キリストは常に真実です。(第二テモテ2:13)

そして、イエス様の血によって、私たちは贖いを得ています。でも、ただの贖いではなく、豊かな贖いを得ているのです。

私たちはみな、(キリスト)の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。

律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(ヨハネ1:16ー17)

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創世記のデボーション

苦しみの子、右手の子

メリークリスマス!

ヤコブはベツレヘムに行く途中、ラケルはヤコブの末っ子を生みました。でも、その子を生んだ後、ラケルはすぐに亡くなりました。

ラケルは死に臨み、その子をベン・オニと呼びました。ベン・オニとは、「私の苦しみの子」を意味します。

でも、その後、ヤコブはその子をベニヤミンと名付けました。ベニヤミンとは、「右手の子」を意味します。

約2000年後、もう一人の赤ちゃんが生まれました。その子はベツレヘムに生まれました。

ある意味、その子は「ベン・オニ」でした。イエス様が十字架にかけられたとき、剣はマリアの心を刺し貫きました。(ルカ2:34ー35)

さらに、イエス様ご自身が苦しみ、悲しみや痛みや人に拒絶されることを経験なさいました。(イザヤ53:3)

でも、十字架で、イエス様はご自分のいのちを死に明け渡し、私たちの罪を負い、神様に背いた私たちのために、とりなしをしてくださいました。(イザヤ53:12)

その後、天の父なる神様はイエス様を復活させて、

天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。(エペソ1:20ー21)

苦しみの子。

天の父なる神様の右手の子。

それはイエス様です。

そして、それはクリスマスの意味です。

Joy to the world!

世界に喜びを。

The Lord is come.

主が来られた。

Let earth receive her King !

この世に王を迎え入れよう。

ーーアイザック・ウォッツ

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詩篇のデボーション

イエス様が苦しんでおられたから

「彼らは 私が若いころからひどく私を苦しめた。」 さあ イスラエルは言え。

「彼らは 私が若いころからひどく私を苦しめた。しかし 彼らは私に勝てなかった。耕す者たちは私の背に鋤をあて、長いあぜを作ったが。」

主は正しくあられ 悪しき者の綱を断ち切られた。」(詩篇129:1ー4)

この詩篇では、詩人は自分の苦しみを嘆きます。でも、最終的に主が自分を救い、自分の敵を呪うという希望を持っていました。

数百年後、イエス様も苦しんでおられました。

イエス様は、見下されることを深くご存じでした。イエス様は、苦しみを深く味わっておられました。ローマの兵隊は鞭でイエス様の背に鋤をあて、長いあぜを作りました。さらに、イエス様は十字架の恥と痛みをよくご存じでした。

しかし、神様はイエス様を復活させて、よみから救い出してくださいました。

でも、最も大切なのは、イエス様の苦しみによって、私たちが神様との平和を持っているということです。(イザヤ書53:4ー5)

そういうわけで、イエス様がお生まれになったとき、天使たちは私たちを呪いませんでした。

むしろ、天使たちは神様を賛美し、私たちに対する神様の祝福を宣言しました。

いと高き所で、栄光が神にあるように。 地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように。(ルカ2:14)

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創世記のデボーション

神は戦う

その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」(創世記32:28)

ヤコブを祝福するとき、神様は彼に新しい名前を与えました:イスラエル。その名前には、二つの意味があります。イスラエルとは、「神と戦う」と「神は戦う」を意味します。

今まで、私は一つ目の意味が分かっていました。ヤコブは神の祝福と好意を得るため、ずっと神様と戦わなくてはならないと思っていました。

例えば、神様のタイミングを待たずに、ヤコブはエサウの長子の権利と祝福を奪い取りました。

また、神様を信頼せずに、ヤコブとその家族はラバンからひっそりと逃げました。

でも、今日、私は二つ目の意味が分かるようになりました。

ヤコブが学ばなくてはならなかったのは、神の祝福や好意を得るために戦わなくていいということです。なぜなら、神様はもうヤコブの味方でしたから。神様はヤコブのために戦っておられたのです。

