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詩篇のデボーション

私が信じていなかったなら──

もしも私が
生ける者の地で【主】のいつくしみを見ると
信じていなかったなら──。(詩篇27:13)

私が多くのことをコントロールできないこの乱れた世の中で、 もし神様が良い方であり、私を深く愛しておられると信じていなかったら、どうなるでしょうか。

私は失望してしまうでしょう。

私は苦々しい心を抱くでしょう。

私はいつも怒っているでしょう。

私は恐れているでしょう。

イエス様を信頼し、従い続けることは難しくなるでしょう。

しかし、私は信じます。

だからこそ、自分の心を導き、ダビデと共に歌うことを選びます。

待ち望め【主】を。
雄々しくあれ。心を強くせよ。
待ち望め【主】を。(詩篇27:14)

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サムエル記第一のデボーション

信仰を周囲の人に注射する

すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。

ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、【主】が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは【主】の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」(サムエル記第一17:46~47)

ダビデの言葉は私の心を打ちました。

彼の願いは、すべての国々が、ダビデが仕えた神を知ることでした。つまり、神様がダビデを通して行われるみわざを見るとき、彼らが神様のすばらしさを見ることができるようにと願っていたのです。

同時に、ダビデはイスラエルの民にも信仰を注射したいと願っていました。ゴリアテとペリシテ人の軍勢に直面したとき、彼らは勇気を失っていました。だからこそ、ダビデはその信仰を回復させたいと願ったのです。

私も、同じことをしたいと願います。つまり、神様を知らない周囲の人々が、私の中にある神のみわざを見て、神様が存在しておられることを知るようになることです。

彼らが神様のすばらしさと力強さ、そして良さを知り、神様を知りたいと願うようになることを祈ります。

それだけではなく、私は周囲のクリスチャンたちにも信仰を注射したいと願っています。彼らが絶望するとき、私の中にある神の働きを見て、「確かに、神様はここにおられる。希望がある。」と実感するように祈ります。

天のお父さん、私が周囲の人々に信仰と希望を注射するように導いてください。

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サムエル記第一のデボーション

だれに希望を寄せる?

全イスラエルの思いは、だれに向けられているのでしょう。あなたと、あなたの父の全家にではありませんか。(サムエル記第一9:20)

今朝、私はそのことばを思いめぐらせました。

イスラエルの民は、不完全な王、不完全な救い主に希望を寄せていました。

完全な王、完全な救い主がすでにおられたのに、どうして彼らは別の者に思いを向けていたのでしょうか。

でも、そうするのは容易なことです。私たちはしばしば神様の代わりに別のものに希望を寄せてしまうでしょう。

私はそうしたくありません。

むしろ、私の良い王の支配下にとどまり、すべてよりもイエス様に思いを向けることを選びます。

主よ、今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。(詩篇39:7)

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詩篇のデボーション

正義の裁判官を待ち望む

あなたはさばきを定められました。(詩篇7:6)

今日、その言葉私の心に響きました。

この世のよこしまと不正をニュースで見るとき、怒るのは簡単なことです。

しかし、この詩篇を通して、神様は私に思い起こさせてくださいました。「わたしはそのよこしまと不正を無視しているわけではありません。」

神様は裁きを定められました。そして、その日に、神様は正義をもってすべての人々を裁かれます。

神様は人の行動だけでなく、彼らの心の深みをも調べておられます。そして、彼らが悔い改めようとしないなら、最終的に神様の正義と向き合うことになります。

だから、ニュースを読むとき、怒りを脇へおいて、ダビデとともに賛美することを選びます。

私は主をほめたたえます。その義にふさわしく。いと高き方 主の御名をほめ歌います。(詩篇7:17)

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ピリピ人への手紙のデボーション

恵みによって立つ

ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。(ピリピ人への手紙4:1)

4章は、少し不思議な始まり方をします。1節は、実質的に3章の内容をまとめているのです。

私たちは、どのようにして堅く立つことができるのでしょうか。

それは、恵みによって立つことだと思います。

私たちは、自分の努力によって神様の受け入れを得ようとはしません。自分の義の成績表や資格によって、神様の愛にふさわしいと証明しようとはしません。(3:2~9)

むしろ、それらを手放して、ただイエス様との関係を追い求めます。でも、その関係も、私たちが得ようとする必要はありません。なぜなら、イエス様はすでに私たちを捕らえて、ご自身のものとしてくださったからです。(3:10~12)

だから今、愛と感謝を込めて、私たちはイエス様の御心と関心を自分のものとして、イエス様と御国のために生きます。(3:13~21)

さらに、私たちの罪や失敗にもかかわらず、私たちは希望と確信をもっています。それは、いつかの日、私たちがイエス様の御顔を見ることです。

その日、私たちはイエス様に似た者となります。キリストをありのままに見るからです。(ピリピ3:20〜21、第一ヨハネ3:1〜2)

それが、恵みによって立つということです。

私は、毎日そのように生きたいと願っています。

あなたは、どうでしょうか。

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マルコの福音書のデボーション

イエス様が生きておられるゆえに

青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」(マルコの福音書16:6)

明日、母の葬式のためにハワイへ旅します。そして、葬式のあと、私たちは遺灰を地面に葬ります。

しかし本当のところ、母の本質は地面に葬られるのではありません。母の魂はイエス様と共にあるからです。やがて、その遺灰は地面からよみがえり、新しい体へと変えられ、母の魂と結び合わされるのです。

その体は朽ちず、死ぬことのないものとなります。

それが私の希望です。イエス様が生きておられるゆえに、母も生きるのです。(ヨハネ14:19)

そしていつか、私の体が死んでも、神の恵みによって、私も生きるのです。

Many still mourn
多くの人が今も嘆いており、
And many still weep
多くの人が今も涙を流しています。
For those that they love who have fallen asleep
眠りについた愛する人々を思って。

But we have this hope though our hearts may still ache
しかし、心がまだ痛んでいても、私たちには希望があります。
Just one shout from above
天からの大きな呼びかけによって、
and they all will awake
すべての眠る者たちは目を覚ますのです。

And in the reunion of joy we will see
喜びに満ちた再会のうちに、私たちは目にするのです。
Death will be swallowed in sweet victory.
死は、胸のすくような勝利に飲み込まれるのです。ーーボブ・ハートマン

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イザヤ書のデボーション

死が滅ぼされる時

(この記事は、2011年に父が亡くなってから一年後に記したものです。昨日、母も天に召されたことを受けて、少し手を加え、あらためて共有いたします。)

多くの人々にとって、死は苦しみを伴うものです。

父の最後の週、私は毎晩、父の部屋でそばに寄り添いながら、静かに待っていました。それは、私がそれまで経験した中でも最もつらい時間でした。

そして母が召された今、私は再び同じような痛みを心に感じています。

それでも、やがて来る日には、死そのものが死に、終わりを迎える時が訪れます。

この箇所でイザヤは、イエス様の再臨について語っています。 彼はそのことに関して、次のように述べています。

この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。

神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。(イザヤ書25:7-8)

その日、すべての民が神様にこの賛美を歌います。

見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。

この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。(9)

父が亡くなった時、糖尿病や肺炎を患っていて、すでに目が見えず、足には全く治らない傷がありました。

母も肉体的な問題を抱え、断続的にうつ病と闘っていました。

しかし今、父と母のすべての健康の問題は取り去られ、彼らの苦しみと痛みは勝利に飲み込まれました(第一コリント15:54)。

今、父と母は共に救いの歌を歌い、主の食卓で食事をしています。

だから私は、苦しみの中でも喜ぶのです。

私は、父と母に再び会う日を待ち望んでいます。

There are burdens that I carry every day
私は毎日、重荷を背負って生きています。
Sometimes it makes me want to cry
時に、その重さに心がふさがれて、涙がこぼれそうになります。

In the middle of the darkness in my life
その人生の暗闇の中で
I find the strength to carry on.
私は生き続ける力を見いだします。
I am holding to a promise Jesus made
イエス様がくださった約束にしっかりと握り続けています。
And I know it won’t be long ‘til we’ll be gone.
やがて、私たちがこの世を離れる日が近づいていることを、私は知っています。

In a while, we’ll be gone.
やがて、私たちはこの世を離れる時が来ます。
And we won’t have to cry anymore.
その時、もはや涙を流すことはありません。
All our sorrows left behind.
悲しみはすべて、この世に置いていくのです。

That’s the day that I am waiting for.
その日を待っています。

That’s the day I’m longing for.
その日を願っています。

That’s the day that I am looking for.
その日を待ち望んでいます。

ーー エイミー・グラント

あなたがキリストにある希望を、さらに深く知ることができますように。

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ヨハネの福音書のデボーション

光を必要とする世界

この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。。。

すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。(ヨハネ1:4ー5,9)

最近のニュースによると、2024年に527人の小中高生が自殺しました。

たとえ1人でも多すぎるでしょう。

ヨハネは、イエス様にはいのちがあり、イエス様が闇の中を歩んでいる人々に光を与える方であると言いました。

闇の中を歩んでいる人々は多いです。希望のない人々は多いです。

彼らはイエス様の光を必要としているのです。

最近、クロスロードでは、私たちは天の父の目について話しています。つまり、神様がどんなまなざしで私たちを見ているのかを理解する必要があります。

その真理を理解すれば、神の光は私たちの闇を照らすでしょう。

イエス様はそのように人々に触れました。人々がイエス様を見るとき、天の父の目を見ました。そして、彼らが神の目を見たとき、神の光は彼らの闇を照らしました。

だから、私の祈りは、人々が私のうちに住んでおられるイエス様を見るようになることです。

私の妻、娘、生徒たち、同僚たちが私の目を見るとき、私の天のお父さんの目を見ることができるように祈ります。

そして、私を通して、神様が彼らの闇を照らしてくださるように祈ります。

私たち皆が天のお父さんの目を持つように。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

希望を持って、待ち望む

そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。

最後に兄弟たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから、ますますそうしてください。。。

神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。(テサロニケ人への手紙第一3:13~4:1、3)

今はクリスマスのシーズンなので、私たちはよくイエス様の初臨を振り返りますが、イエス様はもう一度この世に来られます。それが私たちの希望です。

最近、二人の友人が亡くなり、主と共に旅立ちました。しかし、パウロが言ったように、私たちは望みのない他の人々のように悲しむことはありません。

イエス様がもう一度この世に来られるとき、彼らはよみがえり、生き残っている私たちは彼らと一緒に空中で主と会います。そして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。

その日に、私たちは聖く、責められるところのない者となります。簡単に言えば、イエス様に似た者となるのです。なぜなら、私たちはイエス様をありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)

それが私たちの希望です。でも、その日が来るまで、パウロとヨハネは、私たちがますますイエス様のようになることを促しています。(第一テサロニケ4:1~3;第一ヨハネ3:3)

私は、第一テサロニケ4章3節の英訳が好きです。「あなた方は神に喜ばれるために現に歩もうとしているが、前進し続けなさい。」

「前進し続けなさい。」

それが神様の御心です。つまり、毎日毎日、一瞬一瞬、私たちがますますイエス様のようになるということです。

イエス様、私はクリスマスを楽しみにしていますが、あなたの再臨も心待ちにしています。あなたの御顔を仰ぎ見ること、友人たちと再会できることを心から待ち望んでいます。

でも、その日が来るまで、私が前進し続けるように助けてください。私が成長し続けるように助けてください。

あなたの恵みによって、毎日、私がますますあなたのようになるようにしてください。

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マタイの福音書のデボーション

産みの苦しみ

また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。

民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。

しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。(マタイの福音書24:6~8)

イエス様の言葉を読んだとき、私はパウロの言葉を連想しました。

私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。

それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。(ローマ8:22~23)

この世の問題や自分の問題を見るとき、私たちが心の中でうめくことは自然なことです。

でも、私たちは希望を持っています。

被造物のうめきと私たちのうめきは、絶望のうめき、死のうめきではありません。

私たちのうめきは、産みの苦しみのうめき、つまり、命の希望のうめきなのです。

イエス様は、この世にもう一度来られます。そのとき、イエス様は、すべての悪を裁かれます。

そして、イエス様は、ご自分の民を救い、すべてを新しくしてくださいます。(マタイの福音書24:30~31)

それが、私たちの希望です。そして、その希望は確かなものです。なぜなら、イエス様の言葉は確かだからです。

イエス様は言われました。

天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。(マタイの福音書24:35)

だから、この世の問題を見るとき、自分の問題を見るとき、絶望に屈してはいけません。

また、自分の愛が冷えないように、注意しなくてはなりません。

むしろ、神様が私たちに与えてくださった役割を、忠実に果たしましょう。

そして、イエス様を待ち望んでいる間、私たちが一人ぼっちではないことを、覚えていましょう。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。

私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:26~28)

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マタイの福音書のデボーション

収穫の主への祈り

また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。

そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイの福音書9:36ー38)

収穫の主よ。私の周りで、弱り果てて倒れている人たちは誰でしょうか。希望のない人生を歩んでいる人たちは誰でしょうか。

どうか、私の目を開いてください。あなたがしてくださったように、私も人々のうわべを見抜き、心の深いニーズを見抜くことができるようにしてください。

私に、あなたのあわれみ深い心を与えてください。そして、私を収穫のために送ってください。

私が、希望のない人に希望を届けることができるように。私が彼らに、あなたの赦し、救い、そして愛を宣言することができるように助けてください。(マタイ9:2、22)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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創世記のデボーション

この世には、苦難があっても

ヨセフは長子をマナセ(意味:「忘れる」)と名づけた。「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」からである。

また、二番目の子をエフライム(意味:「実り多い」)と名づけた。「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」からである。(創世記41:51ー52)

イエス様、あなたは、「世にあっては苦難があります」と言われました。(ヨハネ16:33)

でもヨセフと同じように、ある日、私の苦しみはなくなり、過去が私に影響を及ぼすことはなくなります。(黙示録21:24)

やがて私に啓示される栄光に比べれば、今の時の私の苦難が取るに足りないものであることを感謝します。(ローマ8:18)

私の苦しみの中で、私がどう祈ればいいのかよく分からないとき、御霊が私のために祈ってくださることを感謝します。(ローマ8:26)

あなたを愛する私たち、あなたのご計画にしたがって召された私たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを感謝します。(ローマ8:28)

それが私の希望です。あなたこそが私の希望なのです。

だから苦しみに満ちたこの世にいる間、私はあなたに信頼することを選びます。

私のためにあなたの計画を成し遂げてください。私があなたのために実を結ぶように。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの手紙第一のデボーション

自分の心が私たちを責めるとき:神の子供としての私たちの希望

子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。

そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。

たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。(ヨハネの手紙第一3:18ー20)

「神は…すべてをご存じだ。」

ヨハネのことばを読んで、ヨハネの福音書21章にある、イエス様へのペテロのことばを連想しました。

「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」(ヨハネ21:17)

イエス様は、確かにペテロの心を知っておられました。実際、ペテロ以上に、イエス様はペテロの心を知っておられました。ペテロが将来、イエス様のために死ぬほどイエス様を愛していることを、知っておられました。(ヨハネ21:18〜19)

イエス様は、ペテロの弱さをよく知っておられました。

イエス様は、ペテロの過去の罪と失敗をよく知っておられました。

イエス様は、ペテロの将来の罪も知っておられました。

でも、ペテロがイエス様を愛し、イエス様のようになりたいと願っていることを、知っておられました。

神の子どもたちは、その態度によって特徴づけられています。彼らは、愛する主のようになりたいのです。

ヨハネは、その真理をこのように表現します。

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。

しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。(ヨハネの手紙第一3:2ー3)

もちろん、今は、私たちは完全にイエス様のようになっているわけではありません。でも、神の子どもとして、私たちはそれを望みます。私たちは、完全になる日を待ちきれません。

だから、その間、イエス様のようになるための一歩を踏み出します。小さい子どものように、私はよちよち歩きかもしれないけれど、一歩一歩、歩き続けます。

イエス様が歩まれたように、私は歩き始めます。(第一ヨハネ2:6)

イエス様が愛されたように、私は愛し始めます。(第一ヨハネ3:16〜18)

そして、私たちが転んで、自分の心が私たちを責める時、私たちの天のお父さんは、私たちを引き上げ、励ましてくださいます。

「大丈夫です。あなたが私を愛していることを、よく知っているよ。歩き続けなさい。」

私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。

事実、私たちは神の子どもです。(第一ヨハネ3:1)

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創世記のデボーション

私たちを決して見捨てない方

見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。

わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。創世記28:15)

ヤコブがどれほど失敗したかを考えれば、神様の約束は本当に驚くべきものです。

でも、神様は私たちに関して、同じようなことを言っておられます。私たちがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して見捨てません。

むしろ、神様は私たちとともに歩み、守り続けてくださいます。

さらに、御霊は毎日、私たちの心の中に働き、私たちをイエス様のようにしてくださいます。

そして、ご自分が約束してくださったことを成し遂げ、私たちが完成されて、顔と顔を合わせて神様を見るまで、神様は私たちを決して捨てません。

パウロのことばを借りれば、

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。(ピリピ1:6)

それは、私たちの希望です。その希望を持って、歩みましょう。

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使徒の働きのデボーション

イエス様がもう一度来られるまで

「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。

あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。(使徒の働き1:11)

数年前、私はこの箇所についてブログの記事を書きました。その記事をこちらで読むことができます。

今日、この箇所を読むとき、御使いの言葉は以前と同じように私の心を打ちましたから、私はこう祈りました。

イエス様、この壊れた世界にあって、御使いの言葉は私の希望です。ある日、あなたはもう一度この世に来られます。そして、あなたはすべてを新しくしてくださいます。

でも、その間に、あなたは私に役割を与えてくださいました。

だから、あなたの御霊で私を満たしてください。そして、あなたがもう一度来られるその日まで、私が忠実にあなたに与えられた役割を果たすことができますように。

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出エジプト記のデボーション

イースターの希望

神の贖いのご計画は、決して揺らぐことのないものです。私たちがどれほど失敗しても、どれほど深い罪を犯しても、救いようのない人など一人もいません。

それこそが、イースターの希望です。だからこそ、私たちは毎日、その希望の上に立って生きていきましょう。

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イザヤ書のデボーション

 輝け!

あなたは忘れているかもしれませんが、イザヤ書60章は、もちろん59章の続きです。😀

そして、59章では、この暗い世界の中における、キリストにある私たちの希望が描かれています。

最悪の時、私たちが自分自身を救うことができなかったとき、神様は私たちの救いのためにイエス様を送ってくださいました。

イザヤ書59〜60章では、神様は主にイスラエルの回復について語っておられますが、黙示録においてヨハネは、イザヤのことばを借りて、新しい天と地、特に新しいエルサレムについて語ります。

(イザヤ書60:3/黙示録21:24;イザヤ書60:11/黙示録21:25〜26;イザヤ書60:19〜20/黙示録21:4、23、黙示録22:5)

その新しい天と地こそが、私たちの希望です。

だから、エルサレムとユダヤ人たちに向けられた神のみことばは、私たちにも当てはめることができます。

起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。

主の栄光があなたの上に輝く。(イザヤ書60:1)

今朝、神様はそのことばを通して、私に語られました。

「この世の闇を見ても、絶望しないで。この世の悪や、周りの人々の絶望、壊れた人生を見ても、へこたれないで。

起きなさい。この世で輝きなさい。あなたの希望を表しなさい。そうすれば、人々は暗闇から、私の光の中へ入ってくる。」

天のお父さん、どうか私があなたの光を輝かせる者となりますように。

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ローマ人への手紙のデボーション

平和

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。(ローマ人への手紙5:1)

長い文書を読むとき、要点を見逃してしまうのは簡単なことです。しかし、パウロの要点を見逃さないでください。それは何でしょうか。

こうして、私たちは。。。神との平和を持っています。

そのことばを反芻しましょう。

「私は神との平和を持っています。

私はかつて神様の敵でした。でも、今、神様と和解させていただきました。神様との平和を持っているのです。

だから、試練が来るとき、神様は私を罪のために罰しているわけではありません。

神様との平和を持っています。私は神様の恵みに立っているのです。

さらに、毎日、神様は愛を私に注いでくださっています。」

だから、試練に直面するとき、絶望しないでください。

「神様は私を罰している」と考えないでください。

十字架で、イエス様はあなたの罰をすでに受けてくださいました。

あなたは、神との平和を持っているのです。

苦しみのとき、その真理にしがみつきましょう。

その真理こそ、私たちの希望です。

神様の、私たちへの忠実な愛こそ、私たちの希望です。

そして、その希望は失望に終わることがありません。

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イザヤ書のデボーション

クリスマスの歌

主よ、あなたは私の神。 私はあなたをあがめ、御名をほめたたえます。

あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、 まことに、真実に成し遂げられました。(イザヤ書25:1)

クリスマスがもうすぐなので、今朝、上の歌は私の心に響きました。

神様の遠い昔からの不思議な計画を真実に成し遂げ、御子イエス様をこの世に送られました。

でも、25ー26章では、イザヤはイエス様の初臨ではなく、イエス様の再臨について話しているようです。

イエス様はこの世にもう一度来ると、正義をもって、すべての悪を滅ぼします。その後、イエス様は最後の敵を克服します。その敵は死です。

今、死はベールのようにこの世のおおうけど、神様はそのベールを取り除き、 永久に死を飲み込まれます。

神様は私たちの罪の恥を取り除き、すべての顔から涙をぬぐい取ってくださいます。(イザヤ書25:7ー8)

パウロもヨハネもその事をもっと具体的に話すので、彼らの言葉をどうぞ読んでください。(第一コリント15:20ー28,51ー57;黙示録20:7ー21:4)

とにかく、その日、私たちはイエス様を見て、以下のクリスマスの歌を歌います。

もちろん、今でも私たちは歌うことができるけど、イエス様がもう一度来るとき、私たちはその歌の意味をもっと深く知ることになるでしょう。

見よ。この方こそ、待ち望んでいた私たちの神。 私たちを救ってくださる。

この方こそ、私たちが待ち望んでいた主。 その御救いを楽しみ喜ぼう。(イザヤ書25:9)

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テトスへの手紙のデボーション

偽ることのない神

それは、偽ることのない神が永遠の昔から約束してくださった、永遠のいのちの望みに基づくものです。(テトスへの手紙1:2)

「偽ることのない神。」

今朝、その言葉が何となく私の心に響きました。

それは、私の希望の土台です。神様は偽ることのない方だから、約束されたことを必ず実行されます。その中には、神様が永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちも含まれています。

その約束は、イエス様において成就しました。

私は、ルカの福音書にあるシメオンの言葉を思い起こしました。

主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。

私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。(ルカ2:29-32)

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ピリピ人への手紙のデボーション

私たちの希望

私の好きな聖書箇所のひとつは、ピリピ人への手紙1章6節です。

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。

ピリピ人への手紙2章12〜13節では、パウロはその真理をさらに詳しく説明しています。

。。。恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。

クリスチャンとしての私の希望は、自分の罪と弱さにもかかわらず、神様が私を決して諦めないということです。神様が始められた良い働きを完成させてくださいます。

今なお、神様は私の心の中で働いて、イエス様のようになろうとする思いと力を与えてくださっています。

時々、その過程が進むのがとても遅く感じられることもあります。今でも、自分の欠点ははっきりと見えています。私は完全な人間とは言えません。でも、振り返ってみると、神様が私を少しずつ変えてくださってきたことがわかります。

だからこそ、私への神様の日々の素晴らしい恵みに、畏敬の念を抱かずにはいられません。そういうわけで、私は神様に従い続けているのです。

私の動機は、罪悪感や神様の怒りではありません。神様が私を拒絶するのではないかと心配することもありません。むしろ、神様の素晴らしい恵みのゆえに、私は神様に従っているのです。

それは、あなたの希望でもあるでしょうか。

あなたが神様に従おうとするとき、その動機は何ですか。

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マタイの福音書のデボーション

イエス様の言うことを聞いていますか?

彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。。。

彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」

すると彼らはたいへん悲しんだ。(マタイの福音書17:5,22-23)

私たちは、どれほどイエス様の弟子たちのようにふるまっているでしょうか。

神様は良い計画を持っておられます。その計画は確かに良いものです。しかし、私たちは神様のことばすべてに耳を傾けていないため、その計画を十分に理解することができません。

私たちが聞いているのは、自分の計画や夢や希望が失われるということだけです。だから、私たちは深く悲しんでしまいます。

けれども、私たちは、その計画や夢や希望の灰の中から何がよみがえるのかを知りません。

それは、喜び、平和、そしていのちです。

しかし、最も大切なのは、私たちがイエス様ご自身を見ることになるということです。

ですから、神様の計画が私たち自身の計画に反していて、私たちが悲しみに沈んでいるときこそ、天の父のことばを思い起こしましょう。

「これは、わたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

私たちから響き渡る主のことば

主のことばがあなたがたのところから出て。。。響き渡った。。。(テサロニケ人への手紙第一1:8)

天のお父さん、あなたは私を愛し、選んでくださいました。あなたが御霊で私を満たしてくださったので、私に対するあなたの愛に関して、強い確信を持っています。

だから、あなたのことばが私から出て、周りの人々に響き渡るように。

私の言動が、周りの人々に私の信仰を表すように。彼らが、あなたに対する私の愛、また彼らに対する私の愛を見ることができるように。そして、私がどんな苦しみに直面しても、彼らが私の中にあなたの希望が輝いていることを見ることができるように。

私の周りの多くの人々は、あなたを知りません。彼らはこの世に、平安や希望を持っていません。彼らは愛に飢えています。だから、彼らに触れるために私を用いてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの福音書のデボーション

見よ、あなたの王だ

ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」(ヨハネ19:14)

すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」

こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。(20:19-20)

見よ、あなたの王だ。
血まみれで、体が引き裂かれた王。

見よ、あなたの王だ。
茨の冠をかぶせられた王。

見よ、あなたの王だ。
殴られ、顔があざだらけになった王

見よ、あなたの王だ。
不当に虐待された王。

見よ、あなたの王だ。
木にかけられた王。

見よ、あなたの王だ。
あなたのために死なれた王。

見よ、あなたの王だ。
墓から脱出された王。

見よ、あなたの王だ。
栄光によみがえられた王。

見よ、あなたの王だ。
手と脇腹を突き刺された王。

見よ、あなたの王だ。
その平安にとどまりましょう。

見よ、あなたの王だ。
すぐに来られる王。

見よ、あなたの王だ。
新しい天と地を造られる王。

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ヨハネの福音書のデボーション

自分の疑問の解決がもう気にならなくなる日

あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。

その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。(ヨハネの福音書16:22ー23)

今日、私は上のことばに思いを巡らしました。日曜日は父の日でした。だから、いつものように、私は12年前に亡くなった父のことを思い出しました。

私の父は、さまざまな苦しみに直面しました。特に、最後の10年間は、多くの健康問題を抱えていました。

もし父が「どうして」と尋ねたとしても、不思議ではなかったでしょう。でも、実際には決してそうは訊きませんでした。

この世を見渡すと、私はよく「どうして」と問いかけます。

ガンで亡くなった友人もいたし、うつ病で自ら命を絶った親戚もいました。「良い人」(実のところ、私たち皆は罪人です)に悪いことが起こるのを見たこともあります。

だから、私は悲しみを知っています。痛みを知っています。そして、まだ理解できない疑問をたくさん抱えています。

でも、イエス様によれば、イエス様の御顔を見る日が来ます。その日、私は喜びに満たされ、イエス様に何も尋ねることはありません。

なぜでしょうか。もしかすると、その日、私は神様のご計画のすべてを知ることになるからかもしれません。

でも、もしかすると、その日、私はもう自分の疑問の解決を気にしなくなるかもしれません。なぜなら、私の目でイエス様を見るからです。そして、イエス様が私と共におられ、私の悲しみと痛みは洗い去られるからです。

とはいえ、今の時点でも、私は天の父にアクセスすることができます。私の願いを神様に委ねることができます。そして、天の父は私の願いを聞いてくださいます。私を愛してくださるからです。

そして、私の良いパパは知恵をもって、私が求めていることが良いと判断されるなら、それを与えてくださいます。(第一ヨハネ5:14ー15;マタイ6:11)

だから、私はイエス様のことばを固く信じます。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。

世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)

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ヤコブの手紙のデボーション

心を強くしなさい

ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。

見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。

心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです。(ヤコブ5:7ー8)

一章では、私たちが見たのは、この手紙を読んだ人々がさまざまな試練に直面していたということです。だからこそ、ヤコブは彼らに耐えるよう励ましました。そして、この手紙の終わりで、ヤコブはそのテーマに戻ってきます。

私の心に残った言葉は、8節にあります。「心を強くしなさい。」

では、自分の心を強くするには、どうすればよいのでしょうか。

ただ自分の心に「強くあれ!強くあれ!」と命じるだけでしょうか。

それは違います。

むしろ、意識的に自分に思い出させましょう。「主が来られる時が近づいている。私の苦しみは永遠に続くわけではない。この試練は長く感じられるかもしれないが、永遠と比べれば、ほんのわずかなものだ。」

また、主が慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方であることを思い出しましょう。もちろん、聖書にあるヨブのような話を見ることもできますが、自分自身の経験を思い返しましょう。過去の試練の中で、神様がどのようにご自分の慈愛とあわれみを私たちに与えてくださったかを思い出しましょう。

最後に、イエス様が今も私たちと共におられることを思い出しましょう。そして、喜ぶことを選びましょう。

自分の力で頑張ろうとする態度を捨て、へりくだって、自分の思い煩いを神様に委ねましょう(ピリピ4:4〜7;第一ペテロ5:6〜7)。

ダビデの模範に従って、祈りましょう。

主は私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。 主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。。。

聞いてください、主よ。私が呼ぶこの声を。 私をあわれみ 私に答えてください。 あなたに代わって 私の心は言います。「わたしの顔を慕い求めよ」と。 主よ、あなたの御顔を私は慕い求めます。。。

私の父、私の母が私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださいます。。。

もしも、私が、生ける者の地で主のいつくしみを見ると、信じていなかったなら──(希望はないでしょう。でも、それを信じることを選びます)。

待ち望め 、主を。 雄々しくあれ。心を強くせよ。 待ち望め 主を。(詩篇27:1,7ー8,10,13ー14)

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ヨハネの手紙第一のデボーション

希望があるから

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。

やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。(ヨハネの手紙第一3:2-3)

天のお父さん、私は希望を持っています。なぜなら、あなたは私をご自分の子供と呼んでくださっているからです。

また、イエス様がこの世にもう一度来られるとき、私はイエス様に似た者になるという希望を持っています。その日、私はイエス様をありのままに見るからです。

そういうわけで、私は今、イエス様のようになろうと努めています。イエス様のように歩みたいです。イエス様と同じように、人々を愛したいです。

でも、私が失敗し、罪を犯すときでも、私はなお希望を持っています。なぜなら、あなたは決して私を諦めないからです。

むしろ、もし私が自分の罪を告白するなら、あなたは真実で正しい方で、その罪を赦し、私をすべての不義からきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

サタンが私を責めても、私の心が私を責めても、あなたは私の心よりも大きな方であり、すべてをご存じです。つまり、私があなたを本当に愛していることをご存じなのです。(ヨハネ20:15−21)

どうか、毎日、私があなたの愛と恵みと希望の中で歩むことができますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ペテロの手紙第一のデボーション

通過しているだけ

イエス・キリストの使徒ペテロから寄留している選ばれた人たち(へ)(ぺテロの手紙第一1:1)

「寄留している人たちへ。」

その言葉は私の心を打ちました。私は日本に27年間住んでいるので、ある意味で日本は私の国になっています。それでも、私がこの国に実際に属していないというリマインダーをよく見ます。

例えば、今でも、私の日本語はいまいちですし、和食よりも洋食が好きです。(私には、納豆がまだ苦手ですね。)

クリスチャンとして、私たちも同じような経験をしています。この世は私たちの「国」のように見えますが、私たちは実際にこの世に属していないのです。

この壊れた世界を見ると、その真理を実感するでしょう。戦争もあるし、疾患もあるし、罪もあるし、苦しみもあるし、死もあるのです。

私たちはただこの世を通過しているだけです。

でも、この世にあって、私たちは生ける望みを持っています。私たちは選ばれて、神の子どもになりました。私たちは朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない資産を受け継ぎました。その遺産は、私たちのために天に蓄えられています。(4)

イエス様が私たちの罪のために死んでくださり、三日目によみがえられたので、その遺産の確信を持っています。

さらに、聖霊様が私たちのうちに住んでおられ、私たちの力ではなく神様の力によって救いのために守られているので、私たちの遺産が確実なものであることを知っています。(1ー2、5)

だから、私たちがこの世に属していないというリマインダーを日々目にし、また、試練によって悲しみの中で試されることがあっても、私たちは「ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍る」ことができます。

なぜなら、私たちは「信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(6ー9)

私はもう一度言います。「私たちは喜ぶことができます。」

しかし、私たちは本当に喜んでいるでしょうか。それは、時に難しいことです。特に、苦しみの中にあるときには、喜ぶことが難しく感じられます。

けれども、一つのことを覚えているなら、私たちは喜ぶことができます。それは、「私たちはただこの世を通過しているだけ」という真理です。

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使徒の働きのデボーション

希望を持っているからこそ

しかし、パウロはこう答えた。「わずかな時間であろうと長い時間であろうと、私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が。。。みな私のようになってくださることです。」(使徒の働き26:29)

パウロのように、私たちは希望を持っています。

永遠の命という希望を持っているのです。

ある日、すべてのものが新しくなるという希望も持っているのです。

すべての悪が裁かれるという希望も持っているのです。

また、恵みによって、神の子どもとして私たちが御国に受け入れられる希望も持っているのです。

私たちはパウロの希望を持っています。でも、パウロの心も持っているでしょうか。それは、周りの人々が私たちのようになってくれるということです。つまり、彼らも希望を持つ者になってくれるということです。

また、私たちは、彼らが闇から光へ、サタンの支配から神へと立ち返るように望むでしょうか。

そして、彼らが悔い改めて、イエス様を信じる信仰によって、罪の赦しを得て、聖なる者とされた人々とともに相続にあずかるように祈るでしょうか。

それは、あなたの心でしょうか。

イエス様、神の子どもとして私に希望を与えてくださり、感謝します。私の周りの人々もその希望を知るように、私を遣わしてください。私にパウロの心を与えてください。あなたの心を私に与えてください。あなたのみ名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働きのデボーション

希望と喜びを持って、歩む

彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。(使徒の働き2:42)

今日の箇所を読むと、上の言葉をクリスチャンの生活のための方式にしてしまうのは簡単だと思います。

つまり、「良いクリスチャンになるためには、教会に行き、聖書を読み、祈り、聖餐式に参加しなければならない」という方式を作ることです。

私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。

それゆえ、私の心は喜び、私の舌は喜びにあふれます。私の身も、望みの中に住まいます。

あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。(25-28節)

その言葉を読んだとき、私はダビデの喜びに気づかされました。

「主は、いつも私と共におられます。だから、暗い谷、死の陰の谷を歩んでも、私は揺るがされることはありません。あなたは私をよみに捨て置かれることはありません。だから、この世にあっても、あなたは私を見捨てられることはないでしょう。

あなたはいのちの道を示してくださいました。あなたの御前にいるだけで、私は喜びに満たされています。」

ダビデの希望のよりどころは、主が常に共におられるという確信でした。

あなたにある敬虔な者(つまり、イエス様)に滅びをお見せにならないからです。(27節)

イエス様が生きておられるからこそ、私たちも生きることができるのです。(ヨハネ14:19)

その希望と喜びをもって、初代のクリスチャンたちは日々を歩んでいました。

だからこそ、彼らは喜んで使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りを捧げていたのです。彼らにとって、愛してくださる主とその民と共に時を過ごすことは、何よりの喜びでした。

それゆえ、私は自分に問いかけました。「私はその希望と喜びをもって、生きているだろうか。」

あなたは、その希望と喜びをもって、生きていますか。

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マタイの福音書のデボーション

わたしはあなたの神

死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。(マタイの福音書22:31-32節)

冬休みにハワイに帰ったとき、11年前に父の遺灰が散骨された場所を訪れました。

今日の個所を読んだとき、キリストにある私たちの希望を思い起こしました。

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とおっしゃった神は、今こう語っておられます。

「わたしは、あなたの父ジョージの神である。わたしは、ロブ牧師や、あなたが愛し、私を知っていたすべての人々の神である。さらに、わたしはあなたの神である。

今よりとこしえまで、わたしはあなたの神である。なぜなら、今よりとこしえまで、わたしはインマヌエル、あなたと共におられる神であるから。」

主よ、あなたにある希望を感謝します。あなたは死んだ者の神ではなく、あなたを知っている生きている者の神です。

だから、暗闇の中にいる人々や、絶望している人々に、その希望を伝えることができるように助けてください。今年、私があなたにある希望を彼らに分かち合うことができるように助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書のデボーション

イエス様につまずいた?

イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。

目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。

だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」(マタイの福音書11:4-6)

イエス様が私たちの望み通りにしてくださらないとき、私たちは皆、失望することがあるでしょう。

ヨハネも、きっとそのように感じたことでしょう。彼は、イエス様がローマ帝国を倒し、神の御国を確立されることを望んでいました。

しかし、ヨハネは牢に入れられ、最終的には処刑されてしまいました。

それは辛い真理ですが、イエス様が私たちの願い通りに行動されないこともあります。

それでも、ヨハネへのイエス様のメッセージは、私たちへのメッセージでもあります。

「私はあなたの希望です。あなたには今、私が見えないかもしれませんが、私はあなたの益のために働いています。そして、あなたが私に希望を託すなら、最終的にあなたは失望させられることはありません。」

だから、2023年に目を向けるとき、その約束を覚え、ヘブル人への手紙の著者の言葉を心に留めておきましょう。

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。

「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。 遅れることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、 わたしの心は彼を喜ばない。」

しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(ヘブル人への手紙10:35ー39)

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ヤコブの手紙のデボーション

イエス様はこの世に帰って来られるから

いろいろな意味で、5章ではヤコブは1章のポイントに戻っています。1章では、ヤコブは試練に直面していた人々を励ましていました。

そして、5章では、ヤコブの要点はイエス様がこの世に帰って来られることです。

そのとき、イエス様は不義を行う人々、また、私たちに傷をつけた人々を裁かれます。(ヤコブの手紙5:1-6)

だからヤコブは、私たちを励ましています。「正義はこの世に来ます。だから、忍耐をもってその正義を待ち望みましょう。ヨブや預言者たちが待ち望んだように、主を待ち望みましょう。そうすれば、やがて神様が良い方だとわかるようになります。」(7-11節)

だから、イエス様が帰って来られるまで、良い時でも悪い時でも、イエス様から目を離さず、イエス様に信頼を寄せましょう。(13節)

また、あなたもイエス様に裁かれるので、自分の行いに注意しなくてはなりません。特に、人間関係における行いに注意しなくてはなりません。(9、12節)

最後に、私たちが苦しんでいる時、私たちは一人で戦う必要がないことを覚えておくべきです。だから、クリスチャンの兄弟姉妹の助けを頼みましょう。また、彼らが苦しんでいる時、特に信仰を失いかけているような時には、彼らを支えましょう。(14-20節)

あなたは今、苦しんでいるでしょうか。ダビデ王とともに歌いましょう。

わたしは信じます、生ける者の地でわたしは主の恵みを見ることを。

主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め。(詩篇27:13-14,口語訳)

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

望みをかぶる

しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。(テサロニケ人への手紙第一5:8)

「望みというかぶとをかぶり」という言葉は、私の心を打ちました。

この世界には、多くの人々が希望をあまり持っていません。むしろ、たくさんの人々が絶望の中にいます。多くのクリスチャンたちも絶望しています。

私たちは、この世の問題を見るからです。また、自分の問題を見るからです。

でも、パウロが私たちに促すのは、「絶望の念から守るために、望みをかぶりなさい」ということです。

でも、どんな望みのかぶとをかぶるべきでしょうか。それは、私たちの救いの望みです。

神様がいつかこの世の悪を裁くという希望です。

でも、裁きの日に、私たちが神の御怒りを受けないという希望を持っています。

むしろ、イエス様が私たちの罪のために死なれたから、神様との私たちの関係が回復して、私たちが生きていても、死んでも、イエス様と共にいつまでも歩むという希望を持っています。(9ー10節)

さらに、私たちが不完全な者であり、自分の罪と弱さと戦っているにもかかわらず、神様が私たちを完全に聖なる者とし、私たちの霊、たましい、からだのすべてが、イエス様がこの世に帰るときに、責められるところのない者として保たれているという希望を持っています。(23節)

私たちは、いつも真実ではないかもしれません。

でも、私たちを召された神様は真実ですから、そのようにしてくださいます。(24節)

だから、望みをかぶりましょう。

そして、神様が良い方で、私たちを愛していることを信じる信仰が、私たちの心を守りますように。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

私の動機は何だろうか

私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。

神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。(テサロニケ人への手紙1: 3ー4)

パウロの言葉を読んだとき、私はこう思いました。「私の動機は何だろうか。それは、私に対する神様の愛だろうか。つまり、神様が愛によって私を選び、養子にしてくださったことですか。」

どうして、私はクリスチャンの生活を送るのでしょうか。神様が良い方であると確信しているからでしょうか。

どうして、主に仕えているのでしょうか。神様に対する愛、また、周りの人々に対する愛のゆえに仕えているのでしょうか。

大変なとき、どうして私は我慢するのでしょうか。イエス様にある私の希望のゆえに、我慢できるのですか。

信仰。希望。愛。それらによって、クリスチャンの生活は重荷ではなく、喜びです。

主よ。私の信仰が毎日成長するように。私をあなたの愛に根差してください。そして、苦しむときに、あなたにある私の希望を思い出させてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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コリント人への手紙第二のデボーション

信頼と希望を神様に向けて

私たちは、困難や試練に直面するとき、自分に頼るのはたやすいことです。私たちはよく、自分の力と知恵に頼ります。私も、しばしばそうしてしまいます。

だからこそ、時に、神様は私たちが対処できないほどの圧倒的な試練を経験することを許されるのかもしれません。その試練を通して、私たちは自分の力と知恵に頼るのではなく、神様に頼ることを学びます。

パウロも、そう考えていたようです。

彼はこう言いました。

兄弟たち。アジアで起こった私たちの苦難について、あなたがたに知らずにいてほしくありません。

私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。

実際、私たちは死刑の宣告を受けた思いでした。それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。(コリント人への手紙第二1:8ー9)

しかし、パウロは神様に信頼を寄せることを学び、希望を知るようになりました。

神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。(10)

あなたはどうでしょうか。どんな試練に遭っているでしょうか。

誰に信頼を寄せているでしょうか。誰に希望を置いているでしょうか。

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コリント人への手紙第一のデボーション

困難な時代にあっても

毎日のニュースを読むと、私たちが困難な時代に生きていることがよく分かります。そして、へこたれたり、恐れたり、絶望したりするのは、たやすいことです。

しかし、まさにこのような時代にこそ、パウロの言葉が本当に適切だと感じます。

目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。一切のことを、愛をもって行いなさい。(コリント人への手紙第一16:13ー14)

「目を覚ましていなさい。」

なぜでしょうか。なぜなら、サタンは私たちを絶望させようとしているからです。また、私たちを恐れさせようとしています。

ペテロが言ったように、サタンは吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています(第一ペテロ5:8)。だから、私たちは気を付けなくてはなりません。

「雄々しく、強くありなさい。」

どうして私たちはそうできるのでしょうか。なぜなら、私たちのうちにおられるイエスは、この世にいる悪魔よりも偉大だからです(第一ヨハネ4:4)。

イエス様にあって、私たちはすでに勝利を得ています(第一コリント15:57–58)。

また、イエス様はもう一度この世に来られます。最初に来られたとき、イエス様は私たちの罪を背負われましたが、今度はすべての悪を滅ぼし、救いをもたらし、すべてを新しくしてくださいます(ヘブル9:28)。

「一切のことを、愛をもって行いなさい。」

なぜでしょうか。私たちが世の人々と違うのは、キリストの愛です。そして、その愛によってのみ、私たちは神の国のために、周りの人々に影響を与えることができます。

だから、堅く信仰に立ちましょう。ダビデが歌ったように、私たちは主のいつくしみを見るのです(詩篇27:13)。

待ち望め 主を。雄々しくあれ。
心を強くせよ。 待ち望め 主を。(詩篇27:14)

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創世記のデボーション

私たちの希望

夢が二度ファラオに繰り返されたのは、このことが神によって定められ、神が速やかにこれをなさるからです。(創世記41:32)

その言葉は本当に興味深いです。

ヨセフはいろいろな苦しみを経験しました。どのようにしてヨセフは希望を持ち続けることができたのでしょうか。

ヨセフの言葉の中に、私たちは彼の希望の理由を見ることができると思います。

つまり、彼が若いときに二つの夢を見て、その夢によって神様はヨセフの将来の希望を示されました。その希望は、神様のいつくしみと忠実さに基づいていました。

ヨセフの場合、「速やか」とは約20年のことでした。でも、結局、その日は来ました。

私たちも希望を持っています。その希望は確かなものです。

なぜでしょうか。

へブル人への手紙の著者によれば、私たちの希望は、変わらない二つのものに基づいています。それは、神様の変わらない約束と誓いです。(へブル6:17〜18)

おそらく、もう一つ加えることができるでしょう。それは、神様の良いご計画です。

その変わらないものによって、私たちには大祭司が与えられています。それはイエス様です。イエス様は私たちの大祭司であり、私たちの永遠の救いの源となられました。(へブル5:5〜10、7:10〜28)

だからこそ、前に置かれている希望をつかもうとして逃れてきた私たちは、力強い励ましを受けるのです。その希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものです。(へブル6:18〜19)

だから、どんな試練に遭っていても、ヨセフのように、キリストにある希望にしがみつきましょう。

あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。

「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、 わたしの心は彼を喜ばない。

しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」(へブル10:36ー39)

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ルカの福音書のデボーション

イエス様に望みをかけていたのに。。。

私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。(ルカの福音書24:21)

最近、私の牧師は希望について語っていました。彼はこう問いかけました。

「私たちは何かを望んでいるでしょうか。コロナの終息を望んでいるでしょうか。普通の日常が早く戻ることを望んでいるでしょうか。

それとも、私たちは誰かに望みを託しているでしょうか。特に、イエス様に望みを託しているでしょうか。」

イエス様が私たちの真ん中に立っておられるのに、私たちはどれほど取り乱しているのでしょうか。どれほど心に疑いを抱いているのでしょうか。

イエス様は私たちにこう言っておられるでしょうか。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、私の言葉を信じられない者たち。」

イエス様、あなたは死を打ち破られた方です。だから、私はあなたに望みを託すことを選びます。

コロナがいつまで続くか分かりません。いつ普通の日常が戻るかも分かりません。

でも、私はあなたを仰ぐことを選びます。あなたこそ、私の望みです。だから、弟子たちのように、私は大いに喜びます。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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伝道者の書のデボーション

自然なもの?

「死は自然なものです。死は、ただ生命の循環の一部です。」

そんな言葉を聞いたことがあるでしょうか。

それは本当でしょうか。

ある意味では、それは本当ですが、ある意味では、本当ではありません。

この罪によって壊れた世界では、死は自然なものです。パウロが言ったように、罪の報酬は死です。(ローマ6:23)

でも、神様はもともと私たちを永遠のものとして造られました。

死が本当に自然なものであれば、人々は死を恐れず、悲しむことはないでしょう。でも、実際には、自分自身に死が自然なものだと説得しようとしなくてはなりません。

自分の心の中で、彼らはソロモンが分かってきたことを理解します。それは、死が悪であるということです。(3節)

すべての人は死にますし、私たちが全然予期しないときに、死は来るかもしれません。(2、11ー12節)

では、その真理にどのように反応するべきでしょうか。

私たちは絶望するのを選ぶことができます。また、死に対して憤るのを選ぶことができます。

私たちは憎しみや妬みや他の空しい感情を抱いて、たくさんの時間を無駄に費やすのを選ぶことができます。

もしくは、命がはかないものであっても、私たちはソロモンの助言に従って、神様から与えられた賜物であるこの人生を楽しむのを選ぶことができます。大切な人々に愛を示すことができます。(6ー9節)

また、神様から与えられた脳と体を用いて、仕事やレジャーやすべての活動を通して、神様に栄光を帰するのを選ぶことができます。(10節、コロサイ3:17)

でも、なぜ私たちはそうするべきでしょうか。命がはかないものであるなら、私たちの人生や行動には本当に意味があるのでしょうか。

意味があります。なぜなら、死は終わりではないからです。

イエス様はこう言われました。

わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。(ヨハネ14:19)

また、最終的に、

正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にある。(伝導者の書9:1)

だから、死を考えるとき、絶望しないでください。むしろ、ソロモンのお父さんダビデと一緒に歌いましょう。

私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることがありません。

それゆえ、私の心は喜び、私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。

あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。

満ち足りた喜びがあなたの御前にあり、楽しみがあなたの右にとこしえにあります。(詩篇16:8ー11)

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伝道者の書のデボーション

私たちは誰を信頼すべきか

ある州で、貧しい者が虐げられ、権利と正義が踏みにじられているのを見ても、そのことに驚いてはならない。その上役には、それを見張るもう一人の上役がいて、彼らよりももっと身分が高い者たちもいるからだ。

国にとっての何にもまさる利益は、農地が耕されるようにする王がいることである。(伝道者の書5:8ー9)

あなたはどう感じるか分からないけど、私は政治家たちや官僚たちや裁判官たちをあまり信じていません。

ちょっと可笑しいけど、ソロモンが王だったのに、彼もその人たちをあまり信じていなかったらしいです。

もちろん、政治家や官僚や裁判官の皆が悪いわけではありません。

ソロモン自身は政府の利点をよく分かっていました。良い政府があれば、国は栄えることができます。(9)

その反面、説明責任のために政治制度や官僚制があるけれど、堕落が入り込んでしまいます。その結果は?政府や社会に、私たちは不正をよく目にします。

私たちが罪によって壊れた世界にいるので、それは当然のことです。

だから、私たちクリスチャンは、政府に希望を寄せるべきではありません。もちろん、神様が政府を良いものとして立ててくださり、政府は必要なものです。それでも、私たちの政府は不完全な道具です。

それでは、私たちは誰に信頼を寄せるべきでしょうか。私は、チャールズ・コルソンというクリスチャンの言葉が大好きです。

希望はどこにあるでしょうか。私は、社会の腐敗によって落ち込んでいる人に何度も会ったことがあります。

私たちが持っている希望は、政治家にあるわけではありません。

私たちの希望は、新しい法律を制定することではありません。

私たちの希望は、この国の実績から生まれるものではありません。

私たちが持っている希望は、人々の心に働いている神様の力です。

それがこの国の希望です。それが私たちの人生の希望です。

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伝道者の書のデボーション

神様が人生の中心であるなら

伝道者の書を読むと、気が沈むのは簡単なことです。

でも、この書の鍵は以下の表現にあります。

「もし、神様が私たちの人生の中心なら。。。」

もし、神様が私たちの人生の中心なら、私たちの仕事には意味があります。なぜなら、その仕事によって、私たちは神様に栄光を与えるからです(コロサイ3:17、23ー24)。

もし、仕事そのものが私たちの人生の中心なら、最終的に、私たちが振り返ると「私は意義のあることを本当にやり遂げただろうか」と疑問に思います。(3節)

