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詩篇のデボーション

主は恵みとまことに満ちておられるから

【主】よあなたの道を私に知らせ
あなたの進む道を私に教えてください。

あなたの真理に私を導き教えてください。
あなたこそ私の救いの神
私はあなたを一日中待ち望みます。(詩篇25:4~5)

この詩篇を読むたびに、上の言葉はいつも私の心に響きます。

私はダビデのような心を持ちたいのです。

神様に教えられたい心。

神様を信頼する心。

しかし今日、なぜダビデがそのように願ったのか、わかってきました。

【主】の道はみな恵みとまことです。(詩篇25:10)

ダビデは心からそう信じ、自分の主のようになりたいと願ったのです。

私も、イエス様のようになりたいのです。

ことば(つまり、神)は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。。。

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。

律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(ヨハネ1:14、16~17)

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詩篇のデボーション

神の謙虚

あなたは御救いの盾を私に下さいます。
あなたの右の手は私を支え
あなたの謙遜は私を大きくします。(詩篇18:35)

もうすぐクリスマスだからこそ、その言葉が私の心に響いているのでしょう。

「あなたの謙虚は私を大きくします。」

私は取るに足りない者なのに、神様はご自身を低くし、人となり、しもべの姿をとってくださいました。

そして、神であるイエス様は十字架で私の罪のために死んでくださいました。(ピリピ2:7~8)

だから今や、そのみわざによって、取るに足りない私は神の子とされました。

なんとすばらしいことでしょう。

【主】は生きておられる。
ほむべきかなわが岩。
あがむべきかなわが救いの神。(詩篇18:46)

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詩篇のデボーション

計り知れない恵み

人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。(詩篇8:4)

今朝、上の言葉を思いめぐらせました。

私たちのすべては、罪の肥溜めに落ちて、その汚れにまみれてしまいました。それでも、イエス様は、御使いよりわずかに欠けがあるものとし、その肥溜めに入り、救い出してくださるほど、私たちを心に留めてくださいました。

しかし、本当に驚くべきことは、イエス様は私たちをご覧になるたびに、肥溜めから救い出された「物」として見なしておられるわけではないということです。私たちがその汚れにまみれていた状態という記憶は、まったく残っていないのです。

むしろ、ご自身の義に着せられ、栄光と誉れの冠をかぶらせている者としてご覧になります。

私たちへのイエス様の恵みと愛は、本当に測り知れないものです。

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詩篇のデボーション

神に特別に扱われている

知れ。主はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。(詩篇4:3)

今朝、その言葉は私の心に響きました。

神様は私を特別に扱ってくださいます。

神様は私を責めるのではなく、恵みによって義と認めてくださいます。(1節)

私が呼ぶとき、神様は聞いてくださいます。(3節)

私が御顔を仰ぐとき、神様は怒っておられるのでも、がっかりしておられるのでもなく、その光を私の上に照らしてくださいます。(6節)

だからこそ、「だれがわれわれに良い目を見させてくれるのか」と叫ぶ世界に、私は答えます。

「私の神こそがそうしてくださいます。」

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サムエル記第一のデボーション

だれが、この聖なる神の前に立つことができるだろう?

ベテ・シェメシュの人たちは言った。「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができるだろう。(サムエル記第一6:20)

今日の箇所では、イスラエルの民もペリシテ人も、大切な真理を思い知らされました。

それは、神様の前に立つにふさわしい者は、誰一人としていないということです。

ペリシテ人の神ダゴンは立つことができず、ペリシテ人たち自身も立つことができませんでした。だから、さばきが下ったとき、彼らは領主たちに主の箱を戻すように叫びました。

しかし、イスラエルの民もまた、神様の前に立つことはできませんでした。

何百年も前に、モーセは彼らにこう警告していました。

「レビ人だけが主の箱を運ぶことを許されている。しかし彼らでさえ、その箱を見たり触れたりすることは許されていない。」(民数記4:15~20)

ところが、イスラエルの民はその指示を無視し、箱をすぐに覆わず、さらに勝手にその箱を開けてしまったため、さばきが彼らにも下りました。そこで、彼らは叫びました。「だれが、この聖なる神の前に立つことができるだろう。」

その答えは明らかです。神様の前に立つにふさわしい者は、誰一人としていません。なぜなら、神様は聖なる方であり、私たちは罪によって汚れた者だからです。

私たちは皆、罪を犯しており、神の栄光を受けることができません。(ローマ書3:23)

だから、私たちがふさわしいことは、神の裁きだけです。

しかし、イエス様を通して、今や私たちはこの聖なる神の前に立つことができます。

パウロはこう記しました。

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。(ローマ書5:1~2)

どうして、私たちは神様の前に立つことができるのでしょうか。それは、イエス様の十字架のみわざによって、私たちが神様との平和を持っているからです。

十字架の上で、私たちの罪によって汚れた衣はイエス様に置かれました。そして、私たちがイエス様を信じると、神様はイエス様の義と聖さをもって、私たちを着せてくださいます。

だからこそ、私たちは自由に神様の前に進み出ることができるのです。

もちろん、自分が義人であることを感じないときもあります。とくに、罪を犯すとき、私たちは汚れていて、神の愛にふさわしくないと感じます。

それでも、私たちは希望を持っています。それは、

キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)

だからこそ、私たちは神様の栄光を見るとき、恐れる必要はありません。むしろ、私たちは喜びます。なぜなら、イエス・キリストによって、神様は私たちをすでに受け入れてくださっているからです。

そして、いつかの日、私たちは神様の栄光を身にまとうことになります。

だから、パウロはこう記しました。

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3:18)

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サムエル記第一のデボーション

私たちの忠実な祭司

人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。(サムエル記第一2:25)

今朝、私はその言葉に思いを巡らせていました。

神様に対して罪を犯すとき、私たちのために仲裁に立ってくださる方がおられます。

神様はイエス様を、私たちの忠実な祭司として起こしてくださいました。さらに、イエス様はとこしえに私たちの祭司です。(サムエル記第一2:35;ヘブル書2:17~18;7:23~25)

私の罪によって神様をどれほど悲しませたかを振り返ると、その真理は本当に不思議なことだと思います。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(ローマ人への手紙8:34)

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ピリピ人への手紙のデボーション

恵みによって立つ

ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。(ピリピ人への手紙4:1)

4章は、少し不思議な始まり方をします。1節は、実質的に3章の内容をまとめているのです。

私たちは、どのようにして堅く立つことができるのでしょうか。

それは、恵みによって立つことだと思います。

私たちは、自分の努力によって神様の受け入れを得ようとはしません。自分の義の成績表や資格によって、神様の愛にふさわしいと証明しようとはしません。(3:2~9)

むしろ、それらを手放して、ただイエス様との関係を追い求めます。でも、その関係も、私たちが得ようとする必要はありません。なぜなら、イエス様はすでに私たちを捕らえて、ご自身のものとしてくださったからです。(3:10~12)

だから今、愛と感謝を込めて、私たちはイエス様の御心と関心を自分のものとして、イエス様と御国のために生きます。(3:13~21)

さらに、私たちの罪や失敗にもかかわらず、私たちは希望と確信をもっています。それは、いつかの日、私たちがイエス様の御顔を見ることです。

その日、私たちはイエス様に似た者となります。キリストをありのままに見るからです。(ピリピ3:20〜21、第一ヨハネ3:1〜2)

それが、恵みによって立つということです。

私は、毎日そのように生きたいと願っています。

あなたは、どうでしょうか。

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マルコの福音書のデボーション

私を救うために

同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。」(マルコの福音書15:31)

祭司長や律法学者たちの言葉は、いつも私の心に響きます。彼らはその言葉でイエス様をあざけりましたが、その言葉は彼らの理解を超えて真実でした。

私たちを救うために、イエス様はご自身を救うことができませんでした。むしろ、私の罪を背負って、激しい苦しみのうちに死なれなければなりませんでした。神の御怒りのすべてが、イエス様に注がれたのです。

しかし、イエス様のおかげで、神様と私の間に立っていた幕が、上から下まで真っ二つに裂けました。

私たちを救うために、イエス様がご自身を救うことを選ばれなかったことに心から感謝しています。

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

喜んで選ばれた

しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、 異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに(喜んで啓示してくださったとき)。。。(ガラテヤ人への手紙1:15〜16、新改訳とその脚注による)

「神がその御子を、私のうちに喜んで啓示してくださったとき。。。」

それは、なんと驚くべきことばでしょう。

いったい、なぜ神様が、その御子を私のうちに啓示してくださるのでしょうか。

おそらく、パウロもそのように自問自答したのではないでしょうか。

彼はかつて、冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした(第一テモテ1:13)。

異邦人に御子を啓示するために、神様はもっとふさわしい人を選ぶこともできたはずです。

それでも、神様はパウロを選ばれました。

しかも、ただ選ばれただけでなく、喜んでパウロを選ばれたのです。

このことばを読むと、私は希望を抱かずにはいられません。

神様は、この世にご自身を啓示するために、私たちすべてを神殿とし、また祭司として召しておられるのです。

しかし、自分自身を振り返ると、私の中にはさまざまな過ちや、目立つひびのある壁が見えるのです。あなたも、そう感じるときがあるのではないでしょうか。

ご自身を啓示するために、神様はきっと、私たちよりももっとふさわしい人を、神殿や祭司として選ぶこともおできになるでしょう。

それでも、神様は私たちを、いやいやながらではなく、喜んで選び、御子を私たちのうちに啓示してくださいます。

それがなんと不思議な恵みでしょう。

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使徒の働きのデボーション

イエス・キリストに上訴します!

すると、パウロは言った。「私はカエサルの法廷に立っているのです。。。私はカエサルに上訴します。」(使徒の働き25章)

「法廷」という言葉は、聖書の別の箇所では「さばきの座」と訳されています。特に、「神のさばきの座」(ローマ14:10)と「キリストのさばきの座」(第二コリント5:10)です。

それゆえ、今日の箇所を読んだとき、私の心にはこの思いが浮かびました。

パウロがカエサルのさばきの座の前に立ったように、ある日、私たちも神のさばきの座の前に立たなければなりません。そのとき、サタンは私たちに対して、容赦ない告発を突きつけてくるでしょう。

しかし、パウロへの告発とは異なり、サタンの告発は正当なものであり、私たちは死に値する者です。なぜなら、私たちは確かに多くの罪を持っているからです。

それでも、私たちは神の子として宣言できます。「私はイエス・キリストに上訴します!」

そして、十字架で流されたイエス様の血によって、神様は私たちに対し「無罪」との判決を下してくださるのです。

これは、なんと素晴らしい真理でしょうか。

だからこそ、サタン、または自らの良心さえも容赦なく私たちを責めるとき、大胆に叫びましょう。

「私はイエス・キリストに上訴します!」

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使徒の働きのデボーション

恵みを与える人

興味深いことに、パウロは恵みによる救いの概念のために激しく戦いましたが、マルコに対してはほとんど恵みを示しませんでした。

以前の宣教旅行で、マルコは途中で一行から離れ、パウロとバルナバを失望させました。彼の理由ははっきりしていませんが、いずれにせよ、パウロは彼にセカンドチャンスを与えようとしませんでした。

この話を読んだとき、私はこう考えました。「私はどれほどパウロのように振る舞うだろうか。人々が私の基準に達せず、私をがっかりさせるとき、どれほど彼らに恵みを与えないことがあるだろうか。」

おそらく、それは数えきれないほどあるでしょう。

しかし、私は恵みを与える人になりたい。特に、キリストにある私の兄弟姉妹に対して恵みを示す者になりたい。

あなたは恵みを与える人でしょうか。

兄弟姉妹が私たちをがっかりさせるとき、心に留めておくべきことがあります。

神様は彼らの心を知っておられます。そして、彼らの弱さや失敗にも関わらず、御霊は私たちのために証されたように、彼らのためにも証し、「あなたは神の子です」と語っておられます。

神様は私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださいました。(使徒の働き15:8-9)

だから、彼らが私たちをがっかりさせるとしても、神様が彼らに、そして私たちにも注がれた恵みを示しましょう。

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使徒の働きのデボーション

神に出会える場所となる(3)

使徒の働き6章を読むたびに、ステパノについての記述が私の心に響きます。

「御霊に満ちた。」

「知恵に満ちた。」

「信仰に満ちた。」

「恵みに満ちた。」

「力に満ちた。」

今日、この言葉を読んで、私はこう考えました。

「もし私が、周囲の人々にとって神に出会える場所となりたいのなら、そのような人にならなければならない。」

しかし、ステパノはどのようにして、このような人物となったのでしょうか。

おそらく、その理由の一つは、彼が他のクリスチャンたちと同じように、御言葉と祈りに専念したからです。(使徒の働き2:42)

この二つの事柄は、12人の使徒たちのミニストリーの中心でした。(使徒の働き6:4)

ステパノは聖書に精通するにつれて、その知恵を深めていきました。

祈りによって、御霊と強く結ばれ、恵み、力、そして信仰に満ちるようになったのです。

だから、私は御言葉と祈りのために、もう少し時間を取る必要があると思います。もしかしたら、もっと多くの時間を取るべきなのかもしれません。

もちろん、私は仕事の責任、家族の義務、そして他にも果たすべき事柄があります。

しかし、もしかすると、神様が今、私に静かに語りかけておられるのではないかと思います。

「もう少し時間をちょうだい。もう少し時間を与えてくれないか。コンピューターの時間、YouTubeの時間、ポッドキャストの時間をもう少し減らして、私と過ごす時間を増やしてほしい。」

もしかしたら、神様はあなたにも同じようなことを語っておられるかもしれません。

あなたはどう思いますか。

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ルカの福音書のデボーション

私たちを喜んで清めてくださる方

これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」(ルカの福音書5:8)

興味深いことに、ペテロの言葉はツァラアトに冒された人々の言葉に似ています。

神の律法によれば、ツァラアトに冒された人々は、「私から離れなさい。私は汚れているから。」と周囲の人々に警告するように求められていました。(レビ記13:45ー46)

しかし、ルカの福音書では、ツァラアトに冒された人がイエス様に近づき、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」と言っています。

イエス様は「わたしの心だ」と言われ、その人を清められました。さらに、イエス様はペテロと中風を患っている人の罪をも清められました。

マタイの場合、イエス様は積極的にマタイを追いかけ、その罪を清めてくださいました。

同じように、イエス様は私たちをも追いかけてくださいました。私たちが自分の道を行き、イエス様を価値のないものと見なしたにもかかわらず、イエス様は十字架で私たちの反逆の代償を払ってくださいました。

だから、私たちがイエス様に近づき、あわれみを願うとき、イエス様はこう言われます。「わたしの心だ。きよくなれ。」

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16)

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ルカの福音書のデボーション

真の平和

いと高き所で、栄光が神にあるように。 地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように。(ルカの福音書2:13ー14)

上記の言葉を読んだとき、私の牧師が最近語られたメッセージを思い起こしました。そのテーマは、イエス様がもたらされる平和がこの世の平和と異なることでした。

天の軍勢が現れたとき、もしかすると、羊飼いたちは天使たちがローマの圧迫を滅ぼすために来たと思ったかもしれません。

恐ろしいことですが、その天使たちが羊飼いたち自身を滅ぼすために来たと思ったかもしれません。神様の栄光によって、人々の罪が明らかにされるからです。

しかし、それどころか、天の軍勢は平和を宣言しました。その平和は羊飼いやユダヤ人たちだけのためではなく、すべての人々のためです。(ルカ2:10)

でも、どのような平和が伝えられたのでしょうか。

それは神様との平和です。

その平和は私たちの人生に入り込み、こう語ります。

「あなたは罪人ですが、恐れる必要はありません。イエス様があなたの罪の代償を支払ってくださいました。だから、あなたは今、恵まれた者です。

エリサベツとマリアと同じように、私の恵みを受けたのです。あなたは私の心にかなう者となりました。」(ルカ1:25、28ー30)

この真理は本当に心に納め、思い巡らすべきものです。(ルカ2:19)

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ヨハネの福音書のデボーション

恵みの道を歩んでいる

イエスは。。。ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」(ヨハネの福音書21:19)

ヨハネの福音書21章のペテロの話は、ルカ5:1ー11の話と似ているものです。

どちらの話でも、ペテロは自分の失敗と罪を認識しました。でも、イエス様はそれでもまだ「私に従いなさい」と招かれました。

ペテロは信仰の旅を恵みによって始め、3年後もその恵みによって歩んでいました。そして、もう一度イエス様の御顔を見るまで、ペテロは恵みによって歩み続けました。

私たちも旅の途中です。ペテロの旅のように、私たちの旅も恵みによって始まり、毎日恵みによって続きます。

私たちは不完全な存在です。私たちの愛も不完全です。それにもかかわらず、イエス様は私たちに「従いなさい」と招かれます。

だから、自分の罪、弱さ、失敗を見るとき、失望しないようにしましょう。むしろ、イエス様から目を離さずに従いましょう。

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ヨハネの福音書のデボーション

平安があなたがたにあるように

「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネの福音書20:19)

その時代も今も、ユダヤ人の間ではそれは日常的な挨拶です。

でも、それはただの挨拶だったでしょうか。イエス様はその言葉を繰り返して言われたので、たぶんそうではありません。

弟子たちは未来を恐れ、隠れていました。

イエス様がご自分を現されても、弟子たちは自分の失敗を考えて、どれほど不安を感じたでしょうか。

でも、イエス様は「平安があなたがたにあるように。私はここにおります。あなたたちの失敗に関わらず、受け入れております」と言われました。

そして、平和を持たない人々のところに、イエス様は弟子たちを遣わされました。

でも、平和の御霊が私たちのうちに住んでおられないなら、周囲の人々に平和を与えるのは難しいです。

だから、イエス様は彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。」

イエス様はあなたを遣わしたいと思っておられます。でも、あなた自身は平和を持っているでしょうか。

もしくは、あなたは未来を恐れているでしょうか。

それとも、神様があなたに関して何を思っておられるのか常に心配しているでしょうか。

覚えておきましょう。イエス様はあなたに言われます。「平安があなたがたにあるように。」

イエス様はすでに御霊をあなたに与えてくださいました。恐れの霊ではなく、私たちと一緒に「アバ、父」と叫ばれる御霊です。私たちは神との平和を持っています。(ローマ5:1,5;8:15)

だからその平和を持って、安心しましょう。そして、平和を持たない人に神の平和を与えましょう。

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ヨハネの福音書のデボーション

私たちのイエス様に近づく権利

今日、私たちがイエス様に近づく権利について考えていました。私たちはその権利をどれだけ当たり前のものだと思っているでしょうか。

今日の箇所では、あるギリシア人たちはその権利を持っていないと考えていました。なぜなら、彼らは異邦人で、イスラエルでは部外者と見なされていたからです。また、イエス様は有名なラビでした。

しかし、イエス様が地上から上げられ、十字架につけられたので、私たち皆がイエス様に近づくことができます。(32節)

その真理を考えていたとき、昔の讃美歌を思い出しました。

What a friend we have in Jesus
イエス様はなんて素晴らしい友でしょう
All our sins and griefs to bear
イエス様は私たちの罪と悲しみをすべて背負ってくださるからです
What a privilege to carry everything to God in prayer
すべての重荷を神様に祈りで委ねることができるとはなんて素晴らしいことでしょう

O what peace we often forfeit
私たちはどれだけ平安を失っていることでしょう
O what needless pain we bear
私たちはどれだけ不必要な痛みを背負っていることでしょう
All because we do not carry everything to God in prayer
すべてを神様に祈りで委ねないからです

ーージョセフ・メドリコット・スクライブン

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ヨハネの福音書のデボーション

私が天の父が喜ばれることをいつも行えるように

今日の箇所を読んだとき、私は多くの言葉に心を打たれました。特に、29節は私の心に響きました。イエス様は「わたしは、天の父が喜ばれることをいつも行います」と言われました。

私は、「それを言うことができたらいいのになあ」と思いました。

でも、私は他の言葉にも心を打たれました。

あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネの福音書8:31ー32)

まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。 奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。

ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。(34ー36)

私のことばはあなたの中で進行していません。(37、英訳)

神から出た者は、神のことばに聞き従います。(47)

わたしの父を敬っているのに、あなたがたはわたしを卑しめています。(49)

だから今日、私はその言葉をまとめて、このように祈りました。

イエス様、あなたのようになりたいです。あなたのように、「私は、天のお父さんが喜ばれることをいつも行います」と言えたいけど、言えません。私は天のお父さんが喜ばれないことをしばしば行うからです。赦してください。

私の言葉と行いによって、天のお父さんとあなたを決して卑しめることがないように。

むしろ、私がいつも心の中に、あなたのみ言葉のための場所を開けるように。

その御言葉が私の心の中で進行するように。私があなたのみ言葉をもっと理解することができるように助けてください。それだけではなく、私がその御言葉に従うことができるように助けてください。

アブラハムのように、私があなたの言葉の真理を聞き、信じ、受け入れ、従うことができるように助けてください。

イエス様、あなたの恵みを感謝します。あなたのおかげで、私はもはや罪の奴隷ではありません。十字架で流されたあなたの血によって、私は自由にされました。私を神の子にしてくださり、本当に感謝します。

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ヨハネの福音書のデボーション

三つの質問

イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」

イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。(ヨハネ6:5ー6)

今朝、私は、イエス様がピリポをどのように試されたのだろうかと考えていました。

イエス様はピリポに実際に何を尋ねられたのでしたか。

私はちょっと分かりませんけど、もしかしたらイエス様はこう訊かれていたかもしれません。

「私が誰であるのかすでに知っている?私が何ができるのか知っている?あなたは私をどれほど信じているのか?」

もしそれらがイエス様の質問であったなら、ピリポはそのテストに完全に落ちてしまいました。

ピリポが考えたのは、「この群衆の必要をどのように満たすことができるだろうか。私たちには無理だろう」ということです。

でもイエス様は、すでにご自分が何をしようとしているのかを、知っておられました。

そして、イエス様はピリポと他の弟子たちが持っていたわずかなもので群衆の空腹を満たしてくださいました。

時々、私はピリポのようです。イエス様は私の回りの人々を見て、その人に触れたいと思っておられます。ご自分が何をしようとしているのかを知っておられるけど、私に向かって、尋ねられます。

「私が誰であるのかすでに知っている?私が何ができるのか知っている?あなたは私をどれほど信じているのか?」

しかし、イエスが誰であり、何ができるかを見る代わりに、私は自分の弱さと力不足を見てしまいます。

でも真実は、私の弱さと力不足は関係ないのです。大切なのは、イエス様が誰であり、何ができるかということです。

だから、私が自問自答しなければならないのは、イエス様を信じるかどうかということです。

なぜなら、イエス様は愛を持って、私が持っているわずかなもので人々に触れることができるからです。

だから私はイエス様の三つの質問についてもっと考えなければならないでしょう。

「私が誰であるのかすでに知っている?」

「私が何ができるのか知っている?」

「私を信じてくれる?」

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テサロニケ人への手紙第二のデボーション

模範になるなんて、私が?

どのように私たちを見習うべきか、あなたがた自身が知っているのです。。。

あなたがたが私たちを見習うように、身をもって模範を示す。。。(テサロニケ人への手紙第二3:7、9)

今朝、私はその言葉に心を打たれました。

パウロの言葉はとても大胆です。「どのように私たちを見習うべきか、あなたがた自身が知っているのです。」

正直に言うと、私はそんな大胆さを持っていません。

なぜなら、私は自分の欠点をよく知っているからです。まだ成長しなければならない部分が、私にははっきりと見えています。

いったいどうして、人々が私の真似をしたがるのでしょうか。

それでも、神様は私たち皆に弟子を作るよう命じておられます。牧師や教会のリーダーだけでなく、すべての信者に対して、周囲の人々が見習うべき模範を示すよう求めておられるのです。

模範となるとは、周囲の人々が私たちの長所を見て見習うだけでなく、私たちが自分の欠点や罪を克服しようとしている姿を見るということです。

さらに、彼らが見るべきなのは、私たちが罪や欠点のために罪悪感にさいなまれている姿ではなく、むしろ、毎日毎日、一瞬一瞬、神様の恵みによって歩み、神の子供であるという確信を持って生きている姿なのです。

天のお父さん、私は、人々が見習いたいと思うような人間になりたいです。いろんな意味で、私はふさわしくないと感じています。

でも、人々が私を見るとき、彼らが真似したいと思うような私の長所を見るだけでなく、私が自分の欠点や罪を克服しようとしている姿を通して、私が毎日歩んでいるあなたの恵みを見ることができますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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テサロニケ人への手紙第二のデボーション

私たちが必要な祈り

今日、私はパウロの祈りに深く感動しました。なぜなら、彼がテサロニケ人たちのために祈ったことは、まさに私自身に必要な祈りだからです。実際、それはすべてのクリスチャンにとって必要な祈りです。

パウロはこう言いました。

こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。

それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。(第二テサロニケ2:11ー12)

私たちがよく考えるのは、自分自身を良い人にしなければならないということです。自分の力と自制心によって、自分自身を変えなくてはならないと考えがちです。

しかし、パウロが祈っているのは、神様が私たちを召しにふさわしい者としてくださり、神様の力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から生まれる働きを実現してくださるということです。

それによって、イエス様が私たちの間であがめられ、私たちにも主にあって栄光が与えられます。

けれども、その栄光は私たち自身の素晴らしさによるものではなく、私たちの人生に働いている天の父の恵みと御子の恵みによるものです。

そして、パウロはこう祈ります。

どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。(第二テサロニケ2:16ー17)

また、

主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。(第二テサロニケに3:5)

私たちの信仰の根底には、一つの根本的な真理があります。それは、神様が私たちを深く愛してくださるということです。

パウロが祈ったのは、イエス様が日々私たちを天の父の愛へと導き、私たちが必要な励ましと希望を受けることができるようにということです。そして、その励ましと希望によって、私たちはあらゆる良いわざとことばのために、神様によって強められます。

さらに、テサロニケ人たちのように、私たちが試練や苦しみに直面するとき、パウロは、私たちがイエス様を仰ぎ見ることによって、勇気を得るように祈りました。十字架で私たちの罪の代価を支払ってくださったイエス様の忍耐に目を向けることによってです。

私は前にも言いましたが、私たちはよく、自分の力と自制によってクリスチャン生活を送ろうとしてしまいます。

でも、イエス様が私たちを天の父の愛へと導いてくださるように、イエス様の十字架を覚えていましょう。神様の愛とイエス様の十字架に、心を向けて思いを巡らしましょう。

そして、あなたのあらゆる良いわざと言葉が、神様の愛とイエス様の十字架への感謝から生まれるものでありますように。

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出エジプト記のデボーション

私たちの間に幕屋を張られた神

そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。

モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。(出エジプト記40:34ー35)

今はクリスマス・シーズンなので、私は上記の言葉を読んだとき、ルカによる福音書2章の羊飼いたちの話を思い出しました。

さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。

すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。(ルカ2:8ー9)

幕屋を満たしていたのと同じ栄光が、羊飼いたちの周りを照らしました。羊飼いたちが恐れるのも無理はありません。

モーセでさえ、神様の栄光に満ちた場所に入るのを恐れました。

しかし、御使いは羊飼いたちにこう言いました。

恐れることはあ

りません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:10ー11)

イエス様を通して、羊飼いたちは、モーセでさえ持っていなかった神様へのアクセスを与えられました。

神様は、私たちにもその同じアクセスを与えてくださいました。

ヨハネはこう言いました。

ことば(つまり、神)は人となって、私たちの間に住まわれた。(マタイ1:14)

原語では、「住まわれる」という言葉には、「幕屋を張る」というニュアンスがあります。

神様がイスラエル人の間に幕屋を張られたように、イエス様が人間となられたとき、神様は私たちの間に幕屋を張られました。

だから、ヨハネはイエス様についてこう言いました。

私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14b)

そして、イスラエル人たちが旅をしている間、神様がインマヌエルであったように、私たちの人生の旅の間も、イエス様は私たちにとってインマヌエルであり、私たちにこう約束してくださいます。

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)

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出エジプト記のデボーション

私たちの罪の深刻さ

翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。」(出エジプト記32:30)

モーセの言葉で、私の心は本当に打たれました。

「あなたがたは大きな罪を犯した。」

それを読んで、私は考えました。

「私は自分の罪をどれだけ重く受け止めているだろうか。自分の罪を軽く見てしまうことがあるだろうか。」

パウロによれば、罪の報酬は死です。(ローマ書6:23)

イスラエル人たちは、その真理を学びました。3000人のイスラエル人が死に、さらに多くの人々が打たれました。

十字架でイエス様が死ななければならなかったほど、私たちの罪は深刻なものです。

私たちが自分の罪の深刻さを正しく理解してこそ、ダビデの言葉に含まれた喜びの深さを理解することができます。

幸いなことよ、その背きを赦され、罪をおおわれた人は。

幸いなことよ、主が咎をお認めにならず、その霊に欺きがない人は。(詩篇32:1ー2)

天のお父さん、私が決して自分の罪を軽く見ないようにしてください。私が決して、あなたの素晴らしい恵みを当たり前のものだと思わないようにしてください。

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出エジプト記のデボーション

古い契約、新しい契約

モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。

「主の言われたことはすべて行います。聞き従います。」

モーセはその血を取って、民に振りかけ、そして言った。

「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」(出エジプト記24:6~8)

日曜日に聖餐式があったので、最後の晩餐でのイエス様の言葉を思い出しました。

この杯は、わたしの血による新しい契約です。

飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。(第一コリント11:25)

ある意味、古い契約は恵みの契約でした。その契約によって、自分の罪のゆえにふさわしくなかった人々も、神様との関係を持つことができたのです。

でも、ある意味では、その契約は不完全なものでした。

その契約は、イスラエル人が神様の命令に従うという約束に基づいていました。しかし、彼らは完全にそうすることができませんでした。(ヘブル8:7~9;10:1~4)

さらに、契約の血がイスラエル人たちに振りかけられましたが、彼らは神様に近づくことができませんでした。

モーセ、祭司たち、長老たちだけが、神様の御前で食べたり、飲んだりすることができました。それでも、モーセだけがシナイで神様に近づくことができました。

その一方、新しい契約は、神様の律法を守ろうとする私たちの努力に基づくものではありません。その契約は、私たちが良い人間になるという誓いに基づくものではありません。

その契約は、十字架で流されたイエス様の血によって基づくものです。

その血は、アベルの血と違って、復讐を求めるのではなく(創世記4:10)、「アバ、父よ、彼らを赦してください」と叫びます。

そういうわけで、私たち皆は、恐れず、喜びをもって、大胆に神様に近づくことができます。(ヘブル10:19~22)

ヘブルの著者は、新しい契約と古い契約の違いをこのようにまとめました。

あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。

そのことばのとどろきを聞いた者たちは、それ以上一言も自分たちに語らないでくださいと懇願しました。

彼らは、「たとえ獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができませんでした。

また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。

しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。(ヘブル書12:18~24)

それは、なんと素晴らしいことでしょう。

このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。

感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。

私たちの神は焼き尽くす火なのです。(ヘブル12:28~29)

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マタイの福音書のデボーション

私たちが汚れているとき

すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。

イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。(マタイの福音書8:2ー3)

ツァラアトは、とてもひどい病気でした。ツァラアトにかかった人たちは、のけ者とされ、神の神殿に入ることも許されませんでした。(レビ記13:45〜46;民数記5:2〜3)

その意味では、ツァラアトは罪を描写するものです。罪によって、私たちは霊的に汚れ、神様との関係、また周囲の人々との関係が壊れてしまいます。

しかし、今日の箇所では、ツァラアトに冒された人がイエス様のみもとに来て、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言いました。

すると、イエス様は恵みとあわれみをもって、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われました。

私たちは、罪を犯したとき、神様が赦してくださるのか、受け入れてくださるのかと疑ってしまうことがあります。

だから、私たちはおどおどしながら神様のみもとに来て、「お心一つで私をきよくすることがおできになります」と祈ります。

イエス様は、ツァラアトに冒された人に答えてくださったように、私たちにも答えてくださいます。

「わたしの心だ。きよくなれ。」

ですから、神の子どもたちよ、神の御座に大胆に近づきましょう。なぜなら、私たちはあわれみを受け、恵みをいただくという確信をもっているからです。(ヘブル4:16)

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

神の子の生き方

しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。(ガラテヤ人への手紙2:19ー20)

私は上の言葉が大好きです。

私はかつて神の律法の下にありました。その時、律法は私の養育係りとして、正しいことを教えてくれたけれど、正しいことを行うために力を与えることはできませんでした。(ガラテヤ3:24)

むしろ、私が失敗したとき、罪を犯したとき、神の律法は私を断罪することしかできませんでした。

でも、私を断罪した神の律法は、私をイエス様に導いてくれました。律法を通して、私にはイエス様が必要なのだと分かりました。そして律法が私をイエスの十字架に導いた途端、私は律法においては死んだ者となりました。

私はもはや律法によって断罪されていません。なぜなら、十字架でイエス様が私の罪と失敗の代価を払ってくださったからです。

そして、イエス様とともに、神様に敵対的だった私、神様を信頼できなかった私も死にました。

そして今は、キリストが私のうちに生きておられます。

私たちは、神の期待に応えられないことを恐れて生きているのではありません。

むしろ、イエス様が私を愛し、私のためにご自分を与えてくださったという確信を持って、生きているのです。

神様に愛され、受け入れられるため、頑張ってルールを守らなくてはならないと思って、生きているのではありません。

むしろ、神様が私をご自分の子供として愛し、受け入れてくださっているという確信を持ち、安心して生きているのです。

また、私は毎朝起きるたびに、神様が私を見て、「あなたは私の愛する子供です。私はあなたを喜ぶ」と言っておられるという確信をもって、生きているのです。

だから、私の最大の願いは、私の天のお父さんのために生き、天のお父さんを喜ばせることです。

それが神の子の生き方です。

それは、あなたの生き方でしょうか。

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

神様から離れる

私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。(ガラテヤ人への手紙1:6)

