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正義を待ち望んでいる

こうして神は、アビメレクが兄弟七十人を殺して自分の父に行った、その悪の報いを彼に返された。神はまた、シェケムの人々のすべての悪の報いを彼らの頭上に返された。

エルバアルの子ヨタムののろいが彼らに臨んだ。(士師記9:56ー57)

士師記には、暗い物語が多く記されています。9章もその一つです。

それでも、私にとって心強いのは、神様が最終的に正義をもたらされることです。神様ご自身が正義をもたらされるときもありますし、この物語のように、悪が自分自身を食いつくすように仕向けられるときもあります。

しかし、神様は正義を必ずもたらされます。

この暗い世界の中で、特にウクライナやガザの混乱に関して、それが私の希望です。

その混乱をもたらした人々が地上では正義を逃れたとしても、神の御座の前に立つとき、正義を逃れることはできません。

でも、私たちはそれを本当に信じているでしょうか。この世のトラブルを目にするとき、神様が良い方であることをまだ信じているでしょうか。神様がいつかの日に、正義を必ずもたらされることを信じているでしょうか。

私はそう信じることを選びます。

あなたはどうされますか。

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士師記のデボーション

神の愛や恵みを忘れると

ギデオンが死ぬと、イスラエルの子らはすぐに元に戻り、もろもろのバアルを慕って淫行を行い、バアル・ベリテを自分たちの神とした。

イスラエルの子らは、周囲のすべての敵の手から救い出してくださった彼らの神、主を、心に留めなかった。(士師記8:33ー34)

上の言葉は士師記にあるイスラエル人の民の問題を要約しています。つまり、彼らはすぐに自分たちへの神の恵みと愛を忘れてしまったということです。

さらに、彼らは自分たちの祝福がどこから来たのかを理解していなかったようです。彼らは救いをギデオンの手柄にしてしまいました。(22節)

その結果は何でしょうか。彼らを救ってくださった神への愛と感謝は全くありませんでした。

私たちへの神の愛や恵みを忘れ、また神様がしてくださったことへの感謝や喜びを忘れると、初めの愛を失うのは容易なことです。

天のお父さん、私が決してあなたの愛と恵みを忘れず、それらを当たり前のものだと思わないようにしてください。

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士師記のデボーション

大切なのは。。。

力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。(士師記6:12)

主よ、私が霊的な弱虫ではなく、あなたのための力ある勇士となるようにしてください。

大切なのは、私の力や素性ではありません。

大切なのは、あなたが私とともにおられることです。

そして、自分の愛している者たちを敵であるサタンから解放するために、私を霊的な戦いに遣わしておられるのです。

あなたの働きを成し遂げる資格が私にはありません。それはあなたから与えられるものです。(第二コリント3:5)

さらに、あなたの力は私の弱さのうちに完全に現れるのです。(第二コリント12:9-10)

だから、その大切なことを覚えていて、戦場に走るように導いてください。

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士師記のデボーション

後悔のない歩み

ルベンの諸支族の決意は固かった。なぜ、あなたは二つの鞍袋の間に座って、羊の群れに笛吹くのを聞いていたのか。ルベンの諸支族の間には、深い反省があった。

ギルアデはヨルダンの川向こうにとどまった。ダンはなぜ船に残ったのか。アシェルは海辺に座り、その波止場のそばにとどまっていた。(士師記5:15-17)

天のお父さん、人生の終わりに、後悔のない心で自分の歩みを振り返ることができますように。

人々が敵であるサタンから虐げられていたのに、私が自己満足のまま座って彼らを無視していたという後悔。

人々に霊的なニーズが多くあったのに、私が座り、自分のところにとどまっていたという後悔。

天のお父さん、私にあなたの心を与えてください。人々を憐れむ心。人々の人生を滅ぼしている敵と戦う心。

あなたに対する熱心、イエス様が死んでくださった人々に対する熱心を与えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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士師記のデボーション

主があなたに先立って出て行かれるではありませんか

デボラはバラクに言った。「立ち上がりなさい。今日、主があなたの手にシセラを渡される。主があなたに先立って出て行かれるではありませんか。」(士師記4:14)

今日、この言葉を思い巡らしていました。「主があなたに先立って出て行かれるではありませんか。」

神様が先に導いてくださらない所に、私が行くように命じられることはありません。私が生きれば生きるほど、その真理を実感してきます。

時には、信仰のステップを進み出るのは怖いです。バラクにも怖かったし、私にも怖いのです。

でも、デボラの言葉を思い巡らして、私はこのように祈ります。

天のお父さん、あなたが良い神であることを私に何度も証明してくださいました。あなたがいつも私の先に行かれ、導いてくださることを証明してくださいました。

だから、私が前を向いて、信仰によって進み続け、あなたに従うことができるように助けてください。どうか私を導いてください。

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マルコの福音書のデボーション

イエス様が生きておられるゆえに

青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」(マルコの福音書16:6)

明日、母の葬式のためにハワイへ旅します。そして、葬式のあと、私たちは遺灰を地面に葬ります。

しかし本当のところ、母の本質は地面に葬られるのではありません。母の魂はイエス様と共にあるからです。やがて、その遺灰は地面からよみがえり、新しい体へと変えられ、母の魂と結び合わされるのです。

その体は朽ちず、死ぬことのないものとなります。

それが私の希望です。イエス様が生きておられるゆえに、母も生きるのです。(ヨハネ14:19)

そしていつか、私の体が死んでも、神の恵みによって、私も生きるのです。

Many still mourn
多くの人が今も嘆いており、
And many still weep
多くの人が今も涙を流しています。
For those that they love who have fallen asleep
眠りについた愛する人々を思って。

But we have this hope though our hearts may still ache
しかし、心がまだ痛んでいても、私たちには希望があります。
Just one shout from above
天からの大きな呼びかけによって、
and they all will awake
すべての眠る者たちは目を覚ますのです。

And in the reunion of joy we will see
喜びに満ちた再会のうちに、私たちは目にするのです。
Death will be swallowed in sweet victory.
死は、胸のすくような勝利に飲み込まれるのです。ーーボブ・ハートマン

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マルコの福音書のデボーション

私を救うために

同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。」(マルコの福音書15:31)

祭司長や律法学者たちの言葉は、いつも私の心に響きます。彼らはその言葉でイエス様をあざけりましたが、その言葉は彼らの理解を超えて真実でした。

私たちを救うために、イエス様はご自身を救うことができませんでした。むしろ、私の罪を背負って、激しい苦しみのうちに死なれなければなりませんでした。神の御怒りのすべてが、イエス様に注がれたのです。

しかし、イエス様のおかげで、神様と私の間に立っていた幕が、上から下まで真っ二つに裂けました。

私たちを救うために、イエス様がご自身を救うことを選ばれなかったことに心から感謝しています。

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マルコの福音書のデボーション

イエス様が私たちに求められること

彼女は、自分にできることをしたのです。(マルコの福音書14:8)

今日、イエス様の言葉を思いめぐらしています。ラザロの妹であるマリアは、イエス様のためにほとんど何もすることができませんでした。

敵からイエス様を守ることもできず、最高法院の前で擁護することもできませんでした。

イエス様の処刑を阻止するために、彼女にできることは何もありませんでした。

でも、マリアは自分にできることをしました。

自分が何をしているのか完全には理解していなかったとしても、イエス様によれば、マリアはご自身の葬りの日のために、その香油を取っておいたのです。

彼女が理解していたのは、イエス様を愛していること、そして兄ラザロがよみがえったことで、自分の心が感謝に満ちていたことでした。(ヨハネの福音書11~12章)

だからこそ、マリアはイエス様のために、できることをしました。

イエス様が私たちに求められるのも、ただそれだけです。

私たちにできないことではなく、

周囲の人々が私たちに期待することでもなく、

むしろ、私たちの愛と感謝の心から、イエス様に仕えるためにできることを求めておられるのです。

だから、裁きの日に、イエス様が私についてこう言ってくださるように願います。

「ブルースは、自分にできることをしたのです。」

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マルコの福音書のデボーション

生きている者の神

死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。

『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。(マルコの福音書12:26ー27)

3週間前、私の母はこの世を去りました。 おそらく、そのため、上の箇所は私の心に響きます。

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」

そして、いつかの日、天の父はイエス様のすべての敵をその足の下に置かれます。 その最後の敵は、死です。(第一コリント15:26ー27)

私は母に再び会います。

だからこそ、悲しみの中でも、喜びをもって、キリストの勝利の歌を歌っています。

死は勝利に吞み込まれた。
死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。
死よ、おまえのとげはどこにあるのか。(第一コリント15:54ー55)

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マルコの福音書のデボーション

手ぶらで去られる?

もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。。。』と言いなさい。(マルコの福音書11:3)

翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。

いちじくのなる季節ではなかったからである。(マルコの福音書11:12ー13)

今日まで、この二つの箇所の関係に気づいたことはありませんでした。

どちらの場合も、イエス様は何かを求めておられます。

しかし、前者の場合には、イエス様が求められるものを受け取られます。 後者の場合には、イエス様は何も受け取ることができません。

そして、私はこう考えていました。 「私から何か求められるとき、どれほどイエス様は手ぶらで去られるのでしょうか。」

イエス様、私から実を求められるとき、 あなたが決して手ぶらで去られないように。

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マルコの福音書のデボーション

初めの愛

けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。(ヨハネの黙示録2:4)

最近、私はこのことばを思い巡らしていました。

初めの愛の特徴とは何でしょうか。おそらく、その主な特徴は「喜び」ではないでしょうか。

では、何がその愛を芽生えさせるのでしょうか。それは、私たちに対する神の愛とあわれみです。(第一ヨハネ4:19)

今日の箇所に登場する金持ちは、そのような愛を持ったことがないように見えます。自分はすでに良い人間だと思っていて、あわれみを必要と感じることがなかったのでしょう。(マルコ10:19〜20)

だからこそ、イエス様が彼に、持ち物のすべてを売り払い、ご自身に従うよう招かれたとき、彼は喜ぶことなく、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました。(マルコ10:21〜22)

一方、弟子たちはイエス様を愛していましたが、その動機にはまだ混じりけがありました。彼らはいつもこう考えていました。

「もしイエス様に従うなら、どのような益を受け取ることができるだろうか。」(マルコ10:28、35〜37)

しかし、バルティマイがイエス様に従ったとき、彼の心は大きな喜びに満ちていました。(ルカ18:43)

なぜでしょうか。

それは、バルティマイがあわれみを求め、そして受け取ったからです。

それこそが、初めの愛です。

イエス様は私を見つめるたびに、いつくしみをもって、あわれんでくださいます。(マルコ10:21、47)

私は、そのことを決して忘れないように祈ります。 そして、その愛を、決して当たり前のものと思わないように祈ります。

あなたのためにも、私はそのように祈ります。

Because you first loved me,
あなたが私をまず愛してくださったから
Jesus, you will always be
イエス様、あなたはこれからもずっと
You will always be
これからもずっと
My first love.
私の初めの愛です ーー ボブ・ハートマン

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マルコの福音書のデボーション

自給自足?神様に頼る?

イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」

すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」(マルコの福音書9:28-29)

今日、弟子たちとその失敗について思いを巡らせていました。彼らは男の子から悪霊を追い出そうとしましたが、できませんでした。

どうしてでしょうか。彼らは自分自身の権威と力に頼っていたように見えます。「祈ろう」という発想はまったくありませんでした。

その場面を読んで、私はこう思いました。「私は、弟子たちのようにどれほど振る舞っているだろうか。神様とその力に頼ることなく、どれほど自分に頼っているだろうか。」

私の最初の本能は祈ることだろうか。自分の力を超える問題に直面するときだけでなく、どんな状況であっても、それが私の第一の反応だろうか。

天のお父さん、私が決して自分の力で生きようとせず、いつもあなたに頼って生きる者となれますように。

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マルコの福音書のデボーション

天のお父さん、私は何を堅く守っているでしょうか。

パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく。。。

あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。(マルコの福音書7:3、8)

「堅く守っている」という言葉が、今日、私の心に深く残りました。

パリサイ人やユダヤ人たちは、自分たちの言い伝えを堅く守ることで、神様のことばを軽んじ、結果として神様ご自身をも軽んじてしまいました。口先では神様を敬いながらも、その心は神様から遠く離れていたのです。

現代にも、同じような問題が存在しています。人々は「クリスチャン」だと自称しながら、神のみことばを堅く守ることができず、代わりに現代の価値観を堅く保っているのです。

その結果、彼らもパリサイ人のように、口先では神様を敬っていても、心は神様から遠く離れてしまいます。

しかし、今日、私自身のことを思い巡らしました。

私は何を保とうとしているのだろうか。 イエス様とそのみことばに、私は本当にしがみついているのだろうか。

それとも、他のものにしがみついているのだろうか。 経済的な安定?自分のプライド? あるいは、悪い態度や罪そのもの?

イエス様、どうか私の心のすべてをあなたに捧げることができるよう助けてください。 私が、あなただけにしがみついて歩むことができますように。

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しばらく休みなさい

するとイエスは彼らに言われた。「さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」

イエスは、弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのを見て、夜明けが近づいたころ、湖の上を歩いて彼らのところへ行かれた。(マルコ6:31,48)

今日、イエス様がどれほど良い羊飼いでおられるかを思い巡らしていました。

イエス様は、いつも「仕え、仕え、仕え」と私たちに迫る方ではありません。イエス様は、私たちが御国のために何をしているかだけに関心を持っておられるわけではないのです。

イエス様は、私たちを心から愛しておられます。

だからこそ、イエス様はときにこう言われます。「少し仕えることを休みなさい。わたしと一緒に時間を過ごしましょう。」

それだけではありません。

私たちが「漕ぎあぐねている」とき、風が私たちに逆らっているとき、イエス様は私たちの苦しみに無関心でおられるのではなく、私たちのもとに来て、助けてくださるのです。

51~52節が、私の心をとらえました。

弟子たちは心の中で非常に驚いた。彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからである。(51-52)

もちろん、弟子たちは、とりわけイエス様の力に驚いていました。しかし、「パンのこと」は、単なるイエス様の力に関する教訓ではありません。

それは、良い羊飼いのように、イエス様が私たちを愛しておられるということなのです。

今日の箇所を読んで、最も印象深かったのはこの真理でした。

私の羊飼いは、私を本当に愛しておられます。

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マルコの福音書のデボーション

聞きなさい!考えなさい!

よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。(マルコの福音書4:3)

上の箇所では、ある言葉は全く翻訳されていません。一方、別の箇所では、その言葉が「見よ」や「見なさい」と訳されています(例:マタイ1:20、ルカ1:31)。

その言葉は感嘆詞であり、「次の言葉は重要なので注意して聞きなさい」という意味を含んでいます。

つまり、イエス様が語られたのは、「よく聞きなさい。考えなさい。種を蒔く人について。」ということなのです。

結局のところ、この最初のたとえ話の要点は、「聞きなさい」「考えなさい」という二つの言葉にあります。

イエス様のみことばを聞きなさい。一つの耳から入って別の耳から出てしまうことのないように。

しかし、それだけではなく、みことばを深く考えなさい。真剣に思い巡らしなさい。みことばが心の奥深くに根づくように。そうすれば、困難が訪れるとき、自分の信仰は萎えることなく、力強く保たれます。

最後に、みことばが自分の生き方を形づけるように。みことばがこの世のものによって塞がれることなく、豊かに実を結ぶように努めましょう。

私の教会では、この合言葉を大切にしています。「ヘッド・ハート・ハンド。」

神様のみことばは、あなたの頭と心と手に働いているでしょうか。

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マルコの福音書のデボーション

天のお父さん、私は脆い存在なのでしょうか

まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。

新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。(マルコの福音書2:22ー23)

天のお父さん、もしかして私は、古い皮袋のように脆い存在なのでしょうか。私があまりにも脆くて、もしあなたが人々に触れるために、御霊というぶどう酒を注がれると、私は裂けてしまうのでしょうか。

つまり、苦しんでいる人々への、あなたのあわれみと思いやりを欠いていることで、私は脆いのでしょうか。(5、17節)

また、周囲の人々をいつもさばいてしまうことで、私は脆いのでしょうか。(15ー16節)

あるいは、私の霊的な成熟度を他の人と比べることで、私は脆いのでしょうか。(18節)

天のお父さん、どうか、あなたが自由にぶどう酒を注ぐことのできる、新しい皮袋へと私を変えてください。あなたの注がれるぶどう酒が、無駄になることのないように。

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マルコの福音書のデボーション

どんな形でも、あなたとかかわっていたいです!

ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。(マルコの福音書1:24)

今日、イエス様に対する悪霊の言葉を思い巡らしていました。悪霊は基本的に、「あなたとは関わりたくないです。あなたを信頼できないし、まったく愛していないのです」と言いました。

イエス様はユダヤ人にも私たちにもそのような態度こそを悔い改めるように促しておられました。

「天のお父さんはあなたを愛しておられる。あなたの最善を望んでおられ、ご自身の愛する子として御国に招いてくださるのです。だから、神様に向けなさい。天のお父さんを信頼しなさい。」

私はイエス様を信じているのです。

だから私は、心から叫びます。

「どんな形でも、あなたとかかわっていたいです!」

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

あなたのいつくしみ深い霊が私を導いてくださいますように

御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。。。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。。。

私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。(ガラテヤ人への手紙5:18、22ー23、25)

今日の箇所を読んだとき、私はこう思いました。「単なるルールの一覧ではなく、生きておられる神の御霊に従っていて、よかった。」

なぜなら、ルールの一覧は、私の弱さを見たときに、あわれみも思いやりもまったく示してくれないからです。私の存在に心を留めてくれることもありません。

しかし、御霊は冷たく無関心なお方ではありません。むしろ、私の弱さに対して、あわれみと心遣いをもって応えてくださいます。

正直に言えば、私は御霊との関係を親しく感じるのが少し難しいです。なぜか、天のお父さんやイエス様ほどには、御霊が人格を持つお方として心に届いてこないことがあります。

けれども、御霊の実が「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」であるなら、まさに御霊ご自身がそのようなお方なのでしょう。私を見つめるとき、きっとそのような御顔を向けてくださっているのではないでしょうか。

今日、私はそのようなことを思い巡らしています。そして、私の悲しみと苦しみの中で、天のお父さんに祈っています。

あなたのいつくしみ深い霊が平らな地に私を導いてくださいますように。(詩篇143:10)

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イザヤ書のデボーション

死が滅ぼされる時

(この記事は、2011年に父が亡くなってから一年後に記したものです。昨日、母も天に召されたことを受けて、少し手を加え、あらためて共有いたします。)

多くの人々にとって、死は苦しみを伴うものです。

父の最後の週、私は毎晩、父の部屋でそばに寄り添いながら、静かに待っていました。それは、私がそれまで経験した中でも最もつらい時間でした。

そして母が召された今、私は再び同じような痛みを心に感じています。

それでも、やがて来る日には、死そのものが死に、終わりを迎える時が訪れます。

この箇所でイザヤは、イエス様の再臨について語っています。 彼はそのことに関して、次のように述べています。

この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。

神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。(イザヤ書25:7-8)

その日、すべての民が神様にこの賛美を歌います。

見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。

この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。(9)

父が亡くなった時、糖尿病や肺炎を患っていて、すでに目が見えず、足には全く治らない傷がありました。

母も肉体的な問題を抱え、断続的にうつ病と闘っていました。

しかし今、父と母のすべての健康の問題は取り去られ、彼らの苦しみと痛みは勝利に飲み込まれました(第一コリント15:54)。

今、父と母は共に救いの歌を歌い、主の食卓で食事をしています。

だから私は、苦しみの中でも喜ぶのです。

私は、父と母に再び会う日を待ち望んでいます。

There are burdens that I carry every day
私は毎日、重荷を背負って生きています。
Sometimes it makes me want to cry
時に、その重さに心がふさがれて、涙がこぼれそうになります。

In the middle of the darkness in my life
その人生の暗闇の中で
I find the strength to carry on.
私は生き続ける力を見いだします。
I am holding to a promise Jesus made
イエス様がくださった約束にしっかりと握り続けています。
And I know it won’t be long ‘til we’ll be gone.
やがて、私たちがこの世を離れる日が近づいていることを、私は知っています。

In a while, we’ll be gone.
やがて、私たちはこの世を離れる時が来ます。
And we won’t have to cry anymore.
その時、もはや涙を流すことはありません。
All our sorrows left behind.
悲しみはすべて、この世に置いていくのです。

That’s the day that I am waiting for.
その日を待っています。

That’s the day I’m longing for.
その日を願っています。

That’s the day that I am looking for.
その日を待ち望んでいます。

ーー エイミー・グラント

あなたがキリストにある希望を、さらに深く知ることができますように。

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

喜んで選ばれた

しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、 異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに(喜んで啓示してくださったとき)。。。(ガラテヤ人への手紙1:15〜16、新改訳とその脚注による)

「神がその御子を、私のうちに喜んで啓示してくださったとき。。。」

それは、なんと驚くべきことばでしょう。

いったい、なぜ神様が、その御子を私のうちに啓示してくださるのでしょうか。

おそらく、パウロもそのように自問自答したのではないでしょうか。

彼はかつて、冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした(第一テモテ1:13)。

異邦人に御子を啓示するために、神様はもっとふさわしい人を選ぶこともできたはずです。

それでも、神様はパウロを選ばれました。

しかも、ただ選ばれただけでなく、喜んでパウロを選ばれたのです。

このことばを読むと、私は希望を抱かずにはいられません。

神様は、この世にご自身を啓示するために、私たちすべてを神殿とし、また祭司として召しておられるのです。

しかし、自分自身を振り返ると、私の中にはさまざまな過ちや、目立つひびのある壁が見えるのです。あなたも、そう感じるときがあるのではないでしょうか。

ご自身を啓示するために、神様はきっと、私たちよりももっとふさわしい人を、神殿や祭司として選ぶこともおできになるでしょう。

それでも、神様は私たちを、いやいやながらではなく、喜んで選び、御子を私たちのうちに啓示してくださいます。

それがなんと不思議な恵みでしょう。

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ヨシュア記のデボーション

それゆえ。。。

それゆえ、いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって。。。主に仕えなさい。(ヨシュア記24:14、口語訳)

「それゆえ、今。。。」

新改訳聖書では単に「今」と訳されていますが、原語には「それゆえ」というニュアンスが含まれている場合もあります。

私が14節を読んだとき、最初に心を留めたのは、「まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕えなさい」という命令のことばでした。その一文が強く印象に残ったのです。

けれども、二度目に読んだとき、「それゆえ」という語に目がとまりました。

この「それゆえ」は、いったい何を指しているのでしょうか。

その直前で、ヨシュアは神様がどれほどイスラエルの民を祝福し、恵みを与えてこられたかを語っていました。

そして、そのすべてを語り終えたとき、ヨシュアはこう命じるのです。

「それゆえ、いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕えなさい。」

それに気づいたとき、私はもうひとつの聖書の箇所を思い出しました。

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ書12:1)

私たちのすべてを神様に捧げること。偶像や罪を捨て、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして神様を愛すること。これらの命令に目を留めるのは、容易なことです。

もちろん、それらはとても重要です。しかし、私たちは「それゆえ」や「ですから」という語を見落としてはなりません。

だからこそ、まず、この2つの真理に心を向けましょう。

神様は、私たちに、なんと祝福してくださったことでしょう。

神様は、私たちに、なんと恵みとあわれみを与えてくださったことでしょう。

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ヨシュア記のデボーション

自分自身に気を付けなさい

だからあなたがたは自分自身に十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。(ヨシュア記23:11)

今朝、私はそのことばに心を打たれました。

「自分自身に気を付けなさい。」

それだけでなく、「自分自身を十分に気を付けなさい」とも語られています。

何のためでしょうか。

それは、私のすべての思い、言葉、そして行動が、神への愛を映し出すものとなるためです。

今朝の私の心はやや騒がしく、態度も正しくありませんでした。

期末テストがあるのに、娘はかぜを引いて、私はそのことをすこし心配しています。また、職場でもいくつかイライラすることがあり、心が乱れました。

けれども、今日の聖書箇所を読んで、心をもう一度正しい方向へ向け、 何が本当に大切なのかを思い起こそうとしています。

それは、神を愛すること。 そして、周囲の人々を愛することです。

私たちは、自分の状況や感情に簡単に引きずられてしまいます。

だからこそ、ヨシュアの言葉を心に刻んでおきましょう。

「自分自身に気を付けなさい。」

そして――「あなたがたの神、主を愛しなさい。」

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ヨシュア記のデボーション

神のことばを一言も省かずに

主がそのしもべモーセに命じられたとおりに、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりに行った。主がモーセに命じられたすべてのことばを、彼は一言も省かなかった。(ヨシュア記11:15)