神様が私たちの人生の中心なら、私たちは被造物を見ると、そのデザイン、また、その創造者に感嘆します(詩篇19:1ー6;詩篇104)。

でも、神様が私たちの人生の中心ではないなら、その畏敬の念を失ってしまいます。(伝道者の書1:5ー9)

神様が私たちの人生の中心なら、毎日は神様との新しい冒険です。神様のあわれみや慈しみは朝ごとに新しいですから(哀歌3:22ー23)。

でも、神様が私たちの人生の中心ではないなら、毎日、私たちは喜びがなく、何も期待せず、ただ一日を乗り切ろうとします。(伝道者の書1:8ー11)

神様が私たちの人生の中心なら、私たちはいつも希望を持っています。神様の知恵を持つので、私たちはこの壊れた世を見るけれど、神様が人間が壊したものを直すことができるという確信を持っています。

でも、神様から離れると、人間の知恵は絶望に至ります。なぜなら、私たちは人間の力の限界を見て、人間が自分で壊したものを直すことができないと分かるからです。(12ー18節)

だから、伝道者の書にあるソロモンの言葉を読むとき、ソロモンがどんなものの見方を表現するかに注意しましょう。神様中心のものの見方で話すときもあるし、神様中心ではないものの見方で話すときもあります。

ソロモンが悲観的な言葉、また、憂鬱な言葉を語るとき、考えてみてください。ソロモンが神様中心のものの見方を使えば、どのようにその言葉は変わるでしょうか。

でも、それだけではなく、自分に訊きましょう。「私の人生が神様中心のものなら、どのように、私のものの見方は変わるだろうか。」

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詩篇のデボーション

私たちの希望の理由

多分、詩篇88篇は最も暗い詩篇でしょう。でも、この詩篇では、私たちはイエス様の経験を見ることができます。

私は、イエス様がゲツセマネで、この言葉を祈ることを想像できます。

主よ、私の救いの神よ、昼私は叫びます。夜もあなたのみそばで。私の祈りをあなたの御前にささげます。どうか私の叫びに耳を傾けてください。(詩篇88:1-2)

そして、十字架で友達に見捨てられた時、死が近づいていた時、神様の怒りのすべてがイエス様の上に注がれたとき、イエス様がこの言葉を祈ることが想像できます。

私のたましいは、苦しみに満ち、私のいのちは、よみに触れていますから。私は穴に下る者たちとともに数えられ。。。

あなたの憤りが私の上にとどまり、あなたのすべての波で あなたは私を苦しめておられます。

あなたは、私の親友を私から遠ざけ、私を彼らの忌み嫌う者とされました。

私は閉じ込められて、出て行くことができません。。。

主よ、なぜあなたは私のたましいを退け、私に御顔を隠されるのですか。。。

あなたの燃える怒りが私の上を越えて行き、あなたからの恐怖が私を滅ぼし尽くしました。(3-4、7-8,14,16)

そして、イエス様の死体がお墓にあったとき、イエス様の霊はこう歌ったかもしれません。

私は穴に下る者たちとともに数えられ、力の失せた者のようになっています。

私は、死人たちの間に放り出され、墓に横たわる、刺し殺された者たちのようです。

あなたはもはや彼らを覚えてはおられません。彼らは、あなたの御手から断ち切られています。

あなたは私を最も深い穴に置かれました。暗い所に、深い淵に。(4-6)

でも驚いたのは、詩人の最も暗い疑問がイエス様にあって答えられました。

あなたは死人のために、奇しいみわざを行われるでしょうか。亡霊が起き上がり、あなたをほめたたえるでしょうか。

あなたの恵みが墓の中で宣べられるでしょうか。あなたの真実が滅びの淵で。

あなたの奇しいみわざが闇の中で知られるでしょうか。あなたの義が忘却の地で。(詩篇88:10~12)

詩人にとって、その問いの答えは「いいえ」でした。

しかし、イエス様において、その問いの答えは「はい」です。

天の父は死人のために奇しいみわざを行われ、イエス様をよみがえらせました。しかも、イエス様の霊だけでなく、イエス様の御体も起き上がり、天の父をほめたたえました。

イエス様のゆえに、空のお墓で、み使いたちは神様の恵みと真実を宣言しました。さらに、イエス様のゆえに、罪と死によって暗くなった地に、神様の奇しいみわざと義が宣言されたのです。

そういうわけで、私たちは希望を持っています。たとえ物事がどんなに大変になっても、神様は忠実なお方であり、その憐れみは決して尽きません。だからこそ、エレミヤはこう言いました。

「私は待ち望む。主の恵みを。」

実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。

「あなたの真実は偉大です。」(哀歌3:21-23)

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詩篇のデボーション

私たちの叫びに答えてくださる方

もしかすると、詩篇85篇は、ユダヤ人たちがバビロンの追放から帰還した後に書かれたものかもしれません。エズラ記やネヘミヤ記によれば、ユダヤ人たちはイスラエルに戻ったものの、なお多くの困難に直面していました。

そういうわけで、詩人は、ユダヤ人への神様のあわれみを認めたうえで(1〜3節)、神様に向かって叫びました。

帰って来てください。私たちのところに。私たちの救いの神。

私たちへの御怒りをやめてください。あなたは、とこしえに私たちに対して怒られるのですか。代々に至るまで御怒りを引き延ばされるのですか。

あなたは、帰って来て、私たちを生かしてくださらないのですか。あなたの民があなたにあって喜ぶために。

主よ、私たちにお示しください。あなたの恵みを。私たちにお与えください。あなたの救いを。(詩篇85:4〜7)

詩人の痛みから、多くの疑問が生まれたことでしょう。しかし、その疑問には最終的にイエス様によって答えが与えられました。

イエス様が十字架で天の父の御怒りを背負われたゆえに、神様は私たちに永遠に怒るわけではありません。私たちが神様にあって喜ぶために、神様は私たちを生かしてくださいます。

イエス様のゆえに、神様は私たちに恵みと救いを与えてくださいます。

イエス様のゆえに、神様は私たちに平和を告げられます。(ルカ2:14;エペソ2:17)

イエス様にあって、神様の恵みとまことは共に会います。(ヨハネ1:14、17)

イエス様にあって、平和と義は口づけします。(ヘブル6:20〜7:3)

神様が私たちから遠く離れていると感じるとき、また神様の愛を疑うとき——それらのときこそが、私たちの希望を思い出す機会です。

イエス様こそ私たちの希望です。だから、私たちが疑いや叫び声に満ちた困難な時にあるときでも、魂の錨であるイエス様にしがみつきましょう。(ヘブル6:18〜20)

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詩篇のデボーション

私たちの望みを託す王 

たぶん、私たち皆は良いリーダーたちを望みます。

正義をもたらすリーダーたちを望みます。

弱い人を助けるリーダーたちを望みます。

正しい者たちが栄える社会をもたらすリーダーたちを望みます。

詩篇72篇で、ソロモンは、自分がそのようなリーダーになるように祈りました。

ある点では、彼は良いリーダーでしたが、他の点では悪いリーダーでした。(列王記第一11:4〜8、12:4)

最終的に、ソロモンの祈りは、自分や他の王やリーダーによっては成就しませんでした。

イエス様だけによって、その祈りは成就します。ある日、イエス様はこの世に戻り、ご自身の国を確立されます。

その時、イエス様は「海から海に至るまで、川から地の果てに至るまで統べ治めます。」(詩篇72:8)

人々はイエス様によって祝福され、すべての国々はイエス様をほめたたえます。そして、神様の栄光が全地に満ちあふれます。(詩篇72:17、19)

だからニュースを読んだり聞いたりして、政治家たちの行為によってフラストレーションを感じるとき、彼らのために祈りましょう。

でも、覚えておきましょう。私たちは自分の望みを彼らに託しません。

むしろ、私たちは奇しいみわざを行われる方に望みを託します。(18節)

イエス様は「私はすぐに来る」と約束されました。(黙示録22:20)

だから、毎日、希望をもってイエス様を仰ぎ、祈りましょう。「アーメン。主イエスよ、来てください。」(黙示録22:20b)

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テトスへの手紙のデボーション

希望によって形づくられた人生

クリスチャンとして、私たちの人生は希望によって形づけられているはずです。

その真理について、考えたことがあるでしょうか。

使徒たちはそのように信じていました。

彼らにとって、希望は非実用的で空しいものではありませんでした。

むしろ、希望は彼らの人生を形づくる力でした。

ヨハネは最初の手紙の中で、そのことを教えました。

しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。(第一ヨハネ3:2-3)

今日の箇所では、パウロも同じようなことを語っています。

というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。

キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。(テトスへの手紙2:11-14)

どうして、私たちは不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活するのでしょうか。どうして、私たちは良いわざを行う熱心を持っているのでしょうか。

なぜなら、私たちは希望を持っているからです。つまり、ある日、イエス様がこの世に戻り、すべての物を新しくするのです。

その日、この世のすべての悪は全滅させられます。さらに、私たちは、私たちを愛してくださるイエス様に似た者となります。イエス様はそのために、私たちを自分の民として選び、贖ってくださいました。

また、私たちの希望するほとんどのものと違って、イエス様にあるこの希望は確かなものです。

あなたは、どれだけその希望を考えるでしょうか。その希望は、どれだけあなたの人生、あなたの考え方や行動を形づけているでしょうか。

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ヨハネの黙示録

天国:聖書の約束がついに成就する時

この10年間、このブログでは、私たちは聖書の初めから終わりまでを読み通してきました。そして、今日の聖句では、歴史の集大成が描かれています。聖書のすべてがその時に成就するのです。

創世記では、私たちはエデンを見ました。アダムとエバが罪に落ちる前、彼らはエデンで神様と共に歩みました。

けれども、彼らが罪を犯し、被造物のすべてが呪われた後でも、神様は人間を見限ることはありませんでした。むしろ、神様はノア、アブラハム、イサク、ヤコブを選び、ご自分の民とされました。

その後、イスラエル人たちは神様の民となり、神様は彼らの神となりました。

そして、イエス様の死と復活の後、神様はその権利をイエス様を信じるすべての人々に拡げ、彼らも神様の民と呼ばれるようになったのです。

21章では、私たちはその物語の集大成を目にします。ヨハネは新しい天と新しい地を見ます。そして、もはや海は存在しないのです。

「海はない」とは、文字通りのことなのか、判断がつきません。

黙示録では、海は悪の象徴とされてきました。たとえば、13章では、獣が海から上がってきました。ですから、ヨハネが意味しているのは、悪とそのカオスが完全に消え去るということかもしれません。

そして、ヨハネはこう語ります。

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。(黙示録21:2)

もう一度、私はこの描写が文字通りのことなのかどうか、疑問に思います。ヨハネは文字通りの都市を見ていたのでしょうか。 それとも、キリストの花嫁である神様の民だけを見ていたのでしょうか(エペソ5:25〜32)。あるいは、都市とその民の両方を見ていたのでしょうか。

いずれにしても、次の聖句では、私たちは最も大切なことを目にします。

私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。

「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。(3)

神様は、かつてアダムとエバと共にエデンを歩まれました。彼らは神様の民であり、神様は彼らの神でした。けれども、彼らは最終的に罪に落ちてしまいました。

神様がイスラエル人をエジプトから救い出すと約束されたとき、 神様は彼らにこう告げられました。「あなたたちは私の民となり、私はあなたたちの神となります」(出エジプト記6:7)。

そのとき、幕屋は、神様が彼らの間に住まわれることの象徴となりました(出エジプト記40:34〜35)。

彼らが約束の地に入ったとき、神殿は幕屋に代わって神様の住まいとなりました。神殿もまた、神様が彼らの間に住まわれることの象徴でした(列王記第一8:10〜12)。

ところが、イスラエル人が再び罪を犯したため、神様の御霊は神殿から離れられました(エゼキエル書10:18)。

その神殿は破壊されたり、再建されたりしましたが、西暦70年には再び破壊され、今に至るまで再建されていません。

今では、神様の民自身が神様の神殿です。神様は私たちのうちに住んでおられます(第一コリント6:19)。

そして、すべてが成就する日には、私たちは永遠に神様の御前にいて、神様のみ顔を仰ぎ見ることになります。

そのとき、神様は私に希望を与える言葉を語ってくださいます。

見よ、わたしはすべてを新しくする。(5)

そして、天の父は、十字架上でイエス様が語られた言葉に少し似たことを語ってくださいます。

事は成就した。(6a)

イエス様が「完了した」と語られたとき、イエス様が意味されたのは、私たちの罪の罰が支払われたということです。

けれども、天の父が「事は成就した」と語られたとき、神様が意味されたのは、神様の救いの計画のすべてが成就し、私たちがついに神様の家にいるということです。

そして、アルファであり、オメガであり、初めであり、終わりである方がこう語られます。

わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。(6b-7)

私たちは皆、苦しみの時を経験します。時に、その苦しみは絶え間なく、また耐えがたいもののように感じられます。

それでも、その苦しみは永遠に続くものではありません。神様はすべてのことを支配しておられます。神様は初めからすべてを支配しておられ、決してその支配を失われません。

神様はすでにこの物語の結末を書いておられます。その結末とは、私たちが永遠に神様と共にいることです。

ですから、神様から目を離さないでください。あなたの試練は永遠ではないことを覚えておきましょう。神様はあなたを、ご自分の家に導いてくださいます。

その日に関して、ヨハネはこう語ります。

神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。(4)

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ヨハネの黙示録

悪化の末に、救い

私は以前も言いましたが、私たちは聖書の深海に入っていて、これからその海はさらに深くなっていくでしょう。😊

クリスチャンたちはこの章の解釈をめぐってよく議論します。

だから、私は以前にも言ったように、とりあえず私の意見を述べますが、後にその意見が変わるかもしれません。

今日の箇所では、ヨハネは測り竿を与えられ、神殿と祭壇を測り、礼拝している人々を数えるよう命じられます。

しかし、御使いはヨハネにこう言います。

神殿の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはいけない。それは異邦人に与えられているからだ。彼らは聖なる都を四十二か月の間、踏みにじることになる。(黙示録11:2)

それはどういうことでしょうか。

たぶん、御使いはルカ21:24にあるイエス様の言葉に触れているのかもしれません。その箇所で、イエス様はエルサレムが倒れることを預言されました。

西暦70年に、その預言は成就しました。

多くのクリスチャンたちが考えるのは、その預言が西暦70年の出来事だけではなく、将来の出来事にも触れているということです。そうであれば、将来エルサレムに新しい神殿が建てられるはずです。

でも、もう一つの可能性があります。それは、西暦70年の出来事が将来の出来事の象徴であるということです。

つまり、神殿や聖なる都(つまり、エルサレム)は神様の民を象徴しています。(第一コリント3:16-17;黙示録21:2)

そして、多くのクリスチャンたちは神様に守られますが、他のクリスチャンたちは迫害されます。

私たちはすでに読みましたが、それは黙示録に繰り返し現れるテーマです。

そして、12-13章でそのテーマは再び現れます。(また、ダニエル書7:21および12:7でもそのテーマを見ることができます。)

黙示録では、1260日間や、一時と二時と半時の間という言葉が繰り返し登場します。それらは同じ意味を持っています。つまり、神様の民は三年半ほど苦しむということです。

それは、文字通りの三年半かもしれません。でも、比喩的な数字かもしれません。聖書では、「7」が「完全さ」を表します。

だから、私たちの苦しみは完全なものではなく、短くされるのです。イエス様によれば、神様に選ばれた者たちのために、大きな苦難の日数は少なくされます。(マタイ24:22)

いずれにせよ、ヨハネによれば、将来二人の証人たちが現れ、この世の人々に神様の裁きと救いを宣言します。

クリスチャンたちはその意味についてもよく議論します。

ある人々は、その二人が文字通りの二人の証人だと考えます。ですが、他のクリスチャンたちは、その証人たちが教会全体を象徴すると考えています。

私の意見ですが、その二人は教会全体を象徴していると思います。なぜなら、その二人は、二本のオリーブの木、また二つの燭台に例えられているからです。(黙示録11:4)

そして、2-3章で、教会は燭台に例えられました。

さらに、預言者ゼカリヤによれば、二本のオリーブの木は支配者と祭司を象徴しています。(ゼカリヤ3-4章)

そして、黙示録では、教会はその二つの役割を果たしています。(1:6;5:10)

いずれにせよ、三年半の激しい迫害の間、その証人たちは預言します。しばらくの間、神様は彼らを守り、彼らを通して人々を裁きます。

けれども、その三年半が過ぎると、獣、つまり反キリストが彼らを殺します。そのとき、この世の人々は喜びます。

なぜなら、その証人たちは彼らの説教によってこの世の人々を苦しめ、彼らの祈りによって人々は裁かれていたからです。(黙示録11:5-10)

ヨハネがキリスト教の長い歴史におけるすべての殉教者について語っているのか、それとも将来の殉教者たちについてだけ語っているのかは分かりません。

6節を読むと、私たちはモーセとエリヤを連想するので、もしかすると象徴的な描写であり、二人の証人がすべての殉教者を象徴しているのかもしれません。

とはいえ、それが文字通りの記述だとすれば、おそらく将来の出来事を指しているのでしょう。

ただ、5節によると彼らの口から火が出るため、やはり象徴的な表現なのかもしれません。

いずれにせよ、三日半が過ぎると、神様は彼らの敵の目の前で証人たちを復活させ、天に引き上げられます。

もしその証人たちが教会全体を象徴しているのであれば、ヨハネはキリストの再臨に触れているのかもしれません。その日、神様は死んだクリスチャンのからだを復活させ、私たちは空中で主に会うのです。(第一テサロニケ4:17)

それが私の見解です。なぜなら、その後に七つのラッパが吹かれ、多くの人々が叫びをあげるからです。それは、

この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される。(黙示録11:15)

そして、長老たちは歌い始めます。

私たちはあなたに感謝します。今おられ、昔おられた全能者、神である主よ。あなたは偉大な力を働かせて、王となられました。諸国の民は怒りました。

しかし、あなたの御怒りが来ました。死者がさばかれる時、あなたのしもべである預言者たちと聖徒たち、御名を恐れる者たち、小さい者にも大きい者にも報いが与えられる時、地を滅ぼす者たちが滅ぼされる時です。(17-18)

その後、天にある神の神殿が開かれ、ヨハネは神の契約の箱を神殿の中に見ました。

そして、裁きが始まり、稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、地震が起こり、大粒の雹が降りました。

では、今日の箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

それは、神様の民にとって、物事は段々と悪化するということです。

福音書で、イエス様は私たちにこのことを警告されました。さらに、イエス様は黙示録に登場する7つの教会にも警告されました。そして、今日の箇所でもイエス様は同じ警告を私たちに与えておられます。

迫害は必ず訪れます。けれども、その迫害は永遠に続くものではありません。迫害は短くされます。

そして、イエス様がもう一度この世に来られるとき、私たちは救われます。

やがて、神の正義が訪れます。 もし私たちが迫害に耐えるなら、救われ、大きな報いを受けます。 そして、その日に、私たちのすべての涙はぬぐい取られます。

なぜ私はこのテーマを何度も繰り返すのでしょうか。 それは、このテーマが黙示録全体を貫いているからです。 私たちはすでに以前の箇所で読みましたし、今日の箇所にも登場しました。 そして、この書の後半にも現れます。

では、なぜ神様はこのテーマを何度も繰り返されるのでしょうか。 きっと、私たちの苦しみが激しくなっていくからです。 そして、その苦しみに耐えることは、とても難しいからです。

しかし、神様が私たちに伝えたいのは、「その苦しみは一時的なものだ」ということです。

ですから、黙示録の後半でも、このテーマを探してみましょう。

黙示録の目的は、私たちに未来の出来事を知らせることだけではありません。 神様が望まれるのは、私たちが心構えすることだけではありません。 むしろ、神様は私たちに希望を与えたいと願っておられます。

どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)

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ペテロの手紙第一

私たちの希望

私たちの信仰のために、人々が私たちをあざ笑うとき、私たちが落胆してしまうのは簡単なことでしょう。また、自分の信仰ゆえに迫害されるとき、「どうして」と問いかけたくなるのも自然なことです。

「どうして神様はそれを許しておられるのだろうか。どうして神様は、私たちが苦しむことを許しておられるのだろうか。いつまで、私たちは我慢し続けなければならないのだろうか。」

今日の箇所では、いくつかの答えを見つけることができると思います。ペテロは、私たちが受ける苦しみや迫害をキリストとノアが経験した苦しみや迫害と例えています。ペテロはこう言いました。

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちのために身代わりとなってくださったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされ、あなたがたを神に導くためでした。

その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところへ行き、宣言されました。それは、かつてノアの時代、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちのことです。

その箱舟に入ったわずかの人々、すなわち八人が、水を通して救われました。

この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。

イエス・キリストは天に上り、神の右におられます。御使いたちも、もろもろの権威と権力も、この方に服従しているのです。(18-22)

ノアが迫り来る裁きと、箱舟による神様の救いを周りの人々に伝えたとき、きっと彼はからかわれ、迫害されたに違いありません。

大洪水が来るまでの何年もの間、彼は迫害され、苦しんだでしょう。どうしてでしょうか。それは、神様が忍耐をもって人々の悔い改めを待ち続けておられたからです。

しかし、最終的に彼らは悔い改めず、裁きの水によって滅ぼされました。

同じように、クリスチャンたちもイエス様のために苦しみ、その苦しみが長いと感じることがあります。でも神様は、今も人々が悔い改めるかどうかを見て、忍耐して待っておられるのです。

そして、ノアの時代の人々に裁きが降りかかったように、イエス様が再びこの世に来られるとき、人々は裁きを受けます。その裁きは確かなものです。おそらくこれが、「捕らわれている霊たち」の話のポイントではないでしょうか。

その「捕らわれている霊たち」が誰であるかについては、少し不明瞭です。

ある学者たちは、その霊たちが人間の女性たちと関係を持ち、罪を犯した堕天使たちであると考えています。ほかの学者たちは、その霊たちはノアの時代に生きていた普通の人間だったと解釈しています。

いずれにせよ、これらの霊たちは霊的な牢に閉じ込められ、神様から遠く離れ、裁きを待っている状態です。

ある学者たちは、キリストがその牢で宣言をされた際、その霊たちにもう一つの悔い改めの機会を与えられたのではないかと推測しています。

けれども、聖書によれば、死後に新たな悔い改めの機会はないとされています(ヘブル9:27)。

おそらく、ペテロが意味したのは、キリストが神様を拒絶した霊たちに対し、御自身の最終的な勝利を宣言されたということでしょう。それを聞いた彼らは、自分たちの運命が完全に決定されたことを悟ったのだと思われます。

しかし、ノアが裁きの水を通して救われたように、イエス様を信じる人たちも、裁きを通して救われるのです。

ペテロによれば、バプテスマはその裁きによる救いを象徴しています。つまり、神様の裁きを通して、この世が清められ、すべてが新しくされるということです。

これこそが私たちの希望です。最終的に、私たちを悔い改めずに迫害する人たちは裁かれます。そして、イエス様を信じる人たちが、神様から恵みと憐れみを受けるということです。

けれども、その日が来るまで、神様は忍耐を持ち、できるだけ多くの人々に恵みと憐れみを与えるために待っておられます。

私たちの苦しみは一時的なものです。ですから、絶望しないでください。

たとえイエス様とその福音のために苦しむことがあっても、それは無意味ではありません。なぜなら、イエス様は王であり、すべての天使たちや、もろもろの権威と権力がイエス様に服従しているからです。

今、私たちの目にはそれが見えないかもしれません。けれども、いつか必ずそれを見る時が来ます。

だから、へブル人への手紙の著者の次の言葉を心に留めておきましょう。

「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。遅れることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」

しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(へブル10:37-39)

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ペテロの手紙第一

私たちの希望の理由

ペテロの読み手たちは迫害を受けていました。おそらく、その時のローマ皇帝はネロだったと考えられます。

具体的にペテロがこの手紙を書いた時期は不明ですが、おそらくネロがクリスチャンたちを迫害し始めた頃、またはその直後だったのでしょう。

その当時、クリスチャンたちが絶望に陥るのは容易なことでした。そこで、ペテロは彼らに希望の理由を思い出させました。

その希望の理由は、1-2節に記されている真理に基づいています。

つまり、神様がその予知により彼らを選び、イエス様の血によって彼らを清めたという事実です。また、彼らがイエス様に従うように、神様は御霊によって彼らを聖別してくださったのです。

そして、ペテロはさらに具体的にそのことについて説明していきます。

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。

また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。

これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。(ペテロの手紙第一1:3-5)

その言葉によって、私たちは希望の基礎を見ることができます。それはイエス様の復活です。

イエス様の復活によって、神様はイエス様の十字架の生贄が罪の罰を完全に支払うのに十分であることを証明してくださいました。そして、その同じ復活によって、私たちは永遠のいのちの希望を持つことができるのです。

だからこそ、イエス様は弟子たちにこう言われました。

わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。(ヨハネ14:19)

神様の憐れみによって、神様は私たちに新しい命を与えてくださいました。そして、私たちの救いは確実に保証されたものです。

サタンが私たちを滅ぼそうとしているとしても、私たちが信仰によって立ち続ける限り、イエス様が再びこの世に来られるその日まで、神様とその力は私たちを守ってくださいます。

その日、私たちは朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない資産を受け継ぐのです。

だからこそ、ペテロはこれを言うことができるのです。

そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。

今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。(6-7)

どうして試練の中で私たちは喜ぶことができるのでしょうか。それは、その試練が一時的なものであるからです。

神様は私たちを滅ぼすためにその試練を許されるわけではありません。むしろ、試練を通して神様は私たちを清め、イエス様の形へと変えようとしておられます。

イエス様ご自身も大きな苦しみを経験されました。だからこそ、私たちがイエス様の苦しみを経験するとき、私たちはイエス様のようになっていくのです。

では、どのように苦しみを通して私たちはイエス様のようになっていくのでしょうか。その試練は、私たちがこの世に住んでいるものの、実際にはただの在留外国人であることを思い出させます。

