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詩篇のデボーション

神の恩寵

まことに、御怒りは束の間、
いのちは恩寵のうちにある。(詩篇30:5)

今朝、その言葉が私の心に深く響きました。

神様が恩寵を与えてくださるとき、私たちはいのちを得ます。

そして2000年前、ベツレヘムで、神様は恵みの手を伸ばしてくださいました。

ヨハネはこのように記しています。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのち得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(第一ヨハネ4:9ー10)

神様の愛と恵みによって、私たちは神の御心にかなう者とされます。

それは本当に驚くべきことです。

だから、み使いたちと共に歌いましょう。

いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が
みこころにかなう人々にあるように。(ルカ2:14)

メリークリスマス!

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聞かれた

ほむべきかな【主】。
主は私の願いの声を聞かれた。(詩篇28:6)

クリスマスの季節なので、先週の土曜日にルカの福音書にあるゼカリヤの物語を読んでいました。

そしてダビデの言葉を読んだとき、ゼカリヤに語られたガブリエルの言葉を思い出しました

恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。(ルカの福音書1:13)

正直に言うと、神様が私の祈りに聞き届けてくださらないように見えるとき、失望するのは容易なことです。

けれども、神様が思い起こさせてくださいました。

「わたしはあなたの祈りを聞いています。たとえ『ノー』と答える時でも、あなたの願いを確かに聞いています。あなたを無視しているのではありません。あなたを愛しているのです。」

だから、私はダビデと共に歌います。

【主】は私の力、私の盾。
私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。

私の心は喜び躍り
私は歌をもって主に感謝しよう。(詩篇26:7)

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私が信じていなかったなら──

もしも私が
生ける者の地で【主】のいつくしみを見ると
信じていなかったなら──。(詩篇27:13)

私が多くのことをコントロールできないこの乱れた世の中で、 もし神様が良い方であり、私を深く愛しておられると信じていなかったら、どうなるでしょうか。

私は失望してしまうでしょう。

私は苦々しい心を抱くでしょう。

私はいつも怒っているでしょう。

私は恐れているでしょう。

イエス様を信頼し、従い続けることは難しくなるでしょう。

しかし、私は信じます。

だからこそ、自分の心を導き、ダビデと共に歌うことを選びます。

待ち望め【主】を。
雄々しくあれ。心を強くせよ。
待ち望め【主】を。(詩篇27:14)

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私たちの動機

あなたの恵みは私の目の前にあり
あなたの真理のうちを私は歩み続けました。(詩篇26:3)

今日、いくつかの英訳を読み比べました。最も大きな違いは、「真理」と訳されている語が「忠実」とも訳せるという点です。

そのため、ある英訳では次のように訳されています。

あなたの誠実な愛は私の目にあり、
あなたの忠実さによって、私は歩み続けます。

別の訳では、こう表現されています。

あなたの誠実な愛を心に留め、
あなたの忠実さに頼って歩みます。

しかし、この意訳が私の心に特に響きました。

あなたの誠実さを心に留め、
あなたの忠実さは私の心を動かします。

神様の目が私たちの心を探っておられることは、少し恐ろしく感じられるかもしれません。時には、私たちを精錬する過程は痛みを伴います。

けれども、私の動機は恐れではなく、神の誠実な愛と忠実さです。

だから、私は毎日、喜んで自分の心を神様にさらけ出すことを選びます。

あなたはどうでしょうか。

あなたは神の誠実な愛と忠実さを知っていますか。

あなたの動機は何でしょうか。

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詩篇のデボーション

主は恵みとまことに満ちておられるから

【主】よあなたの道を私に知らせ
あなたの進む道を私に教えてください。

あなたの真理に私を導き教えてください。
あなたこそ私の救いの神
私はあなたを一日中待ち望みます。(詩篇25:4~5)

この詩篇を読むたびに、上の言葉はいつも私の心に響きます。

私はダビデのような心を持ちたいのです。

神様に教えられたい心。

神様を信頼する心。

しかし今日、なぜダビデがそのように願ったのか、わかってきました。

【主】の道はみな恵みとまことです。(詩篇25:10)

ダビデは心からそう信じ、自分の主のようになりたいと願ったのです。

私も、イエス様のようになりたいのです。

ことば(つまり、神)は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。。。

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。

律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(ヨハネ1:14、16~17)

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あなたがあインマンヌエルであるゆえに

たとえ死の陰の谷を歩むとしても
私はわざわいを恐れません。
あなたがともにおられますから。(詩篇23:4)

イエス様、これは本当に乱れた世の中です。

けれども、あなたがインマヌエルであるゆえに、この世の民が恐れることを、私は恐れません。(イザヤ書8:12)

この世の民が心配することを、私は心配しません。(マタイ6:25~34)

この世の民は怒りに駆られるかもしれませんが、私はそうしません。(ヤコブ1:19~20)

むしろ、私の良い羊飼いよ、あなたを信頼し、待ち望むことを選びます。(イザヤ書8:17)

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詩篇のデボーション

何を求めているでしょうか

ある者は戦車を、ある者は馬を求める。
しかし私たちは
私たちの神【主】の御名を呼び求める。(詩篇20:7)

その言葉は私の心に響きました。

私は何を求めているでしょうか。特に安心感を得るために、何を追い求めているでしょうか。

ダビデの時代、王たちは軍隊の戦車や馬によって安心感を持っていました。

私たちの多くにとって、お金はその安心感を与えます。

しかし、ダビデにとって、その安心感は神様から与えられたのです。だからこそ、彼は毎日神様を追い求めました。

私はそのような心を持ちたいと願っています。神様を追い求める心を願っているのです。

あなたはどうですか。何を求めているでしょうか。

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詩篇のデボーション

神様がだれであるからこそ

私の口のことばと私の心の思いとが
御前に受け入れられますように。
【主】よわが岩わが贖い主よ。(詩篇19:14)

その言葉は、私にとって馴染み深いものです。私は何度もその言葉を読み、歌ってきました。 けれども今日、その最初の一部を思い巡らしました。

私にとって、神様はだれでしょうか。

神様は「ヤハウェ」です。つまり、神様は永遠の方です。 ただひとりの神であり、他の神々に勝る偉大な方、創造のすべての主です。

それでも、神様は私から遠く離れている方ではありません。 神様はインマヌエルであり、私たちとともにおられる神です。 私の岩。私の基盤。嵐の中の私の砦です。

さらに、神様は私のあがない主です。 イエス様は十字架で血潮を流し、サタンの国の奴隷生活から私を救い出し、 ご自身のご支配の中に移してくださいました。

だからこそ、私は神様を愛し、喜ばせたいと願います。

そのような心をもって、私は今日、ダビデとともに歌います。

私の口のことばと私の心の思いとが
御前に受け入れられますように。

あなたにとって、神様はどのような方でしょうか。

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神の謙虚

あなたは御救いの盾を私に下さいます。
あなたの右の手は私を支え
あなたの謙遜は私を大きくします。(詩篇18:35)

もうすぐクリスマスだからこそ、その言葉が私の心に響いているのでしょう。

「あなたの謙虚は私を大きくします。」

私は取るに足りない者なのに、神様はご自身を低くし、人となり、しもべの姿をとってくださいました。

そして、神であるイエス様は十字架で私の罪のために死んでくださいました。(ピリピ2:7~8)

だから今や、そのみわざによって、取るに足りない私は神の子とされました。

なんとすばらしいことでしょう。

【主】は生きておられる。
ほむべきかなわが岩。
あがむべきかなわが救いの神。(詩篇18:46)

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詩篇のデボーション

イエス樣を「主」と呼ぶ喜び

私は【主】に申し上げます。
「あなたこそ私の主。
私の幸いはあなたのほかにはありません。」(詩篇16:2)

今朝、ダビデの言葉を思いめぐらしました。そして、この考えが心に浮かびました。

「イエス様を『主』と呼ぶことには、喜びがあります。」

けれども、イエス様が良い方であり、私たちを深く愛してくださることを信じないなら、その喜びを知ることはできません。

その確信を持たないなら、イエス様を『主』と呼ぶことは、むしろ恐ろしいことになります。

ダビデは、神様を『主』と呼ぶ喜びを確かに味わいました。この詩篇を読むと、その喜びがはっきりと示されています。

私もその喜びを味わったことがあります。

けれども、私は毎日その喜びを満喫したいと願っています。

あなたはどうでしょうか。

イエス様を『主』と呼ぶ喜びをご存じですか。

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詩篇のデボーション

私が愚か者のように振る舞うことがある?

愚か者は心の中で「神はいない」と言う。(詩篇14:1)

天のお父さん、あなたがおられることを認めます。

それでも、私は、あなたがおられないように振る舞うことがあるでしょうか。

私があなたを脇へ置くときがあるでしょうか。

また、私の恐れ、心配、さらに私の罪深い欲求が治めるときがあるでしょうか。

私の予定にこだわりすぎて、あなたがしておられることを見逃すことがあるでしょうか。

イエス様、私は愚か者のように振る舞いたくはありません。

あなたがインマヌエル、私とともにおられる神であることを心にいつも留めさせてください。

あなたを毎日毎日、一瞬一瞬、求める心を与えてください。

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詩篇のデボーション

私に良くしてくださる神

私は【主】に歌を歌います。
主が私に良くしてくださいましたから。(詩篇13:6)

今朝、ダビデの言葉は私の目に留まりました。

私の問題をくよくよするとき、神様がどこにおられるかを考えるのは、容易なことです。

けれども、私はいつも神様がどれほど良くしてくださったかを思い起こしたいです。

私がまだ罪人であったとき、キリストは私のために死んでくださいました。

私が神様をまったく求めずに自分の道を歩んだとき、神様は私を追い求めてくださいました。

そのときに神様が私に良くしてくださったのなら、神様は今、ご自分の子にしてくださった私を見捨てられるでしょうか。それはあり得ないでしょう。

だから今日、神様がどれほど私に良くしてくださったかをもっと思い巡らしたいのです。

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詩篇のデボーション

この壊れた世界を見るとき

拠り所が壊されたら
正しい者に何ができるだろうか。(詩篇11:3)

ニュースやSNSを見るたび、私は自分の心を導くことを思い起こさなければなりません。

この世のよこしまを見るとき、思い悩むのは容易です。

けれども、王はまだみ座におられます。 立ち去られないのです。

イエス様はすべてをご覧になります。 そして、この世に帰ってこられると、すべての人を裁かれるのです。(4~6)

その日、この世は癒され、私は私の王の御顔を見るのです。(7)

その間、私は自分の恐れや怒りや心配を脇へ置くことを選びます。

そして、私の良い王に信頼することを選ぶのです。

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サムエル記第一のデボーション

忘れないで

ヤベシュ・ギルアデの住民は、ペリシテ人がサウルに行った仕打ちを聞いた。

そこで勇士たちはみな立ち上がり、夜通し歩いて行き、サウルの死体と息子たちの死体をベテ・シャンの城壁から取り下ろし、ヤベシュに帰って来て、そこでそれらを焼いた。 (サムエル記第一31:11~12)

ヤベシュ・ギルアデの住民であることを忘れるのは容易なことでしょう。なぜ彼らはそのような行動を行ったのでしょうか。

それは、サウルが彼らの都市を救ってくれたからです。(サムエル記第一11章)

彼らはそれを決して忘れることはありませんでした。

同じように、私はイエス様が十字架でしてくださったことを決して忘れたくありません。むしろ、いつも感謝の心を保ち、イエス様に仕えたいと願っています。

今朝、たまたま、詩篇86篇も読みましたが、ヤベシュ・ギルアデの住民の話のゆえに、ダビデの言葉は私の心に深く響いたのです。

わが神主よ、私は心を尽くしてあなたに感謝し
とこしえまでもあなたの御名をあがめます。

あなたの恵みは私の上に大きく
あなたが私のたましいを
よみの深みから救い出してくださるからです。(詩篇86:12~13)

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サムエル記第一のデボーション

弱虫ではなく、勇士

しかし、ダビデは自分の神、【主】によって奮い立った。(サムエル記第一30:6)

ダビデの行動を考えるとき、私はパウロの言葉を思い起こしました。

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。(エペソ人への手紙6:10)

苦しむとき、私は弱虫ではなく、勇士でありたいです。

私は「かわいそうパーティー」を開きたくありません。

また、苦々しい思いやフラストレーションや怒りに支配されたくありません。

正直に言うと、時には私はそのように反応してしまいます。

私はそれをもうしたくないのです。

ダビデのように、私は神の大能の力によって強められ、神の武具を身に付け、敵であるサタンに立ち向かおうとします。

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サムエル記第一のデボーション

敬うべき神

サウルは言った。「私は困りきっています。ペリシテ人が私を攻めて来るのに、神は私から去っておられます。預言者によっても、夢によっても、もう私に答えてくださらないのです。。。」

サムエルは言った。。。「あなたが【主】の御声に聞き従わ(なかったからだ。」(サムエル記第一28:15、18)

天のお父さん、あなたは私の願いをかなえる単なるジーニーではありません。

あなたは私に操られる神ではありません。

あなたは敬い、従うべき神なのです。

サウルはその真理を決して学びませんでした。 むしろ、彼は自分の耳、さらに心をあなたに閉じてしまったのです。

だから最終的に、あなたは彼に語られなくなったのです。

どうか、私がそのようにならないように。 私がいつも柔らかい心と、あなたに傾いている耳を保つことができるようにしてください。

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サムエル記第一のデボーション

怒りに流されて

あなたのうちには、一生の間、悪が見出されてはなりません。。。

主が、ご主人様について約束なさったすべての良いことをあなたに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、

理由もなく血を流したり、ご主人様自身で復讐したりされたことが、つまずきとなり、ご主人様の心の妨げとなりませんように。(サムエル記第一25:28、30~31)

アビガイルの言葉は私の心を打ちました。

ある英訳では、「あなたのうちには、一生の間、悪が見出されないように」とあります。

それが私の願いです。

私は自分の誤った選択によって、後悔や痛む良心を抱えて苦しみたくありません。

しかし、私の感情、特に怒りに流されるとき、それは起こりがちです。

ダビデもまた、その怒りによって危うく流されてしまうところでした。

私はもちろん人を殺すほど怒ったことはありませんが、愚かなことを言ったり、行ったりした経験は思い出すことができます。

私はそのようなことをもうしたくありません。

天のお父さん、どうか私の心を守ってください。特に怒りから守ってください。

怒りに流されるのは容易ですが、それは私にあなたの望まれる人生をもたらすものではありません。

どうか私のうちに、一生の間、悪が見出されないようにしてください。むしろ、この口と心にあるものがあなたの御目にかないますように。私の主よ、私の岩、私のあがない主、私の良い神よ。

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サムエル記第一のデボーション

些細なこと?

後になってダビデは、サウルの上着の裾を切り取ったことについて心を痛めた。(サムエル記24:5)

サウルの上着の裾を切り取ったことで、ダビデの心がどれほど痛んだかに私は驚きました。

その代わりに、ダビデはサウルを殺すこともできたのです。それと比べると、ダビデがしたことは些細な罪ではないでしょうか。

それでも、その「些細な罪」でさえ、ダビデの心を痛めました。

それを読んで、私は自問しました。

「些細な罪のために自分の良心が痛むとき、私はダビデと同じように反応するだろうか。」

私には、些細な罪のために言い訳をするのは容易なことです。

しかし、神様の心にかなう人とは、大きなことだけではなく、小さなことにおいても神様を喜ばせることを意味します。

私の人生の隅々まですべてを神様の支配下に置き、神様に捧げていないものは何一つあってはなりません。

それが、私の祈りです。

主よ、私の人生にあなたの御国が来ますように。御心が天で行われるように、私の人生の隅々までにも行われますように。

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サムエル記第一のデボーション

希望の灯台

そして、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。約四百人の者が彼とともにいるようになった。(サムエル記第一22:2)

今日、なぜ人々がダビデのもとに集まっていたのかを思い巡らしました。

実際、ダビデは彼ら以上に大きな問題を抱えていました。彼らにとって、ダビデと共にいることは、自分たちで暮らすよりも危険だったでしょう。

しかし、なぜかダビデは彼らに希望を湧かせました。

ダビデは確かに完全な指導者ではありませんでした。彼の嘘によって、85人の祭司とその家族がサウルに殺されました。

それでも、人々は自分たちにない希望と信仰をダビデに見ました。それによって、自分たちの内にも希望と信仰が湧いてきました。

私はそのような人になりたいと願っています。私の妻、娘、同僚、友人、そして周囲の人々すべてに希望と信仰を湧かせたいと願っています。

正直に言うと、今週、それほどよくできなかったと思います。 それでも、それが私の願いです。

天のお父さん、私が希望の灯台となるように。私を通して周囲の人々があなたに引き寄せられるように。

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サムエル記第一のデボーション

愛するものからの傷

サムエル記第一19〜20章を読んだとき、私はサウルがどのように感じたかを思い巡らしていました。

おそらく、サウルは自分の子供たちに裏切られたと感じたでしょう。なぜなら、彼らはサウルの見方ではなく、ダビデの見方だったからです。そのことによって、サウルは深く傷ついたのです。

しかし、悪かったのは彼らではなく、サウル自身でした。

ヨナタンの言葉はサウルの心を刺しましたが、もしその言葉に耳を傾けていたなら、サウルは癒しを知ることができたでしょう。でも、残念ながら、彼は破滅に至る道を歩み続けました。

私はサウルほどではないと思っていますが、頑なになることがあります。それでも、そのような態度を避けたいのです。

むしろ、忠実な友人の言葉に心を開いたままでいたいと願います。たとえその言葉が痛くても、受け入れたいのです。(箴言27:5〜6)

特に、イエス様の言葉に心を開き続けたいです。なぜなら、イエス様は私のもっとも忠実な友だからです。

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サムエル記第一のデボーション

やめよ。知れ。わたしこそ神。

サムエル記第一19章を読んだとき、私は詩篇第46篇との関係に気付きました。

サウルから逃げたとき、ダビデは詩篇46篇の詩人の言葉の真実さを、身をもって学びました。

神はわれらの避け所また力。
苦しむときそこにある強き助け。(詩篇46:1)

その一方で、神様はサウルに何を思い知らせようとされたのでしょうか。もしかすると、神様はこう語ろうとされたのかもしれません。

[わたしと戦うことを]やめよ。知れ。
わたしこそ神。

わたしは国々の間であがめられ
地の上であがめられる。(詩篇46:10)

その日、神様はサウルを低くされました。それでも、サウルは神様と戦い続けていました。

もしサウルがその戦いをやめていたなら、神様の平和を知っていたでしょう。神様がまことに私たちの避け所また力であることを、彼も知るようになっていたでしょう。

けれでも、彼は、神様と戦い続け、恐れに囚われたまま生きていました。そのため、彼は酷い罪を犯し、最終的に滅びてしまったのです。

サウルの話を読んだとき、私はヤコブの話を思い出しました。ヤコブも、神様と戦ったことがありました。(創世記32:24~31)

しかし、サウルとは異なり、ヤコブはその戦いをやめ、神様に従おうとしました。その結果、彼は平安を見出しました。

あなたはどうですか。あなたはまだ神様と戦い、自分の道を歩んでいるでしょうか。

それとも、神様を見上げて、こう言いますか。「あなたは私の神です。私の良い王です。あなたを信頼します。」

そうすれば、あなたはダビデと詩人とともに学びます。

万軍の【主】はわれらとともにおられる。
ヤコブの神はわれらの砦である。(詩篇46:11)

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サムエル記第一のデボーション

信仰を周囲の人に注射する

すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。

ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、【主】が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは【主】の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」(サムエル記第一17:46~47)

ダビデの言葉は私の心を打ちました。

彼の願いは、すべての国々が、ダビデが仕えた神を知ることでした。つまり、神様がダビデを通して行われるみわざを見るとき、彼らが神様のすばらしさを見ることができるようにと願っていたのです。

同時に、ダビデはイスラエルの民にも信仰を注射したいと願っていました。ゴリアテとペリシテ人の軍勢に直面したとき、彼らは勇気を失っていました。だからこそ、ダビデはその信仰を回復させたいと願ったのです。

私も、同じことをしたいと願います。つまり、神様を知らない周囲の人々が、私の中にある神のみわざを見て、神様が存在しておられることを知るようになることです。

彼らが神様のすばらしさと力強さ、そして良さを知り、神様を知りたいと願うようになることを祈ります。

それだけではなく、私は周囲のクリスチャンたちにも信仰を注射したいと願っています。彼らが絶望するとき、私の中にある神の働きを見て、「確かに、神様はここにおられる。希望がある。」と実感するように祈ります。

天のお父さん、私が周囲の人々に信仰と希望を注射するように導いてください。

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サムエル記第一のデボーション

むなしい礼拝、真の礼拝

「どうか今、私の罪を見逃してください。そして、私が【主】を礼拝することができるように、一緒に帰ってください。」

サムエルはサウルに言った。「私はあなたと一緒に帰りません。あなたは【主】のことばを退け、【主】があなたをイスラエルの王位から退けられたからです。」(サムエル記第一15:25~26)

「どうか一緒に帰ってください。私はあなたの神、【主】を礼拝します。」

サムエルはサウルについて帰り、サウルは【主】を礼拝した。(サムエル記第一15:30~31)

天のお父さん、サウルはあなたを礼拝しようとする態度を示しましたが、礼拝の本質をまったく理解していませんでした。

真の礼拝とは、あなたが私たちの心を持っておられることです。それは心の一部ではなく、心のすべてをあなたに捧げることです。

ダビデはそのことをよく理解していました。

まことに私が供えても
あなたはいけにえを喜ばれず
全焼のささげ物を望まれません。

神へのいけにえは砕かれた霊。
打たれ砕かれた心。
神よあなたはそれを蔑まれません。(詩篇51:16~17)

しかし、サウルは、その真理を決して理解することがありませんでした。

あなたがサウルの心を持っておられなかったため、彼の礼拝はむなしいものでした。

主よ、あなたは私の心を持っておられるでしょうか。

私の心のすべてを支配してください。

私の礼拝が、サウルの礼拝のようにむなしいものにならないように。

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サムエル記第一のデボーション

自分が良いと思う通りに生きる?