ヨシュア記には、いくつかの有名な箇所があります。 第1章5〜9節と第24章15節は、特に有名です。

けれども、私はこの箇所も気に入ります。「主がモーセに命じられたすべてのことばを、彼は一言も省かなかった。」

私も、そのような人になりたいのです。 特に、罪に向き合うときにこそ、そうありたいと願います。

私は、言い訳をしたくありません。 自分の罪を軽く見たくもありません。 むしろ、ヨシュアとイスラエルの民がカナン人とその悪を根絶やしにしたように、 私も自分の罪を根絶やしにしたいのです。(レビ記18章、特に24〜25節)

天のお父さん、どうか私の罪を根絶やしにするよう助けてください。 あなたが命じられたすべてのことばを、私は一言も省かない者となることができますように。

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ヨシュア記のデボーション

裁きの日

ヨシュアはその全地、すなわち、山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地、そのすべての王たちを討ち、一人も残さなかった。息のある者はみな聖絶した。イスラエルの神、主が命じられたとおりであった。(ヨシュア10:40)

正直に言えば、上の言葉には腑に落ちない思いを覚えるかもしれません。なぜ神様はそのような命令を出されたのでしょうか。

一言で言えば、それは「さばき」です。

人が聖絶されるとは、その人が神のさばきの下にあり、滅びるべきものとして神の前に定められたことを意味します。

したがって、イスラエルの民がアモリ人の命を奪ったのは、自分たちの都合によるものではなく、神様ご自身のさばきを執行したということなのです。

アモリ人たちは、何のためにさばかれたのでしょうか。

それは、自分たちの罪のゆえです。

レビ記18章で、神様はその罪を具体的に示され、「その地は、そこに住む者を吐き出す」と語られました(レビ記18:24〜25)。

とはいえ、神様は忍耐深く、アモリ人の悔い改めを約400年の間、待っておられました(創世記15:13〜16)。

それでも、彼らは決して悔い改めようとはしませんでした。

そして、その罪が満ちたとき、さばきが下されました。神様は、アモリ人たちをことごとく討つように、ヨシュアとイスラエルの民に命じられました。

前回の記事では、私は述べました。聖書のことばの全体が、神の愛とあわれみについての心強いメッセージだけではないということです。さばきについての厳しいことばもあるのです。

もちろん、神様は忍耐深いお方です。神様はだれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(第二ペテロ3:9)。

しかし、アモリ人たちのように、人々が悔い改めようとしないなら、最終的にさばきは訪れます。

だからこそ、私たちは自分の罪を決して軽く見ないようにしましょう。

さばきの日が来ることを心に留めておきましょう。

そして、ペテロのことばをしっかりと心に刻みましょう。

しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。

このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。

そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。(第二ぺテロ3:10ー12)

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ヨシュア記のデボーション

御言葉が厳しくても、心強くても

その後、ヨシュアは、みおしえの書に記されているとおりに、律法のすべてのことばを、祝福ものろいも読み上げた。

モーセが命じたすべてのことばの中で、ヨシュアが。。。読み上げなかったことばは、一つもなかった。(ヨシュア記8:34ー35)

そのことばは、私の心に響きました。

ヨシュアは、自分が気に入った聖書の箇所だけでなく、 厳しい内容の箇所も、すべて読んでいました。

聖書のすべての箇所が、神の愛とあわれみだけを語っているわけではありません。心強いことばばかりで満ちているわけでもないのです。

神のさばきと正義についての、厳しいことばも含まれています。

そして、その真理を忘れてしまうと、アカンのように、私たちは自分の罪や、神様ご自身を軽く見てしまうかもしれません。(ヨシュア記7章)

しかし、より大切なのは、厳しくても励ましに満ちていても、 神のことばのすべては、私たちの益のためであるということです。

だからこそ、気に入った心強いみことばだけでなく、ヨシュアのように、そのすべてを読みましょう。

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ヨシュア記のデボーション

自分の冠をイエス様の前に投げ出す

ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」

彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」

ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」(ヨシュア記5:13ー14)

ヨシュア記5章には、さまざまな素晴らしい真理が記されています。

神様が恥辱を私たちから取り除かれるという概念が、私は大好きです(9節)。

また、神様を信頼し、従わなければ、私たちは霊的な荒野をさまよい、神様が用意してくださった良い計画を知らずに終わってしまう、という真理についても考えさせられます。(6節)

でも、この章を読むたびに、私はなぜか13〜14節に目が引かれます。このブログでも、その節について5度も書いたことがあるのです。

ヨシュアは神の民の指導者でした。しかし、主の軍の将(多くの聖書学者は、彼こそイエス様であると信じています)が現れると、ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、こう尋ねました。 「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」

今日、この場面を読んだとき、私は黙示録4章を思い出しました。

また、これらの生き物が栄光と誉れと感謝を、御座に着いて世々限りなく生きておられる方にささげるとき、二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。

また、自分たちの冠を御座の前に投げ出し(ました)。。。(黙示録4:9ー10)

二十四人の長老たちが神の御座の前にひれ伏し、自分たちの冠を御座の前に投げ出したように、ヨシュアもまた、自分の冠を主の軍の将の前に投げ出し、神のご支配に従いました。

今日、私もそのように応答しました。

イエス様、私の冠をあなたの前に投げ出します。あなたは私の王です。私はあなたのご支配に従います。何をこのしもべに告げられるのですか。

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ヨシュア記のデボーション

これはどういうものなのですか

後になって、あなたがたの子どもたちが『この石はどういうものなのですか』と尋ねたとき、 あなたがたは彼らにこう言いなさい。

『ヨルダン川の水が主の契約の箱の前でせき止められたのだ。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水はせき止められた。この石はイスラエルの子らにとって永久に記念となるのだ。』(ヨシュア記4:6ー7)

日曜日、私の牧師はアブラハムの割礼について語りました。 その割礼によって、アブラハムは神様との関係を常に思い起こされていました。

今日の箇所に登場するヨルダン川から取られた石々も、同じような目的を果たしていました。 その石を通して、イスラエルの民は神様との関係を、特に主がなしてくださったみわざを、いつも思い出していたのです。

礼拝の中で、牧師は私たちに問いかけました。 「あなたと神との関係を思い起こさせるものは何ですか。」

私は今、自分の洗礼式の記念写真のことを思い浮かべています。 その写真は、押し入れの箱の中にしまわれています。 ガラスの枠は割れてしまいましたが、写真そのものは今も残っています。

そして私は、こんな問いを心に抱きました。 「どうして、その写真は箱にしまわれたままなのだろうか。 あの写真は、私にとって何を意味しているのだろうか。」

実際、この写真は私にとって、とても大切な転換点を表しています。

正直に言うと、私はバプテスマを受けた当時、その意味を完全には理解していませんでした。「私はクリスチャンです」と宣言することは知っていましたが、それ以上のことはあまりわかっていなかったのです。

それでも、今でもはっきり覚えている場面があります。 牧師が私にこう尋ねました。「なぜ、バプテスマを受けたいのですか。」

私はこう答えました。「神様をもっと知りたいのです。」

振り返ると、それはとても不完全な答えだったと思います。 でも、神様はその答えを受け入れてくださいました。

バプテスマの直後、神様はさまざまなかたちでご自身を私に現してくださいました。

そろそろ、あの写真を箱の中から出して、目につく場所に飾り直してもいいのではないかと思っています。

あなたはどうですか。 あなたと神様との関係を思い起こさせるものが、あなたの身の回りにあるでしょうか。 神様がしてくださったことを思い返させるような、大切な記念はあるでしょうか。

箱から取り出し、もう一度目に見えるところに置くべきものは、ありませんか。

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ヨシュア記のデボーション

通ったことがない道をたどっているから

あなたがたの神、主の契約の箱を見、さらにレビ人の祭司たちがそれを担いでいるのを見たら、自分のいる場所を出発して、その後を進みなさい。

あなたがたが行くべき道を知るためである。あなたがたは今まで、この道を通ったことがないからだ。ただし、あなたがたと箱の間に二千キュビトほどの距離をおけ。。。

ここに来て、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい。(ヨシュア記3:3ー4、9)

今日の箇所を読んでいると、最近暗記した詩篇のことを思い出しました。

朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。

行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。

主よ、私を敵から救い出してください。私はあなたのうちに身を隠します。

あなたのみこころを行うことを教えてください。あなたは私の神であられますから。

あなたのいつくしみ深い霊が平らな地に私を導いてくださいますように。(詩篇143:8ー10)

カナンに入るとき、イスラエルの人々がその歌を歌っていたことを想像できます。 しかし今、その歌は私の祈りでもあります。 未来は、私が一度も通ったことのない道です。知らないことが多すぎます。

さらに、サタンは私に見えない多くの罠を仕掛けようとします。 けれども、神様は先の道をよくご存じです。

だから私は、神様に近づきたいです。神様に近づかなければならないのです。 神の御ことばに耳を傾けるために、 神の御心を知るために、 そして、毎日毎日、一瞬一瞬、御霊に導かれるためです。

そのような歩みは、どうすれば実現できるのか、正直に言うと、私はまだその途上にあります。 しかし、私は毎日祈りつづけています。

朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。

行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。

主よ、私を敵から救い出してください。私はあなたのうちに身を隠します。

あなたのみこころを行うことを教えてください。あなたは私の神であられますから。

あなたのいつくしみ深い霊が平らな地に私を導いてくださいますように。(詩篇143:8ー10)

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使徒の働きのデボーション

御国への熱心

パウロは、神の国のことを証しし、モーセの律法と預言者たちの書からイエスについて彼らを説得しようと、朝から晩まで説明を続けた。

ある人たちは彼が語ることを受け入れたが、ほかの人たちは信じようとしなかった。(使徒の働き28:23ー24)

この言葉を読んで、私はパウロの熱心に気づかざるをえません。 神の御国へ導こうとするパウロの熱心は驚くべきものです。

パウロのメッセージを信じる人もいれば、信じない人もいました。しかし、信じるか信じないかに関わらず、パウロの熱心が消えることはありませんでした。

私もそのような熱心を持ちたいと思います。

使徒の働きの最後のいくつかの章を読みながら、コリントの信徒たちに対するパウロの言葉を思い起こしていました。 特に、第二コリント5章では、パウロは自分の動機をはっきりと説明しています。

そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。

そのため、主を恐れることを知っている私たちは、人々を説得しようとしています。。。(24章に登場するフェリクスのことを考えてください。)

私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。 (26章に登場するフェストゥスのことを考えてください。)

というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。(コリント人への手紙第二5:9ー11、13ー15)

天のお父さん、どうかパウロが持っていた御国への熱心を与えてください。キリストの愛に捉えられ、キリストへの愛に動かされ、そして周囲の人々へのキリストの愛に押し出されて、御国のために仕える者とならせてください。

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使徒の働きのデボーション

疲れた者を励ます言葉

神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まして、 私が弟子として聞くようにされる。(イザヤ書50:4)

最近、上の言葉を暗記しようとしています。

そこで、使徒の働き27章を読んだとき、イザヤの言葉はパウロに当てはめられる、とふと思いました。

パウロが神の声を聞くために、神様はその耳を呼び覚ましてくださいました。(使徒の働き27:23ー24)

また、疲れた者をことばで励ますため、神様はパウロに弟子の舌を与えてくださいました。(使徒の働き27:25、33ー36)

私もそのような人になるように願っています。

天のお父さん、あなたの御声に気づくために私の耳を呼び覚ましてください。そして、疲れた者をことばで励ますために弟子の舌を与えてください。

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使徒の働きのデボーション

私の神は小さすぎる?

神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいこととお考えになるのでしょうか。(使徒の働き26:8)

今日、私の心はその言葉に打たれました。

もちろん、私は復活を信じています。しかし、別の意味で、私の心の中で神様を小さく捉えてしまっているのではないでしょうか。

今日、私の同僚のために祈っていました。けれども、その祈りの途中でふと考えました。

「私は祈っているけど、神様がこの願いを聞き届けてくださると、本当に信じているだろうか。もしかすると、ただ希望的観測を口にしているだけなのではないか。」

私はそのような祈り方をしたくありません。私の神は偉大なお方です。そのことを心に留めて、信仰をもって祈りたいのです。

I have made you too small in my eyes.
私は私の目の中であなたを小さくしてしまいました。
O Lord, forgive me.
主よ、赦してください。
And I have believed in a lie
そして、私は嘘を信じてしまいました。
that you were unable to help me.
あなたは私を助けることができないと。

But now O Lord, I see my wrong.
しかし今、主よ、私は自分の過ちを悟ります。
Heal my heart and show yourself strong.
私の心を癒し、ご自身の力を現してください。

And in my eyes and with my song,
そして、私の目においても、私の歌においても、
Be magnified, O Lord.
主よ、あなたが大いなるお方として現れますように。
Be magnified, O Lord
主よ、あなたが褒め称えられますように。

ーードン・モーエン

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使徒の働きのデボーション

イエス・キリストに上訴します!

すると、パウロは言った。「私はカエサルの法廷に立っているのです。。。私はカエサルに上訴します。」(使徒の働き25章)

「法廷」という言葉は、聖書の別の箇所では「さばきの座」と訳されています。特に、「神のさばきの座」(ローマ14:10)と「キリストのさばきの座」(第二コリント5:10)です。

それゆえ、今日の箇所を読んだとき、私の心にはこの思いが浮かびました。

パウロがカエサルのさばきの座の前に立ったように、ある日、私たちも神のさばきの座の前に立たなければなりません。そのとき、サタンは私たちに対して、容赦ない告発を突きつけてくるでしょう。

しかし、パウロへの告発とは異なり、サタンの告発は正当なものであり、私たちは死に値する者です。なぜなら、私たちは確かに多くの罪を持っているからです。

それでも、私たちは神の子として宣言できます。「私はイエス・キリストに上訴します!」

そして、十字架で流されたイエス様の血によって、神様は私たちに対し「無罪」との判決を下してくださるのです。

これは、なんと素晴らしい真理でしょうか。

だからこそ、サタン、または自らの良心さえも容赦なく私たちを責めるとき、大胆に叫びましょう。

「私はイエス・キリストに上訴します!」

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使徒の働きのデボーション

健全な良心にしたがう(2)

そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。(使徒の働き24:16)

23~24章では、パウロが健全な良心に従うことについて二度語っています。(23:1)

なぜ、パウロにとってそれがそんなに重要だったのでしょうか。

おそらく、三つの理由がありました。

第一の理由は、復活の希望があり、いつか必ずさばきの御座の前に立たなければならないと確信していたからです。(15節)

パウロは、コリントの信徒たちにこう記しました。

そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。(コリント人への手紙第二5:9ー10)

しかし、パウロは主への恐れだけでなく、主の愛を深く知っていました。だからこそ、彼はこれも記したのです。

というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。(コリント人への手紙第二5:14ー15)

そして、最後の理由は、健全な良心に従うことで、汚点のない証しを守ることができると知っていたからです。

パウロがフェリクスに神のさばきについて語ったとき、フェリクスは恐れました。(使徒の働き24:24ー25)

もしかすると、フェリクスが賄賂を求めた理由のひとつは、パウロの証しの力を弱めるためだったのかもしれません。つまり、もしパウロが賄賂を渡そうとしたのなら、彼は神のさばきを本当に信じていなかったということになったでしょう。

しかし、パウロは健全な良心を保ち続けたため、その証しは揺らぐことなく立ち続けました。

健全な良心を保つことは、私たちにとってどれほど重要でしょうか。

天のお父さん、私がいつも健全な良心を保てるように導いてください。あなたへの恐れのためです。あなたの愛のゆえです。そして、人々があなたへと引き寄せられるための、汚点のない証しを守るためです。

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使徒の働きのデボーション

健全な良心にしたがう

パウロは、最高法院の人々を見つめて言った。

「兄弟たち。私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました。」(使徒の働き23:1)

今日の箇所を読んだとき、「パウロの言葉を言うことができたらいいのに」と思いました。

もちろん、そう言うときに、傲慢で独善的な態度を取ってはいけません。

実際、私たちは健全な良心に従おうとしても、時にはひどいことをしてしまうことがあります。パウロは、他の多くの人々以上に、そのことを理解していたでしょう。(第一テモテ1:13〜14)

しかし、私は決して自分の良心に反して故意に罪を犯したくありません。

むしろ、自分の罪を見いだすとき、私はパウロのように柔らかい心を持ち、すぐに悔い改めたいです。(使徒の働き23:5)

だから、これはいつも私の心の祈りです。

だれが、自分の過ちを悟ることができるでしょう。

どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと、私の心の思いとが御前に受け入れられますように。主よ、わが岩、わが贖い主よ。」(詩篇19:12〜14)

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使徒の働きのデボーション

何をためらっているの?

さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。(使徒の働き22:16)

今まで気づいていませんでしたが、サウロはバプテスマを受けることをためらっていたようです。

なぜでしょうか。

もしかすると、過去のことを思い出し、罪悪感を抱いていたのかもしれません。

「神様は私のような者を愛することができるのだろうか?」と考えていたかもしれません。

「神様は御国のために私のような者を本当に用いることができるのだろうか?」と悩んでいたのかもしれません。

もしかすると、あなたもサウロのようにバプテスマを受けることをためらっているかもしれません。自分の罪や弱さ、また疑いを感じているのではないでしょうか。

もしかしたら「私はまだ聖書について十分に理解していない」と思っているかもしれません。

「クリスチャンとしてちゃんと歩めるだろうか?」と不安に感じているかもしれません。

しかし、ためらわないでください。バプテスマを受ける前に、完全な人など誰もいません。完全な信仰を持つ人もいません。神様とそのみ言葉を十分に理解している人もいません。

私はクリスチャンとして40年以上歩んできましたが、それでもなお、これらを達成したとは言えません。

神様が望まれるのは、あなたがご自身と共に歩み始めることです。そして、神様との旅は<ひとつの決断から始まります。 「イエス様、私はあなたを主、救い主として信じ、従いたいです。」

もし、あなたがこの言葉を心から言うことができるなら、アナニアの言葉はあなたにも適用されるのです。

さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。(使徒の働き22:16)

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使徒の働きのデボーション

知らずに礼拝している?(2)

この人は主の道について教えを受け、霊に燃えてイエスのことを正確に語ったり教えたりしていたが、ヨハネのバプテスマしか知らなかった。。。

それを聞いたプリスキラとアキラは、彼をわきに呼んで、神の道をもっと正確に説明した。(使徒の働き18:25ー26)

その言葉を読んだとき、私は「アポロも、ある意味で知らずに神様を礼拝していたのではないか」と思いました。

彼はある程度までイエス様のことを知り、熱心に語り教えていましたが、神様についての知識にはまだ欠陥があったようです。

しかし、多くのアテネ人とは異なり、アポロはその欠陥を埋めたいと切に求めていました。そして、その欠陥が埋められることで、アポロは神様をさらに深く知り、神様は御国のために彼をより効果的に用いることができました。(使徒の働き18:27ー28)

あなたはどうでしょうか。あなたはイエス様を知り、熱心に仕えているかもしれません。けれども、私たちは皆、神様についての知識にはまだ欠陥があります。

その欠陥を残したまま満足しているでしょうか。それとも、積極的にその欠陥を埋めようと努めているでしょうか。

イエス様はこう言われました。

しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。

神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23ー24)

だからこそ、神様についての知識に欠陥を残したまま生きるのではなく、積極的にその欠陥を埋めていきましょう。そうすることで、神様が望まれるように、私たちは御霊と真理によって礼拝する者となるのです。

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使徒の働きのデボーション

知らずに礼拝している?

あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております。 。。あなたがたが知らずに拝んでいる。。。(使徒の働き17:22ー23)

今日、上記の言葉を思い巡らせていました。アテネ人たちは宗教心が厚い人々でしたが、何を拝んでいるのかを知りませんでした。彼らの神様についての概念は大きく誤っていたため、パウロはその考え方を正そうとしました。

サマリア人たちも同じ問題を抱えていました。イエス様はあるサマリア人にこう言われました。

あなたがたは知らないで礼拝しています。(ヨハネ4:22)

もちろん、多くの人々は神様について誤った考えを持っています。

しかし、ある意味では、私たちクリスチャンも神様を知らないまま礼拝していることがあるでしょうか。

言い換えると、私たちの神様についての知識には、どれほど欠陥があるのでしょうか。また、私たちの個人的な経験によって、神様への理解はどれほど歪められているのでしょうか。

私たちの多くは、神様が自分たちの天のお父さんであることを理解しています。

けれども、父親との関係によって、「天のお父さん」というイメージがどれほど歪められているでしょうか。

また、私たちは神様が良い王であることを主張します。しかし、この世のリーダーたち、さらには教会のリーダーたちが自分の権力を乱用していることで、私たちはどれほどその概念に違和感を抱いているでしょうか。

私は神様について健全なイメージを持っていると思っています。それでも、私の神様についての知識にはまだ欠陥があるでしょうか。

その欠陥のために、私はどれほど神様に従うことをためらっているでしょうか。

その欠陥のために、私はどれほど神様に信頼することをちゅうちょしているでしょうか。

神様が私をどのように見ておられるかを知らないために、私はどれほど周囲の人々の称賛を求めているでしょうか。

私の人生には、そのような葛藤が見られます。それは、ある意味で、私がまだ神様を知らないまま礼拝しているからでしょうか。

だから今日、このように祈ります。

天のお父さん、私があなたをもっと深く知るように導いてください。あなたについての知識の欠陥を埋めてください。あなたをありのままに見たいのです。

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使徒の働きのデボーション

鎖が砕かれるように

すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。(使徒の働き16:26)

この言葉を読んだとき、私は、鎖が砕かれ、自由にされる必要のある人々のことを考えていました。

ある人は、傷つき、怒りや苦々しい思いに縛られています。別の人は、混乱や不安に縛られています。

また、自己肯定感が低く、自分が不十分だと感じ、縛られている人々もいます。

罪に縛られている人々もいます。

私が気づいていないだけで、サタンは別の鎖によってさらに多くの人々を縛っているのかもしれません。

そこで、今日、神様は私に思い起こさせてくださいました。「わたしはその鎖を砕きたい。」

リディア、悪霊に取りつかれた女性、囚人たち、そして看守の鎖を砕かれたように、神様は私の周囲の人々の鎖を砕くことを望んでおられます。

だから今、私は彼らのために祈っています。彼らにとって、私が天と地の交わる場所となるように祈っています。彼らにどのように触れ、助けることができるか、神様に尋ねています。

あなたの周りには、鎖に縛られた人々がいるのではないでしょうか。あなた自身は鎖に縛られているでしょうか。

神である主の霊がわたしの上にある。。。心の傷ついた者を癒やすため、 主はわたしに油を注ぎ、 わたしを遣わされた。 捕らわれ人には解放を、 囚人には釈放を告げ(ます)。。。(イザヤ書61:1)

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使徒の働きのデボーション

恵みを与える人

興味深いことに、パウロは恵みによる救いの概念のために激しく戦いましたが、マルコに対してはほとんど恵みを示しませんでした。

以前の宣教旅行で、マルコは途中で一行から離れ、パウロとバルナバを失望させました。彼の理由ははっきりしていませんが、いずれにせよ、パウロは彼にセカンドチャンスを与えようとしませんでした。

この話を読んだとき、私はこう考えました。「私はどれほどパウロのように振る舞うだろうか。人々が私の基準に達せず、私をがっかりさせるとき、どれほど彼らに恵みを与えないことがあるだろうか。」

おそらく、それは数えきれないほどあるでしょう。

しかし、私は恵みを与える人になりたい。特に、キリストにある私の兄弟姉妹に対して恵みを示す者になりたい。

あなたは恵みを与える人でしょうか。

兄弟姉妹が私たちをがっかりさせるとき、心に留めておくべきことがあります。

神様は彼らの心を知っておられます。そして、彼らの弱さや失敗にも関わらず、御霊は私たちのために証されたように、彼らのためにも証し、「あなたは神の子です」と語っておられます。

神様は私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださいました。(使徒の働き15:8-9)

だから、彼らが私たちをがっかりさせるとしても、神様が彼らに、そして私たちにも注がれた恵みを示しましょう。

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熱心に祈り続けている?

こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。(使徒の働き12:5)

今日の箇所を読んだとき、私はクリスチャンたちの姿について考えました。彼らはヤコブのために熱心に祈りましたが、彼はヘロデによって殺されました。

それでも、ヘロデがペテロを拘束したとき、教会はペテロのために祈りました。そしてただ祈っただけでなく、熱心に祈りました。

そのことを考えながら、私は自問しました。 「神様の答えが遅く感じられるとき、私はどれほど熱心に祈り続けているだろうか。

そして、神様が『ノー』と答えられたことを思い出しながらも、それでも私は同じ熱心さで祈り続けているだろうか。」

今、私は二人の友人のことを考えています。彼らのためにずっと祈っていますが、今のところ神様の答えはまだ来ていません。

熱心に祈るときもあれば、あまり熱心に祈らないときもあります。

もちろん、熱心に祈ったからといって、必ず神様がその祈りを聞き届けてくださるとは限りません。

また、祈りの熱心さが、私の信仰の深さを証明するものとは限りません。(15-16節を読んでみてください。)

しかし、祈りの熱心さは、このような態度を表します。

「天のお父さん、私にとってこの問題は非常に重要です。あなたが私の願いを聞いてくださることを信じます。 あなたが私を愛してくださることを信じます。 だからこそ、私はあなたを信じて、すべてをあなたに委ねます。」

今日、そのような態度を持って、私は友人のために祈りたいと思います。

あなたはどうでしょうか。熱心に祈り続けていますか。

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パリサイ人のように聞こえることがる?

そこで、ペテロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちが、彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところに行って、彼らと一緒に食事をした」と言った。(使徒の働き11:2ー3)

その言葉を読んだとき、私はこう考えました。 「彼らは、どれほどパリサイ人のように聞こえたのか気づいていたのだろうか。」

イエス様が「罪人」とともに食事をされたとき、パリサイ人たちは彼を激しく批判しました。(ルカ5:30;15:2)

割礼を受けているクリスチャンたちは、このような話を何度も聞いてきたでしょう。そして、おそらくこう思っただろう。 「私は決してパリサイ人のような態度を取ることはない。」

しかし、彼らはペテロを非難するとき、自分たちがまさにパリサイ人のような態度を取っていることに気づいていたのでしょうか。

そして、私は自分自身について考えました。 私はパリサイ人のように聞こえることがあるのだろうか。

たとえその瞬間がなくても、私は気づかないうちに、他の罪深い態度を持っているのではないだろうか。

聖書の登場人物について読むとき、私は「決してこの人のように振る舞うことはない」と思いながらも、気づかぬうちに同じようなことをしているのではないだろうか。

私は今、その答えを知りません。

しかし、私はこのように祈ります。

天のお父さん、私の心を私自身に明らかにしてください。 私が気づいていない罪深い態度や行為を示してください。 どうか私をあなたのようにしてください。

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使徒の働きのデボーション

神の選びの器

聖書を読んだとき、「この言葉は私には当てはまらない」と思うのは、簡単なことかもしれません。

使徒の働き9:15を読むと、おそらく多くのクリスチャンは同じように考えるでしょう。神様はアナニアにこう語られました。

あの人(つまり、サウロ)は、わたしの名を異邦人、王たち、イスラエル人の子の前に運ぶ、わたしの選びの器です。

もちろん、神様はサウロについてその言葉を語られました。しかし、神様はあなたにも似たことを語られています。あなたも神様の選びの器であり、神様の御名を周囲の人々の前に運ぶように召されています。

けえども、それを本当に信じているでしょうか。

多くのクリスチャンは、それを信じていません。そのため、ミニストリー(特に福音を述べ伝えること)をプロに任せてしまいます。

さらに、自分が神様の選びの器だと信じていないため、聖書をあまり読まず、祈ることもしないでしょう。

しかし、神様はあなたにこう語られています。

「あなたは、わたしの名を周囲の人々の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼らにとって、あなたは天と地の交わる場所となりなさい。彼らがわたしに出会える場所となりなさい。」

もし神様があなたにそう語られていることを本当に信じたら、あなたの人生はどれほど変わるでしょうか。

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三つの質問

そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが分かりますか」と言った。(使徒の働き8:30)

ピリポの質問は本当に印象的です。少し想像してみてください。

あなたが聖書を読んでいると、ピリポが近づき、こう尋ねます。

「あなたは、読んでいることが分かりますか。」

あなたはどのように答えるでしょうか。

宦官と同じように、「私はさっぱりわからない」と答えることは、まったく問題ありません。

しかし、あなたはどれほど理解したいと思っていますか。分からない部分について積極的に尋ねるほど知りたいのですか。

宦官は本当に理解したかったので、ピリポを自分の隣に座らせ、謙虚に聖書の解説を願いました。

けれども、もっとも重要な問いは、「私は理解した真理をどのように扱っているのか」ということです。

ピリポの教えを通して、宦官は悟りました。

「私はイエス様を信じなければならない。そして、その最初の一歩はバプテスマを受けることだ。」

だから彼はすぐにバプテスマを受けることを願ったのです。

イエス様はこう語られました。

ですから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人はさらに与えられ(ます)。。。(ルカの福音書8:18)

言い換えれば、私たちが理解を求め、さらに、すでに知っている真理を実践すると、イエス様はさらに多くの御言葉を私たちに明らかにしてくださいます。

宦官はそれを経験しました。

では、私たちはどうでしょうか。おそらく、理解できない聖書の箇所が多くあるでしょう。もちろん、それらの箇所について理解を求めるべきです。

しかし、私たちはすでに理解している真理をどう扱っているでしょうか。私たちはイエス様に「はい」と答え、その御言葉に従っているでしょうか。

だからこそ、挑戦してみましょう。次に聖書を読むとき、自問してみましょう。

  1. 私は、読んでいることが分かりますか。
  2. 私は、この分からないところについて誰かに尋ねるほど理解したいのですか。
  3. 私は、すでに理解していることについてどうするのですか。
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神に出会える場所となる(3)

使徒の働き6章を読むたびに、ステパノについての記述が私の心に響きます。

「御霊に満ちた。」

「知恵に満ちた。」

「信仰に満ちた。」

「恵みに満ちた。」

「力に満ちた。」

今日、この言葉を読んで、私はこう考えました。

「もし私が、周囲の人々にとって神に出会える場所となりたいのなら、そのような人にならなければならない。」

しかし、ステパノはどのようにして、このような人物となったのでしょうか。

おそらく、その理由の一つは、彼が他のクリスチャンたちと同じように、御言葉と祈りに専念したからです。(使徒の働き2:42)

この二つの事柄は、12人の使徒たちのミニストリーの中心でした。(使徒の働き6:4)

ステパノは聖書に精通するにつれて、その知恵を深めていきました。

祈りによって、御霊と強く結ばれ、恵み、力、そして信仰に満ちるようになったのです。

だから、私は御言葉と祈りのために、もう少し時間を取る必要があると思います。もしかしたら、もっと多くの時間を取るべきなのかもしれません。

もちろん、私は仕事の責任、家族の義務、そして他にも果たすべき事柄があります。

しかし、もしかすると、神様が今、私に静かに語りかけておられるのではないかと思います。

「もう少し時間をちょうだい。もう少し時間を与えてくれないか。コンピューターの時間、YouTubeの時間、ポッドキャストの時間をもう少し減らして、私と過ごす時間を増やしてほしい。」

もしかしたら、神様はあなたにも同じようなことを語っておられるかもしれません。

あなたはどう思いますか。

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神様に出会える場所となる(2)

彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。(使徒の働き4:13)

今週の記事を読んでいるなら、「神様に出会える場所」という言葉が私の心に深く残っていることに気づいたでしょう。

つまり、私たちは天と地が交わる場所となるべきです。私たちを通して、周囲の人々は神様に出会うことができるはずです。

上記の箇所で、その真理をもう一度思い出しました。

私は、単なる「いい人」として知られることを望んでいません。

むしろ、「イエスとともにいた人」として知られることを願っています。

私は、御霊の愛と力に満たされ、見たことや聞いたことを語らずにはいられず、神の愛によって人々に触れたいと願っています。

天のお父様、私がそのような人となりますように。 ただ「いい人」であることに満足するのではなく、私が出会うすべての人が、私がイエス様とともにいたことを感じられるように。

そして、私を通して、彼らがあなたに惹かれ、あなたに出会うことができますように。

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神様に出会える場所となる

すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒の働き3:6)

日曜日に、私の牧師は、エデンの園が天と地の交わる最初の場所について話していました。そこでは、アダムとエバが神様と直接出会うことができました。

その後、幕屋と神殿が、神様と出会える場所として設けられました。

そして、イエス様がこの世に来られ、人々はイエス様に出会うことで、初めて神様の御顔を見ることができました。

しかし今、聖霊様が私たちのうちに住んでおられ、私たち自身が天と地の交わる場所となっています。人々は私たちを通して神様に出会うことができるのです。

足の不自由な人にとって、ペテロとヨハネは天と地の交わる場所となりました。彼らを通して、彼だけでなく、何千人もの人々が神様に出会いました。

私も、周囲の人々にとって天と地の交わる場所となりたいです。ペテロとヨハネのように、神様が私に導かれる人々に気づき、神様の愛で触れたいです。

彼らの癒しのために祈り、励ましの言葉をかけ、イエス様の福音を伝えたいのです。

それが私の祈りです。

天のお父様、私が天と地の交わる場所となりますように。 私を通して、人々があなたに出会うことができますように。

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御国が来ますように

彼らはみな。。。いつも心を一つにして祈っていた。(使徒の働き1:14)

使徒たちや他のクリスチャンたちは、何について祈っていたでしょうか。

ただ自分たちの個人的な必要のために祈っていたのでしょうか。

イエス様が神の御国について彼らに教え、「エルサレムで御霊を待ちなさい」と言われたことを考慮すると、彼らの祈りの焦点はそれだけではなかったでしょう。

ただ私の意見ですが、彼らは特に二つのことを祈っていたと思います。

「あなたの御国が来ますように。」

「あなたの御霊を遣わしてください。」

だから、今日、私はそのように祈ります。

天のお父さん、あなたの御国があなたの民の間に来ますように。

あなたの教会が天と地の交わる場所となりますように。

みこころが天で行われるように、あなたの民の間でも行われますように。

あなたの教会が、私たちの罪の鎖が砕かれ、壊れた人生が癒され、あなたとの関係が回復する場所となりますように。

しかし、それだけではなく、どうかあなたの御霊で私たちを満たしてください。イエス様が御霊に満たされたように、私たちをも満たしてください。それは、私たちが効果的な証人となるためです。

あなたが御国を私たちの人生にもたらされたように、私たちを用いて、周囲の人々にも御国をもたらしてください。人々の鎖を砕き、人生を癒し、人々をあなたへと導いてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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罪に定められることはない

今日、犯罪人へのイエス様の御言葉を思い巡らせていました。

まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。(ルカの福音書23:43)

要するに、「あなたは今や罪に定められることはない。」

「あなたは十字架につけられていて、やがて死ぬことになります。しかし安心しなさい。天の父の裁きの座の御前に現れるとき、あなたは罪に定められることはない。」

その言葉を聞いたとき、犯罪人の痛みの中でも、心はどれほど喜びと平和に満たされたことでしょうか。

悔い改めたにもかかわらず、あなたも犯罪人のように自分の罪の結果を経験し、苦しんでいるかもしれません。だから、神様がまだあなたを罰しておられるのではないかと疑問に思っているかもしれません。

もしそのように感じるなら、犯罪人を思い出して、イエス様の言葉を心に留めておきましょう。

「あなたは、自分の罪のゆえに苦しんでいるかもしれませんが、安心しなさい。あなたは今や罪に定められることはない。」

幸いなことよ、その背きを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ、主が咎をお認めにならず、その霊に欺きがない人は。(詩篇32:1ー2)

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押しつぶされている?

あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。(ルカの福音書21:34)

今日、「押しつぶされる」という言葉に心を打たれました。

毎日のニュースを見るたびに、不安に押しつぶされることは簡単です。

ある人は、飲酒や仕事、趣味に没頭することで、その不安から逃れようとします。

また、SNSで思いの丈を吐き出すことで、ストレスを解消しようとする人もいます。

しかし、私たちはどれほどイエス様が命じられたこと、そしてご自身が実践されたことを行っているでしょうか。

つまり、私たちはどれほど天のお父さんと時間を過ごし、祈っているでしょうか。(ルカ21:36-37)

そうすることで、私たちは固く立つ力を受け、物の見方が正されます。

神の国は近いのです。この世の問題は永遠のものではありません。イエス様の御言葉はすべて成就するのです。

その真理を思い出すことで、私たちは身を起こし、頭を上げることができます。なぜなら、私たちの贖いが近づいていることを知っているからです。(ルカ21:28)

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天のお父さん、あなたのものとは何ですか?

「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。だれの肖像と銘がありますか。」

彼らは、「カエサルのです」と言った。

すると、イエスは彼らに言われた。「では、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」(ルカの福音書20:24-25)

天のお父さん、あなたのものとは何ですか?それはただ十一献金なのでしょうか。

いいえ。私の持ち物のすべて、私自身のすべてはあなたのものです。

あなたは私に、ご自身の肖像と御名を刻んでくださいました。 (創世記1:26-27、黙示録3:12)

私は、あなたのものです。

だから、祭司長たちや律法学者のように、私はあなたの権威や御子の権威に異議を唱える者とならないようにしてください。 (ルカ20:2)

むしろ、謙虚で感謝に満ちた心を持ち、あなたを何も得られずに去らせることなく、毎日、あなたが求められた実をあなたにお返しできますように。

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私たちの王を歓迎する?

もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。。。神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。(ルカの福音書19:42、44)

今日、私は上記の言葉を反芻していました。

私たちの王を歓迎すると、平和を知るようになります。(38節)

ザアカイは王に心の戸を開け、平和と喜びを知るようになりました。

彼に対して、イエス様が嘆かれたパリサイ人たちや他のユダヤ人たちは、その後どうなったのでしょうか。

イエス様、あなたの良い支配を歓迎せず、私の心の戸をあなたに開けないことで、どれほどの平和を失うでしょうか。

私の前に立たれているあなたを認識さえしないことで、どれほどの平和を失うでしょうか。

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祈り続ける信仰を持っている?

いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。。。

彼は大声で、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と言った。

先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめたが、その人はますます激しく「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫んだ。(ルカの福音書18:1、38ー39)

私はその三つの節を繋げたことがないと思います。

この章の始まりでは、イエス様は弟子たちに、いつでも祈り、失望してはいけないことを教えられました。そして、この章の最後の話では、ある盲人がその教えを示しています。

イエス様が彼の声を聞こえていないように見え、周囲の人々が彼に黙るよう叫んだにもかかわらず、彼は憐れみを願い続けました。そして、最終的に憐れみを受けることができました。

しかし、例え話に出てくる裁判官と異なり、イエス様はその叫び声にうんざりしたからではなく、憐れみ深い救い主であるがゆえに、盲人を憐れまれたのです。

私はどうだろう?神様が私の叫びに答えられるのが遅いように感じるとき、私はすぐに諦めるだろうか。

私は神様の愛と慈しみを疑い始めるだろうか。それとも、神様が本当に良い方であり、私を愛してくださっていることを信じ続けるだろうか。

イエス様が再びこの世に来られるとき、私の中に信仰を見ることができるだろうか。(8節)

イエス様はあなたの中にも信仰を見られるでしょうか。

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私の心を支配してください

パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。

『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」(ルカの福音書17:20ー21)

天のお父さん、あなたが人々の心を支配されるところに、あなたの御国は存在しています。

パリサイ人たちは、自分たちのただ中にある御国を見ることができませんでした。なぜなら、あなたが彼らの心を支配しておられなかったからです(ルカ16:14ー15)。

では、あなたは私の心を支配してくださっているでしょうか。

もし私が、あなたの御国が周囲の人々にも及ぶ姿を見たいと思うのなら、まずあなたが私の心の中にご自身の御国を確立してくださらなければなりません。

ですから、私の良い王よ、どうか私の心のすべてを支配してください。

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親しみやすい?

さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。(ルカの福音書15:1)

今日、なぜか私はその言葉に心を打たれました。そして、こう自問しました。「イエス様を知らない人にとって、私は親しみやすい人だろうか。」

正直に言うと、私はあまり社交的ではありません。人は好きですが、私は外交的な性格だとは言えません。

初対面の人と話すのは少し(いや、だいぶ?)苦手です。以前よりはうまく話せるようになりましたが、おそらく完全に自然にできるようにはならないでしょう。

それでも、人々は私の中にイエス様の愛を見ることができるでしょうか。私が彼らを見下すでもなく、責めるでもないと知って、気軽に私に近づけるでしょうか。

それが私の願いです。しかし振り返ると、私が親しみやすくなかった時もあると気づきます。

それに比べて、イエス様は親しみやすい方でした。そのため、「罪人」と呼ばれる人々でさえ、イエス様に惹きつけられました。一方で、パリサイ人が親しみやすいと感じた人は誰もいなかったのです。

私たちは、神様の国を広げ、人々を神の良いご支配の下に招く使命を与えられています。だから、イエス様と同じように、私たちも親しみやすい人でなければなりません。そうでなければ、その使命を果たすことはできません。

だから、今日私はこのように祈りました。「イエス様、どうか私があなたのように親しみやすい人になる方法を教えてください。」

あなたはどのような人ですか。あなたは親しみやすい人ですか。

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ただ一緒に歩いている?本当に従っている?

さて、大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていたが、イエスは振り向いて彼らに言われた。

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(ルカの福音書14:25ー27)

イエス様の言葉は厳しく聞こえるかもしれません。しかし、イエス様は彼らに基本的にこう尋ねられていたのです。

「あなたがたは私の国に参加することを本当に望み、心から従っているのですか。それとも、ただ私と一緒に歩いているだけなのですか。」

これは、語られた例え話の一つの要点でした。ある人々は、最初は宴会に参加する意欲を示したものの、最終的には他のものを優先しました。(その宴会は神の国を象徴していました)。(16ー20節)

真の弟子とただ一緒に歩いているだけの人の違いは何でしょうか。

真の弟子たちは、イエス様とその御国を家族、財産、さらには自分の人生さえも上回るほど大切にし、心からイエス様を愛しています。

もちろん、イエス様は私たちに、自分の家族を文字通り憎むことや、すべての持ち物を手放すことを求めておられるわけではありません。

しかし、イエス様はこう問いかけておられます。「あなたにとって、私はどのような価値を持っていますか?私をすべてのものよりも優先しますか?」

イエス様は、すべてを犠牲にするほど私たちを愛しておられました。私たちはそのようにイエス様を大切にしているでしょうか。

イエス様が良い王であり、イエス様に従うことで最終的に命を失うどころか、命を得ることを本当に信じているでしょうか。

Love so amazing, so divine,
驚くほど素晴らしく、神聖な愛は、
Demands my soul, my life, my all.
私の魂、命、そしてすべてを本当に呼び求めます。

O the wonderful cross
ああ、素晴らしい十字架よ
Bids me come and die that I may truly live.
私が来て死ぬように、そして豊かに生きるように招かれています。

–アイザック・ワッツ、クリス・トムリン

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いつでも整っている?

腰に帯を締め、明かりをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人たちのようでありなさい。(35ー36)

今日の箇所では、イエス様は再臨の準備について語られています。

しかし、私はこう思いました。「イエス様がいつ戸をたたかれるときでも、私にはすぐにお応えできる心が必要です。」

私が全然予想しないとき、イエス様が突然戸をたたき、こう言われるかもしれません。 「今、私はあなたを必要としています。あなたに触れてほしい人がいるのです。」

そのとき、私はすぐにお応えすることができますか。

私にとって、それは決して簡単なことではありません。自分の人生が自分のものであるかのように生きることは容易だからです。けれども、私の人生はイエス様のものです。私はイエス様のしもべです。

だから、イエス様が私の戸をたたかれるとき、いつでも私の心は整えられていなければなりません。

あなたはどうでしょうか。あなたの心は整っていますか。

帰って来た主人に、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いです。(37)

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御名が聖なるものとされている?

父よ、御名が聖なるものとされますように。(ルカの福音書11:2)

天のお父さん、あなたの御名が聖なるものとされるとは、いったいどういう意味でしょうか。

それは、あなたを最高の誉れにふさわしい方とすることではないでしょうか。

つまり、私のすべてにおいて、あなたが最善を受けるにふさわしい方であると認めます。だから、二番目や三番目のもの、さらに残り物を捧げてはなりません。

あなたこそが、私のすべてを受けるべき方です。

私の愛のすべて。

私の信頼のすべて。

私の服従のすべて。

私の人生のすべて。

しかし私は、どれほどあなたを俗なもの、ありふれたものとして扱ってしまうでしょうか。

あなたにふさわしい誉れを捧げず、 あなたよりも他のものを優先し、 二番目や三番目のもの、さらに残り物をあなたに捧げてしまうことがあります。

あなたのご計画よりも自分の計画を求め、 さらには、あなたが忌み嫌われることにふけることすらあります。

天のお父さん、どうかあなたの御名が日本、アメリカ、そして世界中で聖なるものとされますように。すべての人々が、あなたにふさわしい誉れを捧げますように。

しかしまず、私の人生の中で、あなたの御名が聖なるものとされますように。

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開いた口

(マルタ)にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。(ルカの福音書10:39)

マリアの心について読むたびに、私は深く感動します。

でも今日は、祈るときに偶然にも詩篇81篇を開きました。その箇所で、神様は次のように言われました。

わたしは、あなたの神、主である。。。あなたの口を大きく開けよ。わたしが、それを満たそう。(詩篇81:10)

マルタは忙しすぎて、イエス様の御言葉を聞く時間がありませんでした。(40-41節)

律法の専門家は、イエス様の御言葉から逃げようとしました。(29節)

しかし、マリアはイエス様の御言葉に口を大きく開けました。そして、イエス様はその口を満たしてくださいました。

私もマリアのように、イエス様の御言葉に口を大きく開けたいと思います。それだけでなく、その言葉を素直に受け止めたいのです。

あなたのみことばは、私の上あごになんと甘いことでしょう。 蜜よりも私の口に甘いのです。(詩篇119:103)

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弟子とは

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(ルカの福音書9:23)

今朝、イエス様の御言葉を反芻していました。その御言葉を言い換えるなら、

わたしの弟子になりたいと思うなら(実際、すべてのクリスチャンは弟子です):

1. 自分中心に生きることをやめなさい。「私の人生」という考え方を手放しなさい。

2. むしろ、毎日すべてを天の父に明け渡しなさい。すべてを捧げ、すべてにおいて従いなさい。(ピリピ2:8)

3. 毎日毎日、一瞬一瞬わたしと共に歩みなさい。わたしから学び、わたしの働きに参加しなさい。御父の良い統治のもとへ人々を招きなさい。

イエス様の言葉を考えると、「日々」という言葉が私の心に響きました。クリスチャン生活は、一週間に一度だけのものではなく、日々のものです。

さらに、イエス様だけではなく、天の父も私たちがイエス様の弟子となるように呼んでおられます。

これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。(ルカ9:35)

だから、今日私はこのように祈りました。

イエス様、あなたは私の良い王です。どうか、私が毎日あなたに従い、あなたの弟子として生きることができますように導いてください。

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権威

イエス様、あなたは私の王です。でも、私の人生で、あなたの権威を完全に認めているでしょうか。

百人隊長はあなたの御言葉の権威を認めていました。(ルカの福音書7:7ー8)

私もその権威を認めているでしょうか。

あなたの御言葉は、死人を復活させる力を持っておられます。(ルカ7:14ー15)

そして、いつの日か、あなたの御言葉によってすべての死人が復活し、あなたが彼らを裁かれます。私も裁かれるでしょう。(ヨハネ5:25ー29)

その日、あなたは私に何を語られるでしょうか。私の信仰に驚かれるでしょうか。私が完全にあなたを信頼し、その御言葉に従ったことを喜ばれるでしょうか。

それとも、あなたは「なぜあなたは、わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、わたしの言うことを行わなかったのですか。」と尋ねられるでしょうか。(ルカ6:46)

私はあなたを心から信じています。それでも、私たちの信仰を増し加えてください。すべてにおいて、あなたに従うことができるよう導いてください。

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深く掘り下げる?

