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使徒の働きのデボーション

福音:リミックス(再訪)

この前、私たちは、使徒たちが述べ伝えた福音を見ながら、その核心が、現代によく語られている福音の核心とどのように違っているのかを考えていました。

では、その核心とは何でしょうか。それは、「イエス様はすべての人の主である」ということです。つまり、イエス様は神様に油を注がれた王なのです。(もう一度述べますが、「キリスト」や「メシア」という言葉は、「神様に油を注がれ、立てられた王」という意味です。)

使徒の働き16~17章では、そのテーマが何度も繰り返されています。

私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです。(使徒の働き17:3)

神は……今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。」(使徒の働き17:30~31)

パウロはみことばを語ることに専念し、イエスがキリストであることをユダヤ人たちに証しした。(使徒の働き18:5)

(アポロは)聖書によってイエスがキリストであることを証明し、人々の前で力強くユダヤ人たちを論破したからである。(使徒の働き18:28)

パウロとアポロのメッセージを信じなかったにもかかわらず、彼らの話を聞いていた人々は、その要点をしっかり理解していました。

パウロに反対するユダヤ人たちは、町の役人たちにこう叫びました。

彼らはみな、『イエスという別の王がいる』と言って、カエサルの詔勅に背く行いをしています。」(使徒の働き17:7)

福音は、私たちの王が来られ、この壊れた世界をご自身の国へと取り戻しておられることを宣言しています。そして、私たちは皆、その王の支配を喜んで受け入れるように招かれているのです。

けれども、自問しなければならないのは、「これが本当に良い知らせだと信じているだろうか」ということです。

イエス様の支配を、私たちの人生に喜んで受け入れるでしょうか。また、その支配を大いに喜び、周囲の人々がその支配のもとに来るように招きたいと思うでしょうか。

私は、それが良い知らせだと信じています。私はイエス様の良い支配を経験し、その喜びをよく知っています。だから私はイエス様の支配を大いに喜びます。

あなたはどうですか。福音から生まれた喜びを歩んでいるでしょうか。周囲の人々は、あなたの中にあるその喜びを見るでしょうか。

あなたはどのような福音を信じ、歩んでいるのでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

私を愛してくださった王

今朝、私は「キリスト」と「神の子」ということばに思いを巡らしていました。

私たちはイエス様について話すとき、そのことばをよく使いますが、その意味を深く考えることはあまりないでしょう。

キリストとは、「神によって油を注がれた王」という意味です。

「神の御子」は、もちろんキリストが神であられることに触れますが、ユダヤ人たちは王をある意味で「神の子」として理解していました。

だから、今日、ガラテヤ人への手紙2章20節を新鮮な思いで読みました。

私は王とともに十字架につけられました。

もはや私が生きているのではなく、王が私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、王に対する信仰によるのです。(ガラテヤ人への手紙2:20)

貼り付けられた革命家と同じように(その人は普通、強盗と呼ばれますが、実際には革命家だったのかもしれません)、私は正当な王とともに十字架につけられました。

反逆者である私は、もはや生きていません。

むしろ、王は私のうちに住み、心の王座に座っておられるのです。

今、私は毎日この王への信仰によって生きています。この王が良いお方であり、私を愛し、私の最善を望んでおられることを心から信じているのです。

だからこそ、愛と信頼に満ちた心で、私の良い王に従おうと選びます。私はもはや自分自身のためではなく、イエス様のために生きているのです。

王様が長く生きられますように。

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使徒の働きのデボーション

イエス様を伝えるとき

サウロは……ただちに諸会堂で、「この方こそ神の子です」とイエスのことを宣べ伝え始めた。

しかし、サウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。(使徒の働き9:19~20、22)

この二つの箇所を読み流してしまうことは容易です。

しかし、以前の記事で述べたように、『使徒の働き』全体を通して、福音の核心が「イエスは主」であることは一貫したテーマです。

パウロの最初のメッセージからも、そのテーマを見ることができます。

「イエスは神の子である」や「イエス様はキリストである」といった言葉は、同じ真理を語っています。つまり、イエス様は神様が選ばれた王であるということです。

その意味するところは、「あなたの良い王の支配の下に身をおきなさい」という招きです。

だからこそ、私たちが人々にイエス様について語るとき、もちろん、イエス様は人となった神であり、私たちの間に住んでおられたことを伝えるべきです。また、イエス様が私たちの救い主であることも語るべきです。

しかし、私たちが最も大切に伝えるべきことはこうです。「イエス様はあなたの正当な王です。イエス様の良い支配の下に身をおきなさい。」

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使徒の働きのデボーション

私たちの王に従う

私たちの父祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスを、よみがえらせました。

神は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手(別訳:支配者)、また救い主として、ご自分の右に上げられました。(使徒の働き5:30~31)