すると兵は言った。「あなたが良いと思うようにしてください。」

しかし祭司は言った。「ここで、われわれは神の前に出ましょう。」(サムエル記第一14:36)

そのことばを読んだとき、昨日の説教を思い出しました。

私の牧師は、すべてのことを神様の支配下に置くことの大切さを語っていました。つまり、好き勝手に行動するのではなく、神様を求め、御心に従うことです。

サウルはそうしなかったため、最終的に彼の統治は崩れてしまいました。

しかし、自分が良いと思う通りに行動してしまうのは自然なことです。好き勝手に時間やお金を費やすのは簡単ですし、自分の目に良く見えることをすぐに選んでしまいます。

けれども、それは神様の支配下に生きている姿ではありません。

だからこそ、神様は私にこう語っておられると思います。「決断するときに、わたしのこころをもっと求めなさい。」

特に、経済のことをもっと考えなければなりません。献金だけでなく、私の経済全体を神様の支配下に置くべきです。自分が良いと思う通りにお金を使うのではなく、神様の御心に従って用いるべきです。

あなたはどうでしょうか。神様はあなたに何を語っておられるでしょうか。

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本当に、良しとされるのですか?

主は、ご自分の大いなる御名のために、ご自分の民を捨て去りはしない。主は、あなたがたをご自分の民とすることを良しとされたからだ。(サムエル記第一12:22)

天のお父さん、どうして私が不実で、大失敗し、あなたを裏切るにもかかわらず、あなたは私を捨て去られないのでしょうか。

それどころか、あなたは私をご自身の者、ご自身の子とすることを良しとされるのです。

それは本当に驚くべきことです。あなたはそれを良しとされるとは、なんと不思議なことでしょう。

だからこそ、お父さん、私があなたを恐れ、心を尽くして、誠実に仕えるように導いてください。

あなたがどれほど大いなることをしてくださったかを心に留めておくように助けてください。特に、私がイエス様の十字架の働きを決して当たり前のものだと思わないようにしてください。

私へのあなたのすばらしい恵みといつくしみに、心から感謝します。

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御霊を消してしまうのか?

サウルがサムエルから去って行こうと背を向けたとき、神はサウルに新しい心を与えられた。これらすべてのしるしは、その日のうちに起こった。

彼らがそこからギブアに行くと、見よ、預言者の一団が彼の方にやって来た。すると、神の霊が彼の上に激しく下り、彼も彼らの間で預言した。(サムエル記第一10:9~10)

御霊はサウルのために素晴らしいことをしてくださいました。

でも、私の心に打たれたのは、サウルの反応です。彼は御霊を消してしまいました。(テサロニケ人への手紙5:19)

彼は文字通り、家に帰って隠れました。

なぜでしょうか。

もしかすると、預言者との霊的な経験によって、サウルは恐れを感じたのかもしれません。

あるいは、周囲の人々が彼をあざ笑ったとき、彼は恥じ入ったのかもしれません。

いずれにせよ、その結果として、サウルは自分の人生における御霊の働きを消してしまいました。

私はそうしたくありません。

むしろ、ペテロと他の使徒たちの模範に倣いたいです。使徒の働き第2章では、御霊は彼らの上に激しく下り、満たしてくださいました。

しかし、サウルとは異なり、使徒たちは大胆に神様のために生き、その導きに従いました。

聖霊様、私はあなたを消してしまうことがあるでしょうか。

あなたが私の心を動かしてくださるとき、それを無視しないように導いてください。むしろ、私の心にあなたが付けてくださった火花を炎に燃え立たせるように、勇気と願いを与えてください。

そして、私が毎日毎日、一瞬一瞬、あなたの導きに従うことができますように。

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だれに希望を寄せる?

全イスラエルの思いは、だれに向けられているのでしょう。あなたと、あなたの父の全家にではありませんか。(サムエル記第一9:20)

今朝、私はそのことばを思いめぐらせました。

イスラエルの民は、不完全な王、不完全な救い主に希望を寄せていました。

完全な王、完全な救い主がすでにおられたのに、どうして彼らは別の者に思いを向けていたのでしょうか。

でも、そうするのは容易なことです。私たちはしばしば神様の代わりに別のものに希望を寄せてしまうでしょう。

私はそうしたくありません。

むしろ、私の良い王の支配下にとどまり、すべてよりもイエス様に思いを向けることを選びます。

主よ、今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。(詩篇39:7)

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あなたが遠く感じられるときに

主よ、なぜ、あなたは遠く離れて立ち、苦しみのときに、身を隠されるのですか。(詩篇10:1)

天のお父さん、あなたが遠く離れて立ち、身を隠されているように感じられるときがあります。特に、苦しんでいるとき、私はそのように感じることが多いのです。

でも、真理は、あなたが私の良い王であり、永遠に治めておられるということです。(16節)

真理は、あなたが私の叫びを無視しておられるのではなく、耳を傾けてくださるということです。(17節)

そして、いつかの日に、あなたは正義をもたらし、すべてを癒してくださいます。(18節)

だから、私の良い王、あなたが遠く離れて感じられるとき、私は自分の感情ではなく、あなたを信じることができるように助けてください。

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計り知れない恵み

人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。(詩篇8:4)

今朝、上の言葉を思いめぐらせました。

私たちのすべては、罪の肥溜めに落ちて、その汚れにまみれてしまいました。それでも、イエス様は、御使いよりわずかに欠けがあるものとし、その肥溜めに入り、救い出してくださるほど、私たちを心に留めてくださいました。

しかし、本当に驚くべきことは、イエス様は私たちをご覧になるたびに、肥溜めから救い出された「物」として見なしておられるわけではないということです。私たちがその汚れにまみれていた状態という記憶は、まったく残っていないのです。

むしろ、ご自身の義に着せられ、栄光と誉れの冠をかぶらせている者としてご覧になります。

私たちへのイエス様の恵みと愛は、本当に測り知れないものです。

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正義の裁判官を待ち望む

あなたはさばきを定められました。(詩篇7:6)

今日、その言葉私の心に響きました。

この世のよこしまと不正をニュースで見るとき、怒るのは簡単なことです。

しかし、この詩篇を通して、神様は私に思い起こさせてくださいました。「わたしはそのよこしまと不正を無視しているわけではありません。」

神様は裁きを定められました。そして、その日に、神様は正義をもってすべての人々を裁かれます。

神様は人の行動だけでなく、彼らの心の深みをも調べておられます。そして、彼らが悔い改めようとしないなら、最終的に神様の正義と向き合うことになります。

だから、ニュースを読むとき、怒りを脇へおいて、ダビデとともに賛美することを選びます。

私は主をほめたたえます。その義にふさわしく。いと高き方 主の御名をほめ歌います。(詩篇7:17)

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詩篇のデボーション

私たちが悲しむとき

私たちの人生は、いつも楽というわけではありません。ダビデはそれをよく知っていたので、哀歌を多く書きました。

でも、私たちがこの壊れた世界で悲しむとき、このことを心に留めておきましょう。

1.神様は私たちの神であり、私たちの王です。(詩篇5:2)。ですから、私たちは神様を敬い、神様に従うべきです。

多くのクリスチャンは、神様をお父さんとして、また友だちとして考えたいと思います。もちろん、神様は私たちのお父さんであり、友だちです。

でも、文句を言うとき、神様が私たちの神であり王であることを忘れてはなりません。神様は、私たちの敬いと従順にふさわしい方です。

2.神様は良い方です。

時々、私たちは周りの悪を見ると、神様のご性質を疑い始めます。神様が本当に良い方であるかどうか、疑い始めるのです。

でも、私たちはこの真理を心に留めておかなくてはなりません。神様が悪に取り組むのが遅く感じられるかもしれませんが、最終的に正義をもたらしてくださるのです。(第二ペテロ3:8〜10)

その日、すべての人々はダビデの言葉が正しいと知るようになります。

あなたは悪を喜ぶ神ではなく、わざわいは、あなたとともに住まないからです。(詩篇5:4)

だから、どんな悪を見ても、神様の良いご性質を疑わないようにしましょう。

3.私たちも、ただ恵みによって神様に近づくことができます。

私たちは周囲の悪人を見て怒るかもしれませんが、謙遜な態度を持って、神様の恵みがなければ、私たちも裁かれていたことを覚えておきましょう。

4.私たちが試練に直面するときこそ、神様の導きと助けが必要です。

だから、ダビデと一緒に祈りましょう。

主よ。私を待ち伏せている者がおりますから、(または、私には大変な問題があるので)あなたの義によって私を導いてください。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。(8節)

最後に、主にあって喜び、主のことを誇りましょう。(11節)

私たちにトラブルがあるとき、文句を言うのは簡単なことです。そうせずに、神様に身を避けて、主を喜びましょう。

そうすれば、あなたの視点は完全に変わります。そして、神様の偉大さと比べると、あなたの問題は小さく見えるでしょう。

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詩篇のデボーション

神に特別に扱われている

知れ。主はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。(詩篇4:3)

今朝、その言葉は私の心に響きました。

神様は私を特別に扱ってくださいます。

神様は私を責めるのではなく、恵みによって義と認めてくださいます。(1節)

私が呼ぶとき、神様は聞いてくださいます。(3節)

私が御顔を仰ぐとき、神様は怒っておられるのでも、がっかりしておられるのでもなく、その光を私の上に照らしてくださいます。(6節)

だからこそ、「だれがわれわれに良い目を見させてくれるのか」と叫ぶ世界に、私は答えます。

「私の神こそがそうしてくださいます。」

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詩篇のデボーション

神様の答えが遅く感じられるとき

私は声をあげて主を呼び求める。 すると 主はその聖なる山から私に答えてくださる。(詩篇3:4)

日曜日に、教会で「やもめと不正な裁判官のたとえ話」についてのメッセージを聞きました。

そのたとえ話の中で、やもめは裁判官が願いを聞き届けてくれるという確信を、どれほど持っていたでしょうか。彼が彼女のことをまったく気にかけていないことを、よく知っていたはずです。

それでも、彼女の願いを聞いてくれるのはその裁判官しかいなかったので、彼に願い続けるしかありませんでした。

一方、ダビデは、神様が自分を愛しておられるという確信を持っていました。だからこそ、神様に祈るとき、聞き届けてくださるという確信も持っていたのです。

今、私はこう思います。「神様の答えが遅く感じられるとき、私は神様が聞いてくださるという確信を、どれほど持っているだろうか。」

私は、ダビデのような信仰が欲しいです。

私は声をあげて主を呼び求める。 すると 主はその聖なる山から私に答えてくださる。(詩篇3:4)

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詩篇のデボーション

イエス様は治めておられる

「わたしが わたしの王を立てたのだ。わたしの聖なる山 シオンに。」

「私は主の定めについて語ろう。主は私に言われた。 『あなたはわたしの子。 わたしが今日 あなたを生んだ。』」(詩篇2:6~7)

私はこの乱れた世の中を思うとき、この言葉に心強さを覚えます。

イエス様は治めておられます。

ユダヤ人の指導者たちやローマ帝国はイエス様を十字架につけましたが、その真理を変えることはできませんでした。(使徒の働き4:25~28)

サタンもその真理を変えることはできませんでした。(黙示録12章)

イエス様を王座から追い出すことができる者も力も、何ひとつ存在しません。

そして、いつかの日、神様はすべてのものをイエス様の足台としてくださいます。(詩篇2:8~9、ヘブル書1:5~13)

だからこそ、私はニュースでこの世の悪を見るとき、また、自分の問題を心配するとき、この真理を握ることにします。

イエス様はこの世を治めておられます。そして、このイエス様は良い方です。

幸いなことよ、すべて主に身を避ける人は。(詩篇2:12)

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詩篇のデボーション

誰のために、栄える木が実を結ぶのか

幸いなことよ、悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。

主のおしえを喜びとし 、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ人。

その人は、流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び  その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。(詩篇1:1-3)

詩篇1篇では、詩人は、神様のみ言葉に思いを巡らす人について書いています。彼によれば、その人は栄えて実を結ぶ木のようになります。

でも、私たちが誰のために実を結ぶのか、考えたことがあるでしょうか。私たちが栄えるとき、誰がその益を受けるのか、考えたことがあるでしょうか。

果樹は、自分に栄養や祝福を与えるために実を結ぶわけではありません。むしろ、その木は周囲の人々を祝福し、栄養を与えるために実を結びます。

私たちは、そのような人であるべきです。

多くのクリスチャンは、この箇所を読むとき、このように考えます。「聖書を読んで、その言葉に思いを巡らすと、私は祝福されます。」

もちろん、それが間違っているわけではありません。しかし、もっと大切なのは、私たちが実を結び、神様がその実を通して周囲の人々を祝福してくださることです。

私たち皆がそのような木であり、神様の恵みのパイプラインとなって、周囲の人々に触れるように。

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サムエル記第一のデボーション

あなたが私の人生を治めてくださるために

主はサムエルに言われた。「民があなたに言うことは何であれ、それを聞き入れよ。

なぜなら彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから。(サムエル記第一8:7)

それを言われたとき、神様はどう感じておられたでしょうか。

神様は怒っておられたでしょうか。

そうだったかもしれません。

しかし、イスラエルの民がイエス様を王として拒んだとき、彼は怒っておられたのではなく、悲しんでおられました。

その悲しみは、ご自身が傷ついたからではなく、むしろ、イエス様がイスラエルの民の選択がどの道に導かれるかをよくご存じだったからです(マタイ23:37〜39;ルカ19:41〜45)。

今日、私はこう考えていました。「自分の王がどれほど私を愛しておられるか、本当に理解しているだろうか。」

イスラエルの民はそれを理解していなかったため、神様を王として拒んでしまいました。

私はそれをしたくありません。

けれでも、私はもう一度自問します。

「自分の王がどれほど私を愛しておられるか、本当に理解しているだろうか。」

私の良い王よ、自分に対するあなたの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるのかを理解するようにしてください。

それは、私が喜んであなたにすべてを明け渡し、あなたが私の人生のすべてにおいて治められるためであるように。

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サムエル記第一のデボーション

だれが、この聖なる神の前に立つことができるだろう?

ベテ・シェメシュの人たちは言った。「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができるだろう。(サムエル記第一6:20)

今日の箇所では、イスラエルの民もペリシテ人も、大切な真理を思い知らされました。

それは、神様の前に立つにふさわしい者は、誰一人としていないということです。

ペリシテ人の神ダゴンは立つことができず、ペリシテ人たち自身も立つことができませんでした。だから、さばきが下ったとき、彼らは領主たちに主の箱を戻すように叫びました。

しかし、イスラエルの民もまた、神様の前に立つことはできませんでした。

何百年も前に、モーセは彼らにこう警告していました。

「レビ人だけが主の箱を運ぶことを許されている。しかし彼らでさえ、その箱を見たり触れたりすることは許されていない。」(民数記4:15~20)

ところが、イスラエルの民はその指示を無視し、箱をすぐに覆わず、さらに勝手にその箱を開けてしまったため、さばきが彼らにも下りました。そこで、彼らは叫びました。「だれが、この聖なる神の前に立つことができるだろう。」

その答えは明らかです。神様の前に立つにふさわしい者は、誰一人としていません。なぜなら、神様は聖なる方であり、私たちは罪によって汚れた者だからです。

私たちは皆、罪を犯しており、神の栄光を受けることができません。(ローマ書3:23)

だから、私たちがふさわしいことは、神の裁きだけです。

しかし、イエス様を通して、今や私たちはこの聖なる神の前に立つことができます。

パウロはこう記しました。

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。(ローマ書5:1~2)

どうして、私たちは神様の前に立つことができるのでしょうか。それは、イエス様の十字架のみわざによって、私たちが神様との平和を持っているからです。

十字架の上で、私たちの罪によって汚れた衣はイエス様に置かれました。そして、私たちがイエス様を信じると、神様はイエス様の義と聖さをもって、私たちを着せてくださいます。

だからこそ、私たちは自由に神様の前に進み出ることができるのです。

もちろん、自分が義人であることを感じないときもあります。とくに、罪を犯すとき、私たちは汚れていて、神の愛にふさわしくないと感じます。

それでも、私たちは希望を持っています。それは、

キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)

だからこそ、私たちは神様の栄光を見るとき、恐れる必要はありません。むしろ、私たちは喜びます。なぜなら、イエス・キリストによって、神様は私たちをすでに受け入れてくださっているからです。

そして、いつかの日、私たちは神様の栄光を身にまとうことになります。

だから、パウロはこう記しました。

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3:18)

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サムエル記第一のデボーション

なんと偉大なお方、私たちの神よ

ペリシテ人は神の箱を奪って、エベン・エゼルからアシュドデまで運んで来た。それからペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運んで来て、ダゴンの傍らに置いた。

アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、なんと、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、元の場所に戻した。

次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両手は切り離されて敷居のところにあり、胴体だけがそこに残っていた。(サムエル記第一5:1~4)

この物語を読むたびに、私はいつも笑ってしまいます。

ペリシテ人たちは、主をただの神々の一つだと思っていました。しかも、彼らは先ほどイスラエルの民を打ち倒したばかりだったので、自分たちの神ダゴンのほうが主よりも偉大だと考えました。

でも、彼らはすぐに、自分たちが間違っていたことを思い知らされました。

ダゴンが主の箱の前で、地にうつぶせになって倒れている場面を思い浮かべるとき、私はいつもイザヤ書45章にある神のことばを思い出します。

神様はこの出来事の何百年も後にそのことばを語られましたが、それはまさに、あの日ペリシテ人たちに語っておられたのと同じメッセージでした。それは、

わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、 わたしをおいて、ほかにはいない。

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。

わたしは自分にかけて誓う。ことばは、義のうちにわたしの口から出て、 決して戻ることはない。すべての膝はわたしに向かってかがめられ、 すべての舌は誓い。。。(イザヤ書45:21~23)

今日、その言葉を思い巡らしています。それを読んで、私は叫ばずにはいられません。「なんと偉大なお方、私たちの神よ。」

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サムエル記第一のデボーション

栄光がどこにあるのですか

前回の記事では、私は士師の時代に、イスラエルの民が神様に従わず、自分勝手に生きていたことを述べました。

でも、この箇所では、彼らはさらにひどいことをしました。彼らは神様を、飼いならされたジニーのように扱い、ペリシテ人を打つために用いようとしたのです。

ところが、第一サムエル記の著者は、「神様がケルビムという天使の上に座しておられる万軍の主である」と強く主張します。

通常、「ケルビムに座しておられる万軍の主」という表現は、神様の契約の箱を指しています。なぜなら、神様がモーセや大祭司と語られた時、契約の箱の上の雲の中に現れたからです(レビ記16:2)。

しかし、この箇所では、その雲はまったく現れませんでした。

ですから、この場合、著者は契約の箱そのものではなく、その箱が象徴する天国の現実について語っているのではないでしょうか。つまり、天国では、天使たちが神様に栄光を帰しています。なぜなら、神様はその栄光にふさわしい方だからです。

その一方で、イスラエルの民は神様にまったく栄光を帰しませんでした。

この物語の最後では、エリの義理の娘が出産し、その息子をイ・カボデと名づけました。その名前は、「栄光はどこか」という意味です。

彼女が意味したのはこうです。「神の栄光はどこですか。神様は私たちを見捨てられました。ここには、栄光がもうありません。」

しかし、もしかしたら、神様はイスラエルの民に同じ質問を投げかけておられたのかもしれません。今でも、神様は私たちに同じ質問を投げかけておられるのかもしれません。

特に、神様にふさわしい栄光と誉れは、今どこにあるのでしょうか。天使たちは、その栄光と誉れを神様に帰しています。でも、私たちはどうでしょうか。

教会、職場、家庭、そして私たちの人生において、本当に栄光と誉れを神様に帰しているでしょうか。

それとも、神様が私たちをご覧になる時、「栄光はどこにあるのでしょうか」と言われているのでしょうか。

天のお父さん、あなたは、操られる神ではありません。

あなたはケルビムの上に座しておられる万軍の主です。あなたは、すべてを治めておられる方です。

その「すべて」には、私自身も含まれています。あなたは、私の王です。

ですから、私はいつもあなたを王として敬うように導いてください。

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サムエル記第一のデボーション

聞こえない耳、見えない目

時々、聖書には、私たちに痛烈な皮肉が示されることがあります。この箇所でも、そのような皮肉を見ることができます。

サムエル記第一3章一節には、こう書かれています。

そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。(サムエル記第一3:1)

これは士師記の時代でした。その時代はどのようなときだったでしょうか。

そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。 (士師記21:25)