前回の記事で述べたように、私たちはこの世に属していないのです。その真理を理解するにつれて、私たちは一時的なものではなく、永遠のものに目を向けるようになります。

私たちは一時的な喜びを約束する罪を捨て、永遠の喜びを与えるものを追求します。そして、この世の汚れは私たちから取り除かれ、金のように純粋になります。

だからこそ、ヨブはこう言いました。

しかし神は、私の行く道を知っておられる。私は試されると、金のようになって出て来る。(ヨブ23:10)

ペテロによれば、このすべては神様の称賛と栄光と誉れをもたらします。なぜなら、神様が私たちを選んでくださったからです。けれども、同時に私は、神様が私たち自身にも称賛と栄光と誉れを与えてくださるという確信を持っています。

だからこそ、ペテロはこう言います。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。(8-9)

あなたが試練に直面しているとき、その言葉を自分に当てはめることができるでしょうか。もしそうできないのであれば、根本的な真理を思い出す必要があります。それは、神様があなたを愛し、ご自身の子供として選んでくださったということです。

そして、イエス様の十字架を思い出しましょう。そこで、イエス様はあなたの救いの代価を完全に支払ってくださいました。

また、イエス様の復活を思い出しましょう。その復活によって、あなたは自分自身の復活の希望を持つことができます。そして、将来の天にある遺産を思い出しましょう。

そうすることで、ヨブのように、あなたは金のように純粋になって出てくるのです。

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ヘブル人への手紙

無理(私たちの希望の理由)

前回の記事で私が述べたのは、もしヘブル書6章によって「自分の救いを失うことができる」と考えるならば、その救いを取り戻すこともできない、ということを信じなければならないという点です(ヘブル人への手紙6:4ー6)。

この結論は避けられないものです。

その一つの根拠が、今日の箇所にあります。この箇所において著者は、もう一つ「不可能なこと」があると語っています。すなわち、神様が嘘をつくことは不可能だというのです。

著者は同じ言葉を6章4節と18節の両方で用いています。原語では、「不可能」という強い言葉が使われており、神様が嘘をつく可能性がまったくないのと同じように、救いを失った者がその救いを取り戻す可能性も、まったくないということです。

とはいえ、6章4節において私たちが恐れを抱く可能性がある一方で、6章18節では大きな希望が語られています。むしろ、著者の意図は、私たちにその希望を与えることにあるのです。彼はこう語りました。

だが、愛する者たち。私たちはこのように言ってはいますが、あなたがたについては、もっと良いこと、救いにつながることを確信しています。

神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。

私たちが切望するのは、あなたがた一人ひとりが同じ熱心さを示して、最後まで私たちの希望について十分な確信を持ち続け、その結果、怠け者とならずに、信仰と忍耐によって約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となることです。(ヘブル人への手紙6:9-12)

言い換えれば、「堕落した者を再び悔い改めに立ち返らせることはできない」という記述は、確かに少し恐ろしく感じるかもしれません。

しかし、著者はそのことがあなたがたに当てはまるとは考えていないようです。なぜなら、あなたの人生には救いの実が実っているからです。

ですから、たとえ今が困難な時期であっても、どうかあきらめないでください。信仰を持ち続けるならば、最終的に、イエス様にあるあなたの希望が決して無駄ではなかったことが分かるはずです。

このあと、著者はアブラハムに対する神様の約束を引き合いに出します。すなわち、神様がアブラハムに多くの子孫を与えると約束されたということです。パウロによれば、私たちはその約束の相続人です(ガラテヤ3:7ー9)。

神様がその約束を与えられたとき、ご自分を指して誓われました。なぜなら、神様にはご自分よりも優れたものがなく、それ以外を指して誓うことはできなかったからです。

アブラハムは25年もの間待ち続けましたが、その約束を信じました。神様はその約束を守り、イサクをアブラハムに与えてくださいました。そしてイサクを通して、イスラエルという国が生まれました。

さらにイエス様を通して、イエス様を信じる私たちは、アブラハムの子となったのです。

では、なぜ神様はアブラハムに誓われたのでしょうか。神様が信頼できない方だからでしょうか。違います。著者はこう語ります。

それは、前に置かれている希望を捕らえようとして逃れて来た私たちが、約束と誓いという変わらない二つのものによって、力強い励ましを受けるためです。その二つについて、神が偽ることはあり得ません。(18)

神の約束と誓いの両方が変わることのない確かなものであるゆえに、私たちの希望には二重の確かさが与えられているのです。

だから、著者はこう語ります。

私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。

イエスは、私たちのために先駆けとしてそこに入り、メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司となられたのです。(19-20)

著者は、イエス様を私たちの「先駆け」と呼んでいます。それはどういう意味でしょうか。

古代の時代、天候が悪く船が港に入るのが難しいとき、「先駆け」と呼ばれる小さな船が本船の錨を携えて先に港へ向かい、港の中にその錨を下ろしました。その錨によって、船の乗組員たちは無事に港に入るという確かな希望を持つことができたのです。

同じように、イエス様は私たちに先立って、天の父の御前に入られました。

だからこそ、私たちは確かな希望を持っているのです。すなわち、私たちもイエス様に従って天の父の御前に現れるとき、神様の子として愛され、受け入れられるのです。

ですから、人生の嵐が吹き荒れ、波に打ちのめされるようなときにも、どうか希望を失わないでください。神様があなたを見放されたと思わないでください。

なぜなら、イエス様はすでに私たちに先立って進まれたのです。イエス様は私たちの魂の錨です。だからこそ、いつの日か、私たちは無事に主の家にたどり着くのです。

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テモテへの手紙第二

耐えられるための恵み

パウロがテモテが訪問してくれるように望んだ理由の一つは、多くのクリスチャンたちがパウロから離れて行ったということです。数名の人たちはまだ残っていましたが、パウロはほとんど孤独でした。

わざわざパウロを探して励ますオネシポロのような人たちは少なかったですが、パウロを見捨てたフィゲロとヘルモゲネのような人たちはたくさんいました。(テモテへの手紙第二1:15-18)

なぜその二人はパウロを見捨てたのでしょうか。

パウロは迫害され、牢に入っていたので、もしかしたら、彼らは同じ運命を恐れたかもしれません。もしかしたら、最初は彼らは頑張ったかもしれませんが、結局彼らはもう迫害に耐えられないと思って、立ち去ったかもしれません。

多くの人たちはフィゲロとヘルモゲネのようです。彼らはクリスチャンになり、最初は彼らの人生がうまくいっているので、喜びに満ちていました。けれども、試練が来るとき、彼らは最初は頑張ったけれど、最終的に自分の信仰を捨ててしまいます。

どうしてでしょうか。

私たちはクリスチャンとして、恵みによって生きるように呼ばれました。けれども、試練の時、多くのクリスチャンは恵みを忘れて、自分の力によってクリスチャン生活を送ろうとします。結果として、彼らの力がなくなると、もう耐えられなくなります。

2章3ー6節のような言葉を読むとき、このように考えるのは簡単です。

「私は頑張らなくてはならない。私は良い兵士にならなくてはならない。私はちゃんと訓練し、ルールをすべて守らなくてはならない。神様から委ねられた働きに心血を注がなくてはならない。」

けれども、自分がしなくてはならないことに焦点を当てると、あなたの力がどこから来るか忘れてしまうでしょう。

言い換えると、私たちは2章の初めのパウロの言葉を忘れてしまいます。つまり、

私の子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。(テモテへの手紙第二2:1)

それは一体どういう意味でしょうか。

「恵みによって強くなりなさい」という言葉よりも、「良い兵隊や農家や選手になりなさい」という言葉は分かりやすいでしょう。そういうわけで、多くの人々はその最初の言葉を飛ばして忘れてしまいます。

しかし、その言葉は肝心な真理です。

あなたは恵みによって救われました。自分の努力に救われたわけではありません。だから、毎日あなたは恵みによって生きなくてはいけません。

私たちの救いのために神様に頼らなくてはならないように、日常生活を送るのに神様に頼らなくてはなりません。特に、苦難や迫害と向き合うとき、神様に頼らなくてはいけません。

もちろん、私たちは神様を喜ばせようとすべきです。もちろん、私たちはこの世のものに執着してはいけません。

また、もし神様から報いを得ようと思うなら、私たちは神様が命じられることに従わなくてはなりません。そして、私たちが忠実にイエス様に仕えるとき、私たちの努力は無駄なものではありません。

けれども、私たちが「自分の力で頑張らなくてはならない」と思うなら、私たちは失敗するという結果になります。

私はもう一度言います。私たちは恵みによって救われました。でもそれだけではなく、私たちは毎日恵みによって生きなくてはなりません。

神様が聖霊様を送ってくださり、聖霊様は私たちのうちに住んでおられます。聖霊様が私たちに力を与えるので、私たちは神様の御心に従うことができます。(1:7)

そういうわけで、パウロはテモテにこう言いました。

イエス・キリストのことを心に留めていなさい。私が伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった方です。

この福音のために私は苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばはつながれていません。(テモテへの手紙第二2:8-9)

言い換えると、「あなたの苦しみの中で、もう耐えることができないと思う時、イエス様を心に留めていなさい。イエス様はあなたをこの道の最初から最後まで導いてくださいます。

イエス様を通して、神様は私たちを贖い、私たちの罪を赦してくださいました。イエス様は復活して、私たちに命を与えてくださいます。そして、イエス様はこの試練の中で、私たちを導いて、最終的に天国に連れて行ってくださいます。

それを覚えていなさい。自分の力で、試練を通過しようとしてはいけません。」

そして、パウロはテモテに思い出させました。「私は鎖で繋がれています。私は弱い者です。それでも、神のことばは繋がれていません(9)。

神様はご自身の業を成し遂げられます。その希望を持っているので、私は自分の処刑と向き合っても、神様の働きをし続けています。なぜなら、私は、人々が私を通してイエス様を信じ、私たちが見つけた恵みを知るようになる確信を持っているからです。」

最後に、パウロは励ましの讃美歌を歌います。その歌によって、私たちは耐えるように励まされます。なぜなら、その歌によって、私たちはイエス様の忠実さを思い出すからです。

パウロはこう歌いました。

耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。

私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。(12-13節)

パウロがその賛美歌を恵みの言葉で終えることはふさわしいことです。なぜなら、私たちの試練を耐える力は最初から最後まで恵みから来るからです。

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テモテへの手紙第二

私たちは希望を持っているから。。。

新約聖書では、第二テモテの後、パウロの手紙はあと二通あります。でも年代順位的に、これがパウロの最後の手紙です。

これはちょっと悲しく、感動させられる手紙です。なぜなら、この手紙を書いたとき、パウロは自分がもうすぐ殺されると知っていたからです。

ピリピ人への手紙を書いたときには、パウロは牢に入っていましたが、釈放される確信を持っていました。(ピリピ1:23-26)

しかし、この手紙を書いたとき、パウロはそのような希望を持っていませんでした。皇帝ネロが教会を迫害し始め、パウロは自分がすぐに処刑されると思いました。そして、結局そうなりました。

そういうわけで、パウロは愛している弟子テモテに最後の手紙を書きました。その理由の一つは、パウロが死ぬ前に、テモテが訪問してくれるように願ったことです。

けれども、それだけではなく、パウロはテモテが迫害と試練によって絶望しないように促したいと思いました。むしろ、パウロは、テモテが忠実に神様を愛し、神様に従い続けるよう望みました。

この手紙の最初から、私たちはパウロの心情を見て取ることができます。パウロは福音のための死刑囚でした。けれども、彼の最初の言葉はこうです。

神のみこころにより、またキリスト・イエスにあるいのちの約束にしたがって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから。。。(テモテへの手紙第二1:1)

「いのちの約束。」

パウロは自分の死亡に直面していましたが、「命の約束」という希望を持っていました。どうしてその希望を持っていたのでしょうか。

9-10節によれば、神様はイエス様を通してご自分の計画と私たちに対する恵みを現されました。そして、「キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されたのです。」

多くの人々は死後に何が起こるか分からないので死亡を恐れます。けれども、パウロは知っていました。パウロは天国を見たことがありました。(第二コリント12:1-4)

彼は、私たちが死んだ後にまだ生き続けることを知っていました。パウロは、イエス様が復活されたように私たちも復活して永遠に生き続けることを知っていました。その日、クリスチャンたちはこの歌を歌います。

死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。(第一コリント15:55)

パウロはその希望を持っていたので、神様から委ねられた福音を宣べ伝えました。また、その希望を持っていたので、苦しんでいても、パウロは確信を持ってこう言うことができました。

しかし、それを恥とは思っていません。なぜなら、私は自分が信じてきた方をよく知っており、また、その方は私がお任せしたものを、かの日まで守ることがおできになると確信しているからです。(12節)

パウロが知っていたのは、自分の苦労は空しいものではないことです。むしろ、パウロはそのすべてを神様の手に委ねて、報いを得る希望を持っていました。

その確信を持っており、またテモテも同じ信仰と同じ御霊を持っていることを確信していたため、パウロはテモテにこう語りました。

そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。

神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。(6-7節)

もしかしたら、エペソの教会の問題のため、また、パウロがすぐに殺されるニュースのため、テモテは圧倒されたかもしれません。もしかすると、テモテはあきらめるように誘惑されたかもしれません。

けれども、パウロはテモテを励ましました。

「テモテ、神様は御霊をおまえにも与えてくださいました。そして、御霊は、臆病の霊ではありません。むしろ御霊は、あなたの人生と奉仕において、あなたを神様の力と愛で満たし、イエス様に忠実に仕える力を与えてくださいます。」

そういうわけで、パウロはテモテに訓戒しました。

ですからあなたは、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。(8節)

また、

あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛のうちに、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい。(13-14節)

簡単に言うと、「あきらめてはいけません。あなたは一人で、自分の力によって神様に仕える必要がありません。私はこの世を立ち去るかもしれないけど、聖霊様はあなたのうちに住んでおられ、あなたを助けてくださいます。」

あなたはどうですか。この世の状況を見て、絶望しているのでしょうか。周りの不敬虔な人たちを見て、悲しんでいるのでしょうか。自分の信仰のためにあなたはいろんなトラブルに直面しているのでしょうか。

絶望しないでください。神様にはご自身の計画があり、その計画は決して阻まれることがありません。サタンはその計画を阻止しようと思って、十字架で勝ったと思いました。しかし、十字架は実際にサタンの敗北でした。

だから、今私たちは永遠のいのちという希望を持っています。神様はそのいのちを約束してくださいましたので、それは確実なものです。

だから私たちが教えられたことを握り、信仰によって歩みましょう。また、キリストの愛に満たされて、その愛を周りの人々に与えましょう。

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テサロニケ人への手紙第一

私たちの希望

「希望は、生きている者のためです。死者は希望を持っていません。」

古代ギリシャの詩人がそう語りました。 パウロの時代、多くの人々はそのように死を受けとめていたのです。

実際、私が多くの日本人と話すとき、彼らもほとんど同じようなことを言います。 死後について、希望を持っていないのです。 彼らにとって、この人生こそがすべてなのです。

周囲の影響を受けて、テサロニケの人々もまた、死後の希望を十分に持っていなかったようです。 そして、信仰のゆえに殺されるクリスチャンたちの姿を見て、彼らは問いを抱いたのです。

「イエス様がこの世に帰ってこられるとき、 すでに死んだクリスチャンたちはどうなるのか。 彼らはその日の喜びと希望を取り損ねてしまうのだろうか。」

しかし、パウロは彼らにこう語ったのです。

眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。

イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。

私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。

そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。

こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。(テサロニケ人への手紙第一4:13-18)

どうして、私たちは死後の希望を持つことができるのでしょうか。 それは、イエス様ご自身が死んで、よみがえられたからです。 イエス様は私たちにこう語られました。

わたしが生きるので、あなたがたも生きる。(ヨハネ14:19)

また、パウロによれば、イエス様がこの世に戻られるとき、 すでに死んだ人々は復活し、空中でイエス様と会うのです。

さらにこの手紙の中で、パウロは、私たちが死ぬとすぐに主のみもとに行くと教えています。(第一テサロニケ1:23)

また、ルカの福音書では、イエス様が悔い改めた犯罪人にこう約束されました。 「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

ですから、イエス様が再び来られるとき、 死んだクリスチャンたちの遺灰や骨はよみがえり、 新しいからだに変えられて、天にいる霊とひとつにされます。

そのあと、生きているクリスチャンたちも引き上げられ、 そのからだも変えられて、空中で主と出会うのです。

その新しいからだは、朽ちることのない、死を超えたからだなのです。(第一コリント15:51ー53)

ところで、私は、反キリストが現れるとき、 クリスチャンたちはまだこの世に存在していると考えています。 この考えが間違っているなら、むしろ嬉しいのですが、 聖書を読むかぎり、それが私の結論です。

私がそう考える理由の一つは、「主と会う」という表現に、 大切な方を迎えに出て、その方を町にお連れするという意味が含まれているからです。

つまり、パウロの描写はこうです: クリスチャンたちは空中で主を迎え、 地上でイエス様をお守りしながらお連れするというものです。

そのとき、イエス様はこの世界を千年間統治されます。 そしてその後、最後の戦いにおいてサタンを打ち倒し、 私たちは永遠に主とともに生きることになるのです。

これこそが、私たちの希望です。 この希望を、希望を持たない人々にこそ分かち合うべきなのです。

兄弟姉妹が苦しみ、もう限界だと感じるとき、 この希望のことばで励ましましょう。

私たちの苦しみは永遠に続くものではありません。 イエス様は再びこの世に来られ、正義をもたらしてくださいます。

だから、この希望を胸に抱き、安心して歩みましょう。

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マタイの福音書のデボーション

自分の目的を果たす神

この大変な時期、牧師たちはよく言います。「神様はまだこの世を治めておられます。神様はコントロールを失なっておられません。」

でも、私たちはそう信じるでしょうか。

今日の個所で私たちが学ぶのは、そう見えなくても、神様はまだすべてのことをコントロールしておられることです。

神様は初めから、自分の計画を現わしまた。神様はアブラハムに約束しました。「あなたを通して、私はすべての国々を祝福します。」

そのあと、神様はダビデに約束しました。「あなたの子孫は永遠に王座に座ります。」

でも、神様はどのようにその約束を守ったでしょうか。神様はずっとアブラハムとダビデの子孫を祝福したのでしょうか。

いや、実は、メシアの系図を見ると、罪によって堕落する人々、また、罪によって壊れた人々が多いとわかります。

ユダとその兄弟たちは弟ヨセフを殺そうと思ったけど、神様が彼らを制止したので、結局、彼らはヨセフを奴隷として売りました。

ヨセフは13年ぐらいエジプトの奴隷でしたけど、神様はコントロールを失ったというわけではありません。むしろ、神様はヨセフを用いて、ヨセフの家族だけではなく、エジプト人たちと周りの国々の人たちを飢饉から救ってくださいました。

また、イスラエル人たちの罪のため、神様は彼らを裁いて、飢饉を送りました。皆は自分の目に正しいと見えることを行なっていたけど、結局、完全に堕落する人たちになりました。

その時、その壊れた社会では、ナオミと他の人たちは苦しみました。ナオミの夫と息子たちが亡くなったとき、ナオミは、「神様はコントロールを失ったのかしら」と思ったかもしれません。

でも、その苦しみを通して、神様はルツという外国人をメシアの系図に入らせてくださいました。

その大変な時期に、神様はもうアブラハムに対する約束を守り始めました。つまり、アブラハムを通して、神様はイスラエルだけではなく、すべての国々を祝福し始めたことです。

イスラエルの歴史で、良い王たちもいたし、悪い王もいました。ダビデは良い王だったけど、夫として、また、父としてよく失敗したので、その家族は引き裂かれそうでした。

そして、その孫レハブアム王のバカな決断によって、イスラエル王国は二つの王国に分かれました。

その結果は、内戦や、偶像礼拝、子供の犠牲、ほかのひどい罪でした。だから、最終的にイスラエル人たちはバビロンに追放されました。そのとき、神様はコントロールを失っていたでしょうか。

いや、その時でも、神様はコントロールを失っていませんでした。70年後、神様は自分の民をイスラエルに引き戻してくださいました。

ある国々はイスラエル人たちに反対して、抑圧して、完全に殺そうとしました。それでも、神様はメシアの系図を守りました。

そしてイエス様が生まれました。イエス様の名前は、神様の計画と目的を表現します。「ヤハウェは救いです。ヤハウェは私たちを救ってくださいます。」(「ヤハウェ」とは、神様の名前です。)

私たちの周りのカオスの中で、その真理は私たちの希望です。

神様は、約束したことを必ず果たしてくださいます。神様の約束と計画を阻むものは、全くありません。

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ペテロの手紙第一のデボーション

不確かな時代に対応すること

コロナウイルスで、健康的な問題や、経済的な問題と向き合って、私たちは本当に不確かな時代に生きています。

では、私たちはどのように対応するべきでしょうか。

ペテロの読み手は、違う問題に直面しました。それは迫害です。それでも、私たちがペテロの言葉を私たちの状況に当てはめることができると思います。

ペテロはこう言いました。

最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。

悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。(ペテロの手紙第一3:8-9)

以前言ったように、ペテロは迫害と、迫害に対する私たちの反応について話しています。

でも、この大変な時期、人間関係がちょっとぎすぎすしたものになるのは簡単なことです。

また、ある人々は政府の対応に不満で、文句を言ってばかりです。

でも私たちはそうするべきではありません。むしろ、神様は私たちをほかの人々を祝福するように呼びます。

私たちの人生が大変になっても、謙虚な態度を持って、心の優しい人となるべきです。また、私たちは周りの人々に同情し、彼らを愛するべきです。

また、私たちは悪口や、呪いや、文句などを控えて、人々を私たちの言葉と行動で祝福するべきです。(10)

そしてペテロはこう言います。

人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。

あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。(14-15)

ペテロは迫害について話しているので、翻訳者はペテロの言葉を「人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません」と訳しました。

それはペテロが意味したものかもしれないけど、もう一つの訳し方があります。

実は、ペテロはイザヤ書8:12ー14を引用していました。

イザヤが書いた時、イスラエル人たちは、アッシリヤの軍隊を怖がりました。でも、神様はイザヤにこう言いました。

この民が恐れるものを恐れてはならない。おびえてはならない。万軍の主、主を聖なる者とせよ。

主こそ、あなたがたの恐れ。主こそ、あなたがたのおののき。そうすれば、主が聖所となる。(12-14)

主を聖なる者とすることは、どういう意味でしょうか。それは、主だけを恐れるという意味です。私たちは、ほかのものよりも、万軍の主に畏敬の念を抱くべきです。

ペテロはその言葉をイエス様に当てはめます。私たちはキリストを万軍の主として認めるべきです。私たちは、すべてのものよりも、キリストを畏れるべきです。

そうすれば、私たちが人に襲われても、コロナウイルスに襲われても、イエス様は私たちの聖所となります。

私たちは、ほかの人たちが恐れるものを恐れてはいけません。私たちはコロナウイルスを恐れてはいけません。経済的な問題を恐れてはいけません。

むしろ、私たちは神様に畏敬の念を抱いて、神様を礼拝するべきです。そして、嵐の中でも、神様は私たちの聖所になります。

では、私たちは病気にならないのでしょうか。私たちは経済的な問題を経験しないのでしょうか。

実は、コロナウイルスのせいで、倒産するクリスチャンもいるかもしれません。亡くなる人もいるかもしれません。

でももしかしたら、このウイルスを通して、神様は私たちに思い出させようとしています。

「この世はあなたの家ではありません。あなたはただ寄留している人です(第一ペテロ1:1)。私はあなたのために永遠の住まいを準備している中です。また、あなたのために、永遠の遺産を準備している中です。」

それは私たちの希望です。

その希望を周りの人々にシェアしましょう。もし怒りや恐れに負けないで、むしろ、私たちが周りの苦しんでいる人たちを祝福すれば、彼らは「どうして私を祝福してくれるの?」と訊くかもしれません。

その時、ペテロの言葉を覚えていてください。

あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。(15)

そして、あなたが希望を失いそうだったら、あなたの希望の基礎を覚えていてください。

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。

それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。(18)

だから、この不確かな時代に、この歌を覚えていて歌いましょう。

Because he lives I can face tomorrow.
イエス様が生きておられるので、私は明日に向かうことができます。
Because he lives, all fear is gone.
イエス様が生きておられるので、すべての恐れは消えてしまった。
Because I know he holds the future,
イエス様が将来を自分の手に持っていることを知っている。
And life is worth the living just because he lives.
イエス様が生きておられるので、私には生きがいがあります。

ーービル・グイザー

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コリント人への手紙第二

希望を持ち続けるために

パウロは第4章を希望のメッセージで締めくくります。それは希望のメッセージです。

パウロは様々な困難に直面しました。希望を失うことは簡単だったでしょう。彼はあらゆる苦しみの中にあり、外には戦いがあり、内には恐れがありました。(コリント人への手紙第二7:5)

私たちも同じような経験をすることがあるでしょう。ただ試練に直面するだけでなく、自分の感情とも戦わなければなりません。恐れやフラストレーション、悲しみ、そして苦しみと向き合いながら生きているのです。

自分の厳しい状況の中で、パウロは途方に暮れることもありました。

信仰のゆえに、彼は迫害され、石打ちにされることもありました。

さらに、コリントの教会には様々な問題があり、時には、自分の努力が無駄なのではないかと疑問に思うこともありました。

それでも、パウロは希望を持ち続けました。彼は途方に暮れても、神様を求めるならば、脱出の道が備えられていることを知っていました。(第一コリント10:13)

彼は迫害されても、神様に見捨てられないことを確信していました。

また、倒れても、滅びることはないと知っていました。

なぜ、このような厳しい状況の中でも、パウロは希望を持ち続けることができたのでしょうか。

それは、神様が確かな計画を持っておられることを、パウロが確信していたからです。彼は1節にこう言いました。

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。(コリント人への手紙第二4:1)

