私は以前も言いましたが、私たちは聖書の深海に入っていて、これからその海はさらに深くなっていくでしょう。😊
クリスチャンたちはこの章の解釈をめぐってよく議論します。
だから、私は以前にも言ったように、とりあえず私の意見を述べますが、後にその意見が変わるかもしれません。
今日の箇所では、ヨハネは測り竿を与えられ、神殿と祭壇を測り、礼拝している人々を数えるよう命じられます。
しかし、御使いはヨハネにこう言います。
神殿の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはいけない。それは異邦人に与えられているからだ。彼らは聖なる都を四十二か月の間、踏みにじることになる。(黙示録11:2)
それはどういうことでしょうか。
たぶん、御使いはルカ21:24にあるイエス様の言葉に触れているのかもしれません。その箇所で、イエス様はエルサレムが倒れることを預言されました。
西暦70年に、その預言は成就しました。
多くのクリスチャンたちが考えるのは、その預言が西暦70年の出来事だけではなく、将来の出来事にも触れているということです。そうであれば、将来エルサレムに新しい神殿が建てられるはずです。
でも、もう一つの可能性があります。それは、西暦70年の出来事が将来の出来事の象徴であるということです。
つまり、神殿や聖なる都(つまり、エルサレム)は神様の民を象徴しています。(第一コリント3:16-17;黙示録21:2)
そして、多くのクリスチャンたちは神様に守られますが、他のクリスチャンたちは迫害されます。
私たちはすでに読みましたが、それは黙示録に繰り返し現れるテーマです。
そして、12-13章でそのテーマは再び現れます。(また、ダニエル書7:21および12:7でもそのテーマを見ることができます。)
黙示録では、1260日間や、一時と二時と半時の間という言葉が繰り返し登場します。それらは同じ意味を持っています。つまり、神様の民は三年半ほど苦しむということです。
それは、文字通りの三年半かもしれません。でも、比喩的な数字かもしれません。聖書では、「7」が「完全さ」を表します。
だから、私たちの苦しみは完全なものではなく、短くされるのです。イエス様によれば、神様に選ばれた者たちのために、大きな苦難の日数は少なくされます。(マタイ24:22)
いずれにせよ、ヨハネによれば、将来二人の証人たちが現れ、この世の人々に神様の裁きと救いを宣言します。
クリスチャンたちはその意味についてもよく議論します。
ある人々は、その二人が文字通りの二人の証人だと考えます。ですが、他のクリスチャンたちは、その証人たちが教会全体を象徴すると考えています。
私の意見ですが、その二人は教会全体を象徴していると思います。なぜなら、その二人は、二本のオリーブの木、また二つの燭台に例えられているからです。(黙示録11:4)
そして、2-3章で、教会は燭台に例えられました。
さらに、預言者ゼカリヤによれば、二本のオリーブの木は支配者と祭司を象徴しています。(ゼカリヤ3-4章)
そして、黙示録では、教会はその二つの役割を果たしています。(1:6;5:10)
いずれにせよ、三年半の激しい迫害の間、その証人たちは預言します。しばらくの間、神様は彼らを守り、彼らを通して人々を裁きます。
けれども、その三年半が過ぎると、獣、つまり反キリストが彼らを殺します。そのとき、この世の人々は喜びます。
なぜなら、その証人たちは彼らの説教によってこの世の人々を苦しめ、彼らの祈りによって人々は裁かれていたからです。(黙示録11:5-10)
ヨハネがキリスト教の長い歴史におけるすべての殉教者について語っているのか、それとも将来の殉教者たちについてだけ語っているのかは分かりません。
6節を読むと、私たちはモーセとエリヤを連想するので、もしかすると象徴的な描写であり、二人の証人がすべての殉教者を象徴しているのかもしれません。
とはいえ、それが文字通りの記述だとすれば、おそらく将来の出来事を指しているのでしょう。
ただ、5節によると彼らの口から火が出るため、やはり象徴的な表現なのかもしれません。
いずれにせよ、三日半が過ぎると、神様は彼らの敵の目の前で証人たちを復活させ、天に引き上げられます。
もしその証人たちが教会全体を象徴しているのであれば、ヨハネはキリストの再臨に触れているのかもしれません。その日、神様は死んだクリスチャンのからだを復活させ、私たちは空中で主に会うのです。(第一テサロニケ4:17)
それが私の見解です。なぜなら、その後に七つのラッパが吹かれ、多くの人々が叫びをあげるからです。それは、
この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される。(黙示録11:15)
そして、長老たちは歌い始めます。
私たちはあなたに感謝します。今おられ、昔おられた全能者、神である主よ。あなたは偉大な力を働かせて、王となられました。諸国の民は怒りました。
しかし、あなたの御怒りが来ました。死者がさばかれる時、あなたのしもべである預言者たちと聖徒たち、御名を恐れる者たち、小さい者にも大きい者にも報いが与えられる時、地を滅ぼす者たちが滅ぼされる時です。(17-18)
その後、天にある神の神殿が開かれ、ヨハネは神の契約の箱を神殿の中に見ました。
そして、裁きが始まり、稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、地震が起こり、大粒の雹が降りました。
では、今日の箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
それは、神様の民にとって、物事は段々と悪化するということです。
福音書で、イエス様は私たちにこのことを警告されました。さらに、イエス様は黙示録に登場する7つの教会にも警告されました。そして、今日の箇所でもイエス様は同じ警告を私たちに与えておられます。
迫害は必ず訪れます。けれども、その迫害は永遠に続くものではありません。迫害は短くされます。
そして、イエス様がもう一度この世に来られるとき、私たちは救われます。
やがて、神の正義が訪れます。 もし私たちが迫害に耐えるなら、救われ、大きな報いを受けます。 そして、その日に、私たちのすべての涙はぬぐい取られます。
なぜ私はこのテーマを何度も繰り返すのでしょうか。 それは、このテーマが黙示録全体を貫いているからです。 私たちはすでに以前の箇所で読みましたし、今日の箇所にも登場しました。 そして、この書の後半にも現れます。
では、なぜ神様はこのテーマを何度も繰り返されるのでしょうか。 きっと、私たちの苦しみが激しくなっていくからです。 そして、その苦しみに耐えることは、とても難しいからです。
しかし、神様が私たちに伝えたいのは、「その苦しみは一時的なものだ」ということです。
ですから、黙示録の後半でも、このテーマを探してみましょう。
黙示録の目的は、私たちに未来の出来事を知らせることだけではありません。 神様が望まれるのは、私たちが心構えすることだけではありません。 むしろ、神様は私たちに希望を与えたいと願っておられます。
どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)