第一サムエル2章によれば、祭司たちも神様に従わず、勝手に振る舞っていました。だから、神様はイスラエル人に語ることを拒まれました。

そして、3章2節では、私たちは皮肉なことを見ることができます。大祭司エリの目はかすんできて、見えなくなっていました。ところが、エリの霊的な目もかすんで、見えなくなっていたのです。

どうしてでしょうか。なぜなら、エリは神様を敬わなかったからです。むしろ、彼は自分の息子たちを神様よりも敬っていたのです。

エリの息子たちは、神様とイスラエル人に対して故意に罪を犯していたのに、エリは彼らを祭司として退けませんでした。だから、神様ご自身がエリとその息子たちを祭司として退けられました。(2:29-36;3:11-14)

しかし、その一方でサムエルがいました。

この箇所では、もうひとつ皮肉なことが描かれています。盲目のエリが、霊的なことの見方をサムエルに教えたのです。

神様がサムエルを呼ぼうとしておられると理解したとき、エリはこう言いました。

主がおまえを呼ばれたら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」(第一サムエル3:9)

そして、主がサムエルのそばに立ち、呼ばれたとき、サムエルはその声を聞き、エリの助言に従ってこう答えました。 「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」

主が私たちのそばに立ち、呼ばれるとき、私たちは主に対して目と耳を閉ざしているため、どれほど主がおられることに気づかないでしょうか。

イエス様はこう言われました。

この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。

それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。(マタイ13:15)

神様があなたを呼ばれるとき、あなたはどうしますか。エリのように、自分の罪を握り、主の声を聞くことを拒むでしょうか。そうすれば、あなたの霊的な目と耳は不自由になってしまいます。

そうするのではなく、サムエルのように答えましょう。

「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」

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サムエル記第一のデボーション

私たちの忠実な祭司

人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。(サムエル記第一2:25)

今朝、私はその言葉に思いを巡らせていました。

神様に対して罪を犯すとき、私たちのために仲裁に立ってくださる方がおられます。

神様はイエス様を、私たちの忠実な祭司として起こしてくださいました。さらに、イエス様はとこしえに私たちの祭司です。(サムエル記第一2:35;ヘブル書2:17~18;7:23~25)

私の罪によって神様をどれほど悲しませたかを振り返ると、その真理は本当に不思議なことだと思います。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(ローマ人への手紙8:34)

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ルツ記のデボーション

あがなわれた

どうか、主が、あなたの家に嫁ぐ人を、イスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにされますように。。。

どうか、主がこの娘を通してあなたに授ける子孫によって、タマルがユダに産んだペレツの家のように、あなたの家がなりますように。(ルツ記4:11~12)

今日、ラケル、レア、タマルの物語を思い巡らせていました。彼女たちの人生は、それぞれのかたちで壊れたものでした。(創世記29~30章、38章)

それでも、最終的に彼女たちは、その壊れた人生のゆえにではなく、祝福された女性としてユダヤ人たちに思い出されました。

ルツの人生もまた、壊れたものでした。しかし今、彼女は祝福された人として記憶されています。

さらに、神様はこの4人の女性たちを通して、私たちのあがない主であるイエス様をこの世に送られました。彼女たちの名前はイエス様の系図に記録されているのです。

だから、神様は私に思い起こさせてくださいました。 「あなたは、人生の壊れたところによって定義されているのではありません。私はあなたをあがなって、今や、あなたは祝福されているのです。」

I was nothing before you found me.
あなたが私を見つけてくださる前、私は取るに足りない者でした。
You have given life to me.
あなたは私にいのちを与えてくださいました。

Heartache, broken pieces,
悩み、砕けた心。
Ruined lives were why you died on Calvary.
滅びた人生のゆえに、あなたはカルバリで死んでくださいました。

Your touch was what I longed for.
私が憧れていたのは、あなたの癒しの御手でした。
You have given life to me.
あなたは私にいのちを与えてくださいました。ーービルとグロリア・ゲイザー

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ルツ記のデボーション

安息を得るために

姑のナオミは彼女に言った。「娘よ。あなたが幸せになるために、身の落ち着き所を私が探してあげなければなりません。」(ルツ記3:1)

今日、神様の安息について思いを巡らせていました。

ルツは、ある意味で安息を見つけました。ナオミ、そして特にボアズに信頼を寄せることで、身の落ち着き所となる安息を得たのです。

もしボアズがそれほど善良な人でなければ、その夜、ルツは本当に困っていたことでしょう。

しかし、彼女はボアズが善良な人であることを信じていたので、やがて安息を見出すことができました。

ルツの態度とは対照的に、士師の時代のイスラエルの民は神様に信頼を寄せることを拒み、何度も安息を失いました(士師記1:18~19、2:11~12、3:30~4:2、5:31~6:2)。

ところで、聖書では、「買い戻し」と訳される語は(ルツ3:9)、神様に当てはめるとき、「あがない」と訳されます。

つまり、ルツは自分の「あがない主」であるボアズを信頼しましたが、イスラエルの民は自分の「あがない主」である神を信頼しなかったのです。

今、私は安息を失った人々のことを考えています。彼らが安息を失ったのは、あがない主が良い神であることを信じなくなったからです。

私はその模範に倣いたくありません。

ルツのように、私は自分のあがない主が良い方であり、その約束が確かであることを信じる道を選びます。

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)

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ルツ記のデボーション

でも、真理は…(2)

今日、ルツ記1~2章をさらに読んで、私たちの感情と真理の違いについて考えていました。

第1章で、ナオミはどのように感じていたでしょうか。

彼女はこう言いました。

「主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられた。」

でも、真理は何だったのでしょうか。

「神様は私に御恵みを惜しまない主です。」

私はただ自分の感情に従いたくはありません。それは抜け出しにくい痛みのサイクルにつながります。

私は神の愛に根差し、みことばの剣を振るって、こう宣言したいのです。「でも、真理は…」

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ルツ記のデボーション

でも、真理は…

ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまない主が、その方を祝福されますように。」(ルツ記2:20)

この章では、ナオミの態度はまったく違いますね。

第1章では、ナオミは苦々しい思いを抱いて、「主が私を卑しくし、辛い目にあわせられた」と言いました。(ルツ記1:13、20~21)

でも、第2章では、彼女は真理に目を開かれるようになりました。さまざまな煩いがナオミに訪れても、神様が彼女を決して捨てられることはありませんでした。それどころか、神様は彼女を深く愛しておられました。

あなたは今、ナオミのように痛みのサイクルに陥っているかもしれません。

神様があなたを辛い目にあわせていると思うかもしれません。

神様があなたを見捨てられたと感じるかもしれません。

でも、真理はこうです。神様は良い方で、あなたを深く愛しておられます。

だから、神様から離れるのではなく、神様の翼の下に身を避けようとするなら(12節)、あなたもやがてその真理に目が開かれるようになるでしょう。

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ルツ記のデボーション

神様は良い方なの?

ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミ(「快い」の意味)と呼ばないで、マラ(「苦しむ」の意味)と呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。

私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。

どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」(ルツ記1:20~21)

今、私はナオミのように感じている知り合いのことを考えています。

神様が良い方であることを信じるのが難しいときもあります。

それでも、その知り合いのために祈っていた今朝、別の友人からSMSが届きました。

去年、彼は失業し、今年はさまざまな意味で本当に大変な一年でした。

正直に言うと、彼のために祈る中で、私が失望を感じることもありました。神様の答えが長い間、見えなかったからです。

でも今朝、彼が再雇用されたことを知らせてくれました。

そして神様は、もう一度私に思い起こさせてくださいました。「はい、わたしは良い方です。」

だから私はその真理を握りしめながら、今もなお苦しんでいる知り合いのために祈り続けています。特に、その人が神様がまことに良い方であることを知るようにと祈っています。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

平和の神

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。

あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(テサロニケ人への手紙第一5:23~24)

今日、「平和の神」という言葉を思い巡らしていました。

第4章3節で、パウロはこう語りました。

神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。

そして、今日の箇所では、パウロは神様が私たちの人生にその聖さをもたらしてくださるように祈っています。

ときには、そのプロセスに神の懲らしめが含まれることもあります。そして、その懲らしめが苦しいときもあります。

それでも、神様が私たちをにらんでおられると考える必要はありません。神様は平和の神です。私たちは神様との平和をもっているのです。

だから、神様が私の人生の中で取り組んでおられる課題を考えるとき、私は自分をその真理に染み込ませています。

「神様は私に怒っておられません。私は神様との平和をもっているのです。」

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

神のみこころ

神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。(テサロニケ人への手紙第一4:3)

今朝、その言葉が私の目に留まりました。なぜなら、「これが神のみこころ」とはっきりと語る聖書箇所は、それほど多くないからです。

私をはじめ、多くのクリスチャンたちは「神様のみこころを知りたい」と言います。

その言葉の背景には、誰と結婚するべきか、どのような進路をたどるべきかといった問いがあることが多いです。

でも今朝、神様は私に思い起こさせてくださいました。「これは私のこころです。あなたがたが聖なる者となることです。」

パウロはこの文脈で主に性的な聖さについて語っています。彼の時代も、私たちの時代と同じように、それが大きな課題だったからです。

しかし、聖なる者となることは、性的な聖さだけに限られるものではありません。私たちの愛、言葉、思い—それらすべてにおいて、イエス様のようになることです。

だから今日、神様が私の心の中で取り組んでおられる課題について考えています。

その取り組みと格闘しながら、私は自分自身に、私を愛してくださるアバの言葉を思い起こしています。

「これは私のこころです。あなたがたが聖なる者となることです。」

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

信仰、望み、愛

私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。(テサロニケ人への手紙第一1:3)

信仰、望み、愛。

天のお父さん、私がするすべてのことが、それらから生まれるようにしてください。

義務からではなく、「我慢しなければ」という感情からでもなく。

むしろ、私の働きが信仰から出るようにしてください。それは、あなたが良い方であることを信じる信仰です。あなたが私を愛してくださることを信じる信仰です。私の最善をご存知であり、それを願っておられると信じる信仰です。

私の苦労が愛から生まれるようにしてください。あなたへの愛。周りの人々への愛。

私の忍耐が望みに支えられるようにしてください。永遠を考慮に入れると、この世の問題、私の問題ははかないものです。イエス様、あなたを知っているゆえに、その望みをもっています。

あなたのゆえに、私の罪は赦されました。私の問題を通して、神様が私を罰しておられるというわけではありません。

むしろ、私は大胆に神様の御前に進み出ることができます。あなたのように、私は天の父に選ばれ、愛されているのです。

私が毎日毎日、一瞬一瞬、その視点を保つことができるようにしてください。

イエス様、あなたを待ち望んでいます。私は待ち望んでいます。

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コロサイ人への手紙のデボーション

自分の心を守る

たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。(コロサイ人への手紙4:2)

前回の記事で私は言いましたが、最近のニュースやSNSを見るとき、私の心が騒ぐのは簡単です。

でも今日、神様は、私が自分の心に注意を払うように思い起こさせてくださいました。 私は常に自分の思いを吟味し、祈って、それを神様に委ねる必要があります。

それだけではなく、私が自分の心を感謝へと導き、主にあって喜ぶことを選ぶようにと、神様は思い起こしてくださいました。

今日、たまたま詩篇17篇も読み、ダビデのことばを通して、神様の語りかけが私にいっそう深く響きました。

あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。私を炉で試されましたが、何も見つかりません。私は 、口の過ちを犯さないように心がけました。。。

私は、義のうちに御顔を仰ぎ見、目覚めるとき、御姿に満ち足りるでしょう。(詩篇17:3、15)

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コロサイ人への手紙のデボーション

困難のときの祈り

天のお父さん、ニュースやSNSを見るとき、この世の悪は明らかです。

だから、私たちの心が騒ぐのは簡単です。

でも、あなたは教会を選ばれ、私たちは聖なる、愛されている者です。(コロサイ人への手紙3:12)

私たちがその身分を覚えていられるように助けてください。

それを覚えて、怒り、憤り、悪意、罵りを捨てることができるように助けてください。この世はそれらによって特徴づけられていますが、私たちがあなたのかたちに従って新しくされ続けるようにしてください。(8、10節)

私たちが深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を身に着けるようにしてください。そして、そのすべての上に、私たちが愛を身に着けるようにしてください。

あなたの平和が私たちの心を支配するようにしてください。(15節)

あなたのことばが私たちのうちに豊かに住むようにしてください。私たちが知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心からあなたに向かって歌うようにしてください。(16節)

最後に、言葉であれ行いであれ、何をするときにも、あなたに感謝する心をもって、主イエスの御名によって行うようにしてください。(17節)

この困難に満ちた世界では、私たちが怒りや恐れに支配されるのではなく、あなたの愛、喜び、平和に治められるようにしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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コロサイ人への手紙のデボーション

イエス様にしっかり結びつく

かしらにしっかり結びつくことをしません。このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。(コロサイ人への手紙2:19)

「かしらにしっかり結びつくことをしません。」

私はそのことばに心を打たれました。

私はイエス様にしっかりと結びついていたいと願います。

しかし、私は、イエス様に受け入れていただくために、単にルールを守ろうとしているわけではありません。(20~23節)

私はすでに受け入れられています。十字架によって、私の債務証書は無効にされました。(14節)

むしろ、イエス様と結びつくために、私は三つのことを自分に思い起こさせています。それは、

  • イエス様は良いお方です。
  • イエス様はすでに私を愛し、受け入れてくださっています。
  • イエス様は私の最善をご存じで、それを望んでおられます。

だから私は毎日毎日、一瞬一瞬、感謝を込めて、私の主を信頼し、従う道を選び取ります。

このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。(コロサイ人へ手紙2:6-7)

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コロサイ人への手紙のデボーション

ただの我慢?神の喜び?

神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。

また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。 (コロサイ人への手紙1:11~12)

日本では、「我慢」ということばが、まるで合言葉のように使われています。

苦しいとき、「我慢しなくちゃ」と言われることがよくあります。

ときには、私たち自身が自分に向かって「我慢しなくちゃ」と言い聞かせることもあります。

でも、私が気づいたのは、パウロがコロサイのクリスチャンたちに、ただ我慢することだけを求めていたわけではないということです。

パウロの願いは、彼らが神の喜びに満たされることでした。

困難のとき、私たちに堅く立つ力を与えるのは、「我慢」ではなく、神の喜びです。

その喜びがなければ、我慢はやがて耐えられない重荷になってしまいます。

私は、ただ我慢するのではなく、神様がしてくださったことを喜びたいのです。

御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。(13~14節)

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ピリピ人への手紙のデボーション

恵みによって立つ

ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。(ピリピ人への手紙4:1)

4章は、少し不思議な始まり方をします。1節は、実質的に3章の内容をまとめているのです。

私たちは、どのようにして堅く立つことができるのでしょうか。

それは、恵みによって立つことだと思います。

私たちは、自分の努力によって神様の受け入れを得ようとはしません。自分の義の成績表や資格によって、神様の愛にふさわしいと証明しようとはしません。(3:2~9)

むしろ、それらを手放して、ただイエス様との関係を追い求めます。でも、その関係も、私たちが得ようとする必要はありません。なぜなら、イエス様はすでに私たちを捕らえて、ご自身のものとしてくださったからです。(3:10~12)

だから今、愛と感謝を込めて、私たちはイエス様の御心と関心を自分のものとして、イエス様と御国のために生きます。(3:13~21)

さらに、私たちの罪や失敗にもかかわらず、私たちは希望と確信をもっています。それは、いつかの日、私たちがイエス様の御顔を見ることです。

その日、私たちはイエス様に似た者となります。キリストをありのままに見るからです。(ピリピ3:20〜21、第一ヨハネ3:1〜2)

それが、恵みによって立つということです。

私は、毎日そのように生きたいと願っています。

あなたは、どうでしょうか。

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ピリピ人への手紙のデボーション

イエス様のことを求める

テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。

みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。(ピリピ人への手紙2:20~21)

この言葉を読んだとき、私はこう考えました。「私はイエス様のことを求めているだろうか。」

私はつまらないことに心を奪われ、時間を浪費するのはたやすいことです。

それでも、私はイエス様のことを求めたいと心から願っています。

イエス様にとって最も大切なのは、私の人生に置かれている人々です。

テモテもパウロも、そのような関係を大切にしました。

だから、私の祈りは昨日の祈りと同じです。

天のお父さん、あなたの民への御子の心を私に与えてください。イエス様が大切にしておられることを、私も大切にしたいと願っています。

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ピリピ人への手紙のデボーション

あなたの心を持っているか

私がキリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、その証しをしてくださるのは神です。(ピリピ人への手紙1:8)

天のお父さん、私は、あなたの民へのイエス様の愛の心をもっているでしょうか。あなたは、その証しをしてくださるでしょうか。「ブルースは、私の御子と同じように、私の民について感じています。」

あなたの心を私に与えてください。あなたの民への御子の心を、私にも与えてください。

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エペソ人への手紙のデボーション

私たちはすでにそのような者だから

ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。(エペソ人への手紙5:1)

天のお父さん、その言葉が私の目に止まりました。

恐れのためではなく。

あなたの愛や受け入れを得るためではなく。

むしろ、あなたの愛に根差し、愛を土台として生きる者として、私たちはあなたに倣おうと努めます。

私たちはすでにあなたに愛されている子どもたちです。(1節)

私たちはすでにあなたの聖徒たちです。(3節)

私たちはすでにあなたにあって光です。(8節)

私たちはそのような者になろうと努める必要はありません。

私たちはすでにそのような者となりました。

そのような者として、私たちは毎日、大喜びをもって、あなたを喜ばせたいと願います。

あなたにあって、自分たちのアイデンティティを覚えていられるように助けてください。

私たちはあなたを愛しています。あなたがまず私たちを愛してくださったからです。

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エペソ人への手紙のデボーション

神の愛に根差している

そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。

そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ人への手紙3:17ー19)

最近、教会で私は「初めの愛」についてのメッセージを語りました。特に、イエス様への初めの愛を保つことがどれほど大切かについて話しました。

しかし、初めの愛を保つということは、単に聖書をもっと読み、祈り、神様に仕えるという話ではありません。

むしろ、それは、この基本的な真理に、自分自身を根差すことなのです――「神がまず私たちを愛してくださいました。」

初めの愛を保つために、私たちは毎日、神の愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを、より深く理解するべきです。

けれども、私たちは当たり前だと思っているものに自分自身を根差すことはできません。思い巡らすことのないものに根差すこともできません。

例えば、エペソ人への手紙1ー3章にあるパウロの言葉を軽く読んで、「はい、はい、もう知っている」と言ってしまうのは、とても容易なことです。

けれども今日、私はこの三つの真理を思い巡らし、心の中で把握しようとしています。

世界の基が据えられる前に、神様は私を自分の子どもとするように選んでくださいました。(エペソ1:4ー5)

私は罪の汚れのすべてから清められました。神様は私を聖なる者、傷のない者として見なしてくださいます。(エペソ1:4、7)

私は神様の作品です。神様は、私が御国に仕えるために、良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ2:10)

それらを思い巡らすとき、また、自分がそれにどれほどふさわしくないかを思うとき、私は驚きに満たされます。

パウロも、きっとそのように感じたでしょう。(エペソ3:8)

エペソ1章から3章を読むとき、あなたは「もう知っている」と言っていませんでしたか。それとも、その真理を思い巡らし、再び驚いていたでしょうか。

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エペソ人への手紙のデボーション

あらかじめ備えられた道を歩む

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ人への手紙2:10)

昨日、私は来日30年の記念日を祝いました。1995年に来たとき、これほど長く日本にいることになるとは思っていませんでした。

しかし、私が気づいてきたのは、神様が私のために日本での働きをあらかじめ備えてくださっていたということです。

そのことを思い起こすたびに、私は深く感動します。

そして神様が私に思い出させてくださったのは、まだまだあらかじめ備えてくださっている働きがあるということです。それがどのようなものであるか、私は知りませんが、その導きに注意を払い、その良い行いに歩みたいと願っています。

あなたもそのように歩むことができるように祈ります。

なぜなら、私だけではなく、私たち皆が神の作品だからです。

私たちは皆、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られました。

私たち皆が良い行いに歩むように、神様はその良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

そして、私たちは一人でではなく、むしろ共に歩むように呼ばれているのです。

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エペソ人への手紙のデボーション

霊的な記憶喪失

クリスチャンとして、忘れることは容易なことです。

神様がどれほど私たちを恵まれたかを忘れてしまいます。

世界の基が据えられる前から、神様が私たちを選んでくださったことを忘れてしまいます。

神様が私たちにふんだんに与えてくださった恵みを忘れてしまいます。

神の召しにより与えられる望みを忘れてしまいます。

私たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものであるかを忘れてしまいます。

私たちの中で働いている神の大能の力を忘れてしまいます。

私たちの王の偉大さを忘れてしまいます。イエス様は、「全ての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。」(エペソ人への手紙1:21)

だから、エペソ人への手紙では、パウロは神様が私たちの霊的な記憶喪失を癒すように祈ります。パウロは、私たちが上記の真理をしみじみと感じるように祈ります。

この箇所を読むとき、その言葉、その真理は心に響いているでしょうか。

それとも、全然何も感じていないでしょうか。あなたの心の喜びは冷めたでしょうか。

私はあなたのためにパウロの言葉を祈ります。

でも、私のためにも祈ってください。なぜなら、私も霊的な記憶喪失がある時もあるからです。

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士師記のデボーション

神中心?自己中心?