パウロは、神様が彼にミニストリーを委ねられたことを知っていました。そして、そのミニストリーが無駄ではなく、神様がご自身の目的を果たされると信じていました。

さらに、パウロは、そのミニストリーを託されるに値しないことを自覚していました。なぜなら、以前の彼はイエス様とその教会を憎んでいたからです。

しかし、憐れみによって、神様はパウロに真理を示してくださいました。実際、神様はパウロにこう言われました。「あなたは私の名のために苦しみます。」(使徒の働き9:16)

だからこそ、パウロは、自分の苦しみが神様を驚かせるものではないことを知っていました。神様は決して、「え?そんな大変なことは全然予想していなかった。ごめんね。」とは言われませんでした。

むしろ、神様はパウロが経験するすべての試練をあらかじめ知っておられました。

だからこそ、パウロは確信していました。罪の暗闇の中から彼を救い出し、命の光へと導いた神様の憐れみは、試練の暗闇からも救い出し、栄光の光へと導いてくださるのだと。

それゆえ、パウロはこう語りました。

ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。

私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。(16-18)

要するに、私たちが苦しんでいても、肉体的にも精神的にも崩れるように感じていても、神様は毎日私たちの人生に働いておられます。

その試練を通して、神様は私たちをイエス様の姿へと変え、私たちは神様の栄光を映し出します。(3:18)

では、試練の中で、どのように希望を保つことができるでしょうか。私たちは自分の困難に焦点を当てるのではなく、目に見えない方に目を向けるべきです。

神様の目的が分からないこともあるかもしれませんが、神様が良い計画を持っておられることを信じるべきです。

また、私たちの試練は永遠に続くものではないことを忘れてはなりません。神様がその試練を乗り越えるよう導いてくださることを信じるべきです。

そして、私たちが諦めずに歩むならば、最終的に神様のうちにも、私たちのうちにも、私たちの状況のうちにも、神様の栄光を見ることができるのです。

パウロはこう語りました。

私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べ物にならないほど、重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。(17)

それを覚えておきましょう。神様はあなたの試練に驚いておられません。神様は確かな計画を持っておられます。

だからこそ、神様に信頼してください。神様がご自身の目的を成し遂げられることを信じてください。そうすれば、希望を持ち続けることができます。

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コリント人への手紙第一

主よ、来てください

この世の現実や悪を目の当たりにすると、失望するのは容易なことです。しかし、クリスチャンとして、私たちは希望を持っています。なぜでしょうか。

パウロはこう記しました。

主を愛さない者はみな、のろわれよ。

主よ、来てください。主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。(コリント人への手紙16:22-23)

その最初の言葉は厳しく感じるかもしれませんが、これは紛れもない現実です。主を愛さない者は呪われています。

彼らは神様の律法を破り、救いの唯一の方法――つまり、イエス様を拒絶しました。中には、イエス様を呪うことさえする者もいます。(第一コリント12:3)

けれども、イエス様を愛する私たちのために、イエス様ご自身が呪われたのです。パウロはこう記しました。

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。

「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)

イエス様は十字架において、私たちの罪の代価を支払い、律法の要求を満たされました。しかし、それだけではなく、イエス様は復活し、死に打ち勝たれました。

イエス様は生きておられるので、私たちは永遠に生き続けるという確信を持つことができます。(ヨハネ14:12)

イエス様が再びこの世に来られる日、私たちは瞬く間にキリストに似た者とされます。そのとき、すべての涙は私たちの目からぬぐい取られ、すべての悲しみは消え去ります。

だからこそ、パウロのように私たち皆が「マラナタ」、つまり「イエス様、来てください」と叫ぶのです。

けれども、私たちにはもう一つの希望があります。それは、イエス様が来られるその日まで、イエス様が私たちに恵みを与え続けてくださることです。

私たちが罪を犯しても、失敗しても、イエス様は毎日私たちのためにとりなしをしてくださいます。試練に直面するとき、イエス様は私たちに力を与えてくださいます。そして、イエス様は私たちの内に始められた良い働きを完成へと導いてくださいます。(ピリピ1:6)

だから、どんな状況にあっても希望を失わないようにしましょう。むしろ毎日、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さず歩み続けましょう。イエス様にある私たちは、希望と命を持っているのです。

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コリント人への手紙第一

希望があるからこそ

「私たちの人生は楽なものだ」と主張する人は誰もいません。

パウロもそのような主張はしませんでした。彼は石打ちに遭い、迫害され、投獄され、海を漂流したこともありました。

それほどの試練に直面しながらも、どうしてパウロは耐え抜くことができたのでしょうか。それは、彼が希望を持っていたからです。

パウロはコリントの人々にこう語りました。

死者が決してよみがえらないのなら。。。なぜ私たちも、絶えず危険にさらされているのでしょうか。

兄弟たち。私たちの主キリスト・イエスにあって私が抱いている、あなたがたについての誇りにかけて言いますが、私は日々死んでいるのです。

もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。

もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。(コリント人への手紙15:29-32)

しかし、復活があります。ある日、私たちが復活すると、新しい体は朽ちることなく、永遠に生きるものとなります。だからこそ、パウロは私たちを励まします。

ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。

あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。(コリント人への手紙第一15:58)

この世では、私たちは様々なことで容易に動揺してしまいます。私たちの悩みや試練、心配事に心を揺さぶられることがあります。

そうすると、クリスチャンとして歩み続ける意味があるのか、主に仕え続ける価値があるのか、疑問に思うこともあるかもしれません。

しかし、パウロは、私たちが人生の嵐の中で揺れ動かされないようにと励まします。むしろ、彼は私たちが神様に忠実に従い続けるよう促しているのです。なぜでしょうか。

それは、最終的に私たちの努力が報われると知っているからです。そして、ある日、私たちがイエス様のもとへ行くと、イエス様は微笑みながら私たちにこう言われます。

「よくやった。良い忠実なしもべだ。」

そのとき、イエス様のみ顔を見れば、私たちの試練や苦しみが「軽い患難」であったと気付くでしょう。また、「重い永遠の栄光」と比べれば、これまでの苦しみが取るに足りないものであることを悟るのです。

私は、リビングバイブルの詩篇 17:15の訳がとても好きです。

私は天で目覚めるとき、
この上ない満足感にひたるでしょう。
神の御顔をじかに見るからです。

だから、失望しそうなときや、困難のゆえに心が重くなるときは、この歌の歌詞を心に留めましょう。

Turn your eyes upon Jesus.
あなたの目をイエス様に向けましょう。
Look full in his wonderful face.
栄光に輝くイエス様の御顔を仰ぎ見ましょう。
And the things of earth will grow strangely dim in the light of his glory and grace.
そうすれば、この世のものは、イエス様の栄光と光の前にかすんで見えるでしょう。

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コリント人への手紙第一

なぜ復活は重要なのか?

英会話学校で教えていたある日、私は隣の教室で交わされる会話を耳にしました。先生と生徒たちはイースターについて話していました。

生徒:「イースターとは何ですか。」

先生:「クリスチャンたちは、その日にイエス・キリストが復活したと信じています。」

生徒:(沈黙)

もしかすると、生徒たちは驚いた表情で先生を見つめていたのかもしれません。それを感じ取った先生は続けて言いました。「私はそれを信じていません。ただ、クリスチャンたちはそう信じています。」

私は子供のころからクリスチャンなので、イエス様の復活を当然のことだと思っていました。しかし、改めて考えてみると、それはとても不思議な教会の教えです。さらに、信じるのが難しいことでもあります。

もしかすると、あなたはこう尋ねるかもしれません。「クリスチャンにとって、イエス様の復活を信じることはそんなに重要なのでしょうか。イエス様の教えや十字架の働きだけを伝えれば十分なのではないですか。」

実は、コリントのクリスチャンたちも同じ疑問を抱きました。そして、ある人々はイエス様の復活を否定し始めたようです。

だからこそ、パウロは復活の真実性を強く論じました。彼はこう述べました。

ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。

もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。

そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。(コリント人への手紙第一15:14)

なぜパウロはそのように語ったのでしょうか。もしイエス様がよみがえらなかったとしたら、なぜ私たちの宣教と信仰は空しいものになってしまうのでしょうか。

パウロはその理由を説明します。

そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。(17-18)

なぜ、イエス様の復活はそれほど重要なのでしょうか。イエス様の復活によって、神様はイエス様の十字架の働きを受け入れたことを証明されました。

その復活を通して、神様は私たちにこう語られます。「イエスの十字架の働きによって、あなたは赦されました。」

しかし、もしイエス様がまだ死んだままであるなら、神様がイエス様の十字架の働きを受け入れていないことを意味します。その場合、私たちは死後、地獄へ行くことになります。それなら、「私たちはすべての人の中で最も哀れな者です。」(19)

なぜなら、私たちは救われたと思っていても、実際には地獄に行ってしまうからです。そのような希望は虚しいものとなってしまいます。

さらに、パウロや他のクリスチャンたちはイエス様のために迫害され、苦しんでいました。もしイエス様がよみがえられなかったとしたら、その苦しみも無意味なものになってしまいます。彼らは神様からの報いを受けることができません。(32)

それなら、私たちはただ自分自身のために生きるほうがよいのではないでしょうか。そこでパウロはこう語りました。

もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。(32)

けれども、イエス様は実際によみがえられました。神様はイエス様の十字架の働きを受け入れられたのです。だからこそ、イエス様を信じるなら、私たちもいつかイエス様と共に復活します。

さらに、イエス様がこの世に戻り、すべてを新しくされるという希望を持っています。イエス様はすべての人を治め、死をも治められます。(20ー27)

だから、この世でイエス様のために苦しもうとも、たとえ命を落とすことがあっても、私たちは神様からの報いをいただけるという確信を持っています。

では、なぜ復活はそれほど重要なのでしょうか。復活こそが、私たちの希望の土台だからです。もし復活がなかったとしたら、私たちには何の希望もありません。

しかし、復活があるからこそ、人に奪われることのない希望と喜びを持つことができるのです。

あなたは、その希望を持っていますか。

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コリント人への手紙第一

何が残るか

13章におけるパウロの最後の言葉は興味深いものです。パウロは、私たちがイエス様のみ顔を仰ぐとき、どの賜物がなくなるのかについて語ったばかりでした。

しかし、13節では、天国に残るものについて語ります。

彼はこう言いました。

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。(コリント人への手紙第一13:13)

天国でも信仰が残るというのは、興味深いことだと思います。なぜなら、私たちは神様のみ顔を直接仰ぐからです。

では、天においても信仰が必要なのはなぜでしょうか。もしかすると、天にある信仰は、この世にある信仰とは異なるのかもしれません。

私たちが地上にいる間、罪深い心のゆえに神様を信じることに苦労します。私たちの心の一部は神様を信じていますが、一部は信じきれていません。

マルコ9章では、ある父が自分の心の中でそのような葛藤を抱えていました。私たちは神様を見ることもできず、御声を直接聞くこともできないため、信じることは難しいのです。

けれども、私たちが天の父のもとへ行くと、神様を信じることがはるかに容易になります。神様のみ顔と愛を直接見ることで、私たちが神様を信じるのは当然のこととなるでしょう。私は今、そのような確信に満ちた信仰を持ちたいと願います。

また、天国に希望があるというのも少し不思議に思えます。何を望むことができるのでしょうか。私たちはすでに救われ、天国にいるのです。

とはいえ、天国にある希望は、この世の希望とは異なると思います。私たちが天国で苦しみ、救いを求めるわけではありません。

むしろ、私たちはすでに喜びを持っており、さらに将来においても深い喜びを抱く希望を持っています。なぜなら、私たちは神様が良い方であると信じているからです。

それでも、パウロによれば、その中で最も優れているのは愛です。なぜでしょうか。はっきりとは分かりませんが、もしかすると、その理由の一つは、希望と信仰は残るものの、形が少し変わるからかもしれません。

今の信仰の大きな要素は、目に見えないものを信じることです(へブル11:1)。しかし、天国では私たちは神様のみ顔を直接仰ぎます。

同様に、希望の大きな要素は、目に見えないものを待ち望むことです(ローマ8:24)。

けれども、キリストを見ると、私たちの最も大きな希望は完全に満たされます。キリストにあってすでに与えられたものと比べると、私たちがまだ望むものは取るに足りないものとなるでしょう。

その一方、天国では私たちの愛の形が変わるのではなく、むしろ、完全なものとなるのです。私たちの嫉妬やプライド、自己中心的な態度はすべて取り除かれ、愛はこれまで経験したどの愛よりも、さらに満ち溢れ、純粋なものとなるでしょう。

私はその日が待ち遠しいです。

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ローマ人への手紙

私たちが希望を持つため

私たちが聖書を読むとき、なぜ神様が特定の物語や情報を記録されたのか疑問に思うことがあるでしょう。

例えば、なぜ出エジプト記とレビ記には、神様がさまざまな律法を記録されたのでしょうか。ある律法は私たちに関係がありますが、ある律法は、私たちにはまったく関係がないように思えます。

また、なぜ聖書には、レイプや殺害に関する記述が含まれているのでしょうか。

しかし、パウロは興味深いことを記しています。

かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。

それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。(ローマ人への手紙15:4)

つまり、聖書に書かれているすべてのことには、神様の目的があります。例えば、律法を通して、私たちは神様の聖さ、正義、そして憐れみを見ることができます。

辛い物語を通して、私たちは人間の罪の深さを知ることができます。人々が神様から離れると、どれほどその人生が混乱し、破滅へ向かうのかが分かります。

しかし、そのような物語の中にも、神様がどのように働かれ、苦しみの中から良いことをもたらされるかを見ることができます。

神様の民が迫害されたとき、神様はしばしば彼らを救われました。たとえ彼らが死んだとしても、神様が彼らに平安を与えられたことが分かります。

神様の民が苦しんでいたとき、また、彼らが神様に見捨てられたと感じたときも、私たちは神様が働かれ、彼らを慰めてくださることを見ることができます。

この世の災いを目にするとき、また私たちが迫害や苦しみを経験するとき、私たちは忍耐する希望を持つことができます。

私たちは歩み続ける勇気を受け取り、そして気づくのです—2000年前に人々を救われた神様は、今も生きておられ、私たちの人生の中で働いておられることを。

だから、どんな試練に直面しても、人生が順調であってもそうでなくても、聖書を読みましょう。神様は今も生きておられ、私たちの人生の中で働いておられることを覚えておきましょう。

そして、パウロの祈りを心に留めましょう。

どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。(13)

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ローマ人への手紙

私たちの希望の理由(2)

この箇所では、私たちが苦しみの中で希望を持つ理由をもう一つ見いだすことができます。それは、神様が永遠の昔から私たちのために計画を持っておられたことです。

パウロはこう記しました。

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。(ローマ人への手紙8:29-30)

多くの人々は、自由意志や予定説(すなわち、神様があらかじめすべてを定めておられること)という概念について考えると混乱します。

他の記事で私はこのテーマについて触れましたし、また9章について書くときに、改めてこのことを論じる予定です。

しかし、まずはクリスチャンにとってのパウロの言葉の意味を考えてみましょう。

あなたが生まれる前から、神様はあなたのことを深く知っておられました。

エペソ人への手紙1章で、パウロはこう述べています。神様はこの世を創造される前から、すでにあなたを知っておられました。

神様はあなたの良い面も、弱さも、すべてをご存じです。神様はあなたの得意なことも不得意なことも理解しておられます。

そして、あなたがどのような善を行い、どのような過ちを犯すかも、すべてをご存じです。

それでも、神様はあなたを選ばれました。そして、あなたのために良い計画を立てておられます。その計画とは、あなたが神様の御子のかたちに変えられることです。

神様は、あなたが罪深く、弱く、反抗的になってしまうことをすべてご存じでした。それでもなお、神様は恵みを与え、あなたを栄光に満ちた存在へと変えることを計画されたのです。

その計画を成就するために、神様はあなたを召されました。あなたが神様を求めていなかったとしても、神様はあなたを召されました。

そして、あなたが信仰を持って神様に向かうと、神様はあなたを義と認められました。イエス様が十字架の上であなたの罪の代価を支払われたので、神様はあなたに関して「無罪」と宣言することがおできになります。

そして、ある日、神様はあなたに栄光を与えてくださいます。イエス様と同じような栄光の体を授けてくださいます。その体は決して朽ちることなく、罪に汚れることもありません。それは、真に栄光に満ちたものなのです。

それは、神様があなたのために立てられた計画です。そして、その計画は確実なものです。結局のところ、神様の計画を変えられるものは何一つ存在しません。

神様は永遠の昔からすべてを知っておられるので、私たちを見てこう言うことは決してありません。

「あれ?彼を選んだけれど、ダメになってしまった。彼の人生はめちゃくちゃだ。もうどうしようもない。私でさえ彼を救うことができない。」

神様は、決してそんなことを言われることはありません。神様は、そもそもあなたのすべてを知っておられた上で、あなたを選ばれたのです。

そして、パウロは私たちへの神様の賜物について、こう記しています。

神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。(ローマ人への手紙11:29)

あなたは、自分自身を見つめたとき、気が重くなることはありますか。クリスチャンとして思うように成長していないと感じ、失望してしまうことはあるでしょうか。

神様はあなたに失望されることはありません。神様は、はるか昔からあなたを知っておられます。神様はそもそも、あなたがイエス様のかたちに変えられるまでにどれだけの時間がかかるかを完全に理解しておられます。

だからこそ、神様は決してあなたを見放されることはありません。

そして、どんな試練に直面しても、その試練が神様の計画を狂わせることは決してありません。神様が驚かれることはなく、すでにあなたをどのように助けるかを知っておられます。

だから、苦しみの中でも絶望せず、パウロの言葉を心に留めてください。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8:28)

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ローマ人への手紙

私たちの希望の理由

聖書の中で、これは私が最も好きな箇所の一つです。実は、26節から8章の最後までの言葉が大好きです。なぜでしょうか。この箇所は、私たちの希望の根拠を示しているからです。

多くの人々は28節を引用します。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8:28)

けれども、神を愛する人々のために、なぜすべてのことが共に働いて益となるのでしょうか。26-27節において、パウロはその理由を説明しています。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。

私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。(26-27)

祈りの時に、私たちはしばしば何のために祈るべきか、またどのように祈るべきか分からなくなります

。言葉が出ず、祈れない時もあります。また、時には間違ったことのために祈ってしまうこともあります。

イエス様のたとえを用いるなら、私たちはパンを求めているつもりでも、実は石を求めてしまっていることがあるのです。

しかし、良い知らせがあります。それは、神様が私たちの弱さや、誤った祈りに制限されることはないということです。

神様が最も望んでおられるのは、私たちが神様と交わり、語り合うことです。

私たちが祈るとき、聖霊様は私たちのためにとりなしをしてくださいます。聖霊様は、私たちのうめきや言葉にならない祈り、誤った祈りを取り、神様の御心にかなう祈りへと変えてくださいます。

だから、パウロはこう語ります。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8:28)

私にとって、この言葉はとても心強いものです。

私の娘が赤ちゃんだった頃、私と妻は時々フラストレーションを感じました。なぜなら、娘が泣いたときに、なぜ泣いているのか分からないことがあったからです。彼女の泣き声や叫びは、私たちに彼女のニーズを正確に伝えてはくれませんでした。

そのため、私たちは彼女のニーズを推測するしかありませんでした。当たりだったこともあれば、まったく的外れだったこともありました。

その一方、私たちがうめいたり、言葉を使わずに祈るときでも、聖霊様は私たちのニーズを完全に理解しておられます。だからこそ、聖霊様は正しくとりなし、私たちを助けてくださいます。

あなたは今、どんな試練に直面していますか。祈るときにフラストレーションを感じることはあるでしょうか。あなたの祈りが天井にぶつかり、届かないように思えることはありますか。

希望があります。今もなお、聖霊様はあなたのためにとりなしてくださいます。そして、その祈りは神様の御心にかなっています。

だから、安心しましょう。神様はあなたの試練を用いて、良いことをもたらしてくださいます。

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ローマ人への手紙

どうして私は苦しまなくてはならないだろうか

ローマ書8:16-17節の言葉は、本当に心強いものです。

御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。

すべてのクリスチャンはそれを読み、励まされることでしょう。私たちは神様の愛する子供です。そして、私たちは神様の相続人なのです。

ところが、パウロはさらに語り続けます。

私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。(ローマ人への手紙8:17b)

苦難?誰も苦難を望みません。では、パウロはどのような苦難について語っているのでしょうか。

35節で、パウロはいくつかの例を挙げています。「迫害」、「飢え」、「裸」、「危険」、「剣」です。

私たち全員が苦しみを経験することがあります。この世において、苦しみを完全に避けることはできません。

それは、ノンクリスチャンだけでなく、クリスチャンも同じです。なぜなら、キリストに従うことによって、時にはそのゆえに人々から憎まれることがあるからです。

けれども、なぜ私たちは苦しまなくてはならないのでしょうか。なぜ神様は単にその苦しみを取り除かないのでしょうか。そもそも、なぜ神様は苦しみを許されるのでしょうか。

それは難しい疑問です。パウロは、その答えの一部を説明しています。

被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。

私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。(20-22)

どうして地震や津波、その他の天災が起こるのでしょうか。どうして先天的障害や病気、そして死があるのでしょうか。神様はそれらを取り除くことができるでしょう。

もちろん、神様にはそれが可能です。それなのに、神様はそれらを許されます。なぜでしょうか。

そんなものが存在しない世界を想像してみましょう。確かに、私たちの人生は楽になるでしょう。それでも、人々は罪を犯し続けるでしょう。

彼らは神様のことを考えずに罪を犯し、それを気にしない態度を持つでしょう。自分の罪の悪さに気づかないまま、生きるでしょう。結果として、この世の状態はさらに悪化するかもしれません。

しかし、この世の苦難を通して、人々は自分の死ぬべき運命に向き合わなければなりません。

さらに、彼らは罪の悪さを直視する機会を持つのです。そして、人々は目を覚まし、神様を求め、救いへと導かれます。

だからこそ、神様はこのような苦難を許されるのです。神様の望みは、人々が神様に向き、本当の喜びを知ることです。そして、神様の救いの計画が成就すると、イエス様はこの世に戻り、すべてを新しくされます。

とはいえ、パウロによれば、その日が来るまで、この世は産みの苦しみを経験し続けます。それは死に至る痛みではなく、新しい命へとつながる痛みです。

そして、この世の苦難を通して、多くの人々が神様へと向かい、神様の子供となり、神様の国が広がります。

それでも、この世の産みの苦しみは本当に大変なものです。

クリスチャンたちの苦しみもまた、決して軽いものではありません。

そして、パウロはこう語ります。

それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。(23)

私たちは苦しみのゆえに、うめきます。私たちは自分の罪と戦いながら、うめきます。そして、この世の罪や苦しみから解放される日を待ち望んでいます。

けれども、待ち望む間にも、私たちには希望があります。それは、私たちがキリストとともに苦難を経験しているとしても、やがてイエス様の栄光を受けるということです。

また、その栄光と比べると、今の苦しみは取るに足りないものです。(18)

さらに、私たちには、いつかすべてが新しくされるという希望があります。それは、今は目に見えない希望です。パウロによれば、「目に見える望みは望みではありません。」(24)

そして、パウロはさらにこう語りました。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ人への手紙5:5)

では、待ち望んでいる間に、私たちはどうすべきでしょうか。

忍耐しながら希望を持ち続けましょう。必ずその希望は現実となるからです。

あなたはどうでしょうか。今、苦しみの中にいるでしょうか。希望を持ち、待ち望んでいるでしょうか。

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ローマ人への手紙

希望

前回の記事で、私たちには罪に打ち勝つ希望があると述べました。

それにもかかわらず、多くのクリスチャンは絶望してしまうことがあります。彼らは問いかけます。

「私は本当にクリスチャンなのだろうか?何度も罪を犯してしまうが、本物のクリスチャンがそんなことをするはずがないだろう。私は正しいことをしたいと思っているのに、何度も失敗してしまう。」

けれども、ここでパウロの言葉を見てみましょう。

私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。

自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。。。

私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。

私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。(ローマ人への手紙7:15-16,19-20)

この箇所のテーマは何でしょうか。それは「戦い」です。

神様の恵みに触れていないノンクリスチャンは罪と戦うことはありません。多くの場合、彼らは自分の罪の問題に気づくことすらありません。

一方で、クリスチャンはその問題を認識し、戦うのです。

もし、「私はクリスチャンだ」と言い張る人が、神様が罪について何を語ったかを知っていながら、意図的に罪を犯し、なおかつ「私が罪を犯しているって?そんなことはないよ。」と言うなら、私はその人の「私はクリスチャンだ」という主張を疑うでしょう。

もしかすると、彼らは本当はクリスチャンではないのかもしれません。あるいは、彼らはクリスチャンだけれど、心を頑なにしてしまい、神様の声が聞こえなくなってしまったのかもしれません。

(もちろん、神様の言葉をあまり知らない若いクリスチャンもいます。その人たちの信仰を疑うわけではありません。とはいえ、私たちはその人たちにしっかりと教える責任があります。)

しかし、私は罪と戦っているクリスチャンの信仰を疑いません。むしろ、私は神様がその人の心の中で働いていることを確信しています。

そして、もし神様がその人の心の中で働いているなら、神様は必ずその働きを完成してくださいます。

パウロはこう言いました。

あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り。。。

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信してます。【ピリピ1:4,6)

もし神様があなたの罪を指摘しているなら、神様があなたを見捨てて豚小屋に置き去りにすることはないと信じ、安心してください。神様はあなたに勝利を与えてくださいます。これが、私たちの希望です。

だから、パウロは「私は本当に惨めな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(24節)」と叫びました。

けれども、すぐに「神に感謝します。それは、私たちの主イエス・キリストによるのです。」とも叫ぶことができました。(これは25節の別訳です。その脚注を参照してください。)