ヤコブがラバンと戦うとき、神様はヤコブのために戦っておられました。(創世記31:6ー13、24、42)

また、エサウとの和解のため、神様はヤコブのために戦っておられました。(創世記33章)

神様の祝福と好意を得るために、私たちの多くは頑張って努力しなくてはならないと思います。でも、そうすることで、私たちは神と戦うことになってしまいます。

また、ヤコブがエサウの許しと好意を買おうとしたように、私たちは、神様の赦しと好意を買わなくてはならないと考えます。

でも、神様は私たちに言われます。「私はもうあなたの味方です。私はあなたのために戦っています。」

イエス様は十字架でそれをはっきりと証明してくださいました。(コロサイ2:13ー15)

だからパウロの言葉を心に留めておきましょう。

では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。

 だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。

 だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。。。

しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8:31ー35、37ー39)

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創世記のデボーション

この世の取るに足りない者や見下されている者のため

私にとって興味深いのは、神様がラケルではなく、レアを選ばれ、イエス様がレアの血筋であったことです。

ラケルはヤコブに愛されていた人でした。レアは愛されていませんでした。ラケルは美人でした。レアは不美人でした。

それでも、神様はレアを選ばれました。

その話を考えると、コリント人たちへのパウロの言葉を連想します。

兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。

有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。(第一コリント1:26ー28)

どうして、神様はそのような人を選ばれるのでしょうか。

肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。(第一コリント1:29)

神様の恵みとキリストの働きだけによって、私たちは義と認められ、清められ、贖われました。(第一コリント1:30)

だから、パウロはこう言います。

誇る者は主を誇れ。(第一コリント1:31)

最終的にレアはそうしました。

最初の三人の息子たちが生まれたとき、レアは自分の惨めな状態で思い詰めました。「私は悩んでいる。私は嫌われている。私は愛されていない。」

でもユダが生まれた時、レアは自分の惨めな状態から目を離して、主に向かって、こう言いました。

今度は、私は主をほめたたえます。(創世記29:35)

そういうわけで、イエス様がユダの血筋であったことがとてもふさわしいと思います。

あなたは、自分が取るに足りない人だと思うかもしれません。自分が見下されている人と思うかもしれません。

でも、神様は特にそのような人に恵みを注ぐことを喜びます。

さらに、イエス様はそのような人に共感します。預言者イザヤはイエス様に関してこう言いました。

彼には見るべき姿も輝きもなく、 私たちが慕うような見栄えもない。

彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、 悲しみの人で、病を知っていた。

人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ書53:2ー3)

でも、イエス様は取るに足りない人や見下される人に共感するためだけにこの世に来たわけではありません。イエス様が彼らを贖ってくださいました。

しかし、彼は私たちの背きのために刺され、 私たちの咎のために砕かれたのだ。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。(イザヤ書53:5)

クリスマスはただ嬉しい人や愛されている人や力のある人のためではありません。

クリスマスはレアのような人のためです。クリスマスはあなたのためです。クリスマスは私のためです。

だからレアと一緒に主を誇り、歌いましょう。「主よ。あなたをほめたたえます。」

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創世記のデボーション

私たちのはしご、門、神殿、神

すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。

そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。」。。。

 ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」

 彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」(創世記28:12ー13、16ー17)

このシーンを想像してみてください。

ヤコブは自分の罪のために、兄エサウから逃げていました。それでも、恵みによって、神様はヤコブに現れてくださいました。それだけではなく、神様はヤコブを祝福してくださいました。

約二千年後、ナタナエルという人がイエス様の前に立ちました。

ヤコブのように、ナタナエルは少し怖がりました。なぜなら、イエス様はナタナエルについて、神様だけが知っておられることを語られたからです。だから、ナタナエルはイエス様をメシアとして認めました。

しかし、ナタナエルはイエス様がただのメシアではないことをまだ理解していませんでした。

イエス様は彼にこう言われました。

それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。。。

まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。(ヨハネ1:50ー51)