「神様から離れる」という言葉を聞くとき、私たちは、罪の道に戻る放蕩息子のような人をよく考えるでしょう。

もちろん、そのような人は神様から離れているけれど、パウロは違うことについて話しています。

ガラテヤ人たちにとって危険なのは、罪の道に戻ることではなく、ルール中心の生活を送ることです。彼らの場合、割礼を受けなくてはならないし、いろんなユダヤ教の儀式的な律法に従わなくてはならないと教えられました。

でも、その儀式は真の聖さとは何の関係もありませんでした。(コロサイ2:20〜23)

さらに、その律法は一時的なものでした。その律法の目的は、ユダヤ人にキリストを指し、キリストの到来に備えて彼らの心を整えるということです。(ガラテヤ3:19〜25)

私たちはルールではなく、神様に焦点を合わせるべきです。「神様は私の人生とその回りで、何をしておられるだろうか。御霊は私をどこに導いてくださっているだろうか。」

ルールに集中する人生は、自己中心のものです。つまり、私たちはよくこう考えます。「私は神の基準に達しているだろうか。」

恵みの生活は神中心です。「神様はとても良いお方です!神の恵みと愛は素晴らしい!神様はどこに行っておられるだろうか。私も行きたい!神の働きに参加したい!」

だから、神様から離れる人生、特にルール中心の生活を捨てましょう。むしろ、喜びをもって、毎日毎日、一瞬一瞬、御霊に導かれましょう。

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創世記のデボーション

どうか私に近寄ってください

兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり、答えることができなかった。ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」(創世記45:3~4)

ヨセフの兄たちの立場になって想像してみましょう。

彼らは通訳者を通して、エジプトの支配者と話していました。(創世記42:23)

でも突然、通訳者とヨセフの他のしもべたちが部屋を出ていき、その支配者は彼らにヘブル語で話しかけます。それだけではなく、彼は、「私はヨセフです」と言います。

それを聞いて、彼らは恐れました。彼らは22年前にヨセフを奴隷として売ったからです。自分たちの罪をよく知っていて、ヨセフの怒りに値することを知っていました。

でも、ヨセフは彼らに言いました。「どうか私に近寄ってください。」

イエス様も同じことを私たちに言われます。

私たちはイエス様の御前に立ち、私たちの罪と失敗はすべて明らかになります。だから、私たちは神の怒りに値することをよく知っています。

でも、イエス様は私たちを見て、言われます。

「どうか私に近寄ってください。大いなる救いをもたらすために、神は私をあなたより先に遣わされた。

天の父は私をすべての主に任命された(第一コリント15:27)。

だから、あなたは神に近寄ることができる。

あなたが恐れず、毎日毎日、一瞬一瞬、私と共に歩み、私のそばにいることができる。

あなたの試練と苦しみの中で、私はあなたを支える。

だから、あなたの家族と回りの人々のところに行き、私の栄光、あなたが見た一切のことを告げなさい。そうすれば、彼らも私に近寄り、私を知るようになる。」

私はこういうことを考えて、本当に不思議だなぁと思います。

今日、私が祈った詩篇は、とても適切な反応だと思います。

全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ。
喜びをもって主に仕えよ喜び歌いつつ御前に来たれ。

知れ。主こそ神。
主が私たちを造られた。
私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。

感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ。

主に感謝し、御名をほめたたえよ。

主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、
その真実は代々に至る。(詩篇100編)

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創世記のデボーション

神様と共に前進する

それで、ヤコブは自分の家族と、自分と一緒にいるすべての者に言った。

「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい。

私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。」(創世記35:2~3)

34章にある恐ろしい出来事の後、私たちはヤコブの人生に神の恵みを見ることができます。

ヤコブの息子たちの恐ろしい罪にも関わらず、神様はヤコブに言われました。「私はまだあなたと共にいる。私が最初にあなたに現れた場所、ベテルに戻りなさい。」

だから、ヤコブは家族に異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替え、ベテルに上って行くように命じました。

ベテルで、神様はヤコブに約束を再確認しました。また、神様はもう一度ヤコブを「イスラエル」と名付けました。

「イスラエル」とは、「神と戦う」という意味もあるし、「神は戦う」という意味もあります。

たぶん、後者の定義の方が適切かもしれません。なぜなら、ヤコブは神様と戦うことをやめ、神様の支配に従っていたからです。さらに、神様はヤコブとその家族のために戦っていたのです。(5節)

この話を読んで、私は励まされました。私たちがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して見捨てないのです。むしろ、私たちが神様と共に前進するように招いてくださいます。

神様と共に前進するため、私たちはどうすればいいでしょうか。

私たちの罪を捨て、私たちを清めるイエス様の血で洗われ(第一ヨハネ1:7)、そして、再びイエス・キリストとその義を着るべきです(ローマ書13:14)。

そして、サタンが私たちを責めるとき、神様が私たちのために戦っていることを覚えていましょう。(ローマ書8:31〜34)

だから毎日、神の恵みによって歩み、神様と共に前進し続けましょう。

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マルコの福音書のデボーション

主よ、ため息をつかれることはありますか

すると、パリサイ人たちがやって来てイエスと議論を始めた。彼らは天からのしるしを求め、イエスを試みようとしたのである。

イエスは、心の中で深くため息をついて、こう言われた。「この時代はなぜ、しるしを求めるのか。」(マルコの福音書8:11ー12)

イエスはそれに気がついて(弟子たちに)言われた。

「なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。

目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。。。

まだ悟らないのですか。」(17ー18,21節)

イエス様、私たちの頑固さ、私の不信仰に、あなたはどれほど深くため息をつかれるのでしょうか。私が頑なな心を持ち、目が見えず、耳が聞こえず、何も悟れないとき、あなたはどれほど深くため息をつかれるのでしょうか。

それでも、あなたは私を諦めることはありません。

目の見えない人が見えるようになるまで、あなたがその目に触れ続けてくださったように、私が見えるようになるまで、私の目にも触れ続けてくださいます。

そして、私が聞こえるようになるまで、私の耳に触れ続けてくださり、心が和らぎ、悟るようになるまで、私の心にも触れ続けてくださいます。

あなたの素晴らしい恵みに感謝します。

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創世記のデボーション

恐ろしい言葉?

わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。(創世記17:1)

その言葉を読んだとき、あなたが何を感じたかわかりませんが、私の目に留まりました。

「私は全能の主、万物の創造主、宇宙の支配者です。私の前に歩みなさい。

私から離れて、自分の道を行ってはならない。

全き者であれ。自分の罪にふけってはならない。あなたは聖なる者でなければならない。私が聖だからです。

すべてにおいて、私の真似をしなさい。私の性格の真似をし、私の価値観と心に従いなさい。」

その言葉をちょっと考えてみてください。正直なところ、一つの真理を心に留めておかなければ、私はこの言葉に圧倒されてしまうでしょう。

その真理とは?神様は私たちを愛してくださる父であるということです。

そして、神様はアブラハムと契約を結ばれたように、私たちとも契約を結ばれました。しかし、その契約は私たちの行いによるものではなく、イエス様の十字架の働きによるものです。

イエス様の働きによって、私たちは失敗しても、神様が私たちを受け入れてくださる確信を持ち、大胆に神様のみ前に進み出ることができます。(へブル4:16;10:19)

だから毎日毎日、一瞬一瞬、全き者として神様の御前に歩みましょう。そして、サタンが私たちを責めるとき、以下の言葉を覚えていましょう。

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、(イエス・キリスト)にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ(ます)。(エペソ1:4ー8)

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使徒の働きのデボーション

神の恵みのみことば

「神の恵みのみことば」、つまり「福音」という言葉を聞くと、私たちは普段、自分の救いのことだけを考えがちです。けれども、福音はそれ以上のことをしてくれます。

もちろん、福音によって私たちは救われます。しかし、パウロはエペソの人々にこう語りました。

今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。

みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。(使徒の働き20:32)

パウロによれば、福音を信じるとき、二つのことが起こります。

一つ目は、私たちは神の子供として御国を受け継ぐことです。つまり、救われるということです。けれども、それだけではありません。福音は私たちを成長させます。

原文で使われている「成長させる」という言葉には、「励ます」や「強める」というニュアンスも含まれています。

福音は私たちを一度だけ励ますものではありません。また、一度だけ強めるものでもありません。私たちには、毎日福音が必要なのです。

クリスチャンとして私たちが絶望するとき、多くの場合、その原因は神の恵みのメッセージを忘れてしまうことにあります。

私たちは、神の愛を得るために頑張る必要がないことを忘れてしまいます。

神様がすでに私たちを愛してくださっていることを忘れてしまいます。

また、神の受け入れを得るために頑張る必要がないことも忘れてしまいます。

神がすでに私たちを受け入れ、私たちのことを喜んでおられることを忘れてしまうのです。

私たちは、イエス様が私たちの罪の代価をすでに払ってくださったことを忘れてしまいます。そのため、イエス様の十字架の働きが不十分であるかのように、私たちは自分自身を責め続けてしまうのです。

だからこそ、私たちにはいつも福音のことば、福音のメッセージを思い出す必要があります。片時もそのメッセージを忘れないでください。

むしろ、毎日そのメッセージによって安心し、喜びましょう。

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使徒の働きのデボーション

苦しみを経なければならないのか

二人はこの町で福音を宣べ伝え、多くの人々を弟子としてから、リステラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返して、 弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、

「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。(使徒の働き14:21ー22)

「多くの苦しみを経なければなりません。」

私はこの言葉に思いを巡らしました。

「多くの苦しみを経なければならないのだろうか。なぜ?」

もちろん、パウロは、苦しみを経ることによって私たちが神の国に入る権利を得る、と言っているわけではありません。

しかし、もし神の国に入りたいと願うなら、ある意味で、私たちは苦しみを経なければなりません。なぜなら、この罪によって壊れた世界では、私たちは苦しみを避けることができないからです。

さらに、私たちに反対する敵がいます。つまり、サタンは私たちに敵対しているのです。

それだけではなく、苦しみは神様が私たちを精錬するために用いられるプロセスでもあります。

その苦しみを通して、神様は私たちに何が本当に大切なのかを教えてくださいます。

この世の人々の考え方とは違い、もっとも大切なことは楽な人生を送ることではありません。一番大切なことは、自分の罪にふけり、自分のために生きることではありません。

もっとも大切なことは、神様を信頼し、従うことです。その道は真のいのちに至るからです。

ペテロはこの真理をよく理解していました。彼はこう言いました。

キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。

肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。

それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。(第一ぺテロ4:1ー2)

パウロもこの真理を理解していました。彼はそれを新しいクリスチャンたちに教えただけでなく、使徒の働き14章では、その真理に従って歩みました。彼自身の人生を通して、新しいクリスチャンたちに模範を示したのです。

ペテロはこうも言いました。

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。

むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。(第一ぺテロ4:12ー13)

それは勇士の心です。

私の教会では、私たちはほとんど(決して?)歌いませんが、私はこの「Amazing Grace」の歌詞が大好きです。

“Through many dangers, toils, and snares, I have already come;
いろんな危険や、苦労や、罠を乗り越え、私はすでにたどり着きました。

‘Tis grace hath brought me safe thus far,
恵みは私をここまで無事に導いてくださいました。

And grace will lead me home.”
そして、恵みは私を主の家に導いてくださいます。

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ルカの福音書のデボーション

私たちが入ろうとしないとき

すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。(ルカの福音書15:28節)

上の言葉に私は心打たれました。

放蕩息子の話を読むとき、私たちはたいてい次男に注目します。

でも、この話に登場する父親は、次男だけではなく、長男をも愛していました。

だから、長男が愚かな態度を取り、苦々しい思いを抱いて、家に入ろうとしないと、父親はその息子のところに行きました。

私たちは、どれだけ長男のように振る舞うでしょうか。

自分の問題のため、あるいは神様に不当に扱われていると感じるために、私たちは愚かな態度を取り、苦々しい思いを抱いて、神様のもとに来ようとしません。

でも、私たちが入ろうとしないとき、神様は出て来ます。神様は私たちを救われたとき、そのような恵みを与えてくださったし、今なお、その同じ恵みを与えてくださいます。

詩人アサフも、そのような恵みを受けて、こう書きました。

私の心が苦みに満ち 私の内なる思いが突き刺されたとき、私は愚かで考えもなく、あなたの前で、獣のようでした。

しかし、私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手を、しっかりとつかんでくださいました。

あなたは、私を諭して導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいます。(詩篇73:21ー24)

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イザヤ書のデボーション

赦され、忘れられた罪

かつての苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。

見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。

先のことは思い出されず、心に上ることもない。(イザヤ書65:16ー17)

以前、上のことばを読んだとき、なぜか私はいつも、イザヤが「新しい天と新しい地」で神の御顔を見るときに、私たちがかつての苦難や罪や失敗を忘れる、と言っているのだと思っていました。

今でも、私たちの苦難や罪と失敗が忘れられると信じています。でも、それが神様の意図だとは思いません。

神様が言われたのは、「かつての苦難は忘れられ、わたしの目から隠される」ということです。

だから、「先のことは思い出されず、心に上ることもない」と言われるとき、神様が「先のことは思い出されず、わたしの心に上ることもない」と言っておられるのだと思います。

アダムとエバが初めて罪を犯して以来、私たちはこの世界でどれほどの苦しみを引き起こしてきたのでしょうか。

私たちは、どれほど神様の心を悲しませてきたでしょうか。

今日の箇所では、神様がそのことについて語られます。神様は、ご自身の民の罪と反逆について語り、彼らがどれほど神の心を悲しませたかを示されます。

それでも、神様は言われます。

「わたしはすべてを新しくします。その日、あなたの罪や、あなたがわたしの心を悲しませたすべてのことは忘れられ、わたしの目から隠されます。そのことは思い出されず、わたしの心に上ることもない。」

イエス様の十字架の働きによって、私たちのすべての罪は赦され、忘れられました。

それこそが、不思議な恵みですね。

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ヨハネの福音書のデボーション

イエス様の忍耐

あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。(ヨハネの福音書16:12ー13)

上のことばを読んで、私はこう考えました。「どれだけイエス様は、私に同じことを語っておられるのだろうか。イエス様は、私に語りたいことがたくさんあるけれど、私はそのことばに耐えることができません。なぜなら、私の心はまだ整えられていないからです。

でも、イエス様は私を叱られることはありません。むしろ、イエス様は忍耐をもって待っていてくださいます。そして、イエス様の時に、御霊が私に必要なことを語ってくださいます。」

イエス様、あなたは私の心をよく知っておられます。私が何を聞くに耐えられるか、耐えられないかを、よくご存じです。

私に対するあなたの忍耐と柔和さを感謝します。あなたのことばを聞くために、私の心を整え続けてください。私があなたに対して、柔らかい心を保つことができるように助けてください。

聖霊様、私は自分の心をあなたに開きます。あなたの時に、私をすべての真理へと導いてください。その真理が、私には受け入れがたいものであったとしても、その真理へと導いてください。

そして、イエス様、私へのあなたの忍耐と柔和さを、私も周りの人々に示すことができるように助けてください。

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列王記第二のデボーション

祈るときの私たちの態度

ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。(列王記第二20:3)

この出来事は、アッシリアの王センナケリブがユダに侵略し始めた後、その軍隊がエルサレムを包囲する前に起こったようです。(20:13と18:14ー16を参考してください。)

私が気づいたのは、ヒゼキヤの祈りの根拠と神様の答えの根拠です。

ヒゼキヤは祈るとき、自分の忠実さを指して、「私は良い人だ」と主張しました。

でも、神様がなぜヒゼキヤを癒し、ユダをアッシリアから救ってくださったのかを説明された時、何と言われたでしょうか。

神様は、「わたしのために、わたしのしもべダビデのため」と言われました。(16節)

簡単に言うと、ヒゼキヤの真実さや善良さではなく、ご自分の栄光のため、また、ご自分のいつくしみ、忠実さ、恵みによって神様はそうしてくださいました。

神様はダビデにいろんな約束をしたので、その約束を忠実に守ってくださいました。

そして、ヒゼキヤを癒し、ユダをアッシリアから救われたことによって、神様はヒゼキヤだけでなく、ユダの人々にも、周囲の国々にも、ご自分の栄光といつくしみと恵みを現されたのです。

この話を読んで、私はこう考えました。

「何によって、私は神様の前に来て祈るのだろうか。自分の忠実さや良い行為を指すのだろうか。私は神様に『私はあなたの祝福に値する』と主張するだろうか。」

もしかすると、私はこう祈るだろうか。

「神様、私はあなたから何も受けるに値しません。でも、私へのあなたのいつくしみや恵みや忠実さによって、私はあなたの前に来て、祈ります。」

そのような心をもって、祈るだろうか。

もし、私たちが「神様の祝福に値する」と思うなら、ヒゼキヤのように、プライドの罠に陥りやすくなります。(12ー19節;歴代誌第二32:24ー25)

「神様が私の願いをかなえてくださることは当たり前だろう。私はふさわしいものだから。私は神様の祝福に値するのだ。」

その反面、神様が私の祈りに「いいえ」と答えると、私たちは怒ってしまいます。

あなたは、何によって神様の前に来て、祈るでしょうか。

自分の善良さを指すのでしょうか。

それとも、神様の恵み、いつくしみ、忠実さによって祈るでしょうか。

天のお父さん、あなたから私は何の良いものに値しません。

それでも、あなたの恵みによって、あなたが私をご自分の子供と呼んでくださり、私は何でも願うことができます。

だから、私はへりくだってあなたの前に来て祈ります。

私の善良さではなく、あなたのいつくしみ、恵み、真実さによって、私は祈ります。

そして、あなたが「はい」と答えても、「いいえ」と答えても、私は、あなたが良い方であり、あなたの道が最善のものであることを信じることを選びます。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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列王記第二のデボーション

神の呪い、神の恵み

1章と2章では、エリヤとエリシャを通して、神様の呪いが人々に下される場面を見ることができます。

多くの人々はそれを読んで、エリヤとエリシャの行為が酷いと感じるかもしれません。

しかし、私たちは一つのことを覚えておくべきです。それは、聖書において神の呪いとは、敵に対する魔法の言葉ではなく、反抗的な人々に対する神の裁きであるということです。

エリヤの場合、イスラエルの王や、最初の二人の隊長は、神様とその預言者に対して反抗的で傲慢でした。

エリシャの場合も、神様とその預言者に対して同じような態度が見られます。

けれども、多くの人々にとって受け入れがたいのは、神様が「小さい子どもたち」を裁かれたと記されている点です。

ところが、ヘブル語における「子ども」という言葉の定義は幅広く、「小さな子ども」を意味する場合もあれば、「青年」を指す場合もあるのです。

列王記第一3:7では、ソロモンが自分を「小さな子ども」と呼んでいます。おそらく、ソロモンは自分を卑下して、「私は無知で、青臭い者です」と言っていたのでしょう。

このように、列王記の著者は、あの青年たちの無知を批判していたのです。

しかし、ソロモンとその青年たちの違いは、ソロモンが神様の御前にへりくだったことです。そのゆえに、ソロモンは神様の恵みを受けました。

その一方で、あの青年たちは神様とエリシャに対して傲慢で敵対的な態度を取りました。だからこそ、彼らは裁かれたのです。

ですから、ヤコブの言葉を心に留めましょう。

「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」

ですから、神に従い。。。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。

罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。

主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。(ヤコブ4:6-10)

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ヨハネの福音書のデボーション

 あなたが私の心を知っておられるから

人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。(ヨハネの福音書2:25)

イエス様、あなたは私について誰の証言も必要とされません。私のうちに何があるのかを、すでに知っておられるからです。私の心の中に何があるのかを、すでに知っておられるのです。

正直に言えば、私自身が知っている以上に、あなたは私のことをよく知っておられます。ですから、み言葉という鏡をもって、私の心の中にあるものを映し出してください。

私がその姿を見ることを恐れる必要がないことを感謝します。なぜなら、鏡に映る私の姿がどんなに見苦しくても、あなたはすでにご自分の子どもとして私を受け入れてくださっているからです。そして、あなたの恵みによって私をきよめてくださいます。

あなたは普通の水を素晴らしいぶどう酒に変えられました。そのように、あなたが普通の私を素晴らしいものに変えてくださることを信じます。

私へのあなたの恵みと忠実さに感謝します。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの福音書のデボーション

イエス様のもとにとどまる、イエス様にとどまる

イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」

彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」

イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」

そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。(ヨハネの福音書1:38ー39)

わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。

枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。(ヨハネ15:4)

イエス様、アンデレとヨハネ(?)があなたに最初に尋ねたのは、「ラビ、どこにお泊まりですか。」ということでした。

あなたが彼らを歓迎されたので、彼らは一日中あなたのもとにとどまりました。

イエス様、私はあなたがおられるところに、私もいたいのです。私はあなたのもとにとどまりたいのです。あなたにとどまりたいのです。あなたの満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けるからです。

あなたの恵みで私を満たしてください。あなたの力で私を満たしてください。あなたの知恵で私を満たしてください。今日、私があなたのために実を結ぶことができますように。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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ルカの福音書のデボーション

私にどんな恵みがあるだろうか

自分を愛してくれる者たちを愛したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。(ルカの福音書6:32)

今朝、私はその言葉に思いを巡らしていました。

もし、私が愛してくれる人たちだけを愛し、良いことをしてくれる人たちだけに良いことをするなら、私は神様からどんな恵みを受けることになるでしょうか。

神様から、私が人々に与えているような「恵み」(それは実際には恵みではないでしょう)を受けることになるでしょうか。

神様が、私が値したものだけを与えてくださるとしたら、私は何を受けることになるでしょうか。

また、もし私が周りの人々に与えている恵みがそのようなものだとしたら、私は本当に神の恵みを理解していると言えるでしょうか。

主よ、私の心を探ってください。私はあなたの恵みを本当に理解しているでしょうか。

あなたの恵みをもっと深く知るように助けてください。その恵みを把握し、私が周りの人々へのあなたの恵みのチャンネルとなるようにしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第二のデボーション

神様が私たちを見るとき

主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたからです。

主は、私の義にしたがって私に報い、手のきよさにしたがって顧みてくださいました。(サムエル記第二23:20-21)

ダビデの人生、特に彼の多くの失敗を考慮に入れると、その言葉は驚くべきものです。

それでも、ダビデはこう言えました。

私は主の道を守り、私の神に対して悪を行ないませんでした。

主のすべてのさばきは私の前にあり、主の掟から、私は遠ざかりませんでした。私は主に対して全き者。

自分の咎から身を守りまます。(22-24)

私は、ダビデが自分の失敗を忘れていたとは思いませんし、その罪を軽視していたとも思いません。

しかし、ダビデは神の恵みを深く理解していました。ほかの詩篇では、ダビデはこう歌っています。

主は、いつまでも争ってはおられない。
とこしえに、怒ってはおられない。

私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、
私たちの咎にしたがって私たちに報いをされることもない。。。

東が西から遠く離れているように、
主は、私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。(詩篇103:9-10,12)

何年か後、神様は預言者イザヤを通して、こう言われました。

わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(イザヤ書43:25)

でも、どれほど私たちは自分の罪と失敗をくよくよするでしょうか。どれほど私たちは自責の念で苦しむでしょうか。

神様は私たちの罪を忘れることを選ばれました。神様はもう二度とその罪のために私たちを責めることはありません。

神様が私たちをご覧になるとき、聖く、傷のない者、また、キリストの義を着ている者として見なされます。

私たちの「義」は不完全なものです。その「義」はしばしば不純な動機に汚されています。

それでも、神様は恵みによってダビデの義を受け入れられたように、私たちの義も受け入れてくださいます。

それでも、神様は恵みによってダビデの義を受け入れられたように、私たちの義も受け入れてくださるのです。

そればかりか、神様は私たちを喜びとされるのです。

主は生きておられる。ほむべきかな。
わが岩。あがむべきかな、わが救いの岩なる神。(47)

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サムエル記第二のデボーション

子どもたちへの赦しと希望の言葉

私たちの子どもたちが大きな失敗をしたとき、私たちはどんなメッセージを伝えるでしょうか。

私たちは彼らから距離を置くでしょうか。

彼らがしたことは許されないという印象を与えるでしょうか。

ダビデはそのようなメッセージをアブサロムに伝えてしまいました。

ダビデがアブサロムを抱きしめ、もう一度自分の愛を伝えていたらよかったのに。

ダビデがアブサロムに、次のような言葉を伝えていたと想像してみましょう。

「私はあなたと同じ立場に立ったことがある。私も人を殺した。しかも、私の理由はあなたの理由よりももっとひどかった。でも、神様は私にご自分のもとに戻る道を備えてくださった。神様はあなたにも、その道を備えることができる。」

ダビデがそう言っていたら、アブサロムは悔い改めたでしょうか。

私はわかりません。そうだったかもしれませんが、私にはわかりません。

しかし、神のいつくしみ深さが私たちを悔い改めへと導いてくださいます(ローマ2:4)。

だからこそ、私たちの子どもたちが大きな失敗をしたとき、その同じ恵みを与え、主のもとに帰る道を示してあげましょう。

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サムエル記第二のデボーション

主に愛された者

彼女は男の子を生み、彼はその名をソロモンと名づけた。主は彼を愛されたので、預言者ナタンを遣わし、主のために、その名をエディデヤと名づけさせた。(「エディデヤ」とは「主に愛されたもの」を意味します)。(サムエル記第二12:24-25)

ダビデは大きな失敗をしていました。自分の罪によって、ダビデは主を蔑んでしまいました。そして、その罪の結果は、ダビデとその家族に長い間、大きな影響を与えました。

それでも。。。

ダビデの悔い改めに伴って、彼は神様の赦しを知りました。そのあと、ダビデはこの言葉を書きました。

東が西から遠く離れているように、
主は、私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。(詩篇103:12)

もし私が神様だったら、たぶんこう言っていたと思います。

「ダビデとバテ・シェバを赦しはするが、この結婚を絶対に祝福しない。」

でも、神様はそのようには考えられませんでした。

ソロモンを「主に愛された者」と名づけることによって、神様はダビデとバテ・シェバにこのメッセージを伝えたかったのだと思われます。

「私はあなたたちをまだ愛している。あなたたちの罪によって、つらい時に直面することになるが、この子どもを見るとき、私の愛があなたたちから取り去られていないことを心に留めなさい。

ソロモンは私の愛する子どもです。あなたたちも、私の愛する子どもたちです。」

そして最終的に、ダビデとバテ・シェバとソロモンを通して、イエス様はこの世に来られました。(マタイ1:6–16)

それは恵みです。それは神の忠実な愛です。

あなたはどんな後悔を抱えているでしょうか。自分の過去の罪の結果によって、今も苦しんでいるでしょうか。

心に留めておきましょう。ダビデとバテ・シェバとソロモンのように、あなたは主に愛されている子どもです。

イエス様にあって、赦しがあり、神があなたのために整えられた道があります。

だからこそ、イエス様と共に、次の一歩を踏み出しましょう。

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マタイの福音書のデボーション

福音の物語における私たちの役割

まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」

すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。(マタイの福音書26:13-15)

その言葉を読んだとき、私が気付いたのは、人々がラザロとマルタの妹マリアとその行為だけではなく(ヨハネ12:1-8)、ユダとその行為をもよく覚えているということです。

マリアはイエス様への愛のために覚えられています。ユダは、イエス様を裏切ることのために覚えられています。

そして、私はこう考えました。神様はエデンの時代から今まで、福音の物語を書き続けておられます。その物語の中で、私はどんな役を演じているのでしょうか。人々は私のことについて何を思い出すでしょうか。彼らは、どんな物語を語るでしょうか。

そして、ペテロのことを考えました。人々は彼のことも覚えています。彼らはペテロの大きな失敗をよく覚えています。ペテロは三度、「イエスを知らない」と言い張りました。けれども、ペテロは神の恵みを受けた者としても覚えられています。

それが福音の中心です。福音は神の恵みについての物語です。福音は、私たちの罪の赦しのために十字架で砕かれたキリストのからだと、流された血潮についての物語です。

自分の罪や壊れた人生を見るとき、私たちはよく落ち込んでしまいます。しかし、マリアとペテロのように、私たちは神の素晴らしい愛と恵みを受けた者です。それが、神様が書き続けておられる福音の物語における、私たちの役割です。

それを喜びましょう。

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士師記のデボーション

私たちの羊飼いの模範に倣う

エフライム人たちは本当に怒りっぽい人たちでした。8章でも、私たちはそのことを見ました。

そして、傲慢で怒りっぽい人たちは、しばしば愚かなことを言い、人を傷つけてしまいます。

私たちは彼らの行為をコントロールすることはできません。でも、自分の反応をコントロールすることはできます。

では、私たちはどのように反応すべきでしょうか。私たちの羊飼いの模範に従うべきです。

ペテロはこう書いています。

しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。

このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、 あなたがたに模範を残された。

キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。(第一ぺテロ2:20ー23)

エフタのように、イエス様も良いことを行われたのに、言いがかりをつけられ、脅かされました。

しかし、自分の敵を殺したエフタとは違い、イエス様は罪を犯すことなく、すべてを天の父に委ねられました。イエス様は十字架に向かわれ、敵のために祈り、私たちの救いを買い取ってくださいました。(第一ペテロ2:24)

私たちは、さまよっていた羊のようでしたが、私たちの羊飼いは恵みによって私たちを引き戻してくださいました。(第一ペテロ2:25)

イエス様の模範に倣い、私たちを傷つけた人たちに対しても、そのように応答しましょう。

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ローマ人への手紙のデボーション

神との平和

最近、マルコ5章からのメッセージを準備していたので、今日の箇所を読んだとき、イエス様が癒してくださった女の人を連想しました。(マルコ5:25~34)

その女の人は、十二年の間、長血をわずらっていました。その病気のせいで、彼女はのけ者になって、神殿や会堂で神様を礼拝することができませんでした。

でも、信仰をもってイエス様に手を伸ばして触ると、彼女はすぐに癒されました。

そのとき、イエス様は彼女に言いました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して(別訳:平安のうちに)行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」(マルコ5:34)

信仰によって、その女の人は神様の前に義と認められました。だから、彼女は神との平和を持ち、神様に近づくことができるようになりました。

そして、その十二年間の苦しみを振り返ると、彼女は希望を持っていました。なぜなら、神様は愛を彼女の心に注いでくださったからです。

その人の人生は、私たちの人生の描写です。私たちは神様から離れていましたが、信仰によって神との平和を持ち、神の息子たちや娘たちとして神様の前に立っています。

以前、私たちは恥を持って神の栄光を受けることができず、自分の罪によって神様から離れていました。(ローマ3:23)

でも今、恵みによって神の愛している子供たちとして、神の栄光にあずかる望みを喜び、神様に近づきましょう。(ローマ5:2)

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

救いの不思議さを思い巡らす

私たちはどれほど、自分の救いの不思議さを思い巡らすでしょうか。

パウロはよくそうしていました。

しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が。。。御子を私のうちに啓示することを良しとされた。。。(ガラテヤ人への手紙1:15-16)

パウロは自分のことについて話していましたが、その言葉は私たちにも当てはめることができます。

私たちが自分の母の胎にあるときから、神様は私たちを選び出してくださいました。

そして、ご自身のタイミングで、神様は恵みをもって、私たちを召してくださいました。

さらに、その同じ恵みによって、神様は私たちの周りの人々を救うために、私たちの人生を通して御子を現してくださいます。

その言葉を考えてみましょう。

想像してください。あなたが自分の母の胎にいるとき、神様はあなたを見て、「あなたを選びます」と言われました。

また、あなたを神様に近づけた色々な小さな「偶然」を思い起こしてみましょう。

そして、少し考えてみてください。あなたは不完全な者なのに、神様はあなたを用いて人々に御子を現すことを良しとされています。

そのすべてのことの不思議さを思い巡らしましょう。

神様の恵みの不思議さを思い巡らしましょう。

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詩篇のデボーション

主の恵みを省みる

詩篇136篇では、詩人は、イスラエルに対する神様の慈しみと恵みを省みます。 この詩篇の初めから、彼はその憐れみと恵みについて歌っています。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。
主の恵みはとこしえまで。(詩篇136:1)

どれだけ私たちに対する神様の慈しみと恵みを省みるでしょうか。

たぶん、私はあまりしていないように思います。

でも今日、詩篇136篇を自分なりに書いてみました。

その詩は以下のとおりです。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。 主の恵みはとこしえまで。

私が生まれる前に、主は私の両親をご自分のもとに引き寄せてくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

私が7才の時、主は私をご自分のもとに引き寄せてくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

私が教会に興味を失ったとき、主はご自身を私に現してくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

主は子どもへの奉仕活動に導いてくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

私が子どもへの奉仕活動から燃え尽きたとき、 主の恵みはとこしえまで。

また、私が霊的な砂漠を渡っていたとき、 主の恵みはとこしえまで。

主は私をその砂漠から導いて、私の魂を生き返らせてくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

主は私を日本に導いてくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

私に妻を与えてくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

私に娘も与えてくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

私が失業したとき、 主の恵みはとこしえまで。

経済的に苦しんだとき、 主の恵みはとこしえまで。

主は私のすべてのニーズに備えてくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

神様の導きによって、私は25年ほど日本で宣教師として働いてきました。 主の恵みはとこしえまで。

私の弱さや頑固さや失敗にもかかわらず、 主の恵みはとこしえまで。

私は天の神に感謝します。 主の恵みはとこしえまで。

それは、私の物語の一部分です。あなたの物語は何ですか。その物語を書きましょう。

神様の慈しみを心に留めておきましょう。

あなたに対する神様の恵みを覚えておきましょう。

そして、その話をご主人や奥さんや子どもや友達に伝えましょう。そうすれば、彼らも神様の慈しみと恵みを見ることができます。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。
主の恵みはとこしえまで。(1)

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詩篇のデボーション

豊かな贖い

イスラエルよ、主を待て。

主には恵みがあり、豊かな贖いがある。 主は、すべての不義からイスラエルを贖い出される。(詩篇130:7ー8)

その言葉を読んで、ヨセフに対する天使の言葉を連想しました。

マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイ1:21)

私たちは罪によって壊れた世界に住んでいます。

あなたの人生は自分の罪や失敗によって壊れたかもしれません。

もし神様が私たちの罪に目を留められていたら、私たちは神様の御前に立つことができないでしょう。(3)

