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列王記第二のデボーション

神様の忠実な愛を忘れる

列王記と歴代誌の興味深い違いは、列王記の著者がしばしばユダの王の悪い行為について語らないことです。

例えば、列王記第一15章では、著者はアサ王の深刻な罪について触れていません。

そして、今日の箇所でも、著者はヨアシュ王の深刻な罪について語っていません。

しかし、アサの記述と同様に、著者はヨアシュの人生に否定的な側面があったことをほのめかしています。

著者はこう記しています。

ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間、いつも主の目にかなうことを行った。(列王記第二12:2)

上の言葉を読んだとき、この問いが浮かぶかもしれません。「エホヤダが死んだ後、ヨアシュは何をしたのだろうか。」

残念ながら、エホヤダが死んだ後、ヨアシュは主に背を向け、偶像礼拝を始めました。そして、エホヤダの息子ゼカリヤがヨアシュを責め、悔い改めを促したとき、

ヨアシュ王は、ゼカリヤの父エホヤダが自分に尽くしてくれた誠意(別約:忠実な愛)を心に留めず、かえってその子を殺した。(歴代誌第二24:22)

でも、ヨアシュはエホヤダの忠実な愛だけでなく、神様の忠実な愛までも忘れてしまいました。

特に、ヨアシュの祖母は彼を殺そうとしましたが、神様はヨアシュを守ってくださいました。

だからこの話を読んだ後、私はこのように祈りました。

天のお父さん、ヨアシュのようにならず、私があなたの忠実な愛を決して忘れることのないようにしてください。あなたの愛を忘れるなら、私はたやすくあなたに背を向けてしまうからです。

天のお父さん、私はあなたから決して離れたくないのです。

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列王記第二のデボーション

全き心?

ただしエフーは、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪、すなわち、ベテルとダンにあった金の子牛に仕えることから離れようとはしなかった。。。

しかしエフーは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけることをせず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。(列王記第二10:29,31)

今日、私は上の言葉を反芻しました。

神様は、アハブに属する者を殺すことによってアハブに対する神の裁きを実行するためにエフを褒められました。

なぜなら、アハブとその家族は罪を犯しただけでなく、イスラエルの民を罪に導いたからです。特に、彼らがイスラエルの民をバアル礼拝に導いたことが問題でした。

エフはバアル礼拝を止めたので、神様はそれを喜ばれました。

しかし、上の言葉によれば、神様はエフの心をすべて持っておられなかったようです。

エフはバアルを礼拝しなかったものの、ヤロブアムが偽りのヤハウェ礼拝のために立てた金の子牛を礼拝し続けました。(列王記第二12:26-33)

その罪、またおそらく他の罪に関しても、エフは主の律法に従おうと心がけることをしませんでした。(出エジプト記20:4-5;申命記12:5-14)

それを読んで、私は自分にこの二つの質問を投げかけました。

1.私がしがみついている罪があるのだろうか。私が離れようとしない罪があるのだろうか。小さくても、私の人生にそのような罪があるのだろうか。

2.私は心を尽くして神様の言葉に従おうと心がけているのだろうか。私は神の戒めの最も小さいものにも従っているのだろうか。(マタイ5:19)

私は、神が私の心の一部ではなく、すべてを持っておられることを望みます。あなたはどうでしょうか。

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列王記第二のデボーション

神様の忍耐、神様の裁き

アハブがナボテを殺したとき、神様はアハブとその家族を裁かれました。

しかし、アハブが神様の御前にへりくだったとき、神様はその裁きを先延ばしにされました。(列王記第一21:21〜29)

それでも、アハブはやがて再び神様に反抗し、殺されました。(列王記第一22章)

けれども、私が驚いたのは、アハブの息子ヨラムに対する神様の恵みです。12年間にわたって、神様は何度もヨラムを助けてくださいました。(列王記第二3章、5〜7章)

さらに、神様がご自身の驚くべきタイミングをヨラムに示されたことで、ヨラムはシュネムの女の人を助けてくれました。(8:1〜6)

おそらく、神様はヨラムほど他の不敬虔なイスラエルの王に、そのような恵みを与えられなかったでしょう。

それでも、私たちはヨラムが最終的に悔い改めて神様に従ったという示唆をまったく見ていません。むしろ、彼は自分の罪に執着し、それから離れることがありませんでした。(列王記第二3:3)

その結果、神の裁きが彼に下されたのです。

では、私は何を言いたいのでしょうか。

旧約聖書を読むとき、神様の裁きが厳しすぎると感じるのは容易です。

けれども、私たちが忘れてはならないのは、最も反抗的な人々に対してさえ、神様が忍耐強く、恵み深くおられたということなのです。

神様は正義の方であり、永遠に裁きを先延ばしにすることはできません。それでも、神様は人を裁くことを喜ばれる方ではありません。むしろ、神様は人を憐れむことを喜ばれるのです。

だからこそ、神様は預言者エゼキエルにこう語られたのです。

わたしは生きている──神である主のことば──。

わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。

悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。(エゼキエル33:11)

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列王記第二のデボーション

信仰の目

見よ、これは主からのわざわいだ。これ以上、私は何を主に期待しなければならないのか。(列王記第二6:33)

抜き打ちテストをしましょう!6章に登場するイスラエルの王の名前は何でしょうか。

もしその名前がすぐに思い浮かばないとしても、正当な理由があります。

3章ではその王の名前が一度だけ登場しますが、その後、著者は彼を常に「イスラエルの王」と呼び続けます。

エリシャの名前やヨシャファテ王の名前、さらにはナアマンの名前でさえ、イスラエルの王の名前よりも頻繁に登場します。(ちなみに、その王の名前はヨラムです。)

8章から9章でヨラムが死ぬまで、私たちは彼の名前を再び目にすることはありません。

深読みかもしれませんが、もしかすると列王記の著者はヨラムを軽視していたのかもしれません。なぜなら、ヨラムには神様への信仰がほとんど見られなかったからです。

5章では、信仰のない民の中で(例:6章28〜29節)、敬虔な両親が敬虔な娘を育てました。それでも、その娘は捕らえられ、敵国で奴隷として仕えることになりました。

しかし、その困難な状況の中でも、彼女は主に仕え続けました。

私たちは彼女の両親の反応を詳しく知ることはできませんが、娘の信仰を考慮すれば、彼らも苦しみの中で神様への信仰を保っていたと推測できます。

エリシャもまた敵に囲まれていましたが、信仰の目でその状況を見ていました。

この不敬虔な王は、神様に何度も助けられていたにもかかわらず(3章、5〜6章)、困難が訪れると、すぐに神様を責め始めます。

では、私たちはどうでしょうか。

困難が訪れるとき、私たちはどのように反応するでしょうか。

ヨラムのように、神様が本当に良い方なのかをすぐに疑ってしまうでしょうか。

それとも、エリシャやあの少女のように、信仰の目をもって神様に仕え続けるでしょうか。

天のお父さん、困難が訪れるとき、信仰の目を私に与えてください。あなたを信頼し、従い続けることができるように、恵みを注いでください。

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列王記第二のデボーション

信仰のある子供を育てる

ナアマンの物語を読んだとき、私は捕らえられた若い娘のことに思いを巡らせました。彼女はナアマンのツァラアトを見て、エリシャの助けを求めるように勧めたのです。

そのことを考えていた時、神様は二つのことを私の心に示してくださいました。

一つ目は、その女の子がイスラエルで育った時、神様に背を向ける人々の中で生活していたということです。

それでも、その子どもはイスラエルの王よりも深い信仰を神様に対して持っていました。

そして、神様は私の心にこの問いを置かれました。

「信仰のない国で、どうしてその子どもは信仰を持っていたのでしょうか。」

その答えは明らかだと思います。彼女の両親が、神様信頼することを教えていたのでしょう。

だから今日、私はこのように祈りました。

天のお父さん、どうか私の言葉と模範を通して、娘が信仰のある人となることを学びますように。

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列王記第二のデボーション

 神の呪い、神の恵み、再び

エリシャがエリコの水を「癒す」という話を読んだとき、神様は、私が今まで気づかなかったことを示してくださいました。

エリコは呪われた町でした。

イスラエル人たちが約束の地に入ったとき、彼らが最初に征服した町はエリコでした。その時、ヨシュアはエリコを再建しようとする者に対して呪いを宣言しました。(ヨシュア記6:26)

そして、ある愚かな者がエリコを再建したとき、神様の呪いが彼に下されました。(列王記第一16:34)

エリシャの時代においても、ある意味でエリコは依然として呪われた町でした。その町は良い場所に位置していたものの、水が悪く、地は産物を生み出しませんでした。

しかし、エリコの人々がエリシャに助けを求めたとき、エリシャは塩を水の泉に投げ入れ、こう言いました。

主はこう言われる。『わたしはこの水を癒やした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』(2列王記2:21)

エリコは長い間呪われていました。ところが、神の恵みによって、エリコは瞬く間に癒されたのです。

あなたは、自分が神様に呪われていると感じることがあるかもしれません。自分の罪のゆえに、神様から裁かれていると思うことがあるかもしれません。

けれども、神様に向かい、へりくだって悔い改めるなら、神様はあなたの人生を癒してくださるのです。

神様が町に何百年も続いた呪いを取り去ることがおできになるなら、神様はあなたの人生にも同じことをしてくださるのです。

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列王記第二のデボーション

神の呪い、神の恵み

1章と2章では、エリヤとエリシャを通して、神様の呪いが人々に下される場面を見ることができます。

多くの人々はそれを読んで、エリヤとエリシャの行為が酷いと感じるかもしれません。

しかし、私たちは一つのことを覚えておくべきです。それは、聖書において神の呪いとは、敵に対する魔法の言葉ではなく、反抗的な人々に対する神の裁きであるということです。

エリヤの場合、イスラエルの王や、最初の二人の隊長は、神様とその預言者に対して反抗的で傲慢でした。

エリシャの場合も、神様とその預言者に対して同じような態度が見られます。

けれども、多くの人々にとって受け入れがたいのは、神様が「小さい子どもたち」を裁かれたと記されている点です。

ところが、ヘブル語における「子ども」という言葉の定義は幅広く、「小さな子ども」を意味する場合もあれば、「青年」を指す場合もあるのです。

列王記第一3:7では、ソロモンが自分を「小さな子ども」と呼んでいます。おそらく、ソロモンは自分を卑下して、「私は無知で、青臭い者です」と言っていたのでしょう。

このように、列王記の著者は、あの青年たちの無知を批判していたのです。

しかし、ソロモンとその青年たちの違いは、ソロモンが神様の御前にへりくだったことです。そのゆえに、ソロモンは神様の恵みを受けました。

その一方で、あの青年たちは神様とエリシャに対して傲慢で敵対的な態度を取りました。だからこそ、彼らは裁かれたのです。

ですから、ヤコブの言葉を心に留めましょう。

「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」

ですから、神に従い。。。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。

罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。

主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。(ヤコブ4:6-10)

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列王記第一のデボーション

友好関係を保つ?

聖書を読むとき、文脈に注目することは大切です。

特に44節を読むときには、文脈に注目することが非常に重要です。

ヨシャファテはイスラエルの王と友好関係を保っていた。(列王記第一22:44)

一見したところ、それは良いことのように思えます。

ところが、43節では、著者はヨシャファテが主の目にかなうことを行ったとして誉めたあと、高き所を取り除かなかったことを理由に批判しています。

おそらく、ユダヤ人たちはその高き所で神様を礼拝していたのでしょう。しかし、神様はエルサレムだけで礼拝し、特に、いけにえをささげるように命じられました(申命記12:8ー11、13)。

その批判のあと、著者は「ヨシャファテはイスラエルの王と友好関係を保っていた」と記しています。

著者はヨシャファテを誉めることなく、むしろ批判を続けているのです。

では、なぜ著者はヨシャファテを批判しているのでしょうか。

平和は本来、良いことであるはずです。

通常はそうです。けれども、友好関係の保ち方に問題がありました。つまり、ヨシャファテの息子はアハブの娘アタルヤと結婚したのです(歴代誌第二18:1)。

そして、アハブのようにアタルヤは神様に従いませんでした。さらに、列王記第二11章で、彼女はダビデのすべての子孫を殺そうとしました。

今日の話では、アハブの影響によって、ヨシャファテは主の言葉を無視して、アハブと一緒にアラムと戦いました。

ヨシャファテは神の預言者へのアハブの態度を批判したのに、その預言者のことばを無視しました。(列王記第一22:8)

その結果は、ヨシャファテが危うく殺されるところでした。そして、ヨシャファテはユダに帰るとき、他の預言者は彼を厳しく責めました。(歴代誌第二19:2)

それでも、ヨシャファテはそのような失敗をもう二回繰り返してしまいました。(歴代誌第二20:35ー37;列王記第二3章)

ソロモンはこのように記しました。

知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。
愚かな者の友となる者は害を受ける。(箴言13:20)

「愚かな者」とは、単に「バカな人」を意味しません。

旧約聖書では、「愚かな者」とは、「神様に反抗する人」を意味します。

もちろん、私たちはそのような人々とできる限り平和を保つべきです。

しかし、私たちは彼らに影響されてはなりません。

そうでなければ、ヨシャファテのように、私たちは害を受けてしまいます。

あなたは誰とともに歩んでいますか。

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列王記第一のデボーション

不機嫌になり、怒る?

アハブは不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿に入った。(列王記第一21:4)

イエス様によれば、私たちは神の御国に入るために、子どものようになるべきです。

しかし、イエス様が言われた「子どものように」とは、アハブのような態度を取ることではありませんでした。

アハブは王でした。神様はアハブにイスラエルを委ねられました。けれども、アハブは駄々っ子のように振る舞いました。

「アハブは不機嫌になり、激しく怒った」と聖書には二度書かれています。

最初の場面では、神様がアハブを叱責されたため、アハブは不機嫌になりました(列王記第一20:43)。

今日の箇所では、ナボテが自分のぶどう畑を売ることを拒んだため、アハブは不機嫌になりました(列王記第一21:4)。

この話を読んで、私はこう思いました。

「私はアハブのように振る舞うことがあるだろうか。幼い子どものように、不機嫌になって怒ることがあるだろうか。」

神様は私の人生の中で一つのことを指摘されたので、私は悔い改める必要がありました。

あなたはどうでしょうか。

不機嫌になって怒ることがあるでしょうか。

それは上司に対してでしょうか。夫や妻に対してでしょうか。彼や彼女に対してでしょうか。友人に対してでしょうか。

もしかすると、神様に対してのことなのでしょうか。

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列王記第一のデボーション

神様の柔和さ

主は、あわれみ深く、情け深い。 怒るのに遅く、恵み豊かである。

主は、いつまでも争ってはおられない。とこしえに、怒ってはおられない。。。

父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。

主は、私たちの成り立ちを知り、私たちが土のちりにすぎないことを心に留めてくださる。(詩篇103:8ー9,13ー14)

列王記19章を読んだとき、神様は上の言葉を私に思い出させてくださいました。

エリヤは本格的な「かわいそうパーティー」を開いていました。

神様は「死にたいのか?それなら死になさい」と言われることもできたはずです。

しかし、神様は逆に愛をもって、エリヤに御使いを遣わし、焼きたてのパンと水を与えてくださいました。

そして、山の上での神様とエリヤの会話について、少し考えてみましょう。

神様が「外に出て、山の上で主の前に立て」と命じられたとき、エリヤはどう感じたでしょうか。

彼はおそるおそる外に出て、神様の反応を恐れたでしょうか。痛烈な叱責を予想していたでしょうか。

もしそう感じていたのなら、エリヤが見たものは安心させるものではありませんでした。

彼は激しい大風も、地震も、火も見ました。

ところが、注意深く見たとき、神様がその大風や地震や火の中にはおられないことに気づきました。

むしろ、神様がもう一度語りかけられたとき、かすかな細い声で優しく語りかけられました。

とはいえ、神様はエリヤがその「かわいそうパーティー」に居続けることを許されませんでした。

むしろ、神様はエリヤに、その「かわいそうパーティー」から離れて、ご自身の奉仕に戻るように命じられました。

多くのクリスチャンは神様の怒りを恐れます。彼らは失敗したとき、神様がいつも怒っておられ、彼らを叱責されると思っています。

しかし、私たちの天のお父さんはそのようなお方ではありません。

神様は私たちを常に叱りつけておられるわけではありません。

むしろ、神様はかすかな細い声で、私たちが再び立ち上がり、神様についていくように励ましてくださいます。

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列王記第一のデボーション

すべてを治める神への祈り

ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。

「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」列王記第一17:1)

天のお父様、アハブ王はあなたをイスラエルの神として認めませんでした。しかし、彼の無知はその現実を変えることはできませんでした。

けれども、シドンのやもめが学んだように、あなたはイスラエルの神であるだけでなく、すべての国々の神です。

あなたは、実にすべての被造物の神です。あなたの命令によって雨は止み、あなたの命令によって再び雨が降り始めました。

あなたの命令によって、烏はエリヤにパンと肉を運びました。

天のお父様、アハブのように、多くの人々はあなたを神として認めていません。

だからこそ、私たちあなたの民は、エリヤのように、あなたとあなたの御心に従って祈ります。

この国の人々、そしてすべての国民が、あなたこそ神であることを知るように、どうか私たちの祈りを聞き、答えてください。

彼らの心をあなたに向けてください。

特に、あなたが私たちの人生に置いてくださった人々、また、私たちに愛する責任を与えてくださった人々の心を、あなたに向けてください。

イスラエルの民のように、彼らも「主こそ神です。主こそ神です」と告白するように導いてください。(列王記第一18:39)

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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列王記第一のデボーション

懲らしめに応える心

列王記にあるアサの話を読むと、彼がかなり良い王に見えます。

でも、彼の人生には霊的な問題があったことを示唆する箇所も見られます。つまり、ベン・ハダデとの条約を結ぶために、アサは主の宮から銀と金を取り出して、ベン・ハダデに渡したのです。

歴代誌第二16章では、著者がアサの霊的な問題を明確に記録しています。

預言者ハナニを通して、神様がアサをその行為のために責められたとき、アサはハナニを牢に入れました。

その後、アサが足の病にかかったとき、主を求めることを拒み、医者だけを求めました。

アサの話を読んだとき、私は「アサは救われただろうか。アサは今、天国にいるだろうか」と疑問に思いました。

私の意見ですが、たぶんアサは天国にいると思います。

なぜなら、列王記の著者は、アサが「主の目にかなうことを行なった」、また、「アサの心は生涯、主とともにあり、全きものであった」と記しているからです。(列王記第一15:11,14)

歴代誌を読むと、列王記にある言葉は少し不思議に感じられますが、ダビデに関する神様の言葉を思い起こしてみましょう。

ダビデはわたしの命令を守り、心を尽くしてわたしに従い、ただ、わたしの目にかなうことだけを行った。(列王記第一14:8)

列王記の著者はダビデについて大体同じことを言いますが、「ヘテ人ウリヤのことのほか」という言葉を付け加えます。(列王記第一15:5;第二サムエル記11章)

私がアサとダビデのことを考えると、神様は私の心に二つのことを印象づけられました。

一つ目は、私たちは恵みによって生きるということです。

神様は私たちを見ると、私たちを義人として認めてくださいます。

それは、私たちが完全な人間だからではありません。むしろ、イエス様の十字架の御業によって、私たちを義と認めてくださるのです。私たちはイエスの義を着せられています。

だから、私たちの罪と失敗にもかかわらず、裁きの日に、神様は私たちについてこう言われます。

「あなたはわたしの命令を守り、心を尽くしてわたしに従い、ただ、わたしの目にかなうことだけを行った。」

それは本当に不思議なことですね。

でも、二つ目は、この地上において、私たちの行為が神様との関係の質に影響を与えるということです。

神様との関係の一つの面は、神様の懲らしめに対する私たちの反応です。

ダビデは神様の懲らしめによく応えたので、彼の人生の最後まで、神様と良い関係を保ちました。

その反面、アサは神様の懲らしめに良い方法で反応しなかったため、人生の最後には、神様との関係があまり良くありませんでした。

あなたの行為は、神様との関係の質にどのような影響を与えているでしょうか。

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列王記第一のデボーション

主が名を置かれる宮

ユダではソロモンの子レハブアムが王になっていた。

レハブアムは四十一歳で王となり、主がご自分の名を置くためにイスラエルの全部族の中から選ばれた都、エルサレムで十七年間、王であった。

彼の母の名はナアマといい、アンモン人であった。列王記第一14:21)

ソロモンが神の神殿を建てたとき、神様はご自分の名をその神殿にとこしえまでも置くと約束されました。(列王記第一9:3)

でも、そのあと、ソロモンは神様がご自分の名を置いた都市にもう一つの名前、つまり、もう一人の人を連れてきました。その人はソロモンの妻であるナアマでした。

彼女とソロモンの他の妻たちの影響によって、ソロモンの心はほかの神々に向かってしまいました。(列王記第一11:1ー4)

どうやら、ナアマはレハブアムを同じ道に導いたようです。列王記の著者はわざわざレハブアムの母の名前とその素性を二度記録しています。

神様は私たちにご自分の名を置かれました。私たちは今、神の宮です。でも、私たちはほかのどのような名、つまり、どのような影響をその宮に持ち込んでいるでしょうか。

どんな本を読んでいますか。

インターネットやテレビで何を見ていますか。

どんなポッドキャストや歌を聴いていますか。

ある種のものは明らかに悪いものです。もちろん、そのようなものは避けるべきです。

あるものは別に悪いものではありませんが、クリスチャンの成長のために特に役に立たないものです。そのようなものは、適度であればまったく問題ありません。

でも、あるものの影響によって、私たちは神様に近づき、信仰が強められます。

あなたはそのようなものを神の宮に持ち込んでいるでしょうか。

神の宮に持ち込むものは、あなたの態度や世界観、そして信仰にどのような影響を与えているでしょうか。

最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。(ピリピ4:8)

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神の人?

今日、「神の人」という表現を反芻しました。

聖書では普通、その表現は預言者に当てはめられますが、ダビデもテモテも「神の人」と呼ばれました。(ネヘミヤ12:36;第一テモテ6:11)

興味深いことに、サムソンのご両親に遣わされた御使いも「神の人」と呼ばれました。多くの聖書学者たちは、その御使いが実際にイエス様であったと信じています。(士師記13:6)

でも、今日この箇所を読んだとき、神様は私に二つのことを指摘してくださいました。

一つ目は、年老いた預言者が「神の人」と呼ばれなかったことです。その人の行為を見ると、私たちはその理由がよく理解できると思います。

二つ目は、聖書に「神の人」と呼ばれた人の中で、この預言者だけが「主のことばに背いた神の人」と呼ばれたことです。

しかし通常、「神の人」と呼ばれる人は、神のことばに従うことで特徴づけられます。

「神の人」は自分のものではありません。

「神の人」は神様に属し、従います。

「神の人」は神様を自分の主と認め、神様に従います。

「神の人」は神様を信頼し、神の一つ一つのことばで生きます。小さいことでも、「神の人」は神のことばに従います。

今日の話では、その「神の人」はそうしませんでした。

「神の人」は神様から委ねられた人々を愛し、その人々に忠実に仕えます。

ヤロブアムは「神の人」ではありませんでした。神様に信頼することを拒み、自分の道を行きました。(列王記11:38;12:26ー30)

レハブアムは「神の人」ではありませんでした。彼はイスラエル人たちに仕えず、むしろ、自分の力を振るおうとしました。(列王記12:13ー14)

私たちクリスチャンは、男性でも女性でも、「神の人」として生きるべきです。

私たち皆が、神様を主と認め、神様に従い、神様から委ねられた人々を愛し、その人々に仕えるべきです。

でも、聖書では、「神の人」という表現はいつも男性たちに当てはめられます。モーセ、サムエル、ダビデ、エリヤ、エリシャ、テモテは「神の人」と呼ばれました。

だから、私は女性たちに「神の女性」になるように勧めるけど、さらに男性たちに「神の男性」になるように勧めます。

男性たち、神様を主と認め、神様に従いましょう。

毎日神様に従いましょう。

そして、神様から委ねられた人々、特に自分の妻と子供たちを愛し、忠実に仕えましょう。

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不従順への言い訳

必ず、あなたの神、主が選ばれる者をあなたの上に王として立てなければならない。。。

ただし王は、決して自分のために馬を増やしてはならない。

馬を増やすために民をエジプトに戻らせてはならない。

主は「二度とこの道を戻ってはならない」とあなたがたに言われた。

また王は、自分のために多くの妻を持って、心がそれることがあってはならない。

自分のために銀や金を過剰に持ってはならない。(申命記17:15ー17)

モーセを通して、神様はイスラエル人たちに王に関してそのルールを与えられました。

ソロモンはそのルールをことごとく破ってしまいました。(列王記第一9:28;10:14ー21、26ー29;11:1ー3)

どうして、ソロモンはそのルールを破ったのでしょうか。

私には分かりません。

でも、もしかしたら、ソロモンはそのルールがそれほど大切ではないと思っていたのかもしれません。

神様への私たちの不従順に対して、私たちはいろいろな言い訳を考えることができます。

「私はまだ主を愛しているよ。私はまだ主を礼拝しているよ。さらに、回りの人々はそのように生活しているの。」

たぶん、ソロモンもそのように考えていたのでしょう。彼はまだ主を礼拝していました。

でも、問題は「彼の心が神、主と一つにはなっていなかった」ということです(列王記第一11:4)。

そして、最終的に、ソロモンは主の目にまったく悪であることを行ってしまいました(列王記第一11:6)。

自分を騙して、自分の不従順に対していろんな言い訳を考えるのは簡単なことです。

でもそうすれば、最善の事態であっても、私たちの心はもはや100%神のものではなくなってしまいます。

最悪の事態では、私たちは主の目に全く悪であることを行ってしまいます。

イエス様、あなたは、「私を愛する人は、私の戒めを保ちます。」と言いました。

私があなたを愛することはあなたがご存じです。だから、私の不従順に対する言い訳を捨てるように助けてください。私の心がすべてにおいてあなたのものになるように。

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まことに不思議な真理

それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。

実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできませ。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。(列王記第一8:27)

今朝、私はそのことばに思いを巡らしました。

天でさえ、神様をお入れすることはできません。それでも、恵みによって、神様はソロモンが建てた神殿に入って、ご自身の栄光でその神殿を満たすことを選んでくださいました。(10ー11節)

数百年後、神様はこの世に来られ、私たちの間に住まわれました。

イエス様ご自身が地上の神の宮となり、神の満ち満ちたもの、神の栄光のすべてがイエス様のうちに宿られました。(ヨハネ1:14、2:19;コロサイ1:19)

しかし今は、私たちが神の宮です。

天でさえ神様をお入れすることはできませんが、神様はイエス様を信じる一人ひとりの心のうちに住まわれることを選んでくださいます。(ヨハネ14:23、エペソ3:17、第一コリント6:19ー20)

私たちが神の宮となったので、夜も昼も神様はご自身の目を私たちに注ぎ、毎日毎日、一瞬一瞬、私たちを見守り、私たちの叫びと祈りを聞いてくださいます。

さらに、神様は私たちを見て、「わたしの名をそこに置く」と言われます。(列王記8:28ー29)

天のお父様、あなたは、果たして地の上に住まわれるでしょうか。

実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。

それなのに、どうしてあなたは私のうちに住まわれることを選ばれるのでしょうか。

どうして、私を見守り、私の祈りを聞いてくださるのでしょうか。

どうして、私を「わたしのもの」と呼んでくださるのでしょうか。

あなたの愛は、まことに不思議です。

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私たちを強くし、堅く立たせる方

この柱を本殿の玄関広間の前に立てた。

彼は右側に立てた柱にヤキンという名をつけ、左側に立てた柱にボアズという名をつけた。(列王記第一7:21)