そして毎日、宮や家々でイエスがキリスト(すなわち、神様の油で注がれた王)であると教え、宣べ伝えることをやめなかった。(使徒の働き5:42)

昨日の記事では、私は「イエスは主」であることが福音の核心だと述べました。

最高法院の前での使徒たちの弁明や、イスラエルの民に対する日々の説教の中でも、そのテーマは一貫して続いています。

しかし、私はふと考えさせられました。私自身、どれほど簡単に、別のものに従い、そのものが心を支配することを許してしまうのか、と。

祭司たちやサドカイ派の者たちとは違い、私は嫉妬とあまり戦うことはありません。 けれども、プライドが私の心を治めてしまうときがあります。特に、自分が悪いと分かっていても、それを認めるのが遅くなることがあります。

また、アナニアとサッピラのように、周囲の人々の誉れを求めてしまうこともあれば、お金を愛する誘惑と戦うときもあります。

けれども、私はそれらが私の心を治めることを望んでいません。

私は心を王にささげ、その王が私を支配してくださることを願っています。

さらに、周囲の人々にも、主の良い支配のもとで歩む喜びを伝えたいのです(使徒の働き5:20)。

あなたはどうでしょうか。

主よ、私の心を治めてください。

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使徒の働きのデボーション

重荷ではない

ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。

そうして、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます……

彼があなたがたに告げることすべてに聞き従わなければならない……

神はまず、そのしもべを立てて、あなたがたに遣わされました。その方が、あなたがた一人ひとりを悪から立ち返らせて、祝福にあずからせてくださるのです。(使徒の働き3:19~20、22、26)

イエス様、あなたは私たちのメシア、すなわち私たちの王として定められました。

そして、私たちの王として、あなたは私たちの従順にふさわしく、私たちはすべてにおいて従うべきです。

しかし、私はそれを重荷とは決して見なしません。

なぜなら、あなたに従う歩みの中で、回復の時が訪れ、私は祝福されているからです。

あなたは私の王です。

私はあなたに従うことを喜びます。

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ヨハネの福音書のデボーション

「見よ、あなたの王だ」

ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」

彼らは叫んだ。「除け、除け、十字架につけろ。」

ピラトは言った。「おまえたちの王を私が十字架につけるのか。」

祭司長たちは答えた。「カエサルのほかには、私たちに王はありません。」(ヨハネの福音書19:14~15)

歴史に見られる一つの不思議な皮肉は、ローマの総督ピラトはユダヤ人たちに「イエスはおまえたちの王だ」と言い張ったのに、ユダヤ人たちは「カエサルのほかには、私たちに王はありません」と答えたことです。

それが、この世の究極の罪です。

神様は、「わたしの子こそ、あなたの正当な王だ」と宣言しておられますが、この世は「___のほかには、私たちに王はありません」と言い張ってしまうのです。

多くの場合、人々は「自分自身のほかには、私には王はいない」と言い張ってしまいます。

あなたはどうでしょうか。

神様が、「わたしの子はあなたの正当な王だ。イエスはあなたの人生、人間関係、経済、すべての王だ」と言われるとき、あなたはどのように感じるでしょうか。

「嬉しい!」と答えるでしょうか。

それとも、「いやだ」と感じるでしょうか。

喜びを覚えるでしょうか。

それとも、恐れを抱くでしょうか。

あなたの反応は、自分の王をどのように見ているかによって決まります。

イエス様が良い王であり、あなたを深く愛し、あなたの最善を知り、願っておられると信じているでしょうか。

それとも、イエス様について深い疑いを抱いているでしょうか。

あなたはどのように王を見るのでしょうか。

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ルカの福音書のデボーション

御国に入りたいですか

金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた。

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。

律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ、だれもが力ずくで、そこに入ろうとしています。

しかし、律法の一画が落ちるよりも、天地が滅びるほうが易しいのです。 (ルカの福音書16:14~17)

これまでは、この箇所の流れを追うのが少し難しいと思っていました。

けれども、たぶんイエス様はこのように言いたかったのではないでしょうか。「多くの人々は神の国に入ろうとしますが、あなたがたがしなければならないことは一つです。それは、あなたがたの王とその価値観を喜んで受け入れることです。」

パリサイ人たちは、それをしようとしませんでした。むしろ、彼らは自分の王とその価値観をあざ笑いました。その価値観が、彼ら自身が従うと主張していた神の律法や預言者の書に基づいていたにもかかわらず、彼らは嘲笑したのです。