なぜあなたがたは、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。

わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人がみな、どんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。

その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、家を建てた人に似ています。(ルカの福音書6:46ー48)

天のお父さん、 聖書を読むとき、どうか私があなたの御言葉をただ表面的に読むのではなく、その意味を深く考え、思いを巡らすよう導いてください。

私があなたの御言葉を理解し、それを通してあなたが私に何を語られるのかを知ることができるように、求める心を与えてください。

イエス様、私があなたを「主よ、主よ」と呼びながら、あなたの御言葉に従わない者にならないようにしてください。

あなたは私の王です。あなたが良い王であることを信じています。だからこそ、あなたの御言葉に聞こうとする耳と、喜んで従う心を与えてください。

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私たちを喜んで清めてくださる方

これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」(ルカの福音書5:8)

興味深いことに、ペテロの言葉はツァラアトに冒された人々の言葉に似ています。

神の律法によれば、ツァラアトに冒された人々は、「私から離れなさい。私は汚れているから。」と周囲の人々に警告するように求められていました。(レビ記13:45ー46)

しかし、ルカの福音書では、ツァラアトに冒された人がイエス様に近づき、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」と言っています。

イエス様は「わたしの心だ」と言われ、その人を清められました。さらに、イエス様はペテロと中風を患っている人の罪をも清められました。

マタイの場合、イエス様は積極的にマタイを追いかけ、その罪を清めてくださいました。

同じように、イエス様は私たちをも追いかけてくださいました。私たちが自分の道を行き、イエス様を価値のないものと見なしたにもかかわらず、イエス様は十字架で私たちの反逆の代償を払ってくださいました。

だから、私たちがイエス様に近づき、あわれみを願うとき、イエス様はこう言われます。「わたしの心だ。きよくなれ。」

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16)

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開かれた耳、柔らかい心

私の意見ですが、もしかすると、イエス様がバプテスマを受けたとき、詩篇40:6ー8の言葉を祈られたのかもしれません。

あなたは私の耳を開いてくださいました。。。そのとき、私は申し上げました。「今、私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。わが神よ、私は、あなたのみこころを行うことを喜びとします。

ヘブル書の著者によれば、イエス様はその言葉を祈られましたが、実際にご自身のバプテスマの際にその言葉を祈られたかどうかは分かりません。(ヘブル書10:5ー7)

いずれにせよ、イエス様が神様に対して常に開かれた耳と柔らかい心を持っておられたことは確かです。

その一方で、ヘロデにはそのようなものがありませんでした。特に、自分の罪のためにバプテスマのヨハネから責められたときには、それが顕著でした。(ルカの福音書3:19ー20)

一方、バプテスマを受けた人たちは開かれた耳と柔らかい心を持っていました。それは彼らの反応から分かります。

「私たちはどうすればよいのでしょうか。」(ルカ3:10、12、14)

これはまさに開かれた耳と柔らかい心の問いかけです。

イエス様はそのような心を常に持っておられました。

私もそのような心を持ちたいと思います。

あなたは、そのような心を持っていますか。

神の御言葉を読んだり聞いたりするとき、私たちもあの人たちと同じように反応しましょう。

「私たちはどうすればよいのでしょうか。私は、あなたのみこころを行うことを喜びとします。」

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真の平和

いと高き所で、栄光が神にあるように。 地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように。(ルカの福音書2:13ー14)

上記の言葉を読んだとき、私の牧師が最近語られたメッセージを思い起こしました。そのテーマは、イエス様がもたらされる平和がこの世の平和と異なることでした。

天の軍勢が現れたとき、もしかすると、羊飼いたちは天使たちがローマの圧迫を滅ぼすために来たと思ったかもしれません。

恐ろしいことですが、その天使たちが羊飼いたち自身を滅ぼすために来たと思ったかもしれません。神様の栄光によって、人々の罪が明らかにされるからです。

しかし、それどころか、天の軍勢は平和を宣言しました。その平和は羊飼いやユダヤ人たちだけのためではなく、すべての人々のためです。(ルカ2:10)

でも、どのような平和が伝えられたのでしょうか。

それは神様との平和です。

その平和は私たちの人生に入り込み、こう語ります。

「あなたは罪人ですが、恐れる必要はありません。イエス様があなたの罪の代償を支払ってくださいました。だから、あなたは今、恵まれた者です。

エリサベツとマリアと同じように、私の恵みを受けたのです。あなたは私の心にかなう者となりました。」(ルカ1:25、28ー30)

この真理は本当に心に納め、思い巡らすべきものです。(ルカ2:19)

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あなたの御声が聞こえるように

まことに、あなたはもろもろの民を愛する方、 御手のうちにすべての聖なる者がいる。 彼らはあなたの足もとにひれ伏し、 あなたの御告げを受ける。(申命記33:3)

天のお父さん、あなたの御言葉は空虚なものではありません。それらは私のいのちです。

どうか、私があなたの御言葉一つ一つを心にとどめることができるよう助けてください。(申命記32:46ー47)

あなたの御教えは雨のように私の目と心に降り注ぎ、あなたの御言葉は露のように滴るようにしてください。若草の上の小雨のように、青草の上の夕立のように。(32:2)

あなたが私を愛してくださることを信じます。私はあなたの御手のうちにいます。

だから、私はあなたのみもとに来て座ります。そして、あなたから私への御言葉を受け取ります。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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誰について行っているの?

私は今日、百二十歳だ。もう出入りすることができない。。。

あなたの神、主ご自身があなたに先立って渡って行き、この方があなたの前からこれらの国々を根絶やしにされ、あなたはこれらを占領する。(申命記31:2-3)

あなたの信仰は誰に基づいているのでしょうか。あなたの牧師ですか。お友達ですか。それとも他の教会のリーダーでしょうか。

いつか、その人たちがもはやあなたを支えることができなくなるでしょう。そのとき、あなたの信仰はどうなるのでしょうか。

私は、あなたが神様に完全に目を留め、従うことを願っています。

また、あなたが強くあり、雄々しくあり、神様が導かれる所にはどこでもついて行けるように祈っています。

神様ご自身も、それを望んでおられます。だから、今、そのような信仰を持つことを学びましょう。

自分自身を霊的に養うために、聖書を読み、祈り、神の御声に耳を傾け、神を恐れ、そして神に従うことを身につけていきましょう。

あなたはどうでしょうか。

そのようなことを学び、実践しているでしょうか。

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申命記のデボーション

命を選びなさい

私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。

あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである。

まことにこの方こそあなたのいのちで(す)(申命記30:19ー20)

最近、私は私たちの神様との関係について考えていました。その時、鉢植えの花と切り花の違いに思いを巡らしました。

両方とも美しいですが、切り花は実際にはすでに死んだものです。なぜなら、命の源から切り離されているからです。

根元から切り離されたことで、その花はある意味で呪われた存在ともいえます。

私たちの神様との関係も同じです。

神様から切り離されると、私たちは呪われた存在となります。私たちはすでに死んだ者です。

しかし、神様につながり、日々命をいただくならば、私たちは栄えるのです。

では、私たちはどのようにして神様につながることができるでしょうか。

パウロは申命記30章を引用しながら、イエス様を指して、私たちがイエス様を信じ、自分の主とするように促します。(ローマ10:6-13)

ですから、命を選びましょう。

イエス様を選び、毎日愛し、御声に聞き従い、そしてすがりましょう。

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神様の目には忌むべきもの。私たちの目には忌むべきもの?

また、あなたがたは、彼らのところにあった忌むべきもの、すなわち木や石や銀や金の偶像を見た。(申命記29:17)

日本では、偶像や仏壇を見ることに慣れるのは簡単なことです。

しかし、上記の言葉を読んだときに、神様がそのようなものに決して慣れることはなさらないと改めて思い出しました。

モーセの時代でも、私たちの時代でも、神様の目には、それらの偶像や仏壇は忌むべきものです。

そのとき、ふと、神様が忌み嫌うものにはほかに何があるのだろうと考えました。そして、私はそれらにも慣れてしまっているのではないかと自問しました。

最初に思い浮かんだのは、アマゾンプライムのビデオのことです。

もちろん、すべてのビデオが悪いわけではありません。けれども、確かに、10~20年前であれば「それは忌むべきものだ」と感じていたようなビデオもあります。

ところが、今では「この世はそういうものだろう」という態度を取るのは簡単なことです。

しかし、神様の態度は決して変わりません。神様にとって、それらは今もなお忌むべきものなのです。

だからこそ、私たちも同じように考えるべきです。

そこで、私は次のように祈りました。

天のお父さん、どうか私があなたが忌み嫌うものに慣れることがありませんように。私があなたのように考える者となれますように。

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イエス様に聞き従わなければなりません!

あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。

あなたがたはその人に聞き従わなければならない。(申命記18:15)

ペテロによれば、モーセはイエス様を指していました。(使徒の働き3:19-26)

もしかすると、ペテロは自分、ヤコブ、ヨハネに対する天の父の戒めを思い出していたのかもしれません。

これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。(マルコ9:7)

正直に言うと、私はまだイエス様の言われることに耳を傾けることを学んでいる途中です。

しかし、キリストの弟子として、私たちはこの世の流れに単に従うべきではありません。

モーセもイスラエル人たちに同じような警告を与えました。(申命記18:9-14)

むしろ、私たちはイエス様に聞き従わなければなりません。

日々の生活で決断をするとき、あなたは誰に聞き従っていますか。

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私たちの中にある悪を除き去る

「あなたがたの中からその悪い者(別訳:悪)を除き去りなさい。」(申命記17:7)

神様はイスラエル人たちにこの言葉を二度言われました。最初は偶像礼拝に関して、次に不遜な罪について言われました。

イスラエル人にとって「除き去る」とは「殺す」を意味しました。しかし、新約聖書の時代には「除き去る」とは「教会から追い出す」を意味しました。(第一コリント5:13)

今日、神様が私に思い起こさせたのは、私自身の中にある罪を除き去らなければならないということです。

パウロの言葉を借りれば、罪を殺してしまわなければなりません。(コロサイ3:5ー10)

私の罪を軽んじるべきではありません。私は神様や神様の民からの訓戒や指導を傲慢に無視してはなりません。

むしろ、神様とその民の助けによって、私はその罪を取り除かなければなりません。

そこで私はこのように祈りました。

天のお父さん、私が決して自分の罪を軽んじないように。その罪を取り去ることができるように助けてください。

私の人生には、あなたのみ言葉が清めの火となるように。そして、あなたのみ言葉を通して、私がすべてにおいてあなたを恐れ、従うように助けてください。

私はエジプト、つまり私の古い生活に決して戻らないように。

その道は死に至るものです。でも、あなたの道は命へと導きます。

あなたはいのちであり、良い方です。だから私のすべての行動において、私があなたを愛し、敬うことができるように助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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あなたのようになれるように

天のお父さん、あなたが私に対して心を頑なにされることも、御手を閉ざされることもありません。(申命記15:7)

また、あなたが与えてくださるとき、物惜しみをされることもありません。(10節)

それどころか、あなたは御手を開かれ、気前よく与えてくださいます。(11節)

さらに、2000年前、十字架であなたは負債の免除を布告し、私の罪を赦してくださいました。(申命記15:2;コロサイ2:13-14)

だから、私も周囲の人々に対してあなたのようになれるよう助けてください。つまり、私がいつも手を開き、気前よく、また私に対する相手の罪を赦せるように助けてください。

私はまだまだそのような人にはなれていません。しかし、あなたのようになりたいのです。

どうか私があなたのようになれるよう助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちが神の子供たちだから

あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。。。

あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。(申命記14:1ー2)

それらが素晴らしい言葉ですね。

その言葉はイスラエル人たちに語られましたが、今は私たちにも語られています。(第一ペテロ2:9ー10)

では、私たちはどのように反応するべきでしょうか。

神様が聖でおられるように、私たちも聖なる者でなければなりません。

イスラエル人たちにとっては、周りの国の宗教的な儀式を避けなければなりませんでした。(1、21節)

また、彼らは食事制限を守らなければなりませんでした。(3ー21節)

もしかすると、その食事制限を通して、毎日神様はイスラエル人たちに思い出させてくださったのかもしれません。

「人は肉体的な食べ物だけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるのです」(申命記8:3)

私たちにはその食事制限を守る必要はありません。(マルコ7:14ー19)

しかし、神様は私たちが聖なる者となることをなおも望んでおられます。

私たちが神様の真似をするように望んでおられます。

だからこそ、何を食べるかに注意するのではなく、心の中にあるものに注意しなければなりません。(マルコ7:20ー23)

では、聖なる者となる動機は何でしょうか。

神様を感動させるためでしょうか。

私たちが神様の受け入れにふさわしいことを証明するためでしょうか。

違います。神様は私たちをすでに受け入れてくださいました。そして、神の子供たちとして、私たちは神の宝の民です。

では、なぜ聖なる者となろうとするのでしょうか。

私たちは天のお父さんのようになりたいのです。

それはあなたの心でしょうか。

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神様を喜ばせる礼拝

申命記12章で神様がイスラエルの人々に教えようとされたのは、彼らが自分自身の方法ではなく、神様の方法に従って礼拝しなければならないということです。

彼らは神様が命じられたとおりに礼拝しなければならなかったのです。

私たちの神様との契約はイスラエル人たちの契約とは異なりますが、新しい契約の下でも、私たちは自分自身が好きなような方法で神様を礼拝することはできません。

イエス様によれば、私たちは霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4:23ー24)

それは、ただ宗教的な儀式を行うことや賛美をすることではありません。

霊によって礼拝するとは、神様が私たちの心を完全に持っておられることを意味します。私たちの人生、行動、言葉のすべてが神様に対する礼拝となるのです。(ローマ12:1)

さらに、霊によって礼拝するためには、まことによっても礼拝しなければなりません。

神様を喜ばれるため、また私たちの人生が神様への礼拝となるため、私たちは神様のまことによって生きるべきです。

私たちは自分の真理を作ることはできません。

私たちは神様の言葉の中で、何を受け入れるか、何を受け入れないかを勝手に選ぶことはできません。

それは、自分自身の方法で礼拝することに他なりません。そのような「礼拝」は神様を喜ばれません。

あなたはどうですか。

神様の方法に従って礼拝していますか。

霊とまことによって礼拝していますか。

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心の包皮に割礼を施す

主はただあなたの父祖たちを慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫であるあなたがたを、あらゆる民の中から選ばれた。今日のとおりである。

あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者(脚注:すなわち、強情なもの)であってはならない。(申命記10:15ー16)

「心の包皮に割礼を施しなさい。」

それはいったいどういう意味でしょうか。

割礼とは、イスラエルの男性たちに行われた儀式です。それは、彼らが神様の民であることを証明したものでした。

しかし、割礼を受けても、多くのイスラエル人の心はまだ割礼されていないものでした。

つまり、彼らの心は神様のものではなかったということです。むしろ、彼らは古い考え方と古い生活にしがみつきました。それらは、神様との関係を妨げるものとなりました。

私は最近、教会のメッセージでアブラムについて話しました。アブラムもイスラエル人と同じ問題を抱えていました。

自分の心が完全に神様のものになるため、彼は古い考え方や古い生活を切り捨てなければなりませんでした。(創世記12章)

神様はアブラムを慕って愛されたように、私たちを慕って愛してくださいます。けれども、私たちはそれを本当に信じているでしょうか。

もしそう信じるのであれば、神様を完全に信じ、従うことを妨げるものを考えましょう。

神様の助けによって、また他のクリスチャンたちの助けによって、そのものを切り捨てましょう。

そうすれば、私たちは心を尽くし、命を尽くして、神様を愛し、神様を喜ばれる道を歩むことができます。(12節)

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私たちの家に持ち込むもの

忌み嫌うべきものをあなたの家に持ち込んで、あなたもそれと同じように聖絶されたものとなってはならない。それをあくまで忌むべきものとし、あくまで忌み嫌わなければならない。

それは聖絶の物だからである。(申命記7:26)

私はその言葉に心を打たれました。

私は自分の家に忌み嫌うべきものをどれほど持ち込むことがあるでしょうか。

私には、インターネットで見たものに注意しなければなりません。また、私が読むものや聞くポッドキャストにも注意を払うべきです。

神様は昨日私が聞いたポッドキャストを思い出させてくださいました。

そのポッドキャストの内容は大体大丈夫だったけど、5分ほど、ポッドキャスターたちはいろんな下品な冗談を言い始めました。

私は全く笑わなかったけど、なぜか、早送りしたり、聞くのを止めたりしませんでした。

それは、神様がその冗談をどれほど嫌われたかを全く考えていなかったからでしょう。

この先、私は早送りしたり止めたりしなければならないでしょう。なぜなら、神様が意味嫌われるものを私も忌み嫌わなければならないからです。そして、それらのものは滅ぼされると定められているからです。

私たちは主の聖なる民です。

神様は私たちを選んで、ご自身の宝の民としてくださったのです。(6)

だから、感謝を持って、神の民として生き、自分の家に神様が忌み嫌われるものを持ち込まないようにしましょう。

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導き入られるため、導き出された

私たちをそこから導き出された。それは、私たちの父祖たちに誓われた地に私たちを導き入れ、その地を私たちに与えるためであった。(申命記6:23)

今朝、私は上記の言葉に思いを巡らしていました。

神様がイスラエル人たちをエジプトの奴隷生活から導き出してくださったように、私たちもサタンの国の罪の奴隷生活から導き出してくださいました。

しかし、神様は私たちが自ら放浪することを望んでおられるわけではありません。神様と共に歩み、真の命と平和を知るために、私たちをご自身の御国に導き入れるように望んでおられます。

けれども、私たちがそれを願うなら、エジプトを離れなければなりません。

つまり、私たちの古い考え方や生き方を手放さなければならないということです。

そして、神様の御心を抱き、神様の御考えを受け入れる必要があります。

神の御言葉が私たちの心、頭、手に触れることを願って求めなければなりません。

そのため、私はどのような古い考え方や生き方を捨てなければならないのかを考えていました。また、どのような新しい考え方や生き方を受け入れなければならないのかを考えていました。

神様はあなたに何を語っておられるでしょうか。

神様が私たちを導き出してくださいました。神様が私たちを新しい命へ導いてくださるよう、祈り求めましょう。

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 私のすべて

あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行いなさい。

右にも左にもそれてはならない。 あなたがたの神、主が命じられた道をあくまで歩み続けなければならない。

あなたがたが生き、幸せになり、あなたがたが所有するその地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。(申命記5:32ー33)

天のお父さん、あなたの御言葉は命です。ですから、どうか私がその御言葉から右にも左にもそれないように助けてください。

私が古い考え方を手放し、あなたの戒めの全体に従うように助けてください。

その一部ではなく、一部さえを除かずに全体に従うように助けてください。

どうかあなたを恐れる心を与えてください。あなたを敬う心を与えてください。

私のすべてをあなたに捧げたいのです。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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神様はあなたのために戦われる

彼らを恐れてはならない。あなたがたのために戦われるのは、あなたがたの神、主であるからだ。(申命記3:22)

「主は、あなたのために戦われる。」

その言葉を読んだとき、私の心にそれが響きました。

私たちの敵と対峙するとき、神様はただ遠くからご覧になるわけではありません。神様は私たちのために戦ってくださいます。

私たちが試練や苦しみに直面するとき、神様は気づいておられないわけではありません。神様は私たちのために戦ってくださいます。

しかし、神様は私たちも兄弟姉妹のために戦うように呼ばれます。

ルベン人、ガド人、マナセ人のように、私たちは安息しているかもしれませんが、兄弟姉妹が苦しんでいるとき、「私には関係ない」とは言えません。

神様のように、私たちは彼らの隣に立ち、戦わなければなりません。

私たちが受けてくださった神の愛を彼らに与えるべきです。

それが信仰の盾を共に持って立つという意味です。

だから、苦しむときは一緒に立ち戦いましょう。

また、神様も私たちのために戦ってくださるという確信を持ちましょう。

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神様のことをどう考えているか

主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出して、アモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられるのだ。(申命記1:27)

イスラエル人たちの言葉を読んだとき、私が気づいたのは、私たちが神様のことをどう考えているのかが、神様との関係に関わるということです。

イスラエル人たちは、神様が彼らを憎んでおられると思いました。なぜなら、神様が彼らのために戦ってくださったことを忘れてしまったからです。

イスラエル人たちが砂漠を渡るとき、神様が彼らを抱いてくださったことを忘れてしまいました。

また、神様が昼も夜も彼らを守ってくださったことを忘れてしまいました。(30ー33節)

そういうわけで、彼らは、神様が与えてくださった良い地に入ることを拒みました。かえって、彼らはエジプトの奴隷生活に戻ろうと思いました。(民数記14:3ー4)

「神様は良い方です」と「神様は私を愛しておられる」と言うのは簡単なことです。

でも、私たちはその真理を本当に信じているでしょうか。

すべてにおいて神様に従うほどに、その真理を信じているでしょうか。

私を初めとして、私たち皆は訊かなければなりません。

「神様、ほんとうのところ、私はあなたのことをどう考えているのでしょうか。」

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恵みの道を歩んでいる

イエスは。。。ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」(ヨハネの福音書21:19)

ヨハネの福音書21章のペテロの話は、ルカ5:1ー11の話と似ているものです。

どちらの話でも、ペテロは自分の失敗と罪を認識しました。でも、イエス様はそれでもまだ「私に従いなさい」と招かれました。

ペテロは信仰の旅を恵みによって始め、3年後もその恵みによって歩んでいました。そして、もう一度イエス様の御顔を見るまで、ペテロは恵みによって歩み続けました。

私たちも旅の途中です。ペテロの旅のように、私たちの旅も恵みによって始まり、毎日恵みによって続きます。

私たちは不完全な存在です。私たちの愛も不完全です。それにもかかわらず、イエス様は私たちに「従いなさい」と招かれます。

だから、自分の罪、弱さ、失敗を見るとき、失望しないようにしましょう。むしろ、イエス様から目を離さずに従いましょう。

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平安があなたがたにあるように

「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネの福音書20:19)

その時代も今も、ユダヤ人の間ではそれは日常的な挨拶です。

でも、それはただの挨拶だったでしょうか。イエス様はその言葉を繰り返して言われたので、たぶんそうではありません。

弟子たちは未来を恐れ、隠れていました。

イエス様がご自分を現されても、弟子たちは自分の失敗を考えて、どれほど不安を感じたでしょうか。

でも、イエス様は「平安があなたがたにあるように。私はここにおります。あなたたちの失敗に関わらず、受け入れております」と言われました。

そして、平和を持たない人々のところに、イエス様は弟子たちを遣わされました。

でも、平和の御霊が私たちのうちに住んでおられないなら、周囲の人々に平和を与えるのは難しいです。

だから、イエス様は彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。」

イエス様はあなたを遣わしたいと思っておられます。でも、あなた自身は平和を持っているでしょうか。

もしくは、あなたは未来を恐れているでしょうか。

それとも、神様があなたに関して何を思っておられるのか常に心配しているでしょうか。

覚えておきましょう。イエス様はあなたに言われます。「平安があなたがたにあるように。」

イエス様はすでに御霊をあなたに与えてくださいました。恐れの霊ではなく、私たちと一緒に「アバ、父」と叫ばれる御霊です。私たちは神との平和を持っています。(ローマ5:1,5;8:15)

だからその平和を持って、安心しましょう。そして、平和を持たない人に神の平和を与えましょう。

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「私はある」

モーセが神様の名前を求めたとき、神様は「私はある」(英訳:I am)と答えられました(出エジプト記3:14)。つまり、「私は永遠の方です。私の他に、神はいない」ということです。

「私はある」という言葉は、ギリシャ語に訳されたとき、「エイゴエイミ」と訳されました。興味深いことは、イエス様が「エイゴエイミ」と言われたとき、兵士たちは後ずさりし、地に倒れました。(ヨハネの福音書18:6)

でも、ペテロは、「あなたも、イエスの弟子ではないでしょうね」と尋ねられたとき、「違う」(英訳:I am not)と答えました。(17、25節)

つまり、ペテロは(比喩的に)倒れました。なぜでしょうか。なぜなら、彼はイエス様が誰であるかを完全に把握していなかったからです。

私たちはどうでしょうか。イエス様が誰であるかを本当に把握しているでしょうか。また、私たちへのイエス様の愛を把握しているでしょうか。

その真理を把握していないなら、ペテロのように私たちはすぐに倒れてしまうでしょう。

今日、私が祈るとき、たまたま詩篇146篇を読みました。時間があれば、ぜひ読んでください。

イエス様が誰であるのか考えましょう。

そして、あなたへのイエス様の愛を思い出しましょう。

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 イエス様は私たちのためにとりなしてくださいます

わたしは彼らのためにお願いします。(ヨハネの福音書17:9)

なぜか、その言葉は私の心に響きました。

イエス様は弟子たちのために祈ってくださいました。

私たちのためにも祈ってくださいました。(20節)

今なお、イエス様は私たちのために祈ってくださいます。(ローマ8:34;ヘブル7:25)

イエス様は、神様が私たちを守ってくださるように祈ってくださいます。(15節)

私たちが神の真理を知り、従うように祈ってくださいます。(17節)

私たちがイエス様と天の父をもっと親しく知るように祈ってくださいます。そして、神との関係が親しくなるにつれて、私たちクリスチャンの互いの関係も親しくなるように祈ってくださいます。(21ー23、26)

でも、それらのためだけではなく、イエス様は愛を持って、私たちのためにさらに具体的に祈ってくださるでしょう。

私たちは、「イエス様は私を愛してくださいます」とよく言います。

でも今日、この真理を噛み締めましょう。その真理が私たちの心に響くように。

「イエス様は私のために祈ってくださいます。」

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私を導いてください

あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。(ヨハネの福音書16:12-13)

イエス様、あなたが私に話してくださることはまだたくさんあると思いますが、私がまだ耐えられないゆえに、どれだけ教えてくださるのを控えられるのでしょうか。

あなたは私の気づいていない罪について、どれだけ教えてくださるのを控えられることがあるのでしょうか。なぜなら、私がすべてを見たならば、罪悪感に圧倒されてしまうからです。

私の未来に関して、どれだけ教えてくださるのを控えられることがあるのでしょうか。なぜなら、良いことを知っていたとしたら、私は無理にそれを起こそうとするからです。

また、大変な試練が迫っているとしたら、私は思い悩んでしまうからです。

それでも、あなたのタイミングで、あなたの御霊によって、私をすべての真理に導いてくださいます。

聖霊様、導いてください。

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 あなたを信じているの?