でも、主を待ち望みましょう。

主には恵みがあります。私たちが真実でなくても、キリストは常に真実です。(第二テモテ2:13)

そして、イエス様の血によって、私たちは贖いを得ています。でも、ただの贖いではなく、豊かな贖いを得ているのです。

私たちはみな、(キリスト)の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。

律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(ヨハネ1:16ー17)

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詩篇のデボーション

神の恵みを求めて

詩篇119篇を読むとき、私はいつも神様とそのみ言葉に対するダビデの熱意に感動します。彼は本当に神様を愛し、神様を喜ばせたいと思いました。

それでも、ダビデは、自分が神様の恵みを必要とするのが分かりました。

彼はこう叫びました。

どうか、私の道が堅くされますように。あなたのおきてを守るために。(詩篇119:5)

でも、彼は自分の弱さを認めました。

私は、滅びる羊のようにさまよっています。(176)

だから、彼は何度も神様の恵みを願いました。

神様が彼に教えてくださるようにと、何度も祈ったのです。(12、29、33、66、68、108、124)

神様が彼の霊的な目を開くように願いました。(18)

神様が彼に悟らせるように願いました。(27、34、73、125、144、169)

神様の御言葉に従うために、彼は神様の導きを願いました。(35)

彼は、神様とそのみ言葉に傾いている心を願いました。(36)

彼がむなしいものを見ないように、神様が彼の目をそらせるように願いました。(37)

そして、神様があわれみと恵みによって、彼を取り扱ってくださるように願いました。(58、124)

完全な人は誰もいません。私たち皆は、神様の恵みを必要とします。だから毎日、この詩篇にあるダビデの祈りを祈りましょう。

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詩篇のデボーション

 神の恵みとまこと

最近、ヤコブの人生の後半に関するメッセージをしました。ヤコブにとって、そのときは本当に辛いものでした。彼の妻と父が亡くなり、彼の一番愛していた息子であるヨセフも死んだと思いました。

そのとき、苦々しい思いをもって、皮肉っぽくこう言えたかもしれません。

私たちの神は 天におられ、その望むところをことごとく行われる。(詩篇115:3)

でも、ヤコブの晩年、彼が分かってきたのは「神様は気まぐれな方ではありません。神様は、いつも計画を持っておられます。そして、その計画は良いものです。神様は良い方です。」ということです。

この詩篇は、ヤコブが亡くなってから数百年後に書かれたけど、私は、ヤコブがこの歌を歌うのを想像できます。

イスラエルよ、主に信頼せよ。主こそ助け、また盾。(9節)

たぶん、長い間ヤコブは、自分が神様に見捨てられたと思っていました。でも、人生の終わりに、彼はこう歌うことができました。

主は私たちをみこころに留め 祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し。。。

主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も、大いなる者も。(12ー13節)

だから、あなたの人生が辛くて、神様に見捨てられたと思うなら、ヤコブの話を覚えていてください。そして信仰をもって、こう歌いましょう。

私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、ただあなたの御名に、栄光を帰してください。 あなたの恵みとまことのゆえに。(1節)

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詩篇のデボーション

主に贖われた者は、そう言え。

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」

主に贖われた者は、そう言え。(詩篇107:1ー2)

その最後の言葉は私の目に留まりました。

主に贖われた者は、そう言え。

私たちは何を言うべきでしょうか。

主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。

私たちの人生が順調な時、それを口にするのはたやすいことでしょう。

しかし、人生が思うように進まない時はどうでしょうか。

主が良いお方だと感じられない時もあります。

主の愛が途絶えたように思える時もあります。

けれども、その真理は私たちの感情によって左右されるものではありません。

だからこそ、その言葉の真実さを感じられない時こそ、私たちは意識的に自分自身に思い起こさせる必要があります。

「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」

私たちはすぐに物事を忘れてしまいます。 特に、主が私たちのためにどんな良いことをしてくださったかを、すぐに忘れてしまいます。

イスラエルの民も、しばしばそのように失敗しました。(詩篇106篇)

私たちは、彼らの模範に倣わないようにしましょう。

あなたは今、苦しみの中にいるでしょうか。

少し時間を取って、神様があなたのためにしてくださった良いことを思い起こしましょう。 過去に神様がどのようにあなたの人生に働かれたかを思い起こしましょう。 そして、神様に感謝をささげましょう。

しかし、何よりもまず、この信仰の言葉を告白することを選びましょう。

主はまことにいつくしみ深い。 その恵みはとこしえまで。

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使徒の働きのデボーション

驚くべき

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。(エペソ人への手紙1:4~6)

神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。

それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。

確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。(使徒の働き17:26ー27)

私たちへの神様の愛と恵みは、本当に驚くべきものです。

それは、世界の基が据えられる前から、神様が私たちを選んでくださったということです。さらに、神様は私たちがどこに生まれるか、いつ生まれるか、どんな環境で生まれるかをお定めになりました。

神様の目的は、私たちが手探りで神様を求め、そして神様を見出すことです。そして、私たちがそうするときに分かってくるのは、神様が私たちから遠く離れておられたことは一度もなかったということです。

また、手で造られた宮にお住みにならない神は、私たちのうちに住まわれることを選ばれました。私たち自身が、神様の宮となるのです。(使徒の働き17:24;ヨハネ14:23;第二コリント6:16)

そのすべてを思うとき、心に浮かぶ言葉はただ一つです。驚くべき、ということです。

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使徒の働きのデボーション

神がきよめたもの

神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。(使徒の働き10:15)

今日の箇所では、イエス様は異邦人に対するペテロの考え方を変えようとされています。

それまで、異邦人がユダヤ教に改宗しない限り、ユダヤ人は彼らを汚れた者として見なしていました。けれども、イエス様はペテロにこう語られました。

「私がきよめた人々(異邦人さえも)を、汚れていると言ってはならない。」

これは、すべてのクリスチャンに向けられたメッセージです。もちろん、私たちは他のクリスチャンを汚れた者として見なしてはいけません。けれども、それと同じように、私たちは自分自身をも汚れた者として見なしてはいけません。

それでも、私たちは自分の罪のゆえに、自分が汚れていて、神様の愛に値しないと感じることがしばしばあります。

しかし、私たちがイエス様を信じるなら、イエス様はすでに私たちをきよめてくださいました。神様はすでに私たちを受け入れてくださっています。(ヨハネ15:3)

だからこそ、自分の失敗を目にするとき、自分を責めるのではなく、真理を心に留めておきましょう。

私たちはすでにイエス様の血によってきよめられています。そして、自分の罪を告白するなら、神様は喜んでその罪を赦し、すべての不義から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

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使徒の働きのデボーション

あるがままを見る信仰

しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見(ました)。(使徒の働き7:55)

天のお父さん。このめちゃくちゃな世界の中で、私が本当に必要としているのは、あなたの聖霊に満たされることです。

この世界を見るとき、すべてが混乱していると感じるのは簡単なことです。あなたがもうこの世界の問題をコントロールできなくなったと考えるのも、簡単なことです。

でも、ステパノは、物事を実際にあるがままに見ました。彼はあなたの栄光を見て、あなたが今も御座に座っておられ、イエス様があなたの右に立っておられるのを見たのです。

だからこそ、彼自身が苦しい状況にあり、周囲の人々に憎まれ、迫害されていたにもかかわらず、ステパノは喜び、あわれみと恵みに満ちていました。

聖霊様、どうか私のうちに住んでください。私を満たしてください。私を導いてください。物事を実際にあるがままに見ることができるよう、私を助けてください。

そして、この世が切実に必要としている喜びとあわれみと恵みで、私を満たしてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ルカの福音書のデボーション

喜び

主よ、私がザアカイの喜びを知ることができますように。

私が、あなたに愛されている喜びを知ることができますように。私が、あなたに受け入れられている喜びを知ることができますように。あなたが私と交わりたいと願っておられる喜びを知ることができますように。

私が、あなたの赦しと憐れみの喜びを知ることができますように。

そして、その喜びによって、私がザアカイのように、あなたを本当に喜ばせたいという心を持つことができますように。

周りの人々が私について何を考え、何を言おうとも、私は気にしません。

あなたが私を愛し、受け入れてくださっているので、私は満足です。

私はあなたを心から愛しています。

あなたの恵みと愛に感謝します。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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ルカの福音書のデボーション

資格がある?資格がない?

今日の箇所には、人々が自分自身をどのように見なしていたかについて、興味深いことが記されています。特に、自分がイエス様にお付き合いいただく資格があると思っていたかどうかが注目されます。

百人隊長について見ると、ユダヤ人たちは、彼にはイエス様の助けを受ける資格があると考えていました。なぜなら、彼は多くの良いことをしていたからです。

しかし、百人隊長自身はそうは思いませんでした。だからこそ、彼はイエス様にこう言いました。

あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。(ルカの福音書7:7)

その反面、シモンは、自分が資格を持っていると思っていました。もしかしたら、彼は、イエス様がシモンの家に入る資格がないと思っていたかもしれません。

さらに、シモンは、罪深い女性が偉い先生に付き合う資格はないと思っていました。

でも、実は、私たち皆は資格のない者です。なぜなら、私たち皆は返すことができない罪の借金を持っているからです。でも、私たちがへりくだって、イエス様のもとに来ると、イエス様は私たちに言います。「あなたの罪は赦されています。」

そして、恵みによって、イエス様は私たちを受け入れてくださいます。

だから、感謝に満ちている心をもって、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づきましょう。(へブル4:16)

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詩篇のデボーション

正しい物の見方を保つ

今朝、詩人の言葉は私の心を打ちました。

主に感謝することは良いことです。いと高き 方よ、あなたの御名をほめ歌うことは。朝に、あなたの恵みを夜ごとにあなたの真実を告げることは。(詩篇92:1-2)

正直に言うと、私はその言葉にもっと従うべきです。

多くの場合、朝に私が起きるとき、私が最初に聞くのはニュースです。でも、そうすると、全然、神様を賛美する気になりません。逆に、多くの場合、ニュースは私の態度に悪い影響を与えてしまいます。

また、寝る前に、私は神様の真実をあまり考えません。

もし、毎朝、私が神様の恵みを喜び、また、毎晩、私が神様の真実を告げるなら、どれだけ、私の態度は変わるでしょうか。起きる時と寝る時だけではなく、私の態度は一日中どれだけ変わるでしょうか。

 

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箴言のデボーション

イライラするとき

愚か者は自分の怒りをすぐ表す。(箴言12:16)

正直に言うと、今日、職場で私は少しイライラしていました。時々、同僚とのコミュニケーションはあまり良くありませんが、最近は特にそう感じています。

そのため、今日、私は自分のフラストレーションを同僚に表してしまいました。

誤解しないでください。怒鳴ったわけではありませんが、私のフラストレーションは明らかだったと思います。

その10分後、私は今日の聖句を読みました。そして、神様と少し話さなくてはなりませんでした。

私のフラストレーションは自然な反応だったと思います。でも、その表し方は良くありませんでした。

今日の聖句を読んだとき、私はこう考えました。 「イライラするとき、私はどれだけ『愚か者』のように振る舞っているだろうか。

私はすぐに、自分の表情やため息、そして言葉によって、そのフラストレーションを表してしまうのだろうか。」

主よ、特に私がイライラするとき、どうか私に忍耐を与えてください。 私が愚か者のように振る舞うことのないように。

むしろ、私のうちに恵みと憐れみと忍耐が満ちあふれますように。 なぜなら、あなたはいつも、私に恵みと憐れみと忍耐を注いでくださる方だからです。

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詩篇のデボーション

天の父がイエス様の御顔に目を留めるゆえに

私は詩篇84篇が大好きです。いろんなことについて書くことができますが、今日、8〜9節が私の目に留まりました。

万軍の神、主よ、私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ、耳を傾けてください。 セラ 。

神よ、われらの盾をご覧ください。あなたに油注がれた者の顔に目を留めてください。(詩篇84:8ー9)

9節では、詩人は神様がイスラエルの盾や油注がれた者に目を留めるように祈りました。

「盾」も「油注がれた者」も、当時のイスラエルの王を指します。しかし、最終的に、これらの言葉はイエス様を指しています。

(ちなみに、「キリスト」と「メシア」は「油注がれた者」、つまり「神様に油を注がれた王」を意味します。)

では、神様が私たちの祈りを聞いてくださる理由を疑問に思ったことはあるでしょうか。

私たちが神様の恵みや好意に値するわけではありません。

むしろ、その理由は、天の父が私たちの盾をご覧になっているからです。天の父は、ご自身が油を注いだ者に目を留めておられます。そして天の父は、イエス様の十字架の御業をご覧になっています。

イエス様のゆえに、天の父は私たちに好意を持ち、恵みを与えてくださいます。

イエス様のゆえに、私たちは天の父の御前に近づくことができます。

イエス様のゆえに、私たちは涙の谷を通るとき、力から力へと進みます。

イエス様のゆえに、私たちはいつか永遠の住まいに辿り着きます。

だから、神様の素晴らしい恵みを覚えて、感謝しましょう。

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詩篇のデボーション

神に逆らう世界のために祈る

私たちは神様に対して敵対的な世界に生きています。つまり、人々は、自分が神様の支配下にあり、神様に対して説明責任を持っていることを認めたくないのです。

アサフはそのことをよく理解していました。だからこそ、アサフは、イスラエルに対する周辺の国々の憎しみを見たとき、その憎しみの根本的な理由が分かりました。つまり、彼らは先に神様を憎んでいたからです。

イエス様もその真理をよく理解し、それをご自身と弟子たちに当てはめられました(ヨハネ15:18ー25)。

しかし、ある日すべての人々が膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白します(ピリピ2:10ー11)。

ある人々は、愛と感謝をもって告白します。けれども、他の人々は神様に対する憎しみをもって、渋々それを告白します。

今日の詩篇には、その真理が示されています。

ある日、すべての人々は神様の主権を認めるようになります。彼らは、すべての人々が(自分を含めて)神様の支配下にあることを認めるようになります(詩篇83:18節)。

ある人々は、自分の罪のゆえに恥を負い、正当に裁かれて滅びます。ですから、悔い改めようとしない人々に関して、私たちは神様が正義を実行されるように祈ります。なぜなら、正義を決して実行しない神は、良い神ではないからです。

しかし、それ以上に、私たちは人々が自分の恥の中で悔い改め、神様の御顔を求めるように祈ります(16節)。

なぜでしょうか。それは、神様がご自身の恵みによって、私たちを憐れんでくださったからです。神様は、人々が滅びることなく、救われることを望まれます(エゼキエル書33:11;第一テモテ2:3ー4)。

ですから、神様に敵対するこの世界のために祈りましょう。世の人々が神様の御顔を求め、神様の恵みによって神様を見出すように祈りましょう。

こうして彼らが知りますように。その名が主であるあなただけが全地の上におられる、いと高き方であることを。(詩篇83:18)

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詩篇のデボーション

喜ぶように命じられた

私にとって、詩篇81篇4〜5節は興味深い箇所です。1〜3節でアサフは、「神様に喜び歌え」、「喜び叫べ」、「ほめ歌を歌え」と語っています。

そして、4〜5節でアサフはその理由を示します。神様への賛美は、神様からのおきて、定め、さとしなのです。

神様はイスラエル人をエジプトから救い出されたとき、神様にあって喜ぶように命じられました。

では、なぜ神様はそのように命じられたのでしょうか。それは、イスラエル人が、神様がどのように彼らを救ってくださったかを思い出すためです。

神様は彼らの重荷を除き、奴隷の生活から自由にし、荒野を通って約束の地へと導かれました。

神様は私たちにも喜ぶように命じておられます。なぜなら、神様は私たちの罪の重荷を除き、サタンの国における奴隷の生活から自由にしてくださったからです。

また、神様が私たちと共におられ、私たちを神の永遠の御国に導いてくださっていることを、私たちは喜ぶのです。

それを覚えていることが、なぜ大切なのでしょうか。それは、私たちが神様を信頼し、喜んで従うようになるためです。そして、私たちは神の御言葉に口を大きく開けるようになります。(10節、また、エレミヤ書15:16、エゼキエル書3:1〜3)

私たちはそれをするにつれて、神様の祝福を受けます。(16)

もし、神様が私たちを愛し、祝福したいと願っておられることを覚えていたら、今よりもどれほど私たちは神様を信頼し、従うでしょうか。

もし、神様の救いの御業を思い起こして喜ぶなら、今よりもどれほど私たちは神様の慈しみを覚えているでしょうか。

そういうわけで、聖餐式はとても大切なのです。聖餐式を行うとき、私たちは神様の救いの御業を思い起こし、喜びます。

このコロナのシーズン、多くの教会が聖餐式を行えない状況ですが、私はもう一度、聖餐式によって神様の民と共に、神様の救いの御業を思い起こして喜ぶことを楽しみにしています。

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詩篇のデボーション

私たちを元に戻してくださる方

詩篇80篇では、ほぼ同じ祈りが三度繰り返されています。

神よ、私たちを元に戻し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。(詩篇80:3)

万軍の神よ、私たちを元に戻し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。(7)

万軍の神、主よ、私たちを元に戻し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。(19)

私たちの唯一の救いの希望は、神様が私たちの心を変え、私たちを元に戻してくださることです。

最終的に、神様は十字架でその御業を成し遂げられました。その十字架によって、17節は成就しました。

天の父の右の座に着いておられる人の子、イエス様は、十字架で私たちの罪のために苦しみ、死んでくださいました。 イエス様がその使命を果たすために、天の父の御手はイエス様の上にあり、イエス様を強くしてくださいました。

だから今、イエス様の働きゆえに、天の父はご自身の御顔を私たちに照り輝かせてくださいます。さらに、天の父は私たちを元に戻し、私たちを救ってくださいます。

毎日、私たちが受けたこの素晴らしい恵みを喜びつつ歩むことができますように。

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詩篇のデボーション

裁きの杯を飲まれた方

まことに神こそさばき主。 ある者を低くし、ある者を高く上げられる。

主の御手には杯があり、混ぜ合わされた泡立つぶどう酒が満ちている。主がこれを注ぎ出されると、実にすべて地の悪者どもは、それを飲み、かすまで飲み干す。(詩篇75:7ー8)

その言葉を読むと、私は黙示録14章を連想します。その箇所にも、私たちは同じテーマを見ることができます。つまり、神様が国々を裁くこと。

その箇所にも、神様の御怒りに満ちた杯というイメージが描かれています。そして、神様に背く者たちは、その杯から混ぜ物なしに注がれた、神様の憤りのぶどう酒を飲まなくてはなりません。(黙示録14:9–11)

その日は必ず来ます。

しかし、他の日にも、神様の御怒りは杯から注がれていました。二千年前、十字架の上で、その御怒りが注がれたのです。

イエス様は、その杯を飲みたくはありませんでしたが、私たちのために飲んでくださいました。十字架の上で、イエス様は混ぜ物なしに注がれた、神様の憤りのぶどう酒を飲まれたのです。イエス様のおかげで、私たちはその杯を飲む必要がなくなりました。

だから今、私たちは詩人と一緒に歌うことができます。

私たちはあなたに感謝します。 神よ、私たちは感謝します。 あなたの御名は近くにありあなたの奇しいみわざが 語り告げられています。(詩篇75:1)

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ヨハネの福音書のデボーション

私たちがイエス様を裏切るとき

今日、ヨハネの福音書21章を読んだとき、私はこう思いました。

どれだけペテロは自分の罪の重さを感じたでしょうか。どれだけ、ペテロはイエス様を裏切ったことを覚えていて、後悔したでしょうか。

でも、ペテロがイエス様の御前に立ったとき、イエス様は彼を叱り飛ばすようなことはなさいませんでした。イエス様はペテロから償いを要求しませんでした。

むしろ、イエス様はただ一つの質問を訊かれました。

「ペテロ、あなたは私を愛しますか。」

そして、ペテロの愛が不完全なものであったのに、イエス様はその愛を受け入れられました。

その後、イエス様はペテロに言われました。

「私に従いなさい。」

さらに、イエス様はペテロに御国の働きを委ねられました。

時々、私たちは罪悪感に打ちのめされます。私たちは自分の罪と失敗の大きさを見るから。

私たちは、いったいイエス様が私たちの罪を赦すことができるのか疑問に思います。

でも、イエス様は私たちにただ一つの質問を訊かれます。

「あなたは私を愛しますか。」

そして、私たちの愛がどんなに不完全なものであるにもかかわらず、イエス様はその愛を受け入れられます。

そして、イエス様は私たちに言われます。

「私に従いなさい。」

さらに、イエス様は、私たちのような壊れた人々に触れる働きを私たちに委ねられます。

だから、自分の罪の大きさを感じましょう。

でも、そのあと、神様のさらに大きな恵みを受けましょう。

私たちの罪は大きなものかもしれないけど、神様の恵みはさらに満ち溢れますから。(ローマ書5:20)

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ピリピ人への手紙のデボーション

キリストは私を捕えてくださいました

「キリストは私を捕えてくださいました。」(ピリピ人への手紙3章12節)

「メシアは私を捕えてくださいました。」

その言葉に、少し思いをめぐらせてみましょう。

ユダヤ人にとって、「メシア」または「キリスト」とは、偉大な方です。その方はユダヤ人を救い、イスラエル王国を復興する王です。

パウロはクリスチャンになる前、自分が「メシアは私を捕えてくださいました」と言えるようになるとは想像できなかったでしょう。なぜなら、彼はメシアと親しい関係を持つことはありえないと思っていたからです。

でも、ダマスコへの道で、イエス様はパウロを捕えました。それまで、パウロはイエス様を憎み、イエス様の教会を滅ぼそうとしていました。

しかし、イエス様は彼を捕え、パウロの世界をひっくり返されたのです。

そういうわけで、パウロの人生はキリスト中心のものになりました。7-12節の中で、パウロがどれだけキリストに触れているか数えてみてください。それは十回にのぼると思います。

イエス様が、どのようにあなたを捕えてくださったでしょうか。その経験を振り返ってみると、あなたもパウロのように、不思議に思うかもしれません。

その不思議さゆえに、パウロはイエス様ご自身、そして自分のために備えられたイエス様の計画を追い求め、キリストを捕えようと努めました。

正直に言うと、私はその不思議さをあまり深く考えていません。たぶん、だからこそ、私はイエス様をパウロほど追求していないのかもしれません。

だから、もう少し思いめぐらしてみましょう。

「イエス様は私を捕えてくださいました。」

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エペソ人への手紙のデボーション

私たちはもうすでに。。。だから

エペソ人への手紙5章にあるパウロの言葉は、私の心を打ちました。

「あなたはもうすでに神様に愛される子なので、天のパパに倣う者となりなさい。」

「あなたはもうすでに聖徒なので、性的な罪や貪りや汚い言葉を捨てなさい。」

「あなたはもうすでに光の子なので、そのように歩みなさい。」

パウロが言わなかったことに注目してください。

「神様の愛を知り、神様の子になりたいなら、神様の倣う者となりなさい」とは言いませんでした。

「聖徒になりたいなら、性的な罪や貪りや汚い言葉を捨てなさい」とは言いませんでした。

「光の子となりなさい」とは言いませんでした。

私たちはもうすでに神様に愛されている子供たちです。 私たちはもうすでに聖徒たちです。 私たちはもうすでに光の子供たちです。

だからパウロが意味したものは、「あなたたちはもうすでに神様に愛されている子供たちや聖徒たちや光の子供たちなので、そのように生きましょう」ということです。

そして、私たちが倒れるときに、神様は私たちを引き起こしてくださいます。

でも心に留めておきましょう。神様の子供や聖徒や光の子となるように努める必要はありません。

神様の恵みによって、私たちはそんな身分をもう持っています。 だから恵みによって、毎日、神様の子や聖徒や光の子として生きましょう。

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エペソ人への手紙のデボーション

自分が悪いクリスチャンだと思っているのか?

パウロがどのように自分を見なしていたかは、興味深いことです。

第一コリント15:9では、パウロは自分を「使徒の中では最も小さな人です」と呼びました。

エペソ3:8では、彼はさらにこう言います。「私はすべての聖徒たちのうちで最も小さな者です。」

(「聖徒」とは、「とても聖いクリスチャン」ではなく、「神に属する人」を意味します。ですから、パウロが意図したのは、「私はすべてのクリスチャンたちのうちで最も小さな者です」ということです。)

第一テモテ1:15では、パウロはそれ以上のことを言います。「私は罪人のかしらです。」

注目すべき点があります。パウロは「私は使徒の中では最も小さな人でした」や「私はすべての聖徒たちのうちで最も小さな者でした」、また「私は罪人のかしらでした」とは言いませんでした。

「でした」ではなく、「です」と言ったのです。

現代だったら、パウロがそんなことを言ったとしたら、多くの人はこう言うかもしれません。「パウロ、自分についてそんなことを言ってはいけません。もっと自己肯定感を持たなくては。」

でも、その謙遜な態度ゆえに、パウロは自分が受けた恵みに驚いていました。毎日、その恵みを思い起こすたびに、彼はその不思議さに心を打たれました。きっと、そのたびに涙ぐんだことでしょう。

彼は、天の父に近づくことができるという事実に驚きました。

彼は、神様の代表として人々に福音を伝える権利が与えられたことに驚きました。

だからこそ、彼は大いに喜んだのです。

あなたは、自分が悪いクリスチャンだと思うでしょうか。あなたは、自分が「クリスチャン」と呼ばれることにふさわしくないと思っているでしょうか。

確かに、あなたはふさわしくない人です。私も、ふさわしくない人です。

でも、どうか恥じ入らないでください。

むしろ、自分の惨めさを見つめながら、もう一度神様の恵みに目を向けて、あなたが受けたものを喜びましょう。すなわち、赦し。神様に近づく権利。神様のために周りの人々に触れる使命。そして、永遠の遺産。

そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。

そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ人への手紙3:17-19)

 

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ヨハネの手紙第一

私たちが罪に落ちると

前回の記事で、私たちが学んだのは、私たちが光の子どもとして生きるように呼ばれているけれども、まだ罪に落ちる時もあるということです。その時、私たちが悔い改めるなら、神様は私たちを赦してくださいます。

今日の箇所では、私たちはその赦しの基礎を見ることができます。ヨハネはこう言いました。

私の子供たち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとなりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。

この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげものです。(ヨハネの手紙第一2:1-2)

ヨハネは改めて強調します。私たちは光の子どもだから、暗闇の中で歩んではいけません。

しかし、そのあと、ヨハネは心強い言葉を伝えます。それは、私たちが罪に落ちるとき、私たちを擁護する方がおられるということです。イエス様は御父の前で、私たちのためにとりなしてくださいます。

では、その擁護のよりどころは何でしょうか。それは、十字架でのイエス様の宥めのささげものです。

それはどういうことでしょうか。

その時代、いろんな国では、人々は神々の怒りを宥めるため、また神々のご恩を得るために、さまざまな生贄を捧げました。

ヨハネは同じ描写を使いますが、大きな違いがあります。私たちはその生贄を捧げるのではありません。むしろ、神様ご自身が自分の怒りを宥めるために、その生贄を捧げられました。そして、その生贄によって、神様はもう一度私たちに恵みを与えてくださいます。

天の父による救いの働きを伏線する話として、アブラハムはこう言いました。

神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。(創世記22:8)

十字架で、天の父はその羊を備えてくださいました。義なるイエス・キリストがその羊でした。イエス様は罪を犯したことがなかったのに、私たちの罪の罰を受けてくださいました。イエス様が十字架につけられた時、神様はご自身の怒りのすべてをイエス様に注がれました。

その結果は何でしょうか。イエス様は天の父の前に私たちと共に立ち、こう言われます。「私はその人の罪の代価を払いました。」

天の父は答えられます。「あなたの支払いを受け入れます」

そして、天の父は私たちの罪を赦すだけではなく、私たちに愛を注いでくださいます。

それは憐れみです。それは恵みです。その恵みと憐れみは神様の子どもたちに属します。イエス様を通して、私たちはその恵みと憐れみを受けるのです。

だから感謝をもって、私たちを救った神様に仕えましょう。イエス様のようになるように努めましょう。

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ペテロの手紙第二

恵みと平安が溢れるように

私は『ナルニア国物語』の『カスピアン王子の角笛』に登場するあるシーンがとても好きです。そのシーンで、ルーシーは久しぶりにアスランに会い、こう言います。「アスラン!あなたは前よりも大きくなった!」

すると、アスランは答えます。「あなたが年を取ったから、そう思うのだろう。」

「では、あなたは本当に大きくなっていないの?」

「私は大きくなっていない。でも、あなたが年を重ねるほど、私にはもっと大きく見えるようになるのだ。」

私たちの神様との関係もこれと同じです。神様はすでに偉大なお方です。将来的に神様がより大きくなるわけではありません。

けれども、私たちが神様を知れば知るほど、私たちにとって神様はますます大きく見えるようになります。なぜなら、私たちはより正確に神様を理解するようになるからです。

だからこそ、ペテロはこう言います。

神と、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。(ペテロの手紙第二1:2)

3節から4節で、ペテロはその考えをさらに深め、広げています。

私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。

その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。

私たちはどのようにして神様の恵みと平安を豊かに知ることができるのでしょうか。そのためには、私たちは神様をさらに深く知るべきです。特に、神様の栄光と栄誉を知れば知るほど、私たちは神様の恵みと平安をますます理解するようになります。

その栄光と栄誉を通して、私たちは神様の子供となるように召されました。また、その栄光と栄誉によって、私たちは尊く、素晴らしい約束を与えられました。

私たちは永遠の命を約束されています。また、聖霊様の臨在も約束されています。聖霊様は私たちの内に住み、私たちに助言を与え、私たちを導き、私たちのためにとりなし、私たちをイエス様のかたちへと変えてくださいます。

これらの約束により、私たちは神様の性質にあずかることができます。それゆえ、人々が私たちを見るとき、私たちの天の父を見ることになるのです。

神様の恵みによって、私たちはこの世の腐敗から逃れました。この腐敗は人々を滅ぼすものです。

さらに、神様の力によって、私たちは精一杯人生を生きることができ、神様のご計画に従って敬虔な子供になることができます。

私たちがそのように毎日を歩むとき、神様の恵みと平安が私たちに満ち溢れます。

あなたはいかがですか。その恵みと平安を知っていますか。その恵みと平安をまだ知らないなら、神様に近づきましょう。「敬虔」という言葉は、神様との親しい関係を持つ人を意味しているのです。

そのため、ペテロは私たちに神様に近づき、親しくなるよう勧めています。毎日、毎瞬、神様の臨在を意識しましょう。そして、その意識が私たちの思い、行動、そして人生のすべてを変えるように。

そうすれば、あなたは神様の恵みと平安を知り、その恵みと平安があなたの人生に溢れるでしょう。

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ペテロの手紙第二

同じ価値の信仰

今日の聖句はただの挨拶にすぎませんが、それを読んだとき、私は心に深く響きました。

ペテロはこう書いています。

イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって、私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。(ペテロの手紙第二1:1)

ある英訳では、次のように書かれています。

私たちの信仰と同じ価値の信仰を受けた方々へ

その言葉について少し考えてみてください。ペテロはイエス様の最初の十二人の弟子の一人でした。さらに、その弟子たちの中でも、ペテロはイエス様の三人の親しい友人の一人でした。

それにもかかわらず、ペテロはイエス様を直接見たことのないクリスチャンたちに向けて、「あなたの信仰は私たちの信仰と同じ価値があります」と伝えました。

もしかすると、ペテロがその言葉を書いたとき、彼はトマスに対するイエス様の言葉を思い出していたのかもしれません。

あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。(ヨハネ20:29)

ペテロはこう言っています。「私はイエス様を見ました。山の上で、私の目の前でイエス様の姿が変わり、私はイエス様の栄光を見、神様の御声を聞きました。さらに、私はイエス様の復活も目撃しました。

けれども、神様の目には、あなたの信仰は私の信仰と同じように尊く、等しいものです。なぜなら、あなたはイエス様を見たことがないのに信じるからです。」

私たちは自分の信仰について考えるとき、しばしば自分を二流市民だと見なしてしまいます。牧師や宣教師、あるいは友人を一流市民と見なす一方で、自分を二流市民として考えることがあるかもしれません。

けれども、神様の目には私たちの信仰はペテロの信仰と等しいのです。ですから、私たちは実際には一流の市民なのです。

成熟したクリスチャンにとって、この真理は謙遜を促すものです。彼らは、他のクリスチャンの未成熟さや聖書の知識の不足を見て、その人たちを見下す誘惑に駆られることがあるでしょう。

もちろん、神様は私たちに成長を求められます。それはこの手紙のテーマの一つでもあります。私たちはイエス様の恵みと知識において成長すべきです。毎日、少しずつイエス様のようになることが求められます。

しかし、覚えておいてください。あなたは他のクリスチャンよりも優れているわけではありません。また、他のクリスチャンに劣っているわけでもありません。

私たち皆、神様の恵みだけによって救われました。私たちが他の人よりも良い人間だから救われたのではありません。むしろ、私たちはイエス様の完全な義によって救われたのです。

イエス様はこの世におられたとき、一切罪を犯されませんでした。そして、十字架で私たちの罪のために命を捧げてくださいました。だからこそ、イエス様を信じるなら、私たちはイエス様のおかげで神様に義と認められるのです。

あなたはどのように自分を見なしているでしょうか。他のクリスチャンよりも優れた者だと考えていますか。それとも、他のクリスチャンに劣る者だと考えていますか。

神様があなたをどのように見ておられるかを思い起こしてください。神様はあなたに他のクリスチャンと等しい信仰を与えられました。そしてその信仰は、神様の目には尊いものです。

ですから、周囲の人々と自分を比較することをやめましょう。むしろ、毎日、神様の恵みと愛の中で安らぎましょう。

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ヤコブの手紙

真の信仰がどのように表現されるか(7)

ヤコブは、人々の心がこの世への愛によって汚される様子を語った後、「舌」の話に戻ります。特に、心がどのように舌を汚すかについて述べています。

ヤコブによれば、この手紙の読み手は、人を殺したり、争ったり、戦ったりしていました。おそらく、彼らは実際に人を殺したわけではないでしょう。けれども、心の中では相手を殺していたのです。(マタイ5:21-22)