彼らは、お金についてのイエス様の教えを嘲笑しました。

さらに、イエス様のようには結婚を重んじず、別の人と結婚するために、すぐに自分の妻を離婚してしまいました(ルカの福音書16:18)。

さらに、イエス様のようには、正義、あわれみ、神様の愛を重んじませんでした(マタイ12:7;ルカ11:42)。

むしろ、神の前では忌み嫌われるものを重んじてしまったのです。

そして彼らは、自分の王を十字架につけてしまいました。

その結果、彼らが入ろうと求めた御国は、彼らに対して閉ざされてしまいました。

あなたはどうでしょうか。

自分の王を喜んで受け入れているでしょうか。

また、その王の価値観を喜んで受け入れているでしょうか。

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ルカの福音書のデボーション

悔い改め

神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。

ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。(ルカの福音書3:2~3)

「悔い改め」

私は、このような語を「クリスチャン語」と呼んでいます。

つまり、教会の中ではクリスチャンたちがよく使いますが、それ以外ではあまり使われない言葉だということです。

けれども、『悔い改め』とはいったい何でしょうか。バプテスマのヨハネは何を宣べ伝えていたのでしょうか。

それは、人々が自分の心の中で主の道を備えることです。

言い換えると、私が神様を王として喜んで受け入れ、その良い支配のもとに身を置くことです。

多くの場合、私たちは『悔い改め』を考えるとき、ヨハネが呼んだ「悔い改めの実」だけに目を向けてしまいます。

けれども、神様の主な関心は、ただ行動が変わることだけではありません。神様が望んでおられるのは、ご自身に対する柔らかい心です。私たちが神様を愛し、信頼することを願っておられるのです。

そのような心から、悔い改めの実は自然に結ばれます。毎日毎日、一瞬一瞬、私たちの考え方や生き方が変えられつつあるのです。

良い知らせは、王に対して反抗的な心を持ち続けるなら恐ろしい結果を招きますが、もし私たちが神様に向き直り、神様を王として受け入れるなら、神様は豊かに赦してくださるということです。(イザヤ書55:6~7)

十字架につけられた犯罪人のことを思い浮かべてみてください。(ルカの福音書23:39~43)

自分の悔い改めを証明するために、私たちが長い間泣き続ける必要はありません。

また、最終的に守れない約束をする必要もありません。

神様が求めておられるのは、私たちが神様を王として受け入れることです。そして、神様が良いお方であり、私たちの最善を知り、望み、深く愛してくださる方であると信頼することです。

それが悔い改めです。神様を見る目を変え、心を開くことです。

神様が喜ばれる人生は、そのような心から自然に流れ出てくるのです。

だからこそ、以前の記事で尋ねたように、私はもう一度問いかけます。

あなたはどのように主を見なすでしょうか。

主を愛しているのでしょうか。

主を信頼しているのでしょうか。

あなたの人生に王の良い支配を喜んで受け入れるのでしょうか。

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マタイの福音書のデボーション

私たちの王を見上げると

わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。(マタイ20:18~19)

「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」

私はこのことばを思いめぐらしていました。イエス様は何を言われていたのでしょうか。

「私は王です。」

だからこそ、私たちはすべてにおいてイエス様の命じられたことに従い、人々にもそのように教えるべきです。

しかし、私たちはこの王をどのように見なすのでしょうか。

力をふるって人を押さえつける方でしょうか。恐ろしい方でしょうか。

興味深いことに、女性たちは墓から立ち去ったとき、喜びを抱きながらも、同時に恐れもありました。なぜ恐れていたのかは分かりませんが、イエス様が彼女たちに現れたとき、最初に言われたことばは何だったでしょうか。

「恐れることはありません。」(マタイの福音書28:10)

そして、彼女たちの恐れは消え去り、大きな喜びだけが残りました。

なぜなら、この王は恐れるべき方、すなわち私たちの敬いと従順のすべてにふさわしい方でありながら、良い王だからです。そして、この良い王は私たちを深く愛しておられます。

今朝、私はたまたま詩篇47篇も読みましたが、その詩篇は王に対する私たちのあるべき態度を美しく表現しています。それはあなたの態度でしょうか。

すべての国々の民よ、手をたたけ。
喜びの声をもって神に大声で叫べ。

まことにいと高き方【主】は恐るべき方。
全地を治める大いなる王。(詩篇47:1~2)

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マタイの福音書のデボーション

おことばを下さい

私も権威の下にある者だからです。(マタイの福音書8:9)

主よ、百人隊長はあなたの権威を認めました。

あなたの弟子たちもあなたの権威を認めましたが、その権威がどれほど及ぶのか、まだ学んでいる途中でした。(マタイの福音書8:27)

その一方で、悪霊やガダラ人たちは、あなたの権威と全く関わりたくありませんでした。(マタイの福音書8:29、34)

けれども、私はあなたが良い王であることを信じています。私の人生にあなたの支配を歓迎します。

だからこそ、おことばをください。私は従います。