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネの福音書14:1)

イエス様の言葉を考えるとき、私は自問しました。「私の心が騒いでいるとき、どれだけその理由は、私が神様を信じていないからでしょうか。」

神様が私の見方であると信じるでしょうか。

神様が私と共におられると信じるでしょうか。

私の状況、この世の中が狂っているとき、神様がまだすべてを支配しておられると信じるでしょうか。

神様が私を孤児のように決して捨てないと信じるでしょうか。むしろ、私が叫ぶと、神様がいつも来てくださると信じるでしょうか。

何も、死さえも神の愛から私を引き離すことはできないと信じるでしょうか。むしろ、この世を去るとき、イエス様がおられるところに私を迎えてくださると信じるでしょうか。

私たちが平安を失いそうなとき、この質問を訊くべきでしょう。「主よ、私はあなたを本当に信じているのですか?」

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私たちのイエス様に近づく権利

今日、私たちがイエス様に近づく権利について考えていました。私たちはその権利をどれだけ当たり前のものだと思っているでしょうか。

今日の箇所では、あるギリシア人たちはその権利を持っていないと考えていました。なぜなら、彼らは異邦人で、イスラエルでは部外者と見なされていたからです。また、イエス様は有名なラビでした。

しかし、イエス様が地上から上げられ、十字架につけられたので、私たち皆がイエス様に近づくことができます。(32節)

その真理を考えていたとき、昔の讃美歌を思い出しました。

What a friend we have in Jesus
イエス様はなんて素晴らしい友でしょう
All our sins and griefs to bear
イエス様は私たちの罪と悲しみをすべて背負ってくださるからです
What a privilege to carry everything to God in prayer
すべての重荷を神様に祈りで委ねることができるとはなんて素晴らしいことでしょう

O what peace we often forfeit
私たちはどれだけ平安を失っていることでしょう
O what needless pain we bear
私たちはどれだけ不必要な痛みを背負っていることでしょう
All because we do not carry everything to God in prayer
すべてを神様に祈りで委ねないからです

ーージョセフ・メドリコット・スクライブン

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本当のところ神様は私のことをどう思っておられるの?

イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。(ヨハネの福音書11:5ー6)

多くの人々、クリスチャンたちを含めて、「本当のところ神様は私のことをどう思っておられるのだろうか」と疑問に思います。

イエス様がすぐに来られず、ラザロが亡くなったとき、たぶんマルタとマリアもイエス様について同じことを考えていたでしょう。

「イエス様は本当に私たちを愛しておられるのでしょうか。なぜ来てくださらなかったのですか?なぜ兄を癒してくださらなかったのですか?」

しかし、真実は何だったのでしょうか。本当のところイエス様は彼らのことをどう思っておられたのでしょうか。

イエス様はラザロ、マルタ、マリアを愛しておられました。

私たちが苦しんでいて、神様が沈黙されている時、神様が私たちのことをどう思っておられるのか疑問に思うのは簡単なことです。

でも、覚えておきましょう。神様は私たちの味方です。さらに、神様は私たちを深く愛してくださっています。(ローマ8:31ー32)

そして、何も、死のとげさえも、私たちを神様の愛から引き離すことはできません。(ローマ8:38ー39;ヨハネ11:25)

でも私たちが自問しなければならないのは、その真実を信じるかどうかです。(ヨハネ11:26)

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私が天の父が喜ばれることをいつも行えるように

今日の箇所を読んだとき、私は多くの言葉に心を打たれました。特に、29節は私の心に響きました。イエス様は「わたしは、天の父が喜ばれることをいつも行います」と言われました。

私は、「それを言うことができたらいいのになあ」と思いました。

でも、私は他の言葉にも心を打たれました。

あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネの福音書8:31ー32)

まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。 奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。

ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。(34ー36)

私のことばはあなたの中で進行していません。(37、英訳)

神から出た者は、神のことばに聞き従います。(47)

わたしの父を敬っているのに、あなたがたはわたしを卑しめています。(49)

だから今日、私はその言葉をまとめて、このように祈りました。

イエス様、あなたのようになりたいです。あなたのように、「私は、天のお父さんが喜ばれることをいつも行います」と言えたいけど、言えません。私は天のお父さんが喜ばれないことをしばしば行うからです。赦してください。

私の言葉と行いによって、天のお父さんとあなたを決して卑しめることがないように。

むしろ、私がいつも心の中に、あなたのみ言葉のための場所を開けるように。

その御言葉が私の心の中で進行するように。私があなたのみ言葉をもっと理解することができるように助けてください。それだけではなく、私がその御言葉に従うことができるように助けてください。

アブラハムのように、私があなたの言葉の真理を聞き、信じ、受け入れ、従うことができるように助けてください。

イエス様、あなたの恵みを感謝します。あなたのおかげで、私はもはや罪の奴隷ではありません。十字架で流されたあなたの血によって、私は自由にされました。私を神の子にしてくださり、本当に感謝します。

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生ける水の川

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。(ヨハネ7:37-39)

なぜかこの箇所を読むたびに私が最初に考えることは、私がイエス様のみもとに行くと、御霊が私の霊的な渇きを満たしてくださるということです。

でも今日、神様が私に思い出させたのは、単に私の渇きを満たすためだけに御霊を与えてくださるのではないということです。

むしろ神様は、私の周囲の霊的な渇きで死にそうになっている人たちが命を知ることができるように、神の生ける水の川が私の心の奥底から流れ出ることを望んでおられるのです。

だから、私はこのように祈りました。

聖霊様、私はあなたを受け、あなたは私の渇きを満たしてくださいました。でも、周囲の渇いている人たちも飲んで命を知ることができるように、あなたが川のように私から流れ出るように祈ります。

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三つの質問

イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」

イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。(ヨハネ6:5ー6)

今朝、私は、イエス様がピリポをどのように試されたのだろうかと考えていました。

イエス様はピリポに実際に何を尋ねられたのでしたか。

私はちょっと分かりませんけど、もしかしたらイエス様はこう訊かれていたかもしれません。

「私が誰であるのかすでに知っている?私が何ができるのか知っている?あなたは私をどれほど信じているのか?」

もしそれらがイエス様の質問であったなら、ピリポはそのテストに完全に落ちてしまいました。

ピリポが考えたのは、「この群衆の必要をどのように満たすことができるだろうか。私たちには無理だろう」ということです。

でもイエス様は、すでにご自分が何をしようとしているのかを、知っておられました。

そして、イエス様はピリポと他の弟子たちが持っていたわずかなもので群衆の空腹を満たしてくださいました。

時々、私はピリポのようです。イエス様は私の回りの人々を見て、その人に触れたいと思っておられます。ご自分が何をしようとしているのかを知っておられるけど、私に向かって、尋ねられます。

「私が誰であるのかすでに知っている?私が何ができるのか知っている?あなたは私をどれほど信じているのか?」

しかし、イエスが誰であり、何ができるかを見る代わりに、私は自分の弱さと力不足を見てしまいます。

でも真実は、私の弱さと力不足は関係ないのです。大切なのは、イエス様が誰であり、何ができるかということです。

だから、私が自問自答しなければならないのは、イエス様を信じるかどうかということです。

なぜなら、イエス様は愛を持って、私が持っているわずかなもので人々に触れることができるからです。

だから私はイエス様の三つの質問についてもっと考えなければならないでしょう。

「私が誰であるのかすでに知っている?」

「私が何ができるのか知っている?」

「私を信じてくれる?」

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まず神様に愛された

神は、このようにして世を愛された。そのひとり子をお与えになったのです。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16、英訳)

私はその英訳が好きです。多くの翻訳は、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」と訳されるけど、通常、そのギリシャ語は「ほどに」ではなく、「このように」と訳されます。

ヨハネの手紙では、ヨハネは違う言葉を使うけど、同じ概念を伝えます。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって、私たちにいのちを得させてくださいました。それによって、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(第一ヨハネ4:9ー10)

パウロは似たようなことを言います。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ書5:8)

驚くべきことは、神様が私たちの悔い改めを待たずに、まずご自身の愛を示してくださったことです。神は裁きではなく、憐れみをもって私たちに目を向けられます。

イエス様が「御子を遣わすことによって神様がこの世に愛を示された」と言ったとき、ニコデモはどう思ったでしょうか。

もしニコデモが、神が御子を遣わされたという概念を持っていたとしたら、それは反逆の世を裁くためだったでしょう(詩篇2篇)。

ニコデモは、詩篇2:12にある幸いな人たちがかつて反逆的な人たちであったことを考えたことがあったでしょうか。ニコデモは、御子を通して示された神の愛のゆえに、彼らが悔い改めたと考えたことがあったでしょうか。その詩篇を書いた詩人はそんなことを考えたことがあったでしょうか。

私にはわかりません。でも、ヨハネ3:16のもっとも驚くべきことを覚えていましょう。それは、神様が悔い改めることのない反逆の世(私たちを含む)をまず愛し、その世を救うために、御子を遣わしてくださったということです。

だから、今日、その言葉に思いを巡らしましょう。ヨハネ3:16、第一ヨハネ4:9−10、ローマ5:8に思いを巡らしましょう。

その真理を浴びましょう。「神様はまず私を愛しててくださいました。」

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ヨハネの福音書のデボーション

私たちの心を知っておられる方

過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。

しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。

すべての人を知っていたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。(ヨハネ2:23ー25)

ペテロは。。。イエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」(ヨハネ21:17)

イエス様、あなたは私の心を見ておられます。あなたは私の心に何があるのか、誰かに教えてもらう必要はありません。あなたは私のことをよく知っておられるからです。

だから、ぺテロとともに、私は言います。「あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」

あなたは私の愛がどれほど不完全なものであるのかよく知っておられます。私の失敗もよく知っておられます。それでも、あなたは私があなたを愛していることを知っておられます。

それにしても、自分を騙すのは簡単なことです。だから、私の心の層を剥がしてください。私の心の奥底を明らかにしてください。私の心を癒すために、あなたが見たものを見せてください。

イエス様、私はあなたのようになりたいのです。私をあなたのようにしてください。

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ヨハネの福音書のデボーション

光を必要とする世界

この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。。。

すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。(ヨハネ1:4ー5,9)

最近のニュースによると、2024年に527人の小中高生が自殺しました。

たとえ1人でも多すぎるでしょう。

ヨハネは、イエス様にはいのちがあり、イエス様が闇の中を歩んでいる人々に光を与える方であると言いました。

闇の中を歩んでいる人々は多いです。希望のない人々は多いです。

彼らはイエス様の光を必要としているのです。

最近、クロスロードでは、私たちは天の父の目について話しています。つまり、神様がどんなまなざしで私たちを見ているのかを理解する必要があります。

その真理を理解すれば、神の光は私たちの闇を照らすでしょう。

イエス様はそのように人々に触れました。人々がイエス様を見るとき、天の父の目を見ました。そして、彼らが神の目を見たとき、神の光は彼らの闇を照らしました。

だから、私の祈りは、人々が私のうちに住んでおられるイエス様を見るようになることです。

私の妻、娘、生徒たち、同僚たちが私の目を見るとき、私の天のお父さんの目を見ることができるように祈ります。

そして、私を通して、神様が彼らの闇を照らしてくださるように祈ります。

私たち皆が天のお父さんの目を持つように。

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民数記のデボーション

罪に対して警戒する

正直に言うと、民数記に書かれていることは、たまに読みづらいです。特に、神様の裁きの話は、かなり厳しいです。

でも、パウロによれば、神様がその話を書かれたのには理由があります。パウロはこう言いました。

これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。

あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。

また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。

また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、キリストを試みることのないようにしましょう。彼らは蛇によって滅んでいきました。

また、彼らのうちのある人たちがしたように、不平を言ってはいけません。彼らは滅ぼす者によって滅ぼされました。

これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。 (第一コリント10:6ー11)

その最初の話は、出エジプト記32章からです。

その他の話は、私たちが最近読んでいる民数記の箇所からです。

どうして神様は、その話を記録されたのでしょうか。

それは、私たちの戒めのためです。

私たちは、その話から何を学ぶことができるでしょうか。

1.神様は、罪を真剣に受け止めておられます。神様は、特に故意の反抗的な罪を真剣に受け止めておられます。

民数記15~17章でも、民数記25:6でも、私たちはそれを見ました。

今日の箇所では、イスラエル人が自分の罪と神様の裁きのために泣いている間、あるイスラエル人は厚かましくミディアン人の女を自分のテントに連れていきました。たぶん、それは性的な儀式のためだったでしょう。

2.罪、特に悔い改めずに犯した故意の反抗的な罪の報酬は死です。

だから、私たちは罪を軽く見てはいけません。

むしろ、私たちは罪から逃げなければなりません。

パウロは、私たちに警告します。

ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(第一コリント10:12)

私たちは、いつも罪に対して警戒しなければなりません。

でも、良い知らせは、神様が私たちとともにおられ、私たちが堅く立ち、罪に打ち勝つのを助けてくださるということです。

パウロは、こう言いました。

あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。

神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。

むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(第一コリント10:13)

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民数記のデボーション

神様はどんなまなさして私たちを見ているのか

私はどうして呪いをかけられるだろうか。 神が呪いをかけない者に。

私はどうして責めることができるだろうか。 主が責めない者を。(民数記23:8)

私は上の言葉を読んだとき、ローマのクリスチャンたちへのパウロの言葉を連想しました。

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(ローマ8:33ー34)

サタンは天の父の御前で、私たちの罪と失敗のために責めようとします。

私たち自身、自分を責めるときもあります。

でも、天の父が責めていない私たちを、どうして私たちは責めることができるでしょうか。

私たちのために流されたイエス様の血によって、神様は私たちを義と認めてくださいます。イエス様ご自身が、天の父の隣に立って、私たちを擁護してくださいます。

神様は、あらかじめ私たちを知っておられました。

神様は、私たちが御子のようになるように、自分の子供となるように、あらかじめ定められました。

神様は、私たちを召してくださいました。

神様は、私たちを義と認めてくださいました。

そして、私たちに栄光を与えてくださいました。

神様は、そのように私たちを考えておられます。天のお父さんは、愛に満ちたまなざしで私たちを見ているのです。

そして、良い知らせは、神様は私たちに対して気が変わることがないということです。

私は、民数記23:19の言葉が大好きです。

神は人ではないから、偽りを言うことがない。人の子ではないから、悔いることがない。

神が仰せられたら、実行されないだろうか。語られたら、成し遂げられないだろうか。

神様は、私たちが祝福されるように定められ、必ず祝福してくださいます。(民数記23:20)

神様は、私たちの罪のために懲らしめるかもしれませんが、私たちを決して見捨てることはありません。

神様は、気が変わることがないので、神様の愛から私たちを引き離すものは何もありません。(ローマ8:38~39)

神様は、私たちとともにおられます。だから、私たちの王をほめたたえましょう。(民数記23:21)

そして、毎日叫びましょう。

「神様が私のためにしてくださったことは、なんと素晴らしいことでしょう。」(民数記23:23)

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民数記のデボーション

ただの言葉?

バラムの話を読んだ時、私はパリサイ人たちと律法学者たちへのイエス様の言葉を連想しました。

この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。(マタイ15:8)

時々、バラムは敬虔な人に聞こえました。

私は私の神、主の命を破ることは、事の大小にかかわらず、断じてできません。(民数記22:18)

しかし、彼は口先で神様を敬っても、その心は神様から遠く離れていたのです。

自分の欲のために、彼は神様の命じられたことを回避する方法を探していたようです。(第二ペテロ2:15~16)

けれども、神様はバラムの心をよく知っておられ、バラムの言葉に騙されていないことをはっきりと告げられました。

神様の警告を聞いて、バラムはイスラエルを呪おうとする計画をやめました。それでも、彼は後にイスラエルを困らせる方法を見つけました。(民数記25:1~5;36:16)

日曜日に「はい、主よ。私はあなたに従います。アーメン」という言葉を歌うのは簡単なことです。

しかし、それはただの言葉でしょうか。

それとも、その言葉は本当に私たちの心の叫びでしょうか。

私たちの心は、日曜日だけではなく、むしろ毎日毎日、一瞬一瞬、神様に捧げられているものでしょうか。

私たちは心を尽くして神様に従っているでしょうか。

もしくは、私たちは神様の命じられたことを回避する方法を探しているのでしょうか。

天のお父さん、私はバラムのようになりたくありません。私の心のすべてが、あなたのものになるように。

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民数記のデボーション

 神様の信頼を裏切る

あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。

それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。(民数記20:12)

今朝、私はモーセとアロンへの神様の御言葉を反芻していました。

「あなたはわたしを信頼してくれなかった。」

神様の戒めを信じて従う代わりに、モーセは勝手に行動しました。

そうすることで、イスラエル人たちが自分の文句と反抗的な態度で神様を敬わなかったのと同じように、モーセも神様を敬いませんでした。

申命記では、モーセは神様の御言葉をこのように言い換えました。

「あなたは私の信頼を裏切りました。あなたは私に不誠実でした。」(申命記32:51)

神様は、人が自分の友達と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られました。(出エジプト記33:11)

でも、モーセはその信頼を裏切りました。

天の父は、どれだけモーセの裏切りに心を痛められたでしょうか。

天のお父さん、私はモーセのように、何度あなたを信じなかったことでしょうか。

あなたの戒めに信じて従う代わりに、私はどれだけ勝手に行動するでしょうか。

あなたは、恵みによって私を救ってくださいました。その恵みによって、私をご自分のものとし、私を「友達」と呼ばれます。

あなたの信頼を裏切ったと知りながら、あなたの目を見たくありません。

私がいつも、あなたを聖なる方としてあがめるように。

私のすべての言葉と行動によって、あなたにふさわしい名誉をお与えするように。

そして、回りの人々が私を見るとき、彼らがあなたを見ることができるように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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民数記のデボーション

 赦さざる罪

民数記15~17章では、私たちは神様の厳しい裁きを見ます。

多くの人(クリスチャンたちも含めて)には、それが理解しがたいものです。

でも、15章では、神様は大切な原則を定めました。それは、気づかずに罪を犯すことと、故意に反抗的な罪を犯すこととは雲泥の差があるということです。

その反抗的な態度を悔い改めようとしない限り、私たちは赦されることはありません。

神様の律法によれば、気づかずに罪を犯した人は、罪のきよめのささげ物を捧げることができました。

でも、悔い改めることなく故意に罪を犯した人には、罪のきよめの捧げ物はありませんでした。そのような人にとっては、きよめの捧げ物は無意味ですから。(民数記15:22~30)

そういうわけで、悔い改めることなく故意に安息日を破った人は、石で殺されました。(民数記15:32~36)

また、16章では、コラたちは反抗的な態度のために厳しく裁かれました。

反抗的な心は、酷いものです。

でも、その反抗的な態度を悔い改めようとしない心が結びつけば、その罪は赦されないものとなります。

私たち皆が罪を犯すことはあります。でも、私たちが悔い改めず、反抗的な心を持つことがないように。

むしろ、ダビデの心を持ちましょう。彼は故意に罪を犯したことがありましたが、最終的に悔い改めて、赦されました。

彼はこう祈りました。

だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。

そのとき私は大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。主よ わが岩 わが贖い主よ。(詩篇19:12~14)

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民数記のデボーション

自分の心を導こう

イスラエルの子らに告げて、彼らが代々にわたり、衣服の裾の四隅に房を作り、その隅の房に青いひもを付けるように言え。

その房はあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こしてそれを行うためであり、淫らなことをする自分の心と目の欲にしたがって、さまよい歩くことのないようにするためである。

こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神に対して聖なる者となるためである。

わたしが、あなたがたの神、主であり、わたしがあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出したのである。わたしはあなたがたの神、主である。(民数記15:38~41)

去年、私の教会では、私たちは自分の心に従うのではなく、神様に従うように自分の心を導くことについて話しました。

それは新しい概念ではありません。モーセはイスラエル人たちに同じことを教えました。

「ただ自分の心に従うな。目の欲に従うな。そうすれば、淫らなことをして、さまよい歩いてしまいます。」

英訳によれば、「あなたは霊的な売春婦になります。」

だから、モーセはイスラエル人たちに言いました。「神とその道に従うように、自分の心を導こう。」

どうして彼らはそうするべきだったのでしょうか。なぜなら、神様はまず彼らを愛してくださり、エジプトの奴隷生活から救い出してくださったからです。

神様が彼らをご自分の民にしてくださったので、彼らは神様に対して聖なるものとなるべきでした。

そのように、神様は私たちをまず愛してくださり、サタンの国から救い出してくださいました。

私たちは神様の愛しているものなので、もう一度自分を霊的な売春婦として罪に売ってはなりません。

むしろ、私たちは神様に対して聖なるものとなるべきです。

私たちは、どのように自分の心を導くことができるでしょうか。

神様はイスラエル人たちに、一つの方法を教えてくださいました。

神様は彼らに、衣服の裾の四隅に房を作り、その隅の房に青いひもを付けるように命じました。その目的は、服を着るたびに神様に従うように心を導くことを思い出させるためでした。

もちろん、私たちはそうする必要はありませんが、私たちが誰のものであるか、誰に従うべきかを日々思い出す方法を見つけるべきです。

最近、教会の友達が引っ越しをしたところ、そのアパートの礎に、こう書いてあります。

主は私たちの神。主は唯一である。(申命記6:4)

彼がそのアパートに入るたびに、それは彼の房になるかもしれません。

私の「房」は、黙示録4:11に基づく祈りです。毎日、私はこう祈ります。

主よ、私たちの神よ。 あなたこそ 栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。

あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。

みこころのゆえ、あなたは私を造られ、もう一日のために息吹を与えてくださいました。

私の人生によって、あなたがあがめられるように。アーメン。

あなたの房は何でしょうか。

自分の房を見つけましょう。

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民数記のデボーション

信仰の目、恐怖に満ちた目

モーセは、カナンの地の偵察のために彼らを遣わして言った。。。

「勇気を出して。。。」 (民数記13:17、20)

上の言葉で、私の心に打たれました。

モーセは12人の斥候を遣わす前に、「勇気を出しなさい」と言いました。

でも、彼らが戻って来た時に、まだ勇気を失っていなかったのはカレブとヨシュアだけでした。

なぜでしょうか。なぜなら、彼らは信仰の目を持っていたからです。彼らは神様の偉大さを見たのです。

でも、残りの10人の斥候は、恐怖に満ちた目をしていました。

なぜでしょうか。彼らはカナン人の大きさしか見ることができなかったからです。

どれだけ、私たちは神様の偉大さを忘れ、未来や神様が私たちをどこに導いてくださるのかを恐れるでしょうか。

また、神様がどれほど良い方であるのかを、私たちはどれほど忘れているでしょうか。

今日、私はたまたま詩篇16篇を祈っていました。5~8節は、特に今日の話に適していたと思いました。

主は私への割り当て分、また杯。あなたは、私の受ける分を堅く保たれます。

割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい、私へのゆずりの地です。

私はほめたたえます。助言を下さる主を。実に、夜ごとに内なる思いが私を教えます。

私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。(詩篇16:5ー8)詩篇16:5ー8)

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民数記のデボーション

 私があなたをあがめるように

聞け、わたしのことばを。

もし、あなたがたの間に預言者がいるなら、主であるわたしは、幻の中でその人にわたし自身を知らせ、夢の中でその人と語る。

だがわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者。(民数記12:6ー7)

ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。

モーセが神の家全体の中で忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実でした。

家よりも、家を建てる人が大いなる栄誉を持つのと同じように、イエスはモーセよりも大いなる栄光を受けるにふさわしいとされました。。。

モーセは、後に語られることを証しするために、神の家全体の中でしもべとして忠実でした。

しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。。。(ヘブル人への手紙3:1ー6)

イエス様、モーセは天の父の家全体の中で、しもべとして忠実でした。だから、彼は栄誉や栄光を受けるにふさわしい人でした。

でも、あなたは天の父の家全体の中で、御子として忠実でした。そういうわけで、モーセよりも、あなたは大いなる栄誉と栄光を受けるにふさわしい方です。

だから、私の言動によって、あなたがあがめられるように。あなたは、私の服従と敬いにふさわしい方です。

私があなたに従わないとき、あなたを敬わないとき、赦してください。

そんなときにも関わらず、あなたが私の大祭司として、私のために忠実にとりなし続けてくださり、感謝します。

あなたの素晴らしい恵みを感謝します。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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民数記のデボーション

烏合の衆の一員?