では、人々はなぜ殺人を犯すのでしょうか。それは、彼らが自分の心の中で相手を侮っているからです。彼らは相手を神様の似姿として造られた存在として見ていません。

このため、イエス様はこう言われました。

昔の人々に対して、「殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。

兄弟に「ばか者」と言う者は最高法院でさばかれます。「愚か者」と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5:21-22)

イエス様によれば、心の中で怒りを抱き、人を侮ることは、殺人と似たものです。

ヤコブも同じ考えを持っていたようです。ある人々は、自分より多くのものを持つ者をねたみ、侮るほどまでにこの世を愛していました。その結果、彼らは相手をそしり、裁くようになってしまったのです。

だから、ヤコブはこう言います。

兄弟たち、互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟について悪口を言ったり、さばいたりする者は、律法について悪口を言い、律法をさばいているのです。

もしあなたが律法をさばくなら、律法を行う者ではなく、さばく者です。(11)

「人を裁いてはいけない」と聞くと、私たちはよく「人をその罪のゆえに裁いてはいけない」と考えます。

しかし、ヤコブは単にそのような裁きのことを語っているのではないかもしれません。むしろ、「あなたはばか者だ」「あなたはろくでなしだ」といった判断について話している可能性があります。

例えば、2章でヤコブは、ある人々が金持ちを敬う一方で、貧しい人々を侮っていたことを指摘しました。

だから、ヤコブは彼らにこう言いました。「そのような態度で人を裁いてはいけません。相手が神様の似姿として造られた存在であることを認めなさい。

神様の律法によれば、あなたは自分自身を愛するように、隣人を愛さなくてはなりません。神様の律法は、相手をそしったり、侮ったりすることを禁じています。

そのようなことをすれば、あなたは実際に神様の律法を裁いていることになります。つまり、律法に従うのではなく、それを軽視し、その価値を否定しているのです。」

そして、ヤコブは私たちに警告します。

律法を定め、さばきを行う方はただひとりで、救うことも滅ぼすこともできる方です。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。(12)

つまり、「裁きを行うのはあなたではなく、イエス様です。だからこそ、高ぶる態度を捨て、主の前でへりくだらなければなりません。偉そうな態度を取ってはいけません。なぜなら、あなたは本当に偉いわけではないからです。」ということです。

あなたはどうでしょうか。人を扱うとき、あなたの信仰はどのように表現されているでしょうか。あなたは相手を裁き、「ろくでなし」や「ばか者」と呼ぶでしょうか。それとも、彼らを呪うでしょうか。

あるいは、あなたの信仰は、神様があなたに与えてくださった愛や憐れみ、そして恵みを通して表現されているでしょうか。

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ヘブル人への手紙

変わらない主に仕える喜び

イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。(へブル人への手紙13:8)

これはとても有名な聖句です。そして、私もこの言葉が大好きです。なぜなら、それを読むと、私の主が決して変わらないことを思い出すからです。

多くの人々が悪い方向へと変わりつつあるこの世界にあって、この言葉は本当に心強いものです。

けれども、私たちは常にイエス様に頼ることができます。そして、イエス様の御言葉を信じることができます。なぜなら、イエス様はいつも私たちに対して忠実だからです。

だから、この手紙の著者はこう語っています。

神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。(7)

私たちの指導者たちの人生を変えてくださった主、彼らの人生に働いておられる主、そして彼らを通して働いておられる主は、私たち自身をも変え、私たちの人生に働き、私たちを通しても働かれます。

ですから、私たちがリーダーたちの信仰を見て、神様が彼らの人生にどのように働かれたかを見ると、私たちは励まされます。

なぜなら、もし私たちが信仰によって歩むなら、私たちの人生にも、神様の働きと忠実さを見ることができるという確信が与えられるからです。

だから、この手紙の著者はこう語っています。

様々な異なった教えによって迷わされてはいけません。

食物の規定によらず、恵みによって心を強くするのは良いことです。食物の規定にしたがって歩んでいる者たちは、益を得ませんでした。(9)

要するに、イエス様は私たちに恵みのメッセージを与えてくださいました。イエス様は決して変わらない方ですから、イエス様のメッセージも変わることはありません。

イエス様が突然変わって、「これから、もし天の父との関係を望むなら、特別な食べ物を食べなければならない」と言われるはずがありません。

ですから、もし誰かが私たちを神様の恵みから離れさせる教えを伝えているなら、私たちはその人を避けるべきです。

私たちはもはや律法によってではなく、恵みによって生きています。救いを得るために神様を喜ばせようと努める必要はありません。むしろ、イエス様によってすでに救われた者として、私たちは感謝と愛をもって神様を喜ばせたいと願うのです。

そして、著者は、私たちがキリストによって受けた特権について語ります。

私たちには一つの祭壇があります。幕屋で仕えている者たちには、この祭壇から食べる権利がありません。(10)

この著者は何について語っているのでしょうか。彼は祭司や罪のためのいけにえについて語っています。

通常、祭司たちはいけにえの肉を食べることができましたが、贖罪の日にはその肉を食べてはなりませんでした。むしろ、その動物の体はイスラエル人の宿営の外で焼かれました。(11)

しかし、十字架という祭壇において、私たちはいのちのパンをいただきます。イエス様こそがその命のパンです。言い換えれば、私たちはイエス様のもとに来て、イエス様の十字架の働きを信じることによって、永遠の命を受けるのです。

ですから、この著者はこう語ります。

「私たちは、旧約の祭司たちが持っていなかった特権を持っています。彼らは贖罪の日のいけにえを食べることができませんでした。けれども、イエス様にあって、比喩的に私たちはそれをいただくことができるのです。」

そしてこの著者は、「変わらないキリスト」という主題に再び立ち返ります。

それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。(12)

つまり、イエス様は、私たちの罪を贖うために、エルサレムの外でご自身を捧げられました。

ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。(13)

言い換えれば、この世の罪や快楽を捨て、イエス様のもとに進みましょう。そして、イエス様が苦しまれたように、私たちも苦しみを受け入れる心構えを持ちましょう。

イエス様は、私たちのために待っておられます。

私たちは、いつまでも続く都をこの地上に持っているのではなく、むしろ来たるべき都を求めているのです。(14)

この世は、私たちの本当の住まいではありません。私たちの真の住まいは天の御国です。

そして、やがてその御国はこの地に来て、イエス様が永遠にこの世界を治められます。

著者は、この真理を次のようにまとめています。

それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。

善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。そのようないけにえを、神は喜ばれるのです。(15-16)

だからこそ、私たちは毎日、言葉と行いによってイエス様をほめたたえましょう。

イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。(8)

 

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ヘブル人への手紙

信仰と恵み

私にはちょっと告白したいことがあります。私は、どうしてこの手紙の著者が、ギデオンやサムソンのような人々を信仰の模範として指したかよく分かりません。

さらに、私は、どうしてこの著者が彼らの失敗について全然話していなかったか分かりません。

でも、もしかしたらその著者には大切な理由があったかもしれません。それは、このリストを通して、私たちが神様の恵みを見ることが出来ることです。

私たちがよく失敗し、躓くのに、イエス様のゆえに、神様は私たちの欠点を見逃すことを選びます。むしろ、神様の目には、私たちはイエス様の義に着せられます。

それを考えると、私たちは慰められるでしょう。

多くの場合、私たちは自分の失敗を見ると、自分を責めるでしょう。私たちは神様に信頼しない時、自分の人生をめちゃくちゃにするときを振り返ると、自分に怒ります。

もちろん、その時、私たちは悔い改めなくてはなりません。でも、その失敗によって、失望してはいけません。神様の目には、自分が価値がないと思ってはいけません。

むしろ、神様があなたを見ると、あなたのために死んだ御子を見ることを覚えていましょう。

あなたが何回も失敗しても、神様はその記録を保ちません。むしろ、あなたの罪の記録は消されました。

裁きの日、神様はあなたを責めません。むしろ、神様はあなたを喜んで歓迎します。

どうしてでしょうか。あなたが完全な人だからというわけではありません。むしろ、あなたは完全な方に信頼を寄せました。その方は私たちの罪のために死んで、よみがえられました。

だから、あなたが何度も失敗するかもしれないのに、あなたもいつかその信仰のヒーローのリストに入るかもしれません。

神様はバラクやエフタやギデオンやサムソンを考えたように、あなたを考えるから。つまり、神様はあなたの失敗ではなく、あなたの成功を指すということです。

だからパウロの言葉を覚えていましょう。

ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。(ピリピ3:13-14)

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ヘブル人への手紙

キリストを拒むなら

「あなたはキリストに関してどうするでしょうか。」

これは、誰もが最終的に向き合わなければならない問いです。

イエス様に信頼することを選ぶ人は、この世において真のいのちを見出し、永遠のいのちを受け取ります。

しかし、イエス様のことばを聞いて拒む人にとっては、将来に希望が全くありません。

それこそが、この手紙の著者が語っている厳粛な警告です。彼はこう言います。

もし私たちが、真理の知識を受けた後、進んで罪にとどまり続けるなら、もはや罪のきよめのためにはいけにえは残されておらず、ただ、さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を、恐れながら待つしかありません。

モーセの律法を拒否する者は、二人または三人の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死ぬことになります。

まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものと見なし、恵みの御霊を侮る者は、いかに重い処罰に値するかが分かるでしょう。(へブル人への手紙10:26-29)

著者の要点は何でしょうか。

もし、私たちがイエス様の十字架のいけにえをあえて拒むなら、もはや救いの望みは残されていません。なぜなら、ほかに救いの道はないからです。神様は、ほかの生贄や捧げ物を受け入れず、私たちの献金や良い行いも受け入れられません。

この手紙の著者によれば、天使を通して与えられたモーセの律法を拒んだ者は、二人または三人の証人の証言によって死刑にされました。

それならなおさら、イエス様がご自身の血によって私たちの救いを買い取り、それを差し出してくださったにもかかわらず、私たちがその救いを拒むなら、どれほど重い罰に値するでしょうか。

そのような者は、尊い血をくだらないもののように扱い、イエス様を踏みつけ、聖霊様を侮辱するのです。

その結果は?

私たちは、「復讐はわたしのもの、わたしが報復する。」

また、「主は御民をさばかれる」と言われる方を知っています。

生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。(30-31)

言い換えれば、私たちは裁きを受けます。イエス様が私たちの罪の代価を支払ってくださることを拒むなら、その代価を自分で支払わなければならず、私たちは永遠に地獄にとどまることになります。

あなたはどうするでしょうか。イエス様を受け入れますか。イエスの血によって支払われた恵みの賜物を受け取りますか。

それとも、その賜物に唾を吐き、反抗的な道を歩み続けますか。

あなたは、神様の怒りを受けることも、神様の恵みを受けることもできます。あなたはどちらを選びますか。

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テモテへの手紙第二

耐えられるための恵み

パウロがテモテが訪問してくれるように望んだ理由の一つは、多くのクリスチャンたちがパウロから離れて行ったということです。数名の人たちはまだ残っていましたが、パウロはほとんど孤独でした。

わざわざパウロを探して励ますオネシポロのような人たちは少なかったですが、パウロを見捨てたフィゲロとヘルモゲネのような人たちはたくさんいました。(テモテへの手紙第二1:15-18)

なぜその二人はパウロを見捨てたのでしょうか。

パウロは迫害され、牢に入っていたので、もしかしたら、彼らは同じ運命を恐れたかもしれません。もしかしたら、最初は彼らは頑張ったかもしれませんが、結局彼らはもう迫害に耐えられないと思って、立ち去ったかもしれません。

多くの人たちはフィゲロとヘルモゲネのようです。彼らはクリスチャンになり、最初は彼らの人生がうまくいっているので、喜びに満ちていました。けれども、試練が来るとき、彼らは最初は頑張ったけれど、最終的に自分の信仰を捨ててしまいます。

どうしてでしょうか。

私たちはクリスチャンとして、恵みによって生きるように呼ばれました。けれども、試練の時、多くのクリスチャンは恵みを忘れて、自分の力によってクリスチャン生活を送ろうとします。結果として、彼らの力がなくなると、もう耐えられなくなります。

2章3ー6節のような言葉を読むとき、このように考えるのは簡単です。

「私は頑張らなくてはならない。私は良い兵士にならなくてはならない。私はちゃんと訓練し、ルールをすべて守らなくてはならない。神様から委ねられた働きに心血を注がなくてはならない。」

けれども、自分がしなくてはならないことに焦点を当てると、あなたの力がどこから来るか忘れてしまうでしょう。

言い換えると、私たちは2章の初めのパウロの言葉を忘れてしまいます。つまり、

私の子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。(テモテへの手紙第二2:1)

それは一体どういう意味でしょうか。

「恵みによって強くなりなさい」という言葉よりも、「良い兵隊や農家や選手になりなさい」という言葉は分かりやすいでしょう。そういうわけで、多くの人々はその最初の言葉を飛ばして忘れてしまいます。

しかし、その言葉は肝心な真理です。

あなたは恵みによって救われました。自分の努力に救われたわけではありません。だから、毎日あなたは恵みによって生きなくてはいけません。

私たちの救いのために神様に頼らなくてはならないように、日常生活を送るのに神様に頼らなくてはなりません。特に、苦難や迫害と向き合うとき、神様に頼らなくてはいけません。

もちろん、私たちは神様を喜ばせようとすべきです。もちろん、私たちはこの世のものに執着してはいけません。

また、もし神様から報いを得ようと思うなら、私たちは神様が命じられることに従わなくてはなりません。そして、私たちが忠実にイエス様に仕えるとき、私たちの努力は無駄なものではありません。

けれども、私たちが「自分の力で頑張らなくてはならない」と思うなら、私たちは失敗するという結果になります。

私はもう一度言います。私たちは恵みによって救われました。でもそれだけではなく、私たちは毎日恵みによって生きなくてはなりません。

神様が聖霊様を送ってくださり、聖霊様は私たちのうちに住んでおられます。聖霊様が私たちに力を与えるので、私たちは神様の御心に従うことができます。(1:7)

そういうわけで、パウロはテモテにこう言いました。

イエス・キリストのことを心に留めていなさい。私が伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった方です。

この福音のために私は苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばはつながれていません。(テモテへの手紙第二2:8-9)

言い換えると、「あなたの苦しみの中で、もう耐えることができないと思う時、イエス様を心に留めていなさい。イエス様はあなたをこの道の最初から最後まで導いてくださいます。

イエス様を通して、神様は私たちを贖い、私たちの罪を赦してくださいました。イエス様は復活して、私たちに命を与えてくださいます。そして、イエス様はこの試練の中で、私たちを導いて、最終的に天国に連れて行ってくださいます。

それを覚えていなさい。自分の力で、試練を通過しようとしてはいけません。」

そして、パウロはテモテに思い出させました。「私は鎖で繋がれています。私は弱い者です。それでも、神のことばは繋がれていません(9)。

神様はご自身の業を成し遂げられます。その希望を持っているので、私は自分の処刑と向き合っても、神様の働きをし続けています。なぜなら、私は、人々が私を通してイエス様を信じ、私たちが見つけた恵みを知るようになる確信を持っているからです。」

最後に、パウロは励ましの讃美歌を歌います。その歌によって、私たちは耐えるように励まされます。なぜなら、その歌によって、私たちはイエス様の忠実さを思い出すからです。

パウロはこう歌いました。

耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。

私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。(12-13節)

パウロがその賛美歌を恵みの言葉で終えることはふさわしいことです。なぜなら、私たちの試練を耐える力は最初から最後まで恵みから来るからです。

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テモテへの手紙第ー

神の恵みに感嘆している?

私たちは、どれほど神の恵みに心から感嘆しているでしょうか。 そして、もしそれを毎日行っているなら、私たちの人生はどれほど変えられていくでしょうか。

この点において、パウロと偽教師たちはまったく異なっていました。

偽教師たちは神の恵みを少しも理解していませんでした。 彼らにとって、福音を宣べ伝えることは金銭を得る手段であり、また、威信や名誉を手に入れるための道でした。

しかし、パウロにとって福音とは、自分の人生を根底から変えた不思議な知らせでした。だからこそ、彼はできる限り多くの人々にこの福音を伝えたいと心から願ったのです。

その思いを、パウロはこう語っています。

私は、私を強くしてくださる、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださったからです。

私は以前には、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。

私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。(テモテへの手紙第一1:12-14)

パウロは、本当に神の恵みに心から感嘆していました。彼はかつてイエス様の御名を冒涜し、教会を迫害し、数多くの信者たちの命を奪った者でした。

それにもかかわらず、神は彼を憐れみ、その罪深さにも勝るほどの恵みを注いでくださいました。パウロのひどい罪は完全にきよめられたのです。

その結果、パウロはイエス様を信じ、それまで知らなかった愛に満たされました。

だからこそ、彼は確信をもって、こう宣言することができたのです。

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」(テモテへの手紙第一1:15-16)

パウロが気づいたのは、「イエス様は私のために死んでくださった」ということでした。

クリスチャンになる前、パウロは自分の罪に気づいていませんでした。むしろ、自分はかなり正しい者だと思い込んでいたのです。

けれども、イエス様がまばゆい光のうちにご自身をパウロに現されたとき、彼は自分がどれほど神の恵みと憐れみを必要としているかを悟り始めました。

残念なことに、多くの人々は、その真理がわかっていません。

クリスチャンであっても、自分がどれほど神の恵みと憐れみによって生かされているかを認識していないことがあります。彼らはこう思うのです。「私はもう大丈夫。神の恵みも憐れみも、もう必要ない」と。

あるいは、「イエス様が私のために死んでくださったことは確かだけれど、私の罪はそこまでひどくなかった」と考えている人もいます。

けれども、私たちがキリストの光の中に歩み、イエス様に近づいていくにつれて、自分の本当の姿が見えてくるのです。つまり、自分が罪によって汚れており、救いを必要としている者なのだと気づかされます。

この真理を悟らない限り、私たちは決して神の恵みに深く感嘆することはできないでしょう。

パウロはこの真理を把握したとき、思わず賛美の声をあげました。

どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン。(17)

あなた自身はどうでしょうか。神の恵みに心から感嘆しているでしょうか。

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コロサイ人への手紙

すべての信者のための祈り

クリスチャンの友人のために祈りたいと思っても、「○○さんを祝福してください」という祈りにとどまらず、もっと深く祈りたいと願うなら、パウロの祈りに目を向けてみると良いでしょう。

パウロの模範から、私たちは神様の御心に従って人々のためにどのように祈るべきかを学ぶことができます。

その一つの模範は、コロサイ人への手紙第1章に見られます。パウロはコロサイの人々に会ったことはありませんでしたが、エパフラスという人から、彼らの信仰について報告を受けていました。

彼らの信仰を聞いたとき、パウロは心から喜びました。そして彼は、コロサイの人々のために、非常に具体的な内容をもって祈りました。彼は何を願って祈ったのでしょうか。

どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。(コロサイ人への手紙1:9)

クリスチャンとして、私たちは皆、そのような知恵と理解を必要としています。なぜでしょうか。

また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。(10)

神様を喜ばせたいと願うなら、また、実を結ぶ者となりたいなら、私たちは神様の御心を知らなければなりません。

そして、神様がその知恵と理解をもって私たちを満たしてくださるにつれて、私たちは神様のことをより深く知るようになります。神様の考え方を理解し、神様にとって何が大切かを知るようになるのです。

私たちは、神様のことについて知るだけでなく、神様ご自身を知るようになります。特に、神様がその力をもって私たちを強めてくださるとき、私たちは神様をさらに深く知るようになるのです。

だからこそ、パウロはコロサイの人々のために、こう祈ったのです。

神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。

また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。(11-12)

神様は、私たちが自分の力でクリスチャン生活を送ることを望んでおられません。

多くのクリスチャンは、確かに試練に耐え、寛容を示してはいますが、そこに喜びが伴っていないのが現実です。なぜでしょうか。それは、彼らが神様の力ではなく、自分の力に頼っているからです。

パウロの祈りは、コロサイの人々が自分の力によって試練に耐えるようにというものではありませんでした。むしろ、神様の力に満たされ、喜びをもって忍耐し、歩むことができるようにと祈ったのです。

またパウロは、彼らが自分自身に焦点を当てるのではなく、神様に目を向けるようにと祈りました。パウロの祈りの根底には、コロサイの人々が自分の努力ではなく、神様の恵みによって多くの祝福を受けたことを思い起こすように、という願いがありました。

私たちが神様の相続にあずかることができるのは、神様が私たちにその資格を与えてくださったからです。

それだけではなく

御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。(13-14)

もう一度、はっきりと言います。それらすべては、神様の働きです。

神様は、私たちを暗闇の力から救い出してくださいました。そして、私たちを御子のご支配の中へと移してくださいました。私たち自身によってではなく、イエス様にあって、私たちは贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。

ところが、多くのクリスチャンはこの真理を忘れてしまいます。そのため、自分の力や知恵によって生きようとして、やがて喜びを失ってしまうのです。

しかし、私たちが神様の知恵と知識、そして力に満たされ、自分の努力ではなくキリストの働きから祝福がもたらされていることを思い起こすとき、私たちは喜びを知るようになります。

ですから、クリスチャンの兄弟姉妹のために祈るとき、ただ「神様、この人を祝福してください」と祈るだけで終わらないでください。パウロのように祈りましょう。

そして、自分自身のためにも、そのように祈りましょう。

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エペソ人への手紙

神様の恵みの務めを与えられた人(2)

私たちは神様の恵みの務めを与えられた者ですが、多くのクリスチャンはこう言うかもしれません。「でも、私はパウロではありません。パウロがしたことを私にはできません。私はただの普通のクリスチャンですから。」

けれども、神様はあなたをパウロのように召しているのではありません。あなたもパウロも神様の恵みの務めを与えられた者ですが、それぞれ異なるかたちでその務めを果たすのです。

それでも、神様があなたを導いてくださる中で、あなたは福音を語り、周りの人々に触れるはずです。

あなたは、こう言うかもしれません。「でも、私は資格がありません。その働きにふさわしくありません。」

実は、パウロ自身もそう感じていました。彼はこう語っています。

私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました。

すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり。。。(エペソ人への手紙3:7-8)

パウロは、自分が神様の恵みの務めを受けるにふさわしくない者だと感じていました。彼は「私はすべての聖徒たちのうちで最も小さい者です」と語りました。

なぜパウロはそう感じたのでしょうか。それは、彼がかつて教会を迫害し、多くのクリスチャンを逮捕したり、殺したりしていたからです。

それにもかかわらず、彼はこう言いました。「キリストの測り知れない富を福音として異邦人に伝えるために、私は神様の恵みを与えられたのです。」

パウロは自分の資格を誇りませんでした。自分の賜物や才能を誇りませんでした。むしろ、こう語りました。「神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、私は福音に仕える者となったのです。」

神様はあなたもまた、福音に仕える者となるよう召しておられます。あなたも神様の恵みの務めを与えられたのです。なぜでしょうか。それは、神様がその恵みをあなたに豊かに注いでくださったからです。

良いしもべとなるために、特別な資格や賜物は必要ありません。自分の知恵や力に頼る必要もないのです。

むしろ、この恵みの務めを果たすためには、あなたは神様から与えられた恵みと力に頼るべきです。その恵みと力によって、あなたはこの務めを忠実に果たすことができるはずです。

さらに、パウロによれば、神様のご計画は、教会を通してご自身の多面的な知恵をこの世に示すことです。

しかし、「教会」とは建物を指しているのではありません。教会とは、あなたと他の信じる者たちのことなのです。あなたを通して、神様はご自身の知恵を現したいと願っておられます。

「でも、私は弱いです。私はただの一般人です。神様がどうやって私を用いられるのでしょうか。」

あなたが弱く、平凡な存在であるからこそ、神様はあなたを用いることができるのです。なぜなら、弱くて平凡な人々は、神様の力にすがる以外に道がないからです。

パウロはこう言っています。「私たちが弱いときにこそ、私たちは強いのです。」(第二コリント12:9-10)

さらに、パウロはこう語りました。

兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。(コリント人への手紙第一1:26-27)

神様はご自身の知恵を現すために、強い者たちを募集しておられるのではありません。むしろ、神様は弱い者を求めておられるのです。

なぜでしょうか。それは、人々があなたの人生において神様がなされたこと、また神様があなたを通して周囲にどのように触れておられるかを見るとき、驚かされるからです。

そのため、ユダヤ人の宗教的指導者たちは、ペテロとヨハネのことに驚いたのです。

彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。(使徒の働き4:13)

そのように、私たちを見た人々は、驚かされることでしょう。

彼らが私たちを見るとき、私たちがイエス様と共に歩んできた者であることが、彼らにも分かるように。

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エペソ人への手紙

神様の恵みの務めを与えられた人

2節で、パウロはこう言いました。

あなたがたのために私に与えられた神の恵みの務めについては、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。(エペソ人への手紙3:2)

パウロのように、私たちは神様の恵みの務めを与えられました。神様が私たちに恵みを与えてくださった理由は、私たちがただその恵みを浴びるからではありません。周りの人々に触れるとき、私たちはその恵みの務めを果たさなくてはなりません。

もちろん、パウロの恵みの務めは、私たちの務めと違うところがあります。パウロはいろんな教会を始めたり、神様の恵みに関する聖句、また、福音の奥儀に関する聖句を書いたりしました。

今なお、教会を始める賜物を持っている人がいるけど、すべての人々がその賜物を持っているというわけでもありません。そして、ある人は聖書を教える賜物を持っているけど、新しい聖句を書く賜物を持っている人は誰もいません。

でも、私たち皆は自分の賜物を用いて、恵みの務めを果たさなくてはなりません。

もちろん、私たちは周りの人々に福音を宣べ伝えるべきです。さらに、私たちは神様の愛で周りの人々に触れるべきです。周りの人々は私たちを見ると、神様の恵みの務めを与えられた人々を見るはずです。

でもまず、我々クリスチャンたちは、互いにその恵を与え合うはずです。パウロはこう言いました。

それ(つまり、キリストの奥儀)は、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。(エペソ人への手紙3:6)

神様は初めてアブラハムを呼んだとき、「すべての部族は、あなたによって祝福される」と約束しました。(創世記12:3)

でも、どのように神様がその約束を守るか何年も不明でした。しかし、パウロは「その答えは啓示されました」と言います。

つまり、イエス様とその十字架の御業によって、私たち皆は、ユダヤ人でも、異邦人でも、アジア人でも、白人でも、黒人でも、男性でも、女性でも、神様の相続人になったということです。私たち皆はイエス様を通して神様の約束を受けます。

そして、神様の意図は、イエス様において成し遂げられた、永遠のご計画によって、教会を通して、神様の極めて豊かな知恵が天上にある支配と権威に知らされることです。(10-11)

教会を見ると、天使たちと悪霊たちは神様の極めて豊かな知恵を見ます。

特に、彼らは神様の計画の不思議さを見ます。それは、いろんな国からの人たちは、男性でも、女性でも、神様から豊かに与えられた愛で、互いに愛し合うということです。

その互いの愛によって、クリスチャンたちは、神様が彼らを造った目的を果たして、神様に栄光を反映します。

天使たちと悪霊たちだけではなく、この世界の人々はそれを見るはずです。そう見ると、彼らも神様の恵みに驚いて、魅せられます。

でも、それは実際に起こっているでしょうか。多くの場合、私たちはこの世界に対して、またほかのクリスチャンたちに対して、忠実に神様の恵みの務めを果たさないので、ノンクリスチャンはそれを見ないでしょう。

あなたはどうですか。その務めを忠実に果たすでしょうか。あなたの教会は?

あなたを見ると、周りの人々は神様の愛と恵みがあなたから彼らに、またほかのクリスチャンたちに流れることを見るでしょうか。

あなたは忠実に務めを果たしているでしょうか。

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エペソ人への手紙

本当に分かることができたなら

私たちは、キリストにあってどれほど祝福されているかを理解しているでしょうか。おそらく、私たちはその真理を十分に把握してはいないかもしれません。

もちろん、私たちは神様の愛と恵みについて聞き、それを信じています。けれども、その愛と恵みの深さを本当に理解しているでしょうか。

私は三十年以上クリスチャンとして歩んでいますが、今なお、その愛と恵みという真理の「浅瀬」を歩いているにすぎないと感じています。

もしかすると、だからこそ、パウロはエペソの信徒たちのために、次のように祈ったのではないでしょうか。

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。(エペソ人への手紙1:17-19)

パウロは、エペソのクリスチャンたちが神様を深く知るために、聖霊様を与えられたと語っています。

もちろん、彼らはすでにある程度神様を知っていましたが、聖霊様はさらに神様を知ることができるように、知恵と啓示を与えてくださいました。聖霊様がおられなければ、私たちは神様を知ることにおいて、すぐに限界にぶつかってしまいます。

けれども、パウロは別の手紙で、このようにも記しています。

それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。

人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。(第一コリント2:10-11)

要するに、聖霊様を通して、私たちは本当に神様を知ることができます。私たちは神様についての事実を知るだけでなく、神様ご自身を知ることができるのです。

もちろん、私たちは完全に神様を知り尽くすことはできません。その深さを探るには、永遠の時を要するでしょう。たとえ天国に到達しても、私たちは毎日、神様について新たなことを知ることになるに違いありません。

しかし、聖霊様が私たちのうちに住んでおられ、天の父を私たちに現してくださることによって、私たちは少しずつ神様を知るようになっていくのです。

とはいえ、聖霊様は神様についてだけを教えてくださるわけではありません。パウロはこのように語りました。

しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。(第一コリント2:12)

神様は私たちに何を与えてくださったのでしょうか。上記のパウロの祈りの中に、その答えが記されています。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。(エペソ1:18-19)

私たちは、神様が与えてくださった希望を本当に知っているでしょうか。たとえこの世界が暗く感じられるとしても、「この世界を越えた何かがある」という確かな希望を抱いているでしょうか。

また、イエス様がすべてを治められるという希望を持っているでしょうか。もちろん霊的な領域において、イエス様はすでにすべてを統治しておられます。なぜなら、イエス様は十字架においてサタンに勝利されたからです。

けれども、私たちはある日、すべての人がひざまずき、「イエス様は主である」と告白する時が来ることを望み見ているでしょうか。私たちは、イエス様が最後の敵である死を打ち破ってくださるという希望を持っているでしょうか。

さらに、私たちは神様が豊かに注いでくださるその愛を、どれほど知っているでしょうか。

神様が私たちを「ご自身の栄光に富んだ資産」と呼んでくださっていることを、私たちは知っているでしょうか(※新改訳聖書の18節脚注を参照)。

そして、私たちが罪や病や死から解放され、復活の体を受ける日を神様ご自身が待ち望んでいてくださることを、私たちはどれほど心に留めているでしょうか。

私たちは、神様の力にアクセスできることを本当に知っているでしょうか。

その力こそが、イエス様を死から復活させたのです。その力は、私たちを日々きよめてくださいます。その力によって、私たちは新しい、栄光に満ちた体を受けるのです。その力によって、私たちは目の前の問題や試練を乗り越えることができます。

最後に、私たちは、自分がキリストにあって何者であるかを知っているでしょうか。私たちは、キリストのからだの一部なのです。私たちはこの世に遣わされ、イエス様の臨在を広げるように召されています。私たちは、すべての場所を神様の恵みと愛で満たすように呼ばれているのです。

このすべてのことを、私たちはどれほど理解しているでしょうか。もし本当に理解したならば、私たちの人生はどれほど大きく変えられることでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙

大事なのは。。。

今日の箇所で、パウロはこの手紙の中で以前に述べたことをまとめています。特に、何が重要であり、何が重要ではないかについて語っています。パウロによれば、

  • 周りの人々が私たちについてどう考えるかは重要ではありません。特に、彼らに認められる必要はありません。(ガラテヤ人への手紙6:12)
  • 律法に従うための私たちの努力も重要ではありません。なぜなら、律法によって義と認められたいと思うなら、律法を完全に守らなければなりません。ところが、完全に律法を守れる人は誰もいないからです。(ガラテヤ人への手紙6:13a)
  • 神様のために私たちが成し遂げることへの誇りも重要ではありません。特に、神様の御心を誤解しているなら、その誇りは無意味なものになります。(ガラテヤ人への手紙6:13b)
  • 割礼を受けているかどうかも重要ではありません。心に変化をもたらさない儀式や宗教的な習慣は、何の意味も持ちません。(ガラテヤ人への手紙6:15a)

私たちは、これらすべてのものに対して死んだはずです。また、これらのものも私たちに対して死んだはずです。(14)

その一方で、重要なのはただ一つ。それは、イエス様の十字架の御業によって、私たちが新しい創造物とされたということです。(14-15)

私たち自身の努力によって変わるのではありません。むしろ、聖霊様の力によって、私たちは完全に変えられるのです。重要なのは、この真理です。

そして、パウロはこう語りました。

この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。(16)

ユダヤ人のクリスチャンたちは、ガラテヤのクリスチャンたちにこう言いました。「割礼を受け、モーセの律法に従えば、神のイスラエルに属することができます。」

しかし、パウロはこう答えました。「その考え方は誤っています。イエス様への信仰と聖霊様の力によって、あなたたちは変えられ、神様の民とされるのです。」

この真理を理解すると、どうなるでしょうか。あなたは平安を得ます。自分の力で神様の律法に従おうとすることの重圧から解放されます。そして、神様の憐れみをより深く知るにつれ、裁かれることへの恐れも消えていきます。

あなたはどうでしょうか。自分の力でクリスチャン生活を歩もうとしていませんか。聖書の規則を守ることで、良いクリスチャンになろうと考えていませんか。

あるいは、あなたは受けた恵みによって安心し、毎日、聖霊様と共に歩み、その導きに従っているでしょうか。

パウロがそうしたように、私もあなたのために祈ります。

兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。(18)