正直に言うと、私にとって、7章はかなり退屈に感じられました。

でも、この箇所を読んだとき、神様は「ヤキン」と「ボアズ」についての脚注に私の注意を向けられました。

「ヤキン」とは、「彼は設立する」または「彼は堅く立たせる」を意味します。

「ボアズ」とは、「力をもって」、または「彼にあって力がある」を意味します。

もしかしたら、ソロモンは第二サムエル記7:7ー16にある、ダビデへの神のことばを思い出したかもしれません。

ダビデはいろいろな試練に直面していましたが、神様はダビデを強くしてくださり、ダビデの子孫の王座を堅く立たせると約束されました。

最終的に、そのことばは、ダビデの子孫であるイエス様において成就します。

とにかく、神様は私に思い出させてくださいました。「私はあなたをも堅く立たせます。私はあなたをも強くします。だから、私と共に歩みなさい。」

それが神殿の意味です。神様が私たちと共におられるということです。

だからこそ、神様と歩調を合わせましょう。

そうすれば、私たちがどんな試練に直面しても、神様は私たちを堅く立たせ、毎日強くしてくださいます。

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。(第一ぺテロ5:10)

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列王記第一のデボーション

地の神殿、天の御座

天のお父さん、ソロモンが建てた神殿は、言葉で表現できないほど美しい場所でした。

大祭司が初めて至聖所に入った時、どのように感じたか、私はただ想像するしかありません。

それでも、その神殿は、天にあるあなたの御座の影にすぎません。

さらに、地上にあるあなたの御座へのアクセスは、ただ一つの国の一つの部族の出身である大祭司の一人に限られていました。

しかし、イエス様、あなたは十字架で子羊のように屠られました。

そして、十字架でご自身の血によって、あなたは神のために、すべての部族、言語、民族、国民の中から人々をあがない、彼らを王国とし、祭司とされました。

そして、神の祭司として、私たちは御座に座しておられるあなたの父への直接のアクセスを持っています。

しかし、私たちはただの祭司ではありません。

私たちは、天の父に愛されている子どもたちです。そして、ある日、私たちはあなたと共にこの世を治めることになります。(黙示録4:9ー10)

だから、天のお父さん、あなたの御座に近寄ります。

私たちは、大祭司でさえ持っていなかった大胆さをもって、あなたの御座に近寄ります。なぜなら、イエス様が私たちの罪のために代価を支払ってくださったからです。

あなたが私たちを赦してくださったという確信があるからです。あなたが私たちを愛し、受け入れてくださっているという確信があるからです。(ヘブル4:16;10:19ー22)

天のお父さん、毎日毎日、一瞬一瞬、私たちと共に歩んでください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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列王記第一のデボーション

聞き従う心

しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません。善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。(列王記第一3:7,9)

新改訳では、「聞き分ける心をしもべに与えてください」と書かれていますが、英訳では「聞き従う心」と訳されています。

ヘブル語で「聞き分ける」と訳された語は、通常「聞く」と訳される語です。

また、この語には時に「従う」というニュアンスも含まれます。

ですから、英訳では「聞き従う」と訳されているのです。(もちろん、この文脈では「聞き分ける」と訳しても問題ありません。)

ソロモンの言葉を読むと、私はイエス様の言葉を思い起こします。

わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。

そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。(ヨハネ5:30)

この世におられたとき、人間としてのイエス様の知識には限りがありました。その意味では、ソロモンのように、イエス様も幼子のようでした。

だからこそ、イエス様は完全に天の父の知恵に頼られました。イエス様は毎日、天の父に耳を傾け、その御心に従われたのです。

イエス様がそのように生きられたのなら、なおさら私たちも、そのように生きるべきです。

天のお父さん、あなたを喜ばせたいと願っています。私はあなたの御心を求めています。

けれども、私は小さな子のようで、善悪を見分ける力がありません。

ですから、正しい判断と良い決断をするために、あなたの知恵が必要です。

どうか、聞き従う心を私に与えてください。

一日中、あなたの御声に耳を傾ける心を与えてください。そして、あなたの声に喜んで従う心を与えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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列王記第一のデボーション

真の男らしさ

あなたは強く、男らしくありなさい。

あなたの神、主への務めを守り、モーセの律法の書に書かれているとおりに、主の掟と命令と定めとさとしを守って主の道に歩みなさい。(列王記第一2:2-3)

ダビデの言葉は、男の人にも女の人にも当てはめられますが、この話では、ある男性(ダビデ)がもう一人の男性(ソロモン)に「男らしくありなさい」と命じたことを考慮して、特に男性たちに語りかけたいと思います。

現代の社会では、「男らしさ」というイメージは次第にぼんやりしたものになってきましたが、以前は「男らしさ」と聞くと、人々は「強い」、また「勇敢」というイメージを持っていました。

ダビデの時代でも、人々はそのように考えていたことでしょう。

しかし、真の男とは、単に強くて勇気のある人のことではありません。

真の男とは、神の口から出る一つひとつのことばによって生きる人のことです。

そして、そのことばに従うためには、時に真の心の強さと勇気が求められるのです。

最近、マルコ10章を読んで、私が気づいたのは、イエス様が真の男とは何であるかという模範を示してくださったということです。

天の父は、イエス様をエルサレムに十字架で死ぬために送りました。

イエス様が恐れを抱き、死を望まれなかったとしても、また弟子たちが恐れていたとしても、イエス様は思い切ってエルサレムへ向かわれました。(マルコ10:32)

イエス様は、十字架で死ぬほどに、天の父の口から出る一つ一つのことばによって生きられました。

イエス様は、真の男です。

私はそのような男性になりたいと願っています。男性たち、あなたはどうでしょうか。

私たちは、何としても天の父の口から出る一つ一つのことばによって生きる者となるでしょうか。

良い知らせは、私たちが自分の力でそれを成し遂げる必要はないということです。

実際、自分の力だけでは、それを成し遂げることはできません。

だからこそ、イエス様のことばを心に留めておきましょう。

わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。

枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。

わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(ヨハネ15:4-5)

男性たち、あなたはどうするでしょうか?

私たちの妻たち、息子たち、娘たち、そして周りの人々は、私たちを見つめ、私たちの反応を待っています。

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ヨハネの福音書のデボーション

あなたは、わたしに従いなさい

イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネの福音書21:22)

多くの人々は、しばしば自分を周りの人々と比べてしまいます。正直に言うと、私もよくそうしてしまいます。

でも、そうしてしまうと、私たちは一番大切なことを忘れてしまいます。それは、イエス様に従うことです。

今日の話を読んだとき、私はペテロのことを思い起こしました。イエス様を見ると、ペテロは湖に飛び込んで、イエス様のもとへ泳いでいきました。

私の最初の思いは、「イエス様に対するペテロの情熱が欲しいなぁ」ということでした。

次の思いは、「ペテロはクレージーだった。私は絶対に湖に飛び込まない」というものでした。

もちろん、私はイエス様を愛しています。でも、ペテロの性格と私の性格はまったく違います。

(あなたはどうでしょうか。イエス様を見たら、湖に飛び込んで、イエス様のもとへ泳いでいくでしょうか。)

でも、神様は私にこう言われました。「たとえ私がペテロにそのような性格を与えようと望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。私はあなたを、ありのままに造りました。あなたは、私に従いなさい。」

神様は、私がペテロのようになることを望んでおられるのではありません。神様は、私が自分の牧師や他のクリスチャンのようになることを望んでおられるのではありません。神様は、私を造られたとおりに生きることを望んでおられるのです。

神様は、あなたに対しても同じように感じておられます。

もし私たちがイエス様から目を離さず、イエス様に従い、神様に託されたものを忠実に用いるなら、神様は喜ばれます。

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見よ、あなたの王だ

ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」(ヨハネ19:14)

すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」

こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。(20:19-20)

見よ、あなたの王だ。
血まみれで、体が引き裂かれた王。

見よ、あなたの王だ。
茨の冠をかぶせられた王。

見よ、あなたの王だ。
殴られ、顔があざだらけになった王

見よ、あなたの王だ。
不当に虐待された王。

見よ、あなたの王だ。
木にかけられた王。

見よ、あなたの王だ。
あなたのために死なれた王。

見よ、あなたの王だ。
墓から脱出された王。

見よ、あなたの王だ。
栄光によみがえられた王。

見よ、あなたの王だ。
手と脇腹を突き刺された王。

見よ、あなたの王だ。
その平安にとどまりましょう。

見よ、あなたの王だ。
すぐに来られる王。

見よ、あなたの王だ。
新しい天と地を造られる王。

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神様が記されたもの

「そこで、ユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください」と言った。

ピラトは答えた。「私が書いたものは、書いたままにしておけ。」」(ヨハネの福音書19:21ー22)

天のお父様、ユダヤ人は怒り、文句を言いましたが、ピラトのことばは立ちました。

それなら、なおのこと、あなたの御言葉は確かに立つでしょう。この世の民がどれほどあなたのことばに反対し、あなたに背いても、あなたのことばは揺るぎません。

あなたが記されたものは、すでに定められているのです。

預言者たちを通して語られたすべてのことばは成就しました。(24、28、36ー37節)

それが、私の希望です。

この世は壊れています。この世の民はあなたに背きました。

しかし、あなたはご自分の王を立てられました。(詩篇2:6)

この世はその王を十字架につけました。

しかし、あなたはその王を復活させられました。

そして、ある日、その王はこの世に戻り、この世のすべてを新しくしてくださいます。

私はその日を待ち望んでいます。

なぜなら、あなたが記されたことはすでに定められており、そのすべてのことばは、あなたの時に成就するからです。

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見よ、この人だ。見よ、あなたの王だ。

ピラトのことばは、私の心に深く響きました。

見よ、この人だ。(ヨハネの福音書19:5)

その日、ユダヤ人たちは何を見たでしょうか。人間と同じ姿になられた神です。(ピリピ2:6-7)

その神は、むちで打たれ、拳で殴られ、いばらの冠をかぶせられ、紫色の着物を着せられた方です。

Amazing love! 
驚くべき愛

How can it be, that thou, my God, shouldst die for me? 
どうして、あなたが私の神であられるのに、私のために死んでくださったのでしょうか。

ーーチャールズ・ウェズリー

見よ、おまえたちの王だ。(14)

ユダヤ人たちは何を見たでしょうか。

それは、死刑を宣告された王です。ご自分の罪のためではなく、私たちの罪のために。

Amazing love! 
驚くべき愛

How can it be that you my King, would die for me?
どうして、あなたが私の王であられるのに、私のために死んでくださったのでしょうか。

ーービリー・ジェームズ・フット

今日の話を何度も読んだことがあるかもしれませんが、どうかざっと読まないでください。そして、読んですぐに忘れないでください。

少し時間を取って、ユダヤ人たちがその日、何を見たのかを深く考えてみましょう。その場面を心に描いてみましょう。

イエス様があなたのために何をしてくださったのかを思い巡らしましょう。

イエス様の苦しみを心に留めましょう。

イエス様の死を黙想しましょう。

そして、イエス様の復活を覚えておきましょう。

ユダヤ人の指導者たちの模範に倣ってはいけません。私たちの王を軽んじてはいけません。

むしろ、深い感謝と喜びをもって、「あなたは私の王です」と歌いましょう。

そして、毎日、毎秒、私たちの人生をイエス様にささげましょう。

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自分の疑問の解決がもう気にならなくなる日

あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。

その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。(ヨハネの福音書16:22ー23)

今日、私は上のことばに思いを巡らしました。日曜日は父の日でした。だから、いつものように、私は12年前に亡くなった父のことを思い出しました。

私の父は、さまざまな苦しみに直面しました。特に、最後の10年間は、多くの健康問題を抱えていました。

もし父が「どうして」と尋ねたとしても、不思議ではなかったでしょう。でも、実際には決してそうは訊きませんでした。

この世を見渡すと、私はよく「どうして」と問いかけます。

ガンで亡くなった友人もいたし、うつ病で自ら命を絶った親戚もいました。「良い人」(実のところ、私たち皆は罪人です)に悪いことが起こるのを見たこともあります。

だから、私は悲しみを知っています。痛みを知っています。そして、まだ理解できない疑問をたくさん抱えています。

でも、イエス様によれば、イエス様の御顔を見る日が来ます。その日、私は喜びに満たされ、イエス様に何も尋ねることはありません。

なぜでしょうか。もしかすると、その日、私は神様のご計画のすべてを知ることになるからかもしれません。

でも、もしかすると、その日、私はもう自分の疑問の解決を気にしなくなるかもしれません。なぜなら、私の目でイエス様を見るからです。そして、イエス様が私と共におられ、私の悲しみと痛みは洗い去られるからです。

とはいえ、今の時点でも、私は天の父にアクセスすることができます。私の願いを神様に委ねることができます。そして、天の父は私の願いを聞いてくださいます。私を愛してくださるからです。

そして、私の良いパパは知恵をもって、私が求めていることが良いと判断されるなら、それを与えてくださいます。(第一ヨハネ5:14ー15;マタイ6:11)

だから、私はイエス様のことばを固く信じます。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。

世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)

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きよい

わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます(別訳:「きよくなさいます」。

あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。(ヨハネの福音書15:2ー3)

今朝、上の箇所を反芻していたとき、イエス様が13章で似たようなことばを語られたことを思い出しました。

水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのです。。。(ヨハネ13:10)

イエス様のことばは私を励ましてくださいました。イエス様は私の心に語られました。

「あなたが私のことばを信じたから、私を信じたから、私の目にはあなたはすでにきよいのです。あなたはすでに天の父に受け入れられているのです。」

この世を歩む中で、私の霊的な足は罪によって汚れてしまいます。

最近、神様は、ある人に対する私の悪い態度を示してくださいました。その態度のゆえに、神様が望まれるほどには、私は実を結んでいません。

それでも、神様は私を決して諦められません。

むしろ、豊かな忍耐と愛と恵みをもって、神様は私をきよめてくださいます。また、私がさらに多くの実を結ぶように、神様は私を刈り込みしてくださいます。

神様はあなたのためにも、同じことをしてくださいます。

神様の鏡、すなわち御言葉を覗くと、あなたも自分の罪や、実を妨げるものを見るかもしれません。でも、あなたへの神様のことばを心に留めておきましょう。

「私の目にはあなたはすでにきよいのです。」

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神の口から出る一つ一つのことばによって生きる

イエス様、あなたは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と言われました。

あなたはこのことばに従って、日々を歩まれました。あなたは天の父の口から出る一つ一つのことばによって生きられました。

天の父が命じられたとおりに、あなたはすべてを行われました。(ヨハネの福音書14:31)

ですから今、私もあなたの口から出る一つ一つのことばによって生きる者となれますように。なぜなら、あなたが語られたすべてのことばは、天の父の口から出たものだからです。(10,24節)

私が自分の悟りに頼ることのないように。

私が罪によって歪められたこの世の知恵にも頼ることのないように。

むしろ、あなたのことばが私の思考を形づくり、あなたのことばが私の価値観を形づくり、あなたのことばが私の優先順位を形づくるように。

なぜなら、あなたのことばは真理であり、そのことばは私に命を与えてくださるものだからです。

あなたの真理を教え、あなたが語られたことを思い起こさせるために御霊を与えてくださったことを感謝します。(26節)

私が日々、御霊と歩調を合わせて歩むことができますように。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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イエス様の愛を疑う?

イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。 しかし(別訳:「そのようなわけで」)、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。(ヨハネの福音書11:5ー6)

ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」

しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。(36ー37節)

しかし、彼らのうちの一人で、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」

このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。(49ー52節)

イエス様は私たちを愛しておられます。それでも、イエス様が私たちの望むように応えてくださらない時もあります。

そのような時、私たちは苦しみ、「どうして」と問いかけます。また、「イエス様は本当に私を愛しておられるのだろうか」と思うこともあります。

けれども、実のところ、多くの場合、私たちは何も分かっていません。神様はすべてをご存じですが、私たちはまったく考えていない要素が多くあるのです。

最大の例は、十字架です。神様がなさっていたことを、誰も理解していませんでした。祭司たちも、パリサイ人たちも、イエス様の弟子たちも、イエス様の母マリアさえも、神の計画を知りませんでした。

しかし、十字架こそが、神様の愛の最大の表現だったのです。

あなたは今、さまざまな疑問を抱え、苦しんでいるでしょうか。神様に「どうして」と問いかけているでしょうか。

マリアとマルタの模範に従いましょう。彼女たちは深く傷ついていましたが、イエス様に背を向けることはありませんでした。むしろ、彼女たちはイエス様のもとに走り寄り、イエス様を信じ続け、従い続けました。

彼女たちの模範に従うなら、私たちもいつか神様の栄光を見ることができます。

私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。

この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。

しかし、このことは、 「目が見たことのないもの、 耳が聞いたことのないもの、 人の心に思い浮かんだことがないものを、 神は、神を愛する者たちに備えてくださった」 と書いてあるとおりでした。」(第一コリント3:7ー9)

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羊飼いへの祈り

牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。(ヨハネの福音書10:3ー4)

イエス様、なぜかそのことばは私の心に響きます。

あなたにとって、私は名前も顔も知らない羊ではありません。あなたは私の名前を知っていて、呼びかけてくださいます。「おい、こっちにおいで。行きましょう!」

あなたは私たちの先頭に立って行かれます。私たちを導いてくださいます。その道を拓いてくださいます。私たちを災いから守ってくださいます。良い牧草を探してくださいます。

だから、主よ、私の先に行ってください。私が決してあなたの先に行かないように。あなたが先に行かれ、私はついていきます。

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私たちに神のわざが現れるため

さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」

イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。(ヨハネの福音書9:1-3)

時に、悪いことが起こると、神様が私たちを罰しておられるのではないかと思うことがあります。しかし、私たちは二つの真理を覚えていなければなりません。

一つ目は、もちろん、自分の罪のために苦しむこともあるということです。けれども、私たちは壊れた世界に生きており、壊れた人々と共に生活しているために、苦しみがあるということも覚えていなければなりません。

その苦しみを通して、私たちは大切なことを思い出します。それは、この世界が私たちの故郷ではないということです。私たちはただ通過している者です。私たちは「もっと良い故郷、すなわち天の故郷」を憧れながら歩んでいるのです(ヘブル11:16)。

二つ目は、神様が私たちの苦しみを許されることがあるのは、ご自身の御業が私たちに現れるためだということです。そして、その御業を見るためには、私たちは盲人の模範に従わなければなりません。つまり、イエス様を信じ、イエス様に従うということです(ヨハネ7:37-38)。

あなたは今、どんな試練や苦しみに直面しているでしょうか。イエス様が良い方であり、あなたを愛し、あなたの最善を望んでおられると信じて、イエス様の前にひれ伏し、礼拝するでしょうか。

それだけではなく、イエス様に従うでしょうか。

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みことばのための場所を開ける

わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。(ヨハネの福音書8:37)

そのことばを読んだとき、私は深く考えさせられました。

私たちは神の民として、自分の心の中に神様のみことばのための場所を開けているでしょうか。

言い換えれば、聖書を読むことによって、そのみことばを本当に大切にしているでしょうか。SNSやYouTube、テレビ、音楽、本などを少し脇に置いて、聖書を読む時間を作っているでしょうか。

しかし、それだけではありません。聖書を読むとき、神様が語りかける機会を与えているでしょうか。それとも、単に聖書を読んで「今日のクリスチャンとしての義務は果たした」と言って終わってしまうのでしょうか。

また、時には、聖書のことばが私たちの考え方や価値観に反することがあります。そのとき、私たちはどうするでしょうか。そのことばを押し退けて、「これは私のためのことばではない」あるいは「今は考えたくない」と言うのでしょうか。

それとも、自分の心から古い考え方や価値観を追い出し、その代わりにみことばを歓迎するのでしょうか。

天のお父さん、私がいつも心の中にみことばのための場所を開ける者でありますように。

あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。

あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(31-32節)

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私がいのちを受けるため

イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。

なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」

すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」

イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(ヨハネの福音書6:26-29)

イエス様、あなたのもとに来た人々は、ただパンを求めていました。まるでパンが一番大切なものであるかのように、彼らはふるまいました。まるでパンが永遠のいのちを与えるものであるかのように、彼らはふるまいました。

しかし、イエス様、私があなたのもとに来る理由は、あなたご自身を望むことです。なぜなら、あなたこそがいのちの源だからです。

十字架の上で、あなたはこの世のためにご自分のいのちをささげられました。この世の罪、私の罪のために、あなたの体は十字架にかけられ、あなたの血は流されました。

私の代わりにあなたが死んでくださったおかげで、私は今いのちを持っています。

けれども、それだけではありません。あなたは今もなお、継続的に私にいのちを与えてくださいます。初めてあなたのもとに来て、あなたを信じたとき、私はいのちを受けました。でも、毎日あなたのもとに来て信じることによって、私はいのちを継続的に受けています。

だから私は、一度だけではなく、何度も何度もあなたのもとに行って、あなたから霊的な栄養を受けなければなりません。

あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。

私が毎日の困難に直面するとき、そのことばは私にいのちを与えてくださいます。励ましてくださいます。導いてくださいます。知恵を与えてくださいます。私が間違った道を歩き始めるとき、そのことばは正しい道へと引き戻してくださいます。

しかし、あなたのことばだけでなく、私が失敗するときには、あなたの恵みも与えてくださいます。今もなお、私はあなたの十字架の御業に頼っています。

そして、その十字架の御業によって、私はあなたの力にアクセスすることができます。天の父があなたを復活させたその力は、今、私のうちにも働いています。

誘惑を克服する力。サタンの攻撃に打ち勝つ力。難しい人に対応する力。この世が私に投げつけるものを乗り越える力。

あなたのからだが十字架にかけられ、あなたの血が流されたとき、あなたは赦しと力といのちを買い取ってくださいました。

けれども、あなたが私に与えてくださった最も素晴らしい賜物は、あなたご自身です。毎日、あなたは私と共に歩んでくださいます。

だから、イエス様、私はあなたのもとに来て、こう願います。「あなたご自身を私に与えてください。私が必要としているのは、あなただけですから。」

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かわいそうパーティーを立ち去る

この話に登場する病の人は、まるで本格的な「かわいそうパーティー」を開いているようでした。

イエス様が「良くなりたいか」と尋ねられると、その人は「誰も助けてくれない」と文句を言いました。

しかし、イエス様は彼にこう言われました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」

そして、イエス様の力によって、その人は癒されました。

私たちが苦しんでいるとき、どれほど「かわいそうパーティー」を開いているでしょうか。どれほど「誰も私を愛してくれない。誰も助けてくれない」と文句を言っているでしょうか。

けれども、イエス様は私たちに語りかけておられます。「私の助けを望んでいるの?私は喜んで助けてあげるよ。」

そして、もし私たちがイエス様の言葉に従うなら、神様の力によって、私たちの人生は変えられます。

あなたはどうでしょうか。あなたは「かわいそうパーティー」から立ち上がって、イエス様の言葉に従いますか。

それとも、そのまま座り続けて、自分をかわいそうに思い続けますか。

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壊れた水溜めに気づくために

しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。(ヨハネの福音書4:35)

今朝、その言葉は私の心に響きました。神様が私にその言葉を語っておられるのを感じたのです。

この世には、今日の話に登場する女性のような人々が多くいます。彼らは壊れた水溜めから水を飲んでいます(エレミヤ 2:13)。

心が空っぽで、その穴をさまざまなもので埋めようとします。一時的には満たされ、満足するかもしれませんが、最終的にはまた空っぽになってしまいます。

この女性は、何年も男性との関係で心の穴を満たそうとしてきました。しかし、五人の男性は壊れた水溜めであることが明らかになりました。そして、今一緒に暮らしている男性も、彼女と結婚するつもりはないようでした。

今、私は二人の人のことを思い浮かべています。彼らは深く苦しんでいて、イエス様を必要としています。だから、私は彼らに触れる機会のために祈っています。その機会を見逃さないために、私自身の目を開かなければなりません。

同時に、私はこう考えています。「私の周りには、壊れた水溜めから水を飲んでいる人々が何人いるのだろうか。」

あなたの周りにも、壊れた水溜めから水を飲んでいる人々がいるでしょうか。彼らに気づいていますか。

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 あなたが私の心を知っておられるから

人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。(ヨハネの福音書2:25)

イエス様、あなたは私について誰の証言も必要とされません。私のうちに何があるのかを、すでに知っておられるからです。私の心の中に何があるのかを、すでに知っておられるのです。

正直に言えば、私自身が知っている以上に、あなたは私のことをよく知っておられます。ですから、み言葉という鏡をもって、私の心の中にあるものを映し出してください。

私がその姿を見ることを恐れる必要がないことを感謝します。なぜなら、鏡に映る私の姿がどんなに見苦しくても、あなたはすでにご自分の子どもとして私を受け入れてくださっているからです。そして、あなたの恵みによって私をきよめてくださいます。

あなたは普通の水を素晴らしいぶどう酒に変えられました。そのように、あなたが普通の私を素晴らしいものに変えてくださることを信じます。

私へのあなたの恵みと忠実さに感謝します。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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イエス様のもとにとどまる、イエス様にとどまる

イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」

彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」

イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」

そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。(ヨハネの福音書1:38ー39)

わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。

枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。(ヨハネ15:4)

イエス様、アンデレとヨハネ(?)があなたに最初に尋ねたのは、「ラビ、どこにお泊まりですか。」ということでした。

あなたが彼らを歓迎されたので、彼らは一日中あなたのもとにとどまりました。

イエス様、私はあなたがおられるところに、私もいたいのです。私はあなたのもとにとどまりたいのです。あなたにとどまりたいのです。あなたの満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けるからです。

あなたの恵みで私を満たしてください。あなたの力で私を満たしてください。あなたの知恵で私を満たしてください。今日、私があなたのために実を結ぶことができますように。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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ヤコブの手紙のデボーション

心を強くしなさい

ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。

見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。

心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです。(ヤコブ5:7ー8)

一章では、私たちが見たのは、この手紙を読んだ人々がさまざまな試練に直面していたということです。だからこそ、ヤコブは彼らに耐えるよう励ましました。そして、この手紙の終わりで、ヤコブはそのテーマに戻ってきます。

私の心に残った言葉は、8節にあります。「心を強くしなさい。」

では、自分の心を強くするには、どうすればよいのでしょうか。

ただ自分の心に「強くあれ!強くあれ!」と命じるだけでしょうか。

それは違います。

むしろ、意識的に自分に思い出させましょう。「主が来られる時が近づいている。私の苦しみは永遠に続くわけではない。この試練は長く感じられるかもしれないが、永遠と比べれば、ほんのわずかなものだ。」

また、主が慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方であることを思い出しましょう。もちろん、聖書にあるヨブのような話を見ることもできますが、自分自身の経験を思い返しましょう。過去の試練の中で、神様がどのようにご自分の慈愛とあわれみを私たちに与えてくださったかを思い出しましょう。

最後に、イエス様が今も私たちと共におられることを思い出しましょう。そして、喜ぶことを選びましょう。

自分の力で頑張ろうとする態度を捨て、へりくだって、自分の思い煩いを神様に委ねましょう(ピリピ4:4〜7;第一ペテロ5:6〜7)。

ダビデの模範に従って、祈りましょう。

主は私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。 主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。。。

聞いてください、主よ。私が呼ぶこの声を。 私をあわれみ 私に答えてください。 あなたに代わって 私の心は言います。「わたしの顔を慕い求めよ」と。 主よ、あなたの御顔を私は慕い求めます。。。

私の父、私の母が私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださいます。。。

もしも、私が、生ける者の地で主のいつくしみを見ると、信じていなかったなら──(希望はないでしょう。でも、それを信じることを選びます)。

待ち望め 、主を。 雄々しくあれ。心を強くせよ。 待ち望め 主を。(詩篇27:1,7ー8,10,13ー14)

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ヤコブの手紙のデボーション

私たちを汚す言葉

舌は私たちの諸器官の中にあってからだ全体を汚し(ます)。(ヤコブ3:6)

この言葉を読んだとき、私はイエス様の言葉を思い出しました。

人から出て来るもの、それが人を汚すのです。

内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(マルコ7:20ー23)

今まで、私は自分の言葉を、自分を汚すものとしてあまり考えてきませんでした。自分の言葉によって、主の目に汚れてしまうということを、深く考えてこなかったのです。

しかし、言葉は私の心にあるものを表します。そして、イエス様によれば、裁きの日には、口にするあらゆる無益なことばについて申し開きをしなければなりません(マタイ12:33〜37)。

主よ、預言者イザヤのように、私は唇の汚れた者です。どれほど多くの無益なことばによって、私は自分を汚してしまったことでしょうか。どうか赦してください。

「だれが 自分の過ちを悟ることができるでしょう。

どうか 隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを 傲慢から守ってください。 それらが私を支配しないようにしてください。 そのとき私は 大きな背きから解き放たれて 全き者となるでしょう。

私の口のことばと 私の心の思いとが 御前に受け入れられますように。 主よ わが岩 わが贖い主よ。」(詩篇19:12ー14)

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ヤコブの手紙のデボーション

 忍耐を学ぶ

私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。 あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。(ヤコブの手紙1:2ー4)

「その忍耐を完全に働かせなさい。」

この言葉は私の心を打ちました。

正直に言うと、私はその過程を回避したいのです。成熟した完全な者となる段階に、スキップできたらと思ってしまいます。

しかし、ヤコブによれば、それは不可能です。試練に直面し、忍耐することによってこそ、私たちはそのような人になるのです。

けれども、忍耐は、ただ我慢して自分の力を鍛えることで生まれるものではありません。

むしろ、私たちが神とその力に頼ることを学ぶとき、忍耐が生まれるのです。

成熟した完全な人は、神様から独立した人生を送るわけではありません。

その人は、自分の力と知恵では生きられないことを学びました。そして、神様を切実に必要とすることを学びました。パウロのように、その人はこの真理を学んだのです。

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。

ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。

というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(第二コリント12:9ー10)

天のお父さん、私は試練が嫌いです。試練に直面するとき、できるだけ早く通過したいと思ってしまいます。

しかし、その試練を通して、私があなたとその力に頼ることを学び、私の弱さのうちにあなたの力が完全に現れることを知り、そして試練の中であなたが私と共に歩んでくださるなら、私は喜んでその試練を通過します。

どうか、私を成熟した完全な人にしてください。私をイエス様のようにしてください。

イエス様のお御名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの手紙第一のデボーション

誰を信じるでしょうか

神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。(ヨハネの手紙第一5:3ー4)

この世はいろいろなものを私たちに投げつけます。パウロによれば、苦難、苦悩、迫害、飢え、裸、危険、剣などがこの世から私たちに投げつけられるのです(ローマ8:35)。

それでも、パウロはこう言います。「これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です」(ローマ8:37)。

ヨハネもほぼ同じことを語ります。この世とその攻撃に直面するとき、私たちが勝利するのは何によってでしょうか。それは、私たちの信仰です。

つまり、神様が良い方であることを信じる信仰です。神様が私たちを愛しておられることを信じる信仰です。神様が何が最善かをご存知であることを信じる信仰です。そして、神様が私たちの最善を望んでおられることを信じる信仰です。

この世は不信によって特徴づけられています。基本的に、この世は神様を嘘つきと呼びます。そして、さまざまな試練を私たちに投げつけることで、私たちがこの世の不信に陥るのは容易なことです。その不信に押し潰されるのも、また容易なことです。

さらに、その不信によって押し潰されたとき、神様の命令は重荷となり、神様のために生きることも重荷となってしまいます。

しかし、信仰を持つなら、どんな状況の中にあっても、私たちは勝利と喜びを得るのです。

私たちは誰の証しを信じるでしょうか。この世の証しでしょうか。それとも神様の証しでしょうか。

この世の証しは死に至ります。

神様の証しはいのちに至ります。

その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。

御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(11ー12節)

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ヨハネの手紙第一のデボーション

あなたの愛を本当に知っている?