彼らのうちに混じって来ていた者たちは激しい欲望にかられ、イスラエルの子らは再び大声で泣いて、言った。

「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。

だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」(民数記11:4-6)

「混じって来ていた者」と訳された言葉は、かなり珍しくて、上記の箇所にしか出てきません。

ある英訳では、その言葉は「riffraff」、つまり、「烏合の衆」と訳されました。

もしかしたら、彼らはイスラエル人ではなかったかもしれません。でも、イスラエル人がエジプトから逃げた時、その人たちはイスラエル人と一緒に行きました。

とにかく、はっきりしているのは、彼らはいつも文句を言い、周りの人々に影響を及ぼし、モーセの重荷になっていたということです。

その反面、イスラエルの民の70人は御霊に満たされ、モーセを支えました。モーセはヨシュアに、「イスラエル人の皆が御霊に満たされるといいのに」と言いました。

数世紀後、神様はペンテコステでその願いをかなえられました。(使徒の働き2:14~18)

今日の箇所を読んだとき、私はこう考えました。

「烏合の衆の一員になりたくない。私はいつもぶつぶつ不平を言って、悪い影響を周りの人々に与えたくない。私はリーダーたちの重荷になりたくない。」

むしろ、私は御霊に満たされることを望みます。教会の内でも外でも、周りの人々に触れ、祝福をもたらすために、神様に用いられることを願います。

あなたはどうですか。

神様はあなたに御霊を与えてくださいました。

御霊に満たされ、導かれている人生を送っているでしょうか。

もしくは、烏合の衆の一員のように生きているでしょうか。

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詩篇のデボーション

神様を神様として認める

知れ。主こそ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。(詩篇100:3)

最近、私はヨブ記についての説教を準備していました。

多分、そのせいで私は神様と時間を過ごしていて、詩篇100篇を読んだとき、ヨブのことを連想しました。ヨブの試練の後、彼が詩篇100篇のような歌を歌うことを想像できました。

なぜなら、ヨブは上の真理を学んだからです。

神様は神様です。私たちは神様ではありません。

神様は私たちを造られました。私たちは神の民です。私たちは神の羊です。

そして、それは幸いなことです。

なぜでしょうか。

なぜなら、最終的に、神様は良い方で、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至るからです。(5節)

この世には、私たちが理解できないことがたくさんあります。ですから、私たちが神様を疑い始めることは簡単なことです。

私たちは、神様が良い方であるかどうか疑い始めます。私たちへの神様の愛も疑い始めます。

でも、試練の中で喜びを知ることができる鍵は、主を神様として認めることです。つまり、神様は賢明な方であり、全能の方であるということです。でも、最も大切なことは、神様は私たちを深く愛してくださっているということです。

だから、確信をもってその真理を信じ、主に向かって喜びの声をあげましょう。(1節)

喜びをもって主に仕え、喜び歌いつつ、御前に行きましょう。(2節)

感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入りましょう。主に感謝し、御名をほめたたえましょう。(4節)

なぜなら、主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至るからです。(5節)

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コロサイ人への手紙のデボーション

キリストのことばが豊かに住むように

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。

知恵を尽くして、詩と賛美と霊の歌により、互いに教え、忠告し合い、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。(コロサイ人への手紙3:16、英訳)

私はいつも「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい」という言葉が大好きでした。

でも、英訳を読むと、新しいことに気づきました。英訳によると、キリストのことばが私たちのうちに豊かに住むようになるのは、聖書を読んだり、説教を聞いたりすることだけではありません。(聖書を読むことと説教を聞くことも大切ですけど。)

パウロによれば、詩と賛美と霊の歌を通して、そのことばは私たちのうちに豊かに住むようになります。

それを読んだ時、私の人生を形作った歌を思い出しました。賛美の歌だけではなく、他のクリスチャンの歌もまた、私の人生を形作りました。

ある歌は聖書を直接引用していたので、私は詩篇121篇やローマ12:1やローマ8:14~21やマタイ11:28を歌ったり、祈ったりしました。

ある歌は聖書を引用していませんでしたが、その歌詞は聖書に基づいていました。

ある歌のおかげで、私は、神様が私のお父さんであることがどういう意味なのかを学びました。

別の歌のおかげで、神様が私のことをどう考えておられるのかを学びました。

もう一つの歌は、頑なな心を捨て、神様に対する柔らかい心を保つように私に挑戦しました。

試練の中で、神様を賛美することを教えてくれた歌もありました。

ある歌のおかげで、礼拝とは歌を歌うことだけではなく、私の人生の全体が神様への礼拝であるべきだということを学びました。

そのような歌は、キリストのことばを私たちのうちに豊かに住まわせる、力強い道具です。

あなたは音楽を聴いているでしょうか。どのような音楽を聴いているでしょうか。その歌の歌詞に注目するでしょうか。

キリストのことばがあなたのうちに豊かに住むことを望むなら、聖書に基づいている歌を探してみましょう。

神様への「ラブソング」だけではなく、神様の真理を教える歌を歌いましょう。

教会で歌われている曲でもいいし、クリスチャン・アーティストの曲でもかまいません。そのような歌を歌いましょう。歌いながら、その歌詞を祈りましょう。

そして、そのことばによって励まされ、挑戦され、忠告されましょう。また、そのことばを周りのクリスチャンたちに伝えましょう。

そうすれば、キリストのことばは私たちのうちに住むようになります。

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コロサイ人への手紙のデボーション

感謝に満ちた歩み

このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。。。

あふれるばかりに感謝しなさい。(コロサイ人への手紙2:6ー7)

「あふれるばかりに感謝しなさい。」

なぜか、その言葉は私の心に本当に響きました。

私は、溢れんばかりの感謝で特徴づけられているのだろうか。

私は、義務からではなく、イエス様が私にしてくださったことへの感謝に満ちた心から、クリスチャン生活を送っているだろうか。

感謝に満ちた心を持っているなら、私はイエス様のうちに根差そうと努めるでしょう。

また、私はイエス様にあって建てられたいし、信仰を堅くしようと努めるでしょう。

天のお父さん、あなたとの関係に関して、私が無関心な態度を決して取らないように。私のクリスチャン生活が決して重荷にならないように。

むしろ、私が毎日、溢れんばかりの心をもって、あなたと歩むように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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コロサイ人への手紙のデボーション

あなたが第一の者となるように

御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。

なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。

万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。

また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。(コロサイ人への手紙1:15-18)

イエス様、私はあなたにあって造られました。私はあなたによって造られました。私はあなたのために造られました。だから、私の人生において、第一の者となってください。あなたは私の人生において第一の者となるにふさわしい方なのです。

どうか私があらゆる霊的な知恵と理解力によって、あなたの御心についての知識に満たされますように。

その知識に満たされることで、私はあなたにふさわしく歩み、あらゆる点であなたに喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、あなたを知ることにおいて成長することができます。

私がどんなことにも喜びと感謝を持ち、忍耐し、寛容でいられるため、あらゆる力で私を強くしてください。

私へのあなたの恵みは素晴らしいです。あなたは私に聖徒の相続分を与えてくださいました。あなたは私を暗闇の力から救い出して、あなたのご支配の中に移してくださいました。

あなたの十字架上の死によって、私を天の父の御前に聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として立たせてくださいます。

あなたの恵みによって、私が信仰に土台を据え、堅く立ち、あなたの福音の望みから外れることなく、信仰にとどまるように助けてください。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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ピリピ人への手紙のデボーション

自分の救いを達成するよう努める

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。(ピリピ人への手紙2:12)

今日、「自分の救いを達成するよう努める」という言葉を考えていました。それはどういう意味でしょうか。

ピリピ人への手紙3章では、パウロがその意味を説明していると思います。

彼は、義と認められるために律法を守ろうとすることを意味していませんでした。彼の義は、イエス様の十字架の働きを信じる信仰に基づいていました。(ピリピ3:9)

では、「自分の救いを達成するよう努める」とは、どういう意味でしょうか。

1.イエス様との関係を追求することです。イエス様を知ることは、パウロの究極の情熱となりました。

2.ますますイエス様のようになることです。パウロはイエス様の復活の力を経験し、その力によってイエス様のように変えられることを望みました。

でも、イエス様と共によみがえられる前に、パウロはイエス様と共に死ななければなりませんでした。

イエス様がただ一度罪に対して死なれたように、パウロは罪に対して死んだ者となり、また神に対して生きている者となるように学ぶべきでした(ローマ6:10ー11)。

そして、キリストの苦しみに参加することで、パウロは罪との関わりを断ち、神のみこころに生き始めていることを証明しました(第一ペテロ4:1ー2)。

それは、自分の救いを達成するよう努めるということです。

でも、それは一生続くプロセスです。パウロ自身も、まだそのプロセスを終えていないことを認めました。

彼はまだ失敗しました。彼はまだたどり着いていませんでした。

でも、恵みによって、イエス様はパウロを捕えてくださいました。だから、パウロは受けた救いを完全に捕らえるように努め、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めました。

パウロを捕えてくださったイエス様が、私をも捕えてくださったことに驚いています。だから、パウロのように、私も受けた救いを完全に捕えるように努め、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めています。

私はまだ失敗します。私はまだたどり着いていません。でも、神様が私に恵みと愛を与えてくださったという確信を持ち、パウロと共に言います。

うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。(ピリピ3:13ー14)

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ピリピ人への手紙のデボーション

恐れおののいて

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。(ピリピ人への手紙2:12)

「恐れおののいて。。。」

今日、その言葉を嚙み締めていました。

「恐れおののいて」というのは、どういう意味でしょうか。

自分の手紙の中で、パウロはその表現を三度使いました。その表現を使うたびに、パウロはイエス様への従順について話していました。

第二コリント7:15では、コリント人たちはテトスを恐れおののきながら迎えました。なぜなら、テトスはコリント人たちが従順したイエス様を代表していたからです。

エペソ6:5では、奴隷たちはイエス様に恐れおののいて従っていたように、自分の主人にも従うべきでした。

そして、今日の箇所では、ピリピ人たちがいつも従順であったように、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めるべきでした。

ある意味、十字架でイエス様は私たちの救いを完全に達成したけど、私たちがイエス様に従い仕えることで、私たちの救いの益をより完全に経験します。そして、救いの最大の益は、私たちを深く愛してくださる神様との関係の回復です。

だから、救いを達することの大部分は、その回復された関係の中で、毎日毎日、一瞬一瞬を歩むことを学ぶことなのです。

でも、どうして恐れおののいてそうするべきでしょうか。

なぜなら、イエス様はすべての名にまさる名を与えられ、すべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白しますから。

もしかしたら、パウロはその言葉を書いたとき、引用したイザヤ書45:23だけではなく、詩篇2編をも考えていたかもしれません。

詩篇2編は、メシアに関する詩篇です。その詩篇では、神様はイエス様を全世界の王として立てます。そして、イエス様に反抗する人たちのすべては滅ぼされます。そのような人々はイエス様の怒りを恐れるべきです。

でも、主に身を避ける人は喜びを知ります。(詩篇2:12)

だから詩人はこう書きました。

恐れつつ、主に仕えよ。おののきつつ喜べ。。。(詩篇2:11、脚注にある別訳)

上記の言葉はパウロの言葉に似ていますね。もしかしたら、「恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい」と言ったとき、詩人の言葉を考えていたかもしれません。

私たちはイエスと対等ではありません。

イエス様は王の王と主の主です。イエス様は私たちの従順にふさわしい方です。そして、イエス様はいつかすべての反逆者を裁きます。

そういうわけで、私たちはイエス様を軽んじてはいけません。

でも、イエス様を私たちの主と認めるなら、私たちが神様からの罰を恐れる必要はありません。裁きは私たちのためではなく、神様の敵のためですから。

むしろ、畏敬の念を抱き、さらに喜びの歌を歌って、イエス様に仕えます。(詩篇2:11;ピリピ2:13;詩篇100:2)

私たちはおののきながら、神様が私たちに与えてくださった恵を喜びます。神様がみこころのままに、私たちのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださることを喜びます。(ピリピ2:13)

もう一人の詩人は「恐れおののいて自分の救いを達成する」というコンセプトをまとめたと思います。

知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。(詩篇100:3-5)

だから今年、私たちの主とその救いを軽んじないようにしましょう。

むしろ、恐れおののいて、また、喜びをもって、自分の救いを達成するよう努めましょう。

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ピリピ人への手紙のデボーション

人々のために祈る。自分のために祈る。

今日、パウロの言葉を読んだとき、ピリピ人たちのためのパウロの祈りを借りて、私の祈りのリストにある人々のために祈りました。特に、私の家族とスモール・グループのために祈りましたが、私の牧師とその奥さんのためにも祈りました。

<名前>さんの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、<名前>さんが、大切なことを見分けることができますように。

こうして<名前>さんが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。

あなたは、<名前>さんの中で良い働きを始められたことを信じています。その働きを完成させてください。

<名前>さんがあなたの福音にふさわしく生活するように。そして、<名前>さんの身によってキリストがあがめられるように。(ピリピ人への手紙1:6,9~11,20,27)

でも、祈るとき、私もその祈りを必要としていることに気づきました。だから、自分のためにも祈りました。

天のお父さん、私の愛も知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、私が大切なことを見分けることができますように。

こうして私がキリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神様の栄光と誉れが現されますように。

あなたは、私の中で良い働きを始められたことを信じています。その働きを完成させてください。私があなたの福音にふさわしく生活するように。

そして、今日、私の身によって、私の人生によってキリストがあがめられるように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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エペソ人への手紙のデボーション

すべての武具を身に着けて

悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。。。

ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。(エペソ人への手紙6:11~13)

「すべての武具。」

今朝、神様はその言葉を私の心に刻まれました。

すべての武具を身に着けなさい。すべての武具を取りなさい。一部の武具ではなく、すべての武具なのです。

サタンは私たちに攻撃するため、一つの策略ではなく、さまざまな策略を使います。だから、毎日、すべての武具を身に着けなければ、私たちは攻撃に対して脆弱になります。

パウロの言葉を言い換えると、すべての武具を身に着けなければ、あなたは悪魔の策略に対して堅く立つことができません。

神様のすべての武具を取らなければ、あなたは抵抗することも、堅く立つこともできません。

だから、真理の帯を締めましょう。つまり、神様の言葉をあなたの思考の土台にしましょう。また、あなたの言葉が真理によって特徴づけられるようにしましょう。

そして、仮面を捨てましょう。つまり、教会では一人の人間、教会の外ではもう一人の人間という二面性を持たないことです。

胸には正義の胸当てを着けましょう。正義をもって、周りの人々に接しましょう。また、あなたの失敗のためにサタンがあなたを責めるときは、イエス様を信じる信仰によるキリストの義を着けましょう。

恵みの福音の備えをも履きましょう。そうすれば、自責の念や律法主義、そして意図的な罪に陥ることはありません。

信仰の盾をも取りましょう。でも、一人で立ってはいけません。ほかのクリスチャンたちと共に立ちましょう。クリスチャンの交わりを優先しましょう。

そうすれば、あなたの盾は強い亀の甲羅の一部となります。その甲羅は、あなただけでなく、周りのクリスチャンたちをサタンの攻撃から守ります。

救いのかぶとを受け取りましょう。感謝をもって、受け取りましょう。なぜなら、あなたは神様の恵みによって救いを得たからです。

そして、サタンが嘘であなたを攻撃するときは、神様のことばという剣を振るいましょう。

あなたはどうですか。神様の武具のすべてを身に着けているでしょうか。もしかしたら、その武具の一部は床に残されたままになっているのではないでしょうか。

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エペソ人への手紙のデボーション

あなたのようになるように

しかしあなたがたは、キリストをそのように学んだのではありません。ただし、本当にあなたがたがキリストについて聞き、キリストにあって教えられているとすれば、です。真理はイエスにあるのですから。

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。(エペソ人への手紙4:20~24)

天のお父さん、私たちは初めにあなたの似姿に造られました。(創世記1:26-27)

しかし、その似姿は私たちの罪によって歪められ、腐敗しています。

私の人生においても、あなたの似姿は私の罪によって歪められ、腐敗しています。

それでも、あなたは私を愛してくださり、あなたの恵みによって私を救ってくださいました。あなたの望みは、私があなたの御子のようになることです。(エペソ4:13)

ですから、私があなたにかたどって造られた新しい人を着ることができるように助けてください。私があなたの義、真理、愛、恵、親切さ、優しい心によって特徴づけられる者となるようにしてください。

周りの人々が私を見るとき、彼らがあなたを見てくださるように。私はあなたのようになりたいのです。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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エペソ人への手紙のデボーション

近い者となった

そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。

しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。。。

このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なので。(エペソ人への手紙2:12~13)

多分、上記は、私が最も気に入っているエペソ人への手紙の箇所です。その箇所は、クリスマスの意味、つまり、イエス様がこの世に来られた理由を要約しているからです。

私たちは、かつて神様の家族の部外者であり、アブラハムとその子孫への祝福の約束の契約から除外されていました。しかし今、イエス様にあって、かつて神様から遠く離れていた私たちは、近い者となりました。

イエス様の系図を見ると、それがよく分かります。

タマルはカナン人でした。カナン人の罪のため、神様はイスラエル人たちに、カナン人たちを滅ぼすように命じられました。(マタイ1:3;創世記10:15-18,15:16;レビ記18:24-28;申命記7:1-4)

ラハブもカナン人で、遊女でした。(マタイ1:5)

ルツはモアブ人でした。神様はイスラエル人たちに、モアブ人が主の集会に加わってはならないと言われていました。(マタイ1:5;申命記23:3-4)

彼女らは皆、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神様もおられない者たちでした。けれども、彼女らは近い者となり、聖徒たちと同じ国の民となり、神様の家族に加えられました。

私たちも同じです。

クリスマスはもう終わったかもしれませんが、パウロの言葉に思いを巡らしましょう。その言葉を反芻しましょう。

そして、喜びましょう。

私もそうしています。

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エペソ人への手紙のデボーション

ふんだんに恵まれている

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。(エペソ人への手紙1:3-6)

私は6節の英訳が大好きです。「神様は私たちに恵みの栄光をふんだんに与えてくださいました。」

「ふんだんに与える」と訳された言葉は、新約聖書では2回しか使われていません。2回目は、上のエペソの箇所です。一回目は、マリアへのガブリエルの言葉です。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(ルカ1:28)

ガブリエルの言葉を言い換えると、「マリア、神様はあなたにふんだんに恵みを与えてくださいました。」

あなたは、御使いがマリアにそのような言葉をかけたのは、マリアが本当に特別な人だったからだと思うかもしれません。

でも、神様は同じようなことを、私たちにも言ってくださいます。

「わたしの子を通して、あなたに恵みをふんだんに与えました。世界の基が据えられる前から、あなたをわたしの子供とするように定めていました。」

マリアへの神様の言葉は、あなたにも当てはまります。あなたは、ふんだんに恵まれた人です。そして、イエス様において、神様はインマヌエルです。「神様は私たちと共におられます。」

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テサロニケ人への手紙第二のデボーション

模範になるなんて、私が?

どのように私たちを見習うべきか、あなたがた自身が知っているのです。。。

あなたがたが私たちを見習うように、身をもって模範を示す。。。(テサロニケ人への手紙第二3:7、9)

今朝、私はその言葉に心を打たれました。

パウロの言葉はとても大胆です。「どのように私たちを見習うべきか、あなたがた自身が知っているのです。」

正直に言うと、私はそんな大胆さを持っていません。

なぜなら、私は自分の欠点をよく知っているからです。まだ成長しなければならない部分が、私にははっきりと見えています。

いったいどうして、人々が私の真似をしたがるのでしょうか。

それでも、神様は私たち皆に弟子を作るよう命じておられます。牧師や教会のリーダーだけでなく、すべての信者に対して、周囲の人々が見習うべき模範を示すよう求めておられるのです。

模範となるとは、周囲の人々が私たちの長所を見て見習うだけでなく、私たちが自分の欠点や罪を克服しようとしている姿を見るということです。

さらに、彼らが見るべきなのは、私たちが罪や欠点のために罪悪感にさいなまれている姿ではなく、むしろ、毎日毎日、一瞬一瞬、神様の恵みによって歩み、神の子供であるという確信を持って生きている姿なのです。

天のお父さん、私は、人々が見習いたいと思うような人間になりたいです。いろんな意味で、私はふさわしくないと感じています。

でも、人々が私を見るとき、彼らが真似したいと思うような私の長所を見るだけでなく、私が自分の欠点や罪を克服しようとしている姿を通して、私が毎日歩んでいるあなたの恵みを見ることができますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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テサロニケ人への手紙第二のデボーション

私たちが必要な祈り

今日、私はパウロの祈りに深く感動しました。なぜなら、彼がテサロニケ人たちのために祈ったことは、まさに私自身に必要な祈りだからです。実際、それはすべてのクリスチャンにとって必要な祈りです。

パウロはこう言いました。

こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。

それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。(第二テサロニケ2:11ー12)

私たちがよく考えるのは、自分自身を良い人にしなければならないということです。自分の力と自制心によって、自分自身を変えなくてはならないと考えがちです。

しかし、パウロが祈っているのは、神様が私たちを召しにふさわしい者としてくださり、神様の力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から生まれる働きを実現してくださるということです。

それによって、イエス様が私たちの間であがめられ、私たちにも主にあって栄光が与えられます。

けれども、その栄光は私たち自身の素晴らしさによるものではなく、私たちの人生に働いている天の父の恵みと御子の恵みによるものです。

そして、パウロはこう祈ります。

どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。(第二テサロニケ2:16ー17)

また、

主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。(第二テサロニケに3:5)

私たちの信仰の根底には、一つの根本的な真理があります。それは、神様が私たちを深く愛してくださるということです。

パウロが祈ったのは、イエス様が日々私たちを天の父の愛へと導き、私たちが必要な励ましと希望を受けることができるようにということです。そして、その励ましと希望によって、私たちはあらゆる良いわざとことばのために、神様によって強められます。

さらに、テサロニケ人たちのように、私たちが試練や苦しみに直面するとき、パウロは、私たちがイエス様を仰ぎ見ることによって、勇気を得るように祈りました。十字架で私たちの罪の代価を支払ってくださったイエス様の忍耐に目を向けることによってです。

私は前にも言いましたが、私たちはよく、自分の力と自制によってクリスチャン生活を送ろうとしてしまいます。

でも、イエス様が私たちを天の父の愛へと導いてくださるように、イエス様の十字架を覚えていましょう。神様の愛とイエス様の十字架に、心を向けて思いを巡らしましょう。

そして、あなたのあらゆる良いわざと言葉が、神様の愛とイエス様の十字架への感謝から生まれるものでありますように。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

神様が真実ですから、そのようにしてくださいます。

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。

あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(テサロニケ人への手紙5:23ー24)

「あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。」

この言葉は、私の心に深く響きました。

それを読んだとき、私はローマ人への手紙8章29~30節にあるパウロの言葉を思い出しました。

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。

私たちは、その言葉を本当に信じているでしょうか。

私たちが生まれる前から、神様はその働きを始めておられました。イエス様のようになるために、私たちの霊、魂、身体のすべてが責められるところのないものとなるよう、神様は私たちを選んでくださいました。

そして、神様が始められたことを完成させてくださいます。なぜなら、神様は真実なお方だからです。

鏡に映った自分を見るとき、気に入っているでしょうか。

それとも、自分の失敗や罪の汚れを見て、顔をしかめるでしょうか。

でも、私たちのアバは、私たちを見るとき、顔をしかめることはありません。

私たちのアバは、あなたを最初から知っておられ、選んでくださいました。あなたを召してくださいました。あなたを義と認めてくださいました。あなたの罪の記録を完全に消し去ってくださいました。

そして、あなたがそれを見えるか見えないかにかかわらず、神様はあなたを完全に聖なるものとしてくださる過程におられます。

なぜなら、神様のみこころは、あなたがたが聖なる者となり、イエス様のようになることだからです。(第一テサロニケ4:3)

そして、その過程が完成されるまで、神様はあなたに栄光を与え、あなたがイエス様のようになるまで、働き続けてくださいます。

だから、義の胸当てを着けましょう。自分自身の義ではなく、イエス様を信じる信仰による神様の義を着けましょう。また、あなたに対する神様の愛の確信が、あなたの心を守るようにしましょう。(エペソ6:14;第一テサロニケ5:8)