数日に渡ってサムソンの人生を考えているとき、二つのことが私の目につきました。

一つ目は、サムソンが自己中心な人生を送っていたということです。彼が敵を打ち倒したとき、イスラエルの民をある程度まで助けましたが、その助けは偶発的なものでした。彼はイスラエルの民を救おうとしていたわけではなく、彼の動機はただ復讐でした。

二つ目は、彼が神様との関係をほとんど持っていなかったということです。彼が神様に祈ったのは、助けを求めるときだけでした。

サムソンは祭壇を建てたこともなく、神様を礼拝したこともありませんでした。勝利を得たときも、それ以外のときも、神様に感謝することはありませんでした。

神様はサムソンを通して、ある程度までイスラエルの民をピリシテ人から救われました。

けれども、サムソンが人々を導くことはありませんでした。彼が自分の民と関わった唯一の場面は、彼らがサムソンをピリシテ人たちに引き渡したときでした。(士師記15:11~13)

彼は、人々を神様に従うように導くことはまったくありませんでした。むしろ、周りの人々と同じように、サムソンは自分の目に良いと見えることを行っていました。(士師記14:17;17:6)

私はそのような人になりたくありません。私の心が神様のものとなることを願います。また、周りの人々が神様に従う心を持つよう導きたいです。

あなたはどうですか。どのような人になりたいですか。

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詩篇のデボーション 士師記のデボーション

誠実に歩んで

毎日、聖書通読プランと共に、私はいつも詩篇も読みます。

今日、たまたま26篇を読みました。それを読んで、ダビデの態度とサムソンの態度の違いに気づかざるを得ませんでした。

ダビデの言葉を祈り、それに従っていたら、サムソンの人生がどれほど違っていたかを想像してみてください。

主よ、私を弁護してください。私は誠実に歩み、よろめくことなく、主を信頼しています。

主よ、私を調べ、試みてください。私の心の深みまで精錬してください。

あなたの恵みは、私の目の前にあり、あなたの真理のうちを私は歩み続けました。

私は不信実な人とともに座らず、偽善者とともに行きません。悪を行う者の集まりを憎み、悪しき者とともに座りません。

手を洗い、自らの潔白を示します。主よ、私はあなたの祭壇の周りを歩きます。

感謝の声を響き渡らせて、語り告げます。
あなたの奇しいみわざのすべてを。(詩篇26:1-7)

私はダビデの言葉を祈り、それに従いたいです。

それがあなたの願いでしょうか。

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士師記のデボーション

私たちの真の光

見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。。。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。(士師記13:5)

サムソンの名前は「小さな太陽」を意味しました。

でも、彼はやがて来られる真の光の微かな繁栄でした。

サムソンはイスラエルの民を救い始めましたが、自分の多くの欠点のゆえ、その働きを完成できませんでした。

イスラエルの真の光は、まだ来られていませんでした。(ヨハネ1:9)

しかし、2000年前、もう一人の天使がヨセフという人に現れて、こう言いました。

マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイ1:21)

私は今日、そのことを思い出して、喜んでいます。

私たちの光が来られました!

起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。(イザヤ書60:1)

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士師記のデボーション

不信の心

イスラエルは大変な苦境に立たされた。そのとき、イスラエルの子らは主に叫んだ。

「私たちはあなたに罪を犯しました。私たちの神を捨ててバアルの神々に仕えたのです。。。あなたが良いと思われるように何でも私たちにしてください。ただ、どうか今日、私たちを救い出してください。」

彼らが自分たちのうちから異国の神々を取り去って主に仕えたので、主はイスラエルの苦痛を見るに忍びなくなられた。(士師記10:9ー10、15ー16)

イスラエルの民は、どれほど心から悔い改めていたでしょうか。おそらく、その悔い改めはとても表面的だったのでしょう。

神様はそれをよくご存じでした。

それでも、神様は最終的に彼らをあわれんでくださいました。

驚くべきことは、神様がすでにイスラエルの民を滅ぼしていなかったことです。しかし、預言者マラキの言葉を通して、私たちは神様の性格を見ることができます。

主であるわたしは変わることがない。そのため、ヤコブの子らよ、 あなたがたは絶え果てることはない。(マラキ書3:6)

それが心強い言葉です。私の不信の心を知っておられても、神様はいつも真実な方です。

それでも、イスラエル人の模範に倣いたくはありません。むしろ、神様が私に真実であるように、私も神様に真実でありたいのです。

天のお父さん、私の不信の心を癒してください。

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正義を待ち望んでいる

こうして神は、アビメレクが兄弟七十人を殺して自分の父に行った、その悪の報いを彼に返された。神はまた、シェケムの人々のすべての悪の報いを彼らの頭上に返された。

エルバアルの子ヨタムののろいが彼らに臨んだ。(士師記9:56ー57)

士師記には、暗い物語が多く記されています。9章もその一つです。

それでも、私にとって心強いのは、神様が最終的に正義をもたらされることです。神様ご自身が正義をもたらされるときもありますし、この物語のように、悪が自分自身を食いつくすように仕向けられるときもあります。

しかし、神様は正義を必ずもたらされます。

この暗い世界の中で、特にウクライナやガザの混乱に関して、それが私の希望です。

その混乱をもたらした人々が地上では正義を逃れたとしても、神の御座の前に立つとき、正義を逃れることはできません。

でも、私たちはそれを本当に信じているでしょうか。この世のトラブルを目にするとき、神様が良い方であることをまだ信じているでしょうか。神様がいつかの日に、正義を必ずもたらされることを信じているでしょうか。

私はそう信じることを選びます。

あなたはどうされますか。

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士師記のデボーション

神の愛や恵みを忘れると

ギデオンが死ぬと、イスラエルの子らはすぐに元に戻り、もろもろのバアルを慕って淫行を行い、バアル・ベリテを自分たちの神とした。

イスラエルの子らは、周囲のすべての敵の手から救い出してくださった彼らの神、主を、心に留めなかった。(士師記8:33ー34)

上の言葉は士師記にあるイスラエル人の民の問題を要約しています。つまり、彼らはすぐに自分たちへの神の恵みと愛を忘れてしまったということです。

さらに、彼らは自分たちの祝福がどこから来たのかを理解していなかったようです。彼らは救いをギデオンの手柄にしてしまいました。(22節)

その結果は何でしょうか。彼らを救ってくださった神への愛と感謝は全くありませんでした。

私たちへの神の愛や恵みを忘れ、また神様がしてくださったことへの感謝や喜びを忘れると、初めの愛を失うのは容易なことです。

天のお父さん、私が決してあなたの愛と恵みを忘れず、それらを当たり前のものだと思わないようにしてください。

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士師記のデボーション

大切なのは。。。

力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。(士師記6:12)

主よ、私が霊的な弱虫ではなく、あなたのための力ある勇士となるようにしてください。

大切なのは、私の力や素性ではありません。

大切なのは、あなたが私とともにおられることです。

そして、自分の愛している者たちを敵であるサタンから解放するために、私を霊的な戦いに遣わしておられるのです。

あなたの働きを成し遂げる資格が私にはありません。それはあなたから与えられるものです。(第二コリント3:5)

さらに、あなたの力は私の弱さのうちに完全に現れるのです。(第二コリント12:9-10)

だから、その大切なことを覚えていて、戦場に走るように導いてください。

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士師記のデボーション

後悔のない歩み

ルベンの諸支族の決意は固かった。なぜ、あなたは二つの鞍袋の間に座って、羊の群れに笛吹くのを聞いていたのか。ルベンの諸支族の間には、深い反省があった。

ギルアデはヨルダンの川向こうにとどまった。ダンはなぜ船に残ったのか。アシェルは海辺に座り、その波止場のそばにとどまっていた。(士師記5:15-17)

天のお父さん、人生の終わりに、後悔のない心で自分の歩みを振り返ることができますように。

人々が敵であるサタンから虐げられていたのに、私が自己満足のまま座って彼らを無視していたという後悔。

人々に霊的なニーズが多くあったのに、私が座り、自分のところにとどまっていたという後悔。

天のお父さん、私にあなたの心を与えてください。人々を憐れむ心。人々の人生を滅ぼしている敵と戦う心。

あなたに対する熱心、イエス様が死んでくださった人々に対する熱心を与えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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士師記のデボーション

主があなたに先立って出て行かれるではありませんか

デボラはバラクに言った。「立ち上がりなさい。今日、主があなたの手にシセラを渡される。主があなたに先立って出て行かれるではありませんか。」(士師記4:14)

今日、この言葉を思い巡らしていました。「主があなたに先立って出て行かれるではありませんか。」

神様が先に導いてくださらない所に、私が行くように命じられることはありません。私が生きれば生きるほど、その真理を実感してきます。

時には、信仰のステップを進み出るのは怖いです。バラクにも怖かったし、私にも怖いのです。

でも、デボラの言葉を思い巡らして、私はこのように祈ります。

天のお父さん、あなたが良い神であることを私に何度も証明してくださいました。あなたがいつも私の先に行かれ、導いてくださることを証明してくださいました。

だから、私が前を向いて、信仰によって進み続け、あなたに従うことができるように助けてください。どうか私を導いてください。

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マルコの福音書のデボーション

イエス様が生きておられるゆえに

青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」(マルコの福音書16:6)

明日、母の葬式のためにハワイへ旅します。そして、葬式のあと、私たちは遺灰を地面に葬ります。

しかし本当のところ、母の本質は地面に葬られるのではありません。母の魂はイエス様と共にあるからです。やがて、その遺灰は地面からよみがえり、新しい体へと変えられ、母の魂と結び合わされるのです。

その体は朽ちず、死ぬことのないものとなります。

それが私の希望です。イエス様が生きておられるゆえに、母も生きるのです。(ヨハネ14:19)

そしていつか、私の体が死んでも、神の恵みによって、私も生きるのです。

Many still mourn
多くの人が今も嘆いており、
And many still weep
多くの人が今も涙を流しています。
For those that they love who have fallen asleep
眠りについた愛する人々を思って。

But we have this hope though our hearts may still ache
しかし、心がまだ痛んでいても、私たちには希望があります。
Just one shout from above
天からの大きな呼びかけによって、
and they all will awake
すべての眠る者たちは目を覚ますのです。

And in the reunion of joy we will see
喜びに満ちた再会のうちに、私たちは目にするのです。
Death will be swallowed in sweet victory.
死は、胸のすくような勝利に飲み込まれるのです。ーーボブ・ハートマン

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マルコの福音書のデボーション

私を救うために

同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。」(マルコの福音書15:31)

祭司長や律法学者たちの言葉は、いつも私の心に響きます。彼らはその言葉でイエス様をあざけりましたが、その言葉は彼らの理解を超えて真実でした。

私たちを救うために、イエス様はご自身を救うことができませんでした。むしろ、私の罪を背負って、激しい苦しみのうちに死なれなければなりませんでした。神の御怒りのすべてが、イエス様に注がれたのです。

しかし、イエス様のおかげで、神様と私の間に立っていた幕が、上から下まで真っ二つに裂けました。

私たちを救うために、イエス様がご自身を救うことを選ばれなかったことに心から感謝しています。

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マルコの福音書のデボーション

イエス様が私たちに求められること

彼女は、自分にできることをしたのです。(マルコの福音書14:8)

今日、イエス様の言葉を思いめぐらしています。ラザロの妹であるマリアは、イエス様のためにほとんど何もすることができませんでした。

敵からイエス様を守ることもできず、最高法院の前で擁護することもできませんでした。

イエス様の処刑を阻止するために、彼女にできることは何もありませんでした。

でも、マリアは自分にできることをしました。

自分が何をしているのか完全には理解していなかったとしても、イエス様によれば、マリアはご自身の葬りの日のために、その香油を取っておいたのです。

彼女が理解していたのは、イエス様を愛していること、そして兄ラザロがよみがえったことで、自分の心が感謝に満ちていたことでした。(ヨハネの福音書11~12章)

だからこそ、マリアはイエス様のために、できることをしました。

イエス様が私たちに求められるのも、ただそれだけです。

私たちにできないことではなく、

周囲の人々が私たちに期待することでもなく、

むしろ、私たちの愛と感謝の心から、イエス様に仕えるためにできることを求めておられるのです。

だから、裁きの日に、イエス様が私についてこう言ってくださるように願います。

「ブルースは、自分にできることをしたのです。」

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マルコの福音書のデボーション

生きている者の神

死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。

『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。(マルコの福音書12:26ー27)

3週間前、私の母はこの世を去りました。 おそらく、そのため、上の箇所は私の心に響きます。

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」

そして、いつかの日、天の父はイエス様のすべての敵をその足の下に置かれます。 その最後の敵は、死です。(第一コリント15:26ー27)

私は母に再び会います。

だからこそ、悲しみの中でも、喜びをもって、キリストの勝利の歌を歌っています。

死は勝利に吞み込まれた。
死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。
死よ、おまえのとげはどこにあるのか。(第一コリント15:54ー55)

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マルコの福音書のデボーション

手ぶらで去られる?

もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。。。』と言いなさい。(マルコの福音書11:3)

翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。

いちじくのなる季節ではなかったからである。(マルコの福音書11:12ー13)

今日まで、この二つの箇所の関係に気づいたことはありませんでした。

どちらの場合も、イエス様は何かを求めておられます。

しかし、前者の場合には、イエス様が求められるものを受け取られます。 後者の場合には、イエス様は何も受け取ることができません。

そして、私はこう考えていました。 「私から何か求められるとき、どれほどイエス様は手ぶらで去られるのでしょうか。」

イエス様、私から実を求められるとき、 あなたが決して手ぶらで去られないように。

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マルコの福音書のデボーション

初めの愛

けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。(ヨハネの黙示録2:4)

最近、私はこのことばを思い巡らしていました。

初めの愛の特徴とは何でしょうか。おそらく、その主な特徴は「喜び」ではないでしょうか。

では、何がその愛を芽生えさせるのでしょうか。それは、私たちに対する神の愛とあわれみです。(第一ヨハネ4:19)

今日の箇所に登場する金持ちは、そのような愛を持ったことがないように見えます。自分はすでに良い人間だと思っていて、あわれみを必要と感じることがなかったのでしょう。(マルコ10:19〜20)

だからこそ、イエス様が彼に、持ち物のすべてを売り払い、ご自身に従うよう招かれたとき、彼は喜ぶことなく、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました。(マルコ10:21〜22)

一方、弟子たちはイエス様を愛していましたが、その動機にはまだ混じりけがありました。彼らはいつもこう考えていました。

「もしイエス様に従うなら、どのような益を受け取ることができるだろうか。」(マルコ10:28、35〜37)

しかし、バルティマイがイエス様に従ったとき、彼の心は大きな喜びに満ちていました。(ルカ18:43)

なぜでしょうか。

それは、バルティマイがあわれみを求め、そして受け取ったからです。

それこそが、初めの愛です。

イエス様は私を見つめるたびに、いつくしみをもって、あわれんでくださいます。(マルコ10:21、47)

私は、そのことを決して忘れないように祈ります。 そして、その愛を、決して当たり前のものと思わないように祈ります。

あなたのためにも、私はそのように祈ります。

Because you first loved me,
あなたが私をまず愛してくださったから
Jesus, you will always be
イエス様、あなたはこれからもずっと
You will always be
これからもずっと
My first love.
私の初めの愛です ーー ボブ・ハートマン

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マルコの福音書のデボーション

自給自足?神様に頼る?

イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」

すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」(マルコの福音書9:28-29)

今日、弟子たちとその失敗について思いを巡らせていました。彼らは男の子から悪霊を追い出そうとしましたが、できませんでした。

どうしてでしょうか。彼らは自分自身の権威と力に頼っていたように見えます。「祈ろう」という発想はまったくありませんでした。

その場面を読んで、私はこう思いました。「私は、弟子たちのようにどれほど振る舞っているだろうか。神様とその力に頼ることなく、どれほど自分に頼っているだろうか。」

私の最初の本能は祈ることだろうか。自分の力を超える問題に直面するときだけでなく、どんな状況であっても、それが私の第一の反応だろうか。

天のお父さん、私が決して自分の力で生きようとせず、いつもあなたに頼って生きる者となれますように。

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マルコの福音書のデボーション

天のお父さん、私は何を堅く守っているでしょうか。

パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく。。。

あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。(マルコの福音書7:3、8)

「堅く守っている」という言葉が、今日、私の心に深く残りました。

パリサイ人やユダヤ人たちは、自分たちの言い伝えを堅く守ることで、神様のことばを軽んじ、結果として神様ご自身をも軽んじてしまいました。口先では神様を敬いながらも、その心は神様から遠く離れていたのです。

現代にも、同じような問題が存在しています。人々は「クリスチャン」だと自称しながら、神のみことばを堅く守ることができず、代わりに現代の価値観を堅く保っているのです。

その結果、彼らもパリサイ人のように、口先では神様を敬っていても、心は神様から遠く離れてしまいます。

しかし、今日、私自身のことを思い巡らしました。

私は何を保とうとしているのだろうか。 イエス様とそのみことばに、私は本当にしがみついているのだろうか。

それとも、他のものにしがみついているのだろうか。 経済的な安定?自分のプライド? あるいは、悪い態度や罪そのもの?

イエス様、どうか私の心のすべてをあなたに捧げることができるよう助けてください。 私が、あなただけにしがみついて歩むことができますように。

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マルコの福音書のデボーション

しばらく休みなさい

するとイエスは彼らに言われた。「さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」

イエスは、弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのを見て、夜明けが近づいたころ、湖の上を歩いて彼らのところへ行かれた。(マルコ6:31,48)

今日、イエス様がどれほど良い羊飼いでおられるかを思い巡らしていました。

イエス様は、いつも「仕え、仕え、仕え」と私たちに迫る方ではありません。イエス様は、私たちが御国のために何をしているかだけに関心を持っておられるわけではないのです。

イエス様は、私たちを心から愛しておられます。

だからこそ、イエス様はときにこう言われます。「少し仕えることを休みなさい。わたしと一緒に時間を過ごしましょう。」

それだけではありません。

私たちが「漕ぎあぐねている」とき、風が私たちに逆らっているとき、イエス様は私たちの苦しみに無関心でおられるのではなく、私たちのもとに来て、助けてくださるのです。

51~52節が、私の心をとらえました。

弟子たちは心の中で非常に驚いた。彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからである。(51-52)

もちろん、弟子たちは、とりわけイエス様の力に驚いていました。しかし、「パンのこと」は、単なるイエス様の力に関する教訓ではありません。

それは、良い羊飼いのように、イエス様が私たちを愛しておられるということなのです。

今日の箇所を読んで、最も印象深かったのはこの真理でした。

私の羊飼いは、私を本当に愛しておられます。

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マルコの福音書のデボーション

聞きなさい!考えなさい!

よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。(マルコの福音書4:3)

上の箇所では、ある言葉は全く翻訳されていません。一方、別の箇所では、その言葉が「見よ」や「見なさい」と訳されています(例:マタイ1:20、ルカ1:31)。

その言葉は感嘆詞であり、「次の言葉は重要なので注意して聞きなさい」という意味を含んでいます。

つまり、イエス様が語られたのは、「よく聞きなさい。考えなさい。種を蒔く人について。」ということなのです。

結局のところ、この最初のたとえ話の要点は、「聞きなさい」「考えなさい」という二つの言葉にあります。

イエス様のみことばを聞きなさい。一つの耳から入って別の耳から出てしまうことのないように。

しかし、それだけではなく、みことばを深く考えなさい。真剣に思い巡らしなさい。みことばが心の奥深くに根づくように。そうすれば、困難が訪れるとき、自分の信仰は萎えることなく、力強く保たれます。

最後に、みことばが自分の生き方を形づけるように。みことばがこの世のものによって塞がれることなく、豊かに実を結ぶように努めましょう。

私の教会では、この合言葉を大切にしています。「ヘッド・ハート・ハンド。」

神様のみことばは、あなたの頭と心と手に働いているでしょうか。

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マルコの福音書のデボーション

天のお父さん、私は脆い存在なのでしょうか

まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。

新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。(マルコの福音書2:22ー23)

天のお父さん、もしかして私は、古い皮袋のように脆い存在なのでしょうか。私があまりにも脆くて、もしあなたが人々に触れるために、御霊というぶどう酒を注がれると、私は裂けてしまうのでしょうか。

つまり、苦しんでいる人々への、あなたのあわれみと思いやりを欠いていることで、私は脆いのでしょうか。(5、17節)

また、周囲の人々をいつもさばいてしまうことで、私は脆いのでしょうか。(15ー16節)

あるいは、私の霊的な成熟度を他の人と比べることで、私は脆いのでしょうか。(18節)

天のお父さん、どうか、あなたが自由にぶどう酒を注ぐことのできる、新しい皮袋へと私を変えてください。あなたの注がれるぶどう酒が、無駄になることのないように。

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マルコの福音書のデボーション

どんな形でも、あなたとかかわっていたいです!

ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。(マルコの福音書1:24)

今日、イエス様に対する悪霊の言葉を思い巡らしていました。悪霊は基本的に、「あなたとは関わりたくないです。あなたを信頼できないし、まったく愛していないのです」と言いました。

イエス様はユダヤ人にも私たちにもそのような態度こそを悔い改めるように促しておられました。

「天のお父さんはあなたを愛しておられる。あなたの最善を望んでおられ、ご自身の愛する子として御国に招いてくださるのです。だから、神様に向けなさい。天のお父さんを信頼しなさい。」

私はイエス様を信じているのです。

だから私は、心から叫びます。

「どんな形でも、あなたとかかわっていたいです!」

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

あなたのいつくしみ深い霊が私を導いてくださいますように

御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。。。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。。。

私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。(ガラテヤ人への手紙5:18、22ー23、25)

今日の箇所を読んだとき、私はこう思いました。「単なるルールの一覧ではなく、生きておられる神の御霊に従っていて、よかった。」

なぜなら、ルールの一覧は、私の弱さを見たときに、あわれみも思いやりもまったく示してくれないからです。私の存在に心を留めてくれることもありません。

しかし、御霊は冷たく無関心なお方ではありません。むしろ、私の弱さに対して、あわれみと心遣いをもって応えてくださいます。

正直に言えば、私は御霊との関係を親しく感じるのが少し難しいです。なぜか、天のお父さんやイエス様ほどには、御霊が人格を持つお方として心に届いてこないことがあります。

けれども、御霊の実が「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」であるなら、まさに御霊ご自身がそのようなお方なのでしょう。私を見つめるとき、きっとそのような御顔を向けてくださっているのではないでしょうか。

今日、私はそのようなことを思い巡らしています。そして、私の悲しみと苦しみの中で、天のお父さんに祈っています。

あなたのいつくしみ深い霊が平らな地に私を導いてくださいますように。(詩篇143:10)

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イザヤ書のデボーション

死が滅ぼされる時

(この記事は、2011年に父が亡くなってから一年後に記したものです。昨日、母も天に召されたことを受けて、少し手を加え、あらためて共有いたします。)

多くの人々にとって、死は苦しみを伴うものです。

父の最後の週、私は毎晩、父の部屋でそばに寄り添いながら、静かに待っていました。それは、私がそれまで経験した中でも最もつらい時間でした。

そして母が召された今、私は再び同じような痛みを心に感じています。

それでも、やがて来る日には、死そのものが死に、終わりを迎える時が訪れます。

この箇所でイザヤは、イエス様の再臨について語っています。 彼はそのことに関して、次のように述べています。

この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。

神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。(イザヤ書25:7-8)

その日、すべての民が神様にこの賛美を歌います。

見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。

この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。(9)

父が亡くなった時、糖尿病や肺炎を患っていて、すでに目が見えず、足には全く治らない傷がありました。

母も肉体的な問題を抱え、断続的にうつ病と闘っていました。

しかし今、父と母のすべての健康の問題は取り去られ、彼らの苦しみと痛みは勝利に飲み込まれました(第一コリント15:54)。

今、父と母は共に救いの歌を歌い、主の食卓で食事をしています。

だから私は、苦しみの中でも喜ぶのです。

私は、父と母に再び会う日を待ち望んでいます。

There are burdens that I carry every day
私は毎日、重荷を背負って生きています。
Sometimes it makes me want to cry
時に、その重さに心がふさがれて、涙がこぼれそうになります。

In the middle of the darkness in my life
その人生の暗闇の中で
I find the strength to carry on.
私は生き続ける力を見いだします。
I am holding to a promise Jesus made
イエス様がくださった約束にしっかりと握り続けています。
And I know it won’t be long ‘til we’ll be gone.
やがて、私たちがこの世を離れる日が近づいていることを、私は知っています。

In a while, we’ll be gone.
やがて、私たちはこの世を離れる時が来ます。
And we won’t have to cry anymore.
その時、もはや涙を流すことはありません。
All our sorrows left behind.
悲しみはすべて、この世に置いていくのです。

That’s the day that I am waiting for.
その日を待っています。

That’s the day I’m longing for.
その日を願っています。

That’s the day that I am looking for.
その日を待ち望んでいます。

ーー エイミー・グラント

あなたがキリストにある希望を、さらに深く知ることができますように。

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

喜んで選ばれた

しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、 異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに(喜んで啓示してくださったとき)。。。(ガラテヤ人への手紙1:15〜16、新改訳とその脚注による)

「神がその御子を、私のうちに喜んで啓示してくださったとき。。。」

それは、なんと驚くべきことばでしょう。

いったい、なぜ神様が、その御子を私のうちに啓示してくださるのでしょうか。

おそらく、パウロもそのように自問自答したのではないでしょうか。

彼はかつて、冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした(第一テモテ1:13)。

異邦人に御子を啓示するために、神様はもっとふさわしい人を選ぶこともできたはずです。

それでも、神様はパウロを選ばれました。

しかも、ただ選ばれただけでなく、喜んでパウロを選ばれたのです。

このことばを読むと、私は希望を抱かずにはいられません。

神様は、この世にご自身を啓示するために、私たちすべてを神殿とし、また祭司として召しておられるのです。

しかし、自分自身を振り返ると、私の中にはさまざまな過ちや、目立つひびのある壁が見えるのです。あなたも、そう感じるときがあるのではないでしょうか。

ご自身を啓示するために、神様はきっと、私たちよりももっとふさわしい人を、神殿や祭司として選ぶこともおできになるでしょう。

それでも、神様は私たちを、いやいやながらではなく、喜んで選び、御子を私たちのうちに啓示してくださいます。

それがなんと不思議な恵みでしょう。

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ヨシュア記のデボーション

それゆえ。。。

それゆえ、いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって。。。主に仕えなさい。(ヨシュア記24:14、口語訳)

「それゆえ、今。。。」

新改訳聖書では単に「今」と訳されていますが、原語には「それゆえ」というニュアンスが含まれている場合もあります。

私が14節を読んだとき、最初に心を留めたのは、「まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕えなさい」という命令のことばでした。その一文が強く印象に残ったのです。

けれども、二度目に読んだとき、「それゆえ」という語に目がとまりました。

この「それゆえ」は、いったい何を指しているのでしょうか。

その直前で、ヨシュアは神様がどれほどイスラエルの民を祝福し、恵みを与えてこられたかを語っていました。

そして、そのすべてを語り終えたとき、ヨシュアはこう命じるのです。

「それゆえ、いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕えなさい。」

それに気づいたとき、私はもうひとつの聖書の箇所を思い出しました。

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ書12:1)

私たちのすべてを神様に捧げること。偶像や罪を捨て、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして神様を愛すること。これらの命令に目を留めるのは、容易なことです。

もちろん、それらはとても重要です。しかし、私たちは「それゆえ」や「ですから」という語を見落としてはなりません。

だからこそ、まず、この2つの真理に心を向けましょう。

神様は、私たちに、なんと祝福してくださったことでしょう。

神様は、私たちに、なんと恵みとあわれみを与えてくださったことでしょう。

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ヨシュア記のデボーション

自分自身に気を付けなさい

だからあなたがたは自分自身に十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。(ヨシュア記23:11)

今朝、私はそのことばに心を打たれました。

「自分自身に気を付けなさい。」

それだけでなく、「自分自身を十分に気を付けなさい」とも語られています。

何のためでしょうか。

それは、私のすべての思い、言葉、そして行動が、神への愛を映し出すものとなるためです。

今朝の私の心はやや騒がしく、態度も正しくありませんでした。

期末テストがあるのに、娘はかぜを引いて、私はそのことをすこし心配しています。また、職場でもいくつかイライラすることがあり、心が乱れました。

けれども、今日の聖書箇所を読んで、心をもう一度正しい方向へ向け、 何が本当に大切なのかを思い起こそうとしています。

それは、神を愛すること。 そして、周囲の人々を愛することです。

私たちは、自分の状況や感情に簡単に引きずられてしまいます。

だからこそ、ヨシュアの言葉を心に刻んでおきましょう。

「自分自身に気を付けなさい。」

そして――「あなたがたの神、主を愛しなさい。」

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ヨシュア記のデボーション

神のことばを一言も省かずに

主がそのしもべモーセに命じられたとおりに、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりに行った。主がモーセに命じられたすべてのことばを、彼は一言も省かなかった。(ヨシュア記11:15)

ヨシュア記には、いくつかの有名な箇所があります。 第1章5〜9節と第24章15節は、特に有名です。

けれども、私はこの箇所も気に入ります。「主がモーセに命じられたすべてのことばを、彼は一言も省かなかった。」

私も、そのような人になりたいのです。 特に、罪に向き合うときにこそ、そうありたいと願います。

私は、言い訳をしたくありません。 自分の罪を軽く見たくもありません。 むしろ、ヨシュアとイスラエルの民がカナン人とその悪を根絶やしにしたように、 私も自分の罪を根絶やしにしたいのです。(レビ記18章、特に24〜25節)

天のお父さん、どうか私の罪を根絶やしにするよう助けてください。 あなたが命じられたすべてのことばを、私は一言も省かない者となることができますように。

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ヨシュア記のデボーション

裁きの日

ヨシュアはその全地、すなわち、山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地、そのすべての王たちを討ち、一人も残さなかった。息のある者はみな聖絶した。イスラエルの神、主が命じられたとおりであった。(ヨシュア10:40)

正直に言えば、上の言葉には腑に落ちない思いを覚えるかもしれません。なぜ神様はそのような命令を出されたのでしょうか。

一言で言えば、それは「さばき」です。

人が聖絶されるとは、その人が神のさばきの下にあり、滅びるべきものとして神の前に定められたことを意味します。

したがって、イスラエルの民がアモリ人の命を奪ったのは、自分たちの都合によるものではなく、神様ご自身のさばきを執行したということなのです。

アモリ人たちは、何のためにさばかれたのでしょうか。

それは、自分たちの罪のゆえです。

レビ記18章で、神様はその罪を具体的に示され、「その地は、そこに住む者を吐き出す」と語られました(レビ記18:24〜25)。

とはいえ、神様は忍耐深く、アモリ人の悔い改めを約400年の間、待っておられました(創世記15:13〜16)。

それでも、彼らは決して悔い改めようとはしませんでした。

そして、その罪が満ちたとき、さばきが下されました。神様は、アモリ人たちをことごとく討つように、ヨシュアとイスラエルの民に命じられました。

前回の記事では、私は述べました。聖書のことばの全体が、神の愛とあわれみについての心強いメッセージだけではないということです。さばきについての厳しいことばもあるのです。

もちろん、神様は忍耐深いお方です。神様はだれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(第二ペテロ3:9)。

しかし、アモリ人たちのように、人々が悔い改めようとしないなら、最終的にさばきは訪れます。

だからこそ、私たちは自分の罪を決して軽く見ないようにしましょう。

さばきの日が来ることを心に留めておきましょう。

そして、ペテロのことばをしっかりと心に刻みましょう。

しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。

このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。

そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。(第二ぺテロ3:10ー12)

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ヨシュア記のデボーション

御言葉が厳しくても、心強くても

その後、ヨシュアは、みおしえの書に記されているとおりに、律法のすべてのことばを、祝福ものろいも読み上げた。

モーセが命じたすべてのことばの中で、ヨシュアが。。。読み上げなかったことばは、一つもなかった。(ヨシュア記8:34ー35)

そのことばは、私の心に響きました。

ヨシュアは、自分が気に入った聖書の箇所だけでなく、 厳しい内容の箇所も、すべて読んでいました。

聖書のすべての箇所が、神の愛とあわれみだけを語っているわけではありません。心強いことばばかりで満ちているわけでもないのです。

神のさばきと正義についての、厳しいことばも含まれています。

そして、その真理を忘れてしまうと、アカンのように、私たちは自分の罪や、神様ご自身を軽く見てしまうかもしれません。(ヨシュア記7章)

しかし、より大切なのは、厳しくても励ましに満ちていても、 神のことばのすべては、私たちの益のためであるということです。

だからこそ、気に入った心強いみことばだけでなく、ヨシュアのように、そのすべてを読みましょう。

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ヨシュア記のデボーション

自分の冠をイエス様の前に投げ出す

ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」

彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」

ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」(ヨシュア記5:13ー14)

ヨシュア記5章には、さまざまな素晴らしい真理が記されています。

神様が恥辱を私たちから取り除かれるという概念が、私は大好きです(9節)。

また、神様を信頼し、従わなければ、私たちは霊的な荒野をさまよい、神様が用意してくださった良い計画を知らずに終わってしまう、という真理についても考えさせられます。(6節)

でも、この章を読むたびに、私はなぜか13〜14節に目が引かれます。このブログでも、その節について5度も書いたことがあるのです。

ヨシュアは神の民の指導者でした。しかし、主の軍の将(多くの聖書学者は、彼こそイエス様であると信じています)が現れると、ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、こう尋ねました。 「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」

今日、この場面を読んだとき、私は黙示録4章を思い出しました。

また、これらの生き物が栄光と誉れと感謝を、御座に着いて世々限りなく生きておられる方にささげるとき、二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。

また、自分たちの冠を御座の前に投げ出し(ました)。。。(黙示録4:9ー10)

二十四人の長老たちが神の御座の前にひれ伏し、自分たちの冠を御座の前に投げ出したように、ヨシュアもまた、自分の冠を主の軍の将の前に投げ出し、神のご支配に従いました。

今日、私もそのように応答しました。

イエス様、私の冠をあなたの前に投げ出します。あなたは私の王です。私はあなたのご支配に従います。何をこのしもべに告げられるのですか。

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ヨシュア記のデボーション

これはどういうものなのですか

後になって、あなたがたの子どもたちが『この石はどういうものなのですか』と尋ねたとき、 あなたがたは彼らにこう言いなさい。

『ヨルダン川の水が主の契約の箱の前でせき止められたのだ。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水はせき止められた。この石はイスラエルの子らにとって永久に記念となるのだ。』(ヨシュア記4:6ー7)

日曜日、私の牧師はアブラハムの割礼について語りました。 その割礼によって、アブラハムは神様との関係を常に思い起こされていました。

今日の箇所に登場するヨルダン川から取られた石々も、同じような目的を果たしていました。 その石を通して、イスラエルの民は神様との関係を、特に主がなしてくださったみわざを、いつも思い出していたのです。

礼拝の中で、牧師は私たちに問いかけました。 「あなたと神との関係を思い起こさせるものは何ですか。」

私は今、自分の洗礼式の記念写真のことを思い浮かべています。 その写真は、押し入れの箱の中にしまわれています。 ガラスの枠は割れてしまいましたが、写真そのものは今も残っています。

そして私は、こんな問いを心に抱きました。 「どうして、その写真は箱にしまわれたままなのだろうか。 あの写真は、私にとって何を意味しているのだろうか。」

実際、この写真は私にとって、とても大切な転換点を表しています。

正直に言うと、私はバプテスマを受けた当時、その意味を完全には理解していませんでした。「私はクリスチャンです」と宣言することは知っていましたが、それ以上のことはあまりわかっていなかったのです。

それでも、今でもはっきり覚えている場面があります。 牧師が私にこう尋ねました。「なぜ、バプテスマを受けたいのですか。」

私はこう答えました。「神様をもっと知りたいのです。」

振り返ると、それはとても不完全な答えだったと思います。 でも、神様はその答えを受け入れてくださいました。

バプテスマの直後、神様はさまざまなかたちでご自身を私に現してくださいました。

そろそろ、あの写真を箱の中から出して、目につく場所に飾り直してもいいのではないかと思っています。

あなたはどうですか。 あなたと神様との関係を思い起こさせるものが、あなたの身の回りにあるでしょうか。 神様がしてくださったことを思い返させるような、大切な記念はあるでしょうか。

箱から取り出し、もう一度目に見えるところに置くべきものは、ありませんか。

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ヨシュア記のデボーション

通ったことがない道をたどっているから

あなたがたの神、主の契約の箱を見、さらにレビ人の祭司たちがそれを担いでいるのを見たら、自分のいる場所を出発して、その後を進みなさい。

あなたがたが行くべき道を知るためである。あなたがたは今まで、この道を通ったことがないからだ。ただし、あなたがたと箱の間に二千キュビトほどの距離をおけ。。。

ここに来て、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい。(ヨシュア記3:3ー4、9)

今日の箇所を読んでいると、最近暗記した詩篇のことを思い出しました。

朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。

行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。

主よ、私を敵から救い出してください。私はあなたのうちに身を隠します。

あなたのみこころを行うことを教えてください。あなたは私の神であられますから。

あなたのいつくしみ深い霊が平らな地に私を導いてくださいますように。(詩篇143:8ー10)

カナンに入るとき、イスラエルの人々がその歌を歌っていたことを想像できます。 しかし今、その歌は私の祈りでもあります。 未来は、私が一度も通ったことのない道です。知らないことが多すぎます。

さらに、サタンは私に見えない多くの罠を仕掛けようとします。 けれども、神様は先の道をよくご存じです。

だから私は、神様に近づきたいです。神様に近づかなければならないのです。 神の御ことばに耳を傾けるために、 神の御心を知るために、 そして、毎日毎日、一瞬一瞬、御霊に導かれるためです。

そのような歩みは、どうすれば実現できるのか、正直に言うと、私はまだその途上にあります。 しかし、私は毎日祈りつづけています。

朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。

行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。

主よ、私を敵から救い出してください。私はあなたのうちに身を隠します。

あなたのみこころを行うことを教えてください。あなたは私の神であられますから。

あなたのいつくしみ深い霊が平らな地に私を導いてくださいますように。(詩篇143:8ー10)

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使徒の働きのデボーション

御国への熱心

パウロは、神の国のことを証しし、モーセの律法と預言者たちの書からイエスについて彼らを説得しようと、朝から晩まで説明を続けた。

ある人たちは彼が語ることを受け入れたが、ほかの人たちは信じようとしなかった。(使徒の働き28:23ー24)

この言葉を読んで、私はパウロの熱心に気づかざるをえません。 神の御国へ導こうとするパウロの熱心は驚くべきものです。

パウロのメッセージを信じる人もいれば、信じない人もいました。しかし、信じるか信じないかに関わらず、パウロの熱心が消えることはありませんでした。

私もそのような熱心を持ちたいと思います。

使徒の働きの最後のいくつかの章を読みながら、コリントの信徒たちに対するパウロの言葉を思い起こしていました。 特に、第二コリント5章では、パウロは自分の動機をはっきりと説明しています。

そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。

そのため、主を恐れることを知っている私たちは、人々を説得しようとしています。。。(24章に登場するフェリクスのことを考えてください。)

私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。 (26章に登場するフェストゥスのことを考えてください。)

というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。(コリント人への手紙第二5:9ー11、13ー15)

天のお父さん、どうかパウロが持っていた御国への熱心を与えてください。キリストの愛に捉えられ、キリストへの愛に動かされ、そして周囲の人々へのキリストの愛に押し出されて、御国のために仕える者とならせてください。

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使徒の働きのデボーション

疲れた者を励ます言葉

神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まして、 私が弟子として聞くようにされる。(イザヤ書50:4)

最近、上の言葉を暗記しようとしています。

そこで、使徒の働き27章を読んだとき、イザヤの言葉はパウロに当てはめられる、とふと思いました。

パウロが神の声を聞くために、神様はその耳を呼び覚ましてくださいました。(使徒の働き27:23ー24)

また、疲れた者をことばで励ますため、神様はパウロに弟子の舌を与えてくださいました。(使徒の働き27:25、33ー36)

私もそのような人になるように願っています。

天のお父さん、あなたの御声に気づくために私の耳を呼び覚ましてください。そして、疲れた者をことばで励ますために弟子の舌を与えてください。

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使徒の働きのデボーション

私の神は小さすぎる?

神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいこととお考えになるのでしょうか。(使徒の働き26:8)

今日、私の心はその言葉に打たれました。

もちろん、私は復活を信じています。しかし、別の意味で、私の心の中で神様を小さく捉えてしまっているのではないでしょうか。

今日、私の同僚のために祈っていました。けれども、その祈りの途中でふと考えました。

「私は祈っているけど、神様がこの願いを聞き届けてくださると、本当に信じているだろうか。もしかすると、ただ希望的観測を口にしているだけなのではないか。」

私はそのような祈り方をしたくありません。私の神は偉大なお方です。そのことを心に留めて、信仰をもって祈りたいのです。

I have made you too small in my eyes.
私は私の目の中であなたを小さくしてしまいました。
O Lord, forgive me.
主よ、赦してください。
And I have believed in a lie
そして、私は嘘を信じてしまいました。
that you were unable to help me.
あなたは私を助けることができないと。

But now O Lord, I see my wrong.
しかし今、主よ、私は自分の過ちを悟ります。
Heal my heart and show yourself strong.
私の心を癒し、ご自身の力を現してください。

And in my eyes and with my song,
そして、私の目においても、私の歌においても、
Be magnified, O Lord.
主よ、あなたが大いなるお方として現れますように。
Be magnified, O Lord
主よ、あなたが褒め称えられますように。

ーードン・モーエン

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使徒の働きのデボーション

イエス・キリストに上訴します!