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。。。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(ヨハネの手紙第一4:16,19)

天のお父さん、私はあなたの愛を知っています。あなたが私を愛してくださっていることを信じます。あなたがまず私を愛してくださったから、私はあなたを愛しているのです。

それでも。

私にとっては、あなたが私を愛してくださったように周囲の人々を愛することは難しいです。

私は、自分に対するあなたの愛を本当に知り、信じているのでしょうか。

もしそうなら、私はあなたのように周囲の人々を愛することができるはずです。あなたのように、彼らを受け入れることができるはずです。あなたのように、彼らを許すことができるはずです。愛をもって、彼らを扱うことができるはずです。

天のお父さん、私はあなたの愛を知り、信じています。けれども、私が気づかされたのは、その愛をもっと深く信じるようにならなければならないということです。なぜなら、私の愛は本当に不完全だからです。

どうか、私があなたの愛を真に知り、信じるように助けてください。

あなたが私に愛を示してくださったすべての瞬間を思い出すことができるように助けてください。

私が失敗したとき、あなたが受け入れてくださったすべての出来事を思い出すことができるように助けてください。

また、あなたが私を赦してくださったすべてのことを忘れないように助けてください。

それらの経験を思い返すとき、あなたがどれほど私を愛してくださっているかを悟ることができるように助けてください。

あなたの愛が私の人生の土台となりますように。私があなたの愛に深く根差すことができますように。

あなたのように、私が人々を愛する者となれますように。あなたの愛が私のうちに全うされることを願います。私があなたのような者へと変えられていきますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの手紙第一のデボーション

希望があるから

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。

やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。(ヨハネの手紙第一3:2-3)

天のお父さん、私は希望を持っています。なぜなら、あなたは私をご自分の子供と呼んでくださっているからです。

また、イエス様がこの世にもう一度来られるとき、私はイエス様に似た者になるという希望を持っています。その日、私はイエス様をありのままに見るからです。

そういうわけで、私は今、イエス様のようになろうと努めています。イエス様のように歩みたいです。イエス様と同じように、人々を愛したいです。

でも、私が失敗し、罪を犯すときでも、私はなお希望を持っています。なぜなら、あなたは決して私を諦めないからです。

むしろ、もし私が自分の罪を告白するなら、あなたは真実で正しい方で、その罪を赦し、私をすべての不義からきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

サタンが私を責めても、私の心が私を責めても、あなたは私の心よりも大きな方であり、すべてをご存じです。つまり、私があなたを本当に愛していることをご存じなのです。(ヨハネ20:15−21)

どうか、毎日、私があなたの愛と恵みと希望の中で歩むことができますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの手紙第一のデボーション

キリストの恵みと知識において成長する

今日、ヨハネの手紙第一2:12〜14に思いを巡らしていました。特に、クリスチャンの成長の段階について考えていました。

幼いクリスチャンたちは、神様やその御言葉をあまり知らないかもしれませんが、神様についての一つの真理を理解し始めています。

「私のパパは私を愛し、受け入れている。私が失敗しても、私のパパはまだ私を愛し、赦してくれる。」

その確信があるので、彼らはためらうことなく神様に近づくことができます。恐れることなく、彼らのパパのもとに走ることができます。

成熟したクリスチャンたちも同じ関係を持っていますが、彼らの神様との体験はさらに深いものです。彼らは単にパパを見るのではなく、永遠から生きておられる方を見ます。すべてを造られた万能の創造主を見ます。

すべての道が完全である聖なる方を見ます。ご自分の性格、つまり愛、恵み、あわれみが決して変わらない方を見ます。

彼らは不実で、何度も失敗してきましたが、それでも神様のいつくしみと忠実さを経験してきました。だから振り返ると、彼らは神様に畏敬の念を抱き、自然と礼拝の心が湧き上がってきます。

そして、青年のクリスチャンたちがいます。彼らはミルクだけを飲むのではなく、聖書の固形物を食べています。その御言葉は彼らのうちにとどまっています。

彼らは御言葉を振るうのが上手になりました。その御言葉と経験によって、彼らは善と悪を見分ける感覚を訓練されています。そういうわけで、彼らは罪やサタンに打ち勝ち始めます。

天のお父様、あなたの教会にいる幼いクリスチャンたちのために祈ります。

彼らがあなたを本当に知るように祈ります。彼らが、あなたに愛され、受け入れられ、赦されることを本当にわかってくるように。その確信をもって、彼らが小さい子供のように、あなたのもとに走り、近づくように。

また、あなたの教会にいる成熟したクリスチャンたちのために祈ります。

あなたとの関係、またあなたとの体験を振り返ると、彼らがあなたに畏敬の念を抱くように。また、彼らがその体験を若いクリスチャンたちに伝えるように。

最後に、あなたの教会にいる若者たちのために祈ります。

あなたの御言葉が彼らのうちにとどまるように。彼らが善と悪を見分ける感覚を訓練されるように。誘惑や試練や霊的な戦いに直面するとき、彼らが御霊の剣、つまりあなたのことばを上手に振るうように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ペテロの手紙第二のデボーション

恵みと知識において成長する

私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。

イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。(ペテロの手紙第二3:18)

主よ、私の最大の願いは、あなたとの関係を妨げるすべての障害を押しのけて、あなたに近づくことです。

赦しのためだけでなく、救いのためだけでもなく、私の人生のすべてにおいて、あなたの恵みを望みます。

私の仕事のために、あなたの恵みを望みます。

私の家族のためにも、あなたの恵みを望みます。

また、私の性格が成長するために、あなたの恵みが必要です。

私の愛が成長するためにも、あなたの恵みが必要です。

だから、毎日毎日、一瞬一瞬、私が自分の力や知恵に頼ることなく、あなたの知恵と復活の力に頼り、あなたと共に歩むように教えてください。

さらに、私はあなたを知りたいです。あなたの御心を知りたいです。あなたの思いを知りたいです。あなたが何を大切にされるのかを知りたいです。

ですから主よ、あなたの恵みによって、私をあなたのもとへと引き寄せてください。

私があなたの恵みと知識において成長するように助けてください。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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ペテロの手紙第二のデボーション

偽りの自由の約束

その人たちに自由を約束しながら、自分自身は滅びの奴隷となっています。人は自分を打ち負かした人の奴隷となるのです。(ぺテロの手紙第二2:19)

今日の箇所で、ペテロは教会にいる偽教師について警告しています。実際、現代の教会にも多くの偽教師がいます。彼らは聖書を神の言葉ではなく、ただの人の言葉として見なしています。

だから、文化が聖書に反することを教えると、彼らはその文化に従います。文化と偽教師たちが約束するのは、神の言葉を捨てれば自由を得られるということです。

しかし、こうした「自由」は実際には多くのものを破壊します。人々の人生を破壊し、さらには人々の魂を滅ぼしてしまいます。

本当の自由を与えてくださるのは、イエス様だけです。本当の自由を望むなら、私たちはイエス様の教えを信じ、その教えにしがみつかなければなりません。イエス様の教えを拒む人は、自分がイエス様の弟子だと主張することはできません。

だから、イエス様の言葉を心に留めてしょう。

あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。

あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ8:31ー32)

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ペテロの手紙第二のデボーション

神の恵みと平安を知るため

神と、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。(ぺテロの手紙第二1:2)

私たち皆、神の恵みと平安を知りたいと願っているでしょう。

今日の箇所で、ペテロは私たちがそれらをどのように得ることができるかを教えてくれます。

その恵みと平安は、天の父との関係、そしてイエス様との関係から生まれるものです。

天の父とイエス様についての知識だけではなく、天の父とイエス様を本当に知っていることによって、私たちは恵みと平安を受けるのです。

その関係によって、私たちはいのちをもたらす力にアクセスできます。

人生の困難や試練に直面するとき、私たちは神様の力と知恵にアクセスできます。

結婚生活がうまくいくように、子育てのために、自分の傷を癒すために、私たちに傷をつけた人たちを許すために、そして私たちを破壊している習慣を克服するために、私たちはその力と知恵にアクセスできるのです。

でも、一番大切なのは、私たちが天の父のようになれるように、その力にアクセスできるということです。そして、私たちは実を結び、神様のためにこの世に触れ始めます。

それを見て経験すると、恵みと平安が私たちにますます豊かに与えられます。

その恵みと平安を望んでいますか。私はそれらがほしいのです。

あなたを知りたいです。
あなたの御声を聞きたいです。
あなたをもっと知りたいです。

あなたに触れたいです。
あなたの御顔を見たいです。
あなたをもっと知りたいです。ーーアンディー・パク

 

 

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ペテロの手紙第一のデボーション

目を覚ます

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。(ペテロの手紙第一4:7)

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。(ペテロの手紙第一5:8)

ペテロは上の言葉を書いたとき、自分の失敗を思い出していたでしょうか。

イエス様は、サタンがペテロを麦のようにふるいにかけることを願っていると警告されました。(ルカ22:31)また、イエス様はペテロに、「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」と訓戒されました。(マタイ26:41)

ペテロはどう反応したでしょうか。彼は寝静まってしまいました。だから、試練が来たとき、彼は大きな失敗をしました。(マタイ26:69–75)

私たちの多くは、「試練が来るとき、私は堅く信仰に立ちたいけど、できるかなぁ」と言います。

でも、天の父に繋がっていなければ、もし毎日、天の父から力や導きや知恵を受けていなければ、私たちは固く立つことができません。

イエス様はこの世におられたとき、それをよく知っておられました。だからこそ、彼は毎日天の父と時間を過ごされました。そして、試練が来たとき、ペテロと違って、イエス様は固く立つことができました。

試練の時、あなたは固く立ちたいですか。毎日、天の父と繋がっていますか。時間を取って、聖書を読んでいますか。祈っていますか。

それとも、あなたは眠っているのでしょうか。

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ペテロの手紙第一のデボーション

無視されているわけではない

主の目は正しい人たちの上にあり、 主の耳は彼らの叫びに傾けられる。(ぺテロの手紙第一3:12)

この間、私は教会でメッセージをしました。テーマは、神様が私たちの祈りに「ノー」と答えるとき、また、神様の答えが遅く感じられるときについてでした。

最近、私にとって、神様の答えがとても遅く感じられます。つまり、一ヶ月ほど、私は健康問題と戦っています。

でも、ペテロの言葉、そして実際にはダビデの言葉(詩篇34:15)が本当に励ましてくれました。

神様の答えが遅く感じられても、神様が「ノー」と答えても、神の耳はいつも私たちの祈りに傾けられています。神様は私たちを無視しているわけではありません。

それに、神様の目は私たちの上にあります。

それは、私たちが本当に良い人だからとか、他の人よりも正しい人だからということではありません。

むしろ、神の愛する子供たちとして、私たちはキリストの義を着せられているからです。

それは本当にすごい真理ですね。

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ペテロの手紙第一のデボーション

あなたがいつくしみ深い方だから

生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。(ペテロの手紙第一2:3)

主よ。私は何度もあなたのいつくしみを味わってきました。あなたは私を選び、あなたの祭司とされました。あなたは私を御国に歓迎し、ご自分の尊いものとしてくださり、闇の中から驚くべき光の中へと召してくださいました。

私は以前、あなたの国民に属していませんでしたが、今はあなたの国民に属しています。かつてはあわれみを受けたことがありませんでしたが、今はあわれみを受けています。

私は羊のようにさまよっていました。しかし、あなたは良い羊飼いとして私を取り戻してくださいました。

あなたは本当にあわれみ深い方です。あなたは良い方です。

だから今、私があなたの御言葉をもっと慕い求める者となりますように。

クリスチャンの本は素晴らしいものです。そして、ノンクリスチャンの人たちからも学ぶことができます。

でも、あなたの御言葉だけによって、私は純粋な真理を得ることができます。

その真理は私に命を与えてくださいます。

その真理はあなたを現してくださいます。

だから、私はあなたの言葉に飛び込みます。

私がそうしなければならないからではありません。

聖書を読むのがクリスチャンのやるべきことというわけでもありません。

むしろ、私があなたを愛しているからです。

私はあなたのいつくしみを味わったからです。そして、あなたの御言葉を通して、あなたのいつくしみをもっと味わいたいのです。

あなたの尊い御名によって祈ります。アーメン。

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ペテロの手紙第一のデボーション

通過しているだけ

イエス・キリストの使徒ペテロから寄留している選ばれた人たち(へ)(ぺテロの手紙第一1:1)

「寄留している人たちへ。」

その言葉は私の心を打ちました。私は日本に27年間住んでいるので、ある意味で日本は私の国になっています。それでも、私がこの国に実際に属していないというリマインダーをよく見ます。

例えば、今でも、私の日本語はいまいちですし、和食よりも洋食が好きです。(私には、納豆がまだ苦手ですね。)

クリスチャンとして、私たちも同じような経験をしています。この世は私たちの「国」のように見えますが、私たちは実際にこの世に属していないのです。

この壊れた世界を見ると、その真理を実感するでしょう。戦争もあるし、疾患もあるし、罪もあるし、苦しみもあるし、死もあるのです。

私たちはただこの世を通過しているだけです。

でも、この世にあって、私たちは生ける望みを持っています。私たちは選ばれて、神の子どもになりました。私たちは朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない資産を受け継ぎました。その遺産は、私たちのために天に蓄えられています。(4)

イエス様が私たちの罪のために死んでくださり、三日目によみがえられたので、その遺産の確信を持っています。

さらに、聖霊様が私たちのうちに住んでおられ、私たちの力ではなく神様の力によって救いのために守られているので、私たちの遺産が確実なものであることを知っています。(1ー2、5)

だから、私たちがこの世に属していないというリマインダーを日々目にし、また、試練によって悲しみの中で試されることがあっても、私たちは「ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍る」ことができます。

なぜなら、私たちは「信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(6ー9)

私はもう一度言います。「私たちは喜ぶことができます。」

しかし、私たちは本当に喜んでいるでしょうか。それは、時に難しいことです。特に、苦しみの中にあるときには、喜ぶことが難しく感じられます。

けれども、一つのことを覚えているなら、私たちは喜ぶことができます。それは、「私たちはただこの世を通過しているだけ」という真理です。

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使徒の働きのデボーション

希望を持っているからこそ

しかし、パウロはこう答えた。「わずかな時間であろうと長い時間であろうと、私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が。。。みな私のようになってくださることです。」(使徒の働き26:29)

パウロのように、私たちは希望を持っています。

永遠の命という希望を持っているのです。

ある日、すべてのものが新しくなるという希望も持っているのです。

すべての悪が裁かれるという希望も持っているのです。

また、恵みによって、神の子どもとして私たちが御国に受け入れられる希望も持っているのです。

私たちはパウロの希望を持っています。でも、パウロの心も持っているでしょうか。それは、周りの人々が私たちのようになってくれるということです。つまり、彼らも希望を持つ者になってくれるということです。

また、私たちは、彼らが闇から光へ、サタンの支配から神へと立ち返るように望むでしょうか。

そして、彼らが悔い改めて、イエス様を信じる信仰によって、罪の赦しを得て、聖なる者とされた人々とともに相続にあずかるように祈るでしょうか。

それは、あなたの心でしょうか。

イエス様、神の子どもとして私に希望を与えてくださり、感謝します。私の周りの人々もその希望を知るように、私を遣わしてください。私にパウロの心を与えてください。あなたの心を私に与えてください。あなたのみ名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働きのデボーション

神の裁きのことを考えるとき

数日後、フェリクスは。。。パウロを呼び出し、キリスト・イエスに対する信仰について話を聞いた。

しかし、パウロが正義と節制と来たるべきさばきについて論じたので、フェリクスは恐ろしくなり(ました)。(使徒の働き24:24-25)

私にとって興味深いのは、神様の裁きに関して、パウロとフェリクスは正反対の反応をしていたということです。

パウロは希望をパウロは、持って、その裁きを考えました。(15節)

その反面、フェリクスは裁きを恐れていました。なぜなら、心の中で、フェリクスは自分の罪をよく知っていたからです。また、自分が神の裁きを受けるにふさわしい人物であることも、知っていたからです。

では、どうしてパウロは神の裁きを考えたとき、希望を持つことができたのでしょうか。それは、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してないからです。(ローマ8:1)

イエス様は十字架で、私たちの罪の罰を受けてくださいました。

だから、パウロは神様からの罰を恐れていませんでした。むしろ、パウロは天の父の愛に安心していました。自分が神の子どもであるという確信をもって、安心していたのです。

ヨハネは何年か後に、この言葉を書きました。

こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。

恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。(第一ヨハネ4:17-18)

天のお父様、私があなたに裁かれることを恐れる必要がないことを感謝します。むしろ、あなたの愛と恵みによって、私はあなたの子どもとして受け入れられているという確信をもって、あなたの御前に立つことができます。

だから、私はあなたに近づきます。私はあなたを敬います。私はあなたを愛します。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働きのデボーション

私たちのそばに立っておられる神

その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。。。」といわれた。(使徒の働き23:11)

今朝、上の言葉は私の心を打ちました。

「主がパウロのそばに立ちました。」

私たちがどんな試練に直面していても、神様を見ることができるかどうかにかかわらず、神様は私たちのそばに立っておられます。そして、神様は私たちにささやかれます。「勇気を出しなさい。私はあなたと共にいるよ。」

今日の話を読んで、私にはさらに2つの聖書箇所が思い浮かびました。

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。

たじろぐな。わたしがあなたの神だから。

わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ書41:10.しかし、どうぞ11-14節も読んでください。)

詩篇16篇にあるダビデの言葉も思い出しました。

私はほめたたえます。助言を下さる主を。 実に、夜ごとに内なる思いが私を教えます。

私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることがありません。(詩篇16:7-8)

今日、少し時間を取って、この真理に思いを巡らせましょう。「主が私のそばに立っておられます。」

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使徒の働きのデボーション

精選された

私たちの父祖の神は、あなたをお選びになりました。あなたがみこころを知り、義なる方を見、その方の口から御声を聞くようになるためです。

あなたはその方のために、すべての人に対して、見聞きしたことを証しする証人となるのです。(使徒の働き22:14-15)

アナニアはパウロに、「神様はあなたをお選びになりました」と言いました。

原語では、「選ぶ」という言葉には、「精選する」というニュアンスがあります。

神様はパウロを精選されました。何のためでしょうか。

神様のみこころを知るためです。イエス様を見るためです。イエス様の御声を聞くためです。そして、イエス様の証人となるためです。

しかし、その言葉はすべてのクリスチャンに当てはまります。

神様はあなたを精選されました。神様のみこころを知るためです。イエス様を見るためです。イエス様の御声を聞くためです。

「でも、私は神様のみこころを知らない。それに、イエス様を見たこともない。イエス様の御声を聞いたこともない。」

けれども、あなたがクリスチャンであるならば、そのすべてをすでに経験しているはずです。

あなたは、悔い改めて神様に従うべきだという神のみこころが、少しずつわかってきました。また、神様があなたを御自分の子どもとすることを望んでおられることも、わかってきました。

そして、神様の御言葉を読むたびに、あなたは神様のみこころをさらに深く知ることができるようになります。

自分の目でイエス様を見たことがないし、自分の耳でイエス様の御声を聞いたことがないかもしれません。でも、神様はあなたの心の中で働かれ、あなたが神様を信じるようになりました。

そして、ある日、私たちは自分の目でイエス様の御顔を見るのです。(第一ヨハネ3:2)

しかし、二つのことを覚えておくべきです。

普通、人が精選される理由は、その人が特別な存在であり、特別な資格を持っているからです。でも、それは神様が私たちを選ばれた理由ではありません。

神様の恵みだけによって、私たちは精選されたのです。この世が造られる前から、神様は私たちを知っておられました。私たちの弱さも、罪も、失敗も、すべてをあらかじめ知っておられました。

それでも、神様はこう言われました。「あなたを精選する。」

もう一つのことを覚えておきましょう。神様が私たちを精選された理由は、私たちがただ神様との関係を楽しむためだけではありません。

もちろん、神様は私たちと親しい関係を望んでおられます。しかし、パウロのように、神様は私たちをご自分の証人として精選されたのです。私たちは、神様の福音をこの死にかけている世界に伝えるべきです。

自分のために生きるのではなく、あなたのために死んで復活されたイエス様のために生きるために、あなたは精選されたのです。(第二コリント5:15)

少しおすすめがあります。エペソ人への手紙1:3-14と、第二コリント5:14-21を読んでみてください。

その言葉を心に深く刻んでください。これらの箇所で、パウロはアナニアの言葉を具体的に説明しています。

パウロが悟ったのは、アナニアの言葉がパウロ一人のためではなく、すべてのクリスチャンのためであるということです。

私たちは神様に精選されました。それは、本当に驚くべき真理です。

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走るべき道のりを走り尽くし

ご覧なさい。私は今、御霊に縛られてエルサレムに行きます。そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません。

ただ、聖霊がどの町でも私に証しして言われるのは、鎖と苦しみが私を待っているということです。

けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。(使徒の働き22ー24)

パウロの歩んだ道と、その道に対する彼の態度は、イエス様のそれとよく似ています。

イエス様もパウロも、御霊に縛られてエルサレムへ向かいました。どちらも、そこに苦しみが待っていることを知っていました。

それでも、自分のいのちを惜しむことなく、走るべき道のりを走り抜き、与えられた任務を全うしようとされました。

おそらくパウロは、意識的にイエス様の模範に従おうとしていたのでしょう。イエス様は、「ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍ばれました」(ヘブル12:2)

では、私たちはどうでしょうか。私たちも、パウロと私たちの主が持っていたその態度を、心に抱いているでしょうか。

主よ。私のためにあなたが受けられた苦しみを思うと、私は涙を禁じ得ません。

あなたは私のために、いのちを惜しむことなく、自らの道のりを走り尽くし、天の父から受けた任務を全うされました。

ですから、私も、すべての重荷と絡みつく罪を捨てることができるように助けてください。私があなたから目を離さず、私の前に置かれた競走を、忍耐をもって走り続けることができますように。(ヘブル12:1ー2)

主よ。私は弱い者です。自分の力では何もできません。しかし、あなたが力ある神であることを信じます。ですから、御霊によって私のうちに住んでください。

そして、私も自らの道のりを走り尽くし、あなたから受けた任務を全うするために、力を与えてください。あなたの尊い御名によって祈ります。アーメン。

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カウンターカルチャー

そのころ、この道のことで、大変な騒ぎが起こった。(使徒の働き19:23)

キリスト教が生まれたとき、「この道」と呼ばれていました。おそらく、その名前はヨハネ14:6にあるイエス様の言葉に基づいていたのでしょう。

そして、キリスト教が誕生して以来、「この道」は常にカウンターカルチャーでした。

この話の少し前、人々は「クリスチャンたちは世界中を騒がせてきた者だ」と叫びました。(使徒の働き17:6)

エペソでは、多くの人々が福音に反対して、「偉大なるかな、エペソ人のアルテミス」と叫びました。

私たちがイエス様に忠実に従うなら、家族や人間関係、社会の中で大きな騒ぎが起こるかもしれません。暴動ではないかもしれませんが、本当に深刻な問題が起こる可能性はあります。

なぜなら、私たちが信じていることは、この社会の教えと相容れないからです。

そして、私たちが信じていることを語り、信仰に従って生きるなら、ある人々は怒りを覚えるでしょう。時には、私たちが愛している人々さえも怒るかもしれません。

では、私たちはどうすればよいのでしょうか。

イエス様が死なれた後、弟子たちがしたように、私たちは自分の部屋に隠れるべきでしょうか。(ヨハネ20:19)

それとも、神様に近づき、神様と共に歩み、その愛と受け入れを受けるべきでしょうか。

御霊の力によって、私たちは部屋を出て、悔い改めと神の赦しのメッセージをもって周囲の人々に触れていきましょう。

また、この混乱した世界の中で、イエス様の言葉を心に刻み続けましょう。

平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。。。聖霊を受けなさい。(ヨハネ20:21ー22)

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神様の言葉を、積極的に聞いていますか?