そして、あなたの救いの希望—いつかあなたがイエス様のようになるという希望—が確かなものであることを覚えていましょう。その希望を、毎日かぶりましょう。

神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。(第一テサロニケ5:9)

また、

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(テサロニケ人への手紙5:24)」

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

希望を持って、待ち望む

そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。

最後に兄弟たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから、ますますそうしてください。。。

神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。(テサロニケ人への手紙第一3:13~4:1、3)

今はクリスマスのシーズンなので、私たちはよくイエス様の初臨を振り返りますが、イエス様はもう一度この世に来られます。それが私たちの希望です。

最近、二人の友人が亡くなり、主と共に旅立ちました。しかし、パウロが言ったように、私たちは望みのない他の人々のように悲しむことはありません。

イエス様がもう一度この世に来られるとき、彼らはよみがえり、生き残っている私たちは彼らと一緒に空中で主と会います。そして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。

その日に、私たちは聖く、責められるところのない者となります。簡単に言えば、イエス様に似た者となるのです。なぜなら、私たちはイエス様をありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)

それが私たちの希望です。でも、その日が来るまで、パウロとヨハネは、私たちがますますイエス様のようになることを促しています。(第一テサロニケ4:1~3;第一ヨハネ3:3)

私は、第一テサロニケ4章3節の英訳が好きです。「あなた方は神に喜ばれるために現に歩もうとしているが、前進し続けなさい。」

「前進し続けなさい。」

それが神様の御心です。つまり、毎日毎日、一瞬一瞬、私たちがますますイエス様のようになるということです。

イエス様、私はクリスマスを楽しみにしていますが、あなたの再臨も心待ちにしています。あなたの御顔を仰ぎ見ること、友人たちと再会できることを心から待ち望んでいます。

でも、その日が来るまで、私が前進し続けるように助けてください。私が成長し続けるように助けてください。

あなたの恵みによって、毎日、私がますますあなたのようになるようにしてください。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

愛され、選ばれている

神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。(テサロニケ人への手紙第一1:4)

今朝、私はその言葉を反芻していました。

私は神様に愛されています。

私は神様に選ばれています。

その言葉を考える時、私はいつも驚かされます。

「神様は私を愛することを選ばれたの?どうしてだろうか。」

その答えは出てきません。でも、その真理は心強いものです。

私は神様のご恩を得ようと努める必要はありません。私はそのご恩をすでに得ているのです。

私が神様の愛に値することを証明する必要はありません。神様はすでに私を愛してくださっています。

だから、自分の弱さや失敗を見ても、神様が私を受け入れてくださることを知り、安心することができます。

下記の言葉が、あなたの心に染み渡りますように。

「私は神様に愛されています。」

「私は神様に選ばれています。」

Don’t try so hard
頑張らなくて良い
God gives you grace and you can’t earn it
神様はあなたに恵みを与えてくださいます。その恵みは、自分の努力で得ることはできません。
Don’t think that you’re not worth it
自分には価値がなくて、神様が恵みを与えてくださるはずがないと思わないでください。
Because you are
神様の目には、あなたには価値があります。

He gave you His love and He’s not leaving
神様はあなたに愛を与えてくださいました。そして、あなたを決して見捨てません。
Gave you His Son so you’d believe it
あなたがその真理を信じることができるように、神様は御子を与えてくださいました。
You’re lovely even with your scars
あなたには傷跡があっても、美しさがあります。
Don’t try so hard.
頑張らなくて良い。ーーエイミー・グラント

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出エジプト記のデボーション

私たちの間に幕屋を張られた神

そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。

モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。(出エジプト記40:34ー35)

今はクリスマス・シーズンなので、私は上記の言葉を読んだとき、ルカによる福音書2章の羊飼いたちの話を思い出しました。

さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。

すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。(ルカ2:8ー9)

幕屋を満たしていたのと同じ栄光が、羊飼いたちの周りを照らしました。羊飼いたちが恐れるのも無理はありません。

モーセでさえ、神様の栄光に満ちた場所に入るのを恐れました。

しかし、御使いは羊飼いたちにこう言いました。

恐れることはあ

りません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:10ー11)

イエス様を通して、羊飼いたちは、モーセでさえ持っていなかった神様へのアクセスを与えられました。

神様は、私たちにもその同じアクセスを与えてくださいました。

ヨハネはこう言いました。

ことば(つまり、神)は人となって、私たちの間に住まわれた。(マタイ1:14)

原語では、「住まわれる」という言葉には、「幕屋を張る」というニュアンスがあります。

神様がイスラエル人の間に幕屋を張られたように、イエス様が人間となられたとき、神様は私たちの間に幕屋を張られました。

だから、ヨハネはイエス様についてこう言いました。

私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14b)

そして、イスラエル人たちが旅をしている間、神様がインマヌエルであったように、私たちの人生の旅の間も、イエス様は私たちにとってインマヌエルであり、私たちにこう約束してくださいます。

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)

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出エジプト記のデボーション

私のすることすべてが。。。

心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな、会見の天幕の仕事のため、そのあらゆる奉仕のため、また聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。(出エジプト記35:21)

モーセはイスラエルの子らに言った。

「見よ。主は、ユダ部族の、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、 彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。(出エジプト記35:30ー31)

天のお父さん、私のすることすべてが心から流れるようにしてください。

義務からではなく、回りの人々の期待からでもなく、あなたの恵みと愛に触れられ、感謝に満ちた心から私が仕えるようにしてください。

私の動機はよく複雑なものです。私が心のすべてをあなたに捧げるように助けてください。

私が弱くても、自分の物足りなさを感じても、あなたは私を名指して召してくださいました。

あなたの御霊で私を満たしてください。あなたの仕事を成し遂げるため、私に知恵と英知と知識を与えてください。

あなたを離れては、私は何もできません。でも、あなたにとどまっているなら、私は多くの実を結ぶことができます。

私はあなたのために多くの実を結びたいのです。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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出エジプト記のデボーション

インマヌエル

「今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」

主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」

モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。」(出エジプト記33:13ー15)

今朝、私は自問しました。

「私はモーセの心を持っているだろうか。」

私はどれだけ、このように祈っているでしょうか。

「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私の家から出たくもありません。

もしも私がみこころにかなっているのでしたら、私と共に歩んでください。

どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。」

驚くべきことは、神様が私たちにこのように答えてくださるということです。

「あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出した。わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」(出エジプト記33:17、14)

それがクリスマスの意味です。

イエス様はインマヌエルです。イエス様にあって、神様は私たちと共におられます。

神様がモーセと共に歩み、モーセと語ってくださったように、神様は私たちと共に歩み、私たちと語ってくださいます。

さらに、イエス様は神様の栄光を私たちに現し、恵みの上にさらに恵みを与えてくださいます。(ヨハネ1:14、16~18)

考えてみれば、それはすごいことですね。

いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。(ルカ2:14)

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出エジプト記のデボーション

私たちの罪の深刻さ

翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。」(出エジプト記32:30)

モーセの言葉で、私の心は本当に打たれました。

「あなたがたは大きな罪を犯した。」

それを読んで、私は考えました。

「私は自分の罪をどれだけ重く受け止めているだろうか。自分の罪を軽く見てしまうことがあるだろうか。」

パウロによれば、罪の報酬は死です。(ローマ書6:23)

イスラエル人たちは、その真理を学びました。3000人のイスラエル人が死に、さらに多くの人々が打たれました。

十字架でイエス様が死ななければならなかったほど、私たちの罪は深刻なものです。

私たちが自分の罪の深刻さを正しく理解してこそ、ダビデの言葉に含まれた喜びの深さを理解することができます。

幸いなことよ、その背きを赦され、罪をおおわれた人は。

幸いなことよ、主が咎をお認めにならず、その霊に欺きがない人は。(詩篇32:1ー2)

天のお父さん、私が決して自分の罪を軽く見ないようにしてください。私が決して、あなたの素晴らしい恵みを当たり前のものだと思わないようにしてください。

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出エジプト記のデボーション

聖所

彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。

幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。(出エジプト記25:8~9)

天のお父さん、私のうちに住んでください。私があなたの聖所となるように。私の人生が私自身の設計図によってではなく、あなたの設計図によって築かれるように。

天のお父さん、あなたは聖なる方であり、あなたのみ言葉は聖なるものです。でも、私はしばしば罪に陥ってしまいます。だから、いつも宥めの蓋の上から私に語ってください。(出エジプト記25:21~22)

イエス様、あなたは私の宥めの蓋(別訳:宥めのささげ物)です。(ローマ3:25とその脚注)

毎日、あなたの血によって、私をすべての罪から清めてください。

天のお父さん、あなたはいつも私と共におられ、日ごとのパンを与えてくださいます。(出エジプト記25:23~30)

イエス様、あなたは私に永遠のいのちを与える天から下って来たパンです。(ヨハネ6:33~35)

イエス様、あなたは私の光です。(出エジプト記25:31~38;ヨハネ8:12)

私が毎日あなたの光の中で歩むことができるように。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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出エジプト記のデボーション

古い契約、新しい契約

モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。

「主の言われたことはすべて行います。聞き従います。」

モーセはその血を取って、民に振りかけ、そして言った。

「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」(出エジプト記24:6~8)

日曜日に聖餐式があったので、最後の晩餐でのイエス様の言葉を思い出しました。

この杯は、わたしの血による新しい契約です。

飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。(第一コリント11:25)

ある意味、古い契約は恵みの契約でした。その契約によって、自分の罪のゆえにふさわしくなかった人々も、神様との関係を持つことができたのです。

でも、ある意味では、その契約は不完全なものでした。

その契約は、イスラエル人が神様の命令に従うという約束に基づいていました。しかし、彼らは完全にそうすることができませんでした。(ヘブル8:7~9;10:1~4)

さらに、契約の血がイスラエル人たちに振りかけられましたが、彼らは神様に近づくことができませんでした。

モーセ、祭司たち、長老たちだけが、神様の御前で食べたり、飲んだりすることができました。それでも、モーセだけがシナイで神様に近づくことができました。

その一方、新しい契約は、神様の律法を守ろうとする私たちの努力に基づくものではありません。その契約は、私たちが良い人間になるという誓いに基づくものではありません。

その契約は、十字架で流されたイエス様の血によって基づくものです。

その血は、アベルの血と違って、復讐を求めるのではなく(創世記4:10)、「アバ、父よ、彼らを赦してください」と叫びます。

そういうわけで、私たち皆は、恐れず、喜びをもって、大胆に神様に近づくことができます。(ヘブル10:19~22)

ヘブルの著者は、新しい契約と古い契約の違いをこのようにまとめました。

あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。

そのことばのとどろきを聞いた者たちは、それ以上一言も自分たちに語らないでくださいと懇願しました。

彼らは、「たとえ獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができませんでした。

また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。

しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。(ヘブル書12:18~24)

それは、なんと素晴らしいことでしょう。

このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。

感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。

私たちの神は焼き尽くす火なのです。(ヘブル12:28~29)

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出エジプト記のデボーション

私たち皆が必要とするもの

すると、モーセのしゅうとは言った。

「あなたがしていることは良くありません。あなたも、あなたとともにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。

このことは、あなたにとって荷が重すぎるからです。あなたはそれを一人ではできません。」(出エジプト記18:17ー18)

「あなたはそれを一人ではできません。」

アマレク人との戦いの直後、イテロがその言葉をモーセに言ったということは興味深いです。

その戦いで、イスラエル人のためにとりなしているとき、モーセは文字通り自分の手を上げ続けることができませんでした。そのため、勝利を収めるまで、アロンとフルはモーセを支えてくれました。(出エジプト記17:8~16)

そして、そのあと、イテロはモーセに「あなたは神様の仕事を一人ではできません」と言いました。

私たち皆はそれを心に留めておかなくてはなりません。私たちの牧師やクリスチャン・リーダーたちがスーパー・クリスチャンに見えるかもしれませんが、一人で神様の仕事をすることはできません。

もちろん、彼らには私たちの励ましと支援が必要です。でも、私たちも自分の役割を果たさなくてはなりません。神様は私たちそれぞれに、人々に仕えるための賜物を与えてくださいました。

ミニストリー、奉仕はリーダーだけの仕事ではありません。ミニストリーはすべてのクリスチャンの仕事なのです。(エペソ4:11~16)

でも、リーダーたちだけではなく、私たち皆には、支援や励ましが必要です。家族や回りの人々に対する私たちの奉仕が大変になる時もあります。

私たちの日常生活も、大変になるときがあります。だから、一人でこのクリスチャン生活を送ろうとしないようにしましょう。

そうすれば、私たちの重荷は軽くなり、私たちは立ち続けることができます。(出エジプト記18:22~23)

また、パウロの言葉を心に留めておきましょう。

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。(ガラテヤ6:2)

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出エジプト記のデボーション

神様に叫ぶ?それとも責める?

それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。

それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。(出エジプト記17:7)

イスラエル人たちは、どのようにその言葉を言っていたでしょうか。どんな態度を持っていたでしょうか。

彼らは苦しみの中で謙遜な態度をもって、こう言っていたでしょうか。

「神様、私たちはどうしてこんなに苦しんでいるのか理解できません。あなたは本当に私たちと共におられるのですか。私たちには水がありません。助けてくださらなければ、私たちは死んでしまいます。どうか助けてください。」

それとも、彼らは反抗的な態度をもって、こう言っていたでしょうか。

「神様、本当に私たちと共におられるのですか。おられないのですか。私たちを死なせるのですか。あなたはどのような神なのですか。あなたは本当に良い方なのですか。」

モーセの反応から察すると、イスラエル人たちは反抗的な態度をもって話していたようです。さらに、モーセは後にイスラエル人たちにそのような態度を取らないように警告しました。(申命記6:16)

試練にあうとき、自分の感情にもまれるのは簡単なことです。

もちろん、苦しみの時には、自分の疑い、痛み、恐れを表現してもいいです。詩篇では、ダビデはしばしばそうしました。

でも、私たちは反抗的な態度に注意するべきです。私たちは神様を裁く立場を取ってはいけません。神様は私たちよりもはるかに多くのことを知っておられるからです。

だから、苦しむ時、理解できない時、神様に対してへりくだる態度を持つべきです。

サタンは私たちに、神様が良い方であることを疑わせようとします。試練を通して、サタンは私たちの神様への信頼を壊そうとします。

その誘惑に負けてはいけません。むしろ、神様が良い方であり、私たちに忠実であり、私たちを愛してくださるという真理にしがみつきましょう。

そして、ぺテロの言葉を心に留めておきましょう。

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。

堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。(第一ぺテロ5:6~10)

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安息を拒むことなく

七日目になって、民の中のある者たちが集めに出て行った。しかし、何も見つからなかった。

主はモーセに言われた。

「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを拒み、守らないのか。心せよ。主があなたがたに安息を与えたのだ。(出エジプト記16:27~29)

「主があなたがたに安息を与えたのだ。」

その言葉に、私は心を打たれました。

神様はイスラエル人たちに安息を与えようとされました。その安息は、彼らへの賜物でした。でも、神様を信頼し、従うことを拒む限り、彼らはその安息を知ることができませんでした。

彼らが神様の愛といつくしみを、どれほど早く忘れてしまったか驚くばかりです。

彼らはこう歌ったばかりでした。

「主よ、神々のうちに、だれかあなたのような方がいるでしょうか。だれかあなたのように、聖であって輝き、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行う方がいるでしょうか……

あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われた」(出エジプト記15:11、13)

それなのに、彼らはすぐに「エジプトでの奴隷生活の方がましだった」と文句を言い始めました。

私はそのような人間になりたくありません。

日曜日に「偉大なる主を誉めよ」と歌いながら、その後の6日間、神様を信頼し、従うことを拒むような人間になりたくありません。

そうすれば、私は天の父を悲しませ、神様の安息と平安の賜物を逃してしまうからです。

天のお父さん、あなたの安息と平安を知りたいです。さらに、あなたは、私がその安息と平安を経験することを望んでおられます。

だから、私があなたを信頼し、従うことができるように助けてください。

あなたは良い方で、信頼でき、私を深く愛してくださいます。

私がその3つのことを決して忘れないようにしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちの前に進まれる方

主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。

昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。(出エジプト記13:21ー22)

天のお父さん、あなたは私の前に進まれる方です。昼も夜も、あなたは私の前から離れることはありません。

あなたの知恵によって、私を導いてください。私自身よりも、あなたは私のことを知っておられます。あなたは、私が耐えられることと、耐えられないことをよく知っておられるのです。(出エジプト記13:17~18)

私がヨセフのような信仰を持つことができるように。あなたが約束された通りに、必ずしてくださるという確信を持てますように。(出エジプト記13:19)

私がモーセのような信仰を持つことができるように。あなたがどこに行こうとも、私があなたの導きに従うように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちを区別するもの

その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。

わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。(出エジプト記12:13)

イスラエル人とエジプト人は、何が違ったのでしょうか。どうして神様の裁きはエジプト人に下ったのに、イスラエル人には下らなかったのでしょうか。

イスラエル人がエジプト人より道徳的に優れていたというわけではありません。

そうではなく、彼らのために流されたやぎや子羊の血のゆえに、イスラエル人は救われました。

イスラエル人と同じように、私たちも神様の裁きを受けるべき存在でした。

私たちは他の人々より道徳的に優れているわけではありません。

私たちを区別するのは、私たちがどれだけ良い人であるか、どれだけ忠実であるかではなく、むしろ、私たちのために十字架で流されたイエス様の血です。

その血によって、私たちは神様の裁きから救われました。

もしかしたら、ダビデはイスラエル人たちがヒソプの束を使って、血を鴨居と二本の門柱に塗り付ける場面を思い浮かべて、この言葉を歌ったのかもしれません。

ヒソプで私の罪を除いてください。
そうすれば私はきよくなります。

私を洗ってください。
そうすれば 私は雪よりも白くなります。(詩篇51:7)

神様はイスラエル人たちに、神様がその日に彼らのためにしてくださったことを思い出すように命じられました(24~27節)。

私たちも、イエス様が十字架で私たちのためにしてくださったことを思い出し、イスラエル人のようにひざまずいて礼拝しましょう。

It’s your blood that cleanses me.
あなたの血は私を清め、
It’s your blood that gives me life.
あなたの血は私にいのちを与え、

It’s your blood that took my place
あなたの血は私の代わりに流され、
in redeeming sacrifice.
私をあがなってくださいました。

And washes me whiter than the snow.
その血は私を雪よりも白くしてくださいます。
My Jesus, God’s precious sacrifice.
私のイエス、神様の尊いいけにえです。ーーマイケル・キリスト

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出エジプト記のデボーション

頑固な心

いつまで、わたしの前に身を低くするのを拒むのか。(出エジプト記10:3)

ファラオの頑固さを批判するのは簡単なことです。

でも、私たちはどれほど頑固な心を保っているでしょうか。

自分が間違っているとよく知っているのに、私たちは身を低くすることを拒みます。

私も、時には頑固です。

神様は、私の頑固な心にどれほど驚かれるでしょうか。神様は、私にこう言われるでしょうか。

「いつまで、わたしの前に身を低くすることを拒むのか。」

アバ、お父さん、私が柔らかく、へりくだる心を保つことができるように助けてください。

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出エジプト記のデボーション

この世が知るように

あなたはわたしの命じることを、ことごとく告げなければならない。あなたの兄アロンはファラオに、イスラエルの子らをその地から去らせるようにと告げなければならない。。。

わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエルの子らを彼らのただ中から導き出すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。(出エジプト記7:2,5)

モーセとアロンは、ファラオとエジプト人全員が神様が主であることを知るように、神様の言葉を告げなければなりませんでした。

同じように、私たちの周りの人々が神様が主であることを知るために、私たちも神様の言葉を告げなければなりません。

しかし、モーセとアロンの言葉がほとんど裁きの言葉であったのに対し、私たちの言葉は和解の言葉なのです。

パウロはこう言いました。

これらのことはすべて、神から出ています。

神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。

すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。

こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。

私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。

神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。(第二コリント5:18ー21)

だからこそ、周りの人々が神様が主であることを知り、神様と和解することができるように、神様の言葉を告げましょう。

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出エジプト記のデボーション

私は何者でしょうか

神はモーセに語り、彼に仰せられた。

「わたしは主(原語:ヤハウェ)である。

わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神(原語:エル・シャダイ)として現れたが、主(原語:ヤハウェ)という名では、彼らにわたしを知らせなかった。(出エジプト記6:3)

天のお父さん、あなたはエル・シャダイ、全能の神です。あなたはヤハウェです。

あなたはアブラハム、イサク、ヤコブとともにおられた神様です。

あなたはモーセとともにおられた神様です。

そして、あなたは私とともにおられる神様です。

私は何者でしょうか。

どうして、あなたは私を愛し、心に留めてくださるのでしょうか。

どうして、私のうめきを耳に留めてくださるのでしょうか。

どうして、私を救い、購ってくださるのでしょうか。

どうして、私をご自分のものとしてくださるのでしょうか。

どうして、私を御国に導いてくださるのでしょうか。

どうして、私の神となり、あなた自身を私に現してくださるのでしょうか。

イエス様において、あなたはアブラハム、イサク、ヤコブ、モーセでさえ知らなかった方法で、私にご自身を現してくださいました。

だからこそ、苦しむときにも、私はあなた信頼することを選びます。

アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてモーセの時代に、あなたは忠実でおられました。今もあなたは忠実であり、そして永遠に、あなたは忠実な神様なのです。

アバ、あなたを愛しています。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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出エジプト記のデボーション

 天のお父さん、私はあなたを本当に信じるでしょうか?