私たちは、自分の力で自分自身をより良い人にすることはできません。私たちには、自分自身を変える力がありません。しかし、神様にはその力があります。これも、私たちの希望です。

では、私たちはどのように変わることができるのでしょうか。それは、私たちの内に住んでおられる聖霊様を通してです。

この点については、別の記事で詳しく扱います。どうぞお楽しみに。

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ローマ人への手紙

火を通過するとき

時々、聖書を読むと、私は少し首をひねることがあります。この箇所もその一例です。

パウロはこう書きました。

それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ人への手紙5:3-5)

この箇所はよく知られた部分で、私も何度も読んだことがあります。けれども、今回改めて読んでみると、ある疑問が浮かびました。

「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す」ということは理解できますが、どうして練られた品性が希望を生み出すのでしょうか。その関係は何でしょうか。

実は、新改訳は英訳よりも明確です。英訳では単に「忍耐が品性を生み出す」と書かれています。

しかし、原語では「品性」という言葉には、試された人というニュアンスがあります。彼らは試練に直面し、それを乗り越えたことで、神様に認められています。

彼らの信仰は単なる知識ではなく、実際に神様の忠実さや愛を経験したものです。

だからこそ、彼らの信仰は強まり、品性も強められました。どんなに困難な試練に直面しても、神様の愛と忠実さに対する確信を持つことで、希望を抱くのです。

だからパウロは、「この希望は失望に終わることがありません」と言えたのです。私たちの希望は、自分自身の身分や品性に基づくものではありません。

むしろ、私たちの希望は二つの確固たる事実によるものです。それらは、神様が私たちを愛し、私たちのうちに住んでおられる聖霊を通して私たちと共におられるということです。

旧約聖書のヨブの話を考えてみましょう。彼は大きな試練に直面しました。彼の財産や子供たちは奪われ、さらに友人たちにも責められました。

それでも、彼は忍耐を持ち続けました。そして、火を通過した後、神様の愛と忠実さをより深く理解し、希望を知ったのです。

あなたはどうでしょうか。どんな試練に直面していますか。その試練のゆえに、神様から逃げないようにしましょう。むしろ、神様に近づきましょう。

そうすれば、あなたは神様の愛と忠実さを経験し、希望を知ることができます。

そして、パウロが言ったように、「この希望は失望に終わることがありません。」

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ルカの福音書 ルカ12章

恐れなさい。恐れるな。

この箇所でのイエス様の言葉は、私の心に深く響きます。

「恐れてはいけません。」

そして、「恐れなさい。」

イエス様はこう言われました。

そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。

恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(ルカの福音書12:4-5)

要するに、「人ではなく、神様を恐れなさい。」ということです。

人々はあなたの身体を殺すことができるかもしれません。しかし、神様はあなたを地獄に投げ込む権威を持っておられます。一瞬のうちに身体は死ぬかもしれませんが、霊的な死は永遠に続くのです。

では、私たちは恐れながら生きるべきなのでしょうか。

神様はじっと私たちを見つめ、私たちの失敗を待っておられるのでしょうか。そして、私たちが罪を犯したとき、神様は私たちを稲妻で打たれるのでしょうか。神様は人々を地獄に投げ込むことを喜んでおられるのでしょうか。

決してそうではありません。

イエス様はこのことも語られました。

五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。

それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(6-7)

私たちが神様の御性質を考えるとき、二つのことを覚えていなければなりません。それは、神様の聖さと神様の愛です。その二つの概念のバランスを保つことが重要です。

多くの人々は神様の愛に焦点を当てる一方で、神様の聖さを忘れがちです。

けれども、聖書において、人々が神様の栄光を目の当たりにすると、まず神様の聖さに気づきます。そして、神様の聖さを見たとき、自分の汚れを認識するのです。

その結果として生じるものは何でしょうか。

それは、恐れです。

なぜなら、彼らは神様の裁きを受けるに値することを理解し、自分が死ぬべき存在であると悟るからです。

ところが、その後、彼らは神様の愛を知ります。聖書には何度も、神様の最初の言葉として「恐れるな」と記されています。

この箇所においても、イエス様は私たちに同じことを教えられました。

まず、イエス様は「神様を恐れなければならない」と言われました。なぜなら、神様は聖なる方だからです。神様の聖さゆえに、罪は必ず裁かれなければなりません。

もしこの世に生きている間に、あなたが神様のもとに行かず、罪の赦しを得なければ、その罪は地獄で裁かれることになります。

しかし、それは神様の望みではありません。神様は私たちを深く愛しておられ、私たちの最善を願っておられます。

神様の目には、私たちは取るに足りない存在ではありません。それどころか、神様は私たちの名前を知り、私たちの人生の細部に至るまでご存知なのです。

神様は、あなたの罪を背負うためにイエス様をこの世に送られました。それほどまでに、あなたを愛しておられます。もしあなただけが罪を犯していたとしても、神様はイエス様を送られたことでしょう。

私たちがこのことを実感するとき、私たちの最初の恐れは、神様への圧倒的な愛へと変えられます。

私たちはもはや神様を恐れる必要はなく、また、その他の何かを恐れる必要もありません。もし私たちが神様に信頼するなら、この世で何が起ころうとも、私たちには天国における確かな希望があるのです。

だからこそ、ヨハネの言葉を心に留めましょう。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。

神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。

それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。

恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:16-19)

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マタイの福音書 マタイ9章 マルコの福音書 マルコ5章 ルカの福音書 ルカ8章

人々を清め、命を与えてくださる神

旧約聖書を読んでいると、「清いもの」と「汚れたもの」についての記述が頻繁に出てきます。ユダヤ人たちにとっては、触れても良いものと触れてはならないものが多くありました。

例えば、死骸は汚れたものとされていました。また、生理中の女性たちも汚れたものとみなされていました。もしそのような者に触れると、自分自身も汚れたものとされてしまいました。

以前にも述べたように、不思議なのは、イエス様が汚れた人々に触れた時、イエス様自身が汚れたものとならず、むしろその汚れた人々が清い者とされたことです。

この箇所では、まさにそのような場面を見ることができます。

一人の女性が、十二年もの間、長血の病に悩まされていました。これはおそらく、生理的な問題だったかもしれません。

彼女は一か月に一度だけではなく、常に汚れたものとみなされていました。彼女は多くの医者に診てもらいましたが、全く治りませんでした。

そこで彼女は必死にイエス様の服に触れようとしました。彼女は「この服に触れさえすれば、必ず治る」と信じていたからです。

では、なぜ彼女はイエス様に直接お願いしなかったのでしょうか。おそらく彼女は、自分の病のために深く恥じていたからではないでしょうか。

また、「汚れたもの」としてみなされていたため、イエス様に拒絶されるかもしれないと思っていた可能性もあります。

しかし、彼女がイエス様の服に触れた瞬間、病が癒された時、イエス様はこう尋ねられました。

だれがわたしの着物にさわったのですか。(マルコ5:30)

そして、彼女が自分の行動を認めるまで、イエス様は待っておられました。なぜイエス様が彼女の返事を求められたのでしょうか。おそらく二つの理由があったのだと思います。

一つ目は、彼女が完全に癒されたことを確信させたかったからです。つまり、その病気がもう二度と再発しないことを伝えるためでした。

二つ目は、イエス様が周りの人々にこの癒しについて知らせたかったからです。12年間、彼らはその女性を除け者にしていました。けれども彼女が清いものとなったことを公に知らせたいとイエス様は思われたのでしょう。

その後、イエス様は会堂管理者であるヤイロの家へ行かれました。彼の娘が瀕死の状態だったからです。ところが、その家に着く前に、ヤイロの家から人々が来て、「あなたのお嬢さんは亡くなりました」と伝えました。

それにもかかわらず、イエス様はヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい」とおっしゃいました。

そして、イエス様はその少女のそばに行かれ、愛を持ってこう言われました。「少女よ、あなたに言う。起きなさい。」

その言葉が告げられた瞬間、彼女は起き上がりました。

この話から、私たちは何を学ぶべきでしょうか。

私たちの罪によって、私たちは皆「汚れたもの」となってしまいました。「自分はあまりにも汚れていて、もうきよめられることはない」と感じているかもしれません。あるいは、「神様はもう私を赦してくださらない」と思っているかもしれません。

罪のために、希望を失っていると感じているかもしれません。結婚や家計が壊れてしまい、将来への展望がないと思っているかもしれません。

けれども、その女性を癒された神、またその少女を復活させられた神は、今も生きておられます。神様はあなたを清め、新しい命を与えることができます。

神様は、一つの言葉、一つの手で、あなたを癒すことができます。

もしあなたがイエス様に向かい、イエス様とその十字架の働きを信じるならば、イエス様はあなたを癒してくださいます。

ですから、あなたのために私はパウロのように祈ります。

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:義に飢え渇く者

義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。(5:6)

おそらく、この言葉は2つの方法で解釈できるでしょう。

1つ目の解釈は、イエス様が私たちに聖なる人生を追い求めることについて語られたというものです。つまり、私たちは神様への愛ゆえに、神様を喜ばせ、清い人生を歩みたいと願うのです。

それでも私たちは罪との戦いに苦しみます。ローマ人への手紙7章で、パウロはその戦いについて語りました。この箇所から、パウロが義に飢え渇いていたことがわかります。

彼は叫びます。 「私は正しいことをしたいのに、どうしてもできません。何度も罪に陥ってしまうのです。私はなんと惨めな人間なのでしょう。」

私も、そう感じることがあります。私は清い人生を歩みたいと願っていますが、何度も失敗してしまいます。だからこそ、失望するのは簡単なことです。「もう諦めよう。私はもうだめだ。どうしても罪を犯してしまう。」そう思ってしまうこともあります。

しかし、イエス様は私たちにこう言われます。 「諦めないでください。義に飢え渇き続けなさい。ある日、その飢え渇きは満たされるのです。あなたは義人となるでしょう。」

もちろん、天国では私たちは完全に義人となります。とはいえ、この世に生きている間も、神様は私たちの人生に働きかけておられます。

パウロはこう書きました。

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ2:13)

そして、私たちが完全に義人となる日まで、神様の恵みが私たちを支えます。パウロはこう書きました。

律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。

しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。(ローマ5:20-21)

だから、

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

けれども、もう一つの意味として、私たちの義への飢え渇きも満たされる日が来るでしょう。

私たちの周りを見渡すと、罪と不正義が蔓延していることに気づきます。堕落した裁判官を目にし、神様の律法に反する法案が可決されます。また、人々の道徳的な価値観は変わり、かつて悪とされたものが、今では良いものと見なされています。

そのため、私たちは「いつ正義はこの国に戻るのだろうか。もう希望はないのだろうか。」と問い始めます。

正直に言うと、おそらくこの状況が良くなることはないでしょう。パウロが「終わりの日」について語ったとき、彼は非常に暗い光景を描写しました。(第二テモテ3:1-5)

私たちは、その時代を生きています。誤解しないでください。「終わりの日」は2000年前に始まりました。(第一ヨハネ2:18)けれども、イエス様が再び来られる前に、この世界は次第に悪くなっていくでしょう。

私たちは政治家や司法制度、人間が作り上げた機関に頼ることはできません。

それでも、私たちは希望を持っています。なぜでしょうか。

それは、ある日、「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白する」からです。(ピリピ2:10-11)

だからこそ、私の周りの悪を見ても、私は絶望することを拒否します。正義の日は必ず来ます。私たちの義への飢え渇きは満たされるのです。その日まで、私は政府や人間が作った制度に頼るのではなく、神様を信頼します。

私たちが義を求める飢え渇きを決して失わないように。イエス様は必ずご自身の約束を守られるのだから。

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ルカの福音書 ルカ6章

良い知らせ

聖書の学者たちは、マタイの福音書にある山上の垂訓とルカの福音書にある平地の説教が、実際に同じメッセージかどうかを議論しています。

ある学者たちは、イエス様が山を登り、その山の平らな場所で教えたと考えています。

私の推測では、多分イエス様は、その二つのメッセージを別の時に伝えたのではないかと思います。なぜなら、イエス様がいつも全く違う説教を伝えていたとは限らないからです。

イエス様は様々な町で同じテーマを教え、しかしその町の人々のニーズに応じてメッセージを少しずつ調整されたのではないでしょうか。

このルカの箇所では、恐らくイエス様は多くの貧しい人々に語られたのだと思います。彼らはお金をほとんど持っておらず、将来性も厳しい状況だったのでしょう。

未亡人や足の不自由な人がいたかもしれません。また、外国からの移民もいたかもしれません。そうであれば、イエス様は彼らのためにメッセージを調整された可能性があります。

このようにして、イエス様は預言者イザヤの予言を成就されたのです。

神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。

捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年。。。を告げ[る]。(イザヤ6:1-2)

だから、イエス様は彼らにこう言われました。

貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。

いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。

いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。(ルカの福音書6:20-21)

もちろん、これは、すべての貧しいものと泣く者が、祝福され、神の国に入るという約束とは限りません。この約束は、神様を追い求める人のためです。

もちろん、これは、すべての貧しい者と泣く者が祝福され、神の国に入るという約束とは限りません。この約束は、神様を追い求める人のためのものです。

もし、イエス様があなたの主であるなら、たとえ貧しく、飢え、泣いていたとしても、希望の日がやってきます。この暗い世界の中で、それは本当に良い知らせです。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生は苦しい状況にあるでしょうか。その状況によって、心が押しつぶされそうになっているでしょうか。

あなたには希望があります。もっと良い日が訪れます。ただし、まずイエス様をあなたの主として受け入れる必要があります。

パウロはこう書きました

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

あなたはイエス様をすべてよりも愛しているでしょうか。神様の目的のために生きているでしょうか。それとも、自分自身の目的のために生きているでしょうか。

誰のために生きているのでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ9章 マルコの福音書 マルコ2章 ルカの福音書 ルカ5章

救われる希望がない?

私はこの箇所が大好きです。なぜなら、この箇所から私たちは重要なことを学べるからです。つまり、たとえ私たちがどんなに堕落していても、神様は私たちを救おうとしてくださるのです。

ある日、イエス様は収税所に近づき、マタイという取税人をご覧になりました。マタイがイエス様を見たとき、彼は心の中で何を考えたのでしょうか。

私には分かりませんが、多分、彼は深い後悔の念を抱いていたことでしょう。彼は数年前、自分の魂を売るような選択をしてしまったからです。

イスラエル人は取税人を非常に嫌っていました。収税人はローマ帝国のために税金を徴収していたため、彼らは敵に協力する者と見なされていました。

さらに、彼らはローマ帝国が要求する税額以上のお金をイスラエル人同士から取り上げ、その余分な金を自分のポケットに入れていました。

どうしてマタイがその道を選んだのかは分かりません。しかし、多分、時間が経つにつれて、そのお金の価値は彼の中で失われていったのでしょう。つまり、彼が何を買っても満足できず、ますます惨めになったのです。

マタイはイエス様を見ると、多分イエス様について行った群衆を羨ましいと思ったかもしれません。彼もまた、イエス様について行きたかったのではないでしょうか。

彼はイエス様の教えを耳にし、イエス様が行われた奇跡についても聞いていました。そして、イエス様に従えば、その惨めな人生から救われると思ったのかもしれません。

けれども、多分彼はこうも考えたでしょう。「それは無理だ。私はもうだめだ。イエス様は決して私のような者を弟子として受け入れないだろう。」

ところが、突然イエス様は、マタイが座っている収税所の前で立ち止まられました。そして、イエス様はマタイに目を留められました。マタイがイエス様の目を見ると、多分、自分の心のすべてが見透かされたと感じて恥ずかしくなり、頭をうなだれたことでしょう。

でも、イエス様は「マタイ」と名前を呼ばれました。

マタイが再びイエス様の目を見ると、その中に叱責は見えませんでした。むしろ、慈悲がありました。赦しがありました。

そして、イエス様はこう言われました。「私について来なさい。」

それはとても単純な言葉です。「私について来なさい。」

でも、その言葉には、深い意味がありました。「あなたにとって、遅すぎることはありません。私はあなたを赦します。あなたには希望があります。救いがあります。私について来なさい。」

だから、マタイはすべてを捨てて、イエス様について行きました。もちろん、彼の心の中にはまだ罪が残っていました。けれども、その日、彼は新しい人生に踏み出しました。

あなたはどうでしょうか。あなたに救われる希望はないと思いますか。自分がもうだめだから、神様があなたをあきらめたと思いますか。

神様は決してあなたをあきらめていません。神様は今でもあなたを愛しておられます。神様は慈悲深い目であなたを見ておられます。そして、赦しと哀れみをあなたに与えてくださいます。

あなたが神様に従うことを決心し、踏み出すなら、神様はあなたを受け入れてくださいます。

もちろん、人生が急にすべて変わるわけではありません。それは時間が必要です。

マタイのように、あなたが一晩で完璧になることはありません。時には罪と戦い、時には失敗することもあるでしょう。

しかし、あなたが「イエス様、あなたに従いたいです。私の主になってください」と祈るなら、イエス様はあなたに新しい心を与えてくださいます。そして、イエス様があなたの心を変え始め、やがてあなたの行動も変わり始めます。

あなたは、その新しい人生に踏み出す決心をしませんか。

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ルカの福音書 ルカ1章

失望

ルカの福音書の冒頭では、ルカがなぜこの福音書を書いたのかを説明しています。

ルカは医者であり、教会の初期にクリスチャンになった学者でした。彼はテオピロという人のためにこの福音を書きました。

ルカによれば、クリスチャンになったとき、彼はイエス様の話を綿密に調査しました。そして、テオピロや他の興味のある人々にその話を伝えたいと思ったのです。

この言葉を読んで、私はキリスト教の話についてさらに確信を持てるようになりました。なぜなら、ルカは学者であり、イエス様が天国へ行かれてすぐ後に福音書を書いたからです。ルカがそれをしてくれたおかげで、私はイエス様の話を信じることができます。

ルカは最初にザカリヤという祭司について書きます。この話の言外の意味を読み取るなら、ザカリヤが神様を本当に愛していた一方で、同時に失望していた人物だったことがわかります。

例えば、彼の妻エリサベツは不妊でした。現代においてもこれは本当に悔しいことでしょう。けれども、当時は特に恥ずかしいことでした。エリサベツにとっては、さらに恥ずかしいことであったに違いありません。

どれほど彼らが子供のために祈り続けたのでしょうか。おそらく、エリサベツの生理が遅れたことで希望が湧いた瞬間もあったかもしれません。しかし結局、生理が再び始まってしまい、彼らはそのたびに落胆してしまったでしょう。

どれほどそのパターンが繰り返されたのでしょうか。

私たちは、神様が祈りに答えてくださらないとき、どのように反応するでしょうか。希望が打ち砕かれるとき、私たちはどう対処するでしょうか。

その心に苦々しさを抱いてしまう人もいるかもしれません。

「どうして、あなたは私の祈りに答えてくださらないのですか?私にはこれが絶対必要です。聞いてくださらないのですか?私の状況をご存じないのですか?私の気持ちがわからないのですか?」

失望して、諦めてしまう人もいます。

「神様はこの祈りに答えてくださらないだろうな。」

そうして、彼らは失望をずっと抱え続けてしまうのです。

けれども、希望がなさそうに見えても、なお希望を持ち続ける人もいます。アブラハムはそのような人でした。(ローマ4:16−21)

ゼカリヤはどう感じていたのでしょうか。おそらく、彼はもう諦めていたのではないでしょうか。

「私たちはもう年を取ってしまった。私たちには、もう遅すぎる。まだ赤ちゃんができていないなら、もう希望はないだろう。」

しかし、ある日、彼は主の神殿に入って香をたく役目を任されました。それはくじ引きによって決まり、多くの祭司の中から選ばれる可能性は低かったものの、彼が選ばれたのです。

その香りの煙は、神様に届く祈りの象徴でした。ですから、ゼカリヤが香をたくとき、彼自身が祈りを捧げると同時に、神殿の外にいる人々も祈っていました。

ゼカリヤは何のために祈っていたのでしょうか。間違いなく、彼はイスラエルのために祈ったでしょう。

また、彼はおそらくメシアが来るように祈ったのではないでしょうか。なぜなら、神様は400年ほど何もおっしゃっておらず、預言者も現れず、祭司たちにも何も語りかけていなかったからです。

では、ゼカリヤは自分自身のために祈っていたのでしょうか。 そうだったかもしれません。けれども、祈らなかった可能性もあります。

彼は長い間失望し、「神様は本当に私を愛しているのだろうか」と考えていたのかもしれません。「もちろん、神様はイスラエルを愛しているけれど、私個人のことを愛しているのだろうか。」

いずれにせよ、彼が祈っている最中に、突然天使が現れました。おそらく、彼の最初の反応は恐れだったでしょう。「私は何か悪いことをしてしまったのだろうか。アロンの息子たちのように殺されてしまうのだろうか」(レビ記10章)と思ったかもしれません。

しかし、天使はこう言いました。

「恐れないでください。あなたに良い知らせがあります。あなたはずっと息子が与えられるよう祈っていたでしょう。神様はその祈りを聞かれました。来年、息子が生まれます。その子は、あなたが長い間待ち望んでいたメシアのために道を備える役割を果たします。」

ゼカリヤの反応は何だったでしょうか。それは疑いでした。長い間祈りが答えられず、希望を失っていたからです。彼はこう言いました。

私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。(ルカの福音書1:18)

要するに、「私はずっと祈ってきました。何も起きませんでした。何度も、私の希望はむなしいものとなってしまいました。だから、私の希望を湧かせないでください。もうがっかりしたくありません。」

どれほど私たちはそのように反応してしまうでしょうか。失望のあまり、私たちは希望を失ってしまうことがあります。

幸いなことに、神様はゼカリヤに対する約束を取り消されませんでした。それでも、その天使はゼカリヤを叱責しました。「しるしを求めているのですか。それでは、あなたの息子が生まれるまで、あなたは話せなくなります。」

その言葉を聞いて、ゼカリヤは衝撃を受けましたが、すぐに信じるようになりました。同じく、彼の妻もすぐに信じるようになりました。そして彼女が妊娠したとき、こう言いました。

主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。(1:25)

この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちがそう思わなくても、神様は私たちの祈りを聞いておられます。それは天使ガブリエルの最初の言葉の一つでした。

「あなたの祈りはむなしくありませんでした。その祈りは天井に跳ね返ることなく、神様に届いていました。神様はあなたの声を聞かれました。」

さらに、神様は私たちには見えない物語を織り上げています。その物語は私たちよりも遥かに大きなものです。(ゼカリヤにとっては、メシアが来られるということ以上に大きな物語はありませんでした。)

けれども、その神様が織られている物語の一部として、時には神様が私たちの祈りに答えてくださらないように見えることがあります。

それでも、希望を捨てないでください。神様はあなたの祈りを聞いておられます。神様はあなたの願いを叶えるかもしれませんし、叶えないかもしれません。しかし、神様は確かにあなたの人生に働いておられます。

そして、すべてはあなたの益となるために働いておられます。なぜなら、神様はあなたを愛しておられるからです。

もし、あなたが神様を信じ続けるなら、いつか神様が織り上げられた素晴らしい物語を見ることになるでしょう。

だから、どんな苦しみを経験しても、その物語の中にとどまってください。そうすれば、ゼカリヤとエリサベツのように、祝福されるでしょう。

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箴言

私たちが追い求めるもの

箴言23章では、私たちが何を追い求めるべきかについて、ソロモンが警告します。

ソロモンはこう言いました。

あなたが支配者と食事の席に着くときは、あなたの前にある物に、よく注意するがよい。あなたが食欲の盛んな人であるなら、あなたののどに短刀を当てよ。

そのごちそうをほしがってはならない。それはまやかす食物だから。(箴言23:1-3)

つまり、食べ物や、この世の物によって満足を追い求めるなら、気を付けてください。

もし、あなたが偉い人や、力がある人や、影響力のある人と一緒に食事をする時、彼らの立場、また、彼らがどんな食べ物を与えるか注目してください。どうして彼らがあなたにおごってくれるか考えてください。

そうしないと、彼らはあなたに悪い計画に参加するように納得させるかもしれません。

自分のお腹や、快楽だけを考える人は簡単に騙されます。

それに、食事することが大好きで、食べ過ぎると、いろんな健康問題が出てきます。多分あなたはそんな人を知っていると思います。だから、ソロモンは警告します。

大酒飲みや、肉をむさぼり食う者と交わるな。大酒飲みとむさぼり食う者とは貧しくなり、惰眠をむさぼる者は、ぼろをまとうようになるからだ。(20-21)

この箇所では、ソロモンはお酒の危険性について警告します。アルコール依存症の人には、いろんな苦しみがあります。(29)

彼らは健康問題が出てきますし、彼らの思いは支離滅裂になります。(32-33)

それに、彼らの人生がどれぐらいめちゃくちゃになったか全然分かりません。次の飲み物だけを考えます(35)。

富を追い求める人もいます。ますますお金を稼ぐことだけを考えます。

しかし、ソロモンはこう警告しました。

富を得ようと苦労してはならない。自分の悟りによって、これをやめよ。あなたがこれに目を留めると、それはもうないではないか。

富は必ず翼をつけて、鷲のように天へ飛んで行く。(4-5)

要するに、この世の富は一時的なものだけです。あなたの死後に、その富を天国に持っていくことはできません。それに、パウロはこう言います。

金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。

金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。

ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。(第一テモテ6:9-10)

もちろんお金自体は悪いものではありません。とはいえ、多くの人は、お金を追い求めながら、自分の結婚や、家族や、人間関係や、自分の人生までも壊してしまいました。自分の信仰から迷い出る人もいます。