教会のメッセージを聞くとき、クリスチャンのポッドキャストを聞くとき、またクリスチャンの本を読むとき、私たちはどのような態度を取るべきでしょうか。

ベレヤ人たちは、私たちがどんな態度を持つべきかを示しています。

ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。 (使徒の働き17:11)

彼らは何をしたでしょうか。

1.彼らは熱心に聞きました。神様の声を本当に聞きたいと願っていました。

2.パウロの言葉が聖書に合っているかどうかを確かめるために、彼らは聖書を丁寧に調べました。

私たちは、同じようにするでしょうか。

聖書を読むとき、また聖書に関するメッセージを聞くとき、私たちは神様が語ってくださることを期待しているでしょうか。

私たちの心と体は、神様の御言葉を聞く準備ができているでしょうか。もしかすると、私たちは眠気を感じているかもしれません。あるいは、疲れているかもしれません。もしくは、他のことに心を奪われているかもしれません。

私たちは、牧師やクリスチャンの著者の言葉をそのまま受け入れてしまうでしょうか。それとも、彼らの言葉を聖書と照らし合わせて吟味するでしょうか。

私たちは聖書を大切にし、日々読んでいるでしょうか。

神様が私たちの心に語られるとき、私たちはその言葉を実践するでしょうか。それとも、すぐに忘れてしまうでしょうか。(先週の日曜日のメッセージを、まだ覚えているでしょうか。)

神様の御言葉に対する私たちの態度は、どのようなものでしょうか。

どうか、私の言葉を誤解しないでください。私の願いは、あなたが罪悪感を抱くことではありません。

良い知らせは、私たちが失敗するとき、神様が私たちを引き上げてくださるということです。私たちが何度も失敗するからこそ、イエス様は十字架にかかってくださいました。

イエス様の言葉を、心に留めていましょう。

だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。(ルカ8:18)

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囚人たちは聞き入っている

真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。(使徒の働き16:25)

「囚人たちはそれに聞き入っていた。」

この世には、たくさんの囚人たちがいます。彼らはサタンの国の囚人なのです。また、彼らは自分の罪の囚人なのです。

その囚人たちは、私たちに聞き入っています。

でも、彼らは私たちから何を聞いているのでしょうか。

私たちが苦しんでいる姿を見たとき、囚人たちは私たちから何を聞いているのでしょうか。

私たちが不当な扱いを受けている姿を見たとき、囚人たちは私たちから何を聞いているのでしょうか。

彼らが聞いている私たちの言葉には、彼らの鎖を砕く力があるでしょうか。

私たちの言葉を聞いて、彼らは私たちにこう尋ねるでしょうか。「救われるためには、何をしなければなりませんか」(使徒16:30)。

囚人たちは聞き入っています。

あなたから、何を聞いているのでしょうか。

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神様の計画が見えない時に

クリスチャンとして、私たちはしばしば「どうして」と神に問いかけます。けれども、その答えが与えられることは、ほとんどありません。

ヘロデ王がイエスの弟子であり、ヨハネの兄でもあるヤコブを殺したとき、エルサレムのクリスチャンたちはきっと神様に「どうしてですか」と尋ねたことでしょう。

(ちなみに、このヘロデ王は、ベツレヘムでイエス様を殺そうとしたヘロデの孫です。また、17節に登場するヤコブは、イエス様の弟です。)

彼らがヤコブの死を悲しんでいる最中、ヘロデ王はすぐにペテロを捕らえ、牢に入れ、彼も処刑しようとしました。

しかし、神様は奇跡的にペテロを救い出されました。

では、なぜ神様はペテロを助け、ヤコブを助けられなかったのでしょうか。

ペテロのために祈ったとき、クリスチャンたちはより強い信仰を持っていたからでしょうか。

そうではありません。ペテロが門の前に立っていると告げられたとき、彼らは「あなたは気が変になっている」と言いました。

彼らはペテロのために熱心に祈っていたのに、神様が「はい」と答えられるとは全く信じていなかったようです。

では、なぜでしょうか。

私たちには分かりません。

不思議であり、時に痛みを伴う真理は、神様の計画が私たちの計画とは異なるということです。

では、私たちはどのように応答すべきでしょうか。

1. どんな試練に直面しても、神様が良い方であることを信じましょう。

私たちは神様の計画を理解できないかもしれませんが、その計画が良いものであるという確信を持つことができます。なぜなら、神様は良い方だからです。

2. 神様が最終的に正義をもたらされることを信じましょう。

神様はその正義を速やかにもたらされますが(ルカ18:7ー8)、私たちの「速やかさ」と神様の「速やかさ」は異なります(黙示録6:9ー11)。

それでも、神様はご自身の時に、正義をもたらしてくださいます。この話では、その正義を見ることができます。結局、神様はヘロデをさばいて殺されました(20~23節)。

3. 祈り続け、神様を求め続けましょう。

イエス様は私たちにそう命じられました(ルカ18:1)。

しかし、祈るときに覚えておくべき大切なことがあります。私たちの目的は、神様を私たちの計画に従わせることではなく、神様の計画を知り、その計画に従うことです。

最近、私の友人が興味深いことを言いました。「神様はいつも私の祈りに答えてくださいます。でも、ほとんどの場合、神様は私の期待通りには答えてくださいません。」

彼がそう言ったとき、苦々しい態度ではありませんでした。また、祈ることを諦めようとしているわけでもありませんでした。むしろ、神様が良い方であるという確信をもって語っていました。

神様は良い方です。神様の計画は良いものです。

けれども、イエス様がこの世に来られ、その計画が成就するとき、私たちはなお信仰をもっているでしょうか(ルカ18:8)。

あなたはどうでしょうか。そのような信仰を持っているでしょうか。

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兄弟姉妹たちの信仰を励ます

バルナバはそこに到着し、神の恵みを見て喜んだ。そして、心を堅く保っていつも主にとどまっているようにと、皆を励ました。

彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。(使徒の働き11:23-24)

今日、私は上の言葉に思いを巡らしています。バルナバのように人々の信仰を鼓舞する、私の二人の友人のことを考えていました。彼らは、人々がイエス様に忠実に従い、心のすべてを捧げるように励まします。

また、他の人々がサウロのことを疑ったときに、バルナバが彼を信じたように、私の友人たちも人々を信じます(使徒の働き9:26-27;11:25-26)。

バルナバと私の友人たちのことを思いながら、私もそのような人になりたいと願っています。

この世にいる限り、私は人々の信仰を励ましたいのです。イエス様が私を通して彼らに触れてくださり、彼らも周りの人々の信仰を励ますようになることを願っています。

だから、今日私は祈っています。「主よ、誰に触れてほしいのですか。私は誰の信仰を励ますことができるのでしょうか。どうすれば、私は彼らの信仰を成長させることができるのでしょうか。」

今、神様はあなたの心に語りかけておられるかもしれません。あなたは誰に触れることができるでしょうか。

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神がきよめたもの

神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。(使徒の働き10:15)

(ペテロは)その人たちにこう言った。「ご存じのとおり、ユダヤ人には、外国人と交わったり、外国人を訪問したりすることは許されていません。

ところが、神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならないことを、示してくださいました。(28節)

イスラエルの民をご自身の民として召されたとき、神様は食べ物に関する多くの規定を与えられました。「この食べ物やその食べ物は、あなたたちにとって汚れている」と言われました。

しかし、その規定の目的は単なる健康上の配慮ではありませんでした。むしろ、それらの日々の規則を通して、イスラエルの民は周囲の国々の慣習に流されず、神様の導きに従って生きるべきであることを思い起こさせられました。

神様は彼らにこう教えようとされたのです。

「周りの人々がある食べ物を口にしているからといって、あなたたちもそれを食べるべきとは限らない。

同じように、周りの人々がある罪を犯しているからといって、あなたたちもその罪を犯すべきとは限らない。

今や、あなたたちは私の民である。だから、私に従いなさい。」

そういうわけで、神様が「汚れている食べ物」を食べるように命じられたとき、ペテロは衝撃を受けました。

ところが、ペテロが「この食べ物は汚れています」と言ったとき、神様はこう言われました。「私はこのものをきよめた。私がきよめたものを、汚れていると言ってはならない。」

けれども今回も、神様は単なる食べ物について話していたのではありませんでした。

むしろ、神様がペテロに示そうとされたのは、神がアブラムに与えられた「大いなる国民となる」という約束が、もはやユダヤ人だけに限られないということです。

その約束は、かつて「汚れた異邦人」とされていた者たちにも与えられました。つまり、イエス様を信じるすべての人が神様に受け入れられるということです。(エペソ2:12-18)

神様は私たちについても語られています。かつて、神様の約束は私たちのものではなく、私たちは神の民から除外され、希望を持たず、神様との関係もありませんでした。

しかし、十字架で流されたイエス様の血によって、神様は私たちをご自身に近づけてくださいました。私たちはきよめられ、罪の咎も清められました。

だからこそ、今、私たちは聖徒です。私たちは神の子供です。

けれども、多くのクリスチャンは自分をそのように見ていません。

もしかすると、過去の罪を思い出して恥じているのかもしれません。または、何度も罪に負けてしまうために、失望し、恥を感じているのかもしれません。

あるいは、幼い頃から、両親や先生に「お前はダメだ」と言われ続けてきたのかもしれません。

あなたはどうでしょうか。自分を汚れた存在だと思ってしまうことはありますか。神様があなたを「聖徒」と呼ぶことが、残酷な冗談のように聞こえることはありませんか。

鏡を見たとき、あなたは何を見ますか。その人を受け入れることができますか。それとも、「自分はダメだ」という考えが、心の中で響き続けているでしょうか。

神様はあなたにこう語られています。

「わたしがきよめたものを、あなたが汚れていると言ってはならない。 わたしはあなたの罪をきよめた。だから、罪悪感を抱き続ける必要はない。

わたしはすでにあなたを受け入れている。自分を責め続けるのはやめなさい。 あなたはわたしの愛する子なのだから。」

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新しい命

(サウロ)は三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしなかった。(使途の働き9:9)

たぶんイースターの後にこの箇所を読んだからこそ、上の言葉が私の心を打ったのでしょう。

サウロは、ある意味で死んでいました。

しかし、三日目に、彼は新しい人として復活しました。

サウロはイエス様を見直したのです。

彼は、イエス様を偽メシアとはもう思わず、真のメシア、そして主であると認めました。

サウロが驚いたのは、自分がイエス様の民を攻撃し、イエス様ご自身を迫害したにもかかわらず、主でありメシアであるイエス様が彼を愛し、十字架で彼の罪の代価を支払ってくださったことです(ガラテヤ2:20)。

サウロは悔い改めて、自分自身を見直したのです。

自分の義に関するプライドは消えました。ユダヤ人としての地位や、パリサイ人としての誇りも消えました(ピリピ3:4-6)。

むしろ、彼は、自分が神様の恵みを必要とする罪人であることを悟ったのです。そして、神様がその恵みを与えてくださったことに、彼は驚き、大いに喜びました。

サウロは、他の人々のことも見直しました。

かつて彼が軽蔑していた「道の者」、つまりイエス様の弟子たちは、今や彼の兄弟姉妹となりました。また、以前は見下していた異邦人たちも、神様に愛されていることを悟り、彼らに福音を届けることがサウロの使命となったのです。

私たちクリスチャンも、新しい命を与えられました。

私たちもイエス様を見直してきたでしょうか。私たちにとって、イエス様はただ昔に死んだ人ではなく、私たちを愛し、救ってくださった主であり救い主なのでしょうか。

私たちも悔い改めて、自分自身を見直してきたでしょうか。

私たちの自尊心は、自分の達成や地位に基づくものではなく、赦された罪人であるという事実に根ざしているでしょうか。

神様が私たちに「あなたは私の愛する子どもだ」と言われるとき、私たちは驚き、大いに喜ぶでしょうか。

私たちは、周りの人々のことも見直してきたでしょうか。彼らを、神様が愛し、大切にされる人々だと認めているでしょうか。彼らが新しい命を知るために、神様が私たちを遣わしておられることを悟っているでしょうか。

もしかすると、私たちはまだ死んでいる人のように振る舞っているかもしれません。

だからこそ、パウロと改名されたサウロのように、こう言いましょう。

というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。

私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。

ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5:14-17)

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弟子の心

ピリポとエチオピア人の話を読むとき、私はたいていピリポのことを考えます。特に、「私はピリポのように御霊に導かれたらいいなあ」と思います。

でも、今日私はエチオピア人の心に感動しました。なぜなら、彼は真の弟子の心を持っていたからです。

つまり、彼は謙遜に学びたいという態度を持っていたのです。今日の話では、彼は聖書を読んでいましたが、その言葉が理解できませんでした。

ピリポが「あなたは、読んでいることが分かりますか」と訊いたとき、エチオピア人は自分のプライドを保とうとしませんでした。「もちろん分かっていますよ」とは答えなかったのです。

むしろ、彼は謙遜に「預言者の言葉が分かりません」と認めて、ピリポに助けを求めました。

イエス様の弟子たちも同じ態度を持っていました。イエス様がたとえ話を語られたとき、その後に弟子たちは何度もイエス様に「私たちはその話の意味が理解できません。教えてください」と言いました。

あなたはどうでしょうか。聖書の中に理解できない言葉があるとき、「もういいや」と思ってしまうでしょうか。

それとも、誰かに助けを求めるでしょうか。「これはどういう意味でしょうか。私は分かりません」と訊くでしょうか。

しかし、弟子は聖書の言葉を理解しただけでは満足しません。むしろ、その人は御言葉に従います。

エチオピア人はそのような態度を持っていました。彼は福音を理解した後、たまたま水のある場所を見つけると、「バプテスマを受けてもよいでしょうか」と尋ねました。

彼はまったくためらうことなく、その言葉に従ったのです。

謙遜、学びたいという態度、従順。それが弟子の心です。

あなたはどうでしょうか。弟子の心を持っているでしょうか。

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神様にとって本当に重要なこと

うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。

あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。(使徒の働き7:51)

ユダヤ人の指導者たちはステパノに対して重大な告発をしました。つまり、ステパノが神殿や神の律法に逆らう言葉を語ったということです(6:13~14)。

しかし、ステパノによれば、その指導者たち自身が神様に逆らっていました。

過去にユダヤ人の先祖たちが、神様の任命された救い主であるヨセフ(創世記37:8、26~28;45:5~7)とモーセ(使徒の働き7:27、39)を拒絶したように、ユダヤ人の指導者たちはイエス様を拒絶してしまいました。

そして、その指導者たちが律法に従っていると主張したにもかかわらず、彼らは先祖たちと同様に、律法に何度も違反し、ついにはイエス様を十字架につけてしまいました。

さらに、彼らは神殿を大切にしましたが、その理由は誤っていました。

神殿自体は重要なものではありませんでした。なぜなら、人が造った建築物は主を収めることができないからです。むしろ、神殿は神様が人々の間に住まわれることを象徴するものにすぎませんでした(使徒の働き7:47~50)。

ヨハネによれば、イエス様こそが真の神殿です(ヨハネ2:19~21)。

イエス様にあって、神様は人となり、私たちの間に住まわれました。

原語では、ヨハネは文字通り「イエス様にあって、神様は私たちの間に幕屋を建てられた」と述べています(ヨハネ1:14)。

しかし、ユダヤ人の指導者たちはイエス様を大切にせず、むしろ十字架につけてしまいました。

では、神様にとって本当に重要なことは何でしょうか。それは、私たちが御子を敬い、御子に従うことです。天の父ご自身がこう言われました。

これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。(マルコ9:7)

主よ、あなたこそが律法の指し示す方です。あなたこそが幕屋や神殿の象徴する方です。私が御霊に逆らったとき、どうか赦してください。また、あなたに耳と心を閉ざしたときも、赦してください。

十字架で、あなたは私のためにご自身の命を捧げられました。私の心の中で、もう二度とあなたを十字架につけたくはありません。(へブル6:6)

あなたは私の愛、敬い、従順にふさわしい方です。毎日、それらをあなたに捧げることができるよう、どうか助けてください。

私はあなたを愛しています。あなたがまず私を愛してくださり、ご自身の命を私のために捧げてくださったことは、本当に不思議なことです。心から感謝します。あなたのみ名によって祈ります。アーメン。

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御霊と知恵に満ちた人

そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。

その人たちにこの務めを任せることにして、私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。(使徒の働き6:3ー4)

今日の箇所を読んだとき、「祈りとみ言葉」と「御霊と知恵に満ちた人」の関係が見えてきました。

御霊に満ちた人になりたいですか。イエス様のように、御霊に導かれ、その力によって歩みたいですか(ルカ4:1、14)。

そのような人生を送りたいのであれば、御霊と繋がらなくてはなりません。つまり、私たちは祈らなくてはならないということです。毎日、私たちは、御霊が私たちを満たし、力を与え、導いてくださるように祈るべきです。

イエス様は私たちに言われました。「求め続けなさい。探し続けなさい。たたき続けなさい。そうすれば、神様は必ず御霊を与えてくださいます。」(ルカ11:9-13)

知恵に満ちた人になりたいですか。聖書に専念する人にならなくてはなりません。聖書を読み、その言葉に思いを巡らしてこそ、神様のように考え始めるのです。

使徒たちはその二つのことに専念したので、御霊と知恵に満ちた人になりました。でも、そのような生活は、ただ偉いクリスチャンたちのためのものではありません。

私たち皆が、そのようなクリスチャン生活を送るべきなのです。

使徒の働きの時代、すべてのクリスチャンたちはみ言葉と祈りに専念していました。(使徒の働き2:42)

だから、そのような生活は、ただ偉いクリスチャンのためであるという嘘を信じてはいけません。イエス様についていくすべてのクリスチャンが、そのように生きるべきなのです。

神様の民である私たちが御霊と知恵に満ちて生きるとき、私たちの愛する人々、そしてこの国の人々も変えられ、イエス様に従うようになります。

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イエス様の名前だけによって

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。(使徒の働き4:12)

クリスチャンとして、私たちはこのような言葉を何度も聞いてきたので、もはや深く考えることも少ないかもしれません。

しかし今日、私の心にこの問いが浮かびました。「そのユダヤ人の指導者たちは、それを聞いて何を思っただろうか。」

「イエス以外には、誰によっても救いはないって?でも、ヤハウェだけが私たちの救い主です。」(ヤハウェとは、ユダヤ人やクリスチャンが信じる神の御名です。)

また、「天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないって?でも、ヤハウェだけが私たちの救い主です。」

実は、その考え方は間違っていませんでした。預言者イザヤを通して、神様はこう語られました。

わたし、主(直訳、「ヤハウェ」)ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、わたしをおいて、ほかにはいない。

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。

わたしは自分にかけて誓う。ことばは、義のうちにわたしの口から出て、決して戻ることはない。すべての膝はわたしに向かってかがめられ、すべての舌は誓い…(イザヤ書45:21-23)

でも、ユダヤ人の指導者たちが知らなかったのは、神様が人間となられたということです。つまり、イエス様こそがヤハウェなのです。

だからこそ、神様はマリアに「その子をイエスと名付けなさい」と言われました。「イエス」とは、「ヤハウェが救い」を意味します。

また、使徒パウロも後に、上記のイザヤ書の言葉をイエス様に当てはめました。(ピリピ2:6-11)

イエス様を知らない、私たちの愛する人々のことを考えると、きっと多くの人がこう思いたくなるでしょう。「その人はイエス様を知らないけれど、神様はきっと受け入れてくださるだろう。」

しかし、イエス様のみ名のほかに、私たちが救われるべき名は与えられていないのです。なぜなら、イエス様だけが人となられた神であり、私たちの罪のための代価を払ってくださった方だからです。

さらに、イエス様が神であったからこそ、私たちの罪の代価を完全に払うことができたのです。

だから、今日祈るときに、イエス様を知らないあなたの愛する人々のことを思い起こしましょう。そして、彼らに救いの良い知らせを伝えるための機会と大胆さを求めて祈りましょう。

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希望と喜びを持って、歩む

彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。(使徒の働き2:42)

今日の箇所を読むと、上の言葉をクリスチャンの生活のための方式にしてしまうのは簡単だと思います。

つまり、「良いクリスチャンになるためには、教会に行き、聖書を読み、祈り、聖餐式に参加しなければならない」という方式を作ることです。

私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。

それゆえ、私の心は喜び、私の舌は喜びにあふれます。私の身も、望みの中に住まいます。

あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。(25-28節)

その言葉を読んだとき、私はダビデの喜びに気づかされました。

「主は、いつも私と共におられます。だから、暗い谷、死の陰の谷を歩んでも、私は揺るがされることはありません。あなたは私をよみに捨て置かれることはありません。だから、この世にあっても、あなたは私を見捨てられることはないでしょう。

あなたはいのちの道を示してくださいました。あなたの御前にいるだけで、私は喜びに満たされています。」

ダビデの希望のよりどころは、主が常に共におられるという確信でした。

あなたにある敬虔な者(つまり、イエス様)に滅びをお見せにならないからです。(27節)

イエス様が生きておられるからこそ、私たちも生きることができるのです。(ヨハネ14:19)

その希望と喜びをもって、初代のクリスチャンたちは日々を歩んでいました。

だからこそ、彼らは喜んで使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りを捧げていたのです。彼らにとって、愛してくださる主とその民と共に時を過ごすことは、何よりの喜びでした。

それゆえ、私は自分に問いかけました。「私はその希望と喜びをもって、生きているだろうか。」

あなたは、その希望と喜びをもって、生きていますか。

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主がもう一度来られるから

「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。

あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒の働き1:11)

今朝、上の言葉を読んだとき、私はこう考えました。「天使たちは何を伝えたかったのだろうか。ただ『イエス様がもう一度この世に来る』と告げたかっただけなのだろうか。」

もしかすると、その言葉には言外の意味が込められていたのかもしれません。

きっと、言外の意味があったのでしょう。私にははっきりとは分かりませんが、もしかしたら天使たちは、弟子たちにイエス様の言葉を思い出させたかったのかもしれません。

つまり、

腰に帯を締め、明かりをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人たちのようでありなさい。。。

主人が帰って来たときに、そのようにしている(つまり、忠実に仕えている)のを見てもらえるしもべは幸いです。(35-36,43)

要するに、天使たちは弟子たちにこう語りかけていたのだと思います。「どうして、ただそこに立っているのですか?イエス様は帰って来られます。だから、行きなさい。イエス様が命じられたことを行いなさい。」

もちろん、弟子たちが福音を述べ伝える前に、聖霊様が来て彼らを満たしてくださるのを待たなければなりませんでした。

しかし、待っている間、彼らは共に祈り、ユダの代わりにマッティアという人を選びました。

ところで、私たちはどれほど、イエス様がもう一度この世に来られることを思い巡らしているでしょうか。そのことを覚えて、神様から与えられた働きを忠実に行っているでしょうか。

正直に言うと、私はよく自分のしていることに夢中になってしまい、神様が私に望んでおられることを全く考えなくなってしまいます。その結果、どうでもいいことに時間や力を浪費してしまうのです。

あなたはどうでしょうか。神様から与えられた働きを、忠実に果たしておられますか。

主よ。あなたはこの世に帰って来られます。その日がいつなのか、私は分かりません。けれどもその日、私があなたから与えられた働きを忠実に行っている姿を、あなたに見ていただきたいのです。

私に何をしてほしいのかを教えてください。誰に触れてほしいのかを教えてください。

あなたのみ名によって祈ります。アーメン。

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ルカの福音書のデボーション

どうして?

すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入れられていた男を願いどおりに釈放し、他方イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。(ルカの福音書23:25)

「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。

だがこの方は、悪いことを何もしていない。」(40-41)

主よ、あなたが十字架で私のためにしてくださったことを理解するのは、あまりにも深く、難しいのです。

私は死刑を受けるべき者でした。罪人である私が死刑に値するのは当然のことでした(ローマ6:23)。

それに対して、あなたは無実でした。あなたは悪を何一つ行っておられませんでした。それなのに、あなたは十字架につけられるために引き渡され、私はバラバのように解放されました。

バラバは、「なぜイエスではなく、私が解放されたのだろうか」と疑問に思ったでしょうか。

また、「なぜ私ではなく、イエス様が十字架につけられたのだろうか」と思ったでしょうか。

あなたが十字架につけられたとき、バラバもその場にいて、あなたを見ていたでしょうか。

群衆と共に、彼も胸を打ち叩きながら悲しみに沈んで帰って行ったのでしょうか。

主よ、あなたが私のためにしてくださったことを思うとき、私は言葉を失います。

Amazing love! 
How can it be that you my King would die for me?

素晴らしい愛。どうしてこんなことが起こるのでしょうか。
あなた、私の王が、私のために死んでくださるなんて!

ビリー・ジェームズ・フット
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イエス様への祈り

シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。

しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカの福音書22:31ー32)

主よ、ある日、あなたはこの世に来て、すべてを治められます。その日、私たちはあなたと共に治めます(第二テモテ2:12)。

それに、私たちはあなたの食卓で食し、あなたとの交わりを楽しみます。

でも、今はその時ではありません。ペテロや弟子たちのように、私たちは試練に直面します。その試練によって、サタンは私たちを麦のようにふるいにかけようと望んでいます。

だから、ペテロのために祈ってくださったように、私たちのためにも祈ってください。私たちのためにとりなしてください。

主よ。私は自分のことをよく知っています。私が失敗する時が必ず来ます。

でも、その時、私を引き起こしてください。そして、私の兄弟たちを力づけるために、私を用いてください。彼らに、私が受けた恵みを彼らも受けることができることを思い出させてください。

そして、私が落ち込んでいる時、あなたの恵みが私から遠く感じる時、私を力づけるために、私の兄弟たちを用いてください。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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私たちの主の模範に倣う

「あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。

その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。

しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」

こうしてイエスは、昼は宮で教え、夜は外に出てオリーブという山で過ごされた。(ルカの福音書21:34~37)

イエス様は私たちに安楽な人生を約束してはいないのです。

弟子たちは、イエス様がローマ帝国を打ち倒し、自分の国を建てるという夢を持っていました。けれども、イエス様はエルサレムが倒れ、彼らがイエス様のために迫害されることを警告されました。

さらに、イエス様は、ご自身が雲のうちに来られる前に、他の試練も訪れることを警告されました。

だから、イエス様は彼らを戒められました。「いつも目を覚まして、その試練から逃げられるように祈っていなさい。」

興味深いのは、イエス様がすぐに弟子たちに模範を示されたということです。

イエス様には、ご自身の試練が迫っていました。つまり、彼はすぐに私たちの罪のために十字架にかけられるということです。

だから、イエス様は毎晩オリーブ山に登られました。彼が寝るために行ったとは思えません。おそらく、彼は力を得るために祈っておられたのでしょう。

もちろん、イエス様は十字架から逃げることはできませんでした。しかし、最終的に彼は十字架を耐え忍び、三日目によみがえられました。

イエス様のように、私たちも避けられない試練に直面するかもしれません。私たちが苦しむ時もあります。弟子たちのように、私たちがイエス様のために迫害されるかもしれません。

あなたは、その試練を耐える力を持っているかどうか疑問に思うかもしれません。あなたにはそのような力はありません。私にもありません。自分の力によって、その試練を乗り越えることはできません。

だから、イエス様の模範に従って、力を得るために祈りましょう。そして、天の父がイエス様を強くされたように、私たちをも強くしてくださいます。(ルカ22:43)

私たちは、自分の十字架に遭遇しなければならないかもしれません。でも、イエス様のように、復活をも経験するのです。

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イエス様が訪れるとき

もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。。。

神の訪れの時を、おまえが知らなかった。。。(ルカの福音書19:42,44)

数週間前、私の牧師が霊的な盲目について話して以来、私はそのテーマをルカの福音書の中で何度も見ています。

弟子たちもパリサイ人たちも、自分の霊的な目と耳を閉じていて、多くのことが彼らの目から隠されていました。(ルカ18:34;19:39-41)

弟子たちの場合、彼らは少なくともイエス様がメシアであることを認めていました。(メシアが何なのかはちゃんと分かっていなかったけれど。)

でもパリサイ人たちは、イエス様の奇跡を見て、イエス様の知恵に答えられなかったのに(ルカ13:17;14:6)、目と耳を閉じて、イエス様を拒絶しました。だから、彼らは神の訪れの時を知らなかったのです。

彼らとは対照的に、イエス様が訪れたとき、二人の人々はイエス様を本当に見たいし、聞きたいと願っていました。

エリコで、バルティマイという盲人は「私は見たい」と叫びました。

多くの人々が彼を黙らせようとしましたが、彼はあきらめずに叫び続けました。イエス様は彼の声を聞いて、彼を呼んでくださいました。

そして、バルティマイの信仰によって、彼は救われました。(ルカ18:35-43、マルコ10:46-52)

ザアカイは背が低かったので、イエス様を見るために、頑張って木に登って目を凝らしました。イエス様は彼も見て、呼んでくださいました。

そして、イエス様がザアカイの家に訪れて、悔い改めのメッセージを述べ伝えると、ザアカイは悔い改めて、救われました。(ルカ19:1-10)