ヤコブの話では、神の使いたちは、はしごを上り下りしていました。

でも、ヨハネの福音書では、イエス様は「私ははしごだ」と言われました。

けれども、「頑張ってはしごを登りなさい」と言われたのではなく、イエス様は私たちのところに来てくださいました。

さらに、イエス様は新しい神の家です。つまり、イエス様は新しい神殿です。

イエス様によって、神様の栄光が現れ、イエス様の十字架の働きによって、私たちは神様に近づくことができます。(ヨハネ2:20;12:32)

それだけではなく、イエス様は天国の門です。イエス様によって、私たちは救われます。(ヨハネ10:9)

それがクリスマスの意味です。イエス様は、私たちのはしごや神殿や門です。でも、最も大切なのは、イエス様が私たちの主と神であることです。

そして、私たちが気づいていなくても、イエス様はここにおられます。イエス様はインマヌエルです。「神は私たちと共におられます。」

だから、ヤコブとナタナエルと一緒に、神様のみ前に立ち、畏敬の念を抱きましょう。

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創世記のデボーション

わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する

あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。。。

わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し。。。(創世記26:3、24)

アブラハム、イサク、ヤコブはこの世に属しませんでした。彼らは神とその御国に属していました。でも、彼らは寄留者としてこの世に生きるように召されました。(へブル11:13–16)

彼らは周りの人々の生活様式や価値観を取り入れてはいけませんでした。むしろ、彼らはこの世の人々と違い、天の御国の市民として生きるべきでした。

そして、神様が約束されたのは、彼らが外国で寄留者のように生きていても、神様が彼らと共におられ、彼らを祝福してくださるということです。

その約束を心に留めている限り、彼らは神様を喜ばせる人生を送りました。でも、それを忘れたとき、彼らはいろいろなトラブルに巻き込まれました。

アブラハムとイサクはその約束を忘れたとき、隣人を恐れ、自分の妻を妹と呼びました。

ヤコブの場合、神様の約束が自分のためかどうか分からなかったので、神様の祝福を得るために、彼は父と兄を騙しました。

アブラハム、イサク、ヤコブのように、私たちも外国で暮らしている寄留者のようです。(第一ペテロ2:11、ヨハネ17:14–16)

神様が私たちと共におられ、私たちを祝福してくださることを信じていますか。その真理によって、私たちは生活しているでしょうか。

以下のパウロの言葉を少し考えてみましょう。その言葉の意味を噛み締めましょう。

私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。 。。

しかし、このことは、 「目が見たことのないもの、 耳が聞いたことのないもの、 人の心に思い浮かんだことがないものを、 神は、神を愛する者たちに備えてくださった」 と書いてあるとおりでした。(第一コリント2:7、9)

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創世記のデボーション

私たちを見て、慰めてくださる神

私にとって驚くべきことは、同じ聖書の箇所を何度も読んでいても、時々その意義にまったく気づかないということです。

今日の箇所を何度も読んだことがありますが、今日、以下の聖句が初めて私の目に留まりました。

一方イサクは、ベエル・ラハイ・ロイ地方から帰って来ていた。彼はネゲブの地に住んでいたのであった。(創世記24:62)

それは、あまり目立たない聖句でしょう。

でも、それを読んで、「たしか、ベエル・ラハイ・ロイという地名を読んだことがある」と思いました。

そして、創世記16章を読んで、「やっぱり」と思いました。ベエル・ラハイ・ロイという所で、ハガルは神様に出会いました。その時、ハガルはサラから逃げていました。

神様に出会ったあと、ハガルは神様を「エル・ロイ」と呼びました。その名前の意味は、「私を見てくださる神」ということです。ベエル・ラハイ・ロイとは、「生きて私を見てくださる方の井戸」を意味します。

もしかしたら、その所にいるとき、イサクはこう祈ったかもしれません。

「神様。私の兄イシュマエルのお母さんであるハガルがここにいた時、あなたはハガルと共におられました。ハガルが本当に苦しんでいた時、あなたは彼女を見てくださいました。

でも今、苦しんでいるのは、私です。母が亡くなり、私はとても寂しいのです。あなたは、私も見てくださるでしょうか。私と共におられるでしょうか。」

神様は、そうしてくださいました。神様の恵みによって、ご自身の素晴らしいタイミングで、リベカをイサクのもとに導いてくださいました。その時、

イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカを迎えて妻とし、彼女を愛した。イサクは、母の亡き後、慰めを得た。(創世記24:67)