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ガラテヤ人への手紙

恵みから落ちてしまう危険性

多くの人々はこの記事のタイトルを読んで、こう考えるかもしれません。「キリストから離れる?恵みから落ちてしまう?それは何と酷いことだろう。」

アメリカでは、ノン・クリスチャンであっても「恵みから落ちてしまう」という表現を使うことがあります。この言葉の意味は、ある尊敬されていた人が酷いことをしたために、その評判が失墜するということです。

しかし、この箇所でパウロが話しているのは、殺害や強姦、賄賂、その他の重大な犯罪についてではありません。

むしろ、パウロは律法主義について語っています。つまり、もし私たちが律法によって神様に義と認められようとするならば、私たちはキリストから離れ、恵みから落ちてしまうのです。

パウロは彼らに警告しました。

よく聞いてください。私パウロがあなたがたに言います。もしあなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに、何の益ももたらさないことになります。

割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。(ガラテヤ人への手紙5:2-3)

要するに、「律法主義の考え方を受け入れるならば、すべての律法を完全に守らなければ、あなたは神様に義と認められません。

割礼を受けるだけでは十分ではありません。旧約聖書に書かれているすべての律法に従わなければなりません。さらに、もしあなたが律法によって神様に義と認められようとするならば、キリストの死はあなたに何の益もないのです。」

ユダヤ人のクリスチャンたちが教えていたのは、「キリストの死を信じ、さらに努力して律法に従うならば、ガラテヤ人たちは義と認められる」という考え方でした。ところが、その考え方は間違っていました。

救いの道は二つしかありません。一つは、人が完全に律法を守ることです。もう一つは、イエス様を信じて、イエス様の義を受けることです。それ以外の方法は存在しません。

だから、パウロはガラテヤ人たちにこう語りました。

律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。(4)

律法によって神様に義と認められようとするならば、あなたは実際にイエス様に背を向けているのです。あなたは基本的にイエス様にこう言っているのです。「あなたの十字架の働きは私には十分ではありません。」

その態度を取ることによって、あなたはイエス様の働きを否定することになってしまうでしょう。

モルモン教の教えによれば、あなたが努力して善を行えば、神様はあなたに恵みを与えてくださり、あなたは救われるとされています。

ところが、自分の行いによって救いを得ようとするならば、パウロの教えによれば、あなたは恵みを受けることができず、むしろ、恵みから落ちてしまうのです。

パウロは続けてこう言います。

私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。(5)

私たちは今もなお罪を犯しています。それでもイエス様の十字架の働きによって義と認められています。

さらに、それだけではなく、私たちはより素晴らしい希望を持っています。それは、イエス様が再び来られる日、私たちは変えられ、真に義なる者となり、二度と罪を犯さなくなることです。

ローマ8:23で、パウロは「私たちは新しい体を受ける日を待ち望み、うめく」と語っています。なぜ、私たちはその日を待ち望むのでしょうか。

その理由の一つは、もう病気や死に向き合う必要がなくなるからです。

しかし、もう一つの理由は、罪との戦いを経験しなくなることです。その日、私たちは真に罪から自由にされます。

それこそが、私たちの義の希望です。そして、その希望を持っている人は罪に耽ることはありません。むしろ、自分を救ってくださった方を喜ばせたいと願うのです。それは、自らの救いを得るためではなく、すでに与えられた救いを喜ぶためです。

だから、パウロはこう語ります。

キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。(6)

あなたはどうでしょうか。まだ神様の好意を得ようとしているでしょうか。それが、神様を喜ばせるためのあなたの動機でしょうか。

あるいは、すでに神様に義と認められたことを知り、罪から完全に解放される日を楽しみにしているでしょうか。その希望があるゆえに、神様を愛し、喜ばせたいと願っているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙

私たちはどのように喜びと祝福を失うのか

この手紙から、私たちはパウロがガラテヤ人たちに対してどれほど困惑していたかを知ることができます。

パウロが初めてガラテヤに来たとき、彼は何かしらの肉体的な問題を抱えていました。そのため、彼はガラテヤ人たちに負担をかけましたが、それにもかかわらず、彼らは喜んでパウロを歓迎しました。

どうしてでしょうか。それは、パウロが宣べ伝えた福音が彼らを罪から解放し、新しい命を与えたからです。福音を聞いたとき、彼らは神様の喜びと祝福に満たされました。

こうした理由から、ガラテヤ人たちはパウロを心から気遣い、その愛が彼に溢れ出しました。彼らは、できる限りパウロを助けたいと願いました。パウロは彼らについてこう言いました。

私はあなたがたのために証ししますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出して私に与えようとさえしたのです。(ガラテヤ人への手紙4:15)

しかし、ユダヤ人のクリスチャンたちの影響によって、すべてが変わってしまいました。

彼らの喜びは失われ、パウロのことを疑い始めました。彼らは、パウロが福音を正しく教えたかどうかを疑いました。また、パウロが福音から重要な真理を削除したのではないかと考え、自分の救いさえも疑うようになりました。

そこで、パウロは彼らに問いかけました。

あなたがたの幸いは、今どこにあるのですか。。。私はあなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。(15-16)

「幸い」という言葉は、「祝福」という意味もあります。つまり、ガラテヤ人たちは信仰によって受けた神様の尊い賜物を失ったのです。

どのようにしてその賜物を失ったのでしょうか。

彼らは古い宗教的な修行や儀式に戻りました。

救いを得るために、彼らは自分の行いと努力に頼ったため、彼らにとってイエス様の十字架の御業の価値は失われてしまいました。

気をつけなければ、私たちもガラテヤ人たちのようになってしまうかもしれません。もし私たちのクリスチャン生活がルールに基づくものになってしまえば、私たちは自分の喜びと祝福を失うでしょう。そして、神様の好意を得ようと努め始めるでしょう。

そして、最終的に二つの結果が生じます。

一つ目は、自分が成功していると思い、プライドを持つことです。

二つ目は、そのルールを完全に守れないと気付き、落ち込むことです。

しかし、成功したと思っても、失敗したと思っても、私たちは神様の喜びと祝福を失ってしまいます。

けれども、私たちの救いが恵みによるものであることを悟ると、私たちは謙遜と感謝の態度を持つようになります。

私たちは神様の恵みに値しないことを理解するので、謙遜になります。また、私たちは神様の裁きを受けるに値するはずなのに、神様が恵みと憐れみを私たちに注いでくださったことを知ります。

さらに、その恵みと憐れみによって、私たちは喜びと感謝に満たされます。したがって、私たちは神様の祝福を受けるだけでなく、その祝福は私たちを通して周りの人々へと流れていきます。

あなたはどうでしょうか。プライドに満ちたクリスチャン生活を送っているでしょうか。それとも、失敗と失望に満ちたクリスチャン生活を送っているでしょうか。もしかしたら、喜びと祝福に満ちたクリスチャン生活を送っているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙

無益な宗教に逆戻り

多くの人々は救いについて、なぜクリスチャンがそれほど排他的なのか疑問に思います。つまり、なぜクリスチャンは、イエス様以外には神様への道がないと主張するのでしょうか。

私は、ほかの宗教にも良い点があることを認めます。多くの宗教は悪に反対し、善行を促します。何が良いことであり、何が悪いことであるかについて、それぞれの宗教の教えは完全に一致するわけではありませんが、共通点は多くあります。

しかし、問題は宗教とその儀式が神様を描くという点にあります。ユダヤ教の場合、その描写は比較的正確です。なぜなら、神様ご自身がユダヤ人に対して、律法と儀式を通してご自身に関する描写や、キリストに関する描写を与えてくださったからです。

けれども、その他の宗教における神様の描写は、神様がどのような方であるかをほとんど分からなくするほどに、歪められています。そのため、その宗教の律法や儀式は、人々を神様へと近づけることができません。

ユダヤ教は他の宗教よりも優れていますが、それでもユダヤ教の律法と儀式は、イエス様と救いの現実そのものではなく、ただの描写にすぎません。

ユダヤ教の儀式、祭り、犠牲は、イエス様とその十字架の犠牲を描写していますが、それらは単なる象徴であり、現実ではありません。イエス様とその十字架の犠牲こそが現実なのです。

したがって、ユダヤ教の儀式、祭り、犠牲には、人を救う力がありません。そして、もし神様が定められた儀式や祭り、犠牲が人々を救うことができないのであれば、ましてや他の宗教のものが人を救うことはできないでしょう。

だから、パウロはこう言いました。

あなたがたは、かつて神を知らなかったとき、本来神ではない神々の奴隷でした。しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。

あなたがたは、いろいろな日、月、季節、年を守っています。私は、あなたがたのために労したことが無駄になったのではないかと、あなたがたのことを心配しています。(ガラテや人への手紙4:9-11)

パウロは、かつての神々や修行について、ガラテヤ人たちに語ります。パウロは言いました。

「あなたたちが救われる前、本来神ではない神々の奴隷でした。救いをもたらすことのできない儀式や祭りを祝うように強制されていました。

けれども今や、あなたたちは知っているでしょう。あなたたちは神様を知っており、神様にも知られています。神様の子供として、神様と親しい関係を持っているのです。

それなら、どうして弱くて力のないものに戻ろうとしているのですか。あなたたちは、かつての神々や修行に戻っているわけではないかもしれません。けれども、今や自分の救いを得るために、ユダヤ教の儀式や修行に従い始めています。

ところが、かつての儀式や修行と同じく、ユダヤ教の儀式や修行にも力はまったくありません。

その儀式や修行は、神様を知るための初歩でした。その目的は、あなたが自分の罪と救い主の必要を理解することです。けれども、それ自体はあなたたちを救うことはできません。

むしろ、それを通してあなたたちが理解するのは、自分が律法を完全に守ることができないために、裁きに値するということです。それは惨めなことでしょう。そのことを知っているはずなのに、どうしてそのものに戻りたいのですか。」

そして、パウロは言いました。

「考えてみてください。私はあなたのようになったでしょう。私はあなたたちと共に食事をし、あなたたちの食べ物を食べて、ユダヤ教の習慣を破りました。

だから、あなたたちも私のようになってください。宗教のルールではなく、むしろキリストへの信仰によって生きてください。」

パウロは私たちにも同じことを言います。

私たちはキリストの象徴に従うのではなく、つまりユダヤ教の律法と儀式に従うのではなく、イエス様ご自身に従いましょう。なぜなら、それらには私たちを救う力がないからです。

むしろ、イエス様の十字架の働きを覚え、神様の子供として、神様との関係を喜びましょう。

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ガラテヤ人への手紙

アブラハムの真の子孫

パウロがこの箇所を書いたとき、ヨハネの福音書第8章におけるイエス様とユダヤ人たちの議論を思い浮かべていたでしょうか。私には分かりませんが、パウロは同じテーマについて語っています。つまり、アブラハムの真の子孫とは誰かということです。

ユダヤ人たちは自分たちこそアブラハムの真の子孫であると考えていました。なぜなら、アブラハムは実際に彼らの先祖であり、彼らは神様がモーセに与えてくださった律法を持ち、それに従おうとしていたからです。

そこでイエス様は彼らにこう言われました。「もしあなたが私の教えを信じ、それに従うなら、あなたは真理を知り、真理はあなたを自由にする。」すると、彼らは驚いて答えました。

彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、「あなたがたは自由になる」と言われるのですか。」(ヨハネの福音書8:33)

そして、イエス様とユダヤ人たちは、アブラハムの真の子孫について長い間議論しました。

イエス様は彼らに言われました。「あなたがたはまだ罪を犯しています。アブラハムの子供であるからすでに自由だと主張していますが、実際にはまだ罪の奴隷です。

私は、あなたがたを罪から解放する者です。私があなたがたを自由にしたなら、あなたがたは本当に神様の子どもとなるのです。」(ヨハネ8:34-36)

ところが、ユダヤ人たちはそれを聞いてもなお、自分たちこそアブラハムの子孫であると主張し続けました。そこでイエス様は彼らにこう言われました。

あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです。

ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語った者であるわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことをしませんでした。(ヨハネ8:39-40)

要するに、アブラハムは神様の言葉を聞いたとき、すぐにその言葉を信じました。信仰によってその言葉を受け入れたため、彼は救われました。その結果、彼は神様の子供と呼ばれるようになりました。

その一方、ユダヤ人たちはイエス様を拒絶し、その言葉を信じなかったため、自分たちこそアブラハムの真の子孫ではないことを証明してしまいました。

今日の箇所で、パウロはこのことを教えています。彼はこう言いました。

「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。

聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。

ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。(ガラテヤ人への手紙3:6-9)

パウロによれば、アブラハムが神様に義と認められたのは、律法に従ったからではありません。なぜなら、その当時、律法はまだ存在していなかったからです。それに、アブラハム自身も罪を犯したことがありました。

それでも、最終的にアブラハムは神様とその約束を信じたため、神様に義と認められました。

アブラハムの真の子孫は、彼と同じように生きます。私たちは失敗するときもありますし、罪を犯すこともあります。

私たちは、神様の律法を完全に守ることで義と認められるのではありません。むしろ、イエス様を信じることによって、神様に義と認められるのです。

実際のところ、もし私たちが自分の正しい行いによって義と認められようと努めるなら、パウロによれば、私たちはかえって呪われてしまいます。

律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。

「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。(10)

しかし、良い知らせは、イエス様が私たちの代わりに呪われたということです。パウロはこのことを説明します。

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。

「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。(13)

十字架で死なれたとき、イエス様は律法の呪いをすべて受け、私たちに対する神様の怒りを担われました。そして、パウロによれば、イエス様は私たちを贖い出してくださいました。言い換えると、イエス様は罪の奴隷である私たちをサタンの国から買い取って、解放してくださいました。

だから、私たちもアブラハムが受けた救いの祝福を受けることができます。私たちがしなければならないのは、ただ神様の約束を信じることです。

パウロは自らの議論をこのようにまとめています。

律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。(11)

あなたはどうでしょうか。あなたはアブラハムの真の子孫でしょうか。イエス様を信じていますか。それとも、自分の良い行いによって神様に義と認められようと努力しているでしょうか。

神様を信じず、自分の資格によって義と認められようとする者は、誰も救われません。

あなたの救いは何に基づいているでしょうか。自分の努力に頼っていますか。それとも、神様に頼っていますか。

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ガラテヤ人への手紙

罪に仕える者なのか

ある人たち、特にカルトに属する人々がしばしば主張するのは、クリスチャンが律法の従順による福音ではなく、恵みによる福音を伝えるため、結果的にクリスチャンがあえて罪を犯すように促されるということです。

彼らの議論は次のようなものです。「律法の従順ではなく、恵みだけによって救われるとしたら、なぜ律法に従う必要があるのか。嘘をついたり、姦淫したり、ポルノを見たりしても、まだ救われるのではないか。もし恵みだけによって救われるのなら、罪を避ける理由は何なのか。」

実際に、この点について疑問を持つクリスチャンもいます。

もし、律法やルールによって救われるのではないのなら、どのように生きても構わないのではないか。むしろ、クリスチャンとしての生活を送りたいのであれば、ルールに従うべきではないか。もしルールに従わなければ、この世の人々と同じようになってしまうのではないか。

あるユダヤ人のクリスチャンたちは、パウロやガラテヤのクリスチャンたちにこう言いました。「もし律法を捨てるなら、あなたたちは不信者のようになってしまうでしょう。」

そして、彼らはパウロやガラテヤのクリスチャンたちがモーセの律法に違反したり、罪を犯したりする様子を見ると、こう言いました。

「ほら、私たちが言った通りでしょう。あなたたちは不信者のように振る舞っている。あなたたちが教えている恵みの福音によって、あなたたちはキリストを罪に仕える者にしてしまっている。」

けれども、パウロはペテロと他のユダヤ人のクリスチャンたちにこう言いました。

私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、「異邦人のような罪人」ではありません。

しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。

律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。(ガラテヤ人への手紙2:15-16)

要するに、「ペテロ、私たちは異邦人ではなく、ユダヤ人です。それでも、モーセの律法によって、人々が神様に義と認められることはできないことを認めるでしょう。律法に従うことによって、義と認められる人は誰もいません。」

どうしてでしょうか。それは、律法に完全に従う人が誰もいないからです。もし律法によって義と認められたいなら、律法に完全に従わなければならないのです。

そこで、パウロはペテロに言いました。「異邦人だけではなく、私たちも義と認められたいと思うなら、イエス様とその十字架の働きを信じなくてはならないのです。」(16)

そして、パウロはユダヤ人のクリスチャンたちの異議について話しました。

しかし、もし、私たちがキリストにあって義と認められようとすることで、私たち自身も「罪人」であることになるのなら、キリストは罪に仕える者なのですか。(17a)

要するに、ある人々はクリスチャンたちを指して、こう言いました。「あなたたちはイエス様に属していると主張しているが、まだ罪を犯しているではないか。あなたの福音は罪を促すものであり、あなたのキリストは罪に仕える者なのではないか。」

ところが、パウロは答えました。

決してそんなことはありません。(17b)

そしてパウロは説明します。

もし自分が打ち壊したものを再び建てるなら、私は自分が違反者であると証明することになるのです。(18)

パウロが意味したことは何でしょうか。おそらく、パウロは次のように意味しているのです。

「仮に、あなたの望み通りに私が律法を再び建て、異邦人たちに『あなたたちはクリスチャンになるためにモーセの律法に従わなくてはならない』と言ったとしたら、彼らは罪を犯さなくなるでしょうか。律法に従おうとしているあなたたちは、もう罪を犯さなくなるのでしょうか。

いいえ、あなたたちは律法に従おうとしても、なお罪を犯すでしょう。

では、律法を再び建てると、その結果はどうなるでしょうか。私たちは罪を犯さなくなるわけではありません。むしろ、私たちはもう一度悟るのです。『私たちは罪人なので、救い主が必要です。』」

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。神様の律法の従順によって義と認められるという概念を捨てなければなりません。なぜなら、律法によって私たちは義と認められないからです。律法ができることは、ただ私たちの罪を指摘することだけなのです。

だから、神様に義と認められたいなら、唯一の方法しかありません。それは、イエス様を信じることです。次のブログで、そのことについてさらに詳しく話します。

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コリント人への手紙第二

イエス様がこの世に戻られるとき

この箇所で、パウロはコリントの人々に警告するだけでなく、私たちすべてにも警告を与えています。

パウロはこう言いました。

私があなたがたのところに行くのは、これで三度目です。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことは立証されなければなりません。

以前に罪を犯した人たちとほかの人たち全員に、私は二度目の滞在のとき、前もって言っておきましたが、こうして離れている今も、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦しません。

こう言うのは、キリストが私によって語っておられるという証拠を、あなたがたが求めているからです。

キリストはあなたがたに対して弱い方ではなく、あなたがたの間にあって力ある方です。キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。

私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。(コリント人への手紙第二13:1-4)

以前、コリントに行ったとき、パウロは自らの権威を振るうことなく、コリントの人々の罪深い態度を悲しみました。しかし、彼が彼らのために自らの人生を犠牲にしたにもかかわらず、コリントの人々はパウロを拒絶しました。

それでも、パウロは彼らに警告しました。「私は弱い者として来るのではありません。むしろ、私は神様の力を持ち、神様から受けた権威をもって、あなたたちを裁きます。」

そして、パウロはこう言いました。

以前に罪を犯した人たちとほかの人たち全員に、私は二度目の滞在のとき、前もって言っておきましたが、こうして離れている今も、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦しません。(2)

イエス様は、同じようなことを私たちに語られます。

イエス様は、以前この世に来られたとき、ある意味で弱い方として来られました。貧しい大工として、また巡回説教者として歩まれました。イエス様は、勝利する王としてではなく、十字架につけられた救い主として来られました。

しかし、神様の力によって、イエス様はよみがえられました。

そして、ある日、イエス様は再びこの世に戻られます。そのとき、イエス様は弱い方としてではなく、力を持つ方として戻られます。さらに、イエス様を拒絶する人を、もはや赦されません。むしろ、イエス様は彼らを裁かれます。

多くの人々は、イエス様を私たちを愛しておられる神の御子と見なします。そして、その愛を示すために、イエス様がすべてを犠牲にされたことに思いを巡らせます。もちろん、それは真実です。

しかし、多くの人々は、大切なことを忘れがちです。それは、イエス様がこの世に戻られるとき、すべての人々を裁かれるということです。イエス様は、ご自身を拒む者に対して、もはや憐れみを示されません。

その日、イエス様はすべての人々に明らかにされます。ただ神の羊としてだけでなく、ユダの獅子として、そして永遠にこの世を治める王として認められます。そして、イエス様の正当な統治に逆らう者は、イエス様の怒りを知ることになるのです。(ルカ19:11-27)

だからこそ、私たちは自らに問いかけるべきです。私たちはイエス様の権威に従うでしょうか。それとも、イエス様に逆らい続けるでしょうか。 神様は忍耐深いお方です。しかし、その忍耐は永遠に続くものではありません。

だから、決して神様の忍耐を試してはなりません。むしろ、今のうちに、私たちができる限り神様の恵みと憐れみを受け入れましょう。

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コリント人への手紙第二

自立の問題

私の両親は、私が自立できるように育てました。私は親元を離れて数年後、父はこう言いました。「私がうれしいのは、おまえと兄姉が決して私たちにお金をねだらないことだよ。」

親子関係において、自立は良いことだと思います。私たちは皆、成長し、やがて両親から独立しなければなりません。

しかし、神様との関係において、自立は決して良いことではありません。私たちが神様から独立できる瞬間はありません。なぜなら、私たちは常に神様を必要としているからです。

この人生を歩むために、私たちは常に神様の力を必要とします。仕事、人間関係、ミニストリーにおいて、私たちは必ず神様を必要とします。

自立の問題は、私たちの人生の中で神様の力を本当に経験できなくなることです。神様からの独立を求めると、神様の力にアクセスできなくなります。

パウロはこの真理を学び、それをコリントの人々に教えようとしました。

パウロには素晴らしい霊的な経験がありました。彼は天国を見ました。

だから、パウロにとって「私はクリスチャンとしてたどり着いた。もう神様の助けは必要ないでしょう。私は霊的に成熟しているので、自分の力でこの人生を歩むことができるでしょう」と考えるのは容易だったでしょう。

そういうわけで、パウロが高慢にならないように、神様は彼の肉体に「とげ」を与えられました。そのとげが何であったのかについて、パウロは具体的に説明しませんでした。

もちろん、それは文字どおりのとげではありませんでしたが、それは健康上の問題だったかもしれません。(多くの人は、パウロが目の疾患を抱えていたと考えています。)あるいは、それは霊的な試練だったのかもしれません。

いずれにせよ、パウロは三度、主に願いました。「このとげを私から取り去ってください。」

しかし、神様はこう答えられました。

わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。(コリント人への手紙第二12:9)

要するに、「この問題を取り去らなくてもよい。なぜなら、あなたは私の恵みを持っているからである。そして、あなたの弱さのうちに、私の力は完全に働く。」

神様が意味されたものは何でしょうか。

私たちは弱いとき、自分の力に頼らず、神様の力に依り頼まなければなりません。私たちが自分の力に頼り続ける限り、神様の力は私たちの人生において完全に働くことができません。

だから、パウロはこう言いました。

ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。

というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(9b-10)

なぜ、パウロは自分の弱さを誇ったのでしょうか。それは、弱さゆえにパウロがさらに神様に依り頼まなければならなかったからです。

その結果、彼は以前にもまして、神様の力を知るようになりました。それだけではなく、パウロと神様との関係はさらに深まったことでしょう。

あなたはどうでしょうか。自分の力だけで人生を歩もうとしていませんか。もしそうであれば、神様の力を経験することも、神様との親しい関係を築くこともできません。

私自身、神様の力と、神様との親しい関係の両方を持ちたいと願っています。

だからこそ、自分の自立を誇るのではなく、毎日、神様の力に依り頼むことを学びましょう。

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コリント人への手紙第二

恵みが溢れている人生

「恵みが溢れている人生」という記事のタイトルを読んだとき、あなたは何を思い浮かべたでしょうか。

神様から与えられた恵みを考えたでしょうか。もちろん、この記事ではそのことについても書きます。しかし、それだけではありません。

パウロはこう書きました。

神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。

あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。(コリント人への手紙第二9:8)

私はこの箇所が大好きです。パウロによれば、神様は私たちに溢れるほどの恵みを与え、私たちの必要を満たすことができます。

しかし、その恵みを豊かに与える目的は何でしょうか。それは、私たちがすべての良いわざに満ち溢れるためです。つまり、私たちは受けた恵みによって、周りの人々にも豊かに恵みを与えることができるのです。

そして、パウロは詩篇112篇を引用します。

「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠にとどまる」と書かれているようにです。(9)

どういうわけか分かりませんが、以前にこの言葉を読んだとき、パウロがイエス様について語っているのだと思いました。もしかすると、その箇所でエペソ書4:8を連想したのかもしれません。

けれども、実際には、その詩人は義人の寛大さについて語っています。義人は主に信頼しているので、未来を恐れません。そのため、惜しみなく貧しい人を助け、良いわざに満ち溢れています。

そして、パウロは続けてこう言います。

種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。

あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。(10-11)

要するに、私たちは神様が私たちの必要を満たしてくださることを確信できます。そして、私たちが周りの人々に惜しみなく与えるようになるほど、神様は私たちの財源をさらに増し加えてくださるのです。

しかし、私たちは自分の経済について本当に神様に信頼しているでしょうか。私はそのことをまだ学んでいる途中です。

私は詩篇112篇に描かれる義人のようになりたいです。私の人生に神様の恵みが溢れるように祈ります。けれども、その恵みを自分のためだけに持ちたいわけではありません。

むしろ、その恵みに溢れ、周りの人々に触れて祝福したいのです。そして、私の人生を通して、彼らが神様に栄光を帰すことを願います。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生は恵みに溢れているでしょうか。

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コリント人への手紙第一

無駄な恵みではない

あなたは、自分自身をどのような人物だと思いますか。

パウロの自己認識は、とても興味深いものです。彼はクリスチャンになると、名前を「サウロ」から「パウロ」に変えました。「パウロ」という名前には、「小さい」という意味があります。

彼は「ヘブル人の中のヘブル人」でした。また、かつてはパリサイ人でした。クリスチャンになる前、彼は自分の立場や経歴を誇っていました。

けれども、イエス様と出会うことで、彼は謙遜になりました。それまで神様に仕えていると思っていた彼は、実は神様を迫害していたことに気づかされました。彼は、自分が正しい人ではなく、むしろ殺人者であったことを理解したのです。

この箇所で、パウロは自分自身を「月足らずで生まれた者のような人」と呼びました。つまり、彼は霊的な意味で死産児のような存在だったのです。

過去の罪深い歩みを振り返り、パウロは自分を「使徒の中で最も小さい者」と呼びました。また、「私は使徒と呼ばれるに値しない者だ」とも言いました。

あなたも、自分自身について同じように感じているかもしれません。自分を取るに足りない存在だと見なし、「生まれなければよかった」と思うことがあるかもしれません。

パウロの言葉を読んで、思い巡らしてください

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず。。。(コリント人への手紙第一15:10)

パウロが伝えたかったことは何でしょうか。

それは、彼の過去にもかかわらず、神様が彼を受け入れ、恵みによって彼が変わり続けているということです。神様は決してパウロを見捨てませんでした。

私たちも、この真理を忘れてはなりません。あなたの過去にも、現在の状態にもかかわらず、神様はありのままのあなたを受け入れてくださいます。あなたの罪や失敗にもかかわらず、神様はあなたを受け入れます。

そして、神様はあなたを罪の中に放置することなく、あなたを清め、ご自身の計画に従って形作り続けてくださいます。

では、私たちはどのように応答すべきでしょうか。感謝と謙遜をもって応答するべきです。

パウロはこう書きました。

私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。(10)

パウロは神様への感謝から、心を尽くして仕えたいと願いました。それでも彼は自分の業績を誇ることはありませんでした。パウロは、神様が彼を用いることを選ばれたのは、神様の恵みであると理解していました。

神様がパウロを用いる必要はありませんでした。彼は汚れた、壊れた器でした。それでも、神様はご自身の栄光のために彼を用いられました。

あなたはどうでしょうか。自分自身をどのように見ていますか。

パウロのように、「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず」と言えるでしょうか。

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ローマ人への手紙

私たちを堅く立たせることができる方

これは、ローマ人への手紙に関する私の最後の記事です。この手紙について書くことは、本当に喜びでした。

そして、パウロはこの手紙の始めと同じように、その締めくくりを迎えます。彼は、救いが最終的に神様の働きであることを私たちに思い出させてくれます。

パウロは次のように記しています。

私の福音、すなわち、イエス・キリストを伝える宣教によって、また、世々にわたって、隠されていた億着の啓示によってーー永遠の神の命令に従い、預言者たちの書を通して今や明らかにされ、すべての異邦人に信仰の従順をもたらすために知らされた億着の啓示によって、あなたがたを強くすることが出来る方(別訳:あなたがたを堅く立たせることができる方)、知恵に富む唯一の神にイエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように。アーメン。(ローマ人への手紙16:25-27)

この箇所を通して、私たちは福音の神秘を見ることができます。

イエス様がこの世に来られる何百年も前に、神様は預言者たちを通して将来に起こることの片鱗を示されました。

預言者たちの言葉は長い間、完全には理解されていませんでしたが、イエス様にあって、その意味が明らかになりました。こうして、今やすべての国の人々がイエス様を信じ、従うことができるのです。

しかし、この福音は私たちの行いによるものではありません。むしろ、この福音は神様の恵みによるものです。神様は私たちを信仰と救いの上に立たせてくださいました。

時の始まる前から、神様は私たちを選び、御子のかたちに似た者としてあらかじめ定めてくださいました。

イエス様を通して、神様は私たちの罪の代価を支払ってくださいました。そして、私たちが天国でイエス様を見る日まで、神様は日々、聖霊によって私たちを清めてくださいます。

それは救いの不思議さです。

私たちは救いに値しないのです。私たちは救いのために働かなかったのです。

でも、恵みによって、神様が私たちの上に愛を注いだので、私たちはイエス様を信じました。そしてある日、私たちはイエス様のようになります。

だから、パウロはこの手紙をこのようにまとめました。

知恵に富む唯一の神にイエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように。アーメン。(27)

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ローマ人への手紙

神様の選びの神秘(4)

予定説について話す際によく出る質問は次のようなものです。

「あなたは、神様が誰を天国へ導くかをあらかじめ定めると主張します。ということは、神様は誰が地獄に行くかも、あらかじめ定めているのではないでしょうか。」

前回の記事で、この疑問についてある程度触れました。

ある意味では、神様は誰が地獄に行くかをあらかじめ定めておられます。しかし、誤解しないでください。神様は決して、こう言われることはありません。

「あなたは地獄に行け。たとえ悔い改めようとも、イエス様を信じようとしてもかまわない。私はすでにあなたの運命を決めているのだから。」

むしろ、神様はこう語られます。「私の計画は、あなたの罪のためにあなたを罰することです。私は正義を執行しなくてはなりません。」

それでも、神様はその宣告を猶予され、その人が純粋に自分の意志で悔い改めるかどうかを待っておられます。その人が自らの意志のみで神様を求め始めるかどうかを待っておられます。

悲しいことに、自分の意志だけで神様を求める者は誰もいません。

だからこそ、私はこう信じます。人々は自らの自由意志によって地獄に行きます。しかし、神様の選びによって、人々は天国に行きます。

神様は人々に自由意志を与えてくださいました。私たちは皆、神様に従うかどうかを選ぶことができます。

ところが、もし神様が私たちの心の中で働かれず、私たちをそのままにされていたなら、私たちは皆、神様に反抗し、自分の道を進んでいくでしょう。例外は一切ありません。それが人類の歴史なのです。

そのため、神様は決断をしなくてはなりませんでした。神様が人間をそのままにされ、すべての人が滅びることを許されることもできました。あるいは、神様が働かれ、ある人々を救われることもできました。

そして、神様は最終的に、ある人々を救うことを選ばれました。

それゆえ、パウロはこう語りました。

また、イザヤがあらかじめ告げたとおりです。

「もしも、万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったなら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていたであろう。」(ローマ人への手紙9:29)

ソドムとゴモラの人々は、自らの自由意志で神様に反抗することを選びました。神様は彼らを憐れむことを選ばれず、彼らが値する裁きを与えられました。つまり、彼らは裁かれて死にました。

同様に、イスラエル人たちも自らの自由意志で神様に反抗することを選びました。しかし、神様は彼らを憐れまれ、彼らが値しないものを与えてくださいました。それは、命に至る恵みです。

では、ソドムとゴモラの人々とイスラエル人たちは何が違ったのでしょうか。イスラエル人たちはソドムとゴモラの人々よりも優れた者だったのでしょうか。

いいえ、そうではありません。違いはただ一つ、神様の選びです。

神様はイスラエル人を選ばれました。一方で、神様はソドムとゴモラの人々を選ばれませんでした。

もう一度言います。それこそが、恵みの不思議さです。私たちは、他の人々より優れた者ではありません。それでも、神様は私たちを救うことを選ばれました。

それゆえ、私たちは神様の選びによって救われたのです。その一方、人々が地獄に行くのだとすれば、それは自らの選択によるものです。

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ローマ人への手紙

破れた力

この箇所を初めて読んだとき、私は本当に混乱しました。というのも、パウロは自分のポイントを説明するために、結婚の比喩を用いました。けれども、パウロは結婚の比喩をちぐはぐな形で用いています。

つまり、パウロは私たちと律法との関係や、私たちと神様との関係について語る際に、結婚の比喩を用いたのです。

その比喩では、ある男性が亡くなったことで、結婚の律法は妻に対してもはや効力を持たなくなりました。

つまり、その律法によれば、夫が生きている間、彼女は別の人と結婚することができませんでした。しかし、彼が亡くなると、彼女は別の人と結婚することができたのです。

そこで、私はこう考えました。

「この比喩では、夫は誰なのか。妻は誰なのか。

パウロによれば、私たちは律法に対して死にました。ということは、私たちが夫で律法が妻なのだろうか。

いや、違う。なぜなら、この比喩では、夫が死ぬと妻は別の人(つまりキリスト)と結婚できる。

もしそうなら、律法がキリストと結婚することになるのか?それはナンセンスです。

さらに、パウロが言っているのは、私たちがキリストと結婚するということなのです。

では、律法が夫で、私たちは妻なのでしょうか。いや、違います。パウロは律法が死ぬとは言っていません。むしろ、私たちが死んだと言いました。」

最終的に、私たちはパウロの比喩の使い方にあまり拘りすぎない方がよいでしょう。

パウロはあるポイントを伝えたいと思っていました。たとえその比喩の使い方がちぐはぐであったとしても、私たちはその比喩そのものに拘るのではなく、パウロの伝えたかった要点を理解しようとすべきです。

では、パウロの要点とは何でしょうか。

「死によって、人に対する律法の力が破られます。」

つまり、結婚の場合、夫の死によって、その妻に対する結婚の律法の力は無効になります。

私が以前言ったように、夫が生きている間は、律法によって、彼女は別の人と結婚することができませんでした。けれども、夫が亡くなると、その律法は彼女に適用されなくなり、彼女は別の人と結婚することができるのです。

私たちの場合、私たちは別の律法の下にありました。それは神様の律法です。

その律法は、何が善で何が悪かを示していました。そして、その律法のもとで私たちは罪を犯すと裁かれました。

さらに、私たちの罪によって、神様から離れてしまい、神様との関係を持つことができませんでした。

しかし、キリストにあって、私たちは死にました。ローマ書6章に、私たちはそのことを読みました。

イエス様が十字架で死んだとき、私たちはイエス様と共に死にました。そして、イエス様は私たちを新しい人として復活させてくださいました。(6:3-7)

バプテスマはこの真理を象徴するものです。水はお墓を象徴しています。そして、私たちが水に沈むとき、それは霊的な真理を表します。

私たちの古い人生—つまり、自分のために生きる私たち、また、神様に反抗する私たちは死にました。そして、私たちは新しい人として復活するのです。

私たちは神様に従いたいのです。そして、これから神様のために生きたいのです。

それでもなお、もっと大切なのは、聖霊様を通して神様が私たちのうちに住んでおられることです。神様は私たちに、御自分を喜ばせたいという望みを与え、さらにその望みを実現する力を与えてくださいます。

では、パウロのポイントに戻りましょう。

私たちはイエス様と共に死んだので、神様の律法はもはや私たちに対して力を持ちません。

私たちと神様との関係は、私たちが律法を守ることに基づくものではなく、神様の恵みとイエス様の十字架の働きに基づいています。

律法は、もはや私たちを裁くことができません。なぜなら、イエス様が私たちの罪の罰を、すでに身代わりとして受けてくださったからです。

たとえ私たちが罪を犯しても、律法はもはや私たちを神様から引き離すことはできません。むしろ、イエス様にあって、私たちは神様との関係を持っています。

イエス様と教会の関係が、新郎と新婦の関係として描写されているのは、偶然ではないと思います。

教会の一員として、私たちはイエス様と結びつけられています。そして、私たちはイエス様のために実を結びます。

もちろん、これは文字通りの子どもを生むという意味ではありません。

けれども、私たちが霊的な実を結ぶことによって、つまり、神様の愛と福音を分かち合うことによって、神様の国は広がっていきます。

この真理に思いを巡らし、喜びましょう。

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ローマ人への手紙

惨めな人生に本当に戻りたいの?