イエス様は私たちのところに訪れ、私たちに平和と救いを与えたいと願っておられます。でも、私たちの目と耳を開かないと、その平和と救いを知ることができません。

クリスチャンでも、盲目になる可能性があります。

ラオディキアの教会は盲目でした。彼らは「良い生活」を送っていました。でも、イエス様によれば、彼らは実際にはみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸でした。(黙示録3:17)

だから、イエス様は彼らに言いました。「私はあなたに義を着せて、目が見えるようにします。」

イエス様は私たちにも同じことを言われます。

イエス様は私たちを愛して、ザアカイのように悔い改めるように呼びかけておられます。(黙示録3:19)

だから、イエス様の言葉に耳を傾けて、従いましょう。

見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示録3:20)

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イエスに従うことを妨げるもの

イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(ルカ9:23)

私たちがイエス様に従うことを妨げるものは何でしょうか。

パリサイ人の場合、プライドは大きな問題でした。特に、彼らは自分の義を誇り、自分の罪を見ることができなかったのです。そのような人々には、憐れみの必要性や救い主の必要性がわかりませんでした。(ルカ18:9-14)

指導者の場合、自分の持ち物が大きな問題でした。つまり、イエス様に従うことよりも、楽な生活と安心感を与えてくれるお金を優先したということです。(18-25)

弟子たちの場合、イエス様に従うことを妨げるものは、自分たちの夢でした。それは、イエス様がローマ帝国を打ち倒し、イエス様の国の中で彼らに偉大な地位を与えるという夢です。

それ以外のことについては、彼らはイエス様のためにすべてを捨てていましたが、その夢だけは手放すことができませんでした。

だから、イエス様がご自身の死について話されたとき、彼らは理解できなかったのです。ペテロの場合、彼はイエス様をいさめようとしました。(マルコ8:32)

神様、罪人の私をあわれんでください。

私のプライドを赦してください。自分の罪を軽く見て、ほかの人々を見下すことを赦してください。私が自分の罪を見て、あなたの恵みの必要性を認識するように助けてください。

私の偶像礼拝を赦してください。あなたに従うことよりも、ほかのものを優先することを赦してください。

自分の夢と希望にしがみつき、あなたの言葉に目と耳を閉じることを赦してください。

あなたは良い方です。だから、あなたに従うために私にとって尊いものを失っても、もっと素晴らしいものを見つけることを私は知っています。(ルカ18:29-30)

天のお父様、変わるのは本当に難しいです。正直に言うと、それは不可能に近いように思えます。でも、人にはできないことが、あなたにはできます。

あなたはすでに、誰にもできないことをしてくださいました。つまり、私を自分の罪から救ってくださったのです。だから、私の人生に始められた良い働きを完成させてください。(ピリピ1:6)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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許し

イエスは弟子たちに言われた。「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。

その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。

兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て「悔い改めます」と言うなら、赦しなさい。。。

同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」(ルカの福音書17:1ー4,10)

主よ、私は、あなたの子供たちをつまずかせる者になりたくありません。私の行為や言葉を守ってください。私が人をつまずかせる者ではなく、人の成長に役立つ者となるようにしてください。

そして、人々が私を傷つける時、私が相手を許すことができるように助けてください。

あなたは七回以上、私を赦してくださいました。あなたに何度も赦されたしもべである私が、相手を許すべきなのは当然のことではないでしょうか。それが、私のなすべきことではないでしょうか。

でも、時々、それは簡単なことではありません。特に、桑の木のように私の痛みが根深いときには、許すのは難しいのです。

でも、あなたが言われたのは、相手を許すために私には大きな信仰は要らないということです。私の小さな信仰でも、十分なのです。なぜなら、あなたは偉大な神だからです。

あなたがしてくださったことのゆえに、私がいつも感謝の心を持つことができますように。特に、あなたは私の多くの罪を赦してくださいました。

十人の人のツァラアトを清められたように、私の罪を清めてくださいました。私がその赦しを決して当たり前のものと思わないように。むしろ、その感謝の念が深まるにつれて、私が相手を許すことができますように。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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あなたは取るに足りない者ではない

私はこの話を何度も読んだことがあります。でも、今日、この言葉が思い浮かびました。

「神様の目には、取るに足りない人などいません。」

羊飼いはまだ99匹の羊を持っていたのに、彼にとって、いなくなった1匹の羊は取るに足りないものではありませんでした。

女の人はまだ9枚も銀貨を持っていたのに、彼女にとって、なくなった1枚の銀貨は取るに足りないものではありませんでした。

父にはもっと「忠実」な息子がいたのに、次男がその父に「お父さんが死ねば良いのに」と言ったのに、その父にとって、次男は取るに足りないものではありませんでした。

そのように、神様にとって、私たちも取るに足りないものではありません。

神様にはたくさんの子供たちがいるかもしれません。その子供たちは、私たちよりも才能があり、もっと忠実で、もっと素直な人かもしれません。

でも、神様は私たちを見捨てて、死なせたわけではありません。むしろ、私たちがまだ罪人であったとき、イエス様は私たちのために死んでくださいました。(ローマ5:8)

そして、私たちが悔い改めて神様のもとに戻ると、神様は私たちを大歓迎して、天使たちとともに大喜びしてくださいます。

だから、覚えておいてください。あなたは神様にとって取るに足りないものではありません。むしろ、神様にとって、あなたは尊い人です。

その真理に思いを馳せましょう。その真理を喜びましょう。

でも、それだけではなく、私たちが神様から受けた愛と憐れみを、周りの人々に与えましょう。

なぜなら、彼らも神様にとって取るに足りないものではないのです。

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私たちは塩気をなくする

塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。

土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられます。

聞く耳のある者は聞きなさい。(ルカの福音書14:34-35)

イエス様の弟子として、私たちの「塩気」をなくすことは、簡単なことです。つまり、イエス様のためにこの世に触れる力を失うのは、簡単なのです。

例えば、人が作った宗教的なルールに集中しすぎて、人への神様の愛と憐れみを忘れてしまうと、私たちは塩気をなくしてしまいます。また、イエス様の教えを拒むと、私たちは塩気をなくしてしまいます。(1-6)

恩返しすることができない人たちに謙遜に仕えず、むしろ、誇りのゆえに自分の大切さを周りの人々に示そうとするなら、私たちは塩気をなくしてしまいます。(7-14)

神様のことを当たり前のものだと思い、神様よりも家族やほかのものを大事にするなら、私たちは塩気をなくしてしまいます。(15-20,26)

イエス様に従うことよりも、自分の人生や夢、快楽、経済的な安全性を大事にするなら、私たちは塩気をなくしてしまいます。(26-27,33)

イエス様、私の塩気をなくしたくありません。時々、私はあなたの言葉に耳を閉じてしまいます。あなたとその御国よりもほかのものを大事にするときもあります。どうか赦してください。

あなたの心を私に与えてください。つまり、私の周りの人々への、愛深く憐れみ深い心を与えてください。

私の目を開いてください。私があなたの栄光と憐れみを見ることができますように。私への愛を見ることができますように。

それらを見るとき、あなたへの愛と、あなたに仕える気持ちが再びかき立てられますように。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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求め続けなさい、探し続けなさい、たたき続けなさい

ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。

探しなさい。そうすれば見出します。

たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。

あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。

卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。

ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。

それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。(ルカの福音書11:9ー13)

9節はこのようにも訳すことができます。「求め続けなさい。探し続けなさい。たたき続けなさい。」

でも、イエス様は、私たちが求めるものを必ず受け取ることを約束しているわけではありません。むしろ、イエス様は、私たちが必要なものを受け取ることを約束しておられるのです。(8)

神様は知恵をもって、パンを三つではなく、二つだけ与えてくださる時もあります。でも、その知恵をもって、パンの代わりにステーキを与えてくださる時もあります。

時々、私たちは魚を求めていると思っているけれど、実際にはそれが蛇です。また、卵を求めていると思っているけれど、実際にはそれがサソリである時もあります。

でも、神様は良いものだけを与えてくださいます。

祈りは、神様を操って、自分が求めるものを受け取るための方法ではありません。むしろ、祈りは、神様に近づく方法です。

祈りによって、私たちは神様の性格や考え方、そして愛を知るようになります。

神様を探すなら、神様を見出します。神様の戸を叩くと、その戸は開かれます。

さらに、神様は私たちに最も必要なものを与えてくださいます。それは神様ご自身です。

私たちの試練や苦しみの中で、神様は私たちに御霊を与えてくださいます。そして、その時、御霊は私たちを導き、慰め、力を与えてくださいます。

だから、毎日、求め続けましょう。探し続けましょう。叩き続けましょう。

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イエス様に尋ねることを恐れる

これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。(ルカの福音書9:35)

イエスは弟子たちにこう言われた。「あなたがたは、これらのことばを自分の耳に入れておきなさい。人の子は、人々の手に渡されようとしています。」

しかし、弟子たちには、このことばが理解できなかった。彼らには分からないように、彼らから隠されていたのであった。彼らは、このことばについてイエスに尋ねるのを恐れていた。(43ー45節)

その最後の言葉は私の心を打ちました。

「弟子たちには、このことばが理解できなかった。。。彼らは、このことばについてイエスに尋ねるのを恐れていた。」

どうして、彼らはイエス様に尋ねるのを恐れていたのでしょうか。8章では、彼らは気軽に「それがどういう意味なのか」と尋ねていました。(8:9)

どうして彼らが恐れていたのか、私は分かりません。でも、もしかしたら、彼らは実際にその答えを知りたくなかったのかもしれません。なぜなら、その答えは彼らの希望や夢を壊してしまうからです。彼らの考え方を全く変えなくてはならないのです。

たぶん、心の中で、その答えをもう知っていたのでしょう。イエス様はとてもはっきりと語っておられました。でも、彼らはその言葉を受け入れたくなかったのです。

それが、自分の目と耳を神様の御言葉に閉じるということです。

イエス様は、どれほど私たちに「これらのことばを自分の耳に入れておきなさい」と言われるでしょうか。

もしかしたら、聖書を読むとき、自分の罪に気づくかもしれません。

あるいは、祈るとき、神様からの思いが浮かぶことがあります。「あなたは違う進路を行かなくてはならない。あなたの計画を変えなくてはならないのです。」

でも、私たちはイエス様に、「あなたが私に何を言おうとしているのか」と尋ねることを恐れています。なぜなら、私たちはイエス様の答えを恐れているからです。

だから私たちは言い訳をします。「私はその言葉がわからなかったのです。」

でも、実際には、私たちは知りたくなかったのです。

私もそれをしたことがあります。特に日本に引っ越すことについてです。

でも、天の父は私たちに言われます。「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。」

イエス様についていくのは、簡単なことではありません。支払わなくてはならない代価があります。

イエス様についていくと、私たちが苦しむことは珍しくありません(23ー24)。多くの場合、イエスに従うには、犠牲を払う必要があります(57ー62)。

でも、私が学んだこと、そして今も学び続けていることは、命を見つけるためには、イエス様に従わなくてはならないということです。私も代価を支払わなくてはなりませんでした。

でも、私は後悔していません。なぜなら、私が失ったものは、私が得たものと比べものにならないからです。

私はハワイに、家族や友達、そして素晴らしい教会を残してきました。でも、日本では、新しい家族、新しい友達、そして素晴らしい教会を見つけました。さらに、私のための神様の目的を見つけました。

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。(23ー24)

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私たちの目と耳を開く

聞く耳のある者は聞きなさい。(ルカの福音書8:8)

今日の箇所を読んで、私の牧師のメッセージを思い出しました。そのメッセージは霊的な盲目について語っていました。(マルコ8章)

マタイの福音書では、マタイはルカよりもイザヤ書からもう少し多く引用しています。(10節)

この民の心は鈍くなり、 耳は遠くなり、目は閉じているからである。 彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、 心で悟ることも、立ち返ることもないように。

そして、わたしが癒やすこともないように。(マタイ13:15)

今、私は考えています。「私の心が鈍くなっているところがあるだろうか。以前は、ある御言葉が私の心を打ったり、私の心にしみたりしたけれど、私が何もしなかったために、今その御言葉を聞いても、何も感じなくなってしまった……そういう御言葉があるだろうか。」

また、私の耳が鈍くなるようなものはないだろうか。私のプライドによって、「私はもう知っている」という態度で、私の耳が遠くなってしまっただろうか。

もしかしたら、YouTubeやポッドキャストなどの騒音が多すぎて、神様が私に語ろうとしていることが聞こえなくなっているのだろうか。

私が見たくないために、神の御言葉に対して私の目を閉じる時があるだろうか。なぜなら、その言葉を見ると、私の考え方や行動を変えなくてはならないけれど、私は変わりたくないから。

イエス様は、私に言われているのだろうか。「聞きなさい。あなたの目を開きなさい。あなたを癒したいから。あなたを導きたい。私はあなたのために、より良いものを整えているから。」

主よ、あなたの恵みによって、私の目を開いてくださいました。私の罪や頑固さによって、私がその目をもう一度閉じることがないようにしてください。

あなたの御声が聞こえるように、私の耳を開いてくださいました。私のプライドやこの世の騒音によって、その耳が鈍くならないようにしてください。

あなたは良い方です。あなたの御言葉は良いものです。だから、私がその御言葉をしっかり守るように助けてください。

その言葉に従うのが難しいときも、私があなたと一緒に前に進むように助けてください。あなたのために実を結びたいから。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私にどんな恵みがあるだろうか

自分を愛してくれる者たちを愛したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。(ルカの福音書6:32)

今朝、私はその言葉に思いを巡らしていました。

もし、私が愛してくれる人たちだけを愛し、良いことをしてくれる人たちだけに良いことをするなら、私は神様からどんな恵みを受けることになるでしょうか。

神様から、私が人々に与えているような「恵み」(それは実際には恵みではないでしょう)を受けることになるでしょうか。

神様が、私が値したものだけを与えてくださるとしたら、私は何を受けることになるでしょうか。

また、もし私が周りの人々に与えている恵みがそのようなものだとしたら、私は本当に神の恵みを理解していると言えるでしょうか。

主よ、私の心を探ってください。私はあなたの恵みを本当に理解しているでしょうか。

あなたの恵みをもっと深く知るように助けてください。その恵みを把握し、私が周りの人々へのあなたの恵みのチャンネルとなるようにしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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赦し、清めようとされるイエスの心

「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」

イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。」(ルカの福音書5:12-13)

上の言葉は、5章の内容の多くをまとめていると思います。

イエス様は、三人の罪人に出会われました。すなわち、ペテロと中風を患っている人、そしてマタイです。

そして、ある人の全身がツァラアトに冒されていたように、ペテロと中風を患っている人、そしてマタイの心全体も罪に冒されていたのです。

しかし、イエス様がその人のツァラアトを清められたように、ペテロと中風を患っている人、そしてマタイの罪も清めてくださいました。

私たちは、ペテロのように叫んだことがあるでしょうか。 「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。どうして私を受け入れられるでしょうか。どうして私を赦すことができるでしょうか。」

けれども、イエス様は恵みをもって、釘のあとがある手を伸ばして私たちに触れ、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われます。

さらに、イエス様は私たちに言われます。 「これから、私と一緒に、神の国のために人間を取りましょう。そうすれば、彼らもあなたが受けた恵みを知るようになります。」

感謝と喜びをもって、イザヤと一緒に叫びましょう。 「ここに私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ書6:1ー8)

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満たされ、導かれ、力を帯びている

さて、イエすは聖霊に満ちてヨルダンから帰られた。そして御霊によって荒野に導かれ、四十日間、悪魔の試みを受けられた。。。。

イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。(ルカの福音書4:1-2,14)

聖霊様、あなたが私と共におられなければ、私はこのクリスチャン生活を送ることができません。

私には誘惑に打ち勝つ力がありません。

私は試練や霊的な荒野を耐えることができません。

私はあなたの働きをすることができません。私には人に触れる力がありません。

私にはあなたが必要です。

あなたがイエス様を満たされたように、私を満たしてください。

あなたがイエス様を導かれたように、私を導いてください。

あなたがイエス様に力を与えられたように、私に力を与えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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真の悔い改め

それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。(ルカの福音書3:8)

主よ、私はあなたのようになりたいです。 だから、どうか真の悔い改めの心を与えてください。

あなたの言葉が私の罪を明らかにするとき、私が言い訳をし、その罪を正当化しようとしないようにしてください。

むしろ、私がへりくだり、「私はどうすればよいのでしょうか。あなたは私に何を望んでおられるのでしょうか」と尋ねることができるようにしてください。

そして、あなたに従う力を与えてください。 私が悔い改めにふさわしい実を結ぶように助けてください。 あなたを離れては、私は変わることができません。(ヨハネ15:5)

神よ、私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23-24)

私へのあなたの恵みと忍耐を感謝します。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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神様が約束されたことを信じる

主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。(ルカの福音書1:45)

神様が約束されたことを信じることには、祝福があります。

その約束を信じるとき、苦しい時にも、私たちは希望を与えられます。 なぜなら、神様が私たちの味方であることを知っており、神様が私たちのための計画を実現してくださることも知っているからです。(ローマ8:18-32)

さらに、

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。

神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル11:6)

だから、私たちが自分に問いかけなくてはならないのは、「神様が約束されたことを信じているだろうか」ということです。

私たちは、マリアと一緒にこの歌を歌えるでしょうか。

私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために、目を留めてくださったからです。

ご覧ください。今から後、どの時代の人々も、私を幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。

その御名は聖なるもの、主のあわれみは、代々にわたって、主を恐れる者に及びます。(46-50節)

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御霊が私たちの上に臨むとき

聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。(ルカの福音書1:35)

もちろん、御使いはマリアに語り、処女であるにもかかわらず、どのようにして赤ちゃんを産むことができるかを説明しました。

けれども、今日私が気づいたのは、イエス様が昇天される前に、似たような言葉を弟子たちに語られたということです。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。

そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:8)

イエス様が生まれるために、聖霊様がマリアの上に臨み、神の力がマリアを覆ってくださったように、すべての国民が新しく生まれるために、聖霊様は私たちの上にも臨み、神の力が私たちを覆ってくださいます。

あなたは、自分を普通の人だと思うかもしれません。

しかし、マリアも普通の人でした。

弟子たちも普通の人たちでした。

それでも、神様は彼らを用いてくださいました。

同じように、神様は周りの人々に命を与えるために、あなたをも用いてくださいます。

聖霊様、私の上に臨んでください。あなたの力で私を満たしてください。私を用いて、周りの人々に命を与えてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ルカの福音書のデボーション

恵まれた人

主は今このようにして(別訳:恵みと感心を持って)私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました。(ルカの福音書1:25)

おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。(28節)

恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。(30節)

上の言葉は私の心に打ちました。

神様は関心と恵みを持ってエリサベツに目を留め、子どもがいないという恥を取り除かれました。(その時代、子どもがいないことは、とても恥ずかしいことだったのです。)

また、神様は恵みを持ってマリアに目を留め、御子の母となるように選ばれました。

そして、神様はエリサベツとマリアに恵みを持って目を留められたように、私たちにも恵みを持って目を留めてくださいます。

マリアのように、私たちは恐れずに、むしろ、大胆に神様に近づくことができます。

また、神様はエリサベツの恥を取り除かれたように、イエス様の十字架によって、私たちの恥、つまり私たちの罪の恥を取り除いてくださいました。

だから、その真理に思いを巡らしましょう。

「神様は恵みを持って私に目を留めておられます。神様から恵みを受けたのです。」

「神様は私と共におられます。」

「神様は私の恥を取り除きました。だから、私は大胆に神様に近づくことができます。」

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サムエル記第二のデボーション

従順を選ぶ

いろんな意味で、これはとても難しい箇所です。

イスラエル人たちは罪を犯していました。

何の罪を犯したのか私たちは分かりませんが、もしかすると、その罪は、神様がイスラエルのために選ばれた王であるダビデを拒み、アブサロムやシェバに従ったことかもしれません。

とにかく、彼らの罪のために、神様はイスラエルの民を裁くことにされたのです。ところで、それはとても重要なポイントです。

ダビデの意見とは違って(17節)、イスラエル人たちは有罪であり、神の裁きにふさわしい者たちでした。

しかし、「ダビデをそそのかして、イスラエル人たちに向かわせた」とは、いったいどういう意味でしょうか。

神様はダビデに罪を犯させたのでしょうか。

また、歴代誌第一21章によれば、サタンがダビデをそそのかしてイスラエルの人口を数えさせたと書かれています。

では、ダビデの行動は誰の責任だったのでしょうか。

それは難しい疑問です。

けれども、私たちは三つのことを覚えていなくてはなりません。

一つ目は、サタンが常に神の民に敵対して立ち上がるということです。サタンは私たちを滅ぼそうとします。

しかし、ヨブ記の物語から分かるのは、神様がサタンの働きを制限されるということです(ヨブ記1〜2章)。

二つ目は、神様が人々を試すため、あるいは裁くために、その制限を一時的に緩められることがあるということです。

サウル王やアハブ王の場合には、神の裁きが示されました。(第一サムエル記16:14;列王記第一22:19〜23)

ヨブやイエス様(マタイ4:1)の場合には、神様が彼らを試されました。

三つ目は、神様が制限を緩められても、人が罪を犯さなければならないわけではないということです。人は正しいことを選ぶことができます。

ヨブとイエス様は正しい道を選びましたが、サウル王とアハブ王は罪を選びました。

ですから、神様が裁きの目的でサタンへの制限を緩められたとしても、ダビデには選択の余地がありました。そして、彼は罪を選びました。

ダビデ自身、自らの責任を認めています(10節、17節)。

神様がダビデに罪を犯すよう強制されたわけではなく、サタンが彼に罪を犯させたわけでもありません。

むしろ、ダビデは自らの心にある罪によって、罪を犯したのです(ヤコブ1:14)。

おそらく、ダビデの問題はプライドだったのかもしれません。つまり、自分の軍隊の力を誇りたかったのです。そのために、イスラエルの民を数えようとしたのでしょう。

ここで、さらに二つのポイントを指摘したいと思います。

一つ目は、イエス様の十字架のあと、私たちは神の子供として、神の裁きを恐れる必要がないということです。(第一ヨハネ4:14〜19)

イスラエルの民と同じように、私たちも神様の裁きにふさわしい者です。けれども、十字架において、イエス様は私たちの代わりに神の裁きを受けてくださいました。

神様が私たちを懲らしめられることはありますが、私たちは神様の裁きを受けることはありません。(へブル12:5〜11;ローマ8:1)

二つ目は、神様がサタンへの制限を緩められることがあり、私たちが試練や誘惑に直面することもありますが、私たちは罪を選ぶ必要はありません。

むしろ、パウロが言ったように、

あなたがたが経験した試練(別訳;誘惑)はみな、人の知らないものではありません。

神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。

むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(第一コリント10:13)

だから、私たちへの神様の忠実さと愛を信じ、ヤコブの言葉を覚えながら、神様についていきましょう。

試練に耐える人は幸いです。

耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。(ヤコブ1:12)

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サムエル記第二のデボーション

神様が私たちを見るとき

主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたからです。

主は、私の義にしたがって私に報い、手のきよさにしたがって顧みてくださいました。(サムエル記第二23:20-21)

ダビデの人生、特に彼の多くの失敗を考慮に入れると、その言葉は驚くべきものです。

それでも、ダビデはこう言えました。

私は主の道を守り、私の神に対して悪を行ないませんでした。

主のすべてのさばきは私の前にあり、主の掟から、私は遠ざかりませんでした。私は主に対して全き者。

自分の咎から身を守りまます。(22-24)

私は、ダビデが自分の失敗を忘れていたとは思いませんし、その罪を軽視していたとも思いません。

しかし、ダビデは神の恵みを深く理解していました。ほかの詩篇では、ダビデはこう歌っています。

主は、いつまでも争ってはおられない。
とこしえに、怒ってはおられない。

私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、
私たちの咎にしたがって私たちに報いをされることもない。。。

東が西から遠く離れているように、
主は、私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。(詩篇103:9-10,12)

何年か後、神様は預言者イザヤを通して、こう言われました。

わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(イザヤ書43:25)

でも、どれほど私たちは自分の罪と失敗をくよくよするでしょうか。どれほど私たちは自責の念で苦しむでしょうか。

神様は私たちの罪を忘れることを選ばれました。神様はもう二度とその罪のために私たちを責めることはありません。

神様が私たちをご覧になるとき、聖く、傷のない者、また、キリストの義を着ている者として見なされます。

私たちの「義」は不完全なものです。その「義」はしばしば不純な動機に汚されています。

それでも、神様は恵みによってダビデの義を受け入れられたように、私たちの義も受け入れてくださいます。

それでも、神様は恵みによってダビデの義を受け入れられたように、私たちの義も受け入れてくださるのです。

そればかりか、神様は私たちを喜びとされるのです。

主は生きておられる。ほむべきかな。
わが岩。あがむべきかな、わが救いの岩なる神。(47)

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サムエル記第二のデボーション

正義?

「ダビデは神のみ心に従ったでしょうか。」

今日の箇所を読んだ時、私はそう思いました。

サウルはギブオン人たちとの条約に違反して、多くのギブオン人を殺していました。(ヨシュア記9:3〜17)

そのゆえ、イスラエルの土地は霊的に汚され、飢饉が起こりました(民数記35:30〜34)。

その飢饉は三年間続き、ダビデは神様のみ顔を求めました。そして、神様はその飢饉の理由を明らかにされました。

ところが、そのあと、この話は少し霊的に濁ります。

ダビデはギブオン人たちに、何の償いを求めるか尋ねました。

彼らは、サウルの子孫7人を処刑するために引き渡してほしいと願いました。ダビデはその願いを叶えました。

しかし、ダビデは正しいことをしていたのでしょうか。

神様の律法によれば、殺人者の血以外によって土地は宥められることはありませんでした。(民数記35:33)

さらに、その律法によれば、子が父の罪のために殺されてはならなかったのです。(申命記24:16)

最後に、神様は、殺人者がすでに亡くなっている場合については何も命じておられませんでした。

けれども、殺人者が見つからない場合についての戒めはありました。それは、いけにえと祈りによって、その罪が赦されるということです。(申命記21:1〜9)

もしかすると、サウルの場合、神様は少し違う指示を与えられたかもしれませんが、おそらく似たような戒めを与えられたでしょう。

しかし、ダビデは神様にどうすればよいかを尋ねませんでした。

皮肉なことに、ヨシュアも初めてギブオン人たちに出会ったとき、同じような過ちを犯していました。(ヨシュア記9:14)

神様の恵みによって、その飢饉は終わりました。

それでも、ダビデの行為が神のみ心にかなっていなかったことを示唆するものがあるでしょうか。

私は、その示唆があると思います。

つまり、サウルの子孫が殺された後も、その飢饉はしばらく続いたということです。

実は、もう一つの違反がありました。神様の律法によれば、かけられた死体は翌日まで木に残されてはならなかったのです(申命記21:22〜23)。

その死体が埋葬されて初めて、飢饉は終息しました。

私たちはこの話から何を学べるでしょうか。

私たちは神のみ言葉をよく知っているでしょうか。何が神様を喜ばせるか、喜ばせないかを知っているでしょうか。

もし私たちが神のみ言葉を知らなければ、良い意図があっても、神様を喜ばせないことをしてしまうかもしれません。

だからこそ、毎日神のみ言葉を読み、学びましょう。

その言葉によってのみ、私たちは神様をどのように喜ばせることができるかを知ることができます。

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サムエル記第二のデボーション

罪悪感を手放す

王は身を震わせ、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。

「わが子アブサロム。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。

アブサロム。わが子よ、わが子よ。」(サムエル記第二18:33)

私の意見ですが、おそらくダビデはアブサロムの死が自分のせいだと思い、深い罪悪感を抱いていたでしょう。

なぜなら、アムノンがアブサロムの妹タマルを辱めた時、ダビデは何も行わなかったからです。

そして、アブサロムがアムノンを殺したあとも、ダビデは自分に与えられた神の恵みとあわれみをアブサロムに示さず、かえって彼から遠ざかってしまったのです。

でも、19章でヨアブが指摘したように、その罪悪感によって、ダビデとその国が滅ぼされる恐れがありました。

ダビデのように、私たちは自分の罪と失敗のために罪悪感を抱いているかもしれません。

その罪と失敗が、私たちの愛する人々にどのような影響を与えたかを見ると、それは特に苦しいことです。

でも、私たちがその罪悪感を手放して前に進まなければ、私たちの人生は壊れてしまいます。

私たちが自分の罪と失敗を軽視した方がいいと言っているわけではありません。自分の行為がそれほど悪くなかったと自分に言い聞かせようとしているわけでもありません。

むしろ、私たちは自分の罪を神様に告白するべきです。

そして、できれば私たちが傷つけた人に、自分の過ちを認めて、償いをするべきです。

また、私たちは反省して、自分の失敗や罪から学ぶべきです。

でも、そのあと、私たちは神様の赦しを抱くべきです。人々が私たちを許してくれなくても、神様は私たちを赦してくださいます。

罪悪感には私たちを滅ぼす力があります。でも、それは私たちのための神の望みではありません。

イエス様は十字架で、私たちのすべての罪と咎を背負われました。

そして、イエス様の血によって、私たちの罪は清められました(第一ヨハネ1:7)。

神様の目には、私たちはしみ一つない者です。

神様の目には、私たちは傷のない者です(エペソ1:4;5:27)。

私たちは赦されました!