クリスマスは喜ぶときであるはずです。でも、ある人にとって、クリスマスはとても辛い時です。特に、今年、あなたの愛する人が亡くなった場合、本当に辛いでしょう。

でも、心に留めてください。神様は「エル・ロイ」です。神様はあなたを見てくださいます。また、イエス様は「インマヌエル」です。イエス様はあなたと共におられる神です。

だから、あなたが苦しんでいるなら、神様のもとに行ってください。

神様は、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神です。そして、どのような苦しみのときにも、神様は私たちを慰めてくださいます。(第ニコリント1:3–4)

さらに、神のひとり子であるイエス様はあなたと共におられます。

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。

主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ9:6)

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創世記のデボーション

寄留者と居留者

私は、あなたがたのところに在住している寄留者(直訳:奇留者と居留者)です。。。(創世記23:4)

サラが亡くなったとき、アブラハムにその真理はしみじみと感じられたことでしょう。

アブラハムは、神が約束された土地に住んでいましたが、彼が所有していた土地は、サラを埋葬するために買った墓地だけでした。彼は、ただの寄留者や居留者として暮らしていました。

私たちも寄留者や居留者としてこの世界に暮らしています。

この世の文化は、神の国の市民である私たちの文化とは異なります。この世界の人々の考え方や生き方は、私たちのものとは違います。だから、私たちは少し違和感を覚えることでしょう。

さらに、この世の痛みや、死がどのように人々を支配しているかを見ると、私たちは天国に憧れます。私たちが愛するのは、この世ではありません。むしろ、私たちはより良い世界に憧れているのです。

しかし、それは単なる夢物語ではありません。私たちは希望を持っています。それは、決して約束を破らない神によって与えられた、約束された遺産なのです。

だから、絶望せずに、希望をしっかりと抱き、前を向いて、アブラハムやサラ、そして他の信仰の先人たちの姿勢を見習いましょう。

これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。

約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。

そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。も

し彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。

ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。(へブル11:13ー16)

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創世記のデボーション

聖書は、わたしについて証ししているものです

イエス様が「聖書はわたしについて証ししているものです」と言われたとき、創世記第22章についても触れておられたのではないでしょうか。

神様はアブラハムにこう言われました。

あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。

そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。(創世記22:2)

最終的に、神様がアブラハムに「イサクを殺してはならない」と言われましたが、神様はご自身の愛する一人の子を惜しむことなく、十字架の死に渡されました。

そういうわけで、使徒ヨハネはこの言葉を書きました。

神はそのひとり子を世に遣わし、 その方によって 私たちにいのちを得させてくださいました。

それによって 神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。

ここに愛があるのです。(第一ヨハネ4:9〜10)

また、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

アブラハムとイサクがその山を登ったとき、イサクは「全焼のささげ物にする羊は、どこにいますか」と訊きました。

アブラハムはこう答えました。

神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。(創世記22:2)

数百年後、バプテスマのヨハネはイエス様についてこう言いました。

見よ、世の罪を取り除く神の子羊。(ヨハネ1:29)

その山を登ったときにイサクが捧げ物のための薪を背負ったように、イエス様はゴルゴタを登った時に十字架を背負われました。

そして、イサクがある意味で復活しましたが、イエス様は実際に復活されました。(へブル11:19)

最後に、アブラハムの子孫であるイエス様によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになりました。(創世記第22:18;マタイ第1:1〜16)

時々、クリスチャンたちは「どうして旧約聖書を読むべきだろうか」と疑問に思います。

最も大切な理由は、旧約聖書では、私たちはイエス様を見るからです。

だからこそ、私たちが旧約聖書を読むとき、一緒にイエス様のことを探しましょう。

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創世記のデボーション

神様は訪れられるとき

主は約束したとおりに、サラを顧みられた。主は告げたとおりに、サラのために行われた。(創世記21:1)