パウロがこの言葉を書いたとき、彼は出エジプトの物語を思い起こしていたことでしょう。

第一コリント10章では、パウロはこの話に言及し、イスラエル人が紅海を渡る出来事をバプテスマになぞらえました。

この箇所でも、さまざまな意味でパウロの言葉は、イスラエル人がエジプトから救い出された経験を反映しています。彼らはエジプトで死の危機に瀕していました。彼らは奴隷として惨めな人生を送っていたのです。

イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼ら叫びは神に届いた。(出エジプト記2:23)

そして、神様は彼らを救い出してくださいました。けれども、荒野を旅する中で、彼らはいくつもの試練に直面し、不満を言い始めました。

エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。(出エジプト記16:3)

その後、神様が彼らに与えると約束された地に入る直前、彼らの信仰は揺らぎました。そして、「エジプトの方がいいです。新しいリーダーを選んで、エジプトに帰りましょう。」と言ったのです。(民数記14:3-4)

この箇所では、パウロも同じような状況に直面しました。

彼は、「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました」と言いました。

けれども、パウロの経験では、このようなことを語ると、ある質問が必ず出てきました。だからこそ、彼はこう言ったのです。

それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。(ローマ人への手紙6:1)

彼の答えは?

決してそんなことはありません。(2)

その後、パウロは、クリスチャンたちが律法の下ではなく、恵みの下にあると言いました。だからこそ、もう一度パウロは、よく聞かれる質問を取り上げます。

では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。(15)

もう一度、パウロは答えました。

決してそんなことはありません。(15b)

なぜでしょうか。パウロはこのように説明しました。

罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。

それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。(2-4)

つまり、私たちは以前は罪の中に生きていました。しかし、クリスチャンになると、そのような生き方に対して死んだのです。

むしろ、今や私たちは新しい人となり、より良い人生を歩んでいます。今や私たちは神様との関係を持っています。(10)

それならば、なぜ古い人生に戻りたいのでしょうか。

それでも、多くのクリスチャンたちはイスラエル人のようです。彼らは紅海を渡ったとき、奴隷の人生に対して死にました。彼らは新しい人となりました。新しい人生を歩む自由を持っていました。勝利のある人生を歩む自由を持っていました。

それにもかかわらず、彼らは「古き良き時代」を懐かしみ始めました。彼らはエジプトのおいしい食べ物を思い出しました。そして、彼らは奴隷としての惨めな人生を忘れ、「エジプトに帰りましょう」と思ったのです。

罪は本当に欺瞞的なものです。私たちはすぐに罪の快楽を思い出しますが、罪がもたらす惨めさを忘れてしまいます。

だから、パウロはこう言いました。

あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。

今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。(20-21)

つまり、「あなたは罪に支配される人生に戻りたいのですか。そんな人生の惨めさをもう忘れてしまったのでしょうか。そのような人生は恥に至り、さらには死に至りました。本当にそんな人生に戻りたいのですか。」

だから、パウロはこう言いました。

また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。

むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。(13)

なぜ、私たちはそのようにすべきなのでしょうか。

(あなたは)罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。(22)

私たちの命を神様にささげると、私たちの人生は聖なるものになります。言い換えると、私たちは神様の計画通りに生き始めます。私たちの人生は健全なものとなり、私たちは真の命を得るのです。

けれども、最も素晴らしいことは、この賜物が無償であるということです。その賜物の価値を正しく理解するならば、私たちは決して死に至る人生に戻ることはないでしょう。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(23)

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ローマ人への手紙

満ち溢れる恵み

この箇所は二つの真理を示しています。

第一の真理は律法の限界、第二の真理は恵みの力です。

パウロはこう言いました。

律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。(ローマ人への手紙5:20)

それは少し奇妙に聞こえるかもしれません。人の罪を増やすことが神の律法の目的なのでしょうか。

けれども、13節を読むと、パウロの意図がより明確になります。

実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ、罪は罪として認めらないのです。(13)

律法が存在する前に、人々は悪いことをしました。しかし、人々が神様の基準を知らないかぎり、その基準によって裁かれることはありません。それでも、神様に背を向けたため、そのことによって彼らは裁かれました。

さらに、自分の良心や律法に反したため、彼らの良心や律法が神様の基準に一致しているかぎり、彼らは裁かれました。(ローマ2:14-15)

けれども、彼らの良心や律法は不完全でした。それらは汚れた鏡のようでした。

だから、神様はご自身の律法を人々に与えてくださいました。その律法によって、人々は何が良いことであり、何が悪いことなのかをはっきりと知るようになりました。

ところが、人々がその律法を知るにつれて、罪は増えました。なぜなら、彼らは意図的に神様の律法に違反し始めたからです。

これこそが律法の限界です。律法は私たちを良い人に変えることはできません。むしろ、私たちは罪を知ることで、責任が増します。

それに、私たちは罪人の心を持ち、神様に逆らうため、その律法を見ると、罪をさらに犯したくなるのです。

その結果は何でしょうか。死です。

けれども、良い知らせがあります。

しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。

それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。(20b-21)

ある人々はこう思うかもしれません。

「どうして神様は律法を与えられたのでしょうか。私たちの責任が増えれば増えるほど、私たちの罰は厳しくなります。

それを知っていても、神様の律法は私たちに与えられました。それは厳しすぎるのではないでしょうか。神様はただ罰したいのでしょうか。」

パウロはそのように考えませんでした。なぜなら、どんなに罪が増えても、イエス様を救い主として受け入れる人に対して、恵みは満ち溢れるからです。神様の恵みが覆うことのできない罪は、何ひとつないのです。

さらに、人がどんなに悪くても、神様の恵みはその人を変えることができます。パウロは、「恵みもまた義によって支配する」と言いました。

もちろん、恵みによって神様が私たちを見てくだされば、「この人は無罪だ」と言われます。

しかし、それだけではなく、神様の恵みによって私たちは新しい心を受けます。その新しい心を受けることで、私たちは自然に良いことを行い始めます。私たちの考え方、行い、言葉は神様を喜ばせます。

言い換えると、私たちは神様の目には義人として認められるだけでなく、実際に義人とされるのです。究極的に、神様が私たちの内に働かれることによる結果は、永遠のいのちです。

だからこそ、恵みは驚くべきものです。どんなに悪い状態でも、神様の恵みはあなたを変えることができます。あなたがすべきことは、ただその恵みを受けることです。

あなたはどうでしょうか。神様の恵みを本当に知っていますか。

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ローマ人への手紙

恵みとは

私は高校生のときにこの箇所を暗記しました。それは何年も前のことですが、今でもよく覚えていて、英語で暗唱することができます。(日本語では難しいですが。)

実にキリストは私たちがまだ弱かったころ、定められたときに、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。

正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ人への手紙5:6-8)

私が高校生のときも、今も、その言葉は私の心を打ち続けています。

神様は、私たちができることをしてくださったのではありません。

私たちは自分自身を救うことができませんでした。罪の中で溺れていたのです。私たちは救命浮輪を持たず、船もまったくありませんでした。自分を救う力もなく、それでも神様を求めず、誰かの助けさえ求めませんでした。

それにもかかわらず、私たちが神様に背を向けたのに、神様はイエス様をこの世に送られました。十字架でイエス様は私たちの罪のために死なれ、私たちの罰を受けてくださいました。だからこそ、私たちは神様と和解することができるのです。

パリサイ人のような「正しい人」のために命を捨てる人は、ほとんどいません。 なぜなら、彼らはルールを守っていたかもしれませんが、いつも人を責めていたからです。

しかし、優しい人のために命を捨てる人は、いるかもしれません。

けれども、私たちはルールを守らず、それほど優しい者でもありませんでした。 私たちは神様に反抗し、背を向け、自分の道を歩んでいました。

その結果、神様だけでなく、周りの人々や自分自身をも傷つけました。それでも、神様は私たちに背を向けて捨てることはされませんでした。

むしろ、神様は人間となり、私たちの代わりに死んでくださり、三日目によみがえられました。

これこそが恵みです。私たちは、神様から良いものを受けるに値しませんでした。それどころか、私たちは刑に値する者でした。それでも、神様は私たちを愛し、救われました。

神様を信じる私たちは、その恵みを受けました。私たちは有罪であり、その愛に値しない者でした。罪にまみれ、惨めな者でした。それでも、神様は私たちを救われました。それは、本当に驚くべき恵みです。

Amazing grace,
驚くべき恵み。
How sweet the sound,
その響きはなんと美しいことでしょう。
That saved a wretch like me,
この恵みが、惨めな私を救いました。。
I once was lost,
かつて私は迷っていました。
But now I’m found.
しかし今、神様が私を見つけてくださいました。
Was blind but now I see.
盲目であった私が、今は見ることができます。

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ローマ人への手紙

私たちが今立っている恵み

私はこの箇所を何度も読んだことがあるので、素早く読み通してしまうのは簡単です。けれども、今回は少しゆっくりと、この箇所の言葉をじっくりと考え、噛み締めたいと思います。

パウロはこう言いました。

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

このキリストによって私たちは信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。

そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。(ローマ人への手紙5:1-2)

神との平和。

私は自分の家庭について考えます。時々、妻と喧嘩すると、雰囲気がとても緊張します。けれども、仲直りすると、平和が訪れます。気まずい沈黙はなくなり、むしろ微笑んだり、笑ったり、会話を楽しんだりすることができます。

イエス様によって、私たちは神様と同じような関係を持つことができます。

神様のみ前で緊張する必要はありません。「神様は私のことをどう思っているだろう」と不安に思う必要はないのです。

むしろ、神様が私たちを受け入れ、愛してくださっていることを知り、神様との交わりを楽しむことができます。

恵みに立つ。

かつて、私たちは神様の裁判所に立ち、神様の裁きを受ける立場にありました。天の父が刑を宣告されるはずでしたが、そのときイエス様が介入し、私たちを別の場所へ導いてくださいました。

今、私たちは恵みに立っています。私たちの罪はすべて赦されました。

それだけではなく、天の父は私たちに好意を持って私たちを見ておられます。私たちは神様の恵みに値しませんが、天の父は私たちを見て微笑み、喜んで良い賜物を与えてくださいます。

だからこそ、私たちが失敗するとき、恐れるとき、必要を抱えるとき、私たちの立場を思い出すべきです。それは恵みです。裁きではなく、恵みです。

だからこそ、私たちは喜びます。私たちは望みを持っています。

なぜなら、イエス様が十字架で私たちの罪のために死なれたからです。イエス様は、私たちが立っている恵みにアクセスできる道を開いてくださいました。

そして、それは私たちだけではなく、イエス様を信じるすべての人に与えられています。

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ローマ人への手紙

律法を捨ててしまう?

多くの人が3章を読むと、次のように尋ねるかもしれません。

「もし律法によって私たちが神様に義と認められないのなら、律法を捨ててしまってもよいでしょう。結局、律法には意味がないのだから。」

けれども、パウロはこのように答えました。

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになります。(ローマ人への手紙3:31)

「律法を確立する」とはどういう意味でしょうか。

言い換えれば、私たちが律法には、私たちを救いへと導く役割があることを認めるということです。

ガラテヤ人への手紙で、パウロは律法を私たちの「養育係」と呼びました。

では、律法は私たちに何を教えたのでしょうか。律法は神様の聖さを示しました。さらに、律法は私たちの罪を明らかにしました。

だから、パウロはこう書きました。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。(ローマ人への手紙3:20)

そして、律法が私たちの罪を明らかにすることで、私たちは救い主の必要性を理解するようになりました。

もし私たちの罪が明らかにならなかったら、救い主の必要性を感じなかったでしょう。なぜなら、「私たちはすでに十分に善良であり、神様がきっと私たちを受け入れてくださる」と思い込んでしまうからです。

そう考えるなら、私たちは、イエス様がなぜ私たちのために死ななければならなかったのかを理解できないでしょう。

しかし、律法は私たちの罪を明らかにすることはできても、その罪を取り除くことはできません。

少し考えてみてください。

鏡は男性のひげを映し出すことができます。けれども、鏡自体はそのひげを剃ることはできません。ひげを剃ることができるのは、髭剃りだけです。

同様に、律法は私たちの罪を映し出すことができますが、その罪を取り除く力は持っていません。しかし、神様の恵みは髭剃りのように私たちの罪を取り去ることができます。

さらに考えてみてください。確かに、鏡は私たちのひげを剃ることはできません。とはいえ、だからといって鏡が不要になるでしょうか?そうではありません。鏡は、私たちが剃るべき部分を映し出してくれるのです。

同様に、律法は私たちの罪や不完全な部分を明らかにします。そして、私たちがそれを認識すると、聖霊様が私たちを導き始めてくださるのです。

例えば、聖霊様は男性たちにこう語りかけるかもしれません。「『あなたの妻を愛しなさい』と書いてあるでしょう。では、今日どのように奥さんを愛するべきか教えます。」

または、「『許しなさい』と書いてあるでしょう。では、あなたはまだ〇〇さんを許していないでしょう。あなたの傷は深いかもしれません。それでも、私があなたを癒すので、相手を許しなさい。」

覚えておきましょう。律法は私たちに「自分の力だけでこのルールに従いなさい」と求めているわけではありません。

むしろ、神様は律法を通して私たちの目を開いてくださいます。そして、私たちは神様が私たちの人生の中で何をなさりたいのかを理解するようになります。

鏡を見ると、ただ自分の姿が映るだけではなく、私たちの天の父を見ることができます。そして、天の父は愛をもって、その恵みの髭剃りで私たちの罪を取り除き始めてくださいます。

私たちはその髭剃りを見て、少し怖いと感じるかもしれません。けれども、私たちが信仰をもって神様に「はい」と応じるなら、神様は私たちの罪を少しずつ取り去ってくださいます。

あなたはどうでしょうか。鏡を見ると、自分の罪や失敗だけが目に入るでしょうか。

それとも、あなたの天の父を見るでしょうか。天の父はきっとあなたの人生に働き、あなたを癒してくださいます。

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ローマ人への手紙

誇りの余地がない

この箇所では、私たちはパウロの最も重要な結論の一つを読むことになります。

それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。

いいえ、信仰の律法によってです。人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。

それでも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあるのではないでしょうか。

そうです。異邦人の神でもあります。神が唯一なら、そうです。神は、割礼のある者を信仰によって義と認め、割礼のない者も信仰によって義と認めてくださるのです。(ローマ人への手紙3:27-30)

簡単に言えば、恵みに関しては、人々には誇る余地が全くないということです。

人々が完全に律法を守ることによって、神様は彼らを受け入れるのではありません。(なぜなら、完全に律法を守る人は誰もいないからです。)

また、神様は人種によって人々を受け入れるのではありません。(ユダヤ人はそう思っていましたが。)神様は、私たちがイエス様の十字架の働きを信じたからこそ、私たちを受け入れてくださるのです。

この真理を理解していないクリスチャンが多いため、二つの誤解が生じます。

あるクリスチャンたちは尋ねます。「私が何度失敗しても、どうして神様は私を受け入れてくださるのだろうか。」

なぜ彼らはそのように疑うのでしょうか。それは、彼らが心の中で「神様の受け入れを得るためには、自分が努力しなければならない」と考えているからです。

そして、彼らはいつも自分の努力が足りないと感じ、「私は神様の愛に値しない」と思ってしまうのです。

しかし、それこそがパウロのポイントです。恵みとは、私たちが神様の愛や受け入れに値しないにもかかわらず、神様が私たちを愛し、受け入れてくださることです。

誰も神様の前に立って、「私はあなたの子供で、あなたは幸運ですね。私は善良で、あなたの国に貢献できます。」と言える人はいません。

むしろ、私たちは皆、霊的に貧しい者として、何も持たずに神様の前に来るのです。ある賛美歌には、次のような言葉があります。

Nothing in my hand I bring,
何も持たずに、
Simply to the cross I cling;
ただ私は十字架にすがりつきます。
Naked, come to thee for dress;
私は裸で、衣を得るためにあなたのもとへ行きます。
Helpless, look to thee for grace.
私は心細く、あなたを仰ぎ見て、恵みを願います。

その一方で、あるクリスチャンたちは「私は良いクリスチャンだ」と思い、「それほど良くないクリスチャン」を見下します。彼らはパリサイ人のように人々を裁きますが、自分自身の失敗や罪には気づかないため、恵みの必要性を理解できません。

その結果、人々に恵みを示さず、批判ばかりしてしまいます。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生に神様の恵みが見えているでしょうか。もしかすると、神様があなたを受け入れてくださらないと思い、いつも気が沈んでいるかもしれません。

あるいは、人々を見下して、恵みを示すことを拒んでしまっているでしょうか。

「恵み」という言葉を聞いたとき、あなたはどのように感じるでしょうか。その言葉はあなたの心に響くでしょうか。それとも、何も感じないでしょうか。

恵みという言葉があなたの心に深く響きますように。そして、ただ響くだけでなく、恵みがあなたの心を支配し、導くものとなりますように。

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神様に受け入れられるのに

感じるときも、感じないときも、私たちの最も大切な必要は、神様に受け入れられることです。

私たちが神様に受け入れられることを理解すると、人生は完全に変わります。私たちは満足、平和、喜びを見つけます。さらに、本当のいのちを見つけます。

では、どのようにすれば私たちは神様に受け入れられるのでしょうか。パウロがはっきりと教えているのは、律法に従うことによって神様に受け入れられる人は誰もいないということです。

全ての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができ(ない)。(ローマ人への手紙3:23)

「罪」という言葉の原語は興味深いものです。それはアーチェリーの専門用語であり、「的を逸れる」という意味を持っています。

しかし、その意味は単に的の中心を逸れるだけではなく、むしろ的にまったく当たらないことを指します。

要するに、私たちは完全な人ではありません。神様と比べれば、私たちは決して聖い存在ではありません。

少し考えてみてください。

仮に一日に三回、悪いことを考えたり、言ったり、行ったりするとします。他の人々と比べれば、それほど悪いとは感じないかもしれません。

けれども、その三つの罪を365倍してみてください。一年間で約1000の罪になります。そして、その1000の罪をあなたの年齢に掛けると、どうなるでしょうか。それは何万という罪になります。

裁きの日に、あなたの罪について話すのに、何時間かかるでしょうか。もし、毎日三回以上罪を犯していれば、さらに多くの時間が必要になるでしょう。

したがって、私たち全員がすでに裁かれているのです。神様の前で、「私は、あなたに受け入れられるのにふさわしい者です。私は完全にあなたの律法に従いました。」と言える人は誰もいません。

けれども、良い知らせがあります。パウロはこう言いました。

しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証さて、神の義が示されました。(21)

どのようにすれば、私たちはその義を得ることができるのでしょうか。パウロは続けてこう言います。

すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。

そこに差別はありません。全ての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値なしに義と認められるからです。

神は、この方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。(22-25)

パウロは何を言いたいのでしょうか。この箇所には、さまざまなキリスト教の専門用語が出てきます。パウロは「贖い」について語ります。「贖い」とは何を意味するのでしょうか。

「贖い」とは、奴隷の自由を買い取ることです。私たちは皆、罪の奴隷であり、またサタンの国の奴隷でした。しかし、イエス様は私たちの自由を買い取ってくださいました。それが「贖い」の意味です。

では、イエス様はどのようにして私たちの自由を買われたのでしょうか。十字架でイエス様が流された血によって、私たちは自由とされたのです。

パウロは「宥めのささげ物」という言葉を使います。

この言葉の意味は、十字架でイエス様が私たちの罪に対する神様の怒りを受け入れ、その怒りが静められたということです。イエス様の血によって私たちの罪は覆われ、赦されました。

その結果、私たちは神様に近づくことができるのです。

したがって、私たちの良い行いによって神様が私たちを受け入れるのではなく、神様はイエス様の十字架の御業によって私たちを受け入れてくださいます。

言い換えれば、イエス様の死によって、私たちは神様に義と認められるのです。なぜなら、イエス様が私たちの罪の代価を支払われたので、神様は私たちを罪人として見なされないからです。まるで、私たちが罪を犯したことがないかのように見なされます。

今、私たちは恵みによって神様に受け入れられています。

「恵み」とは、私たちが値しないものを受けることを意味します。

本来なら、私たちは神様に背を向けたため、神様の怒りに値していました。けれども、今、神様は私たちを息子たちや娘たちとして受け入れてくださいます。

私たちに求められているのは、ただイエス様とその十字架の働きを信じて受け入れることなのです。

あなたはそれを受け入れましたか。

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ローマ人への手紙

でも、ちょっと言い過ぎているでしょう。

多くの人々がパウロの言葉を読むと、このように反応するかもしれません。

「パウロは少し言い過ぎではないでしょうか。『神を求める者は誰もいない?』って。

私の知り合いには、神様を求めている人がたくさんいます。

また、『善を行う者は誰もいない?』って。

毎日、善を行う人を見かけます。」

この二つの異議について少し考えてみましょう。

では、パウロが「神を求める者はいない」と言ったとき、どういう意味なのでしょうか。

ローマ人への手紙1章をもう一度読んでください。その箇所によれば、人々は神様に関する知識を拒絶しました。神様は、ご自身を被造物や人々の良心、神様の律法を通して現してくださいました。

しかし、人々は神様に関する真理を偽りと取り替えました。彼らは「神様を求めている」と言いながらも、神様ではないものを礼拝していました。(1:25)

多くの場合、彼らは偶像を礼拝しました。ほかの人々は聖書の教えを曲げて、違うイエス様や違う福音、違う聖霊に従いました。(第二コリント11:4)

あなたはこう言うかもしれません。「でも、私はクリスチャンです。私はカルトや別の宗教に所属しません。私が神様を求めたので、神様は私を救ってくださいました。」

ある程度、それは正しいかもしれません。とはいえ、その理解は少し不完全です。つまり、あなたがイエス様を選ぶ前に、イエス様はあなたを選んでくださいました。(ヨハネ15:16)

また、あなたが神様を求める前に、神様はあなたを探していました。(ルカ19:10)

神様が先にあなたを愛し、探してくださったので、あなたは神様を求め始めたのです。神様があなたの目隠しを取り除いたので、あなたは神様を必要としていると分かり、神様を求め始めました。

もし神様があなたをそのままにしていたら、あなたは決して神様を求め始めなかったでしょう。

神様が触れる前に、神様を求める人は誰もいません。もし振り返れば、神様がどのようにあなたに触れ、あなたの人生に働きかけたかが分かるでしょう。

そして、パウロが「善を行う人はいない」と言ったとき、どういう意味なのでしょうか。

少し想像してみてください。ケーキを作るとき、あなたは砂糖ではなく、わざと塩を入れます。焼いたら、そのケーキは見た目は美味しそうかもしれません。

けれども、人々はそのケーキを食べられるでしょうか。全く食べられないでしょう。そのケーキは捨てるしかないでしょう。

そのように、私たちが神様に背を向けると、私たちの良い行いは神様にとって受け入れがたいものとなります。

私たちは良い行いをするかもしれませんが、それらの行いには神様への反抗的な態度という味がついてしまいます。だから、神様にとっては、あなたの良い行いは無意味なのです。

たとえ良い行いをしても、神様は反抗的な態度を受け入れません。

預言者イザヤはこう言いました。

私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。(イザヤ64:6)

要するに、自分の良い行動によって救われる人は誰もいません。また、「私の心がそもそも他の人々の心よりも優れたものなので、私は神様に従った」と自慢できる人は誰もいません。

私たちは皆は、神様の恵みだけによって救われることができます。

私たちはローマ人への手紙を読めば、読むほど、私たちはその真理を分かって来るでしょう。

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ローマ人への手紙

プライドを持ち、恵みを軽んじる?

神様の恵みは、何にも代えがたいほど素晴らしいものです。しかし、私たちは恵みに対して、決して取るべきではない二つの態度があります。この箇所で、その二つの態度が示されています。

一つ目の態度は、プライドです。つまり、人々はこう思います。「私は神様の恵みなんて必要ない。私はすでに良い人だから。その一方、私の周りの人たちは…」

パウロは、このような態度について、こう語っています。

ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。

そのようなことを行う者たちの上に、真理に基づいて神のさばきが下ることを、私たちは知っています。

そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。(ローマ人への手紙2:1-3)

ある人々は、いつも周りの人々を裁き、相手を悪い人と決めつけます。しかし同時に、自分自身の罪や欠点には目を向けようとしません。

彼らはプライドを持ち、「あいつは絶対にダメな人だけど、私は大丈夫だ」と思います。

けれども、パウロは彼らにこう言います。「あなたも同じことをしている。どうしてあなたは相手を裁くのですか。」

例えば、私たちは相手のことを頑固だと思います。しかし、実際に彼らと話すと、私たち自身も頑固になっていることに気づくかもしれません。

また、ニュース番組で私たちは殺人犯を見て、恐ろしいと思います。だから、彼らが厳しく罰されることを願います。

しかし、もし友達や知り合いが私たちを傷つけたらどうでしょうか。私たちは縁を切り、心の中で彼らを「殺してしまう」のです。(マタイ5:21-22)

だから、パウロは私たちにこう言います。

「あなたは相手を裁く権利を持っていません。あなたも同じことをしているのだから。あなたも神様の恵みを必要としています。その恵みを受けなければ、あなたは裁かれることになるのです。」

けれども、パウロはもう一つの問題についても語ります。ある人々は、神様の恵みを軽んじます。つまり、彼らはこう考えます。

「神様は私を赦してくれるのだから、私は好き勝手にして、あとで神様に謝ればいい。」

パウロはそのような人々にこう言います。

それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。(ローマ人への手紙2:4)

つまり、神様の恵みの目的は、私たちが罪にふけることではありません。その目的は、私たちが罪を悔い改め、その罪を捨てることです。

けれども、多くの人々は恵みを軽んじ、自分の罪にふけり、結果として神様や周りの人々を傷つけてしまいます。

だから、パウロはプライドを持つ人や、恵みを軽んじる人にこう語ります。

あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。

忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え、利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。

悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神にはえこひいきがないからです。(5-11)

つまり、そのような態度を持てば、あなたも必ず裁かれることになります。

もし、プライドを持ち、「神様の恵みなんて必要ない」と思い、周りの人々を裁くなら、私たちの罪は暴かれ、私たち自身が裁かれてしまいます。

また、神様の恵みを軽んじ、罪にふけるなら、私たちは裁きを受けることになります。

あなたはどうでしょうか。

神様の恵みは必要ないと思いますか。

それとも、神様の恵みを軽んじていますか。

そのような態度は裁きにつながります。だからこそ、謙遜を持ち、私たちが恵みを必要としていることを認め、神様の愛と恵みに目を向け、驚きましょう。

神の国には、プライドや恵みを軽んじる余地はありません。

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使徒の働き

代価がどんなに高くても

この箇所の解釈は少し難しいかもしれません。

なぜ神様はその預言をパウロに示されたのでしょうか。神様は、パウロがエルサレムに行かないように警告されたかったのでしょうか。それとも、パウロが試練に備えることを望まれたのでしょうか。

私の考えですが、おそらく神様はパウロが試練に備えるために、あらかじめ警告されたのだと思います。

イエス様が初めてパウロに現れたときから、すでにパウロがユダヤ人や異邦人に福音を述べ伝える中で苦しむことを警告されていました。(使徒の働き9:15-16)

だからこそ、他のクリスチャンたちがパウロに「エルサレムへ行かないでほしい」と願ったとき、パウロはこう答えたのではないでしょうか。

あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。(使徒の働き21:13)

つまり、どれほど代価が高くても、パウロはイエス様に従おうと努めました。だからこそ、周囲の人々が何を言っても、彼の決意は揺るぎませんでした。

あなたはどうでしょうか。

神様は決して、私たちが順調な人生を送ることを約束されたわけではありません。また、神様に従うことですべての人々が私たちを愛してくれるとも約束されませんでした。

むしろ、神様はその正反対のことを約束されました。(ヨハネ16:33;第二テモテ3:12)

あなたはすでにそのことを知っているかもしれません。しかし、試練に直面したとき、あなたはどうするでしょうか。

その試練が訪れるとき、神様が恵みと勇気を与えてくださるように願います。

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使徒の働き

恵みだけ

この箇所では、私たちは使徒の時代における最も重要な議論の一つを目にします。

パウロとバルナバは異邦人たちに福音を述べ伝えました。けれども、あるクリスチャンたちはパウロとバルナバの教えに反対しました。

つまり、パウロとバルナバはこう教えました。

ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。

また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについてこの方によって、信じる者はみな義と認められるのです。(使徒の働き13:38-39)

ところが、あるユダヤ人の信者たち、特にパリサイ派に所属している信者たちは、それを受け入れませんでした。

もちろん、彼らはイエス様への信仰によって人々が赦されることを信じていました。しかし、それに加えてもう一つの要求をしました。

つまり、異邦人たちは割礼を受けなければならず、さらにモーセの律法を守らなければならない、ということです。

だから、

パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じた。。。(使徒の働き15:2)

だから、彼らは皆、エルサレムに行き、使徒たちと長老たちとその問題について話し合いました。

まず、パウロとバルナバは、異邦人の間での神様の働きについて語りました。けれども、そのあと、パリサイ派の人々が立ち上がり、こう言いました。

「それはいいけれど、彼らはまだ割礼を受け、モーセの律法を守らなければならない。」

こうして、激しい議論が始まりました。

私はペテロの思いを想像できます。

ペテロは幼い頃からユダヤ人として育ち、ずっとモーセの律法に従ってきました。彼にとって、異邦人に対する神様の恵みの言葉を受け入れることは、まだ少し難しかったかもしれません。

そのため、彼はパリサイ派の人々の意見に共感を覚えたかもしれません。

それでも、コルネリウスの家に行ったとき、ペテロ自身がそのメッセージを異邦人に伝えました。

そのため、この議論を聞きながら、ペテロは神様からの幻をもう一度思い出していたことでしょう。(使徒の働き10:11-16)

そして、彼は再びその幻の教訓について思い悩んだかもしれません。

けれども、最終的にペテロは、神様がユダヤ人と異邦人を区別しないことを悟り、皆にこう言いました。

。。。人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証をされました。

私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。

そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首にかけて、神を試みるのですか。(8-10)

それを聞いて、皆は静かになりました。バルナバやパウロの異邦人との経験よりも、ペテロの言葉が彼らの心を打ったようです。

そして、ヤコブは聖書によってペテロの言葉を確認したため、すべての異議がなくなりました。

では、この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

恵みだけによって、私たちは救われるのです。

私たちはキリストの御業に、自分の努力を足すことはありません。

私たちが頑張ったからといって、神様がその報いとして私たちに恵みを与えてくださるわけではありません。

私たちの努力を神様の恵みに足して救われるのではなく、私たちはキリストの十字架の御業だけによって救われました。

けれども、ペテロのように、私たちの多くにとってこの真理を受け入れることは容易ではありません。そのため、「私はやっぱりだめだ」と思い、神様が本当に私たちを受け入れてくださるのか疑問に思うことがあります。

あるいは、周りの人々を裁いて、「あの人はだめだ」と考えてしまうこともあるかもしれません。

しかし、事実として、救いに値する人は誰もいません。だからこそ、私たちには恵みが必要なのです。

私たちは救いに値しませんが、イエス様が十字架で血を流されたことによって、私たちは義と認められました。神様はすでに私たちを受け入れています。だから、神様が私たちを受け入れてくださるかどうか、悩む必要はないのです。

それを本当に信じていますか?