セックスを追い求める人もいます。神様はセックスを良いものとして創造されました。つまり、結婚の関係の中で、セックスは愛によって夫と妻を結び合わせるものです。

けれども、多くの人々は結婚の外でセックスを求めるため、最終的には苦しむことになります。

ソロモンは私たちに警告します。

遊女は深い穴、見知らぬ女は狭い井戸だから。彼女は強盗のように待ち伏せて、人々の間に裏切り者を多くする。(27-28)

どれくらい、多くの人が良いものを悪い方法で使ったために、自分の健康や、結婚や、ミニストリーを壊してしまったのでしょうか。

それでは、どう生きればいいのでしょうか。ソロモンはこう言います。

あなたは心のうちで罪人をねたんではならない。ただ主をいつも恐れていよ。

確かに終わりがある。あなたの望みは断ち切られることはない。(17-18)

要するに、この世の民が追い求めるものを追い求めるな。この世の民が願うものを願うな、ということです。

むしろ、神様を追い求めましょう。そうすれば、私たちには将来の希望があります。そして、その希望は決して断ち切られることはありません。

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詩篇

私たちは何によって希望があるか

今日私たちは詩篇119篇の中間点を過ぎます。

私は81節が大好きです。

私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。私はあなたのみことばを待ち望んでいます。

時々、私たちは試練を経験します。この詩人もいろんな試練を経験しました。たくさんの人々が、彼を迫害したり、彼を殺そうとしたりしました。(詩篇119:85-87,95)

83節では、彼は「私は煙の中の皮袋のようになった」と言いました。

その時代、人々が砂漠を渡った時、テントの中で火が必要なら、彼らは火の上に皮袋を吊るしました。その皮袋は煙を吸い込みましたが、だんだん縮んで堅くなりました。

そのように、周りの人々の罪によって、詩人は苦しみを吸い込み、縮んでしまいました。だから、彼は叫びました。

いつあなたは私を慰めてくださるのですか。。。

あなたのしもべの日数は、どれだけでしょうか。

あなたはいつ、私を迫害する者どもをさばかれるのでしょうか。(82-84)

それでも、神様の言葉と約束によって彼には希望がありました。最悪な状態になっても、彼はその言葉と約束にしがみつきました。どうしてでしょうか。

主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています。

あなたの真実は代々に至ります。

あなたが地を据えたので、地は堅く立っています。(89-90)

要するに、彼は神様とその約束が決して変わらないと知っていました。人々が不実なのに、神様がいつも忠実であることを知っていました。

だから、何が起きても、彼が信じたのは、神様はいつも彼を助けてくださることです。

あなたはどうでしょうか。人生の暗闇を通る時、あなたは神様の御言葉に従うでしょうか。神様が忠実であることを信じるでしょうか。

試練に直面するとき、「神様の道を行くのは空しいです。自分の道を行った方が良い。」と言うのは簡単です。

だから、私たちの結婚や、私たちの家計はダメになってしまいます。

でも、大変な時が来ても、自分自身に頼らないでください。自分の知恵に頼らないでください。むしろ、神様を待ち望みましょう。

何千年が経っても、神様の言葉は決して変わりませんでした。だから、その言葉を信頼できます。イザヤはこう言いました。

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(イザヤ40:8)

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詩篇

私たちの希望と確信

詩篇71篇はあまり有名な詩篇ではないかもしれませんが、私はこの詩篇を読めば読むほど好きになります。なぜなら、最も暗い時に、詩人は神様を知っていたので、希望と確信があったからです。

だから、彼はこう書きました。

主よ。私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。

あなたの義によって、私を救い出し、私を助け出してください。あなたの耳を私に傾け、私をお救いください。(詩篇71:1-2)

私は5節も大好きです。

神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。(5)

そして、自分の敵からの救いのために祈る時、彼は歌います。

しかし、私自身は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美しましょう。(14)

この世には、多くの人々が自分の辛い状況のため、希望を失います。だから、詩人の言葉は私の心に響きます。「私自身は絶えずあなたを待ち望みます。」

どうして彼にはそんな希望があったのでしょうか。

あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。(20)

多くの人々は自分の試練のため、神様に怒ります。しかし、詩人は神様の慈しみを確信を持って宣言します。つまり、彼が試練を通っていても、神様はもう一度彼を引き上げてくださるということです。

だから、この詩篇の中で、私たちは神様に対する彼の賛美する心を見ることができます。彼は歌います。

神よ。あなたの義は天にまで届きます。あなたは大いなることをなさいました。神よ。だれが、あなたと比べられましょうか。(19)

また、

私があなたにほめ歌を歌うとき、私のくちびるは、高らかに歌います。また、あなたが贖い出された私のたましいも。(23)

あなたはどうですか。あなたの試練のため、希望を失いましたか。それとも、神様があなたを救い出してくださるという確信を持ち、まだ希望を持っていますか。

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詩篇

勝利を思い出す

ちょっと詩篇108篇に飛びます。なぜなら、詩篇108篇には詩篇57篇と詩篇60篇の部分が含まれているからです。

具体的には、詩篇108:1-5は詩篇57篇の最後の部分から来ており、詩篇108:6-13は詩篇60篇の最後の部分から来ています。

詩篇108篇がその二つの詩篇のメドレーかどうかは分かりません。もしかしたら、ダビデはその二つの詩篇から新しい詩篇を書いたのかもしれません。でも、どうしてダビデはその二つの詩篇を組み合わせたのでしょうか。

私は二つの推測をしています。

一つ目は、ダビデが詩篇60篇を書いたときに、同時に詩篇108篇も書いたということです。

詩篇60篇の背景には、イスラエルが敵に敗れたことで苦しんでいた時期があります。だから、ダビデは神様が洞穴でどのように彼をサウルから救い出してくださったかを思い出したのでしょう。

多分彼は自分にこう言ったのです。「この敗戦には失望してはならない。神様が過去に何をしてくださったかを思い出そう。もし、過去に神様が私を救い出したなら、将来も神様は私を救い出してくださるだろう。」

二つ目は、詩篇108篇はその二つの事件の後に書かれたものであるということです。つまり、ダビデは振り返り、神様が何をしてくださったかを思い出して、神様を賛美したのです。

そのように、私たちも過去の勝利を思い出したほうが良いです。特に、苦難の時に、過去の勝利を思い出したほうが良いです。

そして、神様が私たちを救い出してくださった後、私たちは神様に感謝するべきです。

どうしてそうするべきでしょうか。

希望のためです。

苦しい時、勝利を思い出すことは私たちに希望を与えます。希望がないなら、試練に直面することは難しいです。

でも希望を持てば、どんな試練に直面しても、私たちは乗り越えられます。なぜなら、神様が私たちの味方で、私たちを助けてくださることを知っているからです。

あなたはどんな勝利を経験したでしょうか。その勝利について書きましょう。神様があなたの祈りに応えてくださるとき、そのことについて書きましょう。それだけではなく、神様をほめたたえましょう。

そうすれば、試練が来るとき、あなたは立つことができます。

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詩篇

どうして私にこんなことが起こっているのだろう?

「どうして、私にこんなことが起こるのだろう?」

そう考えたことがあるでしょうか。詩篇44篇の詩人も同じように感じました。

この詩篇の背景はよくわかりませんが、おそらくその時代、イスラエル人は神様に仕えようとしていたけれど、敵に敗れました。

だから、彼らは言いました。

「私たちの先祖が、カナンに初めて来た時の話を聞きました。その時、あなたは私たちと共におられました。あなたが私たちを愛したので、私たちは自分の力ではなく、あなたの力によってたくさんの国々を追い出しました。

あなたは私たちの王です。私たちの先祖のように、私たちは勝利のために自分自身の力に頼らずに、あなたに信頼しました。私たちはあなたを誇ります。あなたをほめたたえます。」

それでは、どうして、あなたは私たちと共におられないのでしょうか。私たちが戦う時、倒れてしまいます。周りの国々は私たちをからかうので、私たちは恥ずかしくなりました。

もし、私たちがあなたに背を向け、偶像礼拝をしていたなら、今の苦しみも理解できます。けれども、そうしていないのです。どうして、あなたは私たちを捨てたのでしょうか。

どうして、あなたの顔をお隠しになっているのでしょうか。助けてください。」

言い換えれば、「神様、どうしてこんなことが私に起こっているのでしょうか。あなたに従おうとしているのに、どうして私の人生はめちゃくちゃになっているのでしょうか。」

この詩篇では、その答えは見つかりません。

しかし、ローマ書には希望があります。パウロはこの詩篇の22節を引用しています。

だが、あなたのために、私たちは一日中、殺されています。私たちは、ほふられる羊とみなされています。(詩篇44:22)

けれども、パウロは言います。

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ書8:37-39)

神様は、私たちには決してトラブルが起こらないとは約束されていません。私たちが決して苦しまないとも約束されていません。むしろ、私たちがきっと苦しむことになると宣言されました。(ヨハネ16:33、第二テモテ3:12)

しかし、何が起こっても、神様は私たちがその苦しみを乗り越えられるように助けてくださることを約束されます。そして、何も私たちを神様の愛から引き離すことはできません。

それが私たちの希望です。だから、苦しむ時は詩人のように神様に叫びましょう。そして、神様が近いと感じても感じなくても、神様があなたの叫びを聞いておられると思っても思わなくても、神様の約束に縋りつきましょう。

私たちの感情はよく変わります。神様が近いと感じる時も感じない時もあります。けれども、神様とその約束は決して変わりません。

だから、パウロの言葉を覚えておきましょう。

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(第一コリント15:58)

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詩篇

自分自身を神様の御手に委ねる

いつダビデが詩篇31篇を書いたか分かりませんが、サウルから逃げた時に書いたかもしれません。

私は21節を見ると、ダビデがケイラという町から逃げた時に(第一サムエル記23章)、この詩篇を書いたのかもしれないと思います。とは言え、それはただ私の意見に過ぎません。

私の心を打つのは、ダビデが神様の助けを請いながら、何回も神様に対する信頼を宣言するということです。

彼はこう言いました。

私の霊を御手にゆだねます。真実の神、主よ。

あなたは私を贖い出してくださいました。(詩篇31:5)

また、

しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。「あなたこそ私の神です。」

私の時は、御手の中にあります。(14-15)

私たち皆、何かしら苦しむ時を経験します。その時、自分自身だけに信頼することは簡単なことです。私たちは自分の状況をコントロールしようとします。

しかし、生きようが死のうが、ダビデは自分の命を神様に委ねました。

彼はこう言いました。

「私の命はあなたの手にあります。周りの人々は私を殺そうとしていますが、あなたが私を生かし続けたいのであれば、彼らは成功しません。だからたとえ私が死ぬことになっても、自分の状況をコントロールしません。」

第一サムエルによれば、ダビデには自分の状況をコントロールする機会が二つありました。ダビデはサウルを殺す機会が二つありましたが、殺すことを拒絶しました。

イエス様は十字架で、その態度を示されました。つまり、イエス様は自分の命を天の父の手に委ねられました。

この詩篇はメシアについての詩篇ではありませんが、ダビデの言葉でイエス様の経験もよく見えます。

ダビデのように、イエス様は悲しみをよく知っておられました。苦しみもよく知っておられました。(10)

ダビデのように、イエス様は非難されました。(11)

ダビデのように、イエス様は友達に捨てられました。(11-12)

ダビデのように、人々はイエス様を謗って、殺そうと思いました。(13)

ダビデのように、イエス様は天の父に叫ばれました。「どうして、あなたは私をお見捨てになったのですか?」(22)

けれども、ダビデのように、イエス様は自分の状況をコントロールしようと思われませんでした。むしろ、自分の命を天の父の手に委ね、死ぬ前に言われました。「私の霊を御手にゆだねます。」(5)

イエス様が天の父に従われたので、今私たちには希望があります。その希望は、もし私たちが神様に信頼するなら、結局私たちは恥を見ない、ということです。(17)

また、神様が私たちに慈しみを与えてくださる希望があります。(19)

また、私たちの救いの希望があります。(22-23)

だから、ダビデのように叫びましょう。

雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。(24)

神様に心から信頼しましょう。

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ゼカリヤ書

再びこの世に来られる方

私が好きな歌の一つは、ダラス・ホルムの「Rise Again(よみがえる)」という歌です。この歌は、十字架のイエス様の言葉を想像しています。そして、イエス様が死からよみがえられた後、この歌の中で、イエス様はこう言われます。

どうぞ、私がもう死んだと言ってみてください。
しかし、あなたが間違っていることが分かるでしょう。

どうぞ、私を隠そうとしてみてください。
しかし、結局、この世のすべての人々が、私が救い主であることを知ることになります。

なぜなら、私はこの世に戻るからです。
私が戻ってくるのを止めることができる者は、誰もいません。

私はこの世に戻ります。 私の民を取り戻すために、私は戻ります。

この聖書の箇所は、キリストの再臨について記されています。1〜8節には、神様がこの世の国々とその民を裁かれることが書かれています。

この箇所を黙示録6章と比較すると、おそらく白い馬は戦争を表し、赤い馬は暴力と流血を象徴し、黒い馬は飢饉と死を表しています。また、まだら毛の馬は、黙示録に登場する青ざめた馬と同様に死病を象徴している可能性があります。

これは非常に恐ろしい光景ですが、それでも神様は全てをコントロールされています。あなたは、私たちがその災いをすでに経験していると思うかもしれません。けれども、実際、神様はまだ完全な裁きを注いでいないのです。

しかし、ある日、神様はご自身の怒りのすべてをこの世に注がれます。その時、これまで誰も知らなかったような苦しみがこの世に訪れるのです。

その後、イエス様がこの世に戻られます。この箇所では、大祭司ヨシュアがイエス様を象徴しています。(以前述べたように、「ヨシュア」という名前はギリシャ語で「イエス」を意味します。)

ゼカリヤはヨシュアのために冠を作り、その頭にかぶらせました。その時、ゼカリヤはヨシュアが象徴する救い主について預言しました。

ヨシュアは大祭司でした。一方で、ゼルバベルはダビデの子孫でしたが、王ではなく総督でした。しかし、将来現れる救い主は、王であり、同時に大祭司でもあるのです。

ゼカリヤはこう言いました。

彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある。(11)

多分、この宮はヨシュアとゼルバベルが建てた宮ではなく、むしろエゼキエル書40~43章に記されている宮でしょう。その時、イエス様は完全な王であり、大祭司となられます。

先に進む前に、少し説明しなくてはならないことがあります。聖書の翻訳は非常に難しく、この箇所ではヘブル語の意味が微妙です。

例えば、ヘブル語の11節では「二」と記されています。この「二」が、「二人」を指すのか、「二つの任務」、つまり「王と大祭司の任務」を指すのか解釈が分かれるのです。

ある英語訳では、「the counsel of peace will be between the two offices」(二つの任務の間に平和の一致がある)と訳されています。

一方、日本語訳では、「このふたりの間には平和の一致がある。」とされています。(実際、日本語訳に近い英語訳もあります。)

これらの解釈の違いは、さらに他の箇所の翻訳にも影響を与えています。日本語訳では、「その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいる」と訳されていますが、英語訳では、「he will be a priest on his throne」(彼は祭司であって、王座にいる)とされています。

したがって、日本語訳を読むと、大祭司と王は別々の人物であるかのように感じられますが、英語訳では、大祭司と王が同一人物であることが示唆されています。

明確にしておきたいのは、英語訳も日本語訳もヘブル語に忠実であることです。とはいえ、神様が与えられたビジョンを考慮すると、多分英語訳がより適切かもしれません。

例えば、祭司ヨシュアが王の冠を受け取ったことは、この箇所の重要な象徴です。また、聖書の他の箇所からも、イエス様が王であるだけでなく、大祭司でもあることが明らかにされています。

さて、この箇所から私たちは何を学べるのでしょうか。それは、どんな状況にあっても私たちには希望があるということです。

私たちの世界には多くの問題があります。政治家に目を向けても、彼らを完全に信頼することは難しいです。アメリカでは「正直な政治家」という言葉が矛盾しているかのように感じられています。(日本人はどう思うでしょうか。)

さらに、スキャンダルの影響でクリスチャンのリーダーたちも評判を失うことがあります。

けれども、イエス様が再び戻られる時、この世を正義によって支配し、イエス様の清さはすべての人々に明らかにされます。そして、イエス様を通して、私たちは天の父なる神様の御性質を知ることができるのです。

ですから、戦争や病気、飢饉、天災を見るとき、失望しないでください。神様がすべてを支配しておられるからです。

また、腐敗した政治家や霊的に堕落したリーダーを見るときも、がっかりしないでください。イエス様は必ずこの世に戻って来られるのです。

だからこそ、イエス様に焦点を当ててください。他のものに焦点を当てると、私たちはすぐに失望してしまいます。しかし、イエス様に焦点を当て続ければ、希望は決して奪われることはありません。

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エゼキエル書

死者をよみがえらせる方

この箇所を読むとき、私はイースターについて思い浮かべます。なぜなら、この箇所を通してイースターの意味を鮮明に見ることができるからです。

37章で、エゼキエルは不思議な幻を見ました。谷には、たくさんの干からびた骨が広がっていました。そして、神様はエゼキエルに問いかけられました。

人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。(エゼキエル書37:3a)

エゼキエルはこのように答えました。

神、主よ。あなたがご存じです。(3b)

そして、神様はエゼキエルにこう言われました。

「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。

見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。

わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」(4-6)

エゼキエルは神様の指示に従いました。すると、すぐにその骨が人間となり、神様が彼らに息を与えると、彼らは非常に多くの集団となったのです。

その集団がエゼキエルの前に立ったとき、神様はエゼキエルにその幻の意味を説明してくださいました。

人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。

ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる』と言っている。

それゆえ、預言して彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。

わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。

わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。

このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。――主の御告げ――(11-14)

イスラエルの希望は本当に失われていました。彼らの王と祭司は殺され、イスラエルの民は追放されてしまいました。

けれども、神様は彼らにこう言われました。

「あなたはすべてを失ったと思うかもしれない。しかし、私は死者をよみがえらせる力を持つ神です。あなたの国が滅び、あなたがたが追放されたとしても、私の力によってあなたは自分の土地に戻るでしょう。

私はあなたの罪を癒し、壊れた関係を回復します。私の聖霊はあなたの中に宿り、あなたはもう一度生きるのです。

私はあなたの神となり、あなたは私の民となります。そして、私は永遠にあなたと共に住むでしょう。」

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちの多くには、壊れた夢や壊れた人生があります。それらがすべて潰されて、もう修復されることはないと思うかもしれません。私たちはまるで干からびた骨のように感じることがあります。

しかし、神様はあなたに命を与えてくださいます。神様はあなたの人生と希望をよみがえらせることができるのです。

ある人はこう言いました。「イエス様がこの世に来られた目的は、悪い人を良い人に変えることではありません。イエス様が来られた理由は、死んだ人をよみがえらせることです。」

パウロは私たちについてこう書きました。

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって。。。この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。(エペソ人への手紙2:1、12)

けれども、キリストにあって、私たちの罪は赦されます。壊れた人生は癒され、神様は私たちの干からびた骨を新しくしてくださいます。私たちが神様を呼び求めるなら、神様は必ず私たちを救ってくださいます。

パウロはこう書きました

同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。(ローマ10:12-13)

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エゼキエル書

私たちの国の希望はどこから来るか

私たちの国の希望はどこから来るのでしょうか。

イスラエルの人々は自分たちのリーダーたちに信頼を置きました。彼らは、そのリーダーたちの力と知恵によってイスラエルが栄えることを願い、希望しました。

そして、アッシリヤやバビロンの軍隊が攻撃してきたとき、イスラエルの人々は救いをリーダーたちに求めました。

けれども、彼らの希望は虚しいものでした。この箇所は、そのことについて語っています。

雌獅子はイスラエルを象徴していました。その最初の子獅子はエホアハズでした。彼はユダの王となりましたが、三か月後にはエジプトへ追放され、そこで死にました。

次に王となったのはエホヤキムでした。けれども、彼もまたユダを救うことはできませんでした。それどころか、彼はエジプトのしもべとなりました。

その後、バビロンがエジプトを打ち破ると、エホヤキムはバビロンのしもべとなり、最終的にはバビロンへ追放されることになりました。

だから、

雌獅子は、待ちくたびれ、自分の望みが消えうせたことを知ったとき、子獅子のうちのほかの一頭を取り、若い獅子とした。(エゼキエル書19:5)

その若い獅子はエホヤキンでした。しかし、彼もまたバビロンへ追放されてしまいました。

そのため、エゼキエルはイスラエルのために深く悲しみました。かつてイスラエルは実を結ぶ良い枝のようであり、国々の中で力強い存在でした。

ところが、自分たちの罪のゆえに、ユダは、

憤りのうちに引き抜かれ、地に投げ捨てられ、東風はその実を枯らし、その強い枝も折られて枯れ、火に焼き尽くされた。(12)

そして、ユダは、

荒野と砂漠と、潤いのない地に移し植えられ「た」。(13)

つまり、彼らはバビロンに追放されました。(10-14)

その結果、結局イスラエルの人々が信頼して委ねた王たちは皆、いなくなってしまいました。

多くの国々の希望は、そのリーダーたちにかかっています。そのリーダーたちの知恵と力によって、その国が栄えることを望んでいます。

しかし、その国民が神様に背を向けて自分の道を進むなら、どれだけリーダーが優れていても、命の源から離れてしまえば国は枯れ始めます。

もしそのリーダーが悪い者であれば、その国はさらに早く滅びます。

国の救いは政治家にはありません。国の救いは人々の心から始まります。一人一人が神様に向かい、自分の心を捧げるなら、国は変わり始めるのです。

私は政治が重要ではないと言っているのでしょうか。そうではありません。とはいえ、私たちの国が神様に向かわなければ、希望はまったくありません。

ですから、あなたはどのように行動していますか。周りの人々に神様の愛をもって接していますか。

神様は私たちに暗闇の中の光となるように呼びかけています。私たちはその光となりましょう。

神様こそが、この国の希望です。神様こそが、この世界の希望です。

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エゼキエル書

終わり

私が子供の頃、キカイダーというスーパーヒーロー番組を見ていました。最近キカイダーの映画が上映されて、私は驚きました。(私はその映画を見る興味はありませんが。)

さて、キカイダーはいつも怪獣と戦い、最後に「電磁エンド!」と叫びながらその怪獣を倒していました。

その時、英語の字幕はいつも「The end」とだけ表示されていました。(どうして「電磁」を翻訳しなかったのでしょうね。)

では、なぜ私はこのちょっと可笑しい話について話しているのでしょうか。それは、この箇所で神様がイスラエル人に同じようなメッセージを語られたからです。

「電磁エンド」とは言われませんでしたが、「終わりが来る」と語られました。

神様はこう言われました。

終わりが来る。その終わりが来る。あなたを起こしに、今、やって来る。この地に住む者よ。あなたの上に終局が来る。その時が来る。その日は近い。

しかし、山々での歓声の日ではなく、恐慌の日だ。今、わたしはただちに、憤りをあなたに注ぎ、あなたへのわたしの怒りを全うする。

わたしはあなたの行ないにしたがって、あなたをさばき、あなたのすべての忌みきらうべきわざに報いをする。(エゼキエル書7:6-8)

つまり、「あなたの終わりが来る。あなたは何度も私に逆らった。けれども、裁きの日が来て、バビロン人が来て、あなたを滅ぼすだろう。」

この箇所を読むと、神様からの裁きについていくつかのことを学ぶことができます。

1つ目は、私たちが自分の罪によって裁かれるということです。

これまで、神様があなたを罰していないからといって、あなたは裁きが決して来ないと思うかもしれません。しかし、裁きの日には、神様は私たちの罪をすべて思い出し、私たちを罰されます。

2つ目は、神様の愛は裁きを止めるものではないということです。

神様はイスラエル人にこう言われました。

わたしはあなたを惜しまず、あわれまない。わたしがあなたの行ないに仕返しをし、あなたのうちの忌みきらうべきわざをあらわにするとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。(4)

多くの人は尋ねます。「もし神様が愛の方であるなら、どうして神様は人を地獄に行かせるのでしょうか。」

確かに神様は愛の神ですが、同時に正義の神でもあります。神様は清いお方であるため、罪を罰さなければなりません。

さらに、神様は罪を全く耐えることができません。そのため、罪によって汚された人は神様と交わることができません。そしてその罪のゆえに、人は神様から離れなければなりません。

それが地獄です。地獄とは神様から離れた存在のことです。

神様から離れると、私たちには絶望しか残りません。神様は私たちがそのような状態になることを望んでおられませんが、それでも私たちが神様に背を向ければ、そのような人生以外に道はありません。

3つ目は、私たちがこの世でどれほど多くの物を集めても、裁きが来るということです。

私たちはお金や持ち物で自分の救いを買うことはできません。神様はイスラエル人についてこう言われました。

 彼らは銀を道ばたに投げ捨て、彼らの金は汚物のようになる。

銀も金も、主の激しい怒りの日に彼らを救い出すことはできない。(19)

あなたが物を集めても、土地を買っても、お金を儲けても、裁きの日にはそれらすべてが無駄になります。

そして最後に、私たちは知っていることによって裁かれます。私たちが知らないことによっては裁かれません。神様はイスラエル人にこう言われました。

わたしが彼らの行いにしたがって彼らに報い、彼らのやり方にしたがって彼らをさばくとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」(27)

彼らの行い、つまり、彼ら自身の基準によって、神様はイスラエル人を裁かれました。

どの国にも、その国独自の基準があります。すべての国には、自国の法律があり、またそれぞれの道徳法則があります。

時には、それらの法律や道徳法則が神様の律法と異なることもあります。とはいえ、私たちの道徳感覚が曇っていても、私たちの心は善悪をおおよそ理解しています。

それにもかかわらず、私たちはその曇った基準に従わないことがあります。だから、人々は自分自身の基準によって裁かれるのです。

裁きの日には、神様は私たちにこう言われます。「あなたにはまったく言い訳がありません。なぜなら、あなた自身の基準によってあなたは裁かれるからです。」

では、私たちにはもう何の希望もないのでしょうか。私たち全員が裁きを受ける運命にあるのでしょうか。

決してそんなことはありません。イエス様はこの世に来て、十字架で私たちの罰を引き受けてくださいました。

だから、もしあなたがイエス様とその働きに信頼を置くなら、あなたの罪は清められます。(第一ヨハネ1:7)