あなたにとっては、それが信じにくいことかもしれません。

でも、それは本当です。

サタンの嘘を信じてはいけません。あなたの罪、あなたの失敗は赦されないものではありません。

神様の目には、あなたはしみ一つない者です。

神様の目には、あなたは傷のない者です。

あなたは赦されました!

だから、パウロの言葉を覚えていて、自分のものにしましょう。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

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「許せない!」

「許せない!」

アヒトフェルは、ダビデが自分の孫バテ・シェバとその夫ウリヤに何をしたかを知ったとき、たぶんそう言ったのでしょう。(第二サムエル記11:3;23:34)

自分の行為によって、ダビデはバテ・シェバに恥をかかせ、アヒトフェルの家名を汚してしまいました。

だから、私たちはダビデに関するアヒトフェルのアドバイスをよく理解できます。

たぶんアブサロムがダビデの側女たちと寝た場所さえも、アヒトフェルには意義があったのでしょう(第二サムエル記11:2;16:20-22)。

また、どうしてアヒトフェルが兵士ではなく、ただの助言者でありながら、自らダビデを殺す軍隊を率いたかったのか、私たちは理解できます。

でも、最終的に、アヒトフェルはダビデを許せなかったため、自分の人生が壊れてしまいました。

あなたはどうですか。許してあげなければならない人はいますか。

許すとは、
囚人を自由にし、
その囚人が自分であったと分かってくることです。

ルイス・B・スメデス
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サタンが私たちを責める時

出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者よ。主がサウ ルの家のすべての血に報いたのだ。。。

今、おまえはわざわいにあうのだ。 おまえは血まみれの男なのだから。(サムエル記第二16:7ー8)

たぶん、その言葉はダビデの心に染みたでしょう。

もちろん、ダビデはサウルとイシュ・ボシェテを殺したわけではないし、サウルの王座を奪ったわけでもありません。

それでも、ダビデは殺人者でした。そして、ナタンはダビデに、神様がその罪のゆえにダビデの家の中からダビデの上にわざわいを引き起こす、と言っていました(第二サムエル記12:11)。

だから、シムイの言葉が大分間違っていても、その言葉には真実味がありました。

もしかしたら、そういうわけで、ダビデは、「彼が呪うのは、主が彼に『ダビデを呪え』と言われた。だれが彼に『おまえは、どうしてこういうことをするのだ』と言えるだろうか」と言ったのかもしれません(10節)。

ダビデは自分の罪の実を刈り取っていました。

それでも、神様はダビデを責めていたわけではありません。神様はすでにダビデを赦してくださっていたのです(第二サムエル記12:12)。

さらに、私たちは後で見ることになりますが、神様はダビデの味方でした(第二サムエル記17:14)。

時々、この世界で、私たちは自分の罪の実を刈り取ります。

その時、サタンが私たちを責め、その言葉は私たちの心に染みます。なぜなら、その言葉には真実味があるからです。

でも、私たちがすでに悔い改めたのなら、神様は私たちを責めていないことを覚えておきましょう。

神様は私たちをすでに赦してくださいました。さらに、神様は私たちの味方です。

だから、パウロの言葉を心に留めておきましょう。

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。(神ではありません。)

神が義と認めてくださるのです。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。(イエスではありません。)

死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。 (ローマ8:33ー34)

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私の王がおられるところに

イタイは王に答えて言った。

「主は生きておられます。そして、王様も生きておられます。王様がおられるところに、生きるためでも死ぬためでも、このしもべも必ずそこにいます。」(サムエル記第二15:21)

その言葉は私の心に響きました。

イタイは外国人でした。おそらくピリシテ人で、ダビデがサウルから逃れていた頃に彼に従い始めました。

なぜ彼がピリシテを離れたのかは聖書に記されていませんが、ダビデがついに王となった時、イタイは新しい国、新しい家を見出しました。

しかし今、ダビデは再び逃亡中でした。今回は、息子アブサロムからの逃亡でした。

イタイはエルサレムの居心地の良い家に留まることもできましたが、彼は再びダビデに従う道を選びました。

ダビデは彼に残るよう説得しようとしましたが、イタイはどうしてもダビデと共に行くことを望みました。

彼の言葉を読んで、新約聖書に登場するもう一人の人物を思い出しました。その人はイエス様にこう言いました。

「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」

イエス様はその人に、ダビデがイタイに語った言葉とよく似たことを語られました。

狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。(マタイ8:20)

私たちは、その人がどう答えたかわかりません。彼はイタイのように、「私の主がおられるところに、生きるためでも死ぬためでも、このしもべも必ずそこにおります」と答えたでしょうか。

主よ、あなたは楽な人生を約束されません。しかし、あなたは私を愛してくださっています。あなたは私を救ってくださいました。あなたがおられるところこそ、私の家なのです。

だから、私の王、あなたがおられるところに、このしもべも必ずおります。

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サムエル記第二のデボーション

子どもたちへの赦しと希望の言葉

私たちの子どもたちが大きな失敗をしたとき、私たちはどんなメッセージを伝えるでしょうか。

私たちは彼らから距離を置くでしょうか。

彼らがしたことは許されないという印象を与えるでしょうか。

ダビデはそのようなメッセージをアブサロムに伝えてしまいました。

ダビデがアブサロムを抱きしめ、もう一度自分の愛を伝えていたらよかったのに。

ダビデがアブサロムに、次のような言葉を伝えていたと想像してみましょう。

「私はあなたと同じ立場に立ったことがある。私も人を殺した。しかも、私の理由はあなたの理由よりももっとひどかった。でも、神様は私にご自分のもとに戻る道を備えてくださった。神様はあなたにも、その道を備えることができる。」

ダビデがそう言っていたら、アブサロムは悔い改めたでしょうか。

私はわかりません。そうだったかもしれませんが、私にはわかりません。

しかし、神のいつくしみ深さが私たちを悔い改めへと導いてくださいます(ローマ2:4)。

だからこそ、私たちの子どもたちが大きな失敗をしたとき、その同じ恵みを与え、主のもとに帰る道を示してあげましょう。

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主に愛された者

彼女は男の子を生み、彼はその名をソロモンと名づけた。主は彼を愛されたので、預言者ナタンを遣わし、主のために、その名をエディデヤと名づけさせた。(「エディデヤ」とは「主に愛されたもの」を意味します)。(サムエル記第二12:24-25)

ダビデは大きな失敗をしていました。自分の罪によって、ダビデは主を蔑んでしまいました。そして、その罪の結果は、ダビデとその家族に長い間、大きな影響を与えました。

それでも。。。

ダビデの悔い改めに伴って、彼は神様の赦しを知りました。そのあと、ダビデはこの言葉を書きました。

東が西から遠く離れているように、
主は、私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。(詩篇103:12)

もし私が神様だったら、たぶんこう言っていたと思います。

「ダビデとバテ・シェバを赦しはするが、この結婚を絶対に祝福しない。」

でも、神様はそのようには考えられませんでした。

ソロモンを「主に愛された者」と名づけることによって、神様はダビデとバテ・シェバにこのメッセージを伝えたかったのだと思われます。

「私はあなたたちをまだ愛している。あなたたちの罪によって、つらい時に直面することになるが、この子どもを見るとき、私の愛があなたたちから取り去られていないことを心に留めなさい。

ソロモンは私の愛する子どもです。あなたたちも、私の愛する子どもたちです。」

そして最終的に、ダビデとバテ・シェバとソロモンを通して、イエス様はこの世に来られました。(マタイ1:6–16)

それは恵みです。それは神の忠実な愛です。

あなたはどんな後悔を抱えているでしょうか。自分の過去の罪の結果によって、今も苦しんでいるでしょうか。

心に留めておきましょう。ダビデとバテ・シェバとソロモンのように、あなたは主に愛されている子どもです。

イエス様にあって、赦しがあり、神があなたのために整えられた道があります。

だからこそ、イエス様と共に、次の一歩を踏み出しましょう。

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サムエル記第二のデボーション

神様がどう思っておられるか

しかし、ダビデが行ったことは主のみこころを損なった。(サムエル記第二11:27)

私の意見ですが、聖書には、特に歴史書(ヨシュア記から歴代誌第二まで)には、上のような言葉がもっと書かれていたらいいのにと思います。

聖書には、時々「良い登場人物」が疑問に思われるような決断、あるいはまったく悪い決断をすることがありますが、神様がそのことについてどう思っておられたかは書かれていません。

私たちはその行動の悪い結果を見るかもしれません。それでも、神様はその人に対して一言の叱責も語られないのです。

だから、私たちはこう思うのです。 「もし神様がその行為を憎んでおられたとしたら、どうして何も言われなかったのだろうか。」

私はしばしばそう感じます。

しかし、心に留めなければならないのは、聖書の著者たちが、私たちがすでに神様がその行為についてどう感じておられるかを知っていることを前提にしている、ということなのです。

なぜなら、私たちは十戒や神の他の律法を知っているし、ほかの箇所では神様が同じような行為にどう反応されたかを知っているからです。

だから、多くの場合、聖書の著者たちはわざわざ「ところで、その人は悪かった」とは言いません。

でも、この場合、著者はわざわざ「ダビデが行ったことは主のみこころを損なった」と書いています。

なぜでしょうか。私はわかりません。

でも、その言葉から、私たちは大切な訓戒を学ぶことができると思います。

時々、ダビデのように、私たちは神様の戒めに違反しても、自分を騙し、自分が別に悪いことをしていないと自分に言い聞かせます。(第二サムエル記11:25)

特に、すぐに悪い結果が現れないとき、また、神様の叱責を感じないとき、私たちは自分を騙してしまいます。

それでも、私たちが行ったことは、神様の御心を損なっています。

神様はその行為をご覧になっています。そして、ある日、私たちは神様のみ前で、自分のことを申し開きしなければなりません。

地上でそうしなければならないかもしれませんし、神様の裁きの座の前でそうしなければならないかもしれません。

でも、いつか私たちは、自分のことを申し開きしなければなりません。

だから、自分を騙してはいけません。むしろ、神様に対して柔らかい心を保ち、私たちの良心が麻痺しないように、神の言葉を無視しないようにしましょう。

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サムエル記第二のデボーション

神の忠実な愛を受ける者として

王は言った。「サウルの家の者で、まだ、だれかいないか。私はその人に神の恵み(つまり、忠実な愛)を施そう。」(サムエル記第二9:3)

上の言葉は、私の心を打ちました。

第二サムエル記7章では、神様がご自分の忠実な愛をダビデに与えられ、ダビデは圧倒されました。

けれども、ダビデは神様に感謝しただけではありませんでした。

むしろ、ダビデは他の人々への神の忠実な愛のパイプラインになりたいと願っていました。

だからこそ、彼は積極的に、誰にその愛を与えられるかを探しました。

ヨナタンへのダビデの愛と約束のゆえに、メフィボシェテが選ばれたのは当然のことでした。(第一サムエル記20:14–15)

しかし、ダビデはメフィボシェテに、自分の忠実な愛だけでなく、神の忠実な愛を示したかったのです。

だから、この話の中で、ダビデはそのように行動しました。

主よ、私は周りの人々への、あなたの忠実な愛のパイプラインになりたいと願っています。

ダビデのように、私が積極的に、誰にあなたの愛を示すことができるかを探すように、私を助けてください。

そして、私と共にいるその人が、あなたの忠実な愛に圧倒され、喜びをもって叫びます。

「いったい私は何者なのでしょうか。神様がこのように私を愛してくださっているとは!」

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サムエル記第二のデボーション

神の忠実な愛

わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。

しかしわたしの恵み(英訳、忠実な愛)は、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない(サムエル記第二7:14-15)

神様はソロモンに関して、ダビデにそのように約束されました。しかし、興味深いのは、パウロがその言葉を少し変えて、私たちに当てはめたということです。

わたしはあなたがたの父となり、 あなたがたはわたしの息子、娘となる。 ──全能の主は言われる。(第二コリント6:18)

パウロが私たちに語っているのは、「ソロモンに関する言葉は、あなたたちにも当てはめられます。なぜなら、神様はあなたたちを、ご自分の子どもと呼ばれるからです」ということです。

たとえ私たちがソロモンのように大きな失敗をし、神様が私たちを厳しく懲らしめなければならなくなったとしても、神様はご自分の忠実な愛を私たちから決して取り去ることはありません。

この大切な真理を心に留めておきましょう。

「私たちの神との関係は、私たちの忠実さではなく、私たちへの神様の忠実な愛に基づいています。」(第二テモテ2:13)

天のお父さん、あなたが私を、ご自分の子どもと呼んでくださることに感謝します。私への、あなたの忠実な愛を与えてくださることに感謝します。

私は何者でしょうか。あなたが私をここまで導いてくださったとは。

私は何度も失敗し、あなたに忠実ではありませんでした。

あなたは大いなる方です。あなたのような方はほかになく、あなたのほかに神はいません。

あなたの言葉と、私への約束はまことです。

だからこそ、この祈りをあなたにささげる勇気を得ました。

天のお父さん、あなたを愛しています。私へのあなたの忠実な愛に確信を持っています。

だから今、あなたに近づき、その愛のうちに安心しています。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第二のデボーション

私たちのアイデンティティー

今日、ミカルの話を考えていました。

興味深いことに、第二サムエル記6章では、ミカルは「ダビデの妻」ではなく、「サウルの娘」と呼ばれています。

もしかしたら、第一サムエル記の著者には、それは深い意味がなかったかもしれません。その著者はヨナタンを「サウルの息子」と何度も呼びました。

それにしても、ダビデの友だちであることと、ダビデの妻であることは全く違うことでしょう。

創世記には、モーセが言ったのは、「男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる」ということです。(創世記2:24)

そのように、女も父と母を離れ、その夫と結ばれ、ふたりは一体となるはずです。

でも、ミカルが「ダビデの妻」と呼ばれるのは3回だけです。それに対して、ミカルは8回「サウルの娘」と呼ばれます。

第二サムエル記6章では、ミカルは2回「サウルの娘」と呼ばれています。

それは適切なことだと思います。なぜなら、第一サムエル記15章では、彼女は父サウルと同じように考えていたからです。

つまり、ミカルは周囲の人々の意見を、神様を喜ばせることよりも大事にしたということです。(第一サムエル記15:24,30;18:7–8;第二サムエル記6:16,20)

ミカルがダビデと結婚したとき、前の生活、前のアイデンティティー、前の考え方を捨てたはずです。でも、むしろ、彼女はサウルの娘として生き続けました。

そのように、私たちキリストの教会は、キリストの花嫁として、前の生活、前のアイデンティティー、前の考え方を捨てたはずなのです。

しかし、私たちは本当にそうしているでしょうか。もしかすると、私たちはまだこの世の子として生き、この世の民と同じように考え、行動しているのかもしれません。

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私たちのリーダーたちのために祈る

私たちは、リーダーたちからしばしばがっかりさせられることがあります。

政治家も教会のリーダーたちも、私たちを失望させる時が多いです。

なぜなら、彼らはただの人間だからです。そういうわけで、彼らには欠点も失敗も多くあります。

ダビデはイシュ・ボシェテよりも強い王だったかもしれませんが、イシュ・ボシェテがアブネルのことをうまく扱えなかったように、ダビデもヨアブのことをうまく扱うことができませんでした。

さらに、王に関する神様の戒めを無視して、ダビデは多くの妻を持っていました。(申命記17:17)

ダビデは、少なくとも一人の妻と政治的な理由で結婚しました。(第二サムエル記3:3)

また、たぶん愛のためではなく、むしろ政治的な理由のために、ダビデはサウルの娘ミカルを自分に返してくれるように要求しました。ミカルの夫は彼女を愛していたのに、ダビデはその要求をしました。

ミカルはどう感じたでしょうか。もちろん、彼女はかつてダビデを愛していました。(第一サムエル記18:28)

しかし、父サウルに悪く扱われ(第一サムエル記25:44)、ミカルは新しい夫と歩んでいくことを選んだようです。

ところが今、彼女はダビデの愛のために他の妻たちと競争しなければなりませんでした。

もしかすると、そういうわけで、彼女はダビデを軽蔑するようになったのかもしれません。(第二サムエル記6:20)

それでも、神様はご自分の目的をダビデを通してもたらしました。

今なお、私たちが神様の目的を理解できなくても、神様は政治家や教会のリーダーたちを通してその目的をもたらされます。

だから、そのリーダーたちのために祈りましょう。彼らの欠点や弱さにもかかわらず、彼らを通して神様がご自分の目的をもたらされるように祈りましょう。

もし、そのリーダーたちが神様をまだ知らないなら、彼らの救いのために祈りましょう。

もし、彼らが神様を知っているなら、神様が彼らを導かれるように祈りましょう。

そしてその導きによって、彼らがリーダーとして、また人間として成長し、彼らに与えられた神様の召しを果たすことができるように祈りましょう。

神様は彼らに恵みを与えてくださっているのです。

その恵みの心をもって、彼らのために祈りましょう。

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サムエル記第二のデボーション

いつまで?

いつまで私たちは怒りや苦々しい思いを持ち続けるでしょうか。

いつ、その怒りと苦々しい思いを手放すのでしょうか。

アブネルはヨアブの弟アサエルを殺していたため、ヨアブともう一人の弟アビシャイはアブネルを殺そうとしました。

しかし、彼らがアブネルを追うにつれて、他の兵士たちも殺されていきました。

そして、太陽が沈んでもヨアブとアビシャイが諦めようとしないのがわかったとき、アブネルは彼らにこう言いました。

いつまでも剣が人を食い尽くしてよいものか。その果ては、ひどいことになるのを知らないのか。

いつになったら、兵たちに、自分の兄弟たちを追うのをやめて帰れ、と命じるつもりか。(サムエル記第二2:26)

後の章で見るように、ヨアブは非常に暴力的な人でした。(アビシャイも暴力的な人でした。)それでも、その日、彼はアブネルの知恵を認めて、帰りました。

あなたはどうでしょうか。心の中に、どんな傷を抱えているでしょうか。

許せない人がいるでしょうか。

自分の怒りのゆえに、相手を傷つけ続けようとしているでしょうか。

私たちの主の言葉に耳を傾けましょう。

「いつまでも剣が人を食い尽くしてよいものか。その果ては、ひどいことになるのを知らないのか。

あなたの怒りを手放しなさい。あなたの痛みを私に委ねなさい。そうすれば、私はあなたを癒します。」

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マタイの福音書のデボーション

私たちの上のキリストの血

すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」(マタイの福音書27:25)

民がその言葉を言ったとき、彼らが意味したのは、「イエスの死の責任を取ります。私たちにその責任を負わせていいです」ということでした。

しかし皮肉なことに、十字架においてイエス様は、私たちの罪の責任を取ってくださいました。

そして今、別の意味で、イエス様の血は私たちの上にあります。

神様が最初の契約を結ばれたとき、モーセは子牛と雄やぎの血をイスラエル人たちに振りかけました。その時、モーセはこう言いました。

これは、神があなたがたに対して命じられた契約の血である。(ヘブル9:20)

どうして、民はその血を振りかけられたのでしょうか。なぜなら、血を流すことがなければ、罪の赦しはないからです。(ヘブル9:22)

しかし、雄牛と雄やぎの血は、実際に罪を除くことはできませんでした。そのいけにえは、ただイスラエル人たちに自分の罪を思い出させるものであり、イエス様の十字架の働きの伏線でした。(ヘブル10:1ー4)

けれども今、イエス様はまことの幕屋、すなわち天に入り、ご自身の血によって私たちの救いを成し遂げてくださいました。(ヘブル9:11ー12)

そういうわけで、イエス様が死なれたとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。その幕は、神とその民の間にある隔ての壁の象徴でした。

そして、イエス様が死なれたとき、神様はこう言われたのです。

「あなたは新しい契約の血を振りかけられました。あなたの罪は赦されました。だから、あなたは自由に私に近づくことができます。」(マタイ26:28)

だから、ヘブル書の言葉を心に留めておきましょう。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブル10:19ー22)

イエス様の血は私たちの上にあります。だから、喜びを持って、神様に近づきましょう。

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福音の物語における私たちの役割

まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」

すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。(マタイの福音書26:13-15)

その言葉を読んだとき、私が気付いたのは、人々がラザロとマルタの妹マリアとその行為だけではなく(ヨハネ12:1-8)、ユダとその行為をもよく覚えているということです。

マリアはイエス様への愛のために覚えられています。ユダは、イエス様を裏切ることのために覚えられています。

そして、私はこう考えました。神様はエデンの時代から今まで、福音の物語を書き続けておられます。その物語の中で、私はどんな役を演じているのでしょうか。人々は私のことについて何を思い出すでしょうか。彼らは、どんな物語を語るでしょうか。

そして、ペテロのことを考えました。人々は彼のことも覚えています。彼らはペテロの大きな失敗をよく覚えています。ペテロは三度、「イエスを知らない」と言い張りました。けれども、ペテロは神の恵みを受けた者としても覚えられています。

それが福音の中心です。福音は神の恵みについての物語です。福音は、私たちの罪の赦しのために十字架で砕かれたキリストのからだと、流された血潮についての物語です。

自分の罪や壊れた人生を見るとき、私たちはよく落ち込んでしまいます。しかし、マリアとペテロのように、私たちは神の素晴らしい愛と恵みを受けた者です。それが、神様が書き続けておられる福音の物語における、私たちの役割です。

それを喜びましょう。

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神様を本当に知っている?

あなたのことをよくわかっている。(マタイの福音書25:24、英訳)

イエス様の第二のたとえ話で、悪いしもべはご主人にそう言いました。しかし、そのしもべは実際にはご主人のことをよく理解していませんでした。ご主人に関してゆがんだ考え方を持っていたため、ご主人とは全くかかわりたくなかったのです。

そのしもべと同じように、多くの人々は神様に関して、ゆがんだ考え方を持っています。特に、彼らは神様の戒めや罪の裁きを見ると、「神様は良い方、正義の方」とは言わず、「神様がそのような方なら、神様とは全くかかわりたくない」と言います。

また、ある人たちは神様を知っていると主張しますが、自分の行動によって、実際には神様を知らないことを証明してしまいます。つまり、神様を知っている人は、神の民を愛する者です。

羊とやぎのたとえ話において、私たちはその真理を知ることができます。イエス様によれば、私たちが神の民を祝福するとき、イエス様を祝福しているのです。

しかし、神の民を無視したり、虐待したりするとき、実際にはイエス様に対してそうしてしまっているのです。

(マタイ10:40-42と使徒の働き9:4-5に、その原則が示されています。)

もしかすると、ヨハネはそのたとえ話を思い巡らしながら、この言葉を書いたのかもしれません。

この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。(第一ヨハネ3:17)

私たちは本当に神様を知っているでしょうか。

神様が良い方であると信じているのでしょうか。

そして、神の民を愛しているのでしょうか。

愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。

愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。(第一ヨハネ4:7-8)

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罪の重荷に苦しむ人を支える

また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。(マタイの福音書23:4)

私たちは、パリサイ人たちや律法学者たちのように、神様の律法に余計なルールを付け加えることはないかもしれませんが、自分の罪によって苦しんでいる人たちを責めるのは、案外簡単なことです。

しかし、神様は、私たちが単に人を責めたり、逆にその人の罪を軽視したり、無視したりするのではなく、むしろ力となって、その人が罪を乗り越えることを助けるように望んでおられます。

そうする中で、私たちが神様から恵みと憐れみを受けたように、私たちも彼らに恵みと憐れみを与えるべきです。

だから、私たちの主の心を持ち、その言葉を心に留めておきましょう。

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28-30)

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わたしはあなたの神

死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。(マタイの福音書22:31-32節)

冬休みにハワイに帰ったとき、11年前に父の遺灰が散骨された場所を訪れました。

今日の個所を読んだとき、キリストにある私たちの希望を思い起こしました。

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とおっしゃった神は、今こう語っておられます。

「わたしは、あなたの父ジョージの神である。わたしは、ロブ牧師や、あなたが愛し、私を知っていたすべての人々の神である。さらに、わたしはあなたの神である。

今よりとこしえまで、わたしはあなたの神である。なぜなら、今よりとこしえまで、わたしはインマヌエル、あなたと共におられる神であるから。」

主よ、あなたにある希望を感謝します。あなたは死んだ者の神ではなく、あなたを知っている生きている者の神です。

だから、暗闇の中にいる人々や、絶望している人々に、その希望を伝えることができるように助けてください。今年、私があなたにある希望を彼らに分かち合うことができるように助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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自分が間違っていることを認める

多くの人が、自分が間違っていたと認めたくないものです。私もそうです。

祭司長や律法学者たちも同じでした。彼らは初めから、イエス様とバプテスマのヨハネを正当に評価しませんでした。

さらに、イエス様とヨハネのミニストリーによって変えられた人々を見ても、自分が間違っていたと認めようとはしませんでした。

その結果、彼らは最終的に粉々に砕かれてしまいました(マタイの福音書21:44節)。

それに対して、収税人や遊女たちは、ヨハネとイエス様の言葉を聞いて、謙虚に悔い改めました。そのゆえ、彼らは神様の恵みを受けました。

主よ、私の心が頑なになるときがあります。自分が間違っていると認めたくない時も、たくさんあります。どうか赦してください。私は、あなたと御国のために実を結びたいと願っています。

ですから、私が間違っているとき、それを認める心を、また、すぐに悔い改める心を与えてください。私があなたのようになりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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頑なな心

イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。(マタイの福音書19:8)

しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」(14節)

天のお父様、新年を迎えるにあたり、私が柔らかい心、子どものような心を持つことができますように祈ります。

すなわち、あなたに信頼する心のために祈ります。また、あなたの道が最善であると信じる心のために祈ります。そして、自分の罪にしがみつかず、言い訳をしない心のために祈ります。

あなたが私のために用意された次善のものに甘んじたくはありません。すなわち、あなたの「許し」にだけ満足したくはありません。

むしろ、あなたが私のために計画された最善を望みます。あなたが初めから私のために備えてくださったものを望みます。

ですから、私の心の頑なな部分を示してください。私の心の耕地を開拓してください。今年、あなたの鋤の刃が私の心の地面に深く食い込むように。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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人々をつまずかせる?

わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。

つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。(マタイの福音書18:6ー7)

主よ、私が決してあなたの子どもをつまずかせることがありませんように。私の人生を通して、人々があなたに近づくことを願います。人々をあなたから遠ざけることはしたくありません。

ですから、私のすべての行いとことばを守ってください。私のすべての行いとことばが、あなたの子どもたちを倒すものではなく、むしろ彼らを建て上げるためのものとなりますように。

あなたは、十字架で死なれるほどに、彼らを尊ばれました。ですから、私もあなたのように彼らを尊ぶことができますように。あなたの子どもたちへの愛の心を、私に与えてください。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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私の愛する子に聞け!