すると、パウロは言った。「私はカエサルの法廷に立っているのです。。。私はカエサルに上訴します。」(使徒の働き25章)

「法廷」という言葉は、聖書の別の箇所では「さばきの座」と訳されています。特に、「神のさばきの座」(ローマ14:10)と「キリストのさばきの座」(第二コリント5:10)です。

それゆえ、今日の箇所を読んだとき、私の心にはこの思いが浮かびました。

パウロがカエサルのさばきの座の前に立ったように、ある日、私たちも神のさばきの座の前に立たなければなりません。そのとき、サタンは私たちに対して、容赦ない告発を突きつけてくるでしょう。

しかし、パウロへの告発とは異なり、サタンの告発は正当なものであり、私たちは死に値する者です。なぜなら、私たちは確かに多くの罪を持っているからです。

それでも、私たちは神の子として宣言できます。「私はイエス・キリストに上訴します!」

そして、十字架で流されたイエス様の血によって、神様は私たちに対し「無罪」との判決を下してくださるのです。

これは、なんと素晴らしい真理でしょうか。

だからこそ、サタン、または自らの良心さえも容赦なく私たちを責めるとき、大胆に叫びましょう。

「私はイエス・キリストに上訴します!」

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健全な良心にしたがう(2)

そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。(使徒の働き24:16)

23~24章では、パウロが健全な良心に従うことについて二度語っています。(23:1)

なぜ、パウロにとってそれがそんなに重要だったのでしょうか。

おそらく、三つの理由がありました。

第一の理由は、復活の希望があり、いつか必ずさばきの御座の前に立たなければならないと確信していたからです。(15節)

パウロは、コリントの信徒たちにこう記しました。

そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。(コリント人への手紙第二5:9ー10)

しかし、パウロは主への恐れだけでなく、主の愛を深く知っていました。だからこそ、彼はこれも記したのです。

というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。(コリント人への手紙第二5:14ー15)

そして、最後の理由は、健全な良心に従うことで、汚点のない証しを守ることができると知っていたからです。

パウロがフェリクスに神のさばきについて語ったとき、フェリクスは恐れました。(使徒の働き24:24ー25)

もしかすると、フェリクスが賄賂を求めた理由のひとつは、パウロの証しの力を弱めるためだったのかもしれません。つまり、もしパウロが賄賂を渡そうとしたのなら、彼は神のさばきを本当に信じていなかったということになったでしょう。

しかし、パウロは健全な良心を保ち続けたため、その証しは揺らぐことなく立ち続けました。

健全な良心を保つことは、私たちにとってどれほど重要でしょうか。

天のお父さん、私がいつも健全な良心を保てるように導いてください。あなたへの恐れのためです。あなたの愛のゆえです。そして、人々があなたへと引き寄せられるための、汚点のない証しを守るためです。

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健全な良心にしたがう

パウロは、最高法院の人々を見つめて言った。

「兄弟たち。私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました。」(使徒の働き23:1)

今日の箇所を読んだとき、「パウロの言葉を言うことができたらいいのに」と思いました。

もちろん、そう言うときに、傲慢で独善的な態度を取ってはいけません。

実際、私たちは健全な良心に従おうとしても、時にはひどいことをしてしまうことがあります。パウロは、他の多くの人々以上に、そのことを理解していたでしょう。(第一テモテ1:13〜14)

しかし、私は決して自分の良心に反して故意に罪を犯したくありません。

むしろ、自分の罪を見いだすとき、私はパウロのように柔らかい心を持ち、すぐに悔い改めたいです。(使徒の働き23:5)

だから、これはいつも私の心の祈りです。

だれが、自分の過ちを悟ることができるでしょう。

どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと、私の心の思いとが御前に受け入れられますように。主よ、わが岩、わが贖い主よ。」(詩篇19:12〜14)

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何をためらっているの?

さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。(使徒の働き22:16)

今まで気づいていませんでしたが、サウロはバプテスマを受けることをためらっていたようです。

なぜでしょうか。

もしかすると、過去のことを思い出し、罪悪感を抱いていたのかもしれません。

「神様は私のような者を愛することができるのだろうか?」と考えていたかもしれません。

「神様は御国のために私のような者を本当に用いることができるのだろうか?」と悩んでいたのかもしれません。

もしかすると、あなたもサウロのようにバプテスマを受けることをためらっているかもしれません。自分の罪や弱さ、また疑いを感じているのではないでしょうか。

もしかしたら「私はまだ聖書について十分に理解していない」と思っているかもしれません。

「クリスチャンとしてちゃんと歩めるだろうか?」と不安に感じているかもしれません。

しかし、ためらわないでください。バプテスマを受ける前に、完全な人など誰もいません。完全な信仰を持つ人もいません。神様とそのみ言葉を十分に理解している人もいません。

私はクリスチャンとして40年以上歩んできましたが、それでもなお、これらを達成したとは言えません。

神様が望まれるのは、あなたがご自身と共に歩み始めることです。そして、神様との旅は<ひとつの決断から始まります。 「イエス様、私はあなたを主、救い主として信じ、従いたいです。」

もし、あなたがこの言葉を心から言うことができるなら、アナニアの言葉はあなたにも適用されるのです。

さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。(使徒の働き22:16)

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知らずに礼拝している?(2)

この人は主の道について教えを受け、霊に燃えてイエスのことを正確に語ったり教えたりしていたが、ヨハネのバプテスマしか知らなかった。。。

それを聞いたプリスキラとアキラは、彼をわきに呼んで、神の道をもっと正確に説明した。(使徒の働き18:25ー26)

その言葉を読んだとき、私は「アポロも、ある意味で知らずに神様を礼拝していたのではないか」と思いました。

彼はある程度までイエス様のことを知り、熱心に語り教えていましたが、神様についての知識にはまだ欠陥があったようです。

しかし、多くのアテネ人とは異なり、アポロはその欠陥を埋めたいと切に求めていました。そして、その欠陥が埋められることで、アポロは神様をさらに深く知り、神様は御国のために彼をより効果的に用いることができました。(使徒の働き18:27ー28)

あなたはどうでしょうか。あなたはイエス様を知り、熱心に仕えているかもしれません。けれども、私たちは皆、神様についての知識にはまだ欠陥があります。

その欠陥を残したまま満足しているでしょうか。それとも、積極的にその欠陥を埋めようと努めているでしょうか。

イエス様はこう言われました。

しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。

神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23ー24)

だからこそ、神様についての知識に欠陥を残したまま生きるのではなく、積極的にその欠陥を埋めていきましょう。そうすることで、神様が望まれるように、私たちは御霊と真理によって礼拝する者となるのです。

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知らずに礼拝している?

あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております。 。。あなたがたが知らずに拝んでいる。。。(使徒の働き17:22ー23)

今日、上記の言葉を思い巡らせていました。アテネ人たちは宗教心が厚い人々でしたが、何を拝んでいるのかを知りませんでした。彼らの神様についての概念は大きく誤っていたため、パウロはその考え方を正そうとしました。

サマリア人たちも同じ問題を抱えていました。イエス様はあるサマリア人にこう言われました。

あなたがたは知らないで礼拝しています。(ヨハネ4:22)

もちろん、多くの人々は神様について誤った考えを持っています。

しかし、ある意味では、私たちクリスチャンも神様を知らないまま礼拝していることがあるでしょうか。

言い換えると、私たちの神様についての知識には、どれほど欠陥があるのでしょうか。また、私たちの個人的な経験によって、神様への理解はどれほど歪められているのでしょうか。

私たちの多くは、神様が自分たちの天のお父さんであることを理解しています。

けれども、父親との関係によって、「天のお父さん」というイメージがどれほど歪められているでしょうか。

また、私たちは神様が良い王であることを主張します。しかし、この世のリーダーたち、さらには教会のリーダーたちが自分の権力を乱用していることで、私たちはどれほどその概念に違和感を抱いているでしょうか。

私は神様について健全なイメージを持っていると思っています。それでも、私の神様についての知識にはまだ欠陥があるでしょうか。

その欠陥のために、私はどれほど神様に従うことをためらっているでしょうか。

その欠陥のために、私はどれほど神様に信頼することをちゅうちょしているでしょうか。

神様が私をどのように見ておられるかを知らないために、私はどれほど周囲の人々の称賛を求めているでしょうか。

私の人生には、そのような葛藤が見られます。それは、ある意味で、私がまだ神様を知らないまま礼拝しているからでしょうか。

だから今日、このように祈ります。

天のお父さん、私があなたをもっと深く知るように導いてください。あなたについての知識の欠陥を埋めてください。あなたをありのままに見たいのです。

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鎖が砕かれるように

すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。(使徒の働き16:26)

この言葉を読んだとき、私は、鎖が砕かれ、自由にされる必要のある人々のことを考えていました。

ある人は、傷つき、怒りや苦々しい思いに縛られています。別の人は、混乱や不安に縛られています。

また、自己肯定感が低く、自分が不十分だと感じ、縛られている人々もいます。

罪に縛られている人々もいます。

私が気づいていないだけで、サタンは別の鎖によってさらに多くの人々を縛っているのかもしれません。

そこで、今日、神様は私に思い起こさせてくださいました。「わたしはその鎖を砕きたい。」

リディア、悪霊に取りつかれた女性、囚人たち、そして看守の鎖を砕かれたように、神様は私の周囲の人々の鎖を砕くことを望んでおられます。

だから今、私は彼らのために祈っています。彼らにとって、私が天と地の交わる場所となるように祈っています。彼らにどのように触れ、助けることができるか、神様に尋ねています。

あなたの周りには、鎖に縛られた人々がいるのではないでしょうか。あなた自身は鎖に縛られているでしょうか。

神である主の霊がわたしの上にある。。。心の傷ついた者を癒やすため、 主はわたしに油を注ぎ、 わたしを遣わされた。 捕らわれ人には解放を、 囚人には釈放を告げ(ます)。。。(イザヤ書61:1)

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恵みを与える人

興味深いことに、パウロは恵みによる救いの概念のために激しく戦いましたが、マルコに対してはほとんど恵みを示しませんでした。

以前の宣教旅行で、マルコは途中で一行から離れ、パウロとバルナバを失望させました。彼の理由ははっきりしていませんが、いずれにせよ、パウロは彼にセカンドチャンスを与えようとしませんでした。

この話を読んだとき、私はこう考えました。「私はどれほどパウロのように振る舞うだろうか。人々が私の基準に達せず、私をがっかりさせるとき、どれほど彼らに恵みを与えないことがあるだろうか。」

おそらく、それは数えきれないほどあるでしょう。

しかし、私は恵みを与える人になりたい。特に、キリストにある私の兄弟姉妹に対して恵みを示す者になりたい。

あなたは恵みを与える人でしょうか。

兄弟姉妹が私たちをがっかりさせるとき、心に留めておくべきことがあります。

神様は彼らの心を知っておられます。そして、彼らの弱さや失敗にも関わらず、御霊は私たちのために証されたように、彼らのためにも証し、「あなたは神の子です」と語っておられます。

神様は私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださいました。(使徒の働き15:8-9)

だから、彼らが私たちをがっかりさせるとしても、神様が彼らに、そして私たちにも注がれた恵みを示しましょう。

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熱心に祈り続けている?

こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。(使徒の働き12:5)

今日の箇所を読んだとき、私はクリスチャンたちの姿について考えました。彼らはヤコブのために熱心に祈りましたが、彼はヘロデによって殺されました。

それでも、ヘロデがペテロを拘束したとき、教会はペテロのために祈りました。そしてただ祈っただけでなく、熱心に祈りました。

そのことを考えながら、私は自問しました。 「神様の答えが遅く感じられるとき、私はどれほど熱心に祈り続けているだろうか。

そして、神様が『ノー』と答えられたことを思い出しながらも、それでも私は同じ熱心さで祈り続けているだろうか。」

今、私は二人の友人のことを考えています。彼らのためにずっと祈っていますが、今のところ神様の答えはまだ来ていません。

熱心に祈るときもあれば、あまり熱心に祈らないときもあります。

もちろん、熱心に祈ったからといって、必ず神様がその祈りを聞き届けてくださるとは限りません。

また、祈りの熱心さが、私の信仰の深さを証明するものとは限りません。(15-16節を読んでみてください。)

しかし、祈りの熱心さは、このような態度を表します。

「天のお父さん、私にとってこの問題は非常に重要です。あなたが私の願いを聞いてくださることを信じます。 あなたが私を愛してくださることを信じます。 だからこそ、私はあなたを信じて、すべてをあなたに委ねます。」

今日、そのような態度を持って、私は友人のために祈りたいと思います。

あなたはどうでしょうか。熱心に祈り続けていますか。

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パリサイ人のように聞こえることがる?

そこで、ペテロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちが、彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところに行って、彼らと一緒に食事をした」と言った。(使徒の働き11:2ー3)

その言葉を読んだとき、私はこう考えました。 「彼らは、どれほどパリサイ人のように聞こえたのか気づいていたのだろうか。」

イエス様が「罪人」とともに食事をされたとき、パリサイ人たちは彼を激しく批判しました。(ルカ5:30;15:2)

割礼を受けているクリスチャンたちは、このような話を何度も聞いてきたでしょう。そして、おそらくこう思っただろう。 「私は決してパリサイ人のような態度を取ることはない。」

しかし、彼らはペテロを非難するとき、自分たちがまさにパリサイ人のような態度を取っていることに気づいていたのでしょうか。

そして、私は自分自身について考えました。 私はパリサイ人のように聞こえることがあるのだろうか。

たとえその瞬間がなくても、私は気づかないうちに、他の罪深い態度を持っているのではないだろうか。

聖書の登場人物について読むとき、私は「決してこの人のように振る舞うことはない」と思いながらも、気づかぬうちに同じようなことをしているのではないだろうか。

私は今、その答えを知りません。

しかし、私はこのように祈ります。

天のお父さん、私の心を私自身に明らかにしてください。 私が気づいていない罪深い態度や行為を示してください。 どうか私をあなたのようにしてください。

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神の選びの器

聖書を読んだとき、「この言葉は私には当てはまらない」と思うのは、簡単なことかもしれません。

使徒の働き9:15を読むと、おそらく多くのクリスチャンは同じように考えるでしょう。神様はアナニアにこう語られました。

あの人(つまり、サウロ)は、わたしの名を異邦人、王たち、イスラエル人の子の前に運ぶ、わたしの選びの器です。

もちろん、神様はサウロについてその言葉を語られました。しかし、神様はあなたにも似たことを語られています。あなたも神様の選びの器であり、神様の御名を周囲の人々の前に運ぶように召されています。

けえども、それを本当に信じているでしょうか。

多くのクリスチャンは、それを信じていません。そのため、ミニストリー(特に福音を述べ伝えること)をプロに任せてしまいます。

さらに、自分が神様の選びの器だと信じていないため、聖書をあまり読まず、祈ることもしないでしょう。

しかし、神様はあなたにこう語られています。

「あなたは、わたしの名を周囲の人々の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼らにとって、あなたは天と地の交わる場所となりなさい。彼らがわたしに出会える場所となりなさい。」

もし神様があなたにそう語られていることを本当に信じたら、あなたの人生はどれほど変わるでしょうか。

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三つの質問

そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが分かりますか」と言った。(使徒の働き8:30)

ピリポの質問は本当に印象的です。少し想像してみてください。

あなたが聖書を読んでいると、ピリポが近づき、こう尋ねます。

「あなたは、読んでいることが分かりますか。」

あなたはどのように答えるでしょうか。

宦官と同じように、「私はさっぱりわからない」と答えることは、まったく問題ありません。

しかし、あなたはどれほど理解したいと思っていますか。分からない部分について積極的に尋ねるほど知りたいのですか。

宦官は本当に理解したかったので、ピリポを自分の隣に座らせ、謙虚に聖書の解説を願いました。

けれども、もっとも重要な問いは、「私は理解した真理をどのように扱っているのか」ということです。

ピリポの教えを通して、宦官は悟りました。

「私はイエス様を信じなければならない。そして、その最初の一歩はバプテスマを受けることだ。」

だから彼はすぐにバプテスマを受けることを願ったのです。

イエス様はこう語られました。

ですから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人はさらに与えられ(ます)。。。(ルカの福音書8:18)

言い換えれば、私たちが理解を求め、さらに、すでに知っている真理を実践すると、イエス様はさらに多くの御言葉を私たちに明らかにしてくださいます。

宦官はそれを経験しました。

では、私たちはどうでしょうか。おそらく、理解できない聖書の箇所が多くあるでしょう。もちろん、それらの箇所について理解を求めるべきです。

しかし、私たちはすでに理解している真理をどう扱っているでしょうか。私たちはイエス様に「はい」と答え、その御言葉に従っているでしょうか。

だからこそ、挑戦してみましょう。次に聖書を読むとき、自問してみましょう。

  1. 私は、読んでいることが分かりますか。
  2. 私は、この分からないところについて誰かに尋ねるほど理解したいのですか。
  3. 私は、すでに理解していることについてどうするのですか。
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神に出会える場所となる(3)

使徒の働き6章を読むたびに、ステパノについての記述が私の心に響きます。

「御霊に満ちた。」

「知恵に満ちた。」

「信仰に満ちた。」

「恵みに満ちた。」

「力に満ちた。」

今日、この言葉を読んで、私はこう考えました。

「もし私が、周囲の人々にとって神に出会える場所となりたいのなら、そのような人にならなければならない。」

しかし、ステパノはどのようにして、このような人物となったのでしょうか。

おそらく、その理由の一つは、彼が他のクリスチャンたちと同じように、御言葉と祈りに専念したからです。(使徒の働き2:42)

この二つの事柄は、12人の使徒たちのミニストリーの中心でした。(使徒の働き6:4)

ステパノは聖書に精通するにつれて、その知恵を深めていきました。

祈りによって、御霊と強く結ばれ、恵み、力、そして信仰に満ちるようになったのです。

だから、私は御言葉と祈りのために、もう少し時間を取る必要があると思います。もしかしたら、もっと多くの時間を取るべきなのかもしれません。

もちろん、私は仕事の責任、家族の義務、そして他にも果たすべき事柄があります。

しかし、もしかすると、神様が今、私に静かに語りかけておられるのではないかと思います。

「もう少し時間をちょうだい。もう少し時間を与えてくれないか。コンピューターの時間、YouTubeの時間、ポッドキャストの時間をもう少し減らして、私と過ごす時間を増やしてほしい。」

もしかしたら、神様はあなたにも同じようなことを語っておられるかもしれません。

あなたはどう思いますか。

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神様に出会える場所となる(2)

彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。(使徒の働き4:13)

今週の記事を読んでいるなら、「神様に出会える場所」という言葉が私の心に深く残っていることに気づいたでしょう。

つまり、私たちは天と地が交わる場所となるべきです。私たちを通して、周囲の人々は神様に出会うことができるはずです。

上記の箇所で、その真理をもう一度思い出しました。

私は、単なる「いい人」として知られることを望んでいません。

むしろ、「イエスとともにいた人」として知られることを願っています。

私は、御霊の愛と力に満たされ、見たことや聞いたことを語らずにはいられず、神の愛によって人々に触れたいと願っています。

天のお父様、私がそのような人となりますように。 ただ「いい人」であることに満足するのではなく、私が出会うすべての人が、私がイエス様とともにいたことを感じられるように。

そして、私を通して、彼らがあなたに惹かれ、あなたに出会うことができますように。

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神様に出会える場所となる

すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒の働き3:6)

日曜日に、私の牧師は、エデンの園が天と地の交わる最初の場所について話していました。そこでは、アダムとエバが神様と直接出会うことができました。

その後、幕屋と神殿が、神様と出会える場所として設けられました。

そして、イエス様がこの世に来られ、人々はイエス様に出会うことで、初めて神様の御顔を見ることができました。

しかし今、聖霊様が私たちのうちに住んでおられ、私たち自身が天と地の交わる場所となっています。人々は私たちを通して神様に出会うことができるのです。

足の不自由な人にとって、ペテロとヨハネは天と地の交わる場所となりました。彼らを通して、彼だけでなく、何千人もの人々が神様に出会いました。

私も、周囲の人々にとって天と地の交わる場所となりたいです。ペテロとヨハネのように、神様が私に導かれる人々に気づき、神様の愛で触れたいです。

彼らの癒しのために祈り、励ましの言葉をかけ、イエス様の福音を伝えたいのです。

それが私の祈りです。

天のお父様、私が天と地の交わる場所となりますように。 私を通して、人々があなたに出会うことができますように。

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御国が来ますように

彼らはみな。。。いつも心を一つにして祈っていた。(使徒の働き1:14)

使徒たちや他のクリスチャンたちは、何について祈っていたでしょうか。

ただ自分たちの個人的な必要のために祈っていたのでしょうか。

イエス様が神の御国について彼らに教え、「エルサレムで御霊を待ちなさい」と言われたことを考慮すると、彼らの祈りの焦点はそれだけではなかったでしょう。

ただ私の意見ですが、彼らは特に二つのことを祈っていたと思います。

「あなたの御国が来ますように。」

「あなたの御霊を遣わしてください。」

だから、今日、私はそのように祈ります。

天のお父さん、あなたの御国があなたの民の間に来ますように。

あなたの教会が天と地の交わる場所となりますように。

みこころが天で行われるように、あなたの民の間でも行われますように。

あなたの教会が、私たちの罪の鎖が砕かれ、壊れた人生が癒され、あなたとの関係が回復する場所となりますように。

しかし、それだけではなく、どうかあなたの御霊で私たちを満たしてください。イエス様が御霊に満たされたように、私たちをも満たしてください。それは、私たちが効果的な証人となるためです。

あなたが御国を私たちの人生にもたらされたように、私たちを用いて、周囲の人々にも御国をもたらしてください。人々の鎖を砕き、人生を癒し、人々をあなたへと導いてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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罪に定められることはない

今日、犯罪人へのイエス様の御言葉を思い巡らせていました。

まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。(ルカの福音書23:43)

要するに、「あなたは今や罪に定められることはない。」

「あなたは十字架につけられていて、やがて死ぬことになります。しかし安心しなさい。天の父の裁きの座の御前に現れるとき、あなたは罪に定められることはない。」

その言葉を聞いたとき、犯罪人の痛みの中でも、心はどれほど喜びと平和に満たされたことでしょうか。

悔い改めたにもかかわらず、あなたも犯罪人のように自分の罪の結果を経験し、苦しんでいるかもしれません。だから、神様がまだあなたを罰しておられるのではないかと疑問に思っているかもしれません。

もしそのように感じるなら、犯罪人を思い出して、イエス様の言葉を心に留めておきましょう。

「あなたは、自分の罪のゆえに苦しんでいるかもしれませんが、安心しなさい。あなたは今や罪に定められることはない。」

幸いなことよ、その背きを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ、主が咎をお認めにならず、その霊に欺きがない人は。(詩篇32:1ー2)

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押しつぶされている?

あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。(ルカの福音書21:34)

今日、「押しつぶされる」という言葉に心を打たれました。

毎日のニュースを見るたびに、不安に押しつぶされることは簡単です。

ある人は、飲酒や仕事、趣味に没頭することで、その不安から逃れようとします。

また、SNSで思いの丈を吐き出すことで、ストレスを解消しようとする人もいます。

しかし、私たちはどれほどイエス様が命じられたこと、そしてご自身が実践されたことを行っているでしょうか。

つまり、私たちはどれほど天のお父さんと時間を過ごし、祈っているでしょうか。(ルカ21:36-37)

そうすることで、私たちは固く立つ力を受け、物の見方が正されます。

神の国は近いのです。この世の問題は永遠のものではありません。イエス様の御言葉はすべて成就するのです。

その真理を思い出すことで、私たちは身を起こし、頭を上げることができます。なぜなら、私たちの贖いが近づいていることを知っているからです。(ルカ21:28)

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天のお父さん、あなたのものとは何ですか?

「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。だれの肖像と銘がありますか。」

彼らは、「カエサルのです」と言った。

すると、イエスは彼らに言われた。「では、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」(ルカの福音書20:24-25)

天のお父さん、あなたのものとは何ですか?それはただ十一献金なのでしょうか。

いいえ。私の持ち物のすべて、私自身のすべてはあなたのものです。

あなたは私に、ご自身の肖像と御名を刻んでくださいました。 (創世記1:26-27、黙示録3:12)

私は、あなたのものです。

だから、祭司長たちや律法学者のように、私はあなたの権威や御子の権威に異議を唱える者とならないようにしてください。 (ルカ20:2)

むしろ、謙虚で感謝に満ちた心を持ち、あなたを何も得られずに去らせることなく、毎日、あなたが求められた実をあなたにお返しできますように。

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私たちの王を歓迎する?

もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。。。神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。(ルカの福音書19:42、44)

今日、私は上記の言葉を反芻していました。

私たちの王を歓迎すると、平和を知るようになります。(38節)

ザアカイは王に心の戸を開け、平和と喜びを知るようになりました。

彼に対して、イエス様が嘆かれたパリサイ人たちや他のユダヤ人たちは、その後どうなったのでしょうか。

イエス様、あなたの良い支配を歓迎せず、私の心の戸をあなたに開けないことで、どれほどの平和を失うでしょうか。

私の前に立たれているあなたを認識さえしないことで、どれほどの平和を失うでしょうか。

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祈り続ける信仰を持っている?

いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。。。

彼は大声で、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と言った。

先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめたが、その人はますます激しく「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫んだ。(ルカの福音書18:1、38ー39)

私はその三つの節を繋げたことがないと思います。

この章の始まりでは、イエス様は弟子たちに、いつでも祈り、失望してはいけないことを教えられました。そして、この章の最後の話では、ある盲人がその教えを示しています。

イエス様が彼の声を聞こえていないように見え、周囲の人々が彼に黙るよう叫んだにもかかわらず、彼は憐れみを願い続けました。そして、最終的に憐れみを受けることができました。

しかし、例え話に出てくる裁判官と異なり、イエス様はその叫び声にうんざりしたからではなく、憐れみ深い救い主であるがゆえに、盲人を憐れまれたのです。

私はどうだろう?神様が私の叫びに答えられるのが遅いように感じるとき、私はすぐに諦めるだろうか。

私は神様の愛と慈しみを疑い始めるだろうか。それとも、神様が本当に良い方であり、私を愛してくださっていることを信じ続けるだろうか。

イエス様が再びこの世に来られるとき、私の中に信仰を見ることができるだろうか。(8節)

イエス様はあなたの中にも信仰を見られるでしょうか。

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私の心を支配してください

パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。

『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」(ルカの福音書17:20ー21)

天のお父さん、あなたが人々の心を支配されるところに、あなたの御国は存在しています。

パリサイ人たちは、自分たちのただ中にある御国を見ることができませんでした。なぜなら、あなたが彼らの心を支配しておられなかったからです(ルカ16:14ー15)。

では、あなたは私の心を支配してくださっているでしょうか。

もし私が、あなたの御国が周囲の人々にも及ぶ姿を見たいと思うのなら、まずあなたが私の心の中にご自身の御国を確立してくださらなければなりません。

ですから、私の良い王よ、どうか私の心のすべてを支配してください。

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ルカの福音書のデボーション

親しみやすい?

さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。(ルカの福音書15:1)

今日、なぜか私はその言葉に心を打たれました。そして、こう自問しました。「イエス様を知らない人にとって、私は親しみやすい人だろうか。」

正直に言うと、私はあまり社交的ではありません。人は好きですが、私は外交的な性格だとは言えません。

初対面の人と話すのは少し(いや、だいぶ?)苦手です。以前よりはうまく話せるようになりましたが、おそらく完全に自然にできるようにはならないでしょう。

それでも、人々は私の中にイエス様の愛を見ることができるでしょうか。私が彼らを見下すでもなく、責めるでもないと知って、気軽に私に近づけるでしょうか。

それが私の願いです。しかし振り返ると、私が親しみやすくなかった時もあると気づきます。

それに比べて、イエス様は親しみやすい方でした。そのため、「罪人」と呼ばれる人々でさえ、イエス様に惹きつけられました。一方で、パリサイ人が親しみやすいと感じた人は誰もいなかったのです。

私たちは、神様の国を広げ、人々を神の良いご支配の下に招く使命を与えられています。だから、イエス様と同じように、私たちも親しみやすい人でなければなりません。そうでなければ、その使命を果たすことはできません。

だから、今日私はこのように祈りました。「イエス様、どうか私があなたのように親しみやすい人になる方法を教えてください。」

あなたはどのような人ですか。あなたは親しみやすい人ですか。

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ただ一緒に歩いている?本当に従っている?

さて、大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていたが、イエスは振り向いて彼らに言われた。

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(ルカの福音書14:25ー27)

イエス様の言葉は厳しく聞こえるかもしれません。しかし、イエス様は彼らに基本的にこう尋ねられていたのです。

「あなたがたは私の国に参加することを本当に望み、心から従っているのですか。それとも、ただ私と一緒に歩いているだけなのですか。」

これは、語られた例え話の一つの要点でした。ある人々は、最初は宴会に参加する意欲を示したものの、最終的には他のものを優先しました。(その宴会は神の国を象徴していました)。(16ー20節)

真の弟子とただ一緒に歩いているだけの人の違いは何でしょうか。

真の弟子たちは、イエス様とその御国を家族、財産、さらには自分の人生さえも上回るほど大切にし、心からイエス様を愛しています。

もちろん、イエス様は私たちに、自分の家族を文字通り憎むことや、すべての持ち物を手放すことを求めておられるわけではありません。

しかし、イエス様はこう問いかけておられます。「あなたにとって、私はどのような価値を持っていますか?私をすべてのものよりも優先しますか?」

イエス様は、すべてを犠牲にするほど私たちを愛しておられました。私たちはそのようにイエス様を大切にしているでしょうか。

イエス様が良い王であり、イエス様に従うことで最終的に命を失うどころか、命を得ることを本当に信じているでしょうか。

Love so amazing, so divine,
驚くほど素晴らしく、神聖な愛は、
Demands my soul, my life, my all.
私の魂、命、そしてすべてを本当に呼び求めます。

O the wonderful cross
ああ、素晴らしい十字架よ
Bids me come and die that I may truly live.
私が来て死ぬように、そして豊かに生きるように招かれています。

–アイザック・ワッツ、クリス・トムリン

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いつでも整っている?

腰に帯を締め、明かりをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人たちのようでありなさい。(35ー36)

今日の箇所では、イエス様は再臨の準備について語られています。

しかし、私はこう思いました。「イエス様がいつ戸をたたかれるときでも、私にはすぐにお応えできる心が必要です。」

私が全然予想しないとき、イエス様が突然戸をたたき、こう言われるかもしれません。 「今、私はあなたを必要としています。あなたに触れてほしい人がいるのです。」

そのとき、私はすぐにお応えすることができますか。

私にとって、それは決して簡単なことではありません。自分の人生が自分のものであるかのように生きることは容易だからです。けれども、私の人生はイエス様のものです。私はイエス様のしもべです。

だから、イエス様が私の戸をたたかれるとき、いつでも私の心は整えられていなければなりません。

あなたはどうでしょうか。あなたの心は整っていますか。

帰って来た主人に、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いです。(37)

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御名が聖なるものとされている?

父よ、御名が聖なるものとされますように。(ルカの福音書11:2)

天のお父さん、あなたの御名が聖なるものとされるとは、いったいどういう意味でしょうか。

それは、あなたを最高の誉れにふさわしい方とすることではないでしょうか。

つまり、私のすべてにおいて、あなたが最善を受けるにふさわしい方であると認めます。だから、二番目や三番目のもの、さらに残り物を捧げてはなりません。

あなたこそが、私のすべてを受けるべき方です。

私の愛のすべて。

私の信頼のすべて。

私の服従のすべて。

私の人生のすべて。

しかし私は、どれほどあなたを俗なもの、ありふれたものとして扱ってしまうでしょうか。

あなたにふさわしい誉れを捧げず、 あなたよりも他のものを優先し、 二番目や三番目のもの、さらに残り物をあなたに捧げてしまうことがあります。

あなたのご計画よりも自分の計画を求め、 さらには、あなたが忌み嫌われることにふけることすらあります。

天のお父さん、どうかあなたの御名が日本、アメリカ、そして世界中で聖なるものとされますように。すべての人々が、あなたにふさわしい誉れを捧げますように。

しかしまず、私の人生の中で、あなたの御名が聖なるものとされますように。

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開いた口

(マルタ)にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。(ルカの福音書10:39)

マリアの心について読むたびに、私は深く感動します。

でも今日は、祈るときに偶然にも詩篇81篇を開きました。その箇所で、神様は次のように言われました。

わたしは、あなたの神、主である。。。あなたの口を大きく開けよ。わたしが、それを満たそう。(詩篇81:10)

マルタは忙しすぎて、イエス様の御言葉を聞く時間がありませんでした。(40-41節)

律法の専門家は、イエス様の御言葉から逃げようとしました。(29節)

しかし、マリアはイエス様の御言葉に口を大きく開けました。そして、イエス様はその口を満たしてくださいました。

私もマリアのように、イエス様の御言葉に口を大きく開けたいと思います。それだけでなく、その言葉を素直に受け止めたいのです。

あなたのみことばは、私の上あごになんと甘いことでしょう。 蜜よりも私の口に甘いのです。(詩篇119:103)

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弟子とは

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(ルカの福音書9:23)

今朝、イエス様の御言葉を反芻していました。その御言葉を言い換えるなら、

わたしの弟子になりたいと思うなら(実際、すべてのクリスチャンは弟子です):

1. 自分中心に生きることをやめなさい。「私の人生」という考え方を手放しなさい。

2. むしろ、毎日すべてを天の父に明け渡しなさい。すべてを捧げ、すべてにおいて従いなさい。(ピリピ2:8)

3. 毎日毎日、一瞬一瞬わたしと共に歩みなさい。わたしから学び、わたしの働きに参加しなさい。御父の良い統治のもとへ人々を招きなさい。

イエス様の言葉を考えると、「日々」という言葉が私の心に響きました。クリスチャン生活は、一週間に一度だけのものではなく、日々のものです。

さらに、イエス様だけではなく、天の父も私たちがイエス様の弟子となるように呼んでおられます。

これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。(ルカ9:35)

だから、今日私はこのように祈りました。

イエス様、あなたは私の良い王です。どうか、私が毎日あなたに従い、あなたの弟子として生きることができますように導いてください。

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権威

イエス様、あなたは私の王です。でも、私の人生で、あなたの権威を完全に認めているでしょうか。

百人隊長はあなたの御言葉の権威を認めていました。(ルカの福音書7:7ー8)

私もその権威を認めているでしょうか。

あなたの御言葉は、死人を復活させる力を持っておられます。(ルカ7:14ー15)

そして、いつの日か、あなたの御言葉によってすべての死人が復活し、あなたが彼らを裁かれます。私も裁かれるでしょう。(ヨハネ5:25ー29)

その日、あなたは私に何を語られるでしょうか。私の信仰に驚かれるでしょうか。私が完全にあなたを信頼し、その御言葉に従ったことを喜ばれるでしょうか。

それとも、あなたは「なぜあなたは、わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、わたしの言うことを行わなかったのですか。」と尋ねられるでしょうか。(ルカ6:46)

私はあなたを心から信じています。それでも、私たちの信仰を増し加えてください。すべてにおいて、あなたに従うことができるよう導いてください。

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深く掘り下げる?

なぜあなたがたは、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。

わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人がみな、どんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。

その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、家を建てた人に似ています。(ルカの福音書6:46ー48)

天のお父さん、 聖書を読むとき、どうか私があなたの御言葉をただ表面的に読むのではなく、その意味を深く考え、思いを巡らすよう導いてください。

私があなたの御言葉を理解し、それを通してあなたが私に何を語られるのかを知ることができるように、求める心を与えてください。

イエス様、私があなたを「主よ、主よ」と呼びながら、あなたの御言葉に従わない者にならないようにしてください。

あなたは私の王です。あなたが良い王であることを信じています。だからこそ、あなたの御言葉に聞こうとする耳と、喜んで従う心を与えてください。

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私たちを喜んで清めてくださる方

これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」(ルカの福音書5:8)

興味深いことに、ペテロの言葉はツァラアトに冒された人々の言葉に似ています。

神の律法によれば、ツァラアトに冒された人々は、「私から離れなさい。私は汚れているから。」と周囲の人々に警告するように求められていました。(レビ記13:45ー46)

しかし、ルカの福音書では、ツァラアトに冒された人がイエス様に近づき、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」と言っています。

イエス様は「わたしの心だ」と言われ、その人を清められました。さらに、イエス様はペテロと中風を患っている人の罪をも清められました。

マタイの場合、イエス様は積極的にマタイを追いかけ、その罪を清めてくださいました。

同じように、イエス様は私たちをも追いかけてくださいました。私たちが自分の道を行き、イエス様を価値のないものと見なしたにもかかわらず、イエス様は十字架で私たちの反逆の代償を払ってくださいました。

だから、私たちがイエス様に近づき、あわれみを願うとき、イエス様はこう言われます。「わたしの心だ。きよくなれ。」

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16)

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ルカの福音書のデボーション

開かれた耳、柔らかい心

私の意見ですが、もしかすると、イエス様がバプテスマを受けたとき、詩篇40:6ー8の言葉を祈られたのかもしれません。

あなたは私の耳を開いてくださいました。。。そのとき、私は申し上げました。「今、私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。わが神よ、私は、あなたのみこころを行うことを喜びとします。

ヘブル書の著者によれば、イエス様はその言葉を祈られましたが、実際にご自身のバプテスマの際にその言葉を祈られたかどうかは分かりません。(ヘブル書10:5ー7)

いずれにせよ、イエス様が神様に対して常に開かれた耳と柔らかい心を持っておられたことは確かです。

その一方で、ヘロデにはそのようなものがありませんでした。特に、自分の罪のためにバプテスマのヨハネから責められたときには、それが顕著でした。(ルカの福音書3:19ー20)

一方、バプテスマを受けた人たちは開かれた耳と柔らかい心を持っていました。それは彼らの反応から分かります。

「私たちはどうすればよいのでしょうか。」(ルカ3:10、12、14)

これはまさに開かれた耳と柔らかい心の問いかけです。

イエス様はそのような心を常に持っておられました。

私もそのような心を持ちたいと思います。

あなたは、そのような心を持っていますか。

神の御言葉を読んだり聞いたりするとき、私たちもあの人たちと同じように反応しましょう。

「私たちはどうすればよいのでしょうか。私は、あなたのみこころを行うことを喜びとします。」

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ルカの福音書のデボーション

真の平和

いと高き所で、栄光が神にあるように。 地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように。(ルカの福音書2:13ー14)

上記の言葉を読んだとき、私の牧師が最近語られたメッセージを思い起こしました。そのテーマは、イエス様がもたらされる平和がこの世の平和と異なることでした。

天の軍勢が現れたとき、もしかすると、羊飼いたちは天使たちがローマの圧迫を滅ぼすために来たと思ったかもしれません。

恐ろしいことですが、その天使たちが羊飼いたち自身を滅ぼすために来たと思ったかもしれません。神様の栄光によって、人々の罪が明らかにされるからです。

しかし、それどころか、天の軍勢は平和を宣言しました。その平和は羊飼いやユダヤ人たちだけのためではなく、すべての人々のためです。(ルカ2:10)

でも、どのような平和が伝えられたのでしょうか。

それは神様との平和です。

その平和は私たちの人生に入り込み、こう語ります。

「あなたは罪人ですが、恐れる必要はありません。イエス様があなたの罪の代償を支払ってくださいました。だから、あなたは今、恵まれた者です。

エリサベツとマリアと同じように、私の恵みを受けたのです。あなたは私の心にかなう者となりました。」(ルカ1:25、28ー30)

この真理は本当に心に納め、思い巡らすべきものです。(ルカ2:19)

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申命記のデボーション

あなたの御声が聞こえるように

まことに、あなたはもろもろの民を愛する方、 御手のうちにすべての聖なる者がいる。 彼らはあなたの足もとにひれ伏し、 あなたの御告げを受ける。(申命記33:3)

天のお父さん、あなたの御言葉は空虚なものではありません。それらは私のいのちです。

どうか、私があなたの御言葉一つ一つを心にとどめることができるよう助けてください。(申命記32:46ー47)

あなたの御教えは雨のように私の目と心に降り注ぎ、あなたの御言葉は露のように滴るようにしてください。若草の上の小雨のように、青草の上の夕立のように。(32:2)

あなたが私を愛してくださることを信じます。私はあなたの御手のうちにいます。

だから、私はあなたのみもとに来て座ります。そして、あなたから私への御言葉を受け取ります。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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申命記のデボーション

誰について行っているの?

私は今日、百二十歳だ。もう出入りすることができない。。。

あなたの神、主ご自身があなたに先立って渡って行き、この方があなたの前からこれらの国々を根絶やしにされ、あなたはこれらを占領する。(申命記31:2-3)

あなたの信仰は誰に基づいているのでしょうか。あなたの牧師ですか。お友達ですか。それとも他の教会のリーダーでしょうか。

いつか、その人たちがもはやあなたを支えることができなくなるでしょう。そのとき、あなたの信仰はどうなるのでしょうか。

私は、あなたが神様に完全に目を留め、従うことを願っています。

また、あなたが強くあり、雄々しくあり、神様が導かれる所にはどこでもついて行けるように祈っています。

神様ご自身も、それを望んでおられます。だから、今、そのような信仰を持つことを学びましょう。

自分自身を霊的に養うために、聖書を読み、祈り、神の御声に耳を傾け、神を恐れ、そして神に従うことを身につけていきましょう。

あなたはどうでしょうか。

そのようなことを学び、実践しているでしょうか。

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申命記のデボーション

命を選びなさい

私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。

あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである。

まことにこの方こそあなたのいのちで(す)(申命記30:19ー20)

最近、私は私たちの神様との関係について考えていました。その時、鉢植えの花と切り花の違いに思いを巡らしました。

両方とも美しいですが、切り花は実際にはすでに死んだものです。なぜなら、命の源から切り離されているからです。

根元から切り離されたことで、その花はある意味で呪われた存在ともいえます。

私たちの神様との関係も同じです。

神様から切り離されると、私たちは呪われた存在となります。私たちはすでに死んだ者です。

しかし、神様につながり、日々命をいただくならば、私たちは栄えるのです。

では、私たちはどのようにして神様につながることができるでしょうか。

パウロは申命記30章を引用しながら、イエス様を指して、私たちがイエス様を信じ、自分の主とするように促します。(ローマ10:6-13)

ですから、命を選びましょう。

イエス様を選び、毎日愛し、御声に聞き従い、そしてすがりましょう。

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申命記のデボーション

神様の目には忌むべきもの。私たちの目には忌むべきもの?