パウロの言葉を心に留めておきましょう。

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ人への手紙2:8-9)

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使徒の働き

苦難があっても

控えめに言っても、パウロとバルナバの宣教旅行は決して退屈なものではありませんでした。

彼らは数々の成功を経験しましたが、同時に多くの試練にも直面しました。あるとき、パウロは石打ちの刑に遭い、死の危機に瀕しました。そのため、彼らが失望し、諦めてしまうことは容易だったでしょう。

けれども、彼らはそうしませんでした。むしろ、迫害された場所にまで戻ったのです。なぜでしょうか。それは、そこにいる信者たちを励まし、信仰に堅く立つように勧めるためでした。

彼らは何を語ったのでしょうか。

私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない。(使徒の働き14:22)

もし私たちがそのクリスチャンたちの立場だったなら、きっと試練ではなく、神様の祝福について聞きたかったことでしょう。

しかし、パウロは、新しいクリスチャンたちが試練に直面することを理解していました。もし、パウロとバルナバが訪れた都市の人々が彼らを迫害するなら、新しいクリスチャンたちも同じように迫害される可能性が高いのです。

だからこそ、パウロはその試練の現実を隠そうとはしませんでした。彼は、「あなたがたは確かに苦しみを経ることになる」と語ったのです。

それでも、良い知らせもありました。それは、彼らがその苦しみに一人で直面する必要はなかったことです。神様がパウロとバルナバとともにおられたように、神様は新しいクリスチャンたちともともにおられるのです。

さらに、アンティオキアのクリスチャンたちが、パウロとバルナバを神様の恵みに委ねて送り出したように、パウロとバルナバも新しいクリスチャンたちを主に委ねました(23,26)。

パウロとバルナバが確信していたのは、新しいクリスチャンたちが試練に直面しても、神様の恵みが彼らを支えるということです。

同じように、あなたがどんな試練や苦難に直面しても、神様はいつもあなたとともにおられ、その恵みによって、あなたはその試練を乗り越えることができます。

パウロとバルナバとともにおられた神は、今もあなたとともにおられます。だから、どんな苦難があっても、あきらめないようにしましょう。絶望しないようにしましょう。

Through many dangers, toils and snares
I have already come;
さまざまな危険や苦難、罠を乗り越え、私はすでにここまでたどり着きました。

‘Tis Grace that brought me safe thus far
恵みは私を安全に導き、ここまで守ってくださいました。

and Grace will lead me home.
さらに、恵みは私を主の家へと導いてくださいます。

ーージョン・ニュートン

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使徒の働き

一致、力、と恵み

教会はどのような存在であるべきでしょうか。この箇所では、私たちは良い模範を見ることができます。

一致

さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。(使徒の働き4:32)

現代の教会は同じことを言えるでしょうか。2000年前のクリスチャンたちは、心と思いを一つにしました。彼らは、自分が所有しているものを自分のものだとは考えませんでした。むしろ、それらは主のものであると見なしました。

だから、兄弟姉妹に必要があれば、彼らはそのニーズに応えました。その結果、クリスチャンの間には、飢える人がいませんでした。

しかし、今は多くのクリスチャンがそのように考えていません。十一献金についてのメッセージを聞くと、「でも、それは私のお金だ」と言います。「十一献金は旧約聖書の時代のものだった。それは私には関係ない。」

正直に言えば、十一献金は確かに旧約聖書の時代の制度でした。

それでも、「あなたのお金」は、実際にはあなた自身のものではありません。神様があなたに才能や健康な身体を与えてくださったから、あなたはお金を稼ぐことができるのです。つまり、そのお金は神様のものです。

使徒の働きの時代、クリスチャンたちはその真理を認め、神様からいただいたものを惜しみなく分かち合いました。その結果は。。。

恵み

大きな恵みが彼ら全員の上にあった。(33b)

もちろん、神様は直接私たちに恵みを与えてくださいます。神様は私たちを赦し、多くの祝福を与えてくださいます。しかし、神様は私たちがその恵みのパイプラインとなることを望んでおられます。

私たちは、自分が受けた恵みを周りの人々と分かち合うべきです。けれども、もし私たちが自己中心的になり、その恵みを分かち合うことを拒むなら、そのパイプラインは詰まり、流れが滞るようになります。

一方で、私たちが自分自身から目を離し、周りの人々を愛するなら、教会の中で恵みは豊かに溢れます。

使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし(ました)。(33a)

その力によって、彼らはいろいろな奇跡を行い、彼らの証しが世界を大きく変えました。

同じ御霊は、現代においてもその働きをなすことができます。だからこそ、私たちはそのために祈るべきです。癒しの奇跡だけではなく、変えられた人生という奇跡のためにも祈るべきです。

つまり、聖書を伝える人が話すとき、私たちは、聖霊様が彼らを通して力強く働くように祈るべきです。

聖霊様の力が伴わなければ、牧師のメッセージは意味を失ってしまいます。そのため、私たちは聖霊様が私たちの牧師たちを満たし、彼らを通して語られるように祈りましょう。

それだけではなく、聖霊様が私たち自身を満たし、私たちを通して働かれるように祈りましょう。なぜなら、私たちも神様の祭司だからです。

一致、恵み、そして力。

2000年前の教会のように、現代の教会もこの三つのことで満たされますように。

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マタイの福音書 マタイ27章

死をもたらす悲しみ

この話では、私たちはイスカリオテのユダの死について知ることができます。

イエス様が死刑を宣告されたのを見て、ユダは深く後悔し、祭司長たちと民の長老たちの元へ行き、こう言いました。

私は無実の人の血を打って罪を犯しました。(マタイの福音書27:4)

そして、ユダは受け取ったお金を返そうとしましたが、祭司長たちや長老たちはそのお金を受け取ることを拒みました。そのため、ユダはそのお金を神殿に投げ込んで立ち去り、その後、首を吊りました。

コリント人への手紙第二7章で、パウロは二種類の悲しみについて語っています。パウロはこう書きました。

神様のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます。。。(7:10a)

ペテロも同じような悲しみを経験しました。彼はイエス様を知ることを三度否定し、深い悲しみに包まれました。それでも、彼は悔い改め、赦されて、イエス様の弟子としての役割に戻ることができました。

それに対して、ユダは決して悔い改めることはありませんでした。もちろん、彼は自分の行為の結果を後悔しました。しかし、神様からの赦しを求める代わりに、ユダは自ら命を絶ちました。

パウロはこのような悲しみを「死をもたらす悲しみ」と呼びました。(第二コリント7:10b)

残念ながら、多くの人々はユダのような悲しみを経験しています。

彼らは自分の行為によって生じた悪い結果を目の当たりにし、赦される希望を持てないと感じています。その行為があまりにも重大であるため、神様が自分を赦すことなどできないと思い込んでいるのです。

私たちはそのような人々のために何をしているのでしょうか。

祭司長たちはユダに、神様からの赦しを知る手助けをするべきでした。ところが、彼らはそうしませんでした。むしろ、ユダの悲しみを見て、「で?もしあなたが悪いことをしたなら、それは自分の責任だ。私たちには関係ない。」と言い放ちました。

もちろん、祭司長たちは罪深い心を持っていたため、ユダを助けることができませんでした。ユダを助けるためには、彼ら自身の罪を認める必要があったでしょう。しかし、彼らは自分の罪を認めたくありませんでした。

皮肉なことに、そのお金が「血の代価」であるため、彼らはそのお金を神殿の金庫に入れることはできないと思いました。実際には、彼らは自分たちの罪を自覚していたのでしょう。

それでもなお、神様の祭司として、私たちは罪に苦しんでいる人々を助けるべきです。私たちはその役割を果たしているでしょうか。私たちは、彼らが悔い改めれば、神様が赦してくださることを伝えているでしょうか。

あるいは、彼らの苦しみに対して、私たちはむしろ喜んでいるでしょうか。「それはあなたの責任だ。身から出た錆だ。私に助けを求めるな。」と冷たく言い放っているでしょうか。

イエス様はペテロに厳しく責める権利を持っておられました。それどころか、ペテロだけでなく、すべての弟子たちに対しても、同じように責めることができたはずです。

けれども、イエス様はその代わりに、彼らに恵みを与えられました。神様からの赦しを示されたのです。その結果、彼らは悔い改め、人生が根本から変えられました。

イエス様は、私たちが周囲の人々に対しても、同じように恵みをもって接することを望んでおられます。あなたは、そのように行動しているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ26章 マルコの福音書 マルコ14章 ヨハネの福音書 ヨハネ18章 ルカの福音書 ルカ22章

力と権威、憐れみと恵み

この箇所では、イエス様の中に三つのことを見ることができます。

1.イエス様の力と権威。 イエス様は敵に取り囲まれていましたが、それでも状況を支配しておられました。

イエス様が立ち上がり、敵と向き合われた時、「誰を捜しているのか」と問いかけられました。 彼らが「ナザレ人イエスを」と答えると、イエス様は「わたしがそれだ」と言われました。(ヨハネ 18:4-5)

日本語では分かりづらいですが、実はイエス様はこの時、神様の御名を使われました。(出エジプト 3:13-14;ヨハネ 8:58)

すると、イエス様の敵はその言葉を聞いた瞬間、地に倒れました。どれほどの恐怖を感じたことでしょうか。

そこで、イエス様は再び問いかけられました。「誰を捜しているのか。」(ヨハネ 18:6-7)

彼らはすっかり自信を失い、おどおどしながら答えました。「ナザレ人イエスを。。。」

彼らがイエス様の返事を待つ間、再び地に倒れる覚悟をしたかもしれません。けれども、イエス様は静かに答えられました。

わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。(ヨハネ18:8)

イエス様を捕らえに来たとしても、彼らは誰が本当の力を持っているのかを思い知らされました。 それは彼ら自身ではなく、イエス様でした。

2.イエス様の憐れみ。 敵はまだおどおどしていたため、弟子たちはその恐れにつけ込んで攻撃しようと思ったかもしれません。 すると、弟子の一人が叫びました。

主よ、剣で切りつけましょうか。(ルカ22:49)

イエス様の答えを待たずに、ペテロは敵の一人を攻撃し、右の耳を切り落としました。 (もしかしたら、ペテロはその人の頭を斬ろうとしたものの、誤って耳だけを切り落としてしまったのかもしれません。)

けれども、イエス様は彼を叱責されました。

それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。(マタイ26:53)

昔の讃美歌には、こんな歌詞があります。

イエス様は、ご自身を解放するため、またこの世界を滅ぼすために、一万人の天使を呼ぶことができたでしょう。

実は、その作詞家は誤解していました。12軍団とは、約4万8千人から7万2千人ほどの規模を指します。

とにかく、イエス様はその敵だけでなく、世界のすべての人々を滅ぼすこともできました。 しかし、イエス様は彼らを憐れんでくださいました。イエス様は彼らを殺さず、むしろ彼らの命の代わりに、ご自身の命を捧げられました。

3.イエス様の恵み。 憐れみとは、相手が受けるべき罰を与えないことです。 恵みとは、相手が受ける資格のないものを与えることです。

この出来事では、イエス様は大祭司のしもべに恵みを示されました。 イエス様は彼の耳を癒してくださいました。(ルカ 22:51)

それはイエス様の最後の癒しの御業でした。 より正確に言うと、それはイエス様の最後の肉体的な癒しの御業でした。

十字架の御業を通して、イエス様は私たちに霊的な癒しをもたらしてくださいました。 イエス様の恵みによって、私たちの罪は赦され、私たちは永遠の命を得ることができます。

私たちがしなければならないことはただ一つだけです。それは、イエス様を信じることです。

力と権威。憐れみと恵み。私たちの主を描写するより優れた言葉があるでしょうか。

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パリサイ人と取税人のたとえ話:恵みの必要を心に留める

まず、少しアナウンスがあります。最近、新改訳2017を購入したので、これからその翻訳から引用を始めます。そのため、あなたの聖書と比較すると、少し違うところがあるかもしれません。

それはさておき、不思議なことですが、何千年経っても人間の本質はあまり変わりません。この箇所を読むと、それがよくわかります。

ルカはこう書きました。

自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエス様はこのようなたとえを話された。(ルカの福音書18:9)

その時代、特にパリサイ人たちはそのような態度を持っていました。彼らは一生懸命に、一番細かい律法にさえ従おうとしました。しかし、それは彼らのプライドへとつながりました。

イエス様のたとえ話の中で、あるパリサイ人が大きな声でこう祈りました。(もしくは、祈りというより独り言を言ったのでしょうか)。

神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。(11-12)

ようするに、「神様、あなたの国に私のような人がいて良かったですね。私はいい人ですよね?逆に、この収税人は。。。」ということです。

残念なことですが、今でもそんな態度を取るクリスチャンがいます。彼らは神様の恵みによって救われたと認めていますが、彼らの態度は違うことを示しています。

恵みによって生きる人には二つのことがはっきり見えます。彼らの罪深い心が見えますし、どれほど神様が必要かが見えます。

この収税人には、その二つのことがはっきり見えていました。

その時代、ユダヤ人たちは収税人を憎んでいました。なぜなら、収税人はユダヤ人でありながらイスラエルを征服したローマ帝国と協力していたからです。

それに加えて、収税人たちはイスラエル人を騙して、ローマ帝国が要求した額よりも多く税を取り立てていました。

けれども、この収税人は自分の胸を叩きながら、こう祈りました。

神様、罪人の私をあわれんでください。(13)

イエス様はその人について、こう言われました。

あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。

誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。(14)

あなたはどうですか。あなたは神様の恵みによって生きているでしょうか。自分の罪深い心が見えていますか。そして、どれほど神様が必要かが分かっていますか。

そのような人とは、どのような人でしょうか。

彼らはへりくだり、神様が何をしてくださったのかを感謝します。彼らの心にはプライドの余裕がありません。つまり、自分の義や、自分のたまものに関するプライドがないのです。

彼らは、自分が永遠の死にしか値しない者であることを理解しています。それでも、神様が彼らに恵みを注いでくださったため、毎日感謝で心が満ちています。

たとえ他人が彼らを正当に評価しないときでも、彼らは苦々しい思いを抱きません。また、自分の功績を誇ることもありません。むしろ、感謝に満ちた心を持っています。

もう一つの特徴は、彼らが受けた恵みを周りの人々に与えることです。彼らは偉そうな態度を取ることはありません。むしろ、自分自身が神様の恵みを必要としていたように、周りの人々もその同じ恵みを必要としていることを理解しています。

自分の罪深い心がわかるならば、他人を軽蔑することはできません。自分がどれほど赦されたかを理解していると、他人を裁くこともできません。

むしろ、心が恵みと憐れみに満ち、その恵みと憐れみで周りの人々に触れるようになります。

あなたはどうですか。神様の恵みがどれほど必要か、あなたには分かっていますか。

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マタイの福音書 マタイ8章 ルカの福音書 ルカ7章

恵みと信仰

この二つの箇所をまとめると、私たちはこの話全体を見渡すことができます。

ルカの福音書によると、百人隊長がイエス様の助けを求めた際、実際には百人隊長の代わりにユダヤの長老たちがイエス様に願い出てくれました。彼らはこう言いました

この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。(ルカ7:4-5)

長老たちは、百人隊長について「この人はイエス様の助けをいただく資格があります」と言いました。

けれども、百人隊長自身はこう言いました。

あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。(ルカ7:6-7)

時々、私たちは救いをいただくために、あるいは神様から何かをいただくために、自分には「資格」が必要だと思い込むことがあります。

しかし、恵みはそうした条件とは無縁のものです。恵みとは、「あなたに資格がないにもかかわらず、私はあなたに永遠の命や、その他の必要なものを与えます。あなたがしなくてはならないのは、ただ私に頼むことだけです。」ということです。

だからこそ、私たちは自分自身にこう問いかけるべきです。「私は神様に祈り、信頼する信仰を持っているだろうか。」

時に、私たちは信仰を失い、皮肉っぽくなることがあります。私自身もそう感じることがあります。なぜなら、祈りが必ずしも神様の期待通りに答えられるとは限らないからです。

そんな時、私たちは疑問を抱きます。「祈りには本当に意味があるのだろうか。神様は本当に私の祈りに答えてくださるだろうか。神様には私を助ける力があるのだろうか。神様は私を本当に愛してくださるだろうか。」

けれども、信仰はこう答えます。「神様の良さを信じ続けます。神様は私の最善をよくご存じです。それに、神様には私を助ける力があります。だから、私は祈り続けます。」

百人隊長はそのような信仰を持っていました。彼はこう考えました。

「私はローマ人であり、ユダヤ人は普通ローマ人を嫌っています。だから、私はイエス様の助けをいただく資格がないと思う。

とはいえ、きっとイエス様には私を助ける力があり、さらにイエス様が喜んで私を助けてくださると思う。だからこそ、頼んでみよう。」

その結果、彼のしもべは癒やされました。

イエス様が驚かれることは非常に珍しい出来事です。聖書の中でその記述は二回だけあります。一つは、イエス様の地元の人々がイエス様を信じなかった時(マルコ6:6)です。

そしてこの話では、イエス様はこのローマ人の信仰を見て驚かれました。イエス様は、彼についてこう言われました。

まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。

あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。

しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイ8:10-12)

この箇所から、もう一つの重要なポイントを学ぶことができると思います。

この百人隊長のように、恵みが必要であると認め、イエス様を信じる人は神の国に入ることができます。私たちは家系の資格によって神の国に入ることはできません。また、私たちの良い行いによって入ることもできません。

むしろ、私たちはこう認めなくてはならないのです。

「私には、あなたから何かをいただく資格はありません。でも、私はあなたを信じます。私はあなたの十字架の働きを信じます。そして、私はあなたが三日目によみがえられたことを信じます。だから、どうか私を救ってください。」

パウロはこう言いました。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8-9)

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マタイの福音書 マタイ5章 ルカ6章

山上の説教:でも、フェアじゃない

すべての人々は、おそらくフェアなことを望みます。だからこそ、物事がフェアではないと感じると、「フェアじゃない」と叫びたくなります。しかし、それが最善の反応なのでしょうか。

イエス様の言葉は、私たちの本能のすべてに反しています。

イエス様はこう言われました

「目には目で、歯には歯で」と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39)

38節は、神様の律法から来ています。(出エジプト記21:23ー25)

その出エジプト記の箇所では、神様はモーセと裁判官に、悪い行動をどのように罰するべきかを教えられました。

この律法は復讐について語っているものではなく、その要点は罪に応じた罰を与えるということです。つまり、罰が過度であってはならないということです。

例えば、誰かが相手の目に害を与えた場合、その相手がその人を殺してはならないということです。

それでも、実際にはモーセや裁判官はその律法を文字通りには適用しませんでした。それは神様の意図ではなかったからです。

その箇所の後を読んでみると、その律法の応用についての具体例が見られます。普通は、相手が償いをしなくてはなりませんでした。

この律法のポイントは公平さ、すなわち正義です。

とはいえ、この箇所でイエス様は、私たちが公平さを心配しすぎるべきではないとおっしゃっています。それよりも、あなたを傷つける人々に対して、あなたは光となるべきです。

イエス様の最初の例は非常に興味深いものです。

なたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ5:39)

私は左利きなので、相手の右の頬を打つのは簡単なことです。けれども、ほとんどの人々は右利きです。したがって、右利きの人が相手の右の頬を叩こうとする場合、手の甲で打たなくてはなりません。

つまり、イエス様はここで、単なる暴力ではなく、侮辱について話しておられるのです。ユダヤ人の文化において、相手を手の甲で打つ行為は、侮辱と見なされていました。

ですから、イエス様が言われた意味は、相手があなたを侮辱したとしても、それを許しなさい、ということです。侮辱を侮辱で返す必要はないのです。

それは公平でしょうか。それは公平ではありません。それでも、イエス様はこう語られます。「公平を気にするのではなく、恵みを与えなさい。」

そして、イエス様はこう言われました。

あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。(40)

イエス様の時代、イスラエル人は下着を複数持っていることが多かったですが、多くの場合、上着は一枚しか持っていませんでした。そして、寝るときには、その上着を毛布として使用していました。

そのため、律法では、もし貧しい者が上着を担保として差し出した場合、貸し手は毎晩、その上着を必ず返さなければなりませんでした。(申命記24:12-13)

しかし、イエス様はこう語られました。「もし相手があなたを訴えて下着を取るなら、公平であることを気にせず、上着も与えなさい。」

さらに、ローマの律法では、ローマ兵がユダヤ人に対し、1.5キロほどの荷物を運ばせるよう命じることができました。

当然、ユダヤ人はそのような命令に従いたいとは思いませんでした。けれども、イエス様はこうおっしゃいました。「1.5キロ運ぶだけでなく、3キロ運びなさい。」

そして、イエス様はこう言われました…。

求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。(42)

では、相手が私たちのやさしさに付け込むことを許してもよいのでしょうか。

そうとは限りません。けれども、私たちが公平さについて心配しすぎると、フラストレーションをよく感じるようになります。なぜなら、この世界は不公平だからです。そして、私たちはその不公平さをコントロールすることはできません。

私たちがコントロールできるのは、自分自身の態度だけです。

フラストレーションを感じて、叫ぶこともできますし、戦うこともできます。

それとも、私たちは別の道を選ぶこともできます。つまり、相手に恵みを与え、憐れみを示すことができるのです。

イエス様は、私たちに対してそうしてくださいました。

イエス様が十字架で死なれることは、決して公平ではありませんでした。イエス様は、何も罪を犯していませんでした。

それでも、イエス様は私たちに恵みと憐れみを与えてくださいました。その結果、私たちは神様からの赦しと永遠の命を受け取ることができるようになりました。

もしイエス様が私たちにその恵みと憐れみを与えてくださるのであれば、私たちも周りの人々にそれを与えるべきではないでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:義に飢え渇く者

義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。(5:6)

おそらく、この言葉は2つの方法で解釈できるでしょう。

1つ目の解釈は、イエス様が私たちに聖なる人生を追い求めることについて語られたというものです。つまり、私たちは神様への愛ゆえに、神様を喜ばせ、清い人生を歩みたいと願うのです。

それでも私たちは罪との戦いに苦しみます。ローマ人への手紙7章で、パウロはその戦いについて語りました。この箇所から、パウロが義に飢え渇いていたことがわかります。

彼は叫びます。 「私は正しいことをしたいのに、どうしてもできません。何度も罪に陥ってしまうのです。私はなんと惨めな人間なのでしょう。」

私も、そう感じることがあります。私は清い人生を歩みたいと願っていますが、何度も失敗してしまいます。だからこそ、失望するのは簡単なことです。「もう諦めよう。私はもうだめだ。どうしても罪を犯してしまう。」そう思ってしまうこともあります。

しかし、イエス様は私たちにこう言われます。 「諦めないでください。義に飢え渇き続けなさい。ある日、その飢え渇きは満たされるのです。あなたは義人となるでしょう。」

もちろん、天国では私たちは完全に義人となります。とはいえ、この世に生きている間も、神様は私たちの人生に働きかけておられます。

パウロはこう書きました。

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ2:13)

そして、私たちが完全に義人となる日まで、神様の恵みが私たちを支えます。パウロはこう書きました。

律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。

しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。(ローマ5:20-21)

だから、

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

けれども、もう一つの意味として、私たちの義への飢え渇きも満たされる日が来るでしょう。

私たちの周りを見渡すと、罪と不正義が蔓延していることに気づきます。堕落した裁判官を目にし、神様の律法に反する法案が可決されます。また、人々の道徳的な価値観は変わり、かつて悪とされたものが、今では良いものと見なされています。

そのため、私たちは「いつ正義はこの国に戻るのだろうか。もう希望はないのだろうか。」と問い始めます。

正直に言うと、おそらくこの状況が良くなることはないでしょう。パウロが「終わりの日」について語ったとき、彼は非常に暗い光景を描写しました。(第二テモテ3:1-5)

私たちは、その時代を生きています。誤解しないでください。「終わりの日」は2000年前に始まりました。(第一ヨハネ2:18)けれども、イエス様が再び来られる前に、この世界は次第に悪くなっていくでしょう。

私たちは政治家や司法制度、人間が作り上げた機関に頼ることはできません。

それでも、私たちは希望を持っています。なぜでしょうか。

それは、ある日、「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白する」からです。(ピリピ2:10-11)

だからこそ、私の周りの悪を見ても、私は絶望することを拒否します。正義の日は必ず来ます。私たちの義への飢え渇きは満たされるのです。その日まで、私は政府や人間が作った制度に頼るのではなく、神様を信頼します。

私たちが義を求める飢え渇きを決して失わないように。イエス様は必ずご自身の約束を守られるのだから。

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ヨハネの福音書 ヨハネ1章

暗い世にある光

数年前、私は非常に賢いアメリカ人の女の子についての記事を読みました。

彼女の高校の成績は完璧だった上に、SAT(一般のアメリカの大学入学試験)の点数も満点であり、さらにカリフォルニア大学の受験点数も満点でした。そして、ある記者が彼女にこう尋ねました。「人生の意味をご存じですか。」

彼女の答えはどうだったのでしょうか。

「私は全く知りません。私も知りたいと思っています。」

私たちはそのような世界に住んでいます。この世の人々は、神様から離れているため、暗闇に迷っています。

彼らは人生の意味を探しているものの、暗闇の中でずっと躓いているのです。そして、自分の罪に目がくらみ、その罪がどこへ導くのかを理解していません。

そのような世界にイエス様は2000年前、赤ちゃんとして来られました。ヨハネはイエス様についてこう言いました。

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(ヨハネの福音書1:1:4)

イエス様がこの世に来られた時、イエス様はこの暗い世のための光となられました。では、どのようにして光となられたのでしょうか。

1.イエス様は神様がどのような方であるかを教えられました。

昨日の記事でも述べたように、イエス様は私たちに神様を説明されました。神様は目に見えない方ですが、イエス様が現れたことで、神様は見える存在となったのです。

私たちはもはや神様を想像する必要はありません。私たちがイエス様を見る時、神様を見るのです。

2.イエス様は人生の意味を教えてくださいました。その意味とは何でしょうか。それは、神様との関係を持つことです。

3節で、ヨハネはイエス様がすべてのものを造られたと述べています。イエス様は私たちも造られました。

ところが、イエス様が来られた時、その被造物はイエス様を自分の創造主として認めませんでした。さらに、彼らはイエス様を拒絶しました。(10-11)

けれども、ヨハネはこう記しました。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(12-13)

つまり、私たちがイエス様を私たちの主と救い主として受け入れるなら、私たちは神様の家族に養子として迎えられます。

私たちは自然に神様の家族として生まれるわけではありません。たとえあなたの両親がクリスチャンであっても、あなたがクリスチャンであるとは限りません。

あなたは神によって新たに生まれる必要があります。言い換えれば、あなたは神様の召しに応えて「はい」と言わなければなりません。

つまり、「はい、イエス様。私の王になってください。私の主になってください。」と言うことです。

そうするなら、あなたは神様の家族に迎え入れられます。そして、あなたの人生の目的を見つけるでしょう。それは、天の父との関係を持つことです。

3.イエス様は命の道を教えてくださいました。イエス様がすべての生き物に命と息を与えられるように、イエス様はご自身を信じる人々に永遠の命を与えてくださいます。

ヨハネはこう言っています。

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(5)

「打ち勝たなかった」と翻訳されていますが、もう一つの意味として「分からなかった」という解釈もあります。

イエス様がこの世に来られた時、罪深い人々はイエス様を理解しませんでした。宗教的な人々ですら、イエス様を理解しなかったのです。だからこそ、彼らはイエス様を殺しました。

けれども、彼らがイエス様を殺したとしても、イエス様に打ち勝つことはできませんでした。むしろ、イエス様が死なれた時、イエス様は私たちの罰を引き受けてくださいました。そして、イエス様は死に打ち勝ち、三日目によみがえられました。

そのため、今ではイエス様は、ご自身のもとに来る人々に命を与えてくださいます。

だからこそ、ヨハネはこう言っています。

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(16-17)

律法を通して、モーセは私たちに神様の要求を示しました。けれども、その律法は私たちを救うことはできませんでした。律法は、私たちの罪を明らかにしただけでなく、私たちが死に値することも示したのです。

しかし、イエス様を通して、私たちは恵みと誠を見出します。 イエス様によって、私たちは二つの真理を見ることができます。 一つは、私たちの罪です。 けれども、十字架を通して、私たちは神様の愛を見ることもできるのです。

さらに、私たちがイエス様を受け入れる時、恵みの上にさらに恵みを受け取ります。その恵みは決して尽きることはなく、私たちの罪を覆います。そして、その恵みは私たちに命を与えてくださいます。

キリストの光があなたの心に輝きますように。

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箴言

女性とは。。。

箴言31:10-31では、私たちは女性とは何かを学びます。

この世の男性のイメージと同様に、この世の女性のイメージも歪んでいます。この世は、普段女性の見た目に焦点を当てます。

つまり、理想的な女性は細くてセクシーな美人です。けれども、レムエルの母は大切な教訓を教えてくれます。

麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。(箴言31:30)

全てよりも、「本当の女性」というのは主を恐れる人です。

自分の麗しさと美しさを発展させることは、主との関係を強くするほどには価値がありません。

男性たち。結婚したいなら、女性の麗しさや美しさにごまかされないでください。本当の女性を探してください。つまり、全てよりも主を愛している女性を探してください。

この箇所をまとめたいなら、30節を覚えておきましょう。

しかし、レムエルの母はその息子に、どんな女性を求めた方が良いか、教え続けます。

1.彼女はしっかりする人です。(11)

美人は結局老けます。けれども、妻が美しい性格を持てば、彼女はもっともっと美しくなります。

しっかりする女性とはどんな女性でしょうか。美しい性格を持つ女性はどういう人でしょうか。

30節を心に留めておきましょう。彼女はすべてよりも主を追い求めます。そのような女性は、日が経てば経つほど、イエス様のようになります。

2.彼女は誠実な人です。(11)

あなたは彼女を信頼できます。また、彼女はいつも正直です。

3.彼女は夫を祝福します。(12)

彼女は尊敬をもって夫を自分よりまさっていると考えます。

4.彼女は怠けずに、頑張って、その家族のニーズに備えます。(13-15、21-22、27)

5.彼女は賢くお金を使います。(16)

6.彼女は自分の家族を無視せずに、経済的に家族を支えます。(17-19、24)

男性に対しても、女性に対しても、そのバランスを取るのは難しいです。もし、夫の給料が足りるなら、もちろん、その妻は働かなくていいです。けれども、この時代では、それはちょっと難しいです。

とはいえ、夫たち、妻たち、経済的な安定を得るために、自分の結婚や子供を無視してはいけません。

7.彼女は気前がいいです。(20)

8.彼女のおかげで、夫は皆に尊敬されます。(23)

人前で、自分の夫について批難する妻もいますが、良い妻はそうしません。

9.彼女は力と気品を身につけます。(25a)

人々はその夫が尊敬できるだけでなく、彼女も尊敬できます。

10.彼女は主を恐れるので、未来に関して心配しません。(25b)

彼女は全く主を信頼します。

11.彼女は知恵を持って、その口から知恵が出ます。

夫にも、子供にも、周りの人にも、彼女は神様からの知恵を教えます。

12.その夫と子供は彼女を尊敬します。(28-29)

それは、理想的な女性です。神様の定義によって、それは理想的な妻です。

この箇所、また箴言を終わらせる前に、二つのポイントをお教えしましょう。

一つ目は、女性たちだけではなく、男性たちもそのような人になるべきだということです。もちろん、レムエルの母は女性について話していますが、その言葉を男性にも当てはめることができます。

二つ目は、神様の恵みを覚えておいてください。

女性たちが(また男性たちも)この理想を見る時、がっかりするのは簡単なことです。なぜなら、私たちが自分自身を周りの人々と比べると、自分の欠点と弱さと失敗が見えるからです。

私たちが決してその理想に達成できないので、自分自身を厳しく非難します。

しかし、神様が御子を遣わされたのは、私たちが不完全だからです。神様が私たちを愛してくださるのは、私たちが理想的な男性や理想的な女性だからではありません。

私たちは何度も失敗します。それでも、神様は変わることなく私たちを愛してくださるのです。

イエス様は私たちの罪と失敗のために死んでくださったので、私たちは今、こう言えます。

今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ12:1)

ですから、女性たち。自分に問いかけてみましょう。

「私はどのような女性でしょうか。そして、イエス様が私を愛し、救ってくださったのだから、私は将来どのような女性になれるのでしょうか。」

男性たち。あなたは、どのような男性でしょうか。

イエス様があなたを愛し、救ってくださったのだから、あなたは将来どのような男性になれるのでしょうか。

そして、イエス様があなたにそのような恵みを与えてくださったように、あなたも周りの女性たちにその恵みを分かち合うことができるでしょうか。

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箴言

神様の恵みのパイプラインになる

もう箴言11章について書いたけど、もうちょっと24-30節を見たいと思います。

この箇所は人に恵みを与える喜びについてです。あなたが人々に恵みを与えるとき、もちろん彼らが祝福されるけど、あなたも祝福されます。ソロモンはこう書きました。

ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。(箴言11:24)

私たちは神様の恵みのパイプラインになるように呼ばれました。神様が私たちに恵みを与えてくださるとき、私たちはその恵みを周りの人々に与えるべきです。

そして私たちが周りの人々に恵みを与えるとき、神様がさらに私たちに恵みを与えるので、私たちはさらに周りの人々に恵みを与えることができます。

パウロはこの原則をこのように説明します。

神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。。。

あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。(第二コリント9:8、11)

けれども、もし私たちが自分のお金にしがみつくと、その恵みのパイプラインは詰まってしまいます。

だから、私たちの周りの人々が祝福されないし、神様は私たちの人生に恵みを注がれなくなります。なぜなら、あなたのパイプラインが詰まっているので、神様の恵みはもう入れないからです。