聖書の翻訳は、とても興味深いものです。新改訳では「主はサラを顧みられた」とあり、英訳では「主はサラに恵みを与えた」または「神様はサラを訪れた」と訳されています。

実は、これら三つの訳はすべて正しいのです。へブル語の原文には、神様が人を心に留め、祝福するために、あるいは裁くために訪れるというニュアンスが含まれています。

サラの場合、神様は彼女を心に留め、祝福するために訪れられました。

それから何百年後、主はもう一人の女性を訪れられました。それはマリアです。その時、神様はもう一つの約束を果たされました。それは、私たちに救い主を送るという約束です。

そして、イエス様によって、私たちは恵みの上にさらに恵みを受けました(ヨハネ 1:16)。

私は以前にも申し上げましたが、もう一度言わせてください。

ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(第二コリント9:15)

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創世記のデボーション

定めた時に

たぶん、クリスマスがもうすぐやって来るからかもしれませんが、最近、私はクリスマスのレンズで聖書を読んでいます。

主はアブラハムに言われました。

なぜサラは笑って、「私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに」と言うのか。

主にとって不可能なことがあるだろうか。

わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。(創世記18:13ー14)

私はそれを読んで、マリアに対するガブリエルの言葉を思い起こしました。

聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。

見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。

神にとって不可能なことは何もありません。(ルカ1:35ー37)

そして、ガラテヤ人たちに対するパウロの言葉を思い起こしました。

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。

それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。(ガラテヤ4:4ー5)

神様はアブラハムに、「あなたによってすべての国民は祝福される」と約束されました。

サラがイサクを出産したことによって、神様はその約束の成就を始められました。

その時、サラは九十歳で、最初は赤ちゃんを産むのはもう無理だと思っていました。

しかし、イサクを生んだとき、サラの疑いの笑いは喜びの笑いに変わりました。

そして、時が満ちて、神様は処女であるマリアを通して、イエス様を送られました。

たぶん、マリアも少し疑いを持っていたかもしれませんが、最終的にガブリエルの言葉を信じて、イエス様を生みました。

そして、イエス様によって、私たちは神様の子供たちとして喜びます。

そういうわけで、パウロはこう書きました。

そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。(ガラテヤ4:6ー7)

だからパウロと共に感謝しましょう。

ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(第二コリント9:15)

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私たちを聞いてくださる神、私たちを見てくださる神

今日の箇所では、私たちは神を描写する名前を二つ見ます。

イシュマエル:「神は聞かれる。」

エル・ロイ:「私を見てくださる神。」

ハガルに対して、神様はそのような神でした。

けれども、ハガルは神様の恵みとあわれみに値するような人ではありませんでした。

ハガルは大きな失敗をしたため、逃げなくてはなりませんでした。

それでも、神様はハガルをご覧くださいました。

また、神様はハガルの言葉を聞いてくださいました。

そして、神様は荒野に来られ、ハガルを引き戻そうとされました。

「主の使い」とは興味深い言葉です。

時に、「主の使い」とは天使を意味します。

しかし、「主の使い」とは、文字通りに「主の言葉を伝える方」を意味します。

そして、旧約聖書では、時に、その使いは神様であるかのように語られます。

今日の箇所では、その使いがそうされました。彼はこう言われました。

わたしはあなたの子孫を増し加える。それは、数えきれないほど多くなる。(創世記16:10)

ある聖書学者によれば、その使いはイエス様であったかもしれません。

赤ちゃんとしてお生まれになる前に、イエス様は時にこの世に現れたようです。

そして、ハガルにとっても、イエス様はインマヌエルでした。

イエス様はハガルをご覧になる神であられました。イエス様はハガルの声を聞かれる神でした。

ハガルのように、あなたは霊的な荒野を歩んでいるかもしれません。ハガルのように、それはあなた自身の過ちによるものかもしれません。

それでも、神様はあなたを見限られることはありません。神様はあなたを探しに来られます。

神様はあなたをご覧くださいます。

神様はあなたの声を聞いてくださいます。

神様は永遠から永遠までインマヌエルです。

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あなたを信じることを選びます

これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。 わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」。。。

アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。(15:1、6)

たぶん、へブル人への手紙の著者は、以上の話を考えながら、この言葉を書いたのかもしれません。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。

神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル11:6)

アブラハムは疑いを持っていた時もありました。アブラハムは自己憐憫に浸る時もありました。(創世記15:2–3)

アブラハムの信仰が揺らいだ時もありました。(創世記16–17章、20章)

しかし、最終的な彼の心の態度は、「主よ。私はあなたを信じることを選びます。」というものでした。

神様はそのような人を受け入れてくださいます。神様はそのような人を求めておられます。そのような人は神様を喜ばせるからです。

主よ。あなたが良い方であることを信じます。あなたが私を愛し、私の最善を望んでおられることを信じます。

だからこそ、アブラハムとともに私は宣言します。「あなたを信じることを選びます。」

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祝福されている

アブラムに祝福あれ。 いと高き神、天と地を造られた方より。いと高き神に誉れあれ。 あなたの敵をあなたの手に渡された方に。(創世記14:19ー20)

前回の記事でも言いましたが、クリスチャンとして、私たちはアブラハムの霊的な子孫であり、神様の祝福を受け継ぐ者です。(ガラテヤ3:8–9)

上記の聖句を読んだとき、私はその真理をさらに反芻しました。

メルキゼデクの祝福を読むとき、神の祝福を受け継ぐ者として、自分の名前を入れてみましょう。

「<自分の名前>に祝福あれ。いと高き神、天と地を造られた方より。」

私たちはさまざまな意味で祝福されています。神様は私たちに多くの霊的な祝福を与えてくださいました。(エペソ1:3–14)

さらに、イエス様によって、私たちは最後の敵に対する最終的な勝利を得ました。つまり、イエス様が死を克服し、私たちに永遠の命を与えてくださったということです。(第一コリント15:26、50–57)

しかし、最も驚くべきことは、創造者である神が、そのように祝福するほどに、私たちを愛しておられるということです。

少し静かになって、その真理を思い巡らしましょう。その素晴らしい真理に心を向けましょう。

そして、ダビデとともに歌いましょう。

あなたの指のわざである、あなたの天、あなたが整えられた月や星を見るに人とは何ものなのでしょう。

あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。

あなたは、人を御使いより、わずかに欠けがあるものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。(詩篇8:3ー5)

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神の祝福を受け継ぐ者

あなたを祝福し。。。あなたは祝福となりなさい。。。地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。(2ー3)

もうすぐクリスマスがやってくるなんて、信じられないですね。

今日の箇所では、私たちは最初のクリスマスの約束の一つを読みます。

神様は、アブラハムによって地のすべての部族が祝福されると約束されました。

最終的に、その約束はアブラハムの子孫であるイエス様によって成就されました。

そして、私たちはその祝福を受け継ぐ者たちです。(ガラテヤ3:8–9、エペソ1:3–14)

でも、アブラハムのように、私たちはただ神様の祝福を受けるように召されているわけではありません。むしろ、私たちは周りの人々を祝福するように召されています。

私たちの周りの人々も、私たち自身が受けた恵みを受けることができるように、私たちはイエス様の光を照らすべきです。

だから、キリストの教会として、この世界に出て、私たちの周りの人々に対して祝福となりましょう。

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創世記のデボーション

約束を思い起こされる神

わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。

そのとき、わたしは、わたしとあなたがたとの間、すべての肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い起こす。大水は、再び、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水となることはない。

虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべての肉なるものとの間の永遠の契約を思い起こそう。(創世記9:14ー16)

神が忘れっぽい神だったら、どうなるでしょうか。

それは恐ろしい考えです。

でも、神様は御自分の約束を忘れません。神様は、御自分の約束を思い起こし、その約束を守られます。

だからこそ、私たちは希望を持つことができます。

私たちが真実でなくても、神様は常に真実でおられます。(第二テモテ2:13)

だから、エレミヤはこの歌を歌いました。

「私は待ち望む。主の恵みを。」

実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。

「あなたの真実は偉大です。(哀歌3:22ー23)