また、あなたがたは、彼らのところにあった忌むべきもの、すなわち木や石や銀や金の偶像を見た。(申命記29:17)

日本では、偶像や仏壇を見ることに慣れるのは簡単なことです。

しかし、上記の言葉を読んだときに、神様がそのようなものに決して慣れることはなさらないと改めて思い出しました。

モーセの時代でも、私たちの時代でも、神様の目には、それらの偶像や仏壇は忌むべきものです。

そのとき、ふと、神様が忌み嫌うものにはほかに何があるのだろうと考えました。そして、私はそれらにも慣れてしまっているのではないかと自問しました。

最初に思い浮かんだのは、アマゾンプライムのビデオのことです。

もちろん、すべてのビデオが悪いわけではありません。けれども、確かに、10~20年前であれば「それは忌むべきものだ」と感じていたようなビデオもあります。

ところが、今では「この世はそういうものだろう」という態度を取るのは簡単なことです。

しかし、神様の態度は決して変わりません。神様にとって、それらは今もなお忌むべきものなのです。

だからこそ、私たちも同じように考えるべきです。

そこで、私は次のように祈りました。

天のお父さん、どうか私があなたが忌み嫌うものに慣れることがありませんように。私があなたのように考える者となれますように。

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イエス様に聞き従わなければなりません!

あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。

あなたがたはその人に聞き従わなければならない。(申命記18:15)

ペテロによれば、モーセはイエス様を指していました。(使徒の働き3:19-26)

もしかすると、ペテロは自分、ヤコブ、ヨハネに対する天の父の戒めを思い出していたのかもしれません。

これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。(マルコ9:7)

正直に言うと、私はまだイエス様の言われることに耳を傾けることを学んでいる途中です。

しかし、キリストの弟子として、私たちはこの世の流れに単に従うべきではありません。

モーセもイスラエル人たちに同じような警告を与えました。(申命記18:9-14)

むしろ、私たちはイエス様に聞き従わなければなりません。

日々の生活で決断をするとき、あなたは誰に聞き従っていますか。

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私たちの中にある悪を除き去る

「あなたがたの中からその悪い者(別訳:悪)を除き去りなさい。」(申命記17:7)

神様はイスラエル人たちにこの言葉を二度言われました。最初は偶像礼拝に関して、次に不遜な罪について言われました。

イスラエル人にとって「除き去る」とは「殺す」を意味しました。しかし、新約聖書の時代には「除き去る」とは「教会から追い出す」を意味しました。(第一コリント5:13)

今日、神様が私に思い起こさせたのは、私自身の中にある罪を除き去らなければならないということです。

パウロの言葉を借りれば、罪を殺してしまわなければなりません。(コロサイ3:5ー10)

私の罪を軽んじるべきではありません。私は神様や神様の民からの訓戒や指導を傲慢に無視してはなりません。

むしろ、神様とその民の助けによって、私はその罪を取り除かなければなりません。

そこで私はこのように祈りました。

天のお父さん、私が決して自分の罪を軽んじないように。その罪を取り去ることができるように助けてください。

私の人生には、あなたのみ言葉が清めの火となるように。そして、あなたのみ言葉を通して、私がすべてにおいてあなたを恐れ、従うように助けてください。

私はエジプト、つまり私の古い生活に決して戻らないように。

その道は死に至るものです。でも、あなたの道は命へと導きます。

あなたはいのちであり、良い方です。だから私のすべての行動において、私があなたを愛し、敬うことができるように助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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あなたのようになれるように

天のお父さん、あなたが私に対して心を頑なにされることも、御手を閉ざされることもありません。(申命記15:7)

また、あなたが与えてくださるとき、物惜しみをされることもありません。(10節)

それどころか、あなたは御手を開かれ、気前よく与えてくださいます。(11節)

さらに、2000年前、十字架であなたは負債の免除を布告し、私の罪を赦してくださいました。(申命記15:2;コロサイ2:13-14)

だから、私も周囲の人々に対してあなたのようになれるよう助けてください。つまり、私がいつも手を開き、気前よく、また私に対する相手の罪を赦せるように助けてください。

私はまだまだそのような人にはなれていません。しかし、あなたのようになりたいのです。

どうか私があなたのようになれるよう助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちが神の子供たちだから

あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。。。

あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。(申命記14:1ー2)

それらが素晴らしい言葉ですね。

その言葉はイスラエル人たちに語られましたが、今は私たちにも語られています。(第一ペテロ2:9ー10)

では、私たちはどのように反応するべきでしょうか。

神様が聖でおられるように、私たちも聖なる者でなければなりません。

イスラエル人たちにとっては、周りの国の宗教的な儀式を避けなければなりませんでした。(1、21節)

また、彼らは食事制限を守らなければなりませんでした。(3ー21節)

もしかすると、その食事制限を通して、毎日神様はイスラエル人たちに思い出させてくださったのかもしれません。

「人は肉体的な食べ物だけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるのです」(申命記8:3)

私たちにはその食事制限を守る必要はありません。(マルコ7:14ー19)

しかし、神様は私たちが聖なる者となることをなおも望んでおられます。

私たちが神様の真似をするように望んでおられます。

だからこそ、何を食べるかに注意するのではなく、心の中にあるものに注意しなければなりません。(マルコ7:20ー23)

では、聖なる者となる動機は何でしょうか。

神様を感動させるためでしょうか。

私たちが神様の受け入れにふさわしいことを証明するためでしょうか。

違います。神様は私たちをすでに受け入れてくださいました。そして、神の子供たちとして、私たちは神の宝の民です。

では、なぜ聖なる者となろうとするのでしょうか。

私たちは天のお父さんのようになりたいのです。

それはあなたの心でしょうか。

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神様を喜ばせる礼拝

申命記12章で神様がイスラエルの人々に教えようとされたのは、彼らが自分自身の方法ではなく、神様の方法に従って礼拝しなければならないということです。

彼らは神様が命じられたとおりに礼拝しなければならなかったのです。

私たちの神様との契約はイスラエル人たちの契約とは異なりますが、新しい契約の下でも、私たちは自分自身が好きなような方法で神様を礼拝することはできません。

イエス様によれば、私たちは霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4:23ー24)

それは、ただ宗教的な儀式を行うことや賛美をすることではありません。

霊によって礼拝するとは、神様が私たちの心を完全に持っておられることを意味します。私たちの人生、行動、言葉のすべてが神様に対する礼拝となるのです。(ローマ12:1)

さらに、霊によって礼拝するためには、まことによっても礼拝しなければなりません。

神様を喜ばれるため、また私たちの人生が神様への礼拝となるため、私たちは神様のまことによって生きるべきです。

私たちは自分の真理を作ることはできません。

私たちは神様の言葉の中で、何を受け入れるか、何を受け入れないかを勝手に選ぶことはできません。

それは、自分自身の方法で礼拝することに他なりません。そのような「礼拝」は神様を喜ばれません。

あなたはどうですか。

神様の方法に従って礼拝していますか。

霊とまことによって礼拝していますか。

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心の包皮に割礼を施す

主はただあなたの父祖たちを慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫であるあなたがたを、あらゆる民の中から選ばれた。今日のとおりである。

あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者(脚注:すなわち、強情なもの)であってはならない。(申命記10:15ー16)

「心の包皮に割礼を施しなさい。」

それはいったいどういう意味でしょうか。

割礼とは、イスラエルの男性たちに行われた儀式です。それは、彼らが神様の民であることを証明したものでした。

しかし、割礼を受けても、多くのイスラエル人の心はまだ割礼されていないものでした。

つまり、彼らの心は神様のものではなかったということです。むしろ、彼らは古い考え方と古い生活にしがみつきました。それらは、神様との関係を妨げるものとなりました。

私は最近、教会のメッセージでアブラムについて話しました。アブラムもイスラエル人と同じ問題を抱えていました。

自分の心が完全に神様のものになるため、彼は古い考え方や古い生活を切り捨てなければなりませんでした。(創世記12章)

神様はアブラムを慕って愛されたように、私たちを慕って愛してくださいます。けれども、私たちはそれを本当に信じているでしょうか。

もしそう信じるのであれば、神様を完全に信じ、従うことを妨げるものを考えましょう。

神様の助けによって、また他のクリスチャンたちの助けによって、そのものを切り捨てましょう。

そうすれば、私たちは心を尽くし、命を尽くして、神様を愛し、神様を喜ばれる道を歩むことができます。(12節)

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私たちの家に持ち込むもの

忌み嫌うべきものをあなたの家に持ち込んで、あなたもそれと同じように聖絶されたものとなってはならない。それをあくまで忌むべきものとし、あくまで忌み嫌わなければならない。

それは聖絶の物だからである。(申命記7:26)

私はその言葉に心を打たれました。

私は自分の家に忌み嫌うべきものをどれほど持ち込むことがあるでしょうか。

私には、インターネットで見たものに注意しなければなりません。また、私が読むものや聞くポッドキャストにも注意を払うべきです。

神様は昨日私が聞いたポッドキャストを思い出させてくださいました。

そのポッドキャストの内容は大体大丈夫だったけど、5分ほど、ポッドキャスターたちはいろんな下品な冗談を言い始めました。

私は全く笑わなかったけど、なぜか、早送りしたり、聞くのを止めたりしませんでした。

それは、神様がその冗談をどれほど嫌われたかを全く考えていなかったからでしょう。

この先、私は早送りしたり止めたりしなければならないでしょう。なぜなら、神様が意味嫌われるものを私も忌み嫌わなければならないからです。そして、それらのものは滅ぼされると定められているからです。

私たちは主の聖なる民です。

神様は私たちを選んで、ご自身の宝の民としてくださったのです。(6)

だから、感謝を持って、神の民として生き、自分の家に神様が忌み嫌われるものを持ち込まないようにしましょう。

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導き入られるため、導き出された

私たちをそこから導き出された。それは、私たちの父祖たちに誓われた地に私たちを導き入れ、その地を私たちに与えるためであった。(申命記6:23)

今朝、私は上記の言葉に思いを巡らしていました。

神様がイスラエル人たちをエジプトの奴隷生活から導き出してくださったように、私たちもサタンの国の罪の奴隷生活から導き出してくださいました。

しかし、神様は私たちが自ら放浪することを望んでおられるわけではありません。神様と共に歩み、真の命と平和を知るために、私たちをご自身の御国に導き入れるように望んでおられます。

けれども、私たちがそれを願うなら、エジプトを離れなければなりません。

つまり、私たちの古い考え方や生き方を手放さなければならないということです。

そして、神様の御心を抱き、神様の御考えを受け入れる必要があります。

神の御言葉が私たちの心、頭、手に触れることを願って求めなければなりません。

そのため、私はどのような古い考え方や生き方を捨てなければならないのかを考えていました。また、どのような新しい考え方や生き方を受け入れなければならないのかを考えていました。

神様はあなたに何を語っておられるでしょうか。

神様が私たちを導き出してくださいました。神様が私たちを新しい命へ導いてくださるよう、祈り求めましょう。

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 私のすべて

あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行いなさい。

右にも左にもそれてはならない。 あなたがたの神、主が命じられた道をあくまで歩み続けなければならない。

あなたがたが生き、幸せになり、あなたがたが所有するその地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。(申命記5:32ー33)

天のお父さん、あなたの御言葉は命です。ですから、どうか私がその御言葉から右にも左にもそれないように助けてください。

私が古い考え方を手放し、あなたの戒めの全体に従うように助けてください。

その一部ではなく、一部さえを除かずに全体に従うように助けてください。

どうかあなたを恐れる心を与えてください。あなたを敬う心を与えてください。

私のすべてをあなたに捧げたいのです。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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神様はあなたのために戦われる

彼らを恐れてはならない。あなたがたのために戦われるのは、あなたがたの神、主であるからだ。(申命記3:22)

「主は、あなたのために戦われる。」

その言葉を読んだとき、私の心にそれが響きました。

私たちの敵と対峙するとき、神様はただ遠くからご覧になるわけではありません。神様は私たちのために戦ってくださいます。

私たちが試練や苦しみに直面するとき、神様は気づいておられないわけではありません。神様は私たちのために戦ってくださいます。

しかし、神様は私たちも兄弟姉妹のために戦うように呼ばれます。

ルベン人、ガド人、マナセ人のように、私たちは安息しているかもしれませんが、兄弟姉妹が苦しんでいるとき、「私には関係ない」とは言えません。

神様のように、私たちは彼らの隣に立ち、戦わなければなりません。

私たちが受けてくださった神の愛を彼らに与えるべきです。

それが信仰の盾を共に持って立つという意味です。

だから、苦しむときは一緒に立ち戦いましょう。

また、神様も私たちのために戦ってくださるという確信を持ちましょう。

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申命記のデボーション

神様のことをどう考えているか

主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出して、アモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられるのだ。(申命記1:27)

イスラエル人たちの言葉を読んだとき、私が気づいたのは、私たちが神様のことをどう考えているのかが、神様との関係に関わるということです。

イスラエル人たちは、神様が彼らを憎んでおられると思いました。なぜなら、神様が彼らのために戦ってくださったことを忘れてしまったからです。

イスラエル人たちが砂漠を渡るとき、神様が彼らを抱いてくださったことを忘れてしまいました。

また、神様が昼も夜も彼らを守ってくださったことを忘れてしまいました。(30ー33節)

そういうわけで、彼らは、神様が与えてくださった良い地に入ることを拒みました。かえって、彼らはエジプトの奴隷生活に戻ろうと思いました。(民数記14:3ー4)

「神様は良い方です」と「神様は私を愛しておられる」と言うのは簡単なことです。

でも、私たちはその真理を本当に信じているでしょうか。

すべてにおいて神様に従うほどに、その真理を信じているでしょうか。

私を初めとして、私たち皆は訊かなければなりません。

「神様、ほんとうのところ、私はあなたのことをどう考えているのでしょうか。」

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ヨハネの福音書のデボーション

恵みの道を歩んでいる

イエスは。。。ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」(ヨハネの福音書21:19)

ヨハネの福音書21章のペテロの話は、ルカ5:1ー11の話と似ているものです。

どちらの話でも、ペテロは自分の失敗と罪を認識しました。でも、イエス様はそれでもまだ「私に従いなさい」と招かれました。

ペテロは信仰の旅を恵みによって始め、3年後もその恵みによって歩んでいました。そして、もう一度イエス様の御顔を見るまで、ペテロは恵みによって歩み続けました。

私たちも旅の途中です。ペテロの旅のように、私たちの旅も恵みによって始まり、毎日恵みによって続きます。

私たちは不完全な存在です。私たちの愛も不完全です。それにもかかわらず、イエス様は私たちに「従いなさい」と招かれます。

だから、自分の罪、弱さ、失敗を見るとき、失望しないようにしましょう。むしろ、イエス様から目を離さずに従いましょう。

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ヨハネの福音書のデボーション

平安があなたがたにあるように

「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネの福音書20:19)

その時代も今も、ユダヤ人の間ではそれは日常的な挨拶です。

でも、それはただの挨拶だったでしょうか。イエス様はその言葉を繰り返して言われたので、たぶんそうではありません。

弟子たちは未来を恐れ、隠れていました。

イエス様がご自分を現されても、弟子たちは自分の失敗を考えて、どれほど不安を感じたでしょうか。

でも、イエス様は「平安があなたがたにあるように。私はここにおります。あなたたちの失敗に関わらず、受け入れております」と言われました。

そして、平和を持たない人々のところに、イエス様は弟子たちを遣わされました。

でも、平和の御霊が私たちのうちに住んでおられないなら、周囲の人々に平和を与えるのは難しいです。

だから、イエス様は彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。」

イエス様はあなたを遣わしたいと思っておられます。でも、あなた自身は平和を持っているでしょうか。

もしくは、あなたは未来を恐れているでしょうか。

それとも、神様があなたに関して何を思っておられるのか常に心配しているでしょうか。

覚えておきましょう。イエス様はあなたに言われます。「平安があなたがたにあるように。」

イエス様はすでに御霊をあなたに与えてくださいました。恐れの霊ではなく、私たちと一緒に「アバ、父」と叫ばれる御霊です。私たちは神との平和を持っています。(ローマ5:1,5;8:15)

だからその平和を持って、安心しましょう。そして、平和を持たない人に神の平和を与えましょう。

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ヨハネの福音書のデボーション

「私はある」

モーセが神様の名前を求めたとき、神様は「私はある」(英訳:I am)と答えられました(出エジプト記3:14)。つまり、「私は永遠の方です。私の他に、神はいない」ということです。

「私はある」という言葉は、ギリシャ語に訳されたとき、「エイゴエイミ」と訳されました。興味深いことは、イエス様が「エイゴエイミ」と言われたとき、兵士たちは後ずさりし、地に倒れました。(ヨハネの福音書18:6)

でも、ペテロは、「あなたも、イエスの弟子ではないでしょうね」と尋ねられたとき、「違う」(英訳:I am not)と答えました。(17、25節)

つまり、ペテロは(比喩的に)倒れました。なぜでしょうか。なぜなら、彼はイエス様が誰であるかを完全に把握していなかったからです。

私たちはどうでしょうか。イエス様が誰であるかを本当に把握しているでしょうか。また、私たちへのイエス様の愛を把握しているでしょうか。

その真理を把握していないなら、ペテロのように私たちはすぐに倒れてしまうでしょう。

今日、私が祈るとき、たまたま詩篇146篇を読みました。時間があれば、ぜひ読んでください。

イエス様が誰であるのか考えましょう。

そして、あなたへのイエス様の愛を思い出しましょう。

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ヨハネの福音書のデボーション

 イエス様は私たちのためにとりなしてくださいます

わたしは彼らのためにお願いします。(ヨハネの福音書17:9)

なぜか、その言葉は私の心に響きました。

イエス様は弟子たちのために祈ってくださいました。

私たちのためにも祈ってくださいました。(20節)

今なお、イエス様は私たちのために祈ってくださいます。(ローマ8:34;ヘブル7:25)

イエス様は、神様が私たちを守ってくださるように祈ってくださいます。(15節)

私たちが神の真理を知り、従うように祈ってくださいます。(17節)

私たちがイエス様と天の父をもっと親しく知るように祈ってくださいます。そして、神との関係が親しくなるにつれて、私たちクリスチャンの互いの関係も親しくなるように祈ってくださいます。(21ー23、26)

でも、それらのためだけではなく、イエス様は愛を持って、私たちのためにさらに具体的に祈ってくださるでしょう。

私たちは、「イエス様は私を愛してくださいます」とよく言います。

でも今日、この真理を噛み締めましょう。その真理が私たちの心に響くように。

「イエス様は私のために祈ってくださいます。」

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ヨハネの福音書のデボーション

私を導いてください

あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。(ヨハネの福音書16:12-13)

イエス様、あなたが私に話してくださることはまだたくさんあると思いますが、私がまだ耐えられないゆえに、どれだけ教えてくださるのを控えられるのでしょうか。

あなたは私の気づいていない罪について、どれだけ教えてくださるのを控えられることがあるのでしょうか。なぜなら、私がすべてを見たならば、罪悪感に圧倒されてしまうからです。

私の未来に関して、どれだけ教えてくださるのを控えられることがあるのでしょうか。なぜなら、良いことを知っていたとしたら、私は無理にそれを起こそうとするからです。

また、大変な試練が迫っているとしたら、私は思い悩んでしまうからです。

それでも、あなたのタイミングで、あなたの御霊によって、私をすべての真理に導いてくださいます。

聖霊様、導いてください。

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ヨハネの福音書のデボーション

 あなたを信じているの?

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネの福音書14:1)

イエス様の言葉を考えるとき、私は自問しました。「私の心が騒いでいるとき、どれだけその理由は、私が神様を信じていないからでしょうか。」

神様が私の見方であると信じるでしょうか。

神様が私と共におられると信じるでしょうか。

私の状況、この世の中が狂っているとき、神様がまだすべてを支配しておられると信じるでしょうか。

神様が私を孤児のように決して捨てないと信じるでしょうか。むしろ、私が叫ぶと、神様がいつも来てくださると信じるでしょうか。

何も、死さえも神の愛から私を引き離すことはできないと信じるでしょうか。むしろ、この世を去るとき、イエス様がおられるところに私を迎えてくださると信じるでしょうか。

私たちが平安を失いそうなとき、この質問を訊くべきでしょう。「主よ、私はあなたを本当に信じているのですか?」

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ヨハネの福音書のデボーション

私たちのイエス様に近づく権利

今日、私たちがイエス様に近づく権利について考えていました。私たちはその権利をどれだけ当たり前のものだと思っているでしょうか。

今日の箇所では、あるギリシア人たちはその権利を持っていないと考えていました。なぜなら、彼らは異邦人で、イスラエルでは部外者と見なされていたからです。また、イエス様は有名なラビでした。

しかし、イエス様が地上から上げられ、十字架につけられたので、私たち皆がイエス様に近づくことができます。(32節)

その真理を考えていたとき、昔の讃美歌を思い出しました。

What a friend we have in Jesus
イエス様はなんて素晴らしい友でしょう
All our sins and griefs to bear
イエス様は私たちの罪と悲しみをすべて背負ってくださるからです
What a privilege to carry everything to God in prayer
すべての重荷を神様に祈りで委ねることができるとはなんて素晴らしいことでしょう

O what peace we often forfeit
私たちはどれだけ平安を失っていることでしょう
O what needless pain we bear
私たちはどれだけ不必要な痛みを背負っていることでしょう
All because we do not carry everything to God in prayer
すべてを神様に祈りで委ねないからです

ーージョセフ・メドリコット・スクライブン