その反面、ソロモンはこう言います。

おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。(25)

私たちは周りの人々に恵みを与えて、恵みのパイプラインになると、私たちも潤されます。

英語では、「Random acts of Kindness](ランダムな親切な行動)という表現があります。

例えば、ホームレスの人に出会ったら、あなたはその人にお金をあげる。また、あなたは花屋を見たら、急にあなたの友だちについて考えて、その友達に花を買ってあげます。

もちろんそれは良いことです。しかし、私は「意識して親切にする人」について聞きました。その人は周りの人々をよく見て、意識して「どうやってその人を祝福できるだろうか」と思います。

彼がすぐに分かってきたのは、人々を祝福するとき、彼も祝福されることです。キリストの愛が彼を通して流れて、人々に触れることを見るとき、彼は大喜びです。

どれくらい、私たちがけちなので、その喜びを経験する機会を失うでしょうか。私たちが神様のパイプラインになったら、どれくらい私たちは喜ぶでしょうか。

ソロモンはこう言いました。

穀物を売り惜しむ者は民にのろわれる。しかしそれを売る者の頭には祝福がある。(26)

どれくらい、私たちが恵みのパイプラインを詰めるので、私たちのクリスチャンの証は汚れるでしょうか。なぜなら、周りの人々は私たちを通してキリストの愛を見ずに、自己中心の人だけを見るからです。

あなたはどうですか。周りの人々があなたに出会うとき、彼らはキリストに出会うでしょうか。

30節で、ソロモンはこう言いました。

正しい者の結ぶ実はいのちの木である。知恵のある者は人の心をとらえる。(30)

人々は私たちに出会うとき、命に出会うはずです。もし神様の愛が私たちを通して流れるなら、彼らは命に出会います。その愛は彼らを私たちに近づけるだけではなく、神様に近づけます。

ソロモンは、「知恵のある者は人の心をとらえる」と言いました。けれども、神様の愛と恵みがあなたを通して流れないなら、神様のために人の心をとらえられないです。

私は何か認めなくてはなりません。私は何回もその恵みのパイプラインを詰めたことがあります。私も変わらなくてはなりません。あなたはどうですか。あなたは神様の恵みと愛のパイプラインでしょうか。

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詩篇

神様の慈しみと恵みを覚えている

1節の言葉は詩篇136篇の要約です。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。 (詩篇136:1)

この詩篇はイスラエルに対する神様の慈しみと恵みについてです。しかし、この詩篇を通して、私たちは神様がどんな方であるか分かります。

詩人は詩篇135篇のテーマを続け、神様を神の神と、主の主と呼びます。(2-3)

そして、詩人は神様を創造主として認めます。つまり、神様がご自身の知恵と力によって、天と地とすべてのものを造られたことを認めます。(4-9)

そして、詩人は神様を贖い主として礼拝します。なぜなら、神様はイスラエル人たちをエジプトから救い出し、エジプトの軍隊を打倒し、紅海を二つに分け、イスラエル人たちをその中を通らせたからです。(10-15)

そして、詩人は神様を羊飼いと比べます。イスラエル人たちが砂漠を渡った時に、神様は彼らを導き、彼らのニーズに備えてくださいました。(16-22)

そのあとで、詩人は神様を勇士として礼拝します。なぜなら、神様はイスラエル人たちを約束の地に導いたとき、その敵を倒して、その地を遺産として与えてくださったからです。(17-22)

23-25節では、詩人は神様を恵みと憐みの神として宣言します。

イスラエル人たちが卑しめられたとき、神様は彼らを敵の手から救い出してくださいました。また、神様はイスラエル人たちのニーズだけではなく、すべての人間と動物のニーズに備えてくださいます。

最後に、詩人は神様を天の主として認めます。神様はすべてを治める方です。(26)

以前、私は皮肉の危険について話しました。皮肉に対する武器の一つは感謝の態度です。つまり、私たちは神様がどんな方であるか、また神様が私たちのために何をしてくださったかを覚えるべきです。

時々、私たちはこの世における神様の行いが分からないこともありますが、神様がすべてのことをコントロールしていることを覚えていなくてはなりません。

また、神様がどのように私たちをサタンの国から救い出したかを思い出すべきです。

今でも、神様はこの世で巡礼している私たちを、神様が私たちのために整えた国に導いてくださいます。

また、私たちが霊的な力と戦うときに、神様が私たちの勇士であることを覚えていなくてはなりません。

そして、私たちが転ぶとき、神様が憐れみと恵みを私たちに与えてくださって、私たちを拾い上げてくださることを覚えているべきです。

毎日そのことを思い出しましょう。そのことに焦点を当てましょう。そして希望を持って、詩人のように歌いましょう。

「その恵みはとこしえまで。」

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詩篇

神様の恵みを喜ぶ

ダビデは詩篇124篇を書いたのですが、いつ彼が書いたのかは分かりません。多分大きな勝利の後に書いたのでしょう。

その時、ダビデは神様の恵みを喜びました。彼は叫びました。

「もしも主が私たちの味方でなかったなら、私たちは敵に滅ぼされただろう。しかし、神様がその罠を壊してくださったので、私たちは免れました。」(詩篇124:1ー7)

そして、彼は歌います。

私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。(8)

幸いなことに、私は敵にそのように攻撃されたことはありません。けれども、神様が私をサタンの罠から救い出してくださったことに感謝します。私が自分自身を救えなかった時、キリストは私の罪のために死んでくださいました。

なぜ、イエス様は私のために死んでくださったのでしょうか。それは、私を愛しているからです。イエス様は私の味方だからです。

なぜ、イエス様が私を愛して、私を助けたがったのか分かりませんが、そのことに感謝します。

さらに、神様はあなたの味方です。

だからこそ、この詩篇を読むとき、この私たちに豊かに注がれた恵みを忘れないでください。

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詩篇

神様の愛とあわれみ

詩篇103篇では、ダビデは神様の愛と憐れみについて歌います。

いつダビデがこの詩篇を書いたかは分かりませんが、多分バテ・シェバとの罪の後かもしれません。

もしかしたら、ダビデはイスラエル人の人数を数えた罪の後に、この詩篇を書いたかもしれません。

とにかく、彼の罪が赦された後に、彼は歌います。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。(詩篇103:1)

私はこの箇所を読むと、イエス様の言葉が思い浮かびます。つまり、多くの罪が赦された人は神様をより多く愛します。(ルカ7:47)

ダビデは、多く赦されたので、彼の神様に対する愛はより大きかったのです。

彼は酷い罪を犯しても赦され、彼の健康が回復され、死から救われました。それに、彼が何回失敗しても、神様は彼に恵みとあわれみとの冠をかぶせてくださいました。(2-4)

そして、ダビデは神様がモーセに何を言われたかを思い出しました。神様はご自身についてこう言われました。

主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。(8)

ダビデはその言葉に加えました。

主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。

私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。

天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。

東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。(9-12)

その言葉が大好きです。

「絶えず争ってはおられない。」

あなたのお父さんやお母さんが、何度もあなたを責めたことがあるかもしれません。彼らがあなたを決してほめず、いつも批判していたかもしれません。だから、あなたは神様もそのような方だと思ってしまうかもしれません。

しかし、神様は絶えず争う方ではありません。

そして、私たちが悔い改めると、神様はご自身の怒りを心の中に持ち続けることはありません。

時々、人々は「あなたを許してあげる」と言いますが、私たちがもう一度失敗したら、彼らは私たちの以前の失敗も思い出させます。

神様はそうなさいません。神様は私たちを赦す時、私たちの罪をもう思い出されません。

それに、神様は私たちの弱さを知っておられるので、私たちをあわれんでくださいます。

神様は人間になられたので、私たちの弱さをよく知っておられます。私たちのようにイエス様は誘惑されましたが、決して罪を犯されませんでした。しかし、その経験によって、私たちの誘惑が分かるようになりました。

だから、私たちは悔い改め、神様を敬うと、神様の恵みは永遠から永遠まで私たちの上にあります。(13-17)

だから、ダビデは天の者と全地の者が神様をほめたたえるように招きます。ダビデも賛美してこう歌いました。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。(22)

主よ、あなたの愛とあわれみを感謝します。私が弱くて、罪を犯しても、あなたが私をまだ愛してくださることを感謝します。あなたは私を争わずに、恵み深い目で見てくださいます。

どうか、その恵みとあわれみを周りの人々にシェアするように助けてください。アーメン。

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詩篇

すべての人々が神様を知るように祝福された

この詩篇は、申命記6:24-26の祭司の祝福に似ています。

どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。(詩篇67:1)

私が興味深いと思うのは、その詩人の動機です。

それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。(2)

多くのクリスチャンは自己中心的な理由のために「主よ。私を祝福してください」と祈ります。

しかし、詩人はこのように祈ります。

「主よ、私たちをあわれんでください。祝福してください。なぜなら、周りの人々があなたの恵みと慈しみを見るなら、あなたとの関係を求めるから。そして、私たちだけではなく、彼らもあなたの救いを知ります。」

詩人はその日を楽しみにして、歌います。

神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。

国民が喜び、また、喜び歌いますように。それはあなたが公正をもって国々の民をさばかれ、地の国民を導かれるからです。セラ

神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。(3-5)

詩人は、すべての国民が自分の心を神様に向けることを見るし、もう一つのことを見ます。それは、神様を恐れる人に対する神様の祝福です。

地はその産物を出しました。神、私たちの神が、私たちを祝福してくださいますように。

神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。(6-7)

神様、あなたの恵みを与えてください。主よ、私を引き寄せ、あなたの御顔を私の上に照り輝かせてくださるように。そして、私の周りの人々が私を見る時、彼らはあなたを見て、あなたに近づくように。

あなたの光が私を通して輝くように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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詩篇

恵みによって、神様の御前に聖いもの

もう一度、ダビデがいつこの詩篇を書いたか知りたいです。

サウルから逃げた時に詩篇26篇を書いたのでしょうか。もしくは、アブサロムから逃げた時にこの詩篇を書いたのでしょうか。それとも、他の時にこの詩篇を書いたのでしょうか。

ダビデの言葉を見ると、多くの人々は彼がサウルから逃げた時にこの詩篇を書いたと思うでしょう。なぜなら、彼はこう書いたからです。

私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを。

主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

あなたの恵みが私の目の前にあり、私はあなたの真理のうちを歩み続けました。(詩篇26:1-3)

ウリヤとバテ・シェバの事件の後、ダビデはその言葉を書くことができたでしょうか。その事件の前、つまり、サウルから逃げた時、その言葉はもっと言いやすかっただろうと思います。

てはいえ、ダビデはバテ・シェバとの罪の後で、この詩篇を書いたかもしれません。

けれども、その罪の後で、どうしてダビデはそんな言葉が言えたのでしょうか。彼は本当に酷い罪を犯しました。

なぜなら、彼は神様の赦しの深さをよく理解していたからです。つまり、神様の赦しとあわれみによって、ダビデは雪よりも白くなりました。神様は彼の罪を本当に除いて清めてくださいました。(詩篇51)

だから、彼が「私は誠実に歩む」と言う時、その意味は彼が決して罪を犯していないという事ではありません。むしろ、神様が彼の罪を除いて清めてくださったことによって、ダビデはその言葉を言うことができました。(エレミヤ書31:34)

神様のあわれみによって、ダビデは正しい道に戻りました。また、彼は神様が計画された通りにもう一度生きはじめました。だから、ダビデは神様をほめたたえました。

主よ。私は手を洗ってきよくし、あなたの祭壇の回りを歩きましょう。

感謝の声を聞こえさせ、あなたの奇しいみわざを余すことなく、語り告げましょう。(6-7)

また確信を持って、彼は言いました。

私の足は平らな所に立っています。(12)

時々、私たちは振り返って自分の失敗を思い出します。私たちの罪を思い出します。そして、サタンは私たちを責めます。「ほら、あなたは絶対だめです。あなたの人生は本当にめちゃくちゃになった。」

けれども、その時、私たちは恥ずかしがらずにサタンにこう言えるのです。

「それはそうです。しかし、神様が私の罪を赦してくださり、神様はもうその罪を思い出されません。神様が私を責められないので、あなたには私を責める権利がありません。

だから黙って、出ていきなさい。私は神様の子です。私はもう赦されました。また、神様の目には私は聖い者です。」

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マラキ書

神様の愛を疑う

マラキ書は旧約聖書におけるイスラエルの歴史の締めくくりとなる書です。

以前述べたように、マラキ書が正確にいつ書かれたのかは明確ではありません。けれども、主の宮が建て直された後に書かれたものと考えられます。したがって、おそらくマラキ書はエズラとネヘミヤの時代に記されたものでしょう。

エズラ記とネヘミヤ記を通して、私たちはイスラエルの民が直面していた多くの問題を読みました。特に、ネヘミヤ記13章では彼らの抱えていたさまざまな問題が詳しく描かれています。

マラキも、これらの問題についてイスラエルの民を責めました。

その冒頭で、神様は非常に印象的な言葉を語られます。

わたしはあなたがたを愛している。(マラキ書1:2)

私たちの多くは愛を求めています。残念なことに、多くの人々はその愛を決して見つけることができません。

しかし、もし神様を求めるならば、それはただの愛ではなく、永遠に続く絶えることのない愛を見つけることができるでしょう。

わたしはあなたがたを愛している。

あなたがどんな苦しみを抱えていても、どんな罪を犯していても、どんな失敗をしていても、神様の愛は決して変わることはありません。

神様は過去においてもあなたを愛していました。

現在も、神様はあなたを愛しています。

そして、これからも永遠に、神様はあなたを愛し続けられるのです。

けれども、イスラエルの民はそのことを理解していませんでした。そのため、彼らは皮肉っぽく答えたのです。

どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。(2)

どうして、彼らはその質問をしたのでしょうか。それは、神様が彼らをご自身の国に導いたにもかかわらず、彼らの人生はまだ上手くいっていなかったからです。

ペルシャ帝国が依然としてイスラエルを支配しており、イスラエルの地はあまり繁栄していませんでした。彼らの作物の収穫は乏しく、日々の生活は余裕のない厳しいものでした。

私たちもどれほど神様の愛を疑うでしょうか。

「もしあなたが私を愛しておられるなら、なぜ私はこんなにも苦しまなければならないのでしょう。もしあなたが私を愛しておられるなら、なぜ私の人生はこんなにみじめなのでしょう。」

しかし、神様はご自身の愛を証明するために、イスラエルの民、そして私たちにこう言われます。

エサウはヤコブの兄ではなかったか。――主の御告げ――わたしはヤコブを愛した。わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の継いだ地を荒野のジャッカルのものとした。(2-3)

「エサウを憎み」というのはどういう意味でしょうか。神様が本当にエサウを憎んだのでしょうか。そうではありません。実際、神様はエサウを祝福されました。(創世記33:9)

とはいえ、神様がイエス様をこの世に送る計画を考えると、神様がエサウの家系ではなく、ヤコブの家系を選び、エサウの家系を断絶したことがわかります。

では、なぜでしょうか。ヤコブがエサウよりも良い人だったからでしょうか。

違います。実は、ヤコブは若い頃、詐欺師のような生き方をしていました。彼は神様の道を歩まず、自分勝手な道を選びました。(創世記25:27)

そして、その結果として悪い決断を重ね、自分の家を追われることになりました。

その時、神様はご自身をヤコブに現されました。それにもかかわらず、ヤコブは神様に自分の人生を捧げることをせず、神様と交渉しようとしたのです。(創世記28:20-22)

ヤコブは長い間、そのような生き方を続けました。それでも神様はヤコブを選び、愛し、彼の人生に働きかけ続けられました。

同じように、神様はイスラエルの民を愛されました。たとえ彼らが神様に不実であり、自分勝手な道を歩んでも、神様は彼らを愛し続けられました。

当然ながら、神様は彼らを懲らしめられました。そのため、彼らはバビロンに追放されました。けれども、彼らが破滅に値していたにもかかわらず、神様は彼らを憐れまれました。

一方、エサウの子孫も罪を犯し、破滅に値していました。しかし、エサウの子孫の場合、神様は彼らに彼らが値するものを与えました。すなわち、荒れ果てた地を与えられました。

神様が言われたのは次のようなことです。

「あなたに対する私の愛の証明を見たいのか。私はエサウの子孫には彼らが値したものを与えた。その一方、あなたには値するものを与えなかった。むしろ、あなたが値しない恵みを与えたのだ。」

私たちが神様の愛を疑う時、神様は同じことを言われます。私たちは神様の愛に値せず、また赦しにも値しません。しかし、神様は私たちが値しないにもかかわらず、イエス様を送り、私たちの罪のために死んでくださいました。

だから今、神様は私たちにこう語られます。「私はあなたを選んだ。私はあなたを救った。私は決してあなたを見捨てない。」

これが恵みです。これこそが神様の愛です。

パウロはこう言いました。

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ[た]。(エペソ1:4-8)

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ネヘミヤ記

私たちの不実さ、神様の恵み

この箇所では、ユダヤ人たちは神様の前に来て、自分の罪を告白しました。その祈りには、彼らの不実さと神様の恵みが表れています。

その祈りの初めに、彼らは神様が世を造られたことを思い出し、また、神様が新しい国を始めるためにアブラハムを選ばれたことを思い出しました。

そして、彼らは先祖がエジプトで奴隷だったけれど、神様が彼らを救い出してくださり、砂漠で導かれたことを思い出しました。

砂漠で、神様はいろいろな奇跡を行われましたが、その先祖たちはエジプトに戻りたがっていました。それに、本当の神様を礼拝せずに、彼らは偶像を作り、その偶像を神と呼びました。

それでも、神様は彼らに恵みを与えてくださいました。つまり、神様は彼らに水とパンを与えてくださり、彼らを導き続けられました。

そして、神様は先祖を素晴らしい土地カナンに導かれました。けれども、彼らは再び神様に背を向け、神様の預言者たちを殺し、偶像を礼拝しました。

だから、神様は彼らを敵に渡されました。しかし、彼らが苦しんで悔い改めると、神様は恵みによって彼らを救い出されました。ところが、彼らはすぐに自分の罪に戻り、結局バビロンに追放されました。

だから、ユダヤ人はこう祈りました。

「ご覧ください。私たちは今、奴隷です。あなたが私たちの先祖に与えて、その実りと、その良い物を食べるようにされたこの地で、ご覧ください、私たちは奴隷です。

私たちが罪を犯したので、あなたは私たちの上に王たちを立てられましたが、その王たちのために、この地は多くの収穫を与えています。

彼らは私たちのからだと、私たちの家畜を思いどおりに支配しております。それで私たちは非常な苦しみの中におります。」(ネヘミヤ記9:36-37)

彼らは悔い改めた心を持って、もう一度、神様の民として神様と契約を結びたいと願いました。彼らはこう言いました。

これらすべてのことのゆえに、私たちは堅い盟約を結び、それを書きしるした。そして、私たちのつかさたち、レビ人たち、祭司たちはそれに印を押した。(38)

私はこの話を読んだ時、神様の恵みは本当に不思議なものだと思いました。もし私が神様だったら、きっと彼らを諦めていたと思います。けれども、神様は決してそうされませんでした。

それに、神様はご自身が呼ばれた私たちを決して諦められません。

そのことを考えると、私は本当に嬉しくなります。なぜなら、イスラエル人のように、私は不実だからです。私の罪によって私は倒れることがありますし、私の心を堅くして、いろいろな悪いことをしてしまいます。

しかし、私は不実であるにもかかわらず、神様はいつも忠実な方です。また、神様は決して私を諦められません。そのことを心から感謝します。

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ゼカリヤ書

清められた

この箇所では、ゼカリヤはユダヤ人の悔い改めについてさらに詳しく話します。つまり、最後の日、神様の恵みによって、そして、イスラエル人が約2000年前に十字架に付けられたイエス様の血によって、彼らの罪は清められます。

その日、すべての偶像と偽の預言者たちはイスラエルから取り除かれます。こうして、イスラエルは神様のために本当に聖い国となります。

しかし、その前に、良い牧者は打ち殺されなければならず、その羊は散らされなければなりませんでした。

だから、イエス様は敵に捕らえられた時、彼の弟子たちは逃げ去りました。イエス様はあざけられ、鞭で打たれ、兵士たちの手で殴られ、そして十字架で殺されました。

ユダヤ人は自分の救い主を拒絶したため、神様は彼らを罰し、その国は滅ぼされました。

それでも、神様はご自分の恵みを彼らの上に注がれます。多くのユダヤ人が命を落としても、救い主イエス様に従うユダヤ人は残ります。神様は彼らについてこう言われます。

わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。

彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「これはわたしの民」と言い、彼らは「主は私の神」と言う。(ゼカリヤ書13:9)

神様は私たちが試練を経験しないと約束されたわけではありません。実は、イエス様はこう言われました。

あなたがたは、世にあっては患難があります。(ヨハネ16:33)

しかし、その試練を通して、神様は私たちを練り、清めてくださいます。そして、私たちが神様を呼ぶ時、神様は応えてくださいます。

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ゼカリヤ書

私たちの目が開かれるように

この箇所で、私たちはイスラエルの将来を少し見ることができます。

あるクリスチャンは、神様がイスラエルをもう捨てられたのだと思っています。つまり、神様の全ての約束はイスラエルのためではなく、教会のためだというのです。

けれども、その考え方は間違っていると思います。パウロはイスラエルについてこう書きました。

彼らは。。。選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。(ローマ11:28-29)

そして、ゼカリヤの預言によれば、ある日、神様はイスラエル人の目を開けてくださいます。

最後の日、周りの国々はイスラエルを滅ぼそうとし、エルサレムを攻撃します。しかし、神様はこう言われました。

わたしはエルサレムを、その回りのすべての国々の民をよろめかす杯とする。。。

その日、わたしはエルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする。すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける。。。(ゼカリヤ書12:2-3)

イスラエル人が、神様が自分たちを守っていることを目の当たりにするとき、彼らはこう言うでしょう。

エルサレムの住民の力は彼らの神、万軍の主にある、と。(5)

そして、彼らが神様の救いを見るとき、もう一つのことが分かるようになります。つまり、彼らが待ち望んでいた救い主は、すでに来ていたということです。けれども、約2000年前に、彼らは自分たちの手でその救い主を殺してしまいました。

わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。

彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。(10)

その日、すべてのイスラエル人はイエス様をメシアとして、つまり救い主として認めます。そして、すべてのイスラエル人は救われます。(ローマ11:26)

この箇所を読むと、神様の恵みの不思議さに心を打たれます。イスラエル人が神様を求めなくても、(もしくは間違った場所で神様を求めても)、彼らは神様を見つけます。

なぜでしょうか。彼らは神様の愛に値しているわけではなく、他の国民よりも優れているわけでもありません。むしろ、神様の愛と憐れみによって、彼らは神様を見つけ、救われます。

同じように、私たちの霊的な目が開かれ、私たちが悔い改めるために、神様は恵みと哀願の霊を私たちの上に注いでくださいます。そして、私たちが救い主イエス様を見るとき、ユダヤ人と同じように私たちも救われます。

おどろくばかりの神の恵み。
なんて麗しい響きでしょう。

神のすばらしい恵みによって、
こんな惨めな私が救われたのです。

かつて、私は迷って混乱していましたが、
神様は私を見つけてくださいました。

かつて、私は何も見えませんでしたが、
今、私には見えるのです。

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ゼカリヤ書

全ての祝福は神様から来る

この箇所では、ゼカリヤはイスラエルの救いについて話し続けます。しかし、この箇所を読むと、この言葉は私の心を打ちます。

主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる。(ゼカリヤ書10:1)

わたしは雄やぎを罰しよう。万軍の主はご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場のすばらしい馬のようにされる。(3)

わたしはユダの家を強め、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを連れ戻す。(6)

わたしは彼らに合図して、彼らを集める。わたしが彼らを贖ったからだ。(8)

彼らの力は主にあり、彼らは主の名によって歩き回る。――主の御告げ―― (12)

つまり、私たちの祝福のすべては神様から来ます。

神様から雨や作物が来ます。(1)

神様は悪いリーダー(つまり、雄やぎ)を罰し、ご自分の民を世話してくださいます。(3)

神様は私たちを強め、救い、癒してくださいます。私たちが呼ぶ時、神様は応えてくださいます。(6)

神様は私たちを呼び、集め、贖ってくださいます。(8)

神様の力と名前によって、私たちはこの世に恐れずに歩き回ることができます。(12)

どうして、神様は私たちをそのように祝福してくださるのでしょうか。私たちが良い人だからでしょうか。違います。神様の恵みによって、祝福してくださいます。

私たちのすべては、神様から来ます。私たちのすべては神様の恵みによって与えられたのです。

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エレミヤ書 列王記第二

恵み

今日、エレミヤ書と列王記を終えます。

この話はエホヤキン王についてです。彼はユダの最後から二番目の王でした。彼はわずか3か月間だけユダを治めました。その後、彼はネブカデネザルによってバビロンに追放されました。

けれども、それでエホヤキンの話が終わったわけではありません。

ユダの王エホヤキンが捕らえ移されて三十七年目の第十二の月の二十五日に、バビロンの王エビル・メロダクは、彼が即位した年のうちに、ユダの王エホヤキンを釈放し、獄屋から出し、彼に優しいことばをかけ、彼の位をバビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くした。

彼は囚人の服を着替え、その一生の間、いつも王の前で食事をした。

彼の生活費は、死ぬ日までその一生の間、日々の分をいつもバビロンの王から支給されていた。(エレミヤ書52:31-34)

どうして、神様は私たちにこの話を伝えられたのでしょうか。どうして、突然バビロンの王はエホヤキンに親切にしたのでしょうか。

聖書では、その理由が全く書かれていません。

しかし、ユダヤ教の伝承によれば、エホヤキンはバビロンで悔い改めたので、神様はネブカデネザルの息子(エビル・メロダク)の心に働きかけ、彼がエホヤキンに親切にし始めました。

その伝承が本当かどうかは分かりません。けれども、おそらくこの話は神様の恵みの象徴です。この話を読むと、私は神様が私たちのために何をしてくださったかを思い出します。

エホヤキンはバビロンの王のために何もしていなかったのに、その王は彼を解放し、親切な言葉をかけ、新しい衣を与え、共に食事をし、彼の位を高めました。

神様は私たちのために同じことをしてくださいました。

私たちが神様のために何もしていなかったのに、神様の恵みとあわれみによって、神様は私たちを救ってくださいました。

神様は私たちの罪を赦し、罪と死の鎖を解き、私たちに親切な言葉をかけ、キリストの義を着せてくださいました。

そして、いつの日か私たちは神様の食卓で共に食事をし、栄光の冠をいただくでしょう。

それが恵みです。

興味深いのは、第12の月の25日にエホヤキンの許しが公表されたということです。(おそらくわずか2日後に彼は牢から解放されました。(列王記第二25:27))

私は真剣に言っているわけではありませんが、神様は将来の出来事を知っておられ、人々がイエス様の誕生を12月25日に祝うことを知っておられました。

そのため、エホヤキンの赦しは、私たちの赦しの象徴であるとも言えるかもしれません。

メリークリスマス、エホヤキン!

…多分そうではありません。それを無視してください。

とにかく、大切なのは、私たちが受けたすべての祝福は、ただ神様の恵みによるものだということです。

それを心に留めておきましょう。

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エレミヤ書

新しい契約

これは私のお気に入りの箇所の一つです。

エゼキエルのように、エレミヤはイスラエル人がよく引用していたことわざについて話します。

父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。(エレミヤ書31:29)

つまり、「私たちは悪いことを全然しなかった。私たちは先祖の罪のために苦しんでいる。それは不公平だ。」

しかし、神様は彼らに言われました。「あなたの先祖の罪のために苦しまない。自分自身の罪のために苦しむのです。」

けれども、この箇所は、裁きよりも、神様の憐みに焦点を当てています。神様は彼らにこう言われました。

見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。

かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。――主の御告げ――(27-28)

そして、神様は将来設立される新しい契約について話されます。

見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。

その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。

わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ――

彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ――

わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

そのようにして、人々はもはや、 『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ――

わたしは彼ら の咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミヤ書31:31-34)

この契約はキリストによって成就しました。以前の契約と新しい契約の違いは何でしょうか。

主な違いは、以前の契約は双方向の契約だったということです。新しい契約は一方的な契約です。

以前の契約では、イスラエル人が神様の命令に従うと、神様は彼らを祝福すると約束されました。

しかし、彼らがその命令に従わないと、彼らは呪われました。結局、彼らが何回もその契約を破ったので、彼らは呪われたのです。

けれども、新しい契約は全然違います。その契約は私たちの行動によるものではありません。むしろ、その契約は神様の行動に基づいています。

だから、私たちが自分の心を変えることができなくても、神様は私たちの心を変えてくださると約束されました。

つまり、神様は私たちの心にご自身の律法を置き、神様に従う心を与えてくださると約束されたのです。

もう一つの違いがあります。それは、皆が神様のみもとに近づくことができるようになったことです。

私たちはもう人間の祭司や仲介者を必要としません。むしろ、私たちは神様と直接話すことができます。また、私たちの罪の代価が支払われ、私たちの罪が赦されたので、神様はその罪をもう思い出されません。

それが新しい契約です。また、それは、私たちが宣べ伝える良い知らせです。

私たちは神様の好意を得るために働く必要がありません。むしろ、恵みによって、私たちはその好意を受け取ります。

神様が私たちを既に受け入れてくださったので、私たちは神様の前でリラックスすることができます。

とはいえ、その恵みを当然のものと思わないでください。毎日、その素晴らしい賜物に感謝しましょう。

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エゼキエル書

優しい方

時々、私たちが旧約聖書を読むと、神様を非常に厳しい方だと思うことがあります。また、私たちが失敗すると、神様はすぐに怒り、私たちを罰するのではないかと感じるかもしれません。

しかし、この箇所では、神様はいつか来られる優しい方について語っておられます。神様はこう言われました。

神である主はこう仰せられる。「わたしは、高い杉のこずえを取り、そのうちから、柔らかい若枝の先を摘み取り、わたしはみずからそれを、高くてりっぱな山に植える。

わたしがそれをイスラエルの高い山に植えると、それは枝を伸ばし、実を結び、みごとな杉の木となり、その下にはあらゆる種類の鳥が住みつき、その枝の陰に宿る。

このとき、野のすべての木は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知るようになる。

主であるわたしが語り、わたしが行なう。」(エゼキエル書17:22-24)

この預言には二つの成就があると考えられます。

一つ目の成就は、エホヤキンの孫であるゼルバベルの人生に見られます。

ゼルバベル(柔らかい若枝とも呼ばれる)と大祭司ヨシュアは、追放されていたイスラエル人たちをバビロンからエルサレムへ導きました。

(この時、イスラエル人全員が帰還したわけではありませんが、ゼルバベルとヨシュアは最初のグループを導きました。)

その後、ゼルバベルはユダの総督に任命されました。

神様の恵みによって枯れ木のようであったイスラエルは徐々に復活しました。一方、緑の木であったバビロンはメド・ペルシャ帝国によって低くされました。

とはいえ、二つ目の成就はイエス・キリストの人生に見られます。この箇所はイザヤ書53章の記述に似ています。

彼(つまり、イエス様)は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。(イザヤ53:2)

イエス様は高貴な家庭で育ったのではありません。彼は小さな町ベツレヘムで生まれ、普通の町ナザレで成長されました。

実際、多くの人々はナザレの人々を見下していました。また、イエス様の父親は貧しい大工であるヨセフでした。

その後、イエス様は十字架で死なれました。その時代において、十字架による死は最も恥ずかしく、残酷な死に方とされていました。

しかし、その後、イエス様はよみがえられました。そして、

それゆえ神は、この方(つまり、イエス様)を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:9-11)

この箇所には、「柔らかい枝」という表現が書かれています。

ヘブル語で「柔らかい」という言葉は、「優しい」とも翻訳できます。(例えば、申命記28:54)

そのため、この「柔らかい枝」は優しい方を指しています。そして、イエス様の恵みの翼の下に宿ることができるのです。

私たちの人生が枯れてしまった時、イエス様は命の水を与えてくださり、私たちをもう一度栄えるようにしてくださいます。

ですから、神様があなたに怒り、あなたを諦めたと思う時には、イエス様を心に留めておきましょう。

神様は私たちが神様の愛と恵みを知ることができるように、この優しい方であるイエス様をこの世に送りました。そして、イエス様の十字架の働きによって、私たちの壊れた人生は癒されるのです。

その真理を心に留めておきましょう。

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イザヤ書

差別のない救い

旧約聖書の時代、主の宮での礼拝は非常に排他的でした。そのことは、モーセ五書(創世記から申命記まで)に詳しく記されています。

例えば、祭司だけが宮の聖所に入ることができ、大祭司だけが至聖所に入ることを許されていました。しかも、大祭司が至聖所に入るのは、年に一度だけでした。

さらに、他にも厳しいルールがありました。たとえば、もし祭司たちが睾丸を損傷していたり、身体に欠陥があれば、聖所や至聖所に入ることはできませんでした(レビ記21:16-24)。

また、旧約聖書と新約聖書の時代には、宮の中で女性や外国人が立ち入ることのできない区画も存在しました。

しかし、この箇所では、神様が「ある日、そのような差別は終わる」と約束されています。神様はこう宣言されました。

主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。

宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。

まことに主はこう仰せられる。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。

また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。

彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。(イザヤ書56:3-7)

つまり、どんな人であっても、神様を求めるならば、神様はその人を受け入れてくださいます。

神様の目には、誰も二流市民などではありません。ユダヤ人でも、アメリカ人でも、日本人でも、神様はあなたを愛する子として迎え入れてくださいます。

パウロはこう書きました。

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。

ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ3:26-28)

神様の国で、あなたが二流市民だと感じることがあるでしょうか。

心に留めておきましょう。たとえあなたが誰であっても、過去に何をしていたとしても、神様の目には二流市民など存在しません。

人種や性別、またはこれまでの履歴に関係なく、神様はあなたに恵みを注いでくださいます。ですから、その真理の中で安心しましょう。