「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」。。。(マタイの福音書17:5)

クリスマスはもう終わりました。クリスマスの季節にイエス様のことを考えていた人がいたとしても、今では、多くの人々がイエス様のことをまったく考えていないかもしれません。

それも無理はありません。クリスマスのとき、人々が思い浮かべるイエス様のイメージは、飼い葉桶に寝ている赤ちゃんです。

赤ちゃんのイエス様は、人々に従順を求めることはありません。

しかし、天の父は「私の子に聞け」と命じられます。なぜなら、イエス様は2000年前に生まれた人間にすぎない方ではないからです。

イエス様は神の子です。イエス様は、天の父が愛される御子です。天の父はイエス様を喜ばれます。

ですから、クリスマスが終わっていても、私たちは毎日、天の父の言葉を忘れずに、御子に耳を傾けましょう。そして、それだけでなく、イエス様に従いましょう。

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喜びに動かされて

天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。(マタイの福音書13:44)

このクリスチャン生活を送るとき、私たちは何によって動かされているのでしょうか。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」などの言葉を読むと(マタイ16:24)、私たちは渋々その言葉に従っているのでしょうか。私たちは、ただ何を失うかを考えているのでしょうか。

それとも、その言葉を聞くと、喜びをもってイエス様に従っているのでしょうか。

私たちが捨てるものは、得るものよりも価値がないと、本当に理解しているのでしょうか。

主よ、あなたは良い神です。ですから、私が義務ではなく、むしろ喜びに満ちて、何も惜しまずに、すべてをあなたにささげることができますように。

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イエス様につまずいた?

イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。

目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。

だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」(マタイの福音書11:4-6)

イエス様が私たちの望み通りにしてくださらないとき、私たちは皆、失望することがあるでしょう。

ヨハネも、きっとそのように感じたことでしょう。彼は、イエス様がローマ帝国を倒し、神の御国を確立されることを望んでいました。

しかし、ヨハネは牢に入れられ、最終的には処刑されてしまいました。

それは辛い真理ですが、イエス様が私たちの願い通りに行動されないこともあります。

それでも、ヨハネへのイエス様のメッセージは、私たちへのメッセージでもあります。

「私はあなたの希望です。あなたには今、私が見えないかもしれませんが、私はあなたの益のために働いています。そして、あなたが私に希望を託すなら、最終的にあなたは失望させられることはありません。」

だから、2023年に目を向けるとき、その約束を覚え、ヘブル人への手紙の著者の言葉を心に留めておきましょう。

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。

「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。 遅れることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、 わたしの心は彼を喜ばない。」

しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(ヘブル人への手紙10:35ー39)

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イエス様のようになる

弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。(マタイの福音書10:24ー25)

たぶん、すべてのクリスチャンたちが「私はイエス様のようになりたい」と言うでしょう。

もちろん、イエス様はそれを聞いて、とても嬉しいでしょう。

でも、イエス様のようになることは、いつも楽な人生というわけではありません。

24〜25の前後を読むと、イエス様が私たちに警告しているのは、ある人々が福音を拒絶し、イエス様が迫害されたように、私たちも迫害されるかもしれないということです。

だから、私たちが自分自身に問いかけなくてはならないのは、それを受け入れられるかということです。良いことも悪いことも受け入れるほどに、私たちはイエス様のようになりたいのでしょうか。

イエス様、あなたのようになりたいのです。でも、そのような人生は、いつも楽しくて、楽ではないということがわかります。

時には、あなたが苦しまれたように、私も苦しまなくてはならないのです。また、あなたが拒絶されたように、私も拒絶されることがあるかもしれません。

でも、私には、あなたが私と共におられることが十分です。もし、私があなたのようになることができるなら、私は満足です。

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一言で

ただ、おことばを下さい。(直訳:一言をおっしゃってください。)そうすれば私のしもべは癒やされます。(マタイの福音書8:8)

その百人隊長は、権威と力をよく理解していました。彼は目上の人の権威と力の下に暮らし、自らも権威と力を振るっていました。

目上の人の一言で、彼はすぐにその言葉に従って行動しました。同じように、一言で、百人隊長の僕たちも彼の言葉に従って行動しました。

だから、その百人隊長はイエス様に言いました。「あなたがそのような権威と力を持っておられることを信じます。ですから、一言おっしゃってください。そうすれば、私のしもべは癒やされます。」

百人隊長の反応と比べて、弟子たちの嵐の中での反応を考えてみましょう。イエス様が一言で風と波を静めたとき、彼らは本当に驚いていました。

イエス様が一言で百人隊長の僕を癒し、悪霊を追い出されたのを見たばかりだったのに(13〜16)、弟子たちは本当に仰天しました。

主よ、私の薄い信仰のゆえに、私の目には、あなたが小さく見えることが多くあります。けれども、あなたは小さい方ではありません。

あなたは一言で、病の人を癒し、悪霊を追い出し、嵐を静められます。

一言で、すべてのものを造られ、そしてある日、一言で、すべてを終わらせて、新しい天と地を造ってくださいます(第二ペテロ3:5-13)。

ですから、私が百人隊長のような信仰を持つことができるようにしてください。どんな問題や嵐の中にあっても、あなたに信頼することができるように助けてください。

あなたが大いなる、素晴らしい神であることを感謝します。アーメン。

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自分の罪に気づく

先日、マタイ6:22ー23を読んだとき、「私の目は健やかなのだろうか?」と考えました。

健やかな目を持っていれば、私は自分の罪や欠点を見ることができるはずです。しかし、自分の罪や欠点を見逃し、周囲の人々のそればかりを見るのは、いかに簡単なことでしょうか。

英語のことわざに、「最も悪い種類の欺瞞は自己欺瞞である」というものがあります。イエス様の言葉を借りれば、もし人が自己欺瞞に陥っているとしたら、その闇はどれほど深いものでしょうか。(マタイ6:23)

(主よ。)だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを 傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。 主よ、わが岩 わが贖い主よ。(詩篇19:12ー14)

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健やかな目?悪い目?

からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。

ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。(マタイの福音書6:22ー23)

上のことばを反芻しながら、私は考えました。「私の目は健やかだろうか。私は物事を正しく見ているのだろうか。」

私は神様からの称賛を、人からの称賛よりも大切にしているだろうか。私は誰を喜ばせたいのだろうか。

また、この世のものを正しく見ているだろうか。その価値を正しく評価しているだろうか。つまり、この世のものよりも、神様とその御国を大切にしているのだろうか。

そして、私は神様のことを正しく考えているだろうか。神様を良い父として見なしているだろうか。神様が私を愛しておられると信じているだろうか。そのことを信じて、私は経済や健康や必要なものについて、過度に心配せずに生活しているだろうか。

主よ、私に健やかな霊的な目を与えてください。私が物事をあるがままに見ることができますように。

私が毎日、あなたの光の中を歩む者となりますように。「いのちの泉はあなたとともにあり あなたの光のうちに 私たちは光を見るからです。」(詩篇36:9)

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従い、信じ、礼拝する

イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」 」マタイの福音書4:4;申命記8:3)

天のお父様、私が欲しいものや必要なものを与えてくださらないときがあります。

それは、それらが悪いものだからではなく、むしろあなたが私に大切なことを思い出させたいからです。

この世のものは良いものであり、大切に思えるかもしれませんが、最終的にそれらは私に豊かな人生を与えることはできません。私に豊かな人生を与えるのは、あなたの口から出る一つ一つのことばによって生きることです。

ですから、イエス様と同じように、私があなたの良いことばに従う者となるように助けてください。(ヨハネ4:34)

イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」(マタイ4:7;申命記6;16;出エジプト記17:7)

天のお父様、あなたが私を本当に愛しておられることを信じています。あなたがいつも私と共にいてくださることを信じています。

ですから、イスラエルの民のようにならず、私が辛いときにもあなたの愛を疑うことがないようにしてください。むしろ、イエス様のように、小さな子どもが良いパパを信頼するように、私があなたに完全に信頼する者となるように助けてください。

そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」(10節;申命記6:13)

天の神様、あなただけが私の礼拝にふさわしいお方です。ですから、毎日、毎秒、私の言葉や思いや行為、すなわち私の命のすべてが、あなたへの礼拝となるようにしてください。私が他のものを礼拝することがないように。私が他のものに仕えることがないように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書のデボーション

クリスマスの祈り

主よ、私が決してあなたのことを当たり前のものだと思うことがないように。あなたの不思議さに心打たれる感動を、いつまでも失うことがないように。

祭司たちと律法学者たちは、感動を失ってしまったようです。彼らは毎日、聖書を学び、さまざまな宗教的な儀式を行っていました。しかし、あなたが生まれたと聞いても、あなたを探し求めようとはしませんでした。

むしろ、彼らは変わらない心で、自分の学びや儀式に戻っていきました。

主よ、私が博士たちのようになれますように。あなたを求め、あなたを見たとき、喜びに満たされ、ひれ伏して礼拝する者となりますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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クリスマスのメッセージ

マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイの福音書1:21)

「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

その言葉を聞いて、ヨセフはとても驚いたでしょう。

「私の息子が自分の民をその罪から救う?どういうことだろう?私の息子がどうやって人々をその罪から救うことができるのだろうか。」

その時、ヨセフは十字架をまったく想像できなかったでしょう。

もし御使いが、「この方はローマ人たちからお救いになる」と言っていたら、ヨセフはたぶんすぐに理解できたでしょう。なぜなら、神様は似た言葉をサムソンの両親に語られたからです(士師記13:5)。

しかし、「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」とは?

現代でも、その言葉を聞いて、ヨセフと同じように戸惑う人は多いでしょう。

もし彼らが自分に救いが必要だと思えば、政府の圧制からの救いを考えるでしょう。または、経済的な問題、健康の問題、家庭の問題などを考えるでしょう。

それらの問題が取り去られれば、喜びと平和を得られると考えるでしょう。

だから、もし彼らが祈ろうと思っても、それらの問題のために祈るでしょう。

けれども、彼らが気づいていないのは、自分の最大の問題が自分の罪であるということです。つまり、自分の罪からの救いを必要としていることに気づいていないのです。

多くの人々は自分の罪を軽んじています。また、自分の行為を罪として認めていません。

その一方で、ある人たちは自分の罪によって罪悪感と後悔を抱いていますが、どうしたらよいかわかりません。

それでも、どちらの場合でも、メッセージは同じです。

「イエス様がご自分の民をその罪からお救いになるために来られました。」

ですから、クリスマスのことを考え、私たちの愛する人々にクリスマスの意味をどのように説明すべきかを考えるとき、そのメッセージの中心を心に留めておきましょう。

イエス様がご自分の民をその罪からお救いになるために来られました。

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サムエル記第一のデボーション

私たちを解放し、賜物を与えてくださる

ダビデは、アマレクが奪い取ったものをすべて取り戻した。ダビデは、二人の妻も救い出した。

子どもも大人も、息子たちも娘たちも、分捕られた物も、彼らが奪われたものは、何一つ失われなかった。ダビデは、これらすべてを取り返した。。。

ダビデはツィクラグに帰って来て、友人であるユダの長老たちに戦勝品の一部を送って言った。

「これはあなたがたへの贈り物で、主の敵からの戦勝品の一部です。」

その送り先は。。。ダビデとその部下がさまよい歩いたすべての場所の人々であった。(サムエル第一30:18-19,26-27,31)

その言葉を読んだとき、私はイエス様についてのパウロの言葉を思い起こしました。

そのため、こう言われています。 「彼はいと高き所に上ったとき、 捕虜を連れて行き、 人々に贈り物を与えられた。」(エペソ4:8)

ダビデが捕虜を敵から解放し、人々に贈り物を与えたように、イエス様もサタンの捕虜である私たちを解放し、贈り物を与えてくださいました。

イエス様は永遠の命を与えてくださいました。

御霊をも与えてくださいました。

教会をも与えてくださいました。

さらに、神の民を強め、他のサタンの捕虜をも解放するために、霊的な賜物を与えてくださいました。

ですから、このクリスマスの季節に、パウロと共に叫び、喜びましょう。

ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(第二コリント9:15)

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サムエル記第一のデボーション

真っ直ぐな人だろうか 

そこでアキシュはダビデを呼んで言った。「主は生きておられる。あなたは真っ直ぐな人だ。」(サムエル記第一29:6)

聖書の中のこのアキシュの言葉は、最も皮肉な言葉の一つです。

アキシュはダビデに言いました。「私はあなたが仕えている神の名によって誓って、真実を言います。あなたは真っ直ぐな人です。」

ところが、アキシュが知らなかったのは、ダビデが一年以上もアキシュに嘘をついていたということです。

そして、アキシュがそれを言った直後、ダビデはもう一度嘘をついて、自分がアキシュに忠実に仕えているしもべであるかのように話しました。

聖書には、その時の神様の思いやダビデの思いは記されていません。

けれども、アキシュの言葉を振り返ったとき、ダビデはこのように祈ったのではないでしょうか。

「主よ。私は大失敗しました。赦してください。私は真っ直ぐな人のように振る舞っていなかったのです。でも、これから、そのような人になりたいです。」

主よ、ダビデと同じように、私はいつも真っ直ぐな人ではありません。私の行為によって、あなたの御名を汚してしまいました。どうか赦してください。

私のすべての言葉、行為、思いが、あなたの目にかなうものとなりますように。

私が立っているあなたの恵みに感謝します。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第一のデボーション

ほかに道はない。。。本当に?

ダビデは心の中で言った。「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない。(サムエル記第一27:1)

それは本当だったでしょうか。ダビデは本当に他の道がなかったのでしょうか。

もし、以前と同じようにダビデが神様に相談していたら、神様はより良い道を示してくださったかもしれません。

確かに、ダビデはその決断によって、一時的にサウルから逃れることができました。

しかし、そうするために、ダビデはアキシュを欺かなければなりませんでした。その結果、第二十八章で、ダビデがペリシテ人の軍隊と一緒にイスラエルと戦うように頼まれることになりました。(二十八章一節)

時々、私たちは道徳的に問題があることをしなければならないと思ってしまいます。そして、その決断によって、私たちの問題が一時的に解決されることもあるかもしれません。

けれども、ダビデの決断と同じように、私たちの決断はさらに多くの問題や、道徳的に問題がある選択へとつながることがあります。

主よ、私は決して「ほかに道はない」と考えながら決断しないようにしてください。

むしろ、正しい道を教えてください。あなたに喜ばれる道を教えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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傷つけられたとき、どうすればよいか

ダビデがサウルと話すのは、これが最後のときでした。

彼らは和やかに離れましたが、サウルと一緒に帰るほどにダビデがサウルを信頼していなかったことは明らかです。

なぜなら、サウルは何度も自分の約束が頼りないものであることを証明していたからです。

それでも、ダビデはサウルのいのちを尊び、彼を許しました。

虐待のパターンがあるとき、私たちは大切なことを覚えていなくてはなりません。私たちは復讐を求めずに、その人を許すべきです。

しかし、神様は私たちが危険な状況に入ることを求めてはおられません。

つまり、その人が本当に心を入れ替えたことを証明するまで、その人から距離を置いてもよいということです。人が自分が本当に変わったことを示すには時間がかかります。

残念ながら、多くの場合、その時は決して来ません。サウルの場合は、その時は決して来なかったのです。

だから、ダビデから学びましょう。

あなたの虐待者を許しましょう。けれども、その人からの虐待を許してはいけません。

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健全な良心を保つ

後になってダビデは、サウルの上着の裾を切り取ったことについて心を痛めた。(サムエル記第一24:5)

私たちの良心によって心が痛むとき、私たちはどうするでしょうか。

神様のみ前に柔らかい心を保つため、良心は罪に対して私たちの防衛最前線です。

しかし、良心を無視すると、その良心は麻痺してしまう恐れがあります。(第一テモテ四:二)

私たちの良心が麻痺してしまった兆候は何でしょうか。以前、ある罪を犯したときには心を痛めたけれど、今はもう気にしなくなることです。

何年か後に、ダビデの良心が麻痺してしまい、預言者ナタンはダビデに面と向かって責めなくてはなりませんでした。そのとき初めて、ダビデは悔い改めて、柔らかい心を取り戻しました。(第二サムエル記11-12章)

私たちが健全な良心を保つように努めましょう。そして、ダビデと一緒に歌いましょう。

だれが 自分の過ちを悟ることができるでしょう。

どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを 傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。

そのとき私は、大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと、私の心の思いとが 御前に受け入れられますように。主よ、わが岩 わが贖い主よ。(詩篇19:12ー14」

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弱さに対する忍耐

ケイラの人たちを批判するのは簡単なことでしょう。なぜなら、ダビデが彼らをペリシテ人たちから救ったのに、彼らはサウルの手に引き渡そうと考えていたからです。

しかし、ジフ人とは違って、ケイラの人たちがサウルに連絡したという証拠はありません。

彼らはそうしていたかもしれませんが、何も言わなくても、サウルは自分の家来たちから、ダビデがケイラの人たちをペリシテ人たちから救ったことを聞いていたでしょう。

おそらく、ケイラの人たちは、サウルがダビデを捕らえるために来るという噂を耳にしたのでしょう。そして、ダビデと周囲の人々の会話を聞いたかもしれません。

「どうしたらいいでしょうか。私たちはダビデをサウルに引き渡してはいけないでしょう。ダビデは最近、私たちを助けてくれたのです。」

「でも、サウル王がノブで何をしたか聞いた?祭司アヒメレクがダビデを助けたことで、サウルは約八十人の祭司たちを殺したそうです。祭司たちですよ。」

「そうでしょう。さらに、私たちは自分自身をペリシテ人たちから守れなかった。どうすれば私たちはダビデをサウルから守ることができるでしょうか。」

たぶん、そのような話を聞いて、ダビデは神様に相談しました。「ケイラの者たちは、私をサウルの手に引き渡すでしょうか。」

神様が「彼らは引き渡す」と言われると、ダビデはケイラの人たちに怒りませんでした。彼らが自分を助けてくれるように要求しませんでした。

むしろ、ダビデはひっそりとケイラを出ました。ダビデは彼らの弱さを理解して、彼らを許しました。

時々、人々は私たちをがっかりさせます。彼らは弱いものだからです。

でも、私たちも弱いものです。それでも、イエス様は毎日、私たちに恵みを与えてくださいます。

だから、パウロの言葉を心に留めておきましょう。

ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。

互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。

主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。(コロサイ3:12ー13)

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サムエル記第一のデボーション

見捨てられたように感じるとき

「おまえたちのだれも、私のことを思って心を痛めてくれない」(第一サムエル22:8)

これは、サウルが自分の家来たちに語った言葉でした。だれもサウルに謀反を企てていないのに、彼はそう思い込んでいました。

同じ頃、洞窟の中で、ダビデも似たようなことを語りました。

ご覧ください。私の右に目を注いでください。私には、顧みてくれる人がいません。私は逃げ場さえも失って、私のいのちを気にかける人もいないのです。(詩篇142:4)

もちろん、サウルはダビデを殺そうとしていました。けれども、ダビデの言葉も正確ではありませんでした。

ヨナタンはダビデをかばい、彼を守ってくれました。

妻ミカルは命がけで、ダビデをサウルから逃がすように助けました。モアブの王も、ダビデの家族の世話をしてくれました。

さらに、四百人の者たちがダビデとともにいました。

それでも、ダビデは逃走中であり、洞窟に隠れていたため、彼の言葉は誇張された反応のように見えます。

しかし、サウルとは違って、ダビデは主に信頼を寄せました。彼は自分の心を神に注ぎ出し、自分の弱さを認めました。それでも、ダビデはこのように言いました。

私の霊がわたしのうちで衰えはてた時にも、あなたは、私の道をよく知っておられます。(詩篇142:3)

主よ、私はあなたに叫びます。「あなたこそ私の避け所、生けるもの地でもの、私の受ける分。」(詩篇142:5)

正しい人たちは私の周りに集まるでしょう。あなたが私に良くしてくださるからです。(詩篇142:7)

だれもあなたのことを気にかけてくれないと思うでしょうか。ちょっと考え直してみましょう。自分が思っている以上に、人々はあなたを愛しているのです。

さらに、すべての人々があなたを見捨てても、神様は決してそうされません。

神様は私たちの道を知っておられます。神様は私たちの避け所です。神様は私たちに良くしてくださいます。

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サムエル記第一のデボーション

神様を拒む者への裁き

サムエル記第一16〜19章では、私たちは三回このような言葉を読みます。「主からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた」(16:14、23;18:10;19:9)。

正直に言うと、これらは難しい言葉です。神様は災いの霊を、災いをもたらすために送ることがあるのでしょうか。どうして、良い神、また愛の神がそのようなことをなさることができるのでしょうか。

厳しい答えですが、それは神様の正当な裁きです。サウルは神様をあえて拒んだからです。

けれども、聖書はこの裁きが、悔い改めの最後のチャンスを与えるものであることを示唆しています。

第一列王記22章では、神様はアハブ王に破滅をもたらすために偽りの霊を送りました。それでも、それと同時に、神様はアハブに警告するために預言者を遣わし、悔い改めのチャンスを与えました。

けれども、以前の話と違って(列王記第一21:27〜29)、アハブは悔い改めようとしませんでした(列王記第一22:17〜28)。

新約聖書でも、同じようなことが見られます。パウロは、悔い改めようとしない罪人に関して、こう語っています。

そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(第一コリント5:5)

黙示録では、神様はいろいろな災害を送られます。悪霊によってもたらされる災害もあるようです。

多くの人々が死にますが、それ以上に多くの人々が生き残っていて、悔い改めのチャンスがあります。しかし、彼らは悔い改めようとしません(黙示録9:20〜21)。

そして、第二テサロニケでは、パウロは終わりの日について語っています。人々が騙されて滅びるために、神様は反キリストをこの世に放たれます。

なぜでしょうか。その理由は明確です。

彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。

それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。

それは、真理を信じないで、不義を喜んでいたすべての者が、さばかれるようになるためです。(第二テサロニケ2:10ー12)

つまり、反キリストとその惑わす力は、人々が真理を愛することを拒否したことに対する神の罰なのです。

神様がサウルやアハブを裁かれたように、終わりの日には、神様は悔い改めることを拒む人々を裁かれるのです。

あなたはどうでしょうか。神様を愛しているでしょうか。真理を愛しているでしょうか。正義を喜んでいるでしょうか。

あなたは、神様にどのように反応するでしょうか。

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サムエル記第一のデボーション

力ある神

信じられませんが、もうそろそろクリスマスですね。

このところ、イザヤ書9:6に思いを巡らしています。その箇所では、メシアは「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれています。

特に、「力ある神」という名前について考えていました。

この言葉は、メシアを強い勇士として描写しています。

ユダヤ人たちがしばしばメシアを「ダビデの子」と呼んだので(マタイ21:9)、ダビデ自身が強い勇士であったことはふさわしいことです。

イスラエル人たちが脅かされ、絶望した時、ダビデは彼らのために戦って、勝利しました。

同じように、私たちが自分の問題に打ちのめされ、絶望している時、私たちのメシアであるイエス様は私たちのために戦って、勝利してくださいます。

だから、どんな苦しみがあっても、私たちの力ある神に望みを託しましょう。

なぜなら、イエス様はあなたを見て、「私はあなたのために戦っている」と言われているからです。

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サムエル記第一のデボーション

心をご覧になる神

人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。(サムエル記第一16:7)

第一サムエル記の中で、あるいは聖書全体の中で、これは最も有名な言葉の一つです。

ダビデの家族でさえ、彼を正当に評価しませんでした。サムエルがエッサイの息子たちに会いたいと言った時、エッサイはダビデのことをすっかり忘れていました。

しかし、人間と違って、神様は私たちの外見ではなく、心をご覧になります。

神様はダビデの心の中に何を見ておられたのでしょうか。神様はそれを直接教えてはくださいませんが、ダビデの生涯を見ると、私たちは彼の心を少し垣間見ることができます。

ダビデは神様を愛する心を持っていました。

ダビデは神様に信頼する心を持っていました。

ダビデは神様に対して柔らかい心を持っていました。

ダビデは時々罪を犯しました。実際、彼は非常に深刻な罪を犯してしまいました。けれども、彼は最終的に悔い改め、再び神様に喜ばれたいという態度を持っていました。

主よ、私がダビデのような心を持つことができますように。あなたを愛する心。あなたに信頼する心。あなたに対して柔らかい心。

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サムエル記第一のデボーション

神様は悔やむことがあるのか?