ですから、私たちの罪を捨て、イエス様に心を向けましょう。イエス様にあって私たちには希望があります。

しかし、イエス様との関係がなければ、希望はまったくありません。

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エレミヤ書

私たちがこの世にいる間

このブログで、この箇所について英語で書いた時(3年前)、私は命と死について深く考えていました。なぜなら、私の教会で本当に愛された方が亡くなったからです。

彼女は牧師ではありませんでしたが、生きている間に多くの人々に影響を与えました。

この箇所を読んだとき、私は自分の人生について考えました。

神様はバビロンに追放された人々に語られました。彼らは自分の家と国を離れざるを得ず、偶像で満ちた国に連れて行かれました。その国は本当に不敬虔な場所でした。

それでも、神様は彼らにこう言われました。

家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。

妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。

わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」(エレミヤ書29:5-7)

神様は、私たちに同じことを言われています。ユダヤ人と同じように、私たちも不敬虔で偶像に満ちた世界に住んでいます。そのため、「もう天国に行きたい。この世界の悪や問題に向き合いたくない」と言うのは簡単なことです。

けれども、神様は私たちにこう言われます。

「この世にいる間、私があなたに与えた人生を楽しみなさい。結婚しなさい。子供を産みなさい。働きなさい。そして、あなたが住んでいる場所の繁栄を求めなさい。その場所のために祈りなさい。なぜなら、その場所の繁栄はあなたの繁栄になるからです。」

時には、クリスチャンがこの世界から自分自身を隔離してしまうことがあります。彼らは恐れて、教会を自分たちの砦とし、神様にこう祈ります。「神様、私たちを守ってください。」

しかし、それは神様の望みではありません。神様は、私たちが自分のコミュニティの中で積極的な役割を果たすことを望んでおられます。

神様は、私たちが周囲の人々に触れて、影響を与えることを望んでおられます。神様は、私たちが政治に参加することを望んでおられます。(あなたは投票するでしょうか。)

さらに、神様は私たちが自分のコミュニティと国のために祈ることを望んでおられます。

そして神様は、私たちが未来を恐れずに、この世にも良い将来と希望があることを知るように望んでおられます。

神様はこう言われました。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ――

それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。

もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。。。(11-14)

神様はユダヤ人たちにそう言われましたが、私たちにもそう言われます。

ですから、私たちがこの世にいる間、主を求めましょう。また祈りましょう。

将来を恐れないでください。この世の悪を恐れないでください。

むしろ、神様が与えてくださった人生を楽しみましょう。私たちは、与えられた賜物を用いて、神様とその御国のために働きましょう。そして、周囲の人々に触れて、影響を与えましょう。

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エレミヤ書

私たちの希望はどこから来るか

この箇所では、さらに裁きの警告を読むことができます。エレミヤはユダ人たちに対して、彼らの罪が原因で追放されると警告しました。また、彼らが希望の光を求める一方で、神様が彼らを絶望の暗闇で覆うことになると告げました。

けれども、その裁きが訪れる前に、神様はもう一つの警告をお与えになりました。それが、日照りという形で示されました。

その日照りの中で、エレミヤは祈りました。「私たちは罪を犯しましたが、どうかお赦しください。」(エレミヤ書14:7-9)

しかし、神様は答えられました。

この民のために幸いを祈ってはならない。彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のいけにえや、穀物のささげ物をささげても、わたしはそれを受け入れない。

かえって、剣とききんと疫病で、彼らをことごとく絶ち滅ぼす。(エレミヤ書14:11-12)

それでも、エレミヤはユダ人たちのために祈り続けました。彼はこのように祈りました。

異国のむなしい神々の中で、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるでしょうか。

私たちの神、主よ。それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたがこれらすべてをなさるからです。(エレミヤ書14:22)

エレミヤが理解したのは、私たちにはただ一つの希望しかないということです。それは神様です。しかし、ユダ人たちは自分自身の力と知恵に頼り、また他の国々との同盟に依存しました。

その結果、彼らのプライドによって滅びました。そして、彼らがしがみついていた神々は彼らを救うことができませんでした。

あなたの希望はどこから来るのでしょうか。その希望は神様から来ているでしょうか。あなたは人生のすべてを神様に信頼していますか。神様の道を歩んでいますか。

それとも、ユダ人のように、自分自身に信頼し、この世の神々に従っているのでしょうか。

神様に信頼しない限り、私たちに希望はありません。だからこそ、裁きが訪れる前に、神様に向き直り、従いましょう。

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イザヤ書

神様の愛を反映する

イザヤ書60:1ー3が大好きです。

起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。

見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。

しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。(イザヤ書60:1~3)

「国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」

「あなたの光」、「あなたの輝き」というのはどういう意味でしょうか。

一節には、「あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いている」と書かれています。

そのため、「あなたの光」とは神様を指しているのでしょうか。つまり、国々は直接主のもとへ来るということなのでしょうか。

それとも、私たちが主を反映する存在であるために、国々は私たちのところに来るのでしょうか。

おそらく、そのどちらも真実なのではないでしょうか。

イエス様の栄光が私たちの上に輝いているため、周りの人々はそれに気づき、私たちに興味を持つようになります。そして、私たちを通して彼らもイエス様を知りたいと思うようになります。

この世には、悪と罪が満ちています。そのため、多くの人々は暗闇に迷い込み、「この世にあって望みもなく、神もない人たちでした」(エペソ2:12)とあるような状態にあります。

けれども、イエス様がこの世に来られた時、その暗闇の中でイエス様は光となりました。イエス様は希望の光でした。

そして今、イエス様はその希望の光を私たちの心に照らしてくださいました。ですから、私たちはそのいただいた光をこの世に反映するように召されています。

私たちの贖いと救いを喜ぶことは、確かに良いことです。しかし、神様は私たちが神様の光をこの世に照らすように召されています。なぜなら、神様はこの全世界の人々が、私たちが与えられた喜びを知ることを望んでおられるからです。

イエス様はこう言われました。

あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイの福音書5:14-16)

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イザヤ書

神様に忘れられた?

「神様は私を忘れられたのだろうか。私には希望が残されているのだろうか。」

ユダヤの亡命者たちは、きっとそう思ったことでしょう。彼らは心の中で叫び続けていました。

主は私を見捨てた。主は私を忘れた。(イザヤ書49:14)

時々、私たちも同じように感じることがあります。「神様に捨てられた」と思います。また、「私は希望がない」と思います。

女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。

たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。

見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。(イザヤ書49:15-16)

つまり、私たちは、母が自分の乳飲み子を忘れることを想像することはできません。また、母が自分の子を憐れまないことも考えられません。とはいえ、この壊れた世界では、自分の子を捨てる母親もいるのです。

それにもかかわらず、神様はこう言われます。

「そのような親しい母子の関係が壊れたとしても、私は決してそのようなことをしない。私の愛は母の愛よりも深いから。あなたを決して忘れない。あなたを決して捨てない。」

神様はイスラエルの民を彼らの土地に帰らせることを約束されました。そして、たとえ彼らが希望を失ったとしても、神様はもう一度彼らに祝福を注ぐと約束されたのです。その時、

あなたは、わたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。(23)

私が主であることを知る。

私たちは本当にそのことを理解しているのでしょうか。「私は神様を信じている」と言いながらも、私たちの行動はその言葉と一致しているでしょうか。

神様の約束を心から信じているでしょうか。

神様が私たちの将来をその御手の中に持っておられることを信じているでしょうか。

神様がご自身の約束を守られることを、本当に信じることができるでしょうか。

私たちに希望が見いだせない時でさえ、神様に信頼し、従い続けることができるでしょうか。

わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。

何によって希望を見出すのでしょうか。私たちには本当に希望があるのでしょうか。

神様が約束されたのは、もし私たちが神様を待ち望み、また神様に従い続けるなら、最終的に神様の祝福を体験するということです。

けれども、時々私たちは神様に失望させられると感じることがあります。そのため、神様に信頼し従うことをためらうこともあるでしょう。

「もし神様に従っても、良い結果が得られなかったら、私はどうしたら良いのだろうか。」

あるいは、こう考えるかもしれません。

「神様に従うことで、私の状況がさらに悪化するのではないか。」

けれども、神様の約束は、最終的に私たちが恥を見ないということです。ある英語の翻訳では、「神様は私たちをがっかりさせない」と書かれています。

しかし、あなたは本当にそう信じているでしょうか。神様が来られるまで、待ち望むことができるでしょうか。

あなた自身はどうでしょうか。「忘れられた」と感じていますか。「捨てられた」と思っていますか。「もう希望がない」と思っていますか。

神様はあなたを決して忘れていません。神様はあなたを決して見捨てません。もしあなたが神様に向かうなら、神様はあなたに希望を与えてくださいます。

神様を信頼してましょう。神様を待ち望みましょう。そして、神様の言葉に従いましょう。そうすれば、たとえ大きな試練に直面しても、最終的にあなたは恥を見ることがないのです。

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正義と希望を与える方

このイエス様に関する預言がとても大好きです。天のお父様はこう語られます。

見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。。。

まことをもって公義をもたらす。彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。(イザヤ書42:1、3-4)

英語では、このような質問をよく耳にします。「誰がこの世界がフェアだと言うでしょうか。」

その答えは明白です。「だれもそう言わない。この世界はフェアではないからです。」

この世界には、不正義が溢れています。たとえば、裁判官が犯罪者を何度も開放することがあります。

けれども、いつの日か、イエス様は再びこの世に戻られます。その日、イエス様はこの不公平な世界に正義を打ち立てられます。

人々は皆、イエス様の前に立ち、自分の行動について申し開きをしなければなりません。そして、イエス様は全ての人を正しく裁かれます。

しかし、イエス様は正義だけをもたらされるのではありません。砕かれている人々や、苦しんでいる人々には癒しを与えられます。また、希望を持てない人々には希望を与えてくださいます。

私は特に3節が大好きです。

彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく。。。

また、6-7によれば、イエス様は、

国々の光とする。こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。

多くの人々は暗闇の中で生きています。彼らは神様の良さを目にすることができず、罪の囚人として縛られ、そこから逃げ出すこともできません。

けれども、イエス様は私たちの目を開き、暗闇から解放してくださり、神様の素晴らしい光へと導いてくださいます。

16節には、このように書かれています。

わたしは目の見えない者に、彼らの知らない道を歩ませ、彼らの知らない通り道を行かせる。

彼らの前でやみを光に、でこぼこの地を平らにする。これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない。

だからこそ、イエス様にあって、私たちは深い喜びを得ることができます。

そして、いつの日か、私たちはこの歌を共に歌うことでしょう。

主に向かって新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから。海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者よ。

荒野とその町々、ケダル人の住む村々よ。声をあげよ。セラに住む者は喜び歌え。山々の頂から声高らかに叫べ。主に栄光を帰し、島々にその栄誉を告げ知らせよ。(10-12)

希望と正義――イエス様はこれらをもたらすためにこの世に来られました。

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希望の力

希望。

未来に直面するとき、私たちに必要なのは希望です。希望がなければ、残るのは絶望だけです。

このイザヤ書の箇所では、イスラエルの民もそう感じていました。彼らは絶望し、人生は混乱し、神様が遠くにおられるように感じていました。だから、彼らは叫んでいたのです。

私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。(イザヤ書40:27)

つまり、こう問いかけるのです。

「神様、どこにおられるのですか。あなたは本当にここにおられるのですか。私を愛しておられるのですか。それとも、私を愛しておられても、私を助ける力がないのですか。」

しかし、神様は答えられました。

あなたは知らないのか。聞いていないのか。

主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。(28)

神様が言われるのは、こういうことです。

「何を言っているのですか。もちろん、私はあなたを助けることができます。私がすべてのものを造ったことをご存じではないのですか。

あなたとは違って、私は決して疲れることがなく、たゆむこともありません。私の英知は、人間の知恵よりも遥かに優れているのです。」

そして、神様はこの慰めの言葉を言われます。

疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。

若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(29-31)

神様はあなたにこう訊かれます。「あなたは疲れているのですか。私は疲れた人に力を与えますよ。あなたにはもう精力がないのですか。私はあなたに活気を与えますよ。」

その力と活気を得る鍵は何でしょうか。

それは神様を待ち望むことです。神様の憐みを思い出しましょう。神様の愛を思い出しましょう。そして、神様があなたのために計画を持っておられることを思い出しましょう。

もしそのことを思い出し、そして神様を待ち望むならば、何が起こっても、それを乗り越える力を受けることができます。それだけではなく、あなたは鷲のように翼を広げて上がることができるのです。

あなたは希望を失いましたか。この箇所を暗記して、その言葉の意味をよく考えてみましょう。

そして、パウロが言ったように、

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)

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裁きと贖い

裁きと贖い。聖書では、この二つのコンセプトを頻繁に目にします。この箇所でも、その二つのコンセプトを見ることができます。

34章では、神様がイスラエルを攻撃した国々を裁き、滅ぼします。

35章では、イスラエルの贖いが描かれています。その贖いはどのように来るのでしょうか。

それは、イエス・キリストを通してやって来ます。

イザヤはイスラエル人を励まします。

弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。

「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」(イザヤ書35:3-4)

「あなたの神は来られる。」

短期的には、神様はアッシリヤ人やバビロン人を裁きに来られました。しかし、神様は救いのためにも来られました。

5-6節で、イザヤはこう言っています。

そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。

そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。(35:5-6a)

バプテスマのヨハネは牢にいた時、自分の弟子たちをイエス様のもとに送り、こう質問しました。「あなたは本当にメシアでしょうか。」

それに対して、イエス様は答えられました。

あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。

目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。(マタイ11:4-5)

多分、イエス様はこのイザヤの箇所を考えておられたのでしょう。イエス様はこう言われました。

「イザヤの言葉を覚えていますか。つまり、神様が来ると、目の見えない者の目が開かれ、耳の聞こえない者の耳が開き、足の不自由な者は鹿のように跳びはねるということです。覚えていますか。

今、それは起こっています。

だから、ヨハネに伝えてください。「あなたの弱い手を強め、あなたのよろめく膝をしっかりせよ。強くあれ。恐れるな。私は来たから。あなたの希望を捨てないでください。」」

ヨハネのように、私たちは時々神様を疑うことがあるかもしれません。私たちの信仰が枯れて、神様が本当に存在するのかを疑い、神様の愛を疑い、神様からの救いが本当に来るのかどうかを迷うことがあります。

しかし、イエス様がヨハネに言われたように、疑いに負けないでください。イエス様にすがってください。イエス様は来られたのです。

そして、イエス様はあなたのところに来てくださいます。イエス様が来られると、

荒野に水がわき出し、荒地に川が流れる。。。

焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり[ます]。。。(イザヤ書35:6b-7a)

そして、ある日、あなたは、

喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。

楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。(イザヤ書35:10)

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死が滅ぼされる時

2011年に、私の父は入院して、健康状態が非常に悪いと聞きました。私の母と姉はどれぐらい父が生き続けるか分かりませんでした。

それを聞いて、私の家族は父を見舞うためにハワイに帰省しました。私たちがハワイにいる間に、私の父は亡くなりました。

多くの人々にとって、死は苦しいことです。

父の最後の週に、私は毎晩父の部屋にいて、待ちました。彼はずっと寝て、全然起きなくて話しませんでした。それでも、私は父とよく話しました。

父は私の言うことが聞こえていたかどうか分かりません。本当に辛かったです。

ある日、私は午前12時に兄の家に戻り、姉が私の代わりに父の部屋で待ってくれました。5時間後、父は最後の息を引き取りました。

死は本当に苦しいことです。

でもある日、死も無くなります。

この箇所ではイザヤはイエス様の再臨について話します。イザヤはその事についてこう言いました。

この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。

神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。(イザヤ書25:7-8)

その日、皆は神様にこの賛美を歌います。

見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。(9)

父が亡くなった時は、糖尿病や肺炎を患っていたし、もう目が見えなかったし、足に全然治らない傷がありました。

でも、今その健康の問題は全部無くなりました。父の苦しみと痛みのすべては勝利に飲まれました。(第一コリント15:54)

だから、父は大きな声で天国の皆と一緒に救いの歌を歌っています。毎日、父は主の食卓で食べています。

もう一度私の父に会うことを楽しみにしています。

私はある歌が大好きです。その歌を聞くと、父のことを思い出します。そして、私たちの希望についても思い巡らします。

There are burdens that I carry every day
毎日私は重荷を背負っています。
Sometimes it makes me want to cry
時々私は泣きたくなります。
Hopeless feelings harbored deep inside my heart
私の心の中に絶望の思いがあります。
And I find it hard to hold my head up high.
だから、私の頭を上げることは難しいです。

In the middle of the darkness in my life
その人生の暗闇の中に
I find the strength to carry on.
私は生き続ける力を見つけます。
I am holding to a promise Jesus made
イエス様の約束を握っているからです。
And I know it won’t be long ‘til we’ll be gone.
そろそろ私たちはこの世から去ると知っています。

In a while, we’ll be gone.
もうすぐ私たちはこの世から去ります。
And we won’t have to cry anymore.
その時、私たちはもう泣く必要がないのです。
All our sorrows left behind.
私達の悲しみはこの世に残ります。

That’s the day that I am waiting for.
私はその日を待っています。

That’s the day I’m longing for.
その日を願っています。

That’s the day that I am looking for.
その日を待ち望んでいます。

ーー エイミー・グラント

あなたがキリストにある希望を見いだすことができますように。

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一時的な安心、永遠の希望

この預言はドマ(つまりエドム)とアラビヤに対するものです。そして、その預言によって、神様はこの二つの国に将来の裁きについて警告されました。

11節でエドム人は叫びました。「今は夜の何時か。」

つまり、

「私たちは苦しんでいる。いつまでアッシリヤ人の手によって私たちは苦しむのだろうか。」

イザヤの答えは暗いです。「朝が来、また夜も来る。」(イザヤ書21:12)

つまり、アッシリヤから救い出されますが、あなたは少しだけ安心します。アッシリヤは倒れますが、あなたが彼らを倒すわけではありません。そして、アッシリヤ人を倒す人々(つまりバビロン人)によって、あなたの人生はもっと惨めになります。

それは紀元前612-605年に起こりました。

そしてイザヤはアラビヤも、この預言の一年以内に倒れると警告しました。

本当に暗いメッセージです。

とはいえ、この箇所によって私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たち皆は時々辛い時を経験します。私たち皆は時々苦しみます。

この辛い時は来たり、行ったりします。誰でも良い時も悪い時も経験します。

けれども、神様と関係のない人にとっては、結局エドム人とアラビヤ人のように希望がまったくなくなります。彼らは死ぬと、地獄に行って永遠に苦しみます。

しかし、キリストと関係があると、私たちは結局光がある事を知ることができます。パウロはこう記しました。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。。。

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。。。

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。(ローマ8:18、22-23)

パウロは私たちの苦しみは辛いけれど、それは一時的なものだと分かりました。だから、彼の人生には苦しんでもいつも希望がありました。私たちにもその希望があります。

私たちの苦しみは永遠に続きません。

だから、苦しむときには、神様に向かいましょう。神様を仰ぎましょう。

今もなお、聖霊様があなたのために祈ってくださっていることを思い起こしてください。聖霊様が私たちのために祈ってくださっているからこそ、パウロはこのように語ることができたのです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ書8:28)

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砕かれた人々のための希望

この箇所はちょっと難しいです。多くの聖書の学者によれば、この箇所はペルシア人とメディヤ人がバビロンを攻撃することを預言しているものです。とはいえ、ほかの可能性もあります。

その攻撃の150年以上前に、バビロンはメディヤ人とエラム人と同盟を結んでアッシリヤを攻撃しました(紀元前700年ごろ)。

そしてユダはそれを見て、その同盟を応援しました。なぜなら、アッシリヤはユダも虐げたからです。

イザヤもそれを見て、希望を持ったかもしれません。けれども、イザヤはこの主からの幻を見て、泣きました。なぜなら、その攻撃は失敗して、バビロンが倒れたからです。(イザヤ書21:3-4)

最初にその攻撃について聞いた時、ユダ人たちは大宴会を催しましたが、バビロンが倒れたニュースを聞いたら、希望がなくなって、その大宴会は急に終わりました。

しかし、イザヤは彼らに言いました。

踏みにじられた私の民、打ち場の私の子らよ。私はイスラエルの神、万軍の主から聞いた事を、あなたがたに告げたのだ。(イザヤ書21:10)

この言葉は脱穀された穀物の絵です。最初に穀物の穂は踏まれます。そして、その穀物の種が出て、農夫はその穀物を空気中に投げます。そうすると、風によってその要らない殻が吹き飛ばされて、穀物は落ちて保存されます。

そのように、神様はユダ人たちがアッシリヤ人に踏まれたとしても、神様が主を愛して仕える残りの者を保護すると約束されました。しかし、以前ユダ人が信頼したバビロン人たちは殻のように吹き飛ばされるのです。

時々私たちは困難な時に、ユダ人のように助けを探しますが、神様に向かいません。けれども、結局その助けが無駄になって、私たちは砕かれるように感じます。

しかし、もう一度神様に向かって信頼すると、神様がまだ私たちのために計画を持っておられるので、私たちには希望があることが分かるようになります。

あなたは砕かれたと思うでしょうか。あなたは助けを探しているけど、神様があなたの人生に何をされるのか無視しているでしょうか。

神様はあなたを癒すことができます。まだ希望があります。

もしへりくだって神様に立ち返り、悔い改めるなら、神様はあなたを癒してくださいます。神様に信頼するなら、神様の力によってあなたの人生は回復するのです。

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解決方法を知らない

選挙の時に、多くの政治家はたくさんの約束をします。彼らは社会の問題について話し、「私に投票すれば、すべては変わる」と約束します。

しかし、多くの場合、何も変わりません。

もし、ある政治家が「私は解決方法を全然知りません。私に投票しないでください。他の政治家にも投票しないでください。なぜなら、誰も解決方法を知らないからです。」と言ったら、人々はどう反応するでしょうか。

多分、人々はその人に投票しないでしょう。一方では、彼が他の政治家よりも正直だと思います。けれども、自分の無能を認める人に投票するのは難しいものです。

さて、神様はユダとイスラエルにそのような状況を起こされました。列王記では、イスラエルが国としてどれほど速く崩れたかを、後で私たちは見ることになります。一方、この箇所では、神様はユダに語っておられます。

ユダ人が神様に背を向けたので、神様は彼らに警告されました。

「私はあなたの食糧と給水を取り除きます。それだけではなく、あなたのリーダーたちと助言者たちを取り除きます。その人々の代わりに私は解決法をよく知らない若者をあなたに与えます。」

そのとき、人が父の家で、自分の兄弟をとらえて言う。「あなたは着る物を持っている。私たちの首領になってくれ。この乱れた世を、あなたの手で治めてくれ。」

その日、彼は声を張り上げて言う。「私は医者にはなれない。私の家にはパンもなく、着る物もない。私を民の首領にはしてくれるな。」(イザヤ書3:6-7)

つまり、ユダ人は必死で、だれかが他の人々よりもちょっとお金があったら、その人をリーダーにしようとします。

しかし、その人はこう答えます。「私は解決法をよく知りません。私はうまく家族を世話することができません。なのに、どうして私はこの国をリードできるでしょうか。」

この社会の問題の解決法を見つけるために、私たちはどこを捜しているでしょうか。政治家を求めるでしょうか。

彼らは解決法を知りません。歴史を見れば、それが分かります。なぜなら、多くの政治家は神様とその道をよく知らないからです。

イスラエル人はそのような人々でした。彼らが神様から逃げたので、すぐに彼らの希望はなくなりました。そして、彼らが神様から離れたので、だれも彼らの問題の解決法を知りませんでした。

もし、社会の問題の解決法を見つけたいなら、希望を与えてくださる神様を求めなくてはなりません。神様とその道に従わなくてはなりません。

そうしないと解決法を見つけられません。なぜなら、神様から離れたら解決法がないからです。

有名なクリスチャン、チャールズ・コルソンはこう言いました。

希望はどこにあるのでしょうか。私は、社会の腐敗に心を痛め、落ち込んでいる人々に何度も出会ってきました。

私たちの希望は、政治家にあるのではありません。新しい法律から得られるものでもありません。この国の実績に根ざすものでもありません。

私たちの希望は、人々の心の中に働いておられる神様の力です。 それこそが、この国の希望であり、私たちの人生の希望でもあります。

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聖書の最後まで読む

あなたはニュースを読むのが好きかもしれませんが、私はあまり好きではありません。なぜなら、世界中にたくさんの悪いニュースがあるからです。戦争や犯罪、不正義があります。

イザヤもユダを見るとそう感じていたかもしれません。

しかし、神様はイザヤに将来の日を見せてくださいます。イザヤはその日について言いました。

終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。

多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」

それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。

主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。

彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。(イザヤ書2:2-4)

時々この世を見ると希望を持つことは難しいです。なぜなら、いろんな悪いことがあるからです。

しかし、私たちの希望がなくなりそうな時には、イザヤの言葉を思い出しましょう。この時代はいつまでも続かないからです。

ある日、神様はあがめられ、すべての国々の民は主を求め始めます。

その日、正義が来ます。その日、すべての戦争は終わります。

あなたはがっかりしていますか。この世界を見ると希望を失ってしまうことはありませんか。

ある歌が言ったように、聖書の最後まで読む時です。なぜなら、以前言ったように、この時代はいつまでも続かないからです。

だから毎日希望を持って歩きましょう。周りの悪に焦点を当てずに、すべてを癒してくださる主に焦点を当てましょう。

イザヤがこう語ったように、

来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。(5)