モーセは最初から、イスラエル人たちに神様の言葉のすべてを伝えたでしょうか。つまり、ファラオの心が頑なになることまで伝えたでしょうか。

それとも、モーセはただ「神様はあなたを救い出すと約束された」とだけ伝えたのでしょうか。

モーセ自身は、神様の警告を真剣に受け止めていたでしょうか。

ファラオが神様の言葉を拒絶し、イスラエル人たちがモーセに怒ったとき、モーセの心はその現実に備えられていなかったように見えます。

では、私たちはどうでしょうか。神様を信じるでしょうか。

イエス様が「世にあっては苦難があります」と警告されたとき、私たちはその言葉を信じるでしょうか。(ヨハネ16:33)

パウロが「終わりの日には困難な時代が来る」と警告したとき、その言葉を本当に信じるでしょうか。(第二テモテ3:1~5)

ペテロが同じことを語ったとき、私たちはその言葉を信じるでしょうか。(第一ペテロ4:12)

そして、私たちが実際に試練に直面したとき、神様が良い方であること、イエス様がすでに世に勝利されたこと、神様がご自分の約束を守られること、そして最終的に私たちを救ってくださることを、信じ続けることができるでしょうか。

私が自問しているのは、そして私たち皆が自ら問うべき問いは、「神様、私はあなたを本当に信じているのでしょうか」ということです。

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出エジプト記のデボーション

神様の忍耐と怒り

私たちの神様は忍耐強い方です。それは確かです。

でも、結局のところ、神様は一つのことに耐えられません。それは、意図的な不従順です。

今日の箇所では、私たちはその真理を二度見ることができます。

神様がモーセにファラオのもとへ行くよう命じられたとき、モーセはいろいろな言い訳をしました。

でも、それらはただの言い訳でした。

神様がその言い訳に応えられた後、最終的にモーセは「私は行きたくない。他の人を遣わしてください」と言いました。

それを聞いて、神様は怒られました。

神様の恵みによって、ある程度までモーセの弱さは赦され、アロンがモーセに代わって民に語ることが許されました。

それでも、神様はモーセがその務めを怠ることを許されませんでした。

そのあと、不思議な出来事がありました。それは、神様がモーセを殺そうとされたということです。

なぜでしょうか。どうやら、神様はモーセに息子の割礼を命じておられたようです。

神様は、アブラハムとその子孫すべてに割礼を命じられました。(創世記17:9~14)

イスラエルのリーダーとして、モーセは良い模範を示すべきでした。

でもなぜか、モーセは息子に割礼を施していなかったようです。

もしかしたら、モーセの妻が息子の割礼。に反対していたのかもしれません。息子に割礼を施したとき、彼女は本当に怒ったようです。

私はもう一度言います。神様は恵み深く、忍耐強い方です。

でも、神様の恵みと忍耐を、罪に対する無関心と勘違いしてはいけません。

神様は、意図的な不従順を軽んじることはありません。

だから、私たちも不従順を軽んじてはいけません。

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出エジプト記のデボーション

天の父のみ心を持つ

こうして日がたち、モーセは大人になった。彼は同胞たちのところへ出て行き、その苦役を見た。

そして、自分の同胞であるヘブル人の一人を、一人のエジプト人が打っているのを見た。。。

それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。

重い労働による彼らの叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。」(出エジプト記2:11、23ー25)

モーセは不完全な人でした。それでも、神様はモーセをご覧になったとき、ご自分と同じような心を持った人をご覧になりました。

モーセは、周りの人々のうめきや苦しみをただ見ていたのではなく、その人を助けたいと思いました。

だから、自分の民の苦しみを見たとき、モーセはただ黙って見ていることができませんでした。

もちろん、モーセのやり方は間違っていましたが、自分の兄弟たちを助けたいと思ったその心は、間違っていませんでした。

そのあと、いじめられていた女性の羊飼いたちを見たとき、先の失敗にも関わらず、モーセはただ黙って見ていることができませんでした。

そのように、神様もご自分の民の苦しみを見たとき、ただ黙って見ておられることはできませんでした。神様は彼らをあわれみ、助けたいと思われました。

だから、神様はご自分と同じような心を持った人を選び、遣わされました。

今なお、神様はそのような人を選び、遣わされます。

私はそのような人になりたいです。あなたはどうですか。

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出エジプト記のデボーション

覚えられ、誉められた

興味深いことですが、エジプトの王の名前は記録されていないのに、「取るに足りない二人の助産婦」の名前は記録されています。

シフラとプアは、神様に忠実に仕えたので、神様はその二人を祝福してくださいました。そして、今日に至るまで、彼女たちの名前は聖書の中で記念されています。

その反面、エジプトの王は、神様に記憶されることも、誉められることもありません。

神の国では、自分は取るに足りない者だと思うかもしれません。

でも、神様に忠実に仕えるなら、シフラとプアのように、あなたは神様に覚えられ、誉められます。

私はシフラとプアの話を読んで、預言者マラキの言葉を連想しました。

そのとき、 主を恐れる者たちが互いに語り合った。

主は耳を傾けて、これを聞かれた。

主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、 主の前で記憶の書が記された。

「彼らは、わたしのものとなる。 ──万軍の主は言われる──

わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。」(マラキ書3:16ー17)

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マタイの福音書のデボーション

不安な時

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。

「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28:18~20)

正直に言うと、今日、私は世界で起こっていることを考えると、心配に陥らないようにするのは難しかったのです。

でも、今日、イエス様は私に思い出させてくださいました。

「すべての権威がアバから私に与えられています。私は今もすべてを治めており、永遠にわたって治めるのです。

もちろん、この世はだんだん崩壊しており、やがては消え去ります。でも、私は再びこの世に来て、すべてを新しくします(第二ペテロ3:10~13)。

だから、その日が来るまで、心配してはなりません。私はあなたと共にいるから。」

この先、この世がどんなに狂っても、私たちの希望は変わりません。だから、将来に関する恐れや心配を捨て、神様が与えてくださった働きを忠実に果たしましょう。神の国のために、弟子を育てましょう。

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マタイの福音書のデボーション

これはわたしの血

また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。

「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。(マタイの福音書26:27~28)

イエス様の復活の後、聖餐式を受けるたびに、ペテロはイエス様の言葉の意味をどれほど深く感じたでしょうか。

彼は、イエス様を決して見捨てず、イエス様に忠実であることを誓いました。

でも、そのあと、イエス様がペテロに「わたしと一緒に目を覚まして、祈りなさい」と頼まれたのに、ペテロは寝てしまいました。

イエス様がペテロを起こされたとき、たぶんペテロは自分を責めて、ちゃんと目を覚まし、祈ろうと誓ったでしょう。

でも、ペテロは一回だけではなく、もう二回寝てしまいました。

そして、ユダがイエス様を裏切るために来たとき、ペテロは大祭司のしもべを襲いましたが、イエス様はペテロを誉めるのではなく、叱責されました。

さらにその後、ペテロは「イエスを知らない」と三度言いました。たぶん、鶏が鳴くまで、ペテロは自分が何をしているのか全然気づかなかったでしょう。でも、気づいた瞬間、彼は激しく泣きました。

聖餐式を受けるたびに、イエス様の言葉はペテロにとって、どれほどの意味があったのでしょうか。自分の罪と失敗を思い出すたびに、イエス様の言葉はペテロにとって、どれほどの意味があったでしょうか。

「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。ペテロ。これはあなたのために、あなたの罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」

私は、イエス様を裏切ったことが数え切れないほどあります。

私の誓いを破ったことがあります。良かれと思ってしたことが、悪い結果になってしまったことがあります。

私の言葉でイエス様を否定しなかったかもしれませんが、私の行動でイエス様を否定してしまったことがあります。

でも、イエス様は私に言われます。

「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。ブルース。これはあなたのために、あなたの罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」

だから、聖餐式を受けるときは、その言葉を心に留めましょう。罪や失敗を思い出して、罪悪感に沈みそうになるときも、その言葉を思い起こしましょう。そして、神様の恵みに安心しましょう。

これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。これはあなたのために、あなたの罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。

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マタイの福音書のデボーション

私のことを考えるとき、人々は何を思い出すのだろうか

マタイの福音書26:6-16では、クリスチャンたちがよく覚えている二人の人物が登場します。

もちろん、私たちはベタニヤのマリアを覚えています。なぜなら、彼女は本当にイエス様を愛していたからです。

イエス様は、彼女についてこう言われました。

まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。(マタイの福音書26:13)

でも14節では、私たちはもう一人の人物を見ます。私たちはイスカリオテ・ユダもよく覚えています。なぜでしょうか。なぜなら、彼はイエス様を裏切ったからです。

私たちが亡くなった後、人々は私たちについて何を思い出すでしょうか。彼らは私たちのことを何と言うでしょうか。彼らは、イエス様に対する私たちの愛を思い出すのでしょうか。

良い知らせは、たとえ私たちが大失敗しても、評価が変わる可能性があるということです。

ペテロは「イエス様を知らない」と三回言いました。もちろん、私たちはペテロの失敗をよく覚えています。でも、私たちはペテロの人生に注がれたイエス様の恵みも覚えているでしょう。

私のことを思い出すとき、人々がその二つのことを思い出してほしいです。つまり、イエス様に対する私の愛と、私の人生に注がれたイエス様の素晴らしい恵みを思い出してほしいのです。

How will they remember me? 
人々は、私について何を思い出すのだろうか。

I hope when they remember they see you.
人々が私のことを思い出すとき、私の中にイエス様を見てもらえるように祈ります。–キム・ボイス

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マタイの福音書のデボーション

産みの苦しみ

また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。

民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。

しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。(マタイの福音書24:6~8)

イエス様の言葉を読んだとき、私はパウロの言葉を連想しました。

私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。

それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。(ローマ8:22~23)

この世の問題や自分の問題を見るとき、私たちが心の中でうめくことは自然なことです。

でも、私たちは希望を持っています。

被造物のうめきと私たちのうめきは、絶望のうめき、死のうめきではありません。

私たちのうめきは、産みの苦しみのうめき、つまり、命の希望のうめきなのです。

イエス様は、この世にもう一度来られます。そのとき、イエス様は、すべての悪を裁かれます。

そして、イエス様は、ご自分の民を救い、すべてを新しくしてくださいます。(マタイの福音書24:30~31)

それが、私たちの希望です。そして、その希望は確かなものです。なぜなら、イエス様の言葉は確かだからです。

イエス様は言われました。

天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。(マタイの福音書24:35)

だから、この世の問題を見るとき、自分の問題を見るとき、絶望に屈してはいけません。

また、自分の愛が冷えないように、注意しなくてはなりません。

むしろ、神様が私たちに与えてくださった役割を、忠実に果たしましょう。

そして、イエス様を待ち望んでいる間、私たちが一人ぼっちではないことを、覚えていましょう。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。

私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:26~28)

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どんな弟子を育てているのか

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。

おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。

そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ。(マタイの福音書23:15)

弟子作りに関して言えば、パリサイ人と律法学者が悪い手本であることは言うまでもないと思います。

でも、イエス様の言葉を読んだとき、私は考えました。

「神様は娘と他の人々を私に委ねてくださったけど、私はどんな弟子を作っているのだろうか。」

私は、重くて負いきれない荷を束ねて彼らの肩に載せて、ただ「頑張れ」と言ったことがあるでしょうか。

それとも、彼らは正義と誠実だけではなく、あわれみも知っているでしょうか。(マタイの福音書23:23)

彼らは、私の中にそのあわれみを見ているでしょうか。また、彼らへの神のあわれみを知っているでしょうか。

彼らは、そのあわれみを知って、安心しているでしょうか。そのあわれみを喜んでいるでしょうか。

そして、彼らは回りの人々にあわれみを与えているでしょうか。

それとも、彼らは常に自分に厳しすぎ、回りの人々に厳しすぎるのでしょうか。

天のお父さん、私の娘や妻、そして私の回りの人々が私を見るとき、私は彼らに正義の人、誠実な人を見てもらいたいです。

でも、それ以上に、あわれみ深い人を見てもらいたいです。彼らには、あなたのあわれみの中を歩み、回りの人々をあわれむ人を見てもらいたいです。

私が、あなたのあわれみの中を歩む弟子、回りの人々をあわれむ弟子を育てる者となるように、私を助けてください。

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何を求めているのですか

「何を求めているのですか。」

マタイの福音書20章では、その同じ本質的な質問が三回出てきます。

契約交渉のとき、主人は労働者たちにそう尋ねました。(マタイ20:2)

イエス様は、ヤコブ、ヨハネ、そしてそのお母さんにそう尋ねられました。(マタイ20:20ー21)

そして、イエス様は二人の盲人たちにもそう尋ねられました。(マタイ20:31ー33)

最初の二つの場合、彼らは「当然の報い」を求めました。

労働者たちは、1日の労働に対して1デナリを求めました。

ヤコブ、ヨハネ、そしてそのお母さんは、権力の座を求めました。

けれども、盲人たちは「当然の報い」を求めるのではなく、あわれみと恵みを求めました。

たぶん、イエス様が願いを断られたとき、ヤコブとヨハネはがっかりしたでしょう。

(でも、イエス様が十字架につけられたとき、ヤコブとヨハネはイエスの右と左で十字架につけられなかったことに失望しなかったでしょう。彼らは、何を求めているのか本当に分かっていませんでした。)

皮肉なことに、労働者たちは、求めた通りのものを受けたのに、かえって苦々しく思うようになりました。

その一方、盲人たちは、神の恵みとあわれみの喜びを知るようになりました。

神の御国とは、「当然の報い」ではなく、神の恵みとあわれみのことなのです。

「当然の報い」を求めると、あなたは失望したり、怒ったり、苦々しくなったりしてしまいます。

しかし、神様のあわれみと恵みを求めれば、神様がどんなに良い方であるのかを知るようになります。

なぜなら、神様は、いつも恵みとあわれみを豊かに与えてくださるからです。

あなたは、何を求めているのでしょうか。

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賜物を受ける心、大変さを恐れる心

イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から「男と女に彼らを創造され」ました。

そして、「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」と言われました。

ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。

そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」。。。

弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。」(マタイの福音書19:4ー6,10)

我々クリスチャンたちの考え方は、ときどき驚くべきものです。

神様は、私たちに良い賜物を与えたいと願っておられます。でも、私たちは「しなければならない」ということに拘ってしまいます。

神様は、結婚を私たちに賜物と祝福として与えてくださいます。けれども、弟子たちはその賜物を喜ばず、「えっ?妻とずっといなければならないのか」と考えてしまいました。

そのあと、イエス様は青年に、ご自分の弟子になる機会を与えてくださいました。真のいのちを知る機会を与えてくださいました。

しかし、その青年は、「えっ?私のものをすべて貧しい者に与えなくてはならないのか」と思っただけでした。(マタイの福音書19:21ー22)

どうして私たちは、すぐにそのようなことを考えてしまうのでしょうか。

神様は、私たちにこう語っておられます。「私があなたにどれだけ喜びを与えたいのか、知らないの?その賜物がどれほど良いものか、分からないの?」

天のお父さん、あなたは良い神です。私の堅くて愚かな心を赦してください。

「しなければならない」という考え方を捨てるように、私を助けてください。あなたが私に与えてくださる良い賜物を、喜んで抱く心を持ちたいです。

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許せないのか?許したくないのか?

彼の仲間はひれ伏して、「もう少し待ってください。そうすればお返しします」と嘆願した。

しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。(マタイの福音書18:29ー30)

「しかし、承知しませんでした。」

直訳すると、「彼はそうしたくなかった。」

彼は何をしたくなかったのでしょうか。

彼は、借金の返済を待ちたくなかったのです。

もちろん、彼は、絶対にその借金を許したくなかったのです。

原語では、しもべの仲間は何度もあわれみを願いましたが、しもべは何度も「嫌だ」と言いました。

「私は待ちたくない。我慢したくない。許したくない。」

あなたは、そのような態度を取っているでしょうか。

多くの人々は「許せない」と言います。

でも、「許せない」とは、「許すことができない」という意味でしょうか。それとも、「相手を赦したくない」という意味でしょうか。

神の子どもたちは、そのような態度を取ってはいけません。なぜなら、神様は私たちをたくさん赦してくださったからです。

「許せない、許したくない」という態度は、罪です。

もちろん、許すのが難しいときもあります。許すのが非常に難しいときもあります。神様はそれを理解しておられます。

しかし、頑なに「私は許したくない」と主張する態度と、へりくだってイエス様のもとに来て、「私は許したいけれど、私の傷は深いです。どうやって許すことができるのか、よく分かりません。助けてください」と願う態度は、まったく異なります。

ペテロはこう言います。

みな互いに謙遜を身に着けなさい。

「神は高ぶる者には敵対し、 へりくだった者には恵みを与えられる」 のです。

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(第一ぺテロ5:5~7)

プライドは、自分の傷を手放すことを拒みます。「私は傷ついた。私はもっと優しく扱われるべきだ。あいつは罰せられるべきだ。」

けれども、謙遜な人は、自分が人を傷つけることがあると認めます。

謙遜な人は、自分が神様に対して罪を犯したことがあると認めます。

謙遜な人は、周囲の人々のあわれみ、そして神様のあわれみをどれほど必要としているかを認めます。

だから、謙遜な人は自分の傷を手放し、相手を許すことを選びます。

とはいえ、以前にも言ったように、人を許すのが難しいときもあります。傷が深ければ深いほど、相手を許すのは難しくなります。

しかし、ペテロは、神様が私たちのことを心配してくださることを思い出させてくれます。神様は、私たちの傷を癒したいと願っておられます。

そして神様は、私たちの傷が癒されるためには、まず私たちが相手を許さなくてはならないことをご存じです。

もしあなたがへりくだって、「どうやって相手を許すことができるのか分かりません。でも、許そうとします。助けてください」と祈るなら、神様は喜んで助けてくださいます。

あなたはどうでしょうか。神様は、今あなたに誰かについて語っておられるでしょうか。

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不思議なこと

それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。

そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。(マタイの福音書17:1ー3)

イエス様、あなたは他の人々を残し、ペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、その山に登られました。どうしてでしょうか。彼らにご自分を、より完全に現すためです。

あなたは、私にもご自分を現したいと願っておられるのでしょうか。

それは、本当に不思議なことです。

だから、弟子たちのように、私は喜んであなたと時間を過ごします。

エリヤのように、私はあなたのもとに行き、あなたの御顔を求めます。(列王記第一19:8ー9、11)

モーセのように、私は願います。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」(出エジプト記33:18)

イエス様、私に、より完全にご自分を現してください。私は、あなたをもっと知りたいのです。

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イエス様について行っているだけなの?それとも、イエス様に従っているの?

それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(マタイの福音書16:24)

「イエス様について行く。」

「イエス様に従う。」

原語では、この二つの表現は弟子になることを表すために使われています。

「ついて行く」と訳される言葉は、直訳すると物理的に人の後ろを歩くことを意味します。

一方、「従う」と訳される言葉も「ついて行く」という意味を含みますが、多くの場合、「イエス様に従う」は、「イエス様から学び、イエス様の御声に応え、イエス様の導きに従う」というニュアンスを持っています。(マタイ4:20、ヨハネ10:4、27)

多くの人々がイエス様について行きました。癒しを求める人もいれば、イエス様の新しい教えに興味を持つ人もいました。

しかし、イエス様に本当に従っていた人は少数でした。

イエス様の弟子たちでさえ、従う姿勢を取らなかった時もありました。

イエス様が神様の計画を果たすために何をしなければならないかを説明されたとき、ペテロはその計画に従おうとはせず、むしろイエス様を別の道へ導こうとしました。その結果、ペテロはイエス様につまずきを与える者となってしまいました。

だから今日、私はこう考えました。

「私は本当にイエス様に従っているだろうか。それとも、イエス様を私の行きたい道に引っ張ろうとしているのだろうか。」

「私はイエス様の計画に従っているでしょうか。それとも、イエス様を操って、私の計画に従わせようとしているのだろうか。」

あなたはどうでしょうか。あなたは、ただイエス様について行っているだけでしょうか。

教会に行ったり、聖書を読んだり、祈ったりしているかもしれません。でも実際には、イエス様を操って、自分の計画に従わせようとしているのではないでしょうか。

それとも、あなたは本当にイエス様に従っているでしょうか。毎日毎日、一瞬一瞬、イエス様から学び、御声に応え、イエス様の導きに従っているでしょうか。

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誰を喜ばせようとしているのか

そのとき、弟子たちが近寄って来てイエスに言った。「パリサイ人たちがおことばを聞いて腹を立てたのをご存じですか。」

イエスは答えられた。「わたしの天の父が植えなかった木は、すべて根こそぎにされます。

彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」(マタイの福音書15:12ー14)

パリサイ人たちがイエス様の言葉に腹を立てたとき、イエス様の弟子たちはそのことを気にしているようでした。しかし、イエス様はまったく気にしていないようでした。

実際のところ、私たちはすべての人々を喜ばせることはできません。

英語のことわざに、”If you try to please everyone, you’ll end up pleasing no one.” というものがあります。

つまり、「すべての人を喜ばせようとすれば、結局は誰も喜ばせることができない」ということです。

とくに、私たちは神様を喜ばせることができないままでいることもあります。

だからこそ、自問自答しなくてはならないのは、「私は誰を喜ばせようとしているのだろうか」ということです。

もちろん、私たちはわざと人を怒らせようとしてはいけません。けれども、人を怒らせることを避けることができない場面もあります。

私たちの言動が人の考え方に反すると、彼らは怒ってしまうことがあります。

けれども、盲人に従えば、私たちも穴に落ちてしまいます。

私はそうしたくありません。

何よりもまず、私が望むのは、アバが私に「よくやった」と言ってくださることです。

あなたはどうでしょうか。

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イエス様に伝えなかればならない

なぜか、12節のことばが私の心を打ちました。

それから、ヨハネの弟子たちがやって来て遺体を引き取り、葬った。そして、イエスのところに行って報告した。(マタイの福音書14:12)

ヨハネを葬ったあと、その弟子たちが最初に考えたのは、「イエス様に伝えなければならない」ということでした。

なぜでしょうか。

もしかすると、彼らはイエス様にヘロデについて警告したかったのかもしれません。(ルカ9:9)

でも、もう一つの理由は、彼らがイエス様がヨハネを本当に愛しておられることを知っていたからではないでしょうか。

しかし、彼らはイエス様が自分たちを愛してくださっていることを知っていたでしょうか。

「イエス様はすべての人々を愛してくださっている」ではなく、「イエス様は私自身を愛し、私の悲しみをよく知っておられる」ということを、彼らは知っていたでしょうか。

あなたはどうでしょうか。イエス様があなたを愛してくださっていることを、あなたは知っているでしょうか。

「イエス様がすべての人々を愛してくださっている」ではなく、「イエス様は私自身を本当に愛してくださっている」ということを、あなたは知っているでしょうか。

試練と苦しみを経験するとき、あなたが最初に考えるのは、「私はイエス様に伝えなければならない」ということでしょうか。

I must tell Jesus all of my trials;
イエス様に、私のすべての試練を伝えなければなりません。I cannot bear these burdens alone;
私は、一人でその重荷を背負うことができません

In my distress He kindly will help me;
私の苦しみの中で、イエス様は優しく助けてくださいます。
He ever loves and cares for His own.
イエス様は、いつもご自分のものを愛し、心にかけてくださいます。

I must tell Jesus! I must tell Jesus!
私はイエス様に伝えなければならない。私はイエス様に伝えなければならない。
I cannot bear my burdens alone;
私は、一人でその重荷を背負うことができません。

I must tell Jesus! I must tell Jesus!
私はイエス様に伝えなければならない。私はイエス様に伝えなければならない。
Jesus can help me, Jesus alone.
私を助けることができるのは、イエス様ただお一人です。ーーエリシャ・ホフマン

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神様の真理に目と耳を閉じること

正直に言うと、神様の真理を聞くのが辛い時もあります。なぜなら、その言葉が私たちの心に深く染みることがあるからです。でも、そのような時、私たちはどうするでしょうか。

イエス様が言われたように、ある人たちは真理に目と耳を閉じてしまいます。

その結果はどうなるでしょうか。彼らの心は鈍くなり、神様の御声が聞こえなくなってしまいます。

それが、真理を無視することの危険性です。真理を無視すれば、あなたの心は鈍くなってしまいます。

あなたはどうでしょうか。最近、神様のみ言葉を聞いたとき、「ちょっと痛いな」と感じたことがあったでしょうか。その時、あなたはどうしましたか。

「主よ。あなたの恵みと力によって、私は従います。でも、どうか私を助けてください」と答えたでしょうか。

もしかすると、あなたは自分の目と耳を神様の真理に閉じてしまったかもしれません。

神様は、あなたの壊れた人生を癒したいと願っておられます。しかし、もしあなたが耳と目を神様のみ言葉に閉ざしてしまうなら、その癒しを知ることはできません。

あなたは、どうするでしょうか。

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安らぎのある人生

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイの福音書11:28-30)

イエス様の言葉の中でも、それは最も有名なものの一つです。

しかし、イエス様のやり方は、律法の専門家たちのやり方とはまったく異なっていました。イエス様は彼らについて、こう言われました。

おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない。(ルカ11:46)

クリスチャンとして、私たちが自問自答しなくてはならないのは、「クリスチャンとしての生活を送る中で、私は疲れ果てているだろうか。重荷を負っているように感じているだろうか」ということです。

多くの場合、満たされない期待の重荷を負っているために、私たちは疲れ果ててしまいます。

私たちは、周囲の人々の期待に応えられないという重みを感じています。私たちは、自分自身の期待に応えられないという重みを感じています。さらに、神様の期待に応えられないという重みも感じています。

そうした期待を思い巡らす中で、私たちは「あなたはやっぱりダメだ」という声を聞いてしまいます。

私たちは、周囲の人々からそのようなメッセージを受け取ります。私たちは、自分自身に関してそう思ってしまいます。さらに、私たちは神様がそう言われているのではないかと感じ始めます。

しかし、それは安らぎのある人生ではありません。だからこそ、イエス様は私たちにこう語られます。

「私のもとに来なさい。私から逃げないでください。私のもとに来なさい。

私はあなたの失敗や罪を責めているのではありません。私は、あなたの失敗と罪のために死にました。天のお父さんは、あなたをご自分の子として受け入れてくださいます。

だから、天のお父さんにあなたの価値を証明する必要はありません。

私の恵みの中で休んでください。私の愛の中で休んでください。」

また、イエス様はこう言われます。

「わたしのくびきを負いなさい。他の人の期待のくびきを負ってはいけません。そのくびきは重く、多くの場合、あなたには負いきれません。相手にとって、あなたはどんなに頑張っても、ダメな人に見えるかもしれません。

だから、わたしのくびきを負いなさい。それは裁きのくびきではなく、恵み深いくびきです。

さらに、あなたは一人でそのくびきを負う必要はありません。わたしはあなたと共にそのくびきを負っています。だから、あなたがつまずいても、そのくびきはあなたを潰しません。」

そして、イエス様はこう言われます。

「わたしから学びなさい。あなたは、学びの遅い人かもしれません。でも、わたしは優しく、忍耐強い者です。わたしはあなたのことを決してあきらめません。

わたしの考え方を学びなさい。わたしの生き方を学びなさい。

そして、いつも次のステップを考えて、進みなさい。わたしは急いでいるわけではありません。他のクリスチャンがもっと早く進んでいても、気にしなくていいのです。

わたしたちには、たくさんの時間があります。わたしたちには、永遠があります。」

それこそが、安らぎのある人生です。

あなたはどうでしょうか。

クリスチャンとしての人生を歩む中で、疲れ果てて、重荷を負っていると感じているでしょうか。

それとも、安らぎのある人生を歩んでいるでしょうか。