主のことばがサムエルに臨んだ。「わたしはサウルを王に任じたことを悔やむ。」(サムエル記第一15:10ー11)

「実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔やむこともない。この方は人間ではないので、悔やむことがない。」(29節)

主も、サウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。(35節)

今日、私は上の言葉を反芻しました。

「悔やむ」という言葉は、「気が変わる」と訳すことができます。

神様は悔やむことがないのに、どうして著者は、神様がサウルのことを悔やんだと言うのでしょうか。

また、神様は気が変わることがあるでしょうか。神様は気まぐれな方でしょうか。

たぶん、鍵は29節にあります。

「主は人間ではないので、悔やむことがない。」

別訳では、「主は人間ではないので、気が変わりません。」

ある意味、私たちは神様が悔やむ、あるいは神様の気が変わると言えるかもしれませんが、神様は人間のようにそうするのではありません。

人間の知識には限界があります。そのため、私たちは多くのミスをしてしまいます。また、出来心で愚かな決断をしてしまう時もあります。さらに、私たちは気まぐれで、急に気が変わることもあります。

でも、神様はそのような方ではありません。

神様はすべてのことをご存知です。過去のこと、現在のこと、未来のことの全部を知っておられます。だから、神様はサウルが何をするかをご存知でした。

サウルが罪を犯した時、神様は「私は失敗した。サウルがそのような王になるとは知らなかった」とは言われませんでした。

また、神様は「私は愚かだった。サウルの性格をよく知っていたのに、どうして彼を選んだのだろうか」とは言われませんでした。

むしろ、神様は何が起こるかをよく知っておられました。さらに、神様のなさることにはすべて目的があります。

それでも、神様は感情を持っておられます。神様はサウルが何をするのかをよく知っておられましたが、サウルが実際に罪を犯した時、神様は悲しまれました。

いったいどうして、神様はサウルを選ばれたのでしょうか。

私にはわかりません。

もしかしたら、イスラエル人たちは神様のタイミングを待たずに、「今、王が欲しいです」と言ったからかもしれません。

彼らがもう少し待っていたら、神様の心にかなうダビデを彼らに与えてくださったでしょう。

もしかしたら、イスラエル人たちは、「ほかのすべての国民のよう」な王がどんな人であるかを学ばなくてはならなかったからかもしれません。

神様は彼らに、なぜその要望が悪いのかを教えなくてはなりませんでした。

とにかく、神様がサウルを選ばれた理由があり、その理由は良いものでした。でも、サウルの罪と反抗的な態度を見た時、神様は悲しまれました。神様は「悔やみました」。

それは、神様が失敗したからでも、急に悪い決断をしたことに気づいたからでもありませんでした。むしろ、神様は「こうあらねばならないが、辛い」と言われたのです。

「神様は人間のように気が変わるというわけではありません。」

それは心強い言葉です。

神様は気まぐれな方ではありません。神様の性格は首尾一貫しています。

例えば、神様は罪を裁かれますが、悔い改める罪人には憐れみを喜んで与えてくださいます。(エゼキエル33:10ー16)

聖書には、そのような話が何度も記されています。(列王記第一21:17ー28;列王記第二22:15ー20;歴代誌第二12:5ー8;33:1ー13;ヨナ3章)

また、その憐れみによって、自分の民が他の人のためにとりなすと、神様は裁きをよく先延ばしにしてくださいます。(出エジプト記32:9ー14)

しかし、神様は正義の方なので、最終的にはこう言われます。「もう時間です。この人々が悔い改めようとしないから、私は裁きます。」(エレミヤ7:16;11:14;14:11)

残念なことですが、今日の話では、サウルは心から悔い改めませんでした。むしろ、彼は言い訳をしました。

彼は最後には悔い改めましたが、それは自分の罪を悲しんだからではなく、自分の王位を失うことを恐れたからです。

だから、神様はサウルを裁かれ、イスラエルの王位から退けられました。

では、要約すると、

1.神様の性格は首尾一貫しています。神様は忍耐深く、憐れみ深い方なので、悔い改める人を赦し、改める時間を与えてくださいます。けれども、神様は正義の方なので、最終的には悔い改めようとしない罪人を裁かれます。

2.神様は何をなさっても、良い理由があります。神様は驚かれることがありません。それでも、罪を見ると神様はいつも悲しまれます。そういう意味で、神様は「悔やみます」。

しかし、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、神様はすべてのことを働かせて益としてくださいます」(ローマ8:28)。

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サムエル記第一のデボーション

神様を求めているのか

すると、兵は言った。「あなたが良いと思うようにしてください。」

しかし、祭司は言った。「ここで、われわれは神の前に出ましょう」(サムエル記第一14:36)

兵の言葉は、士師記の時代のイスラエルの態度に似ていました。その時代、「王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていました」。(士師記21:25)

しかし、サウルは王となり、神様を求める者であるはずでした。(申命記17:18-20)

それなのに、イスラエル人たちはサウルにこう言いました。「あなたが良いと思うようにしてください」。

このことは、サウルの生涯を通じて現れた最大の問題でした。彼は口では「神様を求めたい」と言いましたが、神様を求めることを忘れた時もありました。(36)

また、神様を求め始めたものの、すぐにあきらめてしまった時もありました。(19)

さらに、エフタのように(士師記11:30-31)、神様を求める代わりに、神様を操ろうとして愚かな誓いを立てました。

この話を読んで、私は考えました。「神に対する私の態度はどうなのか?」

決断の時、私は本当に神様を求めているでしょうか。それとも、ただ自分が良いと思うことを行っているだけでしょうか。

私の願いをかなえていただくために、神様を操ろうとしているのでしょうか。

それとも、私は本当に神様に仕え、神様の心に従いたいと願っているのでしょうか。

サウルの何年か後、神様は別の王にこう言われました。

主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々御力を現してくださるのです。(歴代誌第二16:9)

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サムエル記第一のデボーション

プレッシャーがかかる時に

サウルは答えた。「兵たちが私から離れて散って行こうとしていて、また、ペリシテ人がミクマスに集まっていたのに、あなたが毎年の例祭に来ていないのを見たからです。

今、ペリシテ人がギルガルにいる私に向かって下って来ようとしているのに、まだ私は主に嘆願していないと考え、あえて、全焼のささげ物を献げたのです。」

サムエルはサウルに言った。「愚かなことをしたものだ。あなたは、あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。」(サムエル記第一13:11ー13)

私たちの人生がうまくいく時、神様に従うのは簡単なことです。でも、大変な時はどうでしょうか。

試練によって、私たちの心の状態がよく現れます。

私は本当に神様に信頼しているのでしょうか。神様の道が最も良い道だと思っているでしょうか。大変なときに神様に従うことが、私たちの最初の本能となるほどに、それを信じているでしょうか。

それとも、私たちは愚かにも自分の道を行くのでしょうか。

サウルの試練によって、サウルの心が現れました。

私たちの試練によって、私たちの心には何が現れるでしょうか。

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サムエル記第一のデボーション

諦めないで

サムエルは民に言った。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。しかし主に従う道から外れず、心を尽くして主に仕えなさい。

役にも立たず、救い出すこともできない、空しいものを追う道へ外れてはならない。それらは、空しいものだ。

主は、ご自分の大いなる御名のために、ご自分の民を捨て去りはしない。主は、あなたがたをご自分の民とすることを良しとされたからだ。(サムエル記第一12:20-22)

時々、私たちは自分の罪と失敗を見て、クリスチャンとして落胆してしまいます。どうして神様が私たちを受け入れることができるのかと疑問に思います。

でも、サムエルの言葉によって、希望を持ちましょう。罪に落ちても、失敗しても、主に従う道から外れず、心を尽くして主に仕え続けましょう。

どうしてでしょうか。なぜなら、主はご自分の民を捨て去りはしないからです。

私たちが素晴らしい者だからではなく、むしろ、神様が素晴らしい方だからです。そして、主は、私たちをご自分の民とすることを良しとされました。

さらに、サムエルがイスラエル人たちのために祈り、正しい道を教えたように、イエス様、そして聖霊様も、私たちのために同じことをしてくださいます。(ローマ8:26〜27、34;ヨハネ14:26;16:13;第一ヨハネ2:27)

だから、諦めないでください。むしろ、サムエルの言葉を心に留めておきましょう。

ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい。

主がどれほど大いなることをあなたがたになさったかを、よく見なさい。(24節)

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サムエル記第一のデボーション

私の祈り

「主の霊があなたの上に激しく下り、あなたも彼らと一緒に預言して、新しい人に変えられます。

これらのしるしがあなたに起こったら、自分の力でできることをしなさい。神があなたとともにおられるのですから。」

。。。サウルがサムエルから去って行こうと背を向けたとき、神はサウルに新しい心を与えられた。(サムエル記第一10:6ー7、9)

天のお父様、あなたが短い間、一人の人のためにしてくださったことを、今やあなたの教会全体のためにしてくださいました。つまり、あなたが私たちに御霊を与えてくださったことです。(使徒の働き1:8;2:1〜18)

サウルが真実ではなかったので、結局、あなたの御霊は彼から離れ去りました。(第一サムエル16:14)

でも、あなたは真実であり、あなたの恵みによって、私たちを見捨てないと約束してくださいました。(第二テモテ2:13;ヘブル13:5)

だから聖霊様、あなたの民に激しく下り、私たちを新しい人に変えてください。私たちに新しい心を与えてください。私たちを導いてください。この国に触れて救うために、私たちを用いてください。

今日、私たちの愛する人々、同僚、隣人、私たちの周りのすべての人に、あなたの愛で触れるように助けてください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第一のデボーション

私の議題、神の議題

サウルのサムエルとの出会いについて読んだとき、私はこう考えました。「どれだけ、神様に祈るとき、私は自分の課題ばかりを持っているだろうか。」

私はよく、自分にとって大きいと思える問題について祈ります。でも、神様の御前に来ると、神様には、より大きな課題があります。

もちろん、神様は私の問題を心にかけてくださり、喜んで助けてくださいます。

でも、私はしばしば、自分の問題にとらわれて、神様のより大きなご計画を見損なってしまいます。

サウルのように、自分が取るに足りない者だと思っていても、実際には、私は神様のご計画の中で大切な役割を担っています。

つまり、神様は私を用いて、周りの人々に触れたいと願っておられるのです。神様は、ご自分の御国のために、私を用いたいと願っておられます。

主よ。私が自分の小さな世界に集中しすぎないように助けてください。私が自分の問題だけでなく、私の周りであなたが何をなさっているかを見ることができますように。

私は、あなたのご計画に参加したいと願っています。どうか、毎日、あなたが私にしてほしいことを教えてください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第一のデボーション

ここまで主が私たちを助けてくださった

サムエルは一つの石を取り、ミツパとエシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった」と言った。(サムエル記第一7:12)

「ここまで主が私たちを助けてくださった。」

振り返ると、神様はいつも困難の中にある私を助けてくださいました。

その問題の中で、神様はいつも私と共に歩んでくださいました。

そういうわけで、この世の問題や不安があっても、私は希望を持っています。なぜなら、神様がご自分が良い方であることを証明してくださったからです。

そして、将来の試練に直面するとき、「ここまで私を助けてくださった主」が、もう一度助けてくださるという確信を持っています。

あなたはどうでしょうか。その確信を持っているでしょうか。

少し時間を取って、これまで神様がどのようにあなたを助けてくださったかを考えてみましょう。そして、その思い出を、家族や友人、スモールグループの仲間たちと分かち合いましょう。

そして、一緒に喜びを持って叫びましょう。「ここまで主が私たちを助けてくださった。」

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サムエル記第一のデボーション

神様を聖なる方とする

だれが、この聖なる神、主の前に立つことができるだろう。(ササムエル記第一6:20)

私たちはしばしば神様の愛と恵みについて話すので、つい、神様との関係を軽んじてしまうことがあります。

そうすると、私たちは大切なことを忘れてしまいます。神様は聖なる方です。だから、私たちは神様を聖なる方としなくてはいけません。

私たちは、神様を魔法のランプの妖精のジーニーのように考えてはいけません。イスラエル人たちが主の契約の箱を戦場に運んだとき、そのような考え方がありました。(4章)

ペリシテ人たちとは違って、私たちは神様をこの世の偽の神々と同じように考えてはいけません。(5章)

そして、神様を軽んじてはいけません。イスラエル人たちは神様を軽んじて、ただの好奇心から契約の箱を開けて、その中を見ました。(6章)

神様は聖なる方であり、私たちの畏れにふさわしい方です。だから、私たちは神様を聖なる方としなくてはいけません。(レビ記22:32〜33、第一ペテロ3:15)

神様は愛の神ですが、天使たちが神様を褒め称えるとき、「愛の神、愛の神、愛の神」とは歌いません。

むしろ、天使たちは「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者」と歌います。(イザヤ書6:3;黙示録4:8)

あなたは、どのように神様を考えているでしょうか。神様を聖なる方としているでしょうか。それとも、神様を軽んじているでしょうか。

ペテロの言葉を心に留めておきましょう。

むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。

「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。

また、人をそれぞれのわざにしたがって公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、この世に寄留している時を、恐れつつ過ごしなさい。(第一ぺテロ1:15ー17)

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サムエル記第一のデボーション

主よ、お話しください

主よ、私たちは、あなたのことばがまれにしかなく、幻も示されない国に住んでいます。そして、エリの目がかすんできて、見えなくなったように、多くの人々の霊的な目もかすんできて、見えなくなりました。

でも、サムエルのように、私は言います。「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」

あなたのことばによって、私にご自分を現してください。そして、私を通して、私の周りの人々に語ってください。

相手にとって聞きがたいことでも、私が恐れずにあなたのことばを伝えるように助けてください。私が何も隠さずに、すべてのことを彼らに知らせるように助けてください。

でも、私が語るとき、相手が私の愛を見ることができるように。そして、私を通して、彼らがあなたの愛を見ることができるように。

私の家族や友人や同僚や生徒たちに、あなたの命のことばを伝えるために、私を用いてください。そして、私が見つけた恵みと救いを、彼らも見つけることができるようにしてください。

私の人生でも、彼らの人生でも、あなたのことばが一つも地に空しく落ちることなく、あなたが望まれることを成し遂げるようにしてください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第一のデボーション

見ておられる神、裁かれる神

神様のことを考えると、私たちがあまり考えたくないことの一つは、神様がいつか全世界を裁くということです。つまり、神様が私たちを裁くということです。

でも、神様は私たちの裁判官であり、ある日、私たちを裁かれます。

ハンナはこう歌いました。

主はすべてを知る神であって、もろもろのおこないは主によって量られる。(サムエル記第一2:3,口語訳)

また、

主は地の果ての果てまで裁かれます。主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を高く上げてくださいますように。(10節)

イエス様が神に油注がれた王として、つまり、メシアとしてこの世に来られると、ハンナの言葉は成就します。

そして、裁きの日に、神様はご自分を重んじる者を重んじ、ご自分を蔑む者を軽んじられます。(30節)

エリとその息子たちの人生において、また、サムエルとその母の人生において、それを見ることができます。神様はエリとその息子たちを裁かれましたが、サムエルとその母を重んじられました。

実のところ、私たち皆は裁かれるのが当然なのです。なぜなら、私たち皆が神様に対して罪を犯したからです。

エリはこう言いました。

人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪をおかすなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。(25節)

でも、良い知らせは、この世に来られた時、イエス様が神であるだけでなく、人間でもあったということです。そして、神であり人間として、イエス様は天のお父さんの前で、私たちのためにとりなしてくださいます。

私たちの、いつも生きておられる忠実な大祭司として、イエス様は私たちのためにとりなしをしておられます。

そういうわけで、イエス様は、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことができます。(へブル7:24〜25)

だから、恐れ、喜びましょう。

神様を恐れ、聖なる方としましょう。なぜなら、神様は私たちの行いを量り、裁かれるからです。

でも、それと同時に、喜びましょう。なぜなら、イエス様は、神様を愛してあがめる人々のためにとりなしてくださっているからです。

だから、私たちは喜びと確信をもって、こう言えます。「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)

 

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サムエル記第一のデボーション

私たちの心を知っておられる方

今日の箇所を読んだとき、私が気づいたのは、ハンナの夫はハンナの心、特にハンナの痛みが分からなかったということです。(サムエル記第一1:8〜9)

また、祭司エリも誤解して、ハンナが酔っぱらっていると思いました。(13〜14節)

でも、神様はハンナの心をよく知っておられました。ハンナが声を出さなくても、神様は彼女の心をよく知っておられました。そして、神様はハンナの祈りを聞き、彼女のために行動してくださいました。(19〜20節)

人々は、私たちを誤解するかもしれません。彼らは、私たちのことを全然分かってくれないかもしれません。

でも、神様は私たちの心をよく知っておられます。そして、言葉を使っても、使わなくても、私たちの心を神様に注ぎ出すと、神様は聞き、私たちのために行動してくださいます。

パウロはこう言いました。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身がことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。(ローマ8:26ー27)

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ルツ記のデボーション

偶然ではないのです

それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。(ルツ記2:3)

ルツ記の著者は、ちょっと微笑みながら、その言葉を書いたでしょう。

「はからずも」?

それは、きっと神様の導きでした。

ナオミは、神様が自分を見捨てたと思っていました。でも、神様はまだナオミのために計画を持っておられました。上記の「偶然」は、ナオミだけではなく、私たちにも影響を与えました。

(ネタバレですが、興味があれば、マタイの福音書1:5〜6、16を読んでみてください。)

ナオミにそれがわかってきたので、心の中に希望がよみがえりました。

神様には、偶然はありません。神様は、意図的にご自分の目的を達成しておられます。そして、その計画は、神様を愛する私たちの益のためのものです。(ローマ8:28)

私はこれまで、いろんな「偶然」に出会ってきました。でも、振り返ると、それらは偶然ではありませんでした。そして、神様の私のための計画が明らかになるにつれて、私は神様が良い方であることを、もっと深く知るようになりました。

だからこそ、私は希望を持っています。

たしかに、主は御恵みを惜しまない方です。

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ルツ記のデボーション

飢饉の時の祈り

主よ、士師記の時代のように、私たちは飢饉のある国に住んでいます。多くの人々が霊的に飢えています。

ナオミのように、多くの人々が苦々しい思いを抱えています。彼らは、あなたの御手が自分たちに下ったと思い、あなたが自分たちを卑しくし、辛い目にあわせられたと思っているのです。

私の羊飼いよ、あなたの民を顧みてください。命のパンを与え、恵みを施し、あなたの恵みによって救ってください。彼らがこの世のものではなく、あなたにあって平安を知ることができますように。

ナオミに触れて憐れみと恵みを与えるために、ルツを用いられたように、周りの苦しんでいる人々に触れるために、私を用いてください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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士師記のデボーション

私たちの心はだれのものでしょうか

彼女はサムソンに言った。

「あなたの心が私にはないのに、どうして「おまえを愛している」と言えるのでしょう。」(士師記16:15)

それはとても皮肉な言葉です。なぜなら、デリラの心はサムソンにはなかったからです。デリラの「愛」は、お金への愛でした。

デリラへのサムソンの愛も、薄められたものでした。

さらに、神様へのサムソンの愛も、薄められたものでした。それこそが、サムソンの最大の問題でした。彼の心は、本当は神様のものではなかったのです。

彼が悔い改めたと信じたいです。でも、彼は本当に悔い改めたのでしょうか。私には分かりません。彼の最後の祈りでは、サムソンはイスラエルの福祉よりも、復讐を考えていたように見えます。

彼はイスラエルを「さばいていた」。しかし、神様から委ねられた羊たちを、本当に愛していなかったようです。

たぶん、イスラエル人たちはそれを感じ取っていたのでしょう。彼らはきっと、サムソンに従う心を持っていなかったのです。(士師記15:11〜12)

では、私たちはどうでしょうか。私たちの心は、本当に神様のものでしょうか。そして、神様から委ねられた人たちを、私たちは愛しているでしょうか。(マタイ22:36〜40)

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士師記のデボーション

自分の目か、神様の目か

彼女を私の妻に迎えてください。彼女が私の目に良いと見える。(別訳)(士師記14:3節)

サムソンは下って行って、その女と話した。彼女がサムソンの目に良いと見えました。(別訳)(士師記14:7節)

その二つの箇所では、私たちはサムソンの問題だけではなく、すべてのイスラエル人たちの問題を見ることができます。

多くの場合、彼らは主の目に悪であることを行いました。(士師記2:11;3:7;4:1;6:1;10:6;13:1)

でも、彼らが考えていたのは、「私の目に良いと見えることをしているのだ。」ということです。(士師記17:6;21:25)

サムソンはナジル人に関する神様の命令を軽んじました。彼は、ライオンの死骸に触れましたし(民数記6:6〜7)、一週間の飲み会に参加しました。(民数記6:3〜4)

私たちは後で読みますが、サムソンはもう一つのナジル人に関するルールを違反することになります。

さらに、神様がイスラエル人たちに偶像礼拝する人たちと結婚してはいけないと命じられたのに(申命記7:3〜4)、サムソンはペリシテ人の女性と結婚しようと思いました。

どうしてサムソンはそのようなことをしていたのでしょうか。

もしかしたら、サムソンは、神様の命令が愚かで、無意味なものだと思っていたかもしれません。

もしかしたら、サムソンは、その命令は自分のためではなく、ほかの人々のためのものだと思っていたかもしれません。

もしかしたら、サムソンは、神様よりも何が正しくて良いかを知っていると思っていたかもしれません。

興味深いことは、神様がご自身の目的を果たすために、サムソンの悪い選択を用いられたということです。(4節)

それでも、サムソンは最終的に苦しみを刈り取ってしまいました。彼はその女性に裏切られ、彼女を失ってしまいました。

また、神様の道から外れ、自分の目に良いと見えることを選び続けた結果、さらに苦しみを刈り取ってしまいました。

私たちは、どれだけ神様よりも何が良いかを知っていると考えてしまうでしょうか。

彼や彼女、または夫や妻を選ぶとき。

キャリアのことを考えるとき。

どのように自分の問題を解決できるかと考えるとき。

道徳的な問題を考えるとき。

自分のやり方で何とかなることもあります。

私たちが自分の道を行っても、神様が私たちを用いられることもあります。

でも、サムソンのように、私たちは最終的に苦しみを刈り取ってしまうことがあります。

しかし、神様の道を選ぶとき、私たちはその道が最善であることを学びます。そして、私たちは本当の喜びを知るようになります。

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神様の恵みによって生きる

「マノアは妻に言った。「私たちは必ず死ぬ。神を見たのだから。」

妻は彼に言った。「もし私たちを殺そうと思われたのなら、主は私たちの手から、全焼のささげ物と穀物のささげ物をお受けにならなかったでしょう。

また、これらのことをみな、私たちにお示しにならなかったでしょうし、今しがた、こうしたことを私たちにお告げにならなかったはずです。」」(士師記12:22-23)

毎日、私たちは神様の恵みによって生かされています。私たちの罪のゆえに、私たちは本来、死に値する者です。

しかし、恵みによって、神様は私たちに語りかけ、聖書を通して私たちのための計画を示し、不完全な私たちの手からの供え物を受け入れてくださいます。

神様の恵みを当たり前のものと思うのは、簡単なことです。けれども、今日、時間を取って、その驚くべき恵みの素晴らしさに心を向けましょう。

主よ、あなたの御名は不思議に満ちています。私たちへの恵みと憐れみは、朝ごとに新しく注がれます。

ですから、あなたの恵みによって、私たちを御霊で満たしてください。私たちを祝福し、あなたの御心に従うように、私たちの心を揺り動かしてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちの羊飼いの模範に倣う

エフライム人たちは本当に怒りっぽい人たちでした。8章でも、私たちはそのことを見ました。

そして、傲慢で怒りっぽい人たちは、しばしば愚かなことを言い、人を傷つけてしまいます。

私たちは彼らの行為をコントロールすることはできません。でも、自分の反応をコントロールすることはできます。

では、私たちはどのように反応すべきでしょうか。私たちの羊飼いの模範に従うべきです。

ペテロはこう書いています。

しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。

このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、 あなたがたに模範を残された。

キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。(第一ぺテロ2:20ー23)

エフタのように、イエス様も良いことを行われたのに、言いがかりをつけられ、脅かされました。

しかし、自分の敵を殺したエフタとは違い、イエス様は罪を犯すことなく、すべてを天の父に委ねられました。イエス様は十字架に向かわれ、敵のために祈り、私たちの救いを買い取ってくださいました。(第一ペテロ2:24)

私たちは、さまよっていた羊のようでしたが、私たちの羊飼いは恵みによって私たちを引き戻してくださいました。(第一ペテロ2:25)

イエス様の模範に倣い、私たちを傷つけた人たちに対しても、そのように応答しましょう。

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エフタの誓いから学ぶこと

聖書の中で、これはとても解釈しにくい箇所です。エフタは本当に全焼のいけにえとして神様に娘を捧げたのでしょうか。そうだったとしたら、神様はその行動を認められたのでしょうか。

その二つ目の疑問には、以前のブログで答えています。もしエフタが本当に全焼のいけにえとして娘を捧げたなら、神様はそのいけにえを絶対に受け入れられなかったでしょう。

どうして私はそう思うのでしょうか。それは、モーセを通して神様がそのようないけにえを禁止されたからです。

あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。。。

これらのことを行う者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。(申命記18:10,12)

それでも、多くの聖書の学者は、エフタが娘を全焼のいけにえとして捧げたと考えています。

でも、この箇所には他の解釈もあるでしょうか。多くの聖書の学者はそう考えています。

新改訳によると、エフタはこう言いました。

私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。

でも、ある英語の聖書によると、エフタはこう言いました。

私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来るその者を主のものといたします。もしくは、私はそのものを全焼のいけにえとしてささげます。

つまり、もしエフタが動物を見たら、それを全焼のいけにえとして捧げます(その時代、多くの家では、家畜小屋は家の一階で玄関の隣でした)。

でも、人を見たら、その人をしもべとして神様に捧げるということです。

レビ記27章に、そのような例を読むことができます。その箇所では、もしある人が特別な誓願を立てて、つまりしもべとして誰かを神様に捧げた場合、その人をどうやって買い戻すかの教えがあります。

でも、28節にはこう書かれています。

しかし、人であっても、家畜であっても、自分の所有の畑であっても、人が自分の持っているすべてのもののうち主のために絶滅すべき聖絶のものは何でも、それを売ることはできない。

すべて聖絶のものは最も聖なるものであり、主のものである。

「絶滅すべき聖絶のもの」というのは、「神様に捧げたものであり、それを自分のために取り戻すことができない」という意味です。サムエルの母はそのような誓願を立てていました(第一サムエル1:11)。

もしエフタがそのような誓願を立てていたなら、聖書の教えに合致します。

それに、私たちはエフタの娘の反応を理解することができます。彼女は自分の死について泣きませんでした。彼女は子どもができないことを悲しみました。また、彼女は父から逃げずに、父に従いました。

その解釈を受け入れている学者もいれば、受け入れていない学者もいます。

どの解釈を受け入れるにしても、私たちは聖書を読むとき、神様が何を教えておられるかを考えるべきです。

もし、エフタの行動が罪だったとすれば、私たちは何を学べるでしょうか。それは、聖書をよく知らなければ、神様を喜ばせていると思っていても、実は神様が喜ばれないことをしているかもしれない、ということです。

神の御言葉をよく知っているでしょうか。あなたは本当に神様を喜ばせているでしょうか。それとも、神様の言葉を知らないために、知らず知らずのうちに、神様が憎まれることをしているのでしょうか。

もし、エフタがただ自分の誓いを後悔したのだとすれば、私たちは何を学べるでしょうか。それは、神様への誓いには注意が必要だということです。一度誓いを立てたなら、それを守らなければなりません。

(ただし、神の律法に違反する誓いは別です。そのような誓いは守ってはいけません。(レビ記5:4))

実は、イエス様は「誓わないほうがよい」と教えられました。むしろ、

あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。(マタイ5:37)

つまり、何かをすると言ったなら、それを実行すべきです。神様は、私たちがそのような者であることを望まれます。

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誰に自分を捧げているでしょうか

あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。

つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。(ローマ6:16)

今日の話を読んで、上記のパウロの言葉を連想しました。

イスラエル人たちは、アンモン人とペリシテ人の神々など、いろんな神々に仕え始めました。

どうしてでしょうか。私はわかりませんが、もしかしたら、彼らはその神々を通して、幸せと自由を見つけることができると思ったのかもしれません。でも逆に、アンモン人とペリシテ人たちがイスラエル人たちを苦しめ、打ち砕きました。

私たちはイスラエル人たちが愚かだったと思うかもしれませんが、私たちはどれだけ神様とその道を捨て、この世の神々を求めているでしょうか。

つまり、私たちは出世やセックスやお金やこの世のものを求めているということです。なぜなら、それらにおいて、私たちは自由と幸せを見つけられると思うからです。

でも、私たちに自由と幸せを約束するものは、逆に私たちを奴隷にして、滅ぼしてしまいます。喜びや命を見つけることなく、私たちは恥や苦しみや死を見つけてしまいます。

パウロの言葉を覚えて、その言葉に従いましょう。

以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい。。。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:19ー23)

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知恵にふさわしい柔和さ

あなたがたのうちで、知恵があり、分別のある人はだれでしょうか。その人はその知恵にふさわしい柔和(別訳、謙虚)な行いを、立派な生き方によって示しなさい。(ヤコブ3:13)

今日の箇所を読んで、ヤコブ3章を連想しました。

先生やリーダーには、真の知恵は、その人の柔和な行為や言葉で現れます。

ギデオンはそんな柔和な態度をエフライムの人々に表しました。

でも、そのあと、ギデオンはそうしませんでした。

むしろ、ギデオンは自分(士師記8:4〜17)やその家族(18〜21節)を傷つけられたことに拘って、復讐を求めました。

それに、ギデオンは利己的な思いに駆られました(22〜32節)。

イスラエル人たちが「私たちの王になってください」と願ったとき、ギデオンは断ったけれど、すぐにその時代の王のようにふるまって、イスラエル人の金を受け、金持ちになって、たくさんの妻を持ちました。

さらに、ギデオンは「神様は私たちの王です。私たちは神様に仕えるべきです」と敬虔に言ったのに、彼は自分のために祭司のエポデを作って(出エジプト記28:3〜8)、勝手に礼拝する場所を立て、祭司のように振る舞ったようです。

その結果、イスラエル人たちは神様に背を向けてしまいました(27節)。

ヤコブの言葉を借りれば、そのような知恵は、「上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです」(ヤコブ3:15)。

ギデオンは、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させる泉のようでした。彼の言葉や行為が甘い水のような時もありましたが、苦い水のような時もありました(ヤコブ3:11)。

私たちがそんなリーダーにならないように。私たちが自分の家族のリーダーとして、職場のリーダーとして、教会のリーダーとして、どんなリーダーシップの立場を持っていても、私たちは知恵から産み出す柔和な言葉や行いで特徴づけられるように。

その知恵はどのようなものでしょうか。

しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。

義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。(ヤコブ3:17ー18)

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アドナイ・シャロム

主よ。あなたはアドナイ・シャロム(つまり、主は平安)。

私はあなたの御前に立ち、あなたの御顔を見るに値しません。

逆に、自分の罪のために私は死ぬに値するのです。

でも、あなたは愛を持って、私に言われます。

「安心せよ。恐れるな。あなたは死なない。あなたは生きるのです。

だから行きなさい。わたしがあなたを遣わすのではないか。わたしはあなたとともにいる。あなたは私との平和を持っています。だから、敵であるサタンに抑圧されている人々に私の平和をもたらしなさい。」

ギデオンのように、私は弱いものです。私は取るに足りないものです。でも、あなたの救いをもたらすため、あなたはこの世の取るに足りない者や見下されている者、無に等しい者を用いることを喜ばれます。(第一コリント1:26〜31)

だから、アドナイ・シャロム、ここに私がおります。私を